「自由」、「平等」、「正義」あるいは「日本(民族)精神」、<真・善・美>でも何でもよい、こうしたものに関する<思考>・<思想>の実体はいったい何なのか?
なぜ人々はこうしたものに関して考え、かつ人によって差異や対立があるのか、あるいはなぜ、どのようにして、日本でも欧米でも、<左翼>と<右翼>等々の差異や対立があるのか、を問う前に、そもそも、「思考する」、「哲学する」等の人間の<行動>の実体は何か?
精神的自由、その中でも「内心の自由」なのかもしれないが、その「内心の自由」によって形成される「意思」・「意図」・一定の「思想」・「哲学」等は、人間の、論者によれば生物の中で人間にしかない<理性>の働きかもしれない。
<(個人的)人格の形成・陶冶・完成>を目標とするような(旧制高校的・教養主義的)人にとっては、以上で十分なのかもしれない。
自分個人の「理性」の発現体である言葉・文章・論考・書物によって、他ならぬ自己の「考え」・「思想」等の<立派さ・偉大さ>が表明され、実証される(はずな)のだ。そうした人々にとっては。
しかし、そうした人々も他ならぬ生物の個体であり、ヒトの一員であるからには「死」を迎えざるをえず、それ以降は、「考え」も「思想」も、その基礎にある「理性」も、その(かつて生きていた)人間には、なくなってしまう。
自己の<霊魂>・<魂魄>の永生を真に「信じる」ならば、別だ。
「考え」・「思想」等も、それらの表明のために用いられる言葉・文章等も、「理性」なるものも、よく考えれば、少しでも<事実>に向き合う気持ちがあれば、それぞれの人間・ヒトの「精神」作用であり、「脳内」作業の所産であることが分かる。悲しいかな、自分を高い「人格」をもって「思索」していると自負している人の「理性」による行為も、他者と本質的には異ならない、生物が行う種々の営為の一つにすぎないことが分かる。
強い「思い込み」・「偏執」というのは(<左翼>であれ<右翼>であれ)、脳細胞の、あるいは神経回路の一定の、独特な絡まり具合によって生じる。
生物・ヒトに関する自然科学または「科学」に接すると、かつての「文科」系人間には見えていなかった世界が、新鮮に立ち現れてくる。「観念」・「思索」こそが<人間>なのだ、と「思い込んで」いる<文学的>人々は、むろん江崎道朗や小川榮太郎も含めて、ほんの少しは、秋月瑛二の程度には、生物・ヒトに関する自然科学または「科学」を知った方がよい。
「言葉」・「観念」を弄ぶだけでは、虚しい。何の意味もない。たんなる「自己満足」だ。しかし、拡散されるそうした空しい「言葉」・「観念」に酔ってしまう人々が生じるのも、またそのような陶酔によってこそ<食って生きて>いくことができる人々が生じるのも、人間という生物の種の<弱さ>・<不十分さ>であり、そして人間世界の<はかなさ>なのだろう。
あるいはまた、<食って生きて>いくことはできるようになってきた人間の<文化>による、日本社会も含めての、贅沢な<遊び>なのかもしれない。
<余暇>が生じてこそ、種々の「娯楽」・「エンターテイメント」産業も成立するのだが、「評論」・「言論」もまた相当程度に産業化・商業化してきているので(「情報産業」、広義の「エンターテイメント」産業)、「言葉」・「観念」(・「観念体系」)に陶酔した人々によって書かれる文章や書物もまた、それらを「気晴らし」として必要とする人々によって読まれるのだろう。需要が、一定程度はあるのだ。
そこにはしかし、「自由」、「正義」あるいは<真・善・美>とかの高尚な?理念はない。「売れれば」よい。「売れる」ことは「じっくりと読まれる」ことを意味せず、また、「読まれる」ことは、著者が尊敬されたり敬愛されたりすることをむろん全く意味しないのだけれども。
侮蔑の対象にしかならないような書物が、依然として多数出版されている。それに関係して(出版社も編集者も)<食って生きている>または<生活の足し>にしている人々がいる。
これはどの程度「日本的」現象なのだろうか。日本語という世界的には一般的ではない「閉鎖的」な言葉で、しかし相当程度の規模の「市場」をもつ日本社会で発表される、多数の日本語による雑誌・書物。これらは、世界的な規模・視野での批判に晒されることはほとんどない。侮蔑の対象にしかならないような書物が依然として多数出版されているのは、ある程度は、ヒト・人間の一種である「日本人」が形成する社会の特殊「日本的」現象なのだろう。
なぜ人々はこうしたものに関して考え、かつ人によって差異や対立があるのか、あるいはなぜ、どのようにして、日本でも欧米でも、<左翼>と<右翼>等々の差異や対立があるのか、を問う前に、そもそも、「思考する」、「哲学する」等の人間の<行動>の実体は何か?
精神的自由、その中でも「内心の自由」なのかもしれないが、その「内心の自由」によって形成される「意思」・「意図」・一定の「思想」・「哲学」等は、人間の、論者によれば生物の中で人間にしかない<理性>の働きかもしれない。
<(個人的)人格の形成・陶冶・完成>を目標とするような(旧制高校的・教養主義的)人にとっては、以上で十分なのかもしれない。
自分個人の「理性」の発現体である言葉・文章・論考・書物によって、他ならぬ自己の「考え」・「思想」等の<立派さ・偉大さ>が表明され、実証される(はずな)のだ。そうした人々にとっては。
しかし、そうした人々も他ならぬ生物の個体であり、ヒトの一員であるからには「死」を迎えざるをえず、それ以降は、「考え」も「思想」も、その基礎にある「理性」も、その(かつて生きていた)人間には、なくなってしまう。
自己の<霊魂>・<魂魄>の永生を真に「信じる」ならば、別だ。
「考え」・「思想」等も、それらの表明のために用いられる言葉・文章等も、「理性」なるものも、よく考えれば、少しでも<事実>に向き合う気持ちがあれば、それぞれの人間・ヒトの「精神」作用であり、「脳内」作業の所産であることが分かる。悲しいかな、自分を高い「人格」をもって「思索」していると自負している人の「理性」による行為も、他者と本質的には異ならない、生物が行う種々の営為の一つにすぎないことが分かる。
強い「思い込み」・「偏執」というのは(<左翼>であれ<右翼>であれ)、脳細胞の、あるいは神経回路の一定の、独特な絡まり具合によって生じる。
生物・ヒトに関する自然科学または「科学」に接すると、かつての「文科」系人間には見えていなかった世界が、新鮮に立ち現れてくる。「観念」・「思索」こそが<人間>なのだ、と「思い込んで」いる<文学的>人々は、むろん江崎道朗や小川榮太郎も含めて、ほんの少しは、秋月瑛二の程度には、生物・ヒトに関する自然科学または「科学」を知った方がよい。
「言葉」・「観念」を弄ぶだけでは、虚しい。何の意味もない。たんなる「自己満足」だ。しかし、拡散されるそうした空しい「言葉」・「観念」に酔ってしまう人々が生じるのも、またそのような陶酔によってこそ<食って生きて>いくことができる人々が生じるのも、人間という生物の種の<弱さ>・<不十分さ>であり、そして人間世界の<はかなさ>なのだろう。
あるいはまた、<食って生きて>いくことはできるようになってきた人間の<文化>による、日本社会も含めての、贅沢な<遊び>なのかもしれない。
<余暇>が生じてこそ、種々の「娯楽」・「エンターテイメント」産業も成立するのだが、「評論」・「言論」もまた相当程度に産業化・商業化してきているので(「情報産業」、広義の「エンターテイメント」産業)、「言葉」・「観念」(・「観念体系」)に陶酔した人々によって書かれる文章や書物もまた、それらを「気晴らし」として必要とする人々によって読まれるのだろう。需要が、一定程度はあるのだ。
そこにはしかし、「自由」、「正義」あるいは<真・善・美>とかの高尚な?理念はない。「売れれば」よい。「売れる」ことは「じっくりと読まれる」ことを意味せず、また、「読まれる」ことは、著者が尊敬されたり敬愛されたりすることをむろん全く意味しないのだけれども。
侮蔑の対象にしかならないような書物が、依然として多数出版されている。それに関係して(出版社も編集者も)<食って生きている>または<生活の足し>にしている人々がいる。
これはどの程度「日本的」現象なのだろうか。日本語という世界的には一般的ではない「閉鎖的」な言葉で、しかし相当程度の規模の「市場」をもつ日本社会で発表される、多数の日本語による雑誌・書物。これらは、世界的な規模・視野での批判に晒されることはほとんどない。侮蔑の対象にしかならないような書物が依然として多数出版されているのは、ある程度は、ヒト・人間の一種である「日本人」が形成する社会の特殊「日本的」現象なのだろう。