政治思想・政治哲学研究者のジョン・グレイ(John Gray)は1948年生まれ。
John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals は2002/2003年に刊行されている。原版は、54歳になる(なった)年だ。
そして、2008年まではイギリスの大学教授(最後はロンドン大学)で、その年に引退するまでは講義や研究指導をしていたのだろう。
それにしては、つまりそうした年齢や境遇からすれば、上記著書の内容は相当に驚くべきものだ。
邦訳書に依拠すれば、巻末の最後の文章は、以下のとおり。一行ごとに改行する。
「動物は、生きる目的を必要としない。
ところが、人間は一種の動物でありながら、目的なしには生きられない。
人生の目的は、ただ見ることだけだと考えたらいいではないか。」
J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)、p.209。
上の「見る」は、原文では see。
最後の一文を直訳すると、<我々は、人生の目的について、たんに見ることだと、考えることはできないのか?>
この「たんに見る」というのは、すでに「序」でも書かれているが、社会あるいは世界を「変革」しよう、「改善」しよう、「進歩」させよう、などと考える必要はない、あるいはそうしてはならない、ということを意味するだろうと思われる。
静かに<見る>、<じっと黙想する>、それでよいではないか、と言いたいのだろう。
こういう境地には、54歳くらいで、また現役の大学教授が、とくに「文科」系の研究者が、なかなかなれないのではないか。
上に引用の文だけではなおも理解し難いようだが、脳科学者の茂木健一郎が標題を<生きて死ぬ私>とする書物を30歳代に刊行した、そのような心境に、政治・思想を扱う「文科」系人間でありながら、到達しているように見える。
80歳を過ぎている日本の「知識人」らしき人物が、なおも<世俗感>・<現世感>丸出しの文章を雑誌に寄稿したり書物を出版しているのとは、大きく違っているだろう。
もっとも、J・グレイには彼なりの<戦略>があったのかもしれず、そしてその意図どおりに、この著は種々の大きな<衝撃>を欧米の(少なくともイギリスの)「知的」世界に与えたらしい。
----
「序」は邦訳書で計6頁ほどしかなく、以下はこれまで紹介していない最後の部分を、ほとんど邦訳書に依らないで、抜粋的に「試訳」しておく。邦訳書ⅶ~ⅷ。
「進歩という希望が幻想であるとすれば-つぎのように尋ねられるだろう-、我々はいかに生きるべきなのか?
この疑問が前提にしているのは、世界を造り直す(remake)力を有していてのみ、人間は幸福に(well)生きることができる、ということだ。
しかし、過去に生きたほとんどの人間はこれを信じ(believe)なかった。そして、大多数の人間は幸福(happy)に生きてきた。
この疑問が前提にしているのはまた、人生の目的は行動だということだ。しかし、これは近現代(modern)の異端説だ。」
プラトンは人間の最高の形態は「行動」だとしたが、同様の見方は「古代インド」にもあった。
「人生の目的は世界を変革(change)することではない。世界を正しく見る(see rightly)ことだ」。//
こうした考え方は「今日では破壊的な真実(subversive truth)」を示すものだ。「なぜならば、政治というものの空虚さをその意味に含んでいるからだ」。
「優れた政治は卑劣であり当座凌ぎのものなので、21世紀の初めの世界には、失敗に終わったユートピアの瓦礫が山のように撒き散らされている。
左翼は瀕死の状態にあり(moribund)、右翼がユートピア的空想の本拠になった。
グローバルな共産主義のあとに続いたのは、グローバルな資本主義だった。。
これら二つの未来像には、多くの共通するところがある。
両者ともに醜怪で(hideous)、かつ幸いにして、荒唐無稽(chimerical)だ。」//
「政治活動が救済(salvation)のための代用物になるに至っている。しかし、いかなる政策も、人間をその自然条件から救い上げる(deliver)ことはできない。
いかに急進的であっても、政治的な諸方針はあくまで便宜的なものだ。-それらは、繰り返し出現する悪に対処するための穏健な方策にすぎない」。
「人間は、世界を救済することができない。しかし、このことは絶望する理由にはならない。
人間は、救済を必要としない。
幸運にも(happily)、人間は決して、自分たちが造る世界に生きることはないだろう。」
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<わらの犬>の意味も含めて、別にこの書物の内容に論及したい。
John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals は2002/2003年に刊行されている。原版は、54歳になる(なった)年だ。
そして、2008年まではイギリスの大学教授(最後はロンドン大学)で、その年に引退するまでは講義や研究指導をしていたのだろう。
それにしては、つまりそうした年齢や境遇からすれば、上記著書の内容は相当に驚くべきものだ。
邦訳書に依拠すれば、巻末の最後の文章は、以下のとおり。一行ごとに改行する。
「動物は、生きる目的を必要としない。
ところが、人間は一種の動物でありながら、目的なしには生きられない。
人生の目的は、ただ見ることだけだと考えたらいいではないか。」
J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)、p.209。
上の「見る」は、原文では see。
最後の一文を直訳すると、<我々は、人生の目的について、たんに見ることだと、考えることはできないのか?>
この「たんに見る」というのは、すでに「序」でも書かれているが、社会あるいは世界を「変革」しよう、「改善」しよう、「進歩」させよう、などと考える必要はない、あるいはそうしてはならない、ということを意味するだろうと思われる。
静かに<見る>、<じっと黙想する>、それでよいではないか、と言いたいのだろう。
こういう境地には、54歳くらいで、また現役の大学教授が、とくに「文科」系の研究者が、なかなかなれないのではないか。
上に引用の文だけではなおも理解し難いようだが、脳科学者の茂木健一郎が標題を<生きて死ぬ私>とする書物を30歳代に刊行した、そのような心境に、政治・思想を扱う「文科」系人間でありながら、到達しているように見える。
80歳を過ぎている日本の「知識人」らしき人物が、なおも<世俗感>・<現世感>丸出しの文章を雑誌に寄稿したり書物を出版しているのとは、大きく違っているだろう。
もっとも、J・グレイには彼なりの<戦略>があったのかもしれず、そしてその意図どおりに、この著は種々の大きな<衝撃>を欧米の(少なくともイギリスの)「知的」世界に与えたらしい。
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「序」は邦訳書で計6頁ほどしかなく、以下はこれまで紹介していない最後の部分を、ほとんど邦訳書に依らないで、抜粋的に「試訳」しておく。邦訳書ⅶ~ⅷ。
「進歩という希望が幻想であるとすれば-つぎのように尋ねられるだろう-、我々はいかに生きるべきなのか?
この疑問が前提にしているのは、世界を造り直す(remake)力を有していてのみ、人間は幸福に(well)生きることができる、ということだ。
しかし、過去に生きたほとんどの人間はこれを信じ(believe)なかった。そして、大多数の人間は幸福(happy)に生きてきた。
この疑問が前提にしているのはまた、人生の目的は行動だということだ。しかし、これは近現代(modern)の異端説だ。」
プラトンは人間の最高の形態は「行動」だとしたが、同様の見方は「古代インド」にもあった。
「人生の目的は世界を変革(change)することではない。世界を正しく見る(see rightly)ことだ」。//
こうした考え方は「今日では破壊的な真実(subversive truth)」を示すものだ。「なぜならば、政治というものの空虚さをその意味に含んでいるからだ」。
「優れた政治は卑劣であり当座凌ぎのものなので、21世紀の初めの世界には、失敗に終わったユートピアの瓦礫が山のように撒き散らされている。
左翼は瀕死の状態にあり(moribund)、右翼がユートピア的空想の本拠になった。
グローバルな共産主義のあとに続いたのは、グローバルな資本主義だった。。
これら二つの未来像には、多くの共通するところがある。
両者ともに醜怪で(hideous)、かつ幸いにして、荒唐無稽(chimerical)だ。」//
「政治活動が救済(salvation)のための代用物になるに至っている。しかし、いかなる政策も、人間をその自然条件から救い上げる(deliver)ことはできない。
いかに急進的であっても、政治的な諸方針はあくまで便宜的なものだ。-それらは、繰り返し出現する悪に対処するための穏健な方策にすぎない」。
「人間は、世界を救済することができない。しかし、このことは絶望する理由にはならない。
人間は、救済を必要としない。
幸運にも(happily)、人間は決して、自分たちが造る世界に生きることはないだろう。」
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<わらの犬>の意味も含めて、別にこの書物の内容に論及したい。