日本共産党の機関紙や同党出版物、同党員学者等の書物、その他「容共」であることが明確な学者・評論家類の本ばかりを読んでいると、広い視野、新しい知見をもてず、<バカ>になっていく。少なくとも、<成長がない>。
西尾幹二が例えば、①日本会議・櫻井よしこを批判するのは結構ではあるものの、日本会議・櫻井よしこをなおも当然に?「保守」と理解しているようでは、②かつての日本文化フォーラム・日本文化会議に集まっていた学者・知識人は「親米反共」の中核であっても「保守」ではないと認識しているようでは(例、同・保守の真贋(徳間書店、2017))p.160)、むろん改めてきちんと指摘するつもりだが、「保守」概念に混濁がある。そして、西尾が「保守」系の雑誌だとする月刊正論、月刊WiLL、月刊Hanada 等やそれらに頻繁に執筆している評論家類の書物ばかりを読んでいると、広い視野、新しい知見をもてず、<バカ>になっていく。少なくとも、<成長がない>。
池田信夫の博識ぶりはなかなかのもので、デカルト、ニュートン、ダーウィン、カント等々に平気で言及しているのには感心する。むろん、その理解・把握の正確さを検証できる資格・能力は当方にはないのだけれど。
進化・淘汰に強い関心を示したものを近年にいくつか書いていたが、もっと前に、 アントニオ・R・ダマシオの本を紹介していた。
2011年6月26日付/アゴラ「感情は理性に先立つ」だ。
ここでは反原発派の主張に関連して<論理と感情>の差違・関係を問題設定しつつ、つぎに、紹介的に言及している。
アントニオ・R・ダマシオ/田中三彦訳・デカルトの誤り-情動・理性・人間の脳(ちくま学芸文庫、新訳2010・原版2000/原新版2005・原著1994)。
「感情はいろいろな感覚や行動を統合し、人間関係を調節する役割を持っているのだ。
感情を理性の派生物と考えるデカルト的合理主義とは逆に、感情による人格の統一が合理的な判断に先立つ、というのが著者の理論である」。
「この場合の感情は個々の刺激によって生まれる情動とは違い、いろいろな情動を統合して『原発=恐い』といったイメージを形成する」。
「…感情は身体と結びついて反射的行動を呼び起こす、というのが…『ソマティック・マーカー仮説』である」。
「感情が合理的判断の基礎になるという考え方は、カントのカテゴリーを感情で置き換えたものとも解釈できるが、著者は近著ではスピノザがその元祖だとしている。
身体が超越論的主観性の機能を果たしているというのはメルロ=ポンティが指摘したことで、最近ではレイコフが強調している」。
原発問題を絡めているのでやや不透明になっているが、それを差し引いても、上をすんなりと理解することのできる読者は多くはないだろう(「近著」というのはダマシオ/田中三彦訳・感じる脳-情動と感情の脳科学・よみがえるスピノザ(ダイヤモンド社、2005))。
この2010年刊の新訳文庫を計400頁ほどのうち1/4を読み了えた。その限度でだが、上はダマシオ説の正確で厳密な紹介にはなっていない、と見られる。
但し、池田のいう<感情と理性>、<感情と合理的判断>の差違・関係にかかわるものであることは間違いない。
そして、人間関係における個人的<好み・嫌悪感>や「対抗」意識が、あるいは<怨念>が「理屈」・「理論」を左右する、あるいは物事は<綺麗事>では決まらない、といった、実際にしばしば発生している(・発生してきた)と感じられる人間の行動や決定の過程にかかわっている。
(この例のように、「感情」と「理論」・「判断」の関係は一様ではない。つまり、前者の内容・態様によって、後者を「良く」もするし、「悪く」もする。)
ややむつかしく言うと、<感性と理性>、<情動と合理性>といった問題になる。
まだよく理解していないし、読了すらしていないが、アントニオ・R・ダマシオの上の著の意図は、池田の文を受けて私なりに文章化すると、このようになる。
この問題を脳科学的ないし神経生理学的に解明すると-つまりは「自然科学」の立場からは、あるいは「実証」科学的・「実験」科学的には-、いったいどのようなことが言えるのか。
著者自体は「新版へのまえ書き」で、こう明記する。文庫、p.13.
「『デカルトの誤り』の主題は情動と理性の関係である。
…、情動は理性のループの中にあり、また情動は通常想定されているように推論のプロセスを必然的に阻害するのではなく、そのプロセスを助けることができるという仮説(ソマティック・マーカー仮説として知られている)を提唱した」。
ここで、「通常想定されている」というのは、感情・情動は理性的・合理的判断を妨げる、<気分>で理性的であるべき決定してはいけない、という、通念的かもしれないような見方を意味させていると解される。
----
ところで、上にすでに、「感情」・「情動」・「理性」・「推論」・「合理」という語が出てきている。
第四章の冒頭の一文、文庫p.104は、「ある条件下では、情動により推論の働きが妨げられる-これまでこのことが疑われたことはない」、だ。
こうした語・概念の意味がそもそも問題になるのだが、秋月瑛二の印象では、人文社会系の論者(哲学者・思想家)では基礎的な観念・概念の使い方が多様で、たとえ「言葉」としては同じであっても、論者それぞれの意味・ニュアンス・趣旨をきちんと把握することができなければ、本当に「理解」することはできない。
つい最近では、ルカチとハーバマスでは「実践」の意味が同じではない、というようなことをL・コワコフスキが書いていたのを試訳した。試訳しながらいちおうはつねに感じるのは、「認識」とか「主体」とか「外部」とかを、L・コワコフスキが言及している論者たちは厳密にはどういう意味で使っているのだろうということだ(それらをある程度は解き明かしているのがL・コワコフスキ著だということにはなるが、すでに十数人以上も種々の「哲学者」たちが登場してくると、いちおう「試訳」することはできても、専門家でない者には「理解」はむつかしい)。
これに対して、あくまで印象だが、自然科学系の著書の方が、一言でいうと<知的に誠実>だ。あるいは<共通の土俵>の程度が高い。
つまり、それぞれの学問分野(医学(病理学・生理学、解剖学等々)、物理学、化学、数学等々)で、欧米を中心とするにせよ、ほぼ世界的に共通する「専門用語」の存在の程度が、人文系に比べてはるかに多く、(独自の説・概念については「ソマティック・マーカー仮説」だとか「統合情報理論」とか言われるようなものがあっても)、自分だけはアカデミズム内で通用しないような言葉遣いを、少なくとも基礎的概念についてしない、という<ルール>が守られているような感がある。
したがって、日本で、すなわち日本の(自然科学)アカデミズムが翻訳語として用いる場合も、一定の(例えば)英語概念には特定の日本語概念が対応する訳語として定着しているように見られる。
「意識」=conciousness、というのもそうだ。Brain は「脳」としか訳せないし、それが表象している対象も基本的には同じはずだろう。
では、「感情」・「情動」・「理性」・「推論」・「合理(性)」等々の、もともとの英語は何なのか。
なお、アントニオ・R・ダマシオはポルトガル人のようだが、若いときからアメリカで研究しているので、英語で執筆しているのではないかと推察される(ジュリオ・トノーニら・意識はいつ生まれるのか(亜紀書房、2015)の原著はイタリア語のようだ)。
西尾幹二が例えば、①日本会議・櫻井よしこを批判するのは結構ではあるものの、日本会議・櫻井よしこをなおも当然に?「保守」と理解しているようでは、②かつての日本文化フォーラム・日本文化会議に集まっていた学者・知識人は「親米反共」の中核であっても「保守」ではないと認識しているようでは(例、同・保守の真贋(徳間書店、2017))p.160)、むろん改めてきちんと指摘するつもりだが、「保守」概念に混濁がある。そして、西尾が「保守」系の雑誌だとする月刊正論、月刊WiLL、月刊Hanada 等やそれらに頻繁に執筆している評論家類の書物ばかりを読んでいると、広い視野、新しい知見をもてず、<バカ>になっていく。少なくとも、<成長がない>。
池田信夫の博識ぶりはなかなかのもので、デカルト、ニュートン、ダーウィン、カント等々に平気で言及しているのには感心する。むろん、その理解・把握の正確さを検証できる資格・能力は当方にはないのだけれど。
進化・淘汰に強い関心を示したものを近年にいくつか書いていたが、もっと前に、 アントニオ・R・ダマシオの本を紹介していた。
2011年6月26日付/アゴラ「感情は理性に先立つ」だ。
ここでは反原発派の主張に関連して<論理と感情>の差違・関係を問題設定しつつ、つぎに、紹介的に言及している。
アントニオ・R・ダマシオ/田中三彦訳・デカルトの誤り-情動・理性・人間の脳(ちくま学芸文庫、新訳2010・原版2000/原新版2005・原著1994)。
「感情はいろいろな感覚や行動を統合し、人間関係を調節する役割を持っているのだ。
感情を理性の派生物と考えるデカルト的合理主義とは逆に、感情による人格の統一が合理的な判断に先立つ、というのが著者の理論である」。
「この場合の感情は個々の刺激によって生まれる情動とは違い、いろいろな情動を統合して『原発=恐い』といったイメージを形成する」。
「…感情は身体と結びついて反射的行動を呼び起こす、というのが…『ソマティック・マーカー仮説』である」。
「感情が合理的判断の基礎になるという考え方は、カントのカテゴリーを感情で置き換えたものとも解釈できるが、著者は近著ではスピノザがその元祖だとしている。
身体が超越論的主観性の機能を果たしているというのはメルロ=ポンティが指摘したことで、最近ではレイコフが強調している」。
原発問題を絡めているのでやや不透明になっているが、それを差し引いても、上をすんなりと理解することのできる読者は多くはないだろう(「近著」というのはダマシオ/田中三彦訳・感じる脳-情動と感情の脳科学・よみがえるスピノザ(ダイヤモンド社、2005))。
この2010年刊の新訳文庫を計400頁ほどのうち1/4を読み了えた。その限度でだが、上はダマシオ説の正確で厳密な紹介にはなっていない、と見られる。
但し、池田のいう<感情と理性>、<感情と合理的判断>の差違・関係にかかわるものであることは間違いない。
そして、人間関係における個人的<好み・嫌悪感>や「対抗」意識が、あるいは<怨念>が「理屈」・「理論」を左右する、あるいは物事は<綺麗事>では決まらない、といった、実際にしばしば発生している(・発生してきた)と感じられる人間の行動や決定の過程にかかわっている。
(この例のように、「感情」と「理論」・「判断」の関係は一様ではない。つまり、前者の内容・態様によって、後者を「良く」もするし、「悪く」もする。)
ややむつかしく言うと、<感性と理性>、<情動と合理性>といった問題になる。
まだよく理解していないし、読了すらしていないが、アントニオ・R・ダマシオの上の著の意図は、池田の文を受けて私なりに文章化すると、このようになる。
この問題を脳科学的ないし神経生理学的に解明すると-つまりは「自然科学」の立場からは、あるいは「実証」科学的・「実験」科学的には-、いったいどのようなことが言えるのか。
著者自体は「新版へのまえ書き」で、こう明記する。文庫、p.13.
「『デカルトの誤り』の主題は情動と理性の関係である。
…、情動は理性のループの中にあり、また情動は通常想定されているように推論のプロセスを必然的に阻害するのではなく、そのプロセスを助けることができるという仮説(ソマティック・マーカー仮説として知られている)を提唱した」。
ここで、「通常想定されている」というのは、感情・情動は理性的・合理的判断を妨げる、<気分>で理性的であるべき決定してはいけない、という、通念的かもしれないような見方を意味させていると解される。
----
ところで、上にすでに、「感情」・「情動」・「理性」・「推論」・「合理」という語が出てきている。
第四章の冒頭の一文、文庫p.104は、「ある条件下では、情動により推論の働きが妨げられる-これまでこのことが疑われたことはない」、だ。
こうした語・概念の意味がそもそも問題になるのだが、秋月瑛二の印象では、人文社会系の論者(哲学者・思想家)では基礎的な観念・概念の使い方が多様で、たとえ「言葉」としては同じであっても、論者それぞれの意味・ニュアンス・趣旨をきちんと把握することができなければ、本当に「理解」することはできない。
つい最近では、ルカチとハーバマスでは「実践」の意味が同じではない、というようなことをL・コワコフスキが書いていたのを試訳した。試訳しながらいちおうはつねに感じるのは、「認識」とか「主体」とか「外部」とかを、L・コワコフスキが言及している論者たちは厳密にはどういう意味で使っているのだろうということだ(それらをある程度は解き明かしているのがL・コワコフスキ著だということにはなるが、すでに十数人以上も種々の「哲学者」たちが登場してくると、いちおう「試訳」することはできても、専門家でない者には「理解」はむつかしい)。
これに対して、あくまで印象だが、自然科学系の著書の方が、一言でいうと<知的に誠実>だ。あるいは<共通の土俵>の程度が高い。
つまり、それぞれの学問分野(医学(病理学・生理学、解剖学等々)、物理学、化学、数学等々)で、欧米を中心とするにせよ、ほぼ世界的に共通する「専門用語」の存在の程度が、人文系に比べてはるかに多く、(独自の説・概念については「ソマティック・マーカー仮説」だとか「統合情報理論」とか言われるようなものがあっても)、自分だけはアカデミズム内で通用しないような言葉遣いを、少なくとも基礎的概念についてしない、という<ルール>が守られているような感がある。
したがって、日本で、すなわち日本の(自然科学)アカデミズムが翻訳語として用いる場合も、一定の(例えば)英語概念には特定の日本語概念が対応する訳語として定着しているように見られる。
「意識」=conciousness、というのもそうだ。Brain は「脳」としか訳せないし、それが表象している対象も基本的には同じはずだろう。
では、「感情」・「情動」・「理性」・「推論」・「合理(性)」等々の、もともとの英語は何なのか。
なお、アントニオ・R・ダマシオはポルトガル人のようだが、若いときからアメリカで研究しているので、英語で執筆しているのではないかと推察される(ジュリオ・トノーニら・意識はいつ生まれるのか(亜紀書房、2015)の原著はイタリア語のようだ)。