L・コワコフスキ=S. Hampshire 編・社会主義思想-再評価(New York、1974)。
Leszek Kolakowski & Stuart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(New York, 1974).
L・コワコフスキの「序文」が彼自身の文章として記述する、報告(および副報告またはコメント)の後の「討論」の内容。つづき。p.14-p.17.
以下の(12)のほとんどは会合・シンポジウムの最後にL・コワコフスキが述べた「結語」の引用だとされているので、その中の段落分けについて(-01)等の小番号を付した。
---
討論③。
(12)レディング会合についての私の個人的な見方を示すために、勝手ながら討論のあとで私が行った結語的論評を引用したい。//
(-01)我々の討議の狙いは、現存する政治体制、運動または政党、社会主義者または共産主義者を批判することではなかった。
しかしながら、明らかなことだが、実現しようとする現存する試みがまるでこの討議と無関係であるかのごとく、今日に社会主義思想に関して討議することはできない。
この会合を組織するに際して、我々は4つの範疇の人々、4種類の思考(mentality)を避けたかった。それらは、社会主義思想とそれが実際に具現化されたものとの関係についての議論でしばしば見出すものだ。//
(-02)第一。社会主義思想にも社会主義社会で形成されている姿のいずれにも間違った(wrong)ものは何もない、と単純に考える人々がいる。
思想はしっかりして首尾一貫した素晴らしいものであり、完璧にソヴィエト型諸国で具体化された。
これはオーソドクスな共産主義者の見方の要点だ。//
(-03)第二。現存する経験に照らして思想は完全に破綻していることが判った、ゆえにそれに関して語るものは何もない、と考える人々がいる。
共産主義システムは、社会主義思想を永遠に葬ってしまった。
(-04)第三。多数のトロツキストと批判的共産主義者たちに典型的な接近方法がある。
それは、つぎのように要約することができる。
共産主義諸国に、多数の過ちを冒した官僚主義的な歪曲があることを否定することはできない。
しかし、原理または本質は健全なものだ。
全く問題がない。-貴方たちが執拗に主張するなら、私〔トロツキストら〕は譲って、このシステムは、数億万人の犠牲のうえに、侵略のうえに、民族抑圧のうえに、際立つ不平等、搾取、文化的荒廃、政治的僭政体制のうえに築かれている、と認めよう。-
しかし、貴方たちは、国家が工場を所有している!ことを否定することはできない。
そして、共産主義諸国での国家所有工場は人類にとって無限の価値をもつので、この成果に直面するならば、他の全ての事情は些細で二次的なことだ。//
(-05)第四。新左翼の間では全く共通の態度がある。それは、つぎのように表現することができる。
全く問題がない。現存する社会主義諸国はガラクタであることに私〔新左翼〕は同意するが、我々はその諸国の歴史にも現実の条件にも関心がない。我々はもっと巧くやろうとしているからだ。
どのようにして?
ごく簡単だ。
我々はまさに、地球的革命を起こして、疎外、人口過剰および交通渋滞を排除しなければならない。
青写真の用意はある。我々が行うべき全ては、地球的革命を起こすことだ。//
(-06)周りを見れば、これら4つの範疇のいずれかに入らない者はほとんどいないことを我々は知る。
我々は、これらの態度はここにはなかった、ということを少なくとも達成した。
これが意味するのは、我々は社会主義思想と社会主義諸国の現存する経験のいずれをも真摯に考察したということ、およびこの経験はこの思想の有効性と将来の見込みに関する討議にとってきわめて意味がある、ということだ。
この事実それ自体が、「社会主義」という言葉がこの世に生まれた後のほとんど150年になっても、我々がなお最初に立ち戻らなければならないことを明らかにしている。
しかしながら、これは落胆あるいは絶望の理由だ、と私は言おうはしない。
我々が人間の悲惨さをなくしてしまうのができないのは本当であっても、同時に、改善されるだろうと考える者が誰もいないとすれば、世界は現状よりももっと悪くなるだろうということも本当だろう。//
(13)我々はいま、どこにいるのか?
社会主義の観点からして社会に関する我々の思考に欠けているのは、我々が実体化されるのを見たいと欲する一般的諸価値ではない。そうではなく、実践に投入されればこれらの諸価値が相互に衝突し合うのを阻止する方法に関する知識であり、理想を達成するのを妨害している諸力に関するより十分な知識だ。
我々は平等に<賛成>するが、経済の組織化は平等な賃金にもとづくことができないこと、いかなる制度的変化があっても急速には破壊されそうにない永続的メカニズムが文化的後進性にはあること、ある程度の不平等性は生来的要因でもって説明することができ、社会的過程へのその影響力についてはほとんど知られていないこと、等々を認識している。
我々は経済民主主義に賛成するが、経済民主主義を有能な生産稼働と調和させる方法を知らない。
我々は、官僚制に反対する多くの論拠をもち、生産手段に対する公的統制、換言すると官僚制の増大、を支持する同じく多くの論拠ももつ。
我々は現代技術の破壊的影響を嘆くが、それに対する我々の知る唯一の防御策は、より進んだ技術だ。
我々は小さな共同体の自律の増大を支持し、地球的規模での計画化の増大を支持する。-れら二つのスローガンには何の矛盾もないかのごとくに。
我々は学校での学習の増大を支持し、生徒たちの自由の増加を支持する。-後者は実際には学習を少なくする。
我々は技術の進歩と完全な安全とを支持する。-後者は動かないことだ。
我々は人は自分の幸福追求について自由でなければならないと語りつつ、幸福についての誰にも適用できる絶対確実な規準を知っているふりをしている。
我々は、誰もが民族的憎悪に反対する世界で民族的憎悪や民族的孤立主義に反対している。しかし、かつて人間の歴史には民族的憎悪に関するもっと多くのことがあった。
我々は、人々は実体的存在だと考えられなければならないと主張する。しかし、人々は肉体をもつという考えほど衝撃を与えるものはない。これが意味するのは、人々は遺伝的に決定されており、生まれて死ぬ、若いまたは老いた、男または女だ、ということで、また、誰が生産手段を所有するかに関係なくこれら全ての要因が社会過程で一定の役割を果たすことができる、ということであり、さらに、いくつかの重要な社会的諸力は歴史的条件の産物ではなく、階級分化によるものでも決してない、ということだ。//
(14)我々は数百年前には幸福だった。
我々は、搾取者と被搾取者、富者と貧者がいることを知った。そして我々には、いかにして不公正を除去するかに関する完璧な思想がある。我々は所有者を搾取し、富を共通の善に変えるだろう。
我々は所有者を搾取した、そして世界の歴史上で最も怪物的で抑圧的な社会システムの一つを創った。
そして、我々は、全ては「原理的に」うまくいっていると繰り返して言い続ける。何らかの不運な事件だけが忍び込んできて、善なる思想を僅かに傷つける。
さあ、再出発しよう。//
(15)社会主義的用語で思考し続けるのは、愚かだろうか?
私は、そうは考えない。
正義、安全確保、教育の機会、あるいは福祉と貧者や無力者に対する国家の責任、これらをより大きくするために西側ヨーロッパでなされてきたことが何であれ、それらは、幼稚で幻想的なものであったとしても、社会主義イデオロギーの圧力と社会主義運動なくしては達成され得なかった。
このことは、我々がこの幻想を多数の失敗の後でも無限に抱くことがあらかじめ保障されていて、許容されている、ということを意味していない。
しかしながら、過去の経験は部分的には社会主義思想を支持し、部分的にはそれに反対している、ということを意味している。
我々はたしかに、対立なき社会の秘訣または完璧さに向かう合鍵を有しているなどと、思い違いすることは許されない。
予期され得なかった事件が起きなければ原理的には一緒に達成することのできた諸価値の系統的なセットを我々は持っているなどと、考えることもできない。人間の歴史のほとんどは予期し得ない偶発事件によって成り立っているのだから。
我々は、伝統的な社会主義の諸価値のセット全体を信じつづけることはできないし、多数の些細な真実を憶えていないかぎりは、最小限の精神的な誠実さを保ちつづけることもできない。
すなわち、これらの諸価値の中には、実行に移すならば相互に対立し合わないものは何もないのだ。
我々が作動させた社会的変化の結末の全てを、我々が知ることは決してない。
過去の歴史の堆積と永遠につづく人間という生物の特質の両者は、社会の計画化に制限を課した。
そしてこの制限を、我々は曖昧にしか知っていない。
多数の陳腐な真実が示唆して意味することに我々が強く抵抗するのは、何ら驚くべきことではない。
こうしたことは、たんに人間の生活について自明のことはその不愉快さだという理由だけで、全ての知の領域で生じている。//
----
終わり。
Leszek Kolakowski & Stuart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(New York, 1974).
L・コワコフスキの「序文」が彼自身の文章として記述する、報告(および副報告またはコメント)の後の「討論」の内容。つづき。p.14-p.17.
以下の(12)のほとんどは会合・シンポジウムの最後にL・コワコフスキが述べた「結語」の引用だとされているので、その中の段落分けについて(-01)等の小番号を付した。
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討論③。
(12)レディング会合についての私の個人的な見方を示すために、勝手ながら討論のあとで私が行った結語的論評を引用したい。//
(-01)我々の討議の狙いは、現存する政治体制、運動または政党、社会主義者または共産主義者を批判することではなかった。
しかしながら、明らかなことだが、実現しようとする現存する試みがまるでこの討議と無関係であるかのごとく、今日に社会主義思想に関して討議することはできない。
この会合を組織するに際して、我々は4つの範疇の人々、4種類の思考(mentality)を避けたかった。それらは、社会主義思想とそれが実際に具現化されたものとの関係についての議論でしばしば見出すものだ。//
(-02)第一。社会主義思想にも社会主義社会で形成されている姿のいずれにも間違った(wrong)ものは何もない、と単純に考える人々がいる。
思想はしっかりして首尾一貫した素晴らしいものであり、完璧にソヴィエト型諸国で具体化された。
これはオーソドクスな共産主義者の見方の要点だ。//
(-03)第二。現存する経験に照らして思想は完全に破綻していることが判った、ゆえにそれに関して語るものは何もない、と考える人々がいる。
共産主義システムは、社会主義思想を永遠に葬ってしまった。
(-04)第三。多数のトロツキストと批判的共産主義者たちに典型的な接近方法がある。
それは、つぎのように要約することができる。
共産主義諸国に、多数の過ちを冒した官僚主義的な歪曲があることを否定することはできない。
しかし、原理または本質は健全なものだ。
全く問題がない。-貴方たちが執拗に主張するなら、私〔トロツキストら〕は譲って、このシステムは、数億万人の犠牲のうえに、侵略のうえに、民族抑圧のうえに、際立つ不平等、搾取、文化的荒廃、政治的僭政体制のうえに築かれている、と認めよう。-
しかし、貴方たちは、国家が工場を所有している!ことを否定することはできない。
そして、共産主義諸国での国家所有工場は人類にとって無限の価値をもつので、この成果に直面するならば、他の全ての事情は些細で二次的なことだ。//
(-05)第四。新左翼の間では全く共通の態度がある。それは、つぎのように表現することができる。
全く問題がない。現存する社会主義諸国はガラクタであることに私〔新左翼〕は同意するが、我々はその諸国の歴史にも現実の条件にも関心がない。我々はもっと巧くやろうとしているからだ。
どのようにして?
ごく簡単だ。
我々はまさに、地球的革命を起こして、疎外、人口過剰および交通渋滞を排除しなければならない。
青写真の用意はある。我々が行うべき全ては、地球的革命を起こすことだ。//
(-06)周りを見れば、これら4つの範疇のいずれかに入らない者はほとんどいないことを我々は知る。
我々は、これらの態度はここにはなかった、ということを少なくとも達成した。
これが意味するのは、我々は社会主義思想と社会主義諸国の現存する経験のいずれをも真摯に考察したということ、およびこの経験はこの思想の有効性と将来の見込みに関する討議にとってきわめて意味がある、ということだ。
この事実それ自体が、「社会主義」という言葉がこの世に生まれた後のほとんど150年になっても、我々がなお最初に立ち戻らなければならないことを明らかにしている。
しかしながら、これは落胆あるいは絶望の理由だ、と私は言おうはしない。
我々が人間の悲惨さをなくしてしまうのができないのは本当であっても、同時に、改善されるだろうと考える者が誰もいないとすれば、世界は現状よりももっと悪くなるだろうということも本当だろう。//
(13)我々はいま、どこにいるのか?
社会主義の観点からして社会に関する我々の思考に欠けているのは、我々が実体化されるのを見たいと欲する一般的諸価値ではない。そうではなく、実践に投入されればこれらの諸価値が相互に衝突し合うのを阻止する方法に関する知識であり、理想を達成するのを妨害している諸力に関するより十分な知識だ。
我々は平等に<賛成>するが、経済の組織化は平等な賃金にもとづくことができないこと、いかなる制度的変化があっても急速には破壊されそうにない永続的メカニズムが文化的後進性にはあること、ある程度の不平等性は生来的要因でもって説明することができ、社会的過程へのその影響力についてはほとんど知られていないこと、等々を認識している。
我々は経済民主主義に賛成するが、経済民主主義を有能な生産稼働と調和させる方法を知らない。
我々は、官僚制に反対する多くの論拠をもち、生産手段に対する公的統制、換言すると官僚制の増大、を支持する同じく多くの論拠ももつ。
我々は現代技術の破壊的影響を嘆くが、それに対する我々の知る唯一の防御策は、より進んだ技術だ。
我々は小さな共同体の自律の増大を支持し、地球的規模での計画化の増大を支持する。-れら二つのスローガンには何の矛盾もないかのごとくに。
我々は学校での学習の増大を支持し、生徒たちの自由の増加を支持する。-後者は実際には学習を少なくする。
我々は技術の進歩と完全な安全とを支持する。-後者は動かないことだ。
我々は人は自分の幸福追求について自由でなければならないと語りつつ、幸福についての誰にも適用できる絶対確実な規準を知っているふりをしている。
我々は、誰もが民族的憎悪に反対する世界で民族的憎悪や民族的孤立主義に反対している。しかし、かつて人間の歴史には民族的憎悪に関するもっと多くのことがあった。
我々は、人々は実体的存在だと考えられなければならないと主張する。しかし、人々は肉体をもつという考えほど衝撃を与えるものはない。これが意味するのは、人々は遺伝的に決定されており、生まれて死ぬ、若いまたは老いた、男または女だ、ということで、また、誰が生産手段を所有するかに関係なくこれら全ての要因が社会過程で一定の役割を果たすことができる、ということであり、さらに、いくつかの重要な社会的諸力は歴史的条件の産物ではなく、階級分化によるものでも決してない、ということだ。//
(14)我々は数百年前には幸福だった。
我々は、搾取者と被搾取者、富者と貧者がいることを知った。そして我々には、いかにして不公正を除去するかに関する完璧な思想がある。我々は所有者を搾取し、富を共通の善に変えるだろう。
我々は所有者を搾取した、そして世界の歴史上で最も怪物的で抑圧的な社会システムの一つを創った。
そして、我々は、全ては「原理的に」うまくいっていると繰り返して言い続ける。何らかの不運な事件だけが忍び込んできて、善なる思想を僅かに傷つける。
さあ、再出発しよう。//
(15)社会主義的用語で思考し続けるのは、愚かだろうか?
私は、そうは考えない。
正義、安全確保、教育の機会、あるいは福祉と貧者や無力者に対する国家の責任、これらをより大きくするために西側ヨーロッパでなされてきたことが何であれ、それらは、幼稚で幻想的なものであったとしても、社会主義イデオロギーの圧力と社会主義運動なくしては達成され得なかった。
このことは、我々がこの幻想を多数の失敗の後でも無限に抱くことがあらかじめ保障されていて、許容されている、ということを意味していない。
しかしながら、過去の経験は部分的には社会主義思想を支持し、部分的にはそれに反対している、ということを意味している。
我々はたしかに、対立なき社会の秘訣または完璧さに向かう合鍵を有しているなどと、思い違いすることは許されない。
予期され得なかった事件が起きなければ原理的には一緒に達成することのできた諸価値の系統的なセットを我々は持っているなどと、考えることもできない。人間の歴史のほとんどは予期し得ない偶発事件によって成り立っているのだから。
我々は、伝統的な社会主義の諸価値のセット全体を信じつづけることはできないし、多数の些細な真実を憶えていないかぎりは、最小限の精神的な誠実さを保ちつづけることもできない。
すなわち、これらの諸価値の中には、実行に移すならば相互に対立し合わないものは何もないのだ。
我々が作動させた社会的変化の結末の全てを、我々が知ることは決してない。
過去の歴史の堆積と永遠につづく人間という生物の特質の両者は、社会の計画化に制限を課した。
そしてこの制限を、我々は曖昧にしか知っていない。
多数の陳腐な真実が示唆して意味することに我々が強く抵抗するのは、何ら驚くべきことではない。
こうしたことは、たんに人間の生活について自明のことはその不愉快さだという理由だけで、全ての知の領域で生じている。//
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終わり。