リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.482-p.486.
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 第8節・党中央委員会10月10日の重大決定。
 (1)10月16日までに、ボルシェヴィキには自由になる二つの組織があったが、いずれも名目上はソヴェトに帰属していた。第一は軍事革命委員会で、クーを実施する、第二は来たる第二回ソヴェト大会で、クーの実施を正当化する。
 これらはこのときまでに、事実上は、第一に臨時政府の軍事幕僚に、第二にソヴェトのイスパルコムに取って代わった。
 ミルレヴコム〔軍事革命委員会〕とソヴェト大会は、10月10日にきわめて秘密裡に行われたボルシェヴィキの権力掌握の決定を実施すべきものとされた。//
 (2)10月3日と10日の間のいつかに、レーニンはペトログラードにこっそりと戻ってきた。レーニンはこれを隠れて行ったので、共産主義者の歴史研究者は今日まで彼の帰還のときを確定できていない。
 レーニンは10月24日までVyborg 地区に潜伏した。姿を現したのは、ボルシェヴィキ・クーがすでに開始されたあとのことだった。
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 (3)10月10日-イスパルコムとソヴェト総会が防衛委員会の設置を票決した後の一日で、この事態との関係が十分にありそうだが-、ボルシェヴィキ中央委員会のうちの12名の委員が集まって、武装蜂起の問題に関して決定した。
 この会合は深夜に、極端な予防措置に囲まれた中で、スハノフのアパートで行われた。
 レーニンは、きれいに髭を剃り、鬘と眼鏡を着けて変装してやって来た。
 このときに何が行われたかについて明らかになってことに関する我々の知識は完全ではない。二つの議事録が作成されたが、そのうち一つだけが出版され、その一つですら手を加えて修正されたものだからだ。(152)
 最も詳細な資料は、トロツキーの回想録に由来する。(153)//
 (4)レーニンは、10月25日の前に絶対にクーが実施されるのを確実にしようと決断するに至っていた。
 トロツキーが「我々が招集しているソヴェト大会では、我々が多数派を握ることがあらかじめ保障されている」として反対したとき、レーニンは、つぎのように答えた。
 「第二回ソヴェト大会の問題には、<中略>彼はいかなる関心もなかった。
 それがどれだけの重要性をもつのか? 開催されすらするのか? そして、権力を切り取る(tear out, vyrazi')ことは必要か?
 ソヴェト大会に束縛されてはならない。敵に対して蜂起の日程を教えてあらかじめ警告するのは愚かで馬鹿げている。
 10月25日はせいぜいのところ、粉飾(camouflage)として役立つかもしれない。しかし、蜂起は、ソヴェト大会よりも早く、それとは独立して、実行されなければならない。
 党は、武器を手にして、権力を掌握しなければならない。そのときには、我々はソヴェト大会について語るだろう。」(154)
 トロツキーは、こう考えた。レーニンは「敵」に大きすぎる意味を認めているのみならず、カバー(cover)としてのソヴェトの価値を過少評価してもいる。
 党は、レーニンが欲するようには、ソヴェトと無関係に権力を掌握することはできない。なぜならば、労働者と兵士たちはボルシェヴィキ党に関することも含めた全てのことをソヴェトのメディアを通じて学んでいるからだ。
 ソヴェト構造の枠外で権力を奪取することは、ただ混乱の種だけを撒くだろう。//
 (5)レーニンとトロツキーの違いは、クーの時機と正当化の問題に集中していた。
 しかし、中央委員会の何人かの委員は、権力奪取を実行するかどうか自体をすら、疑問視していた。
 ウリツキ(Uritskii)は、ボルシェヴィキは技術的に蜂起を準備していない、使用可能な4万丁の銃砲では不十分だ、と主張した。
 最も厳しい反対意見は、カーメネフおよびジノヴィエフから出て来た。彼らはその立場を、内密の手紙を通じて、ボルシェヴィキの諸組織に対して説明した。(155)
 クーの時機は、まだだ。
 「我々が深く確信するところでは、いま蜂起することは我々の党の運命を賭ける冒険であることのみならず、世界革命はもとよりロシア革命を賭けることをも意味する」。
 党は憲法制定会議の選挙で成功(do well)するのを期待することができる。最小でも議席の三分の一を獲得すれば、そのことでソヴェトの権威を補強し、ソヴェト内での影響力をさらに優ったものにすることができる。
 「憲法制定会議にソヴェトを加えたもの-これこそが、我々が追求すべき、連結した統治制度の類型だ」。
 この二人は、ロシアと世界の労働者の多数派はボルシェヴィキを支持している、とのレーニンの主張を拒絶した。
 彼らの悲観的な評価によれば、武装行動ではなくて防衛的な戦略をとることを〔いわば〕医師は患者に勧める、ということになる。//
 (6)レーニンはこの主張に対して、こう反応した。「憲法制定会議を待つのは非常識(senseless)だ。これは我々の側には立たないだろう。なぜなら、これは我々の任務を複雑なものにするだろうから」。
 この点で、レーニンは、多数派の支持を獲得した。//
 (7)討議が終わりに近づくにつけて、中央委員会は三つの派へと分かれた。
 1. レーニンだけの一人党派で、ソヴェト大会や憲法制定会議に関する考慮することなく、即時の権力掌握に賛成する。
 2. ジノヴィエフとカーメネフで、Nogin、Vladimir Miliutin およびアレクセイ・ルィコフによって支持され、当面はクー・デタに反対する。
 3. その他の数では6名の委員で、クーを支持するが、ソヴェト大会との連携がなされるべき、-この二週間は-ソヴェトの正規の支援のもとにあるべき、とのトロツキーにも賛同しない。
 過半数の10名は、「避けることができず、かつ十分に成熟した」ときに武装蜂起に賛成する票を投じた。(156)
 時機は未決定のままに、残された。
 あとに続いた事態から判断すると、一日または数日だけ第二回ソヴェト大会に先行する、というものだった。
 レーニンは、このような妥協をしなければならなかった。そして、ソヴェト大会はたんにクーを裁可することだけが求められる、という彼の主眼点を獲得した。//
 (8)軍事革命委員会の設立と、そのつぎの第二回ソヴェト大会の元となった北部ソヴェト大会の招集は、以前に記述したことだが、10月10日の中央委員会決定を実施するものだった。
 (9)カーメネフには、この決定は受容することができないものだつた。
 彼は、中央委員会の委員を離任し、その一週間後、<Novaia zhizn'>のインタビューで自分の立場を説明した。
 カーメネフは、こう語った。彼とジノヴィエフは党の諸組織に回覧の手紙を送った。それに二人は、「近い将来に武装蜂起を始めることを党が承認することに断固として反対する」と書いた。
 党がそのような決定をしていなかったとしても、とここで彼は虚偽を語ったのだが、彼とジノヴィエフおよび何人かのその他の者は、ソヴェト大会の前夜での、ソヴェトから独立した「武装の実力による権力掌握」は革命にとって致命的な結果をもたらすだろう、と考えた。そして、蜂起を避けることはできないが、時機がよくない、と。(157)
 (10)中央委員会は、クーの前にさらに三回の会合を開いた。10月の20日、21日、そして24日。(158)
 第一回めの議題は、武装蜂起に反対する見解を公にした点で冒したと主張された、カーメネフとジノヴィエフの党規約違反だった。(*)
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 (*) レーニンは間違って、ジノヴィエフはカーメネフとともに<Novaia zhizn'>のインタビュー>に加わっていたと考えていた。<Protokoly TsK>, p.108.
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 レーニンは中央委員会に対して怒りの手紙を書き送り、「スト破り」の除名を要求した。
 「我々は資本主義者たちに真実を語ることはできない。すなわち、我々はストライキへと進む(蜂起をする、と読むべし)こと、そして<時機の選択>を彼らに<隠す>こと、を<決定した>。(159)
 中央委員会は、この要求に従うことをしなかった。
 (11)これらの会合の議事録は、実質的に無意味なものにするために相当に省略されているように思われる。かりに表面どおりに理解するならば、そのときまでにすでに議論が進行中だったクーは議題ですらなかった、と推察してしまうだろう。
 (12)中央委員会の戦術は、臨時政府を挑発して、革命を防衛することを偽装したクーを開始するのを可能にさせる、報復的な手段をとるよう追い込むことだった。
 この戦術は、秘密ではなかった。
 事件の数週間前のエスエル機関誌<Delo naroda>が簡略化して書いているように、臨時政府はコルニロフと一緒に革命を抑圧し、〔ドイツ〕皇帝と一緒にペトログラードを敵に明け渡す陰謀を企てたとして責任が追及されるだろう。ソヴェト大会と憲法制定会議のいずれも解散させる用意をしていた、という責任追及はもちろん。(160)
 トロツキーとスターリンは、そのようなことが党の計画だったと、事件の後で確認した。
 トロツキーは、こう書いた。
 「本質的なことを言えば、戦略は攻撃的なものだった。
 我々は、政府を攻撃する準備をしていたが、我々の煽動活動は、敵がソヴェト大会を解散させようとしている、敵を容赦なく撃退することが必要だ、と主張することにあった。」(161)
  スターリンによると、こうだ。
 「革命(ボルシェヴィキ党と読むべし)は、不確かで躊躇させる要素を軌道の中に引き込むことを容易にするために、その攻撃行動を防衛という煙幕の背後で偽装することだった。」(162)
 (13)Curzio Malaparte は、たまたまファシストが権力奪取をしていたイタリアを訪れていたイギリスの小説家、Izrael Zangwill の困惑を、こう叙述している。
 「バリケード、路上の戦闘、舗道上の軍団」がないことに驚いて、Zangwill は、自分が革命を目撃していると信じるのを拒んだ。(163)
 しかし、Malaparte によれば、現代の革命の特徴的な性質は、まさに無血(bloodless)であることだ。訓練された突撃兵団の小部隊が、戦略的地点をほとんど静穏に掌握するのだ。
 このような厳密な正確さでもって襲撃は実行されるので、民衆一般は何が起きているかを少しも知ることがない。
 (14)この叙述は、ロシアの十月のクーにふさわしい(これをMalaparte は研究して、彼のモデルの一つとして用いた)。
 十月に、ボルシェヴィキは集団的な武装示威行動や路上での衝突をしなかった。これらは、レーニンの主張に従って4月や7月には行ったことだった。なぜ10月にはしなかったかというと、群衆は統制し難く、また反発を却って生むということが分かったからだった。
 ボルシェヴィキは、今度は、小規模の訓練された兵士と労働者の部隊に頼った。その部隊は、軍事革命委員会を装った軍事組織司令部のもとにあり、ペトログラードの主な通信と交通の中心地、利便施設や印刷工場-現代的大都市の中枢(nerve)箇所-を占拠することを任務としていた。
 政府とその軍事幕僚たちとの間の電話線を切断するだけで、ボルシェヴィキは反攻の組織化を不可能にすることができた。
 作戦行動全体が、順調かつ効果的に履行された。そのために、まさにそれが進行中だったときですら、オペラ劇場のほかにカフェやレストラン、あるいは劇場や映画館、は営業のために開いていて、娯楽を求める群衆で混雑していた。//
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 (152) <Protokoly TsK>, p.83-p.86.
 (153) L・トロツキー,<レーニン>(Moscow, 1924), p.70-p.73.
 (154) 同上, p.70-p.71.
 (155) <Protokoly TsK>, p.87-p.92.
 (156) 同上, p.86.; トロツキー,<レーニン>, p.72.
 (157) Iu・カーメネフ. <NZh>No.156/150(1917年10月18日)所収, p.3.
 (158) <Protokoly TsK>, p.106-p.121.の縮められた議事録。
 (159) 同上, p.113.
 (160) <DN>No.154(1917年9月11日), p.3., 同No.169(1917年10月1日), p.1.
 (161) トロツキー,<レーニン>, p.69.
 (162) Mints, <Dokumentry>I, P.3.
 (163) C・Malaparte, <クー・デタ: 革命の技術>(New York, 1932), p.180.
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 第8節は終わり。つぎの第9節の目次上の見出しは、<軍事革命委員会がクー・デタを開始>。