「法」よりも大切なものがある。
これは、そのとおりだ。
人の生命を最も尊重されるべきと考える人にとって、「法」よりも生命は重い。
但し、「法」は、この場合は日本の刑事法だが、いろいろなことを配慮しているもので、例外的には「人殺し」を容認している。「死刑」、「正当防衛」等。
「死」の定義も「脳死」問題も、おそらくは殺人罪(共犯を含む)・自殺幇助罪等との関係で問題になるのだろう。
元にさっそく戻って、「法」よりも大切なものがある。これは、そのとおりだ。個々人にとって、「法」などが介在しない生活が望ましいかもしれない(しかし、かなりの程度は実質的、客観的に、そうでもないことは別に述べたい)。
しかし、問題が「国家」の行動あるいは国政に関係する場合には-ここでの「国家」はいわゆる狭義の「政府」だけではなくて少なくとも立法・司法も含み、地方「自治」体も含む-、簡単に、「法」よりも大切なものがある、と主張してはいけない。
花田紀凱が編集長している雑誌で、すでに月刊Hanada になっていただろう、ある号の読者投書欄の冒頭に、こんな主張が掲載されていた。
①<憲法よりも国家の方が大切だ。>
この考え方は、法律レベルに落とすと、つぎと同じだろう。
②<情報公開「法」(法律)よりも軍事機密保持の方が大切だ。>
これらの主張の趣旨は、私にもよく理解できる。
だが、理解できる、というのは、そのとおりだと肯定する、という意味ではない。
上の①に絞る。かつて、櫻井よしこは、「自衛隊は違憲だ」ということから出発しなければならないと明記していた。
しかし一方で、2017年5月頃につぎの旨を、これまた明記した。
<法理論的には問題があるが、現実的には、安倍晋三「自衛隊」明記提案も「したたか」で、容認できる。> これもこの欄で既述。
そして、櫻井よしこが共同代表である「美しい日本の憲法をつくる会」とやら(正式名を確認しない)は、自衛隊員の名誉のためにも?<憲法に自衛隊明記を!>という運動をしているらしい(現実にはたぶん、日本会議派の活動員たちがしているものと思われる)。
少し戻ると、<法的には問題があるが、現実的には>という櫻井よしこの発想は、<革命>を容認するものだ、と批判的に、この欄で指摘したことがある(2017年夏頃までに)。
この考え方は、上の①とほとんど変わらない。
本来の、この人が純粋には理解する「法」よりも「現実的政策」を優先させてよいことがある、ということを認めているからだ。
国家・国政について、<国家の方が「法」よりも大切だ>と主張しはじめると、いったいどういうことになるか?
これは「革命」を容認することだ。
ここで「革命」は、「法」的正統性に関する<連続性>を絶つ、という意味でさしあたり用いる。
「法」よりも「国家」が大切であるならば、「国家」のためには「法」を無視しても、同じことだが侵害しても、よい、つまり既存・現行の法・憲法との関係で「違法」・「違憲」であってもよい、ということになる。これは、<革命>を容認することだ。
櫻井よしこの頭の中には、こういう<思想>が少なくとも一部にはある。
そしてまた、花田紀凱も共感したのかもしれないが、<憲法よりも国家の方が大切だ。>という主張は、これを全面的・一般的に肯定する<思想>だ。
なぜか、を少し叙述してみよう。
問題はそもそも「国家」・「国益」とは何か、いったい誰が・どの機関が、どうやって判断するのか、にある。
人によって「法」よりも大切だと考える「国家」・「国益」の意味内容は異なりうる。
それを、自らの、又は自分たちの「国家」観、「国益」観でもって決定せよ、というのならば、そしてその場合には「法」>「憲法」を無視してよいという主張は、<革命>を、そして(曖昧な概念だが)<全体主義>の到来を容認するものだ。
この点では、安倍晋三首相も、自民党も、<革命容認>思想に立ってはいないものとほぼ断定することができる。安倍首相は自らの地位が日本国憲法・公職選挙法・国会法等々に基づくことを当然に自覚・意識しており、「自衛隊」の存在とその組織や行動可能範囲が憲法(日本国憲法)に違反してはならないことを、十分に知っているものと思われる。
だからこそ、憲法の現九条に関する内閣の「解釈」を変更したうえで、(安倍内閣は)いわゆる平和安全法制を国会に提案し、限定的集団的自衛権の<行使>を容認することに(内閣ではなく)国会も賛成して、諸法律が改正・制定された。
この内閣・国会による「憲法解釈」を覆すことができるのは司法権(究極は最高裁判所)だが、そのような措置・判決は出ていないので、現在の状態は決して「違憲」ではない。
従ってむろん、<立憲主義>に違反してもいない(正確には、そのような結論を、今の憲法上で出しうる権限ある国家機関が出していない)。
---
余計なことに(いつものように)立ち入れば、「立憲民主党」というのは奇妙奇天烈な名称の党だ。
数十年前の内閣(内閣法制局)の憲法九条「解釈」だけが(またはそれまでが)合憲で、それ以外は憲法に違反し、「立憲主義」に違反すると(某一学者の影響を受けて?)考えているのだろうが、そもそも自分たちの「憲法解釈」だけが唯一正当だとする根拠はどこにもない。
別途書いてもよいが、<立憲主義>にさほど深遠な意味があるわけではない、と秋月は理解している。
これは要するに、「法律」=議会制定成文法よりも上位にある「憲法」が、法律制定機関(国会)・司法・行政権(地方「自治」体の立法・行政を含む)を制約し、拘束する、というだけのことだ。
権力=政府(=安倍内閣?)だなどと理解してはならず、それよりも広い。
核心的で最も重要な意味は、「国権の最高機関」・「唯一の立法機関」とされている国会=世俗的・一時的な「立法」者ですら、憲法には違反してはならない、ということだ。このような意味での「立憲主義」の採用はたしかに、「近代」以降のことだろう。
かつてのソ連・現在の中国等は「立憲主義」国家か否かを、「立憲民主党」の諸氏には答えていただきたいものだ。
---
元に戻る。
「国民」主権という場合の「国民」や、その「国民」による「国家」意思決定(・反映)手続は多様であり得る。したがって、何が「国民の意思」なのか「国民主権」に合致するかを簡単に答えることはできない。当たり前のことだ。
興味深いかもしれない事例問題を作ってみよう。
①日本共産党とその党員・支持者たちが、ある程度の「実力」組織をもち、あるいは警察・「自衛隊」の内部にも党員・支持者を拡大して、これら組織の過半員は党員・支持者であるか積極的には同党に反対しない者になっている。
②日本共産党が現在または将来の「国会」、つまりは国民代表者であるはずの国会議員たちは、<真の>「国民」代表ではなく、<真の>「国民」の意思を示すものではないと判断・決定し、どこかで(国会議事堂前も使って?)数十万規模の大集会を開き、かつ地方各地で同様の集会を開く。
③かつそれが独自にもつ「実力」組織はもちろん、警察組織・「自衛隊」は、上の集会等を規制できず、少なくとも「実力」をもって解散させることができない。
④地方を含む上の集会参加者は事実上、首相官邸、多くの省庁の建物、警視庁および同類の地方の役所を(道府県警察本部も含めて)「制圧」する。
⑤日本共産党はあらかじめ<新政府>閣僚名簿を用意し、東京のどこかに<新内閣>が構成されたとし、集まったマスコミ等に今後の政策方針も発表する。
⑥これらに関して果敢な何らかの措置を首相・警察庁長官等の権限者は発することをせず、又はすることができず、国会(衆参の区別をしないで書く)の多数派の議員団が特別の法律を議決・公布・施行して対処しようとするが、躊躇する議員も与党内にいて、協議に時間を要する。そして、「新政府」樹立等の報道等に接したり、国会内の共産党議員の主張・意見に立腹したりして、動揺したり立腹したりした結果として、与党議員はかなり退席してしまう。
⑦残る国会議員たちだけでぎりぎり現行国会法等が定める定足数を充たすことが判明し、共産党議員団は現国会を「自主解散」をし、実質的には<真の>国民の意思を代表するものとして「新政府」を正統な内閣として承認し、「新政府」のもとで現公職選挙法にもとづく選挙によって新しい国会を構成する旨の提案をし、同党と共闘政党および与党内「日和見」議員を足すとぎりぎりの過半数はあったので可決される(過半数でよいかの議論は一部または相当にあったが、結果的には無視された)。
⑧共産党および同党議員団は国会の<過半数議員>が賛成した<有効な>議決であるとし、「新内閣」への行政権移行を宣言し、国内・国際的にも大きく宣伝・報道する。
さて、この事態、あるいは<権力移行>は、「暴力」革命なのか「平和」革命なのか?
そもそも「革命」にあたるのか、そうではないのか。
<真の>「国民」の意思に基づくというのは本当か? しかし、出席国会議員の<過半数>は新政府をそれとして正当化した、ということはどういう意味をもつか?
いろいろな場合・動きを(米軍とか天皇とかの言動等を)想定して記述すると複雑になるので、避けている。
言いたいのは、「平和」革命か「暴力」革命か、あるいは「革命」か否かは、実際にはさほど明確になるのではないだろう、ということだ。
これは、元々は「国民」とか「国民の意思」という言葉から書き出したのだったが、とりわけ最後の「暴力革命」という言葉・概念の理解の仕方になる。
そして、日本共産党が「暴力革命」路線を捨てていないコワイ党だといくら主張したところで、その「暴力革命」の意味を明確にしておかないと、全く意味がない。この批判は絶対に概念的、理論的には、日本共産党にコタえていないだろう(そのおかげで票が減るのはイヤだろうとしても)。
ロシアの十月革命(新暦11月)の<新政府設立>=「社会主義革命」と少なくとものちに言われた一日または数日間、「実力(=暴力)組織」は存在していたが、じつはほとんど「血」は流れていない、つまり旧体勢派(当時のケレンスキー首班の臨時政府側)に多数の死者が出たのでもない。大殺戮、大虐殺といったものは起きていない。
しかし、どうもこれは<暴力革命>だとされているようでもある。
しかし、上の日本の?事例は、現憲法下の「国会」が何とか機能しており、法的連続性を何とか認めようとしており、かつかりに抵抗する国民・旧大臣等の大殺戮等がなかったとすれば、ロシア革命よりはさらに穏便な<権力移行>なのではないか?
ともあれ、基本的な言葉・概念の使い方によって、「現実」はいかようにでも形容され、表現され得る、という面がある。
<真の国民の意思>が何かはむろん容易には具体的に判明しないが、<それを代表する>とする政党・同党議員がまさにそれを代表すると「思い込んで」、実力組織の用意も含めて、強力に上のような「事例」を生じさせることはあり得るのではないだろうか?? 彼らにとって、「国民主権」原理と、なんら矛盾していないのだ。もともと国会以外では、<多数者に支えられた>新政府なのだ。
なお、1917年10月、第ニ回全国ソヴィエト大会でのメンシェヴィキ等の「退席」はボルシェヴィキ(のちの共産党)に明らかに有利になっており、たぶん<全国労働者・兵士代表ソヴィエト大会>の名前でレーニンは<臨時政府は打倒された>等の声明を発した。
長くなったがともあれ、「暴力革命」という概念の意味も明確ではなく、その範囲内に一定の「現実」が該当するか、という問題が生じることも当然にあり得るだろう、ということだ。
----
日本会議会長の田久保忠衛は昨年か一昨年の同会機関誌「日本の息吹」定例号かその特別号で、以下の旨を明言していた。
<あらためて綱領・設立宣言等を読んでみたが、なかなかいいことを書いているではないかと思った。>
会長が「あらためて」読んでこう感じた、というのも幼稚な感じがするが、これに関して言いたいのは以下だ。
どの組織・団体もその設立趣旨・規約等々に<悪い>こと、一般的に<指弾されるようなこと>は書かないだろう。人を殺す団体です、とか日本の破壊を目指す団体です、とかはまず(前者はたぶん絶対に)書かない。
設立宣言等に書いていることと、客観的にその組織・団体が行っている活動の効果や影響は(それがあるとして)同じであるとは全く限らない。「言葉・文章」と「現実」的機能が同じであるはずがない。
日本共産党もまた、その綱領で、「社会主義」・「共産主義」という言葉を気にかけなければ、「なかなかいいこと」らしきものを書いている(以下、現行の綱領の一部)。
・「…さらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる」。
・「二一世紀を、搾取も抑圧もない共同社会の建設に向かう人類史的な前進の世紀とすることをめざして、力をつくす」。
前者のうち、「人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」。なかなか、美しい社会ではないか。とくに「真に平等で自由な人間関係からなる…」は気にいった。「真に」と書いてあるから、では「ニセ」は?という疑問が生じるし、「原則として」とあるのも、タマにキズだけれども。
これは、そのとおりだ。
人の生命を最も尊重されるべきと考える人にとって、「法」よりも生命は重い。
但し、「法」は、この場合は日本の刑事法だが、いろいろなことを配慮しているもので、例外的には「人殺し」を容認している。「死刑」、「正当防衛」等。
「死」の定義も「脳死」問題も、おそらくは殺人罪(共犯を含む)・自殺幇助罪等との関係で問題になるのだろう。
元にさっそく戻って、「法」よりも大切なものがある。これは、そのとおりだ。個々人にとって、「法」などが介在しない生活が望ましいかもしれない(しかし、かなりの程度は実質的、客観的に、そうでもないことは別に述べたい)。
しかし、問題が「国家」の行動あるいは国政に関係する場合には-ここでの「国家」はいわゆる狭義の「政府」だけではなくて少なくとも立法・司法も含み、地方「自治」体も含む-、簡単に、「法」よりも大切なものがある、と主張してはいけない。
花田紀凱が編集長している雑誌で、すでに月刊Hanada になっていただろう、ある号の読者投書欄の冒頭に、こんな主張が掲載されていた。
①<憲法よりも国家の方が大切だ。>
この考え方は、法律レベルに落とすと、つぎと同じだろう。
②<情報公開「法」(法律)よりも軍事機密保持の方が大切だ。>
これらの主張の趣旨は、私にもよく理解できる。
だが、理解できる、というのは、そのとおりだと肯定する、という意味ではない。
上の①に絞る。かつて、櫻井よしこは、「自衛隊は違憲だ」ということから出発しなければならないと明記していた。
しかし一方で、2017年5月頃につぎの旨を、これまた明記した。
<法理論的には問題があるが、現実的には、安倍晋三「自衛隊」明記提案も「したたか」で、容認できる。> これもこの欄で既述。
そして、櫻井よしこが共同代表である「美しい日本の憲法をつくる会」とやら(正式名を確認しない)は、自衛隊員の名誉のためにも?<憲法に自衛隊明記を!>という運動をしているらしい(現実にはたぶん、日本会議派の活動員たちがしているものと思われる)。
少し戻ると、<法的には問題があるが、現実的には>という櫻井よしこの発想は、<革命>を容認するものだ、と批判的に、この欄で指摘したことがある(2017年夏頃までに)。
この考え方は、上の①とほとんど変わらない。
本来の、この人が純粋には理解する「法」よりも「現実的政策」を優先させてよいことがある、ということを認めているからだ。
国家・国政について、<国家の方が「法」よりも大切だ>と主張しはじめると、いったいどういうことになるか?
これは「革命」を容認することだ。
ここで「革命」は、「法」的正統性に関する<連続性>を絶つ、という意味でさしあたり用いる。
「法」よりも「国家」が大切であるならば、「国家」のためには「法」を無視しても、同じことだが侵害しても、よい、つまり既存・現行の法・憲法との関係で「違法」・「違憲」であってもよい、ということになる。これは、<革命>を容認することだ。
櫻井よしこの頭の中には、こういう<思想>が少なくとも一部にはある。
そしてまた、花田紀凱も共感したのかもしれないが、<憲法よりも国家の方が大切だ。>という主張は、これを全面的・一般的に肯定する<思想>だ。
なぜか、を少し叙述してみよう。
問題はそもそも「国家」・「国益」とは何か、いったい誰が・どの機関が、どうやって判断するのか、にある。
人によって「法」よりも大切だと考える「国家」・「国益」の意味内容は異なりうる。
それを、自らの、又は自分たちの「国家」観、「国益」観でもって決定せよ、というのならば、そしてその場合には「法」>「憲法」を無視してよいという主張は、<革命>を、そして(曖昧な概念だが)<全体主義>の到来を容認するものだ。
この点では、安倍晋三首相も、自民党も、<革命容認>思想に立ってはいないものとほぼ断定することができる。安倍首相は自らの地位が日本国憲法・公職選挙法・国会法等々に基づくことを当然に自覚・意識しており、「自衛隊」の存在とその組織や行動可能範囲が憲法(日本国憲法)に違反してはならないことを、十分に知っているものと思われる。
だからこそ、憲法の現九条に関する内閣の「解釈」を変更したうえで、(安倍内閣は)いわゆる平和安全法制を国会に提案し、限定的集団的自衛権の<行使>を容認することに(内閣ではなく)国会も賛成して、諸法律が改正・制定された。
この内閣・国会による「憲法解釈」を覆すことができるのは司法権(究極は最高裁判所)だが、そのような措置・判決は出ていないので、現在の状態は決して「違憲」ではない。
従ってむろん、<立憲主義>に違反してもいない(正確には、そのような結論を、今の憲法上で出しうる権限ある国家機関が出していない)。
---
余計なことに(いつものように)立ち入れば、「立憲民主党」というのは奇妙奇天烈な名称の党だ。
数十年前の内閣(内閣法制局)の憲法九条「解釈」だけが(またはそれまでが)合憲で、それ以外は憲法に違反し、「立憲主義」に違反すると(某一学者の影響を受けて?)考えているのだろうが、そもそも自分たちの「憲法解釈」だけが唯一正当だとする根拠はどこにもない。
別途書いてもよいが、<立憲主義>にさほど深遠な意味があるわけではない、と秋月は理解している。
これは要するに、「法律」=議会制定成文法よりも上位にある「憲法」が、法律制定機関(国会)・司法・行政権(地方「自治」体の立法・行政を含む)を制約し、拘束する、というだけのことだ。
権力=政府(=安倍内閣?)だなどと理解してはならず、それよりも広い。
核心的で最も重要な意味は、「国権の最高機関」・「唯一の立法機関」とされている国会=世俗的・一時的な「立法」者ですら、憲法には違反してはならない、ということだ。このような意味での「立憲主義」の採用はたしかに、「近代」以降のことだろう。
かつてのソ連・現在の中国等は「立憲主義」国家か否かを、「立憲民主党」の諸氏には答えていただきたいものだ。
---
元に戻る。
「国民」主権という場合の「国民」や、その「国民」による「国家」意思決定(・反映)手続は多様であり得る。したがって、何が「国民の意思」なのか「国民主権」に合致するかを簡単に答えることはできない。当たり前のことだ。
興味深いかもしれない事例問題を作ってみよう。
①日本共産党とその党員・支持者たちが、ある程度の「実力」組織をもち、あるいは警察・「自衛隊」の内部にも党員・支持者を拡大して、これら組織の過半員は党員・支持者であるか積極的には同党に反対しない者になっている。
②日本共産党が現在または将来の「国会」、つまりは国民代表者であるはずの国会議員たちは、<真の>「国民」代表ではなく、<真の>「国民」の意思を示すものではないと判断・決定し、どこかで(国会議事堂前も使って?)数十万規模の大集会を開き、かつ地方各地で同様の集会を開く。
③かつそれが独自にもつ「実力」組織はもちろん、警察組織・「自衛隊」は、上の集会等を規制できず、少なくとも「実力」をもって解散させることができない。
④地方を含む上の集会参加者は事実上、首相官邸、多くの省庁の建物、警視庁および同類の地方の役所を(道府県警察本部も含めて)「制圧」する。
⑤日本共産党はあらかじめ<新政府>閣僚名簿を用意し、東京のどこかに<新内閣>が構成されたとし、集まったマスコミ等に今後の政策方針も発表する。
⑥これらに関して果敢な何らかの措置を首相・警察庁長官等の権限者は発することをせず、又はすることができず、国会(衆参の区別をしないで書く)の多数派の議員団が特別の法律を議決・公布・施行して対処しようとするが、躊躇する議員も与党内にいて、協議に時間を要する。そして、「新政府」樹立等の報道等に接したり、国会内の共産党議員の主張・意見に立腹したりして、動揺したり立腹したりした結果として、与党議員はかなり退席してしまう。
⑦残る国会議員たちだけでぎりぎり現行国会法等が定める定足数を充たすことが判明し、共産党議員団は現国会を「自主解散」をし、実質的には<真の>国民の意思を代表するものとして「新政府」を正統な内閣として承認し、「新政府」のもとで現公職選挙法にもとづく選挙によって新しい国会を構成する旨の提案をし、同党と共闘政党および与党内「日和見」議員を足すとぎりぎりの過半数はあったので可決される(過半数でよいかの議論は一部または相当にあったが、結果的には無視された)。
⑧共産党および同党議員団は国会の<過半数議員>が賛成した<有効な>議決であるとし、「新内閣」への行政権移行を宣言し、国内・国際的にも大きく宣伝・報道する。
さて、この事態、あるいは<権力移行>は、「暴力」革命なのか「平和」革命なのか?
そもそも「革命」にあたるのか、そうではないのか。
<真の>「国民」の意思に基づくというのは本当か? しかし、出席国会議員の<過半数>は新政府をそれとして正当化した、ということはどういう意味をもつか?
いろいろな場合・動きを(米軍とか天皇とかの言動等を)想定して記述すると複雑になるので、避けている。
言いたいのは、「平和」革命か「暴力」革命か、あるいは「革命」か否かは、実際にはさほど明確になるのではないだろう、ということだ。
これは、元々は「国民」とか「国民の意思」という言葉から書き出したのだったが、とりわけ最後の「暴力革命」という言葉・概念の理解の仕方になる。
そして、日本共産党が「暴力革命」路線を捨てていないコワイ党だといくら主張したところで、その「暴力革命」の意味を明確にしておかないと、全く意味がない。この批判は絶対に概念的、理論的には、日本共産党にコタえていないだろう(そのおかげで票が減るのはイヤだろうとしても)。
ロシアの十月革命(新暦11月)の<新政府設立>=「社会主義革命」と少なくとものちに言われた一日または数日間、「実力(=暴力)組織」は存在していたが、じつはほとんど「血」は流れていない、つまり旧体勢派(当時のケレンスキー首班の臨時政府側)に多数の死者が出たのでもない。大殺戮、大虐殺といったものは起きていない。
しかし、どうもこれは<暴力革命>だとされているようでもある。
しかし、上の日本の?事例は、現憲法下の「国会」が何とか機能しており、法的連続性を何とか認めようとしており、かつかりに抵抗する国民・旧大臣等の大殺戮等がなかったとすれば、ロシア革命よりはさらに穏便な<権力移行>なのではないか?
ともあれ、基本的な言葉・概念の使い方によって、「現実」はいかようにでも形容され、表現され得る、という面がある。
<真の国民の意思>が何かはむろん容易には具体的に判明しないが、<それを代表する>とする政党・同党議員がまさにそれを代表すると「思い込んで」、実力組織の用意も含めて、強力に上のような「事例」を生じさせることはあり得るのではないだろうか?? 彼らにとって、「国民主権」原理と、なんら矛盾していないのだ。もともと国会以外では、<多数者に支えられた>新政府なのだ。
なお、1917年10月、第ニ回全国ソヴィエト大会でのメンシェヴィキ等の「退席」はボルシェヴィキ(のちの共産党)に明らかに有利になっており、たぶん<全国労働者・兵士代表ソヴィエト大会>の名前でレーニンは<臨時政府は打倒された>等の声明を発した。
長くなったがともあれ、「暴力革命」という概念の意味も明確ではなく、その範囲内に一定の「現実」が該当するか、という問題が生じることも当然にあり得るだろう、ということだ。
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日本会議会長の田久保忠衛は昨年か一昨年の同会機関誌「日本の息吹」定例号かその特別号で、以下の旨を明言していた。
<あらためて綱領・設立宣言等を読んでみたが、なかなかいいことを書いているではないかと思った。>
会長が「あらためて」読んでこう感じた、というのも幼稚な感じがするが、これに関して言いたいのは以下だ。
どの組織・団体もその設立趣旨・規約等々に<悪い>こと、一般的に<指弾されるようなこと>は書かないだろう。人を殺す団体です、とか日本の破壊を目指す団体です、とかはまず(前者はたぶん絶対に)書かない。
設立宣言等に書いていることと、客観的にその組織・団体が行っている活動の効果や影響は(それがあるとして)同じであるとは全く限らない。「言葉・文章」と「現実」的機能が同じであるはずがない。
日本共産党もまた、その綱領で、「社会主義」・「共産主義」という言葉を気にかけなければ、「なかなかいいこと」らしきものを書いている(以下、現行の綱領の一部)。
・「…さらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる」。
・「二一世紀を、搾取も抑圧もない共同社会の建設に向かう人類史的な前進の世紀とすることをめざして、力をつくす」。
前者のうち、「人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」。なかなか、美しい社会ではないか。とくに「真に平等で自由な人間関係からなる…」は気にいった。「真に」と書いてあるから、では「ニセ」は?という疑問が生じるし、「原則として」とあるのも、タマにキズだけれども。