レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 1978年英語版 p.66-p.69、2004年合冊版p.841-p.843。
 英語訳書で文章構造の読解が不可能だと感じた二カ所でのみ、独語訳書を参照した。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義②。
 (9)Deborin の<序論>は、マルクス主義のプレハノフ学派の典型的な産物だ。
 諸概念の分析は何もなく、マルクス以前の哲学を悩ませた全ての問題を解決するものだと想定された、支持されない一連の主張だけを含んでいる。
 しかしながら、Deborinはプレハノフのように、Bacon、Hobbs、Spinoza、Locke、KantおよびとくにHegelの意義を弁証法的唯物論への途を準備するものと称えて、マルクス主義と過去の哲学全体との連環(link)を強調する。
 彼は、エンゲルスとプレハノフが定式化した線にもとづいて、観念論、経験主義、不可知論および現象主義を批判する。以下に示す部分的抜粋によって明らかになるように。//
 『さて、形而上学は、全ては存在する、しかし何も成らない、と主張し、現象主義は、全ては成る、しかし何も存在しない、つまり、無が現実に存在する、と主張する。
 弁証法が教えるのは、存在と非存在の統合は成りつつある、ということだ。
 具体的な唯物論的用語ではこれの意味は、全ての根拠は継続的な発展の状態にある物質だ、ということだ。
 かくして、変化は現実的かつ具体的であり、他方で、現実的かつ具体的なものは変化し得る。
 この過程の主体は絶対的に現実の存在であり、現象主義的な無に反対するものとしての「実体的な全て」(substantive All)だ。<中略>
 形而上学のいう性質なき不可変の実体と、実体の現実を排除することを想定する主観的かつ可変の状態との間の矛盾は、つぎの意味での弁証法的唯物論によって解消される。すなわち、実体、物質は動きと変化の永続する状態にある、性質または状態は客観的な意味をもつ、物質は原因と根拠づけ、質的な変化と状態の「主体」だ、という意味での弁証法的唯物論によって。』
 (<弁証法的唯物論哲学序論>第4版、1925年、p.226-7.)
 (10)この文章部分は、引用した本での、および他の彼の著作で見られる、Deborin のスタイルの典型だ。
 「弁証法的唯物論が教えるのは、…」、あれこれの哲学から「弁証法的唯物論は正しい部分を継受する」。
 主観的観念論者は物質を理解しないがゆえに間違っており、客観的な観念論者は物質が第一次的で精神は第二次的なものであることを認識しないがゆえに間違っている、等々。
 全ての場合に、通常は極端に曖昧に個々の結論が述べられる。そして、それを論拠で支える試みはない。
 彼らの対敵がそうである以上に、いかにして現象主義者が間違っているかを我々が知るのかは説明されない。 
 弁証法的唯物論はそのように我々に語るのであり、それが存在する全てなのだ。
 (11)弁証法論と「形而上学」の対立は、前者は我々に全ての物は連結し合っており、孤立している物は何もない、ということを教える、ということだ。
 全ては恒常的な変化と発展の状態にある。この発展は現実それ自体に内在する現実の矛盾の結果であり、質的な「跳躍」の形態をとる。
 弁証法的唯物論が述べるのは、我々は全てを知り得る、我々の知識を超える「物それ自体」は存在しない、人は世界の上で行動することで世界を知るに至る、我々の概念は「客観的」であって「事物の本質」を包摂する。
 我々の印象も「客観的」で、すなわちそれは客体を真似ることはないけれども、「反映」する(ここでDeborinは、レーニンが非難した誤りについてプレハノフを引き継ぐ)。
 印象と客体の合致は、客体にある同一性と相違が、主観的な「反射」での同一性と相違とに、適合していることにある。
 これは、Mach およびロシアでの彼の支持者たちであるBogdanov やValentino が拒否したものだ。
 彼らによれば、精神的な(psychic)現象だけが現実であり、「我々の外」の世界は存在していない。
 しかし、その場合に、自然の法則は存在せず、したがって何も予見することはできない。
 (12)彼らの著述は教義的で単純で、かつ実質に乏しいものだったが、Deborin とその支持者たちには、歴史的研究の必要を強調し、古典的文献に関する公正な知識で一世代の哲学者たちを訓練する、という長所があった。
 さらにまた、マルクス主義の「質的な」新しさを強調しつつも、伝統にあるその根源に、とくにヘーゲルの弁証法との連環に、注意を向けた。
 Deborin によれば、弁証法的唯物論はヘーゲルの弁証法とフォイエルバハ(Feuerbach)の唯物論を統合したもの(synthesis)だった。弁証法的唯物論には、これら二つの要素が変形され、かつ「高い次元へと止揚され」ている。
 マルクス主義は「統合的な世界観」で、知識に関する一般的方法論として弁証法的唯物論を、また、別の二つの特有の見地をも、すなわち自然の弁証法と歴史の弁証法、あるいは歴史的唯物論を、構成した。
 エンゲルスが述べたように、「弁証法」という用語は三重の意味で用いることができる。
 「客観的」弁証法は、諸法則または現実の「弁証法」的形態と同じものだ。
 「弁証法」はまた、これら諸法則を叙述したものを意味する。
 あるいは第三に、普遍世界〔=宇宙〕の観察方法、すなわち広義での「論理」を意味する。
 変化は、自然と人間史のいずれにも同等に適用される一般的な規則性をもつ。そして、この規則性の研究、すなわち哲学は、したがって、全ての科学を統合したものだ。
 科学者がこの方法論的観点から正しく出発し、自分たち自身の観察の意義を理解するためには、哲学の優先性を承認しなければならない。科学者はその哲学に対して、「一般化」のための素材を提供するのだ。
 かくして、マルクス主義は、哲学と正確な科学との間の恒常的な交流を求めた。
 自然科学や社会科学により提供される「素材」なくしては、哲学は空虚なものだ。しかし、諸科学は、それらを指導する哲学なくしては盲目だ。
 (13)この二重の要件がもつ目的は、十分に明確だった。
 哲学が科学の結果を利用する意味は、粗く言って、自然科学者たちは自然の客体が質的な変化を進行させている仕方を示し、そうして「弁証法の法則」を確認する、そのような例を探し求めなければならない、ということだ。
 哲学が科学を自らの自然へと覚醒させ、盲目にならないよう保たせるのは、科学の内容を監視する、およびその内容が弁証法的唯物論に適合するのを確保する、そういう資格が哲学にはある、ということを意味する。
 後者〔弁証法的唯物論〕は党の世界観と同義語であるがゆえに、Deborin とその支持者たちは、自然科学であれ社会科学であれ、全ての科学の内容に関する党の監督を正当化する理由を提供した。
 (14)Deborin は、自然科学での全ての危機は物理学者がマルクス主義を習得しておらず、弁証法の公式を適用する仕方を知らないことによる、と主張した。
 彼は、レーニンのように、随時的にであれ継続的にであれ、科学の発展はマルクス主義哲学の出現へと至るだろう、と信じた。
 (15)このような理由で、Deborin とその支持者たちは、機械主義者たちは科学の自律性と哲学的諸前提からの自立に固執することで致命的な誤りに陥っている、と糾弾した。
 このように理解される唯物論は、他の存在論的(ontological)教理以上に経験論的中立主義と共通性があり、いかなる外界の要素も全てなくしての自然の観察に他ならないとする、唯物論の性質に関するエンゲルスの論及を想起させる。
 Deborin は、自然科学は何らかの哲学的な根拠を承認しなければならない、ゆえに哲学から誘導的役割を剥奪し、またはそれを全く無視するいかなる試みも、実際には、ブルジョア的で観念論的な教理に屈服することを意味することになる、と主張した。
 全ての哲学上の観念はブルジョア的であれプロレタリア的であれ階級に基礎があり、機械主義者は哲学を攻撃することで、社会主義と労働者階級の敵を支援しているのだ。
 「質的な跳躍」の存在が否定され、全ての発展は継続的だと主張されるとしても、そうしたことは、結局は「跳躍」の例である革命の理念を実現することを意味しはしなかったのではないか?
 要するに、機械主義者たちは、哲学的に間違っているのみならず、政治的には修正主義者でもあったのだ。//
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 ③へとつづく。