レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
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 第2節・哲学者としてのブハーリン①。合冊版、p.833~p.836。
 (1)共産主義の際立つ特質の一つは、政治生活における哲学の重要性についての確信だ。
 まさに最初から、換言すればプレハノフの初期の著作から、ロシア・マルクス主義は、哲学、社会学および政治学に関する諸問題の全てを包摂しそれらに回答を与える統合的「システム」へと発展する傾向を示した。
 「真の」哲学はいったい何を構成要素とするのかについて個々人で異なってはいたけれども、彼らはみな、党には明瞭に定義された哲学上の考え方(outlook)が存在しなければならないし、存在した、この考え方は反論を許すことができない、ということに合意していた。
 ロシアには事実上、ドイツ・マルクス主義には多くあった、論理的に別個の二つの提示命題の中で意見表明をする哲学的「中立主義」に対応するものがなかった。
 第一は、社会現象に関する科学的理論としてのマルクス主義は、その他の科学からの哲学上の前提はもはや必要がない、とする。
 第二は、党は政治綱領と歴史的社会的教理に拘束されるが、構成員たる党員は自由にいかなる宗教も哲学も支持することができる、とする。
 レーニンはこれらいずれの考え方も激烈に攻撃した。そうすることで彼は、完全にロシア・マルクス主義の代表者だった。
 (2)その結果として、革命後の党執行部には、哲学教育にかかわり合う時間がなかった。
 しかしながら、まだ成典化された哲学は存在していなかった。
 マルクスとエンゲルスを別にすれば、プレハノフは主要な権威だと見なされた。
 レーニンの経験批判論に関する著作は、全ての者が参照すべく義務づけられるような標準的なテクストの地位を決して得ていなかった。
 (3)ブハーリンは、レーニンの後で、党の一般的哲学および社会的教理を体系的に提示することを試みた最初の党指導者だった。
 彼には、他のたいていの者たちよりも、この仕事をする適格性があった。国外逃亡中の年月の間に彼は、Weber、Pareto、Stammler その他の者の非マルクス主義的社会学の著作を研究していたので。  
1921年に彼は、<史的唯物論 : マルクス主義社会学の一般向け手引き>(英訳書、1926年)を出版した。
 レーニンの<経験批判論>は特定の一つの異説に対する攻撃だったが、それとは違って、ブハーリンのこの著作は、マルクス主義教理に関する一般的な説明を行うことを趣旨としていた。
 長年にわたって、この著作は党幹部たちを理論的に鍛えるための基本的な教科書として用いられた。これの重要性は、これが持つ長所にあるというよりも、その用いられたという事実にある。//
 (4)ブハーリンは、マルクス主義は社会現象に関する厳格に科学的な、かつ唯一科学的で包括的な理論だ、マルクス主義はその現象を他の科学がそれぞれに固有の対象を扱うように「客観的に」取り扱う、と考える。 
 それゆえに、マルクス主義は歴史的進化を的確に予見することができる。他の何もそうすることはできない。
 マルクス主義は全ての社会理論のように階級理論でもあるのはそのとおりだが、ブルジョアジーよりも広い精神的視野をもつプロレタリアートに託された理論だ。プロレタリアートの意図は社会を変革することであり、だから彼らは将来を見通すことができる。
 かくしてプロレタリアートのみが社会現象に関する「真の(true)科学」を生み出すことができるし、実際に生み出した。
 この科学は歴史的唯物論、またはマルクス主義社会学だ。
 (「社会学」(sociology)という語はマルクス主義者によって是認されておらず、レーニンは「社会学」それ自体は-たんにあれこれの理論にすぎないのではなく-ブルジョアが考案した語だとして拒絶した。
 しかし、ブハーリンは明らかに、科学的考究の特定の分野を表示するために既に用い得る語として、これを適応させようとした。)//
 (5)ブハーリンによれば、歴史的唯物論〔=史的唯物論〕は、社会科学と自然科学との間には探求方法についても対象に対する因果関係的接近についても何ら差違はない、という前提に立つ。
 全ての歴史的進歩は、不可変の因果法則に依っている。
 Stammler のような理論家による反対論はあるにもかかわらず、人間の目的というものはこれに違いをもたらさない。意思と目的はそれら自体が、他の全ての場合と同様に条件づけられている。
 自然および社会のいずれの分野の目的的(purposive)行動の理論も全て、非決定主義理論であり、Deity の仮定へとまっすぐに至ることになる。
 人間は、自由な意思をもたない。その行動の全ては因果的に決定されている。
 いかなる「客観的」意味においても、偶然(chance)というようなものは存在しない。
 我々が偶然と称しているものは、因果関係の二つの連鎖が交差したものだ。そのうちの一つだけが我々に知られている。
 「偶然」という範疇は、我々が無知であることをたんに表現しているにすぎない。//
 (6)必然性の法則は全ての社会現象に適用されるので、歴史の方向を予言することは可能だ。
 この予言は「まだ今のところ」正確ではないので、個々の事件の日時まで予告することはできない。しかし、それは、我々の知識がまだ不完全なものであることによる。//
 (7)社会学での唯物論と観念論の対立は、根本的な哲学上の論争の特殊な例だ。
 唯物論は、人は自然の一部だ、精神(mind)は物質の作用だ、思考(thought)は物理的な脳の活動だ、と主張する。
 これら全ては、観念論によって反論されている。観念論は宗教の一形態にすぎず、科学によって効果的に論駁されている。
 この狂気の唯我論(solipsism)または人または梨のような事物は存在しないとするプラトンの考えを真剣に受け取る者にとっては、それらの「観念(ideas)」にすぎないのか?
 (8)そして社会分野では、精神(spirit)と物質のうちの優先性に関する問題が生じている。
 科学の、すなわち歴史的唯物論の観点からは、物質的な現象つまりは生産活動が、観念、宗教、芸術、法その他の精神的現象を決定する。
 しかしながら、我々は、一般的法則が社会的論脈の中で働く態様を観察するよう留意しなければならず、また、単直に自然科学の法則を社会的用語へと入れ替えてはならない。//
 (9)弁証法的唯物論が教えるのは、宇宙には永遠のものは存在しないが、全ての事物は相互に関係し合っている、ということだ。
 私有財産、資本主義および国家は永続的なものだと何とかして主張しようとしているブルジョア歴史家は、このことを否定する。
 変化は、内部的な矛盾と闘争から現実に発生している。なぜなら、他の全ての分野でのように社会では、全ての平衡状態は不安定で、いずれは克服される。そして、新しい平衡状態は新しい原理にもとづかなければならない。
 この変化は、量的な変化が蓄積したことから帰結する質的な飛躍によって生じる。
 例えば、水は熱せられると一定の瞬間に沸点に到達し、蒸気となる。-これが、質的な変化だ。
 (ちなみに、我々は、エンゲルスからこの例を繰り返したスターリンまで「古典的マルクス主義著作者」のうち誰も、水が蒸気となるには摂氏100度に到達する必要はないということを観察しなかった、ということに気づいてよい。)
 社会革命は同種の変化であり、そしてこれが、質的な飛躍による変化という弁証法の法則をブルジョアジーが拒否する理由だ。//
 (10)変化と発展のとくに社会的な形態は、人間と自然の間のエネルギー交換、すなわち労働に依存している。
 社会生活は生産によって条件づけられ、社会の進化は労働生産性の増大を条件とする。
 生産関係が思考(thought)を決定する。しかし、人間は相互に依存し合いながら品物を生産するように、社会は諸個人のたんなる集まり(collection)ではなく、その全ての単位が相互に影響し合う、真の集合体(aggregate)だ。
 技術が、社会発展を決定する。
 他の全ての要因は、二次的なものだ。
 例えば、地勢(geography)はせいぜいのところ人々が進化する程度に作用することができ、進化それ自体を説明することはできない。
 人口統計上の変化は技術に依存しており、それ以外にではない。
 進化の種族諸理論について言うと、プレハノフはそれらを明確に論難していた。//
 (11)「究極的には」、人間の文化の全側面は技術の変化によって説明することができる。
 社会の組織は、生産力という条件に従って進化する。
 国家は支配階級の道具であり、その特権の維持に奉仕する。
 例えば、宗教はいかにして発生したのか?
 きわめて簡単だ。原始社会には部族の支配者がおり、人々はその発想を自分たち自身へと転化し、肉体を支配する精神(soul)という観念へと到達した。
 そして彼らは、その精神を自然全体へと転化し、宇宙に精神的な性質を与えた。
 こうした幻想は結局は、階級の分化を正当化するために用いられた。
 再び言うと、知られざる力としての神(God)という観念は、資本主義者が自分たちで支配できない運命に依存していることを「反映」(reflect)している。
 芸術は同様に、技術発展と社会条件の産物だ。
 ブハーリンは、こう説明する。未開人はピアノを弾くことができない。なぜなら、ピアノが存在していなければそれを演奏することも、そのために楽曲を作ることもできない。
 頽廃的な現代芸術-印象主義、未来主義、表現主義-は、ブルジョアジーの衰亡を表現している。//
 (12)これら全てにかかわらず、上部構造に全く重要性がないというのではない。
 ブルジョア国家は、結局のところ、資本主義的生産の一つの条件だ。
 上部構造は土台に影響を与える。しかし、いつの時点であっても、上部構造は「究極的には」、生産力によって条件づけられている。
 (13)倫理について言えば、これは階級社会の物神崇拝主義(fetishism)の産物で、階級社会とともに消失するだろう。
 プロレタリアートには、倫理は必要がない。倫理がそのために生み出す行動の規範は、性格において技術的なものだ。
 椅子を制作する大工が一定の技術上の規則に適合させるのと全く同じく、プロレタリアートは、社会構成員の相互依存に関する知識にもとづいて、共産主義を建設する。
 しかし、このことは、倫理と何の関係もない。//
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 ②へとつづく。