池田信夫の7/06ブログ掲載の資料によると、大学入学について「一般入試」、たぶん紙等での競争試験を受けて限定的な数の合格者が決定される方法、による入試方式での入学者数は、国立大学で83.1%、公立大学で71.6%、私立大学で47.9%らしい(2017年、旺文社調べとされる)。
 人数的に私立大学総計の方が多いとすると、「一般入試」以外で入学した学生の方が多いだろう。
 しかし、この「一般入試」以外は全て<裏口入学>というわけではないだろう。
 池田によると、「日本のように裏口入学が犯罪扱いされる国は珍しい」のだそうだ。
 そして、いかに「裏口入学」が日本でも多いかを示す資料として、上の資料を示している。
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 これは言葉・概念の問題だ。
 池田によると、「世界的にも一流大学は有力者や金持ちの子供が寄付金で入学するものというのが常識で、裏口入学は犯罪とは思われていない」。
 これはこれで興味深い、知見が豊かになる情報だ。
 しかし、「犯罪」=「悪」だとかりに前提にすると、日本で、一般入試以外=「裏口入学」=犯罪=悪だとは意識されていないと思われる。
 「裏口入学」という言葉・概念の使い方による。
 一般入試以外に、池田の資料によると、①公募制推薦入試、②指定校制推薦入試、③付属校・系列校推薦入試、④AO入試、がある。
 これらを「裏口入学」と観念するのは自由だが、私はそういう言葉遣いはしない。
 現行法制上許容されている入学方法だと思われ、情実・コネ等を一切排除できないのかもしれないが、これらによる入学は「悪」ではないだろう。
 そういう意味では、文部科学省前局長にかかる近日の<増収賄>とされる事例とは分けなければならない。
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 池田信夫にクレームをつけるのが、今回の元来の趣旨ではない。
 そのあとの文章のかなり多くは、共感する。一文ずつ改行。
 「日本の(特に文系の)大学は、教育機関としての機能をほとんど果たしていないが、その取り柄は、すべての受験生が同じ条件で競争する大学入試によるシグナリングの客観性だった。
 非裁量的なペーパーテストが、労働者の質を示す情報生産機能を果たしていた。
 その点数が『人格』をあらわしている必要はない。//
 企業からみると、終身雇用で採用する労働者に専門知識は必要なく、常識と忍耐力が大事だ。
 一流大学の卒業生には天才はいなくても常識があり、退屈な受験勉強を長期間やる忍耐力がある。
 人格やコミュニケーション能力は面接でみるので、大学入試は学力(学習能力)だけをみればいいのだ」。
 以上について、「一流大学の卒業生には天才はいなくても常識があり」を除いて、ほとんど全く同感する。
 これについて発展させたいが、とりあえず措いて先に進む。以下、抜粋的引用。
 池田によると、これを文科省が「改革」しようとした。
 しかし、①「入試が『人物本位』になり、面接のうまい学生が推薦で偏差値の高い私立大学に合格するようになった。彼らは人当たりがいいので営業には使えるが、学力がないので研究開発などのむずかしい仕事ができない」。
 一方、②「国公立大学は裏口が少ないので人事の評価が高いが」、③「私立文系の大部分はもはや学歴の意味をなさない」。
 この部分にはやや違和感がある。
 第一に、国立大学と私立大学の単純な二分があるように見える。たしかに、③では「大部分」とされているが。全私立大学と全国立大学について、このように簡単には言えないだろう。
 第二に、(ペーパー→)人物本位→人当たりよし→研究開発は困難、というのも、こう単純ではないだろう。
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 かねて感じてきたのは、国公私立を問わず(これらによってあるいは傾向的な差違はあるかもしれないが)、池田信夫もかねてから指摘している「日本の大学」、「特に文系の」大学や学部のひどさだ。
 これは立ち入らないが、「文系」大学・学部の教師=教授たちがいかに生産されるかにもかかわる。
 50%近くの進学率となって、いまさら旧制高校的<教養教育>に郷愁を感じるのは時代錯誤だ。
 「文系」といっても、大きくは人文系と社会系に分けることができるだろう。
 秋月によると<歴史学>はむしろ<社会系>だ。文学部に今あるかもしれない<心理学>や<地理学>は理系と人文系の両方がまじる。
 <教育学>だけは迷う。
 要するに、経済・経営・法学・歴史は<社会系>で、狭義の文学・哲学・外国語は<人文系>だ。
 むろん教育学のほかに、<法哲学>や<経済思想>等々、分類がむつかしいのはありうる。
 <社会系>に問題がないわけでは全くないが、私が感じてきたのは、相対的には、狭義の文学・哲学・外国語という<人文系>の方がひどい、ということだ。日本での英文学、独文学、仏文学、ドイツ哲学、フランス哲学、あるいは英語学、ドイツ語学、フランス語学、等々々。
 唐突だが、現在のマス・メディア、出版系の企業、つまりは情報産業の(技術または経営の観点からではなく)表舞台に立っているのは、狭義の文学・哲学・外国語という<人文系>学部の出身者ではないか。
 「文学・哲学・外国語」関係学部出身者こそが、戦後日本を奇妙なものにしてきて、きちんとした政策論・制度論をできにくくし、<精神論・観念論>的な論議を横溢させてきたように感じられる。
 もちろん、総体的かつ相対的な話として書いている。
 渡部昇一、加地伸行、小川榮太郞、江崎道朗、花田凱紀、長谷川三千子。全て、歴史以外の文学部出身だろう(外国語学部を含める)。桑原聡を含む月刊正論の代々編集代表者、月刊WiLLの編集者の出身学部を知りたいものだ。
 <歴史学>は社会系学部として位置づけられず、<文学部>の中に多くは吸収されているために、その他の狭義の文学系等の悪い影響を受けているようだ。典型例は、歴史系だとかりにしても、平川祐弘。元々、この人は狭義の文学・哲学系かもしれないが。
 上に限らない。例えば、以下の者たちは、東京大学文学部仏文学科出身だ。大江健三郎 1935年生、鹿島茂 1949年生、内田樹 1950年生。
 <左翼系>メディア・雑誌の編集者にも、圧倒的に文学部出身者が多いように推察される。
 彼らは、教育公務員試験を除いて国・地方の公務員試験をほとんどは(たぶん)目指そうとはせず(司法試験はもちろん)、企業のトップ「戦士」にもなりたくない(または、企業の方が経済学部や法学部系を優先する)。
 かくして残るは<マスコミ>(放送・新聞のほか文藝春秋・講談社等々を全て含む)だった、という人たちも多いのではないか。
 かくして、かなり単純化しているのは承知のうえだが、日本の<マス・メディア、出版系の企業、情報産業>はおかしくなっている。
 あまり書く機会または契機がないのだが、この点はより実証的に書いてみたい。
 ともあれ、<文系>といっても、多様なのだ。
 なお、法学・経済系は立派だ、などとは一言も言っていない。このことは、法学部出身官僚の劣悪化らしき様相を見ても感じられる。
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 より大きな問題は、日本の大学制度、ひいては教育制度そのものだ。
 戦後にいろいろと変わってきた。
 例えば、1990年にあった諸銀行のうち、とくに都市銀行と言われたもののうち、今もなお名をとどめているのはきっとないのだろう。
 唐突ではあるが、しかし、小・中・高校・大学という<6・3・3・4制>は、なぜ変わっていないのだろうか。
 むろん、工業専門学校、短大、大学院、中高一貫校など、これに含めることができないものはある。
 しかし、基本的な部分は変わっていない。種々の(大学入試制度も含む)「改革」がなされてきたが-ゆとり教育?、道徳の科目化?、小学校から英語?-根本的なところは変わっていないし、根本的なところから考え直そうという議論があることも、寡聞にして知らない。
 なぜか、それは戦後の<教育制度>または大学を含む<教育制度>によって「利益を受けた」と感じている者たちの方が多いからだと思われる。
 少なくとも、制度変更およびそのための議論に参画する者たちのほとんどは、戦後の<6・3・3・4制>と大学制度に「利益を受けた」と無意識にでも感じているからだと思われる。
 意識することもしないで、当然の<所与>と感じてしまっている可能性が高いかもしれない。
 国立大学と私立大学の違いも、池田信夫も言及している「偏差値」や「ランク」も、今ある大学制度、ひいては戦後の教育制度・学校制度を前提にした話だ。
 既存の基本制度を超えて構想することのできる大人物は、日本にはいないのだろうか。