シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. ed. 2017).
 2017年版の試訳の第二回。一文ごとに改行し、本来の改行箇所には//を付す。
 №1794の内容構成(目次)の紹介には欠けているが、序説以外の各章のはじめにも、見出し文字のない「まえがき」部分がある。「(まえがき)」と記しておく。
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 序説/第3節・革命の解釈。
 全ての革命は<自由、平等、友愛>(liberté, égalité, fraternité )その他の高尚なスローガンをその旗に刻んでいる。
 全ての革命家は、熱狂者で狂信者だ。全てが、不公正や腐敗のない、旧世界にある無感情は永遠に除去される新世界を創ろうという夢をもつユートピアンだ。
 全ての革命家は、内輪もめを許すことができず、妥協をすることもできず、大きくて遠い目標に魅せられており、暴力的で、懐疑的で、そして破壊的だ。
 革命家たちは、非現実的で統治に習熟していない。制度や手続は、思いつきで作られる。
 彼らは、民衆の意思を具現化するという幻想に酔っている。民衆の意思は、彼らの想定では一枚岩だ。
 彼らはマニ教徒(Manicheans)で、世界を二つの陣地に分ける。光と闇、革命とその敵。
 彼らは、伝統、在来の知識、聖像(icons)および迷信を嫌う。
 彼らは、社会は革命がそこに書き記そうとする<無色の白板(tabula rasa)>のはずだ、と信じている。//
 幻滅や失望で終わるのは、革命家の本性だ。
 熱狂は、衰える。狂熱は、強いられるものになる。
 狂気 (7)と高揚の時間は、過ぎ去る。
 民衆と革命との関係は、説明し難いものになる。民衆の意思は必ずしも一体のものではないし、よく見通せるものでもない。
 富と地位への誘惑が戻ってくる。人は隣人を自分のごとく愛しはしないし、そう欲してもいないと気づくとともに。
 全ての革命家は事物を破壊し、すぐにその損失を後悔する。
 彼らが創るものは全て、予期したものよりも小さくて、違うものだ。//
 しかしながら、属性的な共通性とは別に、全ての革命には固有の性格がある。
 ロシアの位置は周縁にあり、そこでの教養のある階層は、ヨーロッパと比べての後進性に覆われていた。
 革命家とは、「プロレタリア-ト」を「民衆」にしばしば置き換え、革命は道徳的に強いられるものではなくて歴史の必然だと主張するマルクス主義者だった。
 革命が起きる前のロシアに、革命的政党はあった。戦争の真只中に革命がやって来たとき、その諸政党は、周辺にいる自発的な革命的群衆の献身ではなくて、民衆革命の既成の一団(兵士、海兵、ペテログラードの大工場の労働者)の支援を求めて競い合った。//
 この著では、三つの主題が特別の重要性をもっている。
 第一は、近代化という主題だ。-後進性から脱却するための手段としての革命。
 第二は、階級という主題だ。-プロレタリア-トとその「前衛」であるボルシェヴィキ党の使命としての革命。
 第三は、革命的暴力とテロルという主題だ。-革命はいかにその敵を処理し、それはボルシェヴィキ党とソヴィエト国家にとって何を意味したのか。//
 「近代化」という用語は、後近代(ポストモダン)としばしば表現される時代には通過点だったかのごとく響き始めた。
 しかし、ボルシェヴィキが追求した工業と技術の近代性は今では見込ないほど古くさかったがゆえに、これは我々の主題とするのに適切だ。すなわち、その当時は、汚染を撒き散らす恐竜の一群のように、従前のソヴィエト同盟から東ヨーロッパまでの風景を切り刻む巨大な煙突群は、革命の夢を実現するものだった。
 マルクス主義者たちは革命よりもだいぶ前から、西側の工業化との恋に落ちていた。
 彼らは資本主義(第一義的には資本主義的工業化を意味した)の不可避性を強く主張したが、これは19世紀遅くの人民主義者(the Populists)との議論の対立の核心だった。
 ロシアでは、のちに第三世界でそうだったように、マルクス主義は革命のイデオロギーであるとともに経済発展のイデオロギーだった。//
 ロシアのマルクス主義者にとって、工業化と経済の近代化は理論上は、目的のための手段にすぎなかった。目標は、社会主義になることだった。
 しかし、ボルシェヴィキがこの手段に明白にかつ集中的に焦点を当てれば当てるほど、目標はますます曖昧になって遠ざかり、ますます非現実的になった。
 「社会主義の建設」という用語が1930年代に一般に用いられるに至ったとき、その意味を、まさに進行中だった新しい工場や工業都市の現実の建設と区別するのは困難だった。
 あの世代の共産主義者たちにとっては、大草原に煙を吐き出す新しい工場群は、革命が勝利しつつあることを最もよく誇示するものだった。
 Adam Ulam が述べたように、いかに苦痛を伴いいかに強制的であっても、スターリンが促進した工業化は、「マルクス主義の論理の完成物であって、『裏切られた革命』ではなく『達成された革命』」だった。(8)//
 第二の主題である階級は、それ自体として最重要の当事者だと受け止められたがゆえに、ロシア革命で重要だ。
 マルクス主義の分析的範疇は、ロシアの知識人層に広く受け容れられた。そして、ボルシェヴィキは、より広い社会主義諸党派の中の例外ではなくて代表的なものだった。階級闘争という観点から革命を解釈し、工業労働者に特別の役割を割り当てるならば。
 権力をもったボルシェヴィキは、プロレタリアと貧農は彼らの自然の同盟者だと想定した。
 ボルシェヴィキはまた、「ブルジョアジー」-以前の資本家、以前の貴族的土地所有者、役人たち、小規模小売店主、クラク(富んだ農民)および一定の文脈ではロシアの知識人層を広く含む-の一員たちは彼らの自然の敵対者だと完全に想定していた。
 ボルシェヴィキはこのような者たちに「階級敵(class enemies)」という用語を使った。初期の革命的テロルがまず第一に向かったのは、こうした者たちに対してだった。//
 この時期に関して最も激しく議論される階級問題の一つは、労働者階級を代表するというボルシェヴィキの主張は正当なものだったか否かだ。
 ペテログラードとモスクワの労働者階級が急進化して他のどの諸政党よりも明らかにボルシェヴィキを選好した1917年の夏と秋を一見するならば、これはおそらく、十分に単純な問題だ。
 労働者階級の支持を得てボルシェヴィキが権力を掌握したということは、その支持を永続的に維持し続けた、ということを意味しなかった。-あるいは実際には、権力掌握の前であれ後であれ、その党を工場労働者のたんなる吹き口(mouthpiece)と見なしたのだ。//
 ボルシェヴィキは労働者階級を裏切ったとの非難は最初は1921年のクロンシュタット反乱(the Kronstadt revolt)に関係して国外から行われたもので、生じざるをえない、本当であるように思える非難だった。
 しかし、いかなる裏切りなのか-いつの時点での、誰との、いかなる結果をもつ裏切りなのか?
 労働者階級との婚姻関係は内戦の終わりの時期には解体に近そうに見えたが、ボルシェヴィキは、ネップ期に継ぎ当てをしてそれを守った。
 第一次五カ年計画の間に、実際の賃金と都市の生活水準が落ちこんで、また体制が生産性のさらなる向上を強く要求したために、関係は再び悪化した。
 正式の離婚ではなくとも、労働者階級との事実上の離別は1930年代に生じた。//
 しかし、これで物語の全部が終わったのではない。
 ソヴィエト権力のもとでの労働者それ自体の状況は、一つの問題だ。
 労働者が自分をより良くする(労働者以外の何者かになる)ために利用できる機会は、別の問題だ。
 ボルシェヴィキは十月革命後の15年間、主としては労働者階級から党員を集めることによって、労働者の党だというその主張をきわめて巧く確証した。
 ボルシェヴィキはまた、労働者階級が上方へと移動する広い経路を生み出した。労働者を新たに党員にすることは、共産主義者たちをホワイトカラーの行政や経営の地位へと昇進させることと関連していたのだから。
 1920年代末の文化革命の間、体制は、多数の若い労働者や労働者の子どもたちをより高等な学校へと送り込むことによって、上昇移動への新しい経路を切り拓いた。
 困難度の高い「プロレタリアの昇進」という政策は1930年代初めに弱まったが、その影響は残った。
 スターリン体制にとって重要なのは労働者ではなく、<以前の>労働者だった。-経営および職業上のエリートの中にいる新しく昇進した「プロレタリア-トの中核」だった。
 厳密なマルクス主義の立場からすれば、このような労働者階級の上への流動は、おそらく大した関心の対象ではなかった。
 しかしながら、受益者からすると、彼らの新しいエリートとしての地位は、革命が労働者階級に約束したことを実現したことの紛れもない証拠だと思われがちだった。//
 この著で一貫している最後の主題は、革命的暴力とテロルという主題だ。
 民衆の暴力は、革命に内在的なものだ。
 革命家たちは、後の時期には留保を増やしつつも、革命の初期の段階でそれをきわめて好意的に考える傾向にある。
 テロルとは、一般民衆を脅かし恐怖に陥れる、革命集団または体制による組織的な暴力を意味する。これは、近代諸革命に特徴的なものでもあり、フランス革命がその典型を設定した。
 革命家の目からするとテロルの主要な目的は、革命の敵や変革への障害を破壊することだ。
 しかし、革命家たち自身の純粋性や革命的意識を維持するという、二次的な目的がしばしばある。(9)
 敵と反革命者は、全ての革命できわめて重要だ。
 敵は公然とはもちろん密かにも抵抗する。彼らは、策略や陰謀を企む。彼らはしばしば、革命家の仮面を身につけている。//
 マルクス主義者の理論に従って、ボルシェヴィキは階級という観点から階級の敵という観念を生み出した。
 貴族(noble)、資本家またはクラクであることは、<そのこと自体で(ipso facto)>、反革命同調者の証拠だった。
 たいていの革命家たちと同様に(地下の党組織と策略という戦前の経験があったことを考えるとおそらくたいてい以上に)、ボルシェヴィキは反革命の陰謀に神経質だった。
 しかし、彼らのマルクス主義はこれに、特殊な捻りを加えた。
 かりに革命には本来的に有害な階級があれば、一つの階級全体を敵の共謀者だと見なすことができた。
 その階級の個々の構成員は、「客観的に」反革命共謀者であり得た。主観的には(つまり彼らの心の裡では)共謀に関して何も知らず、自分たちは革命の支持者だと考えているとしてすら。//
 ロシア革命で、ボルシェヴィキは二種のテロルを用いた。すなわち、党の外部にいる敵に対するテロルと、党内部の敵に対するテロル。
 前者は革命の初期の時代に支配的だったが、1920年代に少なくなった。そして再び、集団化と文化革命の10年間の末に急に激しくなった。
 後者は最初は、内戦の終末期に党の分派闘争の間にあった可能性として散見された。だが、1927年までには消失した。その当時、左翼反対派に対する小規模のテロルが行われた。//
 そのとき以降、党内部の敵に対して大規模のテロルを行う誘惑があることが明瞭になった。
 これの一つの理由は、体制は党外部の「階級敵」に対して相当規模のテロルを用いているということだった。
 もう一つの理由は、党員たちに対する党の定期的な粛清(chistki, 字義どおりには洗浄(cleansing))が、痒い部分を引っ掻くのと似た効果を持ったことだ。
 1921年に全国的規模で最初に行われた粛清(purges)は、その忠誠性、能力、出身および社会的関係を判断する公開の場に全ての共産党員を個人的に呼び集めて、再審査するというものだった。そして、望ましくないと判断された者たちは党から除名されるか、党員候補へと引き下げられた。
 1929年に全国的な党の粛清があり、1933-34年にもう一回あった。そしてそのあと-党の粛清がほとんど偏執狂的な活動になった-、1935年と1936年にさらに二回の党員再審査が素早く続いて行われた。
 除名(expulsion)は拘禁または国外追放のような重い制裁を伴う蓋然性はあったけれども、まだ比較的に穏やかだった。この党粛清のたびに、重くなっていったけれども。//
 テロルと党の粛清(purging, 「p 」は小文字)は最終的に、結合して大規模になって、1937-38年の大粛清(the Great Purges)に至った。(10)
 これは、通常の意味での粛清ではない。党員に対する系統的な再審査は含まれていないからだ。
 しかし、これは第一段階では党員に、とくに高い地位の公職にある党員に対して向けられた。そして、拘禁と恐怖が非党員の知識人にすみやかに広がった。より少ない程度でだが、広く一般民衆にも。
 より正確には大テロル(the Great Terror)と称されることになる大粛清では、疑念はほとんど確信と同じであり、犯罪行為の証拠は必要でなかった。そして、反革命罪に対する罰は、死または労働強制収容所送りの宣告だった。
 多数の歴史研究者に、フランス革命のテロルとの類似性が思い起こされた。そして、大粛清の組織者にも同様に、明らかに類推がなされていた。大粛清の間に反革命者だと判断された者に適用される「民衆の敵」という用語は、ジャコバン派のテロリストから借りたものだったのだから。
 この、示唆的な歴史的借用の意義については、〔この著の〕最後の章で検討する。//
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 (7) この語は、Aristide R. Zolberg, '狂気のとき' <政治と社会>2:2 (1972 冬号)p.183-p.207 から借用した。
 (8) Adam B. Ulam, The Historical Role of Marxism. ウラムの <ソヴィエト全体主義の新しい顔>(Cambridge, MA(USA), 1963)所収 p.35。
 (9) このテーマにつき、Igal Halfin の<私の精神におけるテロル-裁判に関する共産主義者の自伝> (Cambridge, MA, 2003)を見よ。
 (10) 「大粛清」とは西側の用語で、ロシアのものではない。
 長年にわたってロシア語で事件に言及する公的な方法は受け入れられなかった。公式にはこれは発生していなかったからだ。
 私的な会話では、決まって遠回しに「1937年」と言及されていた。
 「粛清(p-)」と「大粛清」という名称の間の混乱は、ソヴィエトの婉曲語法に由来する。テロルが1939年の党第18回大会での半ばの拒絶によって終わったとき、表向きで拒否されたのは「大量の粛清」(massovye chistki)だった。実際には、厳密な意味での党の粛清は1936年以降は行われなかったけれども。
 婉曲語法はロシア語では短い間使われたが、それもやがて消えた。一方、英語では、それは永続的に注意を惹き続けた。
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 第4節・第四版に関するノート。
 以前の各版と同様に、この第四版は、ロシア帝国とソヴィエト同盟の一部だった非ロシアの領域でではなく、基本的にロシアで経験されたロシア革命の歴史だ。
 この限定は、今や非ロシア圏域とその民衆に関する活発で価値ある研究が発展しているので、それだけ一層、強調しておかなければならない。
 中心的な主題に関しては、この版では、最近の国際的な学界の成果はもちろん1991年以降に利用できるようになった新しい資料も取り込む。
 この著の議論の仕方や構成に大きな変更はないが、新しい情報と新しい学問上の解釈に対応して、一定の小さな変更がある。
 脚注を利用したのは、英語に翻訳されたロシアの研究書はもちろん、最近の重要な英米語の研究書にも注意を向けるためだ。ロシア語での書物や資料からの引用は、最小限にとどめた。
 選んだ参照文献一覧は、さらに読書するための簡単な案内になるだろう。
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 第一章・初期設定(The Setting)。
 (はじめに)
 20世紀の初め、ロシアはヨーロッパの大国の一つだった。
 しかし、イギリス、ドイツおよびフランスと比較すると後進的だと一般的に見られていた大国だった。
 これは経済的な観点でいうと、封建体制から抜け出してくるのが遅れており(農民層は1860年代にようやく地主または国家による法的な拘束から解放された)、工業化も遅れていた、ということを意味した。
 政治的な観点でいうと、1905年までは合法的な政党も選挙された中央の議会もなく、弱くはない権力をもつ専制体制が残存していた、ということを意味した。
 ロシアの都市は政治的組織や自己統治という伝統を持たず、貴族階層も同様に、君主に対して譲歩を強いるだけの力をもつ一体的な自己意識を発達させることができなかった。
 法的には、ロシアの臣民はまだ「身分(estate)」(都市、農民、聖職者および貴族)の一つだった。身分制度は職業人や都市労働者に関する条項を何ら定めていなかったし、聖職者だけは、自己完結的な階層の特徴に似たものをもっていたけれども。//
 1917年の革命以前の30年間、窮乏化はなく、国富は増大した。
 政府の工業化政策、外国からの投資、銀行や信用構造の近代化および国内の起業活動の緩やかな発展の結果として、ロシアが急速な経済成長を経験したのは、この時代だった。
 革命の時期にロシアの総人口の80パーセントをまだ構成していた農民層は、その経済的地位に関して目立った改善を経験していなかった。
 しかし、当時のいくつかの見解とは対照的に、農民層の経済条件が絶え間なく悪化していくということは、ほとんど確実に、なかった。//
 ロシアの最後の皇帝であるニコライ二世は悲しくも、専制体制は知らぬ間に迫り来る西側からのリベラルな影響と闘っていることに気づいた。
 政治的変化の方向-西側の立憲君主制のようなものに向かう-は明確であるように見えた。教養ある階層の多くの構成員たちは変化の遅さに耐えられず、頑固な障害物は専制体制の側の態度だったけれども。
 1905年の革命の後、ニコライは譲歩して全国的に選出される議会、ドゥーマ(the Duma)を設置し、同時に政党と労働組合を合法化した。
 しかし、古い専制体制の支配の恣意的な習慣と継続した秘密警察の活動は、こうした譲歩を骨抜きにした。//
 1917年の十月革命の後で、多くのロシア人亡命者(エミグレ)は革命前の時代は前進していた黄金の時代だったと、だがこの時代は(こう思われたのだが)第一次大戦または手に負えない暴徒、あるいはボルシェヴィキによって妨害されたのだと、振り返った。
 進展はあったが、それは社会の不安定さと政治的変革の蓋然性に大きく寄与した。すなわち、社会の変化が急速であればあるほど(その変化が進歩的か逆行的かのいずれであれ)、社会はますます安定性を失っていく趨勢にあった。
 もしも我々が革命前のロシアの偉大な文学作品を思い浮かべれば、最も生々しいイメージは、転位感、疎外感および自己の運命を支配できないこと、といったものだ。
 19世紀の作者の Nikolai Gogol にとって、ロシアは見知らぬ目的地へと暗闇の中を疾走している馬車だった。
 ニコライ二世とその閣僚たちを公的に批判したドゥーマの政治家の Aleksander Guchkoiv にとっては、ロシアは狂った運転手が運転して断崖の縁に沿って進んでいる車だった。その車の中で恐怖に怯える乗客は、車輪を抑える危険性について議論している。
 1917年に、危険は冒された。そして、前方向へのロシアの大胆な動きは、革命へと突入することになる。//
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 以上、序説の第3節と第4節、および第一章の「はじめに」が終わり。