L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
この著には、邦訳書がない。日本語版スターリン全集の全巻を所持していないが、レーニン時代との関係で1920年代のものはおおよそ所持しているので、今回は該当部分を探し出してみた。レーニン全集の場合と同じく、L・コワコフスキが使っている全集の巻数は、日本語版と同じだ(なお、この点、リチャード・パイプスは別のタイプの英語版レーニン全集を用いていると見られ、参照しにくい)。
試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.33~p.37。三巻合冊本、p.814~p.817。
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第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争③。
ブハーリンの考えでは、裕福な農民に闘いを挑んだり村落地域内での階級対立を搔き立てたりすることは、農業のみならず経済全体を破滅させることになる。<この一文、前回と重複>
貧農と農場従事者は、クラク(富農)を破壊することによってではなく、後者の資産を利用する国家によって助けられなければならない。国家はクラクに、最初に蓄積するのを認めるのだ。
消費者と市場取引との協働関係はやがて自然に消費者と生産者の協働関係の発展につながるだろう。
他方、トロツキストの政策は農業と工業をともに破滅させることを意味するだろう。
農民全体を国家から遠ざけ、プロレタリア-トの独裁を破壊するだろう。
さらに、プレオブラジェンスキーやピャタコフ(Pyatakov)が提案する、田園地帯を利用するために工業製品の価格を高い額にまで人為的に上げることは、農民層にだけではなく、労働者にも同様に打撃になるだろう。大量の商品を消費するのは都市の民衆だからだ。
政府機構の官僚主義的退廃に対する反対者たちの攻撃について言うと、たしかにこの危険は実際に存在する。しかし、農民層に向けられた彼らの政策が採用されれば、それは100倍も悪くなるだろう。
戦時共産主義の諸手段への回帰は、田園地帯で強制力を用いることを主要な目的として、特権的な官僚機構という一つの階級を生み出すことを意味するだろう。そして、この巨大な装置は、農業が組織化されないことによる損失の全てよりもはるかに多くの出費を要求するだろう。
官僚主義を治療するためには、民衆に生活の多様な分野での自発的な社会組織の設立を働きかけることが必要だ。
反対派が提案する治療方法はこれと真反対で、病気よりも悪いものにするだろう。//
こうした左翼反対派との論争で、ブハーリンは、国家または党の内部での民主主義の拡大を導くことになるいかなる一歩も、擁護しなかった。
逆に、分派の指導者であり党の一体性を分裂させる者だとして、トロツキー、ジノヴィエフおよびカーメネフを攻撃した。
ブハーリンは彼らに思い起こさせた。プロレタリア-ト独裁は単一の支配党の存在を含意している、また党は結束しなければならず、別々の党の形成に発展するに違いない「分派」の存在を許してはならない、というのはレーニン主義のイロハだ、と。
反対派の者たちは全て、つい最近まではこのことをよく知っていた。そして誰も、彼らが突然に民主主義者に変わることに欺されはしないだろう。//
工業化に関する議論で、両派の論者たちはいずれももちろん、相手の政策は「客観的に」資本主義の復活につながるだろうと主張した。
ブハーリンによれば、プレオブラジェンスキーは、小規模生産者を搾取して破壊することによって蓄積を達成し、社会主義国家が資本主義を真似ることを意図した。
その基盤である農民との同盟、とくに中間層農民とのそれが掘り崩されれば、プロレタリア-ト独裁は消失するだろう。あるいはまた、農民たちの全体が工業製品の価格と農業生産物の価格の比率(ratio)に同等に影響されるという理由だけでも、「内部的植民地化」は、クラクのみならず田園地帯全体に対する攻撃を意味する。
左翼はこれに反対して、スターリン=ブハーリンの政策は、私的所有者、とくにクラクの経済的な力を着実に増大させるだろう、社会主義的工業と労働者階級を弱めることはプロレタリア-ト独裁の終焉にのみつながる、と論駁した。
反対派はまた、工業、とくに重工業が社会主義の発展の鍵だ、と考えた。
ブハーリンはこれに対して、都市と地方の間の商品交換が主要な梃子だ、生産はそれ自体が目的ではなく消費に至る手段にすぎない、と主張した。また、反対派は、生産が需要の量とは無関係にそれ自体でつねに増え続ける市場を創出しつづける経済がありうるとの(資本主義制度との関係での)トゥガン-バラノフスキー(Tugan-Baranovsky)の理論をそのまま繰り返している、とも。
この当時のロシアでの問題なので、村落地域の蓄積は決して労働者の利益に反しておらず、合致していた。
この点について反対派は、搾取者と被搾取者の利益が合致することはありえない、その定義上クラクは搾取者であるので、クラクが富を蓄積するのを助けるのは階級敵を育てることだ、と答えた。//
このようにして、いわばボルシェヴィズムの二つの変種が姿を現してきた。もちろんいずれも、決まってレーニンが言ったことに頼った。
レーニンは、中間農民層と同盟しなければならないと語っており、クラクが示す危険についても述べていた。
大まかに言うと、ブハーリンは、クラクは同時に中産農民を破壊することなくして廃棄することはできない、とするものだ。一方の反対派は、中産農民はクラクの助力なくしては援助することができない、と考える。
反対の政治的意図をもつが、同じことを二つの異なる方法で表現したものだった。
反対派は、労働者は惨めな状態にあるのに裕福な「ネップマン」(Nepman)の階層が勃興していることに憤慨している、あるいはまた平等主義とプロレタリア-ト独裁のスローガンを真面目にかつ文字通りに理解している、多くの共産党員の中に支持を求めた。
(したがって、トロツキー=ジノヴィエフ派が以前の「労働者反対派」の残片たちと結局は共通する考え方を採ったのは自然なことだった。)
反対派は主として、権力、独裁および権力の指標としての重工業に関心をもった。
ブハーリンは一方で、福祉の有効な増大に関心をもち、その活動が労働者階級を含む全民衆にとってよい取引ならば、物質的な特権をもつネップマンを許容する用意があった。//
数百万の個々人の運命を決めることとなった論争の間ずっと、スターリンはブハーリンの立場を支持した。しかし彼自身は完全には関与しないで、イデオロギー上の宣明をブハーリンまたはルィコフ(Rykov)に任せた。
スターリンは、ブハーリンがうっかりと農民たちが「金持ちになる」よう呼びかけた過ちに気づいた-生硬な多くの共産党員には印象的な表現だった-。しかし、反対派による邪悪な犯罪行為とは比べものにならない、口滑らしだと見なした。
彼は議論に決して深く立ち入らなかった。しかし、1928年まで、ブハーリンとの間に経済政策に関する不一致はなかった、ということが分かる。
スターリンも、農民中間層との間の永続する同盟の必要性に関するレーニンの言葉を繰り返し、「革命的冒険主義」や「内部的植民地化」という衝撃的な考えについて「極左」の反対派を攻撃した。
彼は反対派との政治上および組織上の論争については拳を振り上げた。それは、党機構に占める有利な地位によるのではなく、最近に反対派の者たちが公然と叫んできている原理を彼ら全員がいかほど侵犯していたかを示すのは容易だったからだ。
何の困難もなく、トロツキーの民主主義への選好はきわめて最近になってからだと証明することができた。そして、トロツキーとジノヴィエフが協力してスターリンに反抗したときは、彼らがその日の前にお互いに傷つけ合っていた罵詈雑言を引用するだけでよかった。
党内民主主義について言えば、それを今は防御している者は誰も、ばつの悪さを感じないままで自分の過去に言及することができなかった。
スターリンが1925年12月の第14回党大会で、つぎのように語ったように。
『反対派の同志たちは、形式的民主主義は我々ボルシェヴィキにとって中身のない貝(empty shell)であって党の利益こそが全てだ、ということを知らないのか?』
(スターリン全集・英語版7巻(1954年)p.394〔=日本語版スターリン全集7巻(1954年)「ソ同盟共産党(ボ)第十四回大会/中央委員会の政治報告の結語」388-9頁<注1>〕。)
数ヶ月のちに、彼は党内民主主義について、より厳密な定義を行った。
『党内民主主義とは何を意味するのか? 党内民主主義とは、一般党員の活動を向上させ、党の一体性を強化し、そして党の自覚的なプロレタリア紀律を強化することを意味する。』
(スターリン全集・英語版8巻(1954年)p.153〔=日本語版スターリン全集8巻(1954年)「ソ同盟の経済情勢と党の政策について/1926.4.13」173頁<注2>〕。)
しかしながら、スターリンは「党の独裁」に関して語るほど無謀でなかった。レーニンも、おそらくはブハーリンも、そのことを躊躇しなかったけれども。
1926年12月7日のコミンテルン執行委員会の一部会や別の機会に、彼はこう述べた。トロツキーは、社会主義は一国では建設することができないと主張することによって、党が権力を放棄するのを招来している、と。//
トロツキストの歴史家たちは、1920年代の諸事件についてまだ考えており、トロツキーはどのようにしていれば様々の偽った動きを回避して何らかの政治的同盟または連携でもって権力を再び握っていたのだろうかと、思いめぐらしている。
しかしながら、1923年より後のどの時期にもそのような現実的可能性があったとは思えない。
トロツキーは実際、公的にレーニンの「遺言」を時期に適して利用して、スターリンの威信を落とすことができたかもしれなかった。
彼はそうしなかったのみならず、のちに外国で公表されたときに「遺言」の真正さを否定して、自らその可能性を摘み取った。
可能性としては、スターリンは1924年に打倒されていたかもしれなかった。しかし、そうであってもトロツキーの利益にはほとんどならなかっただろう。他の指導者から嫌われていたからだ。その指導者たちは、権力から追い出されたあとでようやくトロツキーと協力する心づもりがあることを示したのだった。//
--------
(秋月注1)ロシア語からの日本語版全集による訳(スターリン全集刊行会訳)はつぎのとおり-「反対派の諸君には、われわれボルシェヴィキにとっては、形式的な民主主義は無に等しく、党の現実的利益こそすべてだということが、わかっていないのだろうか」。上掲箇所。
(秋月注2)ロシア語からの日本語版全集による訳(スターリン全集刊行会訳)はつぎのとおり-「党内民主主義とはなにか。党内民主主義とは、党員大衆の積極性を高め、党の統一をかため、党内の意識的なプロレタリア的規律を強化することである」。上掲箇所。
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④へとつづく。
=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
この著には、邦訳書がない。日本語版スターリン全集の全巻を所持していないが、レーニン時代との関係で1920年代のものはおおよそ所持しているので、今回は該当部分を探し出してみた。レーニン全集の場合と同じく、L・コワコフスキが使っている全集の巻数は、日本語版と同じだ(なお、この点、リチャード・パイプスは別のタイプの英語版レーニン全集を用いていると見られ、参照しにくい)。
試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.33~p.37。三巻合冊本、p.814~p.817。
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第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争③。
ブハーリンの考えでは、裕福な農民に闘いを挑んだり村落地域内での階級対立を搔き立てたりすることは、農業のみならず経済全体を破滅させることになる。<この一文、前回と重複>
貧農と農場従事者は、クラク(富農)を破壊することによってではなく、後者の資産を利用する国家によって助けられなければならない。国家はクラクに、最初に蓄積するのを認めるのだ。
消費者と市場取引との協働関係はやがて自然に消費者と生産者の協働関係の発展につながるだろう。
他方、トロツキストの政策は農業と工業をともに破滅させることを意味するだろう。
農民全体を国家から遠ざけ、プロレタリア-トの独裁を破壊するだろう。
さらに、プレオブラジェンスキーやピャタコフ(Pyatakov)が提案する、田園地帯を利用するために工業製品の価格を高い額にまで人為的に上げることは、農民層にだけではなく、労働者にも同様に打撃になるだろう。大量の商品を消費するのは都市の民衆だからだ。
政府機構の官僚主義的退廃に対する反対者たちの攻撃について言うと、たしかにこの危険は実際に存在する。しかし、農民層に向けられた彼らの政策が採用されれば、それは100倍も悪くなるだろう。
戦時共産主義の諸手段への回帰は、田園地帯で強制力を用いることを主要な目的として、特権的な官僚機構という一つの階級を生み出すことを意味するだろう。そして、この巨大な装置は、農業が組織化されないことによる損失の全てよりもはるかに多くの出費を要求するだろう。
官僚主義を治療するためには、民衆に生活の多様な分野での自発的な社会組織の設立を働きかけることが必要だ。
反対派が提案する治療方法はこれと真反対で、病気よりも悪いものにするだろう。//
こうした左翼反対派との論争で、ブハーリンは、国家または党の内部での民主主義の拡大を導くことになるいかなる一歩も、擁護しなかった。
逆に、分派の指導者であり党の一体性を分裂させる者だとして、トロツキー、ジノヴィエフおよびカーメネフを攻撃した。
ブハーリンは彼らに思い起こさせた。プロレタリア-ト独裁は単一の支配党の存在を含意している、また党は結束しなければならず、別々の党の形成に発展するに違いない「分派」の存在を許してはならない、というのはレーニン主義のイロハだ、と。
反対派の者たちは全て、つい最近まではこのことをよく知っていた。そして誰も、彼らが突然に民主主義者に変わることに欺されはしないだろう。//
工業化に関する議論で、両派の論者たちはいずれももちろん、相手の政策は「客観的に」資本主義の復活につながるだろうと主張した。
ブハーリンによれば、プレオブラジェンスキーは、小規模生産者を搾取して破壊することによって蓄積を達成し、社会主義国家が資本主義を真似ることを意図した。
その基盤である農民との同盟、とくに中間層農民とのそれが掘り崩されれば、プロレタリア-ト独裁は消失するだろう。あるいはまた、農民たちの全体が工業製品の価格と農業生産物の価格の比率(ratio)に同等に影響されるという理由だけでも、「内部的植民地化」は、クラクのみならず田園地帯全体に対する攻撃を意味する。
左翼はこれに反対して、スターリン=ブハーリンの政策は、私的所有者、とくにクラクの経済的な力を着実に増大させるだろう、社会主義的工業と労働者階級を弱めることはプロレタリア-ト独裁の終焉にのみつながる、と論駁した。
反対派はまた、工業、とくに重工業が社会主義の発展の鍵だ、と考えた。
ブハーリンはこれに対して、都市と地方の間の商品交換が主要な梃子だ、生産はそれ自体が目的ではなく消費に至る手段にすぎない、と主張した。また、反対派は、生産が需要の量とは無関係にそれ自体でつねに増え続ける市場を創出しつづける経済がありうるとの(資本主義制度との関係での)トゥガン-バラノフスキー(Tugan-Baranovsky)の理論をそのまま繰り返している、とも。
この当時のロシアでの問題なので、村落地域の蓄積は決して労働者の利益に反しておらず、合致していた。
この点について反対派は、搾取者と被搾取者の利益が合致することはありえない、その定義上クラクは搾取者であるので、クラクが富を蓄積するのを助けるのは階級敵を育てることだ、と答えた。//
このようにして、いわばボルシェヴィズムの二つの変種が姿を現してきた。もちろんいずれも、決まってレーニンが言ったことに頼った。
レーニンは、中間農民層と同盟しなければならないと語っており、クラクが示す危険についても述べていた。
大まかに言うと、ブハーリンは、クラクは同時に中産農民を破壊することなくして廃棄することはできない、とするものだ。一方の反対派は、中産農民はクラクの助力なくしては援助することができない、と考える。
反対の政治的意図をもつが、同じことを二つの異なる方法で表現したものだった。
反対派は、労働者は惨めな状態にあるのに裕福な「ネップマン」(Nepman)の階層が勃興していることに憤慨している、あるいはまた平等主義とプロレタリア-ト独裁のスローガンを真面目にかつ文字通りに理解している、多くの共産党員の中に支持を求めた。
(したがって、トロツキー=ジノヴィエフ派が以前の「労働者反対派」の残片たちと結局は共通する考え方を採ったのは自然なことだった。)
反対派は主として、権力、独裁および権力の指標としての重工業に関心をもった。
ブハーリンは一方で、福祉の有効な増大に関心をもち、その活動が労働者階級を含む全民衆にとってよい取引ならば、物質的な特権をもつネップマンを許容する用意があった。//
数百万の個々人の運命を決めることとなった論争の間ずっと、スターリンはブハーリンの立場を支持した。しかし彼自身は完全には関与しないで、イデオロギー上の宣明をブハーリンまたはルィコフ(Rykov)に任せた。
スターリンは、ブハーリンがうっかりと農民たちが「金持ちになる」よう呼びかけた過ちに気づいた-生硬な多くの共産党員には印象的な表現だった-。しかし、反対派による邪悪な犯罪行為とは比べものにならない、口滑らしだと見なした。
彼は議論に決して深く立ち入らなかった。しかし、1928年まで、ブハーリンとの間に経済政策に関する不一致はなかった、ということが分かる。
スターリンも、農民中間層との間の永続する同盟の必要性に関するレーニンの言葉を繰り返し、「革命的冒険主義」や「内部的植民地化」という衝撃的な考えについて「極左」の反対派を攻撃した。
彼は反対派との政治上および組織上の論争については拳を振り上げた。それは、党機構に占める有利な地位によるのではなく、最近に反対派の者たちが公然と叫んできている原理を彼ら全員がいかほど侵犯していたかを示すのは容易だったからだ。
何の困難もなく、トロツキーの民主主義への選好はきわめて最近になってからだと証明することができた。そして、トロツキーとジノヴィエフが協力してスターリンに反抗したときは、彼らがその日の前にお互いに傷つけ合っていた罵詈雑言を引用するだけでよかった。
党内民主主義について言えば、それを今は防御している者は誰も、ばつの悪さを感じないままで自分の過去に言及することができなかった。
スターリンが1925年12月の第14回党大会で、つぎのように語ったように。
『反対派の同志たちは、形式的民主主義は我々ボルシェヴィキにとって中身のない貝(empty shell)であって党の利益こそが全てだ、ということを知らないのか?』
(スターリン全集・英語版7巻(1954年)p.394〔=日本語版スターリン全集7巻(1954年)「ソ同盟共産党(ボ)第十四回大会/中央委員会の政治報告の結語」388-9頁<注1>〕。)
数ヶ月のちに、彼は党内民主主義について、より厳密な定義を行った。
『党内民主主義とは何を意味するのか? 党内民主主義とは、一般党員の活動を向上させ、党の一体性を強化し、そして党の自覚的なプロレタリア紀律を強化することを意味する。』
(スターリン全集・英語版8巻(1954年)p.153〔=日本語版スターリン全集8巻(1954年)「ソ同盟の経済情勢と党の政策について/1926.4.13」173頁<注2>〕。)
しかしながら、スターリンは「党の独裁」に関して語るほど無謀でなかった。レーニンも、おそらくはブハーリンも、そのことを躊躇しなかったけれども。
1926年12月7日のコミンテルン執行委員会の一部会や別の機会に、彼はこう述べた。トロツキーは、社会主義は一国では建設することができないと主張することによって、党が権力を放棄するのを招来している、と。//
トロツキストの歴史家たちは、1920年代の諸事件についてまだ考えており、トロツキーはどのようにしていれば様々の偽った動きを回避して何らかの政治的同盟または連携でもって権力を再び握っていたのだろうかと、思いめぐらしている。
しかしながら、1923年より後のどの時期にもそのような現実的可能性があったとは思えない。
トロツキーは実際、公的にレーニンの「遺言」を時期に適して利用して、スターリンの威信を落とすことができたかもしれなかった。
彼はそうしなかったのみならず、のちに外国で公表されたときに「遺言」の真正さを否定して、自らその可能性を摘み取った。
可能性としては、スターリンは1924年に打倒されていたかもしれなかった。しかし、そうであってもトロツキーの利益にはほとんどならなかっただろう。他の指導者から嫌われていたからだ。その指導者たちは、権力から追い出されたあとでようやくトロツキーと協力する心づもりがあることを示したのだった。//
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(秋月注1)ロシア語からの日本語版全集による訳(スターリン全集刊行会訳)はつぎのとおり-「反対派の諸君には、われわれボルシェヴィキにとっては、形式的な民主主義は無に等しく、党の現実的利益こそすべてだということが、わかっていないのだろうか」。上掲箇所。
(秋月注2)ロシア語からの日本語版全集による訳(スターリン全集刊行会訳)はつぎのとおり-「党内民主主義とはなにか。党内民主主義とは、党員大衆の積極性を高め、党の統一をかため、党内の意識的なプロレタリア的規律を強化することである」。上掲箇所。
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④へとつづく。