Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
これの邦訳書はない。試訳をつづける。
第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。第2巻単行著の、p.467~。
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第1節・ボルシェヴィキと戦争①。
1908年~1911年は、ロシア社会民主主義運動の大きな衰退と解体の時期だった。
革命後の抑圧のあとで、ツァーリ体制が一時的に安定した。公民的自由はかなり増大し、弱体化した社会構造を官僚制と軍隊以外の別の基盤の上に造ろうとする試みがなされた。 首相のストリュイピン(Stolypin)は、中規模の所有地を持つ強い農民階層を生み出すことを意図する改革を導入した。
この政策手段は、社会主義者たち、とくにレーニン主義の信条をもつ者たちの警戒心を呼び覚ました。彼らは、かりに農業問題が資本主義によって改革の方法で解決されれば、土地に飢える民衆がもつ革命的な潜在力は取り返しがつかないほどに失われるだろうと気づいていた。
1908年4月29日の『踏みならされた道を!』と題する論考で(全集15巻p.40以下〔=日本語版全集15巻24頁以下。〕)、レーニンは、ストリュイピンの改革は成功して、農業に関して資本主義発展の『プロイセンの途』を確立するするかもしれないと認めた。
かりに成功してしまえば、『誠実なマルクス主義者は、率直にかつ公然と、全ての「農業問題」を屑鉄の上にすっかり放り投げるだろう。そして、大衆に向かって言うだろう。「労働者はロシアにユンカー(Junker)ではなくアメリカ資本主義を与えるべく、できる全てのことをした。労働者は、今やプロレタリアートの社会革命に参加するよう呼びかける。ストリュイピン方式での農業問題の解決の後では、農民大衆の生活の経済条件に大きな変化をもたらすことのできる、もう一つの革命はあり得ないのだから。」』//
ストリュイピンの政策は長くは続かず、期待された結果をもたらさなかった。その政策が実現していれば、のちの事態の推移は完全に変わっているかもしれなかった。
レーニンは1917年の後に、ボルシェヴィキが土地を没収して農民に分配するというエスエルの綱領を奪い取っていなかったら、革命は成功できなかっただろう、と書いた。
1911年にストリュイピンの暗殺があったにもかかわらず、ロシアは数年間は、明らかに立憲君主制の基礎原理をもつブルジョア国家の方向へと動いていた。
この発展は、社会民主主義者の間に新しい分裂を生じさせた。
レーニンは、この時期に、『otzovists』、すなわち非合法の革命行動を完全に信じているボルシェヴィキ党員たちに加えて、『清算人(liquidators、解党者)』、多少ともメンシェヴィキと同義の言葉だが、を絶え間なく、批判し続けた。
彼はマルトフ(Martov)、ポトレソフ(Potresov)、ダン(Dan)、そしてたいていのメンシェヴィキ指導者たちに対して、非合法の党組織を精算し、現存秩序の範囲内での『改良主義』闘争へと舵を切って労働者の『形態なき』合法的集団に置き換えようと望んでいると非難した。
メンシェヴィキは、実際に、党が非合法活動まですることを望んでおらず、平和的手段により多くの重要な意味を与えて、専政体制が打倒されたときに社会民主主義者が西欧の仲間たちと同様の位置にいることを期待した。
そうしている間、党内部の古い対立は存在しつづけた。
メンシェヴィキは、民族問題についてオーストリアの処理法を容認した(『領域を超えた自治』)。一方で、ボルシェヴィキは、継承権を含む自己決定を主張した。
メンシェヴィキはブント(Bund)やポーランドの社会主義者との連携を主張したが、レーニンはこれらはブルジョア・ナショナリズムの組織だと見なした。
しかしながら、プレハノフは、ほとんどのメンシェヴィキ指導者とは違って『清算人』政策に反対した。そのことで、レーニンはプレハノフに対する悪罵と論駁の運動をやめて、ロシア社会主義のこの老練者との間の一種の不安定な同盟へと戻った。//
様々の意見の相違により、党の新しいかつ最終的な分裂が生じた。
1912年1月、プラハでのボルシェヴィキ大会は党全体の大会だと宣言して自分たちの中央委員会を選出し、メンシェヴィキと決裂した。
レーニン、ジノヴィエフおよびカーメネフ以外に、この中央委員会の中には、オフラーナ〔帝国政治警察〕工作員のロマン・マリノフスキー(Roman Malinovsky)もいた。
レーニンはマリノフスキーについて、何度もメンシェヴィキから警告を受けていた。
レーニンはその警告を、『「黒の百」の新聞のごみ屑の山から集めることのできた最も汚い中傷』だと称した。
(『解党派とマリノフスキーの経歴』、1914年5月。全集20巻p.204〔=日本語版全集20巻319頁以下。〕)
マリノフスキーは、実際、レーニンの命令の忠実な執行者だった。オフラーナが、そうするように命じていたので。そして彼には、自分のイデオロギー上のまたは政治的な野望がなかった。
スターリンは、プラハ大会のすぐ後で、レーニンの側近機関である中央委員会へと推挙された。かくて彼は、ロシアの社会民主主義政治の舞台にデビューした。//
レーニンは、戦争が勃発する前の最後の二年間、クラカウ(Cracow)およびその近くの保養地のポロニンで過ごした。後者からロシアの組織との接触を維持するのは、より容易だった。
ボルシェヴィキは、合法的な活動の機会を逃さなかった。
1912年からサンクト・ペテルブルクで、<プラウダ>を発行した。この新聞は二月革命の後で再刊され、それ以来に党の日刊紙になった。
ドゥーマ〔帝国議会下院〕には数人のボルシェヴィキ党員がいて、レーニンによって禁じられるまでは、メンシェヴィキと協同して活動した。//
戦争が勃発したとき、レーニンはポロニンにいた。
オーストリア警察に逮捕されたが、ポーランド社会党とウィーン(Vienna)の社会民主党が介入したことによって、数日後に釈放された。
スイスに戻って、1917年4月まで滞在し、インターナショナル〔社会主義インター〕を挫折させた『日和見主義的裏切り者』を非難したり、新しい状勢のもとでの革命的社会民主主義者のための指令文書を作成したりしていた。
レーニンは、革命的敗北主義を宣言した、ヨーロッパの最初かつ唯一の社会民主主義の指導者だった。
各国のプロレタリアートは、帝国主義戦争を内乱に転化すべく、自分たち政府の軍事的敗北を生じさせるよう努めるべきだ。
ほとんどの指導者が帝国主義の奉仕者へと移行してしまったインターナショナルの廃墟から、プロレタリアートの革命的な闘争を指揮する共産主義インターナショナルが、創立されなければならない。//
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②へとつづく。
これの邦訳書はない。試訳をつづける。
第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。第2巻単行著の、p.467~。
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第1節・ボルシェヴィキと戦争①。
1908年~1911年は、ロシア社会民主主義運動の大きな衰退と解体の時期だった。
革命後の抑圧のあとで、ツァーリ体制が一時的に安定した。公民的自由はかなり増大し、弱体化した社会構造を官僚制と軍隊以外の別の基盤の上に造ろうとする試みがなされた。 首相のストリュイピン(Stolypin)は、中規模の所有地を持つ強い農民階層を生み出すことを意図する改革を導入した。
この政策手段は、社会主義者たち、とくにレーニン主義の信条をもつ者たちの警戒心を呼び覚ました。彼らは、かりに農業問題が資本主義によって改革の方法で解決されれば、土地に飢える民衆がもつ革命的な潜在力は取り返しがつかないほどに失われるだろうと気づいていた。
1908年4月29日の『踏みならされた道を!』と題する論考で(全集15巻p.40以下〔=日本語版全集15巻24頁以下。〕)、レーニンは、ストリュイピンの改革は成功して、農業に関して資本主義発展の『プロイセンの途』を確立するするかもしれないと認めた。
かりに成功してしまえば、『誠実なマルクス主義者は、率直にかつ公然と、全ての「農業問題」を屑鉄の上にすっかり放り投げるだろう。そして、大衆に向かって言うだろう。「労働者はロシアにユンカー(Junker)ではなくアメリカ資本主義を与えるべく、できる全てのことをした。労働者は、今やプロレタリアートの社会革命に参加するよう呼びかける。ストリュイピン方式での農業問題の解決の後では、農民大衆の生活の経済条件に大きな変化をもたらすことのできる、もう一つの革命はあり得ないのだから。」』//
ストリュイピンの政策は長くは続かず、期待された結果をもたらさなかった。その政策が実現していれば、のちの事態の推移は完全に変わっているかもしれなかった。
レーニンは1917年の後に、ボルシェヴィキが土地を没収して農民に分配するというエスエルの綱領を奪い取っていなかったら、革命は成功できなかっただろう、と書いた。
1911年にストリュイピンの暗殺があったにもかかわらず、ロシアは数年間は、明らかに立憲君主制の基礎原理をもつブルジョア国家の方向へと動いていた。
この発展は、社会民主主義者の間に新しい分裂を生じさせた。
レーニンは、この時期に、『otzovists』、すなわち非合法の革命行動を完全に信じているボルシェヴィキ党員たちに加えて、『清算人(liquidators、解党者)』、多少ともメンシェヴィキと同義の言葉だが、を絶え間なく、批判し続けた。
彼はマルトフ(Martov)、ポトレソフ(Potresov)、ダン(Dan)、そしてたいていのメンシェヴィキ指導者たちに対して、非合法の党組織を精算し、現存秩序の範囲内での『改良主義』闘争へと舵を切って労働者の『形態なき』合法的集団に置き換えようと望んでいると非難した。
メンシェヴィキは、実際に、党が非合法活動まですることを望んでおらず、平和的手段により多くの重要な意味を与えて、専政体制が打倒されたときに社会民主主義者が西欧の仲間たちと同様の位置にいることを期待した。
そうしている間、党内部の古い対立は存在しつづけた。
メンシェヴィキは、民族問題についてオーストリアの処理法を容認した(『領域を超えた自治』)。一方で、ボルシェヴィキは、継承権を含む自己決定を主張した。
メンシェヴィキはブント(Bund)やポーランドの社会主義者との連携を主張したが、レーニンはこれらはブルジョア・ナショナリズムの組織だと見なした。
しかしながら、プレハノフは、ほとんどのメンシェヴィキ指導者とは違って『清算人』政策に反対した。そのことで、レーニンはプレハノフに対する悪罵と論駁の運動をやめて、ロシア社会主義のこの老練者との間の一種の不安定な同盟へと戻った。//
様々の意見の相違により、党の新しいかつ最終的な分裂が生じた。
1912年1月、プラハでのボルシェヴィキ大会は党全体の大会だと宣言して自分たちの中央委員会を選出し、メンシェヴィキと決裂した。
レーニン、ジノヴィエフおよびカーメネフ以外に、この中央委員会の中には、オフラーナ〔帝国政治警察〕工作員のロマン・マリノフスキー(Roman Malinovsky)もいた。
レーニンはマリノフスキーについて、何度もメンシェヴィキから警告を受けていた。
レーニンはその警告を、『「黒の百」の新聞のごみ屑の山から集めることのできた最も汚い中傷』だと称した。
(『解党派とマリノフスキーの経歴』、1914年5月。全集20巻p.204〔=日本語版全集20巻319頁以下。〕)
マリノフスキーは、実際、レーニンの命令の忠実な執行者だった。オフラーナが、そうするように命じていたので。そして彼には、自分のイデオロギー上のまたは政治的な野望がなかった。
スターリンは、プラハ大会のすぐ後で、レーニンの側近機関である中央委員会へと推挙された。かくて彼は、ロシアの社会民主主義政治の舞台にデビューした。//
レーニンは、戦争が勃発する前の最後の二年間、クラカウ(Cracow)およびその近くの保養地のポロニンで過ごした。後者からロシアの組織との接触を維持するのは、より容易だった。
ボルシェヴィキは、合法的な活動の機会を逃さなかった。
1912年からサンクト・ペテルブルクで、<プラウダ>を発行した。この新聞は二月革命の後で再刊され、それ以来に党の日刊紙になった。
ドゥーマ〔帝国議会下院〕には数人のボルシェヴィキ党員がいて、レーニンによって禁じられるまでは、メンシェヴィキと協同して活動した。//
戦争が勃発したとき、レーニンはポロニンにいた。
オーストリア警察に逮捕されたが、ポーランド社会党とウィーン(Vienna)の社会民主党が介入したことによって、数日後に釈放された。
スイスに戻って、1917年4月まで滞在し、インターナショナル〔社会主義インター〕を挫折させた『日和見主義的裏切り者』を非難したり、新しい状勢のもとでの革命的社会民主主義者のための指令文書を作成したりしていた。
レーニンは、革命的敗北主義を宣言した、ヨーロッパの最初かつ唯一の社会民主主義の指導者だった。
各国のプロレタリアートは、帝国主義戦争を内乱に転化すべく、自分たち政府の軍事的敗北を生じさせるよう努めるべきだ。
ほとんどの指導者が帝国主義の奉仕者へと移行してしまったインターナショナルの廃墟から、プロレタリアートの革命的な闘争を指揮する共産主義インターナショナルが、創立されなければならない。//
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②へとつづく。