L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
前回のつづき。
今回試訳掲載分の末尾の一部/第2巻単行書p.457.-「哲学としては、レーニンの著は、エンゲルスからの引用によって辛うじて成り立つ俗悪な『常識的』論拠にもとづく、粗雑なかつ素人臭いものだ」。
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第7節・レーニンの哲学への逍遙⑤。
反射物理論の根幹部分は、相対主義を拒否し、真実とは実在と合致することだという伝統的な考えを受容することだ。
レーニンが言うには、真実は、感覚、観念および判断で叙述することができる。
認識活動の全ての所産について、本当か偽りか、すなわち実在の正しい『反射物』か間違ったそれかを、そして、我々の知識とは無関係に世界を『そのもの』として提示しているかそれとも世界の歪曲した映像を与えているかを、語ることができる。
しかし、真実の客観的性は、エンゲルスが示したように、その相対性(relativity)と矛盾しない。
真実の相対性とは、例えば、実用主義者たち(pragmatists)が主張する、同じ判断は、誰が、いかなる状況のもとで行なっているのか、そしてそのときにそれに同意していかなる利益が生じるか、によって真実であったり間違ったものであったりする、ということを意味するのではない。
エンゲルスが指摘したように、科学は、その範囲内では法則が有効で、従って全てが修正されることのある限界を、絶対的な確実性をもって我々に教示することはできない。
しかしながら、このことは、真実を虚偽または逆も同じ(vice versa)に変えるのではなく、一般的に有効だと考えられることは一定の条件においてのみ当てはまるということを、たんに意味させる。
いかなる真実も、究極的には確証されない。この意味において、全ては相対的だ。
全ての知識もまた、我々は普遍世界に関する全てを知ることができない、そして我々の知識は膨張し続けるにもかかわらず不完全なままだ、という意味において、相対的だ。
しかし、このような留保は、真実は実在に合致するものだという考えに影響を与えることはない。
エンゲルスもまた言ったように、真実に関する最も有効な規準は、つまりある判断が正しい(true)か否かを見つけ出す最良の方法は、それを実践で試験してみることだ。
我々が自然の諸関係に関してした発見を実践の操作へと適用することができるならば、我々の行動の成功は、判断が正しい(right)ものだったことを確認するだろう、一方で失敗は、その反対のことを証明するだろう。
実践という規準は、自然科学と社会科学のいずれにも同じく適用することができる。後者では、我々の実在に関する分析は、それにもとづく政治的行動が効果的(effective)なものであれば、確証される。
この有効性(effecfivity)は、実用主義の意味での『有用性(utility)』とは異なる。我々の知識は、真実であるがゆえに有用である可能性をもつのであり、有用であるがゆえに真実なのではない。
とくに、マルクス主義理論は、実践によって顕著に確証されてきた。それにもとづく労働者運動の成功は、その有効性(validity)を最もよく証明するものだ。//
我々が真実の客観性をひとたび認識したとすれば、『思考の経済』という経験批判論の原理は、観念論者の詐術であることが分かる。実在との合致を、努力の経済にある不明瞭な規準に置き換えることを意図しているのだ。//
また、経験批判論がカント哲学に反対しているのは、『右翼から』、すなわちカントよりも反動的な位置から狙って攻撃していることも、明確だ。
彼らは、現象と本体(noumenon)の区別を攻撃する。しかし、そうするのは、『事物それ自体』は余計なものだ、つまりは意識(mind)から独立した実在は存在しない、ということを示すためだ。
しかしながら、唯物論者は、それと反対の観点からカントを批判する。現象を超える世界があるということを是認するのではなく、それに関して我々は何も知ることができないと考えることによってだ。
経験批判論者たちは、原理上は知ることができない実在はないとして、現象と事物それ自体には差違はない、と主張する。彼らはカントの不可知論を批判するが、一方では、世界の実在に関するカントの考えのうちの『唯物論的要素』を承認している。
唯物論の観点からすれば、実在は知られているものとまだ知られていないものの二つに分けることができる。知られ得る現象と知られ得ない『事物それ自体』の二つにではない。//
空間、時間および因果関係といった範疇に関して言うと、レーニンは、エンゲルスの解釈に従う。
弁証法的唯物論は、因果関係を機能的な依存性だとは見なさない。そうではなく、事象間の諸関係には真の必然性(true necessity)がある。
実践は、因果の関係性に関する現実の(real)必然性を確定する最良のものだ。事象の規則的連続性を観察し、それによって望ましい結論を得るときはいつでも、我々は、原因・結果の関係は我々の想念(imagination)の作用ではなくて物質世界の現実の性質なのだ、と論証する。
このような連結関係は、しかしながら、弁証法的に理解されなければならない。事象のいくつかの類型があって単一の事象だけが存在するのではない場合は、一つの根本要素は他者に対する優位を維持し続けるが(これ以上の詳細はない)、つねに相互の反作用がある。
時間と空間はいずれも、作動している知覚の力の産物ではない。感覚の<先験的な>形態でもないし、物質から離れた反対物でもない。それらは、物理的存在の客観的な性質だ。
かくして、時間の継続と空間の整序との関係は、世界の現実的な属性(real property)であって、独立した形而上の一体たる地位をもたない。//
レーニンは、自分が解釈する弁証法的唯物論は実践的意味での有効な武器であるだけではなく、自然科学と社会科学の現在の状態と合致する唯一の哲学でもある、と考える。
科学が危機にある、またはそのように見えるのは、物理学者たち自身がこのことを理解していないからだ。
『現代物理学は、産み出しつつある。弁証法的唯物論を、産もうとしている。』
(ⅴ. 8, 同上、p.313〔=日本語版全集14巻378頁〕。)
科学者たちは、弁証法的唯物論こそが、マルクスとエンゲルスを知らなかったために陥った困難から救われる唯一の途だということを、認識しなければならない。
科学者の中には反対する者がいるとしても、弁証法的唯物論はすぐに勝利するだろう。彼らの態度の理由は、個別の分野では大きな業績を達成したとはいえ、自分たちのほとんどがブルジョアジーの従僕だからだ。//
レーニンのこの著書は、それ自体の価値によってではなく、ロシア哲学の発展に与えた影響力のゆえに、興味深い。
哲学としては、レーニンの著は、エンゲルスからの引用によって(この著全体でマルクスの文章は二つしか引用されていない)辛うじて成り立つ俗悪な(vulgar)『常識的』論拠にもとづく、粗雑なかつ素人臭い(amateurish)ものだ。そして、レーニンの反対者に対して、抑制なく悪罵を投げつけるもの(unbridled abuse)だ。
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(+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変えた。
段落の途中だが、ここで区切る。⑥へとつづく。
第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
前回のつづき。
今回試訳掲載分の末尾の一部/第2巻単行書p.457.-「哲学としては、レーニンの著は、エンゲルスからの引用によって辛うじて成り立つ俗悪な『常識的』論拠にもとづく、粗雑なかつ素人臭いものだ」。
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第7節・レーニンの哲学への逍遙⑤。
反射物理論の根幹部分は、相対主義を拒否し、真実とは実在と合致することだという伝統的な考えを受容することだ。
レーニンが言うには、真実は、感覚、観念および判断で叙述することができる。
認識活動の全ての所産について、本当か偽りか、すなわち実在の正しい『反射物』か間違ったそれかを、そして、我々の知識とは無関係に世界を『そのもの』として提示しているかそれとも世界の歪曲した映像を与えているかを、語ることができる。
しかし、真実の客観的性は、エンゲルスが示したように、その相対性(relativity)と矛盾しない。
真実の相対性とは、例えば、実用主義者たち(pragmatists)が主張する、同じ判断は、誰が、いかなる状況のもとで行なっているのか、そしてそのときにそれに同意していかなる利益が生じるか、によって真実であったり間違ったものであったりする、ということを意味するのではない。
エンゲルスが指摘したように、科学は、その範囲内では法則が有効で、従って全てが修正されることのある限界を、絶対的な確実性をもって我々に教示することはできない。
しかしながら、このことは、真実を虚偽または逆も同じ(vice versa)に変えるのではなく、一般的に有効だと考えられることは一定の条件においてのみ当てはまるということを、たんに意味させる。
いかなる真実も、究極的には確証されない。この意味において、全ては相対的だ。
全ての知識もまた、我々は普遍世界に関する全てを知ることができない、そして我々の知識は膨張し続けるにもかかわらず不完全なままだ、という意味において、相対的だ。
しかし、このような留保は、真実は実在に合致するものだという考えに影響を与えることはない。
エンゲルスもまた言ったように、真実に関する最も有効な規準は、つまりある判断が正しい(true)か否かを見つけ出す最良の方法は、それを実践で試験してみることだ。
我々が自然の諸関係に関してした発見を実践の操作へと適用することができるならば、我々の行動の成功は、判断が正しい(right)ものだったことを確認するだろう、一方で失敗は、その反対のことを証明するだろう。
実践という規準は、自然科学と社会科学のいずれにも同じく適用することができる。後者では、我々の実在に関する分析は、それにもとづく政治的行動が効果的(effective)なものであれば、確証される。
この有効性(effecfivity)は、実用主義の意味での『有用性(utility)』とは異なる。我々の知識は、真実であるがゆえに有用である可能性をもつのであり、有用であるがゆえに真実なのではない。
とくに、マルクス主義理論は、実践によって顕著に確証されてきた。それにもとづく労働者運動の成功は、その有効性(validity)を最もよく証明するものだ。//
我々が真実の客観性をひとたび認識したとすれば、『思考の経済』という経験批判論の原理は、観念論者の詐術であることが分かる。実在との合致を、努力の経済にある不明瞭な規準に置き換えることを意図しているのだ。//
また、経験批判論がカント哲学に反対しているのは、『右翼から』、すなわちカントよりも反動的な位置から狙って攻撃していることも、明確だ。
彼らは、現象と本体(noumenon)の区別を攻撃する。しかし、そうするのは、『事物それ自体』は余計なものだ、つまりは意識(mind)から独立した実在は存在しない、ということを示すためだ。
しかしながら、唯物論者は、それと反対の観点からカントを批判する。現象を超える世界があるということを是認するのではなく、それに関して我々は何も知ることができないと考えることによってだ。
経験批判論者たちは、原理上は知ることができない実在はないとして、現象と事物それ自体には差違はない、と主張する。彼らはカントの不可知論を批判するが、一方では、世界の実在に関するカントの考えのうちの『唯物論的要素』を承認している。
唯物論の観点からすれば、実在は知られているものとまだ知られていないものの二つに分けることができる。知られ得る現象と知られ得ない『事物それ自体』の二つにではない。//
空間、時間および因果関係といった範疇に関して言うと、レーニンは、エンゲルスの解釈に従う。
弁証法的唯物論は、因果関係を機能的な依存性だとは見なさない。そうではなく、事象間の諸関係には真の必然性(true necessity)がある。
実践は、因果の関係性に関する現実の(real)必然性を確定する最良のものだ。事象の規則的連続性を観察し、それによって望ましい結論を得るときはいつでも、我々は、原因・結果の関係は我々の想念(imagination)の作用ではなくて物質世界の現実の性質なのだ、と論証する。
このような連結関係は、しかしながら、弁証法的に理解されなければならない。事象のいくつかの類型があって単一の事象だけが存在するのではない場合は、一つの根本要素は他者に対する優位を維持し続けるが(これ以上の詳細はない)、つねに相互の反作用がある。
時間と空間はいずれも、作動している知覚の力の産物ではない。感覚の<先験的な>形態でもないし、物質から離れた反対物でもない。それらは、物理的存在の客観的な性質だ。
かくして、時間の継続と空間の整序との関係は、世界の現実的な属性(real property)であって、独立した形而上の一体たる地位をもたない。//
レーニンは、自分が解釈する弁証法的唯物論は実践的意味での有効な武器であるだけではなく、自然科学と社会科学の現在の状態と合致する唯一の哲学でもある、と考える。
科学が危機にある、またはそのように見えるのは、物理学者たち自身がこのことを理解していないからだ。
『現代物理学は、産み出しつつある。弁証法的唯物論を、産もうとしている。』
(ⅴ. 8, 同上、p.313〔=日本語版全集14巻378頁〕。)
科学者たちは、弁証法的唯物論こそが、マルクスとエンゲルスを知らなかったために陥った困難から救われる唯一の途だということを、認識しなければならない。
科学者の中には反対する者がいるとしても、弁証法的唯物論はすぐに勝利するだろう。彼らの態度の理由は、個別の分野では大きな業績を達成したとはいえ、自分たちのほとんどがブルジョアジーの従僕だからだ。//
レーニンのこの著書は、それ自体の価値によってではなく、ロシア哲学の発展に与えた影響力のゆえに、興味深い。
哲学としては、レーニンの著は、エンゲルスからの引用によって(この著全体でマルクスの文章は二つしか引用されていない)辛うじて成り立つ俗悪な(vulgar)『常識的』論拠にもとづく、粗雑なかつ素人臭い(amateurish)ものだ。そして、レーニンの反対者に対して、抑制なく悪罵を投げつけるもの(unbridled abuse)だ。
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(+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変えた。
段落の途中だが、ここで区切る。⑥へとつづく。