Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
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 第1節・1905年革命のときの分派闘争③。
 つづく数年間は、これらの問題、とくに農業問題綱領およびカデットとの関係についての問題、に関する論争でいっぱいだった。
 メンシェヴィキ派は、ますます懐疑心をもち、戦術上の問題についてしばしば優柔不断だった。そして、合法的な制度や幅広い基盤のあるプロレタリア組織を是認する方向へと傾斜した。
 レーニンは、党があらゆる合法的活動の機会を利用するのを望んだが、しかし、その秘密組織を維持し、憲法制定主義、議会主義および労働組合主義への追従に抵抗することをも望んだ。すなわち、全ての合法的形態は、実力による権力奪取という最終の目標に従属するものでなければならないのだった。
 レーニンは、同時に、個人に対するテロルというエスエル〔社会革命党〕の方針に反対した。
 彼は、1905年の前に、党は原理上の問題としてテロルを拒否はしない、テロルは一定の事情のもとで必要だ、しかし、大臣やその他の公的人物への攻撃は時期尚早で、反発を誘発する、と強調した。革命的勢力を散逸させ、有益な効果を何らもたらさないだろうから、という理由で。
 革命の時代の後半部には、レーニンは、『没収(expropriations)』に関してメンシェヴィキと激論を交わした。『没収』とは、党の財政資金を補充するための、テロリスト集団による武装強盗のことだ。
 (トランスコーカサスでのスターリンは、このような活動の主要な組織者の一人だった。)
 メンシェヴィキおよびトロツキーは、このような実務は無価値で非道徳的だと非難した。しかし、レーニンは、個人に対してではなく銀行、列車あるいは国家財産に対して行使されるという条件で、これを擁護した。
 1907年春の党大会で、レーニンの反対に抗して、『没収』はメンシェヴィキの多数派によって非難された。//
 党員の数は、反動の時期に相当に消滅した。
 1906年9月の『統一大会』の後で、レーニンは、その数を10万人余だと見積もった。
 大会の代議員たちは、およそ1万3000人のボルシェヴィキと1万8000人のメンシェヴィキを代表した。再加入したブント(the Bund)は3万3000人のユダヤ人労働者を有しており、加えて、2万6000人のポーランド・リトアニア社会民主党員、1万4000人のラトヴィア人党員がいた。トロツキーはしかし、1910年に、全体数をわずか1万人と推算していた。
 しかしながら、減勢にもかかわらず、革命後の状況は合法活動への多くの幅広い機会を与えた。
 1907年の初めに、レーニンはフィンランドへと移り、そこでその年の末に再び亡命した。
 彼は、第二ドゥーマ選挙のボイコットを宣言した。しかし、全ての社会民主党員が従ったわけではなく、35名が選出された。
 約三ヶ月のちに、第二ドウーマが、第一のそれのように、解散された。そのときに、レーニンは、ボイコット方針を放棄し、彼の支持者たちが第三ドゥーマに参加するのを認めた。社会改革のためにではなく、議会制主義という妄想を暴露して、農民代議員たちを革命的方向へと導くために。
 数ヶ月前にはボイコットに反対していた誰もが、レーニンによると、レーニンはマルクス主義の考え方を知らない全くの日和見主義者だという姿勢を示した。今や、ボイコットに賛成する誰もが、日和見主義者で無学な者を自認することになった。
 ボルシェヴィキの中に、レーニンを『左翼から』批判する小集団、彼が『otzovist』と命名した者たち、すなわち社会民主党代議員をドウーマから召還(recall)することを主張する『召還主義者』、が出現するようになった。
 一方で、別の集団は、『最後通告主義者(ultimatist)』と命名された。ほとんどはメンシェヴィキの代議員たちに、従わなければ解職すると党が送付すべきとする最後通告書(ultimatum)の案を作成したからだ。
 二つの小集団の違いは重要ではなく、重要だったのは、革命的ボルシェヴィキの中にレーニンに反対する分派ができ、党は議会と関係をもつべきではなく、来たる革命への直接的な用意に集中すべきだ、と考えたことだ。
 この小集団の最も積極的なメンバー、A・A・ボグダノフ(Bogdanov)は、レーニンの長い間のきわめて忠実な協力者で、ロシア内でボルシェヴィズムを組織化する主要な役割を果たした。そして、独立の政治運動としてのボルシェヴィズムを、レーニンとともに共同で創始した者だと見なすことができる。
 『召還主義者』または『最後通告主義者』の中には、数人の知識人がいた-すなわち、ルナチャルスキー(Lunacharsky)、ポクロフスキー(Pokrovsky)、メンジンスキー(Menzhinsky)。このうち何人かは、のちにレーニン主義正統派へと復帰した。//
 『召還主義者』との戦術上の論争は、奇妙な様態で哲学上の論争と、このときに社会民主党の陣地内で生じた論争と、絡みついた。レーニンはこの論争から唯物論を守る専門論文を作成して、1909年に刊行した。
 この論争には、簡単に叙述しておくべき前史があった。//
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 第1節、終わり。第2節・ロシアの知識人の新傾向、へとつづく。