Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊 2008)<=レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要な潮流>には、邦訳書がない。
その第2巻(部)にある、第16章~第18章のタイトル(章名)および第16章の各節名は、つぎのとおり。
第16章・レーニン主義の成立。
第1節・レーニン主義をめぐる論争。
第2節・党と労働者運動、意識性と随意性。
第3節・民族の問題。
第4節・民主主義革命でのプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永久革命』。
第17章・ボルシェヴィキ運動における哲学と政治。
第18章・レーニン主義の運命、国家の理論から国家のイデオロギーへ。
以下、試訳。分冊版の Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, 2 -The Golden Age (Oxford, 1978), p.381~を用いる。一文ごとに改行する。本来の改行箇所には文末に//を記す。
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第16章・レーニン主義の成立
第1節・レーニン主義をめぐる論争①。
マルクス主義の教理の一変種としてのレーニン主義の性格づけは、長らく論争の主題だった。
問題は、とくに、レーニン主義はマルクス主義の伝統との関係で『修正主義』思想であるのか、それとも逆に、マルクス主義の一般的原理を新しい政治状況へと忠実に適用したものであるのか、だ。
この論争が政治的性格を帯びていることは、明瞭だ。
この点ではなおも共産主義運動の範囲内の勢力であるスターリン主義正統派は、当然に後者の見地を採用する。
スターリンは、レーニンは承継した教理に何も付加せず、その教理から何も離れず、その教理を適確に、ロシアの状態にのみならず、きわめて重要なことだが、世界の全ての状況へと適用した、と主張した。
この見地では、レーニン主義はマルクス主義を特殊にロシアに適用したものではなく、あるいはロシアの状態に限定して適用したものではなく、社会発展の<新しい時代>のための、つまり帝国主義とプロレタリア革命の時代のための戦略や戦術の、普遍的に有効なシステムだ。
他方、一定のボルシェヴィキは、レーニン主義はより個別的にロシア革命のための装置であるとし、非レーニン主義のマルクス主義者は、レーニンは多くの重要な点で、マルクスの教理に対する偽り(false)だったと主張した。//
このように観念大系的に定式化されるが、この問題は、根源への忠実性を強く生来的に必要とする政治運動や宗教的教派の歴史にある全てのそのような問題のように、実際には、解決できない。
運動の創立者の後の世代が既存の経典には明示的には表現されていない問題や実際的決定に直面して、その教理を自分たちの行為を正当化するように解釈する、というのは自然で、不可避のことだ。
この点では、マルクス主義の歴史はキリスト教のそれに似ている。
結果は一般的には、教理と実際の必要との間にある多様な種類の妥協を生み出すことになる。
分割の新しい方針や対立する政治的形成物は、事態の即時的な圧力のもとで形作られる。そしてそのいずれも、必要な支持を、完璧には統合しておらず首尾一貫もしていない伝統のうちに見出すことができる。
ベルンシュタインは、マルクス主義社会哲学の一定の特質を公然と拒否し、全ての点についてのマルクスの遺産を確固として守護するとは告白しなかった、という意味において、じつに、一人の修正主義者だった。
他方でレーニンは、自分の全ての行動と理論が現存の観念大系(ideology)を唯一つそして適正に適用したものだと提示しようと努力した。
しかしながら、レーニンは、自分が指揮する運動への実践的な効用よりも、マルクスの文言(text)への忠実性の方を選好する、という意味での教理主義者(doctrinaire)ではなかった。
逆に、レーニンは、理論であれ戦術であれ、全ての問題を、ロシアでのそして世界での革命という唯一の目的のために従属させる、莫大な政治的な感覚と能力とを持っていた。
彼の見地からすれば、一般理論上の全ての問題はマルクス主義によってすでに解決されており、知性でもってこの一体の教理のうえに、個別の状況のための正しい(right)解決を見出すべく抽出することだけが必要だった。
ここでは、レーニンは自らをマルクス主義者の教書の忠誠心ある実施者だと見なしていないだけではなく、自分は、個別にはドイツの党により例証される、欧州の社会民主主義者の実践と戦術に従っていると信じていた。
1914年になるまで、レーニンは、ドイツ社会民主党を一つの典型だと、カウツキーを理論上の問題に関する最も偉大な生きている権威だと、見なしていた。
レーニンは、理論上の問題のみならず、第二ドゥーマ〔国会〕のボイコットのような自分自身がより多数のことを知っている、ロシアの戦術上の問題についても、カウツキーに依拠した。
彼は、1905年に、<民主主義革命における社会民主党の二つの戦術>で、つぎのように書いた。//
『いつどこで、私が、国際社会民主主義のうちに、ベーベル(Bebel)やカウツキー(Kautsky)の傾向と<同一でない>、何か特別な流派を作り出そうと、かつて強く主張したのか?
いつどこに、一方の私と他方のベーベルやカウツキーの間に、重要な意見の違いが-例えばブレスラウで農業問題に関してベーベルやカウツキーとの間で生じた違いにほんの少しでも匹敵するような意見の違いが-、現われたのか?』
(全集9巻p.66n)=<日本語版全集9巻57頁注(1)>//
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秋月注記-全集からの引用部分は、日本語版全集の邦訳を参考にして、あらためて訳出。<>記載(大月書店, 1955. 第30刷, 1984)の上掲頁を参照。< >部分は、Leszek Kolakowski の原著ではイタリック体で、「レーニンによるイタリック体」との語句の挿入がある。日本語版では、この部分には、右傍点がある。余計ながら、この時点ではレーニンは<Bebel や Kautsky の傾向>と同じだったと、L・コワコフスキは意味させたい。
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②につづく。
その第2巻(部)にある、第16章~第18章のタイトル(章名)および第16章の各節名は、つぎのとおり。
第16章・レーニン主義の成立。
第1節・レーニン主義をめぐる論争。
第2節・党と労働者運動、意識性と随意性。
第3節・民族の問題。
第4節・民主主義革命でのプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永久革命』。
第17章・ボルシェヴィキ運動における哲学と政治。
第18章・レーニン主義の運命、国家の理論から国家のイデオロギーへ。
以下、試訳。分冊版の Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, 2 -The Golden Age (Oxford, 1978), p.381~を用いる。一文ごとに改行する。本来の改行箇所には文末に//を記す。
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第16章・レーニン主義の成立
第1節・レーニン主義をめぐる論争①。
マルクス主義の教理の一変種としてのレーニン主義の性格づけは、長らく論争の主題だった。
問題は、とくに、レーニン主義はマルクス主義の伝統との関係で『修正主義』思想であるのか、それとも逆に、マルクス主義の一般的原理を新しい政治状況へと忠実に適用したものであるのか、だ。
この論争が政治的性格を帯びていることは、明瞭だ。
この点ではなおも共産主義運動の範囲内の勢力であるスターリン主義正統派は、当然に後者の見地を採用する。
スターリンは、レーニンは承継した教理に何も付加せず、その教理から何も離れず、その教理を適確に、ロシアの状態にのみならず、きわめて重要なことだが、世界の全ての状況へと適用した、と主張した。
この見地では、レーニン主義はマルクス主義を特殊にロシアに適用したものではなく、あるいはロシアの状態に限定して適用したものではなく、社会発展の<新しい時代>のための、つまり帝国主義とプロレタリア革命の時代のための戦略や戦術の、普遍的に有効なシステムだ。
他方、一定のボルシェヴィキは、レーニン主義はより個別的にロシア革命のための装置であるとし、非レーニン主義のマルクス主義者は、レーニンは多くの重要な点で、マルクスの教理に対する偽り(false)だったと主張した。//
このように観念大系的に定式化されるが、この問題は、根源への忠実性を強く生来的に必要とする政治運動や宗教的教派の歴史にある全てのそのような問題のように、実際には、解決できない。
運動の創立者の後の世代が既存の経典には明示的には表現されていない問題や実際的決定に直面して、その教理を自分たちの行為を正当化するように解釈する、というのは自然で、不可避のことだ。
この点では、マルクス主義の歴史はキリスト教のそれに似ている。
結果は一般的には、教理と実際の必要との間にある多様な種類の妥協を生み出すことになる。
分割の新しい方針や対立する政治的形成物は、事態の即時的な圧力のもとで形作られる。そしてそのいずれも、必要な支持を、完璧には統合しておらず首尾一貫もしていない伝統のうちに見出すことができる。
ベルンシュタインは、マルクス主義社会哲学の一定の特質を公然と拒否し、全ての点についてのマルクスの遺産を確固として守護するとは告白しなかった、という意味において、じつに、一人の修正主義者だった。
他方でレーニンは、自分の全ての行動と理論が現存の観念大系(ideology)を唯一つそして適正に適用したものだと提示しようと努力した。
しかしながら、レーニンは、自分が指揮する運動への実践的な効用よりも、マルクスの文言(text)への忠実性の方を選好する、という意味での教理主義者(doctrinaire)ではなかった。
逆に、レーニンは、理論であれ戦術であれ、全ての問題を、ロシアでのそして世界での革命という唯一の目的のために従属させる、莫大な政治的な感覚と能力とを持っていた。
彼の見地からすれば、一般理論上の全ての問題はマルクス主義によってすでに解決されており、知性でもってこの一体の教理のうえに、個別の状況のための正しい(right)解決を見出すべく抽出することだけが必要だった。
ここでは、レーニンは自らをマルクス主義者の教書の忠誠心ある実施者だと見なしていないだけではなく、自分は、個別にはドイツの党により例証される、欧州の社会民主主義者の実践と戦術に従っていると信じていた。
1914年になるまで、レーニンは、ドイツ社会民主党を一つの典型だと、カウツキーを理論上の問題に関する最も偉大な生きている権威だと、見なしていた。
レーニンは、理論上の問題のみならず、第二ドゥーマ〔国会〕のボイコットのような自分自身がより多数のことを知っている、ロシアの戦術上の問題についても、カウツキーに依拠した。
彼は、1905年に、<民主主義革命における社会民主党の二つの戦術>で、つぎのように書いた。//
『いつどこで、私が、国際社会民主主義のうちに、ベーベル(Bebel)やカウツキー(Kautsky)の傾向と<同一でない>、何か特別な流派を作り出そうと、かつて強く主張したのか?
いつどこに、一方の私と他方のベーベルやカウツキーの間に、重要な意見の違いが-例えばブレスラウで農業問題に関してベーベルやカウツキーとの間で生じた違いにほんの少しでも匹敵するような意見の違いが-、現われたのか?』
(全集9巻p.66n)=<日本語版全集9巻57頁注(1)>//
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秋月注記-全集からの引用部分は、日本語版全集の邦訳を参考にして、あらためて訳出。<>記載(大月書店, 1955. 第30刷, 1984)の上掲頁を参照。< >部分は、Leszek Kolakowski の原著ではイタリック体で、「レーニンによるイタリック体」との語句の挿入がある。日本語版では、この部分には、右傍点がある。余計ながら、この時点ではレーニンは<Bebel や Kautsky の傾向>と同じだったと、L・コワコフスキは意味させたい。
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②につづく。