前回からのつづき。
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第7節・ボルシェヴィキの挫折した6月街頭行動②。
ボルシェヴィキは、予定した日の4日前の6月6日、最高司令部の会議を開いて最後の準備をした。
この会議の議事内容を、我々は削り取られた議事録からしか知ることができない。その議事録では、最も重要な最初の事項、レーニンの発言が粗々しく切断されている。
蜂起するという考えは、強い抵抗に遭った。
レーニンの『冒険主義』を4月に批判したカーメネフは、再び主導権を握った。
カーメネフは、この作戦は確実に失敗する、と言った。ソヴェトの権力獲得に関する問題は、ソヴェト大会に委ねるのが最善だ。
中央委員会のモスクワ支部から来たV・P・ノギン(Nogin)は、もっと率直に、つぎのように語った。
『レーニンの提案は、革命だ。我々にそれができるのか?
我々は国の少数派だ。二日では、攻撃を準備できるはずがない。』
ジノヴィエフも、計画している行動は党を大きな危機に瀕せしめると述べて、反対派に加わった。
スターリン、中央委員会書記のS・D・スタソワ(Stasova)、およびネフスキー(Nevskii)は、力強くレーニンの提案を支持した。
レーニンの議論内容は、知られていない。しかし、ノギンの言っていることから判断して、レーニンが何を求めていたかは明瞭だ。//
ペテログラード・ソヴェトとソヴェト大会は、示威活動を起こすことを考慮して、完全に闇の中に置かれたままだった。//
6月9日、ボルシェヴィキの扇動者たちが兵舎や工場に現れて、兵士や労働者たちに翌日に予定された示威活動について知らせた。
軍事機構の部署である<兵士プラウダ>は、示威行進者たちに詳しい指示を与えた。
その新聞の論説は、つぎの言葉で結ばれていた。
『資本主義者たちに対する戦争を勝利の結末へ!』//
このときに開会中のソヴェト大会は、大会での弁舌に夢中になっていて、ほとんど遅すぎると言っていいほどに、ボルシェヴィキの準備について何も知りはしなかった。
6月9日の午後になって、ボルシェヴィキのビラを見て初めて、彼らがしようとしていることを知った。
出席していた全ての政党が-もちろんボルシェヴィキを除いて-、ただちに、示威活動の断念を命令すること、およびこの判断を労働者区画と兵舎に伝える活動家を派遣すること、を表決した。
ボルシェヴィキは、新しい事態に対処すべく、その日遅くに会合を開いた。
公刊された記録文書は存在していないのだが、彼らは議論の末に、ソヴェト大会の意思に屈して、示威活動を断念することを決定した。
彼らはさらに、ソヴェトが6月18日に予定した平和的(換言すると、武装しない)示威行進に参加することに合意した。
おそらくボルシェヴィキ最高司令部は、ソヴェト首脳部に挑戦するのはまだ時機が好くないと考えた。//
ボルシェヴィキのクーは、回避された。しかし、ソヴェトの勝利の価値には、疑わしいところがあった。なぜなら、ソヴェトには、この事件から適切な結論を導く、道徳的勇気が欠けていたからだ。
ボルシェヴィキを含めてソヴェトの全党派を代表するおよそ100人の社会主義知識人たちが、6月11日に、この二日間の事態について議論すべく会合を開いた。
メンシェヴィキの代弁者であるテオドア・ダン(Theodore Dan)はボルシェヴィキを批判し、いかなる党派もソヴェトの承認なくして示威活動をするのは許されない、武装の集団はソヴェトが支援する示威活動にのみ投入される、という決議案を提案した。
これらの規則の違反者は除名されるものとされていた。
レーニンは自ら選んで欠席しており、ボルシェヴィキの事案はトロツキーによって防御された。
最近にロシアに到着したトロツキーは、まだ正式には党員ではなかったが、ボルシェヴィキ党にきわめて近い立場にいた。
議論の途中でツェレテリは、臆病すぎるとして、ダンの提案に反対するように出席者に求めた。
青白くなり、興奮して声を震わせて、彼は叫んだ。//
『起きたことは、<陰謀に他ならない。
-政府を転覆させて、ボルシェヴィキに権力を奪取させる陰謀だ>。
彼らが他の手段では決して獲得できないと知っている権力を、だ。
この陰謀は、我々が発見するや否や無害なものに抑えられた。
しかし、明日にもまた発生しうる。
反革命が頭をもたげた、と言う。
それは違っている。
反革命が頭をもたげたのでは、ない。頭を下げたのだ。
反革命は、ただ一つの扉を通ってのみ貫ける。ボルシェヴィキだ。
ボルシェヴィキが今していることは、考え方の情報宣伝ではなく、陰謀だ。
批判を攻撃する武器は、武器を攻撃する批判によって置き換わる。
ボルシェヴィキ諸君、許せ。だが、我々は、別の手段での闘争を選択すべきだ。
武器をもつ価値のない革命家からは、武器を奪い取らなければならない。
ボルシェヴィキは、武装解除されなければならない。
彼らが今まで利用してきた異様な専門的用具を、彼らの手に残してはならない。
機関銃や武器を、彼らに残してはならない。
我々は、このような陰謀に寛容であってはならない。』(*)//
ツェレテリはある程度の支持を得たが、多数は反対だった。
ボルシェヴィキの陰謀だとする、どんな証拠があるのか?
純粋な大衆運動を代表するボルシェヴィキを、なぜ武装解除するのか?
彼は本当に『プロレタリアート』を、自衛できないものにしたいのか?
マルトフは、とくに猛烈に、ツェレテリを非難した。
社会主義者たち〔ソヴェト大会〕はその翌日に、ダンの穏健な提案に賛成する表決をした。これは、ボルシェヴィキの武装解除に、彼らから秘密の装置を剥ぎ取ることに、反対することを意味した。
精神の、重大な過ちだった。
レーニンは直接に、ソヴェトに挑戦した。そしてソヴェトは、その目を逸らした。
ソヴェト多数派は、つぎのように信じることを好んだのだ。すなわち、ボルシェヴィキは、ツェレテリが言うような、権力奪取を志向する反革命の党ではなく、疑問のある戦術を用いている、ふつうの社会主義政党の一つなのだ、と。
社会主義者たちはかくして、ボルシェヴィキを非合法なものにする機会を、敵に対してソヴェトの利益を代表し、その利益のために活動していると主張するという、強い政治的武器を奪い取る機会を、逃した。//
ボルシェヴィキは、臆病ではなかった。
<プラウダ>は、ツェレテリの提案が否決された翌日に、ボルシェヴィキは現在も将来も、ソヴェトの命令に服従する意思はないと、ソヴェトに知らしめた。
『我々は、以下のとおり宣言するのが義務だと考える。
ソヴェトに参加しても、かつソヴェトが全ての権力を獲得するために闘っても、一瞬でも、また原理的に我々の敵対物であるソヴェトの利益のためにも、つぎの権利を放棄することはしない。
すなわち、分離しておよび自立して、我々のプロレタリア階級政党の旗のもとに労働者大衆を組織化する全ての自由を活用する権利。
我々はまた、そのような反民主主義的制限に服従することを、範疇的に拒否する。
<国家の権力が全体としてソヴェトの手に移ったとしても>、-そしてこれを言いたいが-ソヴェトが我々の煽動活動に足枷をはめようとしても、<我々は、温和しく服従するのではなく>、国際的社会主義の理想の名において、投獄やその他の制裁を受ける危険を冒す。』(112)//
これは、ソヴェトに対する戦争開始の宣言であり、ソヴェトが政府になっても、なったときにも、それに反抗して行動する権利をもつことを強く主張するものだった。//
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(*) <プラウダ> No. 80 (1917年6月13日付) p.2。これは非公開の会議だった。そして、他の根拠資料は存在しない。しかし、ツェレテリは、<プラウダ>からの本文引用部分は、若干の些細な、重要ではない省略はあるけれども、正しく自分の発言を伝えるものであると確認している。ツェレテリ, Vospominaniia, II, p.229-230。
(112) <プラウダ> No. 80 (1917年6月13日付) p.1。強調の< >は補充。
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第8節につづく。
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第7節・ボルシェヴィキの挫折した6月街頭行動②。
ボルシェヴィキは、予定した日の4日前の6月6日、最高司令部の会議を開いて最後の準備をした。
この会議の議事内容を、我々は削り取られた議事録からしか知ることができない。その議事録では、最も重要な最初の事項、レーニンの発言が粗々しく切断されている。
蜂起するという考えは、強い抵抗に遭った。
レーニンの『冒険主義』を4月に批判したカーメネフは、再び主導権を握った。
カーメネフは、この作戦は確実に失敗する、と言った。ソヴェトの権力獲得に関する問題は、ソヴェト大会に委ねるのが最善だ。
中央委員会のモスクワ支部から来たV・P・ノギン(Nogin)は、もっと率直に、つぎのように語った。
『レーニンの提案は、革命だ。我々にそれができるのか?
我々は国の少数派だ。二日では、攻撃を準備できるはずがない。』
ジノヴィエフも、計画している行動は党を大きな危機に瀕せしめると述べて、反対派に加わった。
スターリン、中央委員会書記のS・D・スタソワ(Stasova)、およびネフスキー(Nevskii)は、力強くレーニンの提案を支持した。
レーニンの議論内容は、知られていない。しかし、ノギンの言っていることから判断して、レーニンが何を求めていたかは明瞭だ。//
ペテログラード・ソヴェトとソヴェト大会は、示威活動を起こすことを考慮して、完全に闇の中に置かれたままだった。//
6月9日、ボルシェヴィキの扇動者たちが兵舎や工場に現れて、兵士や労働者たちに翌日に予定された示威活動について知らせた。
軍事機構の部署である<兵士プラウダ>は、示威行進者たちに詳しい指示を与えた。
その新聞の論説は、つぎの言葉で結ばれていた。
『資本主義者たちに対する戦争を勝利の結末へ!』//
このときに開会中のソヴェト大会は、大会での弁舌に夢中になっていて、ほとんど遅すぎると言っていいほどに、ボルシェヴィキの準備について何も知りはしなかった。
6月9日の午後になって、ボルシェヴィキのビラを見て初めて、彼らがしようとしていることを知った。
出席していた全ての政党が-もちろんボルシェヴィキを除いて-、ただちに、示威活動の断念を命令すること、およびこの判断を労働者区画と兵舎に伝える活動家を派遣すること、を表決した。
ボルシェヴィキは、新しい事態に対処すべく、その日遅くに会合を開いた。
公刊された記録文書は存在していないのだが、彼らは議論の末に、ソヴェト大会の意思に屈して、示威活動を断念することを決定した。
彼らはさらに、ソヴェトが6月18日に予定した平和的(換言すると、武装しない)示威行進に参加することに合意した。
おそらくボルシェヴィキ最高司令部は、ソヴェト首脳部に挑戦するのはまだ時機が好くないと考えた。//
ボルシェヴィキのクーは、回避された。しかし、ソヴェトの勝利の価値には、疑わしいところがあった。なぜなら、ソヴェトには、この事件から適切な結論を導く、道徳的勇気が欠けていたからだ。
ボルシェヴィキを含めてソヴェトの全党派を代表するおよそ100人の社会主義知識人たちが、6月11日に、この二日間の事態について議論すべく会合を開いた。
メンシェヴィキの代弁者であるテオドア・ダン(Theodore Dan)はボルシェヴィキを批判し、いかなる党派もソヴェトの承認なくして示威活動をするのは許されない、武装の集団はソヴェトが支援する示威活動にのみ投入される、という決議案を提案した。
これらの規則の違反者は除名されるものとされていた。
レーニンは自ら選んで欠席しており、ボルシェヴィキの事案はトロツキーによって防御された。
最近にロシアに到着したトロツキーは、まだ正式には党員ではなかったが、ボルシェヴィキ党にきわめて近い立場にいた。
議論の途中でツェレテリは、臆病すぎるとして、ダンの提案に反対するように出席者に求めた。
青白くなり、興奮して声を震わせて、彼は叫んだ。//
『起きたことは、<陰謀に他ならない。
-政府を転覆させて、ボルシェヴィキに権力を奪取させる陰謀だ>。
彼らが他の手段では決して獲得できないと知っている権力を、だ。
この陰謀は、我々が発見するや否や無害なものに抑えられた。
しかし、明日にもまた発生しうる。
反革命が頭をもたげた、と言う。
それは違っている。
反革命が頭をもたげたのでは、ない。頭を下げたのだ。
反革命は、ただ一つの扉を通ってのみ貫ける。ボルシェヴィキだ。
ボルシェヴィキが今していることは、考え方の情報宣伝ではなく、陰謀だ。
批判を攻撃する武器は、武器を攻撃する批判によって置き換わる。
ボルシェヴィキ諸君、許せ。だが、我々は、別の手段での闘争を選択すべきだ。
武器をもつ価値のない革命家からは、武器を奪い取らなければならない。
ボルシェヴィキは、武装解除されなければならない。
彼らが今まで利用してきた異様な専門的用具を、彼らの手に残してはならない。
機関銃や武器を、彼らに残してはならない。
我々は、このような陰謀に寛容であってはならない。』(*)//
ツェレテリはある程度の支持を得たが、多数は反対だった。
ボルシェヴィキの陰謀だとする、どんな証拠があるのか?
純粋な大衆運動を代表するボルシェヴィキを、なぜ武装解除するのか?
彼は本当に『プロレタリアート』を、自衛できないものにしたいのか?
マルトフは、とくに猛烈に、ツェレテリを非難した。
社会主義者たち〔ソヴェト大会〕はその翌日に、ダンの穏健な提案に賛成する表決をした。これは、ボルシェヴィキの武装解除に、彼らから秘密の装置を剥ぎ取ることに、反対することを意味した。
精神の、重大な過ちだった。
レーニンは直接に、ソヴェトに挑戦した。そしてソヴェトは、その目を逸らした。
ソヴェト多数派は、つぎのように信じることを好んだのだ。すなわち、ボルシェヴィキは、ツェレテリが言うような、権力奪取を志向する反革命の党ではなく、疑問のある戦術を用いている、ふつうの社会主義政党の一つなのだ、と。
社会主義者たちはかくして、ボルシェヴィキを非合法なものにする機会を、敵に対してソヴェトの利益を代表し、その利益のために活動していると主張するという、強い政治的武器を奪い取る機会を、逃した。//
ボルシェヴィキは、臆病ではなかった。
<プラウダ>は、ツェレテリの提案が否決された翌日に、ボルシェヴィキは現在も将来も、ソヴェトの命令に服従する意思はないと、ソヴェトに知らしめた。
『我々は、以下のとおり宣言するのが義務だと考える。
ソヴェトに参加しても、かつソヴェトが全ての権力を獲得するために闘っても、一瞬でも、また原理的に我々の敵対物であるソヴェトの利益のためにも、つぎの権利を放棄することはしない。
すなわち、分離しておよび自立して、我々のプロレタリア階級政党の旗のもとに労働者大衆を組織化する全ての自由を活用する権利。
我々はまた、そのような反民主主義的制限に服従することを、範疇的に拒否する。
<国家の権力が全体としてソヴェトの手に移ったとしても>、-そしてこれを言いたいが-ソヴェトが我々の煽動活動に足枷をはめようとしても、<我々は、温和しく服従するのではなく>、国際的社会主義の理想の名において、投獄やその他の制裁を受ける危険を冒す。』(112)//
これは、ソヴェトに対する戦争開始の宣言であり、ソヴェトが政府になっても、なったときにも、それに反抗して行動する権利をもつことを強く主張するものだった。//
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(*) <プラウダ> No. 80 (1917年6月13日付) p.2。これは非公開の会議だった。そして、他の根拠資料は存在しない。しかし、ツェレテリは、<プラウダ>からの本文引用部分は、若干の些細な、重要ではない省略はあるけれども、正しく自分の発言を伝えるものであると確認している。ツェレテリ, Vospominaniia, II, p.229-230。
(112) <プラウダ> No. 80 (1917年6月13日付) p.1。強調の< >は補充。
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第8節につづく。