第5節終了の前回からのつづき。第6節は、p.407~p.412。
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第6節・ボルシェヴィキの権力闘争での利点とドイツによる財政援助。
1917年の5月と6月、社会主義諸党の中で、ボルシェヴィキ党はまだ寂しい第三党だった。
6月初めの第一回全ロシア・ソヴェト大会のとき、ボルシェヴィキには105人の代議員がいたが、これに対してエスエルは285人、メンシェヴィキは248人だった。(*)
しかし、潮目はボルシェヴィキに向かって流れていた。//
ボルシェヴィキには多くの有利な点があった。
新しい臨時政府に対する唯一の対抗選択肢であり、決意があり権力を渇望する指導部をもつ、という独自の地位。そしてこれら以外にも、少なくとも二つの利点があった。
メンシェヴィキとエスエルは社会主義的スローガンをまくし立てはしたが、それらを論理的な結論へと具体化することをしなかった。
このことは支持する有権者たちを当惑させ、ボルシェヴィキを助けた。
社会主義者たちは、二月革命以降のロシアは『ブルジョア』体制になり、ソヴェトを通じて自分たちが統制すると言ってきた。
だが、そうであれば、なぜソヴェトは『ブルジョアジー』を除去して完全な権力を握らないのか?
社会主義者たちは、戦争は『帝国主義的』だと称した。
そうであれば、なぜ武器を捨てさせ、故郷に戻さないのか?
『全ての権力をソヴェトへ』や『戦争をやめよ』のスローガンは、1917年の春や夏にはまだ一般に受容されていなかったが、確実に避けられない論理をもった-つまり、社会主義者たちが一般民衆の間に植え付けた考えの脈絡で、『意味』をもった。
ボルシェヴィキは勇気をもって、社会主義者に共通の諸基本命題から、彼らがそれに実際に堪えることは決してないという明白な結論を抽出した。
したがって、社会主義者がそうしてしまうことは、自分たち自身を裏切るのと同じになる。
社会主義者たちは、レーニンの支持者たちが厚かましく民主主義的手続に挑戦して権力への衝動を見せたときいつも、そして何度も、やめよと語りかけ、だが同時に、政府が対応措置をとることを妨げることになった。
社会主義者たちのたった一つの罪が危険ではない手法で同じ目標を達成しようとしたことにあるとすれば、彼らがボルシェヴィキに立ち向かうのは困難だっただろう。
レーニンとその支持者たちは、多くの意味で、本当の『革命の良心』だった。
多数派社会主義者には精神的臆病さと結びついて知的な責任感が欠如していたので、少数派ボルシェヴィキが根付いて成長する、心理的および理論的な環境が醸成された。//
しかしおそらく、ボルシェヴィキがその好敵たちを凌駕する唯一かつ最大の有利な点は、ロシアに対する関心が全くないことにあった。
保守主義者、リベラルたち、そして社会主義者たちはそれぞれに、革命が解き放ち国を分解させている個別の社会的地域的な利害を敢えて無視して、一体性あるロシアを守ろうとした。
彼らは、兵士たちに紀律の維持を、農民たちに土地改革を待つことを、労働者には生産力の保持を、少数民族には自治の要求の一時停止を、訴えた。
このような訴えは、人気がなかった。ロシアには国家や民族に関する強い意識がなかったので、中心から離れる傾向は増大し、全体を犠牲にした個別利益の優先が助長されていたからだ。
ボルシェヴィキにとってはロシアは世界革命のための跳躍台にすぎず、彼らはこれらに関心がなかった。
かりに自然発生的な力が現存の諸制度を『粉砕』してロシアを破壊すれば、それはきわめて結構なことだっただろう。
こうした理由から、ボルシェヴィキは、全ての破壊的な傾向を完璧に助長し続けた。
この傾向は二月にいったん解き放たれるや留まることを知らず、ボルシェヴィキは膨れあがる波の頂点に立った。
自分たちは不可避的なものだと主張しつつ、統制されているという見かけをかち得た。
のちに権力を掌握した際、すぐに全ての約束を破棄し、かつてロシアが知らなかった中央集中的な独裁形態の国家を作り上げることになる。
そのときまではしかし、ロシアの運命に無関心であることは、ボルシェヴィキにとって、きわめて大きな、かつおそらくは決定的な利点となった。//
(*) W. H. Chamberlin, The Russian Revolution, I (ニューヨーク, 1935) p.159。
第一回農民大会には1000名以上の代議員が出席したが、そのうちボルシェヴィキ党は20人だった。同上、VI, No.4 (1957) p.26。
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②につづく。
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第6節・ボルシェヴィキの権力闘争での利点とドイツによる財政援助。
1917年の5月と6月、社会主義諸党の中で、ボルシェヴィキ党はまだ寂しい第三党だった。
6月初めの第一回全ロシア・ソヴェト大会のとき、ボルシェヴィキには105人の代議員がいたが、これに対してエスエルは285人、メンシェヴィキは248人だった。(*)
しかし、潮目はボルシェヴィキに向かって流れていた。//
ボルシェヴィキには多くの有利な点があった。
新しい臨時政府に対する唯一の対抗選択肢であり、決意があり権力を渇望する指導部をもつ、という独自の地位。そしてこれら以外にも、少なくとも二つの利点があった。
メンシェヴィキとエスエルは社会主義的スローガンをまくし立てはしたが、それらを論理的な結論へと具体化することをしなかった。
このことは支持する有権者たちを当惑させ、ボルシェヴィキを助けた。
社会主義者たちは、二月革命以降のロシアは『ブルジョア』体制になり、ソヴェトを通じて自分たちが統制すると言ってきた。
だが、そうであれば、なぜソヴェトは『ブルジョアジー』を除去して完全な権力を握らないのか?
社会主義者たちは、戦争は『帝国主義的』だと称した。
そうであれば、なぜ武器を捨てさせ、故郷に戻さないのか?
『全ての権力をソヴェトへ』や『戦争をやめよ』のスローガンは、1917年の春や夏にはまだ一般に受容されていなかったが、確実に避けられない論理をもった-つまり、社会主義者たちが一般民衆の間に植え付けた考えの脈絡で、『意味』をもった。
ボルシェヴィキは勇気をもって、社会主義者に共通の諸基本命題から、彼らがそれに実際に堪えることは決してないという明白な結論を抽出した。
したがって、社会主義者がそうしてしまうことは、自分たち自身を裏切るのと同じになる。
社会主義者たちは、レーニンの支持者たちが厚かましく民主主義的手続に挑戦して権力への衝動を見せたときいつも、そして何度も、やめよと語りかけ、だが同時に、政府が対応措置をとることを妨げることになった。
社会主義者たちのたった一つの罪が危険ではない手法で同じ目標を達成しようとしたことにあるとすれば、彼らがボルシェヴィキに立ち向かうのは困難だっただろう。
レーニンとその支持者たちは、多くの意味で、本当の『革命の良心』だった。
多数派社会主義者には精神的臆病さと結びついて知的な責任感が欠如していたので、少数派ボルシェヴィキが根付いて成長する、心理的および理論的な環境が醸成された。//
しかしおそらく、ボルシェヴィキがその好敵たちを凌駕する唯一かつ最大の有利な点は、ロシアに対する関心が全くないことにあった。
保守主義者、リベラルたち、そして社会主義者たちはそれぞれに、革命が解き放ち国を分解させている個別の社会的地域的な利害を敢えて無視して、一体性あるロシアを守ろうとした。
彼らは、兵士たちに紀律の維持を、農民たちに土地改革を待つことを、労働者には生産力の保持を、少数民族には自治の要求の一時停止を、訴えた。
このような訴えは、人気がなかった。ロシアには国家や民族に関する強い意識がなかったので、中心から離れる傾向は増大し、全体を犠牲にした個別利益の優先が助長されていたからだ。
ボルシェヴィキにとってはロシアは世界革命のための跳躍台にすぎず、彼らはこれらに関心がなかった。
かりに自然発生的な力が現存の諸制度を『粉砕』してロシアを破壊すれば、それはきわめて結構なことだっただろう。
こうした理由から、ボルシェヴィキは、全ての破壊的な傾向を完璧に助長し続けた。
この傾向は二月にいったん解き放たれるや留まることを知らず、ボルシェヴィキは膨れあがる波の頂点に立った。
自分たちは不可避的なものだと主張しつつ、統制されているという見かけをかち得た。
のちに権力を掌握した際、すぐに全ての約束を破棄し、かつてロシアが知らなかった中央集中的な独裁形態の国家を作り上げることになる。
そのときまではしかし、ロシアの運命に無関心であることは、ボルシェヴィキにとって、きわめて大きな、かつおそらくは決定的な利点となった。//
(*) W. H. Chamberlin, The Russian Revolution, I (ニューヨーク, 1935) p.159。
第一回農民大会には1000名以上の代議員が出席したが、そのうちボルシェヴィキ党は20人だった。同上、VI, No.4 (1957) p.26。
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②につづく。