朝日新聞が退潮を防ぐために「ふつうの」新聞になることを願ってはいない。新聞自体を廃刊していただくのがベストだが、そうでなければ、日本が進べき方向とは逆の方向に光を煌々と当ててくれる、逆の意味での「導きの灯火」の役割を見事に果たし続けてほしいものだ。
 ところで、有田芳生につき、この日記の09/06で今は日本共産党とは「一定の距離を保っているようだが」と書き、09/21には「当時は党員だったかと思える」と書いたが、彼自身のサイト内を見ていて正しい推測だったことが分かった。
 彼が編集者の一人となって日本共産党「除籍」の原因になった『日本共産党への手紙』(教育史料出版会、1990) の古書が今日配達されてきたのは不思議な偶然だ。
 人の良さそうな彼はしかし、コミュニズム又は共産党幻想から完全には抜けきってはおらず、「反体制」的心情を残しているかに見える。共産党員でなくなることが例えば自民党支持者に変わることを意味するわけではないのは当然のことだ。また、上の本も正面からの共産主義批判・日本共産党批判ではなく共産党員そのもの又は共産党の強いシンパの15人が日本共産党への注文等を書いたものにすぎないので、当面は読まずに積んでおこう。
 有田は核武装検討発言の中川昭一、麻生外相を「酔っぱらいのように声高に持論を主張」すればいいものではないと批判しているが、「酔っぱらいのように声高に」という副詞には必ずしも客観的でない感情が入っていると思う。
 また、彼のかかる批判は今朝の朝日社説とも同じなのだが、朝日の「なんとも危うく、不見識な発言だ。…聞き捨てならない」との冒頭の文などは<やや>ヒステリック又は感情的な印象がある。
 一方、本日の産経社説は「核武装・もう思考停止はやめよう」と題して朝日・有田と対立する。このあたりにも国論の大きな分裂がわが国にあることを感じるが、今の危機には間に合わないとしても一般論としては産経を支持したい。
 核の抑止力が第三次大戦を防ぎ、かつ軍備拡大競争に負けたことはソ連崩壊の一因となった。核保有国・中国との将来の本格的「闘い」を想定しておく必要もある…。安倍首相が言った如く、国会議員の自由な議論を封じることはできない。ましてや、マスコミ、一般国民は何でも自由に検討し議論できる。特定のテーマについてのタブー作りは、言論の自由を自ら放棄するに等しい。