今年4/07付・№1487からの続き。
○ 櫻井よしこ「発言/有識者リアリング」2016年11月14日<天皇の公務負担軽減に関する有識者会議第4回>は、悲痛だ。
悲痛というのは、悲しいほどに痛々しい、ということだ。
また、櫻井よしこ自身はそう感じていないようであることも、さらに悲痛、つまり、悲しいほどに痛々しい。
○ 櫻井よしこの「気分」を典型的に示しているのは、つぎの一文だろう。
「天皇は終身、天皇でいらっしゃいます」。
議事録上では段落変わりの冒頭にある、いっさいの条件、前提、後続の帰結も付いていないこの文こそが、櫻井の「観念」であり、「思い込み」であり、揺るがしてはいけない「前提命題(テーゼ)」なのだ。
なぜそうなのかと、問う姿勢がここにはない。
もちろん、その根拠らしきものも別のところにある。そして、それはウソの歴史認識で成り立っている。
櫻井よしこは言う。「当時の政府は機能せず、国家の命運が危うくなりました。そのとき天皇が政治、軍事、経済という世俗の権力の上位に立たれて、見事に国民の心を統合なされました。それが明治維新でありました。/
その折、先人たちは皇室と日本国の将来の安定のために、従来比較的頻繁に行われていた譲位の制度をやめました。日本国内の事情だけを見ていれば事はおさまった時代が去ってしまったのです。広く国際社会を見渡し、国民を守り続けることのできる堅固な国家基盤を築かなければならない時代では、皇室のありようについても異なる対応が必要だったことは明らかです。」
欺瞞に満ちている。前半の「明治維新」について、例えば「当時の政府は機能せず」といった評価・認識等については別に扱う。少なくとも、こんなに簡単にまとめてはいけない。
大ウソは、「その折」、つまり「明治維新」の「折」に天皇譲位制度を廃止した、述べていることだ。
明治維新の開始と終末の時期については議論があるだろう。しかし、天皇終身在位を定める旧皇室典範が制定される1889年までをも「明治維新」の時期ということはできないだろう。
櫻井は巧妙に、自ら高く評価する「明治維新」の際に天皇終身制も定められた、というウソをついている。
そして上記ではその理由を、「国内の事情」だけにかぎらず「広く国際社会」見渡して「堅固な国家基盤」を築く必要があったことに求める。
これはいったい、誰が主張している、どの文献が書いていることなのか。
櫻井よしこによる、デッチあげの類だろう。
明治天皇は、明治元年に満16歳だった。1888年になっても満36歳だった。
皇位承継の仕方について全く議論がなかったとは思えないが、それは切実・具体的な論争点ではなかっただろう。かりにあっても、生前譲位を否定する終身在位論が決定的だったとか有力だったとは全く言えないものと思われる。明治憲法の制定(1889年)の時期に、この問題を「家法」として明確にしたのだったが、その際にでも生前譲位の可能性の余地を残しておく主張がなお有力に存在した。
櫻井は、日本の「開国」・「国際化」に終身在位制の理由を求めるようだが、この二つの間にどういう論理的関係があるのか ? もっと詳しく説明できるのか ?
櫻井よしこは、その単純に理解する明治維新の「目的」に、天皇終身在位制のそれも重ねているのだ。
櫻井は、悲痛なほどに<アホ>だろう。なぜ、国家基本問題研究所なるものの「所長」を名乗れるのか。
○ 摂政制度の利用は現行の皇室典範上の摂政制度を前提にするかぎりは不可能だが、それを正規に「改正」すれば、論理的には不可能ではないだろうと感じてきた。
摂政制度利用の主張者すべてを<アホ>だと言ってきたわけではない。
櫻井よしこがぎりぎり提案しているのは、現在の実体的要件に、「又は御高齢」を追加することだ。
これは成り立ちうる提案だとは思われる。しかし、これに伴う種々の問題点とその対応・解決策をもきちんと考えたうえで、提案されるべきものだ。
子細に立ち入らないで櫻井に内在している問題点だけを指摘すると、つぎのとおり。
櫻井よしこは、「歴史を振り返れば、譲位はたびたび政治的に利用されてきました」、と言う。現在はかりにそうでなくとも「長い長い先までの安定を念頭に置いて、あらゆる可能性を考慮して、万全を期すことが大事です」とも言う。
しかし櫻井は、こう言うとき、摂政設置の活用にはこういう問題は全くない、と思っているのだろうか。
そう見えないので、摂政利用論も、終身在位制をともかくも守りたいがための逃げ道として使われている観がある。
つまり、摂政を置くことについても、とりわけまさに「御高齢」という要件を充たすとして摂政を置くことについては、「御高齢」だが国事行為等を自ら天皇として行いたいし行えると考える天皇またはその支持者と、天皇の地位はそのままにしたうえで国事行為・公的行為等を天皇とは別の「摂政」たる人物に任せたい人々との間で「たびたび政治的に利用されて」しまう可能性・危険性があるのだ。もちろん、櫻井も言うように「長い長い先まで」のことを考慮すれば、だ。
太上天皇(・上皇)と天皇との間の権威の分裂を懸念する声があり、それは一般論としてもっともなことだが、天皇と(実際に天皇の行為を継続的に行う)摂政との間にも、<権威の分裂>が十分に起こりうる。
終身在位・摂政制度活用ならば、「政治的に利用され」る可能性はないのか。
櫻井よしこという人は、<アホ>ではないか。なぜこの人が国家基本問題研究所の「所長」を名乗れるのか。
そもそもは、「御高齢」といった曖昧な要件だけでは、現実は動かない。いったい誰が、どのような手続でもって、摂政を置くべき又は置いてよい「御高齢」かどうかを判断するのか。そこまでは櫻井よしこは、まるで考えていないのだろう。
また、上の過程ですでに、<政争>が生じてしまう可能性もある。
櫻井よしこは、何も分かっていない。
○ まだまだ、櫻井よしこの天皇譲位論について、書き残しておきたいことはある。
○ 櫻井よしこ「発言/有識者リアリング」2016年11月14日<天皇の公務負担軽減に関する有識者会議第4回>は、悲痛だ。
悲痛というのは、悲しいほどに痛々しい、ということだ。
また、櫻井よしこ自身はそう感じていないようであることも、さらに悲痛、つまり、悲しいほどに痛々しい。
○ 櫻井よしこの「気分」を典型的に示しているのは、つぎの一文だろう。
「天皇は終身、天皇でいらっしゃいます」。
議事録上では段落変わりの冒頭にある、いっさいの条件、前提、後続の帰結も付いていないこの文こそが、櫻井の「観念」であり、「思い込み」であり、揺るがしてはいけない「前提命題(テーゼ)」なのだ。
なぜそうなのかと、問う姿勢がここにはない。
もちろん、その根拠らしきものも別のところにある。そして、それはウソの歴史認識で成り立っている。
櫻井よしこは言う。「当時の政府は機能せず、国家の命運が危うくなりました。そのとき天皇が政治、軍事、経済という世俗の権力の上位に立たれて、見事に国民の心を統合なされました。それが明治維新でありました。/
その折、先人たちは皇室と日本国の将来の安定のために、従来比較的頻繁に行われていた譲位の制度をやめました。日本国内の事情だけを見ていれば事はおさまった時代が去ってしまったのです。広く国際社会を見渡し、国民を守り続けることのできる堅固な国家基盤を築かなければならない時代では、皇室のありようについても異なる対応が必要だったことは明らかです。」
欺瞞に満ちている。前半の「明治維新」について、例えば「当時の政府は機能せず」といった評価・認識等については別に扱う。少なくとも、こんなに簡単にまとめてはいけない。
大ウソは、「その折」、つまり「明治維新」の「折」に天皇譲位制度を廃止した、述べていることだ。
明治維新の開始と終末の時期については議論があるだろう。しかし、天皇終身在位を定める旧皇室典範が制定される1889年までをも「明治維新」の時期ということはできないだろう。
櫻井は巧妙に、自ら高く評価する「明治維新」の際に天皇終身制も定められた、というウソをついている。
そして上記ではその理由を、「国内の事情」だけにかぎらず「広く国際社会」見渡して「堅固な国家基盤」を築く必要があったことに求める。
これはいったい、誰が主張している、どの文献が書いていることなのか。
櫻井よしこによる、デッチあげの類だろう。
明治天皇は、明治元年に満16歳だった。1888年になっても満36歳だった。
皇位承継の仕方について全く議論がなかったとは思えないが、それは切実・具体的な論争点ではなかっただろう。かりにあっても、生前譲位を否定する終身在位論が決定的だったとか有力だったとは全く言えないものと思われる。明治憲法の制定(1889年)の時期に、この問題を「家法」として明確にしたのだったが、その際にでも生前譲位の可能性の余地を残しておく主張がなお有力に存在した。
櫻井は、日本の「開国」・「国際化」に終身在位制の理由を求めるようだが、この二つの間にどういう論理的関係があるのか ? もっと詳しく説明できるのか ?
櫻井よしこは、その単純に理解する明治維新の「目的」に、天皇終身在位制のそれも重ねているのだ。
櫻井は、悲痛なほどに<アホ>だろう。なぜ、国家基本問題研究所なるものの「所長」を名乗れるのか。
○ 摂政制度の利用は現行の皇室典範上の摂政制度を前提にするかぎりは不可能だが、それを正規に「改正」すれば、論理的には不可能ではないだろうと感じてきた。
摂政制度利用の主張者すべてを<アホ>だと言ってきたわけではない。
櫻井よしこがぎりぎり提案しているのは、現在の実体的要件に、「又は御高齢」を追加することだ。
これは成り立ちうる提案だとは思われる。しかし、これに伴う種々の問題点とその対応・解決策をもきちんと考えたうえで、提案されるべきものだ。
子細に立ち入らないで櫻井に内在している問題点だけを指摘すると、つぎのとおり。
櫻井よしこは、「歴史を振り返れば、譲位はたびたび政治的に利用されてきました」、と言う。現在はかりにそうでなくとも「長い長い先までの安定を念頭に置いて、あらゆる可能性を考慮して、万全を期すことが大事です」とも言う。
しかし櫻井は、こう言うとき、摂政設置の活用にはこういう問題は全くない、と思っているのだろうか。
そう見えないので、摂政利用論も、終身在位制をともかくも守りたいがための逃げ道として使われている観がある。
つまり、摂政を置くことについても、とりわけまさに「御高齢」という要件を充たすとして摂政を置くことについては、「御高齢」だが国事行為等を自ら天皇として行いたいし行えると考える天皇またはその支持者と、天皇の地位はそのままにしたうえで国事行為・公的行為等を天皇とは別の「摂政」たる人物に任せたい人々との間で「たびたび政治的に利用されて」しまう可能性・危険性があるのだ。もちろん、櫻井も言うように「長い長い先まで」のことを考慮すれば、だ。
太上天皇(・上皇)と天皇との間の権威の分裂を懸念する声があり、それは一般論としてもっともなことだが、天皇と(実際に天皇の行為を継続的に行う)摂政との間にも、<権威の分裂>が十分に起こりうる。
終身在位・摂政制度活用ならば、「政治的に利用され」る可能性はないのか。
櫻井よしこという人は、<アホ>ではないか。なぜこの人が国家基本問題研究所の「所長」を名乗れるのか。
そもそもは、「御高齢」といった曖昧な要件だけでは、現実は動かない。いったい誰が、どのような手続でもって、摂政を置くべき又は置いてよい「御高齢」かどうかを判断するのか。そこまでは櫻井よしこは、まるで考えていないのだろう。
また、上の過程ですでに、<政争>が生じてしまう可能性もある。
櫻井よしこは、何も分かっていない。
○ まだまだ、櫻井よしこの天皇譲位論について、書き残しておきたいことはある。