前回のつづき。
1921年(大正10年)とは、その3月の第10回党大会で食糧徴発制から現物「税」制への変更が決定され(のちに言う「ネップ」=新経済政策の開始)、10月にはレーニンが「革命」4周年記念演説を行い、同10月末には、日本共産党・不破哲三らが<市場経済から社会主義へ>の途への基本方針を確立したと最重要視しているモスクワ県党会議でのレーニン報告があった、という年でもある。
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第10節・1921年の飢饉②。
1921年の春、干魃に見舞われた地方の農民たちは、草葉や樹皮やねずみ類を食べるという手段をとるべく追い込まれた。
飢えは続き、政府による救援は見込まれない中で、起業精神のあるタタール人たちは、一ポンドあたり500ルーブルという値をつけて、『食用の粘土』と宣伝する物体を被災地域の市場に売りに出した。
夏の初めに、空腹で狂いそうになった農民たちは、自分の村落を離れて、徒歩でまたは荷車で、最も近い鉄道駅へと向かった。食糧があると噂されている地域へと〔列車で〕進めるという望みを持ちながら。最初はウクライナへ、のちにはトルキスタンへ、だった。
しばらくして、哀れな数百万の人々が、鉄道駅に密集した。
モスクワ〔=政府=共産党〕は1921年7月までは大災害は起こっていないと頑なに主張していたので、彼ら農民は、列車運送を拒否された。
彼らは鉄道駅で、『決して来ない列車を、あるいは避けられない死を』待った。
以下は、シンビルスク鉄道駅が1921年夏にどのようだったかを述べている。//
『汚いぼろ服の一団の民衆を、想像しなさい。その一団の中には、傾けた裸の腕があちこちに見える。顔には、すでに死斑が捺されているようだ。
とりわけ、ひどく厭な臭いに気づく。通り過ぎることはできない。
待合室、廊下、一歩進むたびに人々が覆ってくる。彼らは、身体を広げたり、座ったり、想像できるあらゆる姿でうずくまっている。
近づいて見れば、彼らの汚れたぼろ服にはしらみ〔虱〕が充満しているのが分かる。
チフスに冒された人々が、彼らの赤ん坊と一緒にいて、這い回り、熱で震えている。
育てている赤ん坊たちは、声を失なった。もう泣くことができない。
20人以上が毎日死んで、運び去られる。しかし、全ての死者を移動させることはできない。
ときには、生きている者の間に、死体が5日間以上も残っている。//
一人の女性が、幼児を膝の上に乗せてあやしている。
その子どもは、食べ物を求めて泣いている。
その母親は、しばらくの間、腕で幼児を持ち上げる。
そのとき、彼女は突然に子どもをぶつ。
子どもは、また泣き叫ぶ。これで、母親は狂ったように思える。
彼女は、顔を激しい怒りに変えて、猛烈に子どもを叩き始める。
拳で小さな顔を、頭を雨のごとく打ち続けて、最後に、幼児を床の上に放り投げ、自分の足で蹴る。
戦慄の囁き声が、彼女の周囲でまき起こる。
子どもは床から持ち上げられ、母親には悪態の言葉が浴びせられる。
母親が猛烈な興奮状態から醒めてわれに戻ったとき、彼女の周りは、全くの無関心だ。
母親はその視線を固定させる。しかし、きっと何も見えていない。』(179)//
サマンサからの目撃者は、つぎのように書いた。
『災害の恐ろしさを数行で叙述しようとするのは、無益だ。それを表現できる言葉を、誰も見つけられないだろう。
彼ら骸骨の如き人間たち、骸骨のごとき子どもたちを、自分自身の目で見なければならない。
子どもたちは病的に青白い、しばしば腫れ上がった顔をしていて、眼は空腹を訴えて燃えさかっている。
彼らが恐れ慄いて、『Kusochek』(もう一欠片だけ)と死にゆきながら囁くのを、自分で聞かなければならない。』(180)//
飢えで狂った者たちは、殺人を犯し、隣人をまたは自分たち自身を食べた。こうしたことについて、多数の報告があった。
ノルウェイの社会奉仕家でこの当時にロシアを訪れていたフリートヨフ・ナンセンは、『恐るべき程度にまで』蔓延した現象として、人肉食(cannibalism)について語った。(181)
ハルコフ大学の一教授は、これら諸報告の検討を請け負って、26事例の人肉食を事実だと承認した。
『七つの事例で、…殺人が犯されており、死体が金儲けのために売られた。…ソーセイジ(sausage)の中に偽って隠されて、公開の市場に置かれた。』(182)
死体嗜好症(necrophasia〔死姦〕)-死体の利用し尽くし-もまた発生した。//
被災地帯を訪れた人たちは、村から村へと過ぎても、人の生命の兆候に気づかなかった。住民たちは逃げているか、移動するだけの身体の強さがなくて小家屋の中で横たわっていた。
都市では、死体が路上に散乱していた。
それらは拾い上げられ、荷車に乗せられ-しばしば裸に剥かれたあとで-、墓標のない民衆用墓地の穴へとぞんざいに投げ込まれた。//
飢饉のあとには、伝染病が続いた。それは、空腹で弱くなった肉体を破壊した。
主な死因はチフスだったが、数十万人が、コレラ、腸チフス熱、天然痘の犠牲にもなった。//
ボルシェヴィキ体制の飢饉に対する態度を、30年前に同様の悲劇に直面した帝制政府のそれと比較してみることは、教育上も有益だ。かつて、およそ1250万人の農民が飢えに苦しんだ。(183)
この当時におよびそれ以降に急進主義者やリベラルたちは、帝制政府は何もしなかった、救援は私的な団体によってなされた、という虚偽の情報宣伝をまき散らし、繰り返してきた。
しかし、これとは反対に、記録は、帝制時代の国家機関は速やかにかつ効果的に動いたことを示している。
それらは、食糧の供給を準備し、1100万人の被災者に引き渡し、地方政府に対して寛大な緊急的援助を与えた。
その結果として、1891-92年飢饉に帰因する死者数は、37万5000人から40万人と推計されている。-これは、衝撃的な数字だ。
しかし、この数字は、ボルシェヴィキ〔政府〕のもとで飢餓に苦しんだ人々の数の、13分の1にすぎない。(184)//
クレムリン〔共産党政府〕は、急性麻痺に陥ったかのごとく、飢饉の広がりを眺めた。
農村地方からの諸報告は災害が発生しそうだと警告していたけれども、またそれが起こった後ではその蔓延を警告していたけれども、クレムリンは何もしなかった。
なぜならば、〔第一に〕『富農』、『白軍』または『帝国主義者』のいずれの責任にもすることのできない、国家的な大惨事の発生を承認することができなかったからだ。
第二に、明確な解決策を、何も持っていなかった。
『ソヴェト政府は初めて、その権力に訴えては解決することができない問題に直面した。』(185)
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(179) フィッシャー, 飢饉, p.90、から引用。
(180) 革命ロシア(RevR), No. 14/15 (1921年11-12月), p.15。
(181) フィッシャー, 飢饉, p.300。
(182) 同上, p.436n。
(183) リチャード・G・ロビンス, Jr., ロシアの飢饉: 1891-1892 (1975)。
(184) 同上, p.171。
(185) ミシェル・エレ(Michel Heller), in :雑誌・ノート〔cahier〕 XX, No.2 (1979), p.137〔仏語〕。
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本来の改行箇所ではないが、ここで区切る。③につづく。
1921年(大正10年)とは、その3月の第10回党大会で食糧徴発制から現物「税」制への変更が決定され(のちに言う「ネップ」=新経済政策の開始)、10月にはレーニンが「革命」4周年記念演説を行い、同10月末には、日本共産党・不破哲三らが<市場経済から社会主義へ>の途への基本方針を確立したと最重要視しているモスクワ県党会議でのレーニン報告があった、という年でもある。
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第10節・1921年の飢饉②。
1921年の春、干魃に見舞われた地方の農民たちは、草葉や樹皮やねずみ類を食べるという手段をとるべく追い込まれた。
飢えは続き、政府による救援は見込まれない中で、起業精神のあるタタール人たちは、一ポンドあたり500ルーブルという値をつけて、『食用の粘土』と宣伝する物体を被災地域の市場に売りに出した。
夏の初めに、空腹で狂いそうになった農民たちは、自分の村落を離れて、徒歩でまたは荷車で、最も近い鉄道駅へと向かった。食糧があると噂されている地域へと〔列車で〕進めるという望みを持ちながら。最初はウクライナへ、のちにはトルキスタンへ、だった。
しばらくして、哀れな数百万の人々が、鉄道駅に密集した。
モスクワ〔=政府=共産党〕は1921年7月までは大災害は起こっていないと頑なに主張していたので、彼ら農民は、列車運送を拒否された。
彼らは鉄道駅で、『決して来ない列車を、あるいは避けられない死を』待った。
以下は、シンビルスク鉄道駅が1921年夏にどのようだったかを述べている。//
『汚いぼろ服の一団の民衆を、想像しなさい。その一団の中には、傾けた裸の腕があちこちに見える。顔には、すでに死斑が捺されているようだ。
とりわけ、ひどく厭な臭いに気づく。通り過ぎることはできない。
待合室、廊下、一歩進むたびに人々が覆ってくる。彼らは、身体を広げたり、座ったり、想像できるあらゆる姿でうずくまっている。
近づいて見れば、彼らの汚れたぼろ服にはしらみ〔虱〕が充満しているのが分かる。
チフスに冒された人々が、彼らの赤ん坊と一緒にいて、這い回り、熱で震えている。
育てている赤ん坊たちは、声を失なった。もう泣くことができない。
20人以上が毎日死んで、運び去られる。しかし、全ての死者を移動させることはできない。
ときには、生きている者の間に、死体が5日間以上も残っている。//
一人の女性が、幼児を膝の上に乗せてあやしている。
その子どもは、食べ物を求めて泣いている。
その母親は、しばらくの間、腕で幼児を持ち上げる。
そのとき、彼女は突然に子どもをぶつ。
子どもは、また泣き叫ぶ。これで、母親は狂ったように思える。
彼女は、顔を激しい怒りに変えて、猛烈に子どもを叩き始める。
拳で小さな顔を、頭を雨のごとく打ち続けて、最後に、幼児を床の上に放り投げ、自分の足で蹴る。
戦慄の囁き声が、彼女の周囲でまき起こる。
子どもは床から持ち上げられ、母親には悪態の言葉が浴びせられる。
母親が猛烈な興奮状態から醒めてわれに戻ったとき、彼女の周りは、全くの無関心だ。
母親はその視線を固定させる。しかし、きっと何も見えていない。』(179)//
サマンサからの目撃者は、つぎのように書いた。
『災害の恐ろしさを数行で叙述しようとするのは、無益だ。それを表現できる言葉を、誰も見つけられないだろう。
彼ら骸骨の如き人間たち、骸骨のごとき子どもたちを、自分自身の目で見なければならない。
子どもたちは病的に青白い、しばしば腫れ上がった顔をしていて、眼は空腹を訴えて燃えさかっている。
彼らが恐れ慄いて、『Kusochek』(もう一欠片だけ)と死にゆきながら囁くのを、自分で聞かなければならない。』(180)//
飢えで狂った者たちは、殺人を犯し、隣人をまたは自分たち自身を食べた。こうしたことについて、多数の報告があった。
ノルウェイの社会奉仕家でこの当時にロシアを訪れていたフリートヨフ・ナンセンは、『恐るべき程度にまで』蔓延した現象として、人肉食(cannibalism)について語った。(181)
ハルコフ大学の一教授は、これら諸報告の検討を請け負って、26事例の人肉食を事実だと承認した。
『七つの事例で、…殺人が犯されており、死体が金儲けのために売られた。…ソーセイジ(sausage)の中に偽って隠されて、公開の市場に置かれた。』(182)
死体嗜好症(necrophasia〔死姦〕)-死体の利用し尽くし-もまた発生した。//
被災地帯を訪れた人たちは、村から村へと過ぎても、人の生命の兆候に気づかなかった。住民たちは逃げているか、移動するだけの身体の強さがなくて小家屋の中で横たわっていた。
都市では、死体が路上に散乱していた。
それらは拾い上げられ、荷車に乗せられ-しばしば裸に剥かれたあとで-、墓標のない民衆用墓地の穴へとぞんざいに投げ込まれた。//
飢饉のあとには、伝染病が続いた。それは、空腹で弱くなった肉体を破壊した。
主な死因はチフスだったが、数十万人が、コレラ、腸チフス熱、天然痘の犠牲にもなった。//
ボルシェヴィキ体制の飢饉に対する態度を、30年前に同様の悲劇に直面した帝制政府のそれと比較してみることは、教育上も有益だ。かつて、およそ1250万人の農民が飢えに苦しんだ。(183)
この当時におよびそれ以降に急進主義者やリベラルたちは、帝制政府は何もしなかった、救援は私的な団体によってなされた、という虚偽の情報宣伝をまき散らし、繰り返してきた。
しかし、これとは反対に、記録は、帝制時代の国家機関は速やかにかつ効果的に動いたことを示している。
それらは、食糧の供給を準備し、1100万人の被災者に引き渡し、地方政府に対して寛大な緊急的援助を与えた。
その結果として、1891-92年飢饉に帰因する死者数は、37万5000人から40万人と推計されている。-これは、衝撃的な数字だ。
しかし、この数字は、ボルシェヴィキ〔政府〕のもとで飢餓に苦しんだ人々の数の、13分の1にすぎない。(184)//
クレムリン〔共産党政府〕は、急性麻痺に陥ったかのごとく、飢饉の広がりを眺めた。
農村地方からの諸報告は災害が発生しそうだと警告していたけれども、またそれが起こった後ではその蔓延を警告していたけれども、クレムリンは何もしなかった。
なぜならば、〔第一に〕『富農』、『白軍』または『帝国主義者』のいずれの責任にもすることのできない、国家的な大惨事の発生を承認することができなかったからだ。
第二に、明確な解決策を、何も持っていなかった。
『ソヴェト政府は初めて、その権力に訴えては解決することができない問題に直面した。』(185)
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(179) フィッシャー, 飢饉, p.90、から引用。
(180) 革命ロシア(RevR), No. 14/15 (1921年11-12月), p.15。
(181) フィッシャー, 飢饉, p.300。
(182) 同上, p.436n。
(183) リチャード・G・ロビンス, Jr., ロシアの飢饉: 1891-1892 (1975)。
(184) 同上, p.171。
(185) ミシェル・エレ(Michel Heller), in :雑誌・ノート〔cahier〕 XX, No.2 (1979), p.137〔仏語〕。
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本来の改行箇所ではないが、ここで区切る。③につづく。