○ 日本人には全くかほとんど知られていないと思う。
ヴォルフガング・ルーゲ(Wolfgang Ruge)というドイツ人がいる。
1917年生~2006年没。
1917年夏にドイツ・ベルリンで生まれた。ロシアでは二月革命と同年の「10月の政変」のちょうど間。レーニンの7月蜂起があった頃。現在からほぼ100年前のこと。
そのとき、第一次大戦はまだ終わっておらず、2歳の頃までに、戦争終結、ベルサイユ講和条約締結、そして2019年8月のワイマール憲法制定を、したがってドイツ・ワイマール共和国の成立期を、おそらくは記憶しないままで大きくなった。
1933年の夏、8月末頃、ベルリンからおそらく「難民」として、ソ連・モスクワへと移った。
そのとき、ワイマール共和国は、ナチス・第三帝国に変わっていた。ナチス党の選挙勝利を経て1933年の初頭に、ヒトラーが政権・権力を握っていた。
W・ルーゲは、夏に16歳ちょうどくらい。二歳上の兄とともに、ソ連・モスクワに向った。そこで育ち、成人になる。スターリンがソ連・共産主義体制の最高指導者だった。
戦後まで生きる。戦後も、生きた。そして1982年、ドイツに「帰国」する。
彼が、65歳になる年だ。
しかし、それは、ヒトラー・ドイツでもなければドイツ連邦共和国でもなく、「東ドイツ」、1949年に成立したドイツ民主共和国のベルリンへの「帰国」だった。
そこで「歴史学」の研究者・教授として過ごす。主な研究対象は、ワイマール期のドイツの政治および政治家たちだったようだ。
1990年、彼が73歳になる年に、ドイツ民主共和国自体が消失して、統一ドイツ(ドイツ連邦共和国)の一員となる。
2006年、88歳か89歳で逝去。
すごい人生もあるものだ。第一次大戦中のドイツ帝国、ワイマール共和国、ヒトラー・ナチス、スターリン・ソ連、第二次大戦、戦後ソ連、社会主義・東ドイツ、そして統一ドイツ(現在のドイツ)。
1990年以降に、少なくとも以下の二つの大著を書き、遺して亡くなった。
Wolfgang Ruge, Lenin - Vorgänger Stalins. Eine politische Biografie (2010)。
〔『レーニン-スターリンの先行者/一つの政治的伝記』〕
Wolfgang Ruge (Eugen Ruge 編), Gelobtes Land - Meine Jahre in Stalins Sowietunion (2012、4版2015)。
〔『賞賛された国-スターリンのソ連での私の年月』〕
○ 上の後者の著書の最初の方から「レーニン」という語を探すと、興味深い叙述を、すでにいくつか見いだせる。これらが書かれたのは、実際には1981年と1989年の間、つまりソ連時代のようだ(おそらくは子息である編者が記載した第一部の扉による)。
・W・ルーゲはベルリンから水路でコペンハーゲン、ストックホルムを経てトゥルク(フィンランド)へ行き、そこからヘルシンキとソ連との国境駅までを鉄道で進んでいる。
コペンハーゲンからの船旅の途中で(16歳のとき)、この進路は「1917年という革命年にレーニンがロシアへと旅をしたのと同一のルート」だということが頭をよぎる(p.10)。
このときの記憶として記述しているので、ドイツにいた16歳ほどの青少年にも、レーニンとそのスイスからのドイツ縦断についての知識があったようだ。
・W・ルーゲは、ストックホルムより後は、母親の内縁の夫でコミンテルンの秘密連絡員らしきドイツ人の人物とともに兄と三人でソ連に向かう。
ソ連に入ったときの印象が、こうある。「レーニン」は出てこない。
フィンランドの最終駅を降りてさらに、「決定的な、20ないし30歩」を進んだ。
ロシア文字を知らなかったし、理解できなかったが、しかし、「そこには、『万国の労働者よ、団結せよ!』とあるのが分かった。宗教人が処女マリアを一瞬見たときに感じたかもしれないような、打ち負かされるような、表現できない感情が襲った。私は、私の新しい世界へと、入り込んだ」(p.12)。
・さかのぼって、ドイツ・ベルリンにいた6歳のときのことを、こう綴っている。
「レーニンが死んだとき〔1924年1月-秋月〕、6歳だった私は、つぎのことで慰められた。
レーニンの弟のK・レーニン(カリーニンのこと)がその代わりになり、全く理解できないではない謎かけではなくて、<レーニンは死んだ。しかしレーニン主義はまだ生きている>と分かりやすく表現してくれた。」(p.25)
このとき彼はすでに、レーニンの名を知っていた。さらに、ソヴィエトの一ダースほどの指導者の名前を知っていた、ともある(同上)。
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ヴォルフガング・ルーゲ(Wolfgang Ruge)というドイツ人がいる。
1917年生~2006年没。
1917年夏にドイツ・ベルリンで生まれた。ロシアでは二月革命と同年の「10月の政変」のちょうど間。レーニンの7月蜂起があった頃。現在からほぼ100年前のこと。
そのとき、第一次大戦はまだ終わっておらず、2歳の頃までに、戦争終結、ベルサイユ講和条約締結、そして2019年8月のワイマール憲法制定を、したがってドイツ・ワイマール共和国の成立期を、おそらくは記憶しないままで大きくなった。
1933年の夏、8月末頃、ベルリンからおそらく「難民」として、ソ連・モスクワへと移った。
そのとき、ワイマール共和国は、ナチス・第三帝国に変わっていた。ナチス党の選挙勝利を経て1933年の初頭に、ヒトラーが政権・権力を握っていた。
W・ルーゲは、夏に16歳ちょうどくらい。二歳上の兄とともに、ソ連・モスクワに向った。そこで育ち、成人になる。スターリンがソ連・共産主義体制の最高指導者だった。
戦後まで生きる。戦後も、生きた。そして1982年、ドイツに「帰国」する。
彼が、65歳になる年だ。
しかし、それは、ヒトラー・ドイツでもなければドイツ連邦共和国でもなく、「東ドイツ」、1949年に成立したドイツ民主共和国のベルリンへの「帰国」だった。
そこで「歴史学」の研究者・教授として過ごす。主な研究対象は、ワイマール期のドイツの政治および政治家たちだったようだ。
1990年、彼が73歳になる年に、ドイツ民主共和国自体が消失して、統一ドイツ(ドイツ連邦共和国)の一員となる。
2006年、88歳か89歳で逝去。
すごい人生もあるものだ。第一次大戦中のドイツ帝国、ワイマール共和国、ヒトラー・ナチス、スターリン・ソ連、第二次大戦、戦後ソ連、社会主義・東ドイツ、そして統一ドイツ(現在のドイツ)。
1990年以降に、少なくとも以下の二つの大著を書き、遺して亡くなった。
Wolfgang Ruge, Lenin - Vorgänger Stalins. Eine politische Biografie (2010)。
〔『レーニン-スターリンの先行者/一つの政治的伝記』〕
Wolfgang Ruge (Eugen Ruge 編), Gelobtes Land - Meine Jahre in Stalins Sowietunion (2012、4版2015)。
〔『賞賛された国-スターリンのソ連での私の年月』〕
○ 上の後者の著書の最初の方から「レーニン」という語を探すと、興味深い叙述を、すでにいくつか見いだせる。これらが書かれたのは、実際には1981年と1989年の間、つまりソ連時代のようだ(おそらくは子息である編者が記載した第一部の扉による)。
・W・ルーゲはベルリンから水路でコペンハーゲン、ストックホルムを経てトゥルク(フィンランド)へ行き、そこからヘルシンキとソ連との国境駅までを鉄道で進んでいる。
コペンハーゲンからの船旅の途中で(16歳のとき)、この進路は「1917年という革命年にレーニンがロシアへと旅をしたのと同一のルート」だということが頭をよぎる(p.10)。
このときの記憶として記述しているので、ドイツにいた16歳ほどの青少年にも、レーニンとそのスイスからのドイツ縦断についての知識があったようだ。
・W・ルーゲは、ストックホルムより後は、母親の内縁の夫でコミンテルンの秘密連絡員らしきドイツ人の人物とともに兄と三人でソ連に向かう。
ソ連に入ったときの印象が、こうある。「レーニン」は出てこない。
フィンランドの最終駅を降りてさらに、「決定的な、20ないし30歩」を進んだ。
ロシア文字を知らなかったし、理解できなかったが、しかし、「そこには、『万国の労働者よ、団結せよ!』とあるのが分かった。宗教人が処女マリアを一瞬見たときに感じたかもしれないような、打ち負かされるような、表現できない感情が襲った。私は、私の新しい世界へと、入り込んだ」(p.12)。
・さかのぼって、ドイツ・ベルリンにいた6歳のときのことを、こう綴っている。
「レーニンが死んだとき〔1924年1月-秋月〕、6歳だった私は、つぎのことで慰められた。
レーニンの弟のK・レーニン(カリーニンのこと)がその代わりになり、全く理解できないではない謎かけではなくて、<レーニンは死んだ。しかしレーニン主義はまだ生きている>と分かりやすく表現してくれた。」(p.25)
このとき彼はすでに、レーニンの名を知っていた。さらに、ソヴィエトの一ダースほどの指導者の名前を知っていた、ともある(同上)。
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