次の節に入る。
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第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大①。〔第7節/p.397~403。〕
条件つきながらも私企業の出現を認めることになる経済統制の緩和は、ボルシェヴィキにとっては、政治的な危険だった。
ゆえに彼らは、経済の自由化とともに政治的統制をいっそう強くすることを確認した。
レーニンは第11回党大会〔1922年3月27日-4月2日〕で、矛盾していると見えるこのような政策の理由を、つぎのように説明した。//
『栄光の大前進のあとで退却(retreat)するのは、たいへん困難だ。
今では、諸条件は全く異なる。
以前は、諸君が党規律を遵守しなくても、全員が自分たち自身で押し合って前へと突進した。
党規律のことが今や、もっと考慮されなければならない。
党規律が、百倍以上も必要だ。軍全体が退却しているときに、どこで止まればよいかを知ったり、見たりしないからだ。
狼狽した声がここでいくつか上がれば、それで総逃亡になってしまう。
そんな退却が実際の軍隊で起きれば、軍は機関銃部隊を展開する。そして、命じられた退却が壊滅的敗走に変われば、軍は命令する、「撃て(Tire)」。正しくそのとおりだ。』(*)//
こうして1921年~1928年は、経済の自由化と政治的抑圧の増大とが結びついた時期だった。
政治的抑圧は、ソヴェト・ロシアにまだ存続している自立組織、すなわち正教教会や対抗する社会主義諸党に対する迫害という形をとった。また、知識層や大学界に対しては、とくに危険だと考えられた知識人の大量の国外追放、検閲の強化、刑事法律の苛酷化によって、抑圧が増大した。
このようなやり方は、ソヴィエト国家が経済自由化に賛成しているまさにそのときに外国に悪印象を生み出す、と主張して反対する者たちがいた。
レーニンは、ヨーロッパを歓ばせる必要は全くない、ロシアは<私的関係>や公民の事案に国家が介入するのを強化する方向へ『さらに進む』べきだ、と答えた。(116)//
このような介入の主たる手段は、闇のテロル機関から全方向に広がる枝葉をもつ官僚機構へとネップのもとで変形した、政治警察だった。
ある内部的指令文書によると、その新しい任務は、経済状態を近くで監視して、反ソヴェト政党や外国資本による『怠業(sabotage)』を阻止すること、国家へと指定された物品が良質で間に合うように配達されるのを確実にすること、だった。(117)
保安警察がソヴェトの生活のあらゆる側面を貫き透す程度は、その長、フェリクス・ジェルジンスキー(Felix Dzerzhinskii)が就いた地位が示している。
彼は、あるとき、また別のとき、内務人民委員、交通人民委員、そして国家経済最高会議議長として仕事をした。//
チェカは完全に憎まれ、無垢な血を流すことに対する悪評は、金を使って人を意のままにすることよりはまだましだった。
レーニンは1921年遅くに、帝制時代の秘密警察に添うようにこの組織を改革することを決定した。
チェカは今や、通常の(国家以外の)犯罪に対する権限を剥奪され、それ以降は、司法人民委員部に管理されるものとされた。
レーニンは1921年12月に、チェカの実績を称えつつ、ネップのもとでは新しい保安の方法が必要で、現在の秩序は『革命的合法性』だ、と説明した。それは、国家の安定化によって政治警察の機能を『狭くする』ことができる、ということだった。(118)//
チェカは1922年2月6日に廃止され、すぐに国家政治管理局、またはGPU(ゲペウ、Gosudarstvennoe politicheskoe upravlenie)という無害の名前の国家機関が代わった(ソヴィエト同盟の設立後の1924年に、OGPU(オゲペウ)又は『統合国家政治管理局』へと代わる)。
その管理は変わらず、長がジェルジンスキー、次官はIa. Kh. ピョートル、他の全ての者で、『ルビャンカ〔チェカ本部〕からかき混ぜられたチェカ人はいなかった』。(119)
帝制時代の警察部局と同様に、GPUは内務省(内務人民委員部)の一部だった。
それは、『強盗を含む公然たる反革命行動』を鎮圧し、諜報活動(espionage)と闘い、鉄道線路や給水路を守り、ソヴィエト国境を警護し、そして『革命秩序を防衛するための…特殊任務を遂行する』ものとされた。(120)
その他の犯罪は、裁判所や革命審判所(Revolutionary Tribunals)の管轄に入った。//
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(*) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕p. 88-P. 89。レーニンは、以前の第10回党大会で、政治問題を解決する手段として機関銃部隊に言及した。労働者反対派の代弁者が機関銃を反対者に向ける脅威について反対したとき、レーニンは、彼の経歴上独特の例に違いないが、詫びて、二度とそのような表現を使わないと約束した。Desiatyi S' ezd, p. 544。
レーニンは翌年に再び その表現を使ったので、自分の言明を忘れていたに違いない。
〔レーニンの本文引用部分は、邦訳文がレーニン全集(大月書店)第33巻p.286、にある。そのままなぞった試訳にしてはいない。-試訳者・秋月〕
(116) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p.412。
(117) RTsKhIDNi, F. 2, op. 2, delo p.1154、1922年2月27日付のS・ウンシュリフトによる草案。
(118) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕p. 327-329。
(119) レナード・G・ゲルソン, レーニンのロシアの秘密警察 (1976), p.222。
(120) イズベスチア, No. 30/1469 (1922年2月8日), p.3。
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②につづく。
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第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大①。〔第7節/p.397~403。〕
条件つきながらも私企業の出現を認めることになる経済統制の緩和は、ボルシェヴィキにとっては、政治的な危険だった。
ゆえに彼らは、経済の自由化とともに政治的統制をいっそう強くすることを確認した。
レーニンは第11回党大会〔1922年3月27日-4月2日〕で、矛盾していると見えるこのような政策の理由を、つぎのように説明した。//
『栄光の大前進のあとで退却(retreat)するのは、たいへん困難だ。
今では、諸条件は全く異なる。
以前は、諸君が党規律を遵守しなくても、全員が自分たち自身で押し合って前へと突進した。
党規律のことが今や、もっと考慮されなければならない。
党規律が、百倍以上も必要だ。軍全体が退却しているときに、どこで止まればよいかを知ったり、見たりしないからだ。
狼狽した声がここでいくつか上がれば、それで総逃亡になってしまう。
そんな退却が実際の軍隊で起きれば、軍は機関銃部隊を展開する。そして、命じられた退却が壊滅的敗走に変われば、軍は命令する、「撃て(Tire)」。正しくそのとおりだ。』(*)//
こうして1921年~1928年は、経済の自由化と政治的抑圧の増大とが結びついた時期だった。
政治的抑圧は、ソヴェト・ロシアにまだ存続している自立組織、すなわち正教教会や対抗する社会主義諸党に対する迫害という形をとった。また、知識層や大学界に対しては、とくに危険だと考えられた知識人の大量の国外追放、検閲の強化、刑事法律の苛酷化によって、抑圧が増大した。
このようなやり方は、ソヴィエト国家が経済自由化に賛成しているまさにそのときに外国に悪印象を生み出す、と主張して反対する者たちがいた。
レーニンは、ヨーロッパを歓ばせる必要は全くない、ロシアは<私的関係>や公民の事案に国家が介入するのを強化する方向へ『さらに進む』べきだ、と答えた。(116)//
このような介入の主たる手段は、闇のテロル機関から全方向に広がる枝葉をもつ官僚機構へとネップのもとで変形した、政治警察だった。
ある内部的指令文書によると、その新しい任務は、経済状態を近くで監視して、反ソヴェト政党や外国資本による『怠業(sabotage)』を阻止すること、国家へと指定された物品が良質で間に合うように配達されるのを確実にすること、だった。(117)
保安警察がソヴェトの生活のあらゆる側面を貫き透す程度は、その長、フェリクス・ジェルジンスキー(Felix Dzerzhinskii)が就いた地位が示している。
彼は、あるとき、また別のとき、内務人民委員、交通人民委員、そして国家経済最高会議議長として仕事をした。//
チェカは完全に憎まれ、無垢な血を流すことに対する悪評は、金を使って人を意のままにすることよりはまだましだった。
レーニンは1921年遅くに、帝制時代の秘密警察に添うようにこの組織を改革することを決定した。
チェカは今や、通常の(国家以外の)犯罪に対する権限を剥奪され、それ以降は、司法人民委員部に管理されるものとされた。
レーニンは1921年12月に、チェカの実績を称えつつ、ネップのもとでは新しい保安の方法が必要で、現在の秩序は『革命的合法性』だ、と説明した。それは、国家の安定化によって政治警察の機能を『狭くする』ことができる、ということだった。(118)//
チェカは1922年2月6日に廃止され、すぐに国家政治管理局、またはGPU(ゲペウ、Gosudarstvennoe politicheskoe upravlenie)という無害の名前の国家機関が代わった(ソヴィエト同盟の設立後の1924年に、OGPU(オゲペウ)又は『統合国家政治管理局』へと代わる)。
その管理は変わらず、長がジェルジンスキー、次官はIa. Kh. ピョートル、他の全ての者で、『ルビャンカ〔チェカ本部〕からかき混ぜられたチェカ人はいなかった』。(119)
帝制時代の警察部局と同様に、GPUは内務省(内務人民委員部)の一部だった。
それは、『強盗を含む公然たる反革命行動』を鎮圧し、諜報活動(espionage)と闘い、鉄道線路や給水路を守り、ソヴィエト国境を警護し、そして『革命秩序を防衛するための…特殊任務を遂行する』ものとされた。(120)
その他の犯罪は、裁判所や革命審判所(Revolutionary Tribunals)の管轄に入った。//
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(*) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕p. 88-P. 89。レーニンは、以前の第10回党大会で、政治問題を解決する手段として機関銃部隊に言及した。労働者反対派の代弁者が機関銃を反対者に向ける脅威について反対したとき、レーニンは、彼の経歴上独特の例に違いないが、詫びて、二度とそのような表現を使わないと約束した。Desiatyi S' ezd, p. 544。
レーニンは翌年に再び その表現を使ったので、自分の言明を忘れていたに違いない。
〔レーニンの本文引用部分は、邦訳文がレーニン全集(大月書店)第33巻p.286、にある。そのままなぞった試訳にしてはいない。-試訳者・秋月〕
(116) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p.412。
(117) RTsKhIDNi, F. 2, op. 2, delo p.1154、1922年2月27日付のS・ウンシュリフトによる草案。
(118) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕p. 327-329。
(119) レナード・G・ゲルソン, レーニンのロシアの秘密警察 (1976), p.222。
(120) イズベスチア, No. 30/1469 (1922年2月8日), p.3。
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②につづく。