○ 櫻井よしこ的「保守」にはいいかげんうんざりしていると、既にいく度か書いた。
 本当は読みたくもないし、それについて何か書きたくもない。精神衛生によくない。
 しかし、自分自身が始めてしまったから、誰にも強いられない立場ながら、やむをえない。櫻井による米大統領トランプ批判(ケチつけ)や、その「天皇」・「宗教」観について、ある程度すでに、書き記す用意ができてしまった。
 ○ 前回に2015年戦後70年安倍内閣談話についての、週刊新潮(同年8/27)誌上での高い評価を見た。
 ところが、櫻井よしこは、この週刊誌の連載ものをまとめた書物では、何と微妙に、あるいはほとんど逆方向にすら、論評内容を変える「追記」を付加している。
 櫻井よしこ・日本の未来(新潮社、2016.05)、p.192。
 毎週の週刊誌読者に対して失礼だろう。また、櫻井よしこにとっての「歴史認識」とは何か、櫻井にとっていったん活字にした自分自身の論評とは何か、を強く疑わざるをえない。要するに、この人にとっては、歴史認識も安倍談話も、じつはどうでもよいのではないか。そのときそのときで適当に書いて原稿を渡せればよいのではないか。
 上の本の8カ月ほど前に櫻井は書いて、活字にした。
 例えば、談話は「安倍晋三首相の真髄」、「大方の予想をはるかに超える深い思索に支えられた歴史観」を示す。/談話は、有識者会議「21世紀構想懇談会」の「歴史観を拒絶した」
 ○ それが何と、上掲書では変質してしまう。これを読んだとき、秋月は、すぐさま、<保守論壇の「八方美人」>と感じて、その旨を一行、一言だけだが、この欄に書いた。
 この変化は、戦後70年安倍談話に対して、(私には当然のことだが)厳しい批判が明言されたことにあるようだ。
 櫻井よしこは、中西輝政と伊藤隆の二人を明示しつつ、「少なからぬ専門家から厳しい批判が寄せられた」と書く。上記、p.192。
 このような反応に櫻井よしこは困ったようで、かつまた、中西輝政らの批判の正当性に(ようやく?)気づいたようで、何とか綻びを繕おうとしている。
 櫻井は何と、つぎのようにここでは言い切っている。
 「両氏の主張、つまり談話批判は全くそのとおりであると認める」。
 中西輝政の批判の中には当然ながら、有識者「21世紀構想懇談会」の報告書によって国家の歴史解釈を規定すべきでない、ということがあった。
 にもかかわらず、週刊新潮の段階では櫻井は、有識者会議「21世紀構想懇談会」の「歴史観を拒絶した」ことを、安倍談話を高く評価する根拠の一つにしていた。
 中西・伊藤らの主張・談話批判を「全くそのとおりであると認める」ということは、有識者会議「21世紀構想懇談会」の「歴史観を拒絶した」というかつての自分の読み方が、完璧に誤りだったと正面から認めているのに他ならない
 しかし、ここが櫻井よしこのしぶとい( ?)ところで、中西輝政が一部で「政治文書」という言葉を使っていることに着目して、つぎのように書く。
 両氏の談話批判は「全くそのとおり」だが、私(櫻井)が安倍首相談話を「評価する理由はそれが政治文書であるという点だ」
 唖然とするとしか、言いようがない。
 中西輝政が「政治文書」と語ったのはおそらく、十分に皮肉を込めてだろう。安倍晋三氏よ、日本国家の歴史認識を「政治」的に操作してよいのか、という意味だろう。ついでに記すと、西尾幹二も「政治的文書」という語を用いて表向き褒めるような導入をしつつ、そのあとで、談話の歴史認識を実質的に批判している(西尾幹二・日本/この決然たる孤独(徳間書店、2016)-原論考・月刊正論2015年11月号「安倍総理へ『戦後75年談話』を要望します」)。
 中西の「政治文書として賞賛措く能わざるほど素晴らしいできだ」という文章が、そのまま安倍談話を「政治文書」として高く評価するものと理解するのは、幼稚すぎる。批判をこめた皮肉だろう。
 すなわち、これまた、日本語文章の意味を全文の中で、種々のレトリックをくぐり抜け、行間も推察しつつ理解する、ということを櫻井よしこができないことを示しているだろう。
 さらに、櫻井は、やや意味不明だが、つぎのようにも書く。
 「政治文書」として高く評価できるが、「歴史理念としては村山談話を超えるものではなかった」。上記、同頁。
 この部分は、週刊新潮誌上での、安倍首相談話は「大方の予想をはるかに超える深い思索に支えられた歴史観」を示した、という無限定の高評価と真反対だ。
 平然とこのように書けるのが櫻井よしこであることを、多くの国民は、とりわけ「左翼」ではない人々は、知らなければならない。「歴史理念としては村山談話を超えるものではなかった」というニュアンスなど、2015年夏の時点では何も語っていない。
 本来はかつての文章を全面的に取消し、単行本に収載するに際してはこれを含めない、削除する、というのが、良心的なかつ正義感のある、自己懐疑心のある、立派な「ジャーナリスト」・評論家だろう。
 では、後から持ち出した「政治文書」として評価する、という論じ方は適切なのか。
 中西輝政らの指摘を知ったあとでの後出しジャンケンのごとき論法を持ち出すな、と言いたいが、まともに取り上げてみよう。
 簡単に、論駁できる。
 首相、内閣、大臣等々の談話は、すべてが<政治的>だ。
 彼らが発表する談話、声明等々は、すべて「政治文書」だ。もともと学者の研究論文ではない。
 その「政治文書」の中に、日本国と日本人の<歴史認識>に大きく関係する内容を、しかも根幹的内容として含めてしまってよいのか、というのがそもそもの問題だったのだ。
 櫻井よしこの論法でいえば、村山富市談話も、慰安婦にかかる河野談話も、「政治文書」だからという理由で、免罪されてしまうことになりかねない。
 櫻井よしこは、村山談話や河野談話に対して、「政治文書」か「歴史認識」・「歴史理念」を示す文書かの区別をしたうえで批判してきたのか。
 そんな区別をしていないだろう。
 しかるになぜ、安倍首相2015年談話については、2016年になって「歴史理念」は「村山談話を超えるものではなかった」が、「政治文書」であるという理由で「評価する」と、ヌケヌケと語れるのか。
 ○ 2009年にはすでに、櫻井よしこは信用できない、と感じてきた。
 このような人物を「保守」的「研究」団体の理事長にまつり上げる、又はかつぎ上げることをしなければならない<日本の保守>というものは、本当に絶望的なのではないかと、本当に危ういのではないかと、むろん櫻井のような人物だけなのではないが、強く感じている。
 櫻井よしこ「研究」を、さらにつづける。