Richard Pipes, The Russian Revolution (1990) の邦訳書は、刊行されていない。このことを意識して、(おそらく間違いなく一部の)邦訳を試みる。英語や英文読解の専門家ではなく、ロシア革命・ロシア史・ソ連史の専門家でもないので不正確又は不適切な訳があるのは当然だろうが、とりあえずはスピードも配慮する。
 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源、の第1節の最初から。
 読みやすさを考えて、原則としてすべての一文ごとに改行する。原書での改行(一段落の終わり)は、以下では、「//」を記すことにする。
 注の記号又は番号も付す。但し、注記の内容は、ロシア語文献等の場合は訳出しないこととする。
---
第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第1節・レーニンの青少年期 〔p.341-p.345。〕
 レーニンは、ロシア革命とそれに続く体制にとって計り知れない重要な役割を果たした。こう論評するにあたって、歴史は『偉人』によって作られる、と考える必要はない。
 この重要性とは、権力が事態の推移に決定的な影響力をもつことを彼に許したということのみならず、1917年10月に彼が設定した体制は、いわばレーニンの個性を組織化したものだった、ということでもある。
 ボルシェヴィキ党はレーニンの創造物だった。すなわち、彼は創立者として、自分の心象に抱いたものを生み、内外からの反対者をすべて打倒することにより、彼が描いた路線上にこの党を維持し続けた。
 1917年10月に権力奪取した同じ党が、すみやかに対抗政党と組織を排除し、ロシアの政治権力の排他的な源泉になった。 
 ゆえに、共産主義ロシアは、最初から異様な程度にまで、一人の人物の精神と心理を反映したものだった。レーニンの伝記とロシアの歴史は、独特なかたちで融合しあっている。//
 歴史的な人間像についてこれほど多くのことが書かれている者はほとんどいないが、レーニンに関する真実の情報は散在している。
 レーニンは自分を自らの教条(cause)と区別することを好まなかったし、また、その教条から離れた存在だと認めようとすらしなかったので、自叙伝的な記録をほとんど何も残していない。彼の人生は、そう思い抱いたごとく、党の生命と同じなのだった。 
 自分自身の目や仲間の目からしても、レーニンだけが、唯一の公的な人格をもっていた。
 彼にある個人的特性は、共産主義者の文献では、偉人伝に共通する美徳になっている。すなわち、教条への自己犠牲的な献身、謙虚さ、自己規律、寛容さ。// 
 レーニンの成長期については、ほとんど知られていない。
 レーニンの最初の23年間について書かれたものには、ほんの20の事項があるにすぎない。そのうちのほとんどは、請願書、証明書、その他の公的な文書だ。(1)
 若きインテリに期待するかもしれない、手紙も、日記も、あるいは随筆類もない。
 このような資料は実存していないか、または、ありそうなことだが、ソヴェトの資料庫(archives)に秘密にして隠されている。それを開放すれば、公的な文献で描かれたのとはきわめて異なる青年レーニンの本性が明らかになるだろう。(*)
 伝記作者は、どの出来事についても、レーニンの知的かつ心理的な成長を再現しようとはほとんどしていない。いかなる政治的な関与も、狂信的な革命家への興味もすらないままで大きくなった、ふつうの青少年の成長の期間(およそ1887-93年)についてだ。
 われわれが持つ証拠資料は、ほとんどが雰囲気や状況に関するものだ。その多くは、否定的な知識-つまり、ひょっとすればレーニンが失敗したこと-に依拠している。
 若きレーニンを再現するためには、長年の組織的カルト生活によって彼の像に堆積した上塗りの層を、注意深く剥がしていく努力が必要だ。(+)//
 レーニンは、ウラジミール・イリィチ・ユリアノフとして、1870年4月にジンビルスクで、伝統的な、そして不自由のない裕福な官僚の家族の中に生まれてきた。
 学校監理官の父親は、1886年に死ぬまでに、将軍や世襲貴族と同等の地位のある国家評議会員の身分を獲得していた。
 父親は、アレクサンダー二世の改革に共感し、教育こそがロシアの進歩のための鍵だと考える、保守・リベラルの人物だった。
 彼はきわめて懸命に働き、監理官としての16年の間に数百の学校を設置したと言われている。 
 ブランクというレーニンの母親は、ドイツ人に祖をもつ医師の娘だった。彼女の写真を見ると、まるでウィスラーの肖像画から踏み出てきたかのように感じる。
 信心深く正教派教会の儀礼と休日とを遵守する、幸福なかつ緊密な家族だった。//
 1887年に、悲劇が家族を襲った。レーニンの兄、アレクサンダーが、友人たちと組んでツァーリ〔皇帝〕を暗殺すべくペテルスブルクで爆弾を運んでいたという咎で逮捕された。
 熱心な科学者のアレクサンダーは、ペテルスブルク大学で3年を終えるまでは、政治に対して何の関心も示さなかった。
 彼は大学で、プレハーノフやマルクスの書物に慣れ親しみ、そして人民の意思(People's Will = Narodnaia Volia)の綱領に一定の社会民主主義の要素を接ぎ木することを主張する、折衷派的政治イデオロギーを選択した。
 産業労働者に革命における主要な役割を与えることを認め、政治テロルは手段であり、社会主義への直接的移行が目的であると彼は考えていた。
 マルクス主義と人民の意思のこの特徴的な混合物は、レーニンが数年後に自ら発展させる綱領を予期させるものだった。
 アレクサンダー・ユリアノフは1887年3月1日、アレクサンダー二世暗殺の第6回記念日に逮捕され、公開の裁判にかけられ、仲間の陰謀者たちとともに処刑された。
 彼は、その間ずっと、模範的な威厳を保つ振る舞いをした。//
 父親の死後まもなくのちに行われたアレクサンダーの処刑は、彼の革命活動について何も知らなかった家族に強い影響を与えた。
 しかし、ウラジミールの行動を何らかのかたちで変えた、といういかなる証拠資料もない。
 レーニンの妹、マリアはだいぶのちに、レーニンは兄の運命を知って『いや、われわれはそう進まない。われわれはそう進んではならない』と叫んだと主張した。(2) 
 こう強く述べたときマリア・ユリアノフは当時ほんの9歳だったことを差し置いても、真実ではありえない。なぜなら、兄が処刑されたとき、レーニンは政治にはまったく無頓着だった。
 マリアが想像した目的は、17歳の高校生だったレーニンがすでにマルクス主義に傾倒していた、ということを示唆することだ。しかし、これは用いうる証拠資料と矛盾している。 
 さらに、家族が収集していたものから決定的に明らかになるのは、二人の兄弟は親密ではなかったこと、およびアレクサンダーはウラジミールの生意気な振る舞いや冷笑の癖をきわめて不快に感じていた、ということだ。//
  (*) ソヴェトの保管所に隠されたままだった若きレーニンに関する第一次および第二次の資料については、R. Pipes 編・Revolutionary Russia (1968), p.27, n.2 を参照。
  (+) 私はR. Pipes 編・Revolutionary Russia (1968) で、利用できる革命期ロシアの資料文書にもとづいて、レーニンの初期の知的および精神的な成長を描こうと試みた。この辺りの頁の情報のたいていは、この作業によるものだ。さらに補足して、私のつぎの二つの著作を挙げておく。R. Pipes, Struve: Liberal on the Left, 1870-1905 (1970)、および R. Pipes, Social Democracy and the St. Petersburg Labor Movement, 1885-1897 (1963) 。二次的情報源の中では、Nikolai Valentinov, The Early Years of Lenin (1969) が最も有益だ。
 ---
 ②へとつづく。