Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.850-p.852。 〔〕は、秋月が補足・挿入。

 1917年〔8月末まで〕
「  1月27日 プロトポポフ、労働者集団を逮捕。
   2月14日 ドゥーマ、再開会。
   2月22日 ニコライ、モギレフへと出立。
   2月23日 国際婦人日と連携したペトログラードでの集団示威行進(デモ、Demonstrations)。
   2月24日 ペトログラードでさらに大きなデモ。
   2月25日 デモが暴力に変わる。ニコライ、力による鎮圧を命令。
   2月26日 ペトログラード、軍隊により占拠される。ヴォリンスキー連隊の一団が民衆に発砲し、40人死亡。パヴロフスキー連隊の一団、抗議して反乱。
   2月26日-27日の夜 パヴロフスキー連隊兵団、徹夜で会合し、対民間人発砲命令に対する不服従を票決。
   2月27日 ペトログラードの大部分、反抗する守備部隊の手中に。政府の建築物が燃焼。ニコライ、混乱を収拾する特殊兵団を率いてペトログラードへと進むよう、イワノフ将軍に命令。メンシェヴィキ、ソヴェト代議員選挙を要求し、夕方に、ペトログラード・ソヴェトの会合を組織。
   2月28日 ニコライ、早朝にツァールスコエ・セロに向かう。ドゥーマの年長者議員会議が行われ、臨時委員会を設立。ペトログラードの全域で、工場や軍駐屯地がソヴェトへの代議員を選出。ソヴェトの最初の幹部会合。混乱がモスクワへと広がる。
   2月28日-3月1日の夜 皇帝列車、停止。プスコフへと方向転換。
   3月 1日 イスパルコム(Ispolkom 〔ペトログラード・ソヴェト執行委員会〕)、ドゥーマの臨時委員会との合意の基盤とする9項目綱領を起草し、第一命令を発布。ニコライ、夕方にプスコフに到着、ドゥーマによる内閣形成を求めるアレクセイエフ将軍の懇願に同意し、イワノフ将軍に任務終了を命令。モスクワ・ソヴェトの設立。
   3月1日-2日の夜 ドゥーマとソヴェト代議員、9項目綱領を基礎に合意を達成。ランスキー将軍がモギレフで、ドゥーマ議長・ロジアンコと電信による会話。
   3月 2日 G・E・ルヴォフを議長として臨時政府設立。アレクセイエフは前線の兵団長たちと連絡をとる。ニコライ、子息への譲位に同意。シュルギンとグシュコフがプスコフへと出発。ニコライ、帝室医師と子息について会話し、弟・ミハイルに譲位すると決めたとシュルギンとグシュコフに伝える。退位声明に署名。ウクライナのラダ(ソヴェト)、キエフで設立。
   3月 3日 臨時政府がミハイルと会見し、帝位を放棄するように説得。 
   3月 4日 ニコライの退位宣言とミハイルの帝位放棄が公表される。臨時政府、警察部局を廃止。
   3月 5日 臨時政府、官僚と幹部職員の全員を解任。
   3月 7日 イスパルコム、臨時政府を監視する『連絡委員会』を設置。
   3月 8日 ニコライ、軍兵士たちに別れを告げることを懇願、逮捕されたままでツァールスコエ・セロに向かう。
   3月 9日 合衆国〔アメリカ〕、臨時政府を承認。
   3月18日 イスパルコム、全ての社会主義政党が3名の代議員を出す権利があると決める。
   3月22日 ミリュコフ、ロシアの戦争目的を明確にする。
   3月25日 臨時政府、穀物取引の国家独占を導入。
   3月 末  イギリス、皇帝一族を保護すべく撤退を提案。
   4月 3日 レーニン、ペトログラードに到着。
   4月 4日 レーニン『四月テーゼ』。
   4月21日 最初のボルシェヴィキのデモ、ペトログラードとモスクワで。
   4月26日 臨時政府、秩序維持能力の欠如を認める。
   4月28日 ボルシェヴィキ、赤衛軍(Red Guard)を組織。
   4月 初期 ソヴェト・全ロシア協議会、ペトログラードで開会。ソヴェト・全ロシア中央執行委員会(CEC)を形成。
   5月 1日 CEC、メンバーの臨時政府参加を容認。   
   5月4日-5日の夜 ルヴォフのもとで連立政権の形成、ケレンスキーは戦争大臣、6人の社会主義者が閣内に。 
   5月    トロツキー、ニューヨークからロシアに帰還。
   6月 3日 第1回全ロシア・ソヴェト大会、開会。
   6月10日 CECの圧力により、ボルシェヴィキが政府転覆の考えを放棄。
   6月16日 ロシア軍、オーストリアへの攻撃を開始。
   6月29日 レーニン、フィンランドへ逃亡、7月4日朝までとどまる。
   7月 1日 臨時政府、ボルシェヴィキ指導者の逮捕を命令。
   7月2-3日 ペトログラード第一機銃連隊の反乱。
   7月 4日 ボルシェヴィキの蜂起、レーニンがドイツと交渉するとの情報により鎮圧される。
   7月 5日 レーニンとジノヴィエフ、最初はペトログラードに、のち(7月9日)首都近くの田園地域に隠れる。最後に(9月)、レーニンはフィンランドへ。
   7月11日 ケレンスキー、首相に。
   7月18日 コルニロフ、最高司令官に指名される。
   7月 末  第6回ボルシェヴィキ党大会、ペトログラードで。
   7月31日 ニコライとその家族、トボルスクへ出立。
   8月 9日 臨時政府、憲法制定会議(Constituent Assembly)の選挙を11月12日に行い、11月28日に同会議を招集する予定を発表。
   8月14日 モスクワ国家会議、開かれる。コルニロフ、騒然として迎えられる。
   8月20-21日 ロシア軍、ドイツに対してリガを放棄。 
   8月22日 V・N・ルヴォフ、ケレンスキーと会合。
   8月22-24日 モギレフのザヴィンスキー、コルニロフにケレンスキーの命令を渡す。
   8月24-25日 ルヴォフ、コルニロフと逢う。
   8月26日 ルヴォフ、ケレンスキーにコルニロフの「最後通告」文を伝える。ケレンスキー、コルニロフと電話会談。ルヴォフ、逮捕される。 
   8月26日-27日の夜 ケレンスキー、内閣から独裁的権力を確保。コルニロフを解任。 
   8月27日 コルニロフ、反逆者とされる。コルニロフ暴乱、武装団にコルニロフに従うよう求める。
   8月30日 臨時政府、7月蜂起によりまだ収監中のボルシェヴィキの解放を命令。」
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 *1917年9月以降につづく。