ロシア革命の歴史年表については、昨年10/22の<日本共産党の大ウソ30>の中にその一部を記しているが、研究者による本格的で詳しい年表があるので、以下に、そのまま翻訳して記載しておく。
Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)。これは本文842頁、その後の注・索引等を含めて946頁、最初の目次等を含めると計960頁を超えそうな大著で、邦訳書はない。
以下は、この著のうち、p.847-p.856の「年表」の一部で、今回①は、p.847からp.849の一部まで。
なお、上の著はおよそ1919年くらいまでを対象としており、別著の、Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995、<ボルシェヴィキ体制下のロシア>)と併せて、おおよそスターリン期開始まで(あるいはレーニン死去まで)の、Richard Pipes の広義の<ロシア革命史>叙述が完成している。
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「年表(Chronology)
この年表は、この本で対象とする主要な諸事象を列挙する。別のことを記載しないかぎり、1918年2月以前の月日は、ユリウス暦(『旧暦』)により記す。この日付は、19世紀の西洋暦よりも12日遅く、21世紀のそれよりも13日遅い。1918年2月からの月日は、西洋暦に一致する『新暦』で記される。
1889年
2月-3月 ロシアの大学生たちのストライキ。
7月29日 不穏学生を軍隊に徴用する権限を付与する「暫定命令」。
1900年
政府、Zemstva の課税権を制限。
11月 キエフ、その他の大学で騒乱。
1901年
1月11日 183名のキエフの学生を軍隊に徴用。
2月 教育大臣・ボゴレポフの暗殺。警察支援の(Zubatov)商業組合が初めて設立。
1902年
1901-2年の冬 ロシア社会民主党(PSR)の結成。
6月 リベラル派、ストルーヴェの編集により隔週刊雑誌 Osvobozhdenie(解放)をドイツで発行。
3月 レーニン『何をなすべきか ?』
4月 2日 内務大臣・シピアギンの暗殺。プレーヴェが後継者。
1903年
4月 4日 キシネフの大量殺害。
7月-8月 ロシア社会民主党第二回(創設)大会。メンシェヴィキ派とボルシェヴィキ派に分裂。
7月20-22日 解放同盟、スイスで設立される。
1904年
1月 3-5日 解放同盟、ペテルスブルクで組織される。
2月 4日 プレーヴェ、ガポンの集会開催を承認。
2月 8日 日本軍、旅順を攻撃。露日戦争の開始。
7月15日 プレーヴェの暗殺。
8月 ロシア軍、遼陽で敗戦。
8月25日 スヴィアトポルク-ミルスキー、内務大臣に。
10月20日 解放同盟第二回大会。
11月 6-9日 Zemstvo 大会、ペテルスブルクで。
11-12月 解放同盟が全国的な夕食会宣伝活動を組織。
12月 7日 ニコライと高官が改革綱領を討議。国家評議会に被選挙代議員を加える考えを拒否。
12月12日 改革を約束する勅令公布。
12月20日 旅順、日本軍に降伏。
1905年
1月 7-8日 父ガポンによりペテルスブルクで大産業ストライキが組織される。
1月 9日 血の日曜日。
1月18日 スヴィアトポルク-ミルスキー解任、ブリュイギンに交代。
1月10日以降 ロシア全域で産業ストライキの波。
1月18日 政府がドゥーマの招集を約束し、苦情陳述請願書を提出するよう国民に求める。
2月 ペテルスブルクの工場で政府後援の選挙。
2月 ロシア軍、瀋陽(ムクデン)を放棄。
3月18日 全高等教育機関が在籍年限を超えた者に対して閉鎖。
4月 第二回Zemstvo 大会、憲法制定会議を要求。
春 6万の農民請願書が提出される。
5月 8日 組合同盟がミリュコフを議長として設立される。
5月14日 ロシア艦隊、対馬海峡の戦闘で破滅。D・F・トレポフ、内務大臣代行に。
6月 オデッサでの反乱と虐殺。戦艦ポチョムキンでの暴動。
8月 6日 ブリュイギン、(諮問機関的な)ドゥーマ開設を発表。
8月27日 政府が寛大な大学規制を発表。
9月 5日(新暦) 露日講和条約に署名、ニューハンプシャー・ポーツマスで。
9月 学生が労働者に大学施設を開放。大衆煽動。
9月19日 ストライキ活動の再開。
10月 9-10日 ウィッテ、ニコライに大きな政治的譲歩を強く求める。
10月12-18日 立憲民主党(カデット、Kadet)結成。
10月13日 ペテルスブルクで中央ストライキ委員会設立、まもなくペテルスブルク・ソヴェトと改称。
10月14日 ストライキにより首都が麻痺。
10月15日 ウィッテ、十月マニフェストの草案を受諾。
10月17日 ニコライ、十月マニフェストに署名。
10月18日以降 反ヤダヤ人・反学生の虐殺。地方での暴乱が始まる。
10月-11月 閣僚会議議長・ウィッテ、内閣に加入すべき民間人との討議を開始。
11月21日 モスクワ・ソヴェト設立。
11月24日 定期刊行物の事前検閲を廃止。
12月 6日 ペテルスブルク・ソヴェト、ゼネ・ストを指令。
12月 8日 モスクワ武装蜂起が鎮圧される。
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*1906年以降につづく。
Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)。これは本文842頁、その後の注・索引等を含めて946頁、最初の目次等を含めると計960頁を超えそうな大著で、邦訳書はない。
以下は、この著のうち、p.847-p.856の「年表」の一部で、今回①は、p.847からp.849の一部まで。
なお、上の著はおよそ1919年くらいまでを対象としており、別著の、Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995、<ボルシェヴィキ体制下のロシア>)と併せて、おおよそスターリン期開始まで(あるいはレーニン死去まで)の、Richard Pipes の広義の<ロシア革命史>叙述が完成している。
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「年表(Chronology)
この年表は、この本で対象とする主要な諸事象を列挙する。別のことを記載しないかぎり、1918年2月以前の月日は、ユリウス暦(『旧暦』)により記す。この日付は、19世紀の西洋暦よりも12日遅く、21世紀のそれよりも13日遅い。1918年2月からの月日は、西洋暦に一致する『新暦』で記される。
1889年
2月-3月 ロシアの大学生たちのストライキ。
7月29日 不穏学生を軍隊に徴用する権限を付与する「暫定命令」。
1900年
政府、Zemstva の課税権を制限。
11月 キエフ、その他の大学で騒乱。
1901年
1月11日 183名のキエフの学生を軍隊に徴用。
2月 教育大臣・ボゴレポフの暗殺。警察支援の(Zubatov)商業組合が初めて設立。
1902年
1901-2年の冬 ロシア社会民主党(PSR)の結成。
6月 リベラル派、ストルーヴェの編集により隔週刊雑誌 Osvobozhdenie(解放)をドイツで発行。
3月 レーニン『何をなすべきか ?』
4月 2日 内務大臣・シピアギンの暗殺。プレーヴェが後継者。
1903年
4月 4日 キシネフの大量殺害。
7月-8月 ロシア社会民主党第二回(創設)大会。メンシェヴィキ派とボルシェヴィキ派に分裂。
7月20-22日 解放同盟、スイスで設立される。
1904年
1月 3-5日 解放同盟、ペテルスブルクで組織される。
2月 4日 プレーヴェ、ガポンの集会開催を承認。
2月 8日 日本軍、旅順を攻撃。露日戦争の開始。
7月15日 プレーヴェの暗殺。
8月 ロシア軍、遼陽で敗戦。
8月25日 スヴィアトポルク-ミルスキー、内務大臣に。
10月20日 解放同盟第二回大会。
11月 6-9日 Zemstvo 大会、ペテルスブルクで。
11-12月 解放同盟が全国的な夕食会宣伝活動を組織。
12月 7日 ニコライと高官が改革綱領を討議。国家評議会に被選挙代議員を加える考えを拒否。
12月12日 改革を約束する勅令公布。
12月20日 旅順、日本軍に降伏。
1905年
1月 7-8日 父ガポンによりペテルスブルクで大産業ストライキが組織される。
1月 9日 血の日曜日。
1月18日 スヴィアトポルク-ミルスキー解任、ブリュイギンに交代。
1月10日以降 ロシア全域で産業ストライキの波。
1月18日 政府がドゥーマの招集を約束し、苦情陳述請願書を提出するよう国民に求める。
2月 ペテルスブルクの工場で政府後援の選挙。
2月 ロシア軍、瀋陽(ムクデン)を放棄。
3月18日 全高等教育機関が在籍年限を超えた者に対して閉鎖。
4月 第二回Zemstvo 大会、憲法制定会議を要求。
春 6万の農民請願書が提出される。
5月 8日 組合同盟がミリュコフを議長として設立される。
5月14日 ロシア艦隊、対馬海峡の戦闘で破滅。D・F・トレポフ、内務大臣代行に。
6月 オデッサでの反乱と虐殺。戦艦ポチョムキンでの暴動。
8月 6日 ブリュイギン、(諮問機関的な)ドゥーマ開設を発表。
8月27日 政府が寛大な大学規制を発表。
9月 5日(新暦) 露日講和条約に署名、ニューハンプシャー・ポーツマスで。
9月 学生が労働者に大学施設を開放。大衆煽動。
9月19日 ストライキ活動の再開。
10月 9-10日 ウィッテ、ニコライに大きな政治的譲歩を強く求める。
10月12-18日 立憲民主党(カデット、Kadet)結成。
10月13日 ペテルスブルクで中央ストライキ委員会設立、まもなくペテルスブルク・ソヴェトと改称。
10月14日 ストライキにより首都が麻痺。
10月15日 ウィッテ、十月マニフェストの草案を受諾。
10月17日 ニコライ、十月マニフェストに署名。
10月18日以降 反ヤダヤ人・反学生の虐殺。地方での暴乱が始まる。
10月-11月 閣僚会議議長・ウィッテ、内閣に加入すべき民間人との討議を開始。
11月21日 モスクワ・ソヴェト設立。
11月24日 定期刊行物の事前検閲を廃止。
12月 6日 ペテルスブルク・ソヴェト、ゼネ・ストを指令。
12月 8日 モスクワ武装蜂起が鎮圧される。
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*1906年以降につづく。