書き足りていないので、昨日分の続き。かりに東京裁判の「受諾」が戦後日本(正確には再独立後の日本)の原点だとの見方が正しい又は適切だとしても、それと東京裁判の被告たちを祀る神社を参拝することが矛盾しているわけではない。朝日新聞や中国(共産党・政府)は大まかには<靖国参拝=戦犯たちの賛美=侵略戦争肯定>という論法に立っているのだろうが、これは幼児の議論だ。たしかに参拝者の中には侵略戦争肯定又はあの戦争の侵略性否定の考えの者もいるだろう。しかし、死者の霊に手を合わせることが当該死者の生前の見解・行動のすべてを肯定し賛美することを意味するとは、少なくとも一般的には、絶対に言えない。一般刑法犯罪により死刑となった者の墓に手を合わせる人もいるだろう。だが(中には冤罪を主張している者もいるかもしれないが)、受刑者・刑死者の墓参者は死刑の原因となった犯罪を肯定している、と言えるはずがない。靖国参拝は戦犯たちの思想・行動の肯定を少なくとも一般的には意味しない。侵略戦争肯定又はかつての戦争の侵略性の否定を一般的には意味しない。そうだと思っている者には誤解だと説明する他はなく、意識的な「誤解」者は相手にする必要がない。
死者に対する対応の仕方は生者に対するそれとは異なるのが、日本人のほぼ一般的な心情なのではないか。中国人にそれが解らなくても当然だ。朝日新聞社の者が解らないとすれば、半分は日本人でなくなっている。
とはいえ、「神道」を含む「宗教」に関する適切な教育をほとんど受けていない私(そしておそらく多くの日本人)も、神社に死者を「祀る」といことの意味、「参拝」することの意味を、とりわけ前者をよくは理解していない。靖国神社や各神社自体にはそれぞれの意味づけが(神道の共通性は維持しつつ)あるのだろう。だが、参拝し手を合わせて瞑目する者が何を感じ思うかはまさに個人それぞれの「心の中」の問題で、一般的にこうだと強制も断定もできないのでないか。小泉現首相のこれまでの参拝の理由づけは完全には納得し難い=よく判らないところがあるが、本質的問題だとは思えない。
首相の靖国参拝は政教分離の憲法条項に関連する。戦後教育を受けてきた裁判官がほとんどとなっているのは下級審で違憲判決が出ている土壌でもある。神道をまるでキリスト教あるいは他の新興宗教等と並ぶ宗教の一つと理解すること自体に問題がある、というのが私論だ。
死者に対する対応の仕方は生者に対するそれとは異なるのが、日本人のほぼ一般的な心情なのではないか。中国人にそれが解らなくても当然だ。朝日新聞社の者が解らないとすれば、半分は日本人でなくなっている。
とはいえ、「神道」を含む「宗教」に関する適切な教育をほとんど受けていない私(そしておそらく多くの日本人)も、神社に死者を「祀る」といことの意味、「参拝」することの意味を、とりわけ前者をよくは理解していない。靖国神社や各神社自体にはそれぞれの意味づけが(神道の共通性は維持しつつ)あるのだろう。だが、参拝し手を合わせて瞑目する者が何を感じ思うかはまさに個人それぞれの「心の中」の問題で、一般的にこうだと強制も断定もできないのでないか。小泉現首相のこれまでの参拝の理由づけは完全には納得し難い=よく判らないところがあるが、本質的問題だとは思えない。
首相の靖国参拝は政教分離の憲法条項に関連する。戦後教育を受けてきた裁判官がほとんどとなっているのは下級審で違憲判決が出ている土壌でもある。神道をまるでキリスト教あるいは他の新興宗教等と並ぶ宗教の一つと理解すること自体に問題がある、というのが私論だ。