一 ブレジンスキーにおいて「全体主義」または「全体主義のメタ神話」とは共産主義とファシズム(ないしナチズム)を意味する。そして、いかなる意味でも、レーニンを除外または「免責」することはない。
「20世紀における最も強力で破壊的なメタ神話は、やはりヒトラー主義とレーニン主義だった。この二つが20世紀の政治の大半を支配し、また歴史に前例のない大量殺戮の原因となっている」(p.41)。
よく<民族(・人種)>と<階級>が問題にされる。特定の前者の抹殺を図ったのがヒトラーで、特定の後者(ブルジョワジー)の抹殺を図ったのがレーニンだった。そうした旨を、ブレジンスキーも書いている(p.41、p.43)。
かつまた、「全体主義」の代表者として共産主義の側ではスターリン(またはスターリニズム・スターリン体制)が挙げられることが多いが、ブレジンスキーは、「大衆を操作する政治」という点では、「ヒトラーとレーニンの方が共通点が多い」、「スターリンはどちらかというと、ヒムラーに近い」とする(p.42)。ヒムラーはゲシュタポ長官。
したがって、ロシア/レーニン・スターリンとドイツ/ヒトラー・ヒムラー、という対比がブレジンスキーによれば成立することとなる。
二 この1993年の本の一部を読んでの大きな印象の二つめは、ブレジンスキーはフランス革命を(そしてアメリカ独立革命も)肯定的に評価している、ということだ。
この点で、ロシア革命あるいはマルクス主義の淵源の重要な一つをフランス革命(さらにルソー)に見出そうとするR・パイプスやハンナ・アレントらとは異なる。
例えば、20世紀の「メタ神話は、フランス革命がヨーロッパに…解き放たれた多様な主張や姿勢を混ぜあわせた--そして悪用した--ものにすぎなかった」(p.34)。
「強制的なユートピア」をつくろうとした「試みは、200年前のフランス革命でヨーロッパに解き放たれた合理的かつ理想主義的な衝動を誤った方向に導いてしまった」(p.8)。
また、当初に想定した範囲外の第二部の冒頭では、つぎのように書いている。
・全体主義(=共産主義とファシズム)の失敗は、それによって歪曲されたとはいえ、「200年以上前にアメリカとフランスの革命が解き放った政治理念」を世界が受容する素地になりうる。「民主主義体制」のアメリカ・欧州・日本の成功が「その正しさを証明している」。「自由民主主義の理念〔liberal democratic concept〕そのものを、もっと魅力的なものにしなければならない」。
しかし、彼は、世界中の「自由民主主義」の将来について、楽観視しているわけではなさそうだ。Out of Control という書名にすでに見られる。それは未読の第二部以下で語られるのだろう。liberal democratic concept という英語は、原著のZ.Brzenzinski, Out of Control(1993)p.47 による。
なお、ブレジンスキーによれば、フランス革命等は、①ナショナリズム、②理想主義、③合理主義-脱宗教、を生み出した。これらすべてを「悪用」して成立したのが全体主義だ、とされる。
近代市民革命または「近代」そのものにかかわる問題には、立ち入らない。
三 きわめて興味深いのは、<自由と民主主義(liberal & democratic)>しか残らないという意味ではF・フクヤマ(「歴史の終わり」)と同じなのかもしれないが、ブレジンスキーは<反共産主義>を明確に語りつつ、同時に<自由・民主主義>への強い信頼も語っていることだ(世界がそれでまとまるかを懸念しつつ)。
興味深いという気持ちは、日本での議論状況と対比して考える、ということをしたときに生じる。
日本では、「左翼」の少なくとも有力な一傾向は、自民党・安倍政権等を「右」、ファシズム・軍国主義勢力とみて、その際に「民主主義」を有力な旗印にすることがある。その場合に、<人類の普遍的原理>なるものを持ち出して、例えば現憲法97条を削除する自民党改憲案を批判し、<人類の普遍的原理(基本的人権・民主主義等)を守る>勢力対<これを否定する>勢力の対立として政治状況(・理論 ?状況)を描こうとすることがある。要するに<自由・民主主義と平和を守れ>というわけだ。
しかし、そのような日本の「左翼」は、決して<反・共産主義>を明確にはしていない。<非日本共産党>はあるかもしれないが、<反日本共産党>を明確にしている者はたぶんきわめて少ない。明確に<容共>・<親共産主義>だと思われる者は、上野千鶴子を含めて、少なくない。民進党も、いっときの政治判断かもしれないが、日本共産党との「共闘」を否定しない。
このように、<反共かつ自由・民主主義>という勢力・理念が日本の「左翼」には少ないように見える。
一方、「保守」の側はどうか。<反共>では、強調の程度の違いはあれ、一致しているかもしれない。
しかし、<自由と民主主義>対する立場は、秋月によれば、「保守」の中において一様ではない。すなわち、①<自由・民主主義>は欧米産のかつ上記のアメリカ民主党系論者がそうであるように<アメリカ>のイデオロギーであって、日本国家と日本人は従えない、と日本の独自性を主張する勢力・論者がいる。とともに、②近代国家の諸原理あるいは「自由・民主主義」を日本も継承しているとみて、これの擁護について、全くか殆んど疑問視しない勢力・論者がいる。
安倍晋三首相は<自由・民主主義・法の支配>といった「価値」の擁護を明言しているが、それは、純粋に上の②であるのか、あるいはそれは、アメリカの意向や共産中国等との違いを意識したりしての「政治的・戦略的」なもので、真意または個人的には上の①なのか。
自民党の大臣や国会議員の発言や書いたものを見聞きしていると、自民党には、そしておそらくは「保守」論壇にも、①と②が混在している。あえて違いを見出せば、自民党議員には②の方が多く、論壇(要するに「保守」系雑誌)では①の方が多い。
自民党という「保守」政党の個々の政治家が考えていることと、「保守」論壇の論者の思考には、かなりの乖離があると、秋月には思える。
というわけで、<反共産主義と自由(リベラル)民主主義>を全く困難なく同居させ、素朴に主張できるアメリカの知識人・論者とは(こう簡単にアメリカをまとめられないだろうが、少なくともブレジンスキーとは)日本の「左翼」・「保守」ともに相当に大きく異なる、と感じられる。
こんなことを考えさせたのが、ブレジンスキーの書の一部だった。
これはしかし、重要な論点ではある。
もちろん、日本には日本の議論があってよく、アメリカでの対立軸等に拘束されることはない。だが、日本の「保守」とは何か、どう主張するのが「保守」なのか、という問題に、あえて「保守」という言葉を使えば、根幹的に関係しているはずだ。
*参考-なお、秋月瑛二は、以下の条文は削除されるべきだと考えている。1.条文にしては、「法規範」としての意味がないか、不明。2.実質的な憲法制定者が幼児・日本人を<説教>しているようだ。3.明らかに、元来は日本とは無縁の<自然権・天賦人権>論に立脚している。
**日本国憲法97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
「20世紀における最も強力で破壊的なメタ神話は、やはりヒトラー主義とレーニン主義だった。この二つが20世紀の政治の大半を支配し、また歴史に前例のない大量殺戮の原因となっている」(p.41)。
よく<民族(・人種)>と<階級>が問題にされる。特定の前者の抹殺を図ったのがヒトラーで、特定の後者(ブルジョワジー)の抹殺を図ったのがレーニンだった。そうした旨を、ブレジンスキーも書いている(p.41、p.43)。
かつまた、「全体主義」の代表者として共産主義の側ではスターリン(またはスターリニズム・スターリン体制)が挙げられることが多いが、ブレジンスキーは、「大衆を操作する政治」という点では、「ヒトラーとレーニンの方が共通点が多い」、「スターリンはどちらかというと、ヒムラーに近い」とする(p.42)。ヒムラーはゲシュタポ長官。
したがって、ロシア/レーニン・スターリンとドイツ/ヒトラー・ヒムラー、という対比がブレジンスキーによれば成立することとなる。
二 この1993年の本の一部を読んでの大きな印象の二つめは、ブレジンスキーはフランス革命を(そしてアメリカ独立革命も)肯定的に評価している、ということだ。
この点で、ロシア革命あるいはマルクス主義の淵源の重要な一つをフランス革命(さらにルソー)に見出そうとするR・パイプスやハンナ・アレントらとは異なる。
例えば、20世紀の「メタ神話は、フランス革命がヨーロッパに…解き放たれた多様な主張や姿勢を混ぜあわせた--そして悪用した--ものにすぎなかった」(p.34)。
「強制的なユートピア」をつくろうとした「試みは、200年前のフランス革命でヨーロッパに解き放たれた合理的かつ理想主義的な衝動を誤った方向に導いてしまった」(p.8)。
また、当初に想定した範囲外の第二部の冒頭では、つぎのように書いている。
・全体主義(=共産主義とファシズム)の失敗は、それによって歪曲されたとはいえ、「200年以上前にアメリカとフランスの革命が解き放った政治理念」を世界が受容する素地になりうる。「民主主義体制」のアメリカ・欧州・日本の成功が「その正しさを証明している」。「自由民主主義の理念〔liberal democratic concept〕そのものを、もっと魅力的なものにしなければならない」。
しかし、彼は、世界中の「自由民主主義」の将来について、楽観視しているわけではなさそうだ。Out of Control という書名にすでに見られる。それは未読の第二部以下で語られるのだろう。liberal democratic concept という英語は、原著のZ.Brzenzinski, Out of Control(1993)p.47 による。
なお、ブレジンスキーによれば、フランス革命等は、①ナショナリズム、②理想主義、③合理主義-脱宗教、を生み出した。これらすべてを「悪用」して成立したのが全体主義だ、とされる。
近代市民革命または「近代」そのものにかかわる問題には、立ち入らない。
三 きわめて興味深いのは、<自由と民主主義(liberal & democratic)>しか残らないという意味ではF・フクヤマ(「歴史の終わり」)と同じなのかもしれないが、ブレジンスキーは<反共産主義>を明確に語りつつ、同時に<自由・民主主義>への強い信頼も語っていることだ(世界がそれでまとまるかを懸念しつつ)。
興味深いという気持ちは、日本での議論状況と対比して考える、ということをしたときに生じる。
日本では、「左翼」の少なくとも有力な一傾向は、自民党・安倍政権等を「右」、ファシズム・軍国主義勢力とみて、その際に「民主主義」を有力な旗印にすることがある。その場合に、<人類の普遍的原理>なるものを持ち出して、例えば現憲法97条を削除する自民党改憲案を批判し、<人類の普遍的原理(基本的人権・民主主義等)を守る>勢力対<これを否定する>勢力の対立として政治状況(・理論 ?状況)を描こうとすることがある。要するに<自由・民主主義と平和を守れ>というわけだ。
しかし、そのような日本の「左翼」は、決して<反・共産主義>を明確にはしていない。<非日本共産党>はあるかもしれないが、<反日本共産党>を明確にしている者はたぶんきわめて少ない。明確に<容共>・<親共産主義>だと思われる者は、上野千鶴子を含めて、少なくない。民進党も、いっときの政治判断かもしれないが、日本共産党との「共闘」を否定しない。
このように、<反共かつ自由・民主主義>という勢力・理念が日本の「左翼」には少ないように見える。
一方、「保守」の側はどうか。<反共>では、強調の程度の違いはあれ、一致しているかもしれない。
しかし、<自由と民主主義>対する立場は、秋月によれば、「保守」の中において一様ではない。すなわち、①<自由・民主主義>は欧米産のかつ上記のアメリカ民主党系論者がそうであるように<アメリカ>のイデオロギーであって、日本国家と日本人は従えない、と日本の独自性を主張する勢力・論者がいる。とともに、②近代国家の諸原理あるいは「自由・民主主義」を日本も継承しているとみて、これの擁護について、全くか殆んど疑問視しない勢力・論者がいる。
安倍晋三首相は<自由・民主主義・法の支配>といった「価値」の擁護を明言しているが、それは、純粋に上の②であるのか、あるいはそれは、アメリカの意向や共産中国等との違いを意識したりしての「政治的・戦略的」なもので、真意または個人的には上の①なのか。
自民党の大臣や国会議員の発言や書いたものを見聞きしていると、自民党には、そしておそらくは「保守」論壇にも、①と②が混在している。あえて違いを見出せば、自民党議員には②の方が多く、論壇(要するに「保守」系雑誌)では①の方が多い。
自民党という「保守」政党の個々の政治家が考えていることと、「保守」論壇の論者の思考には、かなりの乖離があると、秋月には思える。
というわけで、<反共産主義と自由(リベラル)民主主義>を全く困難なく同居させ、素朴に主張できるアメリカの知識人・論者とは(こう簡単にアメリカをまとめられないだろうが、少なくともブレジンスキーとは)日本の「左翼」・「保守」ともに相当に大きく異なる、と感じられる。
こんなことを考えさせたのが、ブレジンスキーの書の一部だった。
これはしかし、重要な論点ではある。
もちろん、日本には日本の議論があってよく、アメリカでの対立軸等に拘束されることはない。だが、日本の「保守」とは何か、どう主張するのが「保守」なのか、という問題に、あえて「保守」という言葉を使えば、根幹的に関係しているはずだ。
*参考-なお、秋月瑛二は、以下の条文は削除されるべきだと考えている。1.条文にしては、「法規範」としての意味がないか、不明。2.実質的な憲法制定者が幼児・日本人を<説教>しているようだ。3.明らかに、元来は日本とは無縁の<自然権・天賦人権>論に立脚している。
**日本国憲法97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」