秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2496/R・パイプスの自伝(2003年)⑤。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部の試訳のつづき。
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 第二章・私の出自(My Origins)①。
 (01) ここで、時計の針をまき戻して、私の出自を語ろう。//
 (02) 私は、1923年7月11日に、ポーランドのシレジアのCieszyn (チェシン、Teschen,テシェン)という小さな市の、同化した(assimilated)ユダヤ人家庭に生まれた。そこはチェコとの境界にあり、のちにアウシュヴィッツ最終収容所となる所から50キロメートル離れていた。
 父親のMark は、1883年にLwow (Lemburg, Lviv)で生まれ、若いときはウィーンで過ごした。
 祖先はもともとは「Piepes」と綴り、19世紀初めから、生まれた市の改革志向の市民の主要人物だった。
 Bernard という名だった我々の先祖の一人は、ユダヤ人共同体の書記として勤めていたが、1840年代に、率先してLwow に改革派ラビ〔ユダヤ教聖職者〕を送り、ほとんどが職業人で成る「進歩的寺院」を率いた。
 今日の基準からすると当時は全く保守的だったユダヤ教では「進歩的」だったとはいえ、正統派のユダヤ人は激しい怒りを感じたため、彼らの一人は新しいラビを殺害し、自分の娘を彼の台所にこっそり入らせて、食物に毒を入れた。//
 (03) 1914年、父親はポーランド軍団(Legions)に入隊した。それは、ポーランドの独立のために戦うために、ドイツ・オーストリアの援助を受けて、Joseph Pilsudski が組織していたものだった。
 彼は1918年まで現役兵のままでいて、「Marian Olszewski」という偽名で、Galicia のロシアと戦った。
 父親がどんな体験をしたのか、私は知らない。戦争をすぐ近くで見たほとんどの人々と同じく、彼は語るのを好まなかったからだ。
 彼はその間に、何人かの将校たちと親しくなった。彼らはのちにポーランド共和国を動かすことになり、友人関係は大戦間の時期や我々のポーランド脱出に役立った。//
 (04) 母親のSarah Sophia Haskelberg は、家族や友人には「Zosia」として知られ、Hasidic 〔ユダヤ教の一部—試訳者〕の裕福なワルシャワの事業家の11人の子どもたちの9番目の子どもだった。
 母親はその父親を、陽気な人で、食べて、飲む美食家で、大きなひどい声で歌ったと思い出していた。
 彼は事業を発展させてロシア政府とも取引をし、制服やロシア軍用の武器を売った。そして、ワルシャワとその郊外にかなりの不動産を獲得した。
 母親の兄弟の数人は、技術学校か船乗り学校に入るために、戦争前に、ベルギーへと送られた。
 家族は夏をワルシャワ近くのリゾート地で過ごした。そこには、祖父の別荘があった。
 家族はそこへ学校が終わる前のPassover 〔出エジプト記念のユダヤ人の祝日の日々—試訳者〕の頃に移り、9月に学校が始まる後まで、滞在した。
 ワルシャワでは、家族は祖父が所有するアパートに住んだ。1939年になっても、トイレはあったが浴室はなく、台所のシンクで洗う必要がああった。//
 (05) 1915年にロシア軍がワルシャワから撤退したとき、母親の父親は彼らについてくるよう強いられた。彼が裏切ってドイツ軍にロシア軍に関して知っていることを教えるのを阻止しょうとした、というのが最もありそうだ。
 彼はその後三年間、ロシアにいた。そのうち一年は、共産主義者の支配下だった。
 ドイツとの人的関係を通じて、1918年に、彼はポーランドに戻り、息子の二人、Henry とHerman が地位を引き継ぐとの取り決めがなされた。
 彼らは二人ともロシア人女性と結婚し、残る人生をソヴィエト同盟で過ごした。
 Herman は、スターリンの粛清(purges)で殺された。1937年11月に逮捕され、すみやかに処刑された。//
 (06) 我々は1902年のクリスマスの前夜が母親の誕生日だと受け取っていた。しかし、ロシア支配下のユダヤ人家庭は男の子が兵役に就くのを回避すべく息子たちの誕生日を「取引き」するのがふつうだったので、母親の誕生日も確実ではなかった(実際、1920年代にパレスチナへ移住した彼女の兄のLeon の誕生日は1902年12月28日とされていた)。
 私の母方の祖父は、私が生まれた年に癌で死んだ。
 母親の母親は、よく憶えているが、ポーランド語をほとんど話さず、私と最小限の会話しかしなかった。
 彼女は、73歳のときにホロコーストで殺された。強制的に送られて、Treblinka にあるナツィの死の収容所で毒ガスを吸わされた。
 学校の後でときおり、私は彼女のアパートに立ち寄ったものだ。そのときいつも優しくされ、食べ物をもらった。一方で、彼女がかつて我々を訪れたことは憶えていない。//
 (07) 私の両親は1920年に、父親がワルシャワに住んでいるときに逢った。
 母親はこう私に言った。彼のことを友人から聞いたのだが、その友人は仕事で彼の父親のところを訪れてもMarek Pipes は自分を気にかけてくれない、と愚痴をこぼした。
 母親には、彼をつかまえてデートに誘う自信があった。
 彼女は彼の事務所を訪れて、彼が頻繁に行っていると聞いたレストランで見たことがある、というふりをした。
 興味をそそられ、彼は餌に食いつき、彼女を誘った、かくして、ロマンスが始まり、二人は二年後に結婚した。
 結婚式は1922年9月に行われ、その後にCieszyn (チェシン)へと移った。そこで父親は、三人の仲間と一緒に—うち一人はのちに義兄弟になる—「Dea」というチョコレート工場を経営していた。
 それは今日でも、「Olza」という名前で存在しており、「Prince Polo」という名のウェハス棒を製造している。
 その市は川で二分されていた(今もそうだ)。東部はポーランドで、西半分はチェコスロヴァキアに属していた。
 ユダヤ人たちはその市に、遅くとも16世紀の初めから住み始めていた。//
 (08) 私はチェシンで4年間だけ過ごした。そして、この郷里について、ほとんど思い出がない。
 今でもある二階建ての家で、私は生まれた。
 70年後に、チェシン市長が私に名誉市民号を授与してくれたとき、式典で私は、憶えている幼年期のことを三点述べた。
 母親が、厚い層のバターとダイコンの付いたサンドウィッチかライ麦パンをくれたのを覚えている。
 家の前で食べていたとき、ダイコンがすべり落ちた。
 こうして私は、喪失を学んだ。
 そのような食べ物を、私はひどく欲しがった。
 こうして私は、羨望を知った。
 最後に、両親は私に、私は数人の友達を日用食料品店に誘って各人に一個ずつオレンジをあげたことがある、と話した。
 店主に誰が支払うのかと尋ねられて、私は「親たち」と答えた。
 こうして私は、結論的に言うのだが、共産主義とはどういうものか、つまり、誰か他人が支払うのものだ、ということを学んだ。//
 (09) 転居したあと何度かチェシンを訪れた。一度は1937-38年の冬休みの間で、つぎは1939年2月、ポーランド政府が、ミュンヘンで連合国から放棄されたチェコに、チェシン市の半分の割譲を強いたあとだった。
 荒廃した街路を歩きながら、母国の恥ずかしさで気分が悪くなった。//
 (10) 住民は、ポーランド語、ドイツ語、チェコ語を切り替えて使った。
 両親は、家では、ポーランド語とドイツ語のいずれかを選んで話した。
 私とは、もっぱらドイツ語で話した。ドイツ語を話すお手伝いも雇っていた。
 しかし、私と遊ぶ友達はみなポーランド語を話した。それで、私はその言語を向上させていった。
 その結果として、私は3歳か4歳のときに、バイリンガルだった。//
 (11) ヨーロッパの地理的中心 (*脚注) で出会う文化的な交錯の流れを、アメリカ人が思い浮かべるのはむつかしいに違いない。
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 (*脚注)  二つの線を北岬〔ノルウェー〕からシチリアまでと、モスクワからスペインの東部海岸まで引くと、それらはチェシン付近で交差する。
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 アメリカ合衆国には多数の民族集団があるけれども、イギリスの言語と文化がつねに主要なものだ。
 私が生まれた所では、諸文化が同等の基盤を持っていた。
 この環境によって、人々は、外国人の思考様式についての鋭い感覚を身に付けていた。//
 (12) 父親は1928年に、Dea を売って、家族とともに短期間、Cracow(クラカウ、クラクフ)へと移った。そこには父親の妹が夫と二人の男の子と住んでおり、また、彼の両親も一緒にいた。
 父親の父親のClemens(またはKaleb)は威厳のある背の高い紳士で、髭の生えた顔に私を接吻させたが、私に一言も発しなかった。
 彼は、1935年に死んだ。 
 Cracow で父親は、義兄弟ともう一人の仲間で新しいチョコレート工場、ウィーンのPischinger 商会の支店を設立した。チョコレート・ウェハスの製造に特化したものだった。
 (今でも、Wawel の名で稼働している。)
 Cracow には一年もいなかった。
 工場の経営を義兄弟と仲間に委ねて、父親は、小売販売業をする意図を持って、家族とともにワルシャワに移った。
 しかし、まもなく、不況がやって来た。
 父親はPischinger との関係を切って輸入事業を始め、主にスペインやポルトガルから果物を買い付けた。必要な資金は、政府内にいる友人から現金で割当てられた。
 母親の出身家庭がもつ不動産からの収入を加えた収入は、控えめな生活をするには十分だった。
  父親は本当は事業をするのに適していなかった、と追記してよいかもしれないと思う。
 彼には良い考えが浮かんだが、やり通す持続力が弱くて、毎日の管理業務にすぐに飽きた。
 私の両親は楽な暮らしを送ってきていた。
 のちに、事態がもっと悪くなったとき、父親は感傷をもって思い出していた。母親が毎日朝に直面していた主要な問題は、どのカフェで一日を過ごせばよいか、だったと。
 彼は、ワルシャワの男性の中のベスト・ドレッサーの一人という声価を得ていた。
 つねに、料理をし、掃除をし、朝早くにタイル貼りの暖炉に薪をくべるお手伝いを雇っていた。
 そのお手伝いは、台所で寝て、雇い賃は、部屋と食事込みで毎月5ドルか6ドルだった。//
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 ②へとつづく。

2495/西尾幹二批判055—思想家?③。

 つづき
 三 1 西尾幹二は、2009年に、「思想家や言論人」について、こう告白?している。政治家の言葉には、誰もが知るように嘘がある、としたあと、こう書く。
 「同じように言葉の仕事をする思想家や言論人も百パーセントの真実を語れるものではありません。
 世には書けることと書けないことがあります。
 制約は社会生活の条件です。
 公論に携わる思想家や言論人も私的な心の暗部を抱えていて、それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされるでしょう。」
 月刊諸君!2009年2月号、p.213。
 相当に興味深い文章だ。
 「公論に携わる思想家や言論人」の一人だと西尾が自分を見ていることは間違いなく、その点ですでに関心は惹く(ただの「文筆業者」ではないのか?)。
  それはともかくとしても、上が一般論というより、確実に自分自身についての、少なくとも自分を含めての叙述であることが注目される。
 ・「百パーセントの真実を語れる」わけではない。
 ・「書けることと書けないことがあ」る。
 これらですでに、西尾幹二が書いたこと、書いていることの「真実」性、「信憑性」、「誠実さ」を疑問視することができる。
 さらに、つぎもなかなか新鮮で刺激的な?叙述だ。
 ・「私的な心の暗部を抱えてい」る。
 ・「それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされる」だろう。
 これが書かれた2009年2月、「つくる会」は2006年に分裂して、西尾は名誉会長でもなくなっていた。従来の「つくる会」教科書出版会社だった扶桑社(産経新聞社関連会社)は八木秀次らの分かれたグループ作成の教科書を発行しつづけることになった。
 種々の思いがあったに違いないが、2006-7年に西尾は、「つくる会」分裂の経緯・関係人物に対する鬱憤を吐き出すかのごとく、分裂の経緯や関係人物批判等を相当に詳しく、かつ頻繁に書いた。
 それらを含めてまとめたのが西尾・国家と謝罪(徳間書店、2007)で、後記の表題は「あとがき—保守論壇は二つに割れた」。その中で、こう書きもした。
 「保守への期待が保守を殺す。
 私は自分の身が経験したこの逆説のドラマを包み隠さず正直に叙述した。
 なかに個人攻撃の文章があるなどと志の低いことを言わないでいただきたい。個人の名を挙げて厳しく批判している例は一人や二人ではない
 そういう『事件』が起こったのである。
 歴史の曲り角には必ずユダが登場する。」
  首相は、安倍晋三に代わっていた。安倍は、産経新聞・扶桑社とともに<非・西尾幹二派>を支持したとされる。
 西尾は「保守への期待が保守を殺す」と書き、「保守論壇は二つに割れた」という重要な認識を示した。
 かつ同時に、多数の(氏名だけは私も知る)論者たちを「ユダ」として名前を出して批判・攻撃した。10名を超えており、皮肉の対象も含めると、旧「生長の家」活動家とされた者たちのほか、八木秀次はもちろん、岡崎久彦・中西輝政・櫻井よしこ・伊藤隆、小田村四郎等々の多岐にわたる。「産経新聞の渡辺記者」というのも出てくる。
 この「事件」を振り返るのが目的ではない。
 西尾は2009年に、「書けることと書けないことがあ」ると言ったが、2006-7年頃には十分に書いていただろう、書きたいが書くのを躊躇してやめたという部分があるのだろうか、という疑問をここでは書いている。
 西尾・国家と謝罪(徳間書店、2007)の中ではとくにつぎの表題の項が、分裂の経緯(あくまで西尾から見た)や関係の多数の個人名を知るうえで、資料・史料的価値があるだろう。p.77〜p.173。
 「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」、「小さな意見の違いは決定的違い」、「何者かにコントロールされだした愛国心」、「言論人は政治評論家になるな」。
  2009年の前年の2008年は、西尾幹二が当時の皇太子妃批判を月刊WiLL上で継続し、西尾『皇太子さまへの御忠言』(ワック、2008)で単行本化した年だった。
 不確実な情報ならば「書けない」だろうが、西尾は「おそらく」という言葉を使っての推測の連鎖も含めて、相当に「書きすぎた」のではないだろうか。
 2006年に西尾は「保守論壇は二つに割れた」と認識したのだったが、「つくる会」の分裂以降、八木秀次は月刊正論(産経)上の重要な執筆者の位置を獲得する。八木は冒頭の随筆欄に、明らかに西尾幹二に対する<皮肉・当てこすり>を書いたりしていた。
 西尾が月刊正論から一切排除はされなかったようだ。それまでの実績と「誌面を埋める文章力」は評価されていたのだろう。それに、西尾自身が月刊正論では安倍内閣批判も許容してくれた、と何かに書いていた。
 それはともかく、2008年の西尾幹二による当時の皇太子妃批判は、ある程度は月刊WiLL編集部の花田紀凱との共同作業のようだが、2006年以降の西尾幹二の心理的「鬱屈」状態も背景にあったのではなかろうか。つまり、継続的に(従来どおりに?、その言う「保守論壇」の中で)「目立ち」たかった、というのが、重要な心理的背景の一つだったのではないか。 
 そして、2009年時点での「百パーセントの真実を語れる」わけではなく、「書けることと書けないことがあ」る、という言い分と、この人が2008年に実際にしたことの間には、大きな齟齬がある、と考えられる。 
 『皇太子さまへの御忠言』(ワック、2008)の刊行自体もまた、「思想家」のすることではなかっただろう。個人全集になぜ収載しないのだろう。自信がないのか、西尾でも恥ずかしく感じているのか。
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   2009年に「書けない」ことがある、と西尾が言った、その「書けない」こととは、いったい何だったのだろうか。
 むろん、文章執筆の「注文主」(雑誌編集者等)の意向とは正反対の、あるいはそれと大きく矛盾する文章を書けはしないだろう。
 西尾は上に引用した部分のあとで、書けなくする「最大の制約」は「自分の心」だなどという綺麗ごと?を書いているが、それは現実には、文章執筆「注文主」の意向を<忖度>する西尾の「心」ではないかと思われる。
 そして、そのような100パーセント「自由に」執筆することができない者を、おそらく「思想家」とは呼ばない。
  さらに、西尾幹二によると、西尾自身を少なくとも含むことが明瞭な「思想家や言論人」は、「私的な心の暗部を抱えてい」て、「それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされる」だろう。
 あきらさまに書いてしまえば「狂人と見なされる」だろうような、「私的な心の暗部」—。
 これが西尾幹二においてはどういうものか、きわめて興味深い。
 そして、この「心の暗部」、あるいは偏執症的な、独特の「優越感と劣等感」(後者は<ルサンチマン>と言えるだろう)をも見出して、指摘しておくことは、この西尾幹二批判連載の目的の中に入っている。
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2494/西尾幹二批判054—思想家?②。

 (つづき)
  西尾幹二の個々の論述は信用できないこと、それを信頼してはいけないことは、「思想家」という語を用いるつぎの文章からも、明瞭だ。
 2002年、アメリカの具体的政策方針を批判しないという論脈だが、一般論ふうに、西尾はこう書いた。
 ①「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけないというのが私の考えです」。
 ②「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない。/正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
 西尾幹二・歴史と常識(扶桑社、2002年5月)、p.65-p.66(原文は月刊正論2002年6月号)。
 これは、すさまじい言葉だ
 思想家は「最高度に政治的でなくてはいけない」
 どういう場合にかというと、「日本の運命に関わる政治の重大な局面」でだ。
 思想家は日本が「外国の前で土下座」するのを「思想的に支持しなければならない」ときもあり得る。
 どういう場合にかというと、「いよいよの場面で、国益のために」だ。
 まず第一に、結論自体に驚かされる。
 本来の「思想」を「政治」に屈従させることを正面から肯定し、「思想的に支持」すべき可能性も肯定する。
 思想家が「正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる」、そういうときがある、または既にあったかもしれないと、公言しているのだ。
 第二に、どういう例外的な?場合にかの要件は、きわめて抽象的で、曖昧なままだ。 
 「日本の運命に関わる政治の重大な局面」で、「いよいよの場面で、国益のために」。
 「国益」も含めて、こういう場合に該当するか否かを、誰が判断するのか。
 もちろん、西尾幹二自身だろう。
 「政治」を優先することを一定の場合には正面から肯定する、こういう「思想家」の言明、発言を、われわれは「信用」、「信頼」することができるだろうか?
 この人は、自分の生命はもちろん、自分の「名誉」あるいは「世俗的顕名」を守るためには、容易に「政治」権力に譲歩し、屈従するのではないか、と感じられる。このような「政治」権力は今の日本にはないだろうが、かつての日本や外国にはあった。西尾幹二にとって、「安全」と「世俗的体裁」だけは、絶対に守らなければならないのであり、「正しい『思想』も、正しい『論理』もそのときにはかなぐり捨てる」心づもりがあると感じられる。
 そのような人物は「思想家」か?
 上の文章は、昨年末か、今年2022年に入って、小林よしのりの本を通じて知り、所在を西尾幹二の書物の現物で確認した。
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 つづく。

2493/西尾幹二批判053—思想家?①。

  そもそも現在、2022年の時点で、「思想家」とは何か、は問題にはりうる。
 英語でthinker、独語でDenker というらしいから、think、denken すれば誰でも「思想家」になれそうだが、きっと両語でも、独特な意味合いがあるのだろう。
 ともあれ、今日では「思想家」と自称する人はほとんどいないに違いない。
 西尾幹二は、その稀有な人物だ。
 <文春オンライン>2019年1月26日付のインタビュー記事で、西尾は冒頭では殊勝にこう語る。
 「私はドイツ文学者を名乗り、文芸評論家でもあって、『歴史家』と言われると少し困るのですが、…」。
 しかし、2006-7年の「つくる会」<分裂騒動>に話題が移って、まず、こう言う。 
 「日本会議の事務総長をしていた椛島(有三)さんとは何度か会ったこともあり、理解者でもあった。だから、この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして、「つくる会」事務局長更迭を撤回していれば、問題は回避できたかもしれない。それをしなかったのはもちろん私の失敗ですよ。」
 そして、こう続ける。
 「しかしですね、私は『つくる会』に対して日本人に誇りを”や“自虐史観に打ち勝つ”だけが目的の組織ではないという思い、もっと大きな課題、『日本から見た世界史の中におかれた日本史』の記述を目指し、明治以来の日本史の革新を目ざす思想家としての思いがある。だから、ずるく立ち回って妥協することができなかった。」
 「思想家」としての思いがあるから、椛島有三と「握手」して譲歩するような「ずるく立ち回って妥協すること」できなかった、というわけだ。
 この辺りの述懐はきわめて興味深いが、そもそもの関心を惹くのはのは、西尾は(少なくとも当時の2019年)自分を「思想家」と自認していた、ということだ。
 はて、<西尾幹二思想>とはいったい何だろう。ある書物はこう終わっているのだが、いかなる「思想」が表明されているのか。西尾幹二は「思想家」なのか?
 西尾・自由の悲劇(講談社現代新書、1990)、最も末尾の一段落。
 「光はいま私自身をも包んでいる。なぜなら、私は自由だからである。しかし、光の先には何もなく、光さえないことが私には見える。なぜなら、自由というだけでは、人間は自由になれない存在だからである。
 もう一度書く。上の文章は、いかなる「思想」を表現しているのか?
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 つづく。

2492/西尾幹二批判052—神話と日本青年協議会②。

 (つづき)
  西尾幹二「神話の危機」2000年10月は日本青年協議会等の会員むけの「講演」内容だから、その点には留意しておく必要がある。
 日本青年協議会の上部団体とされる〈日本会議〉は「つくる会」を追いかけるように1997年に設立され、西尾が「撹乱」や「乗っ取り」を感じるまでは、〈新しい歴史教科書をつくる会〉と〈日本会議〉は友好関係にあり、またそれ以上に、「つくる会」の運動を支え、助ける有力な団体だった、と思われる。
 西尾幹二会長にとっては、自分自身への「力強い味方」だった。
 西尾が、日本の神話の具体的内容、古事記や日本書紀の「神代」の叙述、神道や広く日本の宗教について、1996年の「つくる会」設立段階でどの程度の知識・素養があったかは疑わしい。
 同・国民の歴史(1999)でも、日本の「神話」に言及しつつ、なぜか「日本書紀」や「古事記」という言葉を用いていないし、「神話」につながる日本の王権、といった論述もしていない。
 また、日本人の「顔」を示すという仏像等の写真を多数掲載しながら、「仏教」と「神道」の違い等には何ら触れていない。
 おそらくは1999年著の上の点を意識して、再度少し広げて引用すると、2000年講演では、こう言った。論評すると長くなるので、内容に介入しない。
 「日本人にとって仏教というものは、難しい宗教哲学というよりも、美を味わう存在だと言えるでしょう。仏教は金色の美しい彫刻を通して、美という感性的なものとして百済からこの国に入ってきた。だから、素晴らしい仏教彫刻を残すことが出来た。それは日本人のアニミズム的な自然崇拝とつながっており、だから日本の神話と仏教信仰とは初めから何らの矛盾なく整合したのだと思います」。
 きっと、だから1999年著では「難しい宗教哲学というよりも、美を味わう存在」として仏教彫刻の写真を多数掲載した、と釈明?しているのだろう(なお、それら仏教彫刻の選定は実質的には田中英道(第二代会長)の助言が大きかったことを、田中がのちに明らかにしている。全集第18巻・国民の歴史「追補」、p.734(2017))。
 ともあれしかし、1999年著と比較すると、「神話」、天皇、「神道」に関する明瞭な論述には驚かされる。
 西尾はこう断定的に語る。自分自身が、こう「信じて」いるのだ。
 ・「日本の天皇の場合は神話の世界とも、自然とも全部つながっている。これは世界に類例がありません」。
 ・「神話」は「まっすぐ天皇制度につながっている」。「もし王権につながってこないのなら日本の神話はほとんど意味がない」。
 ・「神話が王権の根拠になっていることが、世界史の中で日本民族が自己を保っている唯一のよりどころ」だ。
 1999年から一年間の間に、「つくる会」運動の有力な支持者である〈日本会議〉・日本青年協議会の歴史観・天皇観、宗教観を、相当に要領よく「学習」したのだろう。
 西尾はのちの2009年には、日本青年協議会は「西洋の思想家の名前」を出すと叱り、「天皇国、日本の再建を目指しますということを宣明させ」るような、「目を覆うばかり」の「おかしい」団体だと明言したのだったが。
 やや離れるが、西尾幹二は、読者(+書物や雑誌の編集者)や聴衆の気分・意向を考慮し、「忖度」することを絶えず(気づかれにくいように)行っている「もの書き」だと考えられる。誰しも、文筆業者はある程度はそうかもしれないが。
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  西尾幹二と〈日本会議〉または日本青年協議会との関係の変化は、つぎのようなものだろう。なお、私が初めて西尾の文章を読んだのは、下の③の時期だ。
 ①無関係—②親〈日本会議〉—③反〈日本会議〉(・反八木秀次)—④宥和的?
 ③の時期には「西洋の思想家」を排除するのは「おかしい」とし、八木秀次批判文(国家と謝罪(徳間書店、2007年)p.80)では八木は「近代西洋思想に心を開いた人で、いわゆる国粋派ではないと思っていた」と書いていた。まるで自分は「西洋」派であって「国粋」派ではないかのごとくだ
 池田信夫の2014.09.07の「冷戦という物語の終わり」と題するブログは、有力メンバーの一人として坂本多加雄が参加した「つくる会」運動は「時代錯誤の皇国史観に回収されてしまった」、と書いていた。
 それぞれの言葉の意味は問題になるが、しかし、西尾幹二は実際にはまさに「国粋」派で「皇国史観」の持ち主だとの印象を与え続けている。
 すなわち、神話=王権の根拠(かつまた「神話」にもとづく天皇位はずっと男系男子だった)という理解と主張を変えていないことは、既述の月刊WiLL2019年4月号での発言からも分かる。
 また、「つくる会」分裂後・反〈日本会議〉の時期である2009年にも、同様のことを述べている。『国体の本義』(1937年)に論及する中で、明確にこう書く。
 ・「日本のように地上の存在である天皇が神に繋がるということを王権の根拠としている国は例外的であり、唯一無比であるかもしれません」。
 ・「天照大神の御子孫がそのまま天皇の系図につながるというのは、他にかけがえのない唯一の王権の根拠なのです」。
 西尾「日本的王権の由来と『和』と『まこと』」激論ムック2009年7月発行、同・日本をここまで壊したのは誰か(草思社、2010)所収、p.188-9。
 1999年頃に日本青年協議会と〈日本会議〉の史観から影響を受けたことは、その後の西尾をかなり大きく変えたのかもしれない。
 もっとも、そうなったからこそ(かつ男系男子論を固持しているからこそ)、産経新聞出版から2020年にかつての産経新聞「正論」欄寄稿文をまとめた書物(編集担当・瀬尾友子)を刊行してもらえる<産経文化人>であり続けることができているのだろう。
 一人の個人でいることはできず、既述のように、「最後の身の拠き所」をそこに求めているのだ。
 上の④「宥和的?」とみなす根拠はあるが(この欄ですでに少しは触れてはいるが)、今回は省略する。
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2491/西尾幹二批判051—神話と日本青年協議会①。

  前回に関連して、つづける。
 私が読んだ順に記すと、西尾幹二は2019年に、「神話」についてこう語った。
 月刊WiLL2019年4月号=岩田温との対談。p.219-p.220。
 ①「神話は歴史とは異なります。…。
 歴史は…、諸事実の中からの事実の選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由を許しますが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません。

 2017年にも、ほとんど同じ文を書いていた
 2017年1月/「つくる会」20周年挨拶文—全集第17巻(2018)所収、p.715。
 ②「神話と歴史は別であります。…。
 歴史は諸事実の中からの事実の選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由を許しますが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません。

 以上、完全な同文ではないが、ほとんど同じだ。
 なお、この欄でかつて西尾幹二は文章の「使い回し」をしていると批判し、<コピー・ペースト>をしているふうに記したのは誤りで、お詫びして訂正する。「…」の部分も一致していない。
 しかし、ほとんど同じ文だ。①と②を比べて一読すれば、すぐに分かるだろう。西尾は②の印刷文書を見ながら発言したのか、あるいは対談のゲラ段階で②を対談発言の中に書き加えたのか。
 なお、②の文章の前には、つぎの一文がある。上掲同頁。
 「史の根っこをつかまえるのだとして、いきなり『古事記』に立ち環り、その精神を強調する方が最近は目立ちますが、これもそのまま信じられるでしょうか」。
 初めてこの欄に記すが、これは西尾の<保守>派内のライバル・櫻井よしこ批判であり、皮肉または当てこすりだ。
 櫻井よしこは、西尾が上を書く直前に、<古事記の精神を強調>し、「古事記」の精神・価値観を理解して掲げるのが「保守」だ旨を書いていた。「3月号」になっているが、実際にはもっと早く発行されていると見られる。 
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)、p.85-p.86。
 古事記の「精神」を強調する限りでは、西尾と同じで、「歴史」把握のための「いきなり」が良くないのだろうかと、西尾の言い分はやや不思議でもあるのだが。
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  上のような「神話」と「歴史」の区別、<歴史—解釈を許す、神話—解釈を許さず「信じる」だけ>という対置の根拠はいったいどこにあるのだろうと、不可解だった。
 少しは理解できたのは、以下による。
 すなわち、秋月なりに言い換えれば、「理屈」ではない、「神話」とはそもそも「信じるべき」ものなのだ。そのようなものとして西尾は「神話」という語を用いているのだ。そして、日本の「王権」の由来が「神話」にあることも、日本人は「信じるべき」なのだ。
 西尾幹二「神話の危機」2000年10月—同・日本の根本問題(新潮社(編集担当・冨澤祥郎)、2003) 所収、p.210-p.235。
 例のごとく西尾の文章の「論旨」をたどるのは容易ではない。上の点に焦点を当てて、叙述の順に部分的に抜粋引用する。長くなる。
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 ・「古事記の冒頭に、国生みの神話があり、…」、「神の上に神がいる」。日本民族以外と比べると「神らしくない神」だ。
 ・「日本の神様は、規範を持たない。掟を持たない」。仏教、儒教を「取り入れ」、「他の神を自らの神にするということに余りこだわりがない」。ふつうは「神仏習合」と言うが、その前に「神神習合」があったともされる。「神仏習合も神神習合の一つのバリエーションと考えられるのでしょう」。
 ・他の文明圏では「宗教」は血を流す対立を繰り返し、「不寛容」だったが、「日本の神様はどうもそうではない」。
 ・日本の神は「絶対唯一神」ではない。「自らの上に神を持たないがゆえに、すべてが神になり得る構造。…仏もまた神の一種としてとらえることが出来たという構造」、これは、「日本民族の主体性」を「暗黙のうちに自己表現」しているのではないか。
 ・仏教伝来時も、「すべてのものを神として迎え入れる日本の神の概念が非常に包容力を持ったものであったから、これを包み込むことが可能であったのです」。
 ・「死ねば仏になる」と言うが、これは「死ねば神になる」のと同じで、「日本では神は自然万物とつながっており、そこに断絶がない。…明らかに神道と仏教が一緒になっている姿です」。「日本人にとって仏教というものは、難しい宗教哲学というよりも、美を味わう存在だ」と言えるだろう。だから素晴らしい「仏教彫刻」を残したのであり、「日本の神話と仏教信仰とは初めから何らの矛盾なく整合したのだ」。「仏教の導入に象徴される、何でも包容する日本のアイデンティティ…」。
 ・「日本文明の特徴」は「排他性の少ない、自然形成によるアイデンティティの高さのようなもの」でないか。
 ・日本民族は「自分の原理」を主張しなかったのではなく、「何時の頃からか、自分の国を『神の国』と自覚するようになります」。
 ・「神と仏が一つになるという思想が日本の根っこだという考えが、平安末期から北畠親房を経て出来あがった日本の国家観念です」。
 ・「日本の仏教は、…社会的にほぼ幕府に利用される一方で、思想的にはアニミズム的な要素が非常に強いのでインドの哲学のようにはならない」。「そのような体系的思考は日本の仏教には向いていない」のではないか。
 ・「日本人は完結した神話と伝統の中でずっと生きてきたのです。『大鏡』、『愚管抄』、『神皇正統記』—これらの書物はすべて神代と人代とを区別せず、天皇がまっすぐに神代につながっている。天皇譜と神話の神々の世界とが一直線につながっているのです」。
 ・「日本の天皇は神話によって根拠づけられ、神話と王権が直結している」。
 ・「神話とつながるということは、自然万物とつながるということなのです。日本の天皇の場合は神話の世界とも、自然とも全部つながっている。これは世界に類例がありません」。
 ・豪族の祖先も「神話」に出てくるので、「われわれは祖先崇拝を通じて神話とつながっている」。
 ・神話学者は理解できない。「過去の日本人にとっては、神話は学問化されない何物かであり、天皇の存在とつながった信仰の対象でもあったのです」。
 ・「宗教にとって重要なのは自らの信仰であって、知識ではありません」。
 ・「研究の対象が、信仰や神話…になりますと、相手は自然現象ではなく、人間の心です。自分の心の客観化など不可能なことです」。「信仰がどういうことかを知ることは、物体の法則を知ることと同じではない」。
 ・「つまり、信じるということは、一つを信じることであって、あれもこれも信じるということではないのです」。「かように、宗教というものは科学とは正反対なものです」。
 ・「近代科学」、「合理的な学問」に対して仏教にはまだ抵抗力があったが動揺し、「神話はもっと大きな深刻な打撃を受けました」。
 ・「神話を虚構化」した「合理主義者」の津田左右吉を引き継いで戦後に「神話破壊の現象」を出現させた「その筆頭が丸山真男です」。
 ・津田史学は今なお「猛威」を奮っていて、「古代史において『日本書紀』をきちんと読まないで『魏志倭人伝』ばかり持ち上げるのも、同じ合理主義の現れです」。「中国語で書かれた歴史を信じて、なぜ日本人が書いた歴史を信じないのか」。
 ・「日本の神道の場合は、何が入ってきても全部習合したため、無垢でありつづけることができた。しかし、近代化に対峙したときに、今度こそ大きな危機にさらされることになった」。
 ・「日本の神話の危機、日本の神道の危機は、日本そのものの危機と言っていいかもしれない」。
 ・「日本は神の上に神があり、またその上に神があって、絶対の神がない。無限定の神は何をも自らの神にすることが出来るという包容力とフレキシビリティがある。そのことは日本の深い強さであると同時に、近代科学文明というものにさらされたときにはある種の大きな脆さであるようにも思える」。「理論までも外から得て自己を防衛することはできません」。
 ・「日本人の持っている長い歴史には、歴史が物語っている何かがある。…、日本人の中に自ずと宿っている生命感、神秘感といったものを回復することが重要だと思います」。
 ・日本の「神話」は、「物語—こうした神話らしい楽しいお話」がある、「…文学」でもあり、「生命というものを感じさせる話が多い」。それを「ことごとしい科学分析の対象にしても仕方がない」。
 ・「神話がまっすぐ天皇制度につながっているということで、近代以降神話は解体の危機にさらされている」が、「もし王権につながってこないのなら日本の神話はほとんど意味がない」。
 ・「神話が王権の根拠になっていることが、世界史の中で日本民族が自己を保っている唯一のよりどころなのです」。
 ・「日本人は外のものをもう借りない」。自分で「再構成」し、自分が「発信者」になる。そのときに、「日本人のこれからの文明の発展と自己回復力の源」になるのは、「神話に表現されているような自然と自己の同一性といったもの」だと信じている。
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 以上。
 日本・日本人・日本民族への強いこだわりは別として、凡人の秋月でも気づくような「仏教」認識の誤り、<こころ・神話>と<物体・科学>の単純で幼稚な対置・二分論、「神話に表現されているような自然と自己の同一性といったもの」等々の実体がほとんど不明の空疎な言辞、「生命」に言及する等のニーチェの影響があると見られる表現、等々、感じることは多い。
 また、この人にとって、—上の一の2017年、2019年の文章では明確でなかったが、この文章では—「神話」とは王権・「天皇」の生成・存続の根拠であり、かつ「神道」と全くかほとんど同一のものであることも確認できる。
 興味深く、かつ重要なのは、明らかに「仏教」よりも「神道」が優先されていることにも関連して、つぎだ。
 この「危機に立つ神話」は、「日本青年協議会・日本文化研究所共催」の「セミナー」での「講演」記録だと末尾に明記されている。p.235。
 後者は前者の関連団体。
 この講演は、西尾が「つくる会」の会長だった2000年に行われた。 
 しかし、興味深いことに、「つくる会」の実質的分裂または縮小化のあった2006年以降に、西尾幹二は、「日本青年協議会」について、こう発言した。2009年のこと。
 ・「日本青年協議会、これは日本会議の母体で、日本会議はこれの上部団体ですから、今でも日本青年協議会は存在し、組織は日本会議と一体です」。
 ・「日本会議」に「『新しい歴史教科書をつくる会』なんてえらい被害を受けた」。「会はすんでのところで乗っ取られにかかり、ついに撹乱、分断されたんです。悪い連中ですよ」
 ・「日本会議」の「正体がよくわかったので、残された人生の時間に彼らとはいっさい関わりを持たないでいきたいと思います」。
 以上、西尾幹二=平田文昭・保守の怒り(草思社、2009)
 →No.2464「四付」
 ——
 以降へと、つづく。

2490/西尾幹二批判050—古事記には男性天皇だけ?

 「彼らには学問上の知識はあるが、判断力はなく、知能は高いが、知性のない人たちなのだ。
 彼らの呪いのヴェールを破り、裸形の現実をありのままに見るようにならない限り、これからの日本も世界も浮かばれないだろう。
 以上、西尾幹二・全集第11巻「後記」の実質的に最後の文章。2015年。
 特定の者たちへの罵倒の言葉は相変わらずだ。だが、西尾は上の「彼ら」の中に、なぜ自分を含めていないのか。
 F. Turner やR. Pipes の本を「試訳」しつつ、西尾幹二の書や文章も見ている。
 とりわけ、全集の「自己編集」ぶりと長い「後記」での自己賛美ぶりは、ひどい。
 と感じつつ、予定の草稿を掲載していこう。
 ——
  「山ほど」ある中から、便宜的に、手元に資料があるものから再開する。  
 月刊諸君!2006年4月号、p.50以下。
 皇位継承につき、男系男子限定論に立って女系天皇容認論とその論者を批判するものだ。
 もともとはと言えば、西尾幹二にとって男系でも女系でも本質的な問題ではなく、ただ<産経文化人>の一人たる位置を占めたいがための主張であるような気もする。
 女系天皇容認論者として田中卓・所功・高森明勅の三人を挙げているが(小林よしのりの名はない)、この三人はいっとき以降、産経新聞や少なくとも月刊正論(産経)には寄稿者として登場しなくなった。西尾幹二は、「ごほうび」ではないだろうが(いや、そうであるかのごとく)、「正論メンバー」にとどまり続け、2020年には国家の行方(産経新聞出版、編集担当・瀬尾友子)を出版してもらっている。
 また、上が「邪推」だったとかりにしても、西尾幹二における独特の歴史観・宗教観・現実感覚がこの問題についても背景にあると考えられるが、今回では立ち入らない。
 簡単に記せば、神道や仏教への自分の「信仰」を何ら語らないにもかかわらず、(西尾が男系男子限定を語るとじつは「解釈」する)<日本の神話>への「信仰」だけは、なぜ語るのか?、なぜこの人には「神話信仰」だけはあるのか?、だ。不思議な思考過程・思考方法がこの人物にはある。
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  上の文章に内在的な論点に限る。容易に気づいた点だ。
 第一に、西尾はこう田中卓を批判する。p.57。
 「田中卓氏は前掲論文で皇室には『氏』がないという特色を理解せよ、というが、それはダメである。
 『氏』がなくても系図が意識されている。
 現代は古代社会ではない。
 西尾は得意げに書いているようだ。
 『氏』うんぬんの論争の意味を秋月は知らない。しかし、上のような「反駁」の<方法>はおかしい。
 なぜなら、西尾は「現代は古代社会ではない」とするその「現代」の日本人であるにもかかわらず、「古代社会」に作られた(8世紀)または生まれた(史実を反映しているとすると内容はもっと前にさかのぼる)「神話」の内容を根拠にして、男系男子限定論を主張しているではないか。
 一方では「古代社会」でないのだからと主張し、一方では西尾が想念する「古代社会」にズッポりとはまっている。思考「方法」、評価の「基準」に一貫性がない。
 ついでに言えば、「神代」-「人代」の区別はなく、神代の「神」につながることこそ天皇家の世界に唯一の特質だと西尾は語るが、この辺りでは、この人は、上に少し触れたが、「神話」と史実、「信仰」と現実を完全に相対化している、または区別していない。「認識論」上の問題を胚胎している。
 そんな「哲学」的問題をこの人は無視するのだろうが、指摘されるべきは、西尾のような「神話信仰」が「現代」の日本人にいかほど理解されるかどうかだ。単純な理性・非理性、科学・非科学の問題に持ち込んではならない。
 なお、別の2019年の発言によると、神話信仰または神話それ自体が「日本的な科学」らしい(月刊WiLL2019年4月号)。こんな言葉の悪用、言葉「遊び」をしてはならない。
 また、水戸光圀・大日本史は「記紀神話」を歴史とせず、そこでの「神代」は除外された、と西尾幹二自身が上の中で書いている(p.54、「日本的な科学」の精神を持っていなかったわけだ)。
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  第二に、決定的間違いがある。西尾幹二は古事記も日本書紀もきちんと読んでいないと何回か書いてきたが、ここでもそれが暴露されている。
 天照大御神が女性神だったとしても、このことは女系天皇容認論の直接的論拠にはなり得ないだろう。
 この点はよいのだが、西尾は、女系天皇の実例があるのなら、それを「明証」せよ、との論脈で、つぎのように諭すように?明記した。p.56。
 「『古事記』に出てくる天皇はすべて男性ではないか」。
 ああ、恥ずかしい。
 日本書紀(720年)より先に成立し献上されたらしい古事記は(だが8世紀)、前者より前の時代までしか対象としていないが、最後に言及されている天皇は、推古天皇だ(明治に作られた皇統譜では第33代とされる)。
 西尾は、推古天皇も(じつは)男性だったと「明証」できるのだろうか。本居宣長がそう書いていたのだろうか。
 『古事記』の最後の部分を捲らないで上のように執筆して、活字にすることのできる人物に、「神話」信仰を説き、皇位継承者論議に加わる資格はないだろう。
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  ついでに。 
 第一。女系天皇容認論者(田中卓・所功・高森明勅)に対する一般的言葉は「迂闊」というだけだ(p.55)。
 2002年の小林よしのり批判、2006-7年の八木秀次批判に比べると、はるかに優しい。小林、八木への批判の仕方は(ニーチェにも似た?)西尾の精神・「人格」を示していると思うので、「人格」なる抽象的なものが全てまたはほとんどを決めるとは全く考えていないが、別に触れる(対八木についてはすでに紹介しているが反復する)。
 第二。いわゆる奈良時代の天皇は、天武と淡路廃帝(淳仁天皇)を除いて、元明は持統の実妹、その他は持統天皇の血を引く、その意味では女系天皇だ(元正は女性天皇・元明の娘なのでまさに女系だと表現してよいだろう。但し、これら2名は草壁皇子・文武・聖武への「中継ぎ」だと<解釈>されもする)。
 天武の血を引く男子だが母親は持統とその子孫ではなかった者は少なくなく、上の淳仁のほかにも、例えば、大津皇子(大伯皇女の弟)、長屋王がいた。大津(二上山に墓)は持統により殺されたともいう。
 抽象論・観念論好きの西尾幹二は、こんな瑣末な?ことにはきっと興味すらないのだろう。
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2489/西尾幹二批判049—根本的間違い(4-3)。

 六 3 00 <反共よりもむしろ反米を>という、政治状況または国際情勢についての西尾幹二の「根本的間違い」の原因・背景を述べてきている。
 この人の、より本質的な部分には論及していない。先走りはするが、この人にとって、「反米」でも「親米」でも、本質的にはどうでもよかったのではないか。
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 01 とは言え、叙述の流れというものがある。
 既述の誤りの指摘の追記でもあるが、西尾幹二の政治状況・国際情勢にかかる認識の間違いは、つぎの文章でも明瞭だ。
 2005年/月刊諸君!2月号、p.222。
 「米ソの対立が激化していた時代はある意味で安定し、日本の国家権力は堅実で、戦前からの伝統的な生活意識も社会の中に守られつづけました。
 おかしくなったのは、西側諸国で革命の恐怖が去って、余裕が生じたからで、さらに一段とおかしくなったのは西側が最終的に勝利を収め、反共ではもう国家目標を維持できなくなって以来です。
 日本が壊れ始めたのは冷戦の終結以降です。」
 西尾が1999年『国民の歴史』で、私たちは「共産主義体制と張り合っていた時代を、なつかしく思い出すときが来るかもしれない」、「否定すべきいかなる対象さえもはや持たない」と書いた線上に、上の文章もある。そして、現在まで、この基本的認識・主張は継続しているようだ。
 これは、グローバリズムからナショナリズムへという、〈日本会議〉公認の、日本の「保守」(の主流派:多数派)を覆った考え方でもあった。
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 02 その点はここではもう論及しないこととして、上の文章には若干の基本的な疑問がある。
 第一に、西尾のいう「冷戦の終結」以前の日本の「国家目標」は「反共」だったのか?
 「全面講和」ではなく単独(または多数)講和を選択してアメリカ・西欧陣営に入った(1951年)こと自体が「反共」だった、とは言える。継続的な「国家目標」性はうたがわしいとしても。
 かりにそうだとしても、関連して第二に、つぎの認識は適確か?
 「米ソの対立が激化していた時代はある意味で安定し、日本の国家権力は堅実で、戦前からの伝統的な生活意識も社会の中に守られつづけました」。
 「反共」という国家目標のもとで、日本は「ある意味で安定し」、「国家権力は堅実」だったのか。
 秋月瑛二は、全くそう思わない。
 例えば、ベトナム戦争があり沖縄の基地から米軍機は飛び立っていった。カンボジアに中国に援助された数年間の「共産主義」的支配があった(ポル・ポト、赤いクメール)。後年に明らかになったが、1977年に「めぐみ」ちゃんは北朝鮮の国家的「人さらい」の犠牲者となった(他にも多数いる)。国内では社会党・共産党が「統一」して推す候補が京都に続いて東京や大阪でも知事になった(横浜市でも。その他省略)。また、日本共産党も国会での議席を増やして<70年代の遅くないうちに民主連合政府を!>とか呼号していた。田中角栄元首相の収賄事件もあった。ソ連空軍兵士が函館空港に着陸して亡命したのは、1976年だった。ソ連軍機による「大韓航空機撃墜事件」が日本近海で起きたのは、1983年だった。小中学校での<学級崩壊>は1980年頃には語られ始めていた。以上は、例。
 いったいどこに、日本は「ある意味で安定し」ていたとする根拠があるのか。
 じつは西尾幹二の「主観的」状況は「安定」していたのかもしれない。西尾は2000年にこう言っている。
 1970年の<三島事件>の後、私は「三島について論じることをやめ、政治論からも離れました。そして、 ニーチェとショーペンハウアーの研究に打ち込むことになります」。
 三島没後30周年記念講演、西尾・日本の根本問題(新潮社(編集担当は冨澤祥郎)、2003)、p.285。
 根拠文献をいちいち記さないが、以下も参照。
 1966年、ニーチェ『悲劇の誕生』翻訳書(中央公論社)。
 1969年、「文芸評論」を書き始める。
 1977年、ニーチェの(よく言って前半期だけの「評伝文学」の)『ニーチェ』(第一部・第二部)刊行。北朝鮮による「拉致」が始まった年。
 1979年、上記書により文学博士号(審査委員の一人は、同学年で当時は東京大学助教授だった柴田翔)。
 1987年、ニーチェ『この人を見よ』・『偶像の黄昏』・『反キリスト』翻訳書(白水社)。
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 03 1990年近くまでこんな調子だと、文芸評論や、政治評論家ではない「文芸評論家」としての遊覧視察旅行にもとづくソ連関係本や「古巣」の感覚に依拠したドイツ関係本の刊行をしていても、日本の政治状況や国際情勢、日米関係に強い関心が向かわなかったとしても、やむをえないだろう。
 主観的・心理的・精神的に、西尾幹二個人は1989-91年以降よりも「安定」していたのだ。
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 04 「安定」したままでなく、状況が変化した(と西尾は感じた)のは、1996.12/1997.01の〈新しい歴史教科書をつくる会〉発足と会長就任だっただろう。それまでよりも「著名人」となり、社会・政治に関する発言も求められるようになった。
 そして、橋本龍太郎(1996-98)、小渕恵三(1998-2000)、森喜郎(2000)の各首相時代には特段の政治的発言をしていないようだが(自社さ連立での村山富市首相と同内閣(1994-96)・戦後50年談話についても同じ)、小泉純一郎内閣が誕生して(2001年)以降、突如として?<政治評論家>をも兼ねるようになる。小泉を「狂人」、「左翼ファシスト」と称し、いわゆる郵政解散選挙では反対(元)自民党候補を応援するという「政治的実践活動」まで行なった
 政治状況、国際情勢の把握も必要だから、大急ぎで、付け焼き刃的に?「勉強」したのだろう。ニーチェやドイツに関する素養、観念的「自由の悲劇」論では足りない。
 そして、今回の冒頭で言及したのは、1999年と2005年の文章だ(「つくる会」設立後、分裂前)。
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 05 さて、日本の政治状況、国際的状況を把握しようとした際、容易に参照し得たのは、〈日本会議〉史観だっただろう。つまり、グローバリズムからナショナリズムへ、「反共」だけでなく「日本」重視と「反米」がむしろ重要だ、という時代感覚だ。
 その際に、どの程度強くかは不明だが、西尾幹二が潜在的に意識したのは、ニーチェが生きた時代、そして従来の価値観はもはや通じず、「新しい」価値・哲学等が必要だ、というニーチェの基本的主張だったと思われる。
 西尾幹二は、自分をある程度は、ニーチェに擬(なぞら)えていたのだ。
 ニーチェの一部しか知らないままで、ニーチェを「ドイツ文学」的にではなく、構造的・歴史的・「哲学」的に理解することのないままで。
 誰でも、あるいは多くのとくに政治活動家や政治評論家たちは、自分の生きている時代は将来にとってきわめて重要な、分岐点にある時代だ、と思いたがるものだ。
 ニーチェにもおそらく、そういう意識・感覚があっただろう。
 西尾幹二にとっても、1989-1991年の前と後は、質的に異ならなければならなかった。「新しい」時代なのだ、「反共」だけを唱えてはいけないのだ。
 2010年に、こう書いた。
 1990年頃の「冷戦の終焉」までの「日本の保守の概念」は日本の「歴史や伝統に根差したものではなく、『共産主義の防波堤』にすぎなかった」
 月刊正論2010年10月号「左翼ファシズムに奪われた日本」、p.45。
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 06 これで、政治・国際情勢に関する西尾幹二の「根本的間違い」の原因・背景の叙述を終える。今回書いたのが、その第三点だ。
 その他、西尾幹二に関して指摘ておきたいことは、ニーチェに関係することも含めて、「山ほど」ある。
 ——

2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第一章の試訳のつづき。
 ——
 第一章 ④。
 (38) 二人の赤帽を連れてくるため駅へ行ったとき、まだ暗かった。
 我々は沢山の荷物を持って、一定の地位のある外国人用に作られたような一等車両で旅行した。
 制服を着たドイツ人で、駅は混んでいた。
 安全を期して、父親はBreslauまでは同伴してほしいと、領事X氏を説得していた。そこからミュンヘン経由でローマへ行くことになっていた。
 母親の兄弟の一人のMax が、別れを告げるために駅まで来た。彼は、残すほかに選択の余地がなかったココ(Coco)を抱えた。
 我々の小犬はキャンキャン鳴いて、革紐を引っ張った。
 列車が動いたとき、彼女は革紐を食いちぎって自由になり、踏み段に跳び上がって、真っ直ぐに私の腕の中に飛び込んで来た。
 私は放そうとしなかった。
 内部では、彼女は座席の下に小さく縮こまり、旅行の間ずっとそこにいた。まるで列車に乗る資格がないと言われ、面倒を起こしたくないかのごとくだった。
 10年後に死ぬまで、彼女は我々と一緒にすごした。//
 (39) 我々の区画(compartment)には、制服姿のドイツ人の医師、軍曹と上着に鉤十字をピン留めした屈強そうな女性がいた。
 医師は私を会話に引き込んだ。私がラテン・アメリカ出身だと聞くと、スペインのオレンジはアメリカのものより旨い(いや、別だったか?)、Radio City Roketts は素晴らしい、ポーランドの庭師を連れて帰るよう息子に頼まれた、とか言い、くすくす笑いながら、ポーランドの「悪臭たれ」だからその男が家に入るのは許さない、と付け加えた。
 軍曹は脂抜けした肩掛け鞄から横目で見て、肥えた男をさえぎった。そして、黙り込んだ。
 隣に座っていた母親が、ときおり私の足をやさしく蹴って、面倒なことに巻き込まれないよう警告した。
 彼女が休憩所へ行こうとしたとき、ドイツの一兵士が通路に立っていて、明らかに人種意識から、列車に乗れたのは幸運だと言いながら、行く手を妨害した。//
 (40) ポーランドはドイツに征圧されていたので、二つの国の国境はなく、困難なく我々はBreslau に到着した。
 我々への疑念を逸らすために、父親は市内の最良のホテルの一つを選んでいた。<四季(Vier Jahreszeiten)>という名で、鉄道駅に近接していた。
 荷物を下し、洗顔したあとで、私は街なかに入り、数冊の本を買った。
 市の清潔さと賑やかさに驚いた。
 我々は夕方に、二階にある優雅なホテル・レストランを訪れた。そこは制服を脱いだ将校たちと着飾った女性たちでいっぱいだった。
 我々はローストがもを注文した。
 ウェイターが慇懃に、肉のクーポンを持っているかと尋ねた。
 持っていなかった。彼は翌日に手に入れる方法を助言してくれた。//
 (41) 私は60年後に、Polonia と改称されたそのホテルを再び訪れた。
 三つ星の宿泊設備を提供していた。
 だが、記憶に朧げに残っているのは4分の1くらいだったけれども、二階の食堂がまだあった。//
 (42) 10月29日日曜日にミュンヘンに向かって出立する前、我々は二晩をBreslau ですごした。
 ミュンヘンまでと、そこからローマまでの切符を購入するドイツの金を、父親は所持していなかった。
 父親は実直そうな顔の将校を探して、駅を歩き回った。
 これは危険な活動だった。
 父親は一人に狙いを定め、—どんな口実だったか私は知らないが—持っているポーランドのzlotys をドイツ・マルクと交換してくれないかと頼んだ。ポーランドから帰ってくるドイツ軍属にはその資格があった。
 その将校は、応じてくれた。//
 (43) Dresden 経由でミュンヘンまで旅行し、午後にそこに到着した。
 ローマ行きの夜行列車に乗り込むまで、数時間待った。
 その時間をミュンヘンの大きな美術館、アルテ・ピナコークに行ってすごそうと、私は決めた。
 面倒なことはしないと約束して、両親の反対を無視した。
 鉄道駅からKalorinenplatz(カロリーネン広場)まで歩いた。そこには当時、総統のために騒乱で倒れたナツィの殺し屋どもの霊廟があった。衛兵が監視しながら立っていて、広場全体が鉤十字の旗で飾られていた。
 ピナコークまでの距離は1キロもなかった。まもなく東入口に着いた。
 階段の頂部には、制服姿のナツィが立っていた。/
 「これはピナコテークへの入口ですか?」と私は尋ねた。
 「ピナコテークは閉まっている。きみは戦争中なのを知らないのか?」//
 (44) 私は駅に戻った。
 母親はのちに、万が一のときのため、慎重に隠れて私の後をつけていた、と語った。
 私は1951年に、このルートを再び歩いた、そして、ナツィがもうおらず、私はいることに、大きな満足を感じた。//
 (45) Innsbruck に夕方に着いた。そこは接続駅で、イタリアとの国境として機能していた。
 一人のGestapo 将校が、旅券を集めるため入ってきた、—そのとき座っていたのは我々だけだった。
 我々には三人用の一つの旅券だけがあった。
 彼は、もう一度現れて、ドイツを離れてよいとのGestapo の許可がないからイタリアには進めない、と言った。/
 「我々は何をしなければならないのか」と、父親が質問した。
 「あなたたちはベルリンへ行かなければならない。そこで、あなたたちの大使館が必要な書類を入手してくれるだろう」。この言葉を残して彼は敬礼をし、旅券を返却した。//
 (46) 我々は荷物を列車から降ろして、ホームに積み上げた。
 父親はどこかに姿を消し、母親と私はすべなく立っていた。周りには若いドイツ人やオーストリア人がいて、肩にスキー板を乗せて陽気に喋っていた。
 突然に父親が戻ってきた。
 荷物を列車の中に戻すよう、彼は言った。
 列車がまさに出発しそうだったので、我々は大急ぎでそうした。
 Gestapo 将校が再び現れたとき、鞄類をかろうじて元の区画に置いたばかりだった。/
 「列車から出るようあなたたちに求めた」と、彼はいかめしく言った。
 しかし、彼は小男で、ひどく脅かすという響きはなかった。//
 (47) 父親にはドイツ語は母語で(彼は若い頃ウィーンですごした)、スペイン語を話す南米人を演じるために、文法と発音のいずれについてもドイツ語に関して最善を尽くした。
 (実際には、我々全員がスペイン語を一語も話せなかった。)
 父親は、Innsbruck 駅長に逢って、できる限り早く母国に帰る必要がある、と告げた、と説明した。
 駅長はたぶん呑気なオーストリア人で、この事案に何の権限もなかったが、父親の言ったことを聞いて、「von mir aus」のようなことを言った。
 これは大まかに翻訳すると、「私に関係するかぎり」またはたぶん口語表現では「私に関係がないから(どうぞ)」—「気にする範囲内で」を意味する。//
 (48) Gestapo の男は旅券の提出を要求し、そして去った。
 列車はこのときまでにゆっくりと動いて、約25マイル先にある、イタリア国境のBrennero へ向かっていた。
 窓を通して、巨大なアルプスが迫ってきた。
 我々の生命にとって、これが最も危機的なときだった。なぜなら、Brennero で列車から降ろされ、ベルリンまで行くことを強いられていたなら、確実に殺されていただろうから。「我々の」在ベルリン大使館は、我々が持つ旅券は無効だとすぐに判断し、我々をドイツに引き渡すに違いなかっただろう。//
 (49) どのくらい長く決定を待つ必要があったか、憶えていない。
 数分だっただろうが、耐え難く時間が延びているように感じた。
 Gestapo の男が、国境に到達する前に戻ってきた。
 そして、彼は言った。「あなたたちは、一つの条件付きで、進行することができる」。
 「どんな条件ですか?」と父親が尋ねた。
 「ドイツに帰ってこない、ということだ」。
 「〈ああ、そうしない!〉(Aber NEIN !)」と、父親はほとんど叫ぶように反応した。まるで、ドイツにもう一度足を踏み入れると少しでも思うと恐怖で充たされるかのごとくに。
 (50) ドイツ人は我々に旅券を手渡し、離れた。
 母親の顔は涙で溢れた。
 父親は私に、一本のタバコをくれた。初めてのことだった。
 (51) 朝早くに、Brennero に着いた。少し停車している間に、我々は新鮮なサンドウィッチを買った。
 太陽がまぶしく輝いた。
 10月30日月曜日の正午すぐ前に、ローマに到着した。
 (52) 我々は、救われた。
 ——
 第一章・戦争(原書p.1-p.14.)、終わり。


 000Pipes

2487/R・パイプスの自伝(2003年)③。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。
 ——
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第一章・戦争 ③。
 (24) 〔1939年〕10月6日、ヒトラーが、勝利してポーランドの首都を視察するためにやって来た。
 私は、我々の4階の窓から、彼を眺めた。ドイツ兵が、行路である目抜き通りのMarzalkowska 通り沿いと我々の家屋の下に、数フィートごとに銃砲を持って配置されていた。
 彼はオープンカーのMerzedes に乗り、親しげな様子で立ち上がり、ナツィ式の敬礼をしていた。
 ヒトラーを殺すのは何と簡単なのか、と私は思った。//
 (25) ポーランド人は初めは、外国による占領を寡黙な宿命意識で耐えた。
 結局は、彼らの国は21年間だけ独立し、つづく120年は外国に支配された。
 ポーランド人の愛国意識は、国家性よりも文化を伴う民族性と彼らの宗教へと向かった。
 彼らは、この占領は長く続くだろうが、再生したポーランドをもう一度見るだろうことを、疑っていなかった。//
 (26) もちろん、ユダヤ人には状況はきわめて困難だった。
 ポーランドのユダヤ人の大多数—正統派で、密集した区画に住んでいた—はおそらく、彼らに対するナツィの考え方をほとんど何も知らなかった。
 東ヨーロッパのユダヤ人は、住民のうちで最も親ドイツの集団だった(共産主義とロシアに共感をもった者たちは別として)。(*脚注1)
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 (*脚注1)不幸なことに、多くがそうだった。その中で生活しつつもキリスト教徒から区別された彼らは、私事についてはきわめて現実的で、実際に厳しい体験で鍛えられていたが、伝統的に排除された政治の世界については著しく無知だった。
 彼らの中で同化した者たちは、メシアの到来を信じる正統派信者の仲間として、社会主義を信じがちだった。
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 彼らは、ドイツがロシアからポーランドを征圧して法と秩序をもたらした第一次大戦の間の時期(1915-1918)を記憶していた。私の母親の家族には、その時代のよい思い出しかなかった。
 私は思うのだが、ユダヤ人の大多数は1939年9月に起きたことをひどく怖がったということはなかった。そして、多少とも、正常な生活が回復すると予測した。
 Israel Zangwill はその〈ゲットーの子どもたち〉で、正当にこう語る。
 「ユダヤ人は迫害による苦痛をほとんど感じなかった。
 彼らはGoluth つまり亡命(exile)の時代にいると、またメシアの日々はまだ来ていないと、分かっていた。そして、迫害者は全知全能の神(Providence)の愚かな手先にすぎない、と考えた。」(+後注02)
 (+後注02) 1895年, New York &London.
 (27) 同化したユダヤ人は、より心配した。彼らはニュルンベルク法と水晶夜(Kristallnacht)〔1938年11月の反ユダヤ人暴動・「11月の虐殺」—試訳者〕について、知っていた。
 しかし、彼らですら、ドイツ支配下で何とかして生きていける、と考えた。ドイツ人にも結局は、医者、服屋、パン屋が必要だろう。
 ユダヤ人は二千年以上、敵対的環境の中で生き延びていく仕方を学んできていた。
 彼らは、体面や同情に訴えたり、人権を要求したりではなく、諸権力に有用な者に自分たちがなることによって、生存を達成した。すなわち、王や貴族に金を貸し、彼らの必需品を販売し、彼らの賃料や税金を徴収することによって。
 かつてしばらくの間、彼らが財産を奪われて追放されたのは本当だが、彼らはほとんどの時期を何とかして生きてきた。
 今度もそのようになるだろう、と彼らは思った。
 彼らは、大きな間違いを冒した。
 彼らが今対処しなければならない者たちは経済的な個人的利益には影響されず、異常な人種的憎悪に動かされていたのだ。—抑えることのできない憎悪感情。//
 (28) 半世紀後に、パレスチナ人と交渉するイスラエルの人々のナイーヴさを観察して、この〔ユダヤ人の〕態度を理解できるようになった。
 イスラエル人は、イスラエルを破壊し、そのユダヤ人住民を虐殺するか少なくとも追放しようとした、三回のアラブの侵攻を撃退した。そして、イスラエルの人々は定住して快適に生活し、平和と繁栄を維持するためにアラブ人にほとんどどんな譲歩でも行う気があった。
 イスラエル住民のかなりの部分は、パレスチナの隣人たちの宥和不可能な破壊的熱情に関する間違いようのない証拠を、素っ気なく無視した。譲歩すれば何とかなると、確信していたのだ。
 彼らは憎悪しなかったがゆえに、自分たちが憎悪されることがあり得ると考えるのは困難だった。//
 (29) 被占領下のポーランドの生活は、驚くべき速さで正常に戻った。日常がいかに速く「英雄的なもの」を圧倒したかは、驚嘆するほどだ。
 この経験が私に与えたのは、つぎの不変の確信だ。すなわち、民衆一般は歴史では、ともかくも少数のエリートに留保された政治や軍事の歴史では、辺縁的な役割しか果たさない。彼らは歴史を作るのではなく、生きる。
 私はこのことを、〈Old Wive's Tale〉へのArnold Bennett 自身の序文での洞察で確認した。そこで彼は、年配の鉄道被用者とその妻への、1870-71年のプロシャの包囲の間のパリに関するインタビューを思い出している。
 Bennett はこう書く。「我が彼らから得た最も有益なことは、最初は驚いたが、ふつうの人々は包囲されたパリで全くふつうの生活を営みつづけた、ということだった」。//
 (30) 1940年5月に記録したようにこうした期間の私の思い出を振り返ってよいなら、以下はドイツ占領下で私が過ごした時代について書いていたものだ。
 「私のこれまでの人生で最も悲しい月が始まった。それは結構な終わりを迎えることになった。—1939年10月。
 この期間に何をしたか、どうやって過ごしたか、自分が叙述するのは困難だ。
 アパートは、ひどく寒かった。
 私はほとんど全てを着込んで掛け布団の下で寝た。
 ドイツ軍が歩いている人々を拘引していたので、外へ出るのは危険だった。
 夜には電灯が点かず、ろうそくは節約する必要があったので、私は昼間にだけ読書し、勉強することができた。
 私たちは毎日、ライス、マカロニを食べ、種々のスープを飲んだ。—のちにはキャベツとパンが加わった。
 私は10時頃に起床し、強い嫌悪感をもって、しかし同様の食欲で、朝食を摂った。そのあとで、家を出て[友人の]Olek やWanda、あるいは家にいる他の誰かを訪れた。…。
 困難な状況を思って、絶望していた。—野心、計画、夢の全てが粉みじんに散った。」//
 (31) 父親がなぜドイツ占領でのたんなる生存の見込みすら厳しいと考えたのか、私は正確には分からなかった。ほとんどのユダヤ人は、占領を甘んじて受けていた。
 おそらくは、誇りからだった。父親はパリア(pariah、のけ者・下層民)のごとく自分が扱われると考えること自体を耐え難く感じる、自負心の強い人だった。
 彼は広がっているいかなる幻想も持たず、前方にあるものを正確に予測していた。
 一ヶ月後に、公然たる追及が始まる前のことだが、彼が書いた手紙で、彼はこう書いた。「ポーランドのユダヤ人は、ドイツのユダヤ人よりも悪い運命に直面している」。//
 (32) 10月の前半のいつかに、我々は台所で家族会議を開き始めた。それには、家族全員と、戦争勃発とともに行方不明になっていたお手伝いのAndzia も加わった。
 あるラテン・アメリカ国への偽造旅券でポーランドから西側へと出る可能性が、浮かび上がった。
 父親はその国の名誉領事を知っていた。X氏と称しておくが、この人物は領事館のスタンプのない、一冊の空白の旅券を持っており、このスタンプは、外交団と一緒に彼がワルシャワを去るときに総領事からもらっていた。
 X氏は、我々が自由に使えるよう、この旅券を我々に預けた。
 しかし我々は、つぎの疑問に直面した。我々はあえて慣れた場所を立ち去って、未知の場所へと行くのか?
 我々は裕福でなかったが、家で金銭について議論したことはなかった(総じて言って、金銭はユダヤ人中流家庭での会話の話題でなかった)。私も、生き延びるためのその必要性に関して、何の考えも持っていなかった。
 父親がこの冒険の是非を声を出して考えている間、私は賛成の意見だった。
 私は大学に入学登録したかったが、それはドイツ占領下のポーランドでは考え難いことを知り、ポーランドを離れるよう強く主張した。
 金銭については、我々は何とかするだろう。最終的には、父親には、我々が苦境を切り抜けるための銀行口座が、ストックホルムにある。//
 (33) 母親によると、離れるという決定が下されたのは、ドイツ軍が掲示板に彼らに登録した住民にはパンの配給券が発行されると発表した後だった。
 父親は、これは誰がユダヤ人なのかを決める手段だ、と結論した。//
 (34) 私の主張と私の(根拠のない)自信は、間違いなく、父親の判断を助けた。
 私は今でも、父親が全く大胆な決定をしたと驚嘆している。
 母親は、ユダヤ人の彫刻師を探し出して、欠けている領事館の公印を偽造させた。
 そして父親は、出国許可を求めてドイツ軍司令部との交渉を始めた。
 Gestapo は10月15日にワルシャワに入っていた。だが父親は、もっぱら軍部と交渉した。
 父親は私にこう言った。ドイツ軍司令部と我々の出国を交渉している間に、市長のStarzynski のところへ行ったのだが、彼は父親をドイツのスパイか協力者だと疑って怒りの視線を向けた、だが説明する機会がなかった、と。//
 (35) こうしたことが起きている間、私は、幸運に包囲攻撃から生き延びた友人たち全員を訪問した。
 音楽がとても好きな学校の友人の一人のアパートの中庭に入ったとき、Beethoven の〈英雄(Eroica)〉の音が聞こえた。
 別の学校友達の母親は驚いて、ドアを開けるのを拒んだ。
 最良の親友のOlek Dyzenhaus は、姿見がよかった。
 Marzalkowska 通りを二人で歩いていたとき、パン待ちの行列に気づいた。語り合い、笑いながら、我々もそれに加わった。
 後ろの一人の男性が、首を振りながら、「ああ、若いやつ、若いやつ」と呟いた。
 我々はこれは怪しい人物だと思った。しかし今では、彼の反応が分かる。//
 (36) ついに、全ての書類が揃った。イタリアへの通過ビザも含めて。
 我々は、ドイツ軍が市を占領していたので、10月27日金曜日の午前5時49分に、ワルシャワからの始発列車で出発することになった。
 その列車は、故郷へと兵団を運ぶ軍事用のものだった。
 我々の目的地は、Breslau(今日のWroclaw)だった。//
 (37) 父親は一人のドイツ系ポーランド人—Volksdeutsche と呼ばれた—と、推測するに我々が戻るまで、我々のアパートに転居することを取り決めた。
 その人物は、アパート所有物の詳細な目録に署名をした。
 私は、音楽と芸術の歴史に関するものが最も多い書物と写真を集めた。
 そして、ほとんど哲学書と芸術史書から成る私の小さな書斎に別れを告げた。
 その中の主要なものは、Meyer の〈Konversationslexicon〉だった。それは19世紀末に出版され、芸術史に関する知識のほとんどを、私はそれから得ていた。
 ロシアによる検閲で、攻撃的と見られた全ての文章が墨汁で黒く塗られていた。
 表紙は、第一次大戦の寒い冬の間の燃料になるよう、注意深く破り取られていた—そう叔父は私に教えた。
 私は夜のあいだずっと、手の施しようもなく震えていた。//
 ——
 第一章④へとつづく。

2486/R・パイプスの自伝(2003年)②。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。
 著者はドイツ軍の空襲を受けているワルシャワで(両親とは別の部屋で)ニーチェの〈権力への意思〉などを読みつつ寝た、という当時の日記の一部を掲載している。以下の(16)参照。興味深い。
 だが、当時16歳のポーランドの少年(青年?)が、どういう目的や思いをもってNietzsche の本を持っていて、「非常時」に目を通したのか?
 攻撃しているドイツの人物だからか、それともそれ以上に、ヒトラーとニーチェを結びつける何らかの言説があったからか。著者は何も触れていないので分からない(少なくともこの辺りの叙述まででは)。
 ——
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第一章・戦争 ②。
 (15) 9月22日〔1939年〕の夜になり、外交団が撤退したあとで、ワルシャワは昼夜を問わない爆撃にさらされた。昼間はStuka 爆弾機が防衛なき市の上を巡回し、甲高い音を立てて飛んで民間人に対して爆弾を落とした。
 夜に我々は砲撃を受けた。
 爆撃は無差別で、9月23日だけは例外だった。その日はYom Kippur の日で、ドイツの飛行士たちはワルシャワのユダヤ人区画に集まって遊んでいた。//
 (16) 私の文書の中に、この出来事から8ヶ月後に書かれた日記を見つけた。それから引用するのが最もよいだろう。
 「23日、ラジオ放送が、爆撃を受けて停まった。
 その翌日、我々には水がなかった(ガスはしばらくの間不足していた〉。
 我々はすぐに逃げるために、全ての持ち物を手にして、完全に身繕いをして、寝た。
 私だけは、ニーチェの〈権力への意思〉や[Leopold]Staff の詩を読みながら、またはGiotto についての自分のエッセイを書きながら、6階で寝た。
 24日は一日じゅう爆撃が繰り返され、25日の朝に我々は、爆弾の音で目が覚めた。
 もう空からの攻撃に対抗する防衛力または[ポーランドの]航空機はなく、あちこちで機関銃の音が響いた。
 450機による一日じゅうの爆撃が始まった。それは、歴史上かつてないものだった。
 爆弾が次から次に、雨嵐のように、守る術なき市に降り注いだ。
 家は崩れ、数千の人々が埋まり、あるいは街路が火に包まれた。
 ほとんど発狂したかのごとき群衆が、子どもや包みを抱えて、瓦礫で覆われた街路を走った。
 ドイツの航空士たち、世界で最悪の野獣たちは、機関銃砲で[街路を]掃射すべく意識的に低く飛行した。
 夕方までにワルシャワは炎に包まれ、ダンテの地獄のようだった。
 市の端から端まで、見えるものは空を赤く染める炎だけだった。
 そうしてドイツの砲撃は続き、砲弾の雨で市を覆った。…。
 我々の[仮の]住まいは奇跡的に的中するのを免れ、二つ「だけの」砲弾の痕跡があった。/
 しかし、我々が何の被害も受けなかったのではなかった。
 午前1時頃、大きな爆発の音で目が覚めた。砲弾が下の階に当たり、女性が一人殺された。
 我々は跳び上がり、人々で群れた階段の吹き抜け箇所へと降りた。
 叫び声、絶望の言葉、うめき声が、無情な砲弾の爆発音と入り混じった。
 我々の建物が燃え始めた。
 中庭へと逃げた。私は、最も貴重な自分の書き物と本を入れた書類カバンを持ち、腕の中に震える我々の犬を抱えて、逃げた。
 庭を横切ったとたん、砲弾の欠片が近くで爆発した。だが、負傷はしなかった。
 我々は地下室へと避難した。しかし、午前5時に、そこを放棄せねばなければならなかった。もう安全ではなかったからだ。—階段の吹き抜け部分の一つが炎に包まれていた。/
 街の中へと走った。
 Sienkiewicz 通りで、広いがひどく汚れた、地下室のある避難所を見つけた。そこは群がる人で混んでいた。
 砲撃は絶えることなく続いていた。
 夕方7時に、この建物は燃え始めた。
 我々はもう一度、通りに走り出た。
 こんどはMarzalkowska (マルシャウコフスカ)通りで、狭い階段下空間に落ち着いた。…。
 二回目の夜がやってきた。
 爆撃は続いていた。市全体が、炎の中にあった。 
 Marzalkowska 通りとZielna 通りの角で我々が見た光景を、私は決して忘れない。—馬が自由に走り回り、あるいは鋪道の上に死んでだらりと横たわっていた。それらは、箱のごとく燃える家屋の火で照り輝いていた。
 人々は安全な隠れ場所を探して、家屋から家屋へと走り回った。
 夜中には爆撃がいくぶんか弱くなった。そんなとき、私はあるウェイトレスの膝の上に頭を乗せていた。そして、寝入った。
 空腹だった。我々は、砂糖と奇跡的に得た水を与えて、なんとか我々の犬を救った。/
 突然にドアが開いて、ひどく負傷した4人の兵士が運ばれてきた。
 彼らはろうそくの灯りの中で包帯を巻かれたが、水も薬もなかった。
 女性たちが気絶したり、理性を失ったりし始めた。子どもたちは泣き叫んだ。
 私も、ほとんど卒倒しそうだった。
 ようやく落ち着いて、無関心に、例えば、ろうそくの火を消すべきかどうか、といった議論を聞いた。
 人々の群れが、入ろうとして、我々のドアに押しかけた。
 爆撃は、はっきりと分かるほどに弱くなった。
 より静かになっていった。…。
 ワルシャワは、そしてそれとともにポーランドは、最後の日を体験したのだった。」//
 私の日記に記さなかったことを、付け足してよいだろう。すなわち、我々が燃える街路を走っていたとき、母親は走りながら、落ちてくる瓦礫の破片から守るために、私の頭の上に枕を乗せて抱えてくれていた。//
 (17) 地下室で、ひどい風聞が広まっていた。
 私はそれを、ポケット日記に記録した。—ポーランドはドイツの攻撃を撃退しており、諸都市を奪い返している。フランス軍はジークフリート(Siegfried)線を突破した。イギリス軍は東プロシャに上陸した。
 この数日間に〈Dzien dohry !〉(良い日だ!)という表題で出現したいつもと違う記事の一つは、その第一面(headline)でこう発表した。
 「ジークフリート(Siegfried)線が破られた。フランスがラインラント(Rheinland)に入った。ポーランドの爆撃機がベルリンを急襲攻撃する。」
 これら全ては、全くの作り話だった。
 ついに、真相が明らかになった。9月17日、ソヴィエト軍はポーランド国境を越え、東部諸地方を占拠した。
 私は日記の9月24日(日曜日)に、こう記した。
 「ワルシャワは自衛する。
 ソヴィエトはBoryslaw、Drohohyez、Wilno、Grodno を占領した。
 西部前線—静寂。
 ポーランドは負けた。
 どのくらい続くのか?」//
 (18) 〔1939年9月〕26日、ポーランド当局とドイツ軍は交渉を開始した。
 その翌日に、ワルシャワは降伏した。
 そのときに合意された条件によって、42時間の停戦になった。
 27日の午後2時、銃砲は沈黙し、航空機は空から消えた。その間に彼らは、市の建物の8分の1を破壊していた。
 奇妙な静けさが発生した。
 ドイツ軍は、9月30日に市に入った。
 私は偶然に彼らの先遣部隊、ワルシャワの中心部、Marzalkowska とAleje Jerozolimskie の通りの角に止まっていた、上部の除去可能な軍用車、に出くわした。
 運転手の隣に座っていた若い将校が立ち上がり、その車を囲んでいる群衆の写真を撮っていた。私は憎しみをもってその男を一瞥した。//
 (19) 二日間の停戦中に、我々のアパートに戻った。窓が何枚か破壊されているのを除いて、損害を免れていた。
 両側と通りを挟んだ向こう側の各家屋は、しかし、粉々になっていた。 
 ココ(Coco)、我々の老犬のコッカー・スパニエル(cocker spaniel)は、我々の放浪に従いてきたのだったが、喜びで狂ったようになり、激しく食事室を走り回り、ソファを跳び登ったり降りたりした。
 彼女は、我々の苦難は終わった、と思ったに違いない。//
 (20) ポーランドの1939年の軍事行動については、多数の誤報が存在する。ポーランド軍はドイツの戦車部隊を騎兵隊で阻止しようとしたとして馬鹿にされ、名目だけの抵抗を示した後で降伏したかのごとく叙述されている。
 実際には、ポーランド軍は、きわめて勇敢にかつ効果的に戦闘した。
 機密性を解除されたドイツの文書資料が明らかにしているのは、戦争の4週間にドイツ軍は多大の被害者を出した、ということだ。
 死者は9万1000人、重傷者は6万3000人。(+後注01)
 これらは、スターリングラードの戦いとその2年後のレニングラードの勝利までは、ドイツ軍が被った最大の被害だった。その2年間にドイツは、全ヨーロッパを事実上征服したのだったが。 
 +(後注01)Apoloniusz Zawilski 1972, p.248n. ポーランド軍はまた、ドイツ軍の191台の戦車と421機の航空機を破壊した。//
 (21) 我々には食べ、飲むものがあった。母親が戦争勃発のまさに直前に大きな一袋の米(rice)を購入していて、彼女のベッドの下に隠していたからだ。
 これが翌月の間の我々の主食になることになった。多様な料理法で提供され、マーマレードで味付けされていたことすらあった。
 我々はまた、浴槽に水をはった。//
 (22) 10月1日、ドイツ軍は市内の巡回を始めた。
 彼らはトラックを運転した。私が驚きつつ気づいたのは、兵士たちはナツィの情報宣伝にいう金髪の超人(supermen)ではなかった、ということだ。多くは背が低く、浅黒く、外見上は少しも英雄的でなかった。
 占領軍は、すみやかに日常生活を回復させた。
 パン屋が開いた。
 ポーランドの店舗は販売した。あるいはほとんど無料で品物を売った。
 私は、イワシの缶詰やチョコレート棒を含めて、できるだけ買った。
 占領の最初の一ヶ月の占領軍兵の振舞いは、全く適正だった。
 私は乱暴な行為をいっさい見なかった。
 心に残る像は、あるドイツ兵が髭の生えたユダヤ人をオートバイのサイドカーに乗せて、ワルシャワの街路を走らせていた、というものだ。
 別のときには、二人の若いユダヤ人女性がある建物の入口の監視兵と親しくして、当惑する彼の鼻を花でくすぐっているのを見た。
 私が見た唯一の反ユダヤ的出来事は、ドイツ軍のトラックの荷樽がユダヤ人区画の街路で落ちてころがり、中には老人もいたユダヤ人たちが当たるのを避けようと散り散りになったとき、ドイツ兵が笑い声を立てて歩き回った、というものだ。
 やがて、ドイツ軍司令部が作ったポスターが壁に貼られた。
 そこに名前が載っていたポーランド人は、文字どおりには「犬の血」で英語の「畜生(damn)」にほぼ該当する言葉の〈psiakrew〉をドイツ人の面前で発したごとき、種々の「犯罪」で、処刑された者たちだった。
 負傷したポーランド兵を描いた絵もあった。その兵士は腕を三角巾で吊るし、ワルシャワの廃墟を指し示しながら、怒ってチェンバリン(Chamberlain)に「お前の仕業だ」と叫んでいた。
 我々は黙って、こうしたポスターから学習した。//
 (23) 父親は一度ドイツ兵に止められ、その男が近づいてきて、父親の肩に腕を乗せて、「ポーランド人か?」と尋ねた。
 父親は怒って、流暢なドイツ語でこう答えた。「違う! 手を離せ。」
 仲間のドイツ人を困らせたと思って慌てた兵士は、詫びて、去って行った。//
 ——
 ③へとつづく。

2485/R・パイプスの自伝(2003年) ①。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 この書物はRichard Pipes (1923〜2018)の自叙伝だ。
 VIXI は「私は生きた」という意味のラテン語らしい(正確には知らない)。
 大きくつぎの四つの部で構成されている。 
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第二部/ハーヴァード。
 第三部/ワシントン。
 第四部/再びハーヴァード。
 読了してはいないが、第二部と第四部は主にHarvard 大学での研究(・教育)の時代、第三部はレーガン政権のソ連・東欧問題の補佐官としてソ連の崩壊を準備した時代、第一部がポーランドで出生して(その前の出自を含む)、第二次大戦勃発後にイタリアを経てアメリカに定住し、20歳でアメリカ国籍を取得する、等の時代だ(少しは間違っているかもしれない)。
 以前から、第一部だけはぜひ試訳して掲載しておきたいものだと、考えてきた。
 ユダヤ系ポーランド人の彼が、どのようにしてアメリカに来たのか、そして(むろん英米語を用いる)ロシア・東欧史専攻の研究者となり国際政治の実務にも関与したのか、にすこぶる関心を持ったからだ。
 この本の存在を知ったのはロシア革命に関する彼の二つの大著*を知って(それぞれ一部、この欄に試訳掲載済み)、その一部を読んだ後だったので、これら大著の著者の「背景」を知りたい、ということも、もちろんあった。
 *①Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
   <「1899 -1919」が付くのは1997年版以降。>
  ②Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime 1919-1924 (1993).
 ようやくこの欄への試訳掲載を始める。
 なお、この書物の目次や緒言よりも前に、欧米の書物にはよく(ほとんど)ある「献辞」がある。一頁全体の中に、つぎの文章だけがある。
 「この本を私の両親、Mark Pipes とSofia Pipes に捧げる。
 私を生んでくれ、そしてナツィスの手による確実な死から私を救ってくれたことに感謝して。
 ——
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第一章・戦争 ①。
 (01) 1939年8月24日木曜日、我々が定期購読していた日刊紙の〈Nasz Przeglad〉(我々の論評)は最初の頁に、二つの宿敵国のナツィ・ドイツとソヴィエト同盟が不可侵条約に署名した、という驚くべき報せを掲載していた。
 私は前の月に16歳の誕生日を迎え、最終学年の前の年度にギムナジウムの生徒に要求されていた予備軍営(ポーランド語でROTC)での三週間の課程を終えて最近に帰ったところだった。
 通常の予定どおりだと、私は最終学年の学習のために数日以内に学校に戻っていただろう。
 しかし、そうはならなかった。//
 (02) 父親は、報せは戦争を告げていると結論づけ、我々のアパートから移ろうと決めた。我々が住んでいる家はワルシャワの中央鉄道駅の傍にあって、空からの爆撃の対象になりそうだったからだ。
 我々は、ワルシャワの南にある保養地のKonstancin へと移った。そこである邸宅の大部屋を借りて、つぎの進展を待った。
 当局は住民に対して、消灯の継続を命令した。
 私は、夕方にろうそくの灯りのそばで、父親と叔父の一人が戦争になるかどうかについて議論していたのを思い出す。
 叔父は、全てはムッソリーニにかかっているという意見だった。これは全く間違っていた。実際にはヒトラーの軍隊がスターリンの承認を得て、すでにポーランドの北、西、および南西に配置され、攻撃の準備をしていた。//
 (03) 市政府は郊外に住んでいる住民に、爆撃から守るために塹壕を掘るように命じた。
 私は、邸宅を所有する女性が彼女の花壇を損傷するから止めよと命じるまで、懸命になってその仕事に取り組んだ。//
 (04) 9月1日、金曜日の朝6時30分、私は遠くから聞こえる一続きのドーンという音で目が覚めた。
 私がまず思ったのは、自分は雷鳴を聞いている、ということだった。
 着替えて、外に出た。だが、晴天だった。
 上の空高くに、ワルシャワに向かっている銀色の航空機の一編成を見た。
 単独の複葉機—まるで木製のごとくだった—がそれらを迎えるべく、急傾斜で昇っていった。
 私が聞いた音は雷鳴ではなく、ワルシャワ空港に落とされている爆弾だった。それは、ポーランドが作った小さな空軍施設をすみやかに粉砕した。//
 (05) 軍事力には大きな不均衡があったにもかかわらず、ポーランドの立場は完全に見込みがないというものではなかった。
 第一に、ポーランドは、イギリスとフランスの両国から、ドイツが万が一攻撃してくればドイツに宣戦を布告するとの保証を得ていた。
 さらにフランスは、ドイツ軍をピン留めすべく、ドイツの西側の戦線で反抗攻撃を行うと約束していた。
 第二に、ポーランドはソヴィエトの中立を計算に入れていた。そのことで、ポーランド軍は再結集し、ドイツ軍が後方から攻めることのできない国土の東半分で踏みとどまることが可能になるだろう。
 フランスは約束を守らないこと、ソヴィエトは、ドイツがソヴィエトに東半分を譲与するとの不可侵条約の秘密条項をもっていたことを、ポーランドは知らなかった。//
 (06) 午前中が大して進んでいない頃、我々はラジオで、ポーランドとドイツが交戦状態にあること、敵の兵団が複数の場所から国境を越えたこと、を知った。//
 (07) 戦争についての私の考えは、希望と運命論の入り混じったものだった。
 ポーランド人かつユダヤ人として、私はナツィスを軽蔑し、連合軍の助けで我々が勝つことを期待した。
 運命論は、若者や完全には成熟していない大人にありがちだが、起きることは起きざるを得ないという考え方に由来していた。
 それは実際には、毎日を生きて最善を尽くす、ということを意味した。
 運命論は、セネカ(Seneca)の私の好きな言葉に要約された。すなわち、〈Ducunt volentem fata, volentem trahunt〉—「運命は意思する者を誘導し、意思しない者を遠ざける」。//
 (08) 第二次大戦となった最初の日の夕方に、父親は私を邸宅を囲む公園のベンチに座らせ、こう私に言った。父親と母親に何かが起きたなら、ストックホルムへ行き、そこで父親の口座があるSkanska 銀行のOllson 氏に連絡を取りなさい。
 多年ののちに私は知ったのだが、小切手の形の金銭はこっそりと持ち出され、1937年に親しい友人によってタイプライターの中に隠されていた。それはもともとはロンドンで預けられ、のちにストックホルムへと移されたものだった。
 あれは父親が初めて、私に一人前の大人として、向かい合ってくれたときだった。
 その金—3348ドルそこそこ—は、我々の生命を救うことになっていた。//
 (09) もちろん、戦争は何らの驚きもなくやって来たのではない。我々は長く戦争を予期し、ポーランドを離れることを考えていた。
 1938年10月に連合軍がミュンヘンで屈服したあと、私はヨーロッパ全体での戦争が避けられない、と思った。
 両親は、ニューヨークでの世界博覧会用の観光ビザを申請した。それをアメリカの領事館は私をポーランドに残すという条件つきで発行することに同意した。
 そのゆえに、パレスティナに住んでいて権限あるイギリス当局と良い関係がある私の叔父の一人を通じて、私は彼に合流することが取り決められた。いずれにせよ、それが私が選んだ道だった。
 私はのちに、6日後にヒトラーがポーランドを攻撃したことを知った。我々は〔本来ならば〕去ってしまっていただろう。両親は8月28日にアメリカ合衆国への観光ビザを受け取っており、その間に私はパレスティナへの必要な書類を得ていたのだから。(脚注1*)//
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 (脚注1*)後年に母親は、私にこう言った。親しい知り合いのスウェーデンの在ワルシャワ領事がスウェーデンへのビザを提示したが、その彼が母親の法律上の個人名は「Sarah」だと知ったとき、残念だがビザを提供することはできないと言った、と。
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 (10) 戦争勃発の翌日、私は自発的に、Konstancin の交通を監督するのを助けた。
 私の指示は、空襲警報用サイレンの音で自動車を道路から離れさせることだった。
 私は使命感をもって数日間そうしていたが、やがて無益さを知った。自動車は、その中には制服姿の軍人やその家族を乗せているものもあったが、国を脱出すべく南や東へと急いでいて、私の合図を無視したからだ。//
 (11) 1930年代末のヨーロッパの民間人は、空中からの化学兵器の危険性について、繰り返し警告されていた。
 私はたまたまガス・マスクを所有していたが、それはROTC軍営で購入したものだった。しかし、それにはフィルターが付いておらず、役に立たなかった。
 Konstancin で会った一人のユダヤ人少女が私に、そのフィルターを持っていて、家まで来るなら差し上げると言った。
 私は夕方に引き返して、暗い色の枠の家のドアを叩いた。
 ドアが開いて私が見たのは、部屋いっぱいに溢れた若者たちが蓄音機の音楽に合わせて情熱的に踊っている光景だった。
 その少女は私が欲しいものについて忘れており、私を追い払って、踊りの相手のところへ戻っていった。//
 (12) ドイツ軍が近くまで来ているという衝撃的な噂を聞いたとき、戦争は辛うじてまだ6日めだった。私はつけ始めた日記にそのことを記録した。
 実際に(当時は我々に知られていなかったけれども)、ポーランド政府はすでに9月4-5日に、その人員の一部のワルシャワからの避難を開始していた。
 その次の夜(9月6-7日)、ポーランド軍の筆頭司令官のRydzSmigly 元帥は、密かに首都を去った。
 父親が自動車を確保し、我々はワルシャワへと戻った。
 行路は検問で止められたが、父親がポーランド軍の退役兵であることを証明するものその他の文書を提示した後で、進むことが許された。
 市内は状況が緊迫していた。
 ドイツ軍は空から、降伏を迫るビラを落としていた。
 私は一枚を拾い上げようとしたが、通りすがりの人が、「毒が付いている」と警告した。
 ラジオは我々の意気が下がらないようにしていた。市長のStefan Starzynski (のちに拘束され、4年後にDachau で処刑された)からの訴えがあり、昼夜じゅうショパンの「軍隊」ポロネーゼが流された。
 負けたポーランド軍の敗残兵たち—何人かは負傷し、全員がぼろ服を着て消沈していた—が、市内へと、歩いて、馬で、あるいは荷車で、ばらばらに入ってきた。//
 (13) 9月8日、ドイツ軍はワルシャワ攻撃を開始した。しかし、激しい抵抗に遭遇した。
 私は民間人の長い列を見た。推測するに、政府の訴えに呼応した予備兵たちで、小さいバッグを運び、市内から東方へと出て行った。そこで軍役に就くことになっていたのだろう。
 私の両親は、ワルシャワを離れることを議論していた。我々には使用できる一台の車があった。父親はワルシャワから南東およそ100マイルのLublin へと我々を逃がせたかった。政府がその市へと避難していたからだ。
 その考えは、父親が知っている外務大臣のJoseph Beck に由来した。彼は父親に政府についていくよう言ったのだった。
 母親は断固として拒否した。その提案は父親が金を持っているという想定からのものだと、確信していた。
 出ていくとすぐに、我々は捨て去られるだろう。
 私はベッドの上で、この問題についての二人の叫び合うような議論を聞いていた。
 幸運にも、母親が勝った。//
 (14) 9月半ばまでに、ワルシャワは包囲され、我々は罠の中に入った。
 我々は住まいを二度目に出て、市の中心部から離れた固いアパート建物に住んでいる友人たちとともに、転居した。
 両親は彼らと一緒に落ち着いた。私はその間、ユダヤ人学者の住宅の最上階にある小さな部屋に泊まらされていた。
 彼はかなり大きな書斎を持っていて、私はビザンティウムに関する歴史書、William Oncken の世界史シリーズの一部を借りた。彼は、私が見つけたのと同じ形で返すよう求めた。
 私は自分の本も、何冊か持ってきていた。
 爆弾が雨のように街に落ちていたとき、母親が何回も来て、地下の避難壕に移るよう頼んだ。しかし、爆撃があまりにひどくなるまで、拒んだ。
 ワルシャワが降伏した後、私は、巨大な砲撃弾が私の部屋の天井を破り取って、ベッドの少し上の壁を砕き、爆発することなく地上に着弾しているのを見た。(脚注*2)
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 (脚注*2)後年に私は、若Pliny(Pliny the Younger)[=Gaius Plinius Caecilius Secundus〕が、ポンペイを破壊した大地震の間に似たような行動をしたことを、知った。彼はタキトゥスへの手紙で、美術館のそばにいて、激しい揺れを感じた、と書き送った。彼の母親は離れるよう強く言ったが、彼は—勇者だったのか愚者だったのか—Livy の本が送られてきた、「他にすることが何にもないがごとく読み続けたい」と頼んだ。彼は、自分の家が崩壊する危険が生じたあとでようやく離れた。彼はそのとき、17歳だった。
 〈Pliny the Younger の手紙〉(1969),p.170-1.
 ——
 ②へとつづく。

2484/Turner によるニーチェ ⑧。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第8節。
 (01) ニーチェは、ワーグナーと決別することで、ある意味ではロマン主義の継承物とも別れていた。彼の思想にはその要素の多くが維持されることになるけれども。
 彼は、より多く啓蒙思想と結びついた。
 しかし、ニーチェは、理性とその行使に対して批判する姿勢を明確に維持した。1870年代半ばまでにはワーグナー現象を批判したように。//
 (02) 1870年代半ばまでにニーチェは、後年の彼の著作の全てに影響を与えた結論に達していた。
 歴史上初めて、人間は最も過激な態様で、神なき世界に住むという事実に直面しなければならないだろう。
 これまでの文筆家は神の存在または非存在を否定し、疑問視し、あるいは公然と肯定を主張してきた。
 しかし、ニーチェは、哲学的思索の対象の一つとしてはこの疑問に接近しなかった。
 彼にとって、神なき世界という見通しは、人間の道徳史上の重大な転換点を意味した。
 人間は、高次のまたは超越した何物かとの関係をもたない価値を設定するのを余儀なくされるだろう、ということを意味した。//
 (03) 彼の見方と従来の科学的または理性的な自由思想家のそれとの違いは、年上のDavid Friedrich Strauss の書物に対するニーチェの批判に見ることができる。Strauss は、知識人たちの中にあるキリスト教信仰の解体に貢献していた。
 ニーチェは、こう書く。
 「彼は見事な率直さで、もうクリスチャンではないと公言する。だが、彼は、誰の心の平穏も乱そうとはしていない。
 一つの結社を壊すために一つの結社を設立するのは矛盾すると、彼は思っているのだろう。—これは実際にはさほどに矛盾してはいないのだが。
 確実に粗雑に満足して、彼は我々の猿の系統主義者の汚れた外套の中に身を隠し、ダーウィンを人類の最大の恩人だとして称賛する。
 しかし、彼の倫理が全体として、『何が世界についての我々の観念なのか』という疑問に依存することなく構成されていることが分かると、我々は混乱する。…/ 
 Strauss は、かつていかなる思想も人間をより善良で、より道徳的にし得ていない、ということすらまだ知らない。道徳を説くことはその根拠を見い出すのは困難であるのと同程度に易しい、ということも学んでいない。
 彼の課題の多くはむしろ、現実には存在する善良さ、思いやりの心、愛情、自己犠牲の精神を人間から取り去ることだった。そしてそれらをダーウィン主義者の仮説から導き、それで説明することだった。だが一方で、彼は命令(the imperative)に跳び込むことで〈説明〉という課題から逃げ出そうとしている。」(注15)//
 (04) Strauss の過ちは実際には、同時代のその他の著名な思想家全てのそれだった。
 どの思想家も安易に、キリスト教が存在しない中で、科学、人間性、リベラルな国家、あるいはナショナリズムのごとき他のものが、倫理の基盤を提供することができるだろう、と想定した。
 ニーチェは対照的に、安易な楽観主義のない自然主義(naturalism)を選んだ。
 ニーチェは、どの価値体系が支配すべきかを問題にしなかった。そうではなく、何が人間の社会的実在にある事実としての価値の根源なのか、を問うた。//
 (05) ニーチェの過激な道徳懐疑主義は、同様に過激な形而上学的懐疑主義に根ざしていた。
 言葉のかなり狭い定義をかりに用いるとすると、彼は適切にニヒリスト(nuhilist)だと見なされてよい。
 ニーチェの哲学的ニヒリズムは、世界には何らかの本源的な価値の何らかの形態がある、ということを否定するという形をとった。
 自然とその一部としての人間は、善や悪なくして、たんに存在している。
 世界(the universe)は、たんに、ある。
 それを超えては、またはその中には、いかなる高次の価値も存在しない。
 存在するという現象の中には、別の道徳を越える一組みの諸道徳を正当化するものはいっさい存在しない。
 彼がかつて、こう宣言したようにだ。
 「道徳的現象なるものは存在しない。現象の道徳的解釈だけがある。」(注16)//
 (06) ニーチェはこの哲学的立場によって、認識論の特定の様式へと至った。キリスト教に対する攻撃へと、当時のリベラルな政治の批判へと。
 そしてこれら全てが、彼の道徳に関する問題にかかわっていた。
 ニーチェが敢然と突きつけようとしたのは、世界の全体的に自然主義的な解釈の可能性と必要性だった。
 このことが含み得るものは、ある意味では、彼の三つの著作のタイトルに認めることができる。//
 1. 〈善悪の彼岸〉(1886)—世界と生への接近方法は、かつては道徳的または善または悪と考えられたものを超越したものでなければならない、と示唆する。
 2. 〈道徳の系譜〉(1887)—諸道徳は永遠に存在するのではなく、歴史と発展がある、と示唆する。
 3. 〈偶像の黄昏、あるいは金槌でいかに哲学するか〉(1888)—現存の偶像または哲学、道徳、宗教を、新しい出発のために破壊することの必要性を示唆する。//
 ——
 第9節へとつづく。

2483/Turner によるニーチェ ⑦。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。下線は試訳者。
 ——
 第7節。
 (01)  言うまでもなく、ワーグナーは〈悲劇の誕生〉に喜んだ。
 ある意味ではそれは、ワーグナー自身の1850年代の理論的著作を遡ってたどったものだった。
 当時の標準からすると、ワーグナーとニーチェのいずれも、非正統派であり、アカデミズムの標準を軽侮していた。
 ニーチェは、脚注をいっさい付けなかった。
 ワーグナーが把握できなかったのは、かくも立派に執筆することのできる者が、家族用のクリスマスの買い物をする子分または追従者にとどまることに満足していなかっただろう、ということだった。
 実際に、ワーグナーとの破局の理由の一部は、青年がその知的成熟期に入ったということでもあった。
 〈悲劇の誕生〉の後でさらに、もう一冊の書物をワーグナーに捧げなかったという理由でワーグナーから批判を受けるようなことになるとは、ほとんど誰も予見できなかった。
 (02)  しかしながら、ワーグナーとの決裂には、もっと根本的な別の理由があった。
 第一は、ワーグナーは、新しいドイツの中産階層エリートたちにもてはやされるにつれて彼自身の芸術的かつ文化的目標を裏切った、ということだった。
 ニーチェはまた、バイロイトでの〈The Ring of Niebelung(ニーベルングの指輪)〉の初演に深く動揺した。なぜなら、彼が期待したのはドイツ・ナショナリズムの賞賛にほとんど似たもの以上に、ヨーロッパでの悲劇の再生の瞬間だったからだ。
 その上演の年の1876年、彼は〈Richard Wagner at Bayreuth〉を出版していた。
 これは、親ワーグナーの最後の著作になった。//
 (03) 第二はワーグナーとの決裂の主な理由で、ニーチェがワーグナーの音楽や芸術の理論の多くを拒否するようになった、ということだ。
 拒絶する理由の核心にあったのは、病的なキリスト教や公然たる人種主義を伴ってのパルツィバル(Parsifal,アーサー王伝説)の登場だった。
 このときまでに彼は、初期のショーペンハウアー支持者からヴォルテール(Voltaire)や啓蒙思想の価値の支持者へと変わった。
 彼はまた、音楽の好みを変え始めて、ビゼー(Bizet)の〈カルメン〉が好きになった。その掻き立てる旋律の音楽はワーグナーに代わる救済になる、と感じた。
 1888年に彼は、最も激しいワーグナー批判書を出版した。その年にワーグナー自身は死んだが、その寡婦はワーグナー崇拝者たち(cult)を作っていた。
 〈ワーグナーへの論告〉でニーチェは、こう論述した。//
 「ワーグナーの芸術は、病んでいる。
 彼が舞台へと持ち込む問題は—全くのヒステリー患者の問題だが—、彼の感情の発作的痙攣、強すぎる感受性、より刺激的な香味を求める嗜好、原理として装っているが、英雄やヒロインを彼が選んでいるという不安定さ、だ。彼は英雄やヒロインを生理学的類型として見ている(病理学の回廊だ!)。
 まとめるならば、これらは、疑う余地のない病気の状態だ。
 〈Wagner est une névrose. 〉(ワーグナーは神経症患者だ。)」(注14)//
 ——
 第8節へとつづく。

2482/石原慎太郎—1932〜2022・享年91。

  東京都内杉並区に大宮八幡宮という神社があって、京王井の頭線の永福駅から北方へと歩いて参拝し、御朱印をもらったことがあった。2011〜13年の頃だ。
 八幡宮と称しつつ傍らには天満宮(天神さん)の社もあったのが印象に残った。
 記憶に残ったもう一つは、御朱印所から休憩・待合室まで行く通路の壁に、石原慎太郎らの写真が額付きで数枚掲示されていたことだ。
 それは長男・伸晃、同夫人の間の子(慎太郎の初孫?)の「初宮参り」ののときに撮られた写真だったようで、誰か単独のものはなく、石原慎太郎・同夫人と合わせて5人が写っていた。石原慎太郎と伸晃の二人は明らかに微笑んでいた(女性二人は男たちと比べるとふつうだったような気がする)。
 石原慎太郎一家がこの神社と関係が深いのだろう感じたことの他、関連して明瞭に思ったのは、石原慎太郎・伸晃とつづく衆議院議員選挙での選挙区内なのだろう、ということだった。
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  一昨年の後半か昨年に、つぎの対談書をたぶん全部読んだ。
 石原慎太郎=曽野綾子・死という最後の未来(幻冬舎、2020)。
 全体としては、まだしたいことがあると「生」への執着を語る石原と、夫をすでに失ったクリスチャンの(これらがどう関係するのか全く不明だが)曽野の、その点についての無関心さ、恬淡さが対照的で印象に残った。
 もう少し具体的に興味深かった点はこうだ。
 石原は亡くなった友人・知人がその死亡の日の直前に石原本人か別の知人の睡眠中の「夢」の中に出てきて<最後の挨拶>をしていった、というようなことを、何かの因果関係があるに違いない、と本気で語っていた、つまり非合理的かもしれないが「霊」はある、と主張するかのごとく熱く発言していた。だがしかし、自分自身の「霊」が死後も残るとはつゆも思っていない(つまり、自分の全ては消滅すると思っている)ふうだった。
 この〈矛盾〉が興味深くて、記憶に残った。曽野はというと、大した関心がないようで、石原の議論にまともに絡んではいなかった(以上、全て記憶による)。
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   政治家・作家としての石原慎太郎については、つぎの書が印象に残る。
 石原慎太郎=盛田昭夫・「N O」と言える日本—新日米関係の方策(光文社、1989)。
 と書きつつ、所持はしているが、まともには読んでいない。
 だが、日米関係の現状を(冷静に)憂慮しつつ、〈反米〉的主張もしたのだろう。もちろん、石原には全体として、反中国的姿勢の方が強かった。
 その反米論も、少なくとも、祖国・日本を敗戦に追い込み、占領し、ずっと従属させ続けやがって、というふうの「感情」・「鬱憤」がベースにあったのではない、と思われる。
 もっとも、1999年に都知事となって「つくる会」の分裂には関係していないと思われるが、ずっと〈日本会議〉の役員に名を連ねていたようだ。そして、決して名前だけ出していたのでもなさそうだが。
  上の最後の点と、秋月的には関連することがある。
 石原慎太郎は関西・大阪が地盤の橋下徹ら維新の会と合流して、2012年末に「日本維新の会」を立ち上げた。だが2014年に早くもこれは分裂した。
 東西にまたがる「保守」政党に期待もしていたので、背景不詳ながら残念に感じたものだった。
 見解・政策方針の差異が大きかったのが理由だとされるが、ほんの少しはつぎも背景にあるのではないか、というのが拙い推理?だ。
 橋下徹に対して、なぜか月刊正論(産経)は厳しかった。しつこく橋下批判を続けることになる適菜収に「哲学者」との肩書きで誌面を与え、さらには適菜収の橋下批判論を巻頭に掲載し、編集代表・桑原聡もまた同じ号の末尾で橋下徹は「きわめて危険な政治家」だと明記した。 
 橋下徹とニーチェ「研究者」の適菜収のいったいどちらが「正常」でまともな人物なのか、その後の二人の文章等を見ても歴然としていると思われる。詳論はここではしない。
 その月刊正論(産経)の基本的論調は、(近年では皇位継承者に関する主張を含めて)〈日本会議〉と共通していると見られる。
 そこで思うのだが、産経新聞主流派または月刊正論編集部としては、石原慎太郎と橋下徹の連合は<まずいことになった>というものだっただろう(桑原聡に尋ねてみたいものだ)。そして、少なくとも表向きは〈日本会議〉に石原は関係していたので、月刊正論編集部などより影響力のある〈日本会議〉関係者が石原に対して<橋下徹と手を切る>よう強く勧めたのでなないか。あくまで憶測だ。
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   三島由紀夫と石原慎太郎はともに法学部出身者だ。そして、社会と人間の現実あるいは国家の機構・構造について、西尾幹二や平川祐弘という文学部文学科出身者と比べて、格段によく知っていたと思われる。
 三島由紀夫はいっときは行政官僚だったが、石原慎太郎は、政治と行政に(そして法制に、例えば財政諸法、国・地方関係諸法に)三島以上に相当に通暁していただろう。いわゆる行政官僚・公務員の行動心理についても、よく知っていたに違いない。
 しかもまた、上の二人は小説家、作家でもあり、多数の「創作作品」を発表した、要するに多数の「小説」を書いた。三島は戯曲も書いたが。
 西尾幹二や平川祐弘は「小説」を書いて発表したことがあるのか。そういう創作活動を直接にしたことがあるのか。
 この二人は「文学部」出身であることにこだわる文章を書き、「言葉」の重要性を強調したりしているが、少なくとも文学部、とくにその独文学科・仏文学科出身者だけが「文学家」になれるのではない。
  研究や論評の対象にもっとされてよいのは存命者では石原慎太郎だ、という旨をこの欄にかつて書いたことがあった。
 その際も触れたように思うが、石原慎太郎は宗教にも、正確には法華経にも造詣が深かった。つぎの書をだいぶ前に、たぶん全部読んだ。
 石原慎太郎・法華経を生きる(幻冬舎、文庫版・2000)。
 ついでながら、評論全集的なもの(石原慎太郎の思想と行為・全8巻(産経新聞出版、2012〜13))は全てを所持しているが、きちんと読むに至っていないままだ。但し、つぎは読み終えている。
 石原慎太郎・弟(幻冬舎、文庫版・1999)。
 一個体としての人間には、当然に、することのできる限界がある。その範囲内で、石原慎太郎という一個人は、多様な才能を発揮したものだと思う。
 そしてまた、推察されるその人柄にも魅力的なところがある。それは、嫌悪する人がいるだろうほどの率直さ、正直さにあるだろう。
 それに、自信が本当にある人だからこそだと思うのだが、虚栄的な自己主張、「衒い」というものをほとんど感じさせない(小説の中にある人物像を対象にしてはいない)。
 要するに、<オレは偉いんだぞ>というふうの空疎で無駄な言葉がない。大学生時代にすでに世間にかなり知られていて、その必要性、つまり自分で懸命に強弁し、自己宣伝をする必要性がなかったからだろうか。
 政治家=国会議員・大臣、政治家兼行政実務者=東京都知事、「法華経」に関する書物(現代語訳を含む)もある文学家・小説家(芥川賞選考委員の時代もあった)。きっと「左翼」には嫌われていたのだろうが、これだけ多彩な能力を示して生きる人が、2022年以降に出現するのかどうか、つまりは現在にすでに存在しているかどうか。
 ——

2481/Turner によるニーチェ ⑥。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。第5節→No.2459/2021.12.23.
 ——
 第6節。
 (01)  ニーチェには、全てを破壊するソクラテスの知性主義を説明する悪役がある。
 それは、ソクラテスの声または悪霊だ。
 本能はほとんどの人々にとって、創造性の根源であり、自分たちを掻き立てる力だ。
 意識それ自体は合理的で、かつ後方にある。
 しかし、ソクラテスの場合は、全く逆だ。
 ソクラテスの内部的自己は前方にあり、つねに議論をして、本能的自己を妨害している。
 「全ての生産的人々の場合、本能はまさに創造的で肯定的な力であり、意識は批判的かつ警告的に振舞う。しかし、それとは対照的にソクラテスの場合は、本能は批判者になり、意識が創造者になる。—これこそが、〈欠陥による〉(per defectum)本当の畸形だ!」(注7)
 (02)  ソクラテスの本能が彼の知性を克服するならいつでも、彼の内的で知性的な声は働きを止める。
 この点では、ソクラテスは、行動に向かえば内部的な本能によって止められる、巨大で創造的な機械だ。
 そして、彼が死を選んだことは、ギリシャの青年たちには英雄主義の模範ではなく、哲学上の生の新しい模範となった。
 それと同時に、本来の合理性と知性への自信において、彼は、悲劇を不可能にする楽観主義の一種を人格化した。//
 (03)  芸術家は対象または問題を覆い隠して愉快になるものだが、ニーチェがソクラテスに原因を求める「理論的人間」は、覆いを剥ぎ取って対象を説明することで愉快になる。
 ニーチェがつぎのように称するものを生み出したのは、この理論的な外貌だ。
 「ソクラテスという人物のうちに初めて出現した深遠な〈妄想〉(delusion)。すなわち、思考とは、因果律がつながる糸として、存在の最も深い淵へと辿りつき、実在をたんに認識するのみならず、それを是正することすらできるという、揺るぎなき確信。」(注8)//
 (04)  この点で、ソクラテスは、将来の全ての科学の父だった。
 死ぬことを世俗世界で受容できるものにしたのは、まさに彼だ。
 これに関して、ニーチェは、「我々は、ソクラテスのうちに世界史の一つの転換点を見ざるをえない」(注9)、と書いた。
 ソクラテスにとっては全ての邪悪は過ちであり、人間の仕事で最も高貴なのは、過ちから本当の知識を切り離すことだ。//
 (05)  精神(mind)を探究し是正することは、理解して是正する新しい言葉をつねに探すことになるだろう。しかしそれは究極的には、通過することのできない境界に出くわだろう。
 その境界が、悲劇が再び出現し、回答不能のことや非論理的なものが再び自己主張をする場所だ。
 この境界線に、偉大な神、Dionysus が再び現れるだろう。//
 (06)  私はこう言いたいのではない。ニーチェがソクラテスについて言ったことの多くは、George Grote の全く単調な分析に実際に直接的に由来している、と。
 本当にニーチェがしているのは、合理性と科学の声というGrote の見解のほとんどを受容しつつ、さらに、裁きの法廷に合理性と科学を持ち込む人物像を作るために用いる、ということだ。
 Grote は、改革に導くものとして、合理性を称賛した。
 ニーチェは、生がもつ本能を抑制するものとして、合理性を嫌悪した。
 また、イギリスの功利主義も嫌悪し、Grote のソクラテスを攻撃することで、近代功利主義、近代科学、およびJ. S. Mill が支持した近代の批判的個人主義を攻撃した。
 (07)  ニーチェは誰を、合理的ソクラテス、古代の悲劇を破壊した古代の理論家に、対峙させたのか?
 ソクラテス、科学、批判的合理主義を融解させる力についての解答は、R・ワーグナーとその音楽だった。
 ニーチェはショーペンハウワーの美学を論じて、音楽は悲劇についての古代のDionysus 的世界の基礎的な鍵だったこと、音楽は新しい象徴主義が出現するのを認めたことを、強調した。
 最も重要なことは、音楽が悲劇的神話を誕生させることができた、ということだ。「この(音楽の)精神のみが、悲劇を誕生させることができる」(注10)//
 (08)  音楽は、個人主義を消滅させる愉しみを生み出すことができた。
 しかしながら、ニーチェによると、ほとんどの現代音楽ではこの目標が達成されていない。
 とくに、大歌劇は、この点で失敗した。
 ニーチェはさらに進んで、こう宣言した。
 「我々は、このソクラテス文化の内奥にある近代的内容を〈オペラ文化〉と称するならば、最もよく表現することができる」。(注11)
 これはもちろん、オペラと音楽に関するワーグナーの理論を直接に参照したものだった。
 ニーチェは、しかし、Dionysus 的経験の深さをドイツとヨーロッパで再び取り戻すことができるという希望を見た。そして、こう宣言した。
 「ドイツ精神のDionysus 的根底から、一つの力が蘇った。この力はソクラテス的文化の根本的制約とは何の共通性もない。
 むしろそのソクラテス的文化はその力を、恐ろしくて説明不可能で、威圧的で敵対的なものだ、と感じさせる。その力とは、すなわち〈ドイツ音楽〉だ。
 この音楽の、Bach からBeethoven 、Beethoven からワーグナーへと経てきた力強くて輝かしい過程を知る。」(注12)
 (09) ワーグナーの音楽によって、Dionysus 的明察の深さが再びApollon 的様式と結びつき、新しい美と道徳の時代が始まろうとしていた。
 「そのとおり。友人たちよ、私のようにDionysus 的な生と悲劇の再生を信じよ。
 ソクラテス的人間の時代は終わった。
 ツタの冠を頭に乗せ、テュルソス〔酒神バッカスの杖〕を手に取れ。
 虎やヒョウがきみたちの膝の周りでじゃれてまとわりつきながら、下に横たわっていても、驚くな。
 今こそ勇気を持って悲劇的人間にならなければならない。
 なぜなら、きみたちは解放されて救済されるだろうからだ。」(注13)
 ——
 第6節、終わり。

2480/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ⑦。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 第5章/現在の黙示録:マルクス、エンゲルスおよびニーチェのボルシェヴィキ的融合。
 ——
 第一節・レーニン:正体を隠したニーチェアン?③。
 (17) レーニンは、1917年の晩夏に〈国家と革命〉を書いた。いつ実行するか、成功するかどうか分からないままで、(Jacobin 派やブランキストと区別される)マルクス主義者の権力奪取ための神話を正当化するためだった。
 彼のモデルは、マルクスのパリ・コミューンに関する〈フランスにおける内乱〉(1871年)だった。この書物をマルクスは、労働者に「英雄的伝説」(彼の言葉)を与えるために書いた。
 マルクスはこの書物で、資本主義から共産主義への移行を指揮するプロレタリアート独裁という観念を展開した。
 彼はさらに、「ゴータ綱領批判」での考えを発展させて、共産主義の低い段階と高い段階を区別し、国家が「プロレタリアートの革命的独裁」にすぎなくなる政治的な過渡的移行期間に論及した。(MER,p.538.)
 マルクスは、革命的独裁と完全な共産主義の間に、相当に長い移行期間を想定していた。
 「労働者階級は、コミューンから奇跡を期待しなかった。
 彼らは、(人民の布令によって)導入する既製のユートピア像を持たない。
 彼らは、連続する歴史的過程を通じて、環境と人間を変革する、長い闘いを経由しなければならないだろう。
 彼らは実現する理想像を持たないが、崩壊している古いブルジョア社会それ自体が胚胎する新しい社会の諸要素を解き放つ理想像は持っている。」(注16)//
 (18) 対照的に、レーニンは、移行期間は短いものと想定した。
 資本主義は「会計(accounting)と検査(controll)」と単純化されたので、ボルシェヴィキは、必要としないものを「切り落として」、既にある機構を奪い取るだけでよかった。
 武装労働者たちは「生産と分配を〈検査〉し、労働と生産物を記帳(account)しつづけ、受領書を発行する、等々」をするだろう。
 検査はもちろん権力だ。
 技術者、農学者その他の専門家たちは今は資本家のために働いているが、「明日にでも武装した労働者たちの望みに服従して」仕事をするのがよいだろう。(LA,p.382)
 〈全ての〉市民が、武装労働者で成る国家の被用者となる。 
 〈全ての〉市民が、〈単一の〉全国的な国家「連合」(syndicate)の被用者かつ労働者となり、労働の平等と賃金の平等が保障される。
 「それからの離反はないだろう。どこにも『行く場所はない』だろう。」
 全員が、管理すること、習慣から「共同体の単純で基礎的なルール」を遵守することを学習すれば、完全な共産主義への移行が始まるだろう。(LA,p.383)
 (19)  マルクスとエンゲルスの著作にある残虐で暴力的な文章部分に注目して、それは豊富にあったのだが、レーニンは、いかなる法にも制約されないプロレタリアート独裁、純粋な実力(pure force)の王国、を提唱した。
 「プロレタリアートは、国家権力、中央集権的な実力の組織、暴力の組織を必要とする。搾取者の抵抗を粉砕するために、また、莫大な人民大衆—農民、小ブルジョア、準プロレタリアート—を社会主義経済の組織化という仕事に導くために。」(LA,p.328.)
 コミューンは、敵を粉砕しなかったがゆえに失敗した。
 勝利するプロレタリアートは、強制力とテロルによってその支配を維持しなければならない。
 そう考えない者は、空想者(utopian)だ。
 レーニンは、アナキストや、ブハーリンを含めて、革命のすぐ後に国家の廃絶を望まない「左翼」ボルシェヴィキに対抗して、こう反論した。
 「我々は空想者ではない。我々は〈ただちに〉全ての管理と全ての服従化を行うことをしないで済ますなどと夢見ることをしない。…。
 違う、我々は、現在にある人民とともに社会主義革命を欲する。彼らは、服従化、統制、監督者と会計者なしで済ますことができない。」(LA,p.344.)
 この書物は全体が権力への讃歌で、それと結びついていたのは、権力でのみ達成することができるものへの幼稚な信仰と、国家や経済を作動させるものに関する驚くべきべき無知だった。
 当時はプロレタリアートが人口の3パーセントだけを占めていた。これは、「ブルジョア民主主義」と多数派による支配を無視する、もう一つの理由だった。//
 (20)  共産主義の初期段階についてのレーニンの考え方は、ニーチェによる意思の称賛を、ニーチェのアリストテレス的エリート主義とは何ら共通性がない原始的平等という基本方針と結びつけた。
 しかしながら、平等主義と権力への意思は、相互に矛盾してはいない。ニーチェがこう考察したとおりだ。
 「平等への意思は、権力への意思だ」。(WP=「権力への意思」, p.277)
 レーニンの平等主義は、大衆のアナーキーで平準化したい本能に訴えた。そして、ブハーリンや、コロンタイのような「左翼ボルシェヴィキ」への一種の譲歩だった。
 (党外から、Bogdanov は「劣った者による平準化」と非難した。)(注17)
 労働者は社会主義への用意ができていない、ソヴェトは計画する有効な仕組みではない、とのBazarov の主張に反論する追加の論文を、レーニンは書いた。そこで彼は、1905年にソヴェトを生んだ革命的階級の「創造的情熱」を称賛し、再び国家を動かすことの容易さを強調した。(LA,p.399-p.406.)(注18)
 <一行あけ>
 (21)  1917年のほとんど、レーニンのスローガンは「全ての権力をソヴェトへ」だった。
 権力掌握後はすぐにこのスローガンを下ろし、数世紀にわたる奴隷状態で荒廃した、「修正」されなければならない「人間的素材」について語り、組織、紀律、革命的意思の必要を呼び起こした。
 1918年1月、彼は個人と諸階級全体に対する強制力とテロルの行使を擁護し、「決断力のなさ」、略式の逮捕、処刑や非ボルシェヴィキの新聞と雑誌の閉刊に不平を言う「意気消沈している知識人」に対する多大なる軽蔑心を表明した。(LA,p.424-6.)
 1918年3月には、こう宣告した。
 「ドイツ人から紀律を学べ。そうしなければ、一民族としての我々は破滅する。我々は永遠の奴隷状態のままで生きなければならなくなる。」(LA,p.549.)
 また、ロシアはブレスト=リトフスク条約を受諾しなければならないと主張し、それに反対する「知的な超人たち」をこき下ろした。(LA,p.543.)
 この言葉は、ブハーリン、コロンタイ、および1792-3年のジャコバン派のように防衛戦争を革命戦争に転化しようとするその他の「左翼ボルシェヴィキ」を指していた。
 レーニンは、別の論文で(同じく1918年3月)、条約は我々の解放への意思を固くし、鍛える、と言った。(LA,p.434.)//
 (22)  「ソヴィエト政府の差し迫った任務」(1918年4月)では、「意思」への言及が同じ頁に4回も現れた。すなわち、「絶対的で厳格な意思の統一」、「一つの意思へと彼らの意思を従属させる数千人」、「単一の意思への<疑いなき服従>」、「労働者の指導者の意思に<疑問を持つことなく従う>」。(LA,p.455.)
 「いかにして競争を組織するか」(1918年1月、1929年に出版)では、「ぞんざいさ、不注意、だらしなさ、神経質な焦り、行動しないで議論する傾向、仕事代わりの会話」を嘆き、「肉体労働から精神労働を分離する異様さ」を非難し(Bognanov が好んだ主題)、「寄生虫を排除する残酷な手段」を説明した。(LA,p.426-p.432.)//
 (23) レーニンは「偉大な始まり」(1919年7月)で、日常生活での英雄主義と意思を呼び求めた(戦士気分の新しい配置)。
 その機会は、〈subbotnik〉運動(賃金なしの土曜日労働)で、前の5月に鉄道労働者の何人かによって始められた。
 彼らの英雄主義は、習慣の革命の始まりであり、我々自身にある保守主義、紀律のなさ、小ブルジョア・エゴイズムに対する勝利、過去の(奴隷的)慣習に対する勝利だった。
 英雄熱による一つの行動だけでは、社会主義を建設しないだろう。必要なのは、〈ふつうの毎日の仕事〉での最も永続する、最も粘り強い、最も困難な、大衆の英雄主義だった。(LA,p.480.)
 社会主義の建設も、純化を必要とした。
 「自由恋愛の要求は、プロレタリア的ではなくブルジョア的なものだ。
(LA,p.685.)
 「革命は集団と個人による全ての神経の集中と結集を求める。
 D'Annunzio の頽廃した英雄たちにはふつうの乱痴気騒ぎの状態に耐えることはできない。」[D'Annunzio のニーチェ主義はよく知られていた。]…。
 プロレタリアートに必要なのは、明瞭さ、明瞭さ、さらに明瞭さだ。
 ゆえに私は繰り返す。弱くなること、活力の無駄使いや消失があってはならない。
 自己抑制と自己紀律は奴隷的ではない。」(LA,p.694)
 レーニンは「青年同盟の任務」(1920年10月)で、「人間を超える、階級を越える考えにもとづくいかなる道徳」をも拒絶した。
 「我々の道徳は、プロレタリアートの階級闘争の利益に全て従属する。
 階級闘争は継続している。その形態を変えただけだ。」(LA,668-9.) //
 (24) 〈「左翼」共産主義、左翼小児病〉(1920年4月)でレーニンは、ヨーロッパでの連立政権への参加に反対する純粋主義者を攻撃した。そして、内戦はほとんど終わっているとしても、闘争は継続しているがゆえにプロレタリアート独裁は存続しなければならないと強く主張した。
 党の内部では、「最も厳格な中央集権制と紀律が、プロレタリアートの〈組織上の〉役割(そしてこれが主要な役割だ)が正しく、成功裡に、かつ勝利を得るべく履行されるために、要求される。
 プロレタリアート独裁は、血を流しても流さずとも、暴力的であれ平和的であれ、教育的であれ管理的であれ、古い社会の実力と伝統に対する粘り強い闘いを意味する。」(LA,p.569,)
 1920年の末にかけて、レーニンは、純粋な実力の王国としてのプロレタリアート独裁の考え方を繰り返した。(全集31巻p.353.)//
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 (注16) Marx, The Civil War in France.
 (注17) Bogdanov, Teketology, p.25. 
 (注18) Francis King, The Political & Economic Thought of Vladimir Aleksandrovich Bazarov (1874-1904) , 1994, dis., p.104.
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 第一節・レーニン、終わり。

2479/高森明勅のブログ②—2021年11月12日。

  内親王だった女性と某民間人の結婚をめぐるマスコミの報道姿勢についてこう書く(もともとはテレビ放送予定の発言内容だったようだ)。
 ①「その人物は早い段階で弁護士に相談したが、法的に勝ち目がないと言われていたことを、自ら語っている。にも拘らず、…ご婚約が内定した後に、にわかに“金銭トラブル”として週刊誌で取り沙汰されるようになった。この間の経緯は、不明朗な印象を拭えない」。
 ②「一次情報にアクセスできず、又しようともせずに、真偽不明のまま無責任なコメントを垂れ流して来たメディアの責任は大きい」。
 ③「『週刊現代』の記者が当該人物の代理人めいた役割を果たしていたことは、ジャーナリズムにとってスキャンダルと言ってよい事実だが、その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」。
 ④「上皇后陛下の半年間に及ぶ失声症、皇后陛下の今もご療養が続く適応障害に続いて、眞子さまも複雑性PTSDという診断結果が公表された。名誉毀損罪、侮辱罪で相手を訴えることも事実上できず、言論による反論の自由すらない皇室の方々に対して、いつまで一方的な誹謗中傷を続けるのか」。
 上のうちほとんど無条件で共感するのは、③だ。
 この『週刊現代』の人物は、母親の元婚約者とかに「食い込んで」いたようで、要所要所で感想を聞いたりして、『週刊現代』(講談社)に掲載したようだ。但し、法職資格はなく、「法的」解決のために動いた様子はない。
 この記者(講談社の社員?)の氏名を同業者たち、つまりいくつかの週刊誌関係者、同発行会社、そしてテレビ局や新聞社は知っていたか、容易に知り得る立場にあったと思われる。
 一方の側の弁護士は氏名も明らかにしていたように思うが、この記者の個人名を出さなかったのは、本人が「困る」とそれを固辞したことの他、広い意味での同業者をマスメディア関係者は「守った」のではないか
 そう感じているので、「その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」(上記)との疑問につながるのはよく分かる。
 (『週刊現代』の記事は個人名のあるいわゆる署名記事だったとすると上の多くは適切ではなくなるかもしれないが、その他のメディアがその氏名情報を一般的視聴者・読者に提供しなかったことの不思議さ、「その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」という疑問の正当性に変わりはないだろう。)
 マスメディアは一般に、大臣等の政治家の名前を出しても、各省庁の幹部の名を出さない(情報公開法の運用では、たしか本省「課長」級以上の職員の氏名は「個人情報」であっても隠してはならないはずだが。公開することの「公益」性を優先するのだ)。
 個人情報の極め付けかもしれない氏名を掲載または公表すべきか、掲載・公表してよいか否かの基準は、今の日本のマスメディアにおいて曖昧だ、またはきわめていいかげんだ、と思っている。
 立ち入らないが、例えば災害や刑事事件での「死者」の氏名も個人情報であり、警察等の姿勢どおりに安直に掲載・公表したりしなかったりでは、いけないはずなのだが。
 災害や刑事事件には関係のない『週刊現代』の記者の氏名の場合も、その掲載・公表には<本人の同意>が必要だ、という単純なものではない筈だ。
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  高森の上の④も気になる。「誉毀損罪、侮辱罪で相手を訴えることも事実上できず、言論による反論の自由すらない皇室の方々…」というあたりだ。
 天皇は民事裁判権に服さない(被告にも原告にもなれない)という最高裁判決はあったと思う。但し、皇族についてはどうかとなると、どいう議論になっているかをよく知らない。
 しかし、かりに告発する権利が認められても、いわゆる親告罪である名誉毀損罪や侮辱罪について告訴することは「事実上できず」、反論したくとも、執筆すれば掲載してくれる、または反論文執筆を依頼するマスメディアは今の日本には「事実上」存在しないだろう。
 そういう実態を背景として、相当にヒドい言論活動があるのは確かだ。
  「上皇后陛下の半年間に及ぶ失声症」の原因(の一つ)は、高森によると、花田紀凱だ。
 「皇后陛下の…適応障害」が少なくとも継続している原因の一つは、おそらく間違いなく西尾幹二だ。
 「仮病」ではないのに「仮病」の旨を公的なテレビ番組で発言して、「仮病」なのに病気を理由として「宮中祭祀」を拒否している、または消極的だとするのは、立派に「名誉毀損罪」、「侮辱罪」の構成要件を充たしている。
 告訴がないために免れているだけで、西尾幹二は客観的にはかなり悪質な「犯罪者」だ(これが名誉毀損だと思えば秋月を告訴するとよい)。
 『皇太子さまへの御忠言』刊行とテレビ発言は2008年だった。その後10年以上、西尾幹二が大きな顔をして「評論家」を名乗る文章書きでおれるのだから、日本の出版業界の少なくとも一部は、相当におかしい。この中には、西尾の書物刊行の編集担当者である、湯原法史(筑摩書房)、冨澤祥郎(新潮社)、瀬尾友子(産経新聞出版)らも含まれている。
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2478/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ⑥。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 「Nietzschean」は、ニーチェ的、ニーチェ主義的(・ニーチェ主義者)、またはそのまま「ニーチェアン」と訳す。
 第5章/現在の黙示録:マルクス、エンゲルスおよびニーチェのボルシェヴィキ的融合。 
 参照されているレーニン全集(LCW)の巻数は日本語版(大月書店)と同じ。該当箇所を確認したものは頁を追記したが、訳文をそのまま模写してはいない。
——
 第一節・レーニン:正体を隠したニーチェアン?②。
 (09) レーニンは「党組織と党文化」(1905年)で、「文学上の超人」や「ブルジョア的なアナーキー個人主義」(ニーチェと関連していた)を非難した。
 党の文学は「プロレタリアートの共通する信条の〈一部〉、プロレタリアートの前衛が作動させる単一の偉大な社会民主党機構のネジと歯車、でなければならない。」(LA,p.148-152.)
 換言すれば、党の文筆家は、レーニンが指揮する革命的合唱団の一部になるだろう。//
 (10) レーニンは1906年のあと、その神話を、英雄的なプロレタリアートへと注目させるよう修正した(〈何をなすべきか〉からの変化〉、また、ソヴェト(労働者評議会)やパリ・コミューンに対しても。(全集9巻p.141,8巻p.206-8.)
 こうした変化によって、神の建設(God-building)のような「精神的大酒飲み」には汚染されていないマルクス主義の系譜に連なるものに、彼の神話はなった。
 マルクスやエンゲルスにとって、革命的暴力は助産婦だった(マルクスには実際の出生の血と痛みは生々しかった)。
 レーニンにとっては、バクーニンやソレル(Sorel)にもそうだったように、暴力は心理を変革する体験だった。
 「ロシアの人民は、1905年より前とは同じではない。
 革命は彼らに闘うことを教えた。
 プロレタリアートは彼らに、勝利をもたらすだろう。」(全集16巻p.304.)=(日本語版全集16巻「革命の教訓」,p.321.)
 大衆自身による武装闘争だけが、彼らの解放を実現することができる。
 1905年の革命は、プロレタリアの革命だった(漸進主義のマルクス主義者たちが主張するブルジョア民主主義的なそれではない)。特殊プロレタリア的な「闘争形態」—ストライキ—でもって、プロレタリアートの前衛が指導したものだからだ。
 闘争は、大衆に新しい精神を吹き込んだ。
 それ以降、彼らは止まりはしないし、誰をも期待しない。彼らが選ぶのは、勝利か死か、だ。
 漸進主義のマルクス主義者は臆病な日和見主義者であり、「停滞し、気後れし、無力の、そして崩壊寸前のブルジョア社会の心理と決裂する能力のない」人間たちだ。(全集16巻p.307-9,p.311-2.)
 ニーチェ的な用語では、彼らは、「奴隷の道徳」の持ち主だ。//
 <一行あけ>
 (11) Bogdanov 派と論戦するための理論的情報を求めて、レーニンは、彼が読書会に所属するGeneva 〔スイス〕やSorbonne 〔パリ〕の図書館で、当時の西洋哲学書を読んだ。
 ニーチェの著作のフランス語訳は、Geneva 図書館の一般には流通していない収集物の中にあった。
 レーニンはニーチェ、モーパッサン(Maupassant)その他を読むために、約二週間、毎日そこへ通った。(注12)
 なぜ、Maupassant だったのか?
 おそらくレーニンは、ショーペンハウアーの底流を拾い上げたのだ。そのSchopenhauer 的底流は、Lunacharsky、August Strindberg、Joseph Conrad、Gabriele D'Annunzio、Isaac Babel のようなニーチェにも魅惑されている知識人たちを惹き付けていた。
 Lunacharsky はとくに、Maupassant をニーチェと関連させていた。//
 (12) レーニンの〈哲学草稿〉でニーチェへの言及がほとんど隠されているのは、少なくとも表面的には、ニーチェの思想にすでに通じていたことを示している。
 Ludwig Stein の〈現代哲学の潮流〉(1908年)を概約してレーニンが一覧表にしている10の範疇のうち7番目は、「個人主義(ニーチェ)」だった。(全集38巻p.54.)=(日本語版全集38巻・哲学ノートp.37.)
 ついで参照したものはレーニンのノートにあり、「道徳の問題」という表題が付けられていた。//
 「ゆえに、新しい哲学は、まずは道徳の諸原理だ。
 その諸原理は、〈行動の神秘主義(mysticism)〉と定義できるように思われる。
 〈この考え方(attitude)は新しいものではない。
 ソフィストたち(Sophists)が採用した考え方であり、彼らには真実も過ちもなく、ただ成功(success)だけがあった。〉 …。
 Stirner やニーチェのような知的アナキストの諸原理は、これと同じ前提に立っている。…。/
 〈LeRoy のようなある種の近代主義者が実用主義(pragmatism)からカトリシズムの正当化を導くとき〉、彼らはたぶん、一定の哲学者たち—実用主義の創設者たち—が得ようとしたものを実用主義から導かない。
 〈しかし彼らは、正当に引き出し得る結論を、それから導いた。〉 …。/
 〈実用主義の特徴は、成功するものは全て正しい(true)ということであり、どんな方法であれその瞬間に適合しているものは全て正しいのだ。すなわち、科学、宗教、道徳、習慣、決まり事。〉
 全ての事物が、真摯に受け取られなければならない。そして、目標を達成し、行動を可能にしてくれるものを、真摯に受け取らなければならない。」(全集38巻p.454-5.)=(日本語版全集38巻・哲学ノート421-2頁)。//
 言い換えると、真実(truth)とは実用主義的観念であり、組織化する原理だ。
 レーニン は、William James について多数のメモを書いた。
 モスクワのたいていの神探求者たち(Godseekers)は、James の実用主義をニーチェの反道徳主義と結びつけた。(注13)
 レーニンも、そうしたかもしれない。
 しかしながら、公式には、James をBogdanov やマッハ(Mach)に関連づけた。彼らは全て、真実を仮説にしていたからだ。(注14)//
 (13) レーニンは〈唯物論と経験批判論〉(1909年)で、政治でと同じく、哲学には中立の地点は存在しない、と主張した。
 全ての哲学が、階級利益に奉仕する。
 客観的現実と客観的真実の存在を否認することによって、「マッハ主義者たち」(Machians)はマルクス主義の敵のための道を掃き清めていた。 
 Bogdanov 派は、(現実とマルクス主義に対峙する)不可知論(agnosticism)と信仰主義(fideism)(「神の建設」への暗示)であるために有罪だった。
 レーニンは、マルクスはFeuerbach を新しい宗教を作ろうとしているとして非難した、と記した。 
 Bogdanov 派は、Dietzgen が唯物論者である以上に、彼の「錯乱」に従っていた。(p.254.)
 さらに、かりに「組織」が問題となる唯一のことならば、一つの「真実」は別のものと同じく有効だ。
 「真実が人間の経験を組織する唯一の形態であるならば、言ってみれば、カトリシズムの教えもまた、真実だ。
 カトリシズムが『人間の経験を組織する形態』であることに、微塵の疑いもないからだ。」(p.122)
 さらに加えて、Bogdanov の「認知(cognitive)社会主義」は、「正気ではない。…。」
 「社会主義がそのように見なされるのならば、イェズス会修道士は『認知社会主義』の熱狂的な支持者だ。彼らの認識論上の基礎にあるのは、『社会的に組織された経験』としての神学(divinity)だからだ。
 それだけでは客観的真実を反映しない(Bogdanov はこれを否定するが、科学が反映する)。そうではなく、特定の社会諸階級による大衆の無知の利用を反映している。」(p.234)//
 (14) 〈唯物論と経験批判論〉にはニーチェへの言及がない。しかし、「マッハ」が「ニーチェ」の代わりに用いられているなら、レーニンの論述の基本的趣旨は、見事に変わらないままだ。
 では、レーニンはなぜ、ニーチェを語らなかったのか?
 推測するに、論述を「科学的」次元に保つことで、検閲を免れ、争点になっている権力政治上の問題をごまかそうとしたのだろう。
 レーニンにとって、「真実」とは、ボルシェヴィキが勝利するのを可能にするものだ。—〈成功するものは全て正しい。〉
 要するに、マルクス主義はニュートンの法則のごとく絶対に不変の真実だ、とレーニンは論じていた。
 心理学的には、彼は正し(right)かった。
 活性化するイデオロギーは、確実性を必要とする。
 民衆は、仮定の真実のために収監されたり死んだりする危険を冒そうとはしない。//
 (15) レーニンは追加の論文で、「神秘主義の流行」はもちろん〈Landmark〉や「マッハ主義」という従来のマルクス主義者によって伝えられた「従順」と「後悔」のイデオロギーについて論じた。そしてこの現象の原因は、社会的政治的状況の異様で強く突然の変化に対する無思考の(つまり自然発生的な、ゆえに非合理的で非科学的な)反応にあるとした。
 「『全ての価値の再評価』、根本的諸問題の新しい研究、理論、基礎的原理や政治のABCへの新しい関心が生じるのは、当然のことで、避けられない」。
 このことの理由は正確には、「マルクス主義は生命のないドグマではなく、行動のための生きている指針」だからだ。
 あるマルクス主義者たちは、マルクス主義の規準を理解することなく「決まりきった一定の『スローガン』」を学んできた。
 彼らの「全ての価値の再評価」(この句をレーニンは繰り返す)は、「マルクス主義の最も抽象的で哲学的な根本部分の修正」へと、「空虚な文句の頒布」へと、そして党内での「マッハ主義の蔓延」へと、導いた。(全集17巻p.39,p.42-43.)=(日本語版全集17巻「マルクス主義の歴史的発展の若干の特質について」p.26-p.30.)//
 (16) レーニンは1917年4月に、ボルシェヴィキ党に対して名称を(「ブルジョア的」社会民主党と区別するために)共産党に変更するよう迫った。これは翌1918年の3月に行われた。
 レーニンはまた1917年に、新しいスローガンを作った。—「全ての権力をソヴェトへ」、「搾取者を搾取せよ」。これは再び、彼の言葉への敏感さを示していた。
 ボルシェヴィキ政権の存続が危機にあった内戦の真只中に、レーニンは新しい<ロシア言語辞典>四巻本の発行を支援した。革命がもたらした社会的変化は「言語の前線」での直接的行動を要求する、と考えたからだった。(注15)//
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 (注12) Venturelli, Nietzsche Studien 1993, p.321-4. レーニンが調べた書物の一覧がp.322 にある。
 (注13) Rosenthal.
 (注14) Lenin,唯物論と経験批判論,p.355n.
 (注15) Michael G. Smith, Language & Power in the Creation of the USSR (1998), p,42.
 ——
 第一節③へとつづく。
  

2477/西尾幹二批判048—根本的間違い(4-2-2)。

 西尾幹二の思考はじつは単純なので、思い込みまたは「固定観念」がある。
 その大きな一つは「共産主義=グローバリズム」で<悪>、というものだ。
 典型的には、まだ比較的近年の以下。この書の書き下ろし部分だ。引用等はしない。
 西尾・保守の真贋(徳間書店、2017)、p.16。
 そして、その反対の「ナショナリズム」は<善>ということになる。日本会議(1997年設立)と根本的には差異はないことになる。
 この点を重視すると、西尾の「反米」主張も当然の帰結だ(「反中国」主張とも矛盾しない)。
 さらに、EU(欧州同盟)も「グローバリズム」の一種とされ、批判の対象となる(英国の離脱は単純に正当視される)。
 ①2010年/月刊正論4月号。同・日本をここまで壊したのは誰か(草思社、2010年)所収。
 項の見出しは「EUとアメリカとソ連が手を結んだ『歴史の終わり』の祝祭劇」。
 「フクヤマの『歴史の終わり』…。これをそのままそっくり受けてEUの理念が生まれ、1992年に…EUが発足します」。
 ②2017年/月刊Hanada2月号。同・保守の真贋(上掲)、所収。
 「EUは失敗でした。
 共産主義の代替わり、コミンテルン主導のインターナショナリズムが名前を変えてグローバリズムとなりました。
 それがEUで、国家や国境の観念を薄くし、ナショナリズムを敵視することでした。」
 何と、西尾幹二によると(ほとんど)、「コミンテルン主導のインターナショナリズム」=「グローバリズム」=「EU」なのだ。
 それに、1992年のEU発足以前に、EEC(欧州経済共同体)とかEC(欧州共同体)とか称されたものが既にあったことを、西尾は知って上のように書いているのだろうか。
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 前回にいう後者Bについて。
 さて、「反共」とともに、またはそれ以上に、「反米」を主張すべきだ、という西尾幹二の基本的論調の間違いの原因・背景の第二の二つ目(B)と考えられるのは、こうだ。
 独特な、または奇抜な主張をして、または論調を張って、「保守」の評論者世界の中での<差別化>を図っていた(いる)と見られる、ということ。
 既出の言葉を使うと、文章執筆請負業の個人経営者として、「目立つ」・「特徴」を出す・「角を立てる」必要があった、ということだ。
 ソ連圏の崩壊は「第三次世界大戦」の終結だったとか、EUの理念はコミンテルン以来のものだ旨(今回の上記)の叙述とか、すでに「特色のある」、あるいは「奇抜な」叙述に何度か触れてきている。
 西尾幹二は<保守派内部での野党>的な立場を採りたかった、あるいはそれを「売り」=セールスポイントにしたかったようで、古くは小泉純一郎首相を「狂気の首相」、「左翼ファシスト」と称した。
 前者は書名にも使われた。2005年/西尾・狂気の首相で日本は大丈夫か(PHP研究所)。
 後者は、以下に出てくる。個別の表題(タイトル)は、その下。
 2010年/月刊正論4月号。同・日本をここまで壊したのは誰か(上掲)、所収。
 「左翼ファシスト小泉純一郎と小沢一郎による日本政治の終わり」。
 また、安倍晋三首相に対しても厳しい立場をとった。
 同・保守の真贋(2017年)の表紙にある、これの副題はこうだ。書物全体で安倍晋三批判を意図している、と評してもよいだろう。
 『保守の立場から安倍政権を批判する』
 さらに、つぎの点でも多くの、または普通の「保守」とは一線を画していた。<反原発>。この点では、竹田恒泰と一致したようだ。
 (もっとも、ついでながら、天皇位の男系男子限定継承論だけは、頑固に守ろうとしている。
 何度かこの欄で言及した岩田温との対談で、西尾はこう発言している。月刊WiLL2019年4月号=歴史通同年11月号。
 「びっくりしたのは、長谷川三千子さんがあなたとの対談で女系を容認するような発言をしたことです。あんなことを、長谷川さんが言うべきではない。」)
 --
 上のような調子だから、西尾の「反米」論が多くのまたは普通の「保守」派と異なる、「奇抜」なものになるのもやむを得ないかもしれない。
 既に引用・紹介したうち、「奇抜」・「珍妙」ではないかと秋月は思う部分は、例えば、つぎのとおり。
 ①2008年12月/日本が「一つだけナショナリズムの本気で目覚める契機」になるのは、「アメリカが、尖閣諸島や竹島、北方領土などをめぐって、中国、韓国そしてロシアの味方」をして「日本を押さえ込もうとしたとき」だ。
 ②2009年6月/「中国の経済的協力を得るためには、日本の安全でも何でも見境なく売り渡すのが今のアメリカ」だ。中国が「米国の最大の同盟国になっている」。アメリカは韓国・台湾・日本から「手を引くでしょう」が、「その前に静かにゆっくりと敵になるのです」。
 ③同/「日米安保は、北朝鮮や中国やアセアン諸国の対して日本に勝手な行動をさせないための拘束の罠になりつつあ」る。「ある段階から北朝鮮を泳がせ、日本へのその脅威を、日本を封じ込むための道具として利用するようにさえなってきている」。
 ④2009年8月/安倍首相がかつて村山・河野両談話を認めたのは「敗戦国」だと言い続けないと国が持たないと「勝手に怯えたから」で、「そういう轍のような構造に、おそらく中国とアメリカの話し合いで押し込められたのだろう」。
 ⑤2013年/やがてアメリカが「牙を剥き、従属国の国民を襲撃する事態に直面し、後悔してももう間に合うまい。わが国の十年後の悲劇的破局の光景である。」
 以上、かなり、ふつうではない、のではなかろうか。上の⑤によると、今年か来年あたりにはアメリカが「襲撃」してきて、日本には「悲劇的破局の光景」がある
 どれほど「正気」なのか、レトリックなのか、極端なことを言って「特色」を出したいという気分だけなのか、不思議ではある。
 しかし、2020年のつぎの書物のオビには、こうある。
 西尾・国家の行方(産経新聞出版、編集責任者は瀬尾友子)
 「不確定の時代を切り拓く洞察と予言、西尾評論の集大成」。
 上に一部示したような「洞察」が適正で、「予言」が的中するとなると(皮肉だが)大変なことだ。
 上の2020年書の緒言は、国家「意志」を固めないとして日本および日本人を散々に罵倒し、最後にこう言う。どこまで「正気」で、レトリックで、どこまでが<文筆業者>としての商売の文章なのだろうか
 「一番恐れているのは…」だ。「加えて、米中露に囲まれた朝鮮半島と日本列島が一括して『非核地帯』と決せられ」、「敗北平和主義に侵されている日本の保守政権が批准し、調印の上、国会で承認してしまうこと」だ。
 「しかし、事はそれだけでは決して終わるまい。そのうえ万が一半島に核が残れば、日本だけが永遠の無力国家になる」。「いったん決まれば国際社会の見方は固定化し、民族国家としての日本はどんなに努力しても消滅と衰亡への道をひた走ることになる」だろう。
 「憲法九条にこだわったたった一つの日本人の認識上の誤ち、国際社会を感傷的に美化することを道徳の一種と見なした余りにも愚かで閉ざされた日本型平和主義の行き着くところは、生きんとする意志を捨てた単純な自殺行為にすぎなかったことをついに証拠立てている」。
 以上。
 「生きる意志」を持ち出したり「感傷」的美化を嫌悪している点は、今回の最初の方にある「祝祭劇」という語とともに、ニーチェ的だ。これは第三点に関係するのでさて措く。
 さて、西尾の「洞察と予言」が適切だとすると、将来の日本は真っ暗だ。というよりも、「民族国家」としては存在していないことになりそうだ。
 どんなに努力しても「消滅と衰亡への道をひた走る」のであり、「余りにも愚かで閉ざされた日本型平和主義」は「単純な自殺行為」に行き着くのだ。
 日本が「消滅と衰亡への道」を進んで「自殺」をすれば、さすがに西尾幹二は「洞察と予言」がスゴい人物だったと、将来の日本人(いるのかな?)は振り返ることになるのだろう。これはむろん皮肉だ、念のため。
 ——
 第三点へとつづける。

2476/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ⑤。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 第二部の最初の章の「序」のあとの本文へと進む。
 なお、「Nietzschean」は、ニーチェ的、ニーチェ主義的(・ニーチェ主義者)、またはそのまま「ニーチェアン」と訳す。
 ——
 第二部・第5章/現在の黙示録:マルクス、エンゲルスおよびニーチェのボルシェヴィキ的融合。
 第一節・レーニン:正体を隠したニーチェアン?
 (01) 疑問符を付しているのは、意図的だ。レーニンの「ニーチェ主義」(Nietzscheanism)の証拠は間接的だから。
 レーニンのレトリックには、確かにニーチェ的な響きがある。
 「意思」、「権力」および「紀律」(これはニーチェに関するApollo的解釈と符合する)は、彼の好みの言葉だ。
 レーニンは政治における「感傷」を嫌い、ほとんど生活様式のごとく闘争に喜びを感じた。
 このような嗜好に加えて革命的人民主義の「英雄的」伝統の称賛、1904年から1907年までのBogdanov との連携、Gorky との友人関係、ニーチェが染み込んだ一般的文化状況があったので、ニーチェがレーニンのマルクス主義解釈に影響を与えた(inform)、という高度の蓋然性はある。
 レーニンは自分のノートでニーチェに言及しており、クレムリンの執務室に一冊の〈ツァラストゥラ〉を置いていた。(注5)
 Gorky は、解放を目ざす大衆の闘いを指導するロシアの超人(Superman)を探していた。
 レーニンは自分がその役割を果たすと、または少なくとも「世界的な歴史的個人」(ヘーゲルの観念)だと考えたかもしれない。
 彼はブハーリンの、ニーチェ的要素のある帝国主義に関する書物に自分のその主題の本で回答し、プロレタリア国家の描写をして左翼ボルシェヴィキの「アナーキズム」に反論した。
 もちろん、レーニンはニーチェを読んで彼の権力への意思を得たのではなかった。しかし、ニーチェはおそらくそれを強めた。//
 (02) レーニンの全集は決して完全なものではない。
 彼または彼の信条を当惑させそうな文書は、排除されていた。
 彼自身がいくつかを破棄し、または手紙の場合には、破棄するよう受取人に指示した。(注6)
 レーニンの公刊著作にはマルクス、エンゲルス、プレハノフおよびカウツキーへの言及が豊富にあり、より少ない程度で、Chernyshevsky、Herzen、Belinsky、および彼がマルクス主義の先駆者と見做した「70年代の輝かしい星座のごとき革命家たち」(Tucker 編,レーニン選集=LA,p.20)への言及がある。
 彼は、自分の思想に対する非マルクス主義の影響については寡黙だった。
 そのノートから明らかであるのは、ヘーゲル、クラウセヴィッツ、アリストテレスがレーニンのマルクス主義解釈と革命戦略を磨くのを助けた、ということだ。
 ダーウィンとマキアヴェリ(Machiavelli)も、そうだった。
 レーニンは執務机の上にダーウィン像を置いていた。しかし、マキアヴェリについては名前を出してはほとんど言及しなかった。だが、私的な連絡文書でもそうだったのではない(注7)
 政治局の指導者たちに対する(読後に破棄すべきものとされた)手紙で、レーニンはこう書いた。
 「政治手腕(statecraft)の問題に関するある賢人[マキアヴェリ]は正しく、一定の政治目標を実現するのと同じことのためには一定の残虐さに訴えることが必要であるならば、最も激しいやり方でかつ可能なかぎり短時間のうちに、実行されなければならない、なぜならば、大衆は長期間の残酷さの利用に耐えることができない、と言った。」(注8)//
 (03) マキアヴェリもそうだがニーチェもおそらく、レーニンのエリート主義と革命的反道徳主義を促進した。
 レーニンは、プロレタリアートは自分たちで解放する力を持たないというTkachev の見方を共有しており、革命は「タフな事業だ」と叙述した。
 「白い手袋をはめた、きれいな手では革命をすることができない。…。
 党は女学校ではない。…。
 悪人はまさに悪人であるがゆえに、我々が必要とするかもしれない。」
 彼は、Nechaev の同時代人は「組織者、陰謀家としての特殊な才能を持ち、衝撃的な明瞭さでまとめ上げる技巧を持つことを忘れていた」と観察した。(注9)
 レーニンの世代の最大原理主義者たちは、Nechaev は「ニーチェより前のニーチェアンだ」と見なした。
 おそらくレーニンも、そうした。//
 (04) レーニンは、ボルシェヴィズムの基礎的文献である〈何をなすべきか〉(1902年)で、前衛政党に関するマルクスの考えを超える、革命的エリート主義を提示した。
 「階級的政治意識は労働者に対して〈外からのみ〉、すなわち経済的闘争の外部からのみ、もたらすことができる」(LA,p.50)
 プロレタリアートは自分たちでは、労働組合主義の意識だけを持つことができる。
 潜在的には、プロレタリアートは間違った方向へと慌てて逃げることになる大きな群れだ。
 この書物でレーニンは、「Tkachev の説示が用意し、現実に威嚇する『威嚇的な』テロルの手段により実行された『壮大な』権力奪取の企てと、たんに滑稽なだけの、とくに平均的な人々の組織化という考えで補完された場合には滑稽な、小Tkachev の『刺激的な』テロル」とを区別した。(LA,p.107.)
 彼は、マルクス主義者は革命的人民主義者の過ちを繰り返さないということに関係して、職業的革命家、意識が高くて自己紀律をもつ革命的エリートの組織を強く主張した。//
 (05) レーニンの「意識性」(〈soznatel'nost〉)と「自然発生性」(〈stikhinost'〉)という両範疇は、ニーチェのApollon 的衝動とDionysus 的衝動に対応している。
 これは偶然ではないかもしれない。〈悲劇の誕生〉の1901年のドイツ語版は、レーニンの個人的蔵書の中にあった。(注10)
 〈Stikhinost'〉は〈stikhinyi〉、「自然的」(elemental)という形容詞に由来しており、思考のない(mindless)過程を含意している。
 レーニンは「自然発生性」の危険に警告を発し、それを奴隷性や原始性と結びつけた(LA,p.27,32,46,63)
 彼が術語を用いるとき、「意識」はたんに知覚だけではなく、権力を獲得するための戦略でもあった。
 レーニンは、Bogdanov のように、マルクス主義を活性化するイデオロギー、あるいは動かす神話(mobilizing myth)だと見なした。
 そのいずれも、組織のApollon 的原理を強調するものだった。//
 (06) ニーチェ的マルクス主義者たちとの論争で、レーニンはニーチェ的用語を使い、自分の動的神話を発展させた。
 1905年の革命の間、彼とBogdanov は(フィンランドの)同じ建物に住んだ。そこで彼らは、政治理論、文化、哲学、革命の戦略と戦術を論じ合った。(注11)
 確実に、ニーチェはその討論に入ってきていた。
 レーニンの動的神話は、新しい目標、新しい道徳、新しい政治形態を伴っていた。新しい政治形態—職業的革命家で構成される前衛政党、訓練されて意識が高い陰謀家的エリート、そして資本主義から共産主義の第一段階への直接的移行を指揮するプロレタリアート独裁。
 マルクスは、どの時代にも特有の幻想(あるいは神話)がある、と書いた(Tucker 編,マルクス.エンゲルス読本=MER,p.165)
 レーニンは科学的であれと主張したが、社会主義という対抗神話を生み出していた。
 「『唯一の』選択肢は、ブルジョア・イデオロギーか社会主義イデオロギーか、のどちらかだ。
 中間の経路はない。…。
 非階級の、または階級を超えたイデオロギーなど決して存在し得ない。」(LA,p.29.)//
 (07) レーニンは「社会民主党の二つの戦術」(1905年6-7月)で、〈革命的民主主義的なプロレタリアートと農民の独裁〉を提起した。プロレタリアートだけでは権力を奪取するのに十分でなかったからだ。
 この戦術変更を正当化するために、彼は弁証法的形態で論拠を言い表した。
 「全ての事物は相対的だ。全てのものは流動する。全てのものは変化する。…。
 抽象的な真実なるものは存在しない。
 真実は、つねに具体的だ。」(LA,p.135.)
 Bogdanov も、同じ言葉遣いをすることができただろう。//
 (08) レーニンは同じ論文で、「革命は被抑圧者たちの祭典だ」と宣告した。
 ボルシェヴィキは、「大衆の祭典のための活力、および直接の決定的行路を目ざす仮借なき自己犠牲的闘いを繰り広げる彼らの革命的熱情」を利用しなければならない」(LA,p.140-1)
 「熱情」(ardor)や「活力」(energy)という言葉は、ニーチェ的マルクス主義者たちに好まれた。
 彼はまた、ボルシェヴィキには新しいスローガンが必要だ、と言った(「新しい言葉」のレーニン版)。
 「言葉も、行動だ」。
 「行動に移す必要のある〈直接的スローガン〉に進むことなくして、〈古いやり方で〉「言葉」に閉じ込める」のは裏切りだ(LA,p.134)
 言葉遣いに対するレーニンの繊細さは、ニーチェやそのロシアでの崇拝者たちと共通している、もう一つの分野だった。
 ボルシェヴィキ指導者は、終生にわたって古典文献学に関心をもった。//
 (09) 現実的にであれ潜在的にであれ、反抗に関するレーニンの定番の言葉は、「粉砕せよ」、「麻痺させよ」、「壊滅せよ」、「破壊せよ」だった。
 彼は、このような乱暴な言葉は「憎悪、反感、そして侮蔑心、…を読者に掻き立てるように、納得させるのではなく敵の隊列を破壊するように、敵の誤りを訂正するのではなく破滅させて敵を地球の表面から一掃するように、計算されている」と語った(レーニン全集第12巻p.424-5)=(日本語版全集12巻「ロシア社会民主労働党第5回大会にたいする報告」433頁.)
 Bogdanov の好きな言葉の一つである「調和」は、レーニンの語彙の中にはなかった。
 Gorky は、レーニンの言葉を「鉄斧の言語」と呼んだ。//
 --------
 (注5) Robert Service, Lenin -A Biography, p.203.
 (注6) Ricard Pipes, ed, The Unknown Lenin, p.4.
 (注7) Service, p.203-4, p.376.
 (注8) In Pipes, p.153.
 (注9) Dmitri Volkogonov, Lenin, p.22 から引用。
 (注10) Aldo Venturelli, in "Nietzsche Studien" 1993, p.324.
 (注11) Service, p.183.
 ——
 第一節②へとつづく。

2475/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ④。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 第二部全体の「前記」の後の、最初の章である第5章の「序」へと進む。
 ——
 第5章・現在の黙示録:マルクス、エンゲルスおよびニーチェのボルシェヴィキ的融合。
 (序)
 「資本主義的私有財産の弔鐘が響く。搾取者は搾取される。」
 —〈Tucker 編・マルクス・エンゲルス読本=MER>、p.438.
 「小さい政治の時代は終わった。次の世紀には、地球の支配を目ざす闘いが生じるだろう。—大規模な政治への衝動。」
 —ニーチェ〈善悪の彼岸〉、p.131.
 「しかしながら、本当の哲学者は司令者であり、立法者だ。彼らは言う、かくして、こうあるべきだ。…。彼らは創造的な手で、未来を掴みとろうとし、かつてあり今あるものは全て、彼らの手段になる。道具であり、金槌だ。彼らが『知ること』は創造することであり、『創造すること』とは立法することだ。真実に向かう彼らの意思は—権力への意思。」
 —ニーチェ〈善悪の彼岸〉、p.136.
 <一行あけ>
 (01) 戦争と革命の苦難の中で、新しいイデオロギー上の金属が鋳造された。その中には、マルクス、エンゲルスおよびニーチェの最も暴力的で最も権威主義的な要素が凝固しており、マルクス主義の人間的要素やニーチェのリバタリアン的(libertarian)要素は捨て去られていた。
 この金属鋳造に貢献したのは、革命的知識人たちによる意思の神格化、戦争(第一次大戦と内戦)が持った残虐化する効果、最適者の生き残りというダーウィン主義の考えだった。
 どちらの側にとっても、内戦は生き残りを賭けた闘いだった。//
 (02) ボルシェヴィズムとはマルクス主義を夢想主義的かつ黙示録的に解釈したもので、必然性の王国から自由の王国への飛躍だけを意図していた。
 この解釈が含んだのは、民主主義的社会主義の「柔らかい」価値とは反対の英雄的で「硬い」価値を選好する、ということだった。
 もちろん、ボルシェヴィキたちはニーチェを経てマルクス主義に到達したわけではなかった。しかし、ニーチェはマルクス主義についての彼らの「硬い」解釈を促進し、彼らの権力への意思を強化した。
 権力なくしては、社会主義という約束した土地へと大衆を導くことはできない。
 ニーチェはまた、マルクス主義、救済のドラマと歴史を捉えるその見方の神話的な浸入を促進し、人間を改造するという永続的で過激な夢想に対して新しい駆動力を与えた。//
 (03) この章で論述されるボルシェヴィキ—レーニン(Vladimir Ilich Ulianov、1870〜1924)、N・ブハーリン(Nikolai Bukharin、1888〜1938)、L・トロツキー(Lev Davidovich Bronsthein。1879〜1940)—にとって重要なのは、マルクス、エンゲルスおよびニーチェの著作に見出される思想だった。すなわち、ブルジョアの道徳性に対する侮蔑、闘争の強調、血と暴力のレトリック、プロメテウス主義、「未来志向」、そのコロラリーである「道具的」残虐性。後者はヘーゲル=マルクス主義の歴史主義の用語で正当化された。
 エンゲルスはかつて、歴史は全ての女神たちのうちの最も無慈悲なものだと述べた。
 「歴史は堆積した死体の上へと勝利の歯車を進める。戦争のときだけではなく、『平和的な』経済発展の時代でも。」
 これらのボルシェヴィキたちは、大戦は「歴史の法則」の歩みを加速し、後進国ロシアに社会主義を生み出すよい機会だと考えた。
 大戦はプロレタリアートを鍛え、活発な闘いへと追い込むだろう。
 トロツキーは戦争を「学校」に譬えた。それを通じた「恐ろしい」現実によって、新しいタイプの人間が作り上げられるのだ。
 レーニンとブハーリンも、同様の気分を表現した。//
 (04) レーニンは、権力への意思と自らの方法での神話創造を具現化した人物だった。
 ブハーリンはニーチェ思想に慣れ親しんでおり、Bogdanov を崇敬していた。
 トロツキーが初めて公にした論文の表題は、「超人(Superman)に関する若干のこと」だった。
 彼らは全員が、権威主義的で、暴力的で冷酷な文章節を拡大し、漸進主義的な文章部分を抹消するレンズを通じて、マルクスやエンゲルスを読んだ。
 彼らが好んだ言葉—「奴隷」、「隷属」、「主人」、「権力」および「意思」—は、マルクス主義やニーチェ、および革命的知識人たちの気分(ethos)と共振していた。
 レーニンは「我々の奴隷的部分」への憎悪を明確に語り(Tucker 編・レーニン選集、p.197-8)、Chernyshevsky がかつてロシアを「奴隷たちの国」と呼んだことを思い起こさせた。
 ブハーリンは、「奴隷の心理と慣習がいまだに深く染み込んでいる」と不満を語った。
 労働者たちは新しい主人になるように再生産されなければならない。
 トロツキーは、こう宣言した。「きみたちはもう奴隷ではない。もっと高く立ち上がり、人生の主人となれ。上からの命令を待つな。」
 一定程度のボルシェヴィキたちが採用した美名—スターリン(Josef Djugashvili)、モロトフ(Viacheslav Skriabin)、カーメネフ(Lev Rosenfeld)—は、それぞれロシア語の鋼鉄、金槌、硬石に由来していた。
 彼らは、プロレタリアートが用いる素材または道具を含意せていた。そしてまた、ニーチェの命令である「頑強(hard)であれ」にも反応していた。
 革命の後、ボルシェヴィキたちは「司令者かつ立法者」になり、大衆は彼らの「道具」となった。
 ——
 第二部・第5章の「序」が終わり。

2474/西尾幹二批判047—根本的間違い(続4-2)。

 (つづき)
 六 2 ソ連崩壊=「冷戦終了」により時代状況は変化したのであって、「反共」とともに、またはそれ以上に、「反米」を主張すべきだ、という西尾幹二の基本的論調の間違いの原因・背景の第二と考えられるものは、こうだ。
 西尾がA「文芸評論家」あがりで国際情勢や国際政治にまで「口を出す」評論者となったこと自体、そしてBいわゆる<保守論壇>の中で何らかの意味で「目立つ」、すなわち「特徴のある」・「角の立つ」文章執筆者であろうとしたこと。
 前者Aについて
 2017年の「つくる会」20周年会合への挨拶文にある<「反共」だけでなく最初に「反米」も掲げた>という部分に着目して叙述してきてはいるが、既述のように2002年頃の西部邁や小林よしのりとの関係では「反米」という<思想>自体の真摯さは疑わしい。
 だが、その後、引用はしないが自ら「親米でも反米でもない」と一方では明記しつつも、「反米」的主張を強く述べ続けているのも確かであり、その反面で「反共」性は弱くなっている。
 また、国際政治や中国に対する見方も、もともとは一介の「素人」だったらしく、懸命に「学習」したのかもしれないが、ブレがある。あるいは一貫していないところがある。
 例えば、2007年のつぎの文章は、どう理解されるべきなのだろうか。
 「ソ連の崩壊は第三次世界大戦の終焉であり、本来なら国際軍事法廷が開かれ、ソ連や中国の首脳の絞首刑が判決されるべき事件であった。…。
 かくて、ソ連と中国は『全体戦争』の敗北国家でありながら、ドイツや日本のような扱いを受けないで無罪放免となり、大きな顔をしてのうのうとしている。」
 月刊諸君!2007年7月号。
 明らかに、ソ連と中国を「敗北国家」として一括している。
 ソ連が崩壊し諸国に分解して、東欧諸国とともに「社会主義」国でなくなったとして、中国も「敗北」して「社会主義」でなくなったのか??
 日本共産党は<後出しジャンケン>をして1994年にスターリン施政下(たぶん1931-32年頃)以降のソ連は(じつは)<社会主義国でなかった>と認識を変更したが(何とソ連の期間全体の9/10!)、中国もそうだったとは言わなかった。1990年代末には友好関係を回復して「市場経済をつうじて社会主義へ」進んでいると認定した(現在では、「社会主義を目ざす国」性自体を否定している)。
 おそらく西尾幹二は、当時は「文学」・「文芸」か別のことに熱中していて、つぎのことにも無知なのだろう。上記と同様に時期等を確認しないままで書く。
 ソ連と中国は国境で「戦闘」をするなど、対立していた。米ソではなく米ソ中の三角関係があった時期があった(日本の対中外交にも当然に影響を与えた)。中国はソ連を「社会帝国主義国」と称し、「社会主義」国ではないと非難していた(日本共産党が間に入って宥めていた)。中国の首脳が、日米安保条約を容認すると明言したこともあった(対ソ連を考えてのことだ)。
 もっとも、同じ2007年に、つぎのようにも書いた。
 「今後日本人はアメリカに依頼心をもたないだけでなく、共産主義の枠組みの中にある中国に対してはより自由で、…一段と大きい距離を持っていなければならない。」
 月刊諸君!2007年11月号
 ここでは、「共産主義の枠組み」はなおも存在しており、中国はその中にある、とされている。
 また例えば、近年の2020年の書物の緒言の中に、一読しただけでは理解することのできない、つぎの一文がある(実際の執筆は2019年11月のようだ)。
 西尾・国家の行方(産経新聞出版、2020)、p.21-22。
 「1989年の『ベルリンの壁』の崩壊以来、なぜ東アジアに共産主義の清算というこの同じドラマが起こらないのか、アジアには主義思想の『壁』は存在しないせいなのか、と世界中の人が疑問の声を挙げてきたが、共産主義と資本主義を合体させて能率の良さを発揮した中国という国家資本主義政体の出現そのものが『ベルリンの壁』のアジア版だった、と、今にしてようやく得心の行く回答が得られた思いがする」。
 よく読むと、1989年の『ベルリンの壁』崩壊=「中国という国家資本主義政体の出現そのもの」と、ようやく納得した、ということのようだ。
 そもそも欧州とアジアは同じではないのだから、前者と「同じドラマ」が後者で起きると考えること自体が、西尾の本来の「思想」と矛盾しているだろう(「世界中の人が疑問の声を挙げてきた」かは全く疑わしい)。秋月はまだ「起きて」いない、と思っているけれども。 
 問題は「共産主義と資本主義を合体させて能率の良さを発揮した国家資本主義政体」(の出現)という理解の仕方だ。
 この部分の参照または依拠文献は何なのだろうか。
 中華人民共和国という国家の性格または本質について疑問が生じ、議論があることは分かる。だが、こんなふうに単純化し、かつそれで「得心」してもらっては困る。
 上の「出現」の時期について西尾がもう少し具体的にどこかで書いていたが、所在を失念した。
 だが、いずれにせよ特定のある年とすることはできないだろう。「社会主義(的)市場経済」の出現時期も私には特定できないが、鄧小平がいた1992-3年頃だろうか。そうだとすると、2019-20年になってようやく納得した、というのはあまりに遅すぎる。それとも、GDPが日本を追い抜いた頃なのか。しかし、そうなる前に、「政体」自体は出現しているはずだろう。
 西尾幹二の中国を含む国際政治・国際情勢に関する「評論家」としてのいいかげんさ・幼稚さを指摘している文脈なので、上の議論には立ち入らない。
 但し、つぎの諸点を簡単に記しておく。
 ①「国家資本主義」というタームの意味に、どれほどの一致があるのだろうか。
 レーニンのNEP政策のことを「国家資本主義」と称した時期や人物もあった。1949年の建国時にすでに「国家資本主義」という規定の仕方も中国自体にあった。そうであるとすると、今にしてようやく気づくことではない。
 ②西尾幹二によると、現在の中国は資本主義国でも社会主義国でもない、両者を「合体させて能率の良さを発揮した」国家らしいが、これは現在の中国を美化しすぎているだろう。
 ③上のような国家「政体」の出現が、なぜ「ベルリンの壁」崩壊と同じドラマであるのか、さっぱり分からない。「ベルリンの壁」崩壊→旧ソ連圏での「社会主義」諸国の消失だとすると、西尾によっても中国の半分は今でも「社会主義」国なのであって「同じ」ではない。
 ④1921年に中国共産党は設立されたとされ、昨2021年、現在もある中国共産党は創立100周年記念祝典を行った。
 ⑤結党の指導者で、かつ1949年に中華人民共和国を建国し国家主席となった毛沢東は現在もなお、「否定」されていない。
 共産党の歴史、戦後の中国の歴史は現在まで(法的にも)連続して続いている(この点、人々の感情や意識の次元は別として、旧ソ連を「否定」して現在のロシアは成立しており、両者の間に全体的な法的連続性はない)。
 ⑥テレビで見聞きした記憶によると、昨年の中国共産党100年記念式典で「共産主義実現に邁進する」旨が宣言され、同日に共産党に加入した一青年は「人生を共産主義に捧げる」、インタビューに答えて語った。
 以上。西尾幹二に見られる旧ソ連または「共産主義」に対する<甘さ>には、別に言及するだろう。
 ——
 後者Bから次回はつづける。

2473/西尾幹二批判046—根本的間違い(続4-1)。

 (つづき)
 六 1 ソ連崩壊により時代は新しくなり、「反共」とともに、またはそれ以上に、「反米」を主張すべきだ(但し、既述の2002年時点での重要な例外がある)、という西尾幹二の間違いの原因・背景の第一は、<日本会議>とその基本的見解だ、と考えられる。第一という順番に大した意味はない。
 「新しい歴史教科書をつくる会」が1996年末に発足したのを追いかけるように、翌1997年5月日本会議が設立された。
 「つくる会」と日本会議は、したがって前者の会長の西尾幹二は、椛島有三を事務局長(現在は事務総長)とする日本会議と、2006年に「つくる会」が(当時の西尾によると)同会に潜入していた日本会議グループによって実質的にに分裂する直前までは、友好関係にあった。
 その日本会議は設立宣言の一部でこう謳った(今でも同サイト上に掲載されている)。 
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露されたが、その一方で、世界は各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時 代に突入している」。
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」という一文によって明記されているわけではないが、<マルクス主義の誤りは「余すところなく」暴露された>とあるのだから、「マルクス主義」についてもはや研究・分析する必要はない、という意味も込められている、と見られる。
 そして、日本会議の運動は実際に、「反共」ではなく「日本」・「民族」を正面に掲げるものだった。すなわち、資本主義と社会主義(・共産主義)の対立から<諸国・諸民族>の対立へ、という基本的図式で時代の変化を理解する、というものだ。
 この点が、1990年代半ば以降の(<日本文化会議>が存在した時期とは異質な)日本の「保守」派の少なくとも主流派の主張または基調となる。産経新聞や月刊正論の基調も、今日までそうだと感じられる。反中国ではあっても、「反共」の観点からするのと、「中華文明」に対する<日本民族>の立場からするのとでは大きく異なる。なお、余計ながら、月刊正論(産経)の近年の結集軸はさらに狭まって、<天皇・男系男子限定継承>論(への固執?)だろう。
 「反共」意識が強くて<親英米派>の中川八洋は少数派だったと見られる。というよりも、「保守」の人々の多くが大組織と感じられた?日本会議に結集した、または少なくとも<反・日本会議>の立場をとらなかったために、中川八洋は少数派に見えた(見えている)のかもしれない。
 西尾幹二もまた主流派の輪の中にいたのであり、既述のように、西尾会長時代の「つくる会」と日本会議は友好・提携関係にあった。
 「つくる会」の分裂後の2009年の対談書で西尾は、「残された人生の時間に彼ら(=日本会議)とはいっさい関わりを持たないでいきたいと思います」とまで発言した。
 しかし、世界情勢の理解という点では、日本会議(派)と基本的には何ら変わらなかった。
 例えば、月刊正論2009年6月号。
 1991年のソ連崩壊により「世界中に…民族主義の炎が燃え広がったわけですから、日本の保守政権も…軍事的、政治的、外交的に自立への道を歩みだすチャンスであったのに、実際にはまるで逆の方向、隷属の方向に進んでしまいました」。
 また、例えば、月刊正論2018年10月号
 「共産主義が潰れて『諸君!』の役割が終わっても、対立軸は決してなくなっておらず、東京裁判史観にどう立ち向かうという課題は依然として残って」いる、という点で渡部昇一と一致しました。
 このような状況・時代の認識において、西尾幹二は基本的なところで日本会議(派)と共通したままだ。
 西尾が「産経文化人」としてとどまっておれるのも、日本会議と共通するこうした基本的な理解+<天皇・男系男子継承>論の明確な支持、による、と考えられる。
 ついでながら、西尾の日本会議に対する意識は、2009年段階での「残された人生の時間…いっさい関わりを持たないでいきたい」から、近年ではまた?変化しているようだ。
 2019年1月時点で公にされたインタビュー記事で、「つくる会」の分裂に関して、こう発言している。 
 2019年1月26日付、文春オンライン(今でもネット上で読める)。
 「日本会議の事務総長をしていた椛島(有三)さんとは何度か会ったこともあり、理解者でもあった。
 だから、この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして、『つくる会』事務局長更迭を撤回していれば、問題は回避できたかもしれない
 それをしなかったのはもちろん私の失敗ですよ。
 しかしですね、私は『つくる会』に対して…だけが目的の組織ではないという思い、もっと大きな課題、…を目ざす思想家としての思いがある。
 だから、ずるく立ち回って妥協することができなかった。そこが私の愚かなところ。」
 以上が、関係する全文の範囲。
 「この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして」おけばよかったかもしれない、と発言しているのは全くの驚きだ。
 かつまた、そうするのは「ずるく立ち回って妥協する」ことで、そうできなかったのは自分の「思想家としての思い」と合理化、自己正当化し、「愚かなところ」と卑下?しているのは、 じつに興味深い。
 ——
 第二の原因・背景へとつづく。

2472/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ③。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 「前記」の試訳のつづき。
 ——
 (前記)②
 (08) Proletkult の指導者の一人のPavel Kerzhentsev(P.M.Lebedev、1881〜1940)は、プロレタリア文化の理論家だと自負し、1904年以降はボルシェヴィキ党員だった。彼は、その書物と同名の「創造的劇場」(〈Tvorcheskii teatr〉)を提案したが、これは、「創造的自己活動」(〈samodeiatel'nost'〉)と階級意識を特徴とするニーチェ/ワーグナー/Ivanov 症候群のプロレタリア版だった。
 Kerzhentsev のような活動家たちにとって、中心となるニーチェ思想は、「権力への意思」だった。
 彼らの何人かは戯曲を書いたが、それらでは革命は独りの強い個人によって推進され、どの場合でも最も有効な影響力をもったのは〈ツァラトゥストラ〉だった。
 「自己活動」(Self-activity)は決まり文句になったが、それが何を意味し、どうやってそれを促進するかについては、一致がなかった。
 Kerzhentsev が求めたのは、プロレタリア演劇は全日働く労働者が書いた戯曲によるものに限られ、労働者の役者と労働者の演出家と労働者の音楽家(職業人ではない者)だけを用いることだった。
 彼は、オペラやバレェは時代遅れになったと主張して、明確なプロレタリア芸術の一様相として新しい劇場の形態を労働者たちが発展させるのを期待した。//
 (09) Lunacharsky とIvanov は、芸術家とApplo やDionysus の人々が一つになったものが大衆祭典だと考えた。 
 Lunacharsky は大衆祭典は扇動のための力強い手段だと見なし、扇動を「聴衆と読者の感情を掻き立て、彼らの意思に直接に影響を与えること」と定義した。プロパガンダの全内容を「真白い心に」運び、「全ての色で輝かせる」ものだ。
 彼は党に対して、ポスター、写真、彫像、「音楽の魔力」で「党を装飾する」こと、映画やリズムの新しい芸術様式を用いること、を強く要求した。
 資金を利用できるようになったとき、彼は、「社会の霊魂(soul)」に影響を与えるべく大きな教会寺院を建設するのを望んだ。
 彼は1919年に、心理的には単純な分野でのプロパガンダ作品を生むために、メロドラマ・コンテストを行うことを発表した。//
 (10) Evreinov は、最も多くの大衆祭典を監督した。そのうち「冬宮への突撃」は革命三周年記念のものだった。これには6000人の「配役」があり、ペテログラード軍事地区(PUR)の政治局の後援を受けていた。
 その他の大衆祭典もあった。それらは、祝ったあとで、「解放された労働の神秘」、「第三インターナショナル」、「専制政打倒」、および「プロメテウスの炎」と冠された。
 祝典のいくつかは、世界じゅうの諸国に示すために新しいテープに録音された。
 大衆祭典は「自己活動」を特徴とするものと想定されていた。しかし、演技者の役割は演出者によって削ぎ落とされ、大量の厳しい統制があった。
 Lunacharsky は、こう呟いた。「一般的軍事指令の方法で、数千、数万の人民がリズム正しく動く大衆祭典を我々は創る。そのときに、どんな人物が祝祭儀礼を引き受けるかをまさに考えよ。—大衆は群衆ではなく、一つの明確な思想(idea)を真摯に有する、厳格に統制された、集団的で平和的な軍隊だ」。//
 (11) 政治的演劇と宣伝列車、宣伝船は、国じゅうに革命のメッセージを運んだ。
 赤軍の演劇団が、一つの特殊単位として構成された。
 役者が、前線での上演のために派遣された。
 演劇化された模擬裁判または「扇動裁判」が、赤軍で始まった。
 それらは1920年までに、定期的な政治的儀式になった。
 「弁護人」、「訴追官」と「証人」は、各自の文章を朗読するというよりも、即興で歌った。
 Julie Cassiday によると、「扇動裁判」は劇場に関するIvanov の考えを適用したものだった。
 熱心な赤軍劇場組織者のAdrian Piotrovsky(1898〜1938)はTadeuz Zelinski の非嫡出の息子で、いく人かのニーチェの学問的崇拝者の一人だった(Zelinski はモスクワ大学の古典文献学の教授だった)。
 Meyerhold は、政治教育のために新聞の切り抜き、ラジオ速報および特定の政治的英雄や悪役の仮面を用いた。
 政治的演劇が求めたのは、極端な光と暗闇、自由と隷属、善と悪、救世主と悪魔だった。//
 (12) 政治的活動家たちは、芸術と科学の民衆化や労働者の創造性の奨励によって創出される「プロレタリアのアテネ」について語った。
 ポスター、詩、戯曲は、典型的に省略したニーチェの観念であるプロレタリアの超人(superman)を称賛した。この観念は、民俗伝承上の巨人(giant)のような大きさや力の強さではなく、偉大な文化的創造性をもつ人物を指していた。
 以前は〈Miriskusnik〉(芸術の世界運動の会員)だったBoris Kustodiev の「ボルシェヴィキ」(1918年)は、よく知られている例だ。
 Vladimir Lebedev の「ロシア前線を防衛する赤軍と艦隊」(1920年)の特徴のない顔は、〈太陽に対する勝利〉の強人たち(strongmen)のそれを思い出させる。
 Lazar el Lissitzky は、彼のポスター「赤の楔で白をやっつけろ」(1919年)で、政治的プロパガンダに幾何学的様式を採用した。//
 (13) 赤軍の学校の研修講師の中には、銀の時代(the Silver Age)に広がった知識人たちがいた。
 カリキュラムの特徴は、政治的用語(闘争術)、文学、演劇、音楽、身体文化(競技)にあった。
 カリキュラム開発者のNikolai Podvoisky(1880〜1948)は、啓蒙人民委員部およびProletkult と緊密に連携した。
 大衆祭典や大衆競技の熱狂者であるPodvoisky は、子ども用の居住区画を経営することもした。そこでは、「思弁家に死を」という彼の非難が連呼された。
 新時代の全ての文筆関係者と同じく彼は言語に敏感で、「我々の言葉は我々の最良の武器だ」と公然と述べた。
 「言葉は敵の隊列を爆破し、追い散らす。敵の気分を解体し、神経を麻痺させ、敵の戦陣に追い込んで、階級の内部争いへと分解させる。」
 共産主義青年同盟(Komsomol)の同盟員たちは自分たちを前衛の前衛だ、新しい文化の勇敢な創造者だ、と見なした。
 ニーチェの戦士の気風(ethos)は共産主義青年同盟の詩や散文に充満しており、それらには、ニーチェ的な因習破壊主義や若者崇拝(cult)が伴っていた。
 赤軍の学校と共産主義青年同盟は、青年たちに対して重要な知識情報上の影響力を持った。//
 (14) レーニンは、ワーグナー好き(Wagnerophile)だった。
 1920年に彼は、倒れた革命の英雄たちのための花輪置き儀式を主宰した。そのときには、Peter & Paul 要塞からの礼砲を背景にして、Siegfried の葬送行進曲(〈神々の黄昏〉より)が演奏された。
 レーニンはそのように劇化して、第8回ソヴェト大会(1920年12月)でロシアの電化を発表した。
 その大会は寒くて薄暗いBolshoi 劇場で催されたのだが、陰影の中にまばゆい光が舞台をこうこうと照らし、代議員たちの視線を巨大な地図に向けさせていた。その地図には、10年後までに電化されるロシアが描かれていた。
 モスクワの発電能力は、表示装置がどこかで切れてしまうほどに小さかった。
 紙が不足していたにもかかわらず、GOELRO(ロシアの電化に関する国家委員会)の50頁の梗概文書が、代議員に対して5万部、配布された。
 レーニンが、しばしば引用される「共産主義とは(=)ソヴェト権力プラス(+)全国土の電化だ」という声明を発したのは、このときだった。
 彼は、電化によってロシアが経済的、政治的、そして文化的に変革されることを期待した。 
 GOELROの電化(electrification)の計画はあまりに壮大なものだったので、反対派は「電気作り話」(electrofiction,〈elektrofiktsiia〉)と称した。//
 <一行あけ>
 (15) ソヴィエト史の「英雄の時代」(革命と内戦)が終わるまでに、文化は完全に政治的なものになった。
 「前線」、「司令」その他の軍事用語が、言葉の世界を覆った。
 文筆家や芸術家たちは、政府の資金援助を求めて、国有化された印刷媒体の利用を求めて、紙の配給を求めて、競い合った。
 対抗する全ての芸術学校が、プロレタリアートのために発言した。
 未来主義者たちは芸術への政府介入の廃止を要求したが、自分たちが動かす「芸術に対する独裁」を欲していた。
 Proletkult の熱狂者たちもまた、同じだった。
 Lunacharsky は、異なる諸グループの調整を試みた。それを理由として、Kerzhentsev は彼を「右翼主義」だとして非難した。
 政治への無関心は、受け入れらることではなかった。//
 (16) 論者たちは、ボルシェヴィキ革命は根源的な力だと叙述した。そしてしばしば、Blok が「根源と文化」(1908年)でそうしたように、「根源的」なものをDionysus 的なものと関連づけた。
 頑強さ、大胆さおよび意思が、寛容性、人格的統合、自己発展および侮辱を忘れる能力といったその他のニーチェ的美徳を表現した。
 敵に対する残忍さは、神聖な義務となった。
 レーニン、ブハーリン、トロツキーは、マルクス主義とニーチェの新しい融合形態を生み出した。
 ボルシェヴィズムを超えて進むことを望む芸術家や知識人たちは、「精神」革命や「文化」革命の必要性を説いた。これら二つの言葉は、相互交換が可能だった。//
 ——
 第二部・「前記」終わり。前記(見出しなし)は、p.117〜p.124。
 

2471/西尾幹二批判045—根本的間違い(続3)。

 (つづき)
  いくつか留保を付しておく必要がある。
 第一に、<根本的間違い>と言っても、それは西尾幹二における日米関係、外交、国際情勢の把握についての<根本的間違い>だ、ということだ。
 そして、西尾はこれらに関する専門家ではなく、おそらくは「頼まれ仕事」として、つまり依頼・発注・注文を受けて執筆した、「請負の」文章としてすでに引用した文章を書いたのだろうから、その点は割り引いた上で論評する必要がある。
 したがって、第二に、西尾が「商売」として執筆した文章に他ならないことに留意しておく必要があろう。
 第三に、西尾幹二について注意を要するのは、「事実」・「現実」や「歴史」についての把握の仕方には独特なものがあり、レトリックによって読者は気づかされずにいることがあっても、多くの(「文学」者以外の)健全な?読者の「事実」(・「現実」)・「歴史」に関する基本的な感覚・意識とは異なるところがある、ということだ。
 この点に関連して興味深いのは、個人全集刊行開始を記念した遠藤浩一との対談で、西尾自身がこれまでの自分の仕事は全て「私小説的自我の表現」だったと明言していることだ。
 月刊WiLL2011年12月号、p.242〜。(ワック)。目次上の表題は「私の書くものは全て自己物語」
 第四に、より本質的なこととして、西尾幹二は自らを「思想家」と主張し、またそう思われたいようで、また『国民の歴史』(1999)の前半は「歴史哲学」を示すものと2018年に自分で明記しているが(全集第17巻・後記)、そこでの「思想」・「哲学」は西尾においていかほど真摯なものかは、厳密には疑わしい、ということだ。
 西尾幹二における<反共・反米>性のうち、<反共>の他に<反米>性にも疑問符が付くことは、予定を変更して、別に扱う。
 但し、簡単にだけ触れると、西尾が「つくる会」会長時代に西部邁や小林よしのりが「つくる会」を退会したのは、西部・小林がより<反米>の立場を採ったのに対して、西尾幹二は明確に、より<親米>的立場を主張するという意見対立が生じたからだった(と思われる)
 その際に西尾は小林よしのりが「人格攻撃」と理解してやむを得ないと(秋月には)思われる文章を書いた。これには、今回は立ち入らない。
 興味深く、また注目されるのは、2001年9月11日事件後のアメリカの「対テロ戦争」を批判しない理由を、西尾がこう明記していることだ。
 以下は、すでにいくつか紹介・引用したように、さんざんにアメリカを歴史の悪役化し、その「陰謀」国家性を指摘している西尾幹二自身の、2002年時点での文章だ。全集に収載されているのか、その予定であるのかは分からない。西尾が会長時代の、かつ「つくる会」関連文章だが、少なくとも第17巻・歴史教科書問題(2018年)には収録されていない。
 ①「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけないというのが私の考えです」。
 ②「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない
 正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
 西尾幹二・歴史と常識(扶桑社、2002年5月)、p.65-p.66(原文は月刊正論2002年6月号)。
 (小林よしのり・新ゴーマニズム宣言12/誰がためにポチは鳴く(小学館、2002年12月)、p.75 参照)
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 さて、先に紹介引用したように、西尾幹二はアメリカや中国、日米安保条約についてこう書いた。
 ①2006年—アメリカが厄介で、「中国はそれほど大きな問題ではない」。「アメリカに依存する」ほかないが、「今度はアメリカの呑み込まれてしまうという新しい危機」があり、「これからはこっちの方が大きい」。
 ②2009年—「日米安保は、北朝鮮や中国やアセアン諸国に対して日本に勝手な行動をさせないための拘束の罠になりつつあります。加えて、ある段階から北朝鮮を泳がせ、日本へのその脅威を、日本を封じ込むための道具として利用するようにさえなってきているのです。
 ③2013年—「私たちは、アメリカにも中国にも、ともに警戒心と対決意識を等しく持たなくてはやっていけない時代に入った。どちらか片方に傾くことは、いまや危ない。」
 また、2013年に、10年後(2022-23年)の日本をこう「予測」した。
 ④「やがて権力〔アメリカ〕が牙を剥き、従属国の国民を襲撃する事態に直面し、後悔してももう間に合うまい。わが国の十年後の悲劇的破局の光景である。」
 上の④は確言的にせよ「予見」だろうから省くとして、例えば①〜③はどうか。
 論評は簡単だ。上掲の2002年の文章を知ると、萎縮してしまうけれども。
 間違いである。
 かつまた、西尾が2017年に放った(つくる会は)「反共に加えて反米も初めて明確に打ち出した」という豪語の関係では、こうだ。
 矛盾している。 どこに「反共」があるのか。
 したがって、問題は、こうした結論的論評ではなく、西尾幹二はなぜ間違った、あるいは矛盾する言辞を綴るのか、ということになる。
 自らの本来の「正しい」「思想」を例外的に放棄することを正面から肯定する2002年の文章を照合するとかなり虚しくなりもするが、それはさて措いて、以降でこの問題を続けよう。
 ——

 五1を五に、五2を六に変更(1/16)。

2470/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ②。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部の最初から試訳する。
 第一部「要約」は、→No.2454
 ——
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 (前記)①
 (01) 戦争での損失が増大し、前線での被害者が増加し、政府の醜聞が次から次へとつづいた。これに伴い、革命が予期されるようになった。
 しかしながら、ツァーリ体制の終焉は、突然にやって来た。
 二月革命(東方暦1917年2月26-29日、西暦同年3月8-11日)は、「二重権力」を生み出して終わった。立憲議会が選出されて招集されるまで支配するとされた臨時政府と、ペテログラード・労働者農民代表者ソヴェトだ。
 秋までに兵士たちはぞろぞろと戦線離脱しており、農民たちは大土地所有者の土地を奪っており、労働者たちは諸工場を掌握していた。
 ボルシェヴィキ革命(東方暦1917年10月26-27日、西暦同年11月7-8日)はプロレタリアートの独裁を打ち立て、ボルシェヴィキの権力を強化し、戦争から離脱しようとしていた。
 1918年3月、ロシア政府はドイツの条件を受諾した。
 ブレスト=リトフスク条約によって、ロシアは、バルト諸国、ウクライナの大部分(穀物地帯)、ベラルーシ、ポーランド、およびトランス・コーカサスの一部を失い、金での賠償金を課せられた。
 ドイツ軍はつぎの11月に撤退し(西部戦線での停戦で要求されていた)、空白が生まれ、「赤」軍と「白」軍が内戦を繰り広げた。
 それが過ぎ去るまで、経済は止まったままで、1300万人が死んだ。その原因のほとんどは、飢餓と伝染病蔓延だった。
 数百万の孤児や遺棄された子どもたちが田園地帯を徘徊し、生き延びるために犯罪に手を染めた。//
 (02) 遡及して「戦時共産主義」と呼ばれた政策は、全面的な内戦の開始の前に部分的には始められており、内戦が終焉するまで続いた。
 いわゆる「戦時共産主義」は、私的な経済取引を禁止した。そして、テロル、強制労働、階級憎悪の煽り立て、階級に従った配給、強制的な穀物徴発を特徴とした。
 「赤」の勝利が間近になるや、反対派が党内に現れ、ロシアじゅうで農民反乱が勃発した。そして、ペテログラードの労働者たちは叛乱する瀬戸際のいるように見えた。
 1921年3月、クロンシュタット海軍基地の兵士たちは「第三革命」を呼号し、「共産主義者のいないソヴェト」や「人民委員制」廃止を要求した。
 クロンシュタット叛乱は鎮圧されたが、レーニンが新経済政策(NEP)を発表するのを早めた。
 穀物の強制徴発に代わる最も重要な手段になったのは、生産を促すための現物税だった。
 徴税後の余剰は全て、地方の市場で販売することができるようになった。
 この変更を理論的に正当化するために(レーニンは数週間にわたってこれを馬鹿にしていたのだが)、彼は失敗した政策を「戦時共産主義」と名づけた。
 NEPを採択した同じ(第10回)党大会は、全ての党内分派を解散するか、さもなくば追放されるべきことを命じた。//
 (03) Bogdanov はどうやら、1917年11月に早くも「戦時共産主義」という語を、侮蔑的な意味で作ったようだ。
 彼はボルシェヴィキ政権をプロレタリアートの独裁と呼ぶのを拒み、新しい〈Arakcheevshchina〉(アレクサンダー一世の統治の間にArakcheev により樹立された悪名高い軍事植民区の喩え)を警告した。
 彼は、党への再加入のいくつかの誘いと、Lunacharsky による、Namprokoms との頭文字語で知られる啓蒙(〈Prosveshchenie〉)人民委員部の職の提示を固辞し、人民委員になる義兄弟〔Lunacharsky〕を批判した。
 Prosveshchenie は「教育(education)」をも意味したが、「啓蒙(enlightenment)」がボルシェヴィキの使命的考えをより伝えていた。 
 Lunacharsky は1905年にレーニンと和解し、1917年8月に再入党していた。
 ボルシェヴィキ革命の1週間前、Lunacharsky はペテログラードに最初のProletkult(プロレタリア文化)会議を招集した。
 Bogdanov は翌年3月にモスクワで同様の会議を組織した。そして9月にそこで、第一回の全国プロレタリア文化会議が開催された。
 Proletkult は党と国家に対して自主的団体だったが(形式的には分離していた)、啓蒙人民委員部によって設立されていた。
 Lunacharsky は一度も党の中央委員会に選出されず、内部者が有する権力を持たなかった。しかし、所管の範囲内で、啓蒙人民委員部による資金の拠出に関して、相当の裁量権を持った。
 ヨーロッパが大戦という野蛮行為へと向かったことは、啓蒙思想への批判が正しかったことを証明していると思われた。
 すなわち、人間は「自然ながらに」理性的でも、善なるものでもない。
 ロシア、ドイツ、イタリアでは、古い秩序の崩壊によって、全ての確立された価値と制度に対するニーチェの挑戦が切実な重要性をもち、完全に新しい秩序の渇望へと至り、それは大胆で勇敢な「新しい人間」によって創出されると考えられた。//
 (04) ニーチェは、ボルシェヴィキたちのマルクスやエンゲルスの読書を彩り、権力を掌握するというボルシェヴィキの決意を補強し、維持させた。そして、一方では「戦時共産主義」、他方では精神的革命の筋書という、全体的な変革を目ざすユートピア的展望をはぐくんだ。
 芸術家や文筆家たちは、ニーチェやワーグナーから拾い集めた技巧を用いて、ボルシェヴィキの扇動や情報宣伝に利用した。
 A・ワリッキ(Andrzei Walicki)は、「戦時共産主義」はエンゲルスの考えから直接に喚起された「偉大な社会的実験」だったと、考察する。その考えとは、必然の王国から自由の王国への跳躍は市場の「無政府状態」を中央集権的計画の「奇跡的な力」に変え、そのことで「人間を自ら自身の主人に」する、というものだった。
 ニーチェは、ボルシェヴィキにこの「跳躍」をする意思を吹き込むのを助けた。
 「戦時共産主義」は、経済問題に限定されなかった。すなわち、新しい人間と新しい文化を生み出すことが想定されていた。
 ニーチェ的な言葉を用いると、「戦時共産主義」は「偉大な文化事業の計画」だった。ボルシェヴィキは数千年ではなく数年以内に完了させようとした、という点を除いては。//
 (05) 初期のソヴィエトの教育や文化の制度は、ニーチェの思想のための導管だった。 
 Lunacharsky は、政府でともに仕事をする芸術家や文筆家を招聘した。
 初めは、Blok、Mayakovsky、Meyerhold、彫刻家のNatan Altman(1889〜1981)、および詩人のRiurik Ivnev(Mikhail Kovalev、1891〜1981)だけが受け入れた。
 他の者たちは、納得して、または政府が唯一の雇い主であるために、あるいは両方の理由で、後からボルシェヴィキへやって来た。
 Meyerhold は、啓蒙人民委員部の劇場部門(TEO)の長になった。
 Ivanov、Bely とBlok は、そこと文学部門(LITO)で仕事をした。
 絵画部門(IZO)は未来主義者たちの仕事領域で、〈コミューンの芸術〉という自分たち用の新聞を持った。
 〈コミューンの芸術〉の編集人でIZO のペテルブルク支部長だったNikolai Punin(1888〜1953) の日記は、ニーチェとの「愛憎」(love-hate affair)を晒け出している。
 象徴主義者と未来主義者たちは、Proletkult の学校やスタジオで教育した。//
 (06) 1918年4月、レーニンは、帝政時代の記念碑を解体する「記念碑プロパガンダ」運動を布令し、革命の英雄、偉人や五月の大衆祭典の記念碑を立て、公共広場を装飾した。
 レーニンはLunacharsky に、Tommaso Campanella の〈太陽の街〉(1602年)から着想を得た、と語った。
 Gorky はその本をイタリアで読み、レーニンとLunacharsky にそれに関して伝えていた。
 最初の記念碑は粘土その他の安価な材料で作られた(レーニンの狙いはプロパガンダであり、永久化することではなかった)。しかし、雨がそれらを洗い流してしまった。
 「鉄の巨像計画」は長持ちする素材を求め、その規模自体で驚愕させることを意図した。
 Tatlin の塔は、その司令部を指示する機能をもつことはもとより、第三インターナショナル(1919年3月結成のコミンテルン)のための巨大な規模の記念碑になるものとされた。
 その大きさ(塔は建設されなかった)は窓から重々しさを放つモデルとなり、バベルの塔を想起させることを意識したものだった。
 その他の神を拒絶する塔も、計画された。
 Proletkult の劇の登場人物は、古い神が死んだことを知ろうと望む者ならば我々の塔に昇らなければならない、と語る。//
 (07) 劇場に関するIvanov の考えは、大衆祭典や政治演劇のかたちで「ブーメランのように返って」きた。
 大衆祭典のための着想には他に、祝典としての劇場というGaideburov のもの、未来主義者の路上演劇、遊戯としての演劇観というEvreinov のもの、Zarathustra(ツァラトストラ)の〈新しい祭典が必要だ〉との言明、ワーグナー好きのR・ローラン(Romain Rolland)やJulian Tiersot がドレフュス事件後にフランスを再統合する方法として再生させようとしたフランス革命時の大衆祭典、などがあった。
 Lunacharsky は〈人民の劇場〉(1903年)というローランの書物を翻訳し、Gorky の会社がそれを1910年に出版した。
 その本は、1919年に、Ivanov の序文付きで再発行された。 
 Tiersot の〈フランス革命の祝祭と歌〉という書物(1908年)も、翻訳された。
 レーニンは、元のフランス語でそれを読んだ。//
 ——
 第二部・前記②へとつづく。

2469/西尾幹二批判044—根本的間違い(続2)。

 (つづき)
 四 2 西尾幹二・国民の歴史(1999年)のあと、2001年に同が会長の「つくる会」教科書が検定に合格する(どの程度学校で使用されるかは別の問題)。
 この最初の版を現在見ることはできないが、当時に全体を読んで、大々的に批判した、<保守派>のつぎの書があった。
 谷沢永一・「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する(ビジネス社、2001年6月)。
 谷沢の批判は、「絶版を勧告する」ほどに多岐にわたる。
 そのうち、秋月瑛二が絶対に無視できないのは、谷沢が引用する、原教科書にあったつぎの叙述だ。
 ①これまでは資本主義・共産主義の時代だったが「21世紀を迎えた今、これらの対立もとりあえず終わった」。
 ②「ソ連が消滅したことで資本主義と共産主義の対決は清算された」。
 先には1999年と2006年以降の西尾幹二の<根本的間違い>部分を列挙したが、2001年時点での西尾が会長の「つくる会」自体の教科書も、根本的に間違っていた。
 谷沢永一(1929〜2011)は、上の①を、こう批判した。
 「間違いである。中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国など、れっきとした社会主義国はまだ残っていて、異常な軍拡を続ける中国、何をするかわからない北朝鮮は、日本にとっても大きな脅威になっている。
 また、上の②を引用したあと、こう書いた。
 「これも同じ理由で間違いである。間違いどころかデマである。
 以上、谷沢著の p.281-2、
 秋月瑛二は、谷沢の指摘は完全に正当だった、と考える。西尾幹二の基本的状況認識と比べて、谷沢は明らかに「正常」だ、と考える。
 谷沢は上のあと、中嶋嶺雄が「中国…に旧ソ連の共産党勢力、北朝鮮、ベトナムなどが連なりはじめ、ラオス、モンゴル、ビルマ、ミャンマーなどの旧社会主義圏も、その戦列に加わりはじめている」と指摘している、と追記している。
 さて、ソ連(および東欧社会主義諸国)の崩壊・解体で終わったのは<対ソ連(・東欧)との冷戦>であって、資本主義対共産主義(・社会主義)の対立はまだ終わっていない、国内でも、レーニン主義政党で「社会主義・共産主義」を目指すと綱領に明記する日本共産党はまだ国会に議席を持っているではないか、とこの欄でいく度か書いてきた。
 西尾幹二らと谷沢永一らと、どちらが「正常な状況認識」を示している(いた)のか。
 なぜ、西尾幹二らは「間違った」のか。むろん、一部は、本質は文章執筆請負業者にすぎないことに理由はあるが。
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 根本的間違いの原因、<物書き>としての西尾幹二の生き方とその限界、「反共」に加えた「反米」の意味合い、などに以降で言及する。
 最後の点では、2002年頃の小林よしのりにも登場していただかなければならない。
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2468/西尾幹二批判043—根本的間違い(続1)。

  狂人にも、器質的に異常な精神障害者=病者の他に、正常な=正気の人格障害者とがあると思われる。いずれでもないとして真面目に受け取るが、西尾幹二の述べる日本をめぐる国際的政治情勢の把握には、根本的間違いがある、と考える。
 この<根本的間違い>にはすでに何度か、触れてはいる。批判024、同031(No.2348、No.2417)など。より本格的に論及しよう。
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  西尾幹二・国民の歴史(1999年)は最後の章で、現代人は自由でありすぎる、という理解を示す。そして、「自由であるというだけでは、人間は自由になれない」等と述べ、空虚と退屈さに向かう、とする。
 それこそ空虚な物語的作文またはレトリックだとして一瞥しておけばよいのだが、「私たちは否定すべきいかなる対象さえもはや持たない」(全集第18巻、p.633)と断じられると、さすがに首を傾げたくなる。
 そして、その直前に、<根本的間違い>を示す一文がある。
 私たちは「共産主義体制と張り合っていた時代を、なつかしく思い出すときが来るかもしれない」。
 何と、西尾においては「共産主義体制と張り合っていた時代」は、もうとっくに終わっているのだ。この書物は当初は「新しい歴史教科書をつくる会」の編著でもあったが、のちの2017年に西尾幹二当人は、この会は「反共」のみならず初めて「反米」を明確に打ち出したと豪語?した。
 「反共」とはいったい何のことだったのか。
 ともあれ、アメリカに対して厳しく中国に対しては甘い、あるいはアメリカと中国が同盟してアメリカまたは中国が日本を襲ってきそうだ、という国際情勢の認識を示している。最初から、<根本的に間違って>いるのだ。
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  ①2006年12月、当時の安倍首相の変貌の背景を西尾はこう予想し、アメリカと中国にこう言及していた。 
 「第三が…アメリカの存在です。…これがもっとも厄介な問題になってくると考えています。
 中国はそれほど大きな問題ではない
 つまり、中国に対抗するためにはアメリカに依存するほかないけれど、あまりに依存を続けていくと今度はアメリカに呑み込まれてしまうという新しい危機。
 これからはこっちの方が大きい。」
 月刊諸君!2006年12月号、75頁。
 ちなみに西尾は、2007年8月に、既発表文章を集めた、同・日本人はアメリカを許していない(ワック)を刊行している。中国や北朝鮮ではなく、アメリカが「敵」として設定されている。さらに、個人全集第16巻(2016年)に収載。
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 ②2008年12月、『皇太子さまへの御忠言』を刊行した直後だが、西尾はこんなことを書いていた。
 「日本という平和ボケした国家」でも「一つだけナショナリズムの本気で目覚める契機があると思います。
 それは、…アメリカが、尖閣諸島や竹島、北方領土などをめぐって、中国、韓国そしてロシアの味方をする悪代官になって日本を押さえ込もうとしたときです。」
 しかし、アメリカの国力喪失、軍事的後退によって、その「暇もないうちに日本を置き去りにしてハワイ以東に勢力を急速に縮小するという事態が訪れるかもしれません。
 つまり、このまま放っておいても、日本はアメリカから解放されるのです。」
 撃論ムック2008年11月号西尾・日本をここまで壊したのは誰か(草思社、2010)所収、p.149-150。
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 ③2009年8月、麻生首相の時代に、こう回顧していた。
 安倍氏が村山・河野両談話を認めたのは「敗戦国」だと言い続けないと国が持たないと「勝手に怯えたからでしょう」。
 「そういう轍のような構造に、おそらく中国とアメリカの話し合いで押し込められたのだろうと思う」。
 中国訪問、八月以前の靖国参拝、「あれは話し合いが全部ついていたのだと思う」。
 「日本と中国のナショナリズムを鎮めたい日米中経済界の話し合いだと思います」。
 月刊正論2009年8月号、232頁。
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 上の直前の2009年6月には、こう予想していた。
 「中国の経済的協力を得るためには、日本の安全でも何でも見境なく売り渡すのが今のアメリカです」。
 「今は地域の覇権を脅かしている中国、かつての反米国家が米国の最大の同盟国になっているほどに権力構造に変化が生じていることを見落としてはなりません」。
 「中南米から手を引き始めたアメリカは、韓国、台湾、そして最後に日本からも手を引くでしょう
 しかし、その前に静かにゆっくりと敵になるのです。」
 また、つぎのように回顧し、かつ現状を認識していた。
 1991年のソ連崩壊により「世界中に…民族主義の炎が燃え広がったわけですから、日本の保守政権もこれからアメリカは当てにならないと考え、軍事的、政治的、外交的に自立への道を歩みだすチャンスであったのに、実際にはまるで逆の方向、隷属の方向に進んでしまいました」。
 「日米安保は、北朝鮮や中国やアセアン諸国に対して日本に勝手な行動をさせないための拘束の罠になりつつあります
 加えて、ある段階から北朝鮮を泳がせ、日本へのその脅威を、日本を封じ込むための道具として利用するようにさえなってきているのです。」
 以上、月刊正論2009年6月号、p.98、p.104-5。
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 ⑤2013年、すでに個人全集の刊行を始めていたが、つぎのように西尾は書いた。
 「時代は大きく変わった。『親米反共』が愛国に通じ、日本の国益を守ることと同じだった情勢はとうの昔に変質した。
 私たちは、アメリカにも中国にも、ともに警戒心と対決意識を等しく持たなくてはやっていけない時代に入った。
 どちらか片方に傾くことは、いまや危ない。

 「親米反共」論者は「政治権力の中枢がアメリカにある前提に甘えすぎているのであり、やがて権力が牙を剥き、従属国の国民を襲撃する事態に直面し、後悔してももう間に合うまい。
 わが国の十年後の悲劇的破局の光景である。」
 西尾・憂国のリアリズム(ビジネス社、2013年)同・保守の真贋(徳間書店、2017年9月)所収、p.164、p,166。
 ⑥2018年10月、その前に渡部昇一と対談していた西尾は、つぎの点で渡部と一致し、二人で強く訴えた、という。
 「共産主義が潰れて『諸君!』の役割が終わっても、対立軸は決してなくなっておらず、東京裁判史観にどう立ち向かうという課題は依然として残っている」。
 月刊正論2018年10月号(花田紀凱との対談)、p.271。渡部との対談書は所持していない。
 なお、ここでいう「共産主義が潰れた」の中には、少なくとも渡部昇一においては、中国も含められている。
 渡部は2016年の韓国との慰安婦「最終決着文書」を安倍内閣の見事な外交文書だとし、併せて、かつての「対立軸」は<共産主義か反共産主義か>だったが、1991年のソ連解体により対立軸が「鮮明ではなくなり」、中国も「改革開放」によって「共産主義の理想」体現者でなくなり、「共産主義の夢は瓦解した」と明記していたからだ。月刊WiLL2016年4月号(ワック)、p.32以下。No.1413で、既述。
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 四 1 以上は一部であり、探索すればもっと他にもあるだろう。また、個人全集収録の有無等も、一部を除き確認していない。
 それでも、以上のかぎりで、西尾幹二の<根本的間違い>は、私には明瞭だ。
 2006年—アメリカが厄介で、「中国はそれほど大きな問題ではない」。
 「アメリカに依存する」ほかないが、「今度はアメリカに呑み込まれてしまうという新しい危機」があり、「これからはこっちの方が大きい」。
 2013年—「私たちは、アメリカにも中国にも、ともに警戒心と対決意識を等しく持たなくてはやっていけない時代に入った。
 どちらか片方に傾くことは、いまや危ない。
 アメリカと中国を等距離に置く。これは、韓国大統領・文在寅の米中間の「バランサー」役の旨の発言すら思い出させる。
 上の前提になっているのは、<共産主義はすでに崩壊した(冷戦は共産主義の敗北で終焉した)>という理解だ。
 ここに<根本的間違い>とその原因がある。
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 ここで区切って、四の2から、次回につづける。
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2467/音・音楽・音響⑨。

  昨年12月の全日本フィギュアの男子「規定」で羽生結弦選手が使っていたのは、つぎの曲だった(但し、ピアノ演奏へと編曲したもの)。
 Saens-Saëns, Introduction and Rondo in A-moll op.28.
 この曲は、前回No.2438で記載した「好み」の10曲の中に入っている。
 最も新しく興味を惹いた「美しい」曲に、つぎがある。
 Myaskovsky, Cello Sonata #2 in A-moll op.81.
 Nikolai Myaskovsky という作曲家の名も、これを弾いている、Liliana Kehayova、Marina Tarasova、Natalia Gutmanという三人のCellist の名も知らなかった。Cello の主旋律に、Piano が寄り添ったり、絡みあったりしている。
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  先の10曲よりもずっと前にこの欄で言及したのは、馴染みがまだあった、つぎだった。
 Mendelssohn, Violin Concerto in E-moll op.64.
 これら11曲と上のMyaskovsky,Cello Sonata 以外の、この一年間で聴いて「気に入った」曲を、以下に列挙する。一部は、以前から知っていた。
 ほとんどが聴いた直後にメモしていたもので、聴いたこと自体に、またメモしたこと自体に、種々の偶然はある(体調、気分の状態も影響する)。
 総じて、短調曲が多く、Violin、Cello 中心の曲に偏しているだろう。
 特定の曲・旋律を好きになったり、そうでなかったり、自分も含めて、いったい人間の脳の感覚器官、聴覚細胞、あるいは「美」的感覚・「美」意識というのは、どうやってできているのだろう、と不思議に思う。
 最後の52はViolinist Perlman の全集内のKlezmer曲で、作曲者不明。
 全て、ロシア(・ソ連)を含めての<ヨーロッパ音楽>だ。但し、32のScheherazade には西アジアの風味がある。
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 01 Bach, Violin Concerto #1 in A-moll BWV1041.
 02 Bach, Partita II BWV1004 in D-moll: V Chaconne.
 03 Bach, Harpsichord Concerto in D-moll BWV1052.
 04 Bach, Fantasie & Fugue G-moll BWV524.
 05 Bach, Toccata & Fugue in D-moll BWV565.
 06 Bartok, Romanian Folk Dance Sz.56.
 07 Beethoven, Violin Sonata #4 in A-moll op.23.
 08 Beethoven, Concerto for Violin and Piano #7 in C-moll op.30-2.
 09 Beethoven, Piano Sonata in C sharp-moll op,157.
 10 Beethoven, Triple Concerto in C op.56.
 11 Boccherini, Cello Concerto in Bflat.
 12 Brahms, Symphony #4 in E-moll op.98.
 13 Brahms, Concerto for Violin and Cello in A-moll op,102.
 14 Bruch, Scottish Fantasy op.46.
 15 Chopin, Piano Concerto #1 in E-moll op.24.
 16 Chopin, Impromptu #4 in Csharp-moll op.66.
 17 Dvořák, Symphony #8 in G op.68.
 18 Dvořák, Cello Concerto in E-moll op.104.
 19 Glass, Violin Concerto.
 20 Grieg, Piano Concerto in A-moll op.15.
 21 Grieg, Violin Sonata #3 in C-moll op.45.
 22 Händel, Concerto grosso in G-moll op.6-6.
 23 Haydn, Cello Concerto #1 in C.
 24 Liszt, Piano Concerto #1 in Eflat S.124.
 25 Mendelssohn, Piano Trio #1 in D-moll op.49.
 26 Mendelssohn, Octet in Eflat op.20.
 27 Monti, Csárdás.
 28 Mozart, Symphony #40 in G-moll K.550.
 29 Mozart, Piano Concerto #23 in A K488.
 30 Paganini, Violin Concerto #4 in D-moll.
 31 Prokofiev, Violin Concerto #2 in G op.63.
 32 Rimsky-Korsakov, Scheherazade op.35.
 33 Saint-Saëns, Symphony #3 in C-moll op,78.
 34 Saint-Saëns, Cello Concerto #1 in A-moll op.33.
 35 Sarasate, Zigeunerweisen op.20.
 36 Schubert, Schwannengesange D947, No. 4 Ständchen in D-moll
 37 Schumann, Symphony #3 in Eflat op.97.
 38 Schumann, Symphony #4 in D-moll op.120.
 39 Schumann, Sonata for Violin & Piano in A-moll op,105.
 40 Schumann, Piano Concerto in A-moll op.54.
 41 Schumann, Fantasie in C op.131.
 42 Schumann, Introduction & Allegro for Piano &Orchestra op.92.
 43 Schumann, Violin Concerto in D-moll WoO1.
 44 Shostakovich, Three Duets for two Violins & Piano op.97d.
 45 Shostakovich, Cello Sonata in D-moll op.40.
 46 Tchaikovsky, Symphony #6 in B-moll op.74.
 47 Tchaikovsky, Serenade for String Orchestra in C op.48.
 48 Tchaikovsky, Piano Concerto #1 in Bflat-moll op.23.
 49 Tchaikovsky, Piano Trio in A-moll op.50.
 50 Weinberg, Cello Sonata #2 op.63.
 51 Wieniawsky, Violin Concerto #1 in Fsharp-moll op.14.
 52 Itzhak Perlmann(violin), A Jewish Mother.
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2466/西尾幹二批判042—ニーチェ「研究」。

 一 西尾幹二全集第4巻・ニーチェ(国書刊行会、2012)を一瞥して驚くのは、これがニーチェの「思想」を直接に対象にしたものではなく、いわば詳細な「評伝」にすぎない、ということではない。
 そうではなく、その「評伝」も、『悲劇の誕生』の成立の頃までで、「未完の作品」(p.763)だ、ということだ。R・ワーグナーとの決別とワーグナー批判も出てこない。
 西尾はせめて『ツァラトゥストラ』の直前までは進めたく、準備をしていたが、果たせなかった、と書く。そうだとすると、『善悪の彼岸』、『道徳の系譜』、『偶像の黄昏』、『反キリスト』は視野に入っておらず、読解不可欠の作品ともされる『力(権力)への意志』に関する「評伝」的研究も、全くされていないことになる。
 なお、この巻の書以前の最初の紀要論文(静岡大学)は第2巻に収載されており、第5巻・光と断崖—最晩年のニーチェ(2011)では表題に即した文章も収められて「権力への意志」を表題の一部とするものもある。しかし、後者でも、「権力への意志」とは何を意味するか等々の内容には全く触れていない。
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  西尾幹二がニーチェの専門家ではなく、ニーチェ全体の研究者でもないことは、以上のことからも明らかだ。
 また、一部の著作を対象にしてすら、ニーチェの「思想」または「哲学」そのものを研究した者でもなかった。
 西尾は自分を肯定的に評価する文章を全集内に残しておくことが好みのようで、上の第4巻の「後記」には同巻所収の書(1977年、42歳の年)を対象とする論文博士の学位授与(東京大学)にかかる審査報告の要旨(1978年)を、他人の文章ながらそのまま掲載している(p.770-。末尾のp.778にも、1977年著のオビの斎藤忍随による推薦の言葉をそのまま掲載している)。
 興味深いのは記載されている審査員だった5名の教員の構成で、独文学科3名(うち一人は、東京大学に残った、西尾と同学年だった柴田翔)、仏文学科1名、哲学科から1名だ。
 これからも明瞭であるように、西尾のニーチェの一部に関する(未完の)書物は、「文学」であり、少しは関連していても、「哲学」研究書ではない。
 また、西尾には『悲劇の誕生』以外にもニーチェの作品の翻訳書がかなりあるが(第5巻参照)、「翻訳」することとニーチェの「思想」を「研究」することとは大きく異なる。
 むしろ、ニーチェの「文学」的研究や「翻訳」に相当に没頭していた人物が(例えば、『悲劇の誕生』翻訳は1966年(31歳)、『この人を見よ』翻訳は1990年(55歳))が何故、いかにして日本史、天皇・皇室、日本の政治、そして国際情勢にまで「口を出す」評論家または<物書き>になっていったのか、に関心が持たれる。アカデミズムからの離反(退走?)でもあるのだが、この点は、別にも触れる。
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  西尾幹二はニーチェ『悲劇の誕生』はのちにまで自分の考え方に影響を与えた旨書いている(全集のいずれかの巻の後記のどこか。よくあることだがその箇所を失念した)。
 下記の対談書で長谷川三千子は、西尾・国民の歴史(1999)の最後は「ニヒリズムで終わっている」という批判があったとして、それを「的はずれ」だとする。
 的確でないのはそのとおりだろうが、そもそもニヒリズムなる高尚な?考えを西尾が示すはずがない。
 「人間の悲劇の前で立ち尽くしている」との自覚をもって本書を閉じるのは遺憾だ。
 この最後の文は、要するに、「悲劇」という語句を西尾が使いたかった、というだけのことだろう。
 ニーチェ『悲劇の誕生』成立までの評伝を最初の書物として42歳の年に刊行した西尾にとって、「悲劇」は20歳代、30歳代を通じて最も目にし、原稿用紙に書いた言葉だったかもしれない。
 そしてまた、<悲劇の前で立ち尽くす>ということの意味を理解してもらおうという意思など全くなく、「文学」的に?、何やら余韻を残して終わっているだけのことなのだ。
 なお、『悲劇の誕生』は、ギリシャ悲劇の消失を嘆き、ワーグナーがその楽曲と歌劇でもってそれを再生(再誕生)させたとしてワーグナーを賛美した著作だ。
 この書の影響は国民の歴史(1999)刊行の翌年にもまだあるようで、同著にはニーチェの名は出ていないはずだが、つぎの本の一部で、ギリシャに関しては、ニーチェにいわせれば」として、長々と1頁余を使って紹介する発言をしている。
 西尾=長谷川・あなたも今日から日本人—『国民の歴史』をめぐって(致知出版社、2000年7月)、90-91頁。
 この部分は、明言はないが、『悲劇の誕生』の一部を要約したものだろう。
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  西尾幹二がどれほどニーチェを読み、理解しているかを疑わせる、ニーチェ関連のこの人の文章は数多いと推察される。但し、この人は、唐突に「ニーチェは神は死んだと言いましたが」と、日本に関する文章の中で挿入する大胆さと勇気だけは、持っているようだ。この点はこの欄ですでに触れた。
 ニーチェは初期にはワーグナーを称賛していて、「年下の友人」のつもりでいたが、のちには決裂し、批判すらするようになる。
 まだこの欄に掲載していないが、F. M. Turner の書物ではワーグナーとのbreak やsplit という単語が使われている。
 このワーグナーとの分裂を、西尾はまさか知らないことはないだろう。
 しかし、小林よしのりによると、彼の『戦争論』〔1〕に関する「つくる会」のシンポジウムはこうだった、という(2002年の小林の離会=脱退より前)。
 新宿・厚生年金会館での「つくる会」シンポジウムは2000人超が詰めかける「熱気」となった。「しかも調子に乗りすぎた西尾幹二が、オープニングのBGMに…ワーグナーの『ワルキューレの騎行』をかけたものだから、異様な雰囲気である」。
 西尾幹二は最近にも、ニーチェは自分にとって特別の意味を持つと明記している。ニーチェとワーグナーの関係くらいは知っているはずの人物が、上のようなことをしたというのは、不思議なことだ。
 小林よしのり・ゴーマニズム戦歴(ベスト新書、2016)、p.220。「西尾幹二」の名はないが、同、p.270 でも触れている。
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2465/西尾幹二批判041—ニーチェの時代。

 一 F・ニーチェ、1844〜1900
 但し、1889年には「精神」に異常をきたして隔離され、それ以降の文章執筆はない。この1889年には、日本では大日本帝国憲法が発布された。むろん、明治時代。
 いずれにせよ、ニーチェは19世紀後半または19世紀の「世紀末」に生きた人間だ。
 G・マーラー(Gustav Mahler)、1860〜1911
 音楽またはクラシックの世界では、今のチェコで生まれて当時のオーストリア帝国を中心に活躍したG・マーラーが、ニーチェの世代にかなり近い。
 三Bと言われるBach, Beethoven, Brahms よりも新しい世代で、ニーチェが一時期に尊敬したR・ワーグナー(1813〜1883)よりも、かなり若い。
 G・Mahler は交響曲の「革命」者ともされる。たしかに、トランペット独奏で始まったり、弦楽器の低いガガガッで始まったりして新奇さを感じさせ、旋律全体も当時としては新鮮だったかもしれない。だが、同時代のSibelius やDebussy 、さらにRachmaninov 、もっと後のShostakovich 等々を聴いてしまっていると、Mahler の交響曲の途中からは意外に単調で退屈だ。より前のR. Schumann やJ. Brahms の方が、俗物の秋月の好みにはまだ合う。
 G・クリムト(Gustav Klimt)、1862〜1918
 絵画の世界では、ウィーンで活躍したクリムトが、ニーチェの世代にかなり近い。
 Mahler 以上に、「革新」性が明確だ。ウィーンの三つの美術館・博物館と「分離派」会館で、この人の絵(額付きでなく、壁面に直接に描いたものを含む)を実際に観たことがある。
 風景画や穏和な人物画には好感をもつが、「分離派」会館地下の「Beethoven Frieze」(ベートーヴェン・フリーズ)となると、俗人には意味不明で、また少し気味が悪い。
 この建物(Secession会館)の入口の上部には、試訳だが、二行のドイツ語でこう書かれている。
 「時代には、それに合った芸術を/芸術には、それに合った自由を」。
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  ニーチェは、19世紀後半または「世紀末」に中部ヨーロッパで生きた人物だった。120年以上前の、ドイツの人だ。
 この時代的・地理的な制約または環境をふまえないと、いくら彼の著作の表面をなぞっても、その意味や、影響力の不思議さを理解することはできないだろう。そもそも、「理解」することのできる内容と文体の著作を残したのか、という問題もありそうだが。
 上に続けると、どの時代でも新しいもの、または「新しいと感じられる」ものは人を魅惑するものだと感じられる。とくに、「(ヨーロッパ)近代」における自然科学の進化、産業や科学技術の発展に伴う、反面としての不安感や閉塞感が増大する中では。
 世紀末または世紀転換期の<芸術>運動として知られるのは、フランスではアール・ヌーヴォー(art nouveau、「新しい芸術」)と呼ばれた。上に挙げなかったが、チェコに生まれてフランス・パリで人気を博したA・ムシャ(Alfons Mucha、ムハ。1860〜1939)の絵画・ポスターは、これの最たるものかもしれない。生地プラハの旧市街地区に、小さなムハ美術館がある。
 アール・ヌーヴォー様式の建築物・装飾物は現在のパリにも多く残っているが、ウィーンの地下鉄カールスプラッツ(Karlsplatz、カール広場)駅の駅舎も、保存されている(はずだ。新しい模造物の傍に、かつての本物を観た)。
 ドイツでは、同時期の同様の芸術運動はユーゲント・シュティル(Jugendstil、「若者(青春)様式」)と呼ばれた。
 三島憲一は下掲書で、これへのニーチェの影響の例として、雑誌『ユーゲント』1895年号のつぎの文章を引用している。そこからさらに抜粋する。
 「ユーゲントは、…永遠回帰の法則にしたがい、…のうちにある。〈いまだ輝かざる多くの曙光がある〉とニーチェは語っている。ニーチェとともに我々は上昇する生のラインに立っているのだ。」
 三島ら・現代思想の源流(講談社、新装版2003)、p.104。
 オーストリアでも上の語は使われたかもしれないが、とくに絵画分野では、在来の美術家組合から離れた「分離派」(Sezession)が1897年に結成され、G・クリムトが代表した。上記のBeethoven F. は1902年の作。
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  これらの芸術運動への参加者がいかほどニーチェを読み、「理解」していたかは、疑わしい。時代の雰囲気、「空気」があったのであり、ニーチェの著作はその形成・促進をある程度助けたのだろう。古い、伝統的なものを疑問視または破壊して、「新しい」哲学・思想を示している(らしき)ものとして。
 また、上に挙げた人物のうちには長生きした人もいるが、ニーチェをはじめとする19世紀後半や、世紀転換期までを生きた人々は、第一次大戦の勃発と「総力戦」、ボルシェヴィキによるロシア「革命」、ナツィスによるユダヤ人ホロコースト、第二次大戦、原爆の開発と投下による惨害等々を、全く知らないままだった、ということには、格別の注意を払っておく必要がある、と考えられる。
 これらを知らずして、「人間」の所業・本質、社会や国家をどれほど適確に論じることができるだろうか。
 西尾幹二は「哲学」を知らない旨書いたことがあるが、西尾が自らを「思想家」で「哲学」の素養もあるかのごとく装っていることの奇妙さを指摘するためで、元来は、上のような20世紀の事件・事態をまるで知らない「哲学」は、歴史学と「教養」の対象にはなっても、現代を論じるためには無効のものだ、役に立たないものだ、と秋月瑛二は思っている。
 かりに何らかの素養があったとしても、西尾幹二にあるのは、「歴史学」や「哲学」の基礎的訓練を受けていない、「独文学」的なニーチェに関する一部だけだ。西尾の書いたものですぐに判明するが、この人は、ニーチェと同じドイツ語圏に属していても、<フランクフルト学派>について、便宜的にハーバマスも含めておくが、何一つ知らないと推察される。
 ニーチェもマルクスも母国語として読解したこの派のドイツの哲学者または思想家の主張、議論に、西尾幹二は「独文学」的にすら、全く言及することができていない。
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  西尾幹二は、せいぜいニーチェ止まりだ。これは大きな欠点だ。
 これは哲学・思想についてのみ指摘しているのはではなく、「発想」や「思考」の方法自体が、せいぜいニーチェ止まりだ、という意味でもある。
 ニーチェの名を出していなくとも、西尾の文章のこの部分はニーチェのこの部分、あるいは別の部分に依拠している、参照している、と感じることがある。
 さらに、そのニーチェ理解にしても、どの程度、正確で適確なものかは疑わしい、と考えられる。西尾幹二を通じて、ニーチェをどの程度「理解」することができるのか。より具体的には、今後触れるだろう。
 ところで、かつてL・コワコフスキフランクフルト学派(アドルノ、ベンヤミン等々、『啓蒙の弁証法』、『否定弁証法』等々)に関する叙述を読んで、ふと、反科学技術(・反文明)、反大衆の点で西尾幹二と似ている(ところがある)と感じたことがある。
 三島憲一の上記引用部分あたりのつぎの表現からも、思わず?西尾幹二を思い出してしまった。あくまで三島の言葉であって私自身の論評ではない。
 ①『ユーゲント』の文章には、「全体として優美で繊細な神経とともに、力んだ内容空疎な誇示がある」。p.104。
 ②ニーチェ支持の〜は、「精神的であると同時に、居丈高なだけで、内容空疎な力み返り」も宿していた。p.109。
 なお、三島は最初の方でニーチェは政治的には「右」にも「左」にも利用され得た旨を書きつつ、最後の文にはこうある。難解だ。三島の政治的立場が反映されているのかどうか。
 「ニーチェの言語の政治的セマンティクスも、政治的な左右の区別に回収されないポテンシャルを捉えて読む必要があろう」。これはベンヤミンの場合より遥かに困難だ。「なぜなら、ニーチェは、共同性と経験の強度の関係の問題を充分に捉えきれず、本人によるものも含めて長期間にわたり、政治的右派によって回収されていたからである」。p.157。
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2464/西尾幹二批判040—「つくる会」運動②。

  西尾幹二個人編集の同全集17巻・歴史教科書問題(国書刊行会、2018)の大きな特徴は、「つくる会」の一定時点以降の自分の文章をいっさい(但し、明記に矛盾する例外がある)収載していないことだ。
 個人全集にはおそらく珍しく、著者自身が各巻にけっこう長い「後記」を付しているが、この巻ではその冒頭で真っ先に、西尾はこう明記する。
 「本巻は『新しい歴史教科書をつくる会』が創立されてから、会長や名誉会長の名で私が総括責任者であることを公言していた約十年間の私の発言記録である」。時期的には、1996年12月から2006年1月まで、の約9年余りにあたる。p.747。
 ただちに生じる疑問は、なぜ上の時期、会長・名誉会長だった時期に限るのか、だ。その論理的必然性は全くない、と言えるだろう。
 なぜか。それは、「後記」の中で「『つくる会』の内紛と分裂」と西尾自ら簡単に書いている(p.759)ものに触れたくなかったからだろう。
 2006年1月以降、西尾が「つくる会」や歴史教科書問題について何ら文章を発表していない、というのであれば、それもやむを得ないかもしれない。
 しかし、秋月ですら、「つくる会」の内紛と分裂について語る文章または発言を含む、つぎの二つを所持している。
 ①西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)。
 ②西尾=平田文昭・保守の怒り(草思社、2009年12月)。
 「つくる会」の分裂が歴史教科書問題と無関係である筈がない。いわゆる「保守的」な歴史教科書が二種出版される事態が発生し、それは現在まで継続しているからだ。
 --------
  西尾幹二は、自分史(自分の歴史)の中に「つくる会」の内紛と分裂を含めたくないのだろう。
 これと全く無関係だったならば、その合理的理由はある。
 しかし、その内紛と分裂に、西尾自身が不可分に、密接に関係していた。
 そしてまた、その問題と関係のない文章だからだろう、歴史教科書には関係する、2006年1月以降の文章を上の第17巻に収載することを堂々と行なっている。
 ①「同会創立二十周年記念集会での挨拶(代読)」(2017.1.29)。p.710-。
 これは容赦してよいかもしれない。では、つぎはどうか。
 ②「高校の歴史教育への提言」(西尾=中西輝政・日本の『世界史的立場』を取り戻す(祥伝社、2017)の西尾執筆「まえがき」)。p.717-。
 これは西尾が会長・名誉会長として、その期間内に書いた文章ではない。
 にもかかわらず、上に引用した「後記」冒頭の明記とも矛盾して、堂々と?収載している。
 結局は、西尾の「個人編集」の嗜好に依っているわけだ。
 西尾が、自分の「つくる会」との関係について、読者が理解してほしいと望むように、「解釈」の素材を取捨選択して収載している。なお、上の①『国家と謝罪』収録文章のうち、重要なものは割愛して、名誉会長退任挨拶状だけは載せている。
 これはおそらく、西尾幹二の「歴史」観と無関係ではない。この「歴史」には「自分史」も含まれる。
 客観的「事実」に接近するのは少なくともきわめて困難で、結局は残された「文章」によって「解釈」されるほかはない、従って、当事者である自らが「つくる会」・歴史教科書問題との関係を証する文章を選んで全集に残すことによって、その「解釈」を(ある程度、または相当程度)操作することができる、と考えているのではないか。
 --------
  ニーチェ『この人を見よ』の冒頭の一節の最後に、こうある。
 「私の言葉に耳を傾けてくれ! 私はこれこれの者であるのだから。
 どうか、私のことを勘違いしないでもらいたい!」
 訳は、丘沢静也・光文社古典新訳文庫によった。
 これを利用させていただくと、西尾はさらにこう言いたいのではないか。
 私の「つくる会」や歴史教科書問題とのかかわりは、全集第17巻に収載した文章の範囲で、それらのみを素材にして理解してもらいたい。どうか、私のことを勘違いしないでくれ!
 なお、文章の取捨選択はもとより、どのような順番で体系的に?それらを並べるかも、「個人編集者」である西尾は十分に留意して、2018年時点での「構成」を行なっている。
 さらに、「後記」では各文章の「読み方」まで親切に?ガイドし、一部にはその「評価」をも自ら書いている。
 どうか、私のガイドに従って、私が指示する留意点に沿って読み、私がすでに書いているように「評価」してほしい、というわけだ。
 「どうか、私のことを勘違いしないでもらいたい!
 --------
 四 付/上の内紛・分裂の経緯は、今後少しは立ち入るが、私にはよく分かっていない。
 上に掲げた西尾=平田文昭・保守の怒り(草思社、2009年12月)にここでは限って、これに関係する西尾幹二のこの時点での発言を、以下に記録しておく。「」内は、そのままの引用だ。全て西尾発言。一文ずつ改行する。段落最後には//を付す。
  「保守はカルト汚染を克服できるか」との見出しの項。p.262-。
 ある若い人からこう聞いた。「ある若い方が日本青年協議会という団体の青年部に入って修行しようとしたときに、西洋の思想家の名前などを挙げると、思いが足りないと言って叱られ、それからいろいろ日本の思想家のことを言っても思いが足りない、あの人たちはだめだと言って、硬直したドグマをたたき込まれるんですね。
 葦津珍彦先生、三島由紀夫先生、小田村寅二郎先生、谷口雅春先生のご意志を受け継ぎ、天皇国、日本の再建を目指しますということを宣明させられて、そして次なることを強いられると。//
 いつ何時も天皇陛下が今、何を考え、何を思っていらっしゃるかを考えて、日々、生き抜いていけと説き、それこそが天皇陛下の大御心に従った正しい生き方であると、若い人たちに説いている。
 平和時にこんなことを強いるのはおかしいと思った。
 こういうのって天皇陛下ご自身が迷惑にお感じになるはずです。…」//
 「いまだにそんなことをやっているグループがあると、目を覆うばかりですが、これが日本青年協議会、これは日本会議の母体で、日本会議はこれの上部団体ですから、今でも日本青年協議会は存在し、組織は日本会議と一体です。
 同じ場所にあるんです。
 日本会議と称する一つの団体が何を考えているのか、と不思議でならないですね。」//
 彼らは自分の正体を「隠しているんですね。
 自分たちが隠れて、偉い先生、裁判官とか、大学教授とかを表に並べて、そして実権を握っている事務局は後ろに隠れていて操作しているんです。
 神社本庁も操られているかもしれない。
 それが保守運動を壟断するから困る。
 『新しい歴史教科書をつくる会』なんてえらい被害を受けた。
 ひそかに会の幹部に生長の家活動家が送り込まれていましてね。
 新田均、松浦光修、勝岡寛次、内田智の四人で、それにつくる会の事務局長だった宮崎正治がいて、宮崎が日本青年協議会に関係あることは知っていましたが、彼らがみんな生長の家信者の活動家で芋づるのようにつながっていることはある時期までわかりませんでした。
 このうち松浦氏ひとりは生長の家活動家ではなかったと聞いていますが、四人が一体となって動いていたことは間違いありません。
 宮崎事務局長が別件で解任されかかったら日本会議本部の椛島有三氏が干渉してきて、内部の芋づるの四人と手を組んで猛反発し、会はすんでのところで乗っ取られにかかり、ついに撹乱、分断されたんです。
 悪い連中ですよ。」//
 「『つくる会』にもぐりこんでいた生長の家活動家の内田智氏は弁護士で、彼らが引き起こした『怪メール』事件を私が雑誌に公開したら、いきなり口座番号を書いてきて五〇〇万円を振り込め、と法律家らしからぬ非合法スレスレの脅迫をしてきました。
 そのあと『国家と謝罪』という評論集に私が彼らへの批判文を載せたら本を回収せよ、と版元の徳間書店を威嚇しました。
 怪メールといい、脅迫といい、言論以外のめちゃくちゃなことをする連中であることを読者の皆さんにお知らせしておく。
 これが日本会議の連中のやることなんです。//
 問題は周辺の名だたる知識人が彼らの不徳義を叱責するのではなく、『国民新聞』その他で彼らとぐるになって騒いでいる情けなさですね。」//
  「神社本庁よ、カルトと同席するなかれ」との見出しの項。p.278-。
 「私がうすうす感じていた私とは異質な世界に住む異質な人々を、詳しく丁寧に教えていただいて、ありがとうございました。
 世の中の大半の人は日本会議や国民文化研究会や日本政策センターのような保守系のカルト教団のことは名前も知りません。
 私もずっとそうでした。…」//
 「私は個人尊重の人間で、運動家にはなれません。
 宗教団体に近づいたこともありません。
 そんな私が一時期とはいえ教科書改善運動に関わったのは矛盾であり、失敗でもありました。」//
 「教科書に関わったために右のような保守系団体の関係者に次第に知己ができ、催しものにも参加したことがありますが、馴染めないのはなぜだろうかとずっと考えてきました。
 なにしろ関係する知識人、言論人には特殊な教条主義の匂いがあり、幹部やトップがずっと同一で交替しないのも異様さを感じさせます。…
 私は左の政治団体運動が嫌いだったわけですから、ほぼ同じ理由で、右の政治団体運動にも好意を抱くことはできません。」//
 「民主党が政権についた…。…日本会議はどうするのでしょう。
 ことに地方では他に頼るべき保守的組織がないので、日本会議に無考えで参集する人が多いようですが、日本会議は人を集めて号令を発することは好きでも、汗をかくことを好まないタイプの人が多いとよくいわれるのもむべなるかなと思います。
 私は平田さんの説明で正体がよくわかったので、残された人生の時間に彼らとはいっさい関わりを持たないでいきたいと思います。」//
 ——
 以上。

2463/H. マウラーら・ドイツ行政法総論(2020)目次④。

 H. Maurer =C. Waldhoff, Allgemeines Verwaltungsrcht, 20. überarbeitete & ergänzte Auflage(C.H.Beck, 2020)。総計872頁(緒言・目次等を除く)。
 目次の④。
 ——
 第四部/行政作用:その他の行為形式
  第13章・法的命令(Rechtsverornung〔法規命令〕)
   第一節・法規範および行政の手段としての法的命令
    1/法規範
    2/行政の手段
    3/画定
   第二節・法的命令の法的前提条件
    1/授権根拠
    2/形式的適法性要件
    3/実質的適法性要件
    4/裁量
   第三節・法的命令の違法と権利保護
    1/違法性
    2/権利保護
  --------
  第14章・公法上の契約
   第一節・法的根拠
    1/行政手続法の規律
    2/社会給付法および公租公課法の規律
    3/都市建築上の契約
    4/その他の適用領域
   第二節・公法上の契約の概念と画定
    1/概念
    2/私法上の契約との区別
    3/公法上の契約の種類
    4/行政行為と公法上の契約の関係
   第三節・国家と国民の間の契約の展開と意義
    1/展開
    2/公法上の契約の意義と問題性
   第四節・公法上の契約の法的前提条件
    1/契約形式の許容性
    2/公法上の契約の形式的適法性
    3/公法上の契約の実質的適法性
   第五節・公法上の契約の違法の法的帰結
    1/行政手続法59条の規律に関する概述
    2/行政手続法59条第2項の無効事由
    3/行政手続法59条第1項の無効事由
    4/欧州同盟法違反
    5/公法上の契約の無効の帰結
    6/行政手続法59条の規律の欠缺の問題性
   第六節・契約関係の処理
    1/履行と給付中断
    2/特別の場合の適応と告知
    3/契約上の請求権の強制執行
   第七節・諸事案の問題解決への言及
  ---------
  第15章・単純(schlicht)行政活動
   第一節・事実行為
    1/概念
    2/法的整序
   第二節・公的警告その他の国家による情報提供活動
    1/概念の明確化
    2/法的許容性
    3/国家の犯罪者情報
   第三節・非公式の行政活動
    1/画定と意義
    2/法的判断
  --------
  第16章・計画と計画策定
   第一節・概説と意義
    1/概説
    2/意義
   第二節・法的整序
    1/計画は法的概念か?
    2/計画の拘束力
    3/計画の法的性質
   第三節・計画保障
    1/計画の存続を求める請求権?
    2/計画の遵守を求める請求権?
    3/過渡的規律や適応への援助を求める請求権?
    4/補償を求める請求権?
  --------
  第17章・行政私法上の行為.資金助成、公的任務の委託
   第一節・行政私法上の行為
   第二節・資金助成
    1/資金助成(Subvention)の概念
    2/資金助成のメルクマール
    3/資金助成の委託
   第三節・資金貸付
    1/二段階理論
    2/選択肢
    3/(我々の)見解
    4/私的銀行の介在
   第四節・その他の資金助成
    1/紛失資金
    2/保証金
    3/物的奨励
   第五節・公的任務の委託
    1/法的根拠
    2/膨大閾値を超えた委託
    3/膨大閾値以下の委託
   第六節・同盟法上の補助金
 ——
 第18章を除き、第四部は終わり。

2462/H. マウラーら・ドイツ行政法総論(2020)目次③。

 H. Maurer =C. Waldhoff, Allgemeines Verwaltungsrcht, 20,überarbeitete & ergänzte Auflage(C.H.Beck, 2020)。索引を含めて、総計872頁(緒言・目次等を除く)
 目次の③。
 —— 
 第三部/行政作用:行政行為
  第9章・行政行為の概念、意義および種類
   第一節・発展と一般的定義
   第二節・行政行為概念のメルクマール
    1/規律
    2/権力性(hoheitlich)
    3/個別事案の規律
    4/官庁
    5/外部に対する直接の法的効果
   第三節・一般処分
    1/概念
    2/規準となる法
    3/特殊例—交通信号
   第四節・行政行為の意義
    1/法的整序
    2/行政行為の法的特性
    3/行政行為の機能
    4/行政行為と裁判所の判決
   第五節・行政行為の種類
    1/命令的、形成的、確認的行政行為
    2/授益的、負荷的行政行為
    3/審査容認と例外の承認
    4/物的行政行為
    5/受理、確言、内示、予備決定、部分的許可、暫定的行政行為および予防的行政行為
    6/事実的行政行為
    7/州相互の、および国を超えた行政行為
   第六節・行政行為の通知
    1/一般的意味
    2/通知の前提条件
    3/公式の配達
    4/公示
  --------    
  第10章・行政行為の適法性と有効性
   第一節・適法性、有効性、および確定力の区別
    1/適法性
    2/有効性
    3/確定力
   第二節・行政行為の適法性の条件
    1/授権根拠と行政権能
    2/形式的適法性
    3/実質的適法性
   第三節・手続の瑕疵の治癒と重要性
    1/問題性
    2/手続の瑕疵の治癒
    3/手続の瑕疵の重要性(行政手続法46条)
   第四節・違法性の帰結:抗告可能性と取消し可能性
    1/抗告可能性と取消し可能性の根拠
    2/審査請求〔不服申立て〕
    3/取消訴訟
    4/義務づけ訴訟
    5/仮の権利保護
   第五節・例外としての無効
    1/無効の条件
    2/無効の帰結
   第六節・転換と修正
    1/条件
    2/行政手続法47条の法的効果
    3/明らかに修正不可能であるものの修正の限界
   第七節・部分的違法
   第八節・排除
 --------
 第11章・行政行為の取消しと撤回
  第一節・総説
   1/法的根拠
   2/概念と画定
   3/取消しと撤回の対象
   4/部分的取消し
   5/関係者に対する法的効果による取消しと撤回の差異
   6/取消しと撤回の区別
   7/取消しと撤回の法的性質
  第二節・授益的行政行為の取消し
   1/効果と問題性
   2/行政手続法48条による取消しの規律に関する概述
   3/行政手続法48条第1項第2文、第2項、第3項による権利保護
   4/取消し期限
   5/許容と補償
   6/同盟法に違反する行政行為の取消し
  第三節・授益的行政行為の撤回
   1/総説
   2/行政手続法49条第2項と第3項による個別の撤回の根拠
   3/権利保護、補償および許容性
  第四節・負荷的行政行為の取消しと撤回
   1/負荷的行政行為の取消し
   2/負荷的行政行為の撤回
  第五節・手続の再開
   1/問題性
   2/制度
   3/狭義の手続再開(行政手続法51条第1項)
   4/広義の手続再開
  第六節・第三者効をもつ授益的行政行為の取消し可能性
   1/抗告
   2/取消しと撤回
   3/行政手続法50条による特別の規律
 --------
 第12章・行政行為の付款
  第一節・総説
   1/付款の意味
   2/内容本体と付款の区別
  第二節・付款の種類
   1/期限と条件
   2/撤回の留保
   3/負担
   4/負担の留保
  第三節・区別と解釈
   1/修正された評価
   2/解釈:実務での付款の種類
  第四節・付款の許容性
   1/特別の諸規定
   2/行政手続法36条の規律
   3/一般的な適法性要件
  第五節・付款に対する権利保護
   1/判例と学説の対立
   2/連邦行政裁判所の判例
 ——
 以上。第三部、終わり。

2461/H. マウラーら・ドイツ行政法総論(2020)目次②。

 H. Maurer =C. Waldhoff, Allgemeines Verwaltungsrcht, 20. überarbeitete & ergänzte Auflage(C.H.Beck, 2020)。索引を含めて、総計872頁(緒言・目次等を除く)
 現在のドイツで、大学法学部で用いられている、行政法に関する代表的教科書の一つと見られる。2020年版。目次の②。
 ——
 第二部/行政法の基本概念
  第6章・行政の法律適合性の原則
   第一節・法律の優位の原則
   第二節・法律の留保の原則
    1/概念の明確化
    2/根拠
    3/法律の留保の射程範囲と規律密度
    4/個別領域
 --------
  第7章・裁量と不確定概念
   第一節・前記
    1/行政による法律の適用
    2/行政裁判所による統制
    3/法律による拘束の緩和
   第二節・行政の裁量
    1/概念
    2/裁量の前提条件
    3/裁量の意義
    4/裁量に対する拘束
    5/裁量の瑕疵
    6/裁量の収縮
   第三節・不確定法概念と判断余地
    1/不確定法概念
    2/判断余地説
    3/判例上の判断余地
    4/事実上取消し得ない場合の行政裁判所による統制の限界
   第四節・制約と解決
    1/競合規定
    2/不確定法概念と裁量の交換可能性
    3/裁量の授権に際しての反対傾向と不確定法概念
    4/〔我々の〕見解
   第五節・計画策定における形成自由性
   第六節・調整裁量
 --------
  第8章・公権と行政法関係
   第一節・公法上の権利
    1/公権の概念
    2/公権の意義
    3/公権の前提条件
    4/権利と基本権〔基本的人権〕
    5/瑕疵なき裁量決定を求める請求権
    6 同盟法および国際法における権利
   第二節・行政法関係
    1/概念
    2/意義
    3/行政法関係の種類
    4/行政法関係は行政法学〔法解釈学〕の基礎か指針か?
   第三節・特別権力関係
    1/概念と由来
    2/特別権力関係の解体
 ——

2460/西尾幹二批判039—「客観」と「主観」。

  西尾幹二について「真顔で論ずるのは、所詮、愚か者の所行」かもしれないが(批判038参照)、秋月瑛二には、西尾の著作と人間を真面目に論じる十分な理由がある。
 二項対立思考で単純に「反共産主義」=「保守」と理解したのは一般論として間違いではなかったかもしれないが、2007-8年頃に日本で「保守」を標榜していた雑誌や論者が上の意味での本当の「保守」だったかは極めて疑わしい。
 今日の<いわゆる保守>は日本共産党と180度の真反対に対峙しているのではなく、多分に共通性もあり、30〜20度しか開いていないのではないか旨を、すでに一年以上前に秋月はこの欄に書いた。
 保守派の中でもすぐにこの人物は信用できないと感じた者はいるが、西尾幹二は相対的にはまだマシな論者だと—じっくりと読むことなく—判断してしまっていた。2015年の安倍内閣戦後70年談話の歴史理解の基本的趣旨は村山談話と、翌2016年の安倍首相・岸田外相による日韓・慰安婦問題の「最終決着」文書の趣旨はいわゆる河野談話と、基本的には何ら変わりがないことを、櫻井よしこや渡部昇一らと違って、西尾は気づいていたと思われる。
 月刊正論(産経新聞社)のとくに桑原聡編集代表のもとでの異様さはかなり早くに気づいていたが、江崎道朗のヒドさを知って<いわゆる保守>そのものに疑問を持ち、ようやく決定的・最終的に西尾幹二から離反したのは、まさに2018年末の同全集17巻・歴史教科書問題(国書刊行会)を見てからだ。
 約10年間も、西尾の「レトリック」に惑わされ、じっくりと読解することなく、肯定的にこの人物を評価していたことを、極めて強く、恥じている。
 何と馬鹿な判断をしてしまったことか。痛恨の思いだ。
 すでにある程度は書いたし、これからも書くが(999回まで番号がある)、個々の文章の紹介や分析等を通じて、この人の「本性」・「本質」を指摘して、秋月瑛二自身の自己批判の文章としなければならない。
 --------
  前回の批判038の最後に、個人全集第17巻には「自分史の一種の『捏造』、『改竄』が見られる」と書いた。
 具体的にその点に言及する前に、「自分史」という言葉にも含まれている「歴史」というものの捉え方自体にも、西尾には独特なところがある。
 別に論及するが、近年の単著の冒頭で、歴史は「文献」から明らかになる旨を書いて、遺跡や埋蔵物等々の「物」自体も史料になり得ることを完全に無視している。ニーチェ的「古典文献学」によると、「文献」だけが歴史叙述の素材なのだろうか。
 小林秀雄の『本居宣長』や『古事記伝』を読んで本居宣長を理解したつもりになったり、本居の「古事記伝」を読んで古事記を読んだつもりになった人がいるかもしれないが、西尾幹二もその手の一人ではないだろうか。
 こんなことを書くのも、西尾幹二・国民の歴史(原書1999)の最初の方で日本の「神話」に言及していながら、古事記や日本書紀という言葉は出てこず、この人はこの両書をきちんと読まないままで、日本の「神話」と中国の「歴史」書の同等性等を抽象的に論述するという大胆不敵なことをしている、と考えられるからだ。
 また、上の全集第17巻(2018)の「後記」の最後の方に、つぎの部分がある。
 この巻に収載した三つの文章には「ごく初歩的な歴史哲学上の概念が提示」されていると自ら書いたあと、こう続ける。
 「歴史は果たして客観たり得るのか、主観の反映であらざるを得ないのか」。
 80歳を過ぎて、このような「ごく初歩的な」問いを発していること自体に、また何やら深遠な「歴史哲学上の」?問題を提示しているつもりであるようなことにも、西尾幹二という人物の決定的な「幼稚さ」が表れている。
 何冊もの歴史叙述書を書いてきた研究者が、絶えずこのような問題に直面しつつ、苦悩しつつ執筆しているだろうことは、容易に推察できる。
 外国のものだが、R・Pipes のロシアに関する歴史書や、L・Kolakowski の「思想史」の書物でも、それを感じることがある。
 では、西尾幹二は、第一次的な史料・資料を用いた歴史書をいったい何冊書いてきたのか。歴史叙述書自体の執筆をしたことがないのだから(同・国民の歴史は歴史散文または歴史随筆、よくて歴史評論だ)、第一次史資料を豊富に用いた歴史書を一冊でも書いているはずがない。
 にもかかわらず、西尾幹二は何故、上のような「大口を叩ける」のだろうか。不思議でしようがない。
 ————
  秋月瑛二が15-16歳のころ、つぎのような問題を友人の一人に語ったことがある。
 上にある青空はそれを見て、意識して初めて「ある」=「存在している」ことになるのであって、それなくして「ある」=「存在している」とは言えないのではないか?
 とりあえず「青空」には拘泥しないことにしよう。
 素朴に、または単純幼稚に問うていたのは、今または後年になって振り返ると、「存在」するから「意識」するのか、「意識」して初めて「存在」するのか、という問題だ。
 別の概念を使うと、「客体」が先か「主体」が先か、という問題だ。
 あるいは「客観的事実」と「主観的意識」の関係の問題だ。
 「歴史」とは「過去」に関する一定の態様・様相だ、と差し当たり言っておくことにしよう。
 西尾幹二が上で何やら深遠な問いであるかのごとく「大口を叩いて」いるのは、「過去」の様相・態様は「客観的」な事実として認識・理解(これら二語の意味も問題にはなる)できるのか、それとも「主観」の反映にすぎないのか、だ。要するに、結局は、「存在」と「意識」の関係、「客体」と「主体」の関係の問題がある、というだけのことだ。
 これを人類または人間は古くから思考し、または「哲学し」てきたのであり、単純素朴には、15-16歳の秋月瑛二ですら抱いた疑問・問題だったのだ。
 それを、80歳を超えた西尾幹二が未だ設定されていない問題であるかのごとく、少なくとも西尾には未だ不分明の「歴史哲学」!!上の問題として、書いている。
 さすがに、歴史書を執筆したことがない、「哲学」書をろくに読まないで「物書き」になってしまった人物だけのことはある。
 ————
  最近に試訳したフランスの歴史学者のF・フュレの文章(英訳書)に、唐突につぎが出てきた。
 <ニーチェにあるのは、事実ではなく、解釈だけだ。
 三島憲一は下掲書のニーチェ部分を担当し、小見出しの一つに「『解釈』だけが存在する」と掲げ、最小限の一部だけ再引用すると、ニーチェはこう書いた、とする。141頁。
 「…実証主義に対してわたしは言いたい。違う、まさにこの事実なるものこそ存在しないのであり、存在するのは解釈だけなのだ。」。
 今村仁司.三島ほか・現代思想の冒険者たち—00現代思想の源流/マルクス.ニーチェ.フロイト.フッサール(講談社、新装版2003)
 この言明はもちろん、「客観的事実」と「主観的解釈」の問題にかかわる。
 西尾幹二は、このようなニーチェの考えの影響を、今でもかなり受けたままではないだろうか。
 ついでに、つぎのことも書いておこう。
 西尾幹二はナショナリストであり、「日本」主義者だ、と書いて、おそらく本人も異議を唱えないだろう。
 しかして、ニーチェは(19世紀後半の)ドイツの、少し広くして西欧の、もっと広く言えば欧米の「思想家」(とされる人物)だ
 そのようなニーチェについて、日本ナショナリストの西尾幹二は、いったいどういう精神・神経でもって、2020年に、堂々とつぎのように書けるのか。
 恥ずかしくないのだろうか。矛盾をいっさい感じないのだろうか。
 2020年刊行、『歴史の真贋』あとがき(新潮社)。
 私は「ニーチェの影響を受けた」。
 「ニーチェが私の中で特別な位置を占めていることは、否定できない」。
 ———
 追記/ なお、根本的には、客観的「存在」が先にあり、それを人間は諸器官を通じて「意識」する、と現在の秋月は考える。意識、認識する「主体」が消滅しても、過去の事実も含めて、「存在」は消滅しない。かかる<素朴実在論>?で、少なくとも一般的な平凡人には何ら差し支えないだろう。
 かつての同じ15-16歳の時代を思い出すと、じっと自分の左の手のひらを見ながら、この手、この掌は「自己」の一部なのか、と思い巡らしたことがあった。「自己」、「自我」はこの手、この掌にはない、と感じていたからだ。また、世界をこう三分していた。①自分の自己、②他人の自己、③これら以外の外界。
 <私小説的自我>でもって生きてきたらしい西尾幹二は、80歳を過ぎた現在、こうしたことを、どう考えているだろうか。
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2459/Turner によるNietzsche ⑤。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第5節。
 (01)  さて、ニーチェのソクラテスへと辿りついた。
 ニーチェが〈悲劇の誕生〉でソクラテスについて書いたとき、Hegel とGrote の著作と見解を十分に知っていた。
 ニーチェが攻撃したのは、Hegel のソクラテスとGrote のソクラテスだった(厳密には同じでなかったが、多くの点で共通性があった)。
 言い換えれば、彼は、ソクラテスを攻撃することによって、つぎの像型を攻撃していた。すなわち、半世紀前に、古代世界の科学を推進した主観的かつ批判的合理性や哲学的表象を用いる象徴になった者たち。//
 (02)  ニーチェは、19世紀の者たちの中で最も、Grote の解釈の多くを受容し、承認した。
 宣教師というソクラテスについての比喩を受容し、ソクラテスは自らの死をもたらすように積極的に協力したとの見方を受容した。
 彼はまた、ソクラテスは古代ギリシャの批判的で科学的な精神性を具現化していた、と考えた。
 だが、これらをGrote に依っているにもかかわらず、ソクラテスについてのニーチェの見方は、自分のものでなければならなかった。
 ソクラテスを近代思想の中心的人物、近代文明批判について参照されるべき中心地点にしたのは、他の誰よりも、ニーチェだった。//
 (03)  既述のように、ニーチェは、ギリシャの最大の惨禍はDionysus 的のものを排除しようとしたことだと叙述した。
 これについて罪責がある劇作者は、エウリピデスだった。しかし、ニーチェによると、エウリピデスはソクラテスの声に他ならない。
 Aeschylus やSophocles の悲劇を破壊し、ギリシャ文化を合理的頽廃への途へと歩ませたのは、これら二人の連携だった。
 ニーチェは、こう宣言した。
 「我々は、エウリピデスはApollon の基礎の上でのみ劇作をすることに全く成功しなかった、彼の非Dionysus 的な傾向は自然主義的で非芸術的なものの中に落ち込んだ、と見るに至った。
 我々はゆえに今や、その至高の法則は、大まかにはつぎの審美的ソクラテス主義の本質に接近することができる。すなわち、その本質とは『美しくあるためには、全てが合理的でなければならない』。—これは、『知る者のみが有徳である』というソクラテスの格言と並立するものとして形成された宣告だ。」(注4)//
 (04)  ソクラテスの影響を受けて、エウリピデスとその後のギリシャ文化の問題は、ニーチェが「あの徹底的な批判過程」、「あの大胆な理性の応用」(注5)と称したものになった。
 悲劇を不可能にしたのは、この合理性だった。//
 (05)  こうした解釈においては、ソクラテスはギリシャ文化におけるDionysus の大きな敵、対立者として現れる。
 しかし、ニーチェにとっては、ソクラテスが行ったことはもっとはるかに急進的だった。
 彼は、こう書いた。
 「ソクラテスは、同じ尺度でもって現存の芸術と現存の倫理を非難する。
 検討の凝視をどこに向けようとも、洞察の欠如と妄想の力を見ているのであり、現存するものには内部に間違いと不快なものがあると、その欠如から推断する。
 ソクラテスは、この一地点から出発して、自分は現存するものを是正する義務があると考えた。
 個人である彼が、完全に異なる文化、芸術および道徳性の先駆者として、我々がその套いに畏敬をもって触れるならば最高に幸福だと感じるだろう、そのような世界に、傲岸さと優越意識の面貌をもって踏み込んでいる。」
 ニーチェは、つづける。
 「Homer、Pindar、Aeschylus として、またPhidias、Pericles、Pythia、および Dionysus として、あるいは最も深い深淵または最も高い絶頂としてのいずれであれ、驚愕する崇敬対象であることが確実な、そのようなギリシャの本性を、あえて否定しようとするこの個人は、いったい誰なのか?」 (注6)//
 ——
 第5節、終わり。

2458/Turner によるNietzsche ④。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
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 第4節。
 (01)  George Grote は銀行家、政治的な急進派で、議会議員であるとともに、J. S. Mill の友人だった。
 彼は、1846年から1856年にかけて、12巻本の〈ギリシャ史〉を出版した。
 1865年には、3巻本の〈プラトンとその他のソクラテスの仲間たち〉を公刊した。
 これらの著作によって、Grote は、ヴィクトリア期のおそらく最も影響力のあるソクラテス解釈者になった。//
 (02)  Grote は、活発かつ厳格に、古代のSophists を擁護した。
 彼は、the Sophists は二つの理由で良くない評価を受けている、とした。
 第一に、「sophist」や「sophistry」〔詭弁〕という近代の侮蔑的な意味が、遡って古代のSophists を叙述する際に投影されてきた。
 第二に、より重要だが、the Sophists に関するプラトンの叙述が表面的にだけ受容され、歴史的および批判的に検証されなかった。//
 (03)  Grote は、先行する詩歌や叙事詩の教育者たちと比べて—二つの例外を除いて—the Sophists は実際にはほとんど何の基本的違いはない、と主張した。
 彼らは先行者たちよりもより良く教育し、それに値する報酬を得ていた。
 プラトンは、古代の哲学で自分が嫌悪するもの全てをthe Sophists と結びつけた。
 さらに、プラトンの対話の多くにおいてすら、the Sophists は根本的に不道徳なことを述べていない。//
 (04)  The Sophists が行ったのは、そしてこれがGrote にとっては彼らが名声と称賛を要求できることなのだが、若いアテネの人々が民主政の市民生活に参加できるように準備させたことだった。
 彼が書くように、the Sophists は、アテネの青年たちが公的にはもとより私的にも、アテネで積極的で高潔な生活をする資格を与えるのを本職としていた。//
 (05)  この点で、the Sophists は基本的に保守的で、民主政が賢明に作動するためには重要だった。
 そしてGrote は、ソクラテスの声でもって財産維持、結婚、子供の養育の急進的な再構築を主張したのはプラトンだということを、読者に思い起こさせた。
 (06)  Grote の解釈は、それを彼が最初に書いたときは気づいていなかったと私は思うのだが、Hegel の解釈にある程度は似ていた。
 二人ともに、the Sophists は個人主義を促進したと見た。
 しかし、Hegel にとっては個人主義は危険なものだった。 
 Grote にとっては、個人主義は民主政の適切な作動のための基礎的なものだった。//
 (07)  Grote が読者を最も驚かせたのは、彼がソクラテスに向かったときだった。
 彼は、Peloponnesian 戦争の半ばにアテネの人々がその都市にいる主要なSophists の名前を尋ねられたときに全員が躊躇することなくソクラテスの名前を挙げただろうと主張することによって、ソクラテスをSophists の一人だと見なした。//
 (08)  なぜソクラテスは不人気だったのか、Grote によると何が Sophists たるソクラテスの任務だったのか?
 それは、主として、アテネ市民に科学的方法と批判的で合理的な知性を持ち込むことだった。
 そして、Grote の見方では、このことが不可避的に科学と宗教のあいだの衝突をもたらした。
 アテネ文化、伝統的価値、ふつうはthe Sophists と結びついている宗教を否定的に批判することが、現実には市場で教えを説くソクラテスの主要な役割になっていた。
 ソクラテスは、アテネの一般的な世論に対する大きな批判者だった。
 とくに、ソクラテスが科学を擁護したことによって、アテネの宗教と直接に対立するに至った。//
 (09)  では、Grote はソクラテスの死をどのように説明したか?
 世論に対する個人的挑戦の不可避的な結果だったと、彼は見たのか?
 Grote は、友人のJ. S. Mill の〈自由について〉と同じく、ソクラテスは敵対する世論の犠牲者だと考えることはできなかった。
 どのようにすれば、Grote はそうできただろうか?
 結局、彼は、古代アテネの民主政を擁護するヴィクトリア期の最大の人物だった。
 素晴らしいのは、アテネの人々がソクラテスを処刑したことではなかった。そうではなく、彼らが半世紀以上、ソクラテスが小うるさい批判者の役割を果たすことを認めたことだった。//
 (10)  Grote は、著作で別の悪役を見つけた。
 それは、宗教だった。
 ソクラテスの死の原因となったのは、アテネの人々の宗教の力と信仰だった。
 Grote は、ソクラテスはデルフォイの信託(Delphic oracle)に由来する彼の信念に関して完全に真摯だった、神たちはソクラテスに仲間の市民たちを改善する使命を与えて送り込んだ、と考えた。
 ソクラテスは「たんなる哲学者ではなく、哲学の仕事をする宣教師だった」と、Grote は書いた。 
 ソクラテスは批判的哲学を普及宣伝するための、目に見える宗教的狂信者だったと、彼は考えた。
 Grote から見ると、ソクラテス自身の個人的な、宗教に根ざした狂信こそが、彼の死を惹起した。 
 Grote はソクラテスに対する非難と処刑の責任を神たち自体に負わせようとしている、と感じる者がいるかもしれない。
 別の評論家のAlexander Grant は、Grote はソクラテスを「判決による自殺」へと向かわせた、と書いた。//
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 第4節、終わり。

2457/西尾幹二批判038—皇太子妃問題②。

 本来の予定では、西尾幹二個人編集の同全集第17巻・歴史教科書問題のつぎの重要な特徴を書くことにしていた。すなわち、一定時点以降にこの問題または「つくる会」運動(分裂を含む)に関して西尾が自ら書いて公にした文章を(「後記」で少し触れているのを除き)いっさい収載していない、という「異常さ」だ。
 いつでも書けることだが、再度あと回しにして、新しい「資料・史料」に気づいたので、それについて記す。
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  西尾幹二が2008年前後に当時の皇太子妃は「仮病」だとテレビ番組で発言した、ということは高森明勅の今年になってからのブログ記事で知った。
 その番組を見直すことは到底できないと思っていたら、実質的には相当程度に西尾の発言を記録している記事を見つけた。つぎだ。
 「セイコの『朝ナマ』を見た朝は/第76回/激論!これからの“皇室”と日本」月刊正論2008年11月号166-7頁(産経新聞社)。
 ここに、2008年8月末の<朝まで生テレビ>での西尾発言が、残念ながら全てではないが、かなり記録されている。引用符「」付きの部分はおそらく相当に正確な引用だと思われる。
 以下、西尾発言だけを抜き出して、再引用しておく。「」の使用は、原文どおり。
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 雅子妃は「キャリアウーマンとしても能力の非常に低い人低いのははっきりしている」。「実は大したことない女」。
 雅子妃には「手の打ちようがないな」。
 「一年ぐらい以内に妃殿下は病気がケロッと治るんじゃないかと思います。理由はすでに治っておられるからです。病気じゃないからです。」
 「これも言いにくいことですが、私が書いたことで一番喜ばれているのは皇太子殿下、その方です。私は確信を持っています」。「皇太子殿下をお救いしている文章だと信じております」。
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 以上、「仮病」というそのままの言葉はないが、「病気じゃない」という発言があるので、実質的に同じ。上の<セイコ>も、「最後に平田さんも雅子様を仮病と批判」と記して「仮病」という言葉を使い、出席者のうち西尾幹二と平田文昭の二人が「仮病」論者だったとしている。
 <セイコ>の感想はどうだったかというと、「二人とも、やけくそはカッコ悪いよ」と書いているから、西尾・平田に対して批判的だ。
 なお、上の引用文のうち最初の発言に対して、矢崎泰久は「天皇家にと取っ掛かることによって自分の存在価値を高めたいという人」と批判し、出版済みの『〜御忠言』についても「天皇をいじくるな」「あなた、天皇で遊んでいるよ」と批判した、という。
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  あらためて「仮病」発言について論評することはしない。
 だが、想像していたよりも醜い発言ぶりだ。「能力の非常に低い」、「実は大したことない女」とは、凄いではないか。
 これによると西尾幹二は自著を最も喜んでいるのは当時の皇太子殿下だと「確信」し、同殿下を「お救い」していると「信じて」いる、とする。
 別に書くかもしれないが、西尾幹二著によって最も傷つかれたのは、雅子妃殿下に次いで、皇太子殿下だっただろう。さらに、現在の上皇・上皇后陛下もまた。「ご病気」の継続の原因にすらなったのではないか。
 西尾幹二
 この氏名を、皇族の方々は決して忘れることはない、と思われる。もちろん、天皇男子男系論者としてではない。
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 三 1 上を掲載している月刊正論2008年11月号の<編集者へ>の欄には、西尾幹二を擁護して当時の皇太子妃に批判的な投稿が二つあり、逆の立場のものはない。
 同編集部は、<セイコ>記事とのバランスを取ったのか。それとも、<セイコ>の原稿を訂正するわけにもいかず、編集部は西尾幹二の側に立っていたのか(代表は上島嘉郎で、桑原聡よりは数段良い編集者ぶりなのだが)。
 2 上の<セイコ>記事を読んで、当時に月刊正論上で西尾と論争していたらしい松原正は、月刊正論同年12月号にこう「追記」している。
 ****
 「西尾幹二という男について真顔で論ずるのは、所詮、愚か者の所行なのかもしれない」。
 なぜ唐突にこう書くかというと、11月号の(セイコの)記事を読み、「呆れ返ったから」だ。
 「西尾が狂っているのではなく、本当の事を喋ってゐるのならば、西尾が…くだくだしく述べてきたことの一切が無意味になってしまう」。
 「かふいう無責任な放言を、それまで熱心に西尾を支持した人々はどういふ顔をして聞くのであらうか」。
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 ほとんど立ち入らない。
 ただ、「西尾が狂っているのではなく、本当の事を喋ってゐるのならば」、という部分は、相当にスゴい副詞文だと感じる。
 --------
  ついでに。
 西尾幹二『皇太子さまへの御忠言』(2008年)は相当に話題になり「売れた」はずの、単一の主題をもつ西尾の単行本だ(主題が分散している単行本もこの人には多い)。
 しかし、同全集には収載されないようであり、そもそもが「天皇・皇室」を主テーマとして函の背に書かれる巻もないようだ。
 個人編集だから、自分の歴史から、自著・自分が紛れもなく書いた文章の範囲から、完全に排除できる、と西尾は考えているのだろうか。全集第17巻にも見られる、自分史の一種の「捏造」・「改竄」なのだが。
 だが、活字となった雑誌や本は半永久的に残り、こういう文章を残す奇特な?者はきっといる。
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2456/Turner によるNietzsche ③。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
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 第3節。
 (01)  Hegel のソクラテスに関する主要な解釈は、死後の1832年に出版された、彼の〈哲学史講義〉に見られる。
 彼の哲学書の多くと対照的に、ソクラテスの扱いは比較的に明瞭で率直だった。だが、それは莫大な数の反応を惹き起こした。
 (02)  Hegel にとって、ソクラテスとthe Sophists はいずれも、ギリシャ思想の大きな転回地点を代表した。 
 彼は、the Sophists は詩人や文化を組織する力としての伝統的知識の主張者に替えてギリシャにその思考を組織する新しい方法を与えた最初の集団だ、と考えた。 
 また、18世紀の哲学者たちに似ていて、その影響は一種の古代の啓蒙思想にまで昇るに至った、とも考えた。
 Hegel によると、the Sophists が獲得した報償は、悪(evil)に対する一般的に不当な評価だった。
 しかし彼は、the Sophists は本当は何も悪いことをしなかった、と考察した。
 The Sophists はギリシャ人に推論と思索(reflective)の方法を教えた。
 このような思考は不可避的に、伝統的な信念や道徳を疑問視することへと導いた。
 換言すると、彼らは懐疑主義(scepticism)を推奨したのだ。
 これは実際に、彼らの誤りではなかった。
 当時の思考や精神(mind)の発展状態の結果にすぎなかった。
 Hegel によると、the Sophists は、懐疑主義に限界はないと判断していた。//
 (03)  Hegel にとって、ソクラテスはthe Sophists が始めた運動のつぎの一歩を進めた人物だった。
 ソクラテスが行ったのは、伝統的価値と伝統的宗教を超えて発展する思索的(reflective)な道徳を生み出すことだった。
 Hegel はこう書いた。
 「精神の思索的動き、精神それ自体の転換にもとづく道徳は、まだ存在していなかった。
 その存在は、ソクラテスの時期からのみ始まる。
 しかし、思索が発生し、個人が自分自身の中へと隠退し、自分の望みに従って自分自身の生活をする確立した習慣から離反するやただちに、頽廃と矛盾が生起した。
 しかし、精神は対立の状態にとどまることができない。
 統合を探し求めるのであり、この統合のうちに、より高次の原理があるのだ。」(注3)//
 (04)  ソクラテスはこの過程を通じて、ギリシャ人が彼ら自身の主観性の中に道徳的指令を見出そうとするように導いた。
 ソクラテスとプラトンは、the Sophists とは違って、この主観的性を通じて、伝統的道徳と結びつくだろう客観的な道徳的真実を発見し得るだろう、と考えた。
 しかし、Hegel は、ソクラテスはこの移行に困惑さを与えており、彼自身に出現する主観性を彼の声または悪魔(daemon)が再現する、と考えた。
 彼の声または悪魔に語りかけることで、ソクラテスは誘導と道徳的指令を求めて、本当は自分自身に語りかけ、自分自身を見つめているのだ。
 ソクラテスが仲間のアテネの人々と対立するようになったのは、この強烈な主観性のゆえにだった。
 彼の悪魔は事実の点では新しい神だった。—主観性という神であり、これに執着すれば、4世紀の〈都市(polis)〉は解体する。//
 (05)  したがって、Hegel にとって、ソクラテスは彼に向けられる責任について実際に罪状があった。
 だが、その罪責は、ソクラテスの死の理由ではなかった。
 アテネの陪審員の決定は、必ずしも処刑を要求しなかった。
 ソクラテスが妥協を拒み、道理ある別の選択肢を提示できなかったあとではじめて、死刑判決が下された。
 彼による妥協の拒否は、集団的道徳心とアテネの伝統よりも上に彼自身の良心—彼自身の主観性—を置くということになった。
 これは、彼の基礎的な主観性への訴えの、論理的な帰結だった。//
 (06)  ゆえにHegel にとって、ソクラテスの死は、彼がこう書いたような理由で、本質的に悲劇的だった。「真に悲劇的なものには、衝突するに至った両者のいずれにも、根拠のある道徳的な力が存在しなければならない。これは、ソクラテスの場合にも言えた。」
 ソクラテスとアテネの人々には、それぞれの側の道徳性があった。だが、その道徳性は異なるものだった。
 Hegel の解釈に隠されている—但し、さほど隠されていない—のは、道徳の相対性を暗黙に承認していることだ。
 だがなお、Hegel は、ソクラテスの究極的な目的は、そしてプラトンや結局はキリスト教のそれは、安定した(settled)道徳性を見出し、the Sophists が開けた人間の心の懐疑主義に限界を付すことだった、と主張することによって、そのような相対性とは距離を置いた。//
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 第3節、終わり。

2455/Turner によるNietzsche ②。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
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 第2節。
 (01)  1860年代のおよそ7年間、R・ワーグナー(Richard Wagner)とニーチェは友人だった。
 この友人関係とその解消の物語は、それ自体で興味深い。そして、この世紀の後半の知的展開を示すものだ。
 ニーチェは青年として、音楽に強い関心をもった。作曲家になろうと望んだかもしれない。
 彼はとくに、ドイツ・ロマン派時代の音楽に魅了された。
 1860年代初めに大学生のとき、ワーグナーだけではなくショーペンハウワー(Shoupenhauer)も賛美した。
 彼は、ワーグナーはショーペンハウワーが叙述したような芸術上の天才だ、と見た。
 ニーチェは1868年に、ワーグナーと初めて逢った。//
 (02)  翌年、彼はバーゼル大学で文献学の教授になった。バーゼルはスイスのTribschen のワーグナーの家から遠くはなかった。
 ニーチェがこの作曲家に多大の敬意をもつことを知らせたので、出会いはさらに続いた。
 ワーグナーは、言いなりになる若い学者を持って、喜んだ。
 対等な友人関係では全くなかったが、それは特に驚くべきことではなかった。
 だが、明らかに、友人関係ではあった。 
 Richard とCosima は、クリスマスの贈り物を買うためにニーチェを送り出したり、二人のための用足しに彼を走らせることになる。
 ニーチェは自分をワーグナーの年下の友人だと思っていた。彼は、その友人はドイツとじつにヨーロッパ全体の芸術と音楽をいずれも活気づかせている、と思っていた。
 彼は23回も、Tribschen を訪れた。そして妹のElizabeth も、ワーグナーの仲間と友人になった。
 ニーチェはまた、当初はバイロイト思想の強い支持者だった。//
 (03)  ニーチェは1872年に、〈悲劇の誕生(The Birth of Tragedy)〉、ワーグナーと共有した原稿と初期の草稿を出版した。
 その書物は、ワーグナーに捧げられた。
 実際に彼は、ワーグナーを愉快にさせるために、その本に多数の修正を加えていた。
 その書物はもともとは、悲劇の研究書だった。少なくとも、そのようなものとして書き始められた。
 しかし結局は、ギリシャ人以降はヨーロッパが知らなかったまたは経験しなかった新しい芸術の誕生だとして、ワーグナーの芸術を賛美する書物になった。
 この書物は、理性に対する神話の勝利を賞賛し、ソクラテスとエウリピデスから始まったギリシャ文化の頽廃を描いた。//
 (04)  〈悲劇の誕生〉には、最初の書物に見られる多くの痕跡がある。
 大胆に、のちに受容された著作者たちよりももっと極端な立場を、明らかにしている。
 しかし、ニーチェがのちに採る近代文明に対する批判の前兆も示している。
 ニーチェは、学歴上は古典学者であり、文献学者だった。
 総じて言って、19世紀半ばには、ギリシャ生活で最も強調されたのは、古代的な禁欲と5世紀のアテネとの均衡ある連携という理想だった。
 ギリシャ生活の非合理的な側面は知られていたが、大部分は無視された。
 アテネが文化的に達成したものは、合理的生活の出現と、Matthew Arnord とJonathan Swift の語句を使って表現した「甘美さと明るさ」の獲得だった。//
 (05)  ニーチェはこのようなギリシャ解釈に、そして西側の合理性の父祖という、長く続くソクラテスに対する尊敬の念に、闘いを挑んだ。
 (06)  ニーチェはまた、Dionysus の儀礼へとギリシャ悲劇の歴史をたどった。
 彼は、ギリシャ悲劇はDionysus 的狂気とApollon 的様式との一種の結合から出現した、と見た。
 ニーチェは決して、Dionysian—Apollonian という二元論を説いた最初の人物ではなかった。
 それは実際には、ドイツの文学や音楽の世界内部では相当程度に一致して知られていた。
 しかしながら、彼の書物は、西側ヨーロッパ人の心に拭いきれないほどに、この二元論を刻み込んだ。
 ニーチェはこう言った。「我々は、〈Apollon 的文化〉という精巧な建造物をいわば一石ごとに分解して、それが依って立つ基盤を見つけるにまでに至る必要がある」。(注1)
 Apollon 的様式の禁欲は、思想と現象的外観についてのショーペンハワー的世界と同等のものだった。
 その世界の下には、Dionysus 的狂気が横たわっていた。
 ニーチェは、こう宣言した。
 「人間と人間のあいだの紐帯がDionysus 的な魔術によって再び復活する、というだけではない。
 有害だとして遠ざけられ、従属させられた自然が、その失った息子である人類とのあいだの和解の祭典をもう一度、祝福しもするのだ。<中略>
 今や、宇宙的調和の福音を聴きながら、各人はみんな、たんに自分が隣人と結合し、和解し、融合していると感じるだけではなく、その隣人とまさに文字通りに一つであると感じるのだ。まるで、maya のベールが引きちぎられて、その切れ端だけが神秘的な始原的一体(根源的一つ(das Ur-Eine))の前ではためいているがごとくに。」(注2)//
 (07)  芸術と悲劇に関して、ニーチェは、Dionysus 的なものとApollon 的なもののいずれも必要だと考えた。
 彼の書物は、Dionysus 的なものを賞賛するだけの、無条件の著作ではない。
 そうではなく、彼が論じたのは、ギリシャの最高度の芸術が感動的であるのは、外観についてのApollon 的世界の下に横たわっているのは精神(the psyche)の内的深さであることを証明している、ということだった。//
 (08)  ニーチェはショーペンハウワーを使ったけれども、十分に彼を超えて進んでいた。
 ショーペンハウワーが悲観主義と生の否認へと駆り立てたのに対して、ニーチェは、芸術は生を肯定するものだと見た。
 劇場における悲劇を通じて、ギリシャ人はその生を見出し、その共同体を肯定した。
 芸術にとっての、とくにギリシャ悲劇にとっての問題は、Apollon 的なものが支配したときに発生した。
 Dionysus 的なものが放棄されたとき、芸術はその様式だけではなく内容も、当時の道徳性から採用した。
 ギリシャの場合にこれが意味したのは、悲劇がソクラテス的知識と分析の浅瀬に乗りあげて座礁するに至った、ということだった。//
 (09)  なぜニーチェがソクラテスに対する批判と侮蔑へと飛躍したのかを理解するためには、19世紀におけるソクラテスについて、少しばかり知らなければならない。
 ニーチェは、ソクラテスを論評する中で、19世紀の多数の関係文献を5世紀のアテネでの議論へと符号化(encode)していた。//
 (10)  19世紀の初期および半ばには、ソクラテスに関する二つの主要な解釈があった。G. W. F. ヘーゲルの解釈と、George Grote の解釈だ。//
 ——
 第2節、終わり。

2454/Rosenthal によるNietzsche ①。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Mith, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B.G.ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 No.2436に上掲書の目次を掲載している。全体がニーチェに関係しているが、表題から見て関心を惹くのは、とくに以下だ。原書での総頁数も示す。
 第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917。
  第3章・ニーチェ的マルクス主義者。…計27頁。
  要約・1917年のニーチェ的課題…計4頁。
 第二編/ボルシェヴィキ革命と内戦におけるニーチェ—1917-1921。
  (前記)…計8頁。
  第5章・現在の黙示録—マルクス・エンゲルス・ニーチェのボルシェヴィキへの融合。…計25頁。
 第四編第二部/ウソとしての芸術—ニーチェと社会主義リアリズム。
  第11章・社会主義リアリズム理論に対するニーチェの寄与。…計24頁。
 第四編第三部/勝利したウソ、ニーチェとスターリン主義政治文化。
  第14章・力への意思(Will to Power)の文化的表現。…計28頁。
 第一編第3章(ニーチェアン・マルキスト)等々も興味深そうだが、長さからして試訳しやすそうな、かつ第一編全体の「要約」とされる第一編の最後の「要約」を、以下に試訳してみる。節名の番号数字はない。
 ——
 第一編/要約・1917年におけるニーチェ的課題(Nietzschean Agenda)。
 前記(見出しなし)
 1917年までに、Nietzsche はロシア化され、象徴主義、宗教哲学、「左翼」ボルシェヴィスム、および未来主義へと吸収されていた。
 これらの間で、またそれぞれの内部で重要な違いがあったにもかかわらず、これらの運動、これらによるNietzsche 的課題の「解決」、は多くの点で共通していた。取り上げてすでに論じた人物たちは全て、人間の心理におけるDionysian 要素に関心を持ち、彼ら自身の価値が浸透した新しい文化、新しい社会を創ることを望んだからだ。
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 第1節・新しい神話(Myth)。
 彼らの神話の特徴は、終末論的な(eshatological)、必然から自由への跳躍、人間や世界の改造(transfiguration)だった。
 神話創造に際しての最も重要な試み、神話的アナキズムと神の建設(God-building)、は大衆を結集させることができなかったが、彼らの定式者たちは、経験からつぎのことを学んだ。
 すなわち、新しい神話は馴染みのある用語で語られなければならない。それは明瞭に理解されなければならない(「新しい宗教統合体」または「集団的人間性」はあまりにも漠然としている)。そしてそれは、Apollonian 心象、偶像または崇拝人物像を必要とする。
 Bogdanov は、世界を変革する主要な力は技術だと考えたが、神話がもつ心理政策的(psychopolitical)な有用性を肯定的に評価した。
 Berdiaev の創造性の宗教は、新しい崇拝人物像を含んでいた。
 Florensky の神話は、教会性(ecclesiality)と(抽象的観念よりも)具体的経験を強調する、再生された正教だった。
 未来主義者の神話である太陽に対する勝利(Victory over the Sun)は、人間の創造性のための無限の地平を持っていた。
 この者たちの聖像破壊主義は、崇拝人物像の発生を許さなかった。//
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 第2節・新しい世界。
 Nietzsche の諸用語—「Apollonian」、「Dionysian」、「全ての価値の再評価」、「超人」、「権力への意思」—は、知識人界によってのみならず、大衆読者層に向けた出版物でも、引用符なしで、頻繁に用いられた。
 Nietzsche の影響を受けた知識人のほとんどは、正しい(right)言葉は意識を変革し、無意識の感情と衝動を活気づけることができる、と考えていた。
 象徴主義者たちは、潜在意識下(subliminal)の意思疎通(communication)を強調した。
 未来主義者たちは音を知性よりも重視したが、また、書いた言葉の視覚上の効果にも大きな関心を寄せた。
 Kruchenykh とKhlebnikov は、人々に衝撃を与えて古い思考様式から抜け出させようとした。
 未来主義者と象徴主義者のいずれも、言葉と神話を結びつけ、新しい言葉は新しい世界を発生させることができると信じた。
 Bogdanov は、言語は実際に現実を変化させると結論づけ、神秘的ではない態様で言葉と神話を結びつけた。//
 --------
 第3節・新しい芸術様式。 
 象徴主義者たちは、芸術は「より高い真実」へと、「現実的なものからより現実的なもの」へと導くと信じ、美学的創造性は世界を変革(改造)する儀礼的(theurgic)活動だと見なした。
 Ivanov は、ロシア社会を再統合し、演技者と観客の分離をなくして受動的な観衆を能動的な上演者にし、そして芸術と生活を一つにする方法として、Dionysian 演劇、神話創造の崇拝演劇を提唱し、「集団的創造性」を主張した。 
 Ivanov 理論を緩和した見方は劇場監督たちに採用され、それはBriusov、Meyerhold、Sologub によって擁護された「在来的劇場」のような純粋な劇場性〈劇それ自体のための劇場)に対する対抗理論を生んだ。
 「生の創造」という、ほとんどの象徴主義者が主張するに至った大きな拝礼計画は、部分的には、自由、美と愛の新しい世界を創造するための、政治的革命の失敗(1905年の革命)に対する反応だった。
 未来主義者たちは、直接的感知の詩論についての象徴主義者のPlatonic な側面を拒絶した。
 彼らは、劇場と美術館を街頭と公共広場に取り出して芸術を民主主義化し、文化的遺産を放擲することを望んだ。そして、新しい展望をもち、例えば、世界は退化していると見た。
 Bogdanov の観点主義は、階級に基礎があった。
 心理的に解放されるためには、プロレタリアートは自分たち自身の芸術様式を創造し、文化的遺産を(放擲するのではなく)自分たちの価値と必要性に照らして再評価しなければならないだろう。
 彼は、芸術、道徳および科学の〈階級〉的性格を強調した。
 Florensky は、ルネサンス以降のヨーロッパの芸術と思想を支配している個人主義的な観点主義を拒否した。//
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 第4節・新しい男と女。
 新しい男は美しく、英雄的で、勇敢で、創造的で、努力をするということ、そして、高貴な理想のための戦士であること、は当然視されていた。
 新しい女については、合意がなかった。
 Kollontai、Bogdanov、Gorky は女性に、勇敢さ、自立性、理性のような「男性的」特質を認める一方で、女性の母性的な役割を承認し、強く主張すらした。
 象徴主義者たちは、ソフィアと「永遠の女性的なもの」を賛美し、家族や性別に関する伝統的意識を非難した。
 彼らの理想の人間、かつBerdiaev のそれは、親ではなく中性(androgyne)だった。
 Florensky は、男性と女性を存在論的かつ社会的に区別した。
 彼の〈教会儀礼(ecclesia)〉は、男性二人で構成されていた。
 未来主義者もまた、家族と性別に関する伝統的考えを批判したが、彼らの公的立場は攻撃的な男性主義だった。//
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 第5節・新しい道徳。
 四つの運動全てが、感情の解放、自由な発意、熱烈な確信を擁護すべく、義務というキリスト教的・カント的・人民主義的な道徳性を、カントの命令も含めて、拒否した。
 美しさ、創造性、そして(一定の場合の)困難さは、美徳だと見なされた。
 憐れみ(pity)は弱さの兆しであり、「最も遠いものへの愛」が隣人愛や実際的改良よりも優先した。
 「Nietzsche 的」個人主義は、自己超越という精神を随伴し、犠牲と苦痛を理想とするキリスト・Dionysus の原型が表象する、「個人性」への賛美にとって代わられた。
 Berdiaev、Florensky およびほとんどの象徴主義者は、愛を法に置き換え得る、キリスト教的・ユートピア的な幻想を伴うNietzsche 的な不道徳主義と結びついた。
 政治的な最大原理主義者たちは、革命的人民主義の「英雄的」伝統(テロル)を復活させ、目的は手段を正当化するとの革命的不道徳主義を実践した。
 全ての新しい道徳から欠落したのは、日常生活の規範(ethic)だった。
 この欠落は、意図的なものだった。
 宗教的であれ世俗的であれ、終末論者たちは、ありふれた生活(〈byt〉)の諸側面は改造されるだろう、と想定していた。//
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 第6節・新しい政治。
 これまでに論じた人物のほとんどは、政治を超越することを望んだ。
 彼らの理想は、自己利益や社会契約とは反対の、情熱的紐帯と共通の理想によって強固となる社会だった。
 彼らは、右側寄りのリベラリズムや議会主義的政府を侮蔑した。または、侮蔑するに至った(Frank の見解は微妙に異なる)。
 裕福さはペリシテ人(philistine)の価値だと見なされ、(貧困の廃絶とは別の)大衆の裕福さは、彼らの目標の一つではなかった。
 象徴主義者、未来主義者、および宗教哲学者は、経済を無視した。Berdiaev とFrank はマルクス主義者から出発し、Shestov の学位論文は工場法に関するもので、Frank は〈Landmarks〉で富を商品として扱ったのだったけれども。
 Gorky、Lunacharsky、Kollontai は貧困は社会主義のもとでは消滅すると想定していた。しかし、経済学そのものにはほとんど注意を払わなかった。
 Bogdanov、Bazarov、およびVolsky は、経済学に関して執筆した。しかし、彼らが公刊した大量の著作は、哲学に関するものだった。
 しかしながら、つぎのことは、記しておくに値する。
 第一に、Bogdanov は労働者向けの一般的な経済学の教科書を執筆し(1897年、初版)、その書物はソヴィエト時代に入っても用いられた。(I. I. Skvortsov とともに)〈資本論〉を再翻訳しもした。
 彼はまた、1917年までに経済学者としての声価を確立していた。
 第二に、Volsky は、Capri 学校で、農業問題を講義した。
 新しい文化的アイデンティテイを明確にしようとする試みは、新スラヴ主義または文化的ナショナリズムへと次第に変化してゆき、そして政治的ナショナリズムになった。
 Nietzsche に影響を受けたち知識人のほとんどは、第一次大戦の勃発を歓迎するか、それを終末論的用語法で見るようになるか、のいずれかだった。//
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 第7節・新しい科学。
 Bogdanov だけが明示的に、新しい科学の誕生を呼びかけた。
 科学的「真実」を含む「真実」は特定の階級に奉仕するので、プロレタリアートは集団主義的方法と実践的な目標でもって、自分たちの科学を発展させなければならなかった。
 認識論をめぐるBogdanov とレーニンの間の争論には、科学にとっての示唆があった。論点は客観的真実は存在するか否か、誰がそれを明らかにするに至るのか、だったからだ(第5章を見よ)。
 Bely とFlorensky は、象徴主義が新しい非実証主義的科学を導くのを期待した。これは、Florensky が1920年代に発展させた主題だった。//
 --------
 後記(見出しなし)
 影響の「萌芽期」に文化に植え込まれたNietzsche の思想は、すでに論じた人物や新しく登場する人物によって、ボルシェヴィキ革命後に再循環し、再作動した。
 レーニン、ブハーリン、トロツキーによる革命のシナリオは、承認されていないNietzsche の思想を含んでいた。//
 ——
 以上。

2453/Turner によるNietzsche ①。

 日本語でのニーチェに関する文献は邦訳書も含めて少なくないが、いろいろなニーチェ論、ニーチェ解説を知っておこう、という趣旨で、以下の英語著の最後の章(第15章)のニーチェに関する部分を試訳してみる。
 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 区切りの見出しも数字もないが、一行空白の箇所がいくつかあるので、それによって便宜的に「節」の区切りとみなし、連番数字をつけた。
 一文ごとに改行し、段落の冒頭に(01)等の番号を付した。
 ——
 第15章・ニーチェ。
 第1節
 (01) ブルジョアジーは、19世紀半ばから後半のヨーロッパの知的、文芸的、芸術的文化を支配した。
 ドイツの統一の頃までに、永続すると考えられた世界を構築していた。
 鉄道は大陸に網を張り、人々は電信ケーブルを使って大陸間で通信した。新たに設計された都市が田園風景の中に点在し、大きな蒸気船が、ヨーロッパで製造された商品を世界中に運んだ。
 (02) 国民国家が、政治生活を支配した。
 科学は自然の大きな秘密を解明し、自然を人類の財産の協力者にしたように見えた。
 実際に、ヨーロッパ人は、T・H・ハクスリーが「事実の上にある科学が生んだ新しい自然」と呼んだものの中で生活していた。
 (03)  だが、このような生活様式の表面的快適さは、幻想だった。
 ヨーロッパじゅうのブルジョアジーは不安をもち、怖れすらしていた。
 Peter Gay がかつて指摘したように、「神経質病」が人々の挙措の一般的な病気と兆候として現れ始めた。
 中間階層は、社会主義者を恐れた。
 彼らはまた、貴族政体の健全な側面を維持した。 
 自分たちの国民国家の内外に、人種的な敵を探し求めた。
 中間階層の快適さを生んでいた同じ産業革命が、軍隊のための新しい破壊力をも生んでいた。
 中間階層の重要な与件だったキリスト教は、科学と歴史研究の包囲攻撃を受けていた。
 リベラルな政治家たちは、想定されたようには全く働いていなかった。
 有権者数の膨張は、社会主義者を助けたのみならず、政治的国民の保守的勢力の利益となったように見えた。
 教会、貴族層、のちには反ユダヤ主義者は、民主政体の諸制度を彼らの目的のために用いることができた。
 (04)  しかし、少なくとも後から振り返れば、おそらく最も当惑させるもので、最も印象的だったのは、世紀の後半に顕著になった、ブルジョア世界に対する知識人の批判だった。
 とくに重要なのは、半世紀前にJ・シュンペーターが指摘したように、この批判の多くがブルジョア文化それ自体から発生した、ということだ。
 西側文明は、自己批判を好む傾向をつねに示した。そして、その文化の内部では、中間階層ほどにその傾向を示した集団は存在しなかった。
 (05)  例えば、科学の方法を文学に適用せよとしばしば要求されたリアリズム小説の作家たちは、中間階層の文化を批評するために、科学に対するブルジョアの信仰を用いた。
 さらに加えて、この批判の媒介手段—文学分野では小説—は、全ての人文形態の中で、おそらく最もブルジョア的だった。
 伝統的な制度を拒むリベラルなブルジョアジーの志向は、サロンの伝統的権威を拒む芸術家たちとよく似ていたことだろう。また、そうした志向は、彼ら自身が選ぶ芸術展示会や画廊を始めることになった。—これはしばしば、裕福な中間階層を称賛し財政支援をすることとなった。
 (06)  自分たち自身に向けたブルジョアジーの文化の最も顕著な例は、世紀の後半での理性(reason)の利用であり、これは、合理的なもの(the rational)を疑うか、非合理的なものを探すかのいずれかだった。
 これらは、二つの全く異なる傾向だった。
 前者は非合理的のものの賞賛へと至るもので、おそらくは人種的思考に見ることができる。
 後者は、もっとはるかに複雑だった。
 合理的方法を用いて非合理的なものを探すことは、非合理的なものの賞賛に至るかもしれないが、至らないかもしれない。
 たんに合理的でないものの重要性を認識し、合理的なものの範囲内でそれを維持する試みに、つながり得るだろう。
 あるいは、非合理的なものの発見と合理的なものとのその併存の許容へと至り得るだろう。
 あるいは、ある場合には、合理性それ自体がほとんど無用だという考えに至り得るだろう。
 これらのいずれも、ブルジョア文化に、より特定して言えば啓蒙思想(the Enlightenment)に、挑戦するものだ。
 (07)  実証主義に対するこの反抗を主張した最も重要な人物であり、ブルジョア文化に対する過激な批判者だと考えられるに至ったのは、F・ニーチェ(Friedrich Nietzsche)だ。
 今日では、この点でニーチェほどの広汎な声価(reputation)を得ている哲学者はほとんどいない。
 このような意味で、モダニズムの主唱者や中間階層文化を批判した他の者たちと同様に、ニーチェもまた、この文化に捉われており、取り込まれている。
 (08)  ニーチェの今日での声価が得られるまでには、かなりの困難さがあった。
 彼が生きていた間、その書物は著名ではなく、広く受容されたのでもなかった。
 ニーチェが出版社を見つけるのは、しばしば困難だった。
 出版社があっても今度は、彼の本を売るという困難さがあった。
 彼の声価が高まったのは、ようやく1880年代遅くに、デンマークの評論家のGeorge Brandes がニーチェの著作を論じ始めてからだった。
 そうして、ニーチェは、多様な諸国の当時の他の文筆家に評価され始めた。
 しかし、初期のこの声価と敬意は、欠陥のある、間違って編集された、半ば捏造された(quasi-forged)彼の著作にもとづいていた。その出版物は、ニーチェの実際の思想とはまさに正反対の鋳型へとその思想の多くを入れ込んだものだった。
 (09)  Brandes は1888年にコペンハーゲンで、ニーチェについて講演した。
 その翌年早くに、ニーチェは精神障害(insanity)の時期に入った。それは1900年の彼の死まで続くことになる。
 1880年代の彼の著作に関する代理人かつ執行者は、妹の Elizabeth Förster-Nietzsche だった。
 彼女はBernard Förster の妻で、この夫は、ドイツの最も過激な人種主義者かつ反ユダヤ主義者の一人だった。
 1880年代にその夫は死亡し、兄は狂人(mad)となった。そして彼女は、夫の考え方と政策を支持して促進すべく、兄の諸著作の編集をし始めた。 
 Förster-Nietzsche 夫人は、彼女の兄の著作物に対して排他的権利を持った。そして、出版したいと思うものだけを出版した。
 (彼女は、1930年代まで生きた。)
 彼女は、完全では決してないニーチェの選集のいくつかの版を出版した。
 (10)  彼女はとくに、1908年まで、〈この人を見よ(Ecce Homo)〉の出版を遅らせた。
 これはニーチェの最後の著作の一つで、反ユダヤ主義、ナショナリズム、人種主義、菜食主義、軍国主義、および権勢政治に対する批判を述べていた。
 そして彼女は、この書物をきわめて高価にして出版した。
 それより前に出版した諸著作は、兄にとってきわめて悪意のある声価を確立する鍵になっていた。
 ニーチェの文章の中には、数百頁になる断章やアフォリズムがあった。
 彼女は、これらの一部を1901年に、その他の多くをのちに〈権力への意思(The Will to Power)〉という挑発的な表題を付けて、出版した。
 これらは、初期の諸著作のための覚え書だった。
 彼女はこれらをでたらめにつなぎ合わせ、兄の最後の体系的な作品で構成されていると示唆した。
 このような編集の操作によって、ニーチェは絶望的に理解し難く、曖昧で、非体系的で、反ユダヤ主義で、猛烈に民族主義的で、かつ親ナツィだ、という考えが広がるに至った。
 ドイツの学界にいくぶんか歪曲の少ないニーチェの見解が現れたのは、ようやく第一次大戦の後だった。また、アメリカの学者たちが系統的にニーチェを検証して教育し始めたのは、まさにようやく、第二次大戦の後だった。
 (11)  ニーチェの思想は、少なくとも二つの発展段階を通っていた。
 第一の時期には、逆のことへの多数の異論があったにもかかわらず、ニーチェは、ロマンチシズムの伝統と緊密に歩調を合わせ、非合理的なものをしばしば称賛しているように見えた。
 彼はこの時期に、ワーグナー(Wagner)と親しく交際した。
 (12)  ニーチェの思想の第二期には、批判主義、コスモポリタン主義、良きヨーロッパ人を擁護し、民族主義を批判して、啓蒙思想(the Enligtenment)に接近した。
 二つの時期を通じて、ニーチェは一般に、リベラリズムや、自分が中間階層の文化の俗物性だと見なしたものに対して、批判的だった。
 ドイツの多くの哲学者たちのように、彼は、理性を用いて、理性の領域に挑戦し、あるいはそれを限界づけた。
 ——
 第1節、終わり。

2452/西尾幹二批判037。

 西尾幹二の個人全集第17巻(2018年)の特徴は、前回に書いたことのほか、いくつかある。
  一つは、この巻が対象としている自分の文章等についての、読者が恥ずかしくなるほどの自画自賛ぶりだ。「後記」から、例を挙げる。なお、別巻収載の同『国民の歴史』にも言及がある。
 ①「それよりも今一番見逃せないのは、私の最大の長所が、日本史のトータルを歪曲した勢力との思想的格闘にあったことだ」。p.748。
 ②「(この巻の)第一部は従来の歴史思想を挑発し、徹底的に論破しようとしている。
 第二部は学問的に内省し、自分の立場を固めようとしている。」p.749。
 ③「ことに第三部の最後の三篇」は「…全国規模のドキュメントで、推理小説のようにスリリングであり、最後に思いもかけない『犯人』が暴露されるいきさつをお楽しみいただきたい」。
 ④「『国民の歴史』『地球日本史』その他によって遺産として遺された著作群は、同運動の継承者を末長く動かす唯一の成果であろう」。
 この点を除けばつくる会運動の意義はない、と言えば「運動の具体的関与者」は不満だろうが、「歴史哲学の存在感は大きい」。p.751。
 (『国民の歴史』等は「歴史哲学」書だと西尾本人が言っている!—秋月)
 ⑤「『国民の歴史』の前半」を…に力点を置いて「読まれるようお願いしておきたい」。「これからの時代にその必要度は増してくると思われるからである」。p.752。
 ⑥上の理由はつぎのとおり。「中国を先進文明とみなす」病理が巣食っているが、「この点を克服しようとしている『国民の歴史』はグローバルな文明的視野を備えていて、もうひとつの私の主著『江戸のダイナミズム』と共に、これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担っている」。
 以上。
 ④での「歴史哲学」という言葉の使い方にも驚くが、この⑥は、呆れかえる、「精神・神経」の健全さすら疑う、というレベルのものだ。
 本当に喫驚する。
 仮に万が一適切だったとしても、自分の著について、「グローバルな文明的視野を備えてい」る、「これからの世紀に読み継がれ、受容される使命」がある、と書くことのできる日本人文筆者は他にいるだろうか。
 そして、その内容、自己主張に適切さは全くないとなると、いったいこの人はどういう「精神・神経」の状態にあるのだろうか。
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  日本人ではない、「哲学者」とされるニーチェ『この人を見よ』は、その傲岸さを感じつつ(各文献を知らないままで)戯れに読むと、面白い作品だ。
 あくまで一部の紹介だが、「なぜわたしはこんなに賢明なのか」等の他に「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」と題する章があり、さらにその中に、つぎの文章がある。
 「『悪意』のある批評を書かれた事例」はほとんどないのに反して、「まるでわたしの著書がわからないという純なる愚かさの実例となると、これは多すぎるくらいにある!」
 ドイツ以外には「至るところに読者」があり、「選り抜きのインテリゲンチアで、高い地位と義務の中で教育された信頼すべき人物ばかりだ」。
 「要するに、わたしの著書を読み出すと、ほかの本にはもうがまんできなくなるのだ。哲学書などはその筆頭である。」
 「およそ書物のうちで、これ以上に誇り高い、同時に洗練されたものは絶対にない。」
 長くなるから、これくらいにする。訳は、手塚富雄:岩波文庫(1969年)によった。
 西尾幹二は、ニーチェを基準とすると、まだ可愛いのかもしれない。
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  もう一点、西尾個人全集第17巻については、指摘しておくべき重要な点がある。つぎの機会に回す。
 ——
 

2451/西尾幹二批判036—「つくる会」運動。

 一 自らが初代会長だった「新しい歴史教科書をつくる会」の運動について、西尾幹二はこう語ったことがある。
 ①月刊諸君!2009年6月号(文藝春秋)。p.204-5。この雑誌の最終号の8名による座談会で、宮崎哲弥が「つくる会」は戦後保守の最初で「おそらく最後の」「大衆運動」だろうと見ていたと発言すると、西尾はすぐあとにこう発言した。
 「いや、運動はしましたよ。それはさかんに動いたけれども、結局、大勢我に利あらずして、現実を動かしえなかった…、私はそう総括しています。
 保守言論の無力というものを露呈したわけです。
 あのときの中韓との戦い<中略>、日本は負けてしまって…いまだに負けつづけているのです。」
 ②月刊WiLL2011年12月号(ワック)。これを現時点で散逸しているので正確な引用はできない。記憶による。
 西尾が自分が書いたものは全て「自己物語」で「私小説的自我の表現」だった旨を言い、対談者の遠藤浩一が、<そうすると、つくる会という組織の運営は大変だったでしょう>という旨を質問気味に発言すると、西尾は、こう反応した。
 <そうなんです。だから、失敗したのです。>
 (この部分は現物を見て後日修正するかもしれない。)
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  2009年、2011年の時点では、このように「無力」や「失敗」という言葉を用いていた。
 しかし、西尾個人編集の独特な<全集>の2018年の「歴史教科書問題」の巻(第17巻)になると、「つくる会」運動は全くまるで異なったものだったように描かれている(そのように個人編集されている)。
 この2018年刊行本の中に、前年2017年の「つくる会」20周年記念集会用の挨拶原稿が収載されている。その中につぎの文章があることは。すでに何回か触れた。もう少し範囲を拡大して。以下に(再)引用・紹介する。p.711-2。
 「“ジャパン・ファースト”の起点——歴史教科書運動」〔冒頭見出し—秋月〕。
 「ジャパン・ファーストで行こうと声をあげたのは、『新しい歴史教科書をつくる会』にほかなりません。」
 私は機関誌創刊号で「これを『自己本位主義』の名で呼びました」。
 「採択の結果は乏しかったのですが、…流れ出したジャパン・ファーストの精神運動はさまざまな方面の人々に引き継がれました」。保守言論界の雑誌に「集結した人々の文章のみが、今では唯一の国論をリードするパワーです」。
 「グローバリズム」は「国際化」とのスローガンで彩られていましたが、会はそのような「美辞麗句」を嫌い、「反共だけでなく反米の思想も『自己本位主義』のためには必要だと考え、初めてはっきり打ち出しました」。
 「私たちの前の世代の保守思想家、たとえば竹山道雄や福田恆存に反米の思想はありません。
 反共はあっても反米を唱える段階ではありませんでした。」
 三島由紀夫と江藤淳が「先鞭をつけました」が、「しかし、はっきりした自覚をもって反共と反米とを一体化して新しい歴史観を打ち樹てようとしたのは『つくる会』です。」
 「われわれの運動が曲がり角になりました。
 反共だけではなく反米の思想も日本の自立のために必要だということを、われわれが初めて言い出したのですが、単に戦後の克服、敗戦史観からの脱却だけが目的ではなく、これがわれわれ本来の目的だったということを、今確認しておきたいと思います。」
 以上。
 これが、西尾幹二が2017年時点で確認または総括する「つくる会」運動の積極的意義だ。失敗でも無力さもなかった、そうではなく、格調高い?意義を持っていたのだ。
 もっとも、西尾は「精神運動」、「反米思想」、「歴史観」といった言葉を使っているので、「精神」・「思想」運動のレベルでの意義を語っているのかもしれない。つまり、「教科書採択の成果は乏しかったのですが」とだけ触れつつ、その<現実>の背景・原因・理由には、最初の会長でありながら、いっさい触れず、何の総括も述べていないのだ。たぶん、その点を概括した文章も当時に書かなかったのだろう。
 良い面だけを取り上げる、そして全くかほとんど、「精神」・「思想」面に関心を示す(触れたくない「現実」は無視する)、という、この人物の(特にこの全集・巻の編集に際しての)特徴がよく表れている。
 上に「良い面」と書いたが、西尾にとってのそれで、詳論しないが、根本的間違い、誤った国際情勢把握を、ここでも示している。
 <アメリカからも中国からも自立・独立せよ>、とこの人物は別の論考で明言しているが、妄想・空想の類だ。軍事、食糧、エネルギー、デジタル商品、労働力等々、完全に一国だけで「自立」している国家など、どこにあるのか。西尾幹二のグローバリズム批判と「日本本位主義」は異常の域に入っているように思われる。
 --------
  ついでに。
 上に紹介した2017年の文章をあらためて読んでいると、つぎの印象が生じる。
 この人は、竹山道雄、福田恆存、三島由紀夫、江藤淳に並ぶレベルの「思想家」とでも自らを勘違いしているのではないか。
 竹山と江藤についてはよく知らない。だが、西尾幹二が後世に福田恆存や三島由紀夫と並んで言及されるような、この二人と同列の人物だとは全く思われない。またおそらく、竹山よりも江藤よりも、劣った仕事しかしていないのではないか。
 要するに基本的には、読者をレトリックで煙に巻くことに長けた、かつやたら〈顕名〉=自己顕示を気にする「物書き」=文章執筆請負業者にすぎないだろう。この点は、これからも、この欄で(ニーチェの影響も含めて)述べていこう。
 また、西尾幹二が独特の「個性的」人物であるようであることの一例は、個人編集全集第17巻に即して、次回に書く。
 ——

2450/F. フュレ・全体主義論⑥。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 第8章の試訳のつづき。
 ——
 第6節。
 (1)ヒトラーは疑いなく、ドイツの支配階層、右翼の政界によって権力を与えられた。だが、彼がそこにいたという理由だけで、権力を掌握した。
 彼は右派にいる目的をもって、大衆の大部分を納得させなければならなかった。
 言い換えると、ドイツの支配階層によって操り人形のごとく権力を与えられたのではなかった。
 現実には、彼は長い間、権力の門を叩いてきていた。
 仲間の党員たちがおり、財源等々を持っていた。
 そして、全ての対抗者たちを消滅させるこの機会を得た。
 ドイツでの公然たる異論が封じられたのは、ほとんどは1934年と1935年に起きたことだった。
 私はこれを、ナツィ革命または全体主義の始まりと呼んでいる。
 権力掌握以前からヒトラーには大衆に対する魅力があり、政治的エリートたちとは関係がなかった。
 しかしながら、ドイツ議会の右派の無知のおかげの権力掌握後に、ヒトラーの革命は起きた。その右派を、彼は左翼に対して行ったように壊滅させることになる。
 革命が行なったのは社会全体を服従と沈黙へと縮減することであり、ナツィ体制への忠誠を声明するのを義務づけることで、社会は破壊された。
 ヒトラー・ドイツをスターリン・ロシアに最も似たものにしたのは、この特徴だ。すなわち、イデオロギー的な一党国家。完全であるために、私的生活すら、家族内であってすら、被支配者は制約のもとに置かれるという専制体制。//
 (2)このような体制の最も重要な特質は、社会生活の全体的な統制、完全に自律性がなくなるまでの市民社会の縮小だ。
 だから私は、イタリアは特殊な例だと思う。ファシスト・イタリアは、ナツィ・ドイツが経験したような政治的隷属の程度には全く達しなかったのだから。
 ロシアとドイツには、一つの大衆政党、イデオロギーの絶対的優位性があった、とされる。
 ファシストと共産主義者では国家の長の役割にわずかな違いがある、とも言われる。共産主義体制の場合よりもファシスト体制の場合に、長の役割はより重要だ。一方、共産主義体制での国家の長の機能的側面は、ナツィ体制に比べて、より強調されてはいる。
 そうして、日常生活に関するかぎりでは、二つの体制はお互いによく似ていた。また、両体制はともに、専制政(despotism)の伝統的形態と比べて、全く新しいものだった。
 厳密に用いるかぎりで「全体主義」という言葉が好ましく響くのは、これら両体制は新しいからだ。
 それらに相応しい言葉は、以前には存在しなかった。
 事物が存在して名前が必要となったがゆえに「個人主義」という言葉が1820年と1830年の間にフランスで出現したのと全く同様に、「全体主義」という言葉が、事物が存在するがゆえに作り出されなければならなかった。そしてこの言葉は、ナツィズムとスターリニズムを正確に特徴づけるものとして考案された。
 この言葉なくして我々は何をできるのか、私には分からない。
 この観念を受け入れようとしない者たちは、まともではない党派的な理由でそうしている、と私は思う。
 そのような者たちが代わりにどんな用語を使うのか、私は知らない。//
 (3)「暴政(tyranny)」は、古典的古さをもつ典型的な用語だ。
 この用語は、全体主義の現象がもつ民主主義的側面を考慮に入れていない。
 民主主義的側面とは、イデオロギーの観点を生むということだ。というのは、大衆の間に連帯意識を生み出すために、共通する考えの一体が必要とされ、党または国家の長により宣伝された。そしてこれは、新しい種類の君主政、全体主義的王政、の特徴だった。
 全体主義とは民主主義の産物であり、大衆が歴史に参加することだ。これは、H・アレントに見られるが、他の重要でない思想家にはほとんどない理論だ。
 西側の政治学は、トクヴィルの民主主義思想を理解していないように思える。—個人の平等は自由への途を開けるだけではなく、専制体制への途も開く。
 そして、政治的自由を「民主主義」という言葉と結びつける傾向がいつもある。//
 (4)トクヴィルに関して素晴らしいのは、ともに出逢う人々が自分たちを対等だと考えるときに人間性へと向かう新しい時代が始まった、という彼の確信だ。
 条件の平等は、人々が平等であることを意味しない。そうではなく、仲間である人間に遭遇するときに近代の人間は自分自身がその人と平等だと思う、ということを人類学的に明らかにしている。
 そしてトクヴィルは、これは人間性の歴史における革命だ、と理解した。//
 ——
 第8章、全体主義論、終わり。

2449/ニーチェ研究者・適菜収の奇矯①。

  適菜収は「反橋下徹」で目立つ風変わりな物書きで、橋下徹(・日本維新の会)と組んだ憲法改正には断固反対すると安倍晋三政権のときに書いていたし、同じく「反橋下徹」で、工学部教授でありながらH・アレントに依拠してと虚言を吐いて「ファシズム」に関する本を出版した、やはり風変わりな藤井聡(京都大学)と対談などもしていた。
 その(私から見ての)奇矯さが強く印象に残っていたが、最近、適菜収は「ニーチェ研究者」だとか「ニーチェを専攻」だとかを自書等に自ら記していることを思い出した。または、それに気づいた。
 但し、ニーチェに関する新書類を複数出しながら、学界・アカデミズム内で「ニーチェ研究者」と認知されているわけでは、間違いなくない。大学文学部卒とだけ経歴にあるので、せいぜい卒業論文の主題をニーチェにした程度で、大学院に進学してニーチェに関する研究論文を執筆したのでは全くないと推察される。取得していればすすんで明記するだろう、「文学博士」との記載もない。
 一般的に学界・アカデミズムの優先・優越を前提としているのでは全くないが、上のことは、適菜収の理解や主張を少なくとも「うのみ」にしてはならないことの理由にはなるだろう。
 下にも出ているが、私の知る限りでは、月刊雑誌(のしかも実質的巻頭)に初めて登場したのは、桑原聡・代表、川瀬弘至・編集部員時代の月刊正論(産経新聞社)2012年5月号だった。
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  月刊正論や産経新聞の本紙自体に適菜収が登場したことを契機としてだろう、産経新聞社に対して、愛読者から、つぎのような助言または警告が発せられた。
 それは「産経新聞愛読者倶楽部」というサイトに投稿されたもののようで、実際の執筆者の氏名等は不明だ。但し、無署名であることが内容の虚偽や不誠実性の根拠にただちになるわけではない。
 適切だと感じる点も多く、また初めて知ることもあった。以下に出てくるベンジャミン・フルフォードという人物は、カナダ生まれだが日本の大学を卒業し、のちに日本に帰化した。外国人だから世界的な権威がある程度はあるのだろうと感じる人がいないとも限らないので、あえて記しておいた。
 以下のは、引用符を付けないが。投稿文のほぼ全文で(もともと本欄による一部省略あり〉、この欄にすでに2012年4月に掲載していたものの再掲だ。改行箇所を増やす等の変更だけは行なっている。
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 産経新聞社発行の月刊『正論』5月号(3月31日発売)は『【徹底検証】大阪維新の会は本物か/理念なきB層政治家/橋下徹は『保守』ではない!』と題した論文をメーン記事として掲載しました。
 筆者は適菜収という37歳の聞いたことのない哲学者です。この中で適菜は『B層』について『近代的理念を盲信する馬鹿』と定義して、橋下市長を『アナーキスト』『デマゴーグ』などと非難しています。
 巻末の編集長コラム『操舵室から』でも桑原聡編集長が『編集長個人の見解だが、橋下氏はきわめて危険な政治家だと思う』と表明しています。//

 雑誌を売るためにインパクトのある記事を載せているのなら仕方ないなと思っていたら、なんときのう(6日)の産経新聞1面左上(東京本社版)にも適菜収が登場して<【賢者に学ぶ】哲学者・適菜収/「B層」グルメに群がる人>というコラムを書いていました。B級グルメをもじって「B層グルメ」という言葉を紹介しています。
 『≪B層≫とは、平成17年の郵政選挙の際、内閣府から依頼された広告会社が作った概念で『マスメディアに踊らされやすい知的弱者』を指す。彼らがこよなく愛し、行列をつくる店が≪B層グルメ≫だ』そうです。
 締めくくりは『こうした社会では素人が暴走する。≪B層グルメ≫に行列をつくるような人々が『行列ができるタレント弁護士』を政界に送り込んだのもその一例ではないか』です。橋下叩きを書くために、延々と食い物と『B層』の話をしているだけの駄文です。//

 われわれ保守派としては、橋下徹氏が今後どのような方向に進んでいくかはもちろん分かりません。
 しかし、職員組合に牛耳られた役所、教職員組合に支配された教育現場を正常化する試みは橋下氏が登場しなければできませんでした。自民党は組合との癒着構造に加わってきたのです。私は少なくとも現段階では橋下氏を圧倒的に支持します。//
 そもそも『B層』という言葉には非常に嫌な響きがあります。適菜がいみじくも『馬鹿』と書いているように、いろいろな連想をさせる言葉です。//

 ちなみに適菜収はサイモン・ウィーゼンタール・センターから抗議を受けたこともあります。
 読売新聞平成19年2月22日付夕刊「徳間書店新刊書の販売中止を要請/米人権団体『反ユダヤ的』/【ロサンゼルス=古沢由紀子】ユダヤ人人権団体の「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)は21日、徳間書店の新刊書『ユダヤ・キリスト教『世界支配』のカラクリ』について、『反ユダヤ主義をあおる内容だ』として、同書の販売を取りやめるよう要請したことを明らかにした。同書の広告を掲載した朝日新聞社に対しても、『広告掲載の経緯を調査してほしい』と求めたという。
 同書は、米誌フォーブスの元アジア太平洋支局長ベンジャミン・フルフォード氏と、ニーチェ研究家の適菜収氏の共著で、今月発刊された。サイモン・ウィーゼンタール・センターは反ユダヤ的な著作物などの監視活動で知られている。
 徳間書店は、『現段階では、コメントできない。申し入れの内容を確認したうえで、対応を検討することになるだろう』と話している。//

 産経新聞平成19年2月23日付朝刊「米人権団体『反ユダヤ的陰謀論あおる』本出版、徳間に抗議/【サンフランシスコ=松尾理也】米ユダヤ系人権団体のサイモン・ウィーゼンタール・センター(ロサンゼルス)は21日、日本で発売中の書籍ニーチェは見抜いていた—ユダヤ・キリスト教『世界支配』のカラクリ』(徳間書店)について、『反ユダヤ的な陰謀論の新しい流行を示すもの』と批判する声明を発表した。同センターは同時に、同書の広告を掲載した朝日新聞社に対しても、掲載の理由を調査するよう求めている。
 問題となった書籍は、米誌フォーブスの元アジア太平洋支局長、ベンジャミン・フルフォード氏と、ニーチェ研究家、適菜収氏の共著。2月の新刊で、朝日新聞はこの本の広告を18日付朝刊に掲載した。
 同センターは、同書の中に『米軍は実はイスラエル軍だ』『ユダヤ系マフィアは反ユダヤ主義がタブーとなっている現実を利用してマスコミを操縦している』などとする内容の記載があり、米国人とイスラエル人が共同で世界を支配しているという陰謀論をあおっているとしている。」//
 産経新聞1面左上のコラム(東京本社版)は約30人の『有識者』が日替わりで執筆しています。適菜収がここに登場したのは初めてです。
 つまり適菜は執筆メンバーになったわけですが、いったい誰が登用したのでしょうか。
 産経新聞は適菜を今後も使うかどうか、よく身体検査したほうがいいでしょう
 ——
 以上。

2448/F. フュレ・全体主義論⑤。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 試訳のつづき。下線は試訳者。
 ——
 第8章/第3節。
 Renzo De Felice は、実証主義的歴史家だった。ノルテと違って、哲学を嫌い、事実こそが自分で物語ると主張した。
 彼は認識論的にはいくぶん無頓着で、歴史叙述に必要な莫大な量の予備作業を好まなかった。
 彼の人生は、私のそれに似ている。彼は1956年まで、共産党員だった。
 悲しいことに、最近逝去した。—私はイタリアの新聞のために、追悼文を書いている。
 共産党を離れるときにはよくある瞬間があった、と思う。彼はイデオロギーの眼鏡を外し、物事を違って、真実に即して見たのだ。そして、目を開いた。
 De Felice は、私より以前から共産党の反ファシズムを疑問視していて、面向きの反ファシズムは共産主義を民主主義と分かつものを覆い隠す手段だと正しく見ていた。
 彼はまたイタリアのファシズムに関する著作を書いた。それは、イタリアでは右よりも左に傾斜していた運動に政治的および知的な起源があることを精査した研究書だった。左の運動とは〈Risorgimento〉という社会主義者の極左の伝統のことだ。
 彼の著作のうち最も大きな話題となったのは、ムッソリーニの伝記の第三巻だった。そこでは、ムッソリーニはイタリア史上、かつ1929年と1936年の間はヨーロッパ史上一般で、最も有名な人物の一人だと説明されている。//
 --------
 第4節。
 (1)全体主義の定義自体に議論があるが、私は、イタリア・ファシズムはこの枠に一部だけ適合していた、と考えたい。と言うのは、君主政とカトリック教会の力は強いまま残っていて、たいていの部分でムッソリーニと宥和し、また、彼から敬意を払われていたからだ。
 その体制は、1938年まで反ユダヤ的ではなかった。
 ヒトラーからの類推でのみ、そうなった。
 1920年代や1930年代のファシスト党には、多数のユダヤ人が存在すらした。//
 (2)イタリアの歴史では、ファシズムは一つの黙示録ではなかった。体制は1943年に終末を迎え、ファシスト評議会はムッソリーニを解任したが、これはきわめて異様なことだった。
 イタリア人が決して言わず、De Felice が十分に明らかにしたのは、従前のイタリア・ファシストの多くが1943年と1945年の間に共産主義者になっていて、レジスタンス運動に現れ、サロ共和国(イタリア社会共和国〔ヒトラー・ドイツの傀儡国家とされる—試訳者〕)に敵対した、ということだ。
 これはイタリアでは公然たる秘密だ。戦後のイタリア共産党の多数の党員は、ファシズムから来ていた。
 さらに加えて、これもDe Felice がその書物で説明していることだが、戦後のイタリア民主主義の特徴の多くは、ファシズムから継承している。—労働組合や大衆政党の役割、国家の産業部門。//
 (3)De Felice は非凡な歴史家で、哲学的にはいくぶん狭量だが、素晴らしい洞察力を持っていた。
 彼が書いたムッソリーニの伝記は、権威あるものとして長く残りつづけるだろう。
 実証主義歴史家のように短く散文的に、彼は、イタリア・ファシズムの年代的歴史を提示する。
 彼はこれを、無比の公平さでもって行う。むろんそれによって、彼は20年間、誤解され、侮蔑されたのだった。
 最終的には、良い書物の全てについて言えることだが、彼は成功した人物になった。//
 --------
 第5節。
 追放されたフランスのユダヤ人たちの帰還を、私はよく憶えている。
 きわめて鮮明な記憶だ。
 私は、18歳だった。
 強制収容所の実態は、私にきわめて強い印象を与えた。
 フランスのユダヤ人はユダヤ人犠牲者としてではなく、フランス人犠牲者として帰還してきた。
 (この主題については、ちなみに挙げればAnette Wieworka のもののような、良書がある。)
 彼らはフランス・ユダヤ人社会に同化して、全く自然に、迫害されたのはフランス国民としてだった、と感じた。
 しかし、もっと重要な点は、共産主義者たちがこの時期に、自分たちがナツィズムの主要な犠牲者だ、と考えられるのを欲したということだ。
 共産主義者は、犠牲者たる地位を独占しようとした。彼らは戦争後に、犠牲者だとする恐るべき作戦に着手した。
 私はこれが全くの作り事で、共産主義者たちは実際にはファシズムによって迫害されなかった、と示唆しているのではない。
 そんなことは、馬鹿げているだろう。
 私が言いたいのは、1939年と1941年の間に断続的に覆い隠されたがゆえにそれだけ一層大がかりに、彼らは自分たちの反ファシズム闘争を利用した、ということだ。
 東ヨーロッパでは、積極的共産主義者あるいは反ファシストたる「ソヴィエト」人民が果たした役割を小さく見せないように、ユダヤ人の苦難は系統的に隠蔽された。
 今では状況は逆になり、我々と同世代の者がナツィズムの犯罪を考えるときにもっぱらユダヤ人大虐殺に焦点を当てがちであるのは、想定するのがかなり困難だ。//
 ——
 全体主義論⑤(第3節〜第5節)、終わり。次節へとつづく。

2447/西尾幹二批判035—「日本に迫る最大の危機」。

  西尾幹二の諸君!2008年12月号によると、日本の「論壇誌」は「イデオロギー」に嵌まらないで、「現実」に目を開き、「現実」を回復しなければならない。
 しかし、まさにその同じ論考の中で、雅子皇太子妃(当時)に関する「現実」をおそらくは完全に無視する文章を書いている。
 西尾によると、「自分の好むひとつの小さな現実を見て、他のすべての現実に目を閉ざそうとする怠惰な心の傾き」がイデオロギーの意味のようなのだが、この「怠惰な心の傾き」は、西尾幹二にも厳然と存在するようだ。
 西尾は、皇室問題での自分の主張を非難する二つの立場について、こう反駁する。
 「二つの立場の、どちらも方々も、あれほど明白になっている東宮家の危機を、いっさい考慮にいれないのです。
 問題は何もない、と言い張るのです。
 目を閉ざしてしまうのです。」
 <危機>というのは評価または解釈が混じる言葉だ。では、<日本に迫る最大の危機>という中見出しのあとのつぎの文章はどうだろうか。
 「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける。
 というか、明確に拒否されて、すでに五年がたっている。
 <見受ける>だけだと、厳密には、あくまで「推測」なのかもしれない、とも言える。
 しかし、上を全体として読むと、<雅子妃は宮中祭祀を『なさる』意思がなく、拒否し続けている>ということを、西尾が「事実」または「現実」だと受け取っていることは明確だろう。
 なお、その原因にはここでは西尾はいっさい触れていない。
 --------
  元に戻って記すと、西尾『皇太子さまへの御忠言』による「提言」は、西尾によると「典型的な二種類の反応」を惹起した。
 一つは、多くの選択権・無制約をよしとする「いわば平和主義的、現状維持的イデオロギー」で、将来の皇后にも「もっと自由を」、「新しいご公務を」、とするもの。
 もう一つは「むしろ古風な、がちがちに硬直した、皇室至上主義的イデオロギー」で、例えば「臣下の身」で「不敬の極み」だとするもの。自称「旧皇族」から国学院大・皇學館大学の教授まで、「伝統保守イデオロギー」からの反発も「熾烈」だった。
 これら二つ、一方は「新しい時代の自由」、他方は「旧習墨守」という「固定観念への執着」を見て、西尾幹二はこう感じた、という。
 「私は思わず笑いがこみあげてきました」。
 そのあと、既述の「あれほど明白になっている東宮家の危機」をめぐって、「自由派」も「伝統派」も、「現実はいっさい見ない、現実はどうでもいい」、「自分たちの観念や信条の方が大切なのです」と批判する。
 「論壇誌」に対しては、あらためてこう指弾する。
 「イデオロギーに頼って『ことなかれ主義』に手を貸し、揺れ動く世界の現実から目を逸らしているうちに、日本に迫る最大の危機すら曖昧になってしまう
 それが今の雑誌ジャーナリズムを覆う、いちばんの病弊なのではないですか。」
 --------
  西尾幹二の議論が雅子皇太子妃に宮中祭祀を「なさる」意思がなく、それを拒否している、という西尾にとっての「現実」から出発していることは疑い得ない。
 その理由は一般に「ご病気」とされていたが、西尾の別の発言によるとそれは「仮病」だ。そのような「行動と思想」をもつ人物が将来に皇后になるかもしれない、これは「日本に迫る最大の危機」だ、そのような危険性を、「自由派」も「伝統派」も見ていない(自分はちゃんと見ている)、というわけだ。
 その後の事態の推移をも踏まえてということにはなるが、詳細は省いて、西尾幹二の以上のような指摘・主張は、いささか異様、異常ではないだろうか。
 「つくる会」分裂後の八木秀次に対する「人格攻撃」も凄いものだったが、皇太子妃問題をめぐって自分を批判する両派に対する反批判も、なかなかのものだ。
 「私は思わず笑いがこみあげてきました」。
 --------
  ところで、西尾は、皇太子妃の宮中祭祀を「なさる」意思の欠如を問題にしている。
 ここでは、皇太子妃も宮中祭祀を「行う」主体の一人であることが前提とされている。このような表現をする点は、天皇退位問題に関する「5バカ」の一人、妄言者の加地伸行も同じ。
 そうだとすると、少なくとも天皇・皇后、皇太子・同妃の四名は、宮中祭祀の場所である宮中三殿で、全員で一緒に?、三殿またはいずれかの「殿」の祭神に対して「祭祀」を行う、ということなのだろうか。
 西尾幹二は、宮中祭祀とはどういうものであるのか、その際に皇太子妃はどうある「べき」かをいったい何がどのように定めているのか、正確に知っているのだろうか。明治時代、大正時代、さらには「皇太子妃」がいたとして江戸時代とそれより以前は、どうだったのか?
 不十分な理解のままであったとすれば、西尾の議論のほとんど全てが、ガラガラと崩れることになるだろう。
 --------
  ついでに。この西尾論考は、諸君!12月号の実質的には巻頭に置かれている。
 月刊雑誌・諸君!は、その後一年以内に廃刊となった。以上のような西尾論考を重視したこととその反応は、小川榮太郎が新潮45(新潮社)の廃刊の引き金を引いた程ではかりにないとしても、諸君!編集部と文藝春秋の判断に影響を与えたのではなかろうか。
 また、西尾も明記するように、<保守>派内でも異論があり、西尾幹二(や中西輝政)はその中でも少数派だっただろう。
 いずれにせよ、<保守>派内に亀裂を生んだことは間違いない。
 翌2009年8月末実施の総選挙で自民党は大敗し、政権は民主党に移る。
 西尾幹二に限らないが、<保守>派論者はいったい何をしていたのだろう。政権交替は、自民党だけの「責任」ではあるまい。
 雅子皇太子妃・皇室問題が「日本に迫る最大の危機」だと!?
 西尾幹二は、「ねごと」を書いていたのだ。他にも多数書いている(編集者はきちんと読むべし)。
 それにもかかわらず、産経新聞出版(編集者・瀬尾友子)、新潮社(同・冨澤祥郎)、筑摩書房(同・湯原法史)らは、近年にも西尾の本を出版している。こちらも、大いに不思議だ。
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