秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2774/O.ファイジズ・レーニンの革命②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
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 第二節。
 (01) コルニロフ事件によって、レーニンは決意を固めた。臨時政府を打倒するために立ち上がるときがきた。
 しかし、すぐに蜂起をしたのではない。
 レーニンは、権力の問題を解決すると想定された9月14日の民主主義会議(Democratic Conference)の前に、ボルシェヴィキの仲間たちの努力を支持していた。エスエルとメンシェヴィキに対して、リベラル派との連立から離れ、全ての社会主義政党による政府に加わろうと説得する彼らの努力を。
 Kornilov を打倒するに際して左翼諸政党が協力したことは、政治的手段でソヴェト権力を達成できる展望を切り拓いた。
 カーメネフは、これを任務とするボルシェヴィキ活動家だった。
 彼はレーニンとは違って、党はソヴェト運動と二月革命が生んだ民主主義的仕組みの範囲内で権力を求めるべきだ、と考えた。
 したがってまた、ロシアはボルシェヴィキによる蜂起に対応できるには未熟で、段階を一つ上げるいかなる企てもテロル、内戦とボルシェヴィキ党の敗北で終わるのを余儀なくされる、と考えた。
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 (02) レーニンは、だが、民主主義会議でエスエルとメンシェヴィキがカデットと分離できなかったことを知って、武装蜂起をするという元の主張に立ち戻った。
 エスエルとメンシェヴィキは、ケレンスキーの指導の下で、9月24日に、カデットとの連立を組み変えた。このことは、その週に行なわれたペテログラード・ドゥーマ選挙で、彼らの大敗北につながった。
 モスクワでは、エスエルへの票は6月の56パーセントからわずか14パーセントに減った。メンシェヴィキは12パーセントから4パーセントに落ちた。その一方で、ボルシェヴィキは6月に11パーセントだったが、9月には51パーセントを獲得して大勝利した。カデットは、17パーセントから31パーセントへと増やした。
 この結果は国の両極化を明らかに示した。—投票者が際立った階級的主張をもつ両端の政党を支持したので、「内戦選挙」と称された。
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 (03)  レーニンは、フィンランドの新しい隠れ家から、ボルシェヴィキ中央委員会に対して、武装蜂起の開始を呼びかける、ますます苛立った手紙を矢のように送りつけた。
 彼は、ボルシェヴィキは「国家権力を自らの手中に収めることができるし、そうしなければならない」と論じた。
 できる。—党はすでにモスクワとペテログラードのソヴェトで多数派になっている。これでもって、内戦へと「民衆を連れて行く」のに十分であるのだから。
 「しなければならない」。—投票箱を通じて権力を獲得しようと憲法会議を待っていれば、「ケレンスキー商会」が、ペテログラードをドイツに捧げるか軍事独裁を樹立するかのいずれかによって、ソヴェトに対して先制攻撃をするだろうから。
 彼は同志たちに、「暴動は芸術(art)だ」というマルクスの権威ある言明を思い起こさせた。
 そしてこう結論づける。「ボルシェヴィキが『形式的な』多数派になるのを待つのは純朴すぎる。革命はそうなることを待ってくれはしない」(注3)。
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 (04) 中央委員会は、レーニンの指示を無視した。まだカーメネフの議会主義的戦術を支持して、ソヴェトへの権力の移行のために、10月に召集される予定の第二回全ロシア・ソヴェト大会まで待つ、と決議した。
 ペテログラードから120キロ離れた保養地のVyborg へと移って、レーニンは、党組織に対して矢継ぎばやに激しいメッセージを送りつづけた。それらは、ただちに—ソヴェト全国大会の<前に>—武装蜂起を開始することを迫るものだった。
 レーニンは9月29日にこう書いた。「ソヴェト大会を『待つ』ならば、我々は革命を『台無しにする』に違いない」(注4)。
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 (05)  レーニンの性急さは、政治的だった。
 権力の移行が大会での票決によって起きていれば、その結果はほとんど間違いなく、全ての社会主義政党から成る社会主義連立政府だっただろう。
 ボルシェヴィキは、少なくともエスエルとメンシェヴィキの左翼(あるいはひょっとすれば全部)に位置して権力を分有しなければならなかっただろう。
 これはレーニンの党内の最大の好敵であるカーメネフの勝利を意味し、カーメネフはおそらく、どんな社会主義連立政府であっても、ソヴェトの中心人物として登場しただろう。
 大会の前に権力を掌握してこそ、レーニンは政治的主導権を握ることができる。そして、他の社会主義政党に対して、ボルシェヴィキの行動を是認してレーニンの政府に参加することを強いることができるだろう。あるいはそれに反抗すれば、政府はボルシェヴィキだけのものになるだろう。
 レーニンの革命とは、臨時政府に対抗するのと同等に、ソヴェトに基礎をおく他の社会主義政党に対抗して行なわれたものだった。
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 (06) レーニンは我慢できなくなって、ペテログラードに戻り、10月10日に中央委員会の秘密会合を開催した。そこで、10票対2票(カーメネフとジノヴィエフ)という重大な票決でもって、蜂起を準備することを押し付けた。
 その時期は、まだ明瞭でなかった。
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 (07) ボルシェヴィキの指導者たちの多くは、ソヴェト全国大会以前のいかなる行動にも反対だった。
 10月10日の中央委員会会議で、ボルシェヴィキ軍事革命委員会その他の活動家から、つぎの報告がなされた。ペテログラードの兵士と労働者たちは党の呼びかけだけでは出てこないが、「決起を刺激する何かがあれば、積極的に飛び出す、つまり兵団から離脱するだろう」(この離脱はケレンスキーの連隊との絶縁を意味した)(注5)。
 しかし、レーニンは、即時の準備の必要を執拗に主張した。
 これは、ペテログラードの一般市民の慎重な雰囲気を無視してのものだった。レーニンが思い抱く権力奪取の方法であるクー・デタでは、少数精鋭の武力だけが必要だった。十分な武装と紀律があればよかった。
 彼には、Baltic 連隊の中のボルシェヴィキ支持者による、ペテログラードの軍事侵略としてクーを実行する、という用意すらあった。
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 (08) レーニンは聳え立つがごとき影響力を持ったので、彼は10月16日の中央委員会でその主張を貫徹し、ごく近い将来に蜂起するという提案を支持する決議を(19票対2票で)行なわせた。
 カーメネフとジノヴィエフはこの決議を支持することができず、中央委員会から脱退した。そして、10月18日に、彼らは蜂起に反対していることを新聞の記事で公にした。
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 (09) ボルシェヴィキの陰謀は今や公に知られるところとなり、ソヴェトの指導者たちは、第二回全国大会を10月25日まで延期すると決議した。
 彼らが期待したのは、これで生じた5日のあいだに、遠く離れた地方から支援者たちを集める、ということだった。
 しかし実際には、ボルシェヴィキが蜂起を準備するのに必要な時間を与えることになった。
 この延期はまた、ソヴェト大会はそもそも開会されないかもしれないとのボルシェヴィキの主張に信憑性を与え、大会を防衛するという理由でボルシェヴィキ支持者たちが街路上に出てくるのを助けた。
 ケレンスキーが巨大なペテログラード連隊を北部前線に移すという愚かな計画を発表したとき、「反革命」の噂はさらに大きくなった。
 軍事革命委員会(MRC)—〔ペテログラード・ソヴェト内にあって〕ボルシェヴィキの蜂起を先導することになる実力組織—が10月20日に設立されたのは、ペテログラード連隊の移転を阻止するためだった。
 前線への派遣に脅かされて、多数の兵士たちは将校たちに服従するのを拒み、忠誠の対象を軍事革命委員会に切り換えた。軍事革命委員会は10月21日、自分たちが連隊を統率する組織だと宣言した。
 MRC による連隊の奪取は、蜂起の最初の行為だった。
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 第四章第二節、終わり。

2773/NHKというものの考え方①。

  テレビ放送には、大きく分けて、NHKといわゆる民間放送がある。
 法制上の違いは別とする(放送法という法律の半分は日本放送協会=NHKについて定め、同法はNHK設立の根拠法でもある)。
 両者の違いですぐに分かるのは、いわゆるコマーシャル、宣伝広告があるかどうかだ。NHKには受信料というものが必要だが、民間放送はタダで見ることができる。その代わりに、宣伝広告を視聴することを、事実上〈強制〉される。見たくなければ見なければよい、他局に変えればよい、テレビ放送自体を切ればよい、というのは〈建て前〉で、この〈事実上の強制〉こそが民間放送を成り立たせている。
 〈事実上の強制〉を甘受しているがゆえにこそ、タダで視聴することができる。番組制作に必要な費用はコマーシャル・宣伝広告を提供する企業等が支払ってくれているからだ。
 民間放送にも報道時間や報道関係番組がある。それをもって民間放送の社員が、少なくとも報道に「直接に」関与している者だけは別として、自分たちを「ジャーナリスト」と自認しているとすれば、大きな勘違いだろう。
 せいぜいのところ、民間放送という業の性格は「娯楽」または「慰安」を提供することで、<エンターテインメント>業というのが正確だと思われる。あるいは、皮肉っぽく消極的な表現法を使えば、気晴らし産業、時間潰し産業だ。
 だが、より本質的には、民間放送は〈宣伝広告業〉だろう。報道番組も娯楽番組等々も、企業等からの「宣伝広告費」によって賄われている。民間放送会社の社員の給料ももちろんだ。民間放送会社が種々の「事業」を行なっていることは知っているが(映画制作費の一部負担もそうかもしれない)、「本質」論として記述している。
 このような観点からすると、企業等と民間放送を媒介し、ときには宣伝広告それ自体を制作している(種々の下請け・孫請けもあるのだろう)<電通>とか<博報堂>とかに関する情報は、NHKからもそうだが、民間放送からは全く得られないのは不思議だし、いやむしろ当然のことだろうと感じられる。視聴者は知らない裏の、「交渉」や「交際」の世界が、<電通>とか<博報堂>とかと民間放送・テレビ局の間にきっとあるのだろう(その実態を秋月瑛二は全く知らないけれども)。
 民間放送の〈宣伝広告業〉たる実質を最もよく示しているのは、いったん劇場等や配信サービスで提供された〈映画〉をテレビで放映(再放送)する場合に、コマ切れに入るコマーシャル・宣伝広告だ。
 映画はそもそも途中に何回もコマーシャル・宣伝広告が挿入されることを全く想定しないで制作されているだろう。何度もコマーシャル・宣伝広告でコマ切れにされるのでは、せっかくの「芸術」的映画も「感動的」映画も台無しだろう。元々の映画を「破壊」している、と思われる。それでも観る人々がいるのは確かだろうので、100%否定してはいけないとは思う。
 以上、無知のゆえの間違った推測等があるかもしれない。 
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 ついでに書くと、第一に、本来のコマーシャル・宣伝広告以外の時間に、自社(またはグループ局)が制作・放送する番組・ドラマ等の出演者をよんで語らせたり、自社が「制作委員会」の一端を構成しているらしき映画の事前の宣伝をしたりするのは、元来は〈見苦しい〉ものだ。宣伝広告費を受け取らないで放送する、自己宣伝をするのだから目くじらを立てるほどのものではないかもしれないが、視聴者からすると、ふつうのコマーシャル・宣伝広告の一部であることに変わりはない。
 第二に、民間放送が歴史的、制度的に見て決して「自由競争」原理のもとで成り立っておらず、テレビ電波または広く「電波」の(全くかほとんどー新規参入を許さない)寡占業者グループであることは、池田信夫のブログがかつて「民放連」について頻繁に書いていた。
 中央・地方の系列とか、ニュース原稿は自社グループの新聞紙にほとんど依拠しているのではないか(テレビ局独自の情報源による報道はどの程度あるのか)、といった問題や疑問には立ち入らない。
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  コマーシャル・宣伝広告がないだけでも、民間放送に比べてNHKはマシだ。
しかも、民間放送に比べて、経費を多く使った番組が総体としては多い(ようだ)。国際共同制作と謳われるドキュメンタリー類は、民間放送にはたぶん存在しないだろう。
 しかし、〈NHKスペシャル〉とか〈クローズアップ現代〉の中には、経費の無駄遣い、制作意図不明と感じられるものもある。
 むろん制作担当者(の責任者、ディレクター?)の個性が出ているのだろうが、きわめて「NH K的」と感じるものも2024年に入ってからあった。
 長くなったので、別の回に移す。
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2772/中村禎里・日本のルィセンコ論争(新版, 2017)。

  中村禎里(米本昌平解説)・新版·日本のルィセンコ論争(みすず書房、2017)
 なかなかすごい本だ。いろいろな意味で。
 生物学・遺伝学に関する〈自然科学〉系の書物だ。但し、遺伝に関心はあり、L・コワコフスキの書物でもソ連の戦後の学問に関する叙述の中で触れられているから、全く理解できないというのでは全くない。
 もう少し大まかな紹介をすれば、第一に、特定の主題に関する、日本の、しかも特定の一時期の、学問史、科学史の書物だ。
 第二に、政治または政党・党派と学問(自然科学)の関係に関する書物だ、
 政治または政党・党派とは社会主義(・共産主義)、ソヴィエト連邦・同共産党(スターリン)、一定時期の日本共産党を意味する。
 推測ではあるが、原著者がこれを執筆し(初版著は1967年)、米本昌平が冒頭にやや長い〈まえがき)を書きつつ実質的には新版=「50周年記念版」の刊行を推進したようであるのも、上の第二点に理由があるように思える。そうでなければ、21世紀にもなれば相当に古い、かつ生物学上の一論争(主として戦後直後、1950年年代)に関する書物を10年ほど後に出版したり、そのまた50年後に新版を刊行したりする気になれないのではないか。
 もっとも、それだけに、秋月瑛二に興味深いものではあっても、一般むけの書物ではない。遺伝学に何の関心もなかったり、そもそもソ連・スターリンや日本共産党を興味の対象にしない日本人にとっては、何やら面妖なことが書かれているだけの書物でしかないだろう。
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  日本に今でも民主主義科学者協会法律部会(2023年11月以降の現会長は小沢隆一)というのがあるが、この名称は、かつて「民主主義科学者協会」という学会または「科学者」の組織があり、現在までずっと存続しているのは「法律部会」だけであることを示している。かつては「政治(学〉」部会も、「生物(学)」部会等の自然科学系の「部会」もあった。1946年に民主主義科学者協会「理論生物研究会」発足、1950年に同「生物部会」に発展。
 書物をめくって確認しないが、「論争」参加者・関与者の中にはこの<民科>「生物部会」の会員も少なからずいた。
 現在の「法律部会」についてもそうだが、当時の民科「生物部会」の中にも当時の日本共産党の党員はおり、またソ連や〈社会主義〉の影響を受けた学者たちはいたものと思われる。
 中村禎里(1933〜)は論争の当事者ではなかったとしても彼らの次の世代の生物学者(研究者)として、民科「生物部会」の会員だったようだ。そうでないと、「論争」のとくに遺伝学上の意味を理解できないし、けっこうの大著を執筆もできなかったに違いない。
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  ルィセンコ学説、ルイセンコ論争の内容には触れない。
 L・コワコフスキの書物でもかなり詳しく言及されていたが、ルイセンコ(1896-1976)の学説は、ソ連共産党中央の支持を受けたー上の中村著はこう書く。p.64-。 
 1948年の「ソ連農業科学アカデミー会議」の報告の多数はルイセンコ学説支持で、会議の最後に会長のルイセンコが登壇して発言した。
 私への質問書の一つに「わたくしの報告にたいして党中央委員会はどんな態度をとっているか」というのがある。私は答える、「党中央委員会はわたくしの報告を検討し、それを是認した」と。
 つづいて、「嵐のような拍手、熱狂的な賞賛。全員起立」。
 反ルイセンコだった有力学者某はすぐのちに「党中央委員会の決定にしたがって、自説を放棄すると宣言した」。
 なお、ルイセンコ説に対比された「ブルジョア」学説は「メンデル・モルガン主義」と称された、という。このモルガン(モーガン)の名は、DNAの構造の解明へとつながっていった、メンデル以降の細胞学・分子生物学・遺伝学等のいわば〈嫡流〉にあった重要人物として、「染色体」や「細胞」等に関する記述の中で、この欄で出したことがある。
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  中村著は表向きは強調しているのではない。しかし、この本で初めて知った(確からしい)ことがある。
 L・コワコフスキの書物がルイセンコの関連して日本共産党に触れているわけがない。
 中村著は何気なくこう明記している。1949-50年に日本でのルイセンコ論争に関して新しい状況が生まれた。第一、ルイセンコ著の比較的忠実な翻訳書が刊行された。第二、ソ連での論争・対立の状況も知られるようになった。第三はこうだ。p.63。
 「第三に、日本共産党が、その機関誌紙を通じて、また指導者の発言を通じて、ルィセンコ説支持の態度をはっきりとうちだした」。
 これは相当に興味深い。中村は「日本共産党」(同党員)という語をほとんど使っていないが、日本での論争参加者の中にはおそらく間違いなく、当時の「日本共産党員」もいただろうと推測させる。 
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 自然科学上の議論、論争に、現在の日本共産党が容喙することはないだろう。
 しかし、例えば「政治」理論とか「歴史」認識とかの、政治学や歴史学に関係することには、当然のごとく干渉している、と考えられる。「歴史認識」が歴史学・歴史研究者の研究・判断の対象であることは言うまでもない。声明等を出さなくとも、日本共産党の綱領自体が、ロシア革命や「ソ連(共産党)」に関する、一定の理解・認識を前提としている。ロシア史・ソ連史ひいては世界史の学者・研究者であって日本共産党員である者が、党の理解・主張から全く自由であるとは考えられない。
 「法律部会」関係でも、「一字一句変えさせない」(数年前の小池書記局長。テレビ報道による)と現日本国憲法について言っていた日本共産党が、またその旨を主張しているはずの日本共産党中央があるなかで、憲法九条以外についてであれ、「憲法改正」の具体的議論を日本共産党員たる憲法学者・研究者が自由にできるわけがない。彼らは、「学問・研究の自由」を自ら制限し、一部を放棄しているわけだ。むろんまた、民科「法律部会」会員も日本共産党の多少とも強い影響下にある。
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2771/O.ファイジズ・レーニンの革命①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014). 
 この書の対象は<ロシア革命史>ではなく、ほぼ<ソヴィエト連邦史>だ。したがって、Orlando Figes, A People's Tragedy: A History of the Russian Revolution(1998)に比べて、〈ロシア革命〉期の叙述は詳細さで劣る。
 O. Figes, Revolutionary Russia の方は、第7章、第8章、第9章、第19章、第20章の試訳を、すでにこの欄に掲載した。
 各章題は、第7章/内戦とソヴィエト体制の形成、第8章/レーニン、トロツキーおよびスターリン、第9章/革命の黄金期?、第19章/最後のボルシェヴィキ、第20章/判決。
 しばらくぶりに、〈第6章/レーニンの革命〉に戻って、試訳を続ける。
 「* * *」による区切りまでを「節」とし、一行ごとに改行する。段落ごとに、原書にはない数字番号を付す。
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 第6章・レーニンの革命①。
 第一節。
 (01) 1917年7月8日、ケレンスキーは首相になった。
 彼は、民衆の支持がありかつ軍司令部がまだ受け容れられる唯一の大政治家で、国を再統合して内戦に向かう流れを止めることのできる人物だと見られていた。
 新しい連立政府(7月25日形成)の基本方針はもはや、二月の後の二重権力構造の基盤であるソヴェトの同意があるという民主主義原理に、基づいていなかった。
 ケレンスキーは、Kadets 〔立憲民主党〕の要求に従い、公共の集会に新規の規制を行ない、前線兵士を対象とする死刑を復活させ、軍事紀律を回復すべく兵士委員会の影響力を削減した。そして、Korniov 将軍を新しい最高司令官に任命した。
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 (02) Kornilov は国家の救済者だとして、事業家、将校たち、右翼的団体に歓迎された。
 彼はこれらの支援を受けつつ、反動的な措置を執った。その中には、民間人に対する死刑の復活、鉄道や国防産業の軍事化、労働者の組織の禁止があった。
 ソヴェトに対する明瞭な脅迫として、これらの措置は戒厳令の発布につながることになるものだった。
 ケレンスキーは動揺したが、8月24日に結局は同意した。このことはKornilov に、ケレンスキーまたは彼自身による軍部独裁の樹立が可能だと期待させた。
 このクー〔軍部独裁〕を阻止しようとボルシェヴィキが蜂起するとの噂を聞いて、最高司令官たるKornilov は、首都を占拠し、連隊を武装解除するために、コサック軍団を派遣した。
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 (03) この時点で、ケレンスキーはKornilov に反対する側に回った。
 ケレンスキー自身の幸運は急速に落下していたのだが、この<反転(volte-face)>により幸運が蘇るだろうと彼は考えた。
 ケレンスキーは、Kornilov を「反革命」、政府に対する裏切り者と非難して最高司令官を解任し、民衆にペテログラードを防衛するよう訴えた。
 ソヴェトは、首都防衛の軍事力を結集すべく、全政党で成る委員会を結成した。
 ボルシェヴィキは、七月事件のあとの抑圧が終わって名誉回復をしていた。
 何人かの指導者が釈放された。その中に、トロツキーがいた。
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 (04) ボルシェヴィキだけに、労働者や兵士たちを動員する能力があった。
 北部の工業地域では、「反革命」と闘う革命委員会が一時的に結成された。
 赤衛隊は、工場の防衛隊を組織した。
 Kronstadt の海兵たちが、彼らは七月事件のときは臨時政府を打倒しようと最後にペテログラードへやって来たのだったが、再びやって来た。今度は、Kornilov に対抗して首都を防衛するために。
 結局は、闘う必要がなかった。
 Kornilov が派遣したコサック軍団は、ペテログラードへの途上で北部コーカサスからのソヴェト代表団に遭遇し、武器を置くよう説得された。
 内戦はのちの日まで、延期された。
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 (05) Kornilov は、「反革命陰謀」に加担したとして、30人の将校たちとともに、Mogilev 近くのBykhov 修道院に収監された。
 政治的殉教者としての右派から見ると、「Kornilov 主義者」はのちの義勇軍や白軍を生み出す基礎的な核になった。白軍は、内戦で赤軍と戦うことになる。
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 (06) つまるところ、「Kornilov 事件」は、ケレンスキーの地位を強めたのではなく、むしろ掘り崩した。
 ケレンスキーは、右派からはKornilov を裏切ったと非難された。一方、左派からは、「反革命」行動に関与していた、という疑惑を持たれた。
 Kadets (明らかにKornilov 運動に一定の役割を果たした)は、このような左翼の疑念を増幅させた。
 ケレンスキーの妻はこう書いた。「ケレンスキーと臨時政府の威信は、Kornilov 事件によって完全に破壊された。そして夫は、ほとんど支援者がいないままで、とり残された」(注01)。
 春の人民の英雄は、秋には人民の反英雄(anti-hero)になった。
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 (07) 一般の兵士たちは、将校層がKornilov を支持したのではないかと疑っていた。
 そのために、8月末から、軍の規律の顕著な非厳格化が生じた。
 兵士集会は、講和と権力のソヴェトへの移行を呼びかける決議を採択した。
 軍からの脱隊の率が、急激に上がった。数万人の兵士が毎日、軍の分団を離れた。
 脱隊兵のほとんどは農民出身で、故郷の村落に帰りたかった。そこは今、収穫真っ盛りの季節だった。
 武装しかつ組織化して、彼ら農民兵士たちは、領主を攻撃した。これは9月からいっそう激しくなった。
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 (08) 大きな工業都市では、Kornilov 危機の中で、似たような過激化が進行していた。
 ボルシェヴィキはKornilov 事件の第一の受益者で、8月31日に初めて、ペテログラード・ソヴェトの多数派になった。
 Riga、Saratov、モスクワのソヴェトも、その後にすみやかに同様になった。
 ボルシェヴィキの好運が上昇した理由は、主として、非妥協的に「全ての権力をソヴェトへ」と叫び続けた唯一の政党だったことにある。
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 (09) この点は強調しておく必要がある。なぜなら、十月革命に関する最大の誤解は、ボルシェヴィキはこの党に対する大衆の支持の波に乗って権力へと到達した、というものだからだ。
 そうではない。
 十月蜂起は、民衆のごく少数派の支持を得ての、クーだった。ソヴェト権力という民衆の理想にとくに着目した社会的革命の真只中で、それは起きた。
 Kornilov 事件のあと、工場、村落、軍団から突如として、ソヴェト政府の樹立を求める決議が噴出した。
 しかし、ほとんど例外なく、それらが呼びかけた政府は、全ての社会主義政党が参加する政府だった。そして諸決議はしばしば、社会主義政党間の対立については著しく寛容だった。
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 (10) Kornilov 事件の現実的な重要性は、つぎのことにある。すなわち、ソヴェトに対する「反革命的」脅威がある、という民衆がもつ信念が強化されたこと。ボルシェヴィキは、この脅威を、十月に赤衛隊その他の闘争的な者たちを動員するために利用することになる。
 Kornilov 事件は、この意味で、ボルシェヴィキによる権力奪取のための衣装稽古(dress rehearsal)だった。
 ボルシェヴィキの軍事委員会が、Kornilov に対する闘争の中で新たな力を得て、—七月以降にすでにあった—地下から出現してきた。
 赤衛隊もまた強化された。赤衛隊員のうち4万人が、Kornilov 事件の中で武装した。
 Trotsky がのちに書いたように、「Kornilov に反対して立ち上がった武装集団は、将来に十月革命のための部隊となるべき軍団だった」(注02)。
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 第一節、終わり。

2770/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑧。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017)の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一節④
 (20) 内戦の終了とともにソヴィエトの経済と社会に生じていたのは、より大きな厄災の状況だった。
 歴史家たちは、この原因は長年の戦争と社会的転覆—深い根源をもつ厄災の継続(38)—のうちにより多くあるのか、それとも、ソヴィエトの政策の特有の効果であるのか、を議論している。
 しかし、大厄災たる結果だったことについては一致がある。破滅した経済、都市部の人口減少、大量の国外逃亡という危機、農民の反乱、ストライキ、そして共産主義者の中にすらある公然たる不満。
 1921年までに、工業生産高は戦争前の20パーセントへと落ちた。
 『プロレタリアート独裁』としてソヴェト支配の基盤だと想定されていた労働者たちは、荒廃して飢えた都市から逃亡するか、兵士または行政官になった。そうして、労働者階級の規模は、戦争前の半分以下にまで縮小した。
 マルクス主義者の言うプロレタリアートの『脱階級化』は、革命の厄介で逆説的な効果だった。労働者階級出身で『労働者反対派』の指導者だったAlexander Shliapnikov が1922年の党大会でLenin をこう冷笑したように。
『存在しない階級の前衛となって、おめでとう』(39)。
 農民たちは耕作する土地で、彼ら自身が生きていくのに必要な生産しかしなくなった。
 しかし、彼ら自身の生存すら、干魃が広い地域を飢餓の縁に追い込んだときには、脅かされた。その飢饉は、1921〜22年に、大規模で襲うことになった。
 これの頂点にあるのは、疾患と病気の蔓延だった(ある歴史家の言葉では『近代史における最も過酷な公衆の健康の危機』)。また、数百万の子どもたちにとってを含む住宅欠如、都市部での暴力犯罪、地方での山賊、大量の泥酔者、生き残ろうとする、道徳意識なき民衆による放蕩しての悪態その他の、想像し得る全ての態様等々。
 Lenin が1921年3月の党大会で、ロシアは『打ちのめされて死に際にあった男のように、7年の戦争の中から出現してきた』と語ったとき、彼は強調しすぎてはいない。
 あるいは、若干の歴史家が論じてきたように、ロシアは『トラウマ』の状態で、内戦を終えた(43)。
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 (21) 民衆の反乱は、損傷を受けた革命およびトラウマとなった革命という感覚を増大させた。
 農民がもう白軍の勝利を怖れなくなったあとでは、ボルシェヴィキは、よりマシな悪魔ではなくなった。
 農民たちは穀物徴発隊を待ち伏せして襲い、国家の権威の代理人たちを攻撃した。
 1920年の遅くに、西部シベリア、中部Volga、Tambov 地方、およびウクライナで、大量の蜂起が勃発した。
 どこにでも見られた主要な要求は、同じだった。すなわち、穀物の強制取得〔徴発〕の廃止、自由取引の復活、そして農民に耕作地と生産物に対する完全な支配権を付与すること。
 このリバタリアンな考えは、農民が革命で自らの手によって獲得したと思ったものだった。
 いくつかの農民集団は、憲法会議の再招集を主張した。
 都市労働者の騒擾はさほどに拡散しなかったが、政治的にはより不安定だった。
 1921年の初め、抗議集会、示威行動、ストライキが散発して起きた。
 労働者たちの要求は主として肉体的生存の問題に関係していて、とくに食糧と衣類を要求した。
 しかし、経済的な欲求不満は、かつてと同様に、政治的不満を惹き起こした。
 労働者たちは、市民権の回復、工場の実力強制的経営の廃止を要求した。憲法会議を呼びかける者もいた。
 1921年3月、ペテログラードに近い島にあるKronstadt 海軍基地で反乱が起きた。
 Kronstadt の海兵たちは1917年の七月事件—Trotsky は当時に『ロシア革命の誇りと栄光』と賞賛した—と十月の権力奪取の際にボルシェヴィキを支援したことで有名だったが、今や、一党支配の終焉、言論とプレスの自由の回復、憲法会議の招集、全権力の自由に選出されたソヴェトへの移行、穀物徴発を含む経済の国家統制の廃止、を要求した。
 『人民委員体制はくたばれ』は、海兵と労働者たちのあいだの一般的なスローガンになった。
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 (22) この危機を複雑にしたのは、共産主義者たちの中にあった不満だった。彼らは、革命の中核的諸原理は生き延びるために犠牲にされた、と感じていた。
 不満をもつ党派は、以前にも発生していた。
 1918年、『左翼共産主義者』は、世界革命に対する裏切りだとして、ブレスト=リトフスク条約に反対した。また、労働者支配の侵奪だとして、工業への厳格な労働紀律の導入を批判した。
 1919年、『軍事反対派』は、新赤軍は伝統的紀律を採用し、帝制下の将校たちを用いるとのTrotsky の構想を非難した。
 しかしながら、内戦が終わると、党の政策に対する内部批判はより公然たる、かつより激烈なものになった。もはや勝利することはなかったけれども。
 『民主主義的中央派』は、党の権威主義的中央集権化や官僚主義化の増大に異論を唱え、諸問題の自由な討議と地方党官僚の選挙を要求した。
 『労働者反対派』は、工業での伝統的紀律、経営への『ブルジョア専門家』の利用、労働組合の国家への従属に反対した(44)。
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 (23) 1921年の春は、転換点だった。
 異論は鎮静化され、粉砕された。
 3月に開かれた第10回党大会は、党内の分派を禁止した。その結果、いかなる組織勢力の周りにも、共産主義者のあいだでの批判が合流することができなくなった。
 しかし、党内部での反対派の抑圧は、農民の蜂起、労働者のストライキ、あるいはKronstadt を粉砕するために使われた暴力に比べれば、温和だった。
 Lenin 、Trotsky その他の党指導者たちは、これを正当化した。おそらくは彼ら自身に対するものであっても。彼らは、自分たちが歴史の正しい側にいると確信していたのだから。
 同時に、こうした妥協は必要であるように見えた。多くの異論に直面したから、というだけではない。経済的には後進国であるロシアが経済的諸問題を解決し、社会主義への途を急速に進むために国際主義的な支援が必要であるところ、そのような支援を提供すると想定された、世界全体の社会主義革命が『遅れ』ていたからだ。
 1921年、『戦時共産主義』の残虐性と英雄主義は、宥和的で穏健な『新経済政策』あるいはNEP の導入によって放棄された。
 多くは、変わらなかった。
 共産党による国家の統制権は無傷で残ったままだった(他政党の公式の禁止によって強化された)。そして、党内紀律も強化された(分派の禁止等々)。
 経済については、『管制高地』の完全な支配権は国家が維持した。銀行、大中の産業、輸送、外国貿易、商業全体。
 しかし、小規模の企業、小売取引は、規制を受けつつも、再び許容された。
 そして、非難された穀物や生産物の徴発に代わって、政府は『現物税』を導入し、これをさらに現金税に変えた。
 Lenin は、NEPが社会主義への途上での『後退』であることを認めた。より急進的な者たちは耐え難いものと考えた。
 しかし、おそらくはLenin を含む多数のボルシェヴィキは、遅れた農業国家にはふさわしい、社会主義への新しい途だとNEPについて考え始めた。
 1920年代に、党内でつぎの二つの議論が激しく行なわれた。一つに、民衆の文化的、経済的レベルを向上させ、社会主義的協同の利益を民衆に理解させる、緩やかな社会主義への移行の主張、二つに、戦時共産主義の英雄的急進主義の復活であっても、より戦闘的な行進の強行の主張。
 この議論はようやく、1920年代末に、Stalin による『大転換』によって決着がついた。複雑さと妥協の中で突き進み、新しい経済、社会、文化へと跳躍しようとする、『上からの革命』。
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 第四章第一節、終わり。

2769/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑦。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一節③
 (13) これは、敵の抑圧のみに関してではない問題だった。
 内戦のあいだ、政府と党〔ボルシェヴィキ、共産党〕は、全ての生活領域で、とくに経済と社会について、ますます中央集権的で、上意下達の、実力強制的な支配の手法を採った。
 学者たちは、イデオロギー的志向とは対立する状況や必要性がどの程度多く権威主義への傾斜—とくに、Lenin がのちに『戦時共産主義』と称した経済政策—を形成したのかを、議論しつづけている。
 これについて整理して論述するのは、本当にほとんど不可能だ。
 問題をさらに複雑にすることに、またロシアとボルシェヴィズム以外にも十分に適用し得る相互連関を示唆してもいるのだが、この権威主義の多くの側面は、世界大戦中にヨーロッパじゅうで見られた、経済と社会を総動員するための実践を反映し、かつ発展させた。—なかんずく、影響力が大きかった、政治的には保守の側の例である、ドイツの『戦時社会主義』(<Kriegssozialismusu>)(28)。
 『必然性の王国』は、きわめて強く、かつ苛酷になった。
 経済の状態に関する1918年春のある報告は、全部門での『組織解体』、『危機』、『衰退』、『不安定化』、『麻痺』による『崩壊の状況』を記述した(29)。
 衰退した経済を回復させ、その経済を動力として戦闘をし、建設をすることは、最も緊急性が高いの事項になった。
 しかし、これを行なう方法は、状況以上のものだった。—それゆえに、絶望的な必要性という状況のもとで解放された未来を実現しようとする『戦時共産主義』という逆説的な観念も生まれた。
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 (14) 食糧問題、とくに労働者と兵士への供給の問題は、きわめて切迫していた。
 1918年5月、政府は『食糧独裁』を宣告した。これには、全ての穀物取引の国家独占、厳格な価格統制、物不足を利用した投資だと非難される私的『袋持ち男』の規制、農民から穀物その他の農業生産物を徴発するための武装派遣隊の設置が含まれていた。
 食糧独裁は、大量の『余剰』を蓄えているとされた田園『ブルジョアジー』に対する階級闘争だと捉えれば、『革命的』側面をもった。また、社会化された農業へと向かう第一歩と理解することもできた。
 しかし、必要性こそが、それを発動させた主要な駆動力だった。
 農民革命は、市場化できる産物を生産する大規模農地による農業を生んだのではない。大部分はますます、伝統的で小規模の、最低限を充たす農業となった。
 いずれにせよ、農民には、穀物を市場に出す動機がほとんどなかった。市場には買うものがほとんどなく、金銭はますます無価値になっていたからだ。そうして農民たちは、生産物を蓄え込んだ。
 なおまた、食糧独裁は大部分で失敗だった。農民たちがしばしば暴力的に挑発に抵抗し、価格の安さに抗議した、というのみではない。加えて、政府は、経済の分野で民間部門の代わりをすることができるほどに強くはなかった(30)。
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 (15) 工業の分野では、ボルシェヴィキは、市場関係と私有財産を廃止するという歴史的目標に向かって着手した。
 しかし、今や生産の崩壊が行動を要求していた。
 国家経済最高会議〔SCNE〕が、社会主義への移行の長期計画を策定するために、1917年12月に設立された。
 若干の国有化が、内戦の前に行なわれた。だが、ほとんどは国家中央ではなく、地方ソヴェトと工場委員会による作業だった。
 経済危機と内戦の到来によって、私的経済からのより決定的な離反が促進された。
 政府は1918年6月に、大規模工業の全てを国有化した(小工場は1920年)。
 小売業の大部分は、1918年末までに禁止された。『市場のアナーキー』を制御するためだった。
 経済をめぐるこの闘いは、ブルジョアジーの抑圧に限定されはしなかった。
 政府は成人男子全員について強制労働を導入し、厳格な労働紀律を定め、『労働者支配』を独任制の経営に変えた(そして、経営と技術に関する『専門家』の俸給と権限を高めた)。また、工業の動員について労働組合を制約し、ストライキを禁止した。
 イデオロギー的に熱狂した地方の活動家や組織は、資本主義を抑圧する行動について大きな役割を果たした。そして、地方の民衆に大きく訴えることができた。とくに『ブルジョアジー』に『強制寄付』をさせるような行為、労働者住宅にするための家屋やアパートの徴発によって。
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 (16) 同時に、労働者たちの不満は増大していた。
 経済上の苦労や工場紀律の拡大への憤慨によって、メンシェヴィキ、エスエル、そしてアナキストすらの議論にあらためて関心をもつようになった。これらは、民衆の権力である強い地方機関にもとづく複数政党による民主制の回復を呼びかけていた。
 労働者たちはまた、共産党権力は十月革命の精神を喪失するか裏切った、という実体的感覚に応えようとした。
 1918年の早くにペテログラードで、社会主義者の主要な反対諸政党は、工場代議員の特別会議〔Extraordinary Assembly of Factory Delegates〕と称される、一種の反ソヴェトを設立した
 この会議は、経済的諸問題の発生は、ボルシェヴィキ国家の官僚層が原因であるというよりも、民主主義的に労働者の行動を機能させることに、労働組合、工場委員会 、地方ソヴェトが失敗したことが原因だ、と論じた。
 対照的に、ボルシェヴィキ指導部は、国家は労働者国家であるがゆえに、労働者は生産手段をもち、ゆえに、搾取される、ということはあり得ない、と議論した。
 政府が1918年5月に工場労働者へのパンの配給を増やしたとき、上記の代議員会議は労働者たちに対して、ストライキをするよう呼びかけた。その際に政府と党(ボルシェヴィキ)を、労働者を『買収』し、労働者を『民衆の別の層』と分断しようととしていると非難した。また、『人民の権力の復活』だけが飢えの問題を解決するだろうと論じた。
 これに反応した政府は、ストライキを抑圧し、この運動の指導者たちを逮捕した(31)。
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 (17) 政治的関係も、同じく、戦時危機とイデオロギー的な愛着の混合によって形成された。
 党の政治手法としてますます顕著になっていたのは、中央集権化、階層性、指令と布令による支配、異論に対する抑圧と制裁、社会全般の監視の拡大、だった。
 これらは、社会主義革命を起こすための、かつてのボルシェヴィキにあった、前衛党モデルの遺産でもあった。
 しかし、多くのボルシェヴィキが主張しただろうように、異なってもいた。とくに、政治的社会的システムの転覆ではなく、それの建設のために用いられたのだから。
 地方のソヴェトと委員会は下からの革命の特徴面だったけれども、今や統御されていた。
 工場委員会と労働組合の権限は、独任制経営と厳格な労働紀律が優勢となって、形骸化した。
 低減した工場自治は、『経済の軍事化』政策によって1920年代にさらに少なくなった。この政策に含まれていたのは『労働徴用』で、労働者たちを軍事的紀律と違反への苛烈な制裁に服従させた。
 常習的欠勤、低い生産性、製品の『窃盗』その他の非行は、とくに輸送や軍需のような基幹産業では、『犯罪的』行為、『職場放棄』、『裏切り』と見なされた。
 逮捕、すみやかな審判、労働収容所への追放その他の制裁は、通常のことになった。その際にCheka はますます、基礎的な役割を果たした。
 こうしたことは、望ましい効果を生んだ。すなわち、少なくとも公式の統計によると、1920年代に、生産性が向上した(32)。
 他方では、軍事化されたこの新しい政治的環境のもとで、かつては是認され、称讃された、1917年の逞ましい地方主義と直接民主制は、今や危険な断片化とアナーキーだと考えられた。
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 (18) しかしなお、多くの共産主義者たちは、自分たちは新しい社会、新しい文化、新しい人間を創出するために—必然の王国から自由の王国と跳躍するために—闘っている、と信じていた。
 『戦時共産主義』についてのある初期のロシアの歴史家の言葉では、内戦の年月は『ロシア革命の英雄的時代』だった(33)。
 暴力は、暴力の基盤に対する高潔な闘いであるがごとく見えた。
 経済の崩壊は、資本主義の終焉であるかのごとく見えた。
 実験の時代だった。その多くは、全ての『前線』で社会的、文化的生活様式を変えるものとして、支配党と国家によって称賛された。
 一つの戦場が、家庭であり、性であり、男女関係だった。
 党の特別支部である女性部(Zhenotdel、1919年設立)は、共同台所と共同保育によって家庭生活の不平等な負担から解放された、また、人格において自由で大胆で積極的な『新しい女性』を生み出すために活動した。
 党の青年部であるKomsomol (1918年設立)は、若年層に新しい集団主義的精神を吹き込む活動をした。
 コミューンが国じゅうに組織された。とくに、都市部での学生と労働者の『ハウス・コミューン』、若干の実験的な農業コミューン。
 子どもに家がない(homeless)という恐ろしい問題ですら、理想主義者にとっては、子どもを新しい方法で育てるよい機会だった。ほとんどの両親の遅れていると見える考え方や価値観から自由なやり方で。
 労働者の文化生活を変えようとする『プロレタリ文化』運動は、1917年の末に出現した。その多くを主導したのは、労働者階級の作家、詩人、芸術家、活動家だった。そしてしばしば、『迫害された』人間性を輝く新世界、幸福と自由の楽園で『復活』させる(好まれた表現)という夢想を好む、急進的で新しい『プロレタリア文学』を生み出した。
 芸術家、建築家、作家たち—多くは国家機構、とくに啓蒙人民委員部〔文部科学省〕から支援を受けていた—は、新しい世界を想像した。そして、不可能な建築プランを描くことすらした(34)。
 この歴史的な時代では、想像不可能なことは何一つないように見えた。この時代には、最も残虐な暴力と最も急進的な理想像はいずれも、同じ行路の一部だった。1918年の公共彫刻公園を叙述する言葉を借りれば、『苦痛と悲哀を通じて、全ての拘束鎖からの解放を目ざして絶え間なく闘いながら』進む行路(35)。
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 (19) ほとんどの歴史家は、内戦時代の実力強制と暴力の文化はボルシェヴィキの行く末に決定的な影響を与えた、と見ている。Robert Tucker がスターリン主義の起源に関する影響力ある研究書で論じたところでは、それはつぎのようなものを『形成する経験』だった。『ボルシェヴィキ運動の革命的な政治文化を軍事化し』、『好戦的熱狂、革命的自己犠牲主義』と<elan>』の遺産を残し、『安易な実力強制への依存、行政的命令による支配、中央集権的行政、略式司法』の遺産も残し、『冷酷性、権威主義と「階級憎悪」』というボルシェヴィキの精神(ethos)を『残虐性、狂信、異論をもつ者に対する絶対的な不寛容』に転換し、『国家という様式を通じて社会主義が建設されるという確信を抱くのを困難にする』、そのような経験(36)。
 Sheila Fitzpatrick がこう論じたのは有名だ。内戦は『新しい体制に炎による洗礼を与え』たが、『ボルシェヴィキが危険を冒して獲得し、あえて追求すらしたかもしれない』洗礼だった(37)。
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 つづく。

2768/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑥。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一章②
 (07) ボルシェヴィキは、社会主義者とリベラル派が民主主義革命の聖なる目標だと長らく見なしてきた民主的機構に反対する、という劇的な行動を行なった。だが、その前にすでに、対立する見解を抑圧し始めていた。
 10月後半のプレスに関する布令は、多数の新聞を廃刊させた。その中には、リベラル派および社会主義派の新聞も含まれていた。『抵抗と不服従』を刺激し、『事実の明らかに中傷的な歪曲によって混乱の種を撒く』、あるいは、たんに『民衆の気分を害して、民衆の心理を錯乱させる種を撒く』、そういう可能性があったからだ(19)。
 11月の後半に、主要な非社会主義政党、人民の自由〔People’s Freedom〕の党として公式には知られていた立憲民主党(カデット、Kadets〕を非合法化した。その指導者は逮捕され、全党員が監視のもとに置かれた(20)。
 ソヴェト指導部の中で依然として活動していた非ボルシェヴィキの僅かの者たち—とくに左翼エスエル、中でもIsaak Steinberg—は、上の布令を批判した。これに対して、伝えられるところでは、Trotsky は、階級闘争がもっと激烈になるとすぐに必要になるだろうものに比べれば『寛大なテロル』にすぎない、と警告した。『我々の敵に対しては、監獄ではなくギロチンが用意されるだろう』(21)。
 1917年12月に、政府は『反革命と破壊行為に対する闘争のための全ロシア非常委員会』を設立した。これは、Vecheka またはCheka として(イニシャルから)知られるもので、革命に対する反抗を発見して弾圧することを任務とする保安警察だった(22)。
 Cheka を設立した動機の一つは、歴史家のAlexander Rabinowich が示したように、左翼エスエルが政府の連立相手として歓迎されているまさにそのときすでに、ボルシェヴィキをその左翼エスエルによる妨害から自由にする機関が必要だったことだ。内部報告書でのCheka の幹部の一人の説明によると、左翼エスエルは、彼らの『「普遍的」道徳観、人間中心主義を強調し、自由な言論とプレスを享受するという反革命的な権利に制限を加えることに抵抗することで、反革命に対する闘いを大いに妨げている』(23)。
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 (08) 全国土にわたる『赤』と『白』の間の軍事闘争としての内戦は、1918年の夏に本格的に始まった。
 多くの点で、実際に経験されたように、内戦は1914年に始まった国家の暴力の歴史を継続させたものだった。
 ソヴェト国家は、1918年3月に『最も厄介で屈辱的な〔ブレスト=リトフスク〕講和条約』(党自身の判断)を受け入れて、ドイツとの戦争を何とか脱していた。党指導部の少数派は、軍が崩壊し前線の兵団が完全に『士気喪失』した以降はゲリラ戦争としてであっても(24)、国際的階級闘争の原理は条約の条件を拒否して、帝国主義と資本主義との戦争の継続を要求する、と主張したけれども。
 講和によって生まれると想定された『ひと息』は、かろうじて数ヶ月だけ続いた。そのあと白軍(かつての帝制将軍に率いられる反ボルシェヴィキ勢力の連合で、1918年初めに姿を見せ始めた)と赤軍(戦争人民委員であるTrotsky の指導で1918年半ばに設立された軍団)のあいだで継続的に戦闘が勃発した。
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 (09) しかし、内戦は、赤と白の単純な二進法が示唆する以上に複雑で変化が著しい経験だった(25)。
 内戦の歴史に含まれるのは、テロル、エスエルやアナキストおよびボルシェヴィキ『独裁』にも白軍が代表するように見えた右翼独裁への回帰にも反対する社会主義者たちによる武装闘争だった。赤と白の両方と闘った農民の『緑』軍は、主に農民の自治に対する大きくて目前の脅威をもたらす者たちに依拠していた。国じゅうの民族独立運動もあり、イギリス、フランス、アメリカその他の連合諸国による武力干渉もあり、ポーランドとの戦争もあった。
 1920年の末頃までに、種々多様なことから、また大量の流血を通じて、赤軍とソヴェトが状況を支配した。白軍は敗れ、ボルシェヴィキ権力に反抗するその他の運動は粉砕された(当分のあいだは)。そして、ソヴィエト諸政府が確立され、Georgia、Armenia、Azerbaijan、東部Ukraine で防衛された。
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 (10) 赤軍とソヴェト権力がいかにして勝利したかを、歴史家は多く議論してきた。
 ほとんどの歴史家は、つぎの点で一致している。すなわち、軍事、戦略、政治的立場が共産党の側に有利だった。
 軍事的には、赤軍は驚くほどに効率的な軍隊だった。とくに、白軍の指導部の淵源が帝制時代の軍隊にあったことと比較して、その起源が自由志願の赤衛隊にあったことを考えるならば。
 兵士たちの中から新しい『赤軍』指揮官を養成した一方で、政府が『軍事専門家』に赤軍に奉仕して、その権威を高めるよう強いたことはこれを助けた。赤軍は命令の伝統的階層構造を復活させた。
 戦略的には、赤軍は地理的な中心部の外側で活動することで有利になった。ソヴェト政府はロシアの中心地域を支配していたが、このことは、人口、工業、軍需備品の多くを統制できることを意味した。一方で、白軍は、別の軍隊の協力が限られている、外縁部で活動していた。
 このことは、ロシアの主要な鉄道はモスクワから放射状に伸びていたので、とくに重要だった(モスクワは1918年3月から実効的な首都になった。その頃、やがてドイツの手に落ちる可能性が出てきたので、政府はペテログラードを去った)。赤軍は、効率のよい、輸送や連絡の線を持つことになったので。
 一方で、白軍は、農業地をより多く支配した。それで、彼らの兵団の食料事情は良かった。
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 (11) だがとりわけ、白軍は、政治的有利さの点で苦しんだ。
 白軍指導者たちは、自分たちは旧秩序を復活させることができないと、と理解していた。
 しかし、彼らの背景とイデオロギーからして、民衆の多数の望みを承認することも困難だと気づいていた。
 『ロシアは一つで不可分』という帝国的理想に依拠していたので、彼らは、非ロシア民族の者たちに戦術的に譲歩を提示することすら拒んだ(非ロシア民族は辺縁地域での支持を獲得するためには不可欠だったかもしれないが)。そして白軍は、非ロシア民族の支配下の土地で、民族主義を抑圧した。
 農民たちは、内戦中にどちらの側についても熱狂的に支持することはなかった。
 赤軍と白軍のいずれも、農民たちから穀物と馬を奪い、自分たちへと徴兵した。そして、反対者だと疑われる者に対してテロルを用い、ときには村落全体を焼き払った。
 だが、農民にとって重要なのは土地であるところ、ボルシェヴィキは—賢明にも、または偽善的に、農民たちの動機いかんを判断して—、農民による土地掌握を是認した。一方で、白軍指導者たちは、法と私有財産の原理の名のもとで、村落革命のために何も行なわなかった。言うまでもなく、彼らの基盤的な後援層の一つである土地所有者たちの支持を得て。
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 (12) 内戦は、凶暴な事態だった。
 いずれの側も、大量の投獄、略式処刑、人質取り、その他の、反対者と疑われる者に対する『大量テロル』を行なった。
 どの戦争でも見られる『行き過ぎ』があったが、両方の側の指導部によって看過された。
 赤と白の暴力は、釣り合いから見て似たようなもので、お互いさまだった。
 しかし、ボルシェヴィキは、とくにCheka を通じて、この血に汚れた(blood-staind)歴史を残すのに顕著に貢献した。(『非常』措置を普通のことにして)生き延びるに必要なことは何でもするという実際的な意欲があったばかりではなく、暴力と実力強制を、世界を作り直し、歴史を前進させる手段として積極的に容認した。
 『プロレタリアート』(ほとんどは言わば、労働者階級の<名前で>階級戦争を闘っている者)の暴力は、歴史的に必要なものであるのみならず、道徳であり善だった。これこそが階級戦争を終わらせるものであり、そして、暴力の全てを終わらせ、損傷している人間性を回復し、新しい世界と新しい人類を創り出す階級戦争だった(26)。
ボルシェヴィキは、暴力と実力強制は偉大な歴史的過程、『自由の王国への跳躍』、の一部だと考えた。これは、不平等と抑圧の古い王国で利益を得る者たちとの闘争なくしては遂行することができない。
 ボルシェヴィキは、Lenin が述べたように、『民衆の大多数』の利益のために、そして『資本主義者の抵抗を破壊する』ために用いられる『ジャコバン』的手段(フランス革命時の急進派とギロチンを想起させる)を採ることを、何ら怖れていなかった(27)。
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2767/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑤。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一節①
 (01) ボルシェヴィキは、革命的社会主義国家に関する矛盾する考え方を抱いて、権力を掌握した。
 一方には、一般民衆の欲求とエネルギーを解き放つことによる、大衆参加という解放と民主主義の考えがあった。
 Lenin は1917年春のペテログラードへの帰還の後で述べたのだが、ロシアを『崩壊と破滅』から救う唯一の方途は、抑圧された労働者大衆に『自分たち自身の強さへの自信を与える』こと、民衆の『エネルギー、主導性、決断力』を解き放つこと、だった。こうして、彼らは動員された状態のもとで、『奇跡』を行なうことができる(1)。
 これは、新しいタイプの国家の理想、大衆が参加する権力という『コミューン国家』(1871年のパリ・コミューンを参照している)、『大きな金額』のためではなく『高い理想のために』奉仕する『百万の人々の国家装置』だった(2)。
 コミューン国家という理想は、1918年に『ロシア社会民主主義労働者党』から『ロシア共産党(ボルシェヴィキ)』へと党の公式名称を変更したことに反映された。
 権力掌握から最初の1ヶ月間に、Lenin は繰り返して、『歴史の作り手』としての『労働大衆』に対して、『今やきみたち自身が国家を管理している』こと、だから『誰かを待つのではなく、下からきみたち自身が率先して行動する』こと、を忘れないよう訴えた(3)。
 この語りを良くて実利主義的だと、悪ければ欺瞞的だと解釈した歴史家がいた。—Orlando Figes の見解によれば、『古い政治体制を破壊し、そうして彼自身の党による一党独裁制への途を掃き清めるための』手段にすぎない(4)。
 しかしながら、多数のボルシェヴィキが解放と革命権力の直接参加主義的考えを信じていた、ということを我々が見るのを妨げないよう、慎重であるべきだ。
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 (02) しかし、以上は、ボルシェヴィキの国家権力に関するイデオロギーの一面にすぎなかった。
 Lenin がボルシェヴィキは『アナキストではない』と主張したのは正当だった。
 ボルシェヴィキは、強い指導力、紀律、強制、実力の必要性を信じてはいた。
 『プロレタリアートの独裁』と理解され、正当化された『独裁』は、いかにして革命を起こし、社会主義社会を建設するかに関するボルシェヴィキの思想の最も重要な部分だった。
 ボルシェヴィキには、権力を維持し続け、彼らの敵を破壊する心づもりがあった。そして明示的に言ったことだが、大量逮捕、略式手続での処刑、テロルを含む最も『残酷な手段』(Lenin の言葉)を使う用意があった。
 Lenin は、『裕福な搾取者たち』に対してのみならず、『詐欺師、怠け者、フーリガン』に対して、そして社会へと『解体』を拡散する者たちに対しても警告した。
 革命への脅威になるものとして『アナーキー』を非難するのは、今度はボルシェヴィキの番だった(5)。
 しかし、独裁は、必要物以上のものだった。
 それは美徳〔virtue〕でもあった。すなわち、プロレタリアートの階級闘争は、暴力と戦争を生む階級対立を克服することを意図する闘争として、歴史における唯一の闘争だった。Lenin が1917年12月に、それは『正当で、公正で、神聖だ』と述べたように(6)。
 さらに言うと、これは戦争になるべきものだった。
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 (03) 最初の数ヶ月、新しいソヴェト政府は、一般民衆に力を与え、より平等な社会を築くよう行動した。ソヴェトに地方行政の権能を与え、農地の農民への移譲による農民革命を是認した(7)。また、日常の工場生活を支配する決定に参画する労働者の運動を支持して、『労働者支配』を必要とする法制を作り(8)、『全ての軍事単位内部での全権能』を兵士委員会とソヴェトに付与して兵士の運動を支持して、全将校が民主的に選挙されるようになった(9)。さらに、民族や宗教にもとづく特権や制限を廃止して、ロシアの帝政的要素の優越に対する闘争を支持し、全ての帝国国民の『平等と主権性』を主張した。これには民族自決権も含まれていて、分離や独立国家の結成にまで及ぶものだった(10)。
 ソヴェト政府は、全ての民衆を『市民』と単一に性格づけることに賛成して、資産、称号、地位のような公民的不平等の法的な性格づけを廃止しもした(11)。既存の法的装置を『民主的選挙にもとづいて設立される法廷』に変えもした(12)。
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 (04) こうした急進的な民主主義化のほとんどは、内戦という非常の状況の中で実行されないことになる。効率的な動員と紀律を妨げる、事宜を得ないものとして、放棄された。
 しかし、ボルシェヴィキによる国家建設は、最初からすでに、ボルシェヴィキ・イデオロギーの権威主義的様相を明らかにしていた。
 一つの初期の兆候は、単一政党による政府を樹立しようとする意欲だった。これは、『全ての権力をソヴェトへ』は『民主制』の統合的代表者への権力移譲を意味すると民衆のあいだで広く想定されていた中で、それにもかかわらず、見られた。
 しかしながら、一党支配は、直接のまたは絶対的な原理ではなかった。
 新しいソヴェト政府が非ボルシェヴィキを包含することには、実際的な理由があった。とくに補充されるべき多数の政府官僚のための有能な個人が、不足していたことだ。
 政治的な理由もあった。とくに、労働者と兵士の委員会、国有鉄道労働組合(重要争点に関して全国的ストライキでもって威嚇した)、独立した左翼社会主義者たち、そして不満を抱いているボルシェヴィキ、これらからの圧力。
 上の最後の中で最も有名だったのは、ボルシェヴィキの中央委員会委員の、Grigory Zinoviev とLev Kamenev だった。この二人は、労働者や兵士の多数派の意思に反するとして、『政治的テロル』によってのみ防衛可能だとして、また『革命と国家の破壊』に帰結するだろうとして、一党政府を公然と批判した(13)。
 1917年12月、Lenin は、限られた数の左翼エスエル(エスエル主流派から離脱した党派)の党員を内閣(人民委員会議またはSovnarkom)に含めることに同意した。
 しかし、これは長くは続かなかった。
 数ヶ月のちに、ボルシェヴィキの政策に影響を与えようとして政府に参加した左翼エスエルは、不満の中で内閣を離れた。彼らが反対した、ドイツとの講和条約の締結が契機となった。
 そのあと数ヶ月、左翼エスエルはボルシェヴィキの権威主義に対する批判を継続した。—ある左翼エスエル指導者は、1918年5月に、Lenin は『凶暴な独裁者』だと非難した。そして、ボルシェヴィキは左翼エスエルの活動家に引き続いて妨害されたことに苛立ち、決定的な分裂へと至った。
 ある左翼エスエル党員が、ドイツの大使を暗殺した。これはソヴェト権力に対する『反乱』の一部だと見られたのだったが、ボルシェヴィキは、全てのレベルでの政府各層から左翼エスエルを排除〔purge〕した。そして、エスエルと同党員を厳格に壊滅させた。
 ボルシェヴィキによる一党支配はこうして完成し、永続することとなった(14)。
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 (05) 長く待たれ、長く理想化された憲法会議を散会させる決定が下された。これは多くの者によって、ボルシェヴィキの権威主義を示す、とくに厄介な兆候だったと考えられている。
 1917年11月に実施された憲法会議の選挙の結果は、革命的だった。—ロシア民衆の大多数が、公開の民主的投票でもって、将来の社会主義への道を選択した。
 エスエルが全投票数の38パーセントを獲得した(分離していたウクライナのエスエルを含めると44パーセントだった)。ボルシェヴィキは24パーセント、メンシェヴィキは3パーセント、その他の社会主義諸政党も合わせて3パーセントだった。すなわち、社会主義者たちには(分かれていても)、全投票の4分の3という輝かしい数が与えられた。
 非ロシアの民族政党は、社会主義に傾斜した党もあったのだが、多く見て全投票数の8パーセントを獲得した。
 リベラルなKadet(立憲民主)党は、5パーセント未満だった。
 その他の非社会主義諸政党(右翼主義者と保守派を含む)には3パーセントだけが投じられた。
 ボルシェヴィキは、全国の投票数の4分の1という相当大きい割合を獲得した。とくに都市部、軍隊、北部の工業地域で多かった。—ボルシェヴィキは本当に労働者階級の党だと証明された、と言うのが公正だ(15)。
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 (06) 同時にまた、選挙結果は、ボルシェヴィキによる政府の圧倒的な支配を正当化するものではなかった。—彼らが政府から去ることはほとんど期待できなかったけれども。
 Lenin は、ソヴェト権力をボルシェヴィキが握った最初の日に、憲法会議選挙は従前に予定されたとおりに11月12日に実施される、と確認した(16)。そのときですでに、Lenin の文章の注意深い読み手であったならば、つぎのことに気づいただろう。すなわち、『憲法幻想』〔constitutional illusions〕への早くからの警告、『階級闘争の行路と結果』が憲法会議よりも重要だという強い主張(17)。
 この議論は、選挙のあとで、憲法会議を『偏愛』する〔fetish〕ことに反対する公然たる主張へと発展した。—選挙の立候補者名簿は時期にそぐわない(とくに名簿登録後の左翼エスエルの立党による)。『人民の意思』は選挙後にさらに左へと変化した。ソヴェトは『民主主義の高度の形態』であって、憲法会議が設立したかもしれない政府はそれより後退したものだろう。内戦の蓋然性のゆえに緊急の措置が必要だ。
 イデオロギーとして憲法会議を攻撃する最も重要な主張は、階級闘争に関する歴史的論拠だった。すなわち、議会の正統性は、形式的な選挙によってではなく、歴史的闘争の中で占める位置によって判断されるべきだ。この位置は、どの程度において『労働者民衆の意思を実現し、彼らの利益に奉仕し、彼らの闘いを防衛する』か、によって定まる。
 憲法会議がたとえ圧倒的に社会主義派によって占められていても、この歴史的審査に耐え難い、とボルシェヴィキは結論づけて、憲法会議に機会は与えられない、と主張した。歴史と階級闘争の論理が、反革命的な憲法会議が解散することを『強い』た。それは、1918年1月の最初の会合で行なわれた(18)。
 だが、この動議に若干の穏健なボルシェヴィキは反対したこと、ほとんどの左翼エスエルは会議の閉鎖を是認したこと、は記憶しておく価値がある。
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 つづく。

2766/M. A. シュタインベルク・ロシア革命④。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第三章/1917年
 第一節④
 (17) 『コルニロフ〔Kornilov〕事件』は陰謀と混乱の奇妙な混合物で、騒擾の危険性、紀律と強い国家の必要性に関して激論が交わされている中で、それに煽られるようにして起きた。
 新しい最高司令官は、自分をロシアを救う人間だと見ていた。これは、保守的プレス、右翼政治家、軍将校や事業家の組織、地主たちから勇気づけられての自画像だった。
 Kornilov は、Kerensky も、おそらく一時的な軍事独裁によって、ソヴェトとその支持者たちの言論を封じるのを望んでいると、根拠なく信じていたように思われる。
 何が現実に起きたかに関する歴史上の諸記録は、矛盾した証拠と主張で充ちている。
 我々に分かるのはつぎのことだ。Kerensky は8月26日に、Kornirov が政府全大臣の辞職、首都での戒厳令の発布、全ての公民的、軍事的権限の自分の手中への移行を要求したこと、これらの要求を支援すべく兵団を首都へ動かしていること、を知った。
 Kornilov を擁護する者たちはのちに、Kerensky 自身がこの権力集中を命令していたのであり、兵団を動かしたのは、噂されたボルシェヴィキのクーからKerensky と政府を防衛するためだったにすぎない、と主張した。
 Kerensky は国民に対して、軍事クーからロシアと革命を『救う』のを助けるように呼びかけた。
 ソヴェト指導部は、地方ソヴェト、労働組合、工場委員会、ボルシェヴィキを含む左翼諸政党(ソヴェトはボルシェヴィキ指導者たちの監獄からの釈放のための調整を助けてすらいた)を動員することでもって、首相の訴えに応えた。
 行進しているKornilov の兵団は、前進を停止するよう簡単に説得された。とりわけ、Kerensky は自分たちの行動を支持していない、と聞いたために。
 こうして、『反乱』は数日で終わった。
 しかし、危機は始まったばかりだった。
 右派は、Kerensky を、Kornilov を騙して、裏切った、と非難した。
 左派は、Kerensky は最高司令官と共謀していた、のちに反対に回った、と疑った。
 結果として、二番めの連立内閣が崩壊した。リベラル派と社会主義派の間の相互不信が深まって、分裂したのだ。
 ようやく9月遅くに、新しい連立の臨時政府が形成された。—第三の、そして最後の内閣。これを率いた首相はKerensky で、10人の社会主義者大臣(多くはメンシェヴィキとエスエルの党員。但し、公式には個人として行動した)と6人のリベラルな大臣(多くはカデット〔立憲民主党、Constitutional Democratic Party, Kadets〕)で成っていた。
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 (18) ボルシェヴィキは、政府に加わらなかった唯一の主要な左翼政党として、民衆の不満解消のための逃げ場所になった。
 そして、階級を明瞭に基礎にしたその基本政策は、ますます両極化している社会的雰囲気にうまく適合した。
 ボルシェヴィキは、富者に負担となり貧者に利益となる税の再配分が目標だ、と宣言した。また、農民の土地所有者に対する闘争、労働者の雇用者に対する闘争、兵士の将校に対する闘争を支持することも。さらに、死刑のような『反革命的』措置を採用しないことも(18)。
 とは言え、とくに魅力的なのは、彼らが繰り返したスローガンだった。すなわち、『パン、平和、土地』、『全ての権力をソヴェトへ』。—全ての不満を捉え、一つの単純な解決策を提示する化身たち〔incarnations〕。
 ボルシェヴィキの人気が増大していることは、Kornilov 事件の前にすでに明らかになっていた。工場委員会や労働組合での投票で、地区や市のソヴェトへの代議員の新または再選挙で、ボルシェヴィキの演説者や決議に対するソヴェト内部での受け入れの仕方で、そして市議会の選挙においてすら(19)。
 Kornilov 事件は、反革命への恐怖、穏健な社会主義者たちとの妥協への不満を掻き立てた。その後、ボルシェヴィキはいっそう急激に影響力を増した。もっとも、エスエルの中で同様に宥和的でない『左翼エスエル〔Left SRs〕』のそれも似たようなものだったが。
 8月31日、ペテログラード・ソヴェト代議員の多数派は、有産階層を除外した社会主義者政府を樹立しようとのボルシェヴィキの決議案を採択する議決を行なった(20)。
 9月の後半に、ボルシェヴィキは、ペテログラードとモスクワの両都市で、ボルシェヴィキを多数派とする新しいソヴェト指導部を選出するのに十分なかつ信頼できる多数派を獲得した。
 Lev Trotsky は最近にボルシェヴィキ党に加入したのだったが、ペテログラードでは彼が、議長に選出された。
 同じことは全国で起きていた。
 最も重要なことは、ボルシェヴィキは今や、大胆な政治的ギャンブルのために増大している人気を利用する用意がある、ということだった。政治的賭け—国家権力を奪取するための蜂起〔insurrection〕。
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 (19) 労働者兵士代議員ソヴェトの第二回全ロシア大会は10月25日に開催され、全国の数百のソヴェトから代議員が出席した。
 ボルシェヴィキは代議員たちの中で最大の単一党派で、左翼エスエルの支持を得れば有効な多数派を形成することができた。
 14人のボルシェヴィキと7人の左翼エスエルで、新しい幹部会が構成された。
 メンシェヴィキには4人が割り当てられていた。しかし、のちには政治的自殺と見なされた動議を出して、幹部会の議席を受け取るのを拒否した。この拒否は、ボルシェヴィキによる蜂起が街路上で進行中であることに対する抗議の意思を示す行動だった。
 大会は、ボルシェヴィキのスローガンである『全ての権力をソヴェトへ』を是認した。但し、ほとんどの代議員は、ソヴェト権力とはボルシェヴィキによる一党支配ではなく、社会主義者の民主的な統一的政府を意味すると理解していたけれども。
 メンシェヴィキの指導者のYuly Martov は、ソヴェト大会の直前に『陰謀』という手段で国家権力の問題を決着させようとするボルシェヴィキの企ては、『内戦』と反革命につながる可能性が高い、と警告し、『全ての社会主義諸政党と組織』のあいだで『統一した民主主義的政府』を樹立するための協議をただちに開始することを提案した。この提案は、満場一致で承認された。
 ボルシェヴィキですら、『展開している事態に関するそれぞれの見解を、全ての政治的党派が表明することに、多大の関心を寄せる』と宣言した(21)。
 しかしながら、複数政党による社会主義者政府、『革命的な民主主義的権威』を目ざす構想は、事態の進行に間に合わなかった。他『党派』とともに活動することに対してボルシェヴィキに深く染み込んでいた強い疑念によって、その構想は実現しなかった。
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 (20) 10月24日から25日にかけての夜、ペテログラードの労働者『赤衛隊〔Red Guards〕』と急進的兵士たちは、主要な街路と橋梁、政府関連の建物、鉄道駅、郵便局と電報局、電話交換所、発電所、国立銀行、警察署を掌握し、臨時政府の大臣たちを逮捕した。
 この武装蜂起は、ソヴェトの軍事革命委員会の秘密会議で練り上げられていた、詳細な計画に従っていた。このソヴェト軍事革命委員会をボルシェヴィキは支配しており、Trotsky が議長に就いていた。もっとも、タイミングの問題はボルシェヴィキ党内での激しい議論の対象だった。—タイミングはすぐれて政治的意味合いを持つ問題だったので。
 Trotsky は、蜂起は『ソヴェト権力』のために、そして政府による弾圧に抵抗する革命を『防衛』するために、ソヴェトの行動を正当化する外套をまとうべきだ、ということに拘泥していた。
 しかし、Lenin は、全く理性的なことに、つぎのように心配していた。ソヴェト全国大会は、全ての社会主義者政党を包含する政府、あるいは有産階層のみを排除した、より広範囲の『民主主義的政府』をすらに固執し続けて、ボルシェヴィキの手を縛るかもしれない、と。そのゆえに彼は、臨時政府の打倒を既成事実〔fait accompli〕としてソヴェト大会に提示する必要がある、そうすれば大会での議論は無意味になるだろう、と強く主張した。
 ソヴェト大会が10月25日に開会したとき、臨時政府の大臣たちがいる冬宮に対するボルシェヴィキの武装攻撃が進行していた。
 メンシェヴィキとエスエルの発言者たちは激しく怒り、ボルシェヴィキの行動は『犯罪的な政治的冒険』だ、と非難した。一つだけの政党による日和見主義的な権力ひったくりだ、その背後にはソヴェトの後援があるとし、そのソヴェトの名前でボルシェヴィキは二枚舌を使って行動している、と。
 彼らは、ボルシェヴィキの行動はロシアを内戦へと突入させ、革命を破滅させる、と予見した。
 ほとんどのメンシェヴィキと右翼エスエルたちは、ボルシェヴィキの行動の『責任を負う』ことをしたくなくて、大会の会場から退出した。—有名になったTrotsky の侮蔑の言葉がこれに投げつけられた。彼らは、『歴史のごみ箱』に入る運命だけが残る『破産者』だ。
 10月26日の夜明け前、ソヴェト全国大会は、レーニンのつぎの宣言を承認した。全ての国家権力はソヴェトの手中にある、全ての地方権力は、労働者兵士農民代議員の地方ソヴェトへと移譲される。
 大会はまた、全ての諸国に講和を即時に提案すること、全ての土地を農民委員会に移譲すること、兵士の権利を守ること、工業の『労働者支配』を確立すること、憲法会議の召集を確実にすること、を誓約した。
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 第一節、終わり。

2765/M. A. シュタインベルク・ロシア革命③。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第三章/1917年
 第一節③
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 (12) これは実際には、2週間後の『七月事件』に比べると『瞬時の一打ち』にすぎなかった。
 7月3日、数万人の兵士、海兵、労働者たちが、大部分は武装して、首都の街路を行進した。
 彼らは市の中心部を占拠し、自動車を奪い、警察やコサックと闘った。そして、頻繁に銃砲を空中に放つことで、彼らの蜂起のごとき雰囲気を強調した。
 午前2時頃、6万人から7万人の男性、女性、子どもたちが路上にいた。そのうちのほとんどはTauride 宮にあるソヴェト司令部の近くだった。群衆は、その規模と戦闘的気分を増大し続けた。
 大衆集会で採択された決議は、戦争の即時停止、『ブルジョアジー』と今以上妥協しないこと、そして『全ての権力をソヴェトへ』を要求した。
 いかにしてこれらの目標を実現するかについて、ほとんどの示威行為者には分かっていないように見えた。とくにソヴェト指導部は自分たちが『全ての権力』を握るという発想自体を拒絶していたので。
 七月事件の最も有名な場面で、ソヴェト指導者たちは、群衆を静めるためにエスエル〔Socialist Revolutionary〕のVictor Chernov を街頭へと派遣した。
 彼の訴えに応えたのは、拳を振ってChernov に向かって『手渡されたら権力を取れ』と叫ぶ、示威行為者の怒りだった。
 ソヴェトの穏健な指導者たちは、この事件全体についてボルシェヴィキを非難した。
 そして、ボルシェヴィキ自体が、間違いなくこの運動を助長していた。
 しかし、彼らはこの運動を権力奪取へとつなげる用意をしておらず、そうしようとしなかった。
 指導者を欠いたので、反乱は解体した。
 7月4日夕方の激しい雨が、路上の群衆の最後の一人を追い払った(11)。
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 (13) 歴史家たちは、今でも議論している。七月事件は、慎重かつ巧妙に計画され、だが失敗した、ボルシェヴィキによる権力奪取の企てだったのかどうか。
 あるいは、のちのクーのために試験をするという、ボルシェヴィキの戦術の一部だったのか。
 あるいは、躊躇している指導部を行動へと強いようとする、ボルシェヴィキ党員たちの努力だったのか。
 あるいは、急進化した兵士や労働者たちの調整済みでない行動ですら、党は最初は支援することに同意しており、のちに瞬時に権力奪取のために使おうと考えたが、成功しないことが明瞭になったので撤退した、のだったか。
 ほとんどの歴史家は、つぎの点では同意している。ボルシェヴィキの一般活動家がこの事件できわめて大きな役割を演じたこと、大多数の労働者や兵士たちは指導を求めて党を見つめていたこと。
 そして、臨時政府の打倒がボルシェヴィキの課題〔agenda〕になっていたことに、ほとんど疑いはない。
 問題は、いつ行なうか、だった。
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 (14) 地方〔provinces〕の後進性というステレオタイプ的見方とは矛盾するが、臨時政府への支持や階級を超えた統合が解体していった早さは、ペテルブルクやモスクワよりもむしろ、地方で急速だった。
 例えば Saratov では、Donald Raleigh が資料文書を示したように、地方のリベラルな新聞は6月に、『都市部だけではなく地方全体で、権力は現実には労働者、兵士の代表者の(地方)ソヴェトへと移った』と報告した。
 穏健な社会主義者と急進的なそれのあいだの断裂もまた、中心部以上に急速に進んだ。例えば、ボルシェヴィキは5月に、リベラル・ブルジョアジーとの協働に抗議して、Saratov ソヴェトから脱退した。
 同様に、地方の労働者、兵士、農民たちはもっと早くに妥協に耐え難くなり、即時のかつ直接的な諸問題の解決に賛成した。これが意味したのは、ボルシェヴィキに傾斜する、ということだった(12)。
 Kazan やNizhny-Novgorod のような別の地方の町々では、またそれらの周囲の農村地帯では、Sarah Babcock が示したように、ほとんどの民衆にとっての地方『政治』の本質は、政党への帰属や選挙への関与ではなく、経済的、社会的な必需品のための直接的な闘いだった。
 エリート全員に対する不信は、主要な諸都市で以上に、おそらく地方の一般民衆のあいだで、より強いものがあった(13)。
 紀律ある国家の最も熱烈な支持者だと広く考えられているDon 地域の多数のコサックですら、中央の権力よりも地方の権力を支持した(14)。
 このような地方主義と権力の断片化は、ペテルブルクでの政治的決定や国家権力をめぐる闘争より以上にではかりになくとも、それと同等に革命を規定した。
 臨時政府の権威は急速に低下し、地方ソヴェト、委員会、労働組合その他の諸制度の力の増大によって掘り崩された。
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 (15) ロシアじゅうの社会的権威が突如として断片化してきた。それは、直接的行動が唯一の解決方法だと思わせるような、経済的危機のさらなる悪化によって促進された。だがまた、『ブルジョアジー』とそれと結びついた政治的エリート層に対する不信によっても。
 兵士たちは将校を無視し、選出された兵士委員会にのみ耳を傾けた。
 農民たちは、自分たちが土地を奪ったり地主を追放するのを妨げるものはほとんどないと分かって、土地改革を待つのをやめた。
 労働者たちは、作業場の条件を直接に統御する直接的行動をとった。—多くの工場では、『労働者支配』—理論を適用したのではなく実践の中で生まれて発展した考え—が、進展していった。工場委員会が、管理者側の決定を監視し始めたのみならず、重要な経営上の決定を自ら行ない始めるようになるとともに。
 雇用者または経営者が例えば燃料不足を理由とする一時解雇〔lay-off〕で威嚇したとき、工場委員会は、新しい燃料供給源を探して、輸送と支払いについて取り決めすることがあり得た。また、利用可能な燃料のより経済的な使用方法を取り決めたり、会社の経費支出への監督権を要求したり、全員の労働時間を平等に削減することを裁可したり、あるいは、一時解雇される者を選定する、労働者の集団的権利を要求したりすることがあり得た。
 稀な場合、通常は雇用者が工場の閉鎖を選ぼうとした場合だが、労働者委員会は、自分たちで工場の操業を決定した(15)。
 多くの観察者にとって、こうした事態は『アナーキー』で『カオス』だった。
 多くの別の観察者にとっては、これは下からの『民主主義』だった。
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 (16) 七月の危機の後で、臨時政府は社会主義者が多数派になるよう再構成され、社会主義者で法律家であるAlexander Kerensky が率いた。この臨時政府は、このような権力の断片化と国家の弱体化を許容できなかった。
 臨時政府は、『アナーキー』に対する戦争を宣告した(16)。
 しかし、政府の、当時に称された『国家主義』〔statism〕は、状況を悪化させたにすぎなかったかもしれない。次の政治的危機を誘発し、そうしてさらに、国家の権威を弱いものにした。
 七月事件は、間違った危険を明らかにし、間違った解決策を生んだものだったかもしれない。すなわち、容易に判別できるボルシェヴィキによる騒乱の脅威によって、より大きい、より困難な、社会的、民族的、地域的な両極化と断片化の脅威が、覆い隠された。
 臨時政府は7月に、それが理解する脅威に応じて、数百人のボルシェヴィキ指導者を逮捕した(逮捕を逃れて隠れた多数の中にレーニンがいたけれども)。
 市民的自由は公共の秩序のために制限された。
 死刑が前線にいる兵士について復活した。叛逆、脱走、戦闘からの逃亡、戦闘の拒否、降伏への煽動、反抗、あるいは命令への不服従すらあったが、これらにより野戦法廷で有罪と宣告された者たちについてだった。
 ペテログラードでの街頭行進は、つぎの告知があるまで禁止された。
 そして、将軍のLavr Kornilov が、この人物は軍事的かつ公民的な紀律の擁護者として保守的界隈で尊敬されていた、屈強な気持ちをもつコサックだったが、新しい最高司令官に任命された。
 Kerensky 首相は、騒擾を克服できる強い政治的実行者だと見られるのを望んだ。
 彼は七月事件の際に暴徒と闘って殺されたコサックたちの葬儀で演説をし、こう宣言した。「アナーキーと無秩序を助長する全ての企ては、この無垢の犠牲者たちの血の名において、容赦なく処理されるだろう」(17)。
 おそらくは象徴的な動きとして、また安全上の理由から、Kerensky は、臨時政府の役所を冬宮(Winter Palace)へと移した。
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 つづく。

2764/M.A.シュタインベルク・ロシア革命②。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第三章/1917年
 第一節②
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 (06) 総じて、とくに1917年の初めは、他者に対する優越をめざす闘いと同様に、権力こそが理解すべき問題だった。
 臨時政府とソヴェトはいずれも、正統性と権威の範囲について、不確かさを感じていた。
 強く正当性を信じた臨時政府のリベラルな指導者たちは、悲しくも、自分たちの本質は閉鎖されたドゥーマによる自己任命の委員会だと分かっていた。自分たちは限定的な、偏った基盤のもとで選出されていた。
 『臨時』という(新しい政府について彼らが選んだ)名前は、適正な民主的選挙が実施されるまでの一時的なものとしてのみ彼らは国家権力を受け取った、ということを完全に明瞭にしていた。民主的選挙の実施は、正統性のある国家秩序を確立する基盤を形成する憲法会議〔憲法制定会議, Constituent Assembly〕の選出のために必要だった。
 ソヴェトはそれが代表する社会集団のために政府の諸政策と行動に決まって反対し、労働者と兵士たちを街路上に送り込む力は彼らを現実的な政治的権力に変えることになる。しかし、社会主義者の指導者たちは、自分たちの役割は全国民を代表することではなく、特定の階級を擁護するすることだと、強く主張した。
 彼らにとって、『ソヴェト権力』を語ることは受け容れ難いもので、馬鹿げてすらいた。
 社会主義指導者たちの政治的躊躇を生んだのは、イデオロギー上の信念、歴史に関する思想、現実に関する見方だった。
 彼らは、革命のための自分たちの当面の任務は民主制と市民権を確立することだと考えていた。伝統的に(とくにマルクス主義の歴史観で)リベラル・ブルジョアジーの歴史的役割と想定されてきた諸任務だ。
 この階級を打倒して社会主義を樹立するという考えは、せいぜいのところ時期尚早で、自殺するようなものですらあった。進行中の戦争を考慮しても、また、そのような急進的な実験をするにはロシアは社会的、文化的にきわめて未成熟であるがゆえに。
 ソヴェトの指導者たちは、政府を支配するのではなく政府に影響を与えようとしていると明確に述べた。躊躇しているが適切に力づけられた『ブルジョアジー』を共和国の建設、市民権の保障へと、そして将来の憲法会議のための選挙の準備へ向かわせることが必要だ、と。
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 (07) 臨時政府は、市民的、政治的改革の大胆な政策を打ち出した。—数千人の政治的犯罪者や流刑者を釈放した。言論、プレス、集会、結社の自由を宣言した。労働者がストライキをする権利を是認した。笞打刑、シベリアへの流刑、死刑を廃絶した。民族または宗教による法的制限を撤廃した。フィンランドに憲法を回復した。ポーランドに独立を約束した。ロシアと帝国全土の地方行政の仕組みにより大きな権限を付与することに一般的に賛成した。女性に投票する権利や役職に立候補する権利を保障した(当初は若干の躊躇いがあったが、女性労働者の路上示威行進を含む女性たちの抗議にすみやかに屈した)。そして、普通、秘密、直接、平等の選挙権にもとづく憲法会議選挙の準備を開始した。
 こうした改革は確かに、当時の世界で最もリベラルなものだった。言葉だけではなく、行動の点でも。
 しかし、政府は、三つの深刻な問題を解決するのは、イデオロギー的と実際的の両方の理由で困難であることも分かった。
 第一に、より多くの土地を求める農民たちの要求を、ただちには満足させることができなかった。
 臨時政府はたしかに、土地改革の作業を始めた。
 しかし、財産権の再配分に関する最終的決定を行なうには本当の民主主義的権威をもつ政府の樹立を待たなければならない、とも主張した。
 第二に、経済的な不足と混乱を解消することができなかった。
 これには少なくとも、リベラル派としては受け容れられない、社会的、経済的な政府による統制をある程度は必要としただろう。
 第三に、戦争を終わらせることができなかった。
 それどころか、ロシアを戦闘から一方的に撤退させるするつもりはなかった。彼らは戦闘を、民主主義諸国のドイツの軍国主義と権威主義に対するものだと見なしていた。
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 (08) ペテルブルクはロシアではない。Nikolas 二世はそう言うのが好きだった。国内の農民や町の住民は忠実な民衆で、厄介な首都居住者のようではなかった。
 しかし、二月の革命はただちにかつ強いかたちで、ロシアと帝国じゅうに広がった。
 地方の町々では、熱狂的な示威行動者が街路を埋め尽くした(最初は地方警察とコサックが解散させた)。彼らは、革命的な歌をうたい、新しい秩序を支持する旗を掲げ、長時間の抗議集会に参加した。
 諸政党とソヴェトが設立された。
 新しい地方政府は、旧体制を維持しようとする軍隊や警察を武装解除させた。そして、地方の官僚組織を新政府を支持する行政担当者に変えた。
 帝国の非ロシア地域では、少数民族の自治を要求するという重要な事項が加わって、同様のことが展開した。
 実際のところ、首都以外での最も直接の革命の効果はおそらく、強い地方主義〔localism〕だった。その理由はなかんずく、ペテログラードにある政府には地方で権力を行使する手段がなかったことだ。
 民衆のほとんどが住んでいる村落では、農民たちは、彼らなりの支持方法と熱狂でもって、革命の報せに反応した。旧体制の役所と警察を掌握し(ときには叩きのめし)、村落委員会を組織し、とりわけ、聞こうとする者全てに対して、革命の主要な目標は現実に耕作している者たちの手に全ての土地を譲渡することであるべきだと語った(7)。
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 (09) 1917年の危機的事件のいずれにも、直接的かつ具体的な原因があった。すなわち、外交文書の漏洩、急進者による路上示威運動、軍事クーの企て、ボルシェヴィキの蜂起。
 しかし、全ての危機のより深原因は、多数の当時の人々およびのちのたいていの歴史家の見解によれば、教養あるエリート層と一般民衆のあいだの『越え難い亀裂』にあった。
 あるリベラルな軍事将校は3月半ばに、各層の兵士たちの中での経験にもとづいて家族に対して、一般民衆の考えをこう説明した。「起きたのは政治的革命ではなく社会的革命だった。そこでは、我々は敗北者で、彼らは勝利者だ。…以前は我々が支配したが、今では彼ら自身が支配しようとしている。彼らが語る言葉の中には、過去何世紀にもわたる、仕返しされていない侮蔑がある。共通する言語を見つけることはできない。」(8)
 この階級間の亀裂は、『二重権力』という編成体制をますます脅かすことになった。この体制自体がこの分裂を具現化したもので、1917年の経過と結果を形づくることになる。
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 (10) 戦争は、新しい革命政府にとって、最初の危機の主題だった。
 臨時政府は、帝制政府の併合主義的戦争遂行の放棄を求めるペテログラード・ソヴェトの圧力を受けて、3月後半につぎの宣言文を発した。「自由ロシアの目標は他国民衆の支配ではなく、彼らの財産の奪取でもなく、外国領土の力づくでの掌握でもない。これらではなく、民族自決を基盤とする安定した平和を支えることだ。」(9)
 同時に、外務大臣の Paul Miliukov は連合諸国に外交文書を送って、勝利するまで戦い抜くと決意していること、敗戦国に対しては通常の『保証金と制裁』を課すのを用意していること、を伝えた。これは多くの人々の想定では、1915年に連合諸国と協定したように、ロシアがDardanelle 海峡とConstantinople を支配することを含んでいた。
 この文書の内容がプレスに漏れ、4月20日に報道されたとき、その効果は爆発的なものだった。なぜなら、ペテログラード・ソヴェトと臨時政府自身が発した宣言が示す外交政策方針と直接に矛盾していると見えた。政府の宣言はソヴェトに対する偽善的な休止のようだった。
 武装兵士を含む、激怒して抗議する大群衆が、『Miliukov-Dardanelskii』、『資本主義者大臣』、『帝国主義戦争』を非難して、ペテログラードとモスクワの路上を行進した。
 Miliukov は辞任を余儀なくされ、内閣は社会主義者を含むように改造されなければならなかった。このことは民衆の政府への信頼を回復するのに役立った。しかしまた、ソヴェトを指導する諸政党を、政府の将来の失敗について責任のある立場に置いた。
 主要な社会主義政党の中で『ブルジョア』連立政府に加わることを全党員に許さなかった政党が一つだけあった。レーニンがまだ主流派でなかった、ボルシェヴィキだ。
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 (11) ソヴェト指導部は、彼らへの支持を高めるべく、6月18日の日曜日に、ペテログラードでの『統一』示威行進を組織した。
 掲げられたスローガンは、『革命的勢力は団結せよ』、『内戦をするな』、『ソヴェトと臨時政府を支持する』等だった。
 この反面で起こったのは、あるソヴェト指導者の回想によると、『ソヴェト多数派とブルジョアジーの顔への、ピリッとした瞬時の一打ち』だった」(10)」。
 ソヴェト支持のスローガンがあちこちにある真っ只中で、行進者が掲げる旗の多くには、ボルシェヴィキのスローガンが書かれていた。例えば、『10人の資本主義者大臣はくたばれ』、『彼らは闘う用意をするよう約束して我々を騙した』、『あばら小屋に平和を、宮殿に対しては戦争を』、そして徐々に有名になっていた『全ての権力をソヴェトへ』。
 ——
 つづく。

2763/M.A.シュタインベルク・ロシア革命①。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
 この書物の構成・内容はつぎのとおり。
  *謝辞
  *目次
 序説—ロシア革命を経験する
 第一部・史料と物語
  第一章/自由の春—過去を歩む
 第二部—歴史
  第二章/革命・不確実性・戦争
  第三章/1917年
  第四章/内戦
 第三部—場所と人々
  第五章/街路の政治
  第六章/女性と村落での革命
  第七章/帝国を打倒する
  第八章/夢想家たち
 結語—未完の革命
  *文献
  *索引 p.371-p.388.
 --------
 第三章から始める。
 原書にはない段落番号を付す。一行ごとに改行する。原書での” ”は『』で表現し、イタリック体強調の文字は<>で挟む。
 注記(章のあいだにある)の内容は訳さず、注番号だけ残す。
 章のあいだに「* * *」の一行が挿入されていることがある。章内の大きな区切りと理解して、前後を「節」で分ける。
 ——
 M. A. シュタインベルク・ロシア革命 1905-1921 (Oxford, 2017)
 第三章/1917年
 第一節①
 (01) 歴史家は多様なかたちで1917年の物語を記述してきた。
 とくに、学問分野としての歴史学の進展は、1917年をどう理解し、解釈し、叙述するかを変化させてきた。—この「科学的」理性は、政治的およびイデオロギー的な好み(革命、社会主義、リベラリズム、国家、民衆の行動—むろんソヴィエト同盟自体—について歴史家がどう考えるか)や、また倫理的価値観(歴史家が例えば不平等性、社会的公正、暴力についてどう考えるか)とすら、不可分に絡み合ってきたけれども。
 我々が研究する人々にとってもそうだが、歴史家たちには、『歴史』と称している記述はどのような性格のものであるかにについて、考え方に分かれがある。
 近年に変わった主要なことは、一般の人々(とくに兵士、労働者、農民)、女性、少数民族、地方、帝国の辺境に対してもっと注意を向けるべく、政治指導者たち、国家制度、地理的中心部、男性、ロシア民族からいくぶんか焦点を逸らしたことだ。
 さらにもっと最近では、学者たちの関心は主観的なもの〔subjectivities〕へと向かっている。—人々が語る考え方や要求へとのみならず、価値観や感情という曖昧な領域へと。このことは、歴史という記述の様相をさらに豊かにし、かつ複雑にしている。
 しかしながら、学者たちは最近でも、歴史を形づくるに際しての大きな構造〔structures〕の重要性をあらためて強調している。すなわち、経済の近代化、資本主義、法制、イデオロギーや思想の世界的潮流、国際関係、戦争。
 もちろん、こうした異なる研究方法は相互に排他的なものではない。
 これらは多様なかたちで結びついてきた。—私がこの書物でそうするように。
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 (02) 1917年の大きな危機的事件、それはとくに首都ペテログラードで発生したのだったが、革命に関する標準的な記述の基礎になっている。すなわち、帝制を転覆させた二月革命、戦争継続に関する四月危機、蜂起に近かった七月事件、八月に起きたKornilov の反乱の失敗、そして、ボルシェヴィキが権力を掌握した十月革命。
 これらの事件の背後にあるのは、因果関係〔causation〕の物語だ。戦争の推移、経済の崩壊、社会的格差の拡大、政府の失敗。
 この因果関係は、我々には最も馴染みのある、歴史の記述の方法だ。—説明可能な原因と重要な結果を結びつけて諸事件を語ること。
 除外したことも含めて、このような方法に馴染みがあっても、このことは諸事件の必然性を語るのと矛盾はしない。
 のちの章では、別の観点から1917年に立ち戻ることにしよう。
 しかし、これら諸事件と諸経緯は、最も重要な構造と基盤だ。
 そして、珍しいことに、たいていの歴史家は、何が起こったか、なぜ、何が変わったかについては合意している(1)。
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 (03) 最初の危機は2月23日(3月8日)に始まった。その日、ペテログラードの数千の女性織物労働者たちが工場から路上に出た。パンと食糧の不足に抗議するためだった。また、国際女性デーを記念してだった。これに加えて、首都その他の都市のきわめて多数の男女がすでにストライキに入っていた。
 この危機は都市と国土じゅうにすみやかに広がった大混乱であり、数日を経て、政府は打倒された。このことは、権力をもつ者たちには驚きではなかったはずだ。
 首都に潜入していた秘密警察の要員たちが1917年1月頃に報告書で述べていたのは、「市民の広範囲で権限をもつ者たちに対する憎しみの波」(2)が高まっていたことだった。
 増大する民衆の怒りは、戦争による損傷により、悪化する絶望的な経済状況により、とくに食糧不足と物価高騰により、いっそう激しくなった。また、無関心であるか無能であるかのいずれかと見えた国家の諸政策によっても。
 大衆の雰囲気に敏感だった支配エリート層の中には、民衆の不満を反映した思いが生まれた。すなわち、戦争遂行や自分たちの政治的、社会的な地位の維持は下級の階層の騒擾によって危うくなる可能性がある、という恐怖。
 数を増やしつつ労働者男女が首都の街路に出てくるとき、連呼の声、旗、演説はパンを要求したが、同時にまた、戦争の終止と専制の廃止も要求した。
 学生、教師、ホワイトカラーの労働者たちが、民衆に加わった。
 暴力行使が散発して起きた。とりわけ店舗のショーウィンドウは破壊された。
 棒や金物の一部、岩石、そしてピストルをもつ者も、行動者の中にはいた。
 社会主義活動家はそうした運動を激励したけれども、彼らには現実の指導力または方向指示能力がなかった。
 運動は、不安を解消する熟慮した行動であるというよりは、不満の発現だった。
 そのようなものとして、社会主義者たちは諸行動を、『革命』ではなく『騒擾〔disorder〕』だと見なした(3)。
 あるいは、前線にいるNicholas 二世に書き送った皇妃 Alexandra の侮蔑的な見方によれば、示威行動者たちの行動は自分たちのために耳障りな騒乱を起こしている『フーリガン運動』だった(4)。
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 (04)  皇帝は情報を十分に与えられず、何が起きているかを理解することができなかったので、その反応は過信と不寛容が致命的に入り混じったものだった。
 皇帝は2月25日、ペテログラード軍事地区司令長官に対して電報を打った。それには、つぎの致命的な文章があった。—「貴君に命令する。明日、首都の騒擾を終焉させよ。この騒擾は、ドイツ、オーストリアと戦争している困難な時期には受け容れ難い」(5)。
 警察と地方連隊兵士たちはこの命令に従い、民衆を攻撃し、傷つけ、殺害した。
 政府官僚たち、そして社会主義指導者たちは、これで事態は鎮静化したと思った。
 しかし翌日、兵士たちが示威行動者たちの側に立って街路上に出現した。
 首都の軍事的権力の有効性が崩壊したとなって、権力空間にパニックが生まれた。とくに、混乱が国土じゅうの諸都市に広がり、各地方の連隊兵士たちがしばしば路上の示威運動者たちに加わったので。
 2月27日、内閣はドゥーマ〔State Duma, 議会〕を延期し、ドゥーマの指導者(政府の改革だけがロシアを鎮静化でき、戦争継続を可能にすると執拗に主張し続けた)を、大混乱の責任があると非難した。そのあと、内閣の大臣たち自身が辞職した。
 おそらく最も決定的だったのは、最上層の軍事指導者たちがこうNicholas二世を説得したことだ。ドゥーマが支配する新しい政府のみが『気分を鎮める』ことができ、『全国土に拡大する無政府状態』を止めることができる。今の状態は、軍の解体、戦争遂行の終焉、『極左〔extreme left〕分子による権力の掌握』(6)につながるだろう」、と。
 自分の将軍たちにまで反乱が及んでいる事態に直面し、Nicholas は裏切られたと感じた。だが、自分には選択の余地がないことを理解した。
 戦争を継続し、君主制を守ることを望んで、彼は3月2日に退位し、弟のMikhail を後継者に指名した。弟は妥協をより好むと考えられていたのだったが。
 Mikhail は皇位の継承を拒んだ。これが、300年続いたRomanov 王朝を劇的に終わらせ、ロシアを事実上の共和国にする、静かな意思表示だった。
 しかし、革命は始まりにすぎなかった。
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 (05) 1917年の残りの期間は、誰が権力を握り、維持するかに関する闘いが生んだ、一続きの危機だった。
 この闘いの大部分は、『二重権力』という独特の装置によって具体化された。『二重権力』とは、ペテログラードの労働者と兵士の代表者のソヴェト(評議会)と新しい臨時政府のあいだの、緊張した政治的関係を意味した。
 (前者は工場と連隊での選挙によって選出されるのだが、すみやかに労働者、兵士、農民の代表者の全国ソヴェトになった。そして、全国の地方ソヴェトによって、首都へと代議員が派遣された。後者はペテログラード・ソヴェトと協定をしたドゥーマの議員たちによって設立された。)
 しかしこれは、『二重権力』の最も主要な側面にすぎなかった。それは本当は、帝国全体の現象であり、国家のほとんど全ての政治的関係で具現化された。すなわち、軍隊では将校層と兵士委員会のあいだ、工場では経営側と労働者委員会のあいだ、村落では伝統的共同体と農民委員会のあいだ、学校では学校管理者と学生評議会(ソヴェト)のあいだ、の政治的関係。
 世代は、この物語の一部だ。つまり、委員会、これはソヴェト『階級』とも称されるが、若者で構成される傾向があり、その若者はしばしば前線から帰還した兵士たちだった。
 二重の権力は、実際にそうだったよりも単純なものに見えている。実際には、両者のあいだの協力や対立の程度は、国じゅうで、また時期によって変化したし、変更可能なものだった、というだけではない。帝国の広い部分で、地方の少数民族あるいはその他の集団を代表する団体は、以上のような政治的関係をさらに複雑にしていた。
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 つづく。

2762/ChatGPTとロシア革命本。

 ChatGPT-4o というものを利用している。あるいは、利用できる状態にある。
 「Generative」=「生成」と言っても、蓄積している情報の「収集」・「検索」が前提になる。したがって、ある主題について、いったい何をどの程度に蓄積しているかによって、質問に対する回答の正確さ・適切さも異なる。
 一般に、自然科学系の、かつ各種「辞書」類に記述されているような情報については相当に正確だと思える。
 例えば、ヒトの「DN A」も「ゲノム」(ヒトゲノム)も(各個体で)「99.9パーセント同じ」というのは「正しい」と、瞬時に回答してくる。「0.1パーセントの違い」が重要な違いをもたらすとも、付記してくる。「エクソン」と「イントロン」の違いも知っている(但し、この二つが「遺伝子」を構成するとの説明は適切だったか?)。細胞分裂時に二倍化した「染色体」群が「赤道」上に整列して両極に引っ張られる場合の上下(または左右)は一方が父親由来でもう一方が母親由来なのかという素朴な確認的質問には、「否」とこれまた瞬時に回答してくる(どちらに由来かは偶然または「なりゆき」だ)。
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 一方で、人文系・社会系問題または主題については、それこそ「収集」し「検索」対象としている情報の内容・範囲に依存してしまうので、正確なまたは適切な回答を期待するのはそもそも無理があるだろう。
 例えば、Leszek Kolakowski の「マルクス主義の主要潮流」の日本語翻訳書が出版されていない理由は何か、と問うてみても、想定または期待しているような回答は得られず、外国語著の日本語翻訳書がない事情一般に傾斜した回答しか出てこない。ChatGPTの情報が英米語中心でLeszek Kolakowski がポーランド人であることによるのかもしれないが、この人物がアメリカ連邦議会図書館が授与するKluge賞の第一回受賞者だったと知っているか(その情報を蓄積しているか)も疑わしい。
 なお、とくに日本での事情として<冷戦後にマルクス主義への関心が低下した>ことを理由の一つにしていたので、1970年代後半(英米語・ドイツ語翻訳書あり、フランス語の1-2巻翻訳書あり)に出版された上掲書にはあてはまらない(「的はずれ」)と再度書き送ったら、一部に「的はずれ」なことを書いて「お詫びします」と反応してきた。なんと、ChatGPT-4oと「会話」、「議論」ができるのだ。少なくとも<ヒマつぶし>には十分になるだろう。
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 ロシア革命に関する英米語文献で代表的なものは何か、邦訳書が存在していなくてよい、と質問してみたときの回答は興味深いものだった。
 ①Richard Pipes②Orlanndo Figes、の著書(大著)に加えて、③Mark D. SteinbergのThe Russian Revolution 1905-1921(2017)の三つだけが挙げられていた。
 ①と②は原書を所持していて、この欄に一部または相当部分の「試訳」を掲載したこともある。これらが英米語圏で代表的・標準的とされている書物であることに間違いないだろう。Orlanndo Figes の著は、"A Peoples Tragedy: The Russian Revolution: 1891-1924 "(1996)。
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 ③のMark D. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921(2017)を入手してみると(この本はいわゆる編年的な概説書ではない)、「1917」と題する章(第二部/第3章)の冒頭の最初の注記にこうある。
 「私の記述は1917年に関する多数の学術的文献による」、「それらの文献の多くは、注記で参照を示す」。
 「英語による、革命に関するとくに影響力のある概説書(general histories)には、つぎがある」。
 そのあとに著者だけが8名挙げられている。以下のとおり(たぶんABC順)。
 ①O. Figes、②Sheila Fitzpatrick、③Bruce Lincoln、④R. Pipes、⑤Alexander Rabinowitch、⑥Christpher Reed、⑦S. A. Smith、⑧Rex Wade
 ①O. Figes、④R. Pipes は上記。②Sheila Fitzpatrick の本(日本の新書2冊分くらいか)はたぶん全部の試訳をこの欄に掲載した(1931年頃の「大テロル」期まで扱う)。⑦S. A. Smith の著は1917年刊で、所持しているが一部しか読んでいない。あとの4名(4冊)は知らない。
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 具体的な著者名・文献名も興味深いが、日本と日本人にとって重要なことは、つぎのことだ。
 ChatGPT による三冊にせよ、Mark D. Steinberg によるこの本人以外の8名の著書にせよ、日本語翻訳書=邦訳書は、(おそらく)まったくない。
 山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007)は、ロシア革命に関する文献としてトロツキー・ロシア革命史(角川ほか/原著・1931)を挙げる。
 出口治明・教養が身につく最強の読書(PHP文庫、2018)は、100冊以上の本のうち、ロシア革命に関するものとして、ジョン·リード・世界をゆるがした十日間/上下(岩波文庫/原著・1919)を挙げる。
 上は若干の例にすぎないが、日本のロシア革命の歴史に関する翻訳書の出版状況は、英米語が通用する諸国に比べて、相当に異様、異常だと考えられる。
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 一部の例とはいえ、1919年や1931年に出版された本等の翻訳書しか挙げられないようでは、戦後あるいは1989-1991年以降の英米語通用諸国ではより定着しているだろう<ロシア革命>の具体的イメージが枯渇していてもやむを得ないだろう(なお、E. H. カーの本を山内は敢えて避けた旨を書いている)。一方で、1917年に資本主義からの離脱が始まったとか、レーニンは1921年の「ネップ」によって新しい社会主義への路線を確立したとかの、<日本共産党・「ロシア革命」観>が平然と語られているのもむろん異常・異様だ。
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2761/レフとスヴェータ31—第11章②。

 Orlando Figes, Just Send Me Word -A True Story of Love and Survival in the Gulag- (New York, London, 2012). の試訳のつづき。
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 第11章②。
 (06) レフは恩赦が「政治的」犯罪者へと拡大されることを望んだ。
 発電施設の技術者たちの中には、内務省から釈放申請をするように言われた者もいた。
 彼らはみな58条11号(反ソヴィエト組織への加入)にもとづく判決を受けていたのだが、これはレフの場合ほど重大でなかった。にもかかわらず、彼らに恩赦が与えられればレフも解放されるだろうという希望を抱かせるのに十分だった。
 彼は4月14日に、スヴェータにこう書き送った。
 「現地の警護官が間違いをしていたと分かった。
 恩赦の対象の拡大なんてないだろう。…。
 なんと残酷な手違いであることか!
 みんな希望で胸をいっぱいにし、家族たちも彼らの解放を期待していたというのに。」//
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 (07) 受刑者の人数の減少によって、木材工場で働く労働者の数が徐々に少なくなっていった。
 材木を切って引き摺り出す収監者が満足にいなかったので、燃料や原材料の供給が劇的に低下した。
 1953年5月に収容所から輸送省へと移管されていた労働収容所当局は、ペチョラで新たに解放された収監者をそのまま雇用することで、人力の損失を埋め合わせようとした。
 受刑者の釈放を監理していた内務省の官僚たちは、いくつかの戦略を使った。
 釈放用書類を与えるのを拒み、鉄道切符を買う金を与えるのを拒んだ。また、どこへ行っても職を見つけられないと警告して、雇用労働者としてとどまり続けることができる誘引材料を提示した。
 彼らのうち何人かは、恩赦によって釈放された熟練工、職人、技術者の後継者となる訓練を受けた。
 この年の末まで、従前の受刑者たちは、運転手、大工、機械操作者、機械工および電気工として訓練を受けていた(レフは、発電施設での仕事を交替して行って、彼らの仕事の一部を行なうよう余儀なくされた。
 しかし、こうして努力してみても、木材工場の生産は急激に減少した。
 計画は達成されず。賃金や手当は減り、ほかの(同様の問題を抱えていた)労働収容施設でのよりよい条件を求めて、自由労働者たちは消え失せていった。
 レフは。こう書いた。
 「ここペチョラでは全体に減少した。とくに手荷物に古いレインコートをもつ者(すなわち従前の受刑者)は、どうすればよいか分からなかった。」(注50)
 (注50) レフとスヴェータは、雨に関係する言葉(例えば「傘」、「レインコート(Mackintosh)」)を強制労働収容所(Gulag)の暗号として用いていた。//
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 (08) 故郷に帰った新しい釈放者たちは、仕事を見つけるのにじつに苦労した。
 ソヴィエトの役人たちは一般に以前の受刑者を信頼していなかった。また、多くの雇用者たちは依然として、潜在的な問題惹起者で「人民の敵」だという疑念をもって彼らを判断し続けた。
 失業の問題は切実だったので、従前の受刑者の中には、あきらめて労働収容所に戻る者もいた。
 自力で何とかやっていくのを助けてくれる家族や友人がいない場合には、彼らに残された選択の余地はほとんどなかった。
 労働収容所は、自由なまたはそれに準じた労働者(賃金が払われるが区画を離れることは認められない)として仕事を確実に得ることのできる、唯一の場所だった。
 1953年の7月頃までに、100人以上の従前の受刑者が準自由労働者として木材工場に雇用されていた。
 1954年の末には、この人数は456人にまで増えた。
 多くは、工業区域の垣根のすぐ外側にある、以前の第一居留区の営舎で生活していた。
 彼らには一月あたり約200ルーブルが支払われた。これは、極北地帯へと自由労働者を呼び寄せるための「北方特別手当」を含まない、最低限の賃金だった。だが、労働収容所の管理機関に週に二度報告した場合にだけ、この手当を受け取った。
 このような労働者の一人は、Pavel Bannikov だった。レフと同じ営舎にいて、モスクワ地方で仕事を見つけられないで木材工場に戻ってきていた。
 レフはスヴェータにこう書いた。
 「彼はここを一時的な停留地と考えていて、この秋に再びよりよい場所を求めて出ていくことを計画している。
 彼は僕にモスクワの印象を語ったよ。記憶で飾られた細々としたことの思い出として、そして新しいものの描写物として。」//
 --------
 (09) Bannikov はスヴェータに会ったことがあった。
 スヴェータはペチョラから釈放されてモスクワへ来る多数の受刑者たちを宿泊させてやった。
 レフは彼らにスヴェータの住所を知らせ、彼女にはモスクワで彼らを助けてやってほしいと告げたものだ。
 6月12日に彼は書き送った。
 「愛しいSvetloe、きみにKonon Sidorovich〔Thachenko〕は、Vitaly Ivanovich Kuzora がきみの家を訪れると言っただろう。—そうでないとしても、僕がきっとそうした。
 そう、ここに彼はいる。彼はとてもきちんとしていて、穏やかでもある。
 僕には、モスクワの事態がどうなっていくのか分からない。
 彼には一晩か二晩の宿泊が必要かもしれない。
 とくに今の時点では、それがきみには不便なことだと分かっている。
 でも、そう長くは続かないだろう。もう一年か、せいぜいあと一年半のことだ。」
 レフには、判決で宣せられた服役期間があとまだ18ヶ月あった。そんなときに収容所からの見知らぬ人々を受け入れるのは、スヴェータには当惑と困惑が増大することに間違いなかった。
 スヴェータはレフと、二年間会っていなかった。これは、1946年に再会したあとでの、最も長い別離の期間だった。//
 ——
 つづく。

2760/レフとスヴェータ30—第11章①。

 Orlando Figes, Just Send Me Word -A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012). の試訳のつづき。
 第7章末まで終わっている。第8章〜第10章は、さしあたり割愛。 
 これは、Orlando Figes 作の「小説」ではない。
 第二次大戦が終わっていた1953年、レフ(Lev)は北極海に近いペチョラ(Pechora)の強制労働収容所にいた。スヴェータ(Svetlana)は、モスクワにいた。  
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 第11章①。
 (01) スターリンは、1953年3月5日に死んだ。
 彼は脳発作に襲われ、5日間意識不明で横たわった後に死んだ。
 その病は、ソヴィエトの新聞では3月4日に報道された。
 レフは2日後、スヴェータに書き送った。
 「この新しい知らせを、少しも予期していなかった。
 このような場合、現代の医薬の重要性がきわめて明瞭になる。//
 重要な人々が病気になったとき、自然のなりゆきより少しでも長く人間の健康を維持することが不可能であることが、完全に明らかになる。」
 --------
 (02) スターリンの死は、3月6日に全国民に発表された。
 3日後の葬儀まで、彼の遺体は赤の広場近くのthe Hall of Columns に安置された。
 巨大な群衆が、敬意を示すべく訪れた。
 首都の中心部は、涙ぐむ送葬者で溢れた。彼らはソヴィエト同盟の全ての地域から、モスクワに旅してきていた。
 数百人が、押しつぶされて死んだ。
 スターリンを失ったことは、ソヴィエトの人々には感情的な衝撃だった。
 ほとんど30年近く—この国の歴史で最も精神的打撃を受けた時代—、人々はスターリンの影のもとで生きた。
 スターリンは、彼らには精神的な拠り所だった。—教師、ガイド、父親的保護者、国民的指導者で敵に対する救い主、正義と秩序の保証人(レフの叔母オルガは、何らかの不正があったとき、「いつもスターリンいる」と言ったものだった)。
 人々の悲しみは、彼の死を受けて感じざるをえない当惑についての自然な反応だった。スターリン体制のもとでの人々の体験とはほとんど関係なく。
 スターリンの犠牲者ですら、悲しみを感じた。//
 --------
 (03) レフとスヴェータは、他の者たちと同じく、3月6日にラジオでこのニュースを知った。
 大きな衝撃と昂奮の状態にあり、二人ともに、本当にどう感じたのかを語ることができなかった。
 レフは3月8日に、こう書いた。
 「スターリンの死を全く予期していなかったので、最初は本当のことだと信じるのが困難だった。
 そのときの感情は、戦争が始まった日のそれと同じだった。」
 重大な報せについて、レフはそれ以上、付け加えなかった。労働収容所に関する政策の変化が生じ、早期に自分が釈放されるのではないかと望んだに違いないけれども。
 スヴェータもまた、用心深かった。だが、この人生の転機となる可能性のあるラジオ放送があったことで、レフと結びついて生きてきたことの喜びを隠すことができなかった。
 3月11日に、レフにあてて書き送った。
 「モスクワで先週にあったようなことは、今までなかった。
 そして何度も思いました。ラジオが発明されて、人々が同じことを同じ時に聞けるのはなんと素晴らしいことか、と。
 新聞があるのも、よいことです。
 今までより頻繁に語りかけるつもりですが、感じていることを数語で明確に語ろうと考える必要はないのだから、今はしません。」//
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 (04) スターリンの死が明からさまな喜びでもって歓迎された一つの場所は、労働収容所や収容所入植地区だった。
 もちろん例外はあり、当局または情報提供者による監視が収監者たちの喜びの表現を抑えた収容所もあった。だが、一般的には、スターリンの死の報せは、歓喜の声の自然発生的な爆発でもって迎えられた。
 レフは、「誰一人、スターリンのために泣きはしなかった」と思い出す。
 収監者たちは疑いなく、スターリンは自分たちの惨めさの原因だ、と考えていた。そして、そうして安全だと分かったときは、恐がることなくスターリンに対する蔑みの言葉を発した。
 レフは、1952年10月以降の事態を思い出す。その10月、彼の営舎の仲間たちは、党中央委員会最高幹部会での選挙の結果について、ラジオ放送に耳を傾けた。
 候補者たちが獲得した投票数が次々と読み上げられ、それが終わった後でアナウンサーは言った。「Za Stalina !! Za Stalina !!」(「スターリン万歳 !! 」)。
 収監者のうち何人かは、その代わりに「Zastavili !! Zastavili !!」(「強制だ !!」)と唱え始めた。これは、選挙は不正だ、ということを意味した。
 誰もがこれに加わり、この冗句を愉しんだ。//
 --------
 (05) 収監者たちの間では、スターリンの死によって釈放されるだろうと、一般に推測された。
 3月27日に政府は、5年以下の判決に服している受刑者の恩赦を発表した。これらは、経済的犯罪者とされた55歳以上の男性、50歳以上の女性および治療不可能の病気をもつ受刑者だった。ーつぎの数ヶ月間に、約100万の受刑者が釈放される見通しだった。
 木材工場では、1953年中に恩赦の対象になるのは、受刑者数のおよそ半分だった(1263名から627名へと減る)。
 釈放される者たちのほとんどは犯罪者だった。この者たちは暴れ回り、店舗から略奪し、家屋から強奪し、女性を強姦し、町中でテロルを繰り広げるまでになった。
 レフは〔1953年〕4月10日に、スヴェータにこう書き送った。
 「我々の仲間の何人かはもう外に出て、意のままにペチョラを徘徊している。
 彼らは、あらゆる機会を利用して、力ずくで盗んでいる。
 最悪の者たちは、自由気儘にやっている。
 髭を生やした見映えのよい、Makarovだ。…この人は武装強盗をして8年間服役した。
 Kolya Nazhinsky も、いなくなった。—この人は6キロの粥〔kasha〕を盗んで1947年にはここにすでに10年間いた。
 そして、去年に仲間の一人から300ルーブルを盗み、Nやその隣人から少しずつ金をくすねた。
 でもしかし、みんなはこの人の愚かさと彼に対する元々の判決の不公平さを憐れむばかりだ。この判決がなければ、彼は窃盗をしなかっただろうから。」//
 --------
 第11章②((06)〜)へとつづく。 

2759/江崎道朗の「血筋」・「家系」観。

  江崎道朗はかつて、「日本会議専任研究員」という肩書きで月刊正論(産経新聞)に執筆していた。私がこの雑誌を読み始めた頃は、「評論家」になっていた。日本会議の専任研究員になる前は、日本会議の有力構成団体である日本青年協議会の月刊誌『祖国と青年』の編集長をしていた。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 この新書は秋月瑛二の<産経新聞的・保守>に対する不信を決定的なものにした記念碑的?著作だった。この書については多数回、すでに触れた(まだ指摘したいことはあったが、アホらしくなってやめた)。
 上の江崎書が相当に依拠していたのは、つぎだった。
 小田村寅二郎・昭和史に刻む我らが道統(日本教文社、1978)。
 小田村寅二郎(1919〜1999)は、「日本教文社」という出版元からある程度は推察されるだろうように、かつての<成長の家>関係者だった(この組織の現在の政治的主張はまた別のようだ)。
 江崎道朗が依拠する聖徳太子理解を小田村が戦前に執筆したのは戦前の<成長の家>の新聞か雑誌だった。
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  今回に再び述べたいのは、以上のことではない。
 江崎道朗の「血筋」・「血族」または「家系」に関する単純な感覚を、その小田村寅二郎への言及の仕方は示している。
 すなわち、江崎は、上の新書の中で少なくとも4回、繰り返して、つぎのように小田村を紹介または形容した。
 小田村は「吉田松陰の妹の曾孫」だった。
 一度だけならよいが、短い頁数の中に、小田村を形容する常套句のごとく、上の言葉が出てくる。
 これはやや異常であるとともに、「吉田松陰」の縁戚者であることをもって、小田村の評価を高めたいからだろう。そのような「血族」または「家系」の中に位置づけられる「きちんとした」人物だ、と言いたいのだろう。
 しかし、まず、「吉田松陰」を相当に高く評価している者に対してのみ通用する言及の仕方だ。この前提を共有しない者にとっては、何の意味もない。
 ついで、「吉田松陰の妹の曾孫」なのだから、松陰の直系の子孫ではない。妹の三世の孫というだけだ。実際のことだとしても、松陰は小田村の曾祖母の兄なので、親等数で言うと5親等離れている。
 だが、そもそもの疑問は、いったいなぜ、曾祖母の兄が松陰だということが小田村寅二郎の評価と関係があるのか、だ。
 ある人物の評価を過去の5親等離れた者の評価と関係づける、という発想自体が、私には異様だと感じられる
 かつまた、きわめて危険だと思われる。
 吉田松陰は当時の犯罪者であり刑死者でもあったが、松陰に限らずとも、一般論としてつぎのように言い得るだろう。
 5親等離れた者の中に犯罪者がいる(あるいは死刑になった者がいる)ことをもって、その旨を探索して、その人物を非難する、貶める、ということは許されるべきではない。江崎道朗の発想と叙述は、このような思考方法、人物評価方法の容認へと簡単につながるものだ。
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  江崎道朗の影響を受けた者に、つぎの人物がいる。
 竹内洋(1942〜)。京都大学名誉教授。
 竹内洋は<知識人と大衆>主題とする書物を多数刊行している。不思議だとかねて思ってきたのは、竹内は自分が「知識人」の中に含まれることをおそらく全く疑うことなく、叙述していることだ。新潟県佐渡から京都大学に入ったことだけではまだ「知識人」と言えないとすると、(とくに文科系の)大学教員であることをもって、「知識人」だと自己認識しているのだろうか。
 この竹内洋は、上記の江崎道朗書の「書評」を産経新聞に掲載した(2017年9月)。
 「伝統にさおさし、戦争を短期決戦で終わらせようとした小田村寅二郎(吉田松陰の縁戚)などの思想と行動」を著者・江崎は「保守本流」の「保守自由主義」と称する。この語はすでにあったが、これを「左翼全体主義と右翼全体主義の中で位置づけたところが著者の功績」。
 このように江崎書の「功績」を認めるのも噴飯ものだが、ここで注目すべきは、つぎだ。
 「小田村寅二郎(吉田松陰の縁戚)」
 竹内洋は、さして長文ではない文章の中で、わざわざ、小田村は「吉田松蔭の縁戚」者だと書いているのだ。5親等離れた「縁戚」者なのだが。
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  「血族」、「家系」あるいは「縁戚」という意識・感覚というのは、なかなかすさまじいものだ。
 竹内洋は、江崎道朗もだが、以下の事例をどう感じるのだろうか。他にも、多様な事例があるものと思われる。なお、「縁戚者」の「自殺」の動機を、私は正確に知っているのではない。
 ①1972年2月、<浅間山事件>を起こした連合赤軍の活動家の一人の「父親」が—直近の「縁戚」者だ—、その一人の逮捕・拘束の前に、滋賀県の自宅で自殺した。
 ②2021年6月、<和歌山カレー毒殺事件>の犯人として死刑判決を受けて拘禁中の者の「長女」が—直近の「縁戚」者だ—、その娘とともに大阪湾に飛び降りて自殺した。
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2758/遺伝と「優生」—2024年2月·日本精神神経学会声明。

 今年2024年の2月、日本精神神経学会は、会長名でつぎの「声明」を発表した。同学会Website より引用。「」をつけない。
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 優生保護法について 
 2024年2月1日
 公益社団法人 日本精神神経学会
 理事長 三村 將
 1948年に成立した優生保護法は、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」ことを目的とし、当時の優生学・遺伝学の知識の中で遺伝性とされた精神障害・知的障害・神経疾患・身体障害を有する人を、優生手術(強制不妊手術)の対象とし、48年間存続しました。しかし日本精神神経学会(以下、本学会)は、これまで優生法制に対して、政府に送付した「優生保護法に関する意見」(1992年)を除き、公式に意見を表明したことがありませんでした。このたび本学会は、法委員会において、優生保護法下における精神科医療及び精神科医の果たした役割を明らかにし、本学会の将来への示唆を得ることを目的として、数年にわたる調査を行いましたので、ここに報告します。 
 詳細な調査結果は報告書にありますが、自治体によって違いがあるものの、優生保護法成立からほぼ10年にわたり、行政主導で強制不妊手術の申請と承認に関わる強固なシステムが作り出されました。人口が急増し、生活が窮乏するこの時代において、行政と優生保護審査会が一体となって優生保護法を運用し、多数の強制不妊手術という犠牲を生みました。申請者である精神科医の肉声は残されていませんが、国家施策を前にした傍観の中で、無関心・無批判のまま、与えられた申請者としての実務を果たしてきました。また、精神科医も加わった優生保護審査会は、申請システムの実態を知った上で大部分の申請を承認しており、申請者以上に重い責任があります。
 本学会は強制不妊手術の問題が指摘された1970年代に至っても公式に意見を表明することもなく、不作為のまま優生保護法は存続し、被害者を生み続けることにつながりました。積極的であろうが消極的であろうが、強制不妊手術を受けた人々に取り返しのつかない傷を負わせた歴史的事実から目を逸らすことは許されません。
 ここに、精神科医療に責任を持つ学会として、強制不妊手術を受けた人々の生と人権を損ねたことを被害者の方々に謝罪いたします。
 優生保護法を過去のこととしてすますことはできません。本学会は、この歴史に学び、再び同じことが繰り返されないよう、精神医学と社会の関係を深く自省し、常に自らの問いとしていかなければなりません。さらに、本学会の使命として、現在もなお存在する精神障害や知的障害への差別、制度上の不合理を改革するため、力を尽くすことを誓います。
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 以上。
 この声明は、「優生保護法」にもとづく行政執行に加担し、「強制不妊手術」を行うなどの「人権」侵害を行なったことを、「謝罪」している。
 学会自体が加担・協力したのではないから、いかに会員医師が関与していたとしても学会自体が「謝罪」するとは稀有なことだろう。
 それに、「優生保護」に関係するのは〈精神神経〉医学のみならず、「遺伝」性疾患に関係する全ての医学分野だろう。日本に「遺伝学」に関係する学会も他にあるはずだが、他の「学会」がこのような声明を出したとは、聞いたことがない。
 ともあれ、この法律(現在は廃止)によると「申請者」は医師とされ、その申請の適否の決定には(都道府県単位での)優生保護審査会が関与するところ、その委員には精神神経医を含む医師が就いていた、という。
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 いくつかの感想が生じる。
 第一は、医学・医師と行政・社会の関係だ。
 医師はそれぞれの分野の専門家であるかもしれないが、個別の案件にかかる審議会・審査会の委員として活動するとき、そのつどの案件にかかる結論的判断を、その案件を所管する行政部局・その担当公務員にほとんど委ねてしまうことがあるのではないか。行政主導であり、医師から言えば行政追随だ。
 例えば、「保護」=手当支給の要否に関する特別児童扶養手当法上の認定にも、医師(1名でよい)の判断が必要だが、これが自立して、行政側の事前判断に影響を受けないで行われているとは言えないのではないか、という感想を持ったことがある。この例の場合は、「遺伝」ではなく、心身全体の諸疾患や発育不全に関する医学的判断がかかわっている。
 以上のことは反面では、「優生保護法」の場合は、厚生省の所管部局の歴代の官僚たちの責任の大きさだ。現在の大臣や首相が詫びて済むものではない。
 第二は、「遺伝」に関する医学的・科学的根拠があいまいなままで行われた「優生保護」なるものの恐ろしさだ。
 ある疾患・症状・身体状況が「遺伝」性のものであるか否かは、今日でも明瞭なものはほとんどないと思われる(例外として、母親由来の血友病があるとされる)。
 精神神経系の「統合失調症」についても、「遺伝」の関与度は明確でない。参照文献を示さないが、一卵性双生児のうちの一人が「統合失調症」を発症した場合、遺伝子は同じはずの双生児のもう一人も発症する確率は約50パーセントだとされる。高い数字ではあるが、しかし、同じ遺伝子をもつからつねに同じ(精神的)疾患を発症するというのでは全くなく、半分は「生後の環境」によることをこの数字は示しているだろう。
 なお、「生まれ」=遺伝か「育ち」=環境か、という一般的問題にこれもかかわるが、はっきりしているのは、どの点についても<単純なことは言えない>ということだ。これを、生物学的・「生命科学」的には、両親の遺伝子・染色体から「受精卵」という細胞が形成されるまでの複雑な過程も示している、と考えられる。
 第三は、生物学・遺伝学等々の正確な知見をふまえないで行われた政治・行政施策の、おぞましい歴史。
 ナツィス・ドイツ、そしてスターリン・ボルシェヴィズム。
 S·ムカジーによると、前者によるホロコーストは「遺伝の万能視」によって生まれた。<汚れた血>の除去による<民族の浄化>。なお、ユダヤ人に対してのみならず、精神神経面も含めた「弱者」に対しても、「安楽死」政策が進められた。
 S·ムカジーによると、後者は「遺伝の無視」によって生まれた。 すなわち、「遺伝」と関係なく、<一世代で人間を(イデオロギー面も含めて)改造することができる>、という非科学的な信念。なお、これを助長したのは、遺伝に関するT・ルイセンコの学説だった。
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2757/安倍晋三銃撃事件2年。

 安倍晋三元首相は2022年7月8日、近鉄·西大寺駅北口で選挙応援演説中に、奈良市在住の成人男性・山上徹也によって後ろから銃撃され、死亡した。救急車で運ばれる途中ですでに「心肺停止」の状態だったとされるから、ヘリコプターに乗せられ奈良県立医大病院に着くまでにすでに、回復・救命の可能性はゼロに近かったように推測される。安倍晋三自身は、「死」の予感・意識もなく、早々に「昏睡」→「意識喪失」の状態だったのだろう。
 この銃撃→殺害を許した理由として、政党(応援を受ける候補者の事務所・自民党奈良県蓮・自民党本部)による「私的」警護と地元警察=奈良県警察本部のよる「国家的・公的」警護に不備があったことは、ほとんど明らかなこととして、直後から指摘されてきた。
 銃撃者・山上徹也(起訴されている成人なので匿名化の必要はない)の、カバンを抱えてのつぎの行動を、誰も、全ての警護関係者が、見ていなかった。信じがたいことだった。
 ①歩道内を移動して、車道との間のガードレールを乗り越えて車道部分に入ったとき
 ②車道内を移動して安倍元首相の背後で止まり、安倍晋三の方に目を向けたとき
 ③安倍晋三の背後からさらに近づき、射撃の態勢をとったとき。なお、「射撃」は「砲撃」だったかもしれない。その射撃・砲撃の準備(ライフル状の武器の組み立て)は②と③のいずれかのとき、またはこれらのあいだに行われたはずだ。
 これら①・②・③のいずれかのときに警備関係者の一人でも気づき、例えば、「おい、何をしてるんだ」、「止まれ」、「やめよ」等と叫んだり、さらに銃撃犯・山上に近づく、突進するということをしていれば、射撃・砲撃は行われなかった、また行われても安倍晋三に命中することはなかった、と思われる。
 再び書くが、信じがたい、警護の<杜撰さ>だった。
 この不備がなければ、安倍の背後で不審な挙動をしている者がいることを誰かが察知して何らかの反応をしていれば、安倍晋三の年齢からして、彼は現在でも生きている可能性がすこぶる高いだろう。
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 政治家、安倍晋三に限らず、人は突然に死ぬことがある、ということを強く印象づけた事件だった。
 加えて、直後に<気味悪気く>感じたこともあった。
 第一は、当時の奈良県警本部長・鬼塚友章の、記者・報道関係者を前にしてのつぎの言葉だ。むろん、具体的内容は別として<警備に不備があったこと>は認めたうえでのものだ。
 <私の警察官人生で、最大の痛恨事だ(だった)>。
 具体的な警備体制の不備を反省して語るならばよい。
 しかし、銃撃・砲撃を許し元首相・安倍晋三を死亡させたという事実の重みの前で、なぜ、「個人的な感慨」、「長い警察官人生での位置づけ」を、のうのうと?あるいはのんびりと?、語る、あるいは吐露する、そういうことができたのか。どこから、そういう精神的余裕が生じたのだろう。
 たまたま在任中で、実質的・具体的には、この人自身には大きな過失はなかったかもしれない。だがむろん、立場、組織の長としての「責任」はある。在任中で「運が悪かった」というのが、奥底の「本音」だったかもしれない。そのうえでしかし、どういうふうに(形の上で)<責任をとることを示す>かに「思い悩んだ」のだろう(結局、辞職した)。
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 第二。逮捕・勾留中だったのか、起訴後だったのか記憶していないが、殺害犯・山上に対して、つぎの運動が始まった、とされる。動機等についての非公式の情報しか伝えられいないなかで、あまりにも早すぎる。そして、気味が悪かった。
 減刑運動
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2756/読書メモ—2024年7月上旬。

 読書メモ、2024年2月以降の読書の一部。
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 1 高橋祥子・ゲノム解析は「私」の世界をどう変えるか—生命科学のテクノロジーによって生まれうる未来(ディスカヴァー21、2017)。
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 2 辻田真佐憲・ふしぎな君が代(幻冬社新書、2015)。
 記憶に頼る。この書によると、歌詞は別として、旋律は明治新政府のもとで作られた。陸軍音楽隊(外国々賓の国歌演奏担当)、文部省、外務省のいずれか(の誰か)が伝統的音階で作曲したものを、日本にいたドイツ人音楽家が「採譜」=楽譜化した(きっと〈十二平均律〉による)。「日本古謡」というのは厳密には正確でない。
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 3 仁藤敦史・女帝の世紀—皇位継承と政争(角川選書、2006)。
 「本書の目的の一つは、明治以来、女帝否認論の主要な根拠とされているこうした『男系主義は日本古来の伝統』あるいは『日本における女帝の即位は特殊』という通説的見解を、古代史の立場から再検討することにある」。
 この書のユニークさは、天智以降の皇位継承について、即位時の宣命の字句をふまえて、<男性天皇の妻=女性天皇の男子への皇位継承>という視点を提示していることだろう。前者には「見なし」又は「擬制」も含まれる。
 以下は秋月において修正を加えたもので、原著どおりではない。*は女性。女性を挟むという点では(現実化しなかったが)、光仁を「入り婿」としての、聖武—井上内親王—他戸皇子もこれに該当する。
 天武—持統*—草壁皇子—元明*—文武—「元正」*—聖武—「光明子」*—「淳仁」—称徳*。
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 つぎはまだ一部のみ。
 4 斎藤成也・日本人の源流—核DNA解析でたどる(河出書房新社、2018)。
 西尾幹二・国民の歴史(1999)の第三章「世界最古の縄文土器文明」の特徴は、単純に<現代日本人の祖先(原日本人)は縄文時代の日本列島人(縄文人)だ>という前提に立つことにある。
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2755/生命・細胞・遺伝—17。

 生命・細胞・遺伝—17。
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 ヒトの精子と卵子は「生殖細胞」と呼ばれ、「体細胞」と区別される。前者の「生殖細胞」は「減数分裂」によって生まれ、後者の「体細胞」は通常の(二倍化を経る)細胞分裂によって生まれる(「紡錘糸」が出現する「有糸分裂」とも言う)。
 だが、以上のことを、つぎのこととを混同して、あるいは混乱させて、理解してはならない。
 「生殖細胞」である精子または卵子も、それぞれ22本の「常染色体」と1本の「性染色体」をもつ。両者が結合した受精卵は22対44本の「常染色体」と、1対2本の「性染色体」をもつ(その2本がX型とX型の場合は女子、X型とY型の場合は男子に、通常はなる(決定的なのは染色体の型ではなく、「SRY 遺伝子」の有無だ))
 そして、「常染色体」内の遺伝子群と「性染色体」内の遺伝子群の一部は、「体細胞」の形成に関与し、「性染色体」内の遺伝子の一部は「生殖細胞」の形成に関与する。
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 受精卵は1個の細胞だが、新生児として出生するとき、1個の細胞は約38兆個に近い数の細胞へと増殖・分化している。出生直前にはほぼ同数の細胞群が形成されているに違いない。
 また、出生までの種々の段階を区切って、一定時期以降の胎児は(生物学的には)一個の「生物」・「生命体」に準じたものだと理解することは十分に可能だと見られる。
 しかし、学者により、または国家・社会により、この点についての一致はない。これは、<堕胎>・<人工中絶>と言われる行為の許容性の問題に関係する。
 なお、日本の民法3条1項は「私権の享有は、出生に始まる」と規定し、胎児には「自然人」としての権利を認めない(「相続」権にもかかわる)。「出生」の意味・時期について、民法(学)と刑法(学)とで理解が異なる。意味・時期の詳細はともあれ、出生前の胎児は、憲法(学)上も「基本的人権」の享有主体性が否認されるだろう。さらについでに、日本の母体保護法(法律)は妊娠22週未満での「人工妊娠中絶」を一定の条件のもとで認めている(以降は、「犯罪」になる)。
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 <染色体>というのは今日では一種の歴史的・経過的概念であるかもしれず、定説を知らないが、それは「クロマチン」の、細胞分裂期に特化した形状の呼称と言った方がよいようにも見える。「クロマチン」を「染色質」と称する文献もある。
 ここで「クロマチン」とは「ヒストン」と称されるタンパク質とDNAの結合体だ。そして、DNAの2本の「鎖」系がヒストンの周りに約1.7回巻きついてた単位を、「ヌクレオソーム」と言う。
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 各「染色体」が包み込む(くるむ)遺伝子の数は一定していない。2本から成る1番〜22番染色体、そして性染色体で、遺伝子の数は異なる。
 1番〜22番染色体の各「相同染色体」は全くかほとんど同じ形状をしていて、1対2本が向かい合って、アルファベットの「X」のような形になっている。性染色体の「X X型」の場合も同様だ。しかし、「XY型」の場合は左右(上下)2本の不均衡が著しい。従って、2つが向き合ってもアルファベットの「X」文字になり難い。
 いわゆる「Y染色体」は、最も小さい(=短い)染色体だ。したがってまた、内包する遺伝子数も、染色体の中で最も少ない
 確定的な情報ではないが、「Y染色体」がもつ遺伝子数は約100、「X染色体」のそれは約1000程度ともされる。また、「染色体」の大きさ(長さ)は前者は後者の20分の1程度だともされる。「Y染色体」は小さくて、かつ貧弱だと言えなくもない。
 上の大まかな数字を、一つの「核」内の遺伝子数と比較してみよう。
 ヒトゲノム計画終了後の2003年の「公的」な(ラフな)報告書にもとづくと、上の数字は21,000〜25,000だとされる(論者や文献により概数も異なる)。
 染色体23対46本で計算しやすいようにかりに23,000だとしておくと、1対当たりは1000遺伝子、1本当たりは500遺伝子になる。「Y染色体」1本で約100というのは、平均の5分の1にすぎない。それだけ<遺伝子数の少ない>のが「Y染色体」だ。
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 「Y染色体」に対する「X染色体」は、「相同染色体」ではない。父親由来の「性染色体」が「X染色体」の場合は、母親由来の「X染色体」という仲間がいる。この意味で、「Y染色体」は(その上にあるDNAやそのDNAがくるむ遺伝子も)孤立していて、脆弱性を持つ、と言い得るだろう。
 この点を(まだ触れたことのない論点も書かれているが)、S·ムカジー〔訳-田中文〕・遺伝子/下(2018)は、つぎのように叙述している。男として身につまされるので?、長いが引用しておく。
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 「他のどの染色体ともちがって、Y染色体は『対をなしておらず』、妹染色体も、コピーも持たないため、その染色体上のすべての遺伝子が自力でがんばるしかなかったのだ。
 他のどの染色体でも、突然変異が起きた場合には、対をなす染色体の正常な遺伝子がコピーされることによって修復される。
 だがY染色体の遺伝子は修理したり、修復したり、他の染色体からリコピーしたりすることができない
 バックアップもガイドも存在しないのだ(実際には、Y染色体の遺伝子を修復する独特の内部システムは存在する)。
 Y染色体に突然変異が起きても、情報を回復するメカニズムがないために、Y染色体には、長年のあいだに受けた攻撃による瘢痕がいくつも残っている。
 Y染色体はヒトゲノムの中の最も脆弱な部分なのだ。<改行>
 絶え間ない遺伝的攻撃を受けた結果、Y染色体は何百万年も前に、自らの上に載っている情報を投げ捨てはじめた。
 生存にとって真に価値のある遺伝子はゲノムの別の場所へと移り、そこで安全に保持されるようになった。
 たいして価値のない遺伝子は使われなくなり、引退させられ、取り替えられ、最も基本的な遺伝子だけが残った(…〈略〉…)。
 情報が失われるにつれ、Y染色体自体が縮んでいった。
 突然変異と遺伝子喪失という陰気なサイクルによって少しずつ削られていったのだ。
 Y染色体が全染色体の中でいちばん小さいのは、偶然ではない。
 Y染色体は計画的な退化の犠牲者なのだ(…〈略〉…)。<改行>
 遺伝子という観点からは、この事実は奇妙なパラドックスを示唆している。
 すなわち、ヒトの最も複雑な形質のひとつである性別は複数の遺伝子によってコードされているわけではなく、むしろ、Y染色体上にかなり危なっかしく埋め込まれているひとつの遺伝子が『男性化』の主要な調節因子である可能性が高いということだ。
 この最後の段落を読んだ男性の読者は、どうか心に留めてほしい。
 われわれはかろうじて、今ここにいるのだ。」
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2754/八木秀次の<Y染色体論>③。

 八木秀次の<Y染色体>論は、さしあたり結局は、①男子の天皇であれば「Y染色体」を持っている、②「Y染色体」を持っていてこそ天皇であり得る、という二つのことの「堂々めぐり」の議論だ。「男子」だけが天皇になれる、という結論を、「染色体」という科学的?概念で粉飾したものにすぎない。
 しかも、男女の生物的区別にとって決定的であるのは、「染色体」ではなく、「遺伝子」の種別の一つだ(Sry遺伝子と称される)。八木は、染色体、DNA、遺伝子の三つの違いをおそらくは全く知らないし、気にかけてもいないようだ(2005年の書であっても)。
 だが八木も、女性天皇が存在したことを無視できないようで、その理由・背景を「男性天皇」へ中継ぎするための一時的・例外的な存在だった等々と述べている。この主張に対しては、持統から孝謙・称徳までの女性天皇について、秋月瑛二でも十分に反論することができる。
 しかし、<Y染色体>論との関係に限って言うと、女性天皇であれば「Y染色体」を持たなかっただろうから、八木の元来の主張からすると彼女たちは天皇になる資格がなかったはずなのであり、八木の議論はここですでに破綻している。
 そこで八木は、皇位は「男子」ではなく「男系」で継承されてきた、と主張して、論点を少しずらしている。歴史上の女性天皇は全て「男系」だ、つまり「男性天皇」の「血」を引いている、というわけだ。この主張についてもいろいろと書きたいことはある。既述のことだが、皇族であって初めて天皇になれると圧倒的に考えられていた時代(推古まで遡ってよい)に、女性天皇の「血」をたどればいずれかの男性天皇につながる(=「男系」になる)ことは当然ではないか。
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 あらためて、八木秀次の主張を引用しておく。平成年間に書かれているので、天皇は「125代」になっている。
 「125代の皇統は一筋に男系で継承されてきたという事実の重みは強調しても強調しすぎることはあるまい」。
 「125代にわたって、唯一の例外もなく、苦労に苦労を重ねながら一貫して男系で継承されたということは、…、動かしてはならない原理と言うべきものである」。
 これらはまだよい。しかし、つぎのように、125代の初代は「神武天皇」と明記され、「神武天皇の血筋」が話題にされ出すと、私はもう従いていけない。
 「そもそも天皇の天皇たるゆえんは、神武天皇の血を今日に至るまで受け継いでいるということに尽きる」。
 「天皇という存在は完全なる血統原理で成り立っているものであり、この血統原理の本質は初代・神武天皇の血筋を受け継いでいるということに他ならない」。
 以上では、(神武天皇の)「Y染色体」ではなく、その「血」・「血筋」という語が用いられる。「血」とはいったい何のことか。
 この「血」の継承(「血統」・「血筋」)は、つぎのように、より一般化されているようだ。「昔の人たち」とは、どの範囲の人々なのだろうか。
 「昔の人たち」は「科学的な根拠」を知って「男系継承」をしていたのではない。「しかし、農耕民族ゆえの経験上の知恵から種さえ確かならば血統は継承できる、言い換えれば、男系でなければ血を継承できないということを知っていたのではないかと思われる」。
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 上に最後に引用した文章は、つぎのような意味で、じつに興味深く、かつ刮目されるべきものだ。
 染色体や遺伝子、DNA等に関係する生物学・生命科学の文献を素人なりに読んできて、秋月瑛二は、自分の文章で再現しようと試みてきた。
 読んだ中には当然に、「遺伝」に関するものがあった。
 逐一に根拠文献を探さないが、「遺伝」、ここでは子孫への形質等の継承に関して(おそらく欧米を中心に想定して)、つぎのような、古い「説」があった、とされていた。
 ①父親の「血」と母親の「血」が混じり合って(受精卵となって発育して)一定の「子ども」ができる
 ②父親の「種」(精子)が形質等の継承の主役であり、母親は「畑」であって、その母胎内で保護しつつ栄養を与えて発育させ、一定の「子ども」ができる
 他にもいくつかの「仮説」があったと思うが、上の二つは、せいぜい19世紀末までの、<古い>かつ<間違った>考え方として紹介されていた。
 上の最後に記した八木秀次の文章は、この①・②のような、かつての素朴な(そして間違った)理解の仕方を表明しているものではなかろうか(なお、「農耕民族ゆえの経験的知恵」というものの意味も、さっぱり分からない)。
 「種さえ確かならば血統は継承できる」とは、まさに②の考え方を表現しているのではないか。この部分には、きわめて深刻な問題があると考えられる。
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 ヒト=人間の「血液」の重要性の認識が、古くから生殖や「遺伝」についての考え方にも影響を与えた、と見られる。日本に「血統」、「血筋」等の語があり、英語にも「blood line」という言葉がある。
 確かに「血液型」(ABO)のように両親からの「遺伝」の影響が決定的に大きいものある。
 だが、生命科学、ゲノム科学等の発展をふまえて、あいまいな「血」・「血筋」・「血統」・「血族」等の言葉の意味は再検討あるいは厳密化される必要があるだろう。
 遺伝子検査、さらには<ゲノム解析>でもって、遺伝子または「ゲノム」レベルでの親近性から病気・疾患の原因を探ったり、将来の可能性をある確率で予測する、といったことがすでに行われている。「遺伝」に関する科学的知見のつみ重ねは、この数十年ですら、あるいは八木が上のようの書いたこの数十年でこそ、著しいものがある。
 そういう時代に、「血」・「血統」・「血筋」といった言葉を単純幼稚に用いていると見られる、八木秀次の議論の仕方はふさわしいものだろうか。
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2753/西尾幹二批判078—「量の概念でも質の概念でもなく」。

 西尾幹二・自由とは何か(ちくま新書、2018)には、<古代ギリシャの奴隷制度>に言及する長い章がある。
 とても要約できないが、「古代ギリシャ」の自由・芸術・スポーツ等々が「奴隷」制を前提とすることをしきりに指摘していて、ひょっとして「奴隷」制の肯定にまで進んでしまうのではないかとすら思ったものだった(だいぶ前のこと)。
 さすがにそうは明記していなかった。だが、この人の<本音>、<本性>は、「食って生きて」いくための瑣末なことを自分でするのを拒み(つまり他の人々=ニーチェにおける「愚衆」に任せて)、自分は「高尚な、精神的」作業をしたい、というものだっただろう。
 そうでなければ、西尾幹二が「つくる会」の会長等の要職にあったときに、会の理事や事務局長が次第に〈日本会議〉に「乗っ取られて」いることに気づかず、「分裂」後になってあれこれと八木秀次や〈日本会議〉を非難するに至る、というふうにはならなかった、と感じられる。
 仔細は知らないので推測がかなり占めるが、この人は、会の中で自分は「貴族」で、「ほとんどお飾りのごとく君臨しておれる」、と勘違いしていたのではなかろうか。
 但し、〈つくる会〉にやや遅れてすぐにあとに結成された〈日本会議〉が支援・友好団体であることを知って、急いで〈日本会議〉の主張を学習して、きわめて大まかには、仏教ではなく神道、という旨の講演を〈日本会議〉の母体団体主催の会合で講演したことは、事実として指摘しておく必要がある。
 参照→①2491/批判051—神話と日本青年協議会①。 
 参照→②2492/批判052—神話と日本青年協議会②。
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 「自由」を表題とする書物を西尾は何冊も執筆・刊行してきた。
 上掲書のほか、自由の悲劇(講談社現代新書、1990)、自由の恐怖(文藝春秋、1995)、自由と宿命(洋泉社新書、2001)、等々。
 その西尾幹二の「自由」概念と「自由」論がどの程度のものであるかを、2018年の上掲書からいくつかを再び引用して、示しておこう。とりわけ②は、大笑いだ。
 ①「今、私たちは自由と平等のパラドックスの矛盾の矛盾たるゆえんを、二人の正反対の大統領、背中を向け合うオバマとトランプの出現によって、ありありと劇的に目撃するに至りました。
 オバマは『平等』にこだわりつづけるでしょう。
 トランプはその偽善を突き、強い者が勝つのは当然とする『自由』の自己主張の復権を唱えつづけるでしょう。
 二人の見せつけるページェントがこれから先、何処に赴くかは今のところ誰にも分かりません。」p.154、第三章の最後の文章。
 ②「『自由』は存在しない、そこからすべてが始まることだけは確かだ、と私は先に申しました。
 おそらく、想像するに、『自由』は持続形態ではなく、量の概念でも質の概念でもなく、人間が四方八方において不自由な存在でありながらそのことをすら超えた境地にあるという認識の大悟徹底の只中から、わずかに瞬間的に発現する何ものかでありましょう。」p.118、第二章の最後に近い文章。
 2018年にこんなことしか書けない人物がなぜ、多数の書物を出版でき、本人編集とはいえ、<全集>まで刊行できるのか。日本の出版界の恥であり、悲劇だ。そして、戦後日本の恥であり、悲劇だ。大笑いして済ませることはできない。
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2752/生命・細胞・遺伝—16。

 重要なことなので、再記(復習)から始めよう。
 DNAの最小単位はヌクレオチドで、これは「リン酸」・「五炭」・「塩基」の三つで成り、「リン酸」を<のり>のような接着体として上下(または左右)のヌクレオチドとつながる。「塩基」は、別のDNA分体(別の一本の「鎖」糸)の「塩基」(「相補塩基」)と結合して「塩基対」になる。この塩基対が、<縄ばしご>の足を乗せる<踏み板(縄)>だ。
 「塩基」には4種があり(A,T,G,C)、各塩基は一つの種類しか持たない。「塩基対」になる別の塩基の種類は、最初の塩基の種類に応じて、特定のものに決まっている。すなわち、A-T、G-C(T-A、C-G)の組合せしかない。
 ヌクレオチドが上下(左右)につながって、「塩基配列」ができる。2個つながると2個の「塩基配列」、3個つながると3個の「塩基配列」だ。
 「塩基配列」の並び方によって、特定の種類の「アミノ酸」の作成(・生成)が指示される。
 アミノ酸には、20種類がある。3個の「塩基配列」によって、アミノ酸の種類が特定できる。2個だけだと、(塩基の)4種×4種で、16種(のアミノ酸)しか特定できないからだ。3個だと、4種×4種×4種で、64種のアミノ酸を特定することができる。一定の配列の3個の塩基の組合せを、「コドン」と言う。
 「コドン」が上下(左右)に多数つながって、多様なアミノ酸の複雑な結合体としての一定の「タンパク質」の作成(・生成)が指示される。
 指示をする(仕様書・設計図を書く)、多数のコドン(>ヌクレオチド)の始まりと終わりは決まっている(始まりはA-T-G、終わりはT-A-A、T-A-G、T-G-Aのいずれか)。コドンの数は多様で、特定されていない。
 一定のタンパク質の生成を指示する(または「タンパク質をコードする」)、多数のコドンから成る一つの単位を「遺伝子」と称してよい。但し、この「遺伝子」という概念には、多数のコドンを形成する塩基に対応する、それの「相補塩基」も含められる、と見られる。2本めの「鎖」糸の「塩基」(相補塩基)は、もともとの「塩基」の<予備>だと考えられている。「鎖」糸が2本あってこそ、<縄ばしご>の左右の、手で握る部分ができる。
 なお、一つの「塩基」とその「相補塩基」、ひいては二本の「鎖」糸について、一方は父親由来、片方は母親由来と<堂々と活字に>している情報がネット上にあるが、誤り。父親と母親由来をそれぞれについて語ってよいのは、一つの「染色体」とその「相同染色体」だ。
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 「コドン」は塩基(配列)に着目しているので、厳密には、「リン酸」、「五炭糖」という、塩基を支えて保護するヌクレオチドのその他の要素を含まない。
 2本の「鎖」糸(ビーズがつながった糸)の中には多数のヌクレオチド全体が含まれており、それは「ヒストン」と称されるタンパク質の周りに、左回りの<らせん状に>巻きついている。1.7回〜2回巻きついた一つの単位を「ヌクレオソーム」と言う。正確に言うと、いわば接着剤である「リン酸」は含まれないようだ。
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 DNAとは、大まかには、上の「ヌクレオソーム」の総体だと言える。したがって、「コドン」、多数の塩基(塩基対)を含んでいる。(これは、細胞「分裂」時には、「染色体」として顕現する。)
 しかし、「遺伝子」をあくまで(これが現在も支配的だが)一定の「タンパク質をコードする」情報をもつものと理解すると、DNA=「遺伝子」の総体、ではない。
 それどころか、2000年代以降、DNAの98パーセント(ときに98.5%)は「遺伝子」たる情報を持たない、とされている。「非コードDNA(領域)」とも言われる。より正確にはつぎのとおり。
 DNAの約80パーセントは「遺伝子」を含まない領域が占める。「遺伝子」の「外」または「間」がある。
 さらに、いちおうは「遺伝子」たる情報を含む領域であっても、「タンパク質をコード」している部分とそうでない部分とがある。前者を「エクソン」(構造配列)、後者を「イントロン」(介在配列)と呼ぶ。イントロンの存在は1980年以降に明らかになった、とされる。これは、遺伝子の「内部」にある、<タンパク質非コード領域>だ。全生物ではないが、ほとんどの生物、「核」を持つ全ての生物の「遺伝子」に、この部分がある。
 「エクソン」部分に限ると、これはDNA全体の2パーセント(あるいは1.5%)を占めるにすぎない。
 なお、「遺伝子」につき、以下の叙述がある。「機能発現」の「調節」・「制御」にすでに論及があるが、代表的だろうと思うので、引用する。
 「遺伝子とは、一つの機能を持った遺伝情報の単位である、と定義することができる。
 ここに言う一つの機能とは、一般的にタンパク質またはRNAの構造を決めることである。
 遺伝子はエクソンとイントロンとから成り立っている…。
 この他に遺伝子の転写や翻訳の機能発現を調節する制御配列が、エクソンの上流(転写のスタートする位置)、下流(転写が終了する位置)、またはイントロンの中に存在する。
 制御配列は、この遺伝子が、いつどこで発現されるべきかについて、他の遺伝子からの指令を伝える調節物質が認識する領域である。〔一文、略〕
 このような制御配列、エクソンおよびイントロンを含めて、一つの遺伝情報の単位、すなわち遺伝子が作られているのである。」
 本庶佑・ゲノムが語る生命像—現代人のための最新·生命科学入門(2013)
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 <DNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質>が「セントラル·ドグマ」と称されるのは、ヒトあるいは哺乳類あるいは脊椎動物等の多くの生物に共通する「遺伝」情報の伝搬方法だからではない。「細菌」(バクテリア)を含む「原核細胞」あるいは「単細胞」生物にも共通する、生命体の「中心原理」であるからだ。ヒトも細菌も本質的には変わりがない、とも言える。どちらも「生命」だからだ。
 「真核生物」と細菌等の「原核細胞」が異なるのは、「核」あるいは「核膜」の有無、DNAの形状等だ。
 ヒトが持つとされる38兆個(または60兆個)の全細胞に「核」があって、上のシステムが配備されている。その「核」内にそれぞれ、約2万1000個〜2万4000個の「遺伝子」がある。その各「遺伝子」が含む塩基配列・塩基対の数は、…。これらの掛け算の結果=一個体・人体内での総数を計算してみる気にもなれない。
 さて、DNAが持つ情報等の全てがmRNAに「転写」(transcription)されるのだろうか。かつてはほとんど全てがコピーされるのだろうと推測されていた。つまり、DNAのほとんどは直接に「タンパク質」形成に関与しているのだろうと見られていた。
 2003年のヒトゲノム計画終了後には、ごく簡単には、つぎのように考えられているようだ。
 「転写」されるのは、まずは、エクソンの他にイントロン部分も含む、「遺伝子」領域だけだ。これによって生まれるものを「mRNA前駆体」(pre-mRNA)と呼ぶ。
 ついで、「mRNA前駆体」が核内から細胞質に出ていく過程で、「タンパク質になるのに無関係な」イントロン部分が除去され、エクソンのみの純粋な「mRNA」になる。これが、細胞質内にある「リボソーム」によって「翻訳」(translation)されることになる。これは、塩基配列という「暗号」の「解読」によって行われる、一定のタンパク質の生成のことだ。
 上にいう、イントロン部分の除去のことを、「スプライシング」(splicing)と言う。これによって、内部で「分断」されていた一つの遺伝子は一つづきになる。「分断」されていたエクソンが「連結」される、とも言い得る。このような過程は、全ての真核生物で生じる、ともされている。
 「遺伝」にとって必要な部分だけの、無駄のないかつ「正確」なコピーを目的としていることは明らかだろう。もっとも、いくつかの例外等の留意点に関する付言が必要であるようなのだが、立ち入らない。
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 さらに、なぜ、「必要」ではない部分をDNAは抱え込んでいるのか、も不思議なことだ。この点についての回答は、上に引用した本庶の叙述の中にある。すなわち、「遺伝子の転写や翻訳の機能発現を調節する制御配列」が、エクソンの末端部分以外に、イントロンの中にもある。これは、遺伝子が「いつどこで」発現すべきかを「調節」する機能を持つ。
 このような機能は、決して「不必要」でも「無駄」でもない。むしろ決定的に重要だとも言える。エクソンが示すのは「設計図」・「仕様書」あるいは「レシピ」なので、実際にいつどのように「実行する」かの指令は別に必要だと考えられるからだ。
 もう一つ、エクソン部分以外の領域の意味を「遺伝子」の「外」・「間」の(DNAの約80%を占めるという)部分も含めて考えると、つぎの可能性があるだろう。
 すなわち、現在はあるいはホモ・サピエンス誕生の時点ですでに「無駄」になっている、生物の<進化>の「名残り」または「痕跡」が、現在でもあるいはホモ・サピエンスになって以降も、DNAの中にとどめられている。
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2751/私の音楽ライブラリー043。

 私の音楽ライブラリー043。
 君をのせて/Castle in the Sky.(作詞・宮崎駿、作曲・久石譲)
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 116-01 →井上あずみ .〔SeanNorth公式〕
 116-02 →Sarah Alainn. 〔Taro Canned〕
 116-03 →Trillme Festival 2022. 〔Trillme Festival〕
 116-041→Concert Paris/Behind the Scenes. 〔Timothee Wurth〕
 116-042 →Concert Paris 2024. 〔nabii_Lise〕
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2750/伊東乾のブログ002。

 伊東乾のブログ—001
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 2024.03.11「生成AIに不可能な人間固有の能力とは何か?」
 2024.05.10「始まった生成AI時代本番、人間の創造性はどこで発揮されるのか?」
 2024.06.03「AI音声を聞きすぎると子どもはバカになる?」
 以上、JBpress。
 伊東乾を読んでいる者がいることを示すため、最近の上の三つを挙げておこう。要約、引用等はしない。
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 AIあるいは「生成AI」の実際の能力を詳しく知ってはいない。(「生成」は「generative」の訳語らしい。「gene」(遺伝子)は子孫への「継承」のみならず自らの<生成>に参画している、という趣旨で、この欄で「gen〜」という語に触れたことがあった。)
 伊東がよく知っているだろうように、「生成」が付かなくとも「AI」は音楽と深く関係していそうだ。
 ある交響曲を聴かせて、自動的に全て「採譜」=「楽譜化」することは現時点でできるのだろうか。
 バッハの曲ばかり(できるだけバッハの全て)記憶させて、拍数等の一定の条件とコンセプトを与えれば、AIは自動的に「バッハらしい」旋律および一曲を「作り上げる」のではないか(その場合、「著作権」はAI操作者には全くないのか)。その際の音律は純正律等か平均律か、という問題はあるけれども。
 AIと言わなくとも、電子ピアノでも種々の楽器の「音色」を発することができるらしい。そうすると、オーケストラ並みの多数の楽器(音だけ発する器械)に、一定の(楽器それぞれで異なる)楽譜を与えて=入力して、交響曲を「演奏」させることはできないのか。
 器械は「疲れる」ことがほとんどないだろうし、何よりも、厳密に正確な「高さ」と「大きさ」と「長さ」の音を発することができるだろう。いったん入力してしまえば、あとは何度でも<同じように>演奏することができる。音律がピタゴラス音律でも純正律等でも、〈十二平均律〉でも〈五十三平均律〉でも、AI器械は容易に対応するだろう。むろん「指揮者」は不要だ。誰かがスタート・ボタンを押せばよい(上の各音の「長さ」に、便宜的に曲の「テンポ」を含めておく)。
 ここでさっそく、AIと「人間」の違いへと発展させる。上のようにして「演奏」された音楽は<美しい>だろうか。通常のヒトの感覚は<美しく>感じるだろうか。例えば、AI楽器はある音から1オクターブ上の音へと瞬時に(同時に)移動させ得るが、人間にとってはあまりに不自然ではないだろうか。
 バイオリニストによって演奏するバイオリン協奏曲等に「クセ」があるのは、用いる楽器の違いによるのではなく、きっとわずかな「左手の指」の押さえる位置や強度の違い、右腕の「弾き方」のタイミングや強度等の違いによるのだと思われる(それでも原曲が同じなら、全く違う曲の演奏になるわけではない)。特定の演奏者の<解釈>は素晴らしい、とか音楽評論家によって論評されることもある。
 ついでながら、テレビの「クイズ」番組に、人間のような姿をしたAIを登場させれば、全て正確な解答を(かつ迅速に)行ない、競争相手がいれば<優勝>するのではないか。そのAI氏は、「おめでとう」と言われて、どういう「喜び」の言葉を発するのか(または態度を示すのか)。これもまたあらかじめ<仕組んで>おくのだろうか。
 こういう空想をしていると、キリがない。なお、ヒトの自然の(本性としての)「聴」感覚の問題には(外界の刺激を受容する「感覚」に関与する「細胞」は数多い)、以上では触れていない。最近の伊東の文章には「視」神経細胞に関するものが多い。
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2749/私の音楽ライブラリー042。

 私の音楽ライブラリー042。
 再掲。046-07だけが新規。
 Kvitka Cysik, 1953,04〜1998,03, An Americn Singer from Ukraine.
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 046-06 Elena Yerevan, →Moonlit Night. 〔Ashot Sargsyan〕
 046-07 Kvitka Cysik, →Starry Night. 〔- Topic〕

 086-01a Kvitka Cysik, →Cheremsyna. 〔Vasil Nikolaevich〕
 086-01d Kvitka Cysik, →Spring’s Song.〔- Topic〕
 086-03b Elena Yerevan, →Cheremsyna. 〔Ashot Sargsyan〕

 105-01a Kvitka Cysik, →Where are you now ? 〔- Topic〕

 111a Kvitka Cysik, →Youth does not return. 〔- Topic〕

 112-01b Kvitka Cysik, →You light up my life. 〔Yulia Radova〕
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2748/生命・細胞・遺伝—15。

 ヒトの染色体の数は23対46本で、チンパンジー、ゴリラ等の類人猿のそれは24対48本だ。
 ヒトのゲノムとチンパンジーのゲノムは、96パーセントが一致している。
 以上、S·ムカジー・遺伝子/下(2024)
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 上の後者に出てくる「ゲノム」(genome、ジーノウム)は、個々の遺伝子の総体、「遺伝情報」の全体のことだろうと安易に考えていた。gene がまとまって genome になる、と。
 これは大きな間違いだった。
 まず、DNA内の「遺伝子」は「遺伝情報」を持つ、と言うのは間違いではない。だが、ここでの「遺伝情報」は、<特定のタンパク質の生成を指示する情報(設計図・仕様書)>ととりあえずは理解する必要がある。
 こう理解してこそ、<DNA(>遺伝子)(転写)→RNA(翻訳)→タンパク質>を「セントラル·ドグマ」と称することができる。「タンパク質の生成を指示する」は、「タンパク質をコード(code)する」、と英語では表現される。
 一方、「ゲノム」というのは、<DNAがもつ情報の総体>を意味する。
 「遺伝情報」という語の理解の仕方にもよるが、DNAは<特定のタンパク質の生成を指示(code)する情報>のみを持っているのではない。
 「ヒトゲノム」のうち、つまりはヒトのDNAが持つ全「情報」のうち、上の意味での「遺伝情報」部分、あるいは「遺伝」に関する設計図・仕様書を直接に書いてある部分は、2パーセントにすぎない、とされる。この点を強調する表題を付けて、小林武彦『DNAの98%は謎』(2017)は執筆されている。
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 とくに2003年の「ヒトゲノム計画」の終了・結果報告書の発表以降、ゲノムや「遺伝子」の研究は新しい時代を迎えたようだ。それはまた、「セントラル·ドグマ」の厳密化・精緻化をも求めるものだ、と見られる。
 「ヒトゲノム計画」との関係は定かでないが、まず、DNAの中には、遺伝子とは関係のない部分が各遺伝子の「間」に含まれていることが明らかにされている。DNAの中には、そもそも「遺伝子」と性質づけられない部分が、遺伝子と遺伝子の「間」にあるわけだ。
 ついで、一つの「遺伝子」の「中」または「内部に」、「特定のタンパク質をコードしていない」部分がある、と明らかにされている。一個の「遺伝子」は全体としては「遺伝情報」を持つのだが、遺伝子「内部に」タンパク質生成には意味のない塩基配列が多数あって、「遺伝子」は「分断されている」、とされる。そのような部分は「イントロン」(intron)と称される。一方、「タンパク質をコードしている」部分は、「エクソン」(exon)と呼ばれる。
 この「エクソン」部分が、その解読と研究が相当に進んでいるDNA部分で、どの遺伝子のどの部分にどのようなアミノ酸やタンパク質の生成を指示する箇所があるかが研究されている。その成果は比較的容易に、「遺伝子治療」あるいは「遺伝子工学」に結びついていくだろう。
 多くの研究者の想定とは違って、「ヒトゲノム計画」の成果が明らかにしたのは、この「エクソン」部分は「ゲノム」全体=DNAが持つ情報のうちわずか2パーセントしかない、ということだった、とされる。
 残りの98パーセントは、いわゆる「非コードDNA領域」だ。これには、上記の①遺伝子の内部の「イントロン」と②遺伝子の外部の、複数遺伝子の「間に」ある、タンパク質生成の指示と無関係な部分とがある。少なくとも後者の一部は、従来は「ジャンクDNA」とも呼ばれたが、なぜあるのか、どんな役割を果たしているかの研究が新しい課題になっているようだ。
 「イントロン」は「遺伝子」内部の構成部分であるので、研究の必要はいっそう大きいだろう。タンパク質をコードする情報を持たなくとも、「エクソン」の指示の「発現」や「調整」に関与しているとも想定されている。
 こうしてみると、<DNA(転写)→RNA>の際にDNAの情報全てが「転写」されるのか、その必要はあるのか、といったことが問題になるだろう。そして、RNAはいったい何をしているかに今まで以上の注目が集まることになる、と見られる。
 なお、DNAから「転写」され、タンパク質生成のために「翻訳」されるRNAは、通常、とくに「mRNA」=「メッセンジャーRNA」と称されている。
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2747/生命・細胞・遺伝—14。

 遺伝子群を内包するDNAの最小単位は「ヌクレオチド」だが、塩基対を形成した二本のビーズ状の紐が「ヒストン」の周りを左巻きに(らせん状に)巻きついた場合の一つの単位は「ヌクレオソーム」という。ヒストンの「八量体」の周りを1.7回ぶん巻きついたものだとされる。
 「ヌクレオソーム」の全体を「染色体」と称するとかりにしても、「ヌクレオソーム」は「ヒストン」部分を含む概念なので、少なくともこの点で、DNAと染色体は同じ意味ではない。
 既述のように、染色体は細胞「分裂」の過程で「核」内に<出現>する。一方で、DNAは「核」内につねに格納されている。この点でも、DNAと染色体は異なる。
 但し、存在する・存在しない、見える・見えないの対比を染色体とDNAの間で用いることは、厳密には、「存在する」や「見える」は何を意味しているのか、「見えないから存在しない」のか、といった<哲学>や「認識」論に関係する(?)問題を惹起させるかもしれない。
 細胞分裂過程で「染色体」が「見える」ようになると言っても、ヒトの通常の「肉眼」で見えるわけではない。一方で、「染色質」が元になっている旨すでにこの欄に記したことがあるが、「見える」ことがなくとも、「染色体」は元々「存在」しているのかもしれない。
 この辺りの微妙な?現象を、本庶佑・ゲノムが語る生命像(2016)は、こう叙述している。
 「通常の細胞では、染色体は比較的ゆるやかに伸展した形となり、光学顕微鏡で見てもはっきりとした構造体としては観察されず、核の中にDNAとタンパク質の複合体として存在する。
 しかし、細胞分裂のときには、はっきりと染色体という光学顕微鏡下で見える構造体として凝縮する。

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 凝縮した「染色体」は、エンドウ豆の「鞘(さや)」のような形をしている。ちょうど真ん中ではないが、中央部が「くびれて」細くなっている。
 「常染色体」の場合、そのような染色体1本と全くか同じ形のもう1本が向かい合って、中央部の「くびれ」部分で接着しているか、その部分でほとんど「くっつき」そうになっている。その結果として、2本(1対)でアルファベット文字のXになっているように見える。Xの中央の交差部分が「くびれ」で、左と右が各1本ずつの染色体だ。
 「くびれ」部分、Xの中央部分は、少し離れているように図示されていることが多いように思われる。しかし、本庶・上掲書の、約10000倍に拡大したという写真では、その部分は明らかに「接着」している。
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 染色体の数は生物種で異なるようだが、ヒトの場合は「常染色体」が22対44本、「性染色体」が計2本だ(XX型かXY型か)。計46本と確定したのは、1956年だとされる(第二次大戦後。68年前)。
 上の前者は1対ごとに、「大きさ」の順に「1番」、「2番」、…、「22番」と称される(世界的に統一されている)。この「大きさ」は「長さ」であって、重さでも、内部に含む遺伝子数でも塩基対(・塩基)数でもない。もっとも、「21番」と「22番」の順は実際には逆だともされる。
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 染色体(「常染色体」)の1対2本は、エンドウ豆の「鞘」が向かい合って、「X」を形成しているように見える。「ビーズに糸がついたもの」が2本あるというのはDNAのことなので、混同しないよう注意する必要がある。
 左右の染色体1本の「くぼみ」部分は、「セントロメア」(centromere)と呼ばれる。ちょうど真ん中にあるのではないので、染色体1本を短い部分(「短腕」」,p)と長い部分(「長腕」,q)に分けることになる。
 興味深いのは、つぎのことだ。
 既述のように、「染色体」が二倍化して「赤道」に「整列」したあと、上下(左右)の一つの側が「極」へと徐々に「引っ張られる」。その際に活躍するのは「紡錘体」の要素である「紡錘糸」(spindle fiber)で、この「紡錘糸」は、染色体の「セントロメア」部分に接着して「両極」へと「引っ張る」。つまり、「紡錘糸」は細くなっている「セントロメア」部分を<引っ掛けて>、「両極」へと移動するのだ。
 左右(上下)の染色体1本の二つの「先端」部分または「両端」部分は、「テロメア」(telomere)と呼ばれる。固有のDNA配列を持つ。ともされる。染色体の一部だと理解しておくが、先端にくっつく別のものだと理解できなくはない。
 この「テロメア」部分が重要と見られるのは、細胞は永遠に「分裂」して「複製」されるのではなく、「分裂」ごとにこの「テロメア」部分は短くなっていく、とほぼ考えられている、ということだ。これはつぎのことを意味する。
 「染色体」の先端の「テロメア」の長さが、細胞の、ひいては個体全体の「老化」や「寿命」=「死」に影響を与えている可能性が高い。
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2746/生命・細胞・遺伝—13。

 生命・細胞・遺伝—13。
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 本庶佑・ゲノムが語る生命像—現代人のための最新·生命科学入門(講談社ブルーバックス、2016)
 40パーセントほど読んだ。参照文献を全ては記載してきていないところ、あえてこの文献を挙げるのは、今のところ、読みやすい文章で基礎的なことを書いてくれている貴重な書物と思われるからだ。もっとも、一年前には、あるいは二ヶ月前であっても、読んでもほとんど理解できなくて、読み続ける気にならなかっただろう。数日前から読み始めたが、他の諸々の書物を読んできたことの復習にもなって、なかなか面白い。
 内容の紹介はほとんどしない。
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 表現あるいは形容の仕方に、なるほどと感じさせる箇所がある。
 一つは、DNAをらせん状の「鎖」とか「糸」とか表現してきたところ、この著でも多くは「鎖」が使われているようだが、「ビーズ」(に糸がついたもの)という表現もある。瑣末かもしれない言葉の問題だが、こちらの方が適切または分かりやすいようにも思われる。
 つぎのように語られる。「ヒストン」という語はこれまでにこほ欄で使ったことがある。だが、「ヌクレオソーム」はない。かなり「ヌクレオチド」に似ているのだが、立ち入らない。なお、「糖」と「塩基」の結合で、三つめの「リン酸」がないものは、「ヌクレオシド」と言う。
 ①「DNAの糸を巻き込む糸巻きの芯」は「ヒストン」というタンパク質だ。ヒストン8分子から成る「八量体」の「周りに1.7回巻きでDNAの糸がからまったもの」が「ヌクレオソーム」という〔一染色体内の〕「基本単位」になる。「DNAは、このビーズに糸がついたようなヌクレオソーム構造を、何度もコイル状に折りたたみ、二重三重のコイルとなって、きわめて圧縮した形で核の中に折りたたまれている」。
 ②「DNAはヒストン八量体の周りに1.7回、約150塩基対の長さが糸巻きのような形でビーズ上に存在する」。この単位を「ヌクレオソーム」と言う。
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 もう一つ。細胞の「有糸分裂」によるDNA(・遺伝子群)の「複製」の過程について、「準備」作業として染色体・DNAの「二倍化」があるとして、「神秘的」だとすでに書いた。その際に、元の一つのDNAが二本の「DNA分体」または「DNAの片割れ」に「ほどける」と書いた。また、一つのDNAが塩基対の中央で二つの塩基に「切り裂かれる」と表現したこともある。
 だが、これらよりも、つぎの表現または形容—「チャックを開くように引き離」す—の方がおそらく明らかに適切だろう。
 「DNAの複製は、2本の鎖をチャックを開くように引き離しながら、それぞれに自分を鋳型として、ぴったりとはまり込む相手を作る形で、2組の二重鎖DNAを作り上げる方式で行われる。できあがった2組の二重鎖は、それぞれのうちの1本の鎖が新しく作られたものである」 
 チャックを開く、ファスナーを開く、ジッパーを開ける、の方が実像に近いと考えられる。元の「鋳物」の片割れの一つにその「鋳型」として新しい「DNA分体」が(逆向きで)「ピタッとくっついて」一つの新しいDNAになるためには(そして二倍に「複製」されるためには)、まずは元の一つの「鋳物」がこのようにして二つに引き離されなければならないのだ。
 なお、続けてこう叙述される。「複製」というこの「作業はきわめて複雑な化学反応であり、DNAの複製に関与する酵素〔「DNA合成酵素」〕は20種類以上にものぼる」。
 すでにS·ムカジーの名だけ記して「酵素」に言及したが、ここでも<神秘さ>の背景がより詳しく語られている。「酵素」、「ホルモン」、「神経伝達物質」といった「細胞」と区別される、「細胞」内のまたは「細胞」を行き来する<触媒>類には、まだ触れたことがない。
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2745/西尾幹二批判077—「時代錯誤」。

 谷沢永一・人間通になるための読書術(PHP新書、1996/電子化2013)は、数十の書物の「要点」を記して、一気に相当に読ませる。
 各書物に関する表題も簡潔で面白いが、その中に、つぎがある。P. Johnson, Intellectuals (共同通信社の邦訳書)についてのもの。
 「思想も文藝も自己顕示である」。
 谷沢は自分の文章としてこう書く。「思想」や「文藝」の制作者たちは、「人びとに自らを知らしめる為に…苦労を敢えてする」。キレイ事では「自らが生きた証しを打ち立てたい」、つまりは「認知して貰いたい」、「賞賛が欲しい」、「長く後世に伝えられたい」、「広く仰ぎ見られたい」。
 「思想家」の二種の一つは「世の人を居丈高に見くだして、人びとを駆り立てようとする煽動型」で、「思い上がった指導者意識が認められる」。等々。
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 西尾幹二は一時期に「文芸」評論者だったが、のちには「思想家」と自称するようになった。
 だから、西尾幹二を特徴づける四文字熟語を思い浮かべていて、谷沢の文章に示唆を得て「自己顕示」も挙げたくなった。しかし、これは西尾にはあまりにも当然の欲求で、インパクトに乏しい。
 それに、思い上がっていようがいまいが、西尾には厳密な意味での「指導者意識」はない。後半生は、注文を待つ<文章執筆請負>業者だった。産経新聞にときどき定期的に執筆した「正論」欄は、「自己顕示」もできる貴重なものだった。
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 すでにこの欄で記述した西尾幹二の特質は、つぎのいくつかの四文字熟語で言い表せるだろう。
 誇大妄想傲岸不遜厚顔無恥
 説明を必要としないだろう。
 これらで表現できない特質が、これまで十分には指摘してこなかったが、あった。四文字熟語をやはり用いると、つぎだ。
 時代錯誤古色蒼然
 OpenAI とか、ChatGPT4o とかが今日では話題になっている。こうした「知的道具」によって、昔ふうの<文章執筆>業はほとんど成立し難くなるのではないか。
 ともあれ、西尾幹二は、藤田東湖らを継承して明治初年に「日本」主義を掲げ続け、岩倉らの欧米視察団や欧米に追いつこうとする<文明開化>に反対しておれば相応しかったような、時代状況感覚がきわめて奇妙な人物だろう。
 その<文明開化>のもとで「先進国」と見なされた(オランダ、スペイン・ポルトガルではない)英・米・独・仏の四ヶ国の一つの「ドイツ」を若き西尾幹二は選択した。そのことに深い後悔はないのだろうか。ないに違いない。「ニーチェ研究者」と誤解させることで(<つくる会>関係者に対しても含む)、この人は世渡りをしてきたのだから。
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2744/「遺伝子検査」を受けた。

 2024年4月には結果をもらっていたから、もう二ヶ月近く経っている。
 電子メール形式で報告書が届いた。さすがに、「開く」前にやや緊張する気分があった。座り直す感覚があったが、それは、まさかと思いつつも、何らかの致死的疾患を発症する「健康リスク」がきわめて高い、と指摘されたら困るな、という思いがあったからだ。しかし、じつは<十分に生きた>という気分が秋月にはすでにあるので、それなら仕方がないという思いも同時にあった。
 やや気になる「健康リスク」がわずかにあったが、全体としては問題がなかった方かと思われる。
 遺伝子レベルでの「検査」による予測だから、現在抱えている若干の病気・疾患の大半は「生後」の「生活環境」・「生活習慣」が原因だと考えられる。
 注意を惹いたのは、10000年前に先祖がどこにいたか(東アフリカからどう移動してきたか)の「診断」だった。
 こんなことを考えたことはなかった(もっとも、<日本人はどこからきたか>という話題には興味があった)。古くからの家系図が残っているような「一族」ではないので、江戸時代半ば以前の祖先のことは全く知らず、戦国時代の乱世に、あるいはいつの時期であれ、中国大陸や朝鮮半島から来た「渡来人」が先祖の中にいると言われても、きっと「ふーん」と納得しただろう。
 だが、どの程度の信頼性があるのか知らないが、どうやら10000年前に「日本列島」にいたらしい。この頃だとすでに「日本列島」は大陸から分離して形成されていたはずだ。
 但し、この点に関する現在の日本人の最多グループは40パーセントほとを占めるらしいが、私の場合は、7パーセントほどの少数派に属するとされていた。
 だがしかし、10代前(200〜350年前?)には計算上すでに1024人の「祖先」がいたはずだ(実際はこうならないのは1人で複数を兼ねている者がいるからだ)。そして、よく読むと、上の「診断」は「母系」をたどってのものらしい。とすると、受けたのは「母系」の祖先の一部についての「診断」で、あとはよく分からないということになるだろう。1000年前も10000年前も、1億年前も、10億年前も、私の「先祖」は地球上のどこかで生きていたはずなのだが。それで全く十分なのではあるが。
 「母系」で診断するということは、女性も同じ「遺伝子検査」の対象であるところ、女性は「Y遺伝子」を持たず、男性も「X遺伝子」ほ持っているので、「X遺伝子」のタイプに注目したからだろうか。よく分からない。
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 一定の量の唾液しか送っていない。それにしては、「遺伝子検査」というのは、「健康」・「病気」関係におおむね限っていても、多数の項目について「検査」し、「現状判断」または「将来予測」(あくまで確率)をできるものだと感心する。
 日本人全員が5000円の自己負担で「遺伝子検査」ができ(どの事業体=会社が行うかが問題だが、国・首相または「厚労省(大臣)」が「指定」することが考えられる)、かつ受診を義務づけると、その結果は、将来の治療または医療的判断に役立ち得るだろう。
 もっとも、「検査項目」によっては、かつまた「何を目的とする」かによっては、当然に<義務化>できる範囲は変わってくるし、「職務上知り得た秘密」に該当し得る「個人情報」の漏洩のおそれありとして<義務化>自体に反対運動が起きるかもしれない。
 「<遺伝子情報>または<DNA情報>を知られない自由」はありそうだ(憲法上保護されるべきだろう)。とすると、全て「同意」・「事前承認」がないと(死者については一定の親族の?)「遺伝子検査」ないし「ゲノム解析」はできないことになるのか。
 「同意」を表明できない重体、重病の患者については「家族」でよいのか? 「家族」がいなければどうなるのか?
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2743/生命・細胞・遺伝—12。

 生命・細胞・遺伝—12。
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 「体細胞」の分裂による複製により、一つの「母細胞」から二つの「娘細胞」が生まれる。後者は前者と同じく、それぞれ一つの「核」内に、遺伝子群を一部とする「二重らせん」状のDNAを持つ。
 こうなるためには、まず、「二重らせん」状の、二本の「鎖」が巻き付いた状態のDNAの「二重」または「二本」の長い「鎖」・「糸」が<ほどけて>、「一本ずつ」に分かれなければならない。
 これを<縄ばしご>や「塩基対」等を使って表現すると、縄ばしごの足を乗せる部分を半分に割る、または足を乗せる部分=「塩基対」(の連続)を半分に切り裂いて二つに分けて元の「塩基」(の連続)部分だけにする、ということだ。
 不思議で神秘的だと思うのは、上に続く②だ。
 すなわち、上で分かれた2本の「DNA分体」または「DNAの片割れ」に、それまでは「見えなかった」、新しい別の「DNA分体」または「DNAの片割れ」が発生してきて「くっつき」=「相補的塩基」どうしで「塩基対」を形成し、それぞれが新しい二つのDNAを構成する。
 遺伝子群はDNAの一部であるので、それらもまた、「DNA分体」とともに行動する。それに「くっつく」新しい別の「DNA分体」の中にも新しい遺伝子群が含まれている。
 このような変化とともに「染色体」が出現してきていて、最初は1本で一つの(「二重」の鎖・糸の)DNAを「くるんで」いたが、一つのDNAが「ほどかれ」、新しく二つのDNAができていくのに合わせて、「染色体」の数もまた、二倍になる(結果として、一細胞内に、23対46本ではなく、その二倍の46対92本の「染色体」が発生していることになる)。
 このような「二倍化」は「体細胞」の分裂過程について言えることで、「生殖細胞」については、このような現象はない。さらに厳密さを期して付記しておけば、「体細胞」であっても、心筋細胞や神経細胞といった<非再生系>細胞では、いったん成熟したものであるかぎり、「分裂」による複製自体が行われない。iPS細胞で作られた始原細胞が心筋細胞や神経細胞に「成熟」することはあっても、それが完了すれば、もう「分裂」・「複製」はしない。
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 「減数分裂」で生まれた精子の23本の「染色体」と同じく卵子の23本の「染色体」が合同して46本のそれをもつ受精卵ができる(44本の「常染色体」と2本の「性染色体」)というのは、まだ理解しやすい。
 だが、それまでは「見えなかった」DNA分体が新たに出現してきて、元のDNA分体と結合して一つの(二本鎖の)DNAを構成するというのは、不思議なことだ。
 S·ムカジーによると、DNAの二本の鎖・糸を「ほどく」<酵素>が出てくるし、新しいDNAを作る(複製する)別の<酵素>も出てくる。不思議なことだ。
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 細胞全体の「分裂過程」の説明としては、以上はまだ準備段階についてのもので、かつ次の重要で目立つことに触れてもいない。
 これまで存在しなかったような「染色体」が出現し、認知され得るのは、それが相対的に大きく、かつ固く<凝縮>しているからだ。その頃には「核膜」はほとんど消滅している。
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 凝縮した、目立つ染色体の数が二倍なったあと、①一細胞を球体の地球に喩えると、染色体群は、半数ずつに分かれて「赤道」上に整列(?)する。
 ついで、②それぞれの(つまり46本ずつの)染色体は、「紡錘糸」に<捉まえられて>(あるいは<引っ掛けられて>)両極(「北極」と「南極」)へと<引き寄せ>られる。「有糸分裂」だ。
 その頃には細胞自体の「分裂」も始まっている。つまり、「赤道」あたりが<くびれて>細くなっていく。
 DNA(と遺伝子群)を包んだ「染色体」群が完全に両極に分かれてしまうと、再び「核膜」に包まれ、上の<くびれ>のところで一つの細胞自体が徐々に二つに「分裂」する。
 かくして、一つの細胞(母細胞)から、「核膜」をもつ「核」が一つずつある、二つの細胞(娘細胞)が生まれる。
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 時間的にほとんど連続した過程だから、各段階を区別するのは容易でないだろう。
 但し、「染色体」の二倍化(新しい二つのDNAの生成)までとそれ以降に大きくは区別されるようだ。前者を「S期」、後者を「M期」と呼ぶ。
 それぞれ、Synthesis(合成)Mitosis(「有糸分裂」)という語に由来する。
 また、後者はさらに、「前期」・「中期」・「後期」・「終期」に分けられるようだ。
 上の「M期」が本来の細胞「分裂」期だとして、それ以外を「G」(=gap、「間期」)と称することがある。
 完全にまたはほとんど休止している状態をG0とし、上の「S期」にあたると見られる時期を「準備」のためのG1と呼んで区別する場合もある。さらに、「準備」が完了したあとで、いわば「最後の決断」を下すための小休止の時期があるとした場合、この時期はG2とも呼ばれる。
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 参照文献を二つだけ挙げる。
 S·ムカジー=田中文訳・細胞/上(早川書房、2024)
 山科正平・新しい人体の教科書/上(講談社、2017)
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2742/生命・細胞・遺伝—11。

 生命・細胞・遺伝—11。
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 生殖細胞である精子と卵子は、それぞれ順調に成長した男子と女子の体内で、「減数分裂」によって作られる。但し、突如としてそうなるのではなく、<始原生殖細胞>をヒトは備えて生まれてくるらしい。この始原生殖細胞(前精原細胞・卵原細胞)をiPS細胞から作り出す方法の開発に日本で成功したとかのニュースが2024年5月にあった。
 「減数分裂」と称されるように、細胞の一種ではあるが、精子・卵子は「体細胞」と違って、その半分の23本の「染色体」しか持たない。両者が結合して「受精卵」となって、元の?46本に戻る。
 精子・卵子の23本の染色体は、既述のように、22本の「常染色体」と1本の「性染色体」に分けられる。精子のもつ「性染色体」にはX型とY型の2種がある。1本しかないので、あらかじめ、このいずれであるかが決められている。卵子の「性染色体」はつねにX型だ。したがって、受精卵が「常染色体」以外にもつ「性染色体」にはXY型とXX型があることになる。
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 「染色体」は、「常〜」にしても「性〜」にしても、それ自体が<遺伝情報>を持つものではない。<遺伝情報>は、個々の「遺伝子」がもつ。多数の「遺伝子」を一部に取り込んで、長い2本の「らせん」状になった鎖が「DNA」だ。
 染色体は、細胞分裂時に凝固した(遺伝子・)DNAを保護するかのごとく「くるんで」いる。この点について、以下の叙述は異なる理解・説明をしているようだが(DNAを「くるむ」物体とDNAが「形をかえる」物体とではたぶん意味が違うだろう)、一般的または多数でもないように思われるので、無視しておく。一時的に出現する「別の」構造体か、それとも「同じ」一体のDNAが変形したものか?
 細胞が「分裂をはじめるときになると、DNAのひもはぎゅっと凝縮されて、何本もの棒状の物体へと形をかえる」。「この棒状の物体は『染色体』とよばれており、ヒトの場合は一つの細胞につき、46本あらわれる」。
 雑誌ニュートン別冊・知りたい!遺伝のしくみ(ニュートンプレス、2010)
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 染色体でもDNAでもなく「遺伝子」がヒトの「性」を決定するした場合、その遺伝子は特定されているのか。一個体の一細胞がもつ遺伝子の数は、つぎのように数多い。「(ヒト)ゲノム」という語にはまだ立ち入らない。
 「ヒトゲノムにはヒトをつくり、修復し、維持するための主な情報を提供する2万1000から2万3000個の遺伝子が含まれている」(S·ムカジー・下掲書の「プロローグ」)。
 この数字は、この欄ですでに紹介したものと、全く同じではない。
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 「遺伝子」(gene)という概念自体が、20世紀の10年代に生まれた。ダーウィンもメンデルも、この概念を知らなかった。
 相当に観念的で抽象的な概念でもあった。誰も、「遺伝子」なるものを「見る」ことがなかった。
 そんな状況で、ヒトの「性」が遺伝子によって決められる、または遺伝子から大きな影響を受ける、という考え自体が確立していなかった。染色体に関する研究を発展させた、1933年のノーベル賞受賞者のモーガンもまた、<性決定の遺伝理論>を否定していた、という。
 モーガンが否定していたのと同じころ、アメリカの若手研究者・N·スティーヴンスの発想にもとづいて協力学者のE·ウィルソンが、「染色体という観点からは、雄の細胞はXYで、雌の細胞はXXであり、卵子は一本のX染色体を持っている」、「Y染色体を持つ持つ精子が卵子と結合すると、XYの組み合わせができ、『雄化』が決定する」と考えた。
 1980年代に入って、イギリスのP·グッドフェローがY染色体上の「性決定遺伝子」を探し始めた。
 1989年にアメリカのD·ペイジが「ZFY」を見つけて接近し、同年の後半にグッドフェローが「性決定」遺伝子を見つけて「SRY」遺伝子と名づけた。なお、この過程で、「XY型」染色体を持ちながら(遺伝子的には「男性」だが)「女性」である人々も発見され、研究に少なくとも結果としては貢献した。この現象をめぐる仔細は省略する。
 以上、S·ムカジー=田中文訳・遺伝子—親密なる人類史/下(早川書房、2018/文庫化2021)。
 Y染色体上に「性決定」遺伝子(「SRY」)が特定されたのは1989年、2024年からわずか35年前だ。第二次大戦後も40年間以上、「Y染色体」による「性決定」という不正確な通念がまかりとおっていた。
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 「生殖細胞」の染色体は「減数分裂」で23本。受精卵になると染色体数は元に戻って46本(うち2本が「性染色体」)。
 上のことよりも<神秘さ>を秋月は感じるのは、「体細胞」の分裂過程で、DNAも遺伝子も、そして染色体も「二倍化」することだ。
 つまり、DNAは塩基対の中央で二つに(一塩基ごと・一ヌクレオチドごとに)ー切り裂かれ、紡錘体(紡錘糸)に引っ張られて極方に集まるのだが、その片割れ(もはや「らせん状」ではない1本だけのDNAの鎖・ひも)に、相補的に<新しい>塩基群(新しい1本の鎖・ひも)が付着することだ。
 こうしてこそ、細胞は(遺伝子もDNAも)「複製」され、かつ二倍に「増える」(元の細胞は「死ぬ」)。
 この新しい塩基群(新しいDNAの片割れ)の出現による「複製」(新しい塩基対群の完成)・「増殖」こそが、「細胞」の、そして「生命体」の、<神秘>だと、秋月は感じる。
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2741/黒田裕樹・希望の分子生物学(2023)。

 黒田裕樹・希望の分子生物学—私たちの『生命観』を書き換える(NHK出版新書、2023年11月)。
 読了した。なかなかよくできた本だ。
 第1章では、「文科」系的日本人にも比較的に分かりやすく、「現代生命科学」の基礎を9項目に分けて説明してくれている。
 分類学、「悠久」を前提とする「進化」論、生物とは、栄養素、「始原生殖細胞」、免疫、等々。
 その他の紹介、要約等は今回はしない。
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 カント、マルクス、ニーチェ等々、あるいは少なくとも19世紀末までの「哲学」・「思想」等はほとんど役に立たない。
 読了して、記憶に強く残っていた<現代的>問題のうち、二つだけ取り上げる。
 第一。遺伝子「組換え」技術によって「大きな変革が予測される分野」の一つに、つぎがある。
 「寿命=老化に関与する遺伝子をターゲットとして、寿命または健康寿命を延ばせるようになる」。
 以下は、示唆を得ての秋月の文章。技術的には、ほぼ全員について遺伝子上の100歳寿命を実現できるものとする。
 <少死化>時代となって、「食糧」問題はどうなるのか。
 「寿命・健康寿命の延長」を望む者が対価を払って遺伝子改変を受ける場合、100歳寿命化はいかほどの金額になるのだろうか。
 望んでもその金額を支払えない者が出てくる。貧富の差異によって、「(健康)寿命」延長の可能性が変わる。
 この「不公平(?)」を、<国家>は貧者への補助金(・助成金)によって解消すべきか?
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 第二。「ブタの臓器」をヒトに移植する、またさらに、ブタの体内で「ヒトの細胞からなる臓器をつくる」、といった研究が行われている。後者ではきわめて短期間で目的のヒトの臓器を獲得できる。
 以下は、著者の言葉。「倫理的な問題を引き起こす可能性」がある、という。
 「例えば、人間の細胞がブタの脳にも混ざる可能性があり、そうなるとそのブタは何らかの形で『人間的』な認識を持つかもしれないと考えられます。
 だとしたら、そのブタを殺してもよいのか。」
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2740/末期癌の若き脳神経外科医の死②。

 つづき。Cady は夫妻の幼い子ども(8ヶ月)。
 ——
 「それとも、ここに家を再現できないかしら?
 BiPAP が空気を送り込む合間に、彼は答えた。
 『Cady』。/
 友人…がすぐに家からCady を連れてきてくれた。
 Cady はPaul の右腕に居心地よさそうに抱かれ、そしてCady らしい無頓着さでご機嫌な付き添いを始めた。
 空気を送りつづけ、Paul の命をつないでいるBiPAPの機械など気にも留めずに、Cady は小さな靴下を引っぱったり、病院の毛布を叩いたり、にこにこしたり、喉を鳴らして喜んだりした。」
 「Paul の急性呼吸不全はがんの急速な進行によるものと思われた。
 血液中の二酸化炭素濃度はいまだに上昇しつづけており、挿管の必要を揺るぎないものにしていた。
 家族の意見は分かれた。」
 「わたしは、急速に悪化した彼の容態を改善できる可能性を少しでも信じているなら、そう言ってほしいと医師たちに懇願した。/
 『Paul は奇跡の大逆転にかけたいとは思っていません』とわたしは言った。
 『意味のある時間を過ごせる可能性が残されていないのなら、マスクを取ってCady を抱きしめたいと思っています』。/
 わたしはPaul のベッド脇に戻った。
 彼はわたしを見て、はっきりと言った。
 BiPAPのマスクの上の目は鋭く、その声は静かだけれど揺るぎなかった。
 『用意ができたよ』(I 'm ready)。
 呼吸器を外す用意が、モルヒネ(morphine)を開始する用意が、死ぬ用意ができたということだった。/
 家族が集まった。
 Paul の決意のあとの貴重な時間に、わたしたちはみんな、愛と尊敬を彼に伝えた。
 Paul の目に涙が光った。」
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 「一時間後、マスクが外されてモニターが切られ、モルヒネの点滴が始まった。
 Paul の呼吸は安定していたものの、浅かった。
 苦しそうな様子はなかったけれど、わたしがモルヒネを増やしてほしいかと訊くと、彼は目を閉じたままうなづいた。…。
 そして、とうとう、Paul は意識を失っていった。」
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 「Paul の両親、兄弟、義理の姉、娘とわたしは9時間以上、彼のそばを離れずにいた。」
 「親しいいとこと叔父、そして司祭が到着した。」
 「北西向きの窓から暖かな夕陽が斜めに差し込むころ、Paul の呼吸はさらに静かになった。
 寝る時間が近づくと、Cady はぽっちゃりとした拳で目をさすり、彼女を家に連れて帰ってくれる友人がやってきた。
 わたしはCady の頬をPaul の頬につけた。
 ふたりのそっくりな黒髪には同じような寝ぐせがついていた。
 Paul の表情は静かで、Cady の表情は不思議そうだけれどもおだやかだった。
 彼の愛する娘はこれが別れの瞬間だとは思ってもいなかった。」
 「部屋が暗くなって夜が訪れ、低い位置の壁灯が暖かな光を放つころ、Paul の呼吸は弱々しく、そして、途切れがちになった。
 体は休んでいるように見え、四肢に力ははいっていなかった。
 もうすぐ9時だった。
 Paul は目を閉じて唇を開いたまま、息を吸い、そして、最後の、深い息を吐いた。」
 ——
 死亡日、2015年03月09日。37歳。

2739/末期癌の若き脳神経外科医の死①。

 Paul Kalanithi, When Breath Becomes Air (2016年1月)。
 =P·カラニシ=田中文訳・いま希望を語ろう—末期がんの若き医師が家族と見つけた『生きる意味』(早川書房、2016年11月)。
 若き脳神経外科医のPaul Kalanithi が末期癌に罹り、自らネット上に情報発信していて、その文章も一部掲載されているが、その妻だったLucy が書いた文章(死亡の過程やその後のこと)が主だと思える。舞台はアメリカだが、Paul Kalanithi という名を持つ夫の出身地等は不明。
 田中文の日本語訳がうまくて(そう感じられ)、それが理由になって最近にS·ムカジーのいくつかの著の邦訳書を手にすることになった。
 途中から途中まで、一部のみを紹介する。Lucy の文章だ。()は原書による。
 ——
 「日曜の早朝、わたしがPaul の額をなでると、燃えるように熱かった。」
 「肺炎(pneumonia)の可能性を考慮して抗生物質(antibiotics)の投与が開始されたあとで、わたしたちは家族の待つ家に帰ってきた(…)。
 でもひょっとして、これは感染(infection)ではなく、がん(cancer)が急速に進行しているせいなのだろうか?
 その午後、Paul は苦しむ様子もなくうとうととしていたけれど、病状は深刻だった。
 彼が寝ている姿を見ながら、わたしは泣いた。
 居間へ行くと、義父も泣いていた。/
 夕方、Paul の状態が突然、悪化した。
 彼はベッドのへりに腰掛けて、息をしようと喘いでいた。
 はっとするほどの変化だった。
 わたしは救急車を呼んだ。
 救急救命室にふたたびはいっていくところで(…)、彼はわたしのほうを向いてささやいた。
 『こんなふうに終わるのかもしれない』(This might be how it ends)。」
 --------
 「病院のスタッフはいつものようにPaul を温かく迎えてくれたけれど、彼の容態を把握したとたん、忙しく動きはじめた。
 最初の検査の結果、医師らは彼の鼻と口をマスクで覆ってBiPAP で呼吸を助けることにした。」
 「Paul の血液中の二酸化炭素濃度は危険なまでに高く、呼吸する力が弱くなっていることを示していた。
 血液検査の結果から示唆されたのは、血液中の過剰な二酸化炭素のうちのいくらかは、肺の病変と体の衰弱が進行していくにつれて…蓄積していったということだった。
 正常より高い二酸化炭素濃度(carbon dioxide level)に脳が順応したために、Paul の意識は清明なままだったのだ。
 Paul は検査結果を見て、そして医師として、その不吉な結果の意味を理解した。
 ICU へ運ばれていく彼のうしろを歩きながら、わたしもまた理解した。」
 「部屋に着くと、彼はBiPAP の呼吸の合間に、わたしに訊いた。
 『挿管が必要になるだろうか? 挿管(intubate)した方がいいだろうか?』」
 「BiPAP は一時的な解決策だと彼は言った。
 残る唯一の医学的介入はPaul に挿管すること、つまり人工呼吸器(ventilator)につなぐことだった。
 Paul はそれを望んでいるだろうか?」
 「問題の核心」は「この急性呼吸不全を治すことができるかどうかだった」。
 「心配されたのは、Paul の容態がよくならず、人工呼吸器を外せなくなることだった。
 Paul はやがてせん妄状態(delirium)に陥り、それから多臓器不全(organ failure)をきたすのではないだろうか?
 最初に心(mind)が、次に体(body)がこの世を去っていくのではないだろうか?」
 「Paul は別の選択肢を検討した。
 挿管ではなく、『コンフォートケア(comfort care)』を選ぶこともできるのだと考えた。
 死はより確実に、より早くやってくるけれど。
 『たとえこれを乗り越えられたとしても』、脳に転移したがんのことを考えながら、Paul は言った。
 『自分の未来に意味のある時間が残されているようには思えないんだ』。
 義母が慌てて割ってはいった。
 『今晩はまだ何も決めなくていいのよ、Pabby。…。』
 Paul は『蘇生(resuscitate)を行わないでほしい』という意思表示を確定的なものにし、それから義母のいうとおりにした。」
 ——
 つづく。

2738/生命・細胞・遺伝—10。

 細胞核内のDNAの最小単位のヌクレオチドは、リン酸、糖(五炭糖)、塩基で成る。
 五角形をしている五炭糖に5つある炭糖には、1‘〜5’の番号が振られている。
 数字の順はあくまで便宜的になのだろうが、リン酸(H3PO4)とまず結合するのは、五炭糖(の炭素)のうちの「5‘」だ。
 一方で、五炭糖(の炭素)のうちの「1’」が、塩基と結合する。
 したがって、ヌクレオチドは、五炭糖を真ん中にして、 <リン酸—糖(五炭糖)—塩基>という結合の仕方をしている、
 なお、五炭糖のうちの「2‘」だけがDNAとRNAで異なり、前者は水酸基(O)を持たないが(全体として→「デオキシリボース」)、後者は持つ(全体として→「リボース」)。日本語では「デオキシリボ核酸」等の語になって「核酸」が付いているのは、リン酸が「核」内にある「酸」だからだ。英語は、deoxiribonucleic acid。
 塩基(base)には4種がある。Adenine(アデニン、A)、Thymine(チミン、T)、Guanine(グアニン、G)、Cytosine(シトシン、C)だ。簡単にA、T、G、Cと称され、塩基(配列)の「文字情報」と言われたりされるが、むろん、塩基の表面にこれらの文字が刻印されているのではない。
 なお、RNAでは、上のうちTだけはUrasil(ウラシル、U)に代わる。
 DNA内の塩基にはプリン塩基とピリミジン塩基の二つがある。上のAとGはプリン塩基で、上のCとT(そしてRNAの場合のU)はピリミジン塩基だ。
 この塩基部分は、生物や細胞にとって必要不可欠の「情報」・「設計図」の作成に関係する<本体>だと言える。
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 一個のヌクレオチドだけでは「縄ばしご」、遺伝子あるいはDNAにならない。
 第一に、便宜的な言い方をすると、「下」へ延びなければならない。タテの「握り縄」を長くしなければならない。
 この場合、上のヌクレオチドの五炭糖(の炭素現象)のうちの「3‘」が「下」にある別のヌクレオチドの「リン酸」と結合し、さらに「下」のヌクレオチドへと繋がっていく。
 それぞれの「リン酸」には最初のものとは異なるそれぞれの五炭糖が結合している。また、その五炭糖の「1’」にそれぞれの「塩基」が接合している。
 大まかに言えば、ヌクレオチドが鎖のように上から下へと繋がっている。「リン酸」を介して接合しているのだが、二つの「リン酸」を繋ぐのは五炭糖の「5‘」または「3’」で、この二つだけを上から順に見ると、「5‘」→「3’」→「5‘」→「3’」→「5‘」…という順になる。また、それぞれのヌクレオチドに「塩基」を接合するのは、つねに、それぞれの五炭糖の「1’」だ。
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 第二に、「横」へと、広がらなければならない。
 この場合、「踏み板」(踏み縄)にあたる「塩基」を、<隣>にあるヌクレオチドの「塩基」と結合させることになる。あるいは、<噛み合わせる>ことになる。
 ここで重要なこと、不思議なことがある。
 塩基には上記のとおり4種類があるが、「隣」のヌクレオチドの塩基ののうち、接合する、あるいは「噛み合う」種類があらかじめ(不思議なことに)決まっている。
 すなわち、A-T、T-A、G-C、C-G、という4種の対応関係のみがある(4文字のあり得る組み合わせは4の4乗だが)。左右のセットで考えると、2種類しかない。
 なぜこうなっているかというと、A-T、G-Cの組み合せが必要なエネルギーが少なくて済む、という理由らしい。また、別の塩基と接合するに際してに必要な「水素結合」の個数(本数)がAとTの場合は2、GとCの場合は3と違っている、と指摘されている。
 こうして「隣の」ヌクレオチドの塩基との接合・結合(あるいは「対合」)によって、一つの「塩基」は一つの「塩基対」になる。「対合」する塩基のことを、「相補塩基」とも言う。
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 一つのヌクレオチドが「鎖」状になって「下」に繋がっていくと、塩基もまた、種類を変えながら、ずっと続いていく。
 この塩基の並び方を「塩基配列」という。片方だけではなく双方があって塩基対が出来上がっているとした場合も、やはり「塩基配列」と言ってよいのかもしれない。
 重要でかつ不思議なことは、「相補」関係にある、向かい合った、または隣り合ったヌクレオチドの塩基の配列の仕方には、一定の<法則>があることだ。
 すなわち、片方の塩基配列6個分がかりに「CATTGA」だったとすると、「相補塩基」の塩基配列は必ず「GTAACT」になっている。
 これは上記の、A-T、G-Cの対応関係しかない、ということの延長の説明になるだろう。6個はつぎのような相補塩基と対の配列に変わる。
 C→G、A→T、T→A、T→A、G→C、A→T。こうして、「GTAACT」になる。
 また、別の話題になるが、「相補」関係にあるヌクレオチド、つまり、リン酸・糖・塩基の繋がり方は、五炭糖(の炭素)の位置について上に述べた片方のそれとは逆、すなわち、「3‘」→「5’」→「3‘」→「5’」→「3‘」…になっている、という。不思議で、絶妙なことだ。
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 さて、生命に関する「情報」・「設計図」はリン酸や糖(五炭糖)の部分ではなく、A・T・G・Cという「塩基」(または塩基対)に記載されている。正確には、これらの塩基の独特で複雑な「配列」関係によって示されている。
 それらの<情報>は、DNAからRNAへ「転写」され、そのRNAが細胞質内のリボソームにより「翻訳・読解」されて、その指示情報に従って新たに「タンパク質」が作られる(ホモ・サピエンスのみならず、細菌・バクテリアを含む全ての生物に共通する、セントラル・ドグマ)。
 従って、生命に関する「情報」はタンパク質作りのための「設計図」であり、「レシピ」である、と言って差し支えない。
 そのタンパク質は多様なもので、諸種の「アミノ酸」がつながり合ったものだ。
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 アミノ酸は、20種類がある、とされる。それらが組み合わさって、一定のタンパク質が生まれる。
 塩基には4種類があるが、そのうち2種類を使っただけでは、正確には2列の塩基配列を使っただけでは、16種の異なるアミノ酸しか指定することができない。AA、AG、AC、…と、4×4=16が限界だ。
 そこで、塩基は、3種のそれで、一つの性格のアミノ酸を指定している、とされている。
 GGA、CTT等々の組み合わせ、または配列の違いで、4の3乗の64とおりの異なるアミノ酸を指定することができる。しかも、64と20の間には相当の余裕がまだあるので、複数の三「文字」の組み合わせを一つのアミノ酸のために利用することができる。
 4種の塩基のうち3つの配列はアミノ酸の、ひいてはタンパク質の生成のための「暗号」のようなもので、塩基3個の配列は「コドン」(codon)と称される。
 64種類の「コドン」がいかなるアミノ酸に対応しているかを一覧できる表は、<コドンの暗号表>とも呼ばれる。
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 塩基配列はしかしDNAの長さの範囲内で長々と続く可能性があるので、生命の維持または狭義の「遺伝」に関する「情報」として、何らかの一かたまりの区別が必要になってくるものと思われる。「複製」と「分化」を繰り返して維持されたり生成されたりする器官や臓器等々には違いがあるからだ。またそもそも、塩基配列の始めと終わりが明確でないと、作成が指示されるアミノ酸の並び方、ひいてはタンパク質を特定することができない。
 そこで、ATG(メチオニンというアミノ酸のためのコドン)を始まりと見なすことになっている、とされる。一方で、終わりを指定する「コドン」には、TAA、TAG、TGAの3つがある、とされる。
 以上の「コドン」以下は、主として森和俊・細胞の中の分子生物学—最新·生物科学入門(講談社ブルーバックス、2016)による。
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 上の一区切りまたは一かたまりは、秋月には一個の「遺伝子」に該当するように見える。当然に、この点でも、一個の遺伝子はDNA全体の一部にすぎない。
 「ヌクレオチドが多数つながりあったものは、化学的にはDNA(デオキシリボ核酸)と呼ばれる」としたあと、続けてこう書く文献もある。
 「したがって、一つの遺伝子は、ある長さをもったDNA(あるいはDNAの一断片)と言ってもよい」。
 小林朋道・利己的遺伝子から見た人間(PHP研究所、2012)
 また、「非コードDNA」という概念があるように、DNAが全て「遺伝」情報を保持しているわけではない。「DNAの98%が謎」という書名の文献もある。もっとも、正確には、DNAの全ての部分が「情報」・「設計図」を〈直接に〉示しているわけではない、〈間接的に〉、つまり設計図どおりの作成に移るべきか否か、いつ始めるのか、いわゆる遺伝子の<発現>をさせるか否か、といった重要問題に関与している可能性が高い、と言うべきだろう。むろん、〈無駄な〉部分もある。さらに、のちに触れる。
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 以上のDNAの構造に関する叙述またはノートに、「染色体」という言葉・概念は全く必要がない。
 染色体は<細胞分裂>(これによって「核」も「DNA」も(遺伝子群も)「分裂」するのだが)の過程で出現する構造体にすぎない。但し、核膜の一部または内面にあらかじめ「染色質」が用意されている、とされる。
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2737/西尾幹二批判076—「ひらめき」。

 「生命・細胞・遺伝—01」(2024/04/04)の最後にこう書いた。
 「文筆家、評論家、あるいは『もの書き』にそれぞれ独特に生じるのだろう、文章執筆の際の<ひらめき>は、多数のニューロン間の『つながり方』またはその変化によって生じている」。
 このときに思い浮かべていた「もの書き」の文章はつぎだった。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。p.37。
 (その問題は)「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことのできない領域に入ります。それは各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定という問題です」。
 西尾におけるアダム·スミスの「自由」概念の理解は、既述のように、間違っている。それはともかく、西尾幹二は、生活条件の整備等の物質的・経済的問題ではなく各自の「ひとつひとつの瞬間の心の決定」の<自由>の問題が重要だ旨を力説する。
 「ひとつひとつの瞬間の心の決定」は、脳内の、神経細胞(ニューロン)の働き、多数のそれの複雑なつながり方によって生じる。
 そして、西尾は「各自における」と書いて「各個人」のそれの重要性を面向きは強調しているようだが、じつは、西尾幹二という「自分」の<自由>こそが重要であり、保護され、尊重されるべきものだと考えていることは明らかだ。
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 西尾幹二にとって、文章作成の際に言葉や語句が「ひらめき」出てきて、それを選定する場合の「ひとつひとつの瞬間の心の決定」がきわめて重要で、そこにこそ、<西尾幹二らしさ>、自分が高く評価されるべき根拠があるのだろう。
 物質的・経済的問題ではない、それと峻別されるべき<精神>の領域に属する問題なのだ。
 この部分にも、幼稚で単純な「物心(心身)二元論」が見え隠れしている。
 「物」よりも「精神」が大切、「精神」・「心」を表現する言葉・文章が大切。—さすがに「文学部的」または「文芸評論家的」なモノ書きの文章だ。
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 もっとも、西尾が語る趣旨を全く理解できないのではない。、またむしろ、陳腐な物言いでもある。
 西尾幹二がいっさい参照していないと間違いなく見られるのが「法学」または「憲法学」上の<自由>論なのだが、憲法(学)上は「経済的自由」よりも「精神的自由」が優先されるべきとされ、後者の中核は「内心の自由」にあるとされる。
 西尾は知らない単語・概念だろうが、この人が語っているのは要するに「内心の自由」の重要性に他ならない。特段に新しい深遠な考え方が示されているのでは全くない。
 (但し、「内心」の形成は<本当に自由に>行われているのか、という問題はある。この問題は「意識」・「こころ」の本質や<自由な意思>の存否という「ハードな」問題にかかわる)。
 上の()部分をあえて注記しておくが、「ひとつひとつの瞬間の心の決定」が重要だなどという言辞は、ある意味ではほとんど自明のことを、何やら勿体をつけて、長々と書いているものに過ぎない。
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 だがしかし、「生活条件の整備」等の個々の人間が生きていく上で重要な課題と仕事を、西尾幹二は一貫して<馬鹿にしてきた>、という面が、一方にはあると考えられる。
 旅行中にふと思ったことだが、急傾斜の地域に鉄道を通すために、またその鉄道の速度を早めて人や物質を運送・運搬する時間を短くするために、日本で100年以上のあいだ、多数の人々が努力し、また工事等を行なってきた。そんな、無名だろう人々を含む多数の人々の、「便利さ」を追求する懸命の努力など、西尾幹二の意識には、ほとんど昇ってきたことがないに違いない。
 「生活条件の整備」は「精神的自由」と比べて価値あるものではないとしつつも、前者が獲得された以上は、西尾はその利便性を平然と利用してきたのだろう。
 西尾幹二が住んだ住宅にも、電気・上水道等々の種々の利便性が及んでいただろう。西尾が杉並区から中央線・市谷駅に着くまでのあいだ、あるいはその反対の帰路のあいだ、間違いなく西尾も、都市の交通施設・制度の恩恵を享受してきたわけだ。
 にもかかわらず、「ひとつひとつの瞬間の心の決定」の問題が重要だ、その<自由>にこそ価値がある、とぬけぬけと書けるのは何故だろう。かつまたその<自由>は、西尾幹二という「自分」のそれで十分であって、この人は、日本国民一般、世界の人々のことなど全く考慮していない。
 いびつな、「観念」好きの、自分が良ければよい、と考えるもの書きの姿が、ここにはある。
 「科学は敵だ」とか、「神話は無条件に信じるべきものだ」とか等々の狂信じみた物言いが西尾幹二にはあることは、すでにこの欄で記した。
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2736/生命・細胞・遺伝—09。

 DNAの構造(・形態)を理解しようとするとき、まずは木製のハシゴを思い浮かべるとよいかもしれない。
 登り降りするために足を乗せる横棒・横板の部分が「塩基」(正確には「塩基対」)だ。左右の手で握る部分は、「糖」と「リン酸」が繋がってできている。
 だが、「木製のハシゴ」では<二重らせん>構造を想像することが難しいかもしれない。左右の握り棒部分を強く「ねじって」、<らせん>階段のようにしなければならないからだ
 だから、勝手に、<縄ばしご>の方が近い、と秋月は思っている。「縄」でできたハシゴならば、左右にあるタテの縄を容易に「ねじって」、<らせん>状にすることができるだろう。
 左右の握り縄の部分は、長い「鎖」とか、長い「糸」と表現されることが多い。
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 DNA(とRNA)の最小の構成単位は、「ヌクレオチド」(nucleotide)というらしい。この「ヌクレオチド」は、一個ずつの「リン酸」と「糖」(正確には「五炭糖」)と—4種ある「塩基」のうちの—1種の「塩基」で成る。DNAの「糖」は「デオキシリボース」だ(だから、DNA=「デオキシリボ核酸」という)。RNA(リボ核酸)は「リボース」なので、DNAと異なる。
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 ヌクレオチドは、「縄ばしご」のごく一部だ。横棒部分の全体の、半分しか持たない。したがって、これだけでは、「はしご」にならない。また、左右にある握り縄部分のうちのごく短い一部分にすぎず、上記の通り計2個のつらなった分子構造しか持たない。
 ではなぜ、横棒=横板部分がもう半分くっついて(逆の形で「相補的に」)結合して、左右に一対の握り棒(握り縄)になっているのだろうか。一対の(計2種の)塩基を「塩基対」と言う。
 もともとタテの(ヌクレオチドの)長さが短いと生命体にとって必要な「情報」を記載する(正確には「情報」を記載する「塩基」部分を保持する)ことができないから、左右いずれかの「リン酸基」・「糖」部分は長く繋がって、「鎖」状にまたは長い「糸」状になっている。
 その左右いずれかの部分を長くすれば、塩基がもつ<情報>を十分に支えることができるのではないか。
 この問題について、DNAの<情報>がRNAに「転写」されるときに「コピーミス」が生じ得るので、その場合に備えて、もう一本(もう一鎖)、元来は「同じ」はずの「予備」を用意しているのだ、との説明がある。
 田口善弘・生命はデジタルでできている—情報から見た新しい生命像—(講談社ブルーバックス、2020)
 (なお、この一対は、有性生殖生物の場合の雌雄という一対に由来するのでは全くない。後者に由来するのは一対で成る<染色体>だ。)
 なるほど、無駄になるかもしれないのに丁寧なことだ、と思う。これに比べて、RNAは、「ヌクレオチド」が最小単位であることは同じだが、「はしご」状(二本の長い鎖の「らせん」状)ではなく、一本の長い「鎖」・「糸」なのだ。
 しかし、さらに疑うと、「予備」もまた「ミス」を含んでいる可能性が全くないとは言えないだろう。そうすると、「三本め」もまた用意しておかなければならないのではないか。
 日本の神社にたいていはある鳥居には一本の柱ではなく、左右一対の二本の柱がある(それらの上に「笠木」がある)。そうであってこそ、「安定」している(また、「美しい」のかもしれない)。
 だが、ごく稀には、二本の柱の中央の奥にもう一本柱があって、三本の柱をつないでいる鳥居がある(三柱鳥居。例、京都市の木嶋坐天照御魂神社)。上から見ると、正三角形の形状をしているはずだ。二本よりも、三本の方が「安定」性が(鳥居の場合はきわめて)高いだろう。
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 こんな雑考をしていると、興味深い記述を思い出した。すなわち、DNAの「二重らせん」構造を解明したJ·ワトソンとF·クリックは(他の一研究者グループも)、当初は「二重」と想定しておらず、「三重」と予想した時期もあったという。らせん状にヒストンに巻き付くのは何本と決まっているわけではないので、三本でも四本でもあり得ることだ。なお、他にも想定違いはあった(塩基がくっつく方向等)が、それらを打ち破ったのが、ロザリンド·フランクリンによる「写真」だったという。
 S·ムカジー=田中文訳・遺伝子—親愛なる人類史—/上(2021)
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 生命体(生物)にとって最も基礎的な数字は、2、次いで4であって、3ではないような気がする。多言はしない。人間に身近な「音楽」についても。
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 そんな数字マニアックなことよりも、以下のことの方が、はるかに重要なことだろう。
 細菌(バクテリア)を含む全ての生物にDNAがあり(ウイルスの中にもDNAを持つものがある、という)、「ヌクレオチド」を(「分子」レベルでの)共通する最小単位にしている。細菌(バクテリア)もホモ・サピエンス=人類も同じだ。
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2735/生命・細胞・遺伝—08。

 生命・細胞・遺伝—08。
 細胞や個体・人間の「死」についてまず書こうと漠然と想定していたが、<Y染色体論>なるものをふと思い出して、染色体や遺伝子等に進んでしまった。「細胞死」と個体の「寿命死」の差異や関連についてがまだ触れていない。「読書ノート」のようなものを、行きがかり上、さらに進める。
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 生命体・細胞の(とくに遺伝子関連の)研究の発展史のようなものに05でごく簡単に触れた。以下、重なるところもある。
 1860年代のメンデルによるほとんどの生物に共通する遺伝関係「因子」と遺伝にかかる「法則」の発見から20世紀になってからの(ドイツのW·ヨハンセンによるドイツ語を経ての)「遺伝子(gene)」という言葉の出現や若きサットンの研究までの間に重要だったのは、「染色体(chromosome)」の発見とこの言葉の定着だった。
 なぜ「染色体」が遺伝子やDNAに先行したかの理由は、まずはその「大きさ」と「染色」されやすさ、にあっただろう。
 遺伝子やDNAよりもサイズが大きいために、当時の顕微鏡による「細胞」観察でもより容易に発見することができた。
 加えて、「染色体」は青い「アニリン染料」によく「染まる」性質を持ち、その大きさとともに明瞭に「目立つ」ものだった。
 「染色体」という呼称は、1888年に始まった、とされる。その「染色」性に由来していることは間違いない。
 このように「染色体」が目立った重要な背景には、しかし、<細胞分裂>の際の「挙動」こそがあった。
 1882年に、ドイツのW·フレミングは、<細胞分裂>の各段階ごとに、「よく染まる構造体」の「奇妙で特徴的な挙動」の「精緻なスケッチ」を残した(「」引用は、中屋敷均・遺伝子とは何か(2022)から)。このスケッチは現在でも利用されている。
 大きさも、「染色」性も、じつは、<細胞分裂>の過程での不思議な「挙動」によってこそ明らかになったものだった。
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 1875年にヘルトヴィヒが、ウニの「生殖」過程で「核」内の精子が別の核内に入っていって二つの「核」が融合する、ということを発見した。
 そんなこともあって、二つの「核」の融合を経る(狭義の)「遺伝」には「核」内の(その他の物質や構造体ではなく)「染色体」が重要な役割を果たしていることを、20世紀初頭にサットンが発見し、主張するに至る(既述、05)。
 こうして、メンデルによる「遺伝」に関する「因子」は「染色体」に該当する、またはこの二つは重要な関連がある、と考えられた。そしてまた、同時期にドイツのW·ヨハンセンの造語を経て「遺伝子」(gene)という語・観念も作られていた。サットンは、「染色体」=「遺伝子」と見なすとメンデルの「法則」をうまく説明できる、と気づいた、という(この部分、小林武彦・DNAの98%は謎(2017)による)。
 だが、「遺伝子」の正体・「性質」については、「染色体」との関連も含めてまだ不明確だった。
 一方ですでに1869年に、細胞内、とくに「核」内には「DNA」という物質があることが知られていた(スイスのF·ミーシャによる)。
 だが、「遺伝子」は「タンパク質」なのか「DNA」なのか、といった議論があり、「DNA」等の単純な成分をもつ「核酸」(nucleic acid)ではないとする説も有力だった。多数説だった、ともされる。人体を構成する主要な高分子化合物(生体高分子)は20種類のアミノ酸が複雑に結合した種々の「タンパク質」だから、「遺伝」・生存の基本を形成するのも「タンパク質」だろう、というわけだ。
 その後、1928年、その物質は「タンパク質」以外の何かだと判った(グリフィスの実験)。
 ついで1944年(第二次大戦中)、「遺伝子」の正体・本体または物質的性格は「DNA」だと解明された(アベリーの実験)。
 では、「DNA」はどのような形態・構造をしているのか。これが明らかにされたのが、1953年。J·ワトソンとF·クリックによる。その年から、まだ70余年しか経っていない。
 なお、「二重らせん」構造という結論に影響を与えたのはロザリンド·フランクリンという女性による観察・解析だった、という。この人はのちに38歳で夭折した(中屋敷・上掲書等々)。
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 以上の最後の方ですでに、「遺伝子」の本体または物質的性格が「DNA」だ、という旨を叙述した。これは、両者の差異に関する、つぎの説明の仕方に符号しているだろう。「視座」の違いによるとも言える。
 すなわち、「遺伝子」とは<情報>(を記載したもの)であり、「DNA」とはその<物質>(的性格)だ。
 だが、種々の説明の仕方があるようだが、すでに(<八木秀次の「Y染色体論」②>)で触れたように、「核」内のDNAのむしろ広い範囲は、「遺伝子」が示す情報(・設計図)を持たないようだ。「染色体」が出現する「細胞分裂」の過程でも同じ。
 したがって、「遺伝子」とDNAの関係・差異については、さらにもう少し立ち入る必要がある。
 ——
 

2734/八木秀次の<Y染色体論>②。

 「細胞」は大きく「再生系」と「非再生系」に分けられる。
 上の後者は神経細胞、心筋細胞だ。おそらく、「iPS細胞」を使った再生 もあり得ない。爪も肝臓という臓器等も「再生」できるけれども。
 多数の細胞は前者の「再生系」だ。その中に、生殖細胞および生殖関連細胞も含まれる。
 この区別は、「細胞」の「分裂」があるか否かに対応している、と見られる。元の神経細胞が「分裂」によって消失してしまえば(そして新しい神経細胞に取って代わられれば)、各個体に固有の<記憶>や<自我意識>等もまた消滅してしまうのではないか。全ての細胞が「分裂」・増殖するかのような叙述は、厳密なものではない。
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 細胞の「分裂」の態様には、「有糸分裂」(有糸「核分裂」による細胞分裂)と「減数分裂」とがある。おおよそは「紡錘体」(糸)出現の有無によって区別されるとも言われるが、それはともかく、「減数分裂」で生み出されるのは、ヒトについて言うと、精子(男子)と卵子(女子)だ。
 これらを作り出す精巣や卵巣という細胞組織の個々の細胞も、「有糸分裂」(と「分化」)によって作り出される。
 上の区別に対応するのが、おそらく、「体細胞」と「生殖細胞」の区別だ。後者は正確には、精子(男子)と卵子(女子)のみを意味する。
 精子と卵子は「細胞」ではあるが、「体細胞」が23対・46本の「染色体」をもつのに対して、半分の23本の染色体しか持たない。「減数」分裂と称される理由だ。
 精子と卵子が一体となった「受精卵」は、両者から受け継いで、23対・46本の染色体をもつ。
 その受精卵は順調に分化・増殖すれば胎児になり、新生児となり、成長して再び精子(男子)または卵子(女子)を体内で(「減数分裂」によって)作り出す。
 元に戻ると、あるいは上から再出発すると、精子と卵子がもつ23本の「染色体」の中には、1本の「性染色体」がある。残りの22本の「常染色体」は少なくとも直接には生殖細胞の生成に関与しておらず、精巣・卵巣も含む、それ以外の圧倒的多数の諸「体細胞」の生成に関わっている。
 精子がもつ1本の「染色体」はいわゆる「X染色体」か「Y染色体」かのいずれかで、卵子がもつ1本の「染色体」は通常はつねに「X染色体」だ。
 「受精卵」・胎児・新生児・個々の人間がもつ23対・46本の「染色体」のうちの1対・2本の「性染色体」には、したがって、いわゆる「XY型」と「XX型」の違いがあることになる(生物上の「性」の区別)。
 --------
 「染色体」はしかし、それ自体が「体細胞」や「生殖細胞」の生成に関する<情報・設計図>をもってはいない。
 「染色体」は、「DNA」や「遺伝子」を「細胞分裂」の際に整序させて<(一時的に)包み込む>「包装物」のようなものだ。こう理解するようになった。
 子孫への狭い意味での「遺伝」、個体みずからの「存続」の両者に関する<情報・設計図>は、「染色体」にではなく、「DNA」または「遺伝子」が示している。
 さらに、上の後の二つは同義ではなく、より決定的なのは最後の「遺伝子(gene)」だと見られる。
 下の書物によるとだが、「全ゲノム」=「DNA」全体のうち98%は「非コードDNA領域」だ。つまり人間の身体の生成・維持にとって重要なタンパク質を指定する等の情報をもっていない。また、同じく80%は、「遺伝子を含まない領域」だ、とされる。
 この数字は、アメリカを中心にして行われた(日本も少しは関与した)「ヒトゲノム計画(プロジェクト)」が完了した2003年の報告書にもとづくもので、「多くの研究者の予想以上の」ものだったとされる。
 小林武彦・DNAの98%は謎(講談社ブルーバックス、2017)。
 「全ゲノム」とは(ヒト一人についての)「30億塩基対」だとされるが、「塩基」等のDNAの構成要素は、別に触れる。
 ——
 八木秀次・本当に女帝を認めてもいいのか(洋泉社新書、2005)。
 この書物で八木は、「Y染色体」としきりに書きつつ、「DNA」や「遺伝子」という言葉・概念を自らでは(たぶん)いっさい用いていない。これはなぜなのか。
 「ヒトゲノム計画」とその結果について知らなかったとしても容赦できる。しかし、2000年頃にはとっくに、「DNA」や「遺伝子」という言葉・概念があることくらいは知られていただろう。
 八木は、信じ難いことだが、「染色体」=「DNA」=「遺伝子」と単純に理解していたのだろうか。
 問題にされてよいのは、「染色体」ではなく、「遺伝子」だ。
 --------
 他にももちろん、八木の議論の問題点は、多数ある。
 ①継承されるものはもともと全て<複製(コピー)>なので、「まったく同じ」染色体も遺伝子もあり得ない。
 ②「遺伝子」レベルでの<複製(コピー)ミス>(=「変異」)がありうる。
 ③「男系」で継承されてきた、という「科学的」根拠がない(「継体」以降にかぎっても)。子どもの父親は本当は誰なのか、という問題は、現代でも起きる。最もよく知っているのは受胎し、出産した母親だけ、ということはあり得る。また、「神武」天皇は本当に「男性」だったのか(その前に、「実在」性自体の問題はむろんある)。「継体」は本当に「応神」天皇の「Y染色体」を継承しているのか? あくまで若干の例だが、これらを肯定できる、「科学的」・「実証的」根拠はどこにあるのか。
 ④「血」・「血統」・「血筋」といった語が、厳密な意味が不明なままで使われている。まさか、「Y染色体」=「血」、ではないだろう。等々。
 以上は、「女系」または「女性」天皇の歴史上の存在とは直接の関係がない。
 --------
 ついでながら、有性生殖生物である哺乳類の場合のオス(人の場合は男子)という「性」を決定する、正確にはたぶん「精巣」(→精子)を作り出すことのできる、そういう遺伝子は、近年の研究により、「SRY(Sex determining-region Y)遺伝子」と称されるものだと特定されている。そして、「XX型」染色体の中にも稀には、この「SRY遺伝子」をもつものがある、という。
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2733/私の音楽ライブラリー041。

 私の音楽ライブラリー041。
 Frederic Chopin, Nocturn No.20 in C-sharp Minor, op.posth.
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 003<再掲> →Nobuyuki Tsujii. 〔Classical Vault 1〕
 003-02 →Alice Sara Ott. 〔音楽の灯〕
 003-03 →Maria J. Pires.〔- Topic〕
 003-04 →Wladyslaw Szpilman. 〔profslump20〕
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2732/生命・細胞・遺伝—07。

 生命・細胞・遺伝—07。
 「染色体」というものは、(秋月瑛二には)把握し難い。
 「染色体」は「遺伝子」や「DNA」を「内部に含む」、より「大きい」構造体だ、といちおう書いた(02)。
 そして、「染色体」は、細胞の中の「核」の中にある。
 これらは、完全に間違っている、というわけではない。
 こう理解して差し支えないだろう叙述は、すでに0206で引用または紹介した、S·ムカジー=田中文訳・遺伝子/上(2018)のつぎの中にもある。
 「①遺伝子は染色体上に存在している。
 ②染色体とは細胞の核の中にある長い線状の構造体で、そこには鎖状につながった何万もの遺伝子が含まれている。」
 また、同じ著者・訳者による、細胞/上(早川書房、2024)の序文にも、つぎの文章がある。
 「①…遺伝子は、デオキシリボ核酸(DNA)という、二重らせん構造を持つ分子内に物理的に存在している。
 ②DNAはさらに、糸の束のような構造をした染色体の中にパッケージされている。」
 後者によると、「遺伝子」は「DNA」という分子内に「物理的に存在」し、そのDNAは「染色体の中」に「パッケージされて」いる。
 どう読んでも、「遺伝子」<「DNA」<「染色体」という関係にある、と理解したくなる。
 また、前者の第二文は、「染色体」の中に「遺伝子が含まれている」と読むのが通常だろう。
 --------
 だが、やや不思議なのは、上の前者の第一文が明らかに「遺伝子は染色体上に存在する」として、「の中に」ではなく「上に」としていることだ。これは原著で確認してもそうで、「in」ではなく「on」が使われている。
 遺伝子<染色体という関係にあるなら、なぜ「in」になっていないだろう、という気もする(in でもon でも、包含関係は変わらないかもしれないが)。
 さらに不思議であり、問題を孕んでいると感じるのは、上の前者の第二文と、上の後者の第二文の、日本語訳だ。原著の英文を見ていると、訳者の「医師」資格を問題視するのではないが、異なる日本語の文章に訳すことのできる可能性がある、と考えられる。なお、前者と後者の①と②は、原文ではいずれも、関係詞でつながった一続きの一文章だ。
 すなわち、つぎのように翻訳できる可能性があるだろう。
 前者の①・②。→「遺伝子は染色体上に存在している。—この染色体は細胞の中に含まれる(buried)長い線状の構造体で、細胞は、鎖状につながった何万もの遺伝子を含んで(contain)いる」。
 関係詞の主語を染色体ではなく細胞と理解できる可能性があり、その場合は、「遺伝子」<「染色体」ではない。たんに「遺伝子」<「細胞」を前提とした叙述であるにすぎない。
 後者の①・②。→「…遺伝子は、デオキシリボ核酸(DNA)と称される二重鎖のらせん状分子の中に(in)物理的に位置している。それ〔DNA〕はさらに、人間の諸細胞では、染色体と称される、群れた〔綛(かせ)のような〕(skein-like)構造体へと(into)パッケージ〔包装〕されている。
 この部分では(関係詞の主語ではなく)「packaged into」の意味の理解が問題になる。「〜へと包装」される、「〜に包み込まれる」とは、必ずしも大小ないし包含・被包含の関係を意味しないと理解できる可能性はあるだろう。また、「染色体」が「包装」するではなく、厳密には、「染色体」と呼ばれる「〜構造体」が「包装」する、と叙述されていることも気になる。〔原文追記—DNA which is further packaged in human cells into skein-like structures called chromosomes.〕
 要するに、「遺伝子」または「DNA」<「染色体」と単純に理解してはいけない、という気がする。
 そして、この理解の方がむしろ、別途に種々の文献を一瞥した後での秋月の理解に合致する。
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 一つの巨大な「細胞」に宇宙船のようなもので「細胞膜」を通過して入り、内部を探検して、「内部」の諸物体(ミトコンドリア、リボソーム等々)を紹介しているかのごとき叙述が、S·ムカジー=田中文訳・細胞/上(2024)にはある(すでに、02での叙述の基礎にした)。
 上で記したことに関係して興味深いのは、上の紹介では一番最後に「(細胞)核」が取り上げられながら、「染色体」は「核」の中で独立した位置づけを与えらていない、ということだ。そのかぎりでは、著者は「遺伝子」や「DNA」等と同様の扱いを、「染色体」についてしている。
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 何となく不可解のままでいたところ、なるほど、と理解できた気になったのは、つぎの文章による。
 「細胞分裂が始まると、DNAが巻きついているヒストンはそれまでよりもさらに密に折りたたまれて、『染色体』という棒状の構造にまとまっていきます。
 染色体は、細胞分裂のときにしか見られないDNAの姿です。
 雑誌Newton 2011年11月号/生命の設計図·DN A(ニュートンプレス、電子化2015年)。
 これによると、DNA=染色体だ、とも言える。
 そのことよりも重要なのは、「染色体」は「細胞分裂」のときに(正確には、その過程で)出現する構造体だ、ということだ。
 「細胞分裂」は次から次へと頻繁に発生しているだろうから、「染色体」も<ほとんど常時>「核」(<「細胞」)内に存在していると感じられて不思議ではないだろう。
 しかし、論理的には、または時間軸を厳密に見れば、「染色体」は<一時的に>存在するものにすぎない。
 --------
 かつまた、今回はほとんど立ち入らないが、「染色体」は、その形状、(「核」内での)「位置」や、(「遺伝子」・「DNA」との)「関係」を、「細胞分裂」の過程で頻繁に(だがリズミカルに)変化させる
 <空間軸>のみならず<時間軸>を取り込んで、あらためて「細胞分裂」の過程に触れる必要がある。その過程での「染色体」の様相は、「常染色体」と「性染色体」とで同じではない
 おそらくは「生殖細胞」や「性染色体」について明確には顧慮されていないが、S·ムカジー=田中文訳・細胞/上(2024)の中には、つぎの叙述がある。
 ここでは、「染色体」の形状等の変化のほか、「(細胞)核」もまた一時的には消滅する旨も語られている。
 「細胞が分裂する際、すべての染色体は複製されて二倍になり、その後、二つに分かれる。
 ヒト細胞では、核膜が消え、分裂してできたばかりの娘細胞の中にフルセットの染色体が一組ずつ入ると、核膜がふたたび現れて染色体のセットを取り囲む。
 こうして、染色体がおさめられた新しい核を持つ娘細胞ができあがる。
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2731/生命・細胞・遺伝—06。

 ①宇宙—②地球—③生命体(生物)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子。
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 S·ムカジー=田中文訳・遺伝子/上(早川書房、2018/文庫2021)は「プロローグ」で、「われわれはすでに遺伝子を非常に詳しく、深く理解してい」る、とする。そして、こう続ける。
 「遺伝子〔genes〕は染色体〔chromosomes〕上に存在(reside)している。
 染色体とは細胞の核の中にある長い線状の構造体〔long, filamentous structures〕で、そこには鎖状に〔in chains〕つながった何万もの遺伝子が含まれている。
 ヒトの染色体は全部で46本で、父親と母親から23本ずつ受けついでいる。」
 また、小林朋道・利己的遺伝子から見た人間—愉快な進化論の授業(PHP、2012)には、つぎの叙述がある。
 「地球上で見られる生物のほとんどでは、遺伝子は、たがいにより集まり群れをつくって存在している。
 …、人間の場合、遺伝子は約2万個であることが知られている。
 これら2万個の遺伝子は、23個の群れに分かれて細胞の中に入っている。
 平均すれば、一つの群れには約870個の遺伝子が入っていることになる。
 約870個の遺伝子が乗ったバスが23台あると表現してもいい(それぞれのバスの中では、遺伝子はたがいにつながりあって、一本の長い紐のようになっている)。
 このときの一台一台のバス、あるいは一本一本の紐を染色体と呼ぶ。」
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 人間の染色体数は46だと確定、または判明したのは、1956年だとされる。
 上の②だと染色体の本数は23本のようでもあるが、一台のバス=一つの「群れ」であり、その「群れ」は2本の染色体で成ると理解すると、染色体の数(本数)はやはり46だ。
 なぜ「2本の群れ」ができるかというと、①が述べるように、<一定の種類の>染色体を父親から1本、母親から1本継承し、その2本が「群れて」いるからだ。
 23組(群れ・対)の染色体のうち22組の各染色体は「ほとんど同じ形質」をもつ(「相同」)。しかし、1組だけは異なる。その組み合わせ(セット)の染色体(2本)を<性染色体>とも言う。
 ところで、上の①と②は一つの「細胞」(>核)に関する叙述で、全ての「細胞」に当てはまる。
 したがって、人間の細胞数を約38兆個だとすると、人間の個々の個体は、46×38兆個=1748兆本の染色体を体内に持っている(細胞数約60兆個だと2760兆本)。全細胞・全ての核の中に、「長い線状」、「鎖状」の構造体あるいは「一本の長い紐」になった、これだけの数の「染色体」がある。
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 染色体ではなく、遺伝子の数となると、もっと膨大になる。
 上の①は「何万もの」(tens of thousands)と書き、②は「約2万」と書く。
 <性染色体>を除く染色体を「常染色体」と呼び、それは22組・対・セットの染色体で成る。1963年の国際会議を経て、各「常染色体」はその「大きさ」(正確には総「塩基対」数の多さ)の順に番号が振られることになった、とされる。第1番染色体、第2番染色体、…第22番染色体というように。
 それぞれが父親由来と母親由来の染色体の合計2本の「染色体」から成るのだから、2本ずつをセットにしてこう称するのは、やや紛らわしい。
 各番の「染色体」について、遺伝子数を正確に(または正確らしく)記載している文献がある。それによると、つぎの数字だ。1番〜22番まで列挙する。
 ①2610、②1748、③1381、④1024、⑤1190、⑥1394、⑦1378、⑧927、⑨1076、⑩983、⑪1692、⑫1268、⑬496、⑭1173、⑮906、⑯1032、⑰1394、⑱400、⑲1592、⑳710、㉑337、㉒701。
 以上、雑誌Newton2013年9月号・XとY—男女を決めるXY染色体(ニュートンプレス、電子化2016)。
 上のうち計6組は奇数だ。これは父親由来か母親由来かいずれかの遺伝子数が1つ少ない(または多い)ことを意味するのだろうが、理由・意味は分からない。
 血液のABO型に関与するのは血液型についてのA遺伝子、B遺伝子、O遺伝子だとされ、それらは第9番染色体上にある、という。但し、個々の染色体(群)には血液型については二つ(父親由来と母親由来)の遺伝子しか存在し得ないとされる。そこで、当該両親からは生まれ得ない血液型の子どももあることになる。
 ともあれ、上の各数字の合計を単純に計算すると、2万5412になる。これを22等分すると、平均は約1155だ。なぜか、上の小林朋道②のいう「約870」に比べて、やや多い(とはいえ、桁外れに異なる、という程ではない)。
 これは1細胞あたりの遺伝子数だから、個体全体での数は、2万5412×38兆の計算をしなければならない。これは1兆の96万5656倍で、96京5656兆になる。
 これだけ膨大な数の遺伝子が個体の「生存」のために用意されている(常染色体は「性」・生殖に関与しないと仮にしておく。いわゆる「性染色体」の遺伝子数は下記)。
 もっとも、「情報」または「設計図」が用意されていても「現実化」しない、あるいは「発現」しない、そういう遺伝子も、少なくない。メンデルは19世紀に、<顕性(優性)>と<潜性(劣性)>の区別があることを示したのだった。
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 ついでに、ここで確認しておく。
 「常染色体」と言われる父親由来と母親由来の2本の染色体は<きわめてよく似たものだ(正確には「塩基配列」がほとんど同じだ)。両親がその祖先から継承してきたものを仮に「血」と呼んでおくとすると、子どもには確率的には父親系統の「血」と母親系統の「血」が半分ずつ継承される
 したがって、子どもが「女子」であっても、確率的には半分、父親系統の「血」が伝わっている。使いたくない言葉だが、仮に(母親系統ではなく)父親系統の「血」が<高貴>だとしても、その<高貴>な「血」は、「女子」にも伝わる。このことはしごく常識的で、当たり前のことだろう。
 繰り返しだが、子どもの身体・体質等々々の個体の「形質」一般に密接に関係する「常染色体」のうち、子どもが女子であれ男子であれ、確率的には半分が母親由来であり、半分が父親由来だ。常識的で、当たり前ではないか。
 「常染色体」は22組(対・セット)で、「性染色体」は1組だけ。「性染色体」だけが子どもに「遺伝」する、あるいは「継承」される、のでは全くない。それによって、女子か男子かが運命的に(?)定まるのだとしても。
 なお、父親を含む両親が生後に獲得した形質は子どもに「遺伝」しない、「遺伝子」によって「継承」されることはない、ということも確認しておく必要があるだろう。
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 いわゆる「性染色体」、いわば(秋月用語だが)「第23番染色体」にも、遺伝子はある。そのうちの、父親由来と母親由来の2種があるいわゆる「X染色体」には、1098の遺伝子があり、父親由来のものしかない、いわゆる「Y染色体」には、かなり少ない78の遺伝子がある、とされる(上掲の雑誌Newton による。ちなみに、「第23番〜」を加えた総遺伝子数は、女子が2万5412+1098×2=2万7608、男子が2万5412+1098+78=2万6588)。
 さて、「Y染色体」の全体が、つまりは実質的には78の遺伝子の全てが、「男子」という「性」の決定に参画しているのだろうか。「参画」ではなく「関与」でもよい。
 上の問いは厳密には誤りだ。父親がもった「X染色体」もまた、「男子」にしないというかたちで、「性」の決定に「参画」・「関与」しているのだから。
 いや、そもそも、男女いずれかへの「性」の「決定」とはいったい何のことだろうか。あるいはさらに、それに遺伝子が「参画」または「関与」するとは、どういうことを意味しているのだろうか。
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2730/生命・細胞・遺伝—05。

 ①宇宙—②地球—③生命体(生物)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子。
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 38兆個とも60兆個ともいわれる、ホモ・サピエンスの個体を構成する基本単位である「細胞」は、増殖または分化する(加えて、これらの結果として元の「細胞」は「死ぬ」)。
 「増殖」は「分裂」によって生じる。「増殖」とは、一つの細胞が二つに「分裂」して同じ「細胞」の数が2倍、4倍と増えていくことだ(10回で2の10乗の1024倍になる)。細胞レベルで同一のものの「クローン」を多数生み出していくこと、と言って間違いでないだろう。
 「分化」とは異なる性質の細胞に「変化」・「変質」することだ。増殖を伴わないかぎり、数は増えない。おそらくは増殖と分化が同時に並行して一挙に行われていって、多様な機能に特化した「細胞群」、「細胞集団」、「組織」といったものが出来てくるのだろう。
 既述のように、ほとんどの生命体では(=少なくとも真核生物であれば)、「細胞」の中に「(細胞)核」があり、全てのその中に(われわれの個体では38-90兆個の細胞の全てに)「DNA」が格納されている。
 なお、「神経細胞(ニューロン)」という細胞について、樹状突起、軸索、核、の他に「細胞体」がある、と01で書いた。この「細胞体」とは、細胞質、ミトコンドリア、リボソーム等を含む。ニューロンも「細胞」なのでこれらを含んでいて当然なのだが、「神経細胞」に特有の説明がされる場合にはこれらに逐一言及されず、「細胞体」として一括されることがある(と見られる)。
 神経細胞(ニューロン)の「核」の中にも、もちろん「DNA」が存在する。
 さて、「DNA」と「遺伝子」や「染色体」とは、どのような関係に立つのだろうか。これまで、後二者については、言葉としてもほとんど触れたことがない。
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 「遺伝子」という語は、ダーウィンもまだ使って使っていなかったようだ。最初は20世紀に入ってから1909年にドイツの研究者の書物の中に「Gen」として出てきたらしい。それが1911年に、英訳語でgene(複数形はgenes)と記述された(参照、下記の中屋敷著)。ゲノム(genome、ジーノウム)は、gene に由来する言葉だ。
 日本語の「遺伝子」という語では、親または先祖から子どもまたは子孫に同一のものを「継承」させる因子、という意味だけに理解される、そう誤解させる、そういう可能性がある。この意味での「遺伝」や「継承」は、英語ではheredity という。
 これに対して、英語のgen(独語のGen)には、「生み出す」、形質を発現させる、という意味があるとされる。秋月が付記するが、generate (生む、生成する)は、この語幹をもっていると思われる。
 そして、欧米語での「遺伝子」も、「遺伝」や「継承」の意味のみならず、自らの形質・形態や機能・役割を「生む」または「支配する」・「決定する」という意味ももっている。これは、「細胞」レベルでも「個体」レベルでも言える。
 ヒトの「個体」に即して簡単に言えば、ヒトの「身体」(正確には「脳」も含む)を「生み」、「支配」・「決定」しているのは、当該人間の「遺伝子」だ、ということだ。この意味では、子どもや子孫は何の関係もない。なお、「支配」・「決定」と言っても、ヒトの個体の「運命」があらかじめ「遺伝子」によって100%決まっている、という意味ではない。
 ともかく、「遺伝子」は、子ども・子孫への「遺伝」・「継承」にのみかかわるものではない。「自ら」に密接に、直接にかかわっている。
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 「遺伝子」、「染色体」、「DNA」は、ある意味では、それぞれの「発見」時代の科学または自然科学・生物学・遺伝学等の発展段階に則したもので、基本的には同じものを指している、とやや乱暴に言ってよいのかもしれない。つぎのような意味でだ。主として、中屋敷均・遺伝子とは何か—現代生命科学の新たな謎(講談社ブルーバックス、2022)による(粗雑な概括なので、叙述の責任は秋月にある)。
 1865年頃、明治改元の直前にG·J·メンデルがエンドウマメを使って<遺伝>に関する「法則」を発見したとき、親から子への形質の継承に関わる共通の「因子」があるに違いない、ということを明らかにしただけだった。その後彼とその「法則」は忘れられ、20世紀に入ってから、基本的考え方の「正しさ」が確認または再発見された。
 その再発見のためには、19世紀半ば以降の「高性能な複式顕微鏡」の量産等の技術や関連科学分野の発展が必要だった。つまり、まずは、「細胞」の「分裂」の際に特徴的な挙動をする「染色体」が発見された。その構造体は、「細胞」内に特定の染色剤を注入すると「よく染まって」見えたがゆえに、「染色体」(chromosome=色+体)と名付けられた。
 20世紀初頭に、アメリカの若い研究者(W·S·サットン)が、「染色体」はメンデルが指摘していた「因子」にほぼ該当するとした上で、つぎのことを明らかにした。
 ①「染色体」は2本の対で成り、1本は父親にもう1本は母親に由来する、②生殖細胞の形成の際に通常の細胞(=「体細胞」)とは違って「減数分裂」が起こり、1本ずつになった「父親由来の染色体」と「母親由来の染色体」がランダムに結合して、多様な組み合わせの2本の対から成る新しい「染色体」が生まれる。
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 上のことを詳細に確認し、「染色体」説に立って「染色体」のヒト等の生物の生存と子孫へ継承にとっての重要性を解明した研究者(T·H·モーガン)には、1933年にノーベル生理学·医学賞が付与された。
 「染色体」の実体の解明には、さらに時間が必要だった。
 メンデルには「因子」しかなく、のちに「遺伝子」という用語もできていたが、「染色体」の中にあるに違いない、という<観念的>なものだった。
 まだ「電子顕微鏡」、「超遠心分離機」、「電気泳動装置」等がないまま、「細胞」(>「核」>「染色体」)の研究が進められた。そして、遺伝子とその本体である「DNA」の存在自体は突き止められた。
 遺伝子と「DNA」の具体的様相の解明はまだだった。しかし、ようやく1953年(2024年から70年余前)に、J·ワトソンとF·クリックによって、「DNAの二重らせん構造」が明らかにされた。二人には、1962年にノーベル生理学·医学賞が授与された。
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 以上のとおり、「染色体」は各細胞かつ各核内にある「遺伝子」や「DNA」を内部に含む(これらよりも大きい)構造体だ。
 例えば、つぎの叙述が、シッダールタ·ムカジー=田中文訳・遺伝子/上(早川書房、2018)の最初の方にある。形容詞、限定句は今回はほとんど省略。
 「遺伝子は染色体上に存在している。染色体とは、…構造体で、そこには…何万もの遺伝子が含まれている。」
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2729/八木秀次の<Y染色体論>。

  生命体(生物)や「細胞」等について勉強(?)していたら、ふと、八木秀次という、かつて私が「あほ」とみなしたグループの一人による、<Y染色体論>というものがあった、と思い出した。
 これは、<神武天皇(男性)と同じY染色体をもって(継承して)いてこそ、「天皇」である資格がある>という議論であるようだ。
 この程度の議論で決着がつくなら、明治新政府下での旧皇室典範制定過程での皇位継承の仕方に関する論議はほとんど不要であり、無益だった。
 また、小林よしのりや高森明勅らがとっくに批判しているようだ。だが、きちんと読んだつもりはないが、まだ本質を衝いていないようにも感じる。
 今回のこの投稿は、予告のようなものだ。
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 八木秀次は「染色体」という言葉・概念を使う。
 すでに最近にこの欄で触れたことがある。すなわち、「染色体」と「遺伝子」、「D NA」、さらに「ゲノム」は、どう違うのか。あるいは、これらの差異に拘泥しても無駄なのか。
 八木は、これらをどう区別しているのだろうか。あるいは、なぜ「染色体」だけを取り上げるのだろうかか。これらは同一のもの(こと)だ、と思っているのだろうか。
 さらに言うと、「Y染色体」なるものは、「染色体」自体の種別の一つなのか。それとも、「Y因子」を含む染色体のことを便宜的にそう称しているのか。
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  これまた少し異なる主題の予告にもなるが、つぎのことにも言及してみたいものだ。
 第一に、例えば<男系を通じてでなければ、天皇・皇室の「血」が伝わらない>と言われることが、たまにではあれ、ある。その場合の「血」とは、いったい何のことか。
 「血統」・「血族」等の語はまだ生きており、「血がつながる」とか「血が濃い」とかの表現も十分に通用している。
 だが、いまだにかなり多くの人々に、世代間(親から子への)継承に関するじつは単純で幼稚な<錯覚>があるようにも、私には感じられる。
 第二に、上に関連するが、<獲得形質は遺伝しない>という、遺伝学・生物学上の「公理」となっている「事実」だ。つまり、親からの継承の意味での「遺伝」または「遺伝子」に比べて少なくとも同等に子どもにとって重要なのは、「環境」ではないだろうか。幼年期には、学校等の<社会>環境のほかに、<家庭>環境がきわめて重要になることがある。
 「血」。「(生後の)獲得形質は遺伝しない」。興味深い主題が、まだ多く存在している。
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2728/生命・細胞・遺伝—04。

 ①宇宙一②地球—③生物(生命体)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子。
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 生物を植物と動物に二分するのは相当に古い分類で、現在では5界説のほか6界説もあるようだ。
 いずれの場合でも植物・動物等は「真核生物」で、生命が地球上(内)で誕生したときの単細胞生物は「真核生物」ではない。
 その最初の生命(単細胞生物)の誕生の時期について、01では「約35〜40億年前に生まれた、とされている」と記して、この点に関してのみ推定年代に触れた。
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 出口治明・0から学ぶ「日本史」講義/古代篇(文藝春秋、2018)の凄まじく、唖然とさせられるところは、<日本史・古代>と謳いつつ、宇宙・太陽系宇宙・地球の誕生、そして生命体(生物)の誕生に関する叙述から始めていることだ。
 この点で、<(文学的)文科系・モノ書き>による西尾幹二・国民の歴史(1999、2009、2017)が「歴史とは何か」に次いで「一文明圏としての日本列島」から書き起こしているのと、大きく異なる。
 西尾幹二は、さらに、「北京原人」等の「『原人』の足跡が日本列島に刻まれていてもいなくても、正直、私の人生観にはほとんど関係がない」と明言した。たんなる<(文学的)文科系・モノ書き>と出口治明の違いは完璧に顕著だ。
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 最初の生命(単細胞生物)の誕生の時期以外のおおよその時期を記しておこう。
 種々の説があるのだろうが、キリがないので、上記の出口治明・0から学ぶ「日本史」講義/古代篇による。
 約138億万年前、宇宙の歴史の開始。
 約46億万年前、太陽系宇宙誕生。
 約45.5億万年前、地球誕生。
 約40億万年前〜38億万年前。地球上に「海」発生=最初の生命体(生物)の発生。
 約19億万年前、「真核生物」誕生。
 約700万年前。「チンパンジーとの共通祖先」からヒトが分かれる。
 約25万年前〜20万年前。東アフリカで<ホモサピエンス>が出現。
 約10万年〜7万年前、<ホモサピエンス>=人類が「言語」を獲得。
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 上のような時期に加えて、関心を惹いたのは、ヒトの「脳」の成熟時期だ。以下で、似たようなことが、書かれている。
 ①出口治明・哲学と宗教全史(ダイヤモンド社、2019)
 「人間が定住生活をし始めたドメスティケーションのときに、人間の脳みそは最後の進化が終わり、それから今日まで進化していないといわれています」。
 ②小林朋道・利己的遺伝子から見た人間—愉快な進化論の授業(PHP、2014)
 「(われわれの遺伝子がつくった)脳は、ホモ・サピエンスの歴史の99パーセントの狩猟採集生活において、遺伝子の増殖に都合よくつくられている」。
 「狩猟採集生活」のあとの「定住生活」開始時点で人間の「脳」は進化し切っていた、という点で、これら①と②は矛盾していないだろう。
 ③養老孟司・唯脳論(筑摩書房、1998)
 「ヒト、現代人つまりホモ・サピエンスは、ここ数万年ほど、解剖学的、すなわち身体的には変化していない」。「ヒトの脳の機能もまた、数万年このかた変化していないはずだ」。「書かれた歴史はたかだか数千年である。その間に、ヒトはまったく変化していないと言ってよいでろう」。
 定住=ドメスティケーションの開始の時期・地域について論議があるのだろうが、上の①は、「今から1万2000年前にメソポタミア地方で起きたと推測されて」いる、としている。
 なお、池田信夫の文章によると、「人類の脳は200万年前から大きくなり始め、ホモ・サピエンスが出てくる30万年前には現在の大きさになっていた」(同・ブログマガジン2023年11月23日号)。後の時期が少し早そうでもあるが、概略では間違いでないかもしれない。
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 以上のことは、つぎを推測させる。
 第一に、最も複雑で高度の機能をもつ「脳」が数万年前から今日まで基本的に変わっていないとすると、心臓・肝臓等々の器官の「機能」もまた、その当時にすでに現代と同様の進化を遂げていただろう。各器官の構造・機能について当時のヒトは知っておらず、「細胞」の知識も全く持っていなかっただろうが、「脳」等の<身体>は今日と同様に「働いて」いたのだ。
 第二に、脳の機能としての「感情」・「意識」・「記憶」等々も、ヒトは数万年前に身につけていただろう。平安時代の紫式部や清少納言がわれわれと基本的に同様の「美的」感覚を持っていたとしても不思議ではない。また、人種の差異を超えて、日本に来る外国人観光者の子どもたちが愉しいときはにこにこしているのも、何ら不思議ではない。
 この欄の2024/03/12で引用した、科学雑誌NEWTON-2016年6月号のつぎの文章の意味も、おおよそ納得できることになる。
 「いとおしさや、嫉妬、うらみ」といった「社会的感情」を含む「現代の人間の感情を生むしくみは、農耕時代以前の300万年前〜3万年前の生活や環境のもとで発達したと考えられている。/とくに社会的感情の多くは、特定の仲間たちと長く関係をともにするようになったことでつくられてきたと考えられているという」。
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 一方で、そのような「脳」と「人体」を古くから持ちながら、生物学・生命科学上や医学上の発見・開発、あるいは医療技術・医薬品等の発見・開発は(分野により種々だが)相当に遅れて、早くても17世紀以降のことだ。分野・知識・技術・薬剤によっては、100年前、50年前以降のものもある(例、心筋梗塞にかかるカテーテル検査・ステント留置術は約50年前に始まった)。
 つぎの著によると、「抗うつ剤」の研究・開発、脳内の「神経細胞」を覆って守るだけとほぼ考えられてきた「グリア細胞」に関する研究は、まだ途上にある。
 S·ムカジー=田中文訳・細胞—生命と医療の本質を探る/下(早川書房、2024)
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2727/生命・細胞・遺伝—03。

 ①宇宙一②地球—③生物(生命体)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子。
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 「細胞」は種々に分類されるのだろうが、つぎの二分が、まずは関心を引く。
 第一に、「体細胞」と「生殖細胞」の区別。後者は精子、卵子、初期胚など。
 精子・卵子は圧倒的多数の「体細胞」と違って減数分裂により生まれ、23本の「染色体」しかもたない。そんなことよりも、つぎの重要な違いをゲノム編集に関係して、秋月は知った。
 すなわち、「体細胞」はゲノム編集の対象にすでになっている。換言すると、〈クリスパ・キャス9〉という「遺伝子」改変・「ゲノム」編集の方法がすでに適用されているのは、「体細胞」だ。一方、「生殖細胞」のゲノム編集については論議があり、大勢的な一致はない。但し、中国人研究者が(アメリカ留学で得た知識・技術を発展させて)中国で初期胚をゲノム編集し、それを女性に移植し、その女性は双子の女の子を出産した「事実」がある、とされる。
 前者のゲノム編集の影響・効果は一世代に限定される。致命的疾患を発現させているような「体細胞」内の遺伝子が改変されても、その改変(・ゲノム編集)は次世代に影響を与えない。一方、遺伝子が改変された「生殖細胞」はその子どもの「生殖細胞」(女性だと卵子)に継承される。
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 第二に、「再生系細胞」と「非再生系細胞」の区別。
 前者・「再生系細胞」は、増殖したり、分化したりなどをする。新しい「細胞」に<再生>しうる。
 後者・「非再生系細胞」は、増殖・分化しない。ヒトの場合、初期胚・胎児は増殖と分化を繰り返して「成長」するが、母体から離れるとき(新生児となるとき)以降は、心臓を拍動させる「心筋」細胞と脳内の「神経」細胞(ニューロン)は、もはや増殖することがない、とされる。
 心筋梗塞や脳梗塞によって「壊死」した「心筋細胞」や「神経細胞」はもはや<再生>することがない。なお、例外は全くない、のではない、とされる。
 この区別に表向きは隠されているようでもある重要な意味は、ヒト、つまり人類、人間の「細胞」や個体の「死」ないし「死に方」と密接な関係があることだ。
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 「再生系細胞」が増殖するとは一つの細胞から二つの、そして四つの、…10回で1024個の同一の細胞が生まれることだ(限界まで増殖はつづく)。かつまた、元の、増殖前の細胞が「死ぬ」ことも意味している。
 「分化」の場合も同じ。異なる細胞に「分化」する前の元の細胞は「死ぬ」。
 上で「増殖したり、分化したりなどをする」と「など」を挿入したのは「死ぬ」こともあるからだ。
 ここで「死」という言葉、概念を使うのは紛らわしいかもしれない。あくまでも「細胞の死」であって、通常は「死」の意味で用いられているだろう「個体の死」ではないからだ。その意味では、「消滅」の方がよいだろうか。だが、生命体の基本的単位である「細胞」についても「死」を語って奇妙ではないし、逆に、「個体の死」もまた、「個体の消滅」だ。
 「細胞の死」またはその仕組みのことを<アポトーシス>と言うことがある(下掲書によると1972年に初めて提唱された)。
 そして、この現象または仕組みはヒトを含む多細胞生物にもともと内在しているものとされる。「プログラム化された」死であり、「遺伝子によって支配された」死だ。
 人間の身体の「細胞」は数ヶ月ごとに、あるいは毎日もしくは何時間かごとに「入れ替わっている」、とか言われることがある。上記の「心筋」細胞、「神経」細胞以外の全ての細胞にこれは当てはまる。血管を構成する細胞の一つである「赤血球」についても、肝臓の「肝細胞」についても言える。きりがない。
 アポトーシスは、「細胞がさまざまな情報をみずから総合的に判断して、遺伝子の発現にもとづいて自死装置を発動する」ことで起きる(下掲書)。
 役割を果たし終えた細胞、異常になった細胞が「自死」し、生命体に不要または有害な細胞が除去される。これは生命体たる個体の維持にとって重要だ。
 なお、「細胞の死」がつねに個体にとって好ましいわけでは勿論ない。個体の維持に必要不可欠の細胞群が<外界からの襲撃>によって死んでしまえば、「個体の死」に直接につながる。また、「外界」からの影響を無視するとしても、個別の細胞が<分裂>して「細胞の死」が発生する回数には限界がある、とされている。その限界に達してくると、個体の<老化>が顕著になり、「個体の死」と密接に関係する「非再生系細胞」の機能の低下にもつながってくる。「再生系〜」と「非再生系〜」が無関係であるはずはないからだ。
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 実際には「ふつうの」または正常な「細胞の死」だけが生じているのではない。同じことだが、細胞の全ての「増殖」等が正常に行われているわけではない。
 ついでに記しておくが、①細胞が「自死」しないで異常に増える場合—癌(悪性リンパ腫も)、ウイルス感染等、②細胞が異常に「自死」しすぎる場合—エイズ、神経変性疾患(アルツハイマー病等)、虚血性疾患(心筋梗塞、脳梗塞等)等。
 ここに見られるように、「心筋」細胞等は<再生>しない「非再生系細胞」だが、「自死」=アポトーシスはありうる。「脳梗塞」による細胞減少=一部または特定部位の「細胞の死」は、いわゆる<後遺症>を生じさせることもある。
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 「生殖細胞」は「再生系細胞」に含まれる。そして、異常なそれは、早い段階で除去される(=「自死」を余儀なくされる)。受精卵、初期胚も「生殖細胞」の一種だ。
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 「脳死」を別とすると、人間・個体の「死」の判断基準は、①心臓の拍動の停止、②肺の呼吸の停止、③瞳孔反射の不存在、の三つを充たすこととされてきた。
 この③が「神経細胞」の機能停止を少なくとも含んでいるとすると、①が「心筋細胞」、③が「神経細胞」の機能停止を意味している。そして、この二種の細胞はともに「非再生系細胞」であることはじつに興味深いことだ。
 これら(一部を含む)も、「再生系細胞」と同様の「死に方」をすることがある。しかし、興味深くかつ重要なのは、これらの「非再生系細胞」は個体自体の「死」と密接に関係している、とされることだ。
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 <君たちはどう生きるか>と問うてもよいが、<私たちはなぜ死ぬのか>と問うてもよい。
 ヒトははるか昔から、自分たちは永遠には生きられない、必ず「死ぬ」と、理屈はわからないままで、<経験的に>知ってきたに違いない。
 ヒト・人間には、「寿命」がある。なぜか。
 これは、ヒトという生物「種」がそのようなものとして生まれてきた、またはそのようなものとして「進化」してきた、と理解するほかないだろう。
 「細胞の死」と同じく、「個体の死」もまた、 「プログラム化された」死であり、「遺伝子によって支配された」死だと考えられる。
 もちろん、「種」として把握した場合のことであって、個々の人間の「寿命」・いつ死ぬかが、あらかじめ当該の人の「遺伝子」によって決定されている、という意味ではない。個別の個体次元では、「遺伝子」のほかに、生涯全体で受けてきた「環境」要因を無視することができない(長生きしようという「意欲」または「努力」が全くの無駄でもあるまい)。
 しかし、150歳、140歳、130歳まで生きた、という例を、(少なくとも秋月は)全く聞いたことがない。これはいったいなぜなのだろうか。高齢化社会となり、平均寿命も平均余命も長くなっていけば、ヒト・人間は(戦争や自然災害等を無視するとしても)過半以上の者たちが150歳、200歳まで生きるようになる、とは思えない。そうなるためには、よほどの「突然変異」とその「自然選択」化が必要だろう。
 「種」として把握した場合のヒト・人間には、 「プログラム化された」死、「遺伝子によって支配された」死が、あらかじめセットされている。これは「思想」・「哲学」、「宗教」・「信仰」の問題ではない。これらは「種」としてのヒトの「死」を考察するに際して、ほとんど何の役にも立たない。
 主な参考文献。田沼靖一・遺伝子の夢—死の意味を問う生物学(NH Kブックス、1997)
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2726/私の音楽ライブラリー040。

 私の音楽ライブラリー040。
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 Robert Schumann, Cello Concerto in A-minor op.129.
 001<再掲> →Jacqueline du Pre. 〔Araks Gyulumyan〕
 001-02 →Mischa Maisky, L. Bernstein, WienerPhO. 〔Classical Vault 1〕
 001-03 →Kian Soltani, C. Eschenbach, Stuttgart-Freiburg SWR-SO. 〔Kian Soltani〕
 001-04 →J.-G. Queyras, P. Heras-Casado, Freiburger BarrockO. 〔DW Classical Music〕
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2725/生命・細胞・遺伝—02。

 ①宇宙—②地球—③生命体(生物)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子
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 単細胞生物の細胞、植物の細胞、ヒト等の動物の細胞の構造図を見ていて、あらためて驚愕するのは、生物(生命体)の「細胞」は、よく似た、基本的には「同じ」構造・形態をもっている、ということだ。
 細胞膜が一重のものと二層のものとがある。植物の細胞には、「葉緑体」がある。これら等の差異はあっても、少なくとも、きわめてよく似ている。
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 ヒトには約37兆(説によると約60兆)個の細胞があるが、個々の細胞の構造は基本的に同一だ。しかし、全てが同じ役割または一定の役割の中の同じ一部、を担っている、わけではない。
 多数の細胞が「器官」や「系」を形成して、多細胞体あるいは細胞集団である一つの生命体(個体)の「生」のために働いている。心臓・肝臓といった「器官」、神経系、循環系、生殖系といった「系」だ。
 一つの細胞の中の諸要素も、細胞の中で、種々の機能をもつ。
 ヒトの「細胞」についてを前提とする。つぎの書物は最新の知見を反映しているだろうから、以下の叙述で主に参考にする。
 シッダールタ·ムカジー=田中文訳・細胞—生命と医療の本質を探る/上(早川書房、2024)。
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 「細胞」は以下のもので構成される。
 ①細胞膜。外界と分ける。ヒトの場合は二重(二層)で、脂質分子で成る。「孔」が空いていて、一定の分子が通過する。
 ②細胞質。以下以外。コロイド状から水に近い部分まで、全体として「ゼリー」状だ。
 ③細胞骨格。細胞の形態を維持する。
 ④RNA(リボ核酸)。「核」で作られるが、収まらずに外に出てくる。「塩基」で成り、「遺伝子」形成にとって不可欠。
 ⑤リボソーム。RNAの「情報」または「仕様書」を<解読>する。
 ⑥プロテアソーム。タンパク質を分解し、廃棄物として細胞質内に排出する。
 ⑦ミトコンドリア。エネルギーを生み出す。エネルギーは、第一に細胞質内で生まれ(嫌気性解糖)、最終産物は2分子のATP。第二にミトコンドリアが酸素を使って2分子ATPを燃やして高分子のATPを生み出す(好気性解糖)。第一と第二により、ブドウ糖1分子から32分子ATPができる。
 「私たちは一日のあいだに、身体の何十億個もの細胞で何十億個ものエネルギーの缶詰をつくっては、一〇億個もの小さなエンジンを燃やしている」(ムカジー=田中・上掲著)。
 ところで、ミトコンドリアは独自の遺伝子を持っていて「細胞的」だ。これは発生史的には原始細胞だったミトコンドリアを「細胞」が取り込んで<共生>し始めたかららしい。
 おまえが好きだよ、一緒になろうよ、という「意思」疎通があったのだ。
 この欄で触れたことがあるが、団まりな・細胞の意思(NHKブックス、2008)などは、細胞にも「意思」がある(あった)と表現している。
 ⑧小胞体。タンパク質の合成と輸送にかかわる。
 ⑨ゴルジ体。タンパク質が細胞外に出るときに最後に通過する部位。
 ⑩分泌顆粒。ゴルジ体から細胞膜までタンパク質を運ぶ。RNA→リボゾーム→小胞体→分泌顆粒という「流路」がある。
 ⑪。最も重要な細胞内「器官」。二層の、孔のある「膜」=核膜がある。
 核膜内にDNA(デオキシリボ核酸)を「格納」する。RNAはこれを「鋳型に」して、あるいはこれから「転写」されて生み出され、細胞質内に送られる。
 なお、細胞、さらには生命体の発生史的に見ると、原始的にはRNAが遺伝等を担っており(RNAワールド)、のちに核内に(核膜で保護された)DNAが生まれたらしい。
 「遺伝」情報が、DNA→(「転写」)RNA→(「翻訳」)タンパク質という経路をとって伝搬されることは、1953年にDNAの「二重らせん構造」を発見したフランシス・クリックによって、1958年に<セントラルドグマ>と称された。
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 DNA、「遺伝子」、「染色体」、「ゲノム」等々の意味と差異については、別に扱わなければならない。「遺伝子」は子孫への継承(「進化」はこれに関係する)のみならず、当該細胞やその細胞を含む当該個体(生命体)の「生と死」に密接に関係していることも含めて。
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