秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2824/斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月18日記者会見の内容(一部)。

 斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月18日記者会見の内容(一部)。
 出所/兵庫県庁ホームページ「知事記者会見(2024年4月18日(木曜日))」。
 太字化・下線は掲載者(秋月)。「元西播磨県民局長」=告発文書(2024/03/12)の作成・発信者。
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 記者「元西播磨県民局長の文書の問題に関して伺います。
 先日、産業労働常任委員会で部長が、加西市の企業に対して、6万円相当の物品提供を依頼してたと認められました。
 部長の言い分としては、知事に使ってもらうことで、地元企業の商品をPRしてもらいたかった、知事の指示ではなかったとの発言でした。
 調査中だと思いますが、改めて知事の見解や知事から指示があったのかなかったのかを教えてください。」
 知事「現在、人事当局が全体の調査を行っているところですので、詳細なコメントは差し控えますが、コーヒーメーカーの件に関して、原田産業労働部長がそのような対応をしたことは報道等で承知しています。
 私自身が、コーヒーメーカーを秘書課に送るように指示したとか、最終的に私がコーヒーメーカーを受け取った事実はありません。そこは明確にお伝えしておきたいと思います。
 昨日、報道等で出ていますが、原田産業労働部長の対応も含めて、いずれにしても、現在、人事当局が全体の調査を行っている最中ですので、調査結果を踏まえて、人事当局が、調査を完了した時点で報告をしてもらえると考えています。」
 記者「原田産業労働部長は、当日に提供の依頼があったが、その場で知事から、これは受け取れないというお話を2人でされたと思いますが、拒否した事実自体はありますか。」
 知事「その場でもその後も、私自身は受け取るべきではないと伝えています。」 
 記者「原田産業労働部長が受け取った後に、秘書課と相談して、受け取らないと改めて決まったというお話だったと思いますが、その件に関して知事のご判断は入っていましたか。」 
 知事「その件に関しては、調査していますが、少なくとも、私からは、秘書広報室長に対して、コーヒーメーカーについては受け取らないと指示をしているので、その指示に沿って対応してくれてたと認識しています。」
 記者「知事ご本人の口から拒否されたといいますか、受け取りを断ったのは一度だけという認識ですか。」
 知事「その場と、改めて秘書広報室長にも、受け取りはしないと指示した記憶はあります。」
 記者「昨日、今回の問題に関して、私にも人事課から聴取がありました。
 報道機関に対して人事課の聴取が行われることはほとんどないかと思いますが、聴取をされた目的や意図を改めて知事にお伺いします。」
 知事「本件に関する調査は、現在、私が指示をして調査していることはありません。私自身も当事者ですので、人事当局が現在調査中だと思います。
 どのような方法で調査を行っているかは承知していません。報道の自由など含めて、適切に対応していくことが大事だと思っています。」
 記者「我々としては、個別取材に関する問い合わせや聴取をされることは、報道の萎縮や取材の制限に繋がる可能性があると思っており、非常に違和感がありますが、このような聴取は他の報道各社にもされているのか、また、補助金を出しているような団体や県以外の団体に対しても行っているのか教えてください。」 
 知事「繰り返しになりますが、今回の調査については人事当局が対応しているので、調査のやり方に関しては、私自身は承知をしていませんので、答えとしては、分からないということになります。
 いずれにしても報道の自由など様々なことも含めて、適切に対応していくことが大事だと考えています。」 
 記者「元西播磨県民局長の文書の問題に関して、部長が産業労働委員会で、ご自身のことについて、経緯を説明されました。
 その説明の中で、県の商品をPRしたいという思いがあり、商品を受け取ったと発言されたと思います。
 知事は断られたということですが、これまでにもPRを目的に受け取っている事実はありますか。
 また、PRするために受け取ることが大事だという話などを各部長などに言ったことはありますか。」
 知事「地域や県産品のPRは、県の政策目的として大事な取り組みであり、適正なものだと思います。そのような県産品のPRは様々な場面でやっています。
 例えば、牛乳の消費拡大のPRのために知事応接室で牛乳をみんなで飲んだこともあり、そのような観点は決して否定をするものではないと思います。
 これまでもそのような観点に立って適正に行ってきましたので、今後も行っていくものだと考えています。」 
 記者「一方で、県の綱紀粛正通知では、民間においては慣例的な取り扱いとされていても、業務に関連する贈答品を受け取らないことと記載があると思います。
 今回の件は、未開封だったという話もありましたが、実際に高額な商品を受け取っていた事実があります。
 個別の商品に関することですが、知事として、部長級の方が依頼して受け取っていた事実についてはどのように考えていますか。」
 知事「PRの観点と服務規定の観点の中で、どのような事案として、判断するのかになるので、今回の件に関しては、当該文書の中にも書かれていることですので、人事当局が弁護士等と相談もしながら、服務規定の観点や県産品のPRなどの観点でどのように判断するのか、調査結果を待ちたいと考えています。
 現時点で今回の行動が良い悪い、全体としてどうかなどのコメントは差し控えておいたほうが良いと考えています。」 
 記者「一般的には、県にそのような商品を受け取る場合の区分あるのでしょうか。
 PRのために受け取って良いものとそうでないものの違いは、県としてどのような区分がされていますか。」
 知事「その件も含めて、人事当局が、まずは今回の事案を確認した上で、県としてのこれまでの対応方法に関して、改善すべき点があれば改善すべきだと思います。
 現時点で、私が現在の状況に言及するよりも、しっかりと今回の事案を調査した上で、どこが問題だったかなどの部分を改善することが大事だと思っています。」
 記者「元西播磨県民局長の文書の問題に関して、産業労働部長ご自身は、先日の議会答弁の中でも処分があれば受け入れるとおっしゃっていました。
 今回の件に関して、県の内規に照らせば、ルール違反ではないかと思いますが、現段階で処分についてはどのように考えていますか。」
 知事「まずは、事実関係をしっかりと調査した上で、県の内規やPRの目的を踏まえて、どのように判断するかが大事だと思います。
 その上で、今回の産業労働部長の対応が、適切かどうかをしっかりと判断する必要があり、人事当局と協議しながら、処分も含めて適切に検討していくことになると考えています。」
 記者「現時点では処分ありきではない、処分するかどうかも含めて検討していくということですか。」
 知事「そうです。
 いずれにせよ、私自身は受け取っていませんし、受け取れないので返却したものだと考えていましたが、結果的に失念をして、長期間返却を怠っていた点は問題があると思います。その点も踏まえて今後、まずは人事当局が適切に検討していくと考えています。」
 記者「元西播磨県民局長が作成された文書の中にも、今回のコーヒーメーカーなどのことが書かれていました。
 文書の中では、知事が指示したという中身になっていますが、産業労働部長のお話では知事の指示はなかった、あくまでも自身の判断で行ったということでした。
 ただ、双方の意見をまとめると、元西播磨県民局長が作成した文書の内容は、全てではないが一部は事実であったことになると思います。
 そうすると知事が以前批判されていた文書の中身が嘘八百や事実無根であることは、必ずしもそう言い切れなくなってきているのではないかという気がしますが、ご見解はいかがでしょうか。」
 知事「様々な捉え方があると思います。
 全てのことが事実か事実でないかと同時に、核心的なところが本当か本当でないかも大事ですので、一概には言えないと思います。
 その辺りも含めて、現在、人事当局が全体の調査をしているので、まずはその結果を待ちたいと考えています。」
 記者「元西播磨県民局長の作成された文書の一部とはいえ事実の部分も出てきたことで、県民目線で見ると、文書の中身がどこまでが本当でどこまでが嘘なのか、疑念が深まっているのではないかと思います。
 今回は、非常に特殊な事案だと思っています。県民の納得を得るために、改めて外部の目を入れるということで、第三者委員会を設置されないのか素朴な疑問として思っています。
 設置しないのであれば、どのようにして県民に納得していただけるのかなどご見解をお願いします。」
 知事「今回は懲戒処分にあたる事案ですので、まずは人事当局が中心となって、弁護士とも相談しながら、客観的な事実として、文書内容のどのようなところに問題があるのか、虚偽なのかを含めて、現在調査しているところですので、まずはそこが大事だと考えています。」
 記者「繰り返しになりますが、人事当局で調べるのは、通常の調査手法だと思いますが、どうしても疑念が深まっているのではないかと思います。
 今の調査手法で、県民の納得感が得られるかどうかについて、どのように考えていますか。」
 知事「調査手法も含めて、どのように行っているのかは、現在、人事当局が対応しています。
 私はその中身は承知していませんが、適切に対応していると思っています。
 まずは人事当局が、弁護士と相談しながら、客観的な事実をきっちりと調査することが大事で、調査結果を県民の皆さんに説明することにより、県民の皆さんの不安などを払拭していくことが大事だと思います。」
 記者「元西播磨県民局長の文書問題に関して、先日、産業労働部長が認めたコーヒーメーカーの件ですが、知事は、受け取ってはいけない、お返しをしなければいけないという認識を持たれていましたが、部長はその認識がなかったということでした。
 職員の間での贈答品に関する意識など、共通の認識はないのでしょうか。」
 知事「基本的には服務規程等に基づいて対応をこれまでも適切にしていると思っていますが、今回の事案は、調査を進めているので、その結果を踏まえて、現在の服務規程が適正なのか、それとも、より県民の皆さんにご心配などを抱かせないために、改善すべき点があれば、改善すべきところは改善していくことが大事だと考えています。」
 記者「現時点で部長級の方が、一旦受け取ってしまっているので、改善すべきではないかと思いますが、知事として、今後、結果はともかく、改めて周知していくことは必要かと考えていますか。」
 知事「必要だと思います。
 今回の事案がありましたが、それ以前の問題として、やはり職員として公務含めて、服務規律を遵守することは、当然大事なことです。
 現在の規定がこれまでどのように成り立って、改善されてきたか、修正されてきたかは、もう一度見なければいけませんが、その過程の中で、より改善すべき、適正にすべきところがあれば、もちろん修正すべきだと私自身も思っていますし、そうしたいと考えています。」
 記者「先ほどの質問にも、第三者委員会の話でまずは相談しながらというような説明がありましたが、これは問題が発覚したという場合は検討される、というお考えでしょうか。」
 知事「そこは今の段階で調査中ですので、予断を持ったことはコメントできないと考えています。
 まずは、今回のコーヒーメーカーの件は、報道の個別取材の中で出てきたということで、結果的にこれが委員会等で明らかになった面があります。これについて私も先ほどコメントしたとおりです。
 全体としては、今回の文書の件に関しては、現在、人事当局が中心になって調査をしているので、まずは結果をきちんと整理していくことが大事で、そこで、職員に対する懲戒事案ですから、必要であれば適正にやっていきます。
 その上で、先ほど質問もありましたが、より改善すべき服務規程の内容等あれば改善していくことが大事だと思いますので、現時点では、人事課の調査を待つことだと考えています。」
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2823/斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月10日記者会見の内容(一部)。

 斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月10日記者会見の内容(一部)。
 出所/兵庫県庁ホームページ「知事記者会見(2024年4月10日(水曜日))」。
 太字化は掲載者(秋月)。「西播磨県民局長」=<告発文書>(2024/03/12)の作成・発信者。
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 記者「前西播磨県民局長の問題でお伺いします。
 前県民局長が県の内部調査の調査方法が余りに非常識、不適切で、真相究明を期待できないというご主張があり、それを受けて、別途、公益通報されたということです。
 前県民局長のご意見に対する受け止めと、公益通報に対してどう答えられるのかお聞かせください。
 知事「当該文書の内容等は、改めて人事当局が弁護士と相談しながら、事実関係の調査を行っている状況です。
 私としては、調査をしている状況を受け止めているということです。
 公益通報に関しては、一応内容等について、私がお答えするということはできないので、公益通報が来ていることは報道等では拝見していますが、内容について私は承知していない状況です。
 もし、公益通報が届いているのであれば、基準に従って調査等がなされていくものだと認識しています。」
 記者「県の内部調査では、先ほど申し上げたように、『非常識、不適切』と問題視する発言を前県民局長がされています。
 県の内部調査ですので、知事のご意向も一定働くのではないか疑念が残ってしまうと思いますが、改めて、第三者委員会を設置するなどのお考えはありますか。」
 知事「現時点では、懲戒処分に該当する可能性があるということですので、人事当局が弁護士と相談しながら適正に調査をして対応していくことになります。
 一方で、公益通報があれば、基準に沿って適正に公益通報委員会を開いていくことが現時点での方針だと考えています。」
 記者「外部有識者を入れた公益通報委員会にその意見を求めることで、一定の客観性が担保できるのではないかというお考えでしょうか。」
 知事「公益通報があるのであれば、必要に応じて公益通報委員会が関与をしていくことになりますので、それに沿って対応していくことになると考えています。」 
 記者「公益通報委員会のメンバーに副知事も入っています。
 基本は、外部の有識者ですが、一部内部の方も入られていますが、今回の件については、副知事は除斥されることになるのでしょうか。」 
 知事「詳細は、財務部が説明します。
 基本的に該当する者は除くことになると聞いています。」 
 記者「公益通報文書問題ですが、人事当局が行っている調査と公益通報の調査は全く別物として、調査を行っていくということでしょうか。」 
 知事「人事当局の調査は、懲戒処分に該当する可能性があるので、内容を弁護士と相談しながら事実関係の調査を行っている状況です。
 もし、公益通報があれば、財務部が調査等を行っていくので、別の物になります。」 
 記者「被害届を検討されていると、3月27日の会見でも発言がありましたが、現在はどのような状況でしょうか。」
 知事「現在、懲戒処分の該当性を人事当局が中心になって、事実関係の調査を行っているので、そこを踏まえてどう対応するかになると思います。」 
 記者「処分をしてからの対応になるということですか。」
 知事「事実関係の調査結果が、どのような内容であるか、事案の内容によって、その後の対応がどうなるかということになると思います。
 今の段階では調査中ですので、調査が終わった後の対応はどうするかは、今の段階では未定です。」
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2822/R.パイプス1990年著—第14章㉒。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第12節/左翼エスエルの反乱の抑圧③。
 (18) 実際には、ボルシェヴィキは、尋常ではない寛容さでもって左翼エスエルを処理した。
 数日後にボルシェヴィキがすることになるIaroslavl での場合のように、ボルシェヴィキに対して一致して戦った者を大量に殺戮しはしなかった。そうではなく、収監者を簡単に尋問しただけで、ほとんどの者を釈放した。
 ボルシェヴィキは、Popov の派遣団からの12人の海兵を処刑した。
 むろん、逃亡しようとしていた鉄道駅で捕えたAleksandrovich はそうした。
 Spiridonova と一人の同僚はクレムリンに連行され、ラトビア人警護兵が監視する暫定の監獄に収容した。
 彼女は2日後にクレムリン内の二部屋の区画に移され、1918年11月に行われた審問の日まで、比較的快適に過ごした。
 ボルシェヴィキは左翼エスエルを非合法化せず、機関紙の発行を許した。
 <プラウダ>は、左翼エスエルを「放蕩息子」と称し、やがて復帰するという希望を表明した(注128)。
 ジノヴィエフはSpiridonova を「黄金の心」をもつ「素晴らしい女性」と褒めちぎり、彼女が収監されたときは一晩中起きていた(注129)。
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 (19) このような寛大さをボルシェヴィキが敵に対して示したことは、前にも後にも、一度もなかった。
 こうした異様な行動によって、じつに、歴史家の中にはつぎのように疑う者も出現した。Mirbach 殺害と左翼エスエル反乱は、ボルシェヴィキによって演出された、と。しかし、このような手の込んだ欺瞞を行なう動機を見出したり、関係者からこれを隠し通した方法を説明するのは困難だ(注130)。
 しかしながら、何らかの陰謀理論に頼らなくとも、説明は不可能ではない。
 ボルシェヴィキは7月に、展望の見えない状況にあった。チェコ軍団に攻撃され、Iaroslavl とMurom では武装蜂起に直面し、ロシア人労働者と兵士は離反し、ラトビア人兵士の忠誠さすら確かでなかった。
 ボルシェヴィキは左翼エスエルの支持者を敵に回しそうだったのではなかった。
 しかし、とりわけ、彼らが畏れたのは、自分たちの生命だった。
 Radek は、ドイツの友人に打ち明けたときに、ボルシェヴィキは復讐を恐れて左翼エスエルを寛大に扱った、と語りはしなかった(注131)。
 左翼エスエルの党員たちは、教条のために自分たちを犠牲にすることを全く厭わない狂信者でいっぱいだった。Spiridonova 自身も狂信主義的だった。彼女は、監獄から出したボルシェヴィキ指導部への書簡で、自分の死によってボルシェヴィキが「正気に戻る」ことを怖れたがゆえに処刑されなかった、それは残念だった、という旨を表明するまでした。
 Mirbach の後継者のKarl Helfferich も、ボルシェヴィキは左翼エスエルを根絶させることを恐れていた、という見解だった(注133)。
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 (20) 1918年11月に、革命審判所は左翼エスエル中央委員会の審理を行なった。もっとも、ほとんどのメンバーは逃亡するか地下活動に入っていたのだが。
 審理を受けたSpiridonova とIu. Sablin は、一年の有期刑を受けた。
 Spiridonova は最後まで服することなく、1919年4月に左翼エスエルの助けでクレムリンの監獄から脱出した(脚注)。
 彼女は残りの人生を監獄に入ったり出たりして過ごした。
 1937年、「反革命行為」の罪で25年の刑を受けた。
 1941年、収監されていたOrel にドイツ軍が接近した。ドイツ軍は彼女を連れ出し、射殺した(注134)。
 Mirbach 暗殺者たちのいずれも、老齢になるまで長くは生きなかった。
 Andreev は、翌年に、ウクライナでチフスのために死んだ。
 Bliumkin は地下にいたが、1919年5月に自首した。
 悔い改めて、許されたばかりか、共産党への入党を認められ、トロツキーの補佐に任命された。
 1930年後半、ロシアにいるトロツキー支持者に連絡文書を伝えるという誤った判断をし、逮捕され、処刑された(注135)。
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 (脚注) Spiridonova は脱出する前に、ボルシェヴィキ中央委員会あてに長い手紙を送った。それは翌年に支持者によって、Otkrytoe pis’mo M. Spiridonovi Tsentral’monu Komitetu partii bol’shevikov (Moscow, 1920)との表題で公表された。フーヴァー研究所図書館にa copy がある。
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 (21) 七月蜂起のさ中、左翼エスエルは、二つの派に分裂した。一方はこれを是認し、他方は離脱した。
 両派はやがて共産党に合流した。但し、地下活動を続けた、ごく少数の集団を除く。
 ジェルジンスキは、職務を停止された。
 のちのMirbach 暗殺犯の審問で証人となるために、公式にはチェカの議長とその一員であることを辞した(注137)。だが、ボルシェヴィキが通常のように法的厳密さに拘泥せず、またそのような審問も行われなかったので、辞職は体面を保つ儀礼にすぎなかった。
 ジェルジンスキの職務停止は、ほとんど確実に、彼は左翼エスエルの陰謀に関与していたのではないかとのレーニンの疑いによっていた。
 Latsis が秘密警察を指揮したが、8月22日にジェルジンスキが復職した。
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 (22) 左翼エスエルがぶざまに失敗したのは、明確な目標をもたず、政治的帰結への責任を負う意欲がなかった、という理由だけによるのではない。彼らは、ボルシェヴィキとドイツの反応を、完全に見誤っていた。
 のちに分かったように、ボルシェヴィキとドイツは、あまりにも多くの問題を抱えていたため、左翼エスエルによるドイツ大使の殺害によって挑発さるというほどではなかった(このことは、ウクライナでの左翼エスエルによる陸軍元帥Hermann Eichhorn 殺害でも続いた)。
 ドイツ政府はMirbach の殺害を事実上無視し、その指示を受けたドイツのプレスも重視しなかった。
 実際には、1918年の秋、ロシアとドイツはかつて以上に緊密になった。
 ボルシェヴィキは、対抗相手の選択について、きわめて幸運だった。
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 第12節、終わり。

2821/左翼人士-民科法律部会役員名簿・第27期(2023年11月~2026年10月)等。

 民科(民主主義科学者協会)法律部会/役員名簿・第27期(2023年11月~2026年10月)等。
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 理事長/小沢隆一(東京慈恵医科大学)
 副理事長/愛敬浩二(名古屋大学)、豊崎七絵(九州大学)
 全国事務局事務局長/塚田哲之(神戸学院大学)
 理事(49名、50音順)/愛敬浩二(名古屋大学)、安達光治(立命館大学)、飯孝行(専修大学)、板倉美奈子(静岡大学)、植松健一(立命館大学)、大河内美紀(名古屋大学)、大沢光(青山学院大学)、岡田正則(早稲田大学)、岡田行雄(熊本大学)、緒方桂子(南山大学)、小川祐之(常葉大学)、奥野恒久(龍谷大学)、緒方賢一(高知大学)、小沢隆一(東京慈恵会医科大学)、門脇美恵(広島修道大学)、金澤真理(大阪公立大学)、彼谷環(富山国際大学)、神戸秀彦(関西学院大学)、木下智史(関西大学)、清末愛沙(室蘭工業大学)、胡澤能生(早稲田大学)、近藤充代(元日本福祉大学)、榊原秀訓(南山大学)、佐藤岩夫(東京大学)、清水雅彦(日本体育大学)、徐行(北海道大学)、新屋達之(福岡大学)、白藤博行(専修大学)、鈴木静(愛媛大学)、高田清恵(琉球大学)、高橋満彦(富山大学)、只野雅人(一橋大学)、立石直子(愛知大学)、田淵浩二(九州大学)、塚田哲之(神戸学院大学)、徳田博人(琉球大学)、豊崎七絵(九州大学)、豊島明子(南山大学)、永山茂樹(東海大学)、新屋達之(福岡大学)、長谷河亜希子(弘前大学)、人見剛(早稲田大学)、広渡清吾、本庄武(一橋大学)、本多滝夫(龍谷大学)、増田栄作(広島修道大学)、松宮孝明(立命館大学)、三成美保(追手門学院大学)、本秀紀(名古屋経済大学)、矢野昌浩(名古屋大学)、山田希(立命館大学)、和田真一(立命館大学)
 監事(3名) 今村与一(横浜国立大学)、桐山孝信(大阪公立大学)、和田肇(名古屋大学)
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 機関紙『法の科学』55号編集委員会11名のうち、上記の理事以外。
  北見宏介(名城大学)、西村智朗(立命館大学)、篠田優(北海学園大学)
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 機関紙55号『法の科学』55号に、報告・論考・書評類を掲載している者で、上記の者以外。
 小松浩(立命館大学)、杉田和正(早稲田大学)、笹倉香奈(甲南大学)、高良沙哉(沖縄大学)、飯島滋明(名古屋学院大学)、下山憲治(早稲田大学)、丹羽徹(龍谷大学)、大野友也(愛知大学)、鈴木賢(明治大学)、長利一(元東邦大学)、松浦陽子(東北学院大学)、金井幸子(愛知大学)、岩本一郎(北星学園大学)、長岡徹(関西学院大学)
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 出所-同会機関誌『法の科学』55号(日本評論社、2024年9月)。

2820/R.パイプス1990年著—第14章㉑。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第12節/左翼エスエルの反乱の抑圧②。
 (11) 午後11時30分頃、レーニンは、Vatsetis の司令部付きのラトビア人政治委員を自分の役所に呼びつけ、政治委員たちは司令官の忠誠性を保証できるか否かと尋ねた(注121)。
 肯定する回答があったので、レーニンは、Vatsetis を左翼エスエルに対する戦闘作戦の任務に就かせることに同意した。
 だが、警戒を加えるために、通常は2名のところ、4名の政治委員をVatsetis 付きにした。
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 (12) Vatsetis は深夜に、レーニンと逢うようにとの電話を受けた。
 この出会いがどのようなものだったかを、彼は以下のように叙述している。
 「クレムリンは真っ暗で、空っぽだった。
 我々は、人民委員会議〔=内閣〕の会議室へと導かれた。そして、待つよう言われた。…
 私が今初めて入った本当に広大な部屋は、一つの電灯で明るく照らされていた。その電球は天井のどこかの隅から吊るされていた。
 窓のカーテンは下りていた。
 その雰囲気で、自分が軍事作戦という舞台の正面にいることを思い起こした。…
 数分後に、部屋の反対側の端の扉が開き、同志レーニンが入ってきた。
 彼は早足で歩いて私に近づき、低い声で私に訊いた。『同志、我々は朝まで耐えられるだろうか?』
 そう尋ねているあいだ、レーニンは私を見つめ続けた。
 私はその日に、予期しない出来事に慣れてきていた。しかし、レーニンの問いは、その鋭い言葉遣いでもって私を困惑させた。…
 朝まで持ちこたえることが、なぜ重要だったのだろう?
 我々は最後まで耐えられないのか?
 我々の状況はたぶんきわめて不安定だったので、私の政治委員たちは、私に本当の事態を隠蔽していたのだったか?」(注122)
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 (13) レーニンの問いに返答する前に、Vatsetis は、情勢を概観する時間が欲しいと言った(注123)。
 クレムリンを除いて、モスクワは反乱者の手の内にあった。クレムリンは、包囲されている要塞のごとくだった。
 Vatsetis がラトビア人分団の司令部に着いたとき、補佐官の長は彼に対して、「モスクワの連隊の全部」がボルシェヴィキに反対する側に回った、と言った。
 いわゆる人民の軍隊(People’s Army, Narodnaia Armiia)、すなわちモスクワの連隊のうち最大で、フランスおよびイギリスの軍団とともにドイツ軍と戦うべく訓練を受けてきた分団は、中立を維持すると決定していた。
 別の部隊は、左翼エスエルを支持すると宣言していた。
 ラトビア人兵団は、何とか残っていた。すなわち、第一連隊の一つの大隊、第二連隊の一つの大隊、そして第九連隊。
 第三連隊もあった。但し、忠誠心には疑問もあった。
 Vatsetis はまた、ラトビア人砲兵隊や若干のより小さい部隊を計算に入れることもできた。後者の中には、Bela Kun が率いた、親共産主義のハンガリー戦争捕虜の一団もあった。
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 (14)  Vatsetis は、このような情報を得て、翌朝早くまで反攻を遅らせることに決めた。その頃には、ラトビア人分団がKhodynka から戻ってくることになっていた。
 彼は、中央逓信局を奪い返すべく、第九ラトビア人連隊の二つの中隊を派遣した。しかし、能力がなかったか、欠陥があった。左翼エスエルは、何とか彼らを武装解除した。
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 (15)  午前2時、Vatsetis はクレムリンに帰った。
 「同志レーニンは同じ扉から入ってきて、同じ早足で私に近づいた。
 私は数歩だけ彼に向かい、報告した。『我々は、7月7日の正午までに、全線にわたって勝利するはずです』。
 レーニンは私の右手を彼の両手で掴み、強く握りながら、こう言った。
 『ありがとう。君は私を喜ばせた』。」(注124)。
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 (16) 午前5時に、湿った霧の気候の中で反攻を始めたとき、Vatsetis の輩下には3300人の兵士がおり、そのうち、ロシア人は500人もいなかった。
 左翼エスエルは激しく闘い抜いた。それで、ラトビア人兵団が反乱の中央を降伏させ、無傷でジェルジンスキ、Latsis、その他の人質を解放するには、ほとんど7時間を必要とした。
 Vatsetis は、首尾よく済ませた仕事への特別手当として、1万ルーブルを受けた(注125)。
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 (17) 7月7日と8日、ボルシェヴィキは反乱者たちを逮捕し、尋問した。反乱者の中には、Spiridonova、その他の全国ソヴェト大会の左翼エスエル代議員もいた。
 Riezler は、左翼エスエル中央委員会メンバーも含めて、ドイツ大使の殺害に責任のある者全員を処刑するよう、政府に要求した。
 政府は二人の委員を任命した。一人は左翼エスエル蜂起を捜査し、もう一人は、連隊の非忠実な行動について調査する。
 650人の左翼エスエル党員が、モスクワ、ペテログラード、地方諸都市で勾留された。
 数日後、それらのうち200人が射殺された、と発表された(注126)。
 Ioffe は、ベルリンにいるドイツ人に、被処刑者の中にはSpiridnova もいた、と語った。
 このことはドイツ人を大いに喜ばせ、ドイツのプレスは処刑のことを大きく取り上げた。
 この情報は間違いだった。しかし、Chicherin が否定したとき、ドイツの外務当局は、その影響力を使って、その否定の報道を彼らの新聞紙から閉め出した(注127)。
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 ③へつづく。

2819/R.パイプス1990年著—第14章⑳。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第12節/左翼エスエルの反乱の抑圧①。
 (01) 暗殺犯たちは、逃げたときに文書を忘れていた。その中には、大使館への入館許可書があった。
 Riezler から提供されたこの資料と情報から、ジェルジンスキは、銃撃者はチェカの代表者だと名乗ったことを知った。
 彼は完全に驚愕し、Pokrovskii 営舎へと急いだ。そこに、Bol’shoi Trekhsviatitel’skii Pereulok 1番地のチェカ闘争分団があった。
 営舎は、Popov の指揮下にあった。
 ジェルジンスキは、Bliumkin とAndreev を自分の前に突き出すよう命じた。その際、左翼エスエル党の中央委員会全員を射殺させると威嚇した。
 Popov の海兵たちは、服従しないで、ジェルジンスキを拘束した。
 彼は人質となって、Spiridnova の安全を保障するために役立つことになっていた。彼女は、ロシアはMirbach から解放されたと発表すべく、ソヴェト全国大会へと行っていた(注109)。
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 (02) この事件は、雷鳴が伴なう激しい雨の中で起きた。モスクワはやがて、濃い霧に包まれた。
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 (03) レーニンは、クレムリンに戻る途中で、ジェルジンスキがチェカで捕えられたことを知った。Bonch-Bruevich によると、彼がこの報せを聞いたとき、「レーニンは青白くならなかった。白くなった」(注110)。
 レーニンは、チェカが自分を裏切った、と疑い、トロツキーを通じて、チェカの解体を命じた。
 M. La. Latsis が新しい治安警察を組織することになった(注111)。
 Latsis はBolshaia Lubyanka のチェカ本部へと急いで行き、建物もまたPopov の統制下にあることを知った。
 Latsis をPopov のいる本部まで護送した左翼エスエル党員は、その場で彼を射殺しようとした。だが、左翼エスエルのAleksandrovich が間に入って、救われた(注112)。
 役割が逆になってAleksandrovich がチェカの手に落ちた数日後にLatsisが返礼しようとしなかったのは、仲間としての素ぶりだった。
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 (04) その夕方、左翼エスエル党員の海兵と兵士たちは、人質を取ろうと街路に出た。自動車が止められ、それらから27人のボルシェヴィキ活動家が排除された。
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 (05) 左翼エスエルが利用できたのは、2000人の武装海兵と騎兵、8台の大砲、64本の機関銃、4ないし6の装甲車だった(注113)。
 モスクワのラトビア兵分団が郊外で休憩しており、ロシア人連隊の兵士は反乱者側にいるか中立であるかだったことを考えると、このような武力は、恐るべきものだった。
 レーニンは、かつての十月のケレンスキーと同じ屈辱的な苦境に陥っていると感じた。国家の長でありながら、自分の政府を防衛する武力をもっていなかったのだ。
 この時点で、左翼エスエルが望んでいたならば、彼らがクレムリンを掌握し、ボルシェヴィキの指導部全員を逮捕するのを妨げるものは何もなかっただろう。
 左翼エスエルは、武力を行使する必要すらなかった。彼らの中央委員会構成員は、クレムリンへの通行証を携行していたからだ。かつまた、それによって、レーニンの役所と私的住宅へも入ることができた(注114)。
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 (06) しかし、左翼エスエルにはそのような意図がなかった。ボルシェヴィキを救ったのは、左翼エスエルの権力に対する嫌悪だった。
 彼らが狙ったのは、ドイツを挑発し、ロシア人「大衆」の意気を掻き立てることだった。
 左翼エスエル指導者の一人は、捕えられているジェルジンスキに、こう言った。
 「君の前には既成事実がある。
 ブレスト条約は無効だ。ドイツとの戦争は回避できない。
 我々は、権力を欲しない。ウクライナのようになるとよい。
 我々は、地下に入る。
 君たちは権力を維持し続けることができる。だが、Mirbach の下僕であるのはやめなければならない。
 ドイツにロシアを、 Volga まで占領させろ。」(注115)
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 (07) こうして、P. P. Proshian が率いた左翼エスエルの軍団は、クレムリンへと行進してソヴィエト政府を打倒しないで、中央逓信局へと進んだ。そこを彼らは無抵抗なままで占拠し、そこから、ロシアの労働者、農民、兵士ならびに「全世界」に対して、訴えを発した(脚注)
 この訴えは混乱し、矛盾していた。
 左翼エスエルはMirbach 殺害について責任があるとし、ボルシェヴィキを「ドイツ帝国主義の代理人」だと非難した。
 彼らは、「ソヴェト制度」を擁護すると宣言したが、他の全ての社会主義政党は「反革命的」だとして拒絶した。
 一つの電報では、「権力にある」と宣言した。
 Vatsetis の言葉では、左翼エスエルは「優柔不断に」行動した(注116)。
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 (脚注) V. Vladimirova in PR, No. 4/63(1927), p.122-3; Lenin, Sochi neniia, XXIII, p.554-6; Krasnaia Kniga VChK, II (Moscow, 1920), p.148-p.155. Proshian は、その年の前半、逓信人民委員だった。
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 (08) Spiridonova は、午後7時にボリショイ劇場に到着し、大会に対して、長い、散漫な演説を行なった。
 別の左翼エスエルの演説者が、それに続いた。
 彼らは、完全に混乱していた。
 午後8時、代議員たちは、武装したラトビア人兵団が建物を包囲し、入り口を封鎖していることを知った。その入り口から出て、ボルシェヴィキは去っていた。
 Spiridonova は、支持者たちに対して、休憩して二階に集まるよう求めた。
 そこで彼女は、テーブルに跳び上がって、叫んだ。「ヘイ、君たち、国よ、聞け!、君たち、国よ、聞け!」(注117)。
 劇場の一翼に集まったボルシェヴィキ代議員たちは、自分たちが攻撃しているのか、それとも攻撃されているのかを、判断できなかった。
 ブハーリンはのちに、Isaac Steinberg にこう言った。
 「我々は君たちが我々のいる部屋に来て、我々を逮捕するのを待っていた。…
 君たちはそうしなかったので、我々は代わりに、君たちを逮捕することに決めた。」(注118)
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 (09) ボルシェヴィキが行動する好機だった。しかし、数時間が過ぎ去り、何も起きなかった。
 政府は恐慌状態にあった。信頼できる真面目な実力部隊がいなかったからだ。
 政府自身の推測によると、モスクワに駐在していた2万4000人の武装兵士のうち、三分の一は親ボルシェヴィキで、五分の一は信頼できず(つまり反ボルシェヴィキで)、残りは不確定だった(注119)。
 しかし、親ボルシェヴィキ兵士たちですら、動員することができなかった。
 ボルシェヴィキ指導部は絶望的な苦境にあり、クレムリンから避難することを考えた。
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 (10) ラトビア人ライフル兵団の司令官、I. I. Vatsetis は、モスクワ軍事地区司令官のN. I. Muralov から、司令本部へと召喚された。
 Podvoiskii もそこで、彼を待っていた。
 二人は状況を要約して伝え、作戦計画を立案するよう求めた。
 同時に、衝撃を受けているラトビア兵団長に対して、別の将校に作戦実行の任務を課すつもりだ、と言った。
 このように信頼が措かれていなかった理由は、確実に、クレムリンの側のVatsetis に関する知識にあった。彼はドイツ大使館と接触していると考えられていたのだ。
 別のラトビア人に指揮権を委ねるという試みに失敗した後で、Vatsetis は、彼の兵団に、「自分の長」とともに勝利することを保障した。
 このことは、クレムリンに報告された(脚注)
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 (脚注) ドイツ大使館は左翼エスエルに反対して行動するようラトビア人兵団に賄賂を送らなければならなかった、ということが、Riezler の回想録から知られている(Erdmann, Riezler, p.474.)。
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 ②へとつづく。

2818/斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月2日記者会見の内容(一部)。

 斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月2日記者会見の内容(一部)。
 出所/兵庫県庁ホームページ「知事記者会見(2024年4月2日(火曜日))」。
 太字化・下線は掲載者(秋月)。「西播磨県民局長」=<告発文書>(2024/03/12)の作成・発信者。
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 記者「西播磨県民局長が解任された問題の関係でお尋ねします。
  昨日、前県民局長から、文書の内容は、事実無根とは認めておらず、内部告発という趣旨、事実関係を早急に調査すべきだという反論がありました
  その点についてご見解をお願いします。」
 知事「その文書は、報道等で承知していますが、内容そのものを承知していません。
  本件の対応は、今後、しっかり調査していくことが大事だと思います。まずは県の関係している弁護士の意見なども聞きながら、これから文書の内容等について、しっかり調査を進めていきたいと考えています。」
 記者「前回の記者会見では、調査中という段階でしたが、知事から内容は事実無根である、誹謗中傷に当たるというお話があったと思います。
  前回、逆に言えば、なぜ調査中であるのに、そこまで言い切られたのでしょうか。」
  知事「いわゆる文書を見た時に、やはり明らかに事実と異なる内容が多々含まれていることを私自身も感じましたし、それについて、私は公人ですが、一般職の職員に対するプライバシーの課題、虚偽の内容による県自身に対する信用失墜の可能性も高いと考えたので、そこは一定説明したところです。
  なぜかと言うと、西播磨県民局長(幹部職員)の人事異動を行ったので、その時に言える範囲で説明することが必要だと思ったので説明しました。
  今後は、先ほど申し上げたとおり、内容について、本人からの聴取も含めて、しっかり弁護士とも相談しながら、精査を進めていくことになります。」
 記者「県の弁護士の意見も聞いて内容を精査するお話がありました。
  今回の件は、知事に関する内容も含まれている文書だったと思います。
  その意味では、調査の客観性を担保するため、例えば、弁護士なりを入れた第三者委員会のようなものに調査をお願いするなど、一定の客観性の担保が必要ではないかと思います。その辺はどうお考えでしょうか。」
 
 知事「まずは、懲戒処分に該当する事案ですので、人事当局がきちんと懲戒事案に関しては調査をしていくことが大事だと思っています。
  その中で、一定の客観性を担保する意味で、弁護士を入れて調査していくことが大事だと考えています。」 
 記者「あくまで調査の主導をするのは人事当局であって、外部の第三者委員会のようなものを特別に設置して調べるなどの考えはないということですか。」 
 知事「今の時点では、このような懲戒処分は、人事当局が最終的にはすることになるので、人事当局で内部調査をしっかりやっていく。
  ただ、一定の客観性を担保する意味で、弁護士の意見を聞きながら、アドバイスを受けながらやっていくことになります。」 
 記者「元西播磨県民局長の問題ですが、昨日の文書では、本人は、ふさわしくない行為をしたことについては認めていないと記載があり、あくまでも内部告発だということでした。
 窓口は異なると思いますが、公益内部通報制度などであれば調査が必要だと思いますが、知事としてはこの文書の取り扱いをどのように考えていますか。」 
 知事「現時点で確認したところ、当該文書は、兵庫県の公益内部通報制度では受理はしていませんので、公益通報には該当しないと考えています。
  文書を作成し、一定流布がされている、かつ、内容も虚偽や信用失墜の内容が含まれているので、まずは、先ほど申し上げましたが、人事上の対応をした段階で、私から言える範囲と分かる範囲の説明をしましたが、改めて、文書内容の調査精査について、弁護士に相談しながら進めていきたいと考えています。」 
 記者「最初の文書の中で複数の項目を挙げて指摘していたと思います。
  職員に関わる部分や誹謗中傷だと受け取られる部分にはなかなか触れづらいと思いますが、知事ご自身にかけられている疑惑もあったかと思います。
  知事ご自身でもこれが虚偽であると判断している部分もありますか。」 
 知事「ありますが、現段階では個別で説明するよりも、全体を通じて弁護士の協力を得ながら精査をして、懲戒処分を行う段階で、改めて話せる範囲で説明をすることが大事だと思っています。」 
 記者「文書には、言動や人事的な取り扱いを指摘している部分と、違法性を指摘している部分もあると思います。弁護士に依頼するのは、懲戒処分に該当するもの全てですか。
  それとも、公益内部通報制度では違法性があると思われたものに関しては、公務員には通報する義務があると思いますが、違法性に該当するかもしれない部分について、弁護士に調査を依頼することになると考えているのですか。」 
 知事「調査方法は今後精査していかなければいけませんが、文書の内容には正しくない情報が多々含まれていると私は認識しています。
  客観的に裏付けをしていくことから始めたいと思っています。その過程で、文書の内容に関して、名誉毀損や違法性などがどのように出てくるのかも、調査になると思います。」 
 記者「弁護士の調査をもって被害届や違法性があるのかどうかを判断される予定ですか。」 
 知事「まずは人事管理上の懲戒処分の案件になるので、内部調査をして、当該職員の懲戒処分をどうするのかを精査していくことになると思います。
  その先どうするかは、今後の検討になると考えています。」 
 記者「就任から2年半が経ちますが、斎藤県政はボトムアップ型の県政を掲げていたと思いますが、現職の幹部から今回のような批判の文書が出てくることに対して、知事はどのように受け止めていますか。」 
 知事「残念です。若者・Z世代応援パッケージ含めて、今後、新たな一歩を踏み出して、一丸となって進めていこうとした矢先ですので、残念です。
  ご本人がどのような意図と経緯、方法で、今回の文書を作ったのかは、本人への聴取だけではなく、客観的な資料含めて、人事課が調査をしています。
  なぜ今回の行動をしようと思ったのか、どのように行ったのか、内容はどうだったのかが明らかになってくると思うので、その過程で判明してくると思います。
  どちらにしても、県庁一丸となって、今後も仕事を進めていくことが大事だと思っています。」 
 記者「元西播磨県民局長に関連して、前回の会見で先ほどの話と重複しますが、事実無根や嘘八百など、結構厳しい言葉で告発を糾弾されていました。
  少なくともご自身に関わる告発に関して明らかに事実と異なる点について、この場で明言していただけませんか。」 
 知事「文書にはたくさんのことが記載されており、全体の精査をしているので、調査をしていくことが大事だと思っています。
  調査が終わった段階で、私に関することで、事実ではない部分などを説明できる範囲で説明する方が良いと考えています。」 
 記者「少なくとも調査の主導が人事課であると、知事についての事実確認が難しいのではないかと思いますが、その点はいかがですか。」 
 知事「公務中にどのような対応をしたかは、私に関することでも調査はできると思います。
  全体の調査をする中で、一つ一つ精査をしていく方が良いと思います。」 
 記者「先ほど文書見られた話と見ていない話が混在していたと思いますが、告発文書は確認されましたか。」 
 知事「当該文書は見ました。見ていないと言ったのは、昨日出された文書ですので、混在はしていません。」 
 記者「知事がパワーハラスメントしたという文言も告発文書にはあったかと思いますが、その点に関して、事実関係や心当たりはありますか。」 
 知事「その点も含めて、内容を調査・精査してから説明する方が良いと思っています。一つを答えると、次も次もとなるので、全体を精査した上で、伝えた方が良いと考えています。」 
 記者「人事の調査が終わった段階で、知事の疑惑に関しても、明確に説明を果たしていただけるということですか。」 
 知事「私も当事者ですので、人事当局で、弁護士を入れて、ある程度の客観性を含めて調査をしていきます。
  その上で、私は公人ですが、一般職の方はプライバシーもあるので、全体の中で説明できる範囲でしっかりと説明していくことになると思っています。」 
 記者「懲戒処分が行われた段階で知事自身が疑惑に対しても説明される理解でよろしいですか。」 
 知事「可能性としてはあると思いますが、懲戒処分の際には、人事当局で、弁護士を入れて調査していき、結果を説明することが原則だと思います。」
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2817/R.パイプス1990年著—第14節⑲。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第11節/左翼エスエルによるMirbach の殺害。
 (01) 全国ソヴェト大会がボリショイ劇場で始まったとき、左翼エスエルとボルシェヴィキはすぐに互いに激しく非難した。
 左翼エスエルの発言者は革命を裏切ったとしてボルシェヴィキを責め、都市と農村の間の戦争を扇動した。一方でボルシェヴィキは、ロシアとドイツの戦争を挑発しているとして、左翼エスエルを非難した。
 左翼エスエルは、ボルシェヴィキ政府の不信任、ブレスト=リトフスク条約の廃棄、対ドイツの戦争宣言を呼びかけて動議を提出した。
 ボルシェヴィキは多数でこれを却下した。このあと、左翼エスエルは会場から退出した。
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 (02) Bliumkin によると、7月4日の夕方にSpiridonova が彼に会いたいと言ってきた(注104)。
 彼女は、党は彼がMirbach を暗殺するのを望んでいる、と言った。
 Bliumkin は、必要な準備のために24時間の猶予を求めた。
 彼とAndreev に必要だったものの中には、二人がドイツ大使に聴取することを依頼する、ジェルジンスキの偽造署名のある文書、二本の回転式拳銃、二発の爆弾、Popov が運転手を雇う、チェカの自動車、があった。
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 (03) 7月6日の午後2時15分から30分頃、チェカの二人の代表者がDenezhnui Pereulok にあるドイツ大使館に姿を現した。
 一人は、Iakov Bliumkin、チェカ反対諜報局の職員だと自己紹介した。
 もう一人は、Nicholas Andreev、革命審判所の職員だと。
 二人は、信用証明書を提示した。それらにはジェルジンスキとチェカの書記の署名があり、「大使に直接の関係のある問題」を議論する権限を二人に与えていた(注105)。
 その問題とは、チェカがスパイ行為の嫌疑で勾留した、大使の親戚だと信じられた、Robert Mirbach 中尉の事案のことだと分かった。
 訪問者二人は、Riezler と通訳のL. G. Miller 中尉に迎えられた。
 Riezler は、自分はMirbach 公に代わって語る権限をもつ、と言った。だが、ロシア人たちは、ジェルジンスキから大使と個人的に話すよう指示されていると強く主張して、Riezler を相手にするのを拒んだ。
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 (04) 在モスクワ・ドイツ大使館は、しばらくの間、暴力が加えられる可能性があるという警告を受けてきていた。
 差出人不明の手紙がきた。また、完璧に機能している照明設備を点検するという電気技師の訪問とか大使館の建物の写真を撮っている者などの怪しい出来事があった。
 Mirbach は、訪問者と逢うことに気乗り薄だった。しかし、チェカの長からの信用証明書が提示されたので、彼らと逢うために降りて来た。
 ロシア人二人は大使に対して、Mirbach 中尉の事案に興味を持たれるだろう、と言った。
 大使は、情報は文書でもらう方がよい、と答えた。
 このとき、Bliumkin とAndreev は、それぞれの鞄に手を伸ばし、回転式拳銃を取り出した。銃は、Mirbach とRiezler を目指して火を噴いた。
 どの銃弾も、命中はしなかった。
 Riezler とMirbach は、床に倒れ込んだ。
 Mirbach は立ち上がり、居間を通って階上へと逃げようとした。
 Andreev は追いかけて、後頭部に向かって発射した。
 Bliumkin は、部屋の中央へと爆弾を投げた。
 二人の暗殺企図者は、開いた窓から跳んで外へ出た。
 Bliumkin は負傷したが、何とかAndreev に追いつき、大使館を取り囲む二メートル半の高さの鉄屏を昇り、エンジンを噴かせて外で待つ自動車に乗った。
 大使のMirbach は、意識を回復することなく、午後3時15分に死亡した(注106)。
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 (05) 大使館の館員たちは、大使への急襲はより一般的な攻撃の前兆ではないかと怖れた。
 軍事要員が、安全を保つ責任を引き受けた。
 ソヴィエト当局に連絡しようと試みたが、無益だった。電話線が切断されていたからだ。
 軍事担当官のBothmer は、外務人民委員部が所在しているMetropole ホテルへと走った。
 そこで、Chicherin の副官であるKarakhan に、起きたことを告げた。
 Karakhan は、クレムリンに連絡した。
 レーニンは3時30分頃に報せを受け、ただちにジェルジンスキとSverdlov に知らせた(注107)。
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 (06) その日の午後遅く、ボルシェヴィキの要職者の一行が、ドイツ大使館を訪れた。
 最初に到着したのは、Radek だった。彼は武器を携行しており、それをBothmer は、小さな攻撃用拳銃と叙述した。
 続いたのは、Chicherin、Karakhan、そしてジェルジンスキだった。
 一団のラトビア人ライフル兵たちが、ボルシェヴィキ要職者の後に来た。
 レーニンは、クレムリンにとどまった。だが、大使館に責任をもつRiezler は、説明と謝罪をするためにレーニン自身が現れるよう強く主張した。
 外国の外交官が国家の長に対して要求するのは、きわめて特異なことだった。だが、これは、レーニンが従わなければならなかった当時のドイツの影響力を示していた。
 レーニンは、Sverdlov を伴なって、午後5時頃にやって来た。
 ドイツ側の目撃者によると、レーニンは事件について純粋に技術的な関心を示し、殺害の場所、家具の正確な配置、爆弾による被害を示すよう求めた。
 彼は、死者の遺体を見るのは固辞した。
 レーニンは、あるドイツ人の言葉では、「犬の鼻のように冷たく」詫びの言葉を発し、犯罪者は罰せられると約束した(注108)。
 Bothmer は、ロシア人たちはきわめて怯えているように見える、と思った。
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 第11節、終わり。

2816/司馬遼太郎・三〇回忌。

 1875年(明治7年)から150年、1925年(昭和元年)から100年、1945年(敗戦)から80年、1970年(三島由紀夫の自決)から55年。
 そして毎日新聞(電子版)の2025年2月のある記事によると、「まもなく歴史作家・司馬遼太郎の三十回忌が来る」。
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 2020年に三島由紀夫の死後50年が経過するので、著作権が失効して無料の電子テキスト版全集でも出るかと期待していた。だが、著作権有効期間が延長されて、そうはならなかった。
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 司馬遼太郎が逝去したのは、1996年2月12日だった。
 突然の<腹部大動脈瘤破裂>による死。かかりつけ医師からは<坐骨神経痛>と言われていたらしいから、本人(および周辺の関係者)は予想していなかっただろう。
 異常の発生または「大動脈瘤破裂」の瞬間に、患者の意識は喪失するのだろうか、それとも激しい痛みを感じたままで意識の混濁と死へ向かっていくのだろうか。
 前者であったならば、司馬遼太郎は、自分の死を何ら意識または予期することなく、亡くなったことになる。
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 かねて不思議だったのは、司馬遼太郎のつぎの文章だった。
 「私の人生は、すでに持ち時間が少ない。
 例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。

 このあとに「君たちは、ちがう」とつづく。
 これは司馬遼太郎「二十一世紀に生きる君たちへ」(原本/1985年、大阪書籍)の一部だ。
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 これを執筆したとき、1923年生まれの司馬は62歳になろうとしていた。
 そして、あと15年余り生きれば、2001年1月の21世紀を見ることができていた。
 「21世紀というものを見ることができないにちがいない」というのは、77-78歳まで生きることができないに違いない、と予想していることを意味する。
 言い換えると、司馬遼太郎は62歳くらいの時点で、77-78歳までは生きられない、それまでには死んでいるだろうと自分の将来を予測していたわけだ。
 これが不思議だった。
 1985年頃は、平均寿命は77-78歳以下だったのかもしれない。
 しかし、すでに60歳を超え、まだ腰の痛みもなかったとされ、その他とくに死につながり得るような「持病」をもっていなかったはずの司馬が、なぜ、自分の寿命を77-78歳以下と見切っていたのだろうか。
 実際には、1996年2月に満72歳で逝去した。予測は結果としては当たっていたことが、何やら悲しい。
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2815/R.パイプス1990年著—第14節⑱。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第10節/左翼エスエルの暴動企図②。
 (06) 決定の直後に、左翼エスエルは動き始めた。
 モスクワとその郊外の連隊に煽動者を派遣した。いくつかでは党の側に引き込み、残りは中立化することに成功した。
 チェカ内部で活動する左翼エスエル党員は、ボルシェヴィキが反攻した場合に闘う軍事部隊を集結させた。
 ドイツ大使に対するテロリズム行為を実行する準備が行なわれた。ドイツ大使の暗殺は、全国民的な決起の合図として役立つものとされた。
 十月前夜のボルシェヴィキの戦術を模倣して、左翼エスエルは、その計画を隠さなかった。
 6月29日、機関紙の<Znamia truda>は第一面で、活動可能な党員全員に対して、7月末までに党の地域事務局へ報告するよう訴えた。党地域委員会は、軍事訓練を行なうよう指示された(注101)。
 その翌日、Spiridonova は、武装蜂起のみが革命を救うことができる、と宣言した(注102)。
 ジェルジンスキ〔Dzerzhinskii〕とそのラトビア人仲間がなぜ、この警告を無視して、7月6日に突然に身柄を拘束されたのかは、不可解な謎のままだ。
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 (07) この問題に対する部分的な、かつ部分的だけの回答は、陰謀者たちの何人かはチェカの指導機関で働いていた、ということだ。
 ゼルジンスキーは彼の代理人として、左翼エスエル党員であるPetr Aleksandrovich Dmitrievskii —一般にAleksandrovich として知られた—を選んでおり、この人物を完全に信頼して広い権限を与えていた。
 チェカに雇用され、陰謀に関与した他の左翼エスエル党員には、逆スパイとドイツ大使館への浸透を責務としていたIakov Bliumkin、写真家のNicholas Andreev、チェカの騎兵軍団の長官のD. I. Popov がいた。
 これらの人物が、秘密警察の本部の内部で、陰謀を企てた。
 Popov は、ほとんどが親左翼エスエルの海兵である、数百人の武装人員を集めた。
 Bliumkin とAndreev は、ドイツ大使のMirbachを暗殺する責任を請け負った。
 この二人はドイツ大使館の建物をよく知っており、大使殺害の後で辿る逃走経路の写真を撮っていた。
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 (08) こうした準備を監督していた<三人組(troika)>は、7月4日夕方に予定されていた第五回全国ソヴェト大会の第二日か第三日のいずれかに、蜂起を実行しようと計画した。
 Spiridonova は、ブレスト=リトフスク条約の廃棄と対ドイツの宣戦布告を呼びかける動議を提出することとされた。
 大会での発言を決定する幹事委員会は、左翼エスエルに、寛大に議席の40パーセントを割り当てていた。また、多くのボルシェヴィキ党員がブレスト条約に反対していることが知られていた。これらの理由で、左翼エスエル指導部は、自分たちが多数派となる十分な可能性がある、と考えた。
 しかしながら、かりにそれに失敗するならば、ドイツ大使に対するテロリズム行為でもって反逆の旗を掲げることになるだろう。
 7月6日は偶然に聖ジョン日(<Ivanov den’>)だったので、行動には好都合だった。この日はラトビアの祝日で、ラトビア人ライフル兵団はモスクワ郊外のKhodynka 広場へと遠足して祝うことになっていた。そして、クレムリンには最小限の同僚のみを残すのだった(脚注)
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 (脚注)  彼らの指揮者のI. I. Vatsetis によると、その頃、ラトビア兵団のほとんどは、Volga-Ural の戦線へと派遣されていた。Pamiat’, No. 2(1979)
, p.16.
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 (09) 引き続く事態が進行したとき、モスクワの状況は弱々しいものだったので、左翼エスエルが権力奪取を望んだならば、ボルシェヴィキが十月にそうだった以上にはるかに簡単に、それができただろう。
 しかし、左翼エスエルは、断固として、統治する責任を負いたいと考えなかった。
 彼らの反逆は、クー・デタではなく、クー・劇場(coup de theatre)、すなわち、「大衆」に衝撃を与え、彼らの沈滞している革命精神を活性化するための、大規模の政治的示威行為、だった。
 左翼エスエルは、過ちを冒した。その過ちをレーニンは、彼の支持者に対して永遠に、革命で「演劇する」ことの過ちとして警告し続けた。
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 第10節、終わり。

2814/R.パイプス1990年著—第14章⑰。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第10節/左翼エスエルの暴動企図①。
 (01) 1918年の夏が近づくにつれて、左翼エスエル(社会主義革命党)の不安は増した。
 情熱的な革命家たちだったので、絶え間なく興奮してきた。十月の高揚、1918年2月の陶酔。
 国民がドイツの侵略に対抗して立ち上がったとき、忘れ難い日々は、左翼エスエルの詩人、Alexander Blok によって祝われた。二つの最も有名な革命詩、「十二」と「スキタイ人」によって。
 しかし、これらは全て過去のものになり、左翼エスエルは自分たちが今や計算高い政治家たちが作る体制の協力者であることに気づいた。その政治家たちは、ドイツと連合諸国の両方と取引して、工場を稼働させるために、また軍隊を指導するために、「ブルジョアジー」を再び招いた。
 革命にいったい何が起きたのか?
 1918年2月の後、ボルシェヴィキは彼らを満足させることを何一つ行なわなかった。
 左翼エスエルはブレスト条約を侮蔑した。彼らから見るとこの条約は、ドイツをロシアの主人にし、レーニンをMilbach の従僕にした。
 ドイツと仲間になるのではなく、彼らが望んだのは、必要とあらば素手でもってすら、大衆をこの帝国主義者に対して立ち上がらせ、革命をヨーロッパの中心へと送り込むことだった。
 ボルシェヴィキが左翼エスエルの抗議を無視してブレスト条約に調印し批准したとき、左翼エスエルはソヴナルコム(内閣、Sovnarkom)から離脱した。 
 彼らは、穀物を収奪するために武装部隊を派遣するという、1918年5月にボルシェヴィキが採用した政策に反対した。農民と労働者間に反目を生じさせると考えたからだった。
 死刑判決の再導入に反対し、チェカが政治的収監者に言い渡した全ての死刑判決に対して党員に拒否権を行使させて、多数の生命を救った。
 彼らは断固として、ボルシェヴィキは革命の裏切り者だと見なすようになった。
 指導者のMaria Spiridonova は、こう述べた。「私は今まで一緒に活動してきた。同じ防柵の上で闘ってきた。ともに目標に向かって栄光ある闘いを行なってきた。そのようなボルシェヴィキが、ケレンスキー政権の政策を採用していると認識することは、今ではつらい。」(注96)
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 (02) 1918年の春、左翼エスエルは、1917年にボルシェヴィキが臨時政府と民主主義的社会主義者たちに対してとったのと同じ態度を、ボルシェヴィキに対してとった。
 彼らは、革命の良心として、日和見主義と妥協主義の体制に対して、高潔な代替案を提示した。
 工業労働者に対するボルシェヴィキの影響力は低下していたので、左翼エスエルは危険な対抗者になった。左翼エスエルは、ボルシェヴィキが権力奪取の過程で利用したがいったん権力を握ると全力で抑圧したのと同じ、ロシア人大衆の無政府主義的で破壊的な本能に訴えたのだから。
 彼らは、ある程度の騒々しい市民たちから支持された。その中には、急進的なペテログラードの労働者や、バルト海および黒海の艦隊の海兵たちもいた。
 彼らが訴えたグループは基本的には、十月にボルシェヴィキが権力を掌握するのを助け、今では裏切られたと感じている者たちだった。
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 (03) 4月17日〜25日、左翼エスエルはモスクワで大会を開催した。
 大会は、6万党員を代表していると宣言した。
 ほとんどの代議員は、ボルシェヴィキとその<komissaroderzhavie>(「人民委員の統治」)との明確な決裂を望んだ(注97)。
 2ヶ月後(6月24日)の秘密会議で、左翼エスエルの中央委員会は、謀反の旗を掲げると決定した(注98)。
 ブレスト条約が追求した「息つぎ」は、終わらなければならない。
 彼らは、7月4日に予定されている来たる第四回全国ソヴェト大会で、ブレスト=リトフスク条約の廃棄と対ドイツの宣戦を呼びかける動議を提出することになる。
 その動議が通過しなければ、ロシアとドイツの断絶をもたらすテロリズムによる挑発を開始するだろう。
 秘密会議で採択された決議には、つぎのように書かれていた。
 「左翼エスエル中央委員会は、共和国の現在の政治情勢を検討したうえ、ロシアの利益ならびに世界革命の利益のために、ブレスト=リトフスク条約が生んだいわゆる息つぎに対して、即時に終止符が打たれなければならない、と決議する。//
 中央委員会は、ドイツ帝国主義の指導的代表者たちに対して、一続きのテロリズム行為を組織することが実践的でありかつ可能であると信じる。
 これを実現するために、党の全力が組織され、全ての策が講じられなければならない。そうすれば、農民層と労働者階級はこの運動に参加し、積極的に党を助けるだろう。
 そのゆえに、テロリズム行為を行なうときには、ウクライナでの諸事件、農民のあいだでの煽動、兵器庫の爆発への我々の関与者に、全ての文書が知らされなければならない。
 これは、モスクワが合図する後でなされなければならない。
 この合図はテロリズムの一行為であり得るが、あるいは別の形態をとることもできる。
 党の全力の投入に寄与すべく、三人委員会(Spiridonova、Maiorov、Golubovskii)が任命された。//
 党の望みとは逆に、これがボルシェヴィキと衝突し得るという事実にかんがみ、中央委員会はつぎのとおり宣言する。
 我々は、人民委員会議の現下の政策に対する攻撃だと我々の政策を見なす。しかし、決してボルシェヴィキそれ自体に対する闘いではない。
 我々の政策に対してボルシェヴィキが攻撃的な反対攻撃を行なうということがあり得るので、我々は、必要とあらば、武力でもって我々の立場を防衛しようと決意している。
 党が反革命分子によって利用されるのを阻止するために、我々の政策は明白にかつ公然と言明されることが決議された。そうしてこそ、世界的な社会主義革命的政策は、やがてソヴィエト・ロシアによって用いられることができる。」(注99)
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 (04) この決議が示すように、左翼エスエルは、1917年十月のボルシェヴィキの行動を多くの点で模倣しようとしているにすぎない。一つのきわめて重大な違いは、左翼エスエルは権力の奪取を望まなかったことだ。
 権力はボルシェヴィキの手に残されるものとされた。
 左翼エスエルは、反ドイツのテロリズムへの反応としてドイツがロシアを攻撃するよう挑発することによって、ボルシェヴィキがその「日和見主義」政策」を放棄するよう仕向けることだけを欲した。
 この計画は全く非現実的だった。それが依拠していたのは、つぎのような賭けのごとき期待だった。
 ドイツはブレスト条約で獲得した莫大な利益を衝動的に放棄するだろう、そして、ドイツとロシアを結びつける共通の利益をすっかり無視するだろう。
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 (05) 左翼エスエルの三人委員会のうち最も有力な人物であるSpiridonova は、前世紀に特徴的な宗教的殉教者がもつ勇気を持っていた。だが、常識に似たものは何一つ持っていなかった。
 この時期の彼女を観察していた外国人は、全く褒め言葉のない報告を残した。
 Riezler にとって、彼女は「干上がったスカート」だった。
 ドイツの報道記者のAlfons Paquet は、こう彼女を見た。
 パンセネ〔鼻固定眼鏡〕を付けた、飽くなき発作者。語っているあいだいつも見えないハープに手を伸ばしているように見える、また、会場が称讃と憤激で充満しているときに焦ったそうに足を踏み鳴らして、落ちている服の肩紐を上げている、そのようなアテナを戯画化した人物。」(注100)
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 ②へとつづく。

2813/R.パイプス1990年著—第14章⑯。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第九節/ドイツ皇帝が親ボルシェヴィキ政策を決定②。
 (09) このような考えを抱いて、Kühlmann は、ロシアでの厳格な不干渉政策を主張した。
 おそらくボルシェヴィキの探索だったものに応えて、彼はロシア政府に対して、ドイツもフィンランドもペテログラードには何の腹案も持っていないと、保証した。このような保証があったため、ラトビア人兵団を西部から、チェコ軍団と戦うことがひどく熱望されていた東部へと移動させることが可能になる(注91)。
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 (10) いつか最も「歴史的」な日々があると信じていた者たちにとって、1918年6月28日は、近代の最も「歴史的」な日の一つとして光るはずだ。
 なぜと言うに、ドイツ皇帝が衝動的な決定をして、ボルシェヴィキ体制を死刑判決から救ったのは、この日だったからだ。
 ロシア問題に関する報告書が、提示用に彼に送られてきた。
 彼の前には二つの文書があった。一つは、首相のGeorg von Hertling が著名した外務省からの文書だった。もう一つは、Hindenburg から。
 報告担当官の男爵Kurt Von Grünau は、皇帝補佐官に対して外務省を代表した。
 このような事態の経験を積んでいた者は全て、このような場合に報告担当官がもつ力を知っていた。
 報告担当官は、主要な政策案、被報告者が事態の不完全な知識にもとづいて選ぶために必要な政策の選択肢、を提示する。そのときに彼は、微妙な操作を行なって、自分が好む方向へと決定を誘導することができる。
 Grünau は、外務省の利益を促進するために、この機会を最大限に利用した。
 皇帝は、大部分について、Grünau が彼に提示した政策案の様式の結果として、重大な決定を下した。
 「瞬間的な気分と突然の閃きに従う皇帝の衝動的性格にとっては、助言者が彼に提示した最初の論拠を結論だ(<schlussig>)と思うほどに支持するのは、本質的特徴だ。
この場合も、それが起きた。
 助言者のGrünau は、Hindenburg が選考した案を皇帝に提示する直前に、Hertling からの電信(Kühlmann 推奨書も)を皇帝に知らせることに成功した。
 皇帝はすぐに首相〔Hertling〕に同意すると宣言し、とくに、まず、ドイツはロシアで軍事行動を行なってはならない、と述べた。また、ソヴィエト政府には、第一にペテログラードから安全に撤兵できること、第二に、「将来の機会を排除することなく」チェコ軍団に対抗して戦線を展開できること、最後に第三には、ブレスト条約を受諾した唯一の党派としてのソヴィエト政府には支援が拡大されること、を知らせなければならない、と述べた。(注92)」
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 (11) 皇帝による決定の直接的効果として、トロツキーは、ラトビア人連隊を西部国境からVolga-Ural 前線へと移動させることができた。
 ラトビア人兵団は戦闘可能な唯一の親ボルシェヴィキ軍団だったので、この行動によって、東部のボルシェヴィキ体制は完全な崩壊から救われた。
 7月末に、ラトビア人連隊と第四分団はKazan 近くでチェコスロヴァキア兵団と交戦し、第六分団はEkaterinburg で彼らを攻撃した。また、第七分団はIzhevsk-Botkin で、武装労働者の反ボルシェヴィキ蜂起を鎮圧した。
 これらの作戦行動は、戦況をボルシェヴィキに有利に変えた。
 ドイツの諜報機関が傍受したIoffe あての電報で、Chicherin は、ロシアがその兵団をドイツの戦線から撤退させ、その兵団をチェコスロヴァキア兵団に対抗して投入することができたことがきわめて役立った、ということを強調した(注93)。
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 (12) 皇帝の判断の長期的な効果は、ボルシェヴィキがその歴史の最も危機的な時期を乗り切ることを可能にしたことだった。
 ドイツがペテログラードを掌握するのに少しの努力も要らず、モスクワを占拠するにはほんの少し多くの努力しか必要としなかっただろう。二都市ともに事実上防衛されていなかったのだから。
 そしてドイツは、そのウクライナ作戦を繰り返すことができ、ロシア全土に傀儡政府を樹立しただろう。
 誰も、ドイツのそうした能力を疑っていなかった。
 ボルシェヴィキがより強固な地位にあった4月に、トロツキーはSadoul に、ドイツに後援された政党によってボルシェヴィキが排除されることはあり得る、と語った(注94)。
 6月末の皇帝の決定は、この可能性を永遠に消滅させた。
 西部での攻勢が終わりを告げた6週刊後、ドイツはもはや、ロシアの国内情勢に決定的に干渉する立場にいることはなくなった。
 ドイツがボルシェヴィキを支持し続けていることが知られるようになって、ロシアの反対派は落胆した。
 Kühlmann は皇帝の意向を伝達するとき、在モスクワ大使館に対して6月末に、レーニンと協力することを指示した。
 7月1日、Riezler は、右派中央派との会話を断絶した(注95)。
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 第10節へとつづく。

2812/斎藤兵庫県知事・2025年2月5日定例記者会見の一部。

 斎藤元彦兵庫県知事/2025年2月5日(水)定例記者会見の一部。
 MBS NEWS(YouTube)による。文責・太字化は聴き取り、引用をした掲載者。後日により正確化することがありうる。
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 ①39分05秒あたり以降。
 質問者「フリーの記者の松本と言います。
 さっき読売新聞さんが訊いていた二馬力選挙のことなんですけれども、これは知事戦の期間中に私が直接斎藤さんに伺ったときに、本人が認識していないことを言われた記憶があります。
 しかし、陣営の関係の複数の方とか応援されている方からは当然認識していて、しかし連絡はもちろんとっていないんだけれども、悪い影響は出ていないようなのでそのままにしているんです、みたいな話を複数聞いています。
 で、先ほど以来指摘があるように、首相だけでなく総務大臣だったり、兵庫県選管も、公選法に違反する疑いがあるという認識を示しています。
 そもそもこれまでずっと、自分の選挙に専念してきたのでそのことは認識していないし、それを何か言う立場にない、ということを仰言っているのですけれども、周りの方々は皆認識していて、ご自身だけエアポケットのように認識していないというのはどう考えても無理がありますし、選挙後になってこれだけ問題視されている中で、何も仰言られないというのは、かなり無責任だというふうに思うのですが。
 あらためて、二馬力選挙というものについての認識をお聞かせ願えないでしょうか。」
 斎藤知事「これまで申し上げてきたとおりです。…」
 質問者「なぜその…」
 斉藤知事「私としては、選挙というものは、今回の兵庫県知事選挙は候補者ですから、候補者として…」
 質問者「候補者…、当事者だからこそ…。」
 斎藤知識人「私は当事者、候補者として戦わせていただきました。私はあの、繰り返し言ってますけれども、立花さん自身も知らなかったですし、直接会ったこともなかったです。もちろん、あのー、討論会の場でご挨拶させていただいたことはありましたけれども、私自身は自分自身ができる選挙、自分自身がやれることを精一杯やってきたということですから、そういったことはない、というふうに申し上げてきましたので、同じ考え方です。」
 質問者「選挙中はそれでよかったとしても、選挙後です。首相のご答弁もそうですし、選管の反応も総務大臣も全部、選挙後です。選挙後にこれだけ社会問題になっている、その社会問題の当事者である知事としての立場で、何も、自分は一候補者だったというのでは話が通らないと思うのですが。」
 知事「それは、今ご指摘いただいているご質問者の考えだと思います。私としては、先ほど来申し上げているとおり、自分としては自分が当事者、候補者である選挙戦を精一杯自分自身として、斎藤元彦としてやらしていただいた、ということです。
 質問者「それで、社会的な理解が得られる、とお考えですか?」
 知事「それはあのー、私自身はそのように思っていますが、そのように考えているというのは、今の斎藤元彦としての考えです。」
 質問者「わかりました」。
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 ②55分25秒あたり以降。
 質問者「フリーの菅野です。今日質問するつもりはなかったのですが、一時間の約束も守られそうにないので、5分間だけ質問させてもらいます。
 先ほど…、時事通信さんからの指摘もありましたように、同じ答えしかできないから皆さんの質問が荒れるんです。空虚な記者会見になる責任の帰するところは、知事です。我々ではありません。…
 先ほど、松本さんの質問、および朝日新聞さんの質問、共同通信さんの質問で、二馬力選挙の話が出ました。それは当然だと思います。昨日の衆議院の予算委員会で二馬力選挙のことが議論されましたので。
 そのときに、記者の側からは二馬力選挙という言葉しか出ていないのですが、松本さんの質問に対して、知事はやおら、立花さんの名前を出されたんです。昨日の国会の議論でも、立花さんの名前は出てなかったと思います。
 ということは、知事、立花さんが二馬力選挙をしていることをご存知だったのですか。」
 斎藤知事「ちょっと、よく分からないです。
 質問者「いや、すごく単純な質問じゃないですか。誰も立花さんと言っていないにもかかわらず、二馬力選挙という主語であなたに質問しているにもかかわらず、あなたの返答には立花さんという名前があった、ということです。
 ということは、あなたは、二馬力選挙の当事者は立花さんだったということをご存知だったということですか、と問うているのです。」
 斎藤知事「私は先ほど来申し上げましたとおり、候補者として、—いろいろな候補者がおられたと思います—もちろん討論会とかもやらせてもらってますし、どういった候補者がおられるかということは分かっています。そんな中で、私としては、自分ができる選挙戦をしっかりやらせていただいたということだけですので、そういった認識はありません。」
 質問者「いや、司会者の方ね、僕が言ってるのはこういうことです。
 知事に問わずに司会者の目を見て訊きますが、僕の問いは、共同通信さんも朝日新聞さんも松本さんも、二馬力選挙という主語で語っているのです。にもかかわらず、知事からのご返答が、やたら立花さんだった。
 ということは、二馬力選挙の片方の当事者は立花さんだという認識があるんですか、という問いなんです。
 これ、記者会見を短く答えようと思うならば、イエスかノーかで答えられる質問なんです。
 もう一度問いますが、立花さんが二馬力選挙の当事者であったというご認識があった、というご認識で間違いないですか。」
 斎藤知事「私は、自分ができる選挙を、自分が一人でしっかり、候補者としてやらせていただいた、ということが答えです。」
 質問者「その言い訳は、僕の質問が、立花さんの二馬力選挙で助けられたと思っていますか、というときには成立する言い訳です。
 昨日国会で議論された二馬力選挙、松本さんの言葉を借りれば、いま社会問題になっている二馬力選挙のうちの一馬力は立花さんだった、という認識があるのですか、という問いです。」
 斎藤知事「いや、私は、だから、さっきから申し上げているように…」
 質問者「主語はあなたではないんです。」
 斎藤知事「私自身が、自分ができる選挙戦を…」
 質問者「それは存じあげています。僕が問うているのは—あと2分ほどあります—、僕が問うているのは、立花さんが二馬力選挙のうちの一馬力だったという認識があるのですか、という問いです。」
 斎藤知事「あのー、特定のことについて答える義務はありません。
 私は、先ほど来申し上げているとおり、あのー前回の兵庫県知事選挙というものは、自分ができること、自分が候補者としてやることをやってきた、ということです。
 私以外の方がどうだったか、ということについては、コメントする立場にない、ということです。」
 質問者「先ほどの時事通信の方の質問、憶えておられます?」
 斎藤知事「あの、質問に答えるということを、お互いにしっかりやりましょう、という…」
 質問者「はい。その舌の根も乾かないあいだに、僕の質問に対する回答は、先ほどの時事通信さんへの回答と平仄すると思います?」
 斎藤知事「えーと、私自身は、自分が質問に答えるということをしっかり答えさせていただいているつもりです。」
 質問者「では、先ほどの、特定の質問に答える義務はない、とはどういうことですか?」
 斎藤知事「あの、私自身は選挙戦で、繰り返しになりますが、一候補者として、他の候補の方がたくさんおられたということは存じあげているけれども、他の方がどうだったかについて、答える立場にはないし、自分自身は候補者として選挙戦を懸命に戦っただけです。」
 質問者「最後に一問だけ。
 その兵庫県知事選挙に出馬された当事者として、あなたは、国会や兵庫県選管やさまざまな機関が警鐘を鳴らしている二馬力選挙について、考えたり、コメントを述べたりする立場にはない、というふうに思ってらっしゃるんですか?」
 斎藤知事「選挙戦のあり方というのは、制度について、国や国会が、法改正などでしっかり対応していく必要があれば、法改正などで対応することだと思いますです。その議論の推移をしっかり見守る、…」
 質問者「いや、僕の問いとは全く答えがズレているんです。兵庫県知事選挙に立候補した者として、国会で議論までされている二馬力選挙という問題について、あなたは、考える必要がない、と考えてらっしゃるんですか、と問うているんです。
 斎藤知事「私自身は、選挙に立候補した者として、コメントすることは差し控えたい、ということです。
 質問者「コメントを求めているのではないのです。考えるべきか、考えるべきではないのか、どちらですか、と問うているのです。
 斎藤知事「選挙制度については、国において議論されるべきものだと思います。」
 質問者「なるほど、あなたは、考える立場にない、ということですね。…ありがとうございました。」
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2811/R.パイプス1990年著—第14章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第九節/ドイツ皇帝が親ボルシェヴィキ政策を決定①。
 (01) 1918年の6月まで、将軍たちは、ボルシェヴィキとの決裂を要求する〔ドイツ国内の〕唯一の党派だった。
 彼らは、外務省当局と一緒になって動く産業家や銀行家によって抑えられていた。
 しかし今や、期待していなかった同盟相手を見つけた。
 チェコスロヴァキア兵反乱のあと、Milbach とRietzler はレーニン体制の存続可能性について確信を失い、ロシアで支持される別の基盤を探すようにさらに強く主張した。
 Rietzler の勧告は、印象にだけもとづいてはいなかった。
 彼には、チェコ軍団を阻止するためにボルシェヴィキが当てにできる勢力はボルシェヴィキを見捨てつつある、という直接の知識があった。
 彼は6月25日、ドイツ政府に対して、在モスクワ大使館はチェコ軍団と国内の対抗者に対するボルシェヴィキの行動を助ける全てのことをしているけれども、この努力は無駄なように見える、と助言した(注87)。
 こう思っていたことは、数年のちに初めて知られるようになった。
 内戦の東部戦線での赤軍の司令官だったM. A. Muraviev 中佐がチェコ軍団と戦うよう説得するために、Rietzler は彼に、資金援助(賄賂)をしなければならなかった(脚注)
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 (脚注)  Baumgart, Ostpolitik, p.227; Erdmann, Rietzler, p.474; Alfons Paquet in Winfried Baumgart, ed., Von Brest-Litovsk zur deutscheh Novemberrevolution (Goettingen, 1971), p.76. Muraviev は、ともかくも7月初めに脱落し、かれの兵団のもとで死んだ。
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 さらに厄介なことに、ラトビア人兵団はボルシェヴィキのために闘う意気を低下させていた。
 彼らは、後援者たるボルシェヴィキの運命が衰退傾向にあるのを感じ、孤立するのを怖れて、別の立場に替わることを考えた。
 ラトビア人兵団を説得して7月のIaroslavl でのSavinkov 反乱の鎮圧を助けさせるために、Rietzler にはより多くの援助資金が必要だった(注88)。
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 (02) チェコ軍団はそのあいだ、次々と都市を奪取していた。
 6月29日、Vladivostok を掌握し、Ufa の7月6日がつづいた。
 Irkutsk ではボルシェヴィキの抵抗に遭ったが、それを打倒し、7月11日にその街を掌握した。
 この時点までに、Penza から太平洋まで、東部シベリアの支線部を含めて、シベリア横断鉄道の全線は、チェコ軍団の手に落ちた。
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 (03) チェコ軍団が妨げられずに前進し、ボルシェヴィキ党員が離脱していく恐れも高まって、Mirbach とRietzler には不吉な予感が生まれた。
 彼らは、連合諸国がこの危機を利用して、エスエルによるクーを企むのではないか、そしてロシアは連合諸国の側に再び戻るのではないか、と懸念した。
 この大厄災の発生を阻止するために、Rietzler はドイツ政府に対して、ロシアのリベラル派および保守派と接触するよう強く主張した。これらの派は、右派中心派、カデット党〔立憲民主党〕、Omsk 政府、Don コサックに代表されていた(脚注)
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 (脚注) Erdmann, Rietzler, p.711-2. Rietzler は、ドイツの潜在的な同盟者の中にカデットを含めていた。その指導者のMiliukov は、当時ウクライナにいたが、親ドイツの志向を表明していたからだ。その他のカデット党員は連合諸国に忠実なままだった。
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 (04) 在モスクワ大使館からの警告的報告書によって、軍部の不満はさらに大きくなった。そして、ドイツ政府がもう一度「ロシア問題」を検討するよう動かした。
 ドイツ政府が直面していた問題は、つぎのように整理することができる。まず、終始一貫してボルシェヴィキに執着すべきか。その理由は、1)ボルシェヴィキは長期間の脅威としてのロシアを排除するするためにロシアを完全に壊滅させた、2)ボルシェヴィキはブレスト=リトフスク条約に黙従することによってロシアの最も富裕な地域をドイツの自由に委ねた。
 あるいは、それとも、ドイツの軌道の範囲内のロシアを維持する、もっと陳腐だがもっと生存可能性のある体制を選ぶために、ボルシェヴィキを振りほどくべきか。これがブレスト=リトフスク条約で獲得した領域の一部を放棄することを意味する、としても。
 これらそれぞれの立場の主張者たちは、手段について一致しなかった。
 だが、それらの目的は、同一だった。—すなわち、ロシアがフランスとイギリスがドイツを「包囲」するのを二度と助けないように、ロシアを弱体化すること。そして、ロシアを経済的浸透に対して広く開くこと。
 反ボルシェヴィキの党派は、こうした目標をロシアを従属した政治体に作り上げることによって達成したかった。しかし、一方で、外務省当局は、ロシアを内部から消耗させるためにボルシェヴィキを利用することによって、そうすることを選んだ。
 この問題をいずれかに決着させることは、ボルシェヴィキは衰亡しようとしているという在モスクワ大使館の見方からすると、かなりの緊急性を帯びた課題だった。
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 (05) ドイツ政府の誰も、ボルシェヴィキが長く権力を保持するのを望まなかった。論議は、戦争継続中の、短期間についてのものだった。
 論議に決着をつける困難さには、皇帝の気紛れさも加わっていた。皇帝はある日、「ユダヤ」ボルシェヴィキに対して激しく怒り、そのボルシェヴィキに対する国際十字軍を結成するのを望んだ。だが、次の日には、同じボルシェヴィキについて、ドイツの最良の友人だと語った。
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 (06) Ludendorff は、ボルシェヴィキを消滅させることを主張した。
 ボルシェヴィキは裏切り者だ。「我々のおかげで生きているとしても、ソヴィエト政府からは何も期待することができない」。
 彼がとくに困惑していたのは、ドイツの兵士たちのボルシェヴィキの政治宣伝への「感染」だった。そのプロパガンダは、東部の数十万の兵士たちの移動にともなって、西部前線へと広がっていた。
 彼は、ロシアを弱体化し、「力でもってロシアを[ドイツのために]奪う」のを欲した(注89)。
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 (07) 在モスクワ大使館は軍部の側にいたけれども、ロシアの政治集団から相当の支援を受けた見返りとして、ブレスト条約の改訂を推奨した。
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 (08) 反対する点がKuhlmann と外務省(在モスクワ大使館を除く)から申し立てられた。これには、多数の政治家とほとんどのドイツの事業家団体からの支持があった。
 5月に提出された外務省の覚書は、ボルシェヴィキとの協力を継続する論拠を定式化した。
 「ロシアの多様な所—主として反動的分野—から発せられているドイツの援助を求める理由は、資産階級の、ボルシェヴィキが彼らの所有物や資産を脅かしているという恐怖によって、最もよく説明することができる。
 ドイツは、つぎのような執行補佐人の役割を果たすべきだ。すなわち、ボルシェヴィキをロシアの家から引きずり出し、ドイツに対してツァーリ体制が過去数十年間追求してきたのと同じ政策を追求する反動家たちを復活させる、そのような執行補佐人。
 大ロシアに関して、我々は一つの最重要の利益をもつ。つまり、分解する力を促進し、その国を長いあいだ、弱いままにしておくこと。1871年の後にフランスに関して、Bismarck公が行なったのとまさに全く同じように。…
 その国の経済を掌握するためにロシアとの関係を正常なものにすることは、喫緊の我々の利益だ。
 その国の国内情勢に巻き込まれるほど、すでに我々とロシアを分けている亀裂は拡大するだろう。…
 ブレスト=リトフスク条約はボルシェヴィキによってのみ批准され、かつボルシェヴィキの全員ですらなかったことを、看過してはならない。…
 ゆえに、当面はボルシェヴィキを国家の指導的地位にとどまらせることが、我々の利益だ。
 ボルシェヴィキは当分の間、権力を維持するために、我々に対して忠誠の外貌を維持し、講和を保つために、行なうことのできる全てをするだろう。
 一方で、その指導者たちは、ユダヤ実業家なのだから、やがては、商業上および輸送実務の利益のために、彼らの理論を捨て去るだろう。
 よって我々は、ゆっくりと、しかし目的意識をもって、進まなければならない。
 ロシアの輸送、産業、そしてその国民経済全体は、我々の手中に握られなければならない。」
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 第九節②へとつづく。

2810/R.パイプス1990年著—第14章⑭。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第八節・チェコ軍団の前進。
 (01) チェコスロヴァキア兵の反乱は、ボルシェヴィキに対して、軍事的に挑戦したのみならず政治的脅威も与えた。
 Volga-Ural 地方やシベリアの諸都市は、リベラルなおよび社会主義的な知識人で溢れた。彼らは、ボルシェヴィキに対して立ち上がる勇気はなかったけれども、他者が与えてくれた機会を利用する心づもりはあった。
 彼ら知識人は、Samara とシベリアの街のOmsk に集中した。
 立憲会議の解散の後で、およそ70人のエスエル代議員はSamara へと旅行して、自分たちがロシアの正当な政府だと宣言した。
 Omsk は、カデットが率いた、より中央主義の知識人たちの司令地だった。ここにいた政治家たちは、シベリアをボルシェヴィズムと内戦から分離することに賛成だった。
 チェコ軍団が中央ヴォルガとシベリアの主要都市からボルシェヴィキを一掃するとすぐに、これら知識人たちは活動し始めた。
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 (02) チェコ軍団が(6月8日に)Samara を奪取したのち、ボルシェヴィキのもとで陰謀的存在になっていた立憲会議代議員たちは、公然化し、5人の幹事会によって率いられる、立憲会議委員会(Komitet Uchreditel’nogo Sobrania またはKomuch)を結成した。
 その綱領は、「全ての権力を立憲会議へ」とブレスト=リトフスク条約の廃棄を訴えた。
 その数週間後、Komuch はロシアの民主主義的社会主義の基本方針に適合した布告を発した。それには、個人的自由への制限の廃止、革命審判所の解体、が含まれていた。
 Komuch は、一般的自治政府の機関として、かつての<zemstva>と村議会を復権させた。だが、ソヴェトも維持して、その再選挙を命じた。
 銀行を非国有化し、ロシアの国債を尊重するつもりだと表明した。
 エスエルの農業綱領を模倣したものだったボルシェヴィキの土地に関する布令は有効なままだとされた(注81)。
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 (03) Komuch は自らをボルシェヴィキ体制に代わるものと見ていたが、Omsk にいるシベリアの政治家たちは、より穏健な地域的目標をもっていた。
 彼らは、チェコ軍団がボルシェヴィキを一掃した諸地域で合同し、1918年6月1日に、自らを西シベリア政府だと宣告した。
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 (04) チェコスロヴァキア兵たちは最初は、ロシアのボルシェヴィキへの対抗者に共感していなかった(注82)。
 エスエルが支援を求めて彼らに接近したとき、拒否した。理由は、彼らの唯一の使命はVladivostok への安全で迅速な移動を確実にすることにあったからだ。
 しかしながら、望むか否かを問わず、彼らはロシアの政治に巻き込まれざるをえなかった。目標を実現するためには、地方当局と交渉しなければならず、それはKomuch やシベリア政府との関係を増大させることを意味したからだ(注83)。
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 (05) チェコスロヴァキア兵団が反乱を起こしたとき、ボルシェヴィキ政府は、彼らは連合国の諸政府の指示のもとで行動している、と考えた。
 共産主義歴史家たちは、この見方に執着してきた。支持する証拠はなかったにもかかわらず。
 フランスの側から見た、ある歴史家の言葉が知られている。彼は関連する文書資料の全てに目を通し、「フランスが[チェコスロヴァキア兵の]蜂起を扇動していたことを示すものは何もない」と書いた(注84)。
 このことは、当時のSadoul の見方の適切さを確認する。Sadoul は、首尾はよくなかったが、友人のトロツキーに対して、フランス政府はチェコスロヴァキア軍に対して何の責任も負わないことを納得させようとした(注85)。
 実際に、少なくとも最初は、チェコスロヴァキア兵の反乱は、フランスにとっては不愉快な驚きだった。チェコ軍団を西部前線に移動させるというフランスの計画を転覆させるものだったからだ(注86)。
 イギリスが介入していた証拠もない。
 共産主義歴史家はのちに、Masaryk に責任を負わせようとした。しかし、彼は実際には、最も不幸を味わった人物だった。チェコスロヴァキア兵団がロシア情勢に巻き込まれることになって、チェコ国民軍をフランスに集めようとする彼の計画は妨害されたのだ(脚注)
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 (脚注) 「結論として一つのことが帰結される。すなわち、連合諸国からであれ地下の白軍の中央司令部からであれ、外部からの刺激または奨励は、ソヴィエト権力に対抗して武器を取るとのチェコ軍団の決定に対して、いかなる役割も果たさなかった。こうした敵対関係の発生は、偶発的なものだった。関係当事者の誰も望んでいなかった」。G. F. Kennan, The Decision to Intervene (Princeton, N.J., 1958), p.164.
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 (06) しかし、歴史の真実はどうだったのであれ、事態の激しい推移の中で、ロシア政府が〔チェコ軍団の〕Gajda 将軍の背後に連合諸国の意図を見るのは自然なことだった。チェコ軍団が、自分たちを武装解除させようとする命令の中に、ドイツの圧力を見るのは自然だったように。
 チェコスロヴァキア兵反乱事件は、ボルシェヴィキにあった連合諸国との経済的および軍事的協力の可能性を奪い、—完全に不本意というのではなく—ロシアをドイツの腕の中へと押しつけた。
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 第八節、終わり。 

2809/R.パイプス1990年著—第14章⑬。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第七節/ボルシェヴィキによる徴兵制度の採用。
 (01) 直接に向けられたのではなかったが、チェコスロヴァキア兵の反乱はボルシェヴィキ政府にとって、ブレスト=リトフスク条約以降の最初の深刻な軍事的挑戦だった。
 数ヶ月の検討をしたにもかかわらず、まだ赤軍はほとんど紙の上の存在だった。
 シベリアでのボルシェヴィキの実働人員は、数千人の「赤衛隊」およびそれと同様の数の親共産主義のドイツ人、オーストリア人、ハンガリー人の戦争捕虜で成っていた。
 中央の司令部のないこの混成部隊は、チェコスロヴァキア兵よりも劣っていた。絶望的になったソヴィエト政府は、ドイツに対して6月末に、チェコスロヴァキア兵に対して用いるべく、ロシアにいるドイツ人戦争捕虜を武装させる許可を求めた(注71)。
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 (02) ボルシェヴィキを真剣に軍隊の設立に取り組むよう最終的に強いたのは、チェコスロヴァキア兵の反乱だった。
 最高軍事会議で帝制時代の元将軍たちは、もっぱら「プロレタリア」分子で構成される全てが自由意思の軍隊という想念を放棄して、一般的な徴兵制度の採用へと移ることを強く主張してきていた。
 ロシアの人口構造からすると、徴兵軍では、農民が圧倒的多数を構成することになる。
 現実的な選択的判断をすることができていなかったが、レーニンとトロツキーはやっと、職業的な将校団と多量の農民徴用兵をもつ常備軍に対する嫌悪を克服した。
 政府は4月22日に、18歳から40歳までの全男子が8週間の軍事訓練を受けるべきことを命令した。
 この指令は、労働者、学生、「開発」に従事していない、つまり賃労働者を雇用していない農民に適用された(注72)。
 これは、最初の一歩だった。
 政府は5月29日に、段階的に総動員が実施されるべきことを命令した。
 最初に、モスクワ、Don、Kuban の、1896年および1897年生まれの労働者が召集されることになる。
 その次はペテログラードの労働者。そのあと、鉄道労働者と事務従事被雇用者へと広がった。
 これらの被召集者には、6ヶ月間の服務が課せられた。
 農民たちはまだ、召集されなかった。
 6月に、兵士の給料が1ヶ月150ルーブルから250ルーブルに上げられた。また、標準の制服を用意する最初の試みが行なわれた(注73)。
 同時期に、政府は、帝制軍の旧将校たちの自発的登録を開始し、総合幕僚アカデミーを開設した(注74)。
 最後に7月29日、政府は、二つの布令を発した。これらは、これ以来赤軍として知られるようになる軍隊の基礎になった。
 第一の布令は、18歳から40歳までの男子全員の軍事労役の義務を導入した(注75)。
 この布令の定めにより、50万人以上の男子が徴兵された。
 第二の布令は、革命審判所による制裁で威嚇されたのだが、指定された地域で、旧軍隊の全ての将校(1892年から1897年までに生まれた者を含む)の登録を命じた(注77)。
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 (03) こうしたことが、赤軍の起源だった。
 構造と紀律について、職業的将校たちの助けでもって組織され、すみやかにほとんどもっぱら彼らによって司令されるものとなって、赤軍は不自然にではなく、帝制軍をモデルにしていた(注78)。
 赤軍の唯一の新規さは、「政治委員」(political commissars)、すなわち全てのレベルの指令者への忠誠性に責任を負う、信頼に足るボルシェヴィキの<政治局員〔apparatchiki〕>に託された地位、を導入したことだった。
 トロツキーは、〔1918年〕7月29日の中央執行委員会で、彼を不人気にした威張り方でもって、今では「軍事専門家」とも称されるかつての帝制将校たちの信頼性を懸念する者たちに対して、ソヴィエト・ロシアを裏切ることを企図する者は全て、ただちに射殺される、と保証した。
 彼はこう言った。「全ての専門家の隣には、政治委員が、一人は右に、もう一人は左に、拳銃を手にして、立っている」(注79)。
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 (04) 赤軍はすぐに、新しい体制の甘やかされた子どもになった。
 1918年春には早くも、兵士たちは工業労働者よりも多い給料と配給を手にした。これに工業労働者は声高に抗議した(注80)。
 トロツキーは、伝統的な軍事紀律に即した苦役を再導入した。
 5月1日にモスクワのKhodynka 広場で行なわれた赤軍の最初のパレードは元気がないもので、主としてラトビア人兵士によっていた。
 しかし、1919年とそれ以降の数年、トロツキーは赤の広場で、綿密に組織された、かつてなく手の込んだパレードを演出した。それはかつての老将軍たちの目に涙を滲ませた。
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 第七節、終わり。

2808/R.パイプス1990年著—第14章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第六節/チェコスロヴァキア兵の反乱②。
 (09) 予期せぬ事件が、全ての計画をひっくり返した。
 5月14日、西部シベリアの町のCheliabinsk で、チェコの兵士と本国へ送還中のハンガリーの戦争捕虜のあいだで、争論が起きた。
 叙述できるかぎりでは、一人のハンガリー人が鉄の棒または何かの金属物体を鉄道のプラットホームに立っていたチェコ人に投げ、うち一人が重傷を負った。
 喧嘩が勃発した。
 Cheliabinsk のソヴェトが騒擾に参加した数人のチェコスロヴァキア人を勾引したとき、別のチェコ人が地方の武器庫を掌握し、仲間の即時釈放を要求した。
 上回る力に負けて、ソヴェトは屈服した(注64)。
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 (10) この時点まで、チェコスロヴァキア兵にはボルシェヴィキ政府に対抗して武力を取り上げる意図はなかった。
 実際に、チェコスロヴァキアの政策の大きな趨勢は友好的な中立の立場だった。
 Masaryk も親近的だったので、連合諸国に対してソヴィエト政府に事実上の承認を与えるよう主張していた。
 チェコ軍団について、共産主義者のSadoul は、彼らの「ロシア革命への忠誠心は争う余地がない」と書いた(注65)。
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 (11) こうした状態は全て、トロツキーの愚かな行為によって変わることになる。
 トロツキーは、新たに任命された戦争人民委員として、その地位を示威したかった。自らの指揮のもとにある兵団を実質的には何一つもっていなかったのだが。
 この野望によってすみやかに、適切な規律をもったチェコスロヴァキア人の一団は「反革命的」軍隊に変えられた。これはボルシェヴィキにとって、権力掌握以降で最も深刻な軍事的脅威になっている、というのだ。
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 (12) トロツキーは、Cheliabinsk で明らかになったこと、そしてチェコ人が「チェコスロヴァキア革命軍大会」を開催したことを知った。そしてただちに、モスクワ在住のチェコスロヴァキア国民会議の代表の逮捕を命じた。
 驚愕したチェコの政治家たちは、チェコ軍団の解体を含む、トロツキーの全ての要求に同意した。
 トロツキーは5月21日、チェコ軍団が東へとさらに進むことを中止させた。軍団の兵士たちは、赤軍に加わるか、または「労働大隊」へと徴用されなければならない。—後者は、ボルシェヴィキの強制労働部隊の一部になる。
 服従しない者は強制労働収容所(concentration camps)へと拘禁されるものとされた(脚注)
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 (脚注)これは、ソヴィエトの諸発表の中で最も早い強制労働収容所への言及だと見られる。
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 5月25日、トロツキーはつぎの命令を発した。
 「鉄道沿いの全てのソヴェトは、重い責任のもとで、チェコ人を武装解除することを指示される。
 鉄道路線沿いの武器を持って発見される全てのチェコ人は、その場で処刑されるものとする。
 <ただ一つ>であっても武器を持つチェコ人を運んでいる全ての列車(echelon)は、積荷を降ろされ、(列車内の人員は)戦争捕虜収容所へと収監されるものとする。」
 これは、際立って不適切な命令だった。不必要な挑発だったというだけではなく、トロツキーはこれを強制的に執行する手段を有していなかったからだ。チェコ軍団は、シベリア地方で最も強力な軍事部隊だったのだ。
 同時に、トロツキーはドイツからの圧力を受けて行動した、と広く信じられた。だが、これらの5月の諸命令についてドイツには責任がない、ということが確定されてきている(注67)。
 トロツキーによるまさに非ボルシェヴィキ的な「力の相互関連」の無視だったのであり、これはチェコスロヴァキア人の反乱を誘発した。
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 (13) チェコスロヴァキア兵は、5月22日、武装解除せよとのトロツキーの命令を拒否した。
 「チェコスロヴァキア革命軍大会は、Cheliabinsk に集まって、…革命の強化のための困難な闘争を行なうロシアの革命的人民に対する共鳴の感情を宣言する。しかしながら、大会は、我々の兵団のVladivostok に向かう自由で安全な通行を保障するにはソヴィエト政府は無力であると確信して、満場一致で、兵団が出発することを許され、反革命的な列車からの保護を保障されるまでは、武器を捨てて降伏することをしない、と決議した。」(注68)
 この決議をモスクワに伝達するに際して、チェコスロヴァキア兵大会は、こう言った。大会は「満場一致で、安全な旅行の保障が考慮されて、Vladivostok に到着するまでは、武器を捨てて降伏することをしない、と決議した」。
 これが表明しているのは、チェコスロヴァキア兵団が出発するのを妨害するいかなる企てもなされないだろう、という希望だった。「あらゆる紛争は、シベリアの地方ソヴェト機関の地位を損傷するだけ」なのだから(注69)。
 チェコ軍団はMurmansk やArchangel へと再迂回せよとの連合諸国の指令は、単直に無視された。
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 (14) トロツキーの指示が知られるようになったとき、1万4000人のチェコスロヴァキア兵はすでにVladivostok に着いていた。だが、2万500人は、シベリア横断鉄道と中央ロシアの鉄道の長さで連なっていた(脚注)
 ボルシェヴィキは自分たちをドイツに渡そうとしていると確信し、また地方ソヴェトに脅かされて、彼らは、シベリア横断鉄道の支配権を握った。
 しかし、そうしているときであっても、自分たちはソヴィエト政府と闘ういかなる組織とも交渉しない、ということを彼らは再確認していた(注70)。
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 (脚注) M.Klante, Von der Wolga zum Amur (Berlin, 1931), p.157.トロツキーから情報を得たかもしれなかったSadour は5月末に、軍団を異なって配分した。Vladivostok は5000、VladivostokとOmskの間に20000、Omsk の西のヨーロッパ・ロシアに20000。J. Sadoul, Notes sur la Revolution Bolchevique (Paris, 1920), p.366.
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 (15) チェコスロヴァキア兵団が鉄道を奪取してしまうと、鉄道沿いの都市のソヴェトは崩壊した。
 そして、その崩壊が起きるとすぐに、ボルシェヴィキに敵対するロシア国内の対抗者たちが、真空を埋めるべく入ってきた。
 チェコスロヴァキア兵は5月25日に、Mariinsk、Novonikolaevsk にある鉄道線路の交差点を占拠した。これは、シベリアの広い地域との線路や電信でのモスクワとの連絡を切断する効果をもった。
 2日後、彼らはCheliabinsk を掌握した。
 5月28日、彼らはPenza を奪取した。6月4日にはTomsk、6月7日にはOmsk、6月8日にはSamara。Samara は、ラトビア兵団によって防衛されていた。
 彼らの軍事作戦が拡張するにつれて、チェコスロヴァキア兵団は司令部を中央化し、最高司令官として、自己流の「将軍」、Rudolf Gajda を選出した。この人物は野心的な術策家で、もっている相当の軍事的才能は、政治感覚と釣り合ってはいなかった。
 彼の仲間たちは、際限なくこの人物を信頼した(脚注)
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 (脚注) オーストリア・ハンガリー軍の医療助手で、チェコスロヴァキア兵団で大尉のランクまで昇格した。1919年に、彼はKolchak 提督の軍にいて戦闘した。チェコスロヴァキアが独立を達成した後、軍事機密の漏洩の咎で逮捕されるまで、幕僚長として働いた。逮捕後の判決では無罪が言い渡された。さらにのち、彼はナツィスに協力した。
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 第七節へとつづく。

2807/R.パイプス1990年著—第14章⑪。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第六節/チェコスロヴァキア兵の反乱①。
 (01) ロシアの状況はまだ十分に複雑でないかのごとく、春に、彼らはウラルとシベリアの広大な地域でボルシェヴィキの支配を脱していた、チェコスロヴァキアの従前の戦争捕虜たちの反乱が起きて、状況はさらに複雑になった。
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 (02) ロシア軍はオーストリア=ハンガリー帝国に対して1914年に勝利したが、そのあいだに、数十万人を戦争捕虜にしていた。その中には、5ないし6万人のチェコ兵とスロヴァキア兵がいた。
 ロシア帝国政府は1914年12月に、多くは熱心に反ドイツ的で反ハンガリー的なこれら捕虜たちに、自分たちの軍団を形成し、ロシアの兵団とともに戦闘すべく前線に戻る機会を与えた。
 この機会を活用したチェコ人は、ほとんどいなかった。
 たいていの者は、この軍団(Druzhina と呼ばれた)を中央諸国は裏切り者として扱い、捕えた後で処刑するだろう、と怖れた。
 にもかかわらず、1916年には、二つのチェコスロヴァキア連隊が出現していた。これらは、将来の独立チェコスロヴァキア軍の中核になるべきものだった。
 パリにあったチェコスロヴァキア国民評議会の長のThomas Masaryk は、ロシアその他に在住する民間人や戦争捕虜たちを西部前線で戦う正規の国民軍に編成する、という考えを抱いた。
 彼は、ロシア帝国政府と、チェコの戦争捕虜たちをフランスに避難させるよう交渉を開始した。しかし、ロシア政府は協力しなかった。
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 (03) Masaryk は、〔1917年2月以降に〕臨時政府にその案を再提示した。臨時政府は、好意的に反応した。
 チェコ軍団の編成は迅速に進み、1917年春には、2万4000人のチェコ人とスロヴァキア人は一つの兵団を組織し、東部戦線で戦った。彼らは1917年6月に攻勢に出た。
 この兵団とロシアの収容所にいる残りの捕虜たちを西部前線へと移送する計画が立てられた。だが、これを妨害したのは、ボルシェヴィキのクー〔1917年10月〕だった。
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 (04) 連合諸国は1917年12月に、ロシアにいるチェコスロヴァキア軍団を、最高連合国司令部の傘下にある分離した軍隊だと承認した。
 Masaryk はその翌月にロシアに戻り、もう一度交渉した。このときはボルシェヴィキ政府との交渉で、軍団のフランスへの避難が主題だった。
 中央諸国とウクライナ間の条約締結によって、チェコスロヴァキア兵が最も多く抑留されていたウクライナをドイツが占領しそうになったために、今やこの問題は相当の緊急性をもつことになった。
 ボルシェヴィキは、ブレスト条約に調印するまで、結論を遅らせた。そしてようやく3月半ば、連合諸国との関係が最も友好的だったときに、ボルシェヴィキは同意を与えた(注57)。
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 (05) Masaryk と連合国司令部は最初は、チェコスロヴァキア兵の避難をArchangel とMurmansk を経由して行なうつもりだった。
 しかし、北部の港湾への鉄道路線がフィンランドのパルチザンによって脅かされ、加えてドイツの潜水艦による危険もあったので、彼らをVladivostok で乗船させることが決定された。
 Masaryk は、チェコ軍団(Czech Legion)として知られることになる兵団の司令官たちに対して、「軍事的中立」の政策(注58)を採用すること、絶対にロシアの国内問題に干渉しないことを指示した。
 チェコスロヴァキア人が迂回してVladivostok へと到達しなければならない地域はアナーキーの状態にあったので、Masaryk とボルシェヴィキ当局とのあいだで、彼らは自衛のために十分な武器を携行することが取り決められた。
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 (06) チェコスロヴァキア人は十分に組織されており、早く出立したかった。
 彼らはボルシェヴィキ政府から許可を得るとすぐに、大隊(battalion)規模の、1000人編成の分団を形成し、ロシアで<echelon>として知られた特別の列車に乗った。
 最初のechelon がPenza に着いたとき、スターリンから1918年3月26日付の電報が届いた。それには、〔チェコスロヴァキア人の〕避難が行なわれるべき条件が列挙されていた。
 「戦闘部隊」ではなく「自由市民」として旅行すべきこと。武器は「反革命者たち」から身を守るために必要なものとして携行されるべきこと。
 チェコスロヴァキア人には、Penza ソヴェトが用意した政治委員が同行するものとされた(注59)。
 彼らは、ドイツの圧力の存在が疑われたこの命令に不満だった。訓練が行き届いていない急進的な親ボルシェヴィキ勢力、とりわけ、ハンガリーとチェコの戦争捕虜たちの中から募集された狂信的共産主義者に、信頼を措けなかったからだ。
 Penza を出る前に、彼らはやむなく武器の一部を放棄した。いくつかは公然と持ち続け、残りは隠した。
 そして、避難が再開した。
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 (07) 彼らは愛国心を強くもち、そのゆえにボルシェヴィキが中央諸国と分離講和条約を締結したのに不満だったけれども、政治的見解としては、断固として中央の左側に立っていた。ある歴史家の推測によると、彼らのうち四分の三は社会主義者だった(注60)。
 Masaryk の指令に従って、彼らは義勇軍〔白軍〕とボルシェヴィキのいずれの側からの接近も無視した。ボルシェヴィキはチェコの共産主義者を媒介者として使っていたのだけれども(注61)。
 彼らの心の中にあった目的は、一つだった。ロシアから抜け出ること。
 そうであっても、内戦の最中の地域を横切っていたので、ロシアの政治に巻き込まれるのを完全に避けることはできなかった。
 シベリア横断鉄道沿いの街を通過していたときに、地方の協力者たちとの接触を確立した。協力者たちは、食糧や必需品を彼らに与えてくれた。これは大半は、シベリアの第一党派であるエスエルによって行なわれていた。
 同時にまた、ときには都市ソヴェトやその「国際的」軍団と争論することもあった。後者のほとんどは、チェコスロヴァキアを革命に参加させたいハンガリーの戦争捕虜たちで構成されていた。
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 (08) 1918年5月末時点でのチェコ軍団のロシア情勢への関与は、中立政策の重要な転換ではなかった。
 ドイツがロシア政府に対して、チェコスロヴァキア人の避難を止めるよう求めたとき、その転換が始まった。ドイツは、数万人の新規のかつ士気高いチェコスロヴァキア人が西部前線で連合諸国の兵団に加わるとの見込みを不快に思ったのだ。
 ロシア政府は、ドイツからの要望の趣旨で命令を発した。しかしこれを履行させる手段はなく、チェコ軍団は前進し続けた(注62)。
 続いて、連合諸国が介入した。
 ロシア領土にいる連合国軍の編成に関して4月初めに届いた理解に従って、連合諸国は、ロシアにとどまって日本軍が大量の兵員を備えようとするこの軍隊に加わることもできるときに、チェコ軍団を地球を半周してフランスに送る意味はない、と結論づけた。
 連合諸国は、5月2日に大部分はイギリスの主張にもとづいて、Omsk 西方に位置するチェコ軍団はVladivostok へと進むのではなく、北へ、Murmansk とArchangel に向かう、そこで次の命令を待つ、と決定した(注63)。
 ロシア政府は、反対しなかった。だが、この決定はチェコスロヴァキア人に多大の苦難をもたらした。
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 ②へとつづく。

2806/斎藤元彦兵庫県知事・2024年3月27日記者会見の内容(一部)—兵庫県関係資料②。

 斎藤元彦兵庫県知事・2024年3月27日記者会見の内容(一部)—兵庫県関係資料②。
 出所/兵庫県庁ホームページ「知事記者会見(2024年3月27日(水曜日))。
 番号と太字化・下線付化は掲載者(秋月)。「西播磨県民局長」=<告発文書>(2024/03/12)の作成・発信者。
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 記者「今日、発表のあった人事異動の関係でお伺いします。
 退職されるはずだった西播磨県民局長が役職定年で残るという、4日前の異例の人事でしたが、知事として、4日前での変更になった経緯を、話せる範囲でお聞かせください。」
 知事「当該者につきましては、県民局長としてふさわしくない行為をしたということ、そして本人もそのことを認めているということで、本日付で、県民局長の職を解きました。
 内容は、先ほど人事課から説明したとおりです。」 
 記者「詳細は、まだ話せないのですか」。 
 知事「本人も認めていますが、事実無根の内容が多々含まれている内容の文章を、職務中に、職場のPCを使って作成した可能性がある、ということです。
 それで今回の対応をしました。
 この当該内容の文書には、事実無根の内容が多々含まれていることなので、職員等の信用失墜、名誉毀損など、法的な課題がすごくあると考えています。
 現在、被害届や告訴なども含めて、法的手続きの検討を進めているところです。
 注意してもらいたいのは、当該文書をSNSなどを通じて、公然に流布するということが、法的な措置の対象になるということなので、ぜひ、その辺りは注意してもらいたいと考えています。
 以上を含めて、現在、人事当局を中心に調査を行っているので、ある程度、例えば処分内容が判明してきたら、改めて説明をすることになると思います。」
 ————
 
 記者「県民局長の人事の関係でお伺いします。
 個人名を挙げるのは難しいかもしれませんが、誰の名誉を棄損した認識でいるのでしょか。」
 知事「文書の内容は、文章自体が外部に出ることにより、人の名誉を傷つけることになるので、具体的に誰かとは言えないので、ご理解いただきたいと思いますが、職員個人等々になります。
 記者「複数の方ですか」。
 知事「そうだと認識しています」。
 記者「県民局長は、懲戒処分する方向で進めている理解でよろしいですか」。 
 知事「処分に関しては、今後の調査結果次第ですが、本人も作成と一定の流布を認めているので、懲戒処分を行うことになると考えています」。 
 記者「県民局長のみではなく、他に関連する人がいるという説明も先ほどのレクでありましたが、この方にはどのような関与がありますか。現状話せる範囲でお伺いできますか」。 
 知事「今後の調査になると思います。不確かなことは言えないと思いますが、1人でやったことなのか、複数の人が関与したことなのかを含めて、今後の調査になると思います」。
 ————
 
 記者「退職を取り消した職員に関してですが、組織の中で誹謗中傷するケースや手紙が出回ることは、希にあるかと思います。
 今回、退職4日前に退職を取り消したのは、知事として看過できないと判断したのですか。」 
 知事「副知事とも相談しながら対応しました。
 職務中に、職場のPCを使用して、事実無根の内容が多数含まれ、かつ、職員の氏名等も例示しながら、ありもしないことを縷々並べた内容を作ったことを本人も認めているので、名誉毀損や信用失墜、県へ業務上も含めて大きなダメージを及ぼしています。
 やはり、綱紀粛正しないといけませんので、看過できないと思い、退職を一旦保留し、今後、しっかり調査をしなければいけないと思いますが、然るべき対応をしていくことが、県庁の組織をしっかり立て直す意味でも大事だと思っています。
 若者・Z世代や予算、組織、人事も含めてこれから前を向いてやっていこうという矢先に今回のような絶対許されないような行為をした職員が出てきたことは、大変残念だと思いますので、今一度、県庁全体が綱紀粛正する必要があると思います。
 公務員ですので、選挙で選ばれた首長の下で、全員が一体として仕事をしていくことが大事なので、それに不満があるからといって、しかも業務時間中に、嘘八百含めて、文書を作って流す行為は公務員としては失格です
 同様の行為は今後もあってはならないですし、今回の事案の調査結果を踏まえながら、再度、公務員として誠実に仕事をしていくことを、全員で共有していきたいと思っています。
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 記者「本日発表の人事異動に関して、流布されたとされる文書には、知事に関する記述が含まれているという趣旨でよいでしょうか」。 
 知事「私もありました」。
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2805/R.パイプス1990年著—第14章⓾。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第五節/在独ロシア大使館とその破壊活動②。
 (08) Ioffe のドイツでの活動によって、モスクワで反対派と連絡を取ろうとするMilbach やRietzler の臆病な試みは、無害の戯れのごときものになった。
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 (09) ロシアの直接的利益の観点からは、ドイツでの革命を促進することよりも重要だったのは、ロシアの反ボルシェヴィキ勢力を一緒に妨害できるよう、ドイツの産業界からの支援を獲得することだった。
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 (10) ドイツにとっての事業上の大きな利益をロシアで得るのはほとんど期待できなかった。そして、ボルシェヴィキが認めてはじめてそうできるとドイツの事業界は知っていたので、彼らはボルシェヴィキ体制の最も熱狂的な擁護者になった。
 1918年春、講和条約調印のあと、多数のドイツの商工会議所の諸団体が政府に、ソヴィエト・ロシアとの通商関係を再開するよう請願した。
 5月16日、Krupp はこの問題を討議するため、デュッセルドルフで主要なドイツの実業家たちの、とくにAugust Thyssen とHugo Stinnes を含めての、会議を催した。
 この会議は、ロシアへの「イギリスやアメリカの資本」の浸透を阻止して、ロシアで支配的な影響力を確立するというドイツの利益を可能にする策を講じることが肝要だ、と結論づけた。
 外務省の後援で同じ月に開催された別の事業家会合は、ロシアの輸送をドイツが統御するのが望ましいこと、鉄道を再建することへのドイツの援助を求めるロシアの要望に応えるのが目標であること(52)、を強調した。
 7月、ドイツの事業家たちはモスクワへ代表団を送った。
 銀行家たちは、Ioffe がベルリンに到着するのを歓迎した。
 Ioffe はモスクワに対してこう自慢した。
 「ドイツ銀行の頭取は我々をしばしば訪問した。
 Mendelssohn は、私との会見を長らく求めてきた。彼はいろいろな口実で、すでに三回やってきた。」(53)
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 (11) このような通商上の熱心な要望があったので、ロシアは、ドイツの産業界や経済界の影響力ある層を、友好的な圧力団体にすることができた。
 この点で、ボルシェヴィキは、情報をより豊富にもつという優越的立場を得た。
 ボルシェヴィキは、ドイツの国内状況やエリートたちの知的脳力を熟知するようになった。
 独立社会主義党からは、ドイツの諸組織間の対立を利用することのできる、微妙な情報が入ってきた。
 ボルシェヴィキと接触するドイツ人はボルシェヴィキについてほとんど何も知らず、そのイデオロギーを真面目には考慮しなかった。
 彼らは巧みにこの状況に適合し、脅威ではないという印象を与えて自分たちを守った。政治的擬態の、まさに優れた一例だった。
 Ioffe とその仲間たちが用いた戦術は、革命的スローガンをまくし立てるが実際にはドイツとの通商しか望んでいない「現実主義者」(realists)だ、と装うことだった。
 この戦術は、頭の硬いドイツ人事業家には抗し難く魅力的だった。ボルシェヴィキの革命的修辞を誰も正気で真剣に受け取ることはできないという、彼らの確信をさらに強くしたのだから。
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 (12) この欺瞞がうまく機能したことは、1918年夏にIoffe がGustav Stresemann ともった会合によっても明らかだ。Stresemann は右翼のドイツ政治家で、リベラルかつ保守的志向をもつという別の公的人物像ももっていた。
 Stresemann を助けたのは、Leonid Krasin だった。Krasin は、戦前と戦中にSiemens、Schuckert と大きな経営的関係をもち、ドイツとの間にきわめて良好な関係があった。
 7月5日の非公式の会合で、二人のロシア人は、レーニンだけではなく親連合国のトロツキーもドイツの「後援」を望んでいる、と確認した。
 ロシアに反ドイツの雰囲気があれば、二つの国が同盟する正式の条約はまだ性急すぎただろうが、ドイツが正しい政策を追求するならば雰囲気は変わるだろう。
 この方向への一歩は、ドイツがウクライナから輸送している穀物のうちのある程度をロシアに配分することだろう。
 ドイツには東部前線での軍事作戦を再開する意図はない、とモスクワに対して保証すれば、また役立つだろう。そうなれば、ロシアは、その戦力を、Murmansk からイギリス軍を駆逐し、チェコ軍団の反乱を粉砕することに集中することができる。チェコ軍団は最近はシベリアに出現していた。
 ドイツはロシアとの良好な関係から大きな利益を獲得し続けた。ロシアはドイツが必要とする、綿、鉱油、マンガン等々の全ての原料を供給することができたからだ。
 ドイツ人は、モスクワが放つ革命的政治宣伝広告について心配する必要がなかった。「現下の情勢のもとでは、マルクス主義[ボルシェヴィキ]政府はその夢想家的目標を放棄し、実際的な社会主義政策を追求する用意があった」(54)。
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 (13) Ioffe とKrasin は、素晴らしいショーを演じた。
ドイツ人がもっと情報をもち、もっと傲慢ではなく、地政学的妄想にもっと捉われていなければ、彼らは見通せていただろう。
 なぜなら、ロシア人はドイツ人に、その支配が及んでいない領域—中央アジア、Baku、ジョージア—でのみ利用可能な産物を提示し、「その夢想家的目標」の放棄とはかけ離れてまさにそのときに最も急進的な局面に入っていた彼らの政府の急進主義政策を小さく見せていたのだから。
 しかし、欺瞞は機能した。
 だから、Stresemann は、印象をつぎのように概括した。//
 「現在の(ロシア)政府と、広範囲の経済的および政治的理解の確立へと至る大きな誘因を我々は得た…ように思われる。ロシア政府は、ともかくも、帝国主義的ではない。また、債務の不履行によるだけでもロシアと連合諸国の間に克服し難い障壁を築くのだとすれば、連合諸國を受け入れることも決してあり得ない。
 かりにこの機会を逃し、今のロシア政府が崩壊するならば、きっとどの継承政府も、現在の統治者よりも連合諸國に親近的なものになり、東部前線の危険性は明確に切迫するだろう。…
 我々とロシアがともに行動しているのを我々の敵対者が見るならば、彼らは我々に経済的に勝利するとの希望も捨て去るだろう—彼らは軍事的勝利をとっくに諦めている—。そして我々は、どんな攻撃にも抵抗できる状態になるだろう。
 こうした要素を賢明に判断するならば、我々はまた、国家の精神を過去の勝利の高みへと持ち上げることができる。
 ゆえに、私は、今行なっている努力が最高軍事司令官の支持を得ることができるならば、大いに歓迎するだろう。」(55)
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 (14) ドイツ外務省は、この見解に賛同した。
 外務当局の一人が5月に用意した内部的覚書には、ソヴィエトの指導者たちはドイツが容認することができるはずの「ユダヤ人事業家」だ、と記されていた(56)。
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 (15) ドイツとロシアは7月初めに、この友好的雰囲気の中で、通商協定に関して会談をし始めた。 
 いわゆる補足条約が調印されたのは、8月27日だった。これは、両国の間にわずかな期間だけの公式の同盟関係をもたらした。この8月27日は、Ludendorff ですら敗戦を覚悟した、ドイツ軍が西部戦線で敗北した「暗黒の日」の直後のことだった。
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 第五節、終わり。つづく。

2804/私の音楽ライブラリー049。

 音楽ライブラリー049。
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 127 比叡おろし
  歌唱/小林啓子、作詞+作曲/松岡正剛、1970年〔Harry Kawaguchi〕。
  *松岡正剛、1944年生〜2024年没。満80歳、享年81。
  **参照、ユリイカ2024年11月号(青土社)/特集・松岡正剛。
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2803/R.パイプス1990年著—第14章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第五節/在独ロシア大使館とその破壊活動①。
 (01) Ioffe は、〔1918年〕4月19日に、任務を携えてベルリンに到着した。
 ドイツの将軍たちは、ロシアの外交官は主として諜報と破壊に従事するだろうと正確に予測して、ブレスト=リトフスクかドイツから離れた別の都市にソヴィエト大使館が置かれるよう望んだ。しかし、外務当局はこれを却下した。
 Ioffe は、Unter den Linden 7番地の帝制時代の古い大使館を引き継いだ。ドイツはそこを、戦争のあいだずっと、無傷のまま維持していた。
 その建物の上に彼は、鎌と槌が描かれた赤旗を掲げた。
 のちにソヴィエト政府は、ベルリンとハンブルクに領事館を開設した。
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 (02) Ioffe の館員は最初は30人だったが、その数は増加し続けた。ドイツとソヴィエトが関係を消滅させた11月には、180人になっていた。
 加えて、Ioffe は、ソヴィエトの政治的宣伝工作文書を翻訳させ、破壊活動を実行させるためにドイツの急進派を雇用した。
 彼はモスクワとの電信による通信手段を継続的に維持した。ドイツはこれを盗聴し、連絡のいくつかを暗号解読した。だが、大量であるため、公刊されていないままだ(脚注)
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 (脚注) Ioffe のレーニンあて文書を選抜したものは、I. K. Kobiliakov 編集によるISSR, No. 4(1958), p.3-p.26 で公表された。
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 (03) 在ベルリンのソヴィエト外交代表団は、ふつうの大使館ではなかった。それはむしろ、敵国の奥深くにある革命の前哨基地だった。すなわち、その機能は、革命を促進することだった。
 アメリカの一記者がのちに述べたように、Ioffe はベルリンで、「完璧な背信」(perfect bad faith)でもって行動した(45)。
 Ioffe の諸活動から判断すると、彼には三つの使命があった。
 第一は、ボルシェヴィキ政府を排除したいドイツの将軍たちの力を弱くすること。
 彼はこれを、事業や銀行の団体の利益に訴えたり、ドイツに対してロシアでの独特の経済的特権を与える通商条約の交渉をしたりすることで達成した。
 第二の使命は、ドイツの革命勢力を援助することだった。
 第三は、ドイツの国内情勢に関する情報を収集することだった。
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 (04) Ioffe は、革命的諸活動を鉄面皮の心持ちでもって実行した。
 彼はドイツの政治家や事業家たちに、つぎのことを期待した。彼らの経済的搾取に従属するロシアでの優越的な利益を増大させて、彼が冒す外交上の規範に逸脱した行為を看過するようドイツ政府を説得すること。
 1918年の春と夏、彼が主として行なったのは、独立社会主義党の極左派であるSpartacist 団と緊密に結びついた、政治的宣伝工作だった。
 のちにドイツの統合が崩れ始めたとき、彼は、社会革命の火を煽るべく金銭と武器を提供した。
 ロシア共産党の支部に変わっていた独立社会主義党は、ソヴィエト大使館と調整してその諸活動を行なった。あるときには、モスクワは、この党の大会で挨拶する公式の代表団をドイツに派遣した(46)。
 Loffe はこの任務のために、モスクワから1400万マルクを与えられた。彼はこの金をドイツのMendelssohn銀行に預けて、必要に応じて引き出した(脚注)
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 (脚注) Baumgart, Ostpolitik, p.352n.
 Ioffe は、極左から極右までドイツの全政党との接触を維持したけれども、「社会的裏切り者」の党である社会民主党との関係は意識的に避けた、と語る。VZh, No. 5(1919), p.37-38.
 レーニンの指示にもとづくこの政策は、15年後のスターリンの政策を予期させるものだった。スターリンは、ドイツ共産党にナツィスと対抗する社会民主党との協力を禁止することによって、ヒトラーの権力掌握を可能にしたとして、広く非難された。
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 (05) Ioffe は、ドイツの多くの地方諸都市に、ソヴィエトのドイツ情報センターを設けた。ソヴィエトの情報宣伝が連合諸国のメディアに伝えられるオランダでも同様だった。
 1919年、Loffe は明らかに誇りをもって、ベルリンでのソヴィエト代表部として自分が達成したことを詳しく述べた。
 「ソヴィエト大使館は、十の左派社会主義新聞よりも多くのことを指揮監督し、援助した。…
 全く当然のことだが、その情報作業ですら、全権代表の活動は「合法的目的」のものに限定されなかった。
 情報資料は印刷されたものに限られたわけでは全くなかった。
 検閲者が削除したもの全てが、最初から通過しないだろうと判断されて提示されなかった全てが、そうであるにもかかわらず、非合法に印刷され、非合法に散布されていた。
 議会で利用するためにそれらが必要になることは、きわめて頻繁にあった。そうした資料は(社会民主党の)独立会派からドイツ帝国議会の議員たちに渡された。受け取った者は議会での演説のために使った。
 ともあれ、こうして文書になっていった。
 この作業では、ロシア語の資料に限定することはできなかった。
 ドイツ人社会の全ての階層と堂々たる関係を持つソヴィエト大使館、ドイツの各省庁にいるその工作員たちは、ドイツの諸事情についてすらドイツの同志たちよりも多くの情報をもっていた。
 前者が受け取った情報は、やがては後者に伝えられた。こうして、軍部の多くの策謀は、適切な時期に公衆一般の知るところになった。//
 もちろん、ロシア大使館の革命的活動が情報の分野に限られていたのではなかった。
 ドイツには、戦争のあいだずっと地下で革命的活動を行なっていた革命的グループが存在した。
 機会が多かったのみならずその種の陰謀的活動に習熟もしていたロシアの革命家たちは、これらのグループと協力しなければならなかったし、実際に協力した。
 ドイツの全土が、非合法の革命的諸組織によって覆われていた。数十万の革命的冊子と宣伝文書が、前線と後方で毎週に、印刷され、散布された。
 ドイツ政府は一度、煽動的文書をドイツに密輸出しているとしてロシアを追及し、用いられる価値があるだけのエネルギーでもって、運搬者のカバンに、密輸入されたものを捜索した。だが、ロシア大使館がロシアから持ち込んだものはドイツ国内でロシア大使館の助けでもって印刷されたものに比べれば大海中の一滴にすぎない、ということに気づかなかった。」//
 Ioffe によれば、要するに、在ベルリンのロシア大使館は、ドイツ革命を準備すべく、ドイツの社会主義者たちとの緊密な接触のもとで継続的に仕事をした(48)。
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 (06) 在独ソヴィエト大使館は、さらにまた、他のヨーロッパ諸国に、革命的文献と破壊的資金を分配する経路として機能した。同大使館を、オーストリア、スイス、Scandinavia、オランダへ向けて外交嚢を配達するクーリエたちの、諸国の安定した流路(ドイツの予想では100ないし200)が通過していた。「クーリエたち」の中には、ベルリンに着いた後で姿を消す者もいた(49)。
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 (07) ドイツ外務省は、このような破壊的活動に関係する軍事および内政当局から、抗議を頻繁に受け取った(50)。しかし、ドイツのロシアでの高次の利益だと認めているもののために、それらを大目に見た。
 一度短いあいだ、ソヴィエト大使館側のとくに不埒ないくつかの行動についてあえて抗議したとき、Ioffe は回答を用意していた。こう説明した。
 「ブレスト条約自体が、計略を行なう機会を認めている。
 締結した当事者は諸政府であるがゆえに、革命的行動の禁止は、政府とその機関に適用されると解釈することができる。
 ロシア側からはこう解釈される。そして、ドイツが抗議している全ての革命的行動は、全てロシア共産党の行動であって同政府のそれではない、とただちに説明される。」(51)
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 つづく。

2802/西尾幹二批判081—「保守」時代。

 <文春オンライン>上に2019年1月に掲載された辻田真佐憲によるインタビューに西尾幹二が答える発言録は、「著者が初対面の近現代研究者・辻田真佐憲氏と対談する」と題して、全集第22巻A(2024年10月刊)に収載された。この全集版の一部に2024年時点での「加筆修正」がこっそりと行われていることは、前回に指摘した。もう繰り返さない。
 このインタビューまたは対談の記事は、西尾幹二が執筆したものではない、あるいは西尾が事前に用意した文章原稿をそのまま基礎にしていないと見られるため、西尾幹二の「本音」および「本性」が表現されているところがある。
 一つは、西尾幹二は自分自身の経歴または「歴史」をどう振り返っているかだ。これをもっと正確に言えば、西尾幹二は「保守」(主義)の評論家・「もの書き」だという自己規定、あるいはそのように(「保守」派だと)外部・世間からは受けとめられているという「自覚」を、いつ頃からもつに至ったのか、という問題だ。
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 聞き手の辻田真佐憲はまだ若いためか、西尾の作業、その「歴史」を正確には知っていないようだ。
 引用は省略するが、①西尾の大学院修士課程後のドイツ「留学」からの帰国後に(たぶん1962年—秋月)「現在に続く論壇でのお仕事をされるようになったのか」と質問している(全集22A、p.478)。
 また、②1964年の雑誌「自由」懸賞論文や1969年年の数冊の書物刊行に西尾が触れたあとで、辻田は「保守言論人としてそこからスタートをされるわけですね」とも(確認的に)質問している(同頁)。
 別に触れるが、西尾の回答はいずれについても<違う>だ。
 むろん「保守」(主義)の意味にかかわってはいるが、上の問題に秋月が関心をもつのは、この辻田の浅い理解に加えて、つぎのような<評価>が、西尾幹二について行われているからだ。
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 a真の保守思想家」(の集大成的論考)—西尾・歴史の真贋(2020、新潮社)のオビ。
 b 「確乎不抜の保守主義者だった」—吉田信行・月刊Hanada2025年1月号の追悼論稿の表題。
 c保守論壇『最後の大物』といえる人物だった」—月刊正論2025年1月号追悼特集の前書き(編集部)。
 これらの「保守」とは何だろうか。
 a で意味の説明がないのは当然として、b、cでの「保守」も、産経新聞「正論」欄担当者(論説委員長)や月刊正論編集部が用いる「保守」(論壇)なのだから、西尾はそれらの雑誌等における「保守」の人物だったと位置付けられているにすぎない。
 そして、産経新聞(「正論」欄)や月刊正論は自らを「保守」だと、あるいは「保守」派の新聞・雑誌だと自称または自己評価してきたはずだ。
 そうすると、西尾幹二が「保守」の人物だと言うのは、その「保守」に<反共産主義>、<反左翼>程度の意味はあるとしても、産経新聞「正論」欄や月刊正論が原稿執筆を(文章執筆請負業者に)依頼してきた、つまり「起用」してきた人物の一人だった、というのとほとんど同じことだろう。つまりは、ほとんど何を意味しているかが不明の循環論法的言明で、産経新聞・月刊正論等が「保守」系メディアだと言う場合の「保守」とは何かがさらに問題にされなければならないわけだ。
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 もう少しは立ち入って、西尾幹二における「保守」を話題にしてみたい。その際、西尾幹二自身による「保守(主義)」に関する議論には重きを置かない。
 そうではなく、 <日本会議>との関係に注目したい。1960〜1980年代、西尾幹二は、生長の家・日本青年協議会(→日本会議)と何の関係もなかった。次回に移す。
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 ところで、上のb は、関係「評論家」らの没年をかなりまとめて列挙してくれている。c で西尾が「最後の」と形容されていることとの関連でも興味深くはある。以下に紹介しておく。(櫻井よしこ、平川祐弘、加地伸行らは「大物」と見なされていないようであることも面白くはある。年齢で八木秀次、「起用」回数で佐伯啓思は、きっと論外なのだろう)
 1994年11月、福田恆存。
 1996年02月、司馬遼太郎。
 1997年09月、会田雄次。
 1999年07月、江藤淳。
 2012年・猪木正道、2017年・渡辺昇一、2018年・西部邁、2019年・堺屋太一、2022年・石原慎太郎。
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2801/R.パイプス1990年著—第14章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第四節/ドイツ大使館員がモスクワに到達②。
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 (10) モスクワでの一ヶ月後、Milbach は、ボルシェヴィキ体制の存続可能性、およびロシア政策全般の基礎になっている自国ドイツのロシアに関する知識、について、不安を感じ始めた。
 ボルシェヴィキは存続しそうだと、信じ続けはした。すなわち、5月24日に、ソヴィエト体制の崩壊は切迫していると予言するBothmer その他の軍人たちに反対する見解を書いて、外務省に警告した(36)。
 しかし、ロシアでの連合諸国の外交官や軍人たちの活動や彼らの反対少数派集団との接触を知って、レーニンは権力を失うのではないか、そしてドイツはロシアでの援助の根拠を全て失って孤立するのではないか、と懸念した。
 したがって、彼は、ボルシェヴィキへの信頼に加えて反ボルシェヴィキ少数派との会話を開始するという政治的保険をかける、という柔軟な政策を主張した。
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 (11) 5月20日、Milbach は、ソヴィエト・ロシアの状況とドイツのロシア政策にある危険性について、最初の悲観的な報告書を、本国に送った。
 彼はこう書いた。体制に対する民衆の支持はこの数週間で大きく減少した。トロツキーはボルシェヴィキ党は「生きている死体」だと語ったと言われている。
 連合諸国は泥水の中で魚釣りをしており、エスエルやメンシェヴィキの国際主義者、セルビアの戦争捕虜やバルトの海兵たちに対して寛大に資金を配っている。
 「いま以上に腐敗した賄賂のロシアは絶対にない」。
 トロツキーが共感しているため、連合諸国はボルシェヴィキに対する影響力を増している。
 トロツキーは、事態が悪化するのを阻止するために、ドイツ政府が一月に終わらせたボルシェヴィキに対する助成金を更新する金を必要とした(37)。
 ボルシェヴィキを連合国の方へ向ける、親連合国のエスエルが権力を奪取する、この二つをいずれも阻止するために、資金が必要だ(38)。
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 (12) この報告書には、より明確に悲観的な調子の報告が続いた。そしてこれらは、ベルリンで顧みられなかったのではなかった。
 6月初め、Kuhlmann は見方を変えて、ロシアの反対派との会話を開始する権限をMilbach に与えた(39)。
 彼はまた、Milbach に、裁量性のある資金を割り振った。
 6月3日、Milbach はベルリンに電報を打って、ボルシェヴィキに権力を持たせつづけるに毎月300万マルクが必要だと、伝えた。外務省は、総計で4000万マルクの意味だとこれを解釈した(40)。
 Kuhlmann は、ボルシェヴィキが連合国側へと転換するのを阻止するには「金が、おそらくは大量の金が」かかることに同意見だった。そして、ロシアでの秘密工作のために在モスクワ大使館に上記の金額を送ることを承認した(41)。
 この金がどう使われたのかを、正確に叙述することはできない。
 約900万マルクだけは、特定目的のために使われた。総額の半分はボルシェヴィキ政府に、残りは反対派に支払われたように思われる。後者の相手は主に、Omsk を中心地としたシベリアの反ボルシェヴィキ臨時政府、親皇帝派の反ボルシェヴィキ集団、Don コサックの首長、P. N. Krasnov だった(脚注)
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 (脚注) ボルシェヴィキ政府は、6月、7月、8月の毎月、ドイツから300万マルクの援助金を受け取った。Z. A. B. Zeman, ed., Germany and the Revolution in Russia, 1915-1918 (London-New York, 1958), p.130.
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 (13) ドイツが反ボルシェヴィキ少数派と接触するのを妨げたのは、ブレスト条約だった。
 ボルシェヴィキ以外の全ての政治的党派は、この条約を受容しようとしなかった。ボルシェヴィキにすら、分裂があった。
 Milbach が観察していたように、ソヴィエト・ロシアの状況は厄災的であり、かりに代償がブレスト条約を受容することだったとすれば、非ボルシェヴィキのどのロシア人も、ボルシェヴィキに対抗するドイツによる援助を受け入れようとしなかっただろう。
 言い換えると、反ボルシェヴィキ集団からの支持を得ようとすれば、ドイツは条約の実質的な改正に同意しなければならなかった。
 Milbach の意見では、反対派集団はポーランド、リトアニア、Courland の喪失を黙認する可能性があった。しかし、ウクライナ、エストニア、そしてたぶんLyvonia の割譲を容認することはなかった(42)。
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 (14) Milbach は、Rietzler に、チェカと連合諸国工作員の鼻先でロシアの反対派集団と交渉するという微妙な任務を与えた。
 Rietzler は主として、いわゆる右翼中心派(Right Center)と接触した。これは、ボルシェヴィズムはドイツ以上に悪辣なロシアの国益に対する脅威だと結論づける、そしてボルシェヴィキを排除するためにドイツと合意する心づもりのある、信望ある政治家や将軍によって、6月半ばに結成された小さな保守的グループだった。
 この集団は、財政、産業、軍事上のしっかりした交渉を要求はした。しかし、現実には顕著と言えるほどの支持者がなかった。なぜなら、ロシアの積極的な活動家の圧倒的多数は、ボルシェヴィキはドイツが生んだものだと考えていたからだ。
 右翼中心派の中心人物は、Alexander Krivoshein だった。この人物はかつてStolypin 改革の指導者で、上品な愛国者であって、かりにドイツがロシア政府を打ち立てるならば受け入れやすい首班候補だったかもしれなかった。しかし、彼は旧体制の典型的な官僚だったので、命令を下すというよりも命令に服従してきた人物だった。
 他に、1916年攻勢の英雄だったAleksei Brusilov もいた。
 Krivoshein は、媒介者を通じて、Rietzler につぎのことを知らせた。すなわち、彼のグループはボルシェヴィキを打倒する用意がある、そのための軍事的手段もある、しかし、実行するにはドイツの積極的な協力が必要だ(43)。
 このような協力を実現するには、ドイツはブレスト条約の改訂に同意しなければならなかった。
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 (15) 接触はしたけれども、ドイツは、ロシアの反対派への敬意をほとんど示さなかった。
 Milbach は君主主義者を「怠け者」と見なし、Rietzler は、ドイツの援助と命令を求める[ロシアの]ブルジョアジーについて、侮蔑的に「嘆いて愚痴を言う者たち」と語った(44)。
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 第四節、終わり。つづく。

2800/R.パイプス1990年著—第14章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第四節/ドイツ大使館員がモスクワに到達①。
 (01) 1918年の後半、ロシアとドイツの両国は、互いに大使館を設置した。Ioffe がベルリンに行き、Mirbach がモスクワにやって来た。
 ドイツ人は、ボルシェヴィキ・ロシアが最初に信認した外国使節団だった。
 彼らは驚いたのだが、ドイツ人がモスクワまで旅をした車両は、ラトヴィア人によって警護されていた。
 ドイツの外交官の一人は、ロシアによってモスクワで催されたレセプションは驚くほど温かかった、と書いた。戦勝者がこれほどまでに歓迎されたことはかつてなかった、と彼は思った(31)。
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 (02)  使節団の長のMilbach は47歳の経歴ある外交官で、ロシアの諸事情について多くの経験があった。
 彼は1908年から1911年まで、ペテルブルクのドイツ大使館の顧問として勤務し、1917年12月に、ペテルブルクへの使節団の長となった。
 Milbach は、プロイセン・カトリックの富裕で貴族的な家庭の出身だった(脚注)
 昔からの派の外交官で、同僚たちの中には「ロココ伯爵」と呼んで相手にしない者もおり、革命家たちと付き合うのは苦手だった。しかし、機転と自制心によって、外務省内での信頼を獲得していた。
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 (脚注)  Milbach につき、完全には信頼できないが、つぎを見よ。Wilhelm Joost, Botschafter bei den roten Zaren (Vienna, 1967), p.17-p.63.
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 (03) Milbach の片腕のKurt Riezler は、36歳の思慮深い人物で、やはりロシアの事情をよく知っていた(脚注)
 彼は1915年に、レーニンの協力を確保するという、Parvus の失敗した企てに一定の役割を果たした。
 1917年にストックホルムに派遣され、ドイツ政府とレーニンの代理人の間の主要な媒介者となった。彼は、いわゆるRiezler 基金からロシアへとその代理人に援助金を送った。
 Riezler は、ボルシェヴィキが十月のクーを実行するのを助けた、と言われている。但し、そこでの彼の役割は明瞭ではない。
 同僚たちの多くと同様に、彼は、ドイツを救うことのできる「奇跡」として、クーを歓迎した。
 彼はブレストでは、融和的政策を主張した。
 しかしながら、彼は、気質的に悲観論者で、どちらの側が戦争に勝ってもにヨーロッパは衰亡に向かっている、と考えていた。
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 (脚注) 彼の諸文書は、Karl Dietrich Erdmann によって編集された。Kurt Riezler, Tagebücher, Aufsatze, Dokumente (Göttingen, 1972).
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 (04) ドイツ大使館の第三の主要な人物は軍事随行員のKarl von Bothmer で、Ludendorff やHindenburg の考え方を引き継いでいた。
 この人物はボルシェヴィキを毛嫌いしており、ドイツはボルシェヴィキと縁を切るべきだと考えていた(32)。
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 (05) これら三人のドイツ人は、ロシア語が分からなかった。
 彼らと接触することになるロシア人は、全員が流暢にドイツ語を話した。
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 (06) ドイツ外務省はMilbach に対して、ボルシェヴィキ政府を支援すること、条件を設けることなくロシアの少数反対派と連絡を保つこと、を指示した。
 Milbach は、ソヴィエト・ロシアの真実の状況およびロシアにいる連合諸国の代理人たちの活動に関する情報を得ることを自らの任務とした。ブレスト条約が定めていた諸国間の通商交渉の基礎作業をするのは当然のことだった。
 20人の外交官とそれと同数の書記職員たちは、Arbat 通りから脇に入ったDenezhnyi Pereulok に贅沢な私宅を構えた。それらは、共産主義者たちから事業を守り続けたいドイツ人の砂糖事業家の財産だった。
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 (07) Milbach は数ヶ月前にペテログラードにいたことがあり、自分が何を期待されているのかを知っていたに違いなかった。そうであっても、モスクワで見たものには唖然とした。
 彼はモスクワ到着の数日後に、ベルリンへこう書き送った。//
 「通りはとても活発だ。
 しかし、もっぱら貧民たち(proletarian)で溢れている。良い衣服を着た者たちを滅多に見ることがない。—まるで、かつての支配階級、ブルジョアジーはこの地球上から消滅したかのごとくだ。…
 かつては公衆の中で富裕な層だった聖職者たちは、同様に、通りから消失した。
 店舗では、主に以前は美麗だったものの埃まみれの残物を見つけることのできるのだが、それらは狂気じみた値段で売られている。
 労働というものが欠落した状態の蔓延、愚かなままでの怠惰、これはこうした風景全体に特徴的だ。
 工場は操業を停止した状態で、土地はほとんどが耕作されないままだ。—ともかく、これが我々が今度の旅で得た印象だ。
 ロシアは、[ボルシェヴィキによる]クーによる苦難以上の、さらに大きな災難へと向かっているように思える。//
 公共の安全には、望まれるものがまだ残っている。
 昼間には自由に一人で動き回ることができるのだが。
 しかしながら、夕方に自宅から出ることは勧められない。射撃の音が頻繁に聞こえ、小さなあるいは大きな衝突がしょっちゅう起きているようだ。…//
 ボルシェヴィキによるモスクワの支配は保持されている。何よりも、ラトヴィア軍団によってだ。
 さらには、政府が徴発した多数の自動車にも依っている。多数の自動車が市中を走り回り、危険な箇所へと、必要な兵団を送り届けている。//
 このような状態が今後どうなるかを、まだ判断することができない。しかし、とりあえずは一定の安定の見込みがある、ということは否定できない。」(33)
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 (08) Riezler もまた、ボルシェヴィキ支配のモスクワに意気消沈した。最も衝撃的だったのは、共産主義官僚たちの腐敗の蔓延と怠惰な習慣だった。とりわけ、女性を求める飽くことのない要求。(34)

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 (09) 5月半ば、Milbach はレーニンと会った。
 レーニンの自信は、彼を驚かせた。
 「一般にレーニンは自分の運命に岩のごとき確信を持っていて、何度も何度も、ほとんど執拗なほどに、際限なき楽観主義を表明する。
 同時にレーニンは、彼の支配体制はまだ無傷であったとしても、敵の数は増え続けていて、状況は『一ヶ月前以上の深刻な警戒』を必要としている、と認める。
 他諸政党は現存の体制を拒否する点だけで一致しているが、別の見方をすれば、それら諸政党は、全ての方向に離ればなれになりそうで、ボルシェヴィキの権力に匹敵するほどのそれを全く持っていない。その他の諸政党ではなく支配政党たるボルシェヴィキだけが組織的権力を行使する、という事実に、レーニンの自信の根拠はある(35)。(脚注)
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 (脚注) 当時にものちにも、レーニンは私的会話では人民の支持に自分の強さの淵源を求めなかった、ということは注目に値する。彼は強さの由来を反対派の分裂に見ていた。
 彼は1920年代にBertrand Russel に、自分と仲間たちは二年前には周囲の敵対的状況の中で生き延びられるかを疑っていた、と語った。
 「彼は自分たちが生き延びたことの原因を、様々な資本主義諸国の相互警戒心とそれらの異なる利害に求める。また、ボルシェヴィキの政治宣伝の力にも」。以上、Bertrand Russel, Bolshevism (New York, 1920), p.40.
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 ②へとつづく。

2799/R.パイプス1990年著—第14章⑥。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 〈第14章・革命の国際化〉の試訳のつづき。
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 第14章・第三節/連合諸国との会話の継続②。
 (05) このような会話が行われている間の4月4日、日本は小さな派遣軍団をVladivostok に上陸させた。
 建前としては、この軍団の使命は、在留日本国民の保護だった。最近に2人の日本人が、そこで殺害されていた。
 しかし、日本軍の本当の目的はロシアの海岸地域の掌握と併合にあると、広くかつ的確に考えられていた。
 ロシアの軍事専門家たちは、輸送とシベリア地域の公的権威の崩壊によって、莫大な後方支援が必要な数十万の日本軍のヨーロッパ・ロシアへの移動が阻害される、と指摘した。
 だが、連合諸国はこの構想に固執し、フランス、イギリスおよびチェコ兵団でもって日本の派遣軍団を弱体化させることを約束した。
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 (06) 6月の初めに、イギリスはMurmansk に1200人の、Archangel に100人の、追加の兵団を上陸させた。
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 (07) レーニンは、アメリカの経済的援助を諦めなかった。それは、フランスが約束した軍事的協力を補完するものだった。
 アメリカは、ブレスト条約が批准されたあとでも、ロシアとの友好を表明しつづけた。
 アメリカ国務省は、ロシアとその国民は「共通する敵に対抗する友人で仲間だ」と日本に知らせた。ロシア政府を承認はしなかったけれども(25)。
 別のときに、アメリカ政府は、ロシア革命が惹起した「全ての不幸と悲惨さ」にもかかわらず、「最大の同情」を感じていると表明した(26)。
 このような友好的な発言が具体的には何を意味するのかを知りたくて、レーニンはRobins に対して、経済的「協力」の可能性をアメリカ政府に打診してみるよう頼んだ(27)。
 5月半ばにレーニンはRobins に、アメリカ合衆国はドイツに代わる工業製品の供給者になり得るとするワシントンあての覚書を与えた(28)。
 だが、ドイツの産業界とは違って、アメリカ人たちは関心をほとんど示さなかった。
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 (08) ボルシェヴィキの連合諸国との協力はどの程度にまで進む可能性があったか、あるいはそもそもそれはどの程度に真面目に意図されていたのか、を判断するのは不可能だ。
 ボルシェヴィキはドイツがこうした交渉の経緯を掴んでいることに気づいていたのだが、ボルシェヴィキの連合諸国との予備的な交渉は、ドイツがブレスト条約の条件履行を監視するように仕向ける可能性があった。あるいは、ロシアが連合国側に走るよう追い込む怖れもあった。
 いずれにせよ、ドイツはロシアに接近していて、敵対的な意向は持っていない、と保証した。
 4月に両国は外交使節団を交換し、通商協定に関する会談の準備を整えた。
 5月半ば、ドイツ政府は、将軍たちが主張していた強硬路線を放棄し、ドイツはいま以上のロシア領土の占領は行なわない、とモスクワに知らせた。
 レーニンは、5月14日の談話で、この保障を公式に確認した(29)。
 この保障によって、ドイツ・ロシアの友好的国家関係の基礎が築かれた。
 ドイツは(ボルシェヴィキの)打倒を意図していない、ということがドイツ・ロシア関係の推移の過程で明らかになったとき、トロツキーは、「連合諸国の援助」という考え方を捨てた(脚注)
 このとき以降、ボルシェヴィキと連合諸国との交渉は急速に途絶えていった。こうして、モスクワは、戦争に勝利しようとしていると見えたドイツ帝国の勢力範囲に入った。
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 (脚注)  Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik 1918 (Vienna-Munich, 1956), p.49. 日本軍のVladivostok 上陸を正当化した確かに不用意な4月末の新聞インタビュー記事によって、連合諸国とモスクワの間に生まれつつあった協調関係を意図的に破壊したのはNoulens だ、とするHogenhuis-Seliverstoff の主張には、いかなる根拠もない。
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 第三節、終わり。つづく。

2798/R.パイプス1990年著—第14章⑤。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 第14章の試訳のつづき。
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 第14章・第三節/連合諸国との会話の継続①。
 (01) トロツキーは、連合諸国との軍事交渉を継続した。
 3月21日に、フランス軍事使節団のLaverne 将軍に、つぎの覚書を送った。
 「Sadoul 司令官との会議のあとで、人民委員会議の名前でもって、ソヴィエト政府が企図している軍の再組織という課題についてのフランス軍の技術的な協力を要請することを、光栄に思う」。
 これには、航空、海軍、諜報等々の全ての軍事部門についての、ロシアが希望した33人のフランスの専門家たちの詳しい一覧表が、付いていた(注21)。
 Laverne は彼の使節団にいる3人の将校を、ソヴィエト戦争人民委員部の補佐に指名した。トロツキーは彼らの部屋を、自分のオフィスの近くに割り当てた。
 協力はきわめて慎重に行われ、そのために、ソヴィエトの軍事史では多くを語られていない。
 Joseph Noulens によると、のちに、トロツキーは、500人のフランス軍人と数百人のイギリスの海軍将校を要請した。
 トロツキーはまた、アメリカ合衆国およびイタリアの使節団と、軍事協力に関して議論した(注22)。
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 (02) しかしながら、何もない所から赤軍を組織する推移はゆっくりしたものだった。
 ドイツ軍はそのあいだに、南西のウクライナとその近傍へと前進していた。
 ボルシェヴィキは、このような状況下で、連合諸国は自分たちの軍団を用いてドイツ軍の前進を阻止するのを助けるつもりがあるのかを、探ろうとした。
 3月26日、新しい外務人民委員のGeorge Chicherin は、フランスの総領事のFernand Grenard に、覚書を手渡した。それは、ロシアが日本にドイツの侵略を撃退する助けを求めるとした場合の、またはロシアが日本に対抗してドイツに頼るとする場合の、連合諸国の意思の言明を求めるものだった(注23)。
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 (03) Vologda を本拠としていた連合諸国の大使たちは、Sadoul を通じて伝えられたボルシェヴィキからの問い合わせに対して、疑い深く反応した。
 連合国大使たちは、ボルシェヴィキは本当に赤軍をドイツに対抗するものとして設置しようとしているのかを疑った。Noulens が述べたように、ロシアの支配を強固にする「近衛軍」として構想されている、というのが最も可能性が高かった。
 モスクワに代わってSadoul が熱心に語ったつぎの釈明を聞くと、彼らの想いを想像することができる。
 「ボルシェヴィキは、ともかくも軍を形成するだろう。しかし、われわれの助力なくしては、行うことができない。
 そして必ずやいつか、その軍はロシア民主政体の最悪の敵であるドイツ帝国軍に対して立ち上がるだろう。
 他方で、新しい軍には紀律があり、職業軍人が配置され、軍隊精神が浸透しているために、内戦に適した軍隊にはならないだろう。
 トロツキーが我々に提案したように、我々がその軍の形成を指揮するならば、それは国内の安定の要因になり、連合諸国の意のままでの国民防衛の手段になるだろう。
 こうして軍で我々が達成する脱ボルシェヴィキ化は、ロシアの一般的政治に影響を与えるだろう。
 このような進展が始まっていることを、我々はすでに見ていないか?
 不可避の残虐性を通じてボルシェヴィキたちが現実主義的政策に急速に適合していくのを見ないならば、偏見で盲目になっているに違いない。」(注24)
 こうした釈明は、ボルシェヴィキは現実主義へと「進化」しているという、文書に残された早い時期の記録の一つに違いなかった。
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 (04) 多くの疑念があったにもかかわらず、連合諸国の大使たちは、ソヴィエトからの要請をそっけなく拒否したくなかった。
 トロツキーとはむろんのこと各々の政府と頻繁に意思疎通をしたあとで、彼らは、4月3日に、以下の諸原則を共通理解とすることにした。
 1. 連合国は(共同行動を拒むアメリカを除き)、モスクワが死刑を含む軍事紀律を再導入することを条件として、赤軍の組織化を援助する。
 2. ソヴィエト政府は、日本軍のロシア領土への上陸に同意する。日本軍はヨーロッパから派遣された連合国兵団と合同して、ドイツ軍と戦う多国籍軍を形成する。
 3. 連合国の派遣軍団は、Murmansk とArchangel を占領する。
 4. 連合国は、ロシアの国内行政に干渉することをしない(脚注)
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 (脚注) Joseph Noulens, Mon Ambassade en Russie Soviettique, II(Paris, 1933), p.57-58; A. Hogenhuis-Seliverstoff, Les Relations Franco-Sovietiques, 1917-1924(Paris, 1981), p.59.
 Noulens は、連合諸国の国民には、ドイツ国民がブレスト条約で獲得したのと同じ利益、特権、補償が認められる、という条件をさらに追加したかった。だが、これを欠落させざるを得なかった。Hodensuis-Seliverstoff, Les Relations, p.59.
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2797/元兵庫県西播磨県民局長告発文(2024/03/12)全文。

 兵庫県斎藤元彦前知事(・現知事)から2024年5月7日に懲戒停職処分(停職三月)を受けた前兵庫県西播磨県民局長が作成したとされる告発文「(2024年3月12日現在)」の原文写し(画像)は、つぎの二つからリンクを通じて見ることができる。
  →斎藤元彦兵庫県知事の違法行為等について(24/03/12)〔二ュースハンター/2024/4/2号〕。
  →伊東乾ブログ/2024/07/16・兵庫県パワハラ知事に「死をもって」抗議した…。
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 「告発文書」には「4月4日」のものもあるとされる。この第二の文書は、2024年7月19日の兵庫県議会「百条委員会」に資料として配布されたとされる。
 これには、以下の①はなかったようだ。しかし、この点以外は「3月12日」文書と同一であるか、ほとんど同一だと秋月には思われる。
 「4月4日」文書は、つぎの〈Wikipedia〉に、その(画像版からすると)「文字おこし」をしたものが掲載されている。
  →Wiki「兵庫県庁内部告発文書問題」。
 ①・②には「ハンター編集部」による「黒塗り」部分があり、③には「百条委員会」幹部?による「黒塗り」部分とがある。前者においてより少ないが、絶対的ではない。以下では、③をベースにしつつ①・②によって「黒塗り」部分が最小になるようにして引用・紹介している。表題のみを、ここでは太字化した。
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 斎藤元彦兵庫県知事の違法行為等について(令和6年3月12日現在)
 ①五百旗頭真先生ご逝去に至る経緯
  令和6年3月6日に五百旗頭真先生が急逝されました。その死に至る経緯が次のとおりです。
  先生は現在、ひょうご震災記念21世紀研究機構の理事長をされています。井戸敏三兵庫県前知事から懇願され、兵庫県立大学理事長をはじめ兵庫県行政に深く関わってこられました。
  令和3年8月に知事が反井戸の齋藤元彦氏に交代してからは知事はじめ県幹部との関係に溝が出来ていたようです。とにかく齋藤氏は井戸嫌い、年長者嫌い、文化学術系嫌いで有名です。
  お亡くなりになられた日の前日ですが、齋藤知事の命を受けた片山安孝副知事が五百旗頭先生を訪問。要件は機構の副理事長をされている●●●先生、●●●●先生のお二人の解任についての通告です。相談ではなく、通告です。
  来年1月は阪神淡路大震災から30年の区切りの時を迎えます。機構の役割・使命 を果たす事実上最後の大きな契機であると言っても過言ではないと思います。●●、 ●●●の両先生はまさにこの分野における第1人者であり、井戸前知事が要請し、兵庫県政に関わってこられました。五百旗頭理事長もお二人には全幅の信頼を寄せておられているにも関わらず、このタイミングでの副理事長解任はハッキリ言って、五百旗頭先生と井戸前知事に対する嫌がらせ以外の何ものでもありません。
  あまりに突然の県からの通告に、先生はその時点では聞き置くに止め、片山氏にはお引き取り願ったそうです。その日、帰宅されてからも、齋藤知事のあまりの理不尽な仕打ちに憤慨され、夜も眠れなかったそうです。翌日、機構に出勤されてからも、 周囲の職員に同様の胸の内を明かされたそうです。そして、その日の午後に機構の理事長室で倒れられ、急性大動脈解離で急逝されました。
  急性大動脈解離は激昂などの情動的ストレスがトリガーになることもあるといい ます。齋藤知事、その命を受けた片山副知事が何の配慮もなく行った五百旗頭先生への仕打ちが日本学術界の至宝である先生の命を縮めたことは明白です。
 ②知事選挙に際しての違法行為
  令和3年7月18日執行の兵庫県知事選挙に際して、兵庫県職員である●●●●●、 ●●●●、●●●●、●●●●は、選挙期間以前から齋藤元彦立候補予定者について、 知人等に対する投票依頼などの事前運動を行った。●●氏は自分の居住地である三木市役所幹部等に対して「自分は選挙前から齋藤のブレーンだった。お前ら言うこと聞けよ」と恫喝している。
  ○公職選挙法違反、地方公務員法違反
  また、選挙公約の作成、選挙期間中の運動支援など、多岐にわたり選挙運動を手伝った。
  ○地方公務員法違反
  その時の論功行賞で、この4人はそれまでの人事のルール無視でトントン拍子に昇任。結果的に彼らが行ったことを裏付けすることとなっている。
 ③選挙投票依頼行脚
  令和5年下半期から齋藤元彦兵庫県知事は、次回知事選挙時の自分への投票依頼を始めている。産業界については●●●●産業労働部長が随行。
  具体的には、令和6年2月13日に但馬地域の商工会、2月16日に龍野商工会議所へ出向き、投票依頼したことを確認している。その他の市町の商工会議所、商工会へも働きかけを行っている様子。
  ○公職選挙法違反、地方公務員法違反
 ④贈答品の山
  齋藤知事のおねだり体質は県庁内でも有名。知事の自宅には贈答品が山のように積まれている。
 (例1)
  令和5年8月8日、兵庫型奨学金返済支援制度利用企業の視察として訪れた加西市の株式会社●●(●●●●のトースターで有名)における出来事。周囲にマスコミが いるため、●●の幹部から贈呈された高級コーヒーメーカーをその場では「そんな品物は頂けません」と辞退。一方、随行者の●●●●産業労働部長に向かって「みんな が見ている場所で受け取れるはずないやろ。失礼な。ちゃんと秘書課に送るように言っておけ!」と指示。後日、無事にコーヒーメーカーをゲットしている。●●●●● のご子息が●●で勤務しているという話もある。
 (例2)
  令和5年7月に●●●●●●●●●株式会社と兵庫県はスポーツ連携協定を結んだ。そして、ヘルメット着用のキャンペーンを展開している。そのPR用の写真は●●●●のロードバイク(約50万円)に跨がる知事。そのバイクは撮影の後、知事へ贈呈された模様(偽装的に無償貸与の形をとる、ほとぼりが冷めるまで県庁で保管するなどの小細工がなされているかも知れません)。特定の営利企業との包括協定は、 企業にとっては絶好のPRとなり、その見返りとしてのロードバイクの贈呈となると完全な贈収賄である。
   これらは全て●●●県民生活部長のアレンジ。
 (例3)
  神崎郡市川町からは、特産品のゴルフのアイアンセット(約20万円)が贈呈され ている。しかも、使いにくいからと再度、別モデルをおねだりしたという情報もある。 特別交付税(市町振興課所管)の算定などに見返りを行った可能性がある。
  現市町振興課●●●●課長は知事と同じ総務省からの出向にも関わらず、知事から考えられないくらい冷遇されているが、その辺りを忖度しなかったことへの面当てかも知れない。
 (例4)
  知事は驚異の衣装持ち。特にスポーツウエア。メーカーにすれば知事は動く広告塔。 これも貸与だと言えるのかどうか。特定企業(例えば●●●●●)との癒着には呆れるばかりである。
  そもそも、視察先やカウンターパートの企業を選定する際には、“何が貰えるか”が 判断材料だとか。企業リストには備考欄があって、“役得”が列記されているとか。
  そして、とにかく貰い物は全て独り占め。特産品の農産物や食品関係も全て。あまりの強欲、周囲への気配りのなさに、秘書課員ですら呆れているという噂。もちろん、 出張先での飲食は原則ゴチのタカリ体質、お土産必須。そのため、出張先では地元の 首長や利害関係人を陪席させて支払いをつけ回す。出張大好きな理由はこれ。現場主義が聞いて呆れる。
 ⑤政治資金パーティ関係
  令和5年7月30日の齋藤知事の政治資金パーティ実施に際して、県下の商工会議所、商工会に対して経営指導員の定数削減(県からの補助金カット)を仄めかせて圧力をかけ、パー券を大量購入させた。実質的な実行者は片山副知事、実行者は産業労働部地域経済課●●●●課長。
  また、兵庫県信用保証協会●●理事長、●等専務理事による保証業務を背景とした、 企業へのパー券購入依頼も実行された。●●理事長は片山副知事から県職員OBによる齋藤知事後援活動の責任者を依頼され、交換条件として厚遇の信用保証協会理事長 に異例の抜擢をされていた。
  この件は準公的な機関である保証協会を舞台にした政治活動なのでさすがに危険を感じたのか、●●理事長は1年で退任し、●●●銀行の監査役へ行くようである。 ●●●銀行の●●会長と●●副知事は白陵高校の先輩後輩。
  今後、県から●●●銀行へなにがしかの利益供与があるものと思われる。
 ⑥優勝パレードの陰で
  令和5年 11 月 23 日実施のプロ野球阪神・オリックスの優勝パレードは県費をかけないという方針の下で実施することとなり、必要経費についてクラウドファンディングや企業から寄附を募ったが、結果は必要額を大きく下回った。
  そこで、信用金庫への県補助金を増額し、それを募金としてキックバックさせることで補った。幹事社は●●信用金庫。具体の司令塔は片山副知事、実行者は産業労働部地域経済課。その他、●●バスなどからも便宜供与の見返りとしての寄附集めをした。パレードを担当した課長はこの一連の不正行為と大阪府との難しい調整に精神が持たず、うつ病を発症し、現在、病気休暇中。しかし、上司の●●●は何処吹く風のマイペースで知事の機嫌取りに勤しんでいる。
  ○公金横領、公費の違法支出
 ⑦パワーハラスメント
  知事のパワハラは職員の限界を超え、あちこちから悲鳴が聞こえてくる。
  執務室、出張先に関係なく、自分の気に入らないことがあれば関係職員を怒鳴りつける。例えば、出張先の施設のエントランスが自動車進入禁止のため、20m程手前で 公用車を降りて歩かされただけで、出迎えた職員・関係者を怒鳴り散らし、その後は 一言も口を利かなかったという。自分が知らないことがテレビで取り上げられ評判になったら、「聞いていない」と担当者を呼びつけて執拗に責めたてる。知事レクの際に 気に入らないことがあると机を叩いて激怒するなど、枚挙にいとまがない。
  また、幹部に対するチャットによる夜中、休日など時間おかまいなしの指示が矢のようにやってくる。日頃から気に入らない職員の場合、対応が遅れると「やる気がないのか」と非難され、一方では、すぐにレスすると「こんなことで僕の貴重な休み時間を邪魔するのか」と文句を言う。人事異動も生意気だとか気に入らないというだけで左遷された職員が大勢いる。
  これから、ますます病む職員が出てくると思われる。
  ○(職員からの訴えがあれば)暴行罪、傷害罪
 ※ この内容については適宜、議会関係者、警察、マスコミ等へも提供しています。
  しかし、関係者の名誉を毀損することが目的ではありませんので取扱いにはご配慮願います、兵庫県が少しでも良くなるように各自の後判断で活用いただければありがたいです。よろしくお願いします。
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2796/西尾幹二批判080—欺瞞の人。

 辻田真佐憲によるインタビューに西尾幹二が答える発言録が、2019年1月26日から<文春オンライン>上に掲載された。
 その中で、辻田はこう質問した。
 「今、期待している論者はどんな人ですか」。
 西尾幹二は、こう答えている。2024年12月15日時点で、ネット上でそのまま読める。
 「政治学者の岩田温、青山学院の国際マネジメント研究科にいる福井義高、カナダ在住の渡辺惣樹、それから江崎道朗、潮匡人、藤井厳喜、加藤康男。女性では宮脇淳子、福島香織、河添恵子、川口マーン恵美。最後の川口さんは…」。
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 この辻田真佐憲との対談記録は、全集第22巻A(2024年10月刊)に、「著者が初対面の近現代研究者・辻田真佐憲氏と対談する」と題して収載されている。
 ところが、何と、上の部分はこう<書き換え>られている(p.491-2)。
 「今、期待している論者はどんな人ですか」。
 「青山学院の国際マネジメント研究科にいる福井義高、カナダ在住の渡辺惣樹、筑波大学の古田博司、それから江崎道朗、潮匡人、藤井厳喜、加藤康男。女性では加藤康子、宮脇淳子、福島香織、河添恵子、川口マーン恵美。最後の川口さんは…」。
 「期待している論者」から除外されたのは、「政治学者の岩田温」。 
 「期待している論者」に追加されたのは、「筑波大学の古田博司」と、女性の「加藤康子」。
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 2019年の対談時点と2024年の全集収載時点で、「期待している」かどうかの評価・判断が異なることはあり得ることだろう。
 しかし、そのような差異・変化があったとすれば、明記して行なわれるべきだ。
 にもかかわらず、2024年の全集刊行時点で一部にせよ差異・変化があること、つまり<書き換え>=<加筆修正>が行われていることは、全集22巻Aの目次欄にも、辻田との対談録中にも、西尾による「後記」にも、いっさい言及されていない。
 辻田との対談録の表題は「著者が初対面の…辻田真佐憲氏と対談する—(「文春オンライン」2019年1月26日)」となっているので、記録された西尾幹二の発言はこの時点でのものがそのまま記載されている、と読者は理解するだろう。
 にもかかわらず上のような<書き換え>=<加筆修正>を加えたものを収載するのは読者を騙していることになる。とんでもないマヤカシ、欺瞞だ。
 2024年には2019年時点の評価・判断と異なるに至っていたとしても、2019年1月時点の発言だと明記されているのだから、西尾幹二はそれをそのまま認めて全集にも登載すればよいだろう。
 西尾幹二は、その当然と思われることができない人物なのだ。
 どこにも注記することなく、むろん理由を記すこともなく、平気で、後になって一部にせよ<書き換え>=<加筆修正>をすることができる。西尾幹二とは、そういう人物だ。
 あるいは、時間または時期に関する感覚に、常人にはない異常さがある、のかもしれない。
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 このような、全集編集時点での<書き換え>=<加筆修正>があることは、この欄ですでにいくつか触れたことがある。
 また、全集22巻Aでは例えば、第一部の「第四章は『正論』2014年2-4月号に連載したものを加筆修正した」と明記されている(p.261)。この注記は誰が記したのか(本人か出版元編集部か「三人委員会」か)は不明だが、このように、全集収載時点での「加筆修正」を堂々と認めている場合もある。
 ともあれ、上に記したような「加筆修正」=「書き換え」が(こっそり)平然と行なわれているのだから、西尾幹二「全集」なるものは、全巻の全章・全節を通じて、その元となっている文章と同一のものなのか否かが、きちんと点検されるべきだ。そして、「校訂・加筆修正表一覧」が作成されるべきだ。
 「保守」(主義)うんぬん以前の、西尾幹二の、論者かつ人間としての<誠実さ>の問題だ。
 SNSとかYouTube 等の多数の閲覧者がいる世界だと、こうした<誠実さ>の欠如(=ウソつき)は、瞬時に暴露される。
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2795/私の音楽ライブラリー048。

 音楽ライブラリー048。
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 Saint-Saens, Introduction & Rondo Capricciso op.28.
 010〈再掲〉→Natsuho Murata, 2019. 〔International Music & Arts〕
 010-02 →Kristine Balanas, Latvian National SO, 2023. 〔Kristine Balanas〕

 Vi Iz Dus Gesele.  〈=あの娘の家はどこに?〉
 051-01〈再掲〉→The Barry Sisters, Vi iz dus geseleh ?, 2010.〔Albertdiner〕
 051-09 →The Alibi Sisters, Vi Iz Dus Gesele ?, 2023. 〔The Alibi Sisters〕
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2794/私の音楽ライブラリー047。

 音楽ライブラリー047。
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 030(再)→小椋佳・冬木立、作詞·作曲/小椋佳、1978年。〔eisin555〕
 125 →小椋佳・忍ぶ草、作詞·作曲/小椋佳、1978年。〔濱田将司〕

 126 →愛田健二・京都の夜、作詞/水島哲・作曲/中島安敏、1967年。〔京都いろは通信〕
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2793/私の音楽ライブラリー046。

 音楽ライブラリー046。
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 123 →NSP・八十八夜 作詞=作曲/天野滋、1978年。〔Hisaki Tube〕
 124 →柴田淳・誰にも言わない 作詞=作曲/柴田淳、2017年。〔柴田淳〕
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2792/私の音楽ライブラリー045。

 音楽ライブラリー045。
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 119 →シグナル・二十歳のめぐり逢い 作詞=作曲/田村功夫、1975。〔Nostalgic Melody〕
 120 →谷山浩子・河のほとりに 作詞=作曲/谷山浩子、1977。〔Nostalgic Melody〕
 121 →NSP・面影橋 作詞=作曲/天野滋、1979。〔penchanotohime〕
 122 →長渕剛・順子 作詞=作曲/長渕剛、1980。〔長渕本人〕
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2791/R.パイプス1990年著—第14章④。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 第14章の試訳のつづき。
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 第14章第二節/赤軍創設と連合国との会話②。
 (10) 公式の政府の声明が、「国際ブルジョアジー」による攻撃を撃退するソヴィエト・ロシアの必要によるものとして、新しい、社会主義的軍隊の創設を正当化した。
 しかしこれは、公にされた使命の一つにすぎず、また必ずしも最も重要なものでもなかった。
 帝制軍と同じく、赤軍は二つの機能をもった。すなわち、外国の敵と戦うこと、国内の治安を確保すること。
 Krylenko は、1918年1月の第三回全国ソヴェト大会の兵士部会にあてて、こう宣告した。「赤軍の最大の任務は、『国内戦争』を闘い、『ソヴィエトの権威の防衛』を確実にすることだ」(注11)。
 言い換えると、赤軍の任務は、まず第一に、レーニンが行なうと決意していた内戦のために役立つことだった。
 --------
 (11) ボルシェヴィキもまた、赤軍に対して、内戦を拡大する使命を与えた。
 レーニンは、社会主義の最終的勝利のためには「社会主義」国家と「ブルジョアジー」国家の間の一続きの大戦争が必要だ、と信じていた。
 彼らしくない率直さで、こう語った。
 「ソヴェト共和国が帝国主義諸国と並んで長いあいだ存在するというのは、考え難い。
 最終的には、どちらかが勝利する。
 その結末に至るまで、ソヴェト共和国とブルジョア諸政府のあいだの最も激烈な闘争が長く続くのは、避けることができない。
 これが意味するのは、支配階級であるプロレタリアートは、かりに支配することを欲しかつ支配すべきものならば、そのことを軍事組織でもって証明しなければならない、ということだ。」
 --------
 (12) 赤軍を組織することが発表されたとき、<Izvestiia>は社説欄で、つぎのように歓迎した。
 「労働者の革命は、地球規模でのみ勝利することができる。そして、永続的な勝利のためには、さまざまな諸国の労働者が互いに協力し合うことが必要だ。//
 プロレタリアートの手に権力が最初に移った国の社会主義者は、腕を組んで、兄弟たちがブルジョアジーと国境を越えて闘うことを助ける、という任務に直面することになるだろう。//
 プロレタリアートの完全かつ最終的な勝利は、国内の戦線と国際的な戦線での連続した戦争の完全な勝利なくしては、考えることができない。
 したがって、革命は、自らの、社会主義の軍隊なくしては、達成することができない。//
 Heraclitus は、『戦争は、全てのことの父親だ』と言った。
 戦争を通じてこそ、社会主義への途もまた拓かれている<脚注>。」
 --------
 <脚注> Izvestiia, No.22/286(1918.1.28),p.1. Heraclitus は実際には少し違って語った。—「(戦争でなく)対立は全てのことの父親であり王君だ。対立はある者を奴隷にし、ある者を自由にした。」
 --------
 (13) 他に多くの見解が発表され、明示的にまたは黙示的に、赤軍の任務の中には外国での干渉が含まれる、という趣旨が述べられた。あるいは1918年1月28日の布令のように、「ヨーロッパでの来るべき社会主義革命への支援を提供する」と述べられた(注13)。
 --------
 (14)  これら全て、将来のことだった。
 さしあたりボルシェヴィキが有していた信頼に足りる軍団は、ラトヴィア・ライフル兵団(the Latvian Rifles)だけだった。これについては、憲法会議の解散とKremlin の安全確保の箇所ですでに言及はしている。
 ロシア軍は、1915年の夏に、分離した最初のラトヴィア兵団を設立した。
 1915-16年に、ラトヴィア・ライフル兵団は、8000人で成る全員が義勇の兵団で、ナショナリズムが強い、かなりの大きさの社会民主主義の兵団だった(注14)。
 ロシアの常設軍団からのラトヴィア民族派で補強されて、それは1916年の末には、全部で3万人から3万5000人で成る8個の分団を形成していた。
 この兵団はチェコ軍団(Czech Legion)に似ていた。これはほぼ同時期にロシアで、戦争捕虜でもって編成されていた。もっとも、両兵団の運命は全く異なるものになるのだけれども。
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 (15) 1917年の春、ラトヴィア兵団はボルシェヴィキの反戦宣伝に好意的に反応し、講和と「民族自決権」原則によって、当時ドイツの占領下にあった母国に帰ることができるだろうと期待した。
 社会主義ではなく民族主義にまだ動かされていたが、彼らはボルシェヴィキの諸組織と緊密な関係を形成し、臨時政府に反対するボルシェヴィキのスローガンを採用した。
 1917年8月、ラトヴィア兵団は、Riga の防衛者として自認するようになった。
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 (16) ボルシェヴィキはラトヴィア兵団をロシア軍の他の兵団とは区別して扱い、損傷を与えないままにし、重要な治安活動を彼らに委ねた。
 ラトヴィア兵団は次第に、フランスの外国人軍団とナツィスのSSの結合体のようなものになっていった。外国の敵からと同様に内部の敵からも体制を守る、一部は軍隊で一部は保安警察のような軍団だ。
 レーニンは彼らを、ロシア人部隊以上に信頼した。
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 (17) 労働者と農民の赤軍を創設しようとする初期の計画は、無に帰した。
 入隊した者の目的は主に報酬と略奪する機会の獲得だった。前者はすみやかに月給50ルーブルから150ルーブルに上がった。
 軍の大半は、除隊されたごろつき兵士たちだった。トロツキーはのちに彼らを「フーリガンたち」と呼び、ソヴィエトの布令は「非組織者、悶着者、利己主義者」と称することになる(注15)。
 今日の新聞は、初期の赤軍兵団が実行した暴力的な「収奪」の物語で溢れている。空腹で支払いが悪かった者たちは、制服や軍備品を売り、ときには相互で闘った。
 1918年5月、Smolensk を占領した彼らは、「ユダヤを叩き出せ、ロシアを救え」というスローガンのもとで、ソヴェトの諸機関からユダヤ人を追放することを要求した(注16)。
 状況はかなり悪く、ソヴィエト当局はたまにはドイツの軍団に対して、言うことを聞かない赤軍兵団に介入することを要請しなければならなかった(注17)。
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 (18) 事態はこのように進むことはできず、レーニンはやむなく、かつての将軍幕僚やフランス軍事使節団に迫られていた職業的軍隊の構想を受け入れた。
 1918年の2月と3月初旬に党内で、労働者で構成されて民主主義的構造をもつ「純粋な」革命軍の主張者と、より伝統的な軍隊の支持者の間で、討論が行なわれた。
 討議では、労働者による工業支配の主張者と職業的経営の主張者の間で同時期に起きていたのと同じ対立があった。
 どちらの場合も、効率性の考慮が革命的ドグマに打ち勝った。
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 (19) 1918年3月9日、人民委員会議(Sovnarkom)は、ある委員会を任命した。その任務は、「社会主義的軍隊(militia)と労働者・農民の普遍的な軍事化の理念にもとづく、軍の再組織と強力な軍隊の創設のための軍事センターを樹立するプラン」を一週間以内に提示すること、だった(注18)。
 職業的軍隊に対する反対派を率いていたKrylenko は、戦争人民委員を辞し、司法人民委員部を所管した。
 彼に替わったトロツキーには、軍事の経験がなかった。ほとんど全てのボルシェヴィキ指導者と同じく、草案を考えるのを避けて以来ずっとだった。
 トロツキーが任命されたのは、敵に寝返ったり政治に干渉したりすることでボルシェヴィキ独裁に対する脅威を与えない、そのような効率的で戦闘準備のある軍隊を創設するために必要な、外国または国内についての職業的助力を獲得するためだった。
 政府は同時に、トロツキーを議長とする、最高軍事会議(Vysshyi Voennyi)を設立した。
 この会議は、将校(戦争人民委員部と海軍)とかつての皇帝軍の軍事専門家で構成された(注19)。
 ボルシェヴィキは、軍隊の完全な政治的信頼性を確保するために、軍事司令官たちを監督する「人民委員」の仕組みを採用した(注20)。
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 第二節、終わり。

 

2790/レシェク·コワコフスキ追想②。

 いっとき、L・コワコフスキに関する情報をネット上で探していたことがあった。
  日本語でのWikipedia、英米語でのWikipedia、当然にいずれも見たが、前者・日本語版のそれはひどかった。
 現時点(11/15)では少しマシになっているようで、新しい邦訳書についても記載がある、しかし、L・コワコフスキの哲学に「無限豊穣の法則」が一貫している、などという今もある説明は適切なのか、どこからその情報を得ているのか、きわめて疑わしい。
 日本語と英米語でWikipediaの叙述の内容は違うということを明確に知ったのはL・コワコフスキについて調べていたときだった。
 仔細に立ち入らない。英米語のWikipedia での‘Main Currents of…’ の項は、この著に対する数多くの書評(の要旨)が紹介されていて、興味深い。2005年の一冊合本版について、重すぎる、開きにくいとかの「注文」があったのには苦笑した。
 ともあれ、日本には、<明瞭な反共産主義者>であるL・コワコフスキの存在自体を隠す、あるいは、この人物についてできるだけ知られないようにする、という雰囲気があったのではないか。
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  L・コワコフスキは、ノーベル賞の対象分野になっていない学問分野での業績を対象にして贈られる、アメリカ連邦議会図書館Kluge賞の初代受賞者だった。のちに、ドイツのHarbermath も受賞している。
 日本語Wikipedia は、この点をほとんど全く無視している。私は、その選考過程等も示す議会図書館の記事を探して、この欄に紹介した。→「1904/NYタイムズ」。さらに、→「1906/NYタイムズ,訃報」
 L・コワコフスキは授賞式で、Kluge 氏は「klug (賢い、ドイツ語)です」とかの冗談を含めて挨拶していた。
 その授賞式に、あるスウェーデン女性も同席していたらしいので調べてみると、スウェーデンの皇太子(次期国王予定者、女性)だった。これは、ノーベル賞の対象外の学問分野についての賞で、元のノーベル賞との関係も意識されている、ということを示していると、秋月は推測している。
 同じワシントンのホワイト・ハウスでのG. W. Bush (小ブッシュ)と並んでのL・コワコフスキの写真では、彼の顔はいくぶんか紅潮している。つねに冷静そうな彼であっても、アメリカ大統領官邸に招かれること自体がさすがに感慨深いことだったのだろう。
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 Kluge 賞受賞(2003年)は当然に1991年のソ連解体以降のことで、その授賞理由には<現実(ソ連解体、ポーランド再生 )にも影響を与えた>旨が明記されていた。
 たぶんそれよりも後のものだろう、ポーランドの放送局員がイギリス・Oxford の(たぶん)コワコフスキの家の部屋でインタビューしている動画を私はネット上で探して見た。
 ポーランド語だったので、内容はさっぱり分からなかった。
 だが、印象に残ったのは、①頭の中の回転スピードに口と発する言葉が追いつかないのか、しきりに咳き込んでいた。
 ②全く「威張っている」、「偉ぶっている」ふうがなかった。本来、真摯な人物であり、また謙虚な人なのだろう。と言うよりも、奇妙な「自己意識
」がなくて、自分を「演技」することもないのだろう(そんな人は日本にはいそうだ)。
 なお、カメラに視線をじっと向けて語るのは、コワコフスキやポーランド人に特有ではなく、たぶん欧米人に共通しているのだろう。
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  L・コワコフスキとその妻タマラ(Tamara、精神科医師)の二人がコワコフスキの生地であるポーランド・(ワルシャワ南部の)Radom の町の通りを歩いている動画か写真を見たことがある。
 郷土出身の著名人ということで、ある程度は人が集まっていて、一緒に同スピードで歩いている少年もいたが、大きなパレードでは全くなく、夫妻が人々に手を降るのでもなかった。人々がある程度集まってきて申し訳ないというがごとき緊張を、L・コワコフスキは示していた。
 こうした場合、日本人の中には、<オレはこんなに有名になったのだ>という高揚を感じる者もいるのではないか。とくに「自己」を異様に意識する人の中には。
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  以下は「追想」ではなく、つい最近に知ったことだ。
 たまたまL・コワコフスキ夫妻の(たぶん一人の)子どもである1960年生まれのAgnieszka Kolakowska をネット上で追求していたら、その母親はユダヤ人またはユダヤ系である旨が書かれていた。娘の母親ということは、L・コワコフスキ本人の妻・タマラのことだ。(なお、父親のポーランド語文についての娘の英語訳は、母国語が英語でないためだろう、非英語国人にとって理解しやすい英語文になっている可能性が高いと思われる。)
 不思議な縁を感じざるを得なかった。
 まず、Richard Pipes (1923〜2018)は「ポーランド人」かつ「ユダヤ人」だった。
 両親は「オーストリア=ハンガリー帝国」時代にその領域内で生育し、R. pipes は家庭内では「ドイツ語」を、外では「ポーランド語」を話して育った、という。チェコと川で接する国境の町で生まれたが、1939年のドイツによるポーランド侵攻直後にポーランド(ワルシャワの南部)を親子三人で「脱出」、アメリカに移住して、20歳で(1943年に)「アメリカ合衆国」に帰化した。したがって、以降は「アメリカ人」。
 ついでながら、ワルシャワ近く→ミュンヒェン(独)→インスブルック(墺)→ローマ(伊)→ニューヨーク(米)という「逃亡『劇』」は、十分に一本の映画、何回かの連続「テレビドラマ」になる、と思っている。
 R.パイプスの自伝からこの時期について、この欄に「試訳」を紹介した。→「2485/パイプスの自伝(2003年)①」以降。
 ついで、T・ジャット(1948〜2010)の2010年の最後の書物(邦訳書/河野真太郎ほか訳・真実が揺らぐ時)の序説で、編者・配偶者のJennifer Homans が書いていることだが、T・ジャットは逝去の数年前以内に、<ぼくの伯母さんはナツィスに(ホロコーストで)殺された>と言って<泣き出した>、という。
 ということは、T・ジャットもユダヤ人であるか、少なくともユダヤ系の人物だった。
 さらには、L・コワコフスキも、上のような形で、「ユダヤ人」と重要な関係があった。
 言語・民族・国家を一括りで考えがちな日本人には分かりにくいことが多いが(今でもほとんど理解し得ていないが)、たまたま最もよく読んだと言える、L・コワコフスキ、R・パイプス、T・ジャットのいずれも、ユダヤ人と関連があったことになる(次いでよく読んでいるのは、Orlando Figes だろう)。
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2789/レシェク·コワコフスキ追想①。

 L・コワコフスキが書いた書物は、何語であれ、今後も読み継がれていくだろうから、<追想>だけの対象にしてはいけない。
 以下では、L・コワコフスキに関する、個人的・私的な思い出を書く。むろん「個人的・私的な」交際関係があったわけではない。
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  この欄に英語文献の「試訳」を初めて掲載したのは2017年の2-3月だった。たまたまRichard Pipes, Russian Revolution (1990)をKindle で読んでいて、仕事で英語を使ってから40年以上経っていたが、「辞書」機能を使って何とか理解できる、邦訳もできそうだと感じた。
 その前にもともとは<ロシア革命>について知っておきたいという関心が生まれていて、R. Pipes 以外のロシア革命本もいくつか渉猟するようになっていた(洋書または邦訳書)。
 そうしたロシア革命に関する書物の注記の中で、たぶん「マルクス主義」に関して、Leszek Kolakowski, Hauptströmungen des Marxismus(Main Currents of Marxism)が挙げられていた。
 明瞭ではないが、R.パイプスではなく、M.メイリアの書物(Martin Malia, Soviet Tragedy -A History of Socialism in Russia 1917-1991(1994年)=邦訳書/白須英子訳・ソヴィエトの悲劇(草思社、1997))だったような気がする。
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  基礎的な重要文献のごとき扱いだったのでたぶんすみやかに英語書を入手したが、ただちに「試訳」に進んだのではない。はたして、個人的にであれ、日本語に訳出してみる価値があるのかどうかが分からなかったからだ。下手に入り込むと、何といっても(三巻で)1500頁ほどもあるのだ。
 そこで、同じKolakowski の別の論稿を読んで、ある程度の「心証」を得ることにした。
 その際に選択したのは少し長い‘My Correct Views on Everything’という題の論考で、「『左翼』の君へ」と勝手に表題を変えて、この欄に全文を掲載した(2017年5月)、読みつつこの欄に掲載していったのだったが、じつに面白かった。正確に言えば、コワコフスキの論述の仕方、その思考方法と表現方法が複雑かつ新鮮で、意表を衝くような箇所も多く、まるで「自分の頭が試されている」ように感じた。こんな衝撃を日本人の日本語文から受けたことはなかったような気がする。
 →「『左翼』の君へ①」(2017/05/02)。
 この論稿は、のちに得た知識ではイギリスの「新左翼」のEdward P. Thompson がLeszek Kolakowski を「昔の仲間ではないか。いったい今のきみはどうなのだ」とか批判したのに対する反論文で(決して「釈明」文ではない)、T.ジャットによると「一人の知識人を丸ごと解体する」ごときものだった。
 この公開書簡による批判・反批判の中に、Thompson が Kolakowski の組織した「社会主義」に関するシンポジウムに招聘されなかったことに前者が不満を言うという箇所があった。これもあとで気づいたのだが、そのシンポジウムの成果をまとめた書物(1974年)の一部の「試訳」を、そういう関連があったとは知らないままで、のちにこの欄に掲載した。→「No.1974」(2019/06/10)。
 この反論・反批判論稿の内容には立ち入らないが、「左翼」または「新左翼」と自認している者は、じっくりと読むとよいだろう。
 こうしてコワコフスキは「信頼」できると判断したが、もう一つ、「神は幸せか?」(2006年)という短い論稿の「試訳」もこの欄に掲載した(2017年5月)。これも「議論の進め方」が大いに魅力的だった。なお、冒頭には「シッダールタ」への言及があり、原語で読んだわけではないがと慎重に留保しつつ、仏教にも関心を持っていたことを示している。→「神は幸せか?①」(2017/0525)。
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 Leszek Kolakowski, Main Currents …の最初の「試訳」掲載は2017年6月で、第二巻のレーニンに関する部分から始めた。→「1577/レーニン主義①」(2017/06/07)。
 doctrin は「教理」と訳すことに早々に決めて、維持した。できる限りカタカナ英語を使わないという気分だったのだろう、ideology を「観念体系」と訳したりした。これは継続できなかった。
 基礎的な知識・教養がないためにしばしば難解だったが、辞書にも頼りつつ、何とか理解していった。
 今の時点で思い出すのは、第一に、「主義」、「思想」の歴史叙述ではあるが、L・コワコフスキは<ロシア革命>の具体的推移、諸局面についてもよく知っている、ということだ。単純に、「思想」の内在的な関係・比較や発展等を追っているのではない。「考え」、「思想」、「イデオロギー」と政治的・社会的現実の複雑な関係を相当に留意して叙述していた人だと思う。あるいは、あえて単純化はしない、未解明部分はあるがままに放っておく、という姿勢だった、と言えようか。
 第二に、些細なことだが、L・コワコフスキが参照しているレーニン全集の巻分けは日本でのそれ(大月書店版)と同じだった。かつてのソ連の「マルクス=レーニン主義研究所」が編纂したレーニン全集をその構成を同じにしてポーランドと日本でそれぞれの言語で翻訳して出版したものと思われる(なお、R.パイプスの書物が用いていたレーニン全集は、ポーランドや日本のそれと異なっていたようだ)。むろん、言語の違いによって、同じ論稿であっても必要頁数は同じではないので、L・コワコフスキが示す頁数ですぐに日本のレーニン全集の当該箇所を特定できたわけではない。
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2788/L・コワコフスキの大著の邦訳書が出版される。

  レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)の大著の日本語翻訳署が刊行されるようだ。
 秋月にとって、大ニュースだ。11月11日の池田信夫・ブログによって知った。
 L・コワコフスキ=神山正弘訳・マルクス主義の主要潮流—その生成・発展・崩壊(同時代社、2024)
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  日本での「マルクス主義」への関心が突如として高まったとは思えない。
 訳者の神山正弘を名も知らなかったが、この本を紹介するネット上の訳者紹介によると、訳者(1943〜)の最後の大きな仕事(この翻訳)が完了したがゆえの、この時期での刊行になったようだ。
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 1943年生まれの訳者の経歴は、種々のことを推測または想像させる。
 1962年—東京大学教育学部入学(卒業年の記載はない)、1965-67年—東京都学連副委員長・委員長、1967-72年—日本民主青年同盟(民青)東京都委員会学生対策部長・副委員長、1973-75年—東京大学大学院教育学研究科学生、1982-2007年—高知大学教育学部助教授・教授(たぶん定年退職)。
 39歳で大学教員の職を得ている。この遅さにも注目してしまうが、そんなことよりも、1972-73年に民青東京都委員会→大学院学生という変化があったことが興味深い(なお、川上徹(1940〜)は同じ東京大学教育学部出身で、同時代社の設立者だった)。
 神山正弘はおそらく、日本共産党の<新日和見主義事件>に巻き込まれ、民青や共産党の活動家であることをやめたのだろう。日本共産党(・民青)と具体的にどういう関係に立ち、どう処遇されたのかは、もちろん知らない。
 だが、<新日和見主義事件>=1972年と、見事に符号している。
 かつて若いときに日本共産党という「マルクス主義」政党の党員だったこと(これはまず間違いない)、10年を経ずしてその党とどうやら複雑な関係になったらしいこと(いつまで党員だったかは、もちろん知らない)、そしてもちろん「マルクス主義」または日本共産党のいう「科学的社会主義」の基礎的なところは<学習>していただろうことは、たしかに、レシェク·コワコフスキ『マルクス主義の主要潮流』を読み、翻訳してみようとする人物の像にかなりあてはまっているように見える。
 しかも、このL・コワコフスキの著は大まかに計1500頁と言ってよい長大な書物だ。神山は2007年に高知大学を辞しているようだが、その後のかなり長時間をこの本の読書と翻訳に費やしたのではなかろうか。
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  池田信夫は、「本書は1978年にポーランド語で書かれた古典」等と紹介しているが、細かいことながら、年次は誤っている。
 1976年に、ポーランド語の原書が、フランス・パリで、出版された。
 1977-79年に、三巻のうちの一巻ずつ、ドイツ語翻訳書がドイツで出版された。
 1978年に、一巻ずつ全巻の英語翻訳書が、イギリスで出版された。
 神山邦訳書がいずれの言語から翻訳したのかは、分からない。経歴からすると、ポーランド語からではなさそうだ。
 なお、フランス語版は第一巻、第二巻だけが出版された。L・コワコフスキが書いているのではないが、サルトルについてのL・コワコフスキの叙述(第三巻)がフランスでは嫌われた、とも言われる。
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  日本には、2024年まで、L・コワコフスキの大著の日本語翻訳書がなかった。相当に遅れて、形だけはようやく欧米に追いついたことになる。共産主義者・共産党員または共産主義・共産党のシンパだった欧米の著作者については、サルトルのほか、例えば、イギリスのホブスボーム、フランスのフーコー等、すみやかにきちんと邦訳書が出版されている、にもかかわらず。
 日本はアカデミズムのみならず、あるいはアカデミズムとともにとくに人文・社会系の出版界自体が相当に「左より」だ。
 新潮社、不破哲三・私の戦後60年(2005)
 中央公論新社、不破哲三・時代の証言(2011)
 これらのように、「大手」出版社が日本共産党幹部の書物を発行している(秋月は日本のメディア・出版社を基本的なところで信用していない)。今回の〈同時代社〉程度では、趨勢・雰囲気を変えるほどには至らないだろう。
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2787/R.パイプス1990年著—第14章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 第14章の試約のつづき。
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 第14章第二節/赤軍創設と連合国との会話①。
 (01)  1918年3月23日、ドイツ軍は、長く待った西部戦線への攻撃を開始した。
 ロシアとの休戦以降、Ludendorff は、50万人の兵士を東部から西部へと移動させた。勝利すべく、二倍の数の生命を犠牲にするつもりだった。
 ドイツ軍は、事前の大砲の連弾なくしての攻撃、特殊な訓練を受けた「電撃部隊」の重大な戦闘への投入といった、多様な戦術上の刷新を採用した。 
 ドイツ軍は、攻撃の主力部隊をイギリス部門に集中し、それは強い圧力を受けた。
 連合国司令部内の悲観論者、とくにJohn J. Pershing は、前線は攻撃に耐えられないのではないかと怖れた。
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 (02) ドイツの攻勢は、ボルシェヴィキもまた困惑させた。
 公式の言明としては両方の「帝国主義陣営」を非難し、交戦の即時停止を要求したが、ボルシェヴィキは実際には、戦争の継続を望んでいた。
 諸大国が相互の戦闘に忙殺されているあいだは、獲得したものを堅固にすることができ、将来に予期される帝国主義十字軍を迎え打ち、さらには国内の反対勢力を粉砕するのに必要な軍事力を高めることができた。
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 (03) ボルシェヴィキは、中央諸国との講和条約の締結後ですら、連合諸国との良好な関係を維持しようとした。なぜなら、つぎのことに確信がなかったからだ。ドイツ人がボルシェヴィキを権力から排除しようとロシアへと進軍する、そのようなことを惹起する「好戦的政党」は決してベルリンを支配し続けることはない、ということの確信。
 ドイツ軍による三月のウクライナとクリミアの占領は、このような懸念を増幅させた。
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 (04) 既述のように、トロツキーは、連合諸国に経済的援助を要請した。
 1918年3月半ば、ボルシェヴィキは、赤軍の設立と、可能ならば潜在的にあり得るドイツによる侵略に対抗する介入への助力、を呼びかける緊急の訴えを発した。
 レーニンは、ソヴィエト・ロシア関係に集中しつつ、新たに任命した戦争人民委員のトロツキーに、連合諸国と交渉する任を与えた。
 もちろん、トロツキーが初めて主張した全ては、ボルシェヴィキ中央委員会によって裁可されていたものだった。
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 (05) ボルシェヴィキは3月初めに、軍隊の設置に真剣に取り組むことを決定した。
 だが彼らは、ロシアの多くの社会主義者と同様に、職業的軍隊は反革命をはぐくむ基盤になると見ていた。
 <アンシャン・レジーム>〔旧帝制〕の将校たちを幕僚とする常備軍は、自己破壊を誘引することを意味した。
 ボルシェヴィキが好んだのは<武装した国民>であり、国民軍(people’s militia)だった。
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 (06) ボルシェヴィキは、権力掌握後も、旧軍隊が残したものを解体し続けた。将校たちからは、彼らが保持した僅かなものも、剥奪した。
 ボルシェヴィキが元々指令していたのは、将校たちは選挙されるべきであり、軍隊の階層は廃止されるべきであり、兵士ソヴェトに司令者の任命権が与えられるべきだ、ということだった(注4)。
 ボルシェヴィキ煽動家の誘導によって、兵士や海兵たちは、多数の将校にリンチを加えた。黒海艦隊では、このリンチは、大規模な虐殺へと発展した。
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 (07) レーニンとその副官たちは同時に、彼ら自身の軍隊を創設することに関心を向けた。
 レーニンのもとでの初代の戦争人民委員に、彼は、32歳の法律家のN. V. Krylenko を選任した。この人物は、予備役の中尉として帝制軍に奉仕していた。
 1917年11月に、Krylenko はMogilev の軍司令部へ行った。最高司令官のN.N. Dukhonin を交替させるためだった。Dukhonin はドイツ軍との交渉を拒んでいた者で、Krylenko の兵団によって荒々しく殺害された。
 Krylenko は、新しい最高司令官に、レーニンの秘書の兄である、M. D. Bunch-Bruevich を任命した。
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 (08) 職業的将校たちは実際には、知識人たちよりももっと、ボルシェヴィキに協力するつもりである、ということが分かった。
 厳格な非政治主義と権力者への服従という伝統のもとで育ったので、彼らのほとんどは、新政府の命令を忠実に履行した(注5)。
 ソヴィエト当局は彼らの氏名を明らかにするのに気乗りでなかったけれども、ボルシェヴィキの権威をすみやかに承認した者たちの中には、帝制軍の将軍の高級将校だった、以下のような人々もいた。A. A. Svechin、V. N. Egorev、S. I. Odintsov、A. A. Samoilo、P. P. Sytin、D. P. Parskii、A. E. Gutov、A. A. Neznamov、A. A. Baltiiskii、P. P. Lebedev、A. M. Zainonchkovskii、S. S. Kamenv(注6)。
 のちに、二人の帝制時代の戦争大臣、Aleksis Polivanov とDmitri Shuvaev も、赤軍の制服を着た。
 1917年11月の末、レーニンの軍事補佐のN. I. Podvoiskii は、旧帝制軍の一員たちは新しい軍隊の中核として役立つのかどうかに関して、将軍たちの意見を求めた。
 将軍たちは、旧軍隊の健全な軍団は用いることができる、軍は伝統的な強さである130万人まで減らすことができる、と回答し、推奨した。
 ボルシェヴィキはこの提案を拒否した。新しい、革命的軍隊を作りたかったからだ。それは、1971年にフランスで編成された革命軍—すなわち<levee en masse>—を範としたものだったが、これには農民はおらず完全に都市居住民で構成されていた(注7)。
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 (09) しかしながら、事態の進行は待ってくれなかった。前線は崩壊しつつあり、今ではそれが、レーニンの前線だった。—こう好んで言ったように。「十月のあとで、ボルシェヴィキは『防衛主義者』になった」。
 新しいボルシェヴィキ軍を創設することになるよう、30万人から成る軍隊の設立が話題になった(注8)。
 レーニンは、この軍隊が集結し、一ヶ月半以内に、予期されるドイツ軍の襲撃に対応するよう戦闘準備を整えることを、要求した。
 この命令は、1月16日のいわゆる諸権利の宣言(-of Rights)で再確認された。この宣言は、「労働者大衆がもつ力の全てを確保し、搾取者の復活を阻止するために」(注9)赤軍を創設することを規定していた。
 労働者と農民の新しい赤軍(Raboche-Krest’ianskaia Krasnaia Armiia)は全員が義勇兵で、「証明済みの革命家」で構成される、と想定されていた。各兵士には一ヶ月に50ルーブルが支払われるとされ、全兵士に仲間たちの忠誠さについて個人的に責任を持たせるための「相互保証」によって拘束されるとされた。
 こう予定された軍隊を指揮するために、人民委員会議(Sovnarkom)は1918年2月3日に、Krylenko とPodvoiskii を議長とする、赤軍の全ロシア会合(Collegium)を設立した(注10)。
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2786/西尾幹二批判079—全集未完結。

   西尾幹二全集第22巻A(2024.10)を一瞥して驚いたのは、「後記」の短さだ。他の巻では「後記」で長々と、すでに収載されている文章の一部を反復したりして、その巻の自分の文章・主張の「意義」を強調したりしていた。
 この第22巻Aの「後記」はたった5頁で、この巻には何を収めているかについての言及すらない。
  この巻は全体として〈運命と自由〉と題され、「後記」も「運命」に論及している。
 しかし、「要するに『運命』とは個人の情熱の外にない」という(相変わらず?)訳の分からない言辞があり、「個人」だけかと思えば「個人の『運命』」と「日本の『運命』」があるようであり、最末尾の文章は、こうなっている。
 「今こそ『運命』の声に静かに耳を傾けようではないか」。
 何のことか、何を言いたいのか、さっぱり分からない。
 これはひょっとして、西尾幹二の生前最後の文章なのだろうか。
 見苦しく、悲惨なものだ。「運命」という言葉・概念も、一種のイメージとして使われていて、当然ながら、きちんとした定義はない。西尾幹二における「自由」概念と同じく、何らかの「ひらめき」と「思い込み」によって、言葉・概念が使われ、文章ができあがっている。
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  全集22巻Aということは同22巻Bもあり得るはずだ。
 しかし、この22Bはまだ刊行されていないようだ。
 とすると、西尾幹二は「本人編集」であるので、結局は全巻の刊行はないまま終わったことになる。
 もともと「本人編集」で、各巻の編集時点での西尾の〈気分〉で、その内容、収録する本や文章は決められていたと見られる。そして、少なくとも実質的には、編集時点での「書き直し」、「書き換え」を疑い得た部分もあった。
 そうであるとは言え、形式上「22B」が欠落するので、西尾幹二が最初に意図したようには全集は完結しなかったことになる。
 異様な「本人編集の全集」だったとは言え、気の毒なことだ。
 現時点での国書刊行会(出版元)のウェブサイトには載っていないが、つい昨年まで、この欄で紹介した<西尾幹二は太陽だ>との加地伸行の文章とともに、「第22巻」の「A」と「B」のかなり細かな(刊行予定の)内容も掲載されていた。
 現時点ではそのサイトの頁は存在しないので、結局は何が収載されないままになったかは、分からない。
 だが、ずっと興味だけはもっていたのは、つぎの二つの西尾著がどういうふうに収載され、「後記」で西尾はどう位置づけるのだろうか、ということだった。
 ①西尾・国家と謝罪(徳間書店、2007)。
 ②西尾・皇太子さまへの御忠言(ワック、2008)。
 一つの書物でも西尾幹二全集は分断し、それらの一部を別々の巻に収録するということをしていたので、これらの一部がすでにどこかに収録されている可能性はある。だが、中心部分の収載は行われていないはずだ。
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 「22A」の45%ほどは、西尾・あなたは自由か(ちくま新書、2018)が占めている。
 ついでながら、元の新書とは違って「章」別の構成になっている。それは別としても、「第四章は『正論』2014年2-4月号に連載したものを加筆修正した」と注記されているので(p.261)、その「加筆修正」は、最初の発表文章を全集収載時点で「書き換え」したものになっている可能性が高いことに注意しておくべきだろう。
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 国書刊行会の全集刊行開始時点(2011年)でのウェブサイトでは、〈皇太子さまへの〜〉は「22B」の一部の「天皇・皇室」関係論稿として位置づけられていた記憶がある(上の①については記憶がない)。
 「22B」では、上の二つはきちんと収録され、めでたく?完結する予定になっていたのだろうか。
 どうも、怪しい。
 というのは、「22A」にはまだ半分以上の余裕があり、早めに収録することを意図すれば、上のいずれかのかなりの部分を収録できたはずだ。そしてまた、「22A」には、書物・雑誌上の文章ではない、「西尾幹二のインターネット日録」に掲載された「電子的」文章までが収載されている(全部ではない)。
 西尾幹二は最後には、上の二つ、①と②の収録を避けた、少なくとも収載に積極的ではなかった、のではないか。
 ①は、〈新しい歴史教科書をつくる会〉の「分裂」過程と八木秀次等や〈日本会議〉批判を内容としている。そして、「歴史教科書問題」と題した全集 17巻(2018)には収載されていないものだ。
 そうすると、あくまで推測だが、現在の天皇・皇后両陛下は「離婚すべきだ」旨を皇太子・同妃殿下時代に書いていた②とともに、全集の中に入れて歴史的記録にすることに少なくとも積極的ではなかったのではないか。
 こんなところにも、〈本人編集〉の影響または「影」が表れているように、秋月には思われる。
 そうだとすると、全集が「未完結」で終わったのは、何ら気の毒なことではない。
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  全集「22A」を見ていて、さらに不思議なことをようやく発見した。
 全集のこの巻の表紙のすぐつぎの写真の裏側の写真。
 こう注記されている。
 「いよいよ全集は完結が近づいた。大型の議論をしている余裕はもうなく、手早く仕事を処理してくれる人材を著者が選んで『三人委員会』に委嘱した。2023年4月1日撮影」。
 ①これはいったい誰が書いた文章なのだろうか。内容からして、国書刊行会の中の誰かとしか考えられないが、こう「表に出る」のは権限を超えるのではないか。奇妙で、不思議だ。この全集には最初から、著者と出版社の間の「全集刊行委員会」というものはなかったのだ。
 ②この「三人委員会」は、「22A」の編集に関与したのかどうか。時期的にはそう思われるが、西尾は「後記」で「三人委員会」に全く触れておらず、明確ではない。
 ③撮影されている西尾以外の三人が「三人委員会」のメンバーだろう。しかし、最も不思議で奇妙だが、その氏名が何ら記載されていない。秋月も、立ち姿と顔だけでは分からない(関係者には、写真で見て分かる人もいるのだろう)。
 この写真はこのような意味でじつに奇妙なもので、全集自体の「いい加減さ」を明瞭に示していると思われる。
 国書刊行会のこの全集担当者は気の毒だとずっと思ってきたが、その担当者でも回避できないミスがあったと思われる。
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 なお、まさかとは思うが、この「22A」で明らかにされた「三人委員会」(誰々かは現在不明なまま)が編集して、「第22巻B」が刊行されるのだろうか。
 どうなろうと勝手で、お好きなようにという感じだが、そうなれば、「西尾幹二全集」は、(少なくとも最後は「本人編集」ではない、という一貫しない)ますます奇妙奇天烈なものになるだろう。そして、恥ずかしい印象だけ残して、内容はあっという間に忘れられるだろう。西尾幹二という名前も。
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  西尾幹二について、「自我自尊」・「唯我独尊」、「時代錯誤」・「古色蒼然」等々と全体的印象を語ったことがある。
 この巻を一瞥しても、その印象は変わらない。西尾幹二については、まだ書けることが「山ほど」残っている。それを書くことをもう諦めているのではない。
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2785/NHKというものの考え方③。

 NHKの番組批評のつづき。
 NHKの2024年8月下旬の<クローズアップ現代>で、戦時中に(国籍上の)イギリス人を収容する「抑留所」が日本にあった、ということが取り上げられていた。
 そういう事実を伝え、当時の関係者の「証言」を伝えて残すことに反対しはしない。いや、必要なことかもしれない。
 だが、この問題の教訓?を今日にどう具体的に生かすかは、議論がありうるだろう。
 NHKのサイトを覗いてみると、この番組の制作意図として、「戦争が絶えない世界と国際化が進む日本へのヒントを探りました」、と書かれている。この文章は、当日の放送でも冒頭にあったのかもしれない。
 はて、どういう「ヒント」をNHKの製作者は探りあてたのか?
 これではいけないと秋月が感じたのは、番組のたぶん最後にキャスターの桑子真帆が語った、つぎの言葉だ。
 「属性よりも、個人ですね」。
 これが「ヒント」だとすると、桑子、番組製作者、NHKは「狂って」いるだろう。
 両親がイギリス人だった子供で戦時中の日本の学校に通っていて、〈日本が好きだった〉者も、いただろう。
 しかし、問題は、「属性」と「個人」を対比させて、後者を最大限に優先させれば解決する、というものではない。
 NHK自体が日本の法律にもとづいて設立された法人で(「特殊法人」等々の範疇論議は、言葉・概念の問題)、その名のとおり「日本」という属性を背負っている。
 NHKはなぜ、アメリカ・大リーグの、大谷翔平選手等が所属する球団の試合をほとんどもっぱら中心にして、生放送・中継をえんえんと繰り返したのだろうか。大谷等の「個人」に注目した、とでも言うのだろうか。
 誰もが純粋な「個人」ではおれず、種々の「属性」があることはあまりにも当然のことだろう。
 にもかかわらず、平然と、堂々と、いわゆるゴールデンタイムの放送で、「属性ではなく、個人ですね」と言い放つ人物がNHKにいる、あるいはNHKが起用している(桑子真帆の雇用形態を知らない)ことに、きわめて驚き、危険性すら感じた。
 こういう曖昧さ、緩さは、関連団体の中に中国政府主張そのままの見解を生放送中に発言した(国籍上の)中国人がいたとかのニュースがあったことと(詳細は知らない)、どこかで関係しているのではなかろうか。
 元に戻ると、70年以上前の日本政府の行動をいくら批判し続けたところで(それを一般に否定はしないが)、今日の、現在の日本に役立つ「ヒント」を提供できるわけでは絶対にない。
 何やら偽善家ぶった、あるいは「政治的コレクトネス」を追求しているがごとき番組や人々が、NHKにはときにある、または存在しているようだ。
 美しく虚しい言葉で、貴重な電波を使わないでいただきたいものだ。
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2784/R.パイプス1990年著—第14章②。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 〈第14章・革命の国際化〉の試訳のつづき。
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 第14章第一節②。
 (06) 西側はボルシェヴィズムに大きな関心をもたなかったとしても、ボルシェヴィキには西側に重大な関心があった。
 ロシア革命は、その元の国に限定されたままでは存続しなかっただろう。ボルシェヴィキが権力を奪取した瞬間から、それは国際的な意味をもった。
 ロシアの地政学的位置だけによっても、ロシアが世界大戦から離れることは許されなかった。
 ロシアの多くは、ドイツの占領下にあった。
 やがて、イギリス、フランス、日本、アメリカが形だけの派遣部隊をロシアに上陸させた。東の前線を再活性化させようとの試みは失敗した。
 依然としてもっと重要だったのは、革命はロシアに限られるべきでなく、限られることもあり得ない、革命が西側の産業国家に拡大しなければロシアは破滅する、という確信が、ボルシェヴィキにあったことだ。
 ボルシェヴィキがペテログラードを支配したまさにその最初の日に、講和布令は発せられた。それは、外国の労働者たちに対して、ソヴェト政府が「労働者、被搾取大衆を全ての隷従と搾取から解放する任務を首尾よく成し遂げる」(注2)よう決起し、助けることを強く呼びかけるものだった。
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 (07) これは、新しい言葉遣いで覆われていたけれども、既存の全ての政府に対する、そして主権国家の内政問題への全ての干渉に対する、戦争の宣言だった。内政干渉は当時およびのちに頻繁に繰り返されることになる。
 そのような意図があることを、レーニンは否定しなかった。
 「全ての諸国の帝国主義的強奪に対して、我々は挑戦状を突きつけた」。
 外国での内戦を促進しようとするボルシェヴィキの企ての全て—文書アピール、助成金や援助金の提供、軍事的協力—は、ロシア革命を国際化させた。
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 (08) こうして外国の政府が彼らの国民に反乱や内戦を刺激することは、「帝国主義的略奪者」に対して、同じように報復する全ての権利を与えた。
 しかしながら、すでに述べた理由で、実際には、諸大国はこの権利を行使しなかった。いずれの西側政府も、大戦中もその後も、共産主義体制を打倒するようロシア国民に対して訴えることをしなかった。
 ボルシェヴィズムの最初の年でのこのような限定的な干渉しかしなかった動機は、もっぱら、彼らの個別的な軍事的利益のためにロシアを役立たせることにあった。
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 第一節、終わり。

2783/生命・細胞・遺伝—19。

 染色体の数が(23対)46本というのは、人体全体にある染色体数ではなく、一つの細胞内の数だとは、何となく分かっているような気がする。
 だが、遺伝子の数や塩基対の数(2本の「柱」に付く「塩基」の数の半分)となると、こうした分野についての素人には、いったいどの範囲の中の数かが怪しくなることがある。
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 ヒトがもつ遺伝子の数について、確定的で厳密な数値を示している書物等はない。
 だが、20,000と30,000の間の数値であることに一致はある、と思われる。
 若干の例を示す。
 本庶佑・ゲノムが語る生命像(2013)—約2万〜3万。
 島田祥輔・遺伝子「超」入門(2015)—約22,000。
 小林武彦・DNAの98%は謎(2017)—約22,000。
 太田邦史・エピゲノムと生命(2014)—約21,000。
 黒田裕樹・休み時間の分子生物学(2020)—約21,000。
 S.ムカジー・遺伝子(2021)—約21,000〜23,000。
 NHK取材班・シリーズ人体·遺伝子(2019)—約20,000。
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 細かな数値に拘泥する意味は全くない。
 細胞分裂が始まると遺伝子群が46本の染色体の中に分かれて「くるまれ」る、きれいに46(または23)等分化されるのではない、という知識からすると、これらの遺伝子数は、一つの細胞中にある遺伝子の数だ、ということを確認するしておくことが重要だ(秋月にとっては)。
 したがって、一人の人体全体の中には、<上の遺伝子数×細胞数>の遺伝子があることになる。
 但し、全ての(特定のアミノ酸生成を指示する)遺伝子が「発現」したり、「利用」されたりするのでは全くない。
 もう一つ、確認しておくべきなのは、つぎだ。
 遺伝子数は、ヒト・人間の全てで同じではなく、個体によって異なる。「約」22,000、「約」21,000 等だ。
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 遺伝子数のほかに、「塩基対」数も記述ないし紹介されていることがある。
 いちいちの文献を挙げないが、ほとんどがつぎの数字だ。
 30億、または32億
 「億」という数字になると一瞬は迷うが、これまた、一人の人体全体ではなく、一つの「細胞」内の塩基対の数だろう。
 〈ヒトゲノム)内にあるとされる諸数値もまた、一つの「細胞」についてのものだろう。
 したがって、「ヒトゲノム」は30億-32億の「塩基対」で構成され、その中に2万-3万(2万-2万2000)の「遺伝子」がある、ということになる。
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2782/生命・細胞・遺伝—18。

 生物=生命体とは、「『外界』と明確に区別される界壁(膜、皮膚等)をもつ統一体で、外部からエネルギーを取り込み代謝し、かつ自己増植または生殖による自己と同『種』の個体を産出し保存する力をもつ」もの、をいう(No.2723/2024.06.06)。
 これは、通常語られる生物=生命体の定義の三要素を含め込んで、秋月なりにまとめた定義らしきものだ。
 この「生命体」を説明しようとするとき、いったい何から、どこから始めるのが適切だろうか。唯一の正解はないだろう。つぎが考えられる。
 地球上(内)の単細胞生命体誕生、真核生物とくに種としてのヒト=ホモ・サピエンスの誕生、「細胞」、「細胞核」、DNA、遺伝子、「ゲノム」(とくにヒトゲノム)、あるいはほとんどの生命体に共通する〈セントラル・ドグマ〉、あるいは「細胞分裂」。
 上の「細胞」以下は関係し合っている。「細胞分裂」から始めた場合にのみ「染色体」も出てくるが、この「染色体」は説明にとって不可欠の概念だとは(秋月には)思われない。
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 ゲノム(genome)は、遺伝子(gene)の全体あるいはその集合ではない。
 「遺伝子の全体というより、『その生物をつくるのに必要な遺伝情報の全体』といった意味をもつ」という説明がある(2024年9月、武村政春・DNAとは何だろう?—「ほぼ正確」に遺伝情報をコピーする巧妙なからくり(講談社ブルーバックス)。
 これは「遺伝子」と「遺伝情報」の区別が前提になっていて、分かりづらい。
 つぎの叙述の方が、私には理解しやすい。「遺伝子」と「塩基配列」の区別は分かるからだ。
 当初は「『すべての遺伝子』という意味」だったが、現在では「範囲はさらに広がり」、『すべての塩基配列』と見なしています」(島田祥輔・大人なら知っておきたい-遺伝子「超」入門(2015、パンダ·パブリッシング)。
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 ともかくも、ヒトゲノム計画が終了して最初の研究報告が発表されたとき、研究者たちは喫驚した、と秋月が推測するのは、つぎのことだ。すなわち、ヒトゲノムとは大まかにはDNAの総体なのだが、そのDNAの約2%だけが遺伝情報をもつにすぎない、と明らかになったということ。
 ここで「遺伝情報」とは厳密にはまたは狭義には、〈特定のタンパク質=アミノ酸の生成〉を指示する情報をいう。そしてこれが厳密な・狭義の「遺伝子」だ。そしてこの部分、つまり特定のタンパク質の生成を指示する=「コードする」部分を〈エクソン〉という。
 但し、エクソン部分を分断して介在する箇所があって、これは〈イントロン〉と称され、「遺伝子」関連部分に含められている(ようだ)。
 なお、DNAがmRNAに「転写」される過程で、イントロンは除去され、エクソン部分だけが残る(=その部分だけが転写される)。この除去のことを〈スプライシング〉という。
 DNAのうち、エクソン部分は(ある文献によると)2パーセントにすぎない。イントロンを含めても、「遺伝子」関連部分はDNAの20パーセント程度にすぎない(小林武彦・DNAの98%は謎—生命の鍵をにぎる「非コードDNA」とは何か(2017年11月、講談社ブルーバックス)による)。但し、武村政春・DNAとは何だろう?(上掲)によると、エクソンは1.5パーセントと明記され、イントロンを含めて約25パーセントと表示されている。
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 DNAと遺伝子は、物理的、位置的にどういう関係にあるのだろうか。
 DNAが「二重らせん」構造をしていることはかなり広く知られている(1953年に発見された)。二本のDNAがらせん状に〈ヒストン〉といういわば「柱」に巻きついていることから、こう呼ばれる。
 二本のDNAはともに、〈ヌクレオチド〉と称される小単位が長くつながったものだ。各ヌクレオチドは、①塩基、②糖(五炭糖)、③リン酸からなる。③リン酸はいわば「のりのような接着剤」となって、上下の別のヌクレオチドとくっけさせ、長い一本のDNAを形成する。
 「遺伝」情報が入っている可能性があるのは、①塩基だ。A、T、G、Cの4種がある。
 一本のDNAにもう一本のDNAが「接合」して、「はしご段」またはより正確にはらせん状に巻く「縄ばしご」と比喩し得るものが出来上がる。
 「接合」するのは①塩基だけで、接合したものは①‘〈塩基対〉と呼ばれる。接合した場合、比喩的には、①’塩基対が「はしご」の横板または横縄部分になり、②と③は、にぎる二本の「柱」または「縄柱」になる。
 二つの「塩基」から一つの「塩基対」ができるが、接合する二つの塩基には、「相補」性がある。
 すなわち一方がかりにそれぞれA、T、G、Cだとすると、「接合」する別の塩基の性格は必ず、それぞれ、T、A、C、Gになる。別言すると、A-T、G-Cという対応または「相補」関係しかない(不思議なことだが、別の一本は正確な複製のための「予備」だともされる)。
 なお、ある塩基(・塩基対)と上下のそれの距離は、3.4オングストローム=0.34ナノメートル程度だという(上掲・武村)。100億オングストローム=1mだから、3.4/100億メートル)。
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 一本のDNAをタテに長く続くものと仮定した場合、タテに続く塩基の並びを〈塩基配列〉という。そして、3個から成る塩基配列で最大で64の異なるアミノ酸を特定することができる。塩基には上記のとおり4種あるので、4×4×4=64だからだ。そして、アミノ酸は20種類しかないからだ(4×4=16では足りない)。3個から成る塩基配列のことを〈コドン〉と言う。
 塩基配列は、塩基の4種の性格符号の組み合わせ方・つながり方によって、区切りとなる〈最初〉と〈最後〉が指定される、とされる。「開始コドン」「終止コドン」だ。
 この〈最初〉と〈最後〉の間のコドンの集まりが、一定の「遺伝情報」を示すことがあり得る。繰り返すと、一定範囲の塩基とそれから成る塩基配列が一定の「遺伝情報」(一定のアミノ酸の結合の仕方)を示していていることがあり得る。
 この場合、その(一定の区切り内の)部分を、「遺伝子」という。より正確には、その一定の塩基配列に「接合」している、「相補的」な塩基配列を含めて言う。
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 こうして、DNAと「遺伝子」がつながった。前者は形態・性格に、後者は「情報」という機能に着目しているので同一次元に並べるに適さないが、大雑把にはつぎのように言えるだろう。
 細胞>細胞核>DNA>塩基配列>遺伝子>コドン>塩基(・塩基対)。
 そして、ヌクレオチド=塩基+五炭糖+リン酸。   
なお、〈DNA〉=「デオキシリボ核酸」は、ヌクレオチド(nucleotide)を構成するここでの糖は「デオキシリボース」で、それに塩基(base)とリン「酸」(acid)が加わってヌクレオチドになり、かつ細胞「核」内にあるがゆえの呼称だと(秋月には)思われる。「核酸」=nucleic acid。
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 以上はほとんどが再述で、復習として一括して書いた。

2781/R.パイプス1990年著—第14章①。

 Richard Pipes には、ロシア革命期(とりあえず1917-1921)を含む、つぎの二つの大著がある。
 A/Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
   **「1899 -1919」が付くのは1997年版以降。
 B/Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime 1919-1924 (1993).
 上のA は、つぎのような構成だ(再掲。頁は追加)。
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 序説。
 第一部・旧体制の苦悶。 p.1〜p.337.
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。 p.341〜.
  第9章/レーニンとボルシェヴィズムの起源。 p.341〜.
  第10章/ボルシェヴィキによる権力の追求。 p.385〜.
  第11章/十月のクー。 p.439〜.
  第12章/一党国家の形成。 p.507〜.
  第13章/ブレスト=リトフスク。 p.567〜.
  第14章/革命の国際化。 p.606〜.
  第15章/「戦時共産主義」。 p.671〜.
  第16章/村落に対する戦争。 p.714〜.
  第17章/皇帝家族の殺害。 p.745〜.
  第18章/赤色テロル。 p.789〜p.840.
 あとがき。 〜p.842.
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 もともと第一部をしっかり読む気はなかった。第二部・第9章からこの欄への試訳の掲載を始めた(2017年)。だが、巻末まで終わっておらず、掲載済みは第9章〜第13章だ。これは、第二部の5割余、全体の3割余にとどまる。
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 Richard Pipes(リチャード・パイプス、1923〜2018)とLeszek Kolakowski(L・コワコフスキ、1927〜2009)のいくつかの書物は、2017年以降現在までの私の、大部分でも半分でもないが、重要な一部だった。2017年以降も生きていたからこそ、二人の書物にめぐり合うことができ、それまでの発想・思考方法自体をある程度は大きく変えることになった。生き物としての人間(の個体)の必然とはいえ、「知識」以上の多くのことを教えられたので、比較的近年に逝去し、今は現存していないことを意識すると、涙が滲む思いがある。
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 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990)の第14章の「試訳」を始める。
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 第14章/革命の国際化。
 休戦を達成することは、全世界を征服することだ。
 —レーニン、1917年9月。
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 第一節/ロシア革命への西側の関心の少なさ①。
 (01) ロシア革命は、やがてフランス革命以上に、世界史に大きな影響を与ることになる。だが最初は、フランス革命ほど注目を浴びなかった。
 これは二つの要因でもって説明することができる。フランス革命がより有名だったこと、二つの事件が異なる時期に起きたこと。
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 (02) 18世紀後半、フランスは、政治的かつ文化的に、ヨーロッパの指導的大国だった。ブルボン王朝は大陸の第一の王朝で、君主制絶対主義を具現化していた。また、フランス語は、文化的社会の言語だった。
 諸大国は最初は、フランスを揺さぶった革命の態様に喜んだ。しかしすぐに、彼ら自体の安定に対しても脅威であることに気づいた。
 国王の逮捕、1879年9月の大虐殺、専制王を打倒するとのジロンド(the Girondins)の諸外国への訴えからして、フランス革命はたんなる政権の変化ではないということに、全く疑いはなかった。
 一巡りの戦争がほとんど四半世紀のあいだ続き、ブルボン朝の復活によって終わった。
 牢獄に収監中のフランス国王へのヨーロッパの君主たちの関心は、彼らの権威の源が正統性原理にあり、かつ国民主権のためにこの原理がいったん廃棄されれば彼らの安全も保障されないとすれば、理解することが可能だ。
 なるほどアメリカの植民地は早くに民主制を宣言していたが、アメリカ合衆国は海外の領域にあり、指導的な大陸国家ではなかった。
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 (03) ロシアはヨーロッパの外縁にあり、半分はアジアだった。そして、圧倒的に農業国家だった。したがって、ヨーロッパは、ロシア国内の進展が自分自身に関係があるとは考えていなかった。
 1917年の騒乱は、既成の秩序に対する脅威ではなく、ロシアが遅れて近代に入ることを表明するものと、一般に解釈された。
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 (04) こうした無関心が大きくなると、つぎのようなことになる。すなわち、歴史上最大で最も破壊的な戦争の真っ只中で起きたロシア革命は、正当に評価すべき事件ではなく、その戦争の一つのエピソードにすぎないという印象を、当時の人々に与えた。
 ロシア革命が西側に生じさせたこの程度の興奮は、ほとんどもっぱら、軍事作戦への潜在的な影響と関係していた。
 連合諸国と中央諸国はいずれも、二月革命を歓迎した。但し、異なる理由で。
 前者は、人気のない帝制の崩壊はロシアの戦争遂行を再活性化するだろう、と期待した。
 後者は、ロシアを戦争から退出させるだろう、と期待した。
 もちろん、十月のクーは、ドイツでは熱狂的に歓迎された。
 連合諸国の中には入り混じった受け取り方があったけれども、確実なのは、警報は発せられなかったことだ。
 レーニンと彼の党は知られておらず、その夢想家的な計画や宣言は、誰も真面目に受け取らなかった。
 とくにブレスト=リトフスク条約後の主な見方は、ボルシェヴィキはドイツが作ったもので、戦闘が終了すれば舞台から消え去るだろう、というものだった。
 ヨーロッパ諸国の政府は例外なく、ボルシェヴィキの潜在的可能性とそれがもつヨーロッパの秩序に対する脅威を、いずれも極端に過小評価した。
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 (05) このような理由で、第一次大戦の最後の年でも、そのあとに続く休戦に際しても、ロシアからボルシェヴィキを排除する企ては、何ら試みられなかった。
 諸大国は1918年11月まで相互間での戦闘に忙殺されたので、遠く離れたロシアでの進展を気にかけることができなかった。
 ボルシェヴィキは西側文明に対する致命的な脅威だとの声は、あちこちで少しは聞かれた。この声はドイツ軍でとくに大きかった。ドイツ軍は、ボルシェヴィキによる政治的虚偽宣伝や煽動と最も直接に接する経験を有していたからだ。
 しかし、そのドイツですら結局は、直接的な利益を考慮することを、あり得る長期的な脅威への関心よりも優先した。
 レーニンは、交戦諸国は講和締結後に力を合わせて、レーニンの体制に対抗する国際的十字軍を立ち上げるだろう、と絶対的に確信していた。
 彼の恐怖は、根拠がなかった。
 イギリス軍だけが積極的に、反ボルシェヴィキ勢力の側に立って干渉した。但し、熱意半分のことで、ある一人の人物、Winston Churchill の先導によってそうしたのだった。
 その干渉は真剣には行なわれなかった。西側が用意できる軍事力は干渉が必要とする軍事力よりも強く、また、1920年代の初めにヨーロッパの大国は共産主義ロシアと講和し〔、国家承認し〕たからだ。
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 第一節②へとつづく。

2780/NHKというものの考え方②。

 No.2773/2024.10.22)で民間放送に触れたのは、今年になってからのNHKの二つのテレビ番組の内容に対する疑問または不満を書いておきたかったことの前振りのようなものだった。
 「NHKというものの考え方」というのも何やら大仰な表題だが、「〜というものの考え方」という記事をいずれ書きたいからで、以下はたんに番組批評にすぎない。宣伝広告がない点は、明らかにNHKの方がよい。
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 第一。NHKスペシャル/未解決事件—下山事件。
 2024年3月。同4月に再放送。どちらで観たのか忘れた。前者だとすると、2023年度の制作かつ放送。TVer とやらでもう一回観ないで、以下は書く。
 番組の終わりのエンディング・ロールに出てくる制作関係人名等の列の長さがすごい。多数の職員・人々がかかわったということだろう。
 登場する俳優陣もかなりすごい。大沢たかお、森山未来ら。
 しかし、これだけの俳優や制作人員、そして金をかけながら、相当に無駄に使った番組だと感じた。
 つぎの感想をたまたまネット上で見たが、<ゴマすり>論評ではないか。「『忖度ゼロ』番組レビュー」と銘打つのは恥ずかしい
 「感情を揺さぶられる人間ドラマに仕上がってい」た。
 「…脚本・演出は見事」、「脚本—さん、演出は—さんへの信頼感が一気に高まりました」。
 「つまり、…社会派作品にありがちなメッセージ性ありきのドラマではなく、最高レベルのエンタメ性があったのです」。
 以上、2024年4月、同一の書き手(木村隆志)による。
 こんな感想もあるのかと興味深かったたので、一部写しておいた。
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 私の感想は、つぎのとおり。
 第一。下山事件の<謎とき>としては、ほとんど新鮮味がない。
 新しい証言者の発見に新味があったのかもしれないが(不確認。「極秘資料」が何か分からない)、すでに1970年代には知られていた松本清張(番組内でも登場)等の「他殺説」の範囲内に収まっていると見える。なお、秋月は、この事件に関する、入手が容易に可能な本は、かつてたぶん全部読んだ。また、この説に立つたぶん別の放送局による番組(テレビドラマ)か映画も観たことがある。
 NHKのこの番組の制作責任者(不明)は、過去の関係文献、映画・ドラマ等を知っているのか?
 知った上でなら、この番組のどこに新鮮味、独特さがあったのだろうか。
 第二。主演者の一人の言葉またはナレーションとして繰り返されるものに、〈日本に(国家としての)主権があるのか〉という述懐がある。
 現在のアメリカへの「従属?」をふまえて、この点を強調したかったのかもしれないが、幼稚であり、何の迫力もない。
 2020年代の現在の問題には立ち入らない。
 下山事件発生の1949年、日本はGHQ(実質的に米軍)による「武力占領」のもとにあった。すでに日本国憲法は施行されていたのでまさかこの番組制作責任者は日本は「独立」していたと勘違いしていないことを望むが、形式的にせよ日本が「独立」したのは1951年だ。
 〈2.1スト〉もGHQによって潰されたが、当時の現行法だった法令にもとづく裁判所の判決・決定ですら、GHQによって覆されたことがある。その例を、秋月は知っている。
 立法府、司法府についてもそうなのだから、警察や検察の動きがGHQの意向の範囲内になることくらい、当たり前のことではないか。
 したがって、主演者等が<日本に主権はあるのか>と何やら神妙に、深刻ぶって述懐するのは、ほとんど<喜劇>だった。苦笑を禁じえなかった。そして、現実・史実と異なる方向への一種のイメージ操作になるから、危険でもある。
 ともあれ、長いエンドロールと俳優陣にしては、内容が幼稚すぎる。金と人がもったいない。二部に分けてあるというので少しは期待したが、大きなはずれだった。
 もう一つは別の回にする。
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2779/O.ファイジズ・レーニンの革命⑥。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
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 第六節。
 (01) ボルシェヴィキの初期の布令の中で、10月26日のソヴェト大会で採択された講和に関するものほど、感情に訴える力をもったものはない。
 レーニンが、その布令を読み上げた。その布令は無併合、無賠償という古いソヴェトの定式にもとづいて「公正で民主的な講和」を訴える、爆弾のごとき「全ての交戦諸国の国民への宣言」だった。
 布令の趣旨が明らかになったとき、Smolny のホールには、圧倒的な感動の波が生じた。
 John Reed は<Ten Days That Shook the World>の中で、こう思い出した。「我々は立ち上がっていて、一緒に口ずさんで、滑らかに上昇してくる the Internationale の斉唱に加わった。…『戦争が終わった』と私の近くにいた若い労働者が言った。彼の顔は輝いていた。」(注15)
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 (02) しかし、戦争は少しも終わらなかった。
 講和に関する布令は希望の表現であって、現実の言明ではなかった。
 ボルシェヴィキはそれを、西側での革命の炎を煽るために使った。
 それはボルシェヴィキにある、戦争を終わらせる唯一の手段だった。—いやむしろ、レーニンが示唆したように、戦争を一続きの内戦へと転化する唯一の手段だった。その内戦で、世界の労働者はそれぞれの交戦政府に対抗して団結するだろう。
 世界社会主義革命が差し迫っているとの信念は、ボルシェヴィキの思考の中核にあった。
 マルクス主義者としてのボルシェヴィキには、ロシアのような後進的農民国家で先進的産業社会のプロレタリアートの支持なくして革命が長く持続するとは、考え難いことだった。
 権力掌握は、ヨーロッパ革命の勃発が接近しているという想定のもとで実行された。
 西側からのストライキや暴動の報告は、世界革命が「始まっている」ことの兆候として歓迎された。
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 (03) しかし、この革命が起きることがなければ、いったいどうなるのか?
 そうなれば、ボルシェヴィキは軍隊がないこと(数百万の兵士たちは講和に関する布令は解隊する理由になると理解した)に気づき、ドイツによる侵略に防衛力なくして立ち向かうことになるだろう。
 ブハーリンのような、党の左派に属する者たちにとっては、帝国主義ドイツとの分離講和は、国際的信条に対する裏切りになる。
 彼らは、侵略者ドイツに対する「革命戦争」(ひょっとすれば赤衛隊による)を行なうという考え方に賛成した。それは西側での革命を刺激するだろう、とも論じた。
 これと対照的に、レーニンは、そのような戦争を持続する可能性についてますます懐疑的になった。
 軍隊が存在しないことに直面すれば、ボルシェヴィキには分離講和を締結するしか選択の余地はなかった。そうすれば、ボルシェヴィキに必要な、権力の基盤を固める「息つぎ」の時間が与えられるだろう。
 加えて、東側との分離講和によって中央諸国は西側の前線での戦闘を長引かせることになるので、ロシアのこの政策は、革命の可能性を高めそうだった。
 レーニンは、ヨーロッパでの戦争を終わらせたくはなかった。革命の可能性が大きくなるかぎりで、戦争ができるだけ長く続いてほしかった。
 ボルシェヴィキは、戦争を革命目的のために利用する達人だった。
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 (04) 1917年11月16日、ソヴィエト代表団がドイツ軍との休戦を交渉すべく、ベラルーシの都市、ブレスト=リトフスクへ出発した。
 12月半ば、トロツキーが派遣された。講和関係文書への署名が行なわれる前に西側で革命が始まるという望みをもって、講和交渉を長引かせるためだった。
 ドイツの我慢は、まもなく切れた。
 ドイツはウクライナとの交渉を始めた。ウクライナにはロシアからの独立を達成するためにドイツと保護関係になることを受け容れる用意があった。そして、この脅威を、ロシアがドイツの頑強な要求(ポーランドのロシアからの分離、Lithuania とほとんどのLatvia のドイツによる併合等々)を受諾するための圧力として用いた。
 トロツキーは延期を求め、自分以外のボルシェヴィキ指導者たちと協議するためにペテログラードに戻った。
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 (05) 1918年1月11日の中央委員会での決定的会合では、最大多数派は、ブハーリンの革命戦争の主張を支持した。
 トロツキーは、もっと話し合おうと提案した。
 しかし、レーニンは、分離講和以外の選択の余地はない、それは早ければ早いほどよい、と執拗に主張した。
 彼は、ドイツ革命が勃発する可能性に賭けて革命の全体を遅らせることはできない、と論じた。
 「ドイツはまだ革命を身ごもっているだけだ。我々はすでに、完全に健康な子どもを産んでいる」(注16)。
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 (06) ジノヴィエフと、影のごとき存在のスターリン(Sukhanov によるとこの頃は「ぼんやりした灰色」だった)を含む中央委員会内の他の4人だけの支持しかなかったので、レーニンは、ブハーリンに反対して多数派となるために、トロツキーと同盟することを強いられた。
 トロツキーは、交渉を引き延ばすためにブレスト=リトフスクへと送り返された。
 しかし、2月9日、ドイツはウクライナとの条約に署名し、1週間後に、ロシアとの戦闘を再開した。
 5日経たない間に、ドイツ軍はペテログラードに向かって150マイル前進した。—それまでの3年間にドイツ軍が前進したのと同じ距離。
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 (07) レーニンは、激しく怒っていた。
 ドイツとの条約への署名を拒んだ中央委員会内の反対派ができたのは、敵が前進するのを可能にしたことだった。
 レーニンは、中央委員会での熱気ある議論の末に、2月18日に自分の意見を通過させた。
 ドイツの諸条件を受諾するとの電報が、ベルリンに発せられた。
 しかしながら、ドイツ軍は数日のあいだ、ペテログラードに向かって進み続けた。
 ドイツの航空機がペテログラードに爆弾を落とした。
 ドイツ軍は首都を占領し、ボルシェヴィキを排除することを計画していると、レーニンは確信した。
 レーニンは従前の立場を変え、革命戦争を呼びかけた。
 連合国からは、軍事的な助力が求められた。連合国はロシアを戦争にとどまり続けさせることに関心があり、そのことは、政府の性格によるとか、提供された助力を理由として、という以上のものだった。
 ボルシェヴィキは、首都をペテログラードからモスクワへと避難させ始めた。
 ペテログラードではパニックが起きた。
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 (08) 2月23日、ドイツは講和のための最終文書を提示した。
 このときドイツは、その日まで5日間以内にドイツ軍が掌握していた全ての領土を要求した。
 レーニンは中央委員会で、苛酷な講和条件を受諾する以外に選択肢はない、と強く主張した。
 こう論じた。「もしもそれらに署名をしなければ、数週のうちにソヴェト権力に対する死刑判決に署名することになるだろう」(注17)。
 ドイツの提案を受諾することが決められた。
 ブハーリン派は、抗議して中央委員会から離脱した。
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 (09) 講和条約は、最終的に3月3日に調印された。
 ボルシェヴィキの指導者の誰も、ブレスト=リトフスクに行かなかった。そして、国じゅうで「汚辱の講和」と見なされた条約に彼らの名前を残すことをしなかった。
 左翼エスエルは、抗議してソヴェト政府から離脱した。そしてボルシェヴィキには、自分たち自身だけの権力が残された。
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 (10) ブレスト=リトフスク条約のもとで、ロシアはヨーロッパ大陸上のほとんど全ての領土を放棄することが義務づけられた。
 ポーランド、フィンランド、エストニア、リトゥアニアは、ドイツの保護のもとでの一種の独立を達成した。
 ソヴェト軍団は、ウクライナから退避した。
 最終の計算では、ソヴェト共和国は人口(5500万人)の34パーセント、農業地の32パーセント、工業企業の54パーセント、炭鉱の89パーセント(泥炭と木材は最大の燃料源になっていた)を喪失した。
 ヨーロッパの大国であったロシアは、17世紀のモスクワ公国と同じ程度の地位へと小さくなった。
 だが、レーニンの革命は、救われた。
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 第四章第六節、終わり。第四章全体も終わり。

2778/O.ファイジズ・レーニンの革命⑤。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
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 第五節。
 (01) ロシアの国民的議会の閉鎖に対して、全民衆的な反応はなかった。
 エスエルを支持する伝統的基盤である農民層には、無関心があった。
 エスエルは自分たちの憲法会議への敬意を農民たちは共有してくれている、と考えていたが、これは間違っていた。
 教養のある農民たちにとってはおそらく、憲法会議は「革命」のシンボルだった。
 だが、自分たちの政治的思考の及ぶ範囲が彼ら自身の村落に限定されていた農民大衆にとっては、憲法会議は、都市的政党が支配する遠く離れた議会であり、評判の悪い帝制期のドゥーマを連想させるものだった。
 彼らには、自分たちの考えに近い村落ソヴェトがあった。実際には、より革命的形態での村落集会にすぎなかったけれども。
 あるエスエルの宣伝活動家は、農民兵士たちの集団がこう言うのを聞いた。「何のために憲法会議が必要なのか?、我々のソヴェトがすでにあり、我々の代表者は、集まって、何でも決定できるというのに」(注12)。
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 (02) 農民層は、村落ソヴェトを通じて、地主たち(gentry)の土地と財産を自分たちに分けた。
 そうしたのは社会正義に関する彼らの平等主義的規範に沿ったからで、10月26日に全国ソヴェト大会が採択した土地に関する布令による制裁(sanction)を必要としなかった。
 いかなる中央の権力も、彼らがすべきことを語りはしなかった。
 村落共同体(commune)は、各世帯の「食べる者」の数に従って、没収した耕作地の細片を割り当てた。
 土地所有者には、農民がするように自分で労働するならば、通常はそのための区画が残された。
 村落共同体の意識の中核にあった土地と労働の権利は、基本的な人間の権利だと理解されていた。
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 (03) 左翼エスエルは、ペテログラードでの敗北の後で、民主主義回復への支持を集めるべく、彼らの元々の、地方の根拠地に戻った。
 そのことは、地方の生活の新しい現実について、新たな教訓を明らかにすることになった。
 都市部では次から次に、穏健な社会主義者たちが、ソヴェトの支配権を極左へと譲り渡した。
 ボルシェヴィキと左翼エスエルが、準工業的農民の大部分とともに労働者と兵士たちの支持をあてにすることができた北部と中央の工業地域では、地方ソヴェトのほとんどは、たいていは投票箱を通じて、10月の末までに、ボルシェヴィキの手に握られた。そして、Novgograd、Pskov、Tver でのみ、若干の激しい戦闘が起きた。
 さらに南部の農業地方では、権力の移行は長くかかり、主要な都市の路上の戦闘によって血が流れた。
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 (04) ソヴェト権力の確立にしばしば伴なっていたのは、「ブルジョア」の財産の没収だった。
 レーニンは地方ソヴェトの指導者に対して、復讐によって社会正義を実現する形態として、「略奪者からの略奪」を組織することを推奨した。
 ソヴェトの役人たちは、薄い令状を持ちつつ、ブルジョアの家宅を周りに行き、「革命のために」貴重品や金銭を没収することになる。
 ソヴェトは<burzhooi>〔ブルジョア〕から税金を徴収し、納入を強制するために人質を監獄に入れた。
 こうして、ボルシェヴィキのテロルが始まった。
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 (05) 報復と復讐は、革命の力強い駆動力だった。
 巨大な数のロシアの民衆にとって、全ての特権の廃止が革命の基本的原理だった。
 ボルシェヴィキは、この特権に対する闘争に制度的形態を与えることによって、自らの運命に何ら良いことがなくとも富者や強者が破壊されるのを見ることに満足する、そのような貧しい、多数の民衆から革命のエネルギーを引き出すことができた。
 ソヴェトの政策で民衆に訴えることができたのは、つぎだった。昔の豊かな階級がその持つ広い家屋を都市の貧しい民衆と分かち合うよう、あるいは路上で雪やゴミを清掃するような単調かつ退屈な作業をするように強いること。
 トロツキーはこう述べた。「何世紀にもわたって、我々の父親や祖父たちは、支配階級の汚物やゴミを清掃してきた。だが今は、我々が彼らに我々の汚物をきれいにさせよう。我々は彼らの生活を快適でないものにして、ブルジョアにとどまるという希望を失わせるようにしなければならない」(注13)。
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 (06) ボルシェヴィキは、<ブルジョア>を「寄生虫」、「階級の敵」だと描いた。
 そして、大規模に彼らを破壊するテロルを行うことを奨励した。
 レーニンは、1917年12月に「競争を組織する仕方」を書いて、それぞれの町や村には「ロシアの大地からノミ、シラミ—ごろつき、狂人—、金持ち、等々を一掃する」それぞれに独自の手段が残されるべきだ、と提案した。
 「ある所では、10人の金持ち、12人のゴロつき、仕事を怠ける6人の労働者が、監獄に入れられるだろう。
 二つめの場所では、彼らはトイレ掃除をさせられるだろう。
 三つめの場所では、一定の時間を務めた後で『黄色い切符』が与えられるだろう。そうすると、彼らが直るまで、<有害な>者たちだと誰もが警戒し続ける。
 四つめの場所では、全員のうち10人ごとの怠け者の中から1人が、ただちに射殺されるだろう。」(注14)
 「ブルジョアジーに死を!」は、チェカ(Cheka)の建物の壁に書かれていた。
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 (07) 財産を奪われ、名誉を傷つけられ、「かつての人民」は生き残りのためにもがいた。
 彼らは、食っていくだけのために最後の所有資産を売ることを強いられた。
 Meyendorff 男爵夫人は、5000ルーブルでダイアモンド製ブローチを売った。—一袋の小麦を買うことができた。
 貴族の御曹司たちは、街路上の売り人へと格落ちした。
 多数の者が全てを売り払い、外国へと逃亡した。—およそ200万のロシア人エミグレが1920年代の初めまでに、Berlin、Paris、New York にいた。あるいは、南へと、ウクライナやKuban へ逃げた。そこは、反革命の白軍が勢力の主要な基盤としていた地域だった。
 白衛軍は、帝制軍、コサック、地主やブルジョアの息子たちで成る義勇部隊で、ボルシェヴィキに反抗する闘争でもって統合された。
 彼らの明瞭なただ一つの目標は、時計の針を1917年十月の前に戻すことだった。
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 第四章第五節、終わり。

2777/O.ファイジズ・レーニンの革命④。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
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 第四節。
 (01) 新しい体制が長く続くとは、ほとんど誰も考えなかった。
 「一時間のCaliphs 〔アラブの指導者〕」というのが、多くのプレスの判断だった。
 エスエル指導者のGots は、ボルシェヴィキに「数日間」だけを認めた。
 Gorky は2週間、Tsereteli は3週間だった。
 多くのボルシェヴィキは、それ以上に楽観的ではなかった。
 教育人民委員〔文部科学大臣〕のLunacharsky は10月29日に、妻にこう書き送った。「事態はまだ不安定なので、手紙から離れるときいつも、私の最後のものになるのか否かすら分かっていない。私はいつでも、牢獄に投げ込まれる可能性がある」(注9)。
 ボルシェヴィキは首都を辛うじて掌握していた。—ペテログラードには主要な官署の全てがあったが、国有銀行、郵便と電信は権力奪取に抗議してストライキに入っていた。一方、地方については何の統制も効かせていなかった。
 ボルシェヴィキは、ペテログラードに食糧を供給する手段を持ち合わせていなかった。鉄道への支配を失っていたので。
 パリ・コミューン—「プロレタリアート独裁」の原型—の運命と同様になるように見えた。それはフランス全土から切り離されていたので、1871年のフランス軍の攻撃に耐えることができなかった。
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 (02) 最も早い軍事的脅威は、ケレンスキーがもたらした。
 彼は10月25日に冬宮から逃げ、ペテログラードのボルシェヴィキと闘うために北部前線から18のコサック団をかき集めた。ペテログラードでは、カデットと将校たちの小さな部隊が、彼らを支援すべく決起することになっていた。
 一方でモスクワでは、ケレンスキーに忠実な連隊が、10日間、ボルシェヴィキと戦闘した。
 最も激烈な戦闘はKremlin の周りで起き、モスクワの貴重な建築上の財産の多くが損なわれた。
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 (03) 最初の内戦は、Vikzhel つまり鉄道労働組合の介入によって複雑になった。
 全社会主義政党の労働者で成っていたVikzhel は、鉄道輸送を停止すると脅かして、戦闘を中止し、社会主義連立政府樹立に向けた政党間交渉の開始をするようボルシェヴィキに強いようとした。
 首都への食糧と燃料の供給が切断されれば、レーニンの政府は存続できなかった。
 モスクワとペテログラードでのケレンスキー部隊との戦闘は、鉄道に大きく依存していた。
 ボルシェヴィキは10月29日に、メンシェヴィキとエスエルとの協議を開始した。
 しかし、レーニンは、いかなる妥協にも反対した。
 ケレンスキー兵団との戦闘の勝利が確実になるや、彼は政党間協議を潰し、それは最終的には11月6日に決裂した。
 ボルシェヴィキによる権力の奪取は、ロシアでの社会主義運動を分裂させた。それは取り返しのつかないものだった。
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 (04) 権力奪取は全ロシア・ソヴェト大会の名において実行された。しかし、レーニンには、ソヴェト大会または常設のその執行部〔ソヴェト中央執行委員会=ソヴェトCEC〕を通じて統治する意図は全くなかった。ソヴェト執行部では、左翼エスエル、アナキストと少数のメンシェヴィキが、レーニンの独裁を実施する機関である人民委員会議(Sovnarkom)を議会のごとく恒常的に制約しようとしていた。
 人民委員会議は11月4日に、ソヴェトによる同意なくして立法(legislation)をする権限が自らにある—これはソヴェト権力の原理を侵犯していた—、そして、その観点からしてソヴェトの意見を聴くことなく立法できる、と布告した。
 ソヴェト執行部は、12月12日に初めて2週間の会合を行なった。
 人民委員会議はそのあいだに、中央諸国との和平交渉を開始し、ウクライナでの戦争を宣言し、モスクワとペテログラードに戒厳令を敷いた。
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 (05) レーニンは、権力を握った最初の日から、それに反対する「反革命」的政党の破壊に着手した。
 10月27日、人民委員会議は反対のプレスを廃刊させた。
 カデット、メンシェヴィキ、エスエルの指導者たちは、軍事革命委員会によって逮捕された。
 11月の末までに監獄はこれらの「政治犯」で満ちたので、空き部屋を増やすためにボルシェヴィキは犯罪者たちを釈放し始めた。
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 (06) ゆっくりと、しかし確実に、新しい警察国家の姿が見え始めていた。
 12月5日に軍事革命委員会は廃止され、2日後にその任務は、Cheka (反革命と破壊活動に対する闘争のための非常委員会)へ移された。これは新しい保安機関で、やがてKGBになることになる。
 Cheka を設置した人民委員会議の会合で、そのボスのDzerzhinsky は、その任務を、内戦の「内部戦線」にいる革命の「敵たち」とそれらを死に至らせるまで闘うことだと説明した。
 「我々は、革命を防衛するためには何でもする用意のある、決然たる、頑強な、ひたむきの心をもつ同志たちを、あの前線—最も危険で厳しい前線—へと送る必要がある。
 私は革命的正義の形態を追求している、と考えるな。我々には、正義は必要ではない。
 今は戦争だ。—直接に向かい合った、決着がつくまでの戦争だ。
 生か死だ。」(注10)
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 (07) 反対諸政党は、憲法会議に彼らの希望をつないだ。
 憲法会議は確かに民主主義の本当の機関だった。成人の普通選挙でもって選出され、階級に関係なく全ての公民を代表した。
 一方で、ソヴェトは、労働者、農民、兵士だけを代表した。そして、ボルシェヴィキはソヴェトにあえて挑戦しているように見えた。ボルシェヴィキは実際には、分けられていた。
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 (08) レーニンはつねに、形式的な民主主義原理を侮蔑していた。
 彼がその四月テーゼで明瞭にしていたのは、ソヴェト権力を憲法会議よりも高次の民主主義の形態と見なす、ということだった。
 ソヴェトには「ブルジョアジー」のための場所はなかった。そして、彼の見方では、プロレタリアート独裁にはソヴェトのための場所はなかった。
 しかし、ボルシェヴィキによる権力掌握は、部分的には憲法会議の召集を確実にする手段として正当化された。—レーニンは七月事件以降、「ケレンスキー商会」は憲法会議を開かせようとしないだろうと論じていた。したがって、面目を失うことなくして、彼の約束にたち戻ることはできなかっった。
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 (09) さらに加えて、ボルシェヴィキの中の穏健派は、憲法会議のための11月の選挙運動に関与していた。
 カーメネフのような者たちは、地方レベルでソヴェト権力を国民的議会としての憲法会議と結びつけるという考え方に賛成すらしていた。
 憲法会議は、当時のロシアの革命的状況に適した、直接民主制の興味深い混成(hybrid)形態になっただろう。そしておそらく、ソヴェト体制の暴力的発展に進む全ての帰結と結びついた、内戦への螺旋状の下降へと国が向かうのを阻止することができただろう。
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 (10) 11月の選挙は、ボルシェヴィキに関する国民投票(referendum)だった。
 その評決は、不明確だった。
 エスエルが最大多数の票を獲得した(38パーセント)。だが、投票用紙は十月の権力奪取を支持する左翼エスエルと支持しない右翼エスエルを区別していなかった。
 エスエル党の分裂は最近だったので、印刷を変更することができなかった。
 ボルシェヴィキは、ちょうど1000万票(24パーセント)を得た。その多くは、北部の工業地帯の労働者と兵士によって投じられた。
 南部の農業地帯では、ボルシェヴィキは振るわなかった。
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 (11) ただちにレーニンは、宣言した。結果は不公正だ、と。理由はエスエルに分裂があったことだけではなく、十月の蜂起は人々の「頭の中に階級闘争意識を吹き込んだ」、よって国民一般の意見は選挙後に左へと動いているがゆえにだ。
 レーニンは強く主張した。「当然のことながら、革命の利益は憲法会議の形式的諸権利よりも高い位置にある」、憲法会議という「ブルジョア議会」は「内戦」の中で廃棄されなければならない(注11)。
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 (12) 1918年1月5日、憲法会議の開会日のペテログラードは、包囲された状態にあった。
 ボルシェヴィキは公共の集会を禁止していた。そして、市街地を兵団で溢れさせた。その兵団は、憲法会議を防衛するために労働組合が組織した5万人の示威行為者の大群に対して発砲した。
 少なくとも10人が殺害され、数十人が負傷した。
 政府の兵団が非武装の群衆に発砲したのは、二月革命の日々以降で初めてのことだった。
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 (13) タウリダ宮のCatherine ホールで午後4時に、憲法会議は召集されていた。緊張した雰囲気だった。
 すでに代議員とほとんど同数の兵士たちが入っていた。
 彼らはホールの背後に立ち、階廊に座り込んでいた。ウォッカを飲み、エスエルの代議員たちに悪罵の声を発しながら。
 レーニンは、帝政期の大臣たちがドゥーマの会期中に座っていた古い政府用特別室から、情景を眺めていた。
 彼には、決定的な戦闘が始まる前の瞬間の将軍のごとき印象があった。
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 (14) Chernov が議長となり、エスエルが討論を開始した。—彼らエスエルは、立法上の遺産として残したく、土地と講和に関する諸布令を憲法会議で採択させたかった。
 しかし、兵士たちのヤジが激しくて、誰も聞き取ることができなかった。
 しばらくして、ボルシェヴィキは、この憲法会議は「反革命者たち」の手中にあると宣言して、退出した。のちに左翼エスエルが、これに従った。
 そして、午前4時、赤衛隊が閉鎖の手続を始めた。
 赤衛隊の一員だった海兵が演壇に上り、Chernov の肩をそっと叩いた。そして、「警護兵が疲れたので」全員がホールから出て行ってほしい、と宣告した。
 Chernov は数分間、会合を続行した。だが、警護兵が威嚇したので、やむなく会議を延期することに同意した。
 代議員たちは出て行き、タウリダ宮は閉鎖された。
 これとともに、ロシアの12年間の民主主義の歴史は終焉した。
 代議員たちが翌日に再びタウリダ宮に戻ったとき、宮殿の建物に入るのを阻止された。そして、憲法会議を解散するとの人民委員会議(Sovnarkom)の布告を提示された。
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 第四章第四節、終わり。

2776/私の音楽ライブラリー044。

 音楽ライブラリー044。
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 117 Katie Melua, Fields of Gold, 2016. 〔Official〕

 118 Billie Eilish, No Time to Die, 2020. 〔Official〕
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2775/O.ファイジズ・レーニンの革命③。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
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 第三節。
 (01) ボルシェヴィキ指導者たちのほとんどが実際のような方法と時期で蜂起するのを望んでいなかった、というのは、ボルシェヴィキ蜂起に関する皮肉の一つだ。
 10月24日の夕方遅くまで、中央委員会の多数派と軍事革命委員会は、全国ソヴェト大会の開会の前に臨時政府の打倒があることを予期していなかった。その臨時政府打倒は、24日の翌日に、Smolny 研究所—かつては貴族の娘たちの学校だったことのある黄土色の古典的な宮殿—の白い柱廊のある舞踏会場で行なわれたのだったが。ここで打倒とは、ほぼ臨時政府の大臣たち(ケレンスキーを含まない)の逮捕(身柄拘束)を意味した。
 武装したボルシェヴィキの支持者たちは、首都ペテログラードを反革命の攻撃から防衛するためだけに、街路を占拠していた。
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 (02) レーニンの介入が、決定的だった。
 付け髭と頭に包帯を巻いた帽子で変装してペテログラードの隠れ場所を出発し、Smolny 研究所のかつての一教室(36番)にあるボルシェヴィキの司令部へと向かった。蜂起の開始を強要するために。
 市街を横断する途中のTaurida 宮の近くで、彼は政府の警護官の検問を受けて停止させられた。だが、その警護官たちはレーニンをホームレスの酔っ払いだと勘違いし、レーニンを通過させた。そのときにレーニンが逮捕されていたら、その後の歴史はどう変わっていただろう?
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 (03) レーニンはSmolny に到着し、蜂起の開始を命令することを中央委員会に強制した。
 ペテログラードの地図が持ち出され、ボルシェヴィキ指導者たちはそれを見てじっくり研究していた。そして、攻撃をする主要なラインを引き終わっていた。
 レーニンが、ソヴェト大会に提示されるべきボルシェヴィキ政府の閣僚名簿を作ることを提案した。
 それを何と称するかという問題が生じた。
 「臨時政府」という名称は評判を落としていた。閣僚を「大臣(ministers)」と呼ぶのはブルジョア的だと思われた。
 フランスのジャコバン派に倣って「人民委員(people’s commissars)」という名を思いついたのは、トロツキーだった。
 全員がこの提案に賛成した。
 レーニンは言った。「うん、それはいい。革命の香りがする。そして、政府〔=内閣〕そのものを『人民委員会議』(the council of -)と称することができる」(注6)。
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 (04) 1917年10月25日の事件ほど、神話によって歪曲されてきた歴史的出来事は、他にほとんどない。
 ボルシェヴィキの蜂起は民衆の英雄的闘争だとする一般に共通する感覚は、歴史的事実というよりむしろ、<十月>—1927年に制作されたSergei Eisenstein の政治的宣伝映画—の影響を受けている。
 ソヴィエト同盟ではのちに称されるようになった偉大なる十月社会主義革命(The Great October Socialist -)は、実際にはクーにすぎなかった。ペテログラード市民の大多数には全く気づかれないままで推移したクーだった。
 劇場、レストラン、路面電車は、ボルシェヴィキが権力奪取に至っているあいだ、全くふつうに機能していた。
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 (05) 冬宮のMalachite ホールにはケレンスキー内閣の大臣たちが籠もっていたのだが〔ケレンスキーを含まない〕、そこへの伝説的な「突入」は、大臣たちの自宅軟禁のごときものだった。
 「突入」を指揮したのは、ボルシェヴィキのVladimir Antonov-Ovseenko だった。それは、Eisenstein の映画製作者たちが描くほどの損傷を与えなかった。
 冬宮の大臣たちを防衛する部隊のほとんどは、突撃が始まる前にすでに、腹を空かせ、意気消沈して、家路についていた。
 蜂起に積極的に参加した者の数は、大きくはなかった(多数を必要としなかった)。—たぶん、冬宮広場にいた1万人から1万5000人の間の数の労働者、兵士および海兵だ。
 しかも、それらの全員が「突入」に加わったのではなかった。しかし、多くの者はのちには、突撃に加わったと言い張った。
 冬宮が掌握されると、多数の民衆たちが関与するようになり、主としては、宮殿およびそのワイン貯蔵庫から略奪した。
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 (06) 冬宮が掌握されたことは、タバコの煙で充ちたSmolny 研究所の大ホールで行なわれていたソヴェト全国大会で発表された。
 670人の代議員たち—ほとんどがガウンやコートをまとった労働者と兵士たち—は、メンシェヴィキのMartov の提案を満場一致で可決した。その決議は、ソヴェトの全政党に基盤をおく社会主義政府を樹立しよう、というものだった。
 その直後に権力の奪取が発表されたとき、メンシェヴィキとエスエルの代議員たちのほとんどは、自分たちは「犯罪的冒険」に何の関係もないとの声明を出し、抗議してソヴェト大会から退出した。
 おそらくは会場の半分を占めていたボルシェヴィキの代議員は、口笛を吹き、床を踏み鳴らし、彼らを嘲笑する言葉を投げつけた。
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 (07) レーニンが計画した挑発的行為—先制のクー—は、成功した。
 過ちを認めた最初のメンシェヴィキの一人であるNikolai Sukhanov の言葉によれば、メンシェヴィキとエスエルは大会から退出することによって、「ソヴェトを、民衆を、そして革命を独占することをボルシェヴィキに許した」。「我々自身の非理性的な行動によって、レーニンの全ての『ほら』の勝利を保障した」(注7)。
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 (08) 直接の効果として、メンシェヴィキおよびエスエルが分離した。
 これを主導したのは、トロツキーだった。
 トロツキーは、「我々を残して去った惨めな集団」との連立を求めるMartov 提案の決議を非難して、大ホールに残っていたメンシェヴィキとエスエルの代議員に対して、つぎの記憶に残る言葉を発した。
 「きみたちは破産者だ。役割はもう終わった。行くべき所へ行け—歴史のゴミ箱へ!」。
 残りの生涯を通じて苦悶することになるのだが、Martov は、激しい怒りを瞬間に感じて、叫んだ。「では、出て行こう!」。そして、ホールから出て行った(注8)。
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 (09) 午前2時すぎだった。残っていたのは、ソヴェト権力を破壊しようとするメンシェヴィキとエスエルの「裏切り」的企てを非難する決議を、トロツキーが提案することだった。
 おそらくは行なっていることの重要性を理解していなかった一般代議員たちは、この提案を支持して手を高く上げた。
 彼らの行為は結果として、ボルシェヴィキ独裁に対して、それを肯定するソヴェトのスタンプを与えた。
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 第四章第三節、終わり。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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