秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2754/八木秀次の<Y染色体論>③。

 八木秀次の<Y染色体>論は、さしあたり結局は、①男子の天皇であれば「Y染色体」を持っている、②「Y染色体」を持っていてこそ天皇であり得る、という二つのことの「堂々めぐり」の議論だ。「男子」だけが天皇になれる、という結論を、「染色体」という科学的?概念で粉飾したものにすぎない。
 しかも、男女の生物的区別にとって決定的であるのは、「染色体」ではなく、「遺伝子」の種別の一つだ(Sry遺伝子と称される)。八木は、染色体、DNA、遺伝子の三つの違いをおそらくは全く知らないし、気にかけてもいないようだ(2005年の書であっても)。
 だが八木も、女性天皇が存在したことを無視できないようで、その理由・背景を「男性天皇」へ中継ぎするための一時的・例外的な存在だった等々と述べている。この主張に対しては、持統から孝謙・称徳までの女性天皇について、秋月瑛二でも十分に反論することができる。
 しかし、<Y染色体>論との関係に限って言うと、女性天皇であれば「Y染色体」を持たなかっただろうから、八木の元来の主張からすると彼女たちは天皇になる資格がなかったはずなのであり、八木の議論はここですでに破綻している。
 そこで八木は、皇位は「男子」ではなく「男系」で継承されてきた、と主張して、論点を少しずらしている。歴史上の女性天皇は全て「男系」だ、つまり「男性天皇」の「血」を引いている、というわけだ。この主張についてもいろいろと書きたいことはある。既述のことだが、皇族であって初めて天皇になれると圧倒的に考えられていた時代(推古まで遡ってよい)に、女性天皇の「血」をたどればいずれかの男性天皇につながる(=「男系」になる)ことは当然ではないか。
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 あらためて、八木秀次の主張を引用しておく。平成年間に書かれているので、天皇は「125代」になっている。
 「125代の皇統は一筋に男系で継承されてきたという事実の重みは強調しても強調しすぎることはあるまい」。
 「125代にわたって、唯一の例外もなく、苦労に苦労を重ねながら一貫して男系で継承されたということは、…、動かしてはならない原理と言うべきものである」。
 これらはまだよい。しかし、つぎのように、125代の初代は「神武天皇」と明記され、「神武天皇の血筋」が話題にされ出すと、私はもう従いていけない。
 「そもそも天皇の天皇たるゆえんは、神武天皇の血を今日に至るまで受け継いでいるということに尽きる」。
 「天皇という存在は完全なる血統原理で成り立っているものであり、この血統原理の本質は初代・神武天皇の血筋を受け継いでいるということに他ならない」。
 以上では、(神武天皇の)「Y染色体」ではなく、その「血」・「血筋」という語が用いられる。「血」とはいったい何のことか。
 この「血」の継承(「血統」・「血筋」)は、つぎのように、より一般化されているようだ。「昔の人たち」とは、どの範囲の人々なのだろうか。
 「昔の人たち」は「科学的な根拠」を知って「男系継承」をしていたのではない。「しかし、農耕民族ゆえの経験上の知恵から種さえ確かならば血統は継承できる、言い換えれば、男系でなければ血を継承できないということを知っていたのではないかと思われる」。
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 上に最後に引用した文章は、つぎのような意味で、じつに興味深く、かつ刮目されるべきものだ。
 染色体や遺伝子、DNA等に関係する生物学・生命科学の文献を素人なりに読んできて、秋月瑛二は、自分の文章で再現しようと試みてきた。
 読んだ中には当然に、「遺伝」に関するものがあった。
 逐一に根拠文献を探さないが、「遺伝」、ここでは子孫への形質等の継承に関して(おそらく欧米を中心に想定して)、つぎのような、古い「説」があった、とされていた。
 ①父親の「血」と母親の「血」が混じり合って(受精卵となって発育して)一定の「子ども」ができる
 ②父親の「種」(精子)が形質等の継承の主役であり、母親は「畑」であって、その母胎内で保護しつつ栄養を与えて発育させ、一定の「子ども」ができる
 他にもいくつかの「仮説」があったと思うが、上の二つは、せいぜい19世紀末までの、<古い>かつ<間違った>考え方として紹介されていた。
 上の最後に記した八木秀次の文章は、この①・②のような、かつての素朴な(そして間違った)理解の仕方を表明しているものではなかろうか(なお、「農耕民族ゆえの経験的知恵」というものの意味も、さっぱり分からない)。
 「種さえ確かならば血統は継承できる」とは、まさに②の考え方を表現しているのではないか。この部分には、きわめて深刻な問題があると考えられる。
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 ヒト=人間の「血液」の重要性の認識が、古くから生殖や「遺伝」についての考え方にも影響を与えた、と見られる。日本に「血統」、「血筋」等の語があり、英語にも「blood line」という言葉がある。
 確かに「血液型」(ABO)のように両親からの「遺伝」の影響が決定的に大きいものある。
 だが、生命科学、ゲノム科学等の発展をふまえて、あいまいな「血」・「血筋」・「血統」・「血族」等の言葉の意味は再検討あるいは厳密化される必要があるだろう。
 遺伝子検査、さらには<ゲノム解析>でもって、遺伝子または「ゲノム」レベルでの親近性から病気・疾患の原因を探ったり、将来の可能性をある確率で予測する、といったことがすでに行われている。「遺伝」に関する科学的知見のつみ重ねは、この数十年ですら、あるいは八木が上のようの書いたこの数十年でこそ、著しいものがある。
 そういう時代に、「血」・「血統」・「血筋」といった言葉を単純幼稚に用いていると見られる、八木秀次の議論の仕方はふさわしいものだろうか。
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2753/西尾幹二批判078—「量の概念でも質の概念でもなく」。

 西尾幹二・自由とは何か(ちくま新書、2018)には、<古代ギリシャの奴隷制度>に言及する長い章がある。
 とても要約できないが、「古代ギリシャ」の自由・芸術・スポーツ等々が「奴隷」制を前提とすることをしきりに指摘していて、ひょっとして「奴隷」制の肯定にまで進んでしまうのではないかとすら思ったものだった(だいぶ前のこと)。
 さすがにそうは明記していなかった。だが、この人の<本音>、<本性>は、「食って生きて」いくための瑣末なことを自分でするのを拒み(つまり他の人々=ニーチェにおける「愚衆」に任せて)、自分は「高尚な、精神的」作業をしたい、というものだっただろう。
 そうでなければ、西尾幹二が「つくる会」の会長等の要職にあったときに、会の理事や事務局長が次第に〈日本会議〉に「乗っ取られて」いることに気づかず、「分裂」後になってあれこれと八木秀次や〈日本会議〉を非難するに至る、というふうにはならなかった、と感じられる。
 仔細は知らないので推測がかなり占めるが、この人は、会の中で自分は「貴族」で、「ほとんどお飾りのごとく君臨しておれる」、と勘違いしていたのではなかろうか。
 但し、〈つくる会〉にやや遅れてすぐにあとに結成された〈日本会議〉が支援・友好団体であることを知って、急いで〈日本会議〉の主張を学習して、きわめて大まかには、仏教ではなく神道、という旨の講演を〈日本会議〉の母体団体主催の会合で講演したことは、事実として指摘しておく必要がある。
 参照→①2491/批判051—神話と日本青年協議会①。 
 参照→②2492/批判052—神話と日本青年協議会②。
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 「自由」を表題とする書物を西尾は何冊も執筆・刊行してきた。
 上掲書のほか、自由の悲劇(講談社現代新書、1990)、自由の恐怖(文藝春秋、1995)、自由と宿命(洋泉社新書、2001)、等々。
 その西尾幹二の「自由」概念と「自由」論がどの程度のものであるかを、2018年の上掲書からいくつかを再び引用して、示しておこう。とりわけ②は、大笑いだ。
 ①「今、私たちは自由と平等のパラドックスの矛盾の矛盾たるゆえんを、二人の正反対の大統領、背中を向け合うオバマとトランプの出現によって、ありありと劇的に目撃するに至りました。
 オバマは『平等』にこだわりつづけるでしょう。
 トランプはその偽善を突き、強い者が勝つのは当然とする『自由』の自己主張の復権を唱えつづけるでしょう。
 二人の見せつけるページェントがこれから先、何処に赴くかは今のところ誰にも分かりません。」p.154、第三章の最後の文章。
 ②「『自由』は存在しない、そこからすべてが始まることだけは確かだ、と私は先に申しました。
 おそらく、想像するに、『自由』は持続形態ではなく、量の概念でも質の概念でもなく、人間が四方八方において不自由な存在でありながらそのことをすら超えた境地にあるという認識の大悟徹底の只中から、わずかに瞬間的に発現する何ものかでありましょう。」p.118、第二章の最後に近い文章。
 2018年にこんなことしか書けない人物がなぜ、多数の書物を出版でき、本人編集とはいえ、<全集>まで刊行できるのか。日本の出版界の恥であり、悲劇だ。そして、戦後日本の恥であり、悲劇だ。大笑いして済ませることはできない。
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2752/生命・細胞・遺伝—16。

 重要なことなので、再記(復習)から始めよう。
 DNAの最小単位はヌクレオチドで、これは「リン酸」・「五炭」・「塩基」の三つで成り、「リン酸」を<のり>のような接着体として上下(または左右)のヌクレオチドとつながる。「塩基」は、別のDNA分体(別の一本の「鎖」糸)の「塩基」(「相補塩基」)と結合して「塩基対」になる。この塩基対が、<縄ばしご>の足を乗せる<踏み板(縄)>だ。
 「塩基」には4種があり(A,T,G,C)、各塩基は一つの種類しか持たない。「塩基対」になる別の塩基の種類は、最初の塩基の種類に応じて、特定のものに決まっている。すなわち、A-T、G-C(T-A、C-G)の組合せしかない。
 ヌクレオチドが上下(左右)につながって、「塩基配列」ができる。2個つながると2個の「塩基配列」、3個つながると3個の「塩基配列」だ。
 「塩基配列」の並び方によって、特定の種類の「アミノ酸」の作成(・生成)が指示される。
 アミノ酸には、20種類がある。3個の「塩基配列」によって、アミノ酸の種類が特定できる。2個だけだと、(塩基の)4種×4種で、16種(のアミノ酸)しか特定できないからだ。3個だと、4種×4種×4種で、64種のアミノ酸を特定することができる。一定の配列の3個の塩基の組合せを、「コドン」と言う。
 「コドン」が上下(左右)に多数つながって、多様なアミノ酸の複雑な結合体としての一定の「タンパク質」の作成(・生成)が指示される。
 指示をする(仕様書・設計図を書く)、多数のコドン(>ヌクレオチド)の始まりと終わりは決まっている(始まりはA-T-G、終わりはT-A-A、T-A-G、T-G-Aのいずれか)。コドンの数は多様で、特定されていない。
 一定のタンパク質の生成を指示する(または「タンパク質をコードする」)、多数のコドンから成る一つの単位を「遺伝子」と称してよい。但し、この「遺伝子」という概念には、多数のコドンを形成する塩基に対応する、それの「相補塩基」も含められる、と見られる。2本めの「鎖」糸の「塩基」(相補塩基)は、もともとの「塩基」の<予備>だと考えられている。「鎖」糸が2本あってこそ、<縄ばしご>の左右の、手で握る部分ができる。
 なお、一つの「塩基」とその「相補塩基」、ひいては二本の「鎖」糸について、一方は父親由来、片方は母親由来と<堂々と活字に>している情報がネット上にあるが、誤り。父親と母親由来をそれぞれについて語ってよいのは、一つの「染色体」とその「相同染色体」だ。
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 「コドン」は塩基(配列)に着目しているので、厳密には、「リン酸」、「五炭糖」という、塩基を支えて保護するヌクレオチドのその他の要素を含まない。
 2本の「鎖」糸(ビーズがつながった糸)の中には多数のヌクレオチド全体が含まれており、それは「ヒストン」と称されるタンパク質の周りに、左回りの<らせん状に>巻きついている。1.7回〜2回巻きついた一つの単位を「ヌクレオソーム」と言う。正確に言うと、いわば接着剤である「リン酸」は含まれないようだ。
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 DNAとは、大まかには、上の「ヌクレオソーム」の総体だと言える。したがって、「コドン」、多数の塩基(塩基対)を含んでいる。(これは、細胞「分裂」時には、「染色体」として顕現する。)
 しかし、「遺伝子」をあくまで(これが現在も支配的だが)一定の「タンパク質をコードする」情報をもつものと理解すると、DNA=「遺伝子」の総体、ではない。
 それどころか、2000年代以降、DNAの98パーセント(ときに98.5%)は「遺伝子」たる情報を持たない、とされている。「非コードDNA(領域)」とも言われる。より正確にはつぎのとおり。
 DNAの約80パーセントは「遺伝子」を含まない領域が占める。「遺伝子」の「外」または「間」がある。
 さらに、いちおうは「遺伝子」たる情報を含む領域であっても、「タンパク質をコード」している部分とそうでない部分とがある。前者を「エクソン」(構造配列)、後者を「イントロン」(介在配列)と呼ぶ。イントロンの存在は1980年以降に明らかになった、とされる。これは、遺伝子の「内部」にある、<タンパク質非コード領域>だ。全生物ではないが、ほとんどの生物、「核」を持つ全ての生物の「遺伝子」に、この部分がある。
 「エクソン」部分に限ると、これはDNA全体の2パーセント(あるいは1.5%)を占めるにすぎない。
 なお、「遺伝子」につき、以下の叙述がある。「機能発現」の「調節」・「制御」にすでに論及があるが、代表的だろうと思うので、引用する。
 「遺伝子とは、一つの機能を持った遺伝情報の単位である、と定義することができる。
 ここに言う一つの機能とは、一般的にタンパク質またはRNAの構造を決めることである。
 遺伝子はエクソンとイントロンとから成り立っている…。
 この他に遺伝子の転写や翻訳の機能発現を調節する制御配列が、エクソンの上流(転写のスタートする位置)、下流(転写が終了する位置)、またはイントロンの中に存在する。
 制御配列は、この遺伝子が、いつどこで発現されるべきかについて、他の遺伝子からの指令を伝える調節物質が認識する領域である。〔一文、略〕
 このような制御配列、エクソンおよびイントロンを含めて、一つの遺伝情報の単位、すなわち遺伝子が作られているのである。」
 本庶佑・ゲノムが語る生命像—現代人のための最新·生命科学入門(2013)
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 <DNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質>が「セントラル·ドグマ」と称されるのは、ヒトあるいは哺乳類あるいは脊椎動物等の多くの生物に共通する「遺伝」情報の伝搬方法だからではない。「細菌」(バクテリア)を含む「原核細胞」あるいは「単細胞」生物にも共通する、生命体の「中心原理」であるからだ。ヒトも細菌も本質的には変わりがない、とも言える。どちらも「生命」だからだ。
 「真核生物」と細菌等の「原核細胞」が異なるのは、「核」あるいは「核膜」の有無、DNAの形状等だ。
 ヒトが持つとされる38兆個(または60兆個)の全細胞に「核」があって、上のシステムが配備されている。その「核」内にそれぞれ、約2万1000個〜2万4000個の「遺伝子」がある。その各「遺伝子」が含む塩基配列・塩基対の数は、…。これらの掛け算の結果=一個体・人体内での総数を計算してみる気にもなれない。
 さて、DNAが持つ情報等の全てがmRNAに「転写」(transcription)されるのだろうか。かつてはほとんど全てがコピーされるのだろうと推測されていた。つまり、DNAのほとんどは直接に「タンパク質」形成に関与しているのだろうと見られていた。
 2003年のヒトゲノム計画終了後には、ごく簡単には、つぎのように考えられているようだ。
 「転写」されるのは、まずは、エクソンの他にイントロン部分も含む、「遺伝子」領域だけだ。これによって生まれるものを「mRNA前駆体」(pre-mRNA)と呼ぶ。
 ついで、「mRNA前駆体」が核内から細胞質に出ていく過程で、「タンパク質になるのに無関係な」イントロン部分が除去され、エクソンのみの純粋な「mRNA」になる。これが、細胞質内にある「リボソーム」によって「翻訳」(translation)されることになる。これは、塩基配列という「暗号」の「解読」によって行われる、一定のタンパク質の生成のことだ。
 上にいう、イントロン部分の除去のことを、「スプライシング」(splicing)と言う。これによって、内部で「分断」されていた一つの遺伝子は一つづきになる。「分断」されていたエクソンが「連結」される、とも言い得る。このような過程は、全ての真核生物で生じる、ともされている。
 「遺伝」にとって必要な部分だけの、無駄のないかつ「正確」なコピーを目的としていることは明らかだろう。もっとも、いくつかの例外等の留意点に関する付言が必要であるようなのだが、立ち入らない。
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 さらに、なぜ、「必要」ではない部分をDNAは抱え込んでいるのか、も不思議なことだ。この点についての回答は、上に引用した本庶の叙述の中にある。すなわち、「遺伝子の転写や翻訳の機能発現を調節する制御配列」が、エクソンの末端部分以外に、イントロンの中にもある。これは、遺伝子が「いつどこで」発現すべきかを「調節」する機能を持つ。
 このような機能は、決して「不必要」でも「無駄」でもない。むしろ決定的に重要だとも言える。エクソンが示すのは「設計図」・「仕様書」あるいは「レシピ」なので、実際にいつどのように「実行する」かの指令は別に必要だと考えられるからだ。
 もう一つ、エクソン部分以外の領域の意味を「遺伝子」の「外」・「間」の(DNAの約80%を占めるという)部分も含めて考えると、つぎの可能性があるだろう。
 すなわち、現在はあるいはホモ・サピエンス誕生の時点ですでに「無駄」になっている、生物の<進化>の「名残り」または「痕跡」が、現在でもあるいはホモ・サピエンスになって以降も、DNAの中にとどめられている。
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2751/私の音楽ライブラリー043。

 私の音楽ライブラリー043。
 君をのせて/Castle in the Sky.(作詞・宮崎駿、作曲・久石譲)
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 116-01 →井上あずみ .〔SeanNorth公式〕
 116-02 →Sarah Alainn. 〔Taro Canned〕
 116-03 →Trillme Festival 2022. 〔Trillme Festival〕
 116-041→Concert Paris/Behind the Scenes. 〔Timothee Wurth〕
 116-042 →Concert Paris 2024. 〔nabii_Lise〕
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2750/伊東乾のブログ002。

 伊東乾のブログ—001
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 2024.03.11「生成AIに不可能な人間固有の能力とは何か?」
 2024.05.10「始まった生成AI時代本番、人間の創造性はどこで発揮されるのか?」
 2024.06.03「AI音声を聞きすぎると子どもはバカになる?」
 以上、JBpress。
 伊東乾を読んでいる者がいることを示すため、最近の上の三つを挙げておこう。要約、引用等はしない。
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 AIあるいは「生成AI」の実際の能力を詳しく知ってはいない。(「生成」は「generative」の訳語らしい。「gene」(遺伝子)は子孫への「継承」のみならず自らの<生成>に参画している、という趣旨で、この欄で「gen〜」という語に触れたことがあった。)
 伊東がよく知っているだろうように、「生成」が付かなくとも「AI」は音楽と深く関係していそうだ。
 ある交響曲を聴かせて、自動的に全て「採譜」=「楽譜化」することは現時点でできるのだろうか。
 バッハの曲ばかり(できるだけバッハの全て)記憶させて、拍数等の一定の条件とコンセプトを与えれば、AIは自動的に「バッハらしい」旋律および一曲を「作り上げる」のではないか(その場合、「著作権」はAI操作者には全くないのか)。その際の音律は純正律等か平均律か、という問題はあるけれども。
 AIと言わなくとも、電子ピアノでも種々の楽器の「音色」を発することができるらしい。そうすると、オーケストラ並みの多数の楽器(音だけ発する器械)に、一定の(楽器それぞれで異なる)楽譜を与えて=入力して、交響曲を「演奏」させることはできないのか。
 器械は「疲れる」ことがほとんどないだろうし、何よりも、厳密に正確な「高さ」と「大きさ」と「長さ」の音を発することができるだろう。いったん入力してしまえば、あとは何度でも<同じように>演奏することができる。音律がピタゴラス音律でも純正律等でも、〈十二平均律〉でも〈五十三平均律〉でも、AI器械は容易に対応するだろう。むろん「指揮者」は不要だ。誰かがスタート・ボタンを押せばよい(上の各音の「長さ」に、便宜的に曲の「テンポ」を含めておく)。
 ここでさっそく、AIと「人間」の違いへと発展させる。上のようにして「演奏」された音楽は<美しい>だろうか。通常のヒトの感覚は<美しく>感じるだろうか。例えば、AI楽器はある音から1オクターブ上の音へと瞬時に(同時に)移動させ得るが、人間にとってはあまりに不自然ではないだろうか。
 バイオリニストによって演奏するバイオリン協奏曲等に「クセ」があるのは、用いる楽器の違いによるのではなく、きっとわずかな「左手の指」の押さえる位置や強度の違い、右腕の「弾き方」のタイミングや強度等の違いによるのだと思われる(それでも原曲が同じなら、全く違う曲の演奏になるわけではない)。特定の演奏者の<解釈>は素晴らしい、とか音楽評論家によって論評されることもある。
 ついでながら、テレビの「クイズ」番組に、人間のような姿をしたAIを登場させれば、全て正確な解答を(かつ迅速に)行ない、競争相手がいれば<優勝>するのではないか。そのAI氏は、「おめでとう」と言われて、どういう「喜び」の言葉を発するのか(または態度を示すのか)。これもまたあらかじめ<仕組んで>おくのだろうか。
 こういう空想をしていると、キリがない。なお、ヒトの自然の(本性としての)「聴」感覚の問題には(外界の刺激を受容する「感覚」に関与する「細胞」は数多い)、以上では触れていない。最近の伊東の文章には「視」神経細胞に関するものが多い。
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2749/私の音楽ライブラリー042。

 私の音楽ライブラリー042。
 再掲。046-07だけが新規。
 Kvitka Cysik, 1953,04〜1998,03, An Americn Singer from Ukraine.
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 046-06 Elena Yerevan, →Moonlit Night. 〔Ashot Sargsyan〕
 046-07 Kvitka Cysik, →Starry Night. 〔- Topic〕

 086-01a Kvitka Cysik, →Cheremsyna. 〔Vasil Nikolaevich〕
 086-01d Kvitka Cysik, →Spring’s Song.〔- Topic〕
 086-03b Elena Yerevan, →Cheremsyna. 〔Ashot Sargsyan〕

 105-01a Kvitka Cysik, →Where are you now ? 〔- Topic〕

 111a Kvitka Cysik, →Youth does not return. 〔- Topic〕

 112-01b Kvitka Cysik, →You light up my life. 〔Yulia Radova〕
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2748/生命・細胞・遺伝—15。

 ヒトの染色体の数は23対46本で、チンパンジー、ゴリラ等の類人猿のそれは24対48本だ。
 ヒトのゲノムとチンパンジーのゲノムは、96パーセントが一致している。
 以上、S·ムカジー・遺伝子/下(2024)
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 上の後者に出てくる「ゲノム」(genome、ジーノウム)は、個々の遺伝子の総体、「遺伝情報」の全体のことだろうと安易に考えていた。gene がまとまって genome になる、と。
 これは大きな間違いだった。
 まず、DNA内の「遺伝子」は「遺伝情報」を持つ、と言うのは間違いではない。だが、ここでの「遺伝情報」は、<特定のタンパク質の生成を指示する情報(設計図・仕様書)>ととりあえずは理解する必要がある。
 こう理解してこそ、<DNA(>遺伝子)(転写)→RNA(翻訳)→タンパク質>を「セントラル·ドグマ」と称することができる。「タンパク質の生成を指示する」は、「タンパク質をコード(code)する」、と英語では表現される。
 一方、「ゲノム」というのは、<DNAがもつ情報の総体>を意味する。
 「遺伝情報」という語の理解の仕方にもよるが、DNAは<特定のタンパク質の生成を指示(code)する情報>のみを持っているのではない。
 「ヒトゲノム」のうち、つまりはヒトのDNAが持つ全「情報」のうち、上の意味での「遺伝情報」部分、あるいは「遺伝」に関する設計図・仕様書を直接に書いてある部分は、2パーセントにすぎない、とされる。この点を強調する表題を付けて、小林武彦『DNAの98%は謎』(2017)は執筆されている。
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 とくに2003年の「ヒトゲノム計画」の終了・結果報告書の発表以降、ゲノムや「遺伝子」の研究は新しい時代を迎えたようだ。それはまた、「セントラル·ドグマ」の厳密化・精緻化をも求めるものだ、と見られる。
 「ヒトゲノム計画」との関係は定かでないが、まず、DNAの中には、遺伝子とは関係のない部分が各遺伝子の「間」に含まれていることが明らかにされている。DNAの中には、そもそも「遺伝子」と性質づけられない部分が、遺伝子と遺伝子の「間」にあるわけだ。
 ついで、一つの「遺伝子」の「中」または「内部に」、「特定のタンパク質をコードしていない」部分がある、と明らかにされている。一個の「遺伝子」は全体としては「遺伝情報」を持つのだが、遺伝子「内部に」タンパク質生成には意味のない塩基配列が多数あって、「遺伝子」は「分断されている」、とされる。そのような部分は「イントロン」(intron)と称される。一方、「タンパク質をコードしている」部分は、「エクソン」(exon)と呼ばれる。
 この「エクソン」部分が、その解読と研究が相当に進んでいるDNA部分で、どの遺伝子のどの部分にどのようなアミノ酸やタンパク質の生成を指示する箇所があるかが研究されている。その成果は比較的容易に、「遺伝子治療」あるいは「遺伝子工学」に結びついていくだろう。
 多くの研究者の想定とは違って、「ヒトゲノム計画」の成果が明らかにしたのは、この「エクソン」部分は「ゲノム」全体=DNAが持つ情報のうちわずか2パーセントしかない、ということだった、とされる。
 残りの98パーセントは、いわゆる「非コードDNA領域」だ。これには、上記の①遺伝子の内部の「イントロン」と②遺伝子の外部の、複数遺伝子の「間に」ある、タンパク質生成の指示と無関係な部分とがある。少なくとも後者の一部は、従来は「ジャンクDNA」とも呼ばれたが、なぜあるのか、どんな役割を果たしているかの研究が新しい課題になっているようだ。
 「イントロン」は「遺伝子」内部の構成部分であるので、研究の必要はいっそう大きいだろう。タンパク質をコードする情報を持たなくとも、「エクソン」の指示の「発現」や「調整」に関与しているとも想定されている。
 こうしてみると、<DNA(転写)→RNA>の際にDNAの情報全てが「転写」されるのか、その必要はあるのか、といったことが問題になるだろう。そして、RNAはいったい何をしているかに今まで以上の注目が集まることになる、と見られる。
 なお、DNAから「転写」され、タンパク質生成のために「翻訳」されるRNAは、通常、とくに「mRNA」=「メッセンジャーRNA」と称されている。
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2747/生命・細胞・遺伝—14。

 遺伝子群を内包するDNAの最小単位は「ヌクレオチド」だが、塩基対を形成した二本のビーズ状の紐が「ヒストン」の周りを左巻きに(らせん状に)巻きついた場合の一つの単位は「ヌクレオソーム」という。ヒストンの「八量体」の周りを1.7回ぶん巻きついたものだとされる。
 「ヌクレオソーム」の全体を「染色体」と称するとかりにしても、「ヌクレオソーム」は「ヒストン」部分を含む概念なので、少なくともこの点で、DNAと染色体は同じ意味ではない。
 既述のように、染色体は細胞「分裂」の過程で「核」内に<出現>する。一方で、DNAは「核」内につねに格納されている。この点でも、DNAと染色体は異なる。
 但し、存在する・存在しない、見える・見えないの対比を染色体とDNAの間で用いることは、厳密には、「存在する」や「見える」は何を意味しているのか、「見えないから存在しない」のか、といった<哲学>や「認識」論に関係する(?)問題を惹起させるかもしれない。
 細胞分裂過程で「染色体」が「見える」ようになると言っても、ヒトの通常の「肉眼」で見えるわけではない。一方で、「染色質」が元になっている旨すでにこの欄に記したことがあるが、「見える」ことがなくとも、「染色体」は元々「存在」しているのかもしれない。
 この辺りの微妙な?現象を、本庶佑・ゲノムが語る生命像(2016)は、こう叙述している。
 「通常の細胞では、染色体は比較的ゆるやかに伸展した形となり、光学顕微鏡で見てもはっきりとした構造体としては観察されず、核の中にDNAとタンパク質の複合体として存在する。
 しかし、細胞分裂のときには、はっきりと染色体という光学顕微鏡下で見える構造体として凝縮する。

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 凝縮した「染色体」は、エンドウ豆の「鞘(さや)」のような形をしている。ちょうど真ん中ではないが、中央部が「くびれて」細くなっている。
 「常染色体」の場合、そのような染色体1本と全くか同じ形のもう1本が向かい合って、中央部の「くびれ」部分で接着しているか、その部分でほとんど「くっつき」そうになっている。その結果として、2本(1対)でアルファベット文字のXになっているように見える。Xの中央の交差部分が「くびれ」で、左と右が各1本ずつの染色体だ。
 「くびれ」部分、Xの中央部分は、少し離れているように図示されていることが多いように思われる。しかし、本庶・上掲書の、約10000倍に拡大したという写真では、その部分は明らかに「接着」している。
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 染色体の数は生物種で異なるようだが、ヒトの場合は「常染色体」が22対44本、「性染色体」が計2本だ(XX型かXY型か)。計46本と確定したのは、1956年だとされる(第二次大戦後。68年前)。
 上の前者は1対ごとに、「大きさ」の順に「1番」、「2番」、…、「22番」と称される(世界的に統一されている)。この「大きさ」は「長さ」であって、重さでも、内部に含む遺伝子数でも塩基対(・塩基)数でもない。もっとも、「21番」と「22番」の順は実際には逆だともされる。
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 染色体(「常染色体」)の1対2本は、エンドウ豆の「鞘」が向かい合って、「X」を形成しているように見える。「ビーズに糸がついたもの」が2本あるというのはDNAのことなので、混同しないよう注意する必要がある。
 左右の染色体1本の「くぼみ」部分は、「セントロメア」(centromere)と呼ばれる。ちょうど真ん中にあるのではないので、染色体1本を短い部分(「短腕」」,p)と長い部分(「長腕」,q)に分けることになる。
 興味深いのは、つぎのことだ。
 既述のように、「染色体」が二倍化して「赤道」に「整列」したあと、上下(左右)の一つの側が「極」へと徐々に「引っ張られる」。その際に活躍するのは「紡錘体」の要素である「紡錘糸」(spindle fiber)で、この「紡錘糸」は、染色体の「セントロメア」部分に接着して「両極」へと「引っ張る」。つまり、「紡錘糸」は細くなっている「セントロメア」部分を<引っ掛けて>、「両極」へと移動するのだ。
 左右(上下)の染色体1本の二つの「先端」部分または「両端」部分は、「テロメア」(telomere)と呼ばれる。固有のDNA配列を持つ。ともされる。染色体の一部だと理解しておくが、先端にくっつく別のものだと理解できなくはない。
 この「テロメア」部分が重要と見られるのは、細胞は永遠に「分裂」して「複製」されるのではなく、「分裂」ごとにこの「テロメア」部分は短くなっていく、とほぼ考えられている、ということだ。これはつぎのことを意味する。
 「染色体」の先端の「テロメア」の長さが、細胞の、ひいては個体全体の「老化」や「寿命」=「死」に影響を与えている可能性が高い。
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2746/生命・細胞・遺伝—13。

 生命・細胞・遺伝—13。
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 本庶佑・ゲノムが語る生命像—現代人のための最新·生命科学入門(講談社ブルーバックス、2016)
 40パーセントほど読んだ。参照文献を全ては記載してきていないところ、あえてこの文献を挙げるのは、今のところ、読みやすい文章で基礎的なことを書いてくれている貴重な書物と思われるからだ。もっとも、一年前には、あるいは二ヶ月前であっても、読んでもほとんど理解できなくて、読み続ける気にならなかっただろう。数日前から読み始めたが、他の諸々の書物を読んできたことの復習にもなって、なかなか面白い。
 内容の紹介はほとんどしない。
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 表現あるいは形容の仕方に、なるほどと感じさせる箇所がある。
 一つは、DNAをらせん状の「鎖」とか「糸」とか表現してきたところ、この著でも多くは「鎖」が使われているようだが、「ビーズ」(に糸がついたもの)という表現もある。瑣末かもしれない言葉の問題だが、こちらの方が適切または分かりやすいようにも思われる。
 つぎのように語られる。「ヒストン」という語はこれまでにこほ欄で使ったことがある。だが、「ヌクレオソーム」はない。かなり「ヌクレオチド」に似ているのだが、立ち入らない。なお、「糖」と「塩基」の結合で、三つめの「リン酸」がないものは、「ヌクレオシド」と言う。
 ①「DNAの糸を巻き込む糸巻きの芯」は「ヒストン」というタンパク質だ。ヒストン8分子から成る「八量体」の「周りに1.7回巻きでDNAの糸がからまったもの」が「ヌクレオソーム」という〔一染色体内の〕「基本単位」になる。「DNAは、このビーズに糸がついたようなヌクレオソーム構造を、何度もコイル状に折りたたみ、二重三重のコイルとなって、きわめて圧縮した形で核の中に折りたたまれている」。
 ②「DNAはヒストン八量体の周りに1.7回、約150塩基対の長さが糸巻きのような形でビーズ上に存在する」。この単位を「ヌクレオソーム」と言う。
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 もう一つ。細胞の「有糸分裂」によるDNA(・遺伝子群)の「複製」の過程について、「準備」作業として染色体・DNAの「二倍化」があるとして、「神秘的」だとすでに書いた。その際に、元の一つのDNAが二本の「DNA分体」または「DNAの片割れ」に「ほどける」と書いた。また、一つのDNAが塩基対の中央で二つの塩基に「切り裂かれる」と表現したこともある。
 だが、これらよりも、つぎの表現または形容—「チャックを開くように引き離」す—の方がおそらく明らかに適切だろう。
 「DNAの複製は、2本の鎖をチャックを開くように引き離しながら、それぞれに自分を鋳型として、ぴったりとはまり込む相手を作る形で、2組の二重鎖DNAを作り上げる方式で行われる。できあがった2組の二重鎖は、それぞれのうちの1本の鎖が新しく作られたものである」 
 チャックを開く、ファスナーを開く、ジッパーを開ける、の方が実像に近いと考えられる。元の「鋳物」の片割れの一つにその「鋳型」として新しい「DNA分体」が(逆向きで)「ピタッとくっついて」一つの新しいDNAになるためには(そして二倍に「複製」されるためには)、まずは元の一つの「鋳物」がこのようにして二つに引き離されなければならないのだ。
 なお、続けてこう叙述される。「複製」というこの「作業はきわめて複雑な化学反応であり、DNAの複製に関与する酵素〔「DNA合成酵素」〕は20種類以上にものぼる」。
 すでにS·ムカジーの名だけ記して「酵素」に言及したが、ここでも<神秘さ>の背景がより詳しく語られている。「酵素」、「ホルモン」、「神経伝達物質」といった「細胞」と区別される、「細胞」内のまたは「細胞」を行き来する<触媒>類には、まだ触れたことがない。
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2745/西尾幹二批判077—「時代錯誤」。

 谷沢永一・人間通になるための読書術(PHP新書、1996/電子化2013)は、数十の書物の「要点」を記して、一気に相当に読ませる。
 各書物に関する表題も簡潔で面白いが、その中に、つぎがある。P. Johnson, Intellectuals (共同通信社の邦訳書)についてのもの。
 「思想も文藝も自己顕示である」。
 谷沢は自分の文章としてこう書く。「思想」や「文藝」の制作者たちは、「人びとに自らを知らしめる為に…苦労を敢えてする」。キレイ事では「自らが生きた証しを打ち立てたい」、つまりは「認知して貰いたい」、「賞賛が欲しい」、「長く後世に伝えられたい」、「広く仰ぎ見られたい」。
 「思想家」の二種の一つは「世の人を居丈高に見くだして、人びとを駆り立てようとする煽動型」で、「思い上がった指導者意識が認められる」。等々。
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 西尾幹二は一時期に「文芸」評論者だったが、のちには「思想家」と自称するようになった。
 だから、西尾幹二を特徴づける四文字熟語を思い浮かべていて、谷沢の文章に示唆を得て「自己顕示」も挙げたくなった。しかし、これは西尾にはあまりにも当然の欲求で、インパクトに乏しい。
 それに、思い上がっていようがいまいが、西尾には厳密な意味での「指導者意識」はない。後半生は、注文を待つ<文章執筆請負>業者だった。産経新聞にときどき定期的に執筆した「正論」欄は、「自己顕示」もできる貴重なものだった。
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 すでにこの欄で記述した西尾幹二の特質は、つぎのいくつかの四文字熟語で言い表せるだろう。
 誇大妄想傲岸不遜厚顔無恥
 説明を必要としないだろう。
 これらで表現できない特質が、これまで十分には指摘してこなかったが、あった。四文字熟語をやはり用いると、つぎだ。
 時代錯誤古色蒼然
 OpenAI とか、ChatGPT4o とかが今日では話題になっている。こうした「知的道具」によって、昔ふうの<文章執筆>業はほとんど成立し難くなるのではないか。
 ともあれ、西尾幹二は、藤田東湖らを継承して明治初年に「日本」主義を掲げ続け、岩倉らの欧米視察団や欧米に追いつこうとする<文明開化>に反対しておれば相応しかったような、時代状況感覚がきわめて奇妙な人物だろう。
 その<文明開化>のもとで「先進国」と見なされた(オランダ、スペイン・ポルトガルではない)英・米・独・仏の四ヶ国の一つの「ドイツ」を若き西尾幹二は選択した。そのことに深い後悔はないのだろうか。ないに違いない。「ニーチェ研究者」と誤解させることで(<つくる会>関係者に対しても含む)、この人は世渡りをしてきたのだから。
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2744/「遺伝子検査」を受けた。

 2024年4月には結果をもらっていたから、もう二ヶ月近く経っている。
 電子メール形式で報告書が届いた。さすがに、「開く」前にやや緊張する気分があった。座り直す感覚があったが、それは、まさかと思いつつも、何らかの致死的疾患を発症する「健康リスク」がきわめて高い、と指摘されたら困るな、という思いがあったからだ。しかし、じつは<十分に生きた>という気分が秋月にはすでにあるので、それなら仕方がないという思いも同時にあった。
 やや気になる「健康リスク」がわずかにあったが、全体としては問題がなかった方かと思われる。
 遺伝子レベルでの「検査」による予測だから、現在抱えている若干の病気・疾患の大半は「生後」の「生活環境」・「生活習慣」が原因だと考えられる。
 注意を惹いたのは、10000年前に先祖がどこにいたか(東アフリカからどう移動してきたか)の「診断」だった。
 こんなことを考えたことはなかった(もっとも、<日本人はどこからきたか>という話題には興味があった)。古くからの家系図が残っているような「一族」ではないので、江戸時代半ば以前の祖先のことは全く知らず、戦国時代の乱世に、あるいはいつの時期であれ、中国大陸や朝鮮半島から来た「渡来人」が先祖の中にいると言われても、きっと「ふーん」と納得しただろう。
 だが、どの程度の信頼性があるのか知らないが、どうやら10000年前に「日本列島」にいたらしい。この頃だとすでに「日本列島」は大陸から分離して形成されていたはずだ。
 但し、この点に関する現在の日本人の最多グループは40パーセントほとを占めるらしいが、私の場合は、7パーセントほどの少数派に属するとされていた。
 だがしかし、10代前(200〜350年前?)には計算上すでに1024人の「祖先」がいたはずだ(実際はこうならないのは1人で複数を兼ねている者がいるからだ)。そして、よく読むと、上の「診断」は「母系」をたどってのものらしい。とすると、受けたのは「母系」の祖先の一部についての「診断」で、あとはよく分からないということになるだろう。1000年前も10000年前も、1億年前も、10億年前も、私の「先祖」は地球上のどこかで生きていたはずなのだが。それで全く十分なのではあるが。
 「母系」で診断するということは、女性も同じ「遺伝子検査」の対象であるところ、女性は「Y遺伝子」を持たず、男性も「X遺伝子」ほ持っているので、「X遺伝子」のタイプに注目したからだろうか。よく分からない。
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 一定の量の唾液しか送っていない。それにしては、「遺伝子検査」というのは、「健康」・「病気」関係におおむね限っていても、多数の項目について「検査」し、「現状判断」または「将来予測」(あくまで確率)をできるものだと感心する。
 日本人全員が5000円の自己負担で「遺伝子検査」ができ(どの事業体=会社が行うかが問題だが、国・首相または「厚労省(大臣)」が「指定」することが考えられる)、かつ受診を義務づけると、その結果は、将来の治療または医療的判断に役立ち得るだろう。
 もっとも、「検査項目」によっては、かつまた「何を目的とする」かによっては、当然に<義務化>できる範囲は変わってくるし、「職務上知り得た秘密」に該当し得る「個人情報」の漏洩のおそれありとして<義務化>自体に反対運動が起きるかもしれない。
 「<遺伝子情報>または<DNA情報>を知られない自由」はありそうだ(憲法上保護されるべきだろう)。とすると、全て「同意」・「事前承認」がないと(死者については一定の親族の?)「遺伝子検査」ないし「ゲノム解析」はできないことになるのか。
 「同意」を表明できない重体、重病の患者については「家族」でよいのか? 「家族」がいなければどうなるのか?
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2743/生命・細胞・遺伝—12。

 生命・細胞・遺伝—12。
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 「体細胞」の分裂による複製により、一つの「母細胞」から二つの「娘細胞」が生まれる。後者は前者と同じく、それぞれ一つの「核」内に、遺伝子群を一部とする「二重らせん」状のDNAを持つ。
 こうなるためには、まず、「二重らせん」状の、二本の「鎖」が巻き付いた状態のDNAの「二重」または「二本」の長い「鎖」・「糸」が<ほどけて>、「一本ずつ」に分かれなければならない。
 これを<縄ばしご>や「塩基対」等を使って表現すると、縄ばしごの足を乗せる部分を半分に割る、または足を乗せる部分=「塩基対」(の連続)を半分に切り裂いて二つに分けて元の「塩基」(の連続)部分だけにする、ということだ。
 不思議で神秘的だと思うのは、上に続く②だ。
 すなわち、上で分かれた2本の「DNA分体」または「DNAの片割れ」に、それまでは「見えなかった」、新しい別の「DNA分体」または「DNAの片割れ」が発生してきて「くっつき」=「相補的塩基」どうしで「塩基対」を形成し、それぞれが新しい二つのDNAを構成する。
 遺伝子群はDNAの一部であるので、それらもまた、「DNA分体」とともに行動する。それに「くっつく」新しい別の「DNA分体」の中にも新しい遺伝子群が含まれている。
 このような変化とともに「染色体」が出現してきていて、最初は1本で一つの(「二重」の鎖・糸の)DNAを「くるんで」いたが、一つのDNAが「ほどかれ」、新しく二つのDNAができていくのに合わせて、「染色体」の数もまた、二倍になる(結果として、一細胞内に、23対46本ではなく、その二倍の46対92本の「染色体」が発生していることになる)。
 このような「二倍化」は「体細胞」の分裂過程について言えることで、「生殖細胞」については、このような現象はない。さらに厳密さを期して付記しておけば、「体細胞」であっても、心筋細胞や神経細胞といった<非再生系>細胞では、いったん成熟したものであるかぎり、「分裂」による複製自体が行われない。iPS細胞で作られた始原細胞が心筋細胞や神経細胞に「成熟」することはあっても、それが完了すれば、もう「分裂」・「複製」はしない。
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 「減数分裂」で生まれた精子の23本の「染色体」と同じく卵子の23本の「染色体」が合同して46本のそれをもつ受精卵ができる(44本の「常染色体」と2本の「性染色体」)というのは、まだ理解しやすい。
 だが、それまでは「見えなかった」DNA分体が新たに出現してきて、元のDNA分体と結合して一つの(二本鎖の)DNAを構成するというのは、不思議なことだ。
 S·ムカジーによると、DNAの二本の鎖・糸を「ほどく」<酵素>が出てくるし、新しいDNAを作る(複製する)別の<酵素>も出てくる。不思議なことだ。
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 細胞全体の「分裂過程」の説明としては、以上はまだ準備段階についてのもので、かつ次の重要で目立つことに触れてもいない。
 これまで存在しなかったような「染色体」が出現し、認知され得るのは、それが相対的に大きく、かつ固く<凝縮>しているからだ。その頃には「核膜」はほとんど消滅している。
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 凝縮した、目立つ染色体の数が二倍なったあと、①一細胞を球体の地球に喩えると、染色体群は、半数ずつに分かれて「赤道」上に整列(?)する。
 ついで、②それぞれの(つまり46本ずつの)染色体は、「紡錘糸」に<捉まえられて>(あるいは<引っ掛けられて>)両極(「北極」と「南極」)へと<引き寄せ>られる。「有糸分裂」だ。
 その頃には細胞自体の「分裂」も始まっている。つまり、「赤道」あたりが<くびれて>細くなっていく。
 DNA(と遺伝子群)を包んだ「染色体」群が完全に両極に分かれてしまうと、再び「核膜」に包まれ、上の<くびれ>のところで一つの細胞自体が徐々に二つに「分裂」する。
 かくして、一つの細胞(母細胞)から、「核膜」をもつ「核」が一つずつある、二つの細胞(娘細胞)が生まれる。
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 時間的にほとんど連続した過程だから、各段階を区別するのは容易でないだろう。
 但し、「染色体」の二倍化(新しい二つのDNAの生成)までとそれ以降に大きくは区別されるようだ。前者を「S期」、後者を「M期」と呼ぶ。
 それぞれ、Synthesis(合成)Mitosis(「有糸分裂」)という語に由来する。
 また、後者はさらに、「前期」・「中期」・「後期」・「終期」に分けられるようだ。
 上の「M期」が本来の細胞「分裂」期だとして、それ以外を「G」(=gap、「間期」)と称することがある。
 完全にまたはほとんど休止している状態をG0とし、上の「S期」にあたると見られる時期を「準備」のためのG1と呼んで区別する場合もある。さらに、「準備」が完了したあとで、いわば「最後の決断」を下すための小休止の時期があるとした場合、この時期はG2とも呼ばれる。
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 参照文献を二つだけ挙げる。
 S·ムカジー=田中文訳・細胞/上(早川書房、2024)
 山科正平・新しい人体の教科書/上(講談社、2017)
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2742/生命・細胞・遺伝—11。

 生命・細胞・遺伝—11。
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 生殖細胞である精子と卵子は、それぞれ順調に成長した男子と女子の体内で、「減数分裂」によって作られる。但し、突如としてそうなるのではなく、<始原生殖細胞>をヒトは備えて生まれてくるらしい。この始原生殖細胞(前精原細胞・卵原細胞)をiPS細胞から作り出す方法の開発に日本で成功したとかのニュースが2024年5月にあった。
 「減数分裂」と称されるように、細胞の一種ではあるが、精子・卵子は「体細胞」と違って、その半分の23本の「染色体」しか持たない。両者が結合して「受精卵」となって、元の?46本に戻る。
 精子・卵子の23本の染色体は、既述のように、22本の「常染色体」と1本の「性染色体」に分けられる。精子のもつ「性染色体」にはX型とY型の2種がある。1本しかないので、あらかじめ、このいずれであるかが決められている。卵子の「性染色体」はつねにX型だ。したがって、受精卵が「常染色体」以外にもつ「性染色体」にはXY型とXX型があることになる。
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 「染色体」は、「常〜」にしても「性〜」にしても、それ自体が<遺伝情報>を持つものではない。<遺伝情報>は、個々の「遺伝子」がもつ。多数の「遺伝子」を一部に取り込んで、長い2本の「らせん」状になった鎖が「DNA」だ。
 染色体は、細胞分裂時に凝固した(遺伝子・)DNAを保護するかのごとく「くるんで」いる。この点について、以下の叙述は異なる理解・説明をしているようだが(DNAを「くるむ」物体とDNAが「形をかえる」物体とではたぶん意味が違うだろう)、一般的または多数でもないように思われるので、無視しておく。一時的に出現する「別の」構造体か、それとも「同じ」一体のDNAが変形したものか?
 細胞が「分裂をはじめるときになると、DNAのひもはぎゅっと凝縮されて、何本もの棒状の物体へと形をかえる」。「この棒状の物体は『染色体』とよばれており、ヒトの場合は一つの細胞につき、46本あらわれる」。
 雑誌ニュートン別冊・知りたい!遺伝のしくみ(ニュートンプレス、2010)
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 染色体でもDNAでもなく「遺伝子」がヒトの「性」を決定するした場合、その遺伝子は特定されているのか。一個体の一細胞がもつ遺伝子の数は、つぎのように数多い。「(ヒト)ゲノム」という語にはまだ立ち入らない。
 「ヒトゲノムにはヒトをつくり、修復し、維持するための主な情報を提供する2万1000から2万3000個の遺伝子が含まれている」(S·ムカジー・下掲書の「プロローグ」)。
 この数字は、この欄ですでに紹介したものと、全く同じではない。
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 「遺伝子」(gene)という概念自体が、20世紀の10年代に生まれた。ダーウィンもメンデルも、この概念を知らなかった。
 相当に観念的で抽象的な概念でもあった。誰も、「遺伝子」なるものを「見る」ことがなかった。
 そんな状況で、ヒトの「性」が遺伝子によって決められる、または遺伝子から大きな影響を受ける、という考え自体が確立していなかった。染色体に関する研究を発展させた、1933年のノーベル賞受賞者のモーガンもまた、<性決定の遺伝理論>を否定していた、という。
 モーガンが否定していたのと同じころ、アメリカの若手研究者・N·スティーヴンスの発想にもとづいて協力学者のE·ウィルソンが、「染色体という観点からは、雄の細胞はXYで、雌の細胞はXXであり、卵子は一本のX染色体を持っている」、「Y染色体を持つ持つ精子が卵子と結合すると、XYの組み合わせができ、『雄化』が決定する」と考えた。
 1980年代に入って、イギリスのP·グッドフェローがY染色体上の「性決定遺伝子」を探し始めた。
 1989年にアメリカのD·ペイジが「ZFY」を見つけて接近し、同年の後半にグッドフェローが「性決定」遺伝子を見つけて「SRY」遺伝子と名づけた。なお、この過程で、「XY型」染色体を持ちながら(遺伝子的には「男性」だが)「女性」である人々も発見され、研究に少なくとも結果としては貢献した。この現象をめぐる仔細は省略する。
 以上、S·ムカジー=田中文訳・遺伝子—親密なる人類史/下(早川書房、2018/文庫化2021)。
 Y染色体上に「性決定」遺伝子(「SRY」)が特定されたのは1989年、2024年からわずか35年前だ。第二次大戦後も40年間以上、「Y染色体」による「性決定」という不正確な通念がまかりとおっていた。
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 「生殖細胞」の染色体は「減数分裂」で23本。受精卵になると染色体数は元に戻って46本(うち2本が「性染色体」)。
 上のことよりも<神秘さ>を秋月は感じるのは、「体細胞」の分裂過程で、DNAも遺伝子も、そして染色体も「二倍化」することだ。
 つまり、DNAは塩基対の中央で二つに(一塩基ごと・一ヌクレオチドごとに)ー切り裂かれ、紡錘体(紡錘糸)に引っ張られて極方に集まるのだが、その片割れ(もはや「らせん状」ではない1本だけのDNAの鎖・ひも)に、相補的に<新しい>塩基群(新しい1本の鎖・ひも)が付着することだ。
 こうしてこそ、細胞は(遺伝子もDNAも)「複製」され、かつ二倍に「増える」(元の細胞は「死ぬ」)。
 この新しい塩基群(新しいDNAの片割れ)の出現による「複製」(新しい塩基対群の完成)・「増殖」こそが、「細胞」の、そして「生命体」の、<神秘>だと、秋月は感じる。
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2741/黒田裕樹・希望の分子生物学(2023)。

 黒田裕樹・希望の分子生物学—私たちの『生命観』を書き換える(NHK出版新書、2023年11月)。
 読了した。なかなかよくできた本だ。
 第1章では、「文科」系的日本人にも比較的に分かりやすく、「現代生命科学」の基礎を9項目に分けて説明してくれている。
 分類学、「悠久」を前提とする「進化」論、生物とは、栄養素、「始原生殖細胞」、免疫、等々。
 その他の紹介、要約等は今回はしない。
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 カント、マルクス、ニーチェ等々、あるいは少なくとも19世紀末までの「哲学」・「思想」等はほとんど役に立たない。
 読了して、記憶に強く残っていた<現代的>問題のうち、二つだけ取り上げる。
 第一。遺伝子「組換え」技術によって「大きな変革が予測される分野」の一つに、つぎがある。
 「寿命=老化に関与する遺伝子をターゲットとして、寿命または健康寿命を延ばせるようになる」。
 以下は、示唆を得ての秋月の文章。技術的には、ほぼ全員について遺伝子上の100歳寿命を実現できるものとする。
 <少死化>時代となって、「食糧」問題はどうなるのか。
 「寿命・健康寿命の延長」を望む者が対価を払って遺伝子改変を受ける場合、100歳寿命化はいかほどの金額になるのだろうか。
 望んでもその金額を支払えない者が出てくる。貧富の差異によって、「(健康)寿命」延長の可能性が変わる。
 この「不公平(?)」を、<国家>は貧者への補助金(・助成金)によって解消すべきか?
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 第二。「ブタの臓器」をヒトに移植する、またさらに、ブタの体内で「ヒトの細胞からなる臓器をつくる」、といった研究が行われている。後者ではきわめて短期間で目的のヒトの臓器を獲得できる。
 以下は、著者の言葉。「倫理的な問題を引き起こす可能性」がある、という。
 「例えば、人間の細胞がブタの脳にも混ざる可能性があり、そうなるとそのブタは何らかの形で『人間的』な認識を持つかもしれないと考えられます。
 だとしたら、そのブタを殺してもよいのか。」
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2740/末期癌の若き脳神経外科医の死②。

 つづき。Cady は夫妻の幼い子ども(8ヶ月)。
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 「それとも、ここに家を再現できないかしら?
 BiPAP が空気を送り込む合間に、彼は答えた。
 『Cady』。/
 友人…がすぐに家からCady を連れてきてくれた。
 Cady はPaul の右腕に居心地よさそうに抱かれ、そしてCady らしい無頓着さでご機嫌な付き添いを始めた。
 空気を送りつづけ、Paul の命をつないでいるBiPAPの機械など気にも留めずに、Cady は小さな靴下を引っぱったり、病院の毛布を叩いたり、にこにこしたり、喉を鳴らして喜んだりした。」
 「Paul の急性呼吸不全はがんの急速な進行によるものと思われた。
 血液中の二酸化炭素濃度はいまだに上昇しつづけており、挿管の必要を揺るぎないものにしていた。
 家族の意見は分かれた。」
 「わたしは、急速に悪化した彼の容態を改善できる可能性を少しでも信じているなら、そう言ってほしいと医師たちに懇願した。/
 『Paul は奇跡の大逆転にかけたいとは思っていません』とわたしは言った。
 『意味のある時間を過ごせる可能性が残されていないのなら、マスクを取ってCady を抱きしめたいと思っています』。/
 わたしはPaul のベッド脇に戻った。
 彼はわたしを見て、はっきりと言った。
 BiPAPのマスクの上の目は鋭く、その声は静かだけれど揺るぎなかった。
 『用意ができたよ』(I 'm ready)。
 呼吸器を外す用意が、モルヒネ(morphine)を開始する用意が、死ぬ用意ができたということだった。/
 家族が集まった。
 Paul の決意のあとの貴重な時間に、わたしたちはみんな、愛と尊敬を彼に伝えた。
 Paul の目に涙が光った。」
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 「一時間後、マスクが外されてモニターが切られ、モルヒネの点滴が始まった。
 Paul の呼吸は安定していたものの、浅かった。
 苦しそうな様子はなかったけれど、わたしがモルヒネを増やしてほしいかと訊くと、彼は目を閉じたままうなづいた。…。
 そして、とうとう、Paul は意識を失っていった。」
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 「Paul の両親、兄弟、義理の姉、娘とわたしは9時間以上、彼のそばを離れずにいた。」
 「親しいいとこと叔父、そして司祭が到着した。」
 「北西向きの窓から暖かな夕陽が斜めに差し込むころ、Paul の呼吸はさらに静かになった。
 寝る時間が近づくと、Cady はぽっちゃりとした拳で目をさすり、彼女を家に連れて帰ってくれる友人がやってきた。
 わたしはCady の頬をPaul の頬につけた。
 ふたりのそっくりな黒髪には同じような寝ぐせがついていた。
 Paul の表情は静かで、Cady の表情は不思議そうだけれどもおだやかだった。
 彼の愛する娘はこれが別れの瞬間だとは思ってもいなかった。」
 「部屋が暗くなって夜が訪れ、低い位置の壁灯が暖かな光を放つころ、Paul の呼吸は弱々しく、そして、途切れがちになった。
 体は休んでいるように見え、四肢に力ははいっていなかった。
 もうすぐ9時だった。
 Paul は目を閉じて唇を開いたまま、息を吸い、そして、最後の、深い息を吐いた。」
 ——
 死亡日、2015年03月09日。37歳。

2739/末期癌の若き脳神経外科医の死①。

 Paul Kalanithi, When Breath Becomes Air (2016年1月)。
 =P·カラニシ=田中文訳・いま希望を語ろう—末期がんの若き医師が家族と見つけた『生きる意味』(早川書房、2016年11月)。
 若き脳神経外科医のPaul Kalanithi が末期癌に罹り、自らネット上に情報発信していて、その文章も一部掲載されているが、その妻だったLucy が書いた文章(死亡の過程やその後のこと)が主だと思える。舞台はアメリカだが、Paul Kalanithi という名を持つ夫の出身地等は不明。
 田中文の日本語訳がうまくて(そう感じられ)、それが理由になって最近にS·ムカジーのいくつかの著の邦訳書を手にすることになった。
 途中から途中まで、一部のみを紹介する。Lucy の文章だ。()は原書による。
 ——
 「日曜の早朝、わたしがPaul の額をなでると、燃えるように熱かった。」
 「肺炎(pneumonia)の可能性を考慮して抗生物質(antibiotics)の投与が開始されたあとで、わたしたちは家族の待つ家に帰ってきた(…)。
 でもひょっとして、これは感染(infection)ではなく、がん(cancer)が急速に進行しているせいなのだろうか?
 その午後、Paul は苦しむ様子もなくうとうととしていたけれど、病状は深刻だった。
 彼が寝ている姿を見ながら、わたしは泣いた。
 居間へ行くと、義父も泣いていた。/
 夕方、Paul の状態が突然、悪化した。
 彼はベッドのへりに腰掛けて、息をしようと喘いでいた。
 はっとするほどの変化だった。
 わたしは救急車を呼んだ。
 救急救命室にふたたびはいっていくところで(…)、彼はわたしのほうを向いてささやいた。
 『こんなふうに終わるのかもしれない』(This might be how it ends)。」
 --------
 「病院のスタッフはいつものようにPaul を温かく迎えてくれたけれど、彼の容態を把握したとたん、忙しく動きはじめた。
 最初の検査の結果、医師らは彼の鼻と口をマスクで覆ってBiPAP で呼吸を助けることにした。」
 「Paul の血液中の二酸化炭素濃度は危険なまでに高く、呼吸する力が弱くなっていることを示していた。
 血液検査の結果から示唆されたのは、血液中の過剰な二酸化炭素のうちのいくらかは、肺の病変と体の衰弱が進行していくにつれて…蓄積していったということだった。
 正常より高い二酸化炭素濃度(carbon dioxide level)に脳が順応したために、Paul の意識は清明なままだったのだ。
 Paul は検査結果を見て、そして医師として、その不吉な結果の意味を理解した。
 ICU へ運ばれていく彼のうしろを歩きながら、わたしもまた理解した。」
 「部屋に着くと、彼はBiPAP の呼吸の合間に、わたしに訊いた。
 『挿管が必要になるだろうか? 挿管(intubate)した方がいいだろうか?』」
 「BiPAP は一時的な解決策だと彼は言った。
 残る唯一の医学的介入はPaul に挿管すること、つまり人工呼吸器(ventilator)につなぐことだった。
 Paul はそれを望んでいるだろうか?」
 「問題の核心」は「この急性呼吸不全を治すことができるかどうかだった」。
 「心配されたのは、Paul の容態がよくならず、人工呼吸器を外せなくなることだった。
 Paul はやがてせん妄状態(delirium)に陥り、それから多臓器不全(organ failure)をきたすのではないだろうか?
 最初に心(mind)が、次に体(body)がこの世を去っていくのではないだろうか?」
 「Paul は別の選択肢を検討した。
 挿管ではなく、『コンフォートケア(comfort care)』を選ぶこともできるのだと考えた。
 死はより確実に、より早くやってくるけれど。
 『たとえこれを乗り越えられたとしても』、脳に転移したがんのことを考えながら、Paul は言った。
 『自分の未来に意味のある時間が残されているようには思えないんだ』。
 義母が慌てて割ってはいった。
 『今晩はまだ何も決めなくていいのよ、Pabby。…。』
 Paul は『蘇生(resuscitate)を行わないでほしい』という意思表示を確定的なものにし、それから義母のいうとおりにした。」
 ——
 つづく。

2738/生命・細胞・遺伝—10。

 細胞核内のDNAの最小単位のヌクレオチドは、リン酸、糖(五炭糖)、塩基で成る。
 五角形をしている五炭糖に5つある炭糖には、1‘〜5’の番号が振られている。
 数字の順はあくまで便宜的になのだろうが、リン酸(H3PO4)とまず結合するのは、五炭糖(の炭素)のうちの「5‘」だ。
 一方で、五炭糖(の炭素)のうちの「1’」が、塩基と結合する。
 したがって、ヌクレオチドは、五炭糖を真ん中にして、 <リン酸—糖(五炭糖)—塩基>という結合の仕方をしている、
 なお、五炭糖のうちの「2‘」だけがDNAとRNAで異なり、前者は水酸基(O)を持たないが(全体として→「デオキシリボース」)、後者は持つ(全体として→「リボース」)。日本語では「デオキシリボ核酸」等の語になって「核酸」が付いているのは、リン酸が「核」内にある「酸」だからだ。英語は、deoxiribonucleic acid。
 塩基(base)には4種がある。Adenine(アデニン、A)、Thymine(チミン、T)、Guanine(グアニン、G)、Cytosine(シトシン、C)だ。簡単にA、T、G、Cと称され、塩基(配列)の「文字情報」と言われたりされるが、むろん、塩基の表面にこれらの文字が刻印されているのではない。
 なお、RNAでは、上のうちTだけはUrasil(ウラシル、U)に代わる。
 DNA内の塩基にはプリン塩基とピリミジン塩基の二つがある。上のAとGはプリン塩基で、上のCとT(そしてRNAの場合のU)はピリミジン塩基だ。
 この塩基部分は、生物や細胞にとって必要不可欠の「情報」・「設計図」の作成に関係する<本体>だと言える。
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 一個のヌクレオチドだけでは「縄ばしご」、遺伝子あるいはDNAにならない。
 第一に、便宜的な言い方をすると、「下」へ延びなければならない。タテの「握り縄」を長くしなければならない。
 この場合、上のヌクレオチドの五炭糖(の炭素現象)のうちの「3‘」が「下」にある別のヌクレオチドの「リン酸」と結合し、さらに「下」のヌクレオチドへと繋がっていく。
 それぞれの「リン酸」には最初のものとは異なるそれぞれの五炭糖が結合している。また、その五炭糖の「1’」にそれぞれの「塩基」が接合している。
 大まかに言えば、ヌクレオチドが鎖のように上から下へと繋がっている。「リン酸」を介して接合しているのだが、二つの「リン酸」を繋ぐのは五炭糖の「5‘」または「3’」で、この二つだけを上から順に見ると、「5‘」→「3’」→「5‘」→「3’」→「5‘」…という順になる。また、それぞれのヌクレオチドに「塩基」を接合するのは、つねに、それぞれの五炭糖の「1’」だ。
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 第二に、「横」へと、広がらなければならない。
 この場合、「踏み板」(踏み縄)にあたる「塩基」を、<隣>にあるヌクレオチドの「塩基」と結合させることになる。あるいは、<噛み合わせる>ことになる。
 ここで重要なこと、不思議なことがある。
 塩基には上記のとおり4種類があるが、「隣」のヌクレオチドの塩基ののうち、接合する、あるいは「噛み合う」種類があらかじめ(不思議なことに)決まっている。
 すなわち、A-T、T-A、G-C、C-G、という4種の対応関係のみがある(4文字のあり得る組み合わせは4の4乗だが)。左右のセットで考えると、2種類しかない。
 なぜこうなっているかというと、A-T、G-Cの組み合せが必要なエネルギーが少なくて済む、という理由らしい。また、別の塩基と接合するに際してに必要な「水素結合」の個数(本数)がAとTの場合は2、GとCの場合は3と違っている、と指摘されている。
 こうして「隣の」ヌクレオチドの塩基との接合・結合(あるいは「対合」)によって、一つの「塩基」は一つの「塩基対」になる。「対合」する塩基のことを、「相補塩基」とも言う。
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 一つのヌクレオチドが「鎖」状になって「下」に繋がっていくと、塩基もまた、種類を変えながら、ずっと続いていく。
 この塩基の並び方を「塩基配列」という。片方だけではなく双方があって塩基対が出来上がっているとした場合も、やはり「塩基配列」と言ってよいのかもしれない。
 重要でかつ不思議なことは、「相補」関係にある、向かい合った、または隣り合ったヌクレオチドの塩基の配列の仕方には、一定の<法則>があることだ。
 すなわち、片方の塩基配列6個分がかりに「CATTGA」だったとすると、「相補塩基」の塩基配列は必ず「GTAACT」になっている。
 これは上記の、A-T、G-Cの対応関係しかない、ということの延長の説明になるだろう。6個はつぎのような相補塩基と対の配列に変わる。
 C→G、A→T、T→A、T→A、G→C、A→T。こうして、「GTAACT」になる。
 また、別の話題になるが、「相補」関係にあるヌクレオチド、つまり、リン酸・糖・塩基の繋がり方は、五炭糖(の炭素)の位置について上に述べた片方のそれとは逆、すなわち、「3‘」→「5’」→「3‘」→「5’」→「3‘」…になっている、という。不思議で、絶妙なことだ。
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 さて、生命に関する「情報」・「設計図」はリン酸や糖(五炭糖)の部分ではなく、A・T・G・Cという「塩基」(または塩基対)に記載されている。正確には、これらの塩基の独特で複雑な「配列」関係によって示されている。
 それらの<情報>は、DNAからRNAへ「転写」され、そのRNAが細胞質内のリボソームにより「翻訳・読解」されて、その指示情報に従って新たに「タンパク質」が作られる(ホモ・サピエンスのみならず、細菌・バクテリアを含む全ての生物に共通する、セントラル・ドグマ)。
 従って、生命に関する「情報」はタンパク質作りのための「設計図」であり、「レシピ」である、と言って差し支えない。
 そのタンパク質は多様なもので、諸種の「アミノ酸」がつながり合ったものだ。
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 アミノ酸は、20種類がある、とされる。それらが組み合わさって、一定のタンパク質が生まれる。
 塩基には4種類があるが、そのうち2種類を使っただけでは、正確には2列の塩基配列を使っただけでは、16種の異なるアミノ酸しか指定することができない。AA、AG、AC、…と、4×4=16が限界だ。
 そこで、塩基は、3種のそれで、一つの性格のアミノ酸を指定している、とされている。
 GGA、CTT等々の組み合わせ、または配列の違いで、4の3乗の64とおりの異なるアミノ酸を指定することができる。しかも、64と20の間には相当の余裕がまだあるので、複数の三「文字」の組み合わせを一つのアミノ酸のために利用することができる。
 4種の塩基のうち3つの配列はアミノ酸の、ひいてはタンパク質の生成のための「暗号」のようなもので、塩基3個の配列は「コドン」(codon)と称される。
 64種類の「コドン」がいかなるアミノ酸に対応しているかを一覧できる表は、<コドンの暗号表>とも呼ばれる。
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 塩基配列はしかしDNAの長さの範囲内で長々と続く可能性があるので、生命の維持または狭義の「遺伝」に関する「情報」として、何らかの一かたまりの区別が必要になってくるものと思われる。「複製」と「分化」を繰り返して維持されたり生成されたりする器官や臓器等々には違いがあるからだ。またそもそも、塩基配列の始めと終わりが明確でないと、作成が指示されるアミノ酸の並び方、ひいてはタンパク質を特定することができない。
 そこで、ATG(メチオニンというアミノ酸のためのコドン)を始まりと見なすことになっている、とされる。一方で、終わりを指定する「コドン」には、TAA、TAG、TGAの3つがある、とされる。
 以上の「コドン」以下は、主として森和俊・細胞の中の分子生物学—最新·生物科学入門(講談社ブルーバックス、2016)による。
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 上の一区切りまたは一かたまりは、秋月には一個の「遺伝子」に該当するように見える。当然に、この点でも、一個の遺伝子はDNA全体の一部にすぎない。
 「ヌクレオチドが多数つながりあったものは、化学的にはDNA(デオキシリボ核酸)と呼ばれる」としたあと、続けてこう書く文献もある。
 「したがって、一つの遺伝子は、ある長さをもったDNA(あるいはDNAの一断片)と言ってもよい」。
 小林朋道・利己的遺伝子から見た人間(PHP研究所、2012)
 また、「非コードDNA」という概念があるように、DNAが全て「遺伝」情報を保持しているわけではない。「DNAの98%が謎」という書名の文献もある。もっとも、正確には、DNAの全ての部分が「情報」・「設計図」を〈直接に〉示しているわけではない、〈間接的に〉、つまり設計図どおりの作成に移るべきか否か、いつ始めるのか、いわゆる遺伝子の<発現>をさせるか否か、といった重要問題に関与している可能性が高い、と言うべきだろう。むろん、〈無駄な〉部分もある。さらに、のちに触れる。
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 以上のDNAの構造に関する叙述またはノートに、「染色体」という言葉・概念は全く必要がない。
 染色体は<細胞分裂>(これによって「核」も「DNA」も(遺伝子群も)「分裂」するのだが)の過程で出現する構造体にすぎない。但し、核膜の一部または内面にあらかじめ「染色質」が用意されている、とされる。
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2737/西尾幹二批判076—「ひらめき」。

 「生命・細胞・遺伝—01」(2024/04/04)の最後にこう書いた。
 「文筆家、評論家、あるいは『もの書き』にそれぞれ独特に生じるのだろう、文章執筆の際の<ひらめき>は、多数のニューロン間の『つながり方』またはその変化によって生じている」。
 このときに思い浮かべていた「もの書き」の文章はつぎだった。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。p.37。
 (その問題は)「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことのできない領域に入ります。それは各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定という問題です」。
 西尾におけるアダム·スミスの「自由」概念の理解は、既述のように、間違っている。それはともかく、西尾幹二は、生活条件の整備等の物質的・経済的問題ではなく各自の「ひとつひとつの瞬間の心の決定」の<自由>の問題が重要だ旨を力説する。
 「ひとつひとつの瞬間の心の決定」は、脳内の、神経細胞(ニューロン)の働き、多数のそれの複雑なつながり方によって生じる。
 そして、西尾は「各自における」と書いて「各個人」のそれの重要性を面向きは強調しているようだが、じつは、西尾幹二という「自分」の<自由>こそが重要であり、保護され、尊重されるべきものだと考えていることは明らかだ。
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 西尾幹二にとって、文章作成の際に言葉や語句が「ひらめき」出てきて、それを選定する場合の「ひとつひとつの瞬間の心の決定」がきわめて重要で、そこにこそ、<西尾幹二らしさ>、自分が高く評価されるべき根拠があるのだろう。
 物質的・経済的問題ではない、それと峻別されるべき<精神>の領域に属する問題なのだ。
 この部分にも、幼稚で単純な「物心(心身)二元論」が見え隠れしている。
 「物」よりも「精神」が大切、「精神」・「心」を表現する言葉・文章が大切。—さすがに「文学部的」または「文芸評論家的」なモノ書きの文章だ。
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 もっとも、西尾が語る趣旨を全く理解できないのではない。、またむしろ、陳腐な物言いでもある。
 西尾幹二がいっさい参照していないと間違いなく見られるのが「法学」または「憲法学」上の<自由>論なのだが、憲法(学)上は「経済的自由」よりも「精神的自由」が優先されるべきとされ、後者の中核は「内心の自由」にあるとされる。
 西尾は知らない単語・概念だろうが、この人が語っているのは要するに「内心の自由」の重要性に他ならない。特段に新しい深遠な考え方が示されているのでは全くない。
 (但し、「内心」の形成は<本当に自由に>行われているのか、という問題はある。この問題は「意識」・「こころ」の本質や<自由な意思>の存否という「ハードな」問題にかかわる)。
 上の()部分をあえて注記しておくが、「ひとつひとつの瞬間の心の決定」が重要だなどという言辞は、ある意味ではほとんど自明のことを、何やら勿体をつけて、長々と書いているものに過ぎない。
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 だがしかし、「生活条件の整備」等の個々の人間が生きていく上で重要な課題と仕事を、西尾幹二は一貫して<馬鹿にしてきた>、という面が、一方にはあると考えられる。
 旅行中にふと思ったことだが、急傾斜の地域に鉄道を通すために、またその鉄道の速度を早めて人や物質を運送・運搬する時間を短くするために、日本で100年以上のあいだ、多数の人々が努力し、また工事等を行なってきた。そんな、無名だろう人々を含む多数の人々の、「便利さ」を追求する懸命の努力など、西尾幹二の意識には、ほとんど昇ってきたことがないに違いない。
 「生活条件の整備」は「精神的自由」と比べて価値あるものではないとしつつも、前者が獲得された以上は、西尾はその利便性を平然と利用してきたのだろう。
 西尾幹二が住んだ住宅にも、電気・上水道等々の種々の利便性が及んでいただろう。西尾が杉並区から中央線・市谷駅に着くまでのあいだ、あるいはその反対の帰路のあいだ、間違いなく西尾も、都市の交通施設・制度の恩恵を享受してきたわけだ。
 にもかかわらず、「ひとつひとつの瞬間の心の決定」の問題が重要だ、その<自由>にこそ価値がある、とぬけぬけと書けるのは何故だろう。かつまたその<自由>は、西尾幹二という「自分」のそれで十分であって、この人は、日本国民一般、世界の人々のことなど全く考慮していない。
 いびつな、「観念」好きの、自分が良ければよい、と考えるもの書きの姿が、ここにはある。
 「科学は敵だ」とか、「神話は無条件に信じるべきものだ」とか等々の狂信じみた物言いが西尾幹二にはあることは、すでにこの欄で記した。
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2736/生命・細胞・遺伝—09。

 DNAの構造(・形態)を理解しようとするとき、まずは木製のハシゴを思い浮かべるとよいかもしれない。
 登り降りするために足を乗せる横棒・横板の部分が「塩基」(正確には「塩基対」)だ。左右の手で握る部分は、「糖」と「リン酸」が繋がってできている。
 だが、「木製のハシゴ」では<二重らせん>構造を想像することが難しいかもしれない。左右の握り棒部分を強く「ねじって」、<らせん>階段のようにしなければならないからだ
 だから、勝手に、<縄ばしご>の方が近い、と秋月は思っている。「縄」でできたハシゴならば、左右にあるタテの縄を容易に「ねじって」、<らせん>状にすることができるだろう。
 左右の握り縄の部分は、長い「鎖」とか、長い「糸」と表現されることが多い。
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 DNA(とRNA)の最小の構成単位は、「ヌクレオチド」(nucleotide)というらしい。この「ヌクレオチド」は、一個ずつの「リン酸」と「糖」(正確には「五炭糖」)と—4種ある「塩基」のうちの—1種の「塩基」で成る。DNAの「糖」は「デオキシリボース」だ(だから、DNA=「デオキシリボ核酸」という)。RNA(リボ核酸)は「リボース」なので、DNAと異なる。
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 ヌクレオチドは、「縄ばしご」のごく一部だ。横棒部分の全体の、半分しか持たない。したがって、これだけでは、「はしご」にならない。また、左右にある握り縄部分のうちのごく短い一部分にすぎず、上記の通り計2個のつらなった分子構造しか持たない。
 ではなぜ、横棒=横板部分がもう半分くっついて(逆の形で「相補的に」)結合して、左右に一対の握り棒(握り縄)になっているのだろうか。一対の(計2種の)塩基を「塩基対」と言う。
 もともとタテの(ヌクレオチドの)長さが短いと生命体にとって必要な「情報」を記載する(正確には「情報」を記載する「塩基」部分を保持する)ことができないから、左右いずれかの「リン酸基」・「糖」部分は長く繋がって、「鎖」状にまたは長い「糸」状になっている。
 その左右いずれかの部分を長くすれば、塩基がもつ<情報>を十分に支えることができるのではないか。
 この問題について、DNAの<情報>がRNAに「転写」されるときに「コピーミス」が生じ得るので、その場合に備えて、もう一本(もう一鎖)、元来は「同じ」はずの「予備」を用意しているのだ、との説明がある。
 田口善弘・生命はデジタルでできている—情報から見た新しい生命像—(講談社ブルーバックス、2020)
 (なお、この一対は、有性生殖生物の場合の雌雄という一対に由来するのでは全くない。後者に由来するのは一対で成る<染色体>だ。)
 なるほど、無駄になるかもしれないのに丁寧なことだ、と思う。これに比べて、RNAは、「ヌクレオチド」が最小単位であることは同じだが、「はしご」状(二本の長い鎖の「らせん」状)ではなく、一本の長い「鎖」・「糸」なのだ。
 しかし、さらに疑うと、「予備」もまた「ミス」を含んでいる可能性が全くないとは言えないだろう。そうすると、「三本め」もまた用意しておかなければならないのではないか。
 日本の神社にたいていはある鳥居には一本の柱ではなく、左右一対の二本の柱がある(それらの上に「笠木」がある)。そうであってこそ、「安定」している(また、「美しい」のかもしれない)。
 だが、ごく稀には、二本の柱の中央の奥にもう一本柱があって、三本の柱をつないでいる鳥居がある(三柱鳥居。例、京都市の木嶋坐天照御魂神社)。上から見ると、正三角形の形状をしているはずだ。二本よりも、三本の方が「安定」性が(鳥居の場合はきわめて)高いだろう。
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 こんな雑考をしていると、興味深い記述を思い出した。すなわち、DNAの「二重らせん」構造を解明したJ·ワトソンとF·クリックは(他の一研究者グループも)、当初は「二重」と想定しておらず、「三重」と予想した時期もあったという。らせん状にヒストンに巻き付くのは何本と決まっているわけではないので、三本でも四本でもあり得ることだ。なお、他にも想定違いはあった(塩基がくっつく方向等)が、それらを打ち破ったのが、ロザリンド·フランクリンによる「写真」だったという。
 S·ムカジー=田中文訳・遺伝子—親愛なる人類史—/上(2021)
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 生命体(生物)にとって最も基礎的な数字は、2、次いで4であって、3ではないような気がする。多言はしない。人間に身近な「音楽」についても。
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 そんな数字マニアックなことよりも、以下のことの方が、はるかに重要なことだろう。
 細菌(バクテリア)を含む全ての生物にDNAがあり(ウイルスの中にもDNAを持つものがある、という)、「ヌクレオチド」を(「分子」レベルでの)共通する最小単位にしている。細菌(バクテリア)もホモ・サピエンス=人類も同じだ。
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2735/生命・細胞・遺伝—08。

 生命・細胞・遺伝—08。
 細胞や個体・人間の「死」についてまず書こうと漠然と想定していたが、<Y染色体論>なるものをふと思い出して、染色体や遺伝子等に進んでしまった。「細胞死」と個体の「寿命死」の差異や関連についてがまだ触れていない。「読書ノート」のようなものを、行きがかり上、さらに進める。
 ——
 生命体・細胞の(とくに遺伝子関連の)研究の発展史のようなものに05でごく簡単に触れた。以下、重なるところもある。
 1860年代のメンデルによるほとんどの生物に共通する遺伝関係「因子」と遺伝にかかる「法則」の発見から20世紀になってからの(ドイツのW·ヨハンセンによるドイツ語を経ての)「遺伝子(gene)」という言葉の出現や若きサットンの研究までの間に重要だったのは、「染色体(chromosome)」の発見とこの言葉の定着だった。
 なぜ「染色体」が遺伝子やDNAに先行したかの理由は、まずはその「大きさ」と「染色」されやすさ、にあっただろう。
 遺伝子やDNAよりもサイズが大きいために、当時の顕微鏡による「細胞」観察でもより容易に発見することができた。
 加えて、「染色体」は青い「アニリン染料」によく「染まる」性質を持ち、その大きさとともに明瞭に「目立つ」ものだった。
 「染色体」という呼称は、1888年に始まった、とされる。その「染色」性に由来していることは間違いない。
 このように「染色体」が目立った重要な背景には、しかし、<細胞分裂>の際の「挙動」こそがあった。
 1882年に、ドイツのW·フレミングは、<細胞分裂>の各段階ごとに、「よく染まる構造体」の「奇妙で特徴的な挙動」の「精緻なスケッチ」を残した(「」引用は、中屋敷均・遺伝子とは何か(2022)から)。このスケッチは現在でも利用されている。
 大きさも、「染色」性も、じつは、<細胞分裂>の過程での不思議な「挙動」によってこそ明らかになったものだった。
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 1875年にヘルトヴィヒが、ウニの「生殖」過程で「核」内の精子が別の核内に入っていって二つの「核」が融合する、ということを発見した。
 そんなこともあって、二つの「核」の融合を経る(狭義の)「遺伝」には「核」内の(その他の物質や構造体ではなく)「染色体」が重要な役割を果たしていることを、20世紀初頭にサットンが発見し、主張するに至る(既述、05)。
 こうして、メンデルによる「遺伝」に関する「因子」は「染色体」に該当する、またはこの二つは重要な関連がある、と考えられた。そしてまた、同時期にドイツのW·ヨハンセンの造語を経て「遺伝子」(gene)という語・観念も作られていた。サットンは、「染色体」=「遺伝子」と見なすとメンデルの「法則」をうまく説明できる、と気づいた、という(この部分、小林武彦・DNAの98%は謎(2017)による)。
 だが、「遺伝子」の正体・「性質」については、「染色体」との関連も含めてまだ不明確だった。
 一方ですでに1869年に、細胞内、とくに「核」内には「DNA」という物質があることが知られていた(スイスのF·ミーシャによる)。
 だが、「遺伝子」は「タンパク質」なのか「DNA」なのか、といった議論があり、「DNA」等の単純な成分をもつ「核酸」(nucleic acid)ではないとする説も有力だった。多数説だった、ともされる。人体を構成する主要な高分子化合物(生体高分子)は20種類のアミノ酸が複雑に結合した種々の「タンパク質」だから、「遺伝」・生存の基本を形成するのも「タンパク質」だろう、というわけだ。
 その後、1928年、その物質は「タンパク質」以外の何かだと判った(グリフィスの実験)。
 ついで1944年(第二次大戦中)、「遺伝子」の正体・本体または物質的性格は「DNA」だと解明された(アベリーの実験)。
 では、「DNA」はどのような形態・構造をしているのか。これが明らかにされたのが、1953年。J·ワトソンとF·クリックによる。その年から、まだ70余年しか経っていない。
 なお、「二重らせん」構造という結論に影響を与えたのはロザリンド·フランクリンという女性による観察・解析だった、という。この人はのちに38歳で夭折した(中屋敷・上掲書等々)。
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 以上の最後の方ですでに、「遺伝子」の本体または物質的性格が「DNA」だ、という旨を叙述した。これは、両者の差異に関する、つぎの説明の仕方に符号しているだろう。「視座」の違いによるとも言える。
 すなわち、「遺伝子」とは<情報>(を記載したもの)であり、「DNA」とはその<物質>(的性格)だ。
 だが、種々の説明の仕方があるようだが、すでに(<八木秀次の「Y染色体論」②>)で触れたように、「核」内のDNAのむしろ広い範囲は、「遺伝子」が示す情報(・設計図)を持たないようだ。「染色体」が出現する「細胞分裂」の過程でも同じ。
 したがって、「遺伝子」とDNAの関係・差異については、さらにもう少し立ち入る必要がある。
 ——
 

2734/八木秀次の<Y染色体論>②。

 「細胞」は大きく「再生系」と「非再生系」に分けられる。
 上の後者は神経細胞、心筋細胞だ。おそらく、「iPS細胞」を使った再生 もあり得ない。爪も肝臓という臓器等も「再生」できるけれども。
 多数の細胞は前者の「再生系」だ。その中に、生殖細胞および生殖関連細胞も含まれる。
 この区別は、「細胞」の「分裂」があるか否かに対応している、と見られる。元の神経細胞が「分裂」によって消失してしまえば(そして新しい神経細胞に取って代わられれば)、各個体に固有の<記憶>や<自我意識>等もまた消滅してしまうのではないか。全ての細胞が「分裂」・増殖するかのような叙述は、厳密なものではない。
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 細胞の「分裂」の態様には、「有糸分裂」(有糸「核分裂」による細胞分裂)と「減数分裂」とがある。おおよそは「紡錘体」(糸)出現の有無によって区別されるとも言われるが、それはともかく、「減数分裂」で生み出されるのは、ヒトについて言うと、精子(男子)と卵子(女子)だ。
 これらを作り出す精巣や卵巣という細胞組織の個々の細胞も、「有糸分裂」(と「分化」)によって作り出される。
 上の区別に対応するのが、おそらく、「体細胞」と「生殖細胞」の区別だ。後者は正確には、精子(男子)と卵子(女子)のみを意味する。
 精子と卵子は「細胞」ではあるが、「体細胞」が23対・46本の「染色体」をもつのに対して、半分の23本の染色体しか持たない。「減数」分裂と称される理由だ。
 精子と卵子が一体となった「受精卵」は、両者から受け継いで、23対・46本の染色体をもつ。
 その受精卵は順調に分化・増殖すれば胎児になり、新生児となり、成長して再び精子(男子)または卵子(女子)を体内で(「減数分裂」によって)作り出す。
 元に戻ると、あるいは上から再出発すると、精子と卵子がもつ23本の「染色体」の中には、1本の「性染色体」がある。残りの22本の「常染色体」は少なくとも直接には生殖細胞の生成に関与しておらず、精巣・卵巣も含む、それ以外の圧倒的多数の諸「体細胞」の生成に関わっている。
 精子がもつ1本の「染色体」はいわゆる「X染色体」か「Y染色体」かのいずれかで、卵子がもつ1本の「染色体」は通常はつねに「X染色体」だ。
 「受精卵」・胎児・新生児・個々の人間がもつ23対・46本の「染色体」のうちの1対・2本の「性染色体」には、したがって、いわゆる「XY型」と「XX型」の違いがあることになる(生物上の「性」の区別)。
 --------
 「染色体」はしかし、それ自体が「体細胞」や「生殖細胞」の生成に関する<情報・設計図>をもってはいない。
 「染色体」は、「DNA」や「遺伝子」を「細胞分裂」の際に整序させて<(一時的に)包み込む>「包装物」のようなものだ。こう理解するようになった。
 子孫への狭い意味での「遺伝」、個体みずからの「存続」の両者に関する<情報・設計図>は、「染色体」にではなく、「DNA」または「遺伝子」が示している。
 さらに、上の後の二つは同義ではなく、より決定的なのは最後の「遺伝子(gene)」だと見られる。
 下の書物によるとだが、「全ゲノム」=「DNA」全体のうち98%は「非コードDNA領域」だ。つまり人間の身体の生成・維持にとって重要なタンパク質を指定する等の情報をもっていない。また、同じく80%は、「遺伝子を含まない領域」だ、とされる。
 この数字は、アメリカを中心にして行われた(日本も少しは関与した)「ヒトゲノム計画(プロジェクト)」が完了した2003年の報告書にもとづくもので、「多くの研究者の予想以上の」ものだったとされる。
 小林武彦・DNAの98%は謎(講談社ブルーバックス、2017)。
 「全ゲノム」とは(ヒト一人についての)「30億塩基対」だとされるが、「塩基」等のDNAの構成要素は、別に触れる。
 ——
 八木秀次・本当に女帝を認めてもいいのか(洋泉社新書、2005)。
 この書物で八木は、「Y染色体」としきりに書きつつ、「DNA」や「遺伝子」という言葉・概念を自らでは(たぶん)いっさい用いていない。これはなぜなのか。
 「ヒトゲノム計画」とその結果について知らなかったとしても容赦できる。しかし、2000年頃にはとっくに、「DNA」や「遺伝子」という言葉・概念があることくらいは知られていただろう。
 八木は、信じ難いことだが、「染色体」=「DNA」=「遺伝子」と単純に理解していたのだろうか。
 問題にされてよいのは、「染色体」ではなく、「遺伝子」だ。
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 他にももちろん、八木の議論の問題点は、多数ある。
 ①継承されるものはもともと全て<複製(コピー)>なので、「まったく同じ」染色体も遺伝子もあり得ない。
 ②「遺伝子」レベルでの<複製(コピー)ミス>(=「変異」)がありうる。
 ③「男系」で継承されてきた、という「科学的」根拠がない(「継体」以降にかぎっても)。子どもの父親は本当は誰なのか、という問題は、現代でも起きる。最もよく知っているのは受胎し、出産した母親だけ、ということはあり得る。また、「神武」天皇は本当に「男性」だったのか(その前に、「実在」性自体の問題はむろんある)。「継体」は本当に「応神」天皇の「Y染色体」を継承しているのか? あくまで若干の例だが、これらを肯定できる、「科学的」・「実証的」根拠はどこにあるのか。
 ④「血」・「血統」・「血筋」といった語が、厳密な意味が不明なままで使われている。まさか、「Y染色体」=「血」、ではないだろう。等々。
 以上は、「女系」または「女性」天皇の歴史上の存在とは直接の関係がない。
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 ついでながら、有性生殖生物である哺乳類の場合のオス(人の場合は男子)という「性」を決定する、正確にはたぶん「精巣」(→精子)を作り出すことのできる、そういう遺伝子は、近年の研究により、「SRY(Sex determining-region Y)遺伝子」と称されるものだと特定されている。そして、「XX型」染色体の中にも稀には、この「SRY遺伝子」をもつものがある、という。
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2733/私の音楽ライブラリー041。

 私の音楽ライブラリー041。
 Frederic Chopin, Nocturn No.20 in C-sharp Minor, op.posth.
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 003<再掲> →Nobuyuki Tsujii. 〔Classical Vault 1〕
 003-02 →Alice Sara Ott. 〔音楽の灯〕
 003-03 →Maria J. Pires.〔- Topic〕
 003-04 →Wladyslaw Szpilman. 〔profslump20〕
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2732/生命・細胞・遺伝—07。

 生命・細胞・遺伝—07。
 「染色体」というものは、(秋月瑛二には)把握し難い。
 「染色体」は「遺伝子」や「DNA」を「内部に含む」、より「大きい」構造体だ、といちおう書いた(02)。
 そして、「染色体」は、細胞の中の「核」の中にある。
 これらは、完全に間違っている、というわけではない。
 こう理解して差し支えないだろう叙述は、すでに0206で引用または紹介した、S·ムカジー=田中文訳・遺伝子/上(2018)のつぎの中にもある。
 「①遺伝子は染色体上に存在している。
 ②染色体とは細胞の核の中にある長い線状の構造体で、そこには鎖状につながった何万もの遺伝子が含まれている。」
 また、同じ著者・訳者による、細胞/上(早川書房、2024)の序文にも、つぎの文章がある。
 「①…遺伝子は、デオキシリボ核酸(DNA)という、二重らせん構造を持つ分子内に物理的に存在している。
 ②DNAはさらに、糸の束のような構造をした染色体の中にパッケージされている。」
 後者によると、「遺伝子」は「DNA」という分子内に「物理的に存在」し、そのDNAは「染色体の中」に「パッケージされて」いる。
 どう読んでも、「遺伝子」<「DNA」<「染色体」という関係にある、と理解したくなる。
 また、前者の第二文は、「染色体」の中に「遺伝子が含まれている」と読むのが通常だろう。
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 だが、やや不思議なのは、上の前者の第一文が明らかに「遺伝子は染色体上に存在する」として、「の中に」ではなく「上に」としていることだ。これは原著で確認してもそうで、「in」ではなく「on」が使われている。
 遺伝子<染色体という関係にあるなら、なぜ「in」になっていないだろう、という気もする(in でもon でも、包含関係は変わらないかもしれないが)。
 さらに不思議であり、問題を孕んでいると感じるのは、上の前者の第二文と、上の後者の第二文の、日本語訳だ。原著の英文を見ていると、訳者の「医師」資格を問題視するのではないが、異なる日本語の文章に訳すことのできる可能性がある、と考えられる。なお、前者と後者の①と②は、原文ではいずれも、関係詞でつながった一続きの一文章だ。
 すなわち、つぎのように翻訳できる可能性があるだろう。
 前者の①・②。→「遺伝子は染色体上に存在している。—この染色体は細胞の中に含まれる(buried)長い線状の構造体で、細胞は、鎖状につながった何万もの遺伝子を含んで(contain)いる」。
 関係詞の主語を染色体ではなく細胞と理解できる可能性があり、その場合は、「遺伝子」<「染色体」ではない。たんに「遺伝子」<「細胞」を前提とした叙述であるにすぎない。
 後者の①・②。→「…遺伝子は、デオキシリボ核酸(DNA)と称される二重鎖のらせん状分子の中に(in)物理的に位置している。それ〔DNA〕はさらに、人間の諸細胞では、染色体と称される、群れた〔綛(かせ)のような〕(skein-like)構造体へと(into)パッケージ〔包装〕されている。
 この部分では(関係詞の主語ではなく)「packaged into」の意味の理解が問題になる。「〜へと包装」される、「〜に包み込まれる」とは、必ずしも大小ないし包含・被包含の関係を意味しないと理解できる可能性はあるだろう。また、「染色体」が「包装」するではなく、厳密には、「染色体」と呼ばれる「〜構造体」が「包装」する、と叙述されていることも気になる。〔原文追記—DNA which is further packaged in human cells into skein-like structures called chromosomes.〕
 要するに、「遺伝子」または「DNA」<「染色体」と単純に理解してはいけない、という気がする。
 そして、この理解の方がむしろ、別途に種々の文献を一瞥した後での秋月の理解に合致する。
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 一つの巨大な「細胞」に宇宙船のようなもので「細胞膜」を通過して入り、内部を探検して、「内部」の諸物体(ミトコンドリア、リボソーム等々)を紹介しているかのごとき叙述が、S·ムカジー=田中文訳・細胞/上(2024)にはある(すでに、02での叙述の基礎にした)。
 上で記したことに関係して興味深いのは、上の紹介では一番最後に「(細胞)核」が取り上げられながら、「染色体」は「核」の中で独立した位置づけを与えらていない、ということだ。そのかぎりでは、著者は「遺伝子」や「DNA」等と同様の扱いを、「染色体」についてしている。
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 何となく不可解のままでいたところ、なるほど、と理解できた気になったのは、つぎの文章による。
 「細胞分裂が始まると、DNAが巻きついているヒストンはそれまでよりもさらに密に折りたたまれて、『染色体』という棒状の構造にまとまっていきます。
 染色体は、細胞分裂のときにしか見られないDNAの姿です。
 雑誌Newton 2011年11月号/生命の設計図·DN A(ニュートンプレス、電子化2015年)。
 これによると、DNA=染色体だ、とも言える。
 そのことよりも重要なのは、「染色体」は「細胞分裂」のときに(正確には、その過程で)出現する構造体だ、ということだ。
 「細胞分裂」は次から次へと頻繁に発生しているだろうから、「染色体」も<ほとんど常時>「核」(<「細胞」)内に存在していると感じられて不思議ではないだろう。
 しかし、論理的には、または時間軸を厳密に見れば、「染色体」は<一時的に>存在するものにすぎない。
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 かつまた、今回はほとんど立ち入らないが、「染色体」は、その形状、(「核」内での)「位置」や、(「遺伝子」・「DNA」との)「関係」を、「細胞分裂」の過程で頻繁に(だがリズミカルに)変化させる
 <空間軸>のみならず<時間軸>を取り込んで、あらためて「細胞分裂」の過程に触れる必要がある。その過程での「染色体」の様相は、「常染色体」と「性染色体」とで同じではない
 おそらくは「生殖細胞」や「性染色体」について明確には顧慮されていないが、S·ムカジー=田中文訳・細胞/上(2024)の中には、つぎの叙述がある。
 ここでは、「染色体」の形状等の変化のほか、「(細胞)核」もまた一時的には消滅する旨も語られている。
 「細胞が分裂する際、すべての染色体は複製されて二倍になり、その後、二つに分かれる。
 ヒト細胞では、核膜が消え、分裂してできたばかりの娘細胞の中にフルセットの染色体が一組ずつ入ると、核膜がふたたび現れて染色体のセットを取り囲む。
 こうして、染色体がおさめられた新しい核を持つ娘細胞ができあがる。
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2731/生命・細胞・遺伝—06。

 ①宇宙—②地球—③生命体(生物)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子。
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 S·ムカジー=田中文訳・遺伝子/上(早川書房、2018/文庫2021)は「プロローグ」で、「われわれはすでに遺伝子を非常に詳しく、深く理解してい」る、とする。そして、こう続ける。
 「遺伝子〔genes〕は染色体〔chromosomes〕上に存在(reside)している。
 染色体とは細胞の核の中にある長い線状の構造体〔long, filamentous structures〕で、そこには鎖状に〔in chains〕つながった何万もの遺伝子が含まれている。
 ヒトの染色体は全部で46本で、父親と母親から23本ずつ受けついでいる。」
 また、小林朋道・利己的遺伝子から見た人間—愉快な進化論の授業(PHP、2012)には、つぎの叙述がある。
 「地球上で見られる生物のほとんどでは、遺伝子は、たがいにより集まり群れをつくって存在している。
 …、人間の場合、遺伝子は約2万個であることが知られている。
 これら2万個の遺伝子は、23個の群れに分かれて細胞の中に入っている。
 平均すれば、一つの群れには約870個の遺伝子が入っていることになる。
 約870個の遺伝子が乗ったバスが23台あると表現してもいい(それぞれのバスの中では、遺伝子はたがいにつながりあって、一本の長い紐のようになっている)。
 このときの一台一台のバス、あるいは一本一本の紐を染色体と呼ぶ。」
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 人間の染色体数は46だと確定、または判明したのは、1956年だとされる。
 上の②だと染色体の本数は23本のようでもあるが、一台のバス=一つの「群れ」であり、その「群れ」は2本の染色体で成ると理解すると、染色体の数(本数)はやはり46だ。
 なぜ「2本の群れ」ができるかというと、①が述べるように、<一定の種類の>染色体を父親から1本、母親から1本継承し、その2本が「群れて」いるからだ。
 23組(群れ・対)の染色体のうち22組の各染色体は「ほとんど同じ形質」をもつ(「相同」)。しかし、1組だけは異なる。その組み合わせ(セット)の染色体(2本)を<性染色体>とも言う。
 ところで、上の①と②は一つの「細胞」(>核)に関する叙述で、全ての「細胞」に当てはまる。
 したがって、人間の細胞数を約38兆個だとすると、人間の個々の個体は、46×38兆個=1748兆本の染色体を体内に持っている(細胞数約60兆個だと2760兆本)。全細胞・全ての核の中に、「長い線状」、「鎖状」の構造体あるいは「一本の長い紐」になった、これだけの数の「染色体」がある。
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 染色体ではなく、遺伝子の数となると、もっと膨大になる。
 上の①は「何万もの」(tens of thousands)と書き、②は「約2万」と書く。
 <性染色体>を除く染色体を「常染色体」と呼び、それは22組・対・セットの染色体で成る。1963年の国際会議を経て、各「常染色体」はその「大きさ」(正確には総「塩基対」数の多さ)の順に番号が振られることになった、とされる。第1番染色体、第2番染色体、…第22番染色体というように。
 それぞれが父親由来と母親由来の染色体の合計2本の「染色体」から成るのだから、2本ずつをセットにしてこう称するのは、やや紛らわしい。
 各番の「染色体」について、遺伝子数を正確に(または正確らしく)記載している文献がある。それによると、つぎの数字だ。1番〜22番まで列挙する。
 ①2610、②1748、③1381、④1024、⑤1190、⑥1394、⑦1378、⑧927、⑨1076、⑩983、⑪1692、⑫1268、⑬496、⑭1173、⑮906、⑯1032、⑰1394、⑱400、⑲1592、⑳710、㉑337、㉒701。
 以上、雑誌Newton2013年9月号・XとY—男女を決めるXY染色体(ニュートンプレス、電子化2016)。
 上のうち計6組は奇数だ。これは父親由来か母親由来かいずれかの遺伝子数が1つ少ない(または多い)ことを意味するのだろうが、理由・意味は分からない。
 血液のABO型に関与するのは血液型についてのA遺伝子、B遺伝子、O遺伝子だとされ、それらは第9番染色体上にある、という。但し、個々の染色体(群)には血液型については二つ(父親由来と母親由来)の遺伝子しか存在し得ないとされる。そこで、当該両親からは生まれ得ない血液型の子どももあることになる。
 ともあれ、上の各数字の合計を単純に計算すると、2万5412になる。これを22等分すると、平均は約1155だ。なぜか、上の小林朋道②のいう「約870」に比べて、やや多い(とはいえ、桁外れに異なる、という程ではない)。
 これは1細胞あたりの遺伝子数だから、個体全体での数は、2万5412×38兆の計算をしなければならない。これは1兆の96万5656倍で、96京5656兆になる。
 これだけ膨大な数の遺伝子が個体の「生存」のために用意されている(常染色体は「性」・生殖に関与しないと仮にしておく。いわゆる「性染色体」の遺伝子数は下記)。
 もっとも、「情報」または「設計図」が用意されていても「現実化」しない、あるいは「発現」しない、そういう遺伝子も、少なくない。メンデルは19世紀に、<顕性(優性)>と<潜性(劣性)>の区別があることを示したのだった。
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 ついでに、ここで確認しておく。
 「常染色体」と言われる父親由来と母親由来の2本の染色体は<きわめてよく似たものだ(正確には「塩基配列」がほとんど同じだ)。両親がその祖先から継承してきたものを仮に「血」と呼んでおくとすると、子どもには確率的には父親系統の「血」と母親系統の「血」が半分ずつ継承される
 したがって、子どもが「女子」であっても、確率的には半分、父親系統の「血」が伝わっている。使いたくない言葉だが、仮に(母親系統ではなく)父親系統の「血」が<高貴>だとしても、その<高貴>な「血」は、「女子」にも伝わる。このことはしごく常識的で、当たり前のことだろう。
 繰り返しだが、子どもの身体・体質等々々の個体の「形質」一般に密接に関係する「常染色体」のうち、子どもが女子であれ男子であれ、確率的には半分が母親由来であり、半分が父親由来だ。常識的で、当たり前ではないか。
 「常染色体」は22組(対・セット)で、「性染色体」は1組だけ。「性染色体」だけが子どもに「遺伝」する、あるいは「継承」される、のでは全くない。それによって、女子か男子かが運命的に(?)定まるのだとしても。
 なお、父親を含む両親が生後に獲得した形質は子どもに「遺伝」しない、「遺伝子」によって「継承」されることはない、ということも確認しておく必要があるだろう。
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 いわゆる「性染色体」、いわば(秋月用語だが)「第23番染色体」にも、遺伝子はある。そのうちの、父親由来と母親由来の2種があるいわゆる「X染色体」には、1098の遺伝子があり、父親由来のものしかない、いわゆる「Y染色体」には、かなり少ない78の遺伝子がある、とされる(上掲の雑誌Newton による。ちなみに、「第23番〜」を加えた総遺伝子数は、女子が2万5412+1098×2=2万7608、男子が2万5412+1098+78=2万6588)。
 さて、「Y染色体」の全体が、つまりは実質的には78の遺伝子の全てが、「男子」という「性」の決定に参画しているのだろうか。「参画」ではなく「関与」でもよい。
 上の問いは厳密には誤りだ。父親がもった「X染色体」もまた、「男子」にしないというかたちで、「性」の決定に「参画」・「関与」しているのだから。
 いや、そもそも、男女いずれかへの「性」の「決定」とはいったい何のことだろうか。あるいはさらに、それに遺伝子が「参画」または「関与」するとは、どういうことを意味しているのだろうか。
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2730/生命・細胞・遺伝—05。

 ①宇宙—②地球—③生命体(生物)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子。
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 38兆個とも60兆個ともいわれる、ホモ・サピエンスの個体を構成する基本単位である「細胞」は、増殖または分化する(加えて、これらの結果として元の「細胞」は「死ぬ」)。
 「増殖」は「分裂」によって生じる。「増殖」とは、一つの細胞が二つに「分裂」して同じ「細胞」の数が2倍、4倍と増えていくことだ(10回で2の10乗の1024倍になる)。細胞レベルで同一のものの「クローン」を多数生み出していくこと、と言って間違いでないだろう。
 「分化」とは異なる性質の細胞に「変化」・「変質」することだ。増殖を伴わないかぎり、数は増えない。おそらくは増殖と分化が同時に並行して一挙に行われていって、多様な機能に特化した「細胞群」、「細胞集団」、「組織」といったものが出来てくるのだろう。
 既述のように、ほとんどの生命体では(=少なくとも真核生物であれば)、「細胞」の中に「(細胞)核」があり、全てのその中に(われわれの個体では38-90兆個の細胞の全てに)「DNA」が格納されている。
 なお、「神経細胞(ニューロン)」という細胞について、樹状突起、軸索、核、の他に「細胞体」がある、と01で書いた。この「細胞体」とは、細胞質、ミトコンドリア、リボソーム等を含む。ニューロンも「細胞」なのでこれらを含んでいて当然なのだが、「神経細胞」に特有の説明がされる場合にはこれらに逐一言及されず、「細胞体」として一括されることがある(と見られる)。
 神経細胞(ニューロン)の「核」の中にも、もちろん「DNA」が存在する。
 さて、「DNA」と「遺伝子」や「染色体」とは、どのような関係に立つのだろうか。これまで、後二者については、言葉としてもほとんど触れたことがない。
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 「遺伝子」という語は、ダーウィンもまだ使って使っていなかったようだ。最初は20世紀に入ってから1909年にドイツの研究者の書物の中に「Gen」として出てきたらしい。それが1911年に、英訳語でgene(複数形はgenes)と記述された(参照、下記の中屋敷著)。ゲノム(genome、ジーノウム)は、gene に由来する言葉だ。
 日本語の「遺伝子」という語では、親または先祖から子どもまたは子孫に同一のものを「継承」させる因子、という意味だけに理解される、そう誤解させる、そういう可能性がある。この意味での「遺伝」や「継承」は、英語ではheredity という。
 これに対して、英語のgen(独語のGen)には、「生み出す」、形質を発現させる、という意味があるとされる。秋月が付記するが、generate (生む、生成する)は、この語幹をもっていると思われる。
 そして、欧米語での「遺伝子」も、「遺伝」や「継承」の意味のみならず、自らの形質・形態や機能・役割を「生む」または「支配する」・「決定する」という意味ももっている。これは、「細胞」レベルでも「個体」レベルでも言える。
 ヒトの「個体」に即して簡単に言えば、ヒトの「身体」(正確には「脳」も含む)を「生み」、「支配」・「決定」しているのは、当該人間の「遺伝子」だ、ということだ。この意味では、子どもや子孫は何の関係もない。なお、「支配」・「決定」と言っても、ヒトの個体の「運命」があらかじめ「遺伝子」によって100%決まっている、という意味ではない。
 ともかく、「遺伝子」は、子ども・子孫への「遺伝」・「継承」にのみかかわるものではない。「自ら」に密接に、直接にかかわっている。
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 「遺伝子」、「染色体」、「DNA」は、ある意味では、それぞれの「発見」時代の科学または自然科学・生物学・遺伝学等の発展段階に則したもので、基本的には同じものを指している、とやや乱暴に言ってよいのかもしれない。つぎのような意味でだ。主として、中屋敷均・遺伝子とは何か—現代生命科学の新たな謎(講談社ブルーバックス、2022)による(粗雑な概括なので、叙述の責任は秋月にある)。
 1865年頃、明治改元の直前にG·J·メンデルがエンドウマメを使って<遺伝>に関する「法則」を発見したとき、親から子への形質の継承に関わる共通の「因子」があるに違いない、ということを明らかにしただけだった。その後彼とその「法則」は忘れられ、20世紀に入ってから、基本的考え方の「正しさ」が確認または再発見された。
 その再発見のためには、19世紀半ば以降の「高性能な複式顕微鏡」の量産等の技術や関連科学分野の発展が必要だった。つまり、まずは、「細胞」の「分裂」の際に特徴的な挙動をする「染色体」が発見された。その構造体は、「細胞」内に特定の染色剤を注入すると「よく染まって」見えたがゆえに、「染色体」(chromosome=色+体)と名付けられた。
 20世紀初頭に、アメリカの若い研究者(W·S·サットン)が、「染色体」はメンデルが指摘していた「因子」にほぼ該当するとした上で、つぎのことを明らかにした。
 ①「染色体」は2本の対で成り、1本は父親にもう1本は母親に由来する、②生殖細胞の形成の際に通常の細胞(=「体細胞」)とは違って「減数分裂」が起こり、1本ずつになった「父親由来の染色体」と「母親由来の染色体」がランダムに結合して、多様な組み合わせの2本の対から成る新しい「染色体」が生まれる。
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 上のことを詳細に確認し、「染色体」説に立って「染色体」のヒト等の生物の生存と子孫へ継承にとっての重要性を解明した研究者(T·H·モーガン)には、1933年にノーベル生理学·医学賞が付与された。
 「染色体」の実体の解明には、さらに時間が必要だった。
 メンデルには「因子」しかなく、のちに「遺伝子」という用語もできていたが、「染色体」の中にあるに違いない、という<観念的>なものだった。
 まだ「電子顕微鏡」、「超遠心分離機」、「電気泳動装置」等がないまま、「細胞」(>「核」>「染色体」)の研究が進められた。そして、遺伝子とその本体である「DNA」の存在自体は突き止められた。
 遺伝子と「DNA」の具体的様相の解明はまだだった。しかし、ようやく1953年(2024年から70年余前)に、J·ワトソンとF·クリックによって、「DNAの二重らせん構造」が明らかにされた。二人には、1962年にノーベル生理学·医学賞が授与された。
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 以上のとおり、「染色体」は各細胞かつ各核内にある「遺伝子」や「DNA」を内部に含む(これらよりも大きい)構造体だ。
 例えば、つぎの叙述が、シッダールタ·ムカジー=田中文訳・遺伝子/上(早川書房、2018)の最初の方にある。形容詞、限定句は今回はほとんど省略。
 「遺伝子は染色体上に存在している。染色体とは、…構造体で、そこには…何万もの遺伝子が含まれている。」
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2729/八木秀次の<Y染色体論>。

  生命体(生物)や「細胞」等について勉強(?)していたら、ふと、八木秀次という、かつて私が「あほ」とみなしたグループの一人による、<Y染色体論>というものがあった、と思い出した。
 これは、<神武天皇(男性)と同じY染色体をもって(継承して)いてこそ、「天皇」である資格がある>という議論であるようだ。
 この程度の議論で決着がつくなら、明治新政府下での旧皇室典範制定過程での皇位継承の仕方に関する論議はほとんど不要であり、無益だった。
 また、小林よしのりや高森明勅らがとっくに批判しているようだ。だが、きちんと読んだつもりはないが、まだ本質を衝いていないようにも感じる。
 今回のこの投稿は、予告のようなものだ。
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 八木秀次は「染色体」という言葉・概念を使う。
 すでに最近にこの欄で触れたことがある。すなわち、「染色体」と「遺伝子」、「D NA」、さらに「ゲノム」は、どう違うのか。あるいは、これらの差異に拘泥しても無駄なのか。
 八木は、これらをどう区別しているのだろうか。あるいは、なぜ「染色体」だけを取り上げるのだろうかか。これらは同一のもの(こと)だ、と思っているのだろうか。
 さらに言うと、「Y染色体」なるものは、「染色体」自体の種別の一つなのか。それとも、「Y因子」を含む染色体のことを便宜的にそう称しているのか。
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  これまた少し異なる主題の予告にもなるが、つぎのことにも言及してみたいものだ。
 第一に、例えば<男系を通じてでなければ、天皇・皇室の「血」が伝わらない>と言われることが、たまにではあれ、ある。その場合の「血」とは、いったい何のことか。
 「血統」・「血族」等の語はまだ生きており、「血がつながる」とか「血が濃い」とかの表現も十分に通用している。
 だが、いまだにかなり多くの人々に、世代間(親から子への)継承に関するじつは単純で幼稚な<錯覚>があるようにも、私には感じられる。
 第二に、上に関連するが、<獲得形質は遺伝しない>という、遺伝学・生物学上の「公理」となっている「事実」だ。つまり、親からの継承の意味での「遺伝」または「遺伝子」に比べて少なくとも同等に子どもにとって重要なのは、「環境」ではないだろうか。幼年期には、学校等の<社会>環境のほかに、<家庭>環境がきわめて重要になることがある。
 「血」。「(生後の)獲得形質は遺伝しない」。興味深い主題が、まだ多く存在している。
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2728/生命・細胞・遺伝—04。

 ①宇宙一②地球—③生物(生命体)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子。
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 生物を植物と動物に二分するのは相当に古い分類で、現在では5界説のほか6界説もあるようだ。
 いずれの場合でも植物・動物等は「真核生物」で、生命が地球上(内)で誕生したときの単細胞生物は「真核生物」ではない。
 その最初の生命(単細胞生物)の誕生の時期について、01では「約35〜40億年前に生まれた、とされている」と記して、この点に関してのみ推定年代に触れた。
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 出口治明・0から学ぶ「日本史」講義/古代篇(文藝春秋、2018)の凄まじく、唖然とさせられるところは、<日本史・古代>と謳いつつ、宇宙・太陽系宇宙・地球の誕生、そして生命体(生物)の誕生に関する叙述から始めていることだ。
 この点で、<(文学的)文科系・モノ書き>による西尾幹二・国民の歴史(1999、2009、2017)が「歴史とは何か」に次いで「一文明圏としての日本列島」から書き起こしているのと、大きく異なる。
 西尾幹二は、さらに、「北京原人」等の「『原人』の足跡が日本列島に刻まれていてもいなくても、正直、私の人生観にはほとんど関係がない」と明言した。たんなる<(文学的)文科系・モノ書き>と出口治明の違いは完璧に顕著だ。
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 最初の生命(単細胞生物)の誕生の時期以外のおおよその時期を記しておこう。
 種々の説があるのだろうが、キリがないので、上記の出口治明・0から学ぶ「日本史」講義/古代篇による。
 約138億万年前、宇宙の歴史の開始。
 約46億万年前、太陽系宇宙誕生。
 約45.5億万年前、地球誕生。
 約40億万年前〜38億万年前。地球上に「海」発生=最初の生命体(生物)の発生。
 約19億万年前、「真核生物」誕生。
 約700万年前。「チンパンジーとの共通祖先」からヒトが分かれる。
 約25万年前〜20万年前。東アフリカで<ホモサピエンス>が出現。
 約10万年〜7万年前、<ホモサピエンス>=人類が「言語」を獲得。
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 上のような時期に加えて、関心を惹いたのは、ヒトの「脳」の成熟時期だ。以下で、似たようなことが、書かれている。
 ①出口治明・哲学と宗教全史(ダイヤモンド社、2019)
 「人間が定住生活をし始めたドメスティケーションのときに、人間の脳みそは最後の進化が終わり、それから今日まで進化していないといわれています」。
 ②小林朋道・利己的遺伝子から見た人間—愉快な進化論の授業(PHP、2014)
 「(われわれの遺伝子がつくった)脳は、ホモ・サピエンスの歴史の99パーセントの狩猟採集生活において、遺伝子の増殖に都合よくつくられている」。
 「狩猟採集生活」のあとの「定住生活」開始時点で人間の「脳」は進化し切っていた、という点で、これら①と②は矛盾していないだろう。
 ③養老孟司・唯脳論(筑摩書房、1998)
 「ヒト、現代人つまりホモ・サピエンスは、ここ数万年ほど、解剖学的、すなわち身体的には変化していない」。「ヒトの脳の機能もまた、数万年このかた変化していないはずだ」。「書かれた歴史はたかだか数千年である。その間に、ヒトはまったく変化していないと言ってよいでろう」。
 定住=ドメスティケーションの開始の時期・地域について論議があるのだろうが、上の①は、「今から1万2000年前にメソポタミア地方で起きたと推測されて」いる、としている。
 なお、池田信夫の文章によると、「人類の脳は200万年前から大きくなり始め、ホモ・サピエンスが出てくる30万年前には現在の大きさになっていた」(同・ブログマガジン2023年11月23日号)。後の時期が少し早そうでもあるが、概略では間違いでないかもしれない。
 -------- 
 以上のことは、つぎを推測させる。
 第一に、最も複雑で高度の機能をもつ「脳」が数万年前から今日まで基本的に変わっていないとすると、心臓・肝臓等々の器官の「機能」もまた、その当時にすでに現代と同様の進化を遂げていただろう。各器官の構造・機能について当時のヒトは知っておらず、「細胞」の知識も全く持っていなかっただろうが、「脳」等の<身体>は今日と同様に「働いて」いたのだ。
 第二に、脳の機能としての「感情」・「意識」・「記憶」等々も、ヒトは数万年前に身につけていただろう。平安時代の紫式部や清少納言がわれわれと基本的に同様の「美的」感覚を持っていたとしても不思議ではない。また、人種の差異を超えて、日本に来る外国人観光者の子どもたちが愉しいときはにこにこしているのも、何ら不思議ではない。
 この欄の2024/03/12で引用した、科学雑誌NEWTON-2016年6月号のつぎの文章の意味も、おおよそ納得できることになる。
 「いとおしさや、嫉妬、うらみ」といった「社会的感情」を含む「現代の人間の感情を生むしくみは、農耕時代以前の300万年前〜3万年前の生活や環境のもとで発達したと考えられている。/とくに社会的感情の多くは、特定の仲間たちと長く関係をともにするようになったことでつくられてきたと考えられているという」。
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 一方で、そのような「脳」と「人体」を古くから持ちながら、生物学・生命科学上や医学上の発見・開発、あるいは医療技術・医薬品等の発見・開発は(分野により種々だが)相当に遅れて、早くても17世紀以降のことだ。分野・知識・技術・薬剤によっては、100年前、50年前以降のものもある(例、心筋梗塞にかかるカテーテル検査・ステント留置術は約50年前に始まった)。
 つぎの著によると、「抗うつ剤」の研究・開発、脳内の「神経細胞」を覆って守るだけとほぼ考えられてきた「グリア細胞」に関する研究は、まだ途上にある。
 S·ムカジー=田中文訳・細胞—生命と医療の本質を探る/下(早川書房、2024)
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2727/生命・細胞・遺伝—03。

 ①宇宙一②地球—③生物(生命体)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子。
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 「細胞」は種々に分類されるのだろうが、つぎの二分が、まずは関心を引く。
 第一に、「体細胞」と「生殖細胞」の区別。後者は精子、卵子、初期胚など。
 精子・卵子は圧倒的多数の「体細胞」と違って減数分裂により生まれ、23本の「染色体」しかもたない。そんなことよりも、つぎの重要な違いをゲノム編集に関係して、秋月は知った。
 すなわち、「体細胞」はゲノム編集の対象にすでになっている。換言すると、〈クリスパ・キャス9〉という「遺伝子」改変・「ゲノム」編集の方法がすでに適用されているのは、「体細胞」だ。一方、「生殖細胞」のゲノム編集については論議があり、大勢的な一致はない。但し、中国人研究者が(アメリカ留学で得た知識・技術を発展させて)中国で初期胚をゲノム編集し、それを女性に移植し、その女性は双子の女の子を出産した「事実」がある、とされる。
 前者のゲノム編集の影響・効果は一世代に限定される。致命的疾患を発現させているような「体細胞」内の遺伝子が改変されても、その改変(・ゲノム編集)は次世代に影響を与えない。一方、遺伝子が改変された「生殖細胞」はその子どもの「生殖細胞」(女性だと卵子)に継承される。
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 第二に、「再生系細胞」と「非再生系細胞」の区別。
 前者・「再生系細胞」は、増殖したり、分化したりなどをする。新しい「細胞」に<再生>しうる。
 後者・「非再生系細胞」は、増殖・分化しない。ヒトの場合、初期胚・胎児は増殖と分化を繰り返して「成長」するが、母体から離れるとき(新生児となるとき)以降は、心臓を拍動させる「心筋」細胞と脳内の「神経」細胞(ニューロン)は、もはや増殖することがない、とされる。
 心筋梗塞や脳梗塞によって「壊死」した「心筋細胞」や「神経細胞」はもはや<再生>することがない。なお、例外は全くない、のではない、とされる。
 この区別に表向きは隠されているようでもある重要な意味は、ヒト、つまり人類、人間の「細胞」や個体の「死」ないし「死に方」と密接な関係があることだ。
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 「再生系細胞」が増殖するとは一つの細胞から二つの、そして四つの、…10回で1024個の同一の細胞が生まれることだ(限界まで増殖はつづく)。かつまた、元の、増殖前の細胞が「死ぬ」ことも意味している。
 「分化」の場合も同じ。異なる細胞に「分化」する前の元の細胞は「死ぬ」。
 上で「増殖したり、分化したりなどをする」と「など」を挿入したのは「死ぬ」こともあるからだ。
 ここで「死」という言葉、概念を使うのは紛らわしいかもしれない。あくまでも「細胞の死」であって、通常は「死」の意味で用いられているだろう「個体の死」ではないからだ。その意味では、「消滅」の方がよいだろうか。だが、生命体の基本的単位である「細胞」についても「死」を語って奇妙ではないし、逆に、「個体の死」もまた、「個体の消滅」だ。
 「細胞の死」またはその仕組みのことを<アポトーシス>と言うことがある(下掲書によると1972年に初めて提唱された)。
 そして、この現象または仕組みはヒトを含む多細胞生物にもともと内在しているものとされる。「プログラム化された」死であり、「遺伝子によって支配された」死だ。
 人間の身体の「細胞」は数ヶ月ごとに、あるいは毎日もしくは何時間かごとに「入れ替わっている」、とか言われることがある。上記の「心筋」細胞、「神経」細胞以外の全ての細胞にこれは当てはまる。血管を構成する細胞の一つである「赤血球」についても、肝臓の「肝細胞」についても言える。きりがない。
 アポトーシスは、「細胞がさまざまな情報をみずから総合的に判断して、遺伝子の発現にもとづいて自死装置を発動する」ことで起きる(下掲書)。
 役割を果たし終えた細胞、異常になった細胞が「自死」し、生命体に不要または有害な細胞が除去される。これは生命体たる個体の維持にとって重要だ。
 なお、「細胞の死」がつねに個体にとって好ましいわけでは勿論ない。個体の維持に必要不可欠の細胞群が<外界からの襲撃>によって死んでしまえば、「個体の死」に直接につながる。また、「外界」からの影響を無視するとしても、個別の細胞が<分裂>して「細胞の死」が発生する回数には限界がある、とされている。その限界に達してくると、個体の<老化>が顕著になり、「個体の死」と密接に関係する「非再生系細胞」の機能の低下にもつながってくる。「再生系〜」と「非再生系〜」が無関係であるはずはないからだ。
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 実際には「ふつうの」または正常な「細胞の死」だけが生じているのではない。同じことだが、細胞の全ての「増殖」等が正常に行われているわけではない。
 ついでに記しておくが、①細胞が「自死」しないで異常に増える場合—癌(悪性リンパ腫も)、ウイルス感染等、②細胞が異常に「自死」しすぎる場合—エイズ、神経変性疾患(アルツハイマー病等)、虚血性疾患(心筋梗塞、脳梗塞等)等。
 ここに見られるように、「心筋」細胞等は<再生>しない「非再生系細胞」だが、「自死」=アポトーシスはありうる。「脳梗塞」による細胞減少=一部または特定部位の「細胞の死」は、いわゆる<後遺症>を生じさせることもある。
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 「生殖細胞」は「再生系細胞」に含まれる。そして、異常なそれは、早い段階で除去される(=「自死」を余儀なくされる)。受精卵、初期胚も「生殖細胞」の一種だ。
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 「脳死」を別とすると、人間・個体の「死」の判断基準は、①心臓の拍動の停止、②肺の呼吸の停止、③瞳孔反射の不存在、の三つを充たすこととされてきた。
 この③が「神経細胞」の機能停止を少なくとも含んでいるとすると、①が「心筋細胞」、③が「神経細胞」の機能停止を意味している。そして、この二種の細胞はともに「非再生系細胞」であることはじつに興味深いことだ。
 これら(一部を含む)も、「再生系細胞」と同様の「死に方」をすることがある。しかし、興味深くかつ重要なのは、これらの「非再生系細胞」は個体自体の「死」と密接に関係している、とされることだ。
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 <君たちはどう生きるか>と問うてもよいが、<私たちはなぜ死ぬのか>と問うてもよい。
 ヒトははるか昔から、自分たちは永遠には生きられない、必ず「死ぬ」と、理屈はわからないままで、<経験的に>知ってきたに違いない。
 ヒト・人間には、「寿命」がある。なぜか。
 これは、ヒトという生物「種」がそのようなものとして生まれてきた、またはそのようなものとして「進化」してきた、と理解するほかないだろう。
 「細胞の死」と同じく、「個体の死」もまた、 「プログラム化された」死であり、「遺伝子によって支配された」死だと考えられる。
 もちろん、「種」として把握した場合のことであって、個々の人間の「寿命」・いつ死ぬかが、あらかじめ当該の人の「遺伝子」によって決定されている、という意味ではない。個別の個体次元では、「遺伝子」のほかに、生涯全体で受けてきた「環境」要因を無視することができない(長生きしようという「意欲」または「努力」が全くの無駄でもあるまい)。
 しかし、150歳、140歳、130歳まで生きた、という例を、(少なくとも秋月は)全く聞いたことがない。これはいったいなぜなのだろうか。高齢化社会となり、平均寿命も平均余命も長くなっていけば、ヒト・人間は(戦争や自然災害等を無視するとしても)過半以上の者たちが150歳、200歳まで生きるようになる、とは思えない。そうなるためには、よほどの「突然変異」とその「自然選択」化が必要だろう。
 「種」として把握した場合のヒト・人間には、 「プログラム化された」死、「遺伝子によって支配された」死が、あらかじめセットされている。これは「思想」・「哲学」、「宗教」・「信仰」の問題ではない。これらは「種」としてのヒトの「死」を考察するに際して、ほとんど何の役にも立たない。
 主な参考文献。田沼靖一・遺伝子の夢—死の意味を問う生物学(NH Kブックス、1997)
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2726/私の音楽ライブラリー040。

 私の音楽ライブラリー040。
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 Robert Schumann, Cello Concerto in A-minor op.129.
 001<再掲> →Jacqueline du Pre. 〔Araks Gyulumyan〕
 001-02 →Mischa Maisky, L. Bernstein, WienerPhO. 〔Classical Vault 1〕
 001-03 →Kian Soltani, C. Eschenbach, Stuttgart-Freiburg SWR-SO. 〔Kian Soltani〕
 001-04 →J.-G. Queyras, P. Heras-Casado, Freiburger BarrockO. 〔DW Classical Music〕
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2725/生命・細胞・遺伝—02。

 ①宇宙—②地球—③生命体(生物)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子
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 単細胞生物の細胞、植物の細胞、ヒト等の動物の細胞の構造図を見ていて、あらためて驚愕するのは、生物(生命体)の「細胞」は、よく似た、基本的には「同じ」構造・形態をもっている、ということだ。
 細胞膜が一重のものと二層のものとがある。植物の細胞には、「葉緑体」がある。これら等の差異はあっても、少なくとも、きわめてよく似ている。
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 ヒトには約37兆(説によると約60兆)個の細胞があるが、個々の細胞の構造は基本的に同一だ。しかし、全てが同じ役割または一定の役割の中の同じ一部、を担っている、わけではない。
 多数の細胞が「器官」や「系」を形成して、多細胞体あるいは細胞集団である一つの生命体(個体)の「生」のために働いている。心臓・肝臓といった「器官」、神経系、循環系、生殖系といった「系」だ。
 一つの細胞の中の諸要素も、細胞の中で、種々の機能をもつ。
 ヒトの「細胞」についてを前提とする。つぎの書物は最新の知見を反映しているだろうから、以下の叙述で主に参考にする。
 シッダールタ·ムカジー=田中文訳・細胞—生命と医療の本質を探る/上(早川書房、2024)。
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 「細胞」は以下のもので構成される。
 ①細胞膜。外界と分ける。ヒトの場合は二重(二層)で、脂質分子で成る。「孔」が空いていて、一定の分子が通過する。
 ②細胞質。以下以外。コロイド状から水に近い部分まで、全体として「ゼリー」状だ。
 ③細胞骨格。細胞の形態を維持する。
 ④RNA(リボ核酸)。「核」で作られるが、収まらずに外に出てくる。「塩基」で成り、「遺伝子」形成にとって不可欠。
 ⑤リボソーム。RNAの「情報」または「仕様書」を<解読>する。
 ⑥プロテアソーム。タンパク質を分解し、廃棄物として細胞質内に排出する。
 ⑦ミトコンドリア。エネルギーを生み出す。エネルギーは、第一に細胞質内で生まれ(嫌気性解糖)、最終産物は2分子のATP。第二にミトコンドリアが酸素を使って2分子ATPを燃やして高分子のATPを生み出す(好気性解糖)。第一と第二により、ブドウ糖1分子から32分子ATPができる。
 「私たちは一日のあいだに、身体の何十億個もの細胞で何十億個ものエネルギーの缶詰をつくっては、一〇億個もの小さなエンジンを燃やしている」(ムカジー=田中・上掲著)。
 ところで、ミトコンドリアは独自の遺伝子を持っていて「細胞的」だ。これは発生史的には原始細胞だったミトコンドリアを「細胞」が取り込んで<共生>し始めたかららしい。
 おまえが好きだよ、一緒になろうよ、という「意思」疎通があったのだ。
 この欄で触れたことがあるが、団まりな・細胞の意思(NHKブックス、2008)などは、細胞にも「意思」がある(あった)と表現している。
 ⑧小胞体。タンパク質の合成と輸送にかかわる。
 ⑨ゴルジ体。タンパク質が細胞外に出るときに最後に通過する部位。
 ⑩分泌顆粒。ゴルジ体から細胞膜までタンパク質を運ぶ。RNA→リボゾーム→小胞体→分泌顆粒という「流路」がある。
 ⑪。最も重要な細胞内「器官」。二層の、孔のある「膜」=核膜がある。
 核膜内にDNA(デオキシリボ核酸)を「格納」する。RNAはこれを「鋳型に」して、あるいはこれから「転写」されて生み出され、細胞質内に送られる。
 なお、細胞、さらには生命体の発生史的に見ると、原始的にはRNAが遺伝等を担っており(RNAワールド)、のちに核内に(核膜で保護された)DNAが生まれたらしい。
 「遺伝」情報が、DNA→(「転写」)RNA→(「翻訳」)タンパク質という経路をとって伝搬されることは、1953年にDNAの「二重らせん構造」を発見したフランシス・クリックによって、1958年に<セントラルドグマ>と称された。
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 DNA、「遺伝子」、「染色体」、「ゲノム」等々の意味と差異については、別に扱わなければならない。「遺伝子」は子孫への継承(「進化」はこれに関係する)のみならず、当該細胞やその細胞を含む当該個体(生命体)の「生と死」に密接に関係していることも含めて。
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2724/養老孟司・唯脳論(1998)のごく一部。

 ひらめいた、思いついた、又は引用したい文章をそのままこの欄に文字入力できれば、なんと楽なことだろうか。文字入力するより、読書している方が楽だし、かつはるかに刺激的で愉しい。
 あれこれと拾い読みをしていたら、つぎの文章を見つけた。
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 養老孟司・唯脳論(1998、電子書籍2010、ちくま学芸文庫)の一部。一行ずつ改行。
 「人文科学や社会科学の人たちは、脳と言えば自然科学の領域だと思っている。
 自然科学も何も、そう思っている考え自体が、自分の脳の所産ではないか。
 こうした諸科学から言語を抜いたら、何もできなくなるであろう。
 言語は感覚性言語中枢から運動性言語中枢へ抜けて、運動器によってきちんと外部に表出される。
 まさかその性質を知らないでよいという言い方はあるまい。
 人文学者であろうと、脳血管障害を起こせば言語をうまく使えなくなる可能性がある。
 それどころではない。
 大脳皮質が退行すればボケてしまい、かつて自分の言ったことすら理解できなくなる。
 要するに、あらゆる科学は脳の法則性の支配下にある。
 それなら、脳はすべての科学の前提ではないか。」
 以上。
 上での「科学」は「学問」、「〜学」程度の意味で、また、「文科系」の評論作業も含めてよいだろう。
 ついでに、つぎの対比も、面白い。
 「文科系における言葉万能および理科系における物的証拠万能に頼るだけではなく、…」。
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 別の最近の生物関連書物を見ていたら、細胞等の「構造」と「機能」を区別する説明があった。
 この区別は、だいぶ以前に出版された上の養老著でもなされている。
 すなわち、「脳」は「構造」であり、「心」は「機能」だ。だから「心」は「脳」の所産ではない、とする言い方自体に問題がある
 <心身二元論>に関係する一つの説明の仕方かもしれない。但し、熟読していないから論評ではない全くないが、「心」、「意識」、「感情」等を養老はどう区別しているのだろうという関心は残る。
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 <文科系>人間は—佐伯啓思のように「人体」は「自然」の一種かとまで問題視しなくとも—「人体」の中でも「脳」は特別だ、と思いたい、そういう<気分>をもっている、かもしれない。
 だが、「脳」と「(その他の)身体部分」は区別できない旨の、つぎの養老孟司の叙述が上記著の中にある。
 「脳と身体とは、明瞭には区別できない」。なぜなら、「身体のほぼいたるところに抹消神経が張りめぐらされており、しかも脳と神経とは、一連の連続する構造だからである」。「肝臓や腎臓を取り出すように神経系を取り出すことは、もともと不可能であ」る。
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2723/生命・細胞・遺伝—01。

 ①宇宙—②地球—③生命体(生物)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子(電子、光子etc.)
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 個々の人間は③だ。しかし、上の全てが個々の人間「自身」に関係している。
 宇宙が生まれ、ビッグバンによって地球が生まれ、やがて深海から「生命体」(有機体)が誕生し、長い長い時間ののちに「ホモ・サピエンス」(人類)が誕生した。今地球上で生きているヒトはみなその子孫たちだ(人類みな兄弟)。
 生命体(生物)は「外界」と明確に区別される界壁(膜、皮膚等)をもつ統一体で、外部からエネルギーを取り込み代謝し、かつ自己増植または生殖による自己と同「種」の個体を産出し保存する力をもつ。これによって、無生物・非生物と区別される。
 全ての生命体(生物)は、基礎的単位である「細胞」によって成り立つ。生物は単細胞生物と多細胞生物に分けられるが、最初の生命体である前者は、約35〜40億年前に生まれた、とされている。「ウイルス」は自らの細胞を持たないので、「生物」ではないと言われる。これに対して、「細菌」類は生物=生命体だ。
 ヒトはむろん多細胞生物だ。ヒトには37兆余個の細胞がある、とされる。ついでながら、ヒトの体内には、大腸菌等々の、多数の「生物」が生息(・寄生)している。これらは、「微生物」に含まれる。
 ニューロン=神経細胞〔neuron〕も、当然ながら、細胞の一種だ。
 細胞は、細胞膜、(細胞)核のほか、リボソーム、ミトコンドリア等によって構成される。「遺伝子」は「(細胞)核」の中に<格納>されている。全ての細胞核の中に、そして全ての細胞の中に「遺伝子」がある。「遺伝子」は「ゲノム」という言葉につながっていく。
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 ニューロン(神経細胞)という細胞は、どうやら脳にのみ存在するようだ。光、音、振動等の外部からの刺激を受容する「感覚器官」にも神経細胞はあるのだろう、但し多数で重要なのは脳内のそれだ、と思っていたが、間違いだったようだ。
 なお、例えば視覚器官が何かを「見た」あとで脳内の視覚神経(感覚神経細胞の一つ)が「見る」までにはきわめて短いながらも厳密には時間の経過がある(大脳と眼球のあいだには物理的な距離がある)、それを感じないのは時間的近接性がきわめて高いからだ、と漠然と思っていた可能性がある。これも間違いだった。眼が「見る」のと脳が「見る」のは同時に行われるらしい。つまり、脳内の感覚神経が見ないと、「見た」ことにならない。
 ニューロンは独特の形状をしていて、情報の出力を担う一本の軸索〔axon〕、情報の受容(入力)を担う多数の樹状突起(dendrite)がある。他に「細胞体」があって、この中に「(細胞)核」がある。さらにその中に「遺伝子」(DNA等ーとりあえず省略)があることになる。
 ヒト(成人)のニューロンは1000億個ほどあるらしい。この多数の神経細胞どうしがつながりあって情報の交換がなされる。但し、「つながりあう」ためには一つのニューロンの軸索から別のニューロンの樹状突起へと「接続」しなければならない。また、直接に接触するのではなく、両者を隔てる(各々のニューロンを区別する)「シナプス」の中への化学物質(神経伝達物質、nuerotransmitter)の放出と受容が行われることによって「つながる」。
 約1000億個のニューロンが自ら以外のニューロンの全てとつながると仮りにすると、1000億✖️1000億の線が絡み合った「網」ができる。実際にはそうではなく、つながる場であるシナプス(シナプス空間、シナプス間隙)の数は、1000億ではなく、数千万であるらしい。
 だが、最も少なく見積もって1000万としても、1000億✖️1000万=100億✖️1億=100京(あるいは、1000億✖️1000万=1兆✖️100万=100兆✖️1万=100京)というとんでもなく厖大な数の「つながり方」があることになる。むろん、一つのつながり方が定型的な一つの情報交換をするわけでもないだろう。
 文筆家、評論家、あるいは「もの書き」にそれぞれ独特に生じるのだろう、文章執筆の際の<ひらめき>は、多数のニューロン間の「つながり方」またはその変化によって生じている。
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2722/私の音楽ライブラリー039。

 F. Mendelssohn, Symphony No.3 in A-minor op.56. 1830〜42.

 002 (既)→No.2639—Karajan, Berlin Pho. 〔Berlin PhilharmonicOrchestre-Topic〕

 002-02 →Claudio Abbado, London SO. 〔The Just Sound〕

 002-03 →Paavo Järvi, Tonhalle O Zürich. 〔Tonhalle-Orchester Zürich〕

 002-04 →Kurt Masur, Leibzig GewandthausO. 〔EuroArtChannel〕
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2721/「文科系」評論家と生命科学・脳科学—佐伯啓思。

  池内了×佐伯啓思(対談)「科学の現在と行方を見つめて」佐伯啓思監修・雑誌/ひらく第2号(A &F、2019)、p.166以下。
 この号の二つある特集の一つが<科学技術を問う>で、上の対談は体裁上重要なものだ。
 佐伯発言によると、池内了・科学の限界(ちくま新書、2012)という書物があり(秋月は未読)、科学の「あり方」を問題にしているようだ。それを理由として、佐伯は対談相手として選んだのかもしれない。
 但し、佐伯の希望どおりの内容になったかは疑わしい。
 そもそもが、一読者としての印象では、二人の発言内容は、うまく噛み合っていないところが少なくない。単純系・複雑系の区別も秋月自体がよく分かっていないが、池内が単純系の科学ではよく分からないと言っているのを、佐伯は科学そのものの問題・限界だと理解したがっているようなところもある。この単純系・複雑系に加えて、佐伯は 現代を<科学と技術>の区別の曖昧化だと把握したいがためにこの二語を使い出してくるので、錯綜が増している。
 決してつまらない対談ではないが、最も興味深く感じたのは、「文系」と自認する佐伯啓思の、科学(・自然科学)、とくに生命科学・脳科学に対する<不信>、批判・揶揄したい気分を感じさせる諸発言だ。
 佐伯啓思はまだよく知っている方で、西尾幹二、長谷川三千子、小川榮太郎、江崎道朗あたりは、生命科学や脳科学の動向に関心すらないかもしれない。
 だが、これらの者たちも発言しそうな、「文科系」評論家らしき言明を、佐伯は行っている。
 長くなりそうなので、2回に分ける。長々と論じるほどでもないので(それだけの明瞭な内容が示されていないので)、発言を引用し、ごく簡単な感想を記す。対談相手の発言が不明だと佐伯発言の意味も不明だろうものもあるので、必要に応じて、池内の発言も記す(ほとんどが引用ではない)。
 「〜と思います」は省略し、口語体を文語体に改めたところがある。。
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 ①「つまり、自然を物質的な組成の組み合わせとみる、これが我々が考える、いわゆる自然科学的な意味での自然だ。
 すると、問題は生命科学が対象とするのは人体で、人間というのは、これは自然と考えていいのかという問題がある。」
  佐伯は、「自然」=「物質的な組成の組み合わせ」とすることの意味、さらに「物質的」なる表現の意味を、そして「自然」と「物質」をほとんど同一視する、または同系列の語としてこれら二語を用いることの理由を、より厳密に明らかにしておく必要がある。
 従って言葉の使い方の問題になるかもしれないが、「人体」も、「人間」も、「自然」の一部だろう、というのが、秋月瑛二の理解だ。
 米米 地球上(内)での「生命」の誕生や、のちの「ヒト」または「ホモ・サピエンス」の誕生は、<自然>の営みそのものではないか。
 米米米 私も佐伯啓思も、その新たに誕生した「生命」や「ホモ・サピエンス」を祖先とする後裔に他ならない。これを否定するなら、佐伯は〈自己〉の本質を理解していないのではないか。
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 ②「われわれ文系の人間からすると、人間の持っている感情とか記憶とか思考作用とか、快感のメカニズムとか、こういう種類のことは、果たして脳現象に持ってきていいのか、という疑問がどうしてもわいてしまう」。
  佐伯は、感情・記憶・思考作用・快感のメカニズムの四つを明記して、「脳現象」には還元できない旨を語る。思考や記憶はふつうの生物にないもので、「脳現象」ではない、と言いたいのかもしれない。全くの<無知>であるか、「脳」を「物質」と見て〈記憶・思考〉と無関係とする完全な間違いを冒している。〈感情・快感〉となると、より身体的側面を持ち、これまた「脳」の制御化にある。ともかく、「感情」に「脳」が深い関係のあること、中でも<扁桃体>が重要な役割を果たしているらいことくらい、初歩的な概説書にも書かれている。
 米米 「脳」神経あるいは「ニューロン(神経細胞)」に作用して、興奮したり緊張したりする「感情」を抑制する薬剤が、ごく初歩的には「睡眠」を助けるものも含めて、(ほぼ自由にまたは医師による処方を通じて)一般に流通していることを、佐伯は知らないのだろうか。
 これら薬剤は、〈セロトニン〉、〈ドーパミン〉等々の「神経伝達物質」(・「化学物質」)の(ニューロン間の)〈シナプス間隙〉への放出や回収にかかわっている。
 米米米 「快感」まで挙げているのは信じ難い。ひどい暑さ・寒さ、高湿度、痛み、等々からの解放、これらは人間にとって「快感」そのものだろう。そして感覚細胞を制御する「脳」の現象そのものだ。佐伯は特殊で独特の「快感」概念を使っているのかもしれない。
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 ③「文科系の人間は、人間というのは複雑系だと最初から思っているし、きれいに分析できないとあきらめている」。
 脳科学も生命科学も、「僕らのような文系の方からすると、そもそも人間というものについて、何か全く方向違いのことをやっているような気がする」。
 「仮に脳科学で、人間の感情やら記憶やら快感やらが、ニューロンの反応によって解析できるとして、あるいはAIが人間の脳の働きをほとんどシミュレートしまうとして、仮にそうだとして、それは、一体何が起きたのだろう」。
 「何かが進歩したと言えるのか、それで人間がわかったことにそもそもなるのか、という気」がする。
  「脳科学」と「生命科学」を明記して、「人間というものについて、何か全く方向違いのことをやっているような気がする」と明言している。秋月瑛二もどちらかというと「文系」だが、このようには考えない。
 米米 「人間の感情やら記憶やら快感やらが、ニューロンの反応によって解析できるとして、あるいはAIが人間の脳の働きをほとんどシミュレートし」て、いったい何の意味があるのか、というようなことを語っている。「無知」だ。
 米米米 「脳科学」者も「AI」によるシミュレート者も、それによって「人間がわかったことに…なる」とは、そもそも考えていないだろう。「人体」や「人間の神経・精神」を対象としていても、それで「人間」なるものが「わかる」ことには絶対にならない。但し、「人間」なるものの複雑さ・繊細さ・不可思議さを少しは理解することにつながる可能性がある、と考えられる。
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 ⑥〔池内—シミュレートしているだけで、わかったことにはならない。〕
 「そうですね。では、この種の科学とは何だろう」。「何か分かったことになるのか、という意味で」。
 〔池内—本質的に新しい法則の発見で「人間が実に複雑で、多様な側面がどういうメカニズムの下で発生しているのかということがある程度分かるんじゃないか」。「すぐに分かる」のではないが、「複雑系という非線形の非常な多体システムの扱い方がだんだん分かってくる」。
 「そういう意味では、根本的なところは物理のそれと今の生命科学はそれほど変わりはないということですね」。
 この部分で重要なのは、池内が「ある程度」分かる、「だんだん」分かっていると言っていることだ。秋月も、そうだろうと思う(但し、100%・完全にかは、??)。それに対して、佐伯が何やら不満げであることも重要だ。
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 ⑦「仮にそういう複雑系がある程度解析できるようになってきて、それで、人間の感情の動きと脳の作動の対応関係がある程度わかってきたら、すぐに、そのままそれを適用、応用されてしまうでしょう。つまり、脳科学は即技術になるのではないか。」
 〔池内—「いやいや」、その点では「応用」できない。但し、現時点ではできていないが、「複雑系の技術はあるのではないか」。〕
 「ただ、たとえば、すでに遺伝子工学がこれだけ急に展開してきて、それで遺伝子の組み合わせを操作すれば、癌を予防できるとか、癌にならないような子供を作れるとか、といった話が出てきて、それはもうすぐに現場に行ってしまいませんか」。
 この部分で佐伯は突然に、「ある程度わかってきたら」、「脳科学は即技術になるのではないか」と発言する。この性急さの意味は、ほとんど不明だ。
 米米かりに「即技術になる」として、なぜそれでいけないのか、という気がする。それに、「即技術」の意味が問題で、〈科学と応用〉または〈科学と技術〉のあいだには何段階もの中間段階がある(単純に二分できない)、と考えられる。
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 ⑧〔池内—癌は多くの組み合わせで、かつ「個体の反応は異なる」から、簡単には退治できない。〕
 「そこに生命科学の大きな問題があって、生命現象は物理現象とはやっぱり根本的に違う
 ところが、それを無理やりに単純系に砕いてやろうとするから、うまくいかない。」
 米じつに興味深い佐伯の発言だ。「生命現象は物理現象と…根本的に違う」。
 「物質的な組成の組み合わせ」が「自然」なのだから(上の①)、「生命」現象も「自然」現象ではない、または<たんなる物理現象>ではない、と言いたいのだろう。
 はたして、そうか。「生命」・「本能」の根幹を掌るとされる「脳幹」の作用に「化学物質」は関係していないのか。デカルト流に<我思う、ゆえに我あり>ということを言いたいのか。M·ガブリエルの著書の題である『「私」は脳ではない』(Ich ist nicht Gehirn)(秋月は未読)と言いたいのか。
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 ⑨「いくら生命過程の根本がDNAとか、それから、細胞レベルである程度のことが分かっても、それが具体的にどういうふうに働くかというのは個体によって全然違う、ということですね」。
 〔池内—人体は複雑系だから「個体によって全部違う」。「むろん、物質系としてはみんな同じなんです。本質的に」。「本質的には人体は同じ作りにできているんだけれども、反応は全部違う」。〕
 佐伯は<個体によって違う>ということを強調したいようだ。一方、池内の発言で重要なのは、「物質系としてはみんな同じ、本質的に」、「本質的には人体は同じ作りにできている」の部分だろう。この「本質」性を、佐伯は認めたくない、または、認めることができないのだろう。
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 ⑩〔池内—癌の要因に遺伝と環境の二つあり、両者の関係は複雑だから「なかなかわからないと思う」が、「むろんある程度解析できる要素はある」。〕
 「いや」、しつこいが、「僕が危惧するのは、逆に生命科学が進歩していって、癌の要因がかなりわかる、100%とはいかないまでも、80%くらいまで解析できる、となるとしましょう」。遺伝要因・環境要因、食べ物、人間関係、「それらがどう作用するか、ある程度わかってくる。で、わかってくれば、そのこと自体が我々を変えていってしまうのではないですか」。
 「我々の生活の仕方を変え、食生活を変え、という話になる。その延長の上に、先程の遺伝的な要因もやっぱりある程度はあるとなって、遺伝子を操作することによって癌にならない可能性を高めることができる、という話になる」。
 「そうすると、その科学の成果、科学の発展というものが、何らかの形で、ほとんど直接的に我々の存在の仕方に影響を与えてくるのではないか」。
 佐伯が言いたいことは、よく分からない。なぜなら、「癌の要因」が「80%くらいまで解析でき」て、諸要因の「作用」が「ある程度わかって」くる、そして、「遺伝子を操作することによって癌にならない可能性を高めることができる」ということが、ここでは「癌」防止に限っておくが、なぜいけないのか?? 佐伯は、「科学の成果」が「ほとんど直接的に我々の存在の仕方に影響を与えてくる」として問題視する。なぜ??
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 ⑪〔池内—それは「科学ではなく技術」だ。〕
 「先程から問題にしたかったのはそこ」だ。
 「科学的にいろんなことがわかってきた。遺伝子の構造がわかった。
 で、遺伝子の中に癌に関する遺伝子もある。
 そうすると、癌に関する遺伝子が完全に特定できる。
 これを除けば癌の可能性が減るということがわかるとなれば、もうそれは技術になってしまうし、さらにいえば、技術として応用されることを目論んで、現代科学は展開されているのではないか」。
 ⑩のつづきだ。遺伝子に関する科学によって「癌の可能性が減るということがわかるとなれば、もうそれは技術になってしまう」と、佐伯は問題視する。
 遺伝子等に関する科学の進展によって「癌の可能性が減る」ことは、佐伯にとって望ましくないことなのだ。これは癌の罹患・発症を免れたい圧倒的多数の人々に対して、「科学の成果」を享受することなく<癌で死んでしまえ>と言っているのと同じなのではないか。
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 ⑫「だから、科学上の発見といっても、それが応用に直結している限り、現実にとんでもない事態を引き起こすことはありうる
 何か今そういうことの途上にいて、そこで我々、何か打つ手はあるのか」。
 「少なくとも自覚する必要はあ」る。
 「科学上の発見」が「応用に直結」する限り、「現実にとんでもない事態を引き起こすことはありうる」。これは一般論としてはそのとおりだろうが、なぜしつこくこう強調するのか?
 米米「自覚する必要がある」。これは佐伯啓思という評論家の常套句。他に、「もう一度、〜について考えてみる必要がある」、「あらためて〜を問題とすることから始めなければならない」等々。
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 ⑬「生命科学の発展が、無条件でよいとは簡単には言えなくなってくる。
 遺伝子の解析が、そのままで無条件でいいとは言えなくなってくる。
 AIも同じことだと思いますし、情報分野の革新も同じことです。」
 「それは今たまたま始まった問題なのか、それとも20世紀の科学、特に物理学でもそういう構造ができてしまったのか。何か科学の構造が変わってしまったのか」。
 「生命科学の発展」、「遺伝子の解析」、「AI」、「情報分野の革新」について、さらにはおそらく<科学の発展>について、佐伯は懐疑的だ。しかし、もちろん、佐伯が具体的な代案を示すことはない。<問題だ、問題だ>、<自覚せよ、自覚せよ>とだけ騒いで、いったい何になるのか。
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2720/人類の「感情」の発生—300万年前〜3万年前。

  アントニオ·R·ダマシオ=田中三彦訳・感じる脳—情動と感情の脳科学·よみがえるスピノザ(ダイヤモンド社、2005)。
 この著(原題、Looking for Spinoza)は冒頭で、<感情の科学>の未成立または不十分さを強調している(感覚、感情、情動、情緒、感性といった語との異同には留意する必要はある。但し、さしあたりはこの点を無視してよい)。
 だが、脳神経学者(?)ダマシオも、以下のような進化生物学(?)の叙述または説明を、大きくは批判しないのではないだろうか。
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  科学雑誌NEWTON-2016年6月号「脳とニューロンシリーズ第3回/喜怒哀楽が生まれるわけ」。
 以下、上の一部の引用。一文ずつで改行、本来の改行箇所に/の記号を付す。
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 「喜怒哀楽は基本的に、自分のおかれた環境に対して生じるものだといえる。
 一方で、感情には、自分と他人の関係において見られるものも数多くある。
 いとおしさや、嫉妬、うらみ、といったものだ。
 これらは、『社会的感情』とよばれる。/
 現代の人間の感情を生むしくみは、農耕時代以前の300万年前〜3万年前の生活や環境のもとで発達したと考えられている。
 とくに社会的感情の多くは、特定の仲間たちと長く関係をともにするようになったことでつくられてきたと考えられているという。/
 また私たちは、感情を自覚するだけでなく、ほかのだれかにおきた出来事をわがことのように怒ったり、悲しんだりすることがある。
 つまり、他人の感情に共感できる。
 共感のしくみに深くかかわっているかもしれないと考えられているニューロンに、『ミラーニューロン』というものがある。
 …… 」
 <以下、略> 
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  20万-30万年前というのは、アフリカ東部でホモ・サピエンスが誕生したとされている時期だ。そして、上のNEWTON編集者のいう300万年前〜3万年前に入っている。
 この叙述に従うと、人類はその「共通祖先」や「原人」たちの長い時代のあいだに、「感情」を形成しつつあった。あるいは、人類は、「感情」というものをほとんど備えて生まれてきた。「日本」や「日本人」の成立よりはるかに昔のことだ。
 ホモ・サピエンスが地球各地へ分散していっても、同じような状況では、<かなりの程度>、きわめてよく似た「感情」をもち、そしてきわめてよく似た「感情」表現をする、これらも当然のことだ、と言えるだろう。
 もちろん、人種や民族による、さらには各個体による、差異は完全にない、全く同じだ、などと言うことはできないとしても。
 そしてまた、他人の感情との<共感性の欠如>という一種の「心の病気」が人間のごく一部には生じている、ということを否定できないとしても。
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2719/私の音楽ライブラリー038。

 A. Mozart は〈純正律〉をさらに修正した〈中全音律〉で自らの曲を弾いていた、と書いている文献もある。
 以下のBach の曲はMozart より前で、1708年に作曲されたとされる。
 この時期には〈十二平均律〉はまだ支配的でなかった(支配的になるのは19世紀以降)。楽譜は残っていても「録音」は残っていない。
 興味をそそられるのは、どのような音律、音階だったか、だ。
 以下は全て〈十二平均律〉によっているだろう(それでも、ピアノと弦楽器では少しだけ違って感じるのは気のせいだろうか)。J. S. Bach 自身の旋律では、より透明で、和音も〈より美しい〉ものだった、という可能性はないのだろうか。
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 J. S. Bach, Adagio from Conzert in D-minor, BWV924-II.
 038 〈再〉→Khatia Buniatshvili.〔Marcia M.〕
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 038-02 →Glenn Gould. 〔Irina Bazhovka〕
 038-03 →Irina Lankova. 〔Official Channel〕
 038-04 →Mstislav Rostropovich. 〔Topic〕
 038-05 →Mischa & Lily Maisky. 〔Mischa Maisky〕
 038-06 →Stringspace String Quartet. 〔StringspaceLive〕
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2718/生殖細胞系列のゲノム編集—J・ダウドナらに関する書物。


  W·アイザックソン/西村美佐子=野中香方子訳・コード·ブレーカー—生物科学革命と人類の未来(原書2022、邦訳書2022)
 読み終えておらず、およそ80パーセント近くまで進んだ。
 全く付随的に、と先日には書いた同じ(元)研究所長が、人種や民族と遺伝子との関係を、かつ「優れた」・「劣った」という対比のもとに、あらためて発言して顰蹙を買っている、というような話を、サイエンス·ジャーナリストであるこの本の著者は、この80%めくらいのところで書いている。
 そして、この著の主要部分は、もう済んだような気が秋月にはしている。
 主人公と多数の副主人公の一人の二人(ともに女性)は2020年のノーベル化学賞を受賞した、ということを、最近に知った。
 というくらいだから、私の専門的知識の欠如は著しいのだが、なかなかの難問を突きつけている書物だ。
 最初は日本とアメリカの研究者や研究環境の違いにも興味をもった。しかし、科学技術と人間・社会のあいだには難題が多くある、という感想の方がはるかに強くなった。
 上の旨は、登場人物の発言や諸報告書類の紹介によっても頻繁に語られている。既知の日本人読者も多いだろう。
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 以下では、著者のW·アイザックソンが他人や諸団体の言葉・文章ではなく、自分の文章として書いている部分を引用だけして、備忘としたい。
 著者が「まとめ」または結論として書いているところではない。J·ダウドナらのノーベル賞受賞に関する叙述は、まだない(最終の第56章にあるようだ)。ただ、一かたまりで要領よく書いている、と感じられた。
 以下に引用する文章は、全体で計56章(計9部)あるうちの第40章(第7部)にある。
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 第32章(第4部)の最初の方に、著者のつぎの文章があるのに気づいた。
 「今日、クリスパーが注目されているのは、それを使えば、次世代に受け継がれる(生殖細胞系列の)編集をヒトゲノムに施すことができるからだ。
 編集されたゲノムは将来の子孫の全細胞に継承され、やがては人類という種を変える可能性さえある。」
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 Jennifer Doudna(ダウドナ)とEmanuelle Charpentier(シャルパンティエ)の二人は、「クリスパー・キャス9」(CRISPR-Cas9)を開発したことによって、ノーベル賞を授与された(対象論文は2017年のもののようだ)。
 J·ダウドナら=櫻井祐子訳・クリスパー—究極の遺伝子編集技術の発見(文藝春秋/文春文庫、2017/2021)で、ダウドナ自身が CRISPR-Cas9 についてこう書いている。
 「最新の、またおそらくは最も有効な遺伝子編集ツールである『CRISPR-Cas9(略してCRISPR)』を使えば、ゲノム(全遺伝子を含むDNAの総体)を、まるで文章を編集するように、簡単に書き換えられる」。
 しかし、その使用方法または目的について、J·ダウドナもまた決して楽観的なのではない。
 W·アイザックソン著のどこかに、こんな文章があった。「最高の教育」の内実をここでは問わない。
 <親が「最高の教育」を自分の子どもに与えたいと考えてよいのと同様に、子どもに「最高の遺伝子」を与えたいと思って、どこがいけないのか? そうした個人の「自由意思」の実現を助ける医師たちや事業体があって、どこがいけないのか?>。
 ——
  以下、引用。秋月において段落ごとに番号を振った。第一の段落は、あえて途中から引用を始めている。
 「 細菌が何千年もかけてウイルスに対する免疫を発達させてきたように、わたしたち人類も発明の才を発揮して、同じことをするべきではないだろうか。/
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  もし自分の子どもがHIVやコロナウイルスに感染しにくくなるよう、ゲノムを安全に編集できるとしたら、そうすることは間違っているのだろうか?
 それとも、そうしないことが間違っているのだろうか?
 そして、〈中略〉他の治療や身体の強化についてはどうだろう?
 政府はその使用を妨げるべきなのだろうか?/
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  この問いは、わたしたち人類がこれまでに直面した中でも最も深遠な問いの一つだった。
 地球上の生物の進化において初めて、一つの種が、自らの遺伝子構造を編集する能力を身につけた。
 それには、多大な利益が期待できる。
 多くの致死的な病気や消耗性疾患を排除できるかもしれない。
 そしていつの日か、自分や赤ん坊の筋肉、精神、記憶力、気分を強化するという希望と危険の両方を、わたしたち、あるいはわたしたちの一部に、もたらすだろう。/
 ----
  この先の数十年で、自らの進化を促進する力を持つようになると、わたしたちは深遠な道徳的問いや精神的な問いに直面するはずだ。
 自然は本質的に善いものなのだろうか?
 天与の運命を受け入れるのは正しいことなのだろうか?
 神の恵み、あるいは自然のランダムなくじ引きがなければ、自分は別の才能を持って生まれたかもしれないという考えに、共感が入る余地があるだろうか。
 個人の自由を強調すると、人間の最も基本的な側面を、遺伝子のスーパーマーケットでのショッピングに変えてしまうのではないだろうか?
 お金持ちは最高の遺伝子を買うことができるのだろうか?
 そのような決定を個人に委ねるべきなのか、それとも何を許可するかについて、社会が何らかのコンセンサスを図るべきなのだろうか?/
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  しかし、わたしたちはこうした出口のない問いを、大げさにとらえすぎてはいないか?
 わたしたちの種から危険な病気を取り除き、子どもたちの能力を強化することで得られる恩恵を、なぜ手に入れようとしないのか?/
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  主に懸念されているのは、生殖細胞系列でのゲノム編集だ。
 それはヒトの卵子、精子、初期胚のDNAに変更を加えるもので、生まれてくる子ども—およびそのすべての子孫—の全細胞が、その改変された特徴を備える。
 一方、体細胞編集はすでに行われていて、一般に受けいられている。
 それは患者の標的細胞に変化を加えるもので、生殖細胞への影響はない。
 治療で何か間違いが起きたとしても、その害が及ぶのは患者個人であって、人類という種ではない。/
 ----
  体細胞編集は、血液、筋肉、眼などの、特定の細胞で行うことができる。
 しかし、高額な費用がかかるものの、効果はすべての細胞に及ぶわけではなく、おそらく永続的でもない。
 一方、生殖細胞系列のゲノム編集は、身体のすべての細胞のDNAを修正できる。
 そのため、寄せられる期待は大きいが、予想される危険も大きい。」
 ——
 以上。

2717/私の音楽ライブラリー37。

 私の音楽ライブラリー37。
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 097<再>→五輪真弓, 雨宿り, 1983. 〔hgwctu〕

 113 →五輪真弓, 運命, 1981.〔キッキ --〕
 114 →五輪真弓, 時計, 1983.〔Janet Lee〕
 115 →五輪真弓, 密会, 1985.〔Kurume Kuru〕
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2716/M·ウェーバー叙述へのコメントの詳述。

 以下、No.2715に再掲したかつてのコメントを詳しくしたもの。
 ——
  前々回のNo.2714に再掲したM·ウェーバーの叙述を、秋月瑛二はたぶんほぼ正確に理解することができた。M·ウェーバー<音楽社会学>に接する前に、ピタゴラス音律、純正律、十二等分平均律について、すでにかなり知っていたからだ。
 だが、日本の音楽大学出身者も含めて、いかほど容易にM·ウェーバーの、1911年〜12年に執筆されたとされる文章(のまさに冒頭)〔前々回に再掲〕の意味を理解することができるか、かなり怪しいと思っている。
 上のコメントをさらに詳しくしておこう。
 --------
   n/(n+1)では(前者が分母だと理解しないかぎりは)「過分数」にならないから(この点、M·ウェーバーは「逆数」で語っているとの説明もある)、(n+1)/nのことだと理解しておこう。
 M·ウェーバーはこう叙述する。「いま或る開始音から出発して、まず最初はオクターヴで、次に5度、4度、あるいは過分数によって規定された他の何らかの関係で「圏」状に上行または下行すると、この手続をたとえどこまで続けても、これらの分数の累乗が同一の音に出くわすことはけっしてありえない」。
 「最初はオクターブで」とは、「ある開始音」の音波数(周波数)を2倍、4倍、〜、1/2倍、1/4倍、〜、としてみることだろう。これらの場合、音の(絶対的)「高さ」は変わっても、「オクターブ」の位置が変わるだけで、ヒトの通常の聴感覚では、きわめてよく「調和」・「協和」する<同じ>音に聴こえる。これは、ホモ・サピエンス(人類)の生来の<聴覚>からして、自然のことだろう。
 だが、「同じ」音ではなく、「異なる」音を一オクターブの中に設定しようとする場合に、種々の問題が出てくる。
 M·ウェーバーが「次に5度、4度、あるいは過分数によって規定された他の何らかの関係で」という場合の「5度」とは<3/2>を、「4度」とは<4/3>を、意味していると解される。
 脱線するが、興味深いことに今日の〈十二平均律〉の場合でも、日本の音楽大学出身者ならよく知っているだろうが、「完全5度」、「完全4度」という概念・言葉が用いられている(「完全2度」や「完全3度」等々はない)。しかし、その数値は「完全1度」(=従前と同じ音)の音波数の<3/2>や<4/3>ではない。もっとも、このような用語法が残っているということ自体、〈ピタゴラス音律〉が果たした歴史的意味の大きさを示しているだろう、と考えられる。
 M·ウェーバーがつづけて「過分数によって規定された他の何らかの関係で」というのは、上の(n+1)/nのn が2、3の場合が<3/2>、<4/3>だから、nを増やしていって、<5/4>、<6/5>等々を意味しているのだろう。但し、主要な場合として<3/2>、<4/3>を、とくに<3/2>を、想定していると見られる。
 さて、M·ウェーバーによると、これらの新しい数値を選んで、①<「圏」状に上行または下行すると>、②「この手続をたとえどこまで続けても、これらの分数の累乗が同一の音に出くわすことはけっしてありえない」。
 この①の明記が、日本でよく見られる〈ピタゴラス音律〉に関する説明には欠けている観点だ。
 だからこそ、「何らかの関係で『圏』状に上行または下行すると…」との部分は「今日の日本でのピタゴラス音律の説明について秋月瑛二が不満を感じてきたところを衝いていると思える」、とNo.2641で記した。
 その趣旨を詳しく記述しなかったのだが、以下のようなことだ。
 わが国で通常に見られる〈ピタゴラス音律〉に関する説明は、ほぼもっぱら「上行」の場合のみで説明をし、「下行」の場合をほとんど記述していない。
 上の②にあるように、「この手続をたとえどこまで続けても、これらの分数の累乗が同一の音に出くわすことはけっしてありえない」のだが、「『圏』状」での「上行」の場合は「ピタゴラス・コンマ」は必ずプラスの数値になる。「圏」という語を使うと、「圏」または「円環」上の位置が進みすぎて、元の音よりも(例えばちょうど1オクターブ上の音よりも)少し「高く」なる。
 したがって、日本でのほとんどの説明では、「ピタゴラス・コンマ」はつねにプラスの数値になる。
 しかし、「『圏』状」での「下行」の場合は「ピタゴラス・コンマ」は必ずマイナスの数値になる。すなわち、「圏」または「円環」上の位置が元の音よりも(例えばちょうど1オクターブ上の音よりも)少し「低く」なる。「圏」または「円環」上の位置が進み「すぎる」のではなく、進み方が少し「足らない」のだ。
 なお、今回は立ち入らないが(すでに本欄で言及してはいるのだが)、「上行」と「下行」の区別が明確でないと、「ある開始音」をC=1とした場合のFの音の数値を明確に語ることができない。「下行」を用いてこそFは4/3になるのであり、「上行」では4/3という簡素な数値には絶対にならない。
 **「下行」の場合の計算過程と「マイナスのピタゴラス・コンマ」について、→No.2656/2023-08-04
 ——
  M·ウェーバーはこう叙述した。「例えば、(2/3)12乗にあたる第十二番目の純正5度は、(1/2)7乗にあたる第七番目の8度よりもピュタゴラス・コンマの差だけ大きいのである」。
 上の「(2/3)12乗」は<3/2>の12乗のこと、「(1/2)7乗」は<2/1=2>の7乗のこと、だと考えられる。また「第七番目の8度」とは<7オクターブ上の同じ音>だと解される。たんに「8度」上の音とは1オクターブだけ上の「同じ」音を意味するからだ(こういう「8度」の用語法は、〈十二平均律〉が支配する今日でも見られる)。
 こう理解して、実際に上の計算を行ってみよう。本当に「…よりもピュタゴラス・コンマの差だけ大きい」のか。
 ここで先に、秋月がすでに行っている、(プラスの)ピタゴラス・コンマの計算結果を示しておく。
 昨2023年年の8月に、この欄に示したものだ。そのまま引用はせず(×(3/2)ではなく×3÷2という表記の仕方をしていることにもよる)、表記の仕方をやや変更する(計算結果はむろん同じ)。参照、→No.2655/2023-08-03
 M·ウェーバーの叙述の仕方と異なり、わが国で通常のように、(3/2)を乗じつつ、<1と2の間の数値になるように>、必要な場合にはx(1/2)の計算を追加する。但し、⑫は2を少しだけ超えるが、ほとんど2だとして、そのままにする。
 ********
 ⓪ 1。
 ① 1x(3/2)=3/2。
 ② 3/2x(3/2)x(1/2)=9/8。
 ③ 9/8x(3/2)=27/16。
 ④ 27/16x(3/2)x(1/2)=81/64。
 ⑤ 81/64x(3/2) =243/128。
 ⑥ 243/128x(3/2)x(1/2)=729/512。
 ⑦ 729/512x(3/2)x(1/2)=2187/2048。
 ⑧ 2187/2048x(3/2)=6561/4096。
 ⑨ 6581/4096x(3/2)x(1/2)=19683/16384。
 ⑩ 19683/16384x(3/2)=59049/32768。
 ⑪ 59049/32768x(3/2)x(1/2)=177147/131072。
 ⑫ 177147/131073x(3/2)=531441/262144。
 ********
 この⑫が、「(3/2)の12乗にあたる『第十二番目の純正5度』」の数値に該当する。
 ところで、迂回してしまうが、上のような計算の過程で、ほぼ1オクターブ(1とほぼ2)のあいだに、異なる高さの12個の音が発見されていることになる。⓪〜⑪の12個、または①〜⑫の12個だ。このことこそが、1オクターブは12の異なる音から成る、という、今日でも変わっていないことの、出発点だった。
 その異なる12個の音は任意の符号・言語で表現できる。⓪=1を今日によく用いられるC〜G,A,BのCとし、さらに(説明としては飛躍するが)C〜G,A,Bの7「幹音」以外の5音を♯を付けて表現すると、つぎのようになる。以下のアルファベット符号(+♯)が示す音の高さ(音波数)は、今日で支配的な〈十二平均律〉による場合と(C=1を除いて)一致していない。また、以下は〈上行〉系または〈♯〉系の12音階だ。
 ⓪=C、⑦=C♯、②=D、⑨=D♯、④=E、⑪=F〔注:♯系だと4/3ではない〕、⑥=F♯、①=G、⑧=G♯、③=A、⑩=A♯、⑤=B、⑫=C'
 *********
 迂回してしまったが、あらためて、⓪と⑫の比、同じことだが上に記したCとC'の比、を求めてみよう。
 分数形の数字はすでに出ている。つまり、531441/262144
 これを電卓で計算すると、小数点以下10桁までで、こうなる。2.0272865295
 2にほぼ近く、2と「見なして」よいかもしれない。しかし、正確には少し大きい。
 ちょうど2との比は、小数点以下10桁までで(以下切り捨て)、2.0272865295/2=1.0136432647.
 これの端数、つまり 0.0136432647 が、プラスのピタゴラス・コンマだ。
 M·ウェーバーにおける①「(3/2)の12乗にあたる『第十二番目の純正5度』」と②「第七番目の8度」という表現の仕方に忠実に従うと、つぎのようになる。 
 小数点以下9桁までで区切る。
 ①「(3/2)12乗」=3の12乗/2の12乗=531441/4096=129.746337891.
 ②「第七番目の8度」=「2/1(=2)の7乗」=128.
 これら①と②は、相当に近似しているが同一ではない。
 差異または比は、つぎのとおり。小数点以下10桁まで(以下切り捨て)。
 129.746337891/128=1.0136432647.
 端数は、0.0136432647. これは、上での計算の結果と合致している。
 ——
  以上のとおりで、「5度」=(3/2)の乗数音は2(1オクターブ)の乗数音とは、「手続をたとえどこまで続けても、…同一の音に出くわすことはけっしてありえない」。
 そして、「〔3/2の〕12乗にあたる第十二番目の純正5度は、〔2の〕7乗にあたる第七番目の8度よりもピュタゴラス・コンマの差だけ大きいのである」(M·ウェーバー)。
 だがしかし、(3/2)の12乗数が2の7乗数に相当に近づくことも確かだ。
 言い換えると、1と2の範囲内に、またはほぼ2になるように、(3/2)の乗数に1/2を掛ける、ということを続けると、12乗めで、2に相当に近づく。
 このことが、繰り返しになるが、1オクターブは異なる12音で構成される、ということの、「12」という数字の魔力・魅力に助けられての、出発点になった。10音でも、15音でもない
 ——
  以上では、引用した(再掲した)M·ウェーバーの叙述の三分の一ほどを扱ったにすぎない。
 彼はつづけてこう叙述する。
  「西欧の和音和声的音楽が音素材を合理化する方法は、オクターヴを5度と4度に、次に4度はいちおうどけておいて、5度を長3度と短3度に((4/5)×(5/6)=2/3)、長3度を大全音と小全音に((8/9)×(9/10)=4/5)、短3度を大全音と大半音に((8/9)×(15/16)=5/6)、小全音を大半音と小全音に((15/16)×(24/25)=9/10)、算術的ないし和声的に分割することである。
 以上の音程は、いずれも、2、3、5という数を基にした分数によって構成されている。」
 さて、「4度はいちおうどけておいて、5度を長3度と短3度に((4/5)×(5/6)=2/3)、長3度を大全音と小全音に((8/9)×(9/10)=4/5)、短3度を大全音と大半音に((8/9)×(15/16)=5/6)、小全音を大半音と小全音に((15/16)×(24/25)=9/10)、算術的ないし和声的に分割する」とは、いったいどういうことか。
 No.2641のコメントでは、こう触れた。「純正律は『2と3』の世界であるピタゴラス音律に対して『5』という数字を新たに持ち込むものだ。そして、今日にいう<C-E-G>等の和音については、ピタゴラス音律よりも(<十二平均律>よりも)、協和性・調和性の高い音階または『和音』を形成することができる」。
 つまり、上のM·ウェーバーの叙述は、(1を除けば)2と3という数字のみを用いていた〈ピタゴラス音律〉に対して「『5』という数字を新たに持ち込む」ことでさらなる「合理化」を図る方法が発展した、と言っている。
 この「西欧の和音和声的音楽が音素材を合理化する方法」とは、M·ウェーバーはこの用語を用いていないが、〈純正律〉という音律のことだ。
 M·ウェーバーは詳しく、こう説明している。
 「5度を長3度と短3度に((4/5)×(5/6)=2/3)、長3度を大全音と小全音に((8/9)×(9/10)=4/5)、短3度を大全音と大半音に((8/9)×(15/16)=5/6)、小全音を大半音と小全音に((15/16)×(24/25)=9/10)、算術的ないし和声的に分割する」。
 さらに、つぎのようにも補足している。
 「まず『主音』と呼ばれる或る音から出発し、次に、主音自身の上と、その上方5度音および下方5度音の上に、それぞれ二種類の3度で算術的に分割された5度を、すなわち標準的な『三和音』を構成する。
 そして次に、三和音を構成する諸音(ないしそれらの8度音)を一オクターヴ内に配列すれば、当該の主音を出発点とする『自然的』全音階の全素材を、残らず手に入れることになる。」
 --------
  以上の叙述の意味を詳細に説明することは必ずしも容易ではない。
 ここでは、つぎのようにコメントしておこう。
 「4度はいちおうどけておいて」とは、とりあえず(4/3)には拘泥しないで、という意味だ。
 そして、この〈純正律〉では、あくまで今日によく用いれれている符号を利用するだけだが、C-E-G(ド-ミ-ソ)の和音を重視する。
 なぜそうしたかの理由は、秋月の推測になるが、〈ピタゴラス音律〉でのC-E-G(ド-ミ-ソ)の和音に満足できなかった人々も多かった、ということだろう。
 〈ピタゴラス音律〉でC-E-G(ド-ミ-ソ)の和音の三音は、上に示した表から導けば、つぎのような音波数(高さ)の並びになる。①C(ド)=1、②E(ミ)=81/64、③G(ソ)=3/2
 とくに②E(ミ)について、これ以上に簡潔に表現される数値にすることができない。
 これに対して、〈純正律〉は、これら三音を、つぎのように構成する。
 ①C(ド)=1、②E(ミ)=80/64=10/8=5/4、③G(ソ)=3/2
 ①と③は変わらないが、②を、81/64ではなく、80/64=10/8=5/4へと、1/64だけ小さくする。
 そうすると、①C(ド)、②E(ミ)、③G(ソ)の三音は、①1、②5/4、③3/2、という並びになる。
 各音の比に着目すると、②5/4=①1×(5/4)、③3/2=②5/4×(6/5)、だ。三音はそれぞれ、1、1×(5/4)、(5/4)×(6/5)。
 つまり、①C(ド)、②E(ミ)、③G(ソ)の三音は、4-5-6という前者比関係に立つことになる。
 これが、秋月のかつてのコメントで、「純正律は『2と3』の世界であるピタゴラス音律に対して「5」という数字を新たに持ち込むものだ」と記したことの意味だ。
 この4-5-6という三音関係は、〈純正律〉では、α①C(ド)、②E(ミ)、③G(ソ)のみならず、β①F(ファ)、②A(ラ)、③C(上のド)、θ①G(ソ)、②B(シ)、③D(上のレ)へも適用される。
 余談ながら、秋月が学んだかつての音楽教科書には、ドミソ・ドファラ・シレソが<長調の三大和音>だとされていた。
 だが、上に記したように、この「三大和音」は実質的には同じ三音関係だ。すなわち、4-5-6の三音関係の順番を少し変更しただけのことだ(ファラド→ドファラ、ソシレ→シレソ)。
 M·ウェーバーは、「5度音」を「二種類の3度で算術的に分割された5度」という叙述の仕方をし、「二種類の3度」を「長3度」と「短3度」と称している。
 ここで、「長3度」=5/4「短3度」=6/5、であることが明らかだ。
 もう一度、M·ウェーバーの叙述を引用しておこう。
 「和音和声法は、まず『主音』と呼ばれる或る音から出発し、次に、主音自身の上と、その上方5度音および下方5度音の上に、それぞれ二種類の3度で算術的に分割された5度を、すなわち標準的な『三和音』を構成する」。
 これは、「下方5度音」を前提にする場合の「短調」の場合に関する叙述を含んでいる。
 「長調」の場合は、要するに、4、4×(5/4)=5、4×(5/4)×(6/5)=6の三音が「和音」となる。
 この三音から成る「和音」は〈ピタゴラス音律〉の場合と同じではない。
 既述のように、〈ピタゴラス音律〉では、C-E-G(ド-ミ-ソ)三音は、1、81/64、3/2。
 これに対して〈純正律〉では、1、5/4、3/2。
 どちらが「美しい」かは主観的な感性の問題だが、どちらが「調和的」・「協和的」かと問えば、答えは通常は〈純正律〉になるだろう。音波(周波数)比がより簡潔だからだ(なお、同じことはますます、〈十二平均律〉と比べても、言える)。
 -------
 このような長所、優れた点を〈純正律〉はもつが、欠点も大きい。
 この欠点を、かつての秋月のコメントはこう書いた。
 「純正律では、全音には大全音と小全音の二種ができ、それらを二分割してその片方を(純正律での)『半音』で埋めるとしても、大全音での残余、小全音での残余、元来の(純正律での)「半音」という少なくとも三種の半音が生まれる。このような音階は(かりに『幹音』に限るとしても)、<十二平均律>はもちろん、ピタゴラス音律よりも簡潔ではなく、複雑きわまりない。」
 上の趣旨をM·ウェーバーがかつて淡々と述べていたと見られるのが、引用(・再掲)したつぎの文章だ。
 「オクターヴ内の二つの全音階的半音音程の中間には、一方に二個の、他方には三個の全音が存在し、いずれの場合にも、二番目の全音が小全音で、それ以外はすべて大全音である」。
 「オクターヴの内部に次々に新しい音を獲得してゆくと、全音階的音程の中間に二個ずつの『半音階的』音程が生ずる」。
 「全音には二種類あるので、二つの半音階音のあいだには、大きさの異なる二種類の剰余音程が生ずる。
 しかも、全音階的半音と小半音の差は、さらに別の音程になるのであるから、ディエシスは、いずれも2、3、5という数から構成されているとはいえ、三通りのきわめて複雑な数値になる」。
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 現在のわれわれのほとんどは、「半音」、つまり〈十二平均律〉では全12音の隣り合う音のあいだの間隔は一種類の「半音」だ、ということを当たり前のことと考えている。「全音」は半音二つで成るのであって、これも一種類しかない、ということも同様だろう。
 したがって、「全音」には二種がある、「半音」には①「大全音での残余」、②「小全音での残余」、③「元来の〔純正律での〕半音」という三種類がある、という音階・音律を想像すらできないかもしれない。
 しかし、これが、「5」という数字を導入し、かつC-E-G(・F-A-C・G-B-D)という三音関係の「調和」性・「協和」性を重視した(ある意味では「執着した」)結果でもある。
 --------
 二種の「全音」、三種の「半音」の発生の〈仕組み〉、計算過程を説明することは不可能ではないが、立ち入らないことにしよう。
 また、〈純正律〉はまったく使いものにならない、というのでもない。
 移調や転調をする必要がない場合、ということはおそらく間違いなく、ピアノやバイオリンによる一曲だけの独奏の場合、発声による独唱の場合は、むろん事前の調律・調整が必要だが、使うことができる。また、訓練次第で、そのような独奏や独唱の集合としての合奏や合唱もまた可能だと思われる。
 現に、〈純正律〉(や〈十二平均律〉以外)による楽曲はCDになって販売されているし、YouTube でも流れている。
 ——
 以上。

2715/M·ウェーバー・音楽社会学(No.2641)—部分的再掲②。


 No.2641での秋月の「若干のコメント」の再掲。
 —— 
 若干のコメント
  〔No.2715において省略〕
  「音楽理論」との関係に限定すれば、つぎのことが興味深く、かつ驚かされる。すなわち、この人は、ピタゴラス音律および純正律または「2,3,5」という数字を基礎とする音律の詳細を相当に知っている。
 そして、上掲論文(未完)の冒頭で指摘しているのは、ピタゴラス音律および「2,3,5」という数字を基礎とする音律が決して「合理的でない」ことだ。
  ピタゴラス音律に関連して、3/2または2/3をいくら自乗・自除し続けても「永遠に」ちょうど2にならないことは、この欄で触れたことがある。
 M・ウェーバーの言葉では、「この手続をたとえどこまで続けても、これらの分数の累乗が同一の音に出くわすことはけっしてありえない」、「12乗にあたる第十二番目」の音は1オクターブ上の音よりも「ピュタゴラス・コンマの差だけ大きい」。
 さらに、以下の語句は、今日の日本でのピタゴラス音律の説明について秋月瑛二が不満を感じてきたところを衝いていると思える
 「何らかの関係で『圏』状に上行または下行すると…」。
 この「上行・下行」は、ここでは立ち入らないが、「五度圏(表)」における「時計(右)まわり」と「反時計(左)まわり」に対応し、「♯系」の12音と「♭系」の12音の区別に対応していると考えられる。
 さらに、螺旋上に巻いたコイルを真上(・真下)から見た場合の「上旋回」上の12音と「下旋回」上の12音に対応しているだろう。
 そして、M・ウェーバーが言うように「二つの音程は必ず大きさの違うものになる」であり、以下は秋月の言葉だが、「#系」の6番めの音(便宜的にF♯)と「♭」系の6番めの音(便宜的にG♭)は同じ音ではない(異名異音)。このことに、今日のピタゴラス音律に関する説明文はほとんど触れたがらない。
  <純正律>、<中全音律>等に、この欄で多少とも詳しく触れたことはない。
 だが、上記引用部分での後半は、これらへの批判になっている。
 純正律は「2と3」の世界であるピタゴラス音律に対して「5」という数字を新たに持ち込むものだ。そして、今日にいう<C-E-G>等の和音については、ピタゴラス音律よりも(<十二平均律>よりも)、協和性・調和性の高い音階または「和音」を形成することができる。
 しかし、M・ウェーバーが指摘するように、純正律では、全音には大全音と小全音の二種ができ、それらを二分割してその片方を(純正律での)「半音」で埋めるとしても、大全音での残余、小全音での残余、元来の(純正律での)「半音」という少なくとも三種の半音が生まれる。このような音階は(かりに「幹音」に限るとしても)、<十二平均律>はもちろん、ピタゴラス音律よりも簡潔ではなく、複雑きわまりない。
 なお、「オクターヴ内の二つの全音階的半音音程の中間には、一方に二個の、他方には三個の全音が存在」する、という叙述は、つぎのことも意味していることになるだろう。すなわち、鍵盤楽器において、CとEの間には二個の全音が(そしてピアノではそれらの中間の二個の黒鍵)があり、Fと上ののCの間には三個の全音(そしてピアノではそれらの中間の三個の黒鍵)がある、反面ではE-F、B-Cの間は「半音」関係にある(ピアノでは中間に黒鍵がない)、ということだ。
 彼は別にいわく、「次々に新しい音を獲得してゆくと、全音階的音程の中間に二個ずつの『半音階的』音程が生ずる」。二個というのは、純正律でもピタゴラス音律でも同じ。
 また、長調と短調の区別の生成根拠・背景に関心があるが、この人によると、「長3度が上に置かれるか下に置かれるかによって、それぞれ『長』音列か『短』音列のいずれかが得られる」。これは一つの説明かもしれない。
 ——
 以上。

2714/M·ウェーバー・音楽社会学(No.2641)—部分的再掲①。

 マックス·ウェーバー・音楽社会学=安藤英治·池宮英才·門倉一朗解題(創文社、1967)
 この邦訳書での、M·ウェーバー自身による叙述の冒頭すぐからの文章を、先に紹介した。→No.2641/2023/07/01。その一部の再掲。
 ——
 一〔=第一章冒頭—秋月〕
 和声的に合理化された音楽は、すべてオクターヴ(振動数比1:2)を出発点ととしながら、このオクターヴを5度(2:3)と4度(3:4)という二つの音程に分割する。
 つまり、n/(n+1)という式で表される二つの分数—いわゆる過分数—によって分割するわけで、この過分数はまた、5度より小さい西欧のすべての音程の基礎でもある。
 ところが、いま或る開始音から出発して、まず最初はオクターヴで、次に5度、4度、あるいは過分数によって規定された他の何らかの関係で「圏」状に上行または下行すると、この手続をたとえどこまで続けても、これらの分数の累乗が同一の音に出くわすことはけっしてありえない。
 例えば、(2/3)12乗にあたる第十二番目の純正5度は、(1/2)7乗にあたる第七番目の8度よりもピュタゴラス・コンマの差だけ大きいのである。
 このいかんとも成し難い事態と、さらには、オクターヴを過分数によって分ければそこに生じる二つの音程は必ず大きさの違うものになるという事情が、あらゆる音楽合理化の根本を成す事実である。
 この基本的事実から見るとき近代の音楽がいかなる姿を呈しているか、われわれはまず最初にそれを思い起こしてみよう。
 ****〔一行あけ—秋月〕
 西欧の和音和声的音楽が音素材を合理化する方法は、オクターヴを5度と4度に、次に4度はいちおうどけておいて、5度を長3度と短3度に((4/5)×(5/6)=2/3)、長3度を大全音と小全音に((8/9)×(9/10)=4/5)、短3度を大全音と大半音に((8/9)×(15/16)=5/6)、小全音を大半音と小全音に((15/16)×(24/25)=9/10)、算術的ないし和声的に分割することである。
 以上の音程は、いずれも、2、3、5という数を基にした分数によって構成されている。
 和音和声法は、まず「主音」と呼ばれる或る音から出発し、次に、主音自身の上と、その上方5度音および下方5度音の上に、それぞれ二種類の3度で算術的に分割された5度を、すなわち標準的な「三和音」を構成する。
 そして次に、三和音を構成する諸音(ないしそれらの8度音)を一オクターヴ内に配列すれば、当該の主音を出発点とする「自然的」全音階の全素材を、残らず手に入れることになる。
 しかも、長3度が上に置かれるか下に置かれるかによって、それぞれ「長」音列か「短」音列のいずれが得られる。
 オクターヴ内の二つの全音階的半音音程の中間には、一方に二個の、他方には三個の全音が存在し、いずれの場合にも、二番目の全音が小全音で、それ以外はすべて大全音である。
 ----〔改行—秋月〕
 音階の各音を出発点としてその上下に3度と5度を形成し、それによってオクターヴの内部に次々に新しい音を獲得してゆくと、全音階的音程の中間に二個ずつの「半音階的」音程が生ずる。
 それらは、上下の全音階音からそれぞれ小半音だけ隔たり、二つの半音階音相互のあいだは、それぞれ「エンハーモニー的」剰余音程(「ディエシス」)によって分け隔てられている。
 全音には二種類あるので、二つの半音階音のあいだには、大きさの異なる二種類の剰余音程が生ずる。
 しかも、全音階的半音と小半音の差は、さらに別の音程になるのであるから、ディエシスは、いずれも2、3、5という数から構成されているとはいえ、三通りのきわめて複雑な数値になる。
 2、3、5という数から成る過分数によって和声的に分割する可能性が、一方では、7の助けを借りてはじめて過分数に分割できる4度において、また他方では大全音と二種類の半音において、その限界に達するわけである。
 ----〔改行、この段落終わり—秋月〕。
 (以下、省略)
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2713/私の音楽ライブラリー36。

 私の音楽ライブラリー36。
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 110-01 →Kvitka Cisyk, We will go to the hills. 〔macleon1978〕
 110-02 →Oksana Mukha, We will go to the hills.〔sergmt777〕

 111a →Kvitka Cisyk, Youth doesn’t return. 〔- トピック〕
 111b →Kvitka Cisyk, Youth doesn’t return.〔Tatiana〕

 112-1a →Kvitka Cisyk, You light up my life. 〔oksana **〕
 112-1b →Kvitka Cisyk, You light up my life. 〔Yulia Radova〕
 112-2 →Debby Boone, You light up my life.〔SONIDOS RETRO〕
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2712/池田信夫のブログ037—ニューロンとヒト・日本人。

  池田信夫ブログマガジン2024/01/22号の一部から。
 「では人間はどうやってフレームを設定しているのか。
 それは子供のとき、まわりの環境を見てニューロンをつなぎ替えて自己組織化しているらしい。
 言葉を覚えるときは、特定の発音に反応するニューロンが興奮し、同じ反応をするニューロンと結合する。/
 最初のフレームはニューロンの結合で遺伝的に決まっているが、それは人類の長い歴史の中で生存に適したものが選ばれているのであり、経験から帰納したものではない。
 そこからフレームが自己組織化されるが、その目的は個体と集団の生存である。」
 ---------
 この数文のうち、重要なのはつぎの二つだ。
 ①「最初のフレームはニューロンの結合で遺伝的に決まっているが、それは人類の長い歴史の中で生存に適したものが選ばれている」。
 ②「自己組織化」の「目的は個体と集団の生存である」。
 後者②は、<利己>と<利他(帰属集団)>のどちらがヒトにとって本質的かという、池田がいっときよく論及していた主題にかかわるだろう。
 以下では、前者①にだけ触れる。
 ——
  あらためて言うまでもないようなことだが、ホモ・サピエンス(人類)としての共通性を、どの人種も、民族も、もっている。
 上の言葉を利用すれば、「人類の長い歴史の中で生存に適したもの」として「選ばれ」た、「ニューロンの結合で遺伝的に決まっている」もの、ということになるだろう。
 胴体と頭と四肢(二本の腕と二本の脚)という肉体的・身体的なことのほか、〈快・不快〉とか〈喜び・悲しみ〉といった感覚・感情・感性も、「人類」としての共通性が<かなりの程度>あるようであることは、インバウンドとやらで日本に来ている多数の外国人を見ていても分かる。
 「笑い」にも苦笑から冷笑まで種々のものがあるが、爆笑・大笑いとまでいかない「ふつうの」笑いを示すとき、どの人種も、民族も、<かなりの程度>似たような表情を見せるようだ。
 これは、いったいなぜなのだろうか。
 「身体的」と「精神的」の二分自体がずいぶんと怪しいのだが(知性・感性を生み出す「脳」はどっちか)、とりあえずこの問題は無視しょう。
 「身体的」であれ「精神的」であれ、ホモ・サピエンス(人類)は<標準的な>装備品を身につけて生まれてきているようだ。それは、共通するまたは<標準的>な人類としての「生物的遺伝子」による、と言ってよいのだろう。
 こう述べて、済ますことはできない。
 ——
  一つの問題は、一つの(一人の)個体にとって、「生物的遺伝子」によって決定された部分と生後の「環境」によって決定または制約された部分は、どういう割合であるのか、あるいは両者はどういう関係に立つのか、だ。
 全てが「親ガチャ」によるのではない。また、全てが「自分」の「自由意志」と無関係な「遺伝」と「(生育)環境」によって決せられるのでもない。
 ともあれ、上で簡単に「生後」と書いたことも、厳密には問題がありそうだ。
 シロウト的叙述になる。受胎時からまたは「生命」の発生と言ってよい瞬間から、胎児は、母体=母親からすでに、母体を通じて種々の「外界」の影響を受けているのではないだろうか。
 直感的に書くと、例えば、母体=母親の心臓の拍動と血流の変化を胎児はすでに「感じ」ていて、その「速さ」=反復の頻度は、ヒトのとっての基礎的な「速さ」の感覚としてずっと残りつづけるような気がする。
 母親の「気分」や、例えばよく聴く音楽もまた、全く関係がない、とは断定できないだろう。
 だが、モーツァルトが「胎教」に良いとかの俗説にどのような実証的な根拠があるのか知らない。何らかの関係があるのだろうが、程度・内容等々を実証的に語るのは—現今のところは—不可能だろう。
 ——
  もう一つの問題はこうだ。ホモ・サピエンス(人類)としての共通性以外に、人種や民族等々によって異なる「多様性」があることも、常識的・経験的に知っている。この「多様性」をより正確にどのように理解し、またどのように〈評価〉すればいいのだろうか。
 その多様性は、生活する地域・圏域の地理や気候の差異によって形成されてきた、一定の「人類」集団ごとの「生物的遺伝子」によって生じてきたのだろう。毛髪や眼(虹彩)、皮膚の色等の違いは、よほどの長いあいだ、交流・交雑がなかったことを推測させる。
 ここで、とくに欧米またはヨーロッパとの対比で語られてきた「日本」論や「日本人」論が視野に入ってくる。
 だが、人種や民族ごとの特性にかかわる議論は、かなりの慎重さを必要とする。
 第一に、諸「人種」や諸「民族」それ自体を同じレベルで語れるのか、という問題がある。
 「日本」や「日本人」と対照されるべき他の「民族集団」は、例えば何(どれ)だろうか。
 第二に、どちらが「優れて」いるか、「劣って」いるか、という議論につながる可能性がある。しばしば優・劣を判断する基準を曖昧にしたままでの議論だ。
 下の著は「ヒトゲノム計画」を叙述する中で、全く付随的にだが、「人種や民族集団の遺伝的違いは知性や犯罪性などと結びついている」という過去の「幽霊」を、2000年頃の某研究所長の「人種と遺伝学に関する持論」は蘇らせた、と記している。
 W·アイザックソン/西村美佐子=野中香方子訳・コード·ブレーカー—生物科学革命と人類の未来(原書2022、邦訳書2022)
 第三に、例えば「日本」とか「日本人」について語るとき、「日本」という社会集団または国家・地域意識はいつ生まれたのか(「日本」という言葉の成立とは直接の関係はない)、現在につながる「日本人」はいつ頃、どのようにして誕生したのかについて、無知であるか、または幼稚な知識を前提としている場合があると見られる。
 いったいいつの頃の、またはいつ頃から現在につづく「日本」・「日本人」を念頭に置いて論じているのだろうか。
 下の年二回刊行の雑誌は実質的に最終号のようだが、<日本とは何か、日本人とは?>を特集内容としている。
 10名近い執筆者たちにおいて、上に述べたような「日本」・「日本人」の意味や時期は明確になっているのだろうか。この点にも興味をもっていくつかの論考を読んでみよう。
 佐伯啓思監修・ひらく(年二回刊)第10号(A &F、2024年1月)
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2711/私の音楽ライブラリー35。

 私の音楽ライブラリー35。
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 106 →永井龍雲, 小さな愛, 1979.〔風の風来坊〕
   作詞=作曲/永井龍雲。
 107 →永井龍雲, つまさき坂, 1979. 〔ジェームズ政則〕
   作詞=作曲/永井龍雲。
 108 →永井龍雲, 暮色, 1980. 〔アニマルライフな—〕
   作詞=作曲/永井龍雲
 109 →永井龍雲, めぐりあわせ, 2017. 〔風の風来坊〕
   作詞=作曲/永井龍雲。
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2710/私の音楽ライブラリー㉞。

 Where Are You Now ?

 105-01a →Kvitka Cisyk, Where are you now ? 〔- トピック〕
 105-01b →Kvitka Cisyk, Where are you now ? 〔Nastia Kusimo〕


 105-02 →Katarzyna Klosowska, Where are you now ? 〔Katarzyna Klosowska -〕

 105-03 →Oksana Mukha, Where are you now ? 〔OksanaMukhaMusic〕

 105-04 →Marta Shpak, Where are you now ? 〔Marta Shpak〕
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2709/池田信夫のブログ036—「科学革命」。

  池田信夫の最近のブログは、「科学革命」に論及していることが多い。
 「革命」にも、さまざまなものがある。
 ——
  ユヴァル·ハラリ/柴田裕之訳・サピエンス全史(原書2011、邦訳書2023)の最初の方では、「認知革命」なるものが語られている。大きな第一部の表題自体が、「認知革命」だ。
 「約7万年年前」の「認知革命」、「約1万2000年前」からの「農業革命」、「500年前」に始まった「科学革命」の三つの「革命」があったとしたあと、「認知革命」についてこんなことを書いている。
 「認知革命」(=7万年前から3万年前にかけて見られた、新しい思考と意思疎通の方法の登場」)に伴って、「伝説や神話、神々、宗教」は「初めて現れた」。
 ホモ·サピエンスは「認知革命」のおかげで「虚構、すなわち架空の事物について語る」能力を獲得した。そして「虚構のおかげで、私たちはたんに物事を想像するだけではなく、集団でそうできるようになった」。
 これらは間違いではないだろう。
 ハラリが「思考」や「意思疎通」の方法として「言語」以外のものを排除しているとは読めないが、「思考」の結果の表現や「意思疎通」の重要な、かつ主要な手段になるのは(とくに他者・集団との関係では)「言語」であることは否定できないだろう。
 「感覚」、「感情」、「情動」の表現や伝達の方法としても、「言語」は必ずしも不可欠でないとしても、役立ちうる。
 もっとも、「言語」として一つの<祖サピエンス語>を想定し、それが諸言語に分化したとする主張や学説は存在しないはずで、ハラリが想定する「言語」はこの点で不分明であるような気もする。
 また、こうも書いている。
 「最も広く信じられている説」によると、「たまたま遺伝子の突然変異が起こり、サピエンスの脳内の配線が変わり」、従来にない思考や「まったく新しい種類の言語を使って(の)意思疎通」が可能になった。この変異を「知恵の木の突然変異」と称してよいかもしれない。
 ——
  上の最後の叙述部分を、以下は否認している。
 池田信夫ブログマガジン2023年11月13日号——「戦争は『共感革命』から生まれた」。
 こう、書かれる。
 「(ハラリ著によると)人類は7万年前に『認知革命』という突然変異で言語の能力を獲得してフィクションを信じるようになったというが、そんな証拠は遺伝的にも考古学的にもない。
 人類の脳は200万年前から大きくなり始め、ホモ·サピエンスが出てくる30万年前には現在の大きさになっていた。
 言葉の使用は脳の拡大の結果であり、突然変異で生まれたものではない。」
 どうやら、池田の言い分の方が適切なようだ。
 問題はさらには、脊椎動物・哺乳類の中で、なぜホモ·サピエンスだけが脳を大きくすることができ、その結果として、サピエンスの大まかな種別ごとに「言語」を生み出すことができたか、にあるだろう。
 なぜ、人類だけが膨大な数の(一個体に1000億個とされることすらある)神経細胞(ニューロン)を脳内に形成・蓄積できるようになり、「言語」も操作できるようになったのか、と言い換えてもよい。
 なお、神経細胞はヒト・人間の身体じゅうにあるが、ヒトの場合は数の上では圧倒的多数が脳内にあるとされる(多さと脳への偏在?が人類を他の動物と区別する)。そして、「脳」>「ニューロン」こそが言語活動を含む人間の知性的・理性的活動の源泉になっている。
 ——
  「序章」だけとりあえず読むに終わるだろうと思っていたら、邦訳のうまさもあってか、上巻の半分くらいまで読んでしまったのは、つぎの書だ。
 W·アイザックソン/西村美佐子=野中香方子訳・コード·ブレーカー—生物科学革命と人類の未来(原書2022、邦訳書2022)。
 書名にも「生物科学革命」という語がある。
 「序章」の中の一節の表題は「原子の革命、ビットの革命、そして遺伝子の革命」だ。
 その中で、こう書かれている。
 「20世紀前半」は、「物理学を原動力とする革命の時代だった」。
 「20世紀後半は、情報テクノロジーの時代だった」。その基礎は「ビット」のアイディアだった。1950年代にこれが「マイクロチップ、コンピュータ、インターネットの開発」につながり、「この三つのイノベーション」が結びついて「デジタル革命」が起きた。
 「今私たちは第三の、さらに重要な、生物科学革命の時代に突入した」。子どもたちは「デジタル・コーディング(符号化処理)」だけでなく「遺伝子コード」を学ぶようになるだろう。
 以上。
 「物理学」(アインシュタインの相対性理論・量子論以降の原子力・トランジスタ等々)による「革命」、「ビット」の二進法思考を基礎にした「デジタル革命」、「生物科学革命」の三つが語られている。
 節の表題に戻ってほぼそのまま利用すれば、「原子の革命、ビットの革命、遺伝子の革命」の三つになる。
 --------
 こういう大きな時代変化の認識の記述あるいは「革命」に関する叙述に接すると、<資本主義から社会主義へ>という時代変化の予見や「社会主義革命」などという観念は、ちっぽけで些細なものに感じる。万が一、この予見や観念が「正しい」ものだとかりにしても、だ。
 資本主義・社会主義論は、かりにこの区別が成り立つとしても、「生産力」と「生産関係」の相剋などを基礎にした議論なのであり、人類全体の大きな見通しの中では、一部の側面にのみ着目した、ちんまりとした「細区分」に他ならないように考えられる。
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2708/池田信夫のブログ035。

 池田信夫のブログ035。
 ——
 一 池田信夫ブログマガジンのうち前回(No.2706)に取り上げたもののさらに一つ前の号と新たに読んだ最近の号から、興味深く感じた小文章のタイトルは、以下のとおり。なお、前回もそうだが、これら以外はつまらない、あるいは全く理解できない、という趣旨ではない。
 --------
 12月18日号
 ①「ブッダという男」。
 ②「名著再読: (A·ディートン)大脱出」。
 02月05日号
 ③「宇宙はなぜ人間のために『微調整』されているのか」。
 ④「イノベーションに必要なのは『否定的知識』」。
 ⑤「名著再読: (クーン)科学革命の構造」。
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  とくに意図せず、思いつくままの感想等。
 ④によると、古代ギリシャの自然哲学・古代ギリシャの都市国家→ローマ帝国のあいだには断絶があり、ギリシャ自然哲学はローマ帝国に継承されなかった。それはとくに、後者により「キリスト教が国教」とされたことによる。「ギリシャ文化は『異教』として排除され、イスラム圏に追いやられた。ヨーロッパが「自然哲学」を必要としたのは、「…などの実用的な科学」が必要になった、「植民地支配」を始めた「16世紀」以降だ。
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 ギリシャの哲学者と言えば、ピタゴラスを想起する。そして、この人物は<ピタゴラス音律>の創始者とされるのだが、1オクターブを12の異なる音で構成する(現在でもこの点は同じまま)ということの背景には、「神」は全てを美しく、体系的に全てを創作したはずだ(12という数字は「美しい」)という考えも少しは影響したのではないか旨、この欄に書いたことがあった。
 しかし、よく考えれば(よく考えなくとも)、ピタゴラスの時代にはまだ<キリスト教>は成立していなかったようで、「神」の理解にもよるが、上の推測は間違い。
 但し、<ピタゴラス音律>を用いた音楽の発展にはキリスト教の教会、そこでの「教会音楽」が相当に寄与したはずだ。ドイツ(と日本)では「音楽の父」とされるJ·S·バッハは、ドイツ・ライプツィヒの教会でも働いた鍵盤楽器演奏者(オルガニスト)・作曲家だったが、当時はまだ<十二平均律>は全く一般的ではなく<ピタゴラス音律>がかなり使われていただろう。
 なお、<十二平均律>が欧州で支配的になったとされるのは、—日本はその圧倒的な影響を受けるのだが—19世紀だ(こんなこともM·ヴェーバー『音楽社会楽』は書いている。日本のことは別)。
 ——
  上の①によるとこうだ。「ブッダ(集合名詞)の思想的コア」は、「無我」(=「所有の放棄とか我執からの解放といった意味」)だろう。但し、「高度な教理」はなく、「大乗仏教になってから」、「複雑な仏教哲学」ができた。この時期の仏教が日本にも輸入されて、「既存の民俗信仰と習合した」。「それは東洋的な『無』をコアにする点」で、「それほど異質な宗教ではなかった。
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 東アフリカで生まれたヒト・人間(ホモ·サピエンス)は今のシリア・イラン(その隣国が今はイスラエル)あたりで東西に分かれて、西へはヨーロッパに、東はインド、東アジア(今の中国、日本等)へと(途方もない年月とともに)分かれていった、という。
 今でも西欧または欧米と東アジアは異質だと語られることが多い。
 どちらもホモ·サピエンスとしての基礎的な遺伝子(あるいはDNA配列)を有するだろう点では全く共通しているはずだ。しかし、外形や容貌を別としても、言語のみならず、文化や「思考方法」の点で異なることが多いとされていると思われる。
 西と東、とくに西欧(今のドイツも含める)と日本は、どういう点で異なり、それはいったいなぜそうなったのか?
 多く語られて論じられてきた主題に、秋月もまた最近は大きな関心を持っている。
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 池田の上の文章では日本を含む東アジアの「無我」あるいは「無」の哲学または宗教が語られている。
 だが、ヨーロッパには、あるいはキリスト教には、そのような意識・考え方はないのか。本当にそうならば、なぜそうなのか。
 批判をしているのではない。自問のようなものだ。
 一神教ではなく多神教だから、日本は優れているのだ、とかの日本会議系または櫻井よしこ流の幼稚な思いつき的発想では、何の回答にもならない。
 「かみ」を信仰・崇敬の対象としている点で「神道」は一神教だとも言えるし、仏教上も、釈迦に近い順らしいが、如来・菩薩・明王・天という順での、かつそれぞれの中でも多様な信仰または崇拝の対象がある。キリスト教の場合も、「聖〜」とかの複数の聖人も崇拝・拝礼の対象になっている。
 日本の「宗教」とは、日本人の「信仰」とは。この問題には当今、大きな興味を持っている。
 池田の上の文章の中には、大乗仏教と「習合」した「既存の民俗信仰」という言葉が出ている。
 仏教と「習合」したこれを「神道」だとは、池田信夫も考えていないだろう。
 「神道」という言葉・概念がない時期だったのだから、8世紀前半の日本書記や古事記から「既存の民俗信仰」の確かで明確な姿や内容を語ることはできないだろうと思われる。
 ここで何かを論じる能力・資格は、秋月にはない。
 ただ素人的にでも興味深く思うのは、日本にあった(今でもある)山岳信仰、一般的にはこれと少しは違うだろうが、<修験道>という今でも完全には消失していない(今では仏教に分類される)「道」・宗教だ。さらに、これも今は仏教の一種とされているが、<役行者信仰>というものの存在とその実体だ。
 こうしたものは、日本人のいったいどのような根本的「哲学」または「宗教」を示して、あるいは示唆して、いるのか。
 ——
  ところで、櫻井よしこや西尾幹二は、仏教伝来までに日本にはすでに確固たる「神道」があって、「寛容な」後者が前者を受け入れた、という旨を恥ずかしげもなく書いている。
 従前にあった「神道」なるものの実体を明確にできないかぎり、この主張は馬鹿げている。
 こんな主張よりも、仏教「公伝」以前に、ある程度は半島経由だろうが、大陸中国から重要な「知識」または「文化」をすでに受容していた、そうしたものの影響を受けていた、ということの方が重要だろう。
 「暦法」または基礎的な「天文学」はこれにあたる。確認しないが、古事記でも日本書記でも天皇即位年を基準とする年次表記、元号制定後の元号を利用した年次表記、の他に「干支」を使ったものがある。これは日本産ではなく、仏教「公伝」よりも早くから知られていて、すでに利用されていたのではないか。
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 こんなふうに雑文を綴っていくと、際限がなくなる。
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2707/私の音楽ライブラリー㉝。

 私の音楽ライブラリー㉝。
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 101 →柴田淳, ハーブティー, 2011. 〔NoticesdByYou〕
   柴田淳/作詞・作曲。

 102 →柴田淳, 紅蓮の月, 2006. 〔aki0619〕
   柴田淳/作者・作曲。

 103 →柴田淳(cover),東京. 〔昌〕
   森田貢/作詞・作曲。

 104 →柴田淳(cover),卒業写真.〔yuki kari〕
   松任谷由実/作詞・作曲。
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2706/池田信夫のブログ034—「ニューロン」。

  日本共産党の問題には、大した興味は持っていない。池田信夫が最近に論及している主題にの方がはるかに興味深く、かつ重要だと思われる。
 秋月による言い換えが入るが、<ヨーロッパ近代>とは何だったか、キリスト教はどういう役割を果たしたか、日本が明治以降に模倣・吸収しようとした<近代(ヨーロッパの)科学>の意味、そこでの「大学」の意義、「哲学」の諸相、等々。
 そしてまた、我々の世代はヨーロッパまたは西欧コンプレックスをもってきたものだが(明治以降の日本人からの継承だ。敗戦も関係する。マルクス主義もまた欧州産の「思想」体系だった)、<ヨーロッパ近代>を徹底的に相対化する思考または論調がむしろ支配的になっているのではないか、とも思わせる。
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 このような主題に関連する、この一ヶ月余の池田信夫の小論に、以下があった。タイトルだけ示す。日本共産党にかかわる小論は2024/01/22号に含まれているのだが、これよりも本来は、下記のものの方が面白い。
 2023/12/25号。
 「『実用的な知識』はなぜヨーロッパで『科学』になったのか」。
 「自己家畜化する日本人」。
 「『構造と力』とニューアカデミズム」。〔浅田彰〕
 「名著再読: ヨーロッパ精神史入門
 2024/01/15号。
 「『科学革命』はなぜ16世紀のヨーロッパで生まれたのか」。
 「名著再読: ウィトゲンシュタインはこう考えた」。
 2024/01/22号。
 「キリスト教は派閥を超える『階級社会』の秩序」。
 「名著再読: (ヒューム)人間知性研究」。
 2024/01/29号。
 「あなたが認識する前から世界は存在するのか」。
 「名著再読: (ショーペンハウエル)自殺について」。
 ——
  「cat」・「猫」の「言葉」問題に触れ、池田にはたぶん珍しく「ニューロン」という語を使っていたのははたしていずれだったかと探索してみると、2024/01/22号の中の、「名著再読: (ヒューム)人間知性研究」だった。
 「ニューロン」も出てくるつぎの一連の文章は、なかなかに興味深く、いろいろな問題・論点の所在を刺激的に想起させてくれる。
 最初の「フレーム」について、「フレーム問題」を池田信夫のブログの検索窓に入力すると多数出てきた。何となく?意味は分かるので、ここでは、立ち入らない。
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  「では人間はどうやってフレームを設定しているのか。
 それは子供のとき、まわりの環境を見てニューロンをつなぎ替えて自己組織化しているらしい。
 言葉を覚えるときは、特定の発音に反応するニューロンが興奮し、同じ反応をするニューロンと結合する。/
 最初のフレームはニューロンの結合で遺伝的に決まっているが、それは人類の長い歴史の中で生存に適したものが選ばれているのであり、経験から帰納したものではない。
 そこからフレームが自己組織化されるが、その目的は個体と集団の生存である。」
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 この数文は、いろいろな問題に関係する。
 秋月の諸連想、あるいは常識的・通俗的な秋月の思考の連鎖を、今後に書いてみよう。
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2705/池田信夫のブログ033—日本共産党・松竹伸幸②。

 池田信夫ブログマガジン2024年1月22日号から。同じ一節から、さらに感想等を記す。
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  池田はこう書く。
 「私は上田耕一郎とは一度、話したことがあるが、宮本のスターリニズムとはまったく違う気さくな人だった」。
 上耕と話したことがある、ということが書きたかったことかもしれない。しかし、一度話したくらいで、ある一人の日本共産党員が「スターリニズム」でない「気さく」な人だったと論定することは不可能だろう。たしかに、上田耕一郎が相対的に「自由に」語っていた印象は、私にもある。
 しかし、共産党員というものは、非党員・「大衆」に対して<演技>を平気でするものだと思う。直接には気さくに、愛想よく接しながら、党員たちだけの内輪の会合では、その非党員について辛辣な批評をし、ときには罵倒するくらいのことを平気でしているかもしれない。共産党員というのは、真面目であればあるほど、「内」と「外」を使い分ける、ある意味では<スパイ>のような二重人格者ではないか。
 ——
  松竹伸幸は、近年では日本共産党中央とは一致していないらしき主張をしていたから、とっくに党員でなくなっていた、と私は何となく推測していた。だから、最近までまだ党員だったと知って驚いた。
 しかも、党中央による「除名」決定を不服として「再審査請求」とやらをしているらしい。
 ということは、自分の除名は不当だ、自分をまだ日本共産党員のままでいさせろ、と主張していることになるだろう。
 松竹さん、そんなに「日本共産党員」でいたいのかね
 批判しているような党中央をもつ政党など、喜んで辞めてやる、ということにならないのか、不思議でしようがない
 松竹伸幸の近年の行動は、<最後に一花咲かしたい>という程度のものでないか。その影響を受けて、朝日新聞社説が松竹への実質的支持と日本共産党への注文を書いたというのだから(私は読んでいない)、茶番劇であっても、ある程度の波風を立てるものだ(池田信夫までもが取り上げた)。 
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 ネット情報等によると、松竹伸幸は2000年の第22党大会前後に日本共産党中央委員会職員として政策委員会外交部長(2004年)等の要職にあり、2001年7月には参議院議員選挙に日本共産党の候補として立候補した(落選)。そして、2005-6年までは、中央委員会の事務局職員だったらしい。
 ということは、おそらく間違いなく、この人物は2000年の志位和夫・幹部会委員長による指導体制の発足を少なくとも容認し、その中で少なくとも5年程度は生活してきた
 にもかかわらず、種々のことがあったのだろうが、その後の彼の活動を党中央が問題視し始めるや、志位和夫の党内出自や経歴を批判し始めたのだとすれば、その心情は決して高潔なものではない(委員長公選制の主張など、この党にとっては奇抜な論点だ)。秋月は松竹伸幸という人物をほとんど「信用」していない。
 なお、松竹伸幸がまだ正統な?党員だった時代に出版した書物に、以下がある。いずれも、志位和夫・幹部会委員長の時期に出版されている。
 松竹伸幸・ルールある経済社会へ(新日本出版社、2004)
 松竹伸幸・レーニン最後の模索—社会主義と市場経済(大月書店、2009。これは、レーニンの1921年のネップ政策を擁護・称讃するもので、日本共産党・不破哲三の<市場経済を通じて社会主義へ>論に沿うものだった)。
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  池田信夫の叙述に戻ると、その小論の表題(「共産党が選ぶことのできた『もう一つの道』」にすらしているが、池田は、日本共産党が取り得た「もう一つの」可能性として、「党内闘争で上田兄弟が勝っていたら『社公民』に近い立場になり、野党を大同団結させて政権をになう社民勢力ができたかもしれない」と考えているようだ。
 しかし、池田の言う「今さら言ってもしょうがないないが」という以上に、そんな可能性がわずかにでもあっただろうか。
 日本共産党はコミンテルン日本支部として出発した、そのかぎりで「社民」主義と決別して発足した政党だ。それを維持して、日本社会党は、ある時は是々非々であっても、異質で対抗する政党だと自己認識してきた。
 したがって、「上田兄弟」路線の勝利→「社民」勢力の大同団結のためには、以下が必要だっただろう。すなわち、戦後すみやかに、または遅くとも1961年党大会=宮本体制発足までに、それまでの、「マルクス=レーニン主義」に立つ日本共産党と(かりに名前だけは維持するとしても)実質的に異なる政党になったと宣言しておくこと。
 宮本顕治には、過去の自分史からして、そんなことはできなかった。そしてまた、1970年に宮本委員長のもとで書記局長になり、1982年に宮本議長のもとで委員長となった不破哲三も、そんな可能性を(本心では)想定していた、とは思えない。不破は、宮本顕治によってこそ選抜されたのだ。
 「社民」主義への転換の最も良い機会は、1991年末のソヴィエト連邦解体だったかもしれない。欧州の「共産党」は雪崩を打ったようにソ連解体に対応し、大雑把に言うが、解党するか、「レーニン主義」政党ではなくなった。
 しかし、日本共産党は、<ソ連は社会主義国家ではなかった>と再定義して、その基本的立場を変えなかった。宮本顕治の力の弱化からしても、「社民」主義への転換の絶好のチャンスだったかもしれないが、1994年党大会までに実権をほぼ握ったかに見える不破哲三は、その「道」を選ばなかった。
 「上田兄弟」の(本音での)主義・路線なるものは、幻想であるか、または彼らの自己批判までにかぎって存在したもののように見える。
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  日本共産党が<社民主義>政党に転換または変質する可能性は、かなり読まれたらしいつぎの書物でも論及され、かつその可能性が肯定(または推奨)されているようだ。論評・感想を予定しつつ、まだこの欄でこの点に触れていない。
 中北浩爾・日本共産党(中公新書、2022)
 その可能性は、ないだろう。そのためには、1922年以降の全ての党の歴史を否定し、当然ながら「科学的社会主義」のもとで「社会主義・共産主義」の社会を目ざす、とする現在の党綱領を廃棄しなければならない。
 そんなことをこの党はできない。そして、ずるずると弱体化・劣化していく道を歩んでいくだろう。当然ながら、レーニンが1902年の「何をなすべきか」が示した<前衛>党組織・意識、1921年ロシア党大会で導入した<分派禁止>原則を、日本共産党が今になって、根本的なところで否定できるはずはない。
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ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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