秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2922/R.Pipes1990年著—第17章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第六節/観測気球としてのMichael 殺害。
 (01) 1918年の春、ニコライとその家族をEkaterinburg に、残りのロマノフ一族をPerm 地方の別の街に幽閉したとき、ボルシェヴィキは、安全だと見られる場所に、彼らを置いていた。ドイツの前線と白軍からは遠く離れており、ボルシェヴィキの本拠地の真ん中だった。
 しかし、チェコ軍団による反乱が勃発して、この地域の状況は劇的に変化した。
 6月半ばまでに、チェコ軍団は、Omsk、Chelia binsk、Samara を支配した。
 チェコ人の軍事行動によって、これらの都市のすぐ北に位置するPerm 州は危険に晒された。そして、ロマノフ一族がいる場所は、ボルシェヴィキが後退している戦場の近くになった。
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 (02) 彼らをどう扱うべきか? トロツキーは6月に、見せ物的になる〔革命審判所での〕審理をまだ支持していた。
 「私がモスクワを訪れた何度かのうちの一つの時期に—ロマノフ家の処刑の数週間前だったと思う—、政治局へ行っていたとき、Ural の悪い状況を考えて、皇帝の裁判を急ぐ必要があることに気づいた。
 私は、〔前皇帝の〕全治世の絵(農民政策、労働者、諸民族、文化、二つの戦争等々)を広げることができるように、公開で審判を行なうことを提案した。
 審判の経緯は、ラジオで全国土に放送されるだろう。
 Volosti では、審理の過程に関する記事が、毎日、読まれ、論評されるだろう。
 レーニンは、実現できるととても良い、という趣旨の答えをした。
 しかし、…時間が十分でなかったかもしれない。…
 私が提案に固執せず、別の仕事に集中していたので、議論は起きなかった。
 そして、政治局には、三、四人しかいなかった。私自身、レーニン、Sverdlov、…。思い出すに、カーメネフはいなかった。
 レーニンはそのとき、むしろ陰鬱で、成功裡に軍を建設することができるかどうか、自信をもってなかった。…」(注49)
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 (03) 1918年の夏までに、〔前皇帝を〕審判にかけるという考えは、現実的でなくなっていた。
 チェコ人の蜂起のすぐ後に、レーニンはチェカに対して、「逃亡」が仕組まれていたとの言い分を使って、Pern 州のロマノフ一族を全員殺害する準備をする権限を与えた。
 レーニンの指示にもとづいて、チェカは、3つの都市で、徴発を捏造した。その3都市、Perm、Ekaterinburg 、Alapaevsk では、ロマノフ一族は幽閉されるか、監視のもとで生きるかのいずれかの状態にあった。
 計画は、Perm とAlapaevsk ではうまくいった。
 Ekaterinburg では、放棄された。
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 (04) 皇帝とその家族の殺害の予行演習が、Perm で行なわれた。Perm は、Mihael 大公が追放された場所だった(注50)。
 3月に、秘書である英国人Nicholas Johnson を同行させてPerm に到着したとき、Mihael は監獄に入れられた。
  しかし、彼はすぐに釈放され、Johnson、侍従、運転手とともにホテルに住居を構えることが認められた。そこで彼は、比較的に快適かつ自由に生活した。
 チェカの監視下にあったが、かりに彼が逃亡しようと思ったならば、大した困難なくそうできただろう。自由に街の中を動くことが許されていたからだ。
 だが、他のロマノフ一族と同じく、彼は服従の意向を示した。
 彼の妻は、復活祭の休日期間に訪れた。彼の望みに従って、ペテログラードに戻り、そこからのちに逃亡して、イギリスへ行った。
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 (05) 6月12-23日の夜、5人の武装者が三頭馬車に乗ってきてMihael のホテルに入ってきた(注51)。
 彼らはMihael を起こし、衣服を身に着けて、従うよう告げた。
 Mihael は、彼らの身分証明を求めた。
 彼らが何も提示できなかったとき、Mihael は現地のチェカに確かめるよう要求した。
 この時点で(と、処刑される前に侍従は仲間の在監者に言った)、訪問者たちは我慢できなくなり、実力行使に訴えて威嚇した。
 一人がMihael かJohnson の耳に何かを囁いて、二人は疑いを解消したように見えた。
 彼ら3人が、救出の使命をもった君主制主義者を装ったことは、ほとんど確実だ。
 Mihael は服を着て、Johnson に付き添われながら、ホテルの正面に停まっていた訪問者たちの車に入った。
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 (06) 三頭馬車は、Motovilikha の産業居留地の方向へと過ぎ去った。
 町を出て、森の中に入り、停まった。
 乗っていた二人は出るように言われた。従ってそうしたとき、この当時のチェカの習慣だったように、二人は弾丸で撃ち倒された。おそらくは背後から射殺された。
 遺体は、近くの溶鉱炉で焼かれた。
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 (07) この殺害のすぐ後で、Perm のボルシェヴィキ当局は、ペテログラードと地域の諸都市に対して、Mihael は逃亡しており、探索中だと伝えた。
 同時に、Mihael は君主制主義者に誘拐された、という噂を拡散した(注52)。
 地方新聞紙の<Permskii Izvestiia>は、出来事についてつぎの報告記事を掲載した。
 「5月31日[6月12日]の夜、偽造の命令書をもった白軍の組織立った一隊がMihael Romanov とその秘書のJohnson が住むホテルに現われて、二人を誘拐し、不明の目的地へと連れ去った。
 探索隊は、夜のため痕跡が分からない、と発表した。探索は継続している。」(注53)
 これは、連続したウソだった。
 Mihael ら二人は実際には、白軍に誘拐されたのではなく、元錠前屋で職業的革命家であり、Motivilikha ソヴェトの議長であるG. I. Miasnikov が率いるをチェカによって誘拐された。
 彼を手伝った4人の共犯者は、同じ都市の親ボルシェヴィキの労働者だった。
 「白衛軍」の陰謀という神話は、翌年にMihael ら二人の遺体の場所がSokolov 委員会によって突き止められると、維持することができなくなった。
 そのあとの公式の共産党の見解は、〔チェカの〕Miasnikov と共犯者たちは、モスクワからも現地のソヴェトからも権限を与えられることなく、自分たちで勝手に行動した、というものだった。—これは、最も騙されやすい者ですらその軽信さを疑問に感じるであろうような説明だ(脚注1)
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 (脚注1) Bykov, Poslednie dni, p.121. Miasnikov はのちに労働者反対派の一人になり、そのために党を1921年に追放され、1923年に逮捕された。1924-25年にパリに現われ、Mihael 殺害を叙述する原稿を売り歩いた。それを1924年にモスクワで出版した、と言われている(Za svobodu!, 1925)。
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 (08) 6月17日、モスクワとペテログラードの新聞は、Mihael の「行方不明」を報告し(脚注2)、ニコライはIpatev の家宅に押入った一人の赤軍兵士によって殺されている、との風聞が同時に広がっている(注54)、と伝えた。(脚注2)
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 (脚注2)例えば、NVCh, No.91(1918 年6月17日), p.1. 一ヶ月後にソヴナルコムのプレス局は、Mihael はOmsk へと逃亡し、おそらくロンドンにいる、との声明を発表した。NV, No.124/148(1918年7月23日), p.3.
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 この風聞はもともとは自然発生的なものでもあり得たが、つぎのことの方がはるかに大いにありそうだ。すなわち、ニコライの殺害とそのために進行している準備に対するロシア民衆と外国諸政府の両方の反応を試してみるために、ボルシェヴィキが意図的に流布した。
 このような仮説に信憑性を付与するのは、レーニンの異常な振舞いだ。
 レーニンは6月18日に、日刊紙<Nashe slovo>のインタビューを受けて、こう語った。すなわち、Mihael の逃亡を確認することはできるが、政府は前皇帝が死んでいるか生きているかを決定することができない、と(注55)。
 レーニンが<Nashe slovo>のインタビューを受けたのは、きわめて異例のことだった。この新聞紙はリベラル派で、状況が許す範囲内でボルシェヴィキ体制に批判的であって、ボルシェヴィキはこれとは通常は接触しなかったのだ。
 同様に不思議であるのは、前皇帝の運命についての無知を弁明していることだった。なぜなら、政府は簡単に事実がどうであるかを確定することができたからだ。6月22日、ソヴナルコム(人民委員会議)のプレス局は、Ekaterinburg と毎日交信していることを認めつつ、ニコライの運命に関してはまだ分からない、と述べた(注56)。
 政府のこうした行動によって、企てている前皇帝の殺害に対する公衆の反応を試すためにモスクワが風聞を流布した、という仮説は、強く支持される(脚注3)
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 (脚注3) P. Bulygin, Segodnia(Riga), No.174(1928年7月1日), p.2-3. ようやく6月28日、ソヴィエト当局は、ニコライとその家族は安全に生存していることを確認した。その際、Ekaterinburg にいる北部Ural 戦線の最高司令官から、6月21日にIpatev 邸を調査して、生存している居住者たちを見つけた、という電信を受けた、と表向き主張した。NV, No.104/128(1918年6月29日), p.3. つぎを参照。M. K. Diterikhs, Ubiistvo tsarskoi, sem’i i chlenov doma Romanovykh na Ural e, I(Vladivostok, 1922), p.46-48. この情報が一週間遅れたことは、意図的な偽装という文脈を除外しては説明不可能だ。
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 (09) 貴族制や君主制に親近的な者たちは別として、ロシアの民衆、知識人層、「大衆」は同様に、ニコライの運命に関する一方あるいは他方の立場を示さなかった。
 外国の諸見解も、紛糾したものではなかった。
 London の<Times>紙のペテログラード特派員が6月23日に送り、7月3日に公にされた通信文は、不吉な暗示を伝えていた。
 「ロマノフ一族がこの種の公的な著名さを与えられるときはいつでも、人々は何か重要なことが起きている、と考える。
 退位があった王朝に関して頻繁にこのような驚きが生じることに、ボルシェヴィキはますます我慢できなくなっている。そして、ロマノフ家の運命の解決が賢明であるかについて、そしてきっぱりとロマノフ一族の問題を処理してしまうことについて、そのような問題が再び提起されている。」
 もちろん、「ロマノフ家の運命の解決」とは、彼らを殺害することのみを意味している。
 このむしろ粗雑な問題提起は、すげなく無視された。
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 (10) ロシアと外国での、このような風聞への無関心さによって、皇帝家族の運命は話題にされなくなった、と思える。
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 第六節、終わり。

2921/R.Pipes1990年著—第17章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第五節/「特殊任務の家」②。
 (06) 1918年5月末、Ipatev 邸には11人が住んでいた。
 ニコライとAlexandra は、角部屋を占めた。
 Alexis は最初は姉たちと寝室を共有していたが、のちに述べる理由で、6月26日に、両親と同じ部屋に移った。
 娘たちは真ん中の部屋におり、そこで折りたたみ式の簡易ベッドで寝た。
 侍女のA. S. Demidova は、ただ一人、テラスの隣に、自分だけの一部屋をもった。
 Botkin 博士は、客間を占めた。
 台所では、三人の侍従が生活した。料理人のIvan Kharitonov、その弟子の、Leonid Sednev という名前の少年(逮捕された使用人の甥)、娘たちの侍従のAleksei Trup だ。
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 (07) 家族は単調な生活に慣れてきた。
 9時に起床し、10時に茶を飲んだ。
 昼食は午後1時で、主食は4-5時、茶が7時で、夕食は9時。
 11時に就寝した(注45)。
 食事の時間を除いて、彼らは自分の部屋に閉じ込められた。
 ニコライは、日記をつけるのを省略し始めた。
 聖書、ロシアの古典を声を出して読むことに、多くの時間が費やされた。しばしば停電したので、ときには蝋燭の光で読んだ。ニコライは、<戦争と平和>を初めて読む機会を得た。
 家族は、何度も祈祷した。
 彼らは長くて15分ほど庭を散歩するのが許された。だが、ニコライには困難だった肉体運動は、認められなかった。
 ニコライは、障害のある息子を庭に連れ出した。
 二人はトランプ(bezique)やtrickyrack と言うロシア風すごろく(backgammon)で遊んだ。
 教会に行くことは許されなかったが、日曜日と祝日に、客間の即席の礼拝堂で、警護者の監視のもとで、一人の僧侶が礼拝の仕事を行なったものだ。
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 (08) 警護者たちによる皇帝家族の粗暴な扱いについては、多数のおぞましい話がある。
 警護者たちは昼と夜のいつでも娘たちがいる部屋に入ってきた、ニコライが要求した結果として家族が侍従たちと一緒に一つの食卓で食べるつもりだった食料を勝手に奪っていった、前皇帝を乱暴に突くことすらした、と言われている。
 こうした話は、根拠が全くなくはないとしても、誇張されがちだ。
 指揮者と警護者たちの振る舞いは疑いなく、粗暴だった。だが、実際の虐待についての証拠資料は存在していない。
 そうであっても、皇帝家族が耐えた状況は、きわめて痛ましいものだった。
 二階に配置された警護者たちは、つぎのようにして楽しんだ。娘たちが洗面室へ行くのに同行し、なぜそこに行くのか教えろと要求し、出てくるまで外で待つ(注46)。
 淫らな絵や彫刻物を洗面室や浴室で見つけられるように置いておくことは、珍しくなかった。
 Faika Safonov という名のプロレタリアの少年は、皇帝家族の窓の下で卑猥な歌をうたって、友人を楽しませた。
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 (09) ロマノフ一族は、際立つ平静さでもって、幽閉状態、不愉快さ、屈辱に耐えた。
 Avdeev は、ニコライは「自然の陽気さ」を示して、少しも囚人のようには振る舞わない、と思った。
 この出来事に関する共産党員歴史家のBykov は、「自分の周りで起きていることに関する愚かな無関心」について、苛立ちをもって語っている(注47)。
 しかしながら、前皇帝とその家族の行動は、無関心のゆえではなく、礼儀の感覚と、宗教信仰に根ざす宿命論によっていた。
 もちろん我々は、ニコライの「自然の陽気さ」、Alexandra の横柄さ、子どもたちの活気ある精神という表面の背後で、幽閉されている者たちの心に何が動いているかを、知ることができるはずはない。彼らは誰も信用しなかったのだから。
 ニコライとAlexandra の日記は、個人的な日記というよりも、機械的記録だった。
 しかし、「祈り」と題される、彼らの持ち物の中から発見された詩は、彼らの内心の感情を、思いもかけず洞察させてくれる。
 この詩は、Zinaida Tolstoy の兄弟でAlexandra の友人のS. S. Bekhteev によって1917年10月に書かれ、Olga とTatiana に献じてTobolsk へ送られた。
 皇帝家族の文書の中から、この詩が二つ見つかった。一つはAlexandra の手に、もう一つはOlga の手にあった。
 つぎのような詩だ。
 「神よ、我々そなたの子どもに忍耐を授けよ
  この耐えるべき暗い嵐の日々に
  我々人民への迫害と
  拷問が我々に降りかかる。
  神よ、必要な我々に力を授けよ
  迫害者を許し、
  我々の重く痛ましい十字架をもち
  そしてそなたの偉大なる柔和さを得る。
  我々が掠奪され侮辱されるときに
  反乱が起きる不安な日々に
  我々はそなたキリスト救済者に助けを求める
  辛い試練に我々が耐え抜けるようにと。
  創世の神よ、創造の神よ
  祈りを通じて我々にそなたの恵みを授けよ
  我々に心の平穏を授けよ。おお主よ
  耐え難きこのおぞましい恐怖の時間に。
  そして、墓園の入口で
  我々の肉体に聖なる力を吹き込み給え
  我々そなたの子どもが強さを見出すように
  我々の敵が祈る従順さの中に。」(注48)
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 第五節、終わり。

2920/R.Pipes1990年著—第17章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第五節/「特殊任務の家」①。
 (01) 退役した軍の技術者、Nicholas Ipatev は暮らし向きのよい事業家だった。
 わずか数ヶ月前に居宅を購入し、一部は住居に、一部は事務所として使っていた。
 石造りの二階建てで、昔の様式に戻ったモスクワの大貴族が好んだ華美な形で、19世紀末に建築されていた。この家には、給湯装置や電灯のような、普通にない贅沢物が付いていた。
 彼は二階にだけ、家具をしつらえた。そこには、三台のベッド、食事室、居間、応接室、台所、浴室、洗面室があった。
 低層階は半分地下で、空いていた。
 小さな庭と若干の付着構造物があった。その一つは、皇帝家族の持ち物を保管するために使われた。
 列車がEkaterinburg とOmsk の間を往復し、作業員が、街路から家を隠し、内部からの展望を阻止するために、粗雑な塀を建設した。
 6月5日に、もう一つの高い塀が付け加えられた。
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 (02) その家は、高度に安全が確保された監獄に変わった。
 塀は、外部世界との連絡を全て遮断した。
 そして、まだ十分でないかのごとく、5月15日に、被膜の窓は、上部の狭い細片部分を除いて、白ペンキで塗られた。
 在監者たちには、限られた量の範囲内で手紙を出し、受け取ることが認められた。その文通は主として子どもたちとの間のものだったが、チェカとソヴェトの検閲を通過しなければならなかった。しかし、この文通の特権は、やがてなくなった。
 一度短い間、外部者—聖職者と家政婦—が入ることが許されたが、会話は禁止された。
 警護者たちは、在監者と話すことができないという指示を受けていた。
 しばらくの間、新聞が届けられたが、6月5日に終わった。
 食べ物は、警護者の検査を受けて、町から運ばれた。最初はソヴェトの食堂から、のちに近くの修道会から。
 在監者たちの隔離は、完璧だった。
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 (03) 2人のポーランド人以外はロシア人の75人の警護者は、現地の工場労働者から募集され、内部と外部に班分けされていた。
 彼らの給料はよく、一ヶ月で400ルーブルで、食事と衣服付きだった。
 数の少ない内部班が、Ipatev の家に住んだ。
 外部班の警護者は最初は低層階の床で寝ていたが、のちに通りの反対側の私人の住居へと移った。
 彼らは職務中は、回転銃と手榴弾をもっていた。
 二、三人が上層階に配置され、在監者を常に監視していた。
 4台の機銃砲が、家を防衛した。二階の床、テラス、一階の床、屋根裏、にあった。
 警護者は外部にも配置されて、入り口を守り、権限のない者が近づかないようにした。
 Avdeev が、全般を指揮した。
 彼は事務所を設け、上層階の応接室の一画で寝た。
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 (04) ニコライとAlexandra は、子どもたちのことで悩んだ。だが、かれらの苦悩は、5月23日の朝に3人の娘とAlexis が突然に顔を見せたときに終わった。
 彼らはTiumen までTobolsk 川の蒸気船で旅行し、そこからは列車で来た。
 娘たちは、特別の下着の中に、総計で8キログラムの貴重な石を隠していた。
 到着したとき、侍従たちが荷物について助けるのを、警護者は禁止した。
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 (05) チェカは、4人の家臣を逮捕した。ニコライの庶務将校だったIlia Tatishchev 公、皇妃の使用人だったA. A. Volkov、結婚式の名誉女性だったAnastasia Gendrikova 皇女、Court Lectrice のCatherine Schneider。
 彼らは地元の監獄へ勾引され、Tobolsk から前皇帝夫妻に同行したDolgorukii 皇子に加わった。
 一人の例外を除き、これらの者は全員が殺された。
 皇帝一族の残りの者たちのほとんどは、Perm 地方を去るように言われた。
 Alexis の個人的付添人のK. G. Nagornyi、侍従のIvan Sedenev は、Ipatev の屋敷へと移った。
 Alexis の医師のVladimir Derevenko 博士は、私人としてEkaterinburg に滞在することが許された。
 彼は週2回、Alexis を訪問した。つねにAvdeev が同行したが。
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 (06) Tobolsk の一行は大量の荷物を持ってきていた。それらは庭の物置に保管された。
 皇帝家族たちは頻繁に、警護者に随行されて、そこに物品を取りに行った。
 警護者たちは、物品の中身を勝手に扱った。
 Nagornyi とSednev が窃盗に抗議したとき、関係警護者は逮捕され(5月28日)、監獄へ送られ、4日後にチェカによって殺された。
 こうしたこそ泥行為によって、前皇帝夫妻は大いに不安になった。荷物の中には、個人的な文通文書やニコライの日記のある二つの箱が含まれていたからだ。
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 第五節②へつづく。

2919/R.Pipes1990年著—第17章⑥。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第四節/ニコライとAlexandra のEkaterinburg への移送④。
 (18) Ekaterinburg は、その日の朝早くに、皇帝家族が乗る列車が走行中だと知らされた。
 その日の遅くにAvdeev からの電報によって、Iakovlev の策略についてだけ知った。
 〔Ekaterinburg〕ソヴェト幹部会は、Iakovlev は「革命に対する裏切り者」だと宣告し、彼を「法の外」に置いた。
 この趣旨の電報が、あらゆる方向へと発せられた(注37)。
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 (19) この情報を受けて、Iakovlev の列車がKulomzino 交差点に着く前に止めようと、Omsk は、軍事部隊を派遣した。その交差点で、列車は、西に方向を変え、Omsk を回避して、Cheliabinsk へ向かうことができた。
 自分の任務を誠実に履行していないと責任追及されていることを知って、Iakovlev は、Liubinskaia 駅で列車を止めさせた。
 モスクワと連絡をとろうと、機関車を切り離して第四の客車に乗ってOmsk へと進んだ。三つの客車は護衛たちに残してきた。
 このことが起きたのは、4月28-29日の夜間だった。
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 (20) Iakovlev のSverdlov との会話の内容は、Bykov による、きわめて怪しい二次的資料によってのみ知られている。
 「(Iakovlev は)Sverdlov を電話に呼び出し、旅程を変更せざるを得なかった状況を説明した。
 モスクワからは、ロマノフ家をEkaterinburg へ連れていき、Ural 地方ソヴェトへと引き渡せ、との提議(proposition, predlozhenie)があった。」(脚注1)(注38)
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 (脚注1) 文書記録を利用したある歴史家の最近の説明によると、Iakovlev はSverdlov と会話したが、後者はEkaterinburg に連絡し、おそらくは皇帝家族の安全の「保障」を要請した。Ekaterinburg は、囚人たちについて責任をもつことが許される、という条件のもとで、この保障を与えた、と言われている。Ioffe, Sovetskaia Rossiia, No.161/9,412(1987年7月12日), p.4.
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 この叙述は、ほとんど確実に、虚偽だ。三つの理由がある。
 第一に、Iakovlev は「旅程を変更」しておらず、Sverdlov が以前の会話のあいだに指示したのと同じように動いていた。
 第二に、全ロシア[ソヴェト]中央執行委員会の有力な議長とレーニンが信任している者は、より下位の活動家に対して「提議」しようとはせず、「命令」するだろう。
 第三に、かりにSverdlov が実際に、Iakovlev に対して皇帝家族をEkaterinburg ソヴェトに引き渡すことを望んでいたとすれば、翌日の、Iakovlev と現地ボルシェヴィキの間のEkaterinburg での激論は生じなかっただろう。
 最ももっともらしい説明は—推論にすぎないけれども—、こうだ。
 Sverdlov はIakovlev に対して、Ekaterinburg のソヴェトと論争を始めることを避けるように、また彼は前皇帝を誘拐しようとしているとの疑いに終止符を打つために、Ekaterinburg を経てモスクワへと進むように、言った。
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 (21) Sverdlov と会話したあとIakovlev は、鉄道運転者に対して、方向を逆にするよう命令した。
 夜に起きたこうした全てのあいだ、ニコライとその家族は眠っていた。
 4月29日の朝に目覚めて、ニコライは、列車が西へと走っていることに気づいた。このことは、モスクワへと移送されているとの従前の考えの正しさを確認するものだった。
 Alexandra は、Ialevkovから与えられた情報に依っていそうだが、日記にこう記した。「Omsk のソヴェトは我々をOmsk に通させようとはしない。我々を日本に連れていこうとする者がいるとすると、怖いものだ。」
 ニコライは、その日にこう書いた。「みんな、とても気分が良い」。
 こうして、彼らを苦しめる者の手によって外国に送られるという予想は嬉しいものではなかったけれども、ロシアのかつての都、今のボルシェヴィズムの主要な砦へと連れていかれることは、彼らの気分を高めた。
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 (22)  彼らは、Omsk とEkaterinburg の間の850キロを、ときどき停まりながら、一昼夜をかけて進んだ。
 平穏無事だった。
 Iakovlev は、前皇妃は痛ましいほど臆病で、車両に見知らぬ人がいなくなるまで何時間も洗面室へ行くのを待ち、廊下に誰もいないことを確認するまで座席にとどまった、と思い出す(注39)。
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 (23) 4月30日午前8時40分、列車はEkaterinburg 中央駅に入った。
 そこには多数の敵意に満ちた群衆が集まっていた。Iakovlev にその責任を熟考するよう圧力をかけるべく、この地域のボルシェヴィキによって集められていたようだ。
 列車がそこにあった3時間、乗客は離れることを禁止された。そして、その間の事態は、混乱に包まれていた。
 Iakovlev は、Ekaterinburg では安全でないという理由で、ニコライとAlexandra を引き渡すのを拒んだ、と思われる。
 ニコライの日記によると、こうだ。
 「我々は駅で3時間待った。大きな紛議が、この地の人民委員と我々の間で起きていた。前者が、最後には勝った。」
 ニコライは単純に、どの駅で降ろすかに関して論争が行なわれた、と考えた。正午の直後に、二級の商業車庫地である第二Ekaterinburg 駅へと列車が移行させられたからだ。
 Alexandra はより十分に分かっていて、日記にこう書いた。「Yakovlev は、Ural 地方ソヴェトへと我々を引き渡なければならなかった」。
 Iakovlev と現地の人民委員のあいだの対立は、実際には、一行をモスクワへと行かせるかどうか、に関してだった。
 Iakovlev は、おそらくはモスクワ〔政府・党中央〕が介入した後で、論争に敗れた。
 モスクワは、Ekaterinburg のボルシェヴィキたちと敵対したくなかった。そして、いずれにせよ、ロマノフ一族の扱い方について、確固たる方針がなかった。
 いつかの将来にある前皇帝の審判まで、安全にEkaterinburg に彼らをとどめておくことは、レーニンやSverdlov にとって、決して悪い妥協ではなかった、と十分に言えるだろう。
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 (24) 第二Ekaterinburg 駅に列車が入ると、Iskovlev は、Beloborodov にとっての罪人に変わった。彼から、この案件に関する責任から解除する、という手書きの文書を受け取ったのだ(注40)。
 Iakovlev は、おそらく群衆の暴力から皇帝家族を守るために、護衛を要求した(注41)。
 モスクワへと出発する前に、彼は、Ekaterinburg ソヴェトに自分の行動について説明しなければならなった。これは満足を得たようだ(注42)。
 モスクワにいる上司の目から見て彼は間違ったことを何らしなかった、ということは、つぎのことで示されている。すなわち、彼は一ヶ月のちにSamara の赤軍部隊の長に、さらに続いて、東部(Ural)戦線の第二赤軍の司令官に、任命された(脚注2)
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 (脚注2) A. P. Nena rokov, Vostochnyi front, 1918(Moscow, 1969), p.54, p.72, p.101. その年ののちに白軍へ走ったあと、彼はチェコの諜報機関に逮捕された。中国へと逃亡し、ソヴィエト同盟に戻り、逮捕された。Solobetskii の強制収容所でいくらかを過ごした後で釈放され、NKVD(ソ連内務人民委員部)のある収容所の司令官に任命された。しばらくのちに再逮捕され、処刑された。私はこうした情報を、ソヴィエトの作家、Vladimir Kashits 氏に負うている。
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 (25) 午後3時、ニコライ、Alexandra とMaria は、Beloborodov とAvdeev に付き添われて、二台の無蓋車で、市の中心まで連れていかれた。これらには、Alexandra が「完全武装」の兵士たちで満たされたと描写した、貨物自動車が従っていた。
 Avdeev によると(注43)、Beloborodov はニコライに対して、モスクワの〔全国ソヴェト〕中央執行委員会は、ニコライとその家族を来たるべき前皇帝の審判まで拘留すると命じた、と告げた。
 車は、大きい、漆喰で塗られたIpatev の邸宅で停まった。この家は、所有者が一日前に空けていた。そして、ボルシェヴィキが今では「特殊任務の家」と呼ぶ屋敷だった。
 皇帝とその家族は、ここから生きて出ることはできないことになる。
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 第四節の全体が、終わり。

2918/R.Pipes1990年著—第17章⑤。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第四節/ニコライとAlexandra のEkaterinburg への移送③。
 (10) 一行は予定どおり出発し、<tarantassy>(四輪馬車、シベリアでは<koshevy>として知られる)で進んだ。二頭または三頭の馬が牽引する、長い、バネのない四輪車だ。
 35人の護衛たちが随行していた。
 先頭にはライフルで武装した2人の男が乗り、2個の機関砲と2人のライフル武装者が乗る車が続いた。
 その次が、ニコライと、前皇帝のそばに座ることにこだわったIakovlev を運ぶ<tarantass>だった。
 その後ろが2人のライフル武装者、Alexandra とMaria が乗る四輪馬車で、それにさらにライフル武装者が続いた。
 一行の中には、家族医師のEvgenii Botkin 博士、Court Martial のAlexander Dolgorukii 皇子と3人の侍従たちが、含まれていた。
 Alexandra はお気に入りの娘のTatiana に、息子と2人の妹たちの世話を任せてきた。
 Iakovlev は、川が氷結しなくなるとすぐに—二週間以内と予期された—、子どもたちは両親に加わることができる、と約束した。
 彼は、最終目的地を秘密にしたままだった。前皇帝夫妻は、Tiumen に連れていかれている、ということだけ知っていた。そこは、230キロ離れた、最も近い鉄道路線の結節点だった。
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 (11) Tiumen への道路は酷い状態だった。冬の後で轍がいっぱいで、部分的には汚泥がぬかるんでいた。
 Tobolsk を出立してから4時間後、Irtysh 川の浅瀬を渡った。馬は、氷のような水に嵌まりつつ苦労して進んだ。
 半分くらい進んだIevlenko で、彼らはTobol 川の中に入った。川の水が氷となって浮かんでいて、木の厚板に乗って歩いた。
 Tiumen の直前で、Tura 川を横切った。一部は脚で、一部は小船で。
 Iakovlev は、途上ずっと馬の中継を管理していた。交替しての中継の回数は、最小限に抑えられた。
 ある地点でBotkin 博士が気分が悪くなり、回復してもらうために彼らは2時間、小休止した。
 第一日の夕方、出立後16時間、Bochalino に到着した。そこで、夜を過ごすための調整が行なわれた。
 Alexandra は、休憩する前に、こう書き留めた。
 「Marie は四輪馬車に。ニコライは人民委員Yakoblev と一緒に。
 寒く、暗く、風が強い。馬を替えたあと8時にIrtish 川を渡り、12時にある集落に着いて、冷たい提供物と一緒に茶を飲んだ。
 道路は完璧に酷かった。凍った地面、泥、雪、馬の胃に入る水。恐ろしく揺れて、身体じゅうが痛い。
 4回めの馬の取替えの後で、車体にあるポールがなくなった。それで、別の車によじ登って乗り込まなければならなかった。
 5回めの馬替え…。
 8時にYeblenko に着いた。以前は村の店だった家で夜を過ごした。
 一つの部屋で3人で寝た。我々はベッドで、Marie は床の上のマットレスで。…
 Tiumen からどこへ行くのか、誰も言わない。モスクワだと想像している者もいる。
 川が通れあの子が元気なら、すぐに子どもたちは我々と同行することになっている。」(30)
 Iakovlev は途中で、Alexandra に子どもたちに手紙を投函することや電報を打つことを許した。
 停まったある所で、農民が近づいてきて、ニコライはどこに連れていかれるのかと尋ねた。
 モスクワだと答えられたとき、その農民は、「王に栄光あれ。…モスクワへ。今やここロシアにもう一度秩序が生まれる」と反応した(注31)。
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 (12) 一行に随行する護衛たちは、Iakovlev が丁重に前皇帝と接しているために、ますます彼への疑念を募らせた。
 彼らは、なぜニコライが上機嫌であるのかを理解できず、Iakovlev は東部シベリアへ、あるいは日本にすらへとニコライを神隠ししようとしているのでないかと、不思議に思い始めた。
 彼らは、途中に配置されていた巡視者を通じて、Ekaterinburg に対する懸念を伝えた。
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 (13) 4月27日午前4時、事件もなく一晩が過ぎて—予期された待ち伏せ攻撃は実行されなかった—、旅が再開した。
 一行は正午に、Pokrovskoe で停まった。
 シベリアに数千とある中のこの村は、Rasputin の故郷だった。
 Alexandra は、こう記した。「旧友の家の前で長くとどまった。窓から外を見ている彼の家族や友人を見た」。
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 (14) Iakovlev によれば、ニコライは運動と新鮮な空気で元気になっているように見えたが、Alexandra は「寡黙で、誰にも話しかけず、誇り高く、接近し難いように振る舞った」(注32)。だが、二人とも、彼にはきわめて印象的だった。
 彼はのちに、ある報道記者にこう語った。「この人たちの謙虚さに感心した。何も不平を言わなかった。」(注33)
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 (15) 混乱している証拠資料から決定できるかぎりでだが、Iakovlev は、できるだけ早くEkaterinburg に着き、そこを早く後にして、モスクワへ向かうことを意図していた。
 しかし、彼は、Ekaterinburg を通って安全に彼の責任を履行できるかについて、いっそう不安になった。
 つぎのことを知ったならば、さらにいっそう警戒しただろう。彼の一行が後半の歩みを始めていた頃、Ekaterinburg ソヴェトからの人民委員が技師のNicholas Ipatev の家にやって来て、Ipatev の家はソヴェトの必要のために収用される、48時間以内に退去せよ、と伝えた(注34)。その家は、Voznesenskii 大通りとVoz-nesen 通りの角にあった。
 Ekaterinburg は、ロマノフ一族について、自分たちの案をもっていた。
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 (16) Iakovlev の一行は、4月27日午後9時に、Tiumen に着いた。
 そこでただちに、騎兵部隊に囲まれた。騎兵部隊は鉄道駅まで随行した。駅には、一台の機関車と四台の乗客車が待っていた。
 Iakovlev は、皇帝家族、職員たち、持ち物の移動を監視した。
 そのときにNemtsov が現われ、ロマノフ家関係者が眠りに就いているとき、二人の人民委員は電信局へ向かった。
 Hughes 装置を使って、Iakovlev はSverdlov に対して、現地のボルシェヴィキの意図に関する懸念を伝え、皇帝家族をUfa 地方の安全な場所に移動させることの許可を求めた。
 5時間の会話の末、Sverdlov はこの提案を拒否した。
 しかしながら、Sverdlov は、Iakovlev が直接にではなくEkaterinburg を通って移動することには同意した。但し、Tobolsk へ同じその月に彼が通ったのと同じ遠回りの—つまり、Omsk、Chelia binsk 、Samara を通る—行路によってだった。
 Iakovlev は、彼の計画を隠すために、駅長に対して、列車をEkaterinburg の方向へ向かわせ、次の駅で新しい機関車を付け、方向を転換させて、全速力でTiumen を通過してOmsk の方向へ走らせるよう、指令した(注35)。
 4月28日、日曜日の午前4時半、皇帝家族を乗せた列車はEkaterinburg へと向かい、そして方向を転換させた。
 Iakovlev は、説明として、Zaslavskii の同僚のAvdeev に対して、Ekaterinburg は列車を突然に攻撃するつもりだ、との情報を得ている、と伝えた(注36)。
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 (17) 朝に目覚めたとき、ニコライは、列車が東に向かって走っていることに、驚きをもって気づいた。
 彼は、日記にこう書いて不思議がった。「Omsk の後で、どこへ連れていくつもりなのか? モスクワへ、それともVladivostok へ?」(脚注)
 Iakovlev は、言おうとしなかった。
 Maria は護衛たちとの会話を始めたが、彼女の美しさと魅力をもってしても、彼らから何かを引き出すことができなかった。
 彼らもまた、知らなかったのだろう。
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 (脚注) 1918年のニコライの日記は、以下。KA, No.1/26(1928), p.110-p.137.
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 第四節④へとつづく。

2917/R.Pipes1990年著—第17章④。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第四節/ニコライとAlexandra のEkaterinburg への移送②。
 (06) Iakovlev の命令は、前皇帝夫妻に、とくにAlexandra に、激しい動揺をもたらした。
 Iakovlev によると、Alexandra は叫び出した。「残酷すぎる。そんなことをするとは信じない。…!」(注24)
 彼はニコライをどこに連れていくかを言おうとしなかった。そして、のちに、白軍の新聞に、知らなかった、と主張した。
 もちろんこれは、本当ではない。そしておそらく、彼が白軍へと移ったあとの時期には彼には好ましい、彼は本当は白軍が支配する地域にニコライを移すつもりだったと、との風聞に信憑性を与えることを意図していた(脚注)
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 (脚注) Iakovlev は、1918年10月に白軍へと走り、新聞紙のUral’skaia zhi’zn のインタビューを受けた。これは君主主義雑誌のRL, No.1(1921), p.150-3 に再録されている。
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 (07) Iakovlev が去ったあと、ニコライ、Alexandra、Kobylinskii は状況について議論した。
 ニコライは、ブレスト条約に署名するためにモスクワに連れて行かれるという点で、Kobylinskii に同意した。
 かりにそうであれば、使命は無駄だった。「そんなことをするくらいなら、首を刎ねてもらう」(注25)。
 ニコライがボルシェヴィキはブレスト条約を正規のものにするために自分の署名を必要としていると信じることができた、ということは、彼の退位後にロシアで起きたことについて、自分が重要でなくなっていることについて、ほとんど何も知っていなかったことを示している。
 それがIakovlev の任務の目的だとやはり信じたAlexandra は、夫の不動の地位についてははるかに確信がなかった。彼女は夫が退位したことを決して許しておらず、あの運命の日に自分がPskov にいたなら、きっと彼の行動を止めようとしただろうと思っていた。
 彼女は、ニコライには、主に家族に対する威嚇でもって、モスクワで不名誉な条約に署名するよう耐え難い圧力が加えられるだろう、自分が彼の側に立たなければニコライは崩壊してしまうだろう、と懸念した。
 Kobylinskii は、Alexandra が親しい知人のIlia Tatishchev にこう言うのをたまたま聞いた。「ニコライが独りなら、彼は愚かなことをするだろう、と思って怖い」(注26)。
 彼女は取り乱しており、病気の我が子への愛情とロシアへの務めだと感じているもののあいだで切り裂かれていた。
 そして最後には、長年にわたり養い国を裏切っていると責められてきた女性は、ロシアを選んだ。
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 (08) 子どもたちのスイス人家庭教師のPeter Gilliard は、Alexandra に午後4時に会ったのだが、つぎのように叙述した。
 「皇妃は、…Iakovlev は皇帝を移送するためにモスクワから派遣された、彼は今晩に出発する予定だ、と確認した。
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 『人民委員は、皇帝には危害は加えられない、誰かが同行したいのなら反対はしない、と言う。
 皇帝を独りで行かせることはできない。
 前もそうだったように、彼らは彼を家族から引き離したいのだ。…』
 『彼らは、彼の家族のことを心配させて、強引に行かそうとしている。…
 彼らには皇帝が必要だ。彼だけがロシアを代表している、と感じている。
 我々は一緒に、彼らに抵抗する良い立場にいるべきだ。私は審判のときに、彼の傍にいるべきだ。…』
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 『しかし、子どもは病気だ。…
 面倒なことになっていると想像してほしい。…
 ああ、神よ。何という恐ろしい拷問か。…
 人生で初めて、自分がすべきことが分からない。決定しなればならないときはいつでも、啓示を感じてきた。今は、考えられない。…
 しかし、神は皇帝の出発をお許しにならないだろう。そうできないし、そうあってはならないはずだ。きっと今晩に、雪解けが始まるだろう。…』
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 Tatiana Nikolaevna がここで割って入った。
 『でも、お母さん、我々が何と言ってもお父さんは行かなければならないなら、何かを決める必要がある。…』
 私はTatiana を弁護し、Alexis は良くなっている、我々は彼の世話をきちんとすべきだ、と言った。
 皇妃は不決断に明らかに苦しんでいて、部屋の中を行きつ戻りつした。そして、自分にではなく、我々に対して語りかけていた。
 最後に私に近づいて来て、こう言った。
 『よし。これが最善だ。私は皇帝と一緒に行く。Alexis は貴方に委ねよう。』
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 すぐのちに、皇帝が入ってきた。皇妃は彼に向かって歩き、こう言った。
 『決めた。私は貴方と一緒に行く。Marie もそうする。』
 皇帝は答えた。『望むなら、大変けっこうだ』。…
 家族全員が、午後いっぱいを、Alexis のベッドの周りで過ごした。
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 この日の午後10時半に、我々は茶を飲みに上がった。
 皇妃は、二人の娘とともにソファに座っていた。
 彼らの顔は、泣いたことでふくらんでいた。
 我々はみんな、悲しみを隠し、外面上の静穏さを維持すべく最善の努力をした。
 誰か一人が離れれば全員が壊れる原因になる、とみんなが感じていた。
 皇帝夫妻は、静かで、落ち着いていた。
 神が深遠な知恵でもって国の福祉のために要求するならば、いかなる犠牲をも、生命ですらも覚悟している、ということが明らかだ。
 彼らは、優しさや気遣いを示さなかった。
 この素晴らしい静穏さ、この素晴らしい忠誠さは、伝わりやすい。
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 午後11時半、侍従たちが大広間に集まった。
 皇帝夫妻とMarie は、別れを告げた。
 皇帝は全男性と、皇妃は全女性と、抱擁した。
 ほとんど全員に、涙があった。
 皇帝、皇妃が去った。我々は私の部屋へと降りた。
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 午前3時半、乗り物が中庭に入ってきた。
 恐ろしい、<長い四輪馬車>(ratantass)だった。一台にだけ、覆いがあった。
 裏庭に小さな麦わらがあるのに気づいた。それを四輪車の床に撒いた。
 皇妃が使う車の中に、マットレスを入れた。
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 午前4時、上がって皇帝と皇妃に会いに行き、Alexis の部屋を出たばかりだと気づいた。
 皇帝夫妻とMarie は、我々に別れを告げた。
 皇妃と大公爵夫人〔Elizabeta Fedorovna—試訳者〕は、涙で濡れていた。
 皇帝は平静そうで、我々への勇気づけの言葉を述べた。そして、我々を抱擁した。
 さよならと言った皇妃は、上がってAlexis の側にいるよう私に頼んだ。
 私が少年の部屋へ行くと、彼はベッドで泣いていた。
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 数分後、車輪が動くのが聞こえた。
 大公爵夫人は彼らの部屋へ戻る途中でその弟の部屋を通った。私は彼らがむせび泣くのを聞いた。」(注27)
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 (09) Iakovlev は、ひどく急いでいた。
 雪解けが始まったその瞬間に、道路は通れなくなる。
 彼はまた、待ち伏せの危険も知っていた。
 彼の受けた命令は、前皇帝の生命を守り、安全にモスクワまで移送することだった。
 しかし、その使命について多くのことを準備して、Ekaterinburg のボルシェヴィキは異なる計画をもっている、と確信した。
 まさにこの時期に行なわれたUral 地方のボルシェヴィキの大会は、前皇帝の逃亡と君主制復活を阻止するために、ニコライのすみやかな処刑に賛成する票決をしていた(注28)。
 Iakovlev には、Tobolsk のボルシェヴィキ人民委員の一人の Zaslavskii は彼が到着した日にEkaterinburg に来ていた、という情報があった。
 Zaslavskii は、ニコライを捕え、必要があれば殺害するという意図をもって、Ievlenko に待ち伏せ部隊を設置した、との風聞があった。そこはTiumen の鉄道交差点につながる道路がTobol 川を渡る箇所だった(注29)。
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 第四節③へとつづく。

2916/桑原聡・元月刊正論編集代表(産経新聞社)①。

  桑原聡は、かつて月刊正論(産経新聞社)の編集代表だった。2010年12月号〜2013年11月号。
 この人物の「出身学部」を知りたいものだ、とこの欄に書いたことがあった。2018年7月8日付(No.1825)。
 「特に文系」の大学・学部のひどさに主として言及したときのことで、「桑原聡を含む月刊正論の代々の編集代表者…」の「出身学部」を知りたい、という文脈で桑原の名前を出した。
 おそらく桑原聡が産経新聞社を退職し、しかし同社を諸活動(講演等?)の事務所代わりに使うようになって以降ではないだろうか。産経新聞関係のネット上に桑原聡の経歴も記載されるようになり、「早稲田大学(第一)文学部」卒業ということが分かった。遅くとも2023年には、知った。
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 この人も「早稲田大学(第一)文学部」出身というのは、なかなかに感慨深いことだった。
 というのは、西尾幹二逝去に伴なう月刊正論の追悼特集(2025年1月号)に、湯原法史・元筑摩書店と力石幸一・現徳間書店のいずれも編集者の対談が掲載されているのだが、この二人ともに「早稲田大学文学部卒」だったからだ。
 月刊正論上のこの両名の写真は大きくて、出身学部が同じであることも目立つ(しかも出生年まで同じ1951年だ)。
 わずか数名でもって判断してはいけないだろうが、桑原聡も含めて、「早稲田大学文学部」出身者が出版関係者に少なくないことは確かだろうと推察される。松岡正剛も早稲田大学文学部出身だから、概括的で単純な予断をもっているわけではない(但し、松岡は「編集工学」を謳っても既存の出版社類の編集者でなかった)。
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  桑原聡が編集代表時代の月刊正論の論調の特徴の一つは、<反橋下徹>だった。なお、橋下徹は早稲田大学政経学部卒。
 桑原聡自身が編集代表執筆欄(「操舵室から」)の中で、「編集長個人の見解だが、橋下徹はきわめて危険な政治家だと思う」と明記した。
 これは、月刊正論2012年12月号の巻末。
 この号の巻頭で、橋下徹批判を展開したのは、適菜収だった。
 秋月の知る限りで、これは適菜収の雑誌デビュー論考だったのではないか。冒頭の一文は、「橋下徹大阪市長は、文明社会の敵だと思う」。
 そして、桑原聡が「早稲田大学文学部」出身者だとのちに知って、「適菜収」を冒頭で起用した背景の(ひょっとすれば重要な?)一つが判ったような気がした。
 適菜収もまた、「早稲田大学文学部」出身者であるからだ。
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 出身大学や学部によって人物の評価・判断を変える、というのは秋月瑛二が最も嫌悪することの一つなので、推奨するわけでも、当然視するわけでもない。
 だが、当時の桑原聡の心理において、適菜収が同じ大学の同じ学部出身(の後輩)だということは、ある程度は大きな意味をもったのではないか。適菜収が例えば「慶應大学文学部」卒だったとすれば、桑原聡は月刊雑誌の冒頭論考の執筆者として採用しただろうか。
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 出身大学(・学部)意識は、日本社会において根強いようにも思える。
 主張者・発言者の出身大学(・学部)によって評価、さらには賛否まで決めるような風潮(極論的には「学閥」意識)は、簡単な記述に馴染まないが、おそらくは「戦前」と同様に、日本の国家と社会を奇妙な方向に向かわせる有力な一因になるのではないかと、憂いている。
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  適菜収に関する論評を繰り返さない。近年はずっと、この人の文章を読んでいない。ニーチェ「研究」者のなれの果ての一人だろう。月刊正論に登場した「保守」派だと思いきや、「右」・「左」の分からない、むしろ「上」・「下」の「下」の文章執筆者(もの書き)だろう。
 そのような適菜収を雑誌デビューさせたのは、まさに桑原聡だったように思われる。大学・学部の先輩・後輩の関係だ。
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 この適菜収について、「産経新聞愛読者倶楽部」というサイトが、2012年4月7日付で、批判文を掲載していた。かつて引用したことがある。
 →2012年4月10日(No.1101)。 
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  桑原聡について、かつて一時期、この欄に批判的な文章を数多く投稿していた。
 少なくとも15回は書いている。つぎに、一覧表がある。
 →2013/11/15(No.1226)「桑原聡編集長等に対する批判的コメント一覧」
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 つづく。

2915/R.Pipes1990年著—第17章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第四節/ニコライとAlexandra のEkaterinburg への移送①。
 (01) 1918年4月22日、モスクワからの密使、Vasilii Vasilevich Iakovlev が、Tobolsk に姿を現した。
 長いあいだ神秘的な人物で、イギリスの諜報員と疑われもしたが、彼は最近に、本当の名前はKonstantin Miachin という。古くからのボルシェヴィキだと特定された。
 1886年にOrenburg の近くで生まれ、1905年に社会民主党に加入し、多数のボルシェヴィキによる強奪(「収用」)に参加した。
 1911年に偽名(Iakovlev)で出国して、ベルギーで電気技師として働いた。
 二月革命のあとでロシアに戻った。
 1917年十月、〔ペテログラード〕軍事革命委員会の一員で、第二回全国ソヴェト大会の代議員になった。
 1917年12月、チェカの役員に任命された。
 立憲会議の解散にも、関与した(注18)。
 要するに、彼は、試練済みの、信頼されるボルシェヴィキだった。
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 (02) Iakovlev-Miachin は、その使命の最終的な目的について、口を噤んだ。共産党の文献資料も、寡黙でありつづけた。
 しかし、彼の任務は、ニコライと、もし実行可能ならば、彼の家族を、前皇帝が審判を受けるべきモスクワへと送り込むことだった、と確実に言うことができる。
 このことは、状況上の証拠資料から確定することができる。すなわち、常識はこう指し示している。政府は、モスクワからほとんど2000キロ離れたTobolsk へ、そこから近くのEkaterinburg までだけ皇帝家族に随行させるために、密使を派遣しはしなかっただろう。とくに、Ekaterinburg のボルシェヴィキは、皇帝家族を監禁状態に置くことに熱心だったのだから。
 だが、この趣旨の直接的な証拠資料もある。これは、Tiumen 出身の政治委員でPerm Guberniia の中央執行委員会の議長だったN. Nemtsov によって与えられた。
 Nemtsov は、4月にIakovlev の訪問を受けた、彼は42人の「モスクワ派遣員」と一緒に現れた、として、こう詳述する。
 「[Iaklevは]私に、ニコライ・ロマノフのTobolsk からの『退去』とモスクワへの移送についての命令書を提示した。
 命令書には、人民委員会議議長、Vladimir Ilich Lenin の署名があった。」(脚注1)
 ロマノフ一族に関する情報全てに対するきわめて厳しい検閲を何とか免れたこの証言は、Iakovlev はロマノフ家族をEkaterinburg へ移送せよとの命令を受けていたのか、それとも誘拐して安全圏に送り込む白軍の工作員だったのか、等の憶測に終止符を打った。
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 (脚注1) Krasnaia niva, No.27(1928), p.17. Avdeev, KN, No.5(1928), p.190 は、Iakovlev がレーニンからの命令書を携帯したことを確認している。Koganitskii によると(PR, No.4, 1922, p.13)、Iakovlev はニコライをモスクワに移送せよとの命令を受けており、このことは、疑念をもった現地ボルシェヴィキがモスクワと連絡して正しいものと確認した。
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 (03) Tobolsk への途中で、Iakolev はUfa で止まって、Goloshchehko と逢った。
 Iakovlev は命令書を示し、追加の人数を求めた。
 そこから、直接にEkaterinburg を通ってではなく、Chelyabinsk やOmsk を迂回して、Tobolsk へと向かった(注19)。
 彼がそうしたのは、ニコライを確保したがっているEkaterinburg が自分に成功させる責任がある使命を挫折させる、という怖れがあったからだったように見える。
 実際に、彼がTobolsk へ向かっているあいだに、Ekaterinburg は、前皇帝を「生きているか死んでいるか」はともかく持ち帰るための一隊の兵士を派遣して、彼に先行しようとしていた。
 Iakovlev は、この派遣隊にほとんど追いつき、二日後にTobolsk に着いた(注20)。
 彼には150人の騎兵でなる警護団があった。そのうち60人は、Goloshchekin から提供されていた。
 この一団は、機銃砲で武装していた。
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 (04) Iakovlev は、2日間をTobolsk で過ごし、情勢を知った。
 地方連隊と会い、未払いの給与を払って、気に入られた。
 知事の居宅内の状況も、知った。
 Alexis が重病であることを、知った。
 1912年の秋以降は血友病の症状を示さなかった皇帝の子息は、4月12日に自ら打ち傷を作り、それ以来ベッドを出られなくなっていた。
 彼はひどく痛み、両脚は膨らんで、麻痺した。
 Iakovlev は二度、前皇帝の居宅を訪問し、子息はモスクワまでの危険な旅行に耐えられる状態にはない、と確信した。
 (「聡明で、きわめて神経質な職人で技師」というのが、彼についてのAlexandra の印象だった。)
 四月は、Ural 地方を旅行するには最悪の時季だった。その頃までに雪が解けて橇や荷車の動きを邪魔し、かつ海運のために川を自由に利用できるわけでもないからだ。
 4月24日、Iakovlev は、モスクワと電話で連絡を取った。彼は、ニコライだけを移送し、当分は家族は残しておくように、指示された(注21)(脚注2)
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 (脚注2) 安全確保のため、Iakovlev とクレムリンとの間の連絡は、前皇帝とその家族を「商品」と言及して行なわれた。モスクワの官僚はIakovlev に、「荷物の主要部分だけ運ぶ」ように伝えた。Iakovlev, Ural, No.7(1988), p.160.
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 (05) このときまで、Iakolev は皇帝家族に対して丁寧で、ほとんど慇懃ですらあったので、随行の兵士やTobolsk 連隊には疑念が巻き起こっていた。
 ボルシェヴィキが「血のニコライ」と握手をするまでにへり下るのは、きわめて疑わしい、と彼らは感じた(注22)。
 新しい指示を受けたあとでもIakolev は礼儀正しくしていたが、官僚に変わった。
 彼は4月25日の朝に、知事の居宅の指揮者であるKobylinskii に対して、前皇帝を移送させなければならない、と言った。どこへかを言おうとしなかったけれども、行先はモスクワだと口を滑らしたようだ。
 彼は「聞き手」に、その日の午後2時に予定されている、と要請した。
 知事の居宅に着いて、彼はニコライがAlexandra、Kobylinskii と一緒にいるのに気づいて困惑した。
 彼は立ち去るよう求めたが、Alexandra は、そのままとどまるのに同意されているかのように振る舞った。
 ニコライに対して、こう言った。翌日早くに一緒に出立せよと、中央執行委員会から指令を受けている、と。
 彼の受けた命令は最初は家族全員とともにニコライを召喚することだったが、Alexis の病状を考慮して、ニコライだけを移送するのが新しい指令になっていた。
 Iakovlev の知らせに対するニコライの反応については、二つの種類の記録がある。
 翌月にIzvestiia が掲載したIakovlev へのインタビュー記事によると、ニコライはたんにこう尋ねた。「どこへ連れて行くのか?」。
 しかし、Kobylinskii はこう思い出す。ニコライは、彼らしくない言い方なのだが、「私はどこへも行かない」と言った。
 Kobylinnskii によると、Iakovlev は、さらにこう反応した。
 「そうしないで下さい。私は命令を実行しなければならない。
 貴方が拒めば、実力を行使するか、それとも任務遂行を諦めるかのどちらかをしなければならない。
 その場合には、より人間的でないことをする誰かと私は交替させられるでしょう。
 安心して下さい。貴方の生活を気遣います。
 独りで旅行するのが嫌なら、誰でも好みの者を連れていって構いません。
 明日の朝4時、我々は出発します。」(注23)
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 第四節②へつづく。

2914/私の音楽ライブラリー059。

 1969年の楽曲。

 130→時には母のない子のように/カルメン・マキ
  作詞・寺山修司、作曲・田中未知 〔Sho Fukamachi〕

 131→何故に二人はここに/Kとブルンネン
  作詞・山上路夫、作曲・鈴木邦彦 〔。おいちゃん〕

 132→涙の季節/ピンキーとキラーズ
  作詞・岩谷時子、作曲・いずみたく 〔四季守〕

 133→ときめき/布施明
  作詞・山上路夫、作曲・村井邦彦 〔Ka Fu〕
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2913/R.Pipes1990年著—第17章②。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第三節/Ekaterinburgのボルシェヴィキは監禁を望む。
 (01) Tobolsk には鉄道路線がつながっていなかったので、革命の騒乱にただちには巻き込まれなかった。この時期には「革命」は主として、鉄道を使って移動する武装した者たちによって拡散されたのだ。
 このことは、つぎの説明になる。すなわち、1918年2月まで、Tobolsk には共産党の細胞がなく、そのソヴェトはエスエルとメンシェヴィキの支配下にあった。
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 (02) Tobolsk の隔離状態は、近くのEkaterinburg とOmsk のボルシェヴィキが皇帝家族の居宅に関心を示したときに、終わった。
 Ekaterinburg は2月に、Ural 地方のソヴェト大会を開催し、ボルシェヴィキが支配する、5名で成る幹部会を選出した。
 その議長の26歳のAlexander Beloborodov は、その職業は錠前屋または電気技師だったのだが、かつて立憲会議へのボルシェヴィキ代議員だった(脚注1)
 しかし、幹部会で最も影響力をもったのは、Sverdlov と友人関係があったために、Ural 地方の軍事人民委員のIsai Goloshchekin だった。
 1876年にユダヤ人家庭にVitebsk で生まれ、1903年にレーニンに参加し、1912年に中央委員会の委員になった。
 Goloshchekin はまた、Ekaterinburg のチェカの一員としても務めた。
 この人物とBeloborodov は、皇帝家族の運命に対して重大な役割を果たすことになった。
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 (脚注1) この人物について、Granat, XLI, Pt. p.1, p.26-29 を見よ。反ユダヤ主義君主制主義者たちは、皇帝家族の殺害を非難しようと決意していて、Beloborodov の本当の名前は「Weissbart」だと決定した。これにはいかなる根拠もないけれども。
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 (03) 1918年の春と夏のEkaterinburg の政治状況に関して我々が知っていることは、ほとんどただ一つの共産党文献から来ている。Ekaterinburg の悲劇に関する最も初期の共産党の見方を提示してもいる、P. M. Bykov の文書だ。
 Ekaterinburg のボルシェヴィキは、前皇帝がTobolsk で享受している快適さに立腹し、前皇帝とその周囲の者たちに認められた自由の程度を警戒した。
 彼らは、春の雪解けの到来とともに皇帝家族は逃亡するのではないかと、怖れた(注11)。
 その当時、あらゆる種類の疑わしい者たちがTobolsk やその周りに集まっている、という根強い風聞が広まっていた(脚注2)。
 Ekaterinburg の共産党員たちの中には、皇帝の警察に迫害されたための素直な感情をもって、ニコライ二世—血のニコライ—を憎悪する過激な者もいた。
 しかし、多くの共産党員たちは、君主制の復活を怖れていた。何らかの抽象的な政治的考慮からというより、自分たちの生命についての恐怖からだった。
 彼らは、Robespierre がLouis 16世に対して国民公会が死刑判決を下すよう申立てた—「もし国王が有罪でないならば、彼から王冠を奪った者たちはどうなるのだ」(注12)—ように、判断した。
 彼らは、ロマノフ家が一刻も早く迅速に退去することを望んだ。そして、前提皇帝が逃亡しないことを確実にするために、Ekaterinburg で彼らの統制下に置こうとした。
 このために、1918年の3月-4月に、Sverdlov と接触した。
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 (04) Omsk も同様の考えだったが、モスクワとの連絡関係がなく、最後には敗れた。
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 (05) Ekaterinburg にあるUral 地方ソヴェトは、1918年2月に早くも皇帝家族について討議したが、そのときに川の氷が解ける5月までに逃亡するか誘拐されるだろう、という怖れを表明する者もいた。
 3月初め、Ekaterinburg のボルシェヴィキは、Sverdlov の許可を得て、皇帝家族を移動させることを要請した(注13)。
 同様の要請は、Omsk からもあった。
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 (06) 全ての可能性を排除すべく、Ekaterinburg は3月16日に、Tobolsk へ、そこの状況を探索する秘密使節団を派遣した。
 使節団が戻って報告書を提出したあと、Ekaterinburg はTobolsk へ、皇帝家族を移送するための基礎作業を行なう武装部隊を派遣した。
 また、想定される逃亡経路に、巡視兵を配置した。
 この武装部隊が3月28日にTobolsk に着くと、同じ目的でOmsk が派遣した武装共産党員の一グループが先にいることに気づいた。
 2日前に到着したOmsk グループは、市議会(Duma)を解散させ、現地のソヴェトからエスエルとメンシェヴィキを追放していた。
 両グループは、どちらに権限があるかを論争した。
 弱かったEkaterinburg 派遣隊は、撤退せざるを得なかった。しかし、4月13日にボルシェヴィキのS. S. Zaslavskii が率いる増強部隊とともに戻ってきて、権限を掌握した。
  Zaslavskii は、皇帝家族を監禁するよう要求した(注14)。
 このために。監獄内に小部屋が用意された(注15)。
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 (07) こうした出来事によって、それまで皇帝家族が享受していた静穏さは破られた。
 Alexandra は、彼女の日記の3月28日/4月10日に、子どもたちの助けを借りて、宝飾品を衣服に「縫い合わせた」と記した(脚注2)
 皇帝家族は逃亡する計画を立てていた、と明らかにする証拠資料はない。また、支持者がこのために案出した謀略的構想なるものも、根拠がないことが判った。しかし、追放されるのではなく幽閉されるのだという重苦しい感覚が、皇帝家族の居宅に充満した。
 どんなに微かで非現実的なものであれ、ボルシェヴィキから逃れる全ての可能性が、今や消失した(注16)。
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 (脚注2) 特異な英語で書かれた前皇妃の日記の全体は、公刊されていない。アメリカの報道記者のIsaac Don Levine は、日記の写真と範囲が広い抜粋を、つぎで公表した。Chicago Daily News, 1920年 6月22-26日,28日。Eyewitness to History(New York, 1963)。
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 (08) 3月末、Goloshchekin は、モスクワへと向かった。
 彼はSverdlov にTobolsk の状況を報告し、皇帝家族が逃亡するのを阻止する緊急の措置が必要だと警告した。
 ほとんど同時期に—4月第一週に—、モスクワのソヴェト中央執行委員会の幹部会も、地方警備の代表者からTobolsk の状況に関する報告を聞いた。
 5月9日にSverdlov が中央執行委員会に行なった説明によると、地方に関するこの情報によって、政府は前皇帝をEkaterinburg へと移送するのを是認するよう説得された。
 しかしながら、この説明は、政府の意図に反して展開した事態を事後的に正当化する試みだった。
 なぜなら、〔中央執行部委員会〕幹部会は4月1日に、「可能ならば」ロマノフ家をモスクワに移動させると決定したことが、知られている(注17)。
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 第三節、終わり。

2912/聴覚・音・楽譜について。

  この欄ですでに書いたことがあるように、人間が(耳・鼓膜を通じて)聴くことができる音の範囲(可聴領域)は、20Hz〜20,000(=20k)Hzだと、たいてい記述されている。
 ここでHz は、音の周波数(他に電波等)の単位で、1Hz とは1秒間に1回振動すること(=1周波数)を意味する。
 したがって、20Hzとは1秒間あたり20周波数、20kHzとは20,000周波数を意味する。このHz の数、周波数が大きくなればなるほど、「音」は「高く」なる(大きさ・強さとは別)。
 上記のとおり、どの人間にも全く聴こえないとされる高さ・低さの音もある(20kHz以超、20Hz未満)。生物としてのヒト・人間の限界だろう。
 健康診断での「聴力検査」は左右の耳についてかつ高低二音について行なわれるが、その高低二音は、1,000Hzと4,000Hz(1kHzと4kHz)であるらしい。この範囲(1,000Hz〜4,000Hz)を聴くことができれば、日常生活にほぼ支障はない、ということではないかと思われる。
 この範囲は、上記の20Hz〜20,000Hzと比べると、かなり範囲が狭い。
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  88腱(白鍵の他に黒鍵を含む)のピアノは、腱ごとに叩いて出す音の高さが国際的に決められているようで、その周波数は、最も左の腱は27.5Hz、最も右の腱は4186.009Hzであるらしい。
 最も左の腱による音の高さ(低さ)を「A0」と称しており、その音から右へ12音ごとに1オクターブずつ高くなっていく。
 12番め(最初を含めると13個め)は55.000Hz(A1)、24番め(25個め)は110.000Hz(A2)、36番め(37個め)は220.000Hz(A3)、48番め(49個め)は440.000Hz(A4)、60番め(61個め)は880.000Hz(A5)、72番め(73個め)は1,760Hz(A6)、84番め(85個め)は3,520Hz(A7)になる。
 周波数が2倍になるごとにちょうど1オクターブずつ高くなっていくことは、これまでに何度も触れている。
 まだ87番め(88個め=最右端)まであり、この最右端の腱の高さが上記の4186.009Hzで、「C8」になる。
 27.5Hz〜4186Hz余という範囲も、上記の20Hz〜20.000Hと比べて狭く、だいぶ小さい方に偏っている。また、最低音部もそうだが、カタカタとだけ鳴る最高音部がピアノで弾かれることは、ほとんどなさそうに見える。
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 以上のうち演奏上重要な基準となる音は、中央やや左のA3=220Hzか、中央やや右のA4=440Hzだろう。
 この440Hzは、音の高さ・音程を調整する場合の基本音として使われているようだ。とくに、ピアノを含む、その他の諸楽器との合奏との場合には。
 但し、国際的取決めと言っても、ピアノ一台による単独の演奏の場合には、各音の高さの「関係」は重要だが、中央やや右の「A」を440Hzに厳格に設定することにこだわる必要はない。「調律」の際にやや高い442Hzに設定することも多い、とか言われる所以だ。電子機器による音楽・楽曲の作成等の増加に伴い、「440Hz」が支配化しつつあるともされるけれども。
 A0〜A7というように「A」という符号が使われるのは、それらがいわゆる「イ短調」の基音だからに違いない。例えば、A=「ラ」と仮定すると、A3からA4へと、「白鍵」はラシドレミファソラシドと上がって行く。
 なぜ「C」(=ド)ではなく「A」に区切りのよい数字のHz数が与えられたかは、私には不明だ。もっとも、「A」も音楽上重要ではあることは間違いないだろう。
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  混声合唱曲において男声部と女性部それぞれの楽譜が作られているだろう。その場合、それぞれの楽譜に「A」や「C」等々の音が記載されているとしても、「同じ」高さの音ではない、と考えられる。
 男声と女声とでは、1オクターブ程度の高さの違いがあると思われるからだ。
 そうだとすると、同じ「下のA」に楽譜上は記載されていても、男声の場合は110Hz(A2)、女声の場合は220Hz(A3)の音なのではないだろうか。「上のA」は、それぞれ220Hz(A3)と440Hz(A4)ではないか。
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 楽譜上一定の音として指定されていても、楽器によっては、「下のA」とか「上のA」とかの音が国際的指定どおりに発せられない、演奏されない、ということがある。
 比較的によく知られているのは、理由・経緯を私は知らないが、ブラスバンド(吹奏楽団)だろう。多くの楽器の場合(トランペット、トロンボーン等)、「B♭」で書かれている。
 「B♭」で書かれている、というのは、楽譜上は「C」と記載される音であっても、その楽器を演奏すれば実際には、あるいは「正確には」、「B♭」の音が発せられる、ということをいう。「C」に限らず、全ての音が「C」→「B♭」のように一音ずつ下げられるので、演奏全体に支障はない。
 ブラスバンドの楽器にはホルンのように「E♭」で書かれる楽譜を利用するものもあり、「F」で書かれる楽器もある、と聞いたことがある。
 このように、「楽譜」が示す音というのはかなり便宜的で、融通性があり、相対的なものだ。
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  「楽譜」と言えば、ト音記号のものであれ、へ音記号のものであれ、「五線譜」と言って、左右に五つの線が平行に書かれて、その上または中間に「音符」が記載されるものが、いわば「定番」だ。
 なぜ1オクターブはドレミは7音(8音)で、なぜ全てで12音(13音)なのかと疑問に感じる者である私は、やはり疑問に思う。
 なぜ「楽譜」は「五線譜」なのか
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 この「五線譜」には、じつは奇妙なところがある。
 よく目にするト音記号の楽譜を想定する(へ音記号のものもそうだが)。
 イ短調かハ長調でなければ、♯または♭が用いられる。楽譜内とだけいうよりも、楽譜の冒頭の左上にも記載されて、「調」を指定する働きをする。
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 ドレミ…はイタリア語でCDE…と同じ意味らしいから全く不正確で、厳密には誤りかもしれないが、「絶対音」を表記する場合に「CDE…」を、「相対音」を表記する場合に「ドレミ…」を用いることにしよう。
 上の後者は、各々の音楽・楽曲の「調」の違いごとに揺れ動く相対的音階の一部を表記するものだ。私は「絶対音感」が全くないが、「調」ごとの(相対的)音階はほんの少しは理解できるので、上の区別は重要だ。
 「絶対」音とは別に、各「調」での基音や途中での(相対音としての)例えば「ミ」が分かったりすると、簡単な曲だと、「相対音階」(ドレミ化された旋律)をほぼ理解できることがある。
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 さて、「五線譜」で不思議なのは、ハ長調・イ短調だと、E♯、B♯およびF♭、C♭という音が、五線譜の一番下の線および中央の三番めの線の上で表記されないことだ。また、これら以外の「調」の場合は、「ミ♯」、「ファ♭」、「シ♯」、「ド♭」を線上または線間に表記することができない(又はしない)ということだ。
 その他の音(音符)の場合は、♯と♭のいずれも付かない場合といずれかの一つが付く場合の二つがある。「楽譜」から見ると、楽譜の線上や線間が二つの役割を果たすことが予定されている。
 しかし、上に挙げた場合は、そうではない。
 これは不公平・不平等?ではないだろうか。ともかくも、音(音符)によって扱いが異なっていることは、明確だと考えられる。
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 このようになった背景には、やはり<ピタゴラス音律>以来の、音楽にかかわった人間の歴史がある、と考えられる。私が試みた「ドレミ…7音(8音)の作り方」でも、(ドレミの7-8音に限ると)E-F、B-Cの間が「間差」が最も小さくなる。
 また、音律設定の歴史を継承している<十二平均律>において、E-F、B-Cだけが「半音」になる。
 このような歴史を色濃く反映しているのが、現在に圧倒的支配的な「五線譜」という楽譜だろう。決して、自然の、あるいは必然的に生じたものではない、と思われる。
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 上の点はさて措き、1オクターブ12音(13音)を前提としつつ、「歴史から」全く自由に楽譜の構成方法を探ると、どういうものが考えられるだろうか。
 それは、<六線譜>にすることだ。
 1オクターブに12音(最後を含めて13音)あるのだから、「6線」があると、♯や♭を全く用いることなく、「6線」の線上か線間または線に沿って、全ての音(音符)を指定することができる。
 例えば、一番下の線(第一線)の下に線に沿って「C」の音符を書くと、第一線上はCとDの中間音になり、第一線と第二線の間が「D」になる。こうして上に進むと、第六線の上に線に沿って「上のC」を指定することができる。
 「6線」あれば足りる、と言えないだろうか。
 五線譜の楽譜で冒頭の左上に♯または♭を何個か記すことで、楽譜の途中に♯や♭をいちいち記載するのを省略することはできる。だが、いちいちそれを見たり、思い出したりしなくとも、<六線譜>ならば差し支えないだろう。
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 以上はかなりの「お遊び」だ。
 現在の「五線譜」だと、補助線を下に二つ、上に一つ引けば、何と2オクターブを表現することができる。上に提案?した<六線譜>だと、1オクターブ以上を表記するのはなかなか困難だ(補助線が多くなりすぎる)。
 また、楽曲によって「基音」が同じではないので、あるいは「調」が異なり得るので、そうした「変化」にどう対応するかという問題もある。
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 だがしかし、現在の「五線譜」も決して自然に、または不可避的に誕生したのではなく、<ピタゴラス音律>を含む種々の「音律」の設定の試みに並行して「歴史的に」生まれたものであることに、留意しておきたい。
 音・旋律・楽曲を「紙」・「文書」の上で再現する、表現するのは、決して簡単なことではない。
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2911/R.Pipes1990年著—第17章①。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳。
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 第一節/ロシアの国王殺しの独特さ。
 (01) 1918年7月16-17日の夜、およそ午前2時半、ウラル地方のEkaterinburg で、チェカの一隊が、前皇帝のニコライ二世、妻、子息と4人の娘たち、家族の医師、3人の召使いを、地下室で、殺害した。
 これに関する多くのことが、確実さをもって知られている。
 しかしながら、この悲劇へと至った歩みは、莫大な文献があるにもかかわらず曖昧で、適切な全ての文書資料が公にされるまで、研究者たちに残されたままだろう(脚注)
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 (脚注) Kolchak 提督が犯罪の調査のために任命した特別委員会の長のNicholas A. Sokolov に関する、基礎的な文書は残っている。Ubiistvo tsarskoi sent’i(Paris, 1925)(仏語と独語でのみ利用できる).
 二次文書のうち最良なのはつぎだ。Paul Bulygin, The Murder of the Romanovs(London, 1935); S. P. Melgunov, Sud’ba Imperatova Nikolai a II posle otrecheniia(Paris, 1957).
 その他のロマノフ一族の運命について、主要な資料はつぎだ。Serge Smirnov, Autour de l’Assassiant des Grands-Ducs(Paris, 1928).
 P. M. Bykov のボルシェヴィキ文書の最初の版・‘Poslednie dni poslednego tsar ia’ in Rabochaia revoliutiia na Urale(N. L. Nikolaev, ed.)(Ekaterinburg, 1921), p.3-p.26 は役立つ。
 Harvard Uni. のHoughton 図書館に預託されたSokolov 委員会の関係資料一式は、不可欠だ。
 学術上の選集には、Nicholas Ross により編集されたつぎがある。Gibel’
tsarskoi sem’i (Frankfurt, 1987).
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 (02) 二人のヨーロッパの君主が、革命的激変の結果として生命を失なった。1649年にCharles 1世、1793年にLouis 16世。
 だが、ロシア革命に関する多くがそうであるように、皇帝家族の殺害に関する表面的なことはよく知られているが、多くのその他のことには独特なところがある。
 Charles 1世は、公式に責任を提示し、彼に防御の機会を与えた、特別の司法裁判所によって尋問を受けた。
 審理は公開で行なわれ、その記録は審理が進行中でも公にされた。処刑も公衆の目の前で行なわれた。
 同じことは、Louis 16世についても言えた。
 彼は国民公会の面前で審判され、法律家が王を弁護する長い審理の後の過半数以上の票決によって、死刑に処せられた。
 審理の記録も、公刊された。
 パリの中央部で昼間に、処刑は実行された。
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 (03) ニコライ二世は、訴追もされず、裁判にかけられもしなかった。
 彼に死を宣告したソヴィエト政府は、関係する文書記録を一度も公刊しなかった。事件に関して知られている事実は、主として、一人の熱心な調査者の努力の結果だ。
 ロシアの場合は、犠牲者は退位した君主だけではなく、妻、子どもたち、補佐者たちもそうだった。
 真夜中に実施された殺害行為は、正規の処刑以上に、ギャングが実行する虐殺のごときものだった。
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 第二節/ボルシェヴィキ支配の最初の一ヶ月の前皇帝と家族。
 (01) ボルシェヴィキが権力を奪取しても最初は、Tobolsk で生活する前皇帝、その家族と補佐者たちに大きな変化はなかった。そこに追放したのは、臨時政府のケレンスキーだった。
 1917-18年の冬、知事の居宅とその別館での生活は以前と同様に送られていた。
 一族は、散歩、近くの教会での宗教活動への出席、新聞の受け取り、友人との文通が許された。
 1918年2月、政府からの補助金が削減され、受け取る額は一ヶ月に600ルーブルへと減った。だがそれでも、彼らはなお相当に快適に生活していた。
 より切迫した問題を多数抱えていたボルシェヴィキは、全員が公的案件から離れていたロマノフ一家について、考えを及ぼすことがほとんどなかった。
 彼らは1917年11月初めに前皇帝の扱いを議論したけれども、何も決定しなかった。
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 (02) ブレスト=リトフスク条約の締結と結びついて、状況が変わり始めた。
 条約はボルシェヴィキ体制に対して、激しい憎悪をもたらした。
 この雰囲気の中では、皇位復活の企てを排除することができなかった。ボルシェヴィキがドイツ人将校のあいだにある親君主主義感情に気づいたので、なおさらそうだった。
 混乱を避けるために、ロマノフ家を舞台から引き下ろす用意がなされた。
 3月9日、レーニンは、ロシアの王位と噂された相続人であるMichail大公を追放する布令を発した。
 Michael は、1917年3月にニコライから提示された王位を拒否して以来、政治には何の関心も示さなかった。
 彼は、ペテログラード近くのGatchina にある所有地で、静かに暮らしていた。政治を避け、公衆の目から離れるようにしながら(注02)。
 政治的出来事に関係しなかったことは、王位を断ったあとで驚くペテログラード・ソヴェトの役人たちの前に姿を現し、自分の土地で猟をする許可を求めた、ということからも理解できるかもしれない(03)。
 1917年の夏、彼はイギリス大使館に英国へのヴィザの発給を求めた。しかし、「閣下の政府は、皇帝家族の一員が戦争中に英国へ行くのを望んでいない」との説明とともに却下された(脚注1) (注04)。
 1917年の末、彼はレーニンに、自分の貴族名を妻のBrasoba 伯爵夫人のものに変えたいと申し出た。だが、返答はなかった(注05)。
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 (脚注1) Michail の友人のO. Poutianine がつぎのように主張するのは、ゆえに、不正確だ。Michail は、ロシアの民衆は自分を害さないだろうと信じて、イギリスへの政治的亡命を希望しなかった、と。Revue des Deux Mondes, XVIII(1923年11月15日), p.297-8.
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 (03) Michail は、今は拘禁されていた。最初はSmolnyi で、のちにはチェカ本部で。
 3月12日、レーニンと政府の残余がモスクワに出発したあとで、彼は、Tobolsk から遠くないPerm へと、警護付きで送られた。
 ボルシェヴィキは、ドイツ軍がペテログラードを占領して皇帝家族を捕まえるのを怖れて、この無防備の地域から移すことに決めたのだ。
 3月16日、ペテログラード・チェカの長のUritskii は、ペテログラードとその近傍にいる一族全員に、登録するよう命じた(06)。
 その月ののち、彼は、これら全員をPerm、Vologda、Viatka の各州のいずれか好きな所に追放する、と命令した。
 いずれかに到着すれば、彼らは、その地方のソヴェトに報告し、住居に関する許可を受けなければならなかった(注07)。
 のちに判ったように、在監中の者やボルシェヴィキ支配の外部での生活者を除く全てのロマノフ家一族は、Perm で死んだ。
 この地域にはペテログラードとモスクワに次いでボルシェヴィキ党員が集中していたので、信頼して皇帝一族に厳しい目を向けさせ続けることができた。
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 (04) これらは、予防的措置だった。ボルシェヴィキ指導層は、前皇帝とその親戚をどう扱うかについて、まだ決めていなかった。
 レーニンは1911年に、「少なくとも100人のロマノフたちの首を刎ねるのが必要だ」と書いていた(8)。
 しかし、このような大量殺戮は危険だっただろう。村落には、強い君主主義心情があったからだ。
 一つの可能性は、ニコライを革命審判所で審理させることだった。
 司法人民委員として当時に知り得る立場にあったIsaac Steinberg は、こう書く。君主制の復活を阻止するために、1918年2月にそのような審判が考慮された、と。—復活すれば、一般に歓迎された退位から一年後に、不人気のニコライが、ボルシェヴィキを煩わせる訴えをロシア人にするのを暗黙に承認することになる。
 Steinberg によると、中央執行委員会の会議で、Spiridonova は、Tobolsk からの経由地でニコライはリンチに遭うだろうという理由で、審判に反対した。
 レーニンは、前皇帝に対する法的手続を進めるのはまだ早すぎる、と決定した。但し、審判のための資料を集めておくように命じた(脚注2)。
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 (脚注2) Steinberg, Spiridonova, Revolutionary Terrorist(London, 1935), p.195. 1918年1月12日/25日に、Vechernii Chas は、Steinberg へのインタビュー記事を掲載した。そこで彼は、審判が行なわれることについて自信を表明した。「知られているように、前皇帝は立憲会議で裁かれることが提起されていた。しかし今では、彼の運命は人民委員会議で決定されるように思われる」。これは、人民委員会議が1918年1月29日にニコライ二世を裁判所に引き渡す決定を採択して以降、確認されてきた。G. Ioffe, Sovetskaia Rossiia, No. 161/9,412(1987年7月12日), p. 4.
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 (05) 4月半ば、ロシアの新聞は、「ニコライ・ロマノフ」の審理が始まりそうだ、との報告記事を掲載した。
 これは、最高調査委員会の長としてKrylenko が準備していた、旧体制の重要人物に対する一連の審判の最初だろう、と言われた。
 前皇帝は、国制上の支配者として—つまり1905年10月17日以降に—冒した「犯罪」についてのみ訴追されるだろう。
 それらの諸「犯罪」の中に、選挙法を恣意的に変更して基礎的諸法律を侵犯した、いわゆる1907年6月3日のクーデタが含まれるだろう。予算の「予備」部分を用いた国費の不適切な支出その他の、権力濫用(注09)。
 しかし、4月22日、プレスは、ニコライが審理されることをKrylenko は否定した、と伝えた。
 Krylenko によると、風聞は誤解にもとづいている。政府が本当に意図したのは、ロマノフの名前を使って、諜報徴発者を裁判にかけることだった。
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 第二節、終わり。第三節へつづく。

2910/人間の「感覚」と<哲学者>。

   「五感」というのは視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の五つを言うらしい。だが、最後の「触覚」には、圧せられるという感覚、気温の高低の感覚、揺れ動くという感覚等も入るらしいので、これはかなり広い。
 だが、ともあれこうした「感覚」(sense)でもって、ヒト・人間は「外界」を認識する、あるいは感知、知覚する(know, perceive, cognize, recognize 等)。
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  話題は飛ぶが、私は(適当に名を出せば)カント、ヘーゲル等々の「哲学」というものを信頼できない、そしてまともに読んでみる気になれない。なぜなら、「客体」と「主体」、「客観」と「主観」、「外界」と「自己」という場合、当然に人間の「認識」活動を前提とするはずなのだが(きっと)、「客体」・「外界」を認識・知覚・感知する「主体」の<感覚(器)>としていったい何を想定しているかが、よく分からないからだ。
 「文字」または文章というものをヒト・人間が生み出して、文字・文章を「読解」する、あるいは「認識」するという作業を行なうようになった。この場合、文字・文章に対する「視覚」が(通常は)必要だが、読解し理解するためには、ヒト・人間の「脳」神経の活動が必要だ(と思われる)。
 過去の著名な?「哲学者」たちは、人間の「精神」活動をあるいは脳神経・脳細胞(ニューロン)について、あるいはもっと手前で「言葉」・「言語」というものの働きについて、いかほど知って、あるいはいかほど考察して、いたのだろうか。
 さらに、ヒト・人間そのものについて(も)語るなら、生まれて死ぬ存在のことをどう考えていたのだろう。そして、例えば<遺伝>と<生育環境>の違いについてどう考えていたのだろう。
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 正確な記憶ではないが、あるテレビ番組で山中慎弥が人間はまだ「細胞」に関して10パーセントも分かっていない、という旨を言っていた。そのとおりだろう、と思われる(「DNAの90%は謎」とかも関係する)。
 さらに「細胞」の一種である「神経細胞」についても(とくにその「脳内」活動について)、じつはほとんど何も分かっていないのではなかろうか。
 「脳科学」というのは、ようやく端緒についた、というのが正確ではないか。
 そして、再述になるが、(一人につき)800-1000億個のニューロンの複雑怪奇な結合・離反が生み出すはずの(きっと)、「思想」(idea, thought)とはそもそも何かも、かつての著名な?哲学者たちは何も知らなかったのではないだろうか。
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  西田幾多郎『善の研究』(1911年)
  第一編の第一章の冒頭から引用する。但し、ひらかな化したりなど私なりに「現代語」化している。ほとんどに、改行も加えている。
 「経験というのは、事実そのままに知るの意味である。
 全く自己の細工を棄てて、事実に従って知るのである。
 純粋というのは、ふつうに経験と言っている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。
 例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるかという判断すら加わらない前をいうのである。
 それで、純粋経験は直接経験と同一である。
 自己の意識状態を真下に経験したとき、未だ主もなく客もない、知識とその対象が全く合一している。これが、経験の最醇なるものである。」
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  これだけで区切るのが乱暴なことは分かっているが、すでに看過できない点がある。
 「主と客」、「外物」と「自己の意識」あるいは「対象と知識」が対比されているようであることは、この「哲学者」についても見られるようで興味深い。
 「純粋経験」という語が出てくるが、カントもまた、「純粋認識」・「純粋判断」そして「純粋理性」等を語っているらしい。もっとも、カントの一著(1780年代)の冒頭をこれまた一瞥だけしたのだが、西田のいう「純粋」と(似ていても)同じではないだろう。
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 さて、上だけで立ち止まるのは、「色を見る、音を聞く」という感覚に言及があり、これが「考え」・「判断」等が生じる前に発生する(し得る)、ということをしきりと言っているように見えるからだ。どうやらこれが、「純粋経験」らしい。
 しかし、端的に書いてしまおう。
 第一に、そんな現象がヒト・人間に生じ得ることは、<当たり前>のことではないか。音を快く感じ、光景を「美しく」感じることは、空腹感を抱いたとき等と同じく、「考え」や「判断」あるいは(別次元になるが)「言葉」を必要としないで、いくらでもあり得る。近づく自動車を感じて、咄嗟に「回避」するという動きもそうかもしれない。
 なお、西田が人間に全ての「認識」(の少なくとも基礎)にこの「純粋経験」があると言いたいのだとすると、「認識」や「純粋経験」の意味の問題にもなってしまうが、疑問だ。
 第二に、いったいどのような人間の、どのような感覚(とくに聴覚と視覚)が想定されているのだろうか。つまり、全てのヒト・人間が西田と同じとは限らないのだ。
 極論めくかもしれないが、多くの人々がもつ視覚や聴覚を持たない人々もいる。後者の人々にとって、「見えない」、「聞こえない」人々にとって、「純粋経験」とはいったい何のことか
 視覚についても、いわゆる「色盲」の人は外界を(そうでない人々とは)異なって見ているはずだ。聴覚についても高音部または低音部だけは聞こえ難い、という人々もいるはずだ。
 さらに、いわゆるAIあるいは人工ロボットはどの程度を標準としているのだろうと思っているのだが、視覚能力(視力)には裸眼で0.001〜2.0まである。全員が「同じ」ものを見ているのではない。モニター画像の精度にも(省略するが)いろいろある(テレビの「4k」はどの程度普及したのだろう)。
 同様のことは聴覚能力(聴力)についても言える。音楽を聴く場合に「ハイレゾ」(あるいはこれ相当のApple-Lossless)でないと嫌だ、それ以外は「雑音」と感じる、という人もきっとごく一部にはいるだろう。
 もともとは、音再生機・聴覚機器の機能によって、「何が聞こえているか」の程度も、異なるのだ。1秒間あたりの音波の振動数等の「切り取り」の方法・程度は、耳によって、そして種々の機器によって(いずれを人間が用いているかによって)同じではないのだ。
 そうだとすると、「純粋経験」との語で表象されるものは、いったい何か。
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 というようなことに思い至ると、「純粋経験」の意味、この言葉や概念の存在意義はさっぱり分からなくなる。
 <認識>を問題とする「哲学者」の文献をまともに読むことができない、という旨を上(今回の初めの方)で書いたのは、こういった理由でだ。
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2909/R.Pipes1990年著—第16章⑯。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第七節/軍事行動作戦の評価。
 (01) 村落に対するボルシェヴィキの軍事行動作戦の結果を査定するならば、村落が勝者だったと宣しなければならないだろう。
 ボルシェヴィキは若干の政治的目標を達成したが、農民層を分裂させること、農民から意味ある量の穀物を奪いとることのいずれにも、失敗した。
 政治的成果ですら、すぐに消えた。赤軍部隊が1919年に白軍の脅威に備えて召喚されたとき、村落は再び元の状態に戻ったからだ。
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 (02) 食料の調達も、体制側をほとんど満足させなかった。
 共産党側の文献は、実力による手段で獲得した食料の量に関して、珍しく口が重い。だが、それらが提示する証拠資料によると、きわめて少なかった。
 1918年の収穫期(8月半ばから11月初めまで)のあいだ、赤軍に助けられた食料派遣隊と貧民委員会は、12の州から、穀物の余剰3500万pud あるいは57万トンを調達した、と言われている(脚注1)
 1918年の収穫は30億pud あるいは4900万トンだったので(注123)、努力と残忍さの全てをもってしても—機関砲を撃つ兵団、戦闘、首を吊っての死刑判決付きの人質—、収穫のわずか100分の1しか得られなかったことになる。
 当局は、田園地帯を襲撃する政策の失敗を認めた。1919年1月に、現物課税(prodovol’stvennaia razverstka あるいはprodrazverstka)を導入したときには。この現物税導入によって、余剰分全ての没収は、農民が引き渡すべき量を明記する厳格な規範に変更された。
 この量は、生産者の配送能力とは無関係に、国家の需要に応じて決められた。
 政府は配送を確保するために、地区と下部地区に割当て量を課し、ついで負担分を村落や農村共同体に配分する、中国・モンゴル制度に変更した。
 後者は、すでに帝制時代にそうだったように、義務に応じる集団責任制(krugovaia poruka)で拘束されていた。
 少なくとも何らかの順序を導入するこの制度は、もともとは穀物と飼料に適用されたが、のちには事実上全ての食料を含むよう拡張された。
 引き渡すよう強いられた物品について、農民は金銭を受け取ったが、それでは何も買えなかった。レーニンは1920年に、訪れているBertrand Russel に対して、くすり笑いをしながら、政府がいかにしてmuzhik に穀物の対価として無価値の紙幣を受け取らせているかを叙述した(脚注2)(注124)。
 だが、こうしたことがあっても、レーニンは、穀物の自由取引を認めるよりも全員を餓死させると言ったことがあったものの、ほとんど2年後の1921年春には、確固たる現実に屈服し、非を認めて、穀物独占を放棄しなければならなかった。
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 (脚注1) LS, XVIII, p.158n. しかし、レーニン(PSS, XXXVII, p.419)は、体制は6700pud を獲得した、と主張した。
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 (脚注2) Bertrand Russell, Unpopular Essays(New York, 1950), p.73-p.111.「私が[レーニンに]農業の社会主義について質問したとき、彼はほくそ笑みつつ、いかにして貧農を富農に対して煽動したかを説明した。『そして、彼らはすぐに最も近くの樹木に首を吊らせた。—ハ、ハ、ハ』。虐殺された者たちを考えての彼の高笑いは、私の血を冷たくさせた。」
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 (03) ボルシェヴィキ体制はまた、村落で階級戦争を巻き起こすこともできなかった。
 少数派の「富裕な」農民と同じく少数派の「貧困な」農民は「中層」農民の広い海に溺れ、三層の農民は仲間で殺し合う戦争をするのを拒んだ。
 ある歴史家の言葉によれば、「クラクは村落の側に立ち、村落はクラクの側に立った」(注125)。
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 (04) 二ヶ月のうちに、ボルシェヴィキは誤りに気づいた。
 レーニンとTsiurupa は、1918年8月17日に、中層農民を説得し、彼らを貧農と一緒に富農に対抗して統合させる積極的努力を命じる特別の指令を発した(注126)。
 レーニンはその後に繰り返して、体制は中層農民の敵ではない、と主張した(注127)。
 しかし、このような言葉だけの譲歩は、ほとんど意味がなかった。中層農民は食料をもっており、したがってボルシェヴィキの食料奪取政策の主要な犠牲者だったのだから。
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 (05) 農民たちは、ボルシェヴィキの農業政策によって、完全に混乱させられた。
 彼らは、「革命」とは国家に対する全ての義務から自分たちを解放する、voia あるいはアナーキーを意味すると理解していた。
 農民たちがこう言うのが聞かれた。「彼らは、全ての土地を引き渡すと約束した。税金を徴収するとは、軍隊に徴兵するとは言わなかった。そして今は何を…?」(注128)。
 実際に、共産主義国家に対する農民の義務は、帝制時代よりもはるかに苛酷だった。すなわち、共産党員研究者たちの計算によると少なくとも二倍重かった。義務には税だけではなく、強制労働、および木材を伐採して運搬するなどの、きわめて負担になるその他の義務があったのだから(注129)。
 農民たちが称した<sutsilism>は都市の煽動者たちが彼らに課そうとしたものだったが、この語彙は農民たちにはさっぱり分からなかった。そして、彼らはつねに、外国語を馴染みのある言語に再翻訳して、類似の環境のもとでそれを行なうように反応した。
 農民たちは与えられたものを疑い始めたが、それでも保持するつもりでいた。自分たちは必要不可欠であり、そのゆえに、侵され得ない者たちなのだ。
 そのうちに、「常識」が彼らに告げた。余剰の穀物を自由市場で処分することができないかぎり、余剰を生産しても何の利益にもならない、と。
 この意識こそが、食料生産が着実に減りつづけ、1921年に飢饉が発生する大きな原因になることになる。
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 (06) ボルシェヴィキは、村落に彼らが指揮するソヴェトの網の目を持ち込むことで最後には村落に浸透した、という功績を主張することができた。
 しかし、これは、ある程度は幻想だった。
 1920年代初めに行なわれた研究は、村落は共産党のソヴェトを無視したことを明らかにした。
 その頃までに、権威は、家族の長によって運営される村落共同体の組織へと移っていた。まるで村落には革命はなかったかのごとくに。
 村落ソヴェトは、それらの決定への同意を共同体から獲得しなければならなかった。それらには自分たちの予算すらなかった。
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 (07) こうした事実に照らして見ると、村落に対する軍事行動作戦は完全な成功であるばかりか、歴史的重要性において十月のクーを凌駕する、とレーニンが主張したのは、驚くべきことだ。
 彼は1918年12月に、「以前の革命では社会主義を目指す作業に対する大きな障害だった」問題を、この一年間で解決した、と豪語した。
 こうも言った。ボルシェヴィキは革命の初期の段階で、地主に対する貧農、中農、富農の闘いに加わった。
 これらの同盟は、村落「ブルジョアジー」を無傷なままに残した。
 この状況が永続するのを認めれば、革命は中途で止まり、後退するのは必至だろう。
 このような危険は、「プロレタリアート」が貧農を覚醒させ、貧農とともに村落ブルジョアジーを攻撃することによって、回避される。
 かくして、ロシア革命は、西側のブルジョア民主主義革命を超えて進化し、都市と村落のプロレタリアートの合同の基盤を生み出し、ロシアに集団農業を導入する基礎を築いた。
 レーニンは、つぎのように勝ち誇った。
 「こうしたことが革命の意義だ。そして、今年の夏と秋に村落ロシアの人里離れた箇所のほとんどで起きたことだ。
 このことは、昨年の十月革命ほどには騒がれず、明瞭には語れれず、誰もの注目を受けているのではない。しかし、比較できないほど大きい、深い重要性がある。」(注131)
 これはもちろん、狂気じみた誇張だった。
 レーニンが誇った村落のボルシェヴィキ化は、ようやく10年後に、スターリンによって達成されることになる。
 しかし、その他の多くの面でそうであるように、スターリンの路線は、レーニンによってあらかじめすでに、概略が描かれていた。
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 第七節、終わり。第16章全体も終わり。つぎの章は皇帝家族の殺害
 

2908/R.Pipes1990年著—第16章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第六節/“貧民委員会”②。
 (09) ボルシェヴィキは、怯むことなく、軍事作戦行動を進めた。
 数千人のボルシェヴィキ党員とボルシェヴィキ同調者が、煽動し、組織し、そして村落ソヴェトの抵抗を抑えるために、田園地帯に送られた。
 この手段がどのように機能したかを、つぎの出来事が示している。
 「1918年7月26日に開催された、 volost’ および村落ソヴェトのSaransk 地区大会の議事概要から。
 決定された。貧民委員会の機能は、volost’ および村落ソヴェトに委ねられるものとする。
 票決後に、Kaplev 同志(副議長)は、共産党・ボルシェヴィキ地方委員会の名で大会に対して、大会出席者の明らかに多数派は、誤解によって中央の権威に反対する票決を行なった、と伝えた。
 この理由で、この問題に関する布令と指示を基礎にして、党は地方組織に、代表者たちを派遣するだろう。この代表者たちは民衆に対して、貧民委員会の意義を説明し、(政府の)布令に適合してこれを組織するに至るだろう。」(注110)
 このようなやり方で、党官僚たちは、貧民委員会の設立を拒否する農民の投票を無効化した。
 このような強引な方法を用いて、ボルシェヴィキは1918年12月までに、12万3000のkombedy(貧民委員会)を組織した。この数は、2村落ごとに1つを僅かに上回っていた(注111)。
 これらの組織が現実に機能したか、あるいはそもそも存在したのか、を語るのは不可能だ。ある者は、多くの場合は紙の上でのみ存在した、と疑っている。
 多くの場合、貧民委員会の議長は、党員であるか、自らを「同調者」だと称する者だった(注112)。
 後者は、外部者、主として都市部の<apparatchiki>の言いなりに行動した。この頃には、共産党の中に農民はほとんどいなかったからだ。中央ロシアの12州についての統計調査は、村落地域には共産党員が1585人しかいなかったことを、示している(注113)。
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 (10) ボルシェヴィキは、貧民委員会を過渡的な制度だと見ていた。それをソヴェトへと改変させるのが、レーニンの意図だった。
 1918年11月に、彼はこう宣告した。
 「貧民委員会をソヴェトと融合させる。我々は、貧民委員会がソヴェトになるように、準備するだろう。」(注114)
 ジノヴィエフはその翌日に、この問題に関してソヴェト大会に向けて書き送った。
 彼は、こう述べた。村落のソヴェトを都市のソヴェトに似ているものに、すなわち「社会主義の建設」の機関になるように再形成するのが、貧民委員会の任務だ。
 このためには、中央執行委員会が決定する規則にもとづく、国土全般にわたる村落ソヴェトの「再選挙」が必要だった(注115)。
 この規則は、12月2日に発表された。
 そこでは、村落ソヴェトは「社会主義革命」が田園地帯に到達する前に選出されているがゆえに、「クラク」によって支配され続けている、と述べられた。
 今や必要になったのは、村落ソヴェトを都市ソヴェトと「完全に調和する」ようにさせることだった。
 村落およびvolost’ レベルでの全国土的再選挙は、貧民委員会の監督のもとで行なうこととされていた。
 新しい村落ソヴェトが適切な「階級的」性格をもつのを確保するため、州の都市ソヴェトの執行部は、選挙を監督し、必要な場合には、望ましくない者を排除することになる(脚注1)
 クラクおよびその他の投機者や搾取者は、選挙権がないものとされた。
 国家の全ての権力はソヴェトに帰属するとの1918年憲法の条項を無視して、布令は、新たに選出された村落ソヴェトの「主要な任務」は「ソヴェトの権威のうちの対応する上級機関の全ての決定を実現すること」にある、と明言した。「ソヴェトの権威」とはすなわち、中央政府のことだ。
 村落ソヴェト自体の権威—帝制ロシア時代の<zemstva>のそれをモデルにした—は、各々の地域の「文化的、経済的水準」を高めることに限定されるとされた。統計資料を収集する、地方の工業を推進する、政府が穀物を獲得するのを助ける、といった手段によって。
 言い換えると、村落ソヴェトは、第一に官僚による決定の連絡者に、第二に民衆の生活条件の改善に責任をもつ機関に、改変されることになった。
 こうした使命が達成されるとすぐに、貧民委員会は解体されるともされた(脚注2)
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 (脚注1) これは、帝制時代の知事に付与された権限に似ている。この権限によって、「信頼性」という帝制の規準を満たすことのできない、選挙されたzemstvo の役人を排除することができた。
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 (脚注2) E. H. Carr(The Bolshevik Revolution, II, London, 1952, p.159)がこう述べるのは、したがって、誤りだ。貧民委員会は最初から過渡的な組織として意図されていたのだから、解散命令は貧民委員会の失敗を証明した、と。
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 (11) 1918-19年に実施されたvolost’ と村落のソヴェトの再選挙は、以前にボルシェヴィキが都市部で形成したやり方を、ほとんど踏襲していた(注117)。
 全ての執行部の職は、共産党員、「同調者」、「非党員」(partyless)に予め割当てられていた。
 農民が自分たちの候補者を頑なに選出し、さらに再選出したので、政府は望んだ結果が得られるように、方法を修正した。
 ほとんどの地域で、投票は公開で行われ(注118)、脅迫的な効果をもった。指示されたとおりに投票しない農民は、「クラク」との烙印を捺される危険があったからだ。
 共産党以外の政党は、参画が許されなかった。これは、「ソヴェトの権威の基盤に立つ」政党や党派だけが候補者を擁立することができる、と定める条項によって保障されていた。
 1918年憲法はソヴェトの選挙に参加できる政党については何も言及していない、との異議は、すげなく却下された(注119)。
 多くの地域で、共産党の細胞は、立候補した者全員の承認を強く主張した。
 こうした事前の警戒にもかかわらず、「クラク」その他の望ましくない者が、依然として執行的職を獲得することがあった。これはしばしば起きたと思われるのだが、そのような場合、共産党は、選挙を無効と宣言し、再選挙を命じる、という彼らが好んだ技巧に頼った。
 これは、望ましい結果が得られるまで、必要な回数だけ行なわれることがあった。
 あるソヴィエトの歴史家は、三回または四回あるいはそれ以上の「選挙」が連続して行なわれることは異例でなかった、と述べている(注120)。
 それでもなお、農民たちは「クラク」を選出しつづけた。「クラク」、すなわち非ボルシェヴィキや反ボルシェヴィキ。
 かくして、Samara 州では1919年に、新しいvolost’ ソヴェト構成員の40パーセントを下回らない数の者が「クラク」であことがあった(注121)。
 共産党はこのような不服従を終わらせるために、1919年12月27日、ペテログラード地域の党組織に対して、「承認された」候補者たちの単一名簿に村落ソヴェトを服従させることを指示する命令を発した(注122)。
 やがて他の地域へも拡大されたこの方法が実施されることによって、自治機関としての村落ソヴェトは終焉を迎えた。
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 第六節、終わり。

2907/法(法学)という「ものの考え方」004—「法」と「現実」①。

 この表題でもともと書こうと思っていたことの一つを書く。
 覚書のようなもので、特段の思い入れはない。
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  「法」というものに関する概説書に初めて接したとき、そこに書かれていたのは、現在でもたいていそうだと思うが、「法」は「規範」の一つであり、かつ「法」を含む「規範」と「現実」とは峻別されなければならない、ということだった。
 まだドイツ語を知らない頃のことだが、前者はsollen の世界、後者はsein の世界、というようなことも書かれていた。
 以下、かなりの程度、「法」規範と「現実」または「事実」の区別、というふうに単純化する。
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  この区別は「法学」分野に限らない、人間の諸活動全般にとって必要な区別で、半ば以上に<常識的>なことだろう。
 人間の精神活動の一環として種々の「〜しなければならない、〜すべきだ」という<意識>が生じることがあるが、そう<意識>したからと言って、その内容が「現実」になる、「現実」だ、とは言えない。
 「規範」という語の厳密な意味に関係するので概念設定に関する議論の余地はあるが、「現実」ではないものとして他に、「計画」、「構想」、「目標」といったものがある。これらが「現実」と区別されるべきものであることは論じるまでもないだろう。個人でも団体でも、私企業でも公共的団体でも、「計画」、「構想」、「目標」等はそれらの「現実」化を目指して策定・設定されるが、むろん「現実」そのものではない。
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   上の区別をふと思い出す、あるいは「意識」することがある。それは、典型的に言ってしまえば例えば西尾幹二等の「文芸評論家」的著述者の文章について、これは「現実」に関する自分の「認識」を書いているのか、「現実」とは関係ない自分の「見方」・「見解」あるいは「主張」・「願望」を書いているのか、判別し難いときだ。
 日本に「言霊」という言葉がある。それは、「言葉」によって何かを表明すれば、それは「現実」になる、あるいは「現実」そのものに変わる、という意識ないし考え方だろう。
 むろん明確に表明されているわけではないが、極論すれば、強く、熱狂的に「主張」すれば、それは<正しい>「認識」を示していることになる、といった「ものの考え方」にある程度は嵌まってている、または嵌まることがある、そういう人々がいるのではなかろうか。
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  種々の「学問」分野あるいは「精神活動」の分野がある。上に言葉だけ出した「文芸評論」において、あるいは「学問」の一つとされているらしき(狭義の)「文学」において、研究または評論の対象は「現実」ではない「文芸」・「文学」作品だ。
 したがって、これらは、「現実」をそもそも対象としていない。作品の背景等として間接的に関心の対象になることがある(いかに重要であっても)、というにすぎないだろう。
 したがってまた、これらの作業を評価する規準は「現実」適合性ではなく、どれだけ「うまく」書けているか、どれだけ「感動を与える」か、といったものにならざるを得ない、と考えられる。
 西尾幹二は文章に「人格」が現われる、と言い、「文章にキレがある」とか「文章が光を放っている」とか等々の側面を重視しているようだ。
 ある「文章」が「現実」の正しい「認識」を示しているか、「現実」の改変という「実践」に寄与しているか、といったことに西尾幹二は少なくとも大きな関心を持たなかったに違いない。
 何と言っても、西尾幹二にとって重要なのは「自己」であって、「現実」の認識や改変ではなかったからだ(これらに触れることはあっても)。
 ところで、ここで記しておいてしまうと、上の「文章が光を放っている」というのは、つぎの中に引用されている、古田博司のある文章に対する西尾幹二の「絶賛」の言葉だ。
 古田博司「追悼・西尾幹二氏」月刊WiLL2025年1月号
 ついでに、上の古田の文章の中に、つぎがある。全く偶然にだが「言霊」が出てくるので、また西尾幹二論にも関係することもあり、引用しておく。
 「でも、実際に話をしてみると、どうも会話がかみ合わない。言葉が通じないのです。だから、西尾さんと会話をするときは言霊(精神レベルの非線形言語)でするような印象でした。
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  上述のようなことから、「歴史(学)」や「哲学」はまだよいのだが、「狭義の文学」の「学問」性とか、研究の評価の「客観」性の程度について、私はどうもよく分からない。
 「発想」方法あるいは「ものの考え方」自体が、私には馴染めない(小説を読むのが嫌いなわけではないが)。西尾幹二の「取り巻き」にいた出版社の編集者たちの「発想」・「視点」そのものは、私とは大きく違うようだ。
 ふと思い出したが、再論は省略して、大江健三郎は、沖縄に関する本来はノン・フィクションの文章(『沖縄ノート』)の中に、「文学」的作業という「創作」を紛れ込ませたのではなかったか。
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 「歴史(学)」におけるsollen とsein の区別の問題も、興味深い主題だ。
 とり急ぐ。「歴史(学)」は本来は、<人文・社会・自然>全体を対象とする「総合的」学問だろう。
 だいぶ違う面があるかもしれないが、「医学」も、似たところがあると思われる。例えば「社会倫理」を無視できないし、全体として<社会>に関連する。
 これらと比べると、「法学」のうち憲法を含む実定法(・制定法)に関する「法解釈学」は、<ちまちま>とした、<技術的>なものだ。
 「法解釈学」の「学問」性は別論として、しかし、それでも、「法規範」と「現実」・「事実」の違いくらいは、初心者でも自然に理解できるだろう。
  奇妙な「妄想」と「現実」の混淆など、絶対に生じ得ない、と考えられる。
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 ある程度は予期したように、一回では終わらない。つづける。  
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2906/R.Pipes1990年著—第16章⑭。

 Richard Pipes, Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16勝・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第六節/“貧民委員会“①。
 (01) 既述のとおり、この貧民委員会が意図していたのは、敵の陣営内部で「第五列」〔潜在破壊者〕として機能することで、赤軍と調達派遣隊を助けるだろうと考えられた。
 レーニンは、最も窮乏した村落住民の経済的不満に乗っかって活動することで、彼らを富者に対抗して結集させ、そして、衝突させて、ボルシェヴィキの村落への政治的な侵入を可能にしようとした。
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 (02) レーニンの期待は、二つの理由で、失望に変わった。
 ロシアの村落の現実の構造は、彼が出発点に置いたものとは何ら似ていなかった。つまり、農民の四分の三は「貧民」だとする彼の認識は、全くの幻想だった。
 「土地のないプロレタリアート」という村落の貧民の中核部分は、中央ロシアでは村落人口の多くて4パーセントだった。残りの96パーセントは、「富者」が入り混じった「中層農民」だった。
 かくしてボルシェヴィキには、村落で階級を扇動する現実的な社会基盤が欠けていた。
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 (03) さらに悪いことに、その4パーセントですら、協力しようとしなかった。
 当局によりまたは外部地域の農民から威嚇された場合に、農民たちは仲間内で言い争うことも多かったが、彼らは団結を固めた。
 このような場合、富農、中農、貧農は、一つの家族になった。
 あるエスエルの言葉によると、こうだ。
 「食料派遣隊が村落に現われても、もちろん、食料を獲得しなかった。
 何を遂行するのか?
 彼らは、クラクから君たちの言う土地なき農民までからなる、統合前線を作り、都市部の村落に対する、見せかけだけの闘争を行なった。」(注106)
 無謀にも仲間の農民たちに反抗する情報屋になった農民は、体制側が約束した報償を得ることを期待していたのだが、社会的な死の、さらには肉体的な死すらの、証明書に自ら署名することになった。食料派遣隊が撤退した瞬間、そのような情報屋は、かりに殺されなくとも、地域共同体から追放された。
 このような状況では、「貧農」を「富農」に対する「容赦なき」階級戦争に駆り立てるという考えは、全く非現実的だった。
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 (04) レーニンはこうした事実を知らなかったか、政治的配慮を優先して無視することを選んだかのいずれかだった。
 Sverdlov が5月に認めたように、ボルシェヴィキ政府は田園地帯では弱く、「内戦を煽る」ことでのみその地方に徐々に浸透することができた。
 もともと都市部で発生したソヴェトは、農民のあいだでは人気がなかった。村落集会という、自治の伝統的な形態を模倣したものにすぎなかったからだ。
 1918年の夏、ほとんどの村落地域にはソヴェトがなかった。存在する地域では、エスエルの支持者である、率直な農民または村落知識人の指導のもとで、表面的にだけ機能していた。
 レーニンは、このような状態を変えようと決意した。
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 (05) 貧民委員会の表向きの目的は、食料派遣隊や赤軍部隊が隠蔵された穀物を発見するのを援助することだった。
 しかし、本当の使命は、信頼できる都市部の共産党員の指揮を受け、政府の諸指令に厳格に忠実に行動する、新しい村落ソヴェトの核として役立つことだった。
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 (06) Ispolkom(全国ソヴェトの執行委員会〔形式上はソヴナルコム=政府の上位機関—試訳者〕)は、5月20日に、この貧民委員会、あるいは<kombedy>の設立について討議し、6月11日、ロシア全土でのこれの設置を布令した(注107)。
 この議題がIspolkom の討議に付されたとき、メンシェヴィキと左翼エスエルからの激しい批判があった(注108)。これを、多数派のボルシェヴィキが抑えた。
 政府は、村落の貧民の「組織と食料供給に関する布令」を発した。この布令は、全てのvolost’ と大村落(selo)での、現存するソヴェトと並びかつソヴェトの監督を受ける、貧民委員会の設置について定めた。この委員会は地方農民と新しい移住者によって構成されるが、後者からは、「悪名高いクラク、富者」、穀物その他の産物の余剰を保有する家族の長、商業および工業用の施設の所有者、労働者を雇用する者、は排除された。
 委員会の任務は、赤軍部隊と調達派遣隊が隠蔵食料の場所を突き止め、それを没収するのを助けることだった。
 これらの協調を確保するため、kombedy 〔貧民委員会〕構成員には、6月15日まで無償で、その日以降は形だけの代償で、没収された隠蔵物の一部が分け前として約束された。
 komedy の一員であることの魅力をさらに高めるために、貧民委員会には、「村落ブルジョアジー」からその備品や在庫を没収し、自分たちのあいだで分ける権限が与えられた。
 こうして、村落の住民の一部は、他人を非難し、他人から奪い取るよう奨励された。
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 (07) 適用がある者にとっての結果は確実に膨大だとされていたけれども、布令の定めは曖昧だった。
 「悪名高いクラクと富者」とはいったい誰か?、それらは、余剰の穀物をもつ他の農民とどのようにして区別されるのか?
 どのような意味で、地方政府の任が与えられ、食料分配の責任をもつ地方ソヴェトに、貧民委員会は従属するのか?
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 (08) のちに判明したように、工業労働者が調達派遣隊に加入したがらなかったのと同様に、貧農は貧民委員会に入会する気がなかった。
 強い圧力をかけられたにもかかわらず、布令が発せられた三ヶ月あとの1918年9月の時点で、6村落のうち1つだけが、貧民委員会の成立を報告した。
 多くの州、とくにモスクワ、Pskov、Samara、Sinbirsk—大きな農業地域—には、一つもなかった(注109)。
 政府は貧民委員会設立のために巨額の金銭を計上しつづけたが、成功しなかった。
 村落ソヴェトが存在しないところでは、指令は、無視された。
 存在するところでは、ソヴェトは通常は貧民委員会を余計なものだと宣告し、代わりに、ソヴェト自身の「食料調達委員会」を設置した。このことで、政府の企図の目的全体が、挫折した。
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 ②へとつづく。

2905/R.Pipes1990年著—第16章⑬。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第五節/食料調達派遣隊が抵抗に遭遇・大量の農民反乱③。
 (10) 調達派遣隊の残忍な行動があったにもかかわらず、僅かばかりの食料しか諸都市には供給されなかった。彼らがどうにかして調達した少量の食料は、隊員たちによって消費された。
 食料派遣隊が組織されて二ヶ月後の1918年7月24日、レーニンはスターリンに対して、食料はまだペテログラードにもモスクワにも届いていない、と伝えた(注96)。
 考えられ得る最も残忍な政策が大失敗を喫して、レーニンは、激怒の感情に陥った。
 収穫の時期が近づき、村落「前線」へ派遣された者たちが失敗を継続していたとき、レーニンはボルシェヴィキの司令官たちの優柔不断さを難詰し、さらに苛酷な復讐を行なうことを命令した。
 8月10日、彼はTsiurupa に電報でこう伝えた。
 「1. Saratov にはパンがあり、我々がそれを徴集することができないのは、酷い、気狂いじみた醜聞だ。…
 2. 布令案。全てのパン生産地区に、<富者>の中から25-30人の人質を取る。この人質たちは、<全ての>余剰の収集と配送について、<生命>でもって答える。」(注97)
 Tsiurupa は、こう答えた。「現実の力があって初めて、人質を取ることができる。そんな力は存在するのか? 疑わしい。」
 レーニンは、こう返答した。「私は人質を『取る』ことではなく、『指名する』ことを提案している」(注98)。
 これは、人質取りを行なうことに、最も早く言及したものだった。そして、4週間のちに、「赤色テロル」のもとで、大規模に実行されることになる。
 レーニンがこの野蛮な政策に真剣だったことは、農民反乱が進行中のPenza 州に対する彼の指示から、明白になる。
 「5つの地区での蜂起を弾圧するあいだ、全ての穀物の余剰を所有者から奪うために、全ての努力を傾注し、全ての措置を採用せよ。そうして、蜂起の弾圧と同時にこの目的を達成せよ。
 この目的達成のために、全ての地区で人質を指名(人身拘束をするのではなく指名)せよ。氏名を明確にして、クラク、富者、搾取者の中から。そして、この者たちに、指定された施設または穀物集積地点への徴集と配送について、および例外なく全ての穀物の余剰の当局への引渡しについて、責任を負わせるものとする。
 人質たちは、この引渡し物の正確で迅速な提供について、自分たちの生命でもって答えることができる。…」(注99)
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 (11) 1918年8月6日、レーニンは、「ブルジョアジー」の「反革命」部分に対する「容赦なき大量テロル」および飢えを「武器」として用いる「裏切り者の容赦なき根絶」に関する布令を発した。
 余剰の穀物の奪取に抵抗する全ての者は、「運び屋」を含めて、革命審判所へと送致するものとされた。また、かりに武装したままで逮捕されれば、その場所で射殺されるものとされた(注100)。
 レーニンは、憤怒の感情に魅せられたごとく、「クラク」からはその余剰穀物のみならず、翌年の収穫のために必要な穀物〔種〕も剥奪せよ、と命令した(注101)。
 彼のこの時期の演説や文書による指示は、農民の抵抗に対する怒りによって理性的に思考する力をなくしている、ということを示している。
 このことは、1918年8月の工業労働者に対する訴えによっても明確だ。その中で彼は、つぎのように、「最後の、決定的闘争」に立ち上がることを呼びかけた。
 「クラクは狂って、ソヴィエトの権威を嫌悪し、数十万の労働者を窒息させ、切り刻もうとしている。…
 クラクが無数の労働者を切り裂くか、労働者たちが、勤労者の権力に反抗する、民衆の中の不正な少数派の蜂起を容赦なく粉砕するか、のいずれかだ。
 ここには、中間の立場はあり得ない。…
 クラクは、最も野獣的で、最も粗暴で、最も苛酷な搾取者だ。…
 この吸血鬼たちは、戦争中に民衆の欠乏に乗っかって富を固めてきた。こいつらは、幾千万も蓄えてきた。…
 この蜘蛛野郎たちは、戦争で困窮した農民と飢えた労働者を犠牲にして太ってきた。
 この寄生虫は、勤労者の血を吸っており、都市や工場の労働者が飢えるほどに豊かになってきた。
 この吸血鬼たちは、地主の土地をその手に集めたし、集め続けている。そして、貧しい農民を繰り返して隷従させている。
 これらクラクに対する容赦なき戦争に決起せよ! クラクに死を!」(脚注)
 ある歴史家が適切に観察したように、「これはおそらく、近代国家の指導者が、民衆をジェノサイド〔集団虐殺〕と社会的に同義のものへと掻き立てた、最初の例だった」(注102)。
 攻撃的行動を自衛活動と偽装するのは、レーニンに特徴的なことだった。この場合には、「クラク」が肉体的に労働者階級を殲滅するという、完全に空想上の脅威に対する自己防衛だ。
 この問題に関するレーニンの狂信的考えには、際限がなかった。
 1919年12月に、彼はこう言った。「我々」は—この代名詞はこれ以上明確化されていないが、彼自身やその仲間たちを含んでいそうにない—、穀物の自由取引を許容すれば「すぐに死に絶えるだろう」(注103)。
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 (脚注) Lenin, PSS, XXXVII, p.39-41. ロベスピエールのつぎの言葉を参照せよ。「富農が執拗に民衆の血を吸いつづけるならば、我々は民衆自体を彼らに引き渡そう。裏切り者、陰謀者、不当利得者に対して正義を実行するのにあまりに多数の障壁があるならば、民衆に彼らを処断させよう。」Ralph Korngold, Robespierre and the Forth Estate(New York, 1941), p.251.
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 (12) 農民の抵抗に対処するため、ソヴナルコム〔人民委員会議〕は8月19日に、戦争人民委員のトロツキーに、民間人派遣隊を含めて、関係する全ての部隊に関する責任を委ねた。このときまでは、これらの部隊は供給人民委員部に従属していた(注104)。
 Tsiurupa はその翌日、食料徴発活動を軍事化する指令を発した。
 食料派遣隊は、州と軍事当局の司令下に置かれ、軍事紀律に服した。
 各派遣部隊は最少で75人の隊員と2または3の機関砲を有するものとされた。
 これらは、近傍の騎兵部隊との連絡を維持し、農民の抵抗の強さに応じて必要とあれば、複数の部隊は一つに合同されるべく編成変えするものとされた。
 正規の赤軍部隊に対してと同じく、これらの各部隊には政治委員が任命された。貧民委員会(the Committees of the Poor)を組織することは、この政治委員の責任だった。
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 第五節、終わり。

2904/R.Pipes1990年著—第16章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第五節/食料調達派遣隊が抵抗に遭遇・大量の農民反乱②。
 (06) 1918年の後半に村落地域で起きた出来事については、つぎの当時の新聞紙の記事が代表的に示している。
 「調達派遣隊がOrel 州のGorodishchenskaia volost’ に着いたとき、女性たちは、引き渡すことをしないで、穀物を水の中に投げ込み、予期せぬ訪問者が去ったあとで、掬い上げた。
 同じ州のLavrov Volost’ では、農民たちが『赤色派遣隊』を武装解除した。
 Orel 州では、徴発が最も広い規模で実施された。
 通常の戦争のためのごとくに、準備がなされた。
 『ある地区では、パンの徴発のあいだ、個人の全自動車、乗用馬、馬車が動員された』。
 Nikolskaia Volost’ とその近傍では、通常の戦闘が起きる。両者の側に死傷者が出る。
 派遣隊は、Orel に弾薬と機関砲を送るよう電信で要請した。…
 Saratov 州から、『村落は警戒し始め、戦闘の用意をしている』との報告が入る。
 Volskii 地区のいくつかの村落は、三又鋤で赤軍兵団に抵抗し、兵団を解散させた。
 Tver 州では、『食料探索のために村落に送られたパルチザン派遣隊は、至るところで抵抗に遭遇した。多くの場所からこうした遭遇に関する報告が来ている。徴発から穀物を守るために、農民たちは森の中に隠れ、穀物を地中に埋めている。』
 Simbirsk 州のKorsun の市場では、穀物を徴発しようとしている赤軍と闘うために農民たちがやって来た。一人の赤軍兵士が殺害され、数人が負傷した。」(注89)
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 (07) 1919年1月、Izvestia は、Kostroma 州の一村落で蜂起している『白衛クラク』に関する政府による調査の報告を掲載した。これは、村落「ブルジョアジー」に対する攻撃が現実にどのようなものであったかを示している。
 この調査は、村落の〔ソヴェト〕執行委員会の議長が農民の請願者たちをいつも殴ったこと、ときには杖で叩いたことを、明らかにしていた。
 犠牲者たちの中には、靴を剥ぎ取られ、雪の中で座らされる者もいた。
 いわゆる食料徴発は、現実にはふつうの強盗だった。その過程で、農民たちは、コサック式鞭で懲らしめられた。
 ある村落に接近すると、食料派遣隊は農民を脅かすために機関砲を撃つ。
 そして、闘争が始まることになる。
 「農民たちは、打撃から身を守るために5枚かそれ以上のシャツを着なければならなかった。だが、笞には鉄線が入っているので、それは大して役立たない。鞭打ちのあと、シャツが肌にくっつき、乾いた。それで、その部分を温水に浸してほどく必要があった。」
 派遣隊員は兵士たちに、「ソヴィエトの権威を忘れないようにさせるために」、手にする何でも持って殴打するよう命じた」(注90)。
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 (08) 政府がその軍事行動作戦を進ませるにつれて、田園地帯での反乱は大きくなった。
 これは、ロシアの歴史上、先例のないことだった。Razin の反乱やPugachev の反乱のような従前の蜂起は、地域的な事件で、東部や南東部の国境地域に限定されていたからだ。
 ロシアの中心地域では、今のような反乱はかつて一切起きなかった。
 1918年の夏に勃発したボルシェヴィキに対する農村の抵抗は、地域的な範囲と関与した人数のいずれについても、かつて発生した最大の農民反乱をはるかに上回るものだった(脚注1)
 しかしながら、その経緯は、依然として不完全にしか知られていない。ソヴィエトの文書類を所管する当局が重要な書類の公開を拒否しており、また、西側の研究者たちにこの主題についての不可解な関心のなさがあるがゆえにだ(脚注2)
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 (脚注1) ある学生は、この問題に関して、関与者の数と与えられた脅威から見て、内部的前線での対農民のボルシェヴィキの戦争の大きさは、前線での白軍との内戦をはるかに凌駕した、という説得的な主張を行なっている。Vladimir Brovkin, 「内部戦線について—ボルシェヴィキと緑党」.
スラヴ研究の前進のためのアメリカ協会の第20回全国大会で発表された論文。1988年11月、p.1.
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 (脚注2) 労働者と農民のいずれによるのであれ、「騒擾」に関する情報は検閲され、公表する新聞紙はしばしば罰金刑を受け、停刊させられたりした。1919年の初めまでに、全てのこのような情報は軍部の検閲によって排除された。軍部の検閲は、発行がまだ許容されていた一握りの非ボルシェヴィキ新聞から定期的に削除した。DN, No. 2(1919年3月21日), p.1.
 この主題に関する唯一の学問的論文集は、Mikhail Frenkin, Tragediia krest’ianskikh vosstanii v Rossi 1918-1921 gg.(Jerusalem, 1988)だ。1918-19年の蜂起は、この書物の第四章、p.73-p.111で扱われている。
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 チェカの報告によると、1918年に245件の村落「蜂起」(vosstaniia)があり、これらにより875人のボルシェヴィキと1821人の反乱者の生命が奪われた。
 加えて、2431人の反乱者が、処刑された(注91)。
 しかし、こうした数字は、被害者数の一部だけを、おそらくはチェカ自身の人員によって犠牲になった者たちの数だけを反映できるだろう。
 共産党員の歴史研究者の最近の成果は、こう述べる。1918年の7月と9月の間だけの不完全な数字資料から判断すると、22の州で、およそ1万5000人のソヴィエト「支持者」(storonniki)が殺された。この語が意味するのは、赤軍兵士、調達派遣隊員、共産党の役人たちだ(注92)。
 Chelyabinsk の共産党のある歴史書は、機関銃の周りでポーズをとる300人の赤軍分隊の一枚の写真を掲載している。
 説明書きによると、一人の生存者を除く全隊員が、「クラクの蜂起」によって殺戮された(注93)。
 他の地方や州でも、両者の側に同様の被害が発生したに違いないのは、明らかだろう(注94)。
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 (09) 1918-19年の反共産党農民蜂起は、経緯が概略すら知られていないのだが、最後には鎮圧された。
 農民反乱者たちは多くの点で政府の武力に優っていたけれども、射撃力の不足、とりわけ組織化のなさ、という点で劣っていた。それぞれの蜂起は自然発生的で、かつ局所的だったのだ(注95)。
 エスエルは、村落では支配的役割を果たしていたが、農民たちを組織するのを拒んだ。ほとんど確実に、白軍の手中に入って行動することの恐れからだった。
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 ③へつづく。

2903/R.Pipes1990年著—第16章⑪。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919(1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第五節/食料調達派遣隊が抵抗に遭遇・大量の農民反乱①。
 (01) 前年の冬以来、ときには赤衛隊に組み入れられた武装部隊が、食料を求めて村落を襲撃してきていた。
 彼らは通常は、農民たちの激しい抵抗に遭った。農民たちを強力にしていたのは、武器をもって前線から故郷に帰還した兵士たちだった。ふつうは手ぶらで戻っていたのだが(注75)。
 レーニンは1918年1月に、各々10-15人の労働者がおり、厄介な農民を射殺する権限をもつ「数千の食料調達派遣隊」の結成を提案していた。だがこれは、支持を得られなかった(注76)。
 ボルシェヴィキが村落へのテロル行使部隊の体系的組織化へと進んだのは、ようやく1918年春になってからだった。
 最初の措置は、レーニンの署名付きで5月21日に発せられた、ペテログラードの労働者に対する訴えだった(注77)。
 その他の訴えや指示が、これにつづいた。
 実力を用いて食料を奪い取るという考えは、明らかに<armee revolutionnaire>を範としていた。これは、フランスの公安委員会がその最初の措置として 1793年6月に作ったもので、生産物の隠蔵を禁止する法令が伴なっていた。
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 (02) ロシアの労働者はこのような手段を好まなかった。
 彼らは、<burzhui>または地主に対して動員されることがあり得た。地主と労働者のあいだには超え難い文化的な懸隔があった。
 しかし、彼らの多くが生まれて、親戚がなお住んでいる村落に対しては、そうでなかった。
 彼らは、農民たちには階級的悪意を何ら感じなかった。レーニンやその支持者たちが責任があるとした、比較的に良い暮らしの農民に対してすら。
 ペテログラードの労働者たちにかなりの支持を得ていた左翼エスエルは、労働者と農民の間に階級的憎悪を焚きつけるボルシェヴィキの措置に、異議を唱えた。
 左翼エスエルの中央委員会は実際に、その党員たちに、食料派遣隊に応募するのを禁止した。
 ジノヴィエフは、志願者たちを寛容に誘いはしたが、5月の布令を実施するときには、相当の困難に陥った。
 彼は5月24日に、派遣隊は食料を求めて2日以内に出発すると発表したが、ほとんど誰も集まってこなかった。
 労働者全権委員団で組織されたペテログラードの工場委員会の集会は、この手段に反対する決議を採択した(注78)。
 ジノヴィエフは5日後に訴えを繰り返し、食料派遣隊を「ブルジョアジー」の脅威と結びつけた。
 「我々は、彼らがパンの匂いを忘れないように、一日当たり16分の1ポンドを与えるべきだ。
 だが、我々が麦藁粉を食べなければならないとしたら、それをまず最初にブルジョアジーに与えるべきだ。」(注79)
 労働者たちは動かず、ボルシェヴィキ知識人には全く欠けている常識的感覚をもって、穀物の取引を自由化することで食料不足を解決することを主張した。
 しかしながら、そのうちに、ジノヴィエフは脅威と報奨を結びつけて、何とか若干の食料派遣隊を組織することができた。その第一号の400人の兵団は、6月に田園地帯へと出発した(注80)。
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 (03) 食料派遣隊は、失望させた。
 善意の労働者たちはとどまったので、入隊した者たちの多数は、略奪するために村落へ行く都市のごろつきだった。
 このような結果への不満を、レーニンはすぐに受け取った(注81)。
 最初の調達派遣隊が村落に姿を現した後にすぐに、彼は、工業界の労働者に対して、つぎの挨拶文を送った。
 「私は、Vyksa の同志労働者たちが、本当の革命家として機関銃をもって、食料を求める大きな運動に着手するという立派な計画を実行することを、期待する。
 すなわち、飢えている全員を飢餓から救うという共通の任務のために、かつ自分たち自身のためだけではなく、Tsiurupa に完全に同意して、指示に従って活動する、えり抜きの、信頼できる、略奪しはしない者たちが派遣隊に配置されることを、望んでいる。」(注82)
 農民の不満から判断すると、つぎのことがふつうの現象だった。つまり、都市部から来た武装兵団は、盗んだ生産物の上に乗り込み、徴発した密造酒で酔っ払っている(注83)。
 厳しい制裁を受ける怖れがあったにもかかわらず、このような振舞いは継続したので、最後に政府は、食料派遣隊の隊員に、20ポンドまでの食料を個人のために使うことを、許さなければならなかった。これには、最大限2ポンドのバター、10ポンドのパン、5ポンドの肉が追加して含まれていた(注84)。
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 (04) しかし、制裁による威嚇も、自分のための使用の容認も、機能しなかった。そして、やがて体制は、新しく設立する赤軍に目を向けなければならなかった。
 ソヴィエト・ロシアに強制的軍役を導入する、1918年5月29日の布令が、食料派遣隊の設立と同時だったことは、決して偶然ではない。
 5月26日に案が作成され、翌日に中央委員会によって承認されたレーニンによる指令があった。これは、新しく構成された赤軍の最も早い任務はロシアの農民に対する戦争を繰り広げることであることを、示した。
 「1. 戦争人民委員部は、軍事的供給人民委員部へと改変される。—すなわち、戦争人民委員部の活動の十分の九は、軍が食料を求めることに適合させることに集中すること、および三ヶ月間この戦争を指揮することだ。
 2. 同じ期間、全国土に戒厳令を敷く。
 3. 軍を動員する。健全な分隊を選抜する。少なくとも一定の同じ地域の19歳の者たちを、収穫物を獲得し食料と燃料を集める体系的作戦に就かせる。
 4. 紀律の欠如に対して、死刑を導入する。/…
 9. 調達派遣隊全体について、集団的責任制、および10回の略奪事件ごとの処刑の威嚇を、導入する。」(注85)
 赤軍全体が農民層との闘いに割当てられるのを妨げたのは、チェコ人の反乱だけだった。
 そうであっても、赤軍は、この軍事作戦についてかなりの役割を果たした。
 赤軍が形成されていたとき、トロツキーは、次の二、三ヶ月のその任務は、「飢餓と闘う」ことだろう、と表明した(注86)。これは、「農民と闘う」ということの微妙な表現だった。
 この軍事作戦には褒章は発行されなかったけれども、<muzhik>に対する戦争は、赤軍にとって最初の戦闘体験を与えた。
 最終的には、全国家的な食料調達の闘いで、7万5000人の常備軍〔赤軍〕兵士が、5万人の武装民間人に加わった(注87)。
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 (05) 農民は、力には力で対抗した。
 当時の新聞紙は、政府と農民のあいだの戦闘に関する記事で充ちている。
 村落を行進する軍人および民間人部隊の司令官たちは、「クラクの蜂起」を定期的に報告した。しかし、証拠資料が明確にしているのは、彼らが
遭遇した抵抗は、「富農」のみならず村落農民全体を含む農民層の、自分たちの財産についての自発的な防衛活動だった、ということだ。
 「慎重に検討すればするほど、いわゆるクラクの反乱は、ほとんどつねに一般農民の蜂起だったように思われる。そこにはいかなる階級の区別も見出され得ない。」(注88)
 農民層は都市部での必要物の少なさを気にしておらず、「階級分化」について何も知らなかった。
 農民たちが見たのは、都市部からの武装部隊だった。その構成員は、しばしば、皮ジャケットか何かの軍服かを着た元の農民で、自分たちの穀物を奪うためにやって来ていた。
 彼ら農民たちは、農奴制のもとですら自分たちの収穫物を引き渡すことを強いられなかった。そして今も、そうするつもりがなかった。
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 ②へとつづく。

2902/R.Pipes1990年著—第16章⑩。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第四節/村落への軍事作戦の開始・1918年5月②。
 (07) エンゲルスはこう言った。貧しく土地をもたない村落プロレタリアートは、一定の条件のもとで、工業労働者階級の同盟者になり得る。
 レーニンは、この考え方を採用した(注65)。
 この前提を今、用いようとした。
 1918年8月、彼は、ロシアの村落の階級構造について、恐ろしい結末となる統計に大まかに取り組んだ。
 レーニンは、こう言った。
 「強奪者が我々からウクライナなどを引き離す前に、従前のロシアを考慮するとロシアにはおよそ1500万の農民がいる、と認めよう。
 この1500万のうち、約1000万人は確実に貧農だ。そして、彼らの労働力を売るか富農に隷属するかして生きているか、それとも、l余剰の穀物をもたず、とくに戦争の負担で破滅してきたかのいずれかだ。
 約300万は、中農として計算されなければならない。
 そして、ほとんど200万を超えないのが、クラク、富者、パン投機者だ。」(注66)
 これらの数字は、現実とは少しの関係もなかった。レーニンが革命前にロシアの村落の「階級分化」に関して行なった計算を、概数で繰り返したものにすぎなかった。
 1899年に彼は、富農、中農、貧農の割合を2—2—4と計算していた。
 1907年には、農民世帯の80.8パーセントが「貧農」、7.7パーセントが「中農」、11.5パーセントは裕福(well-to-do)だ、と結論づけた(注67)。
 レーニンの最も新しい数字は、農業革命の結果として貧農と富農の数は減少した、という事実を無視していた。
 彼は半年後には農民の三分の二は「貧農」だと宣告し、中層農民は「最も強力な勢力」だと叙述した(注68)。
 明らかに、彼の数字は統計上のものではなく、エンゲルスに由来する政治的スローガンだった。エンゲルスは1870年に、ドイツについて、「農業労働者は田園地方での最多数の階級を形成している」と述べた(注69)。
 このような一般化が19世紀後半のドイツについていかに有効であろうとも、1917年以降のロシアについては何の意味もなかった。ロシアでは、「田園地方での最多数の階級」は、自己雇用の中層農民だった。
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 (08) ロシアの村落での「階級分化」が吹聴されたが、それは、統計上の抽象概念から情報を得た都市部の知識人の想像力による幻想だった。
 村落の資本主義をどのようにして明確にしたのか?
 レーニンによると、農業における資本主義の主要な兆候でありそれを指し示すものは、被雇用労働だった(注70)。
 だが、1917年の農業統計によれば、情報が利用された19の地方では、ほとんど500万の農業世帯のうち10万3000だけが労働者を雇用していた。これは、村落の「資本主義者」の割合は2パーセントに等しいことを示している。
 しかし、この数字ですら、この10万3000世帯が総計で12万9000人の労働者、つまり世帯当たり1人以上を雇用していたことを考慮すると、重要性を失う(注71)。
 この労働者たちは、世帯のうちの誰かが病気になったり軍に徴兵されたりしたのが理由で、雇用されたのかもしれない。
 いずれにせよ、農業世帯の2パーセントだけは平均して一人を雇用していたので、これを最大限に拡張したとすれば、ロシア村落への「資本主義」の浸透を語ることができるだろう。ましてや、200万人のクラクが1000万人の「貧農」を雇用していたと主張することはできる。
 別の基準を用いて—村落共同体の土地に行けなかったので—、共産党員統計学者は、村落人口の4パーセント以下が「貧民」だと決定した(注72)。
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 (09) レーニンは、こうした経験的証拠資料を無視した。そして、都市と村落の間の「階級戦争」を開始すると決めた。その際に、村落地帯を侵攻する口実とするために、村落の社会経済的状態について、現実離れした構図を描いた。
 村落で誰が「ブルジョア」かを決定する彼の本当の規準は、経済的でななく政治的なものだった。彼の目からすると、全ての反ボルシェヴィキの農民はクラクと性格づけられた。
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 (10) ボルシェヴィキが1918年の5月と6月に発布した農業布令は。四つの目的をもっていた。
 1. 政治的に積極的な農民を破壊すること。エスエルに忠実な農民のほとんどに「クラク」というラベルを貼ることによって。
 2. 村落共同体の土地保有を切り崩して、国家が運営する集団農業の基礎を築くこと。
 3. エスエルを排除して村落ソヴェトを改造し、都市のボルシェヴィキや非党員支持者と交替させること。
 4. 都市と工業中心地のために食料を徴発すること。
 食料を集めることは、政府のプロパガンダで最大の重要性をもった。しかし、ボルシェヴィキの計画では優先順は最後だった。煙が晴れてみると、農民からの食料徴発の量は、瑣末な問題だった。政治的な効果が、別の重要性をもった。
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 (11) 村落に対する軍事力を伴う攻撃は、軍事作戦と同じく正確さと残虐さをもって行なわれた。
 主要な戦略的決定は、ソヴナルコム〔人民委員会議〕の是認を5月8-9日に得た。これはおそらく、その前に、ボルシェヴィキの中央委員会で票決されていた。
 ソヴナルコムは、穀物の国家独占を再確認した。
 供給人民委員であるTsiurupa は、5月13日の布令の諸条項を実施する臨時の権限を得た(中73)。この布令は、全農民に、固定価格の支払いに応じて余剰穀物を指定された集積地点へと運ぶよう、要求した。
 これをしないで余剰を隠蔵したり、密造酒を作るために用いたりした農民たちは、「人民の敵」だと宣告された。
 レーニンは大衆に対して、「農民ブルジョアジーに対する容赦なきテロル戦争」を展開することを呼びかけた(注74)。
 この軍事作戦行動は、「クラク」に対する二方向の攻撃として構想された。内部からは貧民委員会(<kombedy>)へと組織された貧農で構成される第五列(潜在破壊者)による、そして外部からは、村落を行進して、クラクに銃を突きつけて隠蔵物を強制的に吐き出させる武装労働者で成る「食料派遣隊」(prodovol’stvennye otriady)による攻撃として。
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 (12) 5月13日の布令の前文は、戦争で富裕さを増やし、投機的価格で闇市場で食料を処理することができるように政府に売ることを拒んでいる、と非難した。
 主張された富農の狙いは、穀物取引における国家独占の放棄を政府に強いる、ということだった。
 布令はさらに言う。かりに政府がこの脅迫に屈服するならば、供給と需要の関係を無視して、パンの価格は急上昇し、食料は完全に労働者の手に届かなくなる。
 村落の「クラク」の「頑強さ」を破壊しなければならない。「次の収穫時まで、種を撒いたり家庭が食べたりするのに必要な穀物を除いては、1 pud の穀物であれ、農民に残してはならない」。
 穀物を奪い去る方法については、詳しい手続が案出された。
 全農民は例外なく、布令から一週間以内に余剰の穀物全部を運び込むこととされた。
 これをしない者は、革命審判所に送られるものとされていた。審判所で農民たちは、10年以上の刑、全財産の没収、村落共同体からの追放といった制裁を受ける危険に晒された。
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 第四節、終わり。

2901/藤岡信勝と日本共産党。

  兵庫県・斎藤元彦問題に関心をもつ人の中には同程度に「日本保守党」にも関心をもつ人がいるようで、後者に関するものの一つを読んでいると、「藤岡信勝会長」という言葉が出てきた。
 日本保守党(2023.10〜)に大きな関心はなかった。最初は自民党全体よりも「右」からある程度集票する党として期待する者もいたはずだ。最近は「内紛」に陥っているらしい(詳細に関心はないので、正確さを欠く)。
 きっとその「内紛」に関連しているのだろう、藤岡は「日本保守党の言論弾圧から被害者を守る会」の会長であるらしい。
 この会は、厳密さを欠くまま書くと、2025年4月1日に発足したようだ。
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 中身を読んでいないのだが(こんな言い訳ばかりだ)、月刊正論等の「保守」系有力月刊雑誌は、「保守」を謳う政党ではなく、藤岡信勝等々の側に立っているようだ。
 <やれやれ>という気もする。
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  西尾幹二逝去をうけて藤岡は、「西尾幹二氏の教科書への思い」と題する文章を書いた。産経新聞2024年11月18日付。<つくる会>のOffial Web にも掲載。
 「新しい歴史教科書をつくる会」のでき方、西尾と藤岡の結びつき方には関心があった。西尾・全集17巻/歴史教科書問題(2018年)ではよく分からなかった、と思う。
 上の藤岡の文章によると、こうだ。
 1996年1月、西尾と初めて逢う。明記はないが、西尾が自分の主宰する会に藤岡を講師として呼んだように読める。藤岡ら「自由主義主義史観研究会」による産経新聞紙上の連載が同月に始まっていた。
 同年の検定結果で、全教科書に「強制連行」による「従軍慰安婦」の記載があると分かった。「私は許せなかった」。
 藤岡によると、「全教科書に嘘が書かれているなら、…自分達でつくるほかはないではないか。歴史教科書問題は、こうして始まったのである」。
 以下、時期に関する記述はない。
 高橋史朗と(たぶん新教科書について)相談した。「高橋氏は西尾氏に持ちかけることを提案し」、三人で会合した。西尾(のたぶん主導・示唆・提案)により、「坂本多加雄氏に参加を呼びかけることにした」。
 「こうしてこの四人で幾度となく会合を重ねて会の構想が次第に形を成していった」。
 以上。のち、1996年12月に、会設立の記者会見。翌1997年1月正式発足
 これによると、第一に、高橋は上記の西尾主宰の「会」の一員だったからこそ藤岡は相談したとみられることを含めて、中心的・核的な人間群の形成について、西尾幹二の影響力は大きかった。
 第二に、西尾が10年余後に<つくる会>について、「<反共>だけでなく<反米>を唱えた運動だった」旨を書いたのは(全集7巻p.711-2参照)、おそらく「大ウソ」だったことも分かるだろう。
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  藤岡信勝には、期待していることがある。
 藤岡信勝(1943〜)は、Wikipedia によると、1963年に日本共産党入党。その後、1991年のアメリカに留学。「司馬遼太郎の著作や渡米経験を通じて…を感じた」。「帰国後に保守派に転向した」。
 ところで、同じくWikipedia による「新しい歴史教科書をつくる会」の項は「日本共産党員だった藤岡信勝が…」から始まる。
 先の「保守派に転向」という「転向」という語の用い方も「優しく」ないが、上の元共産党員が作ったという説明の仕方も、おそらくは(「左翼」ではなく)「日本会議系」の分裂後の反「つくる会」派の執筆者によると推察される(かつてはもっと露骨に批判的・揶揄的だった)。
 なお、「元共産党員」に注目するのは、本当は的外れだ。共産党から離れて「まとも」になった者を「元」を理由に揶揄する、批判的に見る(そう感じさせようとする)のは、心が健やかではない。
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 元に戻る。20歳(入党要件)に日本共産党員となった藤岡が、マルクス主義・共産主義、あるいはマルクスとレーニン、日本共産党の綱領類とその「理論」に詳しくなかったはずはないだろう。
 それがなぜ、「司馬遼太郎の著作や渡米経験」(上記)で日本共産党を離党することになったのか。30年間近くの「党員」生活は、藤岡にとって、いったい何だったのか
 <つくる会>の歴史教科書は一度検定不合格だったことがあり、また約20年あいだで最大の採択率は1.1パーセントにすぎない(2009年。同会Web による)。分裂後のもう一つの教育再生機構系教科書と合計しても、一回なりとも3パーセントを超えていないだろう。
 華々しかった「記者会見」後の約30年後にある、この凄まじい、無様で惨めな現状をどう総括するかも、長いあいだ幹部だった藤岡が行なっておくべき仕事だろう。余計ながら、<方針は正しかったが、力不足でした>という日本共産党が繰り返す総括で済ませることができるはずはない。
 さらに、上のこと以上に、「日本保守党」との闘いにエネルギーを注ぐくらいなら、なぜ、日本共産党を離党したのかを、離党決意後の経緯を含めて、詳細に記述して、後世に残していただきたいものだ。
 1991年の夏から冬、ソ連共産党が解体し、かつソヴィエト連邦も消滅した(この二つは全く別の次元の問題だ)。
 このことの影響が大きかった、と推察することはできる。日本共産党・宮本顕治がこの頃突然に丸山真男批判を開始したのは、離党または党に抵抗しようとする「知識人」に対する<見せしめ>の意味が、少しはあったのではなかろうか。
 だが上のことはきっかけで、突如ソ連は社会主義国でなかったとか主張し始めた党中央(不破哲三にほぼ等しい)に対する不満があったかもしれない。日本共産党の歴史観、とくに日本の歴史の捉え方に疑問をもったのかもしれない。マルクス主義そのものの(当時の党文献が伝えるかぎりでの)に種々の点で幻滅したのかもしれない。司馬遼太郎の歴史・日本史「観」も影響を与えたらしくある。
 日本共産党を離党した者(除名を含む)の書物をある程度は所持しているが、個人的エピソードは分かっても、日本共産党の理論と政策を批判的に立ち入って論じているものは少ない、と感じられる。
 「日本保守党」とのあいだの(私には、あるいは歴史的に見ても)瑣末な問題にかかわるよりも、のちに「保守運動」の有力者の一人になった者が、かつて、なぜ日本共産党を捨てたのかを詳細に語っておくことの方が、歴史的にも、日本の「保守」のためにもはるかに有意義であるのではないか。
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2900/R.Pipes1990年著—第16章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第四節/村落への軍事作戦の開始・1918年5月①。
 (01) Sverdlov は、1918年5月20日に、新しい政策を発表した。
 「革命的ソヴィエトの権威が都市部で十分に強いと言えるとしても、…同じことは村落については言うことができない。…
 この理由で、我々は、村落を分裂させるという問題、村落に二つの対照的で敵対的な勢力を作り出すという問題に、最大限に真剣に、立ち向かわなければならない。…
 村落を二つの回帰不能の敵対的陣営に分裂させることに成功すれば、最近まで都市部で起きていたのと同じ内戦を村落で燃え上がらせることができれば、…その場合にのみ、我々は、都市部でできていたものを村落との関係でも行なうことができる、と言えるようになるだろう。」(注57)
 この異常な声明は、つぎを意味した。ボルシェヴィキは、隣り合って平穏に過ごしている農民のあいだに内戦を解き放つことによって、村落にこれまでは存在しなかった権力基盤を獲得するために、村落住民の一部が別の部分に対抗するよう誘い込むことを決定したのだ。
 この軍事作戦のために指定された攻撃兵団は、都市労働者および貧しく土地を持たない農民で構成されるとされた。「敵」は、富裕な農民、あるいはクラク、村落「ブルジョアジー」だった。
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 (02) レーニンは、ヒトラーのユダヤ人への憎悪と完全に等しい破壊的な感情でもって、彼が「ブルジョアジー」と感知するものを憎悪した。肉体的に消滅させれば、レーニンはきっと満足しただろう。
 都市部の中間層—職業人、金融業者、貿易商人、実業家、年金生活者—は、レーニンをほとんど煩わせなかった。彼らはすぐに従ったからだ。彼らは、東に行くほどブルジョアジーは無関心になるという、1898年のロシア社会民主党の創設綱領の命題の正しさを証明していた。
 彼らは、雪を掻くよう言われれば、雪を掻いた。写真のためにポーズをとるときでも、弱々しく微笑んだ。
 「寄付」が求められれば、忠実に支払った。
 彼らは意識的に、反ボルシェヴィキ軍隊や地下組織との接触を避けた。
 彼らのほとんどは、奇跡が起こることを望んでいた。おそらくは、ドイツの介入、あるいはおそらくは、ボルシェヴィキの政策が「現実主義」へといっそう向かうこと。
 そのうちに、彼らの本能は、身を隠すよう告げた。
 1918年春に、ボルシェヴィキが生産性を高める努力の一つとして、彼らを工業企業に再雇用し始めたとき、彼らの希望は高まった。
 <prauda>が述べたように、このような「ブルジョアジー」を恐れる必要は何もなかった(注58)。
 同じことは、ボルシェヴィキが「プチ・ブルジョア」と呼んだ社会主義知識人についても言えた。彼らもまた、自分たちの理由で、抵抗するのを拒んだ。
 彼らはボルシェヴィキを批判したが、闘う機会が提示されるといつも、別の方向を向いた。
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 (03) 状況は、村落地域によって異なっていた。
 西側の基準では、ロシアにはもちろん「村落ブルジョアジー」がおらず、数ヘクタールの追加の土地、追加の馬または牛、いくばくかの現金および臨時の労役提供のおかげで、僅かに暮らしが良い農民という階級だけがあった。
 しかし、レーニンは、ロシアの村落での「階級分化」というイメージに取り憑かれていた。
 彼は若いときに<zemstvo>の統計を研究し、種々の村落世界の経済的状況の僅かな変化に注目した。
 いかに些細であれ、富裕な農民と貧困な農民の間の分岐が大きくなっていることを示す統計資料は、彼にとっては、革命が利用することができる社会的紛争の潜在的にあることを示すものだった(注59)。
 村落に浸透するために、彼は、村落地域で内戦を起こさなければならなかった。そうするためには、階級敵が必要だった。
 その目的のために、「プロレタリアート」を破壊しようとしている、強力で多数の「反革命的」なクラクという階級を、彼は作り出した。
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 (04) 困惑することに、ヒトラーはユダヤ人か否かを決定する血統上の(「人種」的な)標識を作ることができただろうが、レーニンにはクラクを明確に区別する規準がなかった。
 クラクという術語には、厳密な社会的または経済的な内容がなかった。実際に、革命時代を村落で過ごしたある観察者は、農民たち自体がこの用語を用いない、ということを知った(注60)。
 この言葉は1860年代にロシア語の語彙の中に入ってきた。当時はその言葉は、経済的範疇ではなく、個性によって村落共同体の多数の農民から傑出している農民の一類型を指し示していた。クラクという語は、アメリカ人の俗語では「やり手」(go-getter)と呼ばれる者たちを表現するために用いられた。
 このような農民が村落集会や<volost’>の法廷を支配する傾向にあった。
 彼らはときには金貸しとして行動したが、これは、彼らの明確な属性ではなかった。
 理想的な完全に平等な社会に夢中になった19世紀遅くの急進的な文筆家や小説家は、クラクという語を、村落の搾取者という悪い名称として用いた。
 しかし、仲間の農民たちがこの語が当てはまる者たちを敵意をもって扱った、という証拠資料は存在しない(注61)。
 実際に、1870年代に「人民へ」と向かった急進的な煽動者たちは、全ての農民がクラクになることを心の奥底から切望していることを、発見した。
 ゆえに、1917年の以前も以後も、何らかの客観的基準を使って中間農民をクラクと区別するのは不可能だった。—誠実である瞬間には、レーニンも認めざるを得ない事実(注62)。
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 (05)  「クラク」という術語に厳密で有効な意味を与えることがいかに困難であるかは、ボルシェヴィキが村落地域で階級戦争を開始しようとしたときに、明確になった。
 クラクに抗して「貧困な」農民を組織する任務を与えられた人民委員たちには、これはほとんど不可能な仕事だった。なぜなら、彼らが接触すべく入った村落共同体には、この概念に対応する農民がいなかったからだ。
 そのような官僚の一人は、Samara 地方では農民の40パーセントがクラクだ、と結論づけた(注63)。
 一方、Veronezh 地方のボルシェヴィキ官僚は政府に対して、「民衆の多数を占めているために、クラクや富裕者たちに対する闘争を展開するのは不可能だ、と報告した(注64)。
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 (06) しかし、レーニンは、村落の階級敵を作らなければならなかった。村落がボルシェヴィキによる支配の外にあり、かつエスエルの支配下にあるかぎりは、都市部でのボルシェヴィキの政治基盤は、きわめて脆弱だった。
 農民たちは、固定価格で食料を譲り渡すのを拒んだ。このことは、都市部の民衆を農民層に対抗して結集させる機会を、レーニンに与えた。表向きは食料を引き出させるための、しかし実際には、農民層を屈服させるための好機を。
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 ②へとつづく。

2899/R.Pipes1990年著—第16章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓④。
 (16) ボルシェヴィキの中には、このような方法を支持する者もいた。
 国家計画委員会の長のRykov は、強制的な穀物配送と、村落協同組合や私的企業との協力を結び付けることを主張した(注46)。
 別の者たちは、政府が市場価格に近い価格(最低で1pud 60ルーブル)で購入し、国民に割引して販売することを提案した。
 しかし、これら全ては、政治的理由で、却下された。
 メンシェヴィキの<Socialist Coulier>が説明することになるように(注48)、穀物の国家独占は、共産主義者独裁が生き残るには必要不可欠だった。ボルシェヴィキは大量の村落労働者を統制外に置いていたので、穀物生産を支配することに頼らざるを得なかった。
 実際に、この資料によると、1921年の初めまでにボルシェヴィキは、農民を国家の被用者にするというOsinsky の提案について、討議していた。この国家被用者は、あらかじめ当局が決めた土地に種を播き、余剰の全てを国家に引き渡す、という条件のもとでのみ土地の耕作が認められることになる。
 但し、この提案は、Kronstadt 暴乱の発生と新経済政策の採用によって、棚上げされざるを得なかった。
 かりに穀物の取引が自由になっていれば、農民はすぐに富を蓄積し、より大きい経済的自立性を獲得し、かつ深刻な「反革命」の脅威を示していただろう。
 このような危険性を含む措置は、体制が疑いなくロシアを征圧したあとでのみ採られることができた。
 レーニンの政府は、国家権力を保持するために必要であるならば。数百万分人の生命を犠牲にする飢饉に、国を委ねる心づもりでいた。
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 (17) 政治的現実はこうであったので、ボルシェヴィキが1918年の前半に食糧事情を改善しようと執った全ての経済的措置は、役に立たなかった。
 ボルシェヴィキは布令を発しつづけた。食料の収集と配送の過程を修正するか、食料「投機者」を威嚇するかのいずれかだった。
 ボルシェヴィキは執拗に、食料「投機者」を、食料不足の結果ではない、最も過酷な制裁を課すべき原因だと見なした。
 このような布令の中で最も見当違いだったのは、レーニンが1917年12月末に草案を作成した布令だった。レーニンは、こう書いた。
 「食料供給の危機的状況、投機を原因とする飢饉の危険、資本家や官僚層の妨害行為、広く覆う混沌が必要とするのは、悪魔と闘う革命的な非常措置だ。」
 しかし、この「措置」は食料不足とは何の関係もなかった。そうではなく、ロシアの銀行の国有化とロシア政府の国内および国外債務の不履行の宣言を内容としていた(脚注)
 Alexander Tsiurupa によれば、供給人民委員部の1300人の職員のストライキはボルシェヴィキ独裁に抗議するもので、仕事を知らない官僚たちと交替させされたために、状況をいっそう悪化させた(注49)。
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 (脚注) Dekrety, I, p.227-8. これの最後に発せられた版では、財政措置についてのレーニンの怪しい理由づけは、割愛された(p.230).その馬鹿々々さをレーニンですら知ったように見える。
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 (18) ボルシェヴィキは穀物の国家独占を放棄するつもりがなく、当時のプレスが予見していた飢饉を防止するための措置をいっさい何も執らなかった。
 国内の危機に直面した帝制時代のように、官僚機構の改造や手続の変更に頼った。
 これらは彼らが本当に関心をもつ問題に直面した際に採用したものではなかったので、飢餓は彼らの関心対象に含まれないとの結論から脱するのは困難だった。
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 (19) 2月13日、トロツキーが、供給非常委員会の長に任命された。
 彼の任務は、「供給独裁者」として、革命的な非常措置によって都市への食料の流路を整えることだった。この場合に「革命的」とは、婉曲に軍事力の行使を意味していた(注50)。
 しかし、彼が戦時大臣に任命されていたとき、ほとんど責任を負わなかった。供給非常委員会で彼が何かをしたとの記録は、残っていない。
 体制は、国じゅうに、飢えているペテログラードとモスクワを助けよとの訴えを発しつづけた(注51)。国内および外国の「ブルジョアジー」が食料不足の責任があるとする激しい非難で彩られた訴えだった。
 1918年2月、政府は、「運び屋」に対する死刑を命じた(注52)。
 3月25日には、交換の助けで村落地域から食料を引き出そうと試みた。
 政府は、200万トンの穀物と交換に消費用品を購入するために、11億6000万ルーブル—ソヴィエトの出版業の産額の二週間分—を計上した(注53)。
 しかし、この計画が想定する消費用品を見つけることができなかったので、この企ては失敗した。
 4月、現実主義に多少は似た考えから引き出して。政府は、余剰がある地域から穀物を運ぶ新しい鉄道線路を建設する計画を立てた(注54)。
 だが、1メートルの線路も敷かれなかった。かりに敷設されていても、何の違いにもならなかっただろう。
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 (20) 1918年5月の初めまでに、ボルシェヴィキは食料不足の解消のためにもう何もすることができなかった。都市部や工業地域での供給の状況は、警告を発する段階にまで達していたからだ。
 最も多い配給を受けていた労働者たちが飢えてきている、と報告する電報が、クレムリンにどっと届いた(注55)。
 ペテログラードで、1月には自由市場で5ルーブルだった一塊の1ポンド・パンは、今では6〜12ルーブルを要した(注56)。
 何かがなされる必要があった。
 専門家は主張し、工業労働者が要求したのは、穀物の取引を市場の力の自由な働きに委ねることだったが、これは政治的理由で、受け入れ難かった。したがって、別の解決方策を見出す必要があった。
 解決策は、軍事力を用いて村落を侵略し、征圧することだった。
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 第三節、終わり。第四節「村落への軍事作戦の開始・1918年5月」へ。

2898/R.Pipes1990年著—第16章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓③。
 (13) 1918年前半の村落地域の写真を当時のプレスが掲載しているが、それは救いようのない恐怖だ。
 Riazanskaia zhizn’ の3月初めの記事は、Riazan の食料不足はとくに酷かったので、代表的だとは言えないかもしれない。しかし、ロシアの村落がボルシェヴィキによる支配のもとで急速に劣悪化し、原始的アナーキーへ突入したことを示している。
 この地方の農民たちは、政府の酒類店舗から強奪し、長らく泥酔の状態にあった。
 彼らは老人や少女たちに助けられて、酒を飲んで大騒ぎをしつつ、闘い合った。
 静かにさせておくため、子どもたちにはウォッカが無理に与えられた。
 没収あるいはインフレによって貯蓄を失うのを怖れて、通常はブラックジャックで夢中になって賭けをした。ふつうの1人のmuzhik が一晩で1000ルーブルを失うのは、珍しくなかった。
 「老人は、最後の審判の絵を買う。
 農民たちは、心の奥深くで、『世界の終わり』は近い、と信じた。…
 そして、地獄が来る前に、地上に存在し、努力して最近に築かれたもの全てが、破壊されつつある。
 彼らは全ての物を粉砕したので、騒音が地区じゅうに鳴り響く。」(注42)
 食料事情がとくに絶望的な地帯では、農民は「飢餓騒乱」を展開し、視野に入る全ての物を破壊した。
 Novgorod 地方の一地区でのそのような騒乱のあとで、地方の共産党当局は、1万2000人の住民に対して、450万ルーブルの「寄付」を命じた。農民たちはまるで、征服された植民地の原住民であるかのごとくに(注43)。
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 (14) 飢餓は危険をもたらした。しかし、ボルシェヴィキの立場から見ると、積極的な面もあった。
 第一に、食料取引に関する国家独占は。食料供給のためには有害だったとしても、体制が配給制度を保持し続けるのを可能にした。配給制度は、都市住民を統制し、体制支持者を有利に扱うのに役立った。
 第二に、飢餓は住民の意気を沈滞させ、抵抗する意思を奪った。
 飢餓の心理学というものは、よく知られていない。だが、ロシアの観察者たちは、飢餓は民衆を権威ある当局により従う気持ちにさせる、と記した。
 あるボルシェヴィキはこう観察した。
 「飢餓は、創造性の貧しい同伴者だ。
 盲目的破壊性、陰鬱な恐怖、屈服したい気分、連れて行き組織してくれる誰かに運命を委ねたい気持ち、これらを飢餓は掻き立てる。」(注44)
 飢えている者たちは、かりに闘うことができも、食料を求めてお互いに競い合うことに活力を費やした。
 このような政治的無関心は、政治的抑圧以上に、従属性を高めるのに役立つ。
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 (15) ボルシェヴィキは、飢餓がもたらす政治的利益に気づいていた。このことは、唯一の実現可能な方法で飢餓から救うことを彼らは拒んだことで、証明されている。その方法とは、のちにロシアを支配する自信を得た1921年に採用することになる方法、すなわち穀物の自由市場の再導入だ。
 この措置が実施されるとすぐに、生産は増大し、戦争前の高さを回復した。
 これが実施されるだろうというのは、後知恵でのみ分かるのではない。
 1918年5月、穀物専門家のS. D. Rozenkrants はジノヴィエフに対して、食料不足は「投機」によってではなく生産する動機の欠如によって起きている、と説明した。
 穀物の国家独占のもとでは、農民は、自分たち自身の直近の必要以上に穀物を栽培する動機をもたなかった。
 余剰の耕作地に根菜類(じゃがいも、にんじん、ビート)を植えて自由市場に出すことで、それは当局も認めたことだったが、農民はそれらの処理に関してかつて知っていた以上の金銭を稼いだ。
 このようにすれば自由市場で根菜類1pud当たり100ルーブルを得られた。1desiastina の耕作地で5万〜6万ルーブルを稼いだ。
 馬鹿げた固定価格で国家に没収させるだけのために、いったい誰が穀物に手を煩わせるだろうか?
 Rozenkrants は、もし政府がより事業経営的感覚をもつ政策を採用すれば、食料問題は二ヶ月で解決するだろう、と自信をもって表明した(注45)。
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 ④につづく。

2897/西尾幹二批判082—「反共」性。

  西尾幹二・ソ連知識人との対話(文藝春秋、1979)。正確な同一性を確認していないが、同・全集第7巻(2013)の冒頭に収載されているようだ。
 いつまで続いたか知らないが、「日本文芸家協会とソ連作家同盟」との間の取り決めに従ってソ連が毎年3名の日本人「文学者」を招待して<親善旅行>をさせるということが行なわれた。西尾は1977年に作家の加賀乙彦、高井有一とともに参加した。
 日本側は多くは作家・小説家で、西尾のような<文芸評論家>は少なかったこと、しかしなお、政治や歴史等とは異なる、これらの枠外の分野でこの時期に西尾は活動していたことは、注記されておいてよいだろう。
 この旅行(1977年は例外的に約一ヶ月)は、1980年に参加した入江隆則によると、「(ロシアにいる間は)通訳付きの大名旅行」だった。
 入江隆則・告白(洋泉社、2008年)、244頁。
 西尾らの場合もずっと一人の「エレナ・レジナ」という名の通訳が同行したほか、ホテル宿泊費、ソ連内の交通費、基本的な食事費は全てソ連側が負担したようだ。
 そのような元来の「負い目」に関係なく、西尾はあれこれと旅行記、旅行中に感じたことを書いて、一冊の書物にしている。
 対ソ連認識・意識あるいは「反共」感覚という観点から見た場合、なかなか簡単には形容、叙述できないが、当時の西尾幹二の<純朴さ>(<幼稚さ>)が際立っているだろう。
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 第一に、上記の女性通訳は、日本の作家類の「親善使節団」?のために用意された、ソ連共産党の党員、そしてソ連作家同盟に関係のある党員だったと推察されるが、そのような属性について、西尾幹二はまるで関心を示していない。
 スターリン批判後のブレジネフの時代で、スターリン支配下に比べて統制は緩和され、1989年以降に向かってソ連の国家と社会は破綻へと進んでいただろうが、それでもソ連共産党が「一党支配」し、社会各層の幹部層にはなお多く共産党員が配置されていただろう。
 従って、エレナおばさんの言動には、その本来の人柄とともに、党員であること自体や、作家同盟やさらに上部の共産党の意向が反映されていると思われる。しかし、1960年の<安保学生>ではなく、三島由紀夫との若干の交流があったとは言え、西尾幹二はもともとソ連について平均的レベルの知見しか持たないでソ連を訪れたようだ。従って、遭遇し、会話するソ連の人々のうちどの程度が共産党員なのか、その問題を考慮して言動や発言を理解すべきだ、といった問題関心が西尾には全くなかった、と思われる。
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 第二に、従ってまた、ソ連各地のソ連作家同盟または関係団体の人たちとの「会話」も、<ソ連知識人との対話>というほどの次元にまでは達していない。
 多少は相手側に耳の痛いことも西尾は言ったり質問したりしたようだが、ソ連の「政治体制」の<本質>に抵触するものでは全くない。
 それどころか、「死や実存に直面する『個』の危機の主題」(p.26)、「ソ連に“個”の危機は存在するか」(p.197、第9章の表題)、「ソ連人の精神生活の中に、『個』の危機という主題がはたして存在したことはあるのだろうか」(p.206-、p.210)といった関心をもって、接触した「知識人」らしき者たちと「対話」しても、ほとんど成果がなかっただろうことは明らかだ。
 そしてつまるところは、例えば、「個」が不分明になり、「技術文明に寸断された現代世界は、その調和ある統一性がついに失われたことに特徴づけられている」のではないか(p.207)、等々と述懐しておくことに自分の文章の意味を求めているように見える。これは「二つ」の世界を<現代>という語で相対化する議論で、ソ連解体後にひとしきり流行したものだ。
 危機にあったのはソ連、社会主義・共産主義だけではない、「自由主義」・「資本主義」も同様の問題を抱えている、というわけだ。
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 ところで、西尾幹二は、トルストイ、ドストエフスキー、さらにソルジェニーツィンに言及しながら、<ドクトル・ジバゴ>で1956年にノーベル文学賞を(本人は辞退したはずだが)受けたボリス・パステルナークには何ら言及していないようだ。パステルナークと<ドクトル・ジバゴ>(の叙述内容)に立ち入った方が、西尾の文章よりも「ソ連」についてよく理解できるのではないか。
 例えば、→1905/ソヴィエト体制下の「洗脳」とドクトル·ジバゴ(1919年1月)。
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  つぎの中に、ソルジェニーツィンに関する叙述がある。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。同・全集第22巻A(2024)所収。
 前後に同旨の文章がつづく。それは、「過度の自由社会はかえって『自由』を破壊する」という文章に象徴されているかもしれない。それはまた、「自由であるというだけでは、人間は自由になれない」などの文章を含んでいる、同・国民の歴史(扶桑社、1999)の最終章と共通性がある。
 もっとも、西尾における「自由」論は、何やら深遠なことを言っているように見えて、「自由」概念の意味が明確でなく、適当に使われている、気分だけのレトリックにすぎないから、騙されてはならない。
 こうした、じつは訳が分からない「自由」論は、1978年頃の側ではソルジェニーツィンの文章のうち、あえて以下のような部分をとくに引用する西尾の心理とも共通しているだろう。「反共」か否かとは関係がないのだ。
 「たとえどんな場合でも社会主義を選択するよう提案する気はさらさらない」が、「われわれの社会を改造する理想として、諸君の社会を推奨することはできない」。
 「現在の精神的枯渇状態にある西側の制度は、魅力あるものではない。…西側では人間性が酷薄になり、東側ではそれが強固になっていることは、まぎれもない事実である。わが民族は60年の間、…、西側の経験を遥かに凌ぐ精神的学校で学んだのである。艱苦と死によって抑圧された人生が、西側のおざなりな法規で規定された人生よりも、ずっと強力で、深い人間性をつくりだしたのである。」
 「われわれの国のような底無しの無法状態に社会はとどまることはできないが、諸君の国のような無精神の法律的安穏にどっぷり漬かることも無益なことである。何十年もの間、圧政の下に呻吟してきた人間の魂は、広告の醜悪な圧力や、テレビによる愚昧化、…ている今日の西側の大衆生活がわれわれに提示できるものよりも、何かもっと高邁で、温かく、純潔なものに惹かれているのである。」
 「ここ(西側社会)では自発的な自己規制になどはほとんど出会うことはない。法律の枠が割れはじける音を出すまでは、誰もが皆、我が道をゆくのである。…私は今までの生涯を共産主義の下で暮らしたが、次のようにいいたい。公平な法的秤が全く存在しない社会は恐ろしい。しかしだからといって、法的秤以外の、別の秤の存在しない社会も、同じように人間にとって価値がないものである。」
 西尾による引用はもっと長文だが、割愛する。
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 興味深いのは、長々と引用するだけあって、西尾はこのようなソルジェニーツィンの主張を、つぎのように、基本的には肯定的に評価していることだ。
 「現代のわれわれの自由主義文明の弱点に対する一個の徹底的批評としてみたとき、…相当に挑発的であり、説得的でもあります。直接的衝撃性を備えた言葉です。…ひとつひとつに、稲妻のような瞬発的迫力があります。それは結果的に、西側自由主義社会の弱点と矛盾を白日の下にさらすリアリティを秘めているのです。/共産主義社会には自由がなかった、私たちには自由がある、といった素朴な反共思想では世界史は説明がつかないことは以上で明らかです。」
 西尾幹二は、「西側自由主義社会の弱点と矛盾」を指摘されるのに共感を覚える者であり、既述のように、そのかぎりでは、「左翼」とされるアドルノらフランクフルト学派(ドイツ)と似ている
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  西尾幹二は<新しい歴史教科書をつくる会>10周年集会に、この会は「反共」だけではなく「反米」も掲げた最初の運動団体だった旨の文を寄せた。
 <保守派>であれば「反共」を前提とするのは当然だとの物言いだ(同・保守の真贋(徳間書店、2017)も参照)。しかし、この人物がそもそもどの程度に「反共」だったのか、共産主義・社会主義をどの程度理解していたのかは、相当に疑わしく思っている。この人物がマルクス、レーニン等の「マルクス主義者」とされる者やその「思想」内容に論及していたのを読んだことがない(この点、谷沢永一と異なる)。
 また、上の西尾自身の言葉では、少なくとも「素朴な反共思想」だけ持ってはいけないのだ。この人は、心理の奥底では共産主義・社会主義を容認する部分があったのではなかろうか。
 もちろん、この人はいろいろなことをその場かぎりで(頼まれ文章ごとに)書いたので、共産主義等に対して一貫した「思想」をもっていたなどという、幻想を抱いてはいけないのだが。
 なお、上でも触れた同・国民の歴史(原書1999年)の最終章には、今後の我々の時代には何も良いことは起こらず、「共産主義体制と張り合っていた時代を、懐かしく思い出すときが来るかもしれない。私たちは否定すべき対象さえももはや持たない」との断定的文章がある。
 これによると「反共」攻撃、「反共」闘争はもはや必要がない。そして、現在も<日本会議>が設立趣旨で謳っているのと同じ見解が示されている。
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  L・コワコフスキはポーランド共産党員(統一労働者党員)になったあと、その有能さのゆえに、早くも1950年にモスクワ「視察」旅行へと派遣された、という。明確に「反党」的になり、除名されたのは1960年代だが、共産主義・社会主義への不信は、現実のモスクワを見てすでにモスクワ旅行の際に芽生えた、とされる。
 私事だが、この欄で既述のように、私は社会主義国家時代の東独・ドレスデンを訪れたことがある。その際、団体・グループから離れて勝手に「ドレスデン新都市」駅へ行ってその待合室で見た勤労大衆(?)の様子を衝撃をもって憶えている(1980年頃)。
 時代は同じではないが、西尾幹二は「ソ連知識人」と交流したことはあっても、社会の隅々まで、あるいは共産党官僚機構の実態まで、ソ連との「親善」旅行では知り得なかったのだろう。
 「自由」概念がそもそも同じでないだろうから、「共産主義社会にはなく、われわれにはある」と単純には言えないだろう。
 しかし、ポーランド育ちのL・コワコフスキですら幻滅させるものが、私ですら「愕然とする」ものが、社会主義社会にはあったと思われる。そのかぎりで、人々の精神構造も含めて(これは遺伝子ではなく出生後の教育・社会環境による。「国家」への意識・人間関係意識も含む)、やはり両体制は「質的に」異なっていた(異なっている)と感じる。
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2896/R.Pipes1990年著—第16章⑥。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓②。
 (07) ブレスト=リトフスク条約の結果として、ロシアは、従前は穀物類の三分の一以上を国に供給していたウクライナを失った。また、1918年6月にはチェコスロヴァキア軍団の反乱がシベリアへの途を切断した。これらをさらに認めるならば、1918年半ばに中央および北部ロシアの住民を襲った悲劇的な状況が、明確になる。
 全ての都市と工業中心地、および生産が少ない、あるいは成長途上の家内工業のある多数の村落は、飢えに苦しみ、かりに天候が悪化すれば厄災的な飢饉の可能性がほとんど確実に見込まれる事態に直面した。
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 (08) ボルシェヴィキにとって、この状況は、危険であるとともに、好機だった。
 都市部と工業地域での飢餓は不満を掻き立て、ボルシェヴィキの政治基盤を奪った。
 1918年、ロシアの都市部では、食料不足を原因とする騒擾が恒常的に起きた。
 状況はペテログラードではとくに破壊的で、1918年1月後半には、毎日の配給は、麦藁の粉を混ぜた4オンスのパンだった(注33)。
 これだけの配給では生活を維持できなかったので、住民は自由市場に頼らなければならなかった。そこでの価格は、食料行商人に対するチェカの嫌がらせによって、人為的に高くされていた。
 自由市場では、パンの価格は1ポンド当たり2ルーブルと5ルーブル超の間で揺れ動いた。この価格では、かりに幸運に雇用されていても、一月に多くて300-400ルーブルを稼ぐにすぎない労働者の手には届かなかった(注34)。
 1918年の1年間、ペテログラードでのパン配給量は、数日ごとに上下した。武装した逃亡者や待ち伏せる農民の攻撃を受ける列車の供給量に依存していたからだ。攻撃者が警護者の力を上回れば、彼らはすぐに列車の内部を剥ぎ取った。そして、列車は空でペテログラードに到着した。
 3月にペテログラードでのパン配給は、僅かに上がって6オンスになり、4月末には2オンスまで落ちた。
 地方の諸都市でも、状況は変わらなかった。
 例えばKalugaでは、1918年初頭の毎日の配給割当量は、5オンスに設定されていた(注35)。
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 (09) 飢えを回避するために、住民は群れをなして都市部から逃亡した。逃亡者の中には、戦時中は防衛産業で働き、軍を除隊された者もいた。
 当時の統計資料は、ペテログラードの人口の劇的な減少を示している。すなわち、1917年1月にペテログラードで雇用されていた工業労働者の60パーセント(36.5万人のうち22.1万人)が、1918年4月までに村落地域へと逃亡した(注36)。
 ほとんど同じ割合の逃亡が、モスクワでも起きた。
 革命と内戦のあいだに、モスクワは人口の二分の一を失い、ペテログラードは三分の二を失った(注37)。これは、ロシアの都市化傾向を劇的に逆転させ、その田園的性格を強めた(脚注)。
 ロシアの統計学者は、こう推算している。1917年と1920年の間に、88万4000世帯の家庭、あるいは500万人が、地方に向かって都市部を捨てた(注38)。
 この数は、戦争中に都市部へと移住した農民の数(600万人)にほとんど匹敵している。
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 (10) 残った者たちは、食料不足について、不満を言い、示威活動をし、ときには騒動を起こした。
 下層の男女は、飢餓に狂乱し、食料倉庫や店舗から略奪した。
 新聞紙は、「パンをよこせ!」と叫びながら街頭を駆け抜ける主婦たちに関する報告を掲載した。
 並み外れた価額を要求する行商者たちは、リンチに遭う危険があった。
 多くの都市は、外部者を排除する条例を制定した。
 ペテログラードは、厳格に封印された。レーニンは、1918年2月に、非居住者が首都やロシア北部の一定の地域に入ることを禁止する布令に署名した。
 その他の諸都市も、同様の命令を採択した(注39)。
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 (11) 飢餓と無法の雰囲気の中で、都市部では犯罪が増加した。
 警察の記録は、ペテログラードの住民による報告数についてこう示している。ボルシェヴィキによる支配の三ヶ月め、住居侵入1万5600件、店舗略奪9370件、スリ20万3801件、殺人125件(注40)。
 どの程度の犯罪数が報告されなかったのかは、定かでない。だが、きわめて多数だったはずだ。当時は、通常の強盗犯罪が「収用」を実施するとの言い分のもとで行なわれるのは普通だったからだ。そうした犯罪の犠牲者は、恐怖に怯えて報告できなかった。
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 (12) 村落地域もまた、無法で覆われていた。
 若干の地方(Voronezh等)では、食料は豊富だった。その他の地方(Riazan等)では、絶望的に不足していた。ある地区には十分な余剰があるが、その近傍の諸地区は飢餓に瀕している、ということは珍しくなかった。
 通常は、余剰をもつ者は、自由市場で売却するか、穀物の国家独占は終わるだろうと期待して貯蔵するかのどちらかだった。
 慈善活動は、知られていなかった。十分な食料のある農民は、飢えた者に与えるのを拒んだ。乞い求める者がやってくれば、追い払った(注41)。
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 ③へとつづく。

2895/私の音楽ライブラリー058。

 私の音楽ライブラリー058。
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 128 →小椋佳・とき—1976年。〔motoko takeuchi〕
  小椋佳・歌唱、同・作詞、同・作曲。

 129 →小柳ルミ子・恋の雪別れ—1973年。〔hirornn728〕
  小柳ルミ子・歌唱、安井かずみ・作詞、平尾昌晃・作曲。

 097〈再〉→五輪真弓・雨宿り—1981年。〔itchelielie〕

 033〈再〉→井上陽水・ジェラシー—1981年。 〔kantarokanna〕
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2894/R.Pipes1990年著—第16章⑤。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓①。
 (01) 革命の経済的社会的推移は、こうして、ボルシェヴィキが最初から直面していた諸問題を悪化させた。
 ボルシェヴィキはすでに圧倒的に「プチ・ブルジョア」である国で「プロレタリアートの独裁」を宣言したのみならず、彼らの政策をいっそうその方向に向けた。
 政府は1918年の初夏に村落を攻撃する決定を下した背景には、以上のことがあった。
 この決定がなされた正確な事情は知られていないが、利用可能な情報は十分で、その先例と内容について概述することは不可能でない。
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 (02) 十月のクーの場合もそうだったように、ボルシェヴィキは、村落地帯への攻撃を開始するに際して、偽りの目標を掲げて行動した。
 彼らの本当の目的は、農民層を支配することによって十月のクーを完了させることだった。
 しかし、これは知られるスローガンにはならなかっただろうから、ボルシェヴィキは農民層に対する実力行使を伴なう運動(campaign)を、飢えている都市部のために「クラク」〔富農〕から徴発する、という表向きの目的でもって、実行した。
 もちろん、食料不足はきわめて現実的な問題だった。しかし、後述するように、村落地帯から供給を引き出す、容易で効果的な方法があった。
 ボルシェヴィキ内部の議論では、権限ある機関は率直に、食料徴発は副次的な仕事だ、と認めていた。
 こうして、ボルシェヴィキの秘密報告書は、全ての村落に貧民委員会を設置することを命じる布令に言及して、採られるべき措置を、つぎのように説明した。
 「村落の貧民委員会の組織化に関する7月11日の布令は、組織化の性格を明確にし、それに供給するという役割を与えた。
 しかし、その本当の目的は、<純粋に政治的>だ。
 村落での階層化を実現すること、この層に積極的な政治生活を送らせること。この層はプロレタリア社会主義革命に適合しそれを実現するする能力をもつ。また、村落ソヴェトの支配権を握って、ソヴィエトの社会主義建設に反対する機関に変えている、そのようなクラクや豊かな農民の経済的社会的影響力から自由にすることで中間的勤労農民をこの途へと導くことすらできる。」(注30)
 言い換えると、都市部のための食料の摘出(「供給という役割」)は、社会的憎悪に火をつけてボルシェヴィキを村落に送り込む、という政治的活動を覆い隠す偽装(camouflage)だった。
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 (03) 革命前のロシアでは、市場に届く大量の食料は、大規模の私的な土地と富裕な農民の農場のいずれかから来ていた。いずれも、労働者を雇用していた。
 中間のおよび貧しい農民は、生産する食料のほとんど全てを自分たちで消費した。
 全ての貴族の土地や農民が私的所有物として保持した土地の多くが没収され、村落共同体に配分された。これは政府が雇用労働を禁止したことで(広範囲で無視されたとしても)いっそう進められた。そして、村落共同体への土地配分は、非農業国民への食料の主要な供給源を奪い去った。
 田園地帯のロシアが自己充足的な前資本主義時代に移行するに伴ない、非農業国民は飢餓に直面した。
 このことだけで、ボルシェヴィキのクーの後で起きた過酷な食料不足に寄与した(脚注1)
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 (脚注1) かつて私的に所有された農業用地の約三分の一—耕作されている土地面積の3.2パーセント—は主として「技術的」文化に用いられた大規模不動産だったが、国家が運営する集団農場のために奪い取られた。それらは、理論的には、都市部での食料不足を緩和するのを助けることができただろう。しかし、その在庫は地方の農民によって奪われていたので、できたとしても、ほとんど助けにならなかった。
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 (04) このような逆境にあっても、農民は都市住民に食糧を供給できていたかもしれない。主な理由がどのように見えようとも、ボルシェヴィキが、農民から余剰を手放すという気持ちを奪わなかったならば。
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 (05) 臨時政府が採択してボルシェヴィキが維持した数少ない措置の一つは、1917年3月25日の法律(law)だった。これは、穀物取引の国家独占を定めていた。
 この法律の条項によると、生産者が個人的な需要を充足し、種として備えたあとで残った全ての穀物は国家に帰属し、固定の価格で国家機関に売却されなければならなかった。
 引き渡されなかった余剰の穀物は、半額で徴発された。
 臨時政府はこうして収穫の14.5パーセントを獲得した。だが、そうであっても、臨時政府に権力があるあいだは、穀物取引は従前どおりに行なわれた。
 しかし、ボルシェヴィキは、この規則をいっそう無慈悲に実施し、穀物やその産物を消費者に販売する行為全てを、厳格な制裁に服すべき「投機」として扱った。
 ボルシェヴィキ支配の最初の数ヶ月、チェカはその活動のほとんどを、「運び屋」農民(meshochmiki)を追及し、彼らの商品を没収することに費やした。チェカはときには、行商する農民を投獄し、処刑すらした。
 妨害されなければ、農民たちは続行し、数百万人に食糧を与えた。
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 (06) ボルシェヴィキ政府は、農民が余剰の穀物を、インフレによっていっそう馬鹿げたものになっている価格で政府機関に売却するよう、強く要求した。
 1918年8月に公定価格は、ライ麦1pud(16.3キログラム)当たり(地域によって異なり)14〜18ルーブルと設定された。一方、自由市場では、1pud 当たりモスクワで290ルーブル、ペテログラードで420ルーブルで売れていた(脚注2)
 1919年1月に統制下に入った肉やジャガイモのようなその他の食品についても、公定価格と自由市場の価格には同様の乖離があった。
 農民たちは、このような価格政策に対して、穀物を隠蔵するか、耕作地の面積を少なくすることで抵抗した。
 穀物の収穫量が低下したのは、しごく当然のことだった(注32)。
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 (脚注2) Kabanov, Krest’ianskoe khoziaistvo, p.159. 生産物に対してこのような非現実的な価額を受け取った農民たちは、毎日少なくなっている工業製品(マッチ、釘、灯油等)を自由市場の価格で購入しなければならなかった。
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 ②へとつづく。

2893/R.Pipes1990年著—第16章④。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第二節/農民が1917-1918年に得たもの·失ったもの③。
 (13) レーニンの土地布令は、「ふつうの農民およびふつうのコサック」の所持物を収用から除外した。
 しかし、中央ロシアの多数の区域で、共同体の農民はこの条項を無視して、地主の持つ土地とともに仲間の農民に帰属する土地を奪うにまで進んだ。そして、それらを配分のための村落共同体の貯え地にした。
 <khutora>と<otruba>のいずれも、農民によるこの奪取の中に含まれた。また、Stolypin の立法を利用して村落共同体から離脱した耕作者の、かつての共同体の土地も含んでいた(脚注1)
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 (脚注1) <otruba>は、共同体用の細片土地と混ぜられた割当土地のことだった。<khutora>は、分離した農場をいう。いずれも、私的財産として所持された。
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 結果として、すぐさま、農民たちはStolypin の農業改革の成果の多くを消滅させた。村落共同体の原理が、それ以前の全てを一掃したのだ。
 共同体の農民は、その構成員が共同体の外部から購入した土地を同じように取り扱った。このような土地も、村落共同体の留保分に追加された。
 あちこちで、村落共同体は、その割当土地の大きさまで狭くするという条件で、その財産を農民たちに委ねた。集団化の直前の1927年1月、ロシア共和国(RSFSR)にある農地の2億3300万<desiatiny>のうち、2億2200万、あるいは95.3パーセントは、共同体が所持していた。そして、800万、あるいは3.4パーセントだけが、<otr uba>または<khutora>として、つまり、私的財産として所持されていた(注24)。
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 (14) このような事実を見ると、ロシアの農民層は、無償で、大量の農地を革命から獲得した、と言うのは、誤解を招くものだ。
 得たものは、寛容でも、無料でもなかった。
 ロシアの農民層を同質のものとして扱うことはできない。「ロシアの農民層」という言葉は、数百万の個人を覆い隠す抽象的なものだ。
 個々の農民の中には、勤勉、節約、事業感覚の力で資本を蓄積するのに成功した者もいた。この資本は現金で所持されるか、または土地に投資された。
 この全ての現金とほとんど全ての土地を、彼らは今や失った。
 こうした要因を考慮すると、共産党が支援するduvan のもとで獲得した財産のために、muzhik は過大な支払いをした、ということが明らかだ。
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 (15) 農業革命は、農民をより平等にした。
 1917-18年にロシアで行なわれた大分配で、村落共同体は、標準よりも大きかった保有物を減らした。割当土地を分配するため共同体の主要な規準は、家族ごとの edoki または「食べる者」の数だったので。
 このような方法を採ることによって、広い割当土地(4 desiatiny 以上)をもつ家族の数は、ほとんど三分の一にまで(30.9から21.2パーセントへと)減った。一方で、4 desiatiny 未満だけを保有する家族の数は顕著に増加した(57.6から72.2パーセントへ)(脚注2)
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 (脚注2) Gerasimiuk, ISSSR, No. 1(1965), p.100; O zemle: sbornik statei, I(1921), p.25 は、若干異なる数字を示す。大規模な所持の減少は、ある程度は、核家族が増えたことによる、共同家族の解体の加速によった。核家族は19世紀遅くにすでに始まっていたが、ボルシェヴィキの土地政策がそれを促進した。農民は没収された資産の配分に加わりたいと考えるが、家族の長であれば最善を尽くすことができるからだ。
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 この数字が示すのは、「中間農民」の数のかなりの上昇が起きた、ということだ。この層の数の上昇は、土地の豊かな農民の数の減少と、従前は土地を持たなかった農民に割当土地が与えられたことによって、生じた。土地を持たない農民の数は、ほとんど半分に減った(注25)。
 このような平準化の結果として、ロシアは、かつて以上に、小農民たち、自己充足的農民たちの国になった。
 当時のある者は、革命後のロシアを、「小さな商品生産者が…分割された土地を平等に管理し、規模がおおよそ同等の小区画の網を形成することを成し遂げた、ハチの巣」になぞらえた(注26)。
 マルクス主義の専門用語での「中間農民(中農)」—労働力を雇用せず、自らのそれを売りもしない者—が、農業革命の最大の受益者として出現した。これは、ボルシェヴィキが承認するには時間を要した事実だ。
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 (16) もちろん、誰もが黒の大分配から利益を得たのではなかった。それの主要な受益者は、1917年にすでに共同体の割当土地を持ち、村落共同体の集会を支配した者たちだった。
 1917年と1918年に割当土地を求めて都市部から村落へと流れるように戻っていた農民の多数は、再配分から排除されなかったし、標準以下の土地を受け入れるのを強いられることもなかった。同じことは、無収入を終わらせた土地を持たない農民(batraki)の半数についても言えた。
 暮らし向きのよい農民たちは、ボルシェヴィキ当局の意向を、無視した(注27)。当局は、土地社会化布令によって、村落ソヴェトに対して土地を持たないまたは土地の少ない農民への特別の配慮を示すよう指示したのだったが。
 ロシアには要するに、「社会化」という名のもとで要求する全員に標準的な規模の土地を与える、十分な農地がなかった。
 その結果として、土地を持たないまたは土地の乏しい村落共同体の農民は、せいぜい小さな割当土地しか得られなかった(注28)。
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 (17) ロシア革命は、村落共同体を歴史的な遠い地点まで運んだ。逆説的に言えば、ボルシェヴィキが農民を軽蔑していたとしても、村落共同体に黄金時代をもたらしたのは、ボルシェヴィキだった。
 「この数十年のあいだ削り取られてきた共同体は、国の事実上は全ての農業用地の上で花咲いた」(注29)。
 これは、ボルシェヴィキがただちには反対しなかった自然発生的な過程だった。反対しなかったのは、村落共同体はボルシェヴィキのために帝制時代と同じ機能を果たしたからだ。—すなわち、国家への義務を遂行するのを保障すること。
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 ③終わり。つぎの第三節へ。

2892/R.Pipes1990年著—第16章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき、
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 第二節/農民が1917-18年に得たもの·失ったもの②。
 (08) しかし、この少ない数字ですら、配分からの利益を過大評価していた。
農民が1917-18年に得た土地のかなりの部分(3分の2)は、彼らは以前から賃借りしていたからだ。
 したがって、土地の「社会化」は、地代の支払いを免除したほどには、利用できる耕作可能地を増加させなかった(注17)。
 一年で7億ルーブルと推算されている地代支払いの免除に加えて、共産党体制によって、農民土地銀行への債務も農民たちは取消された。それで得た利益は、140万ルーブルに昇った(注18)。
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 (09) 農民たちは土地への新しい権利を懐疑的に見ていた。新政府はいずれ集団制を導入するつもりだ、と聞いていたからだ。1918年4月に発せられた土地の社会化に関する布令は、村落共同体への土地の移行は「暫定的」または「一時的」(vremennoe)だと述べていた。
 農民たちはいつまで所持し続けることができるかと懸念し、まるで翌年の収穫が終わるまでのように行動することに決めた。
 そのゆえに、村落共同体が獲得した土地を一括するのではなく、別々に維持した。新しい土地の引き渡しが要求されても、彼ら自身の古くからの割当土地を保持できるようにするためだった(脚注1)
 その結果として、嘆かわれもした細片農業(strip farming, cherespolositsa)は増大した。
 多くの農民たちが、新しい割当土地に行くために、15、30、そして60キロメーターも、移動しなければならなった。その距離があまりに大きすぎれば、彼らは単直にその割当土地を放棄した。
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 (脚注1) 1918年10月から1920年11月までTambov 地方の村落に住んだある知識人によると、農民たちは、皇帝によって与えられたのではないがゆえに、獲得した土地が本当に彼らのものであるかを疑っていた。A. L. Okni nskii, Dva goda sredi krest’ian(Riga, 1936), p.27. 得た土地を分け与えることが強要された場合、貧しい農民に割当てられた土地がそれに使われた。
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 (10) ロシアの農民が革命に由来して得た経済的利益について、述べた。
 彼らは、決して自由ではなかった。
 歴史家たちは、農業革命が農民にもたらした代価を、通常は無視する。それは相当に大きかったと言えるにもかかわらず。
 この代価には、二つの性格があった。第一は、インフレによる貯えの喪失。第二は、農民に(村落共同体のではなく)私的所有権があるとして所持していた土地の喪失。
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 (11) ロシアの農民層は、革命以前に、相当の貯えを蓄積してきた。そのいくぶんかを家で所持し、残りを国立貯蓄銀行(sberegatel’nye kassy)に預けた。
 こうした貯蓄は、農民が高騰する食糧価格から利益を得た幸運な戦時と革命の第一年のあいだに、相当に大きくなった。
 十月のクーのときに農民の貯蓄がいかほどだったかを正確に計算することは不可能だ。
 だが、伝えられる推算を補完するものとしての公式の資料から、若干の考えが生じる。
 1914年の初めに、国立貯蓄銀行は、15億5000万ルーブルを預かっていた(注21)。
 1914年7月と1917年十月の間に、50億ルーブルを追加した、と推計され、かつ、これのうち60-75パーセントは村落の預金者に由来すると考えられている(注22)。
 十月のクーの時点で、農民は、貯蓄銀行におよそ50億ルーブルを預けていたと推計し得る。これに、家庭で所持していた金銭が加えられなければならない。
 ボルシェヴィキは、民間銀行を国有化する布令の対象から貯蓄銀行を除外した。そのために理論上は、農民その他の小預金者は、自分たちの金銭を出し入れすることができた。
 しかし、ほどなくして、インフレが預金を無価値にした。まるで完全な没収があったごとくに。
 前の章で述べたように、ボルシェヴィキは、貨幣の価値を下げることを意図的にかつ体系的に進めた。彼らが支配した最初の5年間で、ルーブルの購買力は、100万分の1に下落した。このことで、紙幣はただの色が付いた紙になった。
 この結果として、ロシアの農民たちは、地主の土地を無料で受け取った以上にはるかに、犠牲を払った。
 農民たちは、使用することが認められた2100万<desiatiny>の代わりに、銀行預金だけで推計で50億ルーブルを失った(脚注2)
 現金を家の中に隠したり、地中に埋めたりして加えて70-80億を持っていた、との当時の推計を受け入れるとしても、1エーカーの耕作可能地(0.4 desiatiny)という平均的な割当土地の代わりに、農民たちは、1918年以前の64.4ルーブルを支払っていた。
 革命前、この土地の平均的価格は、64.4ルーブルだっただろう(脚注3)
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 (脚注2) 戦前のルーブルは金0.87グラムの価値があったので、この貯蓄で3900トンの金塊を購入できただろう。
 (脚注3) 1906年〜1915年に土地銀行が地主から購入した資産には、平均して、1 desiatina 当たり161ルーブルを要した。P. I. Liashchenko, Istoriia narodnogo khoziaistva SSSR, II, 3rd ed.(Leningrad, 1952), p.270. 農民家庭内の貯蓄の推計は、つぎによる。NZh, No. 56/271(1918年3月31日), p.2.
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 (12) 農民たちが新しい割当土地を得るためには、もうひとつの態様の犠牲を払わなければならなかった。
 ロシアでの私的に所有された土地について語るとき、土地布令が没収と配分の対象として指定した地主(landlord,pomeshchiki)、帝室、商人の土地を思い浮かべがちだ。
 しかし、革命前のロシアでの私的な農業用地(耕作地、森林、牧草地)の多く(三分の一以上)は、農民層の財産だった。それらは個人によって、またはより通常は団体によって、所持されていた。
 実際に、革命の直前には、農民とコサックたちが「地主」とほとんど同じ広さの土地を保有していた。
 1915年1月のヨーロッパ・ロシアでの土地(耕作地、森林地、牧場)である9770万<desiatiny>のうち、3900万、あるいは39.5パーセントは地主(貴族、官僚、将校)が、3400万(34.8パーセント)は農民とコサックたちが所持していた(注23)。
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 ③へとつづく。

2891/R.Pipes1990年著—第16章②。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第16章・村落への戦争>の試訳のつづき。
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 第二節/農民が1917-18年に得たもの·失ったもの①。
 (01) ボルシェヴィキによる村落への攻撃の成功と失敗を理解するためには、ロシアの村落経済への革命の影響を考えることが必要だ。
 以前に記述したように、ボルシェヴィキは1917年十月に、自らの農業綱領は傍に置いて、土地の国有化に集中した。それは農民層にもっと人気があったエスエルの土地綱領を支持していたからでもあった。エスエルの土地綱領は、補償なしでの土地の収用、小農民の帰属資産を除く、私的に所持された全ての土地の村落共同体への配分、を訴えていた。
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 (02) 中央ロシアの農民たちが土地布令を歓迎したことに、争いはない。それは、彼らの古くからの夢だった「黒の分配」を実現するものだった。
 私的な所持物が取り去られそうだったがゆえに迷っていた農民たちですら、避け難いこととして従った。
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 (03) しかし、このような基本的に煽動的で戦術的な措置がロシア農民の経済的地位を有意義に改善したのか、あるいは国全体の利益になったのかは、全く別の問題だ。
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 (04) 動かない客体である土地は、もちろん、たまたま存在している場所でのみ分配され得る。
 革命前のロシアでは、土地布令によれば収用の対象となる大量の私的な(非村落共同体の)土地は中央の大ロシア地域にではなく、帝国の周縁部に位置していた。前者はボルシェヴィキが支配しており、人口過剰の影響を最も受けていた。後者はBaltic 地域、西部地方、ウクライナ、北コーカサスで、これら全てが1917年十月以降はボルシェヴィキの支配から外れていた。
 その結果として、ボルシェヴィキ支配地域で分配可能な土地がある部分は、農民の期待を充足するには相当に不足していた。
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 (05) しかし、この地域でも、農民は奪取した土地を外部者(inogorodnye)にも近隣の村落共同体出身の農民にも分け与えることを拒んだので、公正な土地の配分を行なうのは困難だった。
 以下は、土地の配分が実際にどのように行なわれたかを示す、当時の文章だ。
 「農業問題は、単純な方法で解決することができる。
 地主が持つ土地の全体は、村落共同体の財産になる。
 全ての村落共同体は、従前の地主から土地を受け取る。そして、かりにある共同体には多すぎ、近隣の共同体には不足しているとしても、いかなる外部者にも、一片なりとも譲り渡さない。…
 (余剰の)土地があれば、別の村落共同体出身の農民の手に移るのでないかぎり、元の地主に譲る方をむしろ選ぶ。
 農民たちは、地主はその土地を使用するかぎりはなおも何がしかを稼ぐことができ、必要となれば土地を手放すだろう、と言う。」(注09)
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 (06) ロシアの農民層が1917-18年に耕作可能な土地をどの程度獲得したのかを決定するのは、容易でない。見積りの幅は広く、小さくて2000万から大きくて1億5000万<desiatiny>〔土地面積の単位—試訳者〕に及ぶ(注10)。
 大きな障害は、「土地」(zemlia)という言葉の曖昧な使用方法にある。
 革命後に行なわれた種々の統計調査で採用されているように、「土地」はきわめて異なる物を指し示している。耕作可能な土地(pashnia)というのが最も有益な使用方法だが、しかし、牧草地、森林、経済的価値のない土地(荒野、沼地、ツンドラ)も指し示していることがある。
 1億5000万<desiatiny>という狂信的な数字に辿り着くことができる、というのは、「土地」という意味のない項目の中に以上のような雑多な対象を一まとめにすることにすぎない。
 この1億5000万という数字は1936年に初めてスターリンによって採用され、長らく、共産主義の文献上は拘束的だった。革命の結果としてロシアの農民が獲得した、と主張されている(注11)。
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 (07) 信頼できる統計資料は、はるかに穏便な結果を示している。
 1919-20年に農業人民委員部が編集した数字が示しているのは、農民たちは全部で2115万<desiatiny>(2327万ヘクタール)を受け取った、ということだ(注12)。
 この土地は、きわめて不公平に分配された。
 ロシアの村落共同体の53パーセントは、革命によっていかなる土地も獲得しなかった(注13)。
 これはほとんど、村落数(54%)に対応している。同じ資料元によると、これらの村落は土地の再配分の結果について、「不幸だ」と感じた、と言ったという(注14)。
 村落のうち残る47パーセントは、きわめて不平等な分け前で、耕作可能な土地を獲得した。
 数字が存在する34の地方のうち、6地方の村落共同体は、一人当たり10分の1<desiatiny>以下しか受け取らなかった。
 12地方の村落共同体は、10分の1から4分の1を得た。
 9地方では、4分の1から2分の1を得た。
 4地方の農民たちは、2分の1から1<desiatina>を得た。
 残る3地方でのみ、農民たちは一人当たり1から2を得た(注15)。
 全国的には、農民一人当たりの平均的な耕作可能土地の共同体への配分は、革命前は1.87であったところ、2.26<desiatiny>へと上がった(注16)。
 これは、成人(edok)一人当たりの耕作可能土地が0.4<desiatina>または23.7パーセント増加したことを示しているだろう。
 最初に1921年に引用されたこの数字は、最近の研究で確認されてきている。
 その中で最も権威のある研究は、いくぶんか曖昧に、平均的な農民が受け取ったのは0.4<desiatina>を「超えなかった」、おおよそ1エーカーだった、と述べている(脚注)。この数字は、黒の大分配から農民が期待したよりもはるかに少なかった。
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 (脚注) V. R. Gerasimiuk, ISSSR, No. 1(1965), p.100. V. P. Danilov, Pereraspredelenie zemel’nogo fonda Rossii(Moscow, 1979), p.283-7 〔引用元省略—試訳者〕は、革命の結果として農民の所持分は増加した、と言う。しかし、この数字からは、集団農場やその他のソヴィエト農場が取得した土地を控除しなければならない。19世紀後半の急進的知識人は、農民たちは黒の大分配によって5から15 desiatiny を得られると望んでいる、という農民の声を収集した。V. L. Debagorii-Mokrievich, Vospominaniia(St. Petersburg, 1906), p.137.および、G. I. Uspenskii, Sobranie Sochinenii, V(Moscow, 1956), p.130.
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 第二節・②へとつづく。

2890/R.Pipes1990年著—第16章①。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳。
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 第16章・
 1918年春まで、村落共同体は、二月革命以降に手にした資産をその構成員に分配した。
 その後の分配は、ほとんどなかった。動員解除された兵士や遅れて到着した工業労働者たちは、土地割当てを稀にしか受けることがなかった。
 しかし、奪取した土地を平穏裡に享有することができると期待した農民たちは、やがて間違っていたと知った。
 ボルシェヴィキにとっては、1917-18年の「大分配」(Grand Partition)は、集団化への迂回路にすぎなかった。
 ボルシェヴィキは、農民たちが自分たちの消費と播種用に必要とする量以上の穀物は国家のものだとするかつての勅令を依り所として、収穫物についての権利を主張した。
 穀物についての自由市場は、廃止された。
 農民たちは、予期していなかった状況の変化に当惑し、その資産を守るために激しく戦った。暴乱となって立ち上がったのだが、それは、数と領域の点で、帝制ロシアで見られたものを超えていた。
 だが、ほとんど役に立たなかった。
 農民たちは、「強奪する」と「強奪される」はたんに同じ動詞の異なる様態にすぎないことを知るようになった。
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 第16章・第一節/農民を階級敵とするボルシェヴィキの見方。
 (01) 十月のクー・デタの最大のパラドクスは、おそらく、一国での「プロレタリアートの独裁」を確立するためにそれが追求されながら、労働者(自己使用の職人を含む)は有給の被用者のせいぜい10パーセントを構成するだけで、十分に80パーセントは農民だったことだ。
 そして、社会民主党の見方では、農民層—土地のない農業労働者という少数者を除く—は、「ブルジョアジー」の一部であり、そのような者として、「プロレタリアート」の階級敵だった。
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 (02) 自己雇用の(または「中間の」)農民の階級的性格の認識は、社会民主党と社会革命党の間で一致していない中核的問題だった。後者の社会革命党は、「勤労者」(toilers)として工業労働者に随行する農民と位置づけた。
 しかしながら、マルクスは、農民を労働者の階級敵、「古い社会の防波堤」と定義した(注01)。
 カール・カウツキーは、農民層の目標は社会主義のそれとは反対だ、と主張した(注02)。
 1896年に社会主義インター大会で提起された農業問題に関する声明で、ロシア社会民主党代表団は、農民は社会主義思想に閉ざされた遅れた階層で、放っておくのがよい、と述べた(注03)。
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 (03) レーニンも、このような評価に賛成だった。
 1902年に、こう書いていた。
 「小生産者で小耕作者の階級は、<反動的>階級だ」(注04)。
 しかし、彼は、何らかの理由で現状に不満をもっている全ての集団と階級を革命の過程へ引き込むという彼の一般的な政策方針に沿って、「プロレタリア」の教条を助ける「プチ・ブルジョア」の農民層を許容した。
 この点で—戦術の問題にすぎないのだが—、レーニンは他の社会民主党員と違っていた。
 レーニンは、ロシアの村落は大部分はまだ「封建的」関係に支配されている、と想定した。
 農民層がこのような秩序と闘うかぎりでは、「進歩的」役割を果たした。
 「我々は、完璧で無条件の、改革的ではない革命的な、農奴制の残存の廃止と破壊を要求する。
 我々は、地主政府が奪い取って彼らを今日まで事実上の農奴制のもとに置き続けている土地は農民のものだ、と承認する。
 このようにして、我々は、—例外を設け、特殊な歴史的状勢を理由として—小資産者の擁護者になる。
 しかし、我々は、『旧体制』を残存させるものに対する闘争のかぎりでのみ、農民層を防衛する。…」(注05)
 レーニンが1917年にエスエルの土地綱領を採用し、ロシアの農民に私的に所持している土地を奪い取るよう勇気づけたのは、このような純粋に戦術的な考慮からだった。
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 (04) しかし、この戦術の目的—「旧体制」と「ブルジョア」継承者の崩壊—が達成されると、レーニンから見れば、農民層は、「プチ・ブルジョア」反革命という伝統的役割へと立ち戻った。
 反動的な農民の海で溺れている、ロシアでの「プロレタリア」革命の危険性が、ロシアの社会民主主義者に強迫観念を植え付けた。彼らは、フランスの農民層がとくに1871年に都市の急進主義を抑圧したような役割を、ロシアの農民層が果たしている、と意識していた。
 可能なかぎり早く西側の産業諸国に革命を拡散しようとするボルシェヴィキの強い主張は、相当な程度で、このような運命に陥るのを避けたいという思いでもって掻き立てられていた。
 農民を土地の永続的な所持者の地位に置いたままにすることは、都市部への食糧供給者、革命の要塞として管理するのと同じことを意味した。
 レーニンは、ヨーロッパの諸革命は「村落ブルジョアジー」を排除しなかったがゆえに失敗した、と記した(注06)。
 より狂信的なレーニン支持者の何人かにとっては、レーニンがエンゲルスに従って同盟者と見なそうとした土地を所持しない村落プロレタリアですら、信頼することができなかった。彼らもまた、結局は農民だった。—つまり、潜在的には、クラク〔富農〕だった(注07)。
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 (05) レーニンは、歴史を繰り返させない、という気でいた。
 彼が西側での革命の勃発を強く当てにしても、彼が支配することのできない外国での情勢発展にロシアの革命を依存させようとはしなかった。
 彼は、ソヴィエト・ロシアでの農民問題を熟慮して、二段階の解決方法を考えた。
 長期的には、唯一の満足し得る結果は、集団化だった。—すなわち、全ての土地と生産物の国家による収奪および農民の賃労働者への移行。
 この措置だけが、共産主義という目標と最初に権力に到達したという社会的現実のあいだの矛盾を解消するだろう。
 レーニンは、1917年の土地布令とボルシェヴィキが十月後に導入したその他の農業上の措置を一時的で便宜的なものと見なした。
 情勢が許すかぎりで速やかに、村落共同体は土地を剥奪され、国家が運営する集合体に変わるだろう(脚注)。
 この長期の目標には、何ら秘密がなかった。
 1918年と1919年の多くの場合に、ソヴィエト当局は、集団化は不可避だと確認した。1918年11月の<prauda>の一記事は、体制がそうできるようになると、「中間農民」は「叫んで蹴飛ばす」(volcha i ogryzaias)集団農業へと引き摺り込まれるだろう、と予見した(注08)。
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 (06) そのときまで、レーニンの考えでは、1. 厳格に実施される穀物取引の独占による、食糧供給への国家統制を主張すること、2. 村落地域に共産主義者の権力基盤を導入すること、が必要だった。
 これらの目標を達成するために要求されたのは、村落への戦争に他ならなかった。
 ボルシェヴィキはこの戦争を、1918年夏に開始した。
 農民層に対する活動は—西側の歴史文献では事実上無視されているが—、ボルシェヴィキによるロシアの征圧の、最も重要な段階だ。
 レーニン自身が、農民との闘争が村落反革命を防止し、西側の先行者と違って、ロシア革命が中途で終わって「反動」へと後退することを阻止するだろう、と信じていた。
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 第二節へとつづく。 

2889/R.Pipes1990年著—第15章㉑。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第10節/戦時共産主義の結果。
 (01) のちに戦時共産主義と名づけられた政策は、かつてない頂上にまで経済力を高めるために企図された。それは、市場の力を排除して、生産と分配を完全に合理化しようとする、そのときまで存在しなかったきわめて野心的な試みだった。
 はたしてそれは、想定した結果を生み出したのか?
 明らかに、そうでなかった。
 この政策の最も狂信的な擁護者ですら、実験の3年後には ソヴィエト経済は滅茶苦茶になったと、認めざるを得なかった。
 体制が感知し得る全てを急速に国有化するにつれて、違法な自由市場は膨張し、ロシアの富として残っていたものを吸収してしまいそうだった。
 そしてまた、吸収できるものは大して多く残っていなかった。
 1920年のロシアの国民総収入は、1913年のそれの33〜40パーセントだった。
 その頃までに労働者の生活水準は、戦前のそれの三分の一へと劣悪化した(注152)。
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 (02) 事実は、争う余地のないものだ。しかし、その解釈は異なる。
 左翼共産主義者や他の即時の社会主義化を支持する者たちは、自分たちが生んだ破綻のど真ん中で、切迫している飢餓の見通しに直面しながら、失敗を認めるのを拒んだ。
 1920年に公表した論文で、ブハーリンは、ソヴィエト経済の崩壊を、勝ち誇って語った。
 彼の見方では、破壊されているのは「資本主義」の遺産だ。彼は誇ってこう語る。「このような大災害はかつては起きなかった」。それは全て、「歴史的に不可避で、歴史的に必要だった」。
 マルクス主義の術語で満ちた彼の書物には、ソヴィエト・ロシアの経済の実際の状態に関する、いかなる事実も、いかなる統計その他の資料も含まれていなかった。
 事実は、元凶は「資本主義」ではなく「ボルシェヴィズム」だということを、示していただろう(脚注)
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 (脚注) N. Bukharin, Ekonomika Perekhodnogo perioda, Pt. 1(Moscow, 1920), p.5-6, p.48. 経験的データを提示するとされた第二部は、出版されなかった。
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 (03) その他の共産主義者たちは、経済の厄災的状態の原因を、私的部門の残存に見た。
 彼らは決まって、部分的な国有化の条件では社会主義は達成させられない、と主張してきた。そして今でも正当だと感じていた。問題は、政府があまりに急速に社会主義を押し進めたことにあるのではなく、押し進め方が不十分だったことにある。
 このような考え方で戦時共産主義を擁護する典型的な主張は、まさにそれが放棄されようとしている1921年初頭に<prauda>に現れた。
 著者のV. Frumkin は、ソヴィエト経済の欠陥を、「その機構全体が、我々の階級敵であるブルジョアとプチ・ブルジョアの手にある」ことに求めた。
 この欠陥は「経済の前線にいる赤色司令官たちの、十分に大きな隊列」の形成によってのみ克服することができる。
 彼はこの任務は「多少とも遠い将来にある」ものと見ていた(注153)。
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 (04) もっと真っ当な頭脳のもち主は、1918-20年の社会主義の実験の失敗についての責任は全く別として、「資本主義」がこのような実験をもともと可能にしたのだ、と認識していた。
 本質的には、戦時共産主義のもとでのボルシェヴィキは、ブルジョア・ロシアが蓄積していた人的および物質的な資産で何とか生きてきた。
 しかし、これらには限界があった。
 1920年の夏に主導的なロシアの経済新聞紙に発表された分析は、こう結論づけた。
 「我々は、資本主義ロシアから遺贈された重要な資源や原料を完全に消費し尽くした。
 したがって今後は、我々自身の現在の生産から、全ての経済的利益を獲得なければならない。」(注154)
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 (05) この課題は、1921年の春に、新経済政策のもとで採用されることになる。すなわち、レーニンの元来の「国家資本主義」という観念に範をとった、継続期間は不確定の移行期。
 この期間に、政府は政治権力を維持しつつも、国の経済力を回復させる中で私的企業に限定的な役割を認めることになる。
 この期間に、「経済の前線にいる赤色司令官たち」の隊列が用意されることになった。
 生産力が十分に回復し、人員も利用可能な状態になると、新しい攻撃が着手されることになった。階級敵である「ブルジョア」と「プチ・ブルジョア」を廃絶し、真剣に社会主義の建設へと進むための新しい攻撃だ。
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 第15章、終わり。第16章は、<村落への戦争>。

2888/私の音楽ライブラリー057/クラシック㉗〜㉚。

 クラシック㉗〜㉚。
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 ㉗Tchaikovsky, Symphony No.4 in F-minor, op.53.
 →Herbert von Karajan, Berlin Phil. 〔Arig Sallehuddin〕

 ㉘Tchaikovsky, Violin Concerto in D, op.35.
 →Janie Jansen, Paavo Järvi, Berlin Phil. 〔Torns B.〕

 ㉙Tchaikovsky, Piano Concerto No.1 in B♭-minor, op.23.
 →Anna Fedorova, Yves Abel, Deutsche Nordwest Phil. 〔AVROTROS Klassiek〕

 ㉚Tchaikovsky, Serenade for Strings in C, op.48.
 →Seiji Ozawa, Saito Kinen O. 〔Korean.neri92〕 *第1楽章のみ.
 →Concertgebow Chamber O. 〔AVROTROS Klassiek〕
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 以上で、「クラシック30曲」終わり。

2887/R.Pipes1990年著—第15章⑳。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第九節/労働組合政策②。
 (06) 大会が労働組合に注意を向けたとき、メンシェヴィキはボルシェヴィキと袂を分かった。
 メンシェヴィキは最大の全国的労働組合のいくつかから強い支持を受けていたので、自立した労働組合という考え方に賛成だった。
 ボルシェヴィキは、労働組合は「生産を組織」し、「疲弊している国の経済力を再生 」させるために国家の機関、その代理者として奉仕すべきだ、と主張した。
 労働組合の任務の中には、労働をするという普遍的な義務を履行させることがある。
 ボルシェヴィキの決議案にはこうあった。
 「大会は、労働組合は必ずや社会主義国家の機関へと改変されるだろう、と確信する」。
 「労働組合の国家当局機関との完全な融合の全過程(いわゆる<ogosudarstvleniia>の過程)は、これら両者の合同の緊密した調和ある活動と、国家装置および経済に責任をもつ全ての機関を指揮するという任務のための広範な労働者大衆の労働組合による鍛錬の完璧に不可避の結果として、起きなければならない」(注145)。
 これは、ロシアの歴史的伝統ときわめてよく合致していた。国家は早晩に、ときにはそれら自身が主導して独立した自治的団体として形成された全ての諸機構を、自らのうちに吸収し、従属させる、という伝統とだ。
 --------
 (07) 個々の工場委員会は全ロシア労働者支配会議に従う、次いでこの会議は諸労働組合とそれらの大会に説明責任を負う、労働組合の本来の役割は「社会主義国家の機関」として奉仕することだ、と布令されると、工場委員会の運命は、覆い隠された。
 第1回労働組合大会のあとの労働者支配機構の歴史は、容赦のない下降だった。すなわち、一つずつ、縮小し、衰退し、死んだ。
 労働者の全権幹部会の全国的な網を作ろうとする1918年春の運動は失敗したが、これは、運動の最後の喘ぎだった。
 1919年までに、工場委員会とそれによる労働者支配は、記憶の中の存在になった。
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 (08) 労働組合について述べると、その権威が内戦時に頂点近くに達したり政府が労働紀律の施行のために頼るに至ったりしたことがなくとも、その影響力を増大させた。
 党は、労働組合官僚を任命する権利をますますもつようになり、党官僚が是認しない、選挙された役員を追放した(注146)。
 1919年と1920年には、国家と党の諸決議は、労働組合は国民経済を作動させるのを助けているという基本的原則を、口先だけで依然として述べていた。
 しかし、実際にはその頃、労働組合の主要な任務は、政府の諸指令の伝達者として寄与することだった。
 これは、トロツキーが1920年4月に、労働組合の役割をつぎのように明確に語ったことだった。
 「建設途上の社会主義国家では、労働組合は、労働条件の改善にむけて闘うために必要とされるのではない。労働条件の改善は、社会的政治的諸組織全体の任務だ。
 そうではなく、生産目的のために労働者階級を組織するために必要とされる。つまり、教育し、訓練し、割当て、寄せ集め、一定の期間ごとの彼らの仕事を個々の範疇の労働者群や個々の労働者に与えるためにだ。
 ひとことで言うと、政府と連携して、権威をもって、労働者たちを単一の経済計画の枠組みの中へと送り込むためにだ。」(注147)
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 (09) 労働組合は、短命の工場委員会よりも、噛み砕くには固い胡桃だった。すなわち、内戦後の1919-20年に、選挙で選出された役員を党が指名した官僚で置き換えるという実務に関する爆発的論争が、党員内部で巻き起こることになる。
 この係争は大きな摩擦を生み、レーニンに、党内での分派を非合法化する口実を与えることになる。
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 (10) 労働組合の役割は構成員の利益を守ることではなく国家に奉仕することだ、といったん確定すると、組合への加入が義務的なものになることはその論理的帰結だった。
 強制的加入は布令によったのではなく、労働組合ごとに徐々に導入された。そして1918年の末には、労働者の四分の三が義務的な労働組合に加入していた(注148)。
 構成員数が大きくなればなるほど、労働組合はそれだけ重要になった。
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 (11) 同盟罷業(ストライキ)をする権利は労働者の利益にとって基本的なものと考えられ、1917年6月の第3回全ロシア労働組合大会でも再確認された(注149)。
 共産党政権はずっと、ストライキを非合法とする布令を発することがなかった。
 それにもかかわらず、ボルシェヴィキが国家企業に反抗する労働の停止を許容しようとしなかったことは、明白だ。
 工業企業の圧倒的多数が私人の手にあった場合には、立法的命令によってストライキを非合法化することができなかった。
 しかし、ボルシェヴィキは、この権利を認めるつもりはなかった。
 1918年1月の労働組合大会で、労働組合主義者のG. Tsyperovich は、
「生産の労働者支配という新しい条件」のもとではストライキを「より健全に実行することができる」と理解して、「以前と同じく、職業的労働者運動は、ストライキを労働者の利益を防衛する手段だと考えつづける」、 という動議を提出した。
 ボルシェヴィキが支配しているこの大会は、この決議案を黙殺した(注150)。
 実際には、存在しているかぎりにおいてだが、私人が所有する企業に対してはストライキが許容され、国有企業に対しては認められなかった。
 進展した企業国有化は、ストライキを違法とする効果をもった。
 ソヴィエト・ロシアでのストライキをする権利の事実上の廃止は、かくして、ある研究者によって、つぎのように明言されている。
 「(ソヴィエト政府が)最初に採用した考え方は、集団交渉と労働組合の強さは、労働休止を呼びかける権利にではなく、国家や党との政治的関係に依存している、ということだった。
 いかなる場合でも、ストライキを回避し、終結させる責任があるという負担は、今では労働組合へと、ストライキの権利が最も重要だったはずの組織へと、移された。
 労働組合は、自分たちに強さを与え、構成員を防衛することを可能にするまさにその力を、拒否しなければならないという信じ難い地位に、とどめ置かれた。」(注151)
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 (12) これは、ソヴィエト・ロシアでの労働組合主義の終焉を叙述していた。
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 第九節、終わり。

2886/R.Pipes1990年著—第15章⑲。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第九節/労働組合政策①。
 (01) 強制労働にもとづく体制には、もちろん、自由な労働組合が存在する余地はない。
 「労働者」国家では、その定義上、労働者は彼らの雇用者と分離した利益を受け取ることができないのだから、労働組合が認められないことには論理的な理由があった。
 トロツキーが述べたように、ロシアの労働者は、「ソヴィエト国家に対して、全ての問題について服従するよう義務づけられていた。なぜなら、ソヴィエト国家は<労働者の>国家なのだから」。そのゆえに、服従するということは自分自身に服従していることになる。かりに異なる考え方をもったとしても。
 自立した労働組合が許容されない実際的な理由もあった。それは、中央の計画と両立し難いのだから。
 したがって、ボルシェヴィキはすみやかに、二つの主要な労働者組織—工場委員会と労働組合—から独立性を剥奪した。
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 (02) 二月革命が勃発したあと、ボルシェヴィキによる激励もあって、工場委員会が、労働者による統制機関として影響力を広く獲得した、ということが想起されるだろう。
 無政府状況が広がっている中で、工場委員会は、全国的に技術ごとに組織された労働組合を犠牲にして、拡大していった。労働者たちは、別の場所で働く同じ技術を持つ労働者仲間よりも、同じ工場施設群で働く仲間たちに共感をもったからだ。
 サンディカリズムの刺激を受けて、工場委員会は左翼方向に重心を移し、1917年の秋には、ボルシェヴィキの強さを支える主要な勢力の一つになった。
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 (03) しかし、ボルシェヴィキが権力を握ると、利用する価値がほとんど認められなかった。
 ボルシェヴィキは自分たちの私的利益を追求し、産業関係の既存のものを資産だと見なすようになって、生産に干渉し、経済計画を妨害した。
 権力はまだ不安定だった十月のクーのあとの数週間のあいだは、ボルシェヴィキは工場委員会の機嫌を気にしていた。
 1917年11月27日の布令は、5人以上を雇用する全ての企業に労働者委員会を設置することを定めた。
 この委員会は生産を監督し、最小限の生産高を決定し、生産費を設定し、会計帳簿を自由に見ることができるものとされた(注141)。
 これは、純粋で単純なサンディカリズムだった。
 しかし、レーニンには、農民がロシアの農地を所有し、兵士がその連隊を動かす、あるいは少数民族を排除することはともかく、労働者にロシアの工業を運営させるつもりがなかった。
 これらは目的のための手段であり。目的は権力を奪い取ることだった。
 そのゆえに、レーニンは工場委員会に関する布令の中に、当時はほとんど気づかれなかった二つの条項、工場委員会を廃止する権限を政府に与える乗根、を挿入した。
 一つの条項はこう定めた。労働者またはその代表者の決定が企業の所有者を拘束しているとき、その決定は「労働組合やその大会」で取消すことができる。
 もう一つの条項は、こう要求した。国家的重要性があるとして指定された—すなわち防衛産業と「生存に必要な」物品製造業のいずれかの—企業では、労働者委員会は、「厳格な秩序と紀律の維持について」、国家に対して説明責任を負う。
 ある歴史家が観察したように、これらの曖昧な諸規定はすみやかに労働者支配に関する布令を、「それが書かれた紙の価値がない」ものにした(注142)。
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 (04) やがて工場委員会は、政府と党の官僚制による監督の対象になることによって、弱体化した。
 労働者支配に関する布令は、各委員会に対して地域労働者支配会議に財政報告をすることを要求していた。この地域会議は、つぎに、全ロシア労働者支配会議に従属した。
 これらの監督機関を作動させている官僚たちは共産党によって任命されており、共産党の指令を実施する義務があった(注143)。
 これらの機構によって、工場委員会は、国家から独立した自分たち自身の全国組織を設立することが妨げられた。
 最高経済会議を設立する布令(1917年12月)は、全ロシア労働者支配会議を含めて、存在する全ての経済関係機関に対して及ぶ権能を、この経済会議に認めた。
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 (05) アナクロ・シンディカリスト的で労働組合のかたちをとった、ロシアの労働者運動の運命は、1918年1月にペテログラードで開催された第1回労働組合大会で、大部分は決定されていた(注144)。
 この大会で、社会主義知識人、ボルシェヴィキ、メンシェヴィキなどは、工業労働者のサンディカリスト的傾向を批判し、労働者支配のための要求を、生産と社会主義にとって有害だとして拒否した。
 労働者支配を支持する熱気ある議論があったにもかかわらず、大会は、生産に対する労働者支配を行使する手段を工場委員会から労働組合へと移す決議を採択した。この大会は、この決議についてメンシェヴィキとエスエルの支援を得たボルシェヴィキが多数派だった。
 工場委員会は、11月に得た権限の多くを、財政問題に干渉する権限も含めて、今や失った。
 決議はこう述べた。「生産の支配は、企業を労働者の手に移すことを意味<しない>」。
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 ②へとつづく。

2885/R.Pipes1990年著—第15章⑱。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第八節/反労働者立法③。
 (13) どのように経済的に正当化しようとも、強制労働の実際はモスクワ公国時代の<tiaglo>への回帰を意味した。それによってかつて、農民層その他庶民である全ての成人男女を、国家のための辛い仕事をするよう召喚することができた。
 そして今では、主要な仕事は、物品運搬、材木切断、建築作業になった。
 燃料提供という1920年代に農民に課された義務がつぎのように叙述されたことは、モスクワ公国のロシア人には完全に理解できることだっただろう。
 「政府が期待した一種の労働役務として…、農民たちは、指定された森林で木材から多数の丸太を切断することを…命じられた。
 家屋を所有する農民は全て、一定の量の木材を輸送しなければならなかった。
 この木材は農民によって、河川の突堤、諸都市、そして最終地点へと配送されなければならなかった。」(注135)
 モスクワ公国時代の強制労働である<tiaglo>と共産主義のロシアでのそれとの違いは、主につぎにあった。すなわち、中世では特定の需要を充足させるために課された散発的(sporadic)な義務だったが、今では永続的な義務になった。
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 (14) 1919-20年の冬、トロツキーは、「労働を軍事化する」という野心的な構想を抱いた。それによって、制服着用の兵士は生産的な経済作業を行ない、民間人労働者は軍事紀律に服するだろう。
 一世紀前にAlexander 1世とArakcheev によって開始された悪名高い「軍事植民地」へのこの後戻りは、懐疑心と敵愾心でもって迎えられた。
 しかし、トロツキーは固執し、思いとどまるよう説得されはしなかった。
 内戦での勝利から帰還し、自分の重要性の感覚に満ちて、また新しい栄誉を得たいと熱望して、彼は、赤軍が外部の敵に打ち勝ったのと同じ大まかな手段によってのみロシアの経済問題を解決することができる、と強く主張した。
 1919年12月16日、トロツキーは、中央委員会のために一組の「テーゼ」を起草した(注136)。
 彼は、経済の諸問題は、十分な紀律のない労働者の軍隊によって処断されなければならない、と主張した。
 ロシアの労働者は、軍隊の様式でもって編成されなければならない。義務の忌避(割当てられた仕事の拒否、長期欠勤、仕事中の飲酒、等)は、罪悪として、軍事法廷へと送られるべき犯罪として扱われなければならない。
 トロツキーはさらに、赤軍の分団はもう戦闘する義務を負わず、動員が解除されて故郷に戻るのではなく、「労働軍」(<trudarmii>)へと改変されるべきだ、と提案した。
 こうした「テーゼ」は、公表されることが意図されてはいなかった。だが、<pravda>の編集長のブハーリンは、不注意で(彼の主張では)またはトロツキーを貶めるために(他者が信じたところでは)、機関紙に印刷した。
 1920年1月22日付の<pravda>で公表されたトロツキーの「テーゼ」へへは、激しい抗議の声が上がった。その中にはたいてい、「Arakcheebsh 陶器」という添え句が付いていた。
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 (15) レーニンは、説得された。国の経済のいっそうの悪化を阻止するという切迫した必要があったからだ。
 1919年12月27日、彼は労働義務委員会の設置に同意した。これの委員長は、戦時人民委員部の長官の地位を維持していたトロツキーだった。
 トロツキーの構想には、2組の手法が含まれていた。
 1. 前線にはもはや不要な軍団は、動員解除されない。そして、平時の労働軍へと改変され、線路床の改修、燃料の輸送、農業機具の修理のような任務が割当てられる。
 ウラルで戦闘をしていた第三軍団は、この改変が行なわれる最初の軍団だ。のちに、その他の軍団が、改編される。
 1921年3月には、赤軍の四分の一が、建設と輸送に雇用された。
 2. 同時に、全ての労働者と農民が軍事紀律に服する、とされた。
 この政策が激しい異論を生じさせた1920年の第9回党大会で、トロツキーは、政府は、必要な場合はいつでも、民間の労働者を自由に使えなければならない、と強く主張した。軍隊でと全く同じく、労働者の個人的な選好は考慮してはならない。
 「動員された」労働者は、労働人民委員部を通じて、要請している企業へと配置される。
 1922年にこの実験を振り返って、労働人民委員部のある官僚は、こう述べた。
 「我々は、計画に応じて、従って労働者の個別的な特性やあれこれの種類の仕事をしたいという希望を考慮することなく、労働力を供給した」(注137)。
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 (16) 労働軍も軍事化された労働者たちも、この政策の主唱者たちの期待を満足させなかった。
 元兵士の労働者たちは、訓練された民間人と比べてごく僅かの生産しかしなかった。彼らは、群れをなして脱走した。
 政府は、軍事化された労働者を管理し、食料を与え、輸送するということを企画するのに、克服し難い技術的な困難に直面した。
 したがって、スターリンやヒトラーによる奴隷労働の組織化の原型だったこの政策は、放棄されざるを得なかった。工業への動員は1921年10月21日に廃止され、労働軍も数ヶ月のちに解体された(注138)。
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 (17) この実験はトロツキーの信用を傷つけ、レーニンの後継者争いでの彼の地位を弱めた。失敗したという理由によるだけではなく、「ボナパルティズム」という追及に彼が傷つきやすくなったことにもよった。
 実際に、ロシアの経済がかりに軍事化されていれば、トロツキーに従った官僚たちは、民間部門で支配的な地位を獲得していただろう。
 悪態の言葉としての「トロツキズム」は、このような企図と関連して1920年代に頻繁に用いられた。
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 第八節、終わり。

2884/斎藤元彦②—法というものの考え方003。

  兵庫県知事定例記者会見(2025年5月20日)の一部。
 「フリー記者/県保有情報の漏洩の第三者委員会〔「三つめ」委員会のこと—秋月〕の推薦依頼をした文書が去年12月に出ていますが、これ斎藤知事名で書かれていてですね、その調査対象には週刊文春電子版も入っている。
 これ、依頼するときに斎藤知事は知っていたということですね。
 知事名で出された文書で知事が知らないはずはないと思うんですが、知っていたということで間違いないでしょうか。」
 「斎藤元彦知事/あの、私は存じ上げてません。
 「フリー記者/えっ。斎藤知事名で出した文書の内容を知らなかったということですか?
 その中に週刊文春の電子版を調査対象にするということが書かれて、依頼しているんですが、知らないということですか?」
 「斎藤元彦知事/あの、行政というものはですね
 知事名や大臣名で出される文書っていうおはたくさんあるんですけれど、それの決裁権者というのは全て知事名で出されるから、知事が決裁ではなくて、…決裁権者というのは部長さんであったりとか課長さんとか、それぞれ委任されていることがありますので、全てのことが私の名前で出されているからといって、私が全て決裁しているっていうわけではないことは、ご理解いただけると思います。」
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 以上の部分は、斎藤元彦が自分にではなく部下に(週刊文春電子版を調査対象とした)責任を押し付けた部分として話題になっているようだ。
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  斎藤元彦は「行政というものはですね」などと言って、「行政」のプロ・専門家らしき口吻だが、上の説明には、斎藤元彦における「行政・行政法」に関する無知がある。
 「決裁」と「委任」というのが上の発言に出てくる専門述語のようだ。
 しかし、斎藤元彦は、「専決」およびこれと同義の「内部委任」という語をなぜか使っていない。
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 宇賀克也・行政法概説III—行政組織法·公務員法·公物法(有斐閣、2012年)p.52.にこうある。
 「専決/国·地方公共団体をとわず、実務上広く行われている行政事務の処理方法として、専決と呼ばれるものがある。これは、内部委任とも呼ばれるが、権限を対外的には委任せず、また代理権も付与せずに、実際上、補助機関が行政庁の名において権限を行使することをいう。
 行政庁Aの決裁権限を補助機関である課長Bが最終的に行使することを内部的に認め、BがAの名において当該権限を行使する方式である。形式的にはA の名において権限が行使されるので、Aが処分庁として扱われる。」
 斎藤元彦の説明に真実性があるとすれば、同知事(行政庁)が課長(法務文書課長。補助機関)に「専決」権限を認めた(=「内部委任」)、ということだろう。
 しかし、どのような権限・事務処理を「補助機関」の「専決」とするかは、あらかじめ「〜県専決(・代決)規程」というような規定を「行政庁」(県の場合多くは県知事)が定めておかなければならず、それがあってはじめて「課長」は自己の判断で「決裁」することができる。斎藤元彦は、自分が定めた(ことになっている)「専決規程」を見てみるがよい。
 さらにまた、「専決」規程により「決裁」権が「課長」にあるとかりにしても、知事—課長の指揮監督権が消失するわけでは全くない。知事は「専決」権者を指揮することができ、事後的に事務処理の結果を「報告」させることもできる。これらは<拘束力>をもつ。
 したがって、「課長」が「専決」したので、私(知事)は知りません、責任はありません、などと県知事は絶対に言うことができない
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 だがそもそも、「三つめ」の調査のための委員(弁護士)の推薦を県弁護士会に依頼するという場合、そのような事務は頻繁にある事務、あるいは定型的な事務ではないので、「専決」規程があらかじめ定めているとは考え難い。
 とすると、斎藤元彦の言う「委任」を「内部委任」と理解しないかぎり、課長の「専決」だったという斎藤元彦の説明は、信用できない。
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 ついで、「委任」とは、行政庁の権限の別の機関への「委任」であって当初の行政庁Aの権限が別の機関(新しい行政庁になる)に移ってしまうことをいう(前掲・宇賀p.41-42)。
 そして、この委任には「法的」根拠が必要であり、斎藤元彦は上で「委任」をどういう意味で用いているのか分からないものの、そもそも部長や課長等の「補助機関」への「(外部)委任」の例などは存在しないと考えられる。常識的にあり得ないし、そもそも「法的」根拠が必要だ。
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  以上からする結論は、何だろうか。
 おそらく確実に、斎藤元彦は<ウソをついた>ということだ。
 実際的に見ても、知事のもとに置かれる「第三者委員会」の設置あるいは「第三者弁護士への調査委託」に関して、かつまたマスメディア上も注目されてきたこの「委員会」の「調査対象」について、斎藤元彦の意思・意向が反映されなかったとは、つまり課長レベルでだけ決められていたとは、到底考えられない。
 斎藤元彦はそこまで「あほ」ではないだろう。
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2883/R.Pipes1990年著—第15章⑰。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第八節/反労働者立法②。
 (08) 強制労働を導入する公式の理由は、計画化経済の必要条件だったことだ。
 経済計画は、決して気まぐれに議論されたのではないが、労働が他の全ての経済資源と同じ統制を受けるのでなければ、達成することができなかった。
 ボルシェヴィキは、権力掌握前の1917年4月にすでに、強制的労働義務の必要を語っていた(注126)。
 戦争中の資本主義国ドイツでは強制労働の導入は労働者に対して「不可避的に制裁的な軍事上の労働役務(katorga)を意味した」のに対して、ソヴィエトによる支配のもとでは、同じ現象は社会主義に<向かう巨大な一歩>を示すものだ(注127)。こう言うことに、レーニンは何ら矛盾を感じていなかったようだ。
 ボルシェヴィキは、彼らの言葉に忠実に、その最初の日に役所での労働徴用の意図をもっていることを宣告した。
 1917年10月25日、臨時政府の打倒を発表したのとまさにほとんど時を措かずに、トロツキーは、第二回全国ソヴェト大会でこう言った。
 「普遍的な労働義務の導入は、本当に革命的な政権の最も直近の目標のひとつだ」(注128)。
 おそらく代議員のほとんどは、この言明は「ブルジョアジー」にのみ適用されると考えた。
 そして、実際に、その独裁の最初の数ヶ月、レーニンは、個人的な敵愾心に駆られて、「ブルジョアジー」に屈辱を与えることから出発し、人々に慣れないまま退屈な雑用的手作業をすることを強いた。
 銀行を国有化する布令(1917年12月)の草案に、彼はこう書いた。
 「第6条: 普遍的労働義務。第一歩—消費者労働、富者のための安価労働による小冊子、彼らの統制。彼らの義務—指示どおりに働くこと、その他—『人民の敵』」。
 欄外にこう付け加えた。「前線への派遣、強制労働、没収、逮捕(射撃による処刑)」(注122)。
 のちに、着飾った者たちが監視されながら単調な義務を履行するのを見るのは、モスクワやペテログラードでの普通の光景になった。
 こうした強制労働の利益はたぶん無に近かった。だが、「教育」目的に役立つこと、つまり階級憎悪を掻き立てることが意図されていた。
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 (09) レーニンが示したように、これは第一歩にすぎなかった。
 やがて、強制労働の原理は別の社会階層へも拡張された。
 これが意味したのは、全ての成人が生産活動に従事しなければならないということだけでなく、全ての男女が命令を受けながら働かなければならない、ということだった。
 ロシアを17世紀の実務へと戻すこの義務は、1918年1月に「労働者、被搾取階級の権利の宣言」として布令された。
 これには、次の条項があった。
 「民衆の中の寄生虫的分子を破壊するために、普遍的労働義務が導入される」(注130)。
 この原理は1918年の憲法に挿入され、国の法となり、それ以来ずっと、「寄生虫」として国家による雇用を回避する者に対処する法的基礎として機能した。
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 (10) 労働徴用の原理は、1918年の末には、実際的な詳細にまで練り上げられた。
 1918年10月29日の布令は、「労働力を配分する」ための機関の全国的な網を定めた(注131)。
 1918年12月10日、政府は詳細な「労働法典」を発した。これは、16歳から60歳までの間の全ての男女について、若干の例外はあるが、「労働役務」を履行すべきことを定めた。
 すでに常勤の仕事に就いている者は、それにとどまるものとされた。
 その他の者は、労働割当て部署(ORRS)に登録するものとされた。
 この機関は、適当と考える誰をも、どこにでも割り当てる権限をもった。
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 (11) 強制労働に関する布令は少数者(16歳から18歳までの子ども)に適用されたのみならず、特別の命令が、国家に対して特別の重要性をもつ工業または企業に雇用されている子どもたちに、超過労働をさせることを認めた(注132)。
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 (12) 1918年の遅くまでに、ボルシェヴィキ当局が労働者や多様な分野の専門家をちょうど赤軍入隊者を徴兵するように動員することは、日常的な実務になった。
 このような実務は、政府が労働者や経済の特定の分野の技術的専門家を「軍務のために動員」し、軍事裁判所に服させると発表することを意味した。つまり、割当てられた仕事を放棄した者は脱走兵として扱われた。
 きわめて重要な分野の技術を持っているが今はそれを使わうことのできない仕事に雇用されている者は、登録して、召喚を待たなければならなかった。
 「動員」されるべき最初の民間人は、鉄道労働者だった(1918年11月28日)。
 その他の範疇は、つぎのとおり。
 技術の教育と経験がある者(1918年12月)、医療従事者(1918年12月20日)、河川や海洋の船舶の被雇用者(1919年3月15日)、石炭労働者(1919年4月7日)、郵便・電信・電話の被雇用者(1919年5月5日)、燃料工業の労働者(1919年6月27日と11月8日)、綿工業労働者(1920年8月13日)、金属労働者(1920年8月20日)、電気工(1920年10月8日)。
 このようにして、工業関係職業は徐々に「軍事化」され、兵士と労働者のあいだ、軍役者と民間人のあいだの区別は不明確になった。
 工業労働者を軍隊を範型にして組織しようとする努力は、この問題に関する大量の布令があったことを見れば、十分に達成され得ることはなかったのだろう。氏名の公表から強制労働収容所への拘禁にまで及ぶ、「労働脱走者」に対するかつてない新しい制裁を設定したのだったが。(注134)
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 ③へつづく。

2882/兵庫県·「二つめ」の委員会の対象・週刊文春2024年7月25日号。

  兵庫県の「二つめ」の第三者委員会の調査対象は、一般に<元西播磨県民局長(告発者)の公用パソコン内の「私的情報」の前総務部長による漏洩>だとされてきた。これが誤りであることは、すでに記した。
 →兵庫県人事課·「二つめ」の第三者委員会の任務全ては「週刊文春の情報元」捜し〔No.2871/2025年5月5日〕
 兵庫県人事課の記者発表によると、正しくはつぎだ。令和6年は2024年。
 「週刊文春令和6年7月25日号に掲載された本県職員が秘密を漏えいしたと疑われる事案の調査
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 上の週刊文春2024年7月25日号の記事のうち「県職員」の発言(要旨を含むと見られる)が、「」付きで紹介・引用されているのは、つぎの4カ所だ。
 「X氏が告発したのは斎藤知事だけではない。
 片山副知事、県職員の総務部長、産業労働部長、若者·Z世代応援等調整担当理事の四人への言及がある。
 この“四人組“は、みんなもともと人事課出身。
 2013〜16年に冬至総務官僚だった斎藤知事が宮城県に出向していたころ、東海日本大震災の復興関連で、兵庫県も職員を派遣することが多かった。
 するとこの4人組と斉藤知事は仲良くなり、いつも仙台でつるんでいた。
 兵庫県では知事以下五人を『牛タン倶楽部』と呼んでいます」(県職員)
 「この頃、県庁周辺で、ある動きが確認されている。
 人事課を管轄する総務部長が、大きなカバンを持ち歩くようになった。
 中には、二つのリングファイルに綴じられた文書が入っており、県職員や県議らにその中身を見せて回っていたようです」(前出・県職員)
 前出の県職員が語る。
 リングファイルの中身は、押収したPCの中にあったX氏の私的な文章。
 どうやらその文章は、四人組によって、県議会や県職員の間に漏れていたそうです。
 事実、私もこの産業労働部長から文章の内容を聞かされました
 その際、産業労働部長はこう話していたという。
 もしアイツ(X氏)が逆らったら、これの中身、ぶちまけたるねん
 「なぜ岸口、増山両県議はPCの公開にこだわるのか。
 Xさんの秘密を暴露することで、Xさんの人間性を貶め、告発文書の信頼性を下げるのが狙いでしょう(前出・県職員)
 ————
 以上。
 同じ「県職員」という語が用いられているので、一人の、同一の職員である可能性がある。だが、複数である可能性を排除できないだろう。
 但し、重要なことだが、記事はこの(これらの)「県職員」からの取材・情報提供によって成り立っているのではない。
 「県OB」も登場していて、つぎの二つの文章部分の基礎・きっかけになっているようだ。
  「「知事になった斎藤は『牛タン倶楽部』のメンバーを側近として重用。
 同時に『根回しは嫌い』を公言し、県庁職員殿コミュニケーションを拒み、四人組への依存を深めていくばかり。
 敵対的と見なされた者は次々と排除された。
 最近は、斎藤に意見できる職員は誰もいなくなっていた」(県OB)」
  「「しかし、知事が勢い任せに『嘘八百』と口にしてしまったことで、県はあの文書を『嘘八百』と結論づけるための内部調査しかできなくなった」(同前)」
 内容の引用を省くが、つぎの人々も登場している。
 「ある県議」「自民県議」「百条委員会理事」「県関係者」「兵庫県職員労働組合の関係者」
 そして、記事のタイトルの「元局長を自死に追い込んだ『七人の脅迫者』」とされた7名(上記「牛タン倶楽部」5名と岸本・増山の2名の県議)も取材対象になっていて、増山誠以外はこれに応じている。斎藤元彦は質問書に対して「代理人」を通じて回答した。
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 このように、斎藤元彦自身がこの記事の「取材源」の一部になっている。
 そして、前出の「県職員」からの情報が基礎になっているのは、秋月の概略計算では、20%に満たない
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  上記「二つめ」の第三者委員会の任務である調査対象は、「週刊文春令和6年7月25日号に掲載された本県職員が秘密を漏えいしたと疑われる事案」(調査実施要綱1条)だとされている。
 ここにいう「本県職員」を正確に限定すると、「県関係者」の中に存在するかもしれないが、「県OB」や「県議会議員」などは含まれないだろう。
 むしろ、明確に「県職員」に該当するのは、総務部長(当時、井ノ本某)・産業労働部長・…等調整担当理事の3名だ。
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 さて、人事課担当のこの「二つめ」の第三者委員会—「三つめ」のそれと同じ3名の弁護士で構成されたとされる—は、いったい誰を、「秘密漏洩」の疑いがある者として調査の対象にしたのだろうか。
 特定できない「本県職員」は、上記の「県職員」だけだ。
 とすると、この「二つめ」の委員会はこの特定職員の<探索>を実質的な任務としていた、と理解してよいように考えられる。
 だが、振り返って、上掲の①〜④のような「外部提供」は、はたして兵庫県の「秘密」の「漏洩」だと言えるのか
 斎藤元彦県知事が「懲戒権」をもつのは、(県議等は入らないので)「県職員」と当時の2部長ら3名だけだ。斎藤は<懲戒処分>をこれらに対して行なうつもりなのだろうか。
 あるいは、記事に登場した者全てを(自身も含まれるのだが)、<刑事告発>するつもりなのだろうか。
 週刊文春の側の「取材の自由」・「報道の自由」や県民の「知る権利」等には、もう触れない。
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 こう執筆していて、ますます「気分が悪く」なる。斎藤元彦が立花隆志の「表現の自由」に言及していることを知って、尚更だ。
 異世界に住む人物に拘泥していると、こちらまで異世界に引き込まれそうになる。知事にかかわらざるを得ない県職員たちは、本当に気の毒だ。
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2881/R.Pipes1990年著—第15章⑯。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第八節/反労働者立法①。
 (01) 1917年十月、ボルシェヴィキは「プロレタリアート」の名において、ペテログラードで権力を奪取した。
 この経緯のために、ボルシェヴィキは労働政策を大きく改善すると期待されたかもしれなかった。かりに、「ブルジョア」的帝制と臨時政府のもとでのそれと、産業労働者の経済的な、そして確実に社会的で政治的な地位を比較する必要が必ずしもなかったとしても。
 しかし、この点でも、結果は、宣せられた意図とは全く反対だった。つまり、ロシアの労働者階級の地位は、象徴性以外の全ての点で顕著に悪化した。
 とくに、彼らは今や、やっと手にした団結し、罷業をする権利を失った。これら二つは、労働者の自己防衛のための不可欠の武器だったが。
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 (02) もちろん、革命と内戦のもとで経済を稼働させ続けるべく、ボルシェヴィキは労働者の権利を制限する以外に選択の余地はなかった、と論じることはできるし、そのための論拠も示されてきた。「プロレタリア」革命を救うために、ボルシェヴィキは「プロレタリアート」の権利を停止しなければならなった、というのだ。
 こう解釈すれば、戦時共産主義の残りがそうであるように、ボルシェヴィキの労働政策は遺憾なものだが、避けることのできない便宜的な措置だったことになる。
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 (03) ボルシェヴィキ体制がその生存を賭けて闘っているときに導入された反労働者的諸措置は、一時的にだけ考案されたものではなく、情勢が緊急措置として正当化したが緊急事態を超えて永続する社会哲学全体を表現したものだった。このことは、上のような解釈を困惑させる。
 ボルシェヴィキは、強制労働、ストライキ権の廃止、労働組合の国家機関への移行を、内戦勝利に必要なものみならず、「共産主義の建設」に不可欠のものだと考えた。これが、内戦に勝利して体制への危険はもうなくなった後でも、ボルシェヴィキが反労働者政策を維持した理由だ。
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 (04) 強制労働という観念は、マルクス主義の中に埋め込まれている。
 1848年の<共産主義者宣言>第8条は、「労働に対する全ての者の責任、とくに農業のための産業軍の設立」を謳った。
 明らかに、自由な商品市場のない規整された経済では、労働に関する自由な市場を存続させるのは馬鹿げている。
 この主題にしばしば言及したトロツキーは、心理学的意味を加えた経済的根拠を強く主張した。すなわち、人間は元来的に怠惰で、餓死の恐怖によってのみ労働へと駆り立てられるのだ、と。国家が市民に食糧を与える責任を引き受ければ、この恐怖は消失するので、強制に頼ることが必要になる。(脚注)
 トロツキーは基本的に、強制労働は社会主義の分離し難い特質だという見方を提示した。彼はこう言った。
 「人間はむしろ怠惰な生物だと言ってもよい。一般論としては、人は労働を避けようと懸命になる。…
 経済的任務にために必要な労働力を惹きつける唯一の方策は、<強制労働役務>を導入することだ。」(注120)
 強制労働は危機が存続しているあいだの経過的手段だと勘違いされないように、トロツキーは、そうではないと注意したうえで、上のように述べた。
 「もちろんこれは、強制という要素を排除することを意味していいない。
 強制という要素が歴史の記述から消えることはない。
 いや、強制は、歴史の重大な時期に、重要な役割を果たすだろう。」(注121)
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 (脚注) 人間は飢餓を避けるためにのみ労働するとの考え方を、トロツキーはマルクスから採用した。トロツキーは、Reverend J. Townsend のthe poor of laws:Das Kapotal I, Chap.,25, Sect. 4 の記述にそれを見出した。
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 (05) トロツキーは、1920年4月の第三回労働組合大会で、とくにあからさまに、この主題を語った。
 自由な労働よりも生産性が低いという理由で強制労働の廃止を訴えるメンシェヴィキの動議に応えて、トロツキーは隷属労働を擁護した。
 「メンシェヴィキがその決議で強制労働はつねに生産性が低いと言うとき、彼らは、ブルジョア・イデオロギーに囚われており、社会主義経済のまさに基盤を拒否している。…
 農奴制の時代には、強制労働は全ての農奴に対してそびえ立つ憲兵ではなかった。
 農奴が慣れるようになる、一定の経済的様式があった。それを当時は公正なものと見なし、ときどきだけ反抗した。…
 強制労働は非生産的だと言われる。
 経済の中心機関による、全国的経済計画の要求に合致した労働力全体の割当てによる以外に社会主義を達成する方法は存在しないのだから、そういう言明は、社会主義経済全体を解体させるものだ。」(注122)
 要するに、強制労働は社会主義に不可欠であるのみならず、実際上有益なものだ。
 「強制的隷従労働は、封建階級に悪意があったゆえに出現したのではない。それは、進歩的な現象なのだ。」(注123)
 --------
 (06) 労働者は「社会主義」国家の無賃従僕者に—つまり表向きは、国家の「主人」だとされているのだから、自分自身の奴隷に、—にならなければならない、という考え方は、中央集権的で組織的な経済および人間の本性に関する悲観的な見方というマルクス主義の中に嵌め込まれていた。また、ボルシェヴィキ指導者たちがロシアの労働者について抱く極端に低い評価によって強化された。
 ボルシェヴィキは、革命の前は、ロシアの労働者を理想化していた。しかし、労働者たちと接触して、たちまちのうちに幻想に変えた。
 トロツキーは農奴制の良さを称揚した一方で、レーニンは、ロシアの「プロレタリアート」を却下した。
 1922年3月の第11回党大会で、レーニンはこう語った。
 「『労働者』と言うときしばしば、この言葉は『工場労働者』を意味すると考えられている。
 戦争以降のわが国では、工場や工場施設群に働きに行く者たちは少しもプロレタリアではなく、戦争から逃げるためにそうしていた。
 そしてまた、我々は、本当のプロレタリアートを工場や工場施設群に働きに行く気にさせる社会的、経済的条件をもっているだろうか?
 そのような事情にはない。
 マルクスによれば適正な言辞だが、しかしマルクスは、ロシアについてではなく、15世紀から始まる資本主義全体について書いた。
 600年間は適正だったが、今日のロシアについては適正でない。
 工場に行く者たちは、徹頭徹尾プロレタリアートではなく、あらゆる種類の偶然的要素で成っている。」(注124)
 この驚くべき告白が意味していることは、ある程度のボルシェヴィキたちも共有していた。
 レーニンにとって、上のような言明は、十月革命は『プロレタリア』によって成し遂げられたのではなかった、かつ『プロレタリア』のためになされたのですらなかった、という意味に他ならなかった。
 Shriapnikov にだけは、この点を明言する勇気があった。
 「Vladimir Ilich 〔レーニン〕は昨日、マルクスが認めた意味でのプロレタリアートは存在しない、と言った。…
 存在しない階級の前衛であることに、きみたちをお祝いさせてくれ」(注125)。
 --------
 (07) レーニンとトロツキーが抱いていたような、一般には人間の本性についての、特殊にはロシアの労働者についての見方からすると、かりに他の考慮によれば反対するに至らなかったとしても、自由な労働や自立した労働組合は耐え難いものだった。
 ————
 ②へとつづく。

2880/私の音楽ライブラリー055/クラシック㉓〜㉖。

 ライブラリー056/クラシック㉓〜㉖
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 ㉓Schumann, Symphony No.1 in B♭, op.38. 〔Avrotros kiassiek〕
 →Gerald Oskamp, Phil. Südwestfalen.

 ㉔Schumann, Cello Concerto in A-minor, op.129.
 →Jacqueline du Pre. 〔Araks Gyulumyan〕
 →Kian Soltani, Christoph Esschenbach, SWR SymphO.〔Kian Soltani〕

 ㉕Schumann, Piano Concerto in A-minor, op.54.
 →Helene Grimaud, Thomas Hengelbrock, NDR Elbphil. 〔ARD Klassik〕

 ㉖Skoryk, Melody (the High Pass).
 →Daniel Hope, Alexey Botvinov. 〔Deutsche Grammophon〕
 →Camille Thomas, Nayden Todorov, Sophia PhilO. 〔Camille Thomas〕
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2879/兵庫県·「三つめ」第三者委員会は言論·報道弾圧に加担。

 兵庫県の(法務文書課が担当した)「三つめ」の第三者委員会は、2025年3月13日に、すでに提出していた「報告書」を法務文書課長とともに公表し、記者会見にも応じた。
 この委員会はずっと、立花隆志らへの県情報の「漏洩」過程を調査しているとされたが、今年3月31に公表された「委託契約」、「設置要綱」よって、週刊文春のいくつかの記事の「情報元」からの「外部提供」過程も対象とされていることが突然に一般に明らかになった
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 この委員会および兵庫県総務部法務文書課の対応に関する基本的な疑問は、つぎのとおり。
 第一に、問題設定の仕方、調査方法等につき、立花隆志・丸山穂高と文藝春秋・週刊文春を同列に扱っている。
 そもそも「委託」契約の締結時点で、週刊文春を含むことは明示されていたはずだが、弁護士たち(委員長・工藤涼二)は週刊文春の「情報元」・「取材源」にかかわる調査をすることについて、何ら疑問に感じなかったようだ。次に指摘する点とともに、「法的」感覚が少しずれているのではないか。
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 第二に、立花隆志・丸山穂高に提供された情報と週刊文春に提供された情報とは性格が相当に異なることを一切考慮していないようだ。
 各情報ごとには書かないが、大雑把に言って、前者は斎藤元彦にとって<有利>であり、後者は<不利>なものだ。
 情報流布のこうした「政治的」機能の差異を弁護士たち(委員長・工藤涼二)は無視するのが<法的専門家>だとむしろ自負しているのかもしれないが、次の点も含めて、「法的技術者」に堕しているのではないか。
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 第三に、上記の前者の情報は元県民局長の「私的情報」であり、後者の情報は、兵庫県政(・斎藤元彦)の動向にかかわる「公的」情報だ。
 かりに国民・県民が国政・県政についての「知る権利」をもつとすれば、むろん個別の検討が必要ではあるのだろうが、この「知る権利」に奉仕し得るのは後者であり、前者は基本的には「公共性」の乏しいプライヴァシー情報にとどまる
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 第四に、したがってまた、公務員の「秘密漏洩」罪成立との関係でも、上の前者(対立花・丸山)と後者(対週刊文春)とでは異なる考察が必要だと考えられるが、この委員会と法務文書課は、この重大な問題を看過している。
 すなわち、県保有情報=「秘密」ではない
 公務員法上保護されるべき「秘密」であるためには、実質的に「秘密」として保護されるべき価値のある情報でなければならない(「秘」とのスタンプだけで「秘密」になるのでもない)。
 「知る権利」との関係では、積極的に、あるいは受動的にでも、「公開」されるべき(マスコミによって報道されてよい)情報がある、と考えられる。
 この点を無視して、「外部への情報提供」が全て「秘密漏洩」にあたると理解しているとすれば、「法的無知」が甚だしい。
 法務文書課(ひいては知事の斎藤元彦)が主導したのかもしれないが、第三者委員会の弁護士たち(委員長・工藤涼二)は、<憲法>の人権論、「知る権利」や報道(・放送)の自由に感覚を及ぼさせて、法務文書課(・兵庫県自体)に警告的助言をするくらいのことは、「法的専門家」として、可能であったのではないか
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 この「三つめ」の委員会を構成したのと同じ弁護士たちが「二つめ」の委員会も担当したらしい。
 全て又はほとんどのマスメディアが気がついていないようだが、「二つめ」の委員会の調査対象の関係情報は、週刊文春2025年7月25日号p.21-p.23の記事であって、この「二つめ」はこのいくつかの部分の「情報元」を探索したものだ。
 ますます<気持ち悪く>なっている
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 なお、「三つめ」の第三者委員会「報告書」は、提供されネット上にあった情報と県保有情報が同一性を確認した、としている。
 念のために書いておくが、この「情報」中に、前回言及した、立花隆志の「二回めの選挙ポスター」の内容は含まれていない
 すなわち、立花某のいう「元県民局長は10年間で20人以上もの女性県職員と不適切な関係を結んで」いたことを示す情報、「おびただしい数の不倫写真」、増山文書のいう「不倫相手とのわいせつ画像」は、含まれていない。
 むしろ、これらは存在しなかったことが公式に確認された、と言ってよい。
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2878/立花隆志・第二の選挙ポスター(2024/11兵庫県知事選)。

 2024年11月31日に告示され、運動期間を経て11月17日に開票された兵庫県知事選挙に、立花隆志という「N国」党(「NHKから国民を守る党」)「党首」が立候補した。
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  11月の前半だろうが、この立花某は、公営のポスター掲示板に、第二番めの「ポスター」を貼った。写真や絵はなく、文字だけのポスターだ。
 出所/「NHK党_春日部市議」を投稿者とする「立花孝志ポスターの第2弾『自●の真相』が完成しました。」と題するYouTube 動画。
 上から全文を秋月の責任で「読み取った」。下の最初の5行は文字の大きさが大きいが(その大きさは同一でない)、この欄では適切に表現できない。太字化、下線は秋月瑛二による。
 ——
 「正義か悪か」
 「衝撃スクープ」
 「元県民局長 自殺の真相
 「あなたは知っていましたか?
  自殺した元県民局長は前知事のパワハラが原因ではなかった!」
 「元県民局長の自殺の本当の理由は、前知事によるパワハラでなかったことが立花孝志の取材で判明した。
 実は、自殺した元県民局長は10年間で10名以上もの女性県職員と不適切な関係を結んでおり、不同意性交等罪が発覚することを恐れての自殺だと思われる
 つまり、前知事は悪くなかった
 悪いのは公用パソコンの中身を公開しない百条委員会である。
 元県民局長が使用していた公用パソコンにはおびただしい数の不倫の証拠写真が保存されており、それはどうも不同意性交等罪という、5年以上の拘禁刑が科される重罪の証拠である可能性が高まった。
 妻子の有る人間が約1年に1人のペースで不倫を続けることは難しいだろうと通常感じることに加え、自ら命を絶った元県民局長が強い人事権を持っていたことからも、不倫ではなく不同意性交等罪である可能性が高いことをご理解いただけるだろう。
 このようなことを県議会議員たちがひたすらに隠している中、次々と暴いているのが立花孝志である。
 あなたの正義はなんですか?
 今回の選挙のきっかけとなった前知事は本当に悪人だったのでしょうか?
 テレビは国民を洗脳する装置であり、核兵器に勝る武器です。テレビの情報だけではなく、インターネットで調べてみてください。」
 ——
 一見して「異様な」内容であるが(他の候補者と同じ広さの枠が与えられて「堂々と」掲示された)、今日まで、県選挙管理委員会も、警察も何の行動も取らなかった。マスメディアも「知って」いただろうが、この内容をそのまま報道することは勿論としても、このポスター記載内容の「真偽」を、あるいは立花某はいかなる根拠(裏付け)をもってこの内容の選挙ポスターを作成し掲示したのかを、問題意識をもって報道した新聞社やテレビ局はまったく存在しなかったように思われる。そして、そういう姿勢は、少なくともこの<立花ポスター>について、半年後の今日まで続いているようだ。
 朝日は、読売は(新聞とテレビ含めて)、そしてNHKは、恥ずかしくないのだろうか。先日5/11の読売テレビ「そこまで言って委員会」の登場者と編成内容を一見すると、読売テレビ(大阪)には何の問題意識もないようだ。何しろ、立花隆志の行動の「謎」や<二馬力選挙>には全く触れなかったのだから。
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  立花某の上のポスターでの表記につながる情報を与えた、主要な人物の一人は増山誠(兵庫県議会議員)だとされる。一定の情報を提供したこと自体は本人も認めている。
 この「情報漏洩」の経緯等は「三つめ」の第三者委員会の調査対象だったはずだが、提出されたはずの「報告書」は、まだ公表・公開されていない。
 〔2025/03/13午後に公表・記者会見があったようだ。未読。増山に何かを伝えた(・見せた)県職員はいただろう。以上、後記〕
 なお、上記の読売テレビ番組に増山は「ゲスト」として登場し、番組司会者2名はこの人物を<丁寧に>送り迎えした。
 さて、増山誠が立花隆志に提供した情報の内容の少なくとも一部は、つぎのごときものだった、とされる。下記の投稿者を信頼すると、立花隆志が2025年2月20日に自分の「X」に投稿した、とされる。また、昨年10月31日(選挙告示日)に増山から提供された、という。
 ——
 増山誠が立花に提供した文書の冒頭。
 「・公用PCに保存されていたプライベートファイルについて
  不倫相手とのわいせつ画像、10年間に渡る複数の職員との不倫日記が保存されていた。」
 出所/「西脇享輔チャンネル」2025年5月12日付
 これによると、「不倫相手とのわいせつ画像、10年間に渡る複数の職員との不倫日記」が元県民局長の「公用PCに保存されていた」。「不同意性交罪」への言及はないが(立花某が「不倫」から上へと「妄想」したのかもしれない)、基礎的出発点は立花某のポスターと同じだ。
 ——
 なお、提供文書のこの詳細まで増山某が自認しているのでは(たぶん)ない。
 増山誠には他にも論ずべき点はある(いわゆる百条委員会の「報告書」の議会での採択に反対した少数者の一人。元日本維新の会所属、等々)。
 また、立花隆志の主張は、その後変わっていることも知っている。10人から7人に減ったり、「不同意性交等罪」にはもう触れなくなっていたりしているようだ。
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2877/R.パイプス1990年著—第15章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第七節/市場と影の経済を廃棄する努力②。
 (08) そうしているうちに、私的部門は急成長した。
 考え得る全ての物品を、とりわけ食料品を、売買した。
 戦時共産主義のもとで非農業国民が消費した大量の食糧は、国家の販路ではなく、自由市場から来ていた。
 1918年9月、ボルシェヴィキ体制は、1.5 pud(25キログラム)までの穀物を市場に持ち込み、市場価格で販売することを農民に認めるのを余儀なくされた(注112)。
 この<polutorapudniki>あるいは「1.5 puder」は、都市部で消費されるパンと農産物の大部分の取引を占めた。
 1919-20年の冬に実施されたソヴィエトの統計調査によると、都市住民は彼らのパンの36パーセントだけを国家の販路から入手していた。
 その調査が責任逃れ的に述べるように、残りは「別の出所から」取得していた(注113)。
 1919-20年の冬にロシアの都市部で消費された全ての食料品(穀物、野菜、果物)のうち、カロリー価で測って、自由市場は66〜80パーセントを提供した、ということが確認されている。
 田園地域では、「消費者共同体」によって提供された食品の割合は、たった11パーセントにすぎなかった(注114)。
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 (09) 1920年の春にロシアを訪れた外国人は、ほとんど全ての店舗が閉店している、あるいは板囲いで閉鎖されていることに気づいた。
 あちらこちらで小さな店が、衣類、石鹸その他の消費用品を売るために開いたままだった。
 Narkomprod(供給人民委員部)の店舗はほとんどなく、あっても遠く離れていた。
 一方で、違法な路上取引がにわかに流行していた。
 「モスクワは生きている。
 だが、一部は配給品で、一部は稼いだ金で生きている。
 大部分は、モスクワは、闇市場で生計を立てている。行動的に、そして受動的に。
 闇市場で売り、闇市場で買っている。むさぼり儲ける、むさぼり儲ける、…。
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 モスクワでは、貨幣はあらゆる物でできている。あらゆる物が闇市場で取引される。ピンから乳牛まで。
 家具、ダイアモンド、白いケーキ、パン、肉、あらゆる物が闇市場で売られている。
 モスクワのSukharevka 地域は闇市場の商店街で、闇市場の大店舗だ。
 ときどき警察が急襲を実行する。しかし、警察は闇市場を抑圧しない。
 闇市場は増殖するヒドラで、1000本の手を持って再出現する。
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 モスクワには自由市場がある。多くは役所から黙認された市場で、補完のための市場で、高級品用の市場だ。
 例えば、劇場広場の近くには補充用市場があり、きゅうり、魚、ビスケット、卵、あらゆる種類の野菜を扱っている。
 これは長い歩道上の大騒ぎだ。
 歩道の角には小部屋がある。商売人がうずくまり、商売人の囁きが買い手の耳に入る。
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 一本のきゅうりは200-250ルーブル、一個の卵は125-150ルーブルする。
 他の品物はそれぞれに対応する値段だ。
 西ヨーロッパの通貨、とくにドルに変えられることは多くない。
 モスクワに滞在していたあいだ、通貨相場師は1ドルに対して1000ボルシェヴィキ・ルーブルを支払った。
 あるアメリカ人は3000ドルを900万ボルシェヴィキ・ルーブルと交換した、と聞いた。
 思惑買いは禁止されている。…
 だが、流通貨幣での投機がある。
 利潤はあらゆる物にあり、当然に貨幣についてもある。…
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 利潤稼ぎ、闇商売。退蔵は作業の邪魔になる。
 利潤稼ぎは働き手の精神だ。
 働いている間に儲け、働くべき間に儲ける。」(注115)
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 売り手の多くは、軍服を処分している兵士だった。このことが、この時期に多くのモスクワ市民が軍服を着て現れていた理由だった(注116)。
 高貴な淑女たちを、見ることができた。彼女たちは、かつての幸福な時代の個人的な品物を、歩道に自意識が強そうに立って、販売していた。
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 (10) 「小生産者の不屈の頑固さによる商品経済の方法についての強い主張」は、あるソヴィエトの経済学者が自由市場の活力について叙述したように(注117)、分配を独占しようとする政府の全ての努力を打ちのめした。
 私的取引の禁止を厳格に実施すれば全都市住民を餓死させることになる、そういう馬鹿げた状況の中にいることを政府は知った。
 1920年初めのソヴィエトの経済関係出版物は、私的(「投機的」)市場が国家の供給システムを犠牲にして、かつその助けを借りて繁茂していることを、痛ましくも認めた。
 その書物はこう書いた。
 「我々が直面する現在の経済の現実のうち最も衝撃的な矛盾の一つは、「モスクワ・ソヴェトの雑貨店」、「書店」等々の看板を掲げたソヴィエトの店舗のガラ空きさと、Sukharevka、Smolensk 市場、Okhotonyi Riad、その他の投機的市場の中心地の間の著しい差異だ。
 [後者にある物品の]出所はもっぱらソヴィエト共和国の倉庫で、犯罪的経路を通ってSukharevka まで届いている」(注118)。
 私的部門がこうも力強くなったので、政府が1921年についに現実に直面して、(一時的に)新経済政策(NEP)のもとで取引の独占を諦めたとき、それは既成の現状(status quo)を追認しただけだった。
 E. H. Carr は、こう書く。
 「一定の事項については、NEP は、戦時共産主義のもとで、政府の抑圧を前にして、政府の諸布令に抵抗して自発的に成長した取引に対して行なった、制裁の手段に他ならなかった」(注119)。
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 第八節(「反労働者立法」)へとつづく。

2876/R.パイプス1990年著—第15章⑭。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第七節/市場と影の経済を廃棄する努力①
 (01) トロツキーの言葉では、「経済の社会主義的組織化は、市場の廃絶でもって始まる」。
 マルクス主義者にとってはじつに、市場、商品の交換のための広場は、資本主義経済の心臓部だった。貨幣が生命体の血液であるように。
 市場なくしては、資本主義は作動することができない。
 したがって、産物と役務の自由な交換を塞いでしまうことは、ボルシェヴィキの経済政策の中心目標だった。
 市場の国有化と分配の中央集権化は、しばしば誤って論じられているようにではなく、すなわち革命と内戦が惹起した食糧不足に対する反応ではなく、不足を生み出す資本主義という敵に対して向けられた積極的で先導的な行為だった。
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 (02) ボルシェヴィキは、商品の自由な交換を排除するという極端な途を歩んだ。
 彼らは、1919年の党綱領でその意図を明確に説明した。
 「分配の分野では、現在のソヴィエト政権の任務は、産物の計画的で国家により組織された分配でもって取引を置き換えることを着実に追求することにある。
 目標は、全国民を単一の消費者共同体へと組織することだ。この共同体は、極めて急速に、計画的やり方で、経済的にかつ労働を最小限にだけ使って、全ての必要な産物を分配し、分配の全ての機構を厳格に中央集権化することができる。」(注103)
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 (03) ボルシェヴィキは、この目標をさまざまな方法で追求した。食糧以外の物品の生産手段の廃絶、食品その他の日常用品の強制的な徴発、取引の国家独占、交換を媒介する貨幣の廃止、等。
 物品は、配給カードという手段で国民に分配される。最初(1918-19年)は名目上の価額で、のち(1920年)には無料で。
 住居、実用役務、輸送、教育、娯楽もまた市場から撤退し、やがて無料で利用できるようになる。
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 (04) 工業用品の生産は最高経済会議の手に委ねられ、商品の分配についての責任は、供給人民委員部(- po Prodovolstviiu)、自分自身の<glavki>や分配機関網という隊列をもつ別の官僚機構、が受け持った。
 供給人民委員部の長のAlexander Tsiurupa はわずかな事業経験しかもたず、1917年以前は土地不動産の管理者として雇用されていた。
 彼の人民委員部は、経費がきわめて少ないままで活動していた。
 Komprod として広く知られたこの人民委員部は、何よりもまずは、政府が購入、物々交換や強制的徴発によって何とか集めた食料品を収受し、分配された。
 また、国有化された工業団体や家族的工業体から物々交換用に消費用品を収受することが想定されていた。
 分配については、国家管理の店舗という自分自身の網にある程度は依拠していたが、主としては、消費協同組合に依っていた。これは革命以前から発達し、エスエルとメンシェヴィキを監督職員から排除したあとで、ボルシェヴィキがさして気乗りもせず維持したものだった(注104)。
 1919年の春。この消費協同組合は国有化された。
 1919年3月16日の布令(注105)は、全ての都市と地方中心地に、「消費者共同体」(potrebitel’skie kommuny)の設立を命じた。所定の地域の住民たちは、例外なく、これに加入しなければならなかった。
 この共同体は、配給カードの提示にもとづいて食糧その他の基本的な必需品を供与することが想定されていた。
 このカードにはいくつかの種類があり、最も有利なものは、重工業の労働者に発行された。一方で、「ブルジョアジー」は、せいぜい労働者への配給の四分の一を受け取った。そして、しばしば何も受け取れなかった。(注106)(脚注)
 この制度は、恐るべき濫用を許すものだった。
 例えば、1918年のペテログラードで、通常の住民よりも三分の一増しの配給カードが発行された。供給人民委員部は1920年に、2190万人の都市居住者に配給カードを発行したが、住民の実際の数は1230万にすぎなかった(注107)。
 ——
 (脚注) 最も少ない配給(paek)を示すカードの所有は、チェカにとっては「ブルジョアジー」の一員を識別する手段として役立った。このカードの所持者たちは、テロルや強奪の自然な犠牲者だった。
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 (05) Milton Friedman の言葉では、経済理論が意味深長になればなるほど、「前提条件はますます非現実的になる」。
 取引の国有化というソヴィエトの実験は、この言明を十分に裏付けている。
 戦時共産主義の措置は、市場を排除したのではなく、市場を二つに分裂させた。
 1918-20年、ソヴィエトの国家部門は、配給カードによって固定価格で、または無料で、物品を分配した。一方、これに並んで、需要と供給の法則に従う不法な私的部門があった。
 ボルシェヴィキの理論家が驚いたことに、国有化された部門が膨張すればするほど、ある者が「動かせられない影」と呼んだ自由部門がますます大きく出現してきた。
 実際に、私的部門は国家部門を侵食した。その単純な理由は、消費用品の大部分が闇市場に流れたからだ。労働者たちは、消費用品をきわめて安価で購入するか、国家部門または「消費者共同体」から無料で受け取っていた(注108)。
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 (06) 政府は、1920年10月に電信、電話、郵便の支払いをソヴィエト諸機関に免除する法律(law)を制定して、無料の公共サービスを開始した。
 これらは翌年には、全ての市民に適用された。
 この期間のあいだに、政府職員にも、全ての公共サービスが無料になった。
 1921年1月、国有または公有になった住宅の住民は、賃料の支払いを免除された(注109)。
 1920-21年の冬、供給人民委員部には、3800万人の国民に対して事実上は無料で基本的必需品を提供する責任があった、と見られている(注110)。
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 (07) 明らかに、このような気前よさは、ボルシェヴィキ体制が旧帝制から継承した資本を使うことができたあいだ、一時的にのみ可能だった。
 政府が賃料を徴収しないで済ますことができたのは、家屋を建設することもそれを維持するために出費することもしなかったからだ。
 ロシアの都市部の住居用建物は約50万棟あったが、ほとんど全てが1917年以前に建築されていた。
 戦時共産主義の期間中、政府は、全国で2601件だけの建物を建築し、修繕した(注111)。
 無料での分配を可能にしたもう一つの要因は、農民からの食糧徴発だった。これは補償金の支払いなしで、または無価値の貨幣による偽の補償金付きで行なわれた。
 明瞭なことだが、建物は古くなり、農民は余計な食糧の生産を拒むので、このような状態は永続することができなかった。
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 ②へとつづく。

2875/R.パイプス1990年著—第15章⑬。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき
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 第15章・第六節/農業生産の低下
 (01) 農業生産の低下は、より劇的ではなかった。しかし、食糧の余剰にはほとんど余裕がなかったので、農業生産低下の国民生活に対する影響は、より破壊的だった。
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 (02) ボルシェヴィキ政府は農民層を階級敵と見なし、赤軍の一団や武装暴漢たちの一隊によって通常の方法で戦った。
 1918年綱領—農業生産物の私的取引の排除が目的—は、激烈な農民の抵抗があることに鑑み、緩和されなければならなかった。
 1919年と1920年、ボルシェヴィキ政府は、多様な手段でもって農民から食糧を奪い取った。強制的引渡し、製造物品と食料の交換、実際の価額よりもいくぶん高い購入。
 1919年、政府は、限定された量の食糧が自由市場で売却されることを認めた。
 日常用品、肉、果物、ほとんどの野菜、そして全ての野生の食料は、最初は国家の統制から免れており、のちに通常の食料と同じように規整された。
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 (03) 規整と誘導の連携を通じて、政府は何とか、都市部、工業地区、むろん赤軍に、食料を提供することができた。
 しかし、農民たちは自分たちが必要とする以上に多く生産する動機がなかったので、将来には破綻するだろうとの見込みから、農民たちは耕作面積を減少させ続けた。
 穀物を栽培する地方では、1913年と1920年のあいだに、耕作されている土地面積は、12.5パーセント減少した(注97)。
 しかしながら、種が撒かれた農地面積の減少は、穀物生産の低下を十分には明らかには示していない。
 第一に、農民たちは産物を自分たちで消費するか収穫の四分の三を種として残しておくので、作付け面積の12.5パーセントの減少は、非農業の国民のための余剰生産に使える農地が半分にまで落ちていることを意味した。
 第二に、作付け面積の減少と同時に生産は低下し続けたのだが、それは主としては、四分の一が軍隊のために没収された牽引馬の不足によるものだった。
 1920年のエーカー当たりの収穫高は、戦争前のそれの70パーセントにすぎなかった(注98)。
 収穫高の30パーセント減少を伴なう農地面積の12.5パーセント減少が意味したのは、穀物生産が戦前の数字の60パーセントにすぎなくなった、ということだった。
 ある共産党員経済学者が統計資料を示しているが、これは、現実に何が起きたかを示している。
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 「中央ロシアでの穀物生産(100万トン単位)(注99)
  1913年  78.2
  1917年  69.1
  1920年  48.2」
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 (04) 飢餓の次元にまで落下するのに必要だったのは、少しのあいだの、収穫にとっての悪天候だけだった。
 ボルシェヴィキによる経営のもとでは余剰はなく、そのゆえに、収穫減少の結果を吸収することができなかった。
 やがて近いうちに災難がやってくるだろうことは、1920年の秋には、ほとんど確実に感じられていた。
 その1920年秋、党の諸文書は、新しい「敵」—<zaskha>、すなわち干魃、が起きるという警告を報じ始めた(注100)。
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 (05) 本当の飢饉、ロシアも残りのヨーロッパも未だ経験したことがなく、数百万人が死亡することになるアジア的飢饉は、まだ先のことだった。
 しばらくの間は、飢えがあり、栄養不十分の永続的状態があった。これにより、活力、働く力、そして生きようとする意思がすっかり奪われた。
 ボルシェヴィキのある指導的経済学者は、1920年に工業生産の低下を分析して、主に食糧不足にその原因を求めた。
 彼の計算によると、1908年-1916年の平均的労働者は一日に3820カロリーを消費したが、1919年までに摂取量は2680カロリーまで落ちた。この量では、激しい手作業には十分でなかった(注101)。
 彼の見解では、カロリー摂取量の30パーセント低下は、大都市での労働者生産性の40パーセント減少の主要な原因だった。
 もちろんこれは、過度に単純化したものだが、まさに現実の問題を衝いていた。
 もう一人の共産党員専門家は、一年間で180-200キログラムのパン消費は飢餓だとする革命前の基準を用いて、1919-20年の北部地域のソヴィエトの労働者は134キログラムしか消費しておらず、これは飢餓だと評価した(注102)。
 ロシアの諸都市がこの時点で飢餓のために崩壊しなかったとすれば、それは、時期の幸運な合致によっていた。すなわち、まさに崩壊しようとするときに、ボルシェヴィキは内戦に勝利し、北部コーカサス、ウクライナおよびシベリアを再制圧した。これらの地方は、非ボルシェヴィキが支配していて、穀物を豊かに貯蔵していた。
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 第七節につづく。

2874/R.パイプス1990年著—第15章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第五節/工業生産の低下
 (01) 戦時共産主義のもでのソヴィエト工業の狭い意味での目標は、もちろん、生産性の向上だった。
 しかし、統計上の証拠が示しているのは、この政策の効果は反対だった、ということだ。
 ボルシェヴィキによる経営のもとで、工業生産性はたんに低下したのではなかった。すなわち、かりに同じ過程が進行していたならば、1920年代半ばまでにソヴィエト・ロシアにはどんな工業もなくなってしまうことを示唆する、そのような割合で落ち込んだ。
 このような現象を示す、いくつかの統計資料がある。
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 「I. 全国の大工業生産(脚注1)
  1913 100
  1917 77
  1919 26
  1920 18」
 ----
 「II. 1920年の特定工業製品の生産量(1913=100)(注94)
  石炭 27.0
  鉄鋼  2.4
  綿糸  5.1
  石油 42.7」
 ----
 「III. ロシアの労働者の生産性(固定のルーブルで)(注95)
  1913 100
  1917 85
  1918 44
  1919 22
  1920 26」
 ----
 「IV. 被雇用工業労働者数(脚注2)
  1918 100
  1919 82
  1920 77
  1921 49」
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 (脚注1) Kritsman, Geroicheskii period, p. 162. Narodnoe Khoziaistvo SSSR v 1958 god u(Moscow, 1959), p. 52-53 の数字によると、1921年の全工業生産は1913年比で69パーセント減少し、重工業生産は79パーセント減少した。
 (脚注2) A. Alu f, cited in S. V Olin, DeiateVnosf menshevikov v profsoiuzakh pri sovetskoi vlasti, Inter-University Project on the History of the Menshevik Movement, Paper No.13(New York, 1962),p. 87. もちろん、ここで基礎年にしている1918年までに、被雇用労働者の数は、1913-14年と比べて、相当に減少していた。
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 (02) 要するに、戦時共産主義のもとで、ロシアの「プロレタリアート」数は二分の一に、工業生産高は四分の三に落ち、工業生産性は70パーセントが失われた。
 この破滅を見て、レーニンは1921年にこう叫んだ。
 「プロレタリアートとは何だ?
 大規模工業に就労する階級だ。
 そして、どこに大規模工業があるのか?
 どんな種類のプロレタリアートなのか?
 おまえの(原文ママ)工業はどこにあるのか?
 なぜ、怠惰なのか?」(注96)
 これらの修辞的質問に対する回答は、レーニンが承認していたユートピア的構想が、ロシアの工業を破壊し、ロシアの労働者階級を殺した、ということだった。
 しかし、この工業力低下の時期のあいだに、経済に責任を負う官僚機構の維持のための出費は、飛躍的に増大した。1921年までに、それは予算の75.1パーセントを占めた。
 ロシアの工業を管理した最高経済会議の人員について言えば、それはこの期間に100倍に増えた(脚注)
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 (脚注) Buryshkin, EV, No. 2(1923), p. 141. 最高経済会議の被雇用者の数字は、1918年3月に318人、1921年に3万人だ。
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 第六節につづく。

2873/斎藤元彦兵庫県知事・2025年4月23日(水)記者会見・一部②。

 斎藤元彦兵庫県知事・2025年4月23日(水)記者会見・一部②
  出所/兵庫県庁「知事記者会見(2025年4月23日(水曜日))」
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 フリー記者A:公益通報者保護法の有権解釈権って誰が持っているんですかね。
 知事:法律を所管している省庁がひとつ持っていると思いますし、最終的な違法性等の判断については、司法の場だったというふうに思います。
 フリー記者A:それは司法の法解釈であって、それは、個別具体の事案に基づいた解釈であって、それは法解釈と呼びません。
 法解釈というのは、有権解釈か学理解釈のどちらかしかないわけですが、有権解釈権は誰が持っているか、もう一度、法律的に言うと誰が持っていますか。
 知事:先ほど申し上げたとおりですね。
 フリー記者A:消費者庁が持っているんですよね。
 知事:消費者庁であり、そして個別の話も含めて、最終的には司法だということです。
 フリー記者A:有権解釈権を保有する消費者庁が、4月17日の衆議院消費者特別委員会で、3号通報も法定指針の中に入っているって答弁しているんです。
 ということは、有権解釈権を持っている消費者庁が、その見解を大臣答弁として述べている以上、あなたが先ほど毎日新聞の記者や神戸新聞の記者に言った、「私の考えです」といったところで、それは法解釈として認められないんじゃないですか。
 知事:ご指摘は、真摯に受け止めたいと思います。
 フリー記者A:これは指摘じゃなくて、雨が降ったら地面が濡れるんじゃないですかって聞いているんです。
 知事、あなたは行政のトップですよ。
 有権解釈権を有している機関が法の解釈はこうだと、言っている内容と、違うことを言って、行政の長が務まるんですか。
 知事:我々が、私が、これまで述べさせていただいたことは、3月26日の会見で述べさせていただいたとおりです。
 フリー記者A:それは法解釈として間違っていますよねと申し上げているんです。
 知事:それはご指摘としては、受け止めます。
 フリー記者A:ご指摘じゃないんですよ。
 これは国会答弁であり、法の解釈なんです、中央省庁の。
 いつから兵庫県は斎藤人民共和国になったんですか。
 知事:兵庫県における対応、問題については、個別具体の話として兵庫県として今の対応をしており、そして、対応については適切だったと考えています。
 フリー記者A:ちょっと待ってください。
 それは重大問題発言ですよ。
 消費者庁の法解釈が、兵庫県では通用しないんですか。
 知事:消費者庁が法を所管しているってことは承知しています。
 兵庫県の問題については、兵庫県の方で、我々としては、これまで述べさせていただいたとおり、対応としては適切だったということです。
 その説明については、3月26日の会見を含めて、これまで述べさせいただいたとおりです。
 フリー記者A:知事、それはクーデターですよ。
 知事:はい、ご指摘は真摯に受け止めますけれど、我々としては、これまで述べさせていただいたとおりです。

 フリー記者A:道路交通法が、大阪府と兵庫県では違うみたいなこと言っているんですよ。
 知事:それはよく分からないですけども。
 フリー記者A:そう言っているんですよ。
 無茶苦茶すぎるでしょ、それは。
 法の解釈は、内閣が閣議決定に基づいて、有権解釈権を行使して、提示していてて、なおかつ、法定指針には内部通報も外部通報も含まれるとされているんです。
 そう解釈していない都道府県は、兵庫県だけなんです。
 その矛盾点を、今般の公益通報者保護法改正の審議の中で、消費者庁は問われて、与野党の各議員から、当然当たり前のように、有権解釈権は消費者庁が有していて、法定指針の中に、3号通報も含まれる、と言われているんですよ。
 かつ、元県民局長の文章は、3号通報だったという解釈が、大臣答弁及び審議官答弁で閣議決定済みの答弁として積み上がっているんです。
 あなた、中央政府に反旗を翻すんですか。
 知事:ご指摘は真摯に受け止めますけれども、兵庫県としての今回の文書問題に対する対応に、これまで述べさせていただいたとおり、適切だったというふうに考えています。
 フリー記者A:兵庫県の解釈は存在する余地がないって言っているんです。
 いつから斎藤元彦人民共和国になったんです、兵庫県は。
 知事:ご指摘は真摯に受け止めます。

 フリー記者A:なぜ日本中で通用する法律を。
 知事:兵庫県としては、これまでの対応は適切だというふうに、これまで述べさせていただいたとおりです。
 フリー記者A:法律違反ですよね。
 知事:今回の公益通報に関する対応、これについての考え方や見解については、3月26日の会見などで述べさせていただいたとおりです。
 フリー記者A:藤本政府参考人が、14日の衆議院の消費者特別委員会で、個別の事案には答えられないけれども、3号通報が法定指針の対象であることは明らかですって明言されておられるんですよ。
 それと、3号通報は、要は体制整備義務等々の法定指針の対象じゃないという兵庫県は、なぜそんな立場を取れるんですか。
 周りに職員さんいてはんねんで。
 法律守らへんって長が言うてええんですか。
 知事:3月26日の会見などで述べさせていただいたとおりです。
 フリー記者A:3月26日の会見の内容は、法律を守らない宣言だと解釈していいんですね。
 知事:様々なご指摘、ご解釈というものはあると思います。
 フリー記者A:そうとしか解釈できないじゃないですか。
 これクーデターですよ。
 あなたがやっていることはクーデターですよ。
 元県民局長がクーデターをしたんじゃない。
 あなたが東京に対してクーデターを企てているんだ。
 知事:県の対応としては適切だったという考え方でおります。

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 フリー記者B:情報漏えいに関する報告書の中にですね、斎藤知事の6月29日の既読LINEは入っているんでしょうか。
 週刊文春が報じてですね、斎藤知事が元県民局長の情報漏えいを把握していたと。
 岸口県議が不倫をばらすぞと言って口封じをしようとしたけれども、その工作が失敗に終わったという、報告の既読LINEなんですが、これ報告書の中に入っていたんでしょうか。
 知事:報告書の内容については、今担当課の方が精査しているというふうな状況です。
 フリー記者B:LINEは提出したんですか、第三者委員会から要請があって。
 これ入ってないとおかしいと思うんですけど。
 知事:第三者委員会については、適切に調査対象も含めて。
 フリー記者B:斎藤知事が、今、持っているLINEを提出したのかどうか聞いているんです。
 第三者委員会に内容を見せたのかどうか。
 知事:第三者委員会が、適切に調査対象をどうするか含めて判断して、対応したというふうに考えています。
 フリー記者B:片山元副知事への聞き取り内容は報告書の中に入っていたんでしょうか。
 知事:どういったことを対象とされているかということについては、第三者委員会が報告書出されましたので、そこを精査した上で。
 フリー記者B:概要も報告ないのはおかしいと思うんですが、次の質問に移ります。
 立花孝志氏についてですね、姫路市の高見市議はですね、県知事選の選対会議で、「立花氏は別に勝手にやってもらってもいいんじゃないか」と斎藤知事が発言したというふうにインタビューで語ってくれたんですが、これ間違いないですよね。
 違いますか。
 知事:どういうやりとりされたかっていうのは、承知してないので、私はコメントをしようがないですね。
 フリー記者B:記憶ないですか。
 今まで立花氏について知らんぷりしていましたけど、選対会議で話題になって、斎藤知事が、勝手にやってもらう分にはいいじゃないか、という趣旨の発言をした、と高見市議が言っているんですが、これ全く記憶ないんですか。
 知事:どういったやりとりを、ご指摘された方がされたかっていうのは、ちょっと承知してないですので、コメントのしようがありません。
 フリー記者B:斎藤知事が発言したかどうか、全く記憶ないんですか、立花氏の2馬力選挙について。
 知事:選挙戦については、17日間、しっかり頑張って選挙活動をさせていただいたということです。
 フリー記者B:高見市議が選対会議で話題になって、斎藤知事が勝手にやってもらったらいいんじゃないかと言った、というふうに証言しているんですが、これは事実じゃないんですか。
 知事:ですから、何度も繰り返しますけど、やりとりを承知してないので、コメントのしようがないですね。
 フリー記者B:あと、最後にメルチュが主体的にSNS選挙に関わっていたということについても、高見市議が話してくれたんですが、これも違いますか。
 Xのアイコンとか、スローガンをこうしたらいいというのを、折田さんが中心的に提案して、選対メンバーはそれに沿って動いたと。
 まさに主体的、中心的に動いたのがメルチュで、買収疑惑の可能性が高いと思うんですが、その辺、奥見弁護士が言っている内容と全く違うんですが、再度調べて会見をやり直す考えはないんですか。
 知事:その点については、代理人の弁護士に対応をお願いしております。
 フリー記者B:代理人の弁護士が言った内容と、高見市議が言った内容が全く違っているんで、再度調べないんですかと聞いているんですが。
 調べる考えはないということですか。
 知事:対応については、代理人の弁護士に一任しております。
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 フリー記者C:先ほどのやりとり中で、第三者委員会について、公平、客観的なものであるというふうなふうに受け止めている、というお答えでした。
 ということは、その正当性は認めているということだと思うんですけど、しかし、その結果は、公益通報について違法性があるという指摘については、受け入れないという、そこに論理矛盾があるように思うんですけれども。
 公平公正に審議されたけれども、だけれども結果受けいれないというのは成り立たないと思うんですが。
 それは、斎藤さんの中で、どんなふうに成り立っているんですかね。
 知事:それは、質問された方のご意見としては承りますけども、私が述べてきたことはこれまでの会見で言ってきたとおり、報告書については真摯に受け止めていくということです。
 フリー記者C:先ほどの記者の法解釈の話もそうですけども、その指摘を受けながら、ご自分では全く違う解釈を主張され、もっと言えば、県職員の方々からも翻意を説得されているにもかかわらず、最終的に知事の独断で問題なかったという結論を出されているわけです。
 先ほどの比喩で言うと、本当に独裁国家、独裁と言われても仕方がないと思うんですけども、その状態で良いというふうに思ってらっしゃるわけですか。
 知事:ご指摘はしっかりと受け止めたいと思いますけども、県政については着実に日々の業務も含めて進んでおります。
 フリー記者C:パワハラというのは、これの第三者委員会の報告で指摘されたパワハラを、私が聞いている限り、斎藤知事は認めているというふうには聞こえないのですが、それはともかくとしても、パワハラというのは、当該の社員とか職員だけではなくて、周りを萎縮させたりとか、あるいはJRの事故のように、多くの人を巻き込む、命を奪う可能性すらあるというふうな、そういう重大な結果を招くというようなご認識はありますでしょうか。
 知事:やはりハラスメントのない職場づくりというものは、先ほど来、今日も質問が出ましたけど、そういった職場環境づくりをしっかりと作っていくということが大事だというふうに思っています。
 フリー記者C:今日の話、SNSの誹謗中傷のやつを聞いていても、斎藤知事の発言が、非常に他人事に、ご自身に関わりのないことで、こういう仰っているように聞こえますので、その辺は「真摯に」とおっしゃるのであれば、ご自身の問題として受け止めていただきたいと、県民として思います。
 以上です。
 知事:記者さんのお考え、お気持ちとして、受け止めたいと思います。」
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