秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2966/R.Pipes1990年著—第18章㉔。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第十一節/ボルシェヴィキによる強制収容所の創設②。
 (05) しかしながら、1918年には強制収容所はほとんど建設されず、設置されたものは諸州のチェカまたは軍事司令部によって主導された、と思われる。
 強制収容所の建設が本格的に始まったのは1919年の春で、主導したのは、Dzerzhinskii だった。
 レーニンは、強制収容所が自分の名前と結びつけられるのを好まなかった。これを設立して構造や活動を定める諸布令は、人民委員会議の名によってではなく、ソヴェト中央執行委員会とその議長のSverdlov の名で発せられた。
 これら諸布令は、チェカの再構成に関する1919年2月17日のDzerzhinskii の報告書の中に含まれていた諸勧告を実施した。
 Dzerzhinskii は、治安妨害と闘うための現存の司法的手段は十分ではない、と主張した。
 「法廷が判決を下すこととともに、行政的な判決の言い渡し—つまり強制収容所—を保持することが必要だ。
 今日でも、拘置(under arrest)されている者の労働が公的な労働全体の中で役立っているとは、とうてい言い難い。だから私は、拘置されている者の労働を利用するために強制収容所を保持するよう勧告する。また、職業をもたず生活している者や強制がなければ労働することができない者についても。
 あるいは、ソヴィエトの諸組織に関して言えば、このような制裁の措置は、労働について無関心な態度の者、怠惰な者、遅い者、等々に適用されるべきだ。
 このような措置をとれば、我々自身の労働者をも引き上げることができるはずだ。」(注127)
 Dzerzhinskii、カーメネフ、およびスターリン(この布令の共同起草者)は、収容所を、「労働の学校」と労働の貯留庫(pool)を結合させたものと考えた。
 「全ロシア非常委員会[チェカ]は、強制収容所に限定する権能を付与された。全ロシア中央執行委員会により承認された、強制収容所への収監の規則に関する厳密な指示によって導かれる。」(注127)
 明確でない理由により、1922年およびその後、「強制収容所」(concentration camps)という用語は、「強制労働収容所」(camps of forced labor)に変更された。
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 (06)  1919年4月11日、CEC は、収容所の組織に関する「決定」を発した。これは、内務人民委員部—長は今やDzerzhinskii—の権威のもとで、強制労働収容所の網(network)の設置を定めた。
 「以下の個人または一定範疇の個人たちは、強制労働収容所に拘置される。行政諸機関、チェカ、革命審判審判所、人民法廷および布令や指令で権限を与えられている他のソヴェト機関が決定した者。」(注129)
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 (07)  画期をなすこの布令の若干の特徴について、注記が必要だ。
 1919年に装置化されたソヴィエトの強制収容所は、法廷と行政機関のいずれかによって判決を受けた、あらゆる種類の望ましくない者たちを監禁しておくための場所だと意図されていた。
 監禁される者の中には、個人だけではなく、「一定範疇の個人たち」—すなわち、全ての階級—も含まれていた。
 Dzerzhinskii は、「ブルジョアジー」のための特別強制収容所が設立されるべきだと、ある箇所で提案した。
 強制的に隔離されている被収容者たちは、ソヴィエトの行政部や経済部署が賃金を支払わないで用いることのできる奴隷労働の貯留庫になっていた。
 収容所の網状機構は、内務人民委員部によって、当初は収容所の中央管理機関を通じて、のちには一般にGulak として知られる中央収容所管理機構(Main Camp Administration、Glavnoe Upravlenie Lageriami)を通じて、運営された。
 ここで、原理としてではなく実務においても、スターリンの強制収容所帝国を感じ取ることができる。
 スターリンの強制収容所は、レーニンのそれと、規模についてだけ異なっていた。
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 (08)  強制収容所の設立を承認したCEC の諸決議は、収容所の活動を指導する詳細な指針を必要とした。
 1919年5月12日に発せられた布令は、細かい官僚的用語法を用いて、収容所の基本構成を定めた。どのように組織されるべきか、被収容者の義務と想定上の権利は何か。
 この布令は、全ての州都である都市に対して、300人またはそれ以上を収容できる強制労働収容所の建設を命じた。
 ソヴィエト・ロシアには(内戦の状況によるが)約38の州があったので、この規定は、最少で計11,400人の施設を想定していた。
 しかし、この数字は大きすぎた。布令は地区の首都にも強制収容所を建築する権限を認めており、こちらの数字は数百に達したからだ。
 収容所を組織する責任は、チェカが負った。建設されると、収容所を管理する権限は、地方ソヴェトに移ることとされていた。
 この条項は、ボルシェヴィキによる立法の一つで、ソヴェトは「最高」(sovereign)機関だという神話を維持することを前提にしていた。
 そして、実際には、機能しなかった。ソヴィエト・ロシアにある収容所の「総合的管理」の責任が、内務人民委員部内に新しく設置された強制労働局(Department of Forced Labor、Otdel Prinuditel’nykh Rabot)へと移されたからだ。そして、既述のとおり、内務人民委員部の長(人民委員)は、チェカの長官と同じ人物だった。
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 (09)  ロシアの政府には、受刑者の労働を利用するという古くからの伝統があった。「国家の経済それ自体の中で強制労働の利用が、ロシアの歴史ほどに大きい役割を果たした国はなかった。」(注131)
 ボルシェヴィキは、この伝統を復活させた。
 ソヴィエトの強制収容所の拘禁者は、1919年の最初から、つねに、拘禁施設の内部か外部で肉体労働をしなければならなかった。
 指示書は、こう定めていた。「収容所に到着するとただちに、全員が、仕事を割り当てられ、滞在中はずっと肉体労働に従事するものとする」。
 収容所当局が拘禁者の労働を完全に利用するのを促すために、また政府の財政負担を軽減させるためにも、各収容所は財政的に自立して運営していくことが、要求されていた。
 「収容所とその管理機構を運営する費用は、被収容者が定員いっぱいの場合には、被収容者の労働によって賄う必要があった。
 赤字の責任は、別の指令書が定めた規則に従って、管理者と被収容者に生じることになる。」(脚注5)
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 (脚注5) したがって、別の権威が行なったように、ソヴィエトの強制収容所はもともとは民衆をテロルにかけることに役立ったが、1927年にスターリンのもとでようやく経済的な重要性をもった、と主張するのは、正しくない。実際に、制裁的労働で元を取る、さらには国家の収入とするという実務は、帝政時代に遡る。かくして1886年に内務省は、重労働施設の管理者に対して、受刑者の労働が利益を生むことを確かめよ、と指示した。R. Pipes, Russia under the Old Regime, p.310.
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 ③へとつづく。

2965/R. Pipea1990年著—第18章㉓。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第十一節/ボルシェヴィキによる強制収容所の創設①。
 (01) チェカの最も重要な職責の中に、「強制収容所」(concentration camps)を組織し、運営することがあった。ボルシェヴィキは、この収容所を全く新しく考案したのではなかったが、新奇できわめて邪悪な意味をこれに与えた。
 強制収容所は、その完全に発展した形態では、一党国家制や全能の政治警察とともに、ボルシェヴィキが20世紀の政治実務に影響を与えた主要なものだった。
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 (02) 「Concentration Camps」という用語は、植民地戦争(colonial war)に関連して19世紀の末に生まれた。(脚注1)
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 (脚注1) この装置に関する最良の歴史書は、Kaminsky, Konzentrationslager だ。この主題を、歴史家は驚くほどに無視してきた。
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 スペイン人は、キューバ人の暴乱に対する戦いのあいだに、このような収容所(camps)を最初に設けた。
 それらは、40万人を収容した、と推算されている。
 アメリカ合衆国は、1898年のフィリピン暴乱と戦うあいだに、スペイン人に見習った。
 イギリスも、ボーア(Boer)戦争のあいだに、同様のことをした。
 しかし、これらは、名前を別とすれば、ボルシェヴィキが1919年に導入し、ナツィスその他の全体主義体制がのちに模倣した強制収容所とほとんど関係がなかった。
 スペイン、アメリカ、イギリスの強制収容所は、植民地のゲリラとの戦いのあいだに採用された非常措置だった。それらの目的は、制裁ではなく、軍事的なものだった。—すなわち、非正規軍を一般民間人から分離すること。
 初期の収容所の条件は苛酷だった、と認めざるを得ない。イギリスに監禁されて、2万人ほどものボーア人が死んだ、と言われている。
 しかし、意図的な虐待は、存在しなかった。苦痛や死は、収容所が急いで完成されたことによっていた。急いだがゆえに、居住条件、食事等の供給、医療が不適切なままだった。
 被収容者たちは、労働を強制されなかった。
 三つの場合はいずれも、戦闘が終結すると、収容所は取り壊され、被収容者は解放された。
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 (03) ソヴィエトの強制収容所や労働収容所(lageri prinuditel’nykh rabot)は、最初から、組織、活動、目的が異なっていた。
  1. 永続的な施設だった。内戦のあいだに導入され、1920年に戦闘が終わっても、消滅しなかった。
 それどころか、様々の目的をもってその場所に維持され、1930年代には途方もない割合で膨張した。その頃のソヴェト・ロシアは平穏で、表向きは「社会主義を建設していた」のだが。
 2. ゲリラを支援したと疑われた外国人を収容しなかったが、政治的反抗者だとの嫌疑を抱いたロシア人その他のソヴィエト市民は、収容した。
 元来の役割は、植民地の人々を軍事的に制圧するのを助けることではなかった。ソヴィエトでは、自国の市民にある不満を抑圧することが任務だった。
 3. ソヴィエトの強制収容所は、重要な経済的役割を果たした。被収容者は、命じられれば、労働しなければならなかった。このことが意味したのは、彼らは隔離されるだけではなく、奴隷労働者として搾取される、ということだった。
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 (04) ソヴィエト・ロシアで強制収容所が最初に話題になったのは、1918年の春、チェコ人の蜂起や従前の帝制期の将校たちの採用に関係してだった。(脚注2)
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 (脚注2) ソヴィエトの強制収容所に関する最も包括的な解説は、Mikhail Geller, Kontsen-tratsionnyi mir i sovetskaia literature(London, 1974)だ。これには、ドイツ語、フランス語、ポーランド語の翻訳書がある。英語のものはない。
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 1918年5月末、トロツキーは、武器を捨てて降伏するのを拒む
チェコ人兵士を、強制収容所への監禁でもって威嚇した。(脚注3) 
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 (脚注3) L. D. Trotskii, Kak vooruzhalas’ revoliutiia, I(Moscow, 1923), p.214, p.216. Geller によると(Konrsentratsionnyi, p.73)、これは、この用語のソヴィエトでの最も早い使用例だ。
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 8月8日、彼は、モスクワからKazan までの鉄道路線を保護するために、近傍のいくつかの地方に強制収容所を建築することを命じた。それは、「その場で」処刑されていないまたは他の制裁を受けている、「悪辣な煽動者、反革命将校、破壊工作者、寄食者、投機者」を隔離するためでもあった。(注126)
 こうして、強制収容所は、訴追することができていないが何らかの理由で当局が処刑しないことを好む、そのような市民を抑留する場所だと理解された。
 レーニンは、8月9日のPenza への電信で、この用語を上のような意味で用いた。反抗する「クラク」は「容赦なき大量テロル」—すなわち処刑—を受けさせるべきだが、疑わしい者は市の外にある強制収容所に監禁せよと、その電信は命令していた。(脚注4)
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 (脚注4) Lenin, PSS, L, p.143-4. チェカの長官代理の地位にあったPeters は、武力でもって捕えた者は「その場で射殺され」、政府に反対して煽動した者は強制収容所に監禁される、と言った。Izvestiia, No.188/452(1918年9月1日), p.3.
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 このような威嚇は、1918年9月5日の「赤色テロルに関する決定」によって、法的および行政的制裁の効果をもった。この決定は、「階級敵を強制収容所へ隔離することによってソヴェト共和国を守る」ために行なわれた。
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 ②へとつづく。

2964/音楽ライブラリー/橋幸夫・追悼。

 橋幸夫・追悼(1943年5月〜2025年9月)。
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 ①→江梨子(1962年/佐伯孝夫・歌詞、吉田正・作曲)〔ロデナツメ〕

 ②→慕情のワルツ(1962年/佐伯孝夫・歌詞、吉田正・作曲)〔二の丸〕

 ③→すずらん娘(1962年/佐伯孝雄・歌詞、吉田正・作曲)〔orange〕

 ④→君の額に光る汗(1964年/山上路夫・作詞、大野正雄・作曲)〔maki805〕
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2963/R. Pipes1990年著—第18章㉒。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第十節/チェカは全ソヴェト組織に浸透する②。
 (03)  チェカは、徐々に、国家の保安に通常は影響を与えないと考えられる広い範囲の管理や監督の権能を掌握した。
 「投機」—すなわち私的取引—を取り締まる布告を執行するために、チェカは、1918年の後半に、鉄道、水路、主要道路その他の交通手段に対する統制権を握った。
 Dzerzhinskii は、この職務を効率的に実行するために、1921年4月、交通人民委員に任命された。(注121)
 チェカは、あらゆる形態の強制労働を監督かつ実施した。この義務を逃れる者や不十分にしか履行しない者に対しては、これらを制裁する裁量的権限をもった。
 銃撃による処刑は、このような目的のために使われた、一般的な方法だった。
 ある目撃者は、経済的成果を上げるためにチェカが用いた手段について、貴重な洞察を与えてくれている。この人物は、ソヴェトが雇用したメンシェヴィキの森林専門家で、レーニンとDzerzhinskii が材木生産の増大について決定したときに、たまたま在職していた。
 「あるソヴィエトの布令が公示された。この布令は、政府所有の森林の近くに居住する全ての農民に対して、1ダースの木材を用意し、輸送するよう義務づけた。
 だが、この義務づけは、森林労働者(foresters)をどうするか—彼らに何を要求するか—という問題を生じさせた。
 ソヴェト当局から見ると、これら森林労働者たちは、新政府が冷淡に処理をした妨害者的知識人の一部だった。/
 この特定の問題を議論した労働・防衛会議(the Council of Labor and Defence)の会合には、他の人民委員の中でも、Felix Dzerzhinskii が出席した。…
 彼は、しばらく聴いていたあと、こう言った。
 『正義と衡平のために、提案する。森林労働者は、農民への割当て量の達成について個人的な責任を負わされる。加えて、各森林労働者は一人ずつ、同じ量—1ダースの木材—を達成するものとする。』/
 会議の若干の構成員たちは、反対した。
 彼らが指摘したのは、森林労働者は重い肉体労働に慣れていない知識人だ、ということだった。
 Dzerzhinskii は、農民と森林労働者の間の年齢による不平等を無くす良いときだ、と答えた。/
 チェカの長官は、結論としてこう発言した。
 『さらに加えて、かりに農民が割当て量を達成できなければ、それに責任を負う森林労働者は、射殺されなければならない。
 残りの者は、真剣に仕事に取り組むだろう。』/
 森林労働者の多数は反共産主義者だと、広く知られていた。
 依然として、部屋にある、当惑した静けさを感じた。
 突然に、私は、無作法な声を聴いた。
 『この提案に、誰か反対するか?』/
 レーニンだった。彼の真似のできないやり方で、議論を終わらせようとしていた。
 当然ながら、誰もあえてレーニンとDzerzhinskii に反対しなかった。
 レーニンは、思い直したかのように、森林労働者の射殺の部分—承認されていたが—は会合の正式の議事録から削除するよう、提案した。
 これもまた、彼が望んだとおりに承認された。/
 会合のあいだ、私は気分が悪かった。
 私はもちろん、1年以上、処刑がロシアをひどく破壊していることを、知ってきていた。—だが、多数の無実の人々の運命にかかわる5分間の議論に、私自身が同席していた。
 私は、心底から動揺した。
 咳き込んだけれども、私の冬風邪の一つの咳以上のものだった。/
 1、2週間以内に森林労働者の処刑が行なわれても、彼らの死は先の事態を少しも変えないだろう、ということは、私には苦痛だった。
 このような恐るべき決定は、この非常識な措置を発動する者たちにある、憤懣と復讐の感情から来ている、と私は知った。」(注122)
 文書には何の痕跡も残さない、このような決定が多数あったに違いない。
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 (04)  チェカは、着実に、その軍事力を増大させた。
 1918年夏、その戦闘部隊(Combat Detachments)が、赤軍から分離した一つの組織となった。これは、Korpus Voisk VChK(AU-ロシア・チェカの軍団)と称された。(注123)
 帝制時代の憲兵団(Corps of Gendarmes)を範としたこの軍団は、「国内戦線」のための常備軍へと成長した。
 1919年5月、政府は、内務人民委員としての新しい権能をもつDzerzhinskii が主導して、これらの部隊の全てを、共和国の国内的保安の軍隊(Voiska Vnutrennei Okhrany Respubliki)へと統合し、戦争人民委員ではなく内務人民委員が監督するものとした。(注124)
 このとき、この国内軍には、12万人ないし12万5000人の兵士がいた。
 1920年代の半ばまでには、この数は二倍になり、全体でほとんど25万人になった。この兵士たちは、工業施設、輸送設備を守り、供給人民委員部が食料を徴発するのを助け、強制労働と強制収容所を護衛した。(注125)
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 (05)  重要なことを付言すると、チェカは、Osoby Otdel(特殊部署)として知られる、軍隊のための対抗諜報組織の事務局を設置した。
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 (06)  チェカは、こうした機能と権能をもつことによって、1920年までに、ソヴィエト・ロシアの最も強力な組織になった。
 警察国家の基盤は、かくして、レーニンがその職責にあるあいだに、その主導のもとで、築かれた。
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 第十節、終わり。

2962/R. Pipes1990年著—第18章㉑。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第十節/チェカは全ソヴェト組織に浸透する①。
 (01) ソヴェト・ロシアは、1920年までに、つぎの意味での警察国家になった。保安警察、事実上の国家内部の国家が、その触手を、経済管理機関を含む全てのソヴェト組織に広げた、という意味での。
 きわめて短い時間で、チェカは、無害の政治的異論者を捜査し、判定を下す機関から、人の生か死を決定するだけでなく、全国家装置の日常的活動を監督する、政府を超える機関に変身した。
 このような発展は、必然的だった。
 共産主義体制は、国の運営全般を自分で行なうことを主張したが、数十万人の専門家たちを雇う以外に選択の余地はなかった。—専門家は「ブルジョア専門家」で、その定義上、「階級敵」だった。
 したがって、彼らを緊密に監督する必要があった。
 この監督が、チェカの責任となければならなかった。チェカだけが、必要な組織だったのだから。—この責任が、チェカがソヴィエトの生活の全ての局面に浸透することを可能にした。
 新しい機能に関する1919年2月のCEC に対する報告で、Dzerzhinskii は、こう述べた。
 「群衆をまとめて簡単に処理する必要は、もうない。
 我々の敵は、今では闘争の方法を変えた。我々の組織の中に、虫のように入り込もうとしている。
 その目的は、我々の隊列の内部で破壊工作をすることであり、外部の敵が我々を破滅させ、我々の権力の機関や機構を掌握して、それらを我々に向けるまでつづく。…
 この闘争は、する気があるならば、個人的に行なうもので、今までよりも繊細だ。
 探索しなければならない。とどまることはできない。…
 我々の敵は、ほとんど全ての我々の組織内にいる。
 だが、我々は自分たちの組織を破壊することができない。細い糸を見つけて、捕えなければならない。
 この意味で、闘争の方法は、今や完全に変わらなければならない。」(注119)
 チェカは、このような主張を、全てのソヴェト組織に浸透する言い訳として用いた。
 そして、チェカは人間の生命に対する無制限の力を維持したので、それがもつ行政的指示は、テロルのさらに新しい形態となった。この新しい形態のテロルを、共産党員か否かを問わず、ソヴェトで働く者全員が逃れることができなかった。
 したがって、Dzerzhinskii が、1919年3月にチェカの長官職を保持しながら、内務人民委員に任命されたのは、自然なことだった。
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 (02) 権能の拡大に沿って、1919年半ば、チェカの上層官僚には、いかなる市民をも逮捕し、いかなる組織をも捜索する権限が、与えられた。
 このような権能が実際に意味したことは、 チェカ役員会の構成員に発行された証明書から記述することができる。
 この証明書は、所持者に対して、つぎの権限を認めた。
 (1) 反革命活動、投機その他の犯罪を行なったとして有罪であるかその疑いがあるいかなる市民をも拘束し、チェカに引き渡すこと。
 (2) 全ての国家および公的官署、工業・商業企業、学校、病院、地域共同住宅、劇場ならびに鉄道駅・蒸気船港に、自由に立ち入ること。(注120)
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 ②につづく。

2961/R. Pipes1990年著—第18章⑳。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第九節/抵抗するボルシェヴィキ党員②。
 (07) しかし、チェカ擁護論者は、その組織を防衛しただけではなかった。「プロレタリアート独裁」の勝利のために不可欠のものとして称賛した。
 チェカは、無限の闘争であるレーニンの「階級戦争」のテーゼを発展させて、自らを赤軍と相補関係にあるものと見た。
 両者の唯一の違いは、赤軍はソヴィエト国境の外で階級敵と戦い、チェカとその軍事部隊は「国内の戦線」で階級敵と戦う、ということにある。
 内戦は「二つの前線での戦争」だとする考えは、チェカとその支持者が好んだ主題の一つになった。赤軍で働く者とチェカに勤務する者は、腕を組む同志だと言われた。それぞれのやり方で、「国際的ブルジョアジー」と戦っているのだ。(注108)
 こうした類似性でもって、チェカは、自分たちにソヴィエトの領域内で殺害が許容されていることは、軍隊の兵士が前線で目に入る敵兵を殺害するのと同じ権利のようなものだ、いやじつに、義務ですらある、と主張することができた。
 戦争は、正義の法廷でなかった。Dzerzhinskii の言葉によると(Radek の報告によるが)、無実の者も、無実の兵士が戦場で死ぬのと全く同じように、国内の前線で死ぬ。(注109)
 これは、政治は戦争だ、という前提から演繹される見方だった。
 Latsis は、両者の類似性を、つぎのような論理的な結論へと押し進めた。
 「非常委員会(チェカ)は捜査機関ではなく、判決を書く法廷または審判所でもない。
 戦闘の機関であって、内戦の内部戦線で活動する。
 敵に判決を下すのではない。打ちのめすのだ。
 バリケードの向こう側の者たちを赦すのではなく、焼いて灰にする。」(注110)
 警察テロルと軍事戦闘との間のこのような類似性は、むろん、両者の重大な違いを無視していた。すなわち、兵士は生命を賭けて敵の兵士と戦ったが、チェカ機関員は、自らについての危険を冒すことなく無防備の男女を殺害した。
 チェキストが示すべき「勇気」は、身体的または倫理的な勇気ではなく、良心を抑えつけようとする意欲だった。その「不屈さ」は、被害を受けない能力にではなく、苦痛を被らせる能力にあった。
 それにもかかわらず、チェカは、この表面的な類似性を語るのを好むようになった。これでもって、批判に反駁し、ロシア人が抱く嫌悪感を克服しようとした。
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 (08) レーニンは、論争に立ち入らなければならなかった。
 チェカを好み、その残虐性を是認した。しかし、チェカの公的イメージを改善することによってでも、とんでもない悪罵は抑制される必要がある、ということにも同意した。
 〈週刊チェカ〉の記事が拷問の使用を要求していることに慄然として、Latsis の機関の閉鎖を命じた。レーニンは、Latsis を優れた共産党員だと呼んでいたのだが。(脚注2)
 1918年11月6日、チェカは、訴追されていない、または2週間以内に訴追できない収監者全員を釈放することを、指示された。
 「必要がある」場合を除き、人質も解放された。(脚注3)
 この措置は、共産党諸機関によって「恩赦」として歓迎された。審理されて判決を受けた者だけではなく、訴追すらされていない者にも適用されたので、「恩赦」という類のものではなかったけれども。
 だが、この指示も、空文のままだった。すなわち、1919年のチェカの監獄は、明確な理由なく投獄された収監者、その多くは人質、で溢れつづけていた。
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 (脚注2) レーニンは、1918年11月7日に、チェキストの「会合音楽会」で挨拶して、チェカを批判から防衛した。彼はチェカの「困難な仕事」について語り、チェカに対する不満を「愚痴」(〈vopli〉)だとして斥けた。チェカの特性として選び出したのは、断固さ、速さ、とりわけ「忠誠さ」(〈vernost’〉)だった。Lenin, PSS, XXXVII, p.173. ヒトラーのSS の標語は「Unsere Ehre heisst Treue」(「我々の栄誉は忠誠という」)だったことが、想起される。
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 (脚注3) Dekrety, III, p.529-530. これは、チェカは訴追しないままで抱えている多数の収監者を何とかしてほしいとの、10月初めのモスクワ・ソヴェト幹部会の要請に対する反応だった。Severnaia Kommuna, No.122(1918年10月18日), p. 3.
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 (09) 政府は、1918年10月の末にかけて、心ならずも、他の国家諸機関と緊密な関係をもたせることで、チェカの独立性を制限する方向へ進んだ。
 チェカのモスクワ本部は、司法人民委員部および内務人民委員部の代表者たちを受け入れるよう命じられた。
 州の諸ソヴェトは、地方チェカ機関員の任命や解任を行なう権限を与えられた。(注111)
 しかし、チェカによる政治的な濫用をなくす意味ある措置は、1919年1月7日に行なわれた、チェカの〈uezdy〉——への吸収だった。この〈uezdy〉は、酷い残虐行為や大規模な強要行為で悪名高い、最小の行政単位だった。(注112)
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 (10) チェカの権威は、ボルシェヴィキ党モスクワ委員会から不満が示されることで、慢心を原因として揺すぶられた。モスクワ党委員会は、1919年1月23日の会議で、統制されないチェカの活動に対する強い抗議の声を聴いていた。
 チェカを廃止しようとする動議が提出された。これは、「ブルジョア的」だとして採用されなかった。
 しかし、時期が到来していた。
 1週間のち、国の最も重要な同じモスクワ党委員会は、4対1の票差で、チェカから審判所として活動する権利を剥奪し、捜査機関というもともとの活動に限定した。(注114)
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 (11) 党中央委員会は、このような不満の増大に対応して、2月4日に、1918年12月のKrylenko の提案を再検討した。
 Dzerzhinskii とスターリンは、報告書を準備するよう求められた。
 二人は、数日後に提出した勧告書で、こう提案した。チェカは、治安妨害行為を捜査し、武装反乱を鎮圧するという二つの機能を維持する。だが、国家に対する犯罪に判決を下す権限は、革命審判所に留保される。
 この原則に対する例外は、ときに国の広大な領域に及ぶことのある戒厳令の下にある地域で認められた。この地域では、チェカは従前どおりに活動することができ、死刑判決を下す権利を保持した。(注115)
 党中央委員会は、勧告書を承認し、是認を求めて中央執行委員会(CEC)に提出した。
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 (12) CECの1919年2月17日の会合で、Dzerzhinskii は主要報告を陳述した。(脚注4)
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 (脚注4) これは、39年後に初めて公にされた。IA, No. 1, p.6-p.11.
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 彼は、こう語った。チェカが存在した最初の15ヶ月のあいだ、ソヴィエト体制はあらゆる分野での組織的抵抗に対抗する「容赦なき」闘争を展開しなければならなかった。
 しかし、今では、かなりの程度はチェカの活動が、「我々の内部の敵、元将校、ブルジョアジー、帝制期の官僚たちを、打ち負かし、解散させた」。
 今後の主要な脅威は、「内部から」破壊工作を実行するためにソヴェト組織に潜入している反革命者たちにある。
 チェカが大衆テロルを展開する必要は、もうない。これからは、犯罪者を審理して判決を下す革命審判所のために、証拠を提供することになるだろう。
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 (13) 表面的には、一つの時代の終わりが画された。当時の人々はある程度は、改革を歓迎した。2月17日、CECは、敵を粉砕した「プロレタリアート」がもうテロルという武器を必要としなくなった証しとして、この改革をいつものとおり承認した。(注116)
 しかし、この改革は、ロシアのテルミドール(Thermidor)ではなかった。ソヴィエト・ロシアは、当時もその後も、テロルなしで済ますことはできなかった。
 1919年、1920年、そしてそのあと、チェカとその後継組織のGPU は、革命審判所に照会することなく、逮捕し、審理し、判決を下し、収監者や人質を処刑しつづけた。
 まさに、Krylenko が説明したように、このことは大して重要でなかった。「質的に見て」(qualitatively)、法廷と警察の間に違いはないはずだったのだから。(注117)
 Krylenko の見方は、つぎのことを考えると、正しかった。1920年の時点で、裁判官は、被告人の有罪が「明白」と見えるときは、通常の司法手続を履行することなく被告人に判決を下すことができた。これは、チェカが行なってきたことと全く同じだった。
 1919年10月、チェカは自らの「特別革命審判所」を設置した。(注118)
 それにもかかわらず、改革を目ざす努力は、実らなかったとはいえ、記憶されるに値する。その努力は、少なくともボルシェヴィキ党員の一部には、1918-19年に既に、秘密警察は体制の敵のみならず自分たちや友人たちの脅威でもある、という予感があった、ということを示しているのだから。
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 第九節、終わり。

2960/R. Pipes1990年著—第18章⑲。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第九節/抵抗するボルシェヴィキ党員①。
 (01) 赤色テロルが二ヶ月めに入ったとき、ボルシェヴィキの中層および下位の党員のあいだに、テロルへの嫌悪が感じられるようになった。
 1918-19年の冬のあいだにその感情は強くなり、政府は1919年2月、チェカの権能を制限する一連の規則の発令を強いられた。
 しかし、この規制は、ほとんど紙の上だけのものだった。
 1919年の夏、赤軍がDenikin の攻勢によって後退し、モスクワが奪取される切迫感が生まれたとき、恐れ慄いたボルシェヴィキ指導部は、一般民衆をテロルする完全な自由をチェカに復活させた。
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 (02) 共産党組織の内部でのチェカに対する批判は、人道主義的な衝動からではなく、チェカが独立していることへの不満や、チェカを統制下に置かなければやがてそれが忠誠心ある共産党員を脅かすことになる、という怖れによって、掻き立てられた。
 チェカに付与された赤色テロルを行なう自由は、チェカの権能が党の指導層へすら及ぶことを意味した。
 チェキストがつぎのように誇るのを聞いたとき、ふつうのボルシェヴィキ党員がどう感じるかを、容易に想像することができる。—我々は、「好むならば」ソヴナルコムの一員を、レーニンですらも、逮捕することができる、自分たちはチェカに対してのみ忠実なのだから。(注99)
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 (03) 多数のボルシェヴィキ党員が思っていることを最初に語った最初の官僚は、〈プラウダ〉編集部員のOlminskii だった。
 Olminskii は、1918年10月早くに、チェカは党とソヴェトの上位にあると考えている、と非難した。(注100)
 州の行政を監督すると想定されていた内務人民委員部の官僚たちは、州や〈uezd〉のチェカが地方ソヴェトを無視していることに不満を表明した。
 1918年10月、内務人民委員部は、地方のチェカとの関係について調査するために、州と〈uezd〉のソヴェトに対して調査団を派遣した。
 回答した147のソヴェトのうち、20ソヴェトだけが、チェカが独立して行動していることに満足していた。残りの127ソヴェト(85パーセント)は、自分たちの監督のもとでチェカに活動させることを望んだ。(注101)
 司法人民委員部も同様に困惑しており、政治的犯罪者を審理し判決を出す手続から自分たちは排除されている、と考えていた。
 その長官であるN. V. Korylenko は、テロルの熱心な支持者で、無実の者を処刑することすら擁護していた。彼は、のちに、スターリンの見せ物裁判の、指導的な訴追者になる。
 彼は、しかし、全く自然に、自分の人民委員部が殺害を担当することを望んだ。
 1918年12月、彼は、党中央委員会に対して、チェカを本来の機能—すなわち、捜査—に限定し、司法人民委員部に審理と判決の権能を委ねようとする企画書を提示した。(注102)
 党中央委員会は、当分のあいだ、この提案を棚上げした。
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 (04) チェカに対する批判は、1918-19年の冬に、継続した。
 〈週刊チェカ〉の刊行については、編集部の論評はなかったが、州のボルシェヴィキ官僚の手紙によって嫌悪感が広がった。ボルシェヴィキ官僚たちは、レーニンの生命を狙って共謀したとして非難されたBruce Lochkart が「最も優しい拷問」すら受けることなく釈放されたことに対して、怒りを表明した。(注103)
 Olminskii は、1919年2月に、批判を再開した。
 彼は、無実の者の処刑に異議を挟んだ。そのような数少ない著名なボルシェヴィキ党員の一人として、こう書いた。
 「赤色テロルについては、異なる見解があり得る。
 しかし、いま諸州で行なわれているのは、赤色テロルでは全くない。最初から最後まで、犯罪だ。」(注104)
 モスクワで噂話として呟かれたのは、チェカの座右銘(motto)はこうだ、ということだった。—「有罪者一人を見逃すよりは、10人の無罪の者たちを処刑する方がよい」。(注105)
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 (05) チェカは、反撃した。
 反撃の仕事は、Dzerzhinskii のラトヴィア人副官であるLatsis とPeters に委ねられた。Dzerzhinskii は10月早くに、スイスへと1ヶ月の休暇をとりに行っていたからだ。
 彼は、レーニンの暗殺未遂が起きて以降の6週間を、レーニンによる赤色テロルに目を光らせながら、過ごした。
 髭を剃って、そっとモスクワから抜け出た。
 ドイツを経由してスイスへ行き、妻と子どもたちに合流した。彼ら家族は、ベルン(Berne)のソヴィエト代表部に落ち着いていた。
 赤色テロルが頂点に達していた1918年の10月に撮影された、彼の写真が、残っている。上品な私服を着て家族とともにLugano 湖畔に立って、ポーズをとっている。(注106)
 大虐殺に耐えられないかのごとき様子は、テロルのこの熟達者についてよく知られた最もよい写真だった。彼は二度と、このような非ボルシェヴィキ的弱さを示そうとしなくなった。
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 (06) チェカの報道官は、批判に応えて、彼らの組織を防衛するとともに、反対攻撃も行なった。
 批判者を、こう呼んだ。反革命と闘う実際的経験のない、そしてチェカに無制約の行動の自由を認める必要性を理解することができない「アームチェア」政治家だ、と。
 Peters は、反チェカの情報宣伝の背後には、「プロレタリアートと革命に敵対的な」悪辣な分子がいると非難した。チェカを批判するのは、国家反逆の罪を冒させることにつながる契機だとも、言った。(注107)
 チェカは、ソヴェトから独立して行動することによって、ソヴィエトの憲法(Constitution)を侵犯している、とする批判があった。これに対して、〈週刊チェカ〉の編集部は、憲法は「ブルジョアジーと反革命が完全に粉砕されたあと」で初めて効力もち得る、と答えた。(脚注1)
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 (脚注1) Pravda, No.229(1918年10月23日), p.1. この時期のチェカをめぐる紛議に関する資料の多くは、Melgunov Archive, Box 2, Folder 6, Hoover Institution にファイルされている。さらに、Leggett, Cheka, p.121-p.157 を見よ。
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 ②へ、つづく。

2959/R. Pipes1990年著—第18章⑱。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第八節/人質の大量虐殺②。
 (07)  Belerosov によると、Kievチェカは、初め(1918-19年の秋と冬)は略奪、強要、強姦の「絶え間なき耽溺」の状態にあった。
 機関員の4分の3はユダヤ人で、その多くは他の仕事に就けない輩たちだった。そして、ユダヤ人仲間を失わないよう気にかけてはいたが、ユダヤ人共同体から切り離されていた。(脚注3)
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 (脚注3)Dzerzhinskii の指示にもとづいて、チェカは、ユダヤ人をほとんど人質にしなかった。これは、ユダヤ人を好んでいたからではなかった。人質をとる目的の一つは、捕らえた共産主義者を白軍が処刑するのを抑えることだった。白軍はユダヤ人の生命を気遣うとは考えられていなかったので、Dzerzhinskii によれば、ユダヤ人を人質にするのは無益だった。M. V. Latsis, Chrezvychaine Kommissii po bor’be’s kontr-revoliutsiei(Moscow, 1921),p.54. Belerosov によると(p.132)、この政策は、1919年5月に変更された。その頃に、Kievチェカは、「煽動のために」「ある程度のユダヤ人を射殺」し、彼らに幹部の地位を与えないよう、命令された。
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 Kievチェカの赤色テロルの、Belerosov の言うところの「小屋産業」的段階は、のちに、モスクワから命令される「工場的」活動様式に変わった。
 1919年夏の絶頂期、それは白軍に市が降伏する前のことだったが、Kievチェカは300人の市民を雇用し、500人の武装兵を有していた。
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 (08) 死刑判決は、恣意的に下された。人々は、明確な理由なく射殺され、同じく気紛れに釈放された。
 チェカの監獄にいる者たちは、「質問」のために呼び出される深夜の恐ろしい瞬間まで、自分たちの運命を知らなかった。
 「囚人がLukianov 牢獄に収監され、突然に『チェカ』に召喚されたとすれば、慌てる理由は何もあり得なかった。
 公式には、収監者は、『質問に応じる』ことが要求される者の名簿が小部屋(cell)に大声で告げられるとき—通常は午前1時、処刑の時刻—に初めて、自分の運命を知った。
 その者は監獄の一画—the chancery—に連れていかれ、そこの適当な場所で、通常は書かれていることを読みきかされることなく、登録カードに署名した。
 通常は、運命が決まったその者が署名したあとで、付け加えられた。すなわち、あれこれのことが、彼の判決について告げられた。
 実際には、これはウソ(lie)の類だった。その収監者が小部屋を出たあとでは「優しく」扱われず、彼を待つ運命を弄ぶように告げられた。
 ここで服を脱ぐよう命じられ、そして判決が執行される場所へ導かれた。
 判決執行のために、第40Institute通りの傍に特別の庭が用意されていた。…その通りには、州のチェカが移ってきていた。
 執行者—司令官またはその代理、ときには助手の一人、たまにはチェカの『素人』—は、裸の犠牲者をこの庭に招き入れ、地上に平らに横たわるよう命じた。
 そして、彼らの襟首に向かって、銃弾が放たれた。
 こうした処刑は、回転銃、通常はコルト、によって、実行された。
 射撃は狭い範囲で行なわれたので、犠牲者の頭蓋は通常は粉々に砕けた。
 次の犠牲者が同様に呼び入れられ、通常は苦悶の状態で、その前の犠牲者のそばに横たわった。
 犠牲者の数が多くなりすぎて庭に入りきれなくなると、新しい犠牲者は前の者の上に置かれた。そうしない場合は、庭の入口で射殺された。…
 犠牲者たちは通常、何の抵抗もすることなく、処刑の場に向かった。
 彼らが体験したことは、大まかにすら、想像することができない。…
 彼らの多くは通常、別れの言葉を言う機会を求めた。そして、そこには他に誰もいなかったので、処刑を受け入れ、諦めた。」(脚注4)
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 (脚注4) NChS, No. 9(1925), p.131-2. Hoover研究所の写真資料庫には、スライドの収集物がある。それらは明らかにKiev 奪取のあとで白軍によって撮影されており、地方のチェカ本部と、庭にある、腐敗した裸の死体を含む浅い大量の墓場を示している。1918年12月、白軍は、ウクライナでのボルシェヴィキによる犯罪を調査研究する委員会を任命した。この委員会にあった資料は、プラハのロシア文書資料庫に預けられた。チェコ政府は、第二次大戦後に、それらをモスクワに渡した。外国の研究者は、それらを利用できないできた。上の委員会が発表した報告書のいくつかは、Hoover研究所のMelgunov 資料庫のBox n、およびColumbia大学のBakhmeteff 資料庫のDenikin 文書、Box 24 で見ることができる。
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 (09) 赤色テロルの衝撃的な特徴の一つは、犠牲者たちがほとんど抵抗しなかったこと、あるいは逃亡しようとすらしなかったことだ。彼らは、必然的なものに対するがごとく、赤色テロルに屈従した。
 犠牲者たちは、屈服し、協力することによって、生きながらえることができる、という幻想を抱いていた。行なったことではなく属性を理由として犠牲者となったこと、自分たちの役割は残る民衆に対して教訓を伝えることにすぎないこと、に気づくことが全くできなかったようだ。
 しかし、ここにはまた、一定の民族的な特徴も機能していた。
 1920年のロシア・ポーランド戦争のあいだポーランドで勤務していたCharles de Gaulle〔戦後のフランス大統領〕 は、大きくなればなるほど、ロシア人は、それだけ危険に、より無感動になる傾向がある、と観察した。(注98)
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 第八節、終わり。

2958/R. Pipes1990年著—第18章⑰。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第八節/人質の大量殺戮①。
 (01)  近年、ソヴィエトの政治警察は、その原型であるチェカを賛美しなければならないという強い切迫感をもっているようだ。
 ソヴィエトが気前よく助成している文献では、チェキストは、革命の英雄だと叙述されている。道徳的な誠実さを犠牲にして、苛酷で不愉快な義務を履行した、というわけだ。
 典型的なチェキストは、行動について妥協をしないほど厳格で、だが感情については感傷的なほど優しい、と描かれている。人間のための重大な使命を達成するために生来の人間性を抑制する、そのような稀な勇気と紀律をもつ精神的な巨人だ、というのだ。
 このような評価に値する者は、ほとんどいない。
 そうした文献を読むとき、Himmler のSS将校たちに対する1943年の演説を思い出さざるを得ない。彼は、SS将校たちを、数千人のユダヤ人を殺戮しながら「上品さ」を何とか維持したがゆえに、優れた血族だと称賛した。(脚注1)
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 (脚注1)  このような自己憐憫の例は、チェキストたちのグループのつぎの1919年の言明に見出すことができる。「不屈の意思と内面的な強さを必要とする信じ難く困難な条件のもとで…働く[チェカに]雇われている者は、誹謗中傷や頭の上に悪意をもって注がれる戯言にもかかわらず、汚染されることなく仕事をしつづける」、等々。V. P. Antonov-Saratovskii, Sovety v epokhu voennogo kommunizma, I(Moscow, 1928), p.430-1.
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 (02)  現実にはどうだったのか、チェカが惹きつけたのはどのような人々だったのか。これらを、離反して白軍に入ったかまたは白軍の手に落ちたかのチェキストの証言から、再現することができる。
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 (03)  人質をとって処刑する手続は、F. Drugov という名の元チェキストによって叙述された。(注95)
 彼の証言によると、チェカにはもともとは方法というものがなかった。チェカは、帝制下で重要な地位(とくに憲兵隊員)を占めていた、軍隊の高官だった、資産を所有している、あるいは新体制を批判している、といった様々の理由で、人質にした。
 地方チェカの意見では「大量テロルの適用に該当する何かが起きると、恣意的に設定されたその人質に相応する数が監獄の小部屋から選び出され、射殺された。
 Drugov の説明を支持する、ある州の都市からの証拠資料がある。
 1918年10月、旧体制の多数の著名人が避難していた北部コーカサスの都市であるPiatigorsk での若干のソヴェト官僚の殺害に反応して、チェカは、59人の人質を処刑した。
 公表された犠牲者の名簿には(姓名ともに提示されなかった)、ニコライ二世の退位について重要な役割りを果たしたN. V. Ruzskii 将軍、戦時中の輸送大臣だったS. V. Rukhov、6人の爵位付き貴族、があった。
 遺品は主として皇帝軍の将軍や大佐のもので、他の者のものはわずかだった。最後の少数者の中には、「大佐の娘」としてだけ特定されている女性がいた。(注96)
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 (04)  人質に関するより体系的な方法は、1919年夏に、採用された。それは、Denikin がモスクワに向かって前進して、収監者や人質たちが白軍の手に入るのを阻止すべく、彼らを避難させる必要と関係があった。
 Drugov によると、この時点で、ソヴィエト・ロシアの拘置所には、12,000人の人質がいた。
 Dzerzhinskii は、副官たちに、必要が生じたときに人質を射殺する優先順序を策定するよう指示した。
 Latsis とその仲間は、着実なKedrov 博士の助けを借りて、人質を7つの集団に分けた。分別する主要な規準は、個人的な富裕さだった。
 帝制時代の警察の元官僚が加えられた最も富裕な人質たちは、カテゴリー7と位置づけられた。この集団は、まず最初に処刑されるものとされた。
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 (05)  ナツィスによるユダヤ人の大量虐殺については、吐き気を催すほど詳細に、全ての側面が知られている。これと違って、1918-1920年の共産主義者によるホロコーストについては、一般的な経緯ですら隠されたままだ。
 処刑があることはしばしば公表されたけれども、決まって秘密裏に実行された。
 利用できる数少ない文献資料のうち、最良のもののいくつかはロシアにいたドイツの報道記者によっている。とくに、この種の情報の広がりを抑えようとしたドイツ外務省からの圧力に抵抗した、ベルリンの〈Lokalanzeiger〉で公刊されたものだ。
 以下の叙述は、ロンドンの〈The Times〉を経由した、この〈Lokalanzeiger〉によっている。
 「夜間に行なわれる処刑全体の詳細は、秘密のままだ。
 ソヴィエトの兵士の一部隊が、[Petrovskii]広場で、アーク灯に煌々と照らされながら、大監獄から送られてくる犠牲者を受け取るべくつねに待機している、と言われている。
 時間は無駄にされず、憐憫の情がかけられることもない。
 処刑の場所に身を置きたくはないが、処刑されるべく一列に並んで待つ者たちは、そこに引っ張られてくる。」
 このような実態は、ナツィの絶滅(extermination)収容所からの真正の文献資料を思い出させる。
 処刑執行者について、特派員はこう述べた。
 「毎晩のように処刑実施に加わった海兵たちについて、処刑する癖が身についたため、モルフィネ(morphia)がモルフィネ狂者に必要なように、彼らには処刑することが必要になった、と言われいる。
 彼らは業務に就くことを進んで志願し、何人かを射殺しなければ眠ることができない。」
 処刑が迫っていることや処刑が実行されたことは、家族には、知らされなかった。(脚注2)
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 (脚注2) The Times, 1918.09.28, p.5a. 大きな処刑場所として使われたPetrovskii 広場は、のちに、Dynamo 球場の所在地になった。そこはButyrki 監獄の近くで、その監獄には、モスクワ・チェカの囚人のほとんど—つねに約2,500人—が投獄されていた。別の処刑場所は、反対側、モスクワの東端のSemenovskaia Zastava にあった。
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 (06)  最も酷い残虐行為を行なったのは、いくつかの州のチェカだった。これらのチェカは中央機関の目が届かない遠くで活動し、外国の外交官や報道記者たちによって報告されるのを怖れなかった。
 そうしたチェカの機関員の一人、かつて法学生で帝制時代の官僚だったM. I. Belerosov は、1919年のKievチェカの活動について、詳細な叙述を残した(注97)。彼は、Denikin 将軍を尋問しもした。
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 ②へ、つづく。

2957/R. Pipes1990年著—第18章⑯。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第七節/赤色テロルの公式の開始③。
 (15) 今やチェカの機関員は、好きなように体勢の敵を処理することができる、と告げられた。
 Peters の署名のあるチェカの回状第47号によると、「チェカは、その活動について、全く独立して、探索、逮捕、処刑を行なう。それらに関して説明する責任は、のちにソヴナルコムおよびソヴェト執行委員会(Ispolkom)に委ねられる」。(注86)
 このような力をもち、かつモスクワからの威嚇によって促進されて、ソヴィエト全土の州や地区のチェカは、今や活発に作業を行なった。
 共産党のプレスは、9月のあいだに、赤色テロルの進展についての州に関する大量の記事や処刑を報告する多数の欄を公にした。
 ときには処刑された者の人数だけが掲載され、ときには姓名と職業も掲載された。後者にはしばしば、「〈kr〉」あるいは「反革命」という特定が付いていた。
 チェカは、9月の末に、自分の組織の機関紙の〈週刊チェカ〉(〈Ezhenedel’nik VChK〉)を発刊した。情報と経験の交換を通じて、チェキストの間での仕事上の友愛関係の形成を助けるためだった。
 この機関紙は、ほとんどが州によって編集された処刑の概括を、定期的に掲載した。まるで、地域のフットボール戦の試合結果であるかのごとく。
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 (16) 共産党指導者たちがこの時期に流血を呼びかけた熱心さを読者に伝えるのは、困難だ。
 まるで隣人よりも「優しく」なく、「ブルジョア的」でないことを、競い合っていたかのごときだった。
 スターリン主義者とナツィのホロコースト(holocausts)は、はるかに大きい端正さ(decorum)をもって実行された。
 飢えや消耗で死ぬよう宣告された、スターリンにとっての「クラク」や政治的に望ましくない者は、「矯正収容所」に送られることになる。一方で、ヒトラーにとってのユダヤ人は、ガス室を経て、「撤去」(evacuate)または「再配置」(relocate)されることになる。
 これらと対照的に、初期のボルシェヴィキのテロルは、公然と(in the open)実行された。
 ここには躊躇はなく、婉曲的な言い回しもなかった。世界じゅうのGrand Guignol〔恐怖劇の人形〕は、—支配者であれ被支配者であれ—全ての者に責任感をもたせ、それによって体制の存続への共通の関心を発展させることで「教育的」目的に役立つ、という意味をもたされているのだから。
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 (17) 赤色テロルの開始の2週間後、共産党員の集会に向かって、ジノヴィエフは、こう述べた。
 「ソヴィエト・ロシアの住民1億人のうち、我々は9,000万人と何とか一緒に進まなければならない。残りの1,000万人については、言うべきことは何もない。彼らは、消滅(annihiate)されなければならない。」(注87)
 ソヴィエトの最高の地位をもった者の一人である者のこのような言葉は、1,000万人の人間に対して死刑の判決を下した。
 そして、赤軍の機関が大衆に大量虐殺(pogroms)をさせようとする、つぎの言葉もある。
 「哀れみもなく、寛容さもなく、我々は、数千の単位で敵を殺すだろう。彼らを数千のままでいさせよ。彼らを自分の血で溺れさせよ。
 レーニンとUritskii の血のために…。ブルジョアジーの血で溢れさせよ。—可能なかぎり、より大量の血を。」(注88)
 Karl Radek は、「白軍の運動には直接には参画していなかった」人々のような罪なき犠牲者に言及しつつ、こうした大量虐殺に拍手を送った。
 彼は、そのような人々への制裁を自明のこととして語った。
 「全てのソヴィエトの労働者にとって、反革命の工作員の手に落ちる労働者革命の指導者にとって、後者は10人の頭でもって支払う必要がある。」
 彼の唯一の不満は、民衆が十分には巻き込まれていないことだった。
 「ブルジョアジーの中から選ばれ、労働者、農民および赤軍の代表者でなるソヴェトにより発表された判決にもとづいて処刑される5人の人質は、この行為を是認する数千人の労働者が見ている中では、労働者大衆の参加のないチェカの決定のよる500人の処刑よりも、力強い大量テロルの行為だ。」(注89)
 当時の道徳的雰囲気はこのようなものだったので、チェカの収監者の一人によると、「参画するテロル」を呼びかけるRadek の文章は、監獄の被収容者、人質の多くから、人道的(humanitarian)な態度だとして歓迎された。(注90)
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 (18) のちに「革命の良心」として称賛される者たちを含めて、
ボルシェヴィキ党と政府の中の誰一人として、このような残忍な諸行為(atrocities)に、公的には反対しなかった。ましてや、抗議して辞職する者は存在しなかった。
 実際に、彼らは、支持していた。こうして、レーニンに対する狙撃の翌日の金曜日に、ボルシェヴィキ指導部の上層は、モスクワに対して、政府の政策を防衛するよう煽り立てた。
 大量殺戮に対する関心と嫌悪感の表明や実際にあったような人間の生命を救おうとする試みは、第二ランクのボルシェヴィキ党員、中でもM. S. Omninskii、D. B. Riazanov、E. M. Iaroslavskii によって行なわれた。但し、事態の推移にはほとんど影響を与えなかった。(脚注3)
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 (脚注3) 1918年11月、尊敬すべきアナキスト理論家のPeter Kropotkin が、テロルに抗議するためにレーニンと逢った。Lenin, Khronika, VI, p.195. 彼は、1920年に、人質を取るという「中世的」実務に反対する感情のこもった願いを書いた。G. Woodcock & I. Avakumovic, The Ancient Prince(London-New York, 1950), p.426-7.
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 (19) 初期段階での赤色テロルは、奇妙なことに、ボルシェヴィキが最初から反体制の暴力行為の元凶だと見なしてきた政党を攻撃しなかった。社会主義革命党(エスエル)だ。
 モスクワがエスエルに向かわなかったのは、エスエルが農民に支持されていたからか、白軍との戦闘で彼らの支援を必要としたからか、あるいはボルシェヴィキ指導者に対するテロルの波を却って煽るのを怖れたからか。いずれにせよ、ボルシェヴィキは、エスエルの人質たちを逮捕して射殺すると脅かしはしなかった。
 いわゆる赤色テロルのレーニンの時代に、ただ一人のエスエル党員だけが、モスクワで処刑された。(注91)
 チェカの犠牲になった者の大多数は、〈旧体制〉の者たち、ふつうの裕福な市民で、これらの多数はボルシェヴィキによる苛酷な弾圧を是認していた。
 収監されつつ、ボルシェヴィキによる抑圧を称賛した保守的な官僚や帝制時代の将校がいた、とする証拠資料がある。このような厳格な措置こそがロシアを混乱から抜け出させ、ロシアを再び大国にする、と考えていたのだ。(注92)
 すでに〔第12章で/試訳者〕記したように、君主制主義者のVladimir Purishkevich は、1918年春に、宥和的な調子で、共産党体制を、臨時政府よりもかなり「堅固だ」(firm)として称賛した。(注93)
 チェカはその犠牲者をこのような者たち—政治的な無害者および場合によっては支持者ですら—から選んだ、ということによって、次のことが確認される。すなわち、赤色テロルの目的は、特定の反対派を殲滅させるというよりも、一般的な威嚇の雰囲気を作り出すことであり、その目的のためにはテロルの犠牲者の考え方や活動ぶりは二次的に考慮されるにすぎなかった。
 ある意味では、テロルが非合理的であればあるほど、それだけ有効になった。テロルは、まさに合理的な検討を見当違いのものにし、人々を畜群の地位へと落とし込むからだ。
 Krylenko は、こう言った。—「有罪者だけを処刑してはならない。無実の者の処刑こそが、大衆にとっていっそう印象深いものにする。」(注94)
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 第七節、終わり。第八節へ。

2956/R.Pipes1990年著—第18章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第七節/赤色テロルの公式の開始②。
 (10) 第一の布令は、人質(hostage)をとるという実務を制度化した。(脚注1)
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 (脚注1) 人質(hostage)について最初に言及したのは、1917年11月11日のトロツキーの演説だ。収監されている軍隊のカデットは、人質になるだろう、と彼は言った。—「我々が敵の手に落ちたならば、…労働者と兵士の各1人ごとに、我々は5人のカデットを要求することになる」。Izvesti
ia, No. 211(1917年11月12日), p.2.
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 これは、野蛮な手段で、最も暗黒の時代への回帰だった。第二次大戦後の国際司法裁判所ならば、戦争犯罪だと断定しただろう。
 チェカによる人質は、ボルシェヴィキ指導者に対する将来の攻撃またはボルシェヴィキ支配に対するその他の何らかの積極的な反抗への報復として実行されるものとされた。
 実際に、人質たちは昼夜を問わず射撃隊の前に並んでいた。
 このような虐殺を公式に裁可したのが、内務人民委員であるGrigorii Petrovskii の署名のある、1918年9月4日の「人質に関する命令(Order)」だった。これは、赤色テロル布令の1日前に発せられ、全ての州のソヴェトへと電信で伝えられた。
 「Volodarskii の殺害、Uritskii の殺害、人民委員会議議長のVladimir Ilich LENIN に対する殺害および傷害の企て、フィンランド、ウクライナでの、Don 地域での、およびチェコスロヴァキア(に支配された地域)での我々の同志数万人の大量処刑、我々の軍隊の後方での陰謀の継続的な発見、これらの陰謀についての右翼エスエルやその他の反革命的な(陰謀に関与している)くずども(scum)による公然たる承認、そして同時に、ソヴェトによる白衛隊兵士やブルジョアのきわめて少数の厳格な抑圧や処刑。
 これらが示すのは、エスエル、白衛隊兵士およびブルジョアジーに対する大量テロルに関する恒常的な話にもかかわらず、テロルは実際には存在しない、ということだ。//
 このような状況は、断固として終わらせなければならない。
 怠慢と寛容は、ただちに止めなければならない。
 地方ソヴェトに知られる全ての右翼エスエルが、ただちに逮捕されなければならない。
 ブルジョアジーと官僚たちの中から多数の人質をとることが、必要だ。
 白衛隊に抵抗して撹乱する企てがあった場合には、どんなに小さいものであっても、ただちに大量処刑の措置がとられなければならない。
 地方の州ソヴェトの執行委員会は、この点に関して特別の主導性を発揮すべきだ。//
 行政官署は、軍団やチェカを用いて、偽名の背後に隠れている全ての者を識別して逮捕する、あらゆる手段を講じなければならない。
 白衛隊の活動に関与する全ての者は、義務的な処刑に服さなければならない。//
 以上の全ての措置は、ただちに実行されるものとする。
 この点に関する地方ソヴェトの諸機関の優柔不断な行動は、ただちに連絡されなければならない。…内務人民委員部に対して。//
 労働者階級と貧しい農民層の権力に反抗する全ての白衛隊や卑劣な陰謀者は、我々の軍隊の後方から、最終的にかつ完全に排除されなければならない。
 大量テロルを行なうに際して、些かの躊躇も、些かの優柔不断さも、あってはならない。//
 前述の電報の受理を確認せよ。〈uezd〉(地区)のソヴェトに伝えよ。
 内務人民委員、Petrovskii。」(注80)
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 (11) この異常な文書は、特定の犠牲者に対する「怠慢と寛容」と称するもの—別言すると人間的優しさ—に対する制裁で脅迫したうえで、無差別のテロルを許容したのみならず、要求した。
 ソヴェトの官僚たちは、大量殺害を実行するか、それとも「反革命」への共謀として追及される危険を冒すか、を選ぶことが要求された。
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 (12) 第二の布令は、ソヴナルコム(人民委員会議)によって是認され、司法人民委員のD. Kurskii が署名した「決議」を1918年9月5日に採択することによって、赤色テロルを制度化した。(注81)
 この布令は、こう述べた。ソヴナルコムは、チェカ長官からの報告を聞いて、テロル政策を強化することが必須だ、と決定した。
 体制の「階級敵」は、強制収容所(concentration camps)に隔離されなければならず、白衛隊組織、陰謀者および反乱的行動[miatezh]と関係をもつ全ての者は、すみやかに処刑される必要がある。
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 (13) 共産党の文書資料や歴史的文献は、これらの命令の起源について、沈黙のままで通り過ぎている。これらをソヴィエトの布令集の中に見出すことはできない。
 レーニンの名前は、周到に、これらと無関係だとされてきた。人質取りは階級戦争にとってきわめて重要だと強く主張した、と知られているけれども。(注82)
 では、誰が、これらの布令の執筆者だったのか?
 表面的には、レーニンは当時は出血によって体調が悪かったので、国家に関係する仕事に関与することができなかった。
 だが、二人の人民委員がこのように重要な措置を、レーニンの明確な是認なくして決定することができた、と信じるのは困難だ。
 赤色テロルを開始する二つの布令をレーニンが裁可した、という疑念は、つぎの事実によって支持される。すなわち、9月5日に彼は、ロシア・ドイツ関係に関する瑣末な布令に何とか署名をすることができた。(注83)
 その署名の存在がレーニンの個人的な関与を、決定的に証明するわけではない。そうであっても、少なくとも、彼の身体上の不可能性を反対証拠として持ち出すことを否定することはできる。
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 (14) 8月31日、上記のような趣旨の公式の命令が発せられる前であっても、Nizhnii Novgorod のチェカは、「敵の陣営」から来た者と特定された41人の人質を検挙し、射殺した。
 犠牲者の名簿は、彼らは主に元将校、「資本主義者」、聖職者だったことを示していた。(注84)
 ジノヴィエフは、ペテログラードで、まるでレーニンが彼を「優しさ」のゆえに叱責する場合に備えるがごとく、512人の人質の略式処刑を命じた。
 処刑された者の中には、〈旧体制〉と関連して監獄に数ヶ月のあいだ収容されていた、したがって、ボルシェヴィキの指導者に対するテロリスト的襲撃と何の関係ももち得ない、そういう多数の人々が含まれていた。(注85)
 Dzerzhinskii は、モスクワで、1917年以来ずっと収監されていた旧帝制政府の何人かの高官たちの処刑を命じた。処刑された者の中には、1人の司法大臣(I. G. Shcheglovitov)、3人の内務大臣(A. N. Khvostov, N. A. Maklakov, A. D. Protopopov)、1人の警察部署の長官(S. P. Beletskii)、および司教(bishop)がいた。
 したがって、こうした殺害は、これらの者が司法や警察に責任をもっていたあいだにDzerzhinskii が収監されて過ごした苛酷な年月に対する報復だった、という印象から逃れることはできない。(脚注2)
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 (脚注2) 同様の現象は、15年後にドイツで観察されることになる。ナツィスが権力を掌握したとき、SAのメンバーはしばしば、個人的な敵を攻撃するために選抜し、拷問にかける。その中には、ワイマール共和国で彼らに判決を下した裁判官たちもいた。Andrzej Kaminskii, Konzentrationslager 1896 bis heute: eine Analyse(Stuttgart, 1982), p.87-88.
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 ③へ。

2955/R. Pipes1990年著—第18章⑭。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第七節/赤色テロルの公式の開始①。
 (01) ボルシェヴィキは、権力を掌握した日から、テロルを実行した。権力を増すにつれて、そして彼らの人気が落ちてくるにつれて、テロルは激しくなった。
 1917年11月のカデット党員の逮捕、それに続いたカデット指導者のKokoshkin とShingarev の罰せられなかった殺害は、テロル行為だった。立憲会議の閉鎖と立憲会議を支持した示威行進者の射殺がそうだったように。
 赤軍兵団と1918年春に解散してボルシェヴィキを権力外に置こうと票決したソヴェトを都市から都市へと乱暴に扱った赤衛隊は、テロル行為をやらかしていた。
 主として1918年2月22日のレーニンの布令により与えられた権限にもとづき州および地区のチェカが実行した処刑は、テロルを新しい段階の激烈さにまで押し上げた。当時にモスクワに住んでいた歴史家のS. Melgunov は、プレスの記事から、1918年前半に行なわれた882の処刑に関する証拠資料を一冊にまとめた。(注73)
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 (02) しかしながら、初期のボルシェヴィキによるテロルは、のちの内戦中の白軍のテロルにむしろ似た非体系的なもので、また、犠牲者の多くは「投機者」を含む通常の犯罪者だった。
 ボルシェヴィキの状勢が底をついていた1918年の夏にようやく、テロルは体系的で政治的な性格を帯び始めた。
 チェカは、7月6日の左翼エスエルに対する弾圧のあとで、初めての大量処刑を実行した。その犠牲者は、その前月に逮捕されていたSavinkov の秘密組織のメンバーや、左翼エスエルの蜂起への参加者だった。
 モスクワのチェカ役員会から左翼エスエルを追放することによって、政治警察に対する最後の制約が除去された。
 7月半ば、Iaroslavl の蜂起(uprising)に加わっていた多数の将校たちが、射殺された。
 チェカは、軍事的陰謀に怖れ慄いて、旧軍隊の将校たちを探索し始め、審判手続なしで、彼らを処刑した。
 Melgunov の記録によれば、主としてチェカが、1918年7月だけで、1,115の処刑を実行した。(注74)
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 (03) 皇帝家族とその縁戚者の殺害は、テロルのいっそうの拡大を示した。
 チェカの組織員は今や、収監者や容疑者を意のままに射殺する力をもつことを誇った。但し、その後のモスクワによる苦情から判断すると、州当局は必ずしもつねに彼らの力を利用したわけではなかった。
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 (04) レーニンは、このような政府によるテロルの激化にもかかわらず、なおも満足しなかった。
 彼は、「大衆」をこのようなテロルに巻き込もうと考えていた。おそらくは、政府機関の者と民衆の両者を巻き込む組織的殺戮(pogrom)こそがこの両者をお互いに近密にするのに役立つ、と思ったからだ。
 彼は、共産党員官僚と市民たちがより断固として行動すること、殺害に対する抑制感を排除すること、を強く求めつづけた。
 他にどのようにすれば、「階級戦争」は現実のものになるのか?
 1918年の2月に早くも、レーニンは、ソヴィエト体制は「穏やかすぎる」という不満を述べていた。彼が欲したのは「鉄の権力」だった。ところが実際には、「異様に柔軟で、どの段階ででも鉄ではなくゼリーのようだ」というわけだ。(注75)
 ペテログラードの党官僚が、労働者がVolodarskii 暗殺に対する報復として虐殺を行なうのを制止した。このことを1918年6月に聞いて、レーニンは烈火のごとく憤慨し、かれの副官にに怒りの手紙を送った。
 「ジノヴィエフ同志!
 中央委員会は、今日ようやく、ペテログラードでは〈労働者たち〉がVolodarskii の殺害に対して大量のテロルでもって反応しようとしたこと、きみ(きみ個人ではなくペテログラード中央委員会または地域委員会)はそれを却下したこと、を知った。
 私は、断固として抗議する!
 我々は体面を傷つけている。ソヴェトの決議によって大量テロルで脅かしても、それを行動に移すときでも、我々は、大衆の〈全体として〉正しい革命的な主導性を〈邪魔して〉いる。
 こんなことは、許-され-ない!。」(注76)
 レーニンは、2ヶ月後に、Nizhnii Novgorod の当局に対して、「〈ただちに〉大量テロルを始め、〈数百人の〉売春婦、泥酔した兵士、元将校、等々を〈処刑し、放逐する〉」ことを指示した。(注77)
 ここでの恐ろしくも不正確な三文字—「等々(etc.)」—は、体制の組織員に対して、犠牲者を自由に選択することを認めた。それは、体制がもつ不屈の「革命的意思」表現するものとしての、大量虐殺のための大量虐殺(carnage)であるべきだった。その「革命的意思」は、脚元で崩れつつあった。
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 (05) テロルは、政府による村落に対する戦争の宣言に関連して、地方へも広がった。
 労働者に「クラク」を殺すことを奨励するレーニンの言葉を、すでに引用した。
 自分たちの穀物を食糧派遣隊から守ろうとして1918年の夏と秋に殺された農民について、その大まかな数ですら知るのは、不可能だ。
 政府の側での犠牲者の数が数千人になるとすれば、もっと少なかったということはあり得ないだろう。
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 (06) レーニンの仲間たちは、革命の教条のために民衆を殺害させ、殺害に関与させることが高貴で高揚させるものであると、明確に残酷な行為の用語法を用いて、誘い込むことについて、お互いに競い合った。
 例えば、トロツキーは、ある場合に、赤軍へと徴用した元帝制将校の誰かが背信的な行動をしたとしても、「特別な場所以外に何も残らないだろう」と警告した。(注78)
 チェキストのLatsis は、「内戦の法」はソヴィエト体制に反抗して闘う「全ての負傷者を殺戮すること」だ、と宣告した。「生か死かの闘いだ。きみが殺さなければ、殺されるだろう。だから、殺されないように、殺せ。」(注79)
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 (07) フランス革命ででも、白軍の側でも、このような大量殺戮の奨励は、聞かれなかった。
 ボルシェヴィキは、意識的に、市民を残虐にすること、前線の兵士が敵の軍服を着た者を見るのと同じように、つまり人間ではなく抽象物を見るように、仲間の市民の誰かを見させること、を追求した。
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 (08) 銃弾がUrirskii とレーニンを襲ったときまでに、殺害志向の精神状態は、きわめて高度の激烈さを達成していた。
 上の二つのテロリストの行為—判明したように関連性はないが、当時は組織的陰謀の一部と見なされた—は、形式的な意味での赤色テロルを解き放った。
 犠牲者の多数は、主に社会的背景、裕福さ、および旧体制との関係を理由として、適当に手当たり次第に、選ばれた人質だった。
 ボルシェヴィキは、こうした大虐殺は体制に対する具体的な脅威を抑圧することのみならず、市民を脅迫し、市民を心理的な屈服状態に陥らせるためにも必要だ、と考えた。
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 (09) 赤色テロルが公式に始まったのは、内務人民委員と司法人民委員の署名付きで9月4日と5日に発せられた、二つの布令によってだった。
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 ②へ。

2954/R. Pipes1990年著—第18章⑬。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第六節/事件の背景とレーニン崇拝の始まり③。
 (18) 一人の政治家についての、体制によるこのような宗教類似の崇拝(cult)は、なぜ、唯物論や無神論と適合するのか?
 この疑問に対しては、二つの回答がある。一つは、共産党の内部的な必要性にかかわる。もう一つは、共産党と同党が支配する民衆の関係にかかわる。
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 (19) ボルシェヴィキは自らを政党だと主張したけれども、実際にはそのようなものではなかった。
 彼らはむしろ、選ばれた指導者の周りに集まった部隊または軍団に似ていた。
 彼らを一緒に結合させたものは、綱領または基本的主張ではなく—これらは、指導者の意向と一致するように毎日のように変わり得るものだった—、指導者の特性(person)だった。
 共産主義者を指導したのは、指導者の直観と意思であって、客観的な原理ではなかった。
 レーニンは、「指導者」(〈vozhd〉)と呼ばれる、近代の最初の政治的人物だった。
 彼の存在は、不可欠だった。彼の指導がなければ、一党国家体制は自らを維持するものを他に何ももたないのだから。
 共産主義は、政治を再び人格化した。そして、法ではなく人間が国家と社会を指揮する時代へと政治を後退させた。
 そのためには、字義どおりではなく表象としては、指導者は不死であることが必要だった。レーニンは、その人格(person)によって指導しなければならなかった。そしてまた、彼の死後は、継承者がその名前で支配することができ、レーニンから直接に霊感を受けたと主張することができる必要があった。
 レーニンの死後に始まった「レーニンは生きている!」というスローガンは、ゆえに、宣伝のための常套句なのではなく、統治の共産主義システムに不可欠の要素だった。
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 (20) 以上のようなことで、レーニンを神格化し、ふつうの人間の日常を超越する場所に置き、不死にする必要性が、かなりの程度に説明される。
 レーニン崇拝は、彼が死の淵にあったと考えられたときに始まり、実際に死亡した5年後には装置のごときものになっていた。
 彼の霊感は、彼が創設した党と国家の活力と破壊不能性を維持するためには不可欠だった。
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 (21) もう一つは、体制に正統性が欠けていることにかかわる。
 ボルシェヴィキが世界的革命の触媒者として行動していた体制の最初の三ヶ月には、この問題は生じなかった。
 しかし、世界的革命が近い将来に起こり得ないこと、ボルシェヴィキ体制は大きな多民族国家を統治する責任を持たなければならないだろうこと、が明瞭になると、要求される前提条件が変わった。
 この時点で、ボルシェヴィキの支配下にあるソヴィエト・ロシアの7000万人余りの住民の体制に対する忠誠さが、きわめて大きな関心事になった。
 ボルシェヴィキは、通常の選挙手続によってこの忠誠心を確保することができなかった。彼らが最も支持された1917年11月に〔立憲会議選挙で/試訳者〕、投票数の四分の一以下しか獲得していなかった。そして、幻想から醒めた後では、ボルシェヴィキは確実に一つの党派であるにすぎなかっただろう。
 ボルシェヴィキは、内心では、自分たちの権威は、参画資格に疑問がありながら権力にとどまる、薄い層の労働者と兵士に具現化されている、物理的な力に依存している、ということを知っていた。
 彼らの体制が左翼エスエルから攻撃された1918年7月に、首都の労働者と兵士は「中立」を宣言して体制を助けるのを拒んだ。このことから、彼らは逃れることができなかった。
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 (22) このような条件のもとで、本当の正統性および失われている民衆による委任の代用物になる次に最もよいものとしてボルシェヴィキに役立ったのは、創建した父親であるレーニンを神格化することだった。
 古代に関する歴史家たちは、つぎのことを知っていた。正統な権威を主張することができず、さらに民族的な紐帯でもってマケドニア人にも相互にも拘束されない、そういう多様な非ギリシャ人をマケドニアのAlexander が征服したあとで初めて、中東では、制度化された指導者崇拝が大規模に始まった、と。
 Alexander、その継承者たちは、ローマの皇帝たちとともに、世俗権威では与えられない神聖な権威をもつ安全確保の装置として、自己の神格化に頼った。
 「Alexander の継承者たちは、征服の正当さ、軍事力、先住の王たちから奪い取った王冠でもって占拠した、ギリシャ人系マケドニア人だった。
 これら古代の洗練された文明をもつ諸国では、刀剣の力が全てではなく、強者の法は適切な正統性を提供しないかもしれなかった。
 統治者は一般に、自らを正統化するのを好む。それはしばしば、彼らの地位の強化を意味するからだ。
 彼らの側からすれば、神聖な権利にもとづく権力および獲得した遺産の資格ある継承者だと自己表明するのは、賢明でなかったか?
 自分たちを神々と同一視するのはよい方法ではなくとも、臣民たちの崇敬を獲得する、同じ旗のもとに民衆を統合する、究極的には、王朝的支配を強固にするのは、思うに賢明ではないか?(注71)
 王朝側にとっては、…神格化は正統化を、刀剣によって獲得した権利の合法化を意味した。
 さらには、近年に仲間になった者たちの野望を超越する王室家族へと高めること、神聖な祖先が獲得した諸特権を一つに融合することで王室の権利を強化すること、自然の感情を通じては不可能になっったので、おそらくは宗教的感情を通じてその周りに結集させることのできる表象を、全ての臣民に対して提示すること、を意味した。」(注72)
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 (23) ボルシェヴィキがこのような先例をどれほど意識していたか、彼らが「科学的」だとする建前と偶像崇拝への最も原始的な渇望に訴えることとの間の矛盾にどれほど気づいていたか、を語ることは困難だ。
 ボルシェヴィキは本能的に行動した、ということは上の問題を語る見込みを与える。
 そうであるなら、彼らの本能は彼ら自身にも十分に役立った。大衆の支持を獲得するためには、このような神聖視の主張の方が、「社会主義」、「階級闘争」、「プロレタリアートの独裁」に関する話よりもはるかに役立つ、ということが分かったからだ。
 ロシアの人々にとって、「独裁」や「プロレタリアート」は意味をもたない外国語であり、ほとんどの者は発音することすらできなかった。
 しかし、国の支配者が死から奇蹟的に回復したという物語は、即時の感情的反応を呼び起こし、政府とその臣民の間に何がしかの紐帯を生み出した。
 これは、レーニン崇拝が決してなくならなかった理由だ。かりに、しばらくの間、国家が推進した、もう一人の神格化された者であるスターリンへの崇拝によっていく分か損なわれることになるとしても。(脚注3)
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 (脚注3) 2018年8月30日の後でソヴィエトのプロパガンダによってレーニンに払われた注目にもかかわらず、全ての者がレーニンのことを知ってはいなかったようだ。Angelica Balabanoff は、レーニンが療養所にいるKrupskaia を訪問した1919年早くに起きたつぎのことを、思い出している。彼とその妹が乗っていた車が、二人の男によって停止させられた。「一人が拳銃を向けて、言った。『金を出さないと、殺すぞ』。レーニンは自分の個人識別証明書を取り出して、言った。『私は、Ulianov Lenin だ』。襲撃者は、証明書を一瞥しようとすらしないで、繰り返した。『金を出さないと、殺すぞ』。レーニンは金を所持していなかった。外套を脱ぎ、車の外に出て、妻のための牛乳瓶を手放すことなく、歩いて進んだ」。A. Balabanoff, Impressions of Lenin(Ann Arbor, Mich., 1964),p.65.
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 第六節、終わり。

2953/R.Pipes1990年著—第18章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990)。
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第六節/事件の背景とレーニン崇拝の始まり②。
 (11) Kaplan による暗殺未遂の最も直接的な効果として解き放たれたのは、無差別の、かつ犠牲者の数に歴史上の先例のない、テロルの波だった。
 ボルシェヴィキ党員は完全に恐怖を覚え、恐怖に駆られた者たちがそうしたとEngels が言ったのとまさに同じように行動した。すなわち、自らを安心させるために、無用の残虐行為を行なった。
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 (12) 暗殺の企てとレーニンの回復は、長期的に見ればおそらく重要性に変わりのない、別の影響ももった。すなわち、レーニンを神格化する意識的な政策の始まりとなった。この政策は、レーニンの死後には、紛れもなく国家が支える東方カルトに変わることになる。
 ほとんど致命的な傷害からレーニンが急速に回復したことは、以前よりも崇拝するようになっていた彼の支持者たちに、盲信的な信仰を引き起こしたように見える。
 Bonch-Bruevich は、「運命によって選ばれた者だけがこのような負傷による死を免れることができる」というレーニンの医師の一人の言葉を、肯定的に引用している。(注60)
 レーニンの「不死性」は、のちに、大衆の偶像崇拝感情でもって機能する、きわめて世俗的な政治目的のために利用された。しかし、多数のボルシェヴィキ党員が自分たちの指導者を超自然的存在で、人間を救うために派遣された現代の神だ、と純粋に見なすに至ったことは、疑い得ない。(脚注2)
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 (脚注2) レーニン崇拝(cult)の発展は、Nina Tumarkin, Lenin Lives(Cambridge, Mass., 1983)の主題だ。
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 (13) ボルシェヴィキは、Fannie Kaplan のレーニン暗殺未遂まで、レーニンに関してさほど語ろうとはしなかった。
 個人的な振る舞いとしては、政治的指導者に通常示されるもの以上の敬意をもって、彼に接した。
 Sukhanov は、レーニンが権力を掌握する前の1917年にすでに、彼の支持者たちが、「聖杯(Holy Grail)の騎士」に対するような「全く異例の忠誠心」をレーニンに対して示しているのに、衝撃を受けた。(注61)
 レーニンの評判は、その成功ごとに高まっていた。
 1918年にすでに、教養が高く、ボルシェヴィキの幹部たちの中でも分別があったLunacharsky は、レーニンについて、彼自身のものではなく「人類」のものだった、と思い出した。(注62)
 カルトの始まりを初期に暗示するものは、他にもあった。そして、まだ神格化の過程が進行していなかったとしても、それはレーニンが止めさせたからだった。
 レーニンは、帝制時代の法令を彼の名前で施行しようとしたソヴィエト官僚を止めて、支配者を汚辱するものとして罰した。(注63)
 彼の独特の虚栄心は、運動の中へと跡形もなく溶け込んでいた。すなわち、「個人崇拝」を発生させることなく、成功によって虚栄心を満足させていた。
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 (14) レーニンは、個人的な欲求については、きわめて穏健だった。生活区画、食事、衣服類は、全く実用的だった。
 より優れたものを求めるロシアの知識人の中でそれらに全く無関心であることで極端に位置し、権力の最高地点にいたときですら、質素で、ほとんど修道士的な生活様式を好んだ。
 レーニンは、「いつも灰色のスーツを身につけ、脚の長さには少し短すぎる、管のようなズボンを穿き、同様に簡素な単列ボタンの外套をもつほか、柔らかい白カラー、古いネクタイを身につけていた。私が見たところ、ネクタイは数年間同じものだった。それは小さな白い花が付いた黒色のもので、一つの独特の染みが摩耗を示していた。」(注64)
 のちの多数の独裁者が模倣したこのような簡素さは、しかし、個人崇拝の発生を妨げるものではなかった。むしろ、たぶんそれを促進した。
 レーニンは、最初の近代的な「大衆的」(demotic)指導者だった。そのような指導者は、大衆を支配しつつ、外見や表向きの生活様式では、大衆の中の一人にとどまった。
 このことは、今日的な独裁制の特徴として注目されてきた。
 「近代絶対制では、多数のかつての専政者たちがそうだったようには、自分自身と臣民の間の『違い』によって区別される、ということがない。反対に、全員が共通して持つものを具現化した存在のようなものだ。
 20世紀の専政者は『民衆のスター』であり、その個人的な性格はどうでもよい…」。(注65)
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 (15) 1917年と1918年の最初の8ヶ月間に出版されたレーニンに関する文献は、驚くべきほどに少ない。(注66)
 1917年に書かれたもののほとんどは、彼の対立者によるものだった。そして、そのような敵対的文献はボルシェヴィキが検閲して刊行を停止させたけれども、ボルシェヴィキ党自身は、自分たちの指導者に関してほとんど何も書かなかった。レーニンは、急進的知識人の界隈の外では、ほとんど知られていなかった。
 レーニン主義者による聖人伝執筆の水門を開いたのは、Fannie Kaplan による狙撃だった。
 1918年9月3-4日にすでに、トロツキーとカーメネフが書いたレーニンを讃える書物が出版され、第一版で100万部が頒布された。(注67)
 同じ頃のジノヴィエフによる賛美の書物は、20万部が印刷された。簡単な大衆向けの伝記は、30万部が売れた。
 Bonch-Bruevich によると、レーニンは、回復するとすぐに、こうした大量の出版物の流出を終わらせた。但し、彼の50歳の誕生日と内戦の終結に関連させて、1920年には、より控えめな程度でだが、再開することを認めた。
 しかし、レーニンの健康の悪化によって政治への積極的な関与を止めることを強いられた1923年までに、レーニン主義者による聖人伝の発行は一つの産業になり、数千人を雇用した。革命前の宗教的イコン(聖像)の絵画作りと同様だった。
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 (16) こうした文献は、今日の読者には奇妙な印象を与える。ボルシェヴィキが別の生活面では影響力をもとうとした粗暴な言葉遣いとは全く対照的に、情緒的、感傷的で崇拝心に充ちた調子で書かれているからだ。
 十字架から降ろされ、復活するというキリストに似た表象を、敵に対する「容赦なき闘い」という主題と調和させるのは、困難だ。
 こうして、「ブルジョアジー」を麦藁を食うにふさわしいと嘲笑していたジノヴィエフは、一方ではレーニンを、「世界共産主義の伝道者」、「神の恩寵による指導者」と叙述することができた。これは、Mark Antony がCaesar の葬礼の式辞で彼を「天空の神」と礼賛したのと同じようだった。(注69)
 他の共産主義者たちは、このような修辞的誇張をすら上回った。ある詩人はレーニンを、「中傷のイバラを冠した、無敵の平和の伝導者」と呼んだ。
 このような新しいキリストへの引喩は、1918年遅くのソヴィエトの出版物ではよくあることだった。当局はこれらの出版物を、一方では数千人の単位で人質を殺戮しながら、大量に配布した。(注70)
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 (17) もちろん、ソヴィエト指導者の公式の神聖視があったのではない。だが、公的な出版物や声明によって彼に帰属するとされた性質—全知、無謬、事実上の不死性—は、レーニンの神聖視に他ならなかった。
 「天才へのカルト」は、ソヴィエト・ロシアではレーニンに関してさらに進んだ(のちのスターリンについては言うまでもない)。これは、レーニンが原型を提供した、のちのムッソリーニやヒトラーに対する崇敬を上回るものだった。
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 ③につづく。

2952/R.Piped1990年著—第18章⑪。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第六節/事件の背景とレーニン崇拝の始まり①。
 (01) レーニンの生命を狙う企てに至るテロリストの陰謀の詳細は、ようやく3年後にチェカに知られるようになった。なお、判明したところでは、トロツキーその他のソヴィエトの指導者の生命も狙われていた。
 この情報の主要な源は、老練なエスエルのテロリスト、G. Semenov(Vasilev)だった。
 Semenov は外国へ出ていたが、考えを変えて1921年にロシアに帰った。ロシアで、かつての仲間を裏切り、非難した。
 彼の宣誓供述書は、疑いなくある程度は粉飾されているが、のちに、1922年の社会革命党に対する裁判で、ボルシェヴィキの訴追者によって利用された。(58)
 --------
 (02) 最大限に判断できるところでは、エスエルの闘争組織(Combat Organization)は、1918年の初めにペテログラードで活動を再開した。
 この部隊は、一部は知識人で一部は労働者の14人で構成され、しばらくの間、ジノヴィエフとVolodardkii を尾行していた。
 1918年6月、隊員の一人、労働者のSergeev が、Volodarskii を暗殺した。
 このテロリストは、エスエル中央委員会の裁可を得ることなく、独自に、地下活動を行なった。
 1918年の春、ボルシェヴィキ政府がモスクワに移った後で、闘争組織の何人かの隊員も、これに従った。
 彼らは、最初の犠牲者としてトロツキーを選んだ。彼は戦争遂行を指揮していることから、その死はボルシェヴィキの教条に最大の影響を与える、と考えたからだ。
 レーニンは、その後だとされた。
 帝制時代の官僚に対して行なわれた方法を採用して、隊員たちは、犠牲者の行動様式を判断するために、対象をこっそり追跡した。
 トロツキーはモスクワと前線の間をたびたび、かつ予測させないで、行き来している、ということが分かった。そのゆえに、Semenov がのちに説明するように、「技術的な理由で」、先ずレーニンを処置することが決定された。
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 (03) 彼らは、この任務を実行する前に、エスエル中央委員会の承認を求めた。
 この頃までにほとんどのエスエル指導者はSamara に移動していたが、Abraham Gots を長とする委員会の支部が、モスクワに残っていた。
 Gots ともう一人の委員会委員のD. Donskol は、レーニンの生命を狙う企てに裁可を与えるのを拒んだ。だが、党を巻き込むことなく、「個人的」な行為として行なわれるかぎり、反対しない、と言った。
 彼らはまた、党はレーニン殺害を否認しないだろう、と約束した。
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 (04) Semenov は、計画を練っているあいだに、Fannie Laplan と二人の仲間が同じ目標を目ざして独立に動いていることを知った。
 Kaplan からは、断固とした「革命的テロリスト」という印象を受けていた。これを言い換えると、自殺しそうな(suicidal)タイプだった。
 彼はKaplan を、自分の組織に加わるよう誘った。
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 (05) Semenov は、労働者の集会にレーニンが現れるのを追跡するために、モスクワを4つの地区に分けた。そして、各地区に、彼の組織の2人ずつを割り当てた。一人は観察者(dezhurnyi)、もう一人は「処刑者」(ispolnitel’)として行動する。
 前者は、いつ、どこで、レーニンが演説するかを知るために、群衆の中に混じることとされた。
 そして、これらの情報を得るとすぐに、区域内の中心部で待つ「処刑者」に連絡するものとされた。
 こうした準備は、1918年8月に行なわれた。この頃、Samara のエスエルは、チェコ軍団に対する軍事的勝利を利用して、ロシア全体に対する権威を主張していた。
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 (06) レーニンは、8月16日金曜日に、党のモスクワ委員会の集会で演説した。だが、何らかの不手際があって、Semenov の観察者はその集会に加わることができなかった。
 つぎの金曜日、レーニンは、このときはPolytechnic 博物館で、再び演説した。
 レーニンの登場に関する情報が伝えられ、群衆が現われた。
 このときは全てが計画どおりに進んだが、「処刑者」が怖気づいた。この者を、Semenov はすみやかに闘争組織から追放した。
 Semenov は、さらにつぎの金曜日、8月30日、に関する情報を得た。レーニンはこの日、南部地区に一回か二回、現われるだろう。
 Semenov は、今度は何も間違いが起きないように、この地区に最も信頼の措ける2人を配置した。一人は、観察者として行動する、熟練のテロリストで労働者のNovikov、もう一人は処刑者であるKaplan。
 エスエルのテロリストの伝統に従って、Kaplan は、自分が選択したもののために生命を捨てるつもりでいた。Novikov に、レーニンを撃った後で自分は自首する、と言った。
 しかしながら、彼女が気持ちを変えた場合に備えて、Novikov は別の者を雇って待機させていた。
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 (07) 8月30日の午後、Kaplan は、Serpukhovskii 広場で任務に就いた。
 バッグの中に弾丸を込めたBrowning 銃を入れて、運んだ。三発の銃弾には十字状の刻みがあり、その中にインドの致死性の毒、curare が塗られていた。(脚注1)
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 (脚注1) このことは、医師たちがレーニンの首から銃弾を除去し、首の上に十字架のような形の切り込みを発見した1922年4月に、確認された。P. Posvianskii, ed., Pokushenie na Lenina 30 avgusta 1918 g., 2 ed.(Moscow, 1925), p.64. しかし、医療小記事には論及がないので。毒は有効性を失っていたようだ。
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 (08) Novikov は、レーニンがMikhelson 工場で演説することを知った。
 Kaplan は、この情報が正確であることを確かめるために、レーニンの個人的運転手に尋ねた。その後で、彼女は、建物に入り、出口の近くに立った(別の文献では、中庭で待った)。
 出口につながる階段で事故を演じたのは、Novikov だった。Kaplan がレーニンに近づくのを邪魔されないよう、わざと、群衆の中へ背中から落ちた。
 回転銃が火を噴いたあと、Kaplan は、自首するという約束を忘れていたようで、本能的に走り去った。だが、止まって、抵抗しないで逮捕された。
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 (09) 9月6日、〈プラウダ〉は、エスエル党中央委員会の簡単な声明を掲載した。その声明は、党と全党員を代表して、レーニンの声明を狙ういかなる企てとも関係がない、と主張した。
 これはSeminov がGottおよびDonskoi と結んだ協定を破るもので、テロリストの気持ちをひどく挫いた。
 彼らは、トロツキーを狙っていた。トロツキーが前線に向かっていたからだが、彼は、列車を変更して、最後の瞬間で回避した。
 組織を維持すべく、ソヴィエトの施設の「収用」をいくつか実行した。だが、彼らの意気は沈みつづけた。とくに、ボルシェヴィキが白軍との戦闘で主導権を再び握ったあとでは。
 1918年の末までのどこかで、彼らの「闘争組織」は解体した。
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 (10) レーニンは、目覚ましい早さで、回復した。
 これによって、彼の身体組成と生きる意思の強さが証明されているだろう。だが、仲間たちにとっては、超自然的な性質が示唆されていた。
 まるで、神それ自身がレーニンを生かせ、彼の教条を勝利させようと意図しているかのごときだった。
 レーニンは、ある程度体調が回復するとすぐに、仕事を再開した。だが、働きすぎて、逆戻りした。
 9月25日に、医師の強い勧めに従って、彼とKrupskaia はGor ki へ向かった。
 そこで、回復を待ちながら三週間を過ごした。
 レーニンは、事態の推移を気にし続け、何かを書いていたけれども、国家の日々の業務を他者に任せていた。
 彼に逢うことが許された数少ない訪問者の一人は、Angelica Balabanoff、古くからの同志でZimmerwald 会議への出席者、だった。
 Balabanoff が思い出すように、彼女がFannie Kaplan の処刑を話題にしたとき、Krupskaia は「取り乱し」た。
 のちに、女性二人だけのとき、Krupskaia は処刑について苦い涙を流した。
 Balabanoff は、レーニンはその件を話題にしたくなかった、と感じた。(注59)
 この当時はまだ、仲間の社会主義者を処刑することについて、ボルシェヴィキには当惑する想いがあった。
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 (11)  10月14日に、レーニンはモスクワに戻った。
 10月16日、党中央委員会の会議に出席し、その翌日にソヴナルコムの会合に出た。
 彼が順調に回復していることを周知させるために、クレムリンの中庭に動画用カメラが持ち込まれ、Bonch-Bruevuch と会話しているところが撮影された。
 10月22日、レーニンは初めて公共の場に姿を見せ、その後で、全日の仕事を再開した。
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 ②につづく。

2951/池田信夫・平和の遺伝子(2024)①。

  池田信夫・平和の遺伝子—日本を衰退させる「空気」の正体(白水社、2024年12月)。
 この書物が究極的には「日本」または「日本人」に関するものであることは、上の副題からも、「はじめに」からも明らかだ。そのかぎりで、視点はナショナルなもので、「国家」または「民族」を超えたグローバルなものではない(日本で日本語で出版される人文系・社会系の書物はほとんど同様なので、この点を批判しているのではない)。
 だが、「日本」・「日本人」とはいったい、何を指すのだろうか。
 現在にいう「日本」や「日本人」は、いったいいつ頃に成立または生成したものだろうか。
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  西尾幹二・国民の歴史(1999、全集第18巻)の馬鹿馬鹿しくも単純な前提理解の一つは、呼称は別として「日本」というまとまりが最古からあり、現在の「日本人」の祖先は<縄文人>だ、と考えていることだ。
 たぶん1990年代には、日本人の起源に関するいわゆる<二重構造モデル>は、すでに知られ、通説的にすらなっていたのではないだろうか。なお、高橋祥子・ゲノム解析は「私」の世界をどう変えるのか(Discover21、2017)には、同旨の「日本人の二重構造説」という語が出てくる。
 西尾幹二の無知と自らはそれを意識しない傲慢さは、「縄文人」の後裔が(多少の交雑または混血を認めつつ基本的には)現在の「日本人」だと「思い込む」。
 そして、もともと(「文学」系の)この人物には、日本人を含む「現生人類」=ホモ・サピエンスがいつ頃にどこで発生したのか、という関心はない。もちろん、「現生人類」に至る、植物等も含めての「生物」または「生命体」の発生起源の問題にも関心はない。
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 L・コワコフスキは、<マルクスは全ての問題の原因を資本主義に求め、ある程度は我々が「人間」であるということ自体に根源があることを見逃した>、という旨を書いたことがあった。
 西尾幹二・ヨーロッパの個人主義(1969、全集第01巻)の「まえがき」は、この書は「現代の神話である社会科学的知性に対する一私人の挑戦である」と結んでいる。
 「社会科学的知性」に対してすら「挑戦」したいのだから、「自然科学的知性」がこの人物において占める位置の悲惨な些少さも理解できるだろう。ヒト・人間が「生物」であることを、そして一個体が誕生すれば絶対的に「死ぬ」ことを、この人物は自己の問題としては意識していなかったのではないか。
 西尾は2019年に「自然科学の力とどう戦うか」が「現代の最大の問題で、根本的にあるテーマだ」「科学は敵だ」と明言しているから(月刊WiLL2019年4月号)、1969年のまだ若いときの「気分」を維持し続けていたようだ。
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  現生人類(新人)の前には「(新人/)旧人/原人/猿人」という(「猿」から分かれた)「人類」がいた。
 その前をたどれば、「真核生物」の誕生から、さらに「生命体」の発生にまで目を向ける必要がある。そうなると、地球の誕生、銀河系宇宙の誕生にまで遡ってしまう。
 そこまで「途方もない」時間の過去まで意識するのはいささか負担が重いので、現生人類・ホモサピエンスの発生くらいから始めよう。
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  上の点に関心をもつのは、私自身が、いつの時点にか地球上に誕生した生物種(〜・綱・目・科・属・「種」の意味でも同じ)の末裔に他ならない、という絶対的な事実に由来する。
 それに比べれば二次的だが、「日本人」がヒト=ホモ・サピエンスの一部であるならば、「日本人」の祖先をさらにたどることにもなる。
 細かな時代や年代に拘泥してもほとんど意味はないし、文献によっても違いはある。
 大まかに「約数十万年前」としておけば間違いないだろう。
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 上掲の池田信夫・平和の遺伝子(2024)には、つぎの語句がある。
 「ホモ・サピエンスの30万年の歴史の中でも…」、
 「人類(ホモ・サピエンス)の歴史を約30万年と考えると…」、
 「ホモ・サピエンスは30万前から…」
 篠田謙一・人類の起源(中公新書、2022)には、「最古のホモ・サピエンスが登場したのは、…今のところ30万年〜20万年…とされています」との一文がある。
 出口治明・全世界史/上巻(新潮文庫、2018)の「前史」には、つぎの旨の文章がある。「現生人類が登場し」たのは、「いまから約20万年前のことです」
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 地球上のどこで「登場」したのか、というと、圧倒的にアフリカだったとされている(「東アフリカ」と限定されていた時代もあった)。
 これに対して、「猿人/原人/旧人」を経て地球上のいくつかの地域で「新人」=ホモ・サピエンスが発生し、各地域の現代人はそれぞれの「ホモ・サピエンス」の子孫だ、との説が論理的にあり得るし、実際にも一部で主張されているらしい。
 この対立らしきものが興味深いのは、現代「日本人」の祖先はアフリカにいたのか、アフリカに産まれた現生人類は日本人の祖先ではなく、「日本」あるいは「東アジア」(・「アジア」)に誕生した現生人類こそが祖先か、という問題が生じるからだ。
 但し、前者の<アフリカ単一起源説>が「ほぼ定説」らしい。
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 アフリカと言っても、三種類くらいのホモ・サピエンスが確認できるらしい。その点はともあれ、現在のように世界の各地域にヒト・人間が生存しているということは、「出アフリカ」があったこと、つまり、アフリカで誕生した現生人類がアフリカを出て、おそらくは現在のエジプトからイスラエル辺りを経て(アラビア半島南西部を海上で通過した可能性はある)、アジアとヨーロッパの東西に進出してしていった、ということを示している。
 その一部の集団が(「個人」もあり得るだろうか)、東アジアあるいは「日本列島」にまでたどり着いた。しかし、その頃、東アジアや今の「日本列島」の地勢、地形はどのようになっていたのだろう
 「日本列島」に該当する島々は(琉球列島や北海道を含めてよい)、その頃にすでに存在していたのだろうか。
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 つづく。

2950/R.Pipes1990年著—第18章⑩。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第五節/レーニン暗殺未遂②。
 (10) 尋問のあと、Kaplan は短いあいだLubianka の地下室に勾留された。その部屋は、共犯の容疑でその夜遅くにチェカに逮捕されたBruce Lockhart が勾引されたのと同じ部屋だった。
 彼は、こう書く。
 「(8月31日の)朝6時に、一人の女性が部屋に送り込まれた。
 彼女は黒い衣服だった。髪は黒く、じっと凝視する眼の下には大きい黒いリングがあった。
 顔には色がなかった。強くユダヤ人系の特徴は、魅力的でなかった。
 年齢は20歳と35歳のあいだのどれかだっただろう。
 我々はこれがKaplan だと思った。
 ボルシェヴィキは疑いなく、彼女が我々に知っているという何らかの合図を送るのを期待していた。
 彼女の落ち着きぶりは不自然だった。
 窓へ向かって行き、手の上に顎を乗せて、外に日光を見ていた。
 そこにとどまり。動くことなく、話すことなく、明らかに運命を諦めていた。そして、番兵がやって来て、彼女を連れ去った。」(注57)
 彼女は、Lubianka からクレムリンの地下室の一つに移動させられた。そこは、たいていの重要な政治的犯罪者が監禁されていた場所で、生きて出た者はほとんどいなかった。
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 (11) そのあいだに、医師たちの一団がレーニンを診察した。彼は生と死のあいだを彷徨っていたが、医師たちがボルシェヴィキ党員だと確認するほどに、意識の状態を回復していた。
 血液が肺の一つに入ってはいたが、体調の回復の見込みはあった。
 レーニンの献身的な秘書のBonch-Bruevich は見守っていて、宗教的光景が浮かんだ。その光景は「突然に、聖職者、司教、金持ちに虐待されたあとで、十字架から降ろされるキリストを描いたヨーロッパの有名な絵を、私に思い出させた。…」。
 このような宗教的連想はすみやかに、レーニン崇拝(Lenin cult)の分かち難い要素になった。奇跡的な生存の物語とともに始まった。
 崇拝の気分は、ブハーリンを編集長とする〈Pravda〉9月1日付の畏敬に満ちた叙述で明らかだった。レーニンは、「世界革命の天才、プロレタリアートの世界的大運動の心と頭脳」、「世界の無比の指導者」、その分析力によって「ほとんど預言者的な予見する能力をもつ」人物だった。
 Kaplan の襲撃のあとただちに起きたことについて、現実離れした記事が書かれるにまで至った。Kaplan は、現代のCharlotte Corday—Marat の暗殺者—として、嘲弄された。
 「二度射撃され、肺を貫通され、大出血をしたレーニンは、助けを拒み、自分で進む。
 生命の危険がまだあった翌朝に、彼は新聞を読み、聴き、知り、観察する。そして、我々を世界革命へと導く車のエンジンが休まず動いているのを見る。」
 このような表象は、確実な死を免れた者の神聖さを信じるロシアの大衆に訴えかけることを意図して、用いられた。
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 (12) 8月31日付の〈Izvestia〉の第一面にSverdlov の署名付きで掲載された公式の発表は、断固として非キリスト教的な調子だった。
 この発表記事は、当局は「ここにも右翼エスエルの、…イギリスやフランスの雇われ者の指紋が発見されるだろうことを、疑っていない」と何の証拠も示すことなく、主張した。
 こうした非難は、8月30日午後10時40分の日時付きの文書で行なわれた。この時刻は、Kaplan が最初の尋問を受ける1時間ほど前だった。
 その記事は、こうつづく。
 「我々は全ての同志に対して、完璧な静穏さを維持すること、反革命分子との闘争を強化することを呼びかける。
 労働者階級は、諸力をさらに強固にし、革命の全ての敵に対する容赦なき大量テロルでもって、指導者に対する襲撃に反応するだろう。」
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 (13) その後の数週間、ボルシェヴィキのプレス(非ボルシェヴィキのプレスはこの頃までに禁止されていた)は、同様の奨励と威嚇で溢れた。しかし、驚くべきことに、殺害計画についてもレーニンの健康の実際の状態についても、ほとんど情報が提供されなかった。素人が理解できない、定期的な医療小記事は別として。
 こうした資料を読んで得る印象は、ボルシェヴィキは意識的に、レーニンに対して起きたことは全てしっかりと統制されていると公衆を納得させるよう、事件を控えめに報じた、というものだ。
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 (14) 9月3日、クレムリンの司令官、P. Malkov という名の元海兵は、チェカに呼び出され、チェカはFannie Kaplan に死刑宣告をした、と告げられた。
 彼は、ただちに判決を実行するものとされた。
 Malkov が叙述するように、彼は怯んだ。「人間を、とくに女性を、射殺するのは容易でない」。
 彼は、遺体の処理について尋ねた。
 Sverdlov に相談するように言われた。
 Sverdlov は、Kaplan は埋葬されない、と言った。
 「彼女の遺体は、跡形もなく破壊される」。
 Malkov は、処刑の場所として、クレムリンの大宮殿に隣接し、軍用車両の駐車場として使われている狭い中庭を選んだ。
 「私は自動車戦闘部隊の司令官に、囲い地から数台のトラックを動かすこと、エンジンをかけておくこと、を命令した。
 また、乗用車を見えない裏小路に移して門に向かわせるようにも、命令した。
 誰も立ち入らせないよう命じた二人のラトヴィア人兵士を門に配置し、私はKaplan を迎えに行った。
数分後、彼女を中庭に連れ出していた。…
 『車の中へ!』、私は鋭い口調で命令した。
 私は、袋小路の端にある自動車を指し示した。
 肩を発作的に捻らせて、Fannie Kaplan は一歩を踏み出した。ついで、第二歩…。
 私は、拳銃を持ち上げた。…」(脚注)
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 (脚注) P. Malkov, Zapiski komendanta Moskovskogo Kreml ia(Moscow, 1959), p.159-p.161. 1961年に出版された第2版では、この部分は削除されている。第2版では、Malkov はたんにつぎのように言わされた、になっている(p.162)。「私はKaplan に、以前から用意されていた車に入るよう命じた」。処刑に関する短い発表が、9月4日の〈Izvest iia〉(No.190/454, p.1)に掲載された。
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 (15) こうして、ロシアのCharlotte Corday と蔑まれた若い女性は、死んだ。見せかけの裁判手続すらなく、背後から撃たれた。悲鳴をかき消すように、トラックのエンジンは大きな音を出していた。死体は、生ゴミのように処分された。
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 第五節、終わり。

2949/R.Pipes1990年著—第18章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。 
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 第五節/レーニン暗殺未遂①。
 (01) ロシア皇帝ならば、いかに過激なテロリズムのもとでも、レーニンほどには生命の危険を怖れなかった。また、皇帝は、レーニンほどには十分に警護されなかった。
 皇帝たちは、ロシアや外国を旅行した。彼らは公的行事を楽しみ、姿を現わした。
 レーニンは、四六時中ラトヴィア人ライフル部隊に警護されて、クレムリンの煉瓦の壁の中に隠れていた。
 ときに市内へ行くとき、通常は事前の告知はなかった。
 1918年3月に首都がモスクワに移動したときと1924年の彼の死のあいだ、レーニンは、革命の勝利の舞台だったペテログラードをわずか二回しか再訪せず、国を見たり民衆と交流したりするためには一度も旅行しなかった。
 彼が最も遠くまで出かけたのは、モスクワの近くの村のGorki で静養するためにRolls-Royce で旅したときだった。静養したGorki の場所は、レーニンが使うために徴発されていた。
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 (02) トロツキーは、より大胆だった。司令官に話すためにしょっちゅう前線へ行き、暗殺の企てを空振りさせるために頻繁に予定と日程を変更した。
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 (03) 1918年9月以前は、レーニンやトロツキーの生命を狙う深刻な暗殺の企ては行なわれなかった。それ自体が秀れたテロリストの党であるエスエルが、ボルシェヴィキに対する積極的な抵抗に反対していたからだ。
 エスエルが皇帝やその官僚層に対抗して用いた手段に訴えようとしなかったことは、二つの考慮に由来していた。
 第一は、エスエル指導部が、時勢は自分たちの側にあり、じっと耐えて、ロシアに民主主義が復活するのを待つことが肝心だ、と考えたことだ。
 彼らの見方によれば、ボルシェヴィキの指導者を殺害することは確実に、反革命の勝利につながる。
 第二は、ボルシェヴィキによる報復と大虐殺を恐れたことだ。
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 (04) 全てのエスエル党員がこの考え方だったのではなかった。
 党中央委員会の是認を得てまたは得ないで、ボルシェヴィキに対抗して武器を取る気持ちの者もいた。
 1918年の夏、モスクワのチェカのまさに鼻先で、このようなグループの一つが形成され始めた。
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 (05) モスクワの様々な場所で、金曜日の午後か夕方に、労働者や党員に向けて演説を行なうのは、レーニンを含むボルシェヴィキの指導者たちの習慣だった。
 レーニンが登場することは、通常は事前には発表されなかった。
 8月30日、金曜日、レーニンは、二つの集会に出席する予定だった。一つは、Basmannyi 地区の穀物日用品販売所の建物で、もう一つは、市の南部にあるMichelson 工場で。
 その日の早くに、ペテログラード・チェカの主任、M. S. Uritskii が射殺された、という報せが届いた。
 暗殺者はユダヤ人の青年のL. A. Kannegisser で、穏健な人民社会党の党員だった。
 のちに、彼は友人の処刑に復讐するために自分で行動した、ということが明らかにされた。
 しかし、そのときは知らされず、おそらくはテロリストの組織的行動が進行している、という恐怖が巻き起こった。
 憂慮した家族がレーニンに出席を控えるよう迫ったが、彼はいつもと違って、危険に向き合うことを選んで、信頼する運転手のS. K. Gil が運転する車で市内へ向かった。
 彼はまず、穀物日用品販売所に現われ、そこからMichelson 工場へと進んだ。
 聴衆は半分はレーニンを期待していたけれども、彼が来るのが確実になったのは、自動車が中庭に入ってきたときだった。
 レーニンは、西側の「帝国主義者たち」を攻撃するいつもの用意された演説を行なった。
 彼は、「死ぬか勝利するかだ」という言葉で結んだ。
 Gil がのちにチェカに語ったところによると、レーニンが演説しているあいだ、白い服を着た女性がやって来て、レーニンは内部にいるのかと尋ねた。
 彼は、捉え難い曖昧な返事をした。
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 (06) レーニンが密になった群衆を抜けて出口に向かっていたとき、彼のすぐ後ろの誰かが滑って倒れて、群衆を塞いだ。
 レーニンは、数人を従えて、中庭に入った、
 まさに車に乗ろうとしたとき、一人の女性が接近して、パンが鉄道駅で没収されたと不満を言った。
 レーニンは、パンに関するその実務を止めるよう指示がなされている、と言った。
 動いている踏み板に足を乗せたとき、三発の射撃音が響きわたった。
 Gil は、振り向いた。
 彼は、数歩離れた場所から銃撃した人物がレーニンについて調べていた女性だと認識した。
 レーニンは、地上に倒れた。
 パニックに襲われた見物者たちは、四方に逃げ去った。
 Gil は、回転銃を取り出して、暗殺者を追って走った。だが、彼女を見失った。
 中庭に残っていた子どもたちは、彼女が逃げ去った方向指し示した。
 数人だけが、彼女を追っていた。
 彼女は走りつづけたが、突然に立ち止まり、追跡者に対して顔を向けた。
 逮捕され、Lubianka のチェカ本部に連れていかれた。
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 (07) レーニンは意識のない状態で車の中に運び込まれ、車は最高の速さでクレムリンへと急いだ。
 医師が、呼ばれた。
 そのときまで、レーニンは、ほとんど動くことができなかった。
 彼の心拍は微かになり、大量の血を流していた。
 レーニンは、死にかけているように見えた。
 医師の検査によって、二カ所の傷が明らかになった。一発の銃弾は比較的に無害で、腕の中にとどまっていた。もう一発は潜在的に致命的で、顎と首の連結部にあった。
 (のちに知られたが、第三の銃弾はレーニンが狙撃されたときに彼と会話していた女性に当たっていた。)
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 (08) つづく数時間、テロリストはチェカの機関員によって5つの尋問を受けていた。(脚注1)
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 (脚注1) これらの尋問の調書は、PR, No.6-7(1923年)p.282-5 に公表された。Peters によると、何を意味しているのであれ、主要な尋問者、現存する事件の記録は「きわめて不完全」だった。〈Izvestiia〉, No.194/1, 931(1923年8月30日), p.1.
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 彼女はほとんど口を開かなかった。
 名前は、Fannie Efimofvna Kaplan。生まれ名は、Feiga Roidman またはRoitblat。
 父親は、ウクライナで教師をしていた。
 少女のときにアナキストに加わっていたことが、のちに知られた。
 アナキストがKiev の知事を殺害するために彼女の部屋で組み立てていた爆弾が爆発したとき、16歳だった。
 野戦軍事法廷は彼女に死刑判決を下し、そのあと無期の重労働刑に変更した。この判決に、彼女はシベリアで服した。
 そこでSpiridonova その他の確信あるテロリストと遭遇し、彼らの影響を受けて、エスエルに加入した。
 1917年の早くに、政治的恩赦を受けて、中央ロシアに戻った。最初はウクライナ、あとでクリミアに住んだ。。それまでに、彼女の家族はアメリカ合衆国に亡命していた。
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 (09) 宣誓供述書によると、彼女は、1918年2月に、立憲会議の解散と接近しているブレスト=リトフスク条約の締結に報復するために、レーニンを暗殺することを決めた。
 だが、レーニンに対する反感は、もっと深い所にあった。彼女は、チェカにこう言った。
 「レーニンは裏切り者だと考えているので、射撃した。
 彼は、数十年で実現するはずの社会主義の考えを延期した。」
 さらに、こうも言った。どの政党にも帰属していないが、Samaraの立憲会議委員会に共鳴する、Chernov が好きで、ドイツに対抗するイギリスとフランスの同盟に賛成だ。
 彼女は、仲間の存在を一貫して否定し、誰から銃砲を与えられたかを言うのを拒んだ。(脚注2)
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 (脚注2) その銃、Browning 銃は、犯罪の場所から消失した。1918年9月1日に〈Izvestiia〉(No.188/452, p.3)は、この銃の存在場所に関する情報を求めるチェカの声明を掲載した。
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 ②へ。

2948/R.Pipes1990年著—第18章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第四節/チェカと司法人民委員部の対立②。
 (07) モスクワとペテログラードでは、左翼エスエルとの取決めにより、チェカは政治的犯罪者の処刑を行なうことができなかった。
 左翼エスエルがチェカの中で活動しているあいだは—つまり1918年7月6日までは—、上の両都市のいずれでも、正規の政治的処刑は起こらなかった。
 2月22日布令の最初の犠牲者は、「Eboli 皇子」という偽名でチェキストを装った通常の犯罪者だった(注54)。
 しかしながら、諸州では、チェカ機関はこのような制約に拘束されず、政治的犯罪を理由として市民を決まり事のように(routinely)処刑した。
 例えば、メンシェヴィキのGrig orii Aronson は、つぎのことを思い出す。1918年の春に、Vitebsk のチェカは、労働者全権代表者会議のポスターを配布した責任を追及して、2人の労働者を逮捕し、処刑した(脚注)
 どれだけ多くの者たちがこのような恣意的な処刑の犠牲になったかは、おそらく明らかにならないだろう。
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 (脚注) Grig orii Aronson, Na zare krasnogo terrora(Berlin, 1929), p.32. ゆえに、G. Leggett がLatis に従って、1918年7月6日まではチェカは犯罪者だけを処刑し、政治的反対者を免じていた、と語るのは、正しくない。Leggett, The Cheka: Lenin’s Political Police(Oxford, 1986), p.58.
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 (08) 帝制期の保安制度の憲兵隊を見習って、チェカは武装部隊を設置した。
 その統制下にある最初の軍事部隊は、小さなフィンランド人派遣団だった。
 他の部隊が追加されて、1918年4月に、チェカには6つの歩兵団、50の騎兵団、80の自転車団、60の機銃砲団、40の砲兵団、および3台の武装車があった(注55)。
 チェカが行なったおそらく唯一の民衆のための行動を1918年4月に実行したのは、これらの分隊だった。その行動とは、住居用の建物を占拠し、民間人にテロルを加えていたアナキストの蛮族である「黒衛団」(Black Guards)をモスクワで武装解除した、というものだった。
 基礎的なな軍事力の獲得は、政治警察が国家の内部の事実上の国家に膨張していく第一歩にすぎなかった。
 1918年6月のチェキストのある会合では、正規のチェカ軍団を設置する、あるいはチェカに鉄道および国境の安全を確保する権限を付与する、といったことが語られた(注56)。
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 (09) 設立後の最初の数ヶ月にチェカは種々の努力を行なったが、大きな部分は通常の商業活動と闘うことにまで及んだ。
 小麦粉袋の販売のような、最も日常的な小売取引業務が今や「投機」の中に分類され、チェカの任務には投機に対する闘いが含まれた。そのために、チェカの組織員は多くの時間を農民の「運び屋」を追跡することに費やした。鉄道の乗客の荷物を検査したり、闇市場を手入れしたりした。
 「経済犯罪」にかなり没頭したことで、1918年春には出現し始めていた、より危険な反政府陰謀に目を光らし続けることが妨げられた。
 この分野での1918年前半の唯一の成果は、Savinkov の組織のモスクワ本部を暴いたことだった。
 しかし、これは偶発的な出来事だった。そして、いずれにせよ、チェカは、Savinkov の祖国と自由を防衛する同盟に浸透することができなかった。これは結果として、7月にIarosravl 蜂起が起きてチェカを突然に驚かせることにつながった。
 さらに驚愕だったのは、左翼エスエルの反乱計画を知らなかったことだった。左翼エスエルの指導者たちがその意図をほとんど漏らさなかったのだとしても。
 事態をさらに悪くしたことに、左翼エスエルの陰謀はチェカ本部の内部で密かに企てられ、チェカの武装部隊に支持されていた。
 この大失態によって、Dzerzhinskii は7月8日に、その職を辞することを強いられた。Peters が暫定的に引き継いだ。
 8月22日、Dzerzhinskii は復職した。その日はまさに、もう一度屈辱的な苦難を味わう日だった。すなわち、レーニンの生命を狙うテロリストの企てがほとんど成功するのを阻止できなかったこと。
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 第四節、終わり。

2947/R.Pipes1990年著—第18章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第四節/チェカと司法人民委員部の対立①。
 (01) 元来の使命に制約されつつも、チェカは、政治的に望ましくない者を処断する無制限の自由を追求した。
 これによって、司法人民委員部と衝突することになる。
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 (02) 設立された最初から、チェカは、それ自体の権限にもとづき、「反革命」や「投機」を行なっている疑いのある者たちを逮捕した。
 犯罪者は、警護つきで、Smolnyi へと送られた。
 この手続に、司法人民委員のSteinberg は満足できなかった。この人物は、正義のタルムード的(Talmudic)観念に関する博士論文でドイツで学位を得たユダヤ人法律家だった。
 〔1917年〕12月15日、彼は、司法人民委員部の事前の承認がある場合を除き、逮捕された市民をSmolnyi か革命審判所のいずれかに送るのを禁止する決定を行なった。
 チェカに拘禁されている犯罪者は、釈放されるものとされた(注44)。
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 (03) レーニンによる後援があるとの自信があったようで、Dzerzhinskii は、この指令を無視した。
 12月19日、彼は、立憲会議防衛同盟の一員を逮捕した。
 Dzerzhinskii のこの行為を知るとすぐに、Steinberg はこれを取消し、犯罪者の釈放を命じた。
 この係争は、その日の夕方にあったソヴナルコムの会議の議題になった。
 内閣はDzerzhinskii の側に立ち、チェカの犯罪者を釈放したとしてSteinberg を非難した。
 しかし、Steinberg はこの敗北に怯むことなく、ソヴナルコムに対して司法人民委員部とチェカの関係を調整するよう求め、「司法人民委員部の権能について」と題する企画案を提出した(注46)。
 この文書は、司法人民委員部の事前の裁可なくしてチェカが政治的な逮捕を行なうことを禁止していた。
 レーニンと内閣の残りの閣僚たちは、Steinberg の提案を是認した。ボルシェヴィキは、この時期に左翼エスエルと争論するのを望まなかったからだ。
 採択された決議は、「顕著に政治的重要性をもつ」者の逮捕に関する全ての命令には司法人民委員部の副署が付いていること、を要求した。
 おそらくは、チェカはその固有の権限にもとづいて、通常の逮捕は行なうことはできた。
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 (04) しかし、この限定された譲歩ですら、ほとんど直ちに撤回された。
 二日のち、たぶんDzerdhinskii の不服に応えて、ソヴナルコムは全く異なる決議を採択した。
 その決議は、チェカが調査機関であることを確認しつつ、司法人民委員部その他の全ての機関に対して、重要な政治的人物を逮捕する権限を妨害しないよう言いつけた。
 チェカには、事後に司法人民委員部と内務人民委員部に知らせる必要だけがあった。
 レーニンは、すでに逮捕されている者は法廷に引き渡されるか釈放される、という条件を追加した(注47)。
 その翌日、チェカは、ペテログラードで事務職被用者のストライキを指揮していた中心部を逮捕した(注48)。
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 (05) 左翼エスエルは、1917年12月に締結されたボルシェヴィキとの協定の一部として、役員会(Collegium)として知られるチェカを運営する委員会に、代表者を出す権利をもった。
 チェカを100パーセント・ボルシェヴィキの機関とするというボルシェヴィキの意図からすると、この譲歩はそれに逆行していたが、レーニンは、Dzerzhinskii の反対を遮ってこれに同意した。
 ソヴナルコムは左翼エスエルをチェカの副長官に任命し、役員会にこの党の数人を加えた(49)。
 左翼エスエルはさらに、役員会の全員一致の同意がある場合を除いてチェカは死刑を執行しない、役員会は死刑判決に対する拒否権をもつ、という原則を受け入れさせた。
 1918年1月31日、ソヴナルコムは、発表されなかった決定で、チェカはもっぱら調査に関する任務をもつ、ということを確認した。
 「チェカは、その任務を、諜報活動全般、犯罪の抑圧と防止に集中させる。全ての調査につづく行為や事案の法廷への提示は、革命審判所の調査委員会に委ねられる。」(注50)
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 (06) チェカに対するこうした制限は、一ヶ月後に「社会主義祖国の危機!」という布令によって放棄された(注51)。
 この文書は、誰が反革命者や新しい国家に対するその他の敵を「その場で射殺する」かについて、述べていなかった。だが、この責任がチェカに譲り渡されたことに疑いはあり得なかった。
 チェカはその翌日に、「反革命者」はその場で容赦なく殺戮される、ということを民衆に警告したものだ、と確認した(注52)。
 その日、2月23日に、Dzerzhinskii は地方ソヴェトに対して電信で、反体制「陰謀」が広がっていることにかんがみ、ただちに自分たち自身のチェカを設置し、「反革命者」を逮捕し、勾引したどこででも処刑する、という途を進むよう助言した(注53)。
 上の布令はこのようにしてチェカを、公式にかつ永続的に、調査機関から完全に自立したテロルの機構へと変質させた。
 この変質は、レーニンの同意でもって、行なわれた。
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 ②へとつづく。

2946/R.Pipes1990年著—第18章⑥。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第三節/チェカの起源。
 (01) チェカは、実質的に秘密に生まれた。
 保安機構を設置する決定—基本的には帝制時代の警察とOkhrana の復活—は、1917年12月7日にソヴナルコム(人民委員会議)によって採択された。これは、事務職の被用者によるストライキを意味する「サボタージュ」(sabotage)との闘いに関するDzerzhinskii の報告にもとづいていた。(脚注1)
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 (脚注1) <Iz istorii Vserossiiskoi Chrezvychainoi Kommissii 1917-1921 gg.>(Moscow, 1958), p.78-p.79. この趣旨の決議を採択した農民大会の圧力を受けて、ボルシェヴィキは軍事革命委員会を解散した(Revoliutsiia, VI, p.144)。チェカは、これの後継組織だった。
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 ソヴナルコムの決定は、このとき、公表されなかった。
 最初に活字で発表されたのは1924年で、虚偽の部分のある不完全なものだった。1926年により完全だが虚偽を含むものが、そしてようやく1958年に完全で真正なものが、明らかにされた(注33)。
 1917年には、ボルシェヴィキの新聞に、ソヴナルコムは「反革命およびサボタージュと闘う非常委員会」を設置した、役所はペテログラードのGorokhovaia 2番地に位置するだろう、という短い、二文だけが掲載された(注34)。
 この建物は革命前は、市長の事務局および警察の地方支部として使われていた。
 チェカの権能も、責任も、何ら説明されていなかった。
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 (02) ボルシェヴィキ政府が創設時にチェカの役割や権限を公表しなかったことで、チェカには不吉な効用が生じた。チェカがもとうと意図していた権限を要求するのが可能になったからだ。
 今では知られているが、チェカの使命は、帝制時代の保安警察を範として、国家に対する犯罪を捜査し、阻止することだった。
 チェカは、司法的権力を有しないものとされた。ソヴナルコムは、チェカが政治的犯罪の容疑者を訴追と判決のために革命審判所に引き渡すことを想定していた。
 チェカを設立する秘密の決定の関係条項には、つぎのように書かれていた。
 「(非常)委員会の任務 (1) ロシア全国で各区画での反革命と怠業の全ての試みと行為を抑圧し、絶滅すること。(2) 全ての怠業者と反革命者を革命審判所の法廷に引き渡し、彼らと闘う手段を考え出すこと。(3) 委員会は[反革命と怠業を]阻止するために必要な範囲内で、前審での審問のみを行なう。」(注35)
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 (03) 最初に発表された決定(1924、1926)では、一つの重要な言葉が変わっていた。
 今は知られているように、決定の原稿では「抑圧する」—「presekat」—という言葉が「pre-seklat」の省略形として用いられていた。
 最も早い発表では、この言葉は「presledovat」に変更され、これは「訴追する」を意味した(注36)。
 若干の文字の交換や置き換えは、チェカに司法的権限を与える、という効果をもった。
 スターリンの死後にようやく明らかになったこの偽作によって、チェカとその後継組織(GPU、OGPU、NKVD)には、非公開で行われる略式の手続で、政治的収監者に対して、死刑を含む全ての範囲の制裁を課す判決を下すことが認められた。
 ソヴィエトの保安警察はこの権限を剥奪された。このことは、1956年だけで数百万の生命に関係した。
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 (04) 通常は官僚主義的儀礼に几帳面なボルシェヴィキは、秘密警察に関しては、重大な例外を設けた。
 のちには体制を救ったと信頼されたこの機構には、長いあいだ、法的な立場がなかった(注37)。
 1917-18年の法令集では無視されていて、形式的な一体性をもっていなかった。
 これは、意図的な政策方針だった。
 1918年の初めに、チェカは、自らが承認した場合を除いて、チェカに関する情報を発表するのを禁止した(注38)。
 この差止め命令は厳格に守られたのではなかったが、チェカに関するそれ自身や社会での役割に関する一定の像を与えた。
 この点で、ボルシェヴィキは、正規の勅令なくしてロシアの最初の秘密警察、Preobrazhenskii の役所、を設置したピョートル大帝の先例に従っていた。(脚注2)
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 (脚注2) この機構は内密に設けられたので、歴史家は今日まで、これの設立を根拠づける布令の所在を突き止める、または発せられただろう大まかな時期を決定する、ということができていない。Richard Pipes, Russia under the Old Regime(London, 1974), p.130.
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 (05) チェカは、少人数の事務職員と若干の軍事部隊で出発した。
 三月に政府とともにモスクワへ移った。そこでは、Bolshaia Lubianka 11番地にあるIakor 保険会社の広い区画を利用した。
 このとき、わずか120人の被用者がいた、とされた。但し、本当の数字は600人近くだった、と見積もる研究者もいる(注39)。
 チェキストのPeters は、つぎのことを認めた。チェカは人員を新しく補充するのが困難だった。なぜなら、ロシア人には帝制時代の警察の像がまだ鮮やかで、「感情的に」反応し、旧体制の迫害と新しいそれとの区別がつかず、彼らは加入するのを拒んだからだ(注40)(脚注2)
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 (脚注2) 当時の多くの者が報告しているが、この混乱は一部は、看守を含む多くのチェカ被用者は帝制下でも同じ仕事に従事した、ということによるのかもしれない。
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 その結果として、チェカ活動家のうち高い割合を占めたのは、非ロシア人だった。
 Dzerzhinskii はポーランド人で、彼に近い同僚の多くはラトヴィア人、アルメニア人、ユダヤ人だった。
 チェカが共産党員の官僚や重要な収監者を守るために用いた警護者は、もっぱらラトヴィア人ライフル部隊から選抜された。ラトヴィア人はより冷厳で、賄賂をより受けにくいと考えられていたからだ。
 レーニンは、外国人たちへのこの信頼を強く支持した。
 Steinberg は、ロシア人の民族的性格へのレーニンの「恐怖」を思い出す。
 レーニンは、ロシア人には断固さがない、と考えた。彼はこう言ったものだ。「ロシア人は穏やかだ。穏やかすぎる。革命的テロルという過酷な手段を行使することができない。」(注41)
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 (06) 外国人を雇用することには、つぎのような利点が追加的にあった。すなわち、血縁の紐帯によって潜在的な犠牲者たちと結びつくのがなさそうであること、ロシアの地域共同体からの非難によって躊躇することはないこと。
 例えば、Dzerzhinskii は、強いポーランド民族主義の雰囲気の中で育ち、若いときは、ポーランド人に加えた迫害を理由として「ロシア人(Muscovites)全員を絶滅」させたかった(脚注3)
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 (脚注3) PR, No.9(1926), p.55. のちにレーニンは、彼とジョージア人のスターリンを、ロシア排外的愛国主義だと批判した。
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 ラトヴィア人は、ロシア人を軽蔑していた。
 Bruce Lockhart は、1918年9月にチェカに拘禁されていた短いあいだに、ラトヴィア人警護者が「ロシア人はのろくて汚い」、戦闘のときはいつも「彼らに失望した」と言うのを聞いた(注42)。
 ロシアの民衆にテロルを加える外国人をレーニンが信頼していたことは、イワン雷帝の実務を想起させる。イワン雷帝(Ivan the Terrible)のテロル装置であるOprichnina には、多数の外国人が、とくにドイツ人が、いた。
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 (07) 社会主義国の政治警察につきまとう悪評を除去するために、ボルシェヴィキは、政治的であるチェカの主要な任務を、通常の犯罪と闘う任務と結びつけようとした。
 ソヴィエト・ロシアには殺人、略奪、強盗が蔓延しており、市民たちはこれらをなくそうと必死だった。
 体制側はまた、新しい政治警察をより受け入れやすいものにするために、チェカに対して山賊行為や「投機」を含む通常の犯罪を撲滅減する責任を割り当てた。
 1918年6月のメンシェヴィキの日刊紙のインタビュー記事で、Dzerzhinskii はチェカには二つの任務があると強調した。
 「(チェカの任務は)ソヴィエト当局の敵および新しい生活様式に対する敵と闘うことだ。
 このような敵は、我々の政治的対抗者および蛮族、窃盗、投機者その他の社会主義秩序の基盤を破壊する犯罪者の双方だ。」(注43)
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 第三節、終わり。

2945/R.Pipes1990年著—第18章⑤。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第二節/法の廃棄②。
 (07) まずメンシェヴィキとエスエル、ついで左翼エスエルへと、他政党をソヴィエトの組織から追放することによって、革命審判所は公共の裁判所の外装をわずかにまとったボルシェヴィキの審判所に変わった。
 1918年に、革命審判所の職員の90パーセントはボルシェヴィキの党員だった(注25)。
 革命審判所の判事に任命されるためには、読み書きできる能力以外の形式的な資格は必要でなかった。
 当時の統計によると、この審判所の判事の60パーセントは、中等教育以下の教育しか受けていなかった(注26)。
 しかしながら、Steinberg は、最も酷い犯罪者の何人かは教育を十分に受けていないプロレタリアではなく、審判所を個人的な復讐のために利用する、あるいは被告人の家族から賄賂を受け取ることを躊躇しない、そういう知識人だった、と書いている(注27)。
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 (08) ボルシェヴィキの支配のもとで生きる人々は、歴史的な先例のない状況にあった。
 通常の犯罪や国家に対する犯罪のために、法廷はあった。しかし、法廷の指針となる法がなかった。
 どこにも明確に定められていない犯罪に関する職業的資格のない判事たちによって、市民は判決を受けた。
 西側の司法を伝統的に指導してきた「法なくして犯罪はない」(nullum crime n sine lege)や「法なくして制裁はない」(nulla poe na sine lege)の原則は、役に立たない銃弾と同じように捨てられた。
 当時の人々には、こうした状況はきわめて異様に映った。
 ある観察者は1918年4月にこう書いた。これまでの5ヶ月間、略奪、強盗、殺人の罪では誰も判決を受けなかった。処刑する部隊とリンチする群衆はいた、と。
 彼は、昔の法廷は休みなく仕事をしなければならなかったのに、犯罪はどこに消えたのだろうと不思議がった(注28)。
 答えはもちろん、ロシアは法のない社会に変質した、ということだった。
 1918年4月に、作家のLeonid Andreevは、平均的市民にとってこれが何を意味するかをこう叙述した。
 「我々は異様な状況な中で生きている。カビやきのこを研究している生物学者はまだ理解できるかもしれないが、社会心理学者には受け入れられない。
 法はなく、権威もない。社会秩序全体が、無防備だ。…
 誰が我々を守るのか?
 なぜ、まだ生きているのか。強奪もされず、家から追い出されることもなく。
 かつてあった権威はなくなった。見知らぬ赤衛隊の一団が鉄道駅の近くを占拠し、射撃を練習し、…食糧と武器の探索を実行し、市への旅行の『許可証』を発行している。
 電話も、電報もない。
 誰が我々を守るのか?
 理性の何が残っているのか? 成算を誰も我々に教えてくれない。…
 やっと、若干の人間的な経験。単純な、無意識の習慣だ。
 道路の右側を歩くこと。出会った誰かに『こんにちは』と言うこと。その他人のではなく自分の帽子を少し持ち上げること。
 音楽は長らく止まったままだ。そして我々は、踊り子のように、脚を動かし、聞こえない法の旋律に向かって揺らす。」(注29)
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 (09) レーニンが失望したことに、革命審判所はテロルの道具にはならなかった。
 判事たちは気乗りしないで働き、穏やかな判決を下した。
 ある新聞は1918年4月に、判事たちは少しの新聞を閉刊させ、少しの「ブルジョア」に判決を下しただけだった、と記した(注30)。
 権限を与えられたあとでも、死刑判決を下す気があまりなかった。
 公式の赤色テロルが始まった1918年のあいだ、革命審判所は、4483人の被告人を審判し、その三分の一に重労働を、別の三分の一に罰金を課した。わずか14人が死刑判決を受けた(注31)。
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 (10) このような状態を、レーニンは意図していなかった。
 やがてほとんど全員がボルシェヴィキの党員になった判事たちは、極刑を下すよう迫られ、そうする広い裁量が認められた。
 審判所は1920年3月に、「前審段階での審問で証言が明確な場合は証人を召喚して尋問することを拒む権限、また、事案の諸事情が適切に明瞭になっていると決定した場合にはいつでも司法手続を中止する権限、を与えられた」。
 「審判所には、原告や被告が出頭して弁論する権利を行使するのを拒む権限があった」(注32)。
 こうした措置によって、ロシアの司法手続は、17世紀の実務へと後戻りした。
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 (11) しかし、このように流れが定められても、革命審判所はきわめて遅く鈍重だったので、「いかなる法にも制約されない」支配を追求するレーニンを満足させなかった。
 その結果として、レーニンはいっそう、チェカを信頼するようになった。彼はチェカに、きわめて不十分な手続ですら順守することなく、殺害する免許状を交付した。
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 第二節、終わり。

2944/R.Pipes1990年著—第18章④。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第二節/法の廃棄①。
 (01) ソヴィエト・ロシアへの大量テロルの導入の最初の一歩は、全ての法による制約の—実際には法それ自体の—廃止と、法を革命的良心と呼ばれるものに置き換えること、だった。
 このようなことは、他のどこでも起きたことがなかった。ソヴィエト・ロシアは、歴史上初めて、公式に法を法でなくした(outlaw)国家だった。
 この措置によって、国家当局は嫌悪する者を自由に処分できるようになり、対抗者たちに対する組織的大虐殺(pogroms)が正当化された。
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 (02) レーニンは、権力を握る前からずっと、これを構想してきた。
 彼は、パリ・コミューンの致命的な過ちの一つはフランスの法的制度を廃止できなかったことだ、と考えた。
 この過ちを、彼は回避しようとした。
 1918年後半に、プロレタリアート独裁を、「いかなる法にも制約されない支配」と定義した(注15)。
 彼は、法や法廷を、マルクス主義の流儀で、支配階級がその利益を拡大するための道具だと見なした。「ブルジョア」社会では、公平な司法という偽装のもとで、法は私有財産を守護するために役立つ。
 こうした見方は、1918年早くに、のちに司法人民委員になるN. V. Krylenko によって明確に述べられた。
 「法廷は、階級を超越する、社会の階級構造、闘争している集団の階級的利益、支配階級の階級的イデオロギー、そうしたものの本質的部分から独立した、何らかの特別の『正義』を実現することを任務とする装置だ、と主張するのは、ブルジョア社会の最も広がっている詭弁だ。…
 『法廷を正義で支配させよ』—これよりも酷い、現実についての誤魔化しを思い浮かべることはできない。…
 他にも、多数のこのような詭弁を引用することができる。すなわち、法廷は『法』の守護者だ。『政府当局』のように『人格』の調和ある発展を確保するという高次の任務を追求している。…
 ブルジョア的『法』、ブルジョア的『正義』、ブルジョア的『人格』の『調和ある発展』という利益。…
 生きている現実の単純な言語へと翻訳すれば、これが意味するのは、とりわけ、私有財産の護持だ。…」(注16) 
 Krylenko は、このような前提から、私有財産の消滅は自動的に法の消滅をもたらすだろう、社会主義はこうして、犯罪を生む心理的情動を「萌芽のうちに破壊する」だろう、と結論する。
 この見方によれば、法は犯罪を防止するものではなく、犯罪の原因だ。
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 (03) もちろん、完全な社会主義へと移行するあいだ、何らかの司法制度は残ったままだろう。しかし、偽善的な正義という目的ではなく、階級闘争という目的に奉仕するこになる。
 レーニンは、1918年3月にこう書いた。
 「我々には国家が必要だ。強制が必要だ。
 この強制を実現するプロレタリア国家の機関が、ソヴィエトの法廷であるべきだ。」(注17)
 この彼の言葉に忠実に、レーニンは権力を握ったすぐあとに、ペンによる署名を通じて、1864年以降に発展してきたロシアの法的制度全体を廃絶させた。
 彼はこれを、Sovnarkom(人民委員会議=ほぼ内閣)での長い討議のあとで発せられた、1917年11月12日の布令でもって達成した(注18)。
 この布令はまず第一に、ほとんど全ての現存していた法廷を解体させた。上訴のための最高法廷だったthe Senate までも含めて。
 さらに、司法制度に関係する職業を廃止した。行政総裁(the Proculater、司法長官のロシア版)の役所、法的職業、ほとんどの治安判事(justice of the peace)を含めて。
 無傷で残ったのは、些少な犯罪を所管する「地方法廷」(mestnye sudy)だけだった。
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 (04) この布令は、法令全書に載っている法令を明確には無効としなかった。—これは一年後に行なわれた。
 しかし、地方法廷の判事たちに、「打倒された政府の法令にもとづいて決定したり判決を言い渡すのは革命によってそれらが否定されておらず、かつ革命的良心や法的正当性についての革命的感覚と矛盾しない範囲に限られる、と指導される」とする指令を発することによって、同じ効果が生じた。
 この曖昧な定めを明瞭にする修正によって、ソヴィエトの布令のほか「社会民主労働党や社会主義革命党の最小限綱領」と矛盾する法令は無効だと明記された。
 基本的に言えば、犯罪はなおも司法手続に従って処理されたが、罪は、判事(または判事たち)が得た印象によって決定された。
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 (05) 1918年3月、ボルシェヴィキ体制は、地方法廷を廃止し、代わりに人民法廷(People’s Court、narodnye sudy)を設置した。
 この人民法廷は、全ての範疇の市民対市民の犯罪を扱うものとされた。殺人、身体傷害、窃盗、等々。
 この法廷の選任された判事たちは、証拠に関していかなる形式的な事項にも拘束されなかった(注19)。
 1918年11月に発せられた規則は、人民法廷の判事たちが1917年十月以前に制定された法令に言及するのを禁じた。
 さらには、証拠に関する全ての「形式的」規則を遵守する義務を免除した。
 判事たちは評決を出すに際して、ソヴィエトの布令に指導されるものとされたが、それがないときは、「正義に関する社会主義者の感覚」(sotsialistischeskoe pravosoznanie)によった(注20)。
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 (06) 国家とその代表者たちに対する犯罪を私人に対する犯罪と異なって扱うロシアの伝統的な実務に沿って、ボルシェヴィキは同時期に(1917年11月22日)、革命審判所(Revorutionary Tribunals)と称される、フランスの類似の制度を範とした新しい類型の法廷を導入した。
 これは、経済犯罪や「sabotage」を包含する範疇である、「反革命罪」で起訴された者を審理するものとされた(注21)。
 司法人民委員部—当時の長はSteinberg—は、これに指針を与えるべく、1917年12月21日に、追加の指示を発した。これにより、「革命審判所は制裁を課す際に、事案の諸状況と革命的良心が告げるところを指針としなければならない」と明記された。
 「事案の諸状況」をどう決定するのか、何が「革命的良心」なのかは、語られなかった(脚注)
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 (脚注) 革命前のロシア法ですら「善意」や「良心」のような主観的概念でもって機能していた。例えば和解法廷の手続を定める法令は、判事に「(彼らの)良心にしたがって」判決を提示するよう指示していた。同じような定式は、いくつかの刑事手続でも用いられた。帝制時代の法令のスラヴ主義的遺産は、ロシアの指導的な法理論家の一人のLeon Petrazhitskii によって批判されてきた。つぎを見よ。Andrzej Walicki, Legal Philosophies of Russian Liberalism(Oxford, 1987), p.233.
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 したがって、実際には、革命審判所はその設立時から、有罪に関する常識的印象にもとづいて被告人に判決を下す、カンガルー法廷として機能した。
 革命審判所には最初は、死刑判決を下す権限がなかった。
 この状態は、死刑の非公然の導入によって変わった。
 1918年6月16日、<Iavestiia>は、新しい司法人民委員のP. I. Stuchka が署名した「決定」を発表した。こう述べられていた。
 「革命審判所は、法がその制裁「以上の」という言葉を使って措置を定めている場合を除いて、反革命に対する措置を選択するに際していかなる規則にも拘束されない」。
 この複雑な言葉遣いが意味したのは、つぎのことだった。すなわち、革命審判所は自由に、適切と判断すれば犯罪者に死刑判決を下すことができる。但し、政府が死の制裁を命令したときは、そうしなければならない。
 この新しい規則の最初の犠牲者は、Baltic 艦隊のソヴィエト司令官のA. M. Shchastnyi 提督だった。トロツキーがこの人物をその艦隊をドイツに降伏させる陰謀を図ったとして訴追していたのだが、彼の例は、他の将校たちへの教訓として役立った。
 Shchastnyi は、レーニンの命令にもとづき大逆罪の事件を審理するために設置された中央執行委員会の特別革命審判所の審判にかけられ、その判決を受けた(注23)。
 左翼エスエルが死刑判決という嫌悪すべき実務の復活に抗議したとき、Krylenko は、こう答えた。「提督は、『死刑だ』ではなく、『射殺されるべきだ』と宣告されたのだ」。(注24)
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 第二節②へ、つづく。

2943/伊藤友計・西洋音楽の正体(2021年)。

  伊藤友計・西洋音楽の正体—調と和声の不思議さを探る—(講談社選書メチエ、2021)
 熟読して読了したのではないから、きちんとした紹介をすることはできない。
 しかし、一瞥のかぎりで、または一瞥した部分には、私自身の関心と結論らしきものと同じことが書かれている。それで、心強く感じて、取り上げたくなった。
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  途中にこんな文章がある。第一部第三章から。
 「もとをたどれば、西洋音楽も半音と全音だけを音楽の構成要素としていたわけではない」。「『音楽』という『音の組織化』を図るのに、その素材が半音と全音だけでならないということはまったくない」。
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 まとめ的部分である<終章>には、こんな文章がある。
 「音階も、和音も、調性も、自然の直接の産物ではない」。
 「西洋音楽は、人間の知的営為が長年の時間の中で、歴史的、文化的、民族的、宗教的等に構築してきた人間の所産である」。
 「西洋音楽は自然と人為、必然と偶然、理解と誤解、共感と反発、論理と非論理といったさまざまな要素が、互いに溶け合い、混ざり合って、それらが見分けのつかなくなるほど渾然一体となってしまったアマルガム/合金のようなものとして、われわれの前にある」。
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  秋月瑛二が関心をもってきたのは、日本にあるらしき、〈十二平均律〉を前提とした「音楽理論」や「楽典」というものは、「音」・「音楽」に関する科学的または自然科学的な、聴覚に関する生物学的・生理学的な探求の結果として出来上がっているものでは全くない、ということだった。
 だから〈十二平均律〉につながった〈ピタゴラス音律〉等にも興味をもったし、一オクターブはなぜ12音(最後を含めて13音)で分割されるのか、ドレミ…はなぜ7音(最後を含めて8音)なのか、と素人ながら考えた。
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 上の著の終章の表題は「音楽と自然」だ。
 ここで「自然」とは、私なりに言い換えると、ヒト・人間の生物的・生理学的本質のことだ。そして、「音」または「音楽」について<当然に>または<自然に>得られる何らかの定式があるだろう、ということを含意している。
 なお、一定の音(基音)の周波数が例えば2倍になると1オクターブの上の音になり二つの音は「同じ」音として重なって聴こえるとか、基音の3/2倍や4/3倍の音はいずれも「協和性」が最も高い音として聴こえる(今日言うドとソ、ドとファの関係にほぼ近い)というのは、「自然」に属するのではないか、と私には思える。
 これがヒト・人間のいつの時代からか、旧石器時代か、日本での縄文時代か弥生時代か、ではなく、もっと古くからだろうと思われるが、私に断定はできない。
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 「音楽」は自然と人為の両面で成り立つ、というのはレヴィ=ストロースも言っていたようで、上の著者は、彼のつぎの文章を引用している(1964年の『神話論理』の中の「生のものと火を通したもの」から)。
 「音楽は二つの格子を使う。ひとつは生理的であって、それゆえ自然のものである。…。もうひとつの格子は文化的である。それは音楽で使われる音の階梯であり、音の数と隔たりは文化によって異なる。
 「音楽の背後には、感覚的経験の自然の組織がある。だからといって音楽が自然の組織の支配下にあるというわけではない。」
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  今日に世界を圧倒している「西洋音楽」は、〈十二平均律〉も含めていうと、旧石器時代やさらにそれ以前から世界に支配的であったのではなく、たかだか19世紀に成立・確立したものだ。
 当時の日本、明治期の日本は、急いで「文明開花」し欧米の科学技術等を「学び、吸収する」過程で、おそらく間違いなく、当時のドイツの「音楽理論」を急いで<輸入>した。
 そして、今日がある。「西洋音楽」の成立・確立過程での種々の対立や論争、19世紀とは異なる音楽状況(ちなみにJ. S. バッハは17世紀)にはほとんど関心を持たれなかった(とりわけ学校教育や芸術系の官学で)。
 そのようにして、日本の「近代音楽」が始まった。国歌・君が代も、日本にいたドイツ人音楽家の採譜(・編曲?)によるとされる。正確には、辻田真佐憲・ふしぎな君が代(幻冬社新書、2015)参照。
 但し、雅楽や三味線・尺八等が演奏する楽曲には、おそらく「西洋音楽」に吸収され得ない「日本」的な音律や旋律等々があるかにも思える。興味深いテーマだ(ここで「日本的」とはいつ頃に起源があるか、は大問題ではあるのだが)。
 とは言え、「西洋音楽」は、〈十二平均律〉や「五線譜」による楽譜表記も含めて世界をほぼ完全に支配していて(日本の演歌・歌謡曲類もその範囲内にある)、「音楽」に関する電子的技術類にも前提として採用されているようだ。とすると、この趨勢は、人類の「文化」あるいは人間の精神的・知的営為の一つの分野で、今後少なくとも数百年は続くのではないか。
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2942/R.Pipes1990年著—第18章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第一節/レーニンとテロル③。
 (16) レーニンのJacobin 的確信の根源にあったのは、ボルシェヴィキが権力を維持してさらに拡張させるべきだとすれば、「ブルジョアジー」と烙印される「邪悪な」思想や関心が具現化したものを物理的に廃絶しなければならない、ということだった。
 ボルシェヴィキは「ブルジョアジー」という言葉を大まかに二つの集団のために用いた。第一は、工業上の百万長者であれ余剰の農地をもつ農民であれ、出自や経済上の地位のおかげで「搾取者」として機能している者たち。第二は、経済的または社会的地位とは無関係に、ボルシェヴィキの政策に反対している者たち。
 このようにして、主観的におよび客観的に、その者がもつ見解によって、「ブルジョア」に分類することができる。
 レーニンが、内閣にいた頃についてのSteinberg の回想録に猛烈に怒った、という証言が存在している。
 レーニンは1918年2日21日に、「危機にある社会主義の祖国」と称される布令案を内閣に提出した(注12)。
 これの刺激になったのは、ブレスト=リトフスク条約に署名するというボルシェヴィキの失敗につづくドイツ軍のロシアへの前進だった。
 布令案の文書は、国と革命を防衛するために立ち上がることを人々に訴えていた。
 レーニンはその中に、「その場での」—すなわち裁判手続を経ないでの—処刑を認める条項を挿入した。処刑対象とされたのは、「敵の代理人、投機者、ごろつき、反革命煽動者、ドイツのスパイ」と烙印された、広くて曖昧な悪者の範疇に入る者たちだった。
 レーニンは、布令への民衆の支持を得るために、通常の犯罪者(「投機者、押し込み泥棒、ごろつき」)に対する略式の司法手続を含ませた。民衆が犯罪に苦しんでいたからだが、レーニンの本当の狙いは、「反革命煽動者」と呼ばれる彼の政治的対立者たちだった。
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 (17) 左翼エスエルは、このような措置を批判し、政治的対立者に対する死刑の導入に原理的に反対した。
 Steinberg は、こう書く。
 「私は、この残虐な脅迫は、宣言がもつ哀れみを殺してしまう、として反対した。
 レーニンは嘲弄しつつ、こう答えた。
 『逆に、ここにこそ本当の革命的哀れみがある。
 まさに最も乱暴な革命的テロルなくして我々は勝利できると、きみは本当に考えているのか?』/
 この点でレーニンと議論するのは困難だった。我々はすぐに、行き詰まった。
 我々は、きわめて広い範囲に及ぶテロルの潜在的可能性がある厳格な警察の措置について討論した。
 レーニンは、革命的正義という語を出して私の意見に対して怒った。
 私は憤慨してこう言った。
 『では、我々は何のために司法人民委員部を置いているのか?
  率直に、<社会的絶滅のための>人民委員部と呼ぼう。そして、司法人民委員部はなくしてしまえ!』
 レーニンの顔が突然に輝いて、彼はこう答えた。
 『よし。…それはまさしく行なうべきことだ。…しかし我々は、そう言うことができない』」。(脚注)
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 (脚注) Steinberg, In the Workshop, p.145. Steinberg は間違って、この布令の草案起草者をトロツキーだとしている。
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 (18) レーニンは長い間ずっと赤色テロルを主導し、しばしばより人間的な同僚たちを甘言を用いて誘導しなければならなかったけれども、自分の名前をテロルと切り離そうときわめて大きな努力をした。
 彼は全ての法令に自分の署名を付すことに執拗にこだわった。しかし、国家による暴力行使に関係する場合はいつでも、これを省略した。この場合に彼が好んだのは、(ボルシェヴィキ)中央委員会議長や内務人民委員その他の当局者が行なったとすることだった。そのような当局者の中には、偽って皇帝家族の虐殺の責任を取らせたUral 地方ソヴェトもあった。
 レーニンは、自分が煽動した非人間的な行為が自分の名前と歴史的に結びつけられることを、懸命に避けようとした。
 あるレーニンの伝記作家は、こう書く。
 「彼は、テロルやLubianka 〔チェカ本部が所在する建物/試訳者〕その他の地下室での殺害を行なった個人的行為が自分自身とは切り離されて抽象的にのみ語られるよう、気を配った。…
 レーニンは、自分はテロルから離れていると振る舞い続けたので、彼はテロルに積極的には関与していない、全ての決定はDzerzhinskii によって行なわれた、という伝説が生まれて、大きくなった。
 これは、あり得ない伝説だ。なぜなら、レーニンはその性格上、重要な問題に関する権限を委ねることができない人間だったからだ。」(注13)
 実際に、一般的な手続に関するものであれ重要な収監者の処刑に関することであれ、重要性をおびる全ての決定には、ボルシェヴィキの中央委員会(のちには政治局)の承認が必要だった。レーニンはその中央委員会の、永遠の事実上の議長だった(注14)。
 赤色テロルは、レーニンの子どもだった。父親であることを必死で否定しようとしたのだったとしても。
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 (19) この認知されていない子どもの保護者は、チェカの創設者であり監督者である、Dzerzhinskii だった。
 この人物は、革命勃発時にほとんど40歳になっていた。Vilno の近くで、愛国的なポーランドの地主階層の家庭で生まれた。
 その家庭の宗教的、民族主義的な継承物と決別し、リトアニア社会民主党に加入した。そして、職業的な革命組織家および煽動家になった。
 帝制時代の監獄で重労働をしながら、11年を過ごした。
 これは過酷な年月であり、彼の精神に拭い去ることのできない傷跡を残した。そしてそれは、癒すことのできない復讐への渇望とともに不屈の意思を形成した。
 彼は、考え得る最も残虐な行為を、愉しみではなく理想家の義務として、行なうことができた。
 レーニンの指示を、宗教的献身さをもって、無駄なくかつ素っ気なく、「ブルジョア」や「反革命者」を射撃部隊の前に送って、実行した。その際に、同じく愉しみのない強迫意識があったのだが、それは、数世紀前であれば異端者を火炙りの刑に処すことを命じたような意識状態だっただろう。
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 第一節、終わり。

2941/死者に「霊」はあるか—「近代」と「理性」①。

  2025年8月9日、石破茂首相は「広島市原爆死没者慰霊式」に出席した。
 8月15日には政府主催(厚生労働省所管)で「全国戦没者追悼式」が行なわれる。舞台の中央には、例年、「全国戦没者之霊」と縦に黒書した木製の標柱が立っている。
 「慰霊式」・「慰霊祭」、「〜の霊」というのは、馴染みのある、「ふつうの」表現あるいは言葉だ。
 当然ながら、「死没者」・「戦没者」には、「霊」がある、ということを前提としている。政府も、広島市等も、そういう<考え>に(「建前」のみでかどうかはさらに言及する必要があるが)立っていることは間違いないだろう。
 追加すると、6月23日を「慰霊の日」と定めている沖縄県ではその日に県主催の「沖縄全戦没者追悼式」が行なわれている。舞台中央には「沖縄全戦没者之霊」と書かれた標柱が立っている。
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 広島市の原爆死没者「慰霊碑」(設置・管理主体は広島市)には、よく知られるように、「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」と刻まれている。
 問題にされることがあるのは後段の第二文だが、では前段・第一文はどういう意味だろうか。
 死没者には、「安らかに眠る」ことができる者とそうでない者がいるだろう、前者になって下さい、という意味だ、とも読める。
 だが、そもそも、死者が<安らかに眠る>とは、何のことか。
 死者が「安らかに眠る」とは、どういう行為または状態を指しているのだろう。
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 原爆死没者や戦没者を例に挙げると、彼らは貴重なまたは特別の死者だから「霊」をもつ、と答えられるのかもしれない。
 戦争に出征して死んだ軍人については、とくに「英霊」と称されることもある(靖国神社・護国神社の「祭神」には立ち入らない)。
 だが、日本では、一定の、特別の「死者」についてのみ、「霊」の存在が語られているのではない。
 「お盆」には「先祖の霊」が帰ってくる、と言われてきた。帰ってきているからだろうか、この時期に「墓参り」する人々もいる。なお、京都の「五山の送り火」は帰ってきた「霊」を再び「送る」行事らしい。
 一般的にもそうだが、何らかの事故や事件の犠牲となった人々について「慰霊(式)」がなされることも多い。御巣鷹の尾根への「慰霊登山」というのもある。国や地方公共団体だけが「慰霊(式)」を行なっているのではない。
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  8月6日の式典での石破茂首相の挨拶の中に、つぎの言葉があった。
 「直前まで元気に暮らしておられた方が4,000度の熱線により一瞬にして影となった石」。
 原子爆弾の爆心地のような場所では高温の熱線によって人間の肉体は「一瞬にして」消え去る=蒸発する、というのは、「4,000度」程度ではあり得ない、とするのが科学的な知見であるらしい。この温度の程度では骨や焼け滓まで全て消失はしないようだ。
 では、発生し得るとして「20,000」度の温度の熱を浴びると、どうなるのだろう。
 また、「影」だけ(銀行支店の玄関石段に)残した人は、おそらくほぼ<即死>だったのだろう。
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 回り道をしたが、死者の「骨」または「遺骨」というものは、なかなか(物理的に)消滅することがないようだ。
 日本の現在に通常の火葬では、「遺骨」が残る。(「遺骨」が「きれいに」残るように温度調整がなされるようだが、)斎場・火葬場での火葬の温度は、おおよそは1,500度程度であるらしい
 世界的には<土葬>の地域が広いようだが、遺体をそのまま土中に埋葬したとしても、いずれは腐食して死んだときの姿をとどめることはない。それでもしかし、「遺骨」だけは長く残るようだ。
 もっとも、奈良県明日香村の石舞台古墳には「人骨」はなく、高松塚古墳には石棺や四周の壁の絵の一部はあっても、「人骨」は残っていなかった。
 したがって、長期的にみると、種々の(物理・化学的な)原因があるのだろうが、「骨」もまた消失するのかもしれない(佐賀県の吉野ヶ里遺跡からも「墓」にあたる区画はあっても「人骨」は出ていないはずだ)。
 だが、世界のかなり広い地域で、「墓」、「墓地」や「墓園」というのが築かれてきたということは、「骨」=「遺骨」だけは相当に長期にわたって残存する、という知識を、ヒト・人間は古い時代から蓄積してきたからだ、と思われる。
 もちろん、「墓」が築かれない、死体・遺体の放棄=投げ捨てによる<風葬>あるいは<鳥葬>というのもあった(ある)。その場合でも、「骨」=「遺骨」だけは長く残る、という知識を、ヒト・人間はずっと昔から得てきただろう。
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 「遺骨」があってこそ、ある特定の人間の死を確認することができ、「追悼」、さらには「慰霊」の対象にすることができる。もちろん、種々の例外や補足の余地はあるのだが、こうした<思い>は相当程度に強い、または強くあり続けてきた、と言えるだろう。
 「墓」・「墓地」の中心的要素は(<樹木葬>や「納骨堂」であっても)、「遺骨」だ。
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 少なくとも日本では多くの場合、「死者」であることを象徴するのは「墓」であり、その中に納められている「遺骨」だ(だった)、ときわめて大まかには言えると思われる。
 では、「遺骨」のある「墓」に、死者の「霊」は存在しているのか。ときには高い場所から、子孫たちが住む故郷を「見守って」いるのか。あるいは、時期、季節ごとに、死者の「霊」はもともとの肉体の一部がある「墓」のあたりに<帰ってくる>のか。
 あるいは、「墓」の場所に関係なく、死者の「霊」は、宇宙のどこかに(天国に?、極楽浄土に?)存在しているのか。
 「霊」の存在を前提にしてこそ「慰霊」を語り得るだろうことは、最初の方で述べた。
 死者に「霊」が本当にあるのか。<近代的理性>をもつ人々は、あるいは我々日本人は、この問題にどのように回答し、どのように決着をつけてきたのだろうか。
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2940/R.Pipes1990年著—第18章②。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・『赤色テロル』」の試訳のつづき。
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 第一節/レーニンとテロル②。
 (08) トロツキーは、歩調を合わせた。
 1917年12月2日、新しいボルシェヴィキが支配する全国ソヴェト執行委員会(Ispolkom)に向かって、こう語った。
 「プロレタリアートが死にゆく階級を終焉させるときに、不道徳なものは何もない。
 これはプロレタリアートの権利だ。
 君たちは、…我々が階級敵に対して指揮した小さなテロルに憤慨している。
 しかし、注目せよ。遅くとも一ヶ月のうちに、このテロルはもっと恐ろしい形態をとるだろう。フランスの偉大な革命家を模範として。
 我々の敵が直面するのは、監獄ではなく、ギロチン(guillotine)だ。」
 彼はこのときに、ギロチンを(フランスの革命家のJacques Hebert を剽窃して)「人を頭の長さに短くする」道具と定義した。
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 (09) この証拠資料に照らしてみても、赤色テロルについて国内外の反対者によってボルシェヴィキが「強いられた」、「不幸な」政策だったと語るのは馬鹿げている。
 Jacobins にとってもそうだったように、テロルはボルシェヴィキにとって最後に依拠する手段としてではなく、ボルシェヴィキを捉え難い民衆の支持を示すものとして役立った。
 民衆の評判が落ちれば落ちるほど、ボルシェヴィキはいっそうテロルを行使した。1918-19年の秋から冬にかけて、彼らのテロルはかつてない無差別の虐殺のレベルに達するまでになった(脚注1)
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 (脚注1) 1919-20年までに、レーニンは、多数の社会主義者を投獄した。スイスの友人のFritz Platten が彼らは間違いなく反革命者ではないと抗議したとき、レーニンは、こう答えた。「もちろん、違う。…しかし、彼らが誠実(honest)な革命家にすぎないから、というのが、まさに彼らが危険な理由だ。何ができる?」 Isaac Steinberg, In the Workshop of the Revolution(London, 1955), p.177.
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 (10) このような理由で、赤色テロルは、ボルシェヴィキが決まって自己正当化のために言及する、ロシアの反ボルシェヴィキ軍によるいわゆる白色テロルと比較することはできない。また、好んでモデルだと主張した、Jacobin のテロルとも比較することができない。
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 (11) 白軍は実際に、多数のボルシェヴィキとボルシェヴィキ同調者を処刑した。ふつうは略式の方法で、ときどきは残忍な方法で。
 しかし、白軍は、テロルを政策の位置にまで高めなかったし、実行するチェカのような正規の装置を作り出すこともなかった。
 彼らの処刑は原則として、自分たちの責任で行動している野戦将校によって命じられた。そして、赤軍が退避した地域に入ったときに彼らが見た光景に対する、感情的な反応として行なわれた。
 白軍のテロルは、嫌悪すべきものだったが、赤色テロルの場合は通常だったような体系的なものでは決してなかった。
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 (12) 1793-94年のJacobin のテロルは、心理的、哲学的に類似したところがあったにもかかわらず、いくつかの基本的な点で赤色テロルと異なっていた。
 第一に、下から、街頭から、食糧不足に激怒し、代わりの責任者(scapegoats)を探す群衆から、発生した。
 これと対照的に、ボルシェヴィキのテロルは、上から、流血にうんざりしていた民衆に対して課された。
 後述するように、モスクワは、地方ソヴェトを厳しい制裁でもって威嚇して、テロル実行の指令を履行させた。
 1917-18年には多くの自発的な暴力行使が起きたけれども、群衆が社会各層全体の流血を求めた、という証拠資料は存在していない。
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 (13) 第二に、二つのテロルは、継続期間が大きく異なる。
 Jacobin のテロルは、最も短く見て10年間つづいた革命のうち、一年以下の期間内に起きた。したがって、エピソードあるいは「短い幕間」と適切に叙述することができる。
 Jacobin の指導者たちが逮捕されてギロチン台に送られたのはテルミドール第9日のことだったが、そのあとすぐに、フランスのテロルは突然に、かつ永遠に終わった。
 しかし、ソヴィエト・ロシアでは、テロルは止むことなく断続的につづいた。激烈さは様々だったけれども。
 死刑は内戦の終末期に再び廃止されるが、最低限度は裁判所の手続を尊重しつつも、処刑は以前と同じく実施され続けた。
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 (14) Jacobin のテロルとボルシェヴィキのそれの違いを最も象徴的に示すのは、おそらくつぎのことだ。
 パリにはRobespierre の記念碑は建てられず、彼の名に因んだ街路もない。一方で、モスクワには、チェカ設立者のFeliks Dzerzhinskii の巨大な像が市の中心に立ち、彼に敬意を表して名付けられた広場を圧倒している。
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 (15) ボルシェヴィキのテロルは、大量処刑以上の多くのものを巻き込んだ。
 同時代の何人かの意見では、恐ろしいテロルは、蔓延している弾圧の雰囲気ほどには抑圧的効果をもたなかった。
 その法的知識とレーニンのもとでの司法人民委員の経験によって、現象を評価する独特の立場にあったIsaac Steinberg は、1920年に、内戦が終わってもテロルは継続した、ボルシェヴィキ体制の本能に関する特質になった、と記した。
 収監者や人質の略式の処刑は、彼にとっては、「革命的な地球を支配する、陰鬱に明滅するテロルの中での、最も輝かしいもの」、「血の高峰」、「その極致」だった。
 「テロルは個人の行為、分離した偶然の行為ではなく、—頻発したとしても—政府の憤怒を表現したものだ。
 テロルとは『仕組み』(system)であり、…大衆の威嚇、大衆の強制、大衆の絶滅を目的とする、政府の合法化された計画だ。
 テロルは、命令された意思を実行するするように政府が脅迫し、誘発し、強制する手段となる、そういう制裁、報復、威嚇を、考え抜いて登録したものだ。
 テロルは、上から国の民衆全員に対して投げられる、重くて息苦しくさせる外套だ。警戒心を潜ませる不信と復讐欲で編まれた外套だ。
 誰がこの外套を手にし、誰がこの外套を通じて民衆<全体>を苦しめるのか。例外なく? …
 テロルのもとでは、実力はきわめて少数の者の手にあり、その少数者は孤立を感じ、それを怖れる。
 厳密に言えば、少数者が自ら支配し、つねに成長する多数の人々、諸グループ、諸階層を敵と見なすがゆえに、テロルは存在する。…
 この『革命の敵』は、…革命の拡張を支配するまでに拡張する。
 この観念は徐々に拡大しつづけ、国土全体、民衆全体を包括するに至り、最後には、『政府を例外とする全て』とその協力者たちを包括する。」(脚注2)
 Steinberg は、赤色テロルの宣告の中に、労働組合の解体、言論の自由の抑圧、警察官と情報提供者がどこにでもいること、人権の無視、飢餓と欠乏の蔓延、を含めた。
 彼の見解では、この「テロルの雰囲気」、つねに現存する脅威が、処刑以上にはるかに、ソヴィエトの生活を病毒で冒した(poisoned)。
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 (脚注2) I. Steinberg, Gewalt und Terror in der Revolution(Berlin, 1974), p.22-p.25. 1920-23年に書かれたこの書物(最初に1931年に出版された)は、レーニン主義のロシアを叙述しており、スターリン主義のロシアを対象としていない。
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 ③へとつづく。

2939/R.Pipes1990年著—第18章①。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳。
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 第18章・「赤色テロル」
 「大部分のテロルは、恐怖を抱いた人々が自分を安心させるために行なう無意味な残虐行為だ」。
 F·エンゲルスからK·マルクスへ(注01)。
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 第一節/レーニンとテロル①。
 (01) 国家による体系的なテロルはボルシェヴィキが発明したものだ、とは言い難い。その先例は、Jacobins に遡る。
 そうであったとしても、この点でのJacobins とボルシェヴィキが実際に行なったことの差異は大きいので、ボルシェヴィキがテロルを発明した、と考えてよい。
 フランス革命はテロルで頂点に達したが、ロシア革命はテロルとともに始まった、と言うにとどめよう。
 前者は「短い幕間」、「逆流」と称されてきた(注02)。
 赤色テロルは最初から体制の本質的要素であり、強くなったり弱くなったりしつつも、決して消失しなかった。そして、ソヴィエト・ロシアの上に永遠の暗雲のごとく掛かっている。
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 (02) 戦時共産主義や内戦その他のボルシェヴィズムの評判が悪い問題についてと同様に、ボルシェヴィキの代弁者や擁護者は、テロルの責任の所在を反対派に求めるのを好む。
 遺憾なことだったが、反革命に対する避けられない反応だった、と言われる。言い換えると、機会が別に与えられれば、避けただろう、と言うのだ。
 典型的であるのは、レーニンの友人だったAngelica Barbanoff の見解だ。
 「不幸なことかもしれないとしても、ボルシェヴィキが開始したテロルと抑圧は、外国による干渉や、特権を維持して旧体制を再建しようと決意したロシアの反動活動家によって強いられたものだった」(注03)
 このような釈明は、いくつかの理由で却下することができる。
 かりにテロルが実際に「外国の干渉主義者」や「ロシアの反動家」によってボルシェヴィキに「強いられた」ものだったとすれば、ボルシェヴィキがこれらの敵を決定的に打ち破るとすぐに—すなわち1920年に—、テロルを放棄しただろう。
 ボルシェヴィキは、そんなことを何もしなかった。
 内戦が終了するとともにボルシェヴィキは1918-19年の無差別の大虐殺をやめたけれども、彼らは、それまでの法令や制度を無傷で残した。
 スターリンがソヴィエト・ロシアの紛うことなき主人になると、彼が比類のない巨大な規模でテロルを再開するのに必要な手段は、すぐ手の届く所にあった。
 このことだけでも、ボルシェヴィキにとってテロルは防衛的武器ではなく、統治の道具だった、ということが分かる。
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 (03) ボルシェヴィキによるテロルの主要な装置であるチェカは、1917年12月早くに設立された。それは、ボルシェヴィキに対する組織的な反対派が出現する機会を得る前で、「外国の干渉主義者」がまだせっせとボルシェヴィキに言い寄っていたときだった。これらのことも、上述のような解釈の適切さを確認している。
 チェカの最も残酷な活動家の一人、ラトビア人のKh. Peters がこう言ったことに、我々は依拠することができる。すなわち、1918年の前半にチェカがテロルを開始したとき、「これほどの反革命の組織は、…かつて観察されなかった」(脚注1)
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 (脚注1) PR, No. 10/33(1924), p.10. Peters は、副長官として勤務した。1918年7-8月には、チェカの長官代理として。
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 (04) 証拠資料によると、最も決然たる煽動者のレーニンは、テロルを革命政府の不可欠の手段だと見なした。
 彼はテロルを予防的に—すなわち彼の支配に対する積極的な反対行為が存在しなくとも—行使するつもりでいた。
 彼がテロルを用いたのは、自分の教条の正しさと真白か真黒か以外に多彩に政治を見ることができないことについての、深い所にある自信に根ざしていた。
 それは、Robespierre を駆り立てたのと本質的には同じ考えだった。トロツキーは1904年に早くも、レーニンをRobespierre と比較した(04)。
 フランスのJacobin のように、レーニンは、もっぱら「良い市民」が住む世界を建設しようとした。
 こういう目標があったので、Robespierre のように、「悪い市民」を肉体的に排除することを道徳的に正当化することができた。
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 (05) レーニンが「Jacobin」という名を冠するのを誇るボルシェヴィキ組織を作ったときから、彼は、革命的なテロルの必要について語った。
 1908年の小論「コミューンの教訓」で、この主題に関する意味深い観察を行なった。
 この最初の「プロレタリア革命」の成果と失敗を挙げたあとで、その重大な弱点をレーニンは指摘した。すなわち、プロレタリアートの「行き過ぎた寛容さ」—「道徳的影響力を行使」しようとするのではなく、「敵を絶滅させておくべきだった」(注05)。
 この言明は、政治上の文献で、通常は害虫に対して使われる「絶滅」(extermination)という言葉を人間に対して用いた、最も早い例の一つであるに違いない。
 これまでに叙述してきたように、レーニンは、自分の体制の「階級敵」と定めた者たちを、有害動物の駆除に関する語彙から借りてきて、叙述した。クラクを例えば、「吸血虫」、「蜘蛛」、「蛭」と呼んだ。
 1918年1月に彼は、民衆が組織的虐殺(pogrom)を実行する気になるよう、感情を掻き立てる言葉遣いを用いた。
 「コミューン、村落や都市の小さな細胞は、金持ち、詐欺師、寄生虫を実際的に評価し支配する数千の形態と方法を実行し、試さなければならない。ここでの多様性こそが、成功と唯一の目標の実現を保障する。唯一の目標—ロシアの土壌から、全ての有害な虫を、悪辣なノミを、南京虫を—金持ち等々を—一掃すること。」(注06)
 ヒトラーならば、ドイツの社会民主党の指導者に関して、このような例に倣うだろう。彼はこの党の指導者たちは主としてユダヤ人だと考えていて、その著<Mein Kampf>で、絶滅させることだけがふさわしい<Ungeziefer>あるいは害虫と呼んだ。(注07)
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 (06) 国家の長になった最初の日に起きた出来事ほど、レーニンの心理にテロルへの狂熱が深く組み込まれていることを示すものはない。
 ボルシェヴィキが権力奪取していたとき、カーメネフは第二回全国ソヴェト大会に対して、ケレンスキーが1917年半ばに再導入した前線での脱走兵への死刑の廃止を求めた。
 大会はこの提案を採択し、前線での死刑を廃止した。(注08)
 レーニンは他のことに忙しくて、この出来事を見逃した。
 トロツキーによると、レーニンがこれを知ったとき、「完全に激怒した」。そして、こう言った。
 「馬鹿げている。死刑なしで、どうやって革命ができるのか?
 自分を武装解除して、きみの敵を処理できると思っているのか?
 他に弾圧のためのどんな手段があるのか?
 監獄か?
 両方ともが勝とうとしている内戦のあいだに、誰が監獄に意味を認めるのか? …
 彼は繰り返した。間違いだ、容赦できない弱さだ、平和主義者の幻想だ。」(注09)
 こう語られた時期は、ボルシェヴィキの独裁が辛うじて始まった頃、ボルシェヴィキが継続するとは誰も思わなかったために組織的反対運動が起きていなかった頃、まだ僅かにでも「内戦」の兆候がなかった頃だった。
 レーニンの強い主張に従って、ボルシェヴィキは死刑に関するソヴェト大会の行動を無視し、次の6月に死刑を再導入した。
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 (07) レーニンは舞台の背後でテロルを指揮するのを好んだけれども、チェカの「無実の」犠牲者についての苦情には我慢できないことをときたま知らしめた。
 無実の市民の逮捕を批判したメンシェヴィキの労働者に対して、1919年に、こう答えた。
 「有罪であれ無罪であれ、意識的であれ無意識であれ、数十人または数百人の煽動者を収監するのと、数千人の赤軍兵士や労働者を失なうのと、どちらがよいのか?
 前者の方がよい。」(注10)
 このような理由づけによって、無差別の迫害は正当化された(脚注2)
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 (脚注2) これを、Poznan での1943年の一演説でのSSに対するHeinrich Himmler の訓戒と比較せよ。
 「戦車障害濠の建設中に1万人のロシア女性が消耗して死ぬかどうかは、ドイツのための戦車障害濠が建設されているかぎりで、私の関心外だ。…
 誰か私のところにやって来てこう言う。『女性や子どもたちで戦車障害濠を建設することはできない。非人間的で、彼らは死ぬだろう』。
 私はこう言ってやる。『戦車障害濠が建設されなければドイツの兵士は間違いなく死ぬのだから、きみは自分の血縁の殺害者だ』」。
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 第一節②へとつづく。

2938/R.Pipes1990年著—第17章㉑。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第15節/この事件からの示唆。
 (01) Ekaterinburg の悲劇以後の時代にチェカが奪い取ることになる数万人の生命を思えば、またその継承者が殺した数百万人のことを思えば、11人の囚人〔前皇帝とその家族〕の死は、異常な規模のものだったとはほとんど言えない。
 しかしそれでも、前皇帝、その家族、補助者たちの虐殺には、深い象徴的な意味がある。
 自由(liberty)に偉大な歴史的時代があったように—Lexington やConcord の闘い、Bastille への突撃—、全体主義(totalitarianism)についてもそうだ。
 虐殺が準備され、実行されたやり方には、それは最初は否定されたあとで正当化されたのだが、それにまつわる独特のおぞましさがある。以前の国王殺しとは際立って区別する、そして二十世紀の大量虐殺の前兆だったと印象づける、そういう何ものかがある。
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 (02) まず何よりも、不必要だった。
 ロマノフ家は進んで、実際に幸福に、積極的な政治世界から退き、捕獲者であるボルシェヴィキの全ての要求に屈従していた。
 彼らは確かに、誘拐されることや自由な世界に連れていかれることに反対でなかった。しかし、収監状態、とくに責任追及や裁判がないままでの拘禁の状態から逃れたいと彼らが望むことを、処刑を正当化するためにEkaterinburg のボルシェヴィキが指し示したような「犯罪の企て」だと見なすことはほとんどできない。
 いずれにせよ、かりにボルシェヴィキ政府が実際に彼らが逃亡して反対派の「生ける旗印」になることを恐れたのだとすれば、そのときは、彼らをモスクワに連れてくるまさに適切な時期だった。Goloshchekin からすれば、3日後に皇帝家族の持ち物とともにEkaterinburg を経って列車でモスクワに向かうことに何の困難もなかった。
 彼ら皇帝家族は、モスクワにいれば、チェコ軍団、白軍その他のボルシェヴィキ体制への反対派の手に届かなかっただろう。
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 (03) これが行なわれなかった理由が探し求められなければならない。それは、時間不足、逃亡の危険、あるいはチェコ軍団に捕われるといった偽りの言い訳にではなく、ボルシェヴィキ政府の政治的必要にあった。
 1918年7月、ボルシェヴィキは、多方面から攻撃を受け、支持者の多くから見離されて、運命のどん底へと沈んでいた。
 継続する任務放棄を断固として阻止するため、ボルシェヴィキは血を必要とした。
 トロツキーが亡命中につぎのように事件を回想したとき、こうしたことの多くは承認されていた。
 トロツキーは、17年前に、前皇帝の妻と子どもたちを片付けるとのレーニンの決定と同意見だった—トロツキーに個人的な責任はなく、従って正当化する必要のない行為だ。
 「決定は、好都合だけではなく必要だった。
 この制裁が苛酷であることによって、誰に対しても、我々は容赦なく闘い続け、どこにも止まらないだろうことを、示した。
 皇帝家族の処刑は、威嚇し、脅かし、見込みがないという感覚を敵に植えつけるだけではなく、我々の党員たちに刺激を与え、退却することはあり得ない、目の前にあるのは全面的な勝利か全体的な破滅かのいずれかだ、ということを示すためにも、必要だった。」(注109)
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 (04) ある次元で言うと、トロツキーによる正当化には良い点がなかった。
 かりに敵の中にテロルを、味方の中に忠誠性を注ぎ込むために、前皇帝の妻と子どもたちを殺したのだとすれば、ボルシェヴィキはその殺害行為を大声で明瞭に言明しただろう。にもかかわらず実際には、当時に、そしてその後10年間、ボルシェヴィキは否定した。
 しかし、トロツキーの恐るべき告白は、深い道徳的、心理的意味では、正しかった。
 Dostoevsky の「悪霊」の主人公のように、ボルシェヴィキは、動揺する支持者たちを集団的犯罪の絆で結びつけるために、血を流さなければならなかった。
 ボルシェヴィキが良心の咎めを感じる犠牲者たちが無実であればあるほど、ボルシェヴィキ党員はそれだけ強く、退却も逡巡も妥協もあり得ないこと、指導者に絶対的に拘束されていること、を認識せざるを得なかった。そして、指導者とともに、代償を無視して「全面的勝利」を目指して行進するか、それとも「全体的破滅」へと沈むか、のいずれかだけを選ぶことができた。
 Ekaterinburg の虐殺は、公式には6週間後に始まった「赤色テロル」の始まりを画するものだった。「赤色テロル」の犠牲者たちの多くは、犯罪を冒したゆえにではなく、トロツキーの言葉では彼らの死が「必要とされた」がゆえに処刑された、そういう人質たちだったことになる。
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 (05) 冒したことを理由としてではなく死が「必要とされた」がゆえに人々を殺害する、ということを政府が誇るとき、我々は、全く新しい道徳の王国に入っている。
 ここに、1918年7月16-17日の夜に起きた出来事の象徴的な意味がある。
 政府の秘密の指令によって行なわれた皇帝家族の虐殺は、人類を初めて、意識的なジェノサイドの出発点に立たせた。皇帝家族はその背景にもかかわらずきわめて普通で、何の罪もなく、ただ平穏に過ごすのを許されることだけを望んでいたのだったが。
 ボルシェヴィキが彼らを非難して死に追いやったのと同じ理由は、のちにロシアやその他の国で、数百万の名もなき人々に対して適用されることになる。新しい世界秩序に関するあれこれの設計をたまたま邪魔した、というだけの人々に対して。
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 第15節、終わり。第17章全体も、終わり。第18章は<赤色テロル>

2937/西尾幹二批判083—全集未完結②。

  「全集未完結」と題した昨2024年11月の投稿のとき、当初は西尾幹二全集は結局未完結で終わるのだろうという認識で書き始めた。参照、→No.2786/2024.11.10。
 ところが、そのとき未完だった第22巻Bは刊行される予定があると、書き進めるうちに気づいた。
 冒頭の写真のさらに裏側の写真の下につぎの注記があったからだ。
 「いよいよ全集は完結が近づいた。大型の議論をしている余裕はもうなく、手早く仕事を処理してくれる人材を著者が選んで『三人委員会』に委嘱した。2023年4月1日撮影」
 これで、未完結でないことが分かった。
 同時に、既述のように、この文章に関しては、奇妙・不可解なことがあった。
 第一に、上の文章は誰が書いたのか。
 委嘱した「著者」というのは、西尾幹二のことだろう。また、執筆者は「三人委員会」の委員の一人でもなさそうだ。
 とすると、刊行出版社である国書刊行部の(西尾全集担当の)編集者による文章だとほぼ断定せざるを得ない。
 これは異常なことだ。この第22巻Aまで、こういう形で国書刊行会の編集者が「表に」登場することはなかった
 第二に、「三人委員会」を構成しているはずの三人の顔・姿は「写真」に写されているが、氏名の表記が全くない
 これも異常だろう。写真で顔・姿を示しながら、重要なはずの「三人委員会」の三人の氏名をなぜ明らかにしていないのか。
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  思い出すと、迂闊にも忘れていたが、第22巻Aの「オビ」には、2024年(または「本年」)「12月」に完結予定と書かれていたような気がする。
 この記憶が正確でないとしても、翌年3月頃、つまり今年・2025年の3月頃には最後の第22巻Bが刊行される(・されるらしい)という情報が、複数の文章で伝えられていた。以下は、例。
 宮崎正弘「西尾幹二の沈黙」月刊正論2025年1月号/追悼特集、p.150。
 「あと一巻で完結する直前に訃報に接した(…)。ただし、編集は終わっており、年譜を作成中だった。版元の担当者に訊ねると、『春には出せると思います』」。
 なお、上よりも前の時期だろう、同じ宮崎は、その書評ブログで「次の配本予定の巻22Bは…師走刊行予定だ」とも記していた(同<辛口コラム>)。
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  現在、2025年の8月。「春」は明らかに過ぎてしまい、3月末・4月初めから明らかに4ヶ月、1年の三分の一が過ぎた。
 しかし、西尾幹二全集22巻Bはまだ刊行されていない。未完結のままだ。
 今後どうなるのか、どうする予定なのか、「版元」の国書刊行会のウェブサイトには何の情報も掲載されていない。「版元の編集者」(上記)、「三人委員会」はどうしているのだろうか。
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  未完結のままだと決めつけるわけにはいかないだろうが、かりにそうなっているとすると、以下の感想が生じる。
 第一に、もともと「西尾幹二全集」は種々の点で異様な、そしてグロテスクな「全集」だった。
 基本的には生存中の著者が「自分で」編集した(しようとした)ことに奇妙さの根源があっただろう。
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 個人「全集」というのは、各巻のいわゆる「月報」を除いて、その著者の書物や文章だけが収載される、というイメージがある。それはイメージだから順守する必要はないとも言えるが、西尾全集の場合、本人以外の別の者の文章を(月報にではなく)<本巻>に載せる何らかの「基準」はなかった、西尾のそのときどきの感覚に依っていた、と思われる。そして、その第三者が執筆された時期も、過去のものがほとんどだったが、「全集」刊行時点のもの、つまりその第三者の「書き下ろし」もあった、と記憶する。
 この意味でも、不思議な個人「全集」だ(だった)。
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 何度も書いたように、「全集」に収載される各巻の文章が元々はいつどこに執筆されたかが、相当に分かりにくかった(巻にもよる)
 時期的にいうと、多くはつぎの三段階を経ただろう(但し、厄介なことに、aやbなしで、直接にc「全集」に登場したと見られる、「本人の墓探し」等の文章、ウェブサイト上だけの文章等(例、第22巻A)もあり、「怪奇さ」が増す)。
 a-雑誌や新聞等への初出の文章、b-aを時期別または主題別にまとめた書物の文章、c-全集に掲載される文章。
 bの書物がいわゆる「書き下ろし」である場合は(2-3冊の場合も全てがそうである場合は)問題は少ない。しかし、a がある場合には、b にまとめる段階ですでに西尾による「編集」が入っていて、a を「加筆修正した」と明記されていたものもあり、その時点での西尾による「はしがき」や「後記(類)」がすでに執筆されていたものもあり、さらに西尾以外の者による「書評」的なものや「解説」が付いていたものもあった。
 上の「加筆修正」があった場合、c「全集」でa の「初出」とb の「加筆修正」後のいずれを採用したかが(後者が全部またはほとんどだったとしても)明記されておかなければならなかったはずだ。
 つぎに、b に本人による「前記」・「後記」類、第三者による「解説」・「書評」類がある場合、c 「全集」ではこれらをどう処理したかが明記されておくべきだっただろう。全てが排除されたのではなく「全集」の「後記」に再掲載されたものもあったはずだが、既述のように再掲載する・しないの基準ははっきりしない。
 これらは本来は出版元の編集者が配慮すべきものだったかもしれないが、西尾「全集」の場合、本人が一貫して取り仕切り、かつ上に書いたような細かな「配慮」を、西尾はほとんどできなかったように見える。
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 <本人編集>による問題の直接の帰結は、かつてはb の段階で一冊の書物にまとめられた諸文章が、c「全集」では別々の諸巻に分けられて収載される、という現象が生じたことだ(なお、b の段階で、同じ文章が二つ以上の書物に二重に収載されていたかもしれない。この場合、問題はさらに複雑になる)。
 さらに、別々の諸巻に分けられて収載されていればまだよいが(?)、どの巻にも収録されない文章もある(あった)はずだ。これも、西尾幹二の、「全集」刊行時点での判断によるに違いない(そして、その基準・理由は分からない)。西尾の<本人編集>の帰結だ。
 「文章」どころか、b の時点での書物そのものが(つまり全体が)、「全集」では再録されていないものがあると見られる。西尾の本人編集の帰結だ。
 (その他、明記なしでの本巻中での「書き換え」すらもあった。例、→No.2796「欺瞞の人」)。
 個別論考で「全集」のどこにも収載されていないと見られるものに、例えば、以下がある。
 「保守思想の一部の左翼返り—立花隆氏なら仕方がないが西部邁氏よ、おおブルータス、お前もか—」月刊正論2002年3月号。
 「臆病者の『思想』を排す—小林よしのりを論ず」月刊正論2002年6月号。
 個別の書物で「全集」のどの巻にも収載されていないのでないかと思われるものに、例えば、以下がある。
 西尾幹二『国家と謝罪』(徳間書店、2007年)
 西尾幹二『皇太子さまへの御忠言』(ワック、2008)
 (西尾幹二=平田文昭『保守の怒り』(草思社、2012)。)
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 これでなぜ、<西尾幹二全集>と言えるのか
 この指弾はもちろん、第一には西尾幹二に対して向けられる。第二は、国書刊行会という出版会社に対してだ。
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 第二に、西尾幹二が「保守」論壇の「最後の大物」で、その「思想(・哲学)」、「歴史等への見方」等を後世に残しておくべき、貴重で偉大な人物だったとすれば、「版元」を含む関係者は、是非とも「全集」を残しておこう、22巻(実質的に24巻)全部を刊行しておこうと考え、「使命感」さえもつのでないか。
 だが当初の予定よりも少なくとも四ヶ月遅れて何の「音沙汰」もないことは、つぎのことを意味しているのではないか。
 西尾幹二という人間が生きて存在しているうちはまだしも、そうでなくなってみると、「全集」を完結させる意欲が大きく削がれた。西尾幹二本人がいなくなっては、「全集」完結に拘泥する意味がどこにあるのかと疑問を感じ始めた。
 西尾幹二は、人間関係上「別れの会」に出席しようとだけは思わせても、詰まるところは、その程度の人物だったのだ。
 この世からいなくなれば、どんな恫喝も、文句も、注文も、いっさい気にする必要がない。「年譜」、さらには「書誌」作成という面倒なことをする意味が、いかほどあるのか?
 以上は、西尾幹二の「仕事」(と言っても、基本的に<文章執筆請負業>)全体の評価に関係するので、これ以上は踏み込まない。
 なお、四が一定の前提に立っての叙述であることは、上に明記している。
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2936/R.Pipes1990年著—第17章⑳。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第13節/ニコライ処刑をモスクワが発表(1)③。
 (13) 7月20日、Ural ソヴェトは発表の原稿を書き、モスクワに対して、公にすることの許可を求めた(注96)。
 発表原稿は、こうだった。
 「特報。Ural 労働者農民兵士代表ソヴェトの執行委員会と革命的幕僚の命令により、前の皇帝、専制君主は、その家族と一緒に、7月17日に処刑された。
 遺体は埋葬された。
 執行委員会義長、Beloborodov、Ekaterinburg にて。1918年7月20日午前10時。」(脚注)
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 (脚注) この文書のテキストは、むしろ疑わしい状況のもとで、西側で利用できるようになった。1956年春に、西ドイツの大衆紙の週刊<七日>の編集部に、自分をHans Meier と名乗る人物が、現われた。彼は、戦争捕虜として、1918年に皇帝家族処刑する決定にEkaterinburg で直接に関与した、この問題について記した文書を書いたが、東ドイツで生活している18年のあいだ隠してきた、と主張した。
 事件について彼が記したことは、詳細だがきわめて風変わりだった。主要な目的は、西側でもう一度生き延びていると流布し始めた物語である、そのAnastasia は家族と一緒に死んだ、ということに関する疑いを除去することにあったようだ。
 Meier の文書は、一部は真実で、一部は捏造だと見られる。最もあり得る説明は、彼はソヴィエトの秘密警察のために働いた、ということだ。彼の文書は、<七日>, No.27-35(1956年7月14日-8月25付)にある。
 Meier の「証拠資料」について、P. Paganutstsi, Vremia i my, No.92(1986)を見よ。著者は、ドイツの裁判所は自称Anastasia によって提起された訴訟に関連してMeier の文書を取り調べ、偽造だと判断した、と述べている。
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 モスクワは、これを発表するのを禁止した。ニコライの家族の死について言及していたからだった。
 この文書の唯一知られている複写では、「その家族と一緒に」とか「遺体は埋葬された」とかは、読みにくい署名をした誰かによって、抹消されていた。この人物は、「公表禁止」と走り書きしていた。
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 (14) Sverdlov は7月20日に、自分が原稿を書いた承認する発表文をEkaterinburg に電信で送り、モスクワのプレスで公にした(注97)。
 7月21日、Goloshchekin は、Ural 地方ソヴェトに、報せを伝えた。その報せについて知らなかったようだが、このソヴェトは一週間前に前皇帝を射殺する決定をした。この決定は今では、予定どおり実行されていた。
 Ekaterinburg の住民は、7月22日に配達された新聞でこれについて知った。翌日には<The Ural Worker>(Rabochii Urala)で改めて報じられた。
 この新聞は、つぎの見出しで伝えた。「白衛軍、前皇帝と家族の誘拐を企て。陰謀は暴露さる。Ural 地方ソヴェト、犯罪企図を予期し、全ロシア人の殺戮者を処刑。最初の警告だ。人民の敵、王君に手を差し伸べる以外に専制君主制を復活できず。」(注98)
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 (15) 7月22日、Ipatev 邸の警護者たちは退去した。Iurovskii は、全員で分けるよう8000ルーブルを渡し、前線へ動員されるだろうと告げた。
 その日、Ipatev は義理の妹から電報を受け取った。「居住者は出て行った」(注99)。
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 (16) 目撃証人たちは、民衆は—少なくともEkaterinburg の住民は—、前皇帝の処刑について知らされても何の感情も示さなかった、ということで一致している。
 死者を追悼して、モスクワの教会で若干の儀礼が行なわれた。だが、それ以外に反応はなかった。
 Lockhart は、「モスクワの民衆は、驚くべき無関心さでもって、報せを受け取った」と記した(注100)。
 Bothmer も、同様の印象をもった。「民衆は皇帝殺害を、冷淡な無関心さで受け入れた。上品で冷静な人々ですら、恐怖に慣れすぎていて、自分たちの心配と欲求に心を奪われすぎていて、特別なことと感じることができなかった。」(注101)
 前の首相のKokovtsov ですら、7月20日にペテログラードの路面電車に乗っているときに、肯定的な満足感を感知した。
 「哀れみや同情のわずかな痕跡すら、どこにも観察しなかった。
 報道は声を出して読まれた。にやにや笑い、冷笑、嘲笑とともに。あるいは、きわめて心なき論評とともに。
 きわめてうんざりする言葉も聞いた。「とっくになされるはずだった」。「やあ、ロマノフの兄貴、おまえの踊りは終わりだ」(注102)。
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 (17) 農民たちは、思いを胸にしまい込んだ。
 しかし、独特の論理で表現された、彼らの反応を一瞥することができる。ある老農夫が、1920年に某知識人に打ち明けた思いからだ。
 「今、地主の土地は皇帝のNicholas Alexandrovich によって我々に与えられた、と確実に知っている。
 これのために、大臣たち、ケレンスキー、レーニン、トロツキー、その他の者たちは、皇帝をまずシベリアに送り、そして殺した。子どもたちも同じ。
 その結果、我々には皇帝はおらず、彼らが永遠に民衆を支配することができた。
 彼らは我々に土地を与えようとはしなかった。だが、子どもたちは、彼らが前線からモスクワやペテログラードに戻ったときに、彼らを止めた。
 今は、彼ら大臣たちだ。彼らは我々に土地を与え、抑えつけなければならないからだ。
 しかし、我々を締め殺すことはできない。
 我々は強くて、持ちこたえるだろう。
 そして、いずれは、老いぼれ、息子たち、孫たちが、誰でもよい、我々は彼らボルシェヴィキの始末をつけるだろう。
 心配するな。
 我々の時代がやって来る。」(注103)
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 第14節/ニコライの処刑をモスクワが発表(2)。
 (01) つづく9年間、ソヴィエト政府は、頑なに公式のウソにしがみついた。Alexandra Fedorovna と彼女の子どもたちは安全に生きている、というウソだ。
 Chicherin は1922年に、ニコライの娘たちはアメリカ合衆国にいる、と主張した(注104)。
 このウソは、皇帝家族全員が一掃されたということを受け入れられない君主制主義者たちに擁護された。
 Solokov は、西側に着いたあと、君主制主義者たちに冷遇された。ニコライの母親、Dowager Marie 皇妃、Nikolai Nikolaevich 大公、こうした生存中の著名なロマノフ家の者たちは、Solokov と会うことすら拒否した(注105)。
 Solokov は無視され、貧困の中で、数年後に死んだ。
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 (02) ソヴィエト協力者のP. M. Bykov は、Ekaterinburg で1921年に出版したこの事件に関する初期の説明書で、皇帝家族に関する真実を語っていた。
 しかし、この本は、すみやかに流通から排除された(注106)。
 元来の版を維持しないものがパリで出版されたあとで、Bykov はようやく1926年に、Ekaterinburg の悲劇に関する公式の共産党版説明書を書くことを認められた。
 モスクワが主要なヨーロッパ言語に翻訳したこの書物は、ついに、Alexandra と子どもたちが前皇帝とともに死んだ、ということを認めた。
 Bykov はこう書く。
 「遺体が存在しないことについて、多くのことが書かれた。
 しかし、…死者の遺体は、焼却されたあとで、鉱床から遠く離れた場所へ持っていかれ、泥地の中に埋葬された。そこは、有志や調査員たちが掘り出さなかった地域にあった。
 遺体はそこに残っており、今までに自然に従って腐敗している。」(脚注1)
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 (脚注1) Bykov, Poslednie dni, p.126. 家族の死を初めて認めたのは、つぎだと言われている。P. Iurenev, Novye materialy o rasstrele Romanovykh. Krassnaia gazeta, 1925/12/28(Smirnoff, Autour, p.25).
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 (03)  Iurovskii は、Ekaterinburg からチェコに向かって逃亡したのち、やがてのちにモスクワへ移った。そこで、政府のために働いた。
 職務に対する報奨として、チェカの役員団の一人に任命されるという栄誉を受けた。
 1921年5月に、レーニンに温かく迎えられた(脚注2)
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 (脚注2) Leninsksia Gvardiia Urala(Sverdlovsk, 1967), p.509-514. 皇帝家族の運命に関心をもったあるイギリスの将校は、1919年にEkaterinburg の彼を訪問した。Francis McCullagh, Nineteenth Century and After, No.123(1920年9月), p.377-p.427. Iurovskii は、Ipatev 邸の指揮者だったあいだ日記をつけていた。その日記は、つぎの中にある短い断片的文章を除いて、未公刊のままだ。Riabov’s article in Rodina, No. 4(1989年4月), p.90-91.
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 彼がニコライを殺害した回転銃は、モスクワの革命博物館の特別の保管庫の中に置かれている。
 1938年の秋にクレムリン病院で、自然の死を遂げた(注107)。
 彼は、チェキストかつ「ジェルジンスキの片腕の同志」として、小さいボルシェヴィキの英雄で成るpantheon に、適切な位置を占めた。小説や伝記の対象人物でもあった。それらは彼を、「典型的」なチェキストで、「閉鎖的で厳格だが、柔らかい心をもつ」と叙述した(108)。
 Ekaterinburg の悲劇に関係するその他の主要人物は、Iurovskii ほどうまくは生きなかった。
 Beloborodov は最初は、経歴を早く昇った。1919年3月には、中央委員会と組織局の一員として受け入れられた。そののち、内務人民委員の地位を得た(1923年-1927年)。
 しかし、トロツキーとの友情関係によって破滅した。1936年に逮捕され、その二年後に射殺された。
 Goloshchekin も、スターリンの粛清の犠牲者になり、1941年に殺された。
 二人とも、のちに「名誉回復」した。
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 (04) Ipatev 邸は長い間、クラブの建物や美術館として役立ってきた。
 しかし、当局はその建物を見るためにEkaterinburg(Sverdlovsk に改称)に来る訪問者の数の多さに不安になった。訪問者の中には、見たところ宗教巡礼者もいた。
 1977年秋、当局は取り壊しを命じた。
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 13節・14節、終わり。

2935/R.Pipes1990年著—第17章⑲。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第13節/ニコライ処刑をモスクワが発表(1)②。
 (08) Sverdlov は次に、翌7月19日の報道のために<Izvestiia>と<Pravda>に送る公式発表の原稿を書いた。
 London の<The Times>に翻訳されて、7月22日に公表された。つぎのような記事だった。
 「ソヴェト第五回大会で選出された中央執行委員会の最初の会合で、前皇帝のNicholas Romanoff の射殺に関する、Ural地方ソヴェトから直接に受け取った通信文が公にされた。
 赤色Ural の首都であるEkaterinburg は最近、チェコスロヴァキア軍団の接近による脅威を受けていた。
 同時期に、反革命陰謀が暴露された。武装部隊でもってソヴェトの権威から皇帝を奪い取ることを目的とする陰謀だ。
 この事実にかんがみ、Ural 地方ソヴェトの幹部会は、前皇帝のNicholas Romanoff を射殺することを決定した。この決定は、7月16日に実行に移された。
 Romanoff の妻と子息は、安全が保障された場所に移された。暴露された陰謀に関する文書は、特別の配達人によってモスクワに送られた。
 最近に、前皇帝を裁判にかけると決定されていた。人民に対する犯罪で審判されることになっていた。だが、のちに起きたことで、この道筋を辿るのが遅れた。中央執行委員会の指導部は、Ural 地方ソヴェトがNicholas Romanoff を射殺する決定を行なうのを余儀なくした情勢を討議したあとで、次のとおり決定した。
 ロシア〔全国ソヴェト〕中央執行委員会は(幹部会の者たちにおいて)、Ural 地方ソヴェトの決定を、正常なものとして受け容れる。
 中央執行委員会は今では、Nicholas Romanoff 事件に関するきわめて重要な資料や文書を自由に利用することができる。最近のほとんどの日々についての彼自身の日記、妻や子どもたちの日記。彼の文通文書、中でもRomanoff とその家族に対するGregory Rasputin からの手紙。これらの資料は全て、調査され、近い将来に公にされるだろう。」
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 (09) こうして、公式の伝説が生まれた。ニコライ—そして彼だけ—は、逃亡を企てたがゆえに射殺された、そして、決定はモスクワのボルシェヴィキ中央委員会によってではなく、Ural 地方ソヴェトによってなされた。
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 (10) <Pravda>と<Izeves ti ia>がEkaterinburg ソヴェトの決定なるものを最初に報道した7月19日にも、直後の日々にも、Ekaterinburg ソヴェトは石の沈黙を守った。なお、7月13日に、ロマノフ家の資産を国有化する布令は発効していた。
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 (11) 世界じゅうのプレスは、ボルシェヴィキの公式見解に従った物語を報道した。
 <The New York Times>は、7月21日の日曜版の第一面にニュースを載せた。見出しはこうだった。
 「ロシアの前皇帝、Ural ソヴェトの命令で殺さる。ニコライ、7月16日に射殺さる。チェコスロヴァキア軍が彼を奪う怖れがあったとき。妻と継承者は安泰。」
 付随している追悼記事は、厚かましくも、処刑された君主は「社交的だが弱かった」と書いた。
 前月のニコライの死に関する風聞への無関心さからモスクワが正しく予見していたように、世界は処刑を冷静に取り扱った。
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 (12) ソヴィエトのプレスがニュースを掲載した日、Riezler は、Radek およびVorovskii と逢った。
 彼はおざなりにニコライの処刑に抗議し、世界の意見は必ず非難されるだろうと言った。一方で、ドイツ政府の「ドイツの皇女たち」への関心を強調した。
 もしドイツ政府が本当に皇妃とその娘たちに関心を持つならば、彼女たちは「人道主義的配慮」によってロシアを離れるのが許されるべきだ(注93)、とRadek が反応したとき、彼は高い自制心をもっていたに違いなかった。
 7月23日、Riezler はもう一度Chicherin に、「ドイツ皇女たち」の問題を取り上げた。
 Chicherin はすぐには反応しなかったが、翌日に、「自分が知っているかぎりで」皇妃はPerm へと避難した、とRiezler に言った。
 Riezler は、Chicherin はウソを言っている、との印象をもった。
 このとき(7月22日)までに、Bothmer は、Ekaterinburg 事件の「恐るべき詳細」を知っていた。そして、モスクワの命令によって家族全員が殺害され、Ekaterinburg のソヴェトに自由があったのは処刑の時期と殺害の方法を決定することだけだった、ということに疑いをもたなかった(注94)。
 それでもなお、8月29日にRadek は、ドイツ政府に対して、Alexandra とその子どもたちを逮捕されているスパルタクス団員のLeon Jogiches と交換させることを提案した。
 ボルシェヴィキの官僚は、この申し出を9月10日にドイツ領事に対して繰り返した。だが、詳細が報道され、前皇帝の家族は軍事作戦によって遮断されたと言われるようになると、こういった申し出は責任逃れ的になった(注95)。
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 ③へとつづく。

2934/R.Pipes1990年著—第17章⑱。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第13節/ニコライ処刑をモスクワが発表(1)①。
 (01) モスクワがロマノフ家の殺害を命じた、との争う余地のない証拠資料がかりに存在しなかったとしても、ニコライの「処刑」に関する公式の報道がその決定があったとされたEkaterinburg でではなく、モスクワで行なわれたという事実からしても、それが事実だったかを強く疑い得ただろう。
 実際に、Ural 地方ソヴェトは、すでに外国で報道されていた、発生したあとの5日間は、事件を公的に発表することを許されなかった。
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 (02) 証拠資料は決定的ではないけれども、皇妃と子どもたちの運命はきわめて微妙な問題だったがゆえに、モスクワはEkaterinburg に対して、発表を控えるよう命令したように見える。
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 (03) 問題は、この時期にボルシェヴィキが大いに取り入っていた、ドイツ人だった。
 ドイツ皇帝(Kaiser)はニコライの従兄で、ニコライの子どもたちの名付け親だった。
 彼〔Wilhelm 二世〕がその気になれば、ブレスト=リトフスク条約による解決の一部として、前皇帝とその家族をドイツに引き渡せと要求できただろう。この要求を、ボルシェヴィキは断わることのできない立場にあった。
 しかし、彼は何もしなかった。
 3月早くにデンマーク王がロシア前皇帝らのために取り持つよう求めたとき、ドイツ皇帝は、ロシアの皇帝家族の庇護場所を提供することはできない、と反応した。その理由は、ロシア人は君主制の復活の企てだと解釈するだろう、ということだった(注86)。
 スウェーデン王から、ロマノフ家がその苦境から楽になるのを助けるよう求められても、彼は拒否した(注87)。
 こうした振る舞いについての最もあり得る説明を、Bothmer が行なった。ドイツの左翼諸政党に対する恐れによる、というものだ(脚注1)
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 (脚注1) K. von Bothmer, Mit Graf Mirbach in Moskau(Tübingen, 1922), p.104. あるドイツ人学者は、ドイツの行動を擁護して、Alexandra が言ったこと—娘たちの家庭教師だったGilliard が記録した—を引用した。自分は「ドイツに助けられるより、ロシアで激烈に死にたい」。Jagow, BM, No.5(1935), p.351. そうかもしれないが、しかしもちろん、ドイツ政府は当時に彼女がこのように考えていることを知りようがなかった。
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 (04) ドイツ政府は、ニコライの運命に対して無関心だったにもかかわらず、ドイツの血統の前皇妃、彼女の娘たち、その他のロシア宮廷のドイツ人女性たち、とくにAlexandra の妹のElizabeta Fedorovna、の安全にはある程度の関心を示した。彼らは、これら女性をまとめて「ドイツの皇女たち」として言及した。
 Mirbach〔ロシア駐在ドイツ大使〕は5月10日に、Karakhan やRadek とともにこの問題を取り上げ、政府につぎのように報告した。
 「もちろん、打倒された体制を擁護するような冒険的行為をしてはいけないが、それにもかかわらず、私は、人民委員たちに対し、<ドイツの>皇女たちはあり得る全ての配慮でもって扱われる、とくに、彼女たちの生命への脅威はもちろんだが、どんな小さなごまかしもあってはならない、という期待を表明する。体調の悪いChicherin に代わってKarakhan とRadek は、きわめて協力的にかつよく理解して、私の見解を聞いてくれた。」(注88)
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 (05) 7月17日の朝、前夜の出来事に関する報告を、Ekaterinburg にあるソヴェトのある官僚—ほとんど確実に、その議長であるBeloborodov—は、クレムリンに電信で送ったと見られる。
 レーニンの生涯についてはきわめて詳細な編年記録があって、一時間ごとに彼の公的な活動を辿っている。しかし、不可解なことだが、その7月17日の記録はこう記している。
 「レーニンは(正午に)Ekaterinburg からの通信を受け、封筒に書く。『受領した。レーニン』」(注89)。
 Ekaterinburg はこの時期にはクレムリンと郵便では連絡しておらず直接の電信によっていたので、問題の通信は手紙ではなく電報だった、ということを当然視することができる。
 つぎに、当該の編年記録は通常は、レーニンに対する、挙げている文書の要点を記載している。
 この場合での省略が示唆するのは、共産党の文献がレーニンとの関係をつねに否定する主題、すなわち皇帝家族の殺害にそれは関連していた、ということだ。
 通信文は、ニコライの妻と子どもたちの運命に関して、明らかに十分に詳細ではなかった。そのことは、説明を求めてクレムリンがEkaterinburg に電信したことで分かる。
 同じ日ののちに、Beloborodov はモスクワへ、尋問に対する答えであるかのような暗号化した通信を送った。
 Solokov はEkaterinburg の電信電話局で、この電信文の写しを見つけた。
 彼はこの暗号を解読できなかった。
 ようやく二年後にパリで、あるロシアの暗号使用者が、解読した。
 解読された通信文は、皇帝家族の最終的運命に関する問題を決着させた。
 「モスクワ、クレムリン。人民委員会議秘書Gorbunov、返信証明。
 Sverdlov に知らせる、家族全員が長と同じ運命に遭う。公式には、家族は避難中に死ぬだろう。Beloborodorv。」(注90)
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 (06) Beloborodov の通信文は、その夜にモスクワに届いた。
 Sverdlov は、全ロシア・ソヴェト中央執行委員会の幹部会に報せを伝えた。注意深く、ニコライの家族の運命に言及することを省略して。
 彼は、前皇帝がチェコ人の手に落ちることの重大な危険性について語り、Ural 地方ソヴェトの行動について幹部会から正式の是認を得た(注91)。
 彼は、適切な時期があった6月か7月初旬に皇帝家族をモスクワへ移送しなかった理由を説明するという、面倒なことしなかった。
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 (07) Sverdlov はその日の遅く、クレムリンで進行中だった人民委員会議の会合に立ち寄った。
 目撃者は、その光景をこう叙述する。
 「Semashko 同志が報告していた公衆衛生の企画に関する議論のあいだに、Sverdlov が入ってきて、Ilich(レーニン)の後ろの椅子に着席した。
 Semashko は終わった。
 Sverdlov は身体をIlich の方に曲げて近づき、何かを言った。
 『Sverdlov 同志は、出席者に対して、発表することを求める』。
 Sverdlov はいつもの落ち着いた声で始めた。
 『私は、言わなければならない。地方ソヴェトの決定により、Ekaterinburg で、ニコライは射殺された。Alexandra とその息子は、信頼できる者の手にある。
 ニコライは逃亡しようとした。チェコ人が近くに来ていた。
 〔全ロシア・ソヴェト〕執行委員会幹部会は、是認を与えた。』
 一同、沈黙。
 Ilich が提案した。『条項から条項へ、企画書を読み進まなければならない。』
 条項から条項へと読むのが進行し、統計に関する計画案の議論がつづいた。」(注92)
 このような偽装でもってどうしようとしていたのか、我々が知るのは困難だ。必ずや、ボルシェヴィキ内閣の一員たちは真実を知っただろうからだ(脚注2)
 このような成り行きは、恣意的な行動を正当化する「正しさ」を必要とするボルシェヴィキを満足させたように見える。
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 (脚注2) Bruce Lockhart は、7月17日の夕方にすでに、Karakhan が自分に、皇帝家族の全員が死んだと言った、と主張する。<あるイギリス人工作員の回想>(London, 1935), p.303-4.
 ニコライの4人の娘たちは誰の「手」のうちにいるのかと、なぜ誰かが問わなかったのか、不思議なことだ。
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 ②へとつづく。

2933/桑原聡・元月刊正論編集代表(産経新聞社)②。

  桑原聡が月刊正論の編集代表になったとき(2010年12月号から)、民主党内閣になっていた。
 月刊正論編集代表として民主党政権を歓迎または支持していたわけではないが、一方で自民党について、こう書いていた。
 「かりに解散総選挙が行われ、自民党が政権を奪回したとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも、わが国を元気にする知恵も力もないように思える」(月刊正論2011年4月号p.326)。
 「かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、賞味期限の切れたこの政党にも多くを期待できない」(産経新聞2011年3月1日付)。
 この<政治感覚>について、当時に批判的にコメントした。
 →No.0995「月刊正論編集長・桑原聡の政治感覚とは」(2011/03/07)
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 現時点で「後づけ的」に振り返ると、解散総選挙を経て「賞味期限の切れた」はずの自民党を中心とする安倍晋三内閣が誕生し(2012年12月)、2020年9月までの長期政権となった。
 「わが国を元気にする知恵も力もなかった」か、「多くを期待できない」ものだったかは評価が分かれるとしても、編集代表が桑原でなくなった月刊正論は<安倍晋三内閣>をほとんど全面的に支持・擁護する雑誌に変わった。
 表面的にのみ言うと、桑原の「政治感覚」は奇妙だった、間違っていた、ということになるだろう。それに、自民党について「賞味期限の切れた」政党とわざわざ明記しておくことの意味をどう理解していたのか、も怪しい。もともと桑原に「政治評論家」的言明をする資格があったのかどうか自体も、疑問だった。
 もっとも、2025年参議院議員選挙等を経てみると、桑原の指摘は当たっていた、と言えなくもない。10年以上後のことを予見したのだ、とこの人が強弁するとすれば。
 別のテーマになるが、自民党は手っ取り早く「国会議員」になりたい人物が相対的に最も多く集まる政党であり、また、「総裁」(かつ首相)が誰であるかによって、その政策の基本(少なくとも強調する政策方針)が変わる政党でもある。日本の「政党」、戦後の日本「政党」史を過度に真面目に理解すると、実態を見損なう怖れなしとしないだろう。
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  桑原聡は、編集代表として最後に(退任号に)、つぎの言葉を遺した。
 「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」(月刊正論2013年11月号)。
 なぜこの一文が出てきたかを想像すると、直前に「保守のみなさん、……おおらかに共闘しましょうよ」と書いたからかもしれない。
 そう書いた自分もまた当然に<保守>なのですよ、と確認しておきたかったのだろう、とも思われる。
 なお、上の文章等は、数年後に私が別の論脈で引用し、コメントしている。
 →No.1542「『自由と反共産主義』者の三相・三面・三層の闘い①」(2017/05/14)
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 産経新聞社退職後に桑原聡が行なっていることの一部を知ると、この人は本当に(=心から)上のように「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ち」を持っているのか、疑問が生じる。
 まず、現時点のネット情報として上がっていないようだが、桑原聡は産経新聞社退職後、早稲田大学(のたぶん学部で)「村上春樹」について(非常勤講師として)講義していた。別の大学で「村上春樹」を講じていたとの情報もある。
 詳細な探索をするつもりはないので「いいかげん」であることを認めるが、つぎに、最近は「モンテーニュ」の<随想録>についてどこかに連載しているらしい。
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 さて、「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じる」と明記した桑原聡と、「村上春樹」や「モンテーニュ」に、とくに前者に、関心をもち講義をしたり文章を書く桑原聡は、同じ人物なのか、という感想を覚える。
 「天皇陛下を戴く国の在りよう」への愛着と、「村上春樹」に対する愛着または関心は、印象としては、なかなか共存し難いのではないだろうか。
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 そこで、つぎの言葉を使いたくなる。「ビジネス保守」
 桑原聡の「天皇」にかかわる上の前者の言葉は、産経新聞社の社員で月刊正論という雑誌の編集代表をしている、という自己が所属する組織、その中で割り当てられた立場・「肩書き」を意識したもので、私人・個人としての言葉では全くなく、<ビジネス保守>としての言葉でないだろうか。
 つまり、「仕事(・業務)として」、「生業の一環として」発しているのではないか。ここでの「保守」は、むろん「産経新聞社的・保守」のことだが、「保守」概念に立ち入らない。
 「帰属組織」や体外的「肩書き」によって自己のイメージを自ら形成していく、というのは、珍しくはない。その「自己の」主張や見解についても同じだ。
 そのような制約が付いた「組織人」の言葉を「真面目に」受け取る必要はない、という教訓は、当たり前のことながら。またささやかながら得られるだろう。桑原聡だけではなく、もちろん、全ての新聞・雑種・テレビ放送局等の「組織」に属している者の主張・見解について言える。
 「ビジネス保守」という言葉は、桑原聡に関連して、すでに以下で使った。
 →No.2637/「月刊正論(産経新聞社)と皇室」(2023/06/03)
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  桑原聡の出身大学・学部を知りたい、と書いた2018年の文章をより正確に引用しておく(→No.1825/2018.07.08.)。
 「『(狭義の)文学・哲学・外国語』関係学部出身者こそが、戦後日本を奇妙なものにしてきて、きちんとした政策論・制度論をできにくくし、<精神論・観念論>的な議論を横溢させてきたように感じられる。
 もちろん、総体的かつ相対的な話として書いている。
 渡部昇一、加地伸行、小川榮太郎、江崎道朗、花田凱紀、長谷川三千子。全て、歴史以外の文学部出身だろう(外国語学部を含める)。桑原聡を含む月刊正論の代々編集代表者、月刊WiLLの編集者の出身学部を知りたいものだ。
 上に限らない。例えば、以下の者たちは、東京大学仏文学科出身だ。大江健三郎、鹿島茂、内田樹。…」
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2932/R.Pipes1990年著—第17章⑰。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第12節/その他の皇帝一族の殺戮。
 (01) 殺人者たちがその犯罪の痕跡を隠しているあいだに、別のロマノフ家の悲劇が、Ekaterinburg の北140キロにあるAlapaesk で演じられていた。
 ボルシェヴィキは1918年5月以降、ここに何人かの皇帝一族を監禁してきた。Sergei Mikhailovich 大公、Elizaveta Fedonovna 大公妃(1905年にテロリストに殺されたSergei Aleksandrovich の未亡人で今は修道女の前皇妃の妹)、Constantine 大公の3人の子息—Igor、Constantine、Ivan。
 彼らは、助手や家族の世話を受けながら、ロシア人とオーストリア人に警護されたAlapaesk の外の学校用建物に、監禁されて生活していた。
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 (02) 6月21日—まさにIpatev 邸の囚人たちが自称救出者からの最初の連絡を受けた日—に、Alapaesk の被監禁者たちの地位は変わった。
 彼らは今では、厳格な収監体制のもとにあった。
 二人—F. S. Remez という名の秘書と修道女—を除いて、付添者は排除され、貴重品は没収され、行動の自由は厳格に制限された。
 これらは、Ekaterinburg から発せられたBeloborodov の命令によっていた。その言うところでは、一週間前のMichael のPerm からの「逃亡」の繰り返しを防止するためだった。
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 (03) 6月17日、皇帝家族が殺害された日に、Alapaesk の囚人たちは、より安全な場所へ移動させると言われた。
 当局はその夜に、ロマノフ一族が捕らわれた学校用建物に、「白衛軍」を偽装した武装団によるニセの攻撃を仕掛けた。
 囚人たちは混乱に乗じて逃亡するためにこれ利用した、と言われた。
 実際には、Vekhniaia Siniachikha と呼ばれる場所に連れていかれ、森の中へと歩かされ、ひどく殴られ、そして殺された。
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 (04) 7月18日午前3時15分、Alapaesk ソヴェトは、茶番劇全体を演じたEkaterinburg へ、ロマノフ家の囚人は逃亡した、と電信連絡をした。
 その日ののち、Beloborodov は、モスクワのSverdlovsk、ペテログラードのジノヴィエフとUritskii に電報を打った。
 「Alapaesk の執行委員会、不明の部隊による18日朝の建物への攻撃を知らせる。そこに一時期、Igor Konstantinoich, Konstatin Konstantinovich, Ivan Konstantinovich, Sergei Mikhaiovich とPoley(Paley)をとどめさせ続ける。警護者の抵抗にかかわらず皇子たちは犠牲者にならないよう誘拐される。両側で探索が進行中。」(注84)
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 (05) 白軍が行なった検死によると、抵抗して射殺されたと見られるSergei 大公を除いて、犠牲者全員が、見つかった鉱山の立て坑に投げ込まれたときには、まだ生きていた。
 5人の犠牲者とElizaveta 大公妃の付添修道女は、おそらく数日後に、空気と水の不足で死んだ。
 検死によると、Constantine 大公の口と胃には土の痕跡があった。
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 第12節、終わり。

2931/R.Pipes1990年著—第17章⑯。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第11節/遺体の処理。
 (01) Ekaterinburg のボルシェヴィキは、ロシア人は殉教者の遺体に奇蹟的な力を認めるのを知っていて、またロマノフ家への崇拝が発生するのを阻止しようと気にかけて、遺体の全ての痕跡を破壊することに傾注するに至った。
 Iurovskii とその助手のErmakov がその目的のために選んだ場所は、Ekaterinburg から15キロ北にあるKiptiaki 村の近傍の森だった。Ekaterinburg の北部は沼地、泥炭地ばかりで、放棄された鉱山もある、という地域だった。
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 (02) 中心部から数マイル走って、遺体を乗せたトラックは、荷車をもつ25人の男たちの一党と出会った。
 「彼らは労働者(ソヴェト、その執行委員会等々のメンバー)で、Ermakov が集めていた。
 彼らは叫んだ。『なぜ彼らを死なせて運んでいるのか?』
 彼らは、自分たちがロマノフ家の処刑を任された、と考えていた。
 彼らは、遺体を荷車へ移し始めた。…
 すぐに(犠牲者の)ポケットを探索し始めた。
 ここでも私は、射殺という威嚇で脅迫し、警護をするよう命じた。
 Tatiana、Olga、Anastasia は何らかの特殊なコルセットを身につけていることが判った。
 遺体を裸に剥くことが決定された。—ここでではなく、埋める予定の場所で。」
 彼らが、ほとんど3メートルの深さにある放棄された金鉱跡に到着したのは、午前6-7時だった。
 Iukovskii は、死体の衣服を脱がせ、埋めよ、と命令した。
 「彼らが少女の一人の衣服を脱がせ始めたとき、コルセットの一部が銃弾で裂かれているのを見た。ダイヤモンドがgash にあった。
 やつらの眼が輝いた。全員にやめさせる必要があった。…
 彼らは遺体の衣服を脱がせ、それらを焼却し始めた。
 Alexandra(前皇妃)は亜麻布に縫い込まれたネックレスで成る真珠のベルトを着けているのが分かった。
 (少女たちはみんな、首にRasputin の絵と彼の祈祷文のある御守りをつけていた。)
 ダイヤモンドが集められた。半pud(8キログラム)の重さがあった。…
 貴重品を鞄に詰めたあと、遺体にあった残りの物は焼かれた。
 死体そのものは、鉱山の中へと降ろされた。」(注82)
 6人の女性の遺体に対してどのような侮辱が行なわれたかは、読者の想像に委ねなければならない。この作業に加わった警護者の一人は、のちにこう言って自慢した、とするにとどめよう。「皇妃の—をsqueeze したので自分は安らかに死ねる」(注83、「—」は原文ママとの記述あり(試訳者))。
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 (03) この場所は、現地の農民には、一本の幹から成長した大きな四本の松の木があったことから、<四人兄弟>として知られていた。
 Solokov がロマノフ家の遺体を見つけるために数ヶ月のあいだ掘ったのは、まさにこの場所だった。
 彼は多くの物的資料を見つけた。—イコン、ペンダント、ベルト留め具、めがね、コルセット締め具。これらは全て、皇帝家族の一員の持ち物だと特定された。
 切断された指も、見つかった。きつく嵌められていた指輪を取り除く際に切られた、皇妃のものだと考えられた(脚注)
 一組の入れ歯は、Botkin 博士のものだと識別された。
 彼らは、イヌのJemmy を焼却する手間をかけなかった。その犬の腐敗した死体は、立て坑で見つかった。
 皇妃が持っていた10カラットのダイヤモンドは、見逃すか偶然に落とすかした。これは夫からの贈り物で、草の中にあった。
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 (脚注) だが、ニコライのものである可能性もあった。Alexandra は7月4日に、全ての宝石類を渡せとするIurovskii の要求に関連させて、夫の婚約指輪は外れないだろう、と記していた。
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 (04) しかしながら、犠牲者の遺体はどこにも見つからなかった。そして、長年にわたって、皇帝家族の何人か、またはほとんどですら、虐殺を免れて生き残っているのではないか、という推測を生むことになった。
 この謎が解消されたのは、〔1989年に〕Iurovskii の回想録が出版されることによってだった。この書物はまた、遺体は一時的にのみ「四人兄弟」に埋められた、ということを明らかにした。
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 (05) Iurovskii は、「四人兄弟」鉱床は深さが浅すぎて墓場を隠すことができない、と考えた。
 彼は調査するために中心部に帰り、モスクワへと至る道の途中にもっと深い鉱床が存在することを知った。
 すみやかに、大量の灯油と硫酸を携えて戻った。
 7月18日の夜、付近の道路を閉鎖したあと、Iurovskii の部隊は、チェカの派遣部隊に助けられて、遺体を掘り出し、トラックに乗せた。
 彼らはモスクワ街道を進んだが、トラックが途中で泥に嵌まって動かなくなった。
 埋葬が、近くの浅い墓場で行なわれた。
 犠牲者たちの顔と身体に硫酸が注がれ、墓場は土と小枝で覆われた。
 その埋葬場所は、1989年まで知られないままだった。
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 第11節、終わり。
 

2930/R.Pipes1990年著—第17章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第10節/殺害(2)②。
 (07) 苛酷な作業だった。
 Iurovskii は各処刑者に一人ずつ犠牲者を割当てて、真っ直ぐに心臓を狙うこととしていた。
 一斉射撃が止まったとき、犠牲者のうち6人—Alexis、三人の少女、Demidova、Botkin—は、生きていた。
 Alexis は、血溜まりの中で呻いていた。Iurovskii は、頭に二発撃って、終わらせた。
 Demidova は、うち一つには金属の箱が中にある枕を使って、激しく防衛した。だが彼女も倒れ、銃剣で差し抜かれた。
 「少女たちの一人が突き刺されたとき、銃剣はコルセットを貫こうとしなかった」と、Iurovskii は不満ごちた。
 彼が思い出すように、「手続」の全体は、20分を要した。
 Medvedev も、光景を思い出す。「彼らは、身体のさまざまな部分に銃弾で負傷した。顔は血で覆われていて、衣服にも血が染み込んでいた。」(注78)
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 (08) トラックのエンジン音がかき消してはいても、射撃音は街路からも聞こえた。
 Solokov 委員会での目撃証言者の一人で、外部警護者たちが宿舎にしていた街路の向かいのPopos の家の居住者は、こう思い出した。
 「私は、記憶にある16日から17日の夜を十分に再現すことができる。その夜私は、一睡たりとも眠れなかったからだ。
 深夜の頃、私は中庭へ行き、物置に近づいた。
 私は不安を感じ、止まった。少しのちに、遠くの一斉射撃の音が聞こえた。
 およそ15発だった。続いて、別の射撃があった。3発か4発だった。それらは、ライフル銃の音ではなかった。
 2時を過ぎていた。
 射撃音は、Ipatev 邸からきていた。
 まるで地下室から聞こえてくるように、くぐもって聞こえた。
 そのあと私は、急いで自分の部屋に戻った。前皇帝が拘禁されている家の警護者が、上から私を見ることができるのではないか、と怖くなったからだ。
 戻ったとき、隣人が私に尋ねた。『聞いたか?』。
 私は答えた。『射撃音を聞いた』。
 『聞いた?』
 『うん、聞いた』と私は言った。そして、我々は沈黙した。」(注79)
 --------
 (09) 処刑者たちは、上階からシーツを持ってきた。そして、死体から貴重品を剥ぎ取って着服し、血が滴り落ちている遺体を、即席の担架で、低層階を通って、正門で待つトラックまで運んだ。
 彼らは、粗い軍用布のシーツを車の床に広げ、遺体をつぎつぎと上に重ね、同様のシーツでそれらを巻いた。
 Iurovskii は、死で威嚇して、盗んだ貴重品の返還を要求した。そして、金の時計、ダイヤの煙草入れ、その他の物を没収した。
 そして、トラックに乗って離れた。
 --------
 (10) Iurovskii は、Medvedev に、清掃を監視する責任を課した。
 警護者たちは、柄付き雑巾、水バケツ、血痕を除去するための砂を持ってきた。
 彼らの一人は、作業の光景をつぎのように叙述した。
 「部屋は、火薬の霧のような何かで満たされており、火薬の臭いがした。…
 壁や床には、弾痕があった。一つの壁にはとくに多数の弾痕(銃弾そのものではなくそれによる穴)があった。…
 壁のどこにも銃剣の傷はなかった。
 壁や床の弾痕の周りには、血があった。壁には血が跳ねたものや染みがあり、床には小さな血溜まりがあった。
 弾痕のある部屋からIpatev 邸の中庭を通って横切る必要があった他の部屋の全てにも、血痕や血溜まりがあった。
 正門に続く中庭の石にも、同様の血の染みがあった。」(注80)
 翌日にIpatev 邸に入ったある警護者は、完全に乱雑した状態を見た。衣類、書籍、ikon が乱雑に散らばっていた。それは、隠された金や宝石類が隈なく探され、奪われた跡だった。
 雰囲気は陰鬱で、警護者たちは会話しなかった。
 チェカの一員たち(チェキスト, chekist)は低層階の自分たちの区画で残りの夜を過ごすのを拒み、上の階に移動していた。
 従前の居住者をただ一つ思い出させるものは、皇女のspaniel犬のJoy だった。この犬は、見逃されていた。彼は皇女の寝室のドアの外にいて、入れてくれるのを待っていた。
 警護者の一人はこう証言した。「ひそかに思ったことをよく憶えている。キミは、待っても無駄だよ」。
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 (11) 当分のあいだは、外部警護者はその職にとどまった。Ipatev 邸では何も変化していない、という印象を作り出すためだった。
 この欺瞞の目的は、偽りの逃亡の企てを演じることだった。この企ては、皇帝家族が殺されたと言われることになるだろう過程で彼らは「避難」しており、その間に行なわれた、ということになる。
 7月19日、ニコライとAlexandra の、私的文書を含む最も重要な持ち物が、列車に荷積みされ、Goloshchekin によってモスクワへと運ばれた(注81)。
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 第10節/殺害(2)、終わり。

2929/R.Pipes1990年著—第17章⑭。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第九節/殺害(1)。
 最近まで、1918年7月16-17日の夜にIpatev 邸で起きた血の事件については、ほとんど全部が、Solokov 委員会が集めた証拠資料にもとづいていた。
 ボルシェヴィキは7月25日に、Ekaterinburg をチェコ軍団に明け渡した。
 チェコ人とともにEkaterinburg に入ったロシア人は、急いでIpatev 邸へと向かった。そこには誰もおらず、乱雑なままだった。
 7月30日、皇帝家族の運命を決定するために調査が始まった。しかし、調査者たちが真剣な努力をしないままで、貴重な数ヶ月が経った。
 翌1919年1月、Kolchak 提督は、調査を指揮させるべくM. K. Diterikhs 将軍を任命した。だが、Diterikhs には必要な資質がなく、2月に、シベリアの法律家であるNicholas Solokov と交替させられた。
 その後2年間、Solokov は揺るぎない決意でもって、全ての目撃証人や全ての資料上の手がかりを追い求めた。
 1920年にロシアから逃亡することを余儀なくされたとき、彼は、調査の諸記録を携帯して持ち出した。
 この諸資料とそれらによって彼が書いた論文は、Ekaterinburg の悲劇に関する第一の証拠資料を提供している(脚注1)
 最近にIurovskii の回想録が出版された。これは、警護者たちの主任だったP. Medvedev や、Solokov が尋問した追加的な証人の宣誓供述書を、補足し、拡充している。
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 (脚注1) Solokov 委員会の調査記録の複写文書—タイプ打ちの7フォルダ—は、Harvard のHughton 図書館の預託物だ。これらは最初は、Solokov に同行した、ロンドンの<The Times>紙の特派員のRobert Wilton が所有していた。そのうち三つある原本の運命は、Ross, Gibel’, p.13-17 で論じられている。Ekaterinburg 事件の追加的な証拠資料は、Diterikhs, Ubiistvo tsarskoi sem’i の中にある。
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 第10節/殺害(2)①。
 (01)  皇帝家族は、7月16日をふつうに過ごした。
 Alexandra の日記の最後の書き込みによると、それは彼らが床に就いた午後11時頃のものだが、彼らには、何か異様なことが起こりそうだとの予感が全くなかった。
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 (02) Iurovski は、一日じゅう忙しかった。
 遺体を焼却して埋める場所を選別したあと—Koptiaki 村の近傍の放棄された鉱山跡—、Ipatev 邸の正門そばの垣根の中にFiat 製トラックが駐車できるよう調整した。
 夕闇が迫る頃、Medvedev に対して、警護者が回転銃を取り外すよう求めた。
 Medvedev は、Nagan タイプの回転銃—ロシアの将校への標準的な配布物で、各々7発撃つことができた—を12丁集め、指揮者の部屋へ持っていった。
 午後6時、Iurovskii は、台所から料理人見習いのLeonid Sednev を呼び出し、家の外に出した。その際、この少年が叔父である侍従のIvan Sednev に会ことができるよう皇帝たちが心配している、と言った。
 Iurovskii は嘘をついていた。叔父のSednev は数週間前にチェカによって射殺されていたからだ。
 だが、そうであっても、これはこの時期での彼の唯一の人間的行為だった。この少年の生命は、救われた。
 午後10時頃、Medvedev に対して、警護者にロマノフはその夜に処刑される、射撃音を聞いても驚くな、と伝えるよう言った。
 深夜に着く予定のトラックが、一時間半遅れた。それで、処刑も遅れた。
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 (03) Iurovskii は午前1時半にBotkin 博士の目を醒させ、他の者を起こすよう求めた。
 市内で騒擾が発生している、皇帝家族の安全のために低層階に移動する必要がある、と説明した。
 この説明は、納得させるものであったに違いない。Ipatev 邸の居住者たちは、街路からの射撃音をしばしば聞いていたからだ。前の日にAlexandra は、夜間に一台の大砲や数丁の回転銃の発射音を聞いた、と記していた(脚注2)
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 (脚注2) いくつかの説明によると、皇帝家族はIpatev 邸から安全な場所へ移動させられる、と言われていた。しかし、この説明は、彼らは一緒に持っていっただろう物品が全くないまま部屋を離れたという事実と矛盾している。物品の中には、Alexandra が旅行中に決して離さなかったイコン(ikon)も含まれている。Doterikhs, Ubiistvo, I, p.25.
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 11人の囚人たちが洗面し、衣服を着るのには、30分かかった。
 午前2時頃、彼らは階段を降りた。
 Iurovskii が、先頭になって導いた。
 つぎに続いたのは、腕にAlexis を抱いたニコライだった。二人とも軍用服と帽子を着用していた。
 ついで、皇妃と娘たちが続いた。Anastasia はKing Charles spaniel 犬のJeremy と一緒だった。そのあとは、Botkin 博士。
 Demidova は、二個の枕を運んだ。その一つには、宝石箱が隠されていた(注76)。
 彼女の後ろは従者のTrup、料理人のKharitonov だった。
 皇帝家族は知らなかったが、10人の処刑部隊—そのうち6人はハンガリー人、残りはロシア人—が、隣の部屋にいた。
 Medvedev によると、家族は「危険を予期していないかのごとく、静かだと見えた」
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 (04) 皇帝家族らの行列は内部階段の最後で中庭に入り込み、左に曲がって低層階へと降りた。
 彼らは、家の反対の端へと連れていかれた。そこは以前は警護者たちが占めていた部屋で、5メートルの幅、6メートルの奥行きがあった。その部屋からは、全ての家具が除去されていた。
 窓が一つあった。半月の形をし、外壁の高いところにあり、格子の柵が付いていた。そして、開いたドアが一つだけあった。
 反対側に第二のドアがあって、収納空間につづいていたが、鍵がかかっていた。
 その部屋は、袋小路にあった。
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 (05) Alexandra は、なぜ椅子がないのか、と不思議に思った。
 Iurovskii は、いつも親切であるように、二個の椅子を持ち込むよう命令した。その一つにニコライがAlexis を座らせ、もう一つにAlexandra が座った。
 残りの者たちは、並ぶよう言われた。
 数分後、10人の武装部隊と一緒に、Iurovskii が再び部屋に入ってきた。
 つづく光景を、彼はこう叙述した。
 「一同が入ったとき、私はロマノフたちに、彼らの親戚がロシアに反抗する攻撃を続けていることを考慮して、Ural のソヴェトは彼らを射殺する決定を下した、と告げた。
 ニコライは、部隊に背を向けて、家族と向かい合った。
 そして、まるで気を取り直したように、身体を向き直して、「何?」、「何?」と尋ねた。
 私は急いで自分が言ったことを繰り返し、部隊に対して、準備するよう命じた。
 その一員たちは、射撃する者があらかじめ指定され、血が大量に溢れるのを避け、また迅速に死に至らしめるために、直接に心臓を狙うよう指示されていた。
 ニコライはもう何も言わなかった。
 彼はもう一度、家族に向かい合った。
 他の者たちは、取り乱して、抗議の叫びを発した。
 それが、数秒間だけ続いた。
 そして、射撃が始まり、二、三分つづいた。
 私はその場で、ニコライを殺した。」(注77)
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 (06) 皇妃Alexandra と彼女の娘の一人には辛うじて十字を切る時間があったことが、目撃証人によって知られている。彼女らも、すぐに死んだ。
 部隊の全員が回転銃の予備銃弾を空にしたほどの、激しい射撃だった。Iurovskii によると、銃弾は壁から床へとはね返り、霰のように部屋じゅうを跳んだ。
 少女たちは、絶叫した。銃弾を浴びて、Alexis は椅子から落ちた。
 Kharitonov 〔料理人〕は「座り込んで、死んだ」。
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 第10節②へとつづく。

2928/生命・細胞・遺伝—20。

 一 「生命・細胞・遺伝」で最初に記述しようと思っていたのは、「細胞」の死と「個体」の死、<アポトーシス>と<アポビオーシス>の区別と関係という主題だった 
 参考文献—田沼靖一・ヒトはどうして老いるのか—老化・寿命の科学(ちくま新書、2002)等。
 それが、「細胞」一般にまず触れたのはよいが、いつのまにか、核(細胞核)内の染色体とかDNAとかヒトゲノムに触れてしまうようになった。男子であることを決定するのはY染色体ではなく、「SRY 遺伝子」と称される遺伝子の存在だ、という近年の研究成果にも触れた。
 →No.2754→No.2755
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  全くの「しろうと」による覚書・ノートだから不十分さがあって、当然だ。最新の知見からすると、誤りがあったかもしれない。
 だが、誤った記述の訂正ではないが、①重要な関係に論及し得ていない、②間違った「思い込み」を前提にしている、そういう記述をそのまま残している。
 これらが気になっていたので、追記する。
 上の①が第一、上の②が第二になる。
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  第一。 DNAに何度も触れた。だが厳密には「核DNA」(細胞核内のDNA)に言及したのだった。細胞内のミトコンドリアもまたDNAを持つことに、きちんと論及していなかった。
 ミトコンドリアについて触れてはいるが(2024/04/14→No.2725/—02)、ほとんどつぎのことしか述べていない。エネルギー(ATP)を生み出すこと、元来は自立した細胞(細菌)だったとみられるところ「細胞」に(「おまえが好きだよ、一緒になろうよ」、と言われて)吸収されたこと。
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  上の後者に由来するが、ミトコンドリアもDNAをその内部にもつ。また<ミトコンドリア遺伝子>もある。
 但し、ミトコンドリアDNA内の「遺伝子」は、ヒト(およびたぶん雌雄のある生物)の場合、母系でのみ継承されていく。父・男子(オス)も体内・細胞内に<ミトコンドリア遺伝子>をもつが、受精卵には残らない、とされる。
 この点にあれ?という風に気づいたのは、つぎのようなことがあったからだ。
 昨年春に「遺伝子検査」というものを初めて受けた(価格はたぶん4万-6万円くらいだった)。
 →No.2744/「『遺伝子検査』を受けた」。
 結果の項目中に祖先(1万年前!)の所在地域というものがあったが、それは「母系」=女系をたどっての「祖先」らしかった(検査結果の注記による)。
 なぜそうなのか(父系は診断できないのか)はそのときは分からなかった。しかし、少なくともこの項目での診断対象は(私の)ミトコンドリアだった、と思われる。
 のちに、<ミトコンドリア遺伝子>は母系でのみ継承される、ということを知って、納得した。
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  その他、核DNAとミトコンドリアDNAには、以下のような差異がある、とされる。
 遺伝子については、上の点の他、その数が(核—と比べて)圧倒的に少ない。100分の1以下だ。
 核DNAは「2本(鎖状)の螺旋構造」をもつのに対して、ミトコンドリアDNAは「1本の環」であるらしい。
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  なお、ここでついでに記しておくと、「DNA」という語の使い方に紛らわしいところがあった(「遺伝子」、「染色体」、「ゲノム」といった基本的概念との関係以外で)。
 つまり、DNA「全体」を指す場合と、例えば<開始コドンと終止コドン>の間の、あるいは個々の「遺伝子」に対応する(少なくとも個々の「遺伝子」を含む、「DNA分体」と称されることがあるものを指す場合とを、明確に区別しては記述してこなかった(この辺りは、専門家または諸文献でも曖昧なような気もする)。
 今後は、意識しておくことにしよう。
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  第二。<ヒトゲノム計画>終了後でも見られる、ヒト・人間が(一個体として)もつ(細胞核内の)遺伝子の総数について。
 長くなったので、今回は省略する。
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2927/R.Pipes1990年著—第17章⑬。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第八節/モスクワによる殺害決定とチェカ②。
 (07) Iurovskii がIpatev 邸に責任をもったあと最初にしたのは、警護者による窃盗をやめさせることだった。
 窃盗は、安全確保の観点からして危険だった。窃盗をする警護者は、チェカの連絡網の外で、囚人たちへの、および彼らからの文書を運ぶよう、さらには彼らが逃亡するのを助けるようにすら、贈賄されることがあり得た。
 職務の最初の日に、彼は、皇帝家族が所有している貴重品を全て提出させた(彼は知らなかった、女性たちが下着の中に縫い込んだものを除く)。
 彼は目録を作成したあとで、宝石類を封印された箱の中に入れ、家族がそれを持ちつづけるのを許した。但し、毎日、点検した。
 Iurovskii はまた、家族の荷物が保管されている物置に鍵を付けた。
 つねに他人を良いように考える性格のニコライは、こうした措置は家族のために行なわれた、と信じた。
 「(Iurovskii と助手たちは)我々の家で起きた不愉快な出来事について説明した。彼らは我々の持ち物の紛失に言及した。…
 Avdeev には部下たちが物置のトランクからという窃盗するのを阻止できなかったという責任があることについて、彼に気の毒だった。…
 Iurovskii と助手たちは、どのような種類の者たちが我々を囲んで警護し、窃盗をしているかを、理解し始めた。」(脚注1)
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 (脚注1) Alexandra の日記によると、Iurovskii は7月6日に、窃盗された時計をニコライに返却した。
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 (08) Alexandra の日記によって、7月4日に内部警護者が新しい要員と交替したことが確認される。
 ニコライは、新しい彼らはラトビア人だと思った。また、警護者の班長も、Solokovの尋問に対して同じように答えた。
 しかし、当時は「ラトビア人」という言葉は、緩やかに親共産党の全ての外国人を指していた。
 Solokov は、Iurovskii が新しい要員の10人のうち5人とドイツ語で話した、ということを知った(注69)。
 彼らが戦争捕虜のハンガリー人だったことに、ほとんど疑いはない。ある者はMagyars (マジャール人)で、ある者はマジャール化したドイツ人だった(脚注2)
 彼らは、チェカ本部から移って来て、American ホテルに居住した(注70)。
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 (脚注2) Sokolov は、Ipatev 邸の壁にハンガリー語での言葉があるのに気づいた。「Verhas Andras 1918 VII/15e—örsegen」(Andras Verhas 1918年7月15日—警護者)。Houghton Archive, Harvard Uni., Sokolov File, Box 3.
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 (09) これは、処刑部隊だった。
 Iurovskii は、彼らに低層階を割り当てた。
 彼自身はIpatev 邸に引っ越さず、妻、母親、二人の子どもたちと一緒に住むのを選んだ。
 指揮官の部屋へは、彼の助手のGrigorii Petrovich Nikulin が入った。
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 (10) 7月7日、レーニンはEkaterinburg に指示して、Ural 地方ソヴェトの議長のBeloborodov にクレムリンと直接に電信連絡をすることを認めた。
 「事態の異常な重要性にかんがみて」そのような連絡方法をとることについての、Belonorodov の6月28日の要請に対して、レーニンが行なった反応だった(注71)。
 Ekaterinburg がチェコ軍団の手に落ちた7月25日まで、軍事問題およびロマノフ家の運命に関するその市とクレムリンとの間の全ての連絡は、この電信の方法で、しばしば暗号を用いて、行なわれた。
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 (11) Goloshchekin は、殺害のための保障を得て、7月12日にモスクワから帰った。
 その同じ日、彼はソヴェト執行委員会に対して、「ロマノフ家の処刑に関する中央当局の態度」に関して報告した。
 彼は、モスクワはもともとは前皇帝を審判にかけるつもりだったが、戦線の場所が近接していることを考慮して、これを実行することをやめた、そしてロマノフ家は処刑されるものとすると決めた、と言った(注72)。
 ソヴェト執行委員会は、モスクワの決定に対してゴム印を捺した(注73)。
 今では、その後と同じく、Ekaterinburg が処刑についての責任を引き受けた。皇帝家族がチェコ軍団の手に落ちるのを阻止するための非常措置だ、と見せかけることによって(脚注3)
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 (脚注3) Iurovskii は、1920年に書かれ、だがようやく1989年に公にされた回想録で、ロマノフ家の「絶滅」(extermination, istreblenie)に対する暗号の命令を7月16日にPerm から受けた、と語った。Perm は、モスクワがUral 地方の通信センターとして用いた州都だった。彼によると、最終的な処刑命令は、同じ日の午後5時にGoloshchekin によって署名された。Ogonek, No.21(1989), p.30.
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 (12) 翌日の7月15日、Iurovskii の姿が、Ekaterinburg の北にある森で見られた。
 彼は、遺体を処理する場所を探していた。
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 (13) 皇帝家族は、何も疑っていなかった。Iurovskii は厳格な手順を維持しており、細心な態度で、皇帝家族の信頼すら獲得していた。
 ニコライは、6月25日/7月8日にこう書いた。「我々の生活は、Iurovskii のもとで、いかなる点でも変わらなかった」。
 実際に、いくつかの点では、彼らの生活は良くなった。今では修道女から全ての物を提供されていたからだ。但し、その一部はAvdeev の警護者によって盗まれた。
 7月2日、作業員が唯一の空いた窓に鉄柵を取り付けた。これもまた、皇帝家族は異様だと感じなかった。Alexandra は、「いつものように、昇ることに疑問はなかったし、見張り番と接触することもそうだった」と記した。
 今ではチェカはニセの逃亡計画を放棄していたが、Iurovskii は、本当に逃亡する機会を与えなくなかった。
 7月14日日曜日、彼は、聖職者が来てミサの儀式を行なうのを許した。
 聖職者が去るとき、彼は、皇女の一人が「ありがとう」とつぶやくのを聞いた(注74)。
 7月15日、若干の医学的知識をもっていたIurovskii は、寝たきりのAlexis と、彼の健康について議論しながら、時間を過ごした。
 彼はその翌日に、Alexis に卵を持って来た。
 7月16日、二人の女性が清掃するためにやって来た。
 彼女たちはSokolov に、家族は健全な精神状態にあると思えた、皇女たちはベッドを整えるのを手伝った際に笑った、と語った。
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 (14) この頃ずっと、皇帝家族はまだ、救出者から連絡が来るのを望んでいた。
 ニコライの、6月30日/7月13日付の、日記への最後の記入はこうだった。
 「我々には、外部からの報せがない」。
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 第八節、終わり。

2926/R.Pipes1990年著—第17章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第八節/モスクワによる殺害決定とチェカ①。
 (01) 共産党当局のいつものやり方だったけれども、皇帝家族を処刑する責任をUral の地方ソヴェトに負わせるというのは、レーニンを免責するためとはいえ、確実に誤解を生じさせる。
 ロマノフ一族を「絶滅」するという最終決定が個人的にレーニンによって、おそらくは7月初めになされたことは、確定することができる。
 中央から明確に権限付与されることなく、地方のソヴェトがこのような重大な問題について行動することはないだろう、ということからも、上のことは相当程度確実に推測され得ただろう。
 Solokov は、委員会による調査結果を公表した1925年に、レーニンの責任について、確信をもった。
 しかし、トロツキーという権威ある者による、争う余地のない積極的な証拠資料が存在している。
 トロツキーは1935年に、ある亡命者用新聞で、皇帝家族の死に関する記事を読んだ。
 彼は記憶を呼び覚まし、日記にこう書いた。
 「私のその次のモスクワ行きは、Ekaterinburg がすでに落ちた後のことだった[すなわち7月25日以後]。
 Sverdlov と話した際に、ついでにこう尋ねた。『ああそうだ、皇帝はどこにいる?』
 彼は、『終わった』、『射殺された』と答えた。
 私は『家族はどこにいる?』、『家族も彼と一緒にか?』と、驚き気味で尋ねた。
 『全員だ。どうして?』とSverdlov は答えて、私の反応を待った。
 私は、返答しなかった。
 『では、誰が決定したのか?』と私は追及した。
 答えはこうだった。『我々が、ここで決定した。Ilich〔レーニン〕は、とくに現在の困難な状況のもとでは、白軍に生きている旗印として残してはならない、と考えた』。
 私はそれ以上質問せず、この件はもう打ち切りだと考えた。」(注64)
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 (02) Sverdlov の素っ気ない言葉は、公式の見解はつぎのようだったにもかかわらず、一瞬に問題を片付けた。すなわち、ニコライとその家族は、逃亡するかチェコ軍団に捕らわれるかを阻止するために、Ekaterinburg の当局の主導によって、処刑された。
 決定は、Ekaterinburg でではなく、モスクワで行なわれた。それは、ボルシェヴィキ体制が基盤を失っていると感じ、君主制の復活を怖れたときだった。—これは一年後にはすでに狂信的すぎて考慮に値しなくなった考えだったが (脚注1)
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 (脚注1) Kolchak 提督が立ち上げた調査委員会によって詳細が知られるようになると、Ekaterinburg の虐殺は、反ユダヤ主義文献が不快にも溢れるという事態を生んだ。それらは何人かのロシアの文筆家や歴史家によって書かれ、西側にも反響があった。
 こうした文献の多くは、Ekaterinburg の虐殺についてユダヤ人を非難し、それを世界的な「ユダヤの陰謀」の一部だと解釈した。
 ロンドンの<Times>特派員のイギリス人、Robert Wilton の記事で、および彼のロシアの友人すらの説明では、ユダヤ人恐怖症のDiterikhs 将軍は、精神病理上の異常を呈した。
 おそらく、当時に反ユダヤ主義の拡散や偽作の<シオンの賢人の議定書(Protokols of the Elders of Zion)>の普及に役立った、という以上のことは何もなかった。
 これらの著作者たちは悲劇についてユダヤ人を断固として非難するが、都合よく、死刑の宣告はロシア人のレーニンによって裁可されたことを忘れていた。
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 (03) 6月の末、Ural の最有力のボルシェヴィキでSverdlov の友人のGoloshchekin は、Ekaterinburg からモスクワに向かった。
 Bykov によれば、彼の任務は、ロマノフ一族の運命について、共産党中央委員会および全国ソヴェト中央執行委員会と討議することだった(注65)。
 Ekaterinburg のボルシェヴィキ、とくにGoloshchekin は、邪魔なロマノフ一族を排除したかった、ということは、十分に確定されている。このことから、彼は処刑へと進むことについてモスクワの承認が欲しかった、ということを合理的に導くことができる。
 レーニンは、この要請を是認した。
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 (04) 前皇帝を、そして可能であれば彼の直接の家族をも処刑するという決定は、7月の最初の数日のあいだに行なわれた、と見られる。7月2日夕方のソヴナルコム〔人民委員会議=ほぼ内閣〕の会議で、というのが最もありそうだ。
 この仮説を裏付ける二つの事実がある。
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 (05) ソヴナルコムの会合の議題の一つは、ロマノフ家の資産の国有化だった。
 この趣旨の布令の草案を策定する委員会が、設置された(注66)。
 この問題が緊急を要するとは、共産党支配のもとで生きているロマノフ一族は監獄の中にいるか国外追放中で彼らの財産はとっくに国家に奪われているか農民に配分されていたとすれば、危機的な状況のもとでは考えられなかっただろう。
 したがって、ニコライを処刑する決定と関連付けられて、議題設定や布令案作成が行なわれたと言えそうだ。
 ロマノフ一族の資産を公式に国有化する布令は、殺害の三日前、7月13日に施行された。だが、不思議にも一般的な実務から逸脱して、6日後まで公表されなかった。—この日は、殺害という事実の情報が公にされた日だ(注67)。
 この論脈を支持するもう一つの事実は、すぐのちにある。すなわち、7月4日に、皇帝家族を警護する責任は、Ekaterinburg からチェカへと移された。
 この7月4日に、Beloborodov は、クレムリンに電報を打った。
 「モスクワへ。Goloshchekin に代わって〔全国ソヴェト〕中央執行委員会議長のSverdlov あて。
 中央の指示に合致して事態を調整すべくSyromorotov が出発したところだ。…<中略>(脚注2)
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 (脚注2) Solokov, Ubiistvo, Photograh No.129, p.248-p.249の間。Avdeev の助手のA. M. Moshkin は、皇帝家族の持ち物を盗んだ責任で逮捕された。
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 (06) Ekaterinburg のチェカの長のIakov Mihailovich Iurovskii は、革命の相当前に通常の犯罪で有罪判決を受け、シベリアへの流刑となったユダヤ人の、孫だった。
 不十分な教育を受けたあと、Tomsk で時計職人の見習いになった。
 1905年革命のあいだに、ボルシェヴィキに加入した。
 のちにベルリンでしばらく過ごし、そこでルター主義へと改宗した。
 ロシアに帰ったとき、Ekaterinburg へと追放され、写真スタジオを開いた。そこはボルシェヴィキの秘密会合の場所として役立った、と言われている。
 戦争中は、準医療従事者の訓練を受けた。
 二月革命が勃発したときにやめて、Ekaterinburg へ戻った。そこで兵士たちの中に入って戦争反対を煽動した。
 1917年十月、Ural 地方ソヴェトは、彼を〔Ural 地方の〕「司法人民委員」に任命した。そのあと、彼はチェカの一員になった。
 Iurovskii は、どの文献を見ても、邪悪(sinister)な人物だった。憤懣と挫折感でいっぱいの、当時のボルシェヴィキに惹かれるようなタイプで、第一の応募先は、秘密警察だった。
 Solokov は、彼の妻と家族に対する尋問から、つぎのような人物像を描いた。すなわち、尊大で、意欲的な人間で、傲慢で、残虐な気質の持ち主(注68)。
 Alexandra 〔前皇妃〕は、すぐにこの人物を嫌いになり、「下品で不愉快だ」と形容した。
 チェカにとっては、彼を価値あるものにするいくつかの長所があった。すなわち、国有財産を扱う際の実直さ、慎みのない残虐さ、相当の心理的洞察力。
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 ②へとつづく。

2925/自由民主党による憲法改正の「条文イメージ」。

  今回(2025年7月)の参議院議員選挙用の自由民主党の「公約」を見ていると、「憲法改正の条文イメージ」として、つぎの4項目を記している。
 「①自衛隊の明記、②緊急事態対応、③合区解消・地方公共団体、④教育充実」。
 長らく「現行憲法の自主的改正」を党是としてきた政党がこの体たらくだと、現行憲法はすでに80年近く改正されていないが、2047年まで、つまり施行から100年間、一度も改正されることなく通用してしまうのではないか。ちなみに、大日本帝国憲法の施行期間は(1945-1889で)56年または(1947-1889で)58年だった。
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  「公約2025」以外の自民党文書をより正確に確認する必要があることは認める。だが、つぎのように指摘して差し支えない、と考えられる。
 上の項目記載を「条文イメージ」と称するのは間違っている。どんな「条文」の「イメージ」も出てこないからだ。また、この「公約」に限らず、どの項目についても、自由民主党は「案」であれ「条文づくり」を行なっていない。
 かつて二度にわたって全体にわたる「改正憲法草案」を自民党は発表した。しかし、九条二項の削除を前提として「国防軍」、「自衛軍」を設置する旨のそれらにあった条項は、安倍晋三内閣による、九条二項存置を前提とする「九条の二」(または九条三項追加)による<自衛隊明記>案によって、実質的に放棄された、と言ってよい。
 しかもまた、すでに長く経過した<自衛隊明記>の「条文」案が全く提示されていないのだから、ほとんど話にならない。
 日本会議系の「日本政策センター」伊藤哲夫らによる<自衛隊明記>案を安倍晋三が採用したのだとすると、同センター・伊藤哲夫の果たした役割は(現九条二項に手をつけさせなくなるという意味で)犯罪的だ(+犯罪的だった)。歴史的にそう断罪されるだろう。
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 安倍晋三が突然に<自衛隊明記>案を発表したのは2017年の憲法記念日だった。そのビデオ・メール(挨拶)を受けた櫻井よしこらの憲法改正集会の最後では、櫻井よしこは<緊急事態条項を!>と叫んで拳を上げていた。
 ということは、櫻井は安倍の<自衛隊明記>論をその日まで知らなかった、ということになる。
 もちろん、彼女(と代表をしている憲法改正運動団体)は、その日以降は<自衛隊明記>改正案を第一に掲げるように<変転>したのだったが。
 「①自衛隊の明記」案の問題性ついては、この欄にすでに何度も触れたので、繰り返さない
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 上の②と④の適否は、具体的な「条文案」を手がかりにしてこそ議論できるもので、「条文案」を示していない(又は示すことができない)のは無責任だ。
 「緊急事態対応」にせよ「教育充実」にせよ、現憲法を改正しなければできないことと、現行の法律(を含む法令)を改正する、又は新たに制定することによってできることもある。
 この区別を意識することなく、どうして「憲法改正」を語ることができるのか。例えば一定の緊急事態に(当面)法律と同等の効力をもつ政令を内閣は制定できる、としたいならば憲法改正による新条項が必要だ。だが、現行法律の改正等で「緊急事態対応」を配慮することができる事項もある。
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  上の③は、ひどい。
 自民党には法曹資格をもつ国会議員等もいるはずだが、「合区解消」を憲法改正の主題の一つにするようでは、まともに党内議論はなされていないのだろう。なお「・地方公共団体」との追記があるのは意味不明だ。
 現憲法は、「地方公共団体」という語を用いているが、都道府県と市町村の二層制を前提とするとはどこにも書いていない(但し、現在の(法律上の)東京都の「特別区」部分以外は、現憲法施行当時の「二層制」をやはり採用しているというのが最高裁判例のようだ)。
 重要なのは、各「都道府県」の設置と各名称は、現行法律にもとづいている、ということだ。法律により、又は法律が定める手続により、これらを変更することができる、ということだ。
 国会議員選挙の際の島根県・鳥取県、高知県・徳島県の各「合区」は地方自治法(法律)でもない公職選挙法(法律)が定めたことだ。よって、その趣旨の公職選挙法の関係条項を改めれば、元に戻して「合区解消」することは不可能では全くない。
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 憲法に「合区解消」を明記する? いったいどういう条文になるのだろうか。
 「現在の都道府県の二つ以上を合わせた選挙区を設けてはならない」。
 こんな条文を憲法上に作れない。「現在の都道府県」というのは、現行の法律を見ないと分からず、現行憲法をどう読んでも47都道府県は明らかにならない。
 「選挙区」とは何かも、現憲法上から明確にならない。
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 この「合区解消」案が憲法改正の一問題として出てきたという報道をだいぶ前に知ったとき、自民党は「狂って」いるのではないか、法曹資格をもつ国会議員は、さらには大学法学部出身の国会議員は何を考えているのか、と感じたものだ。
 上に挙げた4つの県の選出議員・関係議員の「顔を立てて」、きっと自分の国会議員たる地位に関係がない問題については何も異論を挟まなかったのだろう。
 しかし、「最高法規」たる憲法改正の対象事項について、これほどに鈍感であってよいのか。
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  憲法を現実の変遷にも対応して<より合理的な>内容のものにすることは、国民全体の、とりわけ「発議」権者(とされている)国会の構成員の重要な責務だろう。
 現憲法97条の「精神的」(説教的?)規定の内容には問題がある、とこの欄で指摘したことはある。
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 より具体的な論点として、以下がある、と近年に考えた。
 第一。内閣(内閣総理大臣ではない)の一存だけによる(天皇への助言手続は必要だが)<衆議院解散>権の否認。これは本来は現憲法の「解釈」問題だと考えられる。だが、これまでの「憲法慣行」と「司法実務」から見て、憲法改正が必要のようだ。
 第二。長と議会の二元制、長と議会議員の住民による「(直接)選挙」制、の二つを、現憲法は<全国一律に>、つまり全ての「地方公共団体」について要求している。200人の村から東京都まで。これを、もう少し柔軟に法律によって(極論すれば各「条例」でということになるが?)定めることができるように改める
 なお、<道州制>は、道州の長と(道州議会設置を前提として)道州議会議員の「公選」制を採用するかぎりは、現憲法に違反せず、法律レベルの改正で採用可能だと考えられる。これらを採用しない場合は、憲法改正が必要になりそうだ。
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2924/R.Pipes1990年著—第17章⑪。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第七節/チェカによる救出作戦の捏造②。
 (08) (1918年)6月22日、明らかにニコライの返書に反応して、作業員が皇帝夫妻の寝室の窓を点検した。
 その翌日、作業員たちが喜んだことに、二重窓が外され、換気用窓枠が入れられていた。息苦しく熱い上層階に新鮮な空気を入れるためだった。
 囚人たちは、外に寄り掛かるのを禁じられた。娘たちの一人が頭を外に出しすぎたとき、警護者の銃の火が噴いた。
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 (09) 6月25日、第二の秘密の伝言が届き、三つめは6月26日に来た。
 これらの手紙が皇帝家族に届いたことに争いがないのは、ニコライの日記による。彼は不用意にも6月14日(27日)の日付にこう書いた。
 「我々は最近、次から次に、二通の手紙を受け取った。それらは、誰か献身的な者によって神隠しされる準備をするよう、我々に助言している!」
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 (10) 第二の手紙は、心配しないよう説得していた。救出は何のリスクもなく実行される、と。
 皇帝家族は数十人の武装警護者に囲まれていることを考えれば、かりに策略者が望むように捕囚者の気持ちを和らげることが許されたのだとしても、これは、驚くべき請け負いだった。
 そしてこれは、その真正さに関するきわめて大きな疑問を生じさせる。
 この手紙はこう述べた。窓の一つは壊されていることが「絶対に必要だ」と。—これは実際に、指揮者によって2日前に、そうなされた。
 Alexis が歩けないことは「問題を複雑にした」が、「大きすぎる面倒ではなかった」。
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 (11) ニコライはこの手紙に対して、6月25日に、ある程度のも長さの返書を書いた。
 彼は手紙の発送者に対して、窓の一つが二日前に実際に空いた、と教えた。
 皇帝家族だけではなくBotkin 博士や侍従たちも救出することが、絶対的要請だった。
 「彼らが我々に負担をかけたくなく、彼らが我々に従った後で自発的に国外追放になって我々を残したくないと思うとすれば、我々は何と浅ましいことだろう」。
 ニコライはまた、物置に保管している二つの箱の運命についても、関心を表明した。小さな箱はAF(Alexandra Fedorovna)No.9 と貼り紙され、大きな箱は「No.13 N. A.」と指定され(Nicholas Alexandrovich)、後者に「古い手紙と日記」が入っていた。
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 (12) 第三の手紙は、追加の情報を求めていた。
 差出人は、残念ながら、全員を救出するのは不可能かもしれない、と書いた。
 その者は、6月30日までに「作戦行動の詳細な計画」を提供すると約束し、家族に対して、合図(これに関する叙述はなかった)に関して敏感になるよう指示した。合図を知るや否や、玄関に続くドアにバリケードを築き、彼らが何とか入手したロープを使って、空いている窓から下に降りることとされていた。
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 (13) その夜(6月26-27日)、約束された救出の企てを予期して、Alexis は、両親の部屋へ移動した。
 家族は、就寝しなかった。
 ニコライは、「我々は不安な夜を過ごし、衣服を着けたままで徹夜した」と記した。
 しかしながら、合図は来なかった。
 「待つことと不確実さは、身を切られるように辛かった」。
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 (14) 何が起きたことでチェカがその計画を放棄したのかを、決定することはできない。
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 (15) つぎの夜、ニコライとAlexandra は、警護者の会話を偶然に聞いて、逃げようという考えを捨てた。
 Alexandra は、6月28日にこう書いた。「我々はその夜に、部屋の下にいる見張り番の様子を聞いた。我々の窓をつねに監視せよ、と特別に言われていた。—我々の窓が開いていたので、再びきわめて疑い深くなった。」
 このことは、ニコライにつぎの行動をさせた、と見られる。すなわち、誘拐されることに反対していないが逃亡する気持ちになっていないという趣旨の、本意ではない覚書を手紙の発送者に伝えること。
 「<中略>(フランス語文。脚注に英語化されているので参照。)(脚注)
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 (脚注) 「我々は<逃亡>するのを望まないし、そうすることもできない。
 力ずくで誘拐されることだけができる。我々をTobolsk から移したのは、実力だったように。
 したがって、我々からの<いかなる積極的な援助も>あてにしてはいけない。
 指揮官には多数の協力者がおり、彼らは頻繁に交替させられ、不安になっている。
 彼らは我々捕囚者とその生活を注意深く警護している。それは我々には良いことだ。
 我々は、彼らが我々を理由として被害を受けるのを望まないし、我々のために行動する君たちを理由としてそうなるのも望まない。
 とりわけ、お願いだから、血を流すな。
 君たち自身で、彼らに関する情報を取得せよ。
 ハシゴなくして窓から下に降りるのは不可能だ。
 降りた後でも、指揮者の部屋から我々の部屋の窓が開いているのが見えるため、大きな危険がまだある。低層階の機関砲は中庭から入ってくる者を狙える。
 (削除印付き—だから、我々を誘拐しようという考えは捨てよ。)
 もし我々を見守っているなら、君たちは、緊急の現実的な危険がある<場合には>、いつでも我々を救いに来ることができる。
 外で何が起きているのか、我々は完璧に知らない。新聞も手紙も受け取っていない。
 窓を開けることが許された後で、監視は強化され、頭を窓の外に出すことすら禁止された。そうすれば、顔に銃弾を受けるリスクがある。」
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 (16) この段階で、見せかけだけの救出作戦は、頓挫した。
 皇帝家族は、しかしなおも、四つめおよび最後の秘密連絡を受けた。それらの文書は、7月4日以降に書かれたはずだった。その日にAvdeev と交替した新しい指揮者に関する情報を求めるものだったからだ。
 これらは、チェカによる粗雑な捏造文書だった。その文書は、皇帝家族に対し、友人の「DとT」—明らかにDolgorukii とTatishchev—はすでに「救出された」と保障していたが、実際には、二人は6月に処刑されていた。
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 (17) こうした経験をしたあと、ニコライと子どもたちの外貌は変化した。Solokov〔委員会〕での目撃証人は彼に、皇帝家族は「疲れ果てて」いると見えた、と語った(注63)。
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 第七節、終わり。

2923/R.Pipes1990年著—第17章⑩。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第七節/チェカによる救出作戦の捏造①。
 (01) 6月17日、皇帝家族は、歓迎すべき報道を知った。Novotikhvinskii 修道会の修道女が、これまでは同様の要請は却下されてきたが、卵、牛乳、乳脂を皇帝家族に配達することが認められるだろう、という報せだ。
 のちに知られるに至ったように、これは皇帝家族の良い暮らしへの関心から生じたのではなく、チェカの策略の一部だった。
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 (02) 6月19日または20日、皇帝家族は修道女から乳脂の容器を受け取った。その蓋の中には、つぎの伝言が書かれた一片の紙が隠されていた。その伝言は注意深く書かれたか、または、フランス語に関する知識が十分にない者によって書き写されたもののようだった。
 「<中略>[フランス語文。脚注1に英語化されているので、参照。]
 死を覚悟している者、ロシア軍将校より。」(脚注1)
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 (脚注1) 友人たちはもう眠らず、長く待ったときが来るのを望むでしょう。
 チェコスロヴァキア人の反乱はかつてなく、ボルシェヴィキの深刻な脅威になっています。Samara、Chelia binsk および東部と西部のシベリアは、民族臨時政府の支配下にあります。スラヴの友人の軍隊は、Ekaterinburg の80キロ離れたところにおり、赤軍の兵士たちは有効には抵抗していません。
 外部の動きの全てに対して、注意深くしていて下さい。待って、希望をもち続けて下さい。
 しかし同時に、用心深くして下さるよう懇願します。なぜなら、ボルシェヴィキは<敗北するより前に、本当のかつ重大な危険を象徴している>からです。
 昼も夜も一日じゅう、準備しておいて下さい。
 <あなたの二つの部屋>の概略を、家具、ベッドの場所を、描いて下さい。
 あなたたち全員が床に就く時間を、明確に書いて下さい。
 あなたたちのうち一人は、これから毎晩2時と3時のあいだを眠ってはいけません。
 二、三の言葉で返答して下さい。外部にいるあなたの友人にとって有用な全ての情報を与えてくれるよう、懇願します。
 返答を、あなたにこの文書を伝えたのと同じ兵士に、<書いて、だがひと言も言わないで>、与えて下さい。
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 (03) 返答は、皺になったノート用紙と同じ紙でなされた。
 家族が床に就く時間に関する質問のそばに、「a 11 1/2」と書かれていた。
 「二つの部屋」との質問は、「三つの部屋」に訂正された。
 下部は、力強く、読みやすい文字で書かれていた。
  「<中略>[フランス語文。脚注2に英語化されているので、参照。](脚注2)
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 (脚注2) 「バルコニーへ上がる角から。5つの窓は通りに、2つの窓は広場に面している。窓は全て閉められ、封印され、白く塗られている。
 男の子はまだ病気でベッドにおり、全く歩くことができない。脳震盪が彼の痛みの原因だ。
 一週間前、無政府主義者を理由として、夜間に我々をモスクワへ移動させた、と考えられた。
 結果が<絶対に確実だ>ということがなければ、誰も何のリスクも負うはずはない。
 我々はほとんど常時、慎重に監視されている。」
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 (04) 自称救出者からのこの秘密の伝言文書には、いくつかの当惑させる特徴がある。
 まず、言葉遣いだ。 
 この文書は、君主制主義の将校ならばその国王に対して使わないだろう、そのような態様で書かれている。「Vorte Majeste」(陛下)ではなく「vous」(あなた)と国王に呼びかけるというのは、想定し難い。
 全体を見ても、この文書の語彙や様式は異様なであって、Ekaterinburg の悲劇の調査者ならば完全な捏造文書だと考えるほどのものだ(注57)。
 また、この手紙がどのようにして囚人(=皇帝家族)に届けられたか、という疑問がある。
 執筆者は兵士に、おそらく警護者に、言及している。
 しかし、Ipatev 邸警護団の指揮者だったAvdeev は、つぎのように書いている。秘密の手紙は、修道女から送られた乳脂の容器の蓋で発見された、そしてチェカのGoloshchekin に渡された、彼は囚人に送る前に複写した、と。
 Avdeev によると(注58)、チェカはこの問題を追及し、執筆者は「Magich」という名のセルビアの将校だと確定し、この人物を逮捕した。
 実際に、セルビアの将校やロシアへのセルビア軍事使節団の中に、Jarko Konstantinovich Micic(Michich)少佐がいた。この人物は、ニコライに会いたいと要請して、疑念を生じさせていた(注59)。
 Micic は、Alapaevsk に抑留されていたセルビアの皇女、Helen Petrovna を発見して救出するために、Ural 地方を旅行したことがある、ということも知られている。この皇女は、Ivan Konstantinovich 大公の妻だった。
 しかし、Micic の旅行に同行したSerge Smirnov の回想録から、二人はようやく7月4日にEkaterinburg に到着した、ということを確定することができる。これが意味するのは、Macic は6月19-20日に執筆することはできなかった、ということだ(注60)。
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 (05) 最初の文書の所持者として考えられるもう一人は、Alexis の医師のDerevenko 博士だった。
 しかし、ソヴィエト当局が1931年に明らかにしたDerevenko の宣誓供述書から、彼が〔Alexisを〕訪問したときには囚人たちとの意思疎通を禁止されていた、ということが知られる(注61)。
 さらに、Alexandra の日記から、彼がIpatev 邸を最後に訪問したのは6月21日だった、と確定している。このことから、彼が最初の秘密文書を運ぶのは、理論的に不可能だ。
 しかし、これですら、ありえそうでない。なぜなら、Derevenko の言うことを確認して、Alexandra は、彼は決して「Avdeev の随行なくして」姿を見せず、したがって「彼〔ニコライ〕に一言でも話しかけるのは不可能だった」と書いていたからだ。
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 (06) こうして見ると、文書はチェカによって捏造され、策略に関与した警護者によって囚人たちに送られた、と想定するのが合理的であるように思われる(脚注3)
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 (脚注3) つぎのことが最近に明らかになった。すなわち、自称君主制主義救出者からの最初およびその後の手紙は、Ural 地方のIspolkom〔ソヴェト執行委員会〕の委員で、Geneva 大学の卒業生のP. Voikov という人物が執筆し、別のボルシェヴィキ党員のきちんとした手書きで書き写された。E. Radzinskii, Ogonek, No.2(1990年)、p.27.
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 (07) Avdeev によると、ニコライは受け取ってから二、三日後に、最初の手紙に返答した(注62)。この日付は、6月21日と23日の間になる。
 返書は、もちろん途中で奪われ、チェカの謀略が動き始めた。
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 第七節②へとつづく。

2922/R.Pipes1990年著—第17章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第六節/観測気球としてのMichael 殺害。
 (01) 1918年の春、ニコライとその家族をEkaterinburg に、残りのロマノフ一族をPerm 地方の別の街に幽閉したとき、ボルシェヴィキは、安全だと見られる場所に、彼らを置いていた。ドイツの前線と白軍からは遠く離れており、ボルシェヴィキの本拠地の真ん中だった。
 しかし、チェコ軍団による反乱が勃発して、この地域の状況は劇的に変化した。
 6月半ばまでに、チェコ軍団は、Omsk、Chelia binsk、Samara を支配した。
 チェコ人の軍事行動によって、これらの都市のすぐ北に位置するPerm 州は危険に晒された。そして、ロマノフ一族がいる場所は、ボルシェヴィキが後退している戦場の近くになった。
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 (02) 彼らをどう扱うべきか? トロツキーは6月に、見せ物的になる〔革命審判所での〕審理をまだ支持していた。
 「私がモスクワを訪れた何度かのうちの一つの時期に—ロマノフ家の処刑の数週間前だったと思う—、政治局へ行っていたとき、Ural の悪い状況を考えて、皇帝の裁判を急ぐ必要があることに気づいた。
 私は、〔前皇帝の〕全治世の絵(農民政策、労働者、諸民族、文化、二つの戦争等々)を広げることができるように、公開で審判を行なうことを提案した。
 審判の経緯は、ラジオで全国土に放送されるだろう。
 Volosti では、審理の過程に関する記事が、毎日、読まれ、論評されるだろう。
 レーニンは、実現できるととても良い、という趣旨の答えをした。
 しかし、…時間が十分でなかったかもしれない。…
 私が提案に固執せず、別の仕事に集中していたので、議論は起きなかった。
 そして、政治局には、三、四人しかいなかった。私自身、レーニン、Sverdlov、…。思い出すに、カーメネフはいなかった。
 レーニンはそのとき、むしろ陰鬱で、成功裡に軍を建設することができるかどうか、自信をもってなかった。…」(注49)
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 (03) 1918年の夏までに、〔前皇帝を〕審判にかけるという考えは、現実的でなくなっていた。
 チェコ人の蜂起のすぐ後に、レーニンはチェカに対して、「逃亡」が仕組まれていたとの言い分を使って、Pern 州のロマノフ一族を全員殺害する準備をする権限を与えた。
 レーニンの指示にもとづいて、チェカは、3つの都市で、徴発を捏造した。その3都市、Perm、Ekaterinburg 、Alapaevsk では、ロマノフ一族は幽閉されるか、監視のもとで生きるかのいずれかの状態にあった。
 計画は、Perm とAlapaevsk ではうまくいった。
 Ekaterinburg では、放棄された。
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 (04) 皇帝とその家族の殺害の予行演習が、Perm で行なわれた。Perm は、Mihael 大公が追放された場所だった(注50)。
 3月に、秘書である英国人Nicholas Johnson を同行させてPerm に到着したとき、Mihael は監獄に入れられた。
  しかし、彼はすぐに釈放され、Johnson、侍従、運転手とともにホテルに住居を構えることが認められた。そこで彼は、比較的に快適かつ自由に生活した。
 チェカの監視下にあったが、かりに彼が逃亡しようと思ったならば、大した困難なくそうできただろう。自由に街の中を動くことが許されていたからだ。
 だが、他のロマノフ一族と同じく、彼は服従の意向を示した。
 彼の妻は、復活祭の休日期間に訪れた。彼の望みに従って、ペテログラードに戻り、そこからのちに逃亡して、イギリスへ行った。
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 (05) 6月12-23日の夜、5人の武装者が三頭馬車に乗ってきてMihael のホテルに入ってきた(注51)。
 彼らはMihael を起こし、衣服を身に着けて、従うよう告げた。
 Mihael は、彼らの身分証明を求めた。
 彼らが何も提示できなかったとき、Mihael は現地のチェカに確かめるよう要求した。
 この時点で(と、処刑される前に侍従は仲間の在監者に言った)、訪問者たちは我慢できなくなり、実力行使に訴えて威嚇した。
 一人がMihael かJohnson の耳に何かを囁いて、二人は疑いを解消したように見えた。
 彼ら3人が、救出の使命をもった君主制主義者を装ったことは、ほとんど確実だ。
 Mihael は服を着て、Johnson に付き添われながら、ホテルの正面に停まっていた訪問者たちの車に入った。
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 (06) 三頭馬車は、Motovilikha の産業居留地の方向へと過ぎ去った。
 町を出て、森の中に入り、停まった。
 乗っていた二人は出るように言われた。従ってそうしたとき、この当時のチェカの習慣だったように、二人は弾丸で撃ち倒された。おそらくは背後から射殺された。
 遺体は、近くの溶鉱炉で焼かれた。
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 (07) この殺害のすぐ後で、Perm のボルシェヴィキ当局は、ペテログラードと地域の諸都市に対して、Mihael は逃亡しており、探索中だと伝えた。
 同時に、Mihael は君主制主義者に誘拐された、という噂を拡散した(注52)。
 地方新聞紙の<Permskii Izvestiia>は、出来事についてつぎの報告記事を掲載した。
 「5月31日[6月12日]の夜、偽造の命令書をもった白軍の組織立った一隊がMihael Romanov とその秘書のJohnson が住むホテルに現われて、二人を誘拐し、不明の目的地へと連れ去った。
 探索隊は、夜のため痕跡が分からない、と発表した。探索は継続している。」(注53)
 これは、連続したウソだった。
 Mihael ら二人は実際には、白軍に誘拐されたのではなく、元錠前屋で職業的革命家であり、Motivilikha ソヴェトの議長であるG. I. Miasnikov が率いるをチェカによって誘拐された。
 彼を手伝った4人の共犯者は、同じ都市の親ボルシェヴィキの労働者だった。
 「白衛軍」の陰謀という神話は、翌年にMihael ら二人の遺体の場所がSokolov 委員会によって突き止められると、維持することができなくなった。
 そのあとの公式の共産党の見解は、〔チェカの〕Miasnikov と共犯者たちは、モスクワからも現地のソヴェトからも権限を与えられることなく、自分たちで勝手に行動した、というものだった。—これは、最も騙されやすい者ですらその軽信さを疑問に感じるであろうような説明だ(脚注1)
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 (脚注1) Bykov, Poslednie dni, p.121. Miasnikov はのちに労働者反対派の一人になり、そのために党を1921年に追放され、1923年に逮捕された。1924-25年にパリに現われ、Mihael 殺害を叙述する原稿を売り歩いた。それを1924年にモスクワで出版した、と言われている(Za svobodu!, 1925)。
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 (08) 6月17日、モスクワとペテログラードの新聞は、Mihael の「行方不明」を報告し(脚注2)、ニコライはIpatev の家宅に押入った一人の赤軍兵士によって殺されている、との風聞が同時に広がっている(注54)、と伝えた。(脚注2)
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 (脚注2)例えば、NVCh, No.91(1918 年6月17日), p.1. 一ヶ月後にソヴナルコムのプレス局は、Mihael はOmsk へと逃亡し、おそらくロンドンにいる、との声明を発表した。NV, No.124/148(1918年7月23日), p.3.
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 この風聞はもともとは自然発生的なものでもあり得たが、つぎのことの方がはるかに大いにありそうだ。すなわち、ニコライの殺害とそのために進行している準備に対するロシア民衆と外国諸政府の両方の反応を試してみるために、ボルシェヴィキが意図的に流布した。
 このような仮説に信憑性を付与するのは、レーニンの異常な振舞いだ。
 レーニンは6月18日に、日刊紙<Nashe slovo>のインタビューを受けて、こう語った。すなわち、Mihael の逃亡を確認することはできるが、政府は前皇帝が死んでいるか生きているかを決定することができない、と(注55)。
 レーニンが<Nashe slovo>のインタビューを受けたのは、きわめて異例のことだった。この新聞紙はリベラル派で、状況が許す範囲内でボルシェヴィキ体制に批判的であって、ボルシェヴィキはこれとは通常は接触しなかったのだ。
 同様に不思議であるのは、前皇帝の運命についての無知を弁明していることだった。なぜなら、政府は簡単に事実がどうであるかを確定することができたからだ。6月22日、ソヴナルコム(人民委員会議)のプレス局は、Ekaterinburg と毎日交信していることを認めつつ、ニコライの運命に関してはまだ分からない、と述べた(注56)。
 政府のこうした行動によって、企てている前皇帝の殺害に対する公衆の反応を試すためにモスクワが風聞を流布した、という仮説は、強く支持される(脚注3)
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 (脚注3) P. Bulygin, Segodnia(Riga), No.174(1928年7月1日), p.2-3. ようやく6月28日、ソヴィエト当局は、ニコライとその家族は安全に生存していることを確認した。その際、Ekaterinburg にいる北部Ural 戦線の最高司令官から、6月21日にIpatev 邸を調査して、生存している居住者たちを見つけた、という電信を受けた、と表向き主張した。NV, No.104/128(1918年6月29日), p.3. つぎを参照。M. K. Diterikhs, Ubiistvo tsarskoi, sem’i i chlenov doma Romanovykh na Ural e, I(Vladivostok, 1922), p.46-48. この情報が一週間遅れたことは、意図的な偽装という文脈を除外しては説明不可能だ。
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 (09) 貴族制や君主制に親近的な者たちは別として、ロシアの民衆、知識人層、「大衆」は同様に、ニコライの運命に関する一方あるいは他方の立場を示さなかった。
 外国の諸見解も、紛糾したものではなかった。
 London の<Times>紙のペテログラード特派員が6月23日に送り、7月3日に公にされた通信文は、不吉な暗示を伝えていた。
 「ロマノフ一族がこの種の公的な著名さを与えられるときはいつでも、人々は何か重要なことが起きている、と考える。
 退位があった王朝に関して頻繁にこのような驚きが生じることに、ボルシェヴィキはますます我慢できなくなっている。そして、ロマノフ家の運命の解決が賢明であるかについて、そしてきっぱりとロマノフ一族の問題を処理してしまうことについて、そのような問題が再び提起されている。」
 もちろん、「ロマノフ家の運命の解決」とは、彼らを殺害することのみを意味している。
 このむしろ粗雑な問題提起は、すげなく無視された。
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 (10) ロシアと外国での、このような風聞への無関心さによって、皇帝家族の運命は話題にされなくなった、と思える。
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 第六節、終わり。

2921/R.Pipes1990年著—第17章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第五節/「特殊任務の家」②。
 (06) 1918年5月末、Ipatev 邸には11人が住んでいた。
 ニコライとAlexandra は、角部屋を占めた。
 Alexis は最初は姉たちと寝室を共有していたが、のちに述べる理由で、6月26日に、両親と同じ部屋に移った。
 娘たちは真ん中の部屋におり、そこで折りたたみ式の簡易ベッドで寝た。
 侍女のA. S. Demidova は、ただ一人、テラスの隣に、自分だけの一部屋をもった。
 Botkin 博士は、客間を占めた。
 台所では、三人の侍従が生活した。料理人のIvan Kharitonov、その弟子の、Leonid Sednev という名前の少年(逮捕された使用人の甥)、娘たちの侍従のAleksei Trup だ。
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 (07) 家族は単調な生活に慣れてきた。
 9時に起床し、10時に茶を飲んだ。
 昼食は午後1時で、主食は4-5時、茶が7時で、夕食は9時。
 11時に就寝した(注45)。
 食事の時間を除いて、彼らは自分の部屋に閉じ込められた。
 ニコライは、日記をつけるのを省略し始めた。
 聖書、ロシアの古典を声を出して読むことに、多くの時間が費やされた。しばしば停電したので、ときには蝋燭の光で読んだ。ニコライは、<戦争と平和>を初めて読む機会を得た。
 家族は、何度も祈祷した。
 彼らは長くて15分ほど庭を散歩するのが許された。だが、ニコライには困難だった肉体運動は、認められなかった。
 ニコライは、障害のある息子を庭に連れ出した。
 二人はトランプ(bezique)やtrickyrack と言うロシア風すごろく(backgammon)で遊んだ。
 教会に行くことは許されなかったが、日曜日と祝日に、客間の即席の礼拝堂で、警護者の監視のもとで、一人の僧侶が礼拝の仕事を行なったものだ。
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 (08) 警護者たちによる皇帝家族の粗暴な扱いについては、多数のおぞましい話がある。
 警護者たちは昼と夜のいつでも娘たちがいる部屋に入ってきた、ニコライが要求した結果として家族が侍従たちと一緒に一つの食卓で食べるつもりだった食料を勝手に奪っていった、前皇帝を乱暴に突くことすらした、と言われている。
 こうした話は、根拠が全くなくはないとしても、誇張されがちだ。
 指揮者と警護者たちの振る舞いは疑いなく、粗暴だった。だが、実際の虐待についての証拠資料は存在していない。
 そうであっても、皇帝家族が耐えた状況は、きわめて痛ましいものだった。
 二階に配置された警護者たちは、つぎのようにして楽しんだ。娘たちが洗面室へ行くのに同行し、なぜそこに行くのか教えろと要求し、出てくるまで外で待つ(注46)。
 淫らな絵や彫刻物を洗面室や浴室で見つけられるように置いておくことは、珍しくなかった。
 Faika Safonov という名のプロレタリアの少年は、皇帝家族の窓の下で卑猥な歌をうたって、友人を楽しませた。
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 (09) ロマノフ一族は、際立つ平静さでもって、幽閉状態、不愉快さ、屈辱に耐えた。
 Avdeev は、ニコライは「自然の陽気さ」を示して、少しも囚人のようには振る舞わない、と思った。
 この出来事に関する共産党員歴史家のBykov は、「自分の周りで起きていることに関する愚かな無関心」について、苛立ちをもって語っている(注47)。
 しかしながら、前皇帝とその家族の行動は、無関心のゆえではなく、礼儀の感覚と、宗教信仰に根ざす宿命論によっていた。
 もちろん我々は、ニコライの「自然の陽気さ」、Alexandra の横柄さ、子どもたちの活気ある精神という表面の背後で、幽閉されている者たちの心に何が動いているかを、知ることができるはずはない。彼らは誰も信用しなかったのだから。
 ニコライとAlexandra の日記は、個人的な日記というよりも、機械的記録だった。
 しかし、「祈り」と題される、彼らの持ち物の中から発見された詩は、彼らの内心の感情を、思いもかけず洞察させてくれる。
 この詩は、Zinaida Tolstoy の兄弟でAlexandra の友人のS. S. Bekhteev によって1917年10月に書かれ、Olga とTatiana に献じてTobolsk へ送られた。
 皇帝家族の文書の中から、この詩が二つ見つかった。一つはAlexandra の手に、もう一つはOlga の手にあった。
 つぎのような詩だ。
 「神よ、我々そなたの子どもに忍耐を授けよ
  この耐えるべき暗い嵐の日々に
  我々人民への迫害と
  拷問が我々に降りかかる。
  神よ、必要な我々に力を授けよ
  迫害者を許し、
  我々の重く痛ましい十字架をもち
  そしてそなたの偉大なる柔和さを得る。
  我々が掠奪され侮辱されるときに
  反乱が起きる不安な日々に
  我々はそなたキリスト救済者に助けを求める
  辛い試練に我々が耐え抜けるようにと。
  創世の神よ、創造の神よ
  祈りを通じて我々にそなたの恵みを授けよ
  我々に心の平穏を授けよ。おお主よ
  耐え難きこのおぞましい恐怖の時間に。
  そして、墓園の入口で
  我々の肉体に聖なる力を吹き込み給え
  我々そなたの子どもが強さを見出すように
  我々の敵が祈る従順さの中に。」(注48)
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 第五節、終わり。

2920/R.Pipes1990年著—第17章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第五節/「特殊任務の家」①。
 (01) 退役した軍の技術者、Nicholas Ipatev は暮らし向きのよい事業家だった。
 わずか数ヶ月前に居宅を購入し、一部は住居に、一部は事務所として使っていた。
 石造りの二階建てで、昔の様式に戻ったモスクワの大貴族が好んだ華美な形で、19世紀末に建築されていた。この家には、給湯装置や電灯のような、普通にない贅沢物が付いていた。
 彼は二階にだけ、家具をしつらえた。そこには、三台のベッド、食事室、居間、応接室、台所、浴室、洗面室があった。
 低層階は半分地下で、空いていた。
 小さな庭と若干の付着構造物があった。その一つは、皇帝家族の持ち物を保管するために使われた。
 列車がEkaterinburg とOmsk の間を往復し、作業員が、街路から家を隠し、内部からの展望を阻止するために、粗雑な塀を建設した。
 6月5日に、もう一つの高い塀が付け加えられた。
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 (02) その家は、高度に安全が確保された監獄に変わった。
 塀は、外部世界との連絡を全て遮断した。
 そして、まだ十分でないかのごとく、5月15日に、被膜の窓は、上部の狭い細片部分を除いて、白ペンキで塗られた。
 在監者たちには、限られた量の範囲内で手紙を出し、受け取ることが認められた。その文通は主として子どもたちとの間のものだったが、チェカとソヴェトの検閲を通過しなければならなかった。しかし、この文通の特権は、やがてなくなった。
 一度短い間、外部者—聖職者と家政婦—が入ることが許されたが、会話は禁止された。
 警護者たちは、在監者と話すことができないという指示を受けていた。
 しばらくの間、新聞が届けられたが、6月5日に終わった。
 食べ物は、警護者の検査を受けて、町から運ばれた。最初はソヴェトの食堂から、のちに近くの修道会から。
 在監者たちの隔離は、完璧だった。
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 (03) 2人のポーランド人以外はロシア人の75人の警護者は、現地の工場労働者から募集され、内部と外部に班分けされていた。
 彼らの給料はよく、一ヶ月で400ルーブルで、食事と衣服付きだった。
 数の少ない内部班が、Ipatev の家に住んだ。
 外部班の警護者は最初は低層階の床で寝ていたが、のちに通りの反対側の私人の住居へと移った。
 彼らは職務中は、回転銃と手榴弾をもっていた。
 二、三人が上層階に配置され、在監者を常に監視していた。
 4台の機銃砲が、家を防衛した。二階の床、テラス、一階の床、屋根裏、にあった。
 警護者は外部にも配置されて、入り口を守り、権限のない者が近づかないようにした。
 Avdeev が、全般を指揮した。
 彼は事務所を設け、上層階の応接室の一画で寝た。
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 (04) ニコライとAlexandra は、子どもたちのことで悩んだ。だが、かれらの苦悩は、5月23日の朝に3人の娘とAlexis が突然に顔を見せたときに終わった。
 彼らはTiumen までTobolsk 川の蒸気船で旅行し、そこからは列車で来た。
 娘たちは、特別の下着の中に、総計で8キログラムの貴重な石を隠していた。
 到着したとき、侍従たちが荷物について助けるのを、警護者は禁止した。
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 (05) チェカは、4人の家臣を逮捕した。ニコライの庶務将校だったIlia Tatishchev 公、皇妃の使用人だったA. A. Volkov、結婚式の名誉女性だったAnastasia Gendrikova 皇女、Court Lectrice のCatherine Schneider。
 彼らは地元の監獄へ勾引され、Tobolsk から前皇帝夫妻に同行したDolgorukii 皇子に加わった。
 一人の例外を除き、これらの者は全員が殺された。
 皇帝一族の残りの者たちのほとんどは、Perm 地方を去るように言われた。
 Alexis の個人的付添人のK. G. Nagornyi、侍従のIvan Sedenev は、Ipatev の屋敷へと移った。
 Alexis の医師のVladimir Derevenko 博士は、私人としてEkaterinburg に滞在することが許された。
 彼は週2回、Alexis を訪問した。つねにAvdeev が同行したが。
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 (06) Tobolsk の一行は大量の荷物を持ってきていた。それらは庭の物置に保管された。
 皇帝家族たちは頻繁に、警護者に随行されて、そこに物品を取りに行った。
 警護者たちは、物品の中身を勝手に扱った。
 Nagornyi とSednev が窃盗に抗議したとき、関係警護者は逮捕され(5月28日)、監獄へ送られ、4日後にチェカによって殺された。
 こうしたこそ泥行為によって、前皇帝夫妻は大いに不安になった。荷物の中には、個人的な文通文書やニコライの日記のある二つの箱が含まれていたからだ。
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 第五節②へつづく。

2919/R.Pipes1990年著—第17章⑥。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第四節/ニコライとAlexandra のEkaterinburg への移送④。
 (18) Ekaterinburg は、その日の朝早くに、皇帝家族が乗る列車が走行中だと知らされた。
 その日の遅くにAvdeev からの電報によって、Iakovlev の策略についてだけ知った。
 〔Ekaterinburg〕ソヴェト幹部会は、Iakovlev は「革命に対する裏切り者」だと宣告し、彼を「法の外」に置いた。
 この趣旨の電報が、あらゆる方向へと発せられた(注37)。
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 (19) この情報を受けて、Iakovlev の列車がKulomzino 交差点に着く前に止めようと、Omsk は、軍事部隊を派遣した。その交差点で、列車は、西に方向を変え、Omsk を回避して、Cheliabinsk へ向かうことができた。
 自分の任務を誠実に履行していないと責任追及されていることを知って、Iakovlev は、Liubinskaia 駅で列車を止めさせた。
 モスクワと連絡をとろうと、機関車を切り離して第四の客車に乗ってOmsk へと進んだ。三つの客車は護衛たちに残してきた。
 このことが起きたのは、4月28-29日の夜間だった。
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 (20) Iakovlev のSverdlov との会話の内容は、Bykov による、きわめて怪しい二次的資料によってのみ知られている。
 「(Iakovlev は)Sverdlov を電話に呼び出し、旅程を変更せざるを得なかった状況を説明した。
 モスクワからは、ロマノフ家をEkaterinburg へ連れていき、Ural 地方ソヴェトへと引き渡せ、との提議(proposition, predlozhenie)があった。」(脚注1)(注38)
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 (脚注1) 文書記録を利用したある歴史家の最近の説明によると、Iakovlev はSverdlov と会話したが、後者はEkaterinburg に連絡し、おそらくは皇帝家族の安全の「保障」を要請した。Ekaterinburg は、囚人たちについて責任をもつことが許される、という条件のもとで、この保障を与えた、と言われている。Ioffe, Sovetskaia Rossiia, No.161/9,412(1987年7月12日), p.4.
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 この叙述は、ほとんど確実に、虚偽だ。三つの理由がある。
 第一に、Iakovlev は「旅程を変更」しておらず、Sverdlov が以前の会話のあいだに指示したのと同じように動いていた。
 第二に、全ロシア[ソヴェト]中央執行委員会の有力な議長とレーニンが信任している者は、より下位の活動家に対して「提議」しようとはせず、「命令」するだろう。
 第三に、かりにSverdlov が実際に、Iakovlev に対して皇帝家族をEkaterinburg ソヴェトに引き渡すことを望んでいたとすれば、翌日の、Iakovlev と現地ボルシェヴィキの間のEkaterinburg での激論は生じなかっただろう。
 最ももっともらしい説明は—推論にすぎないけれども—、こうだ。
 Sverdlov はIakovlev に対して、Ekaterinburg のソヴェトと論争を始めることを避けるように、また彼は前皇帝を誘拐しようとしているとの疑いに終止符を打つために、Ekaterinburg を経てモスクワへと進むように、言った。
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 (21) Sverdlov と会話したあとIakovlev は、鉄道運転者に対して、方向を逆にするよう命令した。
 夜に起きたこうした全てのあいだ、ニコライとその家族は眠っていた。
 4月29日の朝に目覚めて、ニコライは、列車が西へと走っていることに気づいた。このことは、モスクワへと移送されているとの従前の考えの正しさを確認するものだった。
 Alexandra は、Ialevkovから与えられた情報に依っていそうだが、日記にこう記した。「Omsk のソヴェトは我々をOmsk に通させようとはしない。我々を日本に連れていこうとする者がいるとすると、怖いものだ。」
 ニコライは、その日にこう書いた。「みんな、とても気分が良い」。
 こうして、彼らを苦しめる者の手によって外国に送られるという予想は嬉しいものではなかったけれども、ロシアのかつての都、今のボルシェヴィズムの主要な砦へと連れていかれることは、彼らの気分を高めた。
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 (22)  彼らは、Omsk とEkaterinburg の間の850キロを、ときどき停まりながら、一昼夜をかけて進んだ。
 平穏無事だった。
 Iakovlev は、前皇妃は痛ましいほど臆病で、車両に見知らぬ人がいなくなるまで何時間も洗面室へ行くのを待ち、廊下に誰もいないことを確認するまで座席にとどまった、と思い出す(注39)。
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 (23) 4月30日午前8時40分、列車はEkaterinburg 中央駅に入った。
 そこには多数の敵意に満ちた群衆が集まっていた。Iakovlev にその責任を熟考するよう圧力をかけるべく、この地域のボルシェヴィキによって集められていたようだ。
 列車がそこにあった3時間、乗客は離れることを禁止された。そして、その間の事態は、混乱に包まれていた。
 Iakovlev は、Ekaterinburg では安全でないという理由で、ニコライとAlexandra を引き渡すのを拒んだ、と思われる。
 ニコライの日記によると、こうだ。
 「我々は駅で3時間待った。大きな紛議が、この地の人民委員と我々の間で起きていた。前者が、最後には勝った。」
 ニコライは単純に、どの駅で降ろすかに関して論争が行なわれた、と考えた。正午の直後に、二級の商業車庫地である第二Ekaterinburg 駅へと列車が移行させられたからだ。
 Alexandra はより十分に分かっていて、日記にこう書いた。「Yakovlev は、Ural 地方ソヴェトへと我々を引き渡なければならなかった」。
 Iakovlev と現地の人民委員のあいだの対立は、実際には、一行をモスクワへと行かせるかどうか、に関してだった。
 Iakovlev は、おそらくはモスクワ〔政府・党中央〕が介入した後で、論争に敗れた。
 モスクワは、Ekaterinburg のボルシェヴィキたちと敵対したくなかった。そして、いずれにせよ、ロマノフ一族の扱い方について、確固たる方針がなかった。
 いつかの将来にある前皇帝の審判まで、安全にEkaterinburg に彼らをとどめておくことは、レーニンやSverdlov にとって、決して悪い妥協ではなかった、と十分に言えるだろう。
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 (24) 第二Ekaterinburg 駅に列車が入ると、Iskovlev は、Beloborodov にとっての罪人に変わった。彼から、この案件に関する責任から解除する、という手書きの文書を受け取ったのだ(注40)。
 Iakovlev は、おそらく群衆の暴力から皇帝家族を守るために、護衛を要求した(注41)。
 モスクワへと出発する前に、彼は、Ekaterinburg ソヴェトに自分の行動について説明しなければならなった。これは満足を得たようだ(注42)。
 モスクワにいる上司の目から見て彼は間違ったことを何らしなかった、ということは、つぎのことで示されている。すなわち、彼は一ヶ月のちにSamara の赤軍部隊の長に、さらに続いて、東部(Ural)戦線の第二赤軍の司令官に、任命された(脚注2)
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 (脚注2) A. P. Nena rokov, Vostochnyi front, 1918(Moscow, 1969), p.54, p.72, p.101. その年ののちに白軍へ走ったあと、彼はチェコの諜報機関に逮捕された。中国へと逃亡し、ソヴィエト同盟に戻り、逮捕された。Solobetskii の強制収容所でいくらかを過ごした後で釈放され、NKVD(ソ連内務人民委員部)のある収容所の司令官に任命された。しばらくのちに再逮捕され、処刑された。私はこうした情報を、ソヴィエトの作家、Vladimir Kashits 氏に負うている。
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 (25) 午後3時、ニコライ、Alexandra とMaria は、Beloborodov とAvdeev に付き添われて、二台の無蓋車で、市の中心まで連れていかれた。これらには、Alexandra が「完全武装」の兵士たちで満たされたと描写した、貨物自動車が従っていた。
 Avdeev によると(注43)、Beloborodov はニコライに対して、モスクワの〔全国ソヴェト〕中央執行委員会は、ニコライとその家族を来たるべき前皇帝の審判まで拘留すると命じた、と告げた。
 車は、大きい、漆喰で塗られたIpatev の邸宅で停まった。この家は、所有者が一日前に空けていた。そして、ボルシェヴィキが今では「特殊任務の家」と呼ぶ屋敷だった。
 皇帝とその家族は、ここから生きて出ることはできないことになる。
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 第四節の全体が、終わり。

2918/R.Pipes1990年著—第17章⑤。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第四節/ニコライとAlexandra のEkaterinburg への移送③。
 (10) 一行は予定どおり出発し、<tarantassy>(四輪馬車、シベリアでは<koshevy>として知られる)で進んだ。二頭または三頭の馬が牽引する、長い、バネのない四輪車だ。
 35人の護衛たちが随行していた。
 先頭にはライフルで武装した2人の男が乗り、2個の機関砲と2人のライフル武装者が乗る車が続いた。
 その次が、ニコライと、前皇帝のそばに座ることにこだわったIakovlev を運ぶ<tarantass>だった。
 その後ろが2人のライフル武装者、Alexandra とMaria が乗る四輪馬車で、それにさらにライフル武装者が続いた。
 一行の中には、家族医師のEvgenii Botkin 博士、Court Martial のAlexander Dolgorukii 皇子と3人の侍従たちが、含まれていた。
 Alexandra はお気に入りの娘のTatiana に、息子と2人の妹たちの世話を任せてきた。
 Iakovlev は、川が氷結しなくなるとすぐに—二週間以内と予期された—、子どもたちは両親に加わることができる、と約束した。
 彼は、最終目的地を秘密にしたままだった。前皇帝夫妻は、Tiumen に連れていかれている、ということだけ知っていた。そこは、230キロ離れた、最も近い鉄道路線の結節点だった。
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 (11) Tiumen への道路は酷い状態だった。冬の後で轍がいっぱいで、部分的には汚泥がぬかるんでいた。
 Tobolsk を出立してから4時間後、Irtysh 川の浅瀬を渡った。馬は、氷のような水に嵌まりつつ苦労して進んだ。
 半分くらい進んだIevlenko で、彼らはTobol 川の中に入った。川の水が氷となって浮かんでいて、木の厚板に乗って歩いた。
 Tiumen の直前で、Tura 川を横切った。一部は脚で、一部は小船で。
 Iakovlev は、途上ずっと馬の中継を管理していた。交替しての中継の回数は、最小限に抑えられた。
 ある地点でBotkin 博士が気分が悪くなり、回復してもらうために彼らは2時間、小休止した。
 第一日の夕方、出立後16時間、Bochalino に到着した。そこで、夜を過ごすための調整が行なわれた。
 Alexandra は、休憩する前に、こう書き留めた。
 「Marie は四輪馬車に。ニコライは人民委員Yakoblev と一緒に。
 寒く、暗く、風が強い。馬を替えたあと8時にIrtish 川を渡り、12時にある集落に着いて、冷たい提供物と一緒に茶を飲んだ。
 道路は完璧に酷かった。凍った地面、泥、雪、馬の胃に入る水。恐ろしく揺れて、身体じゅうが痛い。
 4回めの馬の取替えの後で、車体にあるポールがなくなった。それで、別の車によじ登って乗り込まなければならなかった。
 5回めの馬替え…。
 8時にYeblenko に着いた。以前は村の店だった家で夜を過ごした。
 一つの部屋で3人で寝た。我々はベッドで、Marie は床の上のマットレスで。…
 Tiumen からどこへ行くのか、誰も言わない。モスクワだと想像している者もいる。
 川が通れあの子が元気なら、すぐに子どもたちは我々と同行することになっている。」(30)
 Iakovlev は途中で、Alexandra に子どもたちに手紙を投函することや電報を打つことを許した。
 停まったある所で、農民が近づいてきて、ニコライはどこに連れていかれるのかと尋ねた。
 モスクワだと答えられたとき、その農民は、「王に栄光あれ。…モスクワへ。今やここロシアにもう一度秩序が生まれる」と反応した(注31)。
 --------
 (12) 一行に随行する護衛たちは、Iakovlev が丁重に前皇帝と接しているために、ますます彼への疑念を募らせた。
 彼らは、なぜニコライが上機嫌であるのかを理解できず、Iakovlev は東部シベリアへ、あるいは日本にすらへとニコライを神隠ししようとしているのでないかと、不思議に思い始めた。
 彼らは、途中に配置されていた巡視者を通じて、Ekaterinburg に対する懸念を伝えた。
 --------
 (13) 4月27日午前4時、事件もなく一晩が過ぎて—予期された待ち伏せ攻撃は実行されなかった—、旅が再開した。
 一行は正午に、Pokrovskoe で停まった。
 シベリアに数千とある中のこの村は、Rasputin の故郷だった。
 Alexandra は、こう記した。「旧友の家の前で長くとどまった。窓から外を見ている彼の家族や友人を見た」。
 --------
 (14) Iakovlev によれば、ニコライは運動と新鮮な空気で元気になっているように見えたが、Alexandra は「寡黙で、誰にも話しかけず、誇り高く、接近し難いように振る舞った」(注32)。だが、二人とも、彼にはきわめて印象的だった。
 彼はのちに、ある報道記者にこう語った。「この人たちの謙虚さに感心した。何も不平を言わなかった。」(注33)
 --------
 (15) 混乱している証拠資料から決定できるかぎりでだが、Iakovlev は、できるだけ早くEkaterinburg に着き、そこを早く後にして、モスクワへ向かうことを意図していた。
 しかし、彼は、Ekaterinburg を通って安全に彼の責任を履行できるかについて、いっそう不安になった。
 つぎのことを知ったならば、さらにいっそう警戒しただろう。彼の一行が後半の歩みを始めていた頃、Ekaterinburg ソヴェトからの人民委員が技師のNicholas Ipatev の家にやって来て、Ipatev の家はソヴェトの必要のために収用される、48時間以内に退去せよ、と伝えた(注34)。その家は、Voznesenskii 大通りとVoz-nesen 通りの角にあった。
 Ekaterinburg は、ロマノフ一族について、自分たちの案をもっていた。
 --------
 (16) Iakovlev の一行は、4月27日午後9時に、Tiumen に着いた。
 そこでただちに、騎兵部隊に囲まれた。騎兵部隊は鉄道駅まで随行した。駅には、一台の機関車と四台の乗客車が待っていた。
 Iakovlev は、皇帝家族、職員たち、持ち物の移動を監視した。
 そのときにNemtsov が現われ、ロマノフ家関係者が眠りに就いているとき、二人の人民委員は電信局へ向かった。
 Hughes 装置を使って、Iakovlev はSverdlov に対して、現地のボルシェヴィキの意図に関する懸念を伝え、皇帝家族をUfa 地方の安全な場所に移動させることの許可を求めた。
 5時間の会話の末、Sverdlov はこの提案を拒否した。
 しかしながら、Sverdlov は、Iakovlev が直接にではなくEkaterinburg を通って移動することには同意した。但し、Tobolsk へ同じその月に彼が通ったのと同じ遠回りの—つまり、Omsk、Chelia binsk 、Samara を通る—行路によってだった。
 Iakovlev は、彼の計画を隠すために、駅長に対して、列車をEkaterinburg の方向へ向かわせ、次の駅で新しい機関車を付け、方向を転換させて、全速力でTiumen を通過してOmsk の方向へ走らせるよう、指令した(注35)。
 4月28日、日曜日の午前4時半、皇帝家族を乗せた列車はEkaterinburg へと向かい、そして方向を転換させた。
 Iakovlev は、説明として、Zaslavskii の同僚のAvdeev に対して、Ekaterinburg は列車を突然に攻撃するつもりだ、との情報を得ている、と伝えた(注36)。
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 (17) 朝に目覚めたとき、ニコライは、列車が東に向かって走っていることに、驚きをもって気づいた。
 彼は、日記にこう書いて不思議がった。「Omsk の後で、どこへ連れていくつもりなのか? モスクワへ、それともVladivostok へ?」(脚注)
 Iakovlev は、言おうとしなかった。
 Maria は護衛たちとの会話を始めたが、彼女の美しさと魅力をもってしても、彼らから何かを引き出すことができなかった。
 彼らもまた、知らなかったのだろう。
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 (脚注) 1918年のニコライの日記は、以下。KA, No.1/26(1928), p.110-p.137.
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 第四節④へとつづく。

2917/R.Pipes1990年著—第17章④。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第四節/ニコライとAlexandra のEkaterinburg への移送②。
 (06) Iakovlev の命令は、前皇帝夫妻に、とくにAlexandra に、激しい動揺をもたらした。
 Iakovlev によると、Alexandra は叫び出した。「残酷すぎる。そんなことをするとは信じない。…!」(注24)
 彼はニコライをどこに連れていくかを言おうとしなかった。そして、のちに、白軍の新聞に、知らなかった、と主張した。
 もちろんこれは、本当ではない。そしておそらく、彼が白軍へと移ったあとの時期には彼には好ましい、彼は本当は白軍が支配する地域にニコライを移すつもりだったと、との風聞に信憑性を与えることを意図していた(脚注)
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 (脚注) Iakovlev は、1918年10月に白軍へと走り、新聞紙のUral’skaia zhi’zn のインタビューを受けた。これは君主主義雑誌のRL, No.1(1921), p.150-3 に再録されている。
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 (07) Iakovlev が去ったあと、ニコライ、Alexandra、Kobylinskii は状況について議論した。
 ニコライは、ブレスト条約に署名するためにモスクワに連れて行かれるという点で、Kobylinskii に同意した。
 かりにそうであれば、使命は無駄だった。「そんなことをするくらいなら、首を刎ねてもらう」(注25)。
 ニコライがボルシェヴィキはブレスト条約を正規のものにするために自分の署名を必要としていると信じることができた、ということは、彼の退位後にロシアで起きたことについて、自分が重要でなくなっていることについて、ほとんど何も知っていなかったことを示している。
 それがIakovlev の任務の目的だとやはり信じたAlexandra は、夫の不動の地位についてははるかに確信がなかった。彼女は夫が退位したことを決して許しておらず、あの運命の日に自分がPskov にいたなら、きっと彼の行動を止めようとしただろうと思っていた。
 彼女は、ニコライには、主に家族に対する威嚇でもって、モスクワで不名誉な条約に署名するよう耐え難い圧力が加えられるだろう、自分が彼の側に立たなければニコライは崩壊してしまうだろう、と懸念した。
 Kobylinskii は、Alexandra が親しい知人のIlia Tatishchev にこう言うのをたまたま聞いた。「ニコライが独りなら、彼は愚かなことをするだろう、と思って怖い」(注26)。
 彼女は取り乱しており、病気の我が子への愛情とロシアへの務めだと感じているもののあいだで切り裂かれていた。
 そして最後には、長年にわたり養い国を裏切っていると責められてきた女性は、ロシアを選んだ。
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 (08) 子どもたちのスイス人家庭教師のPeter Gilliard は、Alexandra に午後4時に会ったのだが、つぎのように叙述した。
 「皇妃は、…Iakovlev は皇帝を移送するためにモスクワから派遣された、彼は今晩に出発する予定だ、と確認した。
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 『人民委員は、皇帝には危害は加えられない、誰かが同行したいのなら反対はしない、と言う。
 皇帝を独りで行かせることはできない。
 前もそうだったように、彼らは彼を家族から引き離したいのだ。…』
 『彼らは、彼の家族のことを心配させて、強引に行かそうとしている。…
 彼らには皇帝が必要だ。彼だけがロシアを代表している、と感じている。
 我々は一緒に、彼らに抵抗する良い立場にいるべきだ。私は審判のときに、彼の傍にいるべきだ。…』
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 『しかし、子どもは病気だ。…
 面倒なことになっていると想像してほしい。…
 ああ、神よ。何という恐ろしい拷問か。…
 人生で初めて、自分がすべきことが分からない。決定しなればならないときはいつでも、啓示を感じてきた。今は、考えられない。…
 しかし、神は皇帝の出発をお許しにならないだろう。そうできないし、そうあってはならないはずだ。きっと今晩に、雪解けが始まるだろう。…』
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 Tatiana Nikolaevna がここで割って入った。
 『でも、お母さん、我々が何と言ってもお父さんは行かなければならないなら、何かを決める必要がある。…』
 私はTatiana を弁護し、Alexis は良くなっている、我々は彼の世話をきちんとすべきだ、と言った。
 皇妃は不決断に明らかに苦しんでいて、部屋の中を行きつ戻りつした。そして、自分にではなく、我々に対して語りかけていた。
 最後に私に近づいて来て、こう言った。
 『よし。これが最善だ。私は皇帝と一緒に行く。Alexis は貴方に委ねよう。』
 ----
 すぐのちに、皇帝が入ってきた。皇妃は彼に向かって歩き、こう言った。
 『決めた。私は貴方と一緒に行く。Marie もそうする。』
 皇帝は答えた。『望むなら、大変けっこうだ』。…
 家族全員が、午後いっぱいを、Alexis のベッドの周りで過ごした。
 ----
 この日の午後10時半に、我々は茶を飲みに上がった。
 皇妃は、二人の娘とともにソファに座っていた。
 彼らの顔は、泣いたことでふくらんでいた。
 我々はみんな、悲しみを隠し、外面上の静穏さを維持すべく最善の努力をした。
 誰か一人が離れれば全員が壊れる原因になる、とみんなが感じていた。
 皇帝夫妻は、静かで、落ち着いていた。
 神が深遠な知恵でもって国の福祉のために要求するならば、いかなる犠牲をも、生命ですらも覚悟している、ということが明らかだ。
 彼らは、優しさや気遣いを示さなかった。
 この素晴らしい静穏さ、この素晴らしい忠誠さは、伝わりやすい。
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 午後11時半、侍従たちが大広間に集まった。
 皇帝夫妻とMarie は、別れを告げた。
 皇帝は全男性と、皇妃は全女性と、抱擁した。
 ほとんど全員に、涙があった。
 皇帝、皇妃が去った。我々は私の部屋へと降りた。
 ----
 午前3時半、乗り物が中庭に入ってきた。
 恐ろしい、<長い四輪馬車>(ratantass)だった。一台にだけ、覆いがあった。
 裏庭に小さな麦わらがあるのに気づいた。それを四輪車の床に撒いた。
 皇妃が使う車の中に、マットレスを入れた。
 ----
 午前4時、上がって皇帝と皇妃に会いに行き、Alexis の部屋を出たばかりだと気づいた。
 皇帝夫妻とMarie は、我々に別れを告げた。
 皇妃と大公爵夫人〔Elizabeta Fedorovna—試訳者〕は、涙で濡れていた。
 皇帝は平静そうで、我々への勇気づけの言葉を述べた。そして、我々を抱擁した。
 さよならと言った皇妃は、上がってAlexis の側にいるよう私に頼んだ。
 私が少年の部屋へ行くと、彼はベッドで泣いていた。
 ----
 数分後、車輪が動くのが聞こえた。
 大公爵夫人は彼らの部屋へ戻る途中でその弟の部屋を通った。私は彼らがむせび泣くのを聞いた。」(注27)
 --------
 (09) Iakovlev は、ひどく急いでいた。
 雪解けが始まったその瞬間に、道路は通れなくなる。
 彼はまた、待ち伏せの危険も知っていた。
 彼の受けた命令は、前皇帝の生命を守り、安全にモスクワまで移送することだった。
 しかし、その使命について多くのことを準備して、Ekaterinburg のボルシェヴィキは異なる計画をもっている、と確信した。
 まさにこの時期に行なわれたUral 地方のボルシェヴィキの大会は、前皇帝の逃亡と君主制復活を阻止するために、ニコライのすみやかな処刑に賛成する票決をしていた(注28)。
 Iakovlev には、Tobolsk のボルシェヴィキ人民委員の一人の Zaslavskii は彼が到着した日にEkaterinburg に来ていた、という情報があった。
 Zaslavskii は、ニコライを捕え、必要があれば殺害するという意図をもって、Ievlenko に待ち伏せ部隊を設置した、との風聞があった。そこはTiumen の鉄道交差点につながる道路がTobol 川を渡る箇所だった(注29)。
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 第四節③へとつづく。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
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  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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