秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2805/R.パイプス1990年著—第14章⓾。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第五節/在独ロシア大使館とその破壊活動②。
 (08) Ioffe のドイツでの活動によって、モスクワで反対派と連絡を取ろうとするMilbach やRietzler の臆病な試みは、無害の戯れのごときものになった。
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 (09) ロシアの直接的利益の観点からは、ドイツでの革命を促進することよりも重要だったのは、ロシアの反ボルシェヴィキ勢力を一緒に妨害できるよう、ドイツの産業界からの支援を獲得することだった。
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 (10) ドイツにとっての事業上の大きな利益をロシアで得るのはほとんど期待できなかった。そして、ボルシェヴィキが認めてはじめてそうできるとドイツの事業界は知っていたので、彼らはボルシェヴィキ体制の最も熱狂的な擁護者になった。
 1918年春、講和条約調印のあと、多数のドイツの商工会議所の諸団体が政府に、ソヴィエト・ロシアとの通商関係を再開するよう請願した。
 5月16日、Krupp はこの問題を討議するため、デュッセルドルフで主要なドイツの実業家たちの、とくにAugust Thyssen とHugo Stinnes を含めての、会議を催した。
 この会議は、ロシアへの「イギリスやアメリカの資本」の浸透を阻止して、ロシアで支配的な影響力を確立するというドイツの利益を可能にする策を講じることが肝要だ、と結論づけた。
 外務省の後援で同じ月に開催された別の事業家会合は、ロシアの輸送をドイツが統御するのが望ましいこと、鉄道を再建することへのドイツの援助を求めるロシアの要望に応えるのが目標であること(52)、を強調した。
 7月、ドイツの事業家たちはモスクワへ代表団を送った。
 銀行家たちは、Ioffe がベルリンに到着するのを歓迎した。
 Ioffe はモスクワに対してこう自慢した。
 「ドイツ銀行の頭取は我々をしばしば訪問した。
 Mendelssohn は、私との会見を長らく求めてきた。彼はいろいろな口実で、すでに三回やってきた。」(53)
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 (11) このような通商上の熱心な要望があったので、ロシアは、ドイツの産業界や経済界の影響力ある層を、友好的な圧力団体にすることができた。
 この点で、ボルシェヴィキは、情報をより豊富にもつという優越的立場を得た。
 ボルシェヴィキは、ドイツの国内状況やエリートたちの知的脳力を熟知するようになった。
 独立社会主義党からは、ドイツの諸組織間の対立を利用することのできる、微妙な情報が入ってきた。
 ボルシェヴィキと接触するドイツ人はボルシェヴィキについてほとんど何も知らず、そのイデオロギーを真面目には考慮しなかった。
 彼らは巧みにこの状況に適合し、脅威ではないという印象を与えて自分たちを守った。政治的擬態の、まさに優れた一例だった。
 Ioffe とその仲間たちが用いた戦術は、革命的スローガンをまくし立てるが実際にはドイツとの通商しか望んでいない「現実主義者」(realists)だ、と装うことだった。
 この戦術は、頭の硬いドイツ人事業家には抗し難く魅力的だった。ボルシェヴィキの革命的修辞を誰も正気で真剣に受け取ることはできないという、彼らの確信をさらに強くしたのだから。
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 (12) この欺瞞がうまく機能したことは、1918年夏にIoffe がGustav Stresemann ともった会合によっても明らかだ。Stresemann は右翼のドイツ政治家で、リベラルかつ保守的志向をもつという別の公的人物像ももっていた。
 Stresemann を助けたのは、Leonid Krasin だった。Krasin は、戦前と戦中にSiemens、Schuckert と大きな経営的関係をもち、ドイツとの間にきわめて良好な関係があった。
 7月5日の非公式の会合で、二人のロシア人は、レーニンだけではなく親連合国のトロツキーもドイツの「後援」を望んでいる、と確認した。
 ロシアに反ドイツの雰囲気があれば、二つの国が同盟する正式の条約はまだ性急すぎただろうが、ドイツが正しい政策を追求するならば雰囲気は変わるだろう。
 この方向への一歩は、ドイツがウクライナから輸送している穀物のうちのある程度をロシアに配分することだろう。
 ドイツには東部前線での軍事作戦を再開する意図はない、とモスクワに対して保証すれば、また役立つだろう。そうなれば、ロシアは、その戦力を、Murmansk からイギリス軍を駆逐し、チェコ軍団の反乱を粉砕することに集中することができる。チェコ軍団は最近はシベリアに出現していた。
 ドイツはロシアとの良好な関係から大きな利益を獲得し続けた。ロシアはドイツが必要とする、綿、鉱油、マンガン等々の全ての原料を供給することができたからだ。
 ドイツ人は、モスクワが放つ革命的政治宣伝広告について心配する必要がなかった。「現下の情勢のもとでは、マルクス主義[ボルシェヴィキ]政府はその夢想家的目標を放棄し、実際的な社会主義政策を追求する用意があった」(54)。
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 (13) Ioffe とKrasin は、素晴らしいショーを演じた。
ドイツ人がもっと情報をもち、もっと傲慢ではなく、地政学的妄想にもっと捉われていなければ、彼らは見通せていただろう。
 なぜなら、ロシア人はドイツ人に、その支配が及んでいない領域—中央アジア、Baku、ジョージア—でのみ利用可能な産物を提示し、「その夢想家的目標」の放棄とはかけ離れてまさにそのときに最も急進的な局面に入っていた彼らの政府の急進主義政策を小さく見せていたのだから。
 しかし、欺瞞は機能した。
 だから、Stresemann は、印象をつぎのように概括した。//
 「現在の(ロシア)政府と、広範囲の経済的および政治的理解の確立へと至る大きな誘因を我々は得た…ように思われる。ロシア政府は、ともかくも、帝国主義的ではない。また、債務の不履行によるだけでもロシアと連合諸国の間に克服し難い障壁を築くのだとすれば、連合諸國を受け入れることも決してあり得ない。
 かりにこの機会を逃し、今のロシア政府が崩壊するならば、きっとどの継承政府も、現在の統治者よりも連合諸國に親近的なものになり、東部前線の危険性は明確に切迫するだろう。…
 我々とロシアがともに行動しているのを我々の敵対者が見るならば、彼らは我々に経済的に勝利するとの希望も捨て去るだろう—彼らは軍事的勝利をとっくに諦めている—。そして我々は、どんな攻撃にも抵抗できる状態になるだろう。
 こうした要素を賢明に判断するならば、我々はまた、国家の精神を過去の勝利の高みへと持ち上げることができる。
 ゆえに、私は、今行なっている努力が最高軍事司令官の支持を得ることができるならば、大いに歓迎するだろう。」(55)
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 (14) ドイツ外務省は、この見解に賛同した。
 外務当局の一人が5月に用意した内部的覚書には、ソヴィエトの指導者たちはドイツが容認することができるはずの「ユダヤ人事業家」だ、と記されていた(56)。
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 (15) ドイツとロシアは7月初めに、この友好的雰囲気の中で、通商協定に関して会談をし始めた。 
 いわゆる補足条約が調印されたのは、8月27日だった。これは、両国の間にわずかな期間だけの公式の同盟関係をもたらした。この8月27日は、Ludendorff ですら敗戦を覚悟した、ドイツ軍が西部戦線で敗北した「暗黒の日」の直後のことだった。
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 第五節、終わり。つづく。

2804/私の音楽ライブラリー049。

 音楽ライブラリー049。
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 127 比叡おろし
  歌唱/小林啓子、作詞+作曲/松岡正剛、1970年〔Harry Kawaguchi〕。
  *松岡正剛、1944年生〜2024年没。満80歳、享年81。
  **参照、ユリイカ2024年11月号(青土社)/特集・松岡正剛。
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2803/R.パイプス1990年著—第14章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第五節/在独ロシア大使館とその破壊活動①。
 (01) Ioffe は、〔1918年〕4月19日に、任務を携えてベルリンに到着した。
 ドイツの将軍たちは、ロシアの外交官は主として諜報と破壊に従事するだろうと正確に予測して、ブレスト=リトフスクかドイツから離れた別の都市にソヴィエト大使館が置かれるよう望んだ。しかし、外務当局はこれを却下した。
 Ioffe は、Unter den Linden 7番地の帝制時代の古い大使館を引き継いだ。ドイツはそこを、戦争のあいだずっと、無傷のまま維持していた。
 その建物の上に彼は、鎌と槌が描かれた赤旗を掲げた。
 のちにソヴィエト政府は、ベルリンとハンブルクに領事館を開設した。
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 (02) Ioffe の館員は最初は30人だったが、その数は増加し続けた。ドイツとソヴィエトが関係を消滅させた11月には、180人になっていた。
 加えて、Ioffe は、ソヴィエトの政治的宣伝工作文書を翻訳させ、破壊活動を実行させるためにドイツの急進派を雇用した。
 彼はモスクワとの電信による通信手段を継続的に維持した。ドイツはこれを盗聴し、連絡のいくつかを暗号解読した。だが、大量であるため、公刊されていないままだ(脚注)
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 (脚注) Ioffe のレーニンあて文書を選抜したものは、I. K. Kobiliakov 編集によるISSR, No. 4(1958), p.3-p.26 で公表された。
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 (03) 在ベルリンのソヴィエト外交代表団は、ふつうの大使館ではなかった。それはむしろ、敵国の奥深くにある革命の前哨基地だった。すなわち、その機能は、革命を促進することだった。
 アメリカの一記者がのちに述べたように、Ioffe はベルリンで、「完璧な背信」(perfect bad faith)でもって行動した(45)。
 Ioffe の諸活動から判断すると、彼には三つの使命があった。
 第一は、ボルシェヴィキ政府を排除したいドイツの将軍たちの力を弱くすること。
 彼はこれを、事業や銀行の団体の利益に訴えたり、ドイツに対してロシアでの独特の経済的特権を与える通商条約の交渉をしたりすることで達成した。
 第二の使命は、ドイツの革命勢力を援助することだった。
 第三は、ドイツの国内情勢に関する情報を収集することだった。
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 (04) Ioffe は、革命的諸活動を鉄面皮の心持ちでもって実行した。
 彼はドイツの政治家や事業家たちに、つぎのことを期待した。彼らの経済的搾取に従属するロシアでの優越的な利益を増大させて、彼が冒す外交上の規範に逸脱した行為を看過するようドイツ政府を説得すること。
 1918年の春と夏、彼が主として行なったのは、独立社会主義党の極左派であるSpartacist 団と緊密に結びついた、政治的宣伝工作だった。
 のちにドイツの統合が崩れ始めたとき、彼は、社会革命の火を煽るべく金銭と武器を提供した。
 ロシア共産党の支部に変わっていた独立社会主義党は、ソヴィエト大使館と調整してその諸活動を行なった。あるときには、モスクワは、この党の大会で挨拶する公式の代表団をドイツに派遣した(46)。
 Loffe はこの任務のために、モスクワから1400万マルクを与えられた。彼はこの金をドイツのMendelssohn銀行に預けて、必要に応じて引き出した(脚注)
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 (脚注) Baumgart, Ostpolitik, p.352n.
 Ioffe は、極左から極右までドイツの全政党との接触を維持したけれども、「社会的裏切り者」の党である社会民主党との関係は意識的に避けた、と語る。VZh, No. 5(1919), p.37-38.
 レーニンの指示にもとづくこの政策は、15年後のスターリンの政策を予期させるものだった。スターリンは、ドイツ共産党にナツィスと対抗する社会民主党との協力を禁止することによって、ヒトラーの権力掌握を可能にしたとして、広く非難された。
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 (05) Ioffe は、ドイツの多くの地方諸都市に、ソヴィエトのドイツ情報センターを設けた。ソヴィエトの情報宣伝が連合諸国のメディアに伝えられるオランダでも同様だった。
 1919年、Loffe は明らかに誇りをもって、ベルリンでのソヴィエト代表部として自分が達成したことを詳しく述べた。
 「ソヴィエト大使館は、十の左派社会主義新聞よりも多くのことを指揮監督し、援助した。…
 全く当然のことだが、その情報作業ですら、全権代表の活動は「合法的目的」のものに限定されなかった。
 情報資料は印刷されたものに限られたわけでは全くなかった。
 検閲者が削除したもの全てが、最初から通過しないだろうと判断されて提示されなかった全てが、そうであるにもかかわらず、非合法に印刷され、非合法に散布されていた。
 議会で利用するためにそれらが必要になることは、きわめて頻繁にあった。そうした資料は(社会民主党の)独立会派からドイツ帝国議会の議員たちに渡された。受け取った者は議会での演説のために使った。
 ともあれ、こうして文書になっていった。
 この作業では、ロシア語の資料に限定することはできなかった。
 ドイツ人社会の全ての階層と堂々たる関係を持つソヴィエト大使館、ドイツの各省庁にいるその工作員たちは、ドイツの諸事情についてすらドイツの同志たちよりも多くの情報をもっていた。
 前者が受け取った情報は、やがては後者に伝えられた。こうして、軍部の多くの策謀は、適切な時期に公衆一般の知るところになった。//
 もちろん、ロシア大使館の革命的活動が情報の分野に限られていたのではなかった。
 ドイツには、戦争のあいだずっと地下で革命的活動を行なっていた革命的グループが存在した。
 機会が多かったのみならずその種の陰謀的活動に習熟もしていたロシアの革命家たちは、これらのグループと協力しなければならなかったし、実際に協力した。
 ドイツの全土が、非合法の革命的諸組織によって覆われていた。数十万の革命的冊子と宣伝文書が、前線と後方で毎週に、印刷され、散布された。
 ドイツ政府は一度、煽動的文書をドイツに密輸出しているとしてロシアを追及し、用いられる価値があるだけのエネルギーでもって、運搬者のカバンに、密輸入されたものを捜索した。だが、ロシア大使館がロシアから持ち込んだものはドイツ国内でロシア大使館の助けでもって印刷されたものに比べれば大海中の一滴にすぎない、ということに気づかなかった。」//
 Ioffe によれば、要するに、在ベルリンのロシア大使館は、ドイツ革命を準備すべく、ドイツの社会主義者たちとの緊密な接触のもとで継続的に仕事をした(48)。
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 (06) 在独ソヴィエト大使館は、さらにまた、他のヨーロッパ諸国に、革命的文献と破壊的資金を分配する経路として機能した。同大使館を、オーストリア、スイス、Scandinavia、オランダへ向けて外交嚢を配達するクーリエたちの、諸国の安定した流路(ドイツの予想では100ないし200)が通過していた。「クーリエたち」の中には、ベルリンに着いた後で姿を消す者もいた(49)。
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 (07) ドイツ外務省は、このような破壊的活動に関係する軍事および内政当局から、抗議を頻繁に受け取った(50)。しかし、ドイツのロシアでの高次の利益だと認めているもののために、それらを大目に見た。
 一度短いあいだ、ソヴィエト大使館側のとくに不埒ないくつかの行動についてあえて抗議したとき、Ioffe は回答を用意していた。こう説明した。
 「ブレスト条約自体が、計略を行なう機会を認めている。
 締結した当事者は諸政府であるがゆえに、革命的行動の禁止は、政府とその機関に適用されると解釈することができる。
 ロシア側からはこう解釈される。そして、ドイツが抗議している全ての革命的行動は、全てロシア共産党の行動であって同政府のそれではない、とただちに説明される。」(51)
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 つづく。

2802/西尾幹二批判081—「保守」時代。

 <文春オンライン>上に2019年1月に掲載された辻田真佐憲によるインタビューに西尾幹二が答える発言録は、「著者が初対面の近現代研究者・辻田真佐憲氏と対談する」と題して、全集第22巻A(2024年10月刊)に収載された。この全集版の一部に2024年時点での「加筆修正」がこっそりと行われていることは、前回に指摘した。もう繰り返さない。
 このインタビューまたは対談の記事は、西尾幹二が執筆したものではない、あるいは西尾が事前に用意した文章原稿をそのまま基礎にしていないと見られるため、西尾幹二の「本音」および「本性」が表現されているところがある。
 一つは、西尾幹二は自分自身の経歴または「歴史」をどう振り返っているかだ。これをもっと正確に言えば、西尾幹二は「保守」(主義)の評論家・「もの書き」だという自己規定、あるいはそのように(「保守」派だと)外部・世間からは受けとめられているという「自覚」を、いつ頃からもつに至ったのか、という問題だ。
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 聞き手の辻田真佐憲はまだ若いためか、西尾の作業、その「歴史」を正確には知っていないようだ。
 引用は省略するが、①西尾の大学院修士課程後のドイツ「留学」からの帰国後に(たぶん1962年—秋月)「現在に続く論壇でのお仕事をされるようになったのか」と質問している(全集22A、p.478)。
 また、②1964年の雑誌「自由」懸賞論文や1969年年の数冊の書物刊行に西尾が触れたあとで、辻田は「保守言論人としてそこからスタートをされるわけですね」とも(確認的に)質問している(同頁)。
 別に触れるが、西尾の回答はいずれについても<違う>だ。
 むろん「保守」(主義)の意味にかかわってはいるが、上の問題に秋月が関心をもつのは、この辻田の浅い理解に加えて、つぎのような<評価>が、西尾幹二について行われているからだ。
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 a真の保守思想家」(の集大成的論考)—西尾・歴史の真贋(2020、新潮社)のオビ。
 b 「確乎不抜の保守主義者だった」—吉田信行・月刊Hanada2025年1月号の追悼論稿の表題。
 c保守論壇『最後の大物』といえる人物だった」—月刊正論2025年1月号追悼特集の前書き(編集部)。
 これらの「保守」とは何だろうか。
 a で意味の説明がないのは当然として、b、cでの「保守」も、産経新聞「正論」欄担当者(論説委員長)や月刊正論編集部が用いる「保守」(論壇)なのだから、西尾はそれらの雑誌等における「保守」の人物だったと位置付けられているにすぎない。
 そして、産経新聞(「正論」欄)や月刊正論は自らを「保守」だと、あるいは「保守」派の新聞・雑誌だと自称または自己評価してきたはずだ。
 そうすると、西尾幹二が「保守」の人物だと言うのは、その「保守」に<反共産主義>、<反左翼>程度の意味はあるとしても、産経新聞「正論」欄や月刊正論が原稿執筆を(文章執筆請負業者に)依頼してきた、つまり「起用」してきた人物の一人だった、というのとほとんど同じことだろう。つまりは、ほとんど何を意味しているかが不明の循環論法的言明で、産経新聞・月刊正論等が「保守」系メディアだと言う場合の「保守」とは何かがさらに問題にされなければならないわけだ。
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 もう少しは立ち入って、西尾幹二における「保守」を話題にしてみたい。その際、西尾幹二自身による「保守(主義)」に関する議論には重きを置かない。
 そうではなく、 <日本会議>との関係に注目したい。1960〜1980年代、西尾幹二は、生長の家・日本青年協議会(→日本会議)と何の関係もなかった。次回に移す。
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 ところで、上のb は、関係「評論家」らの没年をかなりまとめて列挙してくれている。c で西尾が「最後の」と形容されていることとの関連でも興味深くはある。以下に紹介しておく。(櫻井よしこ、平川祐弘、加地伸行らは「大物」と見なされていないようであることも面白くはある。年齢で八木秀次、「起用」回数で佐伯啓思は、きっと論外なのだろう)
 1994年11月、福田恆存。
 1996年02月、司馬遼太郎。
 1997年09月、会田雄次。
 1999年07月、江藤淳。
 2012年・猪木正道、2017年・渡辺昇一、2018年・西部邁、2019年・堺屋太一、2022年・石原慎太郎。
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2801/R.パイプス1990年著—第14章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第四節/ドイツ大使館員がモスクワに到達②。
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 (10) モスクワでの一ヶ月後、Milbach は、ボルシェヴィキ体制の存続可能性、およびロシア政策全般の基礎になっている自国ドイツのロシアに関する知識、について、不安を感じ始めた。
 ボルシェヴィキは存続しそうだと、信じ続けはした。すなわち、5月24日に、ソヴィエト体制の崩壊は切迫していると予言するBothmer その他の軍人たちに反対する見解を書いて、外務省に警告した(36)。
 しかし、ロシアでの連合諸国の外交官や軍人たちの活動や彼らの反対少数派集団との接触を知って、レーニンは権力を失うのではないか、そしてドイツはロシアでの援助の根拠を全て失って孤立するのではないか、と懸念した。
 したがって、彼は、ボルシェヴィキへの信頼に加えて反ボルシェヴィキ少数派との会話を開始するという政治的保険をかける、という柔軟な政策を主張した。
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 (11) 5月20日、Milbach は、ソヴィエト・ロシアの状況とドイツのロシア政策にある危険性について、最初の悲観的な報告書を、本国に送った。
 彼はこう書いた。体制に対する民衆の支持はこの数週間で大きく減少した。トロツキーはボルシェヴィキ党は「生きている死体」だと語ったと言われている。
 連合諸国は泥水の中で魚釣りをしており、エスエルやメンシェヴィキの国際主義者、セルビアの戦争捕虜やバルトの海兵たちに対して寛大に資金を配っている。
 「いま以上に腐敗した賄賂のロシアは絶対にない」。
 トロツキーが共感しているため、連合諸国はボルシェヴィキに対する影響力を増している。
 トロツキーは、事態が悪化するのを阻止するために、ドイツ政府が一月に終わらせたボルシェヴィキに対する助成金を更新する金を必要とした(37)。
 ボルシェヴィキを連合国の方へ向ける、親連合国のエスエルが権力を奪取する、この二つをいずれも阻止するために、資金が必要だ(38)。
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 (12) この報告書には、より明確に悲観的な調子の報告が続いた。そしてこれらは、ベルリンで顧みられなかったのではなかった。
 6月初め、Kuhlmann は見方を変えて、ロシアの反対派との会話を開始する権限をMilbach に与えた(39)。
 彼はまた、Milbach に、裁量性のある資金を割り振った。
 6月3日、Milbach はベルリンに電報を打って、ボルシェヴィキに権力を持たせつづけるに毎月300万マルクが必要だと、伝えた。外務省は、総計で4000万マルクの意味だとこれを解釈した(40)。
 Kuhlmann は、ボルシェヴィキが連合国側へと転換するのを阻止するには「金が、おそらくは大量の金が」かかることに同意見だった。そして、ロシアでの秘密工作のために在モスクワ大使館に上記の金額を送ることを承認した(41)。
 この金がどう使われたのかを、正確に叙述することはできない。
 約900万マルクだけは、特定目的のために使われた。総額の半分はボルシェヴィキ政府に、残りは反対派に支払われたように思われる。後者の相手は主に、Omsk を中心地としたシベリアの反ボルシェヴィキ臨時政府、親皇帝派の反ボルシェヴィキ集団、Don コサックの首長、P. N. Krasnov だった(脚注)
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 (脚注) ボルシェヴィキ政府は、6月、7月、8月の毎月、ドイツから300万マルクの援助金を受け取った。Z. A. B. Zeman, ed., Germany and the Revolution in Russia, 1915-1918 (London-New York, 1958), p.130.
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 (13) ドイツが反ボルシェヴィキ少数派と接触するのを妨げたのは、ブレスト条約だった。
 ボルシェヴィキ以外の全ての政治的党派は、この条約を受容しようとしなかった。ボルシェヴィキにすら、分裂があった。
 Milbach が観察していたように、ソヴィエト・ロシアの状況は厄災的であり、かりに代償がブレスト条約を受容することだったとすれば、非ボルシェヴィキのどのロシア人も、ボルシェヴィキに対抗するドイツによる援助を受け入れようとしなかっただろう。
 言い換えると、反ボルシェヴィキ集団からの支持を得ようとすれば、ドイツは条約の実質的な改正に同意しなければならなかった。
 Milbach の意見では、反対派集団はポーランド、リトアニア、Courland の喪失を黙認する可能性があった。しかし、ウクライナ、エストニア、そしてたぶんLyvonia の割譲を容認することはなかった(42)。
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 (14) Milbach は、Rietzler に、チェカと連合諸国工作員の鼻先でロシアの反対派集団と交渉するという微妙な任務を与えた。
 Rietzler は主として、いわゆる右翼中心派(Right Center)と接触した。これは、ボルシェヴィズムはドイツ以上に悪辣なロシアの国益に対する脅威だと結論づける、そしてボルシェヴィキを排除するためにドイツと合意する心づもりのある、信望ある政治家や将軍によって、6月半ばに結成された小さな保守的グループだった。
 この集団は、財政、産業、軍事上のしっかりした交渉を要求はした。しかし、現実には顕著と言えるほどの支持者がなかった。なぜなら、ロシアの積極的な活動家の圧倒的多数は、ボルシェヴィキはドイツが生んだものだと考えていたからだ。
 右翼中心派の中心人物は、Alexander Krivoshein だった。この人物はかつてStolypin 改革の指導者で、上品な愛国者であって、かりにドイツがロシア政府を打ち立てるならば受け入れやすい首班候補だったかもしれなかった。しかし、彼は旧体制の典型的な官僚だったので、命令を下すというよりも命令に服従してきた人物だった。
 他に、1916年攻勢の英雄だったAleksei Brusilov もいた。
 Krivoshein は、媒介者を通じて、Rietzler につぎのことを知らせた。すなわち、彼のグループはボルシェヴィキを打倒する用意がある、そのための軍事的手段もある、しかし、実行するにはドイツの積極的な協力が必要だ(43)。
 このような協力を実現するには、ドイツはブレスト条約の改訂に同意しなければならなかった。
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 (15) 接触はしたけれども、ドイツは、ロシアの反対派への敬意をほとんど示さなかった。
 Milbach は君主主義者を「怠け者」と見なし、Rietzler は、ドイツの援助と命令を求める[ロシアの]ブルジョアジーについて、侮蔑的に「嘆いて愚痴を言う者たち」と語った(44)。
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 第四節、終わり。つづく。

2800/R.パイプス1990年著—第14章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第四節/ドイツ大使館員がモスクワに到達①。
 (01) 1918年の後半、ロシアとドイツの両国は、互いに大使館を設置した。Ioffe がベルリンに行き、Mirbach がモスクワにやって来た。
 ドイツ人は、ボルシェヴィキ・ロシアが最初に信認した外国使節団だった。
 彼らは驚いたのだが、ドイツ人がモスクワまで旅をした車両は、ラトヴィア人によって警護されていた。
 ドイツの外交官の一人は、ロシアによってモスクワで催されたレセプションは驚くほど温かかった、と書いた。戦勝者がこれほどまでに歓迎されたことはかつてなかった、と彼は思った(31)。
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 (02)  使節団の長のMilbach は47歳の経歴ある外交官で、ロシアの諸事情について多くの経験があった。
 彼は1908年から1911年まで、ペテルブルクのドイツ大使館の顧問として勤務し、1917年12月に、ペテルブルクへの使節団の長となった。
 Milbach は、プロイセン・カトリックの富裕で貴族的な家庭の出身だった(脚注)
 昔からの派の外交官で、同僚たちの中には「ロココ伯爵」と呼んで相手にしない者もおり、革命家たちと付き合うのは苦手だった。しかし、機転と自制心によって、外務省内での信頼を獲得していた。
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 (脚注)  Milbach につき、完全には信頼できないが、つぎを見よ。Wilhelm Joost, Botschafter bei den roten Zaren (Vienna, 1967), p.17-p.63.
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 (03) Milbach の片腕のKurt Riezler は、36歳の思慮深い人物で、やはりロシアの事情をよく知っていた(脚注)
 彼は1915年に、レーニンの協力を確保するという、Parvus の失敗した企てに一定の役割を果たした。
 1917年にストックホルムに派遣され、ドイツ政府とレーニンの代理人の間の主要な媒介者となった。彼は、いわゆるRiezler 基金からロシアへとその代理人に援助金を送った。
 Riezler は、ボルシェヴィキが十月のクーを実行するのを助けた、と言われている。但し、そこでの彼の役割は明瞭ではない。
 同僚たちの多くと同様に、彼は、ドイツを救うことのできる「奇跡」として、クーを歓迎した。
 彼はブレストでは、融和的政策を主張した。
 しかしながら、彼は、気質的に悲観論者で、どちらの側が戦争に勝ってもにヨーロッパは衰亡に向かっている、と考えていた。
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 (脚注) 彼の諸文書は、Karl Dietrich Erdmann によって編集された。Kurt Riezler, Tagebücher, Aufsatze, Dokumente (Göttingen, 1972).
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 (04) ドイツ大使館の第三の主要な人物は軍事随行員のKarl von Bothmer で、Ludendorff やHindenburg の考え方を引き継いでいた。
 この人物はボルシェヴィキを毛嫌いしており、ドイツはボルシェヴィキと縁を切るべきだと考えていた(32)。
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 (05) これら三人のドイツ人は、ロシア語が分からなかった。
 彼らと接触することになるロシア人は、全員が流暢にドイツ語を話した。
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 (06) ドイツ外務省はMilbach に対して、ボルシェヴィキ政府を支援すること、条件を設けることなくロシアの少数反対派と連絡を保つこと、を指示した。
 Milbach は、ソヴィエト・ロシアの真実の状況およびロシアにいる連合諸国の代理人たちの活動に関する情報を得ることを自らの任務とした。ブレスト条約が定めていた諸国間の通商交渉の基礎作業をするのは当然のことだった。
 20人の外交官とそれと同数の書記職員たちは、Arbat 通りから脇に入ったDenezhnyi Pereulok に贅沢な私宅を構えた。それらは、共産主義者たちから事業を守り続けたいドイツ人の砂糖事業家の財産だった。
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 (07) Milbach は数ヶ月前にペテログラードにいたことがあり、自分が何を期待されているのかを知っていたに違いなかった。そうであっても、モスクワで見たものには唖然とした。
 彼はモスクワ到着の数日後に、ベルリンへこう書き送った。//
 「通りはとても活発だ。
 しかし、もっぱら貧民たち(proletarian)で溢れている。良い衣服を着た者たちを滅多に見ることがない。—まるで、かつての支配階級、ブルジョアジーはこの地球上から消滅したかのごとくだ。…
 かつては公衆の中で富裕な層だった聖職者たちは、同様に、通りから消失した。
 店舗では、主に以前は美麗だったものの埃まみれの残物を見つけることのできるのだが、それらは狂気じみた値段で売られている。
 労働というものが欠落した状態の蔓延、愚かなままでの怠惰、これはこうした風景全体に特徴的だ。
 工場は操業を停止した状態で、土地はほとんどが耕作されないままだ。—ともかく、これが我々が今度の旅で得た印象だ。
 ロシアは、[ボルシェヴィキによる]クーによる苦難以上の、さらに大きな災難へと向かっているように思える。//
 公共の安全には、望まれるものがまだ残っている。
 昼間には自由に一人で動き回ることができるのだが。
 しかしながら、夕方に自宅から出ることは勧められない。射撃の音が頻繁に聞こえ、小さなあるいは大きな衝突がしょっちゅう起きているようだ。…//
 ボルシェヴィキによるモスクワの支配は保持されている。何よりも、ラトヴィア軍団によってだ。
 さらには、政府が徴発した多数の自動車にも依っている。多数の自動車が市中を走り回り、危険な箇所へと、必要な兵団を送り届けている。//
 このような状態が今後どうなるかを、まだ判断することができない。しかし、とりあえずは一定の安定の見込みがある、ということは否定できない。」(33)
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 (08) Riezler もまた、ボルシェヴィキ支配のモスクワに意気消沈した。最も衝撃的だったのは、共産主義官僚たちの腐敗の蔓延と怠惰な習慣だった。とりわけ、女性を求める飽くことのない要求。(34)

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 (09) 5月半ば、Milbach はレーニンと会った。
 レーニンの自信は、彼を驚かせた。
 「一般にレーニンは自分の運命に岩のごとき確信を持っていて、何度も何度も、ほとんど執拗なほどに、際限なき楽観主義を表明する。
 同時にレーニンは、彼の支配体制はまだ無傷であったとしても、敵の数は増え続けていて、状況は『一ヶ月前以上の深刻な警戒』を必要としている、と認める。
 他諸政党は現存の体制を拒否する点だけで一致しているが、別の見方をすれば、それら諸政党は、全ての方向に離ればなれになりそうで、ボルシェヴィキの権力に匹敵するほどのそれを全く持っていない。その他の諸政党ではなく支配政党たるボルシェヴィキだけが組織的権力を行使する、という事実に、レーニンの自信の根拠はある(35)。(脚注)
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 (脚注) 当時にものちにも、レーニンは私的会話では人民の支持に自分の強さの淵源を求めなかった、ということは注目に値する。彼は強さの由来を反対派の分裂に見ていた。
 彼は1920年代にBertrand Russel に、自分と仲間たちは二年前には周囲の敵対的状況の中で生き延びられるかを疑っていた、と語った。
 「彼は自分たちが生き延びたことの原因を、様々な資本主義諸国の相互警戒心とそれらの異なる利害に求める。また、ボルシェヴィキの政治宣伝の力にも」。以上、Bertrand Russel, Bolshevism (New York, 1920), p.40.
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 ②へとつづく。

2799/R.パイプス1990年著—第14章⑥。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 〈第14章・革命の国際化〉の試訳のつづき。
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 第14章・第三節/連合諸国との会話の継続②。
 (05) このような会話が行われている間の4月4日、日本は小さな派遣軍団をVladivostok に上陸させた。
 建前としては、この軍団の使命は、在留日本国民の保護だった。最近に2人の日本人が、そこで殺害されていた。
 しかし、日本軍の本当の目的はロシアの海岸地域の掌握と併合にあると、広くかつ的確に考えられていた。
 ロシアの軍事専門家たちは、輸送とシベリア地域の公的権威の崩壊によって、莫大な後方支援が必要な数十万の日本軍のヨーロッパ・ロシアへの移動が阻害される、と指摘した。
 だが、連合諸国はこの構想に固執し、フランス、イギリスおよびチェコ兵団でもって日本の派遣軍団を弱体化させることを約束した。
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 (06) 6月の初めに、イギリスはMurmansk に1200人の、Archangel に100人の、追加の兵団を上陸させた。
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 (07) レーニンは、アメリカの経済的援助を諦めなかった。それは、フランスが約束した軍事的協力を補完するものだった。
 アメリカは、ブレスト条約が批准されたあとでも、ロシアとの友好を表明しつづけた。
 アメリカ国務省は、ロシアとその国民は「共通する敵に対抗する友人で仲間だ」と日本に知らせた。ロシア政府を承認はしなかったけれども(25)。
 別のときに、アメリカ政府は、ロシア革命が惹起した「全ての不幸と悲惨さ」にもかかわらず、「最大の同情」を感じていると表明した(26)。
 このような友好的な発言が具体的には何を意味するのかを知りたくて、レーニンはRobins に対して、経済的「協力」の可能性をアメリカ政府に打診してみるよう頼んだ(27)。
 5月半ばにレーニンはRobins に、アメリカ合衆国はドイツに代わる工業製品の供給者になり得るとするワシントンあての覚書を与えた(28)。
 だが、ドイツの産業界とは違って、アメリカ人たちは関心をほとんど示さなかった。
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 (08) ボルシェヴィキの連合諸国との協力はどの程度にまで進む可能性があったか、あるいはそもそもそれはどの程度に真面目に意図されていたのか、を判断するのは不可能だ。
 ボルシェヴィキはドイツがこうした交渉の経緯を掴んでいることに気づいていたのだが、ボルシェヴィキの連合諸国との予備的な交渉は、ドイツがブレスト条約の条件履行を監視するように仕向ける可能性があった。あるいは、ロシアが連合国側に走るよう追い込む怖れもあった。
 いずれにせよ、ドイツはロシアに接近していて、敵対的な意向は持っていない、と保証した。
 4月に両国は外交使節団を交換し、通商協定に関する会談の準備を整えた。
 5月半ば、ドイツ政府は、将軍たちが主張していた強硬路線を放棄し、ドイツはいま以上のロシア領土の占領は行なわない、とモスクワに知らせた。
 レーニンは、5月14日の談話で、この保障を公式に確認した(29)。
 この保障によって、ドイツ・ロシアの友好的国家関係の基礎が築かれた。
 ドイツは(ボルシェヴィキの)打倒を意図していない、ということがドイツ・ロシア関係の推移の過程で明らかになったとき、トロツキーは、「連合諸国の援助」という考え方を捨てた(脚注)
 このとき以降、ボルシェヴィキと連合諸国との交渉は急速に途絶えていった。こうして、モスクワは、戦争に勝利しようとしていると見えたドイツ帝国の勢力範囲に入った。
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 (脚注)  Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik 1918 (Vienna-Munich, 1956), p.49. 日本軍のVladivostok 上陸を正当化した確かに不用意な4月末の新聞インタビュー記事によって、連合諸国とモスクワの間に生まれつつあった協調関係を意図的に破壊したのはNoulens だ、とするHogenhuis-Seliverstoff の主張には、いかなる根拠もない。
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 第三節、終わり。つづく。

2798/R.パイプス1990年著—第14章⑤。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 第14章の試訳のつづき。
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 第14章・第三節/連合諸国との会話の継続①。
 (01) トロツキーは、連合諸国との軍事交渉を継続した。
 3月21日に、フランス軍事使節団のLaverne 将軍に、つぎの覚書を送った。
 「Sadoul 司令官との会議のあとで、人民委員会議の名前でもって、ソヴィエト政府が企図している軍の再組織という課題についてのフランス軍の技術的な協力を要請することを、光栄に思う」。
 これには、航空、海軍、諜報等々の全ての軍事部門についての、ロシアが希望した33人のフランスの専門家たちの詳しい一覧表が、付いていた(注21)。
 Laverne は彼の使節団にいる3人の将校を、ソヴィエト戦争人民委員部の補佐に指名した。トロツキーは彼らの部屋を、自分のオフィスの近くに割り当てた。
 協力はきわめて慎重に行われ、そのために、ソヴィエトの軍事史では多くを語られていない。
 Joseph Noulens によると、のちに、トロツキーは、500人のフランス軍人と数百人のイギリスの海軍将校を要請した。
 トロツキーはまた、アメリカ合衆国およびイタリアの使節団と、軍事協力に関して議論した(注22)。
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 (02) しかしながら、何もない所から赤軍を組織する推移はゆっくりしたものだった。
 ドイツ軍はそのあいだに、南西のウクライナとその近傍へと前進していた。
 ボルシェヴィキは、このような状況下で、連合諸国は自分たちの軍団を用いてドイツ軍の前進を阻止するのを助けるつもりがあるのかを、探ろうとした。
 3月26日、新しい外務人民委員のGeorge Chicherin は、フランスの総領事のFernand Grenard に、覚書を手渡した。それは、ロシアが日本にドイツの侵略を撃退する助けを求めるとした場合の、またはロシアが日本に対抗してドイツに頼るとする場合の、連合諸国の意思の言明を求めるものだった(注23)。
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 (03) Vologda を本拠としていた連合諸国の大使たちは、Sadoul を通じて伝えられたボルシェヴィキからの問い合わせに対して、疑い深く反応した。
 連合国大使たちは、ボルシェヴィキは本当に赤軍をドイツに対抗するものとして設置しようとしているのかを疑った。Noulens が述べたように、ロシアの支配を強固にする「近衛軍」として構想されている、というのが最も可能性が高かった。
 モスクワに代わってSadoul が熱心に語ったつぎの釈明を聞くと、彼らの想いを想像することができる。
 「ボルシェヴィキは、ともかくも軍を形成するだろう。しかし、われわれの助力なくしては、行うことができない。
 そして必ずやいつか、その軍はロシア民主政体の最悪の敵であるドイツ帝国軍に対して立ち上がるだろう。
 他方で、新しい軍には紀律があり、職業軍人が配置され、軍隊精神が浸透しているために、内戦に適した軍隊にはならないだろう。
 トロツキーが我々に提案したように、我々がその軍の形成を指揮するならば、それは国内の安定の要因になり、連合諸国の意のままでの国民防衛の手段になるだろう。
 こうして軍で我々が達成する脱ボルシェヴィキ化は、ロシアの一般的政治に影響を与えるだろう。
 このような進展が始まっていることを、我々はすでに見ていないか?
 不可避の残虐性を通じてボルシェヴィキたちが現実主義的政策に急速に適合していくのを見ないならば、偏見で盲目になっているに違いない。」(注24)
 こうした釈明は、ボルシェヴィキは現実主義へと「進化」しているという、文書に残された早い時期の記録の一つに違いなかった。
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 (04) 多くの疑念があったにもかかわらず、連合諸国の大使たちは、ソヴィエトからの要請をそっけなく拒否したくなかった。
 トロツキーとはむろんのこと各々の政府と頻繁に意思疎通をしたあとで、彼らは、4月3日に、以下の諸原則を共通理解とすることにした。
 1. 連合国は(共同行動を拒むアメリカを除き)、モスクワが死刑を含む軍事紀律を再導入することを条件として、赤軍の組織化を援助する。
 2. ソヴィエト政府は、日本軍のロシア領土への上陸に同意する。日本軍はヨーロッパから派遣された連合国兵団と合同して、ドイツ軍と戦う多国籍軍を形成する。
 3. 連合国の派遣軍団は、Murmansk とArchangel を占領する。
 4. 連合国は、ロシアの国内行政に干渉することをしない(脚注)
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 (脚注) Joseph Noulens, Mon Ambassade en Russie Soviettique, II(Paris, 1933), p.57-58; A. Hogenhuis-Seliverstoff, Les Relations Franco-Sovietiques, 1917-1924(Paris, 1981), p.59.
 Noulens は、連合諸国の国民には、ドイツ国民がブレスト条約で獲得したのと同じ利益、特権、補償が認められる、という条件をさらに追加したかった。だが、これを欠落させざるを得なかった。Hodensuis-Seliverstoff, Les Relations, p.59.
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2797/元兵庫県西播磨県民局長告発文(3/12)全文。

 兵庫県斎藤元彦前知事(・現知事)から2024年5月7日に懲戒停職処分(停職三月)を受けた前兵庫県西播磨県民局長が作成したとされる告発文「(2024年3月12日現在)」の原文写し(画像)は、つぎの二つからリンクを通じて見ることができる。
  →斎藤元彦兵庫県知事の違法行為等について(24/03/12)〔二ュースハンター/2024/4/2号〕。
  →伊東乾ブログ/2024/07/16・兵庫県パワハラ知事に「死をもって」抗議した…。
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 「告発文書」には「4月4日」のものもあるとされる。この第二の文書は、2024年7月19日の兵庫県議会「百条委員会」に資料として配布されたとされる。
 これには、以下の①はなかったようだ。しかし、この点以外は「3月12日」文書と同一であるか、ほとんど同一だと秋月には思われる。
 「4月4日」文書は、つぎの〈Wikipedia〉に、その(画像版からすると)「文字おこし」をしたものが掲載されている。
  →Wiki「兵庫県庁内部告発文書問題」。
 ①・②には「ハンター編集部」による「黒塗り」部分があり、③には「百条委員会」幹部?による「黒塗り」部分とがある。前者においてより少ないが、絶対的ではない。以下では、③をベースにしつつ①・②によって「黒塗り」部分が最小になるようにして引用・紹介している。表題のみを、ここでは太字化した。
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 斎藤元彦兵庫県知事の違法行為等について(令和6年3月12日現在)
 ①五百旗頭真先生ご逝去に至る経緯
  令和6年3月6日に五百旗頭真先生が急逝されました。その死に至る経緯が次のとおりです。
  先生は現在、ひょうご震災記念21世紀研究機構の理事長をされています。井戸敏三兵庫県前知事から懇願され、兵庫県立大学理事長をはじめ兵庫県行政に深く関わってこられました。
  令和3年8月に知事が反井戸の齋藤元彦氏に交代してからは知事はじめ県幹部との関係に溝が出来ていたようです。とにかく齋藤氏は井戸嫌い、年長者嫌い、文化学術系嫌いで有名です。
  お亡くなりになられた日の前日ですが、齋藤知事の命を受けた片山安孝副知事が五百旗頭先生を訪問。要件は機構の副理事長をされている●●●先生、●●●●先生のお二人の解任についての通告です。相談ではなく、通告です。
  来年1月は阪神淡路大震災から30年の区切りの時を迎えます。機構の役割・使命 を果たす事実上最後の大きな契機であると言っても過言ではないと思います。●●、 ●●●の両先生はまさにこの分野における第1人者であり、井戸前知事が要請し、兵庫県政に関わってこられました。五百旗頭理事長もお二人には全幅の信頼を寄せておられているにも関わらず、このタイミングでの副理事長解任はハッキリ言って、五百旗頭先生と井戸前知事に対する嫌がらせ以外の何ものでもありません。
  あまりに突然の県からの通告に、先生はその時点では聞き置くに止め、片山氏にはお引き取り願ったそうです。その日、帰宅されてからも、齋藤知事のあまりの理不尽な仕打ちに憤慨され、夜も眠れなかったそうです。翌日、機構に出勤されてからも、 周囲の職員に同様の胸の内を明かされたそうです。そして、その日の午後に機構の理事長室で倒れられ、急性大動脈解離で急逝されました。
  急性大動脈解離は激昂などの情動的ストレスがトリガーになることもあるといい ます。齋藤知事、その命を受けた片山副知事が何の配慮もなく行った五百旗頭先生への仕打ちが日本学術界の至宝である先生の命を縮めたことは明白です。
 ②知事選挙に際しての違法行為
  令和3年7月18日執行の兵庫県知事選挙に際して、兵庫県職員である●●●●●、 ●●●●、●●●●、●●●●は、選挙期間以前から齋藤元彦立候補予定者について、 知人等に対する投票依頼などの事前運動を行った。●●氏は自分の居住地である三木市役所幹部等に対して「自分は選挙前から齋藤のブレーンだった。お前ら言うこと聞けよ」と恫喝している。
  ○公職選挙法違反、地方公務員法違反
  また、選挙公約の作成、選挙期間中の運動支援など、多岐にわたり選挙運動を手伝った。
  ○地方公務員法違反
  その時の論功行賞で、この4人はそれまでの人事のルール無視でトントン拍子に昇任。結果的に彼らが行ったことを裏付けすることとなっている。
 ③選挙投票依頼行脚
  令和5年下半期から齋藤元彦兵庫県知事は、次回知事選挙時の自分への投票依頼を始めている。産業界については●●●●産業労働部長が随行。
  具体的には、令和6年2月13日に但馬地域の商工会、2月16日に龍野商工会議所へ出向き、投票依頼したことを確認している。その他の市町の商工会議所、商工会へも働きかけを行っている様子。
  ○公職選挙法違反、地方公務員法違反
 ④贈答品の山
  齋藤知事のおねだり体質は県庁内でも有名。知事の自宅には贈答品が山のように積まれている。
 (例1)
  令和5年8月8日、兵庫型奨学金返済支援制度利用企業の視察として訪れた加西市の株式会社●●(●●●●のトースターで有名)における出来事。周囲にマスコミが いるため、●●の幹部から贈呈された高級コーヒーメーカーをその場では「そんな品物は頂けません」と辞退。一方、随行者の●●●●産業労働部長に向かって「みんな が見ている場所で受け取れるはずないやろ。失礼な。ちゃんと秘書課に送るように言っておけ!」と指示。後日、無事にコーヒーメーカーをゲットしている。●●●●● のご子息が●●で勤務しているという話もある。
 (例2)
  令和5年7月に●●●●●●●●●株式会社と兵庫県はスポーツ連携協定を結んだ。そして、ヘルメット着用のキャンペーンを展開している。そのPR用の写真は●●●●のロードバイク(約50万円)に跨がる知事。そのバイクは撮影の後、知事へ贈呈された模様(偽装的に無償貸与の形をとる、ほとぼりが冷めるまで県庁で保管するなどの小細工がなされているかも知れません)。特定の営利企業との包括協定は、 企業にとっては絶好のPRとなり、その見返りとしてのロードバイクの贈呈となると完全な贈収賄である。
   これらは全て●●●県民生活部長のアレンジ。
 (例3)
  神崎郡市川町からは、特産品のゴルフのアイアンセット(約20万円)が贈呈され ている。しかも、使いにくいからと再度、別モデルをおねだりしたという情報もある。 特別交付税(市町振興課所管)の算定などに見返りを行った可能性がある。
  現市町振興課●●●●課長は知事と同じ総務省からの出向にも関わらず、知事から考えられないくらい冷遇されているが、その辺りを忖度しなかったことへの面当てかも知れない。
 (例4)
  知事は驚異の衣装持ち。特にスポーツウエア。メーカーにすれば知事は動く広告塔。 これも貸与だと言えるのかどうか。特定企業(例えば●●●●●)との癒着には呆れるばかりである。
  そもそも、視察先やカウンターパートの企業を選定する際には、“何が貰えるか”が 判断材料だとか。企業リストには備考欄があって、“役得”が列記されているとか。
  そして、とにかく貰い物は全て独り占め。特産品の農産物や食品関係も全て。あまりの強欲、周囲への気配りのなさに、秘書課員ですら呆れているという噂。もちろん、 出張先での飲食は原則ゴチのタカリ体質、お土産必須。そのため、出張先では地元の 首長や利害関係人を陪席させて支払いをつけ回す。出張大好きな理由はこれ。現場主義が聞いて呆れる。
 ⑤政治資金パーティ関係
  令和5年7月30日の齋藤知事の政治資金パーティ実施に際して、県下の商工会議所、商工会に対して経営指導員の定数削減(県からの補助金カット)を仄めかせて圧力をかけ、パー券を大量購入させた。実質的な実行者は片山副知事、実行者は産業労働部地域経済課●●●●課長。
  また、兵庫県信用保証協会●●理事長、●等専務理事による保証業務を背景とした、 企業へのパー券購入依頼も実行された。●●理事長は片山副知事から県職員OBによる齋藤知事後援活動の責任者を依頼され、交換条件として厚遇の信用保証協会理事長 に異例の抜擢をされていた。
  この件は準公的な機関である保証協会を舞台にした政治活動なのでさすがに危険を感じたのか、●●理事長は1年で退任し、●●●銀行の監査役へ行くようである。 ●●●銀行の●●会長と●●副知事は白陵高校の先輩後輩。
  今後、県から●●●銀行へなにがしかの利益供与があるものと思われる。
 ⑥優勝パレードの陰で
  令和5年 11 月 23 日実施のプロ野球阪神・オリックスの優勝パレードは県費をかけないという方針の下で実施することとなり、必要経費についてクラウドファンディングや企業から寄附を募ったが、結果は必要額を大きく下回った。
  そこで、信用金庫への県補助金を増額し、それを募金としてキックバックさせることで補った。幹事社は●●信用金庫。具体の司令塔は片山副知事、実行者は産業労働部地域経済課。その他、●●バスなどからも便宜供与の見返りとしての寄附集めをした。パレードを担当した課長はこの一連の不正行為と大阪府との難しい調整に精神が持たず、うつ病を発症し、現在、病気休暇中。しかし、上司の●●●は何処吹く風のマイペースで知事の機嫌取りに勤しんでいる。
  ○公金横領、公費の違法支出
 ⑦パワーハラスメント
  知事のパワハラは職員の限界を超え、あちこちから悲鳴が聞こえてくる。
  執務室、出張先に関係なく、自分の気に入らないことがあれば関係職員を怒鳴りつける。例えば、出張先の施設のエントランスが自動車進入禁止のため、20m程手前で 公用車を降りて歩かされただけで、出迎えた職員・関係者を怒鳴り散らし、その後は 一言も口を利かなかったという。自分が知らないことがテレビで取り上げられ評判になったら、「聞いていない」と担当者を呼びつけて執拗に責めたてる。知事レクの際に 気に入らないことがあると机を叩いて激怒するなど、枚挙にいとまがない。
  また、幹部に対するチャットによる夜中、休日など時間おかまいなしの指示が矢のようにやってくる。日頃から気に入らない職員の場合、対応が遅れると「やる気がないのか」と非難され、一方では、すぐにレスすると「こんなことで僕の貴重な休み時間を邪魔するのか」と文句を言う。人事異動も生意気だとか気に入らないというだけで左遷された職員が大勢いる。
  これから、ますます病む職員が出てくると思われる。
  ○(職員からの訴えがあれば)暴行罪、傷害罪
 ※ この内容については適宜、議会関係者、警察、マスコミ等へも提供しています。
  しかし、関係者の名誉を毀損することが目的ではありませんので取扱いにはご配慮願います、兵庫県が少しでも良くなるように各自の後判断で活用いただければありがたいです。よろしくお願いします。
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2796/西尾幹二批判080—欺瞞の人。

 辻田真佐憲によるインタビューに西尾幹二が答える発言録が、2019年1月26日から<文春オンライン>上に掲載された。
 その中で、辻田はこう質問した。
 「今、期待している論者はどんな人ですか」。
 西尾幹二は、こう答えている。2024年12月15日時点で、ネット上でそのまま読める。
 「政治学者の岩田温、青山学院の国際マネジメント研究科にいる福井義高、カナダ在住の渡辺惣樹、それから江崎道朗、潮匡人、藤井厳喜、加藤康男。女性では宮脇淳子、福島香織、河添恵子、川口マーン恵美。最後の川口さんは…」。
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 この辻田真佐憲との対談記録は、全集第22巻A(2024年10月刊)に、「著者が初対面の近現代研究者・辻田真佐憲氏と対談する」と題して収載されている。
 ところが、何と、上の部分はこう<書き換え>られている(p.491-2)。
 「今、期待している論者はどんな人ですか」。
 「青山学院の国際マネジメント研究科にいる福井義高、カナダ在住の渡辺惣樹、筑波大学の古田博司、それから江崎道朗、潮匡人、藤井厳喜、加藤康男。女性では加藤康子、宮脇淳子、福島香織、河添恵子、川口マーン恵美。最後の川口さんは…」。
 「期待している論者」から除外されたのは、「政治学者の岩田温」。 
 「期待している論者」に追加されたのは、「筑波大学の古田博司」と、女性の「加藤康子」。
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 2019年の対談時点と2024年の全集収載時点で、「期待している」かどうかの評価・判断が異なることはあり得ることだろう。
 しかし、そのような差異・変化があったとすれば、明記して行なわれるべきだ。
 にもかかわらず、2024年の全集刊行時点で一部にせよ差異・変化があること、つまり<書き換え>=<加筆修正>が行われていることは、全集22巻Aの目次欄にも、辻田との対談録中にも、西尾による「後記」にも、いっさい言及されていない。
 辻田との対談録の表題は「著者が初対面の…辻田真佐憲氏と対談する—(「文春オンライン」2019年1月26日)」となっているので、記録された西尾幹二の発言はこの時点でのものがそのまま記載されている、と読者は理解するだろう。
 にもかかわらず上のような<書き換え>=<加筆修正>を加えたものを収載するのは読者を騙していることになる。とんでもないマヤカシ、欺瞞だ。
 2024年には2019年時点の評価・判断と異なるに至っていたとしても、2019年1月時点の発言だと明記されているのだから、西尾幹二はそれをそのまま認めて全集にも登載すればよいだろう。
 西尾幹二は、その当然と思われることができない人物なのだ。
 どこにも注記することなく、むろん理由を記すこともなく、平気で、後になって一部にせよ<書き換え>=<加筆修正>をすることができる。西尾幹二とは、そういう人物だ。
 あるいは、時間または時期に関する感覚に、常人にはない異常さがある、のかもしれない。
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 このような、全集編集時点での<書き換え>=<加筆修正>があることは、この欄ですでにいくつか触れたことがある。
 また、全集22巻Aでは例えば、第一部の「第四章は『正論』2014年2-4月号に連載したものを加筆修正した」と明記されている(p.261)。この注記は誰が記したのか(本人か出版元編集部か「三人委員会」か)は不明だが、このように、全集収載時点での「加筆修正」を堂々と認めている場合もある。
 ともあれ、上に記したような「加筆修正」=「書き換え」が(こっそり)平然と行なわれているのだから、西尾幹二「全集」なるものは、全巻の全章・全節を通じて、その元となっている文章と同一のものなのか否かが、きちんと点検されるべきだ。そして、「校訂・加筆修正表一覧」が作成されるべきだ。
 「保守」(主義)うんぬん以前の、西尾幹二の、論者かつ人間としての<誠実さ>の問題だ。
 SNSとかYouTube 等の多数の閲覧者がいる世界だと、こうした<誠実さ>の欠如(=ウソつき)は、瞬時に暴露される。
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2795/私の音楽ライブラリー048。

 音楽ライブラリー048。
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 Saint-Saens, Introduction & Rondo Capricciso op.28.
 010〈再掲〉→Natsuho Murata, 2019. 〔International Music & Arts〕
 010-02 →Kristine Balanas, Latvian National SO, 2023. 〔Kristine Balanas〕

 Vi Iz Dus Gesele.  〈=あの娘の家はどこに?〉
 051-01〈再掲〉→The Barry Sisters, Vi iz dus geseleh ?, 2010.〔Albertdiner〕
 051-09 →The Alibi Sisters, Vi Iz Dus Gesele ?, 2023. 〔The Alibi Sisters〕
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2794/私の音楽ライブラリー047。

 音楽ライブラリー047。
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 030(再)→小椋佳・冬木立、作詞·作曲/小椋佳、1978年。〔eisin555〕
 125 →小椋佳・忍ぶ草、作詞·作曲/小椋佳、1978年。〔濱田将司〕

 126 →愛田健二・京都の夜、作詞/水島哲・作曲/中島安敏、1967年。〔京都いろは通信〕
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2793/私の音楽ライブラリー046。

 音楽ライブラリー046。
 --------
 123 →NSP・八十八夜 作詞=作曲/天野滋、1978年。〔Hisaki Tube〕
 124 →柴田淳・誰にも言わない 作詞=作曲/柴田淳、2017年。〔柴田淳〕
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2792/私の音楽ライブラリー045。

 音楽ライブラリー045。
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 119 →シグナル・二十歳のめぐり逢い 作詞=作曲/田村功夫、1975。〔Nostalgic Melody〕
 120 →谷山浩子・河のほとりに 作詞=作曲/谷山浩子、1977。〔Nostalgic Melody〕
 121 →NSP・面影橋 作詞=作曲/天野滋、1979。〔penchanotohime〕
 122 →長渕剛・順子 作詞=作曲/長渕剛、1980。〔長渕本人〕
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2791/R.パイプス1990年著—第14章④。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 第14章の試訳のつづき。
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 第14章第二節/赤軍創設と連合国との会話②。
 (10) 公式の政府の声明が、「国際ブルジョアジー」による攻撃を撃退するソヴィエト・ロシアの必要によるものとして、新しい、社会主義的軍隊の創設を正当化した。
 しかしこれは、公にされた使命の一つにすぎず、また必ずしも最も重要なものでもなかった。
 帝制軍と同じく、赤軍は二つの機能をもった。すなわち、外国の敵と戦うこと、国内の治安を確保すること。
 Krylenko は、1918年1月の第三回全国ソヴェト大会の兵士部会にあてて、こう宣告した。「赤軍の最大の任務は、『国内戦争』を闘い、『ソヴィエトの権威の防衛』を確実にすることだ」(注11)。
 言い換えると、赤軍の任務は、まず第一に、レーニンが行なうと決意していた内戦のために役立つことだった。
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 (11) ボルシェヴィキもまた、赤軍に対して、内戦を拡大する使命を与えた。
 レーニンは、社会主義の最終的勝利のためには「社会主義」国家と「ブルジョアジー」国家の間の一続きの大戦争が必要だ、と信じていた。
 彼らしくない率直さで、こう語った。
 「ソヴェト共和国が帝国主義諸国と並んで長いあいだ存在するというのは、考え難い。
 最終的には、どちらかが勝利する。
 その結末に至るまで、ソヴェト共和国とブルジョア諸政府のあいだの最も激烈な闘争が長く続くのは、避けることができない。
 これが意味するのは、支配階級であるプロレタリアートは、かりに支配することを欲しかつ支配すべきものならば、そのことを軍事組織でもって証明しなければならない、ということだ。」
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 (12) 赤軍を組織することが発表されたとき、<Izvestiia>は社説欄で、つぎのように歓迎した。
 「労働者の革命は、地球規模でのみ勝利することができる。そして、永続的な勝利のためには、さまざまな諸国の労働者が互いに協力し合うことが必要だ。//
 プロレタリアートの手に権力が最初に移った国の社会主義者は、腕を組んで、兄弟たちがブルジョアジーと国境を越えて闘うことを助ける、という任務に直面することになるだろう。//
 プロレタリアートの完全かつ最終的な勝利は、国内の戦線と国際的な戦線での連続した戦争の完全な勝利なくしては、考えることができない。
 したがって、革命は、自らの、社会主義の軍隊なくしては、達成することができない。//
 Heraclitus は、『戦争は、全てのことの父親だ』と言った。
 戦争を通じてこそ、社会主義への途もまた拓かれている<脚注>。」
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 <脚注> Izvestiia, No.22/286(1918.1.28),p.1. Heraclitus は実際には少し違って語った。—「(戦争でなく)対立は全てのことの父親であり王君だ。対立はある者を奴隷にし、ある者を自由にした。」
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 (13) 他に多くの見解が発表され、明示的にまたは黙示的に、赤軍の任務の中には外国での干渉が含まれる、という趣旨が述べられた。あるいは1918年1月28日の布令のように、「ヨーロッパでの来るべき社会主義革命への支援を提供する」と述べられた(注13)。
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 (14)  これら全て、将来のことだった。
 さしあたりボルシェヴィキが有していた信頼に足りる軍団は、ラトヴィア・ライフル兵団(the Latvian Rifles)だけだった。これについては、憲法会議の解散とKremlin の安全確保の箇所ですでに言及はしている。
 ロシア軍は、1915年の夏に、分離した最初のラトヴィア兵団を設立した。
 1915-16年に、ラトヴィア・ライフル兵団は、8000人で成る全員が義勇の兵団で、ナショナリズムが強い、かなりの大きさの社会民主主義の兵団だった(注14)。
 ロシアの常設軍団からのラトヴィア民族派で補強されて、それは1916年の末には、全部で3万人から3万5000人で成る8個の分団を形成していた。
 この兵団はチェコ軍団(Czech Legion)に似ていた。これはほぼ同時期にロシアで、戦争捕虜でもって編成されていた。もっとも、両兵団の運命は全く異なるものになるのだけれども。
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 (15) 1917年の春、ラトヴィア兵団はボルシェヴィキの反戦宣伝に好意的に反応し、講和と「民族自決権」原則によって、当時ドイツの占領下にあった母国に帰ることができるだろうと期待した。
 社会主義ではなく民族主義にまだ動かされていたが、彼らはボルシェヴィキの諸組織と緊密な関係を形成し、臨時政府に反対するボルシェヴィキのスローガンを採用した。
 1917年8月、ラトヴィア兵団は、Riga の防衛者として自認するようになった。
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 (16) ボルシェヴィキはラトヴィア兵団をロシア軍の他の兵団とは区別して扱い、損傷を与えないままにし、重要な治安活動を彼らに委ねた。
 ラトヴィア兵団は次第に、フランスの外国人軍団とナツィスのSSの結合体のようなものになっていった。外国の敵からと同様に内部の敵からも体制を守る、一部は軍隊で一部は保安警察のような軍団だ。
 レーニンは彼らを、ロシア人部隊以上に信頼した。
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 (17) 労働者と農民の赤軍を創設しようとする初期の計画は、無に帰した。
 入隊した者の目的は主に報酬と略奪する機会の獲得だった。前者はすみやかに月給50ルーブルから150ルーブルに上がった。
 軍の大半は、除隊されたごろつき兵士たちだった。トロツキーはのちに彼らを「フーリガンたち」と呼び、ソヴィエトの布令は「非組織者、悶着者、利己主義者」と称することになる(注15)。
 今日の新聞は、初期の赤軍兵団が実行した暴力的な「収奪」の物語で溢れている。空腹で支払いが悪かった者たちは、制服や軍備品を売り、ときには相互で闘った。
 1918年5月、Smolensk を占領した彼らは、「ユダヤを叩き出せ、ロシアを救え」というスローガンのもとで、ソヴェトの諸機関からユダヤ人を追放することを要求した(注16)。
 状況はかなり悪く、ソヴィエト当局はたまにはドイツの軍団に対して、言うことを聞かない赤軍兵団に介入することを要請しなければならなかった(注17)。
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 (18) 事態はこのように進むことはできず、レーニンはやむなく、かつての将軍幕僚やフランス軍事使節団に迫られていた職業的軍隊の構想を受け入れた。
 1918年の2月と3月初旬に党内で、労働者で構成されて民主主義的構造をもつ「純粋な」革命軍の主張者と、より伝統的な軍隊の支持者の間で、討論が行なわれた。
 討議では、労働者による工業支配の主張者と職業的経営の主張者の間で同時期に起きていたのと同じ対立があった。
 どちらの場合も、効率性の考慮が革命的ドグマに打ち勝った。
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 (19) 1918年3月9日、人民委員会議(Sovnarkom)は、ある委員会を任命した。その任務は、「社会主義的軍隊(militia)と労働者・農民の普遍的な軍事化の理念にもとづく、軍の再組織と強力な軍隊の創設のための軍事センターを樹立するプラン」を一週間以内に提示すること、だった(注18)。
 職業的軍隊に対する反対派を率いていたKrylenko は、戦争人民委員を辞し、司法人民委員部を所管した。
 彼に替わったトロツキーには、軍事の経験がなかった。ほとんど全てのボルシェヴィキ指導者と同じく、草案を考えるのを避けて以来ずっとだった。
 トロツキーが任命されたのは、敵に寝返ったり政治に干渉したりすることでボルシェヴィキ独裁に対する脅威を与えない、そのような効率的で戦闘準備のある軍隊を創設するために必要な、外国または国内についての職業的助力を獲得するためだった。
 政府は同時に、トロツキーを議長とする、最高軍事会議(Vysshyi Voennyi)を設立した。
 この会議は、将校(戦争人民委員部と海軍)とかつての皇帝軍の軍事専門家で構成された(注19)。
 ボルシェヴィキは、軍隊の完全な政治的信頼性を確保するために、軍事司令官たちを監督する「人民委員」の仕組みを採用した(注20)。
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 第二節、終わり。

 

2790/レシェク·コワコフスキ追想②。

 いっとき、L・コワコフスキに関する情報をネット上で探していたことがあった。
  日本語でのWikipedia、英米語でのWikipedia、当然にいずれも見たが、前者・日本語版のそれはひどかった。
 現時点(11/15)では少しマシになっているようで、新しい邦訳書についても記載がある、しかし、L・コワコフスキの哲学に「無限豊穣の法則」が一貫している、などという今もある説明は適切なのか、どこからその情報を得ているのか、きわめて疑わしい。
 日本語と英米語でWikipediaの叙述の内容は違うということを明確に知ったのはL・コワコフスキについて調べていたときだった。
 仔細に立ち入らない。英米語のWikipedia での‘Main Currents of…’ の項は、この著に対する数多くの書評(の要旨)が紹介されていて、興味深い。2005年の一冊合本版について、重すぎる、開きにくいとかの「注文」があったのには苦笑した。
 ともあれ、日本には、<明瞭な反共産主義者>であるL・コワコフスキの存在自体を隠す、あるいは、この人物についてできるだけ知られないようにする、という雰囲気があったのではないか。
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  L・コワコフスキは、ノーベル賞の対象分野になっていない学問分野での業績を対象にして贈られる、アメリカ連邦議会図書館Kluge賞の初代受賞者だった。のちに、ドイツのHarbermath も受賞している。
 日本語Wikipedia は、この点をほとんど全く無視している。私は、その選考過程等も示す議会図書館の記事を探して、この欄に紹介した。→「1904/NYタイムズ」。さらに、→「1906/NYタイムズ,訃報」
 L・コワコフスキは授賞式で、Kluge 氏は「klug (賢い、ドイツ語)です」とかの冗談を含めて挨拶していた。
 その授賞式に、あるスウェーデン女性も同席していたらしいので調べてみると、スウェーデンの皇太子(次期国王予定者、女性)だった。これは、ノーベル賞の対象外の学問分野についての賞で、元のノーベル賞との関係も意識されている、ということを示していると、秋月は推測している。
 同じワシントンのホワイト・ハウスでのG. W. Bush (小ブッシュ)と並んでのL・コワコフスキの写真では、彼の顔はいくぶんか紅潮している。つねに冷静そうな彼であっても、アメリカ大統領官邸に招かれること自体がさすがに感慨深いことだったのだろう。
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 Kluge 賞受賞(2003年)は当然に1991年のソ連解体以降のことで、その授賞理由には<現実(ソ連解体、ポーランド再生 )にも影響を与えた>旨が明記されていた。
 たぶんそれよりも後のものだろう、ポーランドの放送局員がイギリス・Oxford の(たぶん)コワコフスキの家の部屋でインタビューしている動画を私はネット上で探して見た。
 ポーランド語だったので、内容はさっぱり分からなかった。
 だが、印象に残ったのは、①頭の中の回転スピードに口と発する言葉が追いつかないのか、しきりに咳き込んでいた。
 ②全く「威張っている」、「偉ぶっている」ふうがなかった。本来、真摯な人物であり、また謙虚な人なのだろう。と言うよりも、奇妙な「自己意識
」がなくて、自分を「演技」することもないのだろう(そんな人は日本にはいそうだ)。
 なお、カメラに視線をじっと向けて語るのは、コワコフスキやポーランド人に特有ではなく、たぶん欧米人に共通しているのだろう。
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  L・コワコフスキとその妻タマラ(Tamara、精神科医師)の二人がコワコフスキの生地であるポーランド・(ワルシャワ南部の)Radom の町の通りを歩いている動画か写真を見たことがある。
 郷土出身の著名人ということで、ある程度は人が集まっていて、一緒に同スピードで歩いている少年もいたが、大きなパレードでは全くなく、夫妻が人々に手を降るのでもなかった。人々がある程度集まってきて申し訳ないというがごとき緊張を、L・コワコフスキは示していた。
 こうした場合、日本人の中には、<オレはこんなに有名になったのだ>という高揚を感じる者もいるのではないか。とくに「自己」を異様に意識する人の中には。
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  以下は「追想」ではなく、つい最近に知ったことだ。
 たまたまL・コワコフスキ夫妻の(たぶん一人の)子どもである1960年生まれのAgnieszka Kolakowska をネット上で追求していたら、その母親はユダヤ人またはユダヤ系である旨が書かれていた。娘の母親ということは、L・コワコフスキ本人の妻・タマラのことだ。(なお、父親のポーランド語文についての娘の英語訳は、母国語が英語でないためだろう、非英語国人にとって理解しやすい英語文になっている可能性が高いと思われる。)
 不思議な縁を感じざるを得なかった。
 まず、Richard Pipes (1923〜2018)は「ポーランド人」かつ「ユダヤ人」だった。
 両親は「オーストリア=ハンガリー帝国」時代にその領域内で生育し、R. pipes は家庭内では「ドイツ語」を、外では「ポーランド語」を話して育った、という。チェコと川で接する国境の町で生まれたが、1939年のドイツによるポーランド侵攻直後にポーランド(ワルシャワの南部)を親子三人で「脱出」、アメリカに移住して、20歳で(1943年に)「アメリカ合衆国」に帰化した。したがって、以降は「アメリカ人」。
 ついでながら、ワルシャワ近く→ミュンヒェン(独)→インスブルック(墺)→ローマ(伊)→ニューヨーク(米)という「逃亡『劇』」は、十分に一本の映画、何回かの連続「テレビドラマ」になる、と思っている。
 R.パイプスの自伝からこの時期について、この欄に「試訳」を紹介した。→「2485/パイプスの自伝(2003年)①」以降。
 ついで、T・ジャット(1948〜2010)の2010年の最後の書物(邦訳書/河野真太郎ほか訳・真実が揺らぐ時)の序説で、編者・配偶者のJennifer Homans が書いていることだが、T・ジャットは逝去の数年前以内に、<ぼくの伯母さんはナツィスに(ホロコーストで)殺された>と言って<泣き出した>、という。
 ということは、T・ジャットもユダヤ人であるか、少なくともユダヤ系の人物だった。
 さらには、L・コワコフスキも、上のような形で、「ユダヤ人」と重要な関係があった。
 言語・民族・国家を一括りで考えがちな日本人には分かりにくいことが多いが(今でもほとんど理解し得ていないが)、たまたま最もよく読んだと言える、L・コワコフスキ、R・パイプス、T・ジャットのいずれも、ユダヤ人と関連があったことになる(次いでよく読んでいるのは、Orlando Figes だろう)。
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2789/レシェク·コワコフスキ追想①。

 L・コワコフスキが書いた書物は、何語であれ、今後も読み継がれていくだろうから、<追想>だけの対象にしてはいけない。
 以下では、L・コワコフスキに関する、個人的・私的な思い出を書く。むろん「個人的・私的な」交際関係があったわけではない。
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  この欄に英語文献の「試訳」を初めて掲載したのは2017年の2-3月だった。たまたまRichard Pipes, Russian Revolution (1990)をKindle で読んでいて、仕事で英語を使ってから40年以上経っていたが、「辞書」機能を使って何とか理解できる、邦訳もできそうだと感じた。
 その前にもともとは<ロシア革命>について知っておきたいという関心が生まれていて、R. Pipes 以外のロシア革命本もいくつか渉猟するようになっていた(洋書または邦訳書)。
 そうしたロシア革命に関する書物の注記の中で、たぶん「マルクス主義」に関して、Leszek Kolakowski, Hauptströmungen des Marxismus(Main Currents of Marxism)が挙げられていた。
 明瞭ではないが、R.パイプスではなく、M.メイリアの書物(Martin Malia, Soviet Tragedy -A History of Socialism in Russia 1917-1991(1994年)=邦訳書/白須英子訳・ソヴィエトの悲劇(草思社、1997))だったような気がする。
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  基礎的な重要文献のごとき扱いだったのでたぶんすみやかに英語書を入手したが、ただちに「試訳」に進んだのではない。はたして、個人的にであれ、日本語に訳出してみる価値があるのかどうかが分からなかったからだ。下手に入り込むと、何といっても(三巻で)1500頁ほどもあるのだ。
 そこで、同じKolakowski の別の論稿を読んで、ある程度の「心証」を得ることにした。
 その際に選択したのは少し長い‘My Correct Views on Everything’という題の論考で、「『左翼』の君へ」と勝手に表題を変えて、この欄に全文を掲載した(2017年5月)、読みつつこの欄に掲載していったのだったが、じつに面白かった。正確に言えば、コワコフスキの論述の仕方、その思考方法と表現方法が複雑かつ新鮮で、意表を衝くような箇所も多く、まるで「自分の頭が試されている」ように感じた。こんな衝撃を日本人の日本語文から受けたことはなかったような気がする。
 →「『左翼』の君へ①」(2017/05/02)。
 この論稿は、のちに得た知識ではイギリスの「新左翼」のEdward P. Thompson がLeszek Kolakowski を「昔の仲間ではないか。いったい今のきみはどうなのだ」とか批判したのに対する反論文で(決して「釈明」文ではない)、T.ジャットによると「一人の知識人を丸ごと解体する」ごときものだった。
 この公開書簡による批判・反批判の中に、Thompson が Kolakowski の組織した「社会主義」に関するシンポジウムに招聘されなかったことに前者が不満を言うという箇所があった。これもあとで気づいたのだが、そのシンポジウムの成果をまとめた書物(1974年)の一部の「試訳」を、そういう関連があったとは知らないままで、のちにこの欄に掲載した。→「No.1974」(2019/06/10)。
 この反論・反批判論稿の内容には立ち入らないが、「左翼」または「新左翼」と自認している者は、じっくりと読むとよいだろう。
 こうしてコワコフスキは「信頼」できると判断したが、もう一つ、「神は幸せか?」(2006年)という短い論稿の「試訳」もこの欄に掲載した(2017年5月)。これも「議論の進め方」が大いに魅力的だった。なお、冒頭には「シッダールタ」への言及があり、原語で読んだわけではないがと慎重に留保しつつ、仏教にも関心を持っていたことを示している。→「神は幸せか?①」(2017/0525)。
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 Leszek Kolakowski, Main Currents …の最初の「試訳」掲載は2017年6月で、第二巻のレーニンに関する部分から始めた。→「1577/レーニン主義①」(2017/06/07)。
 doctrin は「教理」と訳すことに早々に決めて、維持した。できる限りカタカナ英語を使わないという気分だったのだろう、ideology を「観念体系」と訳したりした。これは継続できなかった。
 基礎的な知識・教養がないためにしばしば難解だったが、辞書にも頼りつつ、何とか理解していった。
 今の時点で思い出すのは、第一に、「主義」、「思想」の歴史叙述ではあるが、L・コワコフスキは<ロシア革命>の具体的推移、諸局面についてもよく知っている、ということだ。単純に、「思想」の内在的な関係・比較や発展等を追っているのではない。「考え」、「思想」、「イデオロギー」と政治的・社会的現実の複雑な関係を相当に留意して叙述していた人だと思う。あるいは、あえて単純化はしない、未解明部分はあるがままに放っておく、という姿勢だった、と言えようか。
 第二に、些細なことだが、L・コワコフスキが参照しているレーニン全集の巻分けは日本でのそれ(大月書店版)と同じだった。かつてのソ連の「マルクス=レーニン主義研究所」が編纂したレーニン全集をその構成を同じにしてポーランドと日本でそれぞれの言語で翻訳して出版したものと思われる(なお、R.パイプスの書物が用いていたレーニン全集は、ポーランドや日本のそれと異なっていたようだ)。むろん、言語の違いによって、同じ論稿であっても必要頁数は同じではないので、L・コワコフスキが示す頁数ですぐに日本のレーニン全集の当該箇所を特定できたわけではない。
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2788/L・コワコフスキの大著の邦訳書が出版される。

  レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)の大著の日本語翻訳署が刊行されるようだ。
 秋月にとって、大ニュースだ。11月11日の池田信夫・ブログによって知った。
 L・コワコフスキ=神山正弘訳・マルクス主義の主要潮流—その生成・発展・崩壊(同時代社、2024)
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  日本での「マルクス主義」への関心が突如として高まったとは思えない。
 訳者の神山正弘を名も知らなかったが、この本を紹介するネット上の訳者紹介によると、訳者(1943〜)の最後の大きな仕事(この翻訳)が完了したがゆえの、この時期での刊行になったようだ。
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 1943年生まれの訳者の経歴は、種々のことを推測または想像させる。
 1962年—東京大学教育学部入学(卒業年の記載はない)、1965-67年—東京都学連副委員長・委員長、1967-72年—日本民主青年同盟(民青)東京都委員会学生対策部長・副委員長、1973-75年—東京大学大学院教育学研究科学生、1982-2007年—高知大学教育学部助教授・教授(たぶん定年退職)。
 39歳で大学教員の職を得ている。この遅さにも注目してしまうが、そんなことよりも、1972-73年に民青東京都委員会→大学院学生という変化があったことが興味深い(なお、川上徹(1940〜)は同じ東京大学教育学部出身で、同時代社の設立者だった)。
 神山正弘はおそらく、日本共産党の<新日和見主義事件>に巻き込まれ、民青や共産党の活動家であることをやめたのだろう。日本共産党(・民青)と具体的にどういう関係に立ち、どう処遇されたのかは、もちろん知らない。
 だが、<新日和見主義事件>=1972年と、見事に符号している。
 かつて若いときに日本共産党という「マルクス主義」政党の党員だったこと(これはまず間違いない)、10年を経ずしてその党とどうやら複雑な関係になったらしいこと(いつまで党員だったかは、もちろん知らない)、そしてもちろん「マルクス主義」または日本共産党のいう「科学的社会主義」の基礎的なところは<学習>していただろうことは、たしかに、レシェク·コワコフスキ『マルクス主義の主要潮流』を読み、翻訳してみようとする人物の像にかなりあてはまっているように見える。
 しかも、このL・コワコフスキの著は大まかに計1500頁と言ってよい長大な書物だ。神山は2007年に高知大学を辞しているようだが、その後のかなり長時間をこの本の読書と翻訳に費やしたのではなかろうか。
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  池田信夫は、「本書は1978年にポーランド語で書かれた古典」等と紹介しているが、細かいことながら、年次は誤っている。
 1976年に、ポーランド語の原書が、フランス・パリで、出版された。
 1977-79年に、三巻のうちの一巻ずつ、ドイツ語翻訳書がドイツで出版された。
 1978年に、一巻ずつ全巻の英語翻訳書が、イギリスで出版された。
 神山邦訳書がいずれの言語から翻訳したのかは、分からない。経歴からすると、ポーランド語からではなさそうだ。
 なお、フランス語版は第一巻、第二巻だけが出版された。L・コワコフスキが書いているのではないが、サルトルについてのL・コワコフスキの叙述(第三巻)がフランスでは嫌われた、とも言われる。
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  日本には、2024年まで、L・コワコフスキの大著の日本語翻訳書がなかった。相当に遅れて、形だけはようやく欧米に追いついたことになる。共産主義者・共産党員または共産主義・共産党のシンパだった欧米の著作者については、サルトルのほか、例えば、イギリスのホブスボーム、フランスのフーコー等、すみやかにきちんと邦訳書が出版されている、にもかかわらず。
 日本はアカデミズムのみならず、あるいはアカデミズムとともにとくに人文・社会系の出版界自体が相当に「左より」だ。
 新潮社、不破哲三・私の戦後60年(2005)
 中央公論新社、不破哲三・時代の証言(2011)
 これらのように、「大手」出版社が日本共産党幹部の書物を発行している(秋月は日本のメディア・出版社を基本的なところで信用していない)。今回の〈同時代社〉程度では、趨勢・雰囲気を変えるほどには至らないだろう。
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2787/R.パイプス1990年著—第14章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 第14章の試約のつづき。
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 第14章第二節/赤軍創設と連合国との会話①。
 (01)  1918年3月23日、ドイツ軍は、長く待った西部戦線への攻撃を開始した。
 ロシアとの休戦以降、Ludendorff は、50万人の兵士を東部から西部へと移動させた。勝利すべく、二倍の数の生命を犠牲にするつもりだった。
 ドイツ軍は、事前の大砲の連弾なくしての攻撃、特殊な訓練を受けた「電撃部隊」の重大な戦闘への投入といった、多様な戦術上の刷新を採用した。 
 ドイツ軍は、攻撃の主力部隊をイギリス部門に集中し、それは強い圧力を受けた。
 連合国司令部内の悲観論者、とくにJohn J. Pershing は、前線は攻撃に耐えられないのではないかと怖れた。
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 (02) ドイツの攻勢は、ボルシェヴィキもまた困惑させた。
 公式の言明としては両方の「帝国主義陣営」を非難し、交戦の即時停止を要求したが、ボルシェヴィキは実際には、戦争の継続を望んでいた。
 諸大国が相互の戦闘に忙殺されているあいだは、獲得したものを堅固にすることができ、将来に予期される帝国主義十字軍を迎え打ち、さらには国内の反対勢力を粉砕するのに必要な軍事力を高めることができた。
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 (03) ボルシェヴィキは、中央諸国との講和条約の締結後ですら、連合諸国との良好な関係を維持しようとした。なぜなら、つぎのことに確信がなかったからだ。ドイツ人がボルシェヴィキを権力から排除しようとロシアへと進軍する、そのようなことを惹起する「好戦的政党」は決してベルリンを支配し続けることはない、ということの確信。
 ドイツ軍による三月のウクライナとクリミアの占領は、このような懸念を増幅させた。
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 (04) 既述のように、トロツキーは、連合諸国に経済的援助を要請した。
 1918年3月半ば、ボルシェヴィキは、赤軍の設立と、可能ならば潜在的にあり得るドイツによる侵略に対抗する介入への助力、を呼びかける緊急の訴えを発した。
 レーニンは、ソヴィエト・ロシア関係に集中しつつ、新たに任命した戦争人民委員のトロツキーに、連合諸国と交渉する任を与えた。
 もちろん、トロツキーが初めて主張した全ては、ボルシェヴィキ中央委員会によって裁可されていたものだった。
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 (05) ボルシェヴィキは3月初めに、軍隊の設置に真剣に取り組むことを決定した。
 だが彼らは、ロシアの多くの社会主義者と同様に、職業的軍隊は反革命をはぐくむ基盤になると見ていた。
 <アンシャン・レジーム>〔旧帝制〕の将校たちを幕僚とする常備軍は、自己破壊を誘引することを意味した。
 ボルシェヴィキが好んだのは<武装した国民>であり、国民軍(people’s militia)だった。
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 (06) ボルシェヴィキは、権力掌握後も、旧軍隊が残したものを解体し続けた。将校たちからは、彼らが保持した僅かなものも、剥奪した。
 ボルシェヴィキが元々指令していたのは、将校たちは選挙されるべきであり、軍隊の階層は廃止されるべきであり、兵士ソヴェトに司令者の任命権が与えられるべきだ、ということだった(注4)。
 ボルシェヴィキ煽動家の誘導によって、兵士や海兵たちは、多数の将校にリンチを加えた。黒海艦隊では、このリンチは、大規模な虐殺へと発展した。
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 (07) レーニンとその副官たちは同時に、彼ら自身の軍隊を創設することに関心を向けた。
 レーニンのもとでの初代の戦争人民委員に、彼は、32歳の法律家のN. V. Krylenko を選任した。この人物は、予備役の中尉として帝制軍に奉仕していた。
 1917年11月に、Krylenko はMogilev の軍司令部へ行った。最高司令官のN.N. Dukhonin を交替させるためだった。Dukhonin はドイツ軍との交渉を拒んでいた者で、Krylenko の兵団によって荒々しく殺害された。
 Krylenko は、新しい最高司令官に、レーニンの秘書の兄である、M. D. Bunch-Bruevich を任命した。
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 (08) 職業的将校たちは実際には、知識人たちよりももっと、ボルシェヴィキに協力するつもりである、ということが分かった。
 厳格な非政治主義と権力者への服従という伝統のもとで育ったので、彼らのほとんどは、新政府の命令を忠実に履行した(注5)。
 ソヴィエト当局は彼らの氏名を明らかにするのに気乗りでなかったけれども、ボルシェヴィキの権威をすみやかに承認した者たちの中には、帝制軍の将軍の高級将校だった、以下のような人々もいた。A. A. Svechin、V. N. Egorev、S. I. Odintsov、A. A. Samoilo、P. P. Sytin、D. P. Parskii、A. E. Gutov、A. A. Neznamov、A. A. Baltiiskii、P. P. Lebedev、A. M. Zainonchkovskii、S. S. Kamenv(注6)。
 のちに、二人の帝制時代の戦争大臣、Aleksis Polivanov とDmitri Shuvaev も、赤軍の制服を着た。
 1917年11月の末、レーニンの軍事補佐のN. I. Podvoiskii は、旧帝制軍の一員たちは新しい軍隊の中核として役立つのかどうかに関して、将軍たちの意見を求めた。
 将軍たちは、旧軍隊の健全な軍団は用いることができる、軍は伝統的な強さである130万人まで減らすことができる、と回答し、推奨した。
 ボルシェヴィキはこの提案を拒否した。新しい、革命的軍隊を作りたかったからだ。それは、1971年にフランスで編成された革命軍—すなわち<levee en masse>—を範としたものだったが、これには農民はおらず完全に都市居住民で構成されていた(注7)。
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 (09) しかしながら、事態の進行は待ってくれなかった。前線は崩壊しつつあり、今ではそれが、レーニンの前線だった。—こう好んで言ったように。「十月のあとで、ボルシェヴィキは『防衛主義者』になった」。
 新しいボルシェヴィキ軍を創設することになるよう、30万人から成る軍隊の設立が話題になった(注8)。
 レーニンは、この軍隊が集結し、一ヶ月半以内に、予期されるドイツ軍の襲撃に対応するよう戦闘準備を整えることを、要求した。
 この命令は、1月16日のいわゆる諸権利の宣言(-of Rights)で再確認された。この宣言は、「労働者大衆がもつ力の全てを確保し、搾取者の復活を阻止するために」(注9)赤軍を創設することを規定していた。
 労働者と農民の新しい赤軍(Raboche-Krest’ianskaia Krasnaia Armiia)は全員が義勇兵で、「証明済みの革命家」で構成される、と想定されていた。各兵士には一ヶ月に50ルーブルが支払われるとされ、全兵士に仲間たちの忠誠さについて個人的に責任を持たせるための「相互保証」によって拘束されるとされた。
 こう予定された軍隊を指揮するために、人民委員会議(Sovnarkom)は1918年2月3日に、Krylenko とPodvoiskii を議長とする、赤軍の全ロシア会合(Collegium)を設立した(注10)。
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2786/西尾幹二批判079—全集未完結。

   西尾幹二全集第22巻A(2024.10)を一瞥して驚いたのは、「後記」の短さだ。他の巻では「後記」で長々と、すでに収載されている文章の一部を反復したりして、その巻の自分の文章・主張の「意義」を強調したりしていた。
 この第22巻Aの「後記」はたった5頁で、この巻には何を収めているかについての言及すらない。
  この巻は全体として〈運命と自由〉と題され、「後記」も「運命」に論及している。
 しかし、「要するに『運命』とは個人の情熱の外にない」という(相変わらず?)訳の分からない言辞があり、「個人」だけかと思えば「個人の『運命』」と「日本の『運命』」があるようであり、最末尾の文章は、こうなっている。
 「今こそ『運命』の声に静かに耳を傾けようではないか」。
 何のことか、何を言いたいのか、さっぱり分からない。
 これはひょっとして、西尾幹二の生前最後の文章なのだろうか。
 見苦しく、悲惨なものだ。「運命」という言葉・概念も、一種のイメージとして使われていて、当然ながら、きちんとした定義はない。西尾幹二における「自由」概念と同じく、何らかの「ひらめき」と「思い込み」によって、言葉・概念が使われ、文章ができあがっている。
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  全集22巻Aということは同22巻Bもあり得るはずだ。
 しかし、この22Bはまだ刊行されていないようだ。
 とすると、西尾幹二は「本人編集」であるので、結局は全巻の刊行はないまま終わったことになる。
 もともと「本人編集」で、各巻の編集時点での西尾の〈気分〉で、その内容、収録する本や文章は決められていたと見られる。そして、少なくとも実質的には、編集時点での「書き直し」、「書き換え」を疑い得た部分もあった。
 そうであるとは言え、形式上「22B」が欠落するので、西尾幹二が最初に意図したようには全集は完結しなかったことになる。
 異様な「本人編集の全集」だったとは言え、気の毒なことだ。
 現時点での国書刊行会(出版元)のウェブサイトには載っていないが、つい昨年まで、この欄で紹介した<西尾幹二は太陽だ>との加地伸行の文章とともに、「第22巻」の「A」と「B」のかなり細かな(刊行予定の)内容も掲載されていた。
 現時点ではそのサイトの頁は存在しないので、結局は何が収載されないままになったかは、分からない。
 だが、ずっと興味だけはもっていたのは、つぎの二つの西尾著がどういうふうに収載され、「後記」で西尾はどう位置づけるのだろうか、ということだった。
 ①西尾・国家と謝罪(徳間書店、2007)。
 ②西尾・皇太子さまへの御忠言(ワック、2008)。
 一つの書物でも西尾幹二全集は分断し、それらの一部を別々の巻に収録するということをしていたので、これらの一部がすでにどこかに収録されている可能性はある。だが、中心部分の収載は行われていないはずだ。
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 「22A」の45%ほどは、西尾・あなたは自由か(ちくま新書、2018)が占めている。
 ついでながら、元の新書とは違って「章」別の構成になっている。それは別としても、「第四章は『正論』2014年2-4月号に連載したものを加筆修正した」と注記されているので(p.261)、その「加筆修正」は、最初の発表文章を全集収載時点で「書き換え」したものになっている可能性が高いことに注意しておくべきだろう。
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 国書刊行会の全集刊行開始時点(2011年)でのウェブサイトでは、〈皇太子さまへの〜〉は「22B」の一部の「天皇・皇室」関係論稿として位置づけられていた記憶がある(上の①については記憶がない)。
 「22B」では、上の二つはきちんと収録され、めでたく?完結する予定になっていたのだろうか。
 どうも、怪しい。
 というのは、「22A」にはまだ半分以上の余裕があり、早めに収録することを意図すれば、上のいずれかのかなりの部分を収録できたはずだ。そしてまた、「22A」には、書物・雑誌上の文章ではない、「西尾幹二のインターネット日録」に掲載された「電子的」文章までが収載されている(全部ではない)。
 西尾幹二は最後には、上の二つ、①と②の収録を避けた、少なくとも収載に積極的ではなかった、のではないか。
 ①は、〈新しい歴史教科書をつくる会〉の「分裂」過程と八木秀次等や〈日本会議〉批判を内容としている。そして、「歴史教科書問題」と題した全集 17巻(2018)には収載されていないものだ。
 そうすると、あくまで推測だが、現在の天皇・皇后両陛下は「離婚すべきだ」旨を皇太子・同妃殿下時代に書いていた②とともに、全集の中に入れて歴史的記録にすることに少なくとも積極的ではなかったのではないか。
 こんなところにも、〈本人編集〉の影響または「影」が表れているように、秋月には思われる。
 そうだとすると、全集が「未完結」で終わったのは、何ら気の毒なことではない。
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  全集「22A」を見ていて、さらに不思議なことをようやく発見した。
 全集のこの巻の表紙のすぐつぎの写真の裏側の写真。
 こう注記されている。
 「いよいよ全集は完結が近づいた。大型の議論をしている余裕はもうなく、手早く仕事を処理してくれる人材を著者が選んで『三人委員会』に委嘱した。2023年4月1日撮影」。
 ①これはいったい誰が書いた文章なのだろうか。内容からして、国書刊行会の中の誰かとしか考えられないが、こう「表に出る」のは権限を超えるのではないか。奇妙で、不思議だ。この全集には最初から、著者と出版社の間の「全集刊行委員会」というものはなかったのだ。
 ②この「三人委員会」は、「22A」の編集に関与したのかどうか。時期的にはそう思われるが、西尾は「後記」で「三人委員会」に全く触れておらず、明確ではない。
 ③撮影されている西尾以外の三人が「三人委員会」のメンバーだろう。しかし、最も不思議で奇妙だが、その氏名が何ら記載されていない。秋月も、立ち姿と顔だけでは分からない(関係者には、写真で見て分かる人もいるのだろう)。
 この写真はこのような意味でじつに奇妙なもので、全集自体の「いい加減さ」を明瞭に示していると思われる。
 国書刊行会のこの全集担当者は気の毒だとずっと思ってきたが、その担当者でも回避できないミスがあったと思われる。
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 なお、まさかとは思うが、この「22A」で明らかにされた「三人委員会」(誰々かは現在不明なまま)が編集して、「第22巻B」が刊行されるのだろうか。
 どうなろうと勝手で、お好きなようにという感じだが、そうなれば、「西尾幹二全集」は、(少なくとも最後は「本人編集」ではない、という一貫しない)ますます奇妙奇天烈なものになるだろう。そして、恥ずかしい印象だけ残して、内容はあっという間に忘れられるだろう。西尾幹二という名前も。
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  西尾幹二について、「自我自尊」・「唯我独尊」、「時代錯誤」・「古色蒼然」等々と全体的印象を語ったことがある。
 この巻を一瞥しても、その印象は変わらない。西尾幹二については、まだ書けることが「山ほど」残っている。それを書くことをもう諦めているのではない。
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2785/NHKというものの考え方③。

 NHKの番組批評のつづき。
 NHKの2024年8月下旬の<クローズアップ現代>で、戦時中に(国籍上の)イギリス人を収容する「抑留所」が日本にあった、ということが取り上げられていた。
 そういう事実を伝え、当時の関係者の「証言」を伝えて残すことに反対しはしない。いや、必要なことかもしれない。
 だが、この問題の教訓?を今日にどう具体的に生かすかは、議論がありうるだろう。
 NHKのサイトを覗いてみると、この番組の制作意図として、「戦争が絶えない世界と国際化が進む日本へのヒントを探りました」、と書かれている。この文章は、当日の放送でも冒頭にあったのかもしれない。
 はて、どういう「ヒント」をNHKの製作者は探りあてたのか?
 これではいけないと秋月が感じたのは、番組のたぶん最後にキャスターの桑子真帆が語った、つぎの言葉だ。
 「属性よりも、個人ですね」。
 これが「ヒント」だとすると、桑子、番組製作者、NHKは「狂って」いるだろう。
 両親がイギリス人だった子供で戦時中の日本の学校に通っていて、〈日本が好きだった〉者も、いただろう。
 しかし、問題は、「属性」と「個人」を対比させて、後者を最大限に優先させれば解決する、というものではない。
 NHK自体が日本の法律にもとづいて設立された法人で(「特殊法人」等々の範疇論議は、言葉・概念の問題)、その名のとおり「日本」という属性を背負っている。
 NHKはなぜ、アメリカ・大リーグの、大谷翔平選手等が所属する球団の試合をほとんどもっぱら中心にして、生放送・中継をえんえんと繰り返したのだろうか。大谷等の「個人」に注目した、とでも言うのだろうか。
 誰もが純粋な「個人」ではおれず、種々の「属性」があることはあまりにも当然のことだろう。
 にもかかわらず、平然と、堂々と、いわゆるゴールデンタイムの放送で、「属性ではなく、個人ですね」と言い放つ人物がNHKにいる、あるいはNHKが起用している(桑子真帆の雇用形態を知らない)ことに、きわめて驚き、危険性すら感じた。
 こういう曖昧さ、緩さは、関連団体の中に中国政府主張そのままの見解を生放送中に発言した(国籍上の)中国人がいたとかのニュースがあったことと(詳細は知らない)、どこかで関係しているのではなかろうか。
 元に戻ると、70年以上前の日本政府の行動をいくら批判し続けたところで(それを一般に否定はしないが)、今日の、現在の日本に役立つ「ヒント」を提供できるわけでは絶対にない。
 何やら偽善家ぶった、あるいは「政治的コレクトネス」を追求しているがごとき番組や人々が、NHKにはときにある、または存在しているようだ。
 美しく虚しい言葉で、貴重な電波を使わないでいただきたいものだ。
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2784/R.パイプス1990年著—第14章②。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 〈第14章・革命の国際化〉の試訳のつづき。
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 第14章第一節②。
 (06) 西側はボルシェヴィズムに大きな関心をもたなかったとしても、ボルシェヴィキには西側に重大な関心があった。
 ロシア革命は、その元の国に限定されたままでは存続しなかっただろう。ボルシェヴィキが権力を奪取した瞬間から、それは国際的な意味をもった。
 ロシアの地政学的位置だけによっても、ロシアが世界大戦から離れることは許されなかった。
 ロシアの多くは、ドイツの占領下にあった。
 やがて、イギリス、フランス、日本、アメリカが形だけの派遣部隊をロシアに上陸させた。東の前線を再活性化させようとの試みは失敗した。
 依然としてもっと重要だったのは、革命はロシアに限られるべきでなく、限られることもあり得ない、革命が西側の産業国家に拡大しなければロシアは破滅する、という確信が、ボルシェヴィキにあったことだ。
 ボルシェヴィキがペテログラードを支配したまさにその最初の日に、講和布令は発せられた。それは、外国の労働者たちに対して、ソヴェト政府が「労働者、被搾取大衆を全ての隷従と搾取から解放する任務を首尾よく成し遂げる」(注2)よう決起し、助けることを強く呼びかけるものだった。
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 (07) これは、新しい言葉遣いで覆われていたけれども、既存の全ての政府に対する、そして主権国家の内政問題への全ての干渉に対する、戦争の宣言だった。内政干渉は当時およびのちに頻繁に繰り返されることになる。
 そのような意図があることを、レーニンは否定しなかった。
 「全ての諸国の帝国主義的強奪に対して、我々は挑戦状を突きつけた」。
 外国での内戦を促進しようとするボルシェヴィキの企ての全て—文書アピール、助成金や援助金の提供、軍事的協力—は、ロシア革命を国際化させた。
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 (08) こうして外国の政府が彼らの国民に反乱や内戦を刺激することは、「帝国主義的略奪者」に対して、同じように報復する全ての権利を与えた。
 しかしながら、すでに述べた理由で、実際には、諸大国はこの権利を行使しなかった。いずれの西側政府も、大戦中もその後も、共産主義体制を打倒するようロシア国民に対して訴えることをしなかった。
 ボルシェヴィズムの最初の年でのこのような限定的な干渉しかしなかった動機は、もっぱら、彼らの個別的な軍事的利益のためにロシアを役立たせることにあった。
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 第一節、終わり。

2783/生命・細胞・遺伝—19。

 染色体の数が(23対)46本というのは、人体全体にある染色体数ではなく、一つの細胞内の数だとは、何となく分かっているような気がする。
 だが、遺伝子の数や塩基対の数(2本の「柱」に付く「塩基」の数の半分)となると、こうした分野についての素人には、いったいどの範囲の中の数かが怪しくなることがある。
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 ヒトがもつ遺伝子の数について、確定的で厳密な数値を示している書物等はない。
 だが、20,000と30,000の間の数値であることに一致はある、と思われる。
 若干の例を示す。
 本庶佑・ゲノムが語る生命像(2013)—約2万〜3万。
 島田祥輔・遺伝子「超」入門(2015)—約22,000。
 小林武彦・DNAの98%は謎(2017)—約22,000。
 太田邦史・エピゲノムと生命(2014)—約21,000。
 黒田裕樹・休み時間の分子生物学(2020)—約21,000。
 S.ムカジー・遺伝子(2021)—約21,000〜23,000。
 NHK取材班・シリーズ人体·遺伝子(2019)—約20,000。
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 細かな数値に拘泥する意味は全くない。
 細胞分裂が始まると遺伝子群が46本の染色体の中に分かれて「くるまれ」る、きれいに46(または23)等分化されるのではない、という知識からすると、これらの遺伝子数は、一つの細胞中にある遺伝子の数だ、ということを確認するしておくことが重要だ(秋月にとっては)。
 したがって、一人の人体全体の中には、<上の遺伝子数×細胞数>の遺伝子があることになる。
 但し、全ての(特定のアミノ酸生成を指示する)遺伝子が「発現」したり、「利用」されたりするのでは全くない。
 もう一つ、確認しておくべきなのは、つぎだ。
 遺伝子数は、ヒト・人間の全てで同じではなく、個体によって異なる。「約」22,000、「約」21,000 等だ。
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 遺伝子数のほかに、「塩基対」数も記述ないし紹介されていることがある。
 いちいちの文献を挙げないが、ほとんどがつぎの数字だ。
 30億、または32億
 「億」という数字になると一瞬は迷うが、これまた、一人の人体全体ではなく、一つの「細胞」内の塩基対の数だろう。
 〈ヒトゲノム)内にあるとされる諸数値もまた、一つの「細胞」についてのものだろう。
 したがって、「ヒトゲノム」は30億-32億の「塩基対」で構成され、その中に2万-3万(2万-2万2000)の「遺伝子」がある、ということになる。
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2782/生命・細胞・遺伝—18。

 生物=生命体とは、「『外界』と明確に区別される界壁(膜、皮膚等)をもつ統一体で、外部からエネルギーを取り込み代謝し、かつ自己増植または生殖による自己と同『種』の個体を産出し保存する力をもつ」もの、をいう(No.2723/2024.06.06)。
 これは、通常語られる生物=生命体の定義の三要素を含め込んで、秋月なりにまとめた定義らしきものだ。
 この「生命体」を説明しようとするとき、いったい何から、どこから始めるのが適切だろうか。唯一の正解はないだろう。つぎが考えられる。
 地球上(内)の単細胞生命体誕生、真核生物とくに種としてのヒト=ホモ・サピエンスの誕生、「細胞」、「細胞核」、DNA、遺伝子、「ゲノム」(とくにヒトゲノム)、あるいはほとんどの生命体に共通する〈セントラル・ドグマ〉、あるいは「細胞分裂」。
 上の「細胞」以下は関係し合っている。「細胞分裂」から始めた場合にのみ「染色体」も出てくるが、この「染色体」は説明にとって不可欠の概念だとは(秋月には)思われない。
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 ゲノム(genome)は、遺伝子(gene)の全体あるいはその集合ではない。
 「遺伝子の全体というより、『その生物をつくるのに必要な遺伝情報の全体』といった意味をもつ」という説明がある(2024年9月、武村政春・DNAとは何だろう?—「ほぼ正確」に遺伝情報をコピーする巧妙なからくり(講談社ブルーバックス)。
 これは「遺伝子」と「遺伝情報」の区別が前提になっていて、分かりづらい。
 つぎの叙述の方が、私には理解しやすい。「遺伝子」と「塩基配列」の区別は分かるからだ。
 当初は「『すべての遺伝子』という意味」だったが、現在では「範囲はさらに広がり」、『すべての塩基配列』と見なしています」(島田祥輔・大人なら知っておきたい-遺伝子「超」入門(2015、パンダ·パブリッシング)。
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 ともかくも、ヒトゲノム計画が終了して最初の研究報告が発表されたとき、研究者たちは喫驚した、と秋月が推測するのは、つぎのことだ。すなわち、ヒトゲノムとは大まかにはDNAの総体なのだが、そのDNAの約2%だけが遺伝情報をもつにすぎない、と明らかになったということ。
 ここで「遺伝情報」とは厳密にはまたは狭義には、〈特定のタンパク質=アミノ酸の生成〉を指示する情報をいう。そしてこれが厳密な・狭義の「遺伝子」だ。そしてこの部分、つまり特定のタンパク質の生成を指示する=「コードする」部分を〈エクソン〉という。
 但し、エクソン部分を分断して介在する箇所があって、これは〈イントロン〉と称され、「遺伝子」関連部分に含められている(ようだ)。
 なお、DNAがmRNAに「転写」される過程で、イントロンは除去され、エクソン部分だけが残る(=その部分だけが転写される)。この除去のことを〈スプライシング〉という。
 DNAのうち、エクソン部分は(ある文献によると)2パーセントにすぎない。イントロンを含めても、「遺伝子」関連部分はDNAの20パーセント程度にすぎない(小林武彦・DNAの98%は謎—生命の鍵をにぎる「非コードDNA」とは何か(2017年11月、講談社ブルーバックス)による)。但し、武村政春・DNAとは何だろう?(上掲)によると、エクソンは1.5パーセントと明記され、イントロンを含めて約25パーセントと表示されている。
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 DNAと遺伝子は、物理的、位置的にどういう関係にあるのだろうか。
 DNAが「二重らせん」構造をしていることはかなり広く知られている(1953年に発見された)。二本のDNAがらせん状に〈ヒストン〉といういわば「柱」に巻きついていることから、こう呼ばれる。
 二本のDNAはともに、〈ヌクレオチド〉と称される小単位が長くつながったものだ。各ヌクレオチドは、①塩基、②糖(五炭糖)、③リン酸からなる。③リン酸はいわば「のりのような接着剤」となって、上下の別のヌクレオチドとくっけさせ、長い一本のDNAを形成する。
 「遺伝」情報が入っている可能性があるのは、①塩基だ。A、T、G、Cの4種がある。
 一本のDNAにもう一本のDNAが「接合」して、「はしご段」またはより正確にはらせん状に巻く「縄ばしご」と比喩し得るものが出来上がる。
 「接合」するのは①塩基だけで、接合したものは①‘〈塩基対〉と呼ばれる。接合した場合、比喩的には、①’塩基対が「はしご」の横板または横縄部分になり、②と③は、にぎる二本の「柱」または「縄柱」になる。
 二つの「塩基」から一つの「塩基対」ができるが、接合する二つの塩基には、「相補」性がある。
 すなわち一方がかりにそれぞれA、T、G、Cだとすると、「接合」する別の塩基の性格は必ず、それぞれ、T、A、C、Gになる。別言すると、A-T、G-Cという対応または「相補」関係しかない(不思議なことだが、別の一本は正確な複製のための「予備」だともされる)。
 なお、ある塩基(・塩基対)と上下のそれの距離は、3.4オングストローム=0.34ナノメートル程度だという(上掲・武村)。100億オングストローム=1mだから、3.4/100億メートル)。
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 一本のDNAをタテに長く続くものと仮定した場合、タテに続く塩基の並びを〈塩基配列〉という。そして、3個から成る塩基配列で最大で64の異なるアミノ酸を特定することができる。塩基には上記のとおり4種あるので、4×4×4=64だからだ。そして、アミノ酸は20種類しかないからだ(4×4=16では足りない)。3個から成る塩基配列のことを〈コドン〉と言う。
 塩基配列は、塩基の4種の性格符号の組み合わせ方・つながり方によって、区切りとなる〈最初〉と〈最後〉が指定される、とされる。「開始コドン」「終止コドン」だ。
 この〈最初〉と〈最後〉の間のコドンの集まりが、一定の「遺伝情報」を示すことがあり得る。繰り返すと、一定範囲の塩基とそれから成る塩基配列が一定の「遺伝情報」(一定のアミノ酸の結合の仕方)を示していていることがあり得る。
 この場合、その(一定の区切り内の)部分を、「遺伝子」という。より正確には、その一定の塩基配列に「接合」している、「相補的」な塩基配列を含めて言う。
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 こうして、DNAと「遺伝子」がつながった。前者は形態・性格に、後者は「情報」という機能に着目しているので同一次元に並べるに適さないが、大雑把にはつぎのように言えるだろう。
 細胞>細胞核>DNA>塩基配列>遺伝子>コドン>塩基(・塩基対)。
 そして、ヌクレオチド=塩基+五炭糖+リン酸。   
なお、〈DNA〉=「デオキシリボ核酸」は、ヌクレオチド(nucleotide)を構成するここでの糖は「デオキシリボース」で、それに塩基(base)とリン「酸」(acid)が加わってヌクレオチドになり、かつ細胞「核」内にあるがゆえの呼称だと(秋月には)思われる。「核酸」=nucleic acid。
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 以上はほとんどが再述で、復習として一括して書いた。

2781/R.パイプス1990年著—第14章①。

 Richard Pipes には、ロシア革命期(とりあえず1917-1921)を含む、つぎの二つの大著がある。
 A/Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
   **「1899 -1919」が付くのは1997年版以降。
 B/Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime 1919-1924 (1993).
 上のA は、つぎのような構成だ(再掲。頁は追加)。
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 序説。
 第一部・旧体制の苦悶。 p.1〜p.337.
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。 p.341〜.
  第9章/レーニンとボルシェヴィズムの起源。 p.341〜.
  第10章/ボルシェヴィキによる権力の追求。 p.385〜.
  第11章/十月のクー。 p.439〜.
  第12章/一党国家の形成。 p.507〜.
  第13章/ブレスト=リトフスク。 p.567〜.
  第14章/革命の国際化。 p.606〜.
  第15章/「戦時共産主義」。 p.671〜.
  第16章/村落に対する戦争。 p.714〜.
  第17章/皇帝家族の殺害。 p.745〜.
  第18章/赤色テロル。 p.789〜p.840.
 あとがき。 〜p.842.
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 もともと第一部をしっかり読む気はなかった。第二部・第9章からこの欄への試訳の掲載を始めた(2017年)。だが、巻末まで終わっておらず、掲載済みは第9章〜第13章だ。これは、第二部の5割余、全体の3割余にとどまる。
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 Richard Pipes(リチャード・パイプス、1923〜2018)とLeszek Kolakowski(L・コワコフスキ、1927〜2009)のいくつかの書物は、2017年以降現在までの私の、大部分でも半分でもないが、重要な一部だった。2017年以降も生きていたからこそ、二人の書物にめぐり合うことができ、それまでの発想・思考方法自体をある程度は大きく変えることになった。生き物としての人間(の個体)の必然とはいえ、「知識」以上の多くのことを教えられたので、比較的近年に逝去し、今は現存していないことを意識すると、涙が滲む思いがある。
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 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990)の第14章の「試訳」を始める。
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 第14章/革命の国際化。
 休戦を達成することは、全世界を征服することだ。
 —レーニン、1917年9月。
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 第一節/ロシア革命への西側の関心の少なさ①。
 (01) ロシア革命は、やがてフランス革命以上に、世界史に大きな影響を与ることになる。だが最初は、フランス革命ほど注目を浴びなかった。
 これは二つの要因でもって説明することができる。フランス革命がより有名だったこと、二つの事件が異なる時期に起きたこと。
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 (02) 18世紀後半、フランスは、政治的かつ文化的に、ヨーロッパの指導的大国だった。ブルボン王朝は大陸の第一の王朝で、君主制絶対主義を具現化していた。また、フランス語は、文化的社会の言語だった。
 諸大国は最初は、フランスを揺さぶった革命の態様に喜んだ。しかしすぐに、彼ら自体の安定に対しても脅威であることに気づいた。
 国王の逮捕、1879年9月の大虐殺、専制王を打倒するとのジロンド(the Girondins)の諸外国への訴えからして、フランス革命はたんなる政権の変化ではないということに、全く疑いはなかった。
 一巡りの戦争がほとんど四半世紀のあいだ続き、ブルボン朝の復活によって終わった。
 牢獄に収監中のフランス国王へのヨーロッパの君主たちの関心は、彼らの権威の源が正統性原理にあり、かつ国民主権のためにこの原理がいったん廃棄されれば彼らの安全も保障されないとすれば、理解することが可能だ。
 なるほどアメリカの植民地は早くに民主制を宣言していたが、アメリカ合衆国は海外の領域にあり、指導的な大陸国家ではなかった。
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 (03) ロシアはヨーロッパの外縁にあり、半分はアジアだった。そして、圧倒的に農業国家だった。したがって、ヨーロッパは、ロシア国内の進展が自分自身に関係があるとは考えていなかった。
 1917年の騒乱は、既成の秩序に対する脅威ではなく、ロシアが遅れて近代に入ることを表明するものと、一般に解釈された。
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 (04) こうした無関心が大きくなると、つぎのようなことになる。すなわち、歴史上最大で最も破壊的な戦争の真っ只中で起きたロシア革命は、正当に評価すべき事件ではなく、その戦争の一つのエピソードにすぎないという印象を、当時の人々に与えた。
 ロシア革命が西側に生じさせたこの程度の興奮は、ほとんどもっぱら、軍事作戦への潜在的な影響と関係していた。
 連合諸国と中央諸国はいずれも、二月革命を歓迎した。但し、異なる理由で。
 前者は、人気のない帝制の崩壊はロシアの戦争遂行を再活性化するだろう、と期待した。
 後者は、ロシアを戦争から退出させるだろう、と期待した。
 もちろん、十月のクーは、ドイツでは熱狂的に歓迎された。
 連合諸国の中には入り混じった受け取り方があったけれども、確実なのは、警報は発せられなかったことだ。
 レーニンと彼の党は知られておらず、その夢想家的な計画や宣言は、誰も真面目に受け取らなかった。
 とくにブレスト=リトフスク条約後の主な見方は、ボルシェヴィキはドイツが作ったもので、戦闘が終了すれば舞台から消え去るだろう、というものだった。
 ヨーロッパ諸国の政府は例外なく、ボルシェヴィキの潜在的可能性とそれがもつヨーロッパの秩序に対する脅威を、いずれも極端に過小評価した。
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 (05) このような理由で、第一次大戦の最後の年でも、そのあとに続く休戦に際しても、ロシアからボルシェヴィキを排除する企ては、何ら試みられなかった。
 諸大国は1918年11月まで相互間での戦闘に忙殺されたので、遠く離れたロシアでの進展を気にかけることができなかった。
 ボルシェヴィキは西側文明に対する致命的な脅威だとの声は、あちこちで少しは聞かれた。この声はドイツ軍でとくに大きかった。ドイツ軍は、ボルシェヴィキによる政治的虚偽宣伝や煽動と最も直接に接する経験を有していたからだ。
 しかし、そのドイツですら結局は、直接的な利益を考慮することを、あり得る長期的な脅威への関心よりも優先した。
 レーニンは、交戦諸国は講和締結後に力を合わせて、レーニンの体制に対抗する国際的十字軍を立ち上げるだろう、と絶対的に確信していた。
 彼の恐怖は、根拠がなかった。
 イギリス軍だけが積極的に、反ボルシェヴィキ勢力の側に立って干渉した。但し、熱意半分のことで、ある一人の人物、Winston Churchill の先導によってそうしたのだった。
 その干渉は真剣には行なわれなかった。西側が用意できる軍事力は干渉が必要とする軍事力よりも強く、また、1920年代の初めにヨーロッパの大国は共産主義ロシアと講和し〔、国家承認し〕たからだ。
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 第一節②へとつづく。

2780/NHKというものの考え方②。

 No.2773/2024.10.22)で民間放送に触れたのは、今年になってからのNHKの二つのテレビ番組の内容に対する疑問または不満を書いておきたかったことの前振りのようなものだった。
 「NHKというものの考え方」というのも何やら大仰な表題だが、「〜というものの考え方」という記事をいずれ書きたいからで、以下はたんに番組批評にすぎない。宣伝広告がない点は、明らかにNHKの方がよい。
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 第一。NHKスペシャル/未解決事件—下山事件。
 2024年3月。同4月に再放送。どちらで観たのか忘れた。前者だとすると、2023年度の制作かつ放送。TVer とやらでもう一回観ないで、以下は書く。
 番組の終わりのエンディング・ロールに出てくる制作関係人名等の列の長さがすごい。多数の職員・人々がかかわったということだろう。
 登場する俳優陣もかなりすごい。大沢たかお、森山未来ら。
 しかし、これだけの俳優や制作人員、そして金をかけながら、相当に無駄に使った番組だと感じた。
 つぎの感想をたまたまネット上で見たが、<ゴマすり>論評ではないか。「『忖度ゼロ』番組レビュー」と銘打つのは恥ずかしい
 「感情を揺さぶられる人間ドラマに仕上がってい」た。
 「…脚本・演出は見事」、「脚本—さん、演出は—さんへの信頼感が一気に高まりました」。
 「つまり、…社会派作品にありがちなメッセージ性ありきのドラマではなく、最高レベルのエンタメ性があったのです」。
 以上、2024年4月、同一の書き手(木村隆志)による。
 こんな感想もあるのかと興味深かったたので、一部写しておいた。
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 私の感想は、つぎのとおり。
 第一。下山事件の<謎とき>としては、ほとんど新鮮味がない。
 新しい証言者の発見に新味があったのかもしれないが(不確認。「極秘資料」が何か分からない)、すでに1970年代には知られていた松本清張(番組内でも登場)等の「他殺説」の範囲内に収まっていると見える。なお、秋月は、この事件に関する、入手が容易に可能な本は、かつてたぶん全部読んだ。また、この説に立つたぶん別の放送局による番組(テレビドラマ)か映画も観たことがある。
 NHKのこの番組の制作責任者(不明)は、過去の関係文献、映画・ドラマ等を知っているのか?
 知った上でなら、この番組のどこに新鮮味、独特さがあったのだろうか。
 第二。主演者の一人の言葉またはナレーションとして繰り返されるものに、〈日本に(国家としての)主権があるのか〉という述懐がある。
 現在のアメリカへの「従属?」をふまえて、この点を強調したかったのかもしれないが、幼稚であり、何の迫力もない。
 2020年代の現在の問題には立ち入らない。
 下山事件発生の1949年、日本はGHQ(実質的に米軍)による「武力占領」のもとにあった。すでに日本国憲法は施行されていたのでまさかこの番組制作責任者は日本は「独立」していたと勘違いしていないことを望むが、形式的にせよ日本が「独立」したのは1951年だ。
 〈2.1スト〉もGHQによって潰されたが、当時の現行法だった法令にもとづく裁判所の判決・決定ですら、GHQによって覆されたことがある。その例を、秋月は知っている。
 立法府、司法府についてもそうなのだから、警察や検察の動きがGHQの意向の範囲内になることくらい、当たり前のことではないか。
 したがって、主演者等が<日本に主権はあるのか>と何やら神妙に、深刻ぶって述懐するのは、ほとんど<喜劇>だった。苦笑を禁じえなかった。そして、現実・史実と異なる方向への一種のイメージ操作になるから、危険でもある。
 ともあれ、長いエンドロールと俳優陣にしては、内容が幼稚すぎる。金と人がもったいない。二部に分けてあるというので少しは期待したが、大きなはずれだった。
 もう一つは別の回にする。
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2779/O.ファイジズ・レーニンの革命⑥。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
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 第六節。
 (01) ボルシェヴィキの初期の布令の中で、10月26日のソヴェト大会で採択された講和に関するものほど、感情に訴える力をもったものはない。
 レーニンが、その布令を読み上げた。その布令は無併合、無賠償という古いソヴェトの定式にもとづいて「公正で民主的な講和」を訴える、爆弾のごとき「全ての交戦諸国の国民への宣言」だった。
 布令の趣旨が明らかになったとき、Smolny のホールには、圧倒的な感動の波が生じた。
 John Reed は<Ten Days That Shook the World>の中で、こう思い出した。「我々は立ち上がっていて、一緒に口ずさんで、滑らかに上昇してくる the Internationale の斉唱に加わった。…『戦争が終わった』と私の近くにいた若い労働者が言った。彼の顔は輝いていた。」(注15)
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 (02) しかし、戦争は少しも終わらなかった。
 講和に関する布令は希望の表現であって、現実の言明ではなかった。
 ボルシェヴィキはそれを、西側での革命の炎を煽るために使った。
 それはボルシェヴィキにある、戦争を終わらせる唯一の手段だった。—いやむしろ、レーニンが示唆したように、戦争を一続きの内戦へと転化する唯一の手段だった。その内戦で、世界の労働者はそれぞれの交戦政府に対抗して団結するだろう。
 世界社会主義革命が差し迫っているとの信念は、ボルシェヴィキの思考の中核にあった。
 マルクス主義者としてのボルシェヴィキには、ロシアのような後進的農民国家で先進的産業社会のプロレタリアートの支持なくして革命が長く持続するとは、考え難いことだった。
 権力掌握は、ヨーロッパ革命の勃発が接近しているという想定のもとで実行された。
 西側からのストライキや暴動の報告は、世界革命が「始まっている」ことの兆候として歓迎された。
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 (03) しかし、この革命が起きることがなければ、いったいどうなるのか?
 そうなれば、ボルシェヴィキは軍隊がないこと(数百万の兵士たちは講和に関する布令は解隊する理由になると理解した)に気づき、ドイツによる侵略に防衛力なくして立ち向かうことになるだろう。
 ブハーリンのような、党の左派に属する者たちにとっては、帝国主義ドイツとの分離講和は、国際的信条に対する裏切りになる。
 彼らは、侵略者ドイツに対する「革命戦争」(ひょっとすれば赤衛隊による)を行なうという考え方に賛成した。それは西側での革命を刺激するだろう、とも論じた。
 これと対照的に、レーニンは、そのような戦争を持続する可能性についてますます懐疑的になった。
 軍隊が存在しないことに直面すれば、ボルシェヴィキには分離講和を締結するしか選択の余地はなかった。そうすれば、ボルシェヴィキに必要な、権力の基盤を固める「息つぎ」の時間が与えられるだろう。
 加えて、東側との分離講和によって中央諸国は西側の前線での戦闘を長引かせることになるので、ロシアのこの政策は、革命の可能性を高めそうだった。
 レーニンは、ヨーロッパでの戦争を終わらせたくはなかった。革命の可能性が大きくなるかぎりで、戦争ができるだけ長く続いてほしかった。
 ボルシェヴィキは、戦争を革命目的のために利用する達人だった。
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 (04) 1917年11月16日、ソヴィエト代表団がドイツ軍との休戦を交渉すべく、ベラルーシの都市、ブレスト=リトフスクへ出発した。
 12月半ば、トロツキーが派遣された。講和関係文書への署名が行なわれる前に西側で革命が始まるという望みをもって、講和交渉を長引かせるためだった。
 ドイツの我慢は、まもなく切れた。
 ドイツはウクライナとの交渉を始めた。ウクライナにはロシアからの独立を達成するためにドイツと保護関係になることを受け容れる用意があった。そして、この脅威を、ロシアがドイツの頑強な要求(ポーランドのロシアからの分離、Lithuania とほとんどのLatvia のドイツによる併合等々)を受諾するための圧力として用いた。
 トロツキーは延期を求め、自分以外のボルシェヴィキ指導者たちと協議するためにペテログラードに戻った。
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 (05) 1918年1月11日の中央委員会での決定的会合では、最大多数派は、ブハーリンの革命戦争の主張を支持した。
 トロツキーは、もっと話し合おうと提案した。
 しかし、レーニンは、分離講和以外の選択の余地はない、それは早ければ早いほどよい、と執拗に主張した。
 彼は、ドイツ革命が勃発する可能性に賭けて革命の全体を遅らせることはできない、と論じた。
 「ドイツはまだ革命を身ごもっているだけだ。我々はすでに、完全に健康な子どもを産んでいる」(注16)。
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 (06) ジノヴィエフと、影のごとき存在のスターリン(Sukhanov によるとこの頃は「ぼんやりした灰色」だった)を含む中央委員会内の他の4人だけの支持しかなかったので、レーニンは、ブハーリンに反対して多数派となるために、トロツキーと同盟することを強いられた。
 トロツキーは、交渉を引き延ばすためにブレスト=リトフスクへと送り返された。
 しかし、2月9日、ドイツはウクライナとの条約に署名し、1週間後に、ロシアとの戦闘を再開した。
 5日経たない間に、ドイツ軍はペテログラードに向かって150マイル前進した。—それまでの3年間にドイツ軍が前進したのと同じ距離。
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 (07) レーニンは、激しく怒っていた。
 ドイツとの条約への署名を拒んだ中央委員会内の反対派ができたのは、敵が前進するのを可能にしたことだった。
 レーニンは、中央委員会での熱気ある議論の末に、2月18日に自分の意見を通過させた。
 ドイツの諸条件を受諾するとの電報が、ベルリンに発せられた。
 しかしながら、ドイツ軍は数日のあいだ、ペテログラードに向かって進み続けた。
 ドイツの航空機がペテログラードに爆弾を落とした。
 ドイツ軍は首都を占領し、ボルシェヴィキを排除することを計画していると、レーニンは確信した。
 レーニンは従前の立場を変え、革命戦争を呼びかけた。
 連合国からは、軍事的な助力が求められた。連合国はロシアを戦争にとどまり続けさせることに関心があり、そのことは、政府の性格によるとか、提供された助力を理由として、という以上のものだった。
 ボルシェヴィキは、首都をペテログラードからモスクワへと避難させ始めた。
 ペテログラードではパニックが起きた。
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 (08) 2月23日、ドイツは講和のための最終文書を提示した。
 このときドイツは、その日まで5日間以内にドイツ軍が掌握していた全ての領土を要求した。
 レーニンは中央委員会で、苛酷な講和条件を受諾する以外に選択肢はない、と強く主張した。
 こう論じた。「もしもそれらに署名をしなければ、数週のうちにソヴェト権力に対する死刑判決に署名することになるだろう」(注17)。
 ドイツの提案を受諾することが決められた。
 ブハーリン派は、抗議して中央委員会から離脱した。
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 (09) 講和条約は、最終的に3月3日に調印された。
 ボルシェヴィキの指導者の誰も、ブレスト=リトフスクに行かなかった。そして、国じゅうで「汚辱の講和」と見なされた条約に彼らの名前を残すことをしなかった。
 左翼エスエルは、抗議してソヴェト政府から離脱した。そしてボルシェヴィキには、自分たち自身だけの権力が残された。
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 (10) ブレスト=リトフスク条約のもとで、ロシアはヨーロッパ大陸上のほとんど全ての領土を放棄することが義務づけられた。
 ポーランド、フィンランド、エストニア、リトゥアニアは、ドイツの保護のもとでの一種の独立を達成した。
 ソヴェト軍団は、ウクライナから退避した。
 最終の計算では、ソヴェト共和国は人口(5500万人)の34パーセント、農業地の32パーセント、工業企業の54パーセント、炭鉱の89パーセント(泥炭と木材は最大の燃料源になっていた)を喪失した。
 ヨーロッパの大国であったロシアは、17世紀のモスクワ公国と同じ程度の地位へと小さくなった。
 だが、レーニンの革命は、救われた。
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 第四章第六節、終わり。第四章全体も終わり。

2778/O.ファイジズ・レーニンの革命⑤。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
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 第五節。
 (01) ロシアの国民的議会の閉鎖に対して、全民衆的な反応はなかった。
 エスエルを支持する伝統的基盤である農民層には、無関心があった。
 エスエルは自分たちの憲法会議への敬意を農民たちは共有してくれている、と考えていたが、これは間違っていた。
 教養のある農民たちにとってはおそらく、憲法会議は「革命」のシンボルだった。
 だが、自分たちの政治的思考の及ぶ範囲が彼ら自身の村落に限定されていた農民大衆にとっては、憲法会議は、都市的政党が支配する遠く離れた議会であり、評判の悪い帝制期のドゥーマを連想させるものだった。
 彼らには、自分たちの考えに近い村落ソヴェトがあった。実際には、より革命的形態での村落集会にすぎなかったけれども。
 あるエスエルの宣伝活動家は、農民兵士たちの集団がこう言うのを聞いた。「何のために憲法会議が必要なのか?、我々のソヴェトがすでにあり、我々の代表者は、集まって、何でも決定できるというのに」(注12)。
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 (02) 農民層は、村落ソヴェトを通じて、地主たち(gentry)の土地と財産を自分たちに分けた。
 そうしたのは社会正義に関する彼らの平等主義的規範に沿ったからで、10月26日に全国ソヴェト大会が採択した土地に関する布令による制裁(sanction)を必要としなかった。
 いかなる中央の権力も、彼らがすべきことを語りはしなかった。
 村落共同体(commune)は、各世帯の「食べる者」の数に従って、没収した耕作地の細片を割り当てた。
 土地所有者には、農民がするように自分で労働するならば、通常はそのための区画が残された。
 村落共同体の意識の中核にあった土地と労働の権利は、基本的な人間の権利だと理解されていた。
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 (03) 左翼エスエルは、ペテログラードでの敗北の後で、民主主義回復への支持を集めるべく、彼らの元々の、地方の根拠地に戻った。
 そのことは、地方の生活の新しい現実について、新たな教訓を明らかにすることになった。
 都市部では次から次に、穏健な社会主義者たちが、ソヴェトの支配権を極左へと譲り渡した。
 ボルシェヴィキと左翼エスエルが、準工業的農民の大部分とともに労働者と兵士たちの支持をあてにすることができた北部と中央の工業地域では、地方ソヴェトのほとんどは、たいていは投票箱を通じて、10月の末までに、ボルシェヴィキの手に握られた。そして、Novgograd、Pskov、Tver でのみ、若干の激しい戦闘が起きた。
 さらに南部の農業地方では、権力の移行は長くかかり、主要な都市の路上の戦闘によって血が流れた。
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 (04) ソヴェト権力の確立にしばしば伴なっていたのは、「ブルジョア」の財産の没収だった。
 レーニンは地方ソヴェトの指導者に対して、復讐によって社会正義を実現する形態として、「略奪者からの略奪」を組織することを推奨した。
 ソヴェトの役人たちは、薄い令状を持ちつつ、ブルジョアの家宅を周りに行き、「革命のために」貴重品や金銭を没収することになる。
 ソヴェトは<burzhooi>〔ブルジョア〕から税金を徴収し、納入を強制するために人質を監獄に入れた。
 こうして、ボルシェヴィキのテロルが始まった。
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 (05) 報復と復讐は、革命の力強い駆動力だった。
 巨大な数のロシアの民衆にとって、全ての特権の廃止が革命の基本的原理だった。
 ボルシェヴィキは、この特権に対する闘争に制度的形態を与えることによって、自らの運命に何ら良いことがなくとも富者や強者が破壊されるのを見ることに満足する、そのような貧しい、多数の民衆から革命のエネルギーを引き出すことができた。
 ソヴェトの政策で民衆に訴えることができたのは、つぎだった。昔の豊かな階級がその持つ広い家屋を都市の貧しい民衆と分かち合うよう、あるいは路上で雪やゴミを清掃するような単調かつ退屈な作業をするように強いること。
 トロツキーはこう述べた。「何世紀にもわたって、我々の父親や祖父たちは、支配階級の汚物やゴミを清掃してきた。だが今は、我々が彼らに我々の汚物をきれいにさせよう。我々は彼らの生活を快適でないものにして、ブルジョアにとどまるという希望を失わせるようにしなければならない」(注13)。
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 (06) ボルシェヴィキは、<ブルジョア>を「寄生虫」、「階級の敵」だと描いた。
 そして、大規模に彼らを破壊するテロルを行うことを奨励した。
 レーニンは、1917年12月に「競争を組織する仕方」を書いて、それぞれの町や村には「ロシアの大地からノミ、シラミ—ごろつき、狂人—、金持ち、等々を一掃する」それぞれに独自の手段が残されるべきだ、と提案した。
 「ある所では、10人の金持ち、12人のゴロつき、仕事を怠ける6人の労働者が、監獄に入れられるだろう。
 二つめの場所では、彼らはトイレ掃除をさせられるだろう。
 三つめの場所では、一定の時間を務めた後で『黄色い切符』が与えられるだろう。そうすると、彼らが直るまで、<有害な>者たちだと誰もが警戒し続ける。
 四つめの場所では、全員のうち10人ごとの怠け者の中から1人が、ただちに射殺されるだろう。」(注14)
 「ブルジョアジーに死を!」は、チェカ(Cheka)の建物の壁に書かれていた。
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 (07) 財産を奪われ、名誉を傷つけられ、「かつての人民」は生き残りのためにもがいた。
 彼らは、食っていくだけのために最後の所有資産を売ることを強いられた。
 Meyendorff 男爵夫人は、5000ルーブルでダイアモンド製ブローチを売った。—一袋の小麦を買うことができた。
 貴族の御曹司たちは、街路上の売り人へと格落ちした。
 多数の者が全てを売り払い、外国へと逃亡した。—およそ200万のロシア人エミグレが1920年代の初めまでに、Berlin、Paris、New York にいた。あるいは、南へと、ウクライナやKuban へ逃げた。そこは、反革命の白軍が勢力の主要な基盤としていた地域だった。
 白衛軍は、帝制軍、コサック、地主やブルジョアの息子たちで成る義勇部隊で、ボルシェヴィキに反抗する闘争でもって統合された。
 彼らの明瞭なただ一つの目標は、時計の針を1917年十月の前に戻すことだった。
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 第四章第五節、終わり。

2777/O.ファイジズ・レーニンの革命④。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
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 第四節。
 (01) 新しい体制が長く続くとは、ほとんど誰も考えなかった。
 「一時間のCaliphs 〔アラブの指導者〕」というのが、多くのプレスの判断だった。
 エスエル指導者のGots は、ボルシェヴィキに「数日間」だけを認めた。
 Gorky は2週間、Tsereteli は3週間だった。
 多くのボルシェヴィキは、それ以上に楽観的ではなかった。
 教育人民委員〔文部科学大臣〕のLunacharsky は10月29日に、妻にこう書き送った。「事態はまだ不安定なので、手紙から離れるときいつも、私の最後のものになるのか否かすら分かっていない。私はいつでも、牢獄に投げ込まれる可能性がある」(注9)。
 ボルシェヴィキは首都を辛うじて掌握していた。—ペテログラードには主要な官署の全てがあったが、国有銀行、郵便と電信は権力奪取に抗議してストライキに入っていた。一方、地方については何の統制も効かせていなかった。
 ボルシェヴィキは、ペテログラードに食糧を供給する手段を持ち合わせていなかった。鉄道への支配を失っていたので。
 パリ・コミューン—「プロレタリアート独裁」の原型—の運命と同様になるように見えた。それはフランス全土から切り離されていたので、1871年のフランス軍の攻撃に耐えることができなかった。
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 (02) 最も早い軍事的脅威は、ケレンスキーがもたらした。
 彼は10月25日に冬宮から逃げ、ペテログラードのボルシェヴィキと闘うために北部前線から18のコサック団をかき集めた。ペテログラードでは、カデットと将校たちの小さな部隊が、彼らを支援すべく決起することになっていた。
 一方でモスクワでは、ケレンスキーに忠実な連隊が、10日間、ボルシェヴィキと戦闘した。
 最も激烈な戦闘はKremlin の周りで起き、モスクワの貴重な建築上の財産の多くが損なわれた。
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 (03) 最初の内戦は、Vikzhel つまり鉄道労働組合の介入によって複雑になった。
 全社会主義政党の労働者で成っていたVikzhel は、鉄道輸送を停止すると脅かして、戦闘を中止し、社会主義連立政府樹立に向けた政党間交渉の開始をするようボルシェヴィキに強いようとした。
 首都への食糧と燃料の供給が切断されれば、レーニンの政府は存続できなかった。
 モスクワとペテログラードでのケレンスキー部隊との戦闘は、鉄道に大きく依存していた。
 ボルシェヴィキは10月29日に、メンシェヴィキとエスエルとの協議を開始した。
 しかし、レーニンは、いかなる妥協にも反対した。
 ケレンスキー兵団との戦闘の勝利が確実になるや、彼は政党間協議を潰し、それは最終的には11月6日に決裂した。
 ボルシェヴィキによる権力の奪取は、ロシアでの社会主義運動を分裂させた。それは取り返しのつかないものだった。
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 (04) 権力奪取は全ロシア・ソヴェト大会の名において実行された。しかし、レーニンには、ソヴェト大会または常設のその執行部〔ソヴェト中央執行委員会=ソヴェトCEC〕を通じて統治する意図は全くなかった。ソヴェト執行部では、左翼エスエル、アナキストと少数のメンシェヴィキが、レーニンの独裁を実施する機関である人民委員会議(Sovnarkom)を議会のごとく恒常的に制約しようとしていた。
 人民委員会議は11月4日に、ソヴェトによる同意なくして立法(legislation)をする権限が自らにある—これはソヴェト権力の原理を侵犯していた—、そして、その観点からしてソヴェトの意見を聴くことなく立法できる、と布告した。
 ソヴェト執行部は、12月12日に初めて2週間の会合を行なった。
 人民委員会議はそのあいだに、中央諸国との和平交渉を開始し、ウクライナでの戦争を宣言し、モスクワとペテログラードに戒厳令を敷いた。
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 (05) レーニンは、権力を握った最初の日から、それに反対する「反革命」的政党の破壊に着手した。
 10月27日、人民委員会議は反対のプレスを廃刊させた。
 カデット、メンシェヴィキ、エスエルの指導者たちは、軍事革命委員会によって逮捕された。
 11月の末までに監獄はこれらの「政治犯」で満ちたので、空き部屋を増やすためにボルシェヴィキは犯罪者たちを釈放し始めた。
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 (06) ゆっくりと、しかし確実に、新しい警察国家の姿が見え始めていた。
 12月5日に軍事革命委員会は廃止され、2日後にその任務は、Cheka (反革命と破壊活動に対する闘争のための非常委員会)へ移された。これは新しい保安機関で、やがてKGBになることになる。
 Cheka を設置した人民委員会議の会合で、そのボスのDzerzhinsky は、その任務を、内戦の「内部戦線」にいる革命の「敵たち」とそれらを死に至らせるまで闘うことだと説明した。
 「我々は、革命を防衛するためには何でもする用意のある、決然たる、頑強な、ひたむきの心をもつ同志たちを、あの前線—最も危険で厳しい前線—へと送る必要がある。
 私は革命的正義の形態を追求している、と考えるな。我々には、正義は必要ではない。
 今は戦争だ。—直接に向かい合った、決着がつくまでの戦争だ。
 生か死だ。」(注10)
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 (07) 反対諸政党は、憲法会議に彼らの希望をつないだ。
 憲法会議は確かに民主主義の本当の機関だった。成人の普通選挙でもって選出され、階級に関係なく全ての公民を代表した。
 一方で、ソヴェトは、労働者、農民、兵士だけを代表した。そして、ボルシェヴィキはソヴェトにあえて挑戦しているように見えた。ボルシェヴィキは実際には、分けられていた。
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 (08) レーニンはつねに、形式的な民主主義原理を侮蔑していた。
 彼がその四月テーゼで明瞭にしていたのは、ソヴェト権力を憲法会議よりも高次の民主主義の形態と見なす、ということだった。
 ソヴェトには「ブルジョアジー」のための場所はなかった。そして、彼の見方では、プロレタリアート独裁にはソヴェトのための場所はなかった。
 しかし、ボルシェヴィキによる権力掌握は、部分的には憲法会議の召集を確実にする手段として正当化された。—レーニンは七月事件以降、「ケレンスキー商会」は憲法会議を開かせようとしないだろうと論じていた。したがって、面目を失うことなくして、彼の約束にたち戻ることはできなかっった。
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 (09) さらに加えて、ボルシェヴィキの中の穏健派は、憲法会議のための11月の選挙運動に関与していた。
 カーメネフのような者たちは、地方レベルでソヴェト権力を国民的議会としての憲法会議と結びつけるという考え方に賛成すらしていた。
 憲法会議は、当時のロシアの革命的状況に適した、直接民主制の興味深い混成(hybrid)形態になっただろう。そしておそらく、ソヴェト体制の暴力的発展に進む全ての帰結と結びついた、内戦への螺旋状の下降へと国が向かうのを阻止することができただろう。
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 (10) 11月の選挙は、ボルシェヴィキに関する国民投票(referendum)だった。
 その評決は、不明確だった。
 エスエルが最大多数の票を獲得した(38パーセント)。だが、投票用紙は十月の権力奪取を支持する左翼エスエルと支持しない右翼エスエルを区別していなかった。
 エスエル党の分裂は最近だったので、印刷を変更することができなかった。
 ボルシェヴィキは、ちょうど1000万票(24パーセント)を得た。その多くは、北部の工業地帯の労働者と兵士によって投じられた。
 南部の農業地帯では、ボルシェヴィキは振るわなかった。
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 (11) ただちにレーニンは、宣言した。結果は不公正だ、と。理由はエスエルに分裂があったことだけではなく、十月の蜂起は人々の「頭の中に階級闘争意識を吹き込んだ」、よって国民一般の意見は選挙後に左へと動いているがゆえにだ。
 レーニンは強く主張した。「当然のことながら、革命の利益は憲法会議の形式的諸権利よりも高い位置にある」、憲法会議という「ブルジョア議会」は「内戦」の中で廃棄されなければならない(注11)。
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 (12) 1918年1月5日、憲法会議の開会日のペテログラードは、包囲された状態にあった。
 ボルシェヴィキは公共の集会を禁止していた。そして、市街地を兵団で溢れさせた。その兵団は、憲法会議を防衛するために労働組合が組織した5万人の示威行為者の大群に対して発砲した。
 少なくとも10人が殺害され、数十人が負傷した。
 政府の兵団が非武装の群衆に発砲したのは、二月革命の日々以降で初めてのことだった。
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 (13) タウリダ宮のCatherine ホールで午後4時に、憲法会議は召集されていた。緊張した雰囲気だった。
 すでに代議員とほとんど同数の兵士たちが入っていた。
 彼らはホールの背後に立ち、階廊に座り込んでいた。ウォッカを飲み、エスエルの代議員たちに悪罵の声を発しながら。
 レーニンは、帝政期の大臣たちがドゥーマの会期中に座っていた古い政府用特別室から、情景を眺めていた。
 彼には、決定的な戦闘が始まる前の瞬間の将軍のごとき印象があった。
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 (14) Chernov が議長となり、エスエルが討論を開始した。—彼らエスエルは、立法上の遺産として残したく、土地と講和に関する諸布令を憲法会議で採択させたかった。
 しかし、兵士たちのヤジが激しくて、誰も聞き取ることができなかった。
 しばらくして、ボルシェヴィキは、この憲法会議は「反革命者たち」の手中にあると宣言して、退出した。のちに左翼エスエルが、これに従った。
 そして、午前4時、赤衛隊が閉鎖の手続を始めた。
 赤衛隊の一員だった海兵が演壇に上り、Chernov の肩をそっと叩いた。そして、「警護兵が疲れたので」全員がホールから出て行ってほしい、と宣告した。
 Chernov は数分間、会合を続行した。だが、警護兵が威嚇したので、やむなく会議を延期することに同意した。
 代議員たちは出て行き、タウリダ宮は閉鎖された。
 これとともに、ロシアの12年間の民主主義の歴史は終焉した。
 代議員たちが翌日に再びタウリダ宮に戻ったとき、宮殿の建物に入るのを阻止された。そして、憲法会議を解散するとの人民委員会議(Sovnarkom)の布告を提示された。
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 第四章第四節、終わり。

2776/私の音楽ライブラリー044。

 音楽ライブラリー044。
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 117 Katie Melua, Fields of Gold, 2016. 〔Official〕

 118 Billie Eilish, No Time to Die, 2020. 〔Official〕
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2775/O.ファイジズ・レーニンの革命③。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
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 第三節。
 (01) ボルシェヴィキ指導者たちのほとんどが実際のような方法と時期で蜂起するのを望んでいなかった、というのは、ボルシェヴィキ蜂起に関する皮肉の一つだ。
 10月24日の夕方遅くまで、中央委員会の多数派と軍事革命委員会は、全国ソヴェト大会の開会の前に臨時政府の打倒があることを予期していなかった。その臨時政府打倒は、24日の翌日に、Smolny 研究所—かつては貴族の娘たちの学校だったことのある黄土色の古典的な宮殿—の白い柱廊のある舞踏会場で行なわれたのだったが。ここで打倒とは、ほぼ臨時政府の大臣たち(ケレンスキーを含まない)の逮捕(身柄拘束)を意味した。
 武装したボルシェヴィキの支持者たちは、首都ペテログラードを反革命の攻撃から防衛するためだけに、街路を占拠していた。
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 (02) レーニンの介入が、決定的だった。
 付け髭と頭に包帯を巻いた帽子で変装してペテログラードの隠れ場所を出発し、Smolny 研究所のかつての一教室(36番)にあるボルシェヴィキの司令部へと向かった。蜂起の開始を強要するために。
 市街を横断する途中のTaurida 宮の近くで、彼は政府の警護官の検問を受けて停止させられた。だが、その警護官たちはレーニンをホームレスの酔っ払いだと勘違いし、レーニンを通過させた。そのときにレーニンが逮捕されていたら、その後の歴史はどう変わっていただろう?
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 (03) レーニンはSmolny に到着し、蜂起の開始を命令することを中央委員会に強制した。
 ペテログラードの地図が持ち出され、ボルシェヴィキ指導者たちはそれを見てじっくり研究していた。そして、攻撃をする主要なラインを引き終わっていた。
 レーニンが、ソヴェト大会に提示されるべきボルシェヴィキ政府の閣僚名簿を作ることを提案した。
 それを何と称するかという問題が生じた。
 「臨時政府」という名称は評判を落としていた。閣僚を「大臣(ministers)」と呼ぶのはブルジョア的だと思われた。
 フランスのジャコバン派に倣って「人民委員(people’s commissars)」という名を思いついたのは、トロツキーだった。
 全員がこの提案に賛成した。
 レーニンは言った。「うん、それはいい。革命の香りがする。そして、政府〔=内閣〕そのものを『人民委員会議』(the council of -)と称することができる」(注6)。
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 (04) 1917年10月25日の事件ほど、神話によって歪曲されてきた歴史的出来事は、他にほとんどない。
 ボルシェヴィキの蜂起は民衆の英雄的闘争だとする一般に共通する感覚は、歴史的事実というよりむしろ、<十月>—1927年に制作されたSergei Eisenstein の政治的宣伝映画—の影響を受けている。
 ソヴィエト同盟ではのちに称されるようになった偉大なる十月社会主義革命(The Great October Socialist -)は、実際にはクーにすぎなかった。ペテログラード市民の大多数には全く気づかれないままで推移したクーだった。
 劇場、レストラン、路面電車は、ボルシェヴィキが権力奪取に至っているあいだ、全くふつうに機能していた。
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 (05) 冬宮のMalachite ホールにはケレンスキー内閣の大臣たちが籠もっていたのだが〔ケレンスキーを含まない〕、そこへの伝説的な「突入」は、大臣たちの自宅軟禁のごときものだった。
 「突入」を指揮したのは、ボルシェヴィキのVladimir Antonov-Ovseenko だった。それは、Eisenstein の映画製作者たちが描くほどの損傷を与えなかった。
 冬宮の大臣たちを防衛する部隊のほとんどは、突撃が始まる前にすでに、腹を空かせ、意気消沈して、家路についていた。
 蜂起に積極的に参加した者の数は、大きくはなかった(多数を必要としなかった)。—たぶん、冬宮広場にいた1万人から1万5000人の間の数の労働者、兵士および海兵だ。
 しかも、それらの全員が「突入」に加わったのではなかった。しかし、多くの者はのちには、突撃に加わったと言い張った。
 冬宮が掌握されると、多数の民衆たちが関与するようになり、主としては、宮殿およびそのワイン貯蔵庫から略奪した。
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 (06) 冬宮が掌握されたことは、タバコの煙で充ちたSmolny 研究所の大ホールで行なわれていたソヴェト全国大会で発表された。
 670人の代議員たち—ほとんどがガウンやコートをまとった労働者と兵士たち—は、メンシェヴィキのMartov の提案を満場一致で可決した。その決議は、ソヴェトの全政党に基盤をおく社会主義政府を樹立しよう、というものだった。
 その直後に権力の奪取が発表されたとき、メンシェヴィキとエスエルの代議員たちのほとんどは、自分たちは「犯罪的冒険」に何の関係もないとの声明を出し、抗議してソヴェト大会から退出した。
 おそらくは会場の半分を占めていたボルシェヴィキの代議員は、口笛を吹き、床を踏み鳴らし、彼らを嘲笑する言葉を投げつけた。
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 (07) レーニンが計画した挑発的行為—先制のクー—は、成功した。
 過ちを認めた最初のメンシェヴィキの一人であるNikolai Sukhanov の言葉によれば、メンシェヴィキとエスエルは大会から退出することによって、「ソヴェトを、民衆を、そして革命を独占することをボルシェヴィキに許した」。「我々自身の非理性的な行動によって、レーニンの全ての『ほら』の勝利を保障した」(注7)。
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 (08) 直接の効果として、メンシェヴィキおよびエスエルが分離した。
 これを主導したのは、トロツキーだった。
 トロツキーは、「我々を残して去った惨めな集団」との連立を求めるMartov 提案の決議を非難して、大ホールに残っていたメンシェヴィキとエスエルの代議員に対して、つぎの記憶に残る言葉を発した。
 「きみたちは破産者だ。役割はもう終わった。行くべき所へ行け—歴史のゴミ箱へ!」。
 残りの生涯を通じて苦悶することになるのだが、Martov は、激しい怒りを瞬間に感じて、叫んだ。「では、出て行こう!」。そして、ホールから出て行った(注8)。
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 (09) 午前2時すぎだった。残っていたのは、ソヴェト権力を破壊しようとするメンシェヴィキとエスエルの「裏切り」的企てを非難する決議を、トロツキーが提案することだった。
 おそらくは行なっていることの重要性を理解していなかった一般代議員たちは、この提案を支持して手を高く上げた。
 彼らの行為は結果として、ボルシェヴィキ独裁に対して、それを肯定するソヴェトのスタンプを与えた。
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 第四章第三節、終わり。

2774/O.ファイジズ・レーニンの革命②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
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 第二節。
 (01) コルニロフ事件によって、レーニンは決意を固めた。臨時政府を打倒するために立ち上がるときがきた。
 しかし、すぐに蜂起をしたのではない。
 レーニンは、権力の問題を解決すると想定された9月14日の民主主義会議(Democratic Conference)の前に、ボルシェヴィキの仲間たちの努力を支持していた。エスエルとメンシェヴィキに対して、リベラル派との連立から離れ、全ての社会主義政党による政府に加わろうと説得する彼らの努力を。
 Kornilov を打倒するに際して左翼諸政党が協力したことは、政治的手段でソヴェト権力を達成できる展望を切り拓いた。
 カーメネフは、これを任務とするボルシェヴィキ活動家だった。
 彼はレーニンとは違って、党はソヴェト運動と二月革命が生んだ民主主義的仕組みの範囲内で権力を求めるべきだ、と考えた。
 したがってまた、ロシアはボルシェヴィキによる蜂起に対応できるには未熟で、段階を一つ上げるいかなる企てもテロル、内戦とボルシェヴィキ党の敗北で終わるのを余儀なくされる、と考えた。
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 (02) レーニンは、だが、民主主義会議でエスエルとメンシェヴィキがカデットと分離できなかったことを知って、武装蜂起をするという元の主張に立ち戻った。
 エスエルとメンシェヴィキは、ケレンスキーの指導の下で、9月24日に、カデットとの連立を組み変えた。このことは、その週に行なわれたペテログラード・ドゥーマ選挙で、彼らの大敗北につながった。
 モスクワでは、エスエルへの票は6月の56パーセントからわずか14パーセントに減った。メンシェヴィキは12パーセントから4パーセントに落ちた。その一方で、ボルシェヴィキは6月に11パーセントだったが、9月には51パーセントを獲得して大勝利した。カデットは、17パーセントから31パーセントへと増やした。
 この結果は国の両極化を明らかに示した。—投票者が際立った階級的主張をもつ両端の政党を支持したので、「内戦選挙」と称された。
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 (03)  レーニンは、フィンランドの新しい隠れ家から、ボルシェヴィキ中央委員会に対して、武装蜂起の開始を呼びかける、ますます苛立った手紙を矢のように送りつけた。
 彼は、ボルシェヴィキは「国家権力を自らの手中に収めることができるし、そうしなければならない」と論じた。
 できる。—党はすでにモスクワとペテログラードのソヴェトで多数派になっている。これでもって、内戦へと「民衆を連れて行く」のに十分であるのだから。
 「しなければならない」。—投票箱を通じて権力を獲得しようと憲法会議を待っていれば、「ケレンスキー商会」が、ペテログラードをドイツに捧げるか軍事独裁を樹立するかのいずれかによって、ソヴェトに対して先制攻撃をするだろうから。
 彼は同志たちに、「暴動は芸術(art)だ」というマルクスの権威ある言明を思い起こさせた。
 そしてこう結論づける。「ボルシェヴィキが『形式的な』多数派になるのを待つのは純朴すぎる。革命はそうなることを待ってくれはしない」(注3)。
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 (04) 中央委員会は、レーニンの指示を無視した。まだカーメネフの議会主義的戦術を支持して、ソヴェトへの権力の移行のために、10月に召集される予定の第二回全ロシア・ソヴェト大会まで待つ、と決議した。
 ペテログラードから120キロ離れた保養地のVyborg へと移って、レーニンは、党組織に対して矢継ぎばやに激しいメッセージを送りつづけた。それらは、ただちに—ソヴェト全国大会の<前に>—武装蜂起を開始することを迫るものだった。
 レーニンは9月29日にこう書いた。「ソヴェト大会を『待つ』ならば、我々は革命を『台無しにする』に違いない」(注4)。
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 (05)  レーニンの性急さは、政治的だった。
 権力の移行が大会での票決によって起きていれば、その結果はほとんど間違いなく、全ての社会主義政党から成る社会主義連立政府だっただろう。
 ボルシェヴィキは、少なくともエスエルとメンシェヴィキの左翼(あるいはひょっとすれば全部)に位置して権力を分有しなければならなかっただろう。
 これはレーニンの党内の最大の好敵であるカーメネフの勝利を意味し、カーメネフはおそらく、どんな社会主義連立政府であっても、ソヴェトの中心人物として登場しただろう。
 大会の前に権力を掌握してこそ、レーニンは政治的主導権を握ることができる。そして、他の社会主義政党に対して、ボルシェヴィキの行動を是認してレーニンの政府に参加することを強いることができるだろう。あるいはそれに反抗すれば、政府はボルシェヴィキだけのものになるだろう。
 レーニンの革命とは、臨時政府に対抗するのと同等に、ソヴェトに基礎をおく他の社会主義政党に対抗して行なわれたものだった。
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 (06) レーニンは我慢できなくなって、ペテログラードに戻り、10月10日に中央委員会の秘密会合を開催した。そこで、10票対2票(カーメネフとジノヴィエフ)という重大な票決でもって、蜂起を準備することを押し付けた。
 その時期は、まだ明瞭でなかった。
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 (07) ボルシェヴィキの指導者たちの多くは、ソヴェト全国大会以前のいかなる行動にも反対だった。
 10月10日の中央委員会会議で、ボルシェヴィキ軍事革命委員会その他の活動家から、つぎの報告がなされた。ペテログラードの兵士と労働者たちは党の呼びかけだけでは出てこないが、「決起を刺激する何かがあれば、積極的に飛び出す、つまり兵団から離脱するだろう」(この離脱はケレンスキーの連隊との絶縁を意味した)(注5)。
 しかし、レーニンは、即時の準備の必要を執拗に主張した。
 これは、ペテログラードの一般市民の慎重な雰囲気を無視してのものだった。レーニンが思い抱く権力奪取の方法であるクー・デタでは、少数精鋭の武力だけが必要だった。十分な武装と紀律があればよかった。
 彼には、Baltic 連隊の中のボルシェヴィキ支持者による、ペテログラードの軍事侵略としてクーを実行する、という用意すらあった。
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 (08) レーニンは聳え立つがごとき影響力を持ったので、彼は10月16日の中央委員会でその主張を貫徹し、ごく近い将来に蜂起するという提案を支持する決議を(19票対2票で)行なわせた。
 カーメネフとジノヴィエフはこの決議を支持することができず、中央委員会から脱退した。そして、10月18日に、彼らは蜂起に反対していることを新聞の記事で公にした。
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 (09) ボルシェヴィキの陰謀は今や公に知られるところとなり、ソヴェトの指導者たちは、第二回全国大会を10月25日まで延期すると決議した。
 彼らが期待したのは、これで生じた5日のあいだに、遠く離れた地方から支援者たちを集める、ということだった。
 しかし実際には、ボルシェヴィキが蜂起を準備するのに必要な時間を与えることになった。
 この延期はまた、ソヴェト大会はそもそも開会されないかもしれないとのボルシェヴィキの主張に信憑性を与え、大会を防衛するという理由でボルシェヴィキ支持者たちが街路上に出てくるのを助けた。
 ケレンスキーが巨大なペテログラード連隊を北部前線に移すという愚かな計画を発表したとき、「反革命」の噂はさらに大きくなった。
 軍事革命委員会(MRC)—〔ペテログラード・ソヴェト内にあって〕ボルシェヴィキの蜂起を先導することになる実力組織—が10月20日に設立されたのは、ペテログラード連隊の移転を阻止するためだった。
 前線への派遣に脅かされて、多数の兵士たちは将校たちに服従するのを拒み、忠誠の対象を軍事革命委員会に切り換えた。軍事革命委員会は10月21日、自分たちが連隊を統率する組織だと宣言した。
 MRC による連隊の奪取は、蜂起の最初の行為だった。
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 第四章第二節、終わり。

2773/NHKというものの考え方①。

  テレビ放送には、大きく分けて、NHKといわゆる民間放送がある。
 法制上の違いは別とする(放送法という法律の半分は日本放送協会=NHKについて定め、同法はNHK設立の根拠法でもある)。
 両者の違いですぐに分かるのは、いわゆるコマーシャル、宣伝広告があるかどうかだ。NHKには受信料というものが必要だが、民間放送はタダで見ることができる。その代わりに、宣伝広告を視聴することを、事実上〈強制〉される。見たくなければ見なければよい、他局に変えればよい、テレビ放送自体を切ればよい、というのは〈建て前〉で、この〈事実上の強制〉こそが民間放送を成り立たせている。
 〈事実上の強制〉を甘受しているがゆえにこそ、タダで視聴することができる。番組制作に必要な費用はコマーシャル・宣伝広告を提供する企業等が支払ってくれているからだ。
 民間放送にも報道時間や報道関係番組がある。それをもって民間放送の社員が、少なくとも報道に「直接に」関与している者だけは別として、自分たちを「ジャーナリスト」と自認しているとすれば、大きな勘違いだろう。
 せいぜいのところ、民間放送という業の性格は「娯楽」または「慰安」を提供することで、<エンターテインメント>業というのが正確だと思われる。あるいは、皮肉っぽく消極的な表現法を使えば、気晴らし産業、時間潰し産業だ。
 だが、より本質的には、民間放送は〈宣伝広告業〉だろう。報道番組も娯楽番組等々も、企業等からの「宣伝広告費」によって賄われている。民間放送会社の社員の給料ももちろんだ。民間放送会社が種々の「事業」を行なっていることは知っているが(映画制作費の一部負担もそうかもしれない)、「本質」論として記述している。
 このような観点からすると、企業等と民間放送を媒介し、ときには宣伝広告それ自体を制作している(種々の下請け・孫請けもあるのだろう)<電通>とか<博報堂>とかに関する情報は、NHKからもそうだが、民間放送からは全く得られないのは不思議だし、いやむしろ当然のことだろうと感じられる。視聴者は知らない裏の、「交渉」や「交際」の世界が、<電通>とか<博報堂>とかと民間放送・テレビ局の間にきっとあるのだろう(その実態を秋月瑛二は全く知らないけれども)。
 民間放送の〈宣伝広告業〉たる実質を最もよく示しているのは、いったん劇場等や配信サービスで提供された〈映画〉をテレビで放映(再放送)する場合に、コマ切れに入るコマーシャル・宣伝広告だ。
 映画はそもそも途中に何回もコマーシャル・宣伝広告が挿入されることを全く想定しないで制作されているだろう。何度もコマーシャル・宣伝広告でコマ切れにされるのでは、せっかくの「芸術」的映画も「感動的」映画も台無しだろう。元々の映画を「破壊」している、と思われる。それでも観る人々がいるのは確かだろうので、100%否定してはいけないとは思う。
 以上、無知のゆえの間違った推測等があるかもしれない。 
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 ついでに書くと、第一に、本来のコマーシャル・宣伝広告以外の時間に、自社(またはグループ局)が制作・放送する番組・ドラマ等の出演者をよんで語らせたり、自社が「制作委員会」の一端を構成しているらしき映画の事前の宣伝をしたりするのは、元来は〈見苦しい〉ものだ。宣伝広告費を受け取らないで放送する、自己宣伝をするのだから目くじらを立てるほどのものではないかもしれないが、視聴者からすると、ふつうのコマーシャル・宣伝広告の一部であることに変わりはない。
 第二に、民間放送が歴史的、制度的に見て決して「自由競争」原理のもとで成り立っておらず、テレビ電波または広く「電波」の(全くかほとんどー新規参入を許さない)寡占業者グループであることは、池田信夫のブログがかつて「民放連」について頻繁に書いていた。
 中央・地方の系列とか、ニュース原稿は自社グループの新聞紙にほとんど依拠しているのではないか(テレビ局独自の情報源による報道はどの程度あるのか)、といった問題や疑問には立ち入らない。
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  コマーシャル・宣伝広告がないだけでも、民間放送に比べてNHKはマシだ。
しかも、民間放送に比べて、経費を多く使った番組が総体としては多い(ようだ)。国際共同制作と謳われるドキュメンタリー類は、民間放送にはたぶん存在しないだろう。
 しかし、〈NHKスペシャル〉とか〈クローズアップ現代〉の中には、経費の無駄遣い、制作意図不明と感じられるものもある。
 むろん制作担当者(の責任者、ディレクター?)の個性が出ているのだろうが、きわめて「NH K的」と感じるものも2024年に入ってからあった。
 長くなったので、別の回に移す。
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2772/中村禎里・日本のルィセンコ論争(新版, 2017)。

  中村禎里(米本昌平解説)・新版·日本のルィセンコ論争(みすず書房、2017)
 なかなかすごい本だ。いろいろな意味で。
 生物学・遺伝学に関する〈自然科学〉系の書物だ。但し、遺伝に関心はあり、L・コワコフスキの書物でもソ連の戦後の学問に関する叙述の中で触れられているから、全く理解できないというのでは全くない。
 もう少し大まかな紹介をすれば、第一に、特定の主題に関する、日本の、しかも特定の一時期の、学問史、科学史の書物だ。
 第二に、政治または政党・党派と学問(自然科学)の関係に関する書物だ、
 政治または政党・党派とは社会主義(・共産主義)、ソヴィエト連邦・同共産党(スターリン)、一定時期の日本共産党を意味する。
 推測ではあるが、原著者がこれを執筆し(初版著は1967年)、米本昌平が冒頭にやや長い〈まえがき)を書きつつ実質的には新版=「50周年記念版」の刊行を推進したようであるのも、上の第二点に理由があるように思える。そうでなければ、21世紀にもなれば相当に古い、かつ生物学上の一論争(主として戦後直後、1950年年代)に関する書物を10年ほど後に出版したり、そのまた50年後に新版を刊行したりする気になれないのではないか。
 もっとも、それだけに、秋月瑛二に興味深いものではあっても、一般むけの書物ではない。遺伝学に何の関心もなかったり、そもそもソ連・スターリンや日本共産党を興味の対象にしない日本人にとっては、何やら面妖なことが書かれているだけの書物でしかないだろう。
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  日本に今でも民主主義科学者協会法律部会(2023年11月以降の現会長は小沢隆一)というのがあるが、この名称は、かつて「民主主義科学者協会」という学会または「科学者」の組織があり、現在までずっと存続しているのは「法律部会」だけであることを示している。かつては「政治(学〉」部会も、「生物(学)」部会等の自然科学系の「部会」もあった。1946年に民主主義科学者協会「理論生物研究会」発足、1950年に同「生物部会」に発展。
 書物をめくって確認しないが、「論争」参加者・関与者の中にはこの<民科>「生物部会」の会員も少なからずいた。
 現在の「法律部会」についてもそうだが、当時の民科「生物部会」の中にも当時の日本共産党の党員はおり、またソ連や〈社会主義〉の影響を受けた学者たちはいたものと思われる。
 中村禎里(1933〜)は論争の当事者ではなかったとしても彼らの次の世代の生物学者(研究者)として、民科「生物部会」の会員だったようだ。そうでないと、「論争」のとくに遺伝学上の意味を理解できないし、けっこうの大著を執筆もできなかったに違いない。
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  ルィセンコ学説、ルイセンコ論争の内容には触れない。
 L・コワコフスキの書物でもかなり詳しく言及されていたが、ルイセンコ(1896-1976)の学説は、ソ連共産党中央の支持を受けたー上の中村著はこう書く。p.64-。 
 1948年の「ソ連農業科学アカデミー会議」の報告の多数はルイセンコ学説支持で、会議の最後に会長のルイセンコが登壇して発言した。
 私への質問書の一つに「わたくしの報告にたいして党中央委員会はどんな態度をとっているか」というのがある。私は答える、「党中央委員会はわたくしの報告を検討し、それを是認した」と。
 つづいて、「嵐のような拍手、熱狂的な賞賛。全員起立」。
 反ルイセンコだった有力学者某はすぐのちに「党中央委員会の決定にしたがって、自説を放棄すると宣言した」。
 なお、ルイセンコ説に対比された「ブルジョア」学説は「メンデル・モルガン主義」と称された、という。このモルガン(モーガン)の名は、DNAの構造の解明へとつながっていった、メンデル以降の細胞学・分子生物学・遺伝学等のいわば〈嫡流〉にあった重要人物として、「染色体」や「細胞」等に関する記述の中で、この欄で出したことがある。
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  中村著は表向きは強調しているのではない。しかし、この本で初めて知った(確からしい)ことがある。
 L・コワコフスキの書物がルイセンコの関連して日本共産党に触れているわけがない。
 中村著は何気なくこう明記している。1949-50年に日本でのルイセンコ論争に関して新しい状況が生まれた。第一、ルイセンコ著の比較的忠実な翻訳書が刊行された。第二、ソ連での論争・対立の状況も知られるようになった。第三はこうだ。p.63。
 「第三に、日本共産党が、その機関誌紙を通じて、また指導者の発言を通じて、ルィセンコ説支持の態度をはっきりとうちだした」。
 これは相当に興味深い。中村は「日本共産党」(同党員)という語をほとんど使っていないが、日本での論争参加者の中にはおそらく間違いなく、当時の「日本共産党員」もいただろうと推測させる。 
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 自然科学上の議論、論争に、現在の日本共産党が容喙することはないだろう。
 しかし、例えば「政治」理論とか「歴史」認識とかの、政治学や歴史学に関係することには、当然のごとく干渉している、と考えられる。「歴史認識」が歴史学・歴史研究者の研究・判断の対象であることは言うまでもない。声明等を出さなくとも、日本共産党の綱領自体が、ロシア革命や「ソ連(共産党)」に関する、一定の理解・認識を前提としている。ロシア史・ソ連史ひいては世界史の学者・研究者であって日本共産党員である者が、党の理解・主張から全く自由であるとは考えられない。
 「法律部会」関係でも、「一字一句変えさせない」(数年前の小池書記局長。テレビ報道による)と現日本国憲法について言っていた日本共産党が、またその旨を主張しているはずの日本共産党中央があるなかで、憲法九条以外についてであれ、「憲法改正」の具体的議論を日本共産党員たる憲法学者・研究者が自由にできるわけがない。彼らは、「学問・研究の自由」を自ら制限し、一部を放棄しているわけだ。むろんまた、民科「法律部会」会員も日本共産党の多少とも強い影響下にある。
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2771/O.ファイジズ・レーニンの革命①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014). 
 この書の対象は<ロシア革命史>ではなく、ほぼ<ソヴィエト連邦史>だ。したがって、Orlando Figes, A People's Tragedy: A History of the Russian Revolution(1998)に比べて、〈ロシア革命〉期の叙述は詳細さで劣る。
 O. Figes, Revolutionary Russia の方は、第7章、第8章、第9章、第19章、第20章の試訳を、すでにこの欄に掲載した。
 各章題は、第7章/内戦とソヴィエト体制の形成、第8章/レーニン、トロツキーおよびスターリン、第9章/革命の黄金期?、第19章/最後のボルシェヴィキ、第20章/判決。
 しばらくぶりに、〈第6章/レーニンの革命〉に戻って、試訳を続ける。
 「* * *」による区切りまでを「節」とし、一行ごとに改行する。段落ごとに、原書にはない数字番号を付す。
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 第6章・レーニンの革命①。
 第一節。
 (01) 1917年7月8日、ケレンスキーは首相になった。
 彼は、民衆の支持がありかつ軍司令部がまだ受け容れられる唯一の大政治家で、国を再統合して内戦に向かう流れを止めることのできる人物だと見られていた。
 新しい連立政府(7月25日形成)の基本方針はもはや、二月の後の二重権力構造の基盤であるソヴェトの同意があるという民主主義原理に、基づいていなかった。
 ケレンスキーは、Kadets 〔立憲民主党〕の要求に従い、公共の集会に新規の規制を行ない、前線兵士を対象とする死刑を復活させ、軍事紀律を回復すべく兵士委員会の影響力を削減した。そして、Korniov 将軍を新しい最高司令官に任命した。
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 (02) Kornilov は国家の救済者だとして、事業家、将校たち、右翼的団体に歓迎された。
 彼はこれらの支援を受けつつ、反動的な措置を執った。その中には、民間人に対する死刑の復活、鉄道や国防産業の軍事化、労働者の組織の禁止があった。
 ソヴェトに対する明瞭な脅迫として、これらの措置は戒厳令の発布につながることになるものだった。
 ケレンスキーは動揺したが、8月24日に結局は同意した。このことはKornilov に、ケレンスキーまたは彼自身による軍部独裁の樹立が可能だと期待させた。
 このクー〔軍部独裁〕を阻止しようとボルシェヴィキが蜂起するとの噂を聞いて、最高司令官たるKornilov は、首都を占拠し、連隊を武装解除するために、コサック軍団を派遣した。
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 (03) この時点で、ケレンスキーはKornilov に反対する側に回った。
 ケレンスキー自身の幸運は急速に落下していたのだが、この<反転(volte-face)>により幸運が蘇るだろうと彼は考えた。
 ケレンスキーは、Kornilov を「反革命」、政府に対する裏切り者と非難して最高司令官を解任し、民衆にペテログラードを防衛するよう訴えた。
 ソヴェトは、首都防衛の軍事力を結集すべく、全政党で成る委員会を結成した。
 ボルシェヴィキは、七月事件のあとの抑圧が終わって名誉回復をしていた。
 何人かの指導者が釈放された。その中に、トロツキーがいた。
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 (04) ボルシェヴィキだけに、労働者や兵士たちを動員する能力があった。
 北部の工業地域では、「反革命」と闘う革命委員会が一時的に結成された。
 赤衛隊は、工場の防衛隊を組織した。
 Kronstadt の海兵たちが、彼らは七月事件のときは臨時政府を打倒しようと最後にペテログラードへやって来たのだったが、再びやって来た。今度は、Kornilov に対抗して首都を防衛するために。
 結局は、闘う必要がなかった。
 Kornilov が派遣したコサック軍団は、ペテログラードへの途上で北部コーカサスからのソヴェト代表団に遭遇し、武器を置くよう説得された。
 内戦はのちの日まで、延期された。
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 (05) Kornilov は、「反革命陰謀」に加担したとして、30人の将校たちとともに、Mogilev 近くのBykhov 修道院に収監された。
 政治的殉教者としての右派から見ると、「Kornilov 主義者」はのちの義勇軍や白軍を生み出す基礎的な核になった。白軍は、内戦で赤軍と戦うことになる。
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 (06) つまるところ、「Kornilov 事件」は、ケレンスキーの地位を強めたのではなく、むしろ掘り崩した。
 ケレンスキーは、右派からはKornilov を裏切ったと非難された。一方、左派からは、「反革命」行動に関与していた、という疑惑を持たれた。
 Kadets (明らかにKornilov 運動に一定の役割を果たした)は、このような左翼の疑念を増幅させた。
 ケレンスキーの妻はこう書いた。「ケレンスキーと臨時政府の威信は、Kornilov 事件によって完全に破壊された。そして夫は、ほとんど支援者がいないままで、とり残された」(注01)。
 春の人民の英雄は、秋には人民の反英雄(anti-hero)になった。
 --------
 (07) 一般の兵士たちは、将校層がKornilov を支持したのではないかと疑っていた。
 そのために、8月末から、軍の規律の顕著な非厳格化が生じた。
 兵士集会は、講和と権力のソヴェトへの移行を呼びかける決議を採択した。
 軍からの脱隊の率が、急激に上がった。数万人の兵士が毎日、軍の分団を離れた。
 脱隊兵のほとんどは農民出身で、故郷の村落に帰りたかった。そこは今、収穫真っ盛りの季節だった。
 武装しかつ組織化して、彼ら農民兵士たちは、領主を攻撃した。これは9月からいっそう激しくなった。
 --------
 (08) 大きな工業都市では、Kornilov 危機の中で、似たような過激化が進行していた。
 ボルシェヴィキはKornilov 事件の第一の受益者で、8月31日に初めて、ペテログラード・ソヴェトの多数派になった。
 Riga、Saratov、モスクワのソヴェトも、その後にすみやかに同様になった。
 ボルシェヴィキの好運が上昇した理由は、主として、非妥協的に「全ての権力をソヴェトへ」と叫び続けた唯一の政党だったことにある。
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 (09) この点は強調しておく必要がある。なぜなら、十月革命に関する最大の誤解は、ボルシェヴィキはこの党に対する大衆の支持の波に乗って権力へと到達した、というものだからだ。
 そうではない。
 十月蜂起は、民衆のごく少数派の支持を得ての、クーだった。ソヴェト権力という民衆の理想にとくに着目した社会的革命の真只中で、それは起きた。
 Kornilov 事件のあと、工場、村落、軍団から突如として、ソヴェト政府の樹立を求める決議が噴出した。
 しかし、ほとんど例外なく、それらが呼びかけた政府は、全ての社会主義政党が参加する政府だった。そして諸決議はしばしば、社会主義政党間の対立については著しく寛容だった。
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 (10) Kornilov 事件の現実的な重要性は、つぎのことにある。すなわち、ソヴェトに対する「反革命的」脅威がある、という民衆がもつ信念が強化されたこと。ボルシェヴィキは、この脅威を、十月に赤衛隊その他の闘争的な者たちを動員するために利用することになる。
 Kornilov 事件は、この意味で、ボルシェヴィキによる権力奪取のための衣装稽古(dress rehearsal)だった。
 ボルシェヴィキの軍事委員会が、Kornilov に対する闘争の中で新たな力を得て、—七月以降にすでにあった—地下から出現してきた。
 赤衛隊もまた強化された。赤衛隊員のうち4万人が、Kornilov 事件の中で武装した。
 Trotsky がのちに書いたように、「Kornilov に反対して立ち上がった武装集団は、将来に十月革命のための部隊となるべき軍団だった」(注02)。
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 第一節、終わり。

2770/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑧。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017)の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一節④
 (20) 内戦の終了とともにソヴィエトの経済と社会に生じていたのは、より大きな厄災の状況だった。
 歴史家たちは、この原因は長年の戦争と社会的転覆—深い根源をもつ厄災の継続(38)—のうちにより多くあるのか、それとも、ソヴィエトの政策の特有の効果であるのか、を議論している。
 しかし、大厄災たる結果だったことについては一致がある。破滅した経済、都市部の人口減少、大量の国外逃亡という危機、農民の反乱、ストライキ、そして共産主義者の中にすらある公然たる不満。
 1921年までに、工業生産高は戦争前の20パーセントへと落ちた。
 『プロレタリアート独裁』としてソヴェト支配の基盤だと想定されていた労働者たちは、荒廃して飢えた都市から逃亡するか、兵士または行政官になった。そうして、労働者階級の規模は、戦争前の半分以下にまで縮小した。
 マルクス主義者の言うプロレタリアートの『脱階級化』は、革命の厄介で逆説的な効果だった。労働者階級出身で『労働者反対派』の指導者だったAlexander Shliapnikov が1922年の党大会でLenin をこう冷笑したように。
『存在しない階級の前衛となって、おめでとう』(39)。
 農民たちは耕作する土地で、彼ら自身が生きていくのに必要な生産しかしなくなった。
 しかし、彼ら自身の生存すら、干魃が広い地域を飢餓の縁に追い込んだときには、脅かされた。その飢饉は、1921〜22年に、大規模で襲うことになった。
 これの頂点にあるのは、疾患と病気の蔓延だった(ある歴史家の言葉では『近代史における最も過酷な公衆の健康の危機』)。また、数百万の子どもたちにとってを含む住宅欠如、都市部での暴力犯罪、地方での山賊、大量の泥酔者、生き残ろうとする、道徳意識なき民衆による放蕩しての悪態その他の、想像し得る全ての態様等々。
 Lenin が1921年3月の党大会で、ロシアは『打ちのめされて死に際にあった男のように、7年の戦争の中から出現してきた』と語ったとき、彼は強調しすぎてはいない。
 あるいは、若干の歴史家が論じてきたように、ロシアは『トラウマ』の状態で、内戦を終えた(43)。
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 (21) 民衆の反乱は、損傷を受けた革命およびトラウマとなった革命という感覚を増大させた。
 農民がもう白軍の勝利を怖れなくなったあとでは、ボルシェヴィキは、よりマシな悪魔ではなくなった。
 農民たちは穀物徴発隊を待ち伏せして襲い、国家の権威の代理人たちを攻撃した。
 1920年の遅くに、西部シベリア、中部Volga、Tambov 地方、およびウクライナで、大量の蜂起が勃発した。
 どこにでも見られた主要な要求は、同じだった。すなわち、穀物の強制取得〔徴発〕の廃止、自由取引の復活、そして農民に耕作地と生産物に対する完全な支配権を付与すること。
 このリバタリアンな考えは、農民が革命で自らの手によって獲得したと思ったものだった。
 いくつかの農民集団は、憲法会議の再招集を主張した。
 都市労働者の騒擾はさほどに拡散しなかったが、政治的にはより不安定だった。
 1921年の初め、抗議集会、示威行動、ストライキが散発して起きた。
 労働者たちの要求は主として肉体的生存の問題に関係していて、とくに食糧と衣類を要求した。
 しかし、経済的な欲求不満は、かつてと同様に、政治的不満を惹き起こした。
 労働者たちは、市民権の回復、工場の実力強制的経営の廃止を要求した。憲法会議を呼びかける者もいた。
 1921年3月、ペテログラードに近い島にあるKronstadt 海軍基地で反乱が起きた。
 Kronstadt の海兵たちは1917年の七月事件—Trotsky は当時に『ロシア革命の誇りと栄光』と賞賛した—と十月の権力奪取の際にボルシェヴィキを支援したことで有名だったが、今や、一党支配の終焉、言論とプレスの自由の回復、憲法会議の招集、全権力の自由に選出されたソヴェトへの移行、穀物徴発を含む経済の国家統制の廃止、を要求した。
 『人民委員体制はくたばれ』は、海兵と労働者たちのあいだの一般的なスローガンになった。
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 (22) この危機を複雑にしたのは、共産主義者たちの中にあった不満だった。彼らは、革命の中核的諸原理は生き延びるために犠牲にされた、と感じていた。
 不満をもつ党派は、以前にも発生していた。
 1918年、『左翼共産主義者』は、世界革命に対する裏切りだとして、ブレスト=リトフスク条約に反対した。また、労働者支配の侵奪だとして、工業への厳格な労働紀律の導入を批判した。
 1919年、『軍事反対派』は、新赤軍は伝統的紀律を採用し、帝制下の将校たちを用いるとのTrotsky の構想を非難した。
 しかしながら、内戦が終わると、党の政策に対する内部批判はより公然たる、かつより激烈なものになった。もはや勝利することはなかったけれども。
 『民主主義的中央派』は、党の権威主義的中央集権化や官僚主義化の増大に異論を唱え、諸問題の自由な討議と地方党官僚の選挙を要求した。
 『労働者反対派』は、工業での伝統的紀律、経営への『ブルジョア専門家』の利用、労働組合の国家への従属に反対した(44)。
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 (23) 1921年の春は、転換点だった。
 異論は鎮静化され、粉砕された。
 3月に開かれた第10回党大会は、党内の分派を禁止した。その結果、いかなる組織勢力の周りにも、共産主義者のあいだでの批判が合流することができなくなった。
 しかし、党内部での反対派の抑圧は、農民の蜂起、労働者のストライキ、あるいはKronstadt を粉砕するために使われた暴力に比べれば、温和だった。
 Lenin 、Trotsky その他の党指導者たちは、これを正当化した。おそらくは彼ら自身に対するものであっても。彼らは、自分たちが歴史の正しい側にいると確信していたのだから。
 同時に、こうした妥協は必要であるように見えた。多くの異論に直面したから、というだけではない。経済的には後進国であるロシアが経済的諸問題を解決し、社会主義への途を急速に進むために国際主義的な支援が必要であるところ、そのような支援を提供すると想定された、世界全体の社会主義革命が『遅れ』ていたからだ。
 1921年、『戦時共産主義』の残虐性と英雄主義は、宥和的で穏健な『新経済政策』あるいはNEP の導入によって放棄された。
 多くは、変わらなかった。
 共産党による国家の統制権は無傷で残ったままだった(他政党の公式の禁止によって強化された)。そして、党内紀律も強化された(分派の禁止等々)。
 経済については、『管制高地』の完全な支配権は国家が維持した。銀行、大中の産業、輸送、外国貿易、商業全体。
 しかし、小規模の企業、小売取引は、規制を受けつつも、再び許容された。
 そして、非難された穀物や生産物の徴発に代わって、政府は『現物税』を導入し、これをさらに現金税に変えた。
 Lenin は、NEPが社会主義への途上での『後退』であることを認めた。より急進的な者たちは耐え難いものと考えた。
 しかし、おそらくはLenin を含む多数のボルシェヴィキは、遅れた農業国家にはふさわしい、社会主義への新しい途だとNEPについて考え始めた。
 1920年代に、党内でつぎの二つの議論が激しく行なわれた。一つに、民衆の文化的、経済的レベルを向上させ、社会主義的協同の利益を民衆に理解させる、緩やかな社会主義への移行の主張、二つに、戦時共産主義の英雄的急進主義の復活であっても、より戦闘的な行進の強行の主張。
 この議論はようやく、1920年代末に、Stalin による『大転換』によって決着がついた。複雑さと妥協の中で突き進み、新しい経済、社会、文化へと跳躍しようとする、『上からの革命』。
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 第四章第一節、終わり。

2769/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑦。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一節③
 (13) これは、敵の抑圧のみに関してではない問題だった。
 内戦のあいだ、政府と党〔ボルシェヴィキ、共産党〕は、全ての生活領域で、とくに経済と社会について、ますます中央集権的で、上意下達の、実力強制的な支配の手法を採った。
 学者たちは、イデオロギー的志向とは対立する状況や必要性がどの程度多く権威主義への傾斜—とくに、Lenin がのちに『戦時共産主義』と称した経済政策—を形成したのかを、議論しつづけている。
 これについて整理して論述するのは、本当にほとんど不可能だ。
 問題をさらに複雑にすることに、またロシアとボルシェヴィズム以外にも十分に適用し得る相互連関を示唆してもいるのだが、この権威主義の多くの側面は、世界大戦中にヨーロッパじゅうで見られた、経済と社会を総動員するための実践を反映し、かつ発展させた。—なかんずく、影響力が大きかった、政治的には保守の側の例である、ドイツの『戦時社会主義』(<Kriegssozialismusu>)(28)。
 『必然性の王国』は、きわめて強く、かつ苛酷になった。
 経済の状態に関する1918年春のある報告は、全部門での『組織解体』、『危機』、『衰退』、『不安定化』、『麻痺』による『崩壊の状況』を記述した(29)。
 衰退した経済を回復させ、その経済を動力として戦闘をし、建設をすることは、最も緊急性が高いの事項になった。
 しかし、これを行なう方法は、状況以上のものだった。—それゆえに、絶望的な必要性という状況のもとで解放された未来を実現しようとする『戦時共産主義』という逆説的な観念も生まれた。
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 (14) 食糧問題、とくに労働者と兵士への供給の問題は、きわめて切迫していた。
 1918年5月、政府は『食糧独裁』を宣告した。これには、全ての穀物取引の国家独占、厳格な価格統制、物不足を利用した投資だと非難される私的『袋持ち男』の規制、農民から穀物その他の農業生産物を徴発するための武装派遣隊の設置が含まれていた。
 食糧独裁は、大量の『余剰』を蓄えているとされた田園『ブルジョアジー』に対する階級闘争だと捉えれば、『革命的』側面をもった。また、社会化された農業へと向かう第一歩と理解することもできた。
 しかし、必要性こそが、それを発動させた主要な駆動力だった。
 農民革命は、市場化できる産物を生産する大規模農地による農業を生んだのではない。大部分はますます、伝統的で小規模の、最低限を充たす農業となった。
 いずれにせよ、農民には、穀物を市場に出す動機がほとんどなかった。市場には買うものがほとんどなく、金銭はますます無価値になっていたからだ。そうして農民たちは、生産物を蓄え込んだ。
 なおまた、食糧独裁は大部分で失敗だった。農民たちがしばしば暴力的に挑発に抵抗し、価格の安さに抗議した、というのみではない。加えて、政府は、経済の分野で民間部門の代わりをすることができるほどに強くはなかった(30)。
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 (15) 工業の分野では、ボルシェヴィキは、市場関係と私有財産を廃止するという歴史的目標に向かって着手した。
 しかし、今や生産の崩壊が行動を要求していた。
 国家経済最高会議〔SCNE〕が、社会主義への移行の長期計画を策定するために、1917年12月に設立された。
 若干の国有化が、内戦の前に行なわれた。だが、ほとんどは国家中央ではなく、地方ソヴェトと工場委員会による作業だった。
 経済危機と内戦の到来によって、私的経済からのより決定的な離反が促進された。
 政府は1918年6月に、大規模工業の全てを国有化した(小工場は1920年)。
 小売業の大部分は、1918年末までに禁止された。『市場のアナーキー』を制御するためだった。
 経済をめぐるこの闘いは、ブルジョアジーの抑圧に限定されはしなかった。
 政府は成人男子全員について強制労働を導入し、厳格な労働紀律を定め、『労働者支配』を独任制の経営に変えた(そして、経営と技術に関する『専門家』の俸給と権限を高めた)。また、工業の動員について労働組合を制約し、ストライキを禁止した。
 イデオロギー的に熱狂した地方の活動家や組織は、資本主義を抑圧する行動について大きな役割を果たした。そして、地方の民衆に大きく訴えることができた。とくに『ブルジョアジー』に『強制寄付』をさせるような行為、労働者住宅にするための家屋やアパートの徴発によって。
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 (16) 同時に、労働者たちの不満は増大していた。
 経済上の苦労や工場紀律の拡大への憤慨によって、メンシェヴィキ、エスエル、そしてアナキストすらの議論にあらためて関心をもつようになった。これらは、民衆の権力である強い地方機関にもとづく複数政党による民主制の回復を呼びかけていた。
 労働者たちはまた、共産党権力は十月革命の精神を喪失するか裏切った、という実体的感覚に応えようとした。
 1918年の早くにペテログラードで、社会主義者の主要な反対諸政党は、工場代議員の特別会議〔Extraordinary Assembly of Factory Delegates〕と称される、一種の反ソヴェトを設立した
 この会議は、経済的諸問題の発生は、ボルシェヴィキ国家の官僚層が原因であるというよりも、民主主義的に労働者の行動を機能させることに、労働組合、工場委員会 、地方ソヴェトが失敗したことが原因だ、と論じた。
 対照的に、ボルシェヴィキ指導部は、国家は労働者国家であるがゆえに、労働者は生産手段をもち、ゆえに、搾取される、ということはあり得ない、と議論した。
 政府が1918年5月に工場労働者へのパンの配給を増やしたとき、上記の代議員会議は労働者たちに対して、ストライキをするよう呼びかけた。その際に政府と党(ボルシェヴィキ)を、労働者を『買収』し、労働者を『民衆の別の層』と分断しようととしていると非難した。また、『人民の権力の復活』だけが飢えの問題を解決するだろうと論じた。
 これに反応した政府は、ストライキを抑圧し、この運動の指導者たちを逮捕した(31)。
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 (17) 政治的関係も、同じく、戦時危機とイデオロギー的な愛着の混合によって形成された。
 党の政治手法としてますます顕著になっていたのは、中央集権化、階層性、指令と布令による支配、異論に対する抑圧と制裁、社会全般の監視の拡大、だった。
 これらは、社会主義革命を起こすための、かつてのボルシェヴィキにあった、前衛党モデルの遺産でもあった。
 しかし、多くのボルシェヴィキが主張しただろうように、異なってもいた。とくに、政治的社会的システムの転覆ではなく、それの建設のために用いられたのだから。
 地方のソヴェトと委員会は下からの革命の特徴面だったけれども、今や統御されていた。
 工場委員会と労働組合の権限は、独任制経営と厳格な労働紀律が優勢となって、形骸化した。
 低減した工場自治は、『経済の軍事化』政策によって1920年代にさらに少なくなった。この政策に含まれていたのは『労働徴用』で、労働者たちを軍事的紀律と違反への苛烈な制裁に服従させた。
 常習的欠勤、低い生産性、製品の『窃盗』その他の非行は、とくに輸送や軍需のような基幹産業では、『犯罪的』行為、『職場放棄』、『裏切り』と見なされた。
 逮捕、すみやかな審判、労働収容所への追放その他の制裁は、通常のことになった。その際にCheka はますます、基礎的な役割を果たした。
 こうしたことは、望ましい効果を生んだ。すなわち、少なくとも公式の統計によると、1920年代に、生産性が向上した(32)。
 他方では、軍事化されたこの新しい政治的環境のもとで、かつては是認され、称讃された、1917年の逞ましい地方主義と直接民主制は、今や危険な断片化とアナーキーだと考えられた。
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 (18) しかしなお、多くの共産主義者たちは、自分たちは新しい社会、新しい文化、新しい人間を創出するために—必然の王国から自由の王国と跳躍するために—闘っている、と信じていた。
 『戦時共産主義』についてのある初期のロシアの歴史家の言葉では、内戦の年月は『ロシア革命の英雄的時代』だった(33)。
 暴力は、暴力の基盤に対する高潔な闘いであるがごとく見えた。
 経済の崩壊は、資本主義の終焉であるかのごとく見えた。
 実験の時代だった。その多くは、全ての『前線』で社会的、文化的生活様式を変えるものとして、支配党と国家によって称賛された。
 一つの戦場が、家庭であり、性であり、男女関係だった。
 党の特別支部である女性部(Zhenotdel、1919年設立)は、共同台所と共同保育によって家庭生活の不平等な負担から解放された、また、人格において自由で大胆で積極的な『新しい女性』を生み出すために活動した。
 党の青年部であるKomsomol (1918年設立)は、若年層に新しい集団主義的精神を吹き込む活動をした。
 コミューンが国じゅうに組織された。とくに、都市部での学生と労働者の『ハウス・コミューン』、若干の実験的な農業コミューン。
 子どもに家がない(homeless)という恐ろしい問題ですら、理想主義者にとっては、子どもを新しい方法で育てるよい機会だった。ほとんどの両親の遅れていると見える考え方や価値観から自由なやり方で。
 労働者の文化生活を変えようとする『プロレタリ文化』運動は、1917年の末に出現した。その多くを主導したのは、労働者階級の作家、詩人、芸術家、活動家だった。そしてしばしば、『迫害された』人間性を輝く新世界、幸福と自由の楽園で『復活』させる(好まれた表現)という夢想を好む、急進的で新しい『プロレタリア文学』を生み出した。
 芸術家、建築家、作家たち—多くは国家機構、とくに啓蒙人民委員部〔文部科学省〕から支援を受けていた—は、新しい世界を想像した。そして、不可能な建築プランを描くことすらした(34)。
 この歴史的な時代では、想像不可能なことは何一つないように見えた。この時代には、最も残虐な暴力と最も急進的な理想像はいずれも、同じ行路の一部だった。1918年の公共彫刻公園を叙述する言葉を借りれば、『苦痛と悲哀を通じて、全ての拘束鎖からの解放を目ざして絶え間なく闘いながら』進む行路(35)。
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 (19) ほとんどの歴史家は、内戦時代の実力強制と暴力の文化はボルシェヴィキの行く末に決定的な影響を与えた、と見ている。Robert Tucker がスターリン主義の起源に関する影響力ある研究書で論じたところでは、それはつぎのようなものを『形成する経験』だった。『ボルシェヴィキ運動の革命的な政治文化を軍事化し』、『好戦的熱狂、革命的自己犠牲主義』と<elan>』の遺産を残し、『安易な実力強制への依存、行政的命令による支配、中央集権的行政、略式司法』の遺産も残し、『冷酷性、権威主義と「階級憎悪」』というボルシェヴィキの精神(ethos)を『残虐性、狂信、異論をもつ者に対する絶対的な不寛容』に転換し、『国家という様式を通じて社会主義が建設されるという確信を抱くのを困難にする』、そのような経験(36)。
 Sheila Fitzpatrick がこう論じたのは有名だ。内戦は『新しい体制に炎による洗礼を与え』たが、『ボルシェヴィキが危険を冒して獲得し、あえて追求すらしたかもしれない』洗礼だった(37)。
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 つづく。

2768/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑥。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一章②
 (07) ボルシェヴィキは、社会主義者とリベラル派が民主主義革命の聖なる目標だと長らく見なしてきた民主的機構に反対する、という劇的な行動を行なった。だが、その前にすでに、対立する見解を抑圧し始めていた。
 10月後半のプレスに関する布令は、多数の新聞を廃刊させた。その中には、リベラル派および社会主義派の新聞も含まれていた。『抵抗と不服従』を刺激し、『事実の明らかに中傷的な歪曲によって混乱の種を撒く』、あるいは、たんに『民衆の気分を害して、民衆の心理を錯乱させる種を撒く』、そういう可能性があったからだ(19)。
 11月の後半に、主要な非社会主義政党、人民の自由〔People’s Freedom〕の党として公式には知られていた立憲民主党(カデット、Kadets〕を非合法化した。その指導者は逮捕され、全党員が監視のもとに置かれた(20)。
 ソヴェト指導部の中で依然として活動していた非ボルシェヴィキの僅かの者たち—とくに左翼エスエル、中でもIsaak Steinberg—は、上の布令を批判した。これに対して、伝えられるところでは、Trotsky は、階級闘争がもっと激烈になるとすぐに必要になるだろうものに比べれば『寛大なテロル』にすぎない、と警告した。『我々の敵に対しては、監獄ではなくギロチンが用意されるだろう』(21)。
 1917年12月に、政府は『反革命と破壊行為に対する闘争のための全ロシア非常委員会』を設立した。これは、Vecheka またはCheka として(イニシャルから)知られるもので、革命に対する反抗を発見して弾圧することを任務とする保安警察だった(22)。
 Cheka を設立した動機の一つは、歴史家のAlexander Rabinowich が示したように、左翼エスエルが政府の連立相手として歓迎されているまさにそのときすでに、ボルシェヴィキをその左翼エスエルによる妨害から自由にする機関が必要だったことだ。内部報告書でのCheka の幹部の一人の説明によると、左翼エスエルは、彼らの『「普遍的」道徳観、人間中心主義を強調し、自由な言論とプレスを享受するという反革命的な権利に制限を加えることに抵抗することで、反革命に対する闘いを大いに妨げている』(23)。
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 (08) 全国土にわたる『赤』と『白』の間の軍事闘争としての内戦は、1918年の夏に本格的に始まった。
 多くの点で、実際に経験されたように、内戦は1914年に始まった国家の暴力の歴史を継続させたものだった。
 ソヴェト国家は、1918年3月に『最も厄介で屈辱的な〔ブレスト=リトフスク〕講和条約』(党自身の判断)を受け入れて、ドイツとの戦争を何とか脱していた。党指導部の少数派は、軍が崩壊し前線の兵団が完全に『士気喪失』した以降はゲリラ戦争としてであっても(24)、国際的階級闘争の原理は条約の条件を拒否して、帝国主義と資本主義との戦争の継続を要求する、と主張したけれども。
 講和によって生まれると想定された『ひと息』は、かろうじて数ヶ月だけ続いた。そのあと白軍(かつての帝制将軍に率いられる反ボルシェヴィキ勢力の連合で、1918年初めに姿を見せ始めた)と赤軍(戦争人民委員であるTrotsky の指導で1918年半ばに設立された軍団)のあいだで継続的に戦闘が勃発した。
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 (09) しかし、内戦は、赤と白の単純な二進法が示唆する以上に複雑で変化が著しい経験だった(25)。
 内戦の歴史に含まれるのは、テロル、エスエルやアナキストおよびボルシェヴィキ『独裁』にも白軍が代表するように見えた右翼独裁への回帰にも反対する社会主義者たちによる武装闘争だった。赤と白の両方と闘った農民の『緑』軍は、主に農民の自治に対する大きくて目前の脅威をもたらす者たちに依拠していた。国じゅうの民族独立運動もあり、イギリス、フランス、アメリカその他の連合諸国による武力干渉もあり、ポーランドとの戦争もあった。
 1920年の末頃までに、種々多様なことから、また大量の流血を通じて、赤軍とソヴェトが状況を支配した。白軍は敗れ、ボルシェヴィキ権力に反抗するその他の運動は粉砕された(当分のあいだは)。そして、ソヴィエト諸政府が確立され、Georgia、Armenia、Azerbaijan、東部Ukraine で防衛された。
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 (10) 赤軍とソヴェト権力がいかにして勝利したかを、歴史家は多く議論してきた。
 ほとんどの歴史家は、つぎの点で一致している。すなわち、軍事、戦略、政治的立場が共産党の側に有利だった。
 軍事的には、赤軍は驚くほどに効率的な軍隊だった。とくに、白軍の指導部の淵源が帝制時代の軍隊にあったことと比較して、その起源が自由志願の赤衛隊にあったことを考えるならば。
 兵士たちの中から新しい『赤軍』指揮官を養成した一方で、政府が『軍事専門家』に赤軍に奉仕して、その権威を高めるよう強いたことはこれを助けた。赤軍は命令の伝統的階層構造を復活させた。
 戦略的には、赤軍は地理的な中心部の外側で活動することで有利になった。ソヴェト政府はロシアの中心地域を支配していたが、このことは、人口、工業、軍需備品の多くを統制できることを意味した。一方で、白軍は、別の軍隊の協力が限られている、外縁部で活動していた。
 このことは、ロシアの主要な鉄道はモスクワから放射状に伸びていたので、とくに重要だった(モスクワは1918年3月から実効的な首都になった。その頃、やがてドイツの手に落ちる可能性が出てきたので、政府はペテログラードを去った)。赤軍は、効率のよい、輸送や連絡の線を持つことになったので。
 一方で、白軍は、農業地をより多く支配した。それで、彼らの兵団の食料事情は良かった。
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 (11) だがとりわけ、白軍は、政治的有利さの点で苦しんだ。
 白軍指導者たちは、自分たちは旧秩序を復活させることができないと、と理解していた。
 しかし、彼らの背景とイデオロギーからして、民衆の多数の望みを承認することも困難だと気づいていた。
 『ロシアは一つで不可分』という帝国的理想に依拠していたので、彼らは、非ロシア民族の者たちに戦術的に譲歩を提示することすら拒んだ(非ロシア民族は辺縁地域での支持を獲得するためには不可欠だったかもしれないが)。そして白軍は、非ロシア民族の支配下の土地で、民族主義を抑圧した。
 農民たちは、内戦中にどちらの側についても熱狂的に支持することはなかった。
 赤軍と白軍のいずれも、農民たちから穀物と馬を奪い、自分たちへと徴兵した。そして、反対者だと疑われる者に対してテロルを用い、ときには村落全体を焼き払った。
 だが、農民にとって重要なのは土地であるところ、ボルシェヴィキは—賢明にも、または偽善的に、農民たちの動機いかんを判断して—、農民による土地掌握を是認した。一方で、白軍指導者たちは、法と私有財産の原理の名のもとで、村落革命のために何も行なわなかった。言うまでもなく、彼らの基盤的な後援層の一つである土地所有者たちの支持を得て。
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 (12) 内戦は、凶暴な事態だった。
 いずれの側も、大量の投獄、略式処刑、人質取り、その他の、反対者と疑われる者に対する『大量テロル』を行なった。
 どの戦争でも見られる『行き過ぎ』があったが、両方の側の指導部によって看過された。
 赤と白の暴力は、釣り合いから見て似たようなもので、お互いさまだった。
 しかし、ボルシェヴィキは、とくにCheka を通じて、この血に汚れた(blood-staind)歴史を残すのに顕著に貢献した。(『非常』措置を普通のことにして)生き延びるに必要なことは何でもするという実際的な意欲があったばかりではなく、暴力と実力強制を、世界を作り直し、歴史を前進させる手段として積極的に容認した。
 『プロレタリアート』(ほとんどは言わば、労働者階級の<名前で>階級戦争を闘っている者)の暴力は、歴史的に必要なものであるのみならず、道徳であり善だった。これこそが階級戦争を終わらせるものであり、そして、暴力の全てを終わらせ、損傷している人間性を回復し、新しい世界と新しい人類を創り出す階級戦争だった(26)。
ボルシェヴィキは、暴力と実力強制は偉大な歴史的過程、『自由の王国への跳躍』、の一部だと考えた。これは、不平等と抑圧の古い王国で利益を得る者たちとの闘争なくしては遂行することができない。
 ボルシェヴィキは、Lenin が述べたように、『民衆の大多数』の利益のために、そして『資本主義者の抵抗を破壊する』ために用いられる『ジャコバン』的手段(フランス革命時の急進派とギロチンを想起させる)を採ることを、何ら怖れていなかった(27)。
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2767/M. A. シュタインベルク・ロシア革命⑤。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一節①
 (01) ボルシェヴィキは、革命的社会主義国家に関する矛盾する考え方を抱いて、権力を掌握した。
 一方には、一般民衆の欲求とエネルギーを解き放つことによる、大衆参加という解放と民主主義の考えがあった。
 Lenin は1917年春のペテログラードへの帰還の後で述べたのだが、ロシアを『崩壊と破滅』から救う唯一の方途は、抑圧された労働者大衆に『自分たち自身の強さへの自信を与える』こと、民衆の『エネルギー、主導性、決断力』を解き放つこと、だった。こうして、彼らは動員された状態のもとで、『奇跡』を行なうことができる(1)。
 これは、新しいタイプの国家の理想、大衆が参加する権力という『コミューン国家』(1871年のパリ・コミューンを参照している)、『大きな金額』のためではなく『高い理想のために』奉仕する『百万の人々の国家装置』だった(2)。
 コミューン国家という理想は、1918年に『ロシア社会民主主義労働者党』から『ロシア共産党(ボルシェヴィキ)』へと党の公式名称を変更したことに反映された。
 権力掌握から最初の1ヶ月間に、Lenin は繰り返して、『歴史の作り手』としての『労働大衆』に対して、『今やきみたち自身が国家を管理している』こと、だから『誰かを待つのではなく、下からきみたち自身が率先して行動する』こと、を忘れないよう訴えた(3)。
 この語りを良くて実利主義的だと、悪ければ欺瞞的だと解釈した歴史家がいた。—Orlando Figes の見解によれば、『古い政治体制を破壊し、そうして彼自身の党による一党独裁制への途を掃き清めるための』手段にすぎない(4)。
 しかしながら、多数のボルシェヴィキが解放と革命権力の直接参加主義的考えを信じていた、ということを我々が見るのを妨げないよう、慎重であるべきだ。
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 (02) しかし、以上は、ボルシェヴィキの国家権力に関するイデオロギーの一面にすぎなかった。
 Lenin がボルシェヴィキは『アナキストではない』と主張したのは正当だった。
 ボルシェヴィキは、強い指導力、紀律、強制、実力の必要性を信じてはいた。
 『プロレタリアートの独裁』と理解され、正当化された『独裁』は、いかにして革命を起こし、社会主義社会を建設するかに関するボルシェヴィキの思想の最も重要な部分だった。
 ボルシェヴィキには、権力を維持し続け、彼らの敵を破壊する心づもりがあった。そして明示的に言ったことだが、大量逮捕、略式手続での処刑、テロルを含む最も『残酷な手段』(Lenin の言葉)を使う用意があった。
 Lenin は、『裕福な搾取者たち』に対してのみならず、『詐欺師、怠け者、フーリガン』に対して、そして社会へと『解体』を拡散する者たちに対しても警告した。
 革命への脅威になるものとして『アナーキー』を非難するのは、今度はボルシェヴィキの番だった(5)。
 しかし、独裁は、必要物以上のものだった。
 それは美徳〔virtue〕でもあった。すなわち、プロレタリアートの階級闘争は、暴力と戦争を生む階級対立を克服することを意図する闘争として、歴史における唯一の闘争だった。Lenin が1917年12月に、それは『正当で、公正で、神聖だ』と述べたように(6)。
 さらに言うと、これは戦争になるべきものだった。
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 (03) 最初の数ヶ月、新しいソヴェト政府は、一般民衆に力を与え、より平等な社会を築くよう行動した。ソヴェトに地方行政の権能を与え、農地の農民への移譲による農民革命を是認した(7)。また、日常の工場生活を支配する決定に参画する労働者の運動を支持して、『労働者支配』を必要とする法制を作り(8)、『全ての軍事単位内部での全権能』を兵士委員会とソヴェトに付与して兵士の運動を支持して、全将校が民主的に選挙されるようになった(9)。さらに、民族や宗教にもとづく特権や制限を廃止して、ロシアの帝政的要素の優越に対する闘争を支持し、全ての帝国国民の『平等と主権性』を主張した。これには民族自決権も含まれていて、分離や独立国家の結成にまで及ぶものだった(10)。
 ソヴェト政府は、全ての民衆を『市民』と単一に性格づけることに賛成して、資産、称号、地位のような公民的不平等の法的な性格づけを廃止しもした(11)。既存の法的装置を『民主的選挙にもとづいて設立される法廷』に変えもした(12)。
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 (04) こうした急進的な民主主義化のほとんどは、内戦という非常の状況の中で実行されないことになる。効率的な動員と紀律を妨げる、事宜を得ないものとして、放棄された。
 しかし、ボルシェヴィキによる国家建設は、最初からすでに、ボルシェヴィキ・イデオロギーの権威主義的様相を明らかにしていた。
 一つの初期の兆候は、単一政党による政府を樹立しようとする意欲だった。これは、『全ての権力をソヴェトへ』は『民主制』の統合的代表者への権力移譲を意味すると民衆のあいだで広く想定されていた中で、それにもかかわらず、見られた。
 しかしながら、一党支配は、直接のまたは絶対的な原理ではなかった。
 新しいソヴェト政府が非ボルシェヴィキを包含することには、実際的な理由があった。とくに補充されるべき多数の政府官僚のための有能な個人が、不足していたことだ。
 政治的な理由もあった。とくに、労働者と兵士の委員会、国有鉄道労働組合(重要争点に関して全国的ストライキでもって威嚇した)、独立した左翼社会主義者たち、そして不満を抱いているボルシェヴィキ、これらからの圧力。
 上の最後の中で最も有名だったのは、ボルシェヴィキの中央委員会委員の、Grigory Zinoviev とLev Kamenev だった。この二人は、労働者や兵士の多数派の意思に反するとして、『政治的テロル』によってのみ防衛可能だとして、また『革命と国家の破壊』に帰結するだろうとして、一党政府を公然と批判した(13)。
 1917年12月、Lenin は、限られた数の左翼エスエル(エスエル主流派から離脱した党派)の党員を内閣(人民委員会議またはSovnarkom)に含めることに同意した。
 しかし、これは長くは続かなかった。
 数ヶ月のちに、ボルシェヴィキの政策に影響を与えようとして政府に参加した左翼エスエルは、不満の中で内閣を離れた。彼らが反対した、ドイツとの講和条約の締結が契機となった。
 そのあと数ヶ月、左翼エスエルはボルシェヴィキの権威主義に対する批判を継続した。—ある左翼エスエル指導者は、1918年5月に、Lenin は『凶暴な独裁者』だと非難した。そして、ボルシェヴィキは左翼エスエルの活動家に引き続いて妨害されたことに苛立ち、決定的な分裂へと至った。
 ある左翼エスエル党員が、ドイツの大使を暗殺した。これはソヴェト権力に対する『反乱』の一部だと見られたのだったが、ボルシェヴィキは、全てのレベルでの政府各層から左翼エスエルを排除〔purge〕した。そして、エスエルと同党員を厳格に壊滅させた。
 ボルシェヴィキによる一党支配はこうして完成し、永続することとなった(14)。
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 (05) 長く待たれ、長く理想化された憲法会議を散会させる決定が下された。これは多くの者によって、ボルシェヴィキの権威主義を示す、とくに厄介な兆候だったと考えられている。
 1917年11月に実施された憲法会議の選挙の結果は、革命的だった。—ロシア民衆の大多数が、公開の民主的投票でもって、将来の社会主義への道を選択した。
 エスエルが全投票数の38パーセントを獲得した(分離していたウクライナのエスエルを含めると44パーセントだった)。ボルシェヴィキは24パーセント、メンシェヴィキは3パーセント、その他の社会主義諸政党も合わせて3パーセントだった。すなわち、社会主義者たちには(分かれていても)、全投票の4分の3という輝かしい数が与えられた。
 非ロシアの民族政党は、社会主義に傾斜した党もあったのだが、多く見て全投票数の8パーセントを獲得した。
 リベラルなKadet(立憲民主)党は、5パーセント未満だった。
 その他の非社会主義諸政党(右翼主義者と保守派を含む)には3パーセントだけが投じられた。
 ボルシェヴィキは、全国の投票数の4分の1という相当大きい割合を獲得した。とくに都市部、軍隊、北部の工業地域で多かった。—ボルシェヴィキは本当に労働者階級の党だと証明された、と言うのが公正だ(15)。
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 (06) 同時にまた、選挙結果は、ボルシェヴィキによる政府の圧倒的な支配を正当化するものではなかった。—彼らが政府から去ることはほとんど期待できなかったけれども。
 Lenin は、ソヴェト権力をボルシェヴィキが握った最初の日に、憲法会議選挙は従前に予定されたとおりに11月12日に実施される、と確認した(16)。そのときですでに、Lenin の文章の注意深い読み手であったならば、つぎのことに気づいただろう。すなわち、『憲法幻想』〔constitutional illusions〕への早くからの警告、『階級闘争の行路と結果』が憲法会議よりも重要だという強い主張(17)。
 この議論は、選挙のあとで、憲法会議を『偏愛』する〔fetish〕ことに反対する公然たる主張へと発展した。—選挙の立候補者名簿は時期にそぐわない(とくに名簿登録後の左翼エスエルの立党による)。『人民の意思』は選挙後にさらに左へと変化した。ソヴェトは『民主主義の高度の形態』であって、憲法会議が設立したかもしれない政府はそれより後退したものだろう。内戦の蓋然性のゆえに緊急の措置が必要だ。
 イデオロギーとして憲法会議を攻撃する最も重要な主張は、階級闘争に関する歴史的論拠だった。すなわち、議会の正統性は、形式的な選挙によってではなく、歴史的闘争の中で占める位置によって判断されるべきだ。この位置は、どの程度において『労働者民衆の意思を実現し、彼らの利益に奉仕し、彼らの闘いを防衛する』か、によって定まる。
 憲法会議がたとえ圧倒的に社会主義派によって占められていても、この歴史的審査に耐え難い、とボルシェヴィキは結論づけて、憲法会議に機会は与えられない、と主張した。歴史と階級闘争の論理が、反革命的な憲法会議が解散することを『強い』た。それは、1918年1月の最初の会合で行なわれた(18)。
 だが、この動議に若干の穏健なボルシェヴィキは反対したこと、ほとんどの左翼エスエルは会議の閉鎖を是認したこと、は記憶しておく価値がある。
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 つづく。

2766/M. A. シュタインベルク・ロシア革命④。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第三章/1917年
 第一節④
 (17) 『コルニロフ〔Kornilov〕事件』は陰謀と混乱の奇妙な混合物で、騒擾の危険性、紀律と強い国家の必要性に関して激論が交わされている中で、それに煽られるようにして起きた。
 新しい最高司令官は、自分をロシアを救う人間だと見ていた。これは、保守的プレス、右翼政治家、軍将校や事業家の組織、地主たちから勇気づけられての自画像だった。
 Kornilov は、Kerensky も、おそらく一時的な軍事独裁によって、ソヴェトとその支持者たちの言論を封じるのを望んでいると、根拠なく信じていたように思われる。
 何が現実に起きたかに関する歴史上の諸記録は、矛盾した証拠と主張で充ちている。
 我々に分かるのはつぎのことだ。Kerensky は8月26日に、Kornirov が政府全大臣の辞職、首都での戒厳令の発布、全ての公民的、軍事的権限の自分の手中への移行を要求したこと、これらの要求を支援すべく兵団を首都へ動かしていること、を知った。
 Kornilov を擁護する者たちはのちに、Kerensky 自身がこの権力集中を命令していたのであり、兵団を動かしたのは、噂されたボルシェヴィキのクーからKerensky と政府を防衛するためだったにすぎない、と主張した。
 Kerensky は国民に対して、軍事クーからロシアと革命を『救う』のを助けるように呼びかけた。
 ソヴェト指導部は、地方ソヴェト、労働組合、工場委員会、ボルシェヴィキを含む左翼諸政党(ソヴェトはボルシェヴィキ指導者たちの監獄からの釈放のための調整を助けてすらいた)を動員することでもって、首相の訴えに応えた。
 行進しているKornilov の兵団は、前進を停止するよう簡単に説得された。とりわけ、Kerensky は自分たちの行動を支持していない、と聞いたために。
 こうして、『反乱』は数日で終わった。
 しかし、危機は始まったばかりだった。
 右派は、Kerensky を、Kornilov を騙して、裏切った、と非難した。
 左派は、Kerensky は最高司令官と共謀していた、のちに反対に回った、と疑った。
 結果として、二番めの連立内閣が崩壊した。リベラル派と社会主義派の間の相互不信が深まって、分裂したのだ。
 ようやく9月遅くに、新しい連立の臨時政府が形成された。—第三の、そして最後の内閣。これを率いた首相はKerensky で、10人の社会主義者大臣(多くはメンシェヴィキとエスエルの党員。但し、公式には個人として行動した)と6人のリベラルな大臣(多くはカデット〔立憲民主党、Constitutional Democratic Party, Kadets〕)で成っていた。
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 (18) ボルシェヴィキは、政府に加わらなかった唯一の主要な左翼政党として、民衆の不満解消のための逃げ場所になった。
 そして、階級を明瞭に基礎にしたその基本政策は、ますます両極化している社会的雰囲気にうまく適合した。
 ボルシェヴィキは、富者に負担となり貧者に利益となる税の再配分が目標だ、と宣言した。また、農民の土地所有者に対する闘争、労働者の雇用者に対する闘争、兵士の将校に対する闘争を支持することも。さらに、死刑のような『反革命的』措置を採用しないことも(18)。
 とは言え、とくに魅力的なのは、彼らが繰り返したスローガンだった。すなわち、『パン、平和、土地』、『全ての権力をソヴェトへ』。—全ての不満を捉え、一つの単純な解決策を提示する化身たち〔incarnations〕。
 ボルシェヴィキの人気が増大していることは、Kornilov 事件の前にすでに明らかになっていた。工場委員会や労働組合での投票で、地区や市のソヴェトへの代議員の新または再選挙で、ボルシェヴィキの演説者や決議に対するソヴェト内部での受け入れの仕方で、そして市議会の選挙においてすら(19)。
 Kornilov 事件は、反革命への恐怖、穏健な社会主義者たちとの妥協への不満を掻き立てた。その後、ボルシェヴィキはいっそう急激に影響力を増した。もっとも、エスエルの中で同様に宥和的でない『左翼エスエル〔Left SRs〕』のそれも似たようなものだったが。
 8月31日、ペテログラード・ソヴェト代議員の多数派は、有産階層を除外した社会主義者政府を樹立しようとのボルシェヴィキの決議案を採択する議決を行なった(20)。
 9月の後半に、ボルシェヴィキは、ペテログラードとモスクワの両都市で、ボルシェヴィキを多数派とする新しいソヴェト指導部を選出するのに十分なかつ信頼できる多数派を獲得した。
 Lev Trotsky は最近にボルシェヴィキ党に加入したのだったが、ペテログラードでは彼が、議長に選出された。
 同じことは全国で起きていた。
 最も重要なことは、ボルシェヴィキは今や、大胆な政治的ギャンブルのために増大している人気を利用する用意がある、ということだった。政治的賭け—国家権力を奪取するための蜂起〔insurrection〕。
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 (19) 労働者兵士代議員ソヴェトの第二回全ロシア大会は10月25日に開催され、全国の数百のソヴェトから代議員が出席した。
 ボルシェヴィキは代議員たちの中で最大の単一党派で、左翼エスエルの支持を得れば有効な多数派を形成することができた。
 14人のボルシェヴィキと7人の左翼エスエルで、新しい幹部会が構成された。
 メンシェヴィキには4人が割り当てられていた。しかし、のちには政治的自殺と見なされた動議を出して、幹部会の議席を受け取るのを拒否した。この拒否は、ボルシェヴィキによる蜂起が街路上で進行中であることに対する抗議の意思を示す行動だった。
 大会は、ボルシェヴィキのスローガンである『全ての権力をソヴェトへ』を是認した。但し、ほとんどの代議員は、ソヴェト権力とはボルシェヴィキによる一党支配ではなく、社会主義者の民主的な統一的政府を意味すると理解していたけれども。
 メンシェヴィキの指導者のYuly Martov は、ソヴェト大会の直前に『陰謀』という手段で国家権力の問題を決着させようとするボルシェヴィキの企ては、『内戦』と反革命につながる可能性が高い、と警告し、『全ての社会主義諸政党と組織』のあいだで『統一した民主主義的政府』を樹立するための協議をただちに開始することを提案した。この提案は、満場一致で承認された。
 ボルシェヴィキですら、『展開している事態に関するそれぞれの見解を、全ての政治的党派が表明することに、多大の関心を寄せる』と宣言した(21)。
 しかしながら、複数政党による社会主義者政府、『革命的な民主主義的権威』を目ざす構想は、事態の進行に間に合わなかった。他『党派』とともに活動することに対してボルシェヴィキに深く染み込んでいた強い疑念によって、その構想は実現しなかった。
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 (20) 10月24日から25日にかけての夜、ペテログラードの労働者『赤衛隊〔Red Guards〕』と急進的兵士たちは、主要な街路と橋梁、政府関連の建物、鉄道駅、郵便局と電報局、電話交換所、発電所、国立銀行、警察署を掌握し、臨時政府の大臣たちを逮捕した。
 この武装蜂起は、ソヴェトの軍事革命委員会の秘密会議で練り上げられていた、詳細な計画に従っていた。このソヴェト軍事革命委員会をボルシェヴィキは支配しており、Trotsky が議長に就いていた。もっとも、タイミングの問題はボルシェヴィキ党内での激しい議論の対象だった。—タイミングはすぐれて政治的意味合いを持つ問題だったので。
 Trotsky は、蜂起は『ソヴェト権力』のために、そして政府による弾圧に抵抗する革命を『防衛』するために、ソヴェトの行動を正当化する外套をまとうべきだ、ということに拘泥していた。
 しかし、Lenin は、全く理性的なことに、つぎのように心配していた。ソヴェト全国大会は、全ての社会主義者政党を包含する政府、あるいは有産階層のみを排除した、より広範囲の『民主主義的政府』をすらに固執し続けて、ボルシェヴィキの手を縛るかもしれない、と。そのゆえに彼は、臨時政府の打倒を既成事実〔fait accompli〕としてソヴェト大会に提示する必要がある、そうすれば大会での議論は無意味になるだろう、と強く主張した。
 ソヴェト大会が10月25日に開会したとき、臨時政府の大臣たちがいる冬宮に対するボルシェヴィキの武装攻撃が進行していた。
 メンシェヴィキとエスエルの発言者たちは激しく怒り、ボルシェヴィキの行動は『犯罪的な政治的冒険』だ、と非難した。一つだけの政党による日和見主義的な権力ひったくりだ、その背後にはソヴェトの後援があるとし、そのソヴェトの名前でボルシェヴィキは二枚舌を使って行動している、と。
 彼らは、ボルシェヴィキの行動はロシアを内戦へと突入させ、革命を破滅させる、と予見した。
 ほとんどのメンシェヴィキと右翼エスエルたちは、ボルシェヴィキの行動の『責任を負う』ことをしたくなくて、大会の会場から退出した。—有名になったTrotsky の侮蔑の言葉がこれに投げつけられた。彼らは、『歴史のごみ箱』に入る運命だけが残る『破産者』だ。
 10月26日の夜明け前、ソヴェト全国大会は、レーニンのつぎの宣言を承認した。全ての国家権力はソヴェトの手中にある、全ての地方権力は、労働者兵士農民代議員の地方ソヴェトへと移譲される。
 大会はまた、全ての諸国に講和を即時に提案すること、全ての土地を農民委員会に移譲すること、兵士の権利を守ること、工業の『労働者支配』を確立すること、憲法会議の召集を確実にすること、を誓約した。
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 第一節、終わり。

2765/M. A. シュタインベルク・ロシア革命③。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第三章/1917年
 第一節③
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 (12) これは実際には、2週間後の『七月事件』に比べると『瞬時の一打ち』にすぎなかった。
 7月3日、数万人の兵士、海兵、労働者たちが、大部分は武装して、首都の街路を行進した。
 彼らは市の中心部を占拠し、自動車を奪い、警察やコサックと闘った。そして、頻繁に銃砲を空中に放つことで、彼らの蜂起のごとき雰囲気を強調した。
 午前2時頃、6万人から7万人の男性、女性、子どもたちが路上にいた。そのうちのほとんどはTauride 宮にあるソヴェト司令部の近くだった。群衆は、その規模と戦闘的気分を増大し続けた。
 大衆集会で採択された決議は、戦争の即時停止、『ブルジョアジー』と今以上妥協しないこと、そして『全ての権力をソヴェトへ』を要求した。
 いかにしてこれらの目標を実現するかについて、ほとんどの示威行為者には分かっていないように見えた。とくにソヴェト指導部は自分たちが『全ての権力』を握るという発想自体を拒絶していたので。
 七月事件の最も有名な場面で、ソヴェト指導者たちは、群衆を静めるためにエスエル〔Socialist Revolutionary〕のVictor Chernov を街頭へと派遣した。
 彼の訴えに応えたのは、拳を振ってChernov に向かって『手渡されたら権力を取れ』と叫ぶ、示威行為者の怒りだった。
 ソヴェトの穏健な指導者たちは、この事件全体についてボルシェヴィキを非難した。
 そして、ボルシェヴィキ自体が、間違いなくこの運動を助長していた。
 しかし、彼らはこの運動を権力奪取へとつなげる用意をしておらず、そうしようとしなかった。
 指導者を欠いたので、反乱は解体した。
 7月4日夕方の激しい雨が、路上の群衆の最後の一人を追い払った(11)。
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 (13) 歴史家たちは、今でも議論している。七月事件は、慎重かつ巧妙に計画され、だが失敗した、ボルシェヴィキによる権力奪取の企てだったのかどうか。
 あるいは、のちのクーのために試験をするという、ボルシェヴィキの戦術の一部だったのか。
 あるいは、躊躇している指導部を行動へと強いようとする、ボルシェヴィキ党員たちの努力だったのか。
 あるいは、急進化した兵士や労働者たちの調整済みでない行動ですら、党は最初は支援することに同意しており、のちに瞬時に権力奪取のために使おうと考えたが、成功しないことが明瞭になったので撤退した、のだったか。
 ほとんどの歴史家は、つぎの点では同意している。ボルシェヴィキの一般活動家がこの事件できわめて大きな役割を演じたこと、大多数の労働者や兵士たちは指導を求めて党を見つめていたこと。
 そして、臨時政府の打倒がボルシェヴィキの課題〔agenda〕になっていたことに、ほとんど疑いはない。
 問題は、いつ行なうか、だった。
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 (14) 地方〔provinces〕の後進性というステレオタイプ的見方とは矛盾するが、臨時政府への支持や階級を超えた統合が解体していった早さは、ペテルブルクやモスクワよりもむしろ、地方で急速だった。
 例えば Saratov では、Donald Raleigh が資料文書を示したように、地方のリベラルな新聞は6月に、『都市部だけではなく地方全体で、権力は現実には労働者、兵士の代表者の(地方)ソヴェトへと移った』と報告した。
 穏健な社会主義者と急進的なそれのあいだの断裂もまた、中心部以上に急速に進んだ。例えば、ボルシェヴィキは5月に、リベラル・ブルジョアジーとの協働に抗議して、Saratov ソヴェトから脱退した。
 同様に、地方の労働者、兵士、農民たちはもっと早くに妥協に耐え難くなり、即時のかつ直接的な諸問題の解決に賛成した。これが意味したのは、ボルシェヴィキに傾斜する、ということだった(12)。
 Kazan やNizhny-Novgorod のような別の地方の町々では、またそれらの周囲の農村地帯では、Sarah Babcock が示したように、ほとんどの民衆にとっての地方『政治』の本質は、政党への帰属や選挙への関与ではなく、経済的、社会的な必需品のための直接的な闘いだった。
 エリート全員に対する不信は、主要な諸都市で以上に、おそらく地方の一般民衆のあいだで、より強いものがあった(13)。
 紀律ある国家の最も熱烈な支持者だと広く考えられているDon 地域の多数のコサックですら、中央の権力よりも地方の権力を支持した(14)。
 このような地方主義と権力の断片化は、ペテルブルクでの政治的決定や国家権力をめぐる闘争より以上にではかりになくとも、それと同等に革命を規定した。
 臨時政府の権威は急速に低下し、地方ソヴェト、委員会、労働組合その他の諸制度の力の増大によって掘り崩された。
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 (15) ロシアじゅうの社会的権威が突如として断片化してきた。それは、直接的行動が唯一の解決方法だと思わせるような、経済的危機のさらなる悪化によって促進された。だがまた、『ブルジョアジー』とそれと結びついた政治的エリート層に対する不信によっても。
 兵士たちは将校を無視し、選出された兵士委員会にのみ耳を傾けた。
 農民たちは、自分たちが土地を奪ったり地主を追放するのを妨げるものはほとんどないと分かって、土地改革を待つのをやめた。
 労働者たちは、作業場の条件を直接に統御する直接的行動をとった。—多くの工場では、『労働者支配』—理論を適用したのではなく実践の中で生まれて発展した考え—が、進展していった。工場委員会が、管理者側の決定を監視し始めたのみならず、重要な経営上の決定を自ら行ない始めるようになるとともに。
 雇用者または経営者が例えば燃料不足を理由とする一時解雇〔lay-off〕で威嚇したとき、工場委員会は、新しい燃料供給源を探して、輸送と支払いについて取り決めすることがあり得た。また、利用可能な燃料のより経済的な使用方法を取り決めたり、会社の経費支出への監督権を要求したり、全員の労働時間を平等に削減することを裁可したり、あるいは、一時解雇される者を選定する、労働者の集団的権利を要求したりすることがあり得た。
 稀な場合、通常は雇用者が工場の閉鎖を選ぼうとした場合だが、労働者委員会は、自分たちで工場の操業を決定した(15)。
 多くの観察者にとって、こうした事態は『アナーキー』で『カオス』だった。
 多くの別の観察者にとっては、これは下からの『民主主義』だった。
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 (16) 七月の危機の後で、臨時政府は社会主義者が多数派になるよう再構成され、社会主義者で法律家であるAlexander Kerensky が率いた。この臨時政府は、このような権力の断片化と国家の弱体化を許容できなかった。
 臨時政府は、『アナーキー』に対する戦争を宣告した(16)。
 しかし、政府の、当時に称された『国家主義』〔statism〕は、状況を悪化させたにすぎなかったかもしれない。次の政治的危機を誘発し、そうしてさらに、国家の権威を弱いものにした。
 七月事件は、間違った危険を明らかにし、間違った解決策を生んだものだったかもしれない。すなわち、容易に判別できるボルシェヴィキによる騒乱の脅威によって、より大きい、より困難な、社会的、民族的、地域的な両極化と断片化の脅威が、覆い隠された。
 臨時政府は7月に、それが理解する脅威に応じて、数百人のボルシェヴィキ指導者を逮捕した(逮捕を逃れて隠れた多数の中にレーニンがいたけれども)。
 市民的自由は公共の秩序のために制限された。
 死刑が前線にいる兵士について復活した。叛逆、脱走、戦闘からの逃亡、戦闘の拒否、降伏への煽動、反抗、あるいは命令への不服従すらあったが、これらにより野戦法廷で有罪と宣告された者たちについてだった。
 ペテログラードでの街頭行進は、つぎの告知があるまで禁止された。
 そして、将軍のLavr Kornilov が、この人物は軍事的かつ公民的な紀律の擁護者として保守的界隈で尊敬されていた、屈強な気持ちをもつコサックだったが、新しい最高司令官に任命された。
 Kerensky 首相は、騒擾を克服できる強い政治的実行者だと見られるのを望んだ。
 彼は七月事件の際に暴徒と闘って殺されたコサックたちの葬儀で演説をし、こう宣言した。「アナーキーと無秩序を助長する全ての企ては、この無垢の犠牲者たちの血の名において、容赦なく処理されるだろう」(17)。
 おそらくは象徴的な動きとして、また安全上の理由から、Kerensky は、臨時政府の役所を冬宮(Winter Palace)へと移した。
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 つづく。

2764/M.A.シュタインベルク・ロシア革命②。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第三章/1917年
 第一節②
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 (06) 総じて、とくに1917年の初めは、他者に対する優越をめざす闘いと同様に、権力こそが理解すべき問題だった。
 臨時政府とソヴェトはいずれも、正統性と権威の範囲について、不確かさを感じていた。
 強く正当性を信じた臨時政府のリベラルな指導者たちは、悲しくも、自分たちの本質は閉鎖されたドゥーマによる自己任命の委員会だと分かっていた。自分たちは限定的な、偏った基盤のもとで選出されていた。
 『臨時』という(新しい政府について彼らが選んだ)名前は、適正な民主的選挙が実施されるまでの一時的なものとしてのみ彼らは国家権力を受け取った、ということを完全に明瞭にしていた。民主的選挙の実施は、正統性のある国家秩序を確立する基盤を形成する憲法会議〔憲法制定会議, Constituent Assembly〕の選出のために必要だった。
 ソヴェトはそれが代表する社会集団のために政府の諸政策と行動に決まって反対し、労働者と兵士たちを街路上に送り込む力は彼らを現実的な政治的権力に変えることになる。しかし、社会主義者の指導者たちは、自分たちの役割は全国民を代表することではなく、特定の階級を擁護するすることだと、強く主張した。
 彼らにとって、『ソヴェト権力』を語ることは受け容れ難いもので、馬鹿げてすらいた。
 社会主義指導者たちの政治的躊躇を生んだのは、イデオロギー上の信念、歴史に関する思想、現実に関する見方だった。
 彼らは、革命のための自分たちの当面の任務は民主制と市民権を確立することだと考えていた。伝統的に(とくにマルクス主義の歴史観で)リベラル・ブルジョアジーの歴史的役割と想定されてきた諸任務だ。
 この階級を打倒して社会主義を樹立するという考えは、せいぜいのところ時期尚早で、自殺するようなものですらあった。進行中の戦争を考慮しても、また、そのような急進的な実験をするにはロシアは社会的、文化的にきわめて未成熟であるがゆえに。
 ソヴェトの指導者たちは、政府を支配するのではなく政府に影響を与えようとしていると明確に述べた。躊躇しているが適切に力づけられた『ブルジョアジー』を共和国の建設、市民権の保障へと、そして将来の憲法会議のための選挙の準備へ向かわせることが必要だ、と。
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 (07) 臨時政府は、市民的、政治的改革の大胆な政策を打ち出した。—数千人の政治的犯罪者や流刑者を釈放した。言論、プレス、集会、結社の自由を宣言した。労働者がストライキをする権利を是認した。笞打刑、シベリアへの流刑、死刑を廃絶した。民族または宗教による法的制限を撤廃した。フィンランドに憲法を回復した。ポーランドに独立を約束した。ロシアと帝国全土の地方行政の仕組みにより大きな権限を付与することに一般的に賛成した。女性に投票する権利や役職に立候補する権利を保障した(当初は若干の躊躇いがあったが、女性労働者の路上示威行進を含む女性たちの抗議にすみやかに屈した)。そして、普通、秘密、直接、平等の選挙権にもとづく憲法会議選挙の準備を開始した。
 こうした改革は確かに、当時の世界で最もリベラルなものだった。言葉だけではなく、行動の点でも。
 しかし、政府は、三つの深刻な問題を解決するのは、イデオロギー的と実際的の両方の理由で困難であることも分かった。
 第一に、より多くの土地を求める農民たちの要求を、ただちには満足させることができなかった。
 臨時政府はたしかに、土地改革の作業を始めた。
 しかし、財産権の再配分に関する最終的決定を行なうには本当の民主主義的権威をもつ政府の樹立を待たなければならない、とも主張した。
 第二に、経済的な不足と混乱を解消することができなかった。
 これには少なくとも、リベラル派としては受け容れられない、社会的、経済的な政府による統制をある程度は必要としただろう。
 第三に、戦争を終わらせることができなかった。
 それどころか、ロシアを戦闘から一方的に撤退させるするつもりはなかった。彼らは戦闘を、民主主義諸国のドイツの軍国主義と権威主義に対するものだと見なしていた。
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 (08) ペテルブルクはロシアではない。Nikolas 二世はそう言うのが好きだった。国内の農民や町の住民は忠実な民衆で、厄介な首都居住者のようではなかった。
 しかし、二月の革命はただちにかつ強いかたちで、ロシアと帝国じゅうに広がった。
 地方の町々では、熱狂的な示威行動者が街路を埋め尽くした(最初は地方警察とコサックが解散させた)。彼らは、革命的な歌をうたい、新しい秩序を支持する旗を掲げ、長時間の抗議集会に参加した。
 諸政党とソヴェトが設立された。
 新しい地方政府は、旧体制を維持しようとする軍隊や警察を武装解除させた。そして、地方の官僚組織を新政府を支持する行政担当者に変えた。
 帝国の非ロシア地域では、少数民族の自治を要求するという重要な事項が加わって、同様のことが展開した。
 実際のところ、首都以外での最も直接の革命の効果はおそらく、強い地方主義〔localism〕だった。その理由はなかんずく、ペテログラードにある政府には地方で権力を行使する手段がなかったことだ。
 民衆のほとんどが住んでいる村落では、農民たちは、彼らなりの支持方法と熱狂でもって、革命の報せに反応した。旧体制の役所と警察を掌握し(ときには叩きのめし)、村落委員会を組織し、とりわけ、聞こうとする者全てに対して、革命の主要な目標は現実に耕作している者たちの手に全ての土地を譲渡することであるべきだと語った(7)。
 --------
 (09) 1917年の危機的事件のいずれにも、直接的かつ具体的な原因があった。すなわち、外交文書の漏洩、急進者による路上示威運動、軍事クーの企て、ボルシェヴィキの蜂起。
 しかし、全ての危機のより深原因は、多数の当時の人々およびのちのたいていの歴史家の見解によれば、教養あるエリート層と一般民衆のあいだの『越え難い亀裂』にあった。
 あるリベラルな軍事将校は3月半ばに、各層の兵士たちの中での経験にもとづいて家族に対して、一般民衆の考えをこう説明した。「起きたのは政治的革命ではなく社会的革命だった。そこでは、我々は敗北者で、彼らは勝利者だ。…以前は我々が支配したが、今では彼ら自身が支配しようとしている。彼らが語る言葉の中には、過去何世紀にもわたる、仕返しされていない侮蔑がある。共通する言語を見つけることはできない。」(8)
 この階級間の亀裂は、『二重権力』という編成体制をますます脅かすことになった。この体制自体がこの分裂を具現化したもので、1917年の経過と結果を形づくることになる。
 --------
 (10) 戦争は、新しい革命政府にとって、最初の危機の主題だった。
 臨時政府は、帝制政府の併合主義的戦争遂行の放棄を求めるペテログラード・ソヴェトの圧力を受けて、3月後半につぎの宣言文を発した。「自由ロシアの目標は他国民衆の支配ではなく、彼らの財産の奪取でもなく、外国領土の力づくでの掌握でもない。これらではなく、民族自決を基盤とする安定した平和を支えることだ。」(9)
 同時に、外務大臣の Paul Miliukov は連合諸国に外交文書を送って、勝利するまで戦い抜くと決意していること、敗戦国に対しては通常の『保証金と制裁』を課すのを用意していること、を伝えた。これは多くの人々の想定では、1915年に連合諸国と協定したように、ロシアがDardanelle 海峡とConstantinople を支配することを含んでいた。
 この文書の内容がプレスに漏れ、4月20日に報道されたとき、その効果は爆発的なものだった。なぜなら、ペテログラード・ソヴェトと臨時政府自身が発した宣言が示す外交政策方針と直接に矛盾していると見えた。政府の宣言はソヴェトに対する偽善的な休止のようだった。
 武装兵士を含む、激怒して抗議する大群衆が、『Miliukov-Dardanelskii』、『資本主義者大臣』、『帝国主義戦争』を非難して、ペテログラードとモスクワの路上を行進した。
 Miliukov は辞任を余儀なくされ、内閣は社会主義者を含むように改造されなければならなかった。このことは民衆の政府への信頼を回復するのに役立った。しかしまた、ソヴェトを指導する諸政党を、政府の将来の失敗について責任のある立場に置いた。
 主要な社会主義政党の中で『ブルジョア』連立政府に加わることを全党員に許さなかった政党が一つだけあった。レーニンがまだ主流派でなかった、ボルシェヴィキだ。
 --------
 (11) ソヴェト指導部は、彼らへの支持を高めるべく、6月18日の日曜日に、ペテログラードでの『統一』示威行進を組織した。
 掲げられたスローガンは、『革命的勢力は団結せよ』、『内戦をするな』、『ソヴェトと臨時政府を支持する』等だった。
 この反面で起こったのは、あるソヴェト指導者の回想によると、『ソヴェト多数派とブルジョアジーの顔への、ピリッとした瞬時の一打ち』だった」(10)」。
 ソヴェト支持のスローガンがあちこちにある真っ只中で、行進者が掲げる旗の多くには、ボルシェヴィキのスローガンが書かれていた。例えば、『10人の資本主義者大臣はくたばれ』、『彼らは闘う用意をするよう約束して我々を騙した』、『あばら小屋に平和を、宮殿に対しては戦争を』、そして徐々に有名になっていた『全ての権力をソヴェトへ』。
 ——
 つづく。

2763/M.A.シュタインベルク・ロシア革命①。

 M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
 この書物の構成・内容はつぎのとおり。
  *謝辞
  *目次
 序説—ロシア革命を経験する
 第一部・史料と物語
  第一章/自由の春—過去を歩む
 第二部—歴史
  第二章/革命・不確実性・戦争
  第三章/1917年
  第四章/内戦
 第三部—場所と人々
  第五章/街路の政治
  第六章/女性と村落での革命
  第七章/帝国を打倒する
  第八章/夢想家たち
 結語—未完の革命
  *文献
  *索引 p.371-p.388.
 --------
 第三章から始める。
 原書にはない段落番号を付す。一行ごとに改行する。原書での” ”は『』で表現し、イタリック体強調の文字は<>で挟む。
 注記(章のあいだにある)の内容は訳さず、注番号だけ残す。
 章のあいだに「* * *」の一行が挿入されていることがある。章内の大きな区切りと理解して、前後を「節」で分ける。
 ——
 M. A. シュタインベルク・ロシア革命 1905-1921 (Oxford, 2017)
 第三章/1917年
 第一節①
 (01) 歴史家は多様なかたちで1917年の物語を記述してきた。
 とくに、学問分野としての歴史学の進展は、1917年をどう理解し、解釈し、叙述するかを変化させてきた。—この「科学的」理性は、政治的およびイデオロギー的な好み(革命、社会主義、リベラリズム、国家、民衆の行動—むろんソヴィエト同盟自体—について歴史家がどう考えるか)や、また倫理的価値観(歴史家が例えば不平等性、社会的公正、暴力についてどう考えるか)とすら、不可分に絡み合ってきたけれども。
 我々が研究する人々にとってもそうだが、歴史家たちには、『歴史』と称している記述はどのような性格のものであるかにについて、考え方に分かれがある。
 近年に変わった主要なことは、一般の人々(とくに兵士、労働者、農民)、女性、少数民族、地方、帝国の辺境に対してもっと注意を向けるべく、政治指導者たち、国家制度、地理的中心部、男性、ロシア民族からいくぶんか焦点を逸らしたことだ。
 さらにもっと最近では、学者たちの関心は主観的なもの〔subjectivities〕へと向かっている。—人々が語る考え方や要求へとのみならず、価値観や感情という曖昧な領域へと。このことは、歴史という記述の様相をさらに豊かにし、かつ複雑にしている。
 しかしながら、学者たちは最近でも、歴史を形づくるに際しての大きな構造〔structures〕の重要性をあらためて強調している。すなわち、経済の近代化、資本主義、法制、イデオロギーや思想の世界的潮流、国際関係、戦争。
 もちろん、こうした異なる研究方法は相互に排他的なものではない。
 これらは多様なかたちで結びついてきた。—私がこの書物でそうするように。
 --------
 (02) 1917年の大きな危機的事件、それはとくに首都ペテログラードで発生したのだったが、革命に関する標準的な記述の基礎になっている。すなわち、帝制を転覆させた二月革命、戦争継続に関する四月危機、蜂起に近かった七月事件、八月に起きたKornilov の反乱の失敗、そして、ボルシェヴィキが権力を掌握した十月革命。
 これらの事件の背後にあるのは、因果関係〔causation〕の物語だ。戦争の推移、経済の崩壊、社会的格差の拡大、政府の失敗。
 この因果関係は、我々には最も馴染みのある、歴史の記述の方法だ。—説明可能な原因と重要な結果を結びつけて諸事件を語ること。
 除外したことも含めて、このような方法に馴染みがあっても、このことは諸事件の必然性を語るのと矛盾はしない。
 のちの章では、別の観点から1917年に立ち戻ることにしよう。
 しかし、これら諸事件と諸経緯は、最も重要な構造と基盤だ。
 そして、珍しいことに、たいていの歴史家は、何が起こったか、なぜ、何が変わったかについては合意している(1)。
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 (03) 最初の危機は2月23日(3月8日)に始まった。その日、ペテログラードの数千の女性織物労働者たちが工場から路上に出た。パンと食糧の不足に抗議するためだった。また、国際女性デーを記念してだった。これに加えて、首都その他の都市のきわめて多数の男女がすでにストライキに入っていた。
 この危機は都市と国土じゅうにすみやかに広がった大混乱であり、数日を経て、政府は打倒された。このことは、権力をもつ者たちには驚きではなかったはずだ。
 首都に潜入していた秘密警察の要員たちが1917年1月頃に報告書で述べていたのは、「市民の広範囲で権限をもつ者たちに対する憎しみの波」(2)が高まっていたことだった。
 増大する民衆の怒りは、戦争による損傷により、悪化する絶望的な経済状況により、とくに食糧不足と物価高騰により、いっそう激しくなった。また、無関心であるか無能であるかのいずれかと見えた国家の諸政策によっても。
 大衆の雰囲気に敏感だった支配エリート層の中には、民衆の不満を反映した思いが生まれた。すなわち、戦争遂行や自分たちの政治的、社会的な地位の維持は下級の階層の騒擾によって危うくなる可能性がある、という恐怖。
 数を増やしつつ労働者男女が首都の街路に出てくるとき、連呼の声、旗、演説はパンを要求したが、同時にまた、戦争の終止と専制の廃止も要求した。
 学生、教師、ホワイトカラーの労働者たちが、民衆に加わった。
 暴力行使が散発して起きた。とりわけ店舗のショーウィンドウは破壊された。
 棒や金物の一部、岩石、そしてピストルをもつ者も、行動者の中にはいた。
 社会主義活動家はそうした運動を激励したけれども、彼らには現実の指導力または方向指示能力がなかった。
 運動は、不安を解消する熟慮した行動であるというよりは、不満の発現だった。
 そのようなものとして、社会主義者たちは諸行動を、『革命』ではなく『騒擾〔disorder〕』だと見なした(3)。
 あるいは、前線にいるNicholas 二世に書き送った皇妃 Alexandra の侮蔑的な見方によれば、示威行動者たちの行動は自分たちのために耳障りな騒乱を起こしている『フーリガン運動』だった(4)。
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 (04)  皇帝は情報を十分に与えられず、何が起きているかを理解することができなかったので、その反応は過信と不寛容が致命的に入り混じったものだった。
 皇帝は2月25日、ペテログラード軍事地区司令長官に対して電報を打った。それには、つぎの致命的な文章があった。—「貴君に命令する。明日、首都の騒擾を終焉させよ。この騒擾は、ドイツ、オーストリアと戦争している困難な時期には受け容れ難い」(5)。
 警察と地方連隊兵士たちはこの命令に従い、民衆を攻撃し、傷つけ、殺害した。
 政府官僚たち、そして社会主義指導者たちは、これで事態は鎮静化したと思った。
 しかし翌日、兵士たちが示威行動者たちの側に立って街路上に出現した。
 首都の軍事的権力の有効性が崩壊したとなって、権力空間にパニックが生まれた。とくに、混乱が国土じゅうの諸都市に広がり、各地方の連隊兵士たちがしばしば路上の示威運動者たちに加わったので。
 2月27日、内閣はドゥーマ〔State Duma, 議会〕を延期し、ドゥーマの指導者(政府の改革だけがロシアを鎮静化でき、戦争継続を可能にすると執拗に主張し続けた)を、大混乱の責任があると非難した。そのあと、内閣の大臣たち自身が辞職した。
 おそらく最も決定的だったのは、最上層の軍事指導者たちがこうNicholas二世を説得したことだ。ドゥーマが支配する新しい政府のみが『気分を鎮める』ことができ、『全国土に拡大する無政府状態』を止めることができる。今の状態は、軍の解体、戦争遂行の終焉、『極左〔extreme left〕分子による権力の掌握』(6)につながるだろう」、と。
 自分の将軍たちにまで反乱が及んでいる事態に直面し、Nicholas は裏切られたと感じた。だが、自分には選択の余地がないことを理解した。
 戦争を継続し、君主制を守ることを望んで、彼は3月2日に退位し、弟のMikhail を後継者に指名した。弟は妥協をより好むと考えられていたのだったが。
 Mikhail は皇位の継承を拒んだ。これが、300年続いたRomanov 王朝を劇的に終わらせ、ロシアを事実上の共和国にする、静かな意思表示だった。
 しかし、革命は始まりにすぎなかった。
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 (05) 1917年の残りの期間は、誰が権力を握り、維持するかに関する闘いが生んだ、一続きの危機だった。
 この闘いの大部分は、『二重権力』という独特の装置によって具体化された。『二重権力』とは、ペテログラードの労働者と兵士の代表者のソヴェト(評議会)と新しい臨時政府のあいだの、緊張した政治的関係を意味した。
 (前者は工場と連隊での選挙によって選出されるのだが、すみやかに労働者、兵士、農民の代表者の全国ソヴェトになった。そして、全国の地方ソヴェトによって、首都へと代議員が派遣された。後者はペテログラード・ソヴェトと協定をしたドゥーマの議員たちによって設立された。)
 しかしこれは、『二重権力』の最も主要な側面にすぎなかった。それは本当は、帝国全体の現象であり、国家のほとんど全ての政治的関係で具現化された。すなわち、軍隊では将校層と兵士委員会のあいだ、工場では経営側と労働者委員会のあいだ、村落では伝統的共同体と農民委員会のあいだ、学校では学校管理者と学生評議会(ソヴェト)のあいだ、の政治的関係。
 世代は、この物語の一部だ。つまり、委員会、これはソヴェト『階級』とも称されるが、若者で構成される傾向があり、その若者はしばしば前線から帰還した兵士たちだった。
 二重の権力は、実際にそうだったよりも単純なものに見えている。実際には、両者のあいだの協力や対立の程度は、国じゅうで、また時期によって変化したし、変更可能なものだった、というだけではない。帝国の広い部分で、地方の少数民族あるいはその他の集団を代表する団体は、以上のような政治的関係をさらに複雑にしていた。
 ——
 つづく。

2762/ChatGPTとロシア革命本。

 ChatGPT-4o というものを利用している。あるいは、利用できる状態にある。
 「Generative」=「生成」と言っても、蓄積している情報の「収集」・「検索」が前提になる。したがって、ある主題について、いったい何をどの程度に蓄積しているかによって、質問に対する回答の正確さ・適切さも異なる。
 一般に、自然科学系の、かつ各種「辞書」類に記述されているような情報については相当に正確だと思える。
 例えば、ヒトの「DN A」も「ゲノム」(ヒトゲノム)も(各個体で)「99.9パーセント同じ」というのは「正しい」と、瞬時に回答してくる。「0.1パーセントの違い」が重要な違いをもたらすとも、付記してくる。「エクソン」と「イントロン」の違いも知っている(但し、この二つが「遺伝子」を構成するとの説明は適切だったか?)。細胞分裂時に二倍化した「染色体」群が「赤道」上に整列して両極に引っ張られる場合の上下(または左右)は一方が父親由来でもう一方が母親由来なのかという素朴な確認的質問には、「否」とこれまた瞬時に回答してくる(どちらに由来かは偶然または「なりゆき」だ)。
 --------
 一方で、人文系・社会系問題または主題については、それこそ「収集」し「検索」対象としている情報の内容・範囲に依存してしまうので、正確なまたは適切な回答を期待するのはそもそも無理があるだろう。
 例えば、Leszek Kolakowski の「マルクス主義の主要潮流」の日本語翻訳書が出版されていない理由は何か、と問うてみても、想定または期待しているような回答は得られず、外国語著の日本語翻訳書がない事情一般に傾斜した回答しか出てこない。ChatGPTの情報が英米語中心でLeszek Kolakowski がポーランド人であることによるのかもしれないが、この人物がアメリカ連邦議会図書館が授与するKluge賞の第一回受賞者だったと知っているか(その情報を蓄積しているか)も疑わしい。
 なお、とくに日本での事情として<冷戦後にマルクス主義への関心が低下した>ことを理由の一つにしていたので、1970年代後半(英米語・ドイツ語翻訳書あり、フランス語の1-2巻翻訳書あり)に出版された上掲書にはあてはまらない(「的はずれ」)と再度書き送ったら、一部に「的はずれ」なことを書いて「お詫びします」と反応してきた。なんと、ChatGPT-4oと「会話」、「議論」ができるのだ。少なくとも<ヒマつぶし>には十分になるだろう。
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 ロシア革命に関する英米語文献で代表的なものは何か、邦訳書が存在していなくてよい、と質問してみたときの回答は興味深いものだった。
 ①Richard Pipes②Orlanndo Figes、の著書(大著)に加えて、③Mark D. SteinbergのThe Russian Revolution 1905-1921(2017)の三つだけが挙げられていた。
 ①と②は原書を所持していて、この欄に一部または相当部分の「試訳」を掲載したこともある。これらが英米語圏で代表的・標準的とされている書物であることに間違いないだろう。Orlanndo Figes の著は、"A Peoples Tragedy: The Russian Revolution: 1891-1924 "(1996)。
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 ③のMark D. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921(2017)を入手してみると(この本はいわゆる編年的な概説書ではない)、「1917」と題する章(第二部/第3章)の冒頭の最初の注記にこうある。
 「私の記述は1917年に関する多数の学術的文献による」、「それらの文献の多くは、注記で参照を示す」。
 「英語による、革命に関するとくに影響力のある概説書(general histories)には、つぎがある」。
 そのあとに著者だけが8名挙げられている。以下のとおり(たぶんABC順)。
 ①O. Figes、②Sheila Fitzpatrick、③Bruce Lincoln、④R. Pipes、⑤Alexander Rabinowitch、⑥Christpher Reed、⑦S. A. Smith、⑧Rex Wade
 ①O. Figes、④R. Pipes は上記。②Sheila Fitzpatrick の本(日本の新書2冊分くらいか)はたぶん全部の試訳をこの欄に掲載した(1931年頃の「大テロル」期まで扱う)。⑦S. A. Smith の著は1917年刊で、所持しているが一部しか読んでいない。あとの4名(4冊)は知らない。
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 具体的な著者名・文献名も興味深いが、日本と日本人にとって重要なことは、つぎのことだ。
 ChatGPT による三冊にせよ、Mark D. Steinberg によるこの本人以外の8名の著書にせよ、日本語翻訳書=邦訳書は、(おそらく)まったくない。
 山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007)は、ロシア革命に関する文献としてトロツキー・ロシア革命史(角川ほか/原著・1931)を挙げる。
 出口治明・教養が身につく最強の読書(PHP文庫、2018)は、100冊以上の本のうち、ロシア革命に関するものとして、ジョン·リード・世界をゆるがした十日間/上下(岩波文庫/原著・1919)を挙げる。
 上は若干の例にすぎないが、日本のロシア革命の歴史に関する翻訳書の出版状況は、英米語が通用する諸国に比べて、相当に異様、異常だと考えられる。
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 一部の例とはいえ、1919年や1931年に出版された本等の翻訳書しか挙げられないようでは、戦後あるいは1989-1991年以降の英米語通用諸国ではより定着しているだろう<ロシア革命>の具体的イメージが枯渇していてもやむを得ないだろう(なお、E. H. カーの本を山内は敢えて避けた旨を書いている)。一方で、1917年に資本主義からの離脱が始まったとか、レーニンは1921年の「ネップ」によって新しい社会主義への路線を確立したとかの、<日本共産党・「ロシア革命」観>が平然と語られているのもむろん異常・異様だ。
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2761/レフとスヴェータ31—第11章②。

 Orlando Figes, Just Send Me Word -A True Story of Love and Survival in the Gulag- (New York, London, 2012). の試訳のつづき。
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 第11章②。
 (06) レフは恩赦が「政治的」犯罪者へと拡大されることを望んだ。
 発電施設の技術者たちの中には、内務省から釈放申請をするように言われた者もいた。
 彼らはみな58条11号(反ソヴィエト組織への加入)にもとづく判決を受けていたのだが、これはレフの場合ほど重大でなかった。にもかかわらず、彼らに恩赦が与えられればレフも解放されるだろうという希望を抱かせるのに十分だった。
 彼は4月14日に、スヴェータにこう書き送った。
 「現地の警護官が間違いをしていたと分かった。
 恩赦の対象の拡大なんてないだろう。…。
 なんと残酷な手違いであることか!
 みんな希望で胸をいっぱいにし、家族たちも彼らの解放を期待していたというのに。」//
 --------
 (07) 受刑者の人数の減少によって、木材工場で働く労働者の数が徐々に少なくなっていった。
 材木を切って引き摺り出す収監者が満足にいなかったので、燃料や原材料の供給が劇的に低下した。
 1953年5月に収容所から輸送省へと移管されていた労働収容所当局は、ペチョラで新たに解放された収監者をそのまま雇用することで、人力の損失を埋め合わせようとした。
 受刑者の釈放を監理していた内務省の官僚たちは、いくつかの戦略を使った。
 釈放用書類を与えるのを拒み、鉄道切符を買う金を与えるのを拒んだ。また、どこへ行っても職を見つけられないと警告して、雇用労働者としてとどまり続けることができる誘引材料を提示した。
 彼らのうち何人かは、恩赦によって釈放された熟練工、職人、技術者の後継者となる訓練を受けた。
 この年の末まで、従前の受刑者たちは、運転手、大工、機械操作者、機械工および電気工として訓練を受けていた(レフは、発電施設での仕事を交替して行って、彼らの仕事の一部を行なうよう余儀なくされた。
 しかし、こうして努力してみても、木材工場の生産は急激に減少した。
 計画は達成されず。賃金や手当は減り、ほかの(同様の問題を抱えていた)労働収容施設でのよりよい条件を求めて、自由労働者たちは消え失せていった。
 レフは。こう書いた。
 「ここペチョラでは全体に減少した。とくに手荷物に古いレインコートをもつ者(すなわち従前の受刑者)は、どうすればよいか分からなかった。」(注50)
 (注50) レフとスヴェータは、雨に関係する言葉(例えば「傘」、「レインコート(Mackintosh)」)を強制労働収容所(Gulag)の暗号として用いていた。//
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 (08) 故郷に帰った新しい釈放者たちは、仕事を見つけるのにじつに苦労した。
 ソヴィエトの役人たちは一般に以前の受刑者を信頼していなかった。また、多くの雇用者たちは依然として、潜在的な問題惹起者で「人民の敵」だという疑念をもって彼らを判断し続けた。
 失業の問題は切実だったので、従前の受刑者の中には、あきらめて労働収容所に戻る者もいた。
 自力で何とかやっていくのを助けてくれる家族や友人がいない場合には、彼らに残された選択の余地はほとんどなかった。
 労働収容所は、自由なまたはそれに準じた労働者(賃金が払われるが区画を離れることは認められない)として仕事を確実に得ることのできる、唯一の場所だった。
 1953年の7月頃までに、100人以上の従前の受刑者が準自由労働者として木材工場に雇用されていた。
 1954年の末には、この人数は456人にまで増えた。
 多くは、工業区域の垣根のすぐ外側にある、以前の第一居留区の営舎で生活していた。
 彼らには一月あたり約200ルーブルが支払われた。これは、極北地帯へと自由労働者を呼び寄せるための「北方特別手当」を含まない、最低限の賃金だった。だが、労働収容所の管理機関に週に二度報告した場合にだけ、この手当を受け取った。
 このような労働者の一人は、Pavel Bannikov だった。レフと同じ営舎にいて、モスクワ地方で仕事を見つけられないで木材工場に戻ってきていた。
 レフはスヴェータにこう書いた。
 「彼はここを一時的な停留地と考えていて、この秋に再びよりよい場所を求めて出ていくことを計画している。
 彼は僕にモスクワの印象を語ったよ。記憶で飾られた細々としたことの思い出として、そして新しいものの描写物として。」//
 --------
 (09) Bannikov はスヴェータに会ったことがあった。
 スヴェータはペチョラから釈放されてモスクワへ来る多数の受刑者たちを宿泊させてやった。
 レフは彼らにスヴェータの住所を知らせ、彼女にはモスクワで彼らを助けてやってほしいと告げたものだ。
 6月12日に彼は書き送った。
 「愛しいSvetloe、きみにKonon Sidorovich〔Thachenko〕は、Vitaly Ivanovich Kuzora がきみの家を訪れると言っただろう。—そうでないとしても、僕がきっとそうした。
 そう、ここに彼はいる。彼はとてもきちんとしていて、穏やかでもある。
 僕には、モスクワの事態がどうなっていくのか分からない。
 彼には一晩か二晩の宿泊が必要かもしれない。
 とくに今の時点では、それがきみには不便なことだと分かっている。
 でも、そう長くは続かないだろう。もう一年か、せいぜいあと一年半のことだ。」
 レフには、判決で宣せられた服役期間があとまだ18ヶ月あった。そんなときに収容所からの見知らぬ人々を受け入れるのは、スヴェータには当惑と困惑が増大することに間違いなかった。
 スヴェータはレフと、二年間会っていなかった。これは、1946年に再会したあとでの、最も長い別離の期間だった。//
 ——
 つづく。

2760/レフとスヴェータ30—第11章①。

 Orlando Figes, Just Send Me Word -A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012). の試訳のつづき。
 第7章末まで終わっている。第8章〜第10章は、さしあたり割愛。 
 これは、Orlando Figes 作の「小説」ではない。
 第二次大戦が終わっていた1953年、レフ(Lev)は北極海に近いペチョラ(Pechora)の強制労働収容所にいた。スヴェータ(Svetlana)は、モスクワにいた。  
 --------------------------------------------- 
 第11章①。
 (01) スターリンは、1953年3月5日に死んだ。
 彼は脳発作に襲われ、5日間意識不明で横たわった後に死んだ。
 その病は、ソヴィエトの新聞では3月4日に報道された。
 レフは2日後、スヴェータに書き送った。
 「この新しい知らせを、少しも予期していなかった。
 このような場合、現代の医薬の重要性がきわめて明瞭になる。//
 重要な人々が病気になったとき、自然のなりゆきより少しでも長く人間の健康を維持することが不可能であることが、完全に明らかになる。」
 --------
 (02) スターリンの死は、3月6日に全国民に発表された。
 3日後の葬儀まで、彼の遺体は赤の広場近くのthe Hall of Columns に安置された。
 巨大な群衆が、敬意を示すべく訪れた。
 首都の中心部は、涙ぐむ送葬者で溢れた。彼らはソヴィエト同盟の全ての地域から、モスクワに旅してきていた。
 数百人が、押しつぶされて死んだ。
 スターリンを失ったことは、ソヴィエトの人々には感情的な衝撃だった。
 ほとんど30年近く—この国の歴史で最も精神的打撃を受けた時代—、人々はスターリンの影のもとで生きた。
 スターリンは、彼らには精神的な拠り所だった。—教師、ガイド、父親的保護者、国民的指導者で敵に対する救い主、正義と秩序の保証人(レフの叔母オルガは、何らかの不正があったとき、「いつもスターリンいる」と言ったものだった)。
 人々の悲しみは、彼の死を受けて感じざるをえない当惑についての自然な反応だった。スターリン体制のもとでの人々の体験とはほとんど関係なく。
 スターリンの犠牲者ですら、悲しみを感じた。//
 --------
 (03) レフとスヴェータは、他の者たちと同じく、3月6日にラジオでこのニュースを知った。
 大きな衝撃と昂奮の状態にあり、二人ともに、本当にどう感じたのかを語ることができなかった。
 レフは3月8日に、こう書いた。
 「スターリンの死を全く予期していなかったので、最初は本当のことだと信じるのが困難だった。
 そのときの感情は、戦争が始まった日のそれと同じだった。」
 重大な報せについて、レフはそれ以上、付け加えなかった。労働収容所に関する政策の変化が生じ、早期に自分が釈放されるのではないかと望んだに違いないけれども。
 スヴェータもまた、用心深かった。だが、この人生の転機となる可能性のあるラジオ放送があったことで、レフと結びついて生きてきたことの喜びを隠すことができなかった。
 3月11日に、レフにあてて書き送った。
 「モスクワで先週にあったようなことは、今までなかった。
 そして何度も思いました。ラジオが発明されて、人々が同じことを同じ時に聞けるのはなんと素晴らしいことか、と。
 新聞があるのも、よいことです。
 今までより頻繁に語りかけるつもりですが、感じていることを数語で明確に語ろうと考える必要はないのだから、今はしません。」//
 ---------
 (04) スターリンの死が明からさまな喜びでもって歓迎された一つの場所は、労働収容所や収容所入植地区だった。
 もちろん例外はあり、当局または情報提供者による監視が収監者たちの喜びの表現を抑えた収容所もあった。だが、一般的には、スターリンの死の報せは、歓喜の声の自然発生的な爆発でもって迎えられた。
 レフは、「誰一人、スターリンのために泣きはしなかった」と思い出す。
 収監者たちは疑いなく、スターリンは自分たちの惨めさの原因だ、と考えていた。そして、そうして安全だと分かったときは、恐がることなくスターリンに対する蔑みの言葉を発した。
 レフは、1952年10月以降の事態を思い出す。その10月、彼の営舎の仲間たちは、党中央委員会最高幹部会での選挙の結果について、ラジオ放送に耳を傾けた。
 候補者たちが獲得した投票数が次々と読み上げられ、それが終わった後でアナウンサーは言った。「Za Stalina !! Za Stalina !!」(「スターリン万歳 !! 」)。
 収監者のうち何人かは、その代わりに「Zastavili !! Zastavili !!」(「強制だ !!」)と唱え始めた。これは、選挙は不正だ、ということを意味した。
 誰もがこれに加わり、この冗句を愉しんだ。//
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 (05) 収監者たちの間では、スターリンの死によって釈放されるだろうと、一般に推測された。
 3月27日に政府は、5年以下の判決に服している受刑者の恩赦を発表した。これらは、経済的犯罪者とされた55歳以上の男性、50歳以上の女性および治療不可能の病気をもつ受刑者だった。ーつぎの数ヶ月間に、約100万の受刑者が釈放される見通しだった。
 木材工場では、1953年中に恩赦の対象になるのは、受刑者数のおよそ半分だった(1263名から627名へと減る)。
 釈放される者たちのほとんどは犯罪者だった。この者たちは暴れ回り、店舗から略奪し、家屋から強奪し、女性を強姦し、町中でテロルを繰り広げるまでになった。
 レフは〔1953年〕4月10日に、スヴェータにこう書き送った。
 「我々の仲間の何人かはもう外に出て、意のままにペチョラを徘徊している。
 彼らは、あらゆる機会を利用して、力ずくで盗んでいる。
 最悪の者たちは、自由気儘にやっている。
 髭を生やした見映えのよい、Makarovだ。…この人は武装強盗をして8年間服役した。
 Kolya Nazhinsky も、いなくなった。—この人は6キロの粥〔kasha〕を盗んで1947年にはここにすでに10年間いた。
 そして、去年に仲間の一人から300ルーブルを盗み、Nやその隣人から少しずつ金をくすねた。
 でもしかし、みんなはこの人の愚かさと彼に対する元々の判決の不公平さを憐れむばかりだ。この判決がなければ、彼は窃盗をしなかっただろうから。」//
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 第11章②((06)〜)へとつづく。 

2759/江崎道朗の「血筋」・「家系」観。

  江崎道朗はかつて、「日本会議専任研究員」という肩書きで月刊正論(産経新聞)に執筆していた。私がこの雑誌を読み始めた頃は、「評論家」になっていた。日本会議の専任研究員になる前は、日本会議の有力構成団体である日本青年協議会の月刊誌『祖国と青年』の編集長をしていた。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 この新書は秋月瑛二の<産経新聞的・保守>に対する不信を決定的なものにした記念碑的?著作だった。この書については多数回、すでに触れた(まだ指摘したいことはあったが、アホらしくなってやめた)。
 上の江崎書が相当に依拠していたのは、つぎだった。
 小田村寅二郎・昭和史に刻む我らが道統(日本教文社、1978)。
 小田村寅二郎(1919〜1999)は、「日本教文社」という出版元からある程度は推察されるだろうように、かつての<成長の家>関係者だった(この組織の現在の政治的主張はまた別のようだ)。
 江崎道朗が依拠する聖徳太子理解を小田村が戦前に執筆したのは戦前の<成長の家>の新聞か雑誌だった。
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  今回に再び述べたいのは、以上のことではない。
 江崎道朗の「血筋」・「血族」または「家系」に関する単純な感覚を、その小田村寅二郎への言及の仕方は示している。
 すなわち、江崎は、上の新書の中で少なくとも4回、繰り返して、つぎのように小田村を紹介または形容した。
 小田村は「吉田松陰の妹の曾孫」だった。
 一度だけならよいが、短い頁数の中に、小田村を形容する常套句のごとく、上の言葉が出てくる。
 これはやや異常であるとともに、「吉田松陰」の縁戚者であることをもって、小田村の評価を高めたいからだろう。そのような「血族」または「家系」の中に位置づけられる「きちんとした」人物だ、と言いたいのだろう。
 しかし、まず、「吉田松陰」を相当に高く評価している者に対してのみ通用する言及の仕方だ。この前提を共有しない者にとっては、何の意味もない。
 ついで、「吉田松陰の妹の曾孫」なのだから、松陰の直系の子孫ではない。妹の三世の孫というだけだ。実際のことだとしても、松陰は小田村の曾祖母の兄なので、親等数で言うと5親等離れている。
 だが、そもそもの疑問は、いったいなぜ、曾祖母の兄が松陰だということが小田村寅二郎の評価と関係があるのか、だ。
 ある人物の評価を過去の5親等離れた者の評価と関係づける、という発想自体が、私には異様だと感じられる
 かつまた、きわめて危険だと思われる。
 吉田松陰は当時の犯罪者であり刑死者でもあったが、松陰に限らずとも、一般論としてつぎのように言い得るだろう。
 5親等離れた者の中に犯罪者がいる(あるいは死刑になった者がいる)ことをもって、その旨を探索して、その人物を非難する、貶める、ということは許されるべきではない。江崎道朗の発想と叙述は、このような思考方法、人物評価方法の容認へと簡単につながるものだ。
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  江崎道朗の影響を受けた者に、つぎの人物がいる。
 竹内洋(1942〜)。京都大学名誉教授。
 竹内洋は<知識人と大衆>主題とする書物を多数刊行している。不思議だとかねて思ってきたのは、竹内は自分が「知識人」の中に含まれることをおそらく全く疑うことなく、叙述していることだ。新潟県佐渡から京都大学に入ったことだけではまだ「知識人」と言えないとすると、(とくに文科系の)大学教員であることをもって、「知識人」だと自己認識しているのだろうか。
 この竹内洋は、上記の江崎道朗書の「書評」を産経新聞に掲載した(2017年9月)。
 「伝統にさおさし、戦争を短期決戦で終わらせようとした小田村寅二郎(吉田松陰の縁戚)などの思想と行動」を著者・江崎は「保守本流」の「保守自由主義」と称する。この語はすでにあったが、これを「左翼全体主義と右翼全体主義の中で位置づけたところが著者の功績」。
 このように江崎書の「功績」を認めるのも噴飯ものだが、ここで注目すべきは、つぎだ。
 「小田村寅二郎(吉田松陰の縁戚)」
 竹内洋は、さして長文ではない文章の中で、わざわざ、小田村は「吉田松蔭の縁戚」者だと書いているのだ。5親等離れた「縁戚」者なのだが。
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  「血族」、「家系」あるいは「縁戚」という意識・感覚というのは、なかなかすさまじいものだ。
 竹内洋は、江崎道朗もだが、以下の事例をどう感じるのだろうか。他にも、多様な事例があるものと思われる。なお、「縁戚者」の「自殺」の動機を、私は正確に知っているのではない。
 ①1972年2月、<浅間山事件>を起こした連合赤軍の活動家の一人の「父親」が—直近の「縁戚」者だ—、その一人の逮捕・拘束の前に、滋賀県の自宅で自殺した。
 ②2021年6月、<和歌山カレー毒殺事件>の犯人として死刑判決を受けて拘禁中の者の「長女」が—直近の「縁戚」者だ—、その娘とともに大阪湾に飛び降りて自殺した。
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2758/遺伝と「優生」—2024年2月·日本精神神経学会声明。

 今年2024年の2月、日本精神神経学会は、会長名でつぎの「声明」を発表した。同学会Website より引用。「」をつけない。
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 優生保護法について 
 2024年2月1日
 公益社団法人 日本精神神経学会
 理事長 三村 將
 1948年に成立した優生保護法は、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」ことを目的とし、当時の優生学・遺伝学の知識の中で遺伝性とされた精神障害・知的障害・神経疾患・身体障害を有する人を、優生手術(強制不妊手術)の対象とし、48年間存続しました。しかし日本精神神経学会(以下、本学会)は、これまで優生法制に対して、政府に送付した「優生保護法に関する意見」(1992年)を除き、公式に意見を表明したことがありませんでした。このたび本学会は、法委員会において、優生保護法下における精神科医療及び精神科医の果たした役割を明らかにし、本学会の将来への示唆を得ることを目的として、数年にわたる調査を行いましたので、ここに報告します。 
 詳細な調査結果は報告書にありますが、自治体によって違いがあるものの、優生保護法成立からほぼ10年にわたり、行政主導で強制不妊手術の申請と承認に関わる強固なシステムが作り出されました。人口が急増し、生活が窮乏するこの時代において、行政と優生保護審査会が一体となって優生保護法を運用し、多数の強制不妊手術という犠牲を生みました。申請者である精神科医の肉声は残されていませんが、国家施策を前にした傍観の中で、無関心・無批判のまま、与えられた申請者としての実務を果たしてきました。また、精神科医も加わった優生保護審査会は、申請システムの実態を知った上で大部分の申請を承認しており、申請者以上に重い責任があります。
 本学会は強制不妊手術の問題が指摘された1970年代に至っても公式に意見を表明することもなく、不作為のまま優生保護法は存続し、被害者を生み続けることにつながりました。積極的であろうが消極的であろうが、強制不妊手術を受けた人々に取り返しのつかない傷を負わせた歴史的事実から目を逸らすことは許されません。
 ここに、精神科医療に責任を持つ学会として、強制不妊手術を受けた人々の生と人権を損ねたことを被害者の方々に謝罪いたします。
 優生保護法を過去のこととしてすますことはできません。本学会は、この歴史に学び、再び同じことが繰り返されないよう、精神医学と社会の関係を深く自省し、常に自らの問いとしていかなければなりません。さらに、本学会の使命として、現在もなお存在する精神障害や知的障害への差別、制度上の不合理を改革するため、力を尽くすことを誓います。
 ——
 以上。
 この声明は、「優生保護法」にもとづく行政執行に加担し、「強制不妊手術」を行うなどの「人権」侵害を行なったことを、「謝罪」している。
 学会自体が加担・協力したのではないから、いかに会員医師が関与していたとしても学会自体が「謝罪」するとは稀有なことだろう。
 それに、「優生保護」に関係するのは〈精神神経〉医学のみならず、「遺伝」性疾患に関係する全ての医学分野だろう。日本に「遺伝学」に関係する学会も他にあるはずだが、他の「学会」がこのような声明を出したとは、聞いたことがない。
 ともあれ、この法律(現在は廃止)によると「申請者」は医師とされ、その申請の適否の決定には(都道府県単位での)優生保護審査会が関与するところ、その委員には精神神経医を含む医師が就いていた、という。
 --------
 いくつかの感想が生じる。
 第一は、医学・医師と行政・社会の関係だ。
 医師はそれぞれの分野の専門家であるかもしれないが、個別の案件にかかる審議会・審査会の委員として活動するとき、そのつどの案件にかかる結論的判断を、その案件を所管する行政部局・その担当公務員にほとんど委ねてしまうことがあるのではないか。行政主導であり、医師から言えば行政追随だ。
 例えば、「保護」=手当支給の要否に関する特別児童扶養手当法上の認定にも、医師(1名でよい)の判断が必要だが、これが自立して、行政側の事前判断に影響を受けないで行われているとは言えないのではないか、という感想を持ったことがある。この例の場合は、「遺伝」ではなく、心身全体の諸疾患や発育不全に関する医学的判断がかかわっている。
 以上のことは反面では、「優生保護法」の場合は、厚生省の所管部局の歴代の官僚たちの責任の大きさだ。現在の大臣や首相が詫びて済むものではない。
 第二は、「遺伝」に関する医学的・科学的根拠があいまいなままで行われた「優生保護」なるものの恐ろしさだ。
 ある疾患・症状・身体状況が「遺伝」性のものであるか否かは、今日でも明瞭なものはほとんどないと思われる(例外として、母親由来の血友病があるとされる)。
 精神神経系の「統合失調症」についても、「遺伝」の関与度は明確でない。参照文献を示さないが、一卵性双生児のうちの一人が「統合失調症」を発症した場合、遺伝子は同じはずの双生児のもう一人も発症する確率は約50パーセントだとされる。高い数字ではあるが、しかし、同じ遺伝子をもつからつねに同じ(精神的)疾患を発症するというのでは全くなく、半分は「生後の環境」によることをこの数字は示しているだろう。
 なお、「生まれ」=遺伝か「育ち」=環境か、という一般的問題にこれもかかわるが、はっきりしているのは、どの点についても<単純なことは言えない>ということだ。これを、生物学的・「生命科学」的には、両親の遺伝子・染色体から「受精卵」という細胞が形成されるまでの複雑な過程も示している、と考えられる。
 第三は、生物学・遺伝学等々の正確な知見をふまえないで行われた政治・行政施策の、おぞましい歴史。
 ナツィス・ドイツ、そしてスターリン・ボルシェヴィズム。
 S·ムカジーによると、前者によるホロコーストは「遺伝の万能視」によって生まれた。<汚れた血>の除去による<民族の浄化>。なお、ユダヤ人に対してのみならず、精神神経面も含めた「弱者」に対しても、「安楽死」政策が進められた。
 S·ムカジーによると、後者は「遺伝の無視」によって生まれた。 すなわち、「遺伝」と関係なく、<一世代で人間を(イデオロギー面も含めて)改造することができる>、という非科学的な信念。なお、これを助長したのは、遺伝に関するT・ルイセンコの学説だった。
 ——

2757/安倍晋三銃撃事件2年。

 安倍晋三元首相は2022年7月8日、近鉄·西大寺駅北口で選挙応援演説中に、奈良市在住の成人男性・山上徹也によって後ろから銃撃され、死亡した。救急車で運ばれる途中ですでに「心肺停止」の状態だったとされるから、ヘリコプターに乗せられ奈良県立医大病院に着くまでにすでに、回復・救命の可能性はゼロに近かったように推測される。安倍晋三自身は、「死」の予感・意識もなく、早々に「昏睡」→「意識喪失」の状態だったのだろう。
 この銃撃→殺害を許した理由として、政党(応援を受ける候補者の事務所・自民党奈良県蓮・自民党本部)による「私的」警護と地元警察=奈良県警察本部のよる「国家的・公的」警護に不備があったことは、ほとんど明らかなこととして、直後から指摘されてきた。
 銃撃者・山上徹也(起訴されている成人なので匿名化の必要はない)の、カバンを抱えてのつぎの行動を、誰も、全ての警護関係者が、見ていなかった。信じがたいことだった。
 ①歩道内を移動して、車道との間のガードレールを乗り越えて車道部分に入ったとき
 ②車道内を移動して安倍元首相の背後で止まり、安倍晋三の方に目を向けたとき
 ③安倍晋三の背後からさらに近づき、射撃の態勢をとったとき。なお、「射撃」は「砲撃」だったかもしれない。その射撃・砲撃の準備(ライフル状の武器の組み立て)は②と③のいずれかのとき、またはこれらのあいだに行われたはずだ。
 これら①・②・③のいずれかのときに警備関係者の一人でも気づき、例えば、「おい、何をしてるんだ」、「止まれ」、「やめよ」等と叫んだり、さらに銃撃犯・山上に近づく、突進するということをしていれば、射撃・砲撃は行われなかった、また行われても安倍晋三に命中することはなかった、と思われる。
 再び書くが、信じがたい、警護の<杜撰さ>だった。
 この不備がなければ、安倍の背後で不審な挙動をしている者がいることを誰かが察知して何らかの反応をしていれば、安倍晋三の年齢からして、彼は現在でも生きている可能性がすこぶる高いだろう。
 --------
 政治家、安倍晋三に限らず、人は突然に死ぬことがある、ということを強く印象づけた事件だった。
 加えて、直後に<気味悪気く>感じたこともあった。
 第一は、当時の奈良県警本部長・鬼塚友章の、記者・報道関係者を前にしてのつぎの言葉だ。むろん、具体的内容は別として<警備に不備があったこと>は認めたうえでのものだ。
 <私の警察官人生で、最大の痛恨事だ(だった)>。
 具体的な警備体制の不備を反省して語るならばよい。
 しかし、銃撃・砲撃を許し元首相・安倍晋三を死亡させたという事実の重みの前で、なぜ、「個人的な感慨」、「長い警察官人生での位置づけ」を、のうのうと?あるいはのんびりと?、語る、あるいは吐露する、そういうことができたのか。どこから、そういう精神的余裕が生じたのだろう。
 たまたま在任中で、実質的・具体的には、この人自身には大きな過失はなかったかもしれない。だがむろん、立場、組織の長としての「責任」はある。在任中で「運が悪かった」というのが、奥底の「本音」だったかもしれない。そのうえでしかし、どういうふうに(形の上で)<責任をとることを示す>かに「思い悩んだ」のだろう(結局、辞職した)。
 --------
 第二。逮捕・勾留中だったのか、起訴後だったのか記憶していないが、殺害犯・山上に対して、つぎの運動が始まった、とされる。動機等についての非公式の情報しか伝えられいないなかで、あまりにも早すぎる。そして、気味が悪かった。
 減刑運動
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2756/読書メモ—2024年7月上旬。

 読書メモ、2024年2月以降の読書の一部。
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 1 高橋祥子・ゲノム解析は「私」の世界をどう変えるか—生命科学のテクノロジーによって生まれうる未来(ディスカヴァー21、2017)。
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 2 辻田真佐憲・ふしぎな君が代(幻冬社新書、2015)。
 記憶に頼る。この書によると、歌詞は別として、旋律は明治新政府のもとで作られた。陸軍音楽隊(外国々賓の国歌演奏担当)、文部省、外務省のいずれか(の誰か)が伝統的音階で作曲したものを、日本にいたドイツ人音楽家が「採譜」=楽譜化した(きっと〈十二平均律〉による)。「日本古謡」というのは厳密には正確でない。
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 3 仁藤敦史・女帝の世紀—皇位継承と政争(角川選書、2006)。
 「本書の目的の一つは、明治以来、女帝否認論の主要な根拠とされているこうした『男系主義は日本古来の伝統』あるいは『日本における女帝の即位は特殊』という通説的見解を、古代史の立場から再検討することにある」。
 この書のユニークさは、天智以降の皇位継承について、即位時の宣命の字句をふまえて、<男性天皇の妻=女性天皇の男子への皇位継承>という視点を提示していることだろう。前者には「見なし」又は「擬制」も含まれる。
 以下は秋月において修正を加えたもので、原著どおりではない。*は女性。女性を挟むという点では(現実化しなかったが)、光仁を「入り婿」としての、聖武—井上内親王—他戸皇子もこれに該当する。
 天武—持統*—草壁皇子—元明*—文武—「元正」*—聖武—「光明子」*—「淳仁」—称徳*。
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 つぎはまだ一部のみ。
 4 斎藤成也・日本人の源流—核DNA解析でたどる(河出書房新社、2018)。
 西尾幹二・国民の歴史(1999)の第三章「世界最古の縄文土器文明」の特徴は、単純に<現代日本人の祖先(原日本人)は縄文時代の日本列島人(縄文人)だ>という前提に立つことにある。
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ギャラリー
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