Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
「第18章・赤色テロル」のつづき。
————
第十一節/ボルシェヴィキによる強制収容所の創設②。
(05) しかしながら、1918年には強制収容所はほとんど建設されず、設置されたものは諸州のチェカまたは軍事司令部によって主導された、と思われる。
強制収容所の建設が本格的に始まったのは1919年の春で、主導したのは、Dzerzhinskii だった。
レーニンは、強制収容所が自分の名前と結びつけられるのを好まなかった。これを設立して構造や活動を定める諸布令は、人民委員会議の名によってではなく、ソヴェト中央執行委員会とその議長のSverdlov の名で発せられた。
これら諸布令は、チェカの再構成に関する1919年2月17日のDzerzhinskii の報告書の中に含まれていた諸勧告を実施した。
Dzerzhinskii は、治安妨害と闘うための現存の司法的手段は十分ではない、と主張した。
「法廷が判決を下すこととともに、行政的な判決の言い渡し—つまり強制収容所—を保持することが必要だ。
今日でも、拘置(under arrest)されている者の労働が公的な労働全体の中で役立っているとは、とうてい言い難い。だから私は、拘置されている者の労働を利用するために強制収容所を保持するよう勧告する。また、職業をもたず生活している者や強制がなければ労働することができない者についても。
あるいは、ソヴィエトの諸組織に関して言えば、このような制裁の措置は、労働について無関心な態度の者、怠惰な者、遅い者、等々に適用されるべきだ。
このような措置をとれば、我々自身の労働者をも引き上げることができるはずだ。」(注127)
Dzerzhinskii、カーメネフ、およびスターリン(この布令の共同起草者)は、収容所を、「労働の学校」と労働の貯留庫(pool)を結合させたものと考えた。
「全ロシア非常委員会[チェカ]は、強制収容所に限定する権能を付与された。全ロシア中央執行委員会により承認された、強制収容所への収監の規則に関する厳密な指示によって導かれる。」(注127)
明確でない理由により、1922年およびその後、「強制収容所」(concentration camps)という用語は、「強制労働収容所」(camps of forced labor)に変更された。
--------
(06) 1919年4月11日、CEC は、収容所の組織に関する「決定」を発した。これは、内務人民委員部—長は今やDzerzhinskii—の権威のもとで、強制労働収容所の網(network)の設置を定めた。
「以下の個人または一定範疇の個人たちは、強制労働収容所に拘置される。行政諸機関、チェカ、革命審判審判所、人民法廷および布令や指令で権限を与えられている他のソヴェト機関が決定した者。」(注129)
--------
(07) 画期をなすこの布令の若干の特徴について、注記が必要だ。
1919年に装置化されたソヴィエトの強制収容所は、法廷と行政機関のいずれかによって判決を受けた、あらゆる種類の望ましくない者たちを監禁しておくための場所だと意図されていた。
監禁される者の中には、個人だけではなく、「一定範疇の個人たち」—すなわち、全ての階級—も含まれていた。
Dzerzhinskii は、「ブルジョアジー」のための特別強制収容所が設立されるべきだと、ある箇所で提案した。
強制的に隔離されている被収容者たちは、ソヴィエトの行政部や経済部署が賃金を支払わないで用いることのできる奴隷労働の貯留庫になっていた。
収容所の網状機構は、内務人民委員部によって、当初は収容所の中央管理機関を通じて、のちには一般にGulak として知られる中央収容所管理機構(Main Camp Administration、Glavnoe Upravlenie Lageriami)を通じて、運営された。
ここで、原理としてではなく実務においても、スターリンの強制収容所帝国を感じ取ることができる。
スターリンの強制収容所は、レーニンのそれと、規模についてだけ異なっていた。
--------
(08) 強制収容所の設立を承認したCEC の諸決議は、収容所の活動を指導する詳細な指針を必要とした。
1919年5月12日に発せられた布令は、細かい官僚的用語法を用いて、収容所の基本構成を定めた。どのように組織されるべきか、被収容者の義務と想定上の権利は何か。
この布令は、全ての州都である都市に対して、300人またはそれ以上を収容できる強制労働収容所の建設を命じた。
ソヴィエト・ロシアには(内戦の状況によるが)約38の州があったので、この規定は、最少で計11,400人の施設を想定していた。
しかし、この数字は大きすぎた。布令は地区の首都にも強制収容所を建築する権限を認めており、こちらの数字は数百に達したからだ。
収容所を組織する責任は、チェカが負った。建設されると、収容所を管理する権限は、地方ソヴェトに移ることとされていた。
この条項は、ボルシェヴィキによる立法の一つで、ソヴェトは「最高」(sovereign)機関だという神話を維持することを前提にしていた。
そして、実際には、機能しなかった。ソヴィエト・ロシアにある収容所の「総合的管理」の責任が、内務人民委員部内に新しく設置された強制労働局(Department of Forced Labor、Otdel Prinuditel’nykh Rabot)へと移されたからだ。そして、既述のとおり、内務人民委員部の長(人民委員)は、チェカの長官と同じ人物だった。
--------
(09) ロシアの政府には、受刑者の労働を利用するという古くからの伝統があった。「国家の経済それ自体の中で強制労働の利用が、ロシアの歴史ほどに大きい役割を果たした国はなかった。」(注131)
ボルシェヴィキは、この伝統を復活させた。
ソヴィエトの強制収容所の拘禁者は、1919年の最初から、つねに、拘禁施設の内部か外部で肉体労働をしなければならなかった。
指示書は、こう定めていた。「収容所に到着するとただちに、全員が、仕事を割り当てられ、滞在中はずっと肉体労働に従事するものとする」。
収容所当局が拘禁者の労働を完全に利用するのを促すために、また政府の財政負担を軽減させるためにも、各収容所は財政的に自立して運営していくことが、要求されていた。
「収容所とその管理機構を運営する費用は、被収容者が定員いっぱいの場合には、被収容者の労働によって賄う必要があった。
赤字の責任は、別の指令書が定めた規則に従って、管理者と被収容者に生じることになる。」(脚注5)
----
(脚注5) したがって、別の権威が行なったように、ソヴィエトの強制収容所はもともとは民衆をテロルにかけることに役立ったが、1927年にスターリンのもとでようやく経済的な重要性をもった、と主張するのは、正しくない。実際に、制裁的労働で元を取る、さらには国家の収入とするという実務は、帝政時代に遡る。かくして1886年に内務省は、重労働施設の管理者に対して、受刑者の労働が利益を生むことを確かめよ、と指示した。R. Pipes, Russia under the Old Regime, p.310.
————
③へとつづく。
「第18章・赤色テロル」のつづき。
————
第十一節/ボルシェヴィキによる強制収容所の創設②。
(05) しかしながら、1918年には強制収容所はほとんど建設されず、設置されたものは諸州のチェカまたは軍事司令部によって主導された、と思われる。
強制収容所の建設が本格的に始まったのは1919年の春で、主導したのは、Dzerzhinskii だった。
レーニンは、強制収容所が自分の名前と結びつけられるのを好まなかった。これを設立して構造や活動を定める諸布令は、人民委員会議の名によってではなく、ソヴェト中央執行委員会とその議長のSverdlov の名で発せられた。
これら諸布令は、チェカの再構成に関する1919年2月17日のDzerzhinskii の報告書の中に含まれていた諸勧告を実施した。
Dzerzhinskii は、治安妨害と闘うための現存の司法的手段は十分ではない、と主張した。
「法廷が判決を下すこととともに、行政的な判決の言い渡し—つまり強制収容所—を保持することが必要だ。
今日でも、拘置(under arrest)されている者の労働が公的な労働全体の中で役立っているとは、とうてい言い難い。だから私は、拘置されている者の労働を利用するために強制収容所を保持するよう勧告する。また、職業をもたず生活している者や強制がなければ労働することができない者についても。
あるいは、ソヴィエトの諸組織に関して言えば、このような制裁の措置は、労働について無関心な態度の者、怠惰な者、遅い者、等々に適用されるべきだ。
このような措置をとれば、我々自身の労働者をも引き上げることができるはずだ。」(注127)
Dzerzhinskii、カーメネフ、およびスターリン(この布令の共同起草者)は、収容所を、「労働の学校」と労働の貯留庫(pool)を結合させたものと考えた。
「全ロシア非常委員会[チェカ]は、強制収容所に限定する権能を付与された。全ロシア中央執行委員会により承認された、強制収容所への収監の規則に関する厳密な指示によって導かれる。」(注127)
明確でない理由により、1922年およびその後、「強制収容所」(concentration camps)という用語は、「強制労働収容所」(camps of forced labor)に変更された。
--------
(06) 1919年4月11日、CEC は、収容所の組織に関する「決定」を発した。これは、内務人民委員部—長は今やDzerzhinskii—の権威のもとで、強制労働収容所の網(network)の設置を定めた。
「以下の個人または一定範疇の個人たちは、強制労働収容所に拘置される。行政諸機関、チェカ、革命審判審判所、人民法廷および布令や指令で権限を与えられている他のソヴェト機関が決定した者。」(注129)
--------
(07) 画期をなすこの布令の若干の特徴について、注記が必要だ。
1919年に装置化されたソヴィエトの強制収容所は、法廷と行政機関のいずれかによって判決を受けた、あらゆる種類の望ましくない者たちを監禁しておくための場所だと意図されていた。
監禁される者の中には、個人だけではなく、「一定範疇の個人たち」—すなわち、全ての階級—も含まれていた。
Dzerzhinskii は、「ブルジョアジー」のための特別強制収容所が設立されるべきだと、ある箇所で提案した。
強制的に隔離されている被収容者たちは、ソヴィエトの行政部や経済部署が賃金を支払わないで用いることのできる奴隷労働の貯留庫になっていた。
収容所の網状機構は、内務人民委員部によって、当初は収容所の中央管理機関を通じて、のちには一般にGulak として知られる中央収容所管理機構(Main Camp Administration、Glavnoe Upravlenie Lageriami)を通じて、運営された。
ここで、原理としてではなく実務においても、スターリンの強制収容所帝国を感じ取ることができる。
スターリンの強制収容所は、レーニンのそれと、規模についてだけ異なっていた。
--------
(08) 強制収容所の設立を承認したCEC の諸決議は、収容所の活動を指導する詳細な指針を必要とした。
1919年5月12日に発せられた布令は、細かい官僚的用語法を用いて、収容所の基本構成を定めた。どのように組織されるべきか、被収容者の義務と想定上の権利は何か。
この布令は、全ての州都である都市に対して、300人またはそれ以上を収容できる強制労働収容所の建設を命じた。
ソヴィエト・ロシアには(内戦の状況によるが)約38の州があったので、この規定は、最少で計11,400人の施設を想定していた。
しかし、この数字は大きすぎた。布令は地区の首都にも強制収容所を建築する権限を認めており、こちらの数字は数百に達したからだ。
収容所を組織する責任は、チェカが負った。建設されると、収容所を管理する権限は、地方ソヴェトに移ることとされていた。
この条項は、ボルシェヴィキによる立法の一つで、ソヴェトは「最高」(sovereign)機関だという神話を維持することを前提にしていた。
そして、実際には、機能しなかった。ソヴィエト・ロシアにある収容所の「総合的管理」の責任が、内務人民委員部内に新しく設置された強制労働局(Department of Forced Labor、Otdel Prinuditel’nykh Rabot)へと移されたからだ。そして、既述のとおり、内務人民委員部の長(人民委員)は、チェカの長官と同じ人物だった。
--------
(09) ロシアの政府には、受刑者の労働を利用するという古くからの伝統があった。「国家の経済それ自体の中で強制労働の利用が、ロシアの歴史ほどに大きい役割を果たした国はなかった。」(注131)
ボルシェヴィキは、この伝統を復活させた。
ソヴィエトの強制収容所の拘禁者は、1919年の最初から、つねに、拘禁施設の内部か外部で肉体労働をしなければならなかった。
指示書は、こう定めていた。「収容所に到着するとただちに、全員が、仕事を割り当てられ、滞在中はずっと肉体労働に従事するものとする」。
収容所当局が拘禁者の労働を完全に利用するのを促すために、また政府の財政負担を軽減させるためにも、各収容所は財政的に自立して運営していくことが、要求されていた。
「収容所とその管理機構を運営する費用は、被収容者が定員いっぱいの場合には、被収容者の労働によって賄う必要があった。
赤字の責任は、別の指令書が定めた規則に従って、管理者と被収容者に生じることになる。」(脚注5)
----
(脚注5) したがって、別の権威が行なったように、ソヴィエトの強制収容所はもともとは民衆をテロルにかけることに役立ったが、1927年にスターリンのもとでようやく経済的な重要性をもった、と主張するのは、正しくない。実際に、制裁的労働で元を取る、さらには国家の収入とするという実務は、帝政時代に遡る。かくして1886年に内務省は、重労働施設の管理者に対して、受刑者の労働が利益を生むことを確かめよ、と指示した。R. Pipes, Russia under the Old Regime, p.310.
————
③へとつづく。



























































