L.コワコフスキ,マルクス主義の主要潮流17章·ボルシェヴィキ運動⑨。
第四節/ボグダノフとロシアの経験批判論①。
(01) ロシアの主要な経験批判論者は、ボルシェヴィキのボグダノフ(Bogdanov)、ルナチャルスキ(Lunacharsky)、Bazarov だった。
しかしながら、彼らの哲学には、特殊にボルシェヴィキ的なものはない。だが、彼らは、自分たちの政治的立場と哲学的立場は緊密に結びついている、と信じた。
同じことは、メンシェヴィキのYushkevich やValentinov にも、エスエルのViktor Chernov にも、当てはまる。
彼らはみな、経験と実践的な政治の全体を包括する、「一元論」(monistic)的哲学を、探究した。しかし、エンゲルスやPlekhanov とは異なる方法によってだった。彼らには、この二人の方法は、単純素朴(naive)で、恣意的で、諸観念をどう分析しても支持できないものがあるように思えた。
--------
(02) マルクス主義的経験批判論にもとづく文献は膨大にあり、まだ十分には研究されていない。
ボグダノフは、哲学者と政治家のいずれとしても、確実に、最も重要な人物だった。
彼は職業上は医師だが、心理学、哲学、経済学に熟達した多様な知識をもつ人物で、小説家でもあり、最も活動的なボルシェヴィキの組織者かつイデオロギストの一人だった。
彼は、その仕事の全てにおいて、あらゆる問題に至る鍵を含み、単一の原理によって全てを説明する、そのような一元論の哲学を、きわめて熱心に探求した。
--------
(03) Aleksander Aleksandrovich Bogdanov(本当の名はMalinovsky)は、1873年にTula で生まれた。
モスクワで自然科学を、1899年までKharkov で医学を、学んだ。
1896年まで人民主義者(populist)で、その年に、Bazarov(Rudnev)と一緒に、社会民主主義者になった。
1897年、経済学に関するマルクス主義の手引書を出版した。広く知られたこの本について、レーニンは、きわめて好意的な書評を執筆した。
この書物は、質疑応答形式で全ての経済制度を概述するもので、経済史の伝統的な図式(schemata)を生み出すのに貢献した。そして、マルクス=レーニン主義の重要部分になった。
1899年、Wilhelm Ostwald の「活力主義」(energism)に魅了されて、〈自然に関する歴史的見方の基本的要素〉を出版した。この書物は、「活力」(energy)という観念にもとづく一元論的世界観を構築しようとするものだった。
この書物は、彼がマルクス主義の礎石だと考える、相対主義の傾向を提示するものだった。
すなわち、全ての真実(truth)は、人間の生物的および社会的な状況を表現するという意味で、歴史的だ。真実とは、実践的な適用可能性の問題であって、客観的な有効性の問題ではない。
のちに、つぎのような見方に変わった。活力主義は世界を観察する一定の方法にすぎず、世界を構成する「素材」(stuff)を説明しない。そのゆえに、心の(mind’s)一元論の願望を満足させることができない。
--------
(04) ボグダノフは、1899年にモスクワで逮捕され、流刑の判決を受けた。そして、Kaliga と1903年までは Vologda に住んだ。
この期間に、Berdyayev およびルナチャルスキその他の社会民主主義知識人たちと出会った。
彼は、〈現実主義的世界観概要〉と題した、〈観念論の諸問題〉に対する回答である共著の、主導者かつ執筆者だった。
その他の執筆者は、ルナチャルスキ、Vladimir Fritche、Bazarov、Suvorov だった。
1904-1906年に、三巻で成る〈最高傑作、経験批判論〉を出版した。これは、Mach とAvenarius の認識論を歴史的唯物論に適合させる試みだった。
-------
(05) ボグダノフは、1903年以降は、社会民主党の一員だった。
レーニンは、ボグダノフの哲学に関する異端的考えにもかかわらず、数年間は、彼との政治的な提携を維持した。
レーニンは、Lyubov Akselrod に対して、経験批判論に反対する論考を書くよう激励した。だが、哲学的逸脱主義者との間の争論に自分は参加せず、ドゥーマに関する政策に対しても反対した。
社会民主党の分裂のあと、ボグダノフはペテルブルクでのレーニンの第一の副官だった。1906年から、そこに統合組織を再建するために働いた。そして、中央委員会の3人のボルシェヴィキの一員として、フィンランドのレーニンに加わった。
彼は、社会民主党がドゥーマの選挙に参加することに反対した。のちに、「最後通告派」(ultimatist)になった。
ボルシェヴィキの左翼派は、堅固さはさまざまだが、法的手段を拒否し、1907年以降の直接的な革命政策の継続を、強く主張した。この者たちはみな、多かれ少なかれ、経験批判論哲学の支持者だった。
ボグダノフとその友人たちは、1909年にボルシェヴィキ中央派から、そしてのちに中央委員会から、追放(expell)された。
そのグループは、しばらくのあいだ、自分たちの雑誌を発行した。そして、レーニンが不安に感じたことに非正統派に共感を抱いていたGorky の財政的援助を受けて、革命的ボルシェヴィズムの再生のための拠点として、Capri 島に党学校を設立した。
この学校は、1909年の数ヶ月のあいだ、また1910-11年には Bologna 〔イタリア〕で再び、運営された。
学校の教師には、ボグダノフの他に、ルナチャルスキ、Aleksinsky、将来にOgpu の長となるMenzhinsky らがおり、トロツキーも、時おり加わった。
レーニンはこの学校で講師をするよう招かれたが、拒否した。
ボグダノフのグループは、1911年に解散し、イタリアには二度と戻らないつもりで、ロシアに帰国した。
ボグダノフは、哲学的著作を発表しつづけた。そして、彼の一元論的見地を表現するための、いっそう一般化した定式を追求した。
他の非正統派(deviationists)の仲間と一緒に、つぎの二冊の共著を刊行した。
第一。〈マルクス主義哲学に関する小論集〉(1908年。ボグダノフ、Bazarov、Berman、ルナチャルスキ、Yushkevich、Suvorov、Helfand )。
第二。〈集団主義哲学に関する小論集〉(1909年。ボグダノフ、Gorky、ルナチャルスキ、Bazarov)。
彼自身の著作には、とくに、つぎがあった。
第一。〈物神崇拝(Fetishism)の衰亡〉(1910年)。一般的用語としての〈物神崇拝〉を、認識上の社会的現象として分析した。
第二。〈生きている経験の哲学〉(1913年)。経験批判論に関する有名な説明書だった。
第三。〈組織構造論(Tectology)、一つの普遍的組織科学〉(1913年、第二巻,1917年)。
上の最後のものは、哲学、社会学、物理学、工学を包括する一般的科学の基礎を構築する試みだった。
これは、人間行動学(praxeology)の先駆的著作だったと見なされてよい。
彼は、加えて、頻繁に再版された経済学の手引書や、「プロレタリア文化」に関するいくつかの論考書を、出版した。そして、革命後もこの主題に精力的に取り組み、「Proletkult」(プロレタリア文化研究所)として知られる研究所の主要なイデオロギストの一人となった。
――――
②へ。
#哲学
第四節/ボグダノフとロシアの経験批判論①。
(01) ロシアの主要な経験批判論者は、ボルシェヴィキのボグダノフ(Bogdanov)、ルナチャルスキ(Lunacharsky)、Bazarov だった。
しかしながら、彼らの哲学には、特殊にボルシェヴィキ的なものはない。だが、彼らは、自分たちの政治的立場と哲学的立場は緊密に結びついている、と信じた。
同じことは、メンシェヴィキのYushkevich やValentinov にも、エスエルのViktor Chernov にも、当てはまる。
彼らはみな、経験と実践的な政治の全体を包括する、「一元論」(monistic)的哲学を、探究した。しかし、エンゲルスやPlekhanov とは異なる方法によってだった。彼らには、この二人の方法は、単純素朴(naive)で、恣意的で、諸観念をどう分析しても支持できないものがあるように思えた。
--------
(02) マルクス主義的経験批判論にもとづく文献は膨大にあり、まだ十分には研究されていない。
ボグダノフは、哲学者と政治家のいずれとしても、確実に、最も重要な人物だった。
彼は職業上は医師だが、心理学、哲学、経済学に熟達した多様な知識をもつ人物で、小説家でもあり、最も活動的なボルシェヴィキの組織者かつイデオロギストの一人だった。
彼は、その仕事の全てにおいて、あらゆる問題に至る鍵を含み、単一の原理によって全てを説明する、そのような一元論の哲学を、きわめて熱心に探求した。
--------
(03) Aleksander Aleksandrovich Bogdanov(本当の名はMalinovsky)は、1873年にTula で生まれた。
モスクワで自然科学を、1899年までKharkov で医学を、学んだ。
1896年まで人民主義者(populist)で、その年に、Bazarov(Rudnev)と一緒に、社会民主主義者になった。
1897年、経済学に関するマルクス主義の手引書を出版した。広く知られたこの本について、レーニンは、きわめて好意的な書評を執筆した。
この書物は、質疑応答形式で全ての経済制度を概述するもので、経済史の伝統的な図式(schemata)を生み出すのに貢献した。そして、マルクス=レーニン主義の重要部分になった。
1899年、Wilhelm Ostwald の「活力主義」(energism)に魅了されて、〈自然に関する歴史的見方の基本的要素〉を出版した。この書物は、「活力」(energy)という観念にもとづく一元論的世界観を構築しようとするものだった。
この書物は、彼がマルクス主義の礎石だと考える、相対主義の傾向を提示するものだった。
すなわち、全ての真実(truth)は、人間の生物的および社会的な状況を表現するという意味で、歴史的だ。真実とは、実践的な適用可能性の問題であって、客観的な有効性の問題ではない。
のちに、つぎのような見方に変わった。活力主義は世界を観察する一定の方法にすぎず、世界を構成する「素材」(stuff)を説明しない。そのゆえに、心の(mind’s)一元論の願望を満足させることができない。
--------
(04) ボグダノフは、1899年にモスクワで逮捕され、流刑の判決を受けた。そして、Kaliga と1903年までは Vologda に住んだ。
この期間に、Berdyayev およびルナチャルスキその他の社会民主主義知識人たちと出会った。
彼は、〈現実主義的世界観概要〉と題した、〈観念論の諸問題〉に対する回答である共著の、主導者かつ執筆者だった。
その他の執筆者は、ルナチャルスキ、Vladimir Fritche、Bazarov、Suvorov だった。
1904-1906年に、三巻で成る〈最高傑作、経験批判論〉を出版した。これは、Mach とAvenarius の認識論を歴史的唯物論に適合させる試みだった。
-------
(05) ボグダノフは、1903年以降は、社会民主党の一員だった。
レーニンは、ボグダノフの哲学に関する異端的考えにもかかわらず、数年間は、彼との政治的な提携を維持した。
レーニンは、Lyubov Akselrod に対して、経験批判論に反対する論考を書くよう激励した。だが、哲学的逸脱主義者との間の争論に自分は参加せず、ドゥーマに関する政策に対しても反対した。
社会民主党の分裂のあと、ボグダノフはペテルブルクでのレーニンの第一の副官だった。1906年から、そこに統合組織を再建するために働いた。そして、中央委員会の3人のボルシェヴィキの一員として、フィンランドのレーニンに加わった。
彼は、社会民主党がドゥーマの選挙に参加することに反対した。のちに、「最後通告派」(ultimatist)になった。
ボルシェヴィキの左翼派は、堅固さはさまざまだが、法的手段を拒否し、1907年以降の直接的な革命政策の継続を、強く主張した。この者たちはみな、多かれ少なかれ、経験批判論哲学の支持者だった。
ボグダノフとその友人たちは、1909年にボルシェヴィキ中央派から、そしてのちに中央委員会から、追放(expell)された。
そのグループは、しばらくのあいだ、自分たちの雑誌を発行した。そして、レーニンが不安に感じたことに非正統派に共感を抱いていたGorky の財政的援助を受けて、革命的ボルシェヴィズムの再生のための拠点として、Capri 島に党学校を設立した。
この学校は、1909年の数ヶ月のあいだ、また1910-11年には Bologna 〔イタリア〕で再び、運営された。
学校の教師には、ボグダノフの他に、ルナチャルスキ、Aleksinsky、将来にOgpu の長となるMenzhinsky らがおり、トロツキーも、時おり加わった。
レーニンはこの学校で講師をするよう招かれたが、拒否した。
ボグダノフのグループは、1911年に解散し、イタリアには二度と戻らないつもりで、ロシアに帰国した。
ボグダノフは、哲学的著作を発表しつづけた。そして、彼の一元論的見地を表現するための、いっそう一般化した定式を追求した。
他の非正統派(deviationists)の仲間と一緒に、つぎの二冊の共著を刊行した。
第一。〈マルクス主義哲学に関する小論集〉(1908年。ボグダノフ、Bazarov、Berman、ルナチャルスキ、Yushkevich、Suvorov、Helfand )。
第二。〈集団主義哲学に関する小論集〉(1909年。ボグダノフ、Gorky、ルナチャルスキ、Bazarov)。
彼自身の著作には、とくに、つぎがあった。
第一。〈物神崇拝(Fetishism)の衰亡〉(1910年)。一般的用語としての〈物神崇拝〉を、認識上の社会的現象として分析した。
第二。〈生きている経験の哲学〉(1913年)。経験批判論に関する有名な説明書だった。
第三。〈組織構造論(Tectology)、一つの普遍的組織科学〉(1913年、第二巻,1917年)。
上の最後のものは、哲学、社会学、物理学、工学を包括する一般的科学の基礎を構築する試みだった。
これは、人間行動学(praxeology)の先駆的著作だったと見なされてよい。
彼は、加えて、頻繁に再版された経済学の手引書や、「プロレタリア文化」に関するいくつかの論考書を、出版した。そして、革命後もこの主題に精力的に取り組み、「Proletkult」(プロレタリア文化研究所)として知られる研究所の主要なイデオロギストの一人となった。
――――
②へ。
#哲学



























































