秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2846/兵庫県議会「百条委員会」報告書・<総括>全文。

 兵庫県議会・文書問題調査特別委員会(「百条委員会」)が2025年3月4日にとりまとめた調査報告書の「目次」は、つぎのとおり。
 「Ⅰ 文書問題調査特別委員会について
  Ⅱ 任意調査について
  Ⅲ 文書の7項目にかかる調査の内容と結果について
  Ⅳ 公益通報者保護にかかる調査の内容と結果について
  Ⅴ 総括
  Ⅵ 提出を求めた資料一覧」
 上のうち、「Ⅳ 公益通報者保護にかかる調査の内容と結果について」の全文はこの欄にすでに掲載した。
 以下、「Ⅴ 総括」の全文をそのまま掲載する。下線は掲載者。
 出所—兵庫県議会ホームページ
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 Ⅴ 総括
 調査結果のとおり、調査項目のうち、「令和3年の知事選挙における県職員の事前選挙活動等について」、「次回知事選挙に向けた投票依頼について」は文書の真偽について事実確認ができなかったが、以下の項目については一定の事実が確認された。
「五百旗頭真理事長ご逝去に至る経緯について」は、片山氏から副理事長解任を伝えられた五百旗頭理事長が憤りを覚えていたことが認められる。よって、公社や外郭団体の再編や人員削減において、憶測や不信感が生まれないよう、対象団体の状況を公平公正に判断し、当事者をはじめ関係者に十分な理解を得る努力を怠ることのないように求める。
 「知事が贈答品を受け取っていることについて」は、PR等でなく齋藤知事個人として消費していたと捉えられても仕方がない行為もあったと言わざるを得ない。昨年 12 月 11 日発表の「県民の信頼確保に向けた改善策の実施」において、一定の措置が講じられているが、受け取らない一定の基準を客観的に示すことや接待対応についてのルールの明確化も図るべきである。
 「知事の政治資金パーティー実施にかかるパーティー券の購入依頼について」は、片山氏の依頼により経済界に影響力のある県信用保証協会理事長が疑念を抱かれる行動をとっていたことは否めず、一般職だけでなく役員も含めた政治活動や選挙活動に関わる倫理規程等を定めることが必要である。
 「阪神・オリックス優勝パレードにかかる信用金庫等からのキックバックについて」は、資金調達が難航し、パレード後も継続して資金調達をする特異な状況に追い込まれていたことが認められるため、県が利害関係のある企業団体に寄附金や協賛金を依頼するにあたっては、行政運営に不信感を抱かれることのないよう細心の注意を払うことを求める。また、刑事告発されている背任容疑について、県関係者が起訴され有罪となる事態となった場合は、齋藤知事自らの管理・監督責任を重く受け止め対処することを求める。
 「知事のパワーハラスメントについて」は、「パワハラを受けた」との証言は無かったものの、パワハラ防止指針が定めるパワハラの定義である「①優越的な関係を背景とした言動であって、②業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより、③労働者の就業環境が害されるものであり、①から③までの要素を全て満たすもの」に該当する可能性があり、パワハラ行為と言っても過言ではない言動があった。前述の「県民の信頼確保に向けた改善策の実施」において、一定の措置が講じられているが、知事、副知事などの特別職を含む管理職等へのアンガーマネジメント研修の実施など、さらに踏み込んだ対策に取り組むことを求める。
 公益通報者保護については、元県民局長の文書は公益通報者保護法上の外部公益通報に当たる可能性が高く、県の初動は、文書内容の調査をせずに通報者の特定を行うなど、不適切な対応に終始しており、現在も体制整備義務違反の疑いが指摘されている。初動対応のほかにも、調査方法や3月 27 日の記者会見、公益通報者保護法に対する関わり方についても問題なしとはいえない。
 この度の兵庫県の対応は、組織の長や幹部の不正を告発すると、告発された当事者自らがその内容を否定し、更に通報者を探して公表されたうえ、懲戒等の不利益処分等により通報者が潰される事例として受け止められかねない状況にある。
 今後は、知事を含めた幹部職員が公益通報者保護法に対する理解を深めるとともに、組織内の不正行為や違法行為に関する告発に対しては、常に公益通報の可能性を念頭に対応することが不可欠である。さらに、外部公益通報に対応できる体制づくりを進めるとともに、告発内容の調査に当事者は関与しないこと、通報者探索及び範囲外共有等は行わないことの明確化が必要である。
 井ノ本氏による元県民局長のプライバシー情報の漏洩については、告発者潰しを企図していたと言われかねない状況がうかがえる。弁護士による調査の結果を速やかに公表するとともに、県として刑事告発も含め、適切かつ早急な対応を求める。
 知事は、3月 27 日の記者会見で元県民局長の文書を「事実無根」、「うそ八百」と評したが、約9ヵ月に及ぶ本委員会の調査により、文書には一定の事実が含まれていたことが認められた。
 今回の文書問題を振り返ると、文書に記載の当事者である知事や幹部職員による初動対応や内部公益通報後の第三者機関の検討、元県民局長の処分過程など全体を通して、客観性、公平性を欠いており、法令の趣旨を尊重して社会に規範を示すべき行政機関の行うべき対応としては大きな問題があったと断ぜざるを得ない。
 最後に、齋藤知事におかれては、本報告書の期するところを重く受け止め、兵庫県のリーダーとして厳正に身を処していかれることを期待する。また、文書問題に端を発する様々な疑惑によって引き起こされた兵庫県の混乱と分断は、いま、憂うべき状態にあることを真摯に受け止めなければならない。これを脱却し、一刻も早く解消するために、県民に対して過不足のない説明責任を果たすとともに、先導的かつ雄県の名にふさわしい進取の気質に富んだ兵庫県政を取り戻すことを切に願うものである。
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 以上。

2845/R.パイプス1990年著—第14章㉜。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第19節/ロシアがドイツ敗戦と決定。
 (01) ボルシェヴィキは1918年の9月末まで、友人であるドイツの勝利を信じていた。
 その9月末、その考えを変更せざるを得ないことが起きた。
 9月30日に宰相Hertling が辞任し、数日後にHinze が解任された。これらにより、ベルリンにいるロシアに最も忠実な支持者たちが排除された。
 新宰相のMaximilian 公はアメリカ大統領Wilson に対して、アメリカ政府が停戦に向けて調整するよう要請した。
 これは、崩壊が切迫していることの紛れなき兆候だった。
 暗殺の企て(後述参照)による負傷から回復するために当時はモスクワ近郊の別荘〔dacha〕にいたレーニンは、ただちに行動に移った。
 彼はトロツキーとSverdlov に、中央委員会を開催するよう指示した。外交政策上の緊急問題を議論するためだった。
 10月3日、レーニンは〔ソヴェト〕中央執行委員会に、ドイツの情勢の分析文を送った。そこで、ドイツで革命が切迫していると熱烈に語った(注216)。
 彼の勧告にもとづき、10月4日に中央執行委員会は、決議を採択した。それは、全世界に対して、ドイツの革命政府を助けるためにソヴィエト・ロシアは全力を捧げる、と宣言する、というものだった(注217)。
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 (02) ドイツの新宰相には、転覆を求めるこのような鉄面皮の訴えは我慢できなかった。
 今や外務省ですら、ボルシェヴィキにうんざりしていた。
 10月の省庁間会合で、外務省は初めて、ボルシェヴィキと決裂することに同意した。
 その月の末までに外務省の官僚たちが作成した覚書は、政策変更をつぎのように正当化した。
 「ボルシェヴィズムを発明したことやそれをロシアに対して自由にさせたことについて評判が悪い我々は、今は最後の土壇場で、将来のロシアに対する共感を完全に失わないためにも、少なくとも、ボルシェヴィキを保護するのをやめるべきだ」(注218)。
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 (03) ドイツには、ロシアと断絶するのを正当化する十分な根拠があった。1918年の春と夏にすら領土内で破壊工作活動行っていたIoffe が、今や公然と革命の火を煽り立てているのだから。
 のちにIoffe が誇って書いたように、この時期に彼の大使館が行なっていた煽動的な政治的虚偽宣伝活動は、「武装蜂起のための決定的な革命的準備活動の性格をいっそう帯びてきている」。
 「スパルタクス団という陰謀集団は別論として、ドイツ、とくにベルリンには、[1917年]1月のストライキ以降、—むろん非合法に—労働者代議員ソヴェトが存在している。…
 大使館はこれらソヴェトとの連絡関係を継続的に維持した。…
 [ベルリンの]ソヴェトは、ベルリンの全プロレタリアートが十分に武装していてこそ蜂起は時宜にかなったものになる、と想定していた。
 我々は、これと闘わなければならない。
 そのようなときを待っていれば蜂起は永遠に生起せず、プロレタリアートの前衛だけが武装するので十分だ、と主張しなければならない。…
 それにもかかわらず、ドイツのプロレタリアートの武装しようとの努力は全体として合法的で、分別があり、大使館はそれらをあらゆる面で援助した。」(注219)
 この援助は、金銭と武器の供与のかたちで行なわれた。
 ロシア大使館がドイツから離れたとき、不注意で一つの記録文書を忘れて残していた。その文書は、大使館が9月21日と10月31日の間に10万5000ドイツマルクを払って210の短銃と2万7000の銃弾を購入したことを、示していた(注220)。
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 (04) ドイツでの革命政府の勝利を援助することを目ざすとのソヴィエトの最高立法機関〔ソヴェト中央執行委員会〕の宣言やこの意図を実現しようとするIoffe の努力は、ロシアとの外交関係を断絶するには十分であるはずだった。
 しかし、ドイツの外交当局は、もっと議論の余地のない根拠を求め、そのためにある事件を引き起こした。
 ソヴィエトのクーリエは数ヶ月間、ドイツで散布する扇動文書を大使館に持ってきていた。このことをドイツ外務当局は知っていて、ロシアからの外交箱がベルリン市内の鉄道駅で下ろされるあいだに偶然にのごとく落ちて壊れるように、手筈を整えた。
 11月4日の夕方、これが行なわれた。
 壊れた箱枠から、ドイツの労働者と兵士が決起してドイツ政府を打倒するよう激励する多数の煽動文書が出てきた(注221)。
 Ioffe は告げられた。ただちにドイツを去らなければならない、と。
 彼は適度の憤慨を示したけれども、モスクワに向かって出立する前に、〔ドイツ〕独立社会主義党のOskar Cohn 博士、実質的にソヴィエトの使命をもつ在住者に、50万ドイツマルクと15万ルーブルを残すことを忘れなかった。これらの金銭は、「ドイツ革命の必要のために」従前から配分されていた総計1000万ルーブルを補充するものだった(脚注)
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 (脚注)  Ioffe, VZh, No. 5 (1919), p.45. トロツキーとの親密な関係を理由として、Ioffe はのちに屈辱を受けた。彼は1927年に自殺した。Lev Trotskii, Portrety revoliutsionerov (Benson, Vt, 1988). p.377-p.401.
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 (05) 11月13日、西部戦線の停戦から二日後、ロシア政府は一方的に、ブレスト=リトフスク条約と補完条約を廃棄した(注222)。
 連合諸国もまた、Versailles 合意の一部として、ドイツにブレスト条約を廃棄させた(注223)。
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 第20節(最終節)へとつづく。
 

2844/法(法学)という「ものの考え方」001。

  およそ五ヶ月前、昨年10月下旬から11月上旬に「NHK というものの考え方」(①〜③)という表題の稿を掲載したことがあった。
 この奇妙なまたは意味不明部分のある表題は、のちに<法(法学)という「ものの考え方」>という表題でいくつかの文章を書こうと予定していたからだ。「もの」は「NHK というもの」ではなく、「ものの考え方」という語の一部だ。
 再び思い起って、<法(法学)という「ものの考え方」>を書いてみよう。但し、当初に想定していたものとは内容または掲載順序が異なる。
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 こんな表題で何か書いてみようと思った動機はいくつかある。
 第一に、「法学」というものが基礎にしている論理または「ものの考え方」には、「法学」に限られないその他の「学問」分野にも共通する(その意味では<普遍的な>)、さらには人間が生活していくうえで漠然と前提にしている、あるいは少なくとも「生活」していくうえで役立つ、「ものの考え方」があるのではないか、という何となくの思いがあるからだ。
 第二に、かなり具体的には西尾幹二や江崎道朗等々々の多数の「文学部」出身者の書く文章には、あるいは「文学評論」から出発したような論者またはたんなる「もの書き」の文章には、<法(法学)という「ものの考え方」>が決定的に欠けている、そしてそれは「致命的だ」と感じるところがあるからだ。
 この点と分離して整理しておかないが、上の点はまた、わが国における、またはマスメディアを含む日本の「社会」における、「法」(法学)や「政治」(政治学)に関する<リテラシー>というものの欠如または著しい不十分さと通底していると感じられる。
 「法」や「政治」全般に関する専門家では全くないが、随筆ふうに、気軽にいくつか書いていってみよう。
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  さっそくだが、兵庫県・斎藤元彦問題に関係する、兵庫県記者クラブの面々を中心とする<マスメデイア>の「法リテラシー」の欠如は著しいのではなかろうか。
 3月19日に兵庫県知事(斎藤元彦)設置の「第三者委員会」の一つの最終報告書が提出され、委員による(委員長を中心とする)記者発表と会見が行われた。途中からライブ放映を見ていたら、記者たちの諸質問から推察される彼らたちの<能力不足>に感じ入るところがあった。
 そもそも当該「第三者委員会」に課されていた任務に関する無知または基礎知識の不十分さも垣間見えた。もっと究極的には、国や自治体の「記者クラブ」制度の功罪という論点もあるだろう(さらに大手新聞における記者の採用・養成やその配置の問題も)。
 上の後者は別論として、つぎの趣旨の質問が、某大手新聞社のたぶん兵庫県庁記者クラブ配属記者から発せられていた。
 なお、告発文書作成・配布者に対する懲戒処分(停職三月)の適否に関わる。この処分には事由(理由)が4つ挙げられていたらしいが、第一を除く第二〜第四の理由による部分は「有効」という委員会の判断に関する質問だった。第一の理由による部分は「違法」でかつ「効力がない」=「無効」という判断は、容易に理解できたらしい。
 ①「違法」であるかまたは問題があるが「有効」ということの意味を知りたい。
 ②<手続>は「違法」だが<結果>は「有効」という意味か。そうだとすれば何故か。
 これに対する委員の一人の回答には不十分な部分もあると直感したが、つぎの回答部分は全く適切だ。
 単純に、「適法」=「有効」、「違法」=「無効」、ではない。
 つまり適法・違法と有効・無効は同列の問題ではない。
 元裁判官だった者を含むという弁護士たちが叙述した報告書に含まれる「法的」または「法学的」な論点に関する判断の意味を、この記者は(ふつうの日本語文として何度読んでも)理解できないに違いない。
 刑事法上の(原則的な)「違法収集証拠排除」の法理に回答は言及していたが、回答されていたように、県知事による公務員の「懲戒処分」にそのまま適用されるものではない、というのは、一般論としては「正しい」。
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 「効力」の有無の問題以前に、もともと「違法」とは何か、という問題がある。
 法学部出身者の半分くらいは、以下のことを、何となくであれ、知っているだろう。
 きわめて大雑把に言って、憲法・行政法という「公法」系と民法・民事訴訟法という「民事法」系、刑法・刑事法という「刑事法」系とで、「違法」の意味、位置づけは全く異なる。いや、民法と民事訴訟法、刑法と刑事訴訟法とでも大きく異なる(例えば、「行為規範」性の有無によって)。
 だから、適法・違法と有効・無効という問題のあらわれ方自体が、<法分野>によって大きく異なるわけだ。
 「民事の問題」と「刑事の問題」の違いくらいは、新聞記者であれば(少なくとも何となくであれ)知っているだろう。
 だが、この程度の素養だけで、官公庁(この概念にも少なくともかつては「法学」的意味があった)に関係する新聞記者あるいは「フリー」の記者、「ジャーナリスト」であり得るのだとすると、日本の「社会」は相当に恐ろしい。
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2843/R.パイプス1990年著—第14章㉛。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第18節/ドイツとの補足条約②。
 (07) 三つの秘密条項の一つは、補完条約5条を綿密にしたものだった。5条では、ロシア軍がMurmansk から連合諸国軍を排除することを約束していた。
 秘密条項では、かりにロシアがこれを行なうことができなければ、フィンランド・ドイツの合同軍によって達成されることが明記されていた(脚注)
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 (脚注) この条項を最初に公にしたのは、Europaesche Gespraeche, IV, No. 3 (1926), p.149-p.153. Wheeler-Bennett, Fogotten Peace, p.436 に再掲されている。
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 (08) この作戦計画を実施するため、ペテログラード軍事地区司令官のVladimir Antonov-Ovseenko は、8月末にベルリンの戦争人民委員部代表団の団長のもとへ行った(注206)。
 彼は、予定されるMurmansk 攻撃がドイツ兵団によって実行されるだろうことに同意した。
 従前に提案されていたように、ロシア軍の任務は、イギリス軍がArchangel からペテログラードへに向かって進軍した場合に、これを遮断することだった。
 両軍はペテログラードで衝突する。
 Ludendorff は、ドイツ軍はMurmansk に対する作戦行動の基地としてペテログラードを占拠しなければならない、と強く主張した。だが、ロシア政府はこれを受け入れようとしなかった。
 ロシアの領土を横切るドイツ兵団の動きが生むだろう悪い印象を最小限にすべく、ロシア政府は種々の欺瞞的措置を講じた。そのうちの一つは、ドイツ兵団をロシア人将校の「名目的な」指揮のもとに置くことだった(注207)。
 ロシア軍が同意する実際の司令官は、ドイツの将軍が務める。この点に付いてソヴィエトの側が示唆したのは、1915年にGalicia でロシア軍を粉砕した、皇帝の副将軍のAugust von Mackensen 陸軍元帥だった(注208)。
 この作戦は、ドイツが降伏したとき、進行中だった(注209)。
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 (09) 第二の秘密条項は、外国ではなくロシア人に対するドイツ軍の行動に関係するために、より機密的ですらあった。これは、ロシア国内の義勇軍に対する作戦行動を始めるようにとのボルシェヴィキの要請をドイツが受容れたことを確認するものだった。
 ドイツ軍は、つぎのように述べて、このような行動を約束した。
 「ドイツはロシアに対して、Alekseev 将軍とチェコスロヴァキア人の蜂起をただちに鎮圧するための、全ての使用可能な手段を行使するよう期待する。他方で、ドイツもAlekseev 将軍に対する利用可能な全ての戦力の行使をし続けることを承認する。」(脚注)
 ドイツ軍も、この約束を真摯に受け取っていた。
 8月13日、Ioffe はロシア政府へと、補完条約が批准された後でドイツ軍は義勇軍を粉砕するための強力な手段を取るだろう、と伝えた(注210)。
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 (脚注) Europaesche Gespraeche, IV, No. 3 (1926), p.150. Ioffe の受容は、同, p.152. H. W. Gatzke in VZ, III, No. 1 (1955年1月), p.96-7 参照。
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 (10) ドイツは、ソヴィエトの要請に応えて、イギリスとDemikin軍に介入することを約束した。
 第三の秘密条項は、ドイツの強い主張によるもので、不本意のロシアの側に押し付けられたものだった。
 この条項はソヴィエト政府に、8月4日以来駐留しているイギリス軍をBaku から排除することを義務づけた。
 他の二条項と同様に、かりにソヴィエトが任務に耐えられないことが判れば、ドイツ軍が責任を引き受ける、と定めていた(脚注)
 この条項も、実行されなかった。ドイツ軍が行動準備をする前の9月16日に、トルコ軍がBaku を占拠したからだ。
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 (脚注) Baumgart, Ostpolitik, p.203. この第三条項は、第二次大戦の後になってようやく一般的に知られるに至った。最初に公にしたのはBaumgart だった。Historisches Jahrbuch, LXXXIX (1969), p.146-8.
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  (11) 三つの秘密条項は、かりにドイツが崩壊していなければ、ドイツがロシアに対する経済的のみならず軍事的な支配権をも有することを確実にするものだった。
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 (12) 補完条約に関する帝国議会への報告書の中で(むろん秘密条項への言及はない)、Hinze は、補完条約はロシア・ドイツの「共存」(Nebeneinanderleben)の基礎を築いた、と主張した(注211)。
 Chicherin も同様の言葉を、9月2日の中央執行委員会あて文書で用いた。この委員会は、補完条約を満場一致で批准した。
 Chicherin は、こう書いた。「ロシアとドイツのシステムの間、両政府の基本的志向の間には大きな差異があるにもかかわらず、つねに我々の労働者と農民の政府の闘いの目標である二つの国家の平和的共存は、目下において、ドイツの支配階層にとっても望ましい」(注212)。
 この文章は、公式の文書の中で「平和的共存」という言葉が使われた最も早い記録の一つだ。スターリンの死後に、ソヴィエト政府がもう一度用いることになるのだが。
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 (13) ロシアとドイツの両政府は、着実に緊密になっていた。ドイツが崩壊する一週間前、両政府は事実上の政治的、経済的、軍事的な同盟関係にあった。
 Hinze は熱狂的に、ボルシェヴィキへの支援を約束した。
 数千人の人質を虐殺する赤色テロルをロシアが開始した9月初め、彼は、ドイツのプレスがロシアにいる通信員から送られてくる残虐行為についての全文を発表するのを妨げた。両政府のいっそうの協力関係を傷つける、嫌悪の世論が巻き起こることを怖れてだった(注213)。
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 (14) ドイツは9月に、ロシア政府の要請に応えて、ロシアに燃料と武器を提供し始めた。
 石炭を求める切迫した訴えに反応して、ドイツ外務省は10月後半に、ドイツの25隻の船舶が7万トンの石炭とコークスを載せてペテログラードに向かうよう調整した。
 両国の関係断絶のために船舶輸送が中断する前に、およそ半分だけが何とか目的地に届けられた。
 ペテログラードで降ろされる燃料は、赤軍のための兵器を製造する工場群へと向かった(注214)。
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 (15) Ioffe は9月に、20万本のライフル、5億個の弾丸、2万丁の機関銃をドイツに要請した。
 外務省から圧力を受けて、Ludendorff は、機関銃を候補から外した上で、気乗りしない同意を与えた。
 この取引は、Hinze と宰相(首相)のHertling が離れたために、実現しなかった。新しい帝国宰相のMaximilian von Baden公は、親ボルシェヴィキ政策について、はるかに熱心でなかったからだ(注215)。
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 (16) 中央諸国は大敗北をしたにもかかわらず、ロシア政府は、時期を順守して、補完条約による財務上の義務を履行した。
 9月10日、ロシアは、一回めの償還として、2億5000万ドイツマルクの価値のある金をドイツに送った。9月30日には、二回めの償還として、一部は金で、一部はルーブルで、3億1250万ドイツマルクを支払った。
 10月31日の予定だった三回めの償還分を、ロシアは支払わなかった。ドイツが降伏する間際だったからだ。
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 第19節へとつづく。

2842/R.パイプス1990年著—第14章㉚。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。1918年の数ヶ月間に関する叙述が続く。
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 第14章・第18節/ドイツとの補足条約①。
 (01) ブレスト条約は、ロシア・ドイツの経済関係を調整する補完的協定を必要とした。
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 (02) ドイツは、1914年以前は大きな貿易相手だったロシアとの通商関係を再開しようと熱心だった。かつてロシアは、その輸入のほとんど半分をドイツに依っていた。
 ドイツは原料はもちろんだが、まずは食糧を求めた。そして、ロシアの外国通商をほとんど独占したかった。
 1918年6月、ロシア政府は、輸出できると主張する物品の一覧表をドイツに提示した。その中には、穀物があった。但し、実際には穀物の余剰はなかった。
 Krasin は、ソヴィエト・ロシアがドイツの製品業のために用意することのできる巨大な市場についての、目も眩むような絵画を描いた。また、それを証明すべく、電気製品の輸入について、かつての雇用者であるSiemens と交渉した。
 現実には、ロシア側の提案にはいかなる根拠もなかった。諸提案は、政治目的を達成するための餌だった。
 ドイツはやがて、ロシアが約束した物品の供与ができないことに我慢できなくなった。
 Bleichroeder 銀行のためにモスクワに来ていたAlfred List 博士は、6月にChicherin に対して、ロシアからの物品納入の遅れは「大ロシアがその政治的欲求に対する共感を最も期待できそうな」仲間たちを含むドイツ人社会を失望させている、と言った(注201)。
 レーニンは、その「仲間たち」—銀行家と実業家たち—を他のドイツ人、主として自分を排除したい軍部を、弱体化させるために利用できることを、十分に知っていた。
 そのゆえにレーニンは、補完条約の交渉の経緯を詳細に報告させた。彼はその補完協定には最大の政治的重要性があると考えていた。
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 (03) 交渉のための会談は、7月初めにベルリンで始まった。
 ソヴィエトの代表団を率いたのは、Ioffe だった。彼は、Krasin とモスクワから派遣された種々の分野の専門家に支えられた。
 ドイツは、外交官、政治家、実業家から成る大きな代表団を編成した。
 ドイツ側の重要人物はJohaness Kriege という名の外務省の官僚だったように見える。歴史家のWinfried Baumigart はこの人物を、ボルシェヴィキ・ロシアに対するドイツの政策の「灰色の高官」と呼んでいる(注202)。
 Ioffe は指示を受けてドイツの諸要求によく順応していたが、ドイツの要求が合理的でなくなれば、ロシアの従順さにも限界があることを理解させることになっていた。
 Ioffe がベルリンからレーニンに確認したように、「我々の全政策の中心は、かりにドイツが過度に我々を追いつめると、両国は戦闘をしなければならなくなりドイツの得るものは何もなくなる、とドイツに示すことである必要がある」(注203)。
 関係する問題点の複雑さを考慮して、同意はすみやかに達成された。
 ドイツは、厳しい要求を出した。
 Ioffe は何とか譲歩を引き出しかったが、しかし、そう努力しても、補足条約として知られる協定が、8月27日に調印された。これは、ほとんどドイツの側に利益をもたらした。
 議論されたのは、領土問題と財務問題だった(脚注)
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 (脚注) 条約の条文は、三つの秘密条項の一つを除いて、J. Wheeler-Benett, Brest-Litovsk: The Fogotten Peace (New York. 1956), p.427-p.446 で再現されている。
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 (04) 領土問題についてドイツは、ロシアとその境界領域の間の関係に干渉しないと約束した。
 この条項はとくに、「南部同盟」の名のもとでコーカサスおよび接続するコサック地域を保護領にしようとするドイツ軍部の姿勢を否認するものだった(注204)。
 ロシアはウクライナとジョージアの独立を承認し、更にEstonia およびLivonia に降伏することに同意した。ブレスト条約ではこの二つのいずれも認められていなかった。
 代わりに、ロシアは、Baltic 海の港湾への通行権を獲得した。ブレスト条約で失っていたものだ。
 ドイツは当初はBaku、すなわちロシアの石油産業の中心地、を要求したが、やがてBaku での毎年の生産の四分の一を受け取る約束と交換に、ロシアの手に委ねることに同意した。
 Baku は、8月初めにPersia から派遣されたイギリス軍が占拠していた。
 ドイツがボルシェヴィキにBaku を委ねるための条件は、ボルシェヴィキがイギリス軍をそこから駆逐することだった(注205)。
 ロシアはまた、Murmansk から連合諸国軍を排除することを約束した。一方、ドイツは、クリミアから撤退することに同意し、ロシアの西部国境についてのその他若干の小さな領土の調整を行なった。
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 (05) 財務に関しては、ロシアはドイツとドイツ人に帝制政府とソヴィエト政府が行なった措置の結果として生じた損失を完全に補償することに同意した。ロシア人の戦争捕虜たちの保護のために被ったとドイツが主張した費用についても同じ。
 ドイツはこれらの総額を700億〜800億ドイツマルクと査定した。
 ロシアからの反論が考慮されて、この額は600億に減じられた。100億ドイツマルクはフィンランドとウクライナによって支払われるものとされた。
 ロシアは500ドイツマルクの借款の半分を18ヶ月以上かけて返済することを約束した。これは、同意されたルーブルの量である24.5トンの金、販売価値のある100億ルーブルの金をドイツへと移すことによって行われる、とされた。
 残りの半分は、ドイツで発行される45年間債券で支払うものとされた。
 これらの支払いは、公的にせよ私的にせよ、ドイツのロシアに対する全ての要求を満足させるものだった。
 ロシア政府は、つぎの旨のブレスト条約の諸条項の履行を再確認した。すなわち、ドイツの所有者へと全ての国有化または公有化された財産を、没収した現金や有価証券を含めて、返却する。また、彼らがこれらの資産をドイツへと送還するのを認める。
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 (06) ボルシェヴィキは権力を奪取したとき、秘密外交をきわめて強い言葉遣いで非難した。また、「帝国主義諸大国」の多数の秘密条約を公にした。それにもかかわらず、自分たち自身の利益に関係がある場合には、そうした実際上の取扱いを何ら嫌悪しなかった。
 補完条約には、三つの秘密条項が付いていた。それらは、Ioffe がロシアのために、Hinze がドイツのために署名したものだった。
 これらの条項は一年のちには知られるに至ったが、今日までソヴィエト同盟では公刊されていない。
 三条項は、8月1日のドイツによる軍事干渉をロシア政府が要請したのをドイツが受諾したことを公認し、正当化するものだった。
 ————
 ②へとつづく。

2841/兵庫県議会調査報告書・<公益通報保護>全文②。

 兵庫県議会・文書問題調査特別委員会(百条委員会)が2025年3月4日にとりまとめた調査報告書のうち、「Ⅳ 公益通報者保護にかかる調査の内容と結果について」のみの全文掲載の二回め。体裁・様式は全く同じではないが、内容はそのまま。
 出所—兵庫県議会ホームページ
 ————
 「Ⅳ 公益通報者保護にかかる調査の内容と結果について
  1 委員会としての判断
  ア 認められる事実
  ————
 以上、前回
 以下の見出しはつぎのとおり。
 1 委員会としての判断
  イ 事実に対する評価
  1 公益通報者保護法違反について
   (1) 外部公益通報
   (2) 体制整備義務違反
  2 行政として取るべき対応
   (1) 初動対応
   (2) 調査方法の問題点
   (3) 齋藤知事の対応
   (4) 公益通報者保護法に対する齋藤知事や幹部の関わり方について
   (5) 文書問題の対応について
   (6) 情報漏洩
   (7) まとめ
 2 提言」
  —————
 以下、全文掲載
 「イ 事実に対する評価
 1 公益通報者保護法違反について
  (1) 外部公益通報
 元県民局長は、議員、マスコミ、警察の特定の者に文書を配布している。 齋藤知事は真実相当性が認められないと再三説明をしているが、真実相当性は公益通報に当たるか否かとは関係がなく、保護要件にとどまる。
 元県民局長の公用メール及び公用パソコンに保存された資料に基づき、クーデターや転覆といった言葉が並んでいたことや、元県民局長作成の人事案や知事を貶める資料があったことなどをもって、文書配布は不正な目的の行為に当たり、公益通報ではないと判断したという証言がある。しかし、当該文書入手(3 月 20 日)、協議時点(3 月 21 日)ではまだ公用メール及び公用パソコンの調査は行われておらず、当該文書の内容から不正な目的が明らかでない限り、公益通報ではないとの判断は調査後に行われるべきものであり通報時ではない。仮に公用メール及び公用パソコンの調査も含めて3月 22 日に作成者の特定を開始したことの正当性を主張するのであれば、公益通報者保護法に基づく指針に定められた「通報者探索防止措置」は事実上意味がなくなり、法令の趣旨を尊重して社会に規範を示すべき行政機関がとってよい行為とは考えられない。さらに「通報者探索防止措置」を認識せず行われた調査の中で、公用 PC の中の情報から非違行為を認定し懲戒処分にしたことは、違法収集証拠排除法則の法理に反するものであり、告発者潰しを行う材料にしたことは非常に不適切であると考える。
 なお、人事当局は特別弁護士に相談の上、不正の目的があったと判断したことはないと証言しており、県として不正の目的があったと公に認めていない。また、複数の参考人は、「専ら」公益を図る目的の通報と認められる必要はなく、交渉を有利に進めようとする目的や事業者に対する反感などの目的が併存しているというだけでは、「不正の目的」であるとは言えず、不正目的の認定は慎重に行う必要があるとしている。
 「通報対象事実」については、少なくとも阪神・オリックス優勝パレードにかかる信用金庫からのキックバックについて背任罪の可能性があり、通報対象事実が含まれている。なお、刑法の背任行為として刑事告発され県警に受理されている。
 以上のことからすると、今回の調査では、元県民局長が齋藤県政に不満を持っていた事情はうかがえるものの、元県民局長は今回の文書作成については後輩職員のためを思い行ったと主張しており、人事課調査による判断と同様に、不正な目的であったと断言できる事情はないと考える。
よって、元県民局長の文書は公益通報者保護法上の外部公益通報に当たる可能性が高い。
 (2) 体制整備義務違反
 公益通報者保護制度を所管する消費者庁は、公益通報者保護法に基づく指針第4の2(1)不利益な取扱いの防止に関する措置及び(2)範囲外共有等の防止に関する措置は内部通報した場合に限定せずに、処分等の権限を有する行政機関やその他外部への通報が公益通報となる場合も公益通報者を保護する体制の整備が求められるとしている。他方、今回の文書の場合には、通報の探索が例外的に許容されるのではないかという参考人の意見もあった。
 しかし、上記のとおり、法令の趣旨を尊重して社会に規範を示すべき行政機関としては、公益通報者保護法に基づく指針を原則通り遵守すべきと考えられる。
 文書内容の事実確認よりも通報者の特定を優先した調査や3月 27 日の記者会見での文書作成者を公にしたこと、元県民局長のプライバシー情報の漏洩などは、公益通報者保護法に基づく指針第4の2(2)「範囲外共有等の防止に関する措置」を怠った対応であり、現在も違法状態が継続している可能性がある。
 2 行政として取るべき対応
 (1) 初動対応
 3月 21 日の協議時点で齋藤知事及び参加者は当該文書を誹謗中傷の文書であると認識しており、公益通報の議論はなかったという証言があることから、初動対応において公益通報に関する認識はなかったと考えられる。そのため、3月 22 日には作成者の特定のために元県民局長らの公用メールの調査等に着手し、3月 25 日に作成者を元県民局長と特定、3月 27 日には知事が記者会見で本人が認めていなかったにもかかわらず、事実無根だと認めているような発言のほかにも「公務員失格」と通報者を侮辱するような発言をしている。
  しかし、当該文書の内容は、本委員会でも一定の事実認定ができており、全くの事実無根とは言えないため、齋藤知事らは公益通報に該当しうるかもしれないという前提に立ち、作成者の特定を行う前に、まずは当該文書の内容を調査すべきであった。
 また、3月 27 日の記者会見で県民局長の職を解き、通報者を公表したことは、告発者潰しと捉えられかねない不適切な対応であった。同日に元県民局長から告発文にある内容を精査してから対応して欲しいと片山氏に要請があったが、この時点から内部公益通報としての手続が必要であった。
 さらに言えば、齋藤知事らは当事者である自分たちだけで当該文書が公益通報に該当するか否かを判断するべきではなかった。法令を遵守することは当然のことながら、それが、法令の趣旨を尊重して社会に規範を示すべき行政機関がとる立場であると言える。
 また、参考人によると、公益通報事案については、受付、調査、是正措置等の対応全てを通じ、不利益取扱、範囲外共有、通報者探索が禁止され、これに違反すると体制整備義務違反状態となるため、調査結果が判明する前にこれらの扱いをすることは原則として許されないし、調査結果が判明し、たとえ通報者の指摘する事実関係が認められなかったとしても、これらの扱いをすることが許されない場合があり得るとしている。加えて、告発の対象となった権力者が通報者探しを指示する場合、あるいはそれを承認する場合、その者の責任も厳しく問われるとの参考人意見もある。
 さらに、本年2月 18 日の衆議院総務委員会で政府参考人は、「法定指針の1号通報の対応体制において、事実に関係する者の公益通報対応業務に関与させない措置を求めているが、一般論として外部から不正行為について指摘された事業者は、自らが行う調査、是正に当たり、事実に関係する者を関与させないことなど、適切な対応が取ることが望ましい」と答弁している。 初動対応時の調査は、当事者である齋藤知事の指示の下、同じく当事者である片山氏が中心となって行っているが、調査は当事者が関与せずに行うべきであったと考えられる。通常であれば、このような案件の調査は人事課や各部総務課が調査を実施することになるが、利害関係者中心で調査を行うのは不適切である。これは内部公益通報時だけでなく、外部への公益通報の際にも同様である。今回のような知事及び県幹部が当事者である場合は、告発文に記載のあった当事者が調査に関わることのないよう利益相反を排除し、独立性を担保するためにも県以外の第三者に調査を委ねるべきであった。そのことが調査の過程及び結果の客観性・公平性・信頼性を高めることになる。県当局は後日、第三者委員会を設置することとしたが、本来は元県民局長の処分前に設置し、もし処分をするのであればその調査結果に基づいて処分を行うべきだったと考えられる。
 加えて、参考人によると、真実相当性の要件は、通報者の通報時点における状況から判断することや通報者の供述内容は、調査主体への信頼感により影響を受けるため誰が調査するのかが重要としている。元県民局長は、県当局の調査に対し、文書の内容を誰から聞いたかについて、単なるうわさ話と話しているが、元県民局長の立場からすれば、文書に記載されている当事者が調査に関わっている限り、情報提供者を守るために真実を話せなかったと考えられる。
 以上のように、県の一連の文書問題に対する初動対応は、県民の不信感を招く不当なものであったと考える。
 (2) 調査方法の問題点
 当該文書の作成者の特定はすべきではなかったという判断である。その上で、作成者特定に当たっての今回の調査方法には、今後の県政の信頼回復のために考慮しておく必要がある幾つかの問題点があったと考える。
 公用メールの調査について、公用パソコンは県から貸与されたものであり、業務以外の使用は禁じられているものの、そのメール内容の調査はその必要性や方法について慎重に検討を行った上で行うべきである。地裁レベルだが判例でも社内メールの調査が無条件に認められているわけではない。当委員会の調査では、メール調査に当たってのルール及び実施の記録がないことが判明している。これではメール調査を恣意的に実施でき、適正な調査であったかの事後の検証もできないと言わざるを得ない。
 今回の調査の中で行われた私用スマートフォンの内容確認は任意だったが、作成に関与したと疑われた人物の私物スマートフォンのLINEのやり取りを確認したことが証言と資料から確認されている。これは職員の人権への配慮を欠いた調査であり、しかも、その人物は結果的に当該文書作成に関わっていなかった。このような調査を人事当局が行う可能性があるということは、職員の萎縮、ひいては県政運営への信頼低下を招くものと言わざるを得ない。
 (3) 齋藤知事の対応
 3月 27 日の記者会見では、齋藤知事は調査の対象者を特定したり、処分を予告すること、さらには「うそ八百」「元県民局長は認めている」と発言した。片山氏や人事当局は、「これから調査する」という認識で齋藤知事とも話をしたつもりであったため、その発言に驚いた。この時点においては当該文書の存在は広く知られておらず、実害も生じておらず、人事当局が予定していたとおりの人事異動の発表にとどめておくべきであった。今回の文書問題が大きく取り上げられることになったのは、この記者会見によることが大きいことを踏まえると、このような部下の進言や意見に真摯に耳を傾ける姿勢が必要であったと考えられる。
 なお、そのことは第三者による調査の進言、公益通報の結果を待ってから処分を行うことの進言に対する態度についても言える。
 (4) 公益通報者保護法に対する齋藤知事や幹部の関わり方について
 公益通報者保護法が目指すのは、徹底して不正行為を告発する人々を守り、社会の正義と透明性を維持することが目的であり、兵庫県としては立法趣旨を踏まえ、まずは公益通報に該当する可能性がないかを慎重に検討すべきであったが、初動対応時の齋藤知事や幹部は公益通報の認識がなかったと証言しており、公の立場として大きく思慮に欠ける点があったと言える。
 また、齋藤知事は証人尋問や記者会見で何度も法的に問題ないことを主張しているが、行政機関は法律に違反しなければいいのではなく、法律の趣旨を尊重したうえで遵守する姿勢を示すことが重要である。
 (5) 文書問題の対応について
 この度の兵庫県の対応が全国から注目される中、組織の長や幹部の不正を告発すると、権力者が当事者にも関わらず自ら告発内容を否定し、更に通報者を探して公表し、懲戒等の不利益処分等で通報者が潰される事例として受け止められかねない状況にある。そのことが公益通報の抑制につながらないか危惧される。公益通報者保護法に違反しているかどうか見解が分かれるとはいえ、「組織の長その他幹部からの独立性の確保」や「利益相反の排除」といった原則にのっとった対応が必要であったと考える。
 また、元県民局長の処分には、退職保留決裁が終わる前に、退職保留が本人に通知されたことも問題がある。
 (6) 情報漏洩
 県の個人情報保護管理の総括保護管理者である井ノ本氏は証言を拒否しているが、同氏が元県民局長のプライバシー情報を複数の議員に見せていることが聞き取り調査によって明らかになっている。当該文書の価値を貶めようとする発言を行っていた証言も得られており、「告発者潰し」があったと言われかねない状況がうかがえる。この行為は地方公務員法の守秘義務違反、さらには県における個人情報管理の問題である。告発者である元県民局長をおとしめることによって、当該文書の信頼性を毀損しようとしたこともうかがわれ、地方公務員法違反を否定できる要素は皆無に等しいと考える。この漏洩問題はその背景や関係者等を明らかにしなければならない問題と考える。
 (7) まとめ
 以上のように、一連の県の文書問題への対応には看過できない問題があったと言わざるを得ない。
 また、井ノ本氏による元県民局長のプライバシー情報の漏洩問題は、公益通報者保護法に反する問題にとどまらず、県組織としてのガバナンス、マネジメントが適正に行われているのかという疑問を抱く。この問題への対応に関しては、元県民局長への処分と比較し、あまりにも大きく異なっている。
 2 提言
 法令を遵守するだけでなく、法令の趣旨を尊重して社会に規範を示すべき行政機関が、公益通報の認識を欠き、また、後になって公益通報に該当しないから問題ないと主張して通報したことを非違行為として認定し懲戒処分にまで至ったことは大変遺憾であり、県当局は責任の重さを痛感すべきである。
 今後は、県行政・県組織の不正行為や違法行為に関する告発に対しては、常に公益通報の可能性を念頭に対応することが求められ、知事を含めた幹部が公益通報者保護法に対する理解を深める機会を定期的に設けることが不可欠である。体制整備に関しては、指針第4に掲げる内部公益通報対応体制の整備は当然のことながら、外部公益通報に対応できる体制づくりを進める必要がある。
 あわせて、告発の調査に当事者は関与しないこと、通報者探索及び範囲外共有等は行わないことの明確化が必要である。今後、受付段階、調査段階、是正措置等において、告発者の不利益処分が行われていないか、第三者による常設の検証機関の設置が必要である。知事、副知事をはじめ組織の長は、就任に当たり、公益通報者保護法及び個人情報保護法に関する研修を受講するなどして、法の趣旨や責務を改めて認識することが重要である。
 なお、有益な公益通報が守られるよう、公益通報に当たっては個人のプライバシーへの配慮や公益通報の濫用を防ぐことなど、職員にも公益通報者保護法の理解を深めることが重要である。
 また、不正調査等で必要な場合も想定されるため、メール調査そのものを否定はしないが、その判断基準の整備及び調査実施記録の作成・保存を確実に行うべきである。そのことによって、今回のような疑念を持たれるメール調査を防ぐとともに、事後的な検証が可能となる。職員の私用スマートフォン等の調査についても、今後一切行わないよう県当局として宣言する必要がある。
 さらに、綱紀委員会の運営は当事者が関わることのないよう、一定のルールを設けるべきである。 井ノ本氏による元県民局長のプライバシー情報の漏洩については、現在、第三者(弁護士)による調査が進められているが、調査結果は速やかに公表するとともに、県として刑事告発も含めた厳正な対応を早急に求める。
 なお、一連の県の対応は、公益通報者保護法に違反している可能性が高いと考えられることから、県自らの対応として公益通報者保護法の法定指針で定める「不利益な取扱い、範囲外共有や通報者の探索が行われた場合には、適切な救済・回復の措置をとる。」や「不利益な取扱い、範囲外共有や通報者の探索が行われた場合に、当該行為を行った労働者及び役員等に対して、行為態様、被害の程度、その他情状等の諸般の事情を考慮して、懲戒処分、その他適切な措置をとる。」という規定に基づいた措置を行う必要があると考える。
 最後に、齋藤知事は周囲の進言や意見に真摯に耳を傾ける姿勢を持つ必要があり、県職員が上層部へ必要な進言を行うことを躊躇しない組織風土を醸成するとともに、兵庫県のリーダーとして共感やいたわりの姿勢を持ち、透明性のある兵庫県政の確立に努めるべきである。」
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2840/R.パイプス1990年著—第14章㉙。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第17節/ボルシェヴィキがドイツに干渉を求める。
 (01) しかし、全ては将来のことだった。
 8月1日にクレムリンがArchangel に連合国が上陸したとの報せを受けたとき、状況は見込みがないように見えた。
 東部では、チェコスロヴァキア軍団が次から次に都市を占拠し、中央 Volga 地域を完全に支配していた。
 南部では、Denikin の義勇軍が、Krasnov将軍が指揮するDon コサックに率いられて、Tsaritsyn へと前進していた。そこが掌握されれば、チェコスロヴァキア軍団との連絡線ができることになり、妨害のない反ボルシェヴィキ戦線が中部Volga からDon 地域まで生まれるだろう。
 そして今、相当規模のアングロ・アメリカ軍が北部に集結しており、明らかにロシアの内部へと攻撃を開始しそうだった。
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 (02) ボルシェヴィキには、苦境を脱する一つだけの方法があった。それは、ドイツによる軍事干渉。
 これを要請することを決定したのは8月1日で、Helfferich がChicherin に、継続してロシアを支援することを告げた後だった。
 この決定を下した会合は、共産主義者の文献によると、ソヴナルコムの一会議だった、と叙述されている。
 しかし、その日に内閣の会議があったとする記録は存在しないので、レーニンがおそらくChicherin と協議して、個人的に決定した、というのが事実上は確実だ。
 ロシアは、連合諸国軍と親連合国軍に対抗するドイツとの共同軍事作戦を提案した。当時は基本的にはラトビア人兵団で構成されていた赤軍は、モスクワの北西部に位置を占めることになる。予期される連合諸国軍の急襲からモスクワを守るためだ。一方で、ドイツ軍は、アングロ・アメリカの遠征隊に対抗してフィンランドから、また義勇軍に対抗してウクライナから前進することになる。
 我々はこの決定を、主としてHelfferich の回想録によって知っている。Helfferich は、8月1日の遅くにもう一回、Chicherin の予期せぬ訪問を受けていた。
 外務人民委員のChicherin はHelfferich に対して、内閣の会議の後で直接に、内閣を代表して、ドイツによる軍事干渉を要請するためにやって来た、と言った(脚注)
 ----
 (脚注) この出来事に関する短い回想で、Chicherin はこう述べる—ソヴィエトの文献の中で唯一の言及のようだ。Helfferich の説明を確認しつつ、案件はレーニンによって個人的に解決された、と。「Lenin i vneshniaia politika」, Mirovaia politika v 1924 godu (Moscow, 1925), p.5. 彼の論考も見よ。Izvestiia, No.24/2059 (1924 年1月30日), p.2-3.
 ——
 Helfferich によると、Chicherin は、こう言った。
 「世論の状態に鑑みると、ドイツとの公然たる軍事同盟は可能ではない。
 可能であるのは、現実的な平行的作戦行動だ。
 ロシア政府は、モスクワを守るためにその戦力をVologda に集中しようとした。
 ペテログラードを占拠しないことが、平行的な行動の条件だった。同様に我々はPetropavlovsk も避けるのが望ましかった。
 実際上、この方策が意味するのは、モスクワを守ることができるように、ロシア政府は、我々に対して、ペテログラードを防衛するよう要請しなければならなかった。」
 ボルシェヴィキの提案が意味したのは、バルト海地域と(から)フィンランドにいるドイツ軍はソヴィエト・ロシアの領域に入り、ペテログラードの周囲を防衛する戦線を構築する、そして、連合諸国を排除すべくMurmansk とArchangel へと前進する、ということだった。
 しかし、これで全てではなかった。
Chicherin は「南東部についてひどく心配していた。
 私の質問に答えて、彼はついに、我々に求められた干渉の性格を述べた。
 『Alekseev に対する積極的な猛攻撃。Krasnov のドイツによる支援は問題外。』
 この点だ。北部の場合のように、そして同じ理由で、可能であるのは公然たる同盟ではなく、事実上の協力にとどまる。だが、これこそが必要だった。
 このように判断して、ボルシェヴィキ体制は大ロシアの領土でのドイツによる武装干渉を要請した。」(注197)
 -------- 
 (03) Helfferich は、この要請をベルリンへと送った。彼はこの要請を、「我々の干渉への(ボルシェヴィキによる)静かな受容と現実的な平行的作戦行動」と要約した。
 彼はこれと一緒に、ロシアの情勢の悲観的な見通しを書き送った。
 彼はこう書いた。ボルシェヴィキの権威の主要な源は、ドイツの支援を受けている、という信頼の広がりだ。
 しかし、このような感覚は、政策を遂行するための適切な基盤にならなかった。
 彼が推奨したのは、親協商国ではない反ボルシェヴィキのグループとの会話を追求することだった。とりわけ、右派センター、ラトビア人、およびシベリア政府との(注199)。
 彼の意見は、かりにドイツがボルシェヴィキへの支援を抑制するならば、反ボルシェヴィキの者たちは立ち上がり、転覆させるだろう、というものだった。
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 (04) ドイツのモスクワ大使館の助言は、再び却下された。今度は、Hinze によって。
 Hinze はボルシェヴィキは友人ではないことを認めたけれども、彼らはロシアを軍事的に無力にすることによって、ドイツへ利益を「豊富に」もたらしている、と考えた(注200)。
 彼は、Helfferich の推奨文書に不満だったので、8月6日に彼をベルリンへと召喚した。
 大使のHelfferich は二度とその職に就かなかった。在任期間は二週間に満たなかった。
 Hinze はこうして厄介なドイツ大使館を弱体化し、ドイツ・ロシア関係に二度と介入しないよう、モスクワから帰ることを命じた。
 Helfferich が出立後数日を経て、大使館は荷造りを終え、最初はPskov へ、次いでRevel へと向かった。いずれも、ドイツの占領下にあった。
 在ロシアのドイツ代表部がなくなって、ロシア・ドイツ関係の中心はベルリンへと移った。ベルリンにはIoffe がおり、ドイツ政府の広報官、および8月末に両国が締結した通商かつ軍事協定の主要な交渉人として務めていた(脚注)
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 (脚注)この時点で舞台から消えていたKurt Riezler は、戦争後にFrankfurt で教授職に戻った。ヒトラーが権力を奪取したとき、アメリカ合衆国に移住し、1955年に死ぬまで、New York 市の社会研究の新しい学校で教育職に就いた。
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 (05) ボルシェヴィキを打倒しようと虚しい努力をしたドイツ人について、一つの後日談がある。
 9月初め、在モスクワのドイツ領事の将軍、Herbert Hauschild は、Vatsetis の訪問を受けた。
 ロシア軍の最高指令長官に任命されたばかりのラトビア人将校はHauschild に対して、自分はボルシェヴィキではなくラトビア民族主義者だ、彼の兵士たちの恩赦と本国送還が約束されるならば、自分たちはドイツが自由にするままに任せる、と言った。
 Hauschild はベルリンに知らせた。ベルリンは彼に、問題にしないよう命じた(脚注)
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 (脚注) Baumgart, Ostpolitik, p.315-6. Vatsetis は、1919年夏までソヴィエトCIC として務めた。そのあと、「反革命的陰謀」に関与したとの罪で逮捕された。釈放されたのち、ソ連軍事アカデミーで教えた。1938年、教室の休み時間のあいだに再び逮捕され、のちに処刑された。Pamiat’, No.2 (1979), p.9-10.
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 第17節、終わり。

2839/兵庫県議会「百条委員会」調査報告書・<公益通報者保護>全文①。

 兵庫県議会・文書問題調査特別委員会(百条委員会)は2025年3月4日に最終の調査報告書を取りまとめ、翌日の県議会全体会議でも承認された(報告内容は行政当局に対する議会自体の 「報告」になった)。
 この報告書の目次の概要(秋月による。全文ではない)は、つぎのとおり。
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「Ⅰ 文書問題調査特別委員会について
  1 概要
  2 開催状況について
 Ⅱ 任意調査について
  1 職員アンケートによる調査
  2 聞き取りによる調査
  3 書面による調査
 Ⅲ 文書の7項目にかかる調査の内容と結果について
  1 五百旗頭真理事長ご逝去に至る経緯について
  2 令和3年の知事選挙における県職員の事前選挙活動等について
  3 次回知事選挙に向けた投票依頼について
  4 知事が贈答品を受け取っていることについて
  5 知事の政治資金パーティー実施にかかるパーティー券の購入依頼について
  6 阪神・オリックス優勝パレードにかかる信用金庫等からのキックバックについて
  7 知事のパワーハラスメントについて
 Ⅳ 公益通報者保護にかかる調査の内容と結果について
 Ⅴ 総括
 VI 提出を求めた資料一覧」
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 以上のうち、「Ⅳ 公益通報者保護にかかる調査の内容と結果について」のみの全文を掲載する。罫線の省略など、体裁・様式は全く同じではないが、内容はそのまま。下線のみ掲載者。
 出所—兵庫県議会ホームページ
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 「Ⅳ 公益通報者保護にかかる調査の内容と結果について
  1 委員会としての判断
  ア 認められる事実
  事実経過
 R6.3.12(火)  元県民局長が文書をマスコミ、県会議員、警察に配布。
  3.20(水) 齋藤知事が当該文書を民間人から入手。
  3.21(木) 当該文書に関する協議のため、齋藤知事が片山氏、小橋氏、井ノ本氏、原田氏を招集し、片山氏らに文書の作成者や目的を含め、調査するように指示。この際、公益通報者保護の議論はなかった。
  3.22(金) 人事当局から元県民局長の公用メール1年分を調べるように指示を受けた担当課長はデータを人事当局に提出。公用メールの調査にあたって本人の同意は得ていない。(4月下旬に元県民局長の公用パソコンのファイルの操作ログ3年分も提出した。)
  3.23(土) 齋藤知事は、片山氏から元県民局長の事情聴取を行うという提案を受け、それを了承。調査については片山氏に一任された。
  3.25(月) 片山氏及び人事当局が元県民局長及び職員2名の聞き取り調査を実施した。片山氏は元県民局長の調査の際、公用パソコンに私物USBがあったが、取り外すように指示し、公用パソコン1台だけを県庁に持ち帰った。なお、職員1名の私用スマートフォンのLINEの調査も行った。
 元県民局長から人事当局に電話があり、「自分単独で作成し、噂話をまとめたもので、周囲の者を巻き込まないように」との要請があった。
  3.26(火) 元県民局長の退職保留が決まった。
  3.27(水) 小橋氏は、齋藤知事に対し、教育委員会ではこのような問題の時には第三者に調査させることが多いと進言。
 人事当局の用意した知事記者会見での想定問答は、内容の詳細については調査が必要なので言えないという説明だったが、齋藤知事は元県民局長が作成した文書について「嘘八百」「元県民局長本人は認めている」と発言。
  4.1(月) 人事当局は、県の特別弁護士に、第三者機関調査やSNSでの当該文書の拡散、公益通報としての取扱いの要否などを相談。
 特別弁護士からは、公益通報の手続がされた段階でいったん判断する必要がある、第三者機関調査については、費用や時間を要することから内部調査で十分との見解を得る。
  4.4(木) 元県民局長が公益通報受付窓口に通報。
 人事当局によれば、4 月 4 日に元県民局長が公益通報受付窓口に通報した時点で、公益通報の調査結果を待たないと処分はできないと考え、すぐに小橋氏と井ノ本氏に進言し、齋藤知事も了承したとのこと。なお、齋藤知事はこうした進言を受けた記憶がないと否定している。
  4.15(月) 齋藤知事は、「風向きを変えたい」との理由から、処分をできるだけ早くしたほうがいいと指示。
 人事当局によると、井ノ本氏から公益通報の調査結果を待たずに処分できないか検討を指示されたが、公益通報の結果を待つべきと進言した。
 なお、齋藤知事は人事当局に対して流れを変えるために公益通報の調査結果を待たずに処分できないかと指示した記憶はないと否定している。
  4.17(水) 人事当局によると知事の指示による井ノ本氏と人事当局との元県民局長の処分スケジュールのやりとりは下記のとおり。
  ・4月 24 日に処分する案の作成を井ノ本氏が指示
  ・4月 24 日に処分する案を井ノ本氏に提出し、齋藤知事が了解
  ・人事当局が 4 月 24 日処分案は現実的に無理と判断し、5月 17 日処分案を井ノ本氏に相談。井ノ本氏からは5月 10 日を案1、5月 17 日を案2とする指示があり、齋藤知事は5月 10 日で了解した。
  4.24(水) 人事当局によると、井ノ本氏から連休明けの5月7日処分案の指示があり、弁護士と相談して処分日を5月7日に決定した。
 井ノ本氏は、人事当局との処分日のやり取りは自分の判断ではなく、知事と話をした上で日程を決めたと証言している。
 なお、齋藤知事は5月7日処分の決定事項を報告されたと証言している。
  5.2(木) 元県民局長に対する綱紀委員会が開催された。
  5.7(火) 元県民局長の処分を公表。」
 ————
 以上、「1 委員会としての判断」のうち「ア 認められる事実」が終わり。以下、「イ 事実に対する評価」へとつづく。

2838/R.パイプス1990年著—第14章㉘。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
 ————
 第14章・第16節/連合諸国によるロシアでのいっそうの諸活動②。
 (07) Archangel の占拠のあと、イギリスの将軍C. C. M. Maynard が指揮する第二次の連合諸国軍が、Murmansk に上陸した。そこにはすでに6月以来、イギリスの小さな分遣隊がいた。
 Maynard の軍団はやがて1万5000人の兵士をもつに成長した。うち1万1000人が連合諸国の兵士で、残りはロシア人その他だった。
 Noulens によると、Archangel-Murmansk 遠征軍(当時に2万3500人)は、東部前線を再活性化するのに十分だった。東部前線では、西側代表団の見解では、3万の兵士が必要だった(注191)。
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 (08) 連合諸国には不運なことに、最終的に十分な兵団をロシア北部に配置するまでに—ようやく9月のことだった—、チェコ軍団は目に見える攻撃部隊としては存在しなくなった。
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 (09) 既述のとおり、チェコスロヴァキア人は元々は、Vladivostok に至る通路を邪魔されずに確保するために、武力に依拠した。
 しかし、連合国司令部が、再活性化された東部前線での、予定された連合諸国軍の前衛だと見なすに至ったからだ(注192)。6月に、彼らの使命は変化した。
 かくして、チェコスロヴァキア軍団への6月7日の挨拶文書の中で、将軍のCecek は、彼らの任務をつぎのように明確に述べた。
 「以下のことを我々の兄弟全員に知らしめたい。チェコスロヴァキア軍大会の決定にもとづき、国民会議の同意を得て、かつ全ての連合諸国との協議によって、我々の軍は協商国軍隊の前衛だと称される。また、軍隊参謀部から発せられた諸指令は、それらの唯一の目的として、全ロシア民族および我々の同盟とともに戦うロシアでの反ドイツの前線を生み出す。」(注193)
 この構想に合致するように、チェコスロヴァキアの司令部は、その能力にも動機づけにも合わない任務をチェコスロヴァキア兵団に与えた。
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 (10) チェコスロヴァキア軍団がドイツに対抗する戦線を構築するには、西から東への水平線に展開する部隊をVolga 地方とUral 地方に沿って北から南へと垂直に再配置しなければならなかった(注194)。
 それに対応して、まだ西部シベリアにいたおよそ1万人から2万人のチェコスロヴァキア軍団は、Samara の北と南で攻撃作戦に着手した。
 7月5日、Ufa を掌握した。7月21日、Simbirsk。8月6日、Kazan。
 Kazan 攻撃は、彼らのロシアでの作戦行動の最高点に位置した。
 チェコ軍団は、都市防衛に任じる、ひどく消耗した400人の第五ラトビア人連隊に退却を余儀なくさせたあと、2018年2月にボルシェヴィキが撤退していた場所でロシア帝国の財産である650万ルーブルの金の退蔵物を掌握した。それがあれば、ボルシェヴィキは、課税または強制適用穀物徴発に頼ることがなくとも、大規模の軍事作戦を行なうことができた。
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 (11) チェコスロヴァキア軍団は、活力と技量をもって戦った。
 しかし、前衛とだけしか認められていなかった。—いったい何の前衛だったのだろう?
 連合諸国は進んで助けようとはしなかった。チェコスロヴァキア軍団は寛容に指令や助言に従ったけれども。
 反ボルシェヴィキのロシア人たちも、彼らには役立たなかった。
 チェコスロヴァキア軍団は、連合諸国に急かされて、Volga 地域とシベリアのロシア人政治グループを統合しようとした。だが、これは見込みなき企てだった。
 7月15日、Komuch 代表部とOmsk 政府はCheliabinsk で会合したが、合意に達しなかった。
 意見の相違は、8月23-25日に開かれた第二回のロシア政治会議も潰した。
 ロシア人の言い争いは、チェコ軍団を憤慨させた。
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 (12) Komuch は、チェコスロヴァキア人および他の連合諸国部隊とともに戦う軍を立ち上げようとした。だが、限られた成功しか収めなかった。
 7月8日、Komuch は、将軍のCecekの総括指揮のもとにある義勇人民軍(Narodnaia Armiia)の設立を発表した。
 しかし、ボルシェヴィキも設立したとき、ロシア軍を義勇的な基盤のもとで創出することができなかった。
 農民たちは激烈に反ボルシェヴィキだったが、革命は国家に対する農民の義務を全て免除したという理由で、入隊して協力するのを拒んだ。これは、Komuch にとって、農民との関係でとくに苛立たしいことだった。
 自発的意思による3000人が入隊したあと、Komuch は徴兵へと進み、8月末には5万〜6万人を新規兵とした。そのうち3万人だけが武器をもっており、1万人だけが戦闘の訓練を受けていた(注195)。
 軍事史家のN. N. Golovin 将軍の推定では、9月初めに西部シベリアの親連合国兵団は2万人のチェコスロヴァキア人、1万5000人のUral とOrenburg のコサック、5000人の工場労働者で成っていた。そして人民軍には、1万5000人の兵士がいた(注196)。
 この多民族軍隊には中央司令部はなく、政治的指導部もなかった。
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 (13) そのあいだに、トロツキーは、東部で部隊を設立していた。
 ソヴィエト・ロシアを危うくはしないとの6月のドイツ皇帝の誓約があったために、彼は、ラトビア人連隊を西部からUral 地域へと移動させることができた。そこで彼らは、チェコ軍団と接触する最初の部隊となった。
 そしてトロツキーは、赤軍へ、数千人の旧帝制軍将校と徴兵による数十万人の兵士を入隊させた。
 トロツキーは、脱走に対する死刑の制度を再び導入し、任意に適用した。
 赤軍のチェコスロヴァキア軍団に対する勝利は、ラトビア人兵団によって最初にもたらされた。ラトビア人兵団は9月7日にKazan を再び奪取し、5日後にSimbirsk をそうした。
 これらの勝利の報せは、クレムリンを歓喜させた。これが、ボルシェヴィキにとって、心理的には、潮の変わりめだった。
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 第16節、終わり。

2837/兵庫県知事2024/03/27記者会見への前県民局長反論文(2024/04/01)全文。

 兵庫県知事・斎藤元彦の2024/03/27記者会見に対する前西播磨県民局長の反論文(2024/04/01)全文。
 出所=さとうしょういちブログ(選挙ドットコム)、2024/12/11に再掲載された。
 ●は元の掲載のまま。様式が少し変わっている可能性があるが、文章自体はそのまま引用している。最大の見出し項目のみ当欄において太字化した。
 →原掲載。
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 「報道機関各位元兵庫県西播磨県民局長です。この度はお騒がせしており申し訳ありません。先日の知事記者会見の場で欠席裁判のような形で、私の行為をほとんど何の根拠もなく事実無根と公言し、また私の言動を事実とは異なる内容で公にされましたので、以下の通り、事実関係と、自分の思うところをお伝えします。
  今回の行為に及んだ背景このことについては色々と申し上げたいことがありますが、書けば書くほど「名誉毀損だ。訴える」とまた言われる可能性がありますので省略します。一言で言うと、今の県政運営に対する不信感、将来に対する不安感、頑張って働いている職員の皆さんの将来を思っての行動です。なお、私がそう思うに至った個別の事象については、告発にある内容の調査が実施される中で明らかにされることと思います。 
 2 経緯 
 ①現体制になって、一部の職員による専横、違法行為がなされているという話を多く仄聞しました。西播磨の地にいても、そうしたことは耳に入ってくるものです。このままでいいのかなぁ、困っています、なんとかならないのかという嘆きの声として。
 既に速攻で消去(理由不明)されましたが、県のホームページの県民局長メッセージ(FB、X上には一部残っています)に後輩たちへのエールを掲載しました。ほんとに沢山の後輩達から頑張りますという心温まる返事をいただきました。その度に「ああ、彼らはこれからも兵庫県を背負っていくのだな」と。
 今の僕に彼らに対して何が出来るのかを考えた結果、役職定年前のタイミングでありながら、今回の行動に出たのです。これを機に兵庫県という組織がより良いものになる事を願って。
  ②決して自分の処遇への不平不満から出たものではありません。メッセージにも書きましたが自分自身の県庁生活にはとても満足しています。特に最後の3年間を西播磨で過ごせた事はこの上もない喜びです。ほんとに素晴らしい地域で住民の皆さんには感謝しかないです。なのに、ご迷惑をおかけし、また心配もしてくださっていることになんとお詫びを申し上げたらいいか。 既に退職後の行き先も県とは無関係のところに決まっていましたが、先方には迷惑をおかけしてしまいました。
 ③また、今回の内部告発の文章作成を一部勤務時間(3時間程度)に行ったことについては職務専念義務違反の認識はありました。この点については言い訳いたしません。県民の皆さん、申し訳ありませんでした。(でも、県民局長は土日休日出勤がかなり多いのに代休が取れない中で、平日の合間時間を3時間ほど活用させてもらったと言ったら大目に見ていただけませんか? それに年休も有り余っているんです)
 ④情報収集から告発文作成、配付まで、全ての作業を私一人で行いました。もっとスマートにやる方法もあったとは思いますが、誰にも相談せずにやりましたので野暮ったいやり方になってしまいました。(今時、職場のPCを使ってこんなことをするなんてアホかと何人もの人から言われました)
 ⑤本来なら保護権益が働く公益通報制度を活用すればよかったのですが、自浄作用が期待できない今の兵庫県では当局内部にある機関は信用出来ません。
 ⑥今回の内部告発の内容については、情報の精度には差があり、中には一部事実でないものもあるかも知れません。ただ、事実でないものについては配付先から世間に出回ることはないだろうという判断から、可能な限り記載することにしました。
 守秘義務違反とは職務上知り得た秘密を漏らすことであり、秘密とはすなわち真実です。内部告発の中の真実については、それは即ち私の違法行為となる可能性が高いです。それは十分に理解しての行動です。
 真実でない内容については名誉毀損の疑いがあるものの、公然と不特定多数への周知を行った訳ではありませんし、文章末には配付先の皆さんへ取扱注意をお願いしています。また、真実の公表についても公益性の観点から名誉毀損の問題はないだろうと判断しました。
 マスコミ関係者の配付先を極端に絞ったことは、配付されなかった方々にはとっては心外と思われたことと思います。名誉毀損となる可能性(公然の基準)を少しでも抑えようとしたためであり、ご理解をお願いします。関係者の皆さん申し訳ありませんでした。
  3 手続き・記者会見での問題点
 ①今回の事案について、私と人事当局間でなされた意味のあるやり取りは、私の職場PCが押収された直後の3月25日午前11時30分頃に、●●職員局長へ電話で「告発文は自分一人で作成した。他に関係者はいない」と伝えたことのみ。26日電話により情報の入手経路についての漠然としたやり取り(この資料上は論点外)があったのみです。
 いつ作業したか、どこにどんな方法で送ったか、告発文の内容の真偽についてどう思っているのかなどは全く聴取されていません。一番肝心の動機ですら聴取されていません。
 ②3月27日9時30分からの人事異動の辞令交付の際、私から片山副知事、●●総務部長に「内部告発文にある内容をきちんと精査してから対応してくれ」と要請しました。
 一方、その際、この事案に係わる記者発表があることも私に告知しませんでした。にも関わらず、この段階で、
 《問題点》③私への事情聴取も内部告発の内容の調査も十分なされていない時点で、知事の記者会見という公の場で告発文書を「誹謗中傷」、「事実無根」と一方的に決めつけ、かつ信用失墜行為である、名誉毀損の告訴・(守秘義務違反の)被害届を検討するなどの発言をしたこと・そもそも名誉棄損の要件である「公然と事実等を適示」していません。・信用失墜したのは、私なのか、告発文に出てくる者達なのかは全ての事実が判明した後でないと判断できないはずです。・このような生煮えの状態で公にしなければよかったのではと思いますが。
  ④事実無根かどうかは現時点では不明ですし、私はメールしていないにもかかわらず、MBSが「事実無根のメールを流布した疑い」と報道したこと 根拠のない報道ならMBSを名誉毀損の相手方にしますし、MBSが職員の誰かからの情報に基づくものなら、「それが誰か」を問題とします。また現にメールが届いた職員がいるなら証拠を公表して下さい。
 {参考}MBSネットニュース「事実無根のメール流布した疑い」兵庫県が幹部職員の退職を先送りする異例の人事異動 調査を継続へ兵庫県によりますと、男性幹部職員は、業務時間中に仕事用のパソコンで、職員らの人名をあげて、その尊厳を傷つけるような内容などの文章を作成、メールなどで送り、一部は名指しされた職員ら本人にも届いていたということです。3月22日に県が文章を確認、聞き取ったところ、男性職員が行為を認めたということです。
 ⑤「ありもしないことを縷々並べた内容を作ったことを本人も認めている」という知事の発言がありました。また、それを受けての報道もありますが、私自身がそのことを認めた事実は一切ありません。そもそも告発文はできるだけ事実に基づいて書いたつもりです。
 ③~⑤について、・これらの知事発言により、記者会見の場では、告発文の内容の真偽について、私が事実無根であると認めていることが前提となってしまったのではないでしょうか。告発内容が大半のマスコミの方は分からない訳ですから当然です。
 ・これらの行為こそ、私に対する名誉毀損である可能性が高いのではないでしょうか。
 ・一連の人事考査の手続きのどこに重大な瑕疵があったのでしょうか。私が人事課に在籍していた頃はこのような事務処理はあり得ませんでした。
 ・私の反論する場も設けずに、現時点で一方的に公にされるのは不当ではないでしょうか。
 ・特にMBSについては徹底的な事実確認を求めます。
 ・ここまで言い切ったのですから、直ちに事実無根を証明できる根拠を示して下さい。
 ・なお、人事課が発表した「文書を作成したと本人が認めたので、懲戒免職の対象となる可能性がある」ということと、知事の「(懲戒免職の対象となる)誹謗中傷・事実無根の文書を作成したと本人が認めている」ということは全く異なります。
 ・知事は必要な情報の開示を全くせず、曖昧かつ誤解を与える発言を行うことにより、事実とは異なる内容をそれこそ“流布”したことになります。このような杜撰な会見で、人間が一人、社会的に抹殺されようとしています。そのことを十分に理解すべきです。
 ⑥パソコンを押収され、また、今の自分の状況から、告発文を皆さんに配付することが難しい状況です。
 内部告発内容にやましい所がないのであれば、正々堂々と人事当局から報道機関に資料配付を行うべきです。(取扱いの協定を結べば可能なはずです。)
 この状態が続くと私がいかにも事実無根の誹謗中傷を撒き散らしたかのように世間で思われ続け、不公平です。心配して連絡を頂いた方にも告発内容は伏せ続けています。「内容は分からないが、君がやったことやから信じるわ」と言われると心が痛みます。
 ➆人事当局は私の行為に関する調査ではなく、もっと大きな違法行為、信用失墜行為についての事実関係を早急に調査すべきです。関係者に人事当局に関わる職員が在籍しているのであれば、無実が証明されるまでは人事上の措置(この事案からの排除など)が必要と思います。調査にあたっては、第三者委員会を設立するか、司法による調査・捜査をすべきです。お手盛り調査、お手盛り処分は御法度です。
 名誉毀損罪については告訴を、地方公務員法違反(守秘義務違反)については被害届を一刻も早く警察に提出し、司法の捜査に委ねませんか。これが一番合理的かつ効果的です。
  ➇守秘義務違反で罪を問われるのは私一人です。 今回の内部告発の秘密にあたる部分は県職員、元県職員に関するものであり、対外的な漏洩を行った私の責任です。
 私のところに情報が届くまでのプロセスは問題にすべきではないと考えます。 
 一般県民とは関わりのない事柄についてのローカルエリアの職員間の世間話、内輪話についてまで厳密に守秘義務違反を問うことは明らかにやり過ぎです。ましてや違法行為、不適切行為に対する義憤からなされたことならば。
 この点の全庁調査を実施したり、厳密に禁止する事は「綱紀粛正」ではなく「恐怖政治」の始まりです。そうなると職員は委縮し、組織が疲弊し ます。職員に良かれと思ってやったことが逆に職員を苦しめる結果になることは辛すぎます。
 私が言うのも筋違いですが、常識的な判断・行動を人事当局にはお願いします。  
 私が行った内部告発の内容のような行為こそが綱紀粛正されるべきことです。  
 全ての職員が元気に楽しく仕事出来る健全な職場になることを心から願っています。それが長年お世話になった兵庫県という組織への私の恩返しになると思っています。  
 以上が私の申し上げたいことです。現在置かれている状況もご配慮いただき、適切に取扱っていただけたらと思います。よろしくお願いします。
  令和6年4月1日元西播磨県民局長 ●●●●
 連絡先:●●●●●●@docomo.ne.jp※問い合わせはメールアドレスまでしていただけたら幸いです。
 (追記)全てを書き終え、傍らの新書からこぼれ出た栞をふと見ると、そこには人の心のありようについて説いた「ニーバーの祈り」が 神よ、変えてはならないものを受け入れる冷静さを、変えるべきものは変える勇気を、そして変えてはならないものと変えるべきものとを見分ける知恵を我に与えたまえ。 こんなタイミングにこんな言葉に出会うなんて…。後輩職員達への最後のエールとしてこの言葉を送ります。」
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2836/R.パイプス1990年著—第14章㉗。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第15節/Riezler によるドイツの政策転換の失敗②。
 (08) 恩赦と本国帰還の約束でもってラトビア人の中立を確保するという提案をしても、Riezler にも好い事がなかった。
 この計画は、多数の者の中でとくに、Ludendorff によって否定された。彼は、ボルシェヴィキのプロパガンダがラトビア人を「汚染」するのを怖れていた。
 外務省の新しい大臣のPaul von Hinze は、Kuelmann を継承し、レーニンとの協力にさらに深く関与していて、もう聴取する必要がなかった。
 彼はモスクワの大使館に対して、ラトビア人との会話を止めるよう指示した(注181)。
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 (09) ボルシェヴィキの崩壊という事態に備えておくために、外務当局は、それ自身の非常時対応計画を策定した。
 親連合国の左翼エスエルがロシアで権力を掌握すれば、ドイツ軍はフィンランドから立ち上がり、Murmansk とArchangel を奪取する。そして、ペテログラードおよび Vologda を占拠する。
 言い換えると、悲観主義者の予測が正しかったことが判ると、ボルシェヴィキにとどめの一撃を加えたり、別のロシア人グループに置き換えるのではなく、ドイツは進軍して、おそらくはボルシェヴィキに権力を回復させる(注182)。
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 (10) Helfferich は、自らの政府の親ボルシェヴィキ政策を実行すると決意して、モスクワに着いた。
 しかし、すぐに、大使館員はほとんど全員が、その考えに反対していることに気づいた。
 到着した夕方に大使館員から受けた状況説明と限られた個人的観察によって、彼はその考えを変えるようになった。
 7月31日の午後、短い滞在中で初めて厳格に警護された大使館地区の外に出て、Chicherin を訪問した。そして、ウクライナでの左翼エスエルによる陸軍元帥Eichhorn 殺害と、大使館員に対して左翼エスエルからの脅迫が継続していることに、抗議した。
 同時に彼はChicherin に、ドイツ政府は支援を継続するつもりだと保証した。
 彼がのちに知ったことだが、Chicherin との会談の数時間後に、クレムリンで会合が行なわれ、レーニンは同僚たちに、信頼は「一時的に」失われた、モスクワを退避するのが必要になった、と言った。
 この会合が進行しているあいだにChicherin が到着し、Helfferich がついさっきドイツの後援を保証した、と伝えた(脚注)
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 (脚注) Baumgart, Ostpolitik, p.237-8. レーニンは政府の所在地をNizhnii Novgorod へ移すことを計画していた、と見られる。同上, p.237,注38。
 レーニンは1920年にBertrand Russell に対して、2年前には自分も同僚たちも自分たちの体制が生き残る可能性があるとは思っていなかった、と語った。Bertrand Russelll, Bolshevism: Practice and Theory (New York, 1920), p.40.
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 第16節/連合諸国によるロシアでのいっそうの諸活動①。
 (01) 8月1日にクレムリンがイギリス海軍がArchangel への射撃を開始したとの報せを受けたとき、クレムリンの雰囲気はすでに十分に絶望的だった。
 この砲撃は、連合諸国による大規模なロシアへの干渉の始まりだった。
 ドイツの意図に関する情報以上に連合諸国のそれに関する情報をもっていなかったロシア政府は、連合国は確実にモスクワへと前進するつもりだと考えた。
 ロシア政府は完全に動転し、ドイツの腕の中に飛び込んだ。
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 (02) 思い出されるべきことだが、連合諸国は1918年3月にボルシェヴィキ政府と、北部(Murmansk とArchangel)と極東(Vladivostok)でロシア領土に上陸することを議論していた。これらの港湾をドイツから守ること、ロシアで予定された連合諸国の基地を確保すること、が目的だった。
 その見返りに、連合諸国はロシアが赤軍を組織し、訓練するのを助けるものとされた。
 しかしながら、連合諸国は行動するのが遅かった。
 彼らは三都市に僅かばかりの派遣部隊を上陸させ、トロツキーが長である戦争人民委員部に僅かばかりの将校を配属した。だが、ドイツの攻撃の全力が彼らに向けられているときに、大規模の兵士をそこに割くことはできなかった。
 アメリカ合衆国だけに、必要な兵士がいた。しかし、Woodrow Wilson 大統領はロシアへの介入に反対しており、そうである限り、何もすることができなかった。
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 (03) 実質的にはWilson 大統領がチェコ人の蜂起を知って考えを変化させた6月の初めに、極東の状況が再び活性化する展望が開けた。
 アメリカ合衆国にはチェコとスロヴァキアの送還者を助ける道徳的義務があると感じて、彼は、イギリスからの要望に従い、Murmansk-Archangel およびVlaivostok への遠征のための兵団を派遣することに同意した。
 この作戦実行のためのアメリカ兵団には、ロシアの国内状況に干渉するな、との厳格な命令が発せられた(注183)。
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 (04) ヴェルサイユの連合国最高司令会議は、アメリカ政府の決定を知って、イギリスの将軍であるF. C. Poole の指揮する連合国遠征軍を派遣することを命じた。
 Poole は、港湾都市の防衛、チェコ軍団との接触、そのチェコ軍団の助けを借りてのArchangel 南方の鉄道の支配、親連合国軍隊の組織、を指示した。
 ボルシェヴィキと戦闘することについては、何も語られなかった。Poole の兵団に言われたのは、「我々は内政には干渉しない」、だった(注184)。
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 (05) この連合諸国の決定は、その後、ロシア北部の港湾にはドイツの本当の脅威は存在しなかった、脅威となる行動のできるフィンランドのドイツ軍はいずれにせよ8月初旬に撤退して西部前線へと投入されていた、といった理由で、批判されてきた。
 こうした批判が含意しているのは、ロシア北部への遠征の本当の理由は、ボルシェヴィキ体制を転覆させることにあった、というものだ(注185)。
 この責任追及は、擁護することができない。
 ドイツの文書資料から、つぎのことが知られている。ドイツの最高司令部は実際に、ドイツ兵団だけによるにせよフィンランドとボルシェヴィキの兵団と合同してにせよ、北部の港湾への攻撃を考えていた。
 この攻撃作戦は、Murmansk とArchangel を支配することでドイツは連合諸国がロシア領土に入ることを拒むことができ、そうして極東の状況を再活性化する計画を挫折させたであろうから、きわめて合理的なものだった。
 ドイツ政府はこうした目的をもって、1918年5月遅くにIoffe との交渉をし始めた。
 この会談はやがて決裂した。その理由は、一つはボルシェヴィキとフィンランドが協力する条件に同意できなかったことにあり、もう一つは、ドイツが作戦行動の基地として、ロシアが同意しないだろうペテログラードの占領を強く主張したことにあった(注186)。
 しかし、こうしたことを、連合諸国は予見できなかった。2ヶ月のちにドイツはフィンランドから兵団を撤退することを連合諸国は6月に知った、ということ以上に、予見できなかった。
 連合諸国が1918年にロシアに兵団を派遣するに際して、彼らはロシア・ボルシェヴィキ政府の打倒を意図した、ということを示す証拠はない。
 この作戦で重要な役割を果たしたイギリスは、公的にも私的にも、ロシアを統治している政府の性格に関する関心を、完全に欠如させていた。
 イギリス首相のDavid Lloyd George は、1918年7月22日の戦時内閣の閣議で、ロシア人がいかなる種類の政府を樹立したかはイギリスの関心事ではない、と素っ気なく宣言した。共和国、ボルシェヴィキ国家、あるいは君主制のいずれであれ(注187)。
 Wilson 大統領も同じような見解だったことが、示されている。
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 (06) 連合諸国の遠征隊は、最初は8500人の兵団で、うち4800人はアメリカ人だったが、8月1-2日にArchangel に上陸した。
 Poole 将軍は8月10日に、つぎの指令を受け取った。「ドイツによる影響と浸透に抵抗する目的をもってロシアを復活させることに協力せよ」、そして、彼らの国を回復するために「ロシア人が連合諸国と一緒になって闘いに参加するのを助けよ」(注188)。
 彼はさらに、チェコ軍団との連絡手段を確立せよとの指令も受けた。東部に向かう鉄道路線を彼らとともに確保し、ドイツと戦う軍隊を組織するためにだ(注189)。
 これらの指令の言葉遣いは広く解釈され得るもので、6月3日の指令よりも曖昧な目的を示していた。そしてまた、「北部ロシア遠征隊の将来は、ドイツではなくボルシェヴィキと戦うことにある」と述べる根拠を何ら提示していなかった(注190)。
 当時、ボルシェヴィキは、相当の程度において、ドイツの協力相手だと見られていた。ボルシェヴィキはドイツから資金を受け取り、一度ならずドイツに対して、ロシアの世論だけがドイツと正式に同盟するのを妨げている、と述べた。
 イギリスとフランスは、それらのモスクワの工作員を通じて、ドイツ大使館の役割はボルシェヴィキを生かし続けることにあるとの情報を得ていた。
 1918年の連合諸国のボルシェヴィキに対する行動をドイツに対するそれと別のものとして理解するのは—対比させるはむろんのこと—、当時の認識状況と雰囲気をいずれも誤解することになる。
 かりにPoole の任務がボルシェヴィキと戦うことだったとすれば、彼にはきっとその趣旨の、紛らわしくない指令が発せられていただろう。そして、彼は、モスクワの反ボルシェヴィキ集団との意思疎通手段を確立していただろう。これを示す証拠はない。
 存在する証拠が示しているのは、逆に、連合諸国のロシア北部への遠征部隊の任務は、チェコスロヴァキア人や日本、および参加する意欲のあるロシア人と協力して、ドイツと戦う新しい前線を構築することにあった、ということだ。
 この任務は、世界大戦の最終段階と密接に関連した軍事活動だった。
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 第16節②へつづく。

2835/菅野完の(と)「市民」運動①。

  この欄の「菅野完」への言及を検索してみると、つぎの著を前提にし、かつ「日本会議」または<保守>・<左翼>を主題にした文章投稿で、三回、この人の名を付随的に出している。
 菅野完・日本会議の研究(扶桑社新書、2016)。著者・菅野完、1974年生まれ。
 この著は20-30万部売れ、「日本会議」本の先駆になったともされる。
 おそらく少なくとも概略は全部読んだ。そして、当時の私はすでにある程度は、この本の叙述内容について知っていたような気がする。
 →No.1377(2016/07)→No.1629(2017/07)→No.1660(2017/07)
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 当時に気にしていたのは、上の著が扶桑社新書の一つとして刊行されていることの不思議さだった。
 当時は<新しい歴史教科書をつくる会>の分裂に関心があった。そして、その名を継承した団体の新教科書の発行元は自由社で、分裂したもう一方の八木秀次らの新団体の教科書の発行元は育鵬社になった、という知識があった。
 また、育鵬社の上部会社は「扶桑社」で、かつ産経新聞社グループは、雑誌「月刊正論」も含めて、ときには西尾幹二や藤岡信勝を起用しつつ、主としては新団体=教育再生会議の側の味方をした、という知識もあった。むろん、「日本会議」は明確に後者の側に立った。西尾幹二は、日本会議や日本青年協議会を、少なくとも「分裂」の数年後までは、激しく批判・罵倒していた。
 ついでながら、安倍晋三が後者の側に立って八木秀次らを厚遇したのは屋山太郎らの働きかけと安倍の無知・無関心に起因するのだろうと、当時は何となく推測していた。
 しかし、当時とその後に書かなかったが、安倍晋三は小泉純一郎に重用され、彼の後継者として登場したのだから、小泉を「狂気の宰相」と称した書物を刊行した(かつ「郵政選挙」で城内実らの<反小泉・造反>グループを支持した)西尾幹二の名を知らなかったはずはなく、良い印象を持っていなかっただろう。むしろ、「日本会議」の支援を受ける自らに対する「敵」だと、西尾幹二・藤岡信勝グループを意識した可能性も高い(安倍晋三と産経グループの日枝久との関係もあったかもしれない)。
 余談を挿入したが、ともあれ、菅野完の「日本会議」に関する批判的分析本が、親日本会議と推察されなくもない産経グループの扶桑社から出版されているのは、当時の私には奇妙だった。日本会議批判者=「左翼」だと二元的に判断して、菅野完を「左翼」の一人だと想像したような気もする。
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  上の時期から10年近く経て、菅野完を「斎藤元彦(兵庫県知事)批判者」として知るようになった。
 かつまた、2025年2月24日に神戸市で「県民集会」を成功させた、「兵庫県政を正常に戻す会」の「相談役」は、菅野完だった。
 むしろ、「正常化する会」設立の唯一の発起人であり、その会の規約(会則)の草案すら用意していたのは、菅野完だった。したがって、彼自身はかなり遠慮した話し方も設立後はしているが、私には、菅野完はかなりの程度、上記の会(菅野によると「市民」運動団体だとされる)の創設者だと思える。
 じつは私は、上記の団体の主張・見解あるいは感覚に、ほとんど賛同している。仔細はむろん省略して、斎藤元彦も、立花孝志も、「異常」だ。だから、菅野完のYouTube発信・投稿も、かなり熱心に視聴してきた(なお、伊東乾のブログでの早くからの斎藤元彦批判・分析も、読んでいる)。
 だから、「兵庫県政を正常に戻す会」の今後に、大いなる関心を持っている。一度だけの、2月24日の「県民集会」開催で終わるのではないことが明言されてもいるからだ。
 上の関心は、純粋な?「市民」運動、「市民」団体が日本の政治状況(政党・既存の「政治」団体の環境)の中でどの程度成立するのだろう、という関心と幾ばくかの危惧につながっている。
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 2025年2月24日の「県民集会」は成功裡に終了したようで、準備会開催からわずか40日でこれができたのは、兵庫県民(および日本国民)の兵庫県政への関心の強さとともに、これを主導した菅野完等々の非凡な能力とこれまでの経験の蓄積によるところが大きいと思われる。
 だが、100パーセント、無条件で支持するというのではなく(「反カルト思考」からすると当然だろう)、全国に同時配信されていたこの「県民集会」の内容、とくに登壇者の選定には、奇妙さと懸念を感じるところもある。
 菅野完という人物にも、強い興味と関心をもっている。なかなかの人だ。
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2834/R.パイプス1990年著—第14章㉖。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第15節/Riezler によるドイツの政策転換の失敗①。
 (01) ドイツ大使館の責任者になっていたRiezler は、同僚の何人かから、混乱していて上の空だと見なされていた(注167)。
 彼は日常的な外交事務にはほとんど時間を使わず、ロシアの対抗グループとの交渉に多くの時間を費やした。その仕事を、ドイツ政府は、7月1日でやめるよう指示した。
 彼は指示に従ったが、ボルシェヴィキは長く続かず、ドイツはボルシェヴィキの潜在的な後継者とのあいだの接触を必要とする、という変わらない信念があった。
 Mirbach 殺害への彼の最初の反応は、ロシア政府との関係を切断することを促すことだった(注168)。
 この助言は、却下された。そして、ボルシェヴィキを助けるのを継続するよう指示された。
 彼は1918年9月に、十分に考察することなく、こう述べることになる。ドイツは、ボルシェヴィキを救うべく、三つの場合に「政治的」手段を用いた、と(注169)。
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 (02) Riezler は、ドイツ政府からの命令を履行しながら、外務当局を、ボルシェヴィキは消耗し果てた軍隊だ、と電信で伝えて責め立てた。
 7月19日の電信では、こう送った。
 「ボルシェヴィキは死んでいる。
 埋葬すべき者に墓掘り人が同意できないがゆえに、ボルシェヴィキの遺体は生きている。
 協商国とともに現在わが国がロシア領土で展開している闘争は、もはやこの遺体のためになってはいない。
 この闘争は、後継に関する闘争へ、将来のロシアの方向に関する闘争へと変わっている。」(注170)
 ボルシェヴィキはロシアを無害にしてドイツに譲り渡した、ということに彼は同意したが、同様に、ボルシェヴィキは、無益なものにしてそうした(注171)。
 彼が推奨したのは、ドイツが「反革命」を担当し、ロシアのブルジョア勢力を援助することだった。
 このためには、ボルシェヴィキを排除する最小限度の努力が必要だ、と彼は考えた。
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 (03) 自分一人で考えて、Riezler は、反ボルシェヴィキのクーのための基礎作業を設計した。
 第一段階は、モスクワに制服を着たドイツ人の大隊を駐屯させることだった。
 この大隊の表向きの任務は、大使館を将来のテロリズム行為から防御すること、新しい反乱が起きたときにボルシェヴィキを助けること、になるだろう。
 本当の目的は、ボルシェヴィキの権力が崩壊する、またはドイツ政府がボルシェヴィキを権力から排除すると決定するときが来る場合に、モスクワの戦略的地点を占拠することだろう(注172)。
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 (04) ドイツ政府は、大隊をモスクワに派遣することに同意したが、それはソヴィエト政府がそれを承認する場合に限られた。
 ドイツ政府はまた、Riezler に、ラトビア人ライフル兵団の意図を探るために彼らとの控えめな会話を開始する権限を与えた。
 ラトビア人と良好な関係を築いていたRiezler は、寝返る用意はあるか、と尋ねた。
 ある、というのが答えだった。
 ラトビア人の司令官のVatsetis は、1918年の夏の彼の考えを次のように叙述している。
 「奇妙に感じられるかもしれないが、当時、つぎのことが語られていた。中央ロシアは内戦の舞台になるだろう。ボルシェヴィキの権力保持はほとんど不可能だろう。飢餓に陥る犠牲者が発生し、国の内部に一般的な不満がある。
 ドイツ軍、Don コサック、チェコ人の白軍がモスクワで行動する可能性を排除することはできなかった。
 この最後の見方は、当時にとくに広がった。
 ボルシェヴィキはその権力のもとに、戦闘可能な軍事力を有しない。 
 最高軍事会議の軍指導者のM. D. Bonch-Bruevich が知的かつ賢明にその編成を作り上げた部隊は、ヨーロッパ・ロシアの西部地域の飢餓のために、食糧を求めて散在し、ソヴィエトの権威にとって危険な強盗団に変わっている。
 このような軍隊は—かりにこの立派な言葉を使うとすれば—、ドイツ兵のヘルメットを見るや否や逃亡した。
 西部国境では、反抗的な赤色部隊を鎮圧するためにドイツ軍が求められるという事例が起きた。…
 このような考察や風聞の全てとの関係で、私は、ドイツの介入がさらにあれば、またコサックと白軍がロシア中央部に出現すれば、ラトビア人兵団にはいったい何が起きるのかという問題にひどく苦悩していた。
 このような可能性は、当時は真剣に考慮されていた。
 ラトビア人ライフル兵団は完全に壊滅するに至るかもしれなかった。…」(注173)
 Riezler は彼が語ったことから、以下を知った。すなわち、ラトビア人はドイツが占領する彼らの故郷に帰還することを不安に感じている、そして、恩赦と本国帰還が保証されれば、ドイツがボルシェヴィキに反対して介入した場合に、彼らは少なくとも中立を維持する(注174)。
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 (05) Riezler は右派センターとの会話も再開した。
 新しい代表者のGrigorii Trubetskoi 公—帝制ロシアの戦時中のSerbia 大使—は、ロシアからレーニンを排除するためのドイツの迅速な援助を要請した。
 彼はそのグループの協力について、いくつかの条件を付けた。
 第一。ドイツは、ロシアがウクライナに軍事力を集結させることを許容すべきだ。そうしてこそ、モスクワはドイツ人によってでなくロシア人によって解放される。
 第二、ブレスト条約の改訂。第三、ボルシェヴィキに替わる政府に圧力を加えないこと。第四、世界戦争でのロシアの中立(注175)。
 Trubetskoi は、そのグループには、武器だけを必要とする、戦闘意欲のある4000人の将校がいる、と主張した。
 時間の問題が、最重要だった。ボルシェヴィキは、定期的な将校の「人狩り」を行なっており、毎日数十人を処刑していた(注176)。
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 (06) Mirbach の後継者のKarl Helfferich がモスクワに着く(7月28日)までに、Riezler は、本格的なクー・デタの計画を立てていた。
 いったんドイツの大隊がモスクワを掌握すれば(市を警護するラトビア人ライフル兵団は恩赦と本国帰還の誓約があるので中立化している)、ボルシェヴィキ政府の崩壊をもたらすには大した時間を要しない。
 これに続くのは、ウクライナのHetman Skoropadski 体制に範をとった、完全にドイツに依存したロシア政府の樹立だ(注177)。
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 (07) Riezler の計画は、無に帰した。
 計画の重要な事前想定であるモスクワへのドイツの大隊の配置は、レーニンに拒否され、ドイツ政府によって中止された。
 Hindenburg の圧力に屈して、ドイツ政府はソヴィエト政府に対して、一通の覚書を送った。それは7月14日夕方に、Riezler からChicherin に手渡された。
 覚書は、制服を着た大隊をモスクワに派遣することを提案するにあたって、ドイツにはソヴィエトの主権を侵害する意図はない、ということを保証した。派遣の唯一の目的は、ドイツの外交人員の安全を確保することだ。
 覚書は、さらにつづく。新たな反ボルシェヴィキ蜂起が生起すれば、ドイツの大隊はロシア政府がそれを鎮圧するのを助ける(注178)。
 Chicherin は、街の外で休んでいるレーニンにドイツの覚書を伝えた。
 レーニンはすぐに、ドイツの策略を見抜いた。
 その夜にモスクワに戻り、Chicherin と協議した。
 これはレーニンが譲歩することのできない問題だった。彼は、ドイツが自分の権力を脅かすことをしないかぎりでこそ、望むものはほとんど何でもドイツに与えただろう。
 レーニンは翌日、中央執行委員会で覚書を発表した(注179)。
 そして、ロシアはその領土内に外国の兵団を認めるよりもそれと戦うことを欲するのだから、ドイツはその提案に固執しないことを望む、と言った。
 彼は、ドイツ大使館の安全を確保するために必要な全ての人員を提供することを約束した。
 そして、広範囲の通商関係という餌を提示した。それは、ドイツの事業界の利益が影響を受けるように彼に代わって誘導するするための手段だった。それを実体化したのは、翌月に締結された補足条約だった。
 ドイツが本当に決意していた場合に、レーニンが抵抗できたかどうかは疑わしい。今では、ドイツの全ての要求に応えていた2月よりも、さらにレーニンは弱かった。
 しかし、レーニンは試されなかった。ドイツの外務当局は、彼の反応を知らされて、すぐにRiezler の提案を却下したからだ。
 ドイツ政府はRiezler に、「ボルシェヴィキを支援することを継続し、それ以外の者たちとはたんなる『接触』を維持する」よう命令した。
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2833/R.パイプス1990年著—第14章㉕。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第14節/Iaroslavl の蜂起。
 (01) Perkhurov には、Iarosval 反乱を綿密に準備する時間がほとんどなかった。にもかかわらず、突然に、ボルシェヴィキの諸機関を奪取した(注159)。
 行動開始は7月6日の午前2時で、将校たちの分遣隊が、市内の重要地点を掌握した。兵器庫、軍事司令部、銀行、郵便局。
 別の分遣隊は、ボルシェヴィキの指導者とソヴィエト官僚の逮捕へと進んだ。彼らの中には、射殺された者もいた、と言われている。
 地方の赤軍学校の教師として雇われていた将校たちは、すみやかに反乱者の味方になり、若干の機関銃と装甲車を提供した。
 Perkhurov は、北部義勇軍のIaroslavl 支部の司令官だと称した。
 この最初の作戦行動には、ほとんど抵抗がなかった。そして、日没までには、市の中心部は反乱軍の手に落ちた。
 まもなく、他の者たちも、反乱軍に降伏した。この者たちの中には、軍隊員、学生、労働者、農民がいた。
 ある共産主義歴史家の見積りでは、Iaroslavl 蜂起への6000人の参加者のうち、1000人程度だけが将校だった(注160)。
 これはボルシェヴィキ体制に対する純粋な民衆蜂起であり、近傍の村落からの農民たちはとくに友好的だった。
 反乱軍は、迂回して母国に戻る途中でちょうどIaroslavl を通っていた、ドイツの戦争捕虜団の協力を得ようとした。だが、断られたので、彼らを市立劇場に収容した。
 7月8日、Perkhurov は彼らに対して、自分の軍は中央諸国と戦争状態にある、と知らせた(注161)。
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 (02) ともに300〜400人が関与していたMurom とRybinsk での蜂起は、数時間で壊滅した。これに対して、Iaroslavl のPerkhurov は、16日間、持ちこたえた。
 郊外に集結した親ボルシェヴィキ軍は、次の夜に反攻を企てたが、市の再掌握をすることに失敗した。
 親ボルシェヴィキ軍は市街に激しい爆撃を行ない、水の供給施設を破壊した。赤軍がVolga 河への道路を支配しており、それが唯一の水源だったので、反乱軍に対しては厄災的な効果があった。
 一週間程度の断続的な戦闘のあと、トロツキーは、Iaroslavl での作戦行動の任務を、A. I. Gekker に委ねた。この人物は、十月のクーの前夜にボルシェヴィキに屈した旧帝制軍の大尉だった。
 Gekker は、歩兵、砲兵および航空機で市街を攻撃した。
 激烈な砲撃によって、市街のほとんどが、名高い中世の教会や修道院を含めて、完全に破壊された。
 反乱軍は、水不足でどぶ溝から掬って飲んでいたのだが、最終的には降伏しなければならなかった。
 7月20日、彼らの代表はドイツ帰還委員会に近づいて、降伏したいと宣言した。ドイツとの戦争状態にあったために、戦争捕虜として扱われるのを望んだわけだ。
 ドイツ帰還委員会は条件を受け入れて、反乱軍を赤軍へと引き渡さないと約束した。
 7月21日、反乱軍は武器を置いた。そして、数時間で、Iaroslavl は、ドイツ戦争捕虜団が占拠するところとなった。
 しかしながら、その夜、ボルシェヴィキからの最後通告に直面したドイツ人は、約束を破り、収監者としてボルシェヴィキに引き渡した。
 赤衛軍は、およそ350人を元将校、裕福な市民、学生に振り分けて、市の外に行進させ、そこで彼らを射殺した(注163)。
 これは、ボルシェヴィキが行なった、最初の大量殺戮だった。
 Iaroslavl 蜂起の一つの帰結は、ロシア政府が旧帝制軍の将校たちの無差別の逮捕を命じたことだった。彼ら将校の多くは、審問なしで射殺された。他の者たちであれば赤軍へ入隊させられていたのであっても。
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 (03) Savinkov は、Rybinsk から何とか逃げた。
 のちに、提督Alexander Kolchak の軍に加わり、ボルシェヴィキの後方からする襲撃を組織した。
 Kolchak が敗北したあと、彼は西ヨーロッパに逃亡した。そして、反ボルシェヴィキ運動を熱心に組織し、ソヴィエト同盟へと工作員を送り込んだ。
 1924年8月、レーニン主義の後のソヴィエト・ロシアで重要な役割を果たすという幻想を抱いていたが、GPU(チェカの後身)によって誘い込まれ、非合法に国境地帯を横断した。
 すみやかに、逮捕された。
 その年ののちの公開の審問で、彼は冒した犯罪の全てを告白し、自分の破壊活動には連合諸国の関与があると強調し、容赦を求めて弁明した。
 死刑判決は、10年間の収監に変更された。
 彼は翌年に、監獄で死んだ。きわめて疑わしい状況のもとで。
 公式には、自殺した、とされた。しかし、GPUによって殺害された蓋然性が高い。—若干の報告によると、窓から突き落とされた(注164)。
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 (04) Perkhurov も、Kolchak 軍に加入した。そこで、将軍の地位にまで昇り、Perkhurov-Iaroslavskii という通称を得た。
 ボルシェヴィキに捕えられたとき、彼は何とか人物を偽装し、赤軍の中で仕事を得た。
 本当の素性は、1922年に暴露された。
 最高審問所の軍事部で審理され、死刑の判決を受けた。
 彼は監獄で告白書を書かされ、それはのちに公刊された(注165)。
 GPUは、地下牢で彼を殺すことをしないで、Iaroslavl へと送った。
 Iaroslavl は蜂起の四周年記念日で、Perkhurov は、群衆に罵倒されながら、岩を投げつけられながら、街路を行進した。そのあとで、処刑された。
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 第14節、終わり。

2832/増山誠・兵庫県議会議員(維新)2025/02/23記者会見(一部)②。

 増山誠・兵庫県議会議員(維新)2025/02/23記者会見(一部)②。
 出所—当日のYouTube ライブ配信(2025/02/23)。
 太字化、最終文責は掲載者(秋月)
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 記者「当時、知事選の前に、その斎藤さんのパワハラで、元県民局長が亡くなったという、これはデマだと思いますけれども、それを打ち消したいが為に、公用パソコンの中にあった情報を今回事実として提供された、ということなんですけど、なぜこの事実を提供すると、前段の。そのデマの部分が否定されるのか、というのが繋がらないんですが、どうリンクするのか、教えてもらってもよいでしょうか」。
 増山「それは私なりの感覚、というか思いでありまして、やはり、…パワハラではないというところが、まったく事実と違うということで、一つの要因として、…何でしょうね、そういった、…まあ公用PCの内容についてクーデターですとかそういったいたものがあったということで、何か否定される可能性があるのではないかというふうに感じたまでですので、これがあれが絶対に否定できるという確たるものがあって言うことではなく、まあ広く情報を提示していくことによって、クーデターですとか、そういったことの〔を〕県民の皆さんが広く知ることができることがいい事だと思っていた、ということですね」。
 記者「今の説明だとやっぱり繋がらないんですけど。斉藤さんのパワハラで元県民局長が亡くなったというデマを打ち消すために、より強いファクトをぶつけることでそちらに意識が行くようにしたかった、ということなのか、それとも先ほどから出ている女性関係の話が、これ立花さんの言い分ですけど、表に出ることを恐れて元県民局長が亡くなった可能性があるからそちらを知らしめたかったのか、増山さんはどちらの意図、もしくはまた別の意図があるんでしょうか? ちょっと繋がらないので教えてください」。
 増山「何かこの情報を出したからこの情報をピンポイント出打ち消せるということではなく、例としてパワハラの話は出しましたけれども、例えば県民局長というか元パレード担当課長についての情報も、私、お伝えはしています。あれは元局長が完全に否定されておりますので、その情報をもってパレード担当課長の方がお亡くなりになられたという情報は否定できるのではないかなというふうに、思っております」。
 記者「そこは分かります。だけど、斎藤さんのパワハラで元県民局長が亡くなったっていうことを、そういう情報が間違っているからそれを打ち消したいからっておっしゃったのは増山さんなので、じゃあそのために、なぜこの情報を出したのかっていう理由を教えてほしいんですけれども」。
 増山「はい、そこについては、ピンポイントでこれ出したからこれが否定されるというようなところまでの思いはありませんけれども、全体像を把握することによってその認識が変わってくる可能性もあるな、というところで、お話をさせていただいた、というところですね」。
 記者「文書の冒頭に女性関係の話が出てきますけれども、要するに、こういうふうな事実というかですね、スキャンダルと言いますか、そういう話が出ることで、これが事実かどうか分かりませんけれども、それが出ることで言われているデマを打ち消すっていう、そういうことでもないんですか? ちょっと説明が、すいません、分からなくて。もう一度お願いします」。
 増山「スキャンダラスなことで打ち消す、という意図はないですね」。
 記者「ではなくて、より強い事実っていうものをぶつけて、そちらの方も知ってほしい、そっちに意識が行く、じゃないですけど、そっちも知ってほしいと。ただそこは、自分なりのファクトだと思っている所だけどって、そういうことですかね? イメージとして」。
 増山「そうですね、はい。私の認識としてそういう部分はあったので、はい」。
 記者「あと増山さん、もう一つ。リハックの中でですね、10月25日の百条委員会のやり取りはですね、いずれ公表されるものであったものだから、それを事前に出すと、いうふうなつもりだった、ということでした。先ほど岸口さんがご説明いただいてましたけども、元県民局長が亡くなられた翌日のですね7月8日の朝の百条委員会の理事会で、このプライバシーに関する資料、これについては、出すか出さないかの議論になったと思います。最後までこれを公表しましょうと言っていたのは増山さんだけでした。しかしながら、多数決でこれ出さないということが正式に決まりました。これに、先ほどをもってですね、7月2日の段階では、県民局長からですね、プライバシー情報については扱わないで下さいと言って、代理人を通じて書類が出てますよね。ということは、先ほど増山さんもおっしゃってましたけれども、そういうプライバシーの部分については、おそらくカットされるか、議事録から削除されるんじゃないかってもうおっしゃってましたから、削除されるっていうことは十分に想定されたわけなのに、なぜその部分も含めて、音声データを立花さんに提供されたんでしょうか? 教えてください」。
 増山「はい。カットされるというのも、百条委員会も中でカットされるということでしたが、まああのう、今、なんて言うんでしょうね…。マスコミの皆さんの報道の中で出ている情報と違う重要な情報である、という認識がありましたので、そういう意味で、公共の利になる、という認識から出した、ということですね」。
 記者「女性関係の話と、文書の中身を、正しいかどうか調査するという百条委の目的とは別個のものだと思いますけれども、増山さんのその主張で行かれると、この文書を書かれた人がどういう人かっていうのもバックグラウンドで知っとかないと、百条委としては議論できないよ、だから公益性があるよって、そういうことをおっしゃってるんでしょうか? 教えてください」。
 増山「そういうことではないですね、百条委員会においては」。
 記者「じゃあなぜ、この女性関係の話が公益性があるっていう、このいわゆる文書問題に関わってですね、いわゆる懲戒処分してに関わって、これが必要だ、公益通報だっていう理屈は、少なくとも僕の中で、そうかなというふうな認識ははありますけれども、今話しているのは文書問題に関して、まさにそれを話し合う百条委員会の場で出た話です。これをなぜ、公益性があるものというふうに言ってらっしゃるのか、というのが、すいません、ちょっと分からないので、教えていただきたいです」。
 増山「はい。7月8日のお話をされていると思うんですが、あの当時私の方で、何がプライベート情報に入っているのか、というのは、全く分からない状態でした。やはりその中には、クーデターに関する文書がたくさん含まれていた、ということですから、今だもってその情報について開示を要求したことについては間違っていない、というふうに考えております」。
 記者「私が話しているのはクーデターの部分ではなくて、女性関係の部分…。クーデターの部分は先ほど岸口さんが説明されたように、不正な目的というのを調べるためには必要じゃないかと。そこの部分はご主張としては分かりました。女性関係の部分については、いかがでしょうか?」
 増山「ですから、プライベートの中に女性関係のものがあるのかクーデターのものがあるのか、というのが、いっさい伏せられた状態で議論が行なわれておりましたので、プライベートということで一括りになっていたんですね。ですから、そこは開示する必要があるのではないか、という主張をさせていただいた、ということです」。
 記者「で、10月25日に、そこで片山さんがそこについて触れられたわけですけれども、プライベート情報については出さないということを皆さん申し合わせていたんだから、当然そこについては削除される可能性があることは、増山さんだってその理事会には参加していたんだから、分かっていたはずなのに、なぜ出されたんですか、という質問なんですけど。教えてもらってもいいでしょうか」。
 増山「そうですね。百条委員会の中では削除される可能性はあると思いましたけれども、先ほども申し上げましたが、より広く事実を知ってもらう意味で、そこの部分までは必要な情報であると思ったので提供をした、ということですね」。
 記者「いわゆる、今回の内部文書、公益通報に関しては関係ないけれども、いわゆる懲戒処分であったりとか、倫理上、いわゆるさっきから出てた信用失墜行為であるとか、そういう部分で知ってもらう必要があるから出そうと思ったって、そういうことですか?」
 増山「そうですね。より広く情報を知ってもらう、という意味において、ここまでは必要だろうという私の判断がありましたので、提示をした、ということですね。

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 記者「だから、どっちですか? 文書問題で必要だからなのか…」。
 増山「いや、文書問題じゃないです」。
 記者「信用失墜行為で出さないといけない、というふうなことで、広く知ってもらいたいということで…。すみません、噛み合っていないですかね」。
 増山「信用失墜行為…」。
 記者「なぜこの行為を知ってもらわなければならないのか、という所が、文書問題の誰が書いたか、どういう意図で書いたかは別として、誰が書いたか、その人の属性がどういうものかということと、文書の中身が事実かどうかというのは切り分けて考えるべきだ、という話ではないのでしょうか。それも含めて知ってもらうというのが、増山さんのお立場ということなんですかね」。
 増山「なんかごめんなさい。質問がちょっと分からなかったんですが…。百条委としては削除される可能性はあるけれども、全体の…なんて言うんでしょうね、概要を把握するうえで、今ちまたに言われていることの補完として必要な情報であると。片山副知事もそういう意図をもって、どういう意図をもって発言されたかは分かりませんが、必要な情報だと思って言われたんだと思うので、私としても必要な情報かなと判断した、ということですね。」
 記者「増山さん、分かっていると思うんですけど、噛み合ってなくて。
女性関係の部分がどういう公益性があるか、というのを、ちょっともう一度教えてもらっていいですか。それを世に広く知らしめることで、どういう公益性があるか、というのを、端的に教えてもらっていいでしょうか」。
 増山「そうですね。県民局長の方が、処分内容にある所にもあるので、それの事実としてありますよね、ということですね」。
 記者「懲戒処分の内容として知ってほしかった、ということですね、そうすると」。
 増山「…そうなりますね。そうなると思います」。
 記者「公益通報とは無関係だということは分かっていた、ということですね? 公益通報、文書問題とは無関係だという認識だ、ということですか?」
 増山「そう先ほどから申し上げているつもりだったんですが」。
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2831/増山誠・兵庫県議会議員(維新)2025/02/23記者会見(一部)①。

 増山誠・兵庫県議会議員(維新)2025/02/23記者会見(一部)。
  出所・当日のYouTubeライブ配信(2025/02/23)。
 太字化・下線、最終の文責は掲載者(=秋月)。
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 記者「増山さんが備忘録として作っていた文書についてですが、公用パソコンの中身について、増山さんは実際にご覧になっているんですか? それとも、どなたかからお聞きした内容をまとめている、という内容だったんですか?」
 増山「見てないです」。
 記者「すべて聞いた情報ということですか?」
 増山「はい、そうです」。
 記者「元県民局長の私的な情報などをを含む、その音声などを、立花氏に提供したことについてですが、根底として、その告発文書を作成した方はこういう方だ、っていうのを広めることで、例えば、告発文書の信頼、信用度を下げるというか、そういった意図はなかったですか?
 増山「そういう意図はないですね」。
 記者「あくまで県民の方により広く知ってほしい、ということでしょうか?」
 増山「そうですね、はい」。
 記者「間違った情報が、例えば流れていたとして、それを打ち消すために、ということがあったとして、それは間違った情報を流している所に伝えるとか、そういうことは考えられていなかったですか?」
 増山「マスコミを全て調べて、そこに送付するというのもかなり非現実的ですし、そういう意味で私はマスコミよりもSNS等の媒体で広める必要があるのかな、と思った次第です。」
 記者「音声提供されたのは、立花氏にだけでしょうか?」
 増山「そうですね、はい」。
 記者「なぜ、知事選の期間中にお渡しになったんですか?」
 増山「それまでの誹謗中傷が、タイミング的に、その時がタイミングだったので…」
 記者「提供することで、例えば民意がどういうふうになってほしいとか、そういう思いは、その時にあったんですか?」
 増山「どういうふうになってほしいというより、広く知ったうえで、行動してほしい、という思いですね。よりたくさんの情報に触れた方が、正しい決断につながる、と思っておりますので」。
 記者「結果的に、民意の部分については、増山さんが思っているようになったというか、その民意については、最終的に、ご自身としては納得されていらっしゃる、ということでしょうか?」
 増山「結果については、県民の皆さんが下した結論ですので、尊重したいと思います」。
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 記者「立花さんが発信されていることがデマだとは認識していない、という冒頭の発言があったと思うのですが、立花さん、候補として二枚めのポスター、自殺の真相というポスターがありましたけれども、そこで不同意性交等罪が発覚することを恐れての自殺だと思われる、というふうに書かれていますけれども、この内容についての真偽については、増山さんとしては今、どう思っていらっしゃいますか?」
 増山「ちょっと私、二枚めのポスターというものを詳しく見ていないんで、分かんないんですけど…」。
 記者「このポスターでは自殺の真相というタイトルが付いていて、不同意性交等罪が発覚することを恐れての自殺だと思われる、と書いてあるんです」。
 増山「なるほど、はい。どこかのソースにもとづいてそれを書いてあるのであれば、私がそれをデマだと認定することはできないと思いますけれども」。
 記者「正しい認識だと?」
 増山「正しいか正しくないかはちょっとわからないんですが、デマと認定することは、立花氏がどういう情報をもとにそのことを書いているのか知りませんので、認定できない、という意味で申し上げております」。
 記者「続けてすみませんけれどもお話を伺うと、立花さんが不同意性交について発信を始めたきっかけは、やはり増山さんとの会話にあるようにも理解したんですけれども、そういうことでよろしいでしょうか?」
 増山「私にはその認識はないですけれども」。
 記者「そういう情報提供をした認識はないこと…」。
 増山「認識はないですね」。
 記者「はい、なるほど。ただ、今も増山さんは不同意性交の可能性はあると、思ってらっしゃると…」。
 増山「そうですね。あると思う。可能性はあると思う。それを完全否定するような情報を私、持ち合わせておりませんので、例えば、全部パソコンの中を見て、同意だったというような証拠を見ていませんので、なかなか、その蓋然性というんですかね、60歳間近の人事課長、局長、教育次長を務められていた方が、短期間のうちに、複数の女性と倫理的に不適切な関係を結んでいるということの情報を得るにあたって、それが同意だったのか否かというものを、一般常識から照らし合わせると、なかなか難しいのではないか、ということから、可能性は否定できない、というふうに感じておりますが、はい」。
 記者「それが。可能性が否定できないとおっしゃってる根拠なんでしょうか。その他に具体的な情報源があって、真実と信じるに足る相当の理由が増山さんの中にあるんでしょうか?」
 増山「不同意性交だという断定はしておりませんので。その可能性を示唆するような、真実相当性のある情報を聞いておりますので。ただ、その可能性が十分にあるのか、少しあるのか、ということに関しては、それぞれの判断なので、私としても…」。
 記者「その情報を聞いてらっしゃるというのは、十年間で複数というところから類推して、ということではまさかないですよね。それとは別に情報源がある、ということですね?」
 増山「はい、そうです」。
 記者「不同意性交とおっしゃるからには、これはかなり名誉を傷つける発信だと思うんですけれども、それなりに信頼のできる、それなりにどころかかなり信頼のできるものだ、というように理解してよろしいでしょうか?」
 増山「私、不同意性交だということは言っておりませんので。可能性を否定することはできない、ということを言っておりますので」。
 記者「不同意性交である可能性がある、ということをおっしゃっているわけですね?」
 増山「可能性は否定できないですね」。
 記者「そういうふうな発信をされるからには、相当の根拠がないと、法的な責任が出てくると思いますけど」。
 増山「私から不同意性交だという発信をしたことはないんですが。今お訊きされているので、私の認識を述べたまでであって、私が、不同意性交だと断定しているわけでもなければ、可能性が高いと言っているわけでもないです」。
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2830/R.パイプス1990年著—第14章㉔。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第13節/Savinkov の秘密組織②。
 (09) Savinkov には、一つの計画が、いやむしろ複数のいくつかの計画があった。だが、そうした計画に彼はほとんど重要性を認めなかった。政治的議論をすれば、目の前の活動を考えている支持者を分裂させたり、彼らの気を逸らせることになったからだ。
 彼が強調したのは、愛国主義だった。
 同盟の一つの綱領は、当面する目標と長期の目標に分かれていた(脚注)
 当面する目標は、ボルシェヴィキを信頼できる国民的権力でもって置き換え、中央諸国と戦う、紀律ある軍隊を創ることだった。
 長期的目標は曖昧だった。
 Savinkov は、ロシアを民主主義政体にするために、憲法会議の新しい選挙をおそらくは戦争後に実施することを想定した。
 1923年にWarsaw で出版された回想録で、彼は、自分の組織には君主主義者から社会主義革命党員までの全ての党派の者を加入させた、と強調した(注148)。
 Savinkov は全員にとっての全てであり得たのであり、将来に関する独自で正式の計画を彼に期待するのは無益だっただろう。
 コルニロフがそうだったように、堅固な国民的権威の必要性と戦争の継続を主張した、という点だけは確かだった。
 Savinkov の同盟に加入するためには、ただ一つ、ドイツとボルシェヴィキの双方との闘争に参加しなければならなかった。
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 (脚注) Krasnaia Kaiga VChK, I (Moscow, 1920), p.1-p.42.
1924年のSavinkov の審問の際に(Boris Savinkov pered Voennoi Kollegiei Verkhovnogo Suda SSSR, Moscow,1924,p.46-47.)、彼は、正式の綱領があったことを否定した。
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 (10)  Savinkov は、チェカから隠した自分のテロリスト経験を生かして、その組織の構造のモデルを軍隊に求めた。
 彼の司令部のもとに、モスクワと地方諸都市に、職業的将校が配置される、骨格となる数十の「連隊」があった。
 これらの分団は相互に分離していて、直接の上部機関だけに知られていた。逮捕されたり裏切りがあったときに、チェカが組織全体を捕捉することができないようにするためだった(注149)。
 同盟員の一人に振られた女性が警察に訴え出た5月半ばに、このような編成でよかったことが証明された。
 チェカは、彼女に導かれて、医院を偽装していた、モスクワの同盟司令部を発見した。
 チェカは100人以上の同盟員を逮捕した(彼らは7月に処刑された)。しかし、この発見があっても、同盟は活動を二週間休止しただけで、チェカは、Savinkov を逮捕できなかったし、同盟を廃絶させることもできなかった(注150)。
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 (11) Perkhurov は自分のもとに、精巧な指揮命令の構造体のある、150〜200人の将校をもった。
 募集、諜報、対抗諜報、連合諸国との関係、軍隊の主要な分野(歩兵、騎兵、砲兵、兵術)のそれぞれ責任をもつ部門があった(注151)。
 チェカはのちに、「時計のような正確さ」で組織を動かしていたことについて、Savinkov とPerkhurov を褒めた(注152)。
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 (12) Savinkov は組織を築き上げたが、具体的な戦略構想がなかった。
 6月までに、行動すべきとの心理的圧力が増してきた。
 チェコ人とフランス人が援助金支給を止めたために、資金が枯渇していっており、彼の支持者たちの神経も、常にある裏切りの可能性を感じて擦り減っていた。
 宣誓証言によると、Savinkov は最初はモスクワでストライキをすることを考えていたが、ドイツ軍のそれに対する反応は首都モスクワの占領だろうと怖れて、この考えを放棄した(注153)。
 彼は、絶えざる噂を聞き、また、連合諸国は7月初めにArchangel とMurmansk への上陸を追加するとフランス代表部からの確認を受けて、蜂起の場所を中部または上部Volga の地域にすると決した。その地域から、チェコスロヴァキア軍とMurmansk にいる連合国軍の双方と連絡することができた。
 彼の計画が意図したのは、ボルシェヴィキを北部の港およびKazan や極東に接する地域から遮断することだった。
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 (13) ソヴィエトの法廷での審理に立った1924年、Savinkov は、こう主張した。何とか4日間持ちこたえることができれば、Archangel の連合国軍によって救出される、その後にフランス・イギリス・ロシア連合軍はモスクワへと前進する、とフランス人から固い約束を貰っていた、と。
 彼は、その約束がなければ、自分の蜂起は無意味だ、と言った(注154)。
 さらに、こう主張した。領事のGrenard は、連合国の上陸は7月3日と8日に行なわれる、またその期日のあいだに行動するのが絶対必要だ、というNoulens からの電信を、彼に見せた、と(注155)。
 この審理で彼が行なった証言によると、彼の活動の全てはフランス代表団と調整されていた。
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 (14) 残念ながら、Savinkov の言明は、額面通りに受け取ることはできない。彼は経験ある陰謀家として真実を全て語ることはない、という理由によるだけではなく、彼には完璧なウソを語る能力がある、という理由にもよる。
 そういうわけで、ある時に彼は、Fannie Kaplan によるレーニン殺害の企て(後述)について自分の功績の承認を要求した。だが、彼はそれと何の関係もなかった、ということが知られている。
 彼はまた、1918年7月にモスクワ国民センターの指示によって行動した、と述べたが、これも本当ではなかった(注156)。
 ボルシェヴィキは、母国の外国人恐怖を煽るために、自分たちに対する抵抗を全てを外国の陰謀と結びつけた。
 1924年にソヴィエト・ロシアでSavinkov が逮捕された後、彼は訴追官と取引をして1918年のフランス代表部でのクー未遂の責任を転嫁しようとした、ということはほとんど確実だ。なぜなら、研究者が利用できる連合諸國のこの期間の文書記録からは、この主張を支持できるに至る証拠は出てこないからだ。
 かりにフランス代表部が実際に反ボルシェヴィキ反乱を展開することを正当化していたのみならず、彼が主張するように、彼がモスクワを掌握するのを助けるという約束がさらに行なわれていたとすれば、そのような企ては確実に文書上の証拠を残しただろう。
 そのような証拠は存在しないので、Savinkov は、おそらくは自分の生命を救いたくてウソをついた、と結論しなければならない。
 指摘してきたように、Savinkov の、フランス人のGrenard との主要な連絡関係は、彼は「自分一人で」行動したことを証明した(脚注)。
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 (脚注) Michael Carley の最近の研究、Revolution and Intervention: The French Government and the Russian Civil War, 1917-1919 (Kingston-Montreal, 1983), p.57-60, p.67-70 は、むしろ、より直接的な責任をフランスに負わせる。しかし、Savinkov がその蜂起に関与した場合の一般的な援助の意味を混乱させるだろう。
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 (15) Savinkov はIaroslavl を、彼の蜂起の主要な場所に選んだ。これには、二つの理由があった。
 一つは、この都市の戦略的な位置で、鉄道によってArchangel をモスクワとつないでいた。このことは、攻撃的、防御的のいずれの作戦も容易にした。
 もう一つは、Savinkov が偵察のために派遣したPerkhurov は、Iaroslavl から、一般民衆の支持があるという勇気づける報告をもたらしていた(注157)。
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 (16) 最終的な作戦計画は、チェコ軍団の蜂起が最高に達していた6月末に作成された。
 Iaroslavl を指揮したPerkhurov には、組織するのに辛うじて10日間があった。
 Savinkov は、近傍のRybinsk での第二の蜂起を個人的に指揮した。
 第三の行動は、モスクワ・Kazan 鉄道路線上にあるMurom で行なうことが予定された。
 Savinkov は、Perkhurovによると、将校たちに、Archangel から連合諸国が援助するという固い約束がある、4日間を持ちこたえることができれば救出されるだろう、と語った、とされる(注158)。
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 (17) Savinkov は、Iaroslavl での蜂起を7月5-6日の夜に行なうと予定した。これは、左翼エスエルが彼らの反乱を実施する時刻に、数時間だけ先行していた。
 このような合致にもかかわらず、二つの反乱は調整されていた、ということを示すものは何もない。
 左翼エスエルとSavinkov は、全く異なる目的を追求した。左翼エスエルは、ボルシェヴィキが権力を保つことを意図していた。一方、Savinkov は、ボルシェヴィキの打倒を狙っていた。
 さらに、左翼エスエルが「反革命」将軍たちの代表と何らかの交渉をしただろう、というのは想定し難い。
 Savinkov は、もしも左翼エスエルの計画を知っていれば、きっと彼の最初の意向に従って、Iaroslavl ではなく、モスクワでクーを行なっただろう。
 レーニンがMirbach に語った、このような調整の欠如は、反ボルシェヴィキの対抗運動に典型的にあったことで、その運動が最終的には失敗した大きな原因だった。
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 (18) 敵を混乱させ、勢力の分散を強いるために、Savinkov とPerkhurov は、自分たちの複数の反乱がずらされた時間帯に起きるよう計画した。すなわち、Rybinsk での作戦行動は7月7-8日の夜に始め、Murom でのそれは翌日の夜に始める。
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 第13節、終わり。

2829/斎藤元彦兵庫県知事・2024年5月22日記者会見(一部)。

 斎藤元彦兵庫県知事・2024年5月22日記者会見(一部)。
 出所/兵庫県庁ホームページ「知事記者会見(2024年5月22日(水曜日))」。
 太字化、丸数字は掲載者(秋月)。「元西播磨県民局長」=告発文書(2024/03/12)の作成・発信者。
 藤原弁護士=藤原正広氏(兵庫県弁護士会)。
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 ①
 記者:文書問題に関して、先日、丸尾議員から出されたアンケートの中に、「はばタンPay+」について書かれた告発がありました。
 その中で、第1弾で知事の顔写真が掲載されていなかったことに知事が激怒し、第2弾と第3弾の「はばタンPay+」のチラシデータには、知事の顔写真が載ったという、要約するとそのような事実が書かれていました。
 実際にそのような指示をされたのか、もしくは激怒された事実があったのか、改めてお伺いします。 
 知事:丸尾議員のアンケートの件は、私自身は詳細を見ていないので、現時点では個別の回答は控えておいたほうが良いかと思っています。
「はばタンPay+」のポスターやチラシの作成は、産業労働部がしっかり議論をして、効果的に事業効果を発信するために、どうすれば良いかということを考えて、その中で、おそらく知事の写真を使うという提案をされたと認識しているので、それが現時点の事実です。 
 記者:その説明であれば、知事の指示ではなく、産業労働部からの提案として上がってきたものを知事が採用したという説明でよろしいですか。
 知事:基本的には、産業労働部が部長を中心にして、効果的な事業発信をするにはどうすれば良いかということをしっかり議論して、その中で私とコミュニケーションしながら決めていったと認識しています。
 記者:そのアンケートに関連して、今年3月に尼崎の森で行われたユニバーサルマラソンの会場に設置されていた授乳室が、知事の意向で知事専用の控え室になって、実際に一般の利用者が使えなかった事実があることも書かれていました。
 職員の方に聞き取りをして、実際にそこの授乳室が知事の控え室になっていた事実があった上で、一般の方が利用できなかった事実も認められました。
 知事の意向とは言われなかったのですが、知事の受け止めをお願いします。
 知事:この件もアンケートの中で出てきたということですね。
 詳細については、個別にお答えすることは控えたいと思っていますが、事実としては、3月30日に尼崎の森中央緑地でユニバーサルマラソンがありました。これは世界パラ陸上のプレイベントとして開催しました。
 私は当日、公務がいろいろあったので、確かスーツで行き、そこで着替える必要があったので、担当部局が着替えるスペースを用意してくれたのだと思います。
 施設のスペースを一時使用したことは事実です。
 ただ、着替える部屋が用意されることは伺っていましたが、その部屋が授乳室であることは、私は正直認識していなくて、到着もかなりぎりぎりになって、バタバタと着替えて、外に行ったので、今回の取材等の指摘の中でそこが授乳室だったことを初めて認識したのが正直なところです。
 ただ、私が着替えた授乳室の代替場所も用意していたと担当からも伺っていますが、結果的に県民の皆さんに、ご迷惑、ご不便をかけたことはお詫び申し上げたいと思っています。
 今後は、担当部局ともしっかり連携して、県民の皆さんが普段利用されているような設備や施設は使わないようにすることを徹底していきたいですし、そのように指示をしているので、今回は本当に申し訳なかったと思っています。
 ②
 記者:最初に出た告発文の関連で、第三者機関での再調査を明言されたかと思いますが、それについての詳細など、現時点で決まっていることはありますか。
 知事:昨日、第三者機関の設置をする方向は示しました
 これについては、人選をどうするか、調査方法などについては、議会の意見も踏まえながら、検討していくことになるので、現時点でどのようにするかは、決まっていないと認識しています。
 これからだと思います。
 記者:第三者機関の設置はこれからだと思いますが、調査が進んで、知事がこれまで否定されてきていた事実がある意味、一転して認定されるようなことになれば、政治的責任を取るお考えはありますか。 
 知事:これから第三者委員会を開催して、外部の有識者の観点から調査していくことになりますので、まずはそこでしっかり調査をしていただくことが大事かなと考えています。
 記者:政治的責任についてはどのようにお考えですか。
 知事:そこは調査をしっかりやっていただくことが大事だと思っているので、現時点では、仮定の話はなかなか答えられないと思っています。
 大事なのは、昨日も申し上げましたが、県民の皆さんに、客観的な調査をしていくことが、県政の信頼性をより高めていくことにつながると思っています。
 そのために、今回、第三者委員会を設置して、しっかり調査をして、事実関係を改めて確認していくことが、大事なポイントと私自身は思っています。
 -------- 
 ③
 記者:文書問題に関してお伺いします。
 昨日、ひょうご県民連合から県の内部調査は、客観性や中立性が損なわれているということで、前県民局長への処分撤回と弁護士費用の支払いを公費以外から支払うよう求めると提出されたと思いますが、受け止めをお願いします。 
 知事:今回、実施した懲戒処分の調査は、昨日も申し上げましたが、人事当局が主軸となって実施して、そこに弁護士の助言なども受けて行いました。
 弁護士は県の調査の助言やサポートをする形で関わっていただきましたが、調査内容自体は適正なものだと考えています。
 記者:弁護士に関してですが、内部調査に協力した藤原弁護士は、疑惑の調査対象の団体の顧問弁護士であったことも明らかになっています。
 その中で、改めて知事自身は、弁護士が利害関係者に当たるか当たらないかという認識はどのように考えていますか。 
 知事:今回の件に関しては、人事当局が行った調査ですが、藤原弁護士の助言をいただきながら、適切に調査をしてきたという意味では問題ないと考えています。
 いずれしても、これから第三者機関を立ち上げて、実際どのようにするかはこれから決まっていくと思いますが、改めて、文書についての調査をしていくことになるのではないかと思っています。 
 記者:その弁護士が利害関係者かどうかは、すごく内部調査の疑義に関わるところだと思います。
 弁護士が利害関係者かどうかについて、知事としては県の調査に100%影響がないと考えていますか。 
 知事:繰り返しになりますが、懲戒処分の調査ですので、あくまで主軸は人事当局が行っています。
 懲戒処分の調査主権者は人事当局なので、そこは調査していく中で、弁護士のサポートをいただきながら、いろいろ調査してきたということです。
 調査内容や処分に関しても、適正であったと考えています。
 記者:弁護士に関して、今後、もし第三者委員会や第三者機関が設置された場合に、県民から疑惑が持たれていることもあるので、藤原弁護士を第三者委員会のメンバーに入るかどうか、どのように考えていますか。 
 知事:実際にどの方がメンバーに入っていただくかは、これから準備をしていく中で決まっていくと思います。現時点では何とも言えません。
 客観性、中立性を担保できるような人選になっていくのだと考えています。
 記者:入れるかもしれないということですか。 
 知事:わかりませんが、基本的には、今まで人事当局の調査はそこでやってきました。
 今回、知事部局から独立して第三者機関を設置することが、昨日の議会からの申し入れもあったので、私自身はそれが良いと判断しました。
 そのような意味では、この流れの中で適切な弁護士など、どのようなメンバーにするかは、今の指摘もおそらく踏まえながら、適切にどのようなメンバーにするかは、皆さんが客観的に見て、このような人であれば、合理性、客観性があるという方に決まっていくと思っています。
 記者:文書問題に関して、改めて第三者機関を設置することになった経緯を改めて説明していただけますか。
  知事:今回の件に関しては、人事当局が調査をして懲戒処分を行いました。
 この調査は、私自身としては問題なく適正であったと考えています。処分内容についても適当なものだと考えています。これは今でもそうです。
 一方で、先日、議長や県議会からも要請がありましたが、県民の皆さんにより十分に説明責任を果たしていくこと、県政をさらに前に進めていくために、より信頼を高めていくことが大事だと思います。
 これまでも、様々な指摘を受ける中で、外部の方に入っていただいて調査することも必要ではないかと考え、熟慮、検討を重ねてきました。
 昨日、改めて議会から第三者機関の設置の要請を受けました。
 基本的に私が判断しましたが、二元代表制の一翼である議会からも要請を受けたことを重く受け止めて、今回の文書問題を調査する第三者委員会を設置することが必要だと判断したのが経緯です。
知事:スケジュールや委員の人選、どのような調査をするのかなどは、どこが準備していくかも含めて、これからだと思います。
 知事部局から独立したところが、議会の意見も踏まえながら、準備をしていきます。
 昨日、議長からは監査委員という一つの提案もいただきましたが、その点も含めて、これから準備作業をするための準備をどうするかが決まっていくのではないかと思っています。 
記者:第三者機関は、なるべく早めに早急に設置するべきだという指摘もある中で、いつまでに設置するなど、考えはありますか。 
 知事:昨日、設置をする方針を示したので、できるだけ速やかに設置することが望ましいとは思います。
 具体的にどのタイミングで設置するか、メンバー、スケジュールは、これから決まっていくことになるのではないかと思っています。
 記者:第三者機関の設置は、昨日の話では、事前に準備会などを開いてという話が内藤議長からもありましたが、今後、どのような対応を取っていくのか、お聞かせください。
 --------
 ④
 記者:先ほど丸尾議員のアンケート調査についてのお話がありました。
こちらの内容については、知事は確認されていないということですか。
 知事:詳細については、私は拝見していない状況です。 
 記者:ただ、丸尾議員が調査を行って職員からのアンケートでこのような指摘が、21件出てきたということで、知事の言動や幹部職員の言動についての疑惑がアンケートで集まったことについての受け止めは何かありますか。
 知事:丸尾議員のアンケートについては、詳細はまだ承知していませんが、そのような意味でもコメント自体は差し控えたいなと思っています。
 いずれにしても、今回の文書問題に関して、これから第三者機関を設置していくので、そこでこの文書問題に関する調査が改めて行われることになるのではないかなと思っています。 
記者:知事の発言の中で、先ほど議会からの意見も踏まえてという話もありました。
 丸尾議員も1県議としての申し入れを、2回ほどしていて、内容を詳細まで見ないのは何か理由があるのでしょうか。
 知事:今の状況として、詳細は見ていないというところです。
 いずれにしても議会からは、より客観的に調査するために、第三者委員会を設置するべきだという要請をいただいたので、それに沿って、これから準備と対応をしていく形になります。
 --------
  ⑤
 記者:今回の文書問題について伺います。
 メンバーや設置時期、監査委員会などの声もある中で、これから検討を進めていくという発言があったと思います。
 現時点で、藤原弁護士の件も出ており、いろいろ疑義が持たれてしまったこともありますが、知事としては、第三者機関の委員やメンバーは、どのような方が一番望ましいと現状で考えていますか。
 知事:具体的にこのような方が良いとかは、言及することは差し控えた方が良いと思います。中立性の確保が大事だと考えています。
 事務局をどのようにするか、昨日は監査委員という話もありましたが、それ以外にも委員の選定などをきちっと一つ一つ手続きを踏まえながら、委員のメンバー選定も含めて決めていくことが大事だと考えています。
 一歩一歩やっていくことが、県民の皆さんへのより十分な説明をしていくことにつながっていくと考えています。
記者:できるだけ速やかに設置時期などを議論していくという話がありました。
 知事として、これだけいろいろと世間を賑わせている話題でもあり、早く真相を知りたい方もいると思います。
 知事としては、いつまでにこの問題の結論を出したいなど、何か考えていることはありますか。
 知事:第三者委員会がどのような調査期間でやるかにもなると思います。
 これから第三者委員会が設置されて、どのように調査していくかという中で決まっていくことなので、現時点で私がこれだけのタイミングの中でなどを言及するということは、差し控えたいと思っています。
 一方で県の業務を、しっかり前に進めていくことも大事だと思いますので、毎日の県政の政策立案や行事やイベントについては、きちんと全力で対応していきたいと考えています。
 記者: 昨日の要請書の件に関して、内藤議長から準備会の立ち上げを内藤議長の任期中(6月)にして欲しいというような要望もありました。
 知事として、準備会を立ち上げるつもりがあるかお伺いします。
 知事:今回の第三者委員会が、より客観的に調査をしていく意味でも、どのような委員構成や内容にしていくかが大事だと思います。
 そのような意味でも、何らかのこの準備をするための枠組みが重要だということが議長のご指摘だったと思います。
 その辺りどうするか含めて、これからの検討になるかと思っています。 
 記者:スケジュール的には、議長からは6月までにはというようなお話がありました。準備の枠組みとして、時期など考えていますか。
 知事:できるだけ速やかに設置していくとことが大事だと思っています。
 それに向けて関係する方々としっかり協議をしながら、準備を進めていくことになると思っています。
 記者:昨日のぶら下がりの中で、準備の進め方や設置の検討過程など必要なプロセスは県民にしっかり説明していくと言われていました。
 一方で議員がそのような準備組織に参画するのであれば、県民の皆さんへの説明が一定オープンになっているのではないかということも言われていました。
 議会の議員を準備組織に選んだ場合、県民への検討過程の説明は、それに変わるようなニュアンスに捉えたのですが。
 県民の信頼性を高める意味であれば、議会のみならず、記者会見の場でも説明していただくことが望ましいのかと思います。
 議会以外にも説明される場は予定されているのでしょうか。
 知事:決定プロセスをどうするかを含めて、これから議論をして、決めていくことになるかと思います。
 もし準備組織を作るのであれば、そこが主体となって、作っていく形になるので、その準備組織自体が、どのように説明をしていくのかも大事だと思います。
 それを私が改めて言うのが良いのか、それか中立性の観点から好ましいかは、しっかり議論しなければと思っています。
 記者:文書問題で、これまで手続きについては、適切だったという認識を示されていたかと思います。
 昨日、県議会が無所属や共産党を含む全会一致で第三者機関を設置するべきだとの要請があり、二元代表制の一翼を担う議会の決定は重いと言われていたと思います。
 全会一致というのは珍しいケースかと思います。知事の最初の第三者委員会を設置しない方針について異議を唱えられたと部分があると思います。
 昨日は吉村知事も疑義があるなら内輪で判断すべきではないと言われていました。
 これまでも指摘されていますが、3月の会見で知事が嘘八百という発言されたことに対して、撤回すべきであるというような県議会からの意見もあり、知事の初動ミスであるような指摘が高まっている気がしますが、この初動ミスであることに対する知事の受け止めをお聞かせください。 
 知事:人事当局の調査や処分も含めて、その都度、私自身は適切に判断して対応してきたと考えています。
 いろいろな指摘があることは事実で、そこは真摯に受け止めなければと思っています。
 今でも、やはり今回の人事当局の調査、対応は適切だったと考えています。
 様々な議会からのご指摘、そして昨日の議長からの要請を受ける中で、第三者機関の設置が必要だということを、私自身もこれまでも熟慮、検討を重ねてきましたが、今回、改めてそこを判断させてもらったということなので、一つ一つのプロセスを私自身は適切に積み重ねてきたと捉えています。
 記者:反省点というのは、基本的にはなかったと考えているのでしょうか。
 知事:いろいろな指摘があるので、この問題をきちっと調査、これからまたしていく中で、最終的に振り返ったときにどう捉えるかは、また改めて考えていく形になると思います。

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 ⑥
 記者:先週、総務常任委員会で一部の県議が、阪神・オリックス優勝パレードを担当していた課長が自死されたことを指摘されていましたが、県としてはその件については認められないのでしょうか。 
 知事:個人情報に関する事柄なので、お答えができないということです。
 記者:個人情報というのは、個人情報保護法に基づく個人情報のことを言われているということでよろしいですか。 
 知事:詳細は、人事当局から答えさせますが、いずれにしても、個人情報に関することなのでお答えできないというのが、今の私のスタンスです。 
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 ⑦
 記者:先ほど話に出た、藤原弁護士の件でお伺いします。
 関係性だけ見れば疑惑で指摘されている団体の顧問弁護士で、いわゆる利害関係者に当たると見えるのですが、改めて利害関係者に当たるかどうかは、どうお考えでしょうか。
 知事:私としては、人事当局が行った調査は、懲戒処分の調査としては適正にやっていただいていると考えています。
 調査の主軸は人事当局なので、そこに弁護士の助言を得て処分を行ったというものです。プロセスについても適正であったと認識はしています。
 記者:弁護士は、あくまでも調査の中の主ではなく、サブ的な役割だというご説明だと思うのですが、改めて伺います。
 お聞きしているのはそこではなく、利害関係者に当たるのかどうかをお尋ねしているのですが。
 知事:私としては法的な問題もあるので、今の時点で明確に答えることはできないということです。
 後程、必要があれば人事当局から調査をした担当部局ですから、そこから説明をしていただくことが良いかと思っています。
 いずれにしても、人事当局の主となる調査としては、対応としては適切であったと私自身は捉えています。 
 記者:法的な問題というのは、後日、裁判などになった時に、利害関係者に当たるかどうかが一つの論点になりうるから答えられないということなのでしょうか。
 知事:そのような意味よりも、利害関係者というのが法的な言葉なので、そこがどうなるのかというところは、私としては今の時点で答える材料がないのでコメントできないということです。
 そのような観点から、より詳細に人事当局の方から、後程、説明をさせていただきたいと思います。
 記者:なぜ詳しくお尋ねしてるかというと、もし利害関係者であるということになれば、今回の内部調査に問題があったということに繋がると思います。
 そうなれば、今回の内部調査自体を撤回する可能性も出てくるのではないかと思うのですが、そこについて、お答えいただけないですか。 
 知事:繰り返しになりますが、調査の主軸は人事当局が行ってるということです。
 そこに弁護士のサポートをいただいたということなので、あくまで人事当局が調査した結果としての対応ということです。
 様々な項目について、あくまでメインは人事当局が調査して、そのサポートを弁護士がやったことになるので、現時点では適正であったと考えています。
 記者:先ほどの弁護士の件ですが、利害関係者かどうか、今は答えられないということですが、そもそも、兵庫県信用保証協会の基金の4割弱が兵庫県から出資されていると聞いています。
 普通の株式会社などと単純比較はできないと思うのですが、兵庫県のお金が大きく入っている、かつ、兵庫県の幹部職員の天下り先で、現理事長、専務理事も兵庫県の職員のOBであり、片山副知事もそこの理事長の出身であると聞いています。
 兵庫県の幹部職員やお金も入っている組織の中で、20年間顧問弁護士を務めてきた方が、兵庫県に対して、いわゆる公正で中立的な判断ができるかといったら、一般企業の考え方からすると難しいと思いますが、そこに対して、斎藤知事のお考えをお聞かせください。
 第三者的に見て、そうした利害関係がある所に20年勤めてきた顧問弁護士が公正にジャッジできると思われますか。 
 知事:今回は、弁護士が調査の主体としてやっているというものではなく、あくまで人事当局が懲戒処分の調査権限があるので、そこが、多分、大事なところだと思います。
 あくまでも、人事当局が調査をしてジャッジをしていくことになっていきますが、そこに弁護士が法的な指摘も受けてサポートいただきました。
 その上で委員会にかけて、調査を決定したことになりますので、そのような意味では人事当局がきちっと主となって調査をして、そして処分内容を決定した意味では、適切だったと考えています。
 人事当局:人事当局が行った調査の内容や手続き、処分の量定等に疑義がある場合の制度としては、被処分者、今回の場合であれば元西播磨県民局長になりますが、その被処分者が、人事委員会に審査請求を行うことができるような制度はあります。
 もし疑義等があれば、そのような対応がなされるものと認識しています。
 記者:そのような通報制度があるのはわかりますが、改めて最初に選ぶ弁護士として適切だったかどうかで言うと、今も適切だったとお考えですか。
 知事:私がどの弁護士を選んだかということではないのがまず1点です。
 人事当局が、調査をする中で、様々な方の意見を聞きながら、当該弁護士をサポートの対象として選んだということです。
 いろいろな指摘があると思いますが、現時点では人事当局の調査対象のプロセス含めて適切であったと考えています。 
記者:藤原弁護士は斎藤知事を聴取していると思いますが、聴取をした段階で斎藤知事は県信用保証協会の弁護士である藤原弁護士が聴取をしているという認識はありましたか。
 知事:認識はなかったです。
 記者:どの段階で顧問弁護士だとご存じになりましたか。
 知事:報道を見てです。
 記者:聴取を受けている段階では、知らずに聴取されていたということですか。
 知事:そうです。
 記者:県信用保証協会は、先ほども指摘がありましたが、公金で保証する協会で、幹部職員の天下り先の顧問弁護士だということも、聴取を受けた段階では知らなかったということですか。
 知事:県信用保証協会の人事は、当然私自身も認識しているところはありますが、顧問弁護士がどなたかは、そもそも承知はしていません。
 記者:お名前を聞いても知らなかったということですか。
 知事:今回、聴取を受ける段階等で初めてお会いした方です。
 そして、聴取を受けている段階では、協会の顧問になっていることは存じ上げていなかったので、報道で初めて知ったということです。
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2828/R.パイプス1990年著—第14章㉓。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第13節/Savinkov の秘密組織①。
 (01) 全く偶然の一致だったのだが、まさに同じ日に、もう一つの反ボルシェヴィキ反乱が勃発した。1918年7月6日の朝、北東部の三つの都市、Isroslavl、Murom、Rybinsk でだ。
 Boris Savinkov によるもので、この人物は反ボルシェヴィキの陰謀者として、最も組織立った、最も企画に富んだ者だった。
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 (02) Savinkov は1879年にKharkov で生まれ、ワルシャワで二次教育を受けた。そのあと、ペテルブルク大学に入学した。
 彼は1989年のストライキを含む大学騒擾に関与し、すみやかに戦闘組織で指導者たる地位まで昇った。その組織の能力を利用して、彼は、Plehve やSergei Aleksandrovich の暗殺といった大きなテロリストの任務を実行した。
 1906年に、警察工作員だったEvno Azef に裏切られてOkhrana〔チェカの後継の秘密警察〕に売られたとき、彼のテロリスト活動は止まった。
 Savinkov は死刑判決を受けたが、外国に逃亡し、地下の革命家に関する小説を書いて、二月革命が勃発するまでそこにいた。
 戦争は、彼の愛国心を刺激して覚醒させた。
 1917年二月までフランス軍に務め、そのあとロシアに戻った。
 彼は、臨時政府によって前線の政治部員に任命され、ますます民族主義的で保守的になった。そして、既述のように、ケレンスキーの下で戦争省の部長だった1917年の夏に、コルニロフとともに軍隊の紀律の回復のために働いた。
 ロマンティックな冒険体験に包まれて、彼は、明確で説得的だとの強い印象を与えた。Winston Churchill に対しても。
--------
 (03) 1917年12月、Savinkov は、Don 地方へ向かった。そこで、義勇軍の設立に参加した。
 Alekseev の頼みに応えて、有力な公的人物と接触すべく、ボルシェヴィキ・ロシアへと戻った(注139)。
 その任務は、政党帰属いかんを問わず、ドイツおよびその傀儡と戦い続けたいと考えている将校や政治家たちの協力を得ることだった。
 彼は、過激な過去と最近の愛国主義の履歴のおかげで、この任務に理想的なほど適していた。
 Plekhanov、N.V. Chaikovskii、「防衛主義者」を支持するその他の社会主義著名人と、彼は話した。だが、ほとんど協力を得られなかった。少しの例外はあるが、彼らは、民族主義的将校たちに協力するよりも、ボルシェヴィキが自ら崩壊していくのを待っていたからだ。
 Plekhanov は、「私は人生の40年間をプロレタリアートに捧げた。プロレタリアートが間違った途を歩んでいるとしてすら、労働者を射とうとしはしない」と言って、Savinkov を受け入れることすら拒んだ(注140)。
 除隊した将校、とくにエリート護衛兵や近衛連隊に勤務した者たちを選んだ方がよかった。
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 (04) 主要な問題は、金がなかったことだった。貧しくて、路面電車の切符すら購入できなかった。
 軍隊を設立するために、彼は、将校たちに手当を支給しなければならなかった。彼らを雇用しようとする者はいなかったので、ほとんどの将校たちは極貧だった。
 Savinkov は、資金を得るために、連合諸国の代表部へと向かった。
 彼の私的な計画では、ボルシェヴィキ体制に反対するクーの手始めとして、レーニンとトロツキーの暗殺が謳われていた。
 しかし、彼は知ったことだが、ロシアが中央諸国と戦闘しているかぎり、誰がロシアを統治するかに、連合諸国は大した関心を持っていなかった。
 実際に、まさにこの頃(1918年3-4月)、フランスはトロツキーが赤軍を組織するのを援助していた。
 Savinkov はそのゆえに、連合諸国代表部に自分の本当の政治的目的を隠し、唯一の目標はロシアの軍事能力を回復して対ドイツ戦争を再開することにあると考えるロシア愛国者だと自称した。
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 (05) 最初に助けたのは、Thomas Masaryk だった。
 このチェコの指導者がSavinkov を援助した動機は明確ではない。Masaryk は1918年早くに、チェコ人をロシアから退避させるためにボルシェヴィキと交渉していたからだ。また、反ボルシェヴィキ活動に関与することの利益は想定し難かっただろう。
 彼の回想録では、こう書いている。Savinkov と逢うことに、好奇心から同意した。だが、「革命」と「テロリスト行為」の区別を理解できないように見える人物で、その道徳的基準は「血の復讐という原始的レベル」を超えていないことに、きわめて失望した(注141)。
 しかし、これは後知恵だっただろう。
 Masaryk が1918年4月にSavinkov に最初の金、20万ルーブルを与えたのは、確かなことだ(注142)。
 このような交渉についての考えられ得る説明は、偽装に長けたSavinkov がMasaryk を、ロシア中部で反ドイツ部隊をAlekseev の義勇軍が設立するのを助けるために使用される、と説得した、というものだ。
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 (06) Savinkov は、Lockhart やNoulens とも接触した。
 Lockhart は、ボルシェヴィキの鼻先で反ドイツ部隊を設立するというSavinkov の提案に、懐疑的に反応した。だが、Savinkov の魔法にかかりすぎていたので、外務長官のArthur Balfour から「Savinkov の計画といかなる関係も持つな、その計画をさらに検討することを避けよ」、という絶対的な指示がなかったならば、Savinkov を助けていたかもしれなかった(注143)。
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 (07)  Noulens はロシア領土内に多民族の反ドイツ部隊を設立すべきという考えの主唱者で、より協力的だった。
 彼は、Savinkov はとても印象的な人物だと見た。
 「無感情を不思議に表現していた。僅かに開いたモンゴル的まぶたの下から光る動かない目つきをしていて、唇はじっと閉じたまま。まるで彼の秘密の思いを隠したいがごとくに。
 対照的に、彼の経歴と外貌は西洋的だった。
 彼の中には、一つの人種の全てのエネルギーともう一つの人種の巧妙さや神秘さとが結びついていた。」(注144)
 Noulens は5月初めに、50万ルーブルをSavinkov に与えた。それに追加の援助金もあって、総額では250万ルーブルに昇った(注145)。
 確定できるのはこうだ。この資金は軍事目的のために、主としては義勇軍の経費のために使われたが、いくらかは連合諸国の軍事諜報のためにドイツ戦線の背後での仕事のためにも用いられた(注146)。
 Noulens はボルシェヴィキ体制打倒のためにSavinkov と共謀した、彼はSavinkov の革命的謀略を知ってすらいた、ということを示す信頼し得る証拠はない。
 Noulens はSavinkov から、ロシアのその他の諸政党、たぶん親連合国の民族派の中央、と彼とのあいだを調整する、という約束を引き出していた。
 しかし、Savinkov はこの約束を守らなかった。自分の計画を秘密にしておくために、親連合国派を信頼できなかったからだ。
 Grenard は、その回想録でこう書いた。Savinkov が1918年7月に反乱の狼煙を上げたとき、「ロシアのその他の諸政党と協力して行動する以外には何も企てないという約束を破って、自分自身のために行動した」(注147)。
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 (08) Savinkov は、チェコ人とフランス人からの資金に助けられて、募集活動を拡大し、1918年4月までに、5000人以上を、自分の組織、祖国と自由防衛同盟、へと入隊させた。うち2000人はモスクワにおり、残りの者たちは34の地方都市にいた(脚注)
 彼らのほとんどは将校だった。Savinkov は武装行動を計画しており、知識人、そして知識人のお喋り(boltovniia)はほとんど役立たなかったからだ。
 Savinkov は副官として、24歳の職業的砲兵将校で帝国総合幹部学校の卒業生のA. P. Perkhurov 中尉を選んだ。優秀な戦歴と伝説的勇気をもつ人物だった。
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 (脚注) Boris Savinkov, Bor’ba s Bol’sheviksmi (Warsaw, 1923), p.26.
 A. I. Denikin, Ocherki Russkoi Smuty, III (Berlin, 1924), p.79. は、実際の数字は2000〜3000だった、とする。
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2827/斎藤元彦兵庫県知事・2024年5月14日記者会見(一部)。

 斎藤元彦兵庫県知事・2024年5月14日記者会見(一部)。
 出所/兵庫県庁ホームページ「知事記者会見(2024年5月14日(火曜日))」。
 太字化、丸数字は掲載者(秋月)。「元西播磨県民局長」=告発文書(2024/03/12)の作成・発信者。
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 記者:
  文書問題に関して、今月9日にひょうご県民連合が第三者機関の設置を申し入れて、本日も石井秀武議員が申し入れをされました。
  改めて第三者機関の設置についてのお考えをお伺いします。 
 知事:
  今回の案件について、5月9日にひょうご県民連合から申し入れがあったことは承知しています。今日も石井議員から申し入れがあったことも承知しています。
  繰り返しになりますが、今回の件に関して、人事当局が懲戒処分にあたって弁護士にも相談しながら、文書に関する調査、対応を行いました。
  一定の第三者性が保たれてますし、客観性があるということで、処分の実施や内容については問題ないと私自身は考えています
  一方で、県民の皆さんにより十分に説明責任を果たしていくことも必要だという意見も見受けられます。
  我々としては、人事当局の行った調査は十分客観性があると今でも認識していますが、より説明責任を果たしていくべきだという意見もあります。
  今日もいろいろな施策を説明しましたが、県政をさらに前に進めていくためには、より信頼を高めていくことも大事だと思っており、今回の調査結果等について、外部の方に調査をしてもらうなり、しっかり説明責任を果たしていくことも大事だと思っています。
  この件は、県議会の動きなども踏まえながら、今後、どのような形で行うのが良いのかを、熟慮、検討していきたいと考えています。
 記者:
  議会の動きを踏まえつつというのは、例えば百条委員会など、具体的にどうなれば検討をしていくか、考えはありますか。 
 知事:
  議会の動きも踏まえながらです。
  まずは我々としてどうするべきかをしっかり熟慮、検討していくことになるのかと思っています。 
 記者:
  今回、公益通報を元西播磨県民局長がされて、吉村知事が9日の会見で第三者の通報機関を設置すべきだというご意見も出てきました。
  また、通報内容も、第三者の弁護士や専門家の意見を踏まえることが重要だという意見も出ましたが、改めてこのような意見を踏まえての知事の考えをお聞かせください。 
 知事:
  今の公益通報は、庁内に窓口を置いており、調査をして、是正が必要であれば、外部の委員に諮ってから是正措置をしていくことで、一定の客観性や外部性はあるとは思っています。
  そのような中で、今回、公益通報の窓口そのものについて、いろいろな指摘があることも承知しています。
  今回の事案をしっかり、見定めながら、今後、公益通報の窓口は外部に置いていくことを含めて、しっかり検討していきたいと思っています。
 記者:
  第三者機関の設置に関して、熟慮、検討していくということですが、設置すると決定されたわけではないのでしょうか。 
 知事:
  その可能性も含めて、今後、熟慮、検討していくということです。
  当然、二元代表制の一翼である議会側からも、既に複数の申し入れがありますし、議会側の動きも見据えながら、まずは私として、どのように対応していくかということです。
  やはり、先ほど申し上げましたが、今回の人事当局の調査自体は、弁護士にも入ってもらって、十分調査としては対応できていると思っています。
  より前を向いて、今後、県政を進めていくためには、県民の皆さんへの十分かつ丁寧に説明責任を果たしていくことも大事だと指摘もされていますし、私自身もそのように感じつつあるところなので、そのような観点から、外部の方に入っていただき、調査をしてもらうことも、一つの必要な説明責任の果たし方だと思っており、その辺り含めて、熟慮、検討していきたいと思っています。 
 記者:
  先週の会見では、第三者機関を設置しない、弁護士の先生もそのように仰っているので、そうだと思うと発言されていました。
  この判断を変えられた理由は、県議会からの意見があったところが大きいのでしょうか。
 知事:
  そこも一つありますが、県議会側にも様々な意見があります。
  正式に申し入れが来たもの以外にも、多様な意見もあるといろいろな形で伺っています。
  そもそも今回の事案について、より一層の説明責任を果たしていくためにも、そのような外部の方を交えて、我々が今回行った調査結果の内容も含めて、見てもらうことが、大事かと私も日々、考えたりします。
  そのような中で、今後さらに熟慮と検討を進めていきたいと思っています。 
 記者:
  熟慮、検討されて、概ね結論を出される時期の見通しありますか。 
 知事:
  そこはまだ決まっていません。 
 記者:
  第三者機関を設置するにあたり、一番重要なのは、委員の選定だと思いますが、委員の選定など、知事の中でイメージはありますか。 
 知事:
  まだ、熟慮、検討してる状況なので、具体的なものがあるわけではありません。
 記者:
  公益通報に基づく調査自体も進められていると思います。
  その調査との関連ですが、人事当局の調査があって、公益通報に基づく調査も続けていくのか、さらに第三者機関による調査も行うのかお聞かせください。 
 知事:
  公益通報についても、私が直接関与しているわけではありません。
  財務当局が実施していますが、基本的には、そのプロセスを止める理由がないので続けていく形になると思っています。
  そこに関しては、財務当局に聞いてもらえばと思います。 
 記者:
  第三者機関が調査するかどうかにもよりますが、基本的に公益通報の調査結果は公表されるケースがほぼ無いと思います。
  今回は注目を集めているケースで、公益通報についても通報者が公表されている異例の事態かと思いますが、公益通報の結果を公表するのか、今後、調査を始められると思いますが、第三者機関の調査自体は公開になるのかお聞かせください。 
  知事:
  そこも、まずは公益通報のプロセスは、財務当局に確認していただいたら良いと思います。
  また、第三者機関の公開は、熟慮、検討していく中で、どうしていくかになると思うので、具体的にどうするかまでは定まっていないと思います。 
 記者:
  公益通報の調査結果は、おそらく通常のやり方だと非公表のままだと思います。
  今回は、知事の判断にも関わってくると思いますが、関与するつもりはないのでしょうか。 
 知事:
  おそらく関与する余地がないのかと思います。
  改めて財務当局に確認をしてもらえればと思いますが、今、決められているルールに沿って調査をし、調査結果をどのように公表するのかも含めて、財務当局が委員の方と議論をしていくと思います。
  確か是正の必要性が何か出てくれば、委員に諮って公表されると思います。そういうことが出てくれば、公表することもあると思います。 
 記者:
  説明責任に関して、第三者機関が調査することが決まれば、第三者関からの報告書等が出てくるかと思います。
  先週の段階では、どのような発表の仕方をするかは検討したいということでした。現時点ではどの段階で知事から説明しようと思っているのか教えてください。
 知事:
  現在、公益通報の調査があって、今後、外部の方に入っていただいて、調査をしてもらうことも含めて、熟慮、検討していくことになります。
  どの段階で私自身が説明するのかは、現時点では決められないと思います。 
 記者:
  調査中の段階では説明はできないということですか。 
 知事:
  基本的に調査をしてる時には、調査の当事者が説明することは、よほどの何かがあれば別ですが、基本的には難しいと考えています。
  今後、どのような形で進めていくかによって変わってくると思います。 
 記者:
  第三者機関を設置するのであれば、調査の対象となるのはどの範囲なのか、挙がっている7項目なのか、懲戒処分全体の話なのかを教えてください。
  また、懲戒処分結果に対してもおそらく影響が出てくると思いますが、その見解を教えてください。
 知事:
  そこは、たぶん、私が、内容や調査の立て付けをどうしてくかを、あまり言う立場ではないと考えています。
  今後、外部の方に入っていただいて、調査をしていただくことを熟慮、検討していく中で、より客観性を保つためにはどうすれば良いかを、関係者の方で話し合ってもらう。そこには、議会が一定このような方向が良いのではないかということも一つあるかもしれません。
  二元代表制なので、県政全体をしっかり前に進めていくために、このような形で合意形成していくのも一つのあり方かと思いますが、私自身がこうして欲しいという立場ではないと、今は、思っています。 
 記者:
  処分が覆るかもしれないという結果についてはどうですか。 
 知事:
  現時点で人事課の調査は十分されて、処分を決定したと思っているので、仮定の話については、明確にお答えするのはなかなか難しいと思っています。 
 記者:
  文書問題に関して、先日、ひょうご県民連合が記者に対して説明を行った際に、兵庫県の財務規則では、寄附で物品を受け取る際には、寄附申出書を徴収しなければならないが、コーヒーメーカーの時は寄附申出書が提出されていない可能性があるというお話がありました。
  実際に原田産業労働部長がコーヒーメーカーを受け取った際には寄附申出書を、実際に処理していたかどうかを教えてください。
 知事:
  私は知りません。その辺りは担当の方から。
  社会通念上の儀礼の範囲内で、一定そのような地域の産品などをいただくとことはあるとは思います。
その都度、そのような手続きをしていたかどうかは、ケース・バイ・ケースだと思います。
  今後、今回の事案を含めて、いろいろ調査をしていますが、最終的には贈答品などのルールをきちっと定めていくことが、私は大事だと思っており、しっかり検討していく課題だと思います。
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 記者:
  文書問題に関して、先ほど第三者機関の設置を熟慮、検討するというお話がありました。
  逆に言えば今の段階で設置すると言い切れない、引っかかっている理由は何があるのでしょうか。 
 知事:
  先ほど申し上げたとおり、私としては、人事当局が行った調査は十分調査をして対応してきたものだと今でも思っています。
  繰り返しなりますが、より十分な県民の皆さんへの説明責任が必要だという意見もあるので、県政の信頼をこれから回復していくためにも、そのような外部の方に入っていただいて、調査結果をしっかり調査してもらって説明責任を果たしていくことが大事だと考えつつあります。
  これから議会側も、既に5月9日に申し入れをされていますが、議会側もどのような考えがあるかをしっかり伺って、そこを踏まえて対応していくということが大事だと思います。
  特に二元代表制になるので、当局側の知事と議会がしっかり今回の問題も含めて意思疎通をして、どのような形でやっていくべきかを、一定、合意形成をして、きちっとやっていくことを検討していきたいと思っています。
  今の時点で、どうこうと言うよりも、しっかり熟慮、検討していくにはもう少し時間がかかるのではないかというのが率直な思いです。 
 記者:
  第三者機関を設置することは考えているけども、具体的な中身ややり方などは、これから熟慮していく考えでしょうか。
 知事:
  中身やどのようにするかは、多分、私がこのようにしたいとか、このようにしてということを最終的に決められる立場では無くなってくると思います。
  繰り返しになりますが、県議会の中にもいろいろな意見があると思います。今の時点で調査は十分に尽くされており、もう良いのではないかという意見もあれば、やはり説明責任をしっかり果たしていく意味でも、作った方が良いのではないかなど、いろいろ意見があると思います。
  それを伺って、どうするかを、最終的に、熟慮、検討して定めていきたいと率直に思っているところです。 
 記者:
  知事が最終的に全体像を考えるのではなく、議会との対話の中で、第三者機関のあり方、中身をどうするか、対話を通じて考えていくということですか。 
 知事:
  最終的には、県が執行者なので、中身をどうするかは別にして、どうするかはおそらく知事が予算も含めた執行権者なので、どうするかを判断していかなければいけないと思います。
  その過程の中で、議会側も含め、ご意見を伺いながら最終的に判断をしていくことになると思います。 
 記者:
  先ほどの質問に関連して、前回の会見までは、第三者機関は一切考えていないとのことでした。
外部の方を含めた第三者機関を設置することの必要性を一番強く感じられたのは、どのようなやりとり、どのようなきっかけだったのですか。
 知事:
  元々、完全に否定していたというよりも、今やっているプロセス、人事当局の懲戒処分に関する調査が、弁護士を入れた中できちっとやっているので、そこで一定の客観性と第三者性、公益通報のプロセスも含めれば、今の時点ではこれで十分ではないかとの見解を述べてたというのが事実だと思います。
  今でもそこは、そのような考えもありますが、やはり日々、自分の中でもいろいろ考えていく中で、議会側もいろいろなご意見があります。
  そして、県民の皆さんの中でも、斎藤県政をもっと前に進めて、若者・Z世代対策を含めて、どんどん施策を前に進めていくためにも、今よりも、もっと十分な説明責任を果たしていくことが大事ではないのかなど、いろいろなご意見もあります。
  そのような中で、私自身もこれからしっかり説明責任を、すでに調査結果が出ていますが、その内容も含めて、外部の方に見てもらうことが必要かどうかを議会側の意向も踏まえながら、熟慮、検討していきたいという心の内になってきたというのが、現在の状況です。 
 記者:
  今回、7点の指摘の中で、県庁内部からの声で、いわゆるパワハラに当たるのではないかという行為が様々なところから声があるとの指摘がありました。
  熟慮するにあたって、県庁内部からの声、ご自身の部下からの言動や行為が、もう一度見直すことに繋がったということはありますか。
 知事:
  そのようなことというよりも、報道であったり、県議会の意見、あとは自分の中でいろいろ考えたりすることがある中で、より説明責任を果たしていくため、外部の方に今回の調査結果を含めて対応していくことも大事なポイントではないかと考え始めたところです。
  これから、県議会からの意見なども伺いながら、最終的に熟慮、検討して判断していきたいと考えています。 
 記者:
  熟慮、検討していくために、議会との対話の場を知事として設けられるのか、どのような形で検討を進めていくのか、何か考えがあればお聞かせください。 
 知事:
  今のところ具体的なものはありませんが、議会からもいろいろな会派が申し入れをされつつある中で、おそらく議長含めて各会派の方々は、どうすべきかを考えていく状況になる可能性もあります。
  その中で、どのタイミングで誰とどうすべきか、おのずと定まっていくと思っています。
  今の段階で、こうしたい、このタイミングでしたいことがあるわけではありません。 
 記者:
  説明責任という言葉が出てきましたが、知事は3月末の会見で事実無根という発言をされました。
  知事自身が、文書内で書かれている疑惑は、その一つ一つをこれまで説明はされてこなかったかと思います。
  その説明責任はどう考えているのでしょうか。
 知事:
  説明責任は、私自身が説明するというよりも、県民の皆さんに対してしっかり県が説明していくことが、県というものはやはり組織ですから、大事という意味で申し上げています。
  これは私の口からが良いのか、それとも今回も人事当局の調査結果で、このような方向性を皆さんとともに説明をしたこともあります。
  そのような意味での説明責任をどう果たしていくかが、今でも大事だと思っています。そこは前回の人事当局の調査結果が、一定客観性も入れて調査をしたと私は思っており、一定の説明責任は果たしていると感じています。
  それでも、より客観的に説明責任を果たしていくべきだという声がある中で、外部の方の調査をしてもらうことを含めて、これから熟慮、検討していくことになります。
  外部の方が調査する方向であれば、その方々が最終的には説明をしていくこともあるかと思いますが、そこはこれからどのような形でやっていくかがベースになるかと思っています。 
 記者:
  自身がその疑惑について説明されることも含めて検討されるのでしょうか。 
 知事:
  そこはやはり調査の対象となっている当事者なので、ここがすごくこの問題のポイントにもなっています。
  最初の方に、私は虚偽が多いと言いましたが、それはその時点で、私自身が当事者として、そのような事実が無いことが多いので、そこを申し上げましたが、その後、調査を進めていく中で、私自身が個別のことについて、コメントや評価をしていくことは適切ではないということだったので控えてきました。
  今後、人事当局の調査が終わったとはいえ、公益通報のプロセス、外部の方も入れたプロセスが進んでいくことになれば、当面、私の方から個別のことについてお答えをすることは、どの段階かはありますが、今の時点では、そこはできないと考えています。
 記者:
  調査の段階で、知事自身が、自身の疑惑について一つ一つ説明するのは適切ではないという考えでしょうか。 
 知事:
  客観性を持って説明していくためには、私以外の方が調査することなので、まずは人事当局の内部調査を実施し、公益通報の調査も進んでいきます。
  それが私以外の方が調査をして発表していくことが、一番客観性を持ったものなのではないかと思っています。 
 記者:
  そのご意見も踏まえて、3月末での自身が当事者として書かれていることに事実無根だという発言をされたことについて、人事当局の調査中でしたが、あの発言は今の段階でも適切だとお考えでしょうか。 
 知事:
  適切か適切でないかは、コメントはなかなかできませんが、当時としては、公益通報がされていない段階で、私自身も内容について書かれた当事者として、そうでは無いということが多々含まれていたので、そこをあのような形で、指摘させていただいたということです。 
 記者:
  3月に、文書問題が出てきて、2カ月近くこのような状態が続いているかと思います。
  そのような状況は、県民の皆さん、全国的にも、不安やどうなっているのだろうという状態が続いていることについて、知事の受け止めをお願いします。 
 知事:
  懲戒処分が決まった時にも申し上げましたが、このような状況になったことについて、県民の皆さんにお詫びを申し上げなければならないとお伝えしました。
  これから県政を前にしっかり進めていくためにも、今回の事案について、適切に対応して、信頼回復につなげていき、前に進めていくことが大事だと思っています。 
 記者:
  知事のこれまでを振り返って、あの時このような対応をしておくべきだったなど、反省すべき部分とかはありますか。 
 知事:
  プロセスとしては、人事当局の調査、そして、結果的に公益通報というプロセスになっているので、対応としては現時点では適切な対応をしてきたと認識しています。
  ただ、先ほど申し上げたとおり、より県民の皆さんに対して、客観的な説明を果たしていくことも大事なポイントだと思います。
  これから、前を向いていく意味でも、外部の方に入っていただいて、調査をしてもらうことを含めて、これから県議会の意向なども聞きながら、熟慮、検討していく、そして判断していく形になると思っています。
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2826/斎藤元彦兵庫県知事・2024年5月8日記者会見(一部)。

 斎藤元彦兵庫県知事・2024年5月8日記者会見(一部)。
 出所/兵庫県庁ホームページ「知事記者会見(2024年5月8日(水曜日))」。
 太字化、下線、丸数字は掲載者(秋月)。「元西播磨県民局長」=告発文書(2024/03/12)の作成・発信者。
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 記者:
  昨日の懲戒処分で、元西播磨県民局長の処分を決めましたが、知事の受け止めをお伺いします。
 知事:
  元西播磨県民局長と産業労働部長の処分を行いました。服務規程に違反した職員に対する懲戒処分等です。
  職員一丸となって、県政の推進に取り組んでいる中で、このような事案が起きたことは、改めて、大変遺憾であります。県民の皆さんにお詫びを申し上げたいと思っています。
  改めて公務員倫理の徹底を図るとともに、今後、より風通しの良い県庁組織を作る、風通しの良い職場づくりに向けて、私としても最大限取り組んでいきたいと考えています。
 記者:
  元西播磨県民局長は、公益通報もされていますが、なぜ、今の段階で人事処分の決定をされたのかをお伺いします。 
 知事:
  昨日、人事当局、同席いただいた藤原弁護士からも同様の説明があったと思いますが、確かに公益通報されていますが、通報以前に行われた本人の非違行為に対して、懲戒処分を行う判断を、今回、人事当局と協議しながら決めました。
  処分に関しては、昨日、弁護士含めて問題はないとの見解もいただいているので、それに沿って対応させていただきました。
 記者:
  人事当局からはどのような説明が知事にありましたか。
  調査方法や調査内容の説明はあったのでしょうか。 
 知事:
  最終的に懲戒処分を決めるにあたって、綱紀委員会で議論して、非違行為があったので、懲戒処分に相当する旨の説明がありました。
  過去やこれまでの例に沿って、懲戒処分の内容についても報告があり、私自身も内容を聞いて了承しました
 記者:
  3月27日の定例会見で、知事は「名誉毀損、法的な課題がある」と発言されましたが、調査を終えた現在の認識としてはどのように思われていますか。
  また、刑事告訴などを考えているのでしょうか。
 知事:
  昨日、人事当局から発表させていただいたとおり、今回、当該者の行為には、幾つもの非違行為があり、懲戒処分に相当するため処分をしました。
  調査内容の一つ一つについては、今後、公益通報があるので、コメントは少し差し控えたいと思っていますが、当該文書には、虚偽内容が含まれていた旨は、昨日、説明されたとおりだと考えています。
  そのようなことから今回、懲戒処分を行いました。
  今後の刑事的な手続きは、公益通報の手続きが進んでいる状況ですが、昨日、懲戒処分を行い、当該文書の内容は事実ではないことも示されたと受け止めているので、私としては現時点では刑事告訴などは考えていません。 
 記者:
  今回の件は、懲戒処分前に内容が公になってしまった異例の事態だったと思います。
  この件により、県政への不信感に繋がりかねない問題となったと思っていますが、この点について知事はどのように考えていますか。 
 知事:
  先ほども申し上げたとおり、職員一丸となって県政の推進に取り組んでいる中で、このような事態が起きたことは大変遺憾だと考えています。
 記者:
  前例に沿えば、懲戒処分は人事課の調査で実施することになると思います。
  先ほども不信感という発言もありましたが、一方で知事も日頃から開かれた県政という透明性を確保した運営を掲げていると思います。
  県民の疑念を解消するためにも、知事と利害関係のある職員や弁護士の調査ではなく、内外から外部の第三者委員会を設置するべきではないかとの意見もありますが、その点についてはどのようにお考えですか。 
 知事:
  今回は、人事当局が、まずは懲戒処分に相当するということで調査をしました。
  以前から申し上げているとおり、弁護士の意見も聞きながら、今回の調査をしたので、一定客観的な調査が実施されたと考えています。
  今後、公益通報に基づく手続きになるので、公益通報委員会もあり、一定の第三者性は担保できていると私自身は考えています。
  また、第三者委員会の設置の必要性は、昨日、藤原弁護士などからも、考え方が示されたと伺っています。私としては適当ではないかと考えているので、それを踏まえて対応していきます。
  
 記者:
  懲戒処分問題に関してお伺いします。
  昨日のレクで人事当局は、調査を尽くしたので、これ以上事実は出てこないため、第三者委員会は不要だというような趣旨を話されたと思います。
  今回、処分権者が行政トップである知事で、行政トップが決めた組織決定を、公益通報は県政改革課が内部で実施されるかと思いますが、行政トップが決めた組織決定を、内部調査が縛られずに客観性を持った調査ができるのかについては疑問の声も上がっているかと思います。
  この辺の公益通報に関してその調査が客観性を持てる根拠についてお伺いします。
 知事:
  そこはきちっと客観性を持ってやることが大事ですし、そうすべきだと考えています。
  今回は、人事当局が弁護士の意見も聞きながら、内部調査を客観的にやったということで、昨日発表して、それに基づいて、懲戒処分等をした形になっています。
  今後は、公益通報がされているので、それに沿って、弁護士等で構成される公益通報委員会で調査結果に基づく是正措置があれば、そこに対して意見を述べていくことになると考えています。
 記者:
  公益通報で、虚偽ではなく、誹謗中傷でもなく、公益通報として事実関係についても事実が認められるという、仮に真逆の事実が認められた場合、その懲戒処分の根拠が覆るかと思うのですが、そのあたりのご見解はいかがでしょうか。
 知事:
  仮定の話ですので、なかなかコメントしづらいと考えています。
  現在、当該者から公益通報があり、ここはプロセス、事実としてあるので、これに基づいて調査をしていく。
  そして、必要に応じて是正措置などを弁護士等で構成する通報委員会に付議しながら、決めていく形になります。 
 記者:
  今回の調査手法には、知事は関わっておられないということでした。
  昨日の人事当局の説明では、人数や期間なども調査手法に関することですので、明らかにしないとのことでしたが、第三者委員会などが設置されている場合では、透明性や客観性を持たせる意味でも、個人情報にかかわらない部分は明らかにすることが一般的かと思います。
  このあたり調査手法については、どのように評価をされていますか。 
 知事:
  懲戒処分に関する内部調査が、これまでのやり方に沿って、まずはやってきたことに加えて、今回は、当該文書の内容が一つの懲戒処分の構成要件としてあったので、そこは弁護士をきちっと入れさせていただいて、客観的にしっかり調査したことが、昨日の人事当局、それから藤原弁護士の見解だったと思っているので、そのような観点ではきちっと対応されたと認識しています。 
 記者:
  人数・期間等を明かさないこと、報道機関に対する聴取もあったかと思うのですが、調査手法に関することは、今回、調査を終えられてみて、知事としてどのように評価されているのかお聞かせください。
 知事:
  従来の人事当局の調査の中で実施されたものではあるので、もちろん報道機関への調査は、私自身は調査対象になっているので、指示などができなかったことはありますが、やはり報道の自由をしっかり尊重しながらやるべきだという思いはあります。 
 記者:
  人事調査の結果が出たので、個別事案について伺います。
  1つ目の調査結果で、ひょうご震災記念21世紀研究機構の副理事長である御厨さんと河田さんの解任について、片山副知事が打診したことは事実だと、今回の人事当局の調査では認定があったかと思います。
  2人とも震災分野の第一人者で、今回発表もあった創造的復興サミットに関しても要になられるのだと思ったのですが、震災30年を前にこのような人事のお話をされたことに関する趣旨をお聞かせください。 
 知事:
  そこは、人事当局の調査は現時点で昨日終わりましたが、これから公益通報の方でも調査が進むので、個別の当該文書に関する是非や内容のコメントをするのは、現時点では差し控えておいた方が良いというのが私の今の感覚です。
  指摘されていることについて、もし必要があれば、担当課を含めて、所管するところに聞いていただいたら良いのかもしれないです。
 
 記者:
  昨日、藤原弁護士が、知事を聴取するのは、十数年間の経験でも極めて異例だということでした。
  県議さんから言わせると、ガバナンスの問題や前回の知事選が影響しているのではないかといった、いろいろな声があります。
  知事として聴取を受け、今回、綱紀粛正を図る、風通しの良い組織にするためには、具体的にどのように改善していかれようと考えているのでしょうか。 
 知事:
  先ほど申し上げたとおり、懲戒処分が一旦決定されて、今後、公益通報の手続き等が進んでいくので、その経過を見た後に、具体的にどうするかを考えていくことも大事だと思っています。
  そのような中で、今回の懲戒事案が発生したことを踏まえると、職員倫理の徹底を図っていくことと、そのために必要なルールづくり、贈答品や公益通報の窓口をどうするかなども、きちっとやっていきたいと思っています。
  それから風通しの良い職場づくりというものを、私自身ももっと努力をしていかなければと考えています。
  先ほども言いましたが、この3年間、コロナ対応もそうですが、若者Z世代を応援する様々な施策を中心に、いろいろなことをさせてもらいました。
  職員には、一緒にやってきたことに改めて感謝を申し上げたいと思います。
  選挙などいろいろな指摘はあるのかもしれないですが、大事なのは、やはり、県民の皆さんにとって、一番良い施策をやっていくことが大事だと思います。
  そのために、県庁一丸となって、良い施策をみんなで作っていくような組織風土に私自身が先頭になってやっていくことを、これまでも努力してきましたが、今一度、働き方改革も含めてやっていきたいと考えています。
 記者:
  知事ご自身が、今回の懲戒処分に至る調査を通じて、反省すべき点、改善すべき点はどのように考えていますか。 
 知事:
  具体的に何かということよりも、今回、このような事態に至ったことは、県民の皆さんにお詫びを申し上げなければいけないと思っています。
  懲戒処分に至るようなことがあったことで、今一度、公務員倫理、服務規律の徹底をきちっとしていくこと。これは私自身も、やはり疑念を持たれないようないろいろなルール、それからそれを是正するような仕組みを作っていくことが大事だと考えています。
  先ほども言いましたが、風通しの良い職場づくりに向けて、より職員とのコミュニケーションを密にしていく。そして、良い施策を県民の皆さんのために実現できるような、そんな県庁づくりに努めていくことが大事だと思っています。
 
 記者:
  懲戒処分の問題で伺います。
  3月27日の定例会見で、知事は文書内容について事実無根が多々含まれている嘘八百、と言い切られていたかと思いますが、その影響で、この人事課の調査を受ける職員の中に萎縮する人がいたという可能性は考えられませんでしょうか。 
 知事:
  当時は、公益通報等される前の段階で、私としては当事者でもあって、事実ではない内容が多々含まれているという意味で発言をしました。
  その後、昨日、発表したとおり、人事課が内部調査として弁護士の助言やサポートをいただきながら、かなり関係者へのヒアリングや客観的な証拠も含めて、積み上げをしたと思いますので、そのような指摘は当たらないような調査結果になっていると私自身は捉えています。 
 記者:
  3月27日時点で公益通報はまだされていなかったと思いますが、確か懲戒処分に向けての人事課の調査は始まっているということだったと思います。
  その調査がある中で、定例会見で言い切ったことは、今でも適切だったと思われますか。
 知事:
  あの当時は私自身が、そのような形で指摘されている中で、そのような発言をさせていただいたというふうに考えています。
  その後、先ほど申し上げたとおり、人事当局が弁護士も入れながら、きちっと客観的な聞き取りや証拠などを集めて調査をしていたと私自身は受け止めています。 
 記者:
  懲戒処分の件で、先ほどから客観的な証拠がある、客観的な聞き取りが行われたという話だったのですが、人事当局からどのような調査をして、何をもって客観的と思われているのか
  内部調査ですので、知事の下で働かれている職員が調査を行っていて、何をもって客観的と考えられているのかお伺いします。 
 知事:
  昨日の調査結果の内容で、一つ一つの項目について説明がされているかと思います。そこで何が事実でないかどうかというところが、きちんと核心的なところを含めて説明をしたと認識しています。
  その際には、人事当局がきちっと弁護士のサポート、助言を受けながら、一つ一つの項目について、関係者の聞き取りなどしていたと考えているので、そこで一定の客観性はある調査になったと認識しています。 
 記者:
 今回の処分を決定した委員会に、この文書で疑惑として挙がっている幹部職員も委員長として入られていますが、その処分への中立公平性が担保されていると考えられていますか。
 知事:
  綱紀委員会の話だと思いますので、そこは人事当局としてもう一度説明してもらえますか。 
 人事当局:
  綱紀委員会の委員長が総務部長であるということで、昨日も申し上げましたが、調査の結果、事実認定をしたことを綱紀委員会で申し上げて、事実に基づいて非違行為の処分の量定について綱紀委員会で意見を聞くという形になります。
  調査過程では、総務部長を外しており、最後、処分権者の1人ではあるので、そのような意味で、認められた非違行為について、委員会に諮るということであり、問題ないものと考えています。 
 記者:
  調査には、委員長はもちろん入っていないと思いますが、調査対象として入っている方が、その処分、事実に基づいてという話ではありますが、処分決定するというところで、公平性をどのように担保されているんでしょうか。
  決定する上で、自分自身の疑惑が書かれているものを、どのように公立公平に扱っているのかは、もう少し説明をお願いします。
 人事当局:
  文書に書かれていることが基本的に事実ではないという調査結果が出ております。
  本人も当然のごとく、身に覚えのないことを書かれているということであるので、その点では処分に恣意的な思いが入る余地はありませんし、そのような意味では処分権者、知事はじめ、処分の決裁権者であり、当然、その処分を決定していくにあたっては必要な手続きになるので、そこの点では問題ないと考えています。 
 記者:
  文書の内容について、知事は以前、一つ答えると次も次もとなる。全体を精査した上で説明したいと会見でお話をされていました。
  今回、人事当局の調査でも一つ一つどれが事実ではないと説明をしていただいたので、全体の精査をされているのではないかと思います。
  人事当局の調査でも一定されていると考えられるかもしれないですが、どの段階で説明していただけるものなのかをお伺いします。 
 知事:
  私自身が調査内容について、一つ一つ説明することが、今の段階で良いのかどうかはあると思います。
  今は、人事当局が弁護士を入れて調査をしていたので、その間、私は調査対象でもあり、答えてはいません。
  かつ、昨日、調査結果を懲戒処分の中で説明をしたということになるので、そこを踏まえてこれから公益通報の手続きの中で、文書の内容が調査や精査されていくと考えています。
  私としては、今の段階で、文書の内容のことについて、コメントすることは控えたいと思っています。
  ある程度公益通報の調査が終わった後も、私自身が説明するのが良いのか、それとも昨日のように、私ではないという意味での第三者、人事当局の方から、昨日も弁護士が説明を補足しましたが、そのような形で内容の説明することの方が適切であれば、それを持って説明したことになると思っています。 
 記者:
  知事は、3月27日の段階で嘘八百というふうな発言をされています。
  何をもって嘘八百と会見の場で発言されたのかというところも、改めて説明が必要なのではないかと思いますが、そこはいかがでしょうか。 
 知事:
  そこは昨日の調査結果を踏まえた項目についての説明です。
  そこと、これからの公益通報のプロセスを経た後の結果を踏まえて対応は検討したいと考えています。 
 記者:
  先ほども質問があった法的手続きを進めているというような発言を3月27日にされていましたが、それはもう、撤回されるといいますか、法的手続きはしないということで良いのでしょうか。
 知事:
  昨日の時点で、懲戒処分の内容が一定決定され、そこで、内容について、真実でないということが一定示されたこともあり、懲戒処分されていることから、現時点では、刑事告訴などは考えていない状況です。
 ⑤ 
  記者:
  懲戒処分の問題でお伺いします。
  元西播磨県民局長は内部通報が信頼できないため、公益通報より先に文書を配布する方法をとったと言っています。
  他県では、庁外に公益通報窓口を設定している県も多いそうですが、公益通報の窓口を庁外に設置することは検討していますか。 
 知事:
  先ほど申し上げたとおり、今後の検討課題になると考えています。
  現時点では、公益通報の窓口は庁内に設置していますが、今回の事案を踏まえて、今後、窓口を外部に設置することも含めて検討課題と認識しています。 
 記者:
  今回、2人が処分されましたが、元西播磨県民局長は懲戒処分でも上から2番目に重い停職。産業労働部長は懲戒処分には当たらない戒告の事実上一つ下にあたる訓告という処分でした。文書による指導に過ぎないものではありますが、処分の軽重について、知事が思うことあればお伺いします。
 知事:
  まずは、人事当局の方から。 
  人事当局:
  昨日も申し上げたとおり、地方公務員法上の処分ではありませんが、本県の考査規程で訓告という処分を行うことができると規定されています。そのような意味では、訓告も懲戒処分に当たります。
   それぞれの処分は比較するものではなく、それぞれの職員が行った非違行為そのものを、過去の処分事例や本県の懲戒処分指針に基づいて、非違行為について処分の量定を検討するものです。
  今回、元西播磨県民局長と産業労働部長の処分の量定を比較することは、適切な比較の対象にならないと言いますか、それぞれ行った非違行為について、妥当な処分の量定を検討していくことになります。 
 記者:
  知事はどう思われていますか。
 知事:
  今、人事当局から説明させてもらったとおり、処分の量定は、それぞれの非違行為について、本県の懲戒処分の指針や過去の処分事例を踏まえて決定したものです。私としては今回の対応は適切なものだと考えています。 
 記者:
  先ほども、記者の方から質問がありましたが、改めて3月の定例会見の際に、当初から嘘八百、事実無根としていた告発文が、内部調査の結果、核心的な部分において全て事実無根と認定されたことについて、改めて受け止めをお願いします。 
 知事:
  現時点では、公益通報の手続きが進んでおり、それぞれの内容へのコメントは差し控えますが、改めて、職員一丸となって県政の推進に取り組んでる中で、このような状況になったということは、極めて遺憾であります。県民の皆さんに改めてお詫びを申し上げたいと考えています。
  改めて公務員倫理の徹底を図るとともに、私自身も、より風通しの良い職場づくりに向けて努力して参りたいと考えています。
 記者:
  弊社の情報番組や系列の報道番組において、橋下徹さんが発言していた言葉を一つ拝借させていただきますが、「斎藤知事は確かにパワハラがないと言いたいのは分かるが、それを今、調査中の段階で言ってしまうと、適正な調査ができないし、以後職員も告発がやりにくくなる」といった発言をしています。
  当初、人事当局の調査が始まっている段階で、事実無根や嘘八百と言ったことは、今振り返ってみて適切だったと考えているのでしょうか。 
 知事:
  今回の文書については、私としては、3月27日の時点では、文書に書かれた当事者として、事実でないことが多数書かれていたので、その中で、そのような表現をしたということになっています。
  昨日、人事当局が弁護士を入れて行った一定客観的な調査の中で、結果的に懲戒処分に該当する事案の一つとして、文書の内容に非違性が含まれたことが示されたことになっているのでないかと考えています。
 記者:
  先ほどの他の記者の方の質問にもありましたが、調査が始まっている段階で、知事の見解を言ってしまうと、内部の調査ですので、言いづらくなってしまう職員の方もいるのではないかという懸念がある中で、そのような発言があったことは、適切だったということで大丈夫ですか。
 知事:
  表現が適切であったかどうかは、今後、よく吟味をしていきたいと思っていますが、今回については、3月27日の時点で文書に書かれた内容が当事者として様々な事実ではない内容が含まれたということで、私自身もあのような表現をしました。 
 記者:
  先ほどから話題になっている過去の知事の発言で嘘八百や事実無根と言ってる思いや認識は今も変わりないということでしょうか。 
 知事:
  3月27日の時点で文書が出ていて、文書に書かれた内容について、当事者として、事実ではないことを書かれたことで、あのような表現をしたということです。
 
 記者:
  当時の思いや考えはわかりましたが、今回の人事当局の調査結果を受けて、改めて文書の評価をする時に、文書の中身は、やはり嘘八百であって、事実無根であるというのは変わりないのでしょうか。 
 知事:
  昨日、人事当局が発表したとおり、弁護士を入れた人事当局の調査によって、記載内容の核心的な部分が事実でないと明らかになった発言。
  それから、記載内容の各項目を、全体として見れば7つの項目全てが事実に反していると、昨日、人事当局、それから弁護士もそれを踏まえて評価されているということだと思います。
 
 記者:
  第三者委員会の件ですが、今のところ設置をしない考えだと思います。
  議員さんや一般の県民の方からも、やっぱり、第三者委員会を設置した方が良いのではないか、この内部調査だけで終わるのはどうなのか、というご意見も多々あるように見受けられます。
  これまでの説明を聞くと、弁護士に話を聞いて、法的には問題ないという意見は一定理解できますが、失礼な言い方ですが、ある意味、盾にとって強引に幕引きを図ろうとしているようにも見えます。
  今のこのやり方で、実際に県民に理解が得られると考えているのでしょうか。 
 知事:
  今回の内容は、そのような文書が出て、その後、公益通報という形で提出がされ、人事当局の調査が始まった形になります。
 b調査の内容は、昨日、発表しましたが、人事当局が弁護士とも相談しながら、きちっと客観的な内容を調査したと受け止めています。一定の第三者性、客観性というものは、これからやる公益通報のプロセスと含めて担保されているのではないかと考えています。
 県民の皆さんに、昨日も説明したとおり、今日も会見しているとおり、きちっとご理解をいただけるように、これからも努力していくことだと思います。
  第三者委員会の設置については、昨日、藤原弁護士からも見解が示されましたが、法的な専門家の観点から設置の必要はないと示されたので、私としてはそれを踏まえて、これから適切に対応していくことに尽きると考えています。 
  記者:
  弁護士の意見で法的に正しいかどうかという意見とは別に、一般の県民の方からすると、客観性が本当にあるのかどうか、いわゆる納得感や理解ができるかが非常に行政のあり方として大事ではないかと思います。
  今の発言では、やはり第三者委員会は何があっても設置しないというように聞こえます
  今後の展開によっても、全く設置する考えはないということでしょうか。 
 知事:
  まずは客観的な調査をきちっと実施していくことが大事だと思います。
  そのような意味で、私たちが、今、進めているのは、繰り返しなりますが、懲戒処分に関して、人事当局が調査をしていく。そこで弁護士のサポートをいただきながらできるだけ客観的にやってきました。
  それを、昨日、弁護士同席の下、内容の説明をしたことで、調査内容の説明や客観性は、一定担保できてるのではないかと私自身は考えています。
  これから公益通報の中で、今一度、プロセスが進んでいくことになります。
  委員会の委員の中には、弁護士とかも入っており、是正措置などが必要であれば、その意見を聞きながらやっていく形になるので、そのプロセスをきちっとやっていくことで、県民の皆さんに対する客観性を示していくことができるのではないかと私は考えています。
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2825/斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月26日記者会見の内容(一部)。

 斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月26日記者会見の内容(一部)。
 出所/兵庫県庁ホームページ「知事記者会見(2024年4月26日(金曜日))」。
 太字化、丸数字は掲載者(秋月)。「元西播磨県民局長」=告発文書(2024/03/12)の作成・発信者。
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 記者:
  前西播磨県民局長の文書問題でお伺いします。
  丸尾議員が、第三者調査機関を設置するよう要望を出されました。
  これまで知事は、まず人事当局が調査をしてからという見解を繰り返し示されています。
  改めて、人事当局ではなく、外部の第三者が調査を、という申入れ書を受け取った知事の見解をお聞かせください。 
 知事:
  先日、丸尾議員が申入れをされたことは承知をしています。
  私は、詳細な内容を把握できていません。
  今回の件に関しては、繰り返しになりますが、現在、人事当局が懲戒事案にも関する可能性があるため、弁護士と相談しながら客観的な事実を含めて詳細調査をしているところですので、そこがまずは県としては大事だと思っています。
  一方で、文書の内容は、公益通報もされています。
  公益通報は、是正の必要等あれば、第三者からなる公益通報委員会にも付議される形になっています。
  そこには、弁護士や公認会計士、学者の先生が入った委員会ですので、そのプロセスをきちんとやっていくことで、一定、第三者性が担保されると考えています。
  いずれにしても、現在、人事当局が、弁護士を入れて調査をしているので、しっかりやってもらうことが大事だと考えています。
 記者:
  公益通報の制度で外部有識者が入っているため、それが、第三者に当たるという見解でよろしいでしょうか。 
 知事:
  第三者性は、そこが一定あると私自身は考えています。
  片山副知事が入っていましたが、今回は外すことにします。
  現在、すでに人事当局の調査は、弁護士を入れてやっています。
 そ れと併せて、公益通報の制度の2つをきちんとやっていくことが大事だと考えています。 
 記者:
  第三者調査機関を新たに作る必要はないということでしょうか。 
 知事:
  繰り返しになって申し訳ありませんが、人事当局が弁護士と相談しながら行っている詳細な調査だと思います。
  内容について、私は、タッチはしていません。
  それとともに、公益通報を受けた上での、公益通報での調査をきちんとやっていくことが大事だと思います。
  人事当局の調査には、弁護士を入れており、公益通報の委員会にも、弁護士などの第三者も入っているので、一定の第三者性も担保されていると考えています。
  まずは、人事当局の調査が大事なポイントだと考えています。
 記者:
  前西播磨県民局の文書問題で、先ほど、新聞労連から、県庁と県知事に対する抗議声明が出されています。
  人事課が報道機関に対して聞き取り調査をしたことは、速やかにやめるべきだという内容でした。
  先週の会見では、知事は人事課の調査には関与していないとのことでしたが、本日、新聞労連の委員長からは、知事がリーダーシップを持って制止すべきだというようなご意見を述べられています。
  この抗議声明に対する受け止めをお伺いします。 
 知事:
  人事当局が、今、行う調査方法は、私自身も把握をしていないのが今の正直なところです。
  懲戒処分の可能性があるため、事実確認などをきちんと行うことは、そのような処分や調査の信頼性を確保するためにも大事なポイントだと思っています。
  一方で、事実確認をする際には、ご指摘のとおり、報道の自由を侵害しない範囲で適切に対応していくことは必要だと考えています。
  調査をどこにするなどは、調査方法に関することですので、私が直接指示をすることはできないことはご理解いただきたいと思います。
  報道の自由を侵害しない範囲で適切に対応していくことが必要だということは、前回も述べさせていただいてるところですので、一定ご理解いただきたいと考えています。 
 記者:
  人事課は、報道機関の聴取を続けるような意向なんですが、知事からも制止すべきだということは言いにくいということでしょうか。
 知事:
  調査方法をどこにするようにということは、私が当事者になっているので。
  もし、私が当事者でない立場であれば、そのようなこともできる可能性があるかもしれませんが、私が当事者になっている以上、調査をどこにする、しない、ということを指示することは難しいと思っています。
  何度も繰り返しになって申し訳ないですが、報道の自由を侵害しない範囲で適切に対応していくことは大事だと考えています。 
 記者:
  丸尾県議からの要望書で、本日、市川町から丸尾県議の要望書に対する抗議文のようなものが出ています。
  事実関係と違う、という話でゴルフクラブの件だったかと思いますが、我々も知事表敬などで知事応接室に入ったときに、アイアンクラブを見ることがあります。
  そもそも、アイアンクラブ自体がどこから提供があったもので、どのような目的で提供があったものなのかお聞かせください。 
 知事:
  市川町がどのような抗議をしたのか承知はしていません。
  アイアンクラブの件も含めて、個別の内容になりますので、繰り返しになりますが、人事当局、公益通報の調査も含めて、今、調査が進んでいる段階ですので、個別の事案の内容は、私自身が当事者にもなっており、現時点では、コメントすることを差し控えた方が良いと考えています。
 記者:
  知事応接室にあるものはPR目的で置いているのでしょうか。 
 知事:
  今回の文書の事案と離れて、もし答えるとすると、知事応接室に置いているものは、アイアンの製造工程が分かるように、最初は鉄の塊から完成品になるものです。市川町の鍛造アイアンで、地域の地場産業として大事なものだということをPRするために置いています。
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 記者:
  前西播磨県民局長の文書問題ですが、丸尾議員からの申入れは、知事は見られてないのでしょうか。
 知事:
  詳細は見ていません。申入れは把握していますが、中身は詳細には見ていません。 
 記者:
  丸尾議員の指摘の中で、公益通報の窓口を外部の有識者(弁護士)を入れた窓口を設置すべきということで、弊社の報道にも掲載しましたが、有識者からも外部有識者の窓口を設置した方が組織として自浄作用が発揮できるという意見もあります。
  公益通報の窓口のあり方をどのように考えていますか。 
 知事:
  今回は、今ある制度の中で、できるだけきちんと外部委員会の委員の意見を聴取しながら、客観性を持って調査していくことは、一定担保されており、担保していかなければいけないと考えています。
 今後、改善すべき点があれば、他府県の運用状況などもしっかり踏まえて、改善すべきところは改善していきたいと考えています。 
 記者:
  告訴の法的手続きを進めていくと、3月27日の会見で発言がありました。その法的手続きの認識について改めてお伺いします。
 知事:
  繰り返しになりますが、現在、当該文書も含めた内容について、人事当局が弁護士と相談しながら詳細な客観的な調査を実施している状況です。
  また、併せて、公益通報での客観的な調査が進んでいるので、その調査を進めることが大事だと思っています。 
 記者:
  調査結果を踏まえて、考えていくということですか。 
 知事:
  まずは、人事当局の調査結果がどのようになるかが大事だと思っています。 
 記者:
  3月27日には、「法的手続きを進める」と知事は発言がありました。
  ホームページで公開されている会見録には、「検討を進める」となっています。

  知事の認識として、あの時点では法的手続きを進めていたのか、それとも検討の段階だったのかを聞かせてください。 
 知事:
  そこは、内部のどのような状況かによるので、今の時点ではコメントは避けたいと思います。
  当時の発言としては、そういうことだったと認識しています。
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2824/斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月18日記者会見の内容(一部)。

 斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月18日記者会見の内容(一部)。
 出所/兵庫県庁ホームページ「知事記者会見(2024年4月18日(木曜日))」。
 太字化・下線は掲載者(秋月)。「元西播磨県民局長」=告発文書(2024/03/12)の作成・発信者。
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 記者「元西播磨県民局長の文書の問題に関して伺います。
 先日、産業労働常任委員会で部長が、加西市の企業に対して、6万円相当の物品提供を依頼してたと認められました。
 部長の言い分としては、知事に使ってもらうことで、地元企業の商品をPRしてもらいたかった、知事の指示ではなかったとの発言でした。
 調査中だと思いますが、改めて知事の見解や知事から指示があったのかなかったのかを教えてください。」
 知事「現在、人事当局が全体の調査を行っているところですので、詳細なコメントは差し控えますが、コーヒーメーカーの件に関して、原田産業労働部長がそのような対応をしたことは報道等で承知しています。
 私自身が、コーヒーメーカーを秘書課に送るように指示したとか、最終的に私がコーヒーメーカーを受け取った事実はありません。そこは明確にお伝えしておきたいと思います。
 昨日、報道等で出ていますが、原田産業労働部長の対応も含めて、いずれにしても、現在、人事当局が全体の調査を行っている最中ですので、調査結果を踏まえて、人事当局が、調査を完了した時点で報告をしてもらえると考えています。」
 記者「原田産業労働部長は、当日に提供の依頼があったが、その場で知事から、これは受け取れないというお話を2人でされたと思いますが、拒否した事実自体はありますか。」
 知事「その場でもその後も、私自身は受け取るべきではないと伝えています。」 
 記者「原田産業労働部長が受け取った後に、秘書課と相談して、受け取らないと改めて決まったというお話だったと思いますが、その件に関して知事のご判断は入っていましたか。」 
 知事「その件に関しては、調査していますが、少なくとも、私からは、秘書広報室長に対して、コーヒーメーカーについては受け取らないと指示をしているので、その指示に沿って対応してくれてたと認識しています。」
 記者「知事ご本人の口から拒否されたといいますか、受け取りを断ったのは一度だけという認識ですか。」
 知事「その場と、改めて秘書広報室長にも、受け取りはしないと指示した記憶はあります。」
 記者「昨日、今回の問題に関して、私にも人事課から聴取がありました。
 報道機関に対して人事課の聴取が行われることはほとんどないかと思いますが、聴取をされた目的や意図を改めて知事にお伺いします。」
 知事「本件に関する調査は、現在、私が指示をして調査していることはありません。私自身も当事者ですので、人事当局が現在調査中だと思います。
 どのような方法で調査を行っているかは承知していません。報道の自由など含めて、適切に対応していくことが大事だと思っています。」
 記者「我々としては、個別取材に関する問い合わせや聴取をされることは、報道の萎縮や取材の制限に繋がる可能性があると思っており、非常に違和感がありますが、このような聴取は他の報道各社にもされているのか、また、補助金を出しているような団体や県以外の団体に対しても行っているのか教えてください。」 
 知事「繰り返しになりますが、今回の調査については人事当局が対応しているので、調査のやり方に関しては、私自身は承知をしていませんので、答えとしては、分からないということになります。
 いずれにしても報道の自由など様々なことも含めて、適切に対応していくことが大事だと考えています。」 
 記者「元西播磨県民局長の文書の問題に関して、部長が産業労働委員会で、ご自身のことについて、経緯を説明されました。
 その説明の中で、県の商品をPRしたいという思いがあり、商品を受け取ったと発言されたと思います。
 知事は断られたということですが、これまでにもPRを目的に受け取っている事実はありますか。
 また、PRするために受け取ることが大事だという話などを各部長などに言ったことはありますか。」
 知事「地域や県産品のPRは、県の政策目的として大事な取り組みであり、適正なものだと思います。そのような県産品のPRは様々な場面でやっています。
 例えば、牛乳の消費拡大のPRのために知事応接室で牛乳をみんなで飲んだこともあり、そのような観点は決して否定をするものではないと思います。
 これまでもそのような観点に立って適正に行ってきましたので、今後も行っていくものだと考えています。」 
 記者「一方で、県の綱紀粛正通知では、民間においては慣例的な取り扱いとされていても、業務に関連する贈答品を受け取らないことと記載があると思います。
 今回の件は、未開封だったという話もありましたが、実際に高額な商品を受け取っていた事実があります。
 個別の商品に関することですが、知事として、部長級の方が依頼して受け取っていた事実についてはどのように考えていますか。」
 知事「PRの観点と服務規定の観点の中で、どのような事案として、判断するのかになるので、今回の件に関しては、当該文書の中にも書かれていることですので、人事当局が弁護士等と相談もしながら、服務規定の観点や県産品のPRなどの観点でどのように判断するのか、調査結果を待ちたいと考えています。
 現時点で今回の行動が良い悪い、全体としてどうかなどのコメントは差し控えておいたほうが良いと考えています。」 
 記者「一般的には、県にそのような商品を受け取る場合の区分あるのでしょうか。
 PRのために受け取って良いものとそうでないものの違いは、県としてどのような区分がされていますか。」
 知事「その件も含めて、人事当局が、まずは今回の事案を確認した上で、県としてのこれまでの対応方法に関して、改善すべき点があれば改善すべきだと思います。
 現時点で、私が現在の状況に言及するよりも、しっかりと今回の事案を調査した上で、どこが問題だったかなどの部分を改善することが大事だと思っています。」
 記者「元西播磨県民局長の文書の問題に関して、産業労働部長ご自身は、先日の議会答弁の中でも処分があれば受け入れるとおっしゃっていました。
 今回の件に関して、県の内規に照らせば、ルール違反ではないかと思いますが、現段階で処分についてはどのように考えていますか。」
 知事「まずは、事実関係をしっかりと調査した上で、県の内規やPRの目的を踏まえて、どのように判断するかが大事だと思います。
 その上で、今回の産業労働部長の対応が、適切かどうかをしっかりと判断する必要があり、人事当局と協議しながら、処分も含めて適切に検討していくことになると考えています。」
 記者「現時点では処分ありきではない、処分するかどうかも含めて検討していくということですか。」
 知事「そうです。
 いずれにせよ、私自身は受け取っていませんし、受け取れないので返却したものだと考えていましたが、結果的に失念をして、長期間返却を怠っていた点は問題があると思います。その点も踏まえて今後、まずは人事当局が適切に検討していくと考えています。」
 記者「元西播磨県民局長が作成された文書の中にも、今回のコーヒーメーカーなどのことが書かれていました。
 文書の中では、知事が指示したという中身になっていますが、産業労働部長のお話では知事の指示はなかった、あくまでも自身の判断で行ったということでした。
 ただ、双方の意見をまとめると、元西播磨県民局長が作成した文書の内容は、全てではないが一部は事実であったことになると思います。
 そうすると知事が以前批判されていた文書の中身が嘘八百や事実無根であることは、必ずしもそう言い切れなくなってきているのではないかという気がしますが、ご見解はいかがでしょうか。」
 知事「様々な捉え方があると思います。
 全てのことが事実か事実でないかと同時に、核心的なところが本当か本当でないかも大事ですので、一概には言えないと思います。
 その辺りも含めて、現在、人事当局が全体の調査をしているので、まずはその結果を待ちたいと考えています。」
 記者「元西播磨県民局長の作成された文書の一部とはいえ事実の部分も出てきたことで、県民目線で見ると、文書の中身がどこまでが本当でどこまでが嘘なのか、疑念が深まっているのではないかと思います。
 今回は、非常に特殊な事案だと思っています。県民の納得を得るために、改めて外部の目を入れるということで、第三者委員会を設置されないのか素朴な疑問として思っています。
 設置しないのであれば、どのようにして県民に納得していただけるのかなどご見解をお願いします。」
 知事「今回は懲戒処分にあたる事案ですので、まずは人事当局が中心となって、弁護士とも相談しながら、客観的な事実として、文書内容のどのようなところに問題があるのか、虚偽なのかを含めて、現在調査しているところですので、まずはそこが大事だと考えています。」
 記者「繰り返しになりますが、人事当局で調べるのは、通常の調査手法だと思いますが、どうしても疑念が深まっているのではないかと思います。
 今の調査手法で、県民の納得感が得られるかどうかについて、どのように考えていますか。」
 知事「調査手法も含めて、どのように行っているのかは、現在、人事当局が対応しています。
 私はその中身は承知していませんが、適切に対応していると思っています。
 まずは人事当局が、弁護士と相談しながら、客観的な事実をきっちりと調査することが大事で、調査結果を県民の皆さんに説明することにより、県民の皆さんの不安などを払拭していくことが大事だと思います。」
 記者「元西播磨県民局長の文書問題に関して、先日、産業労働部長が認めたコーヒーメーカーの件ですが、知事は、受け取ってはいけない、お返しをしなければいけないという認識を持たれていましたが、部長はその認識がなかったということでした。
 職員の間での贈答品に関する意識など、共通の認識はないのでしょうか。」
 知事「基本的には服務規程等に基づいて対応をこれまでも適切にしていると思っていますが、今回の事案は、調査を進めているので、その結果を踏まえて、現在の服務規程が適正なのか、それとも、より県民の皆さんにご心配などを抱かせないために、改善すべき点があれば、改善すべきところは改善していくことが大事だと考えています。」
 記者「現時点で部長級の方が、一旦受け取ってしまっているので、改善すべきではないかと思いますが、知事として、今後、結果はともかく、改めて周知していくことは必要かと考えていますか。」
 知事「必要だと思います。
 今回の事案がありましたが、それ以前の問題として、やはり職員として公務含めて、服務規律を遵守することは、当然大事なことです。
 現在の規定がこれまでどのように成り立って、改善されてきたか、修正されてきたかは、もう一度見なければいけませんが、その過程の中で、より改善すべき、適正にすべきところがあれば、もちろん修正すべきだと私自身も思っていますし、そうしたいと考えています。」
 記者「先ほどの質問にも、第三者委員会の話でまずは相談しながらというような説明がありましたが、これは問題が発覚したという場合は検討される、というお考えでしょうか。」
 知事「そこは今の段階で調査中ですので、予断を持ったことはコメントできないと考えています。
 まずは、今回のコーヒーメーカーの件は、報道の個別取材の中で出てきたということで、結果的にこれが委員会等で明らかになった面があります。これについて私も先ほどコメントしたとおりです。
 全体としては、今回の文書の件に関しては、現在、人事当局が中心になって調査をしているので、まずは結果をきちんと整理していくことが大事で、そこで、職員に対する懲戒事案ですから、必要であれば適正にやっていきます。
 その上で、先ほど質問もありましたが、より改善すべき服務規程の内容等あれば改善していくことが大事だと思いますので、現時点では、人事課の調査を待つことだと考えています。」
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2823/斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月10日記者会見の内容(一部)。

 斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月10日記者会見の内容(一部)。
 出所/兵庫県庁ホームページ「知事記者会見(2024年4月10日(水曜日))」。
 太字化は掲載者(秋月)。「西播磨県民局長」=<告発文書>(2024/03/12)の作成・発信者。
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 記者「前西播磨県民局長の問題でお伺いします。
 前県民局長が県の内部調査の調査方法が余りに非常識、不適切で、真相究明を期待できないというご主張があり、それを受けて、別途、公益通報されたということです。
 前県民局長のご意見に対する受け止めと、公益通報に対してどう答えられるのかお聞かせください。
 知事「当該文書の内容等は、改めて人事当局が弁護士と相談しながら、事実関係の調査を行っている状況です。
 私としては、調査をしている状況を受け止めているということです。
 公益通報に関しては、一応内容等について、私がお答えするということはできないので、公益通報が来ていることは報道等では拝見していますが、内容について私は承知していない状況です。
 もし、公益通報が届いているのであれば、基準に従って調査等がなされていくものだと認識しています。」
 記者「県の内部調査では、先ほど申し上げたように、『非常識、不適切』と問題視する発言を前県民局長がされています。
 県の内部調査ですので、知事のご意向も一定働くのではないか疑念が残ってしまうと思いますが、改めて、第三者委員会を設置するなどのお考えはありますか。」
 知事「現時点では、懲戒処分に該当する可能性があるということですので、人事当局が弁護士と相談しながら適正に調査をして対応していくことになります。
 一方で、公益通報があれば、基準に沿って適正に公益通報委員会を開いていくことが現時点での方針だと考えています。」
 記者「外部有識者を入れた公益通報委員会にその意見を求めることで、一定の客観性が担保できるのではないかというお考えでしょうか。」
 知事「公益通報があるのであれば、必要に応じて公益通報委員会が関与をしていくことになりますので、それに沿って対応していくことになると考えています。」 
 記者「公益通報委員会のメンバーに副知事も入っています。
 基本は、外部の有識者ですが、一部内部の方も入られていますが、今回の件については、副知事は除斥されることになるのでしょうか。」 
 知事「詳細は、財務部が説明します。
 基本的に該当する者は除くことになると聞いています。」 
 記者「公益通報文書問題ですが、人事当局が行っている調査と公益通報の調査は全く別物として、調査を行っていくということでしょうか。」 
 知事「人事当局の調査は、懲戒処分に該当する可能性があるので、内容を弁護士と相談しながら事実関係の調査を行っている状況です。
 もし、公益通報があれば、財務部が調査等を行っていくので、別の物になります。」 
 記者「被害届を検討されていると、3月27日の会見でも発言がありましたが、現在はどのような状況でしょうか。」
 知事「現在、懲戒処分の該当性を人事当局が中心になって、事実関係の調査を行っているので、そこを踏まえてどう対応するかになると思います。」 
 記者「処分をしてからの対応になるということですか。」
 知事「事実関係の調査結果が、どのような内容であるか、事案の内容によって、その後の対応がどうなるかということになると思います。
 今の段階では調査中ですので、調査が終わった後の対応はどうするかは、今の段階では未定です。」
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2822/R.パイプス1990年著—第14章㉒。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第12節/左翼エスエルの反乱の抑圧③。
 (18) 実際には、ボルシェヴィキは、尋常ではない寛容さでもって左翼エスエルを処理した。
 数日後にボルシェヴィキがすることになるIaroslavl での場合のように、ボルシェヴィキに対して一致して戦った者を大量に殺戮しはしなかった。そうではなく、収監者を簡単に尋問しただけで、ほとんどの者を釈放した。
 ボルシェヴィキは、Popov の派遣団からの12人の海兵を処刑した。
 むろん、逃亡しようとしていた鉄道駅で捕えたAleksandrovich はそうした。
 Spiridonova と一人の同僚はクレムリンに連行され、ラトビア人警護兵が監視する暫定の監獄に収容した。
 彼女は2日後にクレムリン内の二部屋の区画に移され、1918年11月に行われた審問の日まで、比較的快適に過ごした。
 ボルシェヴィキは左翼エスエルを非合法化せず、機関紙の発行を許した。
 <プラウダ>は、左翼エスエルを「放蕩息子」と称し、やがて復帰するという希望を表明した(注128)。
 ジノヴィエフはSpiridonova を「黄金の心」をもつ「素晴らしい女性」と褒めちぎり、彼女が収監されたときは一晩中起きていた(注129)。
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 (19) このような寛大さをボルシェヴィキが敵に対して示したことは、前にも後にも、一度もなかった。
 こうした異様な行動によって、じつに、歴史家の中にはつぎのように疑う者も出現した。Mirbach 殺害と左翼エスエル反乱は、ボルシェヴィキによって演出された、と。しかし、このような手の込んだ欺瞞を行なう動機を見出したり、関係者からこれを隠し通した方法を説明するのは困難だ(注130)。
 しかしながら、何らかの陰謀理論に頼らなくとも、説明は不可能ではない。
 ボルシェヴィキは7月に、展望の見えない状況にあった。チェコ軍団に攻撃され、Iaroslavl とMurom では武装蜂起に直面し、ロシア人労働者と兵士は離反し、ラトビア人兵士の忠誠さすら確かでなかった。
 ボルシェヴィキは左翼エスエルの支持者を敵に回しそうだったのではなかった。
 しかし、とりわけ、彼らが畏れたのは、自分たちの生命だった。
 Radek は、ドイツの友人に打ち明けたときに、ボルシェヴィキは復讐を恐れて左翼エスエルを寛大に扱った、と語りはしなかった(注131)。
 左翼エスエルの党員たちは、教条のために自分たちを犠牲にすることを全く厭わない狂信者でいっぱいだった。Spiridonova 自身も狂信主義的だった。彼女は、監獄から出したボルシェヴィキ指導部への書簡で、自分の死によってボルシェヴィキが「正気に戻る」ことを怖れたがゆえに処刑されなかった、それは残念だった、という旨を表明するまでした。
 Mirbach の後継者のKarl Helfferich も、ボルシェヴィキは左翼エスエルを根絶させることを恐れていた、という見解だった(注133)。
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 (20) 1918年11月に、革命審判所は左翼エスエル中央委員会の審理を行なった。もっとも、ほとんどのメンバーは逃亡するか地下活動に入っていたのだが。
 審理を受けたSpiridonova とIu. Sablin は、一年の有期刑を受けた。
 Spiridonova は最後まで服することなく、1919年4月に左翼エスエルの助けでクレムリンの監獄から脱出した(脚注)。
 彼女は残りの人生を監獄に入ったり出たりして過ごした。
 1937年、「反革命行為」の罪で25年の刑を受けた。
 1941年、収監されていたOrel にドイツ軍が接近した。ドイツ軍は彼女を連れ出し、射殺した(注134)。
 Mirbach 暗殺者たちのいずれも、老齢になるまで長くは生きなかった。
 Andreev は、翌年に、ウクライナでチフスのために死んだ。
 Bliumkin は地下にいたが、1919年5月に自首した。
 悔い改めて、許されたばかりか、共産党への入党を認められ、トロツキーの補佐に任命された。
 1930年後半、ロシアにいるトロツキー支持者に連絡文書を伝えるという誤った判断をし、逮捕され、処刑された(注135)。
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 (脚注) Spiridonova は脱出する前に、ボルシェヴィキ中央委員会あてに長い手紙を送った。それは翌年に支持者によって、Otkrytoe pis’mo M. Spiridonovi Tsentral’monu Komitetu partii bol’shevikov (Moscow, 1920)との表題で公表された。フーヴァー研究所図書館にa copy がある。
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 (21) 七月蜂起のさ中、左翼エスエルは、二つの派に分裂した。一方はこれを是認し、他方は離脱した。
 両派はやがて共産党に合流した。但し、地下活動を続けた、ごく少数の集団を除く。
 ジェルジンスキは、職務を停止された。
 のちのMirbach 暗殺犯の審問で証人となるために、公式にはチェカの議長とその一員であることを辞した(注137)。だが、ボルシェヴィキが通常のように法的厳密さに拘泥せず、またそのような審問も行われなかったので、辞職は体面を保つ儀礼にすぎなかった。
 ジェルジンスキの職務停止は、ほとんど確実に、彼は左翼エスエルの陰謀に関与していたのではないかとのレーニンの疑いによっていた。
 Latsis が秘密警察を指揮したが、8月22日にジェルジンスキが復職した。
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 (22) 左翼エスエルがぶざまに失敗したのは、明確な目標をもたず、政治的帰結への責任を負う意欲がなかった、という理由だけによるのではない。彼らは、ボルシェヴィキとドイツの反応を、完全に見誤っていた。
 のちに分かったように、ボルシェヴィキとドイツは、あまりにも多くの問題を抱えていたため、左翼エスエルによるドイツ大使の殺害によって挑発さるというほどではなかった(このことは、ウクライナでの左翼エスエルによる陸軍元帥Hermann Eichhorn 殺害でも続いた)。
 ドイツ政府はMirbach の殺害を事実上無視し、その指示を受けたドイツのプレスも重視しなかった。
 実際には、1918年の秋、ロシアとドイツはかつて以上に緊密になった。
 ボルシェヴィキは、対抗相手の選択について、きわめて幸運だった。
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 第12節、終わり。

2821/左翼人士-民科法律部会役員名簿・第27期(2023年11月~2026年10月)等。

 民科(民主主義科学者協会)法律部会/役員名簿・第27期(2023年11月~2026年10月)等。
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 理事長/小沢隆一(東京慈恵医科大学)
 副理事長/愛敬浩二(名古屋大学)、豊崎七絵(九州大学)
 全国事務局事務局長/塚田哲之(神戸学院大学)
 理事(49名、50音順)/愛敬浩二(名古屋大学)、安達光治(立命館大学)、飯孝行(専修大学)、板倉美奈子(静岡大学)、植松健一(立命館大学)、大河内美紀(名古屋大学)、大沢光(青山学院大学)、岡田正則(早稲田大学)、岡田行雄(熊本大学)、緒方桂子(南山大学)、小川祐之(常葉大学)、奥野恒久(龍谷大学)、緒方賢一(高知大学)、小沢隆一(東京慈恵会医科大学)、門脇美恵(広島修道大学)、金澤真理(大阪公立大学)、彼谷環(富山国際大学)、神戸秀彦(関西学院大学)、木下智史(関西大学)、清末愛沙(室蘭工業大学)、胡澤能生(早稲田大学)、近藤充代(元日本福祉大学)、榊原秀訓(南山大学)、佐藤岩夫(東京大学)、清水雅彦(日本体育大学)、徐行(北海道大学)、新屋達之(福岡大学)、白藤博行(専修大学)、鈴木静(愛媛大学)、高田清恵(琉球大学)、高橋満彦(富山大学)、只野雅人(一橋大学)、立石直子(愛知大学)、田淵浩二(九州大学)、塚田哲之(神戸学院大学)、徳田博人(琉球大学)、豊崎七絵(九州大学)、豊島明子(南山大学)、永山茂樹(東海大学)、新屋達之(福岡大学)、長谷河亜希子(弘前大学)、人見剛(早稲田大学)、広渡清吾、本庄武(一橋大学)、本多滝夫(龍谷大学)、増田栄作(広島修道大学)、松宮孝明(立命館大学)、三成美保(追手門学院大学)、本秀紀(名古屋経済大学)、矢野昌浩(名古屋大学)、山田希(立命館大学)、和田真一(立命館大学)
 監事(3名) 今村与一(横浜国立大学)、桐山孝信(大阪公立大学)、和田肇(名古屋大学)
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 機関紙『法の科学』55号編集委員会11名のうち、上記の理事以外。
  北見宏介(名城大学)、西村智朗(立命館大学)、篠田優(北海学園大学)
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 機関紙55号『法の科学』55号に、報告・論考・書評類を掲載している者で、上記の者以外。
 小松浩(立命館大学)、杉田和正(早稲田大学)、笹倉香奈(甲南大学)、高良沙哉(沖縄大学)、飯島滋明(名古屋学院大学)、下山憲治(早稲田大学)、丹羽徹(龍谷大学)、大野友也(愛知大学)、鈴木賢(明治大学)、長利一(元東邦大学)、松浦陽子(東北学院大学)、金井幸子(愛知大学)、岩本一郎(北星学園大学)、長岡徹(関西学院大学)
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 出所-同会機関誌『法の科学』55号(日本評論社、2024年9月)。

2820/R.パイプス1990年著—第14章㉑。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第12節/左翼エスエルの反乱の抑圧②。
 (11) 午後11時30分頃、レーニンは、Vatsetis の司令部付きのラトビア人政治委員を自分の役所に呼びつけ、政治委員たちは司令官の忠誠性を保証できるか否かと尋ねた(注121)。
 肯定する回答があったので、レーニンは、Vatsetis を左翼エスエルに対する戦闘作戦の任務に就かせることに同意した。
 だが、警戒を加えるために、通常は2名のところ、4名の政治委員をVatsetis 付きにした。
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 (12) Vatsetis は深夜に、レーニンと逢うようにとの電話を受けた。
 この出会いがどのようなものだったかを、彼は以下のように叙述している。
 「クレムリンは真っ暗で、空っぽだった。
 我々は、人民委員会議〔=内閣〕の会議室へと導かれた。そして、待つよう言われた。…
 私が今初めて入った本当に広大な部屋は、一つの電灯で明るく照らされていた。その電球は天井のどこかの隅から吊るされていた。
 窓のカーテンは下りていた。
 その雰囲気で、自分が軍事作戦という舞台の正面にいることを思い起こした。…
 数分後に、部屋の反対側の端の扉が開き、同志レーニンが入ってきた。
 彼は早足で歩いて私に近づき、低い声で私に訊いた。『同志、我々は朝まで耐えられるだろうか?』
 そう尋ねているあいだ、レーニンは私を見つめ続けた。
 私はその日に、予期しない出来事に慣れてきていた。しかし、レーニンの問いは、その鋭い言葉遣いでもって私を困惑させた。…
 朝まで持ちこたえることが、なぜ重要だったのだろう?
 我々は最後まで耐えられないのか?
 我々の状況はたぶんきわめて不安定だったので、私の政治委員たちは、私に本当の事態を隠蔽していたのだったか?」(注122)
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 (13) レーニンの問いに返答する前に、Vatsetis は、情勢を概観する時間が欲しいと言った(注123)。
 クレムリンを除いて、モスクワは反乱者の手の内にあった。クレムリンは、包囲されている要塞のごとくだった。
 Vatsetis がラトビア人分団の司令部に着いたとき、補佐官の長は彼に対して、「モスクワの連隊の全部」がボルシェヴィキに反対する側に回った、と言った。
 いわゆる人民の軍隊(People’s Army, Narodnaia Armiia)、すなわちモスクワの連隊のうち最大で、フランスおよびイギリスの軍団とともにドイツ軍と戦うべく訓練を受けてきた分団は、中立を維持すると決定していた。
 別の部隊は、左翼エスエルを支持すると宣言していた。
 ラトビア人兵団は、何とか残っていた。すなわち、第一連隊の一つの大隊、第二連隊の一つの大隊、そして第九連隊。
 第三連隊もあった。但し、忠誠心には疑問もあった。
 Vatsetis はまた、ラトビア人砲兵隊や若干のより小さい部隊を計算に入れることもできた。後者の中には、Bela Kun が率いた、親共産主義のハンガリー戦争捕虜の一団もあった。
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 (14)  Vatsetis は、このような情報を得て、翌朝早くまで反攻を遅らせることに決めた。その頃には、ラトビア人分団がKhodynka から戻ってくることになっていた。
 彼は、中央逓信局を奪い返すべく、第九ラトビア人連隊の二つの中隊を派遣した。しかし、能力がなかったか、欠陥があった。左翼エスエルは、何とか彼らを武装解除した。
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 (15)  午前2時、Vatsetis はクレムリンに帰った。
 「同志レーニンは同じ扉から入ってきて、同じ早足で私に近づいた。
 私は数歩だけ彼に向かい、報告した。『我々は、7月7日の正午までに、全線にわたって勝利するはずです』。
 レーニンは私の右手を彼の両手で掴み、強く握りながら、こう言った。
 『ありがとう。君は私を喜ばせた』。」(注124)。
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 (16) 午前5時に、湿った霧の気候の中で反攻を始めたとき、Vatsetis の輩下には3300人の兵士がおり、そのうち、ロシア人は500人もいなかった。
 左翼エスエルは激しく闘い抜いた。それで、ラトビア人兵団が反乱の中央を降伏させ、無傷でジェルジンスキ、Latsis、その他の人質を解放するには、ほとんど7時間を必要とした。
 Vatsetis は、首尾よく済ませた仕事への特別手当として、1万ルーブルを受けた(注125)。
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 (17) 7月7日と8日、ボルシェヴィキは反乱者たちを逮捕し、尋問した。反乱者の中には、Spiridonova、その他の全国ソヴェト大会の左翼エスエル代議員もいた。
 Riezler は、左翼エスエル中央委員会メンバーも含めて、ドイツ大使の殺害に責任のある者全員を処刑するよう、政府に要求した。
 政府は二人の委員を任命した。一人は左翼エスエル蜂起を捜査し、もう一人は、連隊の非忠実な行動について調査する。
 650人の左翼エスエル党員が、モスクワ、ペテログラード、地方諸都市で勾留された。
 数日後、それらのうち200人が射殺された、と発表された(注126)。
 Ioffe は、ベルリンにいるドイツ人に、被処刑者の中にはSpiridnova もいた、と語った。
 このことはドイツ人を大いに喜ばせ、ドイツのプレスは処刑のことを大きく取り上げた。
 この情報は間違いだった。しかし、Chicherin が否定したとき、ドイツの外務当局は、その影響力を使って、その否定の報道を彼らの新聞紙から閉め出した(注127)。
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 ③へつづく。

2819/R.パイプス1990年著—第14章⑳。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第12節/左翼エスエルの反乱の抑圧①。
 (01) 暗殺犯たちは、逃げたときに文書を忘れていた。その中には、大使館への入館許可書があった。
 Riezler から提供されたこの資料と情報から、ジェルジンスキは、銃撃者はチェカの代表者だと名乗ったことを知った。
 彼は完全に驚愕し、Pokrovskii 営舎へと急いだ。そこに、Bol’shoi Trekhsviatitel’skii Pereulok 1番地のチェカ闘争分団があった。
 営舎は、Popov の指揮下にあった。
 ジェルジンスキは、Bliumkin とAndreev を自分の前に突き出すよう命じた。その際、左翼エスエル党の中央委員会全員を射殺させると威嚇した。
 Popov の海兵たちは、服従しないで、ジェルジンスキを拘束した。
 彼は人質となって、Spiridnova の安全を保障するために役立つことになっていた。彼女は、ロシアはMirbach から解放されたと発表すべく、ソヴェト全国大会へと行っていた(注109)。
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 (02) この事件は、雷鳴が伴なう激しい雨の中で起きた。モスクワはやがて、濃い霧に包まれた。
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 (03) レーニンは、クレムリンに戻る途中で、ジェルジンスキがチェカで捕えられたことを知った。Bonch-Bruevich によると、彼がこの報せを聞いたとき、「レーニンは青白くならなかった。白くなった」(注110)。
 レーニンは、チェカが自分を裏切った、と疑い、トロツキーを通じて、チェカの解体を命じた。
 M. La. Latsis が新しい治安警察を組織することになった(注111)。
 Latsis はBolshaia Lubyanka のチェカ本部へと急いで行き、建物もまたPopov の統制下にあることを知った。
 Latsis をPopov のいる本部まで護送した左翼エスエル党員は、その場で彼を射殺しようとした。だが、左翼エスエルのAleksandrovich が間に入って、救われた(注112)。
 役割が逆になってAleksandrovich がチェカの手に落ちた数日後にLatsisが返礼しようとしなかったのは、仲間としての素ぶりだった。
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 (04) その夕方、左翼エスエル党員の海兵と兵士たちは、人質を取ろうと街路に出た。自動車が止められ、それらから27人のボルシェヴィキ活動家が排除された。
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 (05) 左翼エスエルが利用できたのは、2000人の武装海兵と騎兵、8台の大砲、64本の機関銃、4ないし6の装甲車だった(注113)。
 モスクワのラトビア兵分団が郊外で休憩しており、ロシア人連隊の兵士は反乱者側にいるか中立であるかだったことを考えると、このような武力は、恐るべきものだった。
 レーニンは、かつての十月のケレンスキーと同じ屈辱的な苦境に陥っていると感じた。国家の長でありながら、自分の政府を防衛する武力をもっていなかったのだ。
 この時点で、左翼エスエルが望んでいたならば、彼らがクレムリンを掌握し、ボルシェヴィキの指導部全員を逮捕するのを妨げるものは何もなかっただろう。
 左翼エスエルは、武力を行使する必要すらなかった。彼らの中央委員会構成員は、クレムリンへの通行証を携行していたからだ。かつまた、それによって、レーニンの役所と私的住宅へも入ることができた(注114)。
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 (06) しかし、左翼エスエルにはそのような意図がなかった。ボルシェヴィキを救ったのは、左翼エスエルの権力に対する嫌悪だった。
 彼らが狙ったのは、ドイツを挑発し、ロシア人「大衆」の意気を掻き立てることだった。
 左翼エスエル指導者の一人は、捕えられているジェルジンスキに、こう言った。
 「君の前には既成事実がある。
 ブレスト条約は無効だ。ドイツとの戦争は回避できない。
 我々は、権力を欲しない。ウクライナのようになるとよい。
 我々は、地下に入る。
 君たちは権力を維持し続けることができる。だが、Mirbach の下僕であるのはやめなければならない。
 ドイツにロシアを、 Volga まで占領させろ。」(注115)
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 (07) こうして、P. P. Proshian が率いた左翼エスエルの軍団は、クレムリンへと行進してソヴィエト政府を打倒しないで、中央逓信局へと進んだ。そこを彼らは無抵抗なままで占拠し、そこから、ロシアの労働者、農民、兵士ならびに「全世界」に対して、訴えを発した(脚注)
 この訴えは混乱し、矛盾していた。
 左翼エスエルはMirbach 殺害について責任があるとし、ボルシェヴィキを「ドイツ帝国主義の代理人」だと非難した。
 彼らは、「ソヴェト制度」を擁護すると宣言したが、他の全ての社会主義政党は「反革命的」だとして拒絶した。
 一つの電報では、「権力にある」と宣言した。
 Vatsetis の言葉では、左翼エスエルは「優柔不断に」行動した(注116)。
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 (脚注) V. Vladimirova in PR, No. 4/63(1927), p.122-3; Lenin, Sochi neniia, XXIII, p.554-6; Krasnaia Kniga VChK, II (Moscow, 1920), p.148-p.155. Proshian は、その年の前半、逓信人民委員だった。
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 (08) Spiridonova は、午後7時にボリショイ劇場に到着し、大会に対して、長い、散漫な演説を行なった。
 別の左翼エスエルの演説者が、それに続いた。
 彼らは、完全に混乱していた。
 午後8時、代議員たちは、武装したラトビア人兵団が建物を包囲し、入り口を封鎖していることを知った。その入り口から出て、ボルシェヴィキは去っていた。
 Spiridonova は、支持者たちに対して、休憩して二階に集まるよう求めた。
 そこで彼女は、テーブルに跳び上がって、叫んだ。「ヘイ、君たち、国よ、聞け!、君たち、国よ、聞け!」(注117)。
 劇場の一翼に集まったボルシェヴィキ代議員たちは、自分たちが攻撃しているのか、それとも攻撃されているのかを、判断できなかった。
 ブハーリンはのちに、Isaac Steinberg にこう言った。
 「我々は君たちが我々のいる部屋に来て、我々を逮捕するのを待っていた。…
 君たちはそうしなかったので、我々は代わりに、君たちを逮捕することに決めた。」(注118)
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 (09) ボルシェヴィキが行動する好機だった。しかし、数時間が過ぎ去り、何も起きなかった。
 政府は恐慌状態にあった。信頼できる真面目な実力部隊がいなかったからだ。
 政府自身の推測によると、モスクワに駐在していた2万4000人の武装兵士のうち、三分の一は親ボルシェヴィキで、五分の一は信頼できず(つまり反ボルシェヴィキで)、残りは不確定だった(注119)。
 しかし、親ボルシェヴィキ兵士たちですら、動員することができなかった。
 ボルシェヴィキ指導部は絶望的な苦境にあり、クレムリンから避難することを考えた。
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 (10) ラトビア人ライフル兵団の司令官、I. I. Vatsetis は、モスクワ軍事地区司令官のN. I. Muralov から、司令本部へと召喚された。
 Podvoiskii もそこで、彼を待っていた。
 二人は状況を要約して伝え、作戦計画を立案するよう求めた。
 同時に、衝撃を受けているラトビア兵団長に対して、別の将校に作戦実行の任務を課すつもりだ、と言った。
 このように信頼が措かれていなかった理由は、確実に、クレムリンの側のVatsetis に関する知識にあった。彼はドイツ大使館と接触していると考えられていたのだ。
 別のラトビア人に指揮権を委ねるという試みに失敗した後で、Vatsetis は、彼の兵団に、「自分の長」とともに勝利することを保障した。
 このことは、クレムリンに報告された(脚注)
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 (脚注) ドイツ大使館は左翼エスエルに反対して行動するようラトビア人兵団に賄賂を送らなければならなかった、ということが、Riezler の回想録から知られている(Erdmann, Riezler, p.474.)。
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 ②へとつづく。

2818/斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月2日記者会見の内容(一部)。

 斎藤元彦兵庫県知事・2024年4月2日記者会見の内容(一部)。
 出所/兵庫県庁ホームページ「知事記者会見(2024年4月2日(火曜日))」。
 太字化・下線は掲載者(秋月)。「西播磨県民局長」=<告発文書>(2024/03/12)の作成・発信者。
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 記者「西播磨県民局長が解任された問題の関係でお尋ねします。
  昨日、前県民局長から、文書の内容は、事実無根とは認めておらず、内部告発という趣旨、事実関係を早急に調査すべきだという反論がありました
  その点についてご見解をお願いします。」
 知事「その文書は、報道等で承知していますが、内容そのものを承知していません。
  本件の対応は、今後、しっかり調査していくことが大事だと思います。まずは県の関係している弁護士の意見なども聞きながら、これから文書の内容等について、しっかり調査を進めていきたいと考えています。」
 記者「前回の記者会見では、調査中という段階でしたが、知事から内容は事実無根である、誹謗中傷に当たるというお話があったと思います。
  前回、逆に言えば、なぜ調査中であるのに、そこまで言い切られたのでしょうか。」
  知事「いわゆる文書を見た時に、やはり明らかに事実と異なる内容が多々含まれていることを私自身も感じましたし、それについて、私は公人ですが、一般職の職員に対するプライバシーの課題、虚偽の内容による県自身に対する信用失墜の可能性も高いと考えたので、そこは一定説明したところです。
  なぜかと言うと、西播磨県民局長(幹部職員)の人事異動を行ったので、その時に言える範囲で説明することが必要だと思ったので説明しました。
  今後は、先ほど申し上げたとおり、内容について、本人からの聴取も含めて、しっかり弁護士とも相談しながら、精査を進めていくことになります。」
 記者「県の弁護士の意見も聞いて内容を精査するお話がありました。
  今回の件は、知事に関する内容も含まれている文書だったと思います。
  その意味では、調査の客観性を担保するため、例えば、弁護士なりを入れた第三者委員会のようなものに調査をお願いするなど、一定の客観性の担保が必要ではないかと思います。その辺はどうお考えでしょうか。」
 
 知事「まずは、懲戒処分に該当する事案ですので、人事当局がきちんと懲戒事案に関しては調査をしていくことが大事だと思っています。
  その中で、一定の客観性を担保する意味で、弁護士を入れて調査していくことが大事だと考えています。」 
 記者「あくまで調査の主導をするのは人事当局であって、外部の第三者委員会のようなものを特別に設置して調べるなどの考えはないということですか。」 
 知事「今の時点では、このような懲戒処分は、人事当局が最終的にはすることになるので、人事当局で内部調査をしっかりやっていく。
  ただ、一定の客観性を担保する意味で、弁護士の意見を聞きながら、アドバイスを受けながらやっていくことになります。」 
 記者「元西播磨県民局長の問題ですが、昨日の文書では、本人は、ふさわしくない行為をしたことについては認めていないと記載があり、あくまでも内部告発だということでした。
 窓口は異なると思いますが、公益内部通報制度などであれば調査が必要だと思いますが、知事としてはこの文書の取り扱いをどのように考えていますか。」 
 知事「現時点で確認したところ、当該文書は、兵庫県の公益内部通報制度では受理はしていませんので、公益通報には該当しないと考えています。
  文書を作成し、一定流布がされている、かつ、内容も虚偽や信用失墜の内容が含まれているので、まずは、先ほど申し上げましたが、人事上の対応をした段階で、私から言える範囲と分かる範囲の説明をしましたが、改めて、文書内容の調査精査について、弁護士に相談しながら進めていきたいと考えています。」 
 記者「最初の文書の中で複数の項目を挙げて指摘していたと思います。
  職員に関わる部分や誹謗中傷だと受け取られる部分にはなかなか触れづらいと思いますが、知事ご自身にかけられている疑惑もあったかと思います。
  知事ご自身でもこれが虚偽であると判断している部分もありますか。」 
 知事「ありますが、現段階では個別で説明するよりも、全体を通じて弁護士の協力を得ながら精査をして、懲戒処分を行う段階で、改めて話せる範囲で説明をすることが大事だと思っています。」 
 記者「文書には、言動や人事的な取り扱いを指摘している部分と、違法性を指摘している部分もあると思います。弁護士に依頼するのは、懲戒処分に該当するもの全てですか。
  それとも、公益内部通報制度では違法性があると思われたものに関しては、公務員には通報する義務があると思いますが、違法性に該当するかもしれない部分について、弁護士に調査を依頼することになると考えているのですか。」 
 知事「調査方法は今後精査していかなければいけませんが、文書の内容には正しくない情報が多々含まれていると私は認識しています。
  客観的に裏付けをしていくことから始めたいと思っています。その過程で、文書の内容に関して、名誉毀損や違法性などがどのように出てくるのかも、調査になると思います。」 
 記者「弁護士の調査をもって被害届や違法性があるのかどうかを判断される予定ですか。」 
 知事「まずは人事管理上の懲戒処分の案件になるので、内部調査をして、当該職員の懲戒処分をどうするのかを精査していくことになると思います。
  その先どうするかは、今後の検討になると考えています。」 
 記者「就任から2年半が経ちますが、斎藤県政はボトムアップ型の県政を掲げていたと思いますが、現職の幹部から今回のような批判の文書が出てくることに対して、知事はどのように受け止めていますか。」 
 知事「残念です。若者・Z世代応援パッケージ含めて、今後、新たな一歩を踏み出して、一丸となって進めていこうとした矢先ですので、残念です。
  ご本人がどのような意図と経緯、方法で、今回の文書を作ったのかは、本人への聴取だけではなく、客観的な資料含めて、人事課が調査をしています。
  なぜ今回の行動をしようと思ったのか、どのように行ったのか、内容はどうだったのかが明らかになってくると思うので、その過程で判明してくると思います。
  どちらにしても、県庁一丸となって、今後も仕事を進めていくことが大事だと思っています。」 
 記者「元西播磨県民局長に関連して、前回の会見で先ほどの話と重複しますが、事実無根や嘘八百など、結構厳しい言葉で告発を糾弾されていました。
  少なくともご自身に関わる告発に関して明らかに事実と異なる点について、この場で明言していただけませんか。」 
 知事「文書にはたくさんのことが記載されており、全体の精査をしているので、調査をしていくことが大事だと思っています。
  調査が終わった段階で、私に関することで、事実ではない部分などを説明できる範囲で説明する方が良いと考えています。」 
 記者「少なくとも調査の主導が人事課であると、知事についての事実確認が難しいのではないかと思いますが、その点はいかがですか。」 
 知事「公務中にどのような対応をしたかは、私に関することでも調査はできると思います。
  全体の調査をする中で、一つ一つ精査をしていく方が良いと思います。」 
 記者「先ほど文書見られた話と見ていない話が混在していたと思いますが、告発文書は確認されましたか。」 
 知事「当該文書は見ました。見ていないと言ったのは、昨日出された文書ですので、混在はしていません。」 
 記者「知事がパワーハラスメントしたという文言も告発文書にはあったかと思いますが、その点に関して、事実関係や心当たりはありますか。」 
 知事「その点も含めて、内容を調査・精査してから説明する方が良いと思っています。一つを答えると、次も次もとなるので、全体を精査した上で、伝えた方が良いと考えています。」 
 記者「人事の調査が終わった段階で、知事の疑惑に関しても、明確に説明を果たしていただけるということですか。」 
 知事「私も当事者ですので、人事当局で、弁護士を入れて、ある程度の客観性を含めて調査をしていきます。
  その上で、私は公人ですが、一般職の方はプライバシーもあるので、全体の中で説明できる範囲でしっかりと説明していくことになると思っています。」 
 記者「懲戒処分が行われた段階で知事自身が疑惑に対しても説明される理解でよろしいですか。」 
 知事「可能性としてはあると思いますが、懲戒処分の際には、人事当局で、弁護士を入れて調査していき、結果を説明することが原則だと思います。」
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2817/R.パイプス1990年著—第14節⑲。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第11節/左翼エスエルによるMirbach の殺害。
 (01) 全国ソヴェト大会がボリショイ劇場で始まったとき、左翼エスエルとボルシェヴィキはすぐに互いに激しく非難した。
 左翼エスエルの発言者は革命を裏切ったとしてボルシェヴィキを責め、都市と農村の間の戦争を扇動した。一方でボルシェヴィキは、ロシアとドイツの戦争を挑発しているとして、左翼エスエルを非難した。
 左翼エスエルは、ボルシェヴィキ政府の不信任、ブレスト=リトフスク条約の廃棄、対ドイツの戦争宣言を呼びかけて動議を提出した。
 ボルシェヴィキは多数でこれを却下した。このあと、左翼エスエルは会場から退出した。
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 (02) Bliumkin によると、7月4日の夕方にSpiridonova が彼に会いたいと言ってきた(注104)。
 彼女は、党は彼がMirbach を暗殺するのを望んでいる、と言った。
 Bliumkin は、必要な準備のために24時間の猶予を求めた。
 彼とAndreev に必要だったものの中には、二人がドイツ大使に聴取することを依頼する、ジェルジンスキの偽造署名のある文書、二本の回転式拳銃、二発の爆弾、Popov が運転手を雇う、チェカの自動車、があった。
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 (03) 7月6日の午後2時15分から30分頃、チェカの二人の代表者がDenezhnui Pereulok にあるドイツ大使館に姿を現した。
 一人は、Iakov Bliumkin、チェカ反対諜報局の職員だと自己紹介した。
 もう一人は、Nicholas Andreev、革命審判所の職員だと。
 二人は、信用証明書を提示した。それらにはジェルジンスキとチェカの書記の署名があり、「大使に直接の関係のある問題」を議論する権限を二人に与えていた(注105)。
 その問題とは、チェカがスパイ行為の嫌疑で勾留した、大使の親戚だと信じられた、Robert Mirbach 中尉の事案のことだと分かった。
 訪問者二人は、Riezler と通訳のL. G. Miller 中尉に迎えられた。
 Riezler は、自分はMirbach 公に代わって語る権限をもつ、と言った。だが、ロシア人たちは、ジェルジンスキから大使と個人的に話すよう指示されていると強く主張して、Riezler を相手にするのを拒んだ。
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 (04) 在モスクワ・ドイツ大使館は、しばらくの間、暴力が加えられる可能性があるという警告を受けてきていた。
 差出人不明の手紙がきた。また、完璧に機能している照明設備を点検するという電気技師の訪問とか大使館の建物の写真を撮っている者などの怪しい出来事があった。
 Mirbach は、訪問者と逢うことに気乗り薄だった。しかし、チェカの長からの信用証明書が提示されたので、彼らと逢うために降りて来た。
 ロシア人二人は大使に対して、Mirbach 中尉の事案に興味を持たれるだろう、と言った。
 大使は、情報は文書でもらう方がよい、と答えた。
 このとき、Bliumkin とAndreev は、それぞれの鞄に手を伸ばし、回転式拳銃を取り出した。銃は、Mirbach とRiezler を目指して火を噴いた。
 どの銃弾も、命中はしなかった。
 Riezler とMirbach は、床に倒れ込んだ。
 Mirbach は立ち上がり、居間を通って階上へと逃げようとした。
 Andreev は追いかけて、後頭部に向かって発射した。
 Bliumkin は、部屋の中央へと爆弾を投げた。
 二人の暗殺企図者は、開いた窓から跳んで外へ出た。
 Bliumkin は負傷したが、何とかAndreev に追いつき、大使館を取り囲む二メートル半の高さの鉄屏を昇り、エンジンを噴かせて外で待つ自動車に乗った。
 大使のMirbach は、意識を回復することなく、午後3時15分に死亡した(注106)。
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 (05) 大使館の館員たちは、大使への急襲はより一般的な攻撃の前兆ではないかと怖れた。
 軍事要員が、安全を保つ責任を引き受けた。
 ソヴィエト当局に連絡しようと試みたが、無益だった。電話線が切断されていたからだ。
 軍事担当官のBothmer は、外務人民委員部が所在しているMetropole ホテルへと走った。
 そこで、Chicherin の副官であるKarakhan に、起きたことを告げた。
 Karakhan は、クレムリンに連絡した。
 レーニンは3時30分頃に報せを受け、ただちにジェルジンスキとSverdlov に知らせた(注107)。
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 (06) その日の午後遅く、ボルシェヴィキの要職者の一行が、ドイツ大使館を訪れた。
 最初に到着したのは、Radek だった。彼は武器を携行しており、それをBothmer は、小さな攻撃用拳銃と叙述した。
 続いたのは、Chicherin、Karakhan、そしてジェルジンスキだった。
 一団のラトビア人ライフル兵たちが、ボルシェヴィキ要職者の後に来た。
 レーニンは、クレムリンにとどまった。だが、大使館に責任をもつRiezler は、説明と謝罪をするためにレーニン自身が現れるよう強く主張した。
 外国の外交官が国家の長に対して要求するのは、きわめて特異なことだった。だが、これは、レーニンが従わなければならなかった当時のドイツの影響力を示していた。
 レーニンは、Sverdlov を伴なって、午後5時頃にやって来た。
 ドイツ側の目撃者によると、レーニンは事件について純粋に技術的な関心を示し、殺害の場所、家具の正確な配置、爆弾による被害を示すよう求めた。
 彼は、死者の遺体を見るのは固辞した。
 レーニンは、あるドイツ人の言葉では、「犬の鼻のように冷たく」詫びの言葉を発し、犯罪者は罰せられると約束した(注108)。
 Bothmer は、ロシア人たちはきわめて怯えているように見える、と思った。
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 第11節、終わり。

2816/司馬遼太郎・三〇回忌。

 1875年(明治7年)から150年、1925年(昭和元年)から100年、1945年(敗戦)から80年、1970年(三島由紀夫の自決)から55年。
 そして毎日新聞(電子版)の2025年2月のある記事によると、「まもなく歴史作家・司馬遼太郎の三十回忌が来る」。
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 2020年に三島由紀夫の死後50年が経過するので、著作権が失効して無料の電子テキスト版全集でも出るかと期待していた。だが、著作権有効期間が延長されて、そうはならなかった。
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 司馬遼太郎が逝去したのは、1996年2月12日だった。
 突然の<腹部大動脈瘤破裂>による死。かかりつけ医師からは<坐骨神経痛>と言われていたらしいから、本人(および周辺の関係者)は予想していなかっただろう。
 異常の発生または「大動脈瘤破裂」の瞬間に、患者の意識は喪失するのだろうか、それとも激しい痛みを感じたままで意識の混濁と死へ向かっていくのだろうか。
 前者であったならば、司馬遼太郎は、自分の死を何ら意識または予期することなく、亡くなったことになる。
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 かねて不思議だったのは、司馬遼太郎のつぎの文章だった。
 「私の人生は、すでに持ち時間が少ない。
 例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。

 このあとに「君たちは、ちがう」とつづく。
 これは司馬遼太郎「二十一世紀に生きる君たちへ」(原本/1985年、大阪書籍)の一部だ。
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 これを執筆したとき、1923年生まれの司馬は62歳になろうとしていた。
 そして、あと15年余り生きれば、2001年1月の21世紀を見ることができていた。
 「21世紀というものを見ることができないにちがいない」というのは、77-78歳まで生きることができないに違いない、と予想していることを意味する。
 言い換えると、司馬遼太郎は62歳くらいの時点で、77-78歳までは生きられない、それまでには死んでいるだろうと自分の将来を予測していたわけだ。
 これが不思議だった。
 1985年頃は、平均寿命は77-78歳以下だったのかもしれない。
 しかし、すでに60歳を超え、まだ腰の痛みもなかったとされ、その他とくに死につながり得るような「持病」をもっていなかったはずの司馬が、なぜ、自分の寿命を77-78歳以下と見切っていたのだろうか。
 実際には、1996年2月に満72歳で逝去した。予測は結果としては当たっていたことが、何やら悲しい。
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2815/R.パイプス1990年著—第14節⑱。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第10節/左翼エスエルの暴動企図②。
 (06) 決定の直後に、左翼エスエルは動き始めた。
 モスクワとその郊外の連隊に煽動者を派遣した。いくつかでは党の側に引き込み、残りは中立化することに成功した。
 チェカ内部で活動する左翼エスエル党員は、ボルシェヴィキが反攻した場合に闘う軍事部隊を集結させた。
 ドイツ大使に対するテロリズム行為を実行する準備が行なわれた。ドイツ大使の暗殺は、全国民的な決起の合図として役立つものとされた。
 十月前夜のボルシェヴィキの戦術を模倣して、左翼エスエルは、その計画を隠さなかった。
 6月29日、機関紙の<Znamia truda>は第一面で、活動可能な党員全員に対して、7月末までに党の地域事務局へ報告するよう訴えた。党地域委員会は、軍事訓練を行なうよう指示された(注101)。
 その翌日、Spiridonova は、武装蜂起のみが革命を救うことができる、と宣言した(注102)。
 ジェルジンスキ〔Dzerzhinskii〕とそのラトビア人仲間がなぜ、この警告を無視して、7月6日に突然に身柄を拘束されたのかは、不可解な謎のままだ。
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 (07) この問題に対する部分的な、かつ部分的だけの回答は、陰謀者たちの何人かはチェカの指導機関で働いていた、ということだ。
 ゼルジンスキーは彼の代理人として、左翼エスエル党員であるPetr Aleksandrovich Dmitrievskii —一般にAleksandrovich として知られた—を選んでおり、この人物を完全に信頼して広い権限を与えていた。
 チェカに雇用され、陰謀に関与した他の左翼エスエル党員には、逆スパイとドイツ大使館への浸透を責務としていたIakov Bliumkin、写真家のNicholas Andreev、チェカの騎兵軍団の長官のD. I. Popov がいた。
 これらの人物が、秘密警察の本部の内部で、陰謀を企てた。
 Popov は、ほとんどが親左翼エスエルの海兵である、数百人の武装人員を集めた。
 Bliumkin とAndreev は、ドイツ大使のMirbachを暗殺する責任を請け負った。
 この二人はドイツ大使館の建物をよく知っており、大使殺害の後で辿る逃走経路の写真を撮っていた。
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 (08) こうした準備を監督していた<三人組(troika)>は、7月4日夕方に予定されていた第五回全国ソヴェト大会の第二日か第三日のいずれかに、蜂起を実行しようと計画した。
 Spiridonova は、ブレスト=リトフスク条約の廃棄と対ドイツの宣戦布告を呼びかける動議を提出することとされた。
 大会での発言を決定する幹事委員会は、左翼エスエルに、寛大に議席の40パーセントを割り当てていた。また、多くのボルシェヴィキ党員がブレスト条約に反対していることが知られていた。これらの理由で、左翼エスエル指導部は、自分たちが多数派となる十分な可能性がある、と考えた。
 しかしながら、かりにそれに失敗するならば、ドイツ大使に対するテロリズム行為でもって反逆の旗を掲げることになるだろう。
 7月6日は偶然に聖ジョン日(<Ivanov den’>)だったので、行動には好都合だった。この日はラトビアの祝日で、ラトビア人ライフル兵団はモスクワ郊外のKhodynka 広場へと遠足して祝うことになっていた。そして、クレムリンには最小限の同僚のみを残すのだった(脚注)
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 (脚注)  彼らの指揮者のI. I. Vatsetis によると、その頃、ラトビア兵団のほとんどは、Volga-Ural の戦線へと派遣されていた。Pamiat’, No. 2(1979)
, p.16.
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 (09) 引き続く事態が進行したとき、モスクワの状況は弱々しいものだったので、左翼エスエルが権力奪取を望んだならば、ボルシェヴィキが十月にそうだった以上にはるかに簡単に、それができただろう。
 しかし、左翼エスエルは、断固として、統治する責任を負いたいと考えなかった。
 彼らの反逆は、クー・デタではなく、クー・劇場(coup de theatre)、すなわち、「大衆」に衝撃を与え、彼らの沈滞している革命精神を活性化するための、大規模の政治的示威行為、だった。
 左翼エスエルは、過ちを冒した。その過ちをレーニンは、彼の支持者に対して永遠に、革命で「演劇する」ことの過ちとして警告し続けた。
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 第10節、終わり。

2814/R.パイプス1990年著—第14章⑰。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第10節/左翼エスエルの暴動企図①。
 (01) 1918年の夏が近づくにつれて、左翼エスエル(社会主義革命党)の不安は増した。
 情熱的な革命家たちだったので、絶え間なく興奮してきた。十月の高揚、1918年2月の陶酔。
 国民がドイツの侵略に対抗して立ち上がったとき、忘れ難い日々は、左翼エスエルの詩人、Alexander Blok によって祝われた。二つの最も有名な革命詩、「十二」と「スキタイ人」によって。
 しかし、これらは全て過去のものになり、左翼エスエルは自分たちが今や計算高い政治家たちが作る体制の協力者であることに気づいた。その政治家たちは、ドイツと連合諸国の両方と取引して、工場を稼働させるために、また軍隊を指導するために、「ブルジョアジー」を再び招いた。
 革命にいったい何が起きたのか?
 1918年2月の後、ボルシェヴィキは彼らを満足させることを何一つ行なわなかった。
 左翼エスエルはブレスト条約を侮蔑した。彼らから見るとこの条約は、ドイツをロシアの主人にし、レーニンをMilbach の従僕にした。
 ドイツと仲間になるのではなく、彼らが望んだのは、必要とあらば素手でもってすら、大衆をこの帝国主義者に対して立ち上がらせ、革命をヨーロッパの中心へと送り込むことだった。
 ボルシェヴィキが左翼エスエルの抗議を無視してブレスト条約に調印し批准したとき、左翼エスエルはソヴナルコム(内閣、Sovnarkom)から離脱した。 
 彼らは、穀物を収奪するために武装部隊を派遣するという、1918年5月にボルシェヴィキが採用した政策に反対した。農民と労働者間に反目を生じさせると考えたからだった。
 死刑判決の再導入に反対し、チェカが政治的収監者に言い渡した全ての死刑判決に対して党員に拒否権を行使させて、多数の生命を救った。
 彼らは断固として、ボルシェヴィキは革命の裏切り者だと見なすようになった。
 指導者のMaria Spiridonova は、こう述べた。「私は今まで一緒に活動してきた。同じ防柵の上で闘ってきた。ともに目標に向かって栄光ある闘いを行なってきた。そのようなボルシェヴィキが、ケレンスキー政権の政策を採用していると認識することは、今ではつらい。」(注96)
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 (02) 1918年の春、左翼エスエルは、1917年にボルシェヴィキが臨時政府と民主主義的社会主義者たちに対してとったのと同じ態度を、ボルシェヴィキに対してとった。
 彼らは、革命の良心として、日和見主義と妥協主義の体制に対して、高潔な代替案を提示した。
 工業労働者に対するボルシェヴィキの影響力は低下していたので、左翼エスエルは危険な対抗者になった。左翼エスエルは、ボルシェヴィキが権力奪取の過程で利用したがいったん権力を握ると全力で抑圧したのと同じ、ロシア人大衆の無政府主義的で破壊的な本能に訴えたのだから。
 彼らは、ある程度の騒々しい市民たちから支持された。その中には、急進的なペテログラードの労働者や、バルト海および黒海の艦隊の海兵たちもいた。
 彼らが訴えたグループは基本的には、十月にボルシェヴィキが権力を掌握するのを助け、今では裏切られたと感じている者たちだった。
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 (03) 4月17日〜25日、左翼エスエルはモスクワで大会を開催した。
 大会は、6万党員を代表していると宣言した。
 ほとんどの代議員は、ボルシェヴィキとその<komissaroderzhavie>(「人民委員の統治」)との明確な決裂を望んだ(注97)。
 2ヶ月後(6月24日)の秘密会議で、左翼エスエルの中央委員会は、謀反の旗を掲げると決定した(注98)。
 ブレスト条約が追求した「息つぎ」は、終わらなければならない。
 彼らは、7月4日に予定されている来たる第四回全国ソヴェト大会で、ブレスト=リトフスク条約の廃棄と対ドイツの宣戦を呼びかける動議を提出することになる。
 その動議が通過しなければ、ロシアとドイツの断絶をもたらすテロリズムによる挑発を開始するだろう。
 秘密会議で採択された決議には、つぎのように書かれていた。
 「左翼エスエル中央委員会は、共和国の現在の政治情勢を検討したうえ、ロシアの利益ならびに世界革命の利益のために、ブレスト=リトフスク条約が生んだいわゆる息つぎに対して、即時に終止符が打たれなければならない、と決議する。//
 中央委員会は、ドイツ帝国主義の指導的代表者たちに対して、一続きのテロリズム行為を組織することが実践的でありかつ可能であると信じる。
 これを実現するために、党の全力が組織され、全ての策が講じられなければならない。そうすれば、農民層と労働者階級はこの運動に参加し、積極的に党を助けるだろう。
 そのゆえに、テロリズム行為を行なうときには、ウクライナでの諸事件、農民のあいだでの煽動、兵器庫の爆発への我々の関与者に、全ての文書が知らされなければならない。
 これは、モスクワが合図する後でなされなければならない。
 この合図はテロリズムの一行為であり得るが、あるいは別の形態をとることもできる。
 党の全力の投入に寄与すべく、三人委員会(Spiridonova、Maiorov、Golubovskii)が任命された。//
 党の望みとは逆に、これがボルシェヴィキと衝突し得るという事実にかんがみ、中央委員会はつぎのとおり宣言する。
 我々は、人民委員会議の現下の政策に対する攻撃だと我々の政策を見なす。しかし、決してボルシェヴィキそれ自体に対する闘いではない。
 我々の政策に対してボルシェヴィキが攻撃的な反対攻撃を行なうということがあり得るので、我々は、必要とあらば、武力でもって我々の立場を防衛しようと決意している。
 党が反革命分子によって利用されるのを阻止するために、我々の政策は明白にかつ公然と言明されることが決議された。そうしてこそ、世界的な社会主義革命的政策は、やがてソヴィエト・ロシアによって用いられることができる。」(注99)
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 (04) この決議が示すように、左翼エスエルは、1917年十月のボルシェヴィキの行動を多くの点で模倣しようとしているにすぎない。一つのきわめて重大な違いは、左翼エスエルは権力の奪取を望まなかったことだ。
 権力はボルシェヴィキの手に残されるものとされた。
 左翼エスエルは、反ドイツのテロリズムへの反応としてドイツがロシアを攻撃するよう挑発することによって、ボルシェヴィキがその「日和見主義」政策」を放棄するよう仕向けることだけを欲した。
 この計画は全く非現実的だった。それが依拠していたのは、つぎのような賭けのごとき期待だった。
 ドイツはブレスト条約で獲得した莫大な利益を衝動的に放棄するだろう、そして、ドイツとロシアを結びつける共通の利益をすっかり無視するだろう。
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 (05) 左翼エスエルの三人委員会のうち最も有力な人物であるSpiridonova は、前世紀に特徴的な宗教的殉教者がもつ勇気を持っていた。だが、常識に似たものは何一つ持っていなかった。
 この時期の彼女を観察していた外国人は、全く褒め言葉のない報告を残した。
 Riezler にとって、彼女は「干上がったスカート」だった。
 ドイツの報道記者のAlfons Paquet は、こう彼女を見た。
 パンセネ〔鼻固定眼鏡〕を付けた、飽くなき発作者。語っているあいだいつも見えないハープに手を伸ばしているように見える、また、会場が称讃と憤激で充満しているときに焦ったそうに足を踏み鳴らして、落ちている服の肩紐を上げている、そのようなアテナを戯画化した人物。」(注100)
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 ②へとつづく。

2813/R.パイプス1990年著—第14章⑯。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第九節/ドイツ皇帝が親ボルシェヴィキ政策を決定②。
 (09) このような考えを抱いて、Kühlmann は、ロシアでの厳格な不干渉政策を主張した。
 おそらくボルシェヴィキの探索だったものに応えて、彼はロシア政府に対して、ドイツもフィンランドもペテログラードには何の腹案も持っていないと、保証した。このような保証があったため、ラトビア人兵団を西部から、チェコ軍団と戦うことがひどく熱望されていた東部へと移動させることが可能になる(注91)。
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 (10) いつか最も「歴史的」な日々があると信じていた者たちにとって、1918年6月28日は、近代の最も「歴史的」な日の一つとして光るはずだ。
 なぜと言うに、ドイツ皇帝が衝動的な決定をして、ボルシェヴィキ体制を死刑判決から救ったのは、この日だったからだ。
 ロシア問題に関する報告書が、提示用に彼に送られてきた。
 彼の前には二つの文書があった。一つは、首相のGeorg von Hertling が著名した外務省からの文書だった。もう一つは、Hindenburg から。
 報告担当官の男爵Kurt Von Grünau は、皇帝補佐官に対して外務省を代表した。
 このような事態の経験を積んでいた者は全て、このような場合に報告担当官がもつ力を知っていた。
 報告担当官は、主要な政策案、被報告者が事態の不完全な知識にもとづいて選ぶために必要な政策の選択肢、を提示する。そのときに彼は、微妙な操作を行なって、自分が好む方向へと決定を誘導することができる。
 Grünau は、外務省の利益を促進するために、この機会を最大限に利用した。
 皇帝は、大部分について、Grünau が彼に提示した政策案の様式の結果として、重大な決定を下した。
 「瞬間的な気分と突然の閃きに従う皇帝の衝動的性格にとっては、助言者が彼に提示した最初の論拠を結論だ(<schlussig>)と思うほどに支持するのは、本質的特徴だ。
この場合も、それが起きた。
 助言者のGrünau は、Hindenburg が選考した案を皇帝に提示する直前に、Hertling からの電信(Kühlmann 推奨書も)を皇帝に知らせることに成功した。
 皇帝はすぐに首相〔Hertling〕に同意すると宣言し、とくに、まず、ドイツはロシアで軍事行動を行なってはならない、と述べた。また、ソヴィエト政府には、第一にペテログラードから安全に撤兵できること、第二に、「将来の機会を排除することなく」チェコ軍団に対抗して戦線を展開できること、最後に第三には、ブレスト条約を受諾した唯一の党派としてのソヴィエト政府には支援が拡大されること、を知らせなければならない、と述べた。(注92)」
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 (11) 皇帝による決定の直接的効果として、トロツキーは、ラトビア人連隊を西部国境からVolga-Ural 前線へと移動させることができた。
 ラトビア人兵団は戦闘可能な唯一の親ボルシェヴィキ軍団だったので、この行動によって、東部のボルシェヴィキ体制は完全な崩壊から救われた。
 7月末に、ラトビア人連隊と第四分団はKazan 近くでチェコスロヴァキア兵団と交戦し、第六分団はEkaterinburg で彼らを攻撃した。また、第七分団はIzhevsk-Botkin で、武装労働者の反ボルシェヴィキ蜂起を鎮圧した。
 これらの作戦行動は、戦況をボルシェヴィキに有利に変えた。
 ドイツの諜報機関が傍受したIoffe あての電報で、Chicherin は、ロシアがその兵団をドイツの戦線から撤退させ、その兵団をチェコスロヴァキア兵団に対抗して投入することができたことがきわめて役立った、ということを強調した(注93)。
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 (12) 皇帝の判断の長期的な効果は、ボルシェヴィキがその歴史の最も危機的な時期を乗り切ることを可能にしたことだった。
 ドイツがペテログラードを掌握するのに少しの努力も要らず、モスクワを占拠するにはほんの少し多くの努力しか必要としなかっただろう。二都市ともに事実上防衛されていなかったのだから。
 そしてドイツは、そのウクライナ作戦を繰り返すことができ、ロシア全土に傀儡政府を樹立しただろう。
 誰も、ドイツのそうした能力を疑っていなかった。
 ボルシェヴィキがより強固な地位にあった4月に、トロツキーはSadoul に、ドイツに後援された政党によってボルシェヴィキが排除されることはあり得る、と語った(注94)。
 6月末の皇帝の決定は、この可能性を永遠に消滅させた。
 西部での攻勢が終わりを告げた6週刊後、ドイツはもはや、ロシアの国内情勢に決定的に干渉する立場にいることはなくなった。
 ドイツがボルシェヴィキを支持し続けていることが知られるようになって、ロシアの反対派は落胆した。
 Kühlmann は皇帝の意向を伝達するとき、在モスクワ大使館に対して6月末に、レーニンと協力することを指示した。
 7月1日、Riezler は、右派中央派との会話を断絶した(注95)。
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 第10節へとつづく。

2812/斎藤兵庫県知事・2025年2月5日定例記者会見の一部。

 斎藤元彦兵庫県知事/2025年2月5日(水)定例記者会見の一部。
 MBS NEWS(YouTube)による。文責・太字化は聴き取り、引用をした掲載者。後日により正確化することがありうる。
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 ①39分05秒あたり以降。
 質問者「フリーの記者の松本と言います。
 さっき読売新聞さんが訊いていた二馬力選挙のことなんですけれども、これは知事戦の期間中に私が直接斎藤さんに伺ったときに、本人が認識していないことを言われた記憶があります。
 しかし、陣営の関係の複数の方とか応援されている方からは当然認識していて、しかし連絡はもちろんとっていないんだけれども、悪い影響は出ていないようなのでそのままにしているんです、みたいな話を複数聞いています。
 で、先ほど以来指摘があるように、首相だけでなく総務大臣だったり、兵庫県選管も、公選法に違反する疑いがあるという認識を示しています。
 そもそもこれまでずっと、自分の選挙に専念してきたのでそのことは認識していないし、それを何か言う立場にない、ということを仰言っているのですけれども、周りの方々は皆認識していて、ご自身だけエアポケットのように認識していないというのはどう考えても無理がありますし、選挙後になってこれだけ問題視されている中で、何も仰言られないというのは、かなり無責任だというふうに思うのですが。
 あらためて、二馬力選挙というものについての認識をお聞かせ願えないでしょうか。」
 斎藤知事「これまで申し上げてきたとおりです。…」
 質問者「なぜその…」
 斉藤知事「私としては、選挙というものは、今回の兵庫県知事選挙は候補者ですから、候補者として…」
 質問者「候補者…、当事者だからこそ…。」
 斎藤知識人「私は当事者、候補者として戦わせていただきました。私はあの、繰り返し言ってますけれども、立花さん自身も知らなかったですし、直接会ったこともなかったです。もちろん、あのー、討論会の場でご挨拶させていただいたことはありましたけれども、私自身は自分自身ができる選挙、自分自身がやれることを精一杯やってきたということですから、そういったことはない、というふうに申し上げてきましたので、同じ考え方です。」
 質問者「選挙中はそれでよかったとしても、選挙後です。首相のご答弁もそうですし、選管の反応も総務大臣も全部、選挙後です。選挙後にこれだけ社会問題になっている、その社会問題の当事者である知事としての立場で、何も、自分は一候補者だったというのでは話が通らないと思うのですが。」
 知事「それは、今ご指摘いただいているご質問者の考えだと思います。私としては、先ほど来申し上げているとおり、自分としては自分が当事者、候補者である選挙戦を精一杯自分自身として、斎藤元彦としてやらしていただいた、ということです。
 質問者「それで、社会的な理解が得られる、とお考えですか?」
 知事「それはあのー、私自身はそのように思っていますが、そのように考えているというのは、今の斎藤元彦としての考えです。」
 質問者「わかりました」。
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 ②55分25秒あたり以降。
 質問者「フリーの菅野です。今日質問するつもりはなかったのですが、一時間の約束も守られそうにないので、5分間だけ質問させてもらいます。
 先ほど…、時事通信さんからの指摘もありましたように、同じ答えしかできないから皆さんの質問が荒れるんです。空虚な記者会見になる責任の帰するところは、知事です。我々ではありません。…
 先ほど、松本さんの質問、および朝日新聞さんの質問、共同通信さんの質問で、二馬力選挙の話が出ました。それは当然だと思います。昨日の衆議院の予算委員会で二馬力選挙のことが議論されましたので。
 そのときに、記者の側からは二馬力選挙という言葉しか出ていないのですが、松本さんの質問に対して、知事はやおら、立花さんの名前を出されたんです。昨日の国会の議論でも、立花さんの名前は出てなかったと思います。
 ということは、知事、立花さんが二馬力選挙をしていることをご存知だったのですか。」
 斎藤知事「ちょっと、よく分からないです。
 質問者「いや、すごく単純な質問じゃないですか。誰も立花さんと言っていないにもかかわらず、二馬力選挙という主語であなたに質問しているにもかかわらず、あなたの返答には立花さんという名前があった、ということです。
 ということは、あなたは、二馬力選挙の当事者は立花さんだったということをご存知だったということですか、と問うているのです。」
 斎藤知事「私は先ほど来申し上げましたとおり、候補者として、—いろいろな候補者がおられたと思います—もちろん討論会とかもやらせてもらってますし、どういった候補者がおられるかということは分かっています。そんな中で、私としては、自分ができる選挙戦をしっかりやらせていただいたということだけですので、そういった認識はありません。」
 質問者「いや、司会者の方ね、僕が言ってるのはこういうことです。
 知事に問わずに司会者の目を見て訊きますが、僕の問いは、共同通信さんも朝日新聞さんも松本さんも、二馬力選挙という主語で語っているのです。にもかかわらず、知事からのご返答が、やたら立花さんだった。
 ということは、二馬力選挙の片方の当事者は立花さんだという認識があるんですか、という問いなんです。
 これ、記者会見を短く答えようと思うならば、イエスかノーかで答えられる質問なんです。
 もう一度問いますが、立花さんが二馬力選挙の当事者であったというご認識があった、というご認識で間違いないですか。」
 斎藤知事「私は、自分ができる選挙を、自分が一人でしっかり、候補者としてやらせていただいた、ということが答えです。」
 質問者「その言い訳は、僕の質問が、立花さんの二馬力選挙で助けられたと思っていますか、というときには成立する言い訳です。
 昨日国会で議論された二馬力選挙、松本さんの言葉を借りれば、いま社会問題になっている二馬力選挙のうちの一馬力は立花さんだった、という認識があるのですか、という問いです。」
 斎藤知事「いや、私は、だから、さっきから申し上げているように…」
 質問者「主語はあなたではないんです。」
 斎藤知事「私自身が、自分ができる選挙戦を…」
 質問者「それは存じあげています。僕が問うているのは—あと2分ほどあります—、僕が問うているのは、立花さんが二馬力選挙のうちの一馬力だったという認識があるのですか、という問いです。」
 斎藤知事「あのー、特定のことについて答える義務はありません。
 私は、先ほど来申し上げているとおり、あのー前回の兵庫県知事選挙というものは、自分ができること、自分が候補者としてやることをやってきた、ということです。
 私以外の方がどうだったか、ということについては、コメントする立場にない、ということです。」
 質問者「先ほどの時事通信の方の質問、憶えておられます?」
 斎藤知事「あの、質問に答えるということを、お互いにしっかりやりましょう、という…」
 質問者「はい。その舌の根も乾かないあいだに、僕の質問に対する回答は、先ほどの時事通信さんへの回答と平仄すると思います?」
 斎藤知事「えーと、私自身は、自分が質問に答えるということをしっかり答えさせていただいているつもりです。」
 質問者「では、先ほどの、特定の質問に答える義務はない、とはどういうことですか?」
 斎藤知事「あの、私自身は選挙戦で、繰り返しになりますが、一候補者として、他の候補の方がたくさんおられたということは存じあげているけれども、他の方がどうだったかについて、答える立場にはないし、自分自身は候補者として選挙戦を懸命に戦っただけです。」
 質問者「最後に一問だけ。
 その兵庫県知事選挙に出馬された当事者として、あなたは、国会や兵庫県選管やさまざまな機関が警鐘を鳴らしている二馬力選挙について、考えたり、コメントを述べたりする立場にはない、というふうに思ってらっしゃるんですか?」
 斎藤知事「選挙戦のあり方というのは、制度について、国や国会が、法改正などでしっかり対応していく必要があれば、法改正などで対応することだと思いますです。その議論の推移をしっかり見守る、…」
 質問者「いや、僕の問いとは全く答えがズレているんです。兵庫県知事選挙に立候補した者として、国会で議論までされている二馬力選挙という問題について、あなたは、考える必要がない、と考えてらっしゃるんですか、と問うているんです。
 斎藤知事「私自身は、選挙に立候補した者として、コメントすることは差し控えたい、ということです。
 質問者「コメントを求めているのではないのです。考えるべきか、考えるべきではないのか、どちらですか、と問うているのです。
 斎藤知事「選挙制度については、国において議論されるべきものだと思います。」
 質問者「なるほど、あなたは、考える立場にない、ということですね。…ありがとうございました。」
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2811/R.パイプス1990年著—第14章⑮。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第九節/ドイツ皇帝が親ボルシェヴィキ政策を決定①。
 (01) 1918年の6月まで、将軍たちは、ボルシェヴィキとの決裂を要求する〔ドイツ国内の〕唯一の党派だった。
 彼らは、外務省当局と一緒になって動く産業家や銀行家によって抑えられていた。
 しかし今や、期待していなかった同盟相手を見つけた。
 チェコスロヴァキア兵反乱のあと、Milbach とRietzler はレーニン体制の存続可能性について確信を失い、ロシアで支持される別の基盤を探すようにさらに強く主張した。
 Rietzler の勧告は、印象にだけもとづいてはいなかった。
 彼には、チェコ軍団を阻止するためにボルシェヴィキが当てにできる勢力はボルシェヴィキを見捨てつつある、という直接の知識があった。
 彼は6月25日、ドイツ政府に対して、在モスクワ大使館はチェコ軍団と国内の対抗者に対するボルシェヴィキの行動を助ける全てのことをしているけれども、この努力は無駄なように見える、と助言した(注87)。
 こう思っていたことは、数年のちに初めて知られるようになった。
 内戦の東部戦線での赤軍の司令官だったM. A. Muraviev 中佐がチェコ軍団と戦うよう説得するために、Rietzler は彼に、資金援助(賄賂)をしなければならなかった(脚注)
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 (脚注)  Baumgart, Ostpolitik, p.227; Erdmann, Rietzler, p.474; Alfons Paquet in Winfried Baumgart, ed., Von Brest-Litovsk zur deutscheh Novemberrevolution (Goettingen, 1971), p.76. Muraviev は、ともかくも7月初めに脱落し、かれの兵団のもとで死んだ。
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 さらに厄介なことに、ラトビア人兵団はボルシェヴィキのために闘う意気を低下させていた。
 彼らは、後援者たるボルシェヴィキの運命が衰退傾向にあるのを感じ、孤立するのを怖れて、別の立場に替わることを考えた。
 ラトビア人兵団を説得して7月のIaroslavl でのSavinkov 反乱の鎮圧を助けさせるために、Rietzler にはより多くの援助資金が必要だった(注88)。
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 (02) チェコ軍団はそのあいだ、次々と都市を奪取していた。
 6月29日、Vladivostok を掌握し、Ufa の7月6日がつづいた。
 Irkutsk ではボルシェヴィキの抵抗に遭ったが、それを打倒し、7月11日にその街を掌握した。
 この時点までに、Penza から太平洋まで、東部シベリアの支線部を含めて、シベリア横断鉄道の全線は、チェコ軍団の手に落ちた。
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 (03) チェコ軍団が妨げられずに前進し、ボルシェヴィキ党員が離脱していく恐れも高まって、Mirbach とRietzler には不吉な予感が生まれた。
 彼らは、連合諸国がこの危機を利用して、エスエルによるクーを企むのではないか、そしてロシアは連合諸国の側に再び戻るのではないか、と懸念した。
 この大厄災の発生を阻止するために、Rietzler はドイツ政府に対して、ロシアのリベラル派および保守派と接触するよう強く主張した。これらの派は、右派中心派、カデット党〔立憲民主党〕、Omsk 政府、Don コサックに代表されていた(脚注)
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 (脚注) Erdmann, Rietzler, p.711-2. Rietzler は、ドイツの潜在的な同盟者の中にカデットを含めていた。その指導者のMiliukov は、当時ウクライナにいたが、親ドイツの志向を表明していたからだ。その他のカデット党員は連合諸国に忠実なままだった。
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 (04) 在モスクワ大使館からの警告的報告書によって、軍部の不満はさらに大きくなった。そして、ドイツ政府がもう一度「ロシア問題」を検討するよう動かした。
 ドイツ政府が直面していた問題は、つぎのように整理することができる。まず、終始一貫してボルシェヴィキに執着すべきか。その理由は、1)ボルシェヴィキは長期間の脅威としてのロシアを排除するするためにロシアを完全に壊滅させた、2)ボルシェヴィキはブレスト=リトフスク条約に黙従することによってロシアの最も富裕な地域をドイツの自由に委ねた。
 あるいは、それとも、ドイツの軌道の範囲内のロシアを維持する、もっと陳腐だがもっと生存可能性のある体制を選ぶために、ボルシェヴィキを振りほどくべきか。これがブレスト=リトフスク条約で獲得した領域の一部を放棄することを意味する、としても。
 これらそれぞれの立場の主張者たちは、手段について一致しなかった。
 だが、それらの目的は、同一だった。—すなわち、ロシアがフランスとイギリスがドイツを「包囲」するのを二度と助けないように、ロシアを弱体化すること。そして、ロシアを経済的浸透に対して広く開くこと。
 反ボルシェヴィキの党派は、こうした目標をロシアを従属した政治体に作り上げることによって達成したかった。しかし、一方で、外務省当局は、ロシアを内部から消耗させるためにボルシェヴィキを利用することによって、そうすることを選んだ。
 この問題をいずれかに決着させることは、ボルシェヴィキは衰亡しようとしているという在モスクワ大使館の見方からすると、かなりの緊急性を帯びた課題だった。
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 (05) ドイツ政府の誰も、ボルシェヴィキが長く権力を保持するのを望まなかった。論議は、戦争継続中の、短期間についてのものだった。
 論議に決着をつける困難さには、皇帝の気紛れさも加わっていた。皇帝はある日、「ユダヤ」ボルシェヴィキに対して激しく怒り、そのボルシェヴィキに対する国際十字軍を結成するのを望んだ。だが、次の日には、同じボルシェヴィキについて、ドイツの最良の友人だと語った。
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 (06) Ludendorff は、ボルシェヴィキを消滅させることを主張した。
 ボルシェヴィキは裏切り者だ。「我々のおかげで生きているとしても、ソヴィエト政府からは何も期待することができない」。
 彼がとくに困惑していたのは、ドイツの兵士たちのボルシェヴィキの政治宣伝への「感染」だった。そのプロパガンダは、東部の数十万の兵士たちの移動にともなって、西部前線へと広がっていた。
 彼は、ロシアを弱体化し、「力でもってロシアを[ドイツのために]奪う」のを欲した(注89)。
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 (07) 在モスクワ大使館は軍部の側にいたけれども、ロシアの政治集団から相当の支援を受けた見返りとして、ブレスト条約の改訂を推奨した。
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 (08) 反対する点がKuhlmann と外務省(在モスクワ大使館を除く)から申し立てられた。これには、多数の政治家とほとんどのドイツの事業家団体からの支持があった。
 5月に提出された外務省の覚書は、ボルシェヴィキとの協力を継続する論拠を定式化した。
 「ロシアの多様な所—主として反動的分野—から発せられているドイツの援助を求める理由は、資産階級の、ボルシェヴィキが彼らの所有物や資産を脅かしているという恐怖によって、最もよく説明することができる。
 ドイツは、つぎのような執行補佐人の役割を果たすべきだ。すなわち、ボルシェヴィキをロシアの家から引きずり出し、ドイツに対してツァーリ体制が過去数十年間追求してきたのと同じ政策を追求する反動家たちを復活させる、そのような執行補佐人。
 大ロシアに関して、我々は一つの最重要の利益をもつ。つまり、分解する力を促進し、その国を長いあいだ、弱いままにしておくこと。1871年の後にフランスに関して、Bismarck公が行なったのとまさに全く同じように。…
 その国の経済を掌握するためにロシアとの関係を正常なものにすることは、喫緊の我々の利益だ。
 その国の国内情勢に巻き込まれるほど、すでに我々とロシアを分けている亀裂は拡大するだろう。…
 ブレスト=リトフスク条約はボルシェヴィキによってのみ批准され、かつボルシェヴィキの全員ですらなかったことを、看過してはならない。…
 ゆえに、当面はボルシェヴィキを国家の指導的地位にとどまらせることが、我々の利益だ。
 ボルシェヴィキは当分の間、権力を維持するために、我々に対して忠誠の外貌を維持し、講和を保つために、行なうことのできる全てをするだろう。
 一方で、その指導者たちは、ユダヤ実業家なのだから、やがては、商業上および輸送実務の利益のために、彼らの理論を捨て去るだろう。
 よって我々は、ゆっくりと、しかし目的意識をもって、進まなければならない。
 ロシアの輸送、産業、そしてその国民経済全体は、我々の手中に握られなければならない。」
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 第九節②へとつづく。

2810/R.パイプス1990年著—第14章⑭。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第八節・チェコ軍団の前進。
 (01) チェコスロヴァキア兵の反乱は、ボルシェヴィキに対して、軍事的に挑戦したのみならず政治的脅威も与えた。
 Volga-Ural 地方やシベリアの諸都市は、リベラルなおよび社会主義的な知識人で溢れた。彼らは、ボルシェヴィキに対して立ち上がる勇気はなかったけれども、他者が与えてくれた機会を利用する心づもりはあった。
 彼ら知識人は、Samara とシベリアの街のOmsk に集中した。
 立憲会議の解散の後で、およそ70人のエスエル代議員はSamara へと旅行して、自分たちがロシアの正当な政府だと宣言した。
 Omsk は、カデットが率いた、より中央主義の知識人たちの司令地だった。ここにいた政治家たちは、シベリアをボルシェヴィズムと内戦から分離することに賛成だった。
 チェコ軍団が中央ヴォルガとシベリアの主要都市からボルシェヴィキを一掃するとすぐに、これら知識人たちは活動し始めた。
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 (02) チェコ軍団が(6月8日に)Samara を奪取したのち、ボルシェヴィキのもとで陰謀的存在になっていた立憲会議代議員たちは、公然化し、5人の幹事会によって率いられる、立憲会議委員会(Komitet Uchreditel’nogo Sobrania またはKomuch)を結成した。
 その綱領は、「全ての権力を立憲会議へ」とブレスト=リトフスク条約の廃棄を訴えた。
 その数週間後、Komuch はロシアの民主主義的社会主義の基本方針に適合した布告を発した。それには、個人的自由への制限の廃止、革命審判所の解体、が含まれていた。
 Komuch は、一般的自治政府の機関として、かつての<zemstva>と村議会を復権させた。だが、ソヴェトも維持して、その再選挙を命じた。
 銀行を非国有化し、ロシアの国債を尊重するつもりだと表明した。
 エスエルの農業綱領を模倣したものだったボルシェヴィキの土地に関する布令は有効なままだとされた(注81)。
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 (03) Komuch は自らをボルシェヴィキ体制に代わるものと見ていたが、Omsk にいるシベリアの政治家たちは、より穏健な地域的目標をもっていた。
 彼らは、チェコ軍団がボルシェヴィキを一掃した諸地域で合同し、1918年6月1日に、自らを西シベリア政府だと宣告した。
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 (04) チェコスロヴァキア兵たちは最初は、ロシアのボルシェヴィキへの対抗者に共感していなかった(注82)。
 エスエルが支援を求めて彼らに接近したとき、拒否した。理由は、彼らの唯一の使命はVladivostok への安全で迅速な移動を確実にすることにあったからだ。
 しかしながら、望むか否かを問わず、彼らはロシアの政治に巻き込まれざるをえなかった。目標を実現するためには、地方当局と交渉しなければならず、それはKomuch やシベリア政府との関係を増大させることを意味したからだ(注83)。
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 (05) チェコスロヴァキア兵団が反乱を起こしたとき、ボルシェヴィキ政府は、彼らは連合国の諸政府の指示のもとで行動している、と考えた。
 共産主義歴史家たちは、この見方に執着してきた。支持する証拠はなかったにもかかわらず。
 フランスの側から見た、ある歴史家の言葉が知られている。彼は関連する文書資料の全てに目を通し、「フランスが[チェコスロヴァキア兵の]蜂起を扇動していたことを示すものは何もない」と書いた(注84)。
 このことは、当時のSadoul の見方の適切さを確認する。Sadoul は、首尾はよくなかったが、友人のトロツキーに対して、フランス政府はチェコスロヴァキア軍に対して何の責任も負わないことを納得させようとした(注85)。
 実際に、少なくとも最初は、チェコスロヴァキア兵の反乱は、フランスにとっては不愉快な驚きだった。チェコ軍団を西部前線に移動させるというフランスの計画を転覆させるものだったからだ(注86)。
 イギリスが介入していた証拠もない。
 共産主義歴史家はのちに、Masaryk に責任を負わせようとした。しかし、彼は実際には、最も不幸を味わった人物だった。チェコスロヴァキア兵団がロシア情勢に巻き込まれることになって、チェコ国民軍をフランスに集めようとする彼の計画は妨害されたのだ(脚注)
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 (脚注) 「結論として一つのことが帰結される。すなわち、連合諸国からであれ地下の白軍の中央司令部からであれ、外部からの刺激または奨励は、ソヴィエト権力に対抗して武器を取るとのチェコ軍団の決定に対して、いかなる役割も果たさなかった。こうした敵対関係の発生は、偶発的なものだった。関係当事者の誰も望んでいなかった」。G. F. Kennan, The Decision to Intervene (Princeton, N.J., 1958), p.164.
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 (06) しかし、歴史の真実はどうだったのであれ、事態の激しい推移の中で、ロシア政府が〔チェコ軍団の〕Gajda 将軍の背後に連合諸国の意図を見るのは自然なことだった。チェコ軍団が、自分たちを武装解除させようとする命令の中に、ドイツの圧力を見るのは自然だったように。
 チェコスロヴァキア兵反乱事件は、ボルシェヴィキにあった連合諸国との経済的および軍事的協力の可能性を奪い、—完全に不本意というのではなく—ロシアをドイツの腕の中へと押しつけた。
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 第八節、終わり。 

2809/R.パイプス1990年著—第14章⑬。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第七節/ボルシェヴィキによる徴兵制度の採用。
 (01) 直接に向けられたのではなかったが、チェコスロヴァキア兵の反乱はボルシェヴィキ政府にとって、ブレスト=リトフスク条約以降の最初の深刻な軍事的挑戦だった。
 数ヶ月の検討をしたにもかかわらず、まだ赤軍はほとんど紙の上の存在だった。
 シベリアでのボルシェヴィキの実働人員は、数千人の「赤衛隊」およびそれと同様の数の親共産主義のドイツ人、オーストリア人、ハンガリー人の戦争捕虜で成っていた。
 中央の司令部のないこの混成部隊は、チェコスロヴァキア兵よりも劣っていた。絶望的になったソヴィエト政府は、ドイツに対して6月末に、チェコスロヴァキア兵に対して用いるべく、ロシアにいるドイツ人戦争捕虜を武装させる許可を求めた(注71)。
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 (02) ボルシェヴィキを真剣に軍隊の設立に取り組むよう最終的に強いたのは、チェコスロヴァキア兵の反乱だった。
 最高軍事会議で帝制時代の元将軍たちは、もっぱら「プロレタリア」分子で構成される全てが自由意思の軍隊という想念を放棄して、一般的な徴兵制度の採用へと移ることを強く主張してきていた。
 ロシアの人口構造からすると、徴兵軍では、農民が圧倒的多数を構成することになる。
 現実的な選択的判断をすることができていなかったが、レーニンとトロツキーはやっと、職業的な将校団と多量の農民徴用兵をもつ常備軍に対する嫌悪を克服した。
 政府は4月22日に、18歳から40歳までの全男子が8週間の軍事訓練を受けるべきことを命令した。
 この指令は、労働者、学生、「開発」に従事していない、つまり賃労働者を雇用していない農民に適用された(注72)。
 これは、最初の一歩だった。
 政府は5月29日に、段階的に総動員が実施されるべきことを命令した。
 最初に、モスクワ、Don、Kuban の、1896年および1897年生まれの労働者が召集されることになる。
 その次はペテログラードの労働者。そのあと、鉄道労働者と事務従事被雇用者へと広がった。
 これらの被召集者には、6ヶ月間の服務が課せられた。
 農民たちはまだ、召集されなかった。
 6月に、兵士の給料が1ヶ月150ルーブルから250ルーブルに上げられた。また、標準の制服を用意する最初の試みが行なわれた(注73)。
 同時期に、政府は、帝制軍の旧将校たちの自発的登録を開始し、総合幕僚アカデミーを開設した(注74)。
 最後に7月29日、政府は、二つの布令を発した。これらは、これ以来赤軍として知られるようになる軍隊の基礎になった。
 第一の布令は、18歳から40歳までの男子全員の軍事労役の義務を導入した(注75)。
 この布令の定めにより、50万人以上の男子が徴兵された。
 第二の布令は、革命審判所による制裁で威嚇されたのだが、指定された地域で、旧軍隊の全ての将校(1892年から1897年までに生まれた者を含む)の登録を命じた(注77)。
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 (03) こうしたことが、赤軍の起源だった。
 構造と紀律について、職業的将校たちの助けでもって組織され、すみやかにほとんどもっぱら彼らによって司令されるものとなって、赤軍は不自然にではなく、帝制軍をモデルにしていた(注78)。
 赤軍の唯一の新規さは、「政治委員」(political commissars)、すなわち全てのレベルの指令者への忠誠性に責任を負う、信頼に足るボルシェヴィキの<政治局員〔apparatchiki〕>に託された地位、を導入したことだった。
 トロツキーは、〔1918年〕7月29日の中央執行委員会で、彼を不人気にした威張り方でもって、今では「軍事専門家」とも称されるかつての帝制将校たちの信頼性を懸念する者たちに対して、ソヴィエト・ロシアを裏切ることを企図する者は全て、ただちに射殺される、と保証した。
 彼はこう言った。「全ての専門家の隣には、政治委員が、一人は右に、もう一人は左に、拳銃を手にして、立っている」(注79)。
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 (04) 赤軍はすぐに、新しい体制の甘やかされた子どもになった。
 1918年春には早くも、兵士たちは工業労働者よりも多い給料と配給を手にした。これに工業労働者は声高に抗議した(注80)。
 トロツキーは、伝統的な軍事紀律に即した苦役を再導入した。
 5月1日にモスクワのKhodynka 広場で行なわれた赤軍の最初のパレードは元気がないもので、主としてラトビア人兵士によっていた。
 しかし、1919年とそれ以降の数年、トロツキーは赤の広場で、綿密に組織された、かつてなく手の込んだパレードを演出した。それはかつての老将軍たちの目に涙を滲ませた。
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 第七節、終わり。

2808/R.パイプス1990年著—第14章⑫。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第六節/チェコスロヴァキア兵の反乱②。
 (09) 予期せぬ事件が、全ての計画をひっくり返した。
 5月14日、西部シベリアの町のCheliabinsk で、チェコの兵士と本国へ送還中のハンガリーの戦争捕虜のあいだで、争論が起きた。
 叙述できるかぎりでは、一人のハンガリー人が鉄の棒または何かの金属物体を鉄道のプラットホームに立っていたチェコ人に投げ、うち一人が重傷を負った。
 喧嘩が勃発した。
 Cheliabinsk のソヴェトが騒擾に参加した数人のチェコスロヴァキア人を勾引したとき、別のチェコ人が地方の武器庫を掌握し、仲間の即時釈放を要求した。
 上回る力に負けて、ソヴェトは屈服した(注64)。
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 (10) この時点まで、チェコスロヴァキア兵にはボルシェヴィキ政府に対抗して武力を取り上げる意図はなかった。
 実際に、チェコスロヴァキアの政策の大きな趨勢は友好的な中立の立場だった。
 Masaryk も親近的だったので、連合諸国に対してソヴィエト政府に事実上の承認を与えるよう主張していた。
 チェコ軍団について、共産主義者のSadoul は、彼らの「ロシア革命への忠誠心は争う余地がない」と書いた(注65)。
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 (11) こうした状態は全て、トロツキーの愚かな行為によって変わることになる。
 トロツキーは、新たに任命された戦争人民委員として、その地位を示威したかった。自らの指揮のもとにある兵団を実質的には何一つもっていなかったのだが。
 この野望によってすみやかに、適切な規律をもったチェコスロヴァキア人の一団は「反革命的」軍隊に変えられた。これはボルシェヴィキにとって、権力掌握以降で最も深刻な軍事的脅威になっている、というのだ。
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 (12) トロツキーは、Cheliabinsk で明らかになったこと、そしてチェコ人が「チェコスロヴァキア革命軍大会」を開催したことを知った。そしてただちに、モスクワ在住のチェコスロヴァキア国民会議の代表の逮捕を命じた。
 驚愕したチェコの政治家たちは、チェコ軍団の解体を含む、トロツキーの全ての要求に同意した。
 トロツキーは5月21日、チェコ軍団が東へとさらに進むことを中止させた。軍団の兵士たちは、赤軍に加わるか、または「労働大隊」へと徴用されなければならない。—後者は、ボルシェヴィキの強制労働部隊の一部になる。
 服従しない者は強制労働収容所(concentration camps)へと拘禁されるものとされた(脚注)
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 (脚注)これは、ソヴィエトの諸発表の中で最も早い強制労働収容所への言及だと見られる。
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 5月25日、トロツキーはつぎの命令を発した。
 「鉄道沿いの全てのソヴェトは、重い責任のもとで、チェコ人を武装解除することを指示される。
 鉄道路線沿いの武器を持って発見される全てのチェコ人は、その場で処刑されるものとする。
 <ただ一つ>であっても武器を持つチェコ人を運んでいる全ての列車(echelon)は、積荷を降ろされ、(列車内の人員は)戦争捕虜収容所へと収監されるものとする。」
 これは、際立って不適切な命令だった。不必要な挑発だったというだけではなく、トロツキーはこれを強制的に執行する手段を有していなかったからだ。チェコ軍団は、シベリア地方で最も強力な軍事部隊だったのだ。
 同時に、トロツキーはドイツからの圧力を受けて行動した、と広く信じられた。だが、これらの5月の諸命令についてドイツには責任がない、ということが確定されてきている(注67)。
 トロツキーによるまさに非ボルシェヴィキ的な「力の相互関連」の無視だったのであり、これはチェコスロヴァキア人の反乱を誘発した。
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 (13) チェコスロヴァキア兵は、5月22日、武装解除せよとのトロツキーの命令を拒否した。
 「チェコスロヴァキア革命軍大会は、Cheliabinsk に集まって、…革命の強化のための困難な闘争を行なうロシアの革命的人民に対する共鳴の感情を宣言する。しかしながら、大会は、我々の兵団のVladivostok に向かう自由で安全な通行を保障するにはソヴィエト政府は無力であると確信して、満場一致で、兵団が出発することを許され、反革命的な列車からの保護を保障されるまでは、武器を捨てて降伏することをしない、と決議した。」(注68)
 この決議をモスクワに伝達するに際して、チェコスロヴァキア兵大会は、こう言った。大会は「満場一致で、安全な旅行の保障が考慮されて、Vladivostok に到着するまでは、武器を捨てて降伏することをしない、と決議した」。
 これが表明しているのは、チェコスロヴァキア兵団が出発するのを妨害するいかなる企てもなされないだろう、という希望だった。「あらゆる紛争は、シベリアの地方ソヴェト機関の地位を損傷するだけ」なのだから(注69)。
 チェコ軍団はMurmansk やArchangel へと再迂回せよとの連合諸国の指令は、単直に無視された。
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 (14) トロツキーの指示が知られるようになったとき、1万4000人のチェコスロヴァキア兵はすでにVladivostok に着いていた。だが、2万500人は、シベリア横断鉄道と中央ロシアの鉄道の長さで連なっていた(脚注)
 ボルシェヴィキは自分たちをドイツに渡そうとしていると確信し、また地方ソヴェトに脅かされて、彼らは、シベリア横断鉄道の支配権を握った。
 しかし、そうしているときであっても、自分たちはソヴィエト政府と闘ういかなる組織とも交渉しない、ということを彼らは再確認していた(注70)。
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 (脚注) M.Klante, Von der Wolga zum Amur (Berlin, 1931), p.157.トロツキーから情報を得たかもしれなかったSadour は5月末に、軍団を異なって配分した。Vladivostok は5000、VladivostokとOmskの間に20000、Omsk の西のヨーロッパ・ロシアに20000。J. Sadoul, Notes sur la Revolution Bolchevique (Paris, 1920), p.366.
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 (15) チェコスロヴァキア兵団が鉄道を奪取してしまうと、鉄道沿いの都市のソヴェトは崩壊した。
 そして、その崩壊が起きるとすぐに、ボルシェヴィキに敵対するロシア国内の対抗者たちが、真空を埋めるべく入ってきた。
 チェコスロヴァキア兵は5月25日に、Mariinsk、Novonikolaevsk にある鉄道線路の交差点を占拠した。これは、シベリアの広い地域との線路や電信でのモスクワとの連絡を切断する効果をもった。
 2日後、彼らはCheliabinsk を掌握した。
 5月28日、彼らはPenza を奪取した。6月4日にはTomsk、6月7日にはOmsk、6月8日にはSamara。Samara は、ラトビア兵団によって防衛されていた。
 彼らの軍事作戦が拡張するにつれて、チェコスロヴァキア兵団は司令部を中央化し、最高司令官として、自己流の「将軍」、Rudolf Gajda を選出した。この人物は野心的な術策家で、もっている相当の軍事的才能は、政治感覚と釣り合ってはいなかった。
 彼の仲間たちは、際限なくこの人物を信頼した(脚注)
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 (脚注) オーストリア・ハンガリー軍の医療助手で、チェコスロヴァキア兵団で大尉のランクまで昇格した。1919年に、彼はKolchak 提督の軍にいて戦闘した。チェコスロヴァキアが独立を達成した後、軍事機密の漏洩の咎で逮捕されるまで、幕僚長として働いた。逮捕後の判決では無罪が言い渡された。さらにのち、彼はナツィスに協力した。
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 第七節へとつづく。

2807/R.パイプス1990年著—第14章⑪。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第六節/チェコスロヴァキア兵の反乱①。
 (01) ロシアの状況はまだ十分に複雑でないかのごとく、春に、彼らはウラルとシベリアの広大な地域でボルシェヴィキの支配を脱していた、チェコスロヴァキアの従前の戦争捕虜たちの反乱が起きて、状況はさらに複雑になった。
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 (02) ロシア軍はオーストリア=ハンガリー帝国に対して1914年に勝利したが、そのあいだに、数十万人を戦争捕虜にしていた。その中には、5ないし6万人のチェコ兵とスロヴァキア兵がいた。
 ロシア帝国政府は1914年12月に、多くは熱心に反ドイツ的で反ハンガリー的なこれら捕虜たちに、自分たちの軍団を形成し、ロシアの兵団とともに戦闘すべく前線に戻る機会を与えた。
 この機会を活用したチェコ人は、ほとんどいなかった。
 たいていの者は、この軍団(Druzhina と呼ばれた)を中央諸国は裏切り者として扱い、捕えた後で処刑するだろう、と怖れた。
 にもかかわらず、1916年には、二つのチェコスロヴァキア連隊が出現していた。これらは、将来の独立チェコスロヴァキア軍の中核になるべきものだった。
 パリにあったチェコスロヴァキア国民評議会の長のThomas Masaryk は、ロシアその他に在住する民間人や戦争捕虜たちを西部前線で戦う正規の国民軍に編成する、という考えを抱いた。
 彼は、ロシア帝国政府と、チェコの戦争捕虜たちをフランスに避難させるよう交渉を開始した。しかし、ロシア政府は協力しなかった。
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 (03) Masaryk は、〔1917年2月以降に〕臨時政府にその案を再提示した。臨時政府は、好意的に反応した。
 チェコ軍団の編成は迅速に進み、1917年春には、2万4000人のチェコ人とスロヴァキア人は一つの兵団を組織し、東部戦線で戦った。彼らは1917年6月に攻勢に出た。
 この兵団とロシアの収容所にいる残りの捕虜たちを西部前線へと移送する計画が立てられた。だが、これを妨害したのは、ボルシェヴィキのクー〔1917年10月〕だった。
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 (04) 連合諸国は1917年12月に、ロシアにいるチェコスロヴァキア軍団を、最高連合国司令部の傘下にある分離した軍隊だと承認した。
 Masaryk はその翌月にロシアに戻り、もう一度交渉した。このときはボルシェヴィキ政府との交渉で、軍団のフランスへの避難が主題だった。
 中央諸国とウクライナ間の条約締結によって、チェコスロヴァキア兵が最も多く抑留されていたウクライナをドイツが占領しそうになったために、今やこの問題は相当の緊急性をもつことになった。
 ボルシェヴィキは、ブレスト条約に調印するまで、結論を遅らせた。そしてようやく3月半ば、連合諸国との関係が最も友好的だったときに、ボルシェヴィキは同意を与えた(注57)。
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 (05) Masaryk と連合国司令部は最初は、チェコスロヴァキア兵の避難をArchangel とMurmansk を経由して行なうつもりだった。
 しかし、北部の港湾への鉄道路線がフィンランドのパルチザンによって脅かされ、加えてドイツの潜水艦による危険もあったので、彼らをVladivostok で乗船させることが決定された。
 Masaryk は、チェコ軍団(Czech Legion)として知られることになる兵団の司令官たちに対して、「軍事的中立」の政策(注58)を採用すること、絶対にロシアの国内問題に干渉しないことを指示した。
 チェコスロヴァキア人が迂回してVladivostok へと到達しなければならない地域はアナーキーの状態にあったので、Masaryk とボルシェヴィキ当局とのあいだで、彼らは自衛のために十分な武器を携行することが取り決められた。
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 (06) チェコスロヴァキア人は十分に組織されており、早く出立したかった。
 彼らはボルシェヴィキ政府から許可を得るとすぐに、大隊(battalion)規模の、1000人編成の分団を形成し、ロシアで<echelon>として知られた特別の列車に乗った。
 最初のechelon がPenza に着いたとき、スターリンから1918年3月26日付の電報が届いた。それには、〔チェコスロヴァキア人の〕避難が行なわれるべき条件が列挙されていた。
 「戦闘部隊」ではなく「自由市民」として旅行すべきこと。武器は「反革命者たち」から身を守るために必要なものとして携行されるべきこと。
 チェコスロヴァキア人には、Penza ソヴェトが用意した政治委員が同行するものとされた(注59)。
 彼らは、ドイツの圧力の存在が疑われたこの命令に不満だった。訓練が行き届いていない急進的な親ボルシェヴィキ勢力、とりわけ、ハンガリーとチェコの戦争捕虜たちの中から募集された狂信的共産主義者に、信頼を措けなかったからだ。
 Penza を出る前に、彼らはやむなく武器の一部を放棄した。いくつかは公然と持ち続け、残りは隠した。
 そして、避難が再開した。
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 (07) 彼らは愛国心を強くもち、そのゆえにボルシェヴィキが中央諸国と分離講和条約を締結したのに不満だったけれども、政治的見解としては、断固として中央の左側に立っていた。ある歴史家の推測によると、彼らのうち四分の三は社会主義者だった(注60)。
 Masaryk の指令に従って、彼らは義勇軍〔白軍〕とボルシェヴィキのいずれの側からの接近も無視した。ボルシェヴィキはチェコの共産主義者を媒介者として使っていたのだけれども(注61)。
 彼らの心の中にあった目的は、一つだった。ロシアから抜け出ること。
 そうであっても、内戦の最中の地域を横切っていたので、ロシアの政治に巻き込まれるのを完全に避けることはできなかった。
 シベリア横断鉄道沿いの街を通過していたときに、地方の協力者たちとの接触を確立した。協力者たちは、食糧や必需品を彼らに与えてくれた。これは大半は、シベリアの第一党派であるエスエルによって行なわれていた。
 同時にまた、ときには都市ソヴェトやその「国際的」軍団と争論することもあった。後者のほとんどは、チェコスロヴァキアを革命に参加させたいハンガリーの戦争捕虜たちで構成されていた。
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 (08) 1918年5月末時点でのチェコ軍団のロシア情勢への関与は、中立政策の重要な転換ではなかった。
 ドイツがロシア政府に対して、チェコスロヴァキア人の避難を止めるよう求めたとき、その転換が始まった。ドイツは、数万人の新規のかつ士気高いチェコスロヴァキア人が西部前線で連合諸国の兵団に加わるとの見込みを不快に思ったのだ。
 ロシア政府は、ドイツからの要望の趣旨で命令を発した。しかしこれを履行させる手段はなく、チェコ軍団は前進し続けた(注62)。
 続いて、連合諸国が介入した。
 ロシア領土にいる連合国軍の編成に関して4月初めに届いた理解に従って、連合諸国は、ロシアにとどまって日本軍が大量の兵員を備えようとするこの軍隊に加わることもできるときに、チェコ軍団を地球を半周してフランスに送る意味はない、と結論づけた。
 連合諸国は、5月2日に大部分はイギリスの主張にもとづいて、Omsk 西方に位置するチェコ軍団はVladivostok へと進むのではなく、北へ、Murmansk とArchangel に向かう、そこで次の命令を待つ、と決定した(注63)。
 ロシア政府は、反対しなかった。だが、この決定はチェコスロヴァキア人に多大の苦難をもたらした。
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 ②へとつづく。

2806/斎藤元彦兵庫県知事・2024年3月27日記者会見の内容(一部)—兵庫県関係資料②。

 斎藤元彦兵庫県知事・2024年3月27日記者会見の内容(一部)—兵庫県関係資料②。
 出所/兵庫県庁ホームページ「知事記者会見(2024年3月27日(水曜日))。
 番号と太字化・下線付化は掲載者(秋月)。「西播磨県民局長」=<告発文書>(2024/03/12)の作成・発信者。
 ——
 
 記者「今日、発表のあった人事異動の関係でお伺いします。
 退職されるはずだった西播磨県民局長が役職定年で残るという、4日前の異例の人事でしたが、知事として、4日前での変更になった経緯を、話せる範囲でお聞かせください。」
 知事「当該者につきましては、県民局長としてふさわしくない行為をしたということ、そして本人もそのことを認めているということで、本日付で、県民局長の職を解きました。
 内容は、先ほど人事課から説明したとおりです。」 
 記者「詳細は、まだ話せないのですか」。 
 知事「本人も認めていますが、事実無根の内容が多々含まれている内容の文章を、職務中に、職場のPCを使って作成した可能性がある、ということです。
 それで今回の対応をしました。
 この当該内容の文書には、事実無根の内容が多々含まれていることなので、職員等の信用失墜、名誉毀損など、法的な課題がすごくあると考えています。
 現在、被害届や告訴なども含めて、法的手続きの検討を進めているところです。
 注意してもらいたいのは、当該文書をSNSなどを通じて、公然に流布するということが、法的な措置の対象になるということなので、ぜひ、その辺りは注意してもらいたいと考えています。
 以上を含めて、現在、人事当局を中心に調査を行っているので、ある程度、例えば処分内容が判明してきたら、改めて説明をすることになると思います。」
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 記者「県民局長の人事の関係でお伺いします。
 個人名を挙げるのは難しいかもしれませんが、誰の名誉を棄損した認識でいるのでしょか。」
 知事「文書の内容は、文章自体が外部に出ることにより、人の名誉を傷つけることになるので、具体的に誰かとは言えないので、ご理解いただきたいと思いますが、職員個人等々になります。
 記者「複数の方ですか」。
 知事「そうだと認識しています」。
 記者「県民局長は、懲戒処分する方向で進めている理解でよろしいですか」。 
 知事「処分に関しては、今後の調査結果次第ですが、本人も作成と一定の流布を認めているので、懲戒処分を行うことになると考えています」。 
 記者「県民局長のみではなく、他に関連する人がいるという説明も先ほどのレクでありましたが、この方にはどのような関与がありますか。現状話せる範囲でお伺いできますか」。 
 知事「今後の調査になると思います。不確かなことは言えないと思いますが、1人でやったことなのか、複数の人が関与したことなのかを含めて、今後の調査になると思います」。
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 記者「退職を取り消した職員に関してですが、組織の中で誹謗中傷するケースや手紙が出回ることは、希にあるかと思います。
 今回、退職4日前に退職を取り消したのは、知事として看過できないと判断したのですか。」 
 知事「副知事とも相談しながら対応しました。
 職務中に、職場のPCを使用して、事実無根の内容が多数含まれ、かつ、職員の氏名等も例示しながら、ありもしないことを縷々並べた内容を作ったことを本人も認めているので、名誉毀損や信用失墜、県へ業務上も含めて大きなダメージを及ぼしています。
 やはり、綱紀粛正しないといけませんので、看過できないと思い、退職を一旦保留し、今後、しっかり調査をしなければいけないと思いますが、然るべき対応をしていくことが、県庁の組織をしっかり立て直す意味でも大事だと思っています。
 若者・Z世代や予算、組織、人事も含めてこれから前を向いてやっていこうという矢先に今回のような絶対許されないような行為をした職員が出てきたことは、大変残念だと思いますので、今一度、県庁全体が綱紀粛正する必要があると思います。
 公務員ですので、選挙で選ばれた首長の下で、全員が一体として仕事をしていくことが大事なので、それに不満があるからといって、しかも業務時間中に、嘘八百含めて、文書を作って流す行為は公務員としては失格です
 同様の行為は今後もあってはならないですし、今回の事案の調査結果を踏まえながら、再度、公務員として誠実に仕事をしていくことを、全員で共有していきたいと思っています。
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 記者「本日発表の人事異動に関して、流布されたとされる文書には、知事に関する記述が含まれているという趣旨でよいでしょうか」。 
 知事「私もありました」。
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2805/R.パイプス1990年著—第14章⓾。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第五節/在独ロシア大使館とその破壊活動②。
 (08) Ioffe のドイツでの活動によって、モスクワで反対派と連絡を取ろうとするMilbach やRietzler の臆病な試みは、無害の戯れのごときものになった。
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 (09) ロシアの直接的利益の観点からは、ドイツでの革命を促進することよりも重要だったのは、ロシアの反ボルシェヴィキ勢力を一緒に妨害できるよう、ドイツの産業界からの支援を獲得することだった。
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 (10) ドイツにとっての事業上の大きな利益をロシアで得るのはほとんど期待できなかった。そして、ボルシェヴィキが認めてはじめてそうできるとドイツの事業界は知っていたので、彼らはボルシェヴィキ体制の最も熱狂的な擁護者になった。
 1918年春、講和条約調印のあと、多数のドイツの商工会議所の諸団体が政府に、ソヴィエト・ロシアとの通商関係を再開するよう請願した。
 5月16日、Krupp はこの問題を討議するため、デュッセルドルフで主要なドイツの実業家たちの、とくにAugust Thyssen とHugo Stinnes を含めての、会議を催した。
 この会議は、ロシアへの「イギリスやアメリカの資本」の浸透を阻止して、ロシアで支配的な影響力を確立するというドイツの利益を可能にする策を講じることが肝要だ、と結論づけた。
 外務省の後援で同じ月に開催された別の事業家会合は、ロシアの輸送をドイツが統御するのが望ましいこと、鉄道を再建することへのドイツの援助を求めるロシアの要望に応えるのが目標であること(52)、を強調した。
 7月、ドイツの事業家たちはモスクワへ代表団を送った。
 銀行家たちは、Ioffe がベルリンに到着するのを歓迎した。
 Ioffe はモスクワに対してこう自慢した。
 「ドイツ銀行の頭取は我々をしばしば訪問した。
 Mendelssohn は、私との会見を長らく求めてきた。彼はいろいろな口実で、すでに三回やってきた。」(53)
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 (11) このような通商上の熱心な要望があったので、ロシアは、ドイツの産業界や経済界の影響力ある層を、友好的な圧力団体にすることができた。
 この点で、ボルシェヴィキは、情報をより豊富にもつという優越的立場を得た。
 ボルシェヴィキは、ドイツの国内状況やエリートたちの知的脳力を熟知するようになった。
 独立社会主義党からは、ドイツの諸組織間の対立を利用することのできる、微妙な情報が入ってきた。
 ボルシェヴィキと接触するドイツ人はボルシェヴィキについてほとんど何も知らず、そのイデオロギーを真面目には考慮しなかった。
 彼らは巧みにこの状況に適合し、脅威ではないという印象を与えて自分たちを守った。政治的擬態の、まさに優れた一例だった。
 Ioffe とその仲間たちが用いた戦術は、革命的スローガンをまくし立てるが実際にはドイツとの通商しか望んでいない「現実主義者」(realists)だ、と装うことだった。
 この戦術は、頭の硬いドイツ人事業家には抗し難く魅力的だった。ボルシェヴィキの革命的修辞を誰も正気で真剣に受け取ることはできないという、彼らの確信をさらに強くしたのだから。
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 (12) この欺瞞がうまく機能したことは、1918年夏にIoffe がGustav Stresemann ともった会合によっても明らかだ。Stresemann は右翼のドイツ政治家で、リベラルかつ保守的志向をもつという別の公的人物像ももっていた。
 Stresemann を助けたのは、Leonid Krasin だった。Krasin は、戦前と戦中にSiemens、Schuckert と大きな経営的関係をもち、ドイツとの間にきわめて良好な関係があった。
 7月5日の非公式の会合で、二人のロシア人は、レーニンだけではなく親連合国のトロツキーもドイツの「後援」を望んでいる、と確認した。
 ロシアに反ドイツの雰囲気があれば、二つの国が同盟する正式の条約はまだ性急すぎただろうが、ドイツが正しい政策を追求するならば雰囲気は変わるだろう。
 この方向への一歩は、ドイツがウクライナから輸送している穀物のうちのある程度をロシアに配分することだろう。
 ドイツには東部前線での軍事作戦を再開する意図はない、とモスクワに対して保証すれば、また役立つだろう。そうなれば、ロシアは、その戦力を、Murmansk からイギリス軍を駆逐し、チェコ軍団の反乱を粉砕することに集中することができる。チェコ軍団は最近はシベリアに出現していた。
 ドイツはロシアとの良好な関係から大きな利益を獲得し続けた。ロシアはドイツが必要とする、綿、鉱油、マンガン等々の全ての原料を供給することができたからだ。
 ドイツ人は、モスクワが放つ革命的政治宣伝広告について心配する必要がなかった。「現下の情勢のもとでは、マルクス主義[ボルシェヴィキ]政府はその夢想家的目標を放棄し、実際的な社会主義政策を追求する用意があった」(54)。
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 (13) Ioffe とKrasin は、素晴らしいショーを演じた。
ドイツ人がもっと情報をもち、もっと傲慢ではなく、地政学的妄想にもっと捉われていなければ、彼らは見通せていただろう。
 なぜなら、ロシア人はドイツ人に、その支配が及んでいない領域—中央アジア、Baku、ジョージア—でのみ利用可能な産物を提示し、「その夢想家的目標」の放棄とはかけ離れてまさにそのときに最も急進的な局面に入っていた彼らの政府の急進主義政策を小さく見せていたのだから。
 しかし、欺瞞は機能した。
 だから、Stresemann は、印象をつぎのように概括した。//
 「現在の(ロシア)政府と、広範囲の経済的および政治的理解の確立へと至る大きな誘因を我々は得た…ように思われる。ロシア政府は、ともかくも、帝国主義的ではない。また、債務の不履行によるだけでもロシアと連合諸国の間に克服し難い障壁を築くのだとすれば、連合諸國を受け入れることも決してあり得ない。
 かりにこの機会を逃し、今のロシア政府が崩壊するならば、きっとどの継承政府も、現在の統治者よりも連合諸國に親近的なものになり、東部前線の危険性は明確に切迫するだろう。…
 我々とロシアがともに行動しているのを我々の敵対者が見るならば、彼らは我々に経済的に勝利するとの希望も捨て去るだろう—彼らは軍事的勝利をとっくに諦めている—。そして我々は、どんな攻撃にも抵抗できる状態になるだろう。
 こうした要素を賢明に判断するならば、我々はまた、国家の精神を過去の勝利の高みへと持ち上げることができる。
 ゆえに、私は、今行なっている努力が最高軍事司令官の支持を得ることができるならば、大いに歓迎するだろう。」(55)
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 (14) ドイツ外務省は、この見解に賛同した。
 外務当局の一人が5月に用意した内部的覚書には、ソヴィエトの指導者たちはドイツが容認することができるはずの「ユダヤ人事業家」だ、と記されていた(56)。
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 (15) ドイツとロシアは7月初めに、この友好的雰囲気の中で、通商協定に関して会談をし始めた。 
 いわゆる補足条約が調印されたのは、8月27日だった。これは、両国の間にわずかな期間だけの公式の同盟関係をもたらした。この8月27日は、Ludendorff ですら敗戦を覚悟した、ドイツ軍が西部戦線で敗北した「暗黒の日」の直後のことだった。
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 第五節、終わり。つづく。

2804/私の音楽ライブラリー049。

 音楽ライブラリー049。
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 127 比叡おろし
  歌唱/小林啓子、作詞+作曲/松岡正剛、1970年〔Harry Kawaguchi〕。
  *松岡正剛、1944年生〜2024年没。満80歳、享年81。
  **参照、ユリイカ2024年11月号(青土社)/特集・松岡正剛。
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2803/R.パイプス1990年著—第14章⑨。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第五節/在独ロシア大使館とその破壊活動①。
 (01) Ioffe は、〔1918年〕4月19日に、任務を携えてベルリンに到着した。
 ドイツの将軍たちは、ロシアの外交官は主として諜報と破壊に従事するだろうと正確に予測して、ブレスト=リトフスクかドイツから離れた別の都市にソヴィエト大使館が置かれるよう望んだ。しかし、外務当局はこれを却下した。
 Ioffe は、Unter den Linden 7番地の帝制時代の古い大使館を引き継いだ。ドイツはそこを、戦争のあいだずっと、無傷のまま維持していた。
 その建物の上に彼は、鎌と槌が描かれた赤旗を掲げた。
 のちにソヴィエト政府は、ベルリンとハンブルクに領事館を開設した。
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 (02) Ioffe の館員は最初は30人だったが、その数は増加し続けた。ドイツとソヴィエトが関係を消滅させた11月には、180人になっていた。
 加えて、Ioffe は、ソヴィエトの政治的宣伝工作文書を翻訳させ、破壊活動を実行させるためにドイツの急進派を雇用した。
 彼はモスクワとの電信による通信手段を継続的に維持した。ドイツはこれを盗聴し、連絡のいくつかを暗号解読した。だが、大量であるため、公刊されていないままだ(脚注)
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 (脚注) Ioffe のレーニンあて文書を選抜したものは、I. K. Kobiliakov 編集によるISSR, No. 4(1958), p.3-p.26 で公表された。
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 (03) 在ベルリンのソヴィエト外交代表団は、ふつうの大使館ではなかった。それはむしろ、敵国の奥深くにある革命の前哨基地だった。すなわち、その機能は、革命を促進することだった。
 アメリカの一記者がのちに述べたように、Ioffe はベルリンで、「完璧な背信」(perfect bad faith)でもって行動した(45)。
 Ioffe の諸活動から判断すると、彼には三つの使命があった。
 第一は、ボルシェヴィキ政府を排除したいドイツの将軍たちの力を弱くすること。
 彼はこれを、事業や銀行の団体の利益に訴えたり、ドイツに対してロシアでの独特の経済的特権を与える通商条約の交渉をしたりすることで達成した。
 第二の使命は、ドイツの革命勢力を援助することだった。
 第三は、ドイツの国内情勢に関する情報を収集することだった。
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 (04) Ioffe は、革命的諸活動を鉄面皮の心持ちでもって実行した。
 彼はドイツの政治家や事業家たちに、つぎのことを期待した。彼らの経済的搾取に従属するロシアでの優越的な利益を増大させて、彼が冒す外交上の規範に逸脱した行為を看過するようドイツ政府を説得すること。
 1918年の春と夏、彼が主として行なったのは、独立社会主義党の極左派であるSpartacist 団と緊密に結びついた、政治的宣伝工作だった。
 のちにドイツの統合が崩れ始めたとき、彼は、社会革命の火を煽るべく金銭と武器を提供した。
 ロシア共産党の支部に変わっていた独立社会主義党は、ソヴィエト大使館と調整してその諸活動を行なった。あるときには、モスクワは、この党の大会で挨拶する公式の代表団をドイツに派遣した(46)。
 Loffe はこの任務のために、モスクワから1400万マルクを与えられた。彼はこの金をドイツのMendelssohn銀行に預けて、必要に応じて引き出した(脚注)
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 (脚注) Baumgart, Ostpolitik, p.352n.
 Ioffe は、極左から極右までドイツの全政党との接触を維持したけれども、「社会的裏切り者」の党である社会民主党との関係は意識的に避けた、と語る。VZh, No. 5(1919), p.37-38.
 レーニンの指示にもとづくこの政策は、15年後のスターリンの政策を予期させるものだった。スターリンは、ドイツ共産党にナツィスと対抗する社会民主党との協力を禁止することによって、ヒトラーの権力掌握を可能にしたとして、広く非難された。
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 (05) Ioffe は、ドイツの多くの地方諸都市に、ソヴィエトのドイツ情報センターを設けた。ソヴィエトの情報宣伝が連合諸国のメディアに伝えられるオランダでも同様だった。
 1919年、Loffe は明らかに誇りをもって、ベルリンでのソヴィエト代表部として自分が達成したことを詳しく述べた。
 「ソヴィエト大使館は、十の左派社会主義新聞よりも多くのことを指揮監督し、援助した。…
 全く当然のことだが、その情報作業ですら、全権代表の活動は「合法的目的」のものに限定されなかった。
 情報資料は印刷されたものに限られたわけでは全くなかった。
 検閲者が削除したもの全てが、最初から通過しないだろうと判断されて提示されなかった全てが、そうであるにもかかわらず、非合法に印刷され、非合法に散布されていた。
 議会で利用するためにそれらが必要になることは、きわめて頻繁にあった。そうした資料は(社会民主党の)独立会派からドイツ帝国議会の議員たちに渡された。受け取った者は議会での演説のために使った。
 ともあれ、こうして文書になっていった。
 この作業では、ロシア語の資料に限定することはできなかった。
 ドイツ人社会の全ての階層と堂々たる関係を持つソヴィエト大使館、ドイツの各省庁にいるその工作員たちは、ドイツの諸事情についてすらドイツの同志たちよりも多くの情報をもっていた。
 前者が受け取った情報は、やがては後者に伝えられた。こうして、軍部の多くの策謀は、適切な時期に公衆一般の知るところになった。//
 もちろん、ロシア大使館の革命的活動が情報の分野に限られていたのではなかった。
 ドイツには、戦争のあいだずっと地下で革命的活動を行なっていた革命的グループが存在した。
 機会が多かったのみならずその種の陰謀的活動に習熟もしていたロシアの革命家たちは、これらのグループと協力しなければならなかったし、実際に協力した。
 ドイツの全土が、非合法の革命的諸組織によって覆われていた。数十万の革命的冊子と宣伝文書が、前線と後方で毎週に、印刷され、散布された。
 ドイツ政府は一度、煽動的文書をドイツに密輸出しているとしてロシアを追及し、用いられる価値があるだけのエネルギーでもって、運搬者のカバンに、密輸入されたものを捜索した。だが、ロシア大使館がロシアから持ち込んだものはドイツ国内でロシア大使館の助けでもって印刷されたものに比べれば大海中の一滴にすぎない、ということに気づかなかった。」//
 Ioffe によれば、要するに、在ベルリンのロシア大使館は、ドイツ革命を準備すべく、ドイツの社会主義者たちとの緊密な接触のもとで継続的に仕事をした(48)。
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 (06) 在独ソヴィエト大使館は、さらにまた、他のヨーロッパ諸国に、革命的文献と破壊的資金を分配する経路として機能した。同大使館を、オーストリア、スイス、Scandinavia、オランダへ向けて外交嚢を配達するクーリエたちの、諸国の安定した流路(ドイツの予想では100ないし200)が通過していた。「クーリエたち」の中には、ベルリンに着いた後で姿を消す者もいた(49)。
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 (07) ドイツ外務省は、このような破壊的活動に関係する軍事および内政当局から、抗議を頻繁に受け取った(50)。しかし、ドイツのロシアでの高次の利益だと認めているもののために、それらを大目に見た。
 一度短いあいだ、ソヴィエト大使館側のとくに不埒ないくつかの行動についてあえて抗議したとき、Ioffe は回答を用意していた。こう説明した。
 「ブレスト条約自体が、計略を行なう機会を認めている。
 締結した当事者は諸政府であるがゆえに、革命的行動の禁止は、政府とその機関に適用されると解釈することができる。
 ロシア側からはこう解釈される。そして、ドイツが抗議している全ての革命的行動は、全てロシア共産党の行動であって同政府のそれではない、とただちに説明される。」(51)
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 つづく。

2802/西尾幹二批判081—「保守」時代。

 <文春オンライン>上に2019年1月に掲載された辻田真佐憲によるインタビューに西尾幹二が答える発言録は、「著者が初対面の近現代研究者・辻田真佐憲氏と対談する」と題して、全集第22巻A(2024年10月刊)に収載された。この全集版の一部に2024年時点での「加筆修正」がこっそりと行われていることは、前回に指摘した。もう繰り返さない。
 このインタビューまたは対談の記事は、西尾幹二が執筆したものではない、あるいは西尾が事前に用意した文章原稿をそのまま基礎にしていないと見られるため、西尾幹二の「本音」および「本性」が表現されているところがある。
 一つは、西尾幹二は自分自身の経歴または「歴史」をどう振り返っているかだ。これをもっと正確に言えば、西尾幹二は「保守」(主義)の評論家・「もの書き」だという自己規定、あるいはそのように(「保守」派だと)外部・世間からは受けとめられているという「自覚」を、いつ頃からもつに至ったのか、という問題だ。
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 聞き手の辻田真佐憲はまだ若いためか、西尾の作業、その「歴史」を正確には知っていないようだ。
 引用は省略するが、①西尾の大学院修士課程後のドイツ「留学」からの帰国後に(たぶん1962年—秋月)「現在に続く論壇でのお仕事をされるようになったのか」と質問している(全集22A、p.478)。
 また、②1964年の雑誌「自由」懸賞論文や1969年年の数冊の書物刊行に西尾が触れたあとで、辻田は「保守言論人としてそこからスタートをされるわけですね」とも(確認的に)質問している(同頁)。
 別に触れるが、西尾の回答はいずれについても<違う>だ。
 むろん「保守」(主義)の意味にかかわってはいるが、上の問題に秋月が関心をもつのは、この辻田の浅い理解に加えて、つぎのような<評価>が、西尾幹二について行われているからだ。
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 a真の保守思想家」(の集大成的論考)—西尾・歴史の真贋(2020、新潮社)のオビ。
 b 「確乎不抜の保守主義者だった」—吉田信行・月刊Hanada2025年1月号の追悼論稿の表題。
 c保守論壇『最後の大物』といえる人物だった」—月刊正論2025年1月号追悼特集の前書き(編集部)。
 これらの「保守」とは何だろうか。
 a で意味の説明がないのは当然として、b、cでの「保守」も、産経新聞「正論」欄担当者(論説委員長)や月刊正論編集部が用いる「保守」(論壇)なのだから、西尾はそれらの雑誌等における「保守」の人物だったと位置付けられているにすぎない。
 そして、産経新聞(「正論」欄)や月刊正論は自らを「保守」だと、あるいは「保守」派の新聞・雑誌だと自称または自己評価してきたはずだ。
 そうすると、西尾幹二が「保守」の人物だと言うのは、その「保守」に<反共産主義>、<反左翼>程度の意味はあるとしても、産経新聞「正論」欄や月刊正論が原稿執筆を(文章執筆請負業者に)依頼してきた、つまり「起用」してきた人物の一人だった、というのとほとんど同じことだろう。つまりは、ほとんど何を意味しているかが不明の循環論法的言明で、産経新聞・月刊正論等が「保守」系メディアだと言う場合の「保守」とは何かがさらに問題にされなければならないわけだ。
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 もう少しは立ち入って、西尾幹二における「保守」を話題にしてみたい。その際、西尾幹二自身による「保守(主義)」に関する議論には重きを置かない。
 そうではなく、 <日本会議>との関係に注目したい。1960〜1980年代、西尾幹二は、生長の家・日本青年協議会(→日本会議)と何の関係もなかった。次回に移す。
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 ところで、上のb は、関係「評論家」らの没年をかなりまとめて列挙してくれている。c で西尾が「最後の」と形容されていることとの関連でも興味深くはある。以下に紹介しておく。(櫻井よしこ、平川祐弘、加地伸行らは「大物」と見なされていないようであることも面白くはある。年齢で八木秀次、「起用」回数で佐伯啓思は、きっと論外なのだろう)
 1994年11月、福田恆存。
 1996年02月、司馬遼太郎。
 1997年09月、会田雄次。
 1999年07月、江藤淳。
 2012年・猪木正道、2017年・渡辺昇一、2018年・西部邁、2019年・堺屋太一、2022年・石原慎太郎。
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2801/R.パイプス1990年著—第14章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第四節/ドイツ大使館員がモスクワに到達②。
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 (10) モスクワでの一ヶ月後、Milbach は、ボルシェヴィキ体制の存続可能性、およびロシア政策全般の基礎になっている自国ドイツのロシアに関する知識、について、不安を感じ始めた。
 ボルシェヴィキは存続しそうだと、信じ続けはした。すなわち、5月24日に、ソヴィエト体制の崩壊は切迫していると予言するBothmer その他の軍人たちに反対する見解を書いて、外務省に警告した(36)。
 しかし、ロシアでの連合諸国の外交官や軍人たちの活動や彼らの反対少数派集団との接触を知って、レーニンは権力を失うのではないか、そしてドイツはロシアでの援助の根拠を全て失って孤立するのではないか、と懸念した。
 したがって、彼は、ボルシェヴィキへの信頼に加えて反ボルシェヴィキ少数派との会話を開始するという政治的保険をかける、という柔軟な政策を主張した。
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 (11) 5月20日、Milbach は、ソヴィエト・ロシアの状況とドイツのロシア政策にある危険性について、最初の悲観的な報告書を、本国に送った。
 彼はこう書いた。体制に対する民衆の支持はこの数週間で大きく減少した。トロツキーはボルシェヴィキ党は「生きている死体」だと語ったと言われている。
 連合諸国は泥水の中で魚釣りをしており、エスエルやメンシェヴィキの国際主義者、セルビアの戦争捕虜やバルトの海兵たちに対して寛大に資金を配っている。
 「いま以上に腐敗した賄賂のロシアは絶対にない」。
 トロツキーが共感しているため、連合諸国はボルシェヴィキに対する影響力を増している。
 トロツキーは、事態が悪化するのを阻止するために、ドイツ政府が一月に終わらせたボルシェヴィキに対する助成金を更新する金を必要とした(37)。
 ボルシェヴィキを連合国の方へ向ける、親連合国のエスエルが権力を奪取する、この二つをいずれも阻止するために、資金が必要だ(38)。
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 (12) この報告書には、より明確に悲観的な調子の報告が続いた。そしてこれらは、ベルリンで顧みられなかったのではなかった。
 6月初め、Kuhlmann は見方を変えて、ロシアの反対派との会話を開始する権限をMilbach に与えた(39)。
 彼はまた、Milbach に、裁量性のある資金を割り振った。
 6月3日、Milbach はベルリンに電報を打って、ボルシェヴィキに権力を持たせつづけるに毎月300万マルクが必要だと、伝えた。外務省は、総計で4000万マルクの意味だとこれを解釈した(40)。
 Kuhlmann は、ボルシェヴィキが連合国側へと転換するのを阻止するには「金が、おそらくは大量の金が」かかることに同意見だった。そして、ロシアでの秘密工作のために在モスクワ大使館に上記の金額を送ることを承認した(41)。
 この金がどう使われたのかを、正確に叙述することはできない。
 約900万マルクだけは、特定目的のために使われた。総額の半分はボルシェヴィキ政府に、残りは反対派に支払われたように思われる。後者の相手は主に、Omsk を中心地としたシベリアの反ボルシェヴィキ臨時政府、親皇帝派の反ボルシェヴィキ集団、Don コサックの首長、P. N. Krasnov だった(脚注)
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 (脚注) ボルシェヴィキ政府は、6月、7月、8月の毎月、ドイツから300万マルクの援助金を受け取った。Z. A. B. Zeman, ed., Germany and the Revolution in Russia, 1915-1918 (London-New York, 1958), p.130.
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 (13) ドイツが反ボルシェヴィキ少数派と接触するのを妨げたのは、ブレスト条約だった。
 ボルシェヴィキ以外の全ての政治的党派は、この条約を受容しようとしなかった。ボルシェヴィキにすら、分裂があった。
 Milbach が観察していたように、ソヴィエト・ロシアの状況は厄災的であり、かりに代償がブレスト条約を受容することだったとすれば、非ボルシェヴィキのどのロシア人も、ボルシェヴィキに対抗するドイツによる援助を受け入れようとしなかっただろう。
 言い換えると、反ボルシェヴィキ集団からの支持を得ようとすれば、ドイツは条約の実質的な改正に同意しなければならなかった。
 Milbach の意見では、反対派集団はポーランド、リトアニア、Courland の喪失を黙認する可能性があった。しかし、ウクライナ、エストニア、そしてたぶんLyvonia の割譲を容認することはなかった(42)。
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 (14) Milbach は、Rietzler に、チェカと連合諸国工作員の鼻先でロシアの反対派集団と交渉するという微妙な任務を与えた。
 Rietzler は主として、いわゆる右翼中心派(Right Center)と接触した。これは、ボルシェヴィズムはドイツ以上に悪辣なロシアの国益に対する脅威だと結論づける、そしてボルシェヴィキを排除するためにドイツと合意する心づもりのある、信望ある政治家や将軍によって、6月半ばに結成された小さな保守的グループだった。
 この集団は、財政、産業、軍事上のしっかりした交渉を要求はした。しかし、現実には顕著と言えるほどの支持者がなかった。なぜなら、ロシアの積極的な活動家の圧倒的多数は、ボルシェヴィキはドイツが生んだものだと考えていたからだ。
 右翼中心派の中心人物は、Alexander Krivoshein だった。この人物はかつてStolypin 改革の指導者で、上品な愛国者であって、かりにドイツがロシア政府を打ち立てるならば受け入れやすい首班候補だったかもしれなかった。しかし、彼は旧体制の典型的な官僚だったので、命令を下すというよりも命令に服従してきた人物だった。
 他に、1916年攻勢の英雄だったAleksei Brusilov もいた。
 Krivoshein は、媒介者を通じて、Rietzler につぎのことを知らせた。すなわち、彼のグループはボルシェヴィキを打倒する用意がある、そのための軍事的手段もある、しかし、実行するにはドイツの積極的な協力が必要だ(43)。
 このような協力を実現するには、ドイツはブレスト条約の改訂に同意しなければならなかった。
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 (15) 接触はしたけれども、ドイツは、ロシアの反対派への敬意をほとんど示さなかった。
 Milbach は君主主義者を「怠け者」と見なし、Rietzler は、ドイツの援助と命令を求める[ロシアの]ブルジョアジーについて、侮蔑的に「嘆いて愚痴を言う者たち」と語った(44)。
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 第四節、終わり。つづく。

2800/R.パイプス1990年著—第14章⑦。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第四節/ドイツ大使館員がモスクワに到達①。
 (01) 1918年の後半、ロシアとドイツの両国は、互いに大使館を設置した。Ioffe がベルリンに行き、Mirbach がモスクワにやって来た。
 ドイツ人は、ボルシェヴィキ・ロシアが最初に信認した外国使節団だった。
 彼らは驚いたのだが、ドイツ人がモスクワまで旅をした車両は、ラトヴィア人によって警護されていた。
 ドイツの外交官の一人は、ロシアによってモスクワで催されたレセプションは驚くほど温かかった、と書いた。戦勝者がこれほどまでに歓迎されたことはかつてなかった、と彼は思った(31)。
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 (02)  使節団の長のMilbach は47歳の経歴ある外交官で、ロシアの諸事情について多くの経験があった。
 彼は1908年から1911年まで、ペテルブルクのドイツ大使館の顧問として勤務し、1917年12月に、ペテルブルクへの使節団の長となった。
 Milbach は、プロイセン・カトリックの富裕で貴族的な家庭の出身だった(脚注)
 昔からの派の外交官で、同僚たちの中には「ロココ伯爵」と呼んで相手にしない者もおり、革命家たちと付き合うのは苦手だった。しかし、機転と自制心によって、外務省内での信頼を獲得していた。
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 (脚注)  Milbach につき、完全には信頼できないが、つぎを見よ。Wilhelm Joost, Botschafter bei den roten Zaren (Vienna, 1967), p.17-p.63.
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 (03) Milbach の片腕のKurt Riezler は、36歳の思慮深い人物で、やはりロシアの事情をよく知っていた(脚注)
 彼は1915年に、レーニンの協力を確保するという、Parvus の失敗した企てに一定の役割を果たした。
 1917年にストックホルムに派遣され、ドイツ政府とレーニンの代理人の間の主要な媒介者となった。彼は、いわゆるRiezler 基金からロシアへとその代理人に援助金を送った。
 Riezler は、ボルシェヴィキが十月のクーを実行するのを助けた、と言われている。但し、そこでの彼の役割は明瞭ではない。
 同僚たちの多くと同様に、彼は、ドイツを救うことのできる「奇跡」として、クーを歓迎した。
 彼はブレストでは、融和的政策を主張した。
 しかしながら、彼は、気質的に悲観論者で、どちらの側が戦争に勝ってもにヨーロッパは衰亡に向かっている、と考えていた。
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 (脚注) 彼の諸文書は、Karl Dietrich Erdmann によって編集された。Kurt Riezler, Tagebücher, Aufsatze, Dokumente (Göttingen, 1972).
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 (04) ドイツ大使館の第三の主要な人物は軍事随行員のKarl von Bothmer で、Ludendorff やHindenburg の考え方を引き継いでいた。
 この人物はボルシェヴィキを毛嫌いしており、ドイツはボルシェヴィキと縁を切るべきだと考えていた(32)。
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 (05) これら三人のドイツ人は、ロシア語が分からなかった。
 彼らと接触することになるロシア人は、全員が流暢にドイツ語を話した。
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 (06) ドイツ外務省はMilbach に対して、ボルシェヴィキ政府を支援すること、条件を設けることなくロシアの少数反対派と連絡を保つこと、を指示した。
 Milbach は、ソヴィエト・ロシアの真実の状況およびロシアにいる連合諸国の代理人たちの活動に関する情報を得ることを自らの任務とした。ブレスト条約が定めていた諸国間の通商交渉の基礎作業をするのは当然のことだった。
 20人の外交官とそれと同数の書記職員たちは、Arbat 通りから脇に入ったDenezhnyi Pereulok に贅沢な私宅を構えた。それらは、共産主義者たちから事業を守り続けたいドイツ人の砂糖事業家の財産だった。
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 (07) Milbach は数ヶ月前にペテログラードにいたことがあり、自分が何を期待されているのかを知っていたに違いなかった。そうであっても、モスクワで見たものには唖然とした。
 彼はモスクワ到着の数日後に、ベルリンへこう書き送った。//
 「通りはとても活発だ。
 しかし、もっぱら貧民たち(proletarian)で溢れている。良い衣服を着た者たちを滅多に見ることがない。—まるで、かつての支配階級、ブルジョアジーはこの地球上から消滅したかのごとくだ。…
 かつては公衆の中で富裕な層だった聖職者たちは、同様に、通りから消失した。
 店舗では、主に以前は美麗だったものの埃まみれの残物を見つけることのできるのだが、それらは狂気じみた値段で売られている。
 労働というものが欠落した状態の蔓延、愚かなままでの怠惰、これはこうした風景全体に特徴的だ。
 工場は操業を停止した状態で、土地はほとんどが耕作されないままだ。—ともかく、これが我々が今度の旅で得た印象だ。
 ロシアは、[ボルシェヴィキによる]クーによる苦難以上の、さらに大きな災難へと向かっているように思える。//
 公共の安全には、望まれるものがまだ残っている。
 昼間には自由に一人で動き回ることができるのだが。
 しかしながら、夕方に自宅から出ることは勧められない。射撃の音が頻繁に聞こえ、小さなあるいは大きな衝突がしょっちゅう起きているようだ。…//
 ボルシェヴィキによるモスクワの支配は保持されている。何よりも、ラトヴィア軍団によってだ。
 さらには、政府が徴発した多数の自動車にも依っている。多数の自動車が市中を走り回り、危険な箇所へと、必要な兵団を送り届けている。//
 このような状態が今後どうなるかを、まだ判断することができない。しかし、とりあえずは一定の安定の見込みがある、ということは否定できない。」(33)
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 (08) Riezler もまた、ボルシェヴィキ支配のモスクワに意気消沈した。最も衝撃的だったのは、共産主義官僚たちの腐敗の蔓延と怠惰な習慣だった。とりわけ、女性を求める飽くことのない要求。(34)

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 (09) 5月半ば、Milbach はレーニンと会った。
 レーニンの自信は、彼を驚かせた。
 「一般にレーニンは自分の運命に岩のごとき確信を持っていて、何度も何度も、ほとんど執拗なほどに、際限なき楽観主義を表明する。
 同時にレーニンは、彼の支配体制はまだ無傷であったとしても、敵の数は増え続けていて、状況は『一ヶ月前以上の深刻な警戒』を必要としている、と認める。
 他諸政党は現存の体制を拒否する点だけで一致しているが、別の見方をすれば、それら諸政党は、全ての方向に離ればなれになりそうで、ボルシェヴィキの権力に匹敵するほどのそれを全く持っていない。その他の諸政党ではなく支配政党たるボルシェヴィキだけが組織的権力を行使する、という事実に、レーニンの自信の根拠はある(35)。(脚注)
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 (脚注) 当時にものちにも、レーニンは私的会話では人民の支持に自分の強さの淵源を求めなかった、ということは注目に値する。彼は強さの由来を反対派の分裂に見ていた。
 彼は1920年代にBertrand Russel に、自分と仲間たちは二年前には周囲の敵対的状況の中で生き延びられるかを疑っていた、と語った。
 「彼は自分たちが生き延びたことの原因を、様々な資本主義諸国の相互警戒心とそれらの異なる利害に求める。また、ボルシェヴィキの政治宣伝の力にも」。以上、Bertrand Russel, Bolshevism (New York, 1920), p.40.
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 ②へとつづく。

2799/R.パイプス1990年著—第14章⑥。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 〈第14章・革命の国際化〉の試訳のつづき。
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 第14章・第三節/連合諸国との会話の継続②。
 (05) このような会話が行われている間の4月4日、日本は小さな派遣軍団をVladivostok に上陸させた。
 建前としては、この軍団の使命は、在留日本国民の保護だった。最近に2人の日本人が、そこで殺害されていた。
 しかし、日本軍の本当の目的はロシアの海岸地域の掌握と併合にあると、広くかつ的確に考えられていた。
 ロシアの軍事専門家たちは、輸送とシベリア地域の公的権威の崩壊によって、莫大な後方支援が必要な数十万の日本軍のヨーロッパ・ロシアへの移動が阻害される、と指摘した。
 だが、連合諸国はこの構想に固執し、フランス、イギリスおよびチェコ兵団でもって日本の派遣軍団を弱体化させることを約束した。
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 (06) 6月の初めに、イギリスはMurmansk に1200人の、Archangel に100人の、追加の兵団を上陸させた。
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 (07) レーニンは、アメリカの経済的援助を諦めなかった。それは、フランスが約束した軍事的協力を補完するものだった。
 アメリカは、ブレスト条約が批准されたあとでも、ロシアとの友好を表明しつづけた。
 アメリカ国務省は、ロシアとその国民は「共通する敵に対抗する友人で仲間だ」と日本に知らせた。ロシア政府を承認はしなかったけれども(25)。
 別のときに、アメリカ政府は、ロシア革命が惹起した「全ての不幸と悲惨さ」にもかかわらず、「最大の同情」を感じていると表明した(26)。
 このような友好的な発言が具体的には何を意味するのかを知りたくて、レーニンはRobins に対して、経済的「協力」の可能性をアメリカ政府に打診してみるよう頼んだ(27)。
 5月半ばにレーニンはRobins に、アメリカ合衆国はドイツに代わる工業製品の供給者になり得るとするワシントンあての覚書を与えた(28)。
 だが、ドイツの産業界とは違って、アメリカ人たちは関心をほとんど示さなかった。
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 (08) ボルシェヴィキの連合諸国との協力はどの程度にまで進む可能性があったか、あるいはそもそもそれはどの程度に真面目に意図されていたのか、を判断するのは不可能だ。
 ボルシェヴィキはドイツがこうした交渉の経緯を掴んでいることに気づいていたのだが、ボルシェヴィキの連合諸国との予備的な交渉は、ドイツがブレスト条約の条件履行を監視するように仕向ける可能性があった。あるいは、ロシアが連合国側に走るよう追い込む怖れもあった。
 いずれにせよ、ドイツはロシアに接近していて、敵対的な意向は持っていない、と保証した。
 4月に両国は外交使節団を交換し、通商協定に関する会談の準備を整えた。
 5月半ば、ドイツ政府は、将軍たちが主張していた強硬路線を放棄し、ドイツはいま以上のロシア領土の占領は行なわない、とモスクワに知らせた。
 レーニンは、5月14日の談話で、この保障を公式に確認した(29)。
 この保障によって、ドイツ・ロシアの友好的国家関係の基礎が築かれた。
 ドイツは(ボルシェヴィキの)打倒を意図していない、ということがドイツ・ロシア関係の推移の過程で明らかになったとき、トロツキーは、「連合諸国の援助」という考え方を捨てた(脚注)
 このとき以降、ボルシェヴィキと連合諸国との交渉は急速に途絶えていった。こうして、モスクワは、戦争に勝利しようとしていると見えたドイツ帝国の勢力範囲に入った。
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 (脚注)  Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik 1918 (Vienna-Munich, 1956), p.49. 日本軍のVladivostok 上陸を正当化した確かに不用意な4月末の新聞インタビュー記事によって、連合諸国とモスクワの間に生まれつつあった協調関係を意図的に破壊したのはNoulens だ、とするHogenhuis-Seliverstoff の主張には、いかなる根拠もない。
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 第三節、終わり。つづく。

2798/R.パイプス1990年著—第14章⑤。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 第14章の試訳のつづき。
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 第14章・第三節/連合諸国との会話の継続①。
 (01) トロツキーは、連合諸国との軍事交渉を継続した。
 3月21日に、フランス軍事使節団のLaverne 将軍に、つぎの覚書を送った。
 「Sadoul 司令官との会議のあとで、人民委員会議の名前でもって、ソヴィエト政府が企図している軍の再組織という課題についてのフランス軍の技術的な協力を要請することを、光栄に思う」。
 これには、航空、海軍、諜報等々の全ての軍事部門についての、ロシアが希望した33人のフランスの専門家たちの詳しい一覧表が、付いていた(注21)。
 Laverne は彼の使節団にいる3人の将校を、ソヴィエト戦争人民委員部の補佐に指名した。トロツキーは彼らの部屋を、自分のオフィスの近くに割り当てた。
 協力はきわめて慎重に行われ、そのために、ソヴィエトの軍事史では多くを語られていない。
 Joseph Noulens によると、のちに、トロツキーは、500人のフランス軍人と数百人のイギリスの海軍将校を要請した。
 トロツキーはまた、アメリカ合衆国およびイタリアの使節団と、軍事協力に関して議論した(注22)。
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 (02) しかしながら、何もない所から赤軍を組織する推移はゆっくりしたものだった。
 ドイツ軍はそのあいだに、南西のウクライナとその近傍へと前進していた。
 ボルシェヴィキは、このような状況下で、連合諸国は自分たちの軍団を用いてドイツ軍の前進を阻止するのを助けるつもりがあるのかを、探ろうとした。
 3月26日、新しい外務人民委員のGeorge Chicherin は、フランスの総領事のFernand Grenard に、覚書を手渡した。それは、ロシアが日本にドイツの侵略を撃退する助けを求めるとした場合の、またはロシアが日本に対抗してドイツに頼るとする場合の、連合諸国の意思の言明を求めるものだった(注23)。
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 (03) Vologda を本拠としていた連合諸国の大使たちは、Sadoul を通じて伝えられたボルシェヴィキからの問い合わせに対して、疑い深く反応した。
 連合国大使たちは、ボルシェヴィキは本当に赤軍をドイツに対抗するものとして設置しようとしているのかを疑った。Noulens が述べたように、ロシアの支配を強固にする「近衛軍」として構想されている、というのが最も可能性が高かった。
 モスクワに代わってSadoul が熱心に語ったつぎの釈明を聞くと、彼らの想いを想像することができる。
 「ボルシェヴィキは、ともかくも軍を形成するだろう。しかし、われわれの助力なくしては、行うことができない。
 そして必ずやいつか、その軍はロシア民主政体の最悪の敵であるドイツ帝国軍に対して立ち上がるだろう。
 他方で、新しい軍には紀律があり、職業軍人が配置され、軍隊精神が浸透しているために、内戦に適した軍隊にはならないだろう。
 トロツキーが我々に提案したように、我々がその軍の形成を指揮するならば、それは国内の安定の要因になり、連合諸国の意のままでの国民防衛の手段になるだろう。
 こうして軍で我々が達成する脱ボルシェヴィキ化は、ロシアの一般的政治に影響を与えるだろう。
 このような進展が始まっていることを、我々はすでに見ていないか?
 不可避の残虐性を通じてボルシェヴィキたちが現実主義的政策に急速に適合していくのを見ないならば、偏見で盲目になっているに違いない。」(注24)
 こうした釈明は、ボルシェヴィキは現実主義へと「進化」しているという、文書に残された早い時期の記録の一つに違いなかった。
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 (04) 多くの疑念があったにもかかわらず、連合諸国の大使たちは、ソヴィエトからの要請をそっけなく拒否したくなかった。
 トロツキーとはむろんのこと各々の政府と頻繁に意思疎通をしたあとで、彼らは、4月3日に、以下の諸原則を共通理解とすることにした。
 1. 連合国は(共同行動を拒むアメリカを除き)、モスクワが死刑を含む軍事紀律を再導入することを条件として、赤軍の組織化を援助する。
 2. ソヴィエト政府は、日本軍のロシア領土への上陸に同意する。日本軍はヨーロッパから派遣された連合国兵団と合同して、ドイツ軍と戦う多国籍軍を形成する。
 3. 連合国の派遣軍団は、Murmansk とArchangel を占領する。
 4. 連合国は、ロシアの国内行政に干渉することをしない(脚注)
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 (脚注) Joseph Noulens, Mon Ambassade en Russie Soviettique, II(Paris, 1933), p.57-58; A. Hogenhuis-Seliverstoff, Les Relations Franco-Sovietiques, 1917-1924(Paris, 1981), p.59.
 Noulens は、連合諸国の国民には、ドイツ国民がブレスト条約で獲得したのと同じ利益、特権、補償が認められる、という条件をさらに追加したかった。だが、これを欠落させざるを得なかった。Hodensuis-Seliverstoff, Les Relations, p.59.
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2797/元兵庫県西播磨県民局長告発文(2024/03/12)全文。

 兵庫県斎藤元彦前知事(・現知事)から2024年5月7日に懲戒停職処分(停職三月)を受けた前兵庫県西播磨県民局長が作成したとされる告発文「(2024年3月12日現在)」の原文写し(画像)は、つぎの二つからリンクを通じて見ることができる。
  →斎藤元彦兵庫県知事の違法行為等について(24/03/12)〔二ュースハンター/2024/4/2号〕。
  →伊東乾ブログ/2024/07/16・兵庫県パワハラ知事に「死をもって」抗議した…。
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 「告発文書」には「4月4日」のものもあるとされる。この第二の文書は、2024年7月19日の兵庫県議会「百条委員会」に資料として配布されたとされる。
 これには、以下の①はなかったようだ。しかし、この点以外は「3月12日」文書と同一であるか、ほとんど同一だと秋月には思われる。
 「4月4日」文書は、つぎの〈Wikipedia〉に、その(画像版からすると)「文字おこし」をしたものが掲載されている。
  →Wiki「兵庫県庁内部告発文書問題」。
 ①・②には「ハンター編集部」による「黒塗り」部分があり、③には「百条委員会」幹部?による「黒塗り」部分とがある。前者においてより少ないが、絶対的ではない。以下では、③をベースにしつつ①・②によって「黒塗り」部分が最小になるようにして引用・紹介している。表題のみを、ここでは太字化した。
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 斎藤元彦兵庫県知事の違法行為等について(令和6年3月12日現在)
 ①五百旗頭真先生ご逝去に至る経緯
  令和6年3月6日に五百旗頭真先生が急逝されました。その死に至る経緯が次のとおりです。
  先生は現在、ひょうご震災記念21世紀研究機構の理事長をされています。井戸敏三兵庫県前知事から懇願され、兵庫県立大学理事長をはじめ兵庫県行政に深く関わってこられました。
  令和3年8月に知事が反井戸の齋藤元彦氏に交代してからは知事はじめ県幹部との関係に溝が出来ていたようです。とにかく齋藤氏は井戸嫌い、年長者嫌い、文化学術系嫌いで有名です。
  お亡くなりになられた日の前日ですが、齋藤知事の命を受けた片山安孝副知事が五百旗頭先生を訪問。要件は機構の副理事長をされている●●●先生、●●●●先生のお二人の解任についての通告です。相談ではなく、通告です。
  来年1月は阪神淡路大震災から30年の区切りの時を迎えます。機構の役割・使命 を果たす事実上最後の大きな契機であると言っても過言ではないと思います。●●、 ●●●の両先生はまさにこの分野における第1人者であり、井戸前知事が要請し、兵庫県政に関わってこられました。五百旗頭理事長もお二人には全幅の信頼を寄せておられているにも関わらず、このタイミングでの副理事長解任はハッキリ言って、五百旗頭先生と井戸前知事に対する嫌がらせ以外の何ものでもありません。
  あまりに突然の県からの通告に、先生はその時点では聞き置くに止め、片山氏にはお引き取り願ったそうです。その日、帰宅されてからも、齋藤知事のあまりの理不尽な仕打ちに憤慨され、夜も眠れなかったそうです。翌日、機構に出勤されてからも、 周囲の職員に同様の胸の内を明かされたそうです。そして、その日の午後に機構の理事長室で倒れられ、急性大動脈解離で急逝されました。
  急性大動脈解離は激昂などの情動的ストレスがトリガーになることもあるといい ます。齋藤知事、その命を受けた片山副知事が何の配慮もなく行った五百旗頭先生への仕打ちが日本学術界の至宝である先生の命を縮めたことは明白です。
 ②知事選挙に際しての違法行為
  令和3年7月18日執行の兵庫県知事選挙に際して、兵庫県職員である●●●●●、 ●●●●、●●●●、●●●●は、選挙期間以前から齋藤元彦立候補予定者について、 知人等に対する投票依頼などの事前運動を行った。●●氏は自分の居住地である三木市役所幹部等に対して「自分は選挙前から齋藤のブレーンだった。お前ら言うこと聞けよ」と恫喝している。
  ○公職選挙法違反、地方公務員法違反
  また、選挙公約の作成、選挙期間中の運動支援など、多岐にわたり選挙運動を手伝った。
  ○地方公務員法違反
  その時の論功行賞で、この4人はそれまでの人事のルール無視でトントン拍子に昇任。結果的に彼らが行ったことを裏付けすることとなっている。
 ③選挙投票依頼行脚
  令和5年下半期から齋藤元彦兵庫県知事は、次回知事選挙時の自分への投票依頼を始めている。産業界については●●●●産業労働部長が随行。
  具体的には、令和6年2月13日に但馬地域の商工会、2月16日に龍野商工会議所へ出向き、投票依頼したことを確認している。その他の市町の商工会議所、商工会へも働きかけを行っている様子。
  ○公職選挙法違反、地方公務員法違反
 ④贈答品の山
  齋藤知事のおねだり体質は県庁内でも有名。知事の自宅には贈答品が山のように積まれている。
 (例1)
  令和5年8月8日、兵庫型奨学金返済支援制度利用企業の視察として訪れた加西市の株式会社●●(●●●●のトースターで有名)における出来事。周囲にマスコミが いるため、●●の幹部から贈呈された高級コーヒーメーカーをその場では「そんな品物は頂けません」と辞退。一方、随行者の●●●●産業労働部長に向かって「みんな が見ている場所で受け取れるはずないやろ。失礼な。ちゃんと秘書課に送るように言っておけ!」と指示。後日、無事にコーヒーメーカーをゲットしている。●●●●● のご子息が●●で勤務しているという話もある。
 (例2)
  令和5年7月に●●●●●●●●●株式会社と兵庫県はスポーツ連携協定を結んだ。そして、ヘルメット着用のキャンペーンを展開している。そのPR用の写真は●●●●のロードバイク(約50万円)に跨がる知事。そのバイクは撮影の後、知事へ贈呈された模様(偽装的に無償貸与の形をとる、ほとぼりが冷めるまで県庁で保管するなどの小細工がなされているかも知れません)。特定の営利企業との包括協定は、 企業にとっては絶好のPRとなり、その見返りとしてのロードバイクの贈呈となると完全な贈収賄である。
   これらは全て●●●県民生活部長のアレンジ。
 (例3)
  神崎郡市川町からは、特産品のゴルフのアイアンセット(約20万円)が贈呈され ている。しかも、使いにくいからと再度、別モデルをおねだりしたという情報もある。 特別交付税(市町振興課所管)の算定などに見返りを行った可能性がある。
  現市町振興課●●●●課長は知事と同じ総務省からの出向にも関わらず、知事から考えられないくらい冷遇されているが、その辺りを忖度しなかったことへの面当てかも知れない。
 (例4)
  知事は驚異の衣装持ち。特にスポーツウエア。メーカーにすれば知事は動く広告塔。 これも貸与だと言えるのかどうか。特定企業(例えば●●●●●)との癒着には呆れるばかりである。
  そもそも、視察先やカウンターパートの企業を選定する際には、“何が貰えるか”が 判断材料だとか。企業リストには備考欄があって、“役得”が列記されているとか。
  そして、とにかく貰い物は全て独り占め。特産品の農産物や食品関係も全て。あまりの強欲、周囲への気配りのなさに、秘書課員ですら呆れているという噂。もちろん、 出張先での飲食は原則ゴチのタカリ体質、お土産必須。そのため、出張先では地元の 首長や利害関係人を陪席させて支払いをつけ回す。出張大好きな理由はこれ。現場主義が聞いて呆れる。
 ⑤政治資金パーティ関係
  令和5年7月30日の齋藤知事の政治資金パーティ実施に際して、県下の商工会議所、商工会に対して経営指導員の定数削減(県からの補助金カット)を仄めかせて圧力をかけ、パー券を大量購入させた。実質的な実行者は片山副知事、実行者は産業労働部地域経済課●●●●課長。
  また、兵庫県信用保証協会●●理事長、●等専務理事による保証業務を背景とした、 企業へのパー券購入依頼も実行された。●●理事長は片山副知事から県職員OBによる齋藤知事後援活動の責任者を依頼され、交換条件として厚遇の信用保証協会理事長 に異例の抜擢をされていた。
  この件は準公的な機関である保証協会を舞台にした政治活動なのでさすがに危険を感じたのか、●●理事長は1年で退任し、●●●銀行の監査役へ行くようである。 ●●●銀行の●●会長と●●副知事は白陵高校の先輩後輩。
  今後、県から●●●銀行へなにがしかの利益供与があるものと思われる。
 ⑥優勝パレードの陰で
  令和5年 11 月 23 日実施のプロ野球阪神・オリックスの優勝パレードは県費をかけないという方針の下で実施することとなり、必要経費についてクラウドファンディングや企業から寄附を募ったが、結果は必要額を大きく下回った。
  そこで、信用金庫への県補助金を増額し、それを募金としてキックバックさせることで補った。幹事社は●●信用金庫。具体の司令塔は片山副知事、実行者は産業労働部地域経済課。その他、●●バスなどからも便宜供与の見返りとしての寄附集めをした。パレードを担当した課長はこの一連の不正行為と大阪府との難しい調整に精神が持たず、うつ病を発症し、現在、病気休暇中。しかし、上司の●●●は何処吹く風のマイペースで知事の機嫌取りに勤しんでいる。
  ○公金横領、公費の違法支出
 ⑦パワーハラスメント
  知事のパワハラは職員の限界を超え、あちこちから悲鳴が聞こえてくる。
  執務室、出張先に関係なく、自分の気に入らないことがあれば関係職員を怒鳴りつける。例えば、出張先の施設のエントランスが自動車進入禁止のため、20m程手前で 公用車を降りて歩かされただけで、出迎えた職員・関係者を怒鳴り散らし、その後は 一言も口を利かなかったという。自分が知らないことがテレビで取り上げられ評判になったら、「聞いていない」と担当者を呼びつけて執拗に責めたてる。知事レクの際に 気に入らないことがあると机を叩いて激怒するなど、枚挙にいとまがない。
  また、幹部に対するチャットによる夜中、休日など時間おかまいなしの指示が矢のようにやってくる。日頃から気に入らない職員の場合、対応が遅れると「やる気がないのか」と非難され、一方では、すぐにレスすると「こんなことで僕の貴重な休み時間を邪魔するのか」と文句を言う。人事異動も生意気だとか気に入らないというだけで左遷された職員が大勢いる。
  これから、ますます病む職員が出てくると思われる。
  ○(職員からの訴えがあれば)暴行罪、傷害罪
 ※ この内容については適宜、議会関係者、警察、マスコミ等へも提供しています。
  しかし、関係者の名誉を毀損することが目的ではありませんので取扱いにはご配慮願います、兵庫県が少しでも良くなるように各自の後判断で活用いただければありがたいです。よろしくお願いします。
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