Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
<第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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第14章・第五節/在独ロシア大使館とその破壊活動②。
(08) Ioffe のドイツでの活動によって、モスクワで反対派と連絡を取ろうとするMilbach やRietzler の臆病な試みは、無害の戯れのごときものになった。
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(09) ロシアの直接的利益の観点からは、ドイツでの革命を促進することよりも重要だったのは、ロシアの反ボルシェヴィキ勢力を一緒に妨害できるよう、ドイツの産業界からの支援を獲得することだった。
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(10) ドイツにとっての事業上の大きな利益をロシアで得るのはほとんど期待できなかった。そして、ボルシェヴィキが認めてはじめてそうできるとドイツの事業界は知っていたので、彼らはボルシェヴィキ体制の最も熱狂的な擁護者になった。
1918年春、講和条約調印のあと、多数のドイツの商工会議所の諸団体が政府に、ソヴィエト・ロシアとの通商関係を再開するよう請願した。
5月16日、Krupp はこの問題を討議するため、デュッセルドルフで主要なドイツの実業家たちの、とくにAugust Thyssen とHugo Stinnes を含めての、会議を催した。
この会議は、ロシアへの「イギリスやアメリカの資本」の浸透を阻止して、ロシアで支配的な影響力を確立するというドイツの利益を可能にする策を講じることが肝要だ、と結論づけた。
外務省の後援で同じ月に開催された別の事業家会合は、ロシアの輸送をドイツが統御するのが望ましいこと、鉄道を再建することへのドイツの援助を求めるロシアの要望に応えるのが目標であること(52)、を強調した。
7月、ドイツの事業家たちはモスクワへ代表団を送った。
銀行家たちは、Ioffe がベルリンに到着するのを歓迎した。
Ioffe はモスクワに対してこう自慢した。
「ドイツ銀行の頭取は我々をしばしば訪問した。
Mendelssohn は、私との会見を長らく求めてきた。彼はいろいろな口実で、すでに三回やってきた。」(53)
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(11) このような通商上の熱心な要望があったので、ロシアは、ドイツの産業界や経済界の影響力ある層を、友好的な圧力団体にすることができた。
この点で、ボルシェヴィキは、情報をより豊富にもつという優越的立場を得た。
ボルシェヴィキは、ドイツの国内状況やエリートたちの知的脳力を熟知するようになった。
独立社会主義党からは、ドイツの諸組織間の対立を利用することのできる、微妙な情報が入ってきた。
ボルシェヴィキと接触するドイツ人はボルシェヴィキについてほとんど何も知らず、そのイデオロギーを真面目には考慮しなかった。
彼らは巧みにこの状況に適合し、脅威ではないという印象を与えて自分たちを守った。政治的擬態の、まさに優れた一例だった。
Ioffe とその仲間たちが用いた戦術は、革命的スローガンをまくし立てるが実際にはドイツとの通商しか望んでいない「現実主義者」(realists)だ、と装うことだった。
この戦術は、頭の硬いドイツ人事業家には抗し難く魅力的だった。ボルシェヴィキの革命的修辞を誰も正気で真剣に受け取ることはできないという、彼らの確信をさらに強くしたのだから。
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(12) この欺瞞がうまく機能したことは、1918年夏にIoffe がGustav Stresemann ともった会合によっても明らかだ。Stresemann は右翼のドイツ政治家で、リベラルかつ保守的志向をもつという別の公的人物像ももっていた。
Stresemann を助けたのは、Leonid Krasin だった。Krasin は、戦前と戦中にSiemens、Schuckert と大きな経営的関係をもち、ドイツとの間にきわめて良好な関係があった。
7月5日の非公式の会合で、二人のロシア人は、レーニンだけではなく親連合国のトロツキーもドイツの「後援」を望んでいる、と確認した。
ロシアに反ドイツの雰囲気があれば、二つの国が同盟する正式の条約はまだ性急すぎただろうが、ドイツが正しい政策を追求するならば雰囲気は変わるだろう。
この方向への一歩は、ドイツがウクライナから輸送している穀物のうちのある程度をロシアに配分することだろう。
ドイツには東部前線での軍事作戦を再開する意図はない、とモスクワに対して保証すれば、また役立つだろう。そうなれば、ロシアは、その戦力を、Murmansk からイギリス軍を駆逐し、チェコ軍団の反乱を粉砕することに集中することができる。チェコ軍団は最近はシベリアに出現していた。
ドイツはロシアとの良好な関係から大きな利益を獲得し続けた。ロシアはドイツが必要とする、綿、鉱油、マンガン等々の全ての原料を供給することができたからだ。
ドイツ人は、モスクワが放つ革命的政治宣伝広告について心配する必要がなかった。「現下の情勢のもとでは、マルクス主義[ボルシェヴィキ]政府はその夢想家的目標を放棄し、実際的な社会主義政策を追求する用意があった」(54)。
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(13) Ioffe とKrasin は、素晴らしいショーを演じた。
ドイツ人がもっと情報をもち、もっと傲慢ではなく、地政学的妄想にもっと捉われていなければ、彼らは見通せていただろう。
なぜなら、ロシア人はドイツ人に、その支配が及んでいない領域—中央アジア、Baku、ジョージア—でのみ利用可能な産物を提示し、「その夢想家的目標」の放棄とはかけ離れてまさにそのときに最も急進的な局面に入っていた彼らの政府の急進主義政策を小さく見せていたのだから。
しかし、欺瞞は機能した。
だから、Stresemann は、印象をつぎのように概括した。//
「現在の(ロシア)政府と、広範囲の経済的および政治的理解の確立へと至る大きな誘因を我々は得た…ように思われる。ロシア政府は、ともかくも、帝国主義的ではない。また、債務の不履行によるだけでもロシアと連合諸国の間に克服し難い障壁を築くのだとすれば、連合諸國を受け入れることも決してあり得ない。
かりにこの機会を逃し、今のロシア政府が崩壊するならば、きっとどの継承政府も、現在の統治者よりも連合諸國に親近的なものになり、東部前線の危険性は明確に切迫するだろう。…
我々とロシアがともに行動しているのを我々の敵対者が見るならば、彼らは我々に経済的に勝利するとの希望も捨て去るだろう—彼らは軍事的勝利をとっくに諦めている—。そして我々は、どんな攻撃にも抵抗できる状態になるだろう。
こうした要素を賢明に判断するならば、我々はまた、国家の精神を過去の勝利の高みへと持ち上げることができる。
ゆえに、私は、今行なっている努力が最高軍事司令官の支持を得ることができるならば、大いに歓迎するだろう。」(55)
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(14) ドイツ外務省は、この見解に賛同した。
外務当局の一人が5月に用意した内部的覚書には、ソヴィエトの指導者たちはドイツが容認することができるはずの「ユダヤ人事業家」だ、と記されていた(56)。
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(15) ドイツとロシアは7月初めに、この友好的雰囲気の中で、通商協定に関して会談をし始めた。
いわゆる補足条約が調印されたのは、8月27日だった。これは、両国の間にわずかな期間だけの公式の同盟関係をもたらした。この8月27日は、Ludendorff ですら敗戦を覚悟した、ドイツ軍が西部戦線で敗北した「暗黒の日」の直後のことだった。
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第五節、終わり。つづく。
<第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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第14章・第五節/在独ロシア大使館とその破壊活動②。
(08) Ioffe のドイツでの活動によって、モスクワで反対派と連絡を取ろうとするMilbach やRietzler の臆病な試みは、無害の戯れのごときものになった。
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(09) ロシアの直接的利益の観点からは、ドイツでの革命を促進することよりも重要だったのは、ロシアの反ボルシェヴィキ勢力を一緒に妨害できるよう、ドイツの産業界からの支援を獲得することだった。
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(10) ドイツにとっての事業上の大きな利益をロシアで得るのはほとんど期待できなかった。そして、ボルシェヴィキが認めてはじめてそうできるとドイツの事業界は知っていたので、彼らはボルシェヴィキ体制の最も熱狂的な擁護者になった。
1918年春、講和条約調印のあと、多数のドイツの商工会議所の諸団体が政府に、ソヴィエト・ロシアとの通商関係を再開するよう請願した。
5月16日、Krupp はこの問題を討議するため、デュッセルドルフで主要なドイツの実業家たちの、とくにAugust Thyssen とHugo Stinnes を含めての、会議を催した。
この会議は、ロシアへの「イギリスやアメリカの資本」の浸透を阻止して、ロシアで支配的な影響力を確立するというドイツの利益を可能にする策を講じることが肝要だ、と結論づけた。
外務省の後援で同じ月に開催された別の事業家会合は、ロシアの輸送をドイツが統御するのが望ましいこと、鉄道を再建することへのドイツの援助を求めるロシアの要望に応えるのが目標であること(52)、を強調した。
7月、ドイツの事業家たちはモスクワへ代表団を送った。
銀行家たちは、Ioffe がベルリンに到着するのを歓迎した。
Ioffe はモスクワに対してこう自慢した。
「ドイツ銀行の頭取は我々をしばしば訪問した。
Mendelssohn は、私との会見を長らく求めてきた。彼はいろいろな口実で、すでに三回やってきた。」(53)
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(11) このような通商上の熱心な要望があったので、ロシアは、ドイツの産業界や経済界の影響力ある層を、友好的な圧力団体にすることができた。
この点で、ボルシェヴィキは、情報をより豊富にもつという優越的立場を得た。
ボルシェヴィキは、ドイツの国内状況やエリートたちの知的脳力を熟知するようになった。
独立社会主義党からは、ドイツの諸組織間の対立を利用することのできる、微妙な情報が入ってきた。
ボルシェヴィキと接触するドイツ人はボルシェヴィキについてほとんど何も知らず、そのイデオロギーを真面目には考慮しなかった。
彼らは巧みにこの状況に適合し、脅威ではないという印象を与えて自分たちを守った。政治的擬態の、まさに優れた一例だった。
Ioffe とその仲間たちが用いた戦術は、革命的スローガンをまくし立てるが実際にはドイツとの通商しか望んでいない「現実主義者」(realists)だ、と装うことだった。
この戦術は、頭の硬いドイツ人事業家には抗し難く魅力的だった。ボルシェヴィキの革命的修辞を誰も正気で真剣に受け取ることはできないという、彼らの確信をさらに強くしたのだから。
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(12) この欺瞞がうまく機能したことは、1918年夏にIoffe がGustav Stresemann ともった会合によっても明らかだ。Stresemann は右翼のドイツ政治家で、リベラルかつ保守的志向をもつという別の公的人物像ももっていた。
Stresemann を助けたのは、Leonid Krasin だった。Krasin は、戦前と戦中にSiemens、Schuckert と大きな経営的関係をもち、ドイツとの間にきわめて良好な関係があった。
7月5日の非公式の会合で、二人のロシア人は、レーニンだけではなく親連合国のトロツキーもドイツの「後援」を望んでいる、と確認した。
ロシアに反ドイツの雰囲気があれば、二つの国が同盟する正式の条約はまだ性急すぎただろうが、ドイツが正しい政策を追求するならば雰囲気は変わるだろう。
この方向への一歩は、ドイツがウクライナから輸送している穀物のうちのある程度をロシアに配分することだろう。
ドイツには東部前線での軍事作戦を再開する意図はない、とモスクワに対して保証すれば、また役立つだろう。そうなれば、ロシアは、その戦力を、Murmansk からイギリス軍を駆逐し、チェコ軍団の反乱を粉砕することに集中することができる。チェコ軍団は最近はシベリアに出現していた。
ドイツはロシアとの良好な関係から大きな利益を獲得し続けた。ロシアはドイツが必要とする、綿、鉱油、マンガン等々の全ての原料を供給することができたからだ。
ドイツ人は、モスクワが放つ革命的政治宣伝広告について心配する必要がなかった。「現下の情勢のもとでは、マルクス主義[ボルシェヴィキ]政府はその夢想家的目標を放棄し、実際的な社会主義政策を追求する用意があった」(54)。
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(13) Ioffe とKrasin は、素晴らしいショーを演じた。
ドイツ人がもっと情報をもち、もっと傲慢ではなく、地政学的妄想にもっと捉われていなければ、彼らは見通せていただろう。
なぜなら、ロシア人はドイツ人に、その支配が及んでいない領域—中央アジア、Baku、ジョージア—でのみ利用可能な産物を提示し、「その夢想家的目標」の放棄とはかけ離れてまさにそのときに最も急進的な局面に入っていた彼らの政府の急進主義政策を小さく見せていたのだから。
しかし、欺瞞は機能した。
だから、Stresemann は、印象をつぎのように概括した。//
「現在の(ロシア)政府と、広範囲の経済的および政治的理解の確立へと至る大きな誘因を我々は得た…ように思われる。ロシア政府は、ともかくも、帝国主義的ではない。また、債務の不履行によるだけでもロシアと連合諸国の間に克服し難い障壁を築くのだとすれば、連合諸國を受け入れることも決してあり得ない。
かりにこの機会を逃し、今のロシア政府が崩壊するならば、きっとどの継承政府も、現在の統治者よりも連合諸國に親近的なものになり、東部前線の危険性は明確に切迫するだろう。…
我々とロシアがともに行動しているのを我々の敵対者が見るならば、彼らは我々に経済的に勝利するとの希望も捨て去るだろう—彼らは軍事的勝利をとっくに諦めている—。そして我々は、どんな攻撃にも抵抗できる状態になるだろう。
こうした要素を賢明に判断するならば、我々はまた、国家の精神を過去の勝利の高みへと持ち上げることができる。
ゆえに、私は、今行なっている努力が最高軍事司令官の支持を得ることができるならば、大いに歓迎するだろう。」(55)
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(14) ドイツ外務省は、この見解に賛同した。
外務当局の一人が5月に用意した内部的覚書には、ソヴィエトの指導者たちはドイツが容認することができるはずの「ユダヤ人事業家」だ、と記されていた(56)。
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(15) ドイツとロシアは7月初めに、この友好的雰囲気の中で、通商協定に関して会談をし始めた。
いわゆる補足条約が調印されたのは、8月27日だった。これは、両国の間にわずかな期間だけの公式の同盟関係をもたらした。この8月27日は、Ludendorff ですら敗戦を覚悟した、ドイツ軍が西部戦線で敗北した「暗黒の日」の直後のことだった。
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第五節、終わり。つづく。