レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 計18の章に分かれている。邦訳書はない。
 第1章〜第4章の「権力」・「名声」・「平等」・「嘘つき」を終えて、<第13章・自由について>へと移る。
 一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
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 第13章・自由について(On Freedom)。
 (1)自由の問題を対象とする思想には、大きな二つの分野がある。
 これら二つは、明確に別のもので、相互に論理的には独立したものだ。その程度はじつに大きいので、実際には同じことを論じていると疑っても許容されるほどだ。
 第一は、太古からある人の思想上の潮流で、人間(human beeing)としての人の自由(freedom)という問題を論じてきた。
 この潮流は、人はその人間性(humanity)だけの理由で自由(free)なのか、言い換えると、自由な意思と選択の自由をもつから自由なのか、という問題を論じてきた。
 第二は、社会の一構成員としての人の自由を対象とし、我々が<自由>(liberty)とも称する社会的な行動の自由(freedom)について論じる。//
 (2)人はまさに人間性の本性からして自由だと我々が言うとき、我々がとりわけ意味させるのは、人は選択することができる、その選択は、人の良心の及ばない力(forces)に全体として依存しておらず、またそれによって不可避的に生じたのでもない、ということだ。
 しかしながら、自由とは、すでに存在するいくつかの可能性の中から選択する力(capacity)のことだけではない。
 自由とは、全く新しい、全く予見できない状況を作り出す力でもある。//
 (3)我々の歴史の中でずっと、この意味での人の自由は、断言してよいだろうようにしばしば、否定されてきた。
 議論は、全く同一ではないけれども、一般的決定論(determinism)に関する論議にかかわる。
 かりに全ての事象がその条件の総体によって全体的に決定されているとすれば、自由な選択の可能性は発生すらしない。
 しかし、かりに普遍的な因果関係が本当に変え難いものであるなら、むしろいくぶん逆説的な結論へと至り得るだろう。
 なぜなら、もしも何かがその条件によって全体的に決定されているなら、その何かはまた、原理的には(実際には必ずというのではないが)予見することができる。
 そして、厳格な決定論が正しいとするなら、我々は、こう想像することができるだろう。我々の予知能力がいったん十分に完全なものになれば、朝の新聞を開き、つぎのような報道を読む。
 「昨夜、Twickenham で、有名な作曲家のJohn Green が生まれた。
 明日、ロンドン交響楽団は、彼が37歳のときに作曲する交響曲第三番を演奏して、この誕生を祝うだろう。」//
 (4)物理学者、そしてたいていの哲学者が、厳格な決定論を信じた時代があった。これが、科学的で理性的な思考の本質的な定式だったときがあった。
 これを支える証拠は何もなかったけれども、平易な常識の問題だと考えられ、自明の真実なので狂人だけが疑うものだとされた。
 我々の世紀では、量子力学(quantum mechanics)が、もっと最近ではカオス理論(chaos theory)が、こうした信念を打ち崩すために多くのことをなした。そして、物理学は、決定論のドグマを捨て去った。
 量子力学の発見は、もちろん、人は自由意思をもつということを必要としない。—つまり電子には自由意思がない。しかし、少なくとも物理学は、自由意思の存在への我々の信念を馬鹿げたまたは非理性的なものとは見なさなかった。
 そして本当に、このいずれでもないのだ。
 我々は自由意思を信じてよいのみならず、信じる「べき」だ。先に既に私が定義したような意味で。つまり、選択することができる力としてのみならず、新しい可能性を生み出す(create)ことのできる力として。
 この意味での自由の経験は全ての人間にとって基本的なことなので、とくに切り離して、構成する要素を分析することによって証することはできないけれども、その現実は抗い難く明確であると思われる。
 しかし、当然に明確だと見えるほどに基本的なことだということは、それが現実のものであることを疑う理由ではない。
 我々は本当に、行うことについての自由な主体(agent)なのであり、世界に存在する様々な諸力のたんなる装置にすぎないのではない。—もちろん、我々は自然の法則に服するけれども。
 また、我々は本当に、善であれ悪であれ、自分たちを目標に向かわせて、それを達成しようと懸命に努力するのだ。
 外部条件や他人が我々の努力を無駄なものにするかもしれない。—例えば、効果的に選択することができないほどに、肉体的に無力であるかもしれない。
 しかし、選択するという我々の本質的な力は依然として存在する。たとえそれを利用することができないかもしれないとしても。
 また、St. Augustine またはカントのように、善を選択するときにのみ自由であり、悪を選択するときはそうでないと主張することのできる、いかなる根拠もない。
 このような主張は、我々の自由をまさにその力によってではなく、我々の選択の内容によって定義するものだ。そして、このように自由を定義することは、自由というまさにその観念を、我々自身の道徳諸原理でもって複雑にすることになる。//
 (5)さて、自由は人間性とともに我々に与えられているものであり、その人間性の基礎となるものだ。
 自由は、我々のまさに存在そのものに稀少性(uniqueness)を与える。
 (6)自由に関する思想の二つの領域のうちの第二は、相当に異なる問題を対象とする。その主題が人間としての我々の自由ではなく、社会の構成員としてのそれだからだ。
 この意味での自由は、我々の存在の本性を源にするのではなく、我々の文化、社会および法に由来する。
 この自由は、つぎのことを意味させる。人間の活動分野については、社会的組織が禁止したり命令したりできず、制裁を怖れないで行動の態様を選択する、そのような自由を与えなければならない。
 これは、我々が<自由(liberty)>とも称する自由(freedom)だ。//
 (7)この意味での自由は、もちろん、程度でもって測り得る。より多い自由、より少ない自由があり得る。そして、我々は一般に、付与されている自由の程度によって、異なる政治体制を評価している。
 これを測る目盛りは、(スターリン主義のロシア、毛沢東主義の中国、その他のアジア共産主義諸国、または第三帝国のような)完全な全体主義体制から、禁止や命令のかたちでの政府の介入が厳格な最小限に制限されている一番端の政治体制にまで及ぶ。
 全体主義体制は、人間の活動の全分野を、個人の選択の余地が何もなくなるように規制することを意図する。
 多様な非全体主義の専制体制は、その体制に対する脅威を示している可能性のある領域で自由を抑圧することを意図するが、それ以外の問題については全体的統制をしようとはしない。
 また、専制体制は、いかなる種類の全世界的または全包括的なイデオロギーも有しない。//
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 ②へとつづく。