秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

S・マクミーキン

1934/S・マクミーキン・ロシア革命(2017)第8章②/四月テーゼ後。

 Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 ショーン・マクミーキン・ロシア革命-一つの新しい歴史(Basic Books, 2017年)。
 第8章の試訳のつづき②、「四月テーゼ後」。p.131-p.136.
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 (16)これらの主張が真実なのかどうかはともかく、ドイツの対ロシア政策の重心がどこにあるのかは、間違えようがなかった。
 あらゆる党派(連合諸国の助けを望んだ親戦争のエスエル「防衛主義者」を除く)の追放社会主義者たちが、ドイツの費用で、ロシアへと送られた。ソヴェトと臨時政府の間の緊張関係を激化させるためだった。
 ウクライナ、フィンランド、ポーランド、エストニア各人の血を引くロシア帝制側の戦争捕虜たちは、独立を煽動させるために故郷に送られた。
 革命的ロシアに流れ込んだ不満分子たち大勢の中で、レーニンはたんなる一人にすぎなかった。
 しかし、その戦争に関する過激な考えとウクライナ分離主義の日和見主義的受容心によって、レーニンは混沌をさらに促進する危険人物であり、ロシアの戦争遂行を挫折させるために送られた一人だけの破壊員だった。
 パルヴゥス自身が3月遅くにコペンハーゲンにいたドイツの大臣に説明したように、臨時政府のもとでロシアの戦闘意欲が復活するのを阻止するためには、「無政府状態を増大させるべく過激な革命運動を支持しなければならないだろう」。
 あるいは、そのときコペンハーゲンを訪れていたドイツ社会民主党の指導者のP・シャイデマン(Philip Scheidemann)にパルヴゥスが説明したように、レーニンは、ロシア社会主義者で中で最も「無謀な狂乱者(raving mad)」だった。//
 (17)ドイツによるレーニンへの投資は、すぐにその配当を生み出した。
 ストックホルムで、レーニンの友人のカール・ラデク(Karl Radek)はペトログラードのレーニンと通信するためのボルシェヴィキ外国特命組織を設立した。そこにレーニンは途中下車したのち、ロシア人一団は列車による旅を続け、1917年4月3日のちょうど午後11時すぎにペトログラードのフィンランド駅に到着した。その列車はのちに、レーニンの英雄的時間を記念すべくガラスで覆われた(今もそこにある)。
 急いでボルシェヴィキ党の本部へ行き、レーニンは、「海賊たちの帝国主義戦争」を非難する2時間にわたる烈しい演説を行い始めた。そこには、戦争を継続している臨時政府を支持する堕落者たちもいた。
 レーニンが提起した基本方針は過激すぎたので、党機関誌<プラウダ>は最初はそれを印刷するのを拒否した。
 その「四月テーゼ」は、「全ての権力をソヴェトへ」とのスローガンで今日でもよく記憶されている。これはしかし、戦争に対するいかなる支持も否認し、ロシア軍の廃絶を主張する点で、外交政策としても同等に過激だった。
 数時間のうちに、レーニンの「極端に過激で平和主義の」方針はペトログラードの話題になった。Frank Golder は、その日記に、ドイツが「彼と彼の党が平和を宣伝して、戦意喪失をもたらす」ために、レーニンをペトログラードに送り込んだ、との風聞があることも記した。 
 ストックホルムのドイツ軍諜報機関は小さな驚きとともに、ドイツ軍最高司令部に、こう報告した。「レーニンのロシア入国はうまくいった。彼は、我々がまさに望んでいるように仕事をしている」と。(16)//
 (18)17年の間ほとんどロシアに足を踏み入れなかった追放者だったので、レーニンは、ロシアの社会主義仲間に対する礼儀その他の実際的な配慮を全く気に懸けることなく、自由に政治方針を考えた。
 彼の戦争に関する展望はかくして、ともに二月革命後にシベリア流刑を恩赦されて解放されていた、L・カーメネフ(Lev Kamenev)やJ・スターリン(Josef Stalin)のような、ロシアにいたボルシェヴィキとは異なるものになった。
 カーメネフは、<プラウダ>の編集長で戦争勃発時にはドゥーマのボルシェヴィキ議員団長だったが、1915年1月に逮捕された。
 スターリンは1913年に4年間の流刑(国内追放)を宣告され、北東シベリアのTurhansk近くにいて戦争を迎えた。-彼にはそのときまで最も離れた土地への追放で、逃亡するのは不可能な場所だった。
 戦争中の苦難によって指導者たる地位を得たと考えているカーメネフは、爆弾のごときレーニンの演説の後で、ボルシェヴィキ中央委員会は党の現在の基本方針を維持して、臨時政府と戦争をしかるべく支持し、「『革命的敗北主義』の士気を喪失させる悪影響や同志レーニンの批判に反対」すべきだと主張した。
 スターリンは<プラウダ>でより大胆に、レーニンの「戦争よくたばれ」のスローガンは「無用」だと非難した。
 ボルシェヴィキ中央委員会は、4月8日、レーニンの四月テーゼを13対2で、正しく徹底的に却下した。(17)//
 (19)しかし、レーニンは、切り札(エース・カード)を持っていた。すなわち、ドイツの金。 〔太字化は、試訳者による。〕
 二月革命後の最初の月の記念号である<プラウダ>3月12日号は、Moika 運河ぞいの政府が保有する印刷工場からは、限られた数しか発行されなかった。
 レーニンが帰還した後、ボルシェヴィキは25万ルーブル(当時の12万5000ドル、現在のおよそ1250万ドルと同額)で、Suvorovsky 大通りに私有の印刷機を購入した。それは所有者から熟練工を(現在の150万ドルまたは一年で1800万ドルと同額、一カ月あたり3万ルーブル以上の)全額負担して雇う、という約束をしてのちのことだった。
 この最後の約定は、所有者の気乗り薄さを克服するために決定的なものだった。その所有者は、「労働者印刷集団」ふうの様子の影あるグループが手持ちの現金を用意しているのかどうか疑っていたからだ。(18)//
 (20)ボルシェヴィキは今や、事実上は無制限の量の、宣伝物を発行することができた。
 <プラウダ>の発行部数は急速に増えて、8万5000部に達した。
 4月15日、党はペトログラード守備連隊の兵士たちに向けて、新しい大判紙の<兵士のプラウダ>の発行を開始した。
 この新聞はもともと5万部の発行を予定していたが、そのとき7万5000部になった。
 つづいて、前線の兵士たちに宛てたもの(<Okopnaiaプラウダ>)、バルティック艦隊の海兵たち向けのもの(<Golos Pravdy>)も発行された。
 ほどないうちに、前線の兵団に届くボルシェヴィキの日刊紙部数は6桁〔10万以上〕に達した。
 特別の小冊子も、10万の単位で発行された。
 このような目覚ましい出版上の大成功は、ドイツの財政支援によって可能となった。このことを考慮するならば、カーメネフやスターリンによる声高の反対があったにもかかわらず、レーニンが最終的には、反戦争というまだ知られていない基本方針を<プラウダ>で伝搬させることができたのは、何ら驚くべきことではない。(19)//
 (21)ソヴィエト政府がのちに多数の文書の束を廃棄したために、歴史研究者がドイツ政府とペトログラードのボルシェヴィキの間の金の動きの軌跡をたどるのはきわめて困難だ。
 レーニンは、ストックホルムにいるラデクへの若干の暗示的な電報があるのを除いては、自分の手を汚さないままでいた。
 そのうちの一つで、レーニンは、4月21日、2000ルーブルを受領したことを確認していた。
 もう一つの電報では、レーニンは、「もっと資材(materials)を」と要請していた。(20)
 臨時政府で反対諜報活動に従事したB・V・ニキーチン大佐は、いくつかの刑事罰の対象になりうる電報をその回想録で再現した。それによると彼は、E・スメンソン(Evgenia Sumenson)というボルシェヴィキの工作員が尋問を受けて(彼女がドイツ製品輸入業で洗浄して合法化した)金銭をボルシェヴィキ党中央委員会の一員であるM・コズロフスキ(Miecyslaw Kozlovsky)という名のポーランドの弁護士に渡した、ということを自白した。
 ケレンスキーは、1917年にロシアを離れた後で、連合諸国の諜報機関から文書資料に関する報告を受けた。彼が見たと主張したその文書資料の中には、シベリア銀行のスメンソンの口座から75万ルーブルを引き出すための有名なものもあった。
 今日まで、ほとんどの歴史研究者たちは、ロシア側の文書庫から対応する証拠が出ていないために、このような論争の種となる資料は曖昧なままにしておかなければならない、と考えてきた。(21)//
 (22)しかしながら、臨時政府がボルシェヴィキ・ドイツ間の紐帯を明らかにする文書の全てが破壊されてしまったわけではない。
 共産党の文書庫の中にあった新しい証拠からは、つぎのことが明らかだ。すなわち、スメンソンは実際に、ナデジンスカヤ通り36番地にある大きくて家具が全て調えられたペトログラードのマンションから、かりに異様ではあっても本当に、輸入業を営んでいた
 (彼女の活動は、隣人たちの相当の好奇心の対象になった。未婚の、子どものいない女性が4つの寝室をもつ住戸に住み、多数の男性訪問者を迎えているのはどうしてだろう、と。)
 スメンソンは、ドイツ製の温度計、医薬品、長靴下、鉛筆、およびネスレ(Nestlé)の食料品を現金払いで販売していた。
 彼女はシベリア銀行と、さらにはロシア・アジア(Russo-Asiatic)銀行やAzov-Don 銀行に活動口座を有しており、そのいずれにも、裕福なロシア人にドイツの贅沢品を販売して蓄積した、数10万ルーブルの金を預けていた。
 複数の目撃者が、スメンソンが定期的に数千ルーブルを現金で、コズロフスキに個人的に渡していたのを見た。(22)//
 スメンソンはまた、ストックホルムとコペンハーゲンの各銀行から直接に電信を受け取っていた。それはふつうは彼女の従兄弟のヤコブ・フュルステンベルク-ハネッキ(Jakob. Fürstenberg-Hanecki)(革命運動上の別称は「クバ(Kuba)」)からのもので、彼は、レーニンが最も信頼する党同志の一人で、のちにソヴィエトの財務大臣となる人物だった。
 明白な証拠がある電信で、コズロフスキは、クバがストックホルムのNya銀行からペトログラードのスメンソンへ10万ルーブルを送るよう要請した。そして、数日後に、この正確な金額が、滞りなくロシア=アジア銀行の彼女の口座に振り込まれた。
 このような直接の電信による移動やスメンソンの輸入業から生じるルーブル立ての収益の洗浄によって、ドイツ政府は、莫大な金額をペトログラードのレーニンの党へと移すことができた。その額は最終的には5000万ゴールド・マルクに昇った。これは、現在の10億ドル余と同額になる。(23)//
 (23)ロシアの地下世界でその日暮らしの活動をした年月のあと、ボルシェヴィキは今や大勝利を収め、それにふさわしく行動した。
 フィンランド駅へと帰還したあと、レーニンはクシェシンスカヤ邸(Kshesinskaya Mansion)へと移った。これは市内の最大の邸宅の一つで、マチルダ(Mathilde)・クシェシンスカヤのために、1904-1906年にアール・ヌーヴォー様式で建築されていた。-クシェシンスカヤは最も有名なバレリーナで、皇帝ニコライ二世のあとは、二人のロシア大侯爵の愛人だった。
 その邸宅は戦略的に見るとペーター・ポール大要塞とちょうど正反対の場所に位置しており、レーニンの帰還後は、優美なバレリーナの住まいから、補強された軍事的複合施設、ボルシェヴィキの神経中枢へと変えられた。
 (ソヴィエト時代に革命博物館と改称され、今は政治史博物館になっている。)//
 (24)クシェシンスカヤ邸は、諸活動が集中する場所になった。党中央委員会の諸会合、<プラウダ>や<兵士のプラウダ>の編集部、そしてボルシェヴィキ「軍事組織」の最高司令部。ここからは、ロシア軍団を反戦争信条へと転換させるべくコミサールが派遣された。
 階下には会計部署があり、「高価な印刷装備」と並んでいた。のちにニキーチン(Nikitin)の人員が発見したところよると、この印刷施設は、信頼できる活動家や兵士たちのために個人識別カードや自動車運転免許証を大量に作成していた。
 小冊子や宣伝ビラが、通路に散乱していた。
 伝達人(クーリエ)が指令書をもって、あちらこちらへと急いで出て行った。(24)//
 (25)街路の視点から見ると、光景はもっと印象的なものだった。
 クシェシンスカヤ邸はすみやかにペトログラード市内の至る所から来る示威活動家の集会場となった。彼らは、興奮-と抗議の意思表示-を求めていた。
 情報宣伝に関するボルシェヴィキの熟達さは本当のことで、軍隊はレーニンのあからさまな政治方針によって、さらなる一撃を受けていた。
 ソヴェト内のメンシェヴィキとエスエルはしぶしぶ、軍隊の紀律を回復すること(指令第二号によるような)への協力に同意したが、ボルシェヴィキは、単純に、「政府よくたばれ!」と宣言した。
 何人かの目撃者によれば、レーニンが帰還した後、ボルシェヴィキのポスターには、こう書くものが出現した。すなわち、「ドイツ人は我々の兄弟だ」。(25)//
 (26)ドイツ軍はロシア領域内にいたので、このようなスローガンの力は、かりに叛逆的でなくとも、強烈だった。
 レーニンはドイツの工作員だとの噂が、すでにかけ巡っていた。
 このような状況にあったことを考慮すると、上のようなポスターを掲示しようとする者がいたことは注目に値する。
 この点についてもまた、新しい証拠によって手がかりが得られる。
 E. Shelyakhovskaya という名のロシア赤十字の看護婦は前線からペトログラードに戻ったばかりだったが、この女性によると、クシェシンスカヤ邸の玄関にいた身なりのよい何人かの男たちが(彼女は詳細に彼らの特徴を表現した)1917年4月遅くに反戦争と親ドイツのポスターを配布していた、その際に、そのポスターを貼るつもりのある誰に対しても10ルーブル紙幣を手渡していた。
 これは、今日の500ドルに近い現金だった。
 これらのボルシェヴィキの運び屋たちは、Shelyakhovskaya によると、カバンが空になるまで現金紙幣を渡し終えると、クシェシンスカヤ邸の中に再び入り、カバンに新しい10ルーブル紙幣を詰め込んですぐにまた現れた。
 二人めの目撃者は、このようなShelyakhovskayaによる観察の基本的な部分を、宣誓のもとで確認した。(26)//
 (27)看護婦の話に色どりを加えると、ニキーチン大佐によれば、これらの10ルーブル紙幣はドイツ政府によって作られた偽造のものだったらしくある。ドイツ政府は、戦争前に10ルーブル紙幣の型版を獲得していた。
 これら偽造紙幣には顕著な目印があり、それは、ニキーチンによれば、「通し番号の最後の二桁の下にうっすらと線が引かれていた」ことだった。
 こうした「ドイツ製」紙幣の多くは、のちに、逮捕されたボルシェヴィキ煽動活動家の所有物の中から発見された。(27)//
 (28)レーニンと彼へのドイツの財政支援者は、本気でゲームを続けた。
 臨時政府は、ロシアがかつて革命前に行うと約束していた春季攻勢を行うよう連合諸国から厳しい圧力を受けていた。また、軍隊の制御をめぐって、ソヴェトとの苦い闘いに没頭すらしていた。その臨時政府には今や、想定することのできるもう一つの敵が、出現した。
 ボルシェヴィキが臨時政府に血を浴びせるのに、長くはかからなかっただろう。//
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 以上で、第8章は終わり。

1933/S・マクミーキン・ロシア革命(2017)第8章/ドイツ縦断のレーニン。

 Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 ショーン・マクミーキン・ロシア革命-一つの新しい歴史(Basic Books, 2017年)
 この著は序文とあとがきを除いて大きくは、つぎの三部で成る。
 第一部・ロマノフ家の黄昏、第二部・1917年の崩壊、第三部・権力にあるボルシェヴィキ。これが通し番号での「章」に分けられている。第一部/1-4章、第二部/5-17章、第三部/18-23章、計23章まで。
 この書物の章名では叙述対象の時期や事件がほとんど明らかにはならないのだが、レーニン・ボルシェヴィキとドイツに関係がありそうな箇所(章)を選んで、試訳してみよう。
 まず、第8章・ドイツの先札(Gambit)。p.125-p.136.
 Gambit はよく分からないが、最初の手札、切り出しとかの意味のようで、自信はないが試訳として「先札」としておいた。
 叙述対象の時期は、1917年の二月革命後、レーニンの(「封印列車」による)ロシア帰還の頃だ。
 各章はさらに「節」へと分けられてはおらず、段落の区切りしかない。日付間の/は、原文どおりで、旧暦/新暦。
 この著については、注番号だけ付して、その内容(後注)の紹介は、省略する。
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 第8章・ドイツの先札(Gambit)①。p.125-p.130.
 (1)ロシアでの二月革命の報せは、ニコライ二世の退位のあとですぐに世界中をかけ巡った。多くの詳細は、翻訳されなかったけれども。
 ロンドンとパリでは、反応は高揚感に溢れた。これらの都市には、帝政に反対する意見を生じさせるための政治報告があって、ロシアのリベラル派が要点を記述すべく作成していた。
 <ウェストミンスター新聞(Westminster Gazette)>は「重たい荷物の排除」、「劇的な一撃」だとして帝制の崩壊を祝賀し、専制的ロシアを「仲間的忠誠と経験」へと並ばせるものだとした。
 <ル・マタン(Le Matin)>は、二月革命は「連合国にとっての勝利」だとして祝賀し、「ロシアの解放は我々の敵国の外交計画を破滅させるだろう」と予言した。(1)
 (2)ワシントンほどにこの報せが熱狂的に歓迎された都市はなかった。そこではW・ウィルソン(Woodrow Wilson)大統領が、ドイツとの戦争に備えて議会-とアメリカ国民-を説得する突然に切迫した闘いに直面していた。
 1916年11月、ウィルソンは大部分は「戦争の圏外にとどまり続ける」と豪語したおかげで再選されており、ドイツの一連の非道行為にただ衝撃を受けていた。
 1917年2月1日の無制限の潜水艦製造の再開のあとでアメリカ合衆国の介入があり得ることを考慮して、ヴィルヘルム通り〔ベルリン・ドイツ帝国〕は、すぐに悪名高くなった「ツィンマーマン電報(Zimmermann Telegram)」を-アメリカの外交用電線を経て-メキシコ・シティのドイツ大使館に送り、いっそうの悪辣さを示した。
 この驚くべき文書で、ベルリンは、メキシコがアメリカに宣戦布告をすればメキシコがアメリカの南西部(テキサス、ニュー・メキシコ、およびアリゾナ)の<再征服(reconquista)>を支持すると約束していた。
 アメリカとこの突発情報を注意深く分有していたイギリスの暗号解読者たちが、ツィンマーマン電報を最初に読み解いた。その内容は、1917年2月15日/28日、まさにペトログラードでロシア革命が勃発するときに、プレスに発表された。(2)//
 (3)アメリカ世論に対する二月革命の影響は、電気に打たれたごとくだった。
 ウィルソン政権は2月初めに無制限潜水艦製造再開のあとですでにベルリンと厳しい外交関係に入っていたけれども、そのことはまだ宣戦布告にまでには至らせなかった。
 リベラルで学者風の理想主義者であるウィルソンは、「アメリカ例外主義」の信条を掲げており、国家の在来的な理由ではアメリカ合衆国を戦争へと突入させることを決して快くは考えていなかった。
 ツィンマーマン電報ですら、ウィルソンの「武装中立」の方針を変えさせることはなかった。
 ロシアが「リベラルで民主主義な」陣営に加わった後ではじめて、ウィルソンは刺激を受けて、1917年3月20日/4月2日の議会の合同会議の前で宣戦布告を行った。それは、「世界を民主主義を求めて安全なものにしなければならない」、「平和は政治的自由という吟味済みの基礎の上に築かれなければならない」、と述べた。(3)//
 (4)ウィルソンは、見たかったものを二月革命のうちに見た。
 彼が表明した高貴な理想は、アメリカや(より少ない程度で)イギリスのような、権力に余裕がある国の贅沢だった。これらの国は、ドイツのUボートによる公海上での攻撃を超えて、安全に対する生存にかかわる脅威に直面してはいなかった。
 パリから65マイルだけ離れたノヨン(Noyon)要塞をドイツが有しているフランスでは、生まれつつあるロシア民主主義に関する気分のよさは、ロシアの春季攻勢に対する革命の影響に関する実践的な関心に、大きな影響を受けていた。その攻勢はドイツの軍事力をフランスから逸らせることが期待されていたのだ。
 <ル・マタン>は、ペトログラード・ソヴェトの「過激主義者」について警告を発した。
 曖昧にだが指令第一号-連合諸国の通信員たちにはまだ知らされていなかった驚くべき布令-を示唆して、<ル・マタン>は、「その決定はタウリダ宮の1600人の代議員に行き渡っている。混乱状態にあると言われていることだけが分かる」と不満を漏らした。(4)
 (5)ベルリンでは愛国主義の記者たちは、肯定的な報せを軽視して、ペトログラードの革命が生み出す秩序混乱を強調しがちだった。
 <ベルリンLokal Anzeiger>は、「社会主義が溢れる。そして無政府状態になる」と一面の大見出しを掲げた。
 <ベルリンTagesblatt>は、ロシアにいるドイツの戦争捕虜たちはストックホルム経由で送られている、と肯定的に記した。
 <Tagesblatt>のコペンハーゲン通信員は、「フィンランドへの血なまぐさい革命の広がり」という不快な説明記事を掲載した。
 ドイツの立場からすると、革命がより混乱を増せば増すほど、それだけ良かった。(5)//
 (6)連合国側の観察者がロシアの戦闘能力に対する革命の影響に関して望ましい考え方をしてしまった一方、より暗いドイツの記事は、偏った見方に彩られていてはいたが、努めて真実により近いものを叙述していた。
 反乱がロシアの陸海軍をつうじて広がって<いた>(前線全てに対するのと同等の影響ではなかったけれども)。そして、無政府状態が国土じゅうに伝搬している。
 さらに加えて、ペトログラードの現地に工作員をもち、外国にいるロシアの革命家たちの世界と良好な接触をしてしてきたドイツは、理想的にロシアの混乱を利用できる-そしてそれを拡大することのできる-位置にいた。
 レーニン・カードを切る、そのときがやって来た。〔太字化は試訳者〕//
 (7)ボルシェヴィキ党の指導者は、努力に欠けていたわけではないが、ずっと静かな闘いをしてきた。
 1914年8月の大戦勃発のとき、レーニンは、ロシアの国境に近いオーストリア・ガルシアのクラカウのそばのポロニモ(Poronimo)にいて、地方のウクライナ人の間で煽動活動を行っていた。
 クラカウの警察は敵国外国人として彼を逮捕した。オーストリアの社会主義者の指導者がレーニンはツァーリ体制のスパイではなくロシアの憎い敵だと保証してくれた。
 レーニンの場合は、その住居を探索して本当の(bona fide)マルクス主義活動家に取り憑くかもしれない退屈な経済研究書の類だけしか発見されなかったことが、役立った。
 オーストリアの役人による尋問で、レーニンは公然とウクライナ分離主義を支持する革命的狂信者だと確認された。ウクライナの分離は、中央諸国の中心的な戦争目的だった。
 レーニンは9月初めに、ハプスブルク軍事省の特別の命令によって釈放され、軍事郵便列車で-妻のNadezhda Krupskaya と彼に忠実なボルシェヴィキの副官(aide-de-camp)のG・ジノヴィエフ(Grigory Zinovoev)と一緒に-スイスへと送られた。そこで彼は、ツァーリに対抗する戦争陰謀を練って過ごした。(6)//
 (8)すでにオーストリアの監視のもとにあったレーニンは、二つの別々の経路でドイツ外務当局の注意を引くことになった。
 第一は、我々がすでに言及した、アレクサンダー・「パルヴゥス(Parvus)」・ヘルファンドだった。この人物は1905年に、ペトログラードで面倒なことを起こしていた。
 シベリア追放から脱出したあと、パルヴゥスは、外国のドイツとそのあとトルコで、豊かで興味深い人生を送った。
 大戦が勃発したとき、彼は、ウクライナ分離主義者、アルメニアとジョージアの社会主義者その他の帝制に追放された者たちのためにボスポラスの政治サロンを運営していた。その仕事の中で彼は、1915年1月にオットーマン帝国駐在のドイツ大使であるヴァンゲンハイム(Hans von Wangenheim)男爵に出席を求めた。
 パルヴゥスはヴァンゲンハイムに対して、「ドイツ帝国政府の利益は、ロシアの革命家たちと同一だ」と語った。(7)//
 (9)第二の媒介者のA・ケスキュラ(Alexander Kesküla)も、同様に多彩だった。
 ケスキュラは、パルヴゥスのように1905年革命の被抑圧者だったエストニア人ボルシェヴィキだった。そして、より最近に全面的なエストニア民族主義の考えを抱いた(フィンランド人の友人にエストニアがペトログラードを支配した後でのペトログラードに関する計画を尋ねたところ、その諸宮殿は素晴らしい「採石場」になるだろう、と答えた)。
 のちに彼が想起したように、1914年9月にドイツの諜報機関の仕事に加わったケスキュラの動機は、単純だった。すなわち、「ロシアに対する憎悪」。
 1915年9月、ケスキュラはベルンにいるドイツ領事のGisbert von Romberg に、レーニンの考えやイデオロギー状況を知らせた。
 そのあとロンベルクはケスキュラに1カ月あたり2万マルクを、レーニンその他のボルシェヴィキに配るべく支払った。(8)//
 (10)レーニンの戦争に関する立場から見ると、それは追放社会主義者たちのツィンマーヴァルト(1915年)やキーンタール(1916年)での会議で彼が概述していたものだが、なぜドイツの外務当局がレーニンを養ったかを理解するのは困難ではない。
 これらの集会での多数派は(まだメンシェヴィキの)トロツキーが起草した決議を支持してはいたが、これに対する反対派は、戦争に反対し、労働するのを拒むか古い「ゼネ・スト」原理によって闘うよう訴えていた。
 レーニンは、「革命的敗北主義」という少数派の教理を定式化した。
 彼は、社会主義者は彼らの自国が敗北するように活動しなければならず-彼はこれを文字通りに意味させた-、そして、「帝国主義戦争を内戦に転化しなければならない」、と主張した。
 協議案による抵抗よりもむしろ、社会主義者は労働者に対して、軍隊に加入し、その中で反乱を行って軍隊を「赤」に変えるよう激励しなければならない。
 こうした考え方はツィンマーヴァルトでのマルクス主義多数派によって分裂の起因になると見られていたけれども、レーニンは、ウジェーヌ・ポティエ(Eugène Pottier)の社会主義の歌の精神により近いところまで切り進んでいた。
 その歌、<インターナショナル>は、軍隊での反乱を推奨していた。
 「王公たちが、俺たちに煙を食わせる。
 俺たちは仲良くなって、専制者たちと闘おう。
 軍隊に対して、ストライキをしよう。
 銃砲を空中に放って、隊列をかき乱そう。
 彼ら人喰いたちがなおも抵抗するなら、
俺たちを英雄に仕立てたいのなら、
 すぐに知るだろう、俺たちの銃口は、
 俺たち自身の将軍さまに向けられていることを。」
 〔歌全体の一部。/大島博光訳を参照した。〕
 (11)このようにレーニンの「ツィンマーヴァルト左派」の教理は過激であるので、ロンベルク領事がその旨をベルリンに説明したとき、ドイツ外務当局は、レーニンの基本的な考え方の出版を抑えるべく介入した。オフラナ(Okhrana)〔ロシア帝制秘密警察〕がそれをロシアにいる社会主義者の大量拘束を正当化するために利用しないように。
 (12)二月革命の前の数カ月、レーニンはドイツの監視網からある程度は離れていた。
 パルヴゥスはロシアでの産業労働者を怠業させる自分の努力に集中しており、ケスキュラは、レーニンがエストニア問題に無関心であるためにレーニンに冷たくなっていた(ドイツの返礼は、1916年10月にケスキュラとの関係を絶つことだった)。
 レーニン自身は、ロシアの事情に疎遠になり始めていた。それについては彼は意気消沈していた。
 1917年1月9日/22日にチューリヒのVolkshaus で、集まっている若き社会主義者たちにこう語りかけた。「我々古い世代の者は、来たる革命の決定的な闘いを生きて見ることはないかもしれない」。(11)//
 (13)レーニンは革命について、1917年3月1日/14日にオーストリアの同志から聞いて初めて知った。
 レーニンは元気になり、ただちにペトログラードへと帰還したかった。西側と東側の前線を避けるためには、スイスからロシアへと最も近くて安全な経路をとることだったが、それにはドイツを縦断することが必要で、ロシア人には本国に戻ることができるのか、疑わしく思えた。
 ベルンのドイツ領事、ロンベルクは、何とか助けたいと思ったが、彼もレーニンも、慎重にことを進める必要があった。
 スイスの社会主義者、F・プラッテン(Fritz Platten)が仲介者として行動し、レーニンとスイスおよびドイツ両政府の間の全ての交渉を処理した。彼は全ての切符を購入し、列車がドイツを縦断する間は公的な「ホスト」と報道官として振る舞い、その結果としてロシア人は誰も、ドイツの役人たちと話す必要がなかった。
 偽装を追加するため、プラッテンはまた、レーニンと19人のボルシェヴィキ仲間-ジノヴィエフ、レーニンの妻のNadazhada、彼の愛人のInessa Armond、および煙草好きのポランド=ユダヤ人のK・ラデク(Karl Radek)ーには、その列車で年配メンシェヴィキ指導者のJ・マルトフ(Jurius Martov)と6人のユダヤ人同盟の非ボルシェヴィキたちが同行している、と明記した。
 プラッテンはさらに、結局は失敗したが、社会革命党(エスエル)の追放者も名簿に入れようとした。これらの愛国的ロシア人の誰も、レーニンと連携するのを望まなかった。
 最も重要な条件は「治外法権」にかかわっていた。プレスの電信で語られた、レーニンの列車は「封印」され、ドイツを縦断中はドアを開けようとしなかった、との物語があった。
 1917年3月23日/4月5日、ドイツ政府は500万ゴールド・マルクをロシアの革命化のために充当した。そしてその4日後に、レーニンは出立した。(12)//
 (14)誰もが封印列車のことを知らせようとしたのかもしれないが、物語はほとんどすぐに漏れ広がった。
 ロシア人はスイスの国境を越えたあとで、列車を交換しなければならなかった。このことは、彼らはドイツの土を、Gottmadingen で「踏んだ」ことを意味する。
 越えたあと、新しいドイツの列車がやって来た。二人のドイツ人将校、団長のvon Planetz と副官のvon Buhring が同行していた。二人とも、ドイツ軍最高司令部で直接に将軍E・ルーデンドルフ(Eeich Ludendorff)に属していた(Buhring は、ロシア語に流暢だったために選ばれた)。
 ドイツ側の記録によれば、我々はつぎのことも知る。第一に、ロシア人の一団は「フランクフルトでの接続を逃し」、そこで長い間、列車の間を、途中下車をしなければならなかった。第二に、ベルリンを通過する間に、四人めのドイツ人の「民間人の服を着た将校」がレーニンが乗る列車を訪れた。第三に、列車はベルリンに20時間停車し、食物と新鮮な牛乳が補給された。第四に、この二回目の遅延によって、ロシア人たちはのちにサスニッツ(Sassnitz)のドイツ・ホテルで、デンマーク行きの次のフェリーを持つ間、完全に一晩を過ごすことを余儀なくされた。
 (15)革命後にドイツから送還されたロシア人捕虜たちの宣誓証言書によると、レーニンの列車がドイツに止まったことが怒りの原因に何らならない、ということはなかった。
 彼らの一人、上級予備士官のF. P. Zinenko は、レーニンがドイツの助けを得たことは、レーニンがウクライナ分離主義を支持したこととともに、捕虜収容所で公然と議論された、と証言した。
 別の証言者、部隊長のE. A. Tishkin は、バルト海岸のStralsund にある収容所では1917年4月に「全員が突然にレーニンについて話し始めた」、サスニッツ近くに向かう途中でレーニンがStralsund を通過することに驚いてではなかった、と報告した。レーニンはサスニッツで、1917年3月29日/4月11日の夜を過ごしていた。
 Tishkin は宣誓して証言した。Stralsund 収容所では、ドイツを縦断している間にレーニンが政治的演説をするために列車を降りていたことは、一般的な知識だった、と。(14)//
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 ②へとつづく。

1929/ロシア革命史に関する英米語文献②。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 上の新書本のいわゆる「オビ」にこうある。
 「日英米を戦わせて、世界共産革命を起こせ-。
 なぜ、日本が第二次大戦に追い込まれたかを、
 これほど明確に描いた本はない

 中西輝政氏推薦」
 そもそも上の江崎の本は「なぜ日本が第二次大戦に追い込まれたか」を第一主題にしているものではない。しかし、かりにそうだったとしても、「これほど明確に描いた本はない」と評価できるような代物では全くない。悲惨で無惨な、体系性・完結性もない奇書だ。
 「オビ」の文章を書くと、あるいは考案すると、又は推薦者として名前を出すだけで、一件あたりいかほどの「収益」になるのだろう。
 中西輝政は、いくら本の中で「インテリジェンス」研究等について感謝されているとはいえ、中身をまるで読まないで、上のような「推薦」をしているに違いない。
 本の表紙等に自分の名前が出るのは、それほどに心地よいものなのか。
 ときには、きわめて恥ずかしいことになる(またはそう評価される)こともあるはずだ。ああ、恥ずかしい。
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 欧米の書物には日本的な「オビ」は付かないようだが、書物のカバー類に(通常は)肯定的な論評文、つまりは「推薦」になるような著者以外が執筆した文章を印刷していることがある。
 Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 前回の①で言及した、2017年刊の「ロシア革命史」本の一つ。
 McMeekinは1974年生まれというから、1923年生まれのR・パイプスより50年以上後の人物で、1941年生まれのS・フィツパトリクよりも一世代ぶんは若い。
 この人の上の著の裏表紙カバーに4つの「論評」文が掲載されている。
 そのうち何と三つが、短い文章の中でロシア革命と「ドイツ」の関係にとくに言及しているのが気を惹いた。
 なお、①ではR・パイプスとO・ファイジズの各著に言及があることも、前回に述べたことを補強するものだ。
 ①フーヴァー研究所主任研究員のNiall Ferguson によるもの(全文/試訳)。
 「Richard Pipes がロシア帝国でのボルシェヴィキによる権力奪取に関する歴史書を刊行してから四半世紀、ソヴィエトの崩壊に続いてのOrland Figes の<人民の悲劇>から20年、これらは決定的(definitive)だと思われた
 しかしここに、Sean McMeekin が、新しい証拠資料を用い、独自の地政学的な見方を提示しつつ、生き生きとした新しい説明を加えて、登場する。
 レーニンがドイツの活動員(operative)だった、その完全で衝撃的な範囲が、ここに明瞭になる。『革命的敗北主義』が蔓延する前にボルシェヴィキを破滅させておかなかつたケレンスキーの過ちの重大さも明瞭になるとともに。
 McMeekin は、力強く歴史を叙述する。
 彼の<The Russian Revolution>は読者の心を<掴む(grip)>。」
 ②『ロマノフ一族』の著者のSimon Sebag Montefiore によるもの(一部/試訳)。
 「ロシア革命に関するSean McMeekin の新しい歴史書は、よく知られた物語を…叙述でもって、しかしそれだけではなく、とりわけドイツによるボルシェヴィキへの財政支援(funding)について、刺激的な〔魅惑的な〕新しい資料を明からにすることを付加して〔飾って〕、叙述している。」
 ③<A Mad Ctastrophe>の著者のGeoffrey Wawro によるもの(一部/試訳)。
 「…。McMeekin のレーニンは、英雄的ではなくて、いかがわしい(seedy)。
 彼によるボルシェヴィキの勝利は、ブルジョア亡命者がペトログラードでレーニンの最初の妨害物になる前にレーニンのポケットに10億ドルを詰め込んだドイツ軍によって設計された、裏切り行為だ。」
 レーニンまたはボルシェヴィキとドイツ(ドイツ帝国)との関係については、Richard Pipes の1990年著も(ソ連解体前の資料によりつつも)相当程度に立ち入って明確な第一次資料を使って記述しており(送金先のペトログラードの個人または商会など)、1917年4月にレーニンがロシア(・ペトログラード)に帰還する途上の某地で某と送金額・送金方法等の「協議」をしただろうとの「推測」まで記している(試訳済み。確認を省略する)。
 先行の研究がないわけではないだろうが、上のような紹介を含む論評からすると、ドイツとレーニン・ボルシェヴィキの関係に関する「新しい」情報を知りたくなる。
 もっとも、冒頭で記した日本での江崎道朗/中西輝政のような「推薦」の例もあるので、英米語圏でのこうした論評・紹介類によって多大な「期待」を抱かない方がよいのかもしれない、とは言える。
 なお、ドイツとの関係は、十月「革命」までのみならず、ブレスト=リトフスク条約、ラパッロ条約から独ソ不可侵協定(・対独「祖国大戦争」)まで、ロシア・ソ連史の重要な対象であるはずだろう。

ギャラリー
  • 2066/J・グレイ・わらの犬(2003)「序」②。
  • 2047/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)②。
  • 2013/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節①。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
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  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
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  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
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  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
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  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
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  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
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  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
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  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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