秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

R・パイプス

1953/R・パイプス著・ロシア革命第11章第11節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言①。
 (1)ボルシェヴィキ・クーの最終段階は、10月24日、火曜日の朝に進行していた。それは、軍事幕僚たちが政府によって前夜に命じられた熱の入らない手段を履行したあとだった。
 10月24日の早い時間に、<ユンカー(iunkers)>が戦略的重要地点を護衛する義務を受け持った。
 二または三の部隊が、冬宮の防衛のために派遣された。そこで彼らは、140人の志願者から成るいわゆる女性決死部隊(Women's Death Battalion)、いくつかのコサック、自転車部隊、将校に指揮された義肢の、および若干の銃砲の破片が体内にある、40人の戦争傷病者の兵団と合流した。
 驚くべきことに、一発の銃砲も用いられなかった。
 <ユンカー>は、<Rabochiipof>(<元プラウダ>)と<兵士>の印刷所を閉鎖した。 スモルニュイとの電話線は、切断された。
 親ボルシェヴィキの兵士や労働者が首都中心部に入るのを阻止するため、ネヴァ河(Neva)に架かる橋を上げよとの命令が、発せられた。
政府軍事幕僚は、連隊に対して軍事革命委員会の指示を受けることを禁じた。
 また、実際の効果はなかったが、軍事革命委員会のコミサールを逮捕せよとも命じた。(187)//
 (2)こうした準備によって、危機の雰囲気が生まれた。
 その日、ほとんどの事務所は午後2時半までに閉じられ、人々は家へと急いで帰って、街頭は空になった。
 これは、ボルシェヴィキが待ち望んでいた「反革命」の合図だった。
 ボルシェヴィキはまず、彼らの二つの新聞を復刊させた。午前11時までに、これを達成した。
つぎに、中央電信電話局とロシア電信庁を奪取すべく、軍事革命委員会は武装分団を派遣した。
 スモルニュイからの電話線は再びつながった。
 このように、クーの最も早い目標は、情報と通信線の中心地だった。//
 (3)その日午後に行われた唯一の実力行使(violence)は、軍事革命委員会の部隊がネヴァ河を横切る橋梁を下げさせたことだった。//
 (4)蜂起がこの最後で決定的な段階に至っているとき、軍事革命委員会は10月24日夕方、風聞にもかかわらず、反乱をしているのではなく、たんに「ペトログラード連隊と民主主義」を反革命から防衛する行動をしている、との声明文を発した。(188)//
 (5)考えられ得ることしてはこの虚偽情報の影響を受けて、全く連絡をとっていなかったに違いないレーニンは、同僚たちに実際に行っていることをさせるべく、絶望的な覚え書を書いた。//
 「私はこの文章を(10月)24日夕方に書いている。状況はきわめて深刻だ。
 今や本当に、ますます明らかになっている。蜂起を遅らせるのは、死に等しい。//
 ある限りの最大の力を使って、同志たちに訴えたい。全てがいま、危機一髪の状態だ。どの集会に(ソヴィエト大会であっても)諮っても回答されない問題に直面している。答えられるのは、人民、大衆、武装した大衆の闘いだけだ。//
 コルニロフ主義者のブルジョア的圧力、Verkhovskii の解任は、待つことはできない、ということを示す。
 ともかく何であれ、必要だ。この夕方、この夜に、政府人員を拘束すること、<ユンカー>を武装解除する(抵抗があれば打ち負かす)こと、…<略>。
 誰が、権力を奪うべきなのか?
 これは、今すぐには重要でない。軍事革命委員会に権力を、または「何らかの他の装置」を奪取させよ。…<略>//
 権力掌握こそが、蜂起の任務だ。その政治的目標は、権力を奪取した後で初めて明らかになるだろう。//
 10月25日の不確実な票決を待つのは、地獄か形式主義だ。
 人民には、投票によってではなく実力行使でもってその問題を解決する権利と義務がある。…<略>」(*)//
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 (*) レーニン, <PSS>XXXIV, p.435-6. Verkhovskii は、ロシアは中央諸国と即時講和をすべきだと閣僚会議で主張して、その前日(10月23日)にその職を解任されていた。<SV>No.10, 1921年6月19日, p.8.
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 (6)レーニンは、その夜おそく、スモルニュイにやって来た。
 彼は完全に変装していて、包帯を巻いた顔からして歯医者の患者のように見えた。
 途中で政府の巡視隊にほとんど逮捕されるところだったが、酔っ払っているふりをして免れた。
 スモルニュイでは、背後の部屋の一つにいて、最も親しい仲間たちだけが近づけるようにして、姿を消したままでいた。
 トロツキーは、こう想起する。レーニンは、軍事幕僚との間に進行中の交渉について聞いて懸念を覚えたが、この対話は見せかけ(a feint)だと理解すると、ただちに愉快に微笑んだ。//
 レーニンは「おう、それはよい(goo-oo-d)」と陽気に強い声で言って、緊張して手を擦りながら、部屋の中を行ったり来たりしていた。
 「それは、とても(verr-rr-ry)よい」。
 レーニンは軍事的な策謀を好んだ。敵を欺くこと、敵を馬鹿にすること-何と愉快な仕事だ!(189)//
 レーニンはその夜を床の上でゆっくりと過ごした。その間に、ポドヴォイスキー、アントノフ=オフセエンコ、およびトロツキーの全幅的指揮下にある彼の友人のG. I. Chudnovskii が、作戦行動を司令した。//
 (7)その夜(10月24日-25日)、ボルシェヴィキはピケを張るという単純な方法で、戦略上重要な目標地点の全てを系統的に奪い取った。
 Malaparte が論述したように、これは現代の模範的なクー・デタだった。
 <ユンカー>護衛団は、家に帰れと言われた。そして自発的に撤退するか、または武装解除された。
 こうして、闇夜に紛れて、一つずつ、鉄道駅、郵便局、中心電話局、銀行、そして橋梁が、ボルシェヴィキの支配のもとに置かれた。
 抵抗に遭遇することはなく、一発の銃火も撃たれなかった。
 ボルシェヴィキは、想像し得る最もさりげない方法でエンジニア宮を奪取した。
 「彼らは入ってきて、幕僚たちが立ち上がって去っていった座席を占めた。かくして、幕僚本部は奪取された。」(190)
 (8)ボルシェヴィキは、中央電信電話交換局で冬宮からの電話線を切断した。しかし、登録されていなかった二つの線を見逃した。
 この二つの線を使って、Malachite 室に集まっていた大臣たちは外部との接触を維持した。
 ケレンスキーは、公的な声明では自信を漂わせてはいたものの、ある目撃者によると、「苦悩と抑制した恐怖」を隠して半分閉じた眼で、虚ろを見つめて誰も視ておらず、老けて疲れているように見えた。(191)
 午後9時、T・ダン(Theodore Dan)とAbraham Gots が率いるソヴェト代表が現れて、「革命的」軍事参謀の影響によってボルシェヴィキの脅威を過大評価している、と大臣たちに告げた。
 ケレンスキーは、彼らを閉め出した。(192)
 その夜にケレンスキーはついに、前線の司令官たちに連絡をし、救援を求めた。
 しかし、無駄だった。誰も求めに応じなかった。
 10月25日午前9時、ケレンスキーは、セルビア将校に変装し、アメリカ合衆国大使館から借りた車で冬宮を抜け出した。その車はアメリカの旗を立て、助けを求めて前線へと走った。
 (9)その頃までに、冬宮は、政府の手に残された唯一の建造物だった。
 レーニンが執拗に主張したのは、第二回ソヴェト大会が正式に開会して臨時政府を排斥する前に、大臣たちは拘束されなければならない、ということだった。
 しかし、ボルシェヴィキの軍組織はその任務を果たすのに適切ではなかった。
 彼らボルシェヴィキ部隊は主張はしたけれども、敢えて銃砲を放とうとする者たちがいなかった。
 4万5000人いるとされた赤衛隊(Red Guards)とペトログラード守備連隊内部の数万の支持者たちは、どこにも現れなかった。
 冬宮に対する不本意な攻撃が、明け方に始まった。しかし、最初の射撃の音を聞いて、攻撃者たちは退却した。
 (10)苛立ちを燃え上がらせ、前線の兵団による介入を怖れて、レーニンは、もう待たない、と決断した。
 午前8時から9時までの間に、彼は、ボルシェヴィキの作戦指揮室に入った。
 最初は誰も、彼が何者なのか分からなかった。
 ボンチ=ブリュエヴィチ(Bonch-Bruevich)は、彼がレーニンだと認識して、嬉しさが爆発した。「ウラジミル・イリイチ、我が父だ。きみだとは気づかなかった」と叫びながら、レーニンを抱擁した。(193)
 レーニンは座って、軍事革命委員会の名前で臨時政府が打倒されたことを宣言する文書を起草した。
 プレスに(10月25日)午前10時に発表された文章は、つぎのとおりだった。
 「ロシアの市民諸君!
 臨時政府は打倒された。
 政府の権能は、ペトログラードのプロレタリアートと守備連隊の頂点に位置する、ペトログラード労働者・兵士代表ソヴェト、軍事革命委員会の手に移った。
 人民が目ざして闘うべき任務-民主主義的講和の即時提案、土地にかかる地主的所有制の廃絶、生産に対する労働者による統制、ソヴェト政権の確立-、これらの任務の遂行は保障された。
 労働者、兵士および農民の革命に栄光あれ!
 ペトログラード労働者・兵士代表ソヴェトの軍事革命委員会。」(*)
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 (*) <Dekrety>I, p.1-2. ケレンスキーの妻は拘束され、この宣言書を破ったとしてつぎの日の48時間留置された。A. L. Fraiman, <<略>>(Leningrad, 1969), p.157.
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 (187) <Revoliutsiia>V, p.164, p.263-4.
 (188) <SD>No.193(1917年10月26日), p.1.
 (189) トロツキー, <レーニン>p.74.
 (190) Maliantovich, <Boyle>No.12(1918年)所収, p.114.
 (191) 同上, p.115.
 (192) Melgunov,<Kak bol'sheviki>p.84-p.85.; A・ケレンスキー,<ロシアと歴史の転換点>(New York, 1965), p.435-6.
 (193) S. Uranov, <PR>No.10/33(1924年), p.277.
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 ②へとつづく。

1951/R・パイプス著・ロシア革命第11章第9節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第9節・軍事革命委員会がクー・デタを開始。
 (1)ミルレヴコム〔以下、軍事革命委員会〕の書記だったボルシェヴィキのアントノフ=オフセエンコはのちに、それは「党の軍事活動のための形式的なカバー(cover)」だったと叙述した。(164)
 軍事革命委員会は、二回だけ会合をもった。ボルシェヴィキ軍事組織が「ソヴェト」の標札(label)を自分に貼るには、その二回で十分だった。(165)
 アントノフ=オフセエンコは、同委員会が直接にボルシェヴィキ中央委員会の指揮のもとで活動したこと、「事実上の党機関」だったことを認める。
 そのようなものであったため、しばらくの間、軍事革命委員会のボルシェヴィキ組織の一部への変質に関する考究がなされた。(166)
 彼が叙述するように、スモルニュイ(Smolnyi)の10号室と17号室にあった委員会の司令部は行き来する若い男たちで一日じゅう混雑していて、かりにその気があったとしても、深刻な仕事をすることができない環境にあった。
 (2)共産党の資料によると、軍事革命委員会には、武装反乱のためにペトログラード守備連隊の全てまたはほとんど全てを動員する信任が与えられている。
 かくしてトロツキーは、十月には「連隊の圧倒的多数が公然と労働者の側に立っていた」と主張する。(167)
 しかしながら、現在の証拠資料が示すのは、守備連隊に対するボルシェヴィキの影響はもっとはるかに控えめだった、いうことだ。
 ペトログラード守備連隊の雰囲気は、革命的と言えるものではなかった。
 圧倒的にも、首都の兵舎にいる16万人と近郊に配置された8万5000人の兵士たちは、近づく衝突に対して「中立」を宣言した。
 十月の前夜にボルシェヴィキを支持する傾向にあった連隊部隊の数字は、ごく少数派だつたことを示している。
 スハノフは、多くて連隊の10分の1が十月のクーに参加した、「もっとはるかに少なかったようだ(likely many fewer)」、と見積もる。(169)
 著者自身の計算では、積極的に親ボルシェヴィキだった連隊兵士は(クロンシュタット海軍基地を除外して)おそらく1万人、または4パーセントくらいだ。
 中央委員会の悲観論者は、兵団を獲得するためにレーニンが想定した即時休戦がかりに支持されたとしても、ボルシェヴィキは連隊の支持を得られない、という理由で、武装反乱に反対した。//
 (3)しかし、楽観論者の方が正しかった(right)。なぜなら、臨時政府を拒否させるためには、さほど多くの連隊の支持を得る必要はなかったからだ。   
 ボルシェヴィキが連隊のわずか4パーセントでも味方につけていたとすると、政府に味方したのは、それよりも少なかっただろう。
 ボルシェヴィキの主要な関心は、、政府が7月にはそうできたように、ボルシェヴィキに反対させるべく連隊兵士たちを駆り出すことを阻止することだった。
 この目的のためには、政府の軍事幕僚からその正統性を奪う必要はなかった。
  ソヴェトとその兵士部門の名前で行動した10月21-22日にこれを達成して、ボルシェヴィキは軍事革命委員会に、守備連隊に対する排他的な権限をもつことを主張させた。//
 (4)軍事革命委員会はまず最初に、ペトログラード市内および近郊の部隊に対して200人の「コミサール」を派遣した。彼らコミサールの大半はボルシェヴィキ軍事組織の若い将校で、七月蜂起に参加し、最近に仮釈放で監獄から出てきていた。(170)
 つぎに委員会は、10月21日、スモルニュイで連隊委員会の会合を開いた。
 トロツキーは兵士たちに向かって、「反革命」の危険を強調し、連隊がソヴェトとその機関である軍事革命委員会に結集するよう訴えた。
 彼はまた、曖昧な言葉遣いであるために容易に受諾されやすい、つぎのような宣言文書を提案した。//
 「ペトログラード兵士労働者代表者ソヴェトの軍事革命委員会の設立を歓迎し、ペトログラード守備連隊は、同委員会に対して、革命の利益のために前線と後方の連絡をもっと親密することに最大限の尽力をし、全面的に支援することを誓約する」。//(171)
 いったい誰が、「革命の利益のために前線と後方の連絡をもっと親密する」ことに反対することができたのか?
 しかし、ボルシェヴィキは、この決定はペトログラード軍事地区の政府軍事幕僚の機能を軍事革命委員会が担うようにすると解釈させることを意図していた。
 ポドヴォイスキー(Posvoiskii)によれば、これは、武装暴乱の開始を記すものだった。(172)
 (5)つづく夜(10月21-22日)、軍事革命委員会からの一人の代理人が〔臨時政府〕軍事幕僚司令部に姿を見せた。
 その代理人、ボルシェヴィキの小佐のダシュケヴィチ(Dashkevich)は、〔臨時政府〕ペトログラード軍事地区司令官のG. P. Polkolnikov 大佐に、守備連隊委員会会合の権限でもって、いま以降、連隊に対する幕僚たちの命令は軍事革命委員会による副署があって初めて有効なものになる、と伝えた。
 もちろん兵士たちは、そのような決定を行っておらず、かりにそうしていたとしても、無効なものだった。その代理人は、実際にはボルシェヴィキ中央委員会に代わって行動していた。
 Polkolnikov は、その代理人を認知していない、と答えた。
彼が逮捕させるぞと脅かしたあとで、実質的にはボルシェヴィキからの派遣者は去って、スモルニュイへと向かった。(173)
 (6)その代理人からの報告を聞いて、軍事革命委員会は連隊の第二回会合を開いた。
 誰が来て出席したのか、誰を代表してだったのかは、確定することができない。
 しかし、それは問題ではない。その頃までには、偶然に集まったどの集団も、「革命」を代表していると主張することができた。
 軍事革命委員会が提案して、連隊委員会会合は詐欺的な声明〔宣言書〕を承認した。それは、10月21日に連隊は軍事革命委員会をその「機関」だと指定したけれども、連隊は承認することもそれ〔軍事革命委員会〕と協力することも拒否する、と主張するものだった。
 代理人が「承認」または「協力」を求めなかったということには何の言及もされなかった。しかし、幕僚命令を取消す権限には言及があった。
 その決定文書は、こう続いた。
 「このようにして、〔臨時政府〕軍事幕僚たちは革命的連隊とペトログラード兵士労働者代表ソヴェトと決裂した。
 首都の組織された連隊と決裂して、〔臨時政府軍事〕幕僚は反革命勢力の直接的武器に変質した。<中略>
 ペトログラードの兵士諸君! 1. 反革命の試みに対する革命的指令が、軍事革命委員会の指揮のもとで、きみたちに与えられる。。
 2. 連隊に関する、軍事革命委員会の副署を欠く〔政府幕僚の〕全ての命令は、無効だ。<略>」(174)//
 (7)この決議は、つぎの三点の目標を達成していた。
 1. ソヴェトの名をもつとされる臨時政府は「反革命的」だ。
 2. 臨時政府から守備連隊に対する権限を奪った。
 3. 軍事革命委員会に、権力を追求する意図を隠す革命の防衛という言い訳を与えた。//
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 (164) V. A. Antonov-Ovseenko, <<略>>(Moscow, 1933), p.276.
 (165) Robert V. Daniels, <赤い十月>(New York, 1967), p.118.
 (166) <Kritika>IV, No.3(1968年春号), p.21-p.32.; N. I. Podvoiskii, <神・1917年>(Moscow, 1958), p.104. を見よ。
 (167) トロツキー, <歴史>III, p.290-1.
 (168) G. L. Sobolev, <IZ>No.88(1971)所収, p.77.
 (169) スハノフ, <Zapiski>VII, p.161.
 (170) O. Dznis, <Living Age>No.4,019(1922年2月11日)所収, p.328.
 (171) <イズヴェスチア>No.204(1917年10月22日), p.3.; <Revoliutsiia>V, p.144-5.
 (172) Podvoiskii, <神・1917年>, p.106-p.108.
 (173) Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.68-p.69.; Antonov-Ovseenko, <<略>>, p.283.; <NZh>No.161/155(1917年10月24日), p.3.
 (174) D. A. Chuganov, ed.,<<略>>I(Moscow, 1966),p.63. この宣言書は、ボルシェヴィキの日刊紙<Rabochii put'> 10月24日に初めて掲載された。
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 以上、第9節。第10節の目次上の見出しは<ケレンスキーが反応する>。

1410/ロバート・W・デイヴィス・現代ロシアの歴史論争(岩波、1998)を一部読む。

 一 ロバート・W・デイヴィス(イギリス人学者)は、同〔内田健二=中嶋毅訳〕・現代ロシアの歴史論争(岩波書店、1998/原書1997)で、主として1988年半ば~1996年半ば-すなわちソ連崩壊後の時期を含む-のソ連又は主としてロシアでのソ連史・ロシア史の「見直し」の状況を紹介し、また論じている。
 その「第11章/レーニン、スターリンと新経済政策」は「第10章/レーニンと内戦」に続くものだが、その第11章の最後の段落でまず、こう述べている。邦訳書からの引用。p.266。
 「総じて内戦とネップの初期についての新たな史料は、世界が『人間の顔をした社会主義』に向かう動きを再び始めると考えている私自身のような時代遅れの人間にはほとんど慰めを与えてくれない」。
 彼自身は「人間の顔をした社会主義」への再出発を期待しながらも、そのような希望に、新しい、レーニンやスターリン等に関する、従来は「秘密」だった史料は「ほとんど慰めを与えてくれない」、というわけだ。
 そのあと、「慰め」になるかもしれない「傾向」がいくつか(これら自体興味深いがここでは省略)見出される、としつつ、こう続けて、この章を終える。p.266-7。
 「しかし、ここで見た証拠によれば、こうした傾向は弱いものであり、容易に打倒された。そしてレーニン自身が-〔略〕-他のすべての政治集団を容赦なく抑圧する一党制に傾倒しつづけていたとりわけオ・ゲ・ペ・ウ〔ゲペウの前身、チェカーの後身/国家保安秘密警察〕によって与えられた『証拠』は党指導者たちの政策に影響を与えた。そして秘密警察の政治的役割は絶えず膨張していったのである」。
 日本共産党、または党員学者の文献にはレーニンは多党制を容認・支持していたかのごとく書いているものがあるかもしれないが、事実に反するデマだ。たしかに1917年10月の「革命」時点で共産党(ボルシェヴィキ)だけが実質的な国家最高権力の指導部を構成していたわけでは(辛うじて)ないが、すみやかに共産党=国家になったことは広く(少なくともロシア・ソ連史の日本を含む研究者には一致して)認められている、と思われる。
 この点や、チェカーなどには、別の機会にまた触れるだろう。なお、「革命」時点でロシア<全国>あるいは<農民>を掌握したわけでも全くない。のちに「戦時共産主義」時代ともいわれる「内戦」が長く続き、レーニン指導のボルシェヴィキ対する<農民>の激しい抵抗等もあった。
 二 リチャード・パイプスらの<反共産主義>が明確な学者や論者の叙述を紹介しても、日本共産党員や同党支持者または日本の「左翼」は、<反共>主義者ということでもってその叙述を疑う、または容易には信頼しないかもしれない。
 注意を惹いておきたいのは、上の書物は、ほとんど「左翼」的または「容共」的な、すくなくとも<反共産主義的ではない>本・雑誌ばかりを日本で出版している、岩波書店が出版している、ということだ。
 この欄では-すでにある程度は意識してきたのだが-、<岩波書店(または朝日新聞社等)発行の文献ですら、~と述べている>、という紹介や言及の仕方をすることがある。
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