秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

R・パイプス

1433/ロシア革命史年表②-R・パイプス著(1990)による。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.849-p.850。
 /の左右に日付(月日)がある場合、左は旧暦、右は新暦。
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 1906年
  3月 4日 集会と結社の権利を保障する法令発布。
   4月16日 ウィッテが閣僚会議議長を退任、ゴレミュイキンと交代。
  4月26日 新基本法(憲法)公布される。ストルイピン、内務大臣に。
  4月27日 ドゥーマ、開会。
  7月 8日 ドゥーマ、閉会。ストルイピン、閣僚会議議長に指名される。
  8月12日 社会主義革命党原理主義者、ストルイピンの生命を狙う。
  8月12日・27日 ストルイピンの第一次農業改革。
  8月19日 民間人対象の軍法会議の提案。
 11月 9日 ストルイピンの共同体的土地所有に関する改革。
 1907年
  2月20日 第二ドゥーマ、開会。
  3月    ストルイピン、改革綱領を発表。
  6月 2日 第二ドゥーマ、閉会。新選挙法。
 11月 7日 第三ドゥーマ、開会。1912年までの会期。
 1911年
  1月-3月 西部のZemstvo の危機。
  9月 1日 ストルイピン、射撃され、4日後に死亡。ココフツォフが後継者。
 1912年
 11月15日 第四(そして最後の)ドゥーマ、開会。
 ボルシェヴィキとメンシェヴィキの最終的な分裂。
 1914年
  1月20日 ゴレミュイキン、閣僚会議議長に。
  7月15日/28日 ニコライ、部分的な戦争動員を命令。
  7月17日/30日 ロシア総動員令。
  7月18日/31日 ドイツ、ロシアに対する最後通告。
  7月19日/8月1日 ドイツ、ロシアに戦争を宣言(宣戦布告)。
  7月27日 ロシア、ルーブルの交換を停止。
  8月    ロシア軍、東プロシャおよびオーストリア・ガリシアへと侵攻。
  8月末   ロシア軍、東プロシャで敗退。
  9月 3日 ロシア軍、オーストリア・ガリシアの首都、レンベルク(ルヴォウ)を奪取。
 1915年
  4月15日/28日 ドイツ、ポーランドでの攻撃に着手。
  6月11日 スコムリノフ、戦争大臣を解任され、ポリワノフに交替。
  6月    さらに内閣人事の変更。
  6月-7月 進歩的ブロックの形成。
  7月    国家防衛特別会議の創設。軍需産業委員会を含むその他の会議・委員会が、戦争行動の助力のため従う。
  7月9日/22日 ロシア軍、ポーランドからの撤収を開始。
  7月19日 ドウーマが6週間、再開される。ロシア兵団、ワルシャワから逃亡。
  8月21日 ほとんどの大臣、ニコライにドゥーマによる内閣の形成を要望。
  8月22日 ニコライ、個人的にロシア軍団司令権を握り、モギレフの総司令部へと出発。
  8月25日 進歩的ブロック、9項目綱領を公表。
  8月    政府、全国Zemstvo と地方会議組織の設立を承認。
  9月 3日 ドゥーマ、閉会。
  9月    戦争反対社会主義者のツィンマーヴァルト(Zimmerwald)会議。
 10月    中央労働者集団の設立。
 11月    Zemstvoの全国統一委員会(Zemgor)が創設される。
 1916年
  1月20日 ゴレミュイキン、閣僚会議議長を、ステュルマーと交代。
  3月13日 ポリワノフ、戦争大臣を解任され、シュヴァエフと交代。
  4月    戦争反対社会主義者のキーンタール(Kiental)会議。    
  5月22日/6月4日 ブルシロフの攻撃、開始。
  9月18日 プロトポポフ、内務大臣代行に。12月に内務大臣に昇格。
 10月22-24日 カデット党大会、来るドゥーマ会期での論争戦術を決定。
 11月 1日 ドゥーマ、再開会。ミリュコフ、政府中枢での裏切りを示唆。
 11月8-10日 ステュルマー、解任される。
 11月19日 A・F・トレポフ、閣僚会議議長に。ドゥーマに協力要請。
 12月17日 ラスプーチンの殺害。
 12月18日 ニコライ、マギレフを離れ、ツァールスコエ・セロに向かう。
 12月27日 トレポフ、解任され、ゴリツィンと交代。」
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 *1917年以降につづく。

1432/ロシア革命史年表①-R・パイプス著(1990)による。

 ロシア革命の歴史年表については、昨年10/22の<日本共産党の大ウソ30>の中にその一部を記しているが、研究者による本格的で詳しい年表があるので、以下に、そのまま翻訳して記載しておく。
 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)。これは本文842頁、その後の注・索引等を含めて946頁、最初の目次等を含めると計960頁を超えそうな大著で、邦訳書はない。
 以下は、この著のうち、p.847-p.856の「年表」の一部で、今回①は、p.847からp.849の一部まで。
 なお、上の著はおよそ1919年くらいまでを対象としており、別著の、Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995、<ボルシェヴィキ体制下のロシア>)と併せて、おおよそスターリン期開始まで(あるいはレーニン死去まで)の、Richard Pipes の広義の<ロシア革命史>叙述が完成している。
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 「年表(Chronology)
 この年表は、この本で対象とする主要な諸事象を列挙する。別のことを記載しないかぎり、1918年2月以前の月日は、ユリウス暦(『旧暦』)により記す。この日付は、19世紀の西洋暦よりも12日遅く、21世紀のそれよりも13日遅い。1918年2月からの月日は、西洋暦に一致する『新暦』で記される。
 1889年
  2月-3月 ロシアの大学生たちのストライキ。
  7月29日 不穏学生を軍隊に徴用する権限を付与する「暫定命令」。
 1900年 
 政府、Zemstva の課税権を制限。
 11月 キエフ、その他の大学で騒乱。
 1901年
  1月11日 183名のキエフの学生を軍隊に徴用。
  2月    教育大臣・ボゴレポフの暗殺。警察支援の(Zubatov)商業組合が初めて設立。
 1902年 
 1901-2年の冬 ロシア社会民主党(PSR)の結成。
  6月    リベラル派、ストルーヴェの編集により隔週刊雑誌 Osvobozhdenie(解放)をドイツで発行。
  3月    レーニン『何をなすべきか ?』
  4月 2日 内務大臣・シピアギンの暗殺。プレーヴェが後継者。
 1903年
  4月 4日 キシネフの大量殺害。
  7月-8月 ロシア社会民主党第二回(創設)大会。メンシェヴィキ派とボルシェヴィキ派に分裂。
   7月20-22日 解放同盟、スイスで設立される。
1904年
  1月 3-5日 解放同盟、ペテルスブルクで組織される。
  2月 4日  プレーヴェ、ガポンの集会開催を承認。
  2月 8日 日本軍、旅順を攻撃。露日戦争の開始。
 7月15日 プレーヴェの暗殺。
  8月    ロシア軍、遼陽で敗戦。
 8月25日 スヴィアトポルク-ミルスキー、内務大臣に。
 10月20日 解放同盟第二回大会。
 11月 6-9日 Zemstvo 大会、ペテルスブルクで。  
 11-12月 解放同盟が全国的な夕食会宣伝活動を組織。
 12月 7日 ニコライと高官が改革綱領を討議。国家評議会に被選挙代議員を加える考えを拒否。
 12月12日 改革を約束する勅令公布。
 12月20日 旅順、日本軍に降伏。
 1905年
  1月 7-8日 父ガポンによりペテルスブルクで大産業ストライキが組織される。
  1月 9日 血の日曜日。
  1月18日 スヴィアトポルク-ミルスキー解任、ブリュイギンに交代。
  1月10日以降 ロシア全域で産業ストライキの波。
  1月18日 政府がドゥーマの招集を約束し、苦情陳述請願書を提出するよう国民に求める。
  2月    ペテルスブルクの工場で政府後援の選挙。   
  2月    ロシア軍、瀋陽(ムクデン)を放棄。
 3月18日 全高等教育機関が在籍年限を超えた者に対して閉鎖。 
 4月     第二回Zemstvo 大会、憲法制定会議を要求。
  春     6万の農民請願書が提出される。
  5月 8日 組合同盟がミリュコフを議長として設立される。
  5月14日 ロシア艦隊、対馬海峡の戦闘で破滅。D・F・トレポフ、内務大臣代行に。
 6月    オデッサでの反乱と虐殺。戦艦ポチョムキンでの暴動。
 8月 6日 ブリュイギン、(諮問機関的な)ドゥーマ開設を発表。
  8月27日 政府が寛大な大学規制を発表。
  9月 5日(新暦) 露日講和条約に署名、ニューハンプシャー・ポーツマスで。
  9月    学生が労働者に大学施設を開放。大衆煽動。
  9月19日 ストライキ活動の再開。
 10月 9-10日 ウィッテ、ニコライに大きな政治的譲歩を強く求める。
 10月12-18日 立憲民主党(カデット、Kadet)結成。
 10月13日 ペテルスブルクで中央ストライキ委員会設立、まもなくペテルスブルク・ソヴェトと改称。
 10月14日 ストライキにより首都が麻痺。
 10月15日 ウィッテ、十月マニフェストの草案を受諾。
 10月17日 ニコライ、十月マニフェストに署名。
 10月18日以降 反ヤダヤ人・反学生の虐殺。地方での暴乱が始まる。
 10月-11月 閣僚会議議長・ウィッテ、内閣に加入すべき民間人との討議を開始。
 11月21日 モスクワ・ソヴェト設立。
 11月24日 定期刊行物の事前検閲を廃止。
 12月 6日 ペテルスブルク・ソヴェト、ゼネ・ストを指令。
 12月 8日 モスクワ武装蜂起が鎮圧される。
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*1906年以降につづく。
 

1419/D・トランプとR・パイプス。

 D・トランプはキューバ・カストロについて、「自国民を抑圧した独裁者」だと断定し、キューバは「全体主義」国だと適切にも言い放っている。
 トランプはアメリカの共和党員として、同じく共和党のR・パイプスの<共産主義>に関する書物を読んでおり、反共産主義はトランプにとっての常識または皮膚感覚になっているのではないか。選挙戦中に中国やソ連について何と言ったかしらないが、種々の外交的駆け引きを別にすれば、中国やロシアに<甘い>ことはないだろう。
 R・パイプスの共産主義やロシア革命等にかんする本には、知識人、とりわけ「左翼知識人」に対する皮肉っぽい言辞がしばしば見られる。
 西側の知識人はこの点はあまり認めようとはしないが…、とか、知識人の多くは強調しているが、実際にはこうだった、とかの文章が見られる。例えば、彼はかなり一般的な歴史叙述と違って、<10月革命>後の<干渉戦争>なるものの実際の圧力の大きさをさほどのものとは見ていない。すでにこの欄で用いた表現を再び用いると、ボルシェヴィキは「干渉戦争」とではなく、ロシア国民との間の「内戦」をこそ戦っていた。それは、ドイツとの講和後も、一次大戦終了後も続いた。
 トランプの勝利はアメリカの<左翼的>知識人とメディア関係者の敗北で、ナショナリストの勝利だ。
 反共産主義のナショナリスト。なかなかけっこうではないか。
 イギリスのEU離脱を予想しないでおいて一斉に批判する(あるいは懸念する)、クリントンの勝利を疑わずトランプが当選するはずはないと予想する、そういう日本のメディアのいいかげんさ、ほとんど一致して同じことをいうという<全体主義的気味の悪さ>を感じていたので、トランプ当選は驚きではなく、精神衛生によかった。
 偽善・タテマエの議論は排して、各国が反共産主義(自由主義経済)とナショナリズムで切磋琢磨すればよい。
 日本人はいかほど意識しているのか。R・パイプスによれば、中国も北朝鮮もベトナムも、そしてキューバも、「共産主義」国だ。
 アメリカや欧州ではとくに1989/91年以降に<ソ連・社会主義>が解体した歴史的意味を真剣に考えて、議論した。
 日本では、真摯な議論はまるでなかった、と断じたい。日本共産党が゚1994年にソ連は社会主義国でなかったと新しく「規定」するまでの間、日本の政治は、日本の<反共・保守>論壇は、いったい何をしていたのか。
 1990年代の前半、政治改革とやらに集中し細川護熙政権を生み、自社さ・村山連立政権を生み、1995年の戦後50年村山談話を生み出した。
 あの時代-まだ20年あまり前だが-、<反共・保守>は結束して、日本共産党および「共産主義」を徹底的に潰しておくべきだったのだ。
 政治家の中での最大の責任者は、小沢一郎。その後に幹事長として民主党政権を誕生させたことも含めて、小沢一郎こそが、日本の政治を攪乱し、適切な方向に向かわせなかった最大の犯罪者だろう。
 今や小沢は、<左翼・容共>の政治家に堕している。
 1989/91年を、おそらくは公になっていない「権力」闘争・内部議論を経て、日本共産党は生き延びてしまった。日本の政治家たちは、そして<保守>の論者たちはいったいこの当時に何をしていたのかと、厳しく糾弾したい思いだ。

1418/国家・共産党・コミンテルン04-02/デクレ。

 一 R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)の原書は、R.Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995)だ。
 これとは別に、Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)があり、これは本文842頁、その後の注・索引等を含めて946頁、最初の目次等を含めると計960頁を超えそうな大著だ。これには、邦訳書がない。
 また、これのコンサイス版が邦訳書のあるA Concice History of the Russian Revolution (1995)のようにも見えるが、訳者の西山克典が「訳者あとがき-解説にかえて」で書いているように、この邦訳書・ロシア革命史(成文社、2000)は、上記のThe Russian Revolution (1990)と、Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995、<ボルシェヴィキ体制下のロシア>)とを併せて、「一般読者むけ」に「内容を調整し」「注を省き簡略に」一冊にまとめたものだ(邦訳書p.409)。後者も、本文512頁、あとの注・索引等を含めて計587頁、目次等を含めると計600頁を超える大著だ。これも、邦訳書がない。
 二 R. Pipes, The Russian Revolution (1990)を見ていると、最近に参照していた邦訳書とその原書にはない叙述があることに気づいた。
 Decree(布告)という語に関係するので、以下、当該部分を含む、<11年間の立憲主義を拭い去った>旨の文章までを、三段落ぶんだけ仮訳しておく。p.525。但し、原書にはない改行をこの仮訳では施す。
 第二部「ボルシェヴィキがロシアを征服する」(なお、第一部は「旧体制の苦悩」)内の第12章「一党国家の建設」の一部。p.525のほとんど。
 「ソヴナルコムは、今や理論上、実際にその最初からそうだったもの、執行権と立法権を統合した機関になった。CEC〔ソヴェト・中央執行委員会〕はしばらくの間は、政府の活動を議論する権利を享受した。その権利とは、かりに政策には何の影響をもたらさなくとも、少なくとも批判をするための機会を与えられる、というものだった。
 しかし、非ボルシェヴィキが排除された1918年の6-7月以降は、CECは、ボルシェヴィキ委員がルーティン的にボルシェヴィキ・ソヴナルコムの決定を「裁可した」、共鳴板(Echo)的機構に変わった。代わって、ソヴナルコムは、ボルシェヴィキ・〔ロシア共産党〕中央委員会の決定を履行した。
 民主主義的諸力がこのように突然にかつ完全に崩壊したことおよびその結果として立憲主義的諸力を取り戻すことが不可能になったことは、ロシア君主制に対して立憲主義的な制約を課そうとした1730年の最高Privy会議の失敗を想起させる。今と同じく当時、独裁者からの断固とした「ノー」で充分だった。
 この日からロシアは、布告(Decree)によって支配された。
 レーニンは、1905年10月以前に皇帝が享有した特権を掌握した。彼の意思は、法(law)だった。
 トロツキーはこう言った:『レーニンは、臨時政府が廃されたと宣言された瞬間から、大小のすべての問題に、政府として行動した』。
 ソヴナルコムが発令した『Decrees』という言葉は、革命時のフランスから借用した、ロシアの憲法(constitutional law)には知られていない名を帯びていたけれども、完全に、皇帝の Ukazy に相当するものだった。この Ukazyは〔ソヴナルコム・Decreeと同じように〕、最も根幹的な事案から最も些細な事案まで無分別に取り扱い、独裁者が署名をした瞬間に効力を発した。
 (Isaac Steinbergによれば、『レーニンは、たいてい、自分の署名はいかなる政府の行為にも必要である、という見解だった』。)
 レーニンの総括書記だったボンシュ=ブリュヴィッチ(Bonch-Bruevich)は、こう書いている。Decreesは、人民委員(Commissar〔人民委員会議=ソヴナルコムの一員〕)の一人からの発案により発せられたものであっても、レーニンが署名するだけで、法の力(force of law)を獲得した、と。
 このような実務は、ニコライ一世またはアレキサンドル三世のような人々には、全く理解できないものだっただろう。
 10月のクー(Coup、クーデタ)から二週間のうちにボルシェヴィキが設定したこのような統治の制度(System、システム)は、1905年以前のロシアを支配した専政(独裁)体制への逆戻りだった。ボルシェヴィキは、介在する12年間の立憲主義(constitutionalism)を、そっけなく拭い去った。」
 以上。
 三 上の部分には見当たらないが、記憶に頼ると、上の書物にはDekret という語も出てくる。
 これも含めて考えると、ロシアでの原語(レーニンらが用いた言葉)はDekretであり、これをR・パイプスはDecree という英米語に変えて(訳して)いるのだと思われる。そして、Dekret は、上でも言及されているように、(フランス革命の史実を知っているはずのレーニンらが)フランス語のDecret から借用して作った、ロシアでは新しい言葉だった、と考えられる。かつまた、R・パイプスは、これを、帝制時代の(皇帝が発する)Ukazyと同じようなものだ、と理解して叙述しているわけだ。
 明治憲法下での日本での「勅令」のうち、「令」の部分に該当するだろう。
 戦前はたしか「閣令」と称したようだが、現在の日本でも「政令」というものがある。
 この政令の制定者・制定機関は内閣で、内閣総理大臣でも各省大臣でもない。
 しかし、上の叙述・説明によると、少なくともレーニン政権初期のDecreeは、どうやら、一人民委員(一大臣)の発案によるレーニンの署名で発効したらしい。こんなものは、現在の日本にはない。現在の日本の「政令」に相当するものだとすれば、ソヴナルコム(=内閣とも訳される)の構成員の「合議」によって決定されなければならないからだ(署名、公布等の論点は除く)。
 R・パイプスの書と西山克典訳はまだましだが、他のロシア革命史又はソ連史に関する日本語訳書の中には、簡単に「法律」とか「法令」とかという言葉を使っているものがある(ソヴェト大会の形式的承認があっても、ソヴェトは今日的にいう「議会」ではない)。訳者ではなく、原著者自体に多少の問題があるのではないか、と考えられる。だが、とくに英米系の書物では、(議会制定法がなかったとしても)law という語を全く用いないで<ソ連>史を叙述するのは困難なのかもしれない(現在のロシア法では事情が異なる)。

1417/国家・共産党・コミンテルン04。

 一 関心は多岐にわたるので、一回少し寄り道する。
 日本人の多くは、「法」と「法律」を混用している。
 渡部昇一が現憲法は「占領基本法」にすぎないというとき、やはり、「法」と「法律」の区別をおそらく知らないままで、「基本法」という言葉を用いている。
 このような混用は、国会制定法という意味での「法律」でありながら、名称としては「法」を用いる、つぎのような、日本国憲法と同時に施行された、又は同年の1947年に公布又は施行された「法律」であるが名称には「法」が用いられるものがある、という日本の(厳密には適切とは思えない)「立法」実務も大きな原因になっている。
 ついでながら、現憲法は「無効」でいったんは大日本帝国憲法を復活させなければならないとすれば、以下のような<占領下>の法律も、少なくともそれがGHQの意向によって<実質的に、又は骨格部分を押しつけられた>とすれば(独占禁止法は全体としてそれに近いだろう)、現憲法と同じく「無効」で旧帝国憲法下のそれら(又は対応する法律等)にいったんは戻る必要があるはずだ。
 しかし、そんな主張を渡部昇一らはしておらず、下記の諸法律は<改正>されてきている(すなわち、<有効>であることを前提として内容が改められてきている)。
 また、内閣法・国会法・裁判法・地方自治法・民法改正・国家賠償法等は、実質的に日本国憲法の新条項を実施するための、新憲法を「補完」するものだった(「憲法付属法律」という概念もあるらしい)。
 そして改正されているが(法律によって頻度はかなり違う)、渡部昇一らは本来又は原理的に「無効」のはずだ、という主張をしてきていない。
 こんなところにも、渡部昇一による議論の<幼稚さ>が明らかに示されている。
 参考/同日施行-内閣法、国会法、裁判法、地方自治法、7月-独占禁止法、9月-労働基準法、10月-国家賠償法、刑法改正、12月-児童福祉法、食品衛生法、民法改正(家族法部分)。
 二 「法」と「法律」の区別の分かりにくさは英米にもあるようで、前者はlaw だが、後者は a law とか laws と称するらしい。Act も「法律」を意味することがあるようだ。Rule of Law というときの「法」は前者だ。
 これと違って、フランス、ドイツ、ロシアでは、「法」と「法律」が別の言葉である、とされる。
 フランス語では、法は droite、法律は loi(ドロアとロア)。ドイツ語では、法は Recht、法律は Gesetz(レヒトとゲゼッツ)。ロシア語では前者はpravo、後者は zakon(但し、ロシア文字を使わないで普通のアルファベットで標記した場合)。
 ロシア語については、渋谷謙次郎・法を通してみたロシア国家(ウェッジ、2015)の最初の方を参照した。所在が現時点で不明になったので、頁を特定できない。 
 三 こんなことを書くのも、R・パイプス(西山克典訳)・ロシア革命史(成文社、2000)を原書も参照しつつ読んでいると、「布告」(又は「布令」 ?)と訳されているのは、原書の英語ではDecreeというものだからだ。
 このDecree に該当する、かつよく似たドイツ語はないと見られる。最も対応するのは、Verordnung だろう。
 これに対して、米語(英米語)のDecree(ディクリー) とどちらが語源的に先なのかは知らないが、フランス語にはまさに Decret (デクレ)という語があり、かつ意味も同じだと見られる。
 正確に確認はしないが、大統領令または首相府令のいずれか又は両者に、その「令」の部分についてDecret という語が現在でも用いられているはずだ(正確には、語頭は小文字)。
 つまり、ロシア「革命」直後のソヴナルコムの「布告」とは、現在的視点でいうと、又はこの当時でも<権力分立>が採用されていた国家についていうと、行政権・行政部又は行政機構・機関による「立法」(行為)を指す。
 ロシアのソヴナルコムの立法的行為をまたはその所産を「法律」と訳すと、誤りだろう。ロシア語で当時に何と呼ばれたかは知らないが、現在は「法律」の意味らしい Zaconではなく、英米語の Decreeに当たるものなのだろう。従って、西山克典の「布告」(又は「布令」)という訳は適切だ。
 四 ロシアにおいて、国民・住民全体(いわゆる有権者に限るが)が代議員・代表者を決めるために選挙を行ったのは、20世紀前半では1917年11月の「憲法制定会議」議員選挙が最後で、以降、ソ連の解体までは、国民・住民全体を代表する代議員から成る「議会」が置かれなかった。
 つまり、実質的にいう立法権も行政権も、当初は実質的に(ソヴェト中央執行委員会=CECではなく)ソヴナルコムに属し、半年ほど後には、さらに実質的には一括してロシア共産党(・レーニン)に移ったのだった。
 ソ連史の分かりにくさは、このあたりにもある。じつはR・パイプスはソヴナルコムの権能について Legislation という言葉を使い、西山訳書は「立法」と訳しているのだが、これらを通常の又は今日的意味での「立法」、つまり議会(・国会)が制定する法規範と理解してはならない。
 なお、<ソヴェト>は農民・企業経営者等を代表しておらず、<議会>ではない。
 そもそも<工場労働者>(プロレタリアート)の存在すら稀少だったとされるので、<労働者・小農>層を代表していた、というのも誤りだとする見解が多いが、別に書くだろう。
 スターリン期以降のソ連については読書不足だが、かりに<全人民代表者大会>(現在の共産中国の<全人代>参照)なるものが開催されていたとかりにしても、全く形骸化しており、<拍手で、又は挙手で>裁可・承認するだけの(いわゆる西側の「議会」を意識した)飾り物的機関だっただろう。
 元に戻ってさらにいうと、この欄でこれまで言及していないが、旧帝制下の「司法・裁判所」制度も「10月革命」後に早々に解体され、<人民法廷>とか<革命裁判所>というものが取って代わる。
 これらの上部機構は司法人民委員部(司法省・法務省)で、当然に司法人民委員(司法大臣)が長。そしてこれは、人民委員会議(ソヴナルコム)の一員。
 要するに、ロシア・ソヴェト国家には<権力分立>などはなかったのだ。R・パイプスが言うように、11年間ほどの辛うじての立憲主義・Constitutionalism は、それすらもレーニン政権誕生とともに消え失せた。
 五 ロシアが先ず資本主義から社会主義への道を切り拓いたとする見解によれば、立憲主義も権力分立も<ブルジョア>的なもので、「革命」とともに廃棄(止揚)された、と言うのだろう。
 いやまさしく、上の時代に、レーニンはそのように言明していた。
最終的には、選挙結果にもとづいていったん招集された憲法制定会議の続行を<実力(=暴力)>でもって中止させ、「解散」させたのは、レーニンの「議会」観によるとされる。
 さらにそれは「立法」と「行政」とを同時に一度は掌握したパリ・コミューンを讃えたマルクスに行きつく、とされる。E・H・カー・ロシア革命第1巻(みすず書房、1967)の該当箇所参照。
 レーニン・ボルシェヴィキにとって<全ての権力をソヴェトへ>こそがその意思であり、決して当時の(むしろ数的には優位の)議会設置擁護の社会主義者たちが主張したような<全ての権力を憲法制定会議へ>ではなかった。後者は、汚れた<資本家たち>のスローガンだとされた。
 「立憲主義」を良きものとする雰囲気が日本の「左翼」には強い。本気で、純粋無垢にそう思っている学者さまたちもいるのだろうが、<共産主義>者にとっては、(本質的に資本主義に対応した)「議会」も「立憲主義」も、それほど「良き」ものではないと扱われたことを、<レーニン主義>およびソ連の歴史は明らかにしている。
 ロシア「革命」は社会・歴史の<進歩>だったのかと、心の奥底では親社会主義の、または「共産主義」幻想をもつ日本の「左翼」の人々は真剣に自問しなければならない。<進歩>か否かという発想自体、本来は秋月の関心事項ではなくなっているのだが。
 上の発問をしても、日本共産党の党員(学者・研究者を含む)は、もう遅いかもしれない。

1416/国家・共産党・コミンテルン03。

 一 前回の最後の方で自らの文章として書いたのは、やや先走りすぎている。
 国家と共産党の分離は、有利なことがあった、と言われる。
 つまり、とくに欧州諸国内でのロシア(・ソ連)共産党の活動を、ロシア・ソ連国家(・政府)の活動ではない、<私的な>活動だと言い張れた、又は言い張ろうとした、ということだ。
 その延長が1919年のコミンテルンの結成で、当時の<社会主義国>はソ連一国だつたはずなので社会主義諸国家の連合体又は協議機関だったはずはなく、諸国家の共産党の連合体、実質的にはロシア(・ソ連)共産党を指導者とする、ロシア防衛と<社会主義革命>の輸出のための機関だった。この最後の部分は世界(欧州)同時革命か一国革命か、という論点にかかわるが、立ち入らない。
 二 さて、「10月革命」以前は「臨時政府」系統外の<私的>機構・組織だったソヴィエトは、ボルシェヴィキ派が形成した(と思われる)「軍事革命委員会」の実力行使の結果として国家系統の、国家「権力」の淵源である機構・組織に変わった。
 (ソヴィエト総会)-(代議員による)ソヴェト大会-CEC(元イスパルコム)、そしてさらに、CEC(元イスパルコム)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)、という一つの=国家・政府系統の「ライン」がある。
 だが、一方には、共産党中央委員会(「首領」はレーニン)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)という党系統の「ライン」もある。ソヴナルコムの議長(首相)はレーニン。
 もう一つの可能性として、憲法制定会議-議会設立-政府成立、というラインもありえたはずだったが、この点は先送りする。
 三 「10月革命」成功・ソヴナルコム成立の翌日1917年10月27日、教育人民委員(文部大臣)・ルナチャルスキーは、<ボルシェヴィキと左派エスエルの機関誌>以外の出版物発行を禁止する布告を発表する(レーニンの署名あり)。
 ボルシェヴィキはソヴナルコムの「立法」権を認める。
 これに対して、「社会主義者たち」は、CEC(元イスパルコム)こそが「社会主義者の一種の国会」だと考えていた。
 11月4日、「最初にして最後に」、レーニンとトロツキーが姿を現したCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)で、左派エスエルはソヴナルコム(政府)の布告による統治をやめるように求め、レーニン(ソヴナルコム議長)の説明には納得できない旨の動議を提出し、ボルシェヴィキは「全ロシア・ソヴェト大会の全体的な政綱の枠内」でのソヴナルコムによる布告発令を「ソヴェト」側は「拒絶」できない旨の反対動議を提出した。
 ボルシェヴィキ選出委員のうち9名が「変節」してレーニン側を支持したため、左派エスエルの動議は25対20で敗れた。9名のうち4名はもともとはレーニンによる<連立政府の形成の拒絶>に反対していた(つまり左派エスエルと協力し、その支持をえて「統治」しようとする見解だった)。
 一方、ボルシェヴィキ側の反対動議を明確に支持するか否かの票決の予想は23対23だったので、レーニンとトロツキーが採決に加わることを宣言して、25対23でボルシェヴィキが勝った。ソヴナルコムは同日夜、その布告(Decree)が「臨時労農政府通報」に掲載されれば「法としての効力」(Force of Law)をもつと表明(announce)した。「10月革命」後、わずか1週間ほど後。
 その後1918年6-7月までにCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)からボルシェヴィキ以外の党派は放逐され、CECは、ボルシェヴィキの委員がソヴナルコムの決定を、したがってボルシェヴィキ中央(共産党中央委員会)の意向を「機械的に裁可」する機関に完全変質する。
 パイプスによれば、1921年には、CECは「わずかに三回」だけ招集された。
 CEC内部での「党争」にもっと言及する必要はあるが、それに勝利しCECを完全に掌握することによって、共産党の意思はソヴナルコム(政府)の意思と同じになった。<一党独裁>制度の完成だ。「10月革命」後、わずか7カ月程度。
 パイプスによれば、ロシアは1905年以前の帝制時代と同じ「布令(布告)」による統治の時代に戻り、ボルシェヴィキ・共産党は「11年間の立憲主義(constitutionalism)を、全く拭い去った(wiped)」。
 11年間とは、日ロ戦争敗北後の「1905年革命」の所産として、「国会(下院・ドゥーマ)(The State Duma)」が開設されていた1906年以降のことをいう。この国会とは、皇帝(ツァーリ)の権能をある程度制限する力をもっており、ロシアはある程度は<立憲君主制>だったとも言える。但し、日本の明治憲法下の国制・法制と同じはない(これについて長い論文が書けるだけの論点があるだろう)。
 以上、紹介者自身の表現を除いて、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.163-5、p.59-61。原書では、p.153-6、p.45。
 このような経緯の背後には、重要な事象も発生し、又は継続していた。
 「10月革命」勃発は第一次大戦の途上で、ドイツ帝国軍等と戦闘しており、臨時政府およびソヴェトの大勢は<継戦>を支持していた。ボルシェヴィキのさらに一部が休戦・和平を主張した。翌1918年3月に、ドイツとの講和条約(英仏ら連合国から見ると「戦線離脱」)。
 全ロシア全域に<新しい秩序>が形成されていた、つまりボルシェヴィキ・共産党が全域を<平穏に支配・統治>していた、というわけでは全くなかった。
 憲法制定評議会がどうなったかも触れておかないと、国家と共産党の問題に言及したことにならないだろう。
 戦時中だったロシア帝国軍(兵士)をどうやってボルシェヴィキ・共産党は制御し、「10月革命」時の<反革命軍>にしなったか、という問題もあり、パイプスも論及しているが、この点は省略する。

1415/国家と共産党-ロシア-02。

 一 つづき。 
 ペトログラード・ソヴェトは当初は同市(首都)でのみ活動したが、他都市のソヴィエト・前線部隊(後者は説明が要るが省略)の代表も加えて「全ロシア労兵ソヴェト」となり、その「イスパルコム」(執行委員会)は「全ロシア(All-Russian)中央執行委員会」(CEC=Central Executive Committe)と自らの名前を変更した。
 その構成員72名のうち、メンシェビキ23、エスエル(社会革命党)22、ボルシェヴィキは12名。ソヴェト総会も開かれたが(3月-4回、4月-6回)、CECの提案を「拍手喝采」で承認するだけの力になる。
 イスパルコム=CECの構成員には農民代表者はいない。それと「ブルジョアジー」が除外されているので、「全ロシア・ソヴェト」およびCECは、「全ロシア」住民の「せいぜい10-15%を代表」したにすぎない。
 以上、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.108。
 原書である、R.Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995)では、p.94-95。
 二 その後(レーニン「4月テーゼ」・ケレンスキー政府首班の約束等々)および「10月革命」事件でのソヴェト等と「政府」の関係・役割については、以下の一部を除き、別途、<権力奪取>の具体的な様相を語る中で言及することにしよう。相当に興味深い<ドラマ>ふうだ。
 三 ボルシェヴィキは、各および全ロシア・ソヴェトのイスパルコム又はCECの多数を獲得するかこれを強引に屈服させることによって、結果としてソヴェト全体を支配するようになり、ソヴェトのもとに首都防衛名目の「防衛に関する革命委員会」=「軍事革命委員会」を設置することを、メンシェビキの反対を押して、ソヴェト総会で是認させた(1917年10月9日、p.150)。
 1917年10月26日、ソヴェト第2回大会開催中に、「軍事革命委員会」部隊による市内要所占拠、臨時政府閣僚逮捕・拘束、「冬宮」占拠という<ほとんど無血の><実力行使>が完了した(10月「革命」又は政変・クー・デタ)。
 その前の24日に、レーニンはつぎの宣言を起草していた。
 「臨時政府は廃された。政府の権力はペトログラード労兵ソヴェトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備隊の先頭に立つ軍事革命委員会に移った。…。」
 <宣言>なので、実際に「プロレタリアート」なるものの「先頭に立つ」のかどうかは疑問視できる。
 また、パイプスによれば-秋月の言葉を挿むと<法的>または<国制>の観点からは-、「ボルシェヴィキの中央委員会を除き、誰もそうすることを正当と認めていなかった一機関が、ロシアの最高権力を掌握した、と宣言した」。
 以上、p.153-6、原書p.143-6。
 第2回ソヴェト大会が再開され、諸「布告」(Decree)発布が承認され、憲法制定会議招集までの暫定政府になる「はず」の、新しい「臨時政府」閣僚候補者名簿が発表され、承認された。
 この<暫定・臨時>の「はず」の「政府」または「内閣」は「ソヴナルコム」(Sovnarkom)と呼ばれた。パイプス(および訳者・西山)も同様だが「人民委員会議」(Council of People's Comissars)とも訳される。
 議長(首相)はレーニン、内務人民委員(内務大臣)はルイコフ、外務人民委員(外務大臣)はトロツキー。スターリンは、いわば民族問題担当長官。
 新しいソヴェト・イスパルコム(CEC)も形成された。ボルシェヴィキのみによらず、101名のうち、ボルシェヴィキ62名、左派エスエル(左翼社会革命党)29名など。イスパルコム議長は、カーメネフ。
 以上、p.156-7。
 四 1918年3月にボルシェヴィキは「共産党」と名乗る。同月に-民族諸問題の一定の解決を経て-ロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国成立・同憲法発布。
 この憲法は実質的には左派エスエルの支持も受けていた。だが、同党はもちろん共産党や政党には触れていない。
 また、「ソヴェト」については明確に語り、「全ての権力をソヴェトに」旨を規定したが、各(村・郡・県・中央)ソヴェトの関係、ソヴェトと「(中央)政府」の関係も曖昧なままで、パイプスによれば、「その憲法が真剣に受けとめられることを意図していなかった」、という(p.161-2)。 
 五 関心を惹くのは、1917.10政変以降、少なくとも「内戦」終了頃までの、国家またはソヴェトと「政府=ソヴナルコム・人民委員会議」の関係およびこれらと共産党(ボルシェヴィキ)の関係だ。このあたりは、ロシア革命等に関する諸文献でも分かりにくい。
 R・パイプスは訳書p.163-165(原書p.154-)で、つぎのように説明している。
 ソヴェトの中央執行委員会であるCEC(イスパルコム)は、ソヴェト大会が創設したソヴナルコム」(人民委員会議=政府・内閣)の「行動と構成に関する監督権」を持った。
 しかし、上はレーニンが自ら提案したものだったが、レーニンもトロツキーも、できるかぎり早く、「人民委員会議」をソヴェト(・中央執行委員会)から解放させたかった。あるいは後者に対する責任をなくし、後者による監督をなくしたがっていた。
 レーニンらが「真に意図」したのは、「人民委員会議」が、共産党の中央委員会に「排他的に責任を負う」ことだった。
 これにより、ソヴィエト・ロシアの歴史で「最初にして唯一の国制上の衝突(constitutional clash)」が生じた。
 なお、人民委員会議(内閣)の議長(首相)はレーニンであり、共産党中央委員会のトップにいたのはレーニンだ。
 共産党の「トップ」と書いたが、「最高指導者」という呼称も見られるものの、正式に何と呼ばれていたかは、諸文献で、じつははっきりしない。
 現在またはレーニン以降の諸共産党ならば、「総書記」、「第一書記」、「書記長」あるいは「(幹部会 ?)委員長」なのだろう。
 存在していると誰もが明確に意識しているもの(・人物)については、言葉を用意する必要がなく、従って言葉・概念が作られることがないことがある、ということを示しているようでもある。あるいはそもそも、国家と政党(共産党)を厳密に分けて考えるという発想自体が、この時期のレーニンらボルシェヴィキ党員にはなかったのかもしれない。それこそ、党(共産党)=国家、なのだ。
 さらに、上記の問題についてのR・パイプスの説明・叙述を追跡する。

1414/国家・共産党・コミンテルン01。

 一 ロシア革命またはレーニン(を首領とするボルシェヴィキ)が生み出した国家のことを<一党制国家>とか<党所有国家> ということがある。
 下斗米伸夫・ソ連=党が所有した国家(講談社メチエ、2002)も参照。
 国家・政府と(一国家の)共産党(政党)の関係、さらにはこれらと1919年設立のコミンテルンの関係・違いに焦点を当てて、以下、紹介したりコメントしたりする。
 渡部昇一が何と言おうと、過去の問題ではない。コミンテルン、コミンフォルムはもうないが、国家・政府と(一国家の)共産党の関係は見事に、現在の共産中国や北朝鮮、そしてベトナムやキューバにまで継承されていると考えられる。
 なお、現在開催されているらしい、中国共産党の<中央委員会第~回総会>という表現の仕方は、現在の日本共産党と同じ。共産党の<党大会>の間は、<中央委員会総会>でつないでいくのだ。
 二 R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)によると、ソヴィエト(ソビエト)・ソヴェート・ソヴェト(Soviet)という言葉が、日常的意味でなく制度的な又は機関を指すものとしてロシアで用いられたのは、1905年の10月、ペテルブルク工科大学で「ストライキ委員会」が招集されたとき、それがすぐのちに「労働者代表ソヴェト」と名乗ったことが最初のようだ(p.58。以下、同じ)。
 英語ではCouncil、独語ではRat と訳されているはずだ。日本語では、「評議会」または「会議」だろう。
 なぜ大学にという疑問には、政治的集会・デモに対する当時の規制が大学構内については緩かったと、パイプスに従って指摘するにとどめる。
 このソヴェトの指導部には、学生も農民も入っておらず、また労働者でも兵士でもなく、それは「社会主義諸政党」が指名した「急進的」「知識人」で構成されていた(p.58)。
 1905年12月に「モスクワ・ソヴェト」は①帝制打倒、②憲法制定会議招集、③「民主共和国」の宣言を要求し、④「武装蜂起」を呼びかけた、という(p.59)。
 この「ソヴェト」はのちに、ボルシェヴィキ・共産党ではなく、国家・政府の系列の機関へと発展 ?していく。
 三 1917年二月革命により「臨時政府」(国会議員臨時委員会)が組織され、ケレンスキーが委員の一人になった。これは、パイプスによれば「私的な性格」のものとされるが、(帝制終焉時の)の国会の議員全体ではないにせよ、国会議員内の「私的な会合」または「指導者たち」が設立を決定したとされるので(p.94)、二月革命による<非連続>的なものではあるが、のちの「10月革命」に比べればまだ、国家機関又は政府としての連続性・「民主性」を少しは保っているかもしれない。
 上の臨時政府の設立と同日(2月28日)、「ペトログラード・ソヴェト」が設立された。主導権はメンシェヴィキにあった。2週間後の代議員3000名のうち、2000名以上が兵士で、二月革命の「初期の局面」は「兵士の反乱」だった(p.95)。
 代議員数千人では会議・実質的な決定ができない。ソヴェトの決定機関が「イスパルコム」という「執行委員会」に移った。この機関は「社会主義諸政党の調整機関」で、兵士に支持者がおらず、労働者の中でも「わずか」の支持者しかいないボルシェヴィキに属する委員の比重が不均衡に高かった。またこれは、ソヴェト総会から自立して活動し、あらかじめ実質的に決定する「社会主義知識人の幹部会」のようなものになった(p.96)。
 このソヴェトは「臨時政府」系列ではなく、社会主義諸政党による「私的」な組織で、臨時「政府」には参加しないと決定する(同上)。同年10月末まで続く、いわゆる<二重権力>の時代だ。
 パイプスによると、表向きは臨時政府が「全ての統治上の責務」を引き受け、「現実には」、ソヴェト「イスパルコム」が「立法と執行」の両機能を果たした(同上)。
 皇帝逮捕(のち一族がボルシェヴィキ=共産党により全員殺害される)ののちソヴェト・「イスパルコム」は5名から成る「連絡委員会」を設置し、政府に、イスパルコムの事前承認を得ることなく重要な決定をすべきでないと主張し、政府はこれに応じた、という(p.108)。
 中途だが、いわゆる「10月革命」事件以前のペトログラード・ソヴェトの状況から、次回につづける。

1408/歴史と感情と科学と-R・パイプス、そして笹倉秀夫。

 一 前回10/12の末尾に、「歴史に関する学者・研究者でも、<怒るべきときは怒る>、<涙すべときは涙する>という人間的『感性』を率直に示して、何ら問題がないはずだ」。 これは歴史叙述そのものに「感情」を明示してもよい、という趣旨ではない。
 このように書いたのは、何かを読んでその印象が残っていたからだ。
 R・パイプス・ロシア革命史の「訳者あとがき-解説にかえて」の西山克典の文章だったかもしれないと探してみたが、そうではなかった。別の本を捲ったりしているうちに、上記のR・パイプスの書物(邦訳書)の本文自体のほとんど末尾にある、「16章/ロシア革命への省察」の中の文章であることが分かった。
 ブレジンスキーと同様にR・パイプスは、日本共産党とは違って、レーニンとスターリンとがほとんど真反対のベクトル方向にあるとは見ていない。R・パイプスは、1917秋(10月革命時)と1922年の初めまで(レーニン時代だ)のソ同盟の人口減を1270万人(戦死、餓死=500万人以上、疫病死、海外逃亡等を含む)とし、自然状態では増大していたはずの人口を想定すると、実際の人的損失は「2300万に達する」などを指摘したのち、つぎのように記述する。
 R・パイプス(西山克典訳)・ロシア革命史(成文社、2000)p.404-5による。〔〕の英語は、原著(A Concise History of the Russian Revolution、p.403-4 )を直接に参照した。
 ・かかる「前例のない惨禍を、感情に動かされずに見ることができるであろうか、また、見るべきであろうか」。
 ・現代において「科学」の威光は強く、「道義的にも感情的にも超然とした科学者」の、全現象を「自然」で「中立的」と見なす気質を身につけてきた。彼らは「歴史」における「人間の自由意志」を考慮することを嫌い、「歴史」の「必然性」を語る。
 ・しかし、「科学の対象と歴史の対象」は「著しく異なる」。医師・会計士・調査技師・諜報局員の調査は「正しい決定に達するのを可能にする」ためで、「感情に絡みとられてはいけない」。
 ・「歴史家にとっては、決定はすでに他人によって為されており、超然と構えることで、認識に付け加えるものは何もない。実際には、それ〔超然と構えること〕は、認識を低下させることになる。というのは、激情のさなかに〔in the heat of passion〕生み出された出来事をどうやって、感情に動かされずに〔dispassionately〕、理解することができるというのであろうか」。
 ・19世紀ドイツの某歴史家は、「歴史は怒りと熱狂をもって書かれなければならない、と私は主張する」、と書いた。
 ・アリストテレスは「あらゆる問題について節度を説いた」が、「『憤りを欠くこと』が受け入れがたい状況がある、『怒るべきことに怒っていない人々は馬鹿と思われるからである』」と述べた。
 ・「関連する事実〔facts〕の収集整理は、確かに感情に動かされることなく、怒りも熱狂もなく行われなければならない。歴史家の技能のこの面は、科学者と何ら異なるものではない。しかし、これは、歴史家の任務の始まりにすぎない」。
 ・「どれが『関連している〔relevant〕』かの決定は、判断〔judgment〕を求めており、そして、判断は価値〔values〕に基づいているからである。事実は、それ自体としては無意味である。何故なら、それをどう選別し、序列化し、そしてどれを強調するかに関し、事実自体は何ら指針〔guide〕を提供しないからである。過去が『意味をなす〔make sense〕』ためには、歴史家は何らかの原則〔principle〕に従わなければならない」。
 ・「通常、歴史家はまさにそれをもって」おり、「最も『科学的な』歴史家でさえ、意識しようがしまいが、予見〔preconceptions〕から行動しているのである」。
 ・一般的にその予見は「経済的な決定論に根ざしている」。経済・社会のデータは「不遍性という幻想〔illusion of impartiality〕」を生んでいるからである。
 ・「歴史的な出来事への判断を拒むことはまた、道義的な価値観にも基づいている。すなわち、生起したことは、何であれ、自然〔natural〕なことであり、従って正しい〔right〕という暗黙の前提〔silent premice〕であり、それは、勝利を得ることになった人々の弁明〔apology〕に帰すことになる」。
 以上。
 二 歴史は怒り等の感情をもって書かれてよい、というふうの部分が印象に残っていたのだったが、きちんと読むと、それ以上の内容を含んでいる。
 ここでの「歴史」学には、<政治思想史>や<法思想史>、<政治史>や<法制史>などの学問分野も含まれうるものと考えられる。
 こうした分野の文献を、かついわゆる<アカデミズム>内の文献・論文も最近は読むことが多い。そうして、上にパイプスが書いていることも、相当によく分かる。
 基本的なから些細なまで、種々の「事実」があるに違いない。書き手はどうやってそれを<序列化>し<関連づけ>ているのだろう、と感じることもある。また、この人は何らかの<価値判断>に基づいている、あるいはさらには何らかの<政治的立場>に立っている、これで<学問的作業>なのか、と思うこともある。
 また、思い出すに、ソ連崩壊により「東・中欧での社会主義化は挫折」したことは事実として認めつつ、その原因としてマルクス主義自体やレーニン(またはレーニズム)には大きな注意は払わず、「スターリニズム」の「問題点」などをかなり詳しく叙述しつつ、「それらの運動」〔社会主義・共産主義運動 ?〕を「スターリニズムに解消させて、マイナス面だけを」論じて、「社会主義化の実践」の肯定面に「目を閉ざすのは、研究者の公正な姿勢ではない」と強弁(!)する日本の「研究者」の書物があった。
 笹倉秀夫・法思想史講義/下(東京大学出版会、2007)p.315-6。
笹倉は、「社会主義化の実践」が示した「ヒューマニズムや自由・民主主義・世界平和運動の面での貢献」に「目を閉ざすのは、研究者の公正な姿勢ではない」とし、「例えば」として三点を挙げる。
 その三点にはここでは立ち入らない。しかし、社会主義・共産主義運動(「社会主義化の実践」)が「ヒューマニズムや自由・民主主義・世界平和運動の面」で「貢献」した、という前提自体が、何ら実証されていない「暗黙の前提」であり、この<科学的と自認しているのかもしれない学者>の「原則、principle」なのだろうと推察される。マイナスだけではなく積極面も見るのが「研究者の公正な姿勢」だという表向きの言い方自体にすでに、(隠された)何らかの(おそらくは政治的な)<価値判断>が含まれているだろう。
 立ち入らないが、ファシズムと共産主義ではなくファシズムとスターリニズムを併せて<全体主義>と称するのは誤りだとの叙述(p.316注)も含めて(全体主義論はファシズムとレーニンを含む共産主義全体を包含するものだが、おそらく意識的にスターリンに限っている)、上のような叙述・説明は今日では日本共産党以外には珍しく、おそらくは、この人は、日本共産党員なのだろうと思われる。
 それは別として、これまでこの欄で「歴史学」なるものについて、坂本多加雄、山内昌之らのその性格や役割に関する議論を紹介したことがある。ひょっとすれば、人文・社会系学問のすべてに当てはまるかもしれないのだが、上のパイプスが述べるところも、充分に読むべきところがある。
 なお、パイプスのロシア革命に関する書物自体は、個別「事実」について相当に密度の濃いもので、<感情>的な文章で成り立っているわけでは全くない。諸事実の<解釈>あるいは<取り上げ方・並べ方>におそらくは、パイプスのロシア革命に対する何らかの(<価値>にもとづく)<判断>が働いているのだろう。
 三 忘れていた。上のパイプスの文章の最後の部分は、とくに意識・自覚される必要がある、と考えられる。
 パイプスによれば、歴史事象への<判断>を峻拒する歴史叙述は、公正で客観的な印象を与えるかもしれないが、じつはその歴史または歴史の結果としての現在の<勝利者>に味方している。生起した歴史事象、その結果としての現実が「自然」で「正しい」と思ってしまえば、それは<現実>(を支持する大勢 ?)を擁護していることになる
 この観点は忘れてはいけない、と思う。
 徳川家康は「正しかった」から長い江戸時代を拓いたわけではないし、明治維新が(薩長両藩等が)「正しかった」から、明治時代があったわけでもない、と思われる。
 「日本に生まれてまぁよかった」という題の本を出している人がいるが(平川祐弘)、この人が安倍戦後70年談話を擁護しているように、彼が生きた戦後日本は彼にとって「まぁよかった」のだろう。そして、この人の今年1月号の論考に明かなように、戦前・戦中の日本は<誤って>いた、と判断されることになる。それでもなお、この人(平川祐弘)は「保守」派論壇人らしいのではあるが。

1399/共産主義史研究者・R・パイプス著作一覧。

 一 Richard Pipes(リチャード・パイプス)は米国レーガン政権時にソ連・東欧問題顧問を務めたらしく、そのゆえに「政治的偏向」を感じる向き(とくに「左翼」)もあるようだが、論理は逆で、ソ連・東欧/共産主義についての優れた専門的研究者だったからこそレーガン政権によって見出され、当時の共和党政権の対ソ交渉・政策に有用な役割を果たしたのだと思われる。
 アマゾン/洋書で検索すると、彼の著書に、単著に限って、以下のものがある。出版社は省略して、同欄に記載された発行年だけを記した(かつ発行年順に並べた)。
 諸外国語に翻訳されている著書もあるようだが(ポーランド語等々)、ドイツ語版2書と、日本語訳書3冊だけを当該書のあとに=として挙げた。
 The Russian Revolution(1991)は900頁を超える大著で詳細だが、日本語訳書は発行されていない。日本の専門研究者は知っているのだろう。
 Russian Under the Bolshevik Regime(1995)も500頁を超える大著で詳細だが、日本語訳書は発行されていない。日本の専門研究者は知っているのだろう。
 日本語訳書・ロシア革命史〔西山克典訳〕(成文社、2000)のあるA Concise History of the Russian Revolution( 1996)は「コンサイス」版で、上の The Russian Revolution(1991)に比べて小さい大きさの400頁余りのものにすぎない。
 Communism(共産主義)をタイトルにするものも、最も簡潔なものの日本語訳書があるにすぎない。
 パイプスの全業績とその意義に照らせば、カルル・ヴォルフレンとかフクヤマ、ハンティントンらと比べて、日本の出版界はパイプスを冷遇している、と感じられる。
 フランス革命について多くは「左翼」=従来の正統派のフランス人の著書を岩波新書として発行している岩波書店も、パイプスについては、いっさい無視している。
 アメリカあるいはヨーロッパの論壇・学界の状況は、日本の出版界に特有の事情によって、誤って又は歪んで伝えられている可能性が高い。
 反共産主義または「保守」の立場の優れた日本人研究者・情報把握者が、アメリカについては少なくとも10人、欧州各国については少なくとも3人程度ずつは存在する必要があるだろう。
 いくら産経新聞を読んでも、月刊正論(産経)その他の「保守」系雑誌を読んでも、全体的でより客観的な状況はさっぱり分からないだろう。このあたりですでに日本の「保守」は「左翼」に敗北しているのかもしれない。
 二 R・パイプス著作一覧
 Karamzin's Memoir on Ancient and Modern Russsia(1959)
 Russian Intelligentsia(1961)
 Social Democracy and the St. Petersburg Labor Movement, 1885-1897(1963)
 = レーニン主義の起源〔桂木健次・伊東弘文訳〕(河出書房新社、1972)
 Struve: Liberal on the Left, 1870-1905(1970)
 Struve: Liberal on the Right, 1904-1944(1980)
 U.S.-Soviet Relations in the Era of Detente: Tragedy of Errors(1981)
 Survival Is Not Enough, Soviet Realities and Americas Future(1986)
 Legalized Lawlessness: Soviet Revolutionary Justice(1986)
 Russia Observed: Collected Essays on Rossian and Soviet History(1989)
 The Russian Revolution(1991)
 Communism: The Vanished Specter(1994)
 Russian Under the Bolshevik Regime(1995)
 Three "Whys" of the Russian Revolution (1997)
 =Drei Fragen der Russishen Revolution: IMW-Vorlesungen zur modernen Geschichte Zentraleuropas(1995)
 A Concise History of the Russian Revolution(1996)
 =ロシア革命史〔西山克典訳〕(成文社、2000)
 Russia under the Old Regime: Second Edition(1997)
 Russian Revolution 1899-1919(1997)
 The Formation of the Sovietnion: Communism and Nationalism, 1917-1923, Revised Edition (1997)
 The Unknown Lenin: From the Secret Archive(1999)
 Property and Freedom(2000)
 History of Communism: A Brief History(2002)
 = Kommunismus: Kleine Weltgeschichte(2003)
 Communism: A History(2003)
 = 共産主義が見た夢〔飯嶋貴子訳〕(ランダムハウス講談社、2007)
 Looking Forward to the Past - The Influence of Communism After 1989(2003)
 The Degaev Affair: Terror and Treason in Tsarist Russia(2005)
 Russian Conservatism and Its Crisis: A Study in Political Culture(2006)
 Vixi: Memoirs of a Non-Belonger(2006)
 Alexander Yakovlev: The Man Whose Ideas Delivered Russia from Communism(2015)
 Soviet Strategy in Europe〔刊行年不明〕
以上。

1395/R・パイプス・共産主義の歴史-池田信夫著による。

 池田信夫・使える経済書100冊-『資本論』から『ブラック・スワン』まで(NHK出版、2010)は、一冊として、R・パイプスの Communism - A History(2001)を取り上げている。但し、原著ではなく、飯嶋貴子訳の<共産主義が見た夢>というタイトルに化けさせられている ?邦訳書だ(ランダムハウス講談社、2007)。
 わずか2頁余りでの言及で、しかも、紹介と池田自身の論評の部分との境界がはっきりしない。
 冒頭にある以下の二文は、明らかに紹介の部分。
 「本書の共産主義の評価は全面否定だ」。
 「特にロシア革命について、『レーニンは正しかったが、スターリンは悪い』とか『トロツキーが後継者になっていたら……』という類の議論を一蹴する」。
 この上の文について池田はとくにコメントしていない。だが、日本共産党流の『レーニンは正しかったが、スターリンは悪い』とか、かつての「新左翼」流の『トロツキーが後継者になっていたら……』とかの議論が日本にあることを知ったうえでの紹介ではないか。
 つぎの文は、明確ではないが、(パイプスの主張の)紹介のようだ。
 「一部の陰謀家によって革命を組織し、その支配を守るために暴力の行使をためらわなかったレーニンの残虐さは、スターリンよりもはるかに上であり、ソ連の運命はレーニンの前衛党路線によって決まったのだ」。
 R・パイプスの上掲著の内容の詳細な記憶はないが、ここにも、日本共産党のレーニンをめぐる歴史理解とは全く異なる理解が示されている。しかも(池田の読み方が混じっているかもしれないが)、レーニンによる前衛党論・共産党組織原理(分派の禁止等)に(も)根源がある、という理解が示されている。
 つい最近、いかなる事情を背景にして「分派禁止」の方針が出された(決してレーニンの頭の中からのみ生じたのではない-したがってソヴィエト・ロシアに特有の事情があったのであり一般化できない)のかをある本で(いま書名を忘れた)読んだばかりだ。立ち入らない。
 つぎの文あたりから、パイプスの主張・理解に刺激をうけての、池田信夫自身の見解・コメントが述べられてくる。
 なぜ共産主義は広い支持を受けたか。「筆者も認めるように、財産や所有欲を恥ずべきとする考え方は、仏教にもキリスト教にもプラトンにも広くみられる」。
 以下は、池田信夫の<世界>に入っている。
 「ハイエク流によると、…〔遺伝子に組み込まれた〕部族感情のせいだろう。つまり人間は個体保有のために利己的に行動する本能をもつ一方、それが集団を破壊しないように過度な利己心を抑制する感情が埋め込まれているのだ」。/マルクスは「人間が利己的に行動するのは、近代市民社会において人類の本質が疎外され、人々が原子的個人として分断されているためであって、その矛盾を止揚して『社会的生産』を実現すれば、個人と社会の分裂は克服され、エゴイズムは消滅すると考えていた。人間は社会的諸関係のアンサンブルなので、下部構造が変われば人間も変わるはずだった。/しかし現実には、利他的な理想よりも利己的な欲望のほうがはるかに強く、下部構造が変わっても欲望は変わらないことを、社会主義の歴史は実証した」。
 そのあと、人間の利己心中心で利他心が全くないと想定する「新古典派」も実証科学としては検証に耐えない、「市場の効率を支えているのは、実は利他的な部族感情によるソーシャル・キャピタルなのである」、という池田<節(ぶし)>が続く。
 R・パイプスには、Property and Freedom(財産(所有権)と自由)(1999)という本もある。
 関心を持たざるをえないのは、ホッブズやルソーについてもそうなのだが、マルクスやレーニンにおける「人間像」だろう。彼らは「人間」をどのような本性・本質を持つものと見ていたのか。
 財産欲・所有欲を持つのは資本主義社会特有の「人間」で「社会主義」化によって変わる、と考えていた(との観念を抱いていた)のだとすれば、つぎのような連想も出てくる。
 スターリンに顕著な党員の「粛清」も党員・抵抗者に対する「テロル」(大量殺人=肉体的抹殺)も、利他的な「真の」社会主義的「人間」に改造されていない(社会主義・共産主義にとっては邪魔な)人間は殺戮しても構わない、なぜなら、いずれ消失すべきブルジョア資本主義に汚染された「利己的」人間は「真の」人間ではないのだから、という<人間観>によるものではないか。
 数百万人、数千万人の単位で「強制労働収容所」に送り込み、また「処刑」(肉体的抹殺)をできた人間とそれを中心とする共産党組織のもつ<人間観>とは、おそらくは現在の日本人のほとんどの、想像を絶するものに違いないだろう、と思われる。
 日本共産党の真面目な党員ならば、反日本共産党で知られた人物がその党員の者しか知らない状況で死に瀕していることに気づいたとき、誰にも気づかれないと確信すれば、放置してそのまま死なせてしまうのではないか、とかつてこの欄で書いたことがある(だいぶ前だ)。
 「敵」から生命を奪ってもよいと究極的には考えているはずの日本共産党員だから、明確な反共産主義者に対する<不利益扱い>や<いやがらせ>・<いじめ>など、いかほどの疚(やま)しさも伴わないに違いない。ひょっとすれば、不当な(不平等な)不利益扱い、いやがらせ・いじめとすら意識しない可能性もある。

1380/共産主義に関する討論のテーマ-R・パイプスによる。

 Richard Pipes, Communism - A History (Random House, 2003) の巻末に、共産主義に関する討論テーマ (Discussion Guide) が掲載されている。読者が大学生や高校生であることを想定してのことだろうか。
 興味深いので、16個の質問事項(討論テーマ)をそのまま訳しておきたい。
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 01 共産主義の基礎にある古代の理想は何か ?
 02 マルクスは社会主義思想にいかなる寄与をしたか ? その理論は本当に、彼が主張するように「科学的」か ? 彼の予言は実現されたか ?
 03 社会主義「修正主義」とは何か ?
 04 レーニンはマルクスの正しい後継者だったか、それとも、レーニンはマルクス理論を修正したのか、かりにそうならば、どのようにして ?
 05 1917年10月にペトログラードで起きたのは、革命か、それともクー・デタか ? なぜ、権力掌握後に共産主義体制はあれほど早く独裁的に(autocratic)になったのか ? スターリンは、レーニンの門弟だと正しく主張していたのか ?
 06 なぜ、レーニンは革命を世界に広げることを主張したのか ? 彼とその後継者たちはどの程度成功したか ? コミンテルンのプログラムはいかなるものだったか ? なぜ、そしてどのように、ドイツの共産主義者は1932年にヒトラーの政権奪取に寄与したのか ?
 07 「ノーメンクラトゥーラ」とは何か、そしてそれはどのようにして共産主義体制の安定性と最後の失敗の両方に寄与したのか ?
 08 スターリンの大テロルの原因と過程を討論しなさい。トロツキーが共産主義国家では「服従しない者は食うべからず」と書いたとき、彼は何を言いたかったのか ?
 09 とくに1930年代に西側諸国で支持者を獲得した共産主義の成功を、あなたはどう説明するか ?
 10 冷戦の原因は何だったか ? それは不可避だったか ?
 11 なぜ、ソ連は解体したか ? 少数派のナショナリズムはその解体にいかなる役割を果たしたか ? 
 12 第三世界での共産主義運動に共通しているのは何か ? なぜ、モスクワは、西側の旧植民地だった国で勝利することが重要だと考えたのか ?
 13 中国・ソヴィエトの分裂の原因は何だったか ? どのようにして、マルクス主義者は毛沢東共産主義者だったか ? 
 14 なぜ、チリのアジェンデ共産主義体制は転覆させられたのか ?
 15 カンボジアやメンギストゥ〔秋月注-エチオピア〕のような体制がマルクスやエンゲルスの理論と同一視されうるとすれば、それは、もしあるならば、いかなる意味でか ?
 16 「社会主義者は勝利するかもしれないが、社会主義は決してしない」との言明は、何を意味するのか ? なぜ、本の著者の見解によれば、共産主義はつねにかつどこでも失敗する運命にあるのか ?     
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 上のRichard Pipes の書物(ハードカバー版は2001年刊)は、 リチャード・パイプス(飯嶋貴子訳)・共産主義が見た夢(ランダムハウス講談社、2007)として邦訳されている。
 但し、訳者(1967~)の責任ではないだろうが、巻末の上記の Discussion Guide は訳されておらず、役に立つと思われる<さらなる読書のための助言>という、著者による関連諸文献の紹介と簡単な説明(p.166-9)も訳されていない。注も索引も邦訳書では割愛されている。
 また、この種の邦訳書にはよく見られる、訳者または別の専門家による<著者(リチャード・パイプス)の紹介>や<解題・解説>もまったく存在しない。
 200頁に充たないコンサイスな書物だが、あるいはそうだからこそ、<共産主義の歴史>を概観するうえで(「共産主義が見た夢」という邦題は直接的でない)、日本人にとっても-日本共産党を理解するためにも-十分に参考になると思われるのに(上の討論テーマはすべて本文で言及されているようだ)、残念なことだ。

1376/試訳ー共産主義とファシズム・「敵対的近接」/01

 フランソワ・フュレエルンスト・ノルテの交換書簡である、以下の著を試みに訳しておく。その著は、Francoir Furet = Ernst Nolte, "Feindliche Naehe " Kommunismus und Faschismus im 20. Jahrhundert - Ein Briefwechsel(Herbig, Muenchen, 1998)で、仮訳すれば、F・フュレ=E・ノルテ・<敵対的近接>-20世紀の共産主義(=コミュニズム)とファシズム/交換書簡(ヘルビッヒ出版社(ミュンヒェン)、1998年)だ。
 フュレのフランス語文章は、Klaus Joeken とKonrad Dietzfelbinger によってドイツ語に訳されている。
 フーバー大統領回顧録の一部を試みに和訳した際と同様のことを記しておかなければならない。筆者・秋月は共産主義・ファシズムあるいは政治思想史・欧州史等の専門家ではないし、ドイツ語の専門家でもない(ましてや翻訳を業とはしていない)。
 だが、この本の邦訳書は未公刊のようであるので、多少の関心を惹くことができれば幸いだ。
 本文は全体で118頁しかないので、全文を訳出する予定で、かつ(フーバー大統領回顧録の場合とは違って)最初から頁数どおりに訳していく。
 以下の第一回めの「序言」でノルテが書いているように、この本には各章または各節のタイトル・見出しはなく、数字番号すらない。
 全体・概要を把握する一助になるだろうと思って、あえて「第1節」というような見出し(表題)を付け、かつ各冒頭の1-2行めの言葉だけを記しておくと、つぎのようになる。
 第1節/序言〔ノルテ〕 p.05-
 第2節/「一つの長い注釈」〔フュレ〕 p.11-
 第3節/エルンスト・ノルテ 1996年02月20日 p.17-
 第4節/フランソワ・フュレ 1996年04月03日 p.27-
 第5節/エルンスト・ノルテ 1996年05月09日 p.39-
 第6節/フランソワ・フュレ 1996年08月 p.49-
 第7節/エルンスト・ノルテ 1996年09月05日 p.61
 第8節/フランソワ・フュレ 1996年09月30日 p.85-
 第9節/エルンスト・ノルテ 1996年12月11日 p.97-
 第10節/フランソワ・フュレ 1997年01月05日 p.109-p.122
 このように4往復の「交換書簡」が主内容だ。「序言」はテーマに直接に論及しているわけではないが、交換書簡に至る経緯等が記されているので、訳しておいた方がよいと判断した。「一つの長い注釈」(フュレ・幻想の終わり第6章の注13)については、その部分の「訳」の際に説明する(「序言」でも何度か触れられている)。
 全体を3~4回程度に分けて掲載するのが元来の予定だったが、それではこのブログサイトの1回分の掲載容量を超えてしまうだろうと思い直して、試訳作業の途中ではあるが、<第1回・「序説」>部分だけを、まずは紹介する(上記のように、数字番号すら、この書の全体を通じて付されていない)。
 なお、読みやすいように、段落の途中でも改行していることが多い。0
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 F・フュレ=E・ノルテ・<敵対的近接>-20世紀の共産主義(=コミュニズム)とファシズム/交換書簡(1998)01
 序言 <p.5-p.10>
 この交換書簡の特徴を述べることはしない。これの成立と公刊の事情を記しておこう。
 フランソワ・フュレについては、以前からフランス革命に関する指導的な歴史叙述者であることを知っていた。だが、一人の歴史家が自分の専門分野からすれば「資格」がない他の歴史家の仕事を知っている程度においてにすぎなかった。
 彼の側では事情は少しばかり異なっていたことは、1995年末に二十世紀のコミュニズムに関する彼の大著が公刊されたときに初めて明らかになった。彼の大著とは、Le passe d'une illusion, Essai sur l'idee communiste au XXe" siecle 〔秋月訳-幻想の終わり/20世紀の共産主義者の思想に関する省察〕だ。
 この彼の著作についてフランクフルター・アルゲマイネ新聞(Frankfurter Allgemeine Zeitung, FAZ)はすぐに詳しい書評を掲載した。その記事が明らかにしたのは、フュレのテーマはコミュニズムのみではなく、少なくとも含意するところでは、今世紀の第二の「大きなイデオロギー」、すなわちファシスムだ、ということだった。また、その記事には、私の著書が彼の著作の195-196頁にある際立って長い注釈〔秋月-次節「一つの長い注釈」)の中で論及されていると、明確に書かれていた。
 1996年の秋にドイツ語訳書がパイパー出版社(Piper Verlag)から出版されたので、その著書を取り寄せた。見てすぐに分かったのは、私のいくつかの著作が一頁半の長さで、ドイツでは長い間読まなかったほどに、力強く論評されていることだった。
 フュレはむろん、つぎの「悲しい事実」を指摘しなければならないと考えていた。私はユダヤ人をヒトラーの「組織された対抗者」だとし、国家社会主義(ナツィス)の反ユダヤ主義(nationalsozialistisches Antisemitismus)を「理性的核心」だと見なした、という事実をだ。
 この注釈では、同じ程度ではなかったが、同意と批判とが一緒になっていた。
 ほどなくして、ピエール・ノラ(Pierre Nora)が、彼の雑誌「討議」(Debat)が企画するフュレの本についての討論に出席して欲しいと言ってきた。そして、その雑誌の1996年3=4月号、第89号が公刊され、そこには、「20世紀のコミュニズムとファシズム」というタイトルのもとで、Renzo De Felice、Eric J. Hobsbawn、Richard Pipes〔リチャード・パイプス〕、Giuliano Procacci、Ian Kershaw そして私の意見表明とフュレの答えが掲載されていた。
 これと比較できるような討論会は、ドイツでは、私の知る限りでは、構造的な範型による全体主義理解〔秋月-とくにハンナ・アレント〕や1963年の「ファシズムとその時代(Der Faschismus in seiner Epoche)」〔秋月-エルンスト・ノルテの著書〕についてはすでに十分に議論されていたにもかかわらず、催されたことがなかった。
 だが今や、個々に見ると多くの意見の違いはあっても、問題設定自体の正当性は、このきわめて国際的な公開討論の場(Forum)で承認された。
 そのすぐ前に、イタリアの雑誌「リベラル(liberal)」が、フュレと私が手紙を交換して、諸問題についてもっと詳細に意見を述べたい、という気持ちを刺激するような提案を二人にしてきていた。
 我々はお互いにまだ個人的な知り合いではなかったので、ミラノ(Mailand)で出逢うことが計画された。そこで、編集部と考え方を相談することになっていた。
 だが、私は健康上の理由で決まっていた時期を守ることができなかったので、心臓手術の期日がすでに決められていた時点の1996年2月に、第一の手紙を書いた。
 私の手紙とフュレの返書は、「リベラル」の5月号に掲載された。そのとき私はまだ、リハビリテーション施設にいた。
 同じ月にもう私は十分に回復することができたので、第二の手紙を書いた。そして1997年4月に、最後の二つの-二人にとって第四の-手紙が、私には適切では全くない「エルンスト・ノルテがフランソワ・フュレと闘う(… a confronto con …)」というタイトルのもとで、その雑誌上に公刊された。
 1996年の末頃にミラノでのある学会で、フュレと個人的に親しくなっており、1997年の6月に、「リベラル」によってナポリ(Neapel)で開催された「20世紀のリベラリズム」というテーマの会議で、我々は再び逢った。そこで、二人で協力して、古く有名な哲学研究所での夜の催し(Abendveranstaltung)を引き受けた。
 そうしている間に、我々の交換書簡集のイタリアでの書物が発行された。
 上の会議のあとで我々が交換していた私的な手紙では、お互いを「Cher ami(親愛なる友!)」あるいは「親愛なる友よ(Lieber Freund)」と話しかけていた。
 7月11日に、「シュタンパ(Stampa)」から電話があった。きわめて不運なことにフュレがテニスをしているときに転倒し、昏睡状態にある、望みはない、追悼文を書いてほしい、と。
 その報せは、私には青天の霹靂だった〔落雷のごとく私に命中した〕。ようやく70歳になったばかりで、ごく最近に「フランス学士院(Academie francaise)」の会員になっていた。ナポリでは、全く健康な様子だった。
 だがしかし、我々はともに8回めの人生10年間を迎えていた。手紙の交換を始めたとき、一方〔私、ノルテ〕には生命の危険があった。他方、彼の最後には、死があった。
 1920年代に生まれた世代は、1991年〔秋月-ソ連崩壊年〕以降に初めてではなく、最初に、20世紀の基本的特徴を包括的に解釈しようと試みることができたが、その世代の者たちは今や別れをを告げている。
 Renzo De Felice は1996年に逝去し、Thomas Nipperdey〔トーマス・ニッパーダイ〕、Martin Broszat そしてAndreas Hillgruber〔アンドレアス・ヒルグルーバー〕 はもう数年前に逝去している。
 この交換書簡は、ひょっとすれば、この世代の者の、最後の非個人的な証言書の一つだ。
 ナポリ(Neapel)で会話していたとき、フュレは、交換書簡は次はパリの雑誌「批評(Commentaire)」で発表される、と語った。そのとおりに、1997年の秋=冬号、第79-80号が公刊された。
 ドイツ語版は、フュレの私あて第一信が、私の「ヨーロッパの内戦(Europaeisches Buergerkrieg)1917-1945」の新版の付録として、1997年の秋に公刊された(ヘルビッヒ出版社、ミュンヒェン)。同じ出版社から、この完全な交換書簡集が出版される。
 パイパー出版社(Piper Verlag)の厚意により、手紙の交換が始まったきっかけになった彼の脚注〔秋月-次節「一つの長い注釈」〕の文章をこの本に収載することが可能になった。
 一つ一つの手紙に表題を付すこと-イタリア語版のように-はやめることにし、中見出しを挿入すること-「批評(Commentaire)」のように-もやめた。その代わり、本文の後に、人名索引の他に事項索引がある。結びの言葉は、すべての手紙について省略した。フランソワ・フュレやエルンスト・ノルテという名前は、人名索引に載せていない。
 どの読者も、この交換書簡には、とくにフュレには、同意と不同意とが密接に一緒になっているという印象を受けるだろう。どの読者も自分で、彼の見解のどこに最も強調したい点があると理解すべきなのか、決定しなければならない。
 しかし、誰もが決して疑ってはいけないのは、先行業績からすれば非常に異なる二人の歴史家の間のこの交換書簡が、論争的にかつお互いを尊敬する精神でもって交わされた、ということだ。これと類似のことは、残念ながらドイツでは、いわゆる歴史家論争の期間でもなされなかった。
   1998年1月、ベルリン(Berlin)にて、エルンスト・ノルテ。 
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ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
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