秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

NHK

1305/長谷部恭男は九条改正反対論者、「人選ミス」では済まない。

 「人選ミス」では済まないだろう。
 6/04の衆院憲法審査会で、与党等(自民党・公明党・次世代の党)の推薦で参考人となった長谷部恭男は、安保法制整備法案について、「憲法違反」だと言い切った。
 産経新聞社のネット情報によると長谷部を選んだのはまずは衆院法制局のようだが、もちろん自民党等の委員、船田元や北側一雄(公明党)らが了解しないと参考人になれるはずがない。
 長谷部恭男はひっょとして、依頼を受けて驚くとともにほくそ笑んだのではなかろうか。
 長谷部は特定秘密保護法案には反対を明言しなかったようだが、憲法九条の改正については、<志は低い>とはいえ、明確な<護憲>つまり改憲反対論者だ。このことは、この欄でも紹介してきた。
 また、2005年の<NHKに対する安倍晋三ら政治家による圧力>という朝日新聞の記事が問題視されたあとの第三者的検証委員会のメンバーとして朝日新聞には<優しい>報告書作成に関与し、今年2015年4月にはNHK「クローズアップ現代」の<やらせ>問題でも調査委員会の一員となってNHKには<優しい>報告書をまとめた。もともとは、民主党が推薦したらしい小林節の方が<より保守的>であり、長谷部は小林節よりも<左>の人物なのだ(東京大学→早稲田大法という履歴でもすでにある程度は分かってしまう)。
 このような人物が、今次の安保法案は合憲ですと発言してくれると思っていたのだろうか。信じ難い。
 長谷部恭男は昨2014年夏の、日本共産党系「左翼」憲法学者たちの集団的自衛権行使容認閣議決定に対する反対声明に参加してはいない。純粋な日本共産党的な(教条的な?)「左翼」ではない。だが、そのような「左翼」学者もまた多いのであって、この声明に加わっていないことが集団的自衛権行使容認解釈は合憲と理解していることの保障には全くならないことは自明のことだろう。木村草太(首都大学)もまた、非共産党系「左翼」憲法学者のようだ。
 船田元は「ちょっと予想を超えた」と言ったらしいが、マヌケにもほどがある。憲法学者の中にまともな人物が少ないのは残念なことだが、それでも、自民党内で憲法改正を扱う中心的な人物の一人であるならば、憲法学界の状況、どういう学者・大学関係者が憲法改正、とくに九条2項改正に明確に賛成しているのかぐらい、きちんと把握しておくべきだろう。
 維新の党が安保法制についてどういう立場なのかは知らないし、同党の人選結果についての反応も知らない。だが、同党が推薦したらしい笹田栄司(現早稲田大)についても、長谷部恭男についてとほぼ同様なことが言えそうだ。
 どうやら、国会議員の方が、現実の憲法学界の動向・雰囲気を知らないという<浮き世離れ>した世界に生きているようだ。それはひょっとすれば、<保守>派・<改憲>派の人々にもあてはまるのではないか。

1252/朝日新聞を読むとバカになるのではなく「狂う」。

 一 桑原聡ではなく上島嘉郎が編集代表者である別冊正論Extra20(2013.12)は<NHKよ、そんなに日本が憎いのか>と背表紙にも大書する特集を組んでいた。月刊WiLL(ワック)の最新号・9月号の背表紙には<朝日を読むとバカになる>とかかれている。
 こうした、日本国内の「左翼」を批判する特集があるのはよいことだ。月刊正論にせよ、月刊Willにせよ、国内「左翼」批判よりも、中国や韓国を批判する特集を組むことが多かったように見えるからだ。中国や韓国なら安心して?批判できるが、国内「左翼」への批判は反論やクレームがありうるので産経新聞やワック(とくに月刊WiLLの花田紀凱)は中国・韓国批判よりもやや弱腰になっているのではないか、との印象もあるからだ。昔の月刊WiLLを見ていると、2005年11月号の総力特集は<朝日は腐っている!>で、2008年9月号のそれは<朝日新聞の大罪>なので、朝日新聞批判の特集を組んでいないわけではないが、しかし、中国等の特定の<外国>批判よりは取り上げ方が弱いという印象は否定できないように思われる。
 それに、「本丸」と言ってもよい日本共産党については批判的検討の対象とする特集など見たことがないようだ。日本共産党批判は、同党による執拗な反論・反批判や同党員も巻き込んだ<いやがらせ>的抗議を生じさせかねないこともあって、<天下の公党>の一つを取り上げにくいのかもしれない。しかし、中国共産党を問題にするならば、現在の中国共産党と日本共産党の関係はどうなっているのか、日本共産党は北朝鮮(・同労働党)をどう評価しているのかくらいはきちんと報道されてよいのではないか。しかるに、上記の月刊雑誌はもちろん、産経新聞や読売新聞でも十分には取り上げていないはずだ。
 特定の「外国」だけを批判していて、日本国内「左翼」を減少または弱体化できるはずがない。むろん報道機関、一般月刊雑誌の範疇にあるとの意識は日本共産党批判を躊躇させるのかもしれないが、1989年以降のソ連崩壊・解体によって、欧州の各国民には明瞭だった<コミュニズムの敗北>や<社会主義・共産主義の誤り>の現実的例証という指摘が日本ではきわめて少なく、その後も日本共産党がぬくぬくと生き続けているのも、非「左翼」的マスメディアの、明確にコミュニズムを敵視しない「優しい」姿勢と無関係ではないように見える。
 二 さて、<朝日を読むとバカになる>だろうが、「バカになる」だけならば、まだよい。あくまで例だが、月刊WiLL9月号の潮匡人論考のタイトルは「集団的自衛権、朝日の狂信的偏向」であり、月刊正論9月号の佐瀬昌盛の「朝日新聞、『自衛権』報道の惨状」と題する論考の中には、朝日新聞の集団的自衛権関係報道について「企画立案段階で本社編集陣そのものが狂っていた」のではないか、との文章もある。すなわち、「バカ」になるだけではなく、本当の狂人には失礼だが、朝日新聞は<狂って>おり、<朝日を読むと狂う>のだと思われる。昨年末の特定秘密保護法をめぐる報道の仕方、春以降の集団的自衛権に関する報道の仕方は、2007年の<消えた年金>報道を思い起こさせる、またはそれ以上の、反安倍晋三、安倍内閣打倒のための<狂い咲き>としか言いようがない。
 むろんいろいろな政治的主張・見解はあってよいのだが、種々指摘されているように、「集団的自衛権」の理解そのものを誤り、国連憲章にもとづく「集団(的)安全保障」の仕組みとの違いも理解していないようでは、不勉強というよりも、安倍内閣打倒のための意識的な「誤解」に他ならないと考えられる。
 一般読者または一般国民の理解が十分ではない、又はそもそも理解困難なテーマであることを利用して、誤ったイメージをバラまくことに朝日新聞は執心してきた。本当は読者・国民をバカにしているとも言えるのだが、集団的自衛権を認めると「戦争になる」?、「戦争に巻き込まれる」?、あるいは「徴兵制が採られる」?。これらこそ、マスコミの、国民をバカにし狂わせる「狂った」報道の仕方に他ならない。
 長谷部恭男が朝日新聞紙上でも述べたらしい、<立憲主義に反する>という批判も、意味がさっぱり分からない。長谷部論考を読んではいないのだが、立憲主義の基礎になる「憲法」規範の意味内容が明確ではないからこそ「解釈」が必要になるのであり、かつその解釈はいったん採用した特定の内容をいっさい変更してはいけない、というものではない。そもそも、1954年に設立された自衛隊を合憲視する政府解釈そのものも、現憲法施行時点の政府解釈とは異なるものだった。「解釈改憲」として批判するなら、月刊正論9月号の中西輝政論考も指摘しているように、多くの「左翼」が理解しているはずの「自衛隊」は違憲という主張を、一貫して展開すべきなのだ。
 安倍首相が一度言っているのをテレビで観たが、行政権は「行政」を実施するために必要な「憲法解釈」をする権利があるし、義務もある(内閣のそれを補助することを任務の一つとするのが内閣法制局だ)、むろん、憲法上、「行政権」の憲法解釈よりも「司法権」の憲法解釈が優先するが、最高裁を頂点とする「司法権」が示す憲法解釈に違反していなければ、あるいはそれが欠如していれば、何らかの憲法解釈をするのは「行政権」の責務であり義務でもあるだろう。
 1981年の政府解釈が「慣行」として通用してきたにもかかわらず、それを変更するのが立憲主義違反だというのだろうか。一般論としては、かつての解釈が誤っていれば、あるいは国際政治状況の変化等があれば、「変更」もありうる。最高裁の長く通用した「判例」もまた永遠に絶対的なものではなく、大法廷による変更はありうるし、実際にもなされている。それにもともと、1981年の政府解釈(国会答弁書)自体がそれまでの政府解釈を変更したものだったにもかかわらず、朝日新聞はこの点におそらくまったく触れていない。
 三 そもそも論をすれば、「戦争になる」、「戦争に巻き込まれる」、「徴兵制が採られる」あるいは安倍内閣に対する「戦争準備内閣」という<煽動>そのものが、じつは奇妙なのだ。日本国民の、先の大戦経験と伝承により生じた素朴な<反戦争>意識・心情を利用した<デマゴギー>に他ならないと思われる。
 なぜなら、一般論として「戦争」=悪とは言えないからだ。<侵略>戦争を起こされて、つまりは日本の国家と国民の「安全」が危殆な瀕しているという場合に、<自衛戦争>をすることは正当なことで、あるいは抽象的には国民に対する国家の義務とても言えることで、決して「悪」ではない。宮崎哲弥がしばしば指摘しているように<正しい戦争>はあるし、樋口陽一も言うように、結局は<正しい戦争>の可能性を承認するかが分岐点になるのだ。むろん現九条⒉項の存在を考えると、自衛「戦争」ではなく、「軍その他の戦力」ではない実力組織としての自衛隊による「自衛」のための実力措置になるのかもしれないが。
 朝日新聞やその他の「左翼」論者の顕著な特徴は、「軍国主義」国家に他ならない中国や北朝鮮が近くに存在する、そして日本と日本国民の「安全」が脅かされる現実的可能性があるという「現実」に触れないこと、見ようとしないことだ、それが親コミュニズムによるのだとすれば、コミュニズム(社会主義・共産主義)はやはり、人間を<狂わせる>。
 四 率直に言って、「狂」の者とまともな会話・議論が成り立つはずがない。政府は国民の理解が十分になるよう努力しているかという世論調査をして消極的な回答が多いとの報道をしつつ、じつは国民の正確な理解を助ける報道をしていないのが、朝日新聞等であり、NHKだ。表向きは丁重に扱いつつ、実際には「狂」の者の言い分など徹底的に無視する、内心ではそのくらいの姿勢で、安倍内閣は朝日新聞らに対処すべきだろう。
 朝日新聞が「狂」の集団であることは、今月に入ってからの自らの<従軍慰安婦問題検証>報道でも明らかになっている。

1251/NHK・大越健介いわく「人間のすることではない」。

 8/21のニュース9で大越健介は冒頭に「人間のすることではない」と言った。そののち家族(遺族)の映像の箇所では「人間の所業ではない」というテロップが下部に出た。「イスラム国」戦闘員によるアメリカ人殺害のニュースに関してだ。
 このように報道することを批判しないが、しかし、気になることがある。
 北朝鮮の有力者だった趙成沢は、「粛清」された。裁判などいう手続を経たに値しない、思想又は政策又は些細な都合による「処刑」として殺害されたのだが、複数の処刑者(軍人)による銃殺で、かつ身体のどの部分か分からなくなるほどの<肉体をバラバラにする>殺害だったとされる。
 この趙成沢「粛清」=殺害の仕方からは、「人間の所業ではない」という感覚が生じる。しかも、「イスラム国」とは異なり国連に加盟しているれっきとした一国家の首脳者=金正恩による、おばの配偶者の<殺害>だ。北朝鮮という国家および独裁者は、「人間のすることではない」ことをしているのではないか。
 大越健介は、あるいはNHKは、趙成沢「処刑」をどう報道したのか。冒頭のアメリカ人殺害が「人間のすることではない」とすれば、趙成沢「処刑」(の仕方)もまた「人間のすることではない」と感じるのが、まともな「人間」の感覚ではないのか。大越健介およびニュース9制作者に問いたい。貴方たちは、まともな「人間」の(公平な)感覚をもっているのか。
 北朝鮮に限らず、中国でも「人間の所業ではない」ことが行われていることは明らかだ。中国や北朝鮮に「優しい」のはいいかげんにしろ、と大越健介やNHKには言いたい。

1249/NHK・ニュース9又は大越健介は訂正して詫びるのか。

 NHK会長が交代して、ニュース9のキャスター・大越健介も交代かと期待していたのだが、そうはならなかった。個別の人事にまで経営委員会は容喙できないようだ。
 そのNHKニュース9と大越健介だが、もともと午後7時からのNHKニュースよりも<偏向・倒錯>度が高いと思っていたところ(7時半からの国谷某女性の番組は午後7時からのNHKニュースには入らない)、7月17日放送の大越健介のセリフを聞いて、<またやってしまった>と思った。
 すでに、週刊新潮7/31号p.38-39、月刊WiLL9月号p.29-30(西村幸祐)が取り上げている。また、朝日新聞の百田尚樹批判を批判する中で産経新聞7/26の「産経抄」も論及している。これだけあると、記憶に頼らなくとも引用ができる。週刊新潮上掲によるカッコ付きの大越健介の発言は、以下のとおりだった。いわゆる「在日」の人々の結婚観の変化をテーマとする特集?の中で述べた。
 「在日一世のコリアン一世の方たちというのは、韓国併合後に強制的に連れてこられたり、職を求めて移り住んだきた人たちで、大変な苦労を重ねて生活の基盤を築いてきた経緯があります」。
 後段の「在日」の「方たち」に対する優しさも気にならないではない。「大変な苦労を重ねて生活の基盤を築いてきた」のはおおむねは事実なのかもしれないが、かりにそうだったとしても、それは「祖国」とくに韓国へは戦後に帰国できたにもかかわらず、自由な意思によって日本在住を選択した結果でもあろう。安易に偽善的な優しさを示してもらっても困る。
 むろん重大なのは、「在日一世のコリアン一世の方たちというのは、韓国併合後に強制的に連れてこられたり…」という部分にある。大越健介又は原稿を書いたディレクター若しくは記者の理解によると、現在の「在日」の人々の半分は日本国家によって「強制的に連れてこられた」者たちの子孫であることになる。この部分を先に述べていることからすると、「職を求めて移り住んだきた人たち」よりも多い印象を与える言葉にもなっており、 「在日一世のコリアン一世の方たち」のうち「韓国併合後に強制的に連れてこられた」のは50-55%にはなる、という理解に基づいているようでもある。
 週刊新潮の記事で鄭大均が、月刊WiLL9月号で西村幸祐が批判しているので、大越らNHKニュース9制作者の「歴史認識」の誤謬をここではもはやくり返さない。私自身は大越の言葉を耳にしたあと放任できないと思い、NHKに対する意見の窓口、0570-066-066又は050-3786-5000にクレームの電話を当番組の時間内にかけた者の一人だった。
 さて、ニュース9又は大越健介は、この問題をどう処理するつもりなのだろうか。歴史的に事実ではない報道をすれば、訂正し、正確な情報に改め、かつ詫びる=謝罪するのが、まっとうな社会あるいは会社・団体のあり方だろう。
 その後、大越健介は7/17の報道(新聞で言えば「記事」の一部になる)の誤りを訂正し、謝罪したのか?
 まさか、<ネトウヨ>が騒いでいるだけと頬かむりしたままを続けるつもりではないだろう。
 かりに、そんな気分で訂正も謝罪もしないとすれば、「国民運動」を起こしてでも、ニュース9の当該部分の担当者と大越健介を更迭しなければならない。
 もともと、ニュース9と大越健介には、<保守>からの批判よりも<左翼・リベラル>からの批判を避けたいという気分をうかがうことができた。例えば、半年以上前、特定秘密保護法をめぐる<街の声>について、午後7時からのニュースでは賛成意見2名を先に、反対意見2名をその後で紹介していたが、 同じ日のニュース9では反対意見2名、賛成意見1名(順番は今では忘れた)を紹介する、という違いがあった。「政治部記者」の大越健介の<イデオロギー>又は個性にもよるのだろうが、番組担当のディレクターのそれの方が大きいのかもしれない。
 ところで、さらに近日中に知ったのだが、経営委員の百田尚樹が7/17の大越発言を7/22の経営委員会で批判したらしい。これを朝日新聞が「百田尚樹氏、大越キャスター発言」という見出しの記事でとり挙げて、<放送への介入>と言いたいらしき批判をしたらしい。
 朝日新聞は放送法32条違反だと言いたいようだが(例のごとく断定はしていない)。同条は「①委員は、この法律又はこの法律に基づく命令に別段の定めがある場合を除き、個別の放送番組の編集その他の協会の業務を執行することができない。②委員は、個別の放送番組の編集について、第三条の規定に抵触する行為をしてはならない」と定め、同法3条は「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」と定める。
 放送法に関する定着した解釈らしきものがあるのかどうかは知らないが、委員会での委員の(番組放送後の)発言が個別の番組の「編集」その他の「実行」にあたるはずはない。また、委員会での委員の特定の番組又はその内容に関する発言が「放送番組」への「干渉」に当たるのだとすれば(文理上は該当すると解釈できる可能性があることは否定しないが)、そのように解釈してしまうと、かりに「経営」にも重大な影響そうな個別の番組についてであっても委員は一言も質問や発言をできなくなってしまう。もともと、経営委員会の発言内容が朝日新聞にだけは漏れているようであるのも奇妙なのだが、朝日新聞が大きくは問題視しない(騒がない)意向のようであるのも、上の形式的な解釈を採るつもりはないのかもしれない。
 上記の「産経抄」 は、「経営委員会は、経営の基本方針を決める機関だが、受信料の徴収率に直結する番組について質問をするのは不思議でも何でもない。『放送番組は何人からも干渉されない』と規定する放送法に抵触する、とはヤクザのいいがかりに近い」と述べた。最後の比喩は厳しいが、内容的には穏当なところではないか。
 そのことよりも、朝日新聞の記事(7/26)の問題は、大越健介の発言内容の当否ついては、全く言及していないことだ。「在日」の由来に関する自らの、又は自社の見解を示して初めて、百田発言を問題にできるのではないか。
 一般論としていうと、内容・中身について世論を説得できない、多数派を形成できない場合には、<手続>又は<形式>に重点を変えて批判の対象にする、というのは「左翼」、そして朝日新聞がこれまで戦後ずっととり続けてきた論法でもある。今回は立ち入らないが、集団的自衛権閣議決定の翌朝の社説の最初の文章は「民主主義」破壊という観点からの批判であったことには訳が分からず、かつ呆れた。
 ついでに書けば、上記「産経抄」子は「大越氏の発言は、視聴者に「強制連行」を印象付けたといってもよく、東大出のニュースキャスターの歴史認識がこの程度では、百田氏ならずとも心配になってしまう」、と述べている。
 「東大出のニュースキャスターの歴史認識」を心配してもよいが、問題はもっと深刻だと思われる。その深刻さへの感度が少し鈍いように感じる。公共放送と言われるNHKの代表的なニュース番組において、キャスターが、「在日一世のコリアン一世の方たち」の少なくとも半分は日本国家が「韓国併合後に(朝鮮半島から)強制的に連れて」きた、という歴史「認識」を示したのだ。こんな誤ったイメージ操作を許してはならないだろう。
 ニュース9又は大越健介は訂正して詫びるのか。詫びるべきだ。ついでにいうと、産経新聞は、そういう論調に立つべきだ。

1236/安倍晋三内閣総理大臣靖国神社参拝。

 12/26の正午すぎに安倍首相の靖国参拝のテレビ報道があり、予期していなかったので驚くとともに、安倍首相の参拝後のインタビュ-回答を聞いていて、思わず涙がこぼれた。
 当然のことが当然のように行われ、当然のことが語られている。
 欺瞞と偽善に満ちた報道、発言や声明類に接することが多いだけに、久しぶりに清々しい気分になった。
 日本共産党・志位和夫は「侵略戦争を肯定、美化する立場に自らを置くことを、世界に宣言することにほかならない。第二次世界大戦後の国際秩序に対する挑戦であり、断じて許すわけにはいかない」とコメントしたらしい。①誰が先の戦争を「侵略」戦争だったと決めたのか、②万が一そうだったとして戦没者を慰霊することが、なぜそれを「肯定、美化する」ことになるのか、③いわゆるA級戦犯が合祀されていることを問題にしているとすれば、そのいわゆるA級戦犯とはいったい誰が決めたのか、いわゆるA級戦犯合祀が問題ならばB級戦犯、C級戦犯であればよいのか、④「第二次世界大戦後の国際秩序に対する挑戦」とは最近中国政府・中国共産党幹部が日本についてよく使う表現で(かつての仲間ではないかと米国をゆさぶる発言でもある)、日本共産党の親中国信情を示している、⑤戦没者への尊崇・慰霊行為が「戦後の国際秩序に対する挑戦」とは、何を血迷っているのだろう。神道式の参拝だが、もともと「死者」の追悼なるものに重きを置かない唯物論者に、「死者への尊崇」とか「慰霊」とかの意味が理解できるはずがない。日本の「カミ」ではなく、インタ-ナショナルな?<共産主義>を崇拝し続ければよいだろう。
 社民党・福島瑞穂は「アジアの国々との関係を極めて悪化させる。国益に明確に反している。強く抗議したい」とコメントしたらしい。NHKもさっそく中国・韓国政府の反応を丁寧に報道していたが、「アジアの国々」というのは大ウソ。タイ、カンボジア、マレ-シア、インド等々、西部のトルコまで含めなくとも、アジア諸国の中で内政干渉的または信仰の自由侵害的にいちゃもんをつけているのは中国、韓国(・北朝鮮)といういわゆる「特定アジア諸国」だけ。ウソをついてはいけない。あるいはひょっとして、福島にとっては、アジアとは中国・韓国(・北朝鮮)と日本だけから成り立っているのだうろか。
 ところで、特定秘密保護法に反対した大学教授たち、ジャ-ナリスト、映画人等々の多くは、例えばかつての有事立法反対運動にも参画していた人々で、先の戦争は「侵略戦争」で、日本は「悪いことをした」と、信じ込み、思い込んでいる人たちだろう。そして、かつての「悪」を繰り返させるな、<戦争をしたい保守・反動勢力>が「軍靴の音」を響かせつつあるので、戦後<平和主義>を守るためにも、保守・反動の先頭にいる安倍晋三(・自民党)をできるだけ早く首相の座から下ろさなければならない、と考えているのだろう。
 このような<基本設定・初期設定>自体が間違っている。
 先の戦争は民主主義対ファシズムの戦争で、日本は後者の側に立って「侵略戦争」をした、という歴史の認識は、戦後・とくに占領下において勝者の側・とくに米国(・GHQ)が報道規制・特定の報道の「奨励」、あるいは間接的に日本人教師が行う学校教育等を通じて日本人に事実上「押しつけた」ものであり、正しい「歴史」認識または把握であったかは大いに問題になる。ソ連や米国の戦時中の資料がまだすべて公開されていないので、今後により詳細な事実・真実が明らかになっていく可能性があるだろう。
 先の戦争はソ連共産党・コミンテルンと米国内にいたコミュニストたち(コミンテルンのスパイを含む)により影響を受けたル-ズベルト大統領がまともに国内を支配できていなかった(分裂していた)中国よりも日本を攻撃して潰しておくことがそれぞれ(ソ連・アメリカ)の国益に合致していると判断しての<日本攻撃・日本いじめ>だった可能性は十分にある。ソ連は日本敗戦後の日本での「共産革命」(コミュニスト・共産党中心の政権樹立。それが民主主義(ブルジョア)革命か社会主義革命かの理論的問題よりもコミュニストに権力を奪取させることが重要だった)を画策していたに違いない。
 毛沢東の中国共産党の拡大と1949年の政権奪取(中国人民共和国の成立)を予想できなかったアメリカにも大きな判断ミスがあった。こともあろうに日本よりもスタ-リンの「共産」ソ連と一時期は手を結んだのだから大きな歴史的誤りを冒したことは間違いない。ようやく対ソ連措置の必要を感じて、ソ連参戦の前にアメリカ主導で日本を敗戦させたかったのだと思うが、それは原爆製造とその「実験」成功によって対ソ連で戦後も優位に立つことが前提でなければならなかった(吉永小百合のように日本の二都市への原爆投下は終戦を遅らせた日本政府に第一次的責任があるかのごとき文章を書いている者もあるが、間違っている)。
 先の戦争について連合国側に全面的に「正義」があったなどと日本人まで考えてしまうのは-戦後の「洗脳」教育のためにやむをえないところはあるが-じつに尾かなことだ。
 大学教授、ジャ-ナリスト、映画人といえば、平均的な日本国民よりは少しは「賢い」のではなかろうか。そうだとすれば、自らの歴史の把握の仕方の基本設定・初期設定自体を疑ってみる必要がある。少なくとも、異なる考え方も十分に成り立つ、という程度のことは「賢い」人ならば理解できるはずだと思われる(但し、例えば50歳以上の日本共産党員または強い日本共産党シンパは、気の毒ながら今からではもう遅いかもしれない)。
 先の戦争についての(付随的に南京「大虐殺」問題、「百人斬り競争」問題、朝鮮「植民地支配」諸問題等々についての)理解が、今日まで、首相の靖国参拝問題を含む諸問題についての国内の議論の基本的な対立を生んできた、と考えられる。靖国参拝問題は戦後の「中国共産党王朝」成立以来一貫して問題されてきたわけではなく1980代になってからなのだが、しかし、日本や韓国(・北朝鮮)がかつての日本の「戦争責任」、という<歴史カ-ト゜>を使っているので、先の戦争についての正しい理解はやはり不可欠になる。
 繰り返すが、民主主義対ファシズム(・軍国主義)という単純二項対立、暗黒だった戦前と<平和と民主主義>国に再生した戦後という単純二項対立等による理解や思考は間違っている。戦前はいわれるほどに暗黒ではなかったし、戦後はいわれるほどに立派な国歌・社会になったわけではない。むしろ、<腐った個人主義>や日本の伝統無視の<政教分離>等々による弊害ははなはだしい、ともいえる。例えば、親の「個人尊重」のゆえの「子殺し」も少なからず見られ、珍しいことではなくなった。こうした各論に今後もつぶやいていこう。

1215/ジャパニズム14号の井上太郎「ヘイトスピーチと在日特権」。

 一 「ヘイトスピーチ」なるものに前回触れたのだったが、関連する文章に、井上太郎「ヘイトトピーチと在日特権」ジャパニズム14号(2013年8月号、青林堂)p.108以下があった。

 井上は言う-「日本でのヘイトスピーチは批判するが、南朝鮮の国家レベルの無礼な反日活動はスルーするマスコミの存在…」。「南朝鮮や在日朝鮮人に対し一切批判を行ってこなかった日本のマスコミにも、在日問題に関し責任は全くないといえるの」か。「ヘイトスピーチを生み出しているのは、日本だけを悪者にするダブルスタンダードのマスコミの存在と在日自身にもあるというのは間違った意見」なのか。

 韓国・韓国人等は日本・日本人に対して立派な「ヘイトスピーチ(+ビヘイビア)」をしているではないか、特定の(非左翼の)日本人だけを批判して一部の近隣諸国(国民も含む)を批判していないとすれば、NHKは偏向しており、「自虐的」なままだ、というのは前回に書いたことだったが、同旨の指摘が「日本のマスコミ」について発せられていることになる。

 また、日本のマスコミが「在日特権」を問題にせず、「在日」に甘いがゆえにこそ「ヘイトスピーチ」が生じているのではないかという論理も、私には思いつかなかったが、成り立ちうるもので、よく分かる。

 二 井上が上の論考で三段組み2頁以上にわたって列挙している「在日特権」はたしかにすさまじいものだ。

 「自治体」の裁量と書いているが(p.109)、生活保護は実施主体は地方公共団体であっても国の法令と「通達」等に依っているとみられ、特定範囲の「在日」には日本国籍はなくとも日本国民を対象とする生活保護法という法律を「準用する」という、国のかつての厚生大臣か局長かの一片の「通達」にもとづいて日本人に対するのとと同じ生活保護がなされているにすぎない。「全てに法的根拠はなく」という叙述は正しいと考えられる。

 詳細には知らないが、他にも法律上の根拠なくなされている「在日」優遇は多いようだ。これは「法治行政」の中に政治的・外交的・裁量的判断を持ち込むもので、一般的な行政スタイルとしても問題がある。

 民主党・小宮山厚労相の命令により、生活保護を受けている「在日」は申請しさえすれば国民保険料が免除され、「満額の国民年金」を受け取れるようになった、らしい(p.111)。これはベラボーな話ではないか。ただでさえ年金財政は苦しいというのに、こんな「在日」優遇は認められるべきではなかろう。憲法25条がプログラム規定としてであれ最低限度の文化的生活をする権利を認めているのは「国民」であり、生活保護のみならずその他の福祉行政についても国籍の有無で「区別」するのは、何ら憲法違反ではないし、かつ法律レベルの政策判断としても不合理なものではまったくない。

 「在日」を差別する(不当・不合理に区別する)必要はないし、そうしてはいけないだろうが、<国籍の有無による差別はいけない>とか<要求または抗議が激しいので穏便に>などという誤ったかつ事なかれ主義の発想で行政はされてはならないだろう。

 表現方法や言葉遣いが問題だ、「レイシズム」だ、などと論難する前に、NHKは「在日特権(優遇)」の実態をきちんと調査して、大越健介演番組でなくとも国谷裕子の7時半からの番組でもよいから、報道し検証してみたらどうか。という期待は、きっと甘すぎるかもしれないが。

1214/NHKは日本と日本人に対する「ヘイト・スピーチ(+ビヘイビア)」を厳しく批判しているか。

 9/23だっただろうか、NHKの九時からのニュースは、<またやったか>と感じさせるところがあった。

 「ヘイト・スピーチ」に反対する集会・デモが東京で行われたというもので、「ヘイト・スピーチ」反対の集会・デモを、NHK、そして大越健介は肯定的・好意的に報道した。前提には、「ヘイト・スピーチ」をする集会・デモは「悪」だ、という価値判断があったようだ。

 なるほど「特定の人種や民族に対して差別や憎しみをあおったり、おとしめたりする言動」はよろしくないだろう。だが、「あおる」とか「おとしめる」にはすでに何がしかの価値評価が入っている。「あおる」ものか否か、「おとしめる」ものか否かの客観的基準を、NHK、そして大越健介、正確にはこの番組制作者・ディレクターかもしれないが、有しているのだろうか。

 <在特会>とやらの集会・デモについての知識が私にはないし、またNHK自体も「ヘイト・スピーチ」集会・デモを詳細にまたは頻繁に取りあげて報道してきたわけではないから、先日の報道は分かりにくく、やや唐突の観があった。

 そして何よりも、一定の価値評価、<善悪>の評価を簡単に下してしまったうえでの報道はいかがなものか、という疑問が残った。

 「ヘイト・スピーチ」に反対する集会・デモは表向きはまともなようであっても、特定の「ヘイト・スピーチ」をしているらしき人々に対する「差別」を<あおり>、<おとしめる>意図を持つものとも言えるのではないか。

 それにまた、中国や韓国では、日本や日本人に対する「ヘイト・スピーチ」がいくらでもあるのではないか。NHKはそれらをきちんと批判してきたのか?

 「小日本」とか「日本鬼子」という言葉自体が日本と日本人を馬鹿にしている。「慰安婦像」とやらを在韓国日本大使館の前に建てるのは<ヘイト・スピーチ>ならぬ<ヘイト・ビヘイビア(行動)>そのものではないのか。しかもまた、これらは、中国政府や韓国政府自体が行い、または少なくともそれらの事実上容認のもとで行われている。

 NHK、そして大越健介よ、かりに「ヘイト・スピーチ」はよろしくないと自信を持って報道するのならば、国家ぐるみで行われている、と言ってよい、<ヘイト・スピーチ>・<ヘイト・ビヘイビア(行動)>を厳しく批判し、これらに抗議しないと、公平ではないのではないか?

 それにまたNHKは主としては日本人からなる「日本」放送協会のはずだ。「ヘイト・スピーチ」集会・デモをする日本人はけしからんというのならば、より厳しく、中国や韓国での<ヘイト・スピーチ>・<ヘイト・ビヘイビア>批判して不思議ではないが、そのような報道の仕方をしてきたのか?

 内に厳しく特定の外国には甘いのだとすれば、公平感あるいはまともな感覚を失っている。日本人に対しては厳しく、「近隣諸国」(国民も含む)には寛容だとすれば、まさに(戦後に継続した)<自虐>意識そのままだろう。

 中国が尖閣諸島への接近を明らかに強め始めた頃、大越健介は<毅然とかつ冷静に>とかくり返して、<冷静>な反応を求めていた。「ヘイト・スピーチ」に反対する集会・デモに対する報道の仕方はこの「冷静さ」を維持しているか?

 「ヘイト・スピーチ」に反対する集会・デモをテレビ局で取りあげたのはNHKだけだったのではないか。朝日新聞らがその後に追随しているようだが、NHKだけが何故か突出している。
 このような放送団体との契約締結義務を課す現行放送法は、戦後の一定の時期まではともかく、現在では憲法違反(国民に対する契約締結「強制」)の疑いが濃いように思われる。

 ともあれ、NHKのニュース番組の中でも、夜九時からのものが最も「偽善的」で、最も多く「気持ちが悪い」部分を含んでいる。

1196/浦川泰幸(朝日放送)と日本共産党系活動家・吉永小百合。

 〇8/15の朝番組について、同日のこの欄で、テレビ朝日の坪井直樹らしきキャスターの発言を批判的に取りあげたが、正しくは朝日放送の浦川泰幸の「おはよう朝日です」内での発言だった。坪井直樹氏にはお詫び申し上げる。ほとんど見たことのない番組だったので(朝日系は原則として観ない)、キャスターの氏名になじみがなかった。異例だが、8/15の書き込みの名前をこのあとで「浦川泰幸」に改める。
 しかし、もちろん、発言内容に関する批判的コメントを改めるつもりはない。

 浦川泰幸、1971年5月生まれ、立命館大学経済学部卒。出身大学・学部と先日の発言とに直接の関係はないだろうが、立命館大学とは「リベラルな」末川博のもとで戦後、容日本共産党の「左翼」教授たちを集めてきた大学。1970年前後の学生「紛争」時代、すべての学生自治会の主導権・執行部を「全共闘」系ではなく、日本共産党・民青同盟系学生が握っていたことでも知られる。少なくともかつては、同大学経済学部は日本共産党系マルクス主義経済学者でほとんどを占めていたものと推測される。

 現在でも上記のような雰囲気は残っているはずなので、浦川泰幸は「何となく」その影響を受けた可能性がある。そうでなくとも、朝日放送に入社以来、おそらくは毎朝・毎夕に朝日新聞を読んで、「朝日」的感覚と「朝日」的歴史認識を身につけたのだろう。そうでないと、原稿を読むでもない、先だって記したような発言を早口で一気に喋ることができるはずがないと思われる。

 〇やや古いが、今年5/03付朝日新聞朝刊に「女性は戦争への道を許さず、憲法9条を守ります」と大書した、一面全体を使った「意見広告」が掲載されている。
 この意見広告の呼びかけ人は、雨宮処凜、澤地久枝、湯川れい子、田中優子(法政大学教授)ら。
 目を惹いたのは、「第一次賛同人」として氏名が小さく書かれている102人の中に、「吉永小百合(俳優)」とあることだ。
 岩波書店の護憲派のブックレット類に文章を寄せている吉永小百合だから「左翼」的だろうと思っていたが、この意見広告の「事務局団体」の列挙を観ていると、呼びかけ人や賛同者は日本共産党系または日本共産党とは対立していない、(立命館大学教員と同様に?)<容日本共産党>の女性たちであることが分かる。
 事務局団体のうち「自由法曹団女性部」、「新日本婦人の会」が日本共産党系(幹部は党員だろう)であることは知っていた。その他を少し調べてみると、「全国労働組合総連合(女性部)」とは民主党系のいわゆる<連合>とは異なる日本共産党系の<全労連>のこと、「日本婦人団体連合会」とは新日本婦人の会などが加入しているやはり日本共産党系とみられる全国的連合団体。その他は省略するが、「左翼」の中には非または反・日本共産党系の者たちも存在するところ、この意見広告は日本共産党系の女性たちのものであり、その中に吉永小百合も明記されている。俳優または女優と注記があるのは10名もいないにもかかわらずだ。

 将来に現憲法9条2項の改正が現実的な政治的・国民的争点になるとき、「国民的女優」・吉永小百合は積極的にか利用されてか、改憲反対(護憲)の主張者として、ある程度の影響力を持ってしまう可能性がある。「国民的女優」ぶりはJR東日本の宣伝キャラクターとして活躍し?、ある程度大きな同区域の駅の構内には吉永小百合の顔のポスターが目に付くことでも示されている。
 いざとなれば「国民的映画監督」・山田洋次も、同様の役割を果たす可能性がある。NHKは<山田洋次監督が選んだ…日本映画>とやらを連続放映していたが、わざわざ「山田洋次監督が選んだ」と題するところに、NHKらしさがあるとも言える。
 改憲派、憲法九条2項改正派は、吉永小百合や山田洋次等に対抗できる「国民的」俳優・映画監督を自分たちの仲間に含めているのかどうか、気になる。
 日本共産党系発言者としての吉永小百合の活動を封じる必要がある。

1194/8月15日と靖国神社参拝と戦争と。

 〇田母神俊雄と都内某所でたまたま遭遇して、わずかの会話までしてしまってから、二年が経った。そのときと違って、民主党「左翼」政権下のもとで生きてはいないのは、元に戻ったに、異常から普通に戻ったにすぎないが、とりあえず慶ばしいことだ。
 〇朝日放送の8/15の朝番組で、浦川泰幸というキャスタ-が、首相靖国参拝問題で面妖な「偏った」ことを述べていた。
 ・局が用意したフリップに、「中曽根首相、初の公式参拝」(たぶん1983年か1985年)とあった。はて、中曽根が公式参拝を初めてした? 吉田茂をはじめとして歴代の首相は小泉純一郎まで靖国神社を参拝してきた。三木武夫が質問に対して「私人として」などと答えたためにややこしくなったようだが、それ以前の首相参拝は公式か否かすら問題とされない、しかし「公式」のものだったはずだ。テレビ朝日は歴史を捏造しているのではないか。
 ・浦川泰幸は、首相参拝問題を「世界が注目」していると述べたが、実際に挙げた国名は中国・韓国・米国だけだった。テレビ朝日が「世界」というとき、この三国のみを指す、というので一貫させるならば、テレビ朝日はその旨をきちんと公告し、どの番組でも一貫させてほしいものだ。
 ・浦川泰幸は、「A級戦犯合祀」を明らかに問題視し、合祀時点(1978年のようだ)の靖国神社宮司は旧陸軍出身者だと明言し、だからこそ合祀に踏み切ったということを含意させた。はて1978年時点の宮司の経歴についてはほとんど報道されていないようだが、浦川の発言内容は正しいのか、どなたか確かめてほしい。またそもそも、だからどうなのだ、と浦川とテレビ朝日には言わねばならない。
 ・「A級戦犯」は戦争「指導者」だから戦争に動員されただけの者と区別するのは当然である旨を前提とする発言をしていた(だからこそ中国等が問題視している旨を言っていた)。
 浦川泰幸朝日放送に問い質したい。「指導者」か否かはどういう基準で決めるのか? 「A級戦犯」と決めたのは日本人でも日本政府でもなく東京裁判法廷だが、GHQの広義の指揮下の裁判官たちの選別が正しいとする根拠は何か?

 「A級戦犯」ではない「B・C級戦犯」のうちの刑死者の中には「指導者」はいなかったのか?

 そもそも合祀されているのは「戦死者(いわゆる法務死を含む)」に限られている。「A級戦犯」の責任を追及したいならば、死刑にならなかった「A級戦犯」者の責任も問題とすべきだが、テレビ朝日は、そして親会社の朝日新聞社は、賀屋興宣等の禁固刑者でのちに犯罪者扱いされなくなった者たちの責任を一貫して問題にしてきたのか。
 また、「A級戦犯」という分類は罪名による区別であり「指導者」か否かとは本来は関係がない。浦川泰幸らしき男は、このことくらいわきまえて発言しているのか。
 ・浦川泰幸は、戦争被害者は、軍人だけではなく一般国民もそうだ、後者も含めて慰霊されるべきと、一瞬はまともらしき感じもする見解を述べた。だが、一般国民と、公務・職務の結果として又は遂行中に「戦死」した者とは、やはり区別されてしかるべきだ。あるいは、区別して慰霊するだけの十分な根拠がある。このことくらいを理解できないほどに浦川泰幸は、およびそれを使っている朝日放送は、バカなのだろう。

 〇先月のいつかに(7/17かもしれない)、NHKの9時からのニュ-スで大越健介は、「風立ちぬ」の作者・宮崎駿に対して、「戦争美化という印象(・声)もありますが、そうではないですよね」とわざわざ質問した。
 そのときに感じたのは、次のようなことだった。
 大越健介は、日本には「戦争を賛美・美化」する人々や勢力がある、という理解を(単純・幼稚に)前提としている。ひょっとすれば現安倍晋三首相もその傍らにいると思っているのかもしれない。

 だが、「戦争を賛美(・美化)」とはいったいどう意味なのか? 一般論として、戦争一般を「望ましい」・「美化されるべき」ものと思っている者は全くかほとんど存在しないだろう。そうすると、大越のいう「戦争」とは先の戦争、太平洋戦争とか大東亜戦争とか言われるものを指しているのだろうが、はたしてそれを(日本の行動を)100%「美化」している人々はどれほどいるのだろうか。コミンテルンとそのスパイたちによって誘導された、引きこまれた戦争だったという見方もある。
 大越はもはや古びた「戦争美化」という言葉を今日もなお使っているとしか思えない。彼の歴史意識・歴史認識およびこれをめぐる議論についての知識はNHKに入局したときからほとんど進化していないのではないか。このような人物が9時からのニュ-スのメイン・キャスタ-だ。NHKの<底の浅い>、「何となく左翼ぶり」を十分に感じさせる配置になっている。

  *8/15時点で<テレビ朝日直樹>と記していたが、のちに<朝日放送の浦川泰幸>が正しいことが分かったので、異例だが、あとで改めた(8/29記)。

1179/憲法改正に関するTBS・NHKの「デマ」報道-2013年5月。

 〇5/03だったと思うが、NHKのニュース9は、外国の憲法改正手続の例としてアメリカ、ドイツ、韓国の三国のみを紹介していた。いずれも、現在の日本と同様かそれ以上に厳しい手続を用意している(そして、にもかかわらず頻繁に改正されている)例としての紹介だった。
 諸外国の憲法改正手続について詳しくはないのだが、アメリカとドイツは連邦国家で、各州の意向の反映方法という問題があるので、日本と直接に比較するのは適切ではない。残る韓国一国だけで、世界の趨勢などを知ることができるわけがない。
 と感じていたら、読売新聞5/11朝刊橋本五郎がこう書いていた。
 「改正条項を変えることに反対する人は、米国では両院の3分の2以上の賛成と4分の3以上の州議会の承認がなければ修正できないと強調する。フランスでは両院の過半数の賛成と国民投票で改正が可能であることを決して言わない」。
 念のために高橋和之編・新版世界憲法集(岩波文庫、2007)を見てみると、フランス1958年憲法89条2項が定める憲法改正手続は、政府・議員提案の場合の両院の議決につき2/3以上の要件を課しておらず、国民投票による承認が必要とのみ定める(どちらについても数字ないし割合の定めはなく過半数による議決と承認を意味していると解される)。なお、大統領が憲法改正議会に提案する場合には議会による3/5以上での承認が必要であり、かつこの場合は国民投票に付されない、とも定めている(89条3項)。
 要するに、基本的には、フランスでは両院議員の過半数で発議され、国民投票による過半数の承認で憲法が改正されることになっているようで、橋本五郎の言及内容は誤ってない。
 そうだとすると、なぜ大越健介らのNHKのニュース9はなぜフランスの例を紹介しなかったのだろう、という疑問が生じる。そして、答えは、NHKニュースは橋本のいう「改正条項を変えることに反対する人」によって作られている、そういう特定の立場に立っているということですでに<偏向>している、ということだ。
 くれぐれも注意する必要がある。すなわち、NHKの報道を信頼してはいけない。

 〇5/11夕方のTBS「報道特集」の憲法改正問題に関する取り扱い方は、自民党「日本国憲法改正草案」中の「表現の自由」に関する条項、より正確には現行の21条に2項として「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは認められない」を追加していることを批判することだった。
 キャスターやレポーターは次のように言って論難していた。<表現の自由の保障は大切だ、「公の秩序を害する」の意味が不明確だ、誰がそれを決めるのか>等。
 自民党の上の案が最善だとはまったく思わないが、しかし、TBS「報道特集」による上のような批判は適切ではなく、憲法についての無知をむしろさらけ出すものだ。
 わざわざ書くのも恥ずかしいようなことだが、TBS「報道特集」は、現行憲法のもとでは(自民党改憲案とは違って)「表現の自由」は無条件・無制約に保障されている人権だと思っているのだろうか。
 そんなことはない。直接に関係する21条だけではなく、包括的な「人権」規定とも言われる(従って「表現の自由」についてもあてはまる)12条・13条をきちんと読んでみたまえ。
 12条「国民は」「この憲法が国民に保障する自由及び権利」を「濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のために利用する責任を負ふ」。13条「…幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、…国政の上で、最大の尊重を必要とする」。
 現行憲法のもとでも、「表現の自由」は「公共の福祉」による(内在的な)制約を受けていることは明らかなのだ。この点をより明確に、やや異なる表現で21条自体に追記しようとするのが、自民党案だろう。
 現行憲法21条についても<表現の自由の保障は大切だ、「公共の福祉」の意味が不明確だ、誰がそれを決めるのか>という批判はいちおうは成り立つのであり、自民党改憲案についてだけ言えることではまったくない。なお、最高裁を頂点とする司法部が最終的には法律制定その他の国家活動の合憲性を審査して「決める」ことは常識的なことで、「誰がそれを決めるのか」という疑問を発すること自体も、担当者の無知または「幼稚さ」を示している。
 要するに、TBS「報道特集」は、さすがにTBSらしく、何やら深刻ぶりつつ自民党による憲法改正の動きに対していちゃもんを付けておきたかったのだろう。かりにそれはよいとしても、もう少し憲法についてきちんとした知識・素養にもとづいて「報道」しないと嗤われるだけだ。<陰謀・謀略のTBS>は、しかし、そうした姿勢を正すことはないのだろう。
 〇6年前にこの欄に書いたことを読み返していて、憲法学者・阪本昌成の言説を次のように紹介していたことを思い出した。元の雑誌(ジュリスト1334号)で再確認することなく、もう一度掲載しておく。  平和主義」ではなく「国家の安全保障体制」と表現すべき。九条は「主義・思想」ではなく国防・安全保障体制に関する規定だからだ(p.50)。/「平和主義」という語は「結論先取りの議論を誘発」するが、「平和主義」はじつは「絶対平和主義」から「武力による平和主義」まで多様だ。
 「平和主義」という言葉を単純に使っている朝日新聞等の護憲派(九条2項削除反対派)の人々は、上の短い部分だけでもきちんと読みたまえ。
 「平和主義」の中には現九条2項も入るのかを明確にすべきだし、武力・軍隊の保持による「平和」追求もまた「平和主義」であることを知らなければならない。

 阪本昌成はまた自らの著書の中で次のようにも書いていた。「平和主義」を現憲法の三大原理の一つなどと単純に理解してはいけない。

 <阪本は、「日本国憲法の基本原則は、「国民主権・平和主義・基本的人権の尊重」といった簡単なものではな」く、次の6つの「組み合わせ」となっている、とする。/1.「代議制によって政治を行う」(代議制・間接民主主義)、2.「自由という基本的人権を尊重する」(自由権的基本権の尊重)、3.「国民主権を宣言することによって君主制をやめて象徴天皇制にする」(国民主権・象徴天皇制)、4.「憲法は最高法規であること(そのための司法審査制)を確認し、そして、「よくない意味での法律の留保」を否定する」(法律に対する憲法の優位・対法律違憲審査制)、5.「国際協調に徹する安全保障をとる」(国際協調的安全保障)、6.「権力分立制度の採用」(権力分立制)。> 

1177/日本共産党と朝日新聞の「盟約」関係。

 〇5/09の衆議院憲法審査会で日本共産党の笠井亮は、憲法は国家を<縛る>ものだ(ときどきの政権の都合で変えてはいけない)とか、現96条の要件の緩和は<憲法を法律なみに>するものだとかと述べて、同条の改正に反対したらしい。
 テレビでその部分を観ていて、朝日新聞の社説とほとんどと同じことをほとんど同じ表現で述べていると思った。朝日新聞論説委員・社説子の中にも共産党員や確信的な共産党シンパがいるだろうが、少なくとも憲法改正問題に関して、日朝同盟ならぬ<共・朝盟約>が実質的に成立しているものと思われる(もう一つこれに参加している重要な仲間が、出版界の岩波書店だ)。

 朝日新聞5/09朝刊の二面右上には日本共産党を実質的には「応援」としていると読める記事があった。朝日新聞は日本共産党を<無視>することは決してしないのだ。
 NHKも中立をいちおうは装おうとしながら、憲法(96条)改正に反対の方向で報道することに決めているかに見える。その具体例は逐一挙げないが、5/03の憲法記念日の集会に関するニュ-スでは護憲派(憲法改正反対派)の集会の方を先に取りあげていた。
 この問題が参議院選挙の結果にどのような影響を与えるのかは、私には分からない。だが、朝日新聞やNHKが護憲を明確にしているとなると、改憲派(自民党・日本維新の会・みんなの党)が参院で2/3以上を獲得するのは決して容易ではないと見ておくべきろう。
 なお、私は96条の要件の緩和に反対ではない。まずは96条の改正をしたらどうかという案をこの欄に6年前に記したことすらある。

 但し、改正発議要件の2/3か1/2かという問題は、単純な理屈で決せられるものではないだろう。一義的に是非が判断できる問題ではないと思われる。となれば、96条改正のために2/3以上が獲得できるということは、現9条2項の削除等のためにも2/3以上を獲得できることとたいして変わらず、現行改正規定のままで(むろん両院で2/3以上を獲得して)、一挙に9条2項の削除・国防軍設置等の改正を発議した方がよい、あるいはてっとり早い、ような気もする。
 96条の要件の緩和にあえて反対はしないものの、反面では、例えば現憲法の第一章「天皇」の削除が現在よりも簡単に発議されるような事態が生じることも怖れてはいる(日本共産党は96条改正に反対しているから、現時点では「天皇制度」解体のために国会各議院の議員総数の過半数を獲得する自信を持っていないのだろう。だが、日本共産党が他「左翼」政党とともにそれが可能だと判断するときがくると、96条の要件が緩和されていることは怖いことでもある)。

 〇橋下徹護憲派ほどうさんくさいものはない。護憲派の人たちは、今の憲法が絶対的に正しいと思っている」、「『(憲法に対する異なる)価値観を強要しないで』と言いながら(今の憲法が正しいという価値観を)ばりばり強要している」と護憲派を批判したらしい(5/09記者会見)。

 改憲派である「保守派」の論者の一部の長い文章などよりも、はるかに分かりやすい。

1163/日本の中にいる「反日」・「左翼」団体・個人をこそ徹底的に批判すべき。

 一 産経新聞や月刊正論(産経)等々の(少なくとも自称)保守派(的な)メディア・雑誌類が、月刊WiLL(ワック)も含めて、中国や韓国(・北朝鮮)に対する、警戒的または批判的な論調でいたり、そのような特集を組むことに反対はしないが(但し、中国と韓国は同じではない。後者については歴史認識や竹島問題にほぼ限られるだろう)、たび重なる類似の特集類の中には、少なくとも私には、もう読むまでもない、またかと思わせるものも少なくない。
 両国に共通するところもある歴史認識等の問題についての正確な情報・見解を発信し続けていくことも重要だが、第三の(または北朝鮮を含めると第四の)「反日」国家とも言われているのは日本そのものであり、日本の中にいる(ある)「反日」勢力・「反日」マスメディア、「反日」人士の言動を読者ができるだけ正確に把握できるできるように報道し、また執拗にと言ってもよいほどに的確かつ迅速に批判または反論していくこともまた(少なくとも自称)保守派(的な)メディア・雑誌類の重要な役割だろう。少なくとも、広い意味での(例えば現憲法九条2項削除・軍の保持の明記に賛成するような)「保守」派の中に分裂・対立を持ち込むような、あるいはそのような対立を過大に重視して、主観的には「真の」保守派であるつもりで「真正保守」ではないと見なす論者・政治家等を批判・攻撃することに情熱を傾注するような編集方針は、<広く>保守派(例えば憲法改正賛成派)を結集させたいならば、採用すべきではないだう。

 二 月刊WiLL2月号(ワック)には、重要なまたは興味を惹く論考類が含まれているが、上のような観点からすると、西村幸祐の新連載らしい「メディア・スクランブル」の中の次の二つの指摘は、あえてここにも記しておきたい。これによると、次のようだ(p.29)。

 ①東京新聞は、「十月に実施した憲法九条の世論調査で、改憲派が護憲派を一〇%以上、上回っていたことをできるだけ隠していた」。韓国・朝鮮日報の「慌てふため」いた報道によって多くの日本人が自国の有力紙の世論調査結果を知った。

 ②テレビ朝日が番組「モニングバ-ド」で、「安倍総裁の経済政策を批判するように経済学者に強要していた」。これを当の学者飯田泰之がBSフジの生放送の連携動画で明らかにした。

 これらをいずれも私は(読むまで)知らなかった。東京新聞(親会社の中日新聞)やテレビ朝日の、たんに政治的立場の違いにすぎないとは言えない<偏向ぶり>、マスコミとしての<異常さ>を、できるだけ多くの国民が(ますます)気づいていくようにしなければいけない。

 そして、別の機会に(も)書きたいが、朝日新聞も含めて、そんな媒体に広告を出していれば、その企業自体が「まっとうな」企業ではないという印象を読者・視聴者に与えるに至るまでに、同業?か同業に近い報道機関・マスメディアであっても、まっとうな人々やマスコミ・雑誌等は(産経新聞社も含めて)、勇気をもって<偏向ぶり>や<異常さ>を指弾し続けるべきだ。
 前後するが、同じことは指弾されるべき者が評論家・学者という「個人」であっても言える。日本人らしい、または日本的でもあるのだろうか、個人名を出しての(とくに現役の者に対する)批判は遠慮しがちなのが、日本の論者、評論家等の傾向ではないだろうか。主張・見解に対する批判と人物・人格全体の批判・攻撃とは同じではないはずなのだが。

 三 撃論プラス第4号(オ-クラ出版、2013)の中には、大室久志「朝日新聞の偏向報道を暴く/紙面徹底検証!朝日が殺そうとした安倍晋三」もある(p.52-)。
 新しい、最近についての有益な具体的な指摘はじつはあまりないのだが、一般論として、「仮に、朝日新聞の意向に従わない政権が存在した場合、あらゆる手段を用いてその政権を潰そうとするのが朝日新聞なのだ。全く事実に基づかない印象操作、誹謗中傷、有識者を騙る似非知識人によるプロパガンダ、『声』欄を利用した読者投稿による印象操作…」(p.56)、ということは、広く国民多数の「常識」にしなければならない。そして、そのような卑劣な新聞は広告出稿企業を失い、読者も失う(経営的・財政的に朝日新聞的メディアを消失させる)ようにしなければならないだろう。「朝日新聞とは、報道機関ではない。政治結社なのである」(p.63)。

 同誌の小川榮太郎「すでに始まっている安倍バッシング」(p.81-)の方が、昨秋以降の<安倍たたき>のマスコミの実際についてはるかに具体的で詳しい。つぎに触れる無署名「…報道分析」の方が詳細だが、フジテレビ系の小倉智弘の安倍からかい発言と安倍による批判と小倉の謝罪についても触れている(こういうのは、よほど熱心な視聴者でないと知らないままだろう)。また、とくに、週刊朝日10/16号の経済関係記事の(安倍を批判したいがための)杜撰さの指摘は長くて具体的だ。

 同誌編集部によるのか、無署名の「2012年度/テレビメディアの報道分析」(p.87-)には、「偏向」発言者等の具体的氏名が記載されている。以下、これに依拠して列挙しておく。

 まず、TBS系番組の中での、みのもんた、金井辰樹、北川正恭、テレビ朝日系番組の中での、愛川欽也、川村晃司、早野透(元朝日新聞)、前北美弥子、テレビ朝日番組等の中での、青木理。
 また、「異様なまでに安倍氏に対して『敵視政策』を続けるTBSは今も健在である」、らしい。先に少し言及したフジテレビ系番組内での小倉智弘、田中雅子。見ていないが、安倍晋三は橋下徹と同様に?、自身の「フェイスブック」10/23付で「痛烈に批判した」らしい。

 日本テレビ番組の中での、テリ-伊藤、加藤浩次。テレビ朝日系ケ-ブル局番組の中での、辛淑玉、永六輔、中山千夏、石坂啓、福島瑞穂(この5名は堂々たる「左翼」だ)。TBSラジオの中での、永六輔、外山恵理、久米宏、大橋巨泉、田中均、青木理、宮台真司。NHK深夜双方向番組の、津田大介、速見健朗、古市憲寿。この古市は、上野千鶴子の「教え子」らしい(p.96)。

 四 朝日新聞の、今年になってからの安倍晋三関係社説の「異様さ」、そもそも民間テレビ放送局は「報道機関」といえるような存在では本質的になく、戦後日本を腐らせた元凶とすらいえること(まさに大宅壮一の言葉どおり、「一億総白痴化」をもたらす最大の道具になったこと)、同じことだが民間テレビ放送局の番組制作関係者が「ジャ-ナリスト」であるなどとは大笑いの戯言であること、佐伯啓思の乱調ぶり、等々、書きたいことは他にも多いが、時間の余裕がないのは残念だ。

1142/「広島型平和熱」→「自虐史観症候群」。

 短いコラムのごときものだが、ジャパニズム08号(2012.08、青林堂)の、中書島亘の文章(p.174-5)には同感する。
 「主に8月になると日本に限局して流行し、NHKやTBSあたりが感染源になることで知られる」感染症を「広島型平和熱」と呼んでいる。そして、この病気が慢性化すると「自虐史観症候群」という「根治不能な重病」に移行するので、この危険性を厚労省や国立感染症研究所は一刻も早く国民に周知徹底させるべきだ、と結んでいる。
 「広島型平和熱」とか「自虐史観症候群」とかの造語が面白い。
 今年はロンドン五輪のおかげで、例年ほどには感じなかったが、毎年8月が近づき、あるいは8月になると、NHKは「戦争」ものや「原爆」もののドキュメンタリーを多く放送するので、うんざりしてきた。もちろん、これらを扱っていることが理由ではなく、<扱い方>に理由がある。上の言葉を借用すれば、<自虐史観症候群>に陥るような番組作りがされているからだ。
 「平和」それ自体にむろん反対しないが、あの戦争について、<日本が悪かった>、<日本は(道徳的・道義的にも)間違ったことをした>という「史観」を基礎にして、国家系放送機関が、特定のイメージを撒き散らしてほしくないものだ。
 見ないようにしているから具体的な疑問を示せないが、戦争を体験した現在の老人(旧軍人を含む)の記憶を映像・録音に残そうとしても、現在のまたは<戦後の>戦争観(特定の、あの戦争についての見方)に影響されて、事実についての記憶やその評価は語られることになるのであり、戦争の経験者が語っているから、その評価も含めて、すべて<真実だ>ということには全くならない。
 NHKの中には、長井暁のような「極左過激派」もいたし、現在もいて、「広島型平和熱」を発症させ、蔓延させようとしているようだ。NHKはましな番組も作っているが、とくに、こと「戦争」がテーマになると、公正・中立ではなくなる。
 だからといって、民間テレビ局の方がマシというわけでもない。NHKのように金をかけて同種の番組を作り難いだけのことで、別の面では、NHKよりもはるかにタチが悪い。
 ところで、「広島型平和熱」でも、文章を読めば意味はわかるが、とくに説明を施さなくとも、8月を中心にNHKが放送している「反戦・反原爆」ドキュメンタリー類の悪弊を表現できる、もっと的確な用語はないものだろうか。

1125/西尾幹二が「『気分左翼』による『間接的な言論統制』」を語る。

 西尾幹二全集第2巻(国書刊行会、2012)に所収の「『素心』の思想家・福田恆存の哲学」は2004年の福田恆存没後10年記念シンポでの講演が元になっているようで、月刊諸君!2005年2月号(文藝春秋)に発表されている。全集の二段組みで48頁もあるので(p.359-406)、本当に月刊雑誌一回に掲載されたのかと疑いたくなるような長さ・大作だ。
 内容はもちろん福田恆存に関係しているが、西尾幹二の当時の世相の見方等を示していて相当に興味深い。講演からは8年ほど経っているが、今日でもほとんど変わっていないのではないか。
 6頁め(p.364)にある「『気分左翼』による『間接的な言論統制』」という節見出しが、目につく。「間接的な言論統制」には「ソフト・ファシズム」というルビが振られている。「気分左翼」も「間接的な言論統制」も、福田恆存かかつて使った語のようだ。
 なぜ目を惹いたかというと、私は「何となく左翼」という語をこの欄でも使ったことがあるし、田母神俊雄の「日本は侵略国家ではない」論文に対する政府(当時は自民党政権)や<保守>論壇の一部にすらよる冷たい仕打ちに対して<左翼ファシズム>の成立を感じ、この欄でもその旨を書いたからだ。
 「何となく左翼」(意識・自覚はしなくとも「左翼」気分のメディアや人々)による「左翼」的全体主義がかなり形成されているのは間違いないと思われる。
 メディア・世間一般ではなく、特定の学界・学問研究分野では、より牢固たる「ファシズム」、<特定のイデオロギーによる支配>がほぼ成立しているのではないかとすら思われる(日本近現代史学、社会学、教育学、憲法学等)。
 さて、西尾幹二の叙述(福田恆存ではなく西尾自身の文章)を以下に要約的に紹介しておく。
 ・昭和40年の福田恆存「知識人の政治的言動」は「現在ただいまの日本を論じているに等しい」。「今の日本を覆っているのはまさに思想以前の気分左翼、感傷派左翼、左翼リベラリズムと称するもののソフトファシズムのムード」だ。「政府、官公庁、地方自治体、NHK、朝日、毎日、日経、共同通信、民放テレビ等を覆い尽くしているもの」がある。福田恆存にいう「間接的な言論統制」だ(p.366)。
 ・「真綿で首を絞められるような怪しげなマスコミの状況に今われわれ」はいる。それは「平和というタブー」に由来し、「最初はアメリカが日本全土に懸けた呪いであり、やがて革新派が親米的政権に同じ呪いをかけて身動きできなく」なった。これが「今の日本の姿」で、「呪いは全国を覆い尽くして」いる(同上)。
 ・2004年には経済界の一部が首相に靖国参拝中止を言いだし、「共産国家の言いなりになるように資本家が圧力をかけている」。NHKは1992年頃まで「政治的撃論の可能なメディア」だったが、今や「衛生無害」の「間接的な言論統制」機関になっている。文部省はかつては「保守の牙城」だったが、いつしか「次官以下の人事配置においても日教組系に占められ、”薄められたマルクス主義”の牙城」になっている(同上)。
 ・「男女に性差はないなどという非科学的奇論、ジェンダーフリーの妄想が…官僚機構の中枢に潜りこ」み、地方自治体に指令が飛び、「あちこちの地方自治体で、同性愛者、両性具有者を基準に正常な一般市民の権利を制限する」という「椿事」が、「従順な地方自治体の役人の手で次々と条例化されて」いる。「全国的な児童生徒の学力の急速な低落は、過激な性教育と無関係だとはとうてい言えない」だろう(同上)。
 ・「官庁の中心が左翼革命勢力に占領」されるという事態を福田恆存は予言しており、福田が新聞批判を開始した頃から「日本は恐らくだんだんおかしくなり」、福田の予言の「最も不吉な告知が、今日正鵠を射て当たり始めているのではないか」(p.367)。
 以上。もう少し、次回に続けよう。 

1096/西村幸祐・「反日」の構造(文芸社文庫)と大手メディア。

 西村幸祐・「反日」の構造(文芸社文庫、2012.02)は同名の単行本(PHP)の文庫版だ。
 この人の書いていることには、<「反日」主義>なる概念がどの程度厳密なものとして通用するだろうか等の疑問はあるが(p.6-「反日というシステム」、p.25-「反日メカニズム」)、ほとんど違和感を覚えたことがない。
 文庫版のまえがき中の、「岩波書店、朝日新聞という戦後サヨクの牙城」、「NHKの偏向番組は非常に巧妙に作られて…」などの表現は、真似して使ってみたい。
 新たな「書き下ろし」とされる第一章中の、「共産主義」という「ヨーロッパの妖怪は完全に絶滅ししたわけではなく、まだ余命があったアジアの妖怪に転生し、乗り移っ」た、「アジアの妖怪たちは変異し獰猛に生き続け、北東アジアだけが二十世紀の遺物である冷戦構造に捉われることになってしまった」(p.21-22)、という文章は、まさに正しい認識を示すもので、多くの人々に共有されなければならない、と思われる。イデオロギーを軸にした保守対革新、左翼対右翼の時代ではもはやなくなったと、さかしらに言う者が少なくないが
(当然に、相対的には「左翼」の側に多い)、完璧に誤っている。
 自民党の森喜朗なども、冷戦終結・今や新時代という認識を持っているような感じだ。日本社会党に政権担当を期待できず、自民党が社会民主主義的政策をも採用せざるをえなかった、という日本特有の事情はあるが、本来の自民党等の<保守>=「反共」勢力は、1981-1991年の後に、徹底して「反共」攻撃をして、日本に執拗に残存していた、コミュニズム(共産主義)・および親コミュニズム(=「容共」)を潰しておくべきだったと思われる。にもかかわらず、もはや共産主義の敗北は誰にも明白だとでもいうふうに安心したのか、逆に油断してしまったかに見える。
 書いたことがあるように、また誰かも指摘していたように、共産主義・「容共」勢力<「左翼」が、昔ながらの公式的・教条的なマルクス主義またはマルクス・レーニン主義の用語を使って活動しているわけではない。もともと日本共産党自体が、「自由と民主主義」あるいは「平和と人権」を表向きは肯定し、その中に本来のコミュニズムを隠してきた(およそ1955年、1961年以降)。
 今日では、フェミニズム(「男女共同参画」)や<環境保護>派等々にかたちをかえ、さらに<反核>を継承した、大江健三郎らの<反原発>運動などへと「転生」している。
 そしてなるほど、彼ら「左翼」に共通しているのは、かつて日本はとくに(現在の)北東アジア諸国に道義的に悪いことをした、彼らの「反日」を非難するのは、<歴史を直視しようとしない>、偏狭なナショナリズムだ、とかの「反日迎合」主義かもしれない。
 西村幸祐はGHQ史観からの離脱をさせまいとする「オートマティカルな自己検閲機能」・「自己検閲」システムが日本のメディアに存在してきたことを指摘しつつ、次のように書く。基本的に同感だ。
 「六十年以上継続する検閲システムは、七〇年代までマルクス主義に補強され、八〇年代から新たな反日主義によってバージョンアップしたものだった」(p.32)。
 そして、「本来の<リベラル>な言論、思想をなりふりかまわず組織的に抑圧し、弾圧する<反日ファシズム>」が「左翼勢力によって形成されてきた」、とする(p.33)。
 そんなに大げさにあるいは深刻に考えなくとも、という能天気の人々も多いのだろうが、この指摘も(概念の厳密さは別として)正しいと思われる。
 能天気な人々は、基本的に<反日ファシズム>に支配された大手マスメディアによって「マインド・コントロール」をされているにすぎないだろう。
 前回に言及した、撃論+(プラス)の中の水島総の論考(「なぜチベット尼僧焼身抗議は報じられなかったのか)」は、そのタイトル通り、35歳のチベット尼僧の焼身抗議自殺を日本のメディアはほとんど報道しなかった(大きく取り上げたのは皆無だった)ということから書き始めている。
 NHKは最近、PAC3沖縄配備に反対する「百余名」の沖縄でのデモをニュースで取り上げたようだし、少し前には、アメリカでの「格差」反対デモを大きく紹介していた。しかし、自らを被告とする台湾人等の訴訟がらみの大規模なデモ行進を報道しないのはひょっとすれば当然かもしれないとしても、渋谷近辺で行われた日本国民等<数千名>による、尖閣問題・事件を契機とする<反中国>の集会・デモについては一回めはいっさい報道せず、二回目のそれは7時台ではなく9時台のそれで簡単に触れたにすぎなかった(2010年秋)。
 NHK自体が、すでに腐っている。ましてや民間テレビ局をや、だろう。さらに言えば、地方テレビ局は中央キー局が作った番組を垂れ流しているだけだ(ごく一部のローカルニュースを除いて)。
 西村幸祐の指摘の紹介も民間テレビ放送局批判もさらに続けたいが、今回はとりあえず、ここまで。

1094/朝日新聞を応援する「産経抄」と産経・憲法改正起草委員会。

 一 産経新聞3/20の「産経抄」が、朝日新聞にエールを送っている。
 例の巨人軍契約金問題に触れ、巨人軍の「有望選手を獲得するための、なりふりかまわぬやり口は、野球ファンには常識だ」と断定したあと、「報道のメスは高校野球にも及ぶのか。夏の甲子園大会を主催する、朝日ならではの追及に期待したい」、と締めくくっている。
 読売巨人軍を擁護する気はないし、問題もあるかもしれないが、上のような書き方は、あまりにも一方に偏った、不公正なものだろう。
 朝日新聞が、巨人軍の親会社がライバル社である読売新聞社であるがゆえにこそ、この問題を大きく取り上げたのは、ほとんど明瞭なことなのではないか?
 それに、朝日新聞が執拗な「政治団体」でもあって、例えば2005年には安倍晋三・中川昭一という二人の政治家に打撃を与えるために<NHKへの圧力>という捏造報道を―NHK内の「極左」活動家ディレクターの告発をきっかけとして(ひょっとすればそれを誘導して)し続けた―関係記者・本田雅和は解雇されなかったし、NHKもそのディレクター・長井暁を馘首しなかった―、等々の<デマ>を撒き散らしてきたのは、少なくとも産経新聞の読者には「常識だ」ろう。

 産経抄子は朝日・読売の対決という、どう見ても少なくとも五分五分の言い分はそれぞれにありそうな問題について、何と、あっけらかんと、朝日新聞の側に立つことを明らかにしたのだ。
 呆れる。
 二 上の小記事が原因ではないが、3月末で産経新聞の購読を止めた。
 「よりましな」新聞であることは分かっているが、重要な文章はネット上で無料でコピーできることが大きい。他の新聞に比べて、数年前までの、例えば「正論」や「昭和正論座」その他の論説委員執筆コラム等々がネット上で追いかけられるのは有り難い。
 朝日新聞などは、若宮啓文の重要なコラムを読み逃しても、遅れればネットで(無料では)読めないし、そもそもネット上に掲載していない可能性もある。
 というわけで、3月末と決めていたのだが、産経新聞が<憲法改正起草委員会>を組織したとの報道があって、ややぐらついた。毎日の紙面で、その動向を知っておく必要があるのではないか、と。
 話題を憲法改正案起草に変えれば、「委員」5人の顔ぶれを見て、感じることもある。
 法学者・法学部出身者が多い(全員?)のはよいのだが、79歳、77歳、71歳、69歳、65歳では、あまりにも「年寄り」しすぎではないか?
 しかし、これは現在の法学界、とくに憲法学界の反映かもしれない。50歳代であれば十分に、しっかりした憲法改正論を語れる者がいても不思議ではないのだが、そのような適材がいないのだろう。少なくとも、産経新聞社の求めに応じて「委員」になるような適当な学者がいないのだろう。
 憲法改正に賛成することが、あるいは憲法改正を語ることすら、はばかられるような学界の雰囲気があるに違いない、と思われる。
 産経新聞紙上にもかつての改憲案の作成機関等が紹介されていたが、「憲法学界(学会)」こそがそのような検討をしていたとしても不思議ではないにもかかわらず、そのようなテーマで議論したことは一度もないのだろう。ついでに言うと、日本弁護士連合会(日弁連)もまた<よりよい憲法>を目指した案を作成してもまったく不思議ではない団体だが、日弁連が憲法改正を(それに反対はしても)議論したという話は聞いたことがない。
 (憲法等の)法学界も専門法曹・弁護士会も、憲法改正を一種のタブーにしてきた、という、まことに見苦しく情けない現状がある。それを話題にすること自体が、憲法九条を改正したがっている<保守・反動派>を助けることになる、という意識が、論壇やマスコミ界以上に強いものと思われる。「黒い羊」と断定されれば、就職もできず、あるいはまともな?法学部には就職(・転職)できない、という<経済・生活>にかかわる、サンクションも機能していると思われる(これは「左翼ファシズム」がほとんど成立してしまっている、ということでもある)。
 そのような怖ろしい「部分」・業界?もある中で産経新聞社が憲法改正へと棹さすのは結構なことだ、ととりあえず言っておこう。
 前回に触れたように現九条1項にはそれなりの由来・歴史が伴っているのだが、<侵略戦争はしない>ことはもはや当然のこととして、せいぜい前文で抽象的かつ簡単に触れるくらいにして、現九条1項のような(たしかに紛らわしくはある)条項は残存させないのも、一つの案かもしれない。
 なお、橋下徹・大阪維新の会は憲法改正を「タブー」視していないことは明らかだ。自民党等の中にいるだろう「保守」派は、差異・不明部分のみを強調するのではなく、共通している部分にも目を向けておく必要があるだろう。
 元に戻れば、やはり産経新聞の購読は止めている。したがって、「産経抄」の文章に言及したのは、今回が最初で最後になる可能性が高い。

1050/岩波書店・丸谷才一とNHK・坂の上の雲。

 〇<三角地帯>のうち論壇とマスコミに深く関係し、ひいては教育にも影響を与えている「左翼」の司令塔・参謀(戦略)塔の重要な一つは、朝日新聞とともに、岩波「書店」という組織だ。
 その岩波が出している宣伝用小冊子(但し、いちおう定価は付いている)に、『図書』というのがある。その『図書』の2011年10月号で、丸谷才一は次のようなことを書いている(連載の一部らしい)。
 ・「明治政府が、東アジアに領土を拡張しようとする方針」からして天皇の神格化・軍事の重視をしたとき、「軟弱な平安時代」よりも「飛鳥時代と奈良時代」に規範を求めた。これが、正岡子規による「万葉集」の礼賛(文学)、岡倉天心による飛鳥・奈良美術の「発見」(美術)へと作用した。
 ・「もともと、病身なのに従軍記者になって戦地におもむくような子規の軍国主義好きが、親友夏目漱石の徴兵忌避と好対照をなす……」(以上、p.32)。
 最終的には正岡子規による(当時までの日本の)歌・和歌の評価は適切ではない、ということを書きたいようだ。この点と上の前段全体の明治政府の文化政策と子規等との関係については、知識もないので、さておく。
 気になるのは、第一に明治政府は「東アジアに領土を拡張しようとする方針」を持っていたとだけサラリと書いて、そのように断定してしまっていることだ。西洋列強・ロシアとの関係や当時の東アジア諸国の状況などはこの人物の頭の中にないのかもしれない。
 第二に、「もともと、病身なのに従軍記者になって戦地におもむくような子規の軍国主義好き」という、正岡子規についての形容だ。
 日清・日露戦争の時代、「軍国主義」とか「軍国主義好き」などという概念は成立していたのだろうか。また、言葉・概念には厳密であってしかるべき文芸評論家が、こんなふうに簡単に子規の人物評価をしてしまってよいのだろうか。さらに、日清・日露戦争の日本の勝利(少なくとも敗戦回避)を、丸谷は「悪」だったと理解しているように読めるが(「軍国主義好き」という言葉の使い方)、それは、講座派マルクス主義または日本共産党の歴史観そのものではないか。
 ちょうどNHKで「坂の上の雲」の第三回め(三年め)の放映も近づいているようで、丸谷才一は、この時期に正岡子規にケチを付けておきたかったのかもしれない。
 正岡子規自体の正確な評価・論評に関心があるのではない。「…子規の軍国主義好き」という丸谷才一の表現に、単純な「軍国主義嫌い」を感じて、素朴な(かつ骨身に染みこんでいるのだろう)「左翼」情緒の吐露を読んだ気がしたのだ。
 丸谷才一について詳しくは知らない(評論家だが小説を書いたらしく、一度店頭で読みかけたが、読み続ける気にならなかった)。だが、
パージまたは(人物・論考等の内容の)事前チェックの厳しい「左翼」司令塔・参謀塔の岩波の冊子に連載しているのだから、歴然たる「左翼」評論家なのだろう。たまたまだろうが、『図書』の上掲号には大江健三郎の文章も載っている。
 数十頁の冊子においてすら、岩波は「左翼」活動をしているのだ。
 ついでに。夏目漱石の「徴兵忌避」を好意的に書いているが、従軍記者どころか軍人そのものだった森鴎外の小説・文学作品は、丸谷才一によると、「軍国主義」的そのものなのだろう。丸谷による子規についての論述の仕方からすると、そのような「文学」評価になるはずだ。そうではないか?
 〇司馬遼太郎や「坂の上の雲」は商売になりやすい(売れる)らしく、朝日新聞社もよくこれらを扱うが、文藝春秋も再び文藝春秋12月臨時増刊号『「坂の上の雲」・日本人の勇気』を出している(2011.10)。
 個々の論考・記事にいちいち言及しない(カラーページに櫻井よしこが姿を登場させ一文を載せている)。以下の叙述を読んで驚いた。
 ロシアの「外交」の学者か学生(博士課程)らしいS・フルツカヤの一文(タイトル省略)の中にこうある。
 「NHKはこのドラマに込めた主要なメッセージをプレスリリースで発表している。『我々は広大無限な人間ドラマを描き、…日本人の特性の本質を表そうとした。しかし同時に私たちは戦争には否定的である点を決して忘れず強調している。反『軍国主義』こそ、このドラマの主要な思想である』」(p.89)。
 NHKのプレスリリースなるものをネット上で現在確認できるのかどうかは知らず、上を事実として以下を述べる。
 このNHKの上掲作品・ドラマ造りの意図は、少なくとも原作者・司馬遼太郎のそれとは合致していない。司馬は左・右双方から批判されているが、「坂の上の雲」を「反・軍国主義」を「主要な思想」として書いたのではないことは明らかだろう。全体として、軍国主義・反軍国主義などという「イデオロギー」(?)とは別の、より高い次元でこの作品は書かれていると思われる。
 NHKは「右」からの批判に対しては無視するか軽視するが、「軍国主義的だ」、「軍国主義称揚だ」などの「左」からの批判には神経質で、気にしているのだろう(なぜか。NHK自体が「左翼」陣営に属している、あるいは「左傾」化しているからだ)。
 司馬遼太郎は「坂の上の雲」のドラマ化・映画化を「軍国主義(肯定)的」と理解されるのを嫌って、それを許さなかったとも言われる。
 しかし、それはむろん、司馬遼太郎が「反・軍国主義」思想をもってこの作品を書いたことの証左になるわけではない。
 NHKは、あるいはNHKのこのドラマ制作者たちは、原作者の意図から離れた、原著作とは異なる「思想」を持ち込もうとしている、としか思えない。
 これまでのドラマを丁寧に見ていないので再述できないが、月刊正論か月刊WiLLあたりで、原作にはない場面を「捏造」した、「反(・非)戦」思想を肯定するような場面があるという指摘を読んだことがある。
 何と「左」に弱いNHKだろうか。「反(・非)戦」的な部分をあえて挿入して「左翼」陣営からの批判を弱めたいのだろうと推察される。むろん、NHK自体の体質が「左傾化」しており、ドラマ制作者もまたその体質の中にいる(同じ体質をもっている)からに他ならないだろう。
 「マスコミ」に対する「左翼」の支配は、単純で見やすい形ではなく、巧妙な方法・過程をとって、わが「公共」放送局にまで及んでいる。
 なお、「反軍国主義」なるものが当然に正しいまたは善であるかのごとき考え方が蔓延しており、NHKの上の文章もその一つかもしれない。しかし、一般的にこのように言ってしまってはいけない。
 <防衛(自衛)戦争>は「悪」・「邪」なのか?? 「反・軍国主義」を是とし、「反戦」、「反戦がどうして悪い」と簡単に言う者は、上の??にまずきちんと答えなければならない。 

1004/<日本は沖縄を侵略した>という戦後教育第一世代。

 朝日新聞を長年にわたって購読し、一時的には「義理で」などと言い訳しつつも日本共産党機関紙・赤旗(日曜版も含む)を読み、そしてNHKや一般の民間放送の報道・特集番組はときに観るが、しかし岩波・世界も産経・正論も含めて月刊論壇誌を読んで少しは詳細に世界や日本の動向を勉強したり思考したりすることはなく、世界観・社会観といえば戦後初期の学校教育の影響や1960年前後に関与した「安保反対」騒擾の頃の<反体制>的雰囲気をそのまま引きずって、<反戦・平和と民主主義>(これは昨今では反自民党・親民主党の気分になる)に染まっている、というような人々は、大江健三郎(1935-)や渡辺淳一も含めて、少なくはない(大江健三郎の場合はたんに「染まっている」のではないが)。

 この世代、小林よしのりのいう「小国民」世代、ほぼ昭和一桁後半生まれを中心とする世代は、現実の「戦争」を具体的・詳細に知っているわけでもないのに、戦中・戦後の<苦しい>体験を有していることから、それを知らないより若い世代に対して何がしかの不思議な優越感をもって?、戦争というのはこんなに悲惨なのだよ、といった説教をしたがる傾向もある。渡辺淳一(1933-)は、週刊新潮(新潮社)誌上で、しきりとそのような作業をしている。

 「戦争」を、先の対米戦争(・対中戦争?)と同一視して、日本軍国主義悪玉史観というかつてのGHQの基本方針による教育の強い影響を引きずりつつ、「戦争」一般=悪、という歴史観・社会観?をもって、こういう人々は、当然に「反戦」=善、と考える。日本国憲法9条(2項)護持の方向に傾き、改憲論者に「右」・「保守・反動」というレッテルを貼って、自らは良心的・進歩的・合理的な人間の一人だと考えがちなのも、こういう人々だ。渡辺淳一は、例の田母神俊雄論文に対して、脊髄反射的な嫌悪の感情を上記週刊誌で吐露した。

 このような人たちの中には、NHKの「スベシャル」との名の付いた歴史回顧の特集番組を見て、<日本は沖縄を侵略したのだ>などと大発見のごとく主張したりする者もいる。もともと日本軍国主義悪玉史観あるいはいわゆる「自虐」史観を持っていることもあって、中国や朝鮮半島諸国には<甘い>のがこの世代の人々の特徴だが、<日本は沖縄を侵略したのだ>という認識・理解・主張が、尖閣諸島や西表列島の侵略や、現在の沖縄県(琉球)の日本からの独立を画策していることの間違いのない共産中国(中国共産党の支配する中華人民共和国)の政策・意図を助けるものである、ということの認識はまるでない(なお、論旨は同じでないが、撃論第1号(オークラ出版、2011)所収の、中川八洋「”風前の灯火”尖閣諸島と国防忘却の日本」(p.6-)、藤井厳喜「震災日本だからこそ考える改憲と核」(p.21-)等々参照)。おそらく彼らの多くは、中国がそんなことをする筈がない、考えている筈がない、と思っているのだろう。<反・反共>意識は旺盛ながら、共産主義・コミュニズムに対する警戒心はきわめて薄いのもこの世代の特徴だ。

 この世代は、戦前から戦後への時代転換をうまく切り抜けた、あるいは<新しい時代精神>に巧みに?迎合した、いわゆる戦後<進歩的文化人・知識人>の教育・指導を受けた、戦後第一次の世代の者たちだ。

 彼らの影響・指導を受けたのが、ほぼその次のいわゆる<団塊>世代になる。この世代を<全共闘>世代ということもあるが、<全共闘>運動の影響を強く受けた者は実際には大して多くなく、多く見積もってもせいぜい1割だろう。だが、周辺には、彼らの言うことも分かる的な、<全共闘>シンパまたはそれよりも弱い<全共闘>容認派も、大学出身者に限ればだが、半分近くはいたかもしれない。積極的な支持者または組織員の一人が仙石由人で、菅直人や鳩山由紀夫は容認派だっただろうか。

 こういう<団塊>世代が生じたのも(そして怖ろしくもそれが現在の日本政治の中心に居座っている)、その前の、戦後<進歩的文化人・知識人>の教育・指導を受けた戦後第一次世代の者たちがいたがゆえであり(この世代は、後続世代に比べて、日本社会党支持率が一貫して高かった)、現在の日本国家と社会に対する世代的責任は、「団塊」世代よりも大きいと言わねばならないだろう(もっとも、GHQによる占領とそれに迎合した進歩的文化人・知識人よりは小さいのは確かだ)。

 「世論調査では共産党の支持率はせいぜい二~三%にすぎないのに、教科書になると九〇%を超える割合で共産党に近い見解が教えられている」(伊藤隆「日本がもっと好きになる育鵬社教科書」月刊正論(産経新聞社)2011年6月号p.228)。

 こういう怖ろしい現実があるのも、親コミュニズムあるいは容共の心性を持った日本人がなお多数派を占めているからだと思われ、その典型が、ここで言及した、戦後教育を受けた<容共>(反戦・平和の)第一次世代で、この世代がなおもしぶとく存在し、後続世代の者を性懲りもなく<説教>しようとしたりしているからだと思われる。

 西尾幹二等々、例外のあることは承知している。そのような一部?を除いて、早々に時代の舞台からご退場願いたいものだ。

 これまで書いてきたことと基本的趣旨は同じで、まるで新味はないが。

0996/池田信夫・ハイエク-知識社会の自由主義(PHP新書、2008)ほか。

 〇「はじめに」・「はしがき」類だけを読んで読み終わった気になってはいけないのだが、池田信夫・ハイエク-知識社会の自由主義(PHP新書、2008)の「はじめに」にはこうある。

 ハイエクは生涯を通じて、社会主義・新古典派経済学に共通の前提(「合理主義」と「完全な知識」)を攻撃しつづけた。それゆえにハイエクは主流派経済学から「徹底して無視」され、「進歩的知識人」から「反共」・「保守反動」の代名詞として嘲笑されてきた。しかし、死後一五年以上経って、経済学は彼を「再発見」し始めている。……
 ハイエクに関する書物はけっこうたくさん持っていて、全集の一部も所持している。日本の憲法学者のうちでおそらくただ一人「ハイエキアン」と自称する阪本昌成の本を読んだこともある。

 この池田の文章も読んで、あらためてハイエクをしっかりと読んで、その「自由」主義(リベラリズム)・「反共」主義を自らのものにもしたいような気がする。

 池田信夫は、経済学部出身で「文学畑」とは異なる。NHK15年という経歴が玉に傷だが、大学生時代にNHKの本質や現在のヒドさを認識・予想せよというというのも無理で、知識人または評論家としては(つまりは政治的戦略等々に長けた文筆家としてではなく)相対的に信頼が措けそうな気がする。
 〇先日、井沢元彦・逆説の日本史17/江戸成熟編(小学館、2011)を購入、少しは読む。このシリーズは単行本ですべて買い、読んでおり、その他の井沢元彦の本もかなり読んでいる。<隠れ井沢元彦ファン>だ。

 〇だいぶ前に、小田中聡樹・希望としての憲法(花伝社、2004)と同じ著者の裁判員制度批判の本を購入し、少しだけ読む。
 日本共産党員とほぼ見られる刑事法学者(元東北大学)で、「左翼」性のあからさまで単純・幼稚な護憲(九条護持)論と裁判員制度論についてこの欄で論及しようと思っていたが、果たしていない。

0969/中川八洋、撃論ムック・反日マスコミの真実2011、櫻井よしこ、産経、表現者。

 〇中川八洋・近衛文麿の戦争責任―大東亜戦争のたった一つの真実(PHP、2010.08。原書1995)の半分余、p.131まで読了。
 これはなかなか衝撃的な書だ。「悪の反省にあらず、失敗の反省なり」とは適確だと最近書いたが、この書によると「悪の反省」が必要だ。但し、日本軍国主義(あるいは軍部・戦争指導者等)の「悪」ではなく、近衛文麿、尾崎秀実や軍部の中枢に巣くった「共産主義」という「悪」に対する「反省」だ。共産主義(コミュニズム)との関係を抜きにして先の大戦の経緯・結果等を語れないのはもはや常識だろうが、ここまでの(中川の)指摘があるとは知らなかった。
 なお、オビに「『幻の奇書』待望の復刊!」とある。「奇書」なのか? あるいは「奇書」とはいかなる意味か。

 〇撃論ムック30号(西村幸祐責任編集)・反日マスコミの真実2011(オークラ出版、2011)のp.47まで読了。

 朝日新聞やNHKに幻想をもっている人(「反日マスコミの真実」に気づいていない人)には必読と言いたいところだが、そうした人のほとんどは、この本(雑誌?)を手にとらないのかもしれない。

 〇櫻井よしこは、産経新聞1/03の対談で、①「憲法、教育、皇室の3つの価値観を標榜(ひょうぼう)する政党はどこにも存在しません。民主党は最初からそういう考えがありませんし、自民党も谷垣禎一総裁の下ではむしろ3つの論点から遠ざかる傾向にあります。同質性が高い」。②「今の自民党は55年体制以降の自民党の延長線上にありますので変わる見込みはないでしょう。おのずと第三の道に行かざるを得ないのではないでしょうか」、と発言している。

 民主党政権(菅政権?)と「谷垣自民党」は「同根同類」とつい最近書いていたのだが、ここでは「同質性が高い」になっている。これは変化(言い直し)なのか? いずれにせよ、「同質性が高い」とは、厳密にはいかなる意味なのだろう。

 また、「今の」自民党は「変わる見込みはない」ので「おのずと第三の道に行かざるを得ない」だろうと言っているが、ここでの「第三の道」とは、具体的には何なのか。おそらくはまるで違った意味でだが、菅直人ですら「第三の道」と言っている。
 櫻井は「憲法、教育、皇室の3つの価値観を標榜する政党はどこにも存在しません」と直前に語っている。

 では、「憲法、教育、皇室の3つの価値観を標榜する」、政党ではない政治家・政治グループはどのような人々なのか、明言してもらいたいものだ。

 それに、そのような(期待できる政党は今はどこにもないという)「第三の道」に期待する時間的余裕はあるのだろうか。

 対談相手の渡辺利夫は「政界が再編成されて、本物の第三極ができるかどうか。保守の新しい軸をつくっていく努力はかなり長い時間を要すると思います」などと語っているが、櫻井よしこらのいう「第三の道」・「本物の第三極」への道が明確になり、かつ勝利するまでに、外国人参政権付与(公選法改正)法、夫婦別姓(民法改正)法、人権擁護法等が成立し、施行されたら、いったいどうするのか??。

 ずいぶんとのんびりとした議論だ。

 気のついたことをあと二点。櫻井よしこは、①解散・総選挙の必要性に一言も触れていない。②中国につき、「帝国主義」・「植民地主義」という言葉は使うが、なぜか、「社会主義(・共産主義)」という語を使っていない。

 〇やや古いが、櫻井よしこと親和性(?)の高そうな産経新聞について、隔月刊・表現者33号(ジョルダン、2010.11)の巻頭コラムは次のように書いていた。無署名だが、編集委員代表の富岡幸一郎の文章だろうか(雑誌自体は西部邁グループ(?)のもの)。
 <民主党代表選で朝日新聞と全く同じく小沢一郎批判を繰り返した産経新聞は「日米同盟」保持・重視のために小沢ではなく菅を選択したのだろうが、これが「現在の日本の”保守”と呼ばれるマスコミの醜悪で貧しい実態」だ。日米「同盟」こそ日本の命綱だとする者に「保守思想など語る資格もない」。アメリカによるイラク平定を素晴らしい成果だと堂々と主張する「こんな新聞は、はっきり言ってリベラル左翼派よりも低レベル」だ。これが「今日の日本の思想レベルを象徴している」。>(p.8)

 どうやら、(主観的・自称)<保守>にも産経新聞派と非(・反)産経新聞派があるようだ。  

0967/<偏っている>と言う一般新聞・一般テレビだけを見聞きしている<バカ>。

 一般新聞(全国紙)とテレビの報道(ワイドショーも含む)だけでを見聞きして世の中が解ると(ほぼ正しく認識できると)勘違いしている日本人は多すぎるのではないか。全国紙ではなく、各県紙といわれる新聞を含めてもよい。その読んでいる新聞が朝日新聞だったり、特定の「傾向」を持った地方紙であれば、「ほぼ正しく」どころか、<歪んで>日本と世界の動向を「理解」してしまうだろう(以下、とりあえず現在に限るが、<歴史認識>についてもまったく同じ)。

 上のことはもはや常識的で、何らかの雑誌・専門誌紙やネット情報を加味しないと、もはや「世の中を解る」ことはできなくなっている。一般新聞(全国紙)とテレビの報道(ワイドショーも含む)だけでも誤った「理解」をもってしまう(一定の認識へと誘導される)可能性が大なので、そのかぎりですでにマイナスだが、読んでいるのが朝日新聞だったり、ましてや日本共産党・社民党の機関紙・新聞や両党系の雑誌・冊子類だったら絶望的で、決定的で大きなマイナスになる。
 かかる大きなマイナスを受けるよりは、きちんと一般新聞を読まずほとんどテレビの報道を観ない日本人の方が、むしろ素朴でかつ本能的に適切な感覚を、日本の政治・社会の動向について抱くのではないか。

 さて、一般新聞(全国紙または地方紙)とワイドショーも含むテレビの報道だけを見聞きして世の中を理解したつもりになっている者が、この欄で書いているような内容を見聞きすると、<偏っている>と感じるらしい。

 今日の日本の一般新聞(全国紙または地方紙)とテレビの報道(ワイドショーも含む)の影響力は怖ろしいほどだ。ほとんど努力することなく一般新聞・テレビからだけ情報を入手し、専門書も論壇誌等々も読まない人々は、何となく<身につけさせられた>意識・認識が日本の中正または中庸あたりの理解・認識だと勘違いしてしまうから、じつは少なからず存在するが一般新聞のほとんどやテレビのほとんどでは表に出てきていない意見・理解・認識を示されると、違和感をもち、<偏っている>と感じてしまうのだ。

 率直にいって、一般新聞(全国紙または地方紙)とワイドショーも含むテレビの報道からしか日本・世界の情報を入手しない者は<バカ>になっているのだが、その人たちはそのことに気づいていない。<バカ>ならまだよいのかもしれないが、NHKの一部番組も朝日新聞等々も特定の傾向をもつから、<アブナい>人間になってしまっている可能性もある。

 そうなるよりは、上記のように、一般新聞(全国紙または地方紙)やワイドショーも含むテレビの報道をろくに見聴きしない方がまだましだ。

 この欄の閲覧者の大部分にとっては、全く余計なことを書いたかもしれない。

 但し、例えば<保守>論壇の中にいて、身近に<保守>的な人々ばかりがいて、日常的に<保守>的会話を交わしているような人々は、<保守>は決して多数派ではないこと、日本人の多くは一般新聞(全国紙または地方紙)やワイドショーも含むテレビの報道だけを見聞きして、一昨年8月末には多くが民主党に投票したり、昨年参院選の東京選挙区では唖然とするような票数を民主党・蓮舫に投じたりするのであることを、しかと認識しておく必要があるだろう。

 仲間うちだけの議論で満足してはいけない。「左翼」政権のもとにあること、自分たちは<少数派>であることを、本当は悲痛な思いでつねに自覚しておくべきだ。

0950/NHK日曜午後7時米軍関係ニュースの「狙い」は何か。

 周知のとおり、NHKは、自己を被告とする、原告多数の訴訟について、製作番組(プロジェクトJAPAN)の内容にかかわるからだろう、いっさい報道していない。NHKの製作番組の中には「左翼=容共」性の強いものがあることは間違いないことだ。

 12月12日(日)の午後7時からのニュースの一部も<異様>だった。

 米軍(海軍)の軍楽隊が宮古島で演奏会を挙行したとの報道だったが、NHK(の担当記者・ニュース責任者)は何と、<宮古島で演奏会・米軍の狙いは>との横一列の見出しを掲げた(「狙い」は漢字を使っていた)。

 これには驚いた。「狙い」などと表現するのは、NHKは(少なくとも原稿執筆記者と見出し作成者かつこのニュース番組製作責任者は)米海軍音楽隊のこの行動を好ましくない又は気にくわないものと感じていることを、間違いなく示しているだろう。

 同じ意味の言葉に、他に「意図」も「目的」もある。これらですら、あえて<米軍の目的は>との見出しを打つことは「目的」を警戒するかのごときニュアンスを伴うのだが、これらよりもキツい響きをもつ「狙い」という語を、NHKはあえて使った。

 歓迎しているか、または少なくとも公正・中立さを意識しているならば、「米軍の狙いは」などという見出しを掲げる筈がない。NHKの少なくとも一部は、完全に「左翼」に乗っ取られているのではないか。
 本文および映像にも異様さはあった。アナウンサーは「今回の演奏会について、一部の住民からは『軍事利用につながる』などとして強い反発の声も上がっており、12日も会場の周囲では抗議活動が行われていました」と語り、<宮古島空港の軍事利用を許すな>とか書いた垂れ幕か横断幕をもった数十人か十数人の(空港前の)抗議行動らしきものを数秒以上にわたって放映した。

 だが、常識的に見て、宮古島空港の管理者はどの機関かは知らないが、国・沖縄県・現地自治体のいずれかの(もしくはすべての)同意・了解を得た上で米軍音楽隊の訪問はなされているはずで、当然ながら、<了解>し<歓迎>していた人々もいたはずなのだ。

 しかるに、NHKは上のような「抗議」をする一部住民(「…職労」とか書いてあった)のみについて報道し、その他の住民や市・県当局の対応・反応についてはいっさい報道しなかった。異常だ。

 全体としての放送時間の短さは理由にならない。以上のような報道の仕方は一面的・一方的で(公正・中立ではなく)、放送法にも違反している。

 この報道がいう米軍の「狙い」は次のとおりだ(アナウンサーが読んだ)-「こうした活動の背景には、有事などの際に迅速に対処できるよう、港湾や空港の状況をあらかじめ把握するとともに、この地域との関係を築いておくというねらいもあるものとみられています」。

 ここでなぜ「ねらい」という語が使われるのか。このような、「有事などの際に迅速に対処できるよう、港湾や空港の状況をあらかじめ把握するとともに、この地域との関係を築いておく」ということは、日本国と多数の日本国民が警戒しておくべき<意図>なのか。<狙い>とあえて形容すべきものなのか。

 NHKの中には紛れもなく<狂った>記者たちがいるようだ。日曜は平日とは別の者が担当しているかどうかなどという仔細は知らない。<米軍>といえば、あるいは<軍隊>といえば(音楽隊であれ)警戒視・危険視しなければならないと単細胞的に考えている(思い込んでいる)<狂人>がいるようだ(但し、中国や北朝鮮の「軍」の行動だと別異に判断する可能性もある。そうだとするとますますもって狂っている)。

 加えて、なぜ、わずか数十人(または十数人かもしれない)の「抗議」行動をあえて映像化して放映したのだろうか。市・県当局の担当者や他の住民の映像はまったくなかった。

 NHK(渋谷)の近くでも、最近に数回は、数千人規模のデモ行進が行われたはずだ。大阪でも行われたらしい(いずれも尖閣諸島問題が契機)。これらの数度にわたる、宮古島ではない大都市部の、かつはるかに大規模な集会・デモの様子を、NHKはすべてについて数秒でも放映したのか??

 こうなると、12日・日曜日の担当者・関係者だけの問題ではなく、NHKという団体全体の問題になるだろう。数千人の規模の集会・デモの無視・軽視と12日の宮古島の「抗議」行動の様子の放映とは、明らかに均衡・公平を失している。少なくとも平等・公正な取扱いがなされていないことは明々白々だ。これでよく、契約締結義務を定める放送法を根拠にして、受信料を徴収し、かつ受信料支払い請求の訴訟を起こすことができるものだ。
 12/12の午後7時台NHKニュースの責任者は、何らかの形で、以上のような感想・疑問・意見に対して答えよ。

0934/衆議院の解散・総選挙で改めて民意を問うべきだ。

 〇産経新聞11/13によると、時事通信社の世論調査(11/05-08)の結果は次のとおり。

 菅内閣支持27.8%(前月比-11.4)、不支持51.8%(+12.6)。

 政党支持率 民主党16.2%、自民党16.5%。政権交代後「初めて」自民党が逆転したらしい。

 この種の世論調査にどの程度の信頼性があるのか知らないが、菅内閣支持率の続落(仙石由人健忘長官の詭弁は上昇に役立っていない)ことのほか、上の第二点の「逆転」はかなり重要なニュースではないか。

 もっとも、「支持政党なし」という、隠れ共産党支持者(同党員)等を除いて、ほぼ<日和見層>・<浮遊層>にあたるものが、57.4%。今後のマスメディアの報道の仕方によってなお大きく変わりそうではある。

 〇NHKの11/08の午後七時からのニュースは、興味深いデータ(NHK世論調査)を報道していた。

 菅内閣支持31%(前月比-17)、不支持51%(+16)。

 これらよりも「興味深い」のは、<法案を成立させることが難しい「ねじれ国会」をどう打開すべきだと思うか>との問いに対する回答で、次のとおりだったという。

 ①「衆議院の解散・総選挙で改めて民意を問うべきだ」38%

 ②「与党と野党が政策ごとに連携すべきだ」36%

 ③「与党と野党の一部が連立政権を組むべきだ」・③「与党と自民党が大連立政権を組むべきだ」、それぞれ7%。

 なんと、解散・総選挙であらためて民意を問うが相対的には第一位になっている。

 一世論調査の結果の数字だとはいえ、このような「民意」が、産経新聞を含む全国紙やテレビメディア等に表に出てきていないのは、何故なのだろう。

 〇櫻井よしこの週刊新潮の連載コラムを3回分見てみる(11/04、11/11、11/18各号)。

 中国批判またはその批判的分析が多く、最近号の前半でようやくまとまった菅・仙石由人批判が出てくる。

 どこにも、「(衆議院)解散」、「総選挙」、「内閣打倒」、「倒閣」等の言葉は出てこない。

 中国や対中国対応を批判しているのは親中内閣を批判しているのと同じであり、内閣を批判しているのは内閣不支持→倒閣(そのための総選挙等)の主張と実質的には同じだと強弁(?)されるかもしれない。しかし、明確な言葉で書いているのとは大きな違いだ。

 あれこれとかりに正しく適切な<保守派的>言説をバラ撒いても、適切な時期に適切な主張をしなければならない。

 とくに櫻井よしこだけを論難してはいないが、民主党政権の誕生という、とり返しのつかない(既成事実としてすでに1年以上経った)政変を許してしまったのは、民主党政権誕生を許してよいのか、ということこそが昨年の総選挙の争点だったことの認識または政治的感覚の不十分さが<保守派>の側にあったことも大きいと考えている。

 そうだったからこそ、櫻井よしこらはなぜか安心して(?)自民党を<右から>批判して、結果としては民主党政権誕生の流れに棹さした。櫻井よしこは総選挙前の2009.07に、自民党は<負けるなら潔く負けよ>とまで明記していたのだ(櫻井よしこ・日本を愛すればこそ警鐘を鳴らすp.43-(2010.06、ダイヤモンド社)。

 政権交代直後にも民主党政権には期待と不安とが<相半ば>すると明記していた櫻井よしこだから、適切な政治感覚を期待しても無理かもしれない。それに、近傍には屋山太郎という民主党政権誕生大歓迎者もいる。

 せっかくよいことを多数の雑誌や本で書いても、ある程度の適切な政治的感覚・「勘」がないと、これらが<鈍い>と、今後も日本の具体的な方向性を結果として誤らせる可能性があることを懼れる。

0920/久しぶりに月刊WiLL(ワック)を見る-遠藤浩一・山際澄夫・屋山太郎。

 〇 前回に言及した遠藤浩一の2001年の著書には、遠藤自身が、月刊WiLL8月号(2010、ワック)「『菅直人総理』という亡霊―第三の道か破壊主義か」(p.44-)で論及し、部分的には2001年の本よりも詳しい批判的分析も加えている。この今年の遠藤論考を読んだ者にはあまり意味がなかったかもしれないが、これが言及していない部分も記載しておいたので(私のエントリーは)資料的価値くらいはあるだろう。

 私は最後に簡単にコメントしただけだったが、月刊WiLLの上の論考で、遠藤は私と似たようなことを(も)書いている。

 遠藤によると、2001年時点で、①菅直人の「国家観、否、脱国家観」が「ほの見えて」きた、②歴史的「日本」国家への帰属は「宿命」なのに、「自立した市民」により国家を「作る」というのは「左翼革命思想」に他ならない(月刊WiLL8月号p.52)。また、遠藤は、③「日本人に対する不信感」との小見出しのもとで、菅直人は「日本人に対する根本的な不信感」を表明し、「日本人を変えたい」と考えている、とも書いている(同p.51、p.52)。
 「自立した市民が共生する社会」なるものについては、私も再び触れるだろう。

 〇敬意を表して、月刊WiLL12月号(ワック)。

 山際澄夫「日本のメディアは中国の御用機関か」(p.201-)が、テレビメディア等の現在の日本の(主流的または大勢的な)マスコミ・マスメディアの<異様さ>をとみに感じている者にとっては、まず目を惹いた。

 10/02の東京・渋谷での対中国抗議デモを産経新聞を除いていっさい無視した日本のメディアは、10/16の同旨の(規模は上回る)デモについては報道した、という。「これは、もうお笑いというしかない」。山際によると、その後に頻発している中国での「反日」デモが日本での対中国抗議運動に対抗する狙いをもつため、日本のメディアも、中国でのデモを報道する際に日本での二回のデモに触れざるをえなくなった、という(p.203)。

 但し、山際によれば、「大半は中国デモのついでに触れただけ」(p.204)。日本のデモについては、読売の10/17付1面は8行だけ、2面では「ささやかな」記事のみ、同日付朝日新聞は1面の最後に約100文字(これは私が大まかに計算。月刊WiLLでは3段組のほぼ7行)だけ。

 NHKは酷くて、午後7時のニュースで中国のデモはトップで報道しつつ日本でのデモは「完全に無視」。その後のニュースで日本人のデモの映像を流したが「右翼デモ」と印象づけるかのように中国サイトの「日本右翼」との文字を長い間「どアップ」。深夜のニュースでは「日本右翼」との文字はそのままにしてデモの映像は映さず、田母神俊雄らによる中国大使館への抗議姿を報じた。さらに、TBSは同日夜のニュースで中国の「反日」デモを長々と映したが、日本のデモは「完全にスルー」(無視)(以上、p.204-5)。

 山際もさすがに全メディアの報道振りを確認してはいないだろうが、上によると、<酷い>・<異様な(・狂った)>順に、TBS、NHK、朝日新聞、読売、ということになるだろうか。

 中国の「反日」デモを大きくとり揚げるのは、<そんなに日本に抵抗感があるのか。日本人はやはり、もっと(過去を)反省し、謝罪しなければならないな>とでも感じる日本人が増えることを意図してだろうか。

 ともあれ、今さらながら、尖閣中国船舶<突撃>事件以来の経緯からする日本の数千人のデモを無視または軽視し、その背景・理由を分析することもない日本のメディアは一部を除いて異様きわまりない。山際によると、中国以外の外国のメディアの方がきちんと報道・分析していた、というから尚更だ(p.205)。

 いま一つ。今さらながらだが、山際も言うように、中国に<世論>があるはずがない。中国(政府または共産党)が<世論>に押されて、とか、<世論>の動向に注視しながら、とかして行動することはありえない。

 外国政府または外国資本法人の所有物(その他財産権の対象物)を破壊することは中国でも<犯罪>のはずだろう。なぜ、中国の警察は中国人デモ隊の乱暴・狼藉を<放置>しているのか? 中国政府・共産党の意向が働いており、中国の種々の「デモ」とやらも(その沈静化も)ほぼ政府・共産党のコントロール下にある、と認識しておくのがまっとうなものの見方であることは言うまでもない。

 〇やはり、屋山太郎はおかしい。屋山の月刊WiLL12月号の巻頭コラムは「民主党が踏み出した政権党の第一歩」というタイトルをもち、「国家戦略室」の設置に「踏み切った」ことなど(?)をもって、「実に際どい一年間だったが、民主党はようやく政権党の一歩を踏み出したように見える」と評している(p.22)。

 昨年総選挙での民主党勝利につき<大衆は賢明な選択をした>と明記したのは、屋山太郎だった。民主党に対する批判的なことも述べつつも、なおも、この政党、そして民主党政権に<期待>をつないでいるらしい。

 アホらしくて、批判する気もおきない。櫻井よしこに問いたいものだ。屋山太郎のような人物を理事とする国家基本問題研究所とはいったいいかなる団体なのか?、と。

 ついでに、些細なことと思って書いてこなかったが、<行政>や<公務員(制度)>に関する専門家らしく(少なくともこれらに詳しい評論家のごとく)振る舞っているようである屋山太郎だが、それはきちんとした学識にもとづくものではなく、<やっつけ勉強>と審議会委員等の<経験>に頼っているものでしかないように見える。

 一例は、今は(どの雑誌のどの欄だったかか)確認しないが、「内閣の規則」などという言葉を使っていたことでも明らかだ。内閣が定めるのは、法律に準じた<政令>と、法令と同一視はできない<閣議決定>・<閣議了解>等に限られ、「内閣の規則」なるものは存在しない。それとも、屋山は、<内閣府令>と混同していたのだろうか? だが、内閣府令は内閣が定めるものではない。(内閣ではなく)内閣府の長としての内閣総理大臣が定める。

 要するに、公務員制度を含めて行政一般についても論じる屋山太郎を信頼してはいけない。

 第一に、なおもって民主党に一抹の(?)希望を寄せ、あるいは期待していること、第二に、「行政」に関する学識・経験は大したものではないと見られること、これらだけでも月刊WiLLという雑誌の巻頭を飾る(?)一文を寄せる資格はないように思われる。この点に関する質問は、櫻井よしこではなく花田紀凱に対して向けておこう。

0916/「テレビメディア」と政治-佐伯啓思・日本という「価値」(2010.08)の中の一文。

 佐伯啓思・日本という「価値」(2010.08、NTT出版)に、安倍首相のもとでの2007参院選のあとで書かれた文章が収載されている。この本でのタイトルは原題と同じく「<無・意味化な政治>をもたらすテレビメディア」で、初出は隔月刊・表現者2008年1月号(ジョルダン)。かくも厳しいテレビメディア批判をしていたとは知らなかった。

 2007年夏の参院選前の朝日新聞等のマスメディアの報道ぶりはいま思い出してもヒドかった。異様だった。そのことの自覚のない多くの国民の中に、産経新聞の記者の一人もいたのだったが。

 佐伯啓思は述べる。・「テレビは本質的に『無・意味』なメディアである。…テレビは本質的に世界を断片化し、統一体を解体し、真理性を担保せず、視聴者に対して、感覚的で情緒的で単純化された印象を与えるものだからだ。それはテレビメディアの構造的な本質」だ。

 ・我々は「この種の『無・意味化』へ向かう大きな構造の中に…投げ込まれていることを知」る必要がある。「政治に関心をもつということは、いやおうもなくこの『無・意味化』へと落とし込まれる」ことだ。

 ・とすれば、「政治への関心の高さ」を生命線とする「民主政治」とは、現代日本では「『無・意味化』の中での政治意識の溶解を称揚する」ことを意味する。かかる現代文明の構造からの脱出は困難だが、「そうだとしても、そのことを自覚する必要はある」。これは世界的傾向でもあるが、「欧米の民主政」が「同様の構造をもった視角メディアにさらされながらも…かろうじて健全性を保っているように見えるのは、この自覚の有無と、政治に対して意味を与えようとする意思にある」のではないか(p.137-8)。

 上にいう「無・意味化」とは、佐伯によると、「ある価値の体系にもとづいてある程度の統一と真理性をめざした言説や行動の秩序の喪失」のことをいう(p.136)。

 佐伯はテレビメディアと「民主政」は相俟って「無・意味化」へと「急激に転がり落ちている」旨をも述べる(p.136-7)。

 とりわけ小泉内閣のもとでの2005年総選挙以来、「劇場型政治」とか「ワイドショー政治」とかとの論評が多くなった。「大衆民主主義」のもとでのマスメディアの役割・影響力に関する、上の佐伯啓思のような指摘もとくに珍しくはないのだろうが、しかし、2009年総選挙も含めて、上にいう「テレビメディアの構造的な本質」による政治の「無・意味化」が続いていることは疑いなく、また、そのような「自覚」を国民は持つべきだが、必ずしもそうなってはいない、という状況は今日でも何ら変わっていない、と考えられる。

 中国での数十人の「反日デモ・集会」を大きく報道しながら、日本での中国を批判・糾弾する数千人の集会・デモ(今月)を全く報道しない日本のマスメディアには、佐伯啓思は上の一文では触れていないが、NHKも含めて、欧米のテレビメディアとは異なる、独特の問題点もあるのではないか。

 NHK以外の民間放送会社の資本は20%までは外国人(法人を含む)が保持できるらしい。また、民間放送が<広告料>収入に決定的に依存している経営体であるかぎり、中国を市場として想定する、総じての<企業群>の意向を無視できないのではないか。別の面から言うと、テレビメディアとは、その「広告」(CF等)によって消費者の「欲望」(購入欲)を煽り立てる(企業のための)装置でもあるのだ。公平・中立な報道というよりも、<視聴率が取れる、面白い政治関係ニュース>の方が重要なのだろう。

 まともな教育をうけ、まともな「思想」を持った、まともな人たちが作っているのではない、退屈しのぎの道具くらいの感覚でテレビメディアに接しないと、日本にまともな「民主政」は生まれないだろう。あるいは、「民主政」=「デモ(大衆・愚民)による政治(支配=クラツィア)」とは元来その程度のものだ、とあらためて心しておく必要がある。

0893/本格的な<左翼(・売国)>政権誕生。

 本格的な<左翼(・売国)>政権誕生。
 麻生太郎が「本格的な左翼政権」が生まれた旨を演説しているシーンをどこかのテレビニュースで一回だけ見たが、これは他局や新聞では(産経新聞も含めて)取り上げられていない。
 (麻生太郎は田母神俊雄を「見殺し」にした首相だったので、その<保守>性を全面的に信頼しているわけではない。)
 マスメディアは、相変わらず正常ではない。NHKの報道ぶりも、どこか<菅期待>を滲ませている。
 鳩山退陣の週の週刊朝日6/11号は民主党・鳩山問題を隠して「みんなの党大研究」とやらを表紙に出していたが、同6/18日号は大きく「民主党革命/再スタート!」と表紙に掲げて、あらためて民主党を支持せよ(自民党等の<右派>に投票するな)旨を煽動している。今回は朝日新聞社説の厚顔無恥ぶりに言及しないが、朝日新聞社論説委員・編集委員、週刊朝日編集長・山口一臣は<恥ずかしく>ないのだろうか。
 確信的な<左翼>活動家集団は、民主党(・同政権)を当面は(叱咤激励しつつ)守ることが「ジャーナリスト」の使命だと思い込んでいるのだろう。
 それにしても、「首」が代わっただけで民主党支持が10%以上も回復する(支持なし層から移る?)というのだから、日本の有権者国民の<日和見>ぶり、<浮遊>ぶりには、あらためて呆然とする。
 偽善者たちの喜劇はまだまだ続きそうだ。

0831/<保守>言論人・<保守>論壇の不活発さも深刻だ。

 一 民主党政権の成立による<左翼・売国>政策実施の現実化の可能性が高いことは、じつに深刻な事態だ。
 とこれまでも書いたが、深刻な事態の第二は、あるいはさらに深刻なのは、朝日新聞やテレビ朝日等の報道ぶりにもよるのだろう、多くの国民が現政権の「危険性」を理解していないことだ。
 先日、たしか10/31の夜のNHKスペシャルの中で、御厨貴・東京大学教授は、古い55年体制を打破しようと小沢一郎は1993年に行動を起こしたが、当時は多くの者が小沢のスピード感に従いていけず、細川政権崩壊・自社連立政権成立を許したが、自社両党は55年体制の利得者だったところ、ようやく時代に即応しない55年体制が2009年総選挙で崩壊した旨をのたまい、もともとは日本社会党のブレインだった山口二郎・北海道大学教授も反論していなかった。
 NHKが収集した各「証言」自体は興味深いものもあったが、上のような御厨貴の簡単な総括でぶち壊しになった。1993年・1994年政変と2009年「政変」(政権交代)を上のようにしかまとめられない御厨貴は政治学者か、しかも東京大学所属の政治学研究者か、と問いたい。
 民主党御用学者ぶりはいい加減にしてもらいたい。また、小沢一郎の1993年の行動を素晴らしいものと積極的に評価しているが、小沢らの離党は、自民党内部、とくに旧田中派内部での「私憤」にすぎないとの見方があるくらい、政治学者ならば知っているだろう。田中-金丸の「金権」体質を継承しつつ、のちには彼の「自由党」は自民党と連立したという事実もまた、政治学者ならば記憶しているだろう。小沢が1993年以降は終始一貫して<古い55年体制>との闘争者だったなどとは、とんでもない話だ。
 今や明瞭な「左翼」の立花隆ですら、小沢離党・新生党設立の際に、小沢が<改革(・清潔)>派ぶるのは「ちゃんちゃらおかしい」と朝日新聞に書いた。理念なき選挙・政局好みこそ小沢の体質・政治感覚だろう。御厨貴はいったい何を観ているのか。それこそ「ちゃんちゃらおかしい」。
 こんな人物にまとめらしき発言をさせるのも、NHKらしいとも言える。
 二 深刻な第三、あるいはさらに深刻なのは、民主党<左翼・売国>政権にとって代わるべき政党が存在するかが疑わしいことだ。
 自民党に期待できそうにない。衆議院の予算委員会(第一日め)での質問者に、党内<リベラル左派>で有名な、安倍政権を(「右寄り」で)「危ない」とマスコミを前に語った加藤紘一や、同じ傾向の、<日本国憲法のどこが悪いんだ>とやはりマスコミの前で公言した後藤田正純を起用するようでは、まともな「保守」政党ではない。だからこそ、鳩山由紀夫のブレ等々にもかかわらず、少なくとも来年の参院選挙くらいまでは、鳩山政権が続きそうだとの予想が出てくる。
 現政権もダメ、自民党にも大きな期待をとてもかけられないそうにない、ということこそ、じつに深刻な事態だと認識すべきだろう。
 三 深刻な第四、あるいはさらに深刻なのは、<保守>言論人または<保守>論壇において、現状を打破するための建設的で具体的な議論が、ほとんどか全く、存在しないようにみえることだ。
 自民党が頼りなくとも、しっかりとした言論が小さくとも存在していれば、それを手がかりにして、多少は明るい未来を展望できそうなものだが、それもなさそうであることが、じつに深刻だと思われる。
 ①隔月刊・表現者27号(ジョルダン)、佐伯啓思「『民主主義の進展』による『政治の崩壊』」(p.52-)。
 「民主党を批判することはきわめて容易」、自民党に<保守>再生能力があるとは言えない(p.53)、等々、佐伯啓思の主張の趣旨はよく分かる。
 だが、ではどうすればよいのか。佐伯は、「プラトンの政治論に立ち返るのが適切」だとし、「善き国家」=市民が「善き生」を送れる国家の実現を説き、かかる国家は「民主」政では生まれない旨を書く。民主主義は目ざすべき「価値」とは無関係との旨は佐伯が繰り返し書いてきている。
 しかし、「われわれは、仮に民主主義者でなくとも、民主政治の社会秩序のもとで生活していることは事実である。とすれば、…できることはと言えば、あのプラトンの言葉の危惧を絶えず思い起こすことであろう。保守とは古典の精神に学ぶことにほかならないからである」、との文章だけで結ばれたのでは、何の慰めにもならず、何の建設的で具体的な展望も出てこないだろう。
 なぜプラトンかとの疑問はさて措くとしても、「あのプラトンの言葉の危惧を絶えず思い起こすこと」をしていれば、民主党政権を打倒することができ、「保守」再生政権を生み出すことが可能になるのか。この程度の抽象性の高い主張では、ほとんど何の役にも立たないと思われる。<思想家>・佐伯啓思に期待しても無理なのかもしれないが。
 なお、上掲誌同号の諸論考は(西部邁「保守思想の辞典/役人」も含めて)、民主党批判と現状分析が中心で、<保守>派の現在と今後の具体的あり方については説き及ぶところがほとんどないようだ。
 ②月刊・文藝春秋11月号(文藝春秋)、中西輝政「英国『政権交代』失敗の教訓」(p.94-)。
 1994年の自社さ連立内閣以降の自民党は「政権にしがみつくこと自体」を自己目的化した、という御厨貴に近いニュアンスの批判(p.96)はまぁよいとしよう、また、鳩山・菅直人「団塊世代」の対米屈折心理の存在の指摘(p.98)やフランス・イギリスを例にしての、<脱官僚>等の民主党政権への懸念・不安もそれぞれに参考にはなる。
 だが、それらは民主党政権継続を前提とする議論だ。そして、「民主党による政権奪取は、より大きな日本政治の大移行期の『第一幕』に過ぎないのかもしれない。今後十年、いやもっと長いスパンでの日本の命運が、そこにかかっている…」(p.103)という結びだけでは、建設的で具体的な展望は何も出てこない。「今後十年、いやもっと長いスパンでの日本の命運」がかかっているとは、すべての(基本的な?)政治事象について言えることではないのか?
 執筆を依頼されたテーマが「日本政治の大移行期」の具体的な展開内容の想定・予想あるいは<あるべき移行の姿>ではなかったためかもしれないが。
 なお、文藝春秋同号の立花隆の文章(p.104-)はこれまでとほとんど同じ内容の小沢一郎批判で、御厨貴よりもマシかもしれないが、新味に乏しい。立花隆、ますます老いたり、の感がますます強い。
 ③西村幸祐責任編集・撃論ムック/迷走日本の行方(オークラ出版)の中の、西村幸祐=三橋貴明=小林よしのり=城内実(座談会)「STOP!日本解体計画―抵抗の拠点をどこに置くのか」(p.6-)。
 これの方がまだ将来の具体的なことを語り合っている。
 しかし、小林よしのりが「『伝統保守』という理念の再生」の必要を語りつつ、「地道なやり方をつなげていって、大きな流れにするしかない…。一人二人が四人五人になる。そういう核が全国各地でいくつもできて、それがやがて大きなうねりになる。…」と(p.23)、日本共産党・民青同盟の拡大あるいは「九条の会」会員拡大の際してと似たような話ではないかと思われる程度の発言しかできていないのは、やはりなお大きな限界と歯がゆさを感じる。
 むろん抽象的には上のとおりかもしれないし、小林よしのりは一人で「『伝統保守』という理念の再生」のために数十(数百?)人以上の仕事をしているので、引き続いての健闘を彼には期待しておくので足りるとは思われるのだが。
 この座談会で城内実は、将来はA「日本の国益と伝統を大事にする保守主義の政党」、B「個人主義や新自由主義を打ち出す自由主義政党」、C「平和主義のリベラル政党」に「分かれていくのではないか」と発言している(p.21-22)。
 これ以上の詳細な展開はないが、この辺りを、その具体的な過程・方策も含めて、<保守>言論人または<保守>論壇には論じてもらいたいものだ。
 他人のことをとやかくいう資格はないかもしれないが、民主党(政権)を(厳しく?)批判しつつ、将来については何となく<様子見>の議論が多すぎるような気がする。その意味では、<保守>言論人・<保守>論壇にも大きく失望するところがある。  

0768/小池百合子と山崎拓の対立、NHK6/22の「反日捏造番組」。

 〇サピオ7/22号(小学館)p.14に、小池百合子「私が『基地対策特別委員会』を抗議の辞任した理由/防衛大綱・『敵基地攻撃能力の保有』はこうして骨抜きにされた」がある。
 これによると、自民党「防衛計画の大綱」案の提言の柱は固まっていたところ、山崎拓が6/09に「敵基地攻撃能力の保有」という柱に「予防的先制攻撃は行わない」との文言を追加するよう主張し、これが最終的にもとおってしまったため、小池は上記の辞任をした。
 日経ビジネス7/13号(日経BP社)p.112は、山崎拓「船舶検査で核開発阻止を急げ」を載せる。その中で山崎はこう書く(構成・鈴木裕美)。-自民党小委員会は「敵基地攻撃能力の保有」を提言しているが、これを実施すると「膨大な防衛費が必要なるうえ、防衛政策を大転換」する必要が出てくる「専守防衛」・「非軍事大国」・「非核三原則厳守」の「国防3大方針」を全て変える必要があり、「これは『戦争放棄』をやめたというメッセージと取られかねない」
 時期の関係か、山崎は上では「予防的先制攻撃は行わない」との追記の主張は書いていない。
 詳細に触れないが、「敵基地攻撃能力の保有」を謳いながら「でも使いませんよ」=「予防的先制攻撃は行わない」と明記するのでは「意味も抑止力もない」とする小池百合子の方がまともな見解・主張だろう。
 山崎拓は、日本国憲法9条護持論者なのだろうか。そうだとすると、自民党の党是に反するのではないか。あるいは、<現憲法のもとでは>という限定・条件つきの主張をしているのだろうか。そうだとしても、現憲法の解釈として山崎の主張=「解釈」が正しいものではないことは明らかだ。九条1項の「戦争放棄」条項のもとでも、自衛のためにならば正当な「実力行使」をする意思くらい十分にありますよ、とのメッセージを伝えた方が、日本の国家と国民は安全なのではないか。
 そもそも、「…というメッセージと取られかねない」と懸念する相手方は、中国・北朝鮮なのではないか。なぜ、そこまで、中国・北朝鮮に<配慮する>のだろう。
 山崎は<反麻生>グループとしてテレビにはほとんど顔を出さないようでもあるが、加藤紘一・武部勤・中川秀直・塩崎恭久・後藤田正純・河野太郎、ついでに鳩山邦夫あたりと一緒に、自民党とは別の党を作ってご活躍いただきたい。残る自民党を無条件に支持しているわけでは全くないが。

 〇観なかったが、上掲のサピオ7/22(小学館)p.55以下の小林よしのり「ゴーマニズム宣言/『集団自決』NHK捏造番組」によると、NHKは6/22に、「『集団自決』戦後64年の告白」という、「またも反日捏造番組」を放送したらしい。
 日本の台湾「統治」もそうだが、沖縄や沖縄戦の歴史や詳細に詳しくない視聴者は多い。そのいわば(私もかなりそうだが)<無知>に乗じて「公共放送」からデマ・ウソを垂れ流されたのではたまったものではない。
 小林よしのりによると、渡嘉敷島で「集団自決が日本軍の責任」と主張しているのは、NHKが上記番組の「主人公」とした金城重栄・重明兄弟ら「ごくわずか」しかいない(p.57)。また、その金城重栄さえも「軍命令があった」とまでは明言しなかったため、NHK上記番組は、「生きて虜囚の辱めを受けず、鬼畜米英、そして手榴弾の音、金城さんにとってそれは自決命令でした」とのナレーションを挿入した、という(p.62)。
 NHKの社会・歴史系ドキュメンタリー類の<左翼偏向>は疑いえないようだ
 高校までの学校教育における少なくとも<何となく左翼>教育、大学の社会・人文系学部における<左翼>的教育を受けたうえで、マスコミや官界や法曹界等に入っていく…。NHK内でも、そういう者が相対的には多数なのだろう。
 従って、というとかなり飛躍するが、数年来中西輝政が期待を込めて語っている<政界(政党)再編>があっても、鳩山由紀夫おぼっちゃまを典型・代表とする(と私は感じている)<何となく左翼(・進歩)>派が多数を占め、中西輝政が支持するグループはおそらく間違いなく多数派にはならないだろう。そう願っているのではなく、客観的と主観的には思われる<予測>を語っている。 

0764/NHK教育テレビ7/10(金)夜<芸術劇場>・「カール・マルクス:資本論、第一巻」。

 NHK教育テレビ7/10(金)午後10時46分からの<芸術劇場>は、2009年3月1日に東京の「にしすがも創造舎」で収録したらしい「カール・マルクス:資本論、第一巻」という演劇(舞台)を放送していた。
 演劇の手法は「リミニ・プロトコル」という新しいものらしいのだが、ほとんどがドイツ人によってドイツ語で演じられる、かつ以下のような内容の「芝居」をそのまま録画中継のかたちで放映するだけの価値のあったものなのか、すこぶる疑わしい。
 NHKのサイトによると、この「芝居」の放映は次の意義をもつらしい(「」は引用)。
 「20世紀を変えた書物と言われる『資本論』。この本は一体、私たちにどんな現実をもたらしたのか?」、「今回、究極のベストセラー」=「カール・マルクス:資本論」を、「ヨーロッパで爆発的人気のリミニ・プロトコル」が題材に選んだ。
 「プロの俳優を使わず、実際(ホンモノ)の経済学者、労働運動家、通訳、学生など…“素人”が登場。『資本論』に関わった人もいれば、無関心だった人、忌避した人とさまざまで、そこに描かれるのは単なる社会主義のプロパガンダでも批判でもない。出演者たちが、自ら実人生を語り、ユーモアたっぷりの対話を展開しながら、名もなき個人からみた世界の歴史と現在が浮かび上がってくる」。
 「奇しくも『蟹工船ブーム』など格差が社会問題となり、金融危機など資本主義そのものが問われる今、この舞台が日本と世界の今をどう映し出すか注目された。話題の国際演劇祭『フェスティバル/トーキョー』開幕を飾ったリミニ・プロトコル来日公演をお届けする」。
 以上がほぼ9割の引用・紹介だが、NHKエンタープライズ制作のこの番組の担当者は、「今」、「奇しくも『蟹工船ブーム』など格差が社会問題となり、金融危機など資本主義そのものが問われ」ている、という時代認識を持っていることが分かる。
 あえて論じないが、金融危機=資本主義
「そのもの」の問題という理解は、幼稚極まりない(また、国際演劇祭『フェスティバル/トーキョー』とはどの程度「話題」になっている著名なものなのか?)。
 さらに、「単なる社会主義のプロパガンダでも批判でもない」といちおう書いてはいる。しかし、①上の<時代認識>と併せると、「カール・マルクス:資本論、第一巻」という演目の芝居を(決して消極的・否定的にではなく)取り上げること自体が一種の<政治性>を持っており、②なるほど種々の反応をする人びとが登場したようだが、印象に残るのは、資本主義(国)批判を内容とする「資本論」の一部を読む日本人、<社民青年同盟やドイツ共産党は変革のために闘ってきた>等々と演説するドイツ人青年、中国のマルクス・資本論の翻訳本を好意的に紹介する老年学者風ドイツ人などだ。残念ながら録画していない。
 途中から何となく観たのだが、NHKはまたもや<狂った>か、と感じた。この演劇は明らかに特定の<思想傾向>をもって、あるいは特定の<思想傾向>をもつ人びとによって制作されている。NHK(エンタープライズ)はそれに<便乗>したかに見える。あるいは、少なくとも<奇矯>=まともではない、という印象を与える。
 <芸術>・<演劇>の名のもとに特定の傾向のものを放映するのは、あるいは特定の別の傾向のものは放映しないのは、放送法にも違反する<偏向>と評すべきだろう。
 以下は、NHKサイトによる上記演劇の「内容」の叙述だが、こう叙述される以上に、マルクス的又はマルクス主義擁護的な匂いの強い演劇であり、その放映だ。なお、最後の、「それぞれ」の「胸に秘めた夢と希望」等々をこの叙述は省略しているが、紛れもなく全体として「左翼」的だ。
 これを観た人の感想を聞きたいものだ。

 「(内容)
 舞台の巨大な本棚には300冊の『資本論』が並び、棚のテレビモニターには、西暦の年号や映像が映し出されている。すでに数人の出演者が、レコードをかけたり、本を読んだり、思い思いに過ごしている。
 まず、盲目の電話交換手、シュプレンベルク(43)が、初老の経済学者、クチンスキー(64)から点字版「資本論」を渡され、一節を読み上げる。モニターに「1946」の文字が浮かび、舞台が始まる。その1946年、マルゲヴィッチ(62・映画監督)は、戦後のソ連軍から逃避行中の個人的「事件」について語り出す。食料と引き換えに、当時一歳の自分が地元農婦に、まるで「商品」として「交換」されかけた事件だ。20歳になってラトビア大学で「資本論」に出会うが、今「講義は苦行だった」とふりかえる。同じ年、ノート(67・中国コンサルタント)は、学生運動に参加、市の行事を妨害して逮捕された体験を語る。3年後の1969年、クチンスキー(64)は最初の修士論文をドイツ恐慌をテーマに書き上げる。同年、東ベルリンに生まれた女性通訳のツヴェルク(39)が、デパートで誘拐されかけた事件を語る。1971年、25歳のマルゲヴィッチは映画「集団農場」を監督。その年、26歳のノートは学生結婚。娘が生まれた年も学生運動に参加したと回想する。モニターに「1973」の文字。その年マルゲヴィッチはソ連留学。「資本論」講座教官の「わが国は警察国家。思想の自由がない」の言葉に驚愕したと言う。翌1974年、ヴァルンホルツ(48・ギャンブル依存症自立支援団体)は労働運動に参加。スト中に仲間が買収され、落胆した体験を語る。
 60年代から70年代の労働運動と学生運動のうねり。やがて、ペレストロイカから「壁」崩壊とドイツ統一、ソ連解体と資本主義へ。それぞれ、仕事や家族をめぐる人生の一断面が語られる。
 やがて終章、来るべき2015年。いったい自分は地球のどこでどんなことをしているか、それぞれが、胸に秘めた夢と希望を語り出す」。

0757/NHK「売国反日プロデューサー」列伝-長井暁・濱崎憲一ら。


 西村幸祐責任編集・撃論ムック/NHKの正体(オークラ出版、2009.07)p.150-1による、「NHK売国反日プロデューサー列伝」。執筆主体は「本誌『NHKデビュー』取材班」。
 ・長井暁 所謂「女性国際戦犯法廷」を取り上げた番組「問われる戦時性暴力」のチーフ・プロデューサー。2005年01月〔13日〕、「涙」の会見。2009年退職〔この退職を親友あるいは同志の朝日新聞はわざわざ報道した〕。東京学芸大学出身。同大学「史学会」所属。同会は「反君が代・日の丸・反つくる会教科書」を会是とし、中心教授は君島和彦
 ・池田理代子 「問われる戦時性暴力」を実質的に仕切った。早稲田大学出身。上記「法廷」を仕掛けたバウ・ネット(VAWW・NET)の運営委員
 ・塩田純 NHKスペシャル「日中戦争―なぜ戦争は拡大したか」で名を馳せた。2005年に海老沢会長辞任に触れて「これで作りたい番組が作れる環境になった」と発言。
 ・濱崎憲一 <JAPANデビー>チーフ・ディレクター。1992年入局。「血も涙もないNHKディレクター」とも評される(p.25、林建良)。
 <JAPANデビー>第一回に関する日本李登輝友の会等からの質問状に対して「被取材者からクレームはきていない」と嘘をつく柯徳三(台湾)は放送直後に電話で濱崎にこう言ったという-「私は濱崎さんに言うたんだ。あんた、中共の息がかかっているんだろう。私が聞くところによると、朝日新聞とNHKは、北京に呼ばれてチヤホヤされて、貢物を持って行ったんだろう!」(p.34、井上和彦)。上の柯徳三の抗議に対して濱崎は番組を支持する視聴者のコメント(のみ)をファクスで柯に送ったが、濱崎は「ファクスを送ったことは内緒に」と頼んだ(p.26、林建良)。別の文章によると、濱崎は柯への電話で「さっきのFAXは、柯さんだけに留めてほしい」と「泣きついてきた」(p.32、井上和彦)。
 顔だけの印象では殆ど何も言えないだろうが、少なくとも、思慮深い、聡明な、という印象は、全くない。この程度の人物が
 ・高橋昌廣 ハングル講座プロデューサー。民団・総連との関わりも「噂されている」。
 本名(戸籍名)は上田昌廣。2005年に「団体職員・上田昌弘(53)」の名で娘「Sちゃん」渡米手術費用の寄付を国民に呼びかけ、二億円を集める。妻もNHKディレクターで夫婦で年収4千万円。
 「Sちゃんを救う会」メンバーには、例えば以下も含めて、NHK「エリート職員」も多数いた。
 ①永田恒三(会代表、長井暁とともに「女性国際戦犯法廷」問題に関与)、②倉森京子(「新日曜美術館」プロデューサーで、姜尚中を司会者とした)、③塩田純(前掲)、④濱崎憲一(前掲)。
 〔なお、サンデー・ブロジェクト(朝日系)を観るのを止めたあと、「新日曜美術館」をしばしば観ていたのだが(壇ふみ司会の時代)、今年たぶん4月から姜尚中(と局アナ)に代わって、完全に止めた。姜尚中起用は上の倉森京子の「意向」のようだ
〕。

0751/全体主義者・高嶋伸欣-週刊金曜日6/19号、NHK番組に関して。

 週刊金曜日6/19号、p.47。
 長いタイトルの、高嶋伸欣「看過できないTV番組介入の議員連盟発足/厳しさが足りない身分を保障された者への監視姿勢」。
 高嶋伸欣は琉球大学名誉教授との肩書きで、いつぞやの日曜午後のTV番組「…言って委員会」で<左翼教条>発言をしていた。
 上の文章も面白く読ませる。嗤ってしまうのだが。
 NHK4/05の台湾統治に関する「NHKスペシャル」を契機に「公共放送のあり方に関する議員連盟」が発足したことにつき、「明らかに政治家による番組内容への介入」、「組織的にやろうというのは悪質」と批判。
 また、産経・朝日がこの議連発足をベタ記事でしか報道しなかったことにつき、「本来ならば社説で厳しく批判して当然な程の言論界の大問題」だと批判。
 さらに、読売がNHKは「政治家の介入を招くスキを自ら」作った等の識者コメントをのせたことを「NHK批判」だとし、「スキがあろうとなかろうと、政治家の介入は不当とするのが、メディアの立場だろう」と批判。
 高嶋によると、メディアは「憲法感覚から迫る姿勢を失って久し」い。そして、「違憲違法の議員連盟を客観視の名目で黙認するのか」と最後を締め括る。
 さて、第一に、古屋圭司・安倍晋三らの「公共放送のあり方に関する議員連盟」の発足のどこに<違憲・違法>性があるのか。「憲法感覚」を語るわりには、高嶋は何も解っていないのだろう。具体的にどの憲法条項違反かを高嶋は語らない。
 放送法というNHKの設立根拠法でもある法律が適正に執行されているかを監視することは、むしろ国会議員の義務・責務だ。
 第二に、高嶋の頭の中には、NHKの<表現の自由>対自民党国会議員(政治家)・<権力>の介入という構図が描かれているのかもしれない。この構図に立たないで後者を「社説」で「厳しく批判」しないのは怪しからんと怒っているわけだ。
 上の構図しか描けないことこそ「左翼教条」の高嶋らしい。<表現の自由>はNHKのみならず、国会議員・政治家にもある。特定の番組についてであれ、国会議員・政治家が批判的にコメントすれば<不当な政治家による介入>と捉えられるのだとすると、国会議員・政治家はマスメディアについて何も発言できなくなる。
 第三にそもそも、高嶋はNHKの番組の内容とそれ問題視する側の見解についてほとんど何も語っていないし(「日本の台湾支配を悪く描きすぎているとのバッシング」というだけ)、かつそれらに関する自らの見解は何も語っていない
 問題は、<表現の自由と「権力」>ではない。NHKが行使した「表現の自由」の結果・具体的内容の当否なのだ。それについて、種々の議論があることこそが、「表現の自由」の保障のもとでは当然のことなのだ。NHKが放送法等による規制を受ける、一般の民間放送会社とも異なる「公共放送」だとすれば、一方の「表現の自由」を国会議員が行使するのはますます当然のことだ。
 高嶋伸欣においては、おそらく明瞭なダブル・スタンダード=「ご都合主義」があるのだろう。
 すなわち、かりにNHKが高嶋の気にくわない<保守・反動的>番組を作り、それを例えば日本共産党(社民党でもよい)が問題視する質問を国会(・委員会)で行ったとする場合、高嶋は上の文章の如く、<政治家による不当な介入>と批判するだろうか。
 国民の代表者・国会議員は国民主権のもと、NHK(の「保守反動」性)を厳しく監視すべきだ、とでも主張するのではないか
 高嶋伸欣にとっては、自分に都合のよい(自分の思想・歴史認識・考え方と同じか近い)マスメディアの番組・報道は<表現の自由>として「憲法」上守られなければならず、自分に都合の悪い(自分の思想・歴史認識・考え方と異なるか対立する)マスメディアの番組・報道は<表現の自由>の保障に値せず、封殺されるべきものなのだ
 そういう本音を隠したまま、あるいはそういう矛盾が自らのうちにあるのを(「左翼教条」のゆえに)自覚すらしないままで、上のような文章を高嶋は書いたのだろう。
 隔週刊・サピオ7/08号(小学館)で小林よしのりは、月刊・世界6月号(岩波)で古木杜恵(男性)が結局は「小林よしのりは差別者だ!」「こんな奴に発言させるな!」とだけ主張していることを捉えて、「全体主義」と称している。
 この回のタイトルは「『世界』に暗躍する全体主義者」で(p.55)で、「左翼の本質そのものが全体主義だから、左翼は無意識のうちに全体主義の言動をとってしまう!」、「左翼の本質・本能をなめてはいけない! 彼らは言論の自由が大っ嫌いなのだ!」とも書いている(p.62)。

 週刊金曜日6/19号を読んだのが先だったが、高嶋伸欣の文章・主張に私は「(左翼)全体主義」を感じた。
 <表現の自由>どおしの闘い=議論・討論をしようとする姿勢を全く示さず(=NHKの番組の内容的評価には何も触れず)、一方の側(国会議員)の<言論の自由>(「政治活動の自由」でもあるかもしれない)を封殺しようとし、そうしようとしない新聞を批判しているからだ。
 さらに言えば、まだ<言論の自由>(「政治活動の自由」)の行使には至っていない段階かもしれない。「議員連盟」が設立されただけ、なのかもしれない。それでも、その「議員連盟」の言論・諸活動を、高嶋伸欣は事前に封殺しようとしているのだ。
 これは考え方の出発点において、「全体主義」だ。<言論>・<思想・信条>の中身いかんによって保護したり抑圧したりするのは、「全体主義」だ。
 高嶋伸欣よ。よく自覚するがよい。小林よしのりが対象としているのは別の人物だが、あなたも「全体主義」者だ。「左翼の本質そのものが全体主義だから、左翼は無意識のうちに全体主義の言動をとってしまう」のだろう。また、ここ
にも、マルクス主義の痛ましい犠牲者がいるのかもしれない。
 なお、週刊新潮7/02号(新潮社)p.163は、水島総らが上に言及のNHK番組を理由に民事の「大訴訟」を検討中と伝える。この問題関係の訴訟の法的な勝算・コストパフォーマンスには疑問全くなしとしないが、同じ週刊誌でも週刊金曜日とは大きな違いがある。

0732/月刊正論7月号(産経新聞社)とNHK。

 月刊正論7月号(産経新聞社)の特集は<NHKよ、そんなに日本が憎いのか>。
 この問題を取り上げるのはよいことに決まっているが、発売部数7万弱の月刊雑誌に、いかほどの世論形成能力があるのだろうと考えると、かなり悲観的にはなる。
 「かなり悲観的」の根拠では全くないが、ネット上でNHKの今年4/28の「理事会議事録」を見ると、NHKの「考査室」が同理事会で、「プロジェクトJAPAN NHKスペシャルシリーズ『JAPANデビュー』第1回『アジアの“一等国”』(4月5日(日)放送)は、一等国をめざした日本による台湾の植民地政策の変遷をテーマに、膨大な史料と海外の研究者による解説をもとに、日本や列強の思惑をわかりやすく読み解いていたと考えます」、と報告している。  確認しないが、NHK会長・福地茂雄は「問題ない」旨を語った、と(たぶん少なくとも産経新聞で)報道されていた。
 ネット上の<産経ニュース>5/14によると、こうある。
 「NHKの
福地茂雄会長は14日の会見で『あの番組はいいところも随分言っていると思った』と、内容に問題はないとの認識を示した。/福地会長は『(当時の)産業・インフラの芽が今の台湾の産業につながっているという気がしたし、教育でも規律正しい子供たちが映っており、一方的とは感じなかった。文献や証言に基づいているし、(取材対象の)発言の“いいとこ取り”もない』と評価した」。
 問題の番組の製作者もそうだが、
福地茂雄という人物は、台湾や日本の台湾統治に関する知識など殆ど持っていないのだろう。問題の番組の製作者は<無知>のみではなく、特定の<意図>があったと考えられるが。
 月刊正論7月号の水島総の連載記事(p.282~)によると、「NHKスペシャル『JAPANデビュー』」批判の新聞「意見広告」は産経新聞の東京版・大阪版だけだったようだ。
 広告費の問題もあるだろうが、産経新聞に載せるだけでは、朝日新聞の出版物の広告記事を<週刊金曜日>に載せるのに近いのではなかろうか。問題の所在自体を知らせるだけにでも朝日新聞にも、少なくとも(部数の面で広告費も安いと思われる)日本経済新聞くらいには掲載してほしかったものだ。
 それにしても、やはりとも思うのは、水島総によると、5/16の集会と1000名を超える人々のNHK抗議デモ(中村粲の連載記事p.163も参照)について、当日のNHKニュースは「原発プルサーマル計画に反対する十数人のデモを報道」したにもかかわらず、完全に黙殺した、ということだ。
 NHKばかりではなく、産経新聞を除く全マスメディアがそうだと思われる。
 これでは勝負にならない。田母神俊雄論文問題と同様で、田母神更迭等を政府・防衛大臣が反省しないのと同様に、<一部の批判・反対はあったが…>というだけで、NHKが反省・自己批判することは、客観的にはありえそうにない。
 だからといって、むろん、今後も批判する、あるいは批判的に番組を検討することを続けることを無意味だとは思っていない。重要だ。だが、客観的情勢を観ると、たぶんに歯痒い思いがする。
 朝日新聞(系)と読売新聞(系)とが結託していれば、同じ報道姿勢を続ければ、<世論>はほぼ決定的なのではないか。潮匡人が「リベラルな俗物たち」の一人として取り上げている(p.204-)渡辺恒雄の読売新聞(系)への影響力が完全になくなり、読売新聞(系)が(今でも問題によっては朝日・毎日対読売・産経という構図になるようだ)、より産経新聞に接近することを期待する他はない(といって、産経新聞や産経新聞社出版物を全面的に信頼しているわけではない)。
 潮匡人の巻頭の方の連載コラム(p.48-49、今回のタイトルは「続・NHKの暴走」)を読んで、いつか頭に浮かんだことを思い出した。
 NHKは「LGBT」(省略)、「いろんなセクシャリティ-のかたちや価値観」があること、に好意的で、「虹色」という語を使うサイトもあるという。
 では、と思うのだが、NHKの年末の<紅白歌合戦>は男でも女でもない、男のような女、女のような男等々の存在を無視するもので、「紅組」と「白組」の二つだけではなく中間の「ピンク(桃)組」も作るべきではないのか(「虹色」でもよいが、この色はどんな色か分かりにくい)。<紅・桃・白歌合戦>、にすべきではないのか(「こうとうはく歌合戦」。虹組だと「こうこうはく歌合戦」になる)。
 <紅白歌合戦>という(「男」と「女」に分かれた)長く続く番組の名称こそ、「いろんなセクシャリティ-のかたちや価値観」を結果として排する方向のものとして、なかなか意味がある、と感じているのだが。 

0715/月刊正論6月号(産経)を読む-浜崎憲一ら制作の4/05NHKスペシャル等。

 一 NHK4/05のスペシャル「日本デビュー・第一回」については、産経新聞4/30付で湯浅博「くにのあとさき/歴史を歪曲する方法」、同5/03付の無署名「検証・NHKスペシャル/台湾統治めぐり『一面的』」も批判的に書いている。
 この欄でこのNHKスペシャル関連番組に最初に言及したとき「一面的」とコメントしたのだったが、それはともかく、産経以外の他紙が全く記事にしていないので、NHKが<偏向した>又は<問題ある>番組を放映したらしいとの知識を持っている人は、多くて、販売部数の3~4倍、600~800万人程度、つまり多くて全有権者の10%程度にすぎないのではないか。産経新聞が報道しないよりは勿論マシだが、こうして書いていても、多少は徒労感をもつ。
 二 月刊正論となると発行部数はもっと少なくて、産経新聞5/04によると平成20年10-12月平均で66,575部らしい。朝日新聞は月刊・論座を廃刊させて朝日ジャーナルを復刊させたようだ。月刊誌ではたぶんないので単純に比較できないが、月刊・論座よりも、憲法改正阻止等のためには、<左翼>にとっての有力な媒体=ビラまき・煽動用紙になるのではないか。
 さて、月刊正論6月号(産経)。NHKスペシャル関係の、河添恵子「『NHKに騙された!』-”反日台湾”を捏造した許されざる取材方法」をまず読む(p.118-)。背景事情や具体的問題点がますます詳細に明らかになる。
 河添によると、「柯さんが電話を『待っていた』番組責任者H氏から連絡があったのは、オンエアーから四日後」、弁解し始めたので柯氏が「君は上司の意向を受けて編集したのか?」と訊ねると「H氏」は「否定」。その後「二度ほど連絡を取ろうとした」が、「H氏は電話口に出ず、コールバックもない」、という。
 問題の番組の<ディレクター>は、浜崎憲一、島田雄介、<制作統括>は、田辺雅泰、河野伸洋、だった。河添が明記していない「H氏」とは、ほぼ間違いなく、浜崎憲一(濱崎憲一)だと思われる。
 あんな番組を制作し放映させておいて、浜崎憲一は恥ずかしくはないのだろうか。濱崎憲一よ、君は「人間」か??
 中村粲の連載「NHKウォッチング」でも当然のごとく、小見出し「嘘だらけの<NHKスペシャル>」から始めて批判している。
 予期していなかったが、潮匡人の連載コラム(p.48-49)でも「日本『反日』協会の暴走」と題して取り上げていた。NHK=日本「反日」協会、か。なるほど。
 このあと、八木秀次連載コラムとの先後は忘れたが、杉原誠四郎「『研究者としての五百旗頭真氏に問う」(p.250-)を読む。
 これによると、五百旗頭真は、杉原誠四郎の研究業績を無視して剽窃まがいの記者会見をしたりするなど、「研究者」としてはあるまじき行動をしているようだ。だからこそ五百旗頭は神戸大学を(たしか)定年前に辞めて=「研究者」を廃業して防衛大学校長になったのだろうか(皮肉のつもりだ)。
 なお、杉原誠四郎によると、秦郁彦が日米開戦・真珠湾攻撃ルーズベルト予知説を「陰謀史観」として一蹴したことも、「歴史家としてその資格の根幹を揺るがす問題」だという(p.255)。

 三 このあと、「『村山談話』をいかに克服するか」と題する屋山太郎・大原康男・長谷川三千子ら7名の報告・座談会を読み、安倍晋三の文章(p.52-)を概読した。
 前者では、安倍晋三による「村山談話」踏襲に関する1994年まで外務官僚の村田良平の報告・発言(後者はp.243-4)が関心を惹く。「今の私の思い」は結構だし、のちの(安倍首相当時の)外務官僚から「安倍総理は誇張された説明を受けられたとしか思われない」と感想を述べる(p.233)のも結構だが、外務省官僚時代に事務次官にまでなった村田良平には、現役時代の仕事について、全く恥じるところはないのだろうか。
 なお、北村稔も上の中で「『NHKスペシャル史観』の傲慢」と題して報告している。
 四 今のところ最後に、西尾幹二「日本の分水嶺-危機に立つ保守」を読む(p.96-)。
 是非はともかく刺激的で、論議の的とされそうな部分を含む。別途、論及することにする。

0713/憲法(九条2項)改正阻止の策略・陰謀?-BPO・放送倫理検証委員会「意見書」とNHKスペシャル。

 一 憲法改正国民投票法は来年(2010年)5月18日に施行される。現在のところでは2007年参院選自民党敗北=野党の多数派化(<ねじれ国会>化)もあって憲法改正への具体的展望は開けないが、来年の上記法律の施行によって憲法改正に関する関心が少しは高まるだろう。そして、<政界再編>の態様によっては、改正案の具体的検討が国会で始まる可能性を排除することはできないと思われる。
 憲法改正の中心的争点は、現憲法九条2項を削除するか(そして「軍」保持を明確にするか)否かだ。現九条全体では決してなく、問題になるのは九条2項であることをあらためて書いておく。
 「左翼」は、憲法改正への関心の高まりと九条2項削除を恐れており、後者を断乎として阻止しようと考えているだろう。安倍晋三内閣を「右派政権」と社説で呼んだ朝日新聞はその先頭又は中核部隊の一つにいる「政治団体」だ。
 二 上のような、憲法改正を阻止するための策略・陰謀は、現在も多少の衣を被って進行しているのではないか。
 NHKスペシャル「JAPANプロジェクト-戦争と平和の150年」は、第一回は「台湾統治」を主題にしていたが、既述のように、その前日の「プロローグ」は現九条の理念や存在意義を積極的・肯定的に主張することを主眼にしていた。また、第2回では憲法問題を扱うことも予告されている。
 「台湾統治」に関する4/05放送については、この欄に既述のほか、産経新聞報道(4/29)によると、自民党の議員連盟「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(会長・中山成彬)は4/28にNHK会長に対して13項目の質問状を発した。当然に上の番組を問題視しての行動だ。
 だが、ネット情報によるかぎりは、朝日・毎日・日経・読売の4紙は、NHKの上の番組に対して「偏向」等の抗議・批判の声があがり、日本李登輝友の会や上の議員連盟による抗議・質問状がNHKに対して発せられたという<事実>をも、いっさい報道していない。この点を扱っているのは、見事に(?)産経だけだ。
 だがしかし、奇妙なことに、「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」が対NHK質問状を発した同じ日(4/28)に、放送倫理・番組向上機構(BPO)の中に設けられている「放送倫理検証委員会」は、8年前(!)の2001年1月放送の<問われる戦時性暴力>とか題する<従軍慰安婦>問題を扱った(バウネットら主催の「戦時性犯罪国際戦犯女性法廷」なる集会の紹介)番組に関して、直前の改編は「公共放送の自主・自律を危うくし、視聴者に重大な疑念を抱かせる行為」だったとする意見書を公表した(この引用は読売新聞。改編に「政治的圧力が実際に影響したかどうかの判断」はしていない)。そして、この事実は、ネット上でも、朝日・毎日・日経・読売のすべてが取り上げている(産経も)。4/29朝刊でこれら全紙が報道している筈だ。
 ネット上での朝日新聞によると、BPO「放送倫理検証委員会」意見書は、上記のことのほか、「
『国会対策部門と放送・制作部門は明確な任務分担と組織的な分離がなされていなければならない』と指摘し、『経緯から教訓を引き出し、慣習を点検し、場合によって制度設計をやり直す仕事は、NHKで働く人々に委ねられている』と変革を促した。番組の改変については『質の追求という番組制作の大前提をないがしろにした』と判断した」、という。
 また、ネット上での日経新聞によると、「『番組は完成度を欠き散漫。質より安全を優先することを選んだ』と厳しく指摘した」、また、NHK幹部が与党の有力政治家(要するに安倍晋三と中川昭一だ)と面会したことを「『強い違和感を抱く。政治と放送との適正な距離に気を配るべきは放送人の側』と批判」した、という。
 また、ネット上での読売・朝日によると、「制作部門の幹部が政治家と会って番組を説明すること」自体が「自ら政治的関与を招く行為で、視聴者の疑念を招き、信頼を裏切る」、「NHKは現在も制作部門が事前に政府高官に説明する可能性を排除していない。やめて欲しいと申し上げることにした」とも、「放送倫理検証委員会」会長・川端和治(弁護士)は記者会見で述べたらしい。
 三 つい最近の「偏向」(と批判されている)番組に関しては一切報道せず、八年前の番組に関して今頃になって行ったBPO「放送倫理検証委員会」の(結果的又は間接的には安倍晋三らを批判し、元の<極左偏向>番組を擁護することとなる)意見書公表については報道する、という点自体にも新聞業界の大勢の<不公平さ・不公正さ>又は<偏り>があるだろう。
 上の点は別としても、この意見書は内容的にも奇妙で、適切なものではないのではないか。
 第一に、会長発言のように、事前に「制作部門の幹部が政治家と会って番組を説明すること」自体が一般的に許されない、とすることは誤りだろう。こんな見解が一般的に正しいこととされると、NHK幹部は政治家と会見する・面談する、といったことが一切できなくなるのではないか。毎日、又は毎日の如く<政治>と関係のある放送をNHKは行っているのであり、上のように言われると、「会う」こと自体が(実際にはそうではなくとも)近日に放送される予定の番組・放送内容の説明と勘ぐられてしまいかねないからだ。
 より大きな、基本的なことだが、第二に、BPO「放送倫理検証委員会」は、改編された、又は改編前の(幹部が介入する前の)放送内容を「放送倫理」の観点から、いったいどう判断しているのか??
 改編を指示した幹部らを批判することとなる意見を出す前に行うべきことは、改編後の又は改編前の(放映されようとしていた)放送内容の「放送倫理」の観点からの評価なのではないか。
 すでに上で<極左偏向>と書いたが、<自主・自律>に疑問があるとの判断は、当該放送・番組内容の評価と全く無関係にはできない筈だ
 しかるに、BPO「放送倫理検証委員会」は、この点については完全に口を噤んでいる。これは異常というほかはない。最終的には昭和天皇を<性犯罪>者として「有罪判決」を下す集会のほとんどそのままの放映は放送法等にも違反する<極左偏向>ではないのか。いったい、BPO「放送倫理検証委員会」メンバーは何を考えているのか。まともな精神・神経を持っているのだろうか。
 放送倫理・番組向上機構(BPO)も上の委員会も名称のとおり「放送(番組)」のみを対象にしており、新聞(報道)は対象としていない。
 したがって朝日新聞の報道の仕方を審議する性格の機構ではないが、もともとあの8年前の<事件>は、<NHKと政治家>の「距離の近さ」ではなく、<朝日新聞と取材対象者(バウネットら)>の「距離の近さ」をこそ問題にすべき事案だったと思われる。
 かつて朝日新聞記者だった者(松井やより-故人)が代表を務めたことのある女性団体等と現役記者・本田雅和がほとんど一体になっていたからこそ(そして、のち2005年のNHKディレクター・長井暁の「告発」を契機にして)、自民党政治家の<政治的圧力>による改編、という朝日新聞作成(捏造)の基本的構図ができあがったのだ。
 今回のBPO「放送倫理検証委員会」意見書は、結果としては、朝日新聞や本田雅和を免罪する、朝日新聞・本田雅和が描いた構図上での動きに他ならない。
 四 BPO「放送倫理検証委員会」のこの問題についての議論は今年1月に始まった、とされている(BPOのHPには簡単な議事録もある)。
 いったいなぜ、今年1月になって議論を開始し、この4月に意見書をまとめたのだろうか。
 以下は、推測又は憶測だ。
 NHKの一部の者たちはNHKスペシャル「JAPANプロジェクト-戦争と平和の150年」の制作をすでに開始していた。それは護憲=憲法改正反対(九条護持)の立場・主張につながるように日本の近現代史を描く番組だった。そして、彼らの意向どおりに番組を制作すると、実際に生じたように、<偏向>・<不公平・不公正>と批判される可能性があるものだった。批判者の中には国会議員・政治家も入ってくる可能性があり、組織・団体としての抗議・批判もありえた。
 そういう状況を想定すると、NHKの番組・放送内容に対する政治家・国会議員の何らかの形での<介入>(批判・抗議・質問状交付等)を防止する、又はその<介入>は不当なものだという印象を与える、という目的のためには、別の案件を利用してでも、政治家・国会議員の何らかの形でのNHKへの<介入>を疑問視する=NHKの「自主・自律」性維持を要求する<公的な>意見が出ていることが、彼らにとっては有利なことだった。
 つまり、八年前の放送に関しての今年4月のBPO「放送倫理検証委員会」意見書は、今年のNHKスペシャル「JAPANプロジェクト-戦争と平和の150年」を守るために、(「保守」派・「ナショナリズム」派・<改憲派>の)政治家に対するNHKの「自主・自律」性の確保を迫るために、出されたものではないだろうか。そのためには「再発防止計画」の提出につながる「勧告」・「見解」という大げさなものではなく、たんなる「意見」であっても有効だった。
 上記委員会のメンバー全員が上のような意図をもっていたとは思わないし、あるいは全員が4月以降の放送との関係を意識していなかった可能性もある。しかし、八年前の放送の件を議論するように第三者が働きかけることはできるはずだ。そして、特定の内容の意見書へと結果として誘導することも、委員の構成次第では不可能ではない、と<策謀>した者が存在したとしても、不思議ではないと思われる。
 五 意見書を出したBPO「放送倫理検証委員会」のメンバーは次のとおり。計11名。
 川端和治(委員長・弁護士)、上滝徹也(日本大学教授)、小町谷育子(弁護士)、石井彦壽(弁護士)、市川森一(脚本家)、里中満智子(漫画家)、立花隆(評論家)、服部孝章(立教大学教授)、島久光(東海大学教授)、吉岡忍(作家)、高野利雄(弁護士)。
 上のうち、市川森一・里中満智子・立花隆・服部孝章・吉岡忍、計5名は明確な<護憲派>又は「左翼」だ。また、概して、弁護士界は(とくに「公的」な仕事をしている弁護士は-稲田朋美・橋下徹等を除いて)「左翼」的だ。一概にはいえないが、「大学教授」も相対的には「左翼」的傾向の者が多い。
 六 改憲阻止に向けた執拗な<策略・陰謀>が、NHKをも巻き込んで、静かに、深く進行しているのではないか? そんな恐怖を感じるのだが、気のせいか。  

0708/林建良・台湾団結連盟日本代表による4/05NHKスペシャル「第一回」批判。

 4/05のNHKスペシャル「JAPANデビュー第一回」につき、林建良という「台湾団結連盟日本代表」が、サピオ5/13号(小学館)の巻頭(p.3)でこう語っている。以下、一部抜粋。
 ・上の番組は「日本の台湾統治の苛酷さを強調し、大きな波紋を呼んだ」。「衝撃は日本人以上に台湾人の方が大きかった」。「…NHKが、なぜ事実歪曲したのかが理解できない」。「一番多く歴史証言で登場した柯徳三氏(87)は『NHKに騙された』と語っている」。「負の面の証言だけが取り上げられ、プラス評価の部分がすべて削られたからだ」。
 ・台湾(人)が「今回『反日』に仕立てられたことには強い怒りを覚え」る。「親父の世代を『反日偽造工作』に加担させたNHKの手口は、侮辱である」。「NHKのディレクターに『日本精神』はなく、台湾人に欺瞞的な手法を使った。…精神の砦は、無残にもこの若い日本人によってぶち壊された」。
 ・NHKの2007年の「青海チベット鉄道」特別番組は「チベット人への弾圧や略奪に使うあの鉄道を美化している」。今回の番組には「日台分断を図る」NHKの意図があり、さらに「中国の意向」があるのではないか。
 ・「日台さえ分断させれば中国の台湾侵略に弾みがつく。そして台湾併合後は日本も中国の勢力圏に組み込まれる。そのような侵略国家に加担するNHKは、今や銃口を自国民に向ける洗脳軍隊に化けた」。
 上の「若い」「NHKのディレクター」とは誰かは書かれていないが、この番組の<ディレクター>は、浜崎憲一、島田雄介、<制作統括>は、田辺雅泰、河野伸洋だった。
 このような林建良の批判は「一部」(の例外?)のものだとしてNHKは無視するのかもしれないが、かなり強い批判・非難だ。NHKを実質的に中国(共産党)の<手先>と、そして明示的にNHKを「侵略国家に加担する…今や銃口を自国民に向ける洗脳軍隊」と形容しているのだ。
 心あるNHK職員は、こんな番組が作られたことを憂い、嘆くべきだ。また、多くの心ある国会議員・政治家も、放送法の観点から、NHKのこの番組をもっと問題視すべきだ。
 同じようなトーンの<反日・自虐>番組が今後月に一度放送されたのでは、たまったものではない。今からでも遅くはない。第2回以降の番組内容が「公平・公正」なものかどうかも放送総局長・向英実らのNHKの権限・職責ある立場の者はチェックすべきだろう。
 なお、放送法第三の二は「放送事業者」による「国内放送の放送番組」の「編集」につき、「次の各号の定めるところ」によるべき旨を定める。各号のうち一号以外は次のとおりだ。
 「二  政治的に公平であること。
  三  報道は事実をまげないですること。
  四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。」
 NHKの上の番組は、これらに正面から抵触してはいないか!? 雑誌・週刊誌や新聞社のうち産経は別として、NHK以外の放送会社や他の新聞社は、なぜこのNHKの番組に強い批判が寄せられているという事実すら報道しないのか。
 反朝日新聞と反日本共産党のみならず「反NHK」をも一般的には掲げたくないのだが。 

0703/朝日新聞にエラそうに語る資格があるのか(週刊新潮問題)+辻村みよ子・ロベスピエール追記。

 〇 某新聞の4/17付社説の一部。週刊新潮「事件」に関するもの。
 「一般に大手出版社は、社内の週刊誌編集部の独立性を尊重しつつも、法務など別のセクションと日常的に意見交換して、問題記事が出るのを防ぐ工夫をしている。
 だが、新潮社では編集部に取材や記事づくりほぼすべてを任せていると同社は説明している。それほどの権限があるのであれば、編集部にはなおのこと厳しい自己点検が必要だ。
 報道機関も間違いを報じることはある。だが、そうした事態には取材の過程や報道内容を検証し、訂正やおわびをためらわないのがあるべき姿だ。事実に対して常に謙虚で誠実であろうと努力をすること以外に、読者に信頼してもらう道はないからだ。
 今回の週刊新潮と新潮社の態度からは、そうした誠実さが伝わってこない。この対応に他の出版社や書き手たちから強い批判の声があがっているのは、雑誌ジャーナリズム全体への信頼が傷ついたことへの危機感からである」。
 某新聞とは朝日新聞。呆れている。 
 1.この引用の冒頭に「大手出版社」とあるが<大手全国(新聞)紙>では、各部(政治部・社会部等)や「編集部の独立性を尊重しつつも、法務など別のセクションと日常的に意見交換して、問題記事が出るのを防ぐ工夫をしている」のか、自社のことも述べてほしいものだ。記事を書いた記者・その属する部(政治部・社会部等)と最終的に掲載するかどうかを判断する(権限があるとすれば)<編集>部との関係も知りたい。ついでに、2005年1月の際の本田雅和らの記事はどのように社内を「通過」したのかも具体的に。
 2.「報道機関も間違いを報じることはある。だが、そうした事態には取材の過程や報道内容を検証し、訂正やおわびをためらわないのがあるべき姿だ。事実に対して常に謙虚で誠実であろうと努力をすること以外に、読者に信頼してもらう道はないからだ」-よくぞこう言えたものだ。
 朝日新聞はこれまで、何度「間違い」を犯し、そのうち何度、「ためらわない」態度で「訂正やおわび」をしてきたのか??
 北朝鮮祖国帰還運動をどれほど煽ったのか。警察・公安当局は北朝鮮によるとの「疑問」を明確に表明していたにもかかわらず、そして「疑い」を当局は示したといくらでも<客観報道>できたにもかかわらず、全くといいほど言及・報道しなかったのは何故か。教科書検定による「侵略」→「進出」への書き換えという誤報について「訂正やおわび」をしたのか。特定政治家によるNHKに対する政治的「圧力」という「間違い」の捏造記事について「訂正やおわび」をしたのか。
 <天に唾する>あるいは<厚顔無恥>あるいは<どの面下げて>とは、上のような文章を言うのではないか。
 〇 前回紹介の辻村みよ子の記述についてコメントを補足。
 ロベスピエールに言及する日本国憲法の教科書・概説書も珍しいとは思うが、「財産権」のところで、それを「社会的制度」として把握した者として(のみ)登場させるのは一種の<偏向>だろう。
 すでに平民の階級になっていた旧国王夫妻がコンコルド広場で処刑(ギロチンによる斬首)された後に、<ジャコバン独裁>とか<恐怖政治>とか称される時代を築き、思想信条の差異を理由として同胞国民(・「市民」)を数万人(数十万人?)も殺戮し、のちのスターリン、毛沢東、金日成、ポル・ポトらの<さきがけ>となった人物こそロベスピエールではないか。
 ロベスピエールは<生命>(<「個人」)の尊さの箇所で、あるいは「思想・信条の自由」の箇所で(その侵害者として)登場させる方が適切だろう。
 あるいは、やや専門的かもしれないが、<宗教・信教の自由>の箇所はどうだろう。キリスト教式ではない「理性の祭典」=「最高存在の祭典」の挙行は、キリスト教に対抗した「理性」を一種の神とする新<宗教>の樹立をしようとしたものとして、<宗教活動(の自由)>を考察する場合でも興味深い素材ではないか。
 いずれにせよ、辻村みよ子はロベスピエールに<肯定的>文脈において言及する(ルソーについても全く同様)。それはいったい何故か。ルソー(・フランス革命)を呼び覚ませば、マルクスは何度でもよみがえる、との旨の中川八洋の言葉は聞くべきところがある。
 ルソー→ロベスピエール→バブーフ/サン・シモンやフーリエ→マルクス、という思想系譜が一つの流れとしてはある。その後、マルクス→レーニン→スターリン・毛沢東・金日成(・宮本顕治)らと続く。この怖ろしい、<共産主義>そして<全体主義>の系譜にロベスピエールも位置するということを(少なくともこのような理解もあるということを)知った上で、教科書・概説書は慎重に書かれるべきだ(特定のイデオロギーを宣伝したいならば別だが)。

0701/週刊新潮4/23号におけるNHK4/05番組批判と「お詫び」。

 〇4/05のNHK番組「JAPANデビュー・第1回」につき、「少なくとも<一面的>」と前回に評した。週刊新潮4/23号(新潮社)によると、やはりその程度では済まないようだ。
 上の番組を「歴史歪曲と『台湾人』も激怒したNHK『超偏向』番組」と評する同号の巻頭記事によると、「人間動物園」との表現、台湾での「改姓名」、「宗教弾圧」につき、誤り又は歪曲等がある、という。また、番組に登場した台湾人・某氏はNHKの取材に対して日本の台湾統治は「プラスが50%、マイナスが50%」というスタンスで答えたが、放送を観たら「悪口ばかり使われているので、大変驚きました」との感想を述べた、という。以下は省くが、これらによると、「一面的」は柔らかすぎる表現で、むしろ<捏造>に近いのではないか。
 上の某氏はNHKのこの番組の背後には「日台の関係を引き裂こうとする中共の意向があるのではないか」とも「邪推」しているというが、「邪推」ではないかもしれない。
 NHKは<戦時性犯罪国際女性法廷>とやらの番組で少しはコリたかと思っていたが、確信犯的な「左翼」制作者グループがまだ残っているようだ。
 なお、同誌同号の高山正之連載コラムも結果としては全体を、上のNHK番組批判にあてており、番組制作者として、「田辺雅泰」の名前のみを出している(p.142)。
 〇週刊新潮上掲号には、朝日新聞阪神支局事件に関する同誌掲載手記が「誤報であったことを率直に認め、お詫びする…」編集長名の長い文章も載っている(p.130-)。
 これに関係して不思議に思うことがある。すなわち、2005年1月頃以降に話題になった、上でも言及した<戦時性犯罪国際女性法廷>とやらの番組放送に対する政治家(自民党)の圧力問題に関していうと、今回の週刊新潮記事(編集部)にあたるのが朝日新聞・本田雅和ら二人の記者であり、今回の件の島村征憲にあたるのが、自分自身が直接に接触をした(を受けた)わけでもないのに上司・幹部が<安倍晋三・中川昭一から「圧力」を受けた>ために改編を迫られた旨を記者会見して(涙ながらに)述べた長井暁(チーフディレクター)なのではないのだろうか。長井暁は(少なくとも中核部分では)「嘘」を述べたにもかかわらず、それを信じて取材を十分にしないまま記事にしてしまったのが朝日新聞・本田雅和らではないのだろうか。
 そうだとすると、朝日新聞は誤りを認め謝罪するべきだったと思われるが、<取材不十分>を外部委員会に指摘させただけで、訂正も「詫び」もしていない。この<開き直り>と比べれば、新潮社の方がまだマシだ。
 亡くなられた朝日新聞記者にはやや気の毒かもしれないが、彼に関する事件と自民党による<政治圧力>問題は、少なくとも同等の又は後者の方がより大きな重要度をもっていたと思われる。やや別言すれば、今回の週刊新潮には特段の<政治的>意図はなかったと見られるのに対して、朝日新聞・本田雅和には、特定の(反朝日スタンスの)政治家を貶める方向へと世論を誘導しようとする明確な<政治的>意図があったと思われる。朝日新聞はなぜ、<取材が不十分でした>程度で済ますことができたのだろう(まともな・ふつうの新聞社ではないからだ)。
 最近、某芸能人・タレントがラジオで「不適切」発言をして番組が終了し、出演停止措置が執られたとか報道されている。
 このタレントは経済的な制裁も結果として受けるわけだが、朝日新聞のとくに本田雅和、NHKの長井暁はいずれも「不適切」な仕事をした(記事を書き、あるいは「異常な」番組作成しかつ虚偽の記者会見をした)にもかかわらず、それぞれ朝日新聞とNHKを辞める又は辞めさせられることもなくのうのうと給料を貰いつづけた。これはどう考えても、不衡平・不均衡ではないか。新潮社は週刊新潮編集長を交代させるようだが、朝日新聞とNHKはそれぞれ、本田雅和と長井暁に対して、「不適切」な仕事との関係が明確に判る形でのいかなる人事的措置を行ったのか。
 朝日新聞やNHKについては、どうも腑に落ちないことが多すぎる。

0700/NHKはいかなる陰謀を企んでいるのか-4/05「プロジェクトJAPAN-JAPANデビュー第一回」。

 〇 4/05NHK「プロジェクトJAPAN-JAPANデビュー第一回」が、その「プロローグ」の内容からして奇矯なものになることは予想できた。そしてそのとおり、とくに日本の「台湾統治」に関して、少なくとも<一面的>といえる番組(・報道)内容だった。
 <ディレクター>は、浜崎憲一、島田雄介
 <制作統括>は、田辺雅泰、河野伸洋
 NHKエンタープライズ、同グローバルメディアサービスの名はなかった。
 内容の具体的なことに立ち入らない。日本李登輝友の会という団体の、つぎの抗議内容は至極もっともだと思える。以下、全文(下線・太字は秋月)。
 「NHKスペシャル シリーズ JAPANデビュー 第一回 アジアの〝一等国〟」に対する抗議声明
 貴日本放送協会(以下、NHK)は、去る四月五日午後九時から「NHKスペシャル シリーズ JAPANデビュー 第一回 アジアの〝一等国〟」という番組を放送した。

 私どもは台湾を「日本の生命線」と位置づけ、日本と台湾の交流のシンボルである李登輝元総統の名を冠し、平成十四年に台湾との文化交流を目的に設立した団体であり、台湾の日本統治時代にも深い関心を抱いてこれまで活動してきている。そこで今回の放送は多大の関心を持って観た。

 だが、期待はものの見事に打ち砕かれた。私どもが知る台湾の日本語世代の人々の常日頃の発言と大きくかけ離れており、反日的と思われる発言だけを取り上げた印象は拭えず、日本の台湾統治時代を批判するため、台湾人の証言を都合よく操作し、「反日台湾」を印象付けるためだったのかとしか思えない内容であった。光と影の影のみを強調した印象は否めない。また、日台離間を企図しているのかとさえ思われる内容でもあった。

 番組を観た多くの方からも「実にひどい番組」「偏見に充ちた内容」という感想が寄せられている。台湾からも「大変不快だった」との声が寄せられ、若い世代の間では「僕のおじいちゃんは日本大好きなのに、あの番組は変だよ」「NHKはどうしてこんないい加減な番組を日本人に見せるのだろう」という疑問の声が噴出しているという。

 番組内容には批判すべき点が多々あるが、聞き慣れない「日台戦争」という呼称が出てくるし、後藤新平は出てきても、それは台湾人三千人を処刑した匪徒刑罰令の実行者として出てくる。また、台湾特産の樟脳産業を立て直すために基隆港を大型化し縦貫鉄道を敷いたと説明する。

 しかし、八田與一や後藤新平の事績を高く評価する李登輝氏の総統時代、一九九七年に台湾で刊行された中学校の歴史教科書の副読本『認識台湾』では、第七章に「日本植民統治時期の政治と経済」、第八章に「「日本植民統治時期の教育、学術と社会」を設け、例えば米やサトウキビの生産については「米の増産と糖業王国の確立」との見出しの下、生産量のグラフを掲載していかに生産量が上がったかを示していた。縦貫鉄道については「各地を結ぶ交通運輸を改善した」と記していた。

 確かに台湾統治では同化政策を進めた。差別もあった。この差別について、特に台湾の日本語世代は日本人の前ではあまり語りたがらない一面があることを私どももよく知っている。だが、日本統治を評価していることも事実なのである。それは、八田與一を高く評価していることに如実に現れている。故に、台湾をよく知る人々には、著しくバランスに欠けた内容と映じ、統治時代の歴史に真正面から向き合っていないという印象を強く残したのである。

 従って、日本が一方的に台湾人を弾圧したとするような史観で番組を制作することは、公共放送として許されるべきではない

 ついては、ここに今回の放送内容に厳重抗議する。それとともに、この番組の脚本を作成する上で参考にした書籍など全資料の開示を要求する。
 平成二十一年四月九日
 日本李登輝友の会
  会長 小田村四郎
  副会長 石井公一郎
      岡崎久彦
      加瀬英明
      田久保忠衛
      中西輝政
 日本放送協会 会長 福地茂雄殿」
 この抗議に対してNHK広報局は、「歴史を振り返り、未来へのヒントにしたいという番組の趣旨を説明し、理解していただきたいと考えています」と反応したという。
 これでは誠実な対応に全くなっていない。
「歴史を振り返り、未来へのヒントにしたい」という、その具体的な内容・方法をこそが批判されているからだ。抗議者を嘲笑し、抗議内容を無視する、おざなりの文章としか思えない。NHK広報局には、理屈・論理・日本語文章を理解できる<ふつうの>人間はいないのか。
 一点だけ付記する。日本の「台湾統治」を<悪>として一面的に描くことは、台湾が日本領土になったこと、その原因としての日清戦争の勝利の評価と無関係ではない。
 NHKは日清・日ロ戦争を含む司馬遼太郎「坂の上の雲」をドラマ化しているようで、前宣伝にも熱心だが、そのことと、この「プロジェクトJAPAN-JAPANデビュー」で訴えたいことと整合性はあるのか?
 司馬史観うんぬんはどうでもよい。<東京裁判史観>が<悪>と見なしているのは1930年代以降の日本の軍事行動・戦争だと思うが、いつかも触れたように、昭和の戦争=<侵略>戦争=<悪>(謝罪の対象)という<村山談話>史観=<東京裁判史観>を支持する者たち(「左翼」)は、日清・日ロ戦争をどう「歴史認識」するのか?? これはさらに明治維新の評価にも関連してくる。単純な是非論はできないだろうが、少なくともこれらとの関係も総合的に論じないと、「台湾統治」の評価も適切なものにはならないのではないか。
 さらに関連して。4/04にNHK解説委員・五十嵐公利は「日本は開国によって独立を確保した」旨を語ったが、その「独立」を維持し続けることができたのは日清・日ロ戦争の勝利(少なくとも不敗)があったからで、これらのいずれかに敗戦していれば、1945年を待たずして日本の「独立」は危うかったのではないか。
 五十嵐公利がまともな人間ならば、この問いにもどこかで答えてほしい。

0699/憐れみを誘うNHK番組-4/04「プロジェクトJAPAN-プロローグ・戦争と平和の150年」②

 4/04のNHK「プロジェクトJAPAN-プロローグ・戦争と平和の150年」。<ディレクター>は、鎌倉英也、柳沢晋二、橋本陽。<制作統括>は、増田秀樹、河野伸洋、若宮敏彦、鳥本秀和。NHK解説委員・五十嵐公利が顔を見せ、語る。
 奇妙に思ったのは、まず第一に、現憲法(日本国憲法)9条の「思想」的系譜につき、京都大学教授・山室信一のみを登場させ、語らせ、番組自体が彼の発言・理解を支持していると理解されてもやむをえない作り方をしていることだ。
 山室信一は、故渡辺洋三や奥平康弘が在職したことのある、「左翼」を集めているとされる東京大学社会科学研究所に所属したことがある。また、その刊行物のほとんどは、朝日新聞社か岩波書店から出版されている。
 この人を登場させるな、とまでは言わない。しかし、なぜ、上のように、ほぼ間違いなく「左翼」系で、その意味では片一方の理解・把握しか持っていないと推察される者のみを、ただ一人だけ登場させたのか。山室・憲法九条の思想水脈(朝日新聞社)という本の内容をNHK制作者はお気に召したようだが、直接に憲法九条のみを論じなくとも、その制定過程・「思想」的系譜に関しても含めて憲法九条に関して論じている書物の執筆者は、山室信一に限られているわけでは全くない。
 しかるに、なぜ、山室信一のみを登場させたのか? 制作意図に都合のよい発言をする学者を採用した、と疑われてもやむをえないものと思われる。なぜ、山室信一のみを登場させたのか? NHK関係者・NHK当局は、その理由を視聴者国民に説明する責務があると考える。
 つぎに第二に、そもそも、山室が語り、番組自体の見解だとも理解できる憲法九条に関する理解の仕方は正しい又は適切なのだろうか。
 山室も番組も、憲法九条の重要な「思想」的淵源に1928年パリ不戦条約がある、という。これは誤りではないだろう。
 だが、次のような旨の山室発言と番組自体が示したと考えられる理解は、完璧に<間違っている>。
 山室と番組は、1928年パリ不戦条約は史上初めて<すべての戦争を違法視した>とした。番組ナレーターは「戦争そのものの放棄」とかと表現し、山室は「国家の政策としての」戦争を<すべて>「違法視」したと述べた(なお、違反国に対する制裁は規定していなかった、とされている-秋月)。これは明かな誤りであり、意図的又は不注意ならば、視聴者国民に積極的に<嘘>をついているのと同じだ。
 1928年パリ不戦条約は<すべての>戦争を違法視したのではない。<侵略>戦争を起こされた側の国家が応戦することもふつうは「戦争」だろうが、そのような<自衛>戦争まで否定したのではないことは常識的にも明らかだろう。1928年時点はもちろん、現在ですら、国際法上<自衛>戦争は「違法」ではないのだ。
 上の趣旨で使われたのがパリ不戦条約上の「国際紛争を解決する手段(としての戦争)」という概念なのであり、これは<侵略>戦争を意味している。NHK制作者はこの概念・語句に言及しながら、これが戦争を<侵略>戦争に限定する趣旨であることに全く言及していない。これは不注意(バカと評してよい勉強不足)なのか意図的なのか。
 従って、憲法九条の理解についても、その第一項と第二項では意味・重要度が異なることを、山室も番組も全く分かっていないようであり、この点を無視している。
 現憲法九条第一項はパリ不戦条約の影響を受けたものだろうが、「国権の発動たる戦争」(+α=「武力による威嚇又は武力の行使」)は、「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」、と規定している。
 すでに何度かこの欄で指摘したように、この条項で「放棄」されているのは、「国際紛争を解決する手段として」の「国権の発動たる戦争」(+α)だ。そして、これは<侵略>戦争を意味しており、<自衛>戦争は九条第一項によってはまだ否定・放棄されていない、とするのが「左翼」を含む憲法学界の<通説>であり、政府見解でもある。(「自衛」目的の「戦争」が結果としてできないのは、第二項が「…その他戦力」の保持と「交戦権」を否認しているからだ。)
 くどいようだが、だからこそ、憲法上正規に「自衛軍」保持を肯定しようとする自由民主党憲法改正案も、憲法現九条第一項はそのまま手をつけずに残すことにしているのだ(第二項を削除し、新たに九条の二で「自衛軍」設置を書くことにしている)
 少しは憲法九条の解釈に関する知識を持っている者ならば無視できないはずの重要な論点・問題を、上のように、山室信一も番組制作者も無視している。なるほど、山室・NHK的憲法解釈もあるが少数説であり政府解釈でもない。そのような憲法九条の理解・解釈のみを前提として番組を作るのは、不公平・不公正であることは疑いを挟む余地がない。
 これは不注意(バカと評してよい勉強不足)なのか、意図的なのか。どちらにせよ、<不適切な>内容はすみやかに訂正すべきだ。NHK当局は、なぜこのような(決して一般的ではない)憲法九条解釈を示したかについて、視聴者国民に説明する責務がある
 ついでにより一般的にいうと、憲法九条の「思想水脈」は山室発言・番組ナレーターの語りの内容に限られないだろう。
 近代啓蒙思想、パリ条約、国際連合憲章をたしか挙げていたが、とくに現憲法九条第二項の「思想」的背景として見逃せないのは、日本を再軍備させない、日本に再び自国に対抗するような軍事力を与えない、という戦後当初の(のちに政策変更された)アメリカの自国「国益」優先主義なのではないか。日本「軍」を解体させ二度と自国に刃向かわせないというアメリカの(当初の)政策方針こそが、九条第二項の少なくとも一つの重要な「背景」・「水脈」なのではないか。こんな危険な(?)<反米>思想、あるいは反<東京裁判史観>、をNHKは、その存在を知っていても、あえて無視したのだろうか。知らなかったとすればバカ(勉強不足)だし、知っていれば、視聴者国民を意識的に<欺罔>している。
 最後、第三に、NHK解説委員・五十嵐公利は、何やら真面目そうに、あるいは苦渋に充ちたような表情で、番組の最後に次のように語った。本篇を含む番組の<基本的趣旨・意図>を述べたものと思われる。
 「最後に残されたのは、日本が平和のためにどんな役割を果たすか、という問題です。…〔国際アンケートが示すのは〕人間の生きる権利をどう守るか、ということだったと思います。その条件を整える手助けをするのが日本の役割である、というのはアンケートも指摘するとおりです。かつて福田赳夫元総理は、日本は軍事大国にはならないと、アジアの国々に約束をしましたけれども、同様に、援助大国であり続けるということも、戦後日本が約束した国際主義にかなうことではないかと思います。日本は150年前、独立を守るために開国しました。そして戦争によってその独立を失いました。戦後再出発するにあたりまして、この国際主義平和主義、そして人権思想などを掲げました。その戦後精神は、国家から人間へと、共に生きることが求められる国際社会を前にした今こそ、再評価すべきではないでしょうか」。
 NHK解説委員の五十嵐公利は(制作者の原稿に即してだろうが)上のように語った。じつに興味深い。
 戦後すでに60年余経過した。その2009年の春に、かつて丸山真男が述べた<原初(八・一五)に戻れ>的な、「戦後精神」を「再評価」すべき旨が、NHKのテレビ放送を通じて日本全国に流されたのだ。
 五十嵐公利は、そしてNHK関係者は、(さしあたりまず基本的には)「国際主義」をどのように理解しているのか。この「国際主義」あるいは「グローバリズム」がさほど安易に100%美化して語られるほどの「価値」ではないことは、とっくに明らかではないのか。あるいは少なくとも、「国際主義」・「グローバリズム」に懐疑的な論者も少なくないことくらいは誰の目にも明らかではないのか。
 また、「戦後精神」として「国際主義、平和主義、そして人権思想など」を挙げるのだが、これまた<戦後を疑う>的思潮があることくらいは誰の目にも明らかではないか。つい最近もこの欄で、<西欧近代>の限界・問題点を戦後日本もそのまま引き継いでいる旨等の佐伯啓思の文章を紹介したところだが、ひょっとしてNHK関係者は、佐伯啓思「的」な著書・論文類の存在をいっさい知らないのだろうか。知らないだとすればバカ(勉強不足)だし、知っていても<無視>して差し支えない<異端>だと判断したとすれば、あまりに<傲慢>だろう。
 ついでに、やや些細だが「軍事大国」に対比されている「援助大国」とはいったい何のことか。とりわけ<かつて迷惑をかけた東アジア諸国>にはODA援助をもっとすべき、との趣旨まで含むのだろうか。きちんと定義することなく、ムード・イメージ的な概念使用は止めてほしいものだ。
 それにしても、何と素朴でナイーブな「戦後精神」の「再評価」論だろう。若くはなく、けっこうの年齢に見えた五十嵐公利は、語りながら恥ずかしくはならなかったのだろうか。戦後当初の純朴で真面目な(成績のよい)公立(新制)中学校の生徒が書いたような文章だ。
 佐伯啓思も指摘していたように、五十嵐公利の語りの内容、そしてNHK制作者の「精神」の基礎にも、戦後空気のように蔓延して現在まで続いている<反国家主義>・<反ナショナリズム>があることは明らかだ(「平和主義」なる概念の空虚さも佐伯は指摘していた)。空気のようなものだから、ひょっとして彼らは気づいていないのかもしれない。そうでないと、上のように簡単な、「国際主義」全面肯定の表現にはならないだろう。
 あるいは、「戦後精神」(=「戦後民主主義」=「戦後レジーム」でもあろう)の護持が危うくなっているという懸念から、あえてその「再評価」を公言したのだろうか。そうだとすれば、あまりにもイデオロギー的で、<偏向>している。
 個人がどのような見解・歴史観を持っても勝手だとはいえる。しかし、NHKという<公共放送>が、特定の政治的見解・歴史観を持った番組を<垂れ流し>にしないでいただきたい。
 NHKはいったい何を考えているのか。NHK当局、会長や幹部の所見を知りたいものだ。個々の番組の「思想水脈」自体を制作者そしてNHK自らが批判的に再検討してみろ、と憐れみと怒りを持って、強く主張したい。

0698/NHKの憐れみを誘う一見真面目な番組-4/04「プロジェクトJAPAN-プロローグ」①

 〇 NHKは毎年8月になると、情緒的でヒューマニズムに偏った「反戦」番組を多数放映すると思っていたが、今年は何故か、4月から始めるようだ。
 4/04の「プロジェクトJAPAN-プロローグ・戦争と平和の150年」。<制作>は「NHKグローバルメディアサービス」と「NHKエンタープライズ」。子会社か関連会社だろう。「天下り」用の会社かそれとも本社におれないほどの「左翼」が集まっている会社なのかは全く知らない。
 <ディレクター>は、鎌倉英也、柳沢晋二、橋本陽
 <制作統括>は、増田秀樹、河野伸洋、若宮敏彦、鳥本秀和
 NHK解説委員・五十嵐公利が登場して、「グローバルな視点で」日本の近現代史を扱う旨を述べていた。すでにこの点に、番組内容を予想させるものがある。
 第一に、「グローバルな視点」とは何を意味するのか。五十嵐は、あるいはNHK制作者は何も語らず曖昧にしたままだ。<グローバリズム>なるものが少なくとも無条件で美化できるような考え方ではないことを、全く知らないのだろうか。そうだとすれば、信じられない。NHK関係者は平均以下の知識・知見の持ち主の集団か?
 第二に、日本の近現代史はこれまで、あまりにも「グローバルな視点で」語られすぎたのではないか。ここでの「グローバルな」とは、とりわけ昭和の戦争の戦勝国であるアメリカとソ連等による戦争観・歴史観だった。のちには中国等の<東アジア>諸国も入ってくる。戦後当初、とくにアメリカの戦争観・歴史観が強烈に宣伝され、放送や学校教育を通じて強烈に叩きこまれたのだ。その影響は現在まで続いている。したがって、もう少しは祖国・母国でもある<日本の視点で>の近現代史理解・把握もあってよいのではないか。
 だが、このような問題意識は、NHKにはまるでないようだ。実際に見終わってもそう感じた。また、ひどい単純化又はミスもある。
 以下、次回以降で、若干の点に言及しておく。
 〇 記し忘れていたが、先日までに、井沢元彦・新井沢式/日本史集中講座-1192作ろう鎌倉幕府編(徳間書店、2009)を全読了。いつもの井沢節(ぶし)。日本国憲法に関する文章の中に、誤り又は必ずしも必ずしも正確ではない叙述がある。書き出すと長くなるので、とりあえず省略。

0549/相変わらず<異様な>朝日新聞6/13社説-バウネット期待権・最高裁判決。

 被取材者の「期待権」の有無等を争点とする最高裁判決が6/12に出て、当該権利の侵害を主張してNHKに損害賠償を請求していた団体側が敗訴した(確定)。
 産経新聞6/13社説は言う-「この問題では、訴訟とは別に、朝日新聞とNHKの報道のあり方が問われた。/問題の番組は平成13年1月30日にNHK教育テレビで放送され、昭和天皇を『強姦と性奴隷制』の責任で弁護人なしに裁いた民間法廷を取り上げた内容だった。〔二段落省略〕/朝日は記事の真実性を立証できず、「取材不足」を認めたが、訂正・謝罪をしていない。/NHKも、番組の内容が公共放送の教育番組として適切だったか否かの検証を行っていない。/朝日とNHKは最高裁判決を機に、もう一度、自らの記事・番組を謙虚に振り返るべきだ」。
 しごく当然の指摘で、朝日新聞をもっと批判してもよいし、北朝鮮の組織員が検事役を務めていた等の「民間法廷」の実態をもっと記述してもよかっただろう。配分された紙幅・字数に余裕がなかったのだろうが。
 一方の朝日新聞の6/13社説。相変わらずヒドい、かつ<卑劣な>ものだ。
 第一に、原告のことを「取材に協力した市民団体」とだけしか記していない。正確には「『戦争と女性への暴力』日本ネットワ-ク」で、略称「バウネット」。第一審提訴時点での代表は松井やより(耶依)で、元朝日新聞記者(故人)。この団体主催の集会に関する番組を放送したNHKに対して安倍晋三と中川昭一が<圧力>をかけたとして、4年も経ってから政治家批判記事を朝日新聞に書いた二人のうち一人は本田雅和で、この松井やよりを尊敬していたらしく、松井の個人的なことも紙面に載せたりしていた。「訴訟とは別に」問われた朝日新聞の「報道のあり方」の重要な一つは、この記者と取材対象(団体代表者)の間の<距離>の異常な近さだった。
 第二に、原告ら主催の集会の内容について、朝日新聞は直接には説明しておらず、「旧日本軍の慰安婦問題を取り上げたNHK教育テレビの番組」と、番組内容に触れる中で間接的に触れるにすぎない。昭和天皇を「性奴隷」の犯罪者として裁こうとする(そして「有罪」とした)異常な(むしろ「狂った」)集会だったのだ。
 上の二点のように、朝日新聞は自分に都合が悪くなりそうな部分を意識的に省略している。
 第三に、「勝訴したからといって、NHKは手放しで喜ぶわけにはいくまい」と書いて、広くはない紙面の中で異様に長くかつての高裁判決に言及して(「安倍晋三」の名も出している)、「政治家」の影響に注意せよとの旨を述べている。
 「勝訴したからといって、NHKは手放しで喜ぶわけにはいくまい」というのはそのとおりだと思うが、NHKが反省すべきなのは、北朝鮮も関与した<左翼>団体による<昭和天皇有罪・女性国際法廷>の集会の内容をほとんどそのまま放映するような番組製作とそれを促進したディレクターを放映直前まで放置してしまったことだ。朝日新聞社説は全く見当違いのことを主張している。
 第四。朝日社説は最後にNHKについてこう書いた。-「NHKは予算案の承認権を国会に握られており、政治家から圧力を受けやすい。そうであるからこそ、NHKは常に政治から距離を置き、圧力をはねかえす覚悟が求められている。/裁判が決着したのを機に、NHKは政治との距離の取り方について検証し、視聴者に示してはどうか。/『どのような放送をするかは放送局の自律的判断』という最高裁判決はNHKに重い宿題を負わせたといえる」。
 よくぞまぁ他人事のようにヌケヌケと語れるものだ。自社について、次のように書いてもらいたい。
 <朝日新聞(社)は幹部・論説委員等を<旧マルクス主義者又は左翼>に握られており、<左翼>から圧力を受けやすく、また自らが<左翼>団体そのものになる可能性がつねにある。そうであるからこそ、朝日新聞(社)は常に<左翼>的「市民団体」から距離を置き、圧力をはねかえす覚悟が求められている。/裁判が決着したのを機に、朝日新聞(社)は<左翼>的「市民団体」を含む<左翼>との距離の取り方について検証し、読者に示してはどうか。/『どのような報道をするかは報道機関の自律的判断』という旨の最高裁判決は朝日新聞(社)に重い宿題を負わせたといえる。
 以上、とくに珍しくもない、相変わらず<異様な>朝日新聞社説について。

0539/樋口陽一・丸山真男らの「個人」主義と行政改革会議1997年12月答申。

 樋口陽一らの憲法学者が最高の価値であるかに説く「個人主義」又は「個人の(尊厳の)尊重」について疑問があることは、私自身が忘れてしまっていたが、振り返ると何度も述べている。
 この欄の今年(2008年)1/12のエントリーのタイトルは「まだ丸山真男のように『自立した個人の確立』を強調する必要があるのか」で、こんなことを書いていた。以下、一部引用。
 佐伯啓思・現代日本のイデオロギー(講談社、1998)p.197-8によると、「日本社会=集団主義的=無責任的=後進的」、「近代的市民社会=個人主義的=民主的=先進的」という「図式」を生んだ、「『市民社会』をモデルを基準」にした「構図」自体が「あらかじめ、日本社会を批判するように構成され」たもので、かかる「思考方法こそ」が戦後日本(人)の「観念」を規定し、「いわゆる進歩的知識人という知的特権」を生み出す「構造」となった。
 佐伯啓思・現代民主主義の病理(NHKブックス、1997)p.74-75によると、丸山真男らにおいて、「日本の後進性」を克服した「近代化」とは「責任ある自立した主体としての個人の確立、これらの個人によって担われたデモクラシーの確立」という意味だった。
 憲法学者の樋口陽一佐藤幸治も、丸山真男ら<進歩的>文化人・知識人の上記のような<思考枠組み>に、疑いをおそらく何ら抱くことなく、とどまっている。
 文字どおりの意味としての<個人の尊重>・<個人の尊厳>に反対しているのではない。だが、<自立した個人の確立>がまだ不十分としてその必要性をまだ(相も変わらず)説くのは、もはや時代遅れであり、むしろ反対方向を向いた(「アッチ向いてホイ」の「アッチ」を向いた)主張・議論ではなかろうか。少なくとも、この点だけを強調する、又はこの点を最も強調するのは、はたして時代適合的かつ日本(人)に適合的だろうか。
 有数の大学の教授・憲法学者となった彼らは、自分は<自立した個人>として<確立>しているとの自信があり、そういう立場から<高踏的に>一般国民・大衆に向かって、<自立した個人>になれ、と批判をこめつつ叱咤しているのだろう。
 かりにそうだとすれば、丸山真男と同様に、こうした、<西欧市民社会>の<進んだ>思想なるものを自分は身に付けていると思っているのかもしれない学者が、的はずれの、かつ傲慢な主張・指摘をしている可能性があるのではないか。
 憲法学者が戦後説いてきた<個人主義>の強調こそが、それから簡単に派生する<平等主義>・<全国民対等主義>と、あるいは個人的「自由」の強調と併せて、今日の<ふやけた>、<国家・公共欠落の・ミーイズムあるいはマイ・ホーム型思想>を生み出し、<奇妙な>(といえる面が顕著化しているように私には思える)日本社会を生み出した、少なくとも有力な一因だったのではなかろうか。
 以上。すでに1月に書いていたこと。
 同じようなことは繰り返し書いているもので、上に出てくる佐藤幸治にかかわることも含めて、<個人主義>の問題に1年半前の昨年(2007年)1月頃には、別の所で、こんなことを記していた。再構成して紹介すると、つぎのとおり。
 八木秀次・「女性天皇容認論」を排す(清流出版、2004)は皇位継承問題だけの本かと思っていたら、1999-2004年の間の彼の時評論稿を集めたものだった(07.1/06)。この本のp.167-171は、1府12省庁制の基礎になった橋本内閣下の行政改革会議の1997.12.03最終答申に見られる次のような文章を批判している。
 行政改革は「日本の国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質に訣別し、自律的個人を基礎とし、国民が統治の主体として自ら責任を負う国柄へ転換すること」 に結びつく必要がある。「日本の国民がもつ伝統的特性の良き面を想起し、日本国憲法のよって立つ精神によって、それを洗練し、『この国のかたち』を再構築」することが目標だ。戦後の日本は「天皇が統治する国家」から「国民が自らに責任を負う国家」へと転換し、「戦時体制や「家」制度等従来の社会的・経済的拘束から解放され」たが、今や「様々な国家規制や因習で覆われ、…実は新たな国家総動員体制を作りあげたのではなかったか」。
 類似の認識は2003.03.20の中教審答申にもあるらしいが、八木によると行革会議の上の部分の執筆者は、「いわゆる左翼と評される人物ではない」、「近代主義者」の京都大学法学部の憲法学者・佐藤幸治らしい(07.1/12)。
 上のように、1997.12の行革会議最終報告は「自律的個人」を基礎に「統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質に訣別」して「国民が統治の主体として自ら責任を負う」国のかたちへ変える必要を説いた。「様々な国家規制や因習で覆われ」た、「新たな国家総動員体制」のもとで、「自律的個人」が創出されていない、という認識を含意していると思われる。また、上の報告書は「個人の尊重」をこう説明している。-「一人ひとりの人間が独立自尊の自由な自立的存在として最大限尊重」されるべきとの趣旨で、国民主権とは「自律的存在たる個人の集合体」たる「われわれ国民」が統治主体として「個人の尊厳と幸福に重きを置く社会を築」くこと等に「自ら責任を負う理を明らか」にしたものだ(八木p.168-9)。
 「自律的個人」の未創出という認識は、日本では<近代的自我>が育っていない、と表現されてもきた。加賀乙彦・悪魔のささやき(2006、集英社新書)は「『個』のない戦後民主主義の危険性」との見出しの下で戦争中も現在も日本人には「流されやすいという危うさ」があり(p.78)、「自分の頭で考えるのが苦手な国民」だ(p.82)等と言う。これは日本人の「自律的個人」性の弱さの指摘でもあろう。
 だが、加賀のように、「人権」も「個人の自由」も闘いとったのではない「ガラスの民主主義のなかで」は「個は育ちません」(加賀p.79-86)と言ってしまうと、日本人は永遠に「自律的個人」、自分の頭で考え自分の意見を言える「個人」にはなれない。日本人の長い歴史の変更は不可能だからだ。
 丸山真男等の「戦後知識人」の多くも日本社会の脆弱性を「個人主義」の弱さに求め、「個人の確立」あるいは「自律的個人」の創出の必要性を説いていたように思う。そのかぎりで行革会議最終報告の文章は必ずしも奇異なものではない。
 しかし、思うのだが、日本人は本当に「自律的個人」性が弱く、かつそれは克服すべき欠点なのだろうか。<特徴>ではあっても、「克服」の対象又は「欠点」として語る必要はないのではないか。行革会議最終報告は、「自律的個人」をどのように創出するかの方法又は仕組みには全く触れていないと思われる。弱さ・欠点の指摘のみでは永遠の敗北宣言をするに等しくないか(07.1/11)。
 八木秀次は、行革会議報告の既引用部分等を、今日でも「様々な国家規制や因習で覆われ」た「新たな国家総動員体制」のもとで「自律的個人」が創出されていない、かかる「個人」を解放すべく「『国のかたち』を変革する」必要がある旨と理解する。そして、これは「有り体に言えば、市民革命待望論」だ、今からでも「市民革命を起こして市民社会に移行せよ、という主張」だと批判し、佐藤幸治氏のような「いわゆる左翼」ではない人物でさえ「結局はマルクスの発展段階説の虜となり、無自覚なマルクス主義者」になってしまうことに注意が必要だとする。
 たしかに、伝統・因習から解放された「個人の自立」や民主主義・国民主権の実質化の主張は、日本共産党の考え方、ひいては戦前の、コミンテルンの日本に関する「32年テーゼ」と通底するところがある。日本は半封建的で欧米よりも遅れており、フランス等のような「市民革命(ブルジョア民主主義革命)」がまだ達成されていないことを前提として、民主主義の成熟化・徹底化(そのための個人の自立・解放)を主張し、「社会主義革命」に急速に転化するだろう「民主主義革命」を当面は目指す、というのは、日本共産党の現在の主張でもある(フランスの18世紀末の状態にも日本は達していないとするのが正確な日本共産党の歴史観の筈だ)。
 佐藤幸治等の審議会関係者が「革命」を意識して自覚的に「自律的個人を基礎に」と記したとは思えない。そして、おそらくは日本共産党というよりもマルクス主義の影響を受けた社会・人文諸科学の「風潮」を前提として政府関係審議会類の文書が出来ていることを、八木は批判したいのだろう(ちなみに、行革会議答申後に内閣府にフェミニスト期待の「男女共同参画局」が設置された)。八木秀次は、所謂「体制」側も所謂「左翼」又はマルクス主義の主張・帰結と同様のものを採用している、との警告をしていることになる(07.1/13)。
 まだ続くが、長くなったので省略。
 この欄でも上の今年1/12の他に、佐伯啓思の他の書物等に言及する中で<個人主義>(「自立的個人」)問題には何度も触れてきた。だが、飽きることなく、樋口陽一らの単純な<西欧的>図式・教条への批判は今後も続ける。

0377/マスコミは小沢の新テロ法違憲論・民主党論にどう対応したか。

 新テロ対策特措法に民主党は反対したのだったが、その反対の理由は、少なくとも小沢一郎代表によるかぎり、その法案の内容が<憲法違反(違憲)>だから、というものだった。
 小沢の何かの本又はどこかの新聞又は雑誌の発言中に詳しく語られているのかもしれないが、新テロ対策特措法(案)のどういう部分が憲法(前文も含めてもよい)のどの条項のどの部分に違反する、あるいはそうした条項に示されているどのような基本理念又は基本原則に違反するのか、私はきちんと報道した新聞を読んだことがなく、NHKを含む放送局で聞いたこともない。
 法律案をめぐる対立はしばしばあるだろうが、また、あって当然だろうが、ある法案への反対理由が<憲法違反(違憲)>だからだと野党第一党の党首が主張する場合が頻繁にあるとは思えない。通常は政策の合理性・明確性・(特定の層にとっての)利益性・不利益性等が争点になるのであり、<違憲>だからと言ってしまえば、そうした議論は全て不要になる、<切り札>的な反対理由なのだ。
 そうした重大な反対理由を主張したにもかかわらず、その具体的な趣旨・内容が広く知られなかった、ということはきわめて異様だった、と思われる。
 テレビを含むマスメディアは、上の点をきちんと報道しなかったし、詮索しようともしなかったかに見える。
 小沢の<違憲論>が憲法解釈として真っ当又は適切なものかどうかについて、<専門の>憲法学者が議論したり、コメントを加えても何ら不思議ではないとも考えるが、そのような例は、マスメディア上では全く又はほとんどなかったのではないか(一面では、憲法学者の感覚の<鈍さ>も感じるが)。
 マスメディアにおける憲法に関する議論のこのような<軽さ>あるいは<いいかげんな>扱い方は、本当はきわめて異様なのではないだろうか。野党第一党の党首たる政治家の<違憲論>が、<軽く>聞き流す程度に扱われたように見える。
 小沢の<違憲論>に賛成して書いているわけではない(そもそもその具体的内容がよく分からない)。重大・重要であるはずの意見、よく言えば<問題提起>、をきちんと受けとめる感覚がはたして日本のマスメディアにあったのか、ということを疑問視したいのだ。
 以下は、やや別のテーマになるが、マスメディアの問題に関する点では同じだ。
 小沢といえば、自党の役員たちが<大連立>構想に反対して代表を辞めると言い出したとき、昨年の参院選挙の際には<政権交替への1ステップに>とか言っていたはずなのに、<民主党にはまだ政権担当能力がない>と批判してみせた。しかるに、翻意して代表の座にとどまるや、次期衆議院選挙で<政権交替を>と訴えているようだ。この<変心ぶり>・<言い分の変化>は彼の政治家としての資質を問題にしうるものでありうるが、しかし、マスメディアが厳しく批判した、という印象はない。朝日新聞も、少なくとも、安倍前首相の発言等に比較すれば、はるかに寛大に、はるかに優しく、報道しているだろう。
 野党第一党の代表という政治家の「発言」の移ろい=一貫性のなさに対する、このマスメディアの感覚の<鈍さ>あるいは<いいかげんさ>はいったい、どこから来ているのだろう。
 マスコミについては、不思議に思うことが最近もたくさんある。理論も理屈も、国益も公益も、将来の「日本」も関係がない、ただ当面の<政局>・<政争>にのみ関心をもっている政治記者が多すぎるのではないか。

0375/NHKはどのように真摯に反省・総括しているのか。

 昨年8月のNHKの東京裁判・パール判事に関する特集番組は(おそらく録画はしたが)観ていない(おそらく時間がなかったから)。
 昨日の夜か今日未明の読書?に関するNHKの番組に、聞き流していただけだが、中島岳志『パール判事-東京裁判と絶対平和主義』(白水社)の著者らしき人物が登場して、自らの理解・見解・主張を述べていた。夏の番組もそうかもしれないが、中島と異なる理解・意見の持ち主もあるならば(牛村圭小林よしのり等、あることは諸雑誌を見ていると分かる)、その異なる理解・意見の持ち主も登場させるか、紹介しないとバランス・公平さを欠くと思われるのだが。印象だけだが、数時間前に出ていた男は、批判対象を(批判しやすいように)歪めて又は単純化して理解しておいて、そのうえで批判している可能性がある(なお、誰でも、ある意味、ある面では、「絶対平和主義」なるものに反対はしていない)。
 これも観ていないが、NHKは小田実の特別・追悼番組も放映した。小田実とは、そのような扱いにふさわしい人物だったのか。彼の後半生、彼はいったいどの程度の仕事をしたのか。万が一していたとして、それは彼の死を深く追悼すべきほどの仕事だったのか。
 ときどき、自分も受信料不払い運動に参加しようと考えることがある。
 NHKは、2005年に<朝日新聞と通じたラディカル左翼>のディレクター(チーフ・プロデューサー)・長井暁によって組織自体が<掻き回された>ことについて、どのように反省又は総括をしているのだろうか。

0354/読売38面中段、産経1面上段、この違いは何故?

 読売新聞は、切り抜きはしていないし月日も失念しているが、最近、某著書の執筆者として上野千鶴子を写真入りで登場させて記事を書き、「男女共同参画」行政に関する評価を曖昧にしたまま、某国立?女性会館の廃止が「男女共同参画」社会の推進にとって好ましくないかのごときニュアンスをもった記事も掲載していた。
 今日12/09の朝刊、産経は一面でテレビ朝日の証言者「偽装」を取り上げていたが、読売はなんと最終面(テレビ等欄)に近い、社会面の(右上又は上部ではなく)真ん中辺りに紛れ込ませており、記事内容も産経に比べて少ない。
 今回の件のようなテレビ界での「やらせ」について、読売は一貫してかかる取扱いをしてきたのだろうか。
 ことは新聞を含むマス・メディアの「体質」に関係する重大な問題であり、ひっょっとすれば「朝日」の体質に関係するかもしれない問題だ。読売新聞の<腰の引けた>姿勢には失望と疑問を感じる。
 広い意味での同業者の、良くない事柄に関する情報だから抑えたのだろうか。あるいは、最近接近しているらしい朝日新聞社の関連会社・テレビ「朝日」だから少しは遠慮したのだろうか。かりにNHKが同様の報道の仕方をしたとして、読売はやはり社会面の途中にあまり目立たないように記事にしたのだろうか。
 疑問は尽きない。
 渡辺恒雄が個人として何をしようとも勝手だとはいえるが、同人物がまだ「読売」新聞の肩書きを付け続け、かつ老齢のこの一人の考え方の影響を紙面(政治面)も受けているようでは、読売に対する信頼は徐々に減少していくだろう。
 同紙は「日本」の来し方・行く末を問題にする企画記事を連載してきたようだが、同紙自体が「日本」の来し方・行く末に密接に関係せざるをえないこと(したこと)を改めて真摯に想起すべきだと思われる。

0341/文藝春秋はなぜ加藤紘一の本を出版するのか。

 先月(九月)の自民党総裁選直後のNHKニュースで、最初にコメントを報道されたのは、「(福田選出で)よかったと思います」と答えた加藤紘一のそれだった。当然のことながらNHKはまともな報道機関性に疑問がある。
 2007年6月、文藝春秋社は、加藤紘一・強いリベラルを刊行した。最近読んだ何かによれば、文藝春秋の側から執筆・刊行を働きかけた本らしい。
 文藝春秋の諸君!たぶん今年8月号は表紙に大きく「安倍政権失墜」とだけ書いた。
 文藝春秋も営利企業。商売、商売…。空気を読むのがうまいようで、とでも評すればよいだろうか。
 既述だが、新潮社は、不破哲三の本を出版した。
 文藝春秋も新潮社もある程度以上売れれば「商売」になると思っており、実際にある程度売れているのだろう。
 だが、そのような出版社の出版物を買うことを控える=少なくしようとする者も発生することは知っておいた方がよい(いや、知った上で、「損得」をとっくに「計算」しているのだろう)。

0308/民主主義はつねに「正しい」結論を出すか-読売7/31河野博子コラムに寄せて。

 7/29の夜から翌日未明にかけてのテレビ放送を観ていると、安倍首相が続投表明をしたあとで、それを疑問視する発言・コメントが多かったように思う。
 それもいちおう<政治評論家>を名乗っている者がそういう発言をすることは別に不思議ではないのだが、奇妙に思ったのは、番組のキャスター類(要するに司会進行役が基本のはずだ)やさらにはあろうことか番組のふつうのアナウンサーまでもが、何か喋らないと時間が潰れなかったのか、平気で安倍首相の行動・判断を批判又は疑問視する発言をしていたことだ。翌日の彼らの発言・コメントも含めておいてよい。
 日本のテレビ局のキャスターやアナウンサーはいつからそんなに<エラく>なったのか。いつから<政治>を論評できる資格を実質的にでも身に付けたのか。
 <しろうと>が生意気にあるいはエラそうに電波を使って多数視聴者に<したり顔>で語っているのだから、じつに滑稽であるととともに怖ろしい、日本のマスコミの姿だと感じた。それも政権側を、あるいは敗戦した側を批判しておけば<多数大衆に受けて>無難と考えたのか、政権側を批判するのが<進歩的・良心的・知的>で、そのようなコメントの方が格好良い又は自分をエラく見せられると考えたのか、上述のような内容の発言・コメントなのだから、度し難いバカバカしさを感じた。
 ヘンなのは民放各局だけではない。30日に入ってからの島田敏夫というNHKの解説委員の発言・解説的コメントは、録画していないので正確に再現できないが、少なくとも私から見れば、相当に<偏り>のあるものだった。視聴率が低くてあまり注目されていないが、日付が変わってからのNHKの政治がらみのニュース解説には??と感じさせる奇妙なものがあると感じていたが、島田敏夫なる人物のコメントも奇妙だった。
 また、島田および上で触れた民放各局のキャスター類にも共通することだが、そして今に始まったことでもないが、内閣総理大臣という国家機関を担当している者に対する慰労の念などこれっぽっちもなく、内閣総理大臣担当者に対する儀礼的でもいい敬意すらなどこれっぽっちも示さず(むろん首相への直接の質問者は最低限の丁寧さはあったとは思うが)、安倍と呼び捨てているような雰囲気で、あれこれと批判・疑問視しているのも奇妙に感じた。
 そのような人たちは内閣総理大臣たる職務の重要性・大変さを理解したうえで発言しているのか疑問に思ったものだ。大衆注視の舞台の上で何かを<演技している>のが政治家ではない。演技かゲームプレイの巧さ・下手さをヤジウマのような感覚でプレイヤーと対等な感覚で論評する、というのが国政選挙にかかる発言・コメントではないだろう。
 元に戻れば、7/31午後7時半からのNHK・クローズアップ現代国谷裕子の言葉・雰囲気もヒドいものだった。
 安倍続投が気に入らない、問題にしなければならない、何故自民党内で続投批判が大きくならないのか、という関心に立脚して彼女は喋っていた。原稿が別の政治記者によって書かれているとすれば、その政治記者の気分をそのまま画面上で伝えたのかもしれないが、明らかに公平さを欠く報道の仕方だった。画面に登場した政治記者の方がまだ冷静又はより客観的だったのが救いだったが、ともあれ、NHKの報道等の仕方・内容は決して安心して観れるものだけではないことは十分な注意を要する。政治記者クラブの世界の意識・雰囲気は一般国民又は心ある国民のそれらとは相当に異なっている可能性がある、と想像しておくべきだろう。
 最後にもう一点指摘したいのだが、次のことをあらかじめ一般論として述べておきたい。
 民主主義理念にもとづく有権者国民の投票の結果は、<正しい>または<合理的>なものだろうか? 答えは勿論、一概には言えない、だ。選挙結果は歴史的に見て<正しい>または<合理的>とは言えなかった、と評価されることは当然にありうる。
 民主主義はつねに正しい又は合理的な決定を生み出す、というのは幻想だ(だから私は直接民主主義的制度にはどちらかと言うと反対だし、限られた範囲での住民投票制度の導入にも政策論として消極的だ)。多数の者が<参加>したからより<正しく>又はより<合理的に>決定できる(た)、と考えるのは一種の<幻想>にすぎない。
 民主主義はあくまで手続又は方法なのであって、生み出される結果の正しさ・合理性を保障するものではない。ここで民主主義を「選挙」と言い換えてもよい。くどいが、「民意」がつねに<正しく><合理的だ>と理解すれば基本的な誤りに陥る。
 このような観点から、読売新聞7/31夕刊編集委員・河野博子の「行動を起こす」と題するコラムを読むと、なかなか興味深いし、素朴な誤りに取り憑かれていると感じる。
 この人は次のように書く。「有権者の投票」という「アクション」が「自民党大敗をもたらした」。「年金、政治と金の問題、閣僚の問題発言に、国民は肌で「これはおかしい」と感じ、反応した。頂点に達した不信がはっきりした形で示された」。これをどう今後に生かすかが問題で簡単ではないが、「しかし、信じたい。人びとのアクションの積み重ねが世の中を、一つ、一つ変えていくのだ、と」。
 これは読売新聞に載っていたのであり、朝日新聞ではない。この河野博子が何を分担担当している編集委員なのか知らないが、上の文章はヒドい。
 第一に、「有権者の投票」という「アクション」とその結果を100%肯定的に評価している。読売社内にいて、一部マスコミ(つまり朝日新聞等)の<異常な反安倍報道ぶり>に何も気づかなかったのだろうか。また、読売は社説で選挙結果に伴う衆参のねじれ等から生じる混乱等に<憂慮>も示していたのだが、そんな心配は、上の河野コラムには微塵もうかがうことができない。
 第二に、今回の結果をもたらしたような「アクションの積み重ねが世の中を、一つ、一つ変えていく」と結んでいる。ここでも言うまでもなく、選挙結果の肯定的評価が前提とされている。
 さて、この河野という人物は、選挙の結果=「民意」はつねに<正しい>又は<合理的>なものだ、という素朴な考え方にとどまっいるのではないか。このような考え方が<正しい>又は<合理的>なものではないことは上に述べた。
 上で書くべきだったが、ヒトラーは合法的に・民主主義的に政権を獲得し、合法的に・民主主義的に実質的<独裁>政権を樹立した。民主主義は結果の正当性を保障しない。
 朝日新聞と同様に今回の選挙結果を、投票までの種々の要素をヌキにして結果としてはそのまま<正しい>ものと判断しているなら、読売から朝日に移籍したらどうか。
 第二に、「アクションの積み重ねが世の中を、一つ、一つ変えていく」などというのは、失礼ながら、少女の描く政治幻想とでもいうべきものではないか。
 問題は「アクション」の中身なのであり、いくらつまらない、あるいは有害な<アクション>が積み重なっても「世の中」は良くならないのだ。「世の中を、一つ、一つ変えていく」とは、文脈・論旨からすると<良い方向に変えていく>という意味だろう。
 こんなふうには、絶対に言えない。何かのアクションの積み重ねによって世の中が良い方向に変わるのなら、こんなに簡単なことはない。改良・改善の方向への動きを阻止・妨害する「アクション」も生じうることは、一般論としても明らかではないか。多言はもうしないが、この筆者は単純素朴な<進歩主義者>なのかもしれない。
 読売新聞の解説委員までもが(と言っておく)上に簡単に紹介したような文章を書いて活字にしてしまうところに、日本のマスメディアの大きな恐ろしさがある。
 読売新聞の解説委員はなんと、要するに、今回の投票のような国民のアクションの積み重ねで世の中は良くなる、と書いたのだ。朝日新聞等のおかげで論じられるべき争点は論じられず、結果として「安倍改革」・「安倍政治」の進行を滞らせることになったのが、今回の選挙結果なのではないか、読売新聞自体もこのことをある程度は理解し、憂慮し、警告を発しているのではないのか。河野博子コラムは読売全体の論調からも外れている。

0232/潮匡人・司馬史観と太平洋戦争(PHP新書、2007)をほんの少し読む。

 潮匡人・司馬史観と太平洋戦争(PHP新書、2007.07)を一昨日に買って第二章「「昭和」に通底する司馬史観の陰影」の最初の方だけをとりあえず読んだ。
 <司馬史観>を問題にする前に半藤一利らの<歴史観>を批判している。叙述の順序どおりに辿るとこうだ。
 1.2005年7/18テレビ東京の戦後60年特別企画番組(企画協力・半藤一利)には新鮮さはなく、「陸軍悪玉・海軍善玉という通俗的歴史観に彩られ」、「反戦平和教」の健在を示す「一般人の声」の紹介もあった。
 2.昨2006年8/15民放各局は早朝からヘリを飛ばして小泉首相の靖国神社参拝を報道した。しかし、何故、正午からの政府主催・全国戦没者追悼式、すなわち「両陛下も頭を垂れた厳粛な黙祷の模様」は中継しなかったのか。「戦没者の冥福を祈る」姿勢のないテレビ人が首相靖国参拝を批判するとは「不公正を通り越して不潔」だ。
 3.昨2006年8/07NHK「硫黄島玉砕戦」は「戦争の惨たらしさ」だけを強調。
 4.昨2006年8/12NHK週刊こどもニュースは戦争の原因についての質問に「資源の乏しい日本…が、資源のある中国に攻め込み、そして戦争に」なった、と「古びた帝国主義戦争史観」による「史実からも遠い」回答をした。
 5.昨2006年8/13NHK「日中戦争」は南京事件に触れたが「便衣兵自体が国際法違反」で「ハーグ条約の保護を受ける資格がない」ことを述べず、取材協力者リストには笠原十九司吉田裕各氏などの<大虐殺派>と秦郁彦氏らの<中間派>しか名前がなかった。
 6.篠田正浩監督の映画「スパイ・ゾルゲ」を観たが、篠田の「希望」とは「この世に国家なんか存在しない」状態で、「二〇世紀が生んだ夢と理想」とはゾルゲの最後の言葉「国際共産主義万歳!」にある「国際共産主義」を指すようだ。佐藤忠男執筆の映画パンフ中の文には、ゾルゲは「ドイツのナチズムと日本の軍国主義の打倒のために行動」した、とある。この作品の「バランス感覚には疑問を禁じ得ない」。
 7.加藤周一は「欲しがりません勝つまでは」や「撃ちてし止まん」の戦時中の標語を日本政府が作ったと書いているが、これらは朝日新聞等による「国民決意の標語」募集の入選作だ。
 8.中央公論2005年9・10・11月号は「戦争責任」という視点による連続特集企画だが、この視点自体が「一定の立場に偏して」はいないか。
 9.文藝春秋2005年11月号も大座談会「日本敗れたり-あの戦争になぜ負けたのか」で対抗した。発言者は半藤一利・保阪正康・中西輝政・加藤陽子・福田和也・戸高一成の6名(のち文春新書化)だが、この座談会も陸軍悪玉史観
で、また、軍事学的知識が不十分。
 福田和也は「海軍の草鹿任一」を揶揄している。また、「どこか別の国の戦争を語るかのような彼らの姿勢」に違和感を覚えた

 10.半藤一利・昭和史(平凡社)は、ア.「広田内閣がやったことは全部とんでもないことばかり」等と広田弘毅内閣を断罪するが、昭和20年までの「昭和史」で広田内閣のみを批判するのは妥当でなく、「公正さを欠いている」。仮に一人挙げるなら、近衛文麿だろう。
 イ.南京事件につき30万という「大虐殺説」は否定するが、「南京で日本軍による大量の「虐殺」と各種の非行事件の起きたことは動かせない事実であり、私は日本人のひとりとして、中国国民に心からお詫びしたい」、「三万人強ということになりましょうか」・「だんだん自己嫌悪に陥ります」と書く。だが根拠とする陸軍関係者の文献は「不当」な行為だったと認めてはいないし、上の後半は「文字通り、自虐史観」だ。
 ウ.ミッドウェー海戦に関する「運命の五分間」は定説なのに勝手に否定し、さらに、草鹿龍之介元海軍中将を誹謗・罵倒している。半藤の理解が正しいならば、文藝春秋発行の別の昭和史に関する本の中の叙述と矛盾し、後者も訂正すべきだ。
 エ.「何とアホな戦争をしたものか」との締め括りには、「どこか別の国の歴史を振り返っているかのようだ。同胞の歩みを想う姿勢は微塵も感じられない」。
 このあと、潮氏は憲法九条に関する岩波冊子上の半藤氏の文章を批判しているが、別に扱う。
 11.保阪正康・あの戦争は何だったのか(新潮新書)も半藤の本と同じ認識が多いし、「通信傍受や暗号」に関する「基礎知識」もない。「原爆を落とされ、負けた。…アメリカに占領されてよかったという見方もできる」と書く、この本がなぜベストセラーになるのか。大東亜戦争肯定論者に「戦後、日本で安穏と暮らしながら、臆面もなくよく言うよ」と書いているが、保阪自身もまた「日本で安穏と暮らし」てきたのでないか。
 このあと「司馬史観」に論及していっているが、別に扱うことにしよう。
 わずか30頁分の紹介に長文を費やしたが、
NHKを含むマスコミのいいかげんさを批判したくなるのも分かる。
 また、昭和史(戦前)の細かなことや議論は知らないが、私は半藤一利と保阪正康を信用していないので、どちらの本も読んでいないが、潮の批判的指摘を快く感じる。また、おそらくは当たっているのではないかと思われる(なお、草鹿任一、草鹿龍之介
両氏は従兄弟の関係で、いずれも著者・潮氏の母方の親戚らしい)。
 なぜか半藤一利に関連する書き込みが続いた。

0171/山崎行太郎は自分の安倍晋三批判を赤面することなく読めるか。

 産経5/23によると、韓国の盧武鉉大統領が政府内等の記者クラブ数の縮小を発表してマスコミの反発を買っているらしいが、その記事の中にこんな文章がある。
 「盧政権は、大手紙などの反政府的報道に対してはそのつど誤報訂正要求や告訴、取材拒否で対応してきた…」。
 坂真・韓国が世界に誇るノ・ムヒョン大統領の狂乱発言録(飛鳥新社、2007.01)p.63以下によると、盧武鉉は2005年の5月、ソウルでの世界新聞協会総会の祝賀演説でこう言ったそうだ。
 「権力と言ってもいい。言論権力の乱用を防ぐ制度的装置と言論人の倫理的姿勢、および節制がきわめて重要だ」。
 同書によるとまた、韓国では、最大発行部数の新聞は市場占有率が30%を超えてはならず、上位3紙も合計60%までと制限し、中小新聞には支援を行う「新聞法」(新聞等の自由と機能の保障に関する法律)が2005年07.28に施行されている。
 坂真氏は「文字通りの「権力による言論への介入」と言わざるをえない」とまとめている。
 いちおうの自由主義国・韓国ですらこうなのだから、中国や北朝鮮では果たして「言論の自由」が存在するのかどうか自体が疑わしいだろう。政府又は言論警察機関が許容した範囲内でのみの「言論」行使ができるらしいことは、逐一関係資料を確認しないがこれまでの日本の中国等に関する報道によっても明らかだと思われる(これらの国の「憲法」がどうなっているのかは知らないが、少なくとも現実には、憲法で保障された人権としての表現の自由という意識・観念が恐らく存在しない)。
 ところで「山崎行太郎」という人は、自ら書くところによると、「文藝評論家(or哲学者)。 慶応大大学院(哲学専攻)修了。東工大講師を経て、現在埼玉大学講師、日大芸術学部講師、朝日cc「小説講座」講師」らしい。
 もともと小説又は文学作品を書かない文評論家とか、小説を書かないで(又は売れた小説を書いたこともなく)「小説の書き方」とかを講じている人は何となく胡散臭く感じてきたし、自ら「or哲学者」などと名乗る人にロクな人はいないだろうとも思うのだが、この山崎行太郎という人も、失礼乍ら、やはり<胡散臭い>人で、<ロクな人>ではないように見える。
 この人は言論統制・言論弾圧に関心を持っている(研究対象としている?)らしいのだが、過日すでに一部紹介したように、安倍首相について、5/18にこんなふうにブログ上で公言している。
 「安倍が総理就任以前から言論統制や言論弾圧にこだわっていることは明らかだが、総理総裁に就任後も、相変わらずマスメディアの情報に敏感に反応し、新聞記事や放送内容を細かくチェックして、脅迫と恫喝を繰り返している」→「誠に情けないというか、なんというか、馬鹿丸出しの体質がミエミエで哀れ」。
 「安倍シンゾーは、どうした風の吹き回しか知らないが、総理総裁に就任する以前から言論弾圧に異常に固執している政治家である。女性戦犯法廷番組で、NHK幹部を官邸に呼びつけ、その某番組の内容の修正を、間接的に(笑)…、無言の圧力を加えつつ迫ったのもこの人であり、その官邸による放送弾圧、言論弾圧という事実を暴露した朝日新聞記者を恫喝したのもこの人だ。「ボクは言論弾圧なんかやってないよ…」と言うが、「やった」に決まっている。」→「言論弾圧や言論統制を武器にして政権維持を画策するような、こんな低レベルのチンピラ政治家を総理総裁として持たざるをえない日本国民の一人として、かなり恥ずかしいと思うだけだ。
 「安倍は、これまでもNHKや朝日新聞の記事に難癖をつけまくって、政治権力をバックに、脅迫と恫喝を繰り返してきた」→「そのことの喜劇性と非常識をまったく自覚できていないという時点で、政治家失格というより、人間失格である。これぞまさしく「キチガイに刃物」である。
 山崎行太郎なる人物は、1.安倍晋三氏による総理就任以前からの「言論統制や言論弾圧
とは具体的にどのような行為で、かつなぜそれが「言論統制や言論弾圧に該当するのかを明らかにしていただきたい。
 2.安倍氏が総理就任後も「新聞記事や放送内容を細かくチェックして、脅迫と恫喝を繰り返している」とは具体的にどういう行為で、かつなぜそれが「
脅迫と恫喝」に該当するのかを明らかにしていただきたい。
 3.安倍氏が「
女性戦犯法廷番組で、NHK幹部を官邸に呼びつけ、その某番組の内容の修正を、間接的に(笑)…、無言の圧力を加えつつ迫ったのもこの人であり、その官邸による放送弾圧、言論弾圧という事実を暴露した朝日新聞記者を恫喝した
ということのうち、とくに下線部分を、朝日新聞の記事や同社記者・本田雅和らおよびNHKの長井暁の発言以外の資料又は記録文書を使って、きちんと通常人ならばなるほどそうだっただろうと納得できるように十分に説明していただきたい。
 関連してついでに、言論弾圧を「
「やった」に決まっている。
」とは断定的文章ではなく強く推測しているとの趣旨だと思われるが、そう「強く推測」する根拠を示していただきたい。
 4.なお、安倍氏が「NHKや朝日新聞の記事に難癖をつけまくって、政治権力をバックに、脅迫と恫喝を繰り返してきた
という部分については、上の2.の質問によって代える。
 以上の問いに具体的に回答できないとすれば、山崎行太郎なる人物は、確たる根拠もなく、いわば「思いこみ」に近い心理にもとづいて、安倍晋三を、「
誠に情けない」・「馬鹿丸出し」・「低レベルのチンピラ政治家」・「政治家失格というより、人間失格」、キチガイ(に刃物
)」と罵倒していることになる。文芸評論家(+哲学者)だから許される又は甘く見てもらえる、ということはなく、むしろ逆であることは当然のことだ。
 再度簡単に繰り返しておくが、安倍晋三のどの行為が「言論統制や言論弾圧」で、どの行為が「脅迫と恫喝
」なのか。
 加えていえば、この山崎某なる人物は、次のような奇妙なことも書いている。
 1.「政治家や権力者にとってマスメディアや一般大衆からの様々な批判や罵倒は、不可避である。有名税というようなレベルの問題でもない。マスメディアや一般大衆からの様々な批判や罵倒を許容できるかどうかが、政治家としての資質の有無を判別する基準である。安倍シンゾーにマスメディアや一般大衆からの様々な批判や罵倒を許容できるだけの人間的包容力がないことは明らかだ」。
 この人は何を言っているのか。「
マスメディアや一般大衆」からの批判をいわば「有名税」として甘受又は無視する必要がある場合もむろんあるだろうが、この文章は、何を書かれても、どんなひどいことを書かれても「人間的包容力」をもって「許容」しろ、それが「政治家としての資質
」だ、旨を言っている。
 そんな馬鹿なことはない。常識と「理性」を持った「マスメディア
」の批判等だけならよいが、十分な根拠を持たないままの、政治的影響力減少・政治家失墜を狙った、表向きだけは報道機関らしきものの記事もありうるし、秘書等が殺人犯の所属する団体の関係者だと書かれてしまうこともありうる。それらに<十分な根拠>があれば別だが、そうでない限り、「人間的包容力」をもって「許容」
できない場合もあるのは当然ではないか。
 上の方で紹介した韓国・盧武鉉大統領の対マスコミ言動に比べれば、安倍首相の対応は、遙かに穏便だ(穏便すぎるかもしれない)。
 こんなまともと思われる議論も、自称「文藝評論家(or哲学者)」の方には通用しないのかもしれない。国際女性戦犯法廷NHK問題につき、「山岡俊介」という人のブログの次の文章をそのまま引用している。山崎某自身のそのままの理解でなくとも、肯定していると思われる。
 「疑惑の中川昭一代議士と違い、安倍氏の場合、放送直前にNHK幹部に会い、「公正な報道を」と番組に関する発言を行っていることを自ら認めているのだから、完全に真っ黒と言わざるを得ない。/例え、恫喝しなくても、また、NHK側から出向いたのが本当だとしても、そんなことは本質論からいえば些末なこと。番組の件で、放送直前に会ったこと自体が大問題なのだ。
 これまた、馬鹿ではないか。こんなふうに批判されるのであれば、NHK等の放送局、さらにはいかなるマスメディアの人物とも「会う」ことができなくなる。
 放送局であれ、新聞社であれ、それらの関係者と「会う」ことは、全てが、何らかの番組放送又は記事の公表(新聞配送)の「直前」になってしまうのだ。お解りかな?
 そして何らかの番組放送・記事公表の「直前」に「会った」ということだけで、<政治家の圧力>があったと言われてしまうのであれば、たまったものではなかろう。
 具体的にNHK問題について言えば、既に何度もいろいろとネット上でも話題にされた筈なので、詳しく繰り返さないが、当時において安倍の耳にも入っていた<国際女性戦犯法廷>に関する番組内容からして、放送上の規定に即した一般的な発言をするのはむしろ当然のことだ。上坂冬子等もどこかで書いていたが、あの<国際女性戦犯法廷>に関する番組内容からして、何も言わない方がむしろおかしく、その方が政治家としての良識・見識が疑われる。
 山崎某あるいは上の山岡某は、見事に、朝日新聞と全く同じく、<国際女性戦犯法廷>に関する番組がどういう内容のものだったかには全く触れていない
 そして、山崎某はNHKの松尾に対する安倍の発言を、大袈裟にも、あるいは倒錯した悪意を持って、「
言論統制や言論弾圧」あるいは「脅迫と恫喝」と評価しているのだ。
 あるいはまた、<政治家が圧力>との旨の記事を書いた本田雅和等や朝日新聞社に抗議し批判したことを、同じく大袈裟にも、あるいは倒錯した悪意を持って、「
言論統制や言論弾圧」あるいは「脅迫と恫喝」と評価しているのだ(「脅迫」とは刑法犯罪になる行為を示す言葉でもある)。
 これで「文芸評論家(+哲学者)」か? いや、だからこそ、上に紹介してきているような粗雑な文章を書けるのかもしれない。
 つまり、基本的には大江健三郎と類似しているとも思うが、この人にとって<真実>・<事実>がまず第一に重要なのではない(社会系の学者・評論家とは違うところがあるようだ)。そうではなく、自分の描いているこの世のイメージに現実を合わせる(そして満足する)ことの方が大切なのだ、と思われる。
 そして、山崎行太郎は、上に紹介したようなことを公然と書いて公表したままにしておける、日本の「言論の自由」の保護の状況を直視すべきだ。そして、有り難いものと感謝すべきだ。
 私は、この人の上のような叙述は「言論の自由」の枠を超えており、<侮辱罪>の構成要件は充足していると思うが、「言論の自由」に対する恣意的な規制になるおそれを回避するために、実際には警察が動くことなどありえず、言論の一つとして、ネット上に残したままにしておける。日本は何と「自由」な国だろう。
 言論統制・言論弾圧に関心がおありならば、ソ連・東独等の旧「社会主義」国、そして中国や北朝鮮等の現存「社会主義」国の言論統制・言論弾圧の状況にも関心をもち、日本の状況と比較して欲しいものだ。産経5/22には、「露、強まる言論統制/大統領選控え/反政権派”排水の陣”」という見出しの記事もある。
 「文芸評論家(or哲学者)」という肩書きで、安倍首相を罵倒し、あるいは私は知らない某々等の人物への個人的な批判のようなことを書き連ねて生活していけるのだから、結構なことだ。
 最後に「政治ブログ」とやらに参加しているようだが(だからこそこの人のブログの存在を知ったのだが)、たしかに「政治」に関する文もあるが、<文芸>に関することの方が多そうだ。私の上の質問にきちんと答えたあとで、「政治ブログ」エントリーは止めたらいかがか。その方が、私の精神衛生にはよろしい。
 こんな、今回のような内容の文章を本来は書きたくないのだが、山崎某の、無責任な、好き勝手な言いぐさを読んでいると、何やら腹が立ってきて、<義憤>らしきものも湧いてきたのだ。山崎某に関心のない方は、許されたい。

0130/「きわめて執拗な悪意と恐ろしさ」-朝日新聞社。

 読売夕刊5/09によると、4/24発行の週刊朝日の今西憲之らによる記事<長崎市長射殺事件と安倍首相秘書との「接点」>について、安倍首相の公設秘書2人と元公設秘書1人、計3人が、朝日新聞社、週刊朝日編集長、記者らを相手に総額約5000万円の損害賠償、記事取消し、謝罪広告を求めて、この日、東京地裁に提訴した。朝日の広告のみでなく、記事本体も対象にしている。
 安倍首相事務所の5/09の談話がよい。読売によると、こうだ。
 「根拠薄弱な記事でも、〔安倍〕首相に関することであれば、躊躇なく掲載する判断が朝日新聞社でまかり通っている事実に、きわめて執拗な悪意と恐ろしさを感じる」。
 この通り、朝日新聞は安倍首相に「きわめて執拗な悪意を持っている。彼が若いときから<保守的>活動をしていたことに目をつけていたのだろうが、再度書くと、成功しなかった2005年1月からの<NHKへの圧力>キャンペーンは「きわめて執拗な悪意と恐ろしさを感じ」させるもので、かつ訂正も謝罪もしなかった。
 朝日新聞社は日本国家そのものに対しても「
きわめて執拗な悪意」を持っているに違いない。教科書書換え検定の虚報、「従軍慰安婦」の虚報を放って日本を貶めて、虚報であると分かっても、訂正も謝罪もしない。
 安倍首相が進め、日本を<強く>する憲法九条二項削除等の憲法改正に、この新聞が賛成するわけがない。
 構図は明白だ。安倍政権を長期化させること、憲法改正すること-朝日新聞、そして日本共産党が主張していることとは反対の方向に進むこと、これを選択すると少なくとも相対的には日本はうまくいく。これが戦後の歴史的教訓だ。

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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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