秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

L・コワコフスキ

1956/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊版p.170-。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義②。
 (7)武装侵攻以外の全ての形態での圧力が激烈に加えられたにもかかわらず、ユーゴスラヴィア共産党はその自立性を維持し、スターリン主義共産主義体制に戦争以降で最初の実質的な亀裂をもたらした。
 分裂後すぐに、ユーゴの党イデオロギーは、共産主義諸党は自立していなければならないと強調し、ソヴィエト帝国主義を非難する点でのみ、ソヴィエトと異なった。
 マルクス=レーニン主義の一般的原理はユーゴスラヴィアに力を持って残ったままであり、その点ではソヴィエト同盟で観察されたものと異なってはいなかった。
 しかしながら、やがて政治的教理の基礎は修正主義へと進み、ユーゴスラヴィアは社会主義社会についての自分自身のモデルを生み出し始めた。それは、重要な態様でロシアのそれとは異なっていた。
 (8)この頃までのコミンフォルムは、反ユーゴスラヴィア情報宣伝活動の道具とほとんど同じだった。その<存在理由>は、1955年春にフルシチョフ(Khrushchev)がベオグラードと和解しようと決定したときに消滅した。
 だが現実には、コミンフォルムは1956年4月までは解体されなかった。
 知られているかぎりで、そのとき以降、ソヴィエトの党は国際共産主義の組織的形態を設立しようとはせず、可能なかぎり、個別の諸党に対して直接的な統制を加えることによって闘い、ときおりは、世界的問題に関する決議を採択するための会議を呼びかけた。
 しかしながら、これらは従前に比べると成功しなかった。努力したにもかかわらず、ソヴィエトの指導者たちは、かつてユーゴスラヴィアについて行ったのと同様に中国共産党からの国際的非難を受けないようにすることが、うまくはできなかった。
 (9)スターリン支配の最後の年は、共産主義世界全体での、教理のソヴィエト化(Sovietization)を特徴とした。
 このことの影響はブロック内の国々によって異なった。しかし、圧力と趨勢は、一般的に言って同一だった。
 (10)以前の章で述べたように、ポーランドのマルクス主義はそれ自体の伝統をもち、ロシアのそれから全く自立していた。
 この伝統には単一の正統な形態はなく、厳密な党イデオロギーもなかった。
 ポーランドの知的情景の中では、マルクス主義はたんに一つの傾向にすぎず、きわめて重要なものでもなかった。
しかしながら、型にはまった教理を主張するのではなかったが、マルクス主義の諸範疇をその研究に利用した歴史学者、社会学者、および経済学者たちがいた。
 とりわけLudwik Krzywicki とStefan Czarnowski (1879-1937)だ。後の人物は傑出した社会学者、宗教歴史学者で、その晩年には、ある範囲で、マルクス主義へと接近した。
 (彼は、プロレタリア文化に関するある小論文で、新しい精神性と新しい類型の芸術の起源を労働者階級の状況と関連させて分析した。)
1945年の後の数年のうちに、この伝統が復活した。新しいマルクス主義の思考は、古いそれと同じく、特定の厳格な方向に何ら限定されておらず、むしろ、合理主義や文化的諸現象を社会紛争と関連させて分析する習慣の背景であるように見えた。
 こうした緩やかで、聖典化されないマルクス主義は、月刊誌<Mysl Wspolczesna(現代思想)>や週刊誌<Kuźnica(前進)>などの雑誌で表現されていた。
 1945-50年に、諸大学が戦前の方針のもとで再設立された。たいていは同じ教育スタッフが担当した。
 教育の分野でのイデオロギー的な粛清(purge)は、まだ存在しなかった。
 この時期に出版された多数の科学書や科学雑誌は、マルクス主義とは何の関係もなかった。
 体制側は「プロレタリアート独裁」とはまだ自称しなかった。そして、党のイデオロギーは共産主義の主題を強調せず、むしろ、愛国主義、民族主義または反ドイツの主題を重視した。
 ソヴィエト類型のマルクス主義は、この時期の背景には多く見られた。
 その主要な語り手は、Adam Schaff だった。この人物は、レーニン=スターリン主義の範型の弁証法的唯物論や歴史的唯物論について解説する書物や手引き書を執筆した。但し、ソヴィエトにいる同種の者たちのものほどに幼稚ではなかった。
 最悪の時代であってすら、ポーランドのマルクス主義はソヴィエトの水準にまで低落することがなかった、と一般的に言ってよい。
 ロシアの範型によって浸食されたにもかかわらず、ポーランド・マルクス主義は、ある程度の独創性と、理性的な思考に対する内気な敬意を保った。//
 (11)1945-49年に、政治と警察による抑圧がより強くなった。
 戦争後のおよそ二年の間、ドイツの侵略者と闘った、そしてロシアによって押しつけられた新しい体制に屈服するのを拒む、地下軍隊との武装衝突があった。
 処刑と頻繁な流血は、武装地下軍団や戦時中の政治組織に対する闘いの特質だった。農民政党やその他の合法的な非共産主義集団に対する闘いについても同様だったが。
 にもかかわらず、この時期の文化的圧力は、純粋に政治的な問題についてに限られていた。
 マルクス主義はまだ、哲学または社会科学での拘束的な標準たる地位を占めていなかった。かつまた、芸術や文学での「社会主義リアリズム」は、知られていなかった。//
 (12)1948-49年、ポーランドの党は「右翼民族主義者」を粛清した。
 党指導部は交替し、政治生活はロシアの指針に適合するようになり、農村の集団化が決定された(但し、いかなる程度にでも実施されなかった)。そして、体制はプロレタリアート独裁であることが、公式に宣言された。
 1949-50年、政治的な浄化のあとに続いたのは、文化のソヴィエト化だった。
 多数の学術および文化に関する雑誌が閉刊され、それらには新しい編集者が着任した。
 1950年代の初めに、ある範囲の「ブルジョア」教授たちが解任された。しかし、その数は大して多くはなかった。そして、教育や出版はすることができなかったけれども、給与を貰って、状況が苛酷でなくなった数年のちには出版することとなった書物を執筆していた。
 哲学学部の一定範囲の教授たちには職が残されたが、論理の教育に限定するように命じられた。
 その他の者たちには、科学アカデミーの中に再び職が与えられた。そこで彼らは、学生たちとの接触をしなかった。
 社会科学部門のカリキュラムは変更され、社会学の講座は歴史的唯物論の講座に替えられた。
 党の特別の研究所が、イデオロギー的に微妙な哲学、経済学および歴史学の部門について、「ブルジョア」教授たちに代わって幹部たちを研修するために、設置された。
 哲学については、マルクス主義的「攻撃」の手段は雑誌<Mysl Filozoficzna(哲学的思考)>だった。
 マルクス主義哲学者たちは一定期間、非マルクス主義の伝統と、とくに分析哲学のLwow-Warsaw 学派と闘うことに傾注した。Kotarbinski、Ajdukiewicz、Stanislaw Ossowski、Maria Ossowska、等々だ。
 多数の書物と論文が、上の学派の考え方の多様な論点を批判した。
 もう一つの攻撃対象は、トーマス主義(Thomism) だった。これは、Lublin カトリック大学を中心として強い伝統を持っていた。
 (この大学は-社会主義国家の歴史上例のないことだが-抑圧されたことがなく、様々な圧力と干渉の手段が講じられたにもかかわらず、今日まで機能している。)
 老若両世代の多数のマルクス主義者たち-Adam Schaff、Bronislaw Baczko、Tadeusz Kroński、Helena Eilstein、Wladyslaw Krajewski-が、この闘いに参加した。この著の執筆者〔L・コワコフスキ〕もそうだったが、この事実が誇りの大元だとは考えていない。
研究のもう一つの主題は、過去数十年間のポーランド文化に対するマルクス主義の寄与だった。//
 (13)この時代の文化的進展について完全に論評するのは、まだ時機が早すぎる。しかし、強要された「マルクス化(Marxification)」には、ある程度の埋め合わせ的な特徴があった。
知的生活は確かに、貧困でかつ不毛なものになった。しかし、マルクス主義の普及は、それが伴った強制にもかかわらず、良いことももたらした。
 破壊的で反啓蒙主義的な部分もあったが、本質的に価値があり、多かれ少なかれ知的な世界的相続財産たる性格をもつ特質を、それは持ち込んだ。
 例えば、文化的諸現象を社会的対立の側面だと把握したり、歴史的進展の経済的および技術的背景を強調したりする習慣だ。概して言うと、諸現象を、幅広い歴史的な趨勢との脈絡で研究する、ということだ。
 人文諸学問の新しい方向のある程度は、イデオロギー的な契機をもつものではあったが、例えばポーランドの哲学や社会思想の歴史に関して、価値ある結果を生み出した。
 哲学上の古典の翻訳書の出版やポーランドの社会思想、哲学思想、宗教思想に関する標準的著作物の再出版というかたちで、有意味な仕事がなされた。//
 (14)スターリン主義の時代には、国家は文化に対して全く寛容に助成金を支給した。その結果として、大量のがらくた作品が生産されたが、しかし、永続的価値をもつものも多く生まれた。
 一般的な教育水準と大学への入学者数は、戦前と比べて顕著に上昇した。
 破壊的だったのはマルクス主義での一般的教育ではなく、強制と政治的欺瞞の道具としてそれが用いられたことだった。
 初歩的で型に嵌まった形態だったとしてすら、マルクス主義は、その伝統の一部である有益で理性的な思考を植え付けることに、ある程度はなおも貢献した。
 しかし、そうした思考方法の種子は、マルクス主義の諸教理の抑圧的な利用が緩和されていてのみ、成長することができた。//
 (15)概していえば、厳密な意味でのスターリニズムは、ポーランドの文化にとって、ブロックの他諸国のそれに対するほどには有害ではなかった。そして、元に戻せない程度は、より低かった。
 このことには、いくつかの理由があった。
 まず、たいていは受動的だったが自発的な文化的抵抗と、ロシアに由来するもの全てに対する深く根ざした不信または敵意があった。
 スターリニズム文化の押し付けについては、一定の気乗り薄さ、あるいは首尾一貫性の欠如もあった。すなわち、マルクス主義が人文諸科学を絶対的に独占することは決してなかった。また、ソヴィエト的様式で生物学に圧力を加えようとする試みは貧弱だったし、効果もなかった。
 「社会主義リアリズム」の運動はある程度の釈明的な無価値のものを生んだが、文学や芸術を破壊することはなかった。
 高等教育の諸施設での迫害(purge)は、比較的に小規模だった。
 図書館で禁書とされた書物の割合は、他のどの諸国よりも小さかった。
 さらに加えて、ポーランドでの文化的スターリニズムは、比較的に短命だった。
 それは本気で1949-50年に始まったが、1954-55年にはすでに衰亡しつつあった。
 実証するのは困難ではあるが、もう一つの緩和要因が働いていた、と言うことができる。すなわち、戦前のポーランド共産党を破壊してその指導者たちを殺戮したスターリンに対する、多数の老練共産主義者たちの反感だ。//
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 ③へとつづく。

1955/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊版、第三巻分冊版p.166-。
 第三巻は注記・索引等を含めて、総548頁。この巻の試訳は、本文のp.1から始めて、ここまで済ませている。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。第13節は、計17頁分と長い。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義①。
 (1)ソヴィエトの支配下にあった諸国でのマルクス主義の歴史は、大まかにはつぎの四つの段階に分けられる。
 第一は1945年から1949年までの時期で、「人民民主主義」諸国が政治的および文化的な多元主義の要素をまだ残し、徐々にソヴィエトの圧力の影響を受けていった。
 第二は1949年から1954年までの時期で、政治とイデオロギーに関しては「社会主義陣営」としての完全なまたはほとんど完全な<均一化(Gleichschaltung)>があり、また全ての文化の分野できわめて大きなスターリン主義化(Stalinization)が見られた。
 第三は1955年に始まった。マルクス主義の歴史に関係する最大の際立つ特質は、 多様な「修正主義」、反スターリニズムの動向が出現したことで、これは主にポーランドとハンガリーで、だが遅れてはチェコスロヴァキアで、またある程度は東ドイツでも、生じた。
 この時期は、おおよそ1968年に終わりを告げた。このとき、社会主義ブロックの諸国の少なくともほとんどで、硬直した無味乾燥な形態をまとったが、マルクス主義は支配党の公式イデオロギーのままだった。//
 (2)東ヨーロッパでの「スターリン主義化」と「脱スターリニズム」は、各国の多様な事情に応じて異なる態様で進行した。
 第一に、いくつかの国-ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア-は戦争で連合国側につき、その他の国は公式に枢軸側と同盟していた。
 ポーランド、チェコスロヴァキアおよびハンガリーは歴史的には西側のキリスト教世界に属していて、ルーマニア、ブルガリアおよびセルビアとは異なる文化的伝統をもっていた。
 東ドイツ、ポーランドおよびチェコスロヴァキアには、中世に遡る真摯な哲学的研究の伝統があった。こうした伝統はその他の同じブロックの国々には欠けていた。
 最後に、一定の諸国には、戦時中に積極的な地下運動やゲリラ運動があった。他方でその他の諸国では、ドイツの占領のもとでと同様に、抵抗は弱く、武装した闘争の形態をとらなかった。
 前者の範疇に入るのは、ポーランドとユーゴスラヴィアだった。但し、重要な違いはユーゴスラヴィアでは共産党は最も積極的な闘争者だったが、これに対してポーランドでは、小さな分派が全体の抵抗運動を行った。その支柱となっていたのは、ロンドン政府に忠誠をを尽くす軍部だった。
 これらの違いの存在は全て、東ヨーロッパと当該諸国のマルクス主義の進展にかかる戦後の重要な様相だった。
 それらはイデオロギー侵略の速さと深さ、およびスターリンがのちに拒絶される様相に影響を与えた。
 ドイツ侵略者からの解放が大部分は自分たち自身の共産党支配勢力によった唯一の国は、ユーゴスラヴィアだった。そしてこの国のみで共産党は、1945年以降は分かち難い権力を行使した。
 他の諸国では-ポーランド、東ドイツ、チェコスロヴァキア、ルーマニアおよびハンガリーでは-社会民主主義政党および農民政党が、戦後の初期の間に活動することが許容された。//
 (3)東欧の共産党指導者たちの多くは、最初は、自分たちの国は独立国家で、ロシアと同盟して、つまりロシアの直接的統制のもとにあってではなく、社会主義の諸装置を建築するだろうと考えた。こう想定するのは、全く可能だ。
 しかしながら、このような幻想は、長くは存続し得なかった。
 最初の二年間は、国際関係には戦時中の同盟関係の痕跡がまだ顕著にあった。つまり、共産主義諸党は、民主主義的諸制度、複数政党政権および東欧での自由選挙を定めていた、ヤルタ協定とポツダム協定に従順である姿勢を維持した。
 しかしながら、冷戦の始まりは、この地域にソヴィエト同盟からの自立を発展させるという望みの全てに、終止符を打った。
1946-1948年に、非共産主義諸政党は破壊されるか、または共産党と強制的に「統合」された。最初にこの運命に遭ったのは東ドイツの社会民主党だった。
 純然たる連立政権の要素がまだ残っていた最初の頃からすでに、共産党は権力の枢要な部分に隠然たる力を有した。とくに、警察と軍事の部門に。
 いたるところに存在するソヴィエトの「助言者」たちは統治の重要な諸問題に関する決定的発言力をもち、最も残忍で悪辣な抑圧の形態を直接に組織した。
 1949年、非共産主義諸政党に対する計略した抑圧のあとで、瞞着と暴力を特徴とする選挙のあとで、あるいはチェコスロヴァキアでの<クー>のあとで、スターリンの精密な統制のもとにある東ヨーロッパの諸共産党は、事実上の独占的権力を享有した。
 だが、スターリニズムがこうして衛星諸国で確立されていったそのときでもまだ、ユーゴスラヴィア分派というかたちをとった最初の重要な挫折に、それは遭遇した。//
 (4)スターリンが東ヨーロッパの、あるいは他地域の有力諸共産党を従属させるために用いた道具の一つは、共産主義者情報局(Communist Information Bureau)または「コミンフォルム」として知られる、コミンテルンの弱められた範型のものだった。
 この組織は、1947年9月に設立され(コミンテルンは1943年に解散した)、アルバニアと東ドイツを除く東ヨーロッパの全ての支配的諸共産党の代表者で構成された。-すなわち、ソヴィエト、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアおよびユーゴスラヴィアの諸党代表者。これらに、フランスとイタリアの共産党代表者が加わる。
 スターリンのもとでこの組織を指揮したのは、ズダノフ(Zhdanov)だった。
 そして、ユーゴスラヴィアの党が1944-45年の有利な情勢のもとで権力を奪取できなかったとしてフランスとイタリアの各共産党を攻撃したのは、このズダノフの指令によってだった。
 (こうした行動は実際にはスターリンが命令していたが、にもかかわらず、彼らは適切な自己批判をしなかった。)
 コミンフォルムの役割は、世界じゅうの共産主義者たちに、主要な諸党の合致した決定だと偽装したソヴィエト政策の要請を伝達することだった。
 いくつかの東欧の諸党は主権をもつ政府として行動する権限があると本当に考えていた気配が、実際にはあった。チェコスロヴァキアとポーランドはマーシャル・プランに素早く関心を示し、ブルガリアとユーゴスラヴィアはバルカン連邦構想を提案した。
 このような自立性の提示は全てすみやかに粉砕され、気分を害せた諸党はソヴィエトの命令に従った。
 第三次大戦が少なくとも全く考え難いものではなくなっていたとき、ソヴィエト同盟の外部にいる共産主義者たちは、「正しい(correct)」政策を決定する唯一の権威があり、その命令に微小なりとも逸脱するものは不愉快な結果を体験するだろう、ということを再び教え込まれなければならなかった。//
 (5)コミンフォルムの第一回会合で、ジダノフは、国際情勢の最重要の要素として世界の政治上の二つのブロックへの分裂を語った。
 コミンフォルムはまた、むろんソヴィエト共産党に支配されていたので、ソヴィエトの情報宣伝を指令する、国際的な雑誌を刊行した。
 この雑誌刊行は実際のところ、コミンフォルムの第一の任務だった。
 コミンフォルムは、あと二回だけ会合をもった。1948年6月と1949年11月。いずれも、ユーゴスラヴィア共産党を非難することを目的としていた。
 ソヴィエトとユーゴスラヴィアの共産党の間の軋轢は、1948年春に始まった。
 その直接の原因は、ティトー(Tito)とその同僚たちが、ソヴィエトの「助言者」たちのユーゴの国内問題、とくに軍隊と警察、に対する粗野で傲慢な干渉に苛立ったことにあった。
 スターリンはユーゴスラヴィアの国際主義の欠如を激しく怒って、ユーゴを跪かせようとした。そして、それは簡単な仕事だと疑いなく考えていた。
 情報宣伝活動について、そのときまでユーゴスラヴィア共産党はロシアに対して極端に卑屈だった。
 しかし、彼らは自分の家の主人だった。そして、ソヴィエト同盟は彼らをきわめて不十分にしか代表していない、ということが分かった。
 (論争の主要な原因の一つは、ソヴィエトの警察や諜報網へとユーゴ人が新規に採用されていたことだった。)
 ソヴィエトからの直接の給料で生活していたある程度のユーゴ人は別として、ユーゴスラヴィアの党は屈服する気が全くなかった。そして彼らを国際主義へと再転換させる唯一の方法は武装侵攻である、と思われた。それは、その是非はともかく、スターリンが危険すぎる行路だと考えたものだった。//
 (6)コミンフォルム第二回会合は、ユーゴスラヴィア共産党を公式に非難した。この会合に、ユーゴスラヴィアの代議員は欠席していた。
 ベオグラード(Belgrade)〔=ユーゴスラヴィア〕は、反ソヴィエト・民族主義者だと宣告された(その根拠は説明されなかった)。そして、ユーゴスラヴィアの共産主義者たちは、かりに正しい方針にただちに従わないならばティトー一派を打倒すべきだ、と呼びかけられた。
 ユーゴスラヴィアとの論争はコミンフォルムの雑誌の主要な主題となった。そして、この組織の第三回および最終の会合で、ルーマニア共産党書記長のGheorghiu Dej は、「殺人者とスパイたちに握られているユーゴスラヴィアの党」に関する演説を行った。
 この演説からは、つぎのように思えた。すなわち、全てのユーゴの党指導者たちは太古から多様な西側諜報機関の工作員だった、ファシズム体制を樹立している、主要な政策はソヴィエト同盟に混乱の種を撒き散らためにあったし現にあってアメリカの戦争挑発者の利益に奉仕している、と。
 これを契機として、世界の各共産党は、ヒステリックな反ユーゴ宣伝運動をするよう解き放たれた。
 このような対立のおぞましい帰結はこうだった。すなわち、「人民民主主義」諸国は、「ティトー主義者」のまたはその一員だとの嫌疑のある者を地方の共産党組織から追放(purge)するために、明らかにモスクワ見せ物裁判に倣った、一連の司法による殺戮を繰り広げた。
 多数の指導的共産主義者が、こうした裁判の犠牲者となった。これは、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ブルガリアおよびアルバニアで発生した。
 チェコスロヴァキアでの主要な裁判はSlánskýその他の者に関する裁判で、1952年11月に行われた。これはスターリンの死の直前のことで、明瞭な反ユダヤ感情の含意で際立っていた。
 この主題は、スターリンの晩年にソヴィエト同盟で前面に出てきたものだった。そして、党指導者たち等々を殺害する陰謀を図ったとして訴追されることとなった、ほとんどがユダヤ人の医師のグループの1953年1月の逮捕によって、絶頂点を迎えた。
スターリンが個人的に命令をした拷問を生き延びた者たちは、彼の死後にただちに釈放された。
ポーランドでは、党書記長のゴムウカ(Gomulka)およびその他の著名人物が監禁されたが裁判にかけられることはなく、処刑もされなかった。
 但し、若干のより下級の活動家たちは射殺されるか、最後には監獄で死に至った。
 東ドイツでは、逮捕と裁判には一定のパターンがあったが、犠牲者に関しては十分に知られていない。
 ブロックのその他の諸国では、「ティトー主義者」、「シオニスト」、その他の帝国主義の代理人、および党の書記局や政治局の中に「ひそかに入り込んで」いるファシストたちが、外国の諜報機関に雇われていることを告白し、その大部分が見せ物裁判のあとで処刑された。
 これらの者たち全てが、ロシアに対してより自立した共産主義体制を求めているという意味での、本当の「ティトー主義者」だった、と想定してはならない。
 これはある範囲の者たちについては正しかったが、別の者たちについては、恣意的な理由づけに用いる裏切り者だとして持ち込まれた。
 その一般的な目的は、東ヨーロッパの各支配党を弱体化(terrorize)させ、マルクス主義、レーニン主義および国際主義が何を意味するのかを教え込むことにあった。
 すなわち、ソヴィエト同盟は名義上はブロック諸国から独立した絶対的な主人であることを、そして他のブロック諸国は主人の命令を忠実に履行しなければならないということを。//
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 ②へとつづく。

1946/L・コワコフスキ著第三巻第四章第12節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊、p.161-p.166.
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第12節・スターリニズムの根源と意義・「新しい階級」の問題②。
 (8-2)異端の考え方のゆえに訴追され投獄されたソヴィエトの歴史研究者のAndrey Amalrik は、<ソヴィエト同盟は1984年まで残存するだろうか?>の中で、ロシアでのマルクス主義の機能をローマ帝国でのキリスト教のそれと比較した。
 キリスト教の受容は帝国のシステムを強化し、その生命を長引かせたが、最終的な破滅から救い出すことはできなかった。これとちょうど同じく、マルクス主義イデオロギーの吸収(assimilation)によってロシア帝国は当分の間は存在し続けているが、それは帝国の不可避の解体を防ぐことはできない。
 帝国の形成は最初からマルクス主義の立脚点だった、またはロシアの革命家たちの意識的な目的だった、ということを意味させていないとすれば、Amalrik の考え方は受容されるかもしれない。
 諸事情が異様な結びつき方をして、ロシアの権力はマルクス主義の教理を信仰表明(profess)する党によって掌握された。
 権力にとどまるために、初期の指導者たちの口から真摯に語られたことが明瞭なそのイデオロギーのうちに含まれる全ての約束を、党は首尾よく取り消さざるをえなかった。
 その結果は、国家権力を独占し、その性質上ロシアの帝国主義の伝統に貢献する、新しい官僚機構階層の形成だった。
 マルクス主義はこの階層の特権となり、帝国主義的政策の継続のための有効な道具となった。//
 (9)これに関係して、多くの著述者たちは、「新しい階級」に関する疑問、つまり「階級」はソヴィエト連邦共和国やその他の社会主義諸国家の統治階層を適切に呼称したものかどうか、を議論してきた。
 要点は、とくにMilovan Djilas の<新しい階級>の1957年での出版以降、適切に叙述されてきた。
 しかし、議論にはより長い歴史があるが、ある程度はこれまでの章で言及してきた。
 例えば、アナキスト、とくにバクーニンのマルクスに対する批判は、その考えを基礎とする社会を組織する試みは必ず新しい特権階級を生む、と主張した。
 現存している支配者に置き換わるべきプロレタリアは自分の階級に対する裏切り者に転化し、彼らの先輩たちがしたように、嫉妬をもって守ろうとする特権のシステムを生み出すだろう。
バクーニンは、マルクス主義は国家の存在が継続することを想定するがゆえに、このことは不可避だ、と主張した。
 主にロシア語で執筆したポーランドのアナキストであるWaclaw Machajski は、この考え方を修正してさらに、はるかに隔たる結論を導き出した。
 彼は、こう主張した。マルクスの社会主義思想は、知識人たちがすでに所有する知識という社会的な相続特権を手段として政治的特権をもつ地位を得ようと望む知識人たちの利益を、とくに表現したものだ。
 知識人界の者たちが彼らの子どもたちに知識を得る有利な機会を与えることができるかぎりで、社会主義の本質である平等に関する問題は存在し得ないだろう。
 知識人たちに頼っている現在の労働者階級は、知識人たちの主要な資産、すなわち教育を剥奪することでのみ目的を達成することができる。
 いくぶんはSorel のサンディカリズムを想起させるこうした主張は、つぎのような相当に明確な事実にもとづいていた。すなわち、所得の不平等と、教育・社会的地位の間の強い連関関係のいずれもがある社会ではどこでも、教育を受けた階級の子どもたちは他の者たちよりも、社会階層を上昇する多くの機会をもつ。
 相続の形態が不平等であることは、文化の継続を破壊し、完全に均一の教育を行うべく子どもたちを両親から切り離してのみ、除去することができる。その結果として、Machajski のユートピアは、平等という聖壇に捧げるために文化と家族の両方を犠牲にすることになるだろう。
 教育は特権の根源だとしてやはり嫌悪するアナキストたちは、ロシアにもいた。
 Machajski はロシアに支持者をもったので、十月革命後の数年間は、彼の考え方に反対することは、党のプロパガンダの周期的な主題だった。彼らは、全く理由がないわけではなく、サンディカリズム的逸脱や「労働者反対派」の活動家たちと関連性(link)があった。//
 (10)しかしながら、社会主義のもとでの新しい階級の発展という問題は、別の観点からも提示された。
 プレハノフのようなある範囲の者たちは、経済的条件が成熟する前に社会主義を建設しようとする試みは新しい形態の僭政(despotism)を生むに違いない、と主張した。
 Edward Abramowski のような別の者たちは、社会の道徳的な変化が先行する必要性を語った。
 この者たちは、かりに共産主義が道徳的に改良されず、古い秩序が植え付けてきた要求と野心とまだ染みこんだままの社会を継承するならば、国有財産制のシステムのもとでは、多様な性質の特権を目指す闘いが繰り返されざるを得ないと、主張した。
 Abramowski が1897年に書いたように、共産主義は、このような条件下では、つぎのような新しい階級構造の社会のみを生み出すことができるだろう。すなわち、古い分立が社会と特権的官僚機構の間の対立に置き換えられ、僭政と警察による支配という極端な形態によってのみ維持される社会。//
 (11)十月革命の危機は、最初から、特権、不平等、僭政の新しいシステムがロシアで芽生えていることを明瞭に指摘していた。「新しい階級」とは、カウツキーが1919年にすでに用いた概念だった。
 トロツキーが国外追放中にスターリニスト体制批判を展開していたとき、彼は、彼に倣った正統派トロツキストたちの全てがしたのと同様に、「新しい」階級に関する問題ではなく、寄生的官僚制度の問題だと強く主張した。
 トロツキーは、革命なくしては体制は打倒できないという結論に到達したあとでも、この区別をきわめて重要視した。
 彼は、社会主義の経済的基盤、つまり生産手段の公的所有は、官僚機構の退廃には影響を受けない、従って、すでに起こった社会主義革命を行う余地はない、そうではなく、現存する政府機構を排除する政治装置こそが必要なのだ、と論じた。//
 (12)トロツキー、その正統派支持者およびスターリニズムに対する批判的共産主義者は、ソヴィエト官僚制の特権は自動的に別の世代へと継承されるものではない、官僚機構は生産手段を自分たち自身では持たが生産手段に対して集団的な統制を及ぼすにすぎない、という理由で、「新しい階級」の存在を否定した。
 しかしながら、このことは、議論を言葉の問題に変えた。
 その各員が、相続によって継承できる、一定の生産的な社会的資源に対する法的権能を有しているときにのみ、支配し、搾取する階級の存在を語ることができる、というようにかりに「階級」を定義するとすれば、ソヴィエト官僚機構はもちろん、階級ではない。
 しかし、なぜこの用語がこのような制限的な意味で用いられなければならないのか、は明瞭でない。
 階級は、マルクスによってそのようには限定されていない。
 ソヴィエト官僚制は、国家の全ての生産的資源を集団的に自由に処理する権能をもった。このことはいかなる法的文書にも明確には書かれていないが、単直に、システムの基本的な帰結だった。
 生産手段の支配は、かりに集団的所有者たちを現存システムのもとでは排除することができず、いかなる対抗者たちもそれに挑戦することが法的に不可能であれば、本質的には所有制と異なるものではない。
 所有者は集団的であるために個人的な相続はなく、政治的な階層内での個々の地位を子どもたちに遺すことは誰もできない。
 実際には、しかし、しばしば叙述されてきたように、特権はソヴィエト国家では、系統的に継承されてきた。
 支配層の者たちの子どもたちは明らかに、人生での、また限定された物品や多様な利益への近さでの有利な機会の多さという観点からすると、特権をもっていた。そして、支配層の者たち自身が、このような優越的地位にあることを知っていた。
 政治的な独占的地位と生産手段の排他的な統制力はお互いに支え合い、分離しては存在することができかった。 
支配階層者の高い収入は搾取的な役割の当然の結果だったが、搾取それ自体と同一のものではなかった。搾取(exploitation)は、民衆によって何ら制御されることなく、民衆が生み出す余剰価値の全量を自由に処分することのできる権能で成り立つ。
 民衆は、いかにして又はいかなる割合で投資と消費が分割されるべきかに関して、または生産された物品がいかに処理されるのかに関して、何も言う権利がない。
 こうした観点からすると、ソヴィエトの階級分化は、所有にかかる資本主義システムにおけるよりもはるかに厳格なもので、かつ社会的圧力に対して敏感ではないものだ。なぜなら、ロシアには、社会の異なる部門が行政組織や立法機構を通じて自分たちの利益に関して意見を表明したり圧力を加える、そういう方法は何もないからだ。
 確かに、階層内での個人の地位は、上位者の意思あるいは気まぐれに、あるいは、スターリニズムが意気盛んな時代には単一の僭政者の愉楽に、依存している。
 この点を考えると、彼らの地位は完全に安全なものではない。その状態は、高位にいる者たちはみな僭政主の情けにすがり、ある日または翌日に解任されたり処刑されたりした、東洋の僭政体制にもっと似ている。
 しかし、このような事情のある国家について観察者が何ゆえに「階級」という語を使ってはならないのかどうかは明瞭でない。トロツキーの支持者が主張するように、それを「社会主義」と「ブルジョア民主主義」に対する社会主義のはるかな優越性を典型的に証明するものだと何故考えてはならないのかどうか、については一層そうだ。
 Djilas はその著書で、社会主義国家の支配階級が享有する、権力の独占を基礎にしていてその結果ではない、特権の多様性に注目した。//
 (13)上に詳しく述べたように、社会主義官僚機構を何故「搾取階級」という用語で表現してはならないのかの理由は存在しない。
 実際に、この表現は次第に多く使われていたように見える。そして、トロツキーによる〔試訳者-「新しい」階級と寄生的官僚機構の間の〕区別は、ますます不自然なものになっていた、と理解することができる。//
 (14)James Burnham はトロツキーと決裂したあと、1940年に<管理(managerial)社会主義>という有名な著書を刊行した。そこで彼は、ロシアでの新しい階級の成立は、全ての産業社会で発生しかつ発展し続ける普遍的な過程の特有の一例だ、と論じた。
 彼は、こう考えた。資本主義も、同じ過程を進んでいる。正式の所有権はますます小さくなり、権力は生産を現実に統制している者たち、すなわち「管理する階級」の手へと徐々に移っている。
 このことは、現代社会の性格による不可避の結果だ。新しいエリートたち(élite)は、社会の諸階級への分化の今日的な形態に他ならない。階級分化、特権および不平等は、社会生活の自然な現象だ。
 過去の歴史を通じてずっと、大衆は異なる多様なイデオロギーの旗の下で、その時代の特権階級を打倒するために使われてきた。しかし、その結果は、ただちに社会の残余者を、先行者たちが行ったのと同様に効率的に、抑圧し始める新しい主人たちと置き代えるだけのことだった。
 ロシアでの新しい階級による僭政は、例外ではなく、こうした普遍的な法則を例証する一つだ。//
 (15)社会生活は何がしかの形態での僭政を含むというBurnham の言い分が正しいか否かは別として、彼の論述は、ソヴィエトの現実に関する適切な叙述だとはとうてい言えなかった。
 革命後のロシアの支配者たちは産業管理者ではなかったし、政治的な官僚機構だった。かつ現に、産業管理者ではなく政治的官僚機構だ。
 もちろん前者の産業管理者は社会の重要な部門ではある。そして、それに帰属する者たちは、とくにそれぞれの分野に関する上層の権威者による決定に、十分に影響を与えるほどに強いかもしれない。
 しかし、産業上の投資、輸入そして輸出に関するものも含めて、重要な決定は政治的なものであり、政治的寡頭制がそれを行っている。
 十月革命は技術と労働の組織化の過程の結果としての、管理者への権力の移行の特有な事例だ、というのはきわめて信じ難い。//
 (16)ソヴィエトの搾取階級は、何らかの形態で東方の僭政制度に似ている新しい社会的形成物だ。別の形態としては封建的な豪族階級、あるいはさらに別の形態としては後進諸国の資本主義植民者に似ているかもしれない。
 搾取階級の地位は、政治的、経済的かつ軍事的な権力が、ヨーロッパでは以前に決して見られなかったほどの程度にまで絶対的に集中したものによって、そしてその権力を正統化するイデオロギーのへの需要によって、決定される。
 構成員たちが消費の分野で享受する特権は、社会生活で彼らが果たす役割の当然の結果だった。
 マルクス主義は、彼らの支配を正当化するために授けられる、カリスマ的な霊気(オーラ)だった。//
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 第12節終わり。次節の表題は、<スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義>。

1944/L・コワコフスキ著第三巻第四章第12節①。

 なかなかに興味深く、従って試訳者には「愉快」だ。スターリンなら日本共産党も批判しているという理由で、スターリン時代に関するL・コワコフスキの叙述を省略する、ということをしないでよかった。
 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊、p.157-.
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第12節・スターリニズムの根源と意義・「新しい階級」の問題①。
 (1)共産主義者および共産主義に反対の者のいすれもが、スターリニズムの社会的根源と歴史的必然性に関して参加している論議は、スターリンの死後にすぐに始まり、今もなお続いている。
 我々はここで全てのその詳細に立ち入ることなく、主要な点のみを指摘しておこう。
 (2)スターリニズムという基本教条の問題は、その不可避性の問題と同一ではない。ともかくもその意味するところを解明するのが必要な問題だ。
 歴史の全ての詳細は先行する事象によって決定されると考える人々には、スターリニズムの特有な背景を分析するという面倒なとことをする必要がない。しかし、そういう人々は、その「不可避性」をあの一般的な原理の一例だと見なさなければならない。
 その「不可避性」原理は、しかしながら、受容すべき十分な根拠のない形而上学的前提命題だ。
 ロシア革命の行路のいかなる分析からしても、結果に関する宿命的必然性はなかった、と理解することができる。
 内戦の間には、レーニンが自身が証人であるように、ボルシェヴィキ権力の運命が風前の灯火だった、そして「歴史の法則」なるものはどういう結果となるかを決定しない、多数の場合があった。
 レーニンを1918年に狙った銃弾が一または二インチずれていてレーニンを殺害していれば、ボルシェヴィキ体制は崩壊していただろう、と言えるかもしれない。
 レーニンが党指導者たちをブレスト=リトフスク条約に同意するよう説得するのに失敗していたならば、やはりそうだっただろう。
 このような例は他にも、容易に列挙することができる。
 こうした仮定によって生起しただろうことに関してあれこれと思考することは、今日では重要ではなく、結論は出ないはずだ。
 ソヴェト・ロシアの進展の転換点-戦時共産主義、ネップ(N.E.P, 新経済政策)、集団化、粛清-は、「歴史的法則」によるのではなく、全てが支配者によって意識的に意図された。そして、それらは発生し「なければならなかった」、あるいは支配者はそれら以外のことを決定できなかった、と考えるべき理由はない。//
 (3)歴史的必然性の問題がこうした場合に提起され得る唯一の有意味な形態は、つぎのようなものだ。すなわち、その際立つ特質は生産手段の国有化とボルシェヴィキ党による権力の独占であるソヴェト・システムは、統治のスターリニスト体制により用いられて確立されたのとは本質的に異なる何らかの手段によって、維持することができていなかったのか?
 この疑問に対する回答は肯定的だ、ということを理性的に論じることができる。//
 (4)ボルシェヴィキは、講和と農民のための土地という政綱にもとづいてロシアで権力を獲得した。
 これら二つのスローガンは、決して社会主義に特有ではなく、ましてマルクス主義に特有なものでもない。
 ボルシェヴィキが受けた支持は、主としてはこの政綱のゆえだった。
 しかしながら、ボルシェヴィキの目標は世界革命だった。そして、これが達成不可能だと分かったときは、単一政党の権威を基礎とするロシアでの社会主義の建設。
 内戦の惨状のあとでは、何らかの主導的行為をする能力のある党以外には、活動力のある社会勢力は存在しなかった。このときまでに存在したのは、社会の全生活やとくに生産と配分に責任をもち得る、政治的、軍事的かつ警察的装置という確立していた伝統だつた。
 ネップは、イデオロギーと現実の妥協だった。第一に、国家はロシアでの経済的な再生に取り組むことができなかった、第二に、実力行使によって経済全体を規整する試みは厄災的な大失敗だった、第三に、市場の「自然発生的な」働きからのみ助けが得られることができた、ということを認識したことから生じたものだった。
 経済的妥協は、いかなる政治的譲歩も含むものとは意図されておらず、国家権力を無傷なままで維持させた。
 農民はまだ社会化されておらず、唯一つ主導的行為をする能力をもつのは、国家官僚機構だった。
 この階級は、「社会主義」を防護する堡塁だった。そして、そのシステムのさらなる発展は、膨張への利益と衝動を反映していた。
 ネップの結末と集団化の実施は、たしかに歴史の意図の一部ではない。そうではなく、システムとその唯一の活動的要素の利益によって必要とされた。
 すなわち、ネップの継続は、つぎのことを意味しただろう。第一に、国家と官僚機構が農民層の情けにすがっていること、第二に、輸出入を含む経済政策の大部分が、彼ら農民層の要求に従属しなければならないこと。
 もちろん我々は、かりに国家が集団化ではなく取引の完全な自由と市場経済へ元戻りするという選択をしていればどうなったか、を知らない。
 トロツキーと「左翼」が抱いた、ボルシェヴィキ権力を打倒しようとの意図をもつ政治勢力を発生させるだろう、との恐怖は、決して根拠がなかったわけではなかった。
 少なくとも、官僚機構の地位は強くなるどころか弱くなっていただろう。そして、強い軍事と工業の国家を建設するのは無期限に先延ばしされただろう。
 経済の社会化は、民衆の莫大な犠牲を強いてすら、官僚機構の利益であり、システムの「論理」のうちにあった。
 事実上は社会から自立していた支配階級と国家の具現者であるスターリンは、ロシアの歴史上は以前に二度起こっていたことを行った。
 彼は、社会の有機的な分節から自立した新しい官僚制階層が生じるように呼び寄せ、それを全体としての民衆、労働者階級、に奉仕することから、あるいは党が相続したイデオロギーから、最終的には全て解放した。
 この階層はすぐにボルシェヴィキ運動内の「西欧化」要素を破壊し、マルクス主義の用語法をロシア帝国の強化と拡張のための手段として利用した。
 ソヴィエト・システムは、それ自身の民衆たちに対する戦争を絶えず行った。それは民衆が多くの抵抗を示したからではなく、主としては支配階級が戦争状態とその地位を維持するための攻撃とを必要としたからだ。
 微小な弱さであっても探ろうとしている外国の工作員、陰謀者、罷業者その他の者にもとづく敵からの国家に対する永続的な脅威は、権力を官僚機構が独占していることを正当化するためのイデオロギー的手段だ。
 戦争状態は、支配集団自体に損傷を与える。しかし、これは統治することの必要な対価の一部だ。//
 (5)マルクス主義がこのシステムに適合したイデオロギーだった理由に関してはすでに論述した。
 それは疑いなく、歴史上の新しい現象だった。しばしば歴史研究者や共産主義批判者が論及するロシアとビザンティンの全ての伝統-市民的民衆に<向かい合う>国家がもつ高い程度の自律性や<chinovnik>の道徳的かつ精神的な特質等-があったにもかかわらず。
 スターリニズムは、ロシア的伝統とマルクス主義の適合した形態にもとづいて、レーニズムを継承するものとして発現した。
 ロシアとビザンティンの遺産の重要性については、Berdyayev、Kucharzewski、Aronld Toynbee、Richard Pipes(リチャード・パイプス)、Tibor Szamuely やGustav Wetter のような著述者たちが議論している。//
 (6)このことから、生産手段を社会化する全ての試みは結果として必ず全体主義的社会をもたらす、ということが導かれるわけではない。全体主義的社会とは、全ての組織形態が国家によって押しつけられ、個人は国家の所有物のごとく扱われる、そういう社会だ。
 しかしながら、全ての生産手段の国有化と経済生活の国家計画(その計画が有効か否かを問わず)への完全な従属は、実際には全体主義的社会へと至ってしまう、というのは正しい。
 システムの基礎が、中央の権威が経済の全ての目標と形態を決定する、そして労働分野を含む経済はその権威による全ての分野での計画に従属する、ということにあるのだとすれば、官僚機構は、活動する唯一の社会勢力になり、生活のその他の分野をも不可分に支配する力を獲得するに違いない。
 多数の試みが、国有化することなく、経済的主導性を生産者の手に委ねつつ財産を社会化する手段を考案するために、なされてきた。
 このような考え方は、部分的にはユーゴスラヴィアに当てはまる。しかし、その結果は微小で曖昧すぎるものであるため、成功する明確な像を描くことができていない。
 しかしながら、根本的なのは、相互に制限し合う二つの原理がつねに作動している、ということだ。
 経済的主導性が生産のための個々の社会化された単位の手に委ねられる範囲が大きければそれだけ、またこの単位がもつ自立性の程度が大きければそれだけ、「自然発生的」な市場の法則、競争および利潤という動機、これらがもつ役割は大きくなるだろう。
 生産単位に完全な自律性を認める社会的な所有制という形態は、全員に開かれた、完全に自由な資本主義に元戻りすることになるだろう。唯一の違いは、個人的な工場所有者が集団的なそれに、すなわち生産者協同組合に、置き換えられることだけだ。
 計画の要素が大きくなればそれだけ、生産者協同組合の機能と権能は大きく制限される。
 しかしながら、程度の違いはあるけれども、経済計画という考え方は、発展した産業社会で受け入れられてきた。そして、計画と国家介入の増大は、官僚機構の肥大化を意味している。
 問題は、現代の産業文明の破壊を意味するだろう官僚機構をどのようにして除去するかではなく、代表制的な機関という手段によってその活動をどのようにして制御するかにある。//
 (7)マルクスの意図に関して言うと、彼の諸著作から抽出することのできる全ての留保にかかわらず、マルクスは疑いなく、社会主義社会は完全な統合体(unity)、私的所有制という経済的基盤が排除されるにともなって利益の衝突が消失する社会、の一つだろうと考えていた。
 マルクスは、この社会は議会制的政治機構(これは不可避的に民衆から疎外した官僚制を生じさせる)や市民の自由を防護する法の支配(rule of law)のようなブルジョア的諸装置を必要としないだろう、と考えた。
 ソヴィエト専制体制は、制度的な方法によって社会的統合体を生み出すことができるという考えと連結して、この教理を適用する試みだった。//
 (8-1)マルクス主義は自己賛美的ロシア官僚制のイデオロギーとなるべく運命づけられていた、と語るのは、馬鹿げているだろう。
 にもかかわらず、偶然にとか副次的にとかいうのではなく、マルクス主義は、この目的のために適応させることのできる、本質的な特質をもっていた。
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 段落の途中だがここで区切る。②につづく。

1940/L・コワコフスキ著第三巻第四章第11節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。 
 全体的に、以下の独語訳書(1979年、新改版1989)をも照合して、試訳とした。抽象度、理論度・「哲学」度が(試訳者には)高いので、趣旨を把握し難い部分があるからだ。従って、必ずしも英語訳書の「試訳」ではない(英語版と独語版の違いの印象についてはいずれ言及する)
 Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus.(1979年、新改版1989年)、Der dritter Band, Zerfall.
 試訳者のいちいちのコメントは原則として行っていない。但し、前回と今回の<弁証法的唯物論>批判は、マルクス主義「哲学」の根本にかかわるので、マルクス・エンゲルスに関する部分は未読だが、L・コワコフスキ著の理解にとって重要な部分だろう。表現を少し変えると、L・コワコフスキによると、「弁証法的唯物論」は結局は、つぎの三つの部分(範疇)で成っている(前回①の(3))。
 1.自明のこと。当たり前のこと。誰でも経験上知っていること又は簡単な想起で気づくこと。
 2.科学的に証明され得ないドグマ・教条。ドイツ語訳語の直接邦訳では「信仰告白」。
 3.たわ言・ナンセンスなこと。
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 第11節・弁証法的唯物論の認識論上の地位②。
  (7)私が弁証法的唯物論のうちのたわ言の(ナンセンスな)主張だと称した第三の範疇の中に、感覚は事物をそれと同じように「反射(reflect)する」ものだとの言明が入る。
 これは、プレハノフを攻撃したレーニンの主張だ。
 神経細胞の中で生じている何らかの過程、あるいは外部世界に存在する客体や過程を感知する「主観的」行為は、神経細胞の中に対応する変化を因果関係的に呼び起こすものと「同じような」ものだ、というこの命題の主張は、何を意味することができているのか。これを理解することはできない。
 もう一つのナンセンスな(スターリンは特別に称賛しはしなかったが、プレハノフによって提示され、マルクス主義の叙述で規則的に繰り返された)主張は、形式論理は静止状態にある現象に「適用される〔当てはまる〕」が、弁証法の論理は変化に「適用される」、というものだ。
 この馬鹿げた主張は、たいていは形式論理による表現が何を意味するかを理解することができないマルクス=レーニン主義者の無知の結果だ。そして、論じるに値しない
 (8)その他の諸主張は、すでに記したように、どのように解釈するかによって上の三つの範疇のいずれかに含まれる。
 その中にはとくに、「矛盾」に関する「弁証法の法則」なるものがある。
 多数のソヴィエトの教科書が教示するように、かりにこれが意味するのは、運動と変化は「内部矛盾」によって説明することができる、ということだとすれば、これは意味のない言明の一つだ。なぜならば、「矛盾」とは諸命題の関係を読み解く論理的な範疇であり、「矛盾した現象」とは何を意味するかを答えることは不可能だからだ。
 (少なくとも唯物論の主張からは不可能だ。ヘーゲル、スピノザおよび論理的関係と存在論的関係を見分ける(identify)その他の者たちの形而上学では、矛盾を抱えた存在という観念は、無意味ではない。)
 一方で、かりに、この言明が意味するのは、現実は緊張状態とそれに対抗する傾向の一つのシステムだと理解されなければならない、ということであるとすると、これは自明のことにすぎず、科学的探求や実践的行動に役立つ特有の帰結を何らもたらさないと考えられる。
 多くの現象が相互に影響し合うということ、人間社会は対立し調和しない利害によって分断されること、人々の行動はしばしば、意図していなかった結果をもたらすこと。-これらは陳腐で当たり前のことだ。
 そして、これらを「弁証法的方法」とか、「形而上学」思考とは対照的な深遠さをもつものとか言って高く評価するのは、マルクス主義の典型的な傲慢さのもう一つの例に他ならない。その傲慢さは、マルクスまたはレーニンが世界に授けた記念碑的な科学的発見だと、古来から知られた自明のことを述べているのだ。
 (9)真実(truth)は相対的(relative)だという、ずっと前にこの著で論述した主張もまた、この範疇に入るものの一つだ。
 真実の相対性ということがかりに、エンゲルスが記したように、科学の歴史ではいったん受容された見解はのちの研究によってしばしば完全に放棄されるのではなく、その有効性は限定的にだが承認される、ということを語っているにすぎないのであれば、この言明の正確さに関して論じる必要はなく、それは決してマルクス主義に特有のものではない。
 これに対して、この言明がかりに、「我々は全てを知ることはできない」または「判断はある状況では正しい(right)が、別の状況では正しくない」、ということを意味するのだとすれば、これらもまた、古代から自明のことだ。
 例えば、雨は干魃の場合には有益だが、洪水の状況ではそうでない、ということを知るために、我々がマルクスの知性を必要とすることはなかった。
 もちろんこれは、これまでにしばしば指摘してきたように、「雨は有益だ」との言述は状況に応じて真実だったり虚偽だったりする、ということを意味するものではない。上の言明は両義的で曖昧だ、ということを意味している。
 「雨は全ての状況で有益だ」ということをそれが意味しているならば、明らかに虚偽だ。
 「雨は一定範囲の状況では有益だ」と意味させているならば、明らかに真実だ。
 しかしながら、マルクス主義の真実の相対性という原理的考え方を、その意味を変えることをしないで、ある言述は状況に応じて真実だったり虚偽だったりし得る、ということを表現するものと我々が解釈するとすれば、この言明もまた、たわ言〔ナンセンス〕という第三の範疇に入る一つだ。我々がレーニンもそうしていたように、真実を伝統的な意味で理解する、ということを前提にするとすれば。
 他方で、「真実(truthful)の判断」とは「共産党にとって有用だと承認する判断」と同じものを意味しているとすれば、真実の相対性というこの原理的考え方は、ここでもう一度、明白に陳腐な常套句になる。
 (10)しかしながら、「真実」という語を発生論的(genetic)または伝統的のいずれの意味で理解しているのかという疑問は、マルクス主義の歴史の中でかつて明瞭には回答されてきていない。
 すでに述べたように、マルクスの諸著作には、人間の必要(needs, Bedürfnisse)との関係での「有効性」だと真実という語を理解しなければならない、ということを強く示唆するものがある。
 しかしレーニンは、かなり明確に、伝統的な理解に立って真実とは「現実との合致」だと主張していた。
 弁証法的唯物論に関するほとんどの手引き書はこの点でレーニンに従っていたが、もっと実践的で政治的な見方を示す兆候もまた、しばしば見られた。その見方によれば、社会的進歩を「表現」するものが真実だ。このような理解によれば、むろん党当局の諸決定が、真実か否かの規準となる。
 混乱を助長するのは、ロシア語には「真実」という二つの言葉があることだ。
 <istina>と<pravda>。前者は<is〔存在する,である〕>という伝統的な意味を表現する傾向がある。後者は、道徳的な色彩がより強く、「正しくて公平なこと」〔right, just〕または「なされるべきこと」を示唆する。
 このような両義性が、「真実」の発生論的観念と伝統的観念の区別が曖昧になるのを助けている。//
 (11)「理論と実践の統一」という原理的考え方について言うと、これもまた、異なる意味で理解することができる。
 これはときどきは単純に、何らかの実際的有用性のある問題についてのみ思考すべきだ、ということを多少とも示す規範の意味で用いられている。
 この場合には、この命題は、上に挙げた三つの範疇のいずれにも、これらは規範的であるとは言えないので、含まれない。
 記述的な言明だとして考察すると、人々は一般に実際的な必要の影響を受けて理論的な考察を行っている、ということを意味している可能性もある。
 これはゆるやかな意味では正しい。しかし、マルクス主義に特有のものではない。
 再びかりに、理論と実践の統一とは、実際的な成果が我々が実践行動の基礎にした思考の正しさ(rightness, Richtigkeit)を確認する、という意味だとすれば、受容可能な真実の標識だ。但し、絶対的な通用力が要求されないかぎりで。なぜならば、知識や科学の多数の分野では、実際的な確認(verification)なるものは、全く明らかに存在しない。
 最後に、この原理的考え方は、特殊にマルクス主義的な意味で理解され得る。すなわち、思考は行為の一側面であって、このことに気づいているということによって「真実」になる、という意味で。
 しかし、このような意味での理論と実践の統一なるものは、ソヴィエトの弁証法的唯物論には存在しなかった。
 理論と実践の統一の意味は、マルクス、コルシュおよびルカチに関する章で検討されている。//
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 第11節、終わり。次の第12節の表題は<スターリニズムの根源と意義。「新しい階級」の問題。>

1939/L・コワコフスキ著第三巻第四章第11節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。 
 ①のとくに後半について、以下の独語訳書(1979年、新改版1989)も参照した。
 Leszek Kolakowski, Die Hauptstroemungen des Marxismus.(1979年、新改版1989年)、Der dritter Band, Zerfall.
 原文の 'diamat'と'histmat'は途中から〔弁証法的唯物論〕や〔歴史的唯物論〕へと変えた。
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 第11節・弁証法的唯物論の認識論上の地位①。p.151-.
 (1)通称で言われた'diamat'〔弁証法的唯物論〕や'histmat'〔歴史的唯物論〕の、そしてソヴィエトのマルクス=レーニン主義一般の社会的機能は、それ自体を賛美し、帝国主義的膨張を含めたその諸政策を正当化するために、統治する官僚機構が用いたイデオロギーだ、ということにある。
 マルクス=レーニン主義を構成している全ての哲学的および歴史的原理は、わずかな単純な前提命題によって、その最高点と最終的な意味へと到達する。
 生産手段の国有制と定義される社会主義は歴史的には社会秩序の最高の形態であり、全ての労働人民の利益を代表する。
 ソヴィエト体制はゆえに進歩を具現化したものであり、そのようなものとして、いかなる異論に対しても当然に正しい(right)ものだ。
 公式の哲学と社会理論はたんに、特権をもつソヴィエト支配階級の自己賛美の修辞文に他ならない。
 (2)しかしながら、いったん社会的側面は考慮外として、宇宙〔世界〕に関する言明の集積である、スターリニズムの形態での弁証法的唯物論に関して考察しよう。
 マルクス、エンゲルスおよびレーニンの考え方との関係ですでに述べてきた多数の批判的論評は脇に置き、「弁証法的唯物論」にかかる主要な論点に集中するならば、以下のような考察をすることができる。//
 (3)弁証法的唯物論は、異なる性質の主張で成り立つ。
 ある部分は、マルクス主義に特有の内容をもたない自明のこと(truism)だ。
 つぎの別の部分は、科学的手段では証明することのできない哲学上のドグマだ。
 さらに第三にあるのは、全くのたわ言(nonsense, Unsinn)だ。
 最後の第四の範疇は異なる態様で解釈することのできる前提命題で成り立っており、その解釈次第で、上記の三分類のいずれかに含まれる。//
 (4)自明のことの中ではとくに、宇宙の全てのものは何らかの形で関係している、あるいは、全てのものは変化している、という言明のごとき「弁証法の法則」だ。
 誰一人として、これらの命題を否定しない。しかし、これらは認識論的または科学的な価値を全くほとんど有しない。
 第一の言明は、そのとおりだが、例えばライプニッツやスピノザの、形而上学という別の論脈では、確かな哲学上の意味をもつ。しかし、マルクス=レーニン主義ではそれは、認識上または実践上の重要性のある、いかなる帰結をも導かない。
 誰もが、現象は相互に関連すると知っている。しかし、世界を科学的に分析するという現存の問題は、我々には究極的には不可能なので、宇宙的相互関係をいかに考慮するか、にあるのではない。
 そうではなく、どのような関係が重要なもので、どの関係を無視することができるかを、いかにして決定するかが問題だ。
 マルクス=レーニン主義がこの点で我々に教えることができるのはただ、鎖でつながった現象にはつねに、把握されるべき「主要な連環」(main link, Hauptglied)がある、ということだ。
 これはたんに、実際には、追求している目的から見て一定の現象が重要であり、その他の現象は重要でないか無視できるものだ、ということを意味するにすぎない。
 しかし、これは認識上の価値のない、陳腐なこと(commonplace, triviale Alltagswahrheit)だ。我々は、いかなる規準でもってしても、全ての特定の場合について、重要性の程度の階層を確定することはできないのだから。
 「全てのものは変化している」という命題に関しても、同じことが言える。
 個々の変化、その本性、速さ等々に関する経験的な叙述にのみ、認識論上の価値がある。
 ヘラクレイトス(Heraklitus)の格言には、彼の時代の哲学的な意味があった。しかし、それはすみやかに誰でも知る一般常識、日常生活の知恵の範疇へと埋もれ込んだ。//
 (5)マルクス=レーニン主義者による、「科学」はマルクス主義を確証している、の信奉は、これらのような自明のことがマルクス主義による重大な発見だと叙述されたことにまさに依拠している。
 経験科学や歴史科学の真実というものは、一般論として言って、何かが変化しているとか、その変化が何か別のものと関係しているとか、を語るものであるので、全ての新しい科学的発見は、そのように理解される「マルクス主義」を確認することになるのだろう、と我々は認めることができる。//
 (6)証明することのできないドグマという第二の範疇に、話題を移す。これには、とりわけ唯物論それ自体の主要なテーゼが含まれる。
 マルクス主義の分析の低い水準によって、このテーゼはほとんど明瞭には定式化されておらず、その一般的に意味するところは十分に単純だ。
 すでに指摘したように、「世界はその性質において物質的だ」との言明は、レーニンの様態に倣ってたんに物理的固有性から抽出された「客観物」だと、あるいはレーニンが述べたように「意識から独立した存在」だと物質が定義されるのだとすれば、あらゆる意味を失う。
 意識という概念がまさにその物質という観念の中に含まれているということは別論として、「世界は物質的だ」との言明はたんに、世界は意識から独立したものだ、ということだけを意味することが分かる。
 しかし、これを全てに当てはめるならば、マルクス=レーニン主義自体が認めるように、一定範囲の現象は意識に依存しているのだから、明白に間違っている、というだけではない。それだけではなくて、唯物論にかかわる問題を解決することもしない。宗教的な人々の考えによれば、神、天使および悪魔もまた同様に、人間の意識から独立したものだ。
 他方で、物質は物理的固有性-外延範囲や貫通不可能性等々-だと定義されるとすれば、「物であると証明されない微小物体にはその規準-固有性の一定範囲-を当てはめることはできない、と論駁され得る。
 唯物論は、その初期の範型では、存在する全物体は日常生活のそれと同じ固有性をもつ、と考えた。
 しかしながら、基本的には、この命題は一定の消極的なものだ。すなわち、我々が直接に感知するものと本質的に異なる現実体は存在しない。また、世界は理性的存在によって生み出されたものではない。
 ちなみにこれは、エンゲルスが自ら定式化したことだった。すなわち、唯物論での問題の要点は、神は世界を創造したのか否か、だった。
 明らかに、神が存在した、または存在しなかったことの経験上の証拠は存在し得ないし、科学上の論議によって神が存在するか否かを決定することもできない。
 合理主義は、思考経済という(レーニンが否定した)考え方にもとづいて、経験上の情報の有力さにもとづいてではなく、神の存在を拒絶する。
 この考え方が前提とするのは、経験が我々に強いているとすれば、我々にはただ何かが存在することを受け容れる権利だけがある、ということだ。
 しかし、このような条件の明確化はそれ自体が論議を呼ぶもので、明瞭さからはほど遠い前提に依拠している。
 ここではこの問題に立ち入らないで、我々は、つぎのように確言することができる。すなわち、我々がこのように再定式化した唯物論のテーゼは、科学的な主張ではなく、ドグマ的な言明(dogmatic statement)〔信仰告白(Glaubensbekenntnis)〕だ。
 同じことは、「精神的な実体」や「人間の意識の非物質性」についても当てはまる。
 人間の意識はつねに肉体的な過程によって影響される、と人々は古い昔から気づいてきた。
 例えば、頭を棍棒で打って人を気絶させることができる、ということに気づくのに、長期の科学的な観察は必要でなかっただろう。
 だが、このことは、意識の過程が異なる肉体的条件に依存することに関してその後に研究しても、本質的なことを何も付け加えることはない。
 意識の非物質的な根底があると考える者たちは、意識と身体の間に連環はない、とはむろん主張しない。(かりにそうするとすれば、彼らは、デカルト、ライプニッツやマールブランシュ(Malebranche)のように、経験上の事実を考慮する複雑で技巧的な方策を考案しなければならない。)
 彼らはただ、身体上の過程は人間精神の働きを停止させることができるとしても、破壊することはできない、と主張する。-身体は、意識がそれを通じて作用するいわば媒体物だ。しかし、その意識の作用のための不可欠の条件ではない。
 こういう主張の正しさは、経験上は証明することができないが、反証することもできない。
 たんに、進化論は非物質的な精神を支持する議論に反駁したと、いかにしてマルクス主義の支持者たちは主張するのかも、一致していない。
 かりに人間という有機体が突然変異によって生命の下層から発生したのであれば、そのことから論理的には、精神の否定につながるわけではない。
 そうであるとすれば、現代的な進化論と意識の非物質的根底、または世界の目的論的見方すら、の間を同時に結びつける矛盾なき理論を生み出すのは、不可能だろう。
 しかし、そのような若干の理論が、ベルクソンを通じてフロシュアマー(Froschammer)からテイヤール・ド・シャルダン(Teilhard de Chardin)まで、存在した。そして、それらには何らかの矛盾がある、ということは、全く明瞭ではなかった。
 キリスト教哲学者もまた、教義に進化論の効果からの免疫をつけるための様々な可能性をすでに見出した。そして、この哲学は異論に対して開かれていたかもしれないが、自己矛盾があった、と言うこともできない、
 科学的作業に応用できる有効性という規準で判断すれば、唯物論のテーゼは、その反対理論と同じ程度には恣意的なものだった。//
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 ②へとつづく。

1931/L・コワコフスキ著第三巻第四章第10節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。 
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 第10節・スターリン晩年時代のソヴィエト文化の一般的特質②。
 (7)イデオロギー全体の礎石は、指導者に対する個人崇拝(cult)だった。これは、この時代にグロテスクで悪魔的な様相を見出したもので、のちの毛沢東に対する個人崇拝を例外として、おそらくは歴史上にこれを上回るものはない。
 スターリンを賛美する詩歌、小説および映画が、途切れない潮流の中に溢れ出た。彼の写真や肖像が全ての公共広場を飾った。
 作家、詩人、および哲学者はお互いに競って、新しい酒神礼賛的(dithyrambic)崇拝の形態を考案した。
託児所や幼稚園の子どもたちは、彼らの幸福な幼年生活について、スターリンに心溢れる感謝を捧げた。
 民衆の宗教心の形態は全て、歪められた形で復活した。すなわち、聖像(icon)、行列、声を揃えて朗読される祈り、(自己批判という名のもとでの)罪の告白、遺物崇拝。
 このようにしてマルクス主義は、宗教のパロディー(parody)となった。 但し、内容を欠いたパロディーだ。
 適当に選んで、以下は、この当時のある哲学上の著作にある、典型的な導入部だ。
 「同志スターリン、諸科学に関する偉大な指導者は、深さ、明瞭さ、および活力について無比の研究をして、弁証法的かつ歴史的唯物論の基礎の体系的論述を、共産主義の理論上の土台として、与えた。
同志スターリンの理論的諸著作は、全同盟共産党(ボルシェヴィキ)中央委員会およびソ連邦閣僚会議により、彼の70歳の誕生日での同志スターリンへの挨拶で、尊敬の念をもって語られた。
 『科学の偉大な指導者!。帝国主義、わが国におけるプロレタリア革命と社会主義の勝利という新しい時代に関連させてマルクス=レーニン主義を発展させた貴方の古典的な諸著作は、人類の巨大な達成物であり、革命的マルクス主義の百科辞典である。
 ソヴィエトの男女および全国の労働人民の指導的代表者たちは、労働者階級の運動の勝利へと向かう闘いにおいて、知識、確信および新たな強さを、共産主義への今日の闘争に関する最も焦眉の諸問題についての解答を見出しつつ、これら諸著作から獲得している。』
 <弁証法的および歴史的唯物論>に関する同志スターリンの輝かしい哲学的全集は、知識と世界の革命的変革の力強い手段であり、不可避的に打倒される宿命にある、唯物論の敵および資本主義社会の衰亡していくイデオロギーと文化、に対抗する圧倒的な武器である。
 それは、マルクス=レーニン主義世界観の発展…<中略>における新しい、至高の段階である。
 同志スターリンはその全集において、無比の明瞭さと簡潔さをもって、マルクス主義の弁証法的方法の基本的特質を解説し、自然と社会の法則的な発展に関する理解の重要性を指摘した。
 同じ深さ、力強さ、簡潔さおよび党政治上の決意をもって、同志スターリンは、その諸著作で、マルクス主義の哲学的唯物論の基本的特質…<以下略>を定式化した。」
 (V. M. Pozner, <マルクス主義の哲学的唯物論の基本的特質に関するJ. V. スターリン>、1950年)
 (8)スターリンは、ロシア史上の偉大な英雄たちを通じて、間接的にも称賛された。
 ピョートル大帝、イワン雷帝およびアレクサンダー・ネフスキーに関する映画や小説が、スターリンの栄誉のために捧げられた。
 (しかしながら、イワン雷帝のほかにスターリンの明確な命令にもとづきその<oprichnina〔親衛隊〕>または秘密警察を賛美するアイゼンシュタイン(Eisenstein)の映画は、スターリンが生きている間は上映されなかった。そうした映画は、いかに雷帝が、たとえ気が重くても、最も執念深い陰謀家たちの手を切り落とさざるをえなかったかを描写していたからだ。-なるほど、観客たちには疑いなく、まさしく札付きの悪漢だが、イワンは思慮深い政治家には期待され得たことを何もしなかった、という気分が残っただろうけれども。
 身長の低いスターリンは、映画や劇では、レーニンよりもかなり身長のある、背の高い男前の人間のように描かれた。//
 (9)ソヴィエト官僚機構の階層的構造は、スターリン崇拝が下位の者たちにまで影を落としていたということに見られた。
 全てではないにせよ多数の分野で、スターリンの線上で公式に「最も偉大な者」として知られる者たちがいた。
 スターリン自身が最高位を占める多数の場合-哲学者、理論家、政治家、戦略家、経済学者-は別として、例えば、誰が最も偉大な画家、生物学者、あるいはサーカスの道化師なのか、が知られていた。
(ちなみに、サーカスは1949年に、この分野でのブルジョア形式主義を非難した<プラウダ>上の論文でイデオロギー的に改革された。
 ユーモアの世界主義的形態へと堕落して、イデオロギー的内容がなく、階級敵に対処するために教育するのではなく、たんに人々を笑わせようとしていた上演者が、どうやらいたようだ。)//
 (10)この時代に、歴史の偽造と歴史研究者に対する圧力が、クライマクスに達した。
 帝制ロシアの外交政策は基本的に進歩的だった、とくにロシアによる征服は他民族にロシア文明の恵みをもたらした、ということを示すのは、歴史家の任務になった。
 レーニン全集の第四版は新しい文書をいくつか含んでいたが、別のいくつかは削除されていた。その中には、一国での社会主義の建設の不可能性に関する、きわめて断定的(categorical)な論述があった。また、ジョン・リード(John Reed)の<世界を震撼させた十日間>への熱心な序言も、そうだった。
 十月革命の間はペトログラードにいたリードは、レーニンとトロツキーについては多くのことを語っていたが、スターリンには全く言及していなかった。したがって、レーニンが彼の書物を世界に推奨するのは、〔スターリンには〕許しがたい<失態(gaffe)>だった。
 新しい版はまた、ほとんど完全に、執筆者が粛清によって殺戮された者たちである、いくつかのきわめて貴重な歴史的な論評や記述を、削除した。
 (こうした過去の再編集の方法は、スターリンの死でもって終わった。
 ベリヤ(Beriya)が新指導者によって死刑に処せられたその数カ月のち、<大ソヴィエト百科辞典>の申込み者たちはその次の巻の注意書きが、こう求めていることに気づいた。以前の一定の頁分をカミソリ刃を使って切除し、注意書きに添えられた新しい頁の用紙をそこに挿入するよう求めていることに。
 読者たちは、指示された場所を開いてみて、ベリヤに関する記載部分だと分かった。
 しかしながら、補充する新しい頁の用紙は、ベリヤに関するものでは全くなく、ベーリング海(Bering -)の追加の写真が掲載されたものだった。)
 歴史的な資料は、警察が例外なく握っており、それらを利用するのは、今日でもそうであるように、厳格に制限されていた。
 これはしばしば、賢い手段で判明することだった。すなわち、例えば、女性ジャーナリストがかつて古い教会区の書庫でレーニンの母親はユダヤ人の血を引いていると発見したとき、彼女にはこの情報をソヴィエトのプレスに掲載しようと試みる馬鹿正直さ(naïvety)すらがあった。//
 (11)この雰囲気は、当然にあらゆる種類の、適切に愛国的言語を用いて彼らの偉業を宣言する科学的ぺてん師を培養した。
 ルィセンコが最も有名だったが、他にも多数いた。
 Olga Lepeshinskaya という名前の生物学者は1950年に、無生の有機物から生細胞を作り出すのに成功したと発表した。そして、プレスはこれをブルジョア科学に対するソヴィエトのそれの優越性を証明するものだとして拍手喝采した。
 しかしながら、すみやかに、彼女の実験は全て無価値であることが判明した。
 スターリンの死後、なお一層衝撃的な記事が<プラウダ>に出た。それは、消費するよりも大きなエネルギーを生み出す機械がSaratov の工場で製造されたというものだった。
 -かくしてこれは、ついに熱力学の第二法則を定めて、同時に宇宙に放散されたエネルギーはどこかに(Saratov の工場に特定される)集中するはずだというエンゲルスの言明を確認することになる。
 しかしながら、のちにすみやかに、<プラウダ>は恥じ入った撤回記事を掲載しなければならなかった。-知的雰囲気がすでに変化してしまっていた徴しだった。//
 (12)書き言葉の世界も話し言葉の世界も、スターリン時代の雰囲気を忠実に反映していた。
 公共に対して何かを発表する目的は知らせることではなく、教示し、啓発することだった。
 プレスの内容は、ソヴィエト体制を賛美する、または帝国主義者を非難する報告だけだった。
 ソヴィエト同盟は、罪からのみならず自然災害からも免れていた。これらはともに、帝国主義諸国家の不幸な特権なのだった。
 事実上は、いかなる統計も公表されなかった。
 新聞の読者たちは、公然とは語られないが全ての者が知っている特殊な符号(code)で情報を得るのに慣れていた。
 例えば、党の幹部たちがあれこれの場合に名前を呼ばれる順序は、彼らがその時点でスターリンの好みの中のいかほどの位置にいるかを知る指標(index)だった。
 表面的には、「コスモポリタニズムおよび民族主義と闘おう」は「民族主義およびコスモポリタニズムと闘おう」と同じだと思えるかもしれなかった。しかし、ソヴィエトの読者は、スターリンの死後に後者の表現を見つけるやいなや、「方針が変わった」、民族主義が現在の主要な敵だと気づいた。
 ソヴィエト・イデオロギーの言語は暗示で成り立っており、直接的な言明によってではなかった。すなわち、<プラウダ>の指導的論文の読者は、決まり文句の洪水の真ん中にさりげなく書かれた単一の文章が掴みどころだと知っていた。
 意味を伝えるのは特定の言明の内容なのではなくて、言葉の順序であり、文章全体の構造なのだった。
 官僚制的な言語の独占、死んでいるがごとき非人間的な文章、そして不毛な言葉遣いは、社会主義文化のこり固まった聖典(canon)となった。
 多数の語句が、自動的に繰り返された。したがって、一つの言葉から次の言葉を予測することができた。例えば、「帝国主義者の凶暴な顔」、「ソヴィエト人民の栄光ある偉業」、「社会主義諸国家の揺るぎない友情」、「マルクス=レーニン主義の古典執筆者たちの不滅の業績」。-このような類の無数のステレオタイプの語句は、数百万のソヴィエト民衆の、知的な規定食(diet)だった。//
 (13)スターリンの哲学は、成り上がり者的な官僚制的心性に、形式と内容のいずれについても見事に適合していた。
 彼の論述のおかげで、誰もが30分で哲学者になることができた。真実を完全に所有するに至るだけではなくて、ブルジョア哲学者たちの馬鹿げて無意味な思想を知ることができた。
 例えば、カントは何かを知るのは不可能だと言ったが、我々ソヴィエト人民は多数の事物を知っている。カントには多すぎたのだ。
 ヘーゲルは世界は変わると言い、世界は観念(idea)で構成されていると考えた。にもかかわらず、誰でも、我々の周りにあるものは観念ではなくて物(things)であることを理解している。
 マッハ主義者は私が座っている椅子は私の頭の中にあると言ったが、明らかに、私の頭と椅子とは別の場所にある。
 このような考え方をして、哲学は、全ての小役人の遊戯場になった。彼らは、若干の常識的で自明なことを繰り返すことによって哲学上の問題を全て片付けたと思って、満足していたのだ。//
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 つづく第11節の表題は、「弁証法的唯物論の認知状態」。

1930/L・コワコフスキ著第三巻第四章第10節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第10節・スターリン晩年時代のソヴィエト文化の一般的特質①。
(1)この時代のソヴィエトの文化生活の独自性は、たんにスターリンに特有の独特な個性によるのではなかった。
 その独自性は一口で言うと、国家・国民の文化は成り上がり者(parvenu、成金者)のそれだった、と要約できるかもしれない。-全ての独自性はほとんど完璧に、初めて権力を享有した者の心性、信条、および好みを表現している。
 スターリン自身が、この独自性を高い程度に例証していた。しかし、統治機構の全体にも特徴的なもので、その成り上がり者性は、スターリンがそれを一方では隷属状態へと変えながらも、スターリンを助け続け、彼の至高の権威を維持し続けた。//
 (2)ボルシェヴィキの古い守り手たちや従前の知識人たちが連続して粛清され、絶滅したあと、ソヴィエトの支配階級は主として、労働者と農民の出自をもつ個人で構成された。彼らは乏しい教育しか受けておらず、文化的背景をもたず、特権を渇望し、純粋な「世襲の」知識人たちに対する憎悪と嫉妬を溢れるほどもっていた。
 成金者の本質的特性は「見せびらかす」ことへの絶え間なき切望感だ。したがって、彼らの文化は見せかけ(make-believe)であり、粉飾(window-dressing)だ。
 彼らは、従前の特権階層の知的な文化の代表的なものを自分の周囲に見ているかぎりは、心の平穏を持たない。それから遮断されていたがゆえに、彼らはそれを憎悪し、ブルジョア的または貴族的だとして貶す。
 成金者は狂信的な民族主義者で、その母国や環境は他の全てより優れているという考え方に飛びつく。
 自分たちの言語は、彼らによれば、(他の言語を通常は知らないが)<とくに優れた>言葉で、自分の微少な文化的資源でも世界で最も洗練されたものだと自分や他者の誰をも納得させようとする。
 彼らは、<アヴァン・ギャルド的(avant-garde)>な文化的実験の雰囲気があるものや、創造的な新奇さをひどく嫌悪する。
 限定された傾向の「一般常識」的格言でもって生活し、その格言類について誰かが説明を求めてきたときには、怒り狂う。//
 (3)成金者の心性のこうした特質は、スターリニスト文化の基本的なところにも感知することができる。すなわち、民族主義、「社会主義リアリズム」という美学、そして権力システムそれ自体にすら。
 彼らは、権威に対する農民に似た卑屈さを、権威を分有しようという大きな欲求と結びつける。ある程度まで階層が上がってしまうと、上位者にはひれ伏しつつ下位の者たちは踏みつけるだろう。
 スターリンは成金者たるロシアの偶像であり、栄光の夢の具現者だった。
 成金国家には権力の階層と、従属者をむち打ってもなお崇拝される指導者が存在しなければならない。//
 (4)既述のように、戦前に徐々に増大していたスターリニズムの文化的民族主義は、戦勝後には巨大な形をとった。
 1949年、プレスは「コスモポリタニズム」、明確には定義されていないが反愛国主義を明らかに含んで西側を称賛する悪徳、に対抗する宣伝運動を開始した。
 この運動が展開するにつれて、コスモポリタン〔世界主義者〕はユダヤ人と全く同一だということがますます理解されてきた。
 個々人が嘲笑されたり、ユダヤ的に響く従前の名前を持っていたときには、こうしたことが一般には言及されていた。
 「ソヴィエト愛国主義」はロシア排外主義と区別がつかないもので、公的な熱狂症(mania)になった。
 宣伝活動によって、全ての重要な技術的考案や発明がロシア人によってなされた、ということが絶え間なく語られ、この文脈で外国人に言及することはコスモポリタニズムおよび西側に屈服する罪悪だとされた。
 <大ソヴェト百科辞典>は、1949年末からそれ以降に出版された。これは、半分は滑稽で、半分は気味の悪い巨大熱狂症患者の、比類なき例だ。
 例えば、歴史部門の「自動車」の項は、こう書き始める。「1751-52年に、Nizhny Novgorod 地方の農民であるLeonty Shamshugenov(q.v.)が二人で動かす自己推進の車を作った」。
 「ブルジョア」文化、つまり西側文化は、腐敗と頽廃の温床だとして継続的に攻撃される。
 例えば以下は、ベルクソン(Bergson)に関する記述内容から抽出したものだ。〔以下のBは原文どおりで「ベルクソン」の意味〕//
 「フランスのブルジョア哲学者。-観念論者、政治と哲学について反動的。
 Bの直観主義(intuitionism)は理性と科学の役割を軽視し、社会に関する神秘主義理論は帝国主義者の哲学の土台として寄与している。
 彼の見方は帝国主義時代でのブルジョア・イデオロギーの退廃、階級矛盾の増大に直面したブルジョアジーの攻撃性の成長、プロレタリアートの階級闘争の深化に対する恐怖、…<中略>を鮮やかに示している。
 資本主義の初期の全般的危機とその全ての矛盾の激化の時期に、唯物論、無神論、科学的知識の狂気じみた敵、民主主義の敵および階級的抑圧からの被搾取大衆の解放の敵として、その哲学をえせ科学的切り屑で偽装して…<中略>、Bは出現した。
 Bは、観念論を『新しく』正当化するものとして、『内的映像』による認識について生活、実践と科学によって以前にとっくに反証されている…<中略>、古代の神秘主義者、中世の神学者の見方を、提示しようとした。
 弁証法的唯物論は、直観という観念論的理論を、世界と現実に関する知識は何らかのきわめて感覚的な方法によってではなく人間性に関する社会歴史的な実践を通じて生まれる、という論駁し難い事実でもって拒否する。
 Bの直観主義は、不可避的に迫り来る資本主義の崩壊を前にした帝国主義的ブルジョアジーの恐怖と、現実に関する科学的な知識、とくにマルクス=レーニン主義の科学が発見した社会発展の法則が抗し難く意味するもの…<中略>から逃亡しようとする切実さを、表現している。
 Bは、民族の至高性の敵として、ブルジョア的コスモポリタニズム、世界資本主義の支配、ブルジョア的宗教と道徳を擁護した。
 Bは、残虐なブルジョアの独裁や、労働者を抑圧するテロリストの手段に賛同した。
 第一と第二の大戦の間に、この戦闘的な反啓蒙主義者は、帝国主義的戦争は『必要』でありかつ『有益』だと主張した…<以下略>。」//
 (5)もう一つ、以下は、「印象主義(Impressionism)」に関する記述内容だ。〔以下のIは原文どおりで「印象主義」のこと〕
 「19世紀の後半のブルジョア芸術における退廃的傾向。
 Iは、ブルジョア芸術の初期段階の退廃の結果で(<デカダンス>を見よ)、進歩的な民族的諸伝統と断絶したものである。
 Iの支持者は、『芸術のための芸術』という空虚で反民衆的な基本綱領を擁護し、客観的現実の真実に合った現実的な描写を拒否し、芸術家は自分の主観的な印象によってのみ記録しなければならないと主張した…<略>。
 Iの主観的観念論的見方は、哲学における現在の反動的趨勢の基本原理と関係がある。-新カント主義、マッハ主義(q.v.)等。これらは現実と感覚を、印象と理性を分離させた…<略>。
 人類、社会現象および芸術の社会的機能には無関心のままで、客観的な真実の諸規準を拒否することによって、Iの支持者は、現実の実像を崩壊させ、芸術の形態を喪失している…<中略>、そのような作品を不可避的に生み出した。」
 (6)ソヴィエト同盟の世界の文化からの孤立は、ほとんど完璧だ。
 西側の共産主義者の若干のプロパガンダ的作業は別として、ソヴィエトの読者たちは、小説、詩作、戯曲、映画、そして言うまでもなく哲学や社会科学の形態で西側が生み出しているものに関して、全く無知の状態に置かれたままだった。
 レニングラードのエルミタージュ(Hermitage)にある20世紀絵画の豊かな貯蔵作品は、正直な市民を腐敗させないように、地下室に置かれたままだった。
 ソヴィエトの映画や戯曲は、戦争と帝国主義に奉仕するブルジョア学者たちの仮面を剥ぎ取り、ソヴィエトの生活の無類の愉楽さを称賛した。
 「社会主義リアリズム」が至高のものとして支配した。もちろん、ソヴィエトの現実をその現実のままに提示する-これは生硬な自然主義かつ一種の形式主義になっただろう-という意味でではなく、自分たちの国とスターリンを愛するようにソヴィエト人民を教育するという意味でだが。
 この時期の「社会主義リアリズム」の建築物は、スターリン主義イデオロギーの最も権威ある記念碑だ。
 ここでもまた、支配的原理は「形式に対する内容の優越性」だった。但し、この二つが建築物についてどう区別されるのか、誰も説明することができなかったけれども。
 その影響は、いかなる場合でも、誇張されたビザンティン様式の尊大な正面〔ファサード〕を造ることだった。
 住宅がほとんど建設されておらず、大中の市や町の数百万の民衆が汚い中で群がって生活しているときに、モスクワや他の都市を装飾したのは、虚偽の円柱と上辺だけの飾りに満ちた、かつその大きさは「スターリン時代」の荘厳さに釣り合う、巨大な新しい宮殿だった。
 こうしたことはまた、建築分野での、典型的な成り上がり者様式だった。要約するならば、つぎのモットーになるだろう。すなわち、「大きいものは美しい」。//
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 ②へとつづく。

1926/L・コワコフスキ著第三巻第四章第9節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第9節・ソヴィエト経済に関するスターリン。
 (1)スターリンの最後の理論的著作は、1952年9月に党機関誌<ボルシェヴィキ>に掲載した論文だった。これは「ソ連邦の社会主義の経済的諸問題」と題して、来る第19回党大会の基礎的文書となることを意図していた。
 その理論上の主張は、社会主義も「客観的な経済法則」に服する、計画立案に際してはその長所を生かさなければならず、それを恣意的に無視することはできない、ということだった。
 とくに価値の法則は、社会主義のもとで当てはまる。-この言明が意味したのはおそらく、金銭はソヴィエト同盟で有用だ、そして経済を作動させていくには利益や歳入と歳出の均衡について説明する責任が果たされなければならない、ということだつた。
 「社会主義の経済法則の客観性」という原理は、Nikolai Voznensky に対する非難を暗に含んでいた。この人物は、戦前は国家計画委員会の長で、のちに副首相となり、政治局員だった。
 彼は1950年に、裏切り者として射殺された。そして、対ドイツ戦争中のソヴィエト経済に関するその書物は、流通から排除された。
 その書物は含みとしては、社会主義が客観的経済法則に服することを否定し、その代わりに全経済過程が国家の計画権能に従属すると主張していた。
 しかしながら、スターリンは、価値法則を擁護し、読者に対して、資本主義は最大限の利潤を求める原理に支配されているが、社会主義経済の指針的規範は人間の必要性〔需要〕を最大限に充足させることだ、と保証した。
 (いかにして社会主義の利潤的効果がスターリンが主張するように国家計画立案当局の意思から独立した「客観的法則」であり得るのか、とくに、いかにしてこの「法則」が「価値の法則」と同時に作動するのかは、明瞭ではない。)
 スターリンの論文はまた、ソヴィエト同盟の共産主義段階への移行に関する基本綱領を概述した。すなわち、この移行のために必要なことは、都市と地方の対立や肉体的作業と精神的作業の対立を除去し、集団農場の財産を国有財産の地位へと高めること(言い換えると事実上は、集団農場を国有農場に変えること)、そして生産を増大させ、文化の一般的水準を高めることだ。
 (2)将来の完全な共産主義社会に関するスターリンの考え方は、伝統的なマルクス主義の主題の繰り返しだった。
 「経済の客観的法則」について言うと、その論文から導かれ得る唯一の実践的メッセージは明らかに、経済を職責とする者たちは民衆の必要性を最大限に充足しようと努力しているが、経済上の説明を明確にする責任(economic accountability)もまた見失ってはならない、ということだった。//
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 第10節の表題は、「スターリン晩年時代のソヴィエト文化の一般的特質」。

1925/L・コワコフスキ著第三巻第四章第8節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第8節・スターリンと言語学(philology)。
 (1)国際的緊張が最高に達した朝鮮戦争の最初の数日間に、スターリンは、進歩的人類の指導者、至高の哲学者、科学者および戦略家等々という既存の名称に、さらに特記して世界で最大の言語学者なるものを追加した。
 (知られているかぎりで、彼が取得している言語能力はロシア語と母国のジョージア語に限られていた。)
 1950年5月、<プラウダ>は言語学、とくにNikolai Y. Marr(マル、1864-1934)の理論の理論上の諸問題に関するシンポジウム内容を掲載した。
 コーコサス諸言語の専門家のマルは、その晩年にかけてマルクス主義言語学の体系を構築しようと努め、ソヴィエト同盟ではこの分野の最高権威者だと見なされていた。すなわち、幻想者だとして彼を拒絶した言語学者たちは、嫌がらせを受け、迫害された。
 マルの理論は、言語は「イデオロギー」の一形態で、そのようなものとして上部構造の一つであり、階級システムの一部だ、というものだった。
 言語の進化は、社会的編成の質的な変化に対応した「質的跳躍」によって生じる。
 人類が話し言葉を開発する前は身振り言語を用いており、それは、原始的な階級なき社会に対応していた。
 話し言葉は、階級ある社会の特質だ。そして、将来の階級なき共同社会では、普遍的な思考(thought)の言語(確かに、マルはこれについて多くを説明することができなかったが)に取って代わられるだろう。
 こうした理論全体が偏執症的(paranoid)な妄想の兆候を示していた。そして、これが長年にわたって<とくに秀れた(par excellence)>言語学で、唯一の「進歩的」言語理論だ、と位置づけられたという事実自体が、ソヴェト文化の実態を雄弁に物語っている。//
 (2)スターリンは<プラウダ>6月29日号に掲載した論文で論議に介入し、さらに読者の手紙に四つの回答をして説明した。
 彼はマル理論を非難し、言語は上部構造の一つではなく、その性格においてイデオロギー的なものでもない、と宣告した。
 言語は土台の一部でもなく、創造的な諸力と直接に「連環」している。
 言語は全体としての社会の一部であり、特定の階級のものではない。階級により決定される諸表現は語彙全体のほんの断片にすぎない。
 言語が「質的跳躍」あるいは「暴発」によって発展するというのも、正しくない。ある特質が消失していき、新しい特質が発生してくるように、徐々に変化するのだ。
 二つの言語が競い合うとき、その結果は新しい合成言語なのではなく、他方に対する一方の勝利だ。
 将来での言語の「死滅」と思考による代替に関して、マルは根本的に間違っている。すなわち、思考は言葉と連結しており、言葉なくしては存在することができない。
 人々は、言葉によって思考する。
 スターリンは、この機会を利用して、土台と上部構造に関するマルクス主義理論を明確にすべく繰り返した。第一に、土台は生産力で成るのではなく、生産関係による。第二に、上部構造は土台に対して道具として「奉仕する」。
 彼は、マルクス主義が自由な議論や批判を抑圧することで獲得した独占的地位を、(アレクサンダー一世の時代の専制的大臣を暗に示唆しつつ)強い調子で非難した。それでは知識を適切に発展させることが明らかに不可能だ、として。
 (3)言語は階級に関係する問題ではなく上部構造の一つでもないということは、フランスの資本家も労働者もフランス語を喋り、ロシア人は革命後もロシア語を話している、ということをたんに意味するにすぎない。
 だがこの発見は、言語学やその他の学問の史上での歴史的に画期的なものとして歓呼して迎えられた。
 学術上の会合や論議の大波が、天才の新しい仕事を褒め称えるために、国土じゅうを覆った。
 実際には、スターリンが述べたことは、感取できる自明のこと(truisms)に他ならない。しかし、マル理論の馬鹿々々しさを一掃してしまうためには有益だった。また、形式論理学と意味論(semantics)の研究に、ある程度の利益をもたらした。これら二つの分野の論者たちは、それらも上部構造の一部ではなく、研究することは必ずしも階級敵に転化するわけではない、と主張することができたのだ。
 土台との関係での上部構造の「補助的(auxiliary)機能」に関するスターリンの言明について言うと、これは誰にもすでによく知られている基礎的な原理、社会主義国家の文化は「政治的な客観物」の下僕であって自立性を要求してはならないという原理、を反復しているものだ。
 スターリンが自由な議論や批判を求めたことは、他のどの文化分野にも何の影響をももたらさなかった、ということは言うまでもない。
マル主義者は言語学の支配的地位から外された(彼らが政治的弾圧を受けたとは知られていないけれども)。他の点では、事態は従前のままだつた。
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 第9節の表題は「スターリンとソヴィエト経済」。

1922/L・コワコフスキ著第三巻第四章第7節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第7節・ソヴィエト科学に対する影響一般。
  (1)ルィセンコの事件は、体制による文化との闘争の歴史を、幸いにもかなりの程度、例証している。
 獲得された特性の遺伝の問題よりも宇宙論の問題にイデオロギーが多くかかわり合った、と容易に理解することができる。
宇宙には時間の始まりがあるという理論を弁証法的唯物論と調和させるのは困難だ。
 しかし、遺伝に関する染色体理論の場合は、明らかにそうではない。誰でも容易に、この理論はマルクス=レーニン=スターリン主義という不朽の思想を完璧に確認するものだと、勝利感をもって宣言する、と想像することができる。
 実際には、イデオロギー的闘いは、遺伝学の場合の方がとくに激しかった。党による介入が最も残虐な形態をとったのはまさにこの遺伝学の分野だった。一方で、宇宙論に対する扇動的攻撃は、かなり穏健なものだった。
 このような違いに関する論理的な説明を行うのは困難だ。すなわち、多くは偶然による。反対運動を担当したのは誰だったのか、スターリン個人は論争になっている問題に関心があったのか否か、等々。//
 (2)にもかかわらず、この時代の歴史を概観するならば、イデオロギー的圧力の強さに、コントやエンゲルスが確立した諸科学の階層に大まかには対応した、一定の段階的差異があることを感知し得るかもしれない。
 数学については圧力はほとんどゼロで、宇宙論と物理学についてはかなり強かった。生物学については、さらに強かった。そして、社会科学や人文科学については、圧力は最大限に強力だった。
 年代史的順序も、大まかにはこうした重要性の程度の差異を反映していた。
 社会科学は、最初から統制管理の対象だった。一方で、生物学や物理学はスターリニズムの最後の段階までは統制されなかった。
 スターリン後の時代に最初に自立性を取り戻したのは、物理学だった。しばらくして、生物学が続いた。だが、人文社会系(humanistic)学問はかなり厳格な支配のもとに置かれたままだった。//
 (3)イデオロギー的監督の中でも幸運な要素は、高次の神経機能に関する心理学と生理学の場合にも、見出すことができる。
 この分野の特質は、ロシアが世界的に有名なパブロフ(Ivan P. Pavlov )の誕生地だったことだ。1936年に死んだこの人物には若干の弟子たちがおり、彼らはパブロフの実験を継続し、またイデオロギー的圧力とは関係なくその理論を発展させることが許されていた。
 典型的にも、体制側は反対方向の極端へと進み、パブロフの理論を、生理学者や心理学者が逸脱することを禁止される、公式のドグマにまで屹立させた。
 かりにパブロフがイギリス人あるいはアメリカ人であったならば、彼の考えは、ソヴェトの哲学者によって厳しく非難されていただろう。パブロフ理論は条件反射によって精神作用を説明するがゆえに機械主義者だ、という根拠でもって。
 パブロフはまた、人間と動物の「質的な違い」を無視する等々によって人間の精神を神経活動という最も下位の形態へと「矮小化(reduce)」した、と責め立てられただろう。
 実際には、パブロフ理論は公式に神経生理学の分野でのマルクス=レーニン主義を代表するものとされ、この分野でのイデオロギー攻撃は他のどの分野よりも酷くなかった。
 にもかかわらず、たとえ真摯で科学的な実験にもとづいてはいても、一つの理論が国家と党のドグマにまで持ち上げられたという、まさにその事実こそが、研究の進展に対して激痛を与えるごとき効果をもった。//
 (4)ソヴィエト国家の利益に反して動いたイデオロギーのとくに驚くべき事例は、サイバネティクス〔人工頭脳学〕、動態的過程統制システムに関する科学、に対する攻撃だった。
 サイバネティクス研究は、全ての技術分野、とくに軍事技術、経済計画等々での自動化の発展に大きな貢献をした。しかし、マルクス=レーニン主義の純粋性という権威は、しばらくの間は、ソヴィエト同盟での自動化の進展を完全に抑えることができた。
 1952-53年、サイバネティクスという帝国主義的「えせ科学」に対する反対運動が起こされた。
 ここにはじつに、本当の哲学上の問題または哲学に準じた問題が介在していた。
 すなわち、社会生活がサイバネティクスの範疇でもって記述され得るのか否か、および記述され得る程度、精神的活動はいかなる意味でサイバネティクスの図式へと「推論され得る」のか、あるいは逆に、いかなる意味で、人工的なメカニズムの一定の作用が思考と同等であり得るのか、等々。
 しかし、本当のイデオロギー上の危険性は、サイバネティクスは西側で発展してきた広い視野をもつ学問分野で、その当否はともあれ、<普遍的数学(mathesis universalis)>、動態的現象を全て包含する一般的理論だと自己主張しているものだ、ということにあった。そのような自己主張は、正確にマルクス=レーニン主義こそが行っていたものだったからだ。
 非公式の(むろん公的な情報で確認されていない)報告によると、最終的にサイバネティクスに対する反対運動を中止させたのは軍隊だった。軍はその主題の実践的重要性に気づいており、ソヴェトの根本的な国家利益を損傷する反啓蒙主義的攻撃と闘うに十分な強さを持っていた。//
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 つぎの第8節の表題は「スターリンと言語学」。

1921/L・コワコフスキ著第三巻第四章第6節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第6節・マルクス=レーニン主義の遺伝学。
 (1)マルクス=レーニン主義と現代科学との間の全ての闘いの中で、遺伝学に関する論争ほど外部世界の注目を集めたものはなかった。
 公式の国家教理が遺伝の問題に関して用いて、かつ「論議」一般に破壊的な影響をもったやり方というのは、実際にとくに悪辣だった。
 相対性や量子理論の場合は、イデオロギー正統派が研究を妨害し確実に非難することに成功して勝者となった。しかし、正統派は反対派を完全に破壊してしまったわけではなかった。また、遺伝学の場合に起きたようには、反対派の理論の公式かつ絶対的な禁止をもたらしたわけでもなかった。//
 (2)戦前の段階でのルィセンコ(Lysenko)の活動については、すでに言及した。
 事態は、1948年8月のモスクワでの農業科学レーニン・アカデミーでの論議で、絶頂点に達した。
このとき、「メンデル=モルガン=ヴァイスマン主義者」が最終的に非難され、ルィセンコ自身が会合に対して発表したように、彼の考え方が党によって是認された。
 党がマルクス=レーニン主義と合致する唯一のものだと宣告したルィセンコの理論は、遺伝は「究極的には」環境の影響によって決定される、したがって一定の条件のもとでは、個々の生物(organism)がその人生を通じて獲得する特性(traits)はその子孫たちに継承〔遺伝〕される、というものだった。
 遺伝子(gene)なるものはなく、「遺伝という不変の実体」はなく、「固定した、変更不可能な種(species)」もない。そして、原理的に言えば、科学、とりわけソヴィエト科学が、現存する種を変形させて新しい種を生み出すことを妨げるものは、何もない。
 ルィセンコによれば、遺伝とは一生物の一つの属性にすぎず、その属性は、その生物が生きていく特有の条件を必要とし、またその生物が特有の方法でその環境に反応するということから生じる。
 一個体はその生の過程で環境条件と相互に影響し合い、その環境条件を自分自身の特性へと変える。そしてそれを、子孫たちへと伝達していくことができる。-このことは、代わりに、自分たちの特性を失うか、または遺伝によって伝達できる新しい特性を獲得することでありうる。それはまた、外部条件が決定しうるものだ。
 永遠(immortal)の遺伝という実体の存在を信じる進歩的科学の擁護者は、マルクス主義に反して、突然変異(mutation)は制御不可能な偶然によって生じると主張する。
 しかし、ルィセンコがアカデミーの会合で論じたように、「科学は、偶然なるものの敵だ」。そして科学は、生命の全過程が法則に従っており、それを人間の干渉によって支配することができる、と想定するよう義務づけられている。
 生物は「環境との統合体(unity)」を形成する。ゆえに原理的には無制限に、その環境を通じて生物に影響を与えることが可能だ。//
 (3)ルィセンコが提示した理論は第一に、農学者のミチュリン(Michurin、1855-1935)の発想と実験を発展させたものだった。第二に、「創造的ダーウィニズム」の例だとして提示された。
 ダーウィン(Darwin)が道を誤っていたのは、自然にある「質的跳躍」を認識しなかったこと、および種内部の闘争(最適者生存)を進化の主要な要因だと考えたことだった。 彼は、目的論的解釈に頼ることをしないで、進化を純粋に因果関係の意味で説明し、進化の過程の「進歩的」性格を明らかにしなかった。//
 (4)ルィセンコ理論の経験上の根拠に関して、今日の生物学者たちは疑いなく、ルィセンコの実験は科学的には無価値であり、間違って行われているか全く恣意的な解釈が施されているかのいずれかだ、と判断している。
 ルィセンコは1948年の会合から、ソヴィエトの生物科学の疑いなき指導者となって登場した。そして、観念論的、神秘主義的、スコラ主義的、形而上学的、およびブルジョア的で形式主義的な遺伝学の学者たちは完璧に粉砕された。
 全ての組織、雑誌および生物学に関連する出版団体は、ルィセンコと彼の助手たちの権威のもとに置かれた。そして多年にわたり、遺伝に関する染色体(chromosome)の理論の擁護者(<仮説だが(ex hypothesi)>、ファシスト、人種主義者、形而上学者、等々)が公衆に語りかけまたは活字となって登場することが許される、などということは全くの論外だった。
 「創造的ミュチュリン主義生物学」が至高ののものとして支配し、プレスにはルィセンコを称賛し、メンデル=モルガン主義者たちの邪悪な策略を非難する記事が洪水のごとく溢れた。
 ソヴィエト科学の栄光ある勝利は、無数の会合や集会で祝福された。  
 哲学者たちはもちろん、ただちにそうした運動に加わり、会合を組織し、反動に対する進歩の勝利を歓呼して喜ぶ多数の論文を執筆した。
 娯楽雑誌は、観念論的遺伝学の支持者を嘲弄した。そして、ルィセンコを賛美する歌までが作られた。「ミチュリンの足跡にそってしっかりと前進しよう。メンデル=モルガン主義者の陰謀を挫折させよう」。//
 (5)ルィセンコの経歴は、1948年以後の数年間にわたり継続した。
 その間に、彼の指揮のもとで、ある範囲の大草原地帯には浸食から畑地を守るべく森林帯が植え付けられた。しかし、その実験は完全な失敗だったことが分かった。
 1956年、スターリン死後のイデオロギー的な部分的雪解けの間、科学者が圧力を加えた結果として、ルィセンコは農業科学アカデミーの院長から外された。
 数年のち、フルシチョフの好意によって彼はいくつかの地位を回復した。しかし、のちに長く続いた全体的な救いにはならず、ルィセンコは最終的には舞台から消えた。
 ソヴィエトの生物学がルィセンコの支配によって被った損失は、計り知れないものだ。//
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つぎの第7章の表題は、「ヴィエト科学に対する一般的影響」。

1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 分冊版、p.131-136。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第5節・マルクス=レーニン主義と物理学・宇宙論。
(1)スターリニズムによる攻撃のとくに露骨な例は、自然科学へのイデオロギー的侵攻だった。
 無傷のままだった数学は別として、マルクス主義による統制運動は、全ての科学分野にある程度は影響を与えた。理論物理学、宇宙論、化学、遺伝学、医学、心理学、およびサイバネティクス〔人工頭脳学〕は全て、介入によって荒らされ、その頂点は1948-1953年だった。//
 (2)ソヴィエト物理学は、たいていの部分では、哲学上の議論にかかわってくる懸念はなかった。しかし、ある領域では、関係することが避けられなかった。
 量子理論も相対性理論も、一定の認識論上の前提を明らかにすることなくしては、十分に深化させることができなかった。
 決定主義の問題、観察される客体に対する観察行為の効果の問題、は明らかに哲学的な様相を帯びており、そのことは、世界じゅうの論議で承認されていた。//
 (3)ソヴィエト・ロシアとナツィ・ドイツは、相対性理論が攻撃され、公式イデオロギーと矛盾するとして禁止された、二つの国だった。
 既に述べたように、ソヴィエト同盟では、その攻撃運動は第二次大戦以前から始まっていたが、戦後の数年間に強化された。
 ドイツでは、相対性理論に反対する明白な論拠は、アインシュタイン(Einstein)はユダヤ人だ、ということだった。
 ロシアではこの点は挙げられず、批判が根拠にしていたのは、時間、空間および運動は客観的なもので、宇宙は無限だ、とするマルクス=レーニン主義の教義に反するものだ、ということだった。
 ジダノフは1947年に哲学者たちに対する挨拶の中で、宇宙は有限だと明言したアインシュタインの弟子たちを痛烈に非難した。
 哲学的批判は、つぎのようにも論じた。時間は客観的であるがゆえに同時発生性(simultaneity)との関連は絶対的なもので、特殊相対性理論が主張するような相関の枠組みに依存しているのではない。
 同じように、運動は物質の客観的な属性であり、そのゆえに動体の経路は同格者(co-ordinate)の制度によって部分的に決定されるということはあり得ない(これはむろんアインシュタインと同じくガリレオに対しても当てはまる論拠だ)。
 一般論として、アインシュタインは時間的関係と運動を「観察者」に依存させるので、換言すれば人間という主体に依存させるので、彼は主観主義者であり、そして観念論者だ。
 この論議に参加した哲学者たち(A. A. Maksimov、G. I. Naan、M. E. Omelyanovskyその他)は、批判対象をアインシュタインに限定しないで「ブルジョア科学」の全体を攻撃した。すなわち、彼らの好みの攻撃対象は、Eddington、Jeans、Heisenberg、Schrödinger および名のある全ての物理学方法論者たちだった。
 さらに、アインシュタインがかりに相対性理論の最初のアイディアをマッハ(Mach)から得たことを認めていれば、どうだっただろう? レーニンは、マッハの反啓蒙主義(obscurantist)哲学を罵倒したのだったが。
 (4)しかしながら、(古くさいやり方で一般相対性理論や空間の同質性の問題にも触れていた)論議の本質的な論点は、アインシュタインの理論の内容とマルクス=レーニン主義の間の矛盾にあるのでは全くなかった。
 時間、空間および運動に関するマルクス主義の教理は、何らかの特別の論理的な困難さがなければアインシュタイン物理学と調和することができない、というほどに厳密なものではなかった。
 相対性理論は弁証法的唯物論を確認するものだと主張することすら、可能だった。このような擁護の主張は著名な理論物理学者のV. A. Fock がとくに行った。この人物は同時に、アインシュタインの理論は限定された有効性をもつ、という見方を支持する科学的な論拠を提示した。
 アインシュタインに-そしてじつに現代科学のほとんどの成果に-反対する運動には、しかしながら、二つの基本的な動機があった。
 第一に、「ブルジョア対社会主義」とは実際には「西側対ソヴィエト」と同じことを意味した。
 スターリニズムという国家教理はソヴィエト排外主義を含むもので、「ブルジョア文化」の重要な成果の全てを、系統的に拒否することを要求した。ブルジョア文化の中でもとりわけ、世界で唯一の国だけが進歩の根源となり一方では資本主義が衰退と崩壊の状態にある1917年以降に生じたものを。
 ソヴィエト排外主義に加えて、第二の動機があった。
 マルクス=レーニン主義の単純な教理は、多くの点で、教育を受けていない人々の一般常識的な日常的観念と符号している。例えば、レーニンが経験批判論に対する攻撃で訴えかけたのは、そのような諸観念だった。
 他方で相対性理論は、疑いなく、ある範囲において一般常識を攻撃するものだ。
 同時発生性、範囲と運動の絶対性および空間の画一性は、我々が当然のこととして受容している日常生活の前提だ。そしてアインシュタインの理論は、地球が太陽の周りを回転しているとのガリレオの逆説的主張と全く同じように、この前提を侵害する。
 かくして、アインシュタインを批判するのは、ソヴィエト排外主義のためだけではなくて、我々の感覚にある平易な証拠とは合致しない理論を拒否するという、ふつうの保守主義のゆえでもあった。//
 (5)「物理学における観念論」に対する闘いは、同様の動機で、量子(quantum)理論にも向けられた。
 コペンハーゲン学派が受容した量子力学の認識論的解釈は、ある範囲のソヴィエト物理学者の支持を得た。
 論議の引き金となったのは、すでに言及した1947年のマルコフ(M. A. Markov)の論文だつた。
 マルコフは二つの基本的な点でBohr とHeisenberrg に従っており、それらはマルクス=レーニン主義哲学者の反発を引き起こした。
 第一に、位置と微粒子(microparticle)の運動量とを同時に測定するのは不可能であるがゆえに、粒子が明確な位置と明確な運動量を<持つ>とか、観察技術に欠陥があるためにのみ両者を同時に測定することができないとか主張するのは、無意味だ。
 こういう考え方は、多数の物理学者の一般的な経験的見方と合致していた。すなわち、客体の唯一の現実的属性は、経験的に感知できるということだ。客体が一定の属性をもつがそれを確認する可能性はないと言うのは、自己矛盾しているか、無意味であるかのいずれかだ。
 したがって、粒子は明確な位置と運動量とを同時には有しておらず、測定する過程ではこれらのいずれかが粒子に帰属する、ということを承認しなければならない。
 同意されなかった第二の点は、微小物体(micro-object)の行動を文字で記述する可能性に関係していた。これは、大物体とは異なる属性をもち、ゆえに大物体を叙述するために進化してきた言語で性格づけることができない、とされた。
 マルコフによると、ミクロ物理現象を叙述する理論は不可避的にマクロ物理学の用語へと翻訳したものだ。したがって、我々が知って意味をもつものとして語ることのできる微小物理的実体は、部分的には測定の過程とそれを叙述するために用いる言語で構成されている。
 したがってまた、物理学理論は観察される宇宙の模写物を用意したものとして語ることはできず、マルコフは明確には述べなかったけれども、現実に関する全概念は、少なくとも微視物理学に関するかぎりは、認識するという活動の観点から逃れようもなく相対化される。-これは、明らかに、レーニンの反射(reflection)理論に反する。
 そのために、マルコフは、観念論者、不可知論者、そしてレーニンが批判したプレハノフの「象形文字」理論の支持者だとして、<哲学雑誌>の新しい編集者によって非難された。//
 (6)相対性理論とは違って、量子力学をマルクス=レーニン主義の意味での唯物論および決定論と調和させるのは困難だ、ということは強調しておかなければならない。
 粒子が一定の感知できない、その地位を明確にする物理的媒介変数をもつと言うことが無意味だとすれば、決定論という教理は根拠薄弱であるように見える。
 一定の物理的属性のまさにその存在が、それを感知するために用いる測定装置の存在を前提にしているのだとすると、物理学が観察する「客観的」世界という概念を意味あるものとして適用することは不可能になる。
 こうした諸問題は、決して想像上のものではない。その諸問題は、マルクス=レーニン主義とは全く無関係に、物理学で議論されてきたし、現に議論されている。
 ソヴィエト同盟では、とりわけD. I. Blokhintsev やV. A. Fock が理性的な議論をした。そして議論は、スターリン以後の時代へと継続してきている。
 1960年代、党のイデオロギストたちが科学理論の「適正さ」を決定すると言わなくなったときに、ほとんどのソヴィエト物理学者たちは決定論的見方を採用していことが明白になった。従前には潜在的な媒介変数の存在を執拗に要求したBlokhintsevも、そうだった。//
 (7)一般的に言って、物理学や他科学の哲学的側面に関するスターリン時代のいわゆる論争は、破壊的で、反科学的だった。それは非現実的な問題を扱ったからではない。学者たちと党イデオロギストたちの間の-よくあったことだが-対立では、国家とその警察機構の支持のある後者が勝利を得ることが保障されていたからだ。
 提示されている理論がマルクス=レーニン主義と合致していない、または合致していない疑いがある、という責任追及は、ときどきは刑法典のもとでの制裁へと転化し得たし、実際にそうなった。
 イデオロギストたちの大多数は、問題になっている争点について無知で、レーニンまたはスターリンの言葉に変化をつけた言明を見つけ出す技巧に長けていた。
 レーニンは物理学やその他の科学全てについての偉大な権威だと信じていない科学者たちは、党、国家およびロシア人民の敵だとして民衆むけプレスで「仮面を剥がされる」ことになった。
 「論議」はしばしば、政治的な魔女狩りへと退化した。
 警察が舞台に登場し、結論的な論難は理性的な議論と何の関係もなかった。
 現代的知的生活のほとんど全ての分野で、このような対応が進行し、党当局は決まって、学者や科学者たちに対する騒々しい無学者たちを後援した。
 「反動的」という語が何がしかの意味をもつとすれば、スターリン時代のマルクス=レーニン主義ほどに反動的な現象を考えつくのは困難だ。この時代は、科学やその他の文明の諸態様にある全ての新しくて創造的なものを、力ずくで抑圧した。//
 (8)化学も、別扱いではなかった。
 1949-1952年には、哲学雑誌や<プラウダ>で、構造化学と共鳴(resonance)理論が攻撃された。
 これは1930年代にPauling とWheland が提起してある範囲のソヴィエト化学者に受容されていたが、今や観念論、マッハ主義、機械主義、反動的等々と非難された。//
 (9)さらに微妙なイデオロギー上の主題は、宇宙論や宇宙発生学の現代的諸理論の哲学的側面に関する論議に関係していた。そこから明らかになるのは、基本的諸問題に対する現存する回答の全ては、マルクス=レーニン主義にとっては好ましくない、ということだった。
 膨張する宇宙に関する多様な理論を受容するのは困難だった。それは不可避的に、「宇宙はいかにして始まったのか?」という問題を惹起し、我々が知る宇宙は有限であって時間上の始まりがあると、いうことを示唆するからだった。
 このことは次いで創造主義(creationism、多数の西側の執筆者が受容した推論)を支持し、マルクス=レーニン主義の観点からはより悪いことは何も想像され得なかった。
 宇宙は膨張し続けるが新しい粒子が発生し続けるので物質の運命は同じであるままだ、という補足的な理論は、かくして、「自然の弁証法」と矛盾した。
 このゆえにそののちは、これら二つの仮説のいずれかを支持して主張する西側の物理学者や天文学者は、自動的にすぐに宗教の擁護者だと記述された。
 宇宙は膨張か収縮かの二者択一的段階を経由するという、脈動する宇宙に関する選択肢理論は、時間の始まりに関する面倒な議論から自由だった。しかしこれは、物質の単一方向的進化というマルクス=レーニン主義の教理と矛盾していた。
 「弁証法の第二法則」が要求するように、脈動する宇宙は「循環的」なもので、「発展」とか「進歩」とかと言うことはできないものだった。
 ディレンマを抜け出すのは困難だった。単一方向の原理は創造という観念を含んでいるように見える。一方では、反対の理論は「無限の発展」という原理と対立していた。
 宇宙論に関する討議に参加した者たちの一方には、天文学者や天文物理学者(V. A. Ambartsumian、O. Y. Schmidt)がおり、彼らは科学的な方法で結論に到達しており、そして弁証法的唯物論と調和していることを示そうと努力した。
 他方には、イデオロギー上の正統派の観点から問題を判断する、哲学者たちがいた。
 宇宙は時間も空間も無限だということ、そしてそれは永遠に「発展する」に違いないということは、マルクス=レーニン主義がそこから離れることのできない、哲学上のドグマだった。
 こうして、党という盾に守られたソヴィエトの哲学者たちは、教養ある人々をあらゆる分野で圧迫し、ソヴィエト科学の基本教条に対して莫大な害悪を与えた。//
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 第6節の表題は「マルクス=レーニン主義の遺伝学」、第7章のそれは「ソヴィエト科学に対する一般的影響」。
 下は、Leszek Kolakowskiが1960年代に離国前までワルシャワで住んだアパートメント。ネット上より。
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1919/L・コワコフスキ著第三巻第四章第4節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 分冊版p.130-1. 短い節で、段落の区切りはない。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第4節・経済論議。
 ジダノフが哲学者たちに対処していたのと同じ時期に、経済学もまた、イデオロギー的迫害(purge)を受けた。
 この分野では、第二次大戦が資本主義経済に与えた影響に関して1946年に出版されたVarga の書物が事例となった。
 イェネ・ヴァルガ(Jenő Varga, 1879-1964)はハンガリー出自の著名な経済学者で、短命のベラ・クーン(Béla Kun)共産主義共和国の崩壊以降はソヴィエト同盟で生活し、経済動向を観察して資本主義体制の危機を予測することを目的とする、世界経済研究所の所長だった。
 この書物で彼は、戦争が資本主義経済にもたらした永続的変化を検証しようとした。
 戦争がブルジョア国家に強いたのは、ある程度の経済計画を導入し、国家の機能を格段に肥大化させることだった。とくに、イギリスとアメリカ合衆国で。
 生産に対する販路の問題は決定的ではなくなり、市場を求めての闘いは国際問題の基本的な要因ではもうなくなった。
 しかしながら、資本の輸出が、いっそう重要性をもつようになった。
 予想され得るのは、アメリカ合衆国での過剰生産と西側ヨーロッパの戦時中の破壊が結びついて、資本主義がアメリカ資本をヨーロッパへと大規模に輸出することで救いを見出そうとする、そのような危機を生じさせるだろう、ということだった。
 ヴァルガの理論は1947年に、また再び1948年10月に、論議の対象となった。
 批判者、とくにスターリン時代の主要経済学者のK. V. Ostrovityznovは、ヴァルガを責め立てた。計画は資本主義のもとでも可能だと考えており、経済を政治と分離させており、そして階級闘争を無視している、と。
 ヴァルガは資本主義の一般的危機を看取することができていない。そして、ブルジョア国家に対する資本の力を強調するのではなく、国家は資本による制御のもとにあると想定するという過ちを冒した、とされた。
 加えて、ヴァルガは世界主義者で、西側の科学、改良主義、客観主義に屈服しており、かつレーニンを過少評価している、と追及された。
 こうした批判の拠り所は在来的なものだった。しかし、ヴァルガの書物の要点は、じつに、スターリニスト・イデオロギーと合致していない、ということにあった。
 資本主義は危機的状況を乗り越える方法をますます開発してきているとのヴァルガの結論的主張は、資本主義の矛盾は毎日のごとくますます激しくなってきており、資本主義の全般的危機はいっそう深刻になっている、というレーニンの教えおよび過去30年間の党の基本的考え方とは明らかに真反対のものだった。
 ヴァルガは最初の論議の後では自己批判を行わなかったが、1949年についに屈した。
 彼はその主要な役職を解任され、彼が編集していた雑誌は閉刊となった。
 しかしながら、ヴァルガは、スターリンの死後に名誉回復した。そして、その考え方を1964年に出版した書物で反復しかつ発展させた。その本で彼は、以前に考えられていた図式と矛盾する事実を認識しようとしないスターリンおよびスターリン・イデオロギストたちの教条的な無能力さを批判した。
 ロシアで刊行されなかったが彼の死後に西側に伝わった草稿では、ヴァルガはさらに進んで、こう主張していた。ロシアで社会主義を建設するというレーニンの企図は誤りだと分かった、ソヴィエト体制の官僚化の原因は部分的にはレーニンの誤った前提にある、と。//
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 つぎの第5節の表題は、「物理学と宇宙論でのマルクス=レーニン主義」。

1918/L・コワコフスキ著第三巻第四章第3節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(英訳書、1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第3節・1947年の哲学論争。
 (1)文学のつぎは、哲学が戒めを受ける番だった。
 党による運動の対象は、1946年に出版された、G. F. Aleksandrov の<西洋哲学史>だった。
 この書物の内容は完全に正統派で、マルクス=レーニン主義からの引用で充ちており、党に真に献身する気持ちで書かれていた。
 これはほとんど歴史的な価値のない、民衆むけの陳列書だったが、叙述する諸教理の「階級的内容」に十分な注意を払っていた。
 しかしながら、党が嗅ぎつけたのは、この書は西洋哲学のみを対象にしており、その叙述が1848年で終わっており、ロシア哲学の比類なき優越性を十分に描写していない、ということだった。
 1947年6月、中央委員会は大がかりな議論を組織し、そこでジダノフは、哲学に関する著者に対する訓令を定式化した。
 彼は演説の一部でAleksandrov の書物に触れ、これは党の精神を叙述していない、と宣告した。この著者は、マルクス主義は哲学の歴史上の「質的な跳躍」をしたもので、哲学が資本主義に対する闘争でのプロレタリアートの武器となる、そういう新しい時代の始まりを画したものであることを指摘していない、と。
 Aleksandrov は腐敗した「客観主義」に堕している。すなわち、多様なブルジョア思想家の思索をたんに中立的な精神で記録したにすぎず、唯一の正しい(true)、進歩的なマルクス=レーニン主義哲学の勝利のために果敢に闘うことを行っていない。
 ロシア哲学を割愛していること自体が、ブルジョア的傾向に屈服している標識だ。
 Aleksandrovの仲間たちがこの明瞭な欠陥を批判してこなかったことは、同志スターリンの個人的な介在のおかげで明らかになった。そしてそのことは、彼ら全員が「哲学戦線」にいるのではなく、彼ら哲学者たちがボルシェヴィキの戦闘的精神を喪失していることの明白な証拠だ。//
 (2)ジダノフがソヴィエト同盟の哲学上の仕事について定めた規範は、三点に要約できるだろう。
 第一に、哲学の歴史は科学的唯物論の誕生と発展の歴史であり、かつ観念論がその発展を阻害している間は観念論との闘争の歴史だ、ということを絶対に忘れてはならない。
 第二に、マルクス主義は、哲学上の革命だ。すなわち、マルクス主義はエリートたちの手から哲学を奪い取り、哲学を一般大衆の財産にした。
 ブルジョア哲学はマルクス主義の成立以降は衰亡と解体の過程にあり、価値のある何物をも生み出すことができないでいる。
 過去百年の哲学の歴史は、マルクス主義の歴史だ。
 ブルジョア哲学と闘うために舵をとる羅針盤となったのは、レーニンの<唯物論と経験批判論>だった。
 Aleksandrov の書物は「歯抜けの菜食主義者」の精神を示している。重要問題は階級闘争ではなく、ある種の普遍的な文化のごとくだ。
 第三に、「ヘーゲルの問題」はマルクス主義によってすでに解決されており、それに立ち戻る必要はない。
 一般論として、哲学者は過去を掘り返すのではなく社会主義社会の諸問題に参加し、現今の諸論点に関係しなければならない。
 新しい社会では、もう階級闘争は存在しない。しかし、新しき者に対する古き者の闘いはまだ残っている。
 この闘いの形態は、ゆえに進歩の主導的力および党が選ぶ道具は、批判と自己批判だ。
 これこそは、進歩的社会の新しい「発展に関する弁証法的法則」だ。//
 (3)「哲学戦線」の主要な構成員は全てこの議論に参加し、党の訓令に不和雷同し、マルクス主義に対する創造的な貢献をしかつソヴィエト哲学にあった誤りを是正したことについて同志スターリンに感謝を捧げた。
 Aleksandrovは儀礼的な自己批判を実施し、自分の著作が重大な過ちを含むことを承認した。それでもしかし、まだ慰めになったのは、彼の仲間たちが同志のジダノフによる批判を支持したことだった。
 Aleksandrov は党に対する揺るぎなき忠誠を誓約し、彼の方向を改めることを約束した。//
 (4)討議の間、ジダノフは、哲学に関する特別の雑誌の発行という考え方に反対し(三年前に<マルクス主義の旗の下に>が出版をやめていた)、党が月刊で出版する<ボルシェヴィキ>がこの分野の基礎を完全に十分に包含する、と論じた。
 しかしながら、最終的には、彼は譲歩して、<哲学の諸問題>の創刊に同意した。その第一号はその後すぐに刊行され、速記記録による討議の内容の報告を掲載した。
 最初の編集者は、V. M. Kedrov だった。この人物は、自然科学の歴史を専門にしており、たいていのソヴィエトの哲学者よりは文化を深く知っていた。
  しかしながら、彼は、この雑誌の第二号に著名な理論物理学者M. A. Markovの 「物理学的認識の自然」と題する論文を掲載するという、重大な過ちを冒した。その論文は、量子物理学の認識論的側面に関するコペンハーゲン学派の考え方を擁護するものだった。
 この論文は公式の週刊誌<Literary Gazettea〔文芸週報〕>でMaksimov によって攻撃され、Kedrov は見当違いだとして職を失った。//
 (5)1947年の議論は、ソヴィエトの哲学者が何をどのように書くべきかに関して疑問とする余地を、何ら残さなかった。
 かくして、ソヴィエト哲学の様式は、多年にわたり固定された。
 ジダノフは、スターリン・ロシアの時代に長く最高の権威を維持しつづけたエンゲルスの定式を反復するだけに抑えたのではなかった。その定式とは、哲学史の「内容」は唯物論と観念論の間の闘争だ、というものだ。
 新しい定式によれば、その真の内容は、マルクス主義の歴史だ。すなわち、マルクス、エンゲルス、レーニン、そしてスターリンの諸著作だ。
 換言すると、過去の理論家を分析したりそれらの階級的起源を解明したりすることは、哲学の歴史家が行うべき仕事ではない。彼らが行わなければならないのは、目的意識をもちかつ完全に、とっくに過去のものになったもの全てに対するマルクス=レーニン主義の優越性を証明し、一方で観念論の反動的な機能の「仮面を剥ぐこと」に、寄与することだ。
 例えば、アリストテレスについて叙述する際には、アリストテレスはあれこれのこと(例えば、個別的弁証法と普遍的弁証法)を「理解することができず」、あるいは恥ずかしくも観念論と唯物論との間で「揺れ動いた」、ということを示さなければならない。
 ジダノフの定式がもった効果は、事実上は哲学者たちの間の違いを排除することだった。
 唯物論者でありかつ観念論者である者が、つまり「揺れ動いた」者または「一貫しない」者がいたのだ。そして、そうしたことがこの定式の目的だった。
 この時代の哲学の出版物を読む者は誰でも、つぎのような印象を確実にもつだろう。すなわち、哲学の全体が「物質が始原的」と「精神が始原的」という二つの対立する主張から成っており、前者の見方が進歩的で、後者は反動的で迷信的だ、とされていること。
 聖アウグスティヌスは観念論者で、B・バウアー(Bruno Bauer)も同様だった。そして、読者の印象に残るのは、これらの哲学者たちは多かれ少なかれみな同じだ、ということだった。
 長く引用しないままでは、この時代のソヴィエト哲学の成果が信じ難いほどに未熟だったと理解するのは、検証していない者にとっては困難だろう。
 全体的に、歴史的研究は壁に打ち当たった。哲学の歴史に関する書物はほとんど出版されず、哲学上の古典の翻訳書についてもそうだった。アリストテレスとLucretius の<De Natura>を除いては。
 受容された唯一の歴史は、マルクス主義の歴史、またはロシア哲学の歴史だった。
 前者は、四人の古典を薄めて叙述したもので成り立っており、後者は、ロシア哲学の「進歩的な貢献」と西側の著作に対する優越性にかかわっていた。
 かくして、Chernyshesky はいかにフォイエルバハよりもはるかに優れているかを示したり、ヘルツェン(Hertsen)の弁証法、Radishchev の進歩的美学、Debrolyubov の唯物論等々を称賛する論文や小冊子があつた。//
 (6)もちろん、イデオロギー的迫害は、論理の研究を省略したわけではなかった。マルクス=レーニン主義でのその位置は、最初から疑わしいものだったが。
 一方で、エンゲルスとプレハノフは、全ての運動と発展に内在する「矛盾」について語った。そして、彼らの定式からすると、矛盾の原理、ゆえに形式論理一般は、普遍的な有効性を主張できないもののように見えた。
 他方で、古典著作者の誰も、論理を明白には非難しなかった。レーニンも、論理は基礎的な次元で教示されるべきものということに好意的だった。
 ほとんどの哲学者が当然のこととしていたのは、「弁証法的論理」は思索のより高い形態であり、形式論理は運動という現象には「適用できない」、ということだった。
 しかしながら、いかにして、またいかなる程度にこの「限定された」論理を受容できるのかは、明白でなかった。
 哲学の著作者たちは、一致して「論理形式主義」を非難した。しかし、誰も、これと、狭い限定の範囲内では許される「形式論理」との間の違いを正確に説明することができなかった。
 1940年代遅く、基礎的論理は中高等学校の高学年や哲学学部で教育された。
 若干の教科書も出版された。一つは法学者のStrogovich のもので、もう一つは哲学者のAsmus のものだった。
 イデオロギー的な整理の仕方は別として、これらは旧態依然の手引書だった。アリストテレスの三段論法以上に進むことはほとんどなく、現代的な記号論理学(symbolic logic)を無視していた。つまり、いずれも19世紀の高等学校で用いられた教科書によく似ていた。
 しかしながら、Asmus のものは、党精神に欠け、かつ政治的意識が希薄で形式主義的でイデオロギーに問題があるとして、激しく攻撃された。こうした批判がなされたのは、高等教育省が1948年のモスクワで組織した討議でだった。
 政治を無視しているという追及がなされた主要な理由は、Asmusが三段論法的推論の例として、戦闘的イデオロギーの内容を欠く「中立的」前提を選択したことにあった。//
 (7)哲学者たちにとって現代論理学は、封印された分野だった。
 しかしながら、完全に無視されたのではなかった。それは、技術的諸問題に集中し、彼らに災厄を招いただけだろう哲学上の議論に巻き込まれないように気を配っていた、数学者たちの小集団のおかげだった。
彼らの尽力によって、記号論理学に関する二つの優れた書物の翻訳書が、1948年に出版された。すなわち、Alfred Tarski の<数学的論理学>と、Hilbert とAckermannの<理論論理学の基礎>だ。
 さもなければ無名だった者が執筆した論文<哲学の諸問題>は、これらの書物を「イデオロギー上の転換>だとして非難した。
 この分野でのある程度の改善は、1950年に哲学に関するスターリンの小論によってなされた。論理の擁護者たちが、言語のごとく論理には階級がない、つまり論理のブルジョア的形態とか社会主義的形態とかはなくて全人類に有効なただ一つの形態がある、とする見解を支持するために呼びかけたときに。
 形式論理の地位とそれの弁証法的論理との関係は、スターリン時代におよびその時代のあとで、しばしば議論された。
 ある者は、論理には形式的と弁証法的の二種があり、それぞれが異なる事情へと適用される、前者は「認識の低い次元」を示すものだ、と主張した。
 別の者は、形式論理だけが言葉の正しい意味での論理だ、論理は弁証法と矛盾はしないものだが、弁証法は科学的方法に関する別の、非形式的な規範を提供する、と考えた。
 全体としては、「形式主義」批判は、ソ連邦での論理研究の一般的水準を落とすのに役立った。それはすでに極めて低いものだったが。//
 (8)ソヴィエトの哲学は、スターリン支配の最後の数年に、どん底に落ちた。
 哲学に関する団体や定期刊行物を継続させたのは、奴隷根性、告げ口、その他類似の党に対する奉仕だけが資格であるような人々だった。
 この時期に出版された弁証法的唯物論や歴史的唯物論に関する教科書は、その知的貧困さにおいて悲惨なものだ。
 その典型的な例は、F. V. Konstantinov が編集した<歴史的唯物論>(1950年)と、M. A. Leonov の<弁証法的唯物論概要>(1948年)だった。
 Leonov の本は、別の哲学者で戦争で死んだF. I. Khaskhachikh の未出版の原稿から大部分を盗作(crib)したものだと暴露されて、流通しなくなった。
「哲学戦線」のすでに言及した以外の構成員たちは、D. Chesnokov、P. Fedoseyev、M. T. Yovchuk、M. D. Kammari、M. E. Omelyanovsky (Msakinovと同じく物理学での観念論に対する見張り役だった)、S. A. Stepanyan、P. Yudin、およびM. M. Rosental だった。
 最後の二人は、権威をもった<コンサイス哲学辞典>を編纂し、この本は数版を重ね、改訂版も出た。//
 (9)スターリン時代を通じてずっと、ソヴィエト同盟には言及すること自体に値する哲学に関する一冊の書物も出現しなかった、当時の知的文化の状態を指し示す者やその名前を記録する価値のある哲学著作者は一人も存在しなかった、と安全に言うことができる。//
 (10)つぎのことを追記しておこう。この時期には、哲学上の諸著作から独自性のある思想や個性的な様式を排除する、制度的な装置が存在した。
 ほとんどの書物は、出版の前に、一つのまたは別の哲学小集団によって討議された。そして、きわめておずおずと教理問答書(catechism)の拘束を超えようとすらして、それらの書物を責め立てて党の警戒心を示すのは、関係者の義務だった。
 このような活動はしばしば、同じ文章でもって履行された。その結果は、全ての書物が事実上は同一になる、ということだった。
 上で言及したLeonov の事例は、注目すべきだ。想像され得るかもしれないが、剽窃した叙述(plagiarism)は感知されることがなく、執筆者の書き方はお互いによく似ていたのだから。//
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 つぎの第4節の表題は「経済論議」。

1917/L・コワコフスキ著第三巻第四章第2節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(英訳書、1978年)の第三巻・崩壊(瓦解、The Break Down)の、つぎの三つの章全体と四つめの章の第一節まではこれまでに、「試訳」をこの欄に掲載している。
 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の第一段階-スターリニズムの開始。
 第2章・ソヴィエト・マルクス主義の1920年代の理論闘争。
 第3章・ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 および、
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
  第1節・戦時中という幕間。<№1893、2018/12/16>
 このあとに続く、第2節から再続行する。段落の冒頭に原書にはない数字番号を付す。なお、第5章の標題は「トロツキー」(分冊版でp.183-p.219)。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第2節・新しいイデオロギー攻勢。
 (1)戦争が終わったとき、ソヴェト・ロシアには莫大な人的損失があり、経済は破滅の状態にあった。
 だが、世界でのその地位は、したがってスターリンの個人的威厳は、きわめて高くなった。
 スターリンは、戦争の混乱の中から、偉大な政治家、優れた戦略家、そしてファシズムの破壊者として登場してきた。
 戦争が過ぎ去りヨーロッパでのソヴィエト征服地が確保されたため、独裁者は、戦時中の「リベラリズム」による有害な影響から転換させて、その権力を和らげる意図を政府は持たないとロシア民衆に教え込み、戦争によって世界のプロレタリアートの祖国以外の諸国を知った者たちにできる限り早くその光景を忘れることを強いるために、新しいイデオロギー攻勢を開始した。
 (この政策のとくに劇的な例は、解放されて西側連合により引き渡されたソヴィエトの戦争捕虜たちの全員を、強制収容所(concentration camp)へと追放したことだった。)
 テロルと戦争の「真正さ」は、これらで一緒になってマルクス主義のイデオロギー規準の緩和をもたらした。また、詩、映画その他の作品もそうだが、例えばV. P. Nekrasov やA. A. Bek の傑出した小説の登場でも示される、一定の文化的再生を生じさせた。//
 (2)1946年以降に始まった仮借なきイデオロギー運動は、かつてアレクサンダー二世が法王となるときに用いた「恍惚点!(- de rêveries)」との格言で要約されるかもしれなかった。
 目的はイデオロギーの純粋さを回復することだけではなく、新しい高さへとそれを挙げることだった。同時に、ソヴィエト文化を世界の外部との接触から離れさせることだった。
 全ての形態の知的生活は、これによって影響をうけた。文学、哲学、音楽、歴史学、経済学、自然科学、絵画および建築。
 それぞれの場合に、主題は同一だった。すなわち、西側に頭を下げるのをやめること、思想および芸術にある自立性の痕跡を全て破壊すること、スターリン、党そしてソヴィエト国家の称賛へと全ての形態の文化を集中すること。//
 (3)この政策の1946-48年の主任担当者は、ジダノフ(A. A. Zhdanov)だった。中央委員会書記の一人で、文化的自立性に対する闘争に熟達していた。
 1934年8月の全国作家同盟大会で党を代表して、ソヴィエト文学は世界で最も偉大であるのみならず唯一の創造的で発展する文学だ、一方で全てのブルジョア文化は衰亡と腐敗の状態にある、と述べたのは、この人物だった。
 ブルジョアの小説は、悲観主義に充ちていて、著者たちは資本主義に身を売っており、彼らの主人公はたいていは泥棒、売春婦、スパイ、不良少年だ。
 「ソヴィエト作家の大きな一団は今やソヴィエトの権力と党と一体となり、党の指導を受け、中央委員会の配慮と日常的な協力、および同志スターリンの絶えざる支援を得ている。」
 ソヴィエト文学は楽観的でなければならず、「前を向いて」いなければならず、労働者と集団的農民の根本教条に奉仕しなければならない。//
 (4)ジダノフ(Zhdanov)の戦後最初の重要な行動は、二つのレニングラードの雑誌、<Zvezda(星)>と<レニングラード>を攻撃することだった。
 これらの雑誌を非難する決議が、1946年8月の中央委員会によって採択された。
 主要な犠牲者は、著名な女性詩人のAnna Akhmatova(アフマトワ) とユーモア作家のMikhail Zoshchenko だった。
 ジダノフはレニングラードで演説を行い、この二人を激しく攻撃した。
 Zoshchenko は、ソヴィエト人民を悪意をもって中傷している。彼はレニングラードで自由に生活するよりも動物園の檻の中でいた方がよいと決める猿に関する物語を書いた。これは明らかに、Zoshchenko が人間を猿の水準に落とすのを欲していることを意味している。
 1920年代にすら、党の精神の欠如した非政治的な作品を作り出していた。そして、社会主義建設に関係しようとは何も欲しなかった。彼は「文字通りの不潔なネズミで、原則がなく、自覚もない」。
 Akhmatova について言うと、「カトリーヌの良き古き時代」を色狂って神秘的に懐かしんでいる。<中略>「修道女と堕落した女のいずれかと言うのは困難だ。おそらく、そのどちらでもあるという方がよい。欲望と祈りとが捻れ合っている」。
 レニングラードの雑誌がこうした者たちの作品を掲載したことは、文学が悪い方向にあることを示している。
 多数の作家たちは腐敗したブルジョア文学を真似ており、別の作家は今日的主題から逃れるために歴史を利用している。そして、ある者は、プーシキンを風刺すらした。
 文学の仕事は、青年たちに愛国心と革命的熱情とを喚起させることだ。
 レーニンが断定したように、文学は政治的で、かつ党の精神で染められたものでなければならない。ブルジョア文化の腐敗を暴き、ソヴィエト人民の偉大さを示さなければならない。今日にそうだとしてのみならず、将来にもそのようなものとして。//
 (5)ジダノフの明瞭な指令は、ソヴィエト文学のその後数年間の進路を設定した。
 イデオロギー的に無色の作家たちは、より悪くはならなかったとしても、沈黙を強いられた。
 Fadeyev のような正統派のほとんどは、新しい仕様書に合うように彼らの作品を修正した。
 「前向きの」文学でなければならないということは、実際には、ソヴィエト体制をそのままににではなく、イデオロギーがそうだと要求しているように表現する、ということだった。
 この結果として生じたのは、党を賛美しソヴィエトの生活の美しさを称揚する、奇妙に甘酸っぱい(saccharine)文学作品の洪水だった。
 印刷される言葉は、ほとんど完全に、ご都合主義者と阿諛追従者へと身を落とした。//
 (6)音楽が別のものとされたのではなかった。
 1948年7月、ジダノフは作曲家、指揮者、批評家の会議で演説を行い、ブルジョア音楽の腐敗を攻撃し、より多くの愛国的ソヴィエトがもつ多様性を呼びかけた。
 すぐに反応したのは、ジョージアの作曲家のMuradeli のオペラ<偉大な友情>だった。
 この作品は、最大限の意図としては、革命の直後にはロシアと闘ったがすみやかにソヴィエト体制に順応したコーカサスの民衆-ジョージア人、Lezgian 人およびOssetes 人-を表現していた。 
 ジダノフは、そのようなものでは全くない、と言った。すなわち、民衆たちは最初からソヴィエト権力のために闘ったのであり、ロシア人と協力してきたのだ、と。
 チェチェン人やIngush ではなかった唯一の者たちは-ジダノフはこのことに言及しなかったけれども誰もと同じくよく知っていた-、ナツィ=ソヴィエト戦争の間に<一塊で>追放された。そして、彼らの自治共和国は、地図から抹消された。
この例に満足しないでジダノフは、グリンカ、チャイコフスキーおよびムソルグスキーのごときロシアの偉大な伝統を継承することをしないで西側の新奇なものに霊感を求めている作曲家に対する一般的な攻撃を開始した。
 ソヴィエト音楽は、イデオロギーの他の様式よりも「立ち後れている」。作曲家たちは、「音楽の真実」や「社会主義リアリズム」から離れて「形式主義」に屈服している。
 ブルジョア音楽は反人民的であり、形式主義か自然主義かのいずれかで、どちらにせよ「観念論的」だ。
 ソヴィエト音楽は人民に奉仕しなければならない。すなわち、オペラ、歌、合唱曲には必要なものがあるにもかかわらず、形式主義に汚染された作曲家たちは些細なものだとしてそれを見下している。
 そのような作曲家は標題音楽(programme music)を横目で見ているが、ロシアの古典音楽のたいていは、その種から生まれている。
 党は絵画について、反動的で形式主義的な傾向をすでに克服し、VereshchaginやRepin の健康な伝統を再確立した。だが、音楽はまだ、後進的だ。
 ロシアの古典遺産は卓絶したものだ。そして、作曲家は、音楽劇の作者はもちろん、繊細な「政治的な耳」を持たなければならない。//
 (7)こうした説諭の結果は、遅滞なく表れた。
 ジダノフの演説の前に作曲されていたハチャトリアン(Khachaturian)のピアノ協奏曲をそのバイオリン協奏曲と比較すれば、そのことが分かる。
諸作品の中でも第九交響曲が批判されていたショスタコヴィチ(Shostakovich)は、スターリンの林業計画を称賛する一頌(ode)を作って修正を加えた。そして、多数のその他の音楽家が、彼らのイデオロギー上の障壁を修繕した。この当時に最も好まれた作曲様式は、党、国家そしてスターリンを賛美するオラトリオ(聖譚曲)だつた。//
 (8)文学や音楽に対しての運動は、この時期のスターリンの諸政策の全体的基本方針を反映していた。それは、戦争がかりに生起する場合に備えてのイデオロギー上の威嚇であり、物理的および精神的な再武装だった。
 この基本方針の基礎にあったのは、人間界を二つの陣営に分かつことだった。一つは、腐敗して、衰微している帝国主義の世界で、自己矛盾の重みでもってまもなく崩壊する運命にある。もう一つは「社会主義という平和の陣営」、進歩の城砦だ。
 ブルジョア文化はその定義上反動的で退廃的だ。そして、それに肯定的な価値を見る者は全て、大逆罪を犯しており、階級敵の利益に奉仕している。//
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 つぎの第3節の標題は、「1947年の哲学論争」。

1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。

 Leszek Kolakowski (1927.10-)は存命だと今年で92歳になるが、彼もヒト・人間なので永遠には生存できず、2009年の誕生月前に81歳で亡くなっている。
 以下は、L・コワコフスキの逝去を伝えるNew York Times の記事。
 とくに目新しく感じるところは多くない。私の印象に残ったのは、以下だ。
 ①sudden, short illness の後の死だったとされていること。それ以外の子細は公表されていない。
 ②訃報に接して、ポーランド国会が「黙祷」の時間をもったこと。
 ③エッセイ集にL・コワコフスキの英語訳者として名が出てくるAgnieszka Kolakowska は実の娘だと分かったこと(年齢等不詳。後で追記、1960年生まれ )。
 ④一番最後に紹介されているL・コワコフスキの文章は、彼らしく思えること。
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 レシェク・コワコフスキ、ポーランド人哲学者、81歳で逝去。
 New York Times 2009年7月20日。
 記者/Nicholas Kulish。
 ワルシャワ--レシェク・コワコフスキ、マルクス主義を拒否して国外滞在中に母国の連帯運動を活発になるのを助力したポーランド人哲学者が、金曜日に、イギリス、オクスフォードで逝去した。81歳だった。//
 彼の家族は彼の死をポーランドの新聞 Gazeta Wyborza に発表し、彼はオクスフォードの病院で「突然の、短い病気のあとで」死去したと語った。
 それ以上の詳細は、伝えられていない。//
 ワルシャワでは、国会が、彼の栄誉のために、彼のポーランドの自由に対する貢献のために、黙祷をした。//
 長いかつ広範囲の経歴のあいだに、コワコフスキ氏は冷戦というイデオロギー的および軍事的武装競争が極みにあるときに、自分が若いときに支持した共産主義体制の知的な土台を詳細に分析した。
 彼はその影響力が学問の領域をはるかに超える研究者であり、その書いたものは陽気で風刺的で、しかしほとんどは理解しやすい学者だった。//
 ポーランド反対派の指導者の一人である、1985年にGdansk 獄房から執筆したAdam Michnikは、コワコフスキ氏を「現代ポーランド文化の重要な創造者の一人」だと述べた。//
 彼の最も影響力ある著作である、1970年代に出版された三巻本の"マルクス主義の主要潮流-その発生、成長および解体"は、「我々の世紀の最大の幻想」とその哲学を称する、歴史書であり、批判書だった。
 彼は、スターリニズムはマルクス主義からの逸脱ではなく、むしろその自然の帰結だと主張した。//
 きわめて真剣な文章に加えて、彼は戯曲や寓話および魔王が多数の有名な神話上および歴史上の人物と討論する"悪魔との会話"という本も書いた。//
 コワコフスキ氏は、50年以上にわたる経歴の中で30冊以上の書物を出版した。
 彼は、ポーランドの最高の栄誉である白鷲勲位(the Order of the White Eagle)を受け、天才にその資格があると広く知られているMacArthur Foundation 助成金を受けた。//
 2003年には、ノーベル賞がない分野に与えられる、人文社会科学の生涯の偉業に対する、連邦国会図書館の100万ドルのW. Kluge 賞の初代の受賞者になった。
 図書館長のJames H. Billington はこの賞の発表に際して、コワコフスキ氏の学問のみならず、「彼自身の時代での大きな政治的事件への明白な重要性」にも注目を向け、「彼の声はポーランドの運命にとってきわめて重要であり、全体としてのヨーロッパに影響力をもった」、と付け加えた。//
 レシェク・コワコフスキは1927年10月23日にワルシャワの南方のRadom 市で生まれた。その世代のほとんどのポーランド人と同様に、コワコフスキ氏は幼少時に困難な体験をした。
 第二次大戦中のドイツ占領間、コワコフスキと彼の家族は異なる町や村へと移り住むことを強制された。//
 ドイツはポーランドの学校を閉鎖したために、若きレシェクは独学をし、設立されていた地下の学校制度の試験を受けなければならなかった。
 戦争の後、彼は哲学を最初はLodz 大学で学び、のちにWarsaw 大学で博士の学位を得た。
 彼はその大学で教職の地位を得て、哲学史部門の長へと昇った。
 人生のはじめは、彼はナツィズムによる自分の国の破壊に対する反応として共産主義を受け入れ、赤軍をドイツによる数年間の抑圧後の解放者だとして歓迎した。
 しかし、有望な青年マルクス主義知識人への報奨として意図されたモスクワ旅行は、逆に、転換点となった。「スターリン体制が引き起こした巨大な物質的および精神的な荒廃」と彼が叙述したものを、しっかりと見たのだった。//
 2004年のNYタイムズとのあるインタビューで、コワコフスキ氏は、「このイデオロギーは、人々の思考(thinking)を型に入れて作るものだと考えられていた。しかし、ある時点で、きわめて弱くて馬鹿々々しいものになり、結果として、誰も、被支配者も支配者も、信じないようになった」と語った。//
 1956年のPoznan での労働者騒擾のあとで、コワコフスキ氏の著述は検閲と激しく衝突し始めた。
 彼のスターリニズム批判 "社会主義とは何か?" はとくに、公刊禁止となった。
 コワコフスキ氏は、ポーランド統一労働者党から1966年に除名され、Warsaw 大学での地位を1968年に失った。
 彼は、その年に、外国へと移住した。//
 コワコフスキ氏はポーランドを離れたあと、Montreal のMcGill 大学、California 大学Berkley校、Yale およびChicago 大学の社会思想委員会を含む、最高級の研究施設で教育した。しかし、彼の本拠となったのは、Oxford だった。//
 コワコフスキ氏は、妻のTamara と一人娘のAgnieszka を残して先立った。//
 1982年の著名な講義でコワコフスキ氏は、哲学の文化的役割について、こう語った。
 「精神のもつ知的欲求のエネルギーを決して眠らせないこと、明白で決定的だと見えるものを疑問視するのを決してやめないこと、常識がもつもっともらしい純粋な根拠につねに反抗してみること」、そして「科学の正統とされる範囲を超えて存在してはいるが、それでもなお他にも、我々が知るように、人間の生存にとっては致命的に重要な諸問題がある、ということを決して忘れないこと」。
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 以上。
 下は全てRadom 市に存在するのものだと思われる。ネット上から。
 
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1905/ソヴィエト体制下の「洗脳」とドクトル・ジバゴ。

  ノーベル文学賞が与えられたことになっている(本人は辞退)『ドクトル・ジバゴ』(1957年。映画化1965年)の作者であるB・パステルナーク(Boris Pasternak)について、無責任にも?<なぜこの人は亡命しなかったのだろうと思うときがある。よく分からない>とこの欄にかつて書いたことがある。1910年頃に留学していたドイツ・マールブルク(Marburg)について記したときだった。
 今でもよく分からないが、L・コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』第三巻第二章第一節の<文化等の一般的状況>(この欄№1863/1918.11.02)の中で久しぶりにBoris Pasternak の名を見つけた。1920年代~1930年代の<作家・文筆家>の様子がある程度は分かる。
 L・コワコフスキによると、1930年代、作家(文筆家・詩人)たちは、こう分かれる。
 ①殺戮される-Babel、Pylnyak、Vesyoly。
 ②自殺する-Mayakovski、Yesenin。
 ③強制収容所で死ぬ-Mandelshtam。
 ④国外に逃亡(亡命)する-Zamyatin。
 ⑤スターリンを称賛する「物書き」になる-Fadeyev、Sholokhov、Olesha, Gorky。
 B・パステルナークはどこに入るのか。まだ、つぎがある。
 ⑥何とか「迫害と悲嘆の時代」を生き残る-Akhmatova、Pasternak。
 B・パステルナークは殺されもせず、亡命(国外移住)もせず、ロシア国内で「生き延びた」のだ。
 どのようにして? その詳細は分からない。何らかの「食って、生きる」ための仕事をし、詩作や文章書きを<隠れて>行っていた、という程度にしか分からない(もちろん、日本語本にあるこの人の評伝には正確なことが書かれているだろう)。
 それにしても、Pasternak と並んでいるAkhmatova (女性)は、第三者、とくに体制関係者に分からないように、<自分の脳内に詩作を記憶させ、蘇生させ反芻しながら、脳内で詩作を続けていた>と何かで読んだのだから、凄まじい<表現の自由>の否認状況だろう。脳内にしか、発表し、保存する媒体はないのだ。
 Boris Pasternak もまた、似たような状況にいたと思われる。
 "Doktor Zhivago" がふつうの小説ではなく、私が一読しても登場人物にかかるストーリーの現実性や連続性には疑問があり、長いものもある「詩」が何度か挿入されているのも、その作成や構成に要した時間と、取り囲んでいた「(とくに政治)環境」によるものと思われる。
  レーニン時代にせよ、スターリン時代にせよ、種々の政治的事件や制度等の歴史も重要だし(指導者、党、国政あるいは中央と地方、ロシアと他民族、外国との関係等々)、また、いかほどの数の人間が粛清やら大粛清あるいはテロルによって死んだのかも、もちろん重要な関心事だ。
 しかし、どうしても今日的には理解し把握し難い、あるいは実感し難い重要なものがあるということを意識しておかなければならないように思われる。
 それは、<イデオロギー>というものの役割、あるいはいささかどぎつい言葉を選べば「洗脳」というものはいかなるものか、だ。
 これは現在の日本人には、またほとんどの欧米人には、ほぼ理解不能なのではないか。
 そんなことを感じたのは、やはりL・コワコフスキの叙述による。
 うまく訳しきれていないが、L・コワコフスキによると(№1886/2018.12.08)、こんな状態があった。長くなるが、叙述の順序に従って、ほとんど再引用する。要約している部分もかなりある。
 ①人物や事件の評価が「修正」されたとき、人々はその「修正」の簡単な方法・経緯を知っていたが、それを公言すれば制裁を受けるので<何も語らなかった>。
 ②知っていても決して言及しない「公然の秘密」がある。
 ③人々は強制収容所についてしっかりと知っていたが、それはしかし(引用すると)、「そのような事実は存在していないというふりをお互いにしつつ、その事実に気づいていることを政府が望んでいた」からだ
 ④人々には「二重(dual)の意識」が作り出された。それは体制側の意図だった。
 ⑤人々はあちこちで「醜悪な虚偽を繰り返して語るように強いられ」、かつ同時に、「十分によく知っていることについて沈黙を守るように強いられた」。
 ⑥人々は、「党と国家が吹き込んだウソを絶え間なく反復することによって、ウソだと知りつつ発言することで、ウソについて党と国家の共犯者になった」。
 ⑦体制側の意図は、馬鹿馬鹿しい虚偽を「そのまま信じる」ことではなかった。
 ⑧「完全な服従とは、人々が現在のイデオロギーはそれ自体は何も意味していないと認識することを要求するものだった。すなわち、イデオロギーのいかなる側面も、最高指導者が意図するいかなるときでも勝手に変更したり取消したりすることができないものなのだ。そして、何も変更されておらず、イデオロギーは永遠に同一なのだ、というふりをする(pretend)ことが、全ての者の義務になる」。
 ⑨「党のイデオロギーはいつでも指導者が語った以上のものでも以下のものでもない、ということを理解するために、市民は、二重の意識を持たなければならなかった。
 すなわち、公的には、変化しない教理問答書としてのイデオロギーに忠実であると告白する
 一方、私的には、または半ばの意識では、イデオロギーは完全な融通性をもつ、党の手にある、つまりはスターリンの手にある、道具だと知っている
 市民はかくして、『信じることなくして信じる』(believe without believing)ことをしなければならなかった」。
 ⑩上の「心理(mind)状態」こそが、、党が人々の中に「作り出して維持しようとしている」ものだった。
 ⑪人々は「政府のウソを繰り返して言った」。そして考え難いことだが、その人々は「自分たちが言っていることを半分は信じていた」。
 ⑫人々は何と言うのが「正しい」のか、つまり「何と言うことが彼らに要求されているか(=正しいか)」を知っていた。そして奇妙なことだが、彼らは「真実と正しさ」とを混同していた
 この辺りのL・コワコフスキの最後の文章はつぎのとおり。
 ○「このようにして同時に二つの分離した世界で生きるという状態は、スターリニズム体制が達成した最も顕著なものの一つだった」。
 ソヴィエト体制下で生じたのは、たんなるテロル・大粛清や貧困・飢餓等だけではない。
 注目しておくべきなのは、人間の<自由で、誠実な精神>というものの破壊だっただろう。
 上の⑤⑥、⑧⑨あたりは、きわめて理解し難い「心理・精神」の状態だ。
 L・コワコフスキは二重(dual)意識と呼ぶが、G・オーウェル『1984年』には二重(double)意識という語が出てくるらしい。
 ともあれ、ソヴィエト体制下でのイデオロギー操作というのは、<ウソが真理だと信じ込ませる>ことでは全くない、と今日のわれわれも知っておくべきだろう。単純な?「洗脳」ではない。
 私にもまだ判然としないが、こういう心理・精神状態をどう理解すればよいのだろう。
 **ウソをつきつつそれが本当のことだと信じている<ふりをする>、かつまた、ウソであることを本当は知っていることも<匂わせる>。**
 何と複雑な、欺瞞に満ちた心理・精神状態だろうか。
 多くの人々が、こういう心理・精神状態の中で生きていたのではないか。
 「しろうと」ながら、ヒトラー・ナツィズム体制は、もっと大らかで率直で正直だったような気がする。唖然とする、悪辣なことを平然とかつ公然と語っていたような気がする。
 コミュニズム(共産主義)とナツィズムの違いだ。
  B・パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』はレーニン時代を歴史的背景とする作品だ。
 1917年秋・冬から三回の冬のことを、この作品はこう叙述している(私の訳-№1548/2017/05/18)。
 「冬がやってきた。この冬はそれに続いた二つの冬ほどにはまだ悲惨ではなかったけれども、だがすでに似たようなもので、陰鬱さ、飢え、寒さ、そして全ての日常的なものの激変を、特徴としていた。存在の全ての基礎の新たな形成や、滑り去る生活に取りすがろうとする完全に非人間的な努力をだ。//
 三回の恐ろしい冬が、つぎつぎに連続した。今17年から18年の冬に起きたと記憶していることの全ても、本当はこの当時ではなく、ことによると、もっと後に起きたのだったかもしれない。この三つの冬は、一つに重なっていて、一つ一つを区別するのはむつかしい。//」
 さらに、すでに新体制=ソヴィエト・ボルシェヴィキ体制の「人間」観を疑問視するこんな発言も、主人公の友人(ラーラの正式・形式上の夫でボルシェヴィキに入党したが、最後は自殺)にこう語らせている(私の訳-№1539/2017/05/13)。
 「だが、第一に、十月〔1917年〕以来に説かれている全般的な完成化(allgemeine Vervollkommnung)の理念は、ぼくを燃え立たせない。/
 第二に、全てが実現からほど遠いのに、その理念を語るだけでも、これほどたくさんの血の海(Stroemen von Blut)が代償として必要だった。目的は手段を正当化するって、ぼくには分からない。/
 第三に、これが肝心なことだが、人間の改造(Umgestaltung des Lebens)という言葉を聞かされると、ぼくは自分をどうも抑制できなくなって、絶望へと陥ってしまう。//
 人間の改造だって! こんなことは、なるほど多くのことを体験しているが、人間とは何かを実際にはまるで知ってはいない者たちだけが、考えることができる。人間の呼吸=精神(Geist)や人間の搏動=魂(Seele)を感じたことのない者たちだけが。/
 そういう者たちにとって、人間の存在というものは、彼らがまだ触って磨き上げていない、もっと加工が必要な、原材料の塊なのだ。/
 しかしね、人間は決して、かつて一度たりとも、材料や素材ではない。/
 きみが知りたいのなら、人間は永遠に自らを作り直している原理体だ。人間は、絶えず自らを更新しており、永遠に自らを形成し、変化させているのだ。それは、きみやぼくの愚かな考えなどを際限なく超越したところにある。//」
 あくまで小説上のものだが、これはスターリン下の言葉ではない。明らかにレーニン時代のものとして語らせている。
 ***
 最後に、この時代に、ロシア(・ソ連)の将来を悲観して、あるいはブルジョアジーとか「知識人」とかの<逆差別>を受けて(レーニン政権が追求したのは決して「平等」なのではない。「階級敵」の平等視があるはずもない)、国外に脱する直前のユリイの正式の妻・トーニャの手紙の一部を再度引用しておきたい。
 あくまで、作品上のものだ。しかし、他国へ行く当時の人々によってこういう文章は実際に書かれたのではないか(私の訳。同上)。
 「さようなら。もう終わらなければいけない。
 ああ、ユーラ、ユーラ、私の愛する人、大切な夫、私の子どもの父親、どうしてこんなことになったの ?
 私たち、もう二度と、もう二度と、決して会うことがないのよ。
 あなた、こう書いたことの意味が分かる ? 理解できる ? 理解できる ?」
 ユリイの妻・トーニャの手紙から。Boris Pasternak, Doktor Shiwago〔独語版〕, p.521.

1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。

 Leszek Kolakowski は、アメリカの連邦議会図書館によるクルーゲ賞の第一回の受賞者だった。
 と言っても私は全く知らなかったのだが、このクルーゲ賞は、人文社会科学のうちでノーベル賞の対象になっていない分野(というと経済、文学(、平和)以外)の傑出した研究者に与えるべく設定されたもののようで、2003年が第一回。日本の人文社会科学の研究者は、はたして候補者にでもなったことがあるのかどうか。
 クルーゲ(John W. Kluge)というのは個人名で、以下によると、財政支援者のようだ。
 先走って書くと、L・コワコフスキが受賞したからといって<反共産主義>の鮮明な性格の賞ではないようで、のちにはドイツのJ・ハーバマス(Jürgen Habermas)も受賞している。
 以下に試訳を紹介しておくのは、レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)への授賞と選考過程を伝える、同図書館報(Bulletin)。
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 アメリカ合衆国・連邦議会図書館報(Bulletin)2003年12月。
 /執筆者-Gail Finberg 〔館員で編集スタッフとみられる〕。
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 A/授賞式の模様。
 レシェク・コワコフスキ、76歳、学者、哲学者、歴史家および才幹溢れる著述者で、その諸著作が母国ポーランド内部での反全体主義の若者の運動を教示し喚起させた人物が、人文社会科学での生涯にわたる業績に対して、第一回のJohn W. Kluge 賞を授与された。//
 100万ドルの賞金が、人文および社会科学-ノーベル賞の対象でない分野-での生涯の業績に対して、連邦議会図書館によって与えられる。
 この分野は、哲学、歴史、政治学、人類学、社会学、宗教学、言語学および芸術・文学評論を含む。//
 <つぎの3段落省略-*要旨-図書館長は、この賞はアメリカで、ワシントンで、Kluge センターの本拠であるこの図書館で授与するのがふさわしい、と語った。>
 図書館長Billington は受賞者を紹介して、語った。
 「レシェク・コワコフスキは…人間の思想についての歴史家、…非常に広い範囲でのエッセイ著述者です。
 自由がポーランドに始まっていたとき、ようやくこの人物の名前を発することがその国で可能になったそのときに、国民たちは彼を『ヨーロッパ文化の理論家』だと称しました」。//
 受賞者は30以上の書物および、多様な方式と四つの言語-先ずはポーランド語、ついでフランス語、英語およびドイツ語-での400以上の「あらゆる種類の対象に関する」論文の執筆者だと、館長は述べた。
 受賞者の主要な研究対象は哲学の歴史および宗教哲学だった、とも。//
 「彼はソヴィエト体制の内部から、その体制の奥にあるイデオロギーの知的頽廃、自由と多様性に対する寛容、および卓絶への絶えざる追求の必要性を明らかにしてきました」、と館長は述べた。
 「この人物は、ほとんど全てのことに関して執筆し、つねに、人間の条件にとって根本的に重要な諸問題に焦点を当てました」。//
 館長は、「彼は、二〇世紀後半の最も重要な事件-ソヴィエト体制の内部崩壊と平和的で非暴力的な終焉-の背後にいた、最も重要な一人の思索者(single thinker)でした」、と続けた。
 「ポーランドの連帯運動は、彼を頼って見つめていました。
 彼は、絶望に対して希望を注入し、恐怖を希望に取り替える、甚大な影響力をもちました。
 希望に関する彼の偉大な1971年の小論は、ポーランドの若者たちの運動の決定的な開始点であり、それが<連帯>へと流れ込んでいきました。」//
 「彼はヒューマニストで、哲学者で、文化批評者で、知性の歴史家であり、大きな諸問題を知的誠実さと深さでもって探求しました。その知的な誠実さと深さこそが、我々がKluge 賞でもって栄誉を与え、この国の最古の連邦文化施設にあるKluge センターに歓迎しようとしてきたものです」、と館長は語った。//
 選考過程に簡単に論及して館長は、こう語った。世界じゅうからの候補指名者たちは、人文学またはその近接した関連分野での業績が同学者たち(peers)によって優れていると承認され、別の分野や公的世界の人々に対して訴えかけるもののある傑出した学者を推薦するように、求められた、と。
 館長は、賞の支援者であるKluge は選抜に関与しておらず、とりわけ最初の受賞者が誰なのかを知らないように求められた、と述べた。//
 コワコフスキは館長Billington およびKluge 賞の初代の選抜に責任ある全ての人々に対して謝辞を述べ、Kluge に暖かく挨拶した。
 「彼は『kluge(賢明な)』人です」と、彼は言った。//
 <つぎの4段落省略>
 コワコフスキは公式の挨拶を水曜の夜に行った。そのときに彼はKluge賞を受けたが、その儀式はCoolidge Auditorium で行われ、著名人の中ではとくに、ノーベル賞の母国であるスウェーデンの皇太子Victoria 〔女性〕が同席した。// 
 B/選考過程。
 レシェク・コワコフスキをKluge賞に選抜するまでの過程は、二年前から始まった。世界じゅうの2000人を超える人々による候補者指名の要請とともに。すなわち、大学や優れた研究所の学長または理事長、人文学および社会科学の英れた仕事を評価する地位にいる広くかつ多様な著名研究者の人たちへの要請によって。
 この候補者指名その他は、別の多数の研究者たちによって、確認(review)されていた。
 図書館の専門家職員たちは、被指名者に関する経歴や資料を提供した。そして、2002年9月に、図書館の研究者会議(Council of Scholars)は、その確認(review)を行った。
 特定の分野、科目、文化および言語に精通した外部の検討者たち(reviewers)は相談を受け、過程全体に関する評価書を書いた。//
 選考過程の最終段階は、賞候補者14名から成る被選抜者たちを評価するための、特別の外部的審査員団を招集した2003年9月の会合だった。
 多様な高度の学術的選考手続に習熟している5名の傑出した研究者が、最終的な審査員団を構成した。
 これらの人々は、つぎのとおり。// 
 David Alexander。Pomona College in California の名誉学長、the Phi Beta Kappa Fellows の副所長、かつてthe Rhodes Trust のアメリカ事務局長、Oxford からの博士学位は宗教と哲学。//
 Timothy Breen。Northwestern University の米国史の教授、Yale での博士学位取得ののち、Princeton, N. J. のthe Institute for Advanced Study およびthe National Humanities Center in Durham, N.C.で勤務してきた。//
 Bruce Cole。The National Endowment for the Humanities (NEH) の現在の議長。Indiana University in Bloomington で芸術と比較文化の優れた教授だった。博士学位は、Bryn Mawr College in Pennsylvania から。//
 Gertrude Himmelfarb。The Graduate School of the City University of New York の歴史の名誉教授で、17-18世紀の精神史および文化史の研究者、the British Academy and the Royal Historical Society の主任研究員。//
 そして、Amartya Sen。英国のTrinity College, Cambridge University の修士で、2004年にHarvard 大学の経済および哲学の教授になるだろう。ノーベル経済学賞の受賞者の一人。インド・カルカッタのPresidency College とCambridge で教育を受けた。//
これら5名の審査員団による討議と推薦は、館長に最終的な選抜を答申するうえでの決定的な要因(key factor )だった。
 第13代図書館長Billington は、かつてPrinceton University の歴史の教授で、the Fulbright 〔フルブライト〕Program を指揮する委員会の議長、かつthe Woodrow Wilson International Center for Scholars の理事長。//
 この図書館のScholarly Programs at the Library の長であるProsser Gifford は、Kluge賞の選考過程全体を統括した。
 彼は、三大学を、人文社会科学の三つの異なる分野で卒業し、かつてfaculty at Amherst College の学部長かつthe Wilson Center の副所長だった。//
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 以下は、連邦図書館サイト上のL・コワコフスキらと、同時期に訪れたホワイト・ハウスでの写真(これはWhite House が発表)。いずれも「公」的なものだ。2003年時点でのブッシュ大統領との写真は、ブッシュらを嫌悪する人たちがL・コワコフスキを「その仲間」だとして利用していることがある。
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1900/Leszek Kolakowski の写真。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)がどういう風貌の人物かは、「(レシェク・)コワコフスキ」の検索で容易に判るので、意識してこの欄に掲載したことはなかった。
 例外はあって、一つは、リチャード・パイプス(Richard Pipes)の自伝的な書物の中にある、R・パイプスとL・コワコフスキが並んでしかも二人とも(I・バーリン等とは違って)顔を見せている写真だ。この二人が同時に写っているのは、私には貴重だった。これについては版権者からのクレームはないようだ。再掲。
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 もう一つは、L・コワコフスキ著のドイツ語版・第一巻のカバー裏袖にある写真(1978年刊だから50歳くらいの年)で、ネット上にない、珍しい、かつ理知的雰囲気の強い、よい写真だった。
 しかし、これはたぶん一ヵ月後くらいに画面から消失した。まさに版権者の「事前同意なく」載せたので、ドイツの出版社または写真版権者からクレームがあったのだろうと推測し、あえて再挑戦等はしていない(この写真はネット上ではその後も見たことがない)。可能性としては、当方のたんなる操作ミスも考えられるのだが。
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 以下の4枚は、L・コワコフスキの出身市であるラドム(Radom)市のウェブサイトと見られるものの中にある9枚のProf. Kolakowski の写真の中の4枚だ。したがって、版権上の問題は実質的にはない、と思われる。「(レシェク・)コワコフスキ」検索では、たぶん出てこない。
 順に、①時期が私には不明。
 ②1949-50年頃、22-23歳頃の写真。隣に立つのは、少なくとものちの配偶者で(つまりこのときに結婚していたかは不明で)医学博士の、個人名・Tamara 氏(で間違いない)。
 ポーランド、Lodz 大学で。
 かつてこの欄に経歴紹介でこのLodz 大学を「ロズ」大学と書き記したのは誤りで、l, o, dz の三つ全てが、原ポーランド語では英米語に対応していないようだ。正確には、「ウッチ」または「ウージ」。現在、人口ではワルシャワに次ぐポーランド第二の都市。
 ③・④1989年、62歳の頃、ポーランド・ワルシャワ大学での写真。③は、何か演説か講演か、あるいは多数者に対する挨拶かをしている。この1989年には、ポーランドに入国できたものと思われる。
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 レシェク・コワコフスキ(1927〜2009)。
 Leszek-Kolakowski01-(2)1960 Leszek-Kolakowski02-(2)1949-50
 Leszek-Kolakowski-03-radom (2)1989warsawuni Leszek-Kolakowski-04-radom (2)1989warsawuni


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1899/G・ステッドマン・ジョウンズ・カール・マルクス(2016)。

 ソ連解体後でも、日本の出版社およびこれに影響をもつ日本共産党員や容共「知識人」の外国の<反共産主義>文献に対するガード(つまり、自主検閲・自主規制)は堅いようだ。
 L・コワコフスキの大著、R・パイプスの二著のほかにシェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(最新版、2017)も邦訳書はない。
 一方で例えば、江崎道朗が唯一コミンテルン関係書として付録資料のそのまた一部を利用していた邦訳書・コミンテルン史(大月書店、1998年)は、立ち入った内容紹介はこの欄でしていないが、レーニン擁護まではいかなくともレーニンになおも「甘い」ところがある。かつまた、著者の二人は20-30歳代だったと見られ、そのうち一人の現在はネット検索してもさっぱり分からない。
 また、岩波書店のシリーズものの一つ、グレイム・ギルほか=内田健二訳・スターリニズム -ヨーロッパ史入門(2004年)は、レーニンとスターリニズムとの接続関係を何とかして認めないように努めている。まだ、この欄では紹介、言及していない。
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 カール・マルクスの人生や論考全体に関する近年の研究書に、以下がある。
 ①Gareth Stedman Jones, Karl Marx :Greatness and Illusion (Cambridge、2016年)。
 ②Jonathan Sperber, Karl Marx :Nineteenth-Century Life (Liveright、2014年)。
 これらは、目も耳も早そうな池田信夫が紹介したかもしれないと思ったが、まだのようだ。
 ①のG・ステッドマン・ジョウンズ・カール・マルクス-偉大と幻想(2016)は、奇妙な読み方だろうが、そのEpilogue であるp.589-p.595 を辞書なしで何とか読んでしまった(Kindle 版ではない)。
 小川榮太郎の文章を探して確認して読むよりは、私にははるかに知的刺激になる。
 小川榮太郎によると、彼の文章の意味が分からない者は、<小川榮太郎の「文学」>を理解できない人間なのだそうだ。
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 上の①の最後の部分を試訳する余裕はないが、著者は興味深いことを書いている。たぶん、以下のようなことだ。
 ・エンゲルスはマルクスの生前の手紙類をロシアの友人、「社会主義」者のLavrov に渡したが、その内容を<資本>の第二巻・第三巻の編集に利用しなかった。
 ・プレハノフ、ストルーヴェおよびレーニンがロシアのマルクス主義は「史的唯物論対人民主義」、「西欧化対ロシア主義」の闘いだとしたとき、エンゲルスは異論を挟まなかった。このことは、農民共同体の重要性が直接的な政治的争点になった国で、マルクスの見解を忘れさせる意味をもった。
 ・エンゲルスはロシアでの農民の多さ、都市プロレタリアートの少なさを指摘はしていたが、マルクスの1883年直前のロシア・農村共同体(ミール)に関する見解は20世紀にまで(ロシア革命以前に)ロシアに伝わらなかった。〔イギリスやロシアの農村共同体に関する論及がEpilogueの最初にあるが割愛する。〕
 ・マルクス=エンゲルス全集を編纂したRyazanov はマルクスからの手紙のやりとりがあったことを想い出し、かつAkselrod文書の中にあることが判ったが、編集者はマルクスの手紙が忘れ去られた本当の理由を理解できなかった。
 ・マルクスの手紙は、「正統派マルクス主義」派の「都市に基礎をおく労働者の社会民主主義運動の構築という戦略」ではなくて、プレハノフらに、「農村共同体を支援する」ことを強く迫るものだった。
 ・〔秋月の読み方では、マルクスは後進国とされるロシアでのプロレタリアートの少なさ・弱さからして、これの支持を得ての「革命」-「プロレタリアート独裁」を想定していなった。二次的に(必ずしも理論的にではなく)「農民」の支持を求めるいわゆる<労農同盟>論は-元々は日本共産党も継承した-マルクスではなく、レーニン・ボルシェヴィキによる。〕
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 このG・ステッドマン・ジョウンズの2016年著に対する書評をさらにネット上で見つけた。
 Terence Renaud (Yale Uni. )は、マルクスの伝記はとくにIsaiah Berlin、George Lichtheim およびLeszek Kolakowski のものが「スタンダード」だとしつつ(コワコフスキを除き、邦訳書があって所持している筈だ)、この著者も青年マルクスと成年マルクスの哲学上の継続性を承認する。しかし、長くは紹介しないが、こんな紹介があって、「しろうと」には意外感を抱かせる。一部だけ。
 「ステッドマン・ジョウンズは、マルクスの政治論は1860年代に変化した、と主張する。
 イギリスに逃亡中の間に、彼は社会(的)民主主義者、そして暴力的手段を拒絶する労働組合支援者に変化した。
 マルクスは蜂起についてのジャコバン型やブランキ型を放棄し、ゆっくりとした漸進的な変化を支持した。
 多数の共産主義者たちがのちに信じたのとは反対に、マルクスは革命に関して単一の劇的な事件ではなくて長い過程だと考えた。
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 しかし、このTerence Renaud は、著者のGareth Stedman Jones (1942~、Uni. of London)は、「新左翼」-「フランス構造主義派」-<マルクス主義放棄>と立場を変えており、自己正当化のためのマルクス理解・解釈ではないか、とかなり疑問視しているように読める。
 Stedman Jones はかつてNew Left Review の編集長だったらしく(1964-1981)、これはL・コワコフスキを批判するE・トムソンの文章が別の雑誌に掲載された1970年代前半を含んでいる(その反論がこの欄に試訳を掲載したL・コワコフスキ「左翼の君へ」)。
 T. Renaud という研究者についても全く知らないのだが、Stedman Jones の主張を鵜呑みにするわけには、きっといかないのだろう。
 だが、いろいろと興味深い議論または研究ではあるようだ。
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 日本で、マルクス(やエンゲルス)あるいはレーニン等に関する、冷静な学問的研究を妨げているのは、マルクスとマルクス主義あるいは「科学的社会主義」を党是とする政治組織・政党が存在していて、その「政治的」圧力が、意識的または無意識的に、日本の人文社会分野の研究者を<拘束>しているからだと思われる。
 <身の安全を図る>ために、日本共産党が暗黙に設定している<タブー>を破って「自由な学問研究」をすることを、事実上自己抑制しているのではないか、と秋月瑛二は推測する。「自由な学問」・「大学の自治」は共産主義組織・政党によって蝕まれているのではないか。
 かつまた、「(容共)左翼」に反発している人々も、立憲民主党や朝日新聞等を批判することがあっても、なぜか正面からの<日本共産党批判>には及び腰だ。
 なぜだろうと、つねに不思議に感じている。日本の出版業界やマス・メディア業界(これらも資本主義的で自由な営利企業体だ)の独特さ、奇妙さにも一因があるに違いない。

1898/Wikipedia によるL・コワコフスキ③。

 Wikipedia 英米語版での 'Main Currents of Marxism' の項の試訳のつづき。
 2018年12月22日-23日の記載内容なので、今後の変更・追加等はありうるだろう。
 前回に記さなかったが、この本の総頁数は、つぎのように書かれている。
 英語版第一巻-434頁、同第二巻-542頁、同第三巻-548頁。秋月の単純計算で、総計1524頁になる。
 英語版全巻合冊書-1284頁
 さて、以下の書評類は興味深い。何とも直訳ふうだが、英語そのままよりはまだ理解しやすいのではないか。
 書評者等の国籍・居住地、掲載紙誌の発行元の所在地等は分からない。多くは、イギリスかアメリカなのだろう。
 こうした書評上での議論があるのは、なかなか愉快で、コワコフスキ著の内容の一端も教えてくれる。
 それにしても、わが日本では、コワコフスキの名も全くかほとんど知られず、この著の存在自体についても同様だろう。2017年の最大の驚きは、この著の邦訳書が40年も経っても存在しないことだった。
 マルクス主義・共産主義に関する<情報>に限ってもよいが、わが日本の「知的」環境は、果たしていかなるものなのか。
 なお、praise=讃える、credit=高く評価する、describe=叙述する、accuse=追及する、consider=考える、等にほぼ機械的に統一した(つもりだ)。criticize はむろん=批判する。これら以外に、論じる、主張する、等と訳した言葉がある。
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 3/反応(reception)。
 1.主流(main stream)メディア。
 (1) <マルクス主義の主要潮流>はLibray Journal で、二つの肯定的論評を受けた。
 一つは最初の英語版を書評した Robert C. O'Brien からのもので、二つはこの著作の2005年合冊版を書評した Francisca Goldsmith からのものだった。
 この著作はまた、The New Republic で政治科学者 Michael Harrington によって書評され、The New York Review of Books では歴史家の Tony Judt によって書評された。
 (2) O'Brien は、この著作を「マルクス主義教理の発展に関する包括的で詳細な概観」で、「注目すべき(remarkable)著作だ」と叙述した。
 彼はコワコフスキを、「マルクスの思想が<資本>に到達するまでの発展の基本的な継続性」を提示したと讃え、Lukács、Bloch、Marcuse、フランクフルト学派および毛沢東に関する章が特別の価値があると考えた。
 Goldsmith は、コワコフスキには「明瞭性」と「包括性」はもちろんとして「完全性と明晰性」があると讃えた。
 哲学者のJohn Gray は、<マルクス主義の主要潮流>を「権威がある(magisterial)」と呼んで讃えた。//
 2.学界雑誌。
 (1)<マルクス主義の主要潮流>は、Economica で経済学者のMark Blaug から、The American Historical Review で歴史研究者の Martin Jay から、The American Scholarで哲学者のSidney Hook から、the Journal of Economic Issues で John E. Elliott から肯定的な書評を受けた。
 入り混じった書評を、社会学者のCraig CalhounからSocial Forces で、David Joravsky からTheory & Society で、Franklin Hugh Adler からThe Antioch Review で、否定的な書評を社会学者の Barry Hindess からThe Sociological Reviewで、社会学者 Ralph Miliband からPolitical Studies で受けた。
 この本の書評はほかに、William P. Collins が The Journal of Politics に、Ken Plummeが Sociology に、哲学者のMarx W. Wartofsky がPraxis International に、それぞれ書いている。
 (2) 経済学者Mark Blaug は、この本を「輝かしい(brilliant)」かつ社会科学にとって重要なものだと考えた。
 マルクス主義の強さと弱さを概括したことを高く評価し、歴史的唯物論、エンゲルスの自然弁証法、Kautsky、Plekhanov、レーニン主義、Trotsky、トロツキー主義、Lukács、Marcuse およびAlthusser に関する論述を讃えた。 
 しかし、哲学者としての背景からしてマルクス主義を主に哲学的および政治的な観点から扱っており、それによってマルクス主義のうちの中核的な経済理論をコワコフスキは曲解している、と考えた。
 彼はまた、Paul Sweezy によるThe Theory of Capitalist Development (1942)での Ladislaus von Bortkiewicz の著作の再生のようなマルクス主義経済学の重要な要素を、コワコフスキは無視していると批判した。
 彼はまた、「1920年代のソヴィエトでの経済政策論争」を含めて、コワコフスキがより注意を払うことができただろういくつかの他の主題がある、と考えた、
 彼はコワコフスキの文献処理を優れている(excellent)と判断したけれども、 哲学者H. B. Acton のThe Illusion of the Epoch や哲学者 Karl Popper のThe Open Society and Its Enemies が外されていることに驚いた。
 彼は、コワコフスキの著述の質を、その翻訳とともに、讃えた。
 (3) 歴史研究者Martin Jay は、この本を「きわめて価値がある(extraordinarily valuable)」、「力強く書かれている」、「統合的学問と批判的分析の、畏怖すべき(awesome)達成物〔業績〕」、「専門的学問の記念碑」だと叙述する。
 彼は、コワコフスキによる「弁証法の起源」の説明、マルクス主義理論の哲学的側面の論述を、相対的に独自性はないとするけれども、讃える。
 彼はまた、マルクス主義の経済的基礎の論述や労働価値理論に対する批判を高く評価する。
 彼は、歴史的唯物論が原因となる力を「究極的には」経済に求めることの誤謬をコワコフスキが暴露したことを高く評価する。
 しかし、Lukács、Korsch、Gramsci、フランクフルト学派、GoldmannおよびBloch の扱い方を批判し、「痛烈で非寛容的で」、公平さに欠けるとする。こうした問題のあることをコワコフスキは知っていると認めるけれども。
 彼はまた、コワコフスキの著作はときに事実に関する誤りや不明瞭な解釈を含んでいるとする一方で、この本の長さを考慮すれば驚くべきほどに数少ない、と書いた。
 (4) 哲学者Sidney Hook は、この本は「マルクス主義批判の新しい時代」を開き、「マルクスとマルクス主義伝統にある思想家たちに関する最も包括的な論述」を提示した、と書いた。
 彼は、ポーランドのマルクス主義者、Gramsci、Lukács、フランクフルト学派、Bernstein、歴史的唯物論、マルクス主義へのHess の影響、「マルクスの社会的理想」での個人性の承認、「資本」の第一巻と第三巻の間の矛盾を解消しようとする試みの失敗, マルクスの「搾取」概念、およびJaurès やLafargue に関するコワコフスキの論述を讃える。
 彼は、トロツキーの考え方は本質的諸点でスターリンのそれと違いはない、スターリニズムはレーニン主義諸原理によって正当化され得る、ということについてコワコフスキに同意する。
 しかし、ある範囲のマルクス主義者の扱い方、 社会学者の Lewis Samuel Feuer の「研究がアメリカのマルクスに関するユートピア社会主義の植民地に与えた影響」を無視していること、を批判した。
 彼は、マルクスとエンゲルスの間、マルクスとレーニンの間、に関するコワコフスキの論述に納得しておらず、マルクスの Lukács による読み方を讃えていることを批判した。
 彼は、マルクスは一貫して「Feuerbach の人間という種の性質に関する見解」を支持していたとのコワコフスキの見方を拒否し、思想家としてのマルクスの発展に関するコワコフスキの見方を疑問視し、マルクスの歴史的唯物論は技術的決定論の形態にまで達したとのコワコフスキの見方を、知識(knowledge)に関するマルクスの理論の解釈とともに、拒否した。
 (5) Elliott は、この本は「包括的」で、マルクス主義を真摯に研究する全ての学生の必須文献だと叙述する。
 彼は、<資本>のようなマルクスの後半の著作は1843年以降の初期の著作と一貫しており、同じ諸原理を継続させ仕上げている、とするコワコフスキの議論に納得した。
 彼は、マルクスは倫理的または規範的な観点を決して採用しなかったという見方、マルクスの「実践」観念や「理論と実践の編み込み」に関する説明、マルクスの資本主義批判は「貧困によってではなく非人間化によって」始まるとの説明のゆえに、「制度的伝統」にある経済学者にとって第一巻は価値があると考えた。
 彼は、第二巻を<tour de force>だとし、三巻のうちで何らかの意味で最良のものだと考えた。
 彼は、第二インターナショナルの間の多様なマルクス主義諸派がいかに相互に、そしてマルクスと、異なっていたか、に関するコワコフスキの論述を推奨した。
 彼はまた、レーニンとソヴィエト・マルクス主義に関するコワコフスキの論述は教示的(informative)だとする一方で、ソヴィエト体制に対するコワコフスキの立場を知ったうえで読む必要があるとも付け加えた。
 彼は、コワコフスキはマルクス主義を批判するよりも叙述するのに長けていると考え、マルクスの価値理論に対する Böhm von Bawerk による批判に依拠しすぎていると批判した。
 しかし彼は、コワコフスキの著作はこれらの欠点を埋め合わす以上の長所をもつ、と結論づけた。
 (6) 社会学者Calhoun は、この本はコワコフスキのマルクス主義放棄を理由の一部として左翼著述者たちからの批判を引き出した、しかし、マルクス主義に関する「手引き書」として左翼に対してすら影響を与えた、と書いた。
 彼は、コワコフスキがマルクス主義への共感を欠いていることを批判した。また、哲学者または逸脱したマルクス主義者と考え得る場合にかぎってのみマルクス主義の著述者に焦点を当て、マルクス主義の経済学者、歴史家および社会科学者たちに十分な注意を払っていない、と主張した。
 彼は、この本は明晰に書かれているが、「不適切な参考書」だと考えた。
 彼は、第一巻はマルクスに関するよい(good)論述だが、「洞察が少なすぎて、もっと読みやすい様式で書かれなかった」と述べた。
 彼はまた、第二巻のロシア・マルクス主義に関する論述はしばしば不公平で、かつ長すぎる、とした。
 また、スターリニズムはレーニンの仕事(works)の論理的な帰結だとのコワコフスキの議論に彼は納得しておらず、ソヴィエト同盟がもった他諸国のマルクス主義に対する影響に関するコワコフスキの論じ方は不適切(inadequate)だ、とも考えた。
 彼は、全てではないが、コワコフスキのフランクフルト学派批判にある程度は同意した。
 <マルクス主義の主要潮流>は一つの知的な企てとしてマルクス主義の感覚〔sense=意義・意味〕を十分に与えるものではない、と彼は結論づけた。
 (7) Joravsky は、この本はコワコフスキが以前にポーランド共産党員だった間に行った共産主義に関する議論を継続したものだと見た。
 マルクス主義の歴史的な推移に関するコワコフスキの否定的な描写は、<マルクス主義の主要潮流>がもつ「事実の豊富さと複雑さ」と奇妙に矛盾している、と彼は書いた。
 彼は、マルクス主義者たちの間の論争から超然としていると自らを提示し、一方でなお Lukács のマルクス解釈を支持するのは一貫していない、とコワコフスキを批判した。また、マルクスを全体主義者だと非難するのは不公正だ、とも。
 彼は<マルクス主義の主要潮流>の多くを冴えない(dull)ものだとし、哲学史上ののマルクスの位置に関するコワコフスキの説明は偏向している(tendentious)、と考えた。
 彼は、社会科学に投げかけたマルクスの諸問題を無視し、諸信条の社会的文脈を考察したごとき常識人としてのみマルクスを評価しているとして、コワコフスキを批判した。また、マルクス主義の運動や体制に関係があった著述者のみを扱っている、とも。
 彼は、オーストリア・マルクス主義、ポーランドのマルクス主義と Habermas に関する論述にはより好ましい評価を与えたが、全体としての共産主義運動の取り扱い方には不満で、コワコフスキはロシアに偏見を持っており、他の諸国を無視している、と追及した。
 (8) Adler は、この本を先行例のない、「きわめて卓絶した(unsurpassed)」マルクス主義の批判的研究だと叙述する。
 コワコフスキの個人的な歴史がマルクス主義に対するその立場の大部分を説明すると彼は結論づけたが、<マルクス主義の主要潮流>は一般的には知的に誠実だ(honest)、とした。
 しかし、彼は、コワコフスキの東欧マルクス主義批判は強いものだとしつつ、その強さが西欧マルクス主義と新左翼に関する侮蔑的な扱いをすっかり失望させるものにしている、と考えた。
 新左翼に対するコワコフスキの見方は1960年代のthe Berkeley の反体制文化との接触によって形成されたのかもしれない、としつつ、彼は、新左翼を生んだ民主主義社会の価値への信頼の危機を何が招いたのかをコワコフスキは理解しようとしていない、と述べた。
 彼は、Gramsci と Lukács に関する論述を讃えた。しかし、「東側マルクス主義批判へとそれを一面的に適用しており、彼らの主導権や物象化に関する批判は先進資本主義諸国の特有の条件に決して適用できるものではない」、と書いた。また、フランクフルト学派とMarcuse の扱いは苛酷すぎ、不公平だ、とも。
 彼はまた、この本の合冊版は大きくて重くて、扱いにくく身体的にも使いにくい、とも記した。
 (9) 社会学者Hindess は、この本はマルクス主義、レーニンおよびボルシェヴィキに対して「重々しく論争的(polemic)」だ、と叙述した。
 彼は、コワコフスキは公平さに欠けていると考え、マルクス思想は<ドイツ・イデオロギー>の頃までに基本的特質が設定された哲学的人類学だというコワコフスキの見方に代わる選択肢のあることを考慮していない、と批判した。また、「政治分析の道具概念としては無価値」の「全体主義という観念」に依拠している、とも。
 彼は、コワコフスキはマルクス主義を哲学と見ているために、「政治的計算の手段としてのマルクス主義の用い方、あるいは具体的分析を試みる多数のマルクス主義者に設定されている政治的および経済的な実体的な諸問題」への注意が不十分だ、と主張した。
 彼はまた、Kautsky のようなマルクス主義著述者、レーニンの諸政策、スターリニズムの進展に関して誤解を与える論述をしている、と追及した。
 彼は、コワコフスキによるマルクス主義の説明は「グロテスクで侮辱的な滑稽画」であり、現代世界に対するマルクス主義の影響力を説明していない、と叙述した。
 (10) 社会学者Miliband は、コワコフスキはマルクス主義の包括的な概述を提供した、と書いた。
 しかし、マルクス主義に関するコワコフスキの論述の多くを讃えつつも、そのマルクス主義に対する敵意が強すぎて、「手引き書」としての著作だという叙述にしては、精細すぎると考えた。
 彼はまた、マルクス主義とその歴史への接近方法は「根本的に見当違い(misconceived)」だと主張した。
 彼は、マルクス主義とレーニン主義やスターリニズムとの関係についてのコワコフスキの見方は間違っている(mistaken)、マルクスの初期の著作と後期のそれとの間の重要な違いを無視している、コワコフスキは第一次的には「経済と社会の理論家」だというよりも「変わらない哲学的幻想家」だとマルクスを誤って描いている、と主張した。
 マルクス主義は全ての人間の願望が実現され、全ての諸価値が調整される、完璧な共同体たる社会」を目指した、とのコワコフスキの見方は、「馬鹿げた誇張しすぎ」(absurdly overdrawn)だ、と彼は述べた。また、コワコフスキの別の著述のいくつかとの一貫性がない、とも。
 彼はまた、コワコフスキの結論を支える十分な論拠が提示されていない、と主張した。
 彼は、コワコフスキはマルクスを誤って表現しており、マルクス主義の魅力を説明することができていない、と追及した。また、歴史的唯物論に関する論述を非難し、 Luxemburg に対する「誹謗中傷〔人格攻撃〕」だとコワコフスキを追及した。
 彼は、改革派社会主義とレーニン主義はマルクス主義者にとってのただ二つの選択肢だった、とのコワコフスキの見方を拒否した。
 彼は結論的に、<マルクス主義の主要潮流>は著者の能力とその主題のゆえに無価値(unworthy)だ、と述べた。
 コワコフスキはMiliband の見方に対して返答し、<マルクス主義の主要潮流>で表現した自分の見解を再確認するとともに、Miliband は自分の見解を誤って表現していると追及した。
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 以上。つぎの、<3/反応の3.書物での評価>は割愛する。

1897/Wikipedia によるL・コワコフスキ②。

 'Leszek Kolakowski' は英米語版のWikipedia も勿論あるが(日本語版はひどい)、その著、'Main Currents of Marxism' という書物自体も、英米語版Wikipedia は項目の一つにしている。
 以下は、その試訳。2018年12月21日現在。なお、この欄で合冊版の発行年を、所持している版の発行年2008年としたことがあり、最近では書物の最初部分に依拠して最も若い年の2004年としているが、以下では2005年だと記されている。( )は改行後を示すもので、数字も含めて、原文にはない。
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 (1) <マルクス主義の主要潮流-その起源、成長および解体>(〔ポーランド語・略〕は、政治哲学者レシェク・コワコフスキによる、マルクス主義に関する著作。
 英語版での三つの諸巻は、第一巻・創成者たち、第二巻・黄金時代、第三巻・崩壊。
 1976年にパリでポーランド語によって最初に出版され、英語翻訳版は1978年に出た。
 2005年に、<マルクス主義の主要潮流>は一巻の書物として再発行され、コワコフスキによる新しい緒言と新しいエピローグがそれに付いていた。  
 この著作はコワコフスキによると、マルクス主義に関する「手引き書」という意図だった。
 彼は、かつて正統派マルクス主義者だったが、最終的にはマルクス主義を拒絶した。
 そのマルクス主義に対する批判的な立場にもかかわらず、コワコフスキはカール・マルクスに関するLukács György〔ルカチ・ジョルジュ〕の解釈を支持した。
 (2) この著作は、マルクス主義に関するその論述の包括性とその叙述の質を褒め称える、多数の肯定的な論評を受けた。
 歴史的唯物論、ルカチ、ポーランド・マルクス主義、レオン・トロツキー、ハーバート・マルクーゼおよびフランクフルト学派に関するその論述が、とくに抜きん出ているとされた。
 別の論評者たちはフランクフルト学派に関する彼の扱いにもっと批判的だ。また、カール・カウツキー、ウラジミル・レーニンおよびアントニオ・グラムシに関する取り扱いについて、彼らの評価は、分かれている。 
 コワコフスキは、特定の著者たちまたは諸事件、彼のマルクス主義に対する敵意、ルカチの解釈への依存、に関する論述を省略していると批判された。また、現代世界に対するマルクス主義の訴えまたは影響を説明していない、他のマルクス主義著作者を無視してマルクス主義哲学者に焦点を当てることでマルクス主義の印象を誤らせる、とも。//
 1/背景と出版の歴史。
 コワコフスキによると、<マルクス主義の主要潮流>は、1968年と1976年の間にポーランド語で執筆された。その頃、この著作を共産主義が支配するポーランドで出版するのは不可能だった。
 ポーランド語版はフランスでthe Institute Littérailie よって1976年と1978年に出版され、そのときに、ポーランドの諸地下出版社によって複写された。一方、P. S. Falla が翻訳した英語版は、1978年に、Oxford University Press によって出版された。
 ドイツ語、オランダ語、イタリア語、セルビア=クロアチア語およびスペイン語の各翻訳書版が、そのあとに続いて出版された。
 別のポーランド語版は、1988年にイギリスで、Publishing House Aneks によって出版された。
 この著作は、2000年にポーランドで初めて、合法的に出版された。
 コワコフスキは、最初の二巻だけがフランス語版となって出版されていると書き、その理由を、「第三巻は、フランス左翼たちの間の憤懣が激しかったので出版社がリスクを冒すのを怖れた」、と推測している。
 <マルクス主義の主要潮流>の全一巻合冊版は、コワコフスキによる新しい緒言と新しいエピローグ付きで、2005年に出版された。
 2/要約。
 (1) コワコフスキは、マルクス主義の起源、哲学上の根源、黄金時代および崩壊〔瓦解〕を論述する。
 彼は、マルクス主義は「二〇世紀の最大の幻想(fantasy=おとぎ話)」、「虚偽と搾取と抑圧の怪物的体系」のための建設物となる完璧な社会という夢想、だと叙述する。
 彼は、共産主義イデオロギーのうちのレーニン主義やスターリン主義はマルクス主義を歪曲したものでも堕落させたものでもなく、マルクス主義のありうる諸解釈の一つだ、と主張する。
マルクス主義を拒絶しているにもかかわらず、彼のマルクスの解釈はルカチから影響を受けている。
 第一巻は、マルクス主義の知的背景を論述し、Plotinus、Johannes Scotus Eriugena、Meister Eckhart、Nicholas of Cusa、Jakob Böhme、Angelus Silesius、Jean-Jacques Rousseau、David Hume、Immanuel Kant、Johann Gottlieb Fichte、Ludwig Feuerbach、Georg Wilhelm Friedrich Hegel および Moses Hess を検証した。カール・マルクスとフリートリヒ・エンゲルスの諸著作の分析があるのは、勿論のことだ。
 ヘーゲルは全体主義の弁解者だということを彼は承認しなかったけれども、ヘーゲルに関して彼は、「ヘーゲルの教理の適用が実際に意味したのは、国家機構と個人とが対立する全ての場合に勝利するのは前者だ、ということだ」と書いた。
 (2) 第二巻は、第二インターナショナルおよびPaul Lafargue、Eduard Bernstein、Karl Kautsky、Georgi Plekhanov、Jean Jaurès、Jan Wacław Machajski、Vladimir Lenin、Rosa Luxemburg やRudolf Hilferding といった人々に関する論述を内容とする。
 これは、経済学者の Eugen Böhm von Bawerk との価値理論に関するヒルファーディングの議論を再述している。
 また、オーストリア・マルクス主義に関しても論述する。
 第三巻は、Leon Trotsky、Antonio Gramsci、Lukács、Joseph Stalin、Karl Korsch、Lucien Goldmann、Herbert Marcuse、Jürgen Habermas および Ernst Bloch といった人々を扱う。フランクフルト学派と批判理論については勿論のことだ。
 コワコフスキは、ルカチの<歴史と階級意識>(1923年)やブロッホの<希望の原理>(1954年)を批判的に叙述する。
 また、Jean-Paul Sartre についても論述する。
 コワコフスキは、サルトルの<弁証法的理性批判>(1960年)を批判する。
 彼は、弁証法的唯物論は、第一にマルクス主義に特有の内容を有しない自明のこと、第二に哲学上のドグマ(dogmas)、第三にたわ言(nonsense)、そして第四に、これらのいずれかであり得る、どう解釈するかに依存する言明 、で成り立つと論じて、弁証法的唯物論を批判する。
 (3) 2005年版で追加した緒言で、コワコフスキは、ヨーロッパでの共産主義の解体の理由の一つはイデオロギーとしてのマルクス主義の崩壊にある、と叙述した。
 彼は、ヨーロッパ共産主義が終焉したにもかかわらず研究対象としてのマルクス主義の価値を再確認し、全く確実ではないにせよ、将来でのマルクス主義と共産主義の再生はなおもあり得る、と述べた。
 彼が追加したエピローグでは、マルクス主義に関するこの著作は「この対象になお関心をもつ数少なくなっている人々にはたぶん有益だろう」と最後に記した。
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 3以降へとつづく。

1894/不破哲三「現代トロツキズム批判」(1959年)。

 こういう類を探し出せば、キリがないだろう。
 不破哲三は1959年、「ソ連」についてどう書いていたか、どういうイメージを持っていたか。
 不破哲三「現代トロツキズム批判」上田耕一郎=不破哲三・マルクス主義と現代イデオロギー/上(大月書店、1963年)のp.214。
 最初の掲載は1959年6月号の『前衛』。不破、29歳の年。
 **
 「トロツキーの『世界革命』理論の土台石を形づく」るのは、経済後進国ロシアで「完全な社会主義社会を建設することは不可能」だとする「理論」だ。
 「この一国社会主義批判は、もしそれが誤りだとなったなら、…トロツキズムの全体が一挙に崩壊してしまうほどの比重をしめていた。/
 だが、…十月革命以来四〇年の世界の発展は、トロツキズムのこの最大の支柱を、打ち破りがたい歴史的事実の力でうちくだいた。/
 すなわち、世界革命の不均衡な発展が主要な先進資本主義国をまだ資本主義体制にとどめているあいだに、ソ連は社会主義社会の建設を完了し、社会主義は資本主義的包囲を打ち破って世界体制となり、…共産主義社会への移行をめざして巨大な前進を開始しているのである」。
 フルシチョフが述べたように、「一国における社会主義の建設と、その完全かつ最終的な勝利にかんする問題は、社会発展の世界史的行程によって解決された」。
 **
 スターリン死亡が1953年、スターリン批判秘密報告は1956年で、このときソ連はフルシチョフの時代だった。日本共産党は1961年党大会の前。
 上で不破哲三は、「ソ連は社会主義社会の建設を完了し」、「共産主義社会への移行をめざして巨大な前進を開始している」と書いた。
 この歴史的事実によって、「一国社会主義」論の正しさとトロツキーの「世界革命」論の誤りが実証された、と言っているわけだ。
 第一に、このような「一国」か「世界」という対立・対比はスターリンがトロツキーらに政治的に勝利するために意図的に捏造した論争点で、この論点を極大化するのは政治的だ。理論・政策について、スターリンはトロツキーのそれらを多分に「利用」・「継承」している。
 このようなスターリンとトロツキーの見事な「相対化」は、L・コワコフスキにもS・フィツパトリクにも見られて、興味深い。
 不破哲三は、スターリンと同じ立場に立って、ソヴィエト・マルクス主義の経緯を理解したつもりでいたわけだ。この人は戦後の若い頃に、<スターリン・ソ連共産党史/小教程>を一生懸命読んで「憶えた」にちがいない。
 第二に、ソ連は社会主義国ではなかった、レーニンによって正しく歩み始めたのをスターリンがなし崩しにした、と言うどころか、1959年にはソ連での「社会主義建設は完了」したと(スターリンと同じく)明言していた。
 何とでも言えるものだ。1994年党大会で綱領改正の報告をしたとき、不破哲三は、かつて自分が書いたことなど(他にも多数あって?)忘れていたに違いない。いや、かすかに記憶に残っていたとしても、過去は過去、今は今で、どうでもよいことなのだ。
 とりあえず今を前進し、とりあえず今を切り抜け、自分が日本共産党の頂点にい続けることが可能であるならば。
 ソ連の「社会主義国」性につき、1994年の時点で不破哲三が反省らしき言辞を吐いたのは、秋月瑛二の知るかぎりでは、我々にも<ソ連の見方につき不十分さがあった>、というひとことだけだ。
 <何とでも言う>ことができる。
 かつてレーニンを擁護しつつスターリニズムを批判していた「トロツキスト」を批判していた日本共産党だが、今や(1994年党大会以降)「スターリニスト」も罵倒するに至った。かと言って、トロツキー批判は間違っていたと自己批判するわけでは、勿論ない。
 基本的・根本的なところで、日本共産党は「自己欺瞞」を今後も、し続ける。

1893/L・コワコフスキ著・第三巻第四章第1節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第四章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化(crystallization。独語訳版はAusformung=形成)。
 1978年英語版第三巻 p.117-p.121、2004年合冊版p.881-p.884。
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 第1節・戦時中という幕間。
 (1)1930年代の終わりまでに、マルクス主義は、ソヴィエトの党と国家の教理という、明瞭に定められた形態をとるに至っていた。
 その公式名称は、マルクス=レーニン主義(Marxism-Leninism)だった。これは、すでに説明してきたように、スターリンの個人的イデオロギー以外の何ものをも意味しなかった。マルクス、エンゲルスおよびレーニンからの理論の細片をわずかに含んではいた。しかし、四人の「古典的」教師たちが「発展」させ、「豊かに」した単一のイデオロギーだと称した。
 マルクスはこうして「古典的マルクス=レーニン主義」の中核へともち上げられ、スターリンの先駆者だとされた。
 マルクス=レーニン主義の本当(true)の内容はスターリンの諸著作が、もっと個別に言えば<小教程>が、解説した。//
 (2)すでに述べたように、全体主義国家を支配する階層の利益を抜きん出て映し出すこのイデオロギーの際立つ特質は、極端な厳格性と極端な融通性を結合していることだ。
 相反するように見えるこれら二つの性質は、お互いを補強し合っている。
 微小の逸脱すらなく反復するよう全ての者が義務づけられた、変わらない、型に嵌まった諸定式を集めたものだ、という意味で、それは厳格だった。
 しかし、その諸定式の内容はきわめて曖昧であり、どの段階でもどんな変化があっても、全ての国家政策をそれが何であっても正当化するために、用いることができた。//
 (3)ソヴィエト・マルクス主義がもつこの機能の最も逆説的な効果は、第二次大戦中の、それ自体の部分的な自己崩壊だった。
 (4)1930年代の後半、ヨーロッパはナツィによる攻撃という脅威で弱体化していた。
 戦争勃発に先行していた危機の間、スターリンを冠に戴くソヴィエト同盟は、全ての方向からの脅威に対抗して安全を確保すべく、巧妙で目敏い政策を追求した。
 宥和という西側諸勢力の臆病な政策によって、かりにドイツがその東方または西方の隣国を攻撃したとすればどうなるか、を予見することが困難になった。
 ドイツがチェコスロバキアを併合して従属させた後では、戦争が避けられないことがほとんどの人々に明白だった。
 1939年8月のドイツ・ソヴィエト不可侵協定〔独ソ不可侵条約〕は、秘密条項を含んでいた。その条項は、ポーランドを両国で分割することを定め、フィンランド、エストニアおよびラトヴィアをソヴィエトの利益圏に組み込んでいた。
 (リトアニアは、同年9月28日の協定の修正で、これらに付け加えられた。)
 同年9月1日、ソヴィエト同盟がこの協定を裁可した翌日に、ドイツはポーランドへと侵攻した。そして同月17日、ソヴィエト赤軍がポーランド東部地域を「解放する」ためとして侵入してきた。両国政府は一方で、ポーランドはこれを最後に消滅した、と宣言した。
 侵略者たちは、それぞれの占領地域での地下活動を弾圧して相互に助け合う秘密合意書を締結していた。
 (ナツィとソヴィエトの協力の期間、後者は、ソ連邦に収監されていた何人かのドイツ共産党員を引き渡した。その中には、物理学者のAlexander Weissberg も含まれていた。しかし彼は生き延びて、スターリンの粛清に関する事実を記録する(documentary)最初の諸文書を書くことができた。)
 ヒトラーとの協定は、ソヴィエトの国家イデオロギーの変形を生じさせた。
 ファシズムに対する批判が、かつ「ファシズム」という言葉自体が、ソヴィエトの宣伝活動から消滅した。
 西側の諸共産党、とくにイギリス共産党とフランス共産党は、宣伝活動の全体を戦争への反対に向け、ナツィ・ドイツと闘う西側帝国主義諸国を非難するよう指令された。
 フィンランド侵攻が失敗したことで、ロシアの軍事力の弱さが世界中に、とりわけ、その目標は最初からソヴィエトという「同盟者」(ally)だったヒトラーに、明らかになった。
 さらに大災難だったのは、1941年6月21日のドイツ侵攻のあとに生じた、ソヴィエト同盟のだらしない混乱ぶりだった。
 歴史研究者たちは、その驚くべき不用意さの原因について、今もなお議論している。
 軍隊の最良の幹部たちの粛清、スターリンの軍隊の無能力、ドイツによる早期の攻撃への警戒心を抱かなかったこと、およびソヴィエト国民が完全に心理的武装解除に陥っていたこと-ドイツ侵攻の一週間前に政府は戦争に関する風聞は「馬鹿げている」と公式に非難していた-、これらが、ソヴィエト国家を破滅の縁に追い込んだ一連の失敗の理由として挙げられている。//
 (5)ドイツ・ソヴィエト戦争は、ソヴィエト同盟と世界の全共産主義者たちにさらに、イデオロギーの変化をもたらした。
 西側の共産主義者たちはもはやその攻撃を反ナツィ勢力に向ける必要がなかった。自発的にファシズムを「当然の」敵だと見なすべきことになった。
 1941年6月まではポーランド国家の廃絶を従順に受容してたポーランドの共産主義者たちはその党を再建し、一部はソ連邦内で、主としてはドイツ占領下のポーランドの地下運動として、ナツィの侵略者と闘った。
 「正常な」残虐さと破壊とは別に、ロシアでの戦争はそれ自体のイデオロギー上の暴虐を生んだ。すなわち、東部領域からのポーランド人、とくに知識人の大量の追放と殺戮、ロシア軍の捕虜になっていたポーランド将校たちの大殺戮、ドイツとの戦闘がなお続いている間の八つの少数民族集団の<ひとかたまり>での再移住、および四つの自治民族共和国の解体-ヴォルガ・ドイツ人、クリミア・タタール人、the Kalmyksおよびチェコ人とthe Ingushes の人々の自治共和国のそれ。
 無数の生命がこうした追放の間に失われ、逃亡した人々は、生まれた故郷に再び戻ることは決してできなかった。//
 (6)他方で、戦争によって、ロシアのイデオロギー統制を緩和することが可能になった。
 貴重な生命のために闘う国民については、マルクス主義は心理的な兵器としては価値がないことが分かった。
 マルクス主義は、公的な宣伝から事実上は消失した。そして、スターリンはその代わりに、ロシア愛国主義とAlexander Nevsky、Suvrov およびKutukov のような英雄たちの記憶に訴えかけた。
 インターナショナル歌はソヴィエトの聖歌であることをやめ、ロシアの栄光を賛美する曲に替えられた。
 反宗教の煽動は止まり、戦闘的無神論者同盟は事実上解散し、一方で聖職者たちが、愛国主義の精神を維持するのを助けるために召喚された。//
 (7)1945年以降のソヴィエトの宣伝は、社会主義イデオロギーの栄光としてのヒトラーに対する勝利を象徴的に意味した。これは、戦闘をした男たちとソヴィエト民衆全体の心のうちに生きていた。
 そうではなく、反対のことが真実(truth)に近かっただろう。すなわち、国民はマルクス主義イデオロギーに関して忘れなければならず、代わりに民族的かつ愛国的な心情を吹き込まれなければならないということが、勝利のための必要条件だったのだ。むろん、十分条件ではなかったけれとも。
 ソヴィエト国家と民衆の戦争努力を別にすれば、莫大な量のアメリカ合衆国による軍事的援助やヒトラーの「イデオロギー的」まぬけさなどの、別の要因がそれぞれの役割を果たした。
 ヒトラーは、戦争の最初の数カ月の圧倒的な成功に幻惑されて、征服した地域を完全に厳格なナツィの教理に従属させた。ベラルーシとウクライナで「解放者」として振る舞うのではなく、人種主義の笞をふるい、住民たちを永遠に絶滅され、奴隷とされるべき劣等人間として扱った。
 (ドイツ人は、征服地域にある集団農場の解体すらしなかった。そのシステムによって生産物を徴発するのが容易になったからだ。)
 ナツィスの凶暴な残虐さによって、すべての民衆が、ヒトラー主義(Hitlerism)よりも酷いものはあり得ない、と確信した。
 最初の後退のあとで傑出した勇気と献身性を示した赤軍の兵士たちは、彼らの国家の存在のために闘った。マルクス=レーニン主義のためにではなかった。
 ロシアでは多数の者が、戦争はナツィズムに対する最終的な勝利で終わるだけではなく、国内での自由をも、少なくとも圧政の緩和をも、望んでいた。
 戦争に勝利すべく全力が捧げられるためにイデオロギー的統制が緩やかになったのだとすれば、そのように考えるのも当然だった。しかし、勝利のあときわめてすみやかに、そのような希望は幻想であることが明白になった。//
 (8)種々のことがあったにもかかわらず、多様なマルクス主義諸装置は、戦争中ずっと機能し続けた。
 ソヴィエト哲学の分野での最も重要な出来事は、G. F. Aleksandrov が編集した<哲学の歴史>全集の第三巻にある誤りを非難する、党中央委員会の布告だった。
 時代と並行して進み続けることをしない執筆者は、哲学者およびマルクス=レーニン主義の先駆者としてのヘーゲルを過大評価しており、ヘーゲルのドイツ排外主義を考慮していない、とされた。
 この非難は、反ドイツ宣伝のためになされた戦時中の多数の行為の一つにすぎなかった。しかし、マルクス=レーニン主義正統派の歴史文書に占めるヘーゲルの地位を破壊した。
 ソヴィエト哲学者のあるインタビューに答えて、スターリンは、ヘーゲルはフランス革命とフランス唯物論に対して貴族政的に反応したイデオロギストだ、と述べた。これ以降、この評価が哲学の分野で義務的なものになった。//
 (9)勝利の見込みによって事実上の安定を獲得したとき、征服と膨張への欲求を動機とするスターリンの政策は、ヨーロッパと世界の戦後秩序に関わり合った。
 西側連合国は、テヘラン協定とヤルタ協定によって事実上、東ヨーロッパに関するフリー・ハンドをソヴィエト同盟に与えた。
 バルト三国の公然たる併合とほとんど全ての隣国からの領土獲得に加えて、チャーチルとルーズヴェルトの不本意な同意を得て、ソヴィエト同盟は、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、およびより少ない程度でユーゴスラヴィアで支配的な地位を得た。
 これらの諸国で、また東ドイツでも、共産党体制が確立するのに、数年とかからなかった。しかし、この結果は、すでに先立って決められていたことだった。//
 (10)ある範囲の歴史研究者たちは、併合や赤軍が占領した諸国への共産主義の押し付けは帝国主義諸国の企図によるのではなく、ソヴィエト同盟が必要とした可能なかぎりでの「友好」なまたはむしろ卑屈な諸国家に包囲されていることによる安全確保への関心による、と論じた。
 しかし、これは不必要な区別だ。なぜなら、全ての国家がソヴィエト同盟に従属していないかぎりは、ソヴィエト同盟の安全についての絶対的な保障などあり得ないのだから。完全に有効であるためには、世界全体がソヴィエトの支配下に置かれるまでは、「防衛」の過程は継続されなければならないのだ。//
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 第1節、終わり。第四章の途中だが、第三巻の試訳は、ここでいったん区切る。

1892/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第三節③。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 1978年英語版 p.113-p.116、2004年合冊版p.874-p.880。
 最後から二つ目の文につき、ドイツ語訳書3巻p.132も参照した。
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 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容③。
 (19)世界共産主義に対するスターリン独裁の一つの効果は、マルクス主義の研究を徐々に衰退させたことだった。。
 「ボルシェヴィキ化」の過程にあった1920年代は、多様な分派的で個人的な争論で溢れていた。それらは通常は、レーニンが遺した政治的文献の正しい解釈に関する論争というかたちをとった。しかしこれらは、ソヴィエト様式(Soviet-type)の正統派が徐々に成文化されたことを別とすれば、教理に対する永続的な影響を持たなかった。
 にもかかわらず、1920年代初期の革命的雰囲気は、若干の理論的な文献を生んだ。そこでは、第二インターナショナルの正統派指導者たちが伝えたマルクス主義教理が完全に修正されていた。
 それらのうち最も重要なのは、ルカチ(Lukács)とコルシュ(Korsch)の著作だった。この二人はいずれも、コミンテルンによって「極左」だと汚名を着せられて非難された。
 彼らは異なる方法で、「理論と実践の統一」という観念に新しい生命を注入し、正統派と新カント派のいずれにも広まっている科学的見方と闘うことによって、マルクス主義哲学を最初から再構築しようとした。。
 多くの諸国では、逞しい従前の世代がなおも、共産主義運動の外側で非教条的なマルクス主義の伝統を維持していた。すなわち、オートスリアのAdler やBauer 、ポーランドのKrzywicki 、ドイツのKautsky やHilferding。
 しかしながら、この時代の彼らの活動は教理の発展に対して大きな影響力を持たなかった。彼らのうちいく人かはすでに作られていた諸観念や主題を反復することで満足しており、別の者たちは次第にマルクス主義の伝統から離反した。
 そうしているうちに、社会民主主義との闘いに社会主義運動を一元化するコミンテルンの政策によって、理論的作業は行われなくなった。
 社会民主主義はマルクス主義から大きく離れたものになっており、単一の拘束的イデオロギーを求める必要性を失った。
 マルクス主義はソヴィエトのイデオロギストたちを実際に独占し、過ぎゆく年ごとに味気ないものになった。//
 (20)ドイツにだけは、共産主義と一体化しない重要なセンターがあつた。1923年にフランクフルトに創立された社会研究所(the Institute fuer Sozialforschung)だ。
 このメンバーたちは最初はマルクス主義の伝統から強く影響を受けていた。しかし、それとの連環は次第に弱くなりつ、のちにますます明確になった一定の様式が形成された。
 一方で、マルクス主義は制度化された党イデオロギーとして硬直化し、政治的には有効だつたが全ての哲学上の価値を失った。
 他方で、マルクス主義は全く異なる伝統と、明瞭な外郭線を示すことをやめるに至るまで結びついた。そして、知的歴史に寄与する多数のものの一つにすぎなくなった。//
 (21)しかしながら、1930年代半ば頃のフランスで、マルクス主義運動がある程度生き返った。
 その指導者の中には科学者、社会学者および哲学者がいたが、全てが共産主義者ではなかった。Henri Wallon 、Paul Langevin 、Frédéric Joliot-Curie 、Marcel Prenant 、Armant CuvillerおよびGeorges Friedman だ。
 これらは戦後のフランスの知的生活で重要な役割を果たした。政治的に共産主義に関与する学者と(但し、必ずしもマルクス主義理論家ではなかった)、または伝統的マルクス主義理論の、システムを形成しないでばらばらな様式で知的生活を一貫させた一定の側面の継続者とのいずれかとして。
 戦争間でのフランスで最もよく知られた正統派は、Georges Politzer だった。この人物は、占領期に殺された。
 彼はBergson を激しく批判する書物やレーニン主義の弁証法的唯物論に関する一般向け手引き書を書いた。
 イギリスでは、著名な生物学者で地球上の生命の起源に関する書物の執筆者だったJ. B. S. Haldane が、マルクス主義と現代科学との親和性を証明しようと努力した。
 もう一人のマルクス主義者は、アメリカの遺伝学者のH. J. Muller だった。
 しかしながら、この二人の場合、マルクス主義はとくにマルクス主義とは言えない様相で示された。生物学では、主としては生気論や最終主義に対する一般的な反論という形で表れたように見える。
イギリスのMaurice Dobb も、とくに景気循環との関係で、マルクス主義経済理論を擁護した。//
 (22)イギリスの労働党の左翼では、Harold J. Rasky がマルクス主義的用語法で国家の理論、権威の性質および政治思想の歴史を詳しく解説した。
 1930年代の後半、彼は、「究極的には」ある階級が別の階級を強制することに役立つ装置としての国家に関するマルクス主義理論を採用した。
 彼は当時のリベラリズムを主要な目的は被搾取者の意見が聴かれないままにするイデオロギーだと攻撃し、財産所有階級の致命的利益が脅威に直面すれば彼らは統治のリベラルな形態を拒絶し、生の暴力に頼るだろう、と主張した。
 ヨーロッパでのファシズムの成長は、ブルジョア国家の発展の自然な結果だ。ブルジョア民主主義は衰退の状態にあり、ファシズムに対する唯一の代替選択肢は、社会主義だ。
 にもかかわらず、Rasky は、伝統的な民主主義的自由に愛着があり、プロレタリア革命は民主主義的自由を損なわないままにするだろうと信じた。
 彼は、社会発展への鍵は中産階級の態度にある、と明確に論じた。
 この当時に共産党員だった(のちに社会民主主義者になった)John Strachey は、同じ問題について、正統派的なレーニン主義の観点から議論した。//
 (23)才能ある著作者のChristopher Caudwell (Christopher St. John Sprigg, 1907-37の筆名)は短期間、イギリスのマルクス主義の中で傑れていた。
マルクス主義者かつ共産主義者としての彼の経歴はほとんど二年間しかなかった。-スペインの国際旅団で闘って殺された。
 しかし、1936年に、<幻想と現実-詩の源に関する研究>と題する注目すべき書物を生んだ。
共産党員になるまでに彼は、いくつかの探偵小説や飛行機に関する大衆向け書物を書いた。
 <死にゆく文化の研究>(1938)、当時のイギリス文学、「ブルジョア文化」一般に関する小文を集めたもの、および未完の<物理学の危機>(1939)、観念論、経験主義および現代科学理論の非決定論に対するレーニン主義的攻撃、のような彼の詩作は、死後に遺作として出版された。
 マルクス主義の著作として最もよく知られる<幻想と現実>で、彼は社会と技術の進化について異なる段階の韻律の変化を含めて、詩の歴史の相互関係を示そうとした。
 同時に、自由を必然性からの自立と把握するブルジョア的観念を攻撃した。一方でエンゲルスは、自由とは人間の目的のために自然的必然性を利用することだと述べていたのだが。
 この書物は、16世紀以降のイギリスの詩に個別に注目した。Marlowe とShakespeare は本源的蓄積の英雄的時代に位置し、Pope は重商主義時代に位置する、等々。
Caudwell は、詩作は元来は生産を増やす目的の農業儀礼の一要素にすぎなかった、とする見解だった(とくにマルクス主義的というのではないが、初期の人類学的作業だ)。
 のちの階級社会で、詩作、音楽および舞踏は生産と分離したが、それは芸術の疎外(alienation)を意味した。
 社会主義の役割は、この過程を逆方向に動かし、生産活動と芸術的活動の統一を回復することだ。//
 (24)西側ヨーロッパの知的生活は、またある程度の範囲ではアメリカ合衆国のそれは、1930年代遅くには奇妙な情況を呈した。
 一方では、スターリニズムが十分な実績をつみ、その最もおぞましい特質のいくつかは全世界の者が分かるまでに暴露されていた。
 しかし、他方では、多数の知識人たちが、ファシズムに代わる唯一の選択肢およびそれに対抗する防衛手段として、共産主義に魅了された。
 あらゆる種類の政治的集団はナツィの侵攻の脅威を前に、弱々しく、決断力がなく、そして無力であるように見えた。
 多くの者にとってマルクス主義は理性主義、人間中心主義そしてかつてのリベラルな考え方の全てを維持し続けているように思え、そして共産主義はマルクス主義を政治的に具現化したもので、ファシストの猛襲を食い止める最大の希望だった。
 左翼知識人たちは、実際に現存しているが最初からとくにマルクス主義的というのでもない特質をもつマルクス主義に向かって、惹き寄せられた。
 ソヴィエト・ロシアがファシズムに対抗する主要な勢力だと見えるかぎりで、こうした知識人たちは、ソヴィエト共産主義と彼らが理解するマルクス主義とを同一視しようと努めた。
 そのようにして彼らは、共産主義政治の現実にわざと目を閉ざした。
 George Orwell のように教理上の想定からではなく経験上の事実から実際の共産主義に関する考えを形成した人々は、憎悪と憤慨を味わった。
 偽善と自己欺瞞は、左翼知識人がもつ永続的な思潮になった。//
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 ③終わり、第3節終わり。そして、第三章も終わり。

1890/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第三節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 1978年英語版 p.109-p.113、2004年合冊版p.874-p.877。
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 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容②。
(10)1924年半ば、スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフの三人組の支配者たちは、トロツキーと深刻な闘争を繰り広げていた。その頃、第五回大会が開かれ、全ての構成諸党の「ボルシェヴィキ化」を求める決議を採択した。
 これが意味するのは理論上は、ロシアの党の方法と様式を採用すべきだ、ということだ。だが実際には、全ての問題に関してロシアの党の権威を承認すべきだ、というととだった。
 この大会自体が、「ボルシェヴィキ化」がすでに十分に進んでいることを示した。スターリンとその仲間たちの求めによって、全ての諸国の共産党が満場一致で、トロツキーを非難した。
 翌年のドイツ共産党の大会で、何をボルシェヴィキ化が意味するかに関する実際的な説明が示された。スターリンの主要な取り巻きの一人であるコミンテルン・ソヴェト代表者Manuisky が中央委員会の構成に関する規約を定めようと試みたときに。
 ドイツ共産党の代議員たちがこれに従うのを拒否したとき、執行委員会議長のジノヴィエフは彼らをモスクワへと召喚し、Ruth Fischer とArkady Maslow という「左翼」指導者たちを排除するよう命じた。これらの人物は、ボルシェヴィキ<に対して向かいあった>ある程度の自立性をもつ外観は維持しようとしていたのだった。//
 (11)第五回大会の別の決議は、ドイツの彼らの役割はブルジョアジーと共謀して労働者階級の中に民主主義と平和主義の幻想を染みこませることにあると述べて、社会民主主義者だと性質づけた。
 資本主義が衰亡するにつれて、社会民主主義は限りなくファシズムに接近する。この二つは、実際には、資本主義者の手のうちの単一の武器の両面だ。
 これらは、数年後に、コミンテルンの政策の原理的な指針となった。//
 (12)第五回と第六回のコミンテルン大会の間に四年が過ぎた。スターリンはおそらく、トロツキーに対する、またジノヴィエフとカーメネフ、およびこれらの仲間たち、に対する最終的な勝利を達成するまでは大会を招集するつもりがなかった。
 コミンテルンはその間に、「社会ファシズム」に関する教理にもかかわらず、アングロ=ロシア委員会をもつ1925年に形成されるに至ったイギリス労働組合に、世界労働組合運動の統合を促進するよう勧めていた。
 しかし、これは短期間で終わり、成功しなかった。
 1926-27年、コミンテルンは中国で重大な後退をこうむった。中国では、モスクワの指令にもとづいて小さな共産党が、中国を統一して近代化し、西側諸国による支配から自由になろうとする革命的な蒋介石を支援していた。
 スターリンの意見では、これはブルジョア的民族運動であり、その行方はプロレタリアート独裁へと一気に進むものではなかった。 
 ソヴェト同盟は武器を与え、軍事、政治の顧問団を送って助け、1926年春に蒋介石は、コミンテルンを「同調する」(sympathizing)党だとすら認めた。
 しかしながら、蒋介石は政府を形成したときに共産党員を排除し共産党には一部の権力も与えなかった。また、1927年4月の上海での中国共産党の蜂起を、多数の逮捕と処刑でもって鎮圧した。
 蒋介石はまずは打撃を加えて「同盟者」の機先を制した、と遅まきながら悟ったスターリンは、広東での暴動を命じて状況から脱しようと試みた。
 この広東暴動は同年12月に起きたが、新しい大虐殺でもって鎮静された。
 これらの失態について、トロツキーはスターリンを非難した。蒋介石の指導性を認めるのではなく、中国共産党は最初からソヴェト共和国樹立を狙うべきだったのだ、と。-トロツキーは、中国共産党はいかにすれば当時のその勢力の状態で蒋介石に勝つことができたのかを説明しなかったけれども。
 しかしながら、コミンテルンは中国共産党を「誤った政策方針」を追求したと非難した。そして、陳独秀〔中国共産党の初代総書記〕は批判され、のちに追放された。//
 (13)1928年8月の第六回大会は、社会主義者たちとの協働の試みを最終的にやめさせた。いずれにせよ、下らなくて、かつ成功しない、として。
 この大会は、世界の社会民主主義とその支配下にある労働組合は資本主義の主柱であり、全ての共産党は「社会ファシストたち」との闘いに全力を集中することを命じられる、と宣言した。
 また、資本主義の一時的な安定は今や終わった、新しい革命の時代が始まっている、と宣告した。
 多様な諸国の各共産党は、これらに倣って「右派」と「宥和派」を党から追放した。そして、新しい粛清によって、ドイツ、スペイン、アメリカ合衆国その他の諸国の指導者たちの中に、多数の犠牲者が生まれた。//
 (14)力強い政治的勢力の代表だったドイツ共産党が社会主義者を攻撃したことは、ヒトラーが権力を奪取した大きな原因だった。
 ドイツ共産党は、ナチズムは一過的な事象であり得るにすぎない、大衆が過激になることは共産主義への途を掃き清めてくれるだろう、と主張した。
 ヒトラーが政権に就いた後ですら、ドイツ共産党は、一年全部ほどの間、社会主義者を主要な敵だと見なした。
 ドイツ共産党が見方を変えたときまでには、この党はすでに破壊され、無力になっていた。//
 (15)1929年の末までに、ブハーリン(1926年にジノヴィエフを継いで執行委員会議長)の脱落の後には、スターリンは疑いなくボルシェヴィキ党の所有者であり、かつそれを通じて、国際共産主義の所有者だった。
 コミンテルンは独自の意義を全て失い、クレムリンから他諸党に対する指令の連絡管にすぎなくなった。
 コミンテルンの部員はスターリンに忠実な者たちだけで占められ、ソヴィエトの警察に統制された。
 彼らの仕事の中には、ソヴィエト同盟のための諜報員(intelligence agents)を新規に見つけることも含まれていた。
 粛清が繰り返されたあとの全ての諸党は、抗弁することなくモスクワからの変転する指令を受け入れた。その大部分は、ソヴィエトの外交部局が命じたものだった。
 スターリンは諸党に気前よく財政的援助をし、そうして諸党の彼への依存関係はますます増大した。
 コミンテルンは1930年代の半ばまでにたんなる外形だけになっており、外国諸党の服従を維持するという目的のためにすら、もう必要がなかったほどだ。//
 (16)第七回、そして最後のコミンテルン大会はモスクワで1935年7月-8月に開かれ、その後の一年またはそれ以上の期間の予兆となった、ファシズムに対する「人民戦線」という新しい政策方針を宣言した。
 それまで「右翼日和見主義」だと非難されてきたものが、今や公式の方針になった。
 全ての民主主義諸勢力、リベラル派はもちろん必要であれば保守派もだが、とくに社会主義者たちは、ファシストに対抗するために共産党の指導のもとに結集すべきものとされた。
 この政策に転じたスターリンの根拠は、かりにヒトラーがロシアを攻撃した場合にフランスその他の諸国が中立の立場をとる、ということへの恐怖だったかに見える。
 ともかくも、フランスは「人民戦線」方針の主要な対象だった。ドイツでは力のない<エミグレ>集団にだけ適用できるもので、他諸国の各共産党は、事態に影響を与えるには弱体すぎた。
 フランスの人民戦線は、1936年5月の選挙で勝利した。しかし、フランス共産党は、Léon Blum〔レオン・ブルム〕政権に閣僚を出すことを拒否した。
 一般的には、この政策方針は長くは続かず、ほとんど成果を生まなかった。
 その方針は、公式には取り消されなかったけれども、スターリンがナツィ・ドイツとの<友好関係(rapprochement)>を追求すると決定したときに、死文書(dead letter)となった。
 その間に、破壊されて地下に潜っていたドイツ共産党は遅まきながら、全ドイツの統一とポーランド回廊の廃絶というヒトラーのスローガンを採用した。//
 (17)「人民戦線」戦術の真の性格は、スペイン内戦によって明確になった。
 フランコ(Franco)の反乱の数カ月のち、スターリンは、共和国防衛のために干渉することに決めた。
 国際的旅団が編成され、ソヴィエト同盟は、軍事顧問団の他に政治工作員から成る組織を派遣した。そして、この組織は、共和国勢力の中のトロツキー主義者、アナキストおよびあらゆる種類の偏向主義者たちを追放した。
 (18)国際共産主義は、今や完全に「ボルシェヴィキ化」された。そして、いかなる場合でも、非ボルシェヴィキの共産主義の形態は、意味あるものとして継続することをやめた。
 1920年代には、党から追放されたりコミンテルンの方針に抗議して脱退したりした個人や集団は、ときおりは非ソヴィエト的共産主義の運動を組織しようとした。しかし、そうした試みは何も生み出すに至らなかった。
 トロツキー主義者たちは小集団となって無為に暮らし、力もなく世界のプロレタリアートの「国際的良心」に訴えかけた。
 ボルシェヴィキ党の権威と全共産党によって受諾された組織上の諸原理の強さは、1950年代までどの反対派集団も支持または影響力をもち得ないほどのものだった。
 世界の共産主義者たちは、スターリンが定めた道筋に沿って従順に行進した。
 1943年5月のコミンテルンの解散は、ソヴィエトが善意と民主主義的意思をもつことを西側の世論に対して説得するための素振り(gesture)にすぎなかった。
 諸共産党は十分にうまく躾けられ、組織や財政についてソヴィエト同盟に依存していたので、それら諸党を基本方針内に抑え込み続けるための特別の制度はもう必要がなかった。したがって、コミンテルンの解散には、何の意味もなかった。//
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 ③へとつづく。

1889/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第3節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義
 1978年英語版 p.105-p.109、2004年合冊版p.871-p.874。
 なお、コミンテルン日本支部=日本共産党設立は、1922年。
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 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容①。
 (1)事物の自然な行程として、スターリン化は世界共産主義運動の全体に広がった。
 それが存在した最初の10年の間、第三インターナショナルは、異なる共産主義イデオロギーの諸形態の間の、議論と対立のフォーラムだった。しかし、その後、コミンテルンは自立性をすっかり失い、ソヴィエトの外交政策の道具になって、完全にスターリンの権威に従属した。
 (2)第一次世界大戦の間に社会民主主義諸党の内部に出現した多様な左翼集団や分派は、全てが純粋なレーニン主義者たちではなかった。しかし、運動に対する第二インターナショナルの指導者たちの裏切りを全てが非難することでは合意した。
 彼らはみな、改良主義を拒み、伝統的な国際主義精神を再生させようとした。
 十月革命は新しい革命的根拠地を生み出した。そして、これら左翼の者たちの多くは、世界共産主義革命が切迫していると考えた。
 1918年に、ポーランド、ドイツ、フィンランド、ラトヴィア、オーストリア、ハンガリー、ギリシャおよびオランダで共産党が結成された。
 つづく三年間に、多様な少数集団を代表する大小の革命的諸政党が、全ヨーロッパ諸国に存在するにいたった。
 多くの複雑な論議と分立にもかかわらず、こうしてレーニン主義諸原理をもつ国際的な共産主義運動が形成された。//
 (3)1919年1月、ボルシェヴィキ党は、トロツキーが草案を書いて、新しいインターナショナルの創立を呼びかける宣言書を発した。
 会合(大会)が同年3月にモスクワで開かれ、一定の共産主義諸政党および左翼の社会民主主義諸集団の代議員たちは、その計画に賛成した。
 第三インターナショナルは、正確には1920年7月-8月の第二回大会までは設立されていない。
 最初から、多様な諸政党には内部的な分立やレーニン主義の規範からの乖離があった。
 一方では、最近に分裂したばかりの社会民主主義者たちとの和解を切望する「右派」諸集団があり、他方には、妥協戦術や議会政治での連携を原則として拒否する「左派」または「党派的(セクト的、sectarian)」離脱主義者たちがいた。
 これは、レーニンが<「左翼」共産主義-小児病(Infantile Disorder)>で書いた考え方に反対するものだった。
 一年以内に、世界で、少なくともヨーロッパで、ソヴィエト共和国になるだろうとの共産主義者に一般的だった信念からすると、「左翼」の傾向は「改良主義」のそれよりもはるかに強く、明らかに多かった。//
 (4)コミンテルンの規約は、第二インターナショナルの原理的考えからの完全な離反を明確に示した。第一のそれの伝統に立ち戻るものだったけれども。
 規約は、インターナショナルは単一の党であり、各国の諸政党は分肢だ、目的は国際ソヴィエト共和国を樹立するために武力を含む全ての手段を用いることだ、ソヴィエト共和国樹立はプロレタリアート独裁の政治形態として、国家の廃棄へと向かう歴史的に約定された前奏部だ、と定めた。
 インターナショナルは、毎年(1924年以降は二年ごとに)大会を開催し、各大会の間は執行委員会が指揮するものとされた。執行委員会はその指令を無視する「支部(sections)」を除名し、規律違反を理由として集団または個人を排除することを要求することができた。
 1920年大会で採択されたテーゼは、将来の社会の適切な形態としての議会制主義を断固として拒絶する条項を含んでいた。
 議会や全ての他のブルジョア的国家制度は、それらを破壊するためにだけ利用しなければならない。そして、共産党議員団は、党に対してのみ責任をもつのであって、投票者という名前なき集団に対してではない。
 レーニンが草案を書いた植民地問題に関するテーゼは、植民地および後進諸国の共産党に対して民族的な革命運動との暫時的な同盟を形成すること、かつ同時に、共産党は独立性を保ったままでいるべきで、民族ブルジョアジーが革命運動を掌握するのを許さず、最初からソヴィエト共和国形成に向けて闘うこと、を命じた。
 共産党の指導のもとで、後進諸国は資本主義段階を通過することなくして共産主義を達成するだろう。//
 (5)大会はまた、全インターナショナルの根本教条であるソヴィエト同盟のそれを無条件に支持することを要求する宣言も発した。
 (6)もう一つの重要な文書はコミンテルンに加入した諸党が履行しなければならない、「21の条件」のリストで、これは、共産主義運動全体へとレーニン主義的組織形態を拡大するものだった。
 「条件」は、各共産党はその宣伝活動についてコミンテルンの決定に完全に服従しなければならない、と定めていた。
 共産主義的プレスは、完全に党の統制下においていなければならない。
 「支部」は改良主義的傾向と断固として闘わなければならない。そして、可能ならばいつでも、労働者諸組織から改良主義者や中央主義者を排除しなければならない。
 「支部」はまた-これがとくに強調された-、当該諸国の軍隊内部での系統的な宣伝活動を履行しなければならない。
 「支部」は、平和主義と闘い、植民地解放運動を支持し、労働者諸組織、とくに労働組合で活動し、農民の支持を得るよう奮闘しなければならない。
 議会では、共産党議員団は全てを革命的宣伝活動に従属させなければならない。
 党は、最大限に中央志向(cenralized)でなければならず、かつ鉄の紀律を遵守し、定期的に小ブルジョア的要素をもつ党員を排除(粛清、purge)しなければならない。
 党は疑うことなく、全ての現存する諸ソヴィエト共和国(existing Soviet republics)を支援しなければならない。
 各党の綱領は、インターナショナルの大会またはその執行委員会によって是認されなければならない。そして、大会または執行委員会の諸決定は全ての支部を拘束する。
 全ての党は「共産党」(Communist)と称しなければならず、加えて、当該諸国の法令が公然と活動することを許容する党は、「決定的瞬間に」行動するための秘密(clandestine)組織を設立しておかなければならない。//
 (7)こうして、軍事的分野に作用する中央志向の党は、世界共産主義運動の予め定められた様式になった。
 しかしながら、インターナショナルの創立者であるレーニンとトロツキーは、それをソヴィエト国家の政策の道具だとは想定していなかった。
 ボルシェヴィキ党自体は世界革命運動の「支部」または分肢にすぎないという考えは、最初は、全く真摯に抱かれていた。
 しかし、コミンテルンが組織されていく過程と創立の歴史的事情は、すみやかにそのような幻想を追い払った。
 ボルシェヴィキ党は最初に革命に成功した党として自然に大きな威厳をもち、レーニンの権威は揺るがないものだった。
 最初から、ロシアは執行委員会での決定的な発言権をもち、モスクワに居住する他諸党の常勤代表者たちは、徐々にソヴィエトのための活動家になった。
 ソヴィエト内部での指導権をめぐる闘争はインターナショナルに反映したのみならず、ときにはその主要な関心事になった。
 レーニン死後の権力を目指して競い合うボルシェヴィキの寡頭支配者たちのいずれも、兄弟政党の指導者たちの支持を得ようとした。そして、国際的共産主義の勝利または敗北が、今度はモスクワでの兄弟政党間の闘いに利用された。//
 (8)初期のインターナショナル諸大会は、規約に従って適時に開催された。
 第三回大会は1921年6月-7月に、第四回は1922年11月に、そして第五回は1924年6月-7月に、開かれた。
 このときまでにロシアは内戦を経過し、ネップ〔新経済政策〕の第一段階に入っていた。そして、レーニンが死んだ。
 レーニンの訓示と合致して、インターナショナルは最初から、植民地および発展途上諸国での革命的煽動活動のために忙しく活動した。
 インド共産党のNath Roy は、アジアでの革命が世界共産主義の主要な目標であるべきだ、と論じた。資本主義の安定は植民地化された地域からの利潤に依存している、人類の将来を決定するのはヨーロッパではなくアジアだ、と。
 しかしながら、インターナショナルの多数派は、ヨーロッパこそがなおも主要な焦点であるべきだと考えた。
 1920年のワルシャワ〔ポーランド〕を前にしてのソヴィエト軍の敗北によって、すみやかな革命の期待は減ったが、希望が完全に消え失せたわけではなかった。
 しかしながら、ドイツでの革命の企ては、1921年3月に大失敗で終わった。そして、その年6月の第三回インターナショナル大会の諸決議は、世界ソヴェト共和国の見通しに関して、以前よりも悲観的だった。
 レーニンとトロツキーはドイツでの蜂起を非難し、例のごとく大会も、同様に批判した。
 ドイツ共産党指導者のPaul Levi は蜂起に反対しており、それが原因で大会が始まる直前に党から除名されていた。しかし、名誉回復することはなかった。彼はあらためて非難され、その除名は正当なものと見なされた。
 新しい「レーニン主義」スタイルが、明らかに全面的に作動していた。//
 (9)世界革命が遅滞している間、コミンテルン指導者たちは、「左翼」少数派の強い反対に対抗して、社会主義者たちと協力する「統一戦線」方式を決定した。
 1922年の第四回大会を前にして論議が始まった。しかし、何にもならなかった。社会主義者たちは十分な理由でもって、「統一戦線」は自分たちを破壊することを狙った策略だと疑ったのだ。
 1923年10月、ドイツで再び蜂起が発生し、失敗した。
 このとき、ドイツの新しい党指導者のHeinrich Brandler は、コミンテルンとボルシェヴィキ党が完全に作成して主導した計画の生け贄(scapegoat)になった。
 1924年、トロツキーは、ドイツでの権力掌握による革命的状況を利用することに失敗したとして、そのときジノヴィエフが指揮していたコミンテルンの責任を追及した。//
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 ②へとつづく。

1888/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨⑲。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年)を見ていて、コミンテルンに関する叙述にさしかかり、江崎道朗の上の本のひどさ、「悲惨さと無惨さ」を思い出した。
 重なるがいま一度記しておく。
 江崎道朗は上の本でコミンテルンに論及したつもりで、こう豪語した。
 p.95-「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 ああ恥ずかしい。
 江崎道朗はコミンテルン関係文書を英語訳等の原語では見ておらず、ほとんどを網羅しているとみられる、かつ古くから日本に存在する邦語訳の資料集類をいっさい参照していない。
 江崎が使っているのは、ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)に<付録>として付いている資料で、以下の4点だけ。
 ①1919.01.24-<レーニンによるコミンテルン第1回大会への「招待状」>。
 ②1920.07.28-<レーニンの「民族・植民地問題についてのテーゼ」>。
 ③1920.08.04-<コミンテルン「規約」>。
 ④1920.08.06-<レーニンの「コミンテルンへの加入条件についてのテーゼ」>。
 かつ第一に、これらは付録にある全19件のうちの4件にすぎず、第二に、個々に見ても付録自体にあるこれら一次資料(邦訳)は全文ですらなく全て「一部抜粋」にすぎない。
 そして、重要なことだが、第一にコミンテルンについてこれらにもとづいてのみ叙述しようとし、かつ第二に、もっぱら邦訳文に依拠していることと本来の「無知」によって、つぎのほぼ致命的なミスを活字にしてしまっている。
 わずか5頁の範囲内に、つぎの三つの間違いがある。ああ恥ずかしい。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」を区別せず、同じものだと理解している(p.78)。
 ②「社会愛国主義」は「愛国心」を持つことだと理解している(p.75)。
 ③ソ連未設立時の「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と理解している(p.79)。
 また、上は決定的、致命的なもので、誤り、勘違いは他にも多々ある。
 例えば、④コミンテルン設立時にすでに「共産党」が各国にあり、ボルシェヴィキ党の呼びかけのもとにそれらが集まってコミンテルン(国際共産党?、第三インターナショナル)が結成されたとでも勘違いしているとみられる叙述もある。
 ⑤レーニン時代も含めて、「粛清」という語をほとんど「殺戮」と同じ意味だと理解している、またはそう理解したがっている叙述もある。
 何度でも指摘しておこう。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」の違いを理解していなくて、なぜ共産主義、マルクス主義またはマルクス=レーニン主義あるいはコミンテルンに関する本を書けるのか?
 ②「社会愛国主義」=「社会排外主義」というレーニン・ボルシェヴィキらの侮蔑語(とくに第一次大戦、対ロシア戦争に反対しなかったドイツ社会民主党に対する)を知らずして、なぜレーニンら、あるいはコミンテルンに関する本を書けるのか?
 ③ソ連邦=ソヴィエト社会主義共和国連邦がまだ結成されていない時期の文書中の「各ソヴェト共和国」をソ連のことだと理解する<妄想力>を、いったいどうやって身につけたのか。
 なお、のちに(原稿最終提出時に?)複数のごとき「各」が付いていることに気づいたのか、ソ連以外に共産党支配の中国のことも意味する旨も記している。
 この部分は、しっかりした?邦訳資料集の邦訳によるとつぎのとおり。
 共産主義インターナショナルへの加入条件(1920年8月6日)。
 L・コワコフスキは、「21の条件」(Twenty-One Conditions)と略記している(第三分冊、p.107.)。
 村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻(大月書店、1978年)に所収。
 これの、第14条(の第一文)。
 「共産主義インターナショナルに所属することを希望するすべての党は、反革命勢力に対する各ソヴェト共和国の闘争を全幅的に支持する義務がある。
 江崎道朗によると、1920年の文書にいうここでの「各ソヴェト共和国」とは、1922年結成のソ連邦(および1949年の中華人民共和国)なのだ。しっかりと、「あほ」だろう。
 L・コワコフスキの書物(第三巻p.107)では上の「各ソヴェト共和国」の部分は、直接の引用でなくして、all existing Soviet republics になっている。原文の「条件」では少なくとも(all) Soviet republics が使われているのだろう。
 これを2017年にソ連邦(および1949年の中華人民共和国)と理解する日本人がおり、かつ一冊の本にまで明記するとは、1920年のボルシェヴィキやコミンテルン関係者は誰も想像できなかったに違いない。
 ついでに、上の⑤に触れる。
 L・コワコフスキは粛清と大粛清とを意識的には区別していないようでもあるが、great と「大」を付加している場合は、スターリン時代のそれをもっぱら意味させているようだ。
 なお、「粛清」と秋月瑛二も邦訳していることがほとんどである原英語は、purge (パージ)。いつか触れたが、日本での「レッド・パージ」は「赤」に対する「殺害・殺戮」を意味したわけではない。
 この点、シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitspatrick)・ロシア革命(2017年)は言葉遣いにより厳しく、一般的な「粛清」はpurge、スターリン時代のそれはPurge と、小文字と大文字で使い分けている。
 なぜなら、レーニン時代の共産党・ボルシェヴィキ内の「粛清」(purge)は殺害・殺戮の意味を実質的にも持たず、革命後に急速に数が増大した共産党員のうち適性・資格を欠く者の<定期的検査による除名>をほぼ意味したからだ。
 時代の変化を敏感に読み取った出世主義?の者たちの大量入党者の中には、「社会主義革命」とか「プロレタリアート独裁」等の意味を全く知らなかった者もいたに違いなく、又出身階層も(農村から都市への移住者はまだマシだが)原・元の「プロレタリアート」であるのか疑わしい者もいたに違いなく、レーニンらは資格・適性の<再検討・再審査>が必要だと判断したと見える。
 よって、この初期の「粛清」は殺害・殺戮の意味を帯びてはいない。
 なお、L・コワコフスキ著のドイツ語訳書の「粛清」は、Säuberung
 これは「浄化」にも近く、「粛清」という訳語でも誤りではない。
 もともとのロシア語は、cleansing の意味だとどこかに誰かが書いていた(S・Fitspatrick だったかもしれない)。
 これは要するに「清潔にすること」、「清浄化」、「浄化」で、独語のSäuberung とたぶんほとんど同じ。
 但し、英語の purge には、「追放」とか「迫害」の意味もある可能性がある。
 これくらいにするが、いずれにせよ、江崎道朗には、「粛清」という言葉・概念の意味についてしっかりと吟味する姿勢自体が存在しないと推定される。
 この点は、しかし、まだマシだ。
 上の①~③はひどい。決定的に、悲惨で無惨。
 これでよく、「コミンテルン」を表題の重要な要素にする書物を刊行できたものだ。
 なお立ち入っていないが、日本の明治以降の江崎道朗の叙述もひどいものがある。
 最終的には、聖徳太子の一七条の憲法-五箇条のご誓文-大日本帝国憲法を、何の論拠も示さず、いかなる詳しいまたは厳密な概念定義を示すことなく、「保守自由主義」なるもので結合させる(7世紀~19世紀!)という単純さと乱暴さ。
 江崎道朗。月刊正論(産経)の毎号執筆者であり続けている。
 月刊正論編集部も、天下の?産経新聞社も、<恥ずかしい>とは感じないのだろうか。
 この程度の人が、何と新書一冊を出版できる、という現在の日本の<惨憺たる>知的世界、<あまりのユルさ>にも唖然とした、江崎道朗・上掲書だった。

1887/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第2節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.101-p.105、2004年合冊版p.868-p.871。
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 第2節・スターリンによるマルクス主義の成文化(codification)③。
 (20)スターリンが解説する弁証法的および歴史的唯物論は、プレハノフ、レーニンおよびブハーリンに従ったマルクス主義の、陳腐で図式的な版型だ。すなわち、弁証法は現実の全側面を支配する普遍的「諸法則」を示すもので、人間の歴史はこの諸法則を適用した特殊な場合だと、広大無辺にかつ野心的に主張する哲学。
 この哲学は、天文学と同じ態様で自らを「科学的」だと主張し、社会過程は他のものと同様に「客観的」で、予見可能だと宣言する。
 この点で、ルカチ(Lukács)やコルシュ(Korsch)が再構築したマルクス主義の見地とは根本的に異なる。これによれば、プロレタリアの意識の特定の場合に、社会過程とその過程の知覚は同一のものになり、社会に関する知識は社会を変える革命的実践と合致する。 
スターリンは、一般的な自然主義(naturalism)を採用した。それは第二インターナショナルのマルクス主義者たちに支配的だったもので、そこには「理論と実践の統一」という特有のマルクス主義的見方が入り込む余地はなかった。
 確かにこの定式は承認されていて、スターリンや随行哲学者たちががあらゆる機会に強調したものだった。
 しかし、その持つ意味は実際には、実践が理論に優越する、理論は実践の補助的なものだ、という主張へと変質していた。
 この考え方に沿って、学者たちに対して-とくに1930年代初めの科学アカデミーのイデオロギー的再建の後で-、工業にとって直接の利益になり得る分野に研究を限定すべきだという圧力が加えられた。
 この圧力は、全ての自然科学に、緩和されてだが数学に対してすら、適用された。
 (数学は、マルクス主義に関する博識の高僧たちでも理解するふりをしなかったので、ソヴィエト同盟で、イデオロギー的な監視がほとんどなかった。その結果として標準は維持され、ソヴィエト数学は時代による破壊から救われた。)
 「理論と実践の統一」は、もちろん人文科学にも適用された。だが、少しばかりは異なる意味でだった。
 大まかに言って、自然科学は工業へと、人文科学は党の宣伝活動へと繋がれていた。
 歴史、哲学および文学史や芸術史は、「党と国家に奉仕する」ものだと、換言すれば党の主張を守り、そのときどきの決定に理論的な支援を提供するものだと、想定された。//
 (21)自然科学は直接の技術的有用性がある研究分野に限定すべきとの要求は重要な分野についてはきわめて強く、その結果としてすみやかに、自然科学は技術へと落ち込んだ。
 しかしながら、より致命的ですらあったのは、科学研究の現実的成果をマルクス主義的「適正さ(correctness)」の名前のもとにイデオロギー的に統制しようとする試みだった。
 「観念主義」の相対性理論は、1930年代には、哲学者たちやA. A. Maksimovが率いる未熟な物理学者たちからの砲火を浴びた。
 同じ時期にはTrofim D. Lysenko(ルィセンコ)が登場した。この人物の役割は、マルクス=レーニン主義に従ってソヴィエトの生物学を革命化し、Mendel やT. H. Morgan の「ブルジョア」理論を破壊することだった。
 農学者のLysenko は、様々の植物栽培技術を探求し、経歴の初期に、それらから普遍的なマルクス主義の遺伝学理論を発展させようと決意した。
 彼は、助手のI. I. Prezent とともに1935年の後に、現代遺伝学理論を攻撃し、遺伝による影響は環境を適切に変化させることによってほとんど完全に排除することができる、と主張した。遺伝子なるものは、遺伝子型と表現型(phenotype)の区別と同様に、ブルジョア的考案物だ。
 「遺伝は永続的な実体をもつ」ことを否定し、生きている有機体を環境の変化によって望むとおりにまで変化させることができる、という主張がマルクス=レーニン主義(「全てのものは変化する」)と合致する、と党指導者たちやスターリン自身が納得するのは困難なことではなかった。また、人間は、とりわけ「ソヴィエト人間」は、その心に思い浮かべたように自然を変化させることができる、とするイデオロギーにそれが見事に適合している、ということについても。
 Lysenko は急速に党の支持を獲得し、研究所、研究者そして諸雑誌等々に対する影響を大きくした。そして、我々が知るだろうように、彼の革命的理論は1948年に完全な勝利をかち得た。
 党の宣伝はおよそ1935年以降から絶えず彼の発見を褒め称え、その実験には科学的な価値がないと反対していた者たちは、まもなく沈黙へと追い込まれた。
 新しい理論を支持するのを拒んでいた優れた遺伝学者のNicholay I. Vavilov は、1940年に逮捕され、Kolyma の強制収容所で死んだ。
 予期され得たことだが、たいていのソヴィエト哲学者たちは、Lysenko の見解に喝采を送る一群に加わった。//
 (22)今日では、Lysenko は無学で、山師だったということを誰も疑っていない。また、彼の経歴は、科学や文化の点だけではなくて経済や行政の分野でもソヴィエトのシステムがいかに機能していたかを教示してくれるよい例だ、ということも。
 後年にはより明確になった自己破壊的な特質が、すでに見えていた。
 党が全ての生活領域で無制限の権限を行使し、システム全体が指令の一方方向の連鎖をもって階層的に組織されていたことからして、どの個人の経歴も、権力に対する従順さや追従や弾劾をする技巧の熟達ぶりに依存することになる。
  他方では、主導性、自分自身の心性、あるいは真実に対する最小限度の敬意すらを示すことは、致命的だ。
 当局者たちの主要な目標がその権力を維持し、増大させることにあるとき、科学(とくにイデオロギー的に統制されている場合)についても経済管理についても、間違った人々が頂上へと進むだろうことは不可避だ。
 非効率性と無駄は、ソヴィエト体制の中に組み込まれている特徴だ。
 政治および「保安」を理由とする不適切で全体的な情報流通の制限の増大によって、経済発展は妨害される。
 経済を合理化しようとする後年の試みはある程度は成功したが、それは全体主義原理から、あるいはスターリニズムの体制が完成にまで至らしめていた「統一」という理想から、離れたかぎりでのみのことだった。//
 (23)1930年代のソヴィエト文化のもう一つの特質は、ロシア民族主義の成長だった。
 これはのちに頂点に到達した現象でもあるが、スターリンの演説が社会主義が生むことができかつ生まなけれならない「強いロシア」に関する言葉を述べ始めた、1930年代の初めにはすでに感知することができた。
 愛国的主題は次第に宣伝活動で強調されはじめ、ソヴィエトの愛国主義とロシアのそれとが同時に大きくなった。
 ロシアの歴史の栄光が、民族的誇りや自助努力への訴えの中に再生された。
 ウズベク人(the Uzbeks)のような、以前はアラビア文字で彼らの言語を記していて、ソヴィエト当局によってラテン・アルファベツトを与えられた諸民族は、今や、キリル(Cyrillic)の形式を採用するように強いられた。その結果として、同じ世代の者たちが三種類のアルファベットを使うようになった。
 ソヴィエト同盟の中の非ロシア共和国で権力を行使する「民族の幹部たち(cadres)」という考え方は、すぐに作り話(fiction)であることが分かった。すなわち、理論的にではないが実際には、党や国家行政の最高部の職(posts)は、通常はモスクワが任命したロシア人によって占められた。
 国家権力のイデオロギーは、徐々にロシア帝国主義のそれと区別できないものになった。//
 (24)ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義は、きわめて早く、政策を決定する自立した要素ではなくなった。
 必然的に、その内容は内政または外交問題に関する特定の動向を正当化するために、曖昧で一般的なものにならなければならなかった。NEP(ネップ)または集団化、ヒトラーとの友好または彼との戦争、内部体制のあれこれの厳格化または緩和、等々。
 そして実際に、理論は「一方で」上部構造は土台の産物かつ道具だとし、「他方で」上部構造は土台に影響を与えるとするがゆえに、経済を規制する、あるいは文化を多かれ少なかれ統制する、全ての考えられ得る政府の政策は、マルクス主義と合致した。
 「一方で」個人は歴史を作らず、「他方で」歴史的必然性を理解する例外的な個人は歴史に重要な役割を果たすとのだとすれば(そしていずれの見方もマルクスやエンゲルスの引用によって支持され得るのだとすれば)、社会主義の専制者に聖なる栄誉を与えることも、その実践を「逸脱」だと非難することも、いずれも同等にマルクス主義に合致している。
 「一方で」全ての民族は自己決定の権利をもち、「他方で」世界社会主義革命の根本教条が至高の理念だとすれば、柔和であれ厳格であれ、帝国に住む非ロシア人民衆の民族的願望を挫折させる目的の政策は、疑いなくマルクス主義的だ。
 このようなことは実際、スターリンのマルクス主義の両義的な基礎であり、その曖昧で矛盾する様相は、「弁証法」原理に似たようなものだった。
 かかる観点からすると、公式のソヴィエト・マルクス主義の機能と内容はいずれも、スターリンの死後も同じままだった。
 マルクス主義は、たんにロシア帝国の現実政策(Realpolitik)を理論的に粉飾するにすぎないものになった。//
 (25)こうした変化の理由は、きわめて単純だった。つまり、ソヴィエト同盟はその定義上人間の進歩の基地であるがゆえに、ソヴィエトの利益に奉仕するものは何であれ進歩的であり、そうでないものは反動的なのだ。
 歴史上のその他の大国と同様に帝制ロシアは、その対抗国を弱体化させるために少数民族の民衆の願望を支援した。ソヴィエト同盟もまた、最初からそうした政策を追求した。しかし、異なる口実(guise)によってだった。
 「封建的な」民族長老(sheikh)やアジアの皇子ですら、スターリンによれば、帝国主義の前線を掘り崩すかぎりでは、「客観的に」進歩的な役割を果たした。
 これは完全に、世界革命に関するレーニンの理論と合致していた。レーニンの理論は、非社会主義者、非プロレタリアートおよびマルクス主義の用語では「反動的」勢力のですら、それらの参加を是認し、また要求しすらするものだった。
 弁証法の見地からは、世界の別の大国の利益に敵対的であるならば、反動的な者たちの活動はただちに進歩的なものになる。
 同じく、ソヴィエト同盟はその定義上世界的解放運動の中心者なので、1917年以降は、つぎのことは自明のことになった。すなわち、外国の領域の一部への武装侵入(incursion)やその占領は全て、侵略(invasion)ではなく、解放する行為だ。
 こうしてマルクス主義は、帝国主義者がもつ道具として、帝制ロシアが異民族を支配するのを正当化しようとした不器用でかつ滑稽ですらある基本的考え方よりもはるかに有用な論拠の目録を、ソヴィエト国家に提供した。//
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 ③終わり。かつ、第2節も終わり。第3節の表題は「コミンテルンと国際共産主義のイデオロギー的変容」。 
 

1886/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第2節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.94-p.101、2004年合冊版p.863-p.868。
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 第2節・スターリンによるマルクス主義の成文化(codification)②。
 (7)<小教程>は、レーニン・スターリン崇拝と結びついたボルシェヴィキの神話の全てのパターンを確立したのみならず、儀式や式典の詳細をも定めた。
 これが発行されたときから、この書物が扱う主題のどの部分にではあれ接触する作家、歴史家および宣伝家たちは、経典化した全ての定式に従い、全ての重要な語句を反復するように強いられた。
 <小教程>は、歴史を捏造した書物であるのみならず、一つの強力な社会的装置だった。-マインド・コントロールをするための党の最も重要な手段、批判的思考および自分たちの過去に関する社会的記憶のいずれをも破壊する道具、の一つだった。//
 (8)この書物は、こうした観点からは、スターリンが生んだ全体主義国家のまさに一部だ。
 システムを完成させて市民社会を無きものにするためには、国家が統制しないで何らかの脅威を形成する可能性のある、生活の全形態を根絶する必要があった。
 また、自立した思考と記憶を破壊するための道具を考案する必要もあった。-きわめて困難だが、重要な課題だった。
 全体主義的システムは、恒常的に歴史を書き換えることなくして、そして過去の事件、人々や思想を排除してそれらの代わりに偽りのもので補填することなくしては、生き延びていくことができない。
 ソヴィエト・イデオロギーの趣旨からすると、粛清の犠牲となった特定の指導者がかつては党に対する本当の奉仕者だったがのちに栄誉を失った、と述べることはおよそ考えられない。最終的に裏切り者だと宣告された者は全て、最初から裏切り者でなければならなかった。
 裏切り者との烙印を捺されることなくたんに殺戮された者たちは名無し人(unpersons)となり、二度と彼らについて語られることはなかった。
 ソヴィエトの読者たちは、まだ販売されているが編集者や翻訳者の氏名が注意深く抹消された多数の版この書物を見るのに慣れてしまった。
 しかしながら、かりに執筆者自身が裏切り者であれば、この書物は完全に流通しなくなって消失し、数部だけが図書館の「禁書」部分に残されただろう。
 この書物の内容が申し分なくスターリニストのそれだったとかりにしてすら、同じだった。すなわち、全ての呪術思考でのように、いかなる態様であっても邪悪な精神と結びついている対象は永遠に堕落したままなのであり、記憶から除去され、抹殺されなければならなかった。
 ソヴィエト国民は、式典による呪詛に包含するために、<小教程>が言及している数少ない裏切り者の存在を思い出すことが許された。しかし、悪魔の仲間の残り者たちは忘れ去られることが想定されており、かつどの国民も、あえて彼らの名前を語ろうとはしなかった。
 古い新聞や雑誌は、裏切り者の写真や彼らが書いた論文が掲載されていると分かると、一夜にして不浄なものになった。
 過去だけが継続的に修正されたのではなく、-スターリニズムの重要な特質だが-一方ではそのことおよび修正がなされる全く単純な方法に気づいており、他方ではそれに関しては悲惨な処罰を受けるので何も語らない、のいずれもが、国民の全てについて想定されていた。
 ソヴィエト同盟には、この種の偽りの秘密(pseudo-secret)が他にも多数存在した。すなわち、国民大衆はそれに関して知っても決して言及しようとはしない諸事項が。
 労働強制収容所については、新聞では決して言及されなかった。しかし、市民が収容所に関して知っておかなければならないのは、不文の法だった。そのような事物を何とかしてでも秘密にし続けることはできない、という理由のみによるのではない。すなわち、そのような事実は存在していないというふりをお互いにしつつも、ソヴィエトの生活にある一定の事実に気づいていることを、政府は人々に望んでいる、という理由によってだ。
 システムの目的は、人々に二重(dual)の意識を作り出すことだった。
公衆の会合で、あるいは私的な会話ですら、市民たちは、儀礼的な様式で自分たち自身、世界およびソヴィエト同盟に関する醜悪な虚偽を繰り返して語るように強いられ、同時に、十分によく知っていることについて沈黙を守るように強いられた。テロルに遭っているからのみではなく、市民たちが党と国家が吹き込んだウソを絶え間なく反復することによって-ウソだと知りながら-そのウソについて党と国家の共犯者運動の共犯者になったからだ。
 体制側の意図は、提示される馬鹿々々しさを文字どおりに信じるべきだ、というのではなかった。そうしたり現実を完全に忘れるにはきわめて繊細(naïve)な問題であれば、彼らの良心と<向かい合う>愚かな状態になり、共産主義イデオロギーをを本来的に妥当なものと受け入れる傾向になるだろう。
  しかしながら、完全な服従とは、人々が現在のイデオロギーはそれ自体は何も意味していないと認識することを要求するものだった。すなわち、イデオロギーのいかなる側面も、最高指導者が意図するいかなるときでも勝手に変更したり取消したりすることができないものなのだ。そして、何も変更されておらず、イデオロギーは永遠に同一なのだ、というふりをする(pretend)ことが、全ての者の義務になるだろう。
 (スターリンは、レーニンのように、彼自身はマルクス主義に何も「付け加えて」おらず、ただ発展させただけだ、と注意深く強調した。)
 党のイデオロギーはいつでも指導者が語った以上のものでも以下のものでもない、ということを理解するために、市民は、二重の意識を持たなければならなかった。すなわち、公的には、変化しない教理問答書としてのイデオロギーに忠実であると告白する。一方、私的には、または半ばの意識では、イデオロギーは完全な融通性をもつ、党の手にある、つまりはスターリンの手にある、道具だと知っている。
 市民はかくして、「信じることなくして信じる」ことをしなければならなかった。そして、党が党員たちの中に、また可能なかぎりで全民衆の中に、作り出して維持しようとしているのは、まさにこのような心理(mind)の状態だった。
 生活必需品を欠く半ば飢えている人々は、集会に参加し、いかに富裕であるかについて政府のウソを繰り返して言った。そして考え難いことに、その人々は自分たちが言っていることを半分は信じていた。
 彼らはみな、何と言うのが「正しい」のか、つまり何と言うことが彼らに要求されているかを知っていた。そして、奇妙なことだが、彼らは真実と「正しさ」とを混同していた。
 真実は党が問題にすることだ、と彼らは知ってた。そのゆえに、ウソが経験上の単純な事実と矛盾しているとしても、ウソが真実になった。
 このようにして同時に二つの分離した世界で生きるという状態は、スターリニズム体制が達成した最も顕著なものの一つだった。//
 (9)<小教程>は、虚偽の歴史と二重思考の完全な手引き書だった。
 それがもつ虚偽と隠蔽はあまりに明白すぎて、問題のある事象を目撃していた読者たちが看過したほどのものだった。最も若い党員たち以外の全てが、トロツキーとは誰か、ロシアの集団化はいかにして生じたかを知っていた。しかし、彼らは、公式の見解をオウムのごとく繰り返すことを余儀なくされて、新しい過去の共作者になり、党が作った真実の信奉者になった。
 かりに誰かが明白な経験的事実にもとづいてこの真実を攻撃したとすれば、忠誠者たちの憤激は完璧に嘘偽りのないものだった。
 スターリニズムはこうして、実際に「新しいソヴィエト人間」を生み出した。
 すなわち、イデオロギー上の統合失調症患者、自分が言ったことを信じるウソつき、知的な自傷行為を絶えずかつ自発的に行うことのできる人間。//
 (10)すでに述べたように、<小教程>は弁証法的および歴史的唯物論の新しい提示を含んでいた。-全世代の者にとっての、完全なマルクス主義教理書。
 スターリンのこの作業は、例えばブハーリンの手引き書にも見られ得る簡潔なマルクス主義の説明に、何かを付け加えるものでは実際にはなかった。しかし、全てに番号を振り、体系的に説明する、という長所があった。その書物の他部分と同じく、マルクス主義の提示(exposé)は説教をする目的をもち、理解し記憶するのが容易だった。//
 (11)弁証法的唯物論、マルクス主義哲学は二つの要素、すなわち世界の唯物論的見方および弁証法的方法、から成る、から文節は始まる。
 後者は四つの原理的特質をもつ法則に区別される。
 第一に、全ての現象は相互に連関し合っており、全世界は全体として考究されなければならない。
 第二に、自然にある全ての事物は変化、運動および発展の状態にある。
 第三に、現実の全ての分野で、変化は量的蓄積から生じる。
 第四に、「統合と反対物の闘い」の法則は、全ての自然現象は内部矛盾を具現化したもので、発展の「内容」はその諸矛盾の対立だ、というものだ。
 全ての現象に積極的および消極的側面が、過去と未来があり、闘いは新しいものと古いものとの対立の形態をとる。//
 (12)気づかれるだろうが、この説明は、レーニンが<哲学草稿>で述べたような、エンゲルスの「否定の否定」を含んでいない。
 これを省略している理由は、説明されていない。しかし、いずれにせよ、弁証法はこののちは四つの法則から構成されるのであり、それ以上からではない。
 弁証法の反対物は「形而上学」だ。
 形而上学者はブルジョア哲学者や学者で、当該の諸法則のうちの一つかそれ以上を否定する。そうして彼らは、現象を分離して、つまり相互関係においてではなく、判断することを要求し、何ものも発展しないと主張する。彼らは、質的な変化が量的変化から生じることを理解せず、内部矛盾という考え方を拒否する。//
 (13)自然の唯物論的解釈は、三つの原理を含む。
 第一に、世界はその性質上物質的で、全ての現象は動いている事物の形態だ。
 第二に、事物または存在は我々の精神(mind)の外側に自立して存在する「客観的な現実」だ。
 第三に、世界の全てのものは、知り得る(=可知、knowable)。//
 (14)歴史的唯物論は、弁証法的唯物論の論理的帰結だとして提示される。これを支える見解は、エンゲルス、プレハノフおよびブハーリンのいくつかの叙述に見出すことができる。
 「物質的世界が一次的で、精神は二次的なものである」ため、「社会の物質的生活」、つまり生産と生産諸関係も一次的で、「客観的な現実」だ。一方、社会の精神的(spritual)生活はそれの二次的「反射」だ。
 こうした推論の論理的根拠は、説明されていない。
 スターリンはその際にマルクスの諸定式を引用する。土台と上部構造、階級と階級闘争、イデオロギー(および上部構造の他の全諸形態)の生産諸関係への依存性、社会的変化の理由を地勢や人口動態に求めることの誤り、歴史は一次的には技術発展に依存すること、に関するマルクスの諸定式だ。
 そして、五つの主要な社会経済体制に関する説明がつづく。すなわち、原始共産制、奴隷所有制、封建制、資本主義、社会主義。
 これらが次々と発生する順序は歴史的に不可避のものだ、と叙述される。
 マルクスの言う「アジア的生産様式」に関しては、何も語られていない。
 考えられるその理由は、別の箇所で論述した(第一巻第一四章、pp.350-1)。//
 (15)社会の五つの類型の列挙とその世界各国への適用は、ソヴィエトの歴史研究者に大きな問題を与えた。
 そのような現象をかつて聞いたことがない人々にとって、奴隷社会や封建社会の存在を識別するのは容易なことではなかった。
 さらに、資本主義がブルジョア革命によって生まれ、社会主義は社会主義革命によって生まれたので、従前の移行も同様の方法で発生した、と想定するのは当然だった。
 スターリンは実際、封建制は奴隷所有制から奴隷革命(slave revolution)の結果として出現した、と書いた(または「証明した」。ソヴィエト哲学では、マルクス=レーニン主義の古典に関係する場合にはこれらの二つの言葉は同じことを意味した)。
 スターリンは、実際に1933年2月19日の演説で、同じ点を指摘した。すなわち、奴隷所有制は奴隷革命によって打倒された。その結果として、封建領主たちがかつての搾取者の地位を奪った。
 これは歴史研究者たちに、奴隷所有制から封建制への移行の全ての場合について「奴隷革命」の存在を識別しなければならないという問題を追加した。//
 (16)スターリンの作業はイデオロギストたちの、マルクス主義理論の至高の達成物で哲学史を画するものだ、との大合唱によって歓迎された。
 つづく15年間、ソヴィエト哲学は、この至高の功績の主題に関してはほとんど全く変わりがなかった。
 全ての哲学の論考や参考書は、義務のごとく弁証法の四つの「標識」と唯物論の三つの原理を列挙した。
 哲学者たちには、異なる現象は相互に関連していること(スターリンの第一法則)、あるいは事物は変化すること(第二法則)等々を示す例を見つける(各法則を証明する)こと以外にすることがなくなった。
 こうして、哲学は、最高指導者に対して絶えざる阿諛追従をする媒体の地位へと身を落とした。
誰もが、精確に同じ文体で執筆した。彼らの仕事の形式や内容でもって誰がしているかを区別することはできなかった。
 自立して思考しようとする試みはなく、眠気が生じる決まり文句が際限なく繰り返された。自立した思考は、いかに臆病で媚びたものであっても、その著者を直接的な攻撃の対象にさせただろう。
 哲学に関して自分自身の何かを語ることは、スターリンは重要な何かを省略したと追及していることをすでに意味しただろう。
 自分の様式で執筆することは、スターリンよりもうまく何かを表現することができると示唆することであって、危険な図々しさを示すことだった。
 こうして、ソヴィエトの哲学上の文献は、<小教程>第四章第二節の内容を薄めて再生産する無駄紙の山で成り立つようになった。
これと比較すれば、「弁証法論者」と「機械主義者」のかつての論争は、大胆かつ生産的な、そして自立した思考の一つの例だった。
 哲学史は、ほとんど忘れられた科目になった。
 1930年代には、哲学の古典の翻訳書がなおいくつか出版されていた。しかし、それらの著者は良くも悪くも「唯物論者」だと区分けされるものか、宗教に反対する者だった。ソヴィエトの読者はときにはHolbach やVoltaire の反聖職者本を、あるいは幸運であれば、Bacon やSpinozaの何かを、見たかもしれなかった。
 ヘーゲルの書物も、彼は「弁証法」的執筆者の聖人の一人だったので、まだ出版されていた。
 しかし、およそ40年の間、他の危険な観念論者は言わずもがな、プラトン(Plato)が読まれる機会は存在しなかった。
 職業的哲学者たちは、「マルクス=レーニン主義の古典」、すなわちマルクス、エンゲルス、レーニンそしてスターリンのみを引用した。もちろん、全員が揃って言及されるときにはこの年代的な順序が守られたが、引用の頻度の点でいうと、順序はまさに正反対だった。//
 (17)<小教程>の刊行が生んだイデオロギー状況は、最終的な完璧さの一つだった、と見えるかもしれなかった。
 しかし、戦後には、いっそうの改良がさらになされることになった。//
 (18)スターリンによって成文化されたマルクス主義は何らかの基本的な点でレーニン主義とは異なる、と考えてはならない。
 そのマルクス主義は単調な、初歩的な範型であって、新しい何かをほとんど含んでいなかった。
 1950年以前のスターリンの著作のいくつかに見出し得る独自的なものは、じつに、二つの例外を除いて、ほとんど何もない。。
 第一に、我々が輸入元をすでに考察した、社会主義は一国で建設することができる、ということ。
 第二に、階級闘争は社会主義の建設が前進するにつれて激しくならなければならない、ということ。
 この原理的考え方は、スターリンがソヴィエト同盟にはもはや敵対階級は存在しないと宣言した後でも、公式には有効なままだった。-もはや階級はない、だが階級闘争はかつて以上に深刻になっている。
 1933年1月12日の中央委員会幹部会でスターリンが始めて発表したもののように思われる第三の原理的考え方は、共産主義のもとで国家が「消滅する」前に、弁証法的理由によって国家はようやく最大限の力強さの頂点へと発展するにちがいない、というものだった。
 しかし、この考え方は、トロツキーが内戦の間にすでに定式化していた。
 いずれにせよ、第二および第三は、警察テロルのシステムを正当化すること以外には、意味をもたなかった。//
 (19)しかしながら、つぎのことを再び強調しておかなければならない。すなわち、スターリンのイデオロギーに関して重要なのはその内容ではなく-聖典的な形態で表明されたとしてすら-、イデオロギー上の問題について異論を挟むことのできないと誰もが判断する、至高の権威をもった、という事実だ。
 イデオロギーは、かくして、完全に制度となり、事実上は全ての知的生活がそれに従属した。
 「理論と実践の統一」は、教理、政治および警察の権威のスターリン個人への集中によって表現された。//
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 ③へとつづく。

1884/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第2節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.91-p.94、2004年合冊版p.860-p.863。
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 第2節・スターリンによるマルクス主義の成文化(codification)①。
 (1)ソヴィエト同盟の文化諸分野は1930年代に厳しく統制され、自立した知的生活は、実際上は存在しなくなった。
 純文学(Belles-lettres)は徐々にだが効果的に、体制と指導者を称賛して「階級敵」の仮面を剥ぐことを唯一の目的とする、政治と虚偽宣伝の付属物になっていった。
 スターリンは1932年にGorky の家で作家グループと話しているとき、著作者たちは一般に「人間の精神(souls)に関する技術者」だと述べた。そして当然に、この追従的な言葉遣いは、公式の決まり文句になった。
 映画や演劇も、同じように見なされた。後者の方が被害は少なかったけれども。
 伝統的な戯曲の演目は、たいていは古典的ロシア劇作家である作者が「進歩的」であるか「部分的に進歩的」であると表現できる場合にのみ、上演することが許された。この中には、Gogol、Ostrovsky、Saltykov-Shchedrin、TolstoyおよびChekhov が含まれていた。そして、最悪の年代にすら、優れた上演作品はロシアの舞台で観ることができた。
 小説家、詩人および映画監督たちは、Byzantine で、スターリンの称賛を互いに競い合った。これが頂点に達したのは戦後だったが、いま我々が考察している時代にすでに高い程度に至っていた。//
 (2)しかしながら、抑圧と統制は、異なる程度で異なる知的分野に影響を与えた。
 1930年代には、科学の一定の分野で、とくに理論物理学と遺伝学で、マルクス主義を志向する大きな趨勢があった。しかし、1940年代遅くまでには頂点に達しなかった。
 しかしながら、とくにイデオロギーの観点からは微妙(sensitive)な他の分野、すなわち哲学、社会理論および歴史-とりわけ党の歴史と近現代一般の歴史-のような分野は、1930年代にたんに拘束着を身につけさせられた(straight-jacketed)ばかりではなく、スターリンの用語法で完全に成文化(codify)された。//
 (3)ソヴィエトの歴史編纂が屈服した重要な段階は、スターリンが1931年に雑誌<プロレタリア革命>に寄せた書簡によって画された。その手紙は、編集部による適切な自己批判とともに掲載されていた。
 スターリンの書簡は、1914年以前のボルシェヴィキとドイツ社会民主党の関係に関するSlutsky の論考を掲載したとして編集部を叱責した。その論考は、第二インターナショナルでの「中央主義」と日和見主義の危険性を正しく評価することができなかったとして、レーニンを批判していた。
 スターリンはまず、レーニンは何かを「正しく評価することのできなかった」、つまりレーニンはかつて謬りを冒したと示唆する「赤いリベラリズム」だと雑誌を厳しく咎めた。そのあとで彼は、のちに経典的文章となった第二インターナショナルの完全な歴史を概述した。
 スターリンの主要な関心は、非ボルシェヴィキの左翼とトロツキーにあった。
 スターリンによれば、社会主義的左翼は日和見主義との闘いである程度の貢献はしたが、重大な過ちも冒した。
 Rosa Luxenburg とParvus は、例えば党規約に関する党の論争でしばしばメンシェヴィキの側に立った。そして1905年には、「永続革命という準メンシェヴィキ的図式」を案出した。その図式はのちにトロツキーが採用し、その致命的な誤りはプロレタリアートと農民間の同盟という考えを拒否したことだった。
 トロツキー主義について言えば、それは共産主義運動の一部ではとっくになくなっており、「反革命的ブルジョアジーの先鋭的特殊部隊」になっていた。
 戦争前のレーニンはブルジョア民主主義革命が社会主義革命へと不可避的に発展することを理解していなかった、レーニンはのちにトロツキーからその考え方を拾い上げた、というのは、奇怪なウソだ。
 スターリンの書簡(英語版全集第13巻、1955年、pp.86ff.)は、ソヴィエトの歴史編纂の仕方を最終的に決定した。すなわち、レーニンはつねに正しかった(right)。ボルシェヴィキ党は、敵が組織内にしのび込んで組織を正しい道から逸らそうとして失敗したときでも、つねに無謬だった。
 社会主義運動での全ての非ボルシェヴィキの集団は、つねに裏切りの温床であり、せいぜいのところ有害な過ちの培養地だった。//
 (4)こうした判断はRosa Luxenburg の歴史的評価を封印し、決定的にトロツキーに関する処理をつけた。
 しかしながらさらに、歴史、哲学および社会科学の全ての諸問題が、最終的に解決済みのものとされた。
 これを行ったのは、匿名の委員会が編集した1938年の<ソヴィエト同盟共産党の歴史・小教程(Short Cource)>だった。スターリンは当時、党の世界観に関して是認される範型を叙述する、「弁証法的かつ歴史的唯物論」という名高い部分(第4章)だけの執筆者だと考えられた。
 しかしながら、戦後には、この書物全部がスターリンによるものだったとされ、彼の全集の一部として再発行された。そして、その死後も途切れることがなかった。
 スターリンの特徴的な文体はいくつかの場所で明確だった。とくに、多様な反抗者や偏向主義者を「白衛軍のまぬけ」、「ファシストの完璧な子分」等々と称するところで。//
 (5)<小教程>の特質は、出版史の世界での際立つ記録だ。
 ソヴィエト同盟で数百万冊が発行され、15年のあいだ、全市民を完全に拘束するイデオロギーの手引き書として用いられた。
 版の多さは、疑いなく、西側諸国では聖書のそれだけが比べものになっただろう。
 止むことなく、あらゆる場所で発行され、教えられた。
 中学校の上級クラス、高等教育の全ての課程、党での研修等々、<小教程>は何かが教育される全てのところで、ソヴィエト市民の主要な知的滋養源(pabulum)だつた。
 識字能力のある全ての者にとって、これを知らないままでいることは異様な曲芸であっただろう。
 ほとんどの者が何度も読み返すことを義務づけられ、党の宣伝者や講師たちはほとんどこれを暗記していた。//
 (6)<小教程>は、もう一つの点でも世界記録を打ち立てた。
 歴史の体裁をとる書物の中で、これだけ多くの虚偽と隠蔽(lies and suppressions)を含むものは、おそらく存在しない。
 書名が示すように、この本は最初からボルシェヴィキ党の歴史だと謳う。だが第4章も、読者を世界史の一般的諸問題へと誘引し、読者にマルクス主義哲学と社会理論の「正しい」見方を解説する。
 諸教訓(morals)が歴史的事象からあっさりと抽出され、それらがボルシェヴィキ党と世界共産主義運動の諸行動の基礎を形成したものだと提示される。
 歴史の結論は、単純だ。すなわち、レーニンおよびスターリンの素晴らしい指導のもとで、ボルシェヴィキ党は、十月革命の成功という栄冠に輝く、誤りのない政策を最初から確固として追求してきた。
 レーニンはつねに歴史の先頭にいると描かれる。そして、すぐ後に、スターリンがつづく。
 幸福にも大粛清の前に死亡した第二または第三ランクの少数の者たちは、物語の適当な箇所で簡単に言及される。
 レーニンが党を創立するのを実際には助けた指導者たちは、全く言及されないか、または札付きの裏切り者もしくは党に入り込んで妨害と陰謀とをその経歴とする破壊者だと叙述される。
 一方で、スターリンは、最初から過ちなき指導者であり、レーニンの最良の生徒であり、レーニンが最も信頼した協力者であり、最も親密な友人だった。
 レーニン自身については、彼はまだ若い間に人間性を発展させる計画を抱いており、彼の人生の一連の全ての行為はその計画を実現するための考え抜いた歩みだった、と読者が理解するように記述される。//
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 ②へとつづく。

1883/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第1節④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.88-p.91、2004年合冊版p.857-p.860。
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 第1節・大粛清のイデオロギー上の意味④。
 (24)組織的に作りごとをする同様の仕組みは、例えば一般的「選挙」のような、他の多くの分野に見られた。
 選挙を実施するような面倒事を行い費用を割くのを政権はやめたはずだ、と思われるかもしれない。誰が見ても、その馬鹿々々しさは明白だ。
 しかし、それを実施するのは重要だった。全ての市民を、共同の虚構の、まさにそのことによって完全な紛い物ではなくなる公式の「現実」の、参加者かつ共作者に変えることができたのだから。
 (25)第四の問題は、不可解な現象を我々に再び提示する。
 ソヴィエト同盟から西側に入った情報は、むろん、断片的で不確かなものだった。
 体制は接触を厳格にし、いずれの側からの情報の流出入も制限しようと最大限の努力をし尽くした。
 ソヴィエト国民による外国旅行は国家利益のために厳しく統制され、外国人による無資格の通信や報道は、諜報活動か反逆行為だと見なされた。
 にもかかわらず、ソヴィエト国家は、完全に世界から自らを遮断することはできなかった。
 警察テロルに関するある程度の情報は西側へと浸み出た。その情景を実感した者はいなかったけれども。
 さらに、モスクワ裁判は急いでかつ不器用に準備されたので、いくつかの西側の新聞は、明らかな矛盾や不条理を指摘した。
 だが、そうしたときに、西側の知識人たちがスターリニズムに対してとった寛容な態度を、いったいどう説明すればよいだろうか。彼らは、積極的に支援しなかったか?
 実直で腐敗とは無縁のイギリスの社会主義者、Sysney Webb とBeatrice の夫妻は、テロルが高揚していた間に一度ならずソヴィエト同盟を訪問し、「新しい文明」に関する喫驚するばかりの書物を発行した。
 彼らが明確に記述するところによると、ソヴィエトの制度は正義と幸福を求める人間の最も貴重な希望を具現化したものだった。そして彼らは、イギリスの汚辱と対照させて観察し、イギリスのエセ民主主義を罵倒した。
 モスクワ裁判の真正さやロシア最初の「民主主義」政権の完璧さを疑う理由が、彼らにはなかった。
 ソヴィエトの制度を擁護し、裁判の虚偽性を看取しなかった者たちの中には、Leon Feuchtwanger、Romain Rolland、およびHenri Barbusseらがいた。
 そうした合唱に加わらなかった数少ない一人は、André Gide(アンドレ・ジッド)だった。彼は1936年にソ連邦(USSR)を訪れ、印象記を書いた。
 彼は当然に、暴虐行為については何も見なかった。へつらいに囲まれ、体制による偉業の幻惑だけを示された。しかし、彼は、表面的なものが普遍的な虚偽(mendacity)のシステムを隠蔽していると悟った。
 何人かのポーランドの文筆家たちもまた、見せかけ(make-believe)のものを見抜いた。イギリスの報道記者のMalcom Muggeridge がそうだったように(<モスクワの冬>、1934年)。//
 (26)西側知識人たちの反応は、良識や批判的精神に対する、教理的イデオロギーの特筆すべき勝利だった。
 粛清の時期は確かに、ナツィの脅威の時期でもあった。このことによって、左翼またはリベラルな伝統の中で育て上げられた多数の思索者や芸術家たちが、文明に掛かる脅威からその文明を救い出すという唯一の希望をロシアに見た、ということが説明され得るかもしれない。
 ファシストの野蛮さに対する防波堤を与えてくれると頼ることができるならば、彼らは、「プロレタリア国家」を最大限に許す心の用意があった。
 彼らは、スターリニズムとは違ってナツィズムはその悪の顔を世界から隠そうとはほとんど努力しなかったために、それだけ一層、たやすく巧みに欺された。ナツィズムは公然と、その意図は他の民族を粉々にして塵とし、「劣った諸人種」を奴隷状態に貶める、そのような強大で全能のドイツを作ることだ、と宣言していたのだ。
 一方でスターリンは、平和と平等、被抑圧民衆の解放、国際協調主義、そして諸民衆の間の友好、という社会主義の福音を説きつづけた。
 批判的に思考することが職業であるはずの西側の者たちは、事実よりも無用の言葉を信頼した。すなわち、イデオロギーと願望を伴う思考が、最も明白な現実よりも強力だったのだ。//
 (27)粛清に関して考察する際には、スターリンのロシアはどの時期であれ、警察には、ましてや<党の上にある>警察には、統治されなかった、ということを知ることが重要だ。
 <党の上にある>警察うんぬんは、党の優越性を回復するのが課題だと主張した、スターリン死後の自称改革者が用いた口実(alibi)だった。
 スターリンのもとでの警察は随意に党員たちを逮捕し殺害した、というのは本当のことだ。しかし、党組織の最高部が、とくにスターリン自身が指示しまたは是認しなければならない履行者たちがいる、党の最高のレベルに対してではなかった。
 スターリンは党を支配するために警察を使った。しかし、彼自身が、秘密警察の長ではなく党指導者としての権能をもって、党と国家のいずれをも支配した。
 この点は、ソヴィエト体制における党の機能に関する研究で、Jan Jaroslawski が十分に明らかにしている。
 スターリンに具現化される党は、一瞬なりとも至高の権力を放棄しなかった。
 スターリン後の改革者たちが党は警察よりも上位だと主張したとき、彼らは、党員は党当局の承認なくしては逮捕されてはならないということのみを意味させたかった。
 しかし、かつてもつねにそのような状態だった。警察が同等の階層にいる党指導者たちをある程度は逮捕したとしてすら、さらに上位の党指導者たちの監視のもとにあった。
 警察は、党の手中にある道具だった。
 厳格な意味での警察システム、つまり警察が完全に自由に権限を行使するシステムがロシア国家を覆ってはいなかったし、またそうすることはできなかった。それは、党が権力を失うことを意味していただろう。そしてそれは、システムの全体が崩壊することを原因とすることなくしては生じ得なかっただろう。//
 (28)このことによってまた、スターリンのもとでの、かつ現在でのいずれについても、イデオロギーが果たす特殊な役割が、説明される。
 イデオロギーは、たんにシステムに対する助けや飾りにすぎないのではない。それを民衆が本当に信じようと信じまいと、そのいずれにも関係なく、システムが存在するための絶対的条件だ。
 スターリニズム的社会主義は、その正統性の根拠は完全にイデオロギーに由来する、モスクワが支配する帝国を生み出した。とくに、ソヴィエト同盟は全ての労働大衆の利益を、とりわけ労働者階級の利益を具現化する、ソヴィエト同盟は彼らの要求と希望を代表する、ソヴィエト同盟はいずこにいる被搾取大衆の解放をも実現する世界革命に向かう最初の一歩だ、という諸教理に由来する、そういう帝国を。
 ソヴィエト体制は、このイデオロギーなくしては作動することができなかった。そのイデオロギーこそが、今ある権力装置の<存在理由(raison d'etre)>だった。
 その権力装置は、性質上本質的にイデオロギー的でかつ国際主義的なもので、警察、軍隊その他の諸制度によって代替されることはできないものだった。//
 (29)ソヴィエト国家の警察はいつでもイデオロギーによって決定された、と述べているのではない。
 そうではなく、必要としたときに警察を正当化するために、イデオロギーが存在しなければならない。
 イデオロギーはシステムの中に組み込まれており、その結果としてイデオロギーは、正統化の基本原理が国民による選挙かまたは世襲君主制のカリスマ性かに由来する国々と比べて、全く異なる役割を果たす。
 (30)ソヴィエトのような体制には、その行動の正当化を公衆(the public)に求める必要がない、という利点がある。その定義上、公衆の利益と要求を代表する、そして、このイデオロギー上の事実を変更できるものは何もないのだ。
 しかしながら、ソヴィエト的制度は、民主主義的諸体制には存在し得ない危険(risk)にもさらされている。すなわち、イデオロギー上の批判に対して極度に敏感(sensitive)なのだ。
 このことはとりわけ、知識人が他の体制下とは比べものにならない地位を占める、ということを意味する。
 システムの知的な正当性(validity)に対する脅威、あるいは異なるイデオロギーの擁護は、道徳的な危険を示す。
 全体主義国家は決して全くの不死身のものになることはできないし、批判的思考をすっかり抑え切ることもできない。
 全体主義国家は、生活の全様相を支配するので全能であるように見えるかもしれないが、イデオロギー上の一枚岩に生じるいかなる裂け目もその存在に対する脅威になるというかぎりでは、弱いものでもある。//
 (31)さらに、イデオロギーがそれ自体の慣性的運動を失い、国家当局による現実的命令以外の何ものでもほとんどないものへと位置を下げる、そのようなシステムを維持することは困難だ。
 スターリニズムの論理は、真実はそれぞれの時点で党が、すなわちスターリンが語ることだ、というものだった。そして、このことの効果は、イデオロギーの実質をすっかり空虚なものにすることだった。
 他方で、イデオロギーは、それ自体の首尾一貫性をもつ一般的理論として提示されなければならない。そしてそれがなされるかぎりは、イデオロギーがそれ自体の推進力を得られない、そして-実際にスターリン後の時期に生じたように-その主要な代表者や単独の権威ある解釈者に対抗して用いられる、といったことは保障されるはずはない。
 (32)しかしながら、1930年代の遅くには、このような危険からはきわめて遠くにいるように思われた。
 市民社会がもはやほとんど存在せず、一般民衆はスターリンに個人化された国家の命令に服従すること以外のいかなる志向も持たないように見える、そうしたほとんど理想的な、完璧な国家へと、システムが持ち込まれた。
 (33)社会的紐帯を破壊するきわめて重要な手段は、隣人たちを相互にこっそりと監視(spy)する普遍的な制度だった。
 全ての市民が法的にまたは道徳的にそうするように義務づけられ、密告(tale-bearing)は立身出世するための主要な方法になった。
 こうしてまた、莫大な数の人々が、個人的な上昇のために犯罪加担者になった。
 スターリニズム的社会主義の理想は、国の誰もが(スターリンを除いて)強制収容所の収監者であり、同時にまた秘密警察の工作員でもある、そのような状態であるように見えた。
 これを究極的な完成形にまで至らせるのは困難だったが、それへと向かう趨勢は、1930年代にはきわめて強かった。//
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 ④終わり。第1節も終わり。第2節の表題は「スターリンによるマルクス主義の編纂」(仮)。

1882/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第1節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.84-p.88、2004年合冊版p.854-p.857。
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 第1節・大粛清のイデオロギー上の意味③。
(17)第一の問題について、多くの歴史研究者たちは、大粛清の主要な目的は政治生活の潜在的な焦点である党を、何らかの事情のもとではそれ自体の、たんに支配者の手にある道具ではない生命を獲得するかもしれない力を、排除することだ、と考えた。
 Isaac Deutscher は、モスクワ裁判に関する彼の最初の(ポーランドで出版された)書物で、メンシェヴィキによるボルシェヴィキに対する復讐行為だ!との注目に値する議論を述べた。-その理由は、犠牲者はほとんどオールド・ボルシェヴィキであり、主任検察官のVyshinsky は元メンシェヴィキで、当時の主要な党宣伝者のDavid Zaslavsky はユダヤ同盟の一人だった、ということにある。
 これは、Deutscher がのちにトロツキーの人生に関する三巻本(<追放された予言者>1963年、p.306-7)で進めた説明のように空想的なものだった。すなわち、ソヴィエトの上層官僚たちは富を蓄積できなかった、または子どもたちに遺すことができなかったために、大きかったけれども彼らの特権に満足していなかった、また、トロツキーが危惧したように、彼らが社会的な所有制度を破壊しようとする危険があった、とする。
 Deutscher によれば、スターリンは、この危険を察知し、新しい特権階層が固定してシステムを破滅させることを妨げるためにテロルを用いた。
 これは、実際は、犠牲者たちはロシアに資本主義を復活させようとしていたというスターリニストたちの見方を言い換えたものだ。
 しかしながら、Deutscher はスターリンの人生に関する書物(1949年)では、多少とも歴史研究者たちに一般的な見方を採用していた。
 スターリンは、政府または党指導者のうちの全ての考えられる代替選択肢を破壊したかった。もはや積極的な反対者はいなかったが、突然に危機が発生するかもしれず、彼は党内に対抗的な権力が集まる全ての可能性を粉砕しなければならなかった。//
 (18)この説明はモスクワ裁判には合っているかもしれない。しかし、粛清の大量性の説明としては明瞭性がない。それは、代替的な党指導者になるいかなる機会もなかった、知られざる数百万の人々に影響を与えたのだ。
 スターリンは経済の失敗についての生け贄を必要としたとか、スターリンの個人的な執念深さやサディズムとかの、他の考え方に対しても、同じ異論がしばしば当てはまる。-それらはたしかに大多数の場合についての説明になるが、数百万の大殺戮についてはほとんど困難だ。//
 (19)その目的を他の手段では全く不十分にしか達成できなかったという意味で、大粛清はおぞましい的はずれだった、と言えるかもしれない。
 だがしかし、大粛清は言わば、システムの自然的論理の一部だった
 全ての顕在的または潜在的な対抗者を破壊することのみではなく、かりに僅かで些細であってもなお国家とその指導者以外の何らかの根本教条への忠誠の残滓が-とくに、指導者や党の現在の指令から自立した参照枠組みと崇拝対象としての共産主義イデオロギーへの信念の残滓が-まだ依然としてある単一の有機的組織体(organism)を全て除去してしまうこと、こそが疑問だったのだ。
 全体主義的(totalitarian)システムの目的は、国家が課さず、国家が厳密に統制することのない共同生活の全ての形態を破壊することだった。そのようにして、個々人が他者から引き離され、国家の手中にあるたんなる道具になる、ということだった。
 市民は国家に帰属し、国家のイデオロギーに対してすら、忠誠心を抱いてはならなかった。
 このことは逆説的であるように見える。しかし、この類型のシステムを内部から見知っている全ての者にとって、驚くべきことではなかった。  
 支配党に対する全ての形態の反抗、全ての「偏向主義」と「修正主義」、分派、批判、抵抗-こうした類の全ては、党が防御者であるイデオロギーに訴えかけてきた。
 その結果として、イデオロギーは、それに自立的に訴えかける資格を以上のような者たちは持たないということをを明確にするために、修正された(revised)。-ちょうど、中世には無資格の人々は聖典に関して論評することが許されず、聖書自体がつねに<論述の神(liber haereticorum)>だったのと全く同様に。
 党は本質的にはイデオロギー的組織体だった。言わば、党員たる者は共通する忠誠心でもって連結され、諸価値を分かち持った。
 しかし、諸イデオロギーが諸装置に変わるときにはつねに生じるように、その忠誠心は、教義の「本当の」変更はないと主張されつつも、全ての政治的動きを正当化するためには曖昧で不明瞭なものでなければならかった。
 不可避的に、真摯に忠誠心を理解する者たちは自分でそれを解釈することを欲し、あれこれの政治的な歩みがマルクス=レーニン主義(Marxism-Lenumismatic)に関するスターリンの見方と合致しているか否かを考えようとした。
 しかし、そのことは、たとえスターリンに対する忠誠を誓ったとしても、彼らを政治的危機と政府に対する反抗へと追い込んだ。なぜなら、彼らはつねに今日のスターリンに反抗して昨日のスターリンに依拠しているのかもしれず、指導者自身に反対して指導者の言葉を引用しているかもしれなかったからだ。
 ゆえに、粛清が企図したのは、党内部になお存在しているイデオロギー上の連結を破壊し、上位者からの最新の命令に対する以外にはいかなるイデオロギーや忠誠心も持たないことを党員たちに確約させること、そして、社会の残余者たちのように無力で統合されていない大衆へとを党員たちを貶めること、だつた。
 これは、リベラル諸政党や社会主義諸政党、独立したプレスおよび文化的諸組織、宗教、哲学、芸術、そして最後に党内部の分派の廃絶(liquidation)を始めたのと同じ論理を継続させたものだった。
 支配者に対する忠誠心以外に何らかのイデオロギー上の連環がある場合にはつねに、現実には存在していないとしても、分派主義(fractionalism)が生まれる可能性があった。
 粛清の目的はこの可能性を除去することであり、その目的に関して、粛清は成功した。
 しかし、1930年代の大虐殺(hecatomb)を必要とした原理的考え方はなおも力を持っており、まだ決して放棄されていない。
 そのようなものとしてのマルクス主義イデオロギーに対する忠誠は、今なお犯罪であり、あらゆる種類の逸脱の源泉だ。//
 (20)そうであっても、ソヴィエトの民衆は、そして党ですらも、ホロコーストに抵抗しなかったという事実は、いずれにせよあの規模のごとくには粛清は必要でなかったということを示唆しているように見える。
 党はすでに(マルクスがフランスの農民について言った)「ジャガ芋袋」の理想的状態になるほど閉鎖的で、独立した思考の中心が生まれることは望まれず、かつそれをする能力もなかった、と思われていただろう。
 一方で、粛清がなかりせば、例えばドイツとの戦争の最も危険なときのような危機の場合にそうならなかったかどうかは、分からない。//
 (21)このことは、我々につぎの第二の疑問を生じさせる。いかにして、ソヴィエト社会は抵抗することが全くできなかったのか?
 答えは、党は、つまり指導者の外側は、装置から独立したいかなる態様でも自分たち自身を組織することがすでにできなかった、ということのように見える。
 残りの国民大衆と同じく、党は個人の離ればなれの集合体へと変形されていた。
 抑圧の文脈では、生活の全ての他の分野のように、一方での全能の国家が他方での孤立した市民に対して向かいあっていた。 
 個人の麻痺状態は、完全だった。
 そして同時に、党が最初から獲得していた原理的考え方に適合して行動することが否定された。
 党員は全員が民衆に対する大量の残虐行為に加担し、彼ら自身が無法状態の犠牲者になったとき、彼らには訴えて頼るものが何もなかった。
 彼らのうち誰も、被害者が党員でなかった間は、虚偽の裁判と処刑に反対しなかった。
 彼らは全員が積極的であれ消極であれ、「原理として」司法による殺人に間違ったところは何もない、と受け入れた。
 また、彼らは全員が、いかなるときでも、誰が階級敵なのか、富農の仲間なのか、あるいは帝国主義者の手先なのか、を党指導者が決定することができる、ということに同意していた。
 彼らが容認していたゲームの規則は彼らに向かって集中的に課されており、抵抗精神を促進したかもしれない道徳的な原理を彼らは身につけていなかった。//
 (22)戦争中に、ポランドの詩人、Aleksander Wat は、スターリンの監獄の一つでオールド・ボルシェヴィキである歴史研究者のI. M. Stelov と遭遇し、モスクワ裁判の全ての主役はたちはなぜ、最も滑稽な責任を告白したのか、と質問した。
 Stelov は単純に、こう答えた。「我々はみな、血に夢中になっていた」。//
 (23)第三の問題について言うと、我々は最初は、集団的な幻覚(hallucination)を論じているように見える。
 共産党員の大量殺戮にはそれなりの理由がスターリンにあったと想定してすら、なぜ無数の重要ではない人々を拷問によって、ウズベキスタンをイギリスに売り渡すことを謀った、Pilsudski の工作員だった、あるいはスターリンを謀殺しようと試みた、と自白させることが必要だったのか?
 しかし、この狂気においてすら、少しばかりの方法はあった。
 犠牲者たちは、肉体的に破壊されたり無害なものに変えられたりしたのみならず、道徳的にも廃人になった。
 NKVDの機関員たちは虚偽の自白書に自分たちで署名して、拷問を受けた犠牲者たちに止めを刺すか、有罪を「認めた」ことを理由に収容所へと送り込んだ、ということが考えられ得ただろう。-もちろん、全世界に対して自分たちの罪責を宣言しなければならない見せ物裁判の被告たちを除いて。
 しかし、これらは全体のごく僅かの割合にすぎなかった。
 しかしながら、実際には、警察が人々に自分たちの自白に署名することを強いた、そして、知られている限りでは、署名を偽造することはなかった。
 結果は、犠牲者たちが自分たちに冒した犯罪に対する付属物になり、偽造という一般的な運動への関与者になった、ということだった。
 ほとんど誰も、拷問によって何かを自白することを強いられ得なかった。しかし、通常は、少なくとも20世紀には、拷問は真実の情報を得るために用いられている。
 スターリン・システムでは、拷問を加える者とその犠牲者たちは両方とも完全に、情報は虚偽だということを知っていた。
 しかし、彼らは作り話に固執し、そのようにして、誰もが、普遍的な作り話が真実だという見かけを呈する、そういう非現実的な「イデオロギー上の」世界を構築するのを助けた。//
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 ④へとつづく。

1879/L・コワコフスキ著・第一巻第一四章第2節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳。
 第一巻//第一四章・歴史発展の主導諸力。
 1978年英訳書第一巻p.338-p.342、2004年合冊版p.278-p.280。
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 第2節・社会的存在と意識①。
 (1)歴史的唯物論に対する反対論が、19世紀にしばしば喚起された。
 ① 歴史における意識的な人間の行動の意義を否定するもので、馬鹿げている。
 ② 物質的利益を理由としてのみ人間は行動すると明言するもので、全ての証拠にも反する。
 ③ 歴史を「経済的要因」へと還元し、宗教、思想、感情等々の全ての他の要素を、重要ではないものかまたは経済学により人間の自由の排除へと決定されるものだと見なす。
 (2)マルクスとエンゲルスによる教理の定式化のいくつかには、たしかに、これらの批判を生じさせ得ると思えるものがある。
 諸批判に対して、エンゲルスおよび部分的には後年のマルクス主義者たちが回答した。しかし、全ての曖昧さを除去するような態様によってではなかった。
 しかしながら、我々が歴史的唯物論はいかなる問題について解答しようと意図しておりまたは意図していなかったのかを想起するならば、諸反対論は、その力の多くを喪失する。
 (3)第一に、歴史的唯物論は、いかなる特定の歴史的事象をも解釈するための鍵(key)ではないし、そう主張してもいない。
 歴史的唯物論が主張するのは、何らかのそして決して全てではない社会生活の特質の間の諸関係を明瞭にする、ということだ。
 マルクスの「批判」への書評の中で、エンゲルスは1859年につぎのように書いた。
 『歴史はしばしば、飛躍的にかつジグザグに進む。そして、そのように進むのだとすれば、重要でない些細な多くの素材が含入されていなければならないだろうのみではなく、思考(thought)の連鎖もしばしば中断するだろう。<中略>
 取り扱うためには論理的方法だけが、ゆえに、適切なものだった。
 しかしながら、これは本質的には、それから歴史的形態や攪乱する偶然性を除去した歴史的方法と何ら異なるところがない。』
 〔=マルクス・エンゲルス八巻選集/第4巻(大月書店、1974年)p.50.〕
 言い換えると、上部構造が生産諸関係に依存するとのマルクスの説明は、大きな歴史的時代や社会の根本的な変化に当てはまる。
 技術のレベルが労働の社会的分業の詳細を全て決定する、そしてつぎに政治的および精神的生活の詳細を全て決定する、とは主張されていない。
 マルクスとエンゲルスは、広い歴史的範疇で、かつ一つのシステムから別のそれへの変化を支配する根本的な要因という趣旨で思考した。
 彼らは、所与の社会の階級構造は遅かれ早かれ根本的な制度的形態であることを明らかにするよう強いられているが、このことを生じさせる事象の行程は多数の偶然的な事情に依存している、と考えた。
マルクスがKugelmann への手紙(1871年4月17日)でつぎのように書いたごとくにだ。
 すなわち、「世界史は、<中略>かりに『偶然事』(accidents)が何も役割を果たさないとすれば、きわめて神秘的な性質のものになるでしょう。
 これらの偶然事は当然に発展の一般的な行程の中に組み込まれ、別の偶然事によって埋め合わされます。
 しかし、加速や遅延はそのような『偶然事』に大きく依存しているのであり、その中には、運動の前面に先頭に立つ人物たちの性格に関する「偶然」も含まれます。」〔=マルクス・エンゲルス八巻選集/第4巻(1974年)p.324.〕
 エンゲルスもまた、いくつかのよく知られた手紙の中で、いわゆる歴史的決定論を誇張して定式化することに対して警告を発した。
 すなわち、「実存の物質的様式は、<主要なもの(primum agens)>ですが、このことは、副次的な影響ではあるけれども、それに対する反応として生じるイデオロギー諸分野のあることを排除しはしません。」(1890年8月5日、Conrad Schmidt への手紙〔=マルクス・エンゲルス八巻選集/第8巻(1974年)p.248〕。)
 『歴史の決定的要素は、究極的には、現実の生活での生産と再生産です。
 それ以上のことを、マルクスも私もこれまで主張したことはありません。
 したがって、かりに誰かが経済的要素のみが決定的なものだとこれを歪曲するならば、その人物は、無意味の、抽象的でかつ馬鹿げた決まり文句へと変形しています。
 経済状況は、土台(basis)です。しかし、上部構造の多様な諸要素は-階級闘争の政治的形態とその帰結、勝利した階級が闘争後に確立する国制(constitutions)等、あるいは法の形態や闘争者の頭脳の中にあるこれら全ての現実的闘いの反映物ですら、あるいは政治的、法的、哲学的諸理論、宗教的諸観念およびこれらのドグマ体系への一層の発展-、これら全ては、歴史的闘争の行程に対して影響力を発揮し、多くの場合は、それらの形態を圧倒的に決定するのです。
 それはこれら全ての諸要素の相互作用であり、その相互作用の中でかつ全ての際限のない偶然事という主人たちの真っ只中で、経済活動が必要なものだとして最終的には貫徹するのです。』
 (1890年9月21日、Joseph Bloch への手紙〔=マルクス・エンゲルス八巻選集/第8巻(1974年)p.254〕。)
 (4)同様にして、歴史の進路を現実に形成したと思える偉大な個人たちは、社会が彼らを必要としたがゆえに舞台に登場した。
 Alexander、Cromwell、そしてNapoleon は、歴史の過程の道具だ。
 彼らは、その偶然的な個人的特性によって、影響を及ぼすかもしれない。しかし、彼らは、彼らが生み出したのではない偉大な非個人的な力の、無意識の代理人だ。
 彼らの行動の影響力は、それが発生した状況によって決定されている。
 (5)我々が歴史的決定論を語ることができるとすれば、大きな装置上の特質という文脈においてのみだ。
 現実にあったのが十世紀の技術レベルであれば、当時には人間の権利の宣言や<ナポレオン法典>はあり得なかっただろう。
 我々が知るように、技術レベルがほとんど同じ社会でも、実際には相当に異なる政治システムがあり得る。
 にもかかわらず、個人的な性格、伝統や事情をではなくこれら諸社会の本質的な特徴を考察するならば、全ての決定的側面についてそれらはお互いに類似しており、そのような傾向を示している、ということが歴史的唯物論の観点から明らかになるだろう。
 (6)生産様式上での上部構造の反射作用に関しては、この点についてもまた、我々は、「究極的な」性質づけを想起しなければならない。
 例えば、国家は、生産力のレベルが必要とする社会的な変化を支援することと妨害することのいずれの態様でも行動するかもしれない。
 国家の行動の有効性は、「偶然的」諸事情に応じて変化するだろう。しかし、ときが成熟している場合には、経済的要因が支配的になるだろう。
 我々が歴史を全景として(in panoramic form)考察するならば、騒乱にある混沌とした諸事象があるごとく見える。その真っ只中で分析者は、マルクスが語った根本的な相互関係を含めて、一定の支配的な傾向を感知することができる。
 例えば、法的形態は着実に、支配階級の諸利益に最大に奉仕する状況へと接近する、ということが見られるだろう。また、この諸利益は当該社会の生産、交換および所有制の様式に対応して構成される、ということも。
 哲学、宗教的信条および信奉儀式は社会的必要や政治的諸装置の変化に対応して多様化するということも、見られるだろう。
 (7)歴史過程で意識的意思が果たす役割に関しては、マルクスとエンゲルスの考え方はつぎのようなものだと思える。
 人間の全ての行為は、特有の意図-個人的感情または私的利益、宗教的諸観念または公共の福利に対する関心-によって支配されている。
 しかし、これらの雑多な全ての行為の結果は、いかなる一人の人間の意図をも反映しない。
 結果は、一種の統計的な規則性をもつ。その規則性は、大きな社会的単位の進化で後づけることができるが、個々人というその構成分肢に対して何が生起しているのかを語ることはしない。
 歴史的唯物論は、個人的な動機が頑固だとか利己的だとか、あるいはすべての性質をもつものだとかを述べるものではない。
 歴史的唯物論は、そのような動機には少しも関係がなく、個人の行動を予言しようと試みることもない。
 歴史的唯物論は、誰かが意識的に意図したのではない、規則的で物理的法則のごとく非個人的な社会的法則に従った、そういう大量の現象にのみ関係する。 
 人間存在と人間の諸関係は、にもかかわらず、歴史過程の唯一の現実だ。それは究極的には、個々人の意識的な行動から成る。
 彼らの諸行為の総体は弁証法的な歴史法則の一つの型を形成し、一つの社会システムから次のそれへの移行を、また技術、所有の諸形態、階級障壁、国家制度およびイデオロギーのような諸特質の相互関係を、描写する。
 『人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、好むどおりにつくりはしない。
 自分で自由に選択した事情のもとで、歴史をつくりはしない。そうではなく、直接に見出され、与えられる、過去から受け継いだ事情のもとでつくる。』
 (<ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日>〔=マルクス・エンゲルス八巻選集/第3巻(1974年)p.153-4〕。)
 (8)厳密に言えば、歴史での多様な「諸要因」を際立たせるものだと、それらの諸要因を一つの要因に「還元」するものだと、そして他の全てのものがそれに依存するものと主張するものだと唯物論を意味させるのは、間違っている。
 このような接近方法が誤りを導くものであることは、とりわけプレハノフによって明瞭に指摘された。
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 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

1877/L・コワコフスキ著・第一巻第一四章第1節。

 マルクス(・エンゲルス)の論述自体をL・コワコフスキはどう紹介し、分析し、論評しているかにも関心をもつに至ったので、第一巻の一部の試訳作業も、並行して行うこととする。青年マルクスとか「ヘーゲル左派」とかにまで戻ると、マルクスとレーニンとの関係・差異に言及されない予感がするので、<歴史的唯物論>(「史的唯物論」とされるものの訳語はこれを用いる)あたりから始めることにする。但し、今回部分には、論評類はほとんどない。
 マルクスが先ず使ったと思われる言語からするとドイツ語版の方が適切かもしれないが、英訳書(P. S. Falla による)に慣れてきているので、原則として英語版による。文法構造等が不明になったときにはドイツ語版を参照する(今回の以下では、一回だけあった)。なお、マルクスの諸概念に関する日本での「定訳」に通暁しているわけではないので、不思議な言葉を使って訳している場合があるかもしれないことをお断わりしておく。
 今回に出てくる、マルクス『政治経済学批判/序言』の一部の引用部分は、マルクス=エンゲルス八巻選集のうち第4巻(大月書店、1974年)p.40-41を参照した。この選集はドイツ社会主義統一党(旧東ドイツ共産党)マルクス=レーニン主義研究所編集によるものを基礎にしており、ドイツ語版の邦訳書だ。しかし、そのままを引用して紹介してはおらず、英訳書で再確認しており、かつ、やや異なる場合は英語版の方をむしろ優先しつつ若干の変更も加えている。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳。
 1978年英訳書第一巻p.335~p.338、2004年合冊版p.275~p.278。
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 第一巻//第一四章・歴史発展の主導諸力。
 第1節/生産諸力・生産諸関係・上部構造。
 (1) マルクスは<資本>の叙述の中で、技術の発展と資本の無限の拡張の間の因果関係に論及した。
 同時に、一定の技術的条件のもとでのみ、区別なき歴史のどの時期でもなくして、この傾向は発生し、普遍的になり得る、と論じた。
 資本主義の作動および膨張主義傾向は、社会生活を全ての形態で支配する諸関係(relations)の、過去および現在のより一般的なシステムの特殊な場合だ。
 このシステムに関するマルクスの論述は、歴史的唯物論または歴史の唯物論的解釈と称される。
 これは<ドイツ・イデオロギー>で最初に明瞭に述べられた。しかし、最もよく知られた定式はマルクスの<政治経済学批判への序説>(1859年)の中にある。
 その教理はまた、多様な版型でのエンゲルスの著名な著作で述べられている。
 以下は、マルクスの古典的な叙述だ。//
 (2) 『人間は、彼らの生活の社会的生産で、不可欠で彼らの意思から独立した一定の諸関係へと入る。
 これら生産諸関係は、生産にかかる物質的諸力の発展の特有の段階に対応する。
 これら生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を構成する。-これが実在的な土台(foundation)であり、その上に一つの法的および政治的上部構造が立ち、この実在的な土台に一定の特別の諸形態の社会的諸意識が対応する。
 物質的生活の生産様式は、社会的、政治的および精神的な生活過程一般を規定する。
 人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定する。
 社会の物質的な生産諸力は、その発展の一定の段階で、現存の生産関係と、または-同じことの法的表現にすぎないが-その中でそれまで作動していた所有関係と、矛盾するようになる。
 これら諸関係は、生産諸力の発展諸形態から、その桎梏(fetters)に変わる。
 そのとき、社会革命の時期が始まる。
 経済的土台の変化とともに、巨大な上部構造の全体が、多かれ少なかれ急速に変革される。
 このような変革(transformation)を考察するにあたっては、自然科学の精確さで決定することができる生産の経済的諸条件の物質的な変革と、人間がこの衝突を意識するようになり、それを闘い抜く、法的、政治的、宗教的芸術的または哲学的な-簡単に言うとイデオロギー的な、諸形態とをつねに区別しなければならない。  
 ある個人に関する我々の見解がその個人の自分自身に関する見解にもとづいていないのと全く同様に、我々は、そのような変革の時期をその時期自身の意識によって判断することはできない。反対に、この意識は、物質的生活の諸矛盾から、生産の社会的諸力と生産諸関係の間の現存する衝突から、説明しなければならない。
 いかなる社会秩序も、そのための余地を残す全ての生産諸力が発展しきる以前には決して消滅しない。新しい高度の生産諸関係は、古い社会自体の胎内でそれらが存在するための物質的諸条件が成熟する以前には出現しない。
 それゆえに、人類はつねに、自分で解決できる課題だけを自分に設定する。
 なぜならば、問題をより詳細に考察すると、その課題そのものは、その解決のために必要な物質的諸条件がすでに存在しているか、または少なくとも形成されつつあるときにだけ発生することが、つねに見られるだろうからだ。
 大まかに言って、我々は、アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的な生産諸様式を社会の経済的構成の進歩の諸段階として挙げることができる。
 ブルジョア的生産諸関係は、生産の社会的過程の最後の敵対的な形態だ。-個人的な敵対という意味ではなく、諸個人の生活の社会的諸条件から生じてくる敵対だ。
 同時に、ブルジョア社会の胎内で発展している生産諸力は、この敵対を解消するための物質的諸条件を作り出す。
 現在の構成は、それゆえに、人間社会の前史時代の最終の章だ。』//
 (3) 人間の思想(thought)の歴史で、このテクストほどに、論争、批判および解釈の対立を生じさせたものはほとんどない。
 我々はここでは、複雑な議論の全体に立ち戻ることはできない。だが、主要な論点のいくつかを記しておこう。
 (4) エンゲルスは、<社会主義、空想と科学>(英語版への序文、1892年)で、歴史的唯物論をつぎのように定義する。「重要な全ての歴史的事象の究極の原因および変動させる大きな力を、社会の経済的発展のうちに、生産と交換の様式の変化のうちに、その結果としての異なる階級への社会の分裂のうちに、そしてこれら諸階級の他階級に対する闘争のうちに求める、歴史の発展に関する考え方」。
 (5) かくして歴史的唯物論は、つぎの問題に対する解答だ。すなわち、人間の文明に対して最も大きな影響力をもつのはいかなる事情(circumstances)なのか? -この文明という言葉は、思想の諸範疇から労働や政治装置に関する社会的組織までの、意思疎通のための全ての社会的形態を含む広い意味で理解されている。
 (6) 唯物論の観点からする人間の歴史の出発点は、自然との闘争であり、人間が自然に対して、満足するように増大するその必要のために役立たせるべく強いるところの、手段の総体だ。
 人間は、道具を作る点で他の動物と区別される。野獣生物は原始的な方法で道具を使うかもしれないが、自然それ自体のうちにそれを発見する場合に限られる。
 個人が自分で消費するよりも多くの物品を生産することができる程度にまで備品(equipment)が完全なものにいったんなれば、余剰の生産物の配分に関して対立する可能性や、ある範囲の者たちが他人の労働の果実を搾取する可能性が生じる。-すなわち、階級社会だ。
 この搾取がとり得る多様な諸形態が、政治的生活や意識を、換言すると人々が彼ら自身の社会的存在を理解する仕方を、規定する。//
 (7) かくして、我々は、以下のような図式を得る。
 歴史的変化の究極的な主導力=技術・生産諸力・社会が活用し得る備品全体+獲得した技術的能力+労働の技術的部分。
 生産諸力のレベルは、生産諸関係の基底的構造を、つまり社会的生活の基盤(foundation)を決定する。
 (マルクスは、技術それ自体を「土台(base)」の一部だとは見なさない。彼は、生産諸力と生産諸関係の対立について語っているのだから。)
 生産諸関係は、とりわけ、所有諸関係から、換言すると原資材と生産道具を、したがってまた労働の生産物を処分する、法的に保障された権能から成る。
 生産諸関係はまた、労働の社会的分割を含む。そこでは人々は、彼らが従事する生産の種類によってではなく、あるいは生産過程の特定の段階によってではなく、物質的生産に少しなりとも関与するのか、それとも管理、政治的行政または知的作業のような別の作用を行うのか、によって区別される。
 肉体的作業と精神的作業の分離は、歴史上の最大の変革の一つだった。
 この分離を可能とする前提は、ある範囲の者たちが生産過程に関与することなく他者の作業を自分のものにするのを許容すること、したがって社会的不平等だ。
 こうして生み出された余暇(leisure)の容量が、精神的作業を可能にした。そして人類の精神的文化の全体-芸術、哲学および科学-の根源は、社会的不平等にある。
 「土台」あるいは生産諸関係のもう一つの構成要素は、生産物が生産者たちの間で配分され、交換される態様だ。//
 (8) 生産諸関係はさらに、マルクスが上部構造という名称を付与した現象の全体を規定する。
 この上部構造には、全ての政治的諸装置、とくに国家、全ての組織された宗教、政治的団体、法および慣習、そして最後に、世界に関する諸観念で表現される人間の意識、宗教的信条、芸術的創造の形態および法、政治、哲学や道徳に関する諸教理、が含まれる。
 歴史的唯物論の主要な教義的主張は、特定の技術レベルが特定の生産諸関係を求め、それが生産諸関係が時代の推移に応じて歴史的に発生する原因になる、というものだ。
 生産諸関係はつぎに、相互に対立し合う異なる諸要素から成る、特定の種類の上部構造を発生させる。他者の労働の果実を搾取することにもとづく生産諸関係は、対立する利益をもつ諸階級へと社会を分裂させ、そしてその階級闘争は政治的な諸力と諸見解の間の対立としての上部構造に表現されるのだから。
 上部構造は、余剰労働の生産物に対する最大限の分け前を求めて相互に闘う諸階級が用いる武器の総体だ。
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 第1節は終わり。第2節の表題は「社会的存在と意識」。

1876/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第1節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.80-p.84、2004年合冊版p.852-p.854。
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 第1節・大粛清のイデオロギー上の意味②。
 (7)大粛清の地獄の様相は、しばしば歴史研究者、小説家、記録作家によって描写されている。
 見せ物裁判は、党をそれの主要な犠牲者とするジェノサイドの大量執行のうちの見える断片にすぎなかった。。
 数百万人が逮捕され、数十万人が処刑された。
 従前は散発的に用いられ、通常は真実にたどり着くことを目的としていた拷問は、今や、最もありそうにない犯罪について数千の虚偽の告白を引き出すための日常的な方法になった。
 (拷問は、18世紀にロシアの司法手続の一部であることをやめていた。のちには、ポーランド暴動や1905年革命のような例外的状況に際してのみ用いられた。)
 捜査官たちは、検察官が全くの想像上のものであることを知っている犯罪を行ったことを認めるように人々を誘導するための、肉体的および精神的な苦痛の全ての方法を自由に考案し、課した。
 このような手段には負けなかったわずかの人々も、自白するのを拒めば妻や子どもは殺されると聞いて、ふつうは屈服した。-この妻子の殺害は、ときどきは実際に実施された。
 誰もが安全だとは感じなかった。専制者に対するいかなる程度の阿諛追従の言動も、責任が追及されない保障にはならなかったからだ。
 いくつかの場合には、地域の全党委員会の委員たちが殺戮され、その後には、処刑の悪臭をまだ漂わせる彼らの委員会の後継者たちが墓場へと続いた。
 犠牲者たちの中にいたのは、ほとんど全てのオールド・ボルシェヴィキたち、レーニンの親密な同僚たち、政府、政治局そして党書記局の以前の構成員たち、全ての階位の活動家たちであり、また、研究者、芸術家、文筆家、経済学者、軍人、法律家、技術者、医師、そして-割り当てられた仕事をしなかったときには当然に-秘密警察の上層官僚であれとくに熱心だった党員であれ、粛清それ自体の機関員たち、だった。
 陸軍および海軍の将校団は、まとまって殺害された。これは、対ドイツ戦争で最初の二年間はロシアが敗北したことの原因だった。
 逮捕と処刑の指定数は、党当局によって特定の分野や地域ごとに割り当てられた。
 警察官たちがこの数字を履行しなければ、彼ら自身が処刑される可能性が高かった。かりにその数字を履行すれば、党幹部たちを皆殺しにしていることの説明に使われるのに間に合うかもしれなかった。
 (スターリンに関する典型的なおぞましい冗句によると、大量殺戮運動の功労者だったPostyshev のような者に対しても、責任追及は行われた。) 
 その任務を履行するのが不十分だった者は、怠慢を理由として射殺されるかもしれなかった。
 その任務を履行するのが十分すぎた者は、自分の不満を隠蔽するために熱意を示していると疑われるかもしれなかった。
 (1937年の演説でスターリンは、多くの破壊者たちは精確にこれを行っていると言った。)
 裁判と取り調べの意味は、レーニンの最も緊密な協力者たちも含めて、党の元来の中核のほとんど全体が一団のスパイ、帝国主義者の工作員、人民の敵であって、それらの考えはソヴィエト国家を破壊することであり、またかつてつねにそのことだった者たちだ。
 驚く外国の前で、全ての空想上の犯罪について、大きな見せ物裁判の場で被告たちの自白が行われた。
 全てのGrand Guignol(グラン・ギニョール=恐怖劇)の犠牲者のうち、ブハーリンは、架空の反革命の組織化という申し立てられた犯罪に対しては一般的責任を認めたけれども、スパイ行為やレーニン暗殺の企画のような罪を免れない責任追及に対しては、自白することを拒んだ。
 誤った指導に対する懺悔の念を明白に表明しつつ、ブハーリンは、裁判の雰囲気を典型化する言葉として、「新しい生活の愉快さに対抗する犯罪的な方法で我々は反抗した」と付け加えた。
 (明らかにブハーリンは、肉体的な拷問を受けていなかった。しかし、彼の妻と幼い息子を殺害すると脅かされていた。)//
 (8)粛清がもった第一の効果は、荒廃を生み出したことだった。党にのみならず、ソヴィエト同盟の全社会生活の全側面に。
 血の海(blood-bath)が、指導者に対して阿諛追従を表明する票決をしたにすぎない第17回党大会に出席した代議員たちの大多数、忠実なスターリニストたちのほとんどの者の気分の原因だった。
 きわめて多くの傑出した芸術家たちが、ソヴィエトの全文筆家の三分の一以上が、殺された。
 国家全体が、明らかに単一の専制者の意思が生じさせた-但し、表面的には欺瞞が講じられたが-悪魔的狂気によって握られた。//
 (9)ロシアにいる外国人共産主義者たちも、粛清の犠牲になった。
 ポーランド人の被害が最大だった。コミンテルンの1938年の決定によって、トロツキー主義者その他の敵の温床だとの理由でポーランド共産党は解散させられ、ソヴィエト同盟にいるその幹部たちは、逮捕され、処刑としてまとめて殺戮された。
 ほとんど全ての指導者たちは投獄され、ごく数人だけが、数年後に自由を再獲得した。
 幸運だったのは、ポーランドで収監されていたので招集されたときにロシアへ行くことができなかった者たちだった。
 招集に実際に従わなかったごく数人は、ポーランド警察の工作員だと公式に宣告され、そのポーランド警察の手に渡された。-これは、1930年代にロシア以外の国の地下共産党組織の「偏向主義者」に対して、しばしば用いられた手段だった。
 ポーランド人以外の粛清の犠牲者は、多数のハンガリー共産党員(Kun Béla を含む)およびユーゴスラヴィア、ブルガリアおよびドイツのそれらだった。1939年まで生き残ったドイツ共産党員のうちの何人かは、当然のごとくして、スターリンからGestapo(ゲシュタポ=ナツィス・ドイツの秘密警察)へと引き渡された。//
 (10)強制収容所は張り裂けそうなほどに、満杯だった。
 全てのソヴィエト市民は、つぎのことに慣れてしまっていた。すなわち、仕事を懸命にしようとしまいと、いかなる種類の反対派に属していたとしてもまた属していなかったとしても、あるいはさらに、スターリンが好きであろうとなかろうと、逮捕されて死刑を宣告されることあるいは恣意的に不特定の期間のあいだ収監されることには、全く何の関係もない、ということに。
 暴虐(atrocituy)の雰囲気は、一種の一般的なパラノイア(偏執狂)を、従前の全ての規準が、「通常の」専制体制の規準ですら、適用することができなくなる怪物的で非現実的な世界を、生じさせた。//
 (11)後年に流血と偽善のこの異常な秘宴(orgy)を理解しようとつとめた歴史研究者その他の者たちは、答えることが全く容易ではない問題を設定した。//
 (12)第一。どう考えても、スターリンまたはその体制には現実的な脅威は存在せず、党内部での反乱の源は全て、大量の殺戮なくして容易に一掃することができた、そのようなときに、かかる破壊的狂乱(frenzy)が生じた理由はいったい何だったのか?
 とりわけ、上層幹部たちの無差別の破壊は軍事的にも経済的にも国家を致命的に弱体化させるだろうことが明瞭だと思われることを、どのように説明するのか?//
 (13)第二。暴虐行為をきわめて献身的に実行した者たちですら含めて、民衆の全てに脅威が迫っていたにもかかわらず、抵抗が完全に欠けていたのはいったい何故だったか?
 多くのソヴィエト国民は軍事的な勇敢さを示し、戦闘では生命を危険に曝した。なぜ、誰も専制者に反抗する拳を振り上げなかったのか? なぜ進んで、全ての者が殺戮へと向かったのか?//
 (14)第三。見せ物裁判の犠牲者たちが虚偽宣伝を理由として存在しない犯罪を告白させられたということを認めるとしても、数十万人のまたは数百万人ほどの人々に、なぜ、誰もかつて聞いたことがないような告白が無理強いされたのか?
 警察の記録簿に載せられるが、どんな公的な目的にも使われない虚偽の認諾書に署名するように未知の犠牲者たちを追い込むために、なぜ途方もない労力がつぎ込まれたのか?//
 (15)第四。まさにこの時代に、スターリンはいかにして、自分個人に対する崇拝(cult)をかつて例のないほどの程度まで高めたのか?
 とくに、いったい何故、個人的な圧力を受けていないはずの、あれほど多くの西側知識人たちがこの時期にスターリニズムへとはまり込み、モスクワの恐怖の館を従順に受け入れ、あるいは積極的に称賛したのか? 現実に行われていることの虚偽と残虐さは誰にも明瞭だったはずではなかったのか?//
 (16)これらの疑問は全て、マルクス主義・社会主義(Marxist-socialist)が新しいシステムで稼働させ始めた特有の機能を、どう理解するかにとって重要だ。//
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 ③へとつづく。

1875/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第1節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
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 第1節・大粛清のイデオロギー上の意味①。1978年英語版 p.77-p.80、2004年合冊版p.849-p.852。
 (1)1930年代のソヴィエトには、全体主義的社会主義国家の公式の経典的イデオロギーとしての新しい範型のマルクス主義の形成(crystallization)が見られた。
 (2)集団化のあとの数年間、スターリン国家は一連の失敗と災難をくぐり抜けた。一方で民衆は、連続する抑圧の波にさらされた。
 集団化の実施は第一次五カ年計画の開始と一致していた。後者は、公式には1928年からの施行だったが、実際に是認されたのは翌年だった。
 トロツキーやPreobrazhensky が定式化し、スターリンが継受した考えによれば、奴隷化農業の役割は、工業の急速な発展のために余剰の価値を供給することだった。
 そのときから、重工業の優先というドグマは、国家イデオロギーの永続的な要素になった。
 当初の目標は、真摯な計算をすることなく、力によって全てのことはなされ得る、ボルシェヴィキが突破できない要塞はない、という想定のもとで、恣意的に決定された。
 にもかかわらず、スターリンはつねに、生産目標に満足しておらず、目標をさらに高く押し上げ続けた。
 もちろんその意図のほとんどは、達成できないことが判明した。最大限の人的および財政的な努力が投じられた重工業についてすら、結果は、想定されていたはずのときどきは半分、四分の一、あるいは八分の一だった。
 これを是正する方法は、統計学者を逮捕し、射殺すること、そして統計数字を捏造することだった。
 スターリンは1928-1930年に ほとんどの経済雑誌および統計雑誌を閉刊させた。N. D. Kondratyev を含む重要な統計学者のほとんどは、処刑されるか、投獄された。
 このとき以降、異なる工業の段階ごとに、生産額の二倍または三倍に上るように国民総収入を計算することも、習わしになった。こうして無意味な総額が生み出され、社会主義の優越性を証明するものとして定期的に誇らしげに発表された。
 集団化がますます農村地帯を破壊していたので、農業に関する数字は体系的に偽造(fake)された。
 スターリンや他の指導者たちがどの程度経済の本当の状態を知っていたかは、明瞭ではない。
 その間に、工業労働者たちの数が、農村部門からの補充によつて急速に膨らんだ。
 社会的な災難を償うために、怠業、つまり履行不能なノルマを達成できなかったこと、を理由とする技術者や農業専門家の逮捕や裁判が継続した。
 引き続いて1932-33年に飢饉が発生し、数百万人が死んだ。
 全ての世代の知識人を急進派に変え、マルクス主義の成長を促した1891-2年の飢饉と比較すると、取るに足らない割合の後退だった。
 スターリニストたちは、国じゅうが略奪者や怠業者、隠れ富農、戦前型の忠誠心なき知識人、トロツキー主義者、そして帝国主義諸国の工作員で溢れていると、休むことなく繰り返して宣伝した。
 飢えていく農民たちは、集団農場から一握りの穀物を盗んだとして強制労働収容所行きを宣告され得たし、実際にそうされた。
 奴隷労働収容所(slave-labour camps)が増加し、国家経済の重要な構成要素になった。とくに、シベリアの鉱山や森林のような条件が最も苛酷な地域では。//
 (3)にもかかわらず、虚構の計画による混沌と公的なウソのまっただ中で、叙述し難いほどの犠牲を対価として、ソヴィエトの工業は実際に進歩し、第二次五カ年計画(1933-37年)は、第一次よりもはるかに現実的だった。
 この時期にソヴィエト同盟が今日の工業力の基礎を設定したことは、共産主義者によってスターリニズムを歴史的に正当化するものとしていまだに呼び求められている。そして、多数の非共産主義者も、同様の見方をしている。後進国ロシアが早くその産業を近代化するためにはスターリニストの社会主義が必要だったと考えるのだ。
 先取りして我々の議論をある程度述べると、これについては、つぎのように回答することができる。
 ソヴィエト同盟は実際にかなりの程度の工業基盤を確立した。とくに、1930年代に重工業と軍需兵器について。
 それを可能にしたのは大量の強制と完全なまたは部分的な奴隷化という方法であり、それの副作用は、国民文化の破滅と警察体制の永続化だった。
 このような点で、ソヴィエトの工業化は、歴史上のその種のうちでおそらく最も無駄な過程だった。そして、このような規模の人的かつ物的コストなくしてはその全ての進歩は達成されなかったという証拠は全く存在しない。
 歴史は多様な方法での工業化の成功を記録しているが、それら全てが社会的な面での犠牲を払っている。しかし、社会主義ロシアにおけるほど、そのコストが重かったものはない。
 しばしば例示される、西側欧州が進んだ行程は産業諸国家の周縁部では繰り返されなかった、資本主義の大きな中心部がすでにその地位を確立していたので、というもう一つの議論は、たとえ相当の犠牲があったとしてもロシアとは異なる方法で工業化に成功した、日本、ブラジルおよびごく近年にはイランといった「周縁部の」諸国の例によって拒否される。
 1917年以前のロシアは急速かつ集中的に工業化している国だった。革命はその前進を多年にわたり遅らせた。
 工業発展のグラフは、帝政時代の最後の二十年間に顕著に上昇していた。それが厄災のごとく落ち込んだのは、革命の後だった。そして、様々な指標が、ある物は別の物よりも早かったが、それらの戦前のレベルにもう一度到達し、上昇し続けるのには、長い年月を要した。
 間に介在していた時代は、社会の解体と数百万の人命の破壊の時代だった。そして、革命前の発展を国が取り戻すためにはこうした全ての犠牲が必要だったと主張するのは、たんなるお伽噺(fantasy)にすぎない。//
 (4)歴史過程には人間の意図とは独立した内在的な目的がある、後知恵でのみ認識可能な隠れた意味がある、と考えるとすれば、ロシア革命の意味は工業化にあったのではなく、むしろロシア帝国の首尾一貫性および膨張した活力ににあった、と言わなければならない。この点では、新体制は実際、旧体制よりも効率的ではあったのだから。//
 (5)全ての社会階層-プロレタリアート、農民層および知識人-の抵抗が成功裡に収拾された後で、国家が組織していない全ての社会生活の形態が粉砕されて存在しなくなった後で、そして党内部の反対派が破壊された後で、-実行されなかったが-単一の専制者のもとでの全体主義的支配を完全にするのを脅かす、その可能性のある最後の要素は抑圧された。すなわち、党自体。共同社会にある全ての別の敵対勢力の息を止め、破壊するために用いられた組織それ自体。
 党の破壊は、1935-39年の間に達成された。そして、ソヴィエト体制とそれ自体の客体の間の矛盾について新しい記録が確立された。
 (6)1934年、スターリンはその権力の絶頂にあった。
 その年の最初の第17回党大会は、おべっかと崇拝の宴祭だった。
 敬慕される独裁者に対する積極的な反対者は存在しなかった。しかし、党の多くの中には、とくに古いボルシェヴィキの中には、礼は尽くすが心の奥底ではスターリンに縛られていない者がいた。
 彼らは、自分の努力でのし上がったのであり、スターリンの贔屓によるのみではなかった。したがって、危機のときには不安または反抗の危険な要因になり得た。
 そのゆえに、潜在的な反対者として、彼らは破壊されなければならなかった。
 彼らを絶滅するための最初の口実は、1934年12月1日のSergey Kirov(S・キーロフ)の殺害だった。キーロフは中央委員会書記の一人で、レニングラードの党組織の長だった。
 全てではないがたいていの歴史研究者は、この犯罪の本当の企図者はスターリンだった、ということで合意する。彼は一撃でもって可能な対敵を排除し、かつ大量抑圧の口実を生み出したのだ。
 これに続く魔女狩りは、最初は、党内部の以前の反対者たちに向けられた。しかしすぐに、独裁者の忠実な下僕たちも狙われた
 ジノヴィエフ(Zinovyev)とカーメネフ(Kamenev)は逮捕され、監獄での拘禁の刑を受けた。
 大量の処刑が、国じゅうの大都市で、とくにレニングラードとモスクワで起きた。
 テロルは1937年に激発にまで達した。この年が、「大粛清(great purge)」の最初の年だった。
 1936年秋に最初の大規模の見せ物裁判があり、それでジノヴィエフ、カーメネフ、スミルノフ(Smirnov)その他は死刑を宣告された。
 1937年1月の第2回裁判では、ラデク(Radek)、Pyatakov、Sokolnikov その他の「裏切り」に焦点が当てられた。
 1938年3月、ブハーリン(Bukharin)、ルィコフ(Rykov)、Krestinsky、Rakovsky およびYagoda が、被告に加わった。最後のYagoda は、1934-36年にNKVD(秘密警察)の長で、初期の粛清の組織者だった。
 少し前の1937年に、元帥トゥハチェフスキー(Tukhachevsky)とその他の軍最高指導者たちが秘密に裁判にかけられ、射殺された。
 全ての公開の審問で被告たちは、空想上の犯罪を自白した。そして、いかにして外国の諜報機関と策謀を図り、党指導者の暗殺をたくらみ、ソヴィエト領土の一部を帝国主義諸国に提供し、仲間の市民たちを殺し、毒を盛り、産業を妨害し、意識的に飢饉を引き起こしたか、等々を、次から次へと描写した。
 ほとんど全ての者は死刑の判決を受け、ただちに処刑された。ラデクのような数人だけは投獄の刑を受けたが、裁判のあとですみやかに殺された。//

1874/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 1978年英語版 p.74-p.76、2004年合冊版p.847-p.848。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義④完。
 (24)1931年以降、スターリンのもとでのソヴィエト哲学の歴史は大部分が、党の布令の歴史だ。
 つぎの20年間、出世主義者、情報提供者および無学者から成る若い世代が国家の哲学生活を独占した。あるいはむしろ、哲学研究の廃絶を完成させた。
 この分野で経歴を積んだ者は、一般的に、同僚を裏切るかまたはときどきの党のスローガンを鸚鵡返しに繰り返すことで、そうした。
 彼らは通常は外国語の一つも知らず、西側の哲学に関するいかなる知識もなかった。しかし彼らは、多少ともレーニンやスターリンの著作を暗記しており、彼らの外部世界に関する知識は、主としてはそれらに由来した。//
 (25)「メンシェヴィキ化する」観念論や機械主義に対する非難は、洪水のごとき論考と博士号論文を発生させた。それらの執筆者たちは、党の布令を反復し、哲学の怠業者たちの狡猾な道筋について、憤慨を表現するのをお互いに競い合った。
 (26)議論全体で、いったい何が本当の論争点だったのか?(それがあれば適切な名前は?)
 明らかに、議論は特定の哲学上の考え方とは何ら関係がなく、むろん政治的考え方とも関係がなかった。
 「機械主義」のブハーリンの政策との連関づけあるいは「メンシェヴィキ化する」観念論のトロツキーの政策との連関づけは、最も恣意的な種類の捏造だった。すなわち、非難された哲学者たちはいかなる政治的反対派にも帰属しておらず、彼らの考え方と政治的反対派のそれとの間には論理的関係が存在しなかった。
 (追及者の論拠は、機械主義者は「質的な跳躍」を否定することで「発展の継続性を絶対化し」た、というものだ。それゆえに、ブハーリンの側ではDeborin主義者は「跳躍」を強調しすぎ、そうしてトロツキー主義者の革命的冒険主義を代表する。しかし、これは議論するに値しない薄弱な類似性を根拠にしている。)
 機械主義者はたしかに科学の哲学に<向かい合った>自立性を強調することで非難を受けたが、それは実際には、無謬の党が科学理論の正確さについて発表し、科学者に対して何が探求すべき課題であるかを指示し、その結果はいかなるものであるべきかを語る、そういう権利をもつのを拒否することを意味した。
 しかしながら、このような責任追及をDeborin主義者に向けることはできなかった。彼らは、最も純粋なタイプのレーニン主義者だったように見える。すなわち、初期のDeborinは、「象形文字」に関する自分のプレハノフ的誤りを認めて撤回しており、反射の理論と矛盾するこの教理を支持しているという理由で、機械主義者たちを攻撃していた。
 Deborin主義者たちは、正当な敬意をレーニンに払っていた。したがって、党の報道官たちは、彼らを攻撃するのに役立つ引用文を発見するのに大いに困惑した。ゆえに、攻撃はほとんど全体的に曖昧で、支離滅裂の一般論から成っていた。すなわち、Deborin主義者はレーニンを「低く評価しすぎた」、プレハノフを「過大に評価しすぎた」、弁証法を「理解していない」、「カウツキー主義」、「メンシェヴィズム」へと転落している、等。
 論争点は単純に、この段階での党があれこれの哲学上の考え方か正当だ(right)とか、Deborin主義者はその考え方とは異なる見解を表明した、ということではなかった。
 係争点は、何らかの教理の実体ではなかった。すなわち、後年に採用された弁証法的唯物論の公式で経典的な範型は、事実上はDeborin のそれと区別することのできないものだった。
 責任追及が分かり易くしているように、重要なのは、「党志向性」(party-mindedness)の原理、またはむしろその適用だった。-むろん、Deborinもそれ自体は受容していたのだから。
 知的な観点からはDeborin 主義者たちの書いたものは内容の乏しいものだったが、彼らは純粋に哲学に関心があり、マルクス主義とレーニン主義の特有の原理の有効性を証明しようと最大限の努力をした。
 彼らは、哲学は社会主義建設を助けるだろう、と信じた。そしてその理由で、彼らは哲学者としての能力のかぎりで哲学を発展させた。
 しかし、スターリンのもとでの「党志向性」は、全く異なるものを意味していた。
 継続的な保障にもかかわらず、哲学にそれ自体の原理を作動させたり、政治に用いられるか適用されるかすることのできる真実を発見させたりするという思考は、まったく存在しなかった。
 党に対する哲学の奉仕は、純粋にかつ単純に、次から次に出てくる諸決定を賞賛することにあった。
 哲学は知的な過程ではなく、考えられ得るどのような形態をとっていても、国家イデオロギーを正当化し、宣伝する手段だった。
 じつにこのことは、全ての人文科学について本当のことだったが、哲学の崩落が最も悲惨だった。
 全ての哲学文化が依って立つ柱-論理と哲学の歴史-は、一掃された。すなわち、哲学は微少な技術的支援ですら得られなかった。それは、歴史科学の頽廃の程度は激しかったにもかかわらず、歴史科学にまったく適用されないやり方だった。
 哲学にとってのスターリニズムの意味は、哲学に強いられた何らかの特定の結論にあったのではなく、奴隷状態(servility)が実際にはその存在理由の全体になった、ということにある。
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 ④終わり。第3節、そして第二章が終わり。

1873/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 1978年英語版 p.66-p.70、2004年合冊版p.843-p.847。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義③。
 (16)「弁証法論者」は、執筆者たちはのちに非難されたとしても、国家イデオロギーの経典へと入り込み、数十年の間は拘束的なままだった基本的用語、言明、および教義をソヴィエト・マルクス主義に授けた。
 彼らの遺産の一部は、形式論理に対する攻撃だった。それは、ロシアでの論理的研究の崩壊をもたらした以上のものだった。
 弁証法論者は、論理が何と結びついているのか、あるいはその言明は何を意味するのかを分かっていなかった。
 しかしながら、彼らは、論理は「概念の内容から抽出」するので弁証法とは対立するに違いないと想像していた。なぜなら、弁証法は我々に、「具体的状態で」かつ(論理は切り離す)「相互関係において」、また(形式論理は理解できない)「動きの中で」現象を研究するように要求するのだから。
 この馬鹿々々しさの理由は、部分的には無知だった。しかし、部分的には、エンゲルスのいくつかの言明にもとづいていた。
 Deborin は1925年のレーニンに関する論考で、形式論理は世界が単相でもあり多層的でもあるということを考慮することができない、と書いた。また、同年の<弁証法的唯物論と自然科学>で、形式論理は「形而上学のシステム」の構築に奉仕するだけで、マルクス主義からは排除されている、弁証法は形式と内容は相互に浸透し合うことを教えているのだから、と宣言した。
 科学は形式論理を基礎にしては前進することができない、各科学は「事実の収集体」であるにすぎず、マルクス主義的弁証法のみがそうした諸事実を系統的な全体へと連環づけすることができる。
 物理学者たちが「這いずり回る経験論」に執着しないでヘーゲルを読めばすぐに、彼らが進歩し様々の「危機」を克服するのを弁証法が助けることを理解するだろう。
 「理論的自然科学」の創始者であるエンゲルスは、最初からずっと、ヘーゲルから弁証法を吸収した。//
 (17)Deborin は哲学が諸科学を支配すると考えために当然に、Lukács の<歴史と階級意識>によって激しく論難された。この書物は弁証法は統合へと進む過程での主体と客体の相互作用だとの理由で自然の弁証法の可能性を疑問視した。
 この主張を受けてDeborin は、Lukács は認識は「現実の実体」だと考える観念論者である正体を暴露した、と論じた。
 1924年に発行されたオーストリアの雑誌<労働者文学>の論考でDeborin は、Lukácsの誤り、およびエンゲルスに対する、ゆえにマルクスに対する、非礼な態度を非難した。
 さらには何と、Lukács はマルクス主義正統派はマルクス主義の方法に関する知識でのみ成り立っていると述べたが、しかるにその方法はマルクス主義者にとっては「内容と不可分に結びついている」、と。
 Lukács の「主体と客体の一体性」は観念論の同類で、エンゲルス、レーニンおよびプレハノフの明確な言述と矛盾している。
 主体が行う全ては客体を「反映する」ことであり、そう考えないのは「客観的な現実」を放棄することだ。//
 (18)機械主義、「這い回る経験論」および科学の自律性を攻撃し、そしてヘーゲル、「質的跳躍」および「現実の矛盾」を擁護することで、Deborin は、同好の学者たちと狂信者たちの多数から支持された。
 そのうち最も積極的だったのはG. S. Tymyansky だった。この人物はSpinoza の著作を翻訳し、論評していた(その論評はきわめて図式的だったが、啓蒙的で、事実の観点からは有用だった)。
 さらに、純粋な哲学者で哲学史研究者のI. K. Luppol。そして、V. F. Asmus, I. I. Agol、およびY. E. Sten。
 Medvedyev がスターリンに関する書物で述べるように、Sten は、1925-1928年にスターリンに哲学について授業(lesson)をし、スターリンにヘーゲル弁証法を理解させようとした。
 このグループのうちたいていは、全員ではないが、1930年代の大粛清の中で死んだ。//
 (19)しかしながら、弁証法論者は1920年代の後半には有利な位置を占め、ソヴィエトの哲学上の諸装置に対する完全な支配権を獲得した。
 1929年4月のマルクス=レーニン主義教育者会議で、Deborin は彼の哲学上の大綱を提示し、異端者に対する非難を繰り返した。
共産主義アカデミーは彼を完全に支持し、機械主義を非難する声明(decree)を発した。
 このDeborinの例に見られるように、以前に会議自体が、プロレタリアートの独裁の理論的武器としてのマルクス=レーニン主義の役割を確認し、自然科学へのマルクス主義の方法を適用することを求め、機械主義者たちを「修正主義」、「実証主義」そして「卑俗的進化主義」と非難する決議を採択していた。
 哲学上の諸問題を党の会議または党の支配に服する集会での票決によって決定するという習慣は、このときまでに十分に確立されており、驚く者は一人もいなかった。
 機械主義者たちは議論で自己防衛し、反対攻撃すらした。「観念論的弁証法」を主張し、自然に対して空想上の図式を課し、機械主義に対してのみ矛先を向け、観念論が提起する諸問題を無視し、注目を党が設定した実践的な責務から逸らすものだ、と彼らの反対者を追及することによって。
 しかしながら、こうした防衛は無益だった。機械主義者たちは分離主義者(schismatics)だというのみならず、ちょうどその頃にスターリンが攻撃していた「右翼偏向主義」を哲学の分野で代表するものだという烙印を捺された。//
 (20)Deborin主義者たちは勝利のあと、哲学教育または哲学関係著作物の出版に関係する全ての諸組織を支配した。
 しかし、彼らの栄光は長くは続かなかった。
 「弁証法論者」は、懸命に努力したにもかかわらず、哲学問題に関する党の期待を推し量らなかったようだ。
 1930年4月のモスクワでの第二回哲学会議で、Deborinとそのグループは、赤色教授研究所からの一団の若き党活動家によって攻撃された。党の精神を不十分にしか示していない、と糾弾されたのだ。
 この批判は6月に、M. B. Mitin、P. F. Yudin およびV. N. Raltsevich の論考で繰り返された。この論考は<プラウダ>に掲載され、編集部によって、つまりは党当局によって、推奨されていた。
 この新しい批判は党生活でと同様の哲学での「二つの前線での闘い」を呼びかけ、当時の哲学指導者たちは「形式主義者」で、レーニンを犠牲にしてプレハノフを高く評価し、哲学を党の目標から切り離そうとしている、と追及した。
 弁証法論者たちはこの責任について反論したが、無駄だった。
 12月に、赤色教授研究所内の党執行部は、スターリンにインタビューをした。スターリンは、Deborin主義者の考え方を表現するために「メンシェヴィキ化する観念論」という語を作り出した。
 それ以降、この言葉によるレッテル貼りは公式に採用された。そして、その執行部は、一方では機械主義者およびTimiryazev、Akselrod、Sarabianov、そしてVaryashという「しばしばメンシェヴィキ化する」修正主義者、他方ではDeborin、Karev、Sten、Luppol、Frankurtその他の観念論的修正主義者を非難する、長い決議を採択した。
 その決議は、「Deborin主義グループの理論的かつ政治的考え方全体は本質的に、非マルクス主義、非レーニン主義の方法論にもとづくメンシェヴィキ化する観念論に達しており、プロレタリアートを取り囲む敵対階級勢力の圧力を反映しているとともに、小ブルジョアのイデオロギーを表現している」、と述べた。
 このグループは、レーニンの論文「戦闘的マルクス主義の意義」の教えを「歪曲し」、「理論を実践から分離し」、そして「党哲学のレーニン主義原理」を変質させて拒絶した。
 彼らは、弁証法的唯物論の新しい段階としてのレーニン主義を理解することができず、多くの点で、機械主義を批判するふりを装いながら機械主義者と共通する根本教条に立っている。
 彼らの出版物は、プロレタリアート独裁に関する「カウツキー主義者」の誤りを含み、文化問題では右翼日和見主義者の誤りを、集団主義と個人主義に関してはBogdanov 主義者の誤りを、生産力と生産関係という概念に関してはメンシェヴィキの誤りを、階級闘争については準トロツキー主義者の誤りを、そして弁証法に関しては観念論者の誤りを含んでいる。
 Deborin主義者たちは、ヘーゲルを不当に賞賛した。世界観から方法論を、歴史的なものから論理的なものを、切り離した。そして、自然科学の問題に関するレーニンの重要性を過小評価した。
 党内部で富農の利益を擁護しようとする右翼偏向の理論的根拠であるので、この時点での主要な危険はたしかに、機械主義的修正主義だ。しかし、闘いは二つの戦線で果敢に行われなければならない。修正主義の二つの形態は、実際には一つのブロックを形成しているのだから。
 (21)共産主義アカデミーでのMitin の講義は、こうした批判の全てをさらに発展させた。彼自身はこのとき、「哲学戦線」での指導者になることを望んでいた。
 その講義は繰り返して「メンシェヴィキ化する観念論」とトロツキー主義の間の連環に言及した。すなわち、たしかに機械主義者たちはブハーリンや親富農偏向の哲学上の前面にいるので、Deborin主義者たちが正統派を装いつつトロツキー主義の左翼偏向を支持していると推論するのは当然だ、と。
 Mitin によると、二つのグループは、哲学および理論の問題ではレーニンはマルクスとエンゲルスが語ったのと同じことをたんに反復しているにすぎないという悪辣な中傷を広げていた。-まるでスターリンは、レーニンが「発展させ、深化させ、より具体的にすることで」マルクス主義理論史上の質的に新しい段階を代表していることを証明していないかのごとくに!
 偏向者たちはまた、哲学および自然科学を含む全ての科学は党の精神の中に注入されなければならないというレーニンの原理を無視している。
 Mitin は、プレハノフは多数の政治的かつ哲学的な間違いを冒している一方で、レーニンが言明したように彼の著作はマルクス主義文献の中での最良のものだという趣旨のKarev の論文を引用した。
 Mitin は述べた。このことは、Deborin主義者は「プレハノフ全体、メンシェヴィキとしてのプレハノフ」のために武器を取り上げていることを示す、と。
 Deborin主義者は、レーニンは哲学についてはプレハノフの生徒だと、あえて主張することすらする。だが実際には、レーニンはマルクスとエンゲルスの後の最も一貫した、正統なマルクス主義者だ。
 その一方でプレハノフは、弁証法を正しく理解しておらず、形式主義に落ち込み、不可知論へと傾き、Feuerbach、Chernyshevsky および形式論理の影響を受けている。
 Deborin主義者の過ちの根源は、しかしながら、「理論の実践からの分離」にある。
 彼らの機械主義者たちに対する闘いは、長年継続したけれども一人の機械主義者すら自分の誤りを認めなかった!、ということが示すように、模擬演習のようなものだ。
 実際のところ、二つのグループの間にはほとんど違いがない。メンシェヴィキ化する観念論者とメンシェヴィキ化する機械主義者はいずれも、レーニンの哲学を見下している。//
 (22)ソヴィエト哲学の粛清は、1931年1月25日の<プラウダ>で発せられた党中央委員会の布告(decree)によって完結した。この布告は<Pod znamenem Marksizma>の誤りを非難し、すでに記した批判を簡単に要約した。
 (23)Deborin、Luppolおよびその他の構成員は急いで自己批判を行い、正しい光を見るのを助けてくれたことについて党に感謝した。
 Sten、Luppol、Karev、Tymyanskyおよび他の多数の者は、1930年代の粛清の中で死んだ。
 Deborin は、<Pod znamenem Marksizma>の編集長を解任されたが(編集部は実際上完全に変わった)、生き残った。
 彼は党から除名もされず、その後の時代に申し分のないスターリン主義正統派の多くの論文を発表した。
 彼は、フルシチョフの時代まで生き延びた。そして晩年には、粛清の犠牲となった多数の生徒や同僚たちの社会復帰(・名誉回復)のために働いた。
 Asmus も戦後にまで生き残ったが(1975年死亡)、1940年代にはさらなる攻撃を受けた。
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 ④へとつづく。

1872/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 1978年英語版 p.66-p.69、2004年合冊版p.841-p.843。
 英語訳書で文章構造の読解が不可能だと感じた二カ所でのみ、独語訳書を参照した。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義②。
 (9)Deborin の<序論>は、マルクス主義のプレハノフ学派の典型的な産物だ。
 諸概念の分析は何もなく、マルクス以前の哲学を悩ませた全ての問題を解決するものだと想定された、支持されない一連の主張だけを含んでいる。
 しかしながら、Deborinはプレハノフのように、Bacon、Hobbs、Spinoza、Locke、KantおよびとくにHegelの意義を弁証法的唯物論への途を準備するものと称えて、マルクス主義と過去の哲学全体との連環(link)を強調する。
 彼は、エンゲルスとプレハノフが定式化した線にもとづいて、観念論、経験主義、不可知論および現象主義を批判する。以下に示す部分的抜粋によって明らかになるように。//
 『さて、形而上学は、全ては存在する、しかし何も成らない、と主張し、現象主義は、全ては成る、しかし何も存在しない、つまり、無が現実に存在する、と主張する。
 弁証法が教えるのは、存在と非存在の統合は成りつつある、ということだ。
 具体的な唯物論的用語ではこれの意味は、全ての根拠は継続的な発展の状態にある物質だ、ということだ。
 かくして、変化は現実的かつ具体的であり、他方で、現実的かつ具体的なものは変化し得る。
 この過程の主体は絶対的に現実の存在であり、現象主義的な無に反対するものとしての「実体的な全て」(substantive All)だ。<中略>
 形而上学のいう性質なき不可変の実体と、実体の現実を排除することを想定する主観的かつ可変の状態との間の矛盾は、つぎの意味での弁証法的唯物論によって解消される。すなわち、実体、物質は動きと変化の永続する状態にある、性質または状態は客観的な意味をもつ、物質は原因と根拠づけ、質的な変化と状態の「主体」だ、という意味での弁証法的唯物論によって。』
 (<弁証法的唯物論哲学序論>第4版、1925年、p.226-7.)
 (10)この文章部分は、引用した本での、および他の彼の著作で見られる、Deborin のスタイルの典型だ。
 「弁証法的唯物論が教えるのは、…」、あれこれの哲学から「弁証法的唯物論は正しい部分を継受する」。
 主観的観念論者は物質を理解しないがゆえに間違っており、客観的な観念論者は物質が第一次的で精神は第二次的なものであることを認識しないがゆえに間違っている、等々。
 全ての場合に、通常は極端に曖昧に個々の結論が述べられる。そして、それを論拠で支える試みはない。
 彼らの対敵がそうである以上に、いかにして現象主義者が間違っているかを我々が知るのかは説明されない。 
 弁証法的唯物論はそのように我々に語るのであり、それが存在する全てなのだ。
 (11)弁証法論と「形而上学」の対立は、前者は我々に全ての物は連結し合っており、孤立している物は何もない、ということを教える、ということだ。
 全ては恒常的な変化と発展の状態にある。この発展は現実それ自体に内在する現実の矛盾の結果であり、質的な「跳躍」の形態をとる。
 弁証法的唯物論が述べるのは、我々は全てを知り得る、我々の知識を超える「物それ自体」は存在しない、人は世界の上で行動することで世界を知るに至る、我々の概念は「客観的」であって「事物の本質」を包摂する。
 我々の印象も「客観的」で、すなわちそれは客体を真似ることはないけれども、「反映」する(ここでDeborinは、レーニンが非難した誤りについてプレハノフを引き継ぐ)。
 印象と客体の合致は、客体にある同一性と相違が、主観的な「反射」での同一性と相違とに、適合していることにある。
 これは、Mach およびロシアでの彼の支持者たちであるBogdanov やValentino が拒否したものだ。
 彼らによれば、精神的な(psychic)現象だけが現実であり、「我々の外」の世界は存在していない。
 しかし、その場合に、自然の法則は存在せず、したがって何も予見することはできない。
 (12)彼らの著述は教義的で単純で、かつ実質に乏しいものだったが、Deborin とその支持者たちには、歴史的研究の必要を強調し、古典的文献に関する公正な知識で一世代の哲学者たちを訓練する、という長所があった。
 さらにまた、マルクス主義の「質的な」新しさを強調しつつも、伝統にあるその根源に、とくにヘーゲルの弁証法との連環に、注意を向けた。
 Deborin によれば、弁証法的唯物論はヘーゲルの弁証法とフォイエルバハ(Feuerbach)の唯物論を統合したもの(synthesis)だった。弁証法的唯物論には、これら二つの要素が変形され、かつ「高い次元へと止揚され」ている。
 マルクス主義は「統合的な世界観」で、知識に関する一般的方法論として弁証法的唯物論を、また、別の二つの特有の見地をも、すなわち自然の弁証法と歴史の弁証法、あるいは歴史的唯物論を、構成した。
 エンゲルスが述べたように、「弁証法」という用語は三重の意味で用いることができる。
 「客観的」弁証法は、諸法則または現実の「弁証法」的形態と同じものだ。
 「弁証法」はまた、これら諸法則を叙述したものを意味する。
 あるいは第三に、普遍世界〔=宇宙〕の観察方法、すなわち広義での「論理」を意味する。
 変化は、自然と人間史のいずれにも同等に適用される一般的な規則性をもつ。そして、この規則性の研究、すなわち哲学は、したがって、全ての科学を統合したものだ。
 科学者がこの方法論的観点から正しく出発し、自分たち自身の観察の意義を理解するためには、哲学の優先性を承認しなければならない。科学者はその哲学に対して、「一般化」のための素材を提供するのだ。
 かくして、マルクス主義は、哲学と正確な科学との間の恒常的な交流を求めた。
 自然科学や社会科学により提供される「素材」なくしては、哲学は空虚なものだ。しかし、諸科学は、それらを指導する哲学なくしては盲目だ。
 (13)この二重の要件がもつ目的は、十分に明確だった。
 哲学が科学の結果を利用する意味は、粗く言って、自然科学者たちは自然の客体が質的な変化を進行させている仕方を示し、そうして「弁証法の法則」を確認する、そのような例を探し求めなければならない、ということだ。
 哲学が科学を自らの自然へと覚醒させ、盲目にならないよう保たせるのは、科学の内容を監視する、およびその内容が弁証法的唯物論に適合するのを確保する、そういう資格が哲学にはある、ということを意味する。
 後者〔弁証法的唯物論〕は党の世界観と同義語であるがゆえに、Deborin とその支持者たちは、自然科学であれ社会科学であれ、全ての科学の内容に関する党の監督を正当化する理由を提供した。
 (14)Deborin は、自然科学での全ての危機は物理学者がマルクス主義を習得しておらず、弁証法の公式を適用する仕方を知らないことによる、と主張した。
 彼は、レーニンのように、随時的にであれ継続的にであれ、科学の発展はマルクス主義哲学の出現へと至るだろう、と信じた。
 (15)このような理由で、Deborin とその支持者たちは、機械主義者たちは科学の自律性と哲学的諸前提からの自立に固執することで致命的な誤りに陥っている、と糾弾した。
 このように理解される唯物論は、他の存在論的(ontological)教理以上に経験論的中立主義と共通性があり、いかなる外界の要素も全てなくしての自然の観察に他ならないとする、唯物論の性質に関するエンゲルスの論及を想起させる。
 Deborin は、自然科学は何らかの哲学的な根拠を承認しなければならない、ゆえに哲学から誘導的役割を剥奪し、またはそれを全く無視するいかなる試みも、実際には、ブルジョア的で観念論的な教理に屈服することを意味することになる、と主張した。
 全ての哲学上の観念はブルジョア的であれプロレタリア的であれ階級に基礎があり、機械主義者は哲学を攻撃することで、社会主義と労働者階級の敵を支援しているのだ。
 「質的な跳躍」の存在が否定され、全ての発展は継続的だと主張されるとしても、そうしたことは、結局は「跳躍」の例である革命の理念を実現することを意味しはしなかったのではないか?
 要するに、機械主義者たちは、哲学的に間違っているのみならず、政治的には修正主義者でもあったのだ。//
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 ③へとつづく。

1870/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義①。
 (1)ブハーリンの意図とは別に、彼の書物は1920年代に、対立する二つの派、「弁証法論者」と「機械主義者」の間の活発な論争に貢献した。
 この論争は、定期雑誌<Pod znamenem Marksizma >(マルクス主義の旗の下で)の頁上で繰り広げられた。
 1920年創刊のこの雑誌は、ソヴィエト哲学の歴史上重要な役割を果たした。また、党の理論的機関の一つだった。
 (創刊号はトロツキーからの手紙も載せていた。しかしながら、それはたんに一般論から成るにすぎなかった。)
 発表された諸論考は全て公称マルクス主義者のものだったが、最初の数年間は、例えば、Husserl のような、ロシア外部の当時の哲学に関する情報を読者は得ることができた。そして、論述の一般的なレベルは、後年の標準的な哲学著作よりもはるかに高かった。
 (2)かりに論争の要点を一つの文章で表現してよいとすれば、機械主義者は自然科学の哲学の介入への対抗を代表し、一方で弁証法論者は科学に対する哲学の優越性を支持した、そしてソヴィエトのイデオロギー的発展の特徴的傾向を映し出した、と記し得るだろう。
 機械主義者の考え方は否定的だと称し得る一方で、弁証法論者は哲学に大きな重要性を与え、自分たちはその専門家だと考えた。
 しかしながら、科学とはどのようなものであるかに関して、機械主義者はより十分に考えていた。
 弁証法論者はこの分野については無学であり、科学を「一般化」して統合する哲学上の必要性に関して一般論的定式化をすることに限定していた。
 他方で彼らは、哲学の歴史については機械主義者よりもよく知っていた。
 (党は結局は両派をともに非難し、無知の両形態の弁証法的な統合を生み出した。)
 (3)機械主義者はマルクス主義を受容したが、哲学はたんに自然科学と社会科学の全ての総計を示すものなので、科学的世界観には哲学の必要はない、と主張した。
 雑誌の最初の諸号の一つに、O. Minin による論考が掲載されている。この人物については他に何も知られていないが、機械主義者の反哲学的偏見を示す極端な例として、しばしば引用された。
 Minin がきわめて単純な形で述べた考えは、封建領主はその階級利益を増大させるために宗教を用い、ブルジョアジーは同様に哲学を用いる、というものだった。他方で、プロレタリアートはいずれも拒否し、その力の全てを科学から引き出す。
 (4)多かれ少なかれ、このような哲学に対する嫌悪は、機械主義派の者たち全体によく見られるものだった。
 最もよく知られた支持者は Ivan I. Skvortsvov-Stepanov (1870-1928)と、著名な物理学者の子息の Arkady K. Timiryazev (1880-1955)だった。
 すでに別の箇所でその考え方に論及したA. Akselrod も自称「機械主義的世界観」を公言していた。しかし、彼女はプレハノフの弟子として、この派の別の者たちよりも穏健な立場を採った。
 (5)機械主義者たちは、エンゲルスの著作にある程度は支えられて、マルクス主義の観点からは、特定の科学を指示し、発見物の正否を判断する権利を要求する「科学の中の科学」のようなものは存在しない、と考えた。
 対立派が理解する弁証法なるものは、余計なものであるばかりか科学的考究とは矛盾している。それは科学の知らない世界観の全体や範疇を持ち込むもので、マルクス主義の科学的な革命精神と社会主義社会の利益といずれとも疎遠なヘーゲル的な継承物だ。
 科学の当然の意図は、全現象を物理的または化学的過程へと整理することで全ての現象をできるだけ正確に説明することだ、他方で質的な飛躍、内部的矛盾等があるという弁証法論者は、反対のことをしている。弁証法論者たちは、実際には現実の多様な分野の間のその言う質的な相違を、観念論者から虚偽の全体性を借用することによって確認しているのだ。
 全ての変化は最終的には質的な条件へと切り縮めることができる。そして、例えばこのことが生きている現象に適用されないという考え方は、もはや観念論的な生気論(vitalism)にすぎない。
 確かに、正反対の物の間の闘いを語ることはできるが、概念の内部的分裂というヘーゲル的意味においてではない。すなわち、その闘いは物理学や生物学で、あるいはいかなる特定の弁証法的論理に頼る必要のない社会科学で、観察され得るような矛盾する力の間のものだ。
 科学的考究は完全に経験にもとづいていなければならない。そして、全てのヘーゲル的な弁証法の「範疇」は、経験上のデータへと単純化することはできない。
 弁証法論者の立場は明らかに自然科学の進展によって掘り崩されているのであり、そのことは、宇宙での全ての現象は物理的および化学的な用語で表現することができるということを徐々にだが着実に明らかしてきている。
 切り縮めることのできない質的な相違と自然過程の非継続性を信じるのは全く反動的だ。弁証法論者が、「偶然」は主観的なもので個別の原因に関する我々の無知を示す語にすぎない、と論じているように。//
 (6)「弁証法論者」の立場は、1925年にエンゲルスの<自然の弁証法>が公刊されたことでかなり強くなった。この著作は、機械主義と哲学的ニヒリズムに対抗し、かつ科学の哲学的および弁証法的な解釈を擁護するための十分な武器を提供した。
 1929年にレーニンの<哲学ノート>が出版されて、さらに強い支援になった。この著作は、ヘーゲル弁証法の唯物論的範型の必要性を強調し、弁証法の「範疇」の長いリストを列挙し、対立物の闘争と統合の原理はマルクス主義の中心にある、と宣告した。//
 (7)二つの対立する派のうちでは弁証法論派が多数になり、科学的な諸装置をより十分に備えることになった。
 彼らの指導者で最も活動的な執筆者は、Abraham Moiseyevich Deborin (1881-1963) だった。
 彼はKovno で生まれ、若いときに社会民主主義運動に参加し、1903年以降はスイスにいた<エミグレ>だった。
 彼は最初はボルシェヴィキで、のちにメンシェヴィキ派に加わった。
 革命後には数年の間は非党員マルクス主義者だったが、1928年に再入党した。
 1907年に彼は<弁証法的唯物論哲学序論>を執筆し、1915年になって出版された。、
 この書物は何度も重版されて、1920年代でのロシアの哲学教育の主要な文献だった。
 彼は党員ではなかったけれども共産主義アカデミーや赤色教授研究所で講義をし、若干の著作を発表した。
 1926年以降は<Pod znamenem Marksizma >の編集長で、この雑誌はこのときから、機械主義者の論考を掲載するのを中止し、純粋な弁証法論者のための雑誌機関になった。
 (8)自分で執筆しはしなかったが、Deborin は哲学に精通していた。
 例えばプレハノフには見出せない考えを、彼はほとんど発していない。しかし、のちのソヴィエトの哲学者たちと比べると、彼とその支持者たちは哲学の歴史に関する公正な知識をもち、それらを論争上の目的のために巧く用いることができた。//
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 ②へとつづく。

1868/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第2節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第2節・哲学者としてのブハーリン②完。合冊版、p.836~p.838。
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 (14)一般的には、弁証法全体は平衡状態(equilibrium)に対する妨害と復活の無限の過程へと簡略化されてよい。
 諸現象の「機械主義的」見方に対して「弁証法的」見方を対峙させることには、もはや何の目的もない。現代では、機械それ自体が弁証法的になっているごとく。すなわち、我々は物理学から、全てが他の全てに影響を与える、そして自然界に孤立しているものはいっさい存在しない、ということを学習しなかったのか?
 全ての社会現象は、人間の自然との闘いを原因とする、対立する力の闘争だとして説明することができる。 
 (にもかかわらす、ブハーリンは、共産主義が最終的に建設されればそれを最後に平衡状態は確立されてしまう、と考えたように見える。
 しかしながら、今のところは、技術的問題についての後退をも不可避的に含む革命的な時代に我々はいるのだ。)
 生産関係は単直に言って、「生きている機械」だと見なされた人間たちの、労働過程にかかる共同作用だ。
 この過程に従事している間に人々が考えたり感じたりしているということは、生産関係はその性質上精神的(spiritual)なものだということを意味しはしない。すなわち、精神的なものは全て、それらが存在するのは物質的な必要性があるからであり、生産と階級闘争に奉仕している。
 例えば、Cunow とTugan-Baranovski が主張するように、ブルジョア国家が全階級の利益となる働きをする、ということはあり得ない。
 ブルジョアジーはたしかに、自分たちのために、公共的業務の分野で活動することを強いられる。例えば、道路の建設、学校の維持、科学知識の普及。
 しかし、これらは全てが純粋に資本主義者の階級利益の観点から行われるのであり、そうして、国家は階級支配のための道具に他ならなくなる。//
 (15)ブハーリンは<史的唯物論>の中で、「平衡状態の法則」以外に、社会生活に関する他のいくつかの法則を定式化した。
 そのうちの一つ、「社会現象の物質化の法則」は、イデオロギーと精神生活の多様な形態は、それ自体の実存性があって一層の進化の出発地点となる、そういう物体に-書籍、図書館、美術画廊等に-具現化される、というものだ。
 (16)ブハーリンのこの書物は極端に単純なもので、ある範囲ではそれはレーニンの<経験批判論>を上回りすらする。
 レーニンの論拠は論理的に無価値のものだったが、それでも彼は少なくとも論じようとした。しかし、ブハーリンは論じようとすらしていない。
 ブハーリンの著作は、教義的にかつ無批判に、使われる概念を分析する試みをいっさいすることなく明言される「諸原理」、「根本的諸点」の連続だ。また、それらは、諸教理を定式化するとすぐに生じる、そして繰り返して批判的に進められた、史的唯物論に対する反対論を論駁しようともいっさいしないで語られている。
 彼がピアノが存在していなければ誰もピアノを弾けないということで芸術が社会条件に依存していることが証明される、と我々に述べていることは、その推論のレベルを明らかに例証している。
 思考の未熟さの例は、つぎのように幼稚に信じていることだ。すなわち、未来の科学は技術的発展の光を当てて社会革命の日付を「客観的に」予言することができるだろう。
 さらには、人々が書物を執筆する「科学的法則」、あるいは宗教の起源に関する根拠なき幻想、等々。
 この「手引き書」の特質は、のちのマルクス主義文献の多くのそれのように、「科学的」という語を絶え間なく使用していることでありり、それ自体の言明がこの性格を特別の程度に有すると執拗に主張していることだ。//
 (17)ブハーリンの書物の凡庸さを、グラムシ(Gramsci)やルカチ(Lukács)のような知的なマルクス主義批判者は見逃さなかった。彼らはとくに、ブハーリンの「機械主義」の傾向に注意を向けた。
 ブハーリンは社会を、生起する全てはそのときどきの技術の状態によって説明することのできる、結び合った全体だと考えた。、
 人々の思考や感情、人々が表現する文化、人々が作り出す社会制度、これらは全て、自然法則がもつ不変の規則性を伴う生産力によって生み出される。
 ブハーリンは、「平衡状態の法則」でもって何を明瞭には意味させたいのかを、説明しない。
 社会での平衡状態は継続的に攪乱されかつ復活されている、そして平衡状態は技術のレベルと生産関係の「合致」に依存する、と我々は語られる。
 しかし、ある所与のときにこの合致が存在するか否かを決定する際に用いる規準(criteria)に関する示唆は、いっさい存在しない。
 実際にブハーリンは、平衡状態の攪乱を革命または全ての社会転覆と同一視しているように見える。
 かくして「平衡状態の法則」が意味するのは、危機と革命は歴史上に発生した、そして疑いなくもう一度発生するだろう、ということのように見える。
 社会現象の研究はそれ自体が社会現象で、そのようなものとして歴史的な変化を発生させるのを助ける、ということをブハーリンの頭は思いつかなかった。
 ブハーリンは、天文学が惑星の運動を我々に教えるのと同じ方法で、未来に関する「プロレタリアの科学」は歴史的事象を分析して予言するだろうと信じていた。//
 (18)ブハーリンの政治的地位のおかげで、彼のマルクス主義に関する標準版は長らく、党の「世界観」を最も権威をもって言明したものと見なされた。スターリンの著作がそうなったほどには、忠誠者に対する拘束力あるものにはならなかつたけれども。
 彼の<史的唯物論>は実際、スターリンが自分自身の手引きとしたほとんど全てのものを含んでいた。
 スターリンは、「平衡状態の法則」に言及しはしなかった。
 しかし彼は、ブハーリンの「弁証法の法則」を継受して、歴史的唯物論について哲学上の唯物論の一般原理の「適用」または特殊な場合であると説明した。
 その基礎をエンゲルスに、とくにプレハノフに見出すことができるこのような接近方法は、ブハーリンによって経典的マルクス主義の本質部分だとして提示された。//
 (19)のちにブハーリンがその栄誉ある地位から転落して「機械主義」が非難されたとき、つぎのことを示すのが、党哲学者たちの仕事になった。すなわち、彼の「機械主義」的誤りとその政治上の右翼偏向は分かち難く結びついている、そしてレーニンが正当に譴責した弁証法の無知こそが彼が富農(kulak)を防衛し集団化に反対した根本原因だ。
 しかしながら、この種の哲学と政治の連関づけは全く根拠がなく、わざとらしい。
 ブハーリンの著作にある曖昧な一般論は、特定の政治的結論の根拠を何ら提供していない。
 但し、当時にまたはのちに誰も論難しなかったつぎのような前提命題は除く。例えば、プロレタリアートの社会主義革命は、最終的に世界を制覇するはずだ。宗教とは闘わなければならない。プロレタリア国家は、産業の成長を促進するはずだ。
 より厳密な結論について言えば、最も矛盾する趣旨が、同じ論理を使って同じ理論上の定式から演繹されている。教理(doctrin)は事実上、政治に従属している。
 「一方で」土台は上部構造を決定するが、「他方で」上部構造は土台へと反作用するのだとすれば、いかなる程度であっても、またいかなる手段をとるのであっても、「プロレタリア国家」は経済過程を規整するだろうし、つねに教理と合致して行動することになるだろう。
 ブハーリンは、都市と田園地帯の間の経済の均衡を混乱させるとスターリンを責め立てた。しかし、彼の「平衡状態の法則」は、いつそしてどのような条件のもとであれば現在の平衡状態が維持されるのかそれとも破壊されるのかに関する手がかりを、何ら提供しなかった。
 最終的な安定が共産主義のもとで達成されるまでは、平衡状態は攪乱されつづけるだろう、そしてスターリンの「上からの革命」(revolution from above)、換言すると農民層の強制的収奪、のごとき政策は、平衡状態へと向かう社会の一般的趨勢と完全に合致しているかもしれない。なぜならば、国有産業と私的農業の間の矛盾を除去すること、そのことで不均衡の要因を取り除くことは、政策の目標だからだ。
 Cohen はつぎのことを正しく(rightly)観察している。すなわち、ブハーリンが手引書を執筆したのは、党の言葉遣いでは極端に「主意主義的な」(voluntaristic)ものと称される経済現象に対する態度の実例を彼自身が示したときだった。ブハーリンは、経済生活の全ては行政的かつ強制的な手段によって完全に十分に規整され得る、プロレタリアートの勝利ののちには全ての経済法則が弁証法的に取り替えられるだろう、と信じた。
 ブハーリンはのちに戦時共産主義の考えを放棄し、ネップのイデオロギストになった。
 しかし彼は、<史的唯物論>の諸テーゼを変えることはなかった。
 そのゆえに、彼の著作の中に1929年の彼の政策のための着想を探し出そうというのは馬鹿げたことだ。
 ついでに言えば、戦時共産主義という観念もまた、それから演繹することはできない。
 我々は、もう一度、かかる曖昧な哲学的言明はいかなる政策を正当化するためにも用いることができる、とだけ言おう。あるいは、同じことに帰一するのだが、かかる曖昧な哲学的言明は、いかなる政策もいっさい正当化しはしない。
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 第2節終わり。

1867/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第2節/ブハーリン①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
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 第2節・哲学者としてのブハーリン①。合冊版、p.833~p.836。
 (1)共産主義の際立つ特質の一つは、政治生活における哲学の重要性についての確信だ。
 まさに最初から、換言すればプレハノフの初期の著作から、ロシア・マルクス主義は、哲学、社会学および政治学に関する諸問題の全てを包摂しそれらに回答を与える統合的「システム」へと発展する傾向を示した。
 「真の」哲学はいったい何を構成要素とするのかについて個々人で異なってはいたけれども、彼らはみな、党には明瞭に定義された哲学上の考え方(outlook)が存在しなければならないし、存在した、この考え方は反論を許すことができない、ということに合意していた。
 ロシアには事実上、ドイツ・マルクス主義には多くあった、論理的に別個の二つの提示命題の中で意見表明をする哲学的「中立主義」に対応するものがなかった。
 第一は、社会現象に関する科学的理論としてのマルクス主義は、その他の科学からの哲学上の前提はもはや必要がない、とする。
 第二は、党は政治綱領と歴史的社会的教理に拘束されるが、構成員たる党員は自由にいかなる宗教も哲学も支持することができる、とする。
 レーニンはこれらいずれの考え方も激烈に攻撃した。そうすることで彼は、完全にロシア・マルクス主義の代表者だった。
 (2)その結果として、革命後の党執行部には、哲学教育にかかわり合う時間がなかった。
 しかしながら、まだ成典化された哲学は存在していなかった。
 マルクスとエンゲルスを別にすれば、プレハノフは主要な権威だと見なされた。
 レーニンの経験批判論に関する著作は、全ての者が参照すべく義務づけられるような標準的なテクストの地位を決して得ていなかった。
 (3)ブハーリンは、レーニンの後で、党の一般的哲学および社会的教理を体系的に提示することを試みた最初の党指導者だった。
 彼には、他のたいていの者たちよりも、この仕事をする適格性があった。国外逃亡中の年月の間に彼は、Weber、Pareto、Stammler その他の者の非マルクス主義的社会学の著作を研究していたので。  
1921年に彼は、<史的唯物論 : マルクス主義社会学の一般向け手引き>(英訳書、1926年)を出版した。
 レーニンの<経験批判論>は特定の一つの異説に対する攻撃だったが、それとは違って、ブハーリンのこの著作は、マルクス主義教理に関する一般的な説明を行うことを趣旨としていた。
 長年にわたって、この著作は党幹部たちを理論的に鍛えるための基本的な教科書として用いられた。これの重要性は、これが持つ長所にあるというよりも、その用いられたという事実にある。//
 (4)ブハーリンは、マルクス主義は社会現象に関する厳格に科学的な、かつ唯一科学的で包括的な理論だ、マルクス主義はその現象を他の科学がそれぞれに固有の対象を扱うように「客観的に」取り扱う、と考える。 
 それゆえに、マルクス主義は歴史的進化を的確に予見することができる。他の何もそうすることはできない。
 マルクス主義は全ての社会理論のように階級理論でもあるのはそのとおりだが、ブルジョアジーよりも広い精神的視野をもつプロレタリアートに託された理論だ。プロレタリアートの意図は社会を変革することであり、だから彼らは将来を見通すことができる。
 かくしてプロレタリアートのみが社会現象に関する「真の(true)科学」を生み出すことができるし、実際に生み出した。
 この科学は歴史的唯物論、またはマルクス主義社会学だ。
 (「社会学」(sociology)という語はマルクス主義者によって是認されておらず、レーニンは「社会学」それ自体は-たんにあれこれの理論にすぎないのではなく-ブルジョアが考案した語だとして拒絶した。
 しかし、ブハーリンは明らかに、科学的考究の特定の分野を表示するために既に用い得る語として、これを適応させようとした。)//
 (5)ブハーリンによれば、歴史的唯物論〔=史的唯物論〕は、社会科学と自然科学との間には探求方法についても対象に対する因果関係的接近についても何ら差違はない、という前提に立つ。
 全ての歴史的進歩は、不可変の因果法則に依っている。
 Stammler のような理論家による反対論はあるにもかかわらず、人間の目的というものはこれに違いをもたらさない。意思と目的はそれら自体が、他の全ての場合と同様に条件づけられている。
 自然および社会のいずれの分野の目的的(purposive)行動の理論も全て、非決定主義理論であり、Deity の仮定へとまっすぐに至ることになる。
 人間は、自由な意思をもたない。その行動の全ては因果的に決定されている。
 いかなる「客観的」意味においても、偶然(chance)というようなものは存在しない。
 我々が偶然と称しているものは、因果関係の二つの連鎖が交差したものだ。そのうちの一つだけが我々に知られている。
 「偶然」という範疇は、我々が無知であることをたんに表現しているにすぎない。//
 (6)必然性の法則は全ての社会現象に適用されるので、歴史の方向を予言することは可能だ。
 この予言は「まだ今のところ」正確ではないので、個々の事件の日時まで予告することはできない。しかし、それは、我々の知識がまだ不完全なものであることによる。//
 (7)社会学での唯物論と観念論の対立は、根本的な哲学上の論争の特殊な例だ。
 唯物論は、人は自然の一部だ、精神(mind)は物質の作用だ、思考(thought)は物理的な脳の活動だ、と主張する。
 これら全ては、観念論によって反論されている。観念論は宗教の一形態にすぎず、科学によって効果的に論駁されている。
 この狂気の唯我論(solipsism)または人または梨のような事物は存在しないとするプラトンの考えを真剣に受け取る者にとっては、それらの「観念(ideas)」にすぎないのか?
 (8)そして社会分野では、精神(spirit)と物質のうちの優先性に関する問題が生じている。
 科学の、すなわち歴史的唯物論の観点からは、物質的な現象つまりは生産活動が、観念、宗教、芸術、法その他の精神的現象を決定する。
 しかしながら、我々は、一般的法則が社会的論脈の中で働く態様を観察するよう留意しなければならず、また、単直に自然科学の法則を社会的用語へと入れ替えてはならない。//
 (9)弁証法的唯物論が教えるのは、宇宙には永遠のものは存在しないが、全ての事物は相互に関係し合っている、ということだ。
 私有財産、資本主義および国家は永続的なものだと何とかして主張しようとしているブルジョア歴史家は、このことを否定する。
 変化は、内部的な矛盾と闘争から現実に発生している。なぜなら、他の全ての分野でのように社会では、全ての平衡状態は不安定で、いずれは克服される。そして、新しい平衡状態は新しい原理にもとづかなければならない。
 この変化は、量的な変化が蓄積したことから帰結する質的な飛躍によって生じる。
 例えば、水は熱せられると一定の瞬間に沸点に到達し、蒸気となる。-これが、質的な変化だ。
 (ちなみに、我々は、エンゲルスからこの例を繰り返したスターリンまで「古典的マルクス主義著作者」のうち誰も、水が蒸気となるには摂氏100度に到達する必要はないということを観察しなかった、ということに気づいてよい。)
 社会革命は同種の変化であり、そしてこれが、質的な飛躍による変化という弁証法の法則をブルジョアジーが拒否する理由だ。//
 (10)変化と発展のとくに社会的な形態は、人間と自然の間のエネルギー交換、すなわち労働に依存している。
 社会生活は生産によって条件づけられ、社会の進化は労働生産性の増大を条件とする。
 生産関係が思考(thought)を決定する。しかし、人間は相互に依存し合いながら品物を生産するように、社会は諸個人のたんなる集まり(collection)ではなく、その全ての単位が相互に影響し合う、真の集合体(aggregate)だ。
 技術が、社会発展を決定する。
 他の全ての要因は、二次的なものだ。
 例えば、地勢(geography)はせいぜいのところ人々が進化する程度に作用することができ、進化それ自体を説明することはできない。
 人口統計上の変化は技術に依存しており、それ以外にではない。
 進化の種族諸理論について言うと、プレハノフはそれらを明確に論難していた。//
 (11)「究極的には」、人間の文化の全側面は技術の変化によって説明することができる。
 社会の組織は、生産力という条件に従って進化する。
 国家は支配階級の道具であり、その特権の維持に奉仕する。
 例えば、宗教はいかにして発生したのか?
 きわめて簡単だ。原始社会には部族の支配者がおり、人々はその発想を自分たち自身へと転化し、肉体を支配する精神(soul)という観念へと到達した。
 そして彼らは、その精神を自然全体へと転化し、宇宙に精神的な性質を与えた。
 こうした幻想は結局は、階級の分化を正当化するために用いられた。
 再び言うと、知られざる力としての神(God)という観念は、資本主義者が自分たちで支配できない運命に依存していることを「反映」(reflect)している。
 芸術は同様に、技術発展と社会条件の産物だ。
 ブハーリンは、こう説明する。未開人はピアノを弾くことができない。なぜなら、ピアノが存在していなければそれを演奏することも、そのために楽曲を作ることもできない。
 頽廃的な現代芸術-印象主義、未来主義、表現主義-は、ブルジョアジーの衰亡を表現している。//
 (12)これら全てにかかわらず、上部構造に全く重要性がないというのではない。
 ブルジョア国家は、結局のところ、資本主義的生産の一つの条件だ。
 上部構造は土台に影響を与える。しかし、いつの時点であっても、上部構造は「究極的には」、生産力によって条件づけられている。
 (13)倫理について言えば、これは階級社会の物神崇拝主義(fetishism)の産物で、階級社会とともに消失するだろう。
 プロレタリアートには、倫理は必要がない。倫理がそのために生み出す行動の規範は、性格において技術的なものだ。
 椅子を制作する大工が一定の技術上の規則に適合させるのと全く同じく、プロレタリアートは、社会構成員の相互依存に関する知識にもとづいて、共産主義を建設する。
 しかし、このことは、倫理と何の関係もない。//
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 ②へとつづく。

1866/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第1節④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第1節・知的および政治的な雰囲気④完。
合冊版、p.831~p.833。
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 (16)国家もまた最初から、教会と宗教の影響を破壊し始めた。
 これは明らかにマルクス主義の教理と一致しており、全ての独立した教育を破壊するという国家の目標とも一致していた。
 我々はすでに見たことだが、ソヴィエト体制は教会と国家の分離を宣言したけれども、この原理を現実化するのに成功していなかったし、成功することのできないものだった。
 なぜなら、教会と国家の分離は、国家が市民の宗教的見方に関心を抱かず、どの宗派に属しているかまたはいないかを問わず市民に同等の権利の全てを保障し、一方で教会は私法の主体として承認される、ということを意味するだろうからだ。
 国家がひとたび反宗教哲学をもつ党によって購われるものになってしまえば、この分離は不可能だった。
 党のイデオロギーは国家のそれになった。そして、全ての形態の宗教生活は、否応なく反国家活動になった。
教会と国家の分離は、信者とそうでない者とが同等の権利をもち、前者は無神論者である党員と同様の権力行使の機会をもつ、ということを意味する。
この原理を実現しようとするのはソヴィエトの条件のもとではいかに馬鹿々々しいかと述べるので十分だ。
 最初から根本的な哲学またはイデオロギーへの執着を表明した国家があり、その哲学またはイデオロギーにその国家の正統性が由来するのであるから、宗教<に対して(vis-à-vis)>中立などということはあり得なかった。
 したがって、1920年代の間ずっと、教会は迫害され、キリスト教を伝道することを妨害された。異なる時期ごとに、その過程の強度は違っていたけれども。
 体制の側は、階層の一部に対して譲歩するように説得するのに成功した-これはその一部の者たち自身にとって譲歩でなかったので、妥協だと言うことはほとんどできない。そして、1920年代の後半に多数の頑強な神職者たちが殺戮されてしまったあとで、ほどよい割合の者たちがとどまって忠誠を表明し、ソヴィエト国家と政府のために祈祷を捧げた。
 そのときまでに、無数の処刑、男女の各修道院の解体、公民権の収用や剥奪のあとで、教会は、かつてあったものの陰影にすぎなくなった。
 にもかかわらず、反宗教宣伝は今日まで、党の教育での重要な要素を占めている。
 1925年にYaroslavsky の指導のもとで設立された戦闘的無神論者同盟(the League of Militant Atheists)は、キリスト教者やその他の信者を全てのありうるやり方で執拗に攻撃して迫害し、そうすることで国家の支援を受けた。//
 (17) 新社会で最も力強い教育への影響力をもったのは、しかしながら、警察による抑圧のシステムだった。
 この強度は変化したけれども、いかなる市民でもいかなる時にでも当局の意ののままに抑圧手段に服することがあり得るというのは日常のことだった。
 レーニンは、新しい社会の法は伝統的な意味での法とは全く関係がない、と明言していた。換言すれば、政府権力をいかなる態様をとってであれ制限することが法に許容されてはならない、と。
 逆に一方では、いかなる体制のもとでも法は階級抑圧の道具に「他ならない」がゆえに、新しい秩序は対応する「革命的合法性」の原理を採用した。これが意味したのは、政府当局は証拠法則、被告人の権利等々の法的形式に煩わされる必要はなく、「プロレタリアート独裁」に対する潜在的な危険を示していると見え得る誰であっても単直に逮捕し、収監し、死に至らしめることができる、ということだった。
 KGBの先駆者であるチェカは、最初から司法部の是認なくして誰でも収監する権限をもっていた。そして、革命の直後に、多様で曖昧に定義された範疇の人々-投機家、反革命煽動者、外国勢力の工作員等々-は「無慈悲に射殺される(shot witout mercy)」ものとする、と定める布令が発せられていた。 
 (いかなる範疇の者は「慈悲深く(mercifully)射殺される」のかは、述べられていなかった。)
 これが実際上意味したのは、地方の警察機関が全市民の生と死に関する絶対的な権力をもった、ということだ。
 集中収容所(Conceneration camps)(この言葉は現実に使われた)はレーニンとトロツキーの権威のもとで、様々のタイプの「階級敵」のために用いるべく、1918年に設置された。
 もともとは、この収容所は政治的反対者を制裁する場所として使われた。-カデット〔立憲民主党〕、メンシェヴィキおよびエスエル〔社会革命党〕、のちにはトロツキストその他の偏向主義者、神職者、従前の帝政官僚や将校たち、および資産所有階級の構成員、通常の犯罪者、労働紀律を侵害した労働者、およびあらゆる種類の頑強な反抗者たち。
 数年しか経たないうちに、この収容所は、大量の規模の奴隷労働を供給するという利点によって、ソヴィエト経済の重要な要素になった。
 異なる時期に、とくにそのときどきの「主要な危険」に関する党の選択に応じたあれこれの社会集団に対して、テロルが指令された。
 しかし、最初から、抑圧システムは絶対的に法を超越していた。そして、全ての布令と罰則集は、すでに権力を保持する者による恣意的な権力行使を正当化することに寄与するものにすぎなかった。
 見せ物裁判(show trial)は初期に、例えばエスエルや神職者たちの裁判で始まった。
 来たるべき事態を冷酷に告げたのは、Donets の石炭盆地で働く数十人の技術者たちに関する1928年5月のShakhty での裁判だった。そこでは証拠は最初から最後まで捏造されており、強要された自白を基礎にしていた。
 怠業と「経済的反革命」の咎で訴追された犠牲者たちは、体制の経済後退、組織上の失敗および一般国民の哀れな状態の責任を負う、好都合の贖罪者だった。
 11名が死刑を宣告され、多数は長期の禁固刑だった。
 この裁判は、国家による寛大な処置を期待することはできないという、全ての知識人たちに対する警告として役立った、ということになった。
 Solzhenitsyn は訴訟手続の記録を見事に分析し、ソヴィエト体制のもとでの法的諸観念の絶対的な頽廃を描いてみせた。//
 (18)犠牲者の誰もがボルシェヴィキ党員ではなかった間は、党指導者の誰かが、いずれかのときに、抑圧や明らかに偽りの裁判に対して異議を申立てたり、または妨害を試みたりした、とするいかなる証拠もない。
 反対派集団は、献身的な党活動家だった自分たちの仲間にまでテロルが及んできたとき初めて、苦情を訴え始めた。
 しかし、そのときまでには、苦情は無意味になっていた。
 警察機構は完全に、スターリンとその補助者たちの掌中にあった。そして、下部については、それが党の官僚機構に先行していた。
 しかしながら、警察が党全体を統制していた、と言うことはできない。なぜなら、スターリンは、警察のではなく党の最頂部にいた間ずっと、至高の存在として支配した。彼が党を統治したのは、まさに警察を通じて、なのだ。//
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 第1節終わり。第2節へとつづく。

1864/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第1節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年、合冊版2004年)の試訳のつづき。
 前回に作者・文筆家として名が挙げられていたBoris Pasternak (B・パステルナーク)はのちにその小説・ドクトル・ジバゴがノーベル文学賞を授与され(本人は辞退)、その小説は二度にわたつて映像化もされた。1965年(ラーラ役/ジュリー・クリスティ)、2002年(同/キーラ・ナイトリィ)。
 この欄で記したように(2017/05/18=No.1548)、この小説の「10月革命」以降の背景は最後の一瞬を除けばレーニン時代であり、映像化されている伝染病蔓延も戦闘も、ジバゴの友人(ラーラの公式の夫)のボルシェヴィキ(共産党)入党と悲惨な末路も、スターリンではなくて、レーニンの時代のことだ。
 レーニンが<市場経済から社会主義へ>の途を確立したと日本共産党・不破哲三が「美しく」いう1921年にあった飢餓も詳しくないが描写されている。まさにその1921年夏の<人肉喰いも見られた饑饉>の様相は、リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994年)の<ネップ>に関する章の中で、生々しく歴史叙述されている(すでにこの欄で試訳を紹介したー2017/04/24-25、№1515-1516)。
 今回に下に出てくるPashukanis (パシュカーニス・法の一般理論とマルクス主義には邦訳書が古くからあった(第一版/日本評論新社、1958年、第二版/日本評論社、1986年、訳・稲子恒夫)。
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 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第1節・知的および政治的な雰囲気②。
合冊版、p.826~p.828。
 (5)新体制は識字能力を高め、教育を促進すべく多大の努力をした。
 学校はすみやかにイデオロギー的教化のために用いられ、教育制度全体がきわめて膨大なものになった。
 大学があちこちに設立されたが、多くは長く続かなかった。そのことは、つぎの数字が示している。
 戦争の前、ロシアには97の高等教育の場があった。1922年には、278になった。しかし、1926年に再びそのほとんど半分(138)に減った。
 同時に、「労働者学校(Workers' Faculties、rabfaki)」が創立され、労働者の高等教育を準備する速成課程を提供した。
 もともとは、ルナチャルスキのもとでのソヴィエトの文化政策は、限定された目的で満足するものだった。
 「ブルジョア」的な全ての研究者や教師を学問的諸団体から一斉に排除するのは、事実上は学習と教育を終焉させることになっただろうので、不可能だった。
 大学は最初から、アカデミーや研究所よりも強い政治的圧力に服しており、その当時でもまだ変わりはなかった。
 当然に、青年の教育に従事する団体に対しては、より緩やかな統制が行われた。
 1920年代に自然科学アカデミーは相当の範囲の自治力を維持していた。一方、大学は、早い時期にそれを失い、大学を管理する団体は教育人民委員部の代表者と労働者学校出身の党活動家で充たされていた。
 教授職は学術上の資格なしで政治的に信頼できる人物に配分され、学生の入学は「ブルジョア」の申請者、すなわち従前のインテリ層または中産階級の子女たちを排除するために、階級という規準(criteria)に従属した。
 公正で可変的なカリキュラムをもつ「リベラルな」大学という古い考え方とは反対の立場にある、「職業教育」に重点が置かれた。
 その目的は、古い意味でのインテリ層を生み出すのを阻止することだった。古い意味でのインテリ層とは、職業について熟練することだけではなくて、視野を広げ、全分野の文化を獲得し、一般的な諸論点に関する自分たち自身の意見を形成することを望む者たちのことだった。
 今日でも有効に維持されているこの原理的考え方は、初期に導入された。しかしながら、政治的圧力の強さは、多様な諸分野ごとに違っていた。
 自然科学の内容に関するかぎりは、最初は実際には強制(coercion)はなかった。
 人文社会科学の分野では、その中のイデオロギー上で敏感な分野で、すなわち、哲学、社会学、法および近現代史について、強制が最も厳しかった。
古代の世界、Byzantium、あるいは旧ロシアの歴史に関する非マルクス主義者の著作は、1920年代にはまだ出版が許されていた。//
 (6)ソヴィエト国家の中の非ロシア人に関しては、彼らの「自己決定権」はすぐに、レーニンが予告したようにたんなる一片の紙切れであることが判明していたが、彼らの母国語を媒介として、大学教育の利益を享受した。そして、ロシア化は、最初は重要な要素ではなかった。
 要するに、教育の一般的レベルは相当に劣悪なものだったけれども、新体制は、一般的に接近することの可能な学校制度を設立することに、ロシアの歴史上で初めて成功した。//
 (7)ソヴィエト権力の最初の10年間、諸大学は古いタイプのアカデミーにきわめて大きな影響を受けることとなった。いくつかの学部ですら-とくに、歴史、哲学および法の学部は、完全に「改良」されるか、閉鎖された。
 新しい教師階層を形成し、正統的な学習の伝搬を促進するため、当局は、党を基礎にした二つの研究施設を設立した。すなわち、大学での古いインテリ層の後継者を養成するための「赤色教授(Red Professors)」研究所(1921年)、そして初期の頃には、モスクワの共産主義アカデミー(Commuist Academy)。
 これら両機関はともに権力にあった時代のブハーリンによって支援され、「左翼」または「右翼」偏向主義という理由でしばしば浄化(purge)された。
これら両機関はやがて、党が学術上の全ての団体を十分に統制し、信頼できるスタッフで充足させる特別の訓練機関はもはや必要がなくなったときに、解体させられた。
 この時期にもう一つ生み出されたのはマルクス・エンゲルス研究所で、これは共産主義の歴史を研究し、マルクスとエンゲルスの諸著作の第一級の厳密な校訂版(M.E.G.A.版)を出版し始めた。
 その所長だった D. B. Ryazanov は、実際上は全ての純粋なマルクス主義知識人と同じく、1930年代にその職を解任された。そして、おそらくは粛清(purge)の犠牲者となった。彼は1938年にSaratov で自然の死を迎えたと、ある範囲の人々は言うけれども。
 (8)1920年代の主要なマルクス主義歴史家は、すぐれた学者でブハーリンの友人のMikhail N. Pokrovsky だった。
 彼は数年間、ルナチャルスキーのもとで教育人民委員代行で、赤色教授研究所の初代所長だった。
マルクス主義を用いて歴史を教え、詳細に分析すればマルクス主義の一般的議論が不可避的に確認されることを示そうとした。技術の決定的な役割と階級闘争、歴史過程での個人の副次的な重要性、全ての国家は根本的には同じ進化の過程を通り抜けるという教理。
 Pokrovsky は、ロシアの歴史を執筆し、レーニンに高く評価された。そして、大粛清の前の1932年に死ぬという好運に恵まれた。
 彼の見解はのちに不正確だとの烙印を押され、例えば歴史は過去に投影された政治にすぎないというしばしば引用された言術に見られるように、歴史科学の「客観性」を否認するものだとして非難された。
 しかしながら、彼は、「科学的な客観性」を主唱する党学者と違って、純粋な歴史家であり、良心的に証拠を分別する人物だった。
 彼とその学派に対する非難は主として、国家イデオロギーでのナショナリズムの影響の増大や、歴史に関する至高の権威としてのスターリン崇拝(cult)に関係していた。
 Pokrovskyには「愛国主義の欠如」があり、その研究はレーニンやスターリンの役割を低く評価した、とされた。
 こうした責任追及は、Pokrovsky がのちの年代には礼式(de rigueur)になったようには帝政ロシアの打倒を称賛せず、ロシア人民の美徳と一般的な優越性を称揚しなかったかぎりでは正しい(true)。//
 (9)党の歴史は当然に、全くの最初から厳格な統制に従属した。
 にもかかわらず、多年にわたって、単一の真正な見方というのはなかった。じつに1938年の<ソ連共産党史〔Short Course〕>までは、なかった。それまでは、分派闘争が継続し、各派は自分たちに最も都合のよい光に照らして党の歴史を語った。
 トロツキーは革命の見方の一つの範型を提示し、ジノヴィエフは別のそれを示した。
 多様な手引書が、出版された。もちろん全てを党の活動家や歴史家が命令のもとで書いていたけれども(例えば、A. S. Bubnov、V. I. Nevsky、N. N. Popov)、それらの内容は厳密には同一ではなかった。
 しばらくの間、最も権威ある見方だとされたのはE. Yaroslavsky のもので、1923年に最初に出版され、指導者間での権力の転移に合致するようにしばしば修正された。
 最後にはそれは、Yaroslavsky が編集者として行った集団的著作に置き換えられた。しかし、彼のそうした努力の全てにもかかわらず、「致命的な誤り」がある、すなわちスターリンを科学的に賛美していない、と非難されることとなった。
 実際、党の歴史は、他のいかなる学習分野にもないほどに、初期にすでに政治的な道具の位置をもつものへと貶められた。すなわち、最初から、党史に関する手引書〔manuals〕は、自己賞賛のそれに他ならなかった。
 それにもかかわらず、1920年代には、主としては回想録や専門雑誌への寄稿文のかたちで、この分野についての価値ある資料も公刊されていた。//
 (10)1920年代の法および国制理論に関する最もよく知られた専門家は、Yevgeny B. Pashukanis (1890-1938)だった。この人物は、多数の者たちと同様に大粛清のときに突然に死んだ。
 彼は、共産主義アカデミーでの法学研究部門の長だった。そして、その<法の一般理論とマルクス主義>(ドイツ語訳書で1929年刊)は、この時期のソヴィエト・イデオロギーの典型的なものだと見なされた。
 彼の議論は、法的規範の個別の変化にのみあるのではなかった。法それ自体の態様は、すなわち全体としての法現象は、物神主義的(fetishistic)な社会関係の産物であり、ゆえに、それの発展形態において、商業生産の時代を歴史的に表現したものだ、とした。
 法は、取引を規律する道具として生み出され、そのあとで他の類型の個人的関係へと拡張された。
 したがって、法は共産主義社会において国家や他の商品物神崇拝の産物と同じように消滅するはずだと考えるのは、マルクス主義と合致している。
 今日に力のあるソヴィエトの法は、まさにその存在自体で、階級がまだ廃棄されておらず資本主義の残存物が当然にまだ現にある、そういう過渡的な時代に我々がいることを示している。
共産主義社会に特有の法の形態のごときものは存在しない。その社会での個人的関係は、法的な範疇によって考察されることはないだろうからだ。//
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 ③へとつづく。

1863/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第1節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年、合冊版2004年)の試訳を行ってきいるが、1300頁に及ぶ大著で、けっこうな数の回数を費やしても、試訳をこの欄で掲載したのは(最近に紹介した全巻・第一巻の冒頭や新旧のプロローグ・エピローグを除けば)、つぎに限られる。合冊版で示す。しかも、下の①の第17章については、レーニン・唯物論と経験批判論の前の「哲学」論争の一部は割愛している。
 ①第二部(巻)第16章・第17章・第18章、p.661~p.778。…主としてレーニン。
 ②第三部(巻)第1章、p.789~p.823。…主としてスターリン。
 全体からするとまだ10%強にすぎない。
 シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(2017)のスターリン時代の本格的な叙述部分の試訳をまだ紹介していないのだが(14回までで中断している)、スターリン時代の様相を知っておくためにも、L・コワコフスキの著の上の②以降を訳しておくこととした。
 もともとは、レーニン期とされる<ネップ>と「10月革命」前後の政治史にしか関心がなかったのだから、この数年の間に関心は広がり、知識・簡単な素養も増えてきたものだ、と自分のことながら感心する。そして今や、「物質」と「観念」、「認識」あるいはそれにかかわる「言葉」・「言語」・「概念」や「思想なるもの」一般にも関心は広がっている。
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 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年、合冊版2004年)。
 第三巻p.45-47(ドイツ語版p.57-59)、合冊本p.824-826、の試訳。
 改行箇所はこれまで//で示してきたが、改行のつぎの冒頭に原著・訳書にはない番号を勝手に付すことにした(どうやら、その方が読みやすいと独断で判断したことによる。従って、(1)、(2)、…は、ここでの試訳のかぎりのものである)。
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 第三巻/第二章・1920年代のソヴィエト・マルクス主義の理論的対立。
 第一節・知的および政治的な雰囲気(秋月注記・独語版=一般的な知的状況)①。
  (1)述べてきたように、1921年から1929年までのネップの時期は、知的分野での自由の時代では決してなかった。
 逆に、自立した芸術、文学、哲学および人文社会科学に対する圧力は増大していた。
 にもかかわらず、こうした諸分野でものちの集団化の時代に転換点を迎えた。それは、つぎのように叙述すことができる。
 ネップ期の文筆家や芸術家は体制に対して忠誠を示すことを要求され、反ソヴィエト作品を生み出すのは許されなかった。しかし、その制限の範囲内では、多様な動向が許され、実際にそれらが存在した。
 芸術や文学に排他的な派閥はなく、実験が許され、体制やその指導者を直接に称賛することは公刊物の<必須要件(sine qua non)>ではなかった。
 哲学の分野ではマルクス主義が至高なものとして君臨したが、まだ聖典化はされていなかった。そして、何が「真正の(true)」マルクス主義であるかは決して一般的になっていなかった。
 したがって、論争は継続し、マルクス主義と適合的であるのか否かを純粋に探求しようとする信念あるマルクス主義者がいた。
 さらに加えて、とくに重要な著作を残さなかったけれども、1920年代の哲学者たちは、「正常な」知的背景をもつ者たちであり、体制には忠実だったが、自分たちの思索に対して体制がどう反応するかに関して惑わされることがなかった。//
 (2)同様にまた、数年間は、私的な出版団体が活動していた。
 非マルクス主義の文献は1918-1920年にはまだ出版されていた-例えば、Berdyayev、Frank、Lossky、Novgorodtsev およびAskoldov のそれら。そして、<Mysl i slovo>や<Mysl>のような、一つまたは二つの非マルクス主義の定期刊行物もあった。
 こうしたことは、ソヴィエト権力に対する切迫した脅威があるがゆえに抑圧を増大させることが必要だというのちの論拠には根拠がない、ということを示している。
 相対的な文化的自由の数年間は内戦の時期であり、体制に対する脅威はのちの時代よりも大きかった(そして同様に、ある程度の範囲での文化問題の緩和は1941年とその後にに生じたが、それは国家の運命が分岐点に立っていたからだ)。
 しかしながら、1920年には大学での哲学講座は弾圧され、1922年には、上で言及した者たちを含めて、非マルクス主義の哲学者たちは国外に追放された。//
 (3)芸術や文学についての1920年代の特徴は、多数の価値ある成果を生んだことだ。
 革命に共鳴した傑れた作者たちは、著作よって革命に対してある種の真正らしさを与えた。その中には、Babel, 若き日のFadeyev、Pilnyak、Mayakovski、Yesenin、Atem Vesyoly およびLeonov がいた。
 彼らが示した創造性は、革命がたんなる<クー・デタ>ではなくて本当にロシア社会にあった諸力の爆発だったという事実の証拠だ。
 しかし、決してソヴィエト体制を支持しなかったその他の作者たちもまた、当時に活動していた。例えば、Pasternak、AkhmatovaやZamyatin。
  1930代には、こうしたことは全て終わった。
 実際、この時期に革命と合致していたのか否かや「ブルジョアの生き残り」だったのか否か、そしてどちらがいったい安全だったのかを語るのは困難だ。
 文筆家のうち従前の階級の者たちは殺戮(murder)され(Babel, Pylnyak, Vesyoly)、または自殺した(Mayakovski, Yesenin)。第二の範疇に入る者のうちMandelshtam のような何人かは、労働収容所で死んだ。
 しかし、他の者たちは迫害と悲嘆の時代を生き残り(Akhmatova, Pasternak)、あるいは何とかして国外へ逃亡した(Zamyatin)。
 スターリン専制を称賛する物書きになることを選んだ者たち(Fadeyev, Sholokhov, Olesha, Gorky)は、総じて次第に彼らの才能を失っていった。//
 (4)内戦後最初の数年間は、全ての文化分野での高揚があった。
 偉大な演出家や監督の名前-Meyerhold, Pudovkin, Eisenstein-は、演劇や映画の世界史の一つになっている。
 当時の西側の流行、とくに多かれ少なかれ<アヴァン・ギャルド(avant-garde)>型の様式は熱心に、かつその結果に関する恐怖なくして、取り入れられた。
  I. D. Yelmakov のような Freud に対するソヴィエトの支持者は、心理分析の唯物論的で決定主義的な側面を強調した。
 トロツキー自身が、フロイト主義に対する好意的な関心を示した。
 行動主義に関するJ. B. Watson の著作が、ロシア語に翻訳されて出版された。
 その当時はまだ、自然科学での新しい発展に対するイデオロギー的な攻撃はなかった。
 相対性理論は、時間と空間は物質の実存形態だと主張して弁証法的唯物論の正しさを証明すると論じる論評者たちが賛同して、受容された。
 教育分野での「進歩的」傾向もまた、歓迎された。とくに、紀律と権威に対抗するものとしての「自由学校」を Dewey が強調していたことは。
 同時に、例えば、Viktor M. Shulgin は、共産主義のもとでは学校は「消滅する」だろうとの展望を述べた。
 これは実際、旧世界の制度は全て、国家も軍隊も学校も、そして民族も家族も、消滅する運命にあるとするマルクスの教理と矛盾していなかった。
 このような見方は、それ自体がいずれは永遠に消滅する運命にあった、共産主義の無邪気な<アヴァン・ギャルド> 精神を表現していた。
 支持者たちは、理性が栄光ある勝利を獲得する前に、衰えている制度と伝統、神聖と禁忌、礼拝と偶像は灰燼となって崩壊する、そのような新しい世界が実際に実現することになるだろう、と信じた。もう一つのプロメテウスのごときプロレタリアートがヒューマニズム(人間主義)の新しい時代を創出する、そういう世界だ。
 こうした因習を打破する熱情は、文学や芸術上の<アヴァン・ギャルド>派の多数の西側知識人を魅了した。伝統、学界主義(アカデミズム)、権威および過去のもの一般に対する自分たちの闘いを政治的に具現化するものを共産主義のうちに見た、フランスのシュール・レアリスト(surrrealists)のような、西側知識人たちを。
 この時代のロシアの文化的雰囲気には、全ての革命の時期には共通する若々しくて未熟な性質があった。人生は始まったばかりだ、将来は無限にある、人類はもはや歴史の制約に縛られていない、と信じていた。//

1852/L・コワコフスキ・第一巻第一章/第一節「人間存在の偶然性」。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976-78)。
 第一巻・創始者(・生成)。
 第一章・弁証法の起源(・発生)(The Origins(・Die Entstehung))
のつづきの試訳。
 英訳書と独訳書の両方を参照した。綿密さを期したというよりも、邦訳のしやすさで選択したというのが正確だろう。
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 第一節・人間存在の偶然性(contingency, Zufälligkeit)。
 (1) 存在全体を知的に包括的に把握するのは哲学にとっての宿願だったし、そうでもあるが、それを原初的に刺激したのは、人間の不完全さ(imperfection, 弱さ: Hinfälligkeit)の知覚だった。
 哲学的思考を発動させたこの人間の不完全さという感覚および全体を理解することで人間の不完全さを克服しようとする意志のいずれをも、哲学は神話の世界から受け継いだ。
 (2) 哲学上の関心の中心的位置を占めたのはこの不完全さと人間の悲惨さだったが、明瞭で直接に可視的でかつ治癒しうる不完全さではなく、技術的な手段では克服できない根本的な弱さだった。その弱さはまた、いったん把握されればただちに経験上のかつ明瞭な欠陥だと感じられたもので、後者はたんに二次的な現象にすぎなかった。
 根本的な生来ある弱さは、多様な名称を与えられた。中世のキリスト教哲学は、全ての被造物が分かちもつものだが、人間存在の「偶発性」(contingency, Zufälligkeit)を語った。
 この「偶発性」という語は、アリストテレスの伝統に由来するもので(<de interpretatione, Peri hermeneias>では、その性質を変えることなく付着し得たり又はそうできなかったする事物の特性について申述する偶発的決定が論じられている)、実在し得る又は実在し得ない、だがその本質に固有のものではない、ゆえに必然的ではない、終わりある存在という状態を意味した。
 全ての被造物には、被造物であるがゆえに、時間上の始まりがある。したがって、それが存在しなかった、つまり論理的に必然的に、実在していた<はずがなかった>、そのような時点があった。
 Aristotleに従った中世スコラ哲学にとっては、本質と実在の区別は被造物と実在するのが必然の創造者との区別を際立たせるもので(神の本質と実在は同一のことだった)、被造物という存在の虚しさの最も明確な証拠だった。だがしかしそのことは、決して堕落することの原因でも衰亡することの目印でもなかった。
 人間が偶発的なもので偶然の存在であるということは、謙虚さや創造者崇拝の原因だ。
 それは人間存在の不可避の、根絶し難い側面だが、しかし、より高次の状態からの崩落を意味するわけではなかった。
 人間の肉体的かつ一時的な実在はいかなる退廃の結果でもなく、被造生物の階層の範囲内での人間という種の自然の性質なのだ。
 (3) これに対して、プラトン的伝統では、「偶発的」という語は全くか又は稀にしか用いられず、人間は終わりある一時的な存在だということは、<人間性の本質>とは異なる何か別のものだということだけを、すなわち、<人間は彼が何かである者ではない>のであって、その経験上、事実上のかつ時間的に限定された実在は人間性それ自体の、観念上の完全な、時間を超越した人間の存在と同じことではないということを意味していた。
 しかし、「人間がそうである者ではないこと」は、耐え難い苦痛を受けること、自らの頽廃に気づきながら、肉体的には下降へと向かった、時間的限定のある生活によっては決して保証することのできない完全な自己同一性意識を絶えることなく憧憬しながら、生きることを意味する。
 終わりある個体として、自分たちの無常さを意識しつつ我々が生きる世界は、流刑(exile, Verbannung)の地なのだ。//

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 以上。

1851/L・コワコフスキ・マルクス主義/第一巻第一章・弁証法の起源「はしがき」。

 L・コワコフスキの文章の中で2009年にトニー・ジャットが引用していた一つは、つぎだった。
 「現実には全ての事情(事態、境遇)が一つの世界観の形成に寄与しており、全ての現象は、尽きることのない無数の原因に由来している」(Leszek Kolakowski, Marxism, 3. The Break Down(英訳、1978)p.339. この欄の№.1834)。
 L・コワコフスキはまた、全巻の緒言(Preface, Vorwort)の中で、つぎのようにも書いていた。
 「いかなる主題に関する著作者であっても、完全には自己充足的でも自立してもいない分離した断片を全体(living whole)から切り出すことを余儀なくされる」(この欄の№.1839)。
 以下の試訳部分は、どちらかと言えば、上の後者の叙述に関係しているところが多いだろう。
 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976-78年)の第一巻の第一章の最初に「第一節」に当たる「1.人間存在の偶然性」よりも前にある、実質的に(第一巻ではなく)第一章の「まえがき」または「緒言」を試訳する。英訳書・第一巻9-11頁、独訳書23-25頁。一文ごとに改行し、段落の冒頭には原書にはない数字を付した。
 第一節の「1.人間存在の偶然性」という項にはその内容に関心をもち、試訳しておきたくなったので、その前にある、原書には見出しのない「はじめに(緒言)」部分も訳しておくことにした。
 哲学文献を英語(または独語)で読むことに習熟している専門家(哲学と英語・独語邦訳の両方の専門家が望ましい)によって全体が邦訳されて日本で刊行されることがもちろんよいが、その状況ではないとすれば、「しろうと」の秋月瑛二の蛮勇で試訳してこの欄でささやかに「公に」しても非難されることはないだろう。
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 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976-78)。
 第一巻・創始者(・生成)。
 第一章・弁証法の起源(・発生)(The Origins(・Die Entstehung))。
 (はじめに)
 (1) 生きている現代哲学の全ての潮流には、記録された哲学的思索のほとんど最初に遡ることのできる、それら自体の前史がある。
 それら前史には、結果として、諸潮流の呼称よりも古くてかつ明瞭に区別できる態様がある。
 すなわち、Comte 以前の実証主義(positivism)、Jaspers 以前の実存哲学(existential philosophy, Existenzphilosophie)について語るのは意味があることだ。
 マルクス主義の場合は状況が異なるように、最初は思える。その呼称は全く単純に、その創始者の名前に由来しているのだから。
 「マルクス以前のマルクス主義」なる句は、「Descartes 以前のデカルト主義」あるいは「キリスト以前のキリスト教」という矛盾した言辞(paradox)と同じだと思えるかもしれない。
 だが、特定のある人物に出発点をもつ知的潮流であっても、それら自体の前史があるのであり、それは、浮かび上がってきた諸問題や、傑出した知性によって単一の全体へと編み込まれ、新しい文化現象へと変換された諸回答の中に具現化されている。
 もちろん、「キリスト以前のキリスト教」なる句は、「キリスト教」という概念が通常はもつのとは異なる意味で「キリスト教」という語を用いており、たんなる言葉上での遊びでもありうる。
 それにもかかわらず、一般的な合意があるように、何と言っても、キリスト降臨の直前の時期でのユダ(Judaea)の霊的生活に関して懸命に集められた知識なくしては、初期キリスト教の歴史を理解することができない。
 同じことはマルクス主義についても当てはまる、と断じてよいだろう。
 「マルクス以前のマルクス主義」という句に意味はないが、しかし、マルクスの思想(thought, Denken)は、それをヨーロッパ文化史全体の中で、かつ哲学者たちがが数世紀にわたってあれこれと発している一定の根本的問題に対する回答だと理解して、そう位置づけて考察しないとすれば、内容が空虚なものになるだろう。
 そうした根本的問題やその進展および定式化のされ方の多様性に関係づけてのみ、マルクスの哲学を、その歴史的特殊性やそのもつ価値の永続性とともに理解することができる。//
 (2) 多数のマルクス主義に関する歴史家は、この四半世紀の間に、古典的ドイツ哲学がマルクスに提示し、マルクスが新しい回答を用意した諸問題を研究する貴重な仕事をしてきた。
 しかし、古典的ドイツ哲学自体は-Kant からHegel まで-、根本的でかつ太古からある諸問題について、新しい概念上(conceptual, begrifflich)の形式を考案する試みだった。
 確かにその根本諸問題が彼らによって完全に研究され尽くされたのではないけれども、そのような諸問題の見地からする以外は、意味を成さない。-かりに平準化が可能であるとすれば、全ての哲学の発展がその固有の時期との特殊な関係を奪われてしまうにつれて、哲学の歴史は存在することをやめてしまうだろう。
 一般的に言って、哲学の歴史は、互いに制限し合う二つの原理(principles, Regeln)に服している。
 一方で、どの哲学者にとっても基本的な関心を惹く諸問題は、変わらない境遇であるにもかかわらず、それでもって人間生活が向かい合っている人間の知性に生じる同一の知識欲(curiosity)に関する様相だと見なされなければならない。
 他方で、我々は全ての知的潮流または観察し得る事実の歴史的特殊性(uniqueness, Besonderheit)に光を照射し、まさしく当の哲学者たちを生み、哲学者になるのに役立つ重要な事象に可能なかぎり綿密に言及する必要がある。
 これら二つの原則を同時に遵守するのは困難だ。なぜなら、我々はそれらは相互に制限し合わざるを得ないことを知っているけれども、どういう態様で制限し合うのかを正確に知りはしない。したがって我々は、誤りに陥りやすい直感へと立ち戻ってしまうからだ。
 かくして、二つの原理は、科学的実験や資料の識別を行う方法のように信頼できかつ明瞭であるとは全く言い難い。しかし、それにもかかわらず、二つの態様での歴史的ニヒリズム(historical nihilism)に陥るのを避ける指針および手段として、これらは有用だ。
 歴史的ニヒリズムの第一が基礎にするのは、全ての哲学的努力を永遠に繰り返されるワンセットの諸問題へと系統的に格下げをして、人類の文化的進化の全景(panorama, Panorama)を無視し、一般的には人類の文化的進化を蔑視する、ということだ。
 それの第二が構成要素とするのは、全ての現象または文化的事象の特殊な性質を把握するので満足してしまう、ということだ。それが明示的であれ黙示的であれ前提としている考え方は、いずれが個々の歴史的複合体(complex, Ganzheit)の特殊性を構成していようと、それらの現象や事象の重要性の唯一の要素はつぎのことにある、つまりその歴史的複合体の全ての細部の諸事項はその複合体との関係でのみ新しい意味を獲得するということにあり、他の態様においてはもはや意義深いものではない、ということだ。-その細部の諸事項は争う余地もなく従前の諸観念を反復したものであるかもしれないけれども-。
 このように解説的に仮説を立てることは、明らかにそれ自体の歴史的ニヒリズムへと至る。全ての細部事項を共時的な全体(synchronic whole, synchrone Ganzheit)へと排他的に関係させることを強く主張することによって、解釈の継続性を全て排除し、連続している一つの閉じられた単一項的な実在物(monadic entities)の一つだと精神や事象(mind, epoch)を見なすことを我々に強いることになるからだ。
 それは予め、そのような実在物の間には情報伝達の可能性はないと、また、それらを集合的(collectively)に描写することが可能な言語はないと、決めてしまっている。すなわち、全ての概念はそれが用いられる複合体に応じて異なる意味をもつのであり、上位のまたは非歴史的な範疇は探求の根本的原理と矛盾するものとして閉め出されるのだ。//,
 (3) 以下の考究では、これら二つの極端なニヒリズムに陥るのをを避けようとする。そして、哲学者たちの知性を鍛えてきた諸問題に対する回答としてマルクスの根本思想を理解し、同時に、マルクスの天才性を発露したものおよび彼の時代の特異性のいずれとしてもある、その特殊性(uniqueness, Besonderheit)に着目してそれらを包括的に論述ことを目的とする。
 このような自らへの要求を明確に語るのは、それを実際に成功裡に行うよりもはるかに容易だ。
 そのように実際に行って完璧さにまで至るためには、哲学の完全な歴史を、あるいはじつに人間の文明の完全な歴史を、執筆しなければならないだろう。
 そのような不可能な作業を穏便に埋め合わせて補うものとして、マルクス主義がそれらに関してはヨーロッパの哲学の展開の中で新しい一歩を形成したものとして叙述することができる、そのような諸問題の簡単な説明をすることから始めよう。//

1850/秋月瑛二の想念⑤-2018年9月。

 ヒト、人間とは何であるのか、というのは自分とはいったい何者か、という問いでもある。
 日本、日本人とは何なのかという問いは、日本人として生まれ育った私自身を問うことでもある。
 L・コワコフスキは、歴史を知る(学ぶ)ことは我々自身が何であるかを知る(探求する)ことだ、と書いた。
 また彼は、思想・イデオロギーの歴史、とりわけマルクス主義の教理の歴史を研究するのは、一定の程度で、我々自身の文化を自己批判する試みだ、とも書いた。
 さらにつぎの趣旨も書いた(マルクス主義の主要潮流・2004年版「新しい緒言」)-「宗教史、文化史の一部の研究によって我々は、人類の霊的(spiritual)活動を洞察し、我々の精神(soul)とそれの人間生活の他の形態との関係を考究することができる。宗教・哲学・政治の何であれ、諸思想の歴史に関する研究は、我々が自分自身を認識するための探求であり、我々の精神的かつ肉体的な活動の意味するところを探求することだ。マルクス主義あるいは共産主義もまた、十分に関心を惹く歴史研究の対象になりうる」。
 20歳でポーランド統一労働者党の党員となり、党幹部候補であったと推測されるがスターリン支配下のモスクワでの短期滞在(留学)を経てポーランドの<レーニン・スターリニズム体制>に疑問をもち、ついに祖国を離れて西欧や北米に滞在し、最後にはロンドンにいたL・コワコフスキにとって、かつて学んでいったんは自分のものにした「マルクス主義」またはスターリン解釈による「マルクス・レーニン主義」は、まさに若き自分自身の一部だったに違いなく、マルクス主義の歴史研究は「自分史」の自己批判を含む研究だったに違いない。
 また、出国後ではなくポーランド時代からすでに彼は、キリスト教(・カトリシズム)の文化の中にいたように推察される。
 マルクス主義に関する大著刊行のあと、きっぱりと?マルクス主義研究から離れ、むしろ「神学」・カトリック研究にたずさわったらしいのも、自分自身の一部を形成している「神学大系」を探求して、自分とは何かをさらに知ろうとする試みだったかに見える。
 ***
 原語はフランス語らしいが、画家・ゴーギャンはある大きな絵の左上隅に、つぎのように記したらしい。
 「D'où Venons Nous /Que Sommes Nous /Où Allons Nous.」
 「われわれは何処から来たのか。われわれは何者か。われわれは何処へ行くのか。
 この部分から邦訳書の表題をつけたと見られる書物に、以下がある。
 エドワード・O・ウィルソン/斉藤隆央訳・人類はどこから来て、どこへ行くのか(化学同人、2013年)。
 但し、原書はつぎのようで、そのタイトルは「地球(地上)の社会的征服(制覇)」くらいにしか直訳はできない。
 Edward O. Wilson, Social Conquest of Earth (Liveright Publ. CO, 2012).
 まだ邦訳書の「解説」しか読んでいないのだから、興味がわく、という程度のことしか書けない。
 ***
 だが、捲っていて気づいたp.323-325の三つの画像とそれらへのコメントは、「ヒト・人間の本性」または「ヒト・人間の脳内感覚」にすでに関係しているだろう。
 つまり「複雑さが中程度」のデザインが「無意識に最も刺激し」、日本の書道での漢字の「隷書体」や「和様体」には「自然にもたらす刺激」があり、「パンジャブ語」の文面の「本質的な美しさ」は「無意識の刺激のレベルを最大まで高める」、とか言うのだ。
 理屈ではない<視的感覚>、<視的な刺激・心地よさ>。
 こういうものは、むろん個人差(個体差)はあるだろうが、脳感覚の中にあると思われる。
 数ヶ月間、日本語の新聞も雑誌も見なかったあとで、外国で久しぶりに見た某日本文学全集の(縦書きの)、漢字とひらがなの混じった日本語文章は、アルファベットばかりの中で生活していたので、じつに(内容では全くなくて)紙面自体が美しく感じた。
 これは日本人であるがゆえの感覚だったかもしれない。
 だが、同じ日本語文章でも、言語学者でもある安本美典によると、根拠文献を探す手間を省くので正確な紹介はできないが、一頁(ひいては全体)の中の漢字とひらがなとの割合が一定のある割合だと、最も<快適に>読まれる傾向がある、という。
 漢字がたくさん詰まった難解で複雑そうな文章よりも、適度にひらがな(カタカナ)が入っていた方が読みやすい。-こういう感覚は、よく分かる。
 また、誰かが書いていたが、一頁(ひいては全体)の中の、改行の数も関係がある。
 改行なしの、一文がどこで終わるのかがすぐには判らない文章が長々と続くと、読みにくい。適度に改行をして、その下に「空白」を入れた方がよい。
 これは、たんなる美しさや快適さの問題なのではない。
 すなわち、書き手が伝えたいことが、きちんと「読者」に伝わるか否かにとって重要なことだ。また、そもそも、「読む」気を起こさせないような、例えば一頁以上も改行がなく、見た印象で7-8割が漢字のような文章は、全く読まれないことになりかねない。
 そうした意味でも、「理屈」・「内容的適正さ」よりも、「見た目」、あるいは「視的美意識」にも訴えるというのは、じつに人間の「感性」、そして「本性」に適合的だろう。
 他にも多数の「感覚」の問題、さらに脳内でのもっと複雑な「感情」の問題はある。
 これらを抜きにして、ヒト・人間を語ることはできないし、その「歴史」を-かりに「政治史」であれ-把握することもできないだろう。当たり前のことを書いたかもしれない。

ギャラリー
  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
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  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
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  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
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  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
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  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
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  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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  • 1721/L・コワコフスキの「『左翼』の君へ」等。
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  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
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  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
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  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0790/小林よしのり・世論という悪夢(小学館101新書、2009.08)を一部読んで。
  • 0785/屋山太郎と勝谷誠彦は信用できるか。櫻井よしこも奇妙。
  • 0775/総選挙と「左翼全体主義」、小林よしのり編・日本を貶めた10人の売国政治家(幻冬舎新書)。
  • 0773/ルソー・人間不平等起原論(1755)を邦訳(中公クラシックス)で読了。
  • 0772/中学歴史教科書の分析・評価。
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