秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

L・コワコフスキ

1852/L・コワコフスキ・第一巻第一章/第一節「人間存在の偶然性」。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976-78)。
 第一巻・創始者(・生成)。
 第一章・弁証法の起源(・発生)(The Origins(・Die Entstehung))
のつづきの試訳。
 英訳書と独訳書の両方を参照した。綿密さを期したというよりも、邦訳のしやすさで選択したというのが正確だろう。
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 第一節・人間存在の偶然性(contingency, Zufälligkeit)。
 (1) 存在全体を知的に包括的に把握するのは哲学にとっての宿願だったし、そうでもあるが、それを原初的に刺激したのは、人間の不完全さ(imperfection, 弱さ: Hinfälligkeit)の知覚だった。
 哲学的思考を発動させたこの人間の不完全さという感覚および全体を理解することで人間の不完全さを克服しようとする意志のいずれをも、哲学は神話の世界から受け継いだ。
 (2) 哲学上の関心の中心的位置を占めたのはこの不完全さと人間の悲惨さだったが、明瞭で直接に可視的でかつ治癒しうる不完全さではなく、技術的な手段では克服できない根本的な弱さだった。その弱さはまた、いったん把握されればただちに経験上のかつ明瞭な欠陥だと感じられたもので、後者はたんに二次的な現象にすぎなかった。
 根本的な生来ある弱さは、多様な名称を与えられた。中世のキリスト教哲学は、全ての被造物が分かちもつものだが、人間存在の「偶発性」(contingency, Zufälligkeit)を語った。
 この「偶発性」という語は、アリストテレスの伝統に由来するもので(<de interpretatione, Peri hermeneias>では、その性質を変えることなく付着し得たり又はそうできなかったする事物の特性について申述する偶発的決定が論じられている)、実在し得る又は実在し得ない、だがその本質に固有のものではない、ゆえに必然的ではない、終わりある存在という状態を意味した。
 全ての被造物には、被造物であるがゆえに、時間上の始まりがある。したがって、それが存在しなかった、つまり論理的に必然的に、実在していた<はずがなかった>、そのような時点があった。
 Aristotleに従った中世スコラ哲学にとっては、本質と実在の区別は被造物と実在するのが必然の創造者との区別を際立たせるもので(神の本質と実在は同一のことだった)、被造物という存在の虚しさの最も明確な証拠だった。だがしかしそのことは、決して堕落することの原因でも衰亡することの目印でもなかった。
 人間が偶発的なもので偶然の存在であるということは、謙虚さや創造者崇拝の原因だ。
 それは人間存在の不可避の、根絶し難い側面だが、しかし、より高次の状態からの崩落を意味するわけではなかった。
 人間の肉体的かつ一時的な実在はいかなる退廃の結果でもなく、被造生物の階層の範囲内での人間という種の自然の性質なのだ。
 (3) これに対して、プラトン的伝統では、「偶発的」という語は全くか又は稀にしか用いられず、人間は終わりある一時的な存在だということは、<人間性の本質>とは異なる何か別のものだということだけを、すなわち、<人間は彼が何かである者ではない>のであって、その経験上、事実上のかつ時間的に限定された実在は人間性それ自体の、観念上の完全な、時間を超越した人間の存在と同じことではないということを意味していた。
 しかし、「人間がそうである者ではないこと」は、耐え難い苦痛を受けること、自らの頽廃に気づきながら、肉体的には下降へと向かった、時間的限定のある生活によっては決して保証することのできない完全な自己同一性意識を絶えることなく憧憬しながら、生きることを意味する。
 終わりある個体として、自分たちの無常さを意識しつつ我々が生きる世界は、流刑(exile, Verbannung)の地なのだ。//

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 以上。

1851/L・コワコフスキ・マルクス主義/第一巻第一章・弁証法の起源「はしがき」。

 L・コワコフスキの文章の中で2009年にトニー・ジャットが引用していた一つは、つぎだった。
 「現実には全ての事情(事態、境遇)が一つの世界観の形成に寄与しており、全ての現象は、尽きることのない無数の原因に由来している」(Leszek Kolakowski, Marxism, 3. The Break Down(英訳、1978)p.339. この欄の№.1834)。
 L・コワコフスキはまた、全巻の緒言(Preface, Vorwort)の中で、つぎのようにも書いていた。
 「いかなる主題に関する著作者であっても、完全には自己充足的でも自立してもいない分離した断片を全体(living whole)から切り出すことを余儀なくされる」(この欄の№.1839)。
 以下の試訳部分は、どちらかと言えば、上の後者の叙述に関係しているところが多いだろう。
 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976-78年)の第一巻の第一章の最初に「第一節」に当たる「1.人間存在の偶然性」よりも前にある、実質的に(第一巻ではなく)第一章の「まえがき」または「緒言」を試訳する。英訳書・第一巻9-11頁、独訳書23-25頁。一文ごとに改行し、段落の冒頭には原書にはない数字を付した。
 第一節の「1.人間存在の偶然性」という項にはその内容に関心をもち、試訳しておきたくなったので、その前にある、原書には見出しのない「はじめに(緒言)」部分も訳しておくことにした。
 哲学文献を英語(または独語)で読むことに習熟している専門家(哲学と英語・独語邦訳の両方の専門家が望ましい)によって全体が邦訳されて日本で刊行されることがもちろんよいが、その状況ではないとすれば、「しろうと」の秋月瑛二の蛮勇で試訳してこの欄でささやかに「公に」しても非難されることはないだろう。
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 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976-78)。
 第一巻・創始者(・生成)。
 第一章・弁証法の起源(・発生)(The Origins(・Die Entstehung))。
 (はじめに)
 (1) 生きている現代哲学の全ての潮流には、記録された哲学的思索のほとんど最初に遡ることのできる、それら自体の前史がある。
 それら前史には、結果として、諸潮流の呼称よりも古くてかつ明瞭に区別できる態様がある。
 すなわち、Comte 以前の実証主義(positivism)、Jaspers 以前の実存哲学(existential philosophy, Existenzphilosophie)について語るのは意味があることだ。
 マルクス主義の場合は状況が異なるように、最初は思える。その呼称は全く単純に、その創始者の名前に由来しているのだから。
 「マルクス以前のマルクス主義」なる句は、「Descartes 以前のデカルト主義」あるいは「キリスト以前のキリスト教」という矛盾した言辞(paradox)と同じだと思えるかもしれない。
 だが、特定のある人物に出発点をもつ知的潮流であっても、それら自体の前史があるのであり、それは、浮かび上がってきた諸問題や、傑出した知性によって単一の全体へと編み込まれ、新しい文化現象へと変換された諸回答の中に具現化されている。
 もちろん、「キリスト以前のキリスト教」なる句は、「キリスト教」という概念が通常はもつのとは異なる意味で「キリスト教」という語を用いており、たんなる言葉上での遊びでもありうる。
 それにもかかわらず、一般的な合意があるように、何と言っても、キリスト降臨の直前の時期でのユダ(Judaea)の霊的生活に関して懸命に集められた知識なくしては、初期キリスト教の歴史を理解することができない。
 同じことはマルクス主義についても当てはまる、と断じてよいだろう。
 「マルクス以前のマルクス主義」という句に意味はないが、しかし、マルクスの思想(thought, Denken)は、それをヨーロッパ文化史全体の中で、かつ哲学者たちがが数世紀にわたってあれこれと発している一定の根本的問題に対する回答だと理解して、そう位置づけて考察しないとすれば、内容が空虚なものになるだろう。
 そうした根本的問題やその進展および定式化のされ方の多様性に関係づけてのみ、マルクスの哲学を、その歴史的特殊性やそのもつ価値の永続性とともに理解することができる。//
 (2) 多数のマルクス主義に関する歴史家は、この四半世紀の間に、古典的ドイツ哲学がマルクスに提示し、マルクスが新しい回答を用意した諸問題を研究する貴重な仕事をしてきた。
 しかし、古典的ドイツ哲学自体は-Kant からHegel まで-、根本的でかつ太古からある諸問題について、新しい概念上(conceptual, begrifflich)の形式を考案する試みだった。
 確かにその根本諸問題が彼らによって完全に研究され尽くされたのではないけれども、そのような諸問題の見地からする以外は、意味を成さない。-かりに平準化が可能であるとすれば、全ての哲学の発展がその固有の時期との特殊な関係を奪われてしまうにつれて、哲学の歴史は存在することをやめてしまうだろう。
 一般的に言って、哲学の歴史は、互いに制限し合う二つの原理(principles, Regeln)に服している。
 一方で、どの哲学者にとっても基本的な関心を惹く諸問題は、変わらない境遇であるにもかかわらず、それでもって人間生活が向かい合っている人間の知性に生じる同一の知識欲(curiosity)に関する様相だと見なされなければならない。
 他方で、我々は全ての知的潮流または観察し得る事実の歴史的特殊性(uniqueness, Besonderheit)に光を照射し、まさしく当の哲学者たちを生み、哲学者になるのに役立つ重要な事象に可能なかぎり綿密に言及する必要がある。
 これら二つの原則を同時に遵守するのは困難だ。なぜなら、我々はそれらは相互に制限し合わざるを得ないことを知っているけれども、どういう態様で制限し合うのかを正確に知りはしない。したがって我々は、誤りに陥りやすい直感へと立ち戻ってしまうからだ。
 かくして、二つの原理は、科学的実験や資料の識別を行う方法のように信頼できかつ明瞭であるとは全く言い難い。しかし、それにもかかわらず、二つの態様での歴史的ニヒリズム(historical nihilism)に陥るのを避ける指針および手段として、これらは有用だ。
 歴史的ニヒリズムの第一が基礎にするのは、全ての哲学的努力を永遠に繰り返されるワンセットの諸問題へと系統的に格下げをして、人類の文化的進化の全景(panorama, Panorama)を無視し、一般的には人類の文化的進化を蔑視する、ということだ。
 それの第二が構成要素とするのは、全ての現象または文化的事象の特殊な性質を把握するので満足してしまう、ということだ。それが明示的であれ黙示的であれ前提としている考え方は、いずれが個々の歴史的複合体(complex, Ganzheit)の特殊性を構成していようと、それらの現象や事象の重要性の唯一の要素はつぎのことにある、つまりその歴史的複合体の全ての細部の諸事項はその複合体との関係でのみ新しい意味を獲得するということにあり、他の態様においてはもはや意義深いものではない、ということだ。-その細部の諸事項は争う余地もなく従前の諸観念を反復したものであるかもしれないけれども-。
 このように解説的に仮説を立てることは、明らかにそれ自体の歴史的ニヒリズムへと至る。全ての細部事項を共時的な全体(synchronic whole, synchrone Ganzheit)へと排他的に関係させることを強く主張することによって、解釈の継続性を全て排除し、連続している一つの閉じられた単一項的な実在物(monadic entities)の一つだと精神や事象(mind, epoch)を見なすことを我々に強いることになるからだ。
 それは予め、そのような実在物の間には情報伝達の可能性はないと、また、それらを集合的(collectively)に描写することが可能な言語はないと、決めてしまっている。すなわち、全ての概念はそれが用いられる複合体に応じて異なる意味をもつのであり、上位のまたは非歴史的な範疇は探求の根本的原理と矛盾するものとして閉め出されるのだ。//,
 (3) 以下の考究では、これら二つの極端なニヒリズムに陥るのをを避けようとする。そして、哲学者たちの知性を鍛えてきた諸問題に対する回答としてマルクスの根本思想を理解し、同時に、マルクスの天才性を発露したものおよび彼の時代の特異性のいずれとしてもある、その特殊性(uniqueness, Besonderheit)に着目してそれらを包括的に論述ことを目的とする。
 このような自らへの要求を明確に語るのは、それを実際に成功裡に行うよりもはるかに容易だ。
 そのように実際に行って完璧さにまで至るためには、哲学の完全な歴史を、あるいはじつに人間の文明の完全な歴史を、執筆しなければならないだろう。
 そのような不可能な作業を穏便に埋め合わせて補うものとして、マルクス主義がそれらに関してはヨーロッパの哲学の展開の中で新しい一歩を形成したものとして叙述することができる、そのような諸問題の簡単な説明をすることから始めよう。//

1850/秋月瑛二の想念⑤-2018年9月。

 ヒト、人間とは何であるのか、というのは自分とはいったい何者か、という問いでもある。
 日本、日本人とは何なのかという問いは、日本人として生まれ育った私自身を問うことでもある。
 L・コワコフスキは、歴史を知る(学ぶ)ことは我々自身が何であるかを知る(探求する)ことだ、と書いた。
 また彼は、思想・イデオロギーの歴史、とりわけマルクス主義の教理の歴史を研究するのは、一定の程度で、我々自身の文化を自己批判する試みだ、とも書いた。
 さらにつぎの趣旨も書いた(マルクス主義の主要潮流・2004年版「新しい緒言」)-「宗教史、文化史の一部の研究によって我々は、人類の霊的(spiritual)活動を洞察し、我々の精神(soul)とそれの人間生活の他の形態との関係を考究することができる。宗教・哲学・政治の何であれ、諸思想の歴史に関する研究は、我々が自分自身を認識するための探求であり、我々の精神的かつ肉体的な活動の意味するところを探求することだ。マルクス主義あるいは共産主義もまた、十分に関心を惹く歴史研究の対象になりうる」。
 20歳でポーランド統一労働者党の党員となり、党幹部候補であったと推測されるがスターリン支配下のモスクワでの短期滞在(留学)を経てポーランドの<レーニン・スターリニズム体制>に疑問をもち、ついに祖国を離れて西欧や北米に滞在し、最後にはロンドンにいたL・コワコフスキにとって、かつて学んでいったんは自分のものにした「マルクス主義」またはスターリン解釈による「マルクス・レーニン主義」は、まさに若き自分自身の一部だったに違いなく、マルクス主義の歴史研究は「自分史」の自己批判を含む研究だったに違いない。
 また、出国後ではなくポーランド時代からすでに彼は、キリスト教(・カトリシズム)の文化の中にいたように推察される。
 マルクス主義に関する大著刊行のあと、きっぱりと?マルクス主義研究から離れ、むしろ「神学」・カトリック研究にたずさわったらしいのも、自分自身の一部を形成している「神学大系」を探求して、自分とは何かをさらに知ろうとする試みだったかに見える。
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 原語はフランス語らしいが、画家・ゴーギャンはある大きな絵の左上隅に、つぎのように記したらしい。
 「D'où Venons Nous /Que Sommes Nous /Où Allons Nous.」
 「われわれは何処から来たのか。われわれは何者か。われわれは何処へ行くのか。
 この部分から邦訳書の表題をつけたと見られる書物に、以下がある。
 エドワード・O・ウィルソン/斉藤隆央訳・人類はどこから来て、どこへ行くのか(化学同人、2013年)。
 但し、原書はつぎのようで、そのタイトルは「地球(地上)の社会的征服(制覇)」くらいにしか直訳はできない。
 Edward O. Wilson, Social Conquest of Earth (Liveright Publ. CO, 2012).
 まだ邦訳書の「解説」しか読んでいないのだから、興味がわく、という程度のことしか書けない。
 ***
 だが、捲っていて気づいたp.323-325の三つの画像とそれらへのコメントは、「ヒト・人間の本性」または「ヒト・人間の脳内感覚」にすでに関係しているだろう。
 つまり「複雑さが中程度」のデザインが「無意識に最も刺激し」、日本の書道での漢字の「隷書体」や「和様体」には「自然にもたらす刺激」があり、「パンジャブ語」の文面の「本質的な美しさ」は「無意識の刺激のレベルを最大まで高める」、とか言うのだ。
 理屈ではない<視的感覚>、<視的な刺激・心地よさ>。
 こういうものは、むろん個人差(個体差)はあるだろうが、脳感覚の中にあると思われる。
 数ヶ月間、日本語の新聞も雑誌も見なかったあとで、外国で久しぶりに見た某日本文学全集の(縦書きの)、漢字とひらがなの混じった日本語文章は、アルファベットばかりの中で生活していたので、じつに(内容では全くなくて)紙面自体が美しく感じた。
 これは日本人であるがゆえの感覚だったかもしれない。
 だが、同じ日本語文章でも、言語学者でもある安本美典によると、根拠文献を探す手間を省くので正確な紹介はできないが、一頁(ひいては全体)の中の漢字とひらがなとの割合が一定のある割合だと、最も<快適に>読まれる傾向がある、という。
 漢字がたくさん詰まった難解で複雑そうな文章よりも、適度にひらがな(カタカナ)が入っていた方が読みやすい。-こういう感覚は、よく分かる。
 また、誰かが書いていたが、一頁(ひいては全体)の中の、改行の数も関係がある。
 改行なしの、一文がどこで終わるのかがすぐには判らない文章が長々と続くと、読みにくい。適度に改行をして、その下に「空白」を入れた方がよい。
 これは、たんなる美しさや快適さの問題なのではない。
 すなわち、書き手が伝えたいことが、きちんと「読者」に伝わるか否かにとって重要なことだ。また、そもそも、「読む」気を起こさせないような、例えば一頁以上も改行がなく、見た印象で7-8割が漢字のような文章は、全く読まれないことになりかねない。
 そうした意味でも、「理屈」・「内容的適正さ」よりも、「見た目」、あるいは「視的美意識」にも訴えるというのは、じつに人間の「感性」、そして「本性」に適合的だろう。
 他にも多数の「感覚」の問題、さらに脳内でのもっと複雑な「感情」の問題はある。
 これらを抜きにして、ヒト・人間を語ることはできないし、その「歴史」を-かりに「政治史」であれ-把握することもできないだろう。当たり前のことを書いたかもしれない。

1848/L・コワコフスキ・第一巻「序説」の試訳②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流。
 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 前回とほぼ同様に、英語版から始めてドイツ語版に最終的には依った。段落の区切りも後者がやはり一つ多いが、段落数字も後者の区切りによる。
 (注1) はドイツ語版にのみある。そこでのThomas Mann の原文引用部分は、以下では割愛した。
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 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 序説(Introduction/英語版1-7頁、Einleitung/ドイツ語版15-21頁)
 (7) 我々がイデーの歴史研究者としてイデオロギーの外側に立つとしても、そのことは、我々がその中で生きる文化の外側にいることを意味しない。
 全く逆だ。すなわち、諸イデーの歴史、とくに影響力がありかつ最も影響力をもち続けているイデーの歴史は、一定の程度で、自分たち自身の文化を自己批判する試みだ。
 私はこの書物で、Thomas Mannがナツィズムとドイツ文化との関係に向かいあって<ファウスト博士>で採用した立脚点から、マルクス主義を研究することを提案する。
 Thomas Mann は、ナツィズムはドイツ文化とは全く関係がない、そしてナツィズムはドイツ文化を恥知らずに否定して戯画化したものだ、と述べることができただろうし、そう述べる正当な資格ももっていただろう。
 彼はそう語ってよかった。だが実際には、彼はそう語らなかった。
 Thomas Mann はその代わりに、いかにしてヒトラーの運動やナツィのイデオロギーのような現象がドイツで発生したのか、そしてドイツ文化のうちの何がそれを可能にしたのか、という問題を設定した。
 彼は、こう書いた。ドイツ人は誰でも驚愕しつつ、ナツィズムの残忍さのうちに、最良の(これが重要な点だが、最良の)代表者たちが感知することのできた、グロテスクに歪曲された文化の特質を再認識するだろう、と (注1)。
 彼はまた、ナツィズムの精神的な起源に関する問題を簡単に回避してしまうことに反対し、ナツィズムはドイツ文化が生んだ何かに正当性を求める資格がない、とする説明に満足しなかった。
 Thomas Mann は、彼自身がその一部であり共作者である文化を、率直に自己批判した。
 実際に、ナツィ・イデオロギーはNietzsche を「戯画化したもの」だとする定式を語るだけでは十分ではない。戯画(caricature)の本質は、我々が原物を理解するのを助けることにあるのだから。
 ナツィスは彼らの超人たちに、<権力への意思>を読むように命じた。そして、彼らはこの本の代わりに<実践的理性批判>をも推薦することができたかのごとく、そのことは有らずもがなの偶然だった、とは言い難い。
 自明のことだが、ここで問題になっているのは、Nietzscheの「罪責(Schuld, guilt)」ではない。彼の書物が利用されたことについて個人として責任があるか否か、という問題ではない。
 だが、それでもなお、彼の著作が利用されたことは、不穏な気持ちの理由になければならならず、Nietzsche のテキストを理解するに際して、些末な偶然だとして単純に無視してしまうことはできない。
 聖パウロは個人的には、15世紀末のローマ教会や異端審問(Inquisition)について、責任はなかった。
 しかし、キリスト教徒も非キリスト教徒も、下劣な法王や司教たちの行為によってキリスト教が堕落して歪められた、という申述に満足することはできなかった。
 審問者はむしろ、犯罪や悪行だとする根拠として役立ったものを聖パウロの書簡は一切何も含んでいなかったのか否か、そして個々に見てそれはいったい何だったのか、を問うべきだっただろう。
 マルクスとマルクス主義の問題に対する我々の態度は、これと同じでなければならない。そして、この意味で、この著作での叙述は、たんに歴史的な記述をするものだけではなく、プロメテウス的人間中心主義(Humanismus, humanism)で始まり、スターリン専制の奇怪さで最高潮に達した、一つのイデーの稀有の歴史に関する省察を試みることでもある。
 -<原著、一行あけ>-
 (8) マルクス主義の年代記的叙述は、とりわけ次の理由によって錯綜している。すなわち、今日では最も重要だと考えられているマルクスの多数の文献は今世紀の20年代又は30年代またはその後でようやく印刷され、出版された。
 (例えば、<ドイツ・イデオロギー>、学位論文の<デモクリタンとエピキュリタンの自然哲学の違い>の全文、<ヘーゲル法哲学批判>、<1844年の経済哲学草稿>、<政治哲学批判綱要>。加えて、エンゲルスの<自然弁証法>も入る。)
 これらのテキストはまた、それらが執筆された時代には影響を与えることがなかった。しかし今日では、マルクス自身の精神的伝記の記述に寄与しているだけではない。それらは歴史的意味があるのみならず、それらのテキストなくしては理解することのできない教理の本質的な構成要素だという観点から、重要なものとして分析されている。
 とりわけ<資本論>に示されているマルクスのいわゆる成熟した思考は、内容的に見て、彼の青年時代の哲学的散策が自然に進展したものだったのか否か、およびどの程度にそうだったのかは、長らく議論され続けている。
 あるいはまた、若干の批判的解釈者が考えているように、それらは精神的な激変の結果であるのか否か、よってさらに、マルクスは1850年代や60年代に、主としてはヘーゲル主義と若きヘーゲル哲学に影響を受けた従前の思考や考究の様式を放棄したのか否か。
 ある者は、<資本論>の社会哲学は初期の著作物でいわば予め塑形されており、それらを発展させたもの又は詳論したものだ、とする。
 別の者は反対の見解で、資本主義社会の分析はマルクスの初期段階の夢想家的かつ規範的な修辞技法(レトリック)からの離脱を意味する、と主張する。
 これら二つの対立する見方は、マルクスの思想全体に関する異なる解釈と相互に関連している。
 (9) 私はこの著作で、哲学的人類学は年代学的にのみならず、論理的にも、マルクス主義の出発点だ、ということを前提とする。
 同時に、マルクスの哲学的思考から哲学の内容を独自の領域として切り分けるのはほとんど不可能だ、ということも意識しておかなければならない。。
 マルクスは学術分野での著作者ではなく、ルネサンスの言葉の意味での人間中心主義者だった。そして、彼の思考は人間がかかわる事象の全体を包括するものだった。このことは、社会の自由化という彼の展望が、人間が苦闘している重要な諸問題の総体に対する相関関係の中にある、ということと同様だった。
 (10) マルクス主義を三つの思考領域に分けるのが慣例になってきている。-哲学的人類学という基礎、社会主義の教理、および経済分析だ。
 そして、これらに対応させて、マルクスの教理が由来する三つの主要な源泉が注目されている。すなわち、ドイツ哲学(弁証法)、フランス社会主義思想、イギリス政治経済学。
 しかしながら、マルクス主義をこのように重要な構成部分へと画然と区別するのはマルクス自身の意図には反している、という強い主張も、広がってきている。マルクスの意図とは、人間の行動様式とその歴史に関して包括的な解釈を提示し、かつ、全体との関係でのみ個別の諸問題が意味をもち得る、そのような人間に関する包括的な理論を再構築しようとする、というものだ。
 マルクス主義の全ての構成要素の相互関連性やその内的な論理一貫性の態様をより詳しく性格づけるのは、ただ一つの文章で解答できるような容易な問題ではない。
 しかし、あたかも歴史過程の諸性質を把握しようとマルクスは実際に努めたかのように見える。その性質に関係して、認識論および経済の諸問題も、また最後に社会的理想も、初めて共通する意義をもち得る。
 すなわち、マルクスは、人間の全現象を理解可能なものするために十分に高い程度の一般性をもつ思考上の手段または認識の諸範疇を創出しようと考究した。高い程度の一般性をもつために、人間世界の全ての現象は、その助けを借りて理解できるものになる、そのようなものとして。
 これらの範疇とマルクスの思考の叙述とを彼の範疇構造に従って再構成し、マルクスの思想をそれらに合致させて提示しようと試みるのは、しかし、思想家自身の発展を無視する、という効果をもち得るだろう。そしてさらに、彼のテキストの全体が同質の、一度だけ組み立てられたブロックとして扱われてしまう危険を胚胎している。
 したがって、マルクス主義思考の展開の主要な軸を追求し、そのあとで、どのような主題が黙示的にであれこの発展の中で残存しているかという疑問を設定するのが望ましいように思われる。
 (11) この著作でのマルクス主義の歴史に関する概観では、マルクスの自立した思考の最初から考察の中心的な位置をずっとつねに占めてきたと思われる諸問題に焦点を当てことにする。
 すなわち、夢想郷論(utopianism)と歴史的運命論のディレンマを、いかにすれば回避することができるのか?
 換言すれば、想起された観念を恣意的に宣告するのでも、人間がかかわる物事が、全員が関与しているが誰も統御できない特徴なき歴史過程に従属しているという前提を諦念にみちて受容するのでもない観点を、いかにすれば明瞭にし、防衛することができるのか?
 マルクスのいわゆる歴史的決定論に関してマルクス主義者によって表明された驚くべき多様性は、20世紀のマルクス主義の動向を精確に提示し、図式化することを可能にする一つの要因だ。
 人間の意識と意思がもつ歴史過程での位置に関する問題に対する答え方は、社会主義諸観念が本来的にもつ、かつ革命と危機の理論と直接に連結する意味を少なからず明確にしている、ということも明らかだ。
 (12) しかしながら、マルクスの思考の出発空間を規定したのは、ヘーゲルから相続した資産の中に見出される哲学上の諸問題だった。
 そして、そのヘーゲルの遺産の解体は、マルクスの思考を叙述するいかなる試みも必ずそれから始めなければならない、当然の出発地点になっている。
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 (注1) vgl. Thomas Mann, "Doktor Faustus", in: Gesamte Werke, 6. Bd., Berlin-Ost 1956, S.652.
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 以上。

1846/L・コワコフスキ・第一巻「序説」の試訳①。


 L・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)の大著の第一巻の「緒言」と内容構成(目次)の後にあり、かつ<第一章・弁証法の生成>の前に置かれている「序説」を試訳しておく。
 1978年の英語版(ハードカバー)で下訳をしたうえで、最終的には結局、1977年刊行とされている独語版(ハードカバー)によることになった。
 それは、この部分に限ってかもしれないが、ドイツ語版の方が(ポーランド語原文がそれぞれで異なるとまでは思えないが)、やや言葉数、説明が豊富であるように思われ、読解がまだ少しは容易だと感じたからだ。
 とりあえず訳してみたが、以下のとおり、難解だ。レーニンやスターリン等に関して背景事件等を叙述している、既に試訳した部分とは異なる。必ずしも、試訳者の能力によるのではないと思っている。
 それは、カント、ヘーゲル等々(ルソーもある)から始めて大半をマルクス(とエンゲルス)に関する論述で占めている第一巻の最初に、観念、イデオロギーといったものの歴史研究の姿勢または観点を示しておきたかったのだろうと、試訳者なりに想像する。事件、事実に関する叙述はない。
 なお、「イデー(Idee)」とあるのはドイツ語版であり、英語ではこれは全て「観念(idea)」だ。「イデオロギー」と訳している部分は、両者ともに同じ。一文ごとに改行し(どこまでが一文かは日本語文よりも判然としない)、段落に、原文にはない番号を付した。段落数も一つだけドイツ語版の方が多いが、この点もドイツ語版に従って番号を付けた。
 青太字化は、秋月による。「観念」(・概念・言葉)と「現実」(・経験・政治運動)の関係。
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 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流
 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 (ポーランド語1976年、独語1977年、英語1978年)
 序説(Introduction/英語版1-7頁、Einleitung/ドイツ語版15-21頁)①。
 (1) カール・マルクスは、ドイツの哲学者だった。
 この言述に特別の意味があるようには見えない。しかし、少し厳密に考えると、一見そう思えるほどには陳腐で常識なことでない、ということが判るだろう。
 私の上の言述は、Jules Michelet を真似たものだ。彼は、イギリス史に関する講義を「諸君、イングランドは一つの島だ!」という言葉で始めた、と言われる。
 自明のことだが、イングランドは一つの島だという事実をたんに知っているのか、それとも、その事実に照らしてこの国の歴史を解釈するのか、との間には大きな違いがある。
 後者であれば、上のような単純な言述にも、特定の歴史的選択肢が含まれている。
 マルクスはドイツの哲学者だったという言述は、類似の哲学的または歴史的な選択肢をもち得る。我々がそれによって、彼の思索に関する特定の解釈が提示されている、と理解するとすれば。
 このような解釈の一つが基礎にする理解は、マルクス主義は経済的分析と政治的教義を特徴とする哲学上の構想だ、というものだ。
 このような叙述の仕方は、些細なことではないし、論争の対象にならないわけでもない。
 さらに加えて、マルクスはドイツの哲学者だったことは今日の我々には明白だとしても、半世紀前には、事情は全く異なっていた。
 第二インターナショナルの時代には、マルクス主義者の大半はマルクスを、特定の経済かつ社会理論の著者だと考えていた。そのうちの一人によれば、多様な形而上のまたは認識論上の立場を結合させる理論であり、別の者によれば、エンゲルスによって哲学的基盤は補完されており、本来のマルクス主義とはマルクスとエンゲルスの二人がそれぞれに二つまたは三つの部分から組み立てた、体系的な理論のブロックだという見解だった。
 (2) 我々はみな、マルクス主義に対する今日的関心の政治的背景をよく知っている。
すなわち、今日の共産主義の基礎にあるイデオロギー的伝統だと考えられているマルクス主義に対する関心だ。
 自らをマルクス主義者だと考えている者は、その反対者だと考えている者はもちろんだが、つぎの問題を普通のことだと見なしている。すなわち、現在の共産主義はそのイデオロギーと諸制度のいずれに関するかぎりでも、マルクスを正統に継承しているものなのか否か?
 この問題に関して最もよくなされている三つの回答は、単純化すれば、以下のとおりだ。
 ① そのとおり。現在の共産主義はマルクス主義を完全に具現化したもので、共産主義の教義は奴隷化、専制および罪悪の原因であることも証明している。
 ② そのとおり。現在の共産主義はマルクス主義を完全に具現化したもので、人類は解放と至福の希望についてそれに感謝する必要があることも証明している。
 ③ ちがう。我々が知る共産主義は、マルクスの独創的な福音的教義をひどく醜悪化したもので、マルクスの社会主義の基礎的諸前提を裏切るものだ。
 第一の回答は、伝統的な反共産主義正統派に、第二のそれは伝統的な共産主義正統派にそれぞれ由来する。第三のそれは、全ての多様な形態での批判的、修正主義的、または「開かれた」、マルクス主義者に由来する。
 (3) この私の著作の議論の出発点は、しかしながら、これら三つの考え方が回答している問題は誤って設定されており、それに回答しようとする試みには意味が全くない、というものだ。
 より正確に言えば、「どのようにすれば、現在の世界の多様な諸問題をマルクス主義に合致して解決することができるのか?」、あるいは「のちの信仰告白者たちがしたことをマルクスが見ることができれば、彼は何と言うだろうか?」、といった疑問に答えることはできない。
 これらの疑問はいずれも不毛であり、これらの一つであっても、合理的な回答の方法は存在しない。
マルクス主義は、諸疑問を解消するする詳細な方法を提示していない。それをマルクス自身も用意しなかったし、また、彼の時代には存在していなかった。
 かりにマルクスの人生が実際にそうだったよりも90年長かったとすれば、彼は、我々が思いつくことのできないやり方で、その見解を変更しなければならなっただろう。
 (4) 共産主義はマルクス主義の「裏切り」でありまたは「歪曲」だと考える者は、言ってみれば、マルクスの精神的な相続人だと思っている者の行為に対する責任から彼をある程度は免除しようと意欲している。
 同様に、16世紀や17世紀の異端派や分離主義者は本来の使命を裏切ったとローマ教会を責め立てたが、聖パウロをローマの腐敗との結びつきから切り離そうと追求した。
 ドイツ・ナツィズムのイデオロギーや実践との間の暗い関係にまみれたニーチェの名前を祓い清めようとした人々も、同様の議論をした。
 このような試みのイデオロギー的な動機は、十分に明瞭だ。しかし、これらの認識上の価値は、きわめて少ない。
 我々はつぎのことを知る十分に豊かな経験をしてきた。それは、全ての社会運動は、多様な事情によって解明されなければならないこと、それらの運動が援用し、忠実なままでいたいとするイデオロギー的源泉は、それらの形態や行動かつ思考の様式が影響を受ける要因の一つにすぎない、ということだ。
 したがって、我々は確実に、いかなる政治運動も宗教運動も、それらが聖典として承認している文献が示すそれらの運動の想定し得る「本質」を、完璧に具現化したものではない、ということを前提とすることができる。
 また我々は、これらの文献は決して無条件に可塑的な資料ではなく、一定の独自の影響を運動の様相に対して与える、ということも確実に前提にすることができる。。
 したがって、通常に生起するのは、つぎのようなことだろう。つまり、特定のイデオロギーを担う社会的勢力はそのイデオロギーよりも強力であるが、しかし同時に、ある範囲では、そのイデオロギー自体の伝統の制約に服している
 (5) 観念に関する歴史家が直面する問題は、ゆえに、社会運動の観点から、特定のイデーの「本質」をそれの実際上の「存在」と対比させることにあるのではない。
 そうではなくて、いかにして、またいかなる事情の結果として、当初のイデーは多数のかつ異なる、相互に敵対的な諸勢力の支援者として寄与することができたのか、を我々はむしろ問わなければならない。
 最初の元来のイデーのうちに、それ自体にある曖昧さのうちに、何か矛盾に充ちた性向があるのだとすれば-そしてどの段階で、どの点に?-、それがまさにのちの展開を可能にしたのか?
 全ての重要なイデーが、その影響がのちに広がり続けていくにつれて、分化と特殊化を被るのは、通常のことであり、文明の歴史での例外的現象ではない。
 かくして、現在では誰が「真正の」マルクス主義者なのかと問うのも無益だろう。なぜなら、そのような疑問は、一定のイデオロギーに関する概観的展望を見通したうえで初めての発することができるからだ。そのような概観的展望を行う前提にあるのは、正規の(kanonisch)文献は権威をもって真実を語る源泉であり、ゆえにそれを最善に解釈する者は同時に、誰のもとに真実があるかに関しても決定する、ということだ。
 現実にはしかし、多様な運動と多様なイデオロギーが、相互に対立し合っている場合ですら、それらはともにマルクスの名前を引き合いに出す「権利を付与されている」(この著が関与しないいくつかの極端なケースを除いて)、というとを承認するのを妨げるものは何もない。
 同じように、「誰が真のアリストテレス主義者か、Averroes、Thomas von Aquin か、それともPonponazziか」、あるいは「誰が真のキリスト者なのか、Calvin, Erasmus, Bellarmine、それともIgnatius von Loyolaか」といった疑問を提起するのも、非生産的だ。
 キリスト教信者にはこうした問題はきわめて重要かもしれないが、観念に関する歴史家にとっては、無意味だ。
 これに対して、Calvin, Erasmus, Bellarmine、そしてIgnatius von Loyola のような多様な人々が全く同一の源(Quelle、典拠・原典)を持ち出すことの原因になっているのはキリスト教の元来の姿のうちのいったい何なのか、という疑問の方がむしろ興味深い。
 言い換えると、つぎのとおりだ。イデーに関する歴史家はイデーを真剣に取り扱う。そして、諸イデーは諸状況に完全に従属しており、それぞれの独自の力を欠くものだとは見なさない(そうでないと、それらを研究する根拠がないだろう)。しかし、歴史家は、諸イデーが意味を変えることなく諸世代を超えて生命を保ちつづけることができる、とも考えない
 (6) マルクスのマルクス主義とマルクス主義者のマルクス主義の間の関係を論述するのは正当なことだ。しかし、それは誰が「より真正な」マルクス主義者なのか、という疑問であってはならない。
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 (7)以降の②へとつづく。

1844/L・コワコフスキ・2004年全巻合冊版の「新しいエピローグ」。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)は、2004年、77歳の年に、英語版初版は1978年だった『マルクス主義の主要潮流』に、つぎの「新しいエピローグ」を追加した。以下は、その試訳。一文ごとに改行。段落の冒頭に、原文にはない番号を付した。合冊版の1213-14頁。
 2004年合冊版では、「新しい緒言」と、この「新しいエピローグ」だけが、新たに書き加えられている。
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 L・コワコフスキ・2004年全巻合冊版の「新しいエピローグ」。
 New Epilogue(新しいエピローグ・あとがき)。
 (1) エピローグおよび新しい緒言(New Preface)の若干の文章に、このエピローグで付け加えることはほとんどない。
 この数十年間に多数のことが生起したが、(予見できる何かがかりにあるとして)マルクス主義、相互に関連させて理解することのできないその多様な化身のありうる変化を、あるいは共産主義イデオロギーとその制度的組織体-死骸というのがより上手い言葉かもしれないけれども-の将来の運命を、我々は予見することはできない。
 しかしながら、忘れないようにしよう。地球で最も人口の多い国、中国は今や、けばけばしく幻惑させて市場を拡大し、いくつかの重要な点では、その不健康なマルクス主義の過去-スターリニズム後のソヴィエト同盟とは違って公式には一度も否認していない過去-を維持し続けている、ということを。
 毛沢東主義のイデオロギーは中国で死んでいるかもしれないが、国家と党は、人民の思考方法に対する厳格な統制をなおも行っている。
 自立した宗教生活は、政治的反対については勿論そうであるように、迫害され、窒息させられている。
 多数の非政府団体が存在するにもかかわらず、法は、自立した機能をもつものとしては存在していない(適正な意味での法は、市民が国家機関に対して法的措置を執ることができ、勝訴する可能性のある場合にのみ存在する、と言うことができる)。
 中国には、市民的自由はなく、意見表明の自由もない。
 その代わりにあるのは、大規模の奴隷的労働と(奴隷的労働が行われる)強制収容所および少数民族の残虐な弾圧だ。これに関して、ティベット文化の野蛮な破壊は最もよく知られているが、決して唯一の例ではない)。
 これは、いかなる理解可能な意味でも、共産主義国家ではない。しかし、共産主義のシステムから成長した専制体制だ。
 多数の研究者と知識人は、それが最も残虐で、破壊的で、かつ最も愚かなときに、共産主義システムの栄光を称揚した。
 そのような流行は終わったように見える。
 この中国はそもそも西側文明の規範を採用するのだろうか、は不確実だ。
 市場(the market)はこの方向への発展に賛成するだろうが、決して保障することはできない。
 (2) ソヴィエト体制の解体後、ロシア帝国主義は復活するだろうか?
 これは想定し難い。-我々は、失われた帝国への郷愁がある程度にあることを観察することができるけれども-。しかし、かりに復活するならば、その再生に対してマルクス主義は何も寄与しないだろう。
 (3) 資本主義の適正な定義がどのようなものであれ、法の支配や市民的自由と結びついた市場は、耐え得る程度に物質的な福祉と安全を確保するには明らかに優越しているように見える。
 だがなお、この社会的、経済的な利益にもかかわらず、「資本主義」は全ゆる方向から絶えず攻撃されている。
 この攻撃は、首尾一貫したイデオロギー内容をもたない。
 それらはしばしば革命的スローガンを使う。誰もその論脈での革命がいったい何を意味すると想定しているのかを説明することができない。
 この曖昧なイデオロギーと共産主義の伝統の間には何らかの遠い関係がある。しかし、マルクス主義の痕跡を反資本主義の言辞のうちに見出すことができるとすれば、それはグロテスクにマルクス主義を歪曲したものだ。すなわち、マルクスは技術の進歩を擁護しており、彼の姿勢は、発展途上国の諸問題への関心が欠けていることも含めて、ヨーロッパ中心的だった。
 我々が今日に耳にする反資本主義スローカンは、明瞭には語られない、急速に成長する技術に対する怖れを含んでいる。それがもち得る不吉な副作用についての恐怖だ。
 技術発展を原因とする生態的、人口動態的、そして精神的な危険を我々の文明が見通すことができるか否か、あるいは我々の文明はその毒牙にかかって大厄災に至るのか否か、誰も確実なことは言うことができない。
 そうして、現在の「反資本主義」、「反グローバリズム」および関連する反啓蒙主義の運動と観念は静かに消失し、いずれは19世紀初頭の伝説的な反合理主義者(Luddites)のように哀れを誘うものに見えるようになるのか否か、あるいはそれらはその強さを維持して、その塹壕を要塞化するのか否か、我々は答えることができない。 
 (4) しかし、マルクス自身は彼が既にそうである以上にますます大きな人物になるだろうと、我々は安全に予見してよい。すなわち、観念の歴史に関する教科書のある章での、もはやいかなる感情も刺激しない人物、19世紀の「偉大な書物」-ほとんどの者がわざわざ読みはしないがそのタイトルだけは教育を受けた公衆には知られている書物-の一つのたんなる著者として、だ。
 この哲学とその後の分岐した支流を要約し、評価しようと試みた、新たに合冊された私の三巻の書物(マルクス主義者と左翼主義者の憤慨を刺激することが容易に予測できたが、その広がりは私が想定していたよりは少なかった)に関して言えば、この対象になお関心をもつ、次第に数が少なくなっている人々とって、これらの書物はおそらく有益だろう。
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 以上。
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 第一巻(ドイツ語版ハードカバー、1977年)のカバーのL・コワコフスキ。
 Kolakowski

 その下の著者紹介(1977年)も、以下に試訳しておく。
 Leszek Kolakowski、1927年10月23日、ラドム(ポーランド)生まれ。
 戦後、哲学を研究。1953年、ワルシャワ大学講師。
 修正主義思想を理由として公式に批判されたが、西側の大学での在外研究助成金を受ける(オランダとパリ)。
 1958年、ワルシャワ大学哲学史の講座職。
 1966年、見解表明の自由の制限に対する批判を公表したとして、党を除名される。
 1968年、講座職を失い、カナダへ出国。
 1969年、Montreal のMcGill CollegeとBerkely (カリフォルニア)で教育活動。
 1970年以降、Oxford のAll Souls College。
 1975年、Yale の客員教授。
 1977年、ドイツ出版協会(Deutsches Buchhandel)の平和賞。
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1843/L・コワコフスキ・1978年第三巻の「エピローグ」②。

 レシェク・コワコフスキがのちの『マルクス主義の主要潮流』を執筆し始めたのは彼が41歳のときだとされ、ポーランド語版と英独語版のPreface が同じ時期に書かれているとすると、その1976-78年は、彼が49-51歳のときだった。
 そのPreface (緒言、はしがき)は大著を公刊・公表するに際しての緊張に打ち震えているうな印象もあり、(自信があるためもか)細かな釈明的な言辞をあらかじめ記している。2004年にそれがどうなったかは別として、彼が50-51歳である1977-78年頃に執筆されたと見られるEpilogue (エピローグ、あとがき)は、全三巻の執筆を終えてすでに印刷にかかっている時期で一定の安堵感があるためなのかどうか、緒言(はしがき)に比べると、L・コワコフスキの「本音」的部分がかなり明らかにされているように感じる。
 むろん、学術研究的文章ではないので、正確で厳密な意味は把握し難い。やや感情的に、簡潔に言いたいことを書いておこうとしたような印象がないでもない。
 それでもしかし、この人物の<基本的な>姿勢を感じ取ることはかなりできそうに思える。
 それにしても、以下の文章は1978年頃のもので、今は2018年。40年が経過している。
 この40年間、私の知る限りでは、以下の文章の邦訳はなく、上の書物全体の翻訳書も日本では刊行されなかった(但し、英文等で読んだ「知識人」・「専門研究者」はきっといただろう)。
 この日本の40年間の「現実」は、もはや変えることができない。
 以下、試訳のつづき。原文にはない段落ごとの番号を付している。
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 エピローグ(あとがき、Epilogue)②。第三巻523-530頁のうちの527頁以下。
 (7) マルクスはさらに、そのロマン派的夢想を、全ての必要は地上の楽園で完全に充たされるという社会主義の予想と結びつけた。
 初期の社会主義者たちは、「各人にその必要に応じて」というスローガンを限られた意味で理解したように見える。人々は寒さや飢えで苦しんではならず、あるいは極貧の中で空腹で生活してはならない。
 しかしながら、マルクスおよび彼に倣ったマルクス主義者は、社会主義のもとでは全ての欠乏が存在しなくなると想定した。
 全ての人間は、魔法の指輪か従順な精霊をもつかのごとく、全ての欲求を充たすことができる。このようにきわめて楽観的に考えて、希望を思い抱くのは可能だった。
 しかし、これを真面目に受け取ることはほとんどできないため、問題を熟考したマルクス主義者たちは、相当程度はマルクスの著作に支えられて、共産主義は、人間の本性と合致する、気まぐれや願望では全くない「本当の」または「真正の」必要を充足させるのだと決着させた。
 しかしながら、これは誰も明確には回答できない問題を生じさせた。すなわち、いかなる必要が「真正」なのかを誰が決定するのか、いかなる規準によってそれを決定するのか?
誰もが自分でこれを判断するのならば、実際に主観的に感じている全ての必要は平等に正しく供給され、区別をつける余地はない。
 一方、決定するのが国家であれば、歴史上最大の解放事業は全世界的な配給(rationing)制度であることになる。
 (8) 一握りの新左翼(New Left)の未熟者以外の全ての者にとって、今日ではつぎのことが明白だ。すなわち、社会主義は文字通りには「全ての必要を充足する」ことができず、不十分な資源の公正(just)な配分を企図することができるにすぎない。-このことが我々に残す問題は、「公正」の意味を明瞭にし、いかなる社会的機構によって、個々の各事案についてその企図を実現すべきかを決定することだ。
 完全な平等という観念、換言すると全員に対する全ての物資の平等な分配は、経済的に実施不可能であるばかりか、それ自体が矛盾している。なぜならば、完全な平等は極度の専制システムのもとでのみ想定することができるものだが、専制それ自体が、少なくとも権力への関与や情報の入手のような根本的利益に関する不平等を前提にしているからだ。
 (同じ理由で、現在の<左翼(gauchistes)>が平等の増大と政府の縮小を要求するのは支持できない立場だ。現実の生活では、大きな平等は大きな政府を意味し、絶対的な平等は絶対的な政府を意味する。)
 (9) かりに社会主義が全体主義的牢獄ではない何かだとすれば、相互に制限し合う多様な価値を妥協させるシステムでのみありうる。
 全てを包括する経済計画は、達成するのが可能だとしてすら-不可能だとするほとんど一般的な合意があるが-、小生産者や地域単位の自治(autonomy)とは両立し難い。そして、この自治は、マルクス主義的社会主義のそれでなくとも、社会主義の伝統的な価値だ。
 全ての者の生活条件を完全に確保することと技術の進歩は、共存できない。
 自由と平等の間に、計画と自治の間に、経済民主主義と効率的経営の間に、不可避的に矛盾が発生する。そして、妥協と部分的解決によってのみこうした矛盾を解消することができる。
 (10) 産業発展諸国では、不平等を除去し最小限の安全を確保するための社会制度(累進課税、医療サービス、失業対策、価格統制等々)は全て、巨大に膨張する国家官僚機構という対価を払って作り出され、拡張されている。いかにすればこの対価の支払いを避けることができるのか、誰も提案できない。
 (11) このような諸問題は、マルクス主義とほとんど関係がない。かつまた、マルクス主義の教理は実際上、これらを解決するには何の助けにもならない。
 歴史の到達点での黙示録的(最終予言的)信念、社会主義の不可避性、および「社会構成」の自然の順序。「プロレタリアートの独裁」、暴力の称揚、国有化産業がもつ自動的な効率性への信仰、対立なき社会と金銭なき経済に関する幻想。-これら全てが、民主主義的社会主義の観念と共通するところが何もない。
 民主主義的社会主義の目的は、生産が利潤に従属するのを徐々に減少させ、貧困をなくし、不平等を廃絶し、教育を受ける機会への社会的障害を除去し、国家官僚機構による民主主義的自由に対する脅威と全体主義への誘惑を最小限にする、こうした諸制度を創出することだ。
 これらの尽力と試みは全て、自由という価値に深く根ざしていないかぎり失敗するよう運命づけられている。マルクス主義はこの自由を、「消極的」自由、社会が個人に許容する決定領域だと非難した。
 この非難は当たらない。自由とはそれ自体以外に正当化を必要としない本質的価値だからだ。また、自由なくしては社会は自らを改良することができないからだ。
 この自己を規整するメカニズムを欠く専制体制は、過誤によって災厄が発生したときにだけその過誤を修正することができる。
 (12) マルクス主義はこの数十年間、全体主義的政治運動のイデオロギー的上部構造としては凍結し、機能しなくなった。その結果として、知的発展と社会的現実から乖離してしまった。
 再生してもう一度実りを生むという希望は、すぐに幻想(illusion)だと判明した。
 説明の「システム」としては、マルクス主義は死んでいる。また、現代生活を解釈し、未来を予見し、あるいは理想郷(ユートピア)の企図を培養すべく有効に使うことのできるいかなる「方法」も、マルクス主義は提示していない。
 現在のマルクス主義文献は、量的には多いけれども、純粋に歴史に関係していないかぎりでも、無味乾燥さと見込みなさの、気の滅入るような雰囲気をもつ。
 (13) 政治的動員装置としてのマルクス主義の有効性は、全く別の問題だ。
 論述したように、マルクス主義の言葉遣いは、きわめて多彩な政治的利益を支えるために用いられている。
 マルクス主義が現存体制によって公式に正当化されているヨーロッパの共産主義諸国では、マルクス主義は全ての確信を失っている。一方、中国では、見分けがつかないほどに醜悪化した。
 共産主義が権力を握っている国ではどこでも、支配階級はマルクス主義を、ナショナリズム、人種主義あるいは帝国主義が本当の源であるイデオロギーへと変形している。
 共産主義は、マルクス主義を用いることで権力を掌握しそれを維持するために、ナショナリズム・イデオロギーを強化すべく多くのことをした。そのようにして、共産主義は自らの墓穴を掘っている。
 ナショナリズムは、憎悪(hate)、嫉妬および権力への渇望のイデオロギーとしてのみ生きている。ナショナリズムはそのようなものとして共産主義世界での破壊的な要素だ。そして、共産主義世界の首尾一貫性は、実力(force)にもとづく。
 世界全体が共産主義国であれば、単一の帝国主義によって支配されるか、異なる諸国の「マルクス主義者」たる支配者間での際限のない戦争の連続だろう。
 (14) 我々は、その結合した効果を予見することのできない、重大で複雑な知的かつ道徳的な過程の目撃者であり、関与者だ。
 一方で、19世紀の人間中心主義(humanism)の多数の楽観的想定は瓦解し、文化の多くの分野には破綻の感覚がある。
 他方で、情報のこれまでにない早さと拡散のおかげで、世界じゅうの人間の諸願望はそれらを充足する手段よりも早く増大している。
 こうして急速に、欲求不満とその結果としての攻撃的心理が大きくなっている。 
共産主義者たちは、このような心理状態を利用する、攻撃感情を状況に応じて多様な方向へと流し込む、目的に適合したマルクス主義の用語法の断片を用いる、こうした技巧に長けていることを示してきた。
 メシア的希望を生じさせた対応物は、絶望と自分の過ちを見た人類を途方に暮れさせている無力の感覚だ。
 全ての問題と災難について既成のかつ即時の回答があり、それを適用する際には敵の悪意だけが立ちはだかっている、という楽観的信念は、マルクス主義という名前ののもとで移ろいゆくイデオロギー・システムに頻繁にみられる構成要素だった。-マルクス主義は一つの状況から別の状況へと内容を変化させ、別のイデオロギー上の伝統と混じっている雑種のもの(cross-bred)だ、と言うことができる。
 現在ではマルクス主義は世界を解釈しないし、世界を変化させることもない。多様な利益を組織するのに役立つ、たんなるスローガンの目録(repertoire)だ。それらのほとんどは、マルクス主義の元来の姿だったものから完全に遠ざかっている。
 第一インターナショナルの崩壊ののち一世紀、世界じゅうの抑圧された人間性の利益を守ることのできる新しいインターナショナルの見込みは、かつて以上に、ほとんどありそうもない。
 (15) マルクス主義が哲学的表現を与えた人類の自己神格化は、個人であれ集団であれ、そのような全ての試みと同じようにして終焉した。それは、人間の隷従という茶番劇の実体を露わにしたのだ。
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 以上。

1842/L・コワコフスキ・1978年第三巻の「エピローグ」①。

 レシェク・コワコフスキの2004年の三巻合冊本は約1300頁余。1978年の英語版は、のちに出版されたPaperback版によっても、注記・文献指示を含めて第一巻434頁、第二巻542頁、第三巻548頁で、総計計1524頁になる。
 1978年の英語版第三巻には最後に<エピローグ(Epilogue)>(あとがき)が書かれている。第三巻に関する文献と後注の前にあるが三巻全体の「あとがき」または「エピローグ」と理解してよいだろう。
 以下、試訳を紹介する。原文にはない、段落の最初の番号((1)~)を付す。
 L・コワコフスキのレーニン等に関する個別の論述に関心をもって試訳してきたが、この Epilogue によって、L・コワコフスキのマルクスないし「マルクス主義」、「社会主義」、「共産主義」等の基礎概念の使い方がある程度は明瞭になる。また、この欄で(9/03に)私が用いた「レーニン・スターリン主義」という語をすでに彼はここで用いている
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 エピローグ(Epilogue)。 第三巻523頁~。
 (1) マルクス主義は、我々の世紀の最大の幻想(fantasy)だった。
 マルクス主義は、全ての人間的希望が実現され、全ての価値が調整される、完璧な共同性(unity)をもつ社会への展望を提示する夢想だった。
 マルクス主義がヘーゲルの「進歩の矛盾」理論とともに継承したのは、歴史の進展は「最終的には」必然的に良い方向へと動き、自然に対する人間の要求の増大は幕間のあとでは自由の増大と合致する、というリベラルな進化主義だった。
 マルクス主義が多くを負うのは、メシア的幻想を特殊で純粋な社会理論、貧困と搾取に対するヨーロッパ労働者階級の闘争と結合するのに成功したことだ。
 この結合は、馬鹿げた(プルードンに由来する)「科学的社会主義」という名前をもつ体系的な教理として表現された。-目的を達成する手段は科学的かもしれないが、目的それ自体の選択はそうではないがゆえに、馬鹿げていた。
 しかしながら、この名称は、マルクスが彼の世代の者たちと共有した、科学への信仰(cult of science)をたんに反映しているのではない。
 「科学的社会主義」という名称は、この著作で一度ならず批判的に論述したが、人間の認識と実践は意思に導かれて必ずや究極的には合致し、完璧に統一して分かち難いものになる、という信念を表現した。その結果として、目的の選択はじつに、それを達成する認識上および実践上の手段と同一のものになる。
 認識と実践の混同から当然に帰結するのは、特定の社会運動の成功はそれが科学的に「正しい(true)」ことの証拠だ、あるいは要するに、強者となった者は全て「科学」的であるに違いない、という観念(idea)だった。
 このような観念は、共産主義イデオロギーという特殊な装いをまとうマルクス主義の、全ての反科学的で反知性的な特質の大きな原因だ。
 (2) マルクス主義は幻想(fantasy)だというのは、それ以外の何かではない、ということを意味してはいない。
 過去の歴史解釈としてのマルクス主義は、政治イデオロギーとしてのマルクス主義と明瞭に区別されなければならない。
 理性的な人々は、史的唯物論の教理は我々の知的装備に価値ある有意義なものを追加し、過去に関する我々の理解を豊かにした、ということを否定しないだろう。
 たしかに、厳格な意味では史的唯物論の教理は馬鹿げているが、大雑把な意味では常識的なことだ、とこの著作で論述してきた。
 しかし、それが常識になったとすれば、マルクスの独創性のおかげだ。
 さらに加えて、かりにマルクス主義が経済学や過去の時代の文明に関するより十分な理解を与えたとすれば、そのことに関係があるのは疑いなく、マルクスが当時にその理論を極端に、教義的(dogmatic)にかつ受容し難いやり方で明瞭に述べた、ということだ。
 かりにマルクスの諸見解に、合理的な思索には通常のことである多数の限定や留保が付いていたとすれば、彼の諸見解はさほどの影響力をもたず、全く注目されないままだったかもしれない。
 だが実際には、人文社会上の理論にしばしば生じるように、馬鹿らしさという要因こそが、マルクスの諸見解がもつ合理的内容を伝えるには効果的だった。
こうした観点からすると、マルクス主義の役割は精神分析学または社会科学での行動主義に喩えられるかもしれない。
 Freud やWatson は、それらの諸理論を極端なかたちで表現することで、現実の諸問題に一般の注目を惹きつけ、学問研究の有意義な分野を切り拓くことに成功した。かりに彼らが慎重に留保を付けて諸見解を論述し、そのことで明確な輪郭と論駁力を失わせていれば、おそらく成功できなかっただろう。
 文明研究に関する社会学的接近方法は、マルクス以前にVico、HerderやMontesquieu のような学者によって、あるいはマルクスと同時代の、だがマルクスから自立していたMichelet、RenanやTaine のような学者によって深められていた。しかし、これらの学者は誰も、マルクス主義の力強さの構成要素である極端な一面的かつ教義的な方法では、その諸見解を表現しなかった。
 (3) 結果として、マルクスの知的遺産は、Freud のそれと同じ運命のごときものを経験した。
 正統派の信者たちはまだ存在するが、文化的勢力としては無視してよいほどのものだ。一方では、マルクス主義の人文社会学上の知識とくに歴史科学に対する貢献は、一般的でかつ基礎的な主題になってきており、全てを説明すると主張する「システム」とは連関関係がもはやない。
 今では誰も、例えば文学の歴史を研究したり、所与の時代の社会対立に光をあてて描写したりするために、マルクス主義者だと自分をみなす必要はなく、そうみなされる必要もない。そしてまた、人間の歴史全体が階級闘争の歴史だと考えることなく、あるいは、「上部構造」は「土台」から発生する等々のゆえに、「真の」歴史は技術と「生産関係」の歴史であるがゆえに文明の異なる段階にはそれ自体の歴史はない、と考えることなく、研究をすることができる。
 (4) 一定の範囲内で史的唯物論の有効性を認めることは、マルクス主義の真実性(the truth)を承認することと同義ではない。
 その理由はなかんずく、歴史発展の意味は過去を未来の光に照らして解釈してのみ把握することができる、というのが、マルクス主義の最初からの根本的な教理だからだ。
 換言すれば、将来のことに関する何らかの認識を得てのみ、過去と現在を理解することができる、という教理だ。
ほとんど議論の余地はないことだが、マルクス主義は、未来に関する「科学的認識」をもつというその主張がなければ、マルクス主義ではないだろう。そして問題は、そのような認識がどの程度に可能なのか、だ。
 もちろん、予見は多くの学問の構成要素であるばかりではなく、最も瑣末な行動についてすら、予見はその不可分の側面だ。全ての予見には不確実さという要素があるので、我々は過去と同じ方法では未来を「知る」ことはできないけれども。
 「未来」とは、つぎの瞬間に生起することか、100万年のうちに生起するだろうことかのいずれかだ。もちろん、隔たりや問題の複雑さに応じて予見することの困難性は増す。 我々が知るように、社会問題については、短期間に関することですら、また人口動態予測のように単一の定量化できる要素についてすら、予見はとくに当てにならない。
 一般的には、我々は現存する傾向から推定することで未来を予見し、一方ではそのような推定はつねにどこでもきわめて限られた価値しか持たないこと、いかなる分野の探求での発展曲線であっても同じ方程式と曖昧にしか合致しないで伸張すること、を悟っている。 世界規模の、かつ時間の限定のない予知は、もはや幻想であるしかない。提示する展望が善であれ悪であれ。
 長期間にわたる「人間社会の未来」を予見する、あるいは来るべき時代の「社会構成」の性質を予言する、合理的方法などは存在しない。
 このような予見を「科学的に」することができるという観念(idea)は、そしてそうしなければ過去を理解することすらできないという観念は、マルクス主義の「社会構成」理論に固有のものだ。
 これは、その理論が幻想であり、そして政治的には効果的であることの一つの理由だ。
 その科学的性格の結果または証拠であることとは遠くかけ離れたマルクス主義が獲得した影響は、ほとんど全体がその予見的、幻想的かつ非合理的な要素によっている。
 マルクス主義は、普遍的な充足のある理想郷はいままさに近づいてきているということを盲信する教理だ。
 マルクスと彼の支持者たちの全ての予見は、すでに虚偽であることが判った。しかし、このことは、信者たちの霊魂的な確信を掻き乱しはしない。それは、千年王国宗派(chiliastic sect)の場合以上のものだ。なぜなら、いかなる経験上の前提または想定される「歴史法則」にもとづいておらず、確信を求める心理上の必要にたんにもとづいているからだ。
 この意味で、マルクス主義は宗教の機能を果たし、その効用は宗教的な性格をもつ。
 しかし、マルクス主義は滑稽画であり、ニセの形態の宗教だ。宗教上の神話ならば主張することがない、科学的システムとしての一時的な終末論(eschatology)を提示しているのだから。
 (5) マルクス主義とそれを具現化した共産主義、すなわちレーニン・スターリン主義のイデオロギーと実践、の間の連続性について、論述した。
 マルクス主義は今日の共産主義のいわば有効な根本教条だったと主張するのは、馬鹿げているだろう。
他方で、共産主義はマルクス主義がたんに「退化(degeneration)」したものではなく、マルクス主義のありうる一つの解釈であり、ある面では幼稚で偏ってはいるが、根拠が十分にあるものだ。
 マルクス主義は、論理的理由ではなく経験的理由で両立し難いことが判る、その結果として他者を犠牲にしてのみ実現され得る、そのような諸々の価値を結合したものだった。 しかし、共産主義という観念全体は単一の定式で要約することができると宣言したのは、マルクスだった。-すなわち、私有財産の廃棄、未来の国家は中央による生産手段の管理を採用しなければならない。そして、資本の廃棄は賃労働の廃止を意味した。
ブルジョアジーの収奪および工業と農業の国営化は人類の全般的な解放をもたらすということをこのことから帰結させるのは、目に余るほど非論理的だ。
 生産手段を国有化して、その基礎の上に怪物的な虚偽、収奪および抑圧の宮殿を建することが可能だ、ということがやがて判明した。
 このことは、それ自体はマルクス主義の論理的帰結ではなかった。むしろ、共産主義は社会主義思想の粗悪な範型(version)であり、共産主義の起源は、マルクス主義がその一つである多くの歴史的事情と偶然によっている。
 しかし、マルクス主義は何らかの本質的な意味で「歪曲(falsify)」された 、と言うことはできない。
 「それはマルクスは意図しなかった」とは知的にも実践的にも実りのない言辞だということを示す論拠は、今日では加わった。
 マルクスの意図は、マルクス主義の歴史的評価における決定的な要素ではない。そして、子細に見るならば、マルクスは一見そう感じられるかもしれないほどには自由や民主主義といった価値に対して敵対的ではなかったということばかりではなくて、これらの価値に関するもっと重要な議論がある。
 (6) マルクスは、社会の共同性に関するロマン派的理想を継承した。そして共産主義は、産業社会ではあり得そうな唯一のやり方で、すなわち、統治の専制的なシステムによって、それを実現した。
 彼の夢想の起源は、Winckelmann や18世紀のその他の者、のちにはドイツの哲学者たちが一般化したギリシャの都市国家の理想化したイメージのうちに見い出すことができる。
 マルクスは、資本主義がいったん打倒されれば世界全体が一種のアテネの<アゴラ(agora :公共広場)>になることができると想像したように見える。そこでは、機械類や土地の私的所有だけは禁止しなければならず、まるで魔術によるがごとく、人間は利己的であることをやめ、その諸利害は完璧な調和に向けて合致するだろう、というのだ。
 マルクス主義は、いかにしてこの予見が実現されるか、あるいはいかなる理由で生産手段が国有化されれば人間の諸利益が衝突しなくなると考えるのか、に関する説明をしなかった。
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 ②へとつづく。

1841/L・コワコフスキ・2004年合冊版の「新しい緒言」。

 1976-78年に先に(9/01に)試訳を紹介した「緒言」を書いていたL・コワコフスキは、内容は同じ自分の書物=『マルクス主義の主要潮流』について、およそ30年近くのちに、つぎの「新しい緒言」を記した。
 1976-78年と2004年。言うまでもなく、その間には、1989-1991年があった。
 最後の段落以外について、原文にはない、段落ごとの番号を付した。太字化部分は秋月瑛二。
 レシェク・コワコフスキ・2004年合冊版『マルクス主義の主要潮流』の「新しい緒言」。
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 新しい緒言(新しいはしがき、New Preface)。
 1 いまこの新しい版で合冊される諸巻が執筆されてから、およそ30年が経過した。この間に生起した事態は私の解釈を時代遅れの、無意味な、あるいは単純に間違ったものにしたのかどうか。こう問うのは、場違いなことではない。
 たしかに、私は賢明にも、いまでは虚偽だと判断されるような予言をするのを避けていた。
 しかしながら、むしろ、つぎの疑問が、依然として有効なままだ。私の諸巻が叙述しようと試みた精神または政治の歴史について、なおも興味深いものはいったい何なのか。
 2 マルクス主義は、哲学的または半哲学的な教理であり、共産主義国家で正統性と拘束的な信仰の主要な源として用いられた政治的イデオロギーだった。
 このイデオロギーは、人々(people)がそれを信じているか否かに関係なく、不可欠のものだった。
 共産党支配の最後の時期には、それは生きている信仰としてはほとんど存在していなかった。そのイデオロギーと現実の間の懸隔は大きく、共産主義者の楽園という愉しい未来の希望は急速に色褪せていたので、支配階級(換言すれば党機構)と被支配者のいずれも、その空虚さに気づいていた。
 しかし、それは、正確には権力システムの正統性の主要な装置であったために、公式には拘束的なままだった。
 支配者が本当にその人民と意思疎通することを欲したのであれば、支配者は「マルクス・レーニン主義」というグロテスクな教理を用いなかった。むしろ、ナショナリズム感情や、ソヴィエト同盟の場合には帝国の栄光に、訴えかけていた。
 最後には、帝国と一緒にそのイデオロギーは砕け散った。それの崩壊は、共産主義という権力システムがヨーロッパで死に絶えた理由の一つだった。
 3 知的には適切でなかったが抑圧と収奪の装置としては効率的だった複雑な機構が解体した後では、研究対象としてのマルクス主義は永遠に葬り去られたと見えるかもしれない。また、それを忘却の淵から引き摺り出す場所はないように見えるかもしれない。
 しかし、そう考えるには、十分な根拠がない。
 過去の諸観念(ideas)への関心は、その知的な価値や現在にある説得力にもとづくものではない。
 我々はずっと前に死んでいる諸宗教のさまざまの神話を研究するし、もはや信者がいないことがその研究を興味深くないものにするわけでもない。
 宗教の歴史の一部、および文化の歴史の一部としてのそのような研究によって我々は、人類の霊的(spiritual)活動を洞察したり、我々の精神(soul)とそれの人間生活の他の形態との関係を洞察したりすることができる。
 宗教的、哲学的あるいは政治的のいずれであれ、諸観念(ideas)の歴史の洞察は、我々が自分自身を認識するために行う探求であり、我々の精神的かつ肉体的な活動の意味を探求することなのだ
 夢想郷(utopia、ユートピア)の歴史は冶金学や化学工学の歴史よりも魅力的ではない、ということはない。
 4 マルクス主義の歴史に関するかぎりでは、それを研究に値するものにする、追加的で、より適切な理由がある。
 長い間相当の人気を博してきた哲学的教理(マルクス主義の哲学的経済学と呼ばれたものは今日の世界の意味での本当の経済学ではなく哲学上の夢だった)は、全体としては決して死に絶えていない
 それらは言葉遣いを変えているが、文化の地下で生き延びている。そして、しばしば見え難いけれども、なおも人々を魅惑することができ、あるいは脅かすことができる。
 マルクス主義は、19世紀および20世紀の知的伝統と政治史に含まれる。そのようなものとして、マルクス主義は明らかに関心を惹くものだ。際限なく繰り返された、しばしばグロテスクな、科学的理論であるという見せかけの主張(pretension)とともに。
 しかしながら、この哲学は、人類に対する描写できないほどの悲惨と損害をもたらす実際的効果をもった。私有財産と市場は廃棄され、普遍的で包括的な計画に置き換えられるべきだ、というのは、全く不可能なプロジェクトだった。
 マルクス主義教理は人間社会を巨大な収容所へと変形させる優れた青写真だと、19世紀の終わり頃に、主としてアナキストたちによって、気づかれていた。
 たしかに、そのことはマルクスの意図ではなかった。しかしそれは、彼が考案した栄光にみちた、最終的な慈愛あふれるユートピア思想の、避けられない効果(effect)だった。
 5 理論上の教義的マルクス主義は、いくつかの学術上の世界の通路に、その貧しい存在を長くとどめている。
 それがもつ容量はきわめて乏しい。だがしかし、つぎのことは想像に難くない。すなわち、実際には一体の理論としてのマルクス主義との接触を失っているが曖昧ながらも資本主義かそれとも反資本主義かという問題として提示することのできる論争点を探し求める、一定の知的には悲惨だが声高の運動に支えられて、その力を大きくするだろう。
 (資本主義かそれとも反資本主義かという考え方は、決して明瞭ではないが、マルクス主義の伝統に由来していると感じられるようにして採用される。)
 6 共産主義イデオロギーは、死後硬直の状態にあるように見える。そして、なおもそれを用いる体制はおぞましく、したがってその蘇生は不可能であるように見えるかもしれない。
 しかし、このような予言(または反予言)を慌ててしないでほしい。
 栄養を与え、このイデオロギーを利用する社会条件は、まだなお生き返ることがありうる。
 おそらくは―誰にも正確には分からないが―、ウィルスは眠りながら、つぎの機会を待っている
 完璧な社会を求める夢想は、我々の文明に永続的に備わっているものだ。
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 これら三巻は、1968-1976年にポーランド語で執筆された。そのとき、ポーランドで出版することができるとは、夢にも思っていなかった。
 これらはパリで 1976-78年にInstitute Littéraire によって出版され、ポーランドでは地下で複写出版が行われた。
 その次のポーランド語版は、1988年にロンドンで、Aneks 出版社によって刊行された。
 2000年になってようやく、この書物はポーランドで合法的に出版された(Zysk 出版社による)。そのときには、検閲と共産主義体制が消滅していた。
 P. S. Falla により翻訳された英語版は、Oxford University Press により1978年に出版された。
 つづいて、ドイツ、オランダ、イタリア、セルビア、スペインの各語での翻訳版が出版された。
 中国語版が存在すると私は告げられたが、見たことは一度もない。
 二つの巻のみが、フランス語版として出版されている。なぜ第三巻のフランス語版は刊行されていないのか、出版社(Fayard)は説明することができない。私は、その理由をつぎのように推測している。
 第三巻は、出版者があえて危険を冒すのを怖れるほどの憤慨を、フランスの左翼主義者(Leftists)を刺激して発生させたのだろう。
 Leszek Kolakowski /Oxford /2004年7月
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 以上。

1840/M・メイリア・ソヴィエトの悲劇(1994)とL・コワコフスキ。

 マーティン・メイリア(白須英子訳)・ソヴィエトの悲劇-ロシアにおける社会主義の歴史 1917-1991/上・下(草思社、1997年)。
 =Martin Malia, The Soviet Tragedy – A History of Socialism in Russia, 1917-1991(New York, 1994).
 この本には、数度言及したことがある。但し、書名にも見られるようにロシア革命期またはレーニン時代に対象範囲が限られていないこともあって、つねに座右に置いてきたわけではない。
 だがそもそも、こういう本が草思社によって日本語となって、つまり邦訳書として出版されていること自体が、素晴らしく、価値のあることだ。日本の邦訳書出版業界の全体的状況を考えるならば。
 最近にこの著に関連して、というよりも正確にはレシェク・コワコフスキに対する関心から出発して、この著について二点触れたくなった。
 第一は、私はどういう経緯でL・コワコフスキの、とくに『マルクス主義の主要潮流』の存在を知り、原著を注文するに至ったのだったか、だ。
 この点ははっきりしない。あるいは、福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2016)による参考文献または注記一覧がきっかけだったかもしれない。この本に挙げられている洋書のうちロシア革命、レーニン・「ネップ」に関連していて入手できそうなものを手当たり次第に?注文していた時期があったように記憶する(日記はないので確言し難いが)。現時点のようにはロシア革命、レーニン・「ネップ」に関する知識自体をもっていなかった頃の話だ。
 マーティン・メイリア=白須英子訳・ソヴィエトの悲劇/上巻(草思社、1997年)によると、「はじめに」の後の第一章、したがって本文では冒頭の章全体の注記(原著者=メイリアによる)のさらに最初に、こうある。
 「数あるマルクス主義的思考の評価のなかで群を抜いて重要なのは、Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, 3. Vols., trans. O. S. Falla (Oxford: Clarendon Press, 1978) である。本書も広範囲にわたってこの本から引用している」(訳書446頁。なお、上の原著p.525)。
 この部分にかつて気づかなかったはずはなく、これによってLeszek Kolakowskiの名を知った可能性はある。しかし、もっと多数の後注の、数行にわたってKolakowskiの著と頁数が記載されていた洋書を見たような記憶もある。
 なお、M・メイリアの本は頻繁にL・コワコフスキを「引用」してはいない。しかし、M・メイリアがL・コワコフスキの影響を受けていると感じたことはある。
 それは、―日本共産党とは違って―「ネップ」期の叙述をレーニン時代末期に位置付けるのではなく、むしろスターリン期の冒頭に位置付けていることだ。詳細は他の点も含めて省くが、このあたりの<時期区分>、つまり歴史叙述の体系的区割りが、M・メイリアのそれはL・コワコフスキのそれに似ているか同じだ、と感じたことがある。
 第二に、上記邦訳書/下巻にある長谷川毅「解説」の中に、つぎの文がある。
「この著を理解するうえで最も重要なキーワードは、翻訳不可能な『ソヴィエティズム』という言葉である。『ソヴィエティズム』とは、ポーランドの哲学者クワコフスキーによって用いられた造語であり、…」(訳書・下巻348-9頁)。
 憶えがないのでM・メイリアの本の邦訳書を捲ると、「本書の刊行に寄せて」(原書では、Preface。その後にある「はじめに」(原書ではIntroduction)とは区別される)の第三段落冒頭にこうある。
 「まず最初に、七十四年間にわたってひとつの制度として機能してきたソヴィエティズムの誕生から終焉のまでの経緯を述べる」(訳書9-10頁、原書ix)。
 訳書にはすでに「ソ連共産党方式。詳しくは下巻巻末の解説を参照」という挿入注記が入っているのだが、小なくともこの辺りではまだ、M・メイリアはL・コワコフスキの名前を出してはいない。
 L・コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』の原書の索引(Index)を見てみたが、Sovietism という項・言葉は出ていないようだ。
 むろん、長谷川毅のM・メイリア著やL・コワコフスキの理解を疑っているのではない。それぞれ、そのとおりなのだろう。
 むしろ、今のところ確認はできなかったが、L・コワコフスキの造語である「ソヴィエティズム」をキーワードとしてM・メイリア著は書かれている、またはそれを「最も重要なキーワード」とすればM・メイリア著はよく理解できる、と長谷川が書いていることが興味深い。
 長谷川毅はアメリカ在住のアメリカの学界の中にいる学者・研究者なので、<容共性が異様に高い>日本国内にいる、日本の学界・論壇・出版業界からの「自由」性は(相対的にかなり)高いだろう。そう推測できそうに思える長谷川の言葉なので(なお、長谷川自身の書物や訳書を一瞥したことはある)、信頼性は高い。
 なお、第一に、長谷川かそれとも訳者・白須英子のいずれの発案?か分からないが、「レシェク・コワコフスキ」は、「レシュチェク・クワコフスキ」と表記されている。
 ひょっとすれば、こちらの方が実際の発音には近いのかもしれない。これまでどおり、「レシェク・コワコフスキ」とこの欄では記していくけれども。
 第二に、これまで試訳してきた人物・学者との関連でいうと(少しは言及したことがあるが)、長谷川「解説」にもあるようにM・メイリア(1924~2004)はリチャード・パイプス(1923~2018)とHarvard 大学(大学院)の同窓で、メイリアはカリフォルニア大学バークレー校の、パイプスはハーヴァード大学の、ともにロシア(・ソ連)史専門の教授だった。
 M・メイリアの文章の中に、R・パイプスの主張・議論を意識してあえて違いを述べているような部分もある。
 しかし、日本では<反共・右翼>とすぐにレッテル貼りされてしまいそうなほどに、二人とも<共産主義>・<ソヴィエト体制>に対してはきわめて冷静なまたは厳しい立場を採る。
よくは知らないが、この二人がHarvard と Berkeley の教授だったということ自体で、この二人のような説・考え方がアメリカ合衆国で異端またはごく少数派でなかったことを示すだろう。
 そして、J. E. Haynes と Harvey Klehr の本を原書で一瞥して初めて知ったことだったが、上の長谷川「解説」も言及しているように、大雑把にいって、レーニン、スターリンにある「全体主義」性または一貫した「ロシア・ソ連的共産主義」性を認めるのこそが<正統>で、これに反対するまたは疑問視したのがアメリカ社会科学または歴史学の「修正主義」派だとされるらしい(少なくも有力な理解の仕方では)。
 日本の、または日本に関する「歴史認識」でいう「修正主義」とは方向が反対だ。
 こう見ても、「ソヴィエティズム」、Sovietism の意味はほぼ明らかだろう。
 これはマルクス主義と同じではないことは勿論のこととして、マルクス・レーニン主義でもない(当たり前だがトロツキズムではない)。そして、あえて秋月が造語すれば、<レーニン=スターリン主義(体制)>とでも表現できるものだ、と考えられる。
 長谷川「解説」にはその中身に関する10行以上の説明があるのだが(下巻349頁)、引用は省略する。
 このような言い方が、日本の「政治」組織・運動団体・政党である日本共産党にとって<きわめて危険>なものであることは言うまでもない。

1839/レシェク·コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流の全巻「緒言」。

 レシェク·コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(ポーランド語、1976年)はフランス・パリで刊行され、翌1977年に原語からの直接訳として第一巻のドイツ語版が出版された(R.Piper & Co. Verlag, München & Zürich)。同じくハード・カバーで原語からの直接訳である英語版の第一巻はさらにその翌年の1978年に出版された(Clarendon Press・Oxford University Press)。
 これらには、第一巻以降の各巻の序言(Einleitung, introduction)とは別の、全巻を想定した「緒言(はしがき)」(Vorwort, Preface)目次(Inhalt, contents)よりも前に付されている。
 以下は、その試訳。ドイツ語版で最初に粗い翻訳をし、のちに英語版も含めた両者を見ていちおう確定した。
 少しは原文が違うのではないかと感じるほどに、文法構造や単語が異なっている部分もある。但し、基本的な趣旨が変わっているわけではないだろう。
 一文ごとに改行する。改行があるまでの各段落には、原文・独英訳書にはない番号((1)~)を付けた。
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 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(ドイツ語1977年, 英語1978年)。
 緒言(はしがき、Vorwort, Preface)。
 (1) 一冊の教科書を書くのが私の意図だった。
 こう言っても、私独自の見解、志向や解釈原則から自由に、争う余地のない方法でマルクス主義の歴史を叙述するのに私は成功した、という馬鹿げた主張をしているのではない。
 私はそれでただ、緩みのある論考の形でではなく、私の見解と一致するかどうかとは関係なく、この主題への手引きを探している全ての人々が利用できる重要な事項を含み込むことが可能な方法で叙述するよう努めた、ということを意味させている。
 私はまた、叙述の中に私の論評を隠し込むのではなく、私自身の見解を別の、明瞭に画定された文章部分で提示するように意を尽くした。
 (2) 当然のこととして、ある著者による素材の提示、主題の選択について、また多様な思想、事象、人物や著作物に付着させる相対的な重要性について、その著者の見解や志向が反映されるのは避けられない。
 しかし、政治史、思想史であれあるいは芸術史であれ、かりに全ての事実の提示は著者の個人的な見解によって歪められ、実際に多かれ少なかれ恣意的に構成されたものだとすれば、したがってまた歴史的説明なるものは存在せずたんに一連の歴史的評価のみがある、ということを最初から前提にするとすれば、いかなる種類の歴史的手引書を編成することも、全く不可能だろう。
 (3) この書物はマルクス主義の歴史、すなわちマルクス主義という一つの教理(Lehre, doctrine)の歴史、を叙述する試みだ。
 社会主義思想の歴史ではなく、この教理を多様な版型で独自のイデオロギーとして採用した政治的党派や運動の歴史でもない。
 強調する必要がないことだが、こうした区別は単純には貫徹できない。とりわけ理論家や思想家の作業と政治的な闘争の関係が明白でありかつ緊密であるために、マルクス主義の場合には微妙だ。
 それにもかかわらず、いかなる主題に関する著作者も、完全には自己充足的でも自立してもいない分離した断片を「生きている全体」から切り出すことを余儀なくされる。
 これが許されないとすれば、全てのものが何らかの態様で結びついている限り、我々はもっぱら世界史を記述すればよいことになるだろう。
 この書物に教科書たる性格を付与するもう一つの特徴は、教理の発展とその政治的イデオロギーとしての機能の間の関係をさし示す基礎的事実を、可能なかぎり簡潔にだが示した、ということだ。
 全体が、私の注釈の付いた説話だ。
 (4)  論争の対象ではないマルクス主義の解釈にかかわる問題は、ほとんど一つも存在しない。
 私はそうした議論のうち最も重要なものに着目するよう努めた。だが、著作を研究してその見解や解釈に私は与しない全ての歴史家や論評者の見解を詳細に分析しようとすれば、この書物の射程をすっかり超えてしまうだろう。
 この書物は、特別に新しいマルクス解釈の提示を主張するものではない。
 私のマルクスのテキストの読み方が他の解釈以上に多くルカチ(Lukács)の影響をうけたことも、容易に気づかれるだろう(このことは、私がルカチのマルクス理解に縛られていることを意味しない)。
 (5) 看取されるだろうように、この書物は単一の原理でもって小区分されてはいない。
 自己充足的な全体の一部として特定の人物または志向を叙述することが必要だと思われる場合には、純粋に年代的な叙述編成に執着するのは不可能だということが分かった。
 個別諸巻へのこの書物の区分けは基本的には年代史的だが、しかし、この点でも私は、マルクス主義の異なる傾向を分離した主題としてできるかぎりの範囲で論述するために、ある程度は一貫性が欠けるのを自らに許容せざるを得なかった。
 (6) 第一巻の最初の草稿を、私は1968年に書いた。その年、ワルシャワ大学での講座職から離れた後で利用できた自由な時間を活用した。
 数年のちに、この巻について多数の補足、訂正および変更が避けられないことが判った。
 私は第二巻を1970年から1973年までに、第三巻を1975年から1976年までに書いた。Oxford の All Souls College が与えてくれた研究員たる地位を利用した。そして、この研究員たる特権的地位なくしてはこれらの諸巻を書けなかっただろうことは、ほとんど確実だ。
 (7)  この書物は、委細を尽くした文献目録を含んではおらず、出典や主要な注釈書を参照したい読者のために言及だけを行っている。
 私が言及している諸著作の中に、今日では個々の読者が理解するには残念ながらもはやあまりに広範囲すぎる文献への参照を見出すのはどの読者にも容易だろう。
 (8)  私の二人のワルシャワの友人、思想史学者のAndrzeji Walicki 博士と数学者のRyszard Herczynski 博士は、第二巻の草稿を読んでくれた。多数の有益で批判的な言及と刺激について、二人に感謝する。
 全体の原稿は、私の他には、職業は医師であり精神科医である私の妻、Tamara Kolakowska 博士だけが目を通した。
 私が執筆する全てと同じように、この書物もまた、彼女の批判的な読み方と冷静な理解力にきわめて多くを負っている。
 Leszek Kolakowski
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 以上。

1834/T・ジャットによるL・コワコフスキ死後の追悼文。

 産まれて、生きて、死んでゆく。
 In the long run, we are all dead. 長く走ったあと、人はみんな、死んでいる。
 TONY JUDT の最後の著作である、つぎの書物の第5部は "In the Long Run, We Are All Dead." と題され、 Francois Furet (1927-1997, フランソワ・フュレ)、Amos Elon(1926-2009)およびLeszek Kolakowski (1927-2009, レシェク・コワコフスキ)という三人に対する追悼文で成っている。
 Tony Judt, When the Facts Change, Essays 1995-2010 (2015) .
 このうちL・コワコフスキに対するものはすでにこの欄で「哀惜感あふれる」印象的な文章だとコメントをしたことがあった。
 いずれきちんと日本語文に訳してみたいと思っていた。
 S・フィツパトリクの英語文だけ読んでいると別の人の文章も読みたくなる。
 R・パイプスやL・コワコフスキの文章を一瞥しているうちに、L・コワコフスキに関するTony Judt の追悼文を思い出した。
 (S・フィツパトリクの本の試訳は丸数字のある⑳回で完結させるべく続ける予定だ。)
 この追悼文は上の著全体の最後に位置づけられており、この欄で再度別に叙述するかもしれないが、公にされるTony Judtの<絶筆>であった可能性もある。この人は<自分の近づく死>については微塵も語っていないが、10年以上前のフランソワ・フュレの追悼文とは、かなり雰囲気又は叙述の仕方が違うように感じなくはない。実際に約1年後に、T・ジャットも逝去する。
 また、この文章は、Tony Judt が全身の麻痺のために口述しかできないときに書かれている。口述文章を妻や助手たちが文字入力を助けて、原稿にしたらしい。
 上のことは、以下の「追悼文」を書いたTony Judt の上の本の編者であり妻だった Jennifer Homans の序文に書かれている。この序文はまた、亡夫Tony Judtに対する「追悼文」にもなっている。
 こうした背景も知るだけでもいささかの心理的負担を感じる。さらに、ふつうの歴史叙述等でもない、故人に関する人格的な思い出・感想や評価が内容であるだけに、訳出は必ずしも容易ではなく、英語の言葉や文章を日本語に置き換える作業をしていて、何か重要な意味やニュアンスがつぎつぎと逃げ去っていくような感覚を拭い難い。
 しかし、このようなL・コワコフスキへの<追悼文>が存在していることだけでも、日本では知られてよいだろうと思われる。
 また、お互いの面識関係はなかったと思われる人物について、元来はヨーロッパ戦後史の歴史研究者で、<戦後フランスの左翼>をとくに専門分野としていたTony Judt が、L・コワコフスキについてこれだけの文章を書くことができるということから(あるいはマルクス主義や宗教等にも幅広い関心と知識をもつことから)、日本にはおそらく稀少な、「アメリカ」(これには注釈が要るが省略)にいる知識人の一種の<すごさ>を感じてもよいと思われる。
 以下、全体の試訳の紹介。//は本来の改行箇所。<>はイタリック体になっている部分。
 なお、以下の文章の最後に、「この論考はThe New York Review of Books の2009年9月号に最初に発表された」との注記がある。
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 レシェク・コワコフスキ(1927-2009)。//
 私は一度だけ、コワコフスキの講演を聴いた。
 それは1987年、Harvard でのことで、そのとき彼は、故Judith Shklar が教えていた政治理論の演習のゲストだった。
 <マルクス主義の主要潮流>はその近年にイギリスで刊行されていて、彼はきわめて高名だった。
 あまりに多数の学生たちが彼の話を聞きたかったので、講演場所は大きな公共の講堂に移され、客員たちは出席するのが許された。
 私はたまたまCambridge 〔Harvard 大学のある町〕にある会合のために来ていて、何人かの友人たちと一緒に続いた。//
 誘惑するごとく示唆的なコワコフスキの話のタイトルは、『歴史における悪魔』(The Devil in History)だった。
 しばらくの間は、学生、教授および聴衆たちが集中して聴いていて、静かだった。
 コワコフスキの著作はそこにいる多くの者によく知られていて、彼の反語や厳密な推論への強い嗜好には馴染みがあった。
 しかし、そうであっても、聴衆には明らかに、彼の論述に付いていくのが困難になった。
 いくらそう努力しても、彼の暗喩を解読することができなかった。
 多大な困惑の雰囲気が、講堂を覆い始めた。
 そのときだった。話の三分の一くらいのとき、私の隣にいた友人-Timothy Garton Ash-が凭りかかってきた。
 彼は、囁いた。『分かった。いま本当に、彼は悪魔について語っている』。
 そして、コワコフスキは実際にそうだった。//
 悪というものをきわめて真剣に考察するというのは、レシェク・コワコフスキの知的な軌跡の際立つ特質の一つだった。
 彼の見解によると、マルクスの前提命題の過ちの一つは、全ての人間の欠点は社会環境に根ざしている、という観念だった。
 マルクスは、『対立や憤激の源には人間という種の永遠の特性に固有のものがいくつかあるという可能性を、完全に見落とした』。(1)
 あるいは、彼がHarvard での講演でつぎのように表現したように。すなわち、『悪は…、偶発的なものではなく…、頑強な、くつがえすことのできない(unredeemable)事実だ』。
 ナツィによる占領とそれに続くソヴィエトによる支配を生き抜いたレシェク・コワコフスキにとって、『悪魔とは我々の経験の一部だ。極めて深刻に受け取るべきメッセージとして、我々の世代はそれを十分に見てきた』。(2)//
 近日の81歳でのコワコフスキの逝去の後に書かれた多くの追悼記事は、みな揃って、この人物のこの側面を惜しんだ。
 これは何ら、驚くべきことではない。
 世界の多くがまだなお神を信じ、宗教的慣習を行っているにもかかわらず、西側の今日の知識人たちや評論家たちにとって、信仰を明らかにするという考えには心が落ち着かないところがある。
 宗教に関して大っぴらに議論すると、自惚れに満ちた拒絶(たしかに『神』は実在しない。だがともかく、全ては神に原因がある)と盲目的な忠誠の間の不愉快な気分が突然に生じてしまう。
 コワコフスキのような才幹をもつ知識人かつ研究者が宗教や宗教的思想ばかりではなくまさに悪魔それ自体を真剣に考察した、というのは、そうでなくともこの人物を尊敬している人々にとってはミステリーであり、無視してしまいたいことだ。//
 コワコフスキの視野の射程はさらに、つぎのことでさらに複雑になっている。すなわち、公的な宗教(とくに彼自身のカトリック教)を無批判に特効薬だと見る考え方に懐疑的で距離を置いたこと、および宗教思想史の研究者としての卓抜さ(3) と同等に唯一の国際的に高名なマルクス主義研究者だ主張しうる彼の独特の地位によって。
 キリスト教の教派やその文献に関する研究でのコワコフスキの専門知識は、原典の権威が階層的構造のある大小の聖典をもち、異端的反対者もいるという、宗教的根本教条としてのマルクス主義に関する彼の影響力ある論述に、深さと痛烈さを加えている。
 レシェク・コワコフスキがOxfordの同僚たちや中央ヨーロッパの友人であるIsaiah Berlin(I・バーリン)と共有しているのは、全ての教条的な確信に対する、迷妄から離れた懐疑であり、政治的または倫理的な全ての意味を維持するための代償の必要性を承認することを哀しみをもって主張する点だ。すなわち、経済活動の自由が安全確保のために制限されるべきであることや、貨幣が自動的にさらに多くの貨幣を生み出すべきではないことには十分な根拠がある。
 しかし、自由の制限は厳密にそのようなことのために導入されるべきであって、より高次の自由の制限は導入されるべきではない。(4)//
 彼は、20世紀史の初めに急進的な政治改革は道徳的または人間的犠牲をほとんど払わずしてなされ得ると想定した者たち、あるいは、その対価は重要であったとしても、将来の利益のためには無視することができると想定した者たちには、ほとんど我慢することができなかった。
 一方で彼は、人間の永遠の真実を獲得すると偽って主張する全ての単純な定理に対して、一貫して抵抗した。
 他方でまた、それらがいかに不便なものであったとしても、人間の態様に関する自明の一定の特質はあまりに明白であって無視してよいものと見なした。//
 『我々は多くの陳腐な真実を示唆することに強く反対する、ということは何ら驚くべきことではない。
 こうしたことは全ての知の領域で生じていることで、それは人間生活に関する自明なことのほとんどは不愉快なものだからだ。』(5) //
 しかし、このような考察は反動主義者または静寂主義者の反応を意味しているわけではない-そして、コワコフスキにとってもそうでなかった。
 マルクス主義は、世界史の範疇での過ちだったかもしれなかった。
 しかし、だからと言って、社会主義は完全な厄災だった、ということになるわけではなかった。また、我々は、人間の条件を改良すべく働くことができないとか働くべきではないとかの結論を導く必要はなかった。//
 『正義、安全保障、教育の機会、福祉および貧者や無力者への国家の責任の向上または拡大をもたらすために西側ヨーロッパでなされてきたことが何であれ、それらは全て、社会主義イデオロギーと社会主義運動なくしては達成されることができなかった。未熟さや錯覚が多くあったとしても。…
 過去の経験が語ることは、一部は社会主義に味方し、一部は社会主義に反対している。』//
 社会の現実の複雑性に関するこの用心深い均衡のとれた評価-『人間の友愛は政治綱領としては災悪だが誘導する標識としてはなくてはなない』-はすでに、彼の世代の多くの知識人への接点にコワコフスキを位置づけるものだ。
 東でも西でも同様に、人間の改良には無限の可能性があるという過度の自信と、進歩という観念を未熟なままで放棄することの間で揺れ動くということが、いっそう共通の傾向になっている。
 コワコフスキは、この特徴的な20世紀にある見解の隔絶の筋違いに位置していた。
 彼の考えでは、人間の友愛は、『構成的観念というよりはむしろ調整的な観念』のままだ。//
 ここで得られる示唆は、我々が今日に社会的民主主義(social democracy)、あるいは大陸の西欧ではキリスト教民主主義の仲間たちと行っている一種の実際的な妥協だ。
 もちろん、今日の社会的民主主義はあまりにも偏愛されすぎて、敢えてその名前を出しはしないものだ、ということは別として。
 レシェク・コワコフスキは、社会的民主主義者(Social Democrat)ではなかった。
 しかし彼は、一度ならず、その時代の現実の政治史に批判的に関与した。
 共産主義国家の初期の時代に、コワコフスキは(まだ30歳でもなかったけれども)ポーランドでの指導的なマルクス主義哲学者だった。
 1956年以降、全ての批判的見解が遅かれ早かれ排除されることが運命づけられている地域で、異端的な思想を形成し、明瞭に唱えた。
 1966年に、ワルシャワ大学の哲学史の教授として、人民を裏切ったと共産党を強く非難する、有名な公開講演を行った。-これは、党幹部である自分の地位にかかわる、政治的勇気のある行為だった。
 予期されたごとく、彼は二年後に、西側へと追放された。
 コワコフスキはその後、国内にいる若い世代の反対派たちのための生き字引および目印として貢献した。彼らは、1970年代半ばからポーランドの政治的反対派の中核を形成することとなり、連帯(Solidality)運動を後援する知的エネルギーを提供し、1989年には現実の権力を握った。
 レシェク・コワコフスキはかくして、完全に知的に(知識人として)関与(engage intellectual)していたのだ。「関わり(engagement、アンガージュマン)」という偽善と虚栄を侮蔑していたにもかかわらず。
 第二次大戦後の世代の大陸ヨーロッパ人の思考では多く語られて理想化されていた、知識人の関与と「責任」は、コワコフスキには本質的に空虚な観念だった。//
 『知識人たちにはなぜ、特有の責任があるのか、なぜその他の人々とは異なる責任があるのか。そして、それは何を目的として? <中略>
 責任というたんなる感情は、それ自体は何の特有の義務意識も帰結しはしない形式上の美徳だ。すなわち、善の教条についても、悪の教条についてと同様に責任を感じることが可能なのだ。』
 この単純な考察は、フランスの実存主義者やそれのアングロ・アメリカンの崇拝者たちにはほとんど想いつかないもののように思える。
 他の点では責任感をもつ知識人がイデオロギー的確信および道徳的な一方的普遍主義の利益と同様にその対価(the cost)をも完全に理解するためには、完璧な悪の(左であれ右であれ)目標の魅力を生身で体験してみる必要があった、ということかもしれない。//
 上のことが示唆するように、レシェク・コワコフスキは、ハイデッガー、サルトルおよびこれらの追随者がとくに引き合いに出される、今日の学界での言葉遣いで通常は言われる意味でのふつうの「大陸哲学者」ではなかった。
 しかしまた、彼は、第二次大戦後に圧倒的に英語を用いる諸大学で見られるアングロ・アメリカンの思考方法と相当に共通していたのでもなかった。-このことは疑いなく、Oxford での彼の孤立と無視を説明するものだ。(7)
 カトリック神学に対する生涯にわたる疑問は別として、コワコフスキに特有の見方の射程は、認識の世界によりも、おそらくはむしろ十分に、体験に求められる。
 その最高傑作の著書の中で彼自身が観察したように、『あらゆる環境要因は、世界観の形成につながる。そして、<中略> 全ての現象は、尽きることのない無数の原因によるものだ。』(8)//
 コワコフスキ自身の場合は、無数の原因の中に、第二次大戦およびその後に続いた共産主義の厄災の歴史時代だけではなく、その厄災の数十年をくぐり抜けたポーランドの、そのまさに独特の環境が含まれている。
 というのは、コワコフスキの独自の思考が正確にいずこに向かうのかはつねに明白では必ずしもないけれども、その思考が「いずこにも存在ない場所」から生じたのでは決してない、ということは完璧に明瞭だからだ。//
 現代ヨーロッパ哲学者のうちで最も国際主義者(コスモポリタン)-主要な5カ国語とそれに付随する諸文化に習熟していた-であり、20年間以上国外に移住していたが、コワコフスキは決して「根なし草」ではなかった。
 例えばEdward Said (E・サイード)とは対照的に、彼は、あらゆる形態の共同体への忠誠を拒絶するというのは信義上可能であるのか、と問うた。
 どこかにいなくとも、どこかの外に完全にないときでも、コワコフスキは先天(居住民)主義の感情に対する終生の批判者だった。
 だがなお、彼の母国では称賛された。正しく、そうされた。
 骨格としてはヨーロッパ人だが、コワコフスキは汎ヨーロッパ主義者のナイーヴな幻想に対して公平な懐疑心をもって問い糾すことを決してやめなかった。汎ヨーロッパ主義者の同質化願望は、かつての時代の恐ろしい夢想家的ドグマを彼に思い起こさせるものだった。
 多様性は彼には、それがそれ自体で目標として偶像視されないかぎりでは、より慎重な主張であり、明確なナショナルな自己帰属意識(national identity)の維持によって確実にされることができるものであるように思えた。(9)
 コワコフスキは独特(unique)だったと結論づけるのは易しいだろう。
 アイロニー、道徳上の真剣さ、宗教的感性と認識論的懐疑主義、社会的関与と政治的疑念。彼がこれらの独特の混合体であるというのは、きわめて稀少なことだ。
 (彼は驚くべきほどにカリスマ性をもっていたことは語っておくべきだ。どのような集まりでも故Bernard Williams と同じ強さの磁力を発揮していた。同じ理由がいくつかあったからだ(10))。
 しかし、この理由によってこそ-カリスマ性も含めて-、彼はまた、まさに独特な血統の線上にしっかりと立っていた。
 彼がもつ完璧な広さの教養と知識、引喩家ぶり、迷妄なき機知、匿い場所となった好運な西側諸国の学問的偏狭さを辛抱強く受容したこと、いわば運命のいたずらによって明らかになる彼の特質を刻印したポーランドの20世紀の体験と記憶。これら全てが、亡きレシェク・コワコフスキを真の-おそらくは最後の-中央ヨーロッパ知識人だと識別(identify)させる。
 1890年と1930年の間のに生まれた男女二世代の人々にとって、20世紀の中央ヨーロッパに独特の経験は、ヨーロッパ文化の洗練された都市的中心地帯での多言語を用いる教育から成り立っていた。それは、全く同一の中心地帯(heartland)での独裁、戦争、占領、破滅、そしてジェノサイドという経験によって砥がれ、踏みつけられ、加えられたものだった。//
 正気のある人間ならば誰でも、このような心情的教育が生んだ思索と思想家の特性を正確に追体験するだけのためにのみ、この経験を繰り返したいとは望まないだろう。
 失われた共産主義東ヨーロッパの知的世界への郷愁を語ることは少しばかり不愉快なことだが、それ以上の何かがある。それは、他国民の抑圧による犠牲者に対する遺憾の想いと心地よくなく似たものによって覆われている。
 しかし、レシェク・コワコフスキが明瞭に主張した最初の人物だっただろうように、中央ヨーロッパの20世紀の歴史とその驚くべき知的な豊かさの間の関係は、それにもかかわらず、存在した。
 このことを、簡単に忘却することはできない。//
 生み出したものは、Judith Shklar が別の文脈でかつて「恐怖のリベラリズム」だと表現したものだった。すなわち、イデオロギーの過剰の結果を生身で経験したことで生じた、妥協せずして理性や穏健さを守ろうとすること。
 大厄災がある可能性を絶えず意識していること、好機または再生だと誤解されるときには最悪の形態をとる、自在に変幻する多様さのある全体支配的(totalizing)思考への誘惑についてのそれ。
 20世紀の歴史の軌跡で、<これ>こそが中央ヨーロッパの教訓だ。
 我々に幸運があるならば、これをしばらくの間は再び学ぶ必要はないはずだろう。そうするときには、それを教えてくれる人物が周りにいるだろうという希望をもつのがよい。
 そのときまで、我々は、コワコフスキを何度も読み返すだろう。//
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 (1) "The Myth of Human Self-Identity", L・コワコフスキ=S・Hampshire 編<社会主義の思想>(New York, Basic Books, 1974)所収、p.32. *
 (2) L・コワコフスキ「歴史における悪魔」<My Currrent Views on Everything>(South Bend, IN, St. Augustine's Press, 2005)所収、p.133.
 (3) 宗教思想史へのコワコフスキの接近方法を代表的に実証するものとして、例えば、<God Owes Nothing: パスカルの宗教とヤンセン主義の精神に関する簡単な論評>(Chicago: University of Chicago Press, 1995)を見よ。コワコフスキが20世紀のPascalian で、慎重に、忠誠ではなくて理性を重視していることは多くを語る必要がないだろう。
 (4) L・コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>(Chicago: University of Chicago Press, 1990)、p.226-7.
 (5) L・コワコフスキ=S・Hampshire 編<社会主義の思想>、p.32.
 (6) L・コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>、p.144.
 (7) いたる所で、彼の功績は広く承認されている。1983年にエラスムス賞が授与された。2004年に彼は、20年前にそこでのジェファーソン講演者だった国会図書館(the Library of Congress)のクルーゲ賞の第一回の受賞者だった。三年後に、イェルサレム賞を授与された。
 (8) L・コワコフスキ<マルクス主義の主要潮流, 第三巻: 瓦解>(New york: Clarendon Press, Oxford University Press, 1978)、p.339.Leon Wieseltier がこの言及部分を思い出させてくれたことに感謝している。
 (9) コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>、p.59.Edward Said について、<Out of Place: A Memoir >(New York, Vintage, 2000)を見よ。
 (10) Cambridge での講演の後の彼を祝してのパーティのとき、私は深い敬意と多大な羨望をもって、ほとんど全ての若い女性たちが、すでに疲れていて杖で支えられていた60歳の老哲学者のいるコーナーへと部屋を移り歩いているのを、眺めていたことを想い出す。彼は、彼女たちの尊敬の眼差しの前で、会話を仕切っていた。完璧な知識がもつ磁場的な魅力というものを、決して低く評価すべきではない。 
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 以上

1833/日本の邦訳書出版業界の<左傾>ぶりの一例。

 エリック・ホブスボーム著の邦訳書の多さは、驚くべきほどだ。
 以下は、私が知ることのできた全てではない。面倒になったのでかなり省略した。一部にすぎない。
 E・ホブスボーム・反抗の原初形態―千年王国主義と社会運動/青木保訳(中公新書、1971) 。
 E・ホブスボーム・匪賊の社会史―ロビン・フッドからガン・マンまで(グループの社会史〈3〉)/斎藤三郎訳(みすず書房、1972)。
 E・ホブスボーム・革命家たち―同時代的論集〈1〉/斉藤孝他訳 (未来社、1978)。
 E・ホブスボーム・イギリス労働史研究/鈴木幹久訳(ミネルヴァ書房、 改訂版1984)。
 E・ホブスボーム・市民革命と産業革命―二重革命の時代/水田洋他訳(岩波書店、1989/6)。
 E・ホブスボーム・帝国の時代 1―1875-1914/野口建彦等訳(みすず書房、1993/1/9)。
 E・ホブスボーム・帝国の時代 2―1875-1914/野口建彦等訳(みすず書房、1998/12/9)。
 E・ホブスボーム・20世紀の歴史―極端な時代〈上巻〉/河合秀和訳(三省堂、1996/8)。
 E・ホブスボーム・20世紀の歴史―極端な時代〈下巻〉/河合秀和訳(三省堂、1996/8)。
 E・ホブスボーム・わが20世紀-面白い時代/河合秀和訳(三省堂、2004/7 )。
 E・ホブスボーム・破断の時代―20世紀の文化と社会/木畑洋一等訳(慶應義塾大学出版会、2015/3/21 )。
 E・ホブスボーム・いかに世界を変革するか―マルクスとマルクス主義の200年/水田洋監修(作品社 、2017/10/31 )
 E・ホブスボーム・20世紀の歴史-上/大井由紀訳(ちくま学芸文庫、2018/6/8)。
 E・ホブスボーム・20世紀の歴史-下/大井由紀訳(ちくま学芸文庫、2018/7/6)。
 E・ホブスボーム・資本の時代 1<新装版>/柳父國近等訳(みすず書房、2018/7/10)。
 E・ホブスボーム・資本の時代 2<新装版>/松尾太郎等訳(みすず書房、2018/7/10)。
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 上に比べて、日本でのレシェク・コワコフスキ、リチャード・パイプス、シェイラ・フィツパトリクの著書の翻訳書・邦訳書発行状況はどうだろうか。
 日本には日本の<ある勢力>にとって有益な外国文献は多く翻訳されるが、<危険な>書物はほとんど発行されない、という事実を、上のようなE・ホブスボーム著の扱いは強く実証しているように思える。
 レシェク・コワコフスキの主要著<マルクス主義の主要潮流>は40年間以上経っても邦訳されなかった。
 リチャード・パイプスのロシア革命に関する二巻の大著は、1990年以降にPaperback 版があるが、邦訳されていない。
 堅実な歴史叙述が見られる、最近この欄で試訳を紹介している、シェイラ・フィツパトリク(女性)のロシア革命(最新版2017年)は(および他のこの人の著書も)、いっさい邦訳されていない、と見られる。
 欧米語文献が(かりにフランスやドイツには流通していても)日本に十分に流通しているわけでは全くないことを、日本の「知的」または「情報」産業界にいる人々は、強く意識しておかなければならない、とあらためて強く感じる。
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 Tony Judtはつぎの遺稿論考集の冒頭のエッセイ(論考)で、E・ホブスボームをとり上げている。この人名義の最後の刊行物だ。
 Tony Judt, When the Facts Change, Essays 1995-2010.(edited & introduced by Jennifer Homans)
 明記されているように(その前の論考集でもTony Judt が記していたように)、エリック・ホブスボームはlife-long つまり、終生の、又は生涯にわたる「イギリス共産党員」だった。
 そのような人物の「歴史叙述」がマルクス主義の影響を受けていないはずはなく、この人を<20世紀最大の歴史家>などと喧伝しているようである上記の日本の出版社または翻訳者は、欺されているか、自分たちは知りながら、日本の読者を欺しているのだ。あるいは、日本の読者自体が、無意識にでも<容共>なのだ。
 以下、一部だけ、試訳して引用する。//は本来の改行箇所。
 最近にこの欄に名前を出したクリストファ・ヒルとエドワード・トムソンの名も出てくる。
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 エリック・ホブスボームが「短い20世紀」を扱う第四巻を加えるのを選んだのは驚きだった。
 彼が序文で「私はこれまでほとんど、1914年以降の時代について仕事をするのを避けた」と認めるとき、このような回避によくある理由を提示していた。すなわち、事件にあまりに接近しすぎていて、感情的にならざるをえないからだ(1917年生まれのホブスボームの場合は、その時代のほとんどを彼は生きた)、また、解釈の対象となる十分な素材の全部がまだ手に入っているわけではなく、それらの素材全てが何を意味するかを語るのはいかにも早すぎるからだ。//
 しかし、別の理由があることは明白だった。そして、ホブスボーム自身がその理由によって責任を拒否することはきっとしないだろう。すなわち、20世紀は、彼が生涯にわたって関与した政治的かつ社会的な理想と制度の明白な崩壊とともに終焉した、ということだ。 
 過ちと災悪に関する暗く重苦しい物語を、その中に見い出さないのは困難だ。
 他の多数のイギリス共産党員または元共産党員である歴史研究者の目立った世代人(クリストファ・ヒル、ロドニー・ヒルトン、エドワード・トムソン)と同様に、ホブスボームはその職業的な注目を革命的で急進的な過去に向けた。それは、党の基本方針が現在に近接した時期についてあからさまに書くのを事実上不可能にしていた、という理由によるだけではなかった。
 真面目な研究者でもある生涯の共産党員にとっては、我々の世紀の歴史には、解釈するにはほとんど克服し難い障害物がある。彼の最後の仕事が期せずして明瞭に示しているように。//
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1830/L・コワコフスキ著-池田信夫による2017年秋紹介。

 昨年10月総選挙前後の同選挙に関する池田信夫のコメントを正確に記録しようと思って遡っていると、少なくとも一部、何らかの「会員」にならないとバックナンバーを読めないというブログ記事があった。
 秋月瑛二の文章とは違って、価値のあるものには「価格」がつくのだなあと、市場原理に納得した(?)。
 レシェク・コワコフスキ著・マルクス主義の主要潮流に言及していたものもあったはずなので、探してみると、これは全文が残っていて、読めた。
 池田信夫のブログの文章には、全文が①メール・マガジン(有料)、②たぶんアゴラ?の会員むけ(有料)、③フリーの三種があるようだ。
 L・コワコフスキの本の一部を試訳してきていながら、以下をきちんと読んだのは半年も遅れてだから、どうかしている。
 少しだけコメントを記して、ネット上から元が消失する前に、この欄にコピーしておく。
 1.「1978年にポーランド語で書かれた」は不正確で、ポーランド語の原書3冊は、パリで1976年に出版された。1978年というのは、英語版3冊がロンドン(Oxford)で刊行された年。
 1977年にドイツ語版の第一巻がドイツで刊行され、1978年、1979年で第三巻まで完結発行された。
 その後2008年に、三巻合冊本(1200頁以上)がたぶんアメリカとイギリスで(要するに英米語で)刊行された。L・コワコフスキは、New Preface と New Epilogue を元々のそれらを残しつつ、書き加えた。文献、注等は1978年版と同じと見られる。
 日本では、いっさい邦訳されていない。1978年からでも、なんと40年。
 2.一日4頁ずつ黙読しても300日、40頁ずつ読んでも30日かかる。忙しいはずの池田信夫は、全書を読んだのだろうか。要点読解にしても、以下のようにまとめることのできるのは卓抜した英語力と理解力だ。
 秋月瑛二はまだ一部試訳したのみでNew Preface とNew Epilogueを含む各巻の序文等もきちんと見ていないので、以下の読解の当否は判断しかねる。
 一部にとどまっているのはレーニンにとくに関心があったからだが、いずれ冥途話として、レーニンに関する叙述よりも大分量のマルクスに関する論述もきちんと読んでおきたいものだ、と考えている。
 なぜ、かくも、マルクス(主義)は今日まで影響力を残しているのか、という強い関心からだ。
 3. 池田は最後にこう書く。「今はマルクス主義には思想としての価値はない、というのが著者の結論だが、それを成功に導いたマルクス主義の魅力は途上国などではまだあるので、それが死んだわけではない」。
 「マルクス主義には思想としての価値はない」とL・コワコフスキが考えていた、というのは大いにありうる。
 しかし、L・コワコフスキ個人の評価・「思想としての価値」の判断とは別に、マルクス主義の<現実的な力>の存在は別に語ることができる。秋月は、その「魅力」は「途上国などではまだある」という程度のものではない、と感じている。その本来の「価値」とは別に、Tony Judt の言った<時宜にかなった幻想>は十分に残り得る。
 以下、引用。  
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  2017年10月29日17:29
 マルクス主義はなぜ成功したのか
 最近の「立憲主義」は社会主義の劣化版だが、今では彼らさえ社会主義という言葉を使わないぐらいその失敗は明らかだ。しかしそれがなぜ100年近くにわたって全世界の労働者と知識人を魅惑したのかは自明ではない。本書は1978年にポーランド語で書かれたマルクス主義の総括だが、40年後の今もこの分野の古典として読み継がれている。
 マルクス主義は「20世紀最大のファンタジー」だったが、彼の思想は高度なものだった。それを社会主義という異質な運動と結びつけて「科学的社会主義」を提唱したのが、間違いのもとだった。目的を実現する手段が科学的だということはありうるが、目的が科学的だということはありえない。
 マルクスがその思想を『資本論』のように学問的な形で書いただけなら、今ごろはヘーゲル左派の一人として歴史に残る程度だろう。ところが彼はその思想を単純化して『共産党宣言』などのパンフレットを出し、その運動が成功することで彼の理論の「科学性」が証明されると主張した。このように独特な形で共産主義の理論と実践を結びつけたことが、その成功の一つの原因だった。
 ロシア革命という脱線
 しかもマルクスは自分の理論を私有財産の廃止という誤解をまねく言葉で要約した。これは『資本論』全体を読めば間違っていないが、のちには「生産手段の国有化」と同義に使われるようになり、マルクスの考えていた「労働者管理」のイメージは失われてしまった。
 それでも社会主義が強い影響力をもったのは、その平等主義が多くの貧しい人々を救うものと思われたためだろうが、これは本書も指摘するようにマルクスの思想ではない。彼は経済学の言葉でいうと「コントロール権」だけを問題にし、どう配分するかは労働者が決めればよいと考えていた。
 このようにマルクスの歴史観と社会主義運動とは論理的に関係ないが、マルクスの歴史観は社会科学に大きな影響を与えて知識人を魅惑し、平等主義は労働者を魅惑し、両者は「実践」を重視する党が知識人に君臨するという形で、日本の戦後にも大きな影響を与えた。
 本書が強調しているもう一つのポイントは、レーニン的な前衛党はマルクスの思想からの逸脱だったということだ。マルクスは『フランスの内乱』でパリ・コミューンを高く評価し、プロレタリア独裁を主張したが、これはあくまでも運動論であり、議会を通じて政権を取ることが本筋だった。
 彼の想定していたのはドイツ革命であり、この点で正統的な後継者はカウツキーなどの創立した第2インターナショナル(エンゲルスが名誉会長)だった。ところがドイツ革命は1918年に起こったが鎮圧されてしまい、成功したのは、マルクスもエンゲルスも想定していなかったロシアだった。
 このため科学的社会主義を「実証」したロシアが優位に立ち、スターリンはカウツキーやベルンシュタインなどの社会民主主義を「修正主義」と批判した。マルクス主義が大きくゆがんだのはこの時期からで、第3インター(コミンテルン)はソ連を頂点とする暴力革命の機関になり、各国に共産党ができて非公然活動を行った。
 日本共産党もこの時期にできたコミンテルン直轄の組織で、知的な正統性も大衆的な支持もなかったが、戦争に抵抗したという栄光で戦後も続いてきた。今はマルクス主義には思想としての価値はない、というのが著者の結論だが、それを成功に導いたマルクス主義の魅力は途上国などではまだあるので、それが死んだわけではない。
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 以上、引用終わり。

1815/レーニン・ロシア革命「幻想」と日本の右派。

 いくつかを、覚書ふうに記す。
 一 欧米人と日本人にとっての<冷戦(終焉)>の意味の違い。
 欧米人にとって<冷戦終結>とは、世界的な冷戦の終焉と感じられても不思議ではなかっただろう。
 なぜなら、彼らにとって欧米がすでに<世界>なのであって、ソ連・東欧に対する勝利あるいはソ連・共産主義圏の解体は、1989-1991年までの<冷戦>がもう終わったに等しかったと思われる。
 欧州に滞在したわずかな経験からもある程度は理解できるが、東方すぐに地続きで隣接していた、ソ連・共産主義圏の消滅は、まさに<世界的な冷戦の終焉>と受け止められても不思議ではなかった。
 しかし、正確に理解している「知識人」はいるもので、R・パイプスはアジアに「共産主義」国が残っていることをきちんと記していたし(<同・共産主義の歴史>、フランソワ・フュレの大著<幻想の終わり>も冒頭で、欧米だけを視野に入れている、という限定を明記している。
 <冷戦が終わった>としきりと報道し、かつそう思考してしまったのは日本のメディアや多くの知識人で、それこそこの点では表向きだけは欧米に依存した<情報環境>と<思考方法>が日本に強いことを明らかにした。
 二 日本にとって<冷戦>は終わり、それ以降の新時代に入っているのか。 
 日本のメディアや多くの知識人は、共産主義・資本主義(自由主義)の対立は終わった、あるいは勝負がついた、これからは各国のそれぞれの<国家の力>が各<国益>のために戦い合う新しい時代に入っている、などという<新しいかもしれないが、しかし間違った>考え方を広く言い募った。
 しかし、L・コワコフスキの大著にある<潮流(流れ)>という語を使えば、現在のチャイナ(中国)も北朝鮮も、そして日本にある日本共産党等も、れっきとした<マルクス主義の潮流(流れ)>の中にある。
 マルクス主義がなければレーニン・ロシア革命もなく、コミンテルンはなく、中国共産党、日本共産党等もなかった。例えば、L・コワコフスキが<潮流(流れ)>最終章で毛沢東に論及しているとすれば、現在の習近平もまたその<潮流(流れ)>の末にあることは明瞭だろう。
 1990年代以降も日本共産党は国政選挙で500-600万の票を獲得しつづけ、しかも近隣に北朝鮮や共産・中国が現にあるというのに、日本近辺でも<冷戦は終わった>などという基本的発想をしてしまうのは、日本共産党や北朝鮮や共産・中国が<望む>ところだろう。共産主義に対する<警戒心>を解いてくれるのだから。
 三 <冷戦後>の新時代に漂流する右派と<冷戦後>意識を利用して喜ぶ左派。
 そういう趨勢の中に明確にいるのは1997年設立の右派・「日本会議」で、この団体やこの組織の影響を受けている者たちは、共産主義あるいはマルクス主義に関する<勉強・研究>などもうしなくてよい、と考えたように見える。
 <マルクシズムの過ちは余すところなく明らかになった>(同・設立趣意書)のだから、彼らにとって、共産主義・マルクス主義に拘泥して?、ソ連解体の意味も含めて、共産主義・マルクス主義を歴史的・理論的に分析・研究しておく必要はもうなくなったのだ。
 こうした<日本>を掲げる精神運動団体などを、日本共産党や日本の<容共・左翼>は、プロパガンダ団体として以上には、怖れていないだろう。むしろ、その単純な、非論理的、非歴史的な観念的主張は、<ほら右翼はやはりアホだ>という形で、日本の「左翼」が利用し、ある程度の範囲の知的に誠実な日本国民を正当で理性的な反共産主義・「自由主義」から遠ざける役割を果たしている、と見られる。
 そのかぎりで、「日本会議」は、日本共産党を助ける<別働隊>だ。
 四 産経新聞主流派とは何か。
 産経新聞主流派もその「日本会議」的立場にあるようで、元月刊正論編集代表・桑原聡に典型的に見られるが、共産主義や日本共産党についてまともに分析する書物の一つも刊行せず、もっぱら「日本」を、あるいは<反・反日>、したがって民族的意味での<反中国や反韓国>を主張するのを基調としている。
 この人たちにとっての「日本」とは、別言すれば皇紀2600年有余に及ぶ、観念上の「天皇」だ。
 これは、かなりの程度は「商売」上の考慮からでもある。
 日本会議やそれを支える神社本庁傘下の神社神道世界の<堅い>読者、購買者を失いたくないわけだ。
 したがって、産経新聞は、コミンテルンや共産主義よりも、<神武東征>とか<楠木正成>とかに熱を上げ、そしてまた、聖徳太子(なぜか不思議だ)、明治天皇、明治維新とそれを担った「明治の元勲」たちを高く評価し(吉田松陰も五箇条の御誓文も同じ)、明治憲法の限界・欠点よりは良かったとする点を強調する。
 小川榮太郞は、その範囲内にある、れっきとした<産経(または右派)文化人>になってしまったようだ。
 なお、江崎道朗との対談で、江崎が「100年冷戦史観」というものを語ると、「なるほど」と初めて気づいたように反応していたのだから、この人の知的または教養または政治感覚のレベルも分かる。
 いつかきちんと、出所を明記し、引用して、小川榮太郞の幼稚さ・過ちを指摘しようとは思っているのだが。
 五 以上、要するに、反共・自由主義/共産主義の対立に、日本/反日という本質的でない対立点を持ち込んで、真の対立から逃げている、真の争点を曖昧にしているのが、日本会議であり、産経新聞主流派だ。
 六 <民主主義・ファシズム>と<容共・反共産主義>
 <民主主義・対・ファシズム>という、左(中?)と右に一線上に対比させる思考(二項対立的思考でもある)が、依然として、強く残っている。
 何度も書くが、この定式・対比のミソは、共産主義(・社会主義)を前者の側に含めることだ。(「民主主義」者は、共産主義者・社会主義者に対しても「寛容」でなければならないのだ)。
 そして、とくに前者の側の中核にいるふりをしている日本共産党は、F・フュレも指摘していたことだが、つねに<ファシズムの兆し>への警戒を国民に訴える。
 日本では「軍国主義」と言い換えられることも多い。
<ファシズム・軍国主義の兆し>への警戒を訴えるために現時点で格好の攻撃対象になっているのは、安倍晋三であり「アベ政治」だ。
 この定式・対比自体が、基本的に、<容共と反共の対立>の言い換えであることを、きちんと理解しておかなければならない。
 また、<民主主義・対・ファシズム>(容共・対・反共)は日本国憲法についていうと、とくに同九条(とくに現二項)の改正(・現二項の削除)に反対するか(護憲)と賛成するか(改憲)となって現れている。二項存置のままの「自衛隊」明記という愚案?は、本当の争点の線上にあるものでは全くない。
 七 再び「日本・天皇」主義-<あっち向いてホイ>遊び
 共産主義・マルクス主義への警戒心をなくし、<日本・対・反日>を対立軸として設定しているようでは、日本の共産主義者と「左翼」は喜ぶ。<日本・対・反日>で対立軸を設定するのは、かつてあった遊びでいうと、<あっち向けホイ>をさせられているようなものだ。
 産経新聞主流派、小川榮太郞、日本会議、同会関係の長谷川三千子、櫻井よしこらはみんな、きちんと「敵」を見分けられないで、<あっち向いてホイ>と、あらぬ方向を向いている。あるいは客観的には、向かされている。
 八 残るレーニン・ロシア革命「幻想」。
 そうした「右」のものたちに惑わされることなく、日本共産党や「左翼」は、後者については人によって異なるだろうが、程度はあれ、レーニンとロシア革命に対する<幻想>をもっており、かりに結果としてソ連は解体しても、レーニンとロシア革命に「責任」があったのではないとし、あるいは彼とロシア革命が掲げた理念・理想は全く誤ったものではないとする。そのような、マルクス主義・共産主義あるいはレーニン・ロシア革命に対する<幻想>は、まだ強く日本に残っている、と理解しておかなければならない。
 不破哲三が某新書のタイトルにしたように、<マルクスは生きている>のだ。
 この日本の雰囲気は、詳細には知らないが、明らかにアメリカ、イギリス、カナダと比べると異質であり、イタリアやドイツとも異なると思われる。おそらくフランスよりも強いのではないか。そしてこの日本の状況は、韓国の「左翼」の存在も助けている。
 先日に日本の知的環境・知的情報界の<独特さ>を述べたが、それは、先進諸国(と言われる国々)にはない、独特の<容共>の雰囲気・環境だ。共産主義・社会主義あるいはそのような主張をする者に対して厳しく対処しない、という日本の「甘さ」だ。
 日本に固有の問題は日本人だけで議論してもよいのだが、マルクス主義・共産主義、ファシズム、全体主義あるいは日本にも関係する世界史の動きを、-出版業やメディアの「独特」さのゆえに-狭隘な入り口を入ってきた欧米に関する特定の、または特定の欧米人の主張だけを参照して、それだけが世界の「風潮」だとして、日本列島でだけで通じるかもしれないような議論をしているように思われる。
 また、容共の、あるいはレーニン・ロシア革命「幻想」を残しているとみられる出版社・編集者の求めに応じて、同じく「幻想」を抱く内田樹、白井聡、佐高信らのまだ多数の者が<反安倍・左翼>の立場で「全くふつう人として、とくに奇矯な者とも思われないで」堂々と<知的情報>界で生きているのは、その範囲と程度の広さと強さにおいて、日本に独特の現象ではないか、と思われる。
 むろん、その基礎的背景として、日刊紙を発行し月刊誌も発行している日本共産党の存在があることも忘れてはいけない。
 九 イギリスのクリストファー・ヒル(Christopher Hill)
 イギリスあたりは日本に比べて、<取り憑かれたような左翼>はきわめて少ないのかとも思っていたが、レーニンとロシア革命への「幻想」をもつ者はまだいるようだ。
 17世紀イギリスの歴史家とされるクリストファー・ヒル(Christopher Hill)だ。次回は、この人物の1994年(ソ連解体後)の文章を紹介する予定。

1811/リチャード・パイプス逝去。

 リチャード・パイプスが今年5月に亡くなっていたようだ。満94歳、享年96。
 Richard Pipes/1923年7月11日~2018年5月17日。
 R・パイプスの<ロシア革命>の一部の試訳を始めたのは2017年2月末か3月初めで、あれからまだ2年も経っていない。
 実質的には日本の公立高校卒業時の英語力でこの欄に自分の英訳文を何回も掲載することになるとは、その直前まで、全く想定していなかった。
 きちんと和訳してみたいと思ったのは、R・パイプス<ロシア革命>原書(1990)のボルシェヴィズムの生起から「レーニンの生い立ち」あたりを読み進んでいると(むろん意味不明部分はそのままにしつつ)、レーニンの党(ここではボルシェヴィキのこと)が活動資金を得るために銀行強盗をしたり相続人だと騙って大金を窃取するなどをしていた、といった記述があったからだ。
 のちにも、レーニンは、あるいはボルシェヴィキ党員は<どうやって食っていたのか>、つまり基礎的な生活のための資金・基礎をどうやって得ていたのか、という関心からする記述もあった。
 R・パイプスによると、少なくとも十月革命までの「かなりの」または「ある程度」の彼らの財源は、当時のドイツ帝国から来ていた。アレクサンダー・パルヴス(Parvus)は<革命の商人>と称される。
 1917年の七月事件後に成立したケレンスキー政権はその(国家反逆罪の)確証らしきものを掴んではいたが、ボルシェヴィキよりもカデットを嫌って、換言するとボルシェヴィキは<左翼>の仲間だが(ボルシェヴィキもエスエル等とともに、7月までは第三順位だが「ソヴェト」の一員の党ではあった)、カデット(立憲民主党)の方が臨時政府にとっての<敵>だと考えて、断固たる措置を執らなかった。
 戻ると、銀行強盗というのは、日本共産党も戦前にかつて行った<大森銀行ギャング事件>を思い起こさせる。
 なかなか興味深いことを多々、詳細に書いてあると感じて、この欄に少し訳出しようと思ったのが、1年余り前のことだった。
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 つぎの本は、実質的に、リチャード・パイプスの<自伝>だ。80歳の年の著。
 Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non-Belonger (2003)。
 Non-Belonger の意味に立ち入らないが、VIXI とはラテン語で<I have lived>という意味らしい(Preface の冒頭)。
 すでにこの欄に記したが、この著のp.124とp.125の間の複数の写真の中に、R・パイプス、レシェク・コワコフスキ、アイザイア・バーリンら4人が立って十字に向かい合って何かを語っている写真がある。
 昨年当時にきっと名前だけは知っていたL・コワコフスキとR・パイプスが同時に写っているのはなかなか貴重だ。
 機会があれば、上の本の一部でも試訳してこの欄に載せたい。
 何箇所かを捲っていると、<ロシア革命>執筆直前の話として、E・H・カーに対する厳しい批判もある。
 1980年代前半の数年間、アメリカ・レーガン政権の国家安全保障会議のソ連担当補佐官としてワシントンで勤務した(そして対ソ「冷戦」解体の下準備をした)ことは、すでに記した。
 p.115以降にこんな文章があった。試訳。
 「ソヴィエト同盟に対する非妥協的な強硬派(hard-liner)だという私の評判は、ベイジング(北京)にまで達していた。そして、1977-78年の冬に、中国国際問題研究院からの招待状を受け取った。//
 1978年4月3日に、北京に着いた。
 街は全体として憂うつそうな印象で、ソヴィエト式のように醜かった。
 幹線道路を見渡す私のホテルの窓から、自転車をこぐ民衆の大群が見えた-それは青と緑のアリの群れに似ていた-。そして、絶え間ない自動車の警報音を聞いた。」
 北京でのセミナーで語った内容等は省略。
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 リチャード・パイプスの著で邦訳書があるのはほぼ、簡潔な<共産主義の歴史>と<ロシア革命の簡潔な歴史>だけで、しかも前者は日本では「共産主義者が見た夢」というタイトルに変えられている。
 <共産主義の消滅=共産主義・消失した妖怪>も<ロシア革命に関する三つ謎>の邦訳書もない。
 そして、重要な<ロシア革命-1899~1919>、<ボルシェヴィキ体制下のロシア>という「十月革命」前後に関する大著二つの邦訳書もない。
 「対ソ冷戦終焉」あるいはソ連解体後に、断固たる反ソ連(反共産主義)だった論者として日本の新聞、雑誌等に論考・解説が載ったり、あるいは日本のどこかで講演会くらい企画されてよかった人物だったと思うが(東欧では講演等をしたようだ)、そんなことはなかったようだ。
 L・コワコフスキは日本を訪れたことがあるらしい(軽井沢と大阪、ネット情報による)。
 しかし、R・パイプスは日本に来たことがあったのだろうか。
 いつぞや、ピューリツァー賞を受けたアメリカのジャーナリスト、Anne Applebaum による<グラーク(強制収容所)>のロシア革命(十月革命あたり)叙述が参照元としているのはこのR・パイプスとオーランド・ファイジズ(Orlando Figes, <人民の悲劇>)の二著だけだ、と記したことがある(アプルボームの邦訳書がないとしたのは誤りだった)。
 ピューリツァー賞なるものの<政治的性格>はよく知らないが(たぶん極右でも極左でもない)、その受賞作の最初の方の、グラーク(強制収容所)に関する本格的叙述に至る前の<ロシア革命>記述の基礎とされているので、R・パイプス著が決してアメリカで<無視>あるいは<異端視>されているのではなく、むしろ<かなり受容された概説書または教科書>的扱いを受けているのではないか、という趣旨だった。
 しかして、日本で、日本人の間で、日本の「論壇」で、リチャード・パイプスはいかほど知られていたのだろうか(<アメリカ保守>の専門家面していても、江崎道朗が知っている筈はない)。
 中国共産党はどうやらよく知っていたらしい(離れるが、中ソ対立の時期、米ソ中という三極体制が語られた時代もあったことを日本人は想起すべきだ)。
 日本の<知的>環境には独特なものがある。世界または欧米の種々の思想・主義・見解等々がすべて翻訳されて日本語になって<自由に流通している>と考えるのは、そもそも大間違いなのだ。
 欧米最優先とか欧米を基準とすべきなどの主張をする意図はないが、欧米とりわけ英米語圏の方が知的情報産業界は大きく、<市場>も広く、競争は激しいものと思われる。欧米の「識者」から見るとおそらく、日本の知的情報環境が(ガラパゴス的に?)<閉ざされている>のは異様だろう。しかし、日本語の読解ができないためにそのことが知られていないだけだ、日本の「識者」はそのことを意識・自覚していない、と思われる。
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 左は著書・VIXI(2003)の扉裏の写真、右は1974年2月、Oxford で、右からI・バーリン、R・パイプス、L・コワコフスキ。
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1792/ネップと20年代経済⑥-L・コワコフスキ著1章5節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.41~p.44。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争⑥完。

 スターリンは、なぜそうしたのか? <この文、前回と重複>
 第一の選択肢が「歴史の法則」によって排除されていたわけではない。また、第二の途を進むべき宿命的な強制が働いたわけでもない。
 そうであるにもかかわらず、現実に選択された方向へと強く作動する論理(logic)が、ソヴィエト体制にあった。
 力をもったイデオロギーは、国家による統制のもとにあってすら、市場条件へと回帰することよりもはるかに、テロルを基礎とする奴隷経済と適合するものだった。
 巨大な民衆が経済的に多少とも国家から自立すれば、またある程度の自立性を自分たちのために国家に守らせたとしてすら、分かち難い独裁という理想(ideal)は、完全には実現され得ない。 
 しかしながら、マルクス=レーニン主義の教理は、完全に中央集権的な政治的および経済的な権力によってのみ社会主義を建設することができる、と教えた。
 生産手段に関する私的所有制の廃止は、人間の至高の任務であり、世界の最も進歩的な体制の主要な義務だ。
 マルクス主義は、プロレタリア-ト独裁を通じての、公民社会と国家の融合または同一化という展望を提示した。
 そしてそのような単一化へと至る唯一の方法は、全ての自発的な形態をとる政治的、経済的および文化的生活を絶滅させ(liquidate)、国家が押しつける形態へと置き換えることだ。
 スターリンはかくして、社会に対する彼の独裁を強固にすることにより、また、国家が課していない全ての社会的紐帯と労働者階級自体を含む全ての階級を破壊することにより、唯一の可能性のあるやり方でマルクス=レーニン主義を実現した。
 もちろんこの過程は、一夜にして終わったのではない。
 まず最初に、労働者階級を政治的に従属させること、次いで党をそうすること、が必要だった。ありうる全ての抵抗の粒を粉砕しなければならず、プロレタリア-トから自己防衛の全ての手段を剥奪しなければならなかった。
 党はこれを、最初に大多数のプロレタリア-トによって支持された権力をもつがゆえに行うことができた。
 政治的意識が高く闘争に習熟した古い労働者階級が内戦で死亡した、戦後の荒廃と窮乏が諦念と疲労を生み出した、とドイチャー(Deutscher)は強調する。しかし、そう単純ではない。
 党の成功はまた、プロレタリア-トの支持を得た時期を二つの方法で利用したことにもよる。
 第一に、党は、最も有能な労働者階級の一員を国家の職務の特権的な地位に昇らせた。そうして彼らを、新しい支配階層に変えた。
 第二に、党は、労働者階級の組織の現存形態全てを、とくに他の社会主義政党や労働組合を、破壊した。そして、そのような組織が生き残る物質的な手段を労働者が届く範囲から閉め出した。
 これらは全て、初期の段階でかつまったく手際よくなされた。
 労働者階級はかくして無力にされ、疲労だけではなく全体主義に進む急速な過程が、ときたま絶望的な試みはあったが、すぐ後に効果的な行動を起こすのを妨げた。
 この意味で、ロシアの労働者階級は、その個々の階級的出自とは無関係に、自らの専制君主を生み出した。
 同じようにして、知識人層も長年の間に、極左からの絶え間ない脅迫に直面して躊躇し、屈服することで、無意識に自分たちを破壊することとなった。//
 かくして、メンシェヴィキの予言は実現された。メンシェヴィキは1920年に、トロツキーによって表明された勇敢な新世界をエジプトの奴隷によるピラミッド建設になぞらえたのだった。
 トロツキーは、多くの理由で、自分のプログラムを達成するには適していなかった。
 スターリンが、トロツキー<を現実にしたもの>(in actu)だった。//
 新しい政策は、ブハーリンとその同盟者の政治的敗北を意味した。
 論争の最初の時点で、右翼はまだしっかりした政治的地位を占め、かなりの支持を党内に広げていた。
 しかし、彼らの全資産は総書記(the Secretary General)の権力とはまったく比べものにならないことがすぐに分かった。
 「右翼主義偏向」は、スターリンとその取り巻きが攻撃する主要な対象になった。
 ブハーリン派(the Bukhrinites)-たんなる個人的権力ではなく統治の原理のために闘った最後の反対集団-は、1929年のうちに、国家の官僚機構で占めていた全ての役職から排除された。
 このことは、左翼反対派が復活したということを決して意味しなかった。
 スターリンは数人には微少な義務を負わせたが、左翼反対派の誰も、元の役職に復帰しなかった。仕事のできるラデクは、数年間、政府の賛辞文作成者に据え置かれた。
 ブハーリン派は、左翼がかつてしたほどには、あえては党外に見解を公表しようとしなかった(彼らのときはそうする可能性がもっとあったけれども)。
 ブハーリン派はまた、「分派」活動を組織しようともしなかった。彼らが分派主義を痛罵し、党の一体性を称賛してトロツキーやジノヴィエフと闘って以降、「分派」活動は結局は短い期間だけのものだった。
 一党支配について言えば、左翼反対派も右翼もそれを疑問視しなかった。
 全ての者が、自分の教理と自分の過去に囚われていた。
 全ての者が、自分たちを破砕する暴力装置を創る意思をもって活動した。
 カーメネフとの連合を形成しようとのブハーリンの見込みなき試みは、彼の経歴の痛々しい終章にすぎなかった。
 1929年11月に、偏向者たちは悔悛を示す公開行動を演じたが、これすら、彼らを救わなかった。
 スターリンの勝利は、完全だった。
 ブハーリン反対派の崩壊は、党と国にある専制体制の勝利を意味した。
 1929年12月、スターリンの50歳誕生日は大きな歴史的行事として祝祭された。この日以降を我々は、「個人カルト」の時代と呼んでよい。
 1903年のトロツキーの予言は、現実のものになった。党の支配は中央委員会の支配になり、これはつぎに、一人の独裁者の個人的専制になった。//
 人口の4分の3を占めるソヴィエト農民の破壊は、世紀全体につづく経済的のみではない道徳的な厄災だった。
 数千万人が半奴隷状態へと落とし込まれ、数百万人以上がその過程を実行する者として雇われた。
 党全体が制裁者と抑圧者の組織になった。誰も無実ではなく、全ての共産党員が社会に強制力を振るう共犯者だった。
 かくして、党は新しい種の道徳上の一体性を獲得し、もはや後戻りできない途を歩み始めた。//
 このときにまた、残っていたソヴィエト文化と知識人界は系統的に破壊された。体制は、最終的な統合の段階に入っていた。//
 1929年から判決にもとづき殺害される1938年までのブハーリンの個人的運命は、ソヴィエト同盟やマルクス主義の歴史にとって重要ではない。
 敗北したあと彼は、最高経済会議のもとで調査主任としてしばらく働き、ときどき論文を発表した。それによって彼は、-ステファン・F・コーエン(Stephen F. Cohen)がその優れた人物伝で指摘するように-押し殺した批判をときおりは発しようとした。
 ブハーリンは中央委員会委員のままであり、公的に自説をさらに撤回した後で1934年に、<イズヴェスチヤ(Izvestiya)> の編集者になった。
 その年の8月の著述家大会で、当時にしては「リベラル」な演説を行い、1935年には、新しいソヴィエト憲法を起草する委員会の事実上の議長だった。この憲法文書は1936年に公布され、1977年まで施行された。この文書は、全部がではなくとも主に、ブハーリンの仕事だった。
 1937年2月に逮捕され、一連の怪物的な見せ物裁判の最後に、死刑が宣告された。
 伝記作者は彼を「最後のボルシェヴィキ」と呼ぶ。
 この叙述が本当なのか誤りなのかは、それに付着させる意味による。
 ボルシェヴィキという言葉で、新しい秩序の全ての原理-一つの政党の無制限の権力、党の「一体性」、他者の全てを排除するイデオロギー、国家の経済的独裁-を受諾する者を意味させるとすれば、本当だ。
 また、この枠の中で寡頭制または一個人による専制を避けること、テロルの使用なくして統治すること、そしてボルシェヴィキは権力を目ざす闘争の間に擁護した諸価値-すなわち、労働民衆またはプロレタリア-トによる統治、自由な文化の展開、芸術、科学および民族的伝統の尊重-を維持することは可能だと信じる者、を意味させているとすれば。
 しかし、かりに「ボルシェヴィキ」がこれら全てを意味するとすれば、その自らの前提から論理的帰結を導き出すことができない人間のことを、たんに意味している。
 他方、もしかりにボルシェヴィキのイデオロギーが一般論の問題にすぎないのではなく、自分の原理からする不可避の結果を受容することを含むとすれば、スターリンは、全てのボルシェヴィキやレーニン主義者と最も合致していた、と自らを正当に誇ることができる。//
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 以上で、第5節は終わり、第1章全体も終わり。叙述は第2章<1920年代のソヴィエト・マルクス主義の理論的対立>へと移っている。

1790/ネップと20年代経済⑤-L・コワコフスキ著1章5節。

 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.40~p.41。
 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争⑤。
 許しを乞うのに成功したラデク(Radek)のような者たちは、数年間は長く国家に奉仕することができた。最終的な破滅を、彼らは逃れることはなかったけれども。<以上、前回と重複>
 何人かのマルクス主義思想家たちは、ルカチ(Lukács)からロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedyev)まで、同じ見地からこの状況を理解した。
 しかしながら、トロツキーは、スターリンの政策は自分のそれと同一だとは考えていなかった。(トロツキーは1926年秋に政治局から排除され、1928年初めにアルマ・アタ(Alma Ata)へと追放され、トルコ政府の同意を得て1929年2月にトルコに亡命した。)
 彼は、こう書いた。スターリンの官僚機構は実際に反対派の圧力によって左翼の目標を採用するように強いられたのではなく、容赦のないかつ日和見主義的なやり方で自分たちで実行した、と。
 反対派は集団化に賛成したが、大量の強制的手法にではなかった。クラクを抑制して、「経済的手段によって」それと闘うべきだつたのだ。
 こうしたことはまた、のちに全てのトロツキー支持者が採った考え方だった。//
 しかしながら、このような論じ方は、きわめて薄弱なものだ。
 トロツキーは強制的集団化について語らなかった、というのは本当だ。しかし、当時はスターリンも語らなかった。
 スターリンの演説や論文だけからあの年代の歴史を知る者は誰でも、疑いなくつぎのように想定するだろう。農民たちはより良き生活のために集団農場へと押し寄せた、「上からの革命」は無制限の喜びでもって歓迎された、厳格な措置の被害者はたんに一握りの度し難い怠業者たち、労働者民衆とその民衆の利益を過ちなく表現する政府の敵にすぎない、と。
 本当(true)はどうだったかと言うと、スターリンが唯一の可能な方法で反対派のプログラムを実行に移した、ということだ。
 彼らが提示していた全ての経済的な誘導策は、スターリンが公然たる強制力行使に訴える前に、すでに試みられていた。
 税と価格による動機づけ、そしてテロルを制限するという政策は、その前の二年間に実施されていた。しかし、その唯一の結果は、穀物の配送量が低下し、さらにもっと悪化しそうだ、ということだった。
 経済的圧力という手段はもはや残っておらず、つぎの二つの選択肢だけがあった。
 すなわち、第一に、完全な形態でのネップ(「新経済政策」)に戻り、自由取引を許し、食糧生産と配分を確保すべく市場を信頼する。
 第二に、すでに着手していた路線を追求し、軍隊と警察を大量に用いることで自立農民層の全体を廃絶させる。
 スターリンは後者の政策を選択して、実現可能に思えたやり方でのみ、左翼の要求を実行した。//
 スターリンは、なぜそうしたのか?
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 ここで区切る。⑥へとつづく。

1789/ネップと20年代経済④-L・コワコフスキ著1章5節。

 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.37~p.40。
 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 今回の部分にスターリン時代の農村地域の飢餓・困窮等に関する叙述があるが、レーニン時代にも、干魃という自然的要因も(ボルシェヴィキによる食糧徴発政策の他に)あったが、類似の状態があったことを想起させる。試訳をこの欄に掲載しているR・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1995)/ネップ期のうちの「1921年の飢饉」にはより生々しく具体的な描写があり、「人肉喰い」があった確実な最少の件数も記している。この欄の、2017年4月、No.1515; 1516; 1518; 1520を参照。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争④。
 経済および財務政策はネップ期の間に実際に変わらないままだったのではなく、農民層に対する圧力を増加させる方向へと動いた。
 ブハーリンは別として、党の最高幹部層の中でのネップの擁護者は、首相としてレーニンを継いだルィコフ(Rykov)と労働組合担当の職責にあったトムスキー(Tomsky)だった。
 この二人はいずれも自分自身の力による秀れたボルシェヴィキで、決してスターリンの操り人形ではなかった。
 しかしながら、初期の時代からスターリンはモロトフ(Molotov)、ヴォロシロフ(Voroshilov)、カーリニン(Kalinin)およびカガノヴィチ(Kaganovich)のような者たちを指導層に送り込んだ。これらは自分では何も表現せず、スターリンに対して無条件に服従した。
 経済政策が不確定で曖昧だったため(ネップ熱烈支持者ですら最後の拠り所としての「田園地帯ての階級闘争」という考えをすっかり放棄することはできなかった)、行き詰まり、満足できる出口がなくなった。
1925年の農民に対する実質のある譲歩によって農業生産は増大したが、1927年までは穀物生産高は1914年以前の高さまでまだ達していなかった。一方では、工業の発展と都市化とともに食糧需要が増した。
 小土地所有者には処分できる穀物かなく、クラクは急いで売ることもしなかった。クラクが受け取る金で買える物が何もなかったのだから。
 このゆえにこそスターリンは1927年に、没収と強制という極端な手段を採用することを決意した。
 ブハーリンは最初からこの政策を承諾し、自分自身の基本的考え(プログラム)を修正して、計画化や重工業への投資の増大、国家による市場への干渉の強化、そして最後にクラクに対する「攻勢(offence)」の方向へと進んだ。
 これは左翼反対派を十分に満足させるものではなかったが、このことは大した意味がない。その間に彼らの地位は破壊されてしまっていたのだから。//
 農民層に対する経済的および行政的な圧力が高まることで、分配の劇的な下落、すでに深刻だった食糧事情のいっそうの悪化が生じた。
 スターリンは何度も繰り返して、クラクの危険性と階級敵の力の成長について語った。しかし、1928年2月にはまだ、ネップの廃止やクラクの粛清という風聞は反革命的なたわ言だと強く主張していた。
 しかしながら、ほんの四ヶ月のちに、集団農場を大量に組織化する「ときが成熟した」と発表した。
 7月の中央委員会会議で、そのときまでは激しく攻撃していたプレオブラジェンスキーの諸主張(テーゼ)の全てを是認した。
 ロシアは国内での蓄積によってのみ工業化を達成することができる。唯一の解決策は、農民が工業製品を求める鼻を通じて支払うことができるような額に価格を固定することだ。
 スターリンは同時に、「中産農民との永遠の同盟」を支持しつづけ、小規模の農業生産はまだ不可欠だと断言した。
 にもかかわらず、ブハーリン、ルィコフおよびトムスキーは、この新しい政策に反抗した。これに対してスターリンは、新しい右翼反対派だとの烙印を捺した。
 スターリンは1929年の初めにこの悲しい展開を政治局に報せ、のちにすみやかに世界全体に知らせた。
 (1928年秋の諸演説で「右翼主義(rightist)の危険」に触れていたが、政治局は全員が一致していると明言していた。)
 説明によれば、右翼偏向は、工業化を遅らせる、不確定の将来へと集団化を延期する、取引の完全な自由を再構築する、クラクに対する「非常手段」の使用-換言すると、徴発、逮捕、警察による圧力-を貶す、といったもので成り立つ。
 「右翼主義者」は国際情勢の見方に関して誤りがある、ということもすぐに示された。すなわち、彼らはまだ世界資本主義の安定化を信じ、社会民主主義的左翼と闘うのを拒否しているのだ、と。//
 スターリンはこの時期に一連の演説も行い(最初は1928年7月)、新しい原理を表明した(これは理論家としての名声に加わった)。
 それは、共産主義が発展し続けるとき、階級闘争と搾取者の抵抗はますます暴力的になる、ということだった。
 つづく25年の間、ここで新たに述べられたことは、ソヴィエト同盟およびその支配に服する諸国家での大規模の抑圧、迫害および虐殺の根拠として役立つことになった。//
 こうしたことが、ソヴィエト農業の大量集団化を始める設定条件だった。-おそらくは、国家が自らの公民に対してかつて行なった最も大規模な、戦争に似た作戦行動だった。
 強制的手段を緩やかに用いる試みが成果をもたらさないことが分かって、スターリンは1929年の終わりに、大量の「階級としてのクラクの粛清」を伴う、完全な集団化をただちに開始することを決定した。
 数ヶ月のちの1930年3月、この政策がすでに厄災的な結果を生じさせたとき-農民たちは大規模に穀物を粉砕して家畜を殺戮した-、スターリンは一時的に落ち着かせて、「成功による目眩み」という論考で、党官僚にある過度の熱狂と焦りや「自発性の原理」違反を非難した。
 これは党と警察機構にためらいを生じさせ、多くの集団農場は自分たちで合意して解散した。
もはや強制力を用いる政策へと転じるほかはなく、それは国をこの世の地獄に変えた。
 数十万の、最終的には数百万の農民たちが、恣意的に「クラク」と張り札をされてシベリアまたは他の離れた地域に追放された。
 村落での絶望的な一揆は軍隊や警察によって血をもって弾圧され、国は混乱、飢餓と困窮に陥った。
 ある場合には、いくつかの村落の住民全員が追放されるか、飢餓によって死んだ。
 大急ぎで編成された大量の護送車の中で、数千人が殺されるか、寒さと窮状に追い込まれた。
 半死の犠牲者たちは救援を求めて田園地帯を放浪した。そして、人肉喰い(cannibalism)行われた場合もあった。
 飢えていく農民が都市へ逃亡するのを防ぐために、国内旅券制度が導入され、許可されていない住居の変更には投獄という制裁が課されることとされた。
 農民には、この旅券が少しも発行されなかった。そしてそのために、封建的農奴制の最悪の時代のように、土地に縛りつけられた。
 このような物事の状態は、1970年代まで変わらなかった。
 集中強制収容所(concentration camp)は、重労働を宣告された新しい囚人の群れで満ちた。
 農民たちの自立を拒絶して彼らを集団農場へと追いたてる目的は、奴隷である民衆を生み出すことだった。その労働の利益は、工業を増加させるだろう。
 直接の効果は、多数の再組織化や改革の手段をとったにもかかわらず、まだ回復していない減退の状態にソヴィエト農業をしたことだった。
 スターリンが死んだとき、大量の農業集団化が始まってからほとんど四半世紀の後に、人口一人当たりの穀物生産高は、1913年のそれよりもまだ低かった。
 この期間のあいだずっと、困窮と飢餓があったにもかかわらず、農場生産のうちの大量部分はソヴィエト工業のために全世界へと輸出された。
 この年月のテロルと抑圧は、実際のとおり桁外れだが、たんに人命の損失数だけで表現することはできない。
 集団化とは何を意味したのかを最も生々しく描いているのは、おそらくヴァシリ-・グロスマン(Vasily Grossman)の、その死後に出版された小説、<永遠に流れる>(Forever Flowing)だ。//
 「新路線」と強制的集団化の政策を採用したのは、スターリンがたんにトロツキー=プレオブラジェンスキーのプログラムを、その執筆者を排除したあとで取り上げたにすぎない、と広く考えられている。
 このことは最初からブハーリンの責任だったとされる。そして、もはや政策の根本的な衝突はないという理由で急いでスターリンに許しを乞うた、以前の反対派の多くも、そう信じた。
 許しを乞うのに成功したラデク(Radek)のような者たちは、数年間は長く国家に奉仕することができた。最終的な破滅を、彼らは逃れることはなかったけれども。
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 段落の途中だが、ここで区切る。⑤へとつづく。

1788/ネップと20年代経済③-L・コワコフスキ著1章5節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 この著には、邦訳書がない。日本語版スターリン全集の全巻を所持していないが、レーニン時代との関係で1920年代のものはおおよそ所持しているので、今回は該当部分を探し出してみた。レーニン全集の場合と同じく、L・コワコフスキが使っている全集の巻数は、日本語版と同じだ(なお、この点、リチャード・パイプスは別のタイプの英語版レーニン全集を用いていると見られ、参照しにくい)。
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.33~p.37。三巻合冊本、p.814~p.817。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争③。
 ブハーリンの考えでは、裕福な農民に闘いを挑んだり村落地域内での階級対立を搔き立てたりすることは、農業のみならず経済全体を破滅させることになる。<この一文、前回と重複>
 貧農と農場従事者は、クラク(富農)を破壊することによってではなく、後者の資産を利用する国家によって助けられなければならない。国家はクラクに、最初に蓄積するのを認めるのだ。
 消費者と市場取引との協働関係はやがて自然に消費者と生産者の協働関係の発展につながるだろう。
 他方、トロツキストの政策は農業と工業をともに破滅させることを意味するだろう。
 農民全体を国家から遠ざけ、プロレタリア-トの独裁を破壊するだろう。
 さらに、プレオブラジェンスキーやピャタコフ(Pyatakov)が提案する、田園地帯を利用するために工業製品の価格を高い額にまで人為的に上げることは、農民層にだけではなく、労働者にも同様に打撃になるだろう。大量の商品を消費するのは都市の民衆だからだ。
 政府機構の官僚主義的退廃に対する反対者たちの攻撃について言うと、たしかにこの危険は実際に存在する。しかし、農民層に向けられた彼らの政策が採用されれば、それは100倍も悪くなるだろう。
 戦時共産主義の諸手段への回帰は、田園地帯で強制力を用いることを主要な目的として、特権的な官僚機構という一つの階級を生み出すことを意味するだろう。そして、この巨大な装置は、農業が組織化されないことによる損失の全てよりもはるかに多くの出費を要求するだろう。
 官僚主義を治療するためには、民衆に生活の多様な分野での自発的な社会組織の設立を働きかけることが必要だ。
 反対派が提案する治療方法はこれと真反対で、病気よりも悪いものにするだろう。//
 こうした左翼反対派との論争で、ブハーリンは、国家または党の内部での民主主義の拡大を導くことになるいかなる一歩も、擁護しなかった。
 逆に、分派の指導者であり党の一体性を分裂させる者だとして、トロツキー、ジノヴィエフおよびカーメネフを攻撃した。
 ブハーリンは彼らに思い起こさせた。プロレタリア-ト独裁は単一の支配党の存在を含意している、また党は結束しなければならず、別々の党の形成に発展するに違いない「分派」の存在を許してはならない、というのはレーニン主義のイロハだ、と。
 反対派の者たちは全て、つい最近まではこのことをよく知っていた。そして誰も、彼らが突然に民主主義者に変わることに欺されはしないだろう。//
 工業化に関する議論で、両派の論者たちはいずれももちろん、相手の政策は「客観的に」資本主義の復活につながるだろうと主張した。
 ブハーリンによれば、プレオブラジェンスキーは、小規模生産者を搾取して破壊することによって蓄積を達成し、社会主義国家が資本主義を真似ることを意図した。
 その基盤である農民との同盟、とくに中間層農民とのそれが掘り崩されれば、プロレタリア-ト独裁は消失するだろう。あるいはまた、農民たちの全体が工業製品の価格と農業生産物の価格の比率(ratio)に同等に影響されるという理由だけでも、「内部的植民地化」は、クラクのみならず田園地帯全体に対する攻撃を意味する。
 左翼はこれに反対して、スターリン=ブハーリンの政策は、私的所有者、とくにクラクの経済的な力を着実に増大させるだろう、社会主義的工業と労働者階級を弱めることはプロレタリア-ト独裁の終焉にのみつながる、と論駁した。
 反対派はまた、工業、とくに重工業が社会主義の発展の鍵だ、と考えた。
 ブハーリンはこれに対して、都市と地方の間の商品交換が主要な梃子だ、生産はそれ自体が目的ではなく消費に至る手段にすぎない、と主張した。また、反対派は、生産が需要の量とは無関係にそれ自体でつねに増え続ける市場を創出しつづける経済がありうるとの(資本主義制度との関係での)トゥガン-バラノフスキー(Tugan-Baranovsky)の理論をそのまま繰り返している、とも。
 この当時のロシアでの問題なので、村落地域の蓄積は決して労働者の利益に反しておらず、合致していた。
 この点について反対派は、搾取者と被搾取者の利益が合致することはありえない、その定義上クラクは搾取者であるので、クラクが富を蓄積するのを助けるのは階級敵を育てることだ、と答えた。//
 このようにして、いわばボルシェヴィズムの二つの変種が姿を現してきた。もちろんいずれも、決まってレーニンが言ったことに頼った。
 レーニンは、中間農民層と同盟しなければならないと語っており、クラクが示す危険についても述べていた。
 大まかに言うと、ブハーリンは、クラクは同時に中産農民を破壊することなくして廃棄することはできない、とするものだ。一方の反対派は、中産農民はクラクの助力なくしては援助することができない、と考える。
 反対の政治的意図をもつが、同じことを二つの異なる方法で表現したものだった。
 反対派は、労働者は惨めな状態にあるのに裕福な「ネップマン」(Nepman)の階層が勃興していることに憤慨している、あるいはまた平等主義とプロレタリア-ト独裁のスローガンを真面目にかつ文字通りに理解している、多くの共産党員の中に支持を求めた。
 (したがって、トロツキー=ジノヴィエフ派が以前の「労働者反対派」の残片たちと結局は共通する考え方を採ったのは自然なことだった。)
 反対派は主として、権力、独裁および権力の指標としての重工業に関心をもった。
 ブハーリンは一方で、福祉の有効な増大に関心をもち、その活動が労働者階級を含む全民衆にとってよい取引ならば、物質的な特権をもつネップマンを許容する用意があった。//
 数百万の個々人の運命を決めることとなった論争の間ずっと、スターリンはブハーリンの立場を支持した。しかし彼自身は完全には関与しないで、イデオロギー上の宣明をブハーリンまたはルィコフ(Rykov)に任せた。
 スターリンは、ブハーリンがうっかりと農民たちが「金持ちになる」よう呼びかけた過ちに気づいた-生硬な多くの共産党員には印象的な表現だった-。しかし、反対派による邪悪な犯罪行為とは比べものにならない、口滑らしだと見なした。
 彼は議論に決して深く立ち入らなかった。しかし、1928年まで、ブハーリンとの間に経済政策に関する不一致はなかった、ということが分かる。
 スターリンも、農民中間層との間の永続する同盟の必要性に関するレーニンの言葉を繰り返し、「革命的冒険主義」や「内部的植民地化」という衝撃的な考えについて「極左」の反対派を攻撃した。
 彼は反対派との政治上および組織上の論争については拳を振り上げた。それは、党機構に占める有利な地位によるのではなく、最近に反対派の者たちが公然と叫んできている原理を彼ら全員がいかほど侵犯していたかを示すのは容易だったからだ。
 何の困難もなく、トロツキーの民主主義への選好はきわめて最近になってからだと証明することができた。そして、トロツキーとジノヴィエフが協力してスターリンに反抗したときは、彼らがその日の前にお互いに傷つけ合っていた罵詈雑言を引用するだけでよかった。
 党内民主主義について言えば、それを今は防御している者は誰も、ばつの悪さを感じないままで自分の過去に言及することができなかった。
スターリンが1925年12月の第14回党大会で、つぎのように語ったように。
 『反対派の同志たちは、形式的民主主義は我々ボルシェヴィキにとって中身のない貝(empty shell)であって党の利益こそが全てだ、ということを知らないのか?』
 (スターリン全集・英語版7巻(1954年)p.394〔=日本語版スターリン全集7巻(1954年)「ソ同盟共産党(ボ)第十四回大会/中央委員会の政治報告の結語」388-9頁<注1>〕。)
 数ヶ月のちに、彼は党内民主主義について、より厳密な定義を行った。
 『党内民主主義とは何を意味するのか? 党内民主主義とは、一般党員の活動を向上させ、党の一体性を強化し、そして党の自覚的なプロレタリア紀律を強化することを意味する。』
 (スターリン全集・英語版8巻(1954年)p.153〔=日本語版スターリン全集8巻(1954年)「ソ同盟の経済情勢と党の政策について/1926.4.13」173頁<注2>〕。)
 しかしながら、スターリンは「党の独裁」に関して語るほど無謀でなかった。レーニンも、おそらくはブハーリンも、そのことを躊躇しなかったけれども。
 1926年12月7日のコミンテルン執行委員会の一部会や別の機会に、彼はこう述べた。トロツキーは、社会主義は一国では建設することができないと主張することによって、党が権力を放棄するのを招来している、と。//
 トロツキストの歴史家たちは、1920年代の諸事件についてまだ考えており、トロツキーはどのようにしていれば様々の偽った動きを回避して何らかの政治的同盟または連携でもって権力を再び握っていたのだろうかと、思いめぐらしている。
 しかしながら、1923年より後のどの時期にもそのような現実的可能性があったとは思えない。
 トロツキーは実際、公的にレーニンの「遺言」を時期に適して利用して、スターリンの威信を落とすことができたかもしれなかった。
 彼はそうしなかったのみならず、のちに外国で公表されたときに「遺言」の真正さを否定して、自らその可能性を摘み取った。
 可能性としては、スターリンは1924年に打倒されていたかもしれなかった。しかし、そうであってもトロツキーの利益にはほとんどならなかっただろう。他の指導者から嫌われていたからだ。その指導者たちは、権力から追い出されたあとでようやくトロツキーと協力する心づもりがあることを示したのだった。//
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 (秋月注1)ロシア語からの日本語版全集による訳(スターリン全集刊行会訳)はつぎのとおり-「反対派の諸君には、われわれボルシェヴィキにとっては、形式的な民主主義は無に等しく、党の現実的利益こそすべてだということが、わかっていないのだろうか」。上掲箇所。
 (秋月注2)ロシア語からの日本語版全集による訳(スターリン全集刊行会訳)はつぎのとおり-「党内民主主義とはなにか。党内民主主義とは、党員大衆の積極性を高め、党の統一をかため、党内の意識的なプロレタリア的規律を強化することである」。上掲箇所。
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 ④へとつづく。

1787/ネップと20年代経済②-L・コワコフスキ著1章5節。

 この著には、邦訳書がない。かつての西ドイツでは原ポーランド語からのドイツ語直訳書が1977年~79年に一巻ずつ出版されたようだ。第一巻に限ると、英語版よりも1年早い。
 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中の、 p.29~p.33。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争②。
 トロツキーが1920年のしばらくの間は、テロルに他ならないものを基礎とする経済の有効性を疑っていた、そして穀物の徴発を現物税〔食糧税〕に変えるべきだと彼は提案した、というのは本当(true)だ。
 しかし、まもなく彼は考えを変え、ネップ期の間は、「緩やかな」経済に対する、主要な反対者の一人になった。反対したその経済とは、農民層に物質的に譲歩し、自由取引を都市部と村落地域の間の取引の主な態様にするものだった。//
 ブハーリンの考えは一方で、反対の方向へと進展した。
 1920年には、計画経済という考えは幻影(fantasy、お伽ぎ話)の世界に属していた。
 ロシアの産業は破滅していて、輸送はほとんどなく、まさしく苦悩する問題は、共産主義の新世紀をどう始めるかではなくて、迫り来る飢餓から都市をどう救うかだった。
 この悲惨な状況でレーニンがその経済上の教理から退却する号砲を鳴らし、農業生産物の自由な取引、小規模の私的企業の許容によって農民的経済と長期間を共存していこうと決意したとき、ブハーリンも同様にその初期の立場を放棄し、ネップの熱烈な支持者とイデオロギストになった。これはまずはトロツキーに、次いでジノヴィエフ、カーメネフおよびプレオブラジェンスキーに反対するものだった。
 1925年以降、ブハーリンは、反対者に対するスターリンの主要なイデオロギー上の支持者だった。
 彼はレーニンのように、<過渡期の経済学>で説いたプログラム全体が妄想(delusion)だったということを認識するに至った。 そして、指導者たちが逆上(frenzy)した短い間に生命を贖った数百万の犠牲者のことを気にかけなかった。//
 市場経済へと回帰するのを支持するブハーリンの根拠は、-もちろん銀行や主要産業の国有は維持するのだが-主としては経済上のものだが、ある程度はまた政治的なものだった。
 主要な論点は、農業がほとんど全体的に小農民の手にある状況のもとで、経済的手段によって望ましい蓄積のレベルを達成して産業を発展させるために、国家はいかにして商品経済への影響力を行使できるか、だった。
 市場条件のもとで農民から必要な量の食糧を獲得するためには、生産者および消費者の商品と同等の価値のものを村落地域に供給することが必要だ。
 これは、不可能ではなくとも、産業が破滅している国家では困難だ。しかし、そうしなければ、農民たちは産物を売らないだろう。売って収益を得ても買うことのできる商品が何もないのだから。
 付け加えれば、これは、国家経済が農民の慈悲にすがるしかないとすれば、「プロレタリア-ト」、つまりはボルシェヴィキ党、はいかにして支配的な地位を維持できるのか、という問題だった。 
 市場が発展していけば、農民たちの地位はそれだけ強くなるだろう。そうすると、彼らは最後には「プロレタリア独裁」を脅かすかもしれない。//
 プレオブラジェンスキーは、経済問題ではトロツキストだと見なされていて、農民層に譲歩するスターリンとブハーリンの政策に反対した。彼は、つぎのように論じた。
 最初の段階での社会主義国家の主要な任務は、産業の強い基盤を作り出し、蓄積の必要な程度を確保することだ。
 これ以外の全ての経済目的は工業に、とくに産業装置を備えた製造業の発展に従属しなければならない。
 資本主義的蓄積は植民地の強奪によって容易になったが、社会主義国家は植民地を持たず、自分の資源でもって工業化を達成しなければならない。
 しかしながら、国家産業は、それ自体は十分な蓄積の基盤を作り出すことができず、小生産者から、すなわち現実には農民層から資源を吸い取らなければならない。
 私有の耕作地は、国内の植民地化の対象にならなければならない。
 プレオブラジェンスキーは、工業への投資を増大させるために農民の労働から最大限の量の余剰価値を抽出することによる、農民の搾取であることを率直に認めた。
 この「植民地化」の過程は主としては、工業生産物の価格を国家が農業生産物に支払う価格と釣り合う最高限度までに固定することによって、達成するものとされた。
 これは、可能なかぎり短い期間のうちに最大限の援助を奪い取るために、農民層に対する別の形態での経済的圧力によって実施された。
 他方で党指導者たちは、小生産者の側での蓄積を促進し、農民層の福利のために工業を、とくに重工業を軽視する政策を追求した。
さらには、この政策の主要な利得者は、クラク(富農)だった。
 というのは、全てが産業の側からの、これは相対的に強い階級、プロレタリア-トの独裁の側からということになるが、これからの要求を無視して農業の生産性を向上させるためになされていたので、自然のこととして、最大の配当を約束する豊かな農民たちが選択するように貸金や設備が動いたからだ。
 このことは不可避的に、最初は経済的でのちにすみやかに政治的にもなった富農の力を強くした。彼らは、プロレタリア-トの権力を掘り崩し始めるだろう。
 当時の現存の政府のように全ての農民層の経済的要求を充足させて、食糧を売却するよう誘導したい者たちは、交流のある外国との通商政策を押し進め、工業のための生産物の代わりに農民層のために消費用商品を輸入しなければならないだろう。
 このような展開の全趨勢はプロレタリア-ト以外の階級の利益のために歪曲され、その結果は、社会主義国家の存在に対する脅威になるだろう。//
 このような基本的考え方に添って主張して、プレオブラジェンスキーおよび左翼反対派は、農業の集団化に向けて攻め立てた。どのような方法によってそれが達成されるのか、彼らは明瞭には説明しなかったけれども。//
 トロツキーは、これと同じ基本的考え方だった。
 1925年に彼が書いたように、国有工業が農業よりも少ない早さで発展すれば、資本主義の復活は不可避だ。
 農業は国有産業の一部門になるように機械化され、電気化されなければならない。
 こうしてのみ、社会主義は異分子の要素を放逐し、階級対立を解消することができる。
 しかし、このこと全てが、工業が適切に発展するということにかかっていた。
 結局のところは、新しい形態の社会の勝利は、その社会での労働の生産性が果たす。
社会主義は、徐々に資本主義よりも高い生産性を達成する力をもつことを理由として、勝利するだろう。
 こうして、社会主義の勝利は、社会主義的工業化に依存する。
 社会主義とはじつに、その側にあらゆる利点をもつのだ。技術の進歩はすみやかにかつ全般的に応用することができ、私的所有制が生んだ障壁によって遮られることはない。
 経済の中央集中化は、競争に由来する無駄の発生を妨げる。
 産業は消費者の気まぐれに左右されるものではない。そして、国民全体の志気が、高い次元の生産性を保障する。
 中央集中化と標準化は自発的主導性を駄目にするもので、いっそう仕事を単調にすることを意味すると苦情を述べるのは、前工業時代の生産への反動的な憧れに他ならない。
 経済全体が「単純で画一的な自動的機械構造」へと変わらなければならない。そしてそのためには、資本主義的な要素、すなわち小農民生産者に対して絶えざる批判的宣伝運動をしなければならない。この闘いを放棄することは、資本主義への回帰を黙って認めることになる。
 トロツキーは、プレオブラジェンスキーと違って、「社会主義的蓄積の客観的法則」や産業投資のために農民層から最大限に余剰価値を強要する必要性を語りはしなかった。しかし、資本主義に対する経済的な攻勢を呼びかけたので、同じことに帰一した。
 反対者たちがブハーリンを非難したのは、根本的に豊かなクラク(富農)の利益のためのもので、「テルミドールの反動」だ、という理由でだった。
 ブハーリンの政策は社会主義に対する階級的敵対意識を高め、経済における資本主義的要素に特有の危険性を増大させるだろう、と彼らは主張した。
 スターリン、ブハーリンおよびこれらの支持者は答えて、「超(super)工業化」を呼びかけるのは非現実的だ、反対者たちの政策は富農だけではなく巨大な農民中間層を体制の敵に回す、と主張した。
 それは「プロレタリア-トと貧農および中農との同盟」というレーニンの神聖な根本規範に反する。そして、ソヴィエト国家の存在そのものを脅かすだろう、と。
 反対派は継続的に、資本主義的要素を阻止し続けるべきだと要求しているが、-たとえ経済的だけでも-政府からの圧力が強まって農民層の意欲(incentive)が奪われたらどうすべきなのかを語っていないし、国家は警察による強制以外のどんな方法によって食糧の生産と分配を確保できるかについても、何ら語っていない。//
 この当時にスターリンが支持したブハーリンの論拠は、戦時共産主義の時代が十分に証明するように、国家の農民層に対する徹底的な闘いは経済的に非効率で政治的には厄災だ、ということだった。
 国家の経済発展は農民層の最大限の搾取に依存すべきではなく、国家と村落地域の間をを、ゆえに労働者階級と農民層の間を連結する市場を保持することによるべきだ。
 蓄積の程度は流通の効率性と速度にかかっており、このことにこそ尽力は向けられるべ きだ。
 農民が強制または経済的手法によって余剰の全てを剥奪されるならば、自分が食べる以上の食糧を産出しないだろう。
 そのゆえに、農民に強制力を用いることは、国家とプロレタリア-トの瞭然たる利益に反する。
農業生産を増大させる唯一の方法は、物質的な動機づけを与えることだ。
 これは確かに、クラク(富農)に有利になることだろう。しかし、商取引上の協働関係の発展によって、クラクを含む農民全体を、全体としての経済成長を推進する国家統制体制の中に組み込むことが可能になる。//
 工業の発展は、村落の市場にかかっていた。農民層による蓄積は工業製品への需要の増大を意味した。そしてそのゆえに、全ての範疇の農民による蓄積を許容することは、国家全体の利益だった。
 こうしたことから、ブハーリンは1925年に農民に対して「金持ちになれ(Get rich)!」と訴えかけた。-これは、後年にはこの人物の非正統性を紛れもなく示す証拠として、しばしば引用されるスローガンだ。
 ブハーリンの考えでは、裕福な農民に闘いを挑んだり村落地域内での階級対立を搔き立てたりすることは、農業のみならず経済全体を破滅させることになる。
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 段落の途中だが、ここで区切る。③へとつづく。

1785/ネップと1920年代経済➀-L・コワコフスキ著3巻1章5節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中の、 p.25~p.29。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争①。
 1920年代のソヴィエト経済政策をめぐる論争は、「一国での社会主義」の問題よりもはるかに純粋だ。後者は、何らかの実践的または理論的な問題を解決するというよりも、党派のための外観上の偽装だった。
 しかしながら、工業化をめぐる有名な議論ですら、二つの対立する基本的考え方の衝突だとして述べるに値しない。
 ロシアを工業化しなければならないと、誰もが合意していた。議論の要点は、それを進行させる速度であり、破滅をはらんだ、ソヴィエト農業や農民と政府の関係という関連する問題だった。
 しかしながら、これらの問題は根本的に重要であり、異なる観点からの諸見解は、国家全体に対して大きな意味をもつ異なる政治決定をもたらした。//
 ブハーリン、(1921年に公式に開始された)ネップ〔新経済政策〕の主要なイデオロギストは、党内ではきわめてよく知られ、第一級の理論家だと見なされていた。
 ジノヴィエフとカーメネフの脱落の後、彼はスターリンに次ぐ党の最も重要な人物になった。//
 ニコライ・イワノヴィッチ・ブハーリン(Nikolay Ivanovich Bukharin)は、1905年革命の間又は直後に社会主義運動に入った世代に属する。
 モスクワで生まれて育ち、知的階層の一員で(両親は教師だった)、まだ在学中に社会主義集団に加入した。そして、その政治的経歴の最初からボルシェヴィキ党員だった。
 1906年の末に18歳になったばかりで入党し、モスクワでのプロパガンダ活動に従事した。
 1907年に大学の経済学の学生として登録したが、政治が彼の時間を奪い、その課程を修了しなかった。
 1908年にすでに、モスクワの小さなボルシェヴィキ組織の責任者になった。
 1910年秋に逮捕されて国外追放を宣告されたが、脱走して、つぎの6年間をエミグレの一人としてドイツ、オーストリアおよびスカンジナビア諸国で過ごした。そこで彼は著作を行って、政治経済の分野でのボルシェヴィキ理論家としての名声を獲得した。
 1914年に、<不労所得階級の経済学-オーストリア学派の価値と収益理論>と題する書物を書き終えた。これは、1919年にモスクワで最初に、全文が出版された。
 そしてその英語版である<余暇階層に関する経済理論>は、1927年に刊行された。
 この本はマルクス主義教理を防衛するもので、限界主義者(marginalists)、とくにベーム-バヴェルク(Böhm-Bawerk)を攻撃した。
 タイトルが示唆するように、ブハーリンは、オーストリア学派の経済理論は寄生性的に分けられたブルジョアジーの心性をイデオロギー的に表現したものだ、と主張した。
 マルクスの防衛に関しては、彼の著作はヒルファーデングの以前の批判に何も加えなかった。
 1914年に第一次大戦が勃発したとき、ブハーリンはウィーンからスイスへと追放され、そこで彼は、帝国主義の経済理論に関して研究した。
 彼はこのとき、民族および農民問題をめぐっては「ルクセンブルク主義者」的に過っていると批判するレーニンとの論争にかかわった。
  ブハーリンは、古典的なマルクス主義の図式に照らして、民族問題はますます重要でなくなっており、社会主義の階級政策の純粋さは民族自己決定権によって汚されるべきではない、と考えた。それは、夢想家的でありかつマルクス主義に反している、と。
 同じように彼は、党がその革命の政策で農民層の支持を求めることに同意しなかった。マルクス主義が教えるように、小農民階級はともかくも消失する運命にあり、農民層は歴史的に反動的な階級なのだから、と。
 (しかしながら、のちにはブハーリンは、主としてまさしく反対の「逸脱」の代表者だと記されることになる。)//
 スイスで、その後にはスウェーデンで、ブハーリンは<帝国主義と世界経済>を執筆した。これの全文は1918年にペトログラードで最初に出版された。
 レーニンは草稿を見て、自分の<帝国主義、資本主義の最高次の段階>のために自由に利用した。
 ブハーリン自体はヒルファーデングの分析を利用したが、資本主義が発展するにつれて国家経済の経済上の役割の重要性は大きくなる、そして、国家資本主義という新しい社会形態、つまり中央志向で計画されて国民国家の規模で統制される経済へと向かう、とも強調した。
 このことは、市民社会の広大な分野に対する国家統制の拡大と人間の奴隷化の強化を意味した。
 犠牲を必要とする国家というモレク(the Moloch)は、国内の危機のないままで機能し続けることができるが、私的な生活の諸側面をますます浸食することでのみ、そうできる。
 しかしながら、ブハーリンは、世界経済の中央集権的な組織化によって戦争の必然性は回避できる、そのような「超帝国主義」段階があることを期待するカウツキーやヒルファーデングに同意しなかった。
 彼が考えるに、国家資本主義は世界的な基盤のもとでではなく、一国の規模で作動が可能だ。
 ゆえに、競争、無秩序、そして危機は継続するだろうが、それらはますます国際的な形態をとるだろう。
 それはまた、-ここでブハーリンは少しばかり異なる理由でレーニンに同意する-プロレタリア-ト革命の根本原因は、今や国際的な情勢の文脈の中で予見しなければならない。//
 いく分かのちにレーニンは、プロレタリア-トは革命後には国家を必要としないという「アナキスト類似の」考えだとして若きブハーリンを批判した。-レーニンが1917年の<国家と革命>で詳述したのときわめてよく似た夢想家的考えだった。//
 1916年の終わりにかけてブハーリンはアメリカ合衆国へ行き、そこでトロツキーと議論し、アメリカ左翼に、戦争と平和の問題に関するボルシェヴィキの見方を説得する活動をした。 
 二月革命の後でロシアに帰還すると、すぐに党指導者の中での地位を獲得し、レーニンの「四月テーゼ」を全心から支持した。
 十月革命の前と後の重大な数ヶ月の間、彼は主としてモスクワで組織者かつ宣伝者として活動した。
 革命後に<プラウダ>の編集長になり、その地位に1929年までとどまった。
 ロシア革命の運命は西側に火をつけることができるかにかかっているとの一般的な考えを共有していて、ブハーリンは、レーニンのドイツとの分離講和に断固として反対した。
 1918年の最初の劇的な数ヶ月の間、革命戦争の継続を強く支持する「左翼共産主義者」の指導者の一人だった。レーニンは軍の技術的および道徳的状況を冷静に評価していたけれども。
 しかしながら、いったん講和の結論に至ると、彼は全ての重要な経済および行政の問題について、レーニンの側に立った。
 「ブルジョア」の専門家や工場での熟練者を採用することに、あるいは職業的能力や伝統的紀律にもとづいて軍隊を組織することに抵抗する左翼反対派を、彼は支持しなかった。//〔分冊書-p.27。合冊本-p.810。〕
 「戦時共産主義」(既述のとおり、誤解を招く言葉だ)の時期の間、ブハーリンは、強制、徴発、そして市場と貨幣制度なくして何とか新生国家を管理することができ、近いうちに社会主義的生産を組織するだろうとの希望、を唱道した主要な理論家だった。
 ネップ時期の前の数年間に、ここですぐに検討する<史的唯物論>に加えて、党の経済政策を詳論する二つの著書を刊行した。<移行期の経済学>(1920年)と、E・プレオブラジェンスキー(Preobrazhenski)との共著の<共産主義のイロハ(ABC)>(1919年。英語版、1922年)だ。
 これらは、当時のボルシェヴィキの政策を権威をもって説明する、準公式的な地位をもった。
 レーニンのようにブハーリンは、国家は革命ののちにすぐに消滅するとの夢想家的教理を投げ捨てたのみならず、プロレタリア-トによる政治的独裁はもちろんのこと経済的な独裁の必要性も強く主張した。
 彼もまた、発展諸国での「国家資本主義」の進化に関する見方を繰り返した。
 (レーニンはこの術語を用いて、社会主義ロシアでの私的産業を参照させた。
 ある程度の言葉上の誤解を生じさせたことだ。)
 「均衡」(equilibrium)という観念を、社会過程を理解するための鍵だとして強調した。
 生産に関する資本主義制度が均衡をいったん失えば-これは不可避の破壊的帰結を伴う革命の過程でもって証明されるが-、それは新しい国家の組織化された意思によってのみ復活することができる、と彼は論じた。
 国家装置はゆえに、生産、交換および配分のための社会組織と繋がっている全ての作用を奪い取らなければならない。
 これは実際には、全ての経済活動の「国家化」(statization)、労働の軍事化、および全般的な配給制度を、要するに、経済全般に対して強制力を用いること、を意味する。
  共産主義のもとでは、市場の自発的な活動は問題にならない。価値の法則は働くのを止める。全ての経済法則が人間の意欲とは無関係に働くように。
 全てが国家の計画権力に服従する。そして、従前の意味での政治経済は、存在しなくなる。
 そうして、社会の組織化は本質的に農民に対する(vis-a-vis)強制(強制的徴発)や労働者に対する強制(労働の軍事化)にもとづいてはいるけれども、労働者からの搾取(exploitation)は明らかに存在しない。定義上、その階級が自ら自身を搾取することは不可能なのだから。//
 レーニンのようにブハーリンは、大量テロルに経済生活をもとづかせるシステムを、過渡的な必要物ではなく社会主義的組織化の永遠の原理だと考えた。
 彼は強制のための全ての手法を正当化することを躊躇しなかった。また、同時期のトロツキーのように、新しいシステムを本質的に労働の軍事化だと考えた。-これは言い換えると、国家が宣告するいかなる場所といかなる条件でも全民衆が労働することを強制するために警察力と軍事力を用いる、ということだ。
 実際に、いったん市場が廃止されると、労働力の自由な取引や労働者間の競争はもはや存在しなかった。したがって、警察による強制は、「人的資源」を割りふるための唯一の方法だった。
 雇用労働が廃止されると、強制労働だけが残る。
 言い換えると、社会主義とは-この時期のトロツキーとブハーリンの二人がともに想定していたごとく-、永続する、国家全体に広がる労働強制収容所(labour camp)なのだ。
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 ②へとつづく。

1784/一国社会主義-L・コワコフスキ著1章4節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第4節、 p.21~p.25。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第4節・一国での社会主義。

 1924年の末にかけてトロツキーとその「永続革命」との考えに対抗して定式化された「一国での社会主義」という教理は、長い間、スターリンによるマルクス主義理論への大きな貢献だと考えられてきた。これから推論される帰結は、トロツキズムは一団の反対物たる明確な教条だ-トロツキー自身も明らかに共有するに至る見方-、ということだ。
 しかしながら、現実には、二人の間には、理論上の不一致はもちろん、根本的な政治的対立は存在していなかった。//
 述べてきたように、十月蜂起の指導者たちは、革命の過程はすみやかにヨーロッパの主要諸国に広がるだろう、世界革命の序曲(prelude)でなくしてはロシア革命には永続する希望はない、と信じた。
 初期のボルシェヴィキ指導者の誰も、これとは異なる考え方を抱いたり、表明したりすることはなかった。
 この主題に関してレーニンがいくつか書いたことも紛らわしさが全くないものだったので、スターリンはのちに、それらを著作集から削除した。
 しかしながら、世界革命の望みが少なくなり、共産主義者たちのヨーロッパで蜂起を発生させようとする絶望的な努力は失敗に帰したので、彼らは、その社会がいったい何で構成されるのかを誰も正確には知らなかったけれども、当面の直接の任務は一つの社会主義社会の建設だということにもまた同意した。
 二つの基本的な原理が、受容されつづけた。すなわち、歴史法則によって最終的には世界を包み込む過程を、ロシアは開始した。そして、西側の諸国が自分たちの革命を始めるのを急いでいない間は、自国の社会主義への移行を開始するのはロシア人だ。
 社会主義を実際に一度でもまたは全部について建設することができるのか否かという問題は、真剣には考察されなかった。実際の結論は、答えに訊くしかなかったのだから。
 内戦の後でレーニンが、布令を発することでは、ましてや農民を射殺することでは穀物を成育させることはできないと気づいたとき、そして引き続いてネップを導入したとき、彼は確実に「社会主義の建設」にこだわっており、外国で革命を搔き立てること以上に、国家内部の組織化に関心をもっていた。//
 スターリンが1924年春に「レーニン主義の基礎」という論文を発表したとき-これはレーニンの教理を彼自身に倣って集大成する最初の試みだった-、彼は一般的に受容されていることを繰り返して抽出し、トロツキーを、農民の革命的役割を「誤解」しており、革命はプロレタリア-トによる一階級支配によって開始することができると考えていると、攻撃した。
 彼は、こう論じる。レーニン主義は、帝国主義時代とプロレタリア革命時代のマルクス主義だ。ロシアは、その相対的な後進性とそれが苛んだ多くの形態の抑圧によって革命へと成熟していたがゆえに、レーニン主義が生まれた国になった。レーニンはまた、ブルジョア革命の社会主義革命への移行を予見した。
 しかしながら、スターリンはこう強調した。単一の国のプロレタリア-トだけでは最終的な勝利をもたらすことができない、と。
 トロツキーは同じ年の秋に、1917年以降の自分の著作を集めたものを刊行した。その序言では、自分が唯一のレーニン主義原理に忠実な政治家だとの証明や、指導者たち、とくにジノヴィエフとカーメネフ、は優柔不断でレーニンの蜂起計画に敵対する態度をとったことに対する批判、を意図すると述べた。
 彼はまた、ジノヴィエフがそのときに議長(the chief)だったコミンテルンを、ドイツでの蜂起の敗北や革命的情勢を利用できないことについて攻撃した。
 トロツキーの批判は、スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、リュコフおよびクルプシュカヤその他による、集団的な回答を惹き起した。それは、過去の全ての過ちと失敗についてトロツキーを非難し、彼は傲慢であり、レーニンと争論をした、革命に対するレーニンの貢献を貶した、と責めた。//
 スターリンが「トロツキズム」という教理を作りだしたのは、このときだった。
 1917年以前にトロツキーが定式化した「永続革命」という考えは、ロシア革命は継続して社会主義段階へと移るが、その運命はそれが生じさせる世界革命にかかるだろう、と予想するものだった。
 さらに、巨大な層の農民が多数派である国家では、労働者階級は国際的なプロレタリア-トによって支援されなければ政治的に破壊されるだろう、国際プロレタリア-トの勝利だけがロシアの労働者階級の勝利を確固たるものにできる、というものだった。
  「ブルジョア革命の社会主義革命への移行」という問題はその間には対象ではなくなっていたので、スターリンは、トロツキズムは社会主義は明らかに一国では建設され得ないと主張するものだと意味させた。-かくして、スターリンは読者に、トロツキーの本当の意図はロシアに資本主義を復活させることだ、と示唆した。
 1924年の秋、トロツキズムは三つの原理に依拠している、とスターリンは明瞭に述べた。
 第一に、プロレタリア-トの同盟者としての農民という最も貧しい階層のことを分かっていない。
 第二に、革命家と日和見主義者の間の平和的共存を認めている。
 第三に、ボルシェヴィキ指導者たちを誹謗中傷している。
 のちに、トロツキズムの本質的な特徴は、一国での社会主義の建設を開始するのが可能であるにもかかわらずそれを遂行するのは不可能だと主張することにある、と明言された。
 スターリンは<レーニン主義の諸問題について>(1926年)で1924年春の自分自身の見解を批判し、一国での社会主義を最終的に建設する可能性と資本主義者の干渉に対して最終的に自己防衛する可能性とは明確に区別しなければならない、と述べた。
 資本主義が包囲する状況では、干渉に対抗できる絶対的な保障はないが、それにもかかわらず、十分な社会主義社会を建設することができる、と。//
 一国で社会主義を最終的に建設できるのか否かに関する論争の要点は、ドイチャー(Deutscher)がスターリンの生涯について適切に観察したように、党活動家の心理を変えようとするスターリンの意欲にある。
 彼はロシア革命は自己完結的だと強調することで、世界共産主義の失敗が生んだ意気消沈と対抗しているのであつて、理論にかかわっているのではない。
 スターリンは党員たちに、「世界のプロレタリア-ト」の支援の不確実さに困惑する必要はない、我々の成功はそれにかかっているのではないのだから、ということを確かなものにしたかったのだ。
 要するに彼は、もちろんロシア革命は世界全体の革命の序曲だとの神聖な原理を放棄しないで、楽観的な雰囲気を生み出そうとした。//
 トロツキーが1920年代のソヴィエト外交政策とコミンテルンの職責にあったとすれば、スターリンよりも外国の共産主義者の反乱に関心を寄せていただろう、ということはあり得る。しかし、彼の努力が何がしかの成功をもたらしたと考えることのできる根拠はない。
 当然に、トロツキーは、スターリンが革命の根本教条を無視しているためだとして世界の共産主義者の敗北を利用した。
 しかし、欠けているとしてトロツキーが責めた国際主義的な熱情をもってスターリンがかりに活動したとして、彼は何をすることができただろうかは、少しも明確ではない。
 ロシアには、1923年のドイツ共産党や1926年の中国のそれの勝利を確実にする手段がなかった。
 一国社会主義というスターリンの教理のためにコミンテルンは革命の機会を利用できなかった、というトロツキーの後年の責任追及は、完全に実体を欠いている。//
 かくして、社会主義は一国で建設され得ることについての積極的主張と否定という、「本質的的に対立する」二つの理論に関しては疑問はない。
 理論上は誰もが、世界革命を支援する必要性とロシアに社会主義社会を建設する必要性をいずれも、承認していた。
 スターリンとトロツキーは、これの一方または他方の任務に注入すべき活力の割合に関して、ある程度は異なっていた。二人はともに、この違いを想像上の理論的対立へと膨らませたのだ。//
 トロツキーが頻繁に行った党内民主主義は彼らの体制にとって本質的だとの主張は、なおさら信じ難い。
 すでに述べたように、党内部の官僚制的支配に対するトロツキーの攻撃は、彼が事実上党組織への権力を奪われたときに始まった。まだ権力を持っている間は、彼は警察および経済の制度に対する官僚制の、および軍事的または政治的な統制の、最も専制的な先頭指導者の一人だった。
 のちに彼が罵倒した「官僚制化」は、国家の民主主義的仕組みを全て破壊したことの当然のかつ不可避の結果だった。それは熱情をもってトロツキー自身が入り込んだ過程であり、決して後になって否認することはできないものだった。//
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 第4節おわり。第5節「ブハーリンとネップ理論/1920年代の経済論争」へとつづく。

1781/スターリン・権力へ③-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第3節の p.18~p.21。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇③。
  新しい職〔総書記〕は党の階層の個人的な最高位ではなかったし、そのような職は実際に存在しなかった。
 総書記の職務は党官僚たちの当面の仕事を監督する、官僚機構内での調整を図る、上位者たちを任命する、等々だった。
 洞察すれば、つぎのことを明確に理解することができる。すなわち、全ての他の形態の政治生活が破壊され、党が国家にある唯一の組織された力あるものになれば、その党機構の職責にある個人は、全能になるにちがいない。
 これは、現実に生じたことだ。しかし、この当時は、誰も感知しなかった。
 ソヴィエト国家は歴史上に先例のないものだった。政治の舞台上の演者は、その劇の結末を予見していなかった。
 総書記としてのスターリンは、地方の党の職および最上位を除く中央の職についてすら、自分の味方をそれらの多数派になるよう送り込むことができた。そして、会議や会合を組織する仕事を通じて、その力は高まった。
 もちろん、それはゆっくりとした過程ではあった。
 最初の数年間にはまだ、党内部での論争、対抗集団の形成、異なる基本政策の主張が見られた。
 しかし、時が経つにつれて、それらの頻度は少なくなり、きわめて上位の階層内に限られるようになった。//
 述べてきたように、レーニンが生きている間に党内に反対集団があり、それは専制的で官僚的な統治方法の増大に対して、ある程度の共産党員が不満をもっていることを反映していた。
 最もよく知られる代表者はアレクサンダー・シュリャプニコフ(Alexsandr Shlyapnikov)とアレクサンドラ・コロンタイ(Alexsandra Kollontay)である「労働者反対派(Workers' Opposition)」は、字義どおりの「プロレタリア-トの独裁」、言い換えると、権力は党によってのみならず労働者階級全体によって実際に行使されるべきだということ、を信じた。
 彼らは決して国家民主政への回帰を擁護したのではなく、たわいもなくつぎのように空想した。ソヴィエト体制は、大多数、とくに農民と知識人、に関するかぎりで民主主義的生活様式を廃止したあとで、特権をもつ少数派、つまりプロレタリア-トのそれ(民主主義的生活様式)を維持することができる。
 別の反対派集団は、党の外部ではなく、党内部での民主主義を復活させることを望んだ。官僚機構の力の増大、全ての職の任命システム、および党内議論の減少や空虚な儀式のための選挙に異議を申し立てたのだ。//
 このような夢想家(Utopian)的批判は、ある程度はスターリン死後の共産主義体制の中で感じることとなる「危機的な」傾向を予期させた。すなわち、党の外部にではなく内部に民主主義が覆うべきだとの主張。あるいは、権力は全プロレタリア-トまたは労働者評議会によって、もちろん社会のそれ以外の者たちによってではなく、行使されるべきだとの主張。
 しかしながら、こうした考え方とは別に、初めの数年間に新しい範型の共産主義が出現した。それは、ある意味では、アジア的農民の必要と利益を反映する毛沢東主義(Maoism)の先行型だった。
 この傾向を作りだしたのは、民族的にはバシュキール(Bashkir)、職業は教師の、ミール-サイト・スルタン-ガリエフ(Mir Sayit Sultan-Galiyev)だった。
 この人物は十月革命のすぐ後にボルシェヴィキになっており、ソヴィエト同盟のムスリム(Muslim、イスラム教)圏域内からの数少ない知識人の一人だった。そして早々に、中央アジア民衆に関する専門家だと認められた。
 しかしながら彼は、ソヴェト体制はイスラムの民衆のいかなる問題も解決せず、彼らを別の形態の抑圧に従属させるだけだ、と考えた。
ロシアで独裁的権力を握った都市プロレタリア-トはブルジョアジーに劣らずヨーロッパ人で、やはりムスリム民衆には異邦人だ。
 時代の根本的な対立は発展諸国のプロレタリア-トとブルジョアジーの間にではなく、植民地または半植民地の民衆と産業化した世界全体の間にある。
 ロシアでのソヴィエト権力はこれら民衆を解放するために何もできないばかりか、恒常的な抑圧をし始め、赤旗のもとで帝国主義政策を追求するだろう。
 植民地民衆は、全体としてのヨーロッパの覇権に反対して結束し、自分たちの党とボルシェヴィキのそれから自立したインターナショナルを創設し、そして、ロシア共産主義に対するのと同様に西側の植民地主義者と闘わなければならない。
 彼らはイスラム教の伝統に反植民地イデオロギーを結びつけ、一党システム、および軍事力に支えられた国家組織を創出しなければならない。
 スルタン-ガリエフは、このような基本綱領にもとづいて、ロシアの党とは別にムスリムの党を結成し、そして独立のタタール=バスク国家を設立しようすらした。
  彼のこの運動は、レーニンのイデオロギー、ボルシェヴィキ党およびソヴィエト国家の利益と対立するものだとして、すみやかに抑圧された。
スルタン-ガリエフは1923年に党から除名され、外国の諜報機関の工作員だとして投獄された。これはおそらく、このような理由で責任追及がなされた最初の事例だろう。これはのちにはこのような場合の日常仕事になり、卓越した党員に対して一様になされていった。
 彼は、のちの大粛清(the great purge)の時代の間に処刑された。そして、その考え方は忘れ去られた。
 1923年6月の演説でスターリンは、スルタン-ガリエフは汎イスラムや汎トルコ的考えを理由としてではなく、トゥルキスタン(Turkestan)のバスマチ(Basmach)とともに党への反抗を企てたことを理由として逮捕された、と語った。
 このエピソードは、スルタン-ガリエフの考えとのちの毛沢東の教理または「毛主義的社会主義」範型との間の驚くべき類似性を説明するために記憶しておく価値がある。//
 党またはプロレタリア-トのために民主主義を擁護する反対派集団に関して言うと、これらは急速にかつ一斉に、レーニン、トロツキー、スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフを含む党指導者によって粉砕された。
 1921年の党第11回大会は、分派集団形成を禁止すること、それへの加入党員を除名する権限を中央委員会がもつことを宣言した。 
 党の一体性の擁護者が指摘したように、つぎのことはじつに明瞭だった。すなわち、一党制のもとでの党内部の別々の諸集団は、必然的にかつてそれぞれの党派を形成していた全ての社会諸勢力の代弁者になる。ゆえに、かりに「分派(fractions)」が許容されるならば、事実上は多党制になるだろう。
 避けがたい結論は、専制的に支配している党それ自体が専制的に支配されなければならない、ということだ。そして、社会一般の民主主義的諸制度を破壊しておいて、党内部でそれを持ち続けようと考えるのは愚かだ、ということだ。労働者階級全体の利益については尚更だ。//
 にもかかわらず、官僚機構の手中にある受動的な装置へと党が変わっていく過程は、国家の内部で民主主義諸制度が破壊されていくよりも、長くつづいた。そして、1920年代の遅くまではまだ完了していなかった。
 1922-23年には党内での専制(tyranny)の増大に抵抗する強い潮流があった。そして、誰も、それを抑圧するのにスターリンほど長けているとは思っていなかった。
 病気で衰えていたレーニンに伝わる情報を首尾よく統御し、スターリンは、ジノヴィエフとカーメネフの助けを借りて、かつ権力からトロツキーを系統的に排除して、党を支配した。
 トロツキーは、その弁舌の才能と内戦勝利の立役者としての栄光にもかかわらず、早い段階で地位を失った。
 もしすればソヴェト権力の原理と矛盾していたのだろうが、彼は党の外部で見解を発表しようとは敢えてしなかった。このことが、政治生活の唯一の活動源だった党の官僚機構をトロツキーに反対するように動員することを容易にした。
 トロツキーは最後の段階でボルシェヴィキ党に加入し、古い党員たちから信用されていなかった。また、過度の修辞や横柄で傲慢な挙措も嫌われていた。
 スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフは巧みに、あらゆるトロツキーの欠点を衝いた。メンシェヴィキだったという過去、労働者の軍事化(スターリンならば決してこのような専制的言葉遣いをしなかった政策)への渇望、ネップに対する批判、レーニンとの古い論争、およびレーニンはかつて自分を捏造で陥れたとの責任追及。
 トロツキーは、軍事部人民委員および党政治局員として、まだ力があるように思われた。
 しかし、1923年までに彼は、孤立し、無援になっていた。
 彼の昔の心変わりの全てが、自分に向けられてきた。
 自分が置かれている状況に気づくに至ったとき、党の官僚機構化と党内民主主義の抑圧を攻撃した。
 引き降ろされた共産党指導者の全てに似て、トロツキーは権力から排除されるや否や民主主義者(democrat)になった。
 しかしながら、スターリンとジノヴィエフがつぎのように主張するのは、容易なことだった。
 トロツキーの民主主義感情と党官僚制に対する非難は最近のことだ。そればかりか、彼自身が権力をもっていたときは、他の誰よりも極端に専制的だった。さらには、党の「一体性」を守るのを支持してその動きを始めたのだ。-レーニンの政策とは逆に-労働組合を国家の統制のもとに置き、経済全体を警察の強制力に従属させることを望んだ。等々。
 後年になってトロツキーは、かつて支持した「分派」禁止の政策は永久の原理ではなくて例外的な手段と考えてのものだった、と主張した。
 しかし、そうだったとする証拠はない。また、その政策自体に、一時的なものだったと示唆するものは何もない。 
 つぎのことは、記しておいてよいかもしれない。すなわち、ジノヴィエフは、トロツキーを非難することではスターリン以上に激しい熱情を示した-彼を拘禁することに賛成した一つの段階-ということであり、およびそれによって、排除された二人の指導者が遅れて見込みなく、勝利した政敵に対して力をかき集めようとしたときに、スターリンに有用な防御手段を提供した、ということだ。
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 第3節、終わり。第4節「一国社会主義」へとつづく。

1780/スターリン・権力へ②-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第3節の p.14~p.18。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇②。
 この時期にスターリンは民族問題に関する専門家として、自己決定は「弁証法的に」理解されなければならない(換言すると、それ以外ではなく党のスローガンに適応したものとして用いられなければならない)という旨を演説した。
 1918年初頭のソヴェトの第三回大会で彼は、適正に言えば自己決定とは「大衆」のためのもので「ブルジョアジー」のためのものではない、それは社会主義を目ざす闘いに従属しなければならない、と説明した。
 その年に公表した論文では、ポーランドとバルト諸国の分離は、これらの国々は革命ロシアと革命的西欧との間の障壁を形成するだろうから、反革命の動きであって帝国主義者の手中に嵌まる、と強調した。
 他方で、エジプト、モロッコまたはインドの独立を目ざす闘争は、帝国主義を弱体化することを意図しているので進歩的な現象だ、と。
 これら全ては完全に、レーニンの教理および党のイデオロギーと合致していた。
 分離主義運動は、ブルジョア政権に対して向かっていれば進歩的だ。しかし、ひとたび「プロレタリア-ト」が権力を手中にすれば、民族的な(national)分離主義は自動的にかつ弁証法的に、そのもつ意味を変化させる。それはプロレタリア国家、社会主義、そして世界革命に対する脅威なのだから。
 その定義からして社会主義は、民族的抑圧を行うはずがない。そうして、侵攻だと見えるものは、実際には解放のための行為なのだ。-例えば、スターリンの命令によって赤軍がジョージアの中へと進軍したときのように。ジョージアにはその当時(1921年)、代表制民主政体にもとづくメンシェヴィキ政府が存在していたのだが。
 こうしたことにもかかわらず、決して取り消されなかった民族自決権(自己決定権)というスローガンは、内戦でのボルシェヴィキの勝利に大きく貢献した。白軍の司令官たちは包み隠さず、自分たちの目的について、革命前の領土を少しも失うことなく一つで不可分のロシアを復活させることだ、と述べていたのだ。//
 スターリンがしたことはトロツキーのそれで覆い隠されているけれども、彼は内戦で重要な役割を果たした。
 この二人が対立する起源は、疑いなくこの時期にさかのぼる。この時期に、個人的な嫉妬と非難のし合い-誰が最もツァリツィン(Tsaritsyn)での勝利に貢献したのか、ワルシャワの前の敗北は誰の過ちによるのか、等々-があった。//
 スターリンは1919年に、労農監察部(the Workers' & the Peasants' Inspectorate)の人民委員になった。
 すでに述べたように、官僚制の侵入からソヴェト体制を守ろうとするレーニンの絶望的で見込みなき企てを、この組織は代表した。
 「純粋な」労働者と農民から成る監察部は、国家行政の他部門全てに対して監督する無制限の権限をもった。
 状況を改善するどころか、事態をさらに悪くした。この監察部には民主主義的な仕組みが欠けていたので、これはたんに大官僚組織に一列を付け加えたにすぎなかった。
 しかしながらスターリンは、これを利用して諸組織に対する自分の力を強化した。そして疑いなく、人民委員の地位にあったことは、彼が最高権力者へと昇りつめるのを助けることになった。//
 この段階で、独自性はなくとも重要な考察をしておくべきだろう。
 のちに党の歴史全体がスターリンの命令によって彼自身を称揚するために書き直されたとき、彼は若いときからレーニンの「副司令官」だったと叙述された。あるいはむしろ、自分をそう示そうとした。
 全ての活動分野で、スターリンは指導者、第一の組織者、同志の鼓舞者、等々だった。
 (党の質問で、彼は革命活動を行ったことが理由で放校になったと主張した。しかし、疑いなく彼はそこにいた間の禁じられた主題を議論してしまった。実際には、試験に出席することができなかったために追放された。)
 この狂熱的な考え方によると、彼はレーニンの最も親密な腹心で、党が創立されたまさにその瞬間からの助手だった。彼の輝かしい指導のもとで、コーカサスの幼なかった社会主義運動は成長した。そしてのちには、全党が疑問の余地なくスターリンをレーニンの正当で自然な後継者だと考えた、等々。
 彼は、革命のための頭脳、内戦の勝利の設計者、ソヴィエト国家の組織者だった。
 ベリア(Beriya)が創作した偉人伝では、1912年はロシアの党史上の、ゆえにまた人類史上の転換点として選び出された。スターリンが中央委員会委員になったのはまさにその年だったのだから。//
 他方で、トロツキーやスターリンを厭う理由をもつ他の多くの共産党員は、ボルシェヴィキの歴史でのスターリンの役割を何とか貶め、狡猾さと好運とが混じり合って階段の頂上へと昇りつめた二級の<党官僚(apparatchik)>と描写しようとした。その階段から踏み外させるのは不可能だと分かっていたのだった。//
 このような見方もまた、真実だと受け止めることはできない。
 確かなことは、スターリンは1905年以前には目立たない地方活動家で、より高く評価されて、より重要な役割を果たした者は彼の出身地域に多数いた、ということだ。
 にもかかわらず、1912年までには、6人または7人の著名なボルシェヴィキ指導者の一人になっていた。そして-トロツキー、ジノヴィエフあるいはカーメネフに比べると知られてはいなかったし、誰もレーニンの「当然の」後継者だとは考えていなかったけれども-、レーニンの晩年には、党を支配する小集団の中にいた。
 そしてレーニンが死んだとき、彼は理論上ではなく実務上だが、その国の誰がもつよりも大きな権力を保持していた。//
 我々には現在用いることのできる資料から、スターリンの同志たちは革命の前からすら、のちに病的な圧制者となった彼の性格に気づいていた、ということが分かっている。
 いくつかは、レーニンの「遺言」で記述された。
 スターリンは粗暴(brutal)で、不誠実で、我が儘で、野心家で、嫉妬深く、反対者に非寛容で、部下たちにとっては専制君主だった。
 彼がボルシェヴィキの「古い保護者」を全て一掃してしまうまでは、誰も真面目に哲学者だとか理論家だとかは思っていなかった。この点から見ると、トロツキーやブハーリンだけではなくて、党の主なイデオロギストたちの方が、スターリンよりも勝れていた。
 彼の論文、小冊子や演説には何も独自性がなく、それらの意図をきちんと伝えていない、ということを誰もが知っていた。マルクス主義理論家ではなく、数百人も他にいる党宣伝者(propagandist)の一人だったのだ。
 もちろんのちに、「人格カルト〔個人崇拝〕」の興奮状態の中で、彼が執筆した一片の紙切れも、マルクス=レーニン主義の財産に不朽の貢献をしたものになった。
 しかし、理論家としての全ての名声は命じられた儀礼の一部にすぎず、それは彼の死後たちまちに忘れ去られた、ということは完璧に明らかだ。
 スターリンのイデオロギー的著作が政治的に名声を求めることのない人物によって書かれたものであったとすれば、マルクス主義の歴史で言及するにほとんど値しなかっただろう。
 しかし、彼が権力を握っている間は、それ以外にマルクス主義の焼き印(ブランド)の付いたものは稀にしかなかった。また、この当時のマルクス主義は、彼の権威との関連でしかほとんど明らかにすることはできない。したがって、四半世紀にわたってスターリンが偉大なマルクス主義理論家だったと言うのは、本当のことであるばかりか、実際には、同義反復(トートロジー)だ。//
 いずれにせよ、スターリンは党に有用な多くの性質をもった。頂点にまで達して対抗者を排除したのは、偶然にのみよるのではなかった。
 彼は疲れ知らずの、目聡い、そして有能な活動家だった。
 実際上の諸問題に関して、教理的な考察を軽視し、論点の相対的な重要性の程度を明確に見分ける方法を知っていた。
  彼は(ヒトラーが侵攻してきた最初の数日を除いて)パニックに陥らなかったし、達成することしか頭にはなかった。
 また、見せかけの権力と実際の権力を区別することも巧かった。
 演説は下手で文章は退屈だったが、平易に喋ることができたので、ふつうの党員たちの心を掴んだ。そして、繰り返しや要点の番号振りをする衒学的な習癖は、提示した言葉(exposé)は力強くて明瞭だとの印象を与えた。
  彼は部下たちに威張りちらしたが、うまく彼らを使うことができた。
 党員、外国の新聞記者あるいは西側の政治家のいずれであれ、違う対話者に応じて異なるやり方で適応する術を知っており、プロレタリア-トの根本教条のために立ち向かう果敢な闘争者の役割を、あるいは国家にとって無意味ではない「親分」の役割を演じることができた。
  彼は、全ての成功を自分の栄誉として受け取り、全ての失敗を他者の責任として追及することのできる、類い稀な才能をもっていた。
 スターリンが確立するのを助けた体制によって、自分は僭政者になることができた。
 しかし、彼はその所期の成果を収めるべく長く懸命に仕事をした、ということは言っておかなければならない。//
 スターリンの有能さと組織する力を、レーニンは疑いなく評価していた。
 ときにはレーニンに同意しなかったが、危機にあるときにはつねにレーニンを守った。
 幹部級のボルシェヴィキの多くとは違って、「知識人的な」学習をしておらず、それについてレーニンは平気ではおれなかった。
 スターリンは淡々とした性格で、困難で下品な仕事をするのを気に懸けなかった。
 そして、遅れて見方を変えて、レーニンは自分が権力の頂部へと昇らせてい人物が危険だと気づいたけれども、スターリンがその敵対者に対して応答した言葉にはいく分かの真実がある。
 彼の敵対者たちが最後になってレーニンの「遺言」を書類庫から引っ張り出し、スターリンに反対する証文として使ったとき、スターリンはこう言った。
 そのとおり、レーニンはかつて私は粗暴だと責めた。そして、革命に関するかぎりは、私は粗暴<である>。-しかし、レーニンは一度でも、私の政策は過っていると言ったか?
 これには、反対者は答えることができなかった。//
 1922年4月にスターリンが党の総書記(the Secretary-General)になったのはレーニンの個人的な選抜だった、ということを疑う根拠はない。そして、他の指導者たちの誰かがこの指名に反対した、という証拠資料はない。
 トロツキーがのちにつぎのように明確に述べたのは、全く本当のことだ。
 この職を創設してスターリンをその地位に就かせることが彼がレーニンの継承者になることを意味するとは、誰も考えなかった。総書記の地位にある者は実際にはソヴェトの党と国家の最高支配者になるだろう、とも。
 全ての重要な決定は、まだ中央委員会政治局によって行われており、その諸決定は人民委員会議という媒介物を経て、国家を動かしていた。  
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 段落の途中だが、ここで区切る。③へとつづく。

1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /3.The Breakdown.
 この本の邦訳書はない。
 試訳を続行する。第1章第2節までは、すでに掲載を済ませている。
 同第3節p.9~p.14。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇①。
 ボルシェヴィキ指導者の大半とは違って、のちの全ロシアの共産党の指導者は、プロレタリアでなかったとしても、いずれにせよ民衆の一人だった。
 ヨゼフ(ヨシフ、Yosif)・ジュガシュヴィリ(Dzhugashvili)は、ジョージアの小さな町であるゴリ(Gori)で1879年12月9日に生まれた。
 父親のヴィッサリオン(Vissarion)は靴作りの大酒飲みで、母親は読み書きができなかった。
 ヴィッサリオンはティフリス(Tiflis)に移り、靴工場で仕事をして、1890年にそこで死んだ。
 彼の息子はゴリの教区学校に5年間通い、1894年にティフリスの神学校への入学を認められた。この学校は実際のところ、コーカサスでは彼のような社会的条件の有能な若者がより上級の教育を受けることのできる唯一の学校だった。
 正教の神学校は同時に、ロシア化するための機関だった。しかし、多くのロシアの学校のように、政治不安の温床でもあった。ジョージア愛国主義はそうした学校で花咲き、ロシア本域からの多くの被追放者によって、社会主義思想が流布された。
 ジュガシュヴィリは社会主義集団に加入し、神学から得ていたかもしれない関心を全て失い、試験に出席しなかったことで1899年の春に追放された。
  神学校を背景とすることの痕跡は、のちの彼の著作に認めることができる。聖書からの引用があり、のちのプロパガンダとうまくつながる教理問答的文体への好みがあった。
 彼は論文や演説で、回答の中で言葉通りに反復する質問を設定する癖をもっていた。
 彼はまた、個々の考え方や叙述にそれぞれ番号を振ることによって、自分の論文が理解されやすいようにした。//
 神学校での生活以降、スターリンはジョージアにある多様で初歩的な社会主義集団とかかわった。
 ロシア社会民主党は、まだ存在していなかった。1898年のミンスク(Minsk)集会で、設立に向けた正式決議がなされていたけれども。
 1899-1900年の数ヶ月の間、彼はティフリスの地理観測所の事務員として働き、その後、合法と非合法の両方の、政治活動かつプロパガンダ活動に完全に専念した。
 彼は1901年から、秘密のジョージア社会主義者新聞である<闘争(Brdzola)>に論考を書き、労働者の間にプロパガンダを広めた。
 その年の終わり近くに、ティフリスでの党の仕事を指揮する委員会の一員になった。
  バトゥーム(Batum)での労働者の集団示威行動を組織したとして1902年4月に逮捕された。
 彼は、シベリアへの追放刑(流刑)を宣告されたが拘置所から(またはそこへ行く途中で)逃亡し、1904年の初めには再びコーカサスにいて、偽った名の新聞をもつ地下組織の構成員として活動した。
 その間に、社会民主党は第二回大会を開き、ボルシェヴィキとメンシェヴィキの両派に分裂していた。
 スターリンはすみやかにボルシェヴィキを支持することを宣言し、党に関するレーニンの考え方を支援する冊子と論考を書いた。
 ジョージア社会民主党はほとんどがメンシェヴィキで、その指導者は、最もすぐれたコーカサスのマルクス主義者、ノエ・ジョルダニア(Noakh Zhordania)だった。
 1905年の革命の間とその後、スターリンはしばらく、全コーカサス地域を範囲とする職責をもつ党活動家としてバクー(Baku)で働いた。//
 しかしながら数年経って、彼はロシア本域のボルシェヴィキ活動家の一人となった。
 1905年12月のタンメルフォシュ(Tammerfors、フィンランド/タンペレ)での党大会に出席し、1906年には、ストックホルムでの「統一」大会に出席した唯一のボルシェヴィキとなった(そうできる彼の資格をメンシェヴィキは争った)。
 しかしながら、1912年までは、彼の活動の実際の舞台はコーカサスにあった。
 スターリンはタンメルフォシュで初めてレーニンと逢った。彼はレーニンの教理と指導性に、決して真剣に抗うことがなかった。
 しかしながらストックホルムでは、他の全ての問題についてはレーニンの側に立った一方で、党綱領はレーニンが主張する国有化ではなく土地の農民への配分を支持すべきだ、という路線を支持した。//
 この時期のスターリンの著作には、独自のものや記しておくに値するものは何もない。
 当時に生じていた話題に関するレーニンのスローガンを再現する、民衆むけのプロパガンダ的論考だけだ。 
 多くのスペースはメンシェヴィキに対する攻撃にあてられ、もちろん、カデット(立憲民主党)、「召喚主義者」(otzovoists)、「清算主義者」(liquidators)、無政府主義者(アナキスト)等に対する批判もあった。
 いかほどかの長さをもつ唯一の論文、<アナキズムかそれとも社会主義か?>は、1906年にジョージア語で発表された(1905年以降は彼はロシア語でも論考を書いた)。
 これは、社会民主党の世界観とその哲学的諸命題に関する不細工な作文にすぎなかった。//
 スターリンは1906-7年に党財政を充填させるための武装襲撃団である「収奪」の組織者の一人だった、ということが知られている。
 レーニンはこれに味方したが、この活動は1907年のロンドンでの第五回党大会で禁止され、非難された。
 しかし、ボルシェヴィキは、数ヶ月のちに大きなスャンダルを起こすまでは、この活動を実践し続けた。//
 近年に若干の歴史学者が、もともとはジョルダニアが、スターリンの死後は元のソヴィエト諜報機関の高官だったオルロフ(Orlov)が行っている、スターリンは1905年後の数年の間オフラーナ(Okhrana、帝制秘密警察)で仕事をしていた、という申し立てを検証した。
 しかし、この責任追及に有利な証拠は微少なもので、アダム・ウラム(Adam Ulam)やロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedyev)を含むほとんどの歴史家によって却下されている。//
 スターリンは、1908年と二月革命の間、ほとんどの時間を牢獄か追放先で過ごした。最後の期間(1913~1917年)を除いて、彼はそこからいつでも脱出した。
 彼は腕の利く堅固で疲れを知らない革命家だとの評価を獲得して、1907年後のひどい年月の間、党のコーカサス組織を守るために尽力した。
 ロシア内部の多くの他の指導者たちと同じく、彼は移住者(エミグレ、émigré)内部での理論上の議論や口論に強い関心を抱かなかった。
 スターリンはレーニンの<唯物論と経験批判論>について懐疑的な見方をしていた(のちには、哲学思想の最高の偉業だと絶賛した)、そして1910年の暗黒の日々の間にメンシェヴィキとの統一を回復しようと純粋に努力をした、という、ある程度の証拠はある。
 レーニンがメンシェヴィキとの分裂を明確にすべくプラハでの全ボルシェヴィキの大会を招集した1912年1月、スターリンは追放されてヴォログダ(Vologda)にいた。
 その大会は党の中央委員会を選出したが、レーニンの提案によってスターリンはのちにその構成員に選ばれた。かくして、全ロシアの政治舞台にデビューすることとなる。//
 ヴォログダから脱出したのち、スターリンはもう一回逮捕され、追放された。しかし、また逃亡した。
 1912年11月、生涯で初めてロシア国外に旅行をし、オーストリア領ポーランドのクラカウ(Cracow、クラクフ)で数日間をすごした。ここで、レーニンと逢う。
 彼はロシアに戻ったが、12月に再び国外に出た。今度はウィーン(Vienna)に6週間だった-これは外国の土を踏んでいた最長の期間になった。
 ウィーンで彼はレーニンのために「マルクス主義と民族問題」という論文を書き、雑誌<Prosveshchenie(啓蒙)>に1913年に発表された。そして、これは理論家としての名声を求める彼の最も初期の主張をなすもので、また彼の主要な見解の一つだ。
 この論文は、民族問題についてレーニンが語ったことに何も付け加えていない。但し、民族(nation)を単一の言語、領域、文化および経済生活をもつ共同体だと定義したこと以外には。-なお、こうして例えば、スイス(人)やユダヤ(人)は「民族」から除外される。
 この論文は、オーストリア・マルクス主義者、とくにシュプリンガー(Springer、レナー, Renner)とバウアー(Bauer)、およびブント(ロシア・ユダヤ人労働者総同盟)を攻撃するものとして執筆された。
 スターリンはロシア語とジョージア語だけを読めたので、ウィーンにいたときはたぶん、ブハーリン(Bukharin)がオーストロ・マルクス主義著作者からの引用文を選ぶのを助けていたのだろう。
 オーストロ・マルクス主義者は、民族の文化的自治という考えを個人による自己決定にもとづかせていた。これに対抗してスターリンは、民族の自己決定権と領域的な基礎にもとづく政治的分離を支持して論じた。 
 しかしながら、レーニンのように、彼が強調したのは、社会民主主義者は自分たち自身の国家を形成する全ての人民の権利を承認するけれども、それはあらゆる場合に分離主義を支持することを意味しはしない、ということだった。
 決定的な要因は労働者階級の利益であり、分離主義はしばしばブルジョアジーによる反動的なイデオロギーとして用いられるということを想起しなければならないのだ。
 こうした議論の全体は、もちろん、「ブルジョア革命」という前提のもとで行われた。
 トロツキーとパルヴゥスを除く当時の全ての社会主義者と同じく、スターリンは、ロシアは民主主義革命を経験し、その後の多年にわたりブルジョア共和国の支配が続く、と想定していた。
 しかし、その革命を起こすに際してプロレタリア-トは指導的な役割を果たさなければならず、ブルジョアジーの第二伴奏器であったり、ブルジョアジーの利益のためのたんなる従僕者であったりしてはならなかった。//
 民族問題に関する論文は、二月革命前にスターリンが執筆した最後のものだった。
 ウィーンから戻ったあとすぐの1913年2月に、彼はまたもや逮捕され、4年間の国外追放が宣告された。
 このときは逃亡しようとはせず、シベリアにとどまった。そして、1917年3月に再び、ペテログラードに姿を現した。
 レーニンが到着するまでの数週間、スターリンは事実上、首都の党の責任者だった。
 カーメネフとともに、<プラウダ>の編集部を所管した。 
 臨時政府およびメンシェヴィキに対するスターリンの姿勢は、いずれについても、レーニンのそれよりもはるかにより宥和的だった。そして、レーニンがスイスから送っている論文の調子を弱めたことで、レーニンの非難を受けるはめに陥った。
 しかしながら、レーニンのロシアへの帰還とその「四月テーゼ」の提示のあとは、少しは躊躇しつつ、「社会主義革命」とソヴェトによる政府のために活動する政策を受け入れた。
 対照的なことだが、ペテログラードにいた最初の数週間は、まだなお、「ブルジョア革命」、中央諸大国〔ドイツ帝国等〕との講和、大資産の没収、臨時政府の打倒を試みるのではなくそれに圧力を加える、といった趣旨のことを執筆していた。
 七月危機のあとで初めて、ペテログラードの党組織の会合で、スターリンはプロレタリア-トと貧農への権力の移行を明確に語った。
 このときに「すべての権力をソヴェトへ」とのスローガンは放擲された。ソヴェトは、メンシェヴィキとエスエルたちによって支配されていたのだ。
 十月革命の頃までに、スターリンは疑いなく、レーニン、(1917年7月に入党した)トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、スヴェルドロフおよびルナチャルスキーと並んで、党の主要な指導者の中に入っていた。
 我々が知るかぎりで、彼は蜂起をした軍事組織に参加していない。しかし、スターリンは、レーニンの最初のソヴェト政権で、民族問題担当のコミッサール(Commissar、人民委員)に任じられた。
 ブレスト=リトフスク条約をめぐって生じた党の危機の間は、ドイツとの革命戦争を押し進めるべきだとする「左翼のボルシェヴィキ」と対抗するレーニンを支持した。
 しかしながら、レーニンのように彼も、ヨーロッパ革命がいつの日にか勃発するだろう、ドイツとの講和の取決めは一時的な戦術的退却にすぎない、と考えていた。// 
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 ②へとつづく。
 下は、分冊版のLeszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. の第1巻と第3巻。
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1752/スターリニズムの諸段階②-L・コワコフスキ著1章2節。

 試訳の前回のつづき。分冊版第三巻、p.8-p.9。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /第三巻=3.The Breakdown.

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 第2節・スターリニズムの諸段階②。
 一方では、コミンテルンが、数年のうちにソヴィエトの外交政策と諜報の装置へと変質した。
 コミンテルンの政策は、適正であるかを問わず、国際状勢に関するモスクワの評価に合致するように揺れ動き、変化した。
 しかし、この変化は、イデオロギー、教理、あるいは「左翼」と「右翼」の違いとは、何の関係もなかった。
 例えば、ソヴィエト同盟の蒋介石やヒトラーとの協定、スターリンによるポーランドの共産主義者の虐殺、あるいはスペイン内戦へのソヴィエトの関与は、マルクス主義と合致するか、「左翼」または「右翼」政策を示すものだった。
 これら全ての動きは、ソヴィエト国家をどの程度強くするか、どの程度その影響力を増大させるか、に照らして判断することができる。しかし、それらを守るために付けられたいかなるイデオロギー上の根拠も、目的のために案出されたもので、イデオロギーの歴史上の意味はなかった。ソヴィエト国家の<存在理由(raison d'etat)>のための装置という役割を、いかに完全に辱めたかを示したこと以外には。//
 このように叙述したが、我々は、レーニン死後のソヴィエト同盟の歴史を三つの時期に区分してよい。
 第一は1924年から1929年で、ネップの時期だ。
 この時期には、私的商取引のかなりの自由があった。
 党の外にはもはや政治生活は存在しなかったが、指導者層の内部では純粋な論争と対立があった。
 文化は公的に統御されていたが、マルクス主義および政治的服従という制約の範囲内では、意見や討論の異なる諸傾向が許されていた。
 「真の(true)」マルクス主義の性格に関する討議は、まだ可能だった。
 一人の人物の独裁は、まだ制度化されていなかった。そして、社会のかなりの部分-農民、あらゆる種類の「ネップマン」-は、経済の観点からすると、まだ完全には国家に依存していなかった。
 第二の時期は、1930年から1953年のスターリンの死までで、個人的な専制、ほとんど完璧な市民社会の絶滅、恣意的な公的指示への文化の服従、そして哲学とイデオロギーの国家への編入、を特質とする。
 第三の時期は1953年から現在〔秋月注・この著刊行は1976年〕に至るまでで、我々が適正に考察すべき、それ自身の特質をもつ。
 どの特定のボルシェヴィキ指導者が権力をもつかは、一般的に言って、大して重要ではない。
 トロツキストは、むろんトロツキー自身は、彼が権力から排除されたことが歴史的な転換点だったと考える。
 しかし、これに同意できる根拠はないし、我々が見るだろうように、「トロツキズム(トロツキー主義)」なるものは存在しておらず、これはスターリンが考案した、空想の産物だった。
 スターリンとトロツキーの間の意見不一致は、現実に、ある程度まで存在していた。しかしそれは、個人的権力を目ざす闘争によって粗大に誇張されたもので、決して、二つの独立した、明瞭な理論にまで達するものではなかった。
 このことは、ジノヴィエフとトロツキーの間の論争についてもっと本当のことであり、のちのジノヴィエフとトロツキー対スターリンの対立についてもそうだった。
 ブハーリンおよび「右翼偏向者」とのスターリンの対立はより実質的だったが、それもなお、原理に関する論争ではなく、手段と、それを実行に移す行程表に関する論争にすぎなかった。
 1920年代の工業化に関する論議にはたしかに、工業と農業に関する実際的な決定に関して、したがって数百万人のソヴィエト民衆の生活に関して、大きな重要性があった。しかし、根本的な教理上の論争だと、あるいはマルクス主義またはレーニン主義の「正しい(correct)」解釈をめぐるものだと理解するのは、大袈裟すぎるだろう。
 全てのボルシェヴィキ指導者たちは、例外なく、問題に対する態度を急進的に変更したのであって、理論が明瞭に一体になったものだと、あるいは基本的なマルクス主義の教理の諸変形だと、トロツキー主義、スターリニズム、あるいはブハーリン主義を語るのは、無意味だ。
 (この問題に関して、イデオロギーに関する歴史家は、それ自体は二次的な、理解の仕方に関心をもつ。彼には、数百万の民衆の運命よりも教理上の立場の方がもっと重要なのだ。
 これはしかし、客観的な重要性のある問題ではなく、たんに職業上の関心物にすぎない。) 
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 第2節は終わり。

1750/スターリニズムの諸段階①-L・コワコフスキ著1章2節。

 試訳の前回のつづき。分冊版第三巻、p.5-p.8。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /第三巻=3.The Breakdown.

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 第2節・スターリニズムの諸段階①。
 全ての時代を諸段階に分かつのは、ソヴィエト歴史学者の一つの熱狂心(マニア、mania)だ。
 しかし、とくに境界の画定がイデオロギー上の根拠にもとづいている場合には、その手続をとるのは正当なことだ。//
 スターリニズムはたんにソヴィエトのではなく世界的な現象だったので、その多様な姿は、ロシアの国内政治や党派的対立の観点からだけではなく、コミンテルンおよび国際的ボルシェヴィズムの観点からも考察しなければならない。
 しかしながら、各時期を相互に関連づけること、したがってまた、その術語方法には、困難がつきまとう。
 トロツキストや元共産党員は、ソヴィエト史を「左翼」段階と「右翼」段階に区別する習癖がある。
 1917年直後の、内戦と世界革命の希望で占められた時期は「左翼主義」だとされ、世界全体での「資本主義の一時的な安定」を党が承認したネップ(N.E.P)という「右翼主義」の時期が続くとされる。
 そして、1928-29年の「左翼への揺れ(swing)」が到来し、党はこの安定は終わったと宣言する。
 「革命の潮目」がもう一度始まり、社会民主主義は「社会ファシズム」だとして非難され、闘争相手になる。そして、ロシアは、民衆の集団化と強制的産業化を視ることになった。
 この段階は、ファシズムに対する人民戦線のスローガンのもとで「右翼主義」政策が採用された1935年に終わった、と考えられている。
 これらの連続した変化は、ロシアの指導者層の間の党派的かつ個人的な内部闘争と関連していた。
 スターリン、ジノヴェフおよびカーメネフによる支配は、トロツキーの政治的排除へと至った。
 ついで、ジノヴェフとカーメネフは、ブハーリン、リュコフおよびトムスキーのために追放された。
 そして1929年にブハーリンが追い出され、ボルシェヴィキ党の中での有効な意見不一致は終わりを迎えた。//
 しかしながら、このような年代史的叙述は、「左翼」と「右翼」という語の曖昧でかつ恣意的な用い方を別に措くとしてすら、困難さに満ちている。
 概念用法に関しては、「社会ファシズム」のスローガンはなぜ「左翼」で、蒋介石(Chiang Kai-shek)との妥協の試みはなぜ「右翼」なのかは明確でない。
 あるいは、大規模の農民迫害がなぜ「左翼」で、政治目的のための経済的手段はなぜ「右翼」なのか。 
 もちろん、政治がテロルをより多く含んでいればいるだけ「左翼」的だということが前提にある、と言うことはできる。-この原理的考え方は今日でも頻繁に用いられており、しかも共産主義者の公刊物においてのみではない。そして、「左翼主義」という伝統的な観念によって何を意味させているのかを理解するのは困難だ。
 この点はさておき、コミンテルンの政策の変化とソヴィエト国内の政治やイデオロギーの異なる局面との間にいかなる相互連関があったのかは、明瞭でない。
 ヨーロッパの社会民主主義はファシズムの一部門だとのいわゆる「左翼主義者」の主張は、ジノヴィエフによって案出され、遅くともすでに1924年には通用していた。
 社会民主主義に対するコミンテルンの闘いは、ロシア農業の強制的集団化が考案されるよりもかなり前、1927年に強化された。
社会民主主義に対する反対運動を中止してそれとの同盟を繕い直す不細工な努力がなされた1935年には、ソヴィエト同盟ではすでに民衆の政治的抑圧の波が存在しており、新しい、より怖ろしい抑圧がまさに始まろうとしていた。//
 要するに、「左翼」や「右翼」という技巧的標識である用語によってソヴィエト同盟の歴史を提示するのは、意味のないことだ。それは、ある場合には、馬鹿げた諸結論を導く。
 政治局(Politboro)の変化を歴史的転換点だと解釈するのも、適切ではない。
 レーニンの死後の時期に、一定の政治的およびイデオロギー的特質が、着実により顕著になった。他のものは、状勢次第での重要なことに揺れ動いている間に。
 体制の全体主義的性格-すなわち、市民社会の破壊の進行、社会生活の全態様の国家による統合-は、1924年から1953年までの間、ほとんど遮られることなく増大した。そして、確実に、私的所有と取引への譲歩にかかわらず、ネップよって縮小することはなかった。
 我々が見たように、ネップ(N.E.P)は、軍隊と警察という手段によって経済全体を作動させるという政策からの退却であり、経済の破滅が切迫しているとの見込みによって余儀なくされたものだ。
 しかし、政治的対抗者に対するテロルの使用、党内部での厳正さや脅迫の増大、哲学、文筆、芸術そして科学に対する自立性の抑圧と強制の増大-これらは全て、ネップの全期間を通じて深刻化し続けた。
 こうした観点からは、1930年代は、レーニンが生きている間に彼の指令のもとで始まった過程を強化し、高めたものにすぎなかった。
 無数の犠牲者を出した農業の集団化は、まさしく、転換点だった。
 しかしこのことは、体制の性格の変化、あるいは「左翼への揺れ」をもたらしたがゆえにではない。そうではなく、それ〔農業の集団化〕が決定的な重要性のある一つの部門で、根本的な政治的かつ経済的な全体主義の原理を強要したのが理由だ。
 農業集団化は、ロシアのきわめて多数の社会階層から財産を完全に剥奪し、農業への国家統制をひとたび全てのために確立し、何らかの程度で国家から自立していた共同体(community)の最後の部門を絶滅させ、無制限の権力をもつ東方の総督カルト(oriental cult of the satrap)の基礎を築いた。そして、飢饉、民衆の虐殺、数百万の死という手段によって、民衆の精神(spirit)を破壊し、抵抗の最後の痕跡を消去した。
 これは、疑いなく、ソヴィエト同盟の歴史上の画期的なこと(milestone)だった。しかし、それは、その根本的な原理、すなわち国家が課したり規制したりしていない全ての形態の政治的、経済的および文化的生活の廃絶、を継続するもの、あるいは拡張するものだつた。//
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 ②へとつづく。

1749/スターリニズムとは何か②-L・コワコフスキ著3巻1章1節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 試訳の前回のつづき。分冊版第3巻、p.3-p.5。
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第1節・スターリニズムとは何か②。
 スターリニズムの歴史は、詳細な諸点に関しては議論があるにもかかわらず、広く知られていて、多くの書物で適切に叙述されている。
 この著のこれまでの二つの巻でのように、この著の主要な対象は、教理(doctrine)の歴史だ。
 政治の歴史は、その中でイデオロギーの生命が進展した大枠を示すに必要なかぎりで、簡単に叙述されるだろう。
 しかしながらスターリン時代では、教理の歴史と政治的事件の間の連環は、以前よりも密接だ。我々が研究しなければならない現象は権力の装置としてのマルクス主義を絶対的に制度化したもの(institutionalization)だからだ。
 まさに、この過程は早くから始まった。
 それは、マルクス主義は「党の世界観」でなければならない、言い換えれば、マルクス主義の内容は個々の局面での権力闘争の必要に応じて決定されなければならない、とするレーニンの考え方にまでさかのぼる。
にもかかわらず、レーニンの政治的な日和見主義は、一定範囲で教理上の考慮によって制限された。
しかし他方でスターリンの時代には、1930年代の早くから、ソヴィエト政権およびそれが行う全てのことを正当化し賛美する目的のために、教理は絶対的に従属した。
 スターリンのもとでのマルクス主義は、言明、考え、あるいは概念をいくら収集しても定義することができない。
 何がマルクス主義であり何がそうでないかを全ての時点で宣告することのできる、全権の権威が存在した、ということ以外には、前提命題に関する疑問はなかった。
 「マルクス主義」とは、多かれ少なかれ、問題についての権威、すなわちスターリンの現在の見解以外の何ものをも意味しはしなかった。
 例えば、1950年6月までは、マルクス主義者だということは、とりわけ、N・Y・マッル(Marr)の哲学理論を受け容れることを意味した。そして、その日以降は、その理論を完全に拒否することを意味した。
 何か特別の思想-マルクス、レーニン、あるいはスターリンのでも-が正しい(true)と考えるがゆえにマルクス主義者だったのではなく、至高の権威者がきょう、明日あるいは一年のあるときに宣告するだろうものを何であっても受け容れる心づもりがあるがゆえに、マルクス主義者だったのだ。
 こうした制度化と教条化の程度は以前は全く見られなかったもので、1930年代にその頂点に達した。しかし、明らかにその根源への痕跡は、レーニンの教理へとたどることができる。  
マルクス主義はプロレタリア政党の世界観であり道具であるので、「外部から」どんな異論が挟まれても、それを無視して、何がマルクス主義であり何がそうではないかを決定するのは党だ。
 党が国家および権力装置と同一視され、それは一人の人物の僭政のかたちをとって完全な一体性を達成するならば、教理は国家の問題になり、僭政体制は不可謬だと宣せられる。
 じつに、マルクス主義の内容に関するかぎり、スターリンは実際に不可謬<である>のだ。
 党はプロレタリア-トが発言する口としての権能をもって主張し、ひとたび一体化を達成した党は、独裁者たる人物に具現化される指導性を通じてその意思と教理を表現するのだから。
 このようにして、プロレタリア-トは歴史的に他の全階級とは対照的な指導階級であり、客観的な真実の所持者であるという教理は、「スターリンはつねに正しい(right)」という原理へと変形された。
 このことは実際、党を労働者運動の前衛だとするレーニンの考えと結びつけられたマルクスの認識論を歪曲するものでは全くない。 
 真理(truth)=プロレタリアの世界観=マルクス主義=党の世界観=党の指導者たちの声明=最高指導者の声明、という等号化は、レーニンのマルクス主義に関する理解の仕方と完全に合致していた。
 我々は、スターリンがマルクス=レーニン主義と名付けて洗礼を施したソヴィエト・イデオロギーの最終的表現が見出されるこの等式化の過程を、追跡するよう努めるだろう。
 スターリンは、二つの別々の教理があると意味させていただろうマルクス主義<および>レーニン主義ではなく、このマルクス=レーニン主義という語を選択した、ということは重要だ。
 この複合表現は、レーニン主義は-マルクス主義のレーニン主義ではない別の形態があるかのごとく-マルクス主義内部での独自の傾向ではなく、傑出した(par excellence)マルクス主義であり、マルクス主義を新しい歴史の時代に展開し適合させた唯一の教理だ、ということを意味させた。  
 現実に、マルクス=レーニン主義は、スターリン自身の教理にマルクス、レーニンおよびエンゲルスの著作から彼が選んで引用したものを加えたものだった。
 マルクス、レーニンあるいはスターリン自身のですら、これらから随意に引用する自由が、スターリン時代に誰にもあった、などと想定してはならない。
 マルクス=レーニン主義とは、独裁者がいま権威を与えている引用句でのみ成り立つもので、その教理に合致するようにスターリンは発表していたのだ。//
 スターリニズムはレーニン主義の本当の(true)発展形だと主張するが、私は、それでスターリンの歴史的重要性を過小評価するつもりはない。
 レーニンの後、そしてヒトラーの傍らに並んで、スターリンは確実に、第一次大戦以降のどの人物よりも、いま現にある世界を形成する多くのことをした。
 にもかかわらず、党と国家の単一の支配者になったのは他のいずれのボルシェヴィキ指導者でもなくスターリンだったということを、ソヴィエト体制の本質によって説明することができる。
 スターリンの個人的な性格は対抗者たちに勝利するのに大きな役割を果たしたが、それ自体はソヴィエト社会の基本路線を決定したのではない、との見解がある。この見解を支持するのは、スターリンはその初期の経歴の間ずっと、ボルシェヴィキ党の中の急進派に属していなかった、ということだ。
 また一方では、スターリンは穏健派的人物で、彼は党内部の論争においてしばしば、良識や慎重さの側に立った。
 要するに、僭政君主としてのスターリンは、その創設者以上にはるかに、党が創出したものだった。スターリンは、抗しがたく個人化されていく体制を人格化したものだった。//
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 第1節、終わり。次節の表題は「スターリニズムの諸段階」。

1746/スターリニズムとは何か①-L・コワコフスキ著3巻1章。

 もともとロシア革命等の歴史をもっと詳しく知っておこうと考えたのは、日本共産党(・不破哲三)が1994年党大会以降、レーニンは「ネップ」路線を通じて<市場経済を通じて社会主義への途>を確立したが、彼の死後にスターリンによってソ連は「社会主義を目指す国家」ではなくなった、レーニンは「正しく」、スターリンから「誤った」という歴史叙述をしていることの信憑性に疑いを持ち、「ネップ(新経済政策)」期を知っておこう、そのためにはロシア「10月革命」についても、レーニンについても知っておこうという関心を持ったことに由来する。元来の目的は、日本共産党の「大ウソ・大ペテン」を暴露しようという、まさに<実践的な>ものだった。
 不破哲三(・日本共産党)によるレーニン・「ネップ」理解の誤り(=捏造)にはとっくに気づいているが、最終の数回の記述はまだ行っていない。
 もともとはスターリン時代(この時代のコミンテルンを含む)に立ち入る気持ちはなかった。それは、日本共産党もまたスターリンを厳しく批判しているからだ。但し、以下のL・コワコフスキ著の第三巻の冒頭以降は、スターリンに関する叙述の中でレーニンとスターリンとの関係や「ネップ」に論及しているので、しばらくは、第三巻の最初からの試訳をつづけてみる。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第一章から第三章までの表題と第一章の中の各節の表題は、つぎのとおり。
 第一章/ソヴィエト・マルクス主義の第一段階/スターリニズムの開始。
  第1節・スターリニズムとは何か。
  第2節・スターリニズムの諸段階。
  第3節・一国での社会主義。
  第4節・ブハーリンとネップ・イデオロギー、1920年代の経済論争。
 第二章・1920年代のソヴィエト・マルクス主義における理論上の論争。
 第三章・ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 p.1~の第一章から。Stalinism は「スターリン主義」ではなく「スターリニズム」として訳す。なお、Leninism は「レーニニズム」ではなく「レーニン主義」と訳してきた(これからも同じ)。
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 第1節・スターリニズムとは何か①。
 「スターリニズム」という語が何を意味するかに関する一般的な合意はない。
 ソヴィエト国家の公式なイデオロギストたちはこの語を使ったことがなかった。一つの自己完結的な社会体制の存在を示唆するように見えるからだろう。
 フルシチョフ(Khrushchev)の時代以降、スターリン時代は何を目指していたかに関する受容された定式は、「人格(personality)のカルト」だった。そして、この常套句は、必ず二つの想定と関連づけられていた。
 第一は、ソヴィエト同盟が存在している間ずっと、党の政治は「原理的に」正しく(right)、健康的(salutary)だったが、ときたま過ち(errors)が冒され、その中で最も深刻だったのは「集団指導制」の無視だった、つまり、スターリンの手への無限の力の集中だつた、というものだ。
 第二の想定は、「過ちと歪曲」の主要な原因はスターリン自身の性格的な欠陥、すなわちスターリンの権力への渇望や専制的傾向等々にあった、というものだ。
 スターリンの死後、これら全ての逸脱はすみやかに治癒され、党はもう一度適切な民主主義的原理に適応した。そして、事態は過ぎ去った、ということになる。
 要するに、スターリンの支配は偶然の以外の奇怪な現象だった。そこには「スターリニズム」とか「スターリン主義体制」というものは全くなく、いずれにせよ、「人格のカルト」の「消極的な発現体」はソヴィエト体制の栄光ある成果とは関係なく消え去ったのだ。//
 こうした事態に関する見方は疑いなく執筆者やその他の誰かによって真面目には考察されなかったけれども、今日的用法上の「スターリニズム」という語の意味と射程に関しては、今なお論争が広く行われている。それは、ソヴィエト同盟の外に共産主義者の間にすらある。
 しかしながら、その考え方が批判的であれ正統派的であれ、上の後者〔外部の共産主義者〕は、スターリニズムの意味を、1930年代初期から1953年の死までのスターリンの個人的僭政の時期に限定する。
 そして、彼らがその時代の「過ち」の原因として非難するのはスターリン自身の悪辣さというよりも、遺憾だが変えることのできない歴史的環境だ。すなわち、1917年の前および後のロシアの産業や文化の後進性、ヨーロッパ革命を期待したという失敗、ソヴィエト国家に対する外部からの脅威、内戦後の政治的な消耗。
 (偶然だが、同じ理由づけは、ロシアの革命後の統治の堕落を説明するために、トロツキストたちによって決まって提出される。)//
 一方、ソヴィエト体制、レーニン主義あるいはマルクス主義的な歴史の図式を擁護するつもりのない者たちは、総じて、スターリニズムを多少とも統一した政治的、経済的およびイデオロギー的体制だと考える。それはそれ自体の目的を追求するために作動し、それ自体の見地からは「過ち」をほとんど犯さない体制だ。
 しかしながら、この見地に立ってすら、スターリニズムはいかなる範囲でかついかなる意味で「歴史的に不可避」だったのか、が議論されてよい。
 換言すると、ソヴィエト体制の政治的、経済的およびイデオロギー的様相は、スターリンが権力に到達する前にすでに決定されており、その結果としてスターリニズムだけがレーニン主義の完全な発展形だったのか?
 いかなる範囲でかついかなる意味で、ソヴィエト国家の全ての特質は今日に至るまで存続しているのか、という疑問もやはり、まだ残る。//
 用語法の観点からは、「スターリニズム」の意味を独裁者が生きた最後の25年間に限定するか、それとも現在でも支配する政治体制をも含むように広げるかは、特別の重要性はない。
 しかし、スターリンのもとで形成された体制の基本的な特質は最近の20年で変わったのかは、純粋に言葉の問題以上のものだ。そしてまた、その本質的な特徴は何だったのかに関する議論を行う余地も残っている。//
 この著者〔L・コワコフスキ〕も含めて、多くの観察者は、スターリンのもとで発展したソヴィエト体制はレーニン主義を継承したものだと、そしてレーニンの政治的およびイデオロギー上の原理にもとづいて創設された国家はスターリニズムの形態でのみ存続することができた、と考えた。
 さらに加えて、論評者は、狭い意味での「スターリニズム」、つまり1953年まで支配した体制は、スターリン後の時代の変化によっても本質的には決して影響をうけなかった、とする。
 これらの論点の第一は、これまでの各章で、ある程度は確証された。そこでは、レーニンは全体主義的教理および萌芽にある(in embryo)全体主義国家の創設者だ、と示された。
 もちろん、スターリン時代の多くの事件の原因は偶然だったり、スターリン自身の奇矯さだったりし得る。出世主義、権力欲求、執念、嫉妬、および被害妄想的猜疑心。
 1936~1939年の共産党員の大量殺戮を「歴史的必然」と呼ぶことはできない。
 そして我々は、スターリン自身以外の僭政者のもとではそれは生起しなかっただろうと想定してよい。
 しかし、典型的な共産主義者の見方にあるように、かりに大殺戮をスターリニズムの本当の「消極的」意味だと見なすとすれば、スターリニズムの全体が嘆かわしい偶発事だということに帰結する。-これが示唆するのは、傑出した共産党員たちが殺害され始めるまでは、共産主義者による支配のもとでは全てがつねに最善のためにある、ということだ。
 歴史家がこれを受容するのは困難だ。それは歴史家が党の指導者または党員ですらない数百万人の運命に関心があるということによるのみならず、特定の期間にソヴィエト同盟で発生した巨大な規模の血に染まるテロルは、全体主義的僭政体制の永遠の、または本質的な特質ではない、ということも理由としている。  
僭政体制は、個々の一年での公式の殺害者が数百万人と計算されるか、数万人とされるかに関係なく、また、拷問が日常の事として用いられていたのか、たんにときたまにだつたのかに関係なく、さらに、犠牲者は労働者、農民、知識人だけだったのか、あるいは党の官僚たちも同様だったのかに関係なく、力を持ったままで残っている。//
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 ②へとつづく。

1744/論駁者・レーニンの天才性②-L・コワコフスキ著第二巻の最終部分。

 以下の著の第二巻(部)および分冊版・第二巻の最終部分の試訳。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 三巻合冊版p.775-778、分冊版・第2巻p.524-527。
 第16章『レーニン主義の成立』(三巻合冊版p.661~、分冊版p.381~)から試訳を開始したので、三巻合冊版の総1283頁(参照文献等を含む)のうち118頁分、分冊版の総542頁(同上)のうち147頁分をいちおう訳出したことになる。
 しかし、重要な例外があって、「10月革命」以前の理論・哲学論争に関係する前者の約19頁分(ほぼ696~714頁)、後者の約24頁分(ほぼ424~447頁)は省略している。したがって、前者では99頁分/8%、後者では122頁分/23%だけしか、試訳ではあっても完了していない。
 L・コワコフスキはこの著をマルクス主義に関する「ハンドブック」つまり<手引き書>のごときものとして執筆したようで、詳細とはいえ、レーニンに関しても、メモ書き、要点列記という観の部分もある。
 それでもなお、全体(三巻合冊本)の1割も、試訳しながらの読書をしていないのだから、全三巻(全三部)にわたるマルクス主義の「主要潮流」に関するコワコフスキの叙述の幅広さ、論評・叙述の対象としている人物・「思想」群の多さ、そしていずれにせよ<凄まじさ>を感じざるを得ない。いずれかの機会に、対象としている人物数、読破しているとみられる全文献数を探ってみたいと感じている。とはいえ、各巻末尾の参照文献の列挙も<選択的(selective)…>と題されているので、上に関する正確な数はきっと誰にも、いつかにでも、判明しないのだろう。
 なお、この著は1970年代の後半に、つまりソ連解体の15年前には執筆・公刊され、英米語版も刊行されていたことを、あらためて追記しておく。
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 第18節/論争家としてのレーニン・レーニンの天才性②。
 (つづき)
 ストルーヴェは1913年に、<経済価格> と題する本を公刊した。その中で彼は、マルクスの意味での価値(value)は、価格(price)とは独立(independent)に、形而上の非経験的な範疇であって、不適切だ(superfluous)、と論じた。
 (これは新しい考えではなく、コンラッド・シュミット以降から多くの批判がなされていた。)
 レーニンは、つぎのような言葉で論評した。
 『どのようにすれば人は、この最も「過激な」方法をきわめて薄っぺらいと呼ばずにおれるだろうか?
 数千年もの間、人類は、交換の現象における客観的法則の働きに気づいてきた。それを理解して最大限度に精細に表現しようと試みてきた。経済生活についての数百万、数億の数の日々の観察による説明によって、それを吟味してきた。
 しかるに突然に、時流にのった職業-引用文を収集するそれ(私はほとんど郵便切手の収集と言ってしまった)-の時流にのった一人の代表者が出現して、「これら全てを捨て去る」。「価値は、幻影(phantom)だ」と言う。』
 (<再び粉砕される社会主義>、1914年3月。全集20巻200頁〔=日本語版全集20巻206頁〕。)
 レーニンは、説明をこうつづける。
 『価格は、価値の法則を宣言したものだ。
 価値は、価格の法則だ。換言すると、価格の現象の一般化された表現だ。
 ここで「独立性」を語るのは、科学を嘲弄するもの(mockery)だ。』
 (同上、201頁〔=日本語版全集同上207頁〕。)
 そして、こう締めくくる。『科学から法則を排除することは、実のところは、宗教の法則をこっそり持ち込むことだ。』
 結論はこうだ。『ストルーヴェ氏は、このような粗雑な方法によって、読者を欺き、自分の反啓蒙主義を隠蔽することができると、本当に考えているのか?』
 (同上、202頁・204頁〔=日本語版全集同上209頁・211頁〕。)
 これは、レーニンによる反対者の取り扱いの、典型的な例だ。
 ストルーヴェは、価値は価格とは独立には計算することができない、と言った。レーニンは、独立性を語るのは科学の嘲弄だと言う。
 本当の議論にするという試みはなく、冗漫な言葉と誤用の大波の中へと溺れている。//
 しかしながら、レーニンは人々や事件に対する純粋に技術的で道具的な姿勢から自分自身を除外しなかった、ということは繰り返しておくべきだ。
 彼は、個人的な利益のことを考えなかった。
 例えばトロツキーとは異なり、彼は決して<気取り屋(poseur)>ではなく、劇場的な振舞いに熱を上げることはなかった。
 レーニンは、革命の道具だと自分のことを見なし、自分は正しい(in the right)と揺るぎなく確信していた-そう確信していたので、政治上の対抗者たちに一人で又はほとんど一人で立ち向かうことを怖れなかった。
 彼は、神は、あるいはむしろ歴史は、自分の唇を通じて語ると固く信じていたことにおいて、ルター(Luther)に似ていた。
 彼は、例えばツィンマーヴァルト(Zimmerwald)でレデブール(Ledebour)がした、レーニンは自らを外国で安全にしたままでロシアの労働者に血を流すことを呼びかけている、という非難を、侮蔑心をもって却下した。
 レーニンの観点からは、このような批判は馬鹿げていた。彼が外国から指揮を執るのは、革命にとって利点だったのだから。
 ロシアの状勢のもとでは、国外逃亡者がいなければ、革命は起こり得なかっただろう。
 いかなる場合についても、誰も、レーニンの個人的な臆病さを責めることはできないだろう。
 彼は、最も重い責任を請け負うことができた。そしてつねに、どんな論争についても明確な態度を採った。
 レーニンは、たしかに正当(right)に、権力を奪取することを怖れていた他の全ての社会主義者集団の指導者たちを非難した。
 他の指導者たちは、歴史の法則を信頼することがより安全だと考えた。
 しかし、怖れなかったレーニンは、最大の賭けを行い、そして勝利した。//
 なぜ、レーニンは勝利したのか?
 確実なのは、彼が適正に(correctly)事態の推移を予見したのが理由ではない、ということだ。
 彼の予言や推測はしばしば間違っていて、ときどきはそれが明白だった。
 1905年の敗北の後、彼は長い間、もう一度の蜂起が切迫している、と信じた。
 しかしながら、革命の潮目が引き、反動的状勢下で長い年月にわたる活動をしなければならないことが分かったとき、彼は情勢からただちに、全ての推論を導いた。
 1912年にウィルソンが合衆国の大統領に選出されたとき、レーニンは、アメリカの二党制度は社会主義運動に<直面して(vis-a-vis)>破産している、と宣告した。
 1913年に彼は、アイルランド民族主義は労働者階級では死に絶えていると、断定的に述べた。
 1917年の後、彼はいつの日かのヨーロッパ革命を期待し、かつテロルを手段としてロシアの経済を作動させることができると考えた。
 しかし、彼の誤った判断の全ては、革命運動への期待を強くし、現実にそうだったよりも早く革命を宣言する方向へと導いた。
 レーニンの観点からは、それらは、好運な過ちだった。彼が1917年10月に武装蜂起を決意したのは、誤った評価のみにもとづいていたのだから。 
自分の過ち(mistakes)によって、彼は革命の可能性を完璧に利用することができた。そして、それが彼の勝利の原因だった。
 レーニンの天才性(genius)とは、予見の天才性ではなく、権力を奪取するために用いることのできる全ての社会的エネルギーを所与の瞬間に集中させる、そして彼と彼の党の力の全てをその一つの目的のために従属させる天才性だ。
 目的に関するレーニンの堅固さなくして、ボルシェヴィキが成功したとは考え難い。
 彼がいなければ、ボルシェヴィキは、ドゥーマをボイコットする政策を重大な時限以上に延長させていただろう。
 ボルシェヴィキだけで権力を確保する武装蜂起という冒険を、冒さなかっただろう。
 ブレスト=リトフスク条約に署名することはなかっただろう。
 そして、最後の時点では、新経済政策(the New Ecconomic Policy)を採択しなかったかもしれなかった。
 重大な諸状況では、レーニンは、党に対して暴力(violence)を用いた。そしてその結果として、彼の根本教条が党を覆い尽くした。
 我々が今日に知る世界の共産主義は、真に(truely)、彼の作品(work)だ。//
 レーニンもボルシェヴィキも、革命を「作った(made)」のではない。
 世紀が変わって以降、「歴史の法則」はその崩壊の態様を定めてはいなかったけれども、専制体制が不安定な状態にあったことは明らかになっていた。
 二月革命は、多数の要素が同時に発生したこと(coincidence)によるものだった。すなわち、戦争、農民の困窮、1905年の記憶、リベラルたちの策略、協商国からの支援、労働者階級の過激化。
 革命の過程が進展したとき、スローガンはソヴェト権力のそれで、十月革命を支持した者たちはボルシェヴィキ党のための権力ではなく、ソヴェトのための権力を要求した。
 しかし、「ソヴェトの権力」はアナキスト的夢想であり、大衆である民衆、無知で無学の人々のほとんどが永続する大量の隊列でもって全ての経済的、社会的、軍事的および行政的諸問題を決定するという社会を夢見たものだった。
 ソヴェト権力は打倒されていたとすら、ほとんど言うことができない。
 「共産主義者のいないソヴェト権力」というスローガンは、民衆の反ボルシェヴィキ一揆でしばしば用いられた。しかし、それは実際には、何ものをも意味せず、ボルシェヴィキはそのことを知っていた。
 ボルシェヴィキは、<ソヴェト政府>としての自分たちへの支持を取りつけることができ、単一の腕だけで統治する用意のある唯一の党だったときに革命のエネルギーを傾注することができた。//
 にもかかわらず、現実の革命の過程はソヴェトというよりはるかに、ボルシェヴィキ特有のものだった。そして、数年の間は、新しい社会の文化、雰囲気および習性は、ボルシェヴィキが最もよく組織された力(force)だが決して社会の多数派ではなかったことを反映した。
 革命は、ボルシェヴィキの<クー・デタ>ではなかった。そうではなく、労働者と農民のための本当(true)の革命だった。
 ボルシェヴィキだけが、彼ら自身の目的のために革命の手綱を握ることができた。
 彼らの栄光は、ただちに、革命にとっての敗北であり、ボルシェヴィキ的範型のですら、共産主義の理想にとっての敗北だった。
 レーニンは1922年3月の第11回(彼が最後に出席した)党大会で、尊敬すべき明瞭性をもって、前方にある危険を描写した。
 ツァーリ体制(帝制)時代から継承した文化に<直面する>共産主義者の弱さに関して、彼はこう語った。
 『かりに征服する民族が征服される民族よりも文化的であれば、前者は後者に対してその文化を押しつける。
 しかし、かりにその反対の場合には〔前者が後者よりも文化的でないならば〕、征服された民族が征服者に対してその文化を押しつける。
 ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国の首都で、これに似たことが発生しなかったか?
 4700人の共産主義者(ほとんど軍の一個師団全体で、彼らはみな最も優秀だ)が、外部者(alien)の文化の影響のもとに置かれなかったのか?
 なるほど、被征服者は高度の文化をもつ、という印象があるかもしれない。
 しかし、決してそうではない。
 彼らの文化はみすぼらしく(miserable)、とるに足らない。しかし、それでもまだ、我々の文化よりも高い次元のものだ。』(+)(*秋月注)
 (全集33巻288頁〔=日本語版全集33巻「ロシア共産党(ボ)第11回大会」のうち「ロシア共産党(ボ)中央委員会の政治報告/3月27日」294頁〕。)//
 これは、レーニンの、彼が生み出した国家に関する、最も透徹した観察の一つだ。
 「ブルジョアジーから学べ」というスローガンは、悲劇的でかつグロテスクな両方の方法で実践に移された。
 ボルシェヴィキは、多大な努力と部分的でしかない成功を伴いつつ、今でもまだしているように、資本主義世界の技術的な達成物を吸収することを始めた。
 苦労を少しも伴わないで、ボルシェヴィキは、急速にかつ完全に、ツァーリスト体制(帝制)の官僚制(chinovniks)の統治と行政の方法を採用した。
 革命の夢は、その体制の全体主義的帝国主義(totalitarian imperalism)を粉飾する、用語法上の残滓のかたちをとってのみ、生き延びた。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 (*秋月注) このL・コワコフスキが引用する1922年3月のこの文の直後につづく文章のいくつかを、日本語版全集33巻294頁から引用する。一部はひらがなを漢字に変えた。
 「それは、どんなに惨めで、みすぼらしかろうと、わが責任ある共産主義活動家の文化よりは、ましである。なぜなら、これらの活動家には、統治する能力が不足しているからである。機関の主長になっている共産主義者は、-<中略>-しばしばよい嬲り者にされている。こういうことを認めるのは、ひじょうに不愉快である。少なくともあまり愉快ではない。だが、いまはこれが問題の眼目であるから、このことを認めなければならない、と思う。」
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 以上で、第18章は終わり。第二巻(第二部)も終わり。  
 この本には、邦訳書がない。このことは、昨2017年の、私には最も衝撃的なことだった。
 なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。

1742/マルトフとボルシェヴィキ②-L・コワコフスキ著18章9節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.770-、分冊版・第2巻p.519-520。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第9節・ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ②。
 レーニンとマルトフの間の論争は、このようにして、それが始まった1903年の時点で終わった。
 マルトフが労働者階級の支配について語ったとき、彼は言ったことそのままを意味させた。一方、レーニンの見解では、放置された労働者階級はブルジョアのイデオロギーを産出することができるだけで、労働者階級に現実の力を与えることは、資本主義の復古に結局はなるだろう。
 レーニンが全く正当に(rightly)、1921年8月にこう書いたごとくだ。
 『「労働者階級の力にもっと信頼を!」とのスローガンは、今や実際には、1921年春のクロンシュタッタトによってまざまざと証明され、実演されたように、メンシェヴィキやアナキストの影響力を増大させるために使われている。』(+)
 (「新時代と新しい装いの古い過ち」、全集33巻27頁〔=日本語版全集33巻「新しい時代、新しい形をとった古い誤り」9頁〕)。
 マルトフは、国家が過去の全ての民主主義的諸制度を奪い取り、その視野を拡張することを望んだ。 
 レーニンの国家は、共産主義者がその国家の権力を独占するかぎりでのみ、共産主義的だった。
 マルトフは、文化的継続性があることを信じた。
 レーニンにとっては、ブルジョアジーから奪い取るべき「文化」はただ、技術力と行政の技巧だけだった。
 しかしながら、ボルシェヴィキはその観念体系のうちに物質的利益を求める堕落した大衆の飢餓を表現していると責め立てたとき、マルトフは誤った。
 このような見方は、革命の第一の局面を画した、大衆の略奪を原因としていた。
 しかし、レーニンも他のどのボルシェヴィキ指導者も、略奪は共産主義の原理の表現だとは見なしていなかった。
 反対に、レーニンは、労働生産力の増大が社会主義の優越性の証明印だ、と主張した。そして、全体的にではなくても主としては、社会主義をもたらす技術の進歩を信頼した。
 例えば、レーニンは、数十の地域的電力基地が建設されれば-しかしこれには、少なくとも十年はかかる-、ロシアの最も後進的部分ですら、妨害の段階なくしてまっすぐに社会主義へと進むだろう、と書いた。
 (<現物税(食糧税)>、1921年5月。全集32巻350頁〔=日本語版全集32巻「食糧税について」378頁〕。)
 実際、世界的な生産指標は社会主義の成功を根本的に証明するものだ、という考えを確立していたのは、ボルシェヴィキだった。
 むろん多くの言葉を用いてではなかったけれども、ボルシェヴィキは、生産者すなわち労働者共同体全体のために生活をより良くするかどうかに関係なく、生産の原理をそれ自体のために神聖視した。
 このことは、唯一のものではないけれども、至高の価値をもつものとしての国家権力のカルト(cult、狂熱集団)の重要な側面だった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 第9節は終わり。つづく第10節の表題は、「論駁家としてのレーニン。レーニンの天才性。」。

1741/江崎道朗と加藤哲郎・白井聡。

 L・コワコフスキはその大著の第二巻第10節の最初の第二文と第三文でこう書く。-そのうちに試訳全体はこの欄に掲載する予定だ。
 第二/レーニンの大量の著作の「読者は必ずや、彼の文体の粗暴さ(coarseness)と攻撃性に強い印象を受ける。それらは、社会主義の文献の中で、並び立つものがない。」
 第三/「レーニンによる論駁は、愚弄(insults)とユーモアの欠けた嘲笑(mockery)で満ちている。」
 コワコフスキの著に接しながら、またレーニン全集の文章の一部を読みながら、上とほとんど全く同じ感想をもつ。そして想う、こんな文章ばかりを何年も読んでいると、どういう人格・個性・心性の人間になってしまうのだろう、気の毒なことだ、と。
 そして同時に連想するのは、この欄で一度だけ取り上げた、そしてなおも掲載できる素材のある、白井聡という人物だ。つぎの本について、この欄ですでに触れた。
 白井聡・未完のレーニン(講談社選書メチエ、2007)。
 白井聡は、一橋大学の大学院の学生時代、ロシア原語で(極端にいうとだが)レーニンばかりを読んでいたように見える。その時代の論文が上の本の基礎だったはずだ。
 まだ若いはずだが、学界・アカデミズムの中ではともかく、「左翼」系の、又はある程度売れれば何でもよいと考える出版社・編集者の間ではある程度の「地歩」をすでに築いているように見える。
 将来に変わる見込みはなさそうでもあるので、この人にはいずれまた、論及したい。
 これも断定はし難いとは言え、おそらく間違いなく、一橋大学大学院での白井聡の指導教授だったのは、加藤哲郎だ。
 加藤哲郎は、この欄で本格的には言及した記憶はないが、1990年頃、つまり東欧・ソ連の「社会主義」激動期までずっと(いつからかは知らない)日本共産党員で、その頃に離脱したようだ(一昨年秋以降に収集した日本共産党関係の書物の年表がこの人物を含む数名を批判した旨のことを記載していた)。
 いうまでもなく、日本共産党員ではなくとも、あるいは「反」・「非」日本共産党であっても、共産主義者であることはあるし、「左翼」にとどまっていることもある(有田芳生はその好例だ)。そして、加藤哲郎は依然として、少なくとも「左翼」=容共ではあるだろう。
 加藤には、こんな本もある。
 加藤哲郎・ゾルゲ事件-隠された神話(平凡社新書、2014)。
 この加藤の本をつぎのように肯定的に評価し、二箇所の直接の引用で計13行を用い、二頁にわたる記述の基礎にしている書物がある。
 加藤の上の著は「ソ連崩壊後に公開された一次史料を使って、ゾルゲ事件についてこれまで知られていなかった新事実を紹介している」。
 そのとおりかもしれない。だが、加藤哲郎はいかなる関心からゾルゲ事件に関する探索をしたのだろうか。
 そのような検討や執筆者の政治的立場を全く考慮していないと見られる上の書物とはつぎで、該当頁もつぎのとおりだ。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.07)、p.387-9。 
 江崎道朗は自らを「保守」派だと、しかも「保守自由主義」者だと考えているようだ。但し、外国の「左翼」または共産主義者・当該国の共産党員による書物を一部でかつ何箇所も下敷きにして上の本を2017年夏に刊行していたとしても、驚く必要はない。

1739/全体主義者・レーニン③ーL・コワコフスキ著18章8節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.769-、分冊版・第2巻p.515-7。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第8節・全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン③。
 コムソモル(青年共産同盟)大会での、しばしば引用される1920年10月2日のレーニンの演説は、同様の考え方で倫理の問題を扱う。
 『我々は、道徳(morality)は全体としてプロレタリア-トの階級闘争の利益に従属する、と言う。<中略>
 道徳は、搾取する旧い社会を破壊し、新しい共産主義社会を樹立しているプロレタリア-トの周りの全ての労働大衆を統一することに、奉仕するものだ。<中略>
 共産主義者にとって、全ての道徳は、この団結した紀律と搾取者に対する意識的な大衆闘争のうちにある。
 我々は、永遠の道徳の存在を信じず、道徳に関する全ての寓話の過ちを暴露する。』
 (全集31巻291-4頁〔=日本語版全集31巻「青年同盟の任務(ロシア青年共産同盟第三回全ロシア大会での演説)」288-292頁〕。)
 党の意図に奉仕するかまたは邪魔となるかの全てのことは、それぞれに対応して道徳的に善であるか悪であるかだ、そして何も道徳的に善であったり悪であったりしない、という以外のいかなる意味にも、このような文章を解釈するのは困難だろう。
 権力掌握の後、ソヴェトによる支配の維持と強化は、全ての文化的価値のためと同じく道徳のための唯一の規準になる。
 いかなる規準も、権力の維持を導くようにみえる可能性のあるいかなる行為にも反対することはなく、そして他のいかなる根拠についても価値があることを承認することはできない。
 かくして、全ての文化問題は技術的問題になり、一つの不変の基準によって判断されなければならない。すなわち、『社会の善』は完全に個々の構成員の善から分け隔てられるようになる。
 例えば、ソヴェトの権力を維持するのに役立つことを示すことができても、先制攻撃(aggression)や併合を非難するのは、ブルジョア的な感傷(sentimentalism)だ。
 定義上は『労働大衆の解放』のために奉仕する権力の目標達成に役立つならば、拷問を非難することは、非論理的であり、偽善だ。
 功利主義的道徳や社会的文化的現象に関する功利主義的諸判断は、社会主義の本来の基盤をその反対物へと変形させる。
 ブルジョア社会で生じるならば道徳的な憤慨を呼び起こす全ての現象は、新しい権力の利益に奉仕するならば、マイダスの接触(the Midas touch)によるかのごとく、金へと変わる。
 外国への武力侵攻は解放であり、攻撃は防衛であり、拷問は人民の搾取者に対する高貴な憤激を表現する。
 レーニン主義の原理のもとでは、スターリン主義の最悪の年月の最悪の過剰で正当化され得ないものは、ソヴェトの権力がそれによって増大したということが示され得るとするだけでも、絶対に何一つない。
 『レーニン時代』と『スターリン時代』の間の本質的な相違は、レーニンのもとでは党と社会に自由があったがスターリンのもとではそれは粉砕された、ということではなく、ソヴィエト同盟の人民の全ての精神的な生活が普遍的な虚偽(mendacuity)の洪水によって覆い隠されたのはスターリンの日々においてだった、ということだ。
 しかしながら、これはスターリンの個性(personality)にのみよるのではなく、こう述べ得るとすれば、状況の『自然の』発展でもあった。   
レーニンがテロル、官僚制、あるいは農民による反ボルシェヴィキ蜂起について語ったとき、彼はこれらの事物をそれぞれの名前で呼んだ。
 スターリン主義独裁が開始されるや、党は(敵によって攻撃されていたが)その威信を汚すことになるような過ちを冒さなかった。ソヴィエト国家は無謬であり、政府に対する人民の敬愛は無限だ。
 政府に対する制度的統制のいかなる痕跡も消滅してしまった国家では、予め定められている原理の問題として、政府を唯一正当化するのはそれが労働人民の利益であり希望である、という意味において、この変化は、自然だった。
 このことは、世襲の君主制にあるカリスマ性や適正に選挙される体制とは異なる、正統性の一つのイデオロギー的形態と呼ばれてよいかもしれない。
 ウソ(the Lie)の全能性は、スターリンの邪悪さによるのではなく、レーニン主義の諸原理にもとづく体制を正当化する、唯一の方法だった。
 スターリンの独裁期につねに見られたスローガン、『スターリンは、我々の時代のレーニンだ』は、かくして、総体的に正確だった。// 
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 第8節は終わり。つづく第9節の表題は、「ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ」。なお、スターリンに関する叙述が以上で終わっているのではなく、彼にかかわる叙述は本格的には第三巻(第三部)の最初から始まる。

1738/全体主義者・レーニン②-L・コワコフスキ著18章8節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.768、分冊版・第2巻p.514-5。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第8節・全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン②。
 レーニンは、哲学を含むあらゆる領域について、不偏または中立の可能性を決して信じなかった。
 党に加入しようと望まず、自分を中立的だと宣する者はみな、隠れた敵だった。
 革命のすぐ後の1917年12月1日に、レーニンはソヴェト農民代表者大会で、鉄道労働組合を攻撃して、こう語った。
 『毎分が時を刻み、異論や中立は敵に言葉を発することを許し、敵が確実に聴かれようと欲し、その聖なる権利のための闘争をする人民を急いで助けることがなされていない、そのような革命的闘争のときには、このような立場を中立と呼ぶことはできない。
 それは、中立ではない。
 革命的な者は、それを教唆(incitement)と呼ぶだろう。』(+)
 (全集26巻329-330頁〔=日本語版全集26巻「農民代表ソヴェト臨時全ロシア大会」のうち「ヴィクジュリ代表の声明についての演説/11月18日(12月1日)」333-4頁〕。)//
 政治、あるいは他のどこにでも、いかなる「中立者たち」も存在しない。
 レーニンが関係したいつのいかなる問題についても全て、彼に関心があるのは、それは革命のために、又はのちにはソヴェト政権のために、良いのか、悪いのか、のいずれなのか、だった。
 トルストイの死後の1910-1911年に書かれた、レーニンの四つの彼に関する小論は、その典型的な例だ。
 レーニンの中心的な主題は、トルストイ作品の「二つの側面」の存在だ。
 第一は、反動的で、夢想家(utopian)(道徳的完全さ、全ての者への慈悲、悪への無抵抗)。
 第二は、「進歩的」で、批判的(抑圧、農民への憐れみ、上層階級および教会の偽善等に関する描写)。
 トルストイの基本的考えの「反動的」側面は、反動者たちによって誇張されたが、「進歩的」側面は大衆を喚起させる目的のために「有用な素材」を提供するかもしれない。政治的闘争は、トルストイによる批判の視野よりもすでにかなり広くなっているけれども。
 レーニンの1905年の論考、『党組織と党出版物』は、ロシアでの書かれる言葉の奴隷化をイデオロギー的に正当化するために十年間使われたし、いまなおも使われている。
 政治文学についてだけそれは関係すると言われてきたが、しかし、そうではない。それは、全ての種類の著作に関係している。
 上の論考は、以下のような文章を含む。
 『非パルチザン〔無党派〕の作家は、くたばれ!
 文学上の超人は、くたばれ!
 文筆は、プロレタリア-トの共通の根本教条(cause)の一部にならなければならない。
 単一の偉大な社会民主党の機構の「歯車とネジ」は、労働者階級全体の全体として゜政治的意識をもつ前衛によって、作動し始める。』
 (全集10巻45頁〔=日本語版全集10巻「党組織と党出版物」31頁〕。) 
 このような官僚制的態度を嘆いているらしき「神経質な知識人」の利益のために、レーニンは、著述活動の分野では、機械的な同等化はありえない、と説明する。
 個人的な主導性、想像力等の余地は残されていなければならない。
 それでもやはり、文筆の仕事は党の仕事の一部でなければならず、党によって統制されなければならない。(*秋月注)
 もちろんこのことは、ロシアは当然の行程として言論の自由を享受する、しかし党の著述家の構成員はその著作で党の心性(mindedness)を示さなければならない、という前提のもとで、『ブルジョア民主主義』を目指す闘いの間に書かれた。
 他の場合と同様に、党が国家の強制装置を支配したときには、こうした義務は一般的になった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 (秋月注)この部分の趣旨の原文は、日本語版全集10巻32頁を参照。「新聞は種々な党組織の機関とならなければならない。文筆家はかならず党組織に入らなければならない」、という文もある。
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 ③へとつづく。

1737/英語版Wikipedia によるL・コワコフスキ①。

 2017年夏の江崎道朗著で「参考」にされている、又は「下敷き」にされている数少ない外国文献(の邦訳書)の執筆外国人についてネット上で少し調べていた。本来の目的とは別に、当たり前のことだったのだろうが、日本語版Wikipediaと英語版(おそらくアメリカ人が主対象だろうが、他国の者もこの私のようにある程度は読める)のそれとでは、記載項目や記述内容が同じではないことに気づいた。
 <レシェク・コワコフスキ>についての日本語版・ウィキの内容はひどいものだ。
 英語版Wikipediaの方が、はるかに詳しい。日本語版・ウィキの一部はこの英語版と共通しているので、日本語版の書き手は、あえて英語版の内容のかなり多くを削除していると見られる。あえてとは、意識的に、だ。
 なぜか。先に書いてしまうが、日本人から、レシェク・コワコフスキの存在や正確な人物・業績内容等に関する知識を遠ざけたかったのだと思われる。そういうことをする人物は、日本の「左翼」活動家や日本共産党員である可能性が高いと思われる。
 英語版Wikipedia によるL・コワコフスキ(1927.10.23~2009.07.17)を、以下に、冒頭を除き、日本語に試訳しておく。
 Wikipedia の記述が完全には信用できないものであることは、むろん承知している。また、今後に追記や修正もあるだろう。
 しかし、L・コワコフスキの名前自体がほとんど知られていない日本では、以下のような記述(しかも参照文献の注記つき)の紹介は無意味ではないと考える。
 なお、①ポーランドの1980年前後以降の「連帯」労働者運動(代表はワレサ/ヴァレンザ、のち大統領)に、L・コワコフスキが具体的な支援活動をしていたことを、初めて知った。
 ②末尾に、最近にこの欄で名前を出したRoger Scruton による追悼文(記事)のことがあり、興味深い。
 引用の趣旨の全体の「」は省略する。< >はイタリック体。ここでは、一文ごとに改行する。//は本来の改行箇所。注または参照文献はほとんど氏名・出所だけなので、挙げられる氏名のみを記す。
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 彼〔レシェク・コワコフスキ〕は、そのマルクス主義思想の批判的分析で、とくにその三巻本の歴史書、<マルクス主義の主要潮流>(1976)で最もよく知られている。
 その後の仕事では、コワコフスキは徐々に宗教問題に焦点を当てた。
 1986年のジェファーソン講演で、彼は『我々が歴史を学ぶのは、いかに行動しいかに成功するかを知るためではなく、我々は何ものであるかを知るためだ』と主張した。(3)//
 彼のマルクス主義および共産主義に対する批判を理由として、コワコフスキは1968年に事実上(effectively)ポーランドから追放された。
 彼はその経歴の残りのほとんどを、オクスフォードのオール・ソウルズ・カレッジで過ごした。
 この国外追放にもかかわらず、彼は、1980年代にポーランドで花咲いた連帯(solidarity)運動に対する、大きな激励者だった。そして、ソヴェト同盟〔連邦〕の崩壊をもたらすのを助けた。彼の存在は『人間の希望を呼び醒ます人物(awakener of human hope)』と表現されるにまで至る。(4)// 
 経歴(biography)。
 コワコフスキは、ポーランド、ラドムで生まれた。
 第二次大戦中のポーランドに対するドイツの占領(1939-1945)の間、彼は公式の学校教育を享受しなかった。しかし、書物を読み、ときどきの私的な教育を受け、地下にあった学校制度で、外部の学生の一人として、学校卒業諸試験に合格した。
 戦争の後、彼はロズ(Lodz)大学で哲学を研究した。
 1940年代の後半までに、彼がその世代の最も輝かしいポーランドの知性の一人であることが明確だった(5)。そして、1953年<26歳の年>には、バルシュ・スピノザに関する研究論文で、ワルシャワ大学から博士号を得た。その研究では、マルクス主義の観点からスピノザを分析していた。(6)
 彼は1959年から1968年まで〔32歳の年から41歳の年まで〕、ワルシャワ大学の哲学史部門の教授および講座職者として勤務した。//
 青年時代に、コワコフスキは共産主義者〔共産党員〕になった。
 1947年から1966年まで〔20歳の年から39歳の年まで〕、彼はポーランド統一労働者党の党員だった。
 彼の知性の有望さによって、1950年〔23歳の年〕にモスクワへの旅行を獲得した(7)。そこで彼は、実際の共産主義を見て、共産主義は気味が悪い(repulsive)ものだと知った。
 彼はスターリン主義(スターリニズム)と決別し、マルクスの人間主義(humanist)解釈を支持する『修正主義マルクス主義者』となった。
 ポーランドの10月である1956年の一年後〔30歳の年〕に、コワコフスキは、歴史的決定論を含むソヴィエト・マルクス主義に関する四部からなる批判を、ポーランドの定期刊行誌・<新文化(Nowa Kultura)>に発表した。(8) 
ポーランドの10月十周年記念のワルシャワ大学での公開講演によって、ポーランド統一労働者党から除名された。
 1968年〔41歳、「プラハの春」の年)のポーランドの政治的危機の経緯の中で、ワルシャワ大学での職を失い、別のいかなる学術関係ポストに就くことも妨げられた。(9)//
 彼は、スターリン主義の全体主義的残虐性はマルクス主義からの逸脱(aberration)ではなく、むしろマルクス主義の論理的な最終の所産だ、との結論に到達した。そのマルクス主義の系譜を、彼は、その記念碑的(monumental)な<マルクス主義の主要潮流>で検証した。この著は彼の主要著作で、1976-1978年に公刊された。(10)//
 コワコフスキは次第に、神学上の諸前提が西側の思想、とくに現代の思想に対して与えた貢献(contribution)に魅惑されるようになった。
 例えば、彼は<マルクス主義の主要潮流>を、中世の多様な形態のプラトン主義が一世紀後にヘーゲル主義者の歴史観に与えた貢献を分析することから始める。
 彼はこの著作で、弁証法的唯物論の法則は根本的に欠陥があるものだと批判した-そのいくつかは『マルクス主義に特有の内容をもたない自明のこと(truisms)』だ、別のものは『科学的方法では証明され得ない哲学上のドグマ』だ、そして残りは『無意味なもの(nonsense)』だ、と。(11)//
 コワコフスキは、超越的なものへの人間の探求において自由が果たす役割を擁護した。//
 彼の<無限豊穣(the Infinite Cornucopia)の法則>は究明の状態(status quaestions)の原理を主張するもので、その原理とは、人が信じたいと欲するいかなる所与の原理についても、人がそれを支持することのできる論拠に不足することは決してない、というものだ。(12)
 にもかかわらず、人間が誤りやすいことは我々は無謬性への要求を懐疑心をもってとり扱うべきだということを示唆するけれども、我々のより高きもの(例えば、真実や善)への追求心は気高いもの(ennobling)だ。//
 1968年〔41歳の年〕に彼は、モントリオールのマクギル(McGill)大学で哲学部門の客員教授になり、1969年にカリフォルニア大学バークリー校に移った。
 1970年〔43歳の年〕に彼は、オクスフォードのオール・ソウルズ・カレッジで上級研究員となった。
 1974年の一部をイェイル大学ですごし、1984年から1994年までシカゴ大学の社会思想委員会および哲学部門で非常勤の教授だったけれども、彼はほとんどをオクスフォードにとどまった。//
 ポーランドの共産主義当局はポーランドで彼の諸著作を発禁にしたが、それらの地下複写物はポーランド知識人の抵抗者の見解に影響を与えた。
 彼の1971年の小論<希望と絶望に関するテーゼ>(<中略>)は(13)(14)、自立して組織された社会諸集団は徐々に全体主義国家で市民社会の領域を拡張することができると示唆するもので、1970年代の反体制運動を喚起させるのに役立ち、それは連帯(Solidarity)へとつながった。そして、結局は、1989年〔62歳の年〕の欧州での共産主義の崩壊に至った。
 1980年代にコワコフスキは、インタビューに応じ、寄稿をし、かつ基金を募って、連帯(Solidarity)を支援した。(4)//
 ポーランドでは、コワコフスキは哲学者および思想に関する歴史学者として畏敬されているのみならず、共産主義(コミュニズム)の対抗者のための聖像(icon)としても崇敬されている。
 アダム・ミクニク(A. Michnik)は、コワコフスキを『今日のポーランド文化の最も傑出した創造者の一人』と呼んだ。(15)(16)//
 コワコフスキは、2009年7月17日に81歳で、オクスフォードで逝去した。(17)
 彼の追悼文(-記事)で、哲学者のロジャー・スクルートン(Roger Scruton)は、こう語った。
 コワコフスキは、『我々の時代のための思想家だった』。また、彼の知識人反対者との論議に関して、『かりに<中略>破壊的な正統派たちには何も残っていなかったとしてすら、誰も自分たちのエゴが傷つけられたとは感じなかったし、あるいは誰も彼らの人生計画に敗北があったとは感じなかった。他の別の根拠からであれば最大級の憤慨を呼び起こしただろう、そういう議論の仕方によって』、と。(18)//
 (3) Leszek Kolakowski. (4) Jason Steinhauer. (5) Alister McGrath. (6) Leszek Kolakowski.(7) Leszek Kolakowski.(8) -Forein News. (9) Clive James. (10) Gareth Jones. (11)Leszek Kolakowski. (12) Leszek Kolakowski. (13) Leszek Kolakowski. (14) Leszek Kolakowski. (15) Adam Michnik. (16) Norman Davis. (17) Leszek Kolakowski.(18) Roger Scruton.
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 以上。

1736/全体主義者・レーニン①-L・コワコフスキ著18章8節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史にほとんど関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.766-7、分冊版・第2巻p.513-4。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第8節・全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン①。
 レーニンは、重要な実践的問題についてトロツキーよりもはるかに教理主義的(doctrinaire)ではなかったが、少なくとも二つの点では、自分自身の原理から逸脱した。
 第一に、労働組合は計画経済の遂行のためのみならず国家に対して労働者を守るためにも役割を果たす-本当の(true)マルクス主義の論理では、彼はトロツキーのようにこれは労働者階級が自分自身に対して自分自身を守るのであって馬鹿げたことだと以前には主張していたのだが-、と彼は認識していた。      
 第二に、国家は『官僚制的歪曲』を被っている、と認めていた。このことが彼の心理上の図式の中にどの程度入り込んでいたのか、は明らかではなかったけれども。
 階級利益の観点からは、表向きには、資本主義の官僚制は抑圧の道具であり、社会主義のそれは解放の道具だった。
 これら二つの問題についてドグマ(教条)を現実のために犠牲にすることができる、というのは、レーニンの常識に含まれていた。しかし、不運にも、何かをするには道理を分別するのが遅すぎた。
 どの場合でも、彼は、労働組合の自立性を擁護する一つの言葉ごとに、サンディカリズムの危険について十の言葉を発した。そして、より強くする以外に官僚制を解決する方策を持たなかった。
 党自身は社会全体では抑圧されていた自由な言論と自由な批判をすることのできる飛び地(enclave)だといういかなる幻想も、早くに消失する運命にあった。
 述べてきたように、レーニン自身は、党内部での徒党(派閥、clique)や論争は健康な徴候だとは決して考えなかった。
 召喚主義者(otzovist)や「革命思想や哲学思想の完全な自由」とのスローガンと闘っていた1910年にすでに、レーニンはこう書いた。
 『このスローガンは、全く日和見主義だ。
 全ての国々で、日和見主義者によってこの種のスローガンが社会主義政党の前に押し出されたが、実際にはこれは、ブルジョアジーの観念体系(イデオロギー)によって労働者階級を腐敗させる『自由』以外の何ものでもなかった。
 「思想の自由」(プレス、言論および信教の自由と読むべし)を、我々は、団結の自由とともに(党にではなく)<国家>に要求する。』(+)
 (「Vperyod 派」、1910年9月、全集16巻270頁(=日本語版全集16巻「『フペリョード』の分派について」288頁〕。)
 もちろんこれは、ブルジョア国家に論及したものだ。
 いったん国家の権威が党のそれと同一視されると、批判する自由に適用する論理は、明らかに、両者について同じでなければならない。
 党の<画一化(Gleichschaltung)>にはより長く要したが、しかしともに不可避のことだった。
 問題は、1921年3月の第10回党大会で、原理的に解決された。レーニンの分派主義および「諸見解の色合いを研究するという贅沢」に対する攻撃、そして『我々は偏向(deviation)に関する討議をすることはできない、それを中止しなければならない』という彼の言明によって。(+)
 (全集32巻177-8頁〔=日本語版全集32巻「ロシア共産党(ボ)第十回党大会」のうち「ロシア共産党(ボ)中央委員会の政治活動についての報告/3月8日」184頁・185頁〕。)
 レーニンの死後数年間は、党内部に、あるいはむしろ党の諸機関の内部に、グループや「プラットホーム」を公然と形成することを完全に阻止するのは、不可能だった。
 しかし、まもなく、純粋な又は想像上の「偏向」は、国家の制裁的な腕力によって処理された。そして、統一(単一性、unity)という理想は、警察の手段でもって達成された。//
 しかしながら、レーニンの教義とそれに伴う思考のスタイルが全体主義システムの基礎を築いた、と言い得るとすれば、それは、テロルの使用や公民的自由の弾圧を正当化するために引き合いに出された諸原理を理由とするものではない。
 ひとたび内戦が開始されるや、テロリズムという極端な手段が両方の側から期待されることとなる。
 体制を維持し、強化するための公民的自由の廃絶は、つぎのような原理によってでなくしては、達成することはできない。すなわち、全ての活動-経済的、文化的等-は完全に国家に従属しなければならない。体制への反逆行為は禁じられて仮借なく罰せられるのみならず、いかなる政治的行為も「中立的」ではなく、個々の市民は国家の目的の範囲に入らないいかなることもする権利を持たない。市民は国家の所有物であり、そのようなものとして取り扱われる。
 これら諸原理をツァーリ帝制ロシアから受け継ぎ、はるかに強い程度の完成物となったソヴィエト体制は、この点で、やはりレーニンの作品(work)でもあった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 ②へとつづく。

1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史にほとんど関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.766-7、分冊版・第2巻p.511-2。
 <>はイタリック体=斜体字で、書名のほか著者=L・コワコフスキによる強調の旨の記載がとくにある場合があるが、その旨の訳出は割愛する。
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 第7節・独裁に関するトロツキー②。
 国家は、もちろん、労働大衆の利益のために組織されている。
 『このことは、しかし、最も優しいものから極端に苛烈なものまで、全てのその形態での強制(compulsion)の要素を排除する、というものではない。』
 (同上〔トロツキー・<テロリズムの擁護>〕、122頁)
 新しい社会では、強制は消失しないだけではなく、本質的な役割を果たすだろう。
 『まさに強制的な労働奉仕の原理は、共産主義者にとって、全く疑問の余地がない。<中略>
 <原理と実践の両方の見地からして>適正な(correct)経済的苦難の唯一の解決策は、全国の民衆を必要な労働力の供給源(reservoir)として取り扱うことだ。<中略>
 この強制労働役務の原理自体が、生産手段の社会化が資本主義の財産権に取って代わるにつれて、自由な雇用という原理と<過激にかつ永遠に>入れ替わったばかりのものだ。』
 (同上、124-7頁)
 労働は、軍事化されなければならない。
 『我々は<中略>、経済計画にもとづく社会的に規制された労働によって、資本主義的奴隷制に対抗する。その労働は、全民衆にとって義務的で、その結果としてこの国のいずれの労働者にも強制的なものだ。<中略>
 労働の軍事化の基礎になるのは、それなくしては社会主義者による資本主義経済の置き換えが永久に空響きのままにとどまるだろう、そういう形態での国家による強制だ。<中略>
 軍隊を除くいかなる社会組織も、プロレタリア-ト独裁の国家がしていることやすることを正当視されるような、そういう方法で市民を服従させることで、そしてそのような程度にまで、全ての側面についてその意思によって自ら自分たちを統制させることで、自らの正当性が証明されるとは考えてこなかった。』
 (同上、129-130頁)
 『我々は、経済的な諸力や国の資源を権威的に(authoritative)規制すること、および総括的な国家計画と整合して労働力を中央によって配分すること以外によっては、社会主義への途を見出すことができない。
 労働者国家は、全ての労働者をその労働を必要とする場所へと送り込む力をもつことを、正当なことと考える。』
 (同上、131頁)
 『若き社会主義国家は、より良き労働条件を目ざす闘争のためにではなく-これは全体としての社会組織や国家組織の任務だ-、生産の目標へと労働者を組織するために、そして研修し、訓練し、割り当て、グループ化し、一定の範疇と一定の労働者を固定された時期にその職にとどめておくために、労働組合を必要とする。』
 (同上、132頁)
 締め括れば、『社会主義への途は、最高限度に可能な国家の原理の強化の時期を通じて存在すしている。<中略>
 国家は、それが消滅する前には、プロレタリア-ト独裁の形態を、言い換えると、全市民の生活を権威的にあらゆる方向で抱きとめる(embrace)、最も容赦なき形態の国家の形態をとる。』
 (同上、157頁)//
 これ以上に平易に物事を述べるのは、本当に困難だろう。
 プロレタリア-ト独裁の国家は、市民の生活全ての側面に対する絶対的権力を政府が行使し、どの程度働くべきか、どのような性質の仕事をすべきか、何という場所で働くべきか、といったことを政府が詳細に決定する、そのような巨大で永続する集中〔強制〕収容所(concentration camp)のようなものとして、トロツキーによって叙述されている。
 個人は、労働の単位でしかない。
 強制は普遍的なものだ。そして、国家の一部ではないいかなる組織も国家の敵、したがってプロレタリア-トの敵であるはずだ。
 これら全ては、もちろん、理想的な自由の王国の名目のもとでのことだ。それの到来は、歴史的な時間の不確定の経過のあとに予期されている。
 我々は、こう言ってよい。トロツキーは、ボルシェヴィキたちによって理解されている社会主義の諸原理を完璧に表現している、と。
 しかしながら、我々は、マルクス主義の観点からすると、労働者の自由な雇用に何が取って代わるとされるのかに関しては、まだ明瞭には語られていない。-マルクスによると、労働者の自由な雇用とは、一人の人間が市場で労働力を売らなければならないので、換言すると自分を商品と見なし、かつそのようなものとして社会によって取り扱われるので、奴隷制の一つの目印だ。
 かりに自由な雇用が廃止されれば、人々を仕事へと導いて富を生み出す唯一の方法は、物理的な強制であるか、または道徳的な動機づけ(仕事への熱狂)だ。
 後者はもちろん、レーニンとトロツキーの両者によって褒め讃えられた。しかし、彼らはすぐに、それに依存するのは作動力の永遠の根源のごとく荒唐無稽なことだ、と知った。
 ただ強制だけが、残された。-生活費を稼ぐ必要にもとづく資本主義的な強制ではなく、苛酷な物理的力(force)にもとづく、投獄、肉体的な損傷、そして死への恐怖にもとづく強制だった。//
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 以上で、第7節は終わり。次の節の表題は、「全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン」。
 下は、分冊版・第二巻の表紙/Reprint, 1988年/Oxford。
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1733/独裁とトロツキー①-L・コワコフスキ著18章7節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.763~、分冊版・第2巻p.509~。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第7節・独裁に関するトロツキー①。
 カウツキーの次の冊子、<テロリズムと共産主義>は、同じ表題をもつ書物で、トロツキーによって回答された。
 その英語訳書は、<テロリズムの擁護(defence)>として、1921年に刊行された。
 この含蓄のある著作は、レーニンの諸発言よりも、ある程度においてはより断固たるものですらある。
 党に関するレーニンの理論は一人の人間の僭政を導くだろうと1913年に予見したトロツキーは、1920年までに上の理論へと完全に変えられた。
 彼の冊子は、権力の内部にいるときに書かれているが、プロレタリア-ト独裁のもとでの国家に関する最も一般的な解説を含んでいるものとして、ゆえにまた、全体主義システムと言われるに至ったものに関する最も明瞭な説明を含んでいるものとして、記しておくに値する。
 確かに、その冊子は内戦およびポーランドとの戦争の間に書かれている(後者についてトロツキーは、『我々は勝利を望む、なぜなら我々にはそうする全ての歴史上の権利(historical right)がある』と、驚くべき無邪気さで語る)。
 しかし、それは明らかに、一般的理論であろうとしている。
 トロツキーの従前の演説からの数多くの引用は、その時点の真っ只中での彼のテーゼをたんに強調したにすぎないものではないことを、示している。
 彼はレーニンと同じように、プロレタリア-ト独裁に関する一般理論を提示する。
 ブルジョア民主主義は、欺瞞だ。
 階級戦争での重要な論点は、投票によってではなく、実力(force)によって決せられる。
 革命のときには、正当な路線は権力を目ざして闘うことであって、愚かしくも『多数派』を待つことではない。
 テロルを拒絶することは、社会主義を拒絶することだ(目的(end)を意図する者は手段(method)を意図しなければならない))。
 議会主義諸制度には全盛期があったが、それらは主として中間諸階層の利益を反映するもので、革命の時期に重要なのは、プロレタリア-トとブルジョアジーだけだ。
 『法の前の平等』、公民権等々に関する話は、現今では、精神的な(形而上学上の、metaphysical)たわ言にすぎない。
 憲法制定会議(the Constituent Assembly)を解散させたのは、正しかった(right)。
 選挙制度が事態の急速な推移に追い抜かれていた、そして、その会議は人民の意思を代表していなかったのだ、との理由だけでもかりにあったとすれば。
 人質を射殺したのは、正当だった(right)(<戦場では戦争のように振る舞う>)。
 プレスの自由は、階級敵とその同盟者、メンシェヴィキおよびエスエルたち、を助けるものなので、許容され得なかった。
 『真実(truth)』や誰が正しいのかを語るのは、無益だった(idle)--これは、学問上の議論ではなく、死に至らせる戦闘だったのだ。
 個々人の権利は、見当違いに馬鹿馬鹿しい(irrelevant nonsense)。
 そして、『我々について言えば、我々は、カント主義崇敬者や菜食主義クェイカー教徒たちの、人生の神聖性に関する贅言には、全く関心がなかった』(<テロリズムの擁護>60頁)。
 パリ・コミューンは、情緒的で人間主義的な躊躇を原因として、打倒された。
 プロレタリア-ト独裁では、党は、上訴に関する最高位の法廷でなければならず、全ての重要な案件に関する最終的決定権を持たなければならない。
 『プロレタリア-トの革命的な優越性は、プロレタリア-ト自身のうちに、明確な行動綱領と無謬の内部紀律をもつ党の、政治的な優越性を前提としている。』
 (同上、100頁)
 『ソヴェトの独裁は、党による独裁という手段によってのみ、可能になった。』
 (同上、101頁)//
 トロツキーは、しかしながら、レーニンが回避した又は無視した疑問に、答える。
 『一定の賢い人物たちは我々に、歴史発展の利益を表現するのはまさに貴方たちの党だ、ということの保証はどこにあるのか?、と問う。
 他の諸政党を破壊し又は地下に追いやって、貴方たちはそれで貴方たちとの政治的な競争を阻害し、その結果として貴方たちは、自分たちの活動路線を吟味(test)する可能性を失った。』
 トロツキーは、つぎのように答える。
 『こうした考えは、革命の推移に関する純粋にリベラル(liberal)な把握によって述べられている。
 あらゆる敵対が公然たる性格をもち、政治的な闘争が急速に内戦へと移行した時期には、支配する党は、メンシェヴィキ新聞のあるいは可能だった流通なくしても、活動方針を吟味するための十分に実質的な規準を持つ。
 ノスケ(Noske)は〔ドイツの〕共産党員たちを鎮圧した。しかし、彼らは成長する。
 我々はメンシェヴィキやエスエルたちを抑圧した。-そして、彼らは消滅した。
 これは、我々にとって十分な規準だ。』
 (同上、101頁)//
 これは、ボルシェヴィズムに関する、最も教示溢れる理論上の定式化だ。これによると、歴史上の運動または国家の『正しさ(rightness)』は、その暴力(violence)の行使が成功するか否かによって決定されることになる。
 ノスケはドイツの共産党員たちを鎮圧することに成功しなかった。しかし、ヒトラー(Hitler)がそれをした。
 かくして、トロツキーの規則からはつぎのことが帰結するだろう。すなわち、ヒトラーこそが、『歴史発展の利益を表現した』。
 スターリンはロシアのトロツキー主義者たちを粛清(liquidate)した。そして、彼らは、消失した。-そう、明らかに、トロツキーではなくスターリンが、歴史の進歩の側に立った。//
 前衛党による統治の原理から、もちろん、つぎのことが導かれる。
 『労働組合の継続的な「自立性」は、プロレタリア革命の時期には、連立の政策と全く同じく不可能だ。
 労働組合は、権力をもつプロレタリア-トの、最も重要な経済機関になる。
 ゆえに、労働組合は、共産党の指導権に服する。
 労働組合運動における原理に関する諸問題のみならず、その内部にある組織に関する重要な論争は、我々の党の中央委員会が決裁する。<中略>
 (労働組合は、)ソヴェト国家の生産の諸機関だ。そして、その運命に関する責任を引き受ける。-そのことに抵抗するのではなく、それと一体化するのだ。
 労働組合は、労働紀律の組織者になる。
 労働組合は労働者たちに、最も困難な条件のもとでの最も集中的な労働を要求する。』
 (同上、102頁)//
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 ②へとつづく。トロツキー<テロリズムの擁護>はトロツキー選集類の中に邦訳がある可能性があるが、参照していない(少なくとも単著としての邦訳書はないようだ)。

1732/社会主義と独裁⑥-L・コワコフスキ著18章6節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとってきわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派はマルクス主義の内実と歴史にまるで関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。分冊版・第2巻p.507の途中~。
 一文ごとに改行し、本来の改行箇所には「//」を付す(これまでの試訳の掲載と同じ)。
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 第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁⑥。
1922年5月のD・I・クルスキーへの手紙で、レーニンはこう書いた。
 『裁判所は、テロルの障害物となってはならない。<中略>
 そうではなく、その基礎にある動機を定式化しなければならず、原理的に、やさしく言えばいかなる見せかけや粉飾もしないで、それを合法化〔legalize〕しなければならない。』(+)
 追記する刑法典の修正案の中で、レーニンはつぎのような表現<言葉遣い、wording>を提案した。
 『資本主義に取って代わっている共産主義所有制度の諸権利を承認することを拒み、外からの干渉と封鎖のいずれかによって、あるいは諜報活動、諸プレスへの資金援助その他同様の手段によって、この制度を暴力によって転覆しようと躍起になっている、そのような国際的ブルジョアジーの部門の利益に客観的には奉仕する(異文-奉仕するもしくは奉仕しがちな)プロパガンダまたは煽動宣伝〔agitation〕は、死刑を科しうる犯罪行為である。
 但し、この量刑を緩和する事情のあることが立証されれば、自由の剥奪または国外追放(deportation)に代えることがありうる。』(+)
 (sc. ロシア; vysylka za granitsuから。)(全集33巻358-359頁〔=日本語版全集33巻「デ・イ・クルスキーへの手紙」371-372頁〕。)
 レーニンは、ロシア共産党(ボ)の第十一回大会で、ネップ〔The N.E.P.、新経済政策〕は資本主義に向かう退却だ、これは革命のブルジョア的性格を証明する、と主張するメンシェヴィキとエスエルは、そのような言明をしているがゆえに銃殺〔shoot〕されるだろう、と宣告した。<*秋月注記>
 (同上282-3頁〔=日本語版全集33巻「ロシア共産党(ボ)第十一回大会」のうち「…中央委員会の政治報告/1922年3月27日」287頁〕。)//
 こうして、レーニンは、全体主義をたんなる専制体制と区別する諸立法の基礎を築いた。重要なのは、苛酷〔severe〕だということではなく、誤っている〔spurious〕、ということだ。
 法律は、とくに全体主義的であることなくして、小さな犯罪に対して龍のごとき〔draconic〕制裁を与えることがありうる。
 全体主義的な法に特徴的であるのは、レーニンが語るような定式の用い方だ。
 すなわち、「客観的にはブルジョアジーの利益に奉仕する」見解を表明するがゆえに、人民は処刑されうる。
 このことは、政府はその選ぶ誰をも死に至らしめることができる、ということを意味する。
 法などというものは、存在しない。刑法典が苛酷であるのではない。刑法典は、その名前以外には何も存在していないのだ。//
 すでに述べたように、これら全ては、党〔ロシア共産党〕がまだ十分には支配しておらず、ときには批判に答えなければならなかった時期に、生じた。
 レーニンがテロルの使用を求め、民主主義と自由の可能性を拒否していた、断定的で曖昧さのない諸定式は、逆説的に、自由はまだ完全には根絶やしにされていなかった、ということを明らかにした。
 党外部からの、党と論争する批判が存在しなかったスターリンの時代には、テロルの用語法は民主主義のそれに置き換えられた。
 とくにスターリンの後半年には、ソヴェト体制は、人民による支配と全ての種類の民主主義的自由の、至高の具現体だとして提示された。
 しかしながら、レーニンの時代の指導者たちは、この観念に対してプロレタリア-ト独裁は民主主義破壊を不可避的に伴うと強い異論を唱えるロシアおよびその他のヨーロッパ両方での社会主義者の批判に、回答しなければならなかった。
 その著<プロレタリア-トの独裁>(1918年)によるカウツキーのソヴェト体制に対する激しい攻撃は、レーニンからの激烈な回答を惹起した。
 <プロレタリア革命と変節者・カウツキー>(1918年)でレーニンは、ブルジョア民主主義はブルジョアジーの、プロレタリア民主主義はプロレタリア-トのためのものだという事実を意識的に曖昧にして、階級内容を無視して民主主義について語る無学者に対する攻撃を繰り返した。
 カウツキーは、マルクスが「プロレタリア-トの独裁」を語ったとき彼は心の裡では体制の内容を意識していて統治の方法をではなかった、と論じた。
 カウツキーの見解によれば、民主主義的諸制度は、プロレタリア-トの支配と両立する、それの前提かりではなく、その条件の一つだ。
 レーニンには、これら全てが呆けごと(ナンセンス)だった。
 プロレタリア-トは統治しているがゆえに、実力(force)によって統治しなければならない。そして、独裁とは、実力による統治なのであり、法による統治などではない。//   
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 <*秋月注記> 日本語版レーニン全集33巻287頁からこの部分の前後を引用すると、つぎのとおり(一部は抜粋・要約)。。1922年3月の党大会(ネップ導入決定後1年)での演説内容の一部だ。
 こういうときこそ『整然と退却すること、狼狽に陥らないで退却の限界を正確に決めることが、もっとも肝心』だ。
 『メンシェヴィキが「諸君はいま退却しているが、私はいつも退却に賛成だった。私は諸君と同意見だ。私は諸君の仲間だ。さあ、いっしょに退却しようと言うなら、われわれはこれにたいして彼に言おう。』
 『「メンシェヴィキを公然と表明する者には、われわれの革命裁判所は銃殺でこたえるにちがいない。
 もしそうしないとすれば、それはわれわれの裁判所ではなくて、なんだかわけのわからないものである」と。』//
 彼らはこれを理解できないで『「この連中はなんという独裁癖をもっていることだろう!」と言う。』
 われわれのメンシェヴィキ迫害は『彼らがジュネーブでわれわれと喧嘩したためだと、いまでも彼らは考えている。』
 そんな道をとっていたらわれわれは『二ヶ月と権力を持ちこたえることができなかった』だろう。
 『実際、オットー・バウアーも、第二インターナショナルや第二半インターナショナルの指導者たちも、メンシェヴィキも、エスエルも、そういう説教をやっており、そのことが彼ら自身の本性となっている。
 すなわち、「革命はずっと行きすぎてしまった。
 諸君がいま言っていることは、われわれがつねに言ってきたことと同じである。
 われわれにそれをいま一度くりかえして言わせてくれたまえ」と。
 だがこれにたいしてわれわれは、こうこたえる。
 「そういうことを諸君が言った罰として諸君を銃殺させてくれたまえ。
 諸君は自分の見解の発表をさしひかえるようにつとめるか、それとも、白衛派が直接に来襲したときよりはるかに困難な事態のもとにある現状で、諸君が自分の政治的見解を発表しようとのぞむか、どちらかである。
 あとの場合には、われわれは、失礼ながら、諸君を白衛隊の最悪の、もっとも有害な分子として取りあつかうであろう」と。』
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 第6節は以上で終わり。つぎの第7節の表題は、「独裁に関するトロツキー」。

1731/社会主義と独裁⑤-L・コワコフスキ著18章6節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回=No.1707ー2017年9/17のつづき。分冊版・第2巻p.506の途中・三巻合冊版第二部p.761の途中~。
 一文ごとに改行し、本来の改行箇所には「//」を付す(これまでの試訳の掲載と同じ)。
 黙読して意味を「何となく」でも理解するのと、日本語文に置き換え、かつ日本語版レーニン全集で該当箇所を調べたうえで、この欄に掲載するのとでは、時間も手間も10倍以上ほども違うだろう。レシェク・コワコフスキの文章を再びきちんと読みたくなったので、再開する。
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 第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁⑤。 
 革命のすぐ後に、ボルシェヴィキが権力に到達するまでは執拗に要求した伝統的な民主主義的自由は、ブルジョアジーの武器だったと判ることになった。
 レーニンの著作は、報道(出版)の自由に関して、このことを繰り返して確認している。<以上の二文は、前回の再掲>
 『ブルジョア社会における「プレス〔the press, 出版・報道〕の自由」は、富者が体系的に、絶えることなく、日々、数百万の部数でもって、被搾取および被抑圧人民大衆および貧者を欺き、腐敗させ、愚弄する自由、を意味する。』(+) 
 (1917年9月28日、「憲法制定会議の成功をいかに担保するか」。全集25巻、p.376〔=日本語版全集25巻「憲法制定議会をどうやって保障するか(出版の自由について)」405頁〕。)
 これとは反対に、『プレスの自由は、全ての市民の全ての諸意見は自由に公表〔publish〕されてよい、ということを意味する。』(同上、p.377〔=日本語版全集同上407頁〕。)(+)
 こうしたことが述べられたのは、革命の直前のことだった。しかし、革命の数日後には、物事は異なっていた。
 『我々が権力を奪取すれば、我々はブルジョア諸新聞を閉刊〔close down〕させると、我々は早くに言っていた。
 こうした諸新聞の存在に対して寛容であるのは、社会主義者であるのをやめることに等しい。』(+)
 (1917年11月17日、〔全ロシア・ソヴェト〕中央執行委員会での演説。全集26巻285頁〔=日本語版全集26巻291頁〕。)
 レーニンは、こう約束した。-そして、この言葉を守った。
 『我々は、自由、平等、そして多数者の意思といった、耳障りのよいスローガンに欺されることを、決して自分たちに許さない。』
 (全集29巻351頁〔=日本語版全集29巻「校外教育第一回全ロシア大会/1919年5月19日演説」のうち「自由と平等のスローガンによる人民の欺瞞についての演説」349頁〕。)
 『事態が世界中の、あるいは一国のにせよ、資本の支配を打倒する段階に到達している現今では <中略>、そのような政治状況のもとで「自由」一般について語る者は全て、この自由という名前でプロレタリア-トの独裁に抵抗する者は全て、搾取者たちを援助し、支援しているのに他ならない。
 なぜなら、自由が労働の資本の軛からの解放を促進しないならば、それ〔自由〕は一つの欺瞞だからだ。』(+)
 (1919年5月19日の演説、全集29巻352頁〔=日本語版全集29巻同上350頁〕。)
 要点は、コミンテルン第三回大会で、きわめて明瞭にこう述べられた。
 『最終的問題が普遍的な規模で決定されるまでは、このおぞましい戦争の状態は続くだろう。
 そして、我々は言う。「戦争では戦争の流儀で振る舞う〔a la guerre comme a la guerre〕、我々はいかなる自由も、あるいはいかなる民主主義も、約束しない」、と。』(+)
 (1921年7月5日、全集32巻495頁〔=日本語版全集32巻「共産主義インターナショナル第三回大会」529頁〕。)
 代表制度、公民権、少数者(または多数者)の権利、政府に対する統制、立憲的諸問題一般に関する疑問の全体は-これらの全ては、戦争では戦争の流儀で振る舞う〔a la guerre comme a la guerre〕という箴言によって沈黙させられ、そして戦争は、世界中での共産主義の勝利までは進行するものとされる。
 とくに、そしてこれが問題の心臓部なのだが、社会的熟考の制度としての"法" という観念の全体が、存在しなくなる。
 法は一つの階級がそれによって別の階級を抑圧する装置に「他ならない」ので、法の支配〔rule of law 〕と直接的な強制による支配との間には、明らかに、本質的な違いはない。
 重要な全ては、どの階級が権力を手中にしているか、なのだ。
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 段落の途中だが、ここで区切る。⑥へとつづく。

1730/R・スクルートン『新左翼の思想家たち』(2015)。

 Roger Scruton, Fools, Frauds and Firebrands - Thinkers of the New Left (2015, Bloomsbury 2016).
 =ロジャー・スクルートン『馬鹿たち、詐欺師たちおよび扇動家たち-新しい左翼の思想家たち』。(タイトル仮訳)
 英米両国で初版が刊行されているイギリス人らしき著者のこの本は、一度じっくりと読みたいが時間がない(たぶん邦訳書はない)。
 江崎道朗のように日本共産党系または少なくとも共産主義者・「容共」の出版社である大月書店(マル・エン全集もレーニン全集もこの出版者によるものだ(だった))が出版・刊行した邦訳書を「コミンテルン史」に直接に関係する唯一の文献として用いて(しかも邦訳書を頼りにして)かなりの直接引用までしてしまう、という勇気や大胆さは私にはない。
 K・マグダーマット=ジェレミ・アグニュー・コミンテルン史(大月書店、1998)。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と…(2017)、p.50に初出。
 また、上の二人の外国人(アメリカ?、イギリス?)がどういう研究者であるかも確認しないで「コミンテルン史」に直接に関係する唯一の文献の原本として利用するという勇気も大胆さも、秋月瑛二にはない。
 書名が少しふざけている感もあって(アホ・だまし屋・火つけ団)、上記のRoger Scruton についてはネット上で少し調べてみた(江崎道朗はおそらく、K・マグダーマットとジェレミ・アグニューの二人について、このような作業すらしていない)。
 そして少なくとも、全くのクズで読むに値しない著者および本ではない、ということを確認した。私は知らなかったが、イギリスの立派な<保守派>知識人の一人だと思われる(だからこそ一つも邦訳書がないのではないか)。
 2015年にイギリスの人が「新しい左翼(New Left)の思想家たち」としてどのような者たちを取り上げて論評しているかが「目次」を見ておおよそ分かるので、この欄で紹介しておこう。本文に立ち入って読めば、「仲間たち」の名がもっと出てくるのだろうが、目次に見える名前だけでも、現在の日本人には興味深いのではなかろうか。
 以下、目次(contents、内容構成)の試訳。
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 序説。
 1 左<左翼>とは何か?
 2 イギリスにおける憤懣-ホブスボームトムソン
 3 アメリカにおける侮蔑-ガルブレイスドゥオーキン
 4 フランスにおける解放-サルトルフーコー
 5 ドイツにおける退屈-ハーバマスへと至る下り坂。
 6 パリにおけるナンセンス-アルチュセールラカンおよびドゥルーズ
 7 世界に広がる文化戦争-グラムシからサイードまでの新左翼<New Left>。
 8 海の怪獣<?The Kraken> が目を覚ます-バディウジジェク
 9 右<右翼>とは何か?
 氏名索引。/事項索引。
 以上、終わり。
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 名前だけはほとんど知っていたが、バディウ(Badiou、フランス人)だけは今も全く知らない。イギリスのトムソンとは1970年代にレシェク・コワコフスキとの間に公開書簡を交わしたE・トムソン(Thompson)のことで、この本で取り上げられるほどに有名な「新(しい)左翼」人士だとは、この人に言及するT・ジャットおよびL・コワコフスキに接しても、全く知らなかった。
 あくまで Roger Scruton によれば、ということにはなるが、上掲の者たちは<真ん中>でも何でもなく<左翼>(または<新左翼>)とされる人士であることを、日本人は知っておいてよいだろう。
 T・ジャットによると、エリック・ホブスボーム(E. Hobsbawm)はずっとイギリス共産党員だった(党籍を残していた)。
 サルトル(Sartre)はあまりにも有名だが、ミシェル・フーコー(M. Foucault)の名も挙げられている。
 この人の本(邦訳書)は少しは所持していて、少しは読んだことがある。
 そして、このフーコーは文字通りに<狂人>だと感じた。
 このミシェル・フーコーを「有名な」フランスの思想家だなどとして真面目に読んでいると、<完璧な国家嫌い=強靱な反体制意識者>になるのではないか。
 記憶に残るかぎりで、国家は収容者を監視する監獄のようなものだ、という意識・主張。そして、国家による刑罰も否定する感情・意識。
 国家の刑罰権力自体を否定し、「犯罪」者を国家が裁いて制裁を加える(=刑罰を科す)こと自体を一般に否認することから出発する刑法学者が実際にいるらしいことも(そしてM・フーコーは愛用書らしいことも)、よく理解できる。
 ドイツの「歴史家論争」でエルンスト・ノルテの論敵だった(そして邦訳書が多数ある)ハーバマス(Habermas)のほか、<ポスト・モダン>とかで騒がれた(今でも人気のある?)フランスの人たちの名も挙げられている。日本での<ポスト・モダン>はいったい今、どうなっているのだろう。
 日本では、「思想」も「イデオロギー」も、ある程度は、流行廃りのある<商品>のごときものだ、という印象を強くせざるを得ない。
 その<商品>売買に関係しているのが、朝日新聞・産経新聞を含む<メディア>であり<情報産業>なのだ(月刊雑誌・週刊誌をもちろん含む)。翻訳書出版は勿論で、「論壇」なるものもその一部だろう。
 そして、この日本の<情報産業界>は例えば選挙を動かし、政治という日本の「現実」にも影響を与えている。

1728/邦訳書がない方が多い-総500頁以上の欧米文献。

 T・ジャットはL・コワコフスキ『マルクス主義の主要潮流』について、「コワコフスキのテーゼは1200ページにわたって示されているが、率直であり曖昧なところはない」とも書いている。
 トニー・ジャット・河野真太郎ほか訳・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011)p.182〔担当訳者・伊澤高志〕。
 この記述によって総頁数にあらためて関心をもった。T・ジャットが論及する三巻合冊本の「New Epilogue」の最後の頁数は1214、その後の索引・Index まで含めると、1283という数字が印刷されている。これらの頁数には本文(本来の「序文」を含む)の前にある目次や諸新聞等書評欄の「賛辞」文の一部の紹介等は含まれていないので、それらを含むと、確実に1300頁を超える、文字通りの「大著」だ。
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 ロシア革命・レーニン・ソ連等々に関係する外国語文献(といっても「洋書」で欧米のもの)を一昨年秋あたりから収集していて、入手するたびに発行年の順に所持本のリストを作っていた。いずれ、全てをこの欄に発表して残しておくつもりだった。しかし、昨年前半のいつ頃からだったかその習慣を失ったので、今から全てを公表するのは、ほとんど不可能だ。
 そこで、所持している洋書(といっても数冊の仏語ものを除くと英米語と独語のみ)のうち総頁数が500頁以上のもののみのリストを、やや手間を要したが、作ってみた。
 頁数は本の大きさ・判型や文字の細かさ等々によって変わるので、総頁数によって単純に範囲の「長さ」を比較することはできないが、実質的には…とか考え出すと一律な基準は出てこない。従って、もっと小型の本で活字も大きければ500頁を確実に超えているだろうと推測できても、除外するしかない。
 また、このような形式的基準によると450-499頁のものもある。490頁台のものもあって「惜しい」が、例外を認めると下限が少しずつ変わってくるので、容赦なく機械的に区切るしかない。
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 以下にリスト化し、総頁数も記す。長ければ「質」も高いという論理関係はもちろんないが、所持しているものの中では、レシェク・コワコフスキの上記の本が、群を抜いて一番総頁数が大きい。次は Alan Bullock のものだろうか(1089頁。但し、これは中判でコワコフスキのものは大判 )。
 また、邦訳書(日本語訳書)がある場合はそれも記す。その場合の頁数も。但し、邦訳書のほとんどは「索引」(や「後注」)の頁は通し数字を使っていない。その部分を数える手間は省いて、通し頁数の記載のある最終頁の数字を見て記している。
 邦訳書がないものの方が多いことは、以下でも明らかだ。この点には別にさらに言及する必要があるが、欧米文献(とくに英米語のもの)が広く読まれていると考えられる<欧米>と日本では、ロシア革命・レーニン等についても、「知的環境」あるいは「情報環境」自体がかなり異なっている、ということを意識しておく必要があるだろう。
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 *発行年(原則として、初出・初版による)の順。同年の場合は、著者(の姓)のアルファベット順。タイトル名等の直後に総頁数を記し、そのあとに秋月によるタイトルの「仮訳」を示している。所持するものに限る(+印を除く)。
 いちいちコメントはしないが、最初に出てくる Bertram D. Wolfe(バートラム・ウルフ、ベルトラム・ヴォルフ)は、アメリカ共産党創設者の一人、いずれかの時期まで同党員、共産主義活動家でのち離脱、共産主義・ソ連等の研究者となった。 
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・1948年
 Bertram D. Wolfe, Three Who made a Revolution -A Biographical History, Lenin, Trotsky and Stalin (1964, Cooper Paperback, 1984, 2001).計659頁。〔革命を作った三人・伝記-レーニン、トロツキーとスターリン〕
 =菅原崇光訳・レーニン トロツキー スターリン/20世紀の大政治家1(紀伊國屋書店、1969年)。計685頁/索引含めて計716頁。
・1951年 Hannah Arendt, The Origins of Totalitarianism.計527頁。〔全体主義の起源〕
 =Hannah Arendt, Element und Urspruenge totaler Herrscaft (独、Taschenbuch, 1.Aufl. 1986, 18.Aufl. 2015). 計1015頁。〔全体的支配の要素と根源〕
 =大島通義・大島かおり訳・第2巻/帝国主義(みすず書房, 新装版1981)。
 =大久保和郎・大島かおり訳・第3巻/全体主義(みすず書房, 新装版1981)。
・1960年
 Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union. 計631頁。〔ソ連共産党〕
・1963年
 Ernste Nolte, Der Faschismus in seiner Epoche (Piper, 1966. Tsaschenbuch, 1984. 6. Aufl. 2008). 計633頁。〔ファシズムとその時代〕
・1965年
 Adam B. Ulam, The Bolsheviks -The Intellectual and Political History of the Triumph of Communism in Russia (Harvard, paperback, 1998). 計598頁。〔ボルシェヴィキ-ロシアにおける共産主義の勝利の知的および政治的な歴史〕
・1972年
 Branko Lazitch = Milorad M. Drachkovitch, Lenin and the Commintern -Volume 1 (Hoover Institute Press). 計683頁。〔レーニンとコミンテルン/第一巻〕
・1973年
 Stephen F. Cohen, Bukharin and the Bolshevik Revolution - A Political Biography, 1888-1938. 計560頁。ブハーリンとボルシェビキ革命ー政治的伝記・1888-1938年。
=塩川伸明訳・ブハーリンとボリシェヴィキ革命ー政治的伝記:1888-1936(未来社、1979。第二刷,1988)。計505頁。
・1976年
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (Paris, 1976. London, 1978. USA- Norton, 2008 ). 計1283頁。
 -Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, Volume II - The Golden Age (Oxford, 1978. Paperback, 1981, 1988). 計542頁。
 -Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, Volume III - The Breakdown (Oxford, 1978). 計548頁。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, Volume III - The Breakdown (Oxford, 1981). 計548頁。
<The Breakdown (Oxford, 1987). 計548頁。
・1981年
 Bertram Wolfe, A Life in Two Centuries (Stein and Day /USA). 計728頁。〔二世紀にわたる人生〕
・1982年
 Michel Heller & Aleksandr Nekrich, Utopia in Power -A History of the USSR from 1917 to the Present (Paris, 1982. Hutchinson, 1986). 計877頁。〔権力にあるユートピア-ソヴィエト連邦の1917年から現在の歴史〕
・1984年
 Harvey Klehr, The Heyday of American Communism - The Depression Decade. 計511頁。〔アメリカ共産主義の全盛時-不況期の10年〕
・1985年
 Ernst Nolte, Deutschland und der Kalte Krieg (Piper, 2. Aufl., Klett-Cotta, 1985). 計748頁。〔ドイツと冷戦〕
・1988年
 François Furet, Revolutionary France 1770-1880 (英訳- Blackwell, 1992). 計630頁。〔革命的フランス-1770年~1880年〕
・1990年
 Richard Pipes, The Russian Revolution. 計944頁。〔ロシア革命〕
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (paperback,1997). 計944頁。
・1991年
 Christopher Andrew = Oleg Golodievski, KGB -The Insde Story. 計776頁。〔KGB-その内幕〕
 =福島正光訳・KGBの内幕/上・下(文藝春秋、1993)-上巻計524頁・下巻計398頁。
 Alan Bullock, Hitler and Stalin - Parallel Lives. 計1089頁。〔ヒトラーとスターリン-生涯の対比〕
 =鈴木主税訳・対比列伝/ヒトラーとスターリン-第1~第3巻(草思社、2003)-第1巻計573頁、第2巻計575頁、第3巻計554頁。
・1993年
 David Remnick, Lenins' Tomb : The Last Days of the Soviet Empire. 計588頁。〔レーニンの墓-ソヴィエト帝国の最後の日々〕
 =三浦元博訳・レーニンの墓-ソ連帝国最期の日々(白水社、2011).
 Heinrich August Winkler, Weimar 1918-1933 - Die Geschichte der ersten deutschen Demokratie (Beck) . 計709頁。ワイマール1918-1933ー最初のドイツ民主制の歴史。
・1994年
 Erick Hobsbawm, The Age of Extremes -A History of the World, 1914-1991 (Vintage, 1996).計627頁。〔極端な時代-1914-1991年の世界の歴史〕
 =河合秀和訳・20世紀の歴史-極端な時代/上・下(三省堂, 1996).-上巻計454頁、下巻計426頁)。
 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime. 計587頁。〔ボルシェヴィキ体制下でのロシア〕
 Dmitri Volkogonow, Lenin - Life and Legady (Paperback 1995). 計529頁。〔レーニン-生涯と遺産〕
 =Dmitri Volkogonow, Lenin - Utopie und Terror (独語、Berug, 2017). 計521頁。〔レーニン-ユートピアとテロル〕
・1995年
 François Furet, Le Passe d'une illsion (Paris).+
 =Das Ende der Illusion -Der Kommunismus im 20. Jahrhundert (1996).計724頁。〔幻想の終わり-20世紀の共産主義〕
 =The Passing of an Illusion -The Idea of Communism in the Twentieth Century (Chicago, 1999).計596頁。〔幻想の終わり-20世紀の共産主義思想〕
 =楠瀬正浩訳・幻想の過去-20世紀の全体主義 (バジリコ, 2007.09). 計721頁。
 Martin Malia, Soviet Tragedy - A History of Socialism in Russia 1917-1991. 計592頁。ソヴィエトの悲劇ーロシアにおける社会主義の歴史・1917年-1991年。
 =白須英子訳・ソヴィエトの悲劇ーロシアにおける社会主義の歴史 1917-1991/上・下(草思社、1997)。上巻計450頁・下巻計395頁。
 Stanley G. Payne, A History of Fascism 1914-1945(Wisconsin Uni.). 計613頁。〔ファシズムの歴史-1914年~1945年〕
 Andrzej Walick, Marxism and the Leap to the Kingdom of Freedom -The Rise and Fall of the Communist Utopia. 計641頁。〔マルクス主義と自由の王国への跳躍ー共産主義ユートピアの成立と崩壊〕
・1996年
 Orland Figes, A People's tragedy - The Russian Revolution 1891-1924(Penguin, 1998).計923頁。民衆の悲劇ーロシア革命1891-1924年。
 =Orland Figes, -(100th Anniversary Edition, 2017. New Introduction 付き). 計923頁。
 Donald Sassoon, One Hundred Years of Socialism -The West European Left in the Twentieth Century (paperback, 2014). 計965頁。社会主義の百年ー20世紀の西欧左翼。
・1997年
 Sam Tannenhaus, Wittaker Chambers - A Biography. 計638頁。ウィテカー・チェインバーズー伝記。
・1998年
 Helene Carrere d'Encausse, Lenin.<仏語>計527頁。〔レーニン〕
 =Helene Carrere d'Encausse, Lenin (New York, London, 2001).計371頁。〔レーニン〕
 =石崎晴己・東松秀雄訳・レーニンとは何だったか(藤原書店, 2006).計686頁。
 Dmitri Volkogonov, Autopsy for an Empire - The Seven Leaders who built the Soveit Regime. 計572頁。〔帝国についての批判的分析-ソヴィエト体制を造った七人の指導者たち〕
 Dmitri Volkogonov, The Rise and Fall of the Soviet Empire (Harper paerback, 1999).計572頁。ソビエト帝国の成立と崩壊。
 *参考:生田真司訳・七人の首領-レーニンからゴルバチョフまで/上・下(朝日新聞社、1997。原ロシア語、1995)
・1999年
 Martin Malia, Russia under Western Eye - From the Bronze Horseman to the Lenin Mausoleum. 計514頁。〔西欧から見るロシア-青銅馬上像の男からレーニンの霊廟まで〕
・2000年
 Arno J. Mayer, The Furies - Violence and Terror in the French ans Russian Revolutions. 計716頁。〔激情-フランス革命とロシア革命における暴力とテロル〕
・2002年
 Gerd Koenen, Das Rote Jahrzent -Unsere Kleine Deutche Kulturrevolution 1967-1977 (独,5.aufl., 2011).計554頁。〔赤い十年-我々の小さなドイツ文化革命 1967-1977年〕
・2003年
 Anne Applebaum, Gulag -A History (Penguin).計610頁。〔グラク〔強制収容所〕-歴史〕
 =川上洸訳・グラーグ-ソ連強制収容所の歴史(白水社、2006)。計651頁。
・2005年
 Tony Judt, Postwar -A History of Europe since 1945. 計933頁。〔戦後-1945年以降のヨーロッパ史〕
・2007年
 M. Stanton Evans, Blacklisted by History - The Untold History of Senator Joe McCarthy and His Fight against America's Enemies. 計663頁。〔歴史による告発-ジョウ・マッカーシー上院議員の語られざる歴史と彼のアメリカの敵たちとの闘い〕
 Orlando Figes, The Whisperers - Private Life in Stalin's Russia. 計740頁〔囁く者たち-スターリン・ロシアの私的生活〕
 =染谷徹訳・囁きと密告/上・下(白水社、2011)-上巻・計506頁、下巻・計540頁(ともに索引等は別)。
 Robert Service, Comrades - Communism: A World History. 計571頁。〔同志たち-共産主義・一つの世界史〕
・2008年
 Robert Gellately, Lenin, Stalin and Hitler -Age of Social Catastrophe.計696頁。〔レーニン、スターリンとヒトラー-社会的惨害の時代〕
・2009年
 Archie Brown, The Rise and Fall of Communism.計720頁。〔共産主義の勃興と崩壊〕
 =Aufstieg und Fall des Kommunismus (Ullstein独, 2009 ).計938頁。
 =下斗米伸夫監訳・共産主義の興亡(中央公論新社, 2012).計797頁。
 Michael Geyer and Sheila Patrick (ed.), Beyond Totalitarianism - Stalinism and Nazism Compared (Cambridge). 計536頁。〔全体主義を超えて-スターリニズムとナチズムの比較〕
 John Earl Hayns, Harvey Klehr and Alexander Vassiliev, Spies -The Rise and Fall of the KGB in America (Yale). 計650頁。〔スパイたち-アメリカにおけるKGBの成立と崩壊〕
 David Priestland, The Red Flag -A History of Communism (Penguin, 2010). 計676頁。〔赤旗-共産主義の歴史〕
 =David Priestland, Welt-Geschchte des Kommunismus -Von der Franzaesischen Revolution bis Heute <独語訳>.〔共産主義の世界史-フランス革命から今日まで〕
・2010年
 Timothy Snyder, Bloodlands -Europa zwischen Hitler und Stalin (Vintage, and独語版, 2011). 計523頁。〔血塗られた国々-ヒトラーとスターリンの間のヨーロッパ〕
 =布施由紀子訳・ブラッドランド-ヒトラーとスターリン・大虐殺の真実(筑摩書房、2015)/上・下。-上巻計346頁、下巻計297頁(+4頁+95頁)。
・2011年
 Herbert Hoover, Freedom Betrayed - Herbert Hoover's Secret History of the Second World War and Its Aftermath. 計957頁。〔裏切られた自由ーハーバート・フーバーの第二次大戦とその余波に関する秘密の歴史〕
 =渡辺惣樹訳・裏切られた自由-フーバー大統領が語る第二次大戦の隠された歴史とその後遺症/上・下(草思社、2017)-上巻702頁・下巻591頁。
・2015年
 Thomas Krausz, Reconstructing Lenin - An Intellectual Biography. 計552頁。〔レーニンを再構成する-知的伝記〕
 Herfried Muenkler, Der Grosse Krieg -Die Welt 1914-1918. 計923頁。〔大戦-1914-1918年の世界〕
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 1981年の項に、B.Wolfe の一冊を追記した(邦訳書はない)。/2018.03.27

1724/T・ジャット(2008)によるL・コワコフスキ⑥。

 トニー・ジャット・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011。河野真太郎ほか訳)、第8章・さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産(訳分担・伊澤高志)の紹介=基本的には書き写しのつづき。
 今回も原注の邦訳の一部をすべて省略する。
 紹介の➃に追記することを忘れてこの欄のその次の回に「この機会に追記しよう」として書いてしまった一部は全く不要だった。
 L・コワコフスキの原書・原論考の最後の skull に関して、シェイクスピア・ハムレットうんぬん等と記したのだったが、原邦訳書のp.195の末尾に、T・ジャットの原書がこのコワコフスキの最後の文章を引用しており、邦訳者がきちんと当該部分を邦訳し、skull を「髑髏」と適確に訳し、かつおそらく邦訳者自身が「ハムレット・第五幕第一場のパロディ」とまで挿入してくれている。
 むろん一度はこのT・ジャットの文章を全部読んだはずだったが、記憶忘れ、つぎに紹介する部分の見忘れが甚だしく、いやになる。
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 さて、前回に紹介した部分以降は、コワコフスキの名も出てくるが、ほとんどがトニー・ジャット自身の<マルクス主義論>だ。
 あらためて概括し、私なりに論評することはしない。簡単な言及のみ。
 T・ジャットによって用いられている「リベラル・リベラリズム」という語・概念が日本での用法とかなり異なることには、注意されてよいと思われる。そしてまた、T・ジャットはこれを擁護する論者・支持者のごとくであり、かつ、<左と右の>両翼の反民主主義または「全体主義」に反対する論者のようだ(後者の語は明確には出てこないが、「包括的な支配」という語は使っている)。
 最後にコワコフスキの名を挙げつつ、この人を読んで「マルクス主義」と闘うべき、と主張するのではなく、「時宜を得た幻想」の力強さを指摘して、冷静に?締めくくっているのも、興味深いかもしれない。
 トニー・ジャットは、この文章からも明確なように、明確な<反マルクス主義>者だ。そしてまた、この人がいう「システム」または体制としての「コミュニズム(共産主義)」に対しても、断固として厳しい立場に立っている(と読める)。
 彼は、L・コワコフスキの三巻本(1978年刊行)を若いうちに読み、今世紀に入ってからのアメリカ・ノートン社による三巻合冊本の新発行(内容は同じ。コワコフスキの「新しい」緒言・後記だけがコワコフスキの新しい執筆)を「歓迎」して,この文章を書評誌に掲載した。
 L・コワコフスキ等々のマルクス主義(・コミュニズム)に関する書物もよく読んでいて、それを基礎にして、T・ジャット自身の<マルクス主義観・論>を執筆しておきたかったのかもしれない。
 むろん、T・ジャットは単純で幼稚な、原理主義的な<反共産主義者>ではない。彼はアメリカのイラク戦争に反対した知識人の一人だったようだが、この文章にも見られるように、「右」側にも警戒的で、ソ連解体後の<資本主義・市場主義勝利の喝采者たち>も揶揄している。
 トニー・ジャットはL・コワコフスキの本を読んでおり、かつ「生き続けている」ものとして、このマルクス主義にかかわる文章を書いた。
 日本と日本人にも、もちろん、示唆的だ。「日本会議」の趣意書のごとく、「マルクス主義の過ちは余すところなく明らかになった」などと暢気に語っていたのでは(1997年)、戦いをとっくに放棄していることになる。これに属している学者たちは、その他有象無象の櫻井よしこらも含めて、信頼できない。
 L・コワコフスキの<マルクス主義の主要潮流>を読んだ日本人がいかほどいるのか。
 このT・ジャットのような文章を書ける日本の「知識人」は、一人でもいるのか。
 そう思うと、身震いがする。怖ろしい。日本の論壇・学界・「知識人」界は、(今回に紹介する部分で)T・ジャットの言う、<国際的な「辺境」や〔世界の〕学問の周縁でのみ>生きている人たちで成り立っているのだろう。
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 ラディカルな政治の未来がコミュニズムの先達の罪と失敗に心動かされることのない(ひょっとしたらそれらに無自覚な)新しい世代のマルクス主義者たちのものなのかどうか、それは分からない。
 私はそうならないことを望むが、そうならないと賭けることもしない。
 かつてミッテランの政治顧問を務めたジャック・アタリは、カール・マルクスについて大部の急いで書いたらしい著作を、昨年出版した。
 そこで彼は、ソ連の崩壊はマルクスをその相続者から解放し、また特に制限なき競争によって生じた世界的な不平等という現代のジレンマを予見した資本主義についての明察に満ちた予言者をマルクスの中に見出すことを可能にした、と述べた。
 アタリの著は、よく売れている。
 彼のテーゼは、広く議論されている。
 フランスでも、イギリスでもだ(イギリスでは、2005年のBBCによる投票で、視聴者はカール・マルクスを「史上最も偉大な哲学者」に選んでいる(注20))。//
 アタリはトンプソンと同じように、コミュニズムの優れた理念は、それが実際にとった都合の悪い形態から切り離して救うことができるという主張をしているわけだが、これに対しては、コワコフスキがトムソンに示した反応に倣って応答することもできるだろう。
 「何年にもわたって、コミュニストの理念を改善し、刷新し、悪い部分を取り除き、あるいは修正するという試みには、何も期待などしてこなかった。
 ああ、哀れな思想よ。
 この髑髏は、二度と微笑むことなどないのだな」〔『ハムレット』五幕第一場のパロディ〕といったふうに。
 しかし、ジャック・アタリは、エドワード・トムソンや近年再び表舞台に登場してきたアントニオ・ネグリとは違って、時局の変化にきちんと波長を合わせた鋭い政治的アンテナをもつ人物だ。
 もしもアタリがその髑髏が再び微笑むと考え、左翼によるシステム構築を志向する瀕死の説明が復活すべきものだと考えるとしても、そうなっても、現代の右翼の自由主義市場者たちの癪にさわる説明が自信過剰を引き立たせるだけであっても、彼は完全に見当違いをしている、というわけではあるまい。
 彼に同調する者がいることは、確かなのだ。//
 このように、この新しい世紀の最初の年月に私たちは、二つの対立する、しかし奇妙に似通った幻想に直面していることに気づく。
 一つめの幻想は、アメリカ人に最も馴染みがあるが、しかし全ての先進国で大いに売り出されているものだ。
 それは、今日合意されている政策は、はっきりした代替案を欠いている以上、あらゆる近代民主主義を適正に管理するための条件で、いつまでも続くものだという、注解者や政治家、専門家たちの、自惚れの強い協調主義的な主張だ。
 同時に、それに反対する者は誤解をしているか、または悪意があるのかのいずれかで、いずれの場合であれ、見当違いであることがはっきりするだろう、という主張だ。
 二つめの幻想は、マルクス主義には知的・政治的未来がある、という信念だ。
 それは、コミュニズムの崩壊にもかかわらずというだけでなく、それゆえに、というものだ。
 今までのところ国際的な「辺境」や学問の周縁でのみ見られるものだが、このマルクス主義、つまり政治的予言としてではないとしても、少なくとも分析ツールとしてのマルクス主義に対する新しい信念は、主として競争相手がいないという理由で、今や再び、国際的な抵抗運動の共通手段となっている。//
 もちろん、この二つの幻想は、過去から学ぶことをともに失敗している点が、類似している。
 そして、相互依存的である点も、類似している。
 というのは、前者の近視眼こそが、後者の主張に見せかけの信頼性を与えているからだ。
 市場の勝利と国家の後退に喝采を送る者たち、今日の「平板化した」世界で経済が何の規制も受けずに主導権を握るという見通しを私たちに歓迎させたいと思う者たちは、私たちがかつてこの同じ道を辿ったときに何が起こったのかを、忘れている。
 同じことが起こったとき、彼らは激しいショックを受けることになるだろう(たとえ過去が信頼できる案内者だとしても、その場合おそらく、ほかの誰かを犠牲にーしたうえだろうが)。
 デジタル・リマスタリングされ、コミュニズムの耳障りな雑音を除去したマルクス主義のテープを再上映することを夢見る者は、すぐにでも問いかけるのがいいだろう。
 包括的な思考の「システム」のいったいどの部分が、包括的な支配の「システム」に不可避的につながることになるのか、と。
 すでに見たように、これについては、レシェク・コワコフスキを読むことで得るものが多いだろう。
 しかし、歴史が記録しているのは、時宜を得た幻想ほど強力なものはない、ということだ。//
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 以上、終わり。邦訳書のp.197まで。
 この紹介の前回部分で注記なくT・ジャットが名を挙げて言及している「マルクス主義に対して厳しい批判をする者の一人であるポーランドの歴史家」のアンジェイ・ヴァリツキ(ワリツキ)の大著については、この欄の№1549=1917年5/18で論及している。これの日本語訳書は、(もちろん?)ない。
 内容構成(目次)だけを、以下に再掲する。
 --------   
 アンジェイ・ワリッキ・マルクス主義と自由の王国への跳躍-共産主義ユートピアの成立と崩壊〔Marxism and the Leap to the Kingdom of Freedom -The Rise and Fall of the Communist Utopia, 1995)。
 第1章・自由に関する哲学者としてのマルクス。
  第1節・緒言。
  第2節・公民的および政治的自由-自由主義との対立。
  第3節・自己啓発の疎外という物語-概述。
  第4節・パリ<草稿>-喪失し又は獲得した人間の本質。
  第5節・<ドイツ・イデオロギー>-労働の分離と人間の自己同一性の神話。
  第6節・<綱要>-疎外された普遍主義としての世界市場。
  第7節・<資本論>での自己啓発の疎外と幼き楽観主義の放棄。
  第8節・将来の見通し-過渡期と最後の理想。
  第9節・ポスト・マルクス主義社会学伝統における資本主義と自由-マルクス対ジンメルの場合。
 第2章・エンゲルスと『科学的社会主義』。
  第1節・『エンゲルス的マルクス主義』の問題。
  第2節・汎神論から共産主義へ。
  第3節・政治経済学と共産主義ユートピア。
  第4節・諸国民の世界での『歴史的必然性』。
  第5節・『理解される必然性』としての自由。
  第6節・喪失した自由から獲得した ?自由へ。
  第7節・二つの遺産。
 第3章・『必然性』マルクス主義の諸変形。
  第1節・カール・カウツキー-共産主義の『歴史的必然性』から民主政の『歴史的必然性』へ。
  第2節・ゲオルギー・プレハーノフ-夢想家の理想としての『歴史的必然性』。
  第3節・ローザ・ルクセンブルクまたは革命的な運命愛(Amor Fati)。
 第4章・レーニン主義-『科学的社会主義』から全体主義的共産主義へ。
  第1節・レーニンの意思と運命の悲劇。
  第2節・『ブルジョア自由主義』へのレーニンの批判とロシア民衆主義の遺産。
  第3節・労働者の運動と党。
  第4節・『単一政』の破壊と暴力の正当化。
  第5節・文学と哲学におけるパルチザン原理。
  第6節・プロレタリアート独裁と国家。
  第7節・プロレタリアート独裁と法。
  第8節・プロレタリアート独裁と経済的ユートピア。
 第5章・全体主義的共産主義から共産主義的全体主義へ。
  第1節・レーニン主義とスターリン主義-継承性に関する論争。
  第2節・世界の全体観念としてのスターリン主義的マルクス主義。
  第3節・『二元意識』と全体主義の『イデオロギー支配制』。
 第6章・スターリン主義の解体-脱スターリン主義化と脱共産主義化。
  第1節・緒言。
  第2節・マルクス主義的『自由』と共産主義的全体主義。
  第3節・脱スターリン主義化と脱共産主義化の諸段階と諸要素。
  第4節・ゴルバチョフのペレストロイカと共産主義的自由の最終的な拒絶。
 --- 以上。

1722/T・ジャット(2008)によるL・コワコフスキ⑤。

 トニー・ジャット・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011。河野真太郎ほか訳)、第8章・さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産(訳分担・伊澤高志)の紹介のつづき。
 今回は原注の邦訳の紹介をすべて省略する。
 ----
 マルクス主義の魅力の二つ目の源泉は、マルクスとその後継者のコミュニストたちが、歴史的逸脱、クレオ〔歴史を司る女神〕の生み出した過ち、だったわけではない、ということだ。
 マルクス主義のプロジェクトは、それがとって代わり、また吸収した古い社会主義と同じように、私たちの時代の偉大な進歩の物語の一つの要素だった。
 つまり、近代社会とその可能性に対し、楽観的で合理的な進歩の物語によって説明を加えるという点で、マルクス主義は、それと対照をなす歴史的双生児と言える古典的なリベラリズムと共通している。
 マルクス主義に特有のひねり、すなわち来るべき良き社会は、無階級で、経済の進展と社会の激変がもたらす資本主義後の産物だという主張は、1920年までにはすでに信頼することが難しくなっていた。
 しかし、マルクス分析が当初備えていた刺激に由来する様々な社会運動は、何十年にもわたって、社会変容のプロジェクトを信じているかのごとく語り、行動し続けた。//
 例を挙げてみよう。
 ドイツ社会民主党は、第一次大戦のずっと前に、事実上「革命」を放棄していた。
 しかし、1959年、バート・ゴーデスベルク議会でようやく、党はその言語と目標を設定してくれたマルクス主義理論という負債を、公式に返済しきった。
 その間の年月、そしてそののち暫くの間、ドイツ社会民主党員は、イギリス労働党員、イタリア社会党員、その他多くと同様に、階級闘争や資本主義との戦いなどについて発言したり書いたりし続けた。
 まるで、穏健で改革主義的な日常の実践とは裏腹に、いまだにマルクス主義のロマンティックな物語を生きているかのようだった。
 つい最近の1981年5月、フランソワ・ミッテランが大統領に選ばれたのちにさえも、非常に高名な社会党の政治家たちは、自分たちを「マルクス主義者」とは呼ばないだろうし、ましてや「コミュニスト」などとは呼ばないだろうにもかかわらず、興奮気味に、「偉大なる夕べ〔(原邦訳書のふりがな)グラン・ソワール〕〔革命成功のとき〕と、来たるべき社会主義の変化について語ったが、それはまるで、彼らが1936年、あるいはさらには1848年に立ち戻ったかのようだった。//
 つまり、マルクス主義は、進歩的な政治の多くの深層にある「構造」だったのだ。
 マルクス主義の言語、あるいはマルクス主義の概念にもたれかかっている言語は、社会民主主義からラディカル・フェミニズムまでの、現代の様々な政治的抵抗に、形式と内的一貫性を与えた。
 この意味で、メルロ=ポンティは正しかった。
 つまり、批判的に現在とかかわるための方法としてのマルクス主義の喪失によって、そこには空白が残されてしまったのだ。
 マルクス主義とともに失われたものは、機能不全のコミュニズムの体制やそれに惑わされた諸外国の擁護者だけでなく、過去150年にわたって創造されてきた、私たちが「左翼的」と考えてきた仮定、カテゴリー、説明の体系全体だった。
 過去20年間の北米およびヨーロッパの政治的左翼の混乱を観察し、みずからに「しかし、政治的左翼とはいったい何を表すのだろうか、何を求めているのだろうか」と問いかけたことのある者ならば、私の言いたいことは分かるだろう。//
 しかし、なぜマルクス主義が魅力を持っていたかについては第三の理由があり、近年になって急にマルクス主義の亡骸を攻めたて、「歴史の終わり」や、平和、民主主義、自由市場の最終的勝利を高らかに言う者たちは、この理由をよくよく考えてみるのが賢明というものだろう。
 いく世代もの知的で誠実な人々がコミュニズムのプロジェクトと運命を共にすることを望んだとしたら、それは決して、彼らが革命や救済という誘惑的な物語によってイデオロギー的な麻痺状態にされてしまったからではない。
 そうではなく、彼らがその根底にある倫理的メッセージに、抗いがたく惹きつけられたからだ。
 つまり、地に呪われたる者の利害を代弁し保護することにあくまで結びついた、観念や運動の力に、だ。
 徹頭徹尾、マルクス主義の最強の持ち札は、マルクスの伝記作家の一人が述べる、「私たちの世界全体の運命は、その最も貧しく最も苦しんでいる成員の状況と分かち難いという、マルクスの真剣な道徳的確信」だ(注17)。//
 マルクス主義に対して厳しい批判をする者の一人であるポーランドの歴史家アンジェイ・ヴァリツキが率直に認めるところでは、マルクス主義は「資本主義とリベラリズムへの伝統とに見られる数多くの欠陥に対する反応」として最も影響力のあるものだった。
 マルクス主義が20世紀最後の三分の一で支持を失ったとしたら、それは大部分、資本主義の最大の欠陥がついに克服されたように見えることによる。
 つまり、リベラリズムの伝統が、不況と戦争という困難に適応することと、西欧民主主義にニューディール政策と福祉国家という安定装置を与えることに予想外の成功を収めたおかげで、左翼と右翼の両者の反民主主義的な批判者たちに、はっきりと勝利したのだ。
 現在とは異なる時代の危機や不正を説明し尽くせるという位置を完全に占めていた教義が、今や、的はずれなものに見えるようになったのだ。//
 しかしながら今日では、事態は再び変わろうとしている。
 19世紀のマルクスの同時代人たちが「社会問題」と呼んだもの、つまりいかにして富める者と貧しい者たちの大きな格差や健康、教育、機会のひどい不平等に対処し、それを克服するのかという問題は、西洋では答えが出されたかもしれない(とはいえ、イギリスや特にアメリカでは、富者と貧者の間の溝は一度は狭まりかけたかに見えたが、近年再び開きだしている)。
 しかし、その「社会問題」は、今や深刻な国際的政治課題として再登場した。
 繁栄する受益者にとっては、世界的な経済成長や、投資や貿易のための国内市場および国際市場の開放に映るものが、ほかの多くの者にとっては、ひとりぎりの企業や資本所有者たちの利益にのための世界の富の再分配と認識され、不満を抱かれるようになってきている。//
 近年、尊敬すべき批評家たちが19世紀のラディカルな言語を再びもらい、されを21世紀の社会問題について、不穏なほどにうまく適用している。
 マルクスやほかの者たちが「労働予備軍」と呼んだものが、ヨーロッパの産業都市の貧民街ではなく、世界中で再び浮上しているということを認識するのには、マルクス主義者である必要はない。
 外部委託〔(原邦訳書のふりがな)アウトソーシング〕や工場移転。投資の引き上げの脅かしによって賃金を抑えることで(注18)、世界中の低賃金労働力は、収益を保ち成長を促すのに役立っているが、それは19世紀の産業化したヨーロッパの状況とのまったく同じだ。
 但し、組織化された労働組合と大衆化した労働党が力を持ち、賃金の改善、税制による再配分、20世紀での政治権力のバランスの決定的な変化をもたらし、自分たちの指導者の、革命の予言を台無しにしてしまう以前の話だが。//
 つまるところ、世界は新しいサイクルに入ったかのようで、それは私たちの19世紀の先祖たちには馴染みしあったものだが、現在の西洋の私たちは最近経験していないものだ。
 これらの年月に目に見える富の不均衡が増し、貿易の条件、雇用の場所、乏しい天然資源の管理についての闘争がより激しくなると、私たちが不平等、不正、不公平、搾取について耳にすることは、増えこそすれ減りはしないだろう。
 国内でもそうだが、とくに海外でも。
 そしてそれゆえ、私たちはすでにコミュニズムの風景は失っているので(東欧においてさえ、コミュニズム体制を成人として経験した記憶があるのは35歳以上の者だ)、刷新されたマルクス主義の魅力が高まる可能性がある。//
 もしもこれが馬鹿馬鹿しく聞こえるなら、以下のことを思い出してほしい。
 例えば、ラテンアメリカや中東の知識人やラディカルな政治家にとって、何らかのかたちでのマルクス主義の魅力は決して衰えていない、ということを。
 その地域ごとの経験についての妥当な説明原理として、それらの地域のマルクス主義は、その魅力を多く保っており、されは世界至る所の現在の反グローバリズム主義者たちにとって魅力を放っているのと同様だ。
 後者が今日の国際資本主義経済のもたらす緊張とその欠陥のなかに見てとる不公正や機会は、1890年代の初めての経済的「グローバル化」を目にした者たちが、マルクスの資本主義批判を「帝国主義」という新た理論に適用される動機となったものと同じだ。//
 そして、ほかの誰も現代の資本主義の不平等を是正するための説得力ある戦略を示せていないようなので、最も整然とした物語を語り、最も怒りに満ちた予言を示す者たちに、この分野は再び託された。
 19世紀の中葉、ヴィクトリア朝の成長と繁栄の全盛期に、ハイネがマルクスとその友人たちに予言的に述べたことを、思い出してみよう。
 「これらの革命の博士たちと、断固たる決意を抱くその弟子たちは、ドイツで唯一、生命をもつ者だ。
 そして私が恐れるののは、未来は彼らに属している、ということだ」(注19)。//
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 以上、原邦訳書のp.190 途中から、p.195の始めまで。

1720/T・ジャッド(2008)によるL・コワコフスキ④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流は1976年に原語・ポーランド語版がパリで刊行され、1978年に英語訳版が刊行されている(第三巻がフランスでは出版されていない、というのは、正確には、<フランス語版>は未公刊との意味だ。-未公刊の旨自体はジャットによる発見ではなく、L・コワコフスキ自身が新しい合冊版の緒言かあとがきで明記している)。したがって、第三巻が「潮流」の「崩壊」(Breakdown, Zerfall)と題していても、1989-1992年にかけてのソ連・「東欧社会主義」諸国の「崩壊」を意味しているのでは、勿論ない。
 日本の1970年代後半といえば、「革新自治体」がなお存続し、日本共産党が「民主連合政府を」とまだ主張していた時期だ。
 1980年代前半にはこのコワコフスキ著の存在を一部の日本人研究者等は知ったはずだが、なぜ邦訳されなかったのか。2018年を迎えても、つまりほぼ40年間も経っても、なぜ邦訳書が刊行されていないのか。
 考えられる回答は、すでに記している。
 トニー・ジャット・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011。河野真太郎ほか訳)、第8章・さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産(訳分担・伊澤高志)の紹介のつづき。
 前回と比べても一貫しないが、今回は原注の邦訳の一部を紹介する。原注の執筆者は、むろんトニー・ジャット(Tony Judt)。本文にも出てくる Maurice Merleu-Ponty (メルロ=ポンティ)とRaymond Aron (アロン)に関する注記が(注14)と(注15)だが、フランス語文献が出てくるこの二つはすべて割愛し、その他の後注の内容も、一部または半分ほどは省略する。
 なお、トニー・ジャットは20世紀の欧州史に関する大著があるアメリカの歴史学者で、最も詳しいのは「フランス左翼」の動向・歴史だったようだ(コワコフスキと同じく、すでに物故)。上の二人のフランス人への言及がとくにあるのも、そうした背景があると思われる。
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 『マルクス主義の主要潮流』は、マルクス主義に関する第一級の解説として唯一のものというわけではないが、これまでのところ最も野心的なものではある(注10)。
 この書を類書と分かつのは、コワコフスキのポーランド人としての視点だ。
 その点が、彼がマルクス主義を一つの終末論として重視していることの説明となりうるだろう。
 それは、「ヨーロッパの歴史に連綿と流れてきた黙示録的な期待の、現代における一変奏だ<*an eschatology-"a modern varient of apocalyptic expectations --">」。
 そしてそのことによって、20世紀の歴史に対する非妥協的なほど道徳的で宗教的とさえ言えるような読解が、許される。
 「悪魔<*the Devil>は、私たちの経験の一部だ。
 そのメッセージをきわめて真面目に受け入れるに十分なほど、私たちの世代は、それを見てきた。
 断言するが、悪<*evil>とは、偶然のものではなく、空白でも、歪みでも、価値の転覆でもない(あるいは、その反対のものと私たちが考える、他の何ものでもない)。
 そうではなく、悪魔とは、断固としてそこにあって取り返しのつかない、事実なのだ」(注11)。 
 西欧のマルクス主義注解者は誰も、どれだけ批判的であっても、このような書き方をしたことはなかった。//
 しかしその一方で、コワコフスキは、マルクス主義の内部だけではなくコミュニズムの下でも生きてきた者として、書いている。
 彼は、マルクス主義の知的原理から政治的生活様式への変遷の、目撃者だったのだ。
 そのように内部から観察され経験されると、マルクス主義はコミュニズムと区別することが難しくなる。
 コミュニズムは結局のところ、マルクス主義の実践的帰結として最も重要なものというだけでなく、その唯一のものだったのだから。
 マルクス主義の様々な概念が、自由の抑圧という卑俗な、権力を握ったコミュニストたちにとっての主要な目的のために日々用いられたことによって、時とともに、その原理自体の魅力がすり減ってしまったのだ。//
 弁証法が精神の歪曲と身体の破壊へと適用されたという皮肉な事態を、西欧のマルクス主義研究者が真剣にとりあうことは、なかった。
 彼らは、過去の理想か未来への展望に没頭し、ソ連の状況についての不都合なニュースには、犠牲者や目撃者たちから伝えられた際にさえも、平然としていた(注12)。
 コワコフスキが多くの「西欧」マルクス主義とその進歩的従者に対して強烈な嫌悪感をいだいた理由は、そのような人々と出会ったことであるのは確かだ。
 「教育のある人々の間でマルクス主義が人気を得ていることの原因の一つは、マルクス主義が形式的に単純なため、わかりやすいという事実だ。
 マルクス主義たちが怠惰であることや……〔マルクス主義が〕歴史と経済の全てを実際には学ぶ必要もなく支配することを可能にする道具であることに、サルトルでさえも、気づいていたのだ」(注13)。//
 このような出会いこそが、コワコフスキの最近出版された論集の冷笑的な表題エッセイを書かせることになった。*注(後注と区別されている本文全体の直後に追記されている文ー秋月)
 *<始まり> このエッセイ<秋月注-このジャッド自身の文章のことで、コワコフスキの上記エッセイとは別>は最初、コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』を一巻本で再刊しようとするノートン社の称賛に値する決定に際して、2006年9月の『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』誌に掲載された。
 私がE・P・トムソンに少し触れたことで、エドワード・カントリーマン氏からの猛烈な反論を引き起こした。
 彼の手紙と私の返答は、『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』誌2007年2月、54巻2号に掲載された。*<終わり> (*の内容は、原邦訳書p.197)
 英国の歴史家E・P・トムソン<*Thompson>は、1973年、『ソーシャリスト・レジスター』誌に「レシェク・コワコフスキへの公開書簡」を掲載し、このかつてのマルクス主義者を、若き頃の修正主義的コミュニズムを放棄したことで西欧の彼の崇拝者たちを落胆させた、と咎めた。
 「公開書簡」は、堅苦しい小英国主義者としてのトムソンの最悪の面を、よく表すものだった。
 それは冗長で(印刷された紙面で100頁にも及ぶ)、いばった調子で、殊勝ぶったものだった。
 勿体ぶった、扇動的な調子で、彼を信奉する進歩的読者に対しては意識しつつ、トムソンは、流浪の身のコワコフスキに対してレトリックをもって警告を与えようとし、彼の変節を咎める。
 「私たちはともに、1956年のコミュニズム的修正主義を代表する声だった。
 ……私たちはともに、スターリニズムに対する正面切った批判から、マルクス主義的修正主義の立場へと移った。
 ……貴方と、貴方の依って立った大義とが、私たちの最も内側の思考のなかに存在したときもあった」。
 トムソンがイングランド中部の葉の茂った止まり木から見下ろして言うのは、よくもお前は、コミュニズム下でのポーランドでの不都合な経験によって、われわれ共通のマルクス主義の理想という見解を妨害することで、われわれを裏切ってくれたな、ということだ。//
 コワコフスキの応答である「あらゆる事柄に関する私の正確な見解<*My Correct Views on Everything>」は、政治的議論の歴史で最も完璧になされた、一人の知識人の解体作業であるかもしれない。
 これを読んだ者は、二度とE・P・トムソンの言うことを真面目に受け取ることがなくなるだろう。
 このエッセイが分析する(そして徴候的に例証する)のは、コミュニズムの歴史と経験によって「東欧」と「西欧」の知識人たちの間に穿たれ、今日もなお残されている大きな精神的な隔たりだ。
 コワコフスキが容赦なく批判するのは、トムソンの熱心で利己主義的な努力、マルクス主義の欠陥から社会主義を救おうという努力、コミュニズムの失敗からマルクス主義を救おうとする努力、そしてコミュニズムをそれ自身の罪から救おうとする努力だ。
 トムソンはそれら全てを、「唯物論的」現実に表面上は根差した理想の名のもとに行っている。
 しかし、現実世界の経験や人間の欠陥によって汚されないままにされることによって、その理想は保たれていたのだ。
 コワコフスキは、トムソンにこう書いている。
 「貴方は、『システム』の観点から考えることが素晴らしい結果をもたらす、と言っている。
 私も、そのとおりだと思う。
 素晴らしいどころではなく、奇跡的な結果をもたらす、と。
 それは、人類の問題すべてを、一挙に簡単に解決してくれるのだろう」。//
 人類の問題を、一挙に解決する。
 現在を説明し、同時に未来を保障してくれるような包括的理論を見つけ出す。
 現実の経験の腹立たしい複雑さと矛盾とをうまく解消するために、知的または歴史的「システム」という杖に頼る。
 観念や理想の「純粋」な種子を、腐った果実から守る。
 このような近道は、いつでも魅惑的で、もちろんマルクス主義者(あるいは左翼)の専売特許というわけではない。
 しかし、そのような人間的愚行のマルクス主義的変種はせめて忘れ去ってしまおう、というのが魅惑的なことなのは、理解できる。
 コワコフスキのようなかつてのコミュニストが備える醒めた明察と、トムソンのような「西欧」マルクス主義者の独善的な偏狭さとの間に、歴史それ自体による評決が下されてしまったことは言うまでもなく、この論争の主題は、すでに自壊してしまったように見えるだろう。//
 たぶん、そうだったのだ。
 しかし、マルクス主義の盛衰の奇妙な物語を、急速に遠のいていき、もはや今日的な重要性のない過去へと委ねてしまう前に、マルクス主義が20世紀の想像力に及ぼした際立って強い支配力を思い出すべきだろう。
 カール・マルクスは失敗した予言者だったかもしれないし、彼の弟子のうち最も成功した者たちでさえ、徒党を組んだ独裁者たちだったかもしれないが、マルクス主義の思想と社会主義のプロジェクトは、20世紀の最良の精神の持ち主たちに、比類なき影響力を及ぼした。
 コミュニズムの支配の犠牲となったような国々でも、その時代の思想史と文化史は、マルクス主義の諸理念とその革命の約束がもつ、強い魅力から切り離すことはできない。
 20世紀の最も興味深い思想家たち<*thinkers>の多くが、モーリス・メルロ=ポンティによる称賛を認めただろう。
 「マルクス主義は、歴史哲学の一つというわけではない。
 それこそが歴史哲学であり、それを放棄することは、歴史に理性の墓穴を掘ることだ。
 その後には、夢や冒険が残るだけだ」(注14)。//
 マルクス主義はかくのごとく、現代世界の思想史と密接に絡み合っている。
 それを無視したり忘れてしまったりするのは、近い過去を故意に誤解することに他ならない。
 元コミュニストやかつてのマルクス主義者--フランソワ・フュレ、シドニー・フック、アーサー・ケストラー、レシェク・コワコフスキ、ヴォルフガング・レオンハルト、ホルヘ・センプルン、ヴィクトル・セルジュ、イニャツィオ・シローネ、ボリス・スヴァーリン、マネス・シュペルバー、アレグザンダー・ワット、そのほか多くの者たち--は、20世紀の知的・政治的生活について最良の記録を書き残している。
 レーモン・アロンのように生涯にわたって反コミュニストだった人物でさえ、マルクス主義という「世俗の宗教」に対する拭いがたい興味を認めることを恥じはしなかった(マルクス主義と戦うことへのオブセッションが、つまるところ、所を変えた一種の反聖職者主義だと認めるほどだ)。
 そのことは、アロンのようなリベラル派<*a liberal>が、自称「マルクス主義者」の同時代人の多くよりもマルクスとマルクス主義にはるかによく通じていることに、特別な自負を抱いていた、ということを示している(注15)。
 あくまでマルクス主義との距離を保った存在だった<the fiercely independent>アロンの例が示すように、マルクス主義の魅力は、馴染みのある物語、つまり古代ローマから現代のワシントンにまで見られるような、三文文士やおべっかい使い<*scribblers & flatters>が独裁者にすり寄るという物語、それをはるかに越えたものだ。
 三つの理由によって、マルクス主義はこれほど長持ちし、最良で最も明晰な知性の持ち主たちをこれほど惹きつけた。
 第一に、マルクス主義は非常に大きな思想だからだ。
 そのまったくの認識論的図々しさ<*sheer epistemological cheek>、つまりあらゆる物事を理解し説明しようというきわめて独特な約束は、様々な思想を扱う者たちに訴えかけたが、まさにその理由によって、マルクス自身にも訴えかけた。
 さらに、ひとたびプロレタリア-トの代わりにその名で思考することを約束する政党をおけば、革命的階級を代弁するだけでなく、古い支配階級にとって代わることも志向する集合的な(グラムシの造語の意味での)有機的知識人<*a collective organic intellectual>を創造したことになるのだ。
 そのような世界では、諸観念は、ただの道具ではなくなる。
 それらは、一種の制度的支配を行う。
 それらは、是認された路線に従って、現実を書き直すという目的のために利用される。
 コワコフスキの言葉を使えば、諸観念はコミュニズムの「呼吸器官」なのだ(ついでに言えば、それはファシズムに発する他の独裁制と区別するものだ。それらはコミュニズムとは違って、知的な響きのある教条的なフィクションを必要としない)。
 そのような状況では、知識人たち--コミュニストの知識人たち--は、もはや権力に対して真実を語るだけの存在ではない。
 彼らは、権力を持っているのだ。
 あるいは、少なくとも、この過程についてのあるハンガリー人の説明によれば、彼らは、権力への途上にある。
 これは、人を夢中にさせる考えだ(注16)。//
 マルクス主義の魅力の二つ目の源泉は、--<以下、つづく>
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 (注10) 見事にまとまっていて、それでいて人と思想とともに政治学と社会史をも含む、マルクス主義に関する一巻本の研究として今でも最良のものは、1961年にロンドンで最初に刊行された、ジョージ・リヒトハイム<*George Lichtheim>の Marxism: An Historical and Critical Study だ。
 マルクス自身については、デイヴィッド・マクレラン(<中略>、1974)と Jerrold Seigel (<中略>、2004)による70年代以来の全く異なった二種類の伝記が最良の現代的記述となっているが、1939年に出たアイザイア・バーリンの卓越した論考、Karl Marx: His Life and Enviroment によって補完されるべきだろう。
 (注11)"Devil in History", in My Current Views, p.133。<以下、省略>
 (注12)そのような証言が信頼できないという点が、長い間スターリニズムに対して繰り返された西側諸国からの弁明のテーマだった。それと全く同じように、かつてのアメリカのソヴィエト研究者たちは、ソヴィエト圏の亡命者や移民たちからもたらされる証拠や証言を、割り引いて考えていた-あまりに個人的な経験は、その人の視野を歪め、客観的分析を妨げるのだ、と広く考えられていた。
 (注13)コワコフスキの抱く西欧進歩主義者に対する軽蔑は、彼の同朋のポーランド人やほかの「東欧人」たちにも共有されている。
 1976年に詩人アントニン・スロニムスキーは、その20年前にジャン=ポール・サルトルがソヴィエト圏の作家たちに対して、社会主義を放棄しないように、それによってアメリカ人と向き合う「社会主義陣営」が弱まってしまうことのないように、鼓舞したことを想起している。<以下、省略>
 (注14)・(注15)<省略>
 (注16) Georgy Konrad and Ivan Szelenyi, The Intellectuals on the Road to Class Power (New York: Harcourt, Brace, Jovanovich, 1979)〔G・コンラッド=I・セレニー『知識人と権力-社会主義における新たな階級の台頭』船橋晴敏ほか訳、新曜社、1986年〕。<以下、省略>
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 以上、原邦訳書の本文p.185の半ばから、p.190途中まで。後注は、同p.242-3。
 上の(注10)に邦訳者の(注16)のような日本語版紹介はないが、G・リヒトハイムの本には、以下の邦訳書がある。
 G・リヒトハイム//奥山次良=田村一郎=八木橋貢訳・マルクス主義-歴史的・批判的研究(みすず書房、1974年)。

1719/T・ジャット(2008)によるL・コワコフスキ③。

 トニー・ジャット・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011。河野真太郎ほか訳)、第8章・さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産(訳分担・伊澤高志)の紹介のつづき。
 前回と比べて一貫しないが、今回は原注の邦訳も紹介する。原注の執筆者は、もちろん トニー・ジャット(Tony Judt)。
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 『主要潮流』の第三巻は、多くの読者が「マルクス主義」と考えるだろうもの、つまり1917年以降のソヴィエト共産主義と西欧マルクス主義思想の歴史を扱った部分だが、それはぶっきらぼうに「崩壊<The Breakdown>」と題されている。
 スターリンからトロツキーに至るソヴィエト・マルクス主義にはこのセクションの半分しか当てられておらず、残りはほかの国々の20世紀の思想家に割り当てられている。
 そのうちいく人か、とくにアントニオ・グラムシジェルジ・ルカーチは、20世紀思想を学ぶ者にとっては興味の対象であり続けている。
 また、ほかの者たち、例えばエルンスト・ブロッホカール・コルシュ(ルカーチの同時代のドイツ人)は、もっと好古趣味的な関心の対象だ。
 さらにほかの者たち、とりわけリュシアン・ゴルドマンハーバート・マルクーゼは、コワコフスキが彼らをほんの数ページで片付けてしまった70年代中葉よりも、現在ではさらに、興味深い存在ではなくなっている。//
 この本の最後は、「スターリンの死以後のマルクス主義の展開」で、そこでは、コワコフスキはまず彼自身の「修正主義者としての」過去を簡単に振り返り、ついでほとんど間断ない侮蔑的な調子で、その時代のつかのまの流行を記録し始める。
 それは、サルトルの『弁証法的理性批判』と、そのはなはだしく愚かしい「不必要な新造語」から、毛沢東の「田舎農民のマルクス主義」と、その西洋の無責任な崇拝者たちに至るものだ。
 このセクションを読む者は、この著作の第三巻にもともと付されていた序文で、あらかじめ警告を与えられている。
 そこで著者は、この最終章で扱われる題材に関しては「敷衍してもう一巻書くこともできた」ということを認めつつ、「この主題はそれほど長大にして扱うほどの本質的価値のあるものとは思えなかった」と結論づけている。
 おそらくここで記しておくべきは、『主要潮流』の最初の二巻はフランスで出版されているが、このコワコフスキの代表作の第三巻にして最終巻は、いまだにフランスでは出版されていない、ということだ。//
 コワコフスキによるマルクス主義の学説に関する歴史記述の驚くべき幅の広さを、短い書評で示すことは、まったく不可能だ。
 それがほかの著作にとって代わられることも、ないだろう。
 いったい誰が、これほど詳細に、これほど洗練された分析によって、この領域に再び足を踏み入れるだけの知識を得ることが、あるいはそれを望むことが、あるだろうか。
 『マルクス主義の主要潮流』は、社会主義の歴史ではない。
 著者は、政治的文脈や社会組織については、わずかに触れるにすぎない。
 この本は、正面切って思想を語るもので、かつて有力だった理論と理論家の一族の盛衰を語る教養小説で、その最後の生き残りの子供のひとりが、懐疑的で、かつての迷いが解けた老年時代に語った物語なのだ。//
 コワコフスキのテーゼは1200頁にわたって示されているが、率直で、曖昧なところはない<*straightfoward & unanbiguous>。
 彼の見解ではマルクス主義は真剣に考えられるべきものだが、それは、階級闘争に関するその主張のためではない(それらはときには正しいものだったが、決して目新しいものではなかった)。
 また、資本主義の不可避の崩壊や、プロレタリア-ト主導の社会主義への移行を約束したからでもない(それは予測としては完全に外れた)。
 そうではなく、マルクス主義が独創的なロマン主義的幻想と断固とした歴史的決定論(*historical determinism>の、他にはない、そして真にオリジナルな混合物<*blend>を提示したからだ。//
 このように理解されたマルクス主義の魅力は、明白なものだ。
 マルクス主義は、世界がどのように動いているかを説明してくれた。
 つまり、資本主義と社会的階級関係に関する経済学的分析だ。
 それはまた、世界がどのように動くべきかを示してくれた。
 つまり、人間の諸関係の倫理学で、マルクスの若く理想主義的な思索によって示された(また、ジェルジ・ルカーチによるマルクス解釈によって示されていて、コワコフスキはルカーチ自身の妥協的キャリアを軽蔑しているにもかかわらず、その解釈にほぼ同意している(注06))。
 さらにマルクス主義は、マルクス(とエンゲルス)の著作からロシアでの後継者たちが引き出した歴史的因果関係に関する一連の主張によって、物事は将来的にはそのように動くだろうと信じるに足る、議論の余地のない根拠を与えてくれた。
 経済に関する記述、道徳に関する規範、政治に関する予言、これらの組み合わせは、強烈に魅惑的なもので、また便利なものでもあった。
 コワコフスキが述べているように、マルクスは今でも読む価値がある。
 ただし、ほかの者たちが自ら生じせしめた政治システムを正当化するためにマルクスを引き合いに出すときに、彼の理論がかくも変幻自在であるのはなぜか、ということを、私たちが理解する助けになる、そのかぎりで、読む価値がある(注07)。//
 マルクス主義とコミュニズムの関係とは、マルクスがスターリン(とレーニン)の手にかかって歪曲されてしまうことから「守る<*save>」ために、三世代にわたる西欧マルクス主義者たちが果敢にも最小限に抑えようとしてきたものだが、それについて、コワコフスキは歯に衣を着せぬものがある<*explicit>。
 なるほどマルクスは、ヴィクトリア王朝期のロンドンで生きた、ドイツ人著述家だった(注08)。
 彼はいかなる理解可能な意味でも20世紀のロシアや中国の歴史に関して責任などあるなどとは考えられないし、それゆえ数十年の長きにわたってマルクス主義純粋主義者たち<*Marxist purists>が、その創始者の真の意図を確証しようとしたり、マルクスとエンゲルスが自分たちの名のもとに将来なされる罪について何を考えていたかを確かめようとしたり努めてきたことは、無駄だし、余計なことだ。
 とはいえ、神聖なるテキストの真実に立ち返ることを繰り返し強調することは、コワコフスキがとくに注意を払っている、マルクス主義のセクト的側面を示すものではある。//
 それにもかかわらず、教義<*doctrine>としてのマルクス主義は、それが生み出した政治的運動とシステムの歴史から切り離せるものではない。
 事実、マルクスとエンゲルスの論法には、決定論という核がある。
 それは、以下のような主張だ。
 「つまるところ」、人間には決定的な支配などできぬ理由によって、物事はそうあるべき姿になるのだ、と。
 このような断言は、古いヘーゲルを「逆さま」にすることや、歴史の核心に物質的原因(階級闘争、資本主義の発展の法則)を議論の余地のないかたちで挿入すること、それらに対するマルクスの欲望<*desire>から生じたものだ。
 このような都合のよい認識論的背景に、プレハーノフやレーニン、その追随者たちは、歴史的「因果関係」の理論体系と、それを実践するための政治機構を、もたせかけようとした。//
 そのうえ、若きマルクスのもう一つの直観、すなわちプロレタリア-トは自分たちの解放が全人類の解放を告げるものとなる、被搾取階級という特別な役割のために、歴史の最終目的に対して特権的な洞察力を有している、という直観は、最終的にコミュニストがもたらした結果と深く結びつくもので、それは、プロレタリア-トの利害がそれを体現すると主張する独裁的政党に従属することによるものだった。
 マルクス主義による分析とコミュニズムの独裁とを結ぶこのような論理的連関の強固さは、レーニンがフィンランド駅〔1917年7月、弾圧から逃れたレーニンが降り立ったペテログラード(現サンクトペテルブルク)の駅〕近くのどこかに逃れるずっと以前から、コミュニズムのもたらす帰結を予測しそれに警告を発していた、ミハイル・バクーニンからローザ・ルクセンブルクにいたる多くの観察者や批判者の存在から、判断できるだろう。
 もちろん、マルクス主義は、違う方向へ進んだかもしれない。
 あるいは、どこへも向かわずに消え去ったかもしれない。
 しかし、「レーニンのマルクス主義は、唯一の可能性ではなかっただろうが、きわめてもっともらしく響くものだった」(注09)。//
 なるほど、マルクスもその後継者も、産業プロレタリア-トによる資本主義の打倒を説く教義が大部分が農村の立ち遅れた社会で力を得るなどとは、意図も予想もしていなかっただろう。
 しかし、コワコフスキにとっては、このようなパラドクスは信念の体系としてのマルクス主義の力を強調するものにすぎない。
 もしもレーニンとその信奉者たちが自分たちの成功を不可避的な必然だ<*ineluctable necessity>と主張しなければ(そして遡及的に理論上の正当化を行わなければ)、その主意主義的<*voluntaristic>努力は、決して成功しなかっただろう。
 また、何百万もの外部の崇拝者たちにとって、あれほど説得力のある模範にもならなかっただろう。
 ドイツ政府が秘密車両でレーニンをロシアに送り届けたことで可能になったご都合主義的な政変<*opportunistic coup>を「不可避の」革命に転じるためには、戦術的な才能だけでなく、イデオロギー的信念の広範囲にわたる実践が、必要だった。
 コワコフスキは、まったく正しい。
 政治的マルクス主義は、なににも増して、世俗化した宗教<*secular religion>だったのだ。//
 (原邦訳書・原著、一行空白)
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 (注06)他の場所でコワコフスキは、ルカーチ--彼はベーラ・クンによる1919年のハンガリー・ソヴィエト共和国の文化委員を短期間務めており、スターリンの命令により、彼がそれまでに記した興味深い言葉の全てを捨て去った--について、「暴君のために知性を用いた」偉大な才能だと記した。結論として、「彼の著作が思考を刺激することはなく、彼の故国ハンガリーにおいてさえ、『過去の産物』とみなされている」。
 "Communism as a Cultural Formation", Survey 29, no.2 (Summer 1985); reprinted in My Own Correct Views on Everything as "Communism as a Cultural Force", p.81参照。
 (注07)"What Is Left of Socialism", first published as "Po co nam projecie sprawieldliworci spolecznej ?" in Gazeta Wyborcza, May 6-8, 1995; republished in My Own Correct Views on Everything.
 (注08)『主要潮流』で、マルクスは彼の精神的風景を支配しているドイツ哲学の世界に、確固たる地位を与えられている。社会理論家としてのマルクスは、ほとんど顧みられない。マルクスの経済学への貢献--労働価値説であれ、先進資本主義下での利益率低下の予言であれ--は、そっけなく片付けられている。マルクス自身が経済に関する彼の研究成果に満足していなかったことを考慮すれば(それが『資本論』が完成しなかった理由の一つだ)、これはありがたいことと考えるべきだろう。
 というのも、マルクス主義経済学の予言的な力は、少なくともジョゼフ・A・シュムペーターの Capitalism, Socialism, and Democracy (New York, London: Harper and Brothers, 1942)〔『資本主義・社会主義・民主主義(新装版)』中山伊知郎・東畑精一訳、東洋経済新報社、1996年〕以来、左翼にとってすら長いあいだ顧慮されてこなかった。
 それから20年後、ポール・サミュエルソンが恩着せがましくも、カール・マルクスはせいぜいで「マイナーなポスト・リカード主義者」だと認めたのだ。
 彼の弟子のいく人かにとってさえ、マルクス主義経済学は最初に登場してからの数年の歴史によって、実際的価値のないものとなってしまった。
 エンゲルスの友人でもあったエドゥアルト・ベルンシュタインは、Evolutionary Socialism (first published in 1899)で、資本主義的競争のはらむ矛盾が労働者の置かれた状態の悪化と革命によってしか解決できない危機を必ずもたらすことになるという予言を、決定的に解体した。
 この主題に関する英語での議論でいまだに最良のものは、Carl E. Schorske, German Social Democracy, 1905-1917: The Development of the Great Schism (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1955 )だ。
 (注09)Kolakowski, "The Devil in History", Encounter, January 1981; reprinted in My Own Correct Views on Everything.          
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 以上、原邦訳書の本文p.185の途中まで。原注の訳は、同p. 243-4。
 コワコフスキの英訳書の各巻の表題(副題)は順番にThe Founders(創始者たち)、The Golden Age(黄金時代)、The Breakdown(崩壊)だと言及されている。ついでに記しておくと、ドイツ語訳書の各巻の表題(副題)は、順番に、Entstehung(生成・成立)、Entwickelung(発展・展開)、Zerfall(崩壊)で、前二者は必ずしも英語訳とは合致していない(コワコフスキの原書はポーランド語だとされている)。

1718/T・ジャット(2008)によるL・コワコフスキ②。

  Tony Judt, Reappraisals - Reflections on the Fogotten Twentieth Century (New York, 2008).
   Chapter VIII, Goodbye to All That ? Leszek Kolakowski and the Marxist Legacy.
 邦訳書/トニー・ジャット・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011)。
   第8章・さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産。
 上の原文を、その下の邦訳書(河野真太郎ほか訳)による訳(分担・伊澤高志/177頁~197頁)に添って紹介する。
 そのままの転記では能がないだろう。基本的にそのまま写すが、多少は日本語表記だけを、短くする方向で、改める。
 例えば、「したのである」→「した」、または「したのだ」。
 また、ひらがな部分の一部を漢字に変える。句読点も変えることがある。
 翻訳関係権利を侵害していないかと怖れもするが、上記のとおり代表訳者と分担訳者の氏名、邦訳書名は明らかにしており、かつ訳出内容・意味を変更するものではないので、違法性はないと考える。このような機会を持ち得たことについて、とくに伊澤高志には、謝意を表する。
 原邦訳書とは異なり、(リチャード・パイプス、L・コワコフスキの各著(や後者の論考)についてこの欄でしてきたように)一文ごとに改行し、本来の改行箇所には、//を付す。一部を太字にしているのも、秋月による。
 以下の<*->は原邦訳書にはない、Tony Judt の原著での元の英米語で、秋月が原著を見て挿入した。
 邦訳書でも訳出されている原注は箇所だけを示し、それらの内容は、以下では、さしあたりは、省略させていただく。
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 レシェク・コワコフスキは、ポーランド出身の哲学者だ。
 しかし、彼をこのように定義づけることは、正しくは-または十分では-ない。
 チェスワフ・ミウォシュや彼以前の多くの者たちと同じように、コワコフスキも彼の知的・政治的キャリアを、伝統的なポーランド文化に根づいた様々な特徴、つまり聖職者主義<*clericalism>、排外主義、反ユダヤ主義に対立するかたちで形成した。
 生まれた土地を1968年に追われ、コワコフスキは故国に戻ることもそこで著作を出版することもできなかった。
 1968年から1981年の間、彼の名前はポーランドの発禁作家の一覧に載せられていたし、彼をこんにち有名にしている著作の多くが国外で書かれ、出版された。//
 亡命中<*in exile>のコワコフスキはその大部分をイギリスで過ごし、1970年以来、オクスフォード大学オール・ソウルズ・カレッジ<*All Souls College>の特別研究員となっている。
 しかし、昨年〔2005年-秋月注、原訳書のまま。以下同じ〕のインタビューで彼が説明したように、イギリスは島で、オクスフォードはそのイギリスの中の島で、オール・ソウルズ(学生を受け入れていないカレッジ)はオクスフォードの中の島で、さらにレシェク・コワコフスキ博士はオール・ソウルズ内部の島、「四重の島」なのだ (注1)。
 かつては実際に、ロシアや中欧からの亡命知識人のための場所が、イギリスの文化的生活には、あった。
 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン〔オーストリア出身〕、アーサー・ケストラー〔ハンガリー出身〕、アイザイア・バーリン〔ラトヴィア出身〕のことを考えてほしい。
 しかし、ポーランド出身の元マルクス主義者でカトリックの哲学者はもっと珍しい存在で、国際的な名声にもかかわらず、レシェク・コワコフスキは彼の永住の地では無名で、奇妙なほどに、正当な評価を受けていなかった。//
 しかしながら、イギリス以外の場所では、彼は有名<*famous>だ。
 同世代の中欧出身の学者たちと同じく、コワコフスキも、ポーランド語やのちに身につけた英語に加え、ロシア語、フランス語、ドイツ語に堪能な多言語使用者で、多くの栄誉と賞を、とくにイタリア、ドイツ、フランスで手にしている。
 アメリカでは長らくシカゴ大学の社会思想委員会で教鞭をとったが、そこでも彼の業績は広く認められ、2003年に米国議会図書館から第1回クルーゲ賞--ノーベル賞のない研究分野(とくに人文学<*the humanities>)での長年にわたる業績に対して与えられる賞--を与えられた。
 しかし、コワコフスキは、パリにいるときが一番落ち着くと何度か述べていることから分かるように、イギリス人でもなければアメリカ人でもない。
 おそらく彼のことは、20世紀版「文学界」の最後の傑出した市民<*the last illustrious citizen of the 20 th-Century Republic of Letters>と考えるのがふさわしいだろう。//
 彼が住んだ国々のほとんどで、レシェク・コワコフスキの著作で最もよく知られているのは(そしていくつかの国では唯一知られているのは)、三巻本の歴史書『マルクス主義の主要潮流』だ。
 1976年にポーランド語で(パリで)出版され、その二年後にイギリスでオクスフォード大学出版局によって出版、そして現在、ここアメリカで、一巻本としてノートン社から再刊された(注2)。
 この出版は、間違いなく、歓迎すべき事態だ。
 なぜなら、『主要潮流』は、現代人文学の金字塔<a monument of modern humanistic scholarship>だからだ。
 しかし、コワコフスキの著作の中でこれだけが突出していることには、あるアイロニーが見られるが、それは、この著者が「マルクス主義者」といったものでは決してないからだ。
 彼は、哲学者で、哲学史家で、カトリック思想家だ。
 彼は、初期のキリスト教セクトや異端の研究に多くの時間を費やし、また、過去四半世紀の間、ヨーロッパの宗教と哲学の歴史と、哲学的神学的思索とでも呼ぶべきものとに専心してきた(注3)。//
 コワコフスキの「マルクス主義者」時代は、戦後ポーランドの彼の世代の中で、最も洗練されたマルクス主義哲学者として傑出した存在だった初期の頃から、1968年に彼がポーランドを離れるまで続き、それは、きわめて短期間だった。
 そして、その時期の大部分で、彼はすでに、マルクス主義の教義に異を唱えていた<*dissident>。
 1954年という早い時期に、24歳の彼はすでに、「マルクス=レーニン主義イデオロギーからの逸脱<*straying>」によって非難を受けていた。
 1966年には「ポーランドの10月」の10周年を記念して、ワルシャワ大学でマルクス主義批判で有名な講演を行い、党指導者であるヴワディスワフ・ゴムウカによって「いわゆる修正主義<*revisionist>運動の主要なイデオローグ」だとして公式に弾劾された。
 当然にコワコフスキは大学の教授職を追われたが<expelled>、それは、「国の公式見解と相容れない意見を若者たちのうちに形成させた」ことによるものだった。
 西欧にやって来るまでに、彼はすでに、マルクス主義者ではなくなっていたのだ(後述のように、これは彼の崇拝者たちにとっては混乱の種だ)。
 その数年後、この半世紀で最も重要なマルクス主義に関する著作を書き上げてから、コワコフスキは、あるポーランド人研究者が丁重に述べたように、「この主題については関心を失っていった」(注4)。//
 このような彼の足跡は、『マルクス主義の主要潮流』の特質を説明するのに役立つものだ。
 第一巻「創始者たち<*The Founders>」は、思想史の慣習にのっとるかたちでまとめられている。
 弁証法や完全な救済というプロジェクトのキリスト教的起源から、ドイツ・ロマン派の哲学とその若きマルクスへの影響、そしてマルクスとその盟友フリードリッヒ・エンゲルスの円熟期の著作へと、流れが記述される。
 第二巻は、意味深長にも(皮肉な意味ではないと思うのだが)、「黄金時代<*The Golden Age>」と題されている。
 そこで述べられているのは、1889年に設立された第二インターナショナルから1917年のロシア革命までだ。
 ここでもコワコフスキは、とりわけ、注目すべき世代のヨーロッパの急進的思想家たちによって洗練された水準でなされた、様々な思想と論争とに関心を寄せている。//
 その時代の主導的なマルクス主義者であるカール・カウツキー、ローザ・ルクセンブルク、エドゥアルト・ベルンシュタイン、ジャン・ジョレス、そしてV・I・レーニンは、みなしかるべき扱いを受け、それぞれに章が割り当てられ、つねに効率よく明晰に、マルクス主義の物語でのその位置づけと、主要な主張とが、まとめられている。
 しかし、通常はこのような概説では目立つことはない人物に関する、いくつかの興味深い章がある。
 イタリアの哲学者アントニオ・ラブリオーラ、ポーランド人のルドヴィコ・クルジウィキ、カジミエシュ・ケレス=クラウス、スタニスワフ・ブジョゾフスキ、そしてマックス・アドラー、オットー・バウアー、ルドルフ・ヒルファーディングら「オーストリア・マルクス主義者」についての章だ。
 コワコフスキによるマルクス主義の記述でポーランド人の割合が相対的に高いことは、部分的にはポーランド出身者としての視点のためと、それらの人物が過去に軽視されてきたことに対して埋め合わせをするためであるのは、間違いない。
 しかし、オーストリア・マルクス主義者(本書全体で最も長い章の一つを与えられている)と同様に、彼らポーランド人マルクス主義者たちは、長らくドイツ人とロシア人によって支配されていた物語から忘れられ、そして消し去られてしまった中欧の、世紀末での知的豊穣さを、たゆまず思い出させてくれるものだ(注5)。//
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 これで邦訳書のp.180の末まで、全体のほぼ5分の1が終わり。

1717/トニー・ジャットにおけるレシェク・コワコフスキ①。

 一 伊澤高志(1978~)は、思いもかけず、重要な訳出の仕事をして、貴重な貢献をしたことになるだろう。
 トニー・ジャット・失われた二〇世紀(上・下)(NTT出版、2011)という邦訳書は五人が分担して訳して、河野真太郎(1974~)が「訳文の統一」を行ったとされる(下巻・あとがき、368頁)。
 上巻の177頁以下、第八章「さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産」の邦訳を担当したのは、伊澤高志だ(下巻・あとがき、同上)。
 レシェク・コワコフスキは日本ではほとんど無名ではないかと思われ、とくにその『マルクス主義の主要潮流』は、欧米研究者の中にはコワコフスキといえば「マルクス主義の理論的研究」の第一人者として挙げる者もいるにもかかわらず、日本では邦訳書がない。昨秋に池田信夫がメール・マガジンでこの本をマルクス主義研究の「古典」として紹介していたようだが(全文を読んでいない)、「古典」とされるわりには、日本で翻訳されていない。考えられるその理由・背景は、すでに記している。
 そういう中で-すでに昨年に言及はしているのだが-、上の邦訳書は、L・コワコフスキの、神学者でも東欧お伽話作家でもない、社会・政治思想に論及するもので、十分に意味がある。
 むろん、もともとはトニー・ジャットの本だからこそ邦訳出版されたと見られ、トニー・ジャットの考え方の重要な一端も分かる。
 なお、トニー・ジャット(Tony Judt)をトニー・ジャッドとこの欄で記したことがあるのは間違い。また、コワコフスキ(Kolakowski)はコラコフスキ-と記載されていたこともあるが、英米語のlに該当しないポーランド語の独特のl(元来は斜め二本の線がつく)を英米語ふうに読んだ誤りのようだ。
 二 トニー・ジャットの上の本の上巻にあるⅡ部では「知識人の関与-その政治学」というタイトルのもとで、6人の「知識人」の書物を対象にして論評がなされている(たぶん全てが<書評誌または書評新聞>にいったん掲載されたものだ)。
 そのような論評・コメント類だから各著書・著者に対して「義理にでも」肯定的な評価を下しているのでは全くないのが、日本の新聞や雑誌の「書評」 欄と比べて新鮮なことだ。
 トニー・ジャットがほとんど手放しで賞賛していると言ってよいのはレシェク・コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』の三巻合冊本(の刊行予定)だけで、他のとくにつぎの3人の書物については、相当に厳しいまたは皮肉たっぷりの文章を載せている。
 表題だけ、記しておこう。いずれも、欧米<左翼>の者たちの本だ。
 ・「空虚な伽藍-アルセルチュールの『マルクス主義』」(6章)。
 ・「エリック・ホブズボームと共産主義というロマンス」(7章)。
 ・「エドワード・サイード-根なし草のコスモポリタン」(10章)。
 三 こうして書き始めたのも、トニー・ジャットのコワコフスキに関する上の記述と、 コワコフスキの死の直後の哀惜の情溢れる(しかしなお学問的な)文章-これにはたぶん邦訳がない-を紹介してみたくなったからだ。
 前者については、上記のようにすでに邦訳が出ている。だが、改めて紹介しておく意味はあるだろう。それに、すでにいったん訳されているので、邦訳にほとんど苦労は要らない、という利点もある。

1709/福岡伸一・動的平衡〔第一〕(2009)より。

 「書くことが考えを生み、考えが言葉を探そうとする」。
 福岡伸一・動的平衡-生命はなぜそこに宿るのか(木楽舎、2009)、p.253(あとがき)。 これの意味は納得できる。
 何かの文章を書いているうちに考えが整理されてきたり、予期していなかった新しい展開をとげてしまうことは、この欄を記していても、よくある。
 「考え」に適した「言葉」が見つからなくて、大いに苦しむことも、ままある。
 しかし、「考え」とはそもそも何なのだろうか?
 福岡伸一批判をしているのでは全くない。
 「考え」、思想・主義・主張等々。これらは「精神」活動だろう。そしてそれを他者に伝えるためには、何らかの「言葉」が必要だ。
 しかし、そもそも「精神」活動とは、あるいはそこで用いられる「言葉(言語)」とは、いったい何なのだろうか?
 「精神」活動は、脳内で行われるとされ、ヒトの脳が作動しているためには、肉体、そして(そのヒトが)いのち(生命)を持っていることが必要だ。
 人間は死んでもその精神・霊は生き続ける、と言う人もいるのだろう。
 しかし、神社・寺院を参拝し瞑目して「祈る」ことに慣れている私でも、神・仏の「実在」を、あるいは亡き両親や先祖等々の「霊魂」の存在を「信じて」いるのでは全くない。
 両親の霊魂がまだどこかに生きているのなら、あるいは誰でもよいが三島由紀夫でもレシェク・コワコフスキでも、彼らの「精神」がまだ生きているならば、まだ彼岸にはいない、生きている私との間に何らかの「交信」があってもよいだろう。 
 少なくとも私はそれを欲していないわけではないのだから。
 しかし、両親や三島あるいはコワコフスキ等々の「精神」の表れとしての言葉を「聞いた」ことは一度もない。
 かつての(生前の)言葉や文章を思い出したり、読んだりすることができるにすぎない。
 「精神」には、生命が必要だ。
 「では、いったい生命現象とは何なのか。それを私はいつも考える」。 
 これは、福岡伸一・前掲書p.23の、プロローグの最後の一文。
 ---
 福岡伸一のアメリカでの指導教授の(大学での)研究課題は、「意識のメカニズム」の理論的研究、つまりは「人間はどのようにして意識を持ち、なぜ、それは時に錯誤を起こすか」だったらしい。福岡・前掲書p.26。
 <意識の錯誤>とは一般的な表現では(少なくとも私には)ない。
 しかし、<思想>・<主義>・<主張>・<論説>・<評論>等々にほとんどつねに見られる、何らかの特定の観念・歴史認識・時代認識等々への<寄りかかり>やこれらに関する<思い込み>に気づくと、つぎのように感じざるをえない。
 誰もが、何らかの<錯誤>に陥っている。そしてそれは、一個のヒト、人間の精神活動であるかぎりは、おそらくは絶対に、不可避のことだ。
 問題は、<錯誤>の程度、深さ、大小にある。
 日本共産党・不破哲三も、日本会議・椛島有三も同派・櫻井よしこ等も、<錯誤>がヒドすぎる。程度でいえば、日本共産党・コミュニズムの方が著しく、かつ人間社会にとっての<害悪>が直接で大きいかもしれないが。
 ---
 今回は立ち入らないが、<動的平衡>という発想?、認識の仕方?は、じつはきっとそのとおりだと感じている。
 以下、福岡・前掲書の最初の方から、気になる、つまり印象に残った文章を引用しておこう。
 「すべての生体分子は常に『合成』と『分解』の流れの中にあり、どんなに特別の分子であっても、遅かれ早かれ『分解』と『更新』の対象となることを免れない」。p.28。
 「生命現象が絶え間ない分子の交換の上に成り立っている」こと、「動的な分子の平衡状態の上に生物が存在しうる」ことは、…によって明らかにされていた。p.34。
 「ヒトの身体を構成している分子は次々と代謝され、新しい分子と入れ替わっている。それは、脳細胞といえども例外ではない」。p.34。
 「若い頃の記憶とは、何度も想起したことのある記憶」であり、「あなたが何度もそれを思い出し、その都度いとおしみ、同時に改変してきた何か」のことだ。p.37。
 「たとえ、個々の神経細胞の中身…が合成と分解を受けてすっかり入れ替わっても、細胞と細胞とが形作る回路は保持される」。p.37。
 「私たちが自分の目で見て『事実』と感じていること自体も『錯覚』であることが多い。…、非常にさまざまの脳の『バイアス』の上に成り立っている」。p.46。
 「人間の脳は、ランダムなものの中にも何らかのパターンを見つけ出さずにいられない」。
 「人間の脳は鋭敏に、かなり粗い情報の中からでも何らかのパターンを見つけてしまえる」。以上、p.47-48。
 「なぜこのような特殊な能力、…不思議なバイアスが人間の脳に張りついてしまったのか」は、「人間のこの地球上に現れてからの歴史と密接に関係があると思える」。
 「環境の変化」と闘い生き延びるには、「時に複雑な自然界の中から、何らかの手がかりを見つける」ことが「とても大事」だった。以上、p.48。
 「私たちは自分の脳の癖に気がつかない」。したがって、「ランダムからパターンを読み出す『勘のよさ』、これが逆にマイナスに作用することがありえる。パターン化は、自然のもつ複雑な精妙さや微妙なズレなどを消し去ってしまうこともあるからである」。p.50。
 ---
 秋月瑛二が社会・人文系から自然科学系・生命系へと急に関心を変えた、というのでは全くない。
 福岡伸一を剽窃?すれば、こうなる。
 何らかの「錯誤」・「錯覚」に陥ったままの、つまり「バイアス」をもって単純・幼稚な「パターン」化ごっこをしている、<複雑な>社会・歴史・人間等を<精妙に>見ることができていない、そういう思考「回路」をもつ社会・人文系(と思われる)論者・執筆者・評論家・記者・学者(研究者)等が多すぎる。
 これをほとんど絶望的に感じている。しかしまた、一個の生物としての個々のヒトに内在する不可避の限界かもしれない、とも思う。
 <夢想系>か<現実系>かといった、そんな幼稚な二分法では全く、絶望的に、足らない。
 「保守」でも、「憲法九条」でも何でもよいが、ほとんどの人々が「言葉」・「観念」(これらはつまりは概念化であり「パターン」化だが)を正確に、あるいは理解し、意味させた上で論じる、という最低限のことをしないで、言葉・概念・観念を弄んで文章や論考・論文類を書いているように思える。
 残るのは、意思疎通・相互理解が大きく欠けたままでの、空虚な「論議」であり、何となくのムードだけだ。
 一般国民・有権者の多くは、厳密な概念等々を考えて生活してゆけるはずがない。
 責任があるのは、「知的」(とふつうは思われている)作業に携わっている人たちだ。
 その「知的」作業が自分と家族の「生存」のために必要なのかもしれず、<顕名>欲を充たすためには知的「退廃」が必要なのかもしれない。
 最低限度の生存のため(食って生きていくため)というならば、まだ容赦できる。
 しかし、より大きい経済的利益と「顕名」を目指して、(最近に知った言葉だが)「ポジション・トーク」をしている人々を、信頼することはできない。
 信頼して、参考にすることがあっても、それは<程度>の問題にすぎない。
 それこそ曖昧な言葉だが、保守であれ(リベラルであれ)、容共産主義(容コミュニズム)であれ、信頼できない人がほとんど全てだ。
 日本共産党および同党容認政治家・論者や、「日本会議」派政治家・論者は、おそらく全員だ(もともとこの二派は対立しているのではない)。
 あれこれと読むのにもほとんどイヤ気がさしている。
 しかし、現実は現実としてある。なぜ、こういう現実になっているのか。
 言うまでもなく、とりわけ日本の国家も社会も、日本人という人間つまりは、ヒトの一種が形成してきたし、現に形成している。
 ヒトの「精神」活動・脳細胞と無関係のはずはない。
 そう思って読むと、福岡伸一の本にも興味深い文章はある。
 思考「回路」・ヒトが陥り易い「パターン」化、…。 
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  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0790/小林よしのり・世論という悪夢(小学館101新書、2009.08)を一部読んで。
  • 0785/屋山太郎と勝谷誠彦は信用できるか。櫻井よしこも奇妙。
  • 0775/総選挙と「左翼全体主義」、小林よしのり編・日本を貶めた10人の売国政治家(幻冬舎新書)。
  • 0773/ルソー・人間不平等起原論(1755)を邦訳(中公クラシックス)で読了。
  • 0772/中学歴史教科書の分析・評価。
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