秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

L・コワコフスキ

1709/福岡伸一・動的平衡〔第一〕(2009)より。

 「書くことが考えを生み、考えが言葉を探そうとする」。
 福岡伸一・動的平衡-生命はなぜそこに宿るのか(木楽舎、2009)、p.253(あとがき)。 これの意味は納得できる。
 何かの文章を書いているうちに考えが整理されてきたり、予期していなかった新しい展開をとげてしまうことは、この欄を記していても、よくある。
 「考え」に適した「言葉」が見つからなくて、大いに苦しむことも、ままある。
 しかし、「考え」とはそもそも何なのだろうか?
 福岡伸一批判をしているのでは全くない。
 「考え」、思想・主義・主張等々。これらは「精神」活動だろう。そしてそれを他者に伝えるためには、何らかの「言葉」が必要だ。
 しかし、そもそも「精神」活動とは、あるいはそこで用いられる「言葉(言語)」とは、いったい何なのだろうか?
 「精神」活動は、脳内で行われるとされ、ヒトの脳が作動しているためには、肉体、そして(そのヒトが)いのち(生命)を持っていることが必要だ。
 人間は死んでもその精神・霊は生き続ける、と言う人もいるのだろう。
 しかし、神社・寺院を参拝し瞑目して「祈る」ことに慣れている私でも、神・仏の「実在」を、あるいは亡き両親や先祖等々の「霊魂」の存在を「信じて」いるのでは全くない。
 両親の霊魂がまだどこかに生きているのなら、あるいは誰でもよいが三島由紀夫でもレシェク・コワコフスキでも、彼らの「精神」がまだ生きているならば、まだ彼岸にはいない、生きている私との間に何らかの「交信」があってもよいだろう。 
 少なくとも私はそれを欲していないわけではないのだから。
 しかし、両親や三島あるいはコワコフスキ等々の「精神」の表れとしての言葉を「聞いた」ことは一度もない。
 かつての(生前の)言葉や文章を思い出したり、読んだりすることができるにすぎない。
 「精神」には、生命が必要だ。
 「では、いったい生命現象とは何なのか。それを私はいつも考える」。 
 これは、福岡伸一・前掲書p.23の、プロローグの最後の一文。
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 福岡伸一のアメリカでの指導教授の(大学での)研究課題は、「意識のメカニズム」の理論的研究、つまりは「人間はどのようにして意識を持ち、なぜ、それは時に錯誤を起こすか」だったらしい。福岡・前掲書p.26。
 <意識の錯誤>とは一般的な表現では(少なくとも私には)ない。
 しかし、<思想>・<主義>・<主張>・<論説>・<評論>等々にほとんどつねに見られる、何らかの特定の観念・歴史認識・時代認識等々への<寄りかかり>やこれらに関する<思い込み>に気づくと、つぎのように感じざるをえない。
 誰もが、何らかの<錯誤>に陥っている。そしてそれは、一個のヒト、人間の精神活動であるかぎりは、おそらくは絶対に、不可避のことだ。
 問題は、<錯誤>の程度、深さ、大小にある。
 日本共産党・不破哲三も、日本会議・樺島有三も同派・櫻井よしこ等も、<錯誤>がヒドすぎる。程度でいえば、日本共産党・コミュニズムの方が著しく、かつ人間社会にとっての<害悪>が直接で大きいかもしれないが。
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 今回は立ち入らないが、<動的平衡>という発想?、認識の仕方?は、じつはきっとそのとおりだと感じている。
 以下、福岡・前掲書の最初の方から、気になる、つまり印象に残った文章を引用しておこう。
 「すべての生体分子は常に『合成』と『分解』の流れの中にあり、どんなに特別の分子であっても、遅かれ早かれ『分解』と『更新』の対象となることを免れない」。p.28。
 「生命現象が絶え間ない分子の交換の上に成り立っている」こと、「動的な分子の平衡状態の上に生物が存在しうる」ことは、…によって明らかにされていた。p.34。
 「ヒトの身体を構成している分子は次々と代謝され、新しい分子と入れ替わっている。それは、脳細胞といえども例外ではない」。p.34。
 「若い頃の記憶とは、何度も想起したことのある記憶」であり、「あなたが何度もそれを思い出し、その都度いとおしみ、同時に改変してきた何か」のことだ。p.37。
 「たとえ、個々の神経細胞の中身…が合成と分解を受けてすっかり入れ替わっても、細胞と細胞とが形作る回路は保持される」。p.37。
 「私たちが自分の目で見て『事実』と感じていること自体も『錯覚』であることが多い。…、非常にさまざまの脳の『バイアス』の上に成り立っている」。p.46。
 「人間の脳は、ランダムなものの中にも何らかのパターンを見つけ出さずにいられない」。
 「人間の脳は鋭敏に、かなり粗い情報の中からでも何らかのパターンを見つけてしまえる」。以上、p.47-48。
 「なぜこのような特殊な能力、…不思議なバイアスが人間の脳に張りついてしまったのか」は、「人間のこの地球上に現れてからの歴史と密接に関係があると思える」。
 「環境の変化」と闘い生き延びるには、「時に複雑な自然界の中から、何らかの手がかりを見つける」ことが「とても大事」だった。以上、p.48。
 「私たちは自分の脳の癖に気がつかない」。したがって、「ランダムからパターンを読み出す『勘のよさ』、これが逆にマイナスに作用することがありえる。パターン化は、自然のもつ複雑な精妙さや微妙なズレなどを消し去ってしまうこともあるからである」。p.50。
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 秋月瑛二が社会・人文系から自然科学系・生命系へと急に関心を変えた、というのでは全くない。
 福岡伸一を剽窃?すれば、こうなる。
 何らかの「錯誤」・「錯覚」に陥ったままの、つまり「バイアス」をもって単純・幼稚な「パターン」化ごっこをしている、<複雑な>社会・歴史・人間等を<精妙に>見ることができていない、そういう思考「回路」をもつ社会・人文系(と思われる)論者・執筆者・評論家・記者・学者(研究者)等が多すぎる。
 これをほとんど絶望的に感じている。しかしまた、一個の生物としての個々のヒトに内在する不可避の限界かもしれない、とも思う。
 <夢想系>か<現実系>かといった、そんな幼稚な二分法では全く、絶望的に、足らない。
 「保守」でも、「憲法九条」でも何でもよいが、ほとんどの人々が「言葉」・「観念」(これらはつまりは概念化であり「パターン」化だが)を正確に、あるいは理解し、意味させた上で論じる、という最低限のことをしないで、言葉・概念・観念を弄んで文章や論考・論文類を書いているように思える。
 残るのは、意思疎通・相互理解が大きく欠けたままでの、空虚な「論議」であり、何となくのムードだけだ。
 一般国民・有権者の多くは、厳密な概念等々を考えて生活してゆけるはずがない。
 責任があるのは、「知的」(とふつうは思われている)作業に携わっている人たちだ。
 その「知的」作業が自分と家族の「生存」のために必要なのかもしれず、<顕名>欲を充たすためには知的「退廃」が必要なのかもしれない。
 最低限度の生存のため(食って生きていくため)というならば、まだ容赦できる。
 しかし、より大きい経済的利益と「顕名」を目指して、(最近に知った言葉だが)「ポジション・トーク」をしている人々を、信頼することはできない。
 信頼して、参考にすることがあっても、それは<程度>の問題にすぎない。
 それこそ曖昧な言葉だが、保守であれ(リベラルであれ)、容共産主義(容コミュニズム)であれ、信頼できない人がほとんど全てだ。
 日本共産党および同党容認政治家・論者や、「日本会議」派政治家・論者は、おそらく全員だ(もともとこの二派は対立しているのではない)。
 あれこれと読むのにもほとんどイヤ気がさしている。
 しかし、現実は現実としてある。なぜ、こういう現実になっているのか。
 言うまでもなく、とりわけ日本の国家も社会も、日本人という人間つまりは、ヒトの一種が形成してきたし、現に形成している。
 ヒトの「精神」活動・脳細胞と無関係のはずはない。
 そう思って読むと、福岡伸一の本にも興味深い文章はある。
 思考「回路」・ヒトが陥り易い「パターン」化、…。 

1663/ロシア革命②-L・コワコフスキ著18章2節。

 この本には、邦訳書がない。Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 第2節の前回のつづき。
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 第2節・1917年の革命②。
 1917年9月にレーニンは、こう書いた。
 『世界的な社会主義革命が成熟しており不可避であることは、疑う余地がない。<中略>
 プロレタリアートが権力を獲得すれば、その権力を維持し、西側での革命の勝利までロシアを導いていく,全ての可能性があるだろう。』(+)
 (『ロシア革命と内戦』、全集26巻p.40-p.41〔=日本語版全集26巻27頁,28頁〕。)
 十月革命のほとんど直前に、こう書いた。
 『疑うのは、問題外だ。我々は、プロレタリア世界革命の発端地(threshold)にいる。』(+)
 (『危機は熟している』。同上、p. 77〔=日本語版全集26巻66頁〕。)
 革命の後でレーニンは、1918年1月24日に第三回ソヴェト大会に対して、こう宣言した。
 『我々はすでに、世界の全ての国で、時々刻々に(by the hour)社会主義革命が成熟しつつあるのを見ている。』(+)
 (同上、p.471〔=日本語版全集26巻「労働者・兵士・農民代表ソヴェト第三回全ロシア大会」480頁〕。)(+)
 1918年8月には、以下。
 『我々はすでに、西ヨーロッパで革命の火の手がいかに頻繁に火花を散らしたり爆発とたりしているかを見ている。
 それらは、世界の労働者革命の勝利は遠くはない、という確信を我々に与えている。』(+)
 (全集28巻p.54〔=日本語版全集26巻「労働者の諸君!/最後の決戦にすすもう!」45頁〕。)
 1918年10月3日には、以下。
 『ドイツの危機は、始まったばかりだ。
 これは不可避的に、政治権力のドイツ・プロレタリアートへの移行で終わるだろう。』(+)
 (同上、p.101〔=日本語版全集28巻「全ロシア中央執行委員会、モスクワ・ソヴェト、工場委員会代表、労働者組合代表の合同会議にあてた手紙」100頁〕。)
 1918年11月3日には、以下。
 『至るところで世界革命の最初の日が祝福されるときは、すでに間近いのだ。』(+)
 (同上、p.131〔=日本語版全集28巻「オーストリア=ハンガリー革命を祝うデモンストレーションでの演説」133頁〕。)
 1919年3月6日、第三インターナショナル〔共産主義インター=コミンテルン〕第一回大会で。
 『世界的範囲でのプロレタリア革命の勝利は、保障されている。
 国際ソヴェト共和国の創立は、近づいている。』(+)
 (同上、p.477〔=日本語版全集28巻「共産主義インターナショナル第一回大会/閉会の際の結語」510頁〕。)
 レーニンは、1919年7月12日に党モスクワ県会議で、こう予言した。
 『来年の七月、我々は世界ソヴェト共和国の勝利を歓迎するはずだ。そして、この勝利は、完全で不可逆的(irreversible)なものになるだろう。』(+)
 (全集29巻p.493〔=日本語版全集29巻「ロシア共産党(ボ)モスクワ会議での共和国の内外情勢についての報告」501頁〕。)//
 これらの予言は、諸事態、『革命の上げ潮』やバヴァリア(Bavaria〔独・バイエルン〕)、ハンガリーおよびエストニアでの暴乱、の観察にのみではなく、欧州の戦争は資本主義の打倒によってのみ終止させることができるとのレーニンの確信にももとづいていた。
 レーニンは1918年7月3日に演説したが、<プラウダ>でこう報道された。
 『戦争は、絶望的なものに(hopeless)なっている。
 この見込みなさ(hopelessness)は、我々の社会主義革命が世界革命が勃発するまで持ちこたえる十分な機会がある、ということの保障だ。
 このことを保障するのは戦争だが、それを労働者大衆だけが終わらせることができるだろう。』(+)(*)
 (全集27巻p.502〔=日本語版全集27巻「第五回ソヴェト大会の共産党代議員団での演説」517頁〕。)
 レーニンが一国での社会主義の勝利の永続(permanence)を信じていなかった、ということもまた、疑いの余地がない。
 1918年1月の第三回ソヴェト大会で、こう語った。
 『唯一つの国での社会主義の最終的な勝利は、もちろん、不可能だ。』(+)
 (全集26巻p.470〔=日本語版全集26巻「(既出)」480頁〕。)(+)(**)
 1918年3月12日の論文では、以下。
 『救いは、我々が着手した、世界社会主義革命の途にのみある。』
 (全集27巻p.161〔=日本語版全集27巻「今日の主要な任務」161頁〕。)(+)(***)
 1918年5月26日の演説では、以下。
 『我々は、かりにつぎのことがあっても、唯一つの国では社会主義革命を自分たちの力のみで完全に遂行することはできない、ということに、目を閉ざしはしない。すなわち、その国がかりにロシアに比べてはるかに後進性が少ないとしても、また、我々が前例なき、苦しい、苛酷な、そして惨禍の戦争が4年間続いたあとで、よりよい条件のもとで生活しているとしても。』(+)
 (全集27巻p.412〔=日本語版全集27巻「国民経済会議第一回における演説」427頁〕。)(+)
 1918年7月23日の演説では、こうだ。
 『その革命が孤立していることを意識しているので、ロシアのプロレタリアートは、自分たちの勝利の不可欠の条件であり基本的な必須条件が全世界の、またはいくつかの資本主義が発達した諸国の労働者の統一した行動であることを、認識している。』(+)
 (同27巻p.542〔=日本語版全集27巻「工場委員会モスクワ県会議での報告」562頁〕。)(+)//
 こうした望みが絶えて、つぎのことが明白になったとき、党は、奪い取った権力で何をすればよいのかという問題に直面した。すなわち、ヨーロッパのプロレタリアートはボルシェヴィキの例に従うつもりがない、そうでなくとも彼らの革命の企ては失敗するだろうこと、また、戦争を革命以外の別の方法で終わらせることができること、が明白になったとき。
 権力を放棄するなどということは、あるいは実際に、権力を別の社会主義勢力と分かち合うということも、問題にならなかった。
 (左翼エスエル〔社会革命党左派〕に関する短いエピソードは重要ではなく、『権力への参加』という叙述に値するものではなかった。)//
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 (+ 秋月注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 (*/秋月注記) この1918年1月の演説の結びの部分は、つぎのとおり(日本語版全集27巻518頁の訳による)。-「…われわれは、わが同胞ばかりではなく全世界の労働者にたいしても、責任を負っている。/彼らは社会主義が不可能なものではなく、労働者の堅固な制度であって、全世界のプロレタリアートは社会主義を目ざさなければならない、ということがわかるにちがいない」。
 (**/注記) この1918年1月の文章(演説)の結びの部分は、つぎのとおり(日本語版全集26巻482頁の訳による)。-「われわれは、革命の発展がどこまで大きくすすむかをはっきりと見きわめている。ロシア人が火蓋をきった。-ドイツ人、フランス人、イギリス人は完成させるだろう。そして社会主義は勝利するだろう。(拍手)」.
 (***/注記) 日本語版では「3月12日」ではなく、「3月11日」の論文とされている。
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 段落の途中だが、ここで区切る。
 レーニン死後の、「世界」・「一国」にかかるスターリンとトロツキーの間の論争?等についての、③へと、つづく。

1661/ロシア革命①-L・コワコフスキ著18章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 この本には、邦訳書がない。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。第2節へ。第2巻の単行著、p.473~。
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 第2節・1917年の革命①。
 多様な社会主義集団が革命を期待して存在してきたが、1917年二月の勃発は彼らの助けを借りないままで生じ、彼ら全ての驚愕だった。
 数週間前に、トロツキーはアメリカ合衆国に移り住んで、永遠に欧州を離れることになると考えた。
 レーニンは1917年1月に1905年の革命に関する講演をツューリヒでしたが、その中にはつぎの文章があった。
 『我々、旧い世代の者たちは、来たる革命の決定的な闘いを生きて見ることはないだろう。』(全集23巻p.253〔=日本語版全集23巻「1905年の革命についての講演」277頁〕。)
 この二月革命に何らかの政党が何か直接に関係しているとすれば、それは、協約諸国に呼応したカデット(リベラルたち〔立憲民主党〕だった。
 レーニン自身は、ロシアはもちろんフランスやイギリスの資本主義者たちはツァーリがドイツ皇帝と分離講和を締結するのを妨害したかった、したがってツァーリの皇位を奪うことを共謀した、と観察した。
 この企みが、飢餓、敗北および経済的混沌によって絶望的になった大衆の反乱と合致した。 
 300年にわたって続いてきたロマノフ王朝は、一夜にして崩壊した。そして、社会のいかなる重要な勢力にもそれを防ぐ用意がない、ということが明白だった。
 八ヶ月の間、ロシアの歴史は最初にして最後の、完全な政治的自由を享受した。何らの法的秩序によってではなく、主としてはどの社会勢力も状況を統御していなかったがゆえに。
 ドゥーマにより設置された臨時政府は、1905年革命を真似て形成された労働者・兵士代表評議会(ソヴェト)と、不確定な権限を共有した。しかしどちらも、大都市の武装した大衆を適切に統制することができなかった。
 ボルシェヴィキは当分の間はソヴィエト内の小さな少数派だった。そして、全政党が、革命が進んでいる行路に関して完全に混乱していた。//
 レーニンは、4月にペテログラードに到着した。ドイツはレーニンに、様々の政党から成る数ダースの帰還者と一緒に、安全な護衛を付けた。
 もちろんレーニンは、皇帝の戦争を助けるためにではなくて革命がロシアからヨーロッパの残りへと広がるだろうと望んで、ドイツからの援助を受けた。
 スイスを出立する直前に書いた<遠方からの手紙>で、レーニンは、その基本的な戦略を定式化した。
 ロシアの革命はブルジョア的なそれなので、プロレタリアートの任務は、人民に食物、平和そして自由を与えることのできない支配階級の欺瞞の皮を剥ぎ取ることだ。そしてその日の命令は、憤激した半プロレタリア農民層に支持されたプロレタリアートに権力を譲り渡す、革命の『第二段階』を準備することだ。
 このような綱領はロシア帰国後にすぐに、有名な『四月テーゼ』へと発展した。
 戦争に対する不支持、臨時政府に対する不支持、プロレタリアートおよび貧農のための権力、議会制共和国をソヴェト共和国に置き換えること、警察、軍隊および官僚制度の廃止、全官僚が選挙されかつ解任可能であること、地主所有地の没収、全ての社会的生産と分配へのソヴェトによる統制、インターナショナルの再結成、〔党名に〕『共産主義』を明示することの党による採択。//
 革命の社会主義段階への即時移行を明確に要求することを含むこれらのスローガンは、社会主義者の伝統を完全に否定するものと見なしたメンシェヴィキによってのみならず、多数のボルシェヴィキ党員からもまた、反対された。
 しかしながら、レーニンの揺るぎなき信念は、全ての躊躇を抑えた。
 同時に、彼は支持者たちに、ソヴェトに支えられているので臨時政府をただちには打倒できない、ということを明確にした。
 ボルシェヴィキは先ずはソヴェトの支配権を握り、そして労働者大衆の多数派を自分たちの側に獲得しなければならない。帝国主義者の戦争はプロレタリアートの独裁によってのみ終わらせることができる、との確信を抱かせることによって。//
 レーニンは7月に、『全ての権力をソヴェトへ』とのスローガンを破棄した。ボルシェヴィキはしばらくの間はソヴェト内での多数派を獲得することができない、支配するメンシェヴィキとエスエルは反革命に転化して、帝制主義の将軍たちのの奉仕者になった、と決定したのだった。
 かくして、革命への平和的な途は、閉ざされた。
 このスローガンの破棄は、ボルシェヴィキがその暴力を示した〔七月蜂起の〕後で起こった。レーニンはのちの数年の間、この暴力行使を猛烈に否定したけれども、おそらくは(probably)、権力奪取の最初の企てだった。
 逮捕されるのを怖れて、レーニンはペテログラードから逃げて、フィンランドに隠れた。そこで党活動の指揮を執り、同時に、<国家と革命>を書いた。
 -この書物は、武装する全人民により権力が直接に行使されるというプロレタリア国家のための、異常なほどに半(semi-)アナキスト的な青写真を描くものだ。
 この綱領の根本的考え方は、ボルシェヴィキ革命の行路によってすぐに歪曲されたのみならず、レーニン自身によって、アナクロ=サンデカ主義的夢想だとして愚弄された。//
 将軍コルニロフ(Kornilov)による蜂起の失敗はますます一般的な混乱を増大させ、ボルシェヴィキにとって事態がより容易になった。
 レーニンの政策は党がコルニロフの反抗を助けることで、ケレンスキー政権の支持へと漂い込むことではなかった。
 彼は、8月30日付の中央委員会あて手紙でこう書いた。
 『この戦争が発展することだけが、<我々を>権力へと導くことができる。しかし、我々は情報宣伝(扇動・プロパガンダ)では、可能なかぎりこれについて言わないようにしなければならない。明日の事態すらもが我々に権力を握らせるかもしれないこと、そのときには我々は決して権力を手放さない、ということを十分に銘記しながら。』(+)
 (全集25巻p.289〔=日本語版全集25巻「ロシア社会民主労働党中央委員会へ」312頁〕。)
 ボルシェヴィキは9月に、ペテログラード・ソヴェトの多数派を獲得した。そして、トロツキーが、その議長になった。
 10月に入って、〔ボルシェヴィキ〕中央委員会の多数派は、武装蜂起に賛同する表決をした。
 ジノヴィエフとカーメネフは、反対した。そして、この彼らの態度は一般に広く知られた。
 ペテログラードでの権力奪取は、比較的に簡単で、無血だった。
 その翌日に集まったソヴェト大会は、ボルシェヴィキが多数派で、土地問題に関する布令と併合や賠償なき講和を呼びかける布令を裁可した。
 純粋にボルシェヴィキの政府が権力を握った。そして、レーニンが約束していたように、それを手放すつもりは全くなかった。//
 レーニンの暴動政策および全ての見込みが、ロシアの革命は世界革命を、少なくともヨーロッパの革命を誘発するだろうとの確固たる予測にもとづいていたことに、何ら疑いはあり得ない。
 こうした考えは、実際、全てのボルシェヴィキ党員に共有されていた。
 革命後、最初の数年間のロシアでは、『一国での社会主義』に関する問題は何もなかった。
 1917年のスイス労働者に対する別れの手紙で、レーニンはこう書いた。
 ロシア農業の性格と満足していない農民大衆の熱望からすると、ロシアの革命はその規模からして、世界の社会主義革命の序曲(prelude)である『かもしれない』、と。
 しかし、この『かもしれない』は、すみやかにレーニンの演説や論文から消えて、次の数年の間のそれらは、西側でのプロレタリアの支配がごく間近に接近している(just round the corner)という確信に充ち満ちていた。
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 段落の途中だが、ここで区切る。
 (+ 注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ②へとつづく。

1659/第一次大戦③-L・コワコフスキ著18章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第1節・ボルシェヴィキと戦争③。
 ロシア国外での最後の年月に、レーニンは諸著作の中でおそらく最も一般に知られているものを書いた。すなわち、<帝国主義-資本主義の最高段階>(1917年、ペテログラード刊)。
 この小冊子-その経済の部分はレーニンの主要な根拠文献であるホブソン(Hobson)およびヒルファーディング(Hilferding)に見出され得ないものは何もない-は、革命党に対して力をもつべき新しい戦術の理論上の基礎を提供することを意図していた。
 帝国主義の世界的性格および不均等な発展を強調して、レーニンは、やがて共産主義諸党を拘束することとなる戦術の基礎を設定した。
 正しい路線は、いかなる理由によってであれ、いかなる階級の利益になるのであれ、いかなるときであれその時点の体制を打倒しようとする傾向の、全ての運動を支持することだ。植民地諸国の解放、民族運動あるいは農民運動、大きな帝国主義諸国に対するブルジョア的民族蜂起。
 これは、彼が何年もの間にロシアで説いてきた戦術を一般化するものだった。
 ツァーリ専政体制に反対する全ての要求と全ての運動を支持すること。そうして、それらの活力源を利用して、決定的な瞬間に権力を奪取すること。
 マルクス主義党の勝利は最終の目標だが、それはプロレタリアートだけで達成さ得るものではない。
 レーニンはすみやかに、実際に、民族主義者や農民のような他の大衆運動の支持なくして、労働者階級はその名前のもとで革命を遂行することはできない、との結論に達した。言い換えると、伝統的マルクス主義の意味での社会主義革命は、実現不可能なことだ。
 このことを発見したことは、レーニンの成功のほとんど全ての淵源であり、また彼の失敗のほとんど全てのそれだった。//
 農民との関係の問題は、この時期に、レーニンとトロツキーの間の主要な不一致点の一つだった。
 トロツキーは戦争勃発まで主にウィーンに住み、1908年以降は自身の機関誌<プラウダ>を編集した(彼は1912年に、ボルシェヴィキがその冠名を奪ったと非難した)。
 彼は折に触れて様々な問題についてメンシェヴィキとともに活動したが、それに加入はしなかった。来たる革命について異なる考え方をもち、社会主義の段階へと進化するだろうと予見していたからだ。
 トロツキーは党の一体性を回復しようと努力を繰り返したが、不首尾に終わった。
 彼は1914年から戦争反対派に属し、レーニンとともに『社会的愛国主義』を攻撃した。
 彼はまた、ツィンマーヴァルト宣言の草案も書いた。 
マルトフと一緒にパリで雑誌を発行し、それにはルナチャルスキーその他の指導的な社会民主主義知識人たちが寄稿した。
 第二回大会からボルシェヴィキに加入した1917年まで、トロツキーは、レーニンの側で例外的に敵愾心を抱く対象だった。現実の論争点に同意するかどうかに関係なく。
 レーニンは、トロツキーをこう描写した。状況に応じて、小うるさい弁舌者、役者、策略家、そして<ユドゥシュカ(Yudushka)>だ、と(最後は『小さなユダヤ人』の意味で、サルチュイコフ=シェードリンの小説<ゴロヴレフ一家>に出てくる偽善的性格の人物の名)。
 レーニンはまた、こうも言った。トロツキーは原理のない男で、一つのグループと他との間に巧みに身を隠し、発見されないようにとだけ気を配っている、と。
 レーニンは、1911年に、つぎのように書いた。
 『トロツキーにはいかなる考えもないので、この問題の本質に関して彼と議論するのは不可能だ。
 我々は、信念ある解党派やotzovists(召還主義者)たちと論じ合うことができるし、そうすべきだ。
 しかし、このどちらの傾向の過ちも隠そうとする遊び人と議論しても無意味だ。
 トロツキーの場合にすべきことは、最低限の度量しかない外交家だという姿を暴露することだ。』(+)
 (『確かな党政策から見るトロツキーの外交』、1911年12月21日。全集17巻p.362〔=日本語版全集17巻373頁〕。)
 彼は、1914年に、同じ考えを繰り返した。
 『しかしながら、トロツキーには「相貌(physiogmology)」が全くない。
 ただ一つあるのは、場所を変えて、リベラル派からマルクス主義者へと飛び移ってまた戻る、宣伝文句や大げさな受け売り言葉の断片を口に入れる、という癖だ。』(+)
 (『「八月ブロック」の分解』、1914年3月15日。全集20巻p.160〔=日本語版全集20巻163頁〕。)
 『トロツキズム』それ自体に関しては、こう言う。
 『トロツキーの独創的な理論は、ボルシェヴィキからは、断固たるプロレタリアの革命闘争やプロレタリアートによる政治権力の征圧の呼びかけを借用し、一方でメンシェヴィキからは、農民層の役割を「否認すること」を借用した。』(+)
 (『革命の二つの方向について』、1915年11月20日。全集21巻p.419〔=日本語版全集21巻432頁〕。)//
 トロツキーは、実際に、党はブルジョアジーの添え物ではなくて階級闘争を指導する力でなければならないとのレーニンの見地を共有していた。
 レーニンと同様に、トロツキーは、解党主義者と召還主義者のいずれにも反対した。そして、レーニンよりも早く、『二段階の革命』を予見した。
 しかしながら、彼は農民層がもつ革命的な潜在力の存在を信じなかった。そして、ヨーロッパ全体での革命の助けを借りてプロレタリアートはロシアを支配するだろう、と考えた。//
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 (+)=秋月注記。日本語版全集の訳を参考にして、ある程度は変更した。
 第1節、終わり。つづく第2節の表題は、「1917年の革命」。

1657/第一次大戦②-L・コワコフスキ著18章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第1節・ボルシェヴィキと戦争②。
 このような訴えは、呆けた夢物語のように見えたかもしれなかった。一握りの社会主義者たちだけが、それを支持するつもりがあったのだから。
 ほとんどの社会民主主義者たちは、階級闘争を中止して祖国の防衛のために結集しようという考えだった。
 プレハノフはこのように考えたロシア人の一人で、自分はマルクス主義者だと表明し続ける一方で、心から愛国主義の見地を受け入れた。
 このことによってプレハノフとレーニンの間の休戦状態は瞭然として終わりを告げ、プレハノフとポトレソフはもう一度、『道化師』であり反動派の指導者のプリシュケヴィチ(Purishkevich)の従僕だと非難された。
 レーニンは、イギリスのハインドマン(Hyndman)やフランスのゲード(Guesde)、エルヴェ(Herve)のような、その態度の基礎に民族の自己防衛原理をおく、全ての社会主義指導者と類似の見解をもっていた。当然に、交戦諸国の中には『侵略者(aggressors)』はいなかったことになる。
 しかしながら、徐々に戦争反対の集団が全ての国で形成された。そのほとんどは、正式に中心的位置を占める社会主義者によっていた。ドイツのベルンシュタイン、カウツキーおよびレデブーア(Ledebour)、イギリスのラムジー・マクドナルド(Ramsay MacDonald)。
 これには、マルトフとアクセルロートが率いる、従前のメンシェヴィキのほとんど、およびトロツキーも、属していた。
 しばらくの間、彼らの基礎的な違いにもかかわらず、レーニンの集団はこれら『平和主義者(Pacifists)』と折り合いをつけようとした。
 主としてスイスとイタリアの社会主義者の努力によって国際的な会議が1915年9月にツィンマーヴァルト(Zimmerwald)で開かれ、妥協的な戦争反対の決議を採択した。
 ツィンマーヴァルトは一時的には、新しいインターナショナル運動の萌芽だと見なされた。しかし、ロシア革命の後では、中心部とツィンマーヴァルト左派の間の意見の違いは、平和主義者と、祖国を防衛する者はともかくもこう称された『社会的な熱狂愛国主義者』の間の対立よりも、大きいものであることが分かった。
 38人の代議員のうちの7名から成るツィンマーヴァルト左派は、一般的な決議に署名することに加えて、自分たちの決議をも発した。それは、社会主義者たちに、帝国主義的政府からの撤退と新しい革命的なインターナショナルの結成を呼びかけるものだった。//
 レーニンは、初期の段階では、戦争反対の平和主義的な社会民主主義者を、『社会的な熱狂愛国主義者』に対してしたのと同様に激しく攻撃した。   
 彼の主要な反対論は、第一に、〔ツィンマーヴァルト会議での、社会民主主義者の〕中央主義者(centrists)は、自分たちの政府に対する革命的な戦争を遂行することによってではなく、国際的な協定を通じて講和することを望んでいるということだった。
 このことは、戦前の秩序への回帰と『ブルジョア的』方法による平和への懇請を意味する、とした。
 中央主義者は明らかにブルジョアジーの従僕で、帝国主義戦争を終わらせる唯一の途は少なくとも三つの大陸大帝国を打倒する革命によってだ、ということを理解できていない、とする。
 第二に、平和主義者は『併合または賠償のない講和』を望んでいる、ということだった。そのことで彼らが意図しているのは、戦時中の領土併合の放棄だけであり、かくしてその民族主義的抑圧を伴う旧い諸帝国を維持することだ。
 しかし、レーニンが考えるには、革命的な目標は、全ての領土併合を無効にすること、全ての民衆の自己決定権を保障すること、そしてかりに望むなら、彼ら自身の民族国家を形成することでなければならない。 
レーニンは、併合と迫害を責め立てる社会主義者を咎める強い立場にあったが、それは、彼らの民族的な敵によって行われるときにだけだった。
 ドイツ人はロシアでの民族の問題の扱いに完全に憤慨していたが、ドイツ帝国やオーストリア=ハンガリーの状態については何も語らなかった。
 ロシアとフランスの社会主義者は、中央諸国の問題からの自由を要求した。しかし、ツァーリの問題については沈黙したままだった。
 結局、平和主義者は、きっぱりと日和見主義者と決裂する決心のつかない言葉で熱狂愛国主義者を非難したけれども、彼らと再合流することやインターナショナルを甦生させることを夢見た。
 このことは、とくに重要だ。
 党内部での従前の紛争や分裂の全ての場合と同じく、レーニンは、反対者および、反対派と完全に別れるのを躊躇し、組織的統一を渇望することで原理的考え方を満足させる自分の身内内の『宥和者』に対して、同等に激しい怒りを向けた。
 中央主義者は、レーニンの態度は狂信的でセクト主義的だと非難した。そして、ときどきは無力で孤立した集団の指導者の地位へと彼を陥らせるように見えた、というのは本当だ。
 しかしながら、最終的には、他のどの戦術もボルシェヴィキのような中央集中化した紀律ある党を生みだし得なかった、という点で、レーニンが正しかった(right)ことが分かった。危機的なときに、もっと緩やかに組織される党では、状勢を乗り切って権力を奪取することができなかっただろう。
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 ③へとつづく。

1655/第一次大戦①-L・コワコフスキ著18章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 これの邦訳書はない。試訳をつづける。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。第2巻単行著の、p.467~。
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 第1節・ボルシェヴィキと戦争①。
 1908年~1911年は、ロシア社会民主主義運動の大きな衰退と解体の時期だった。
 革命後の抑圧のあとで、ツァーリ体制が一時的に安定した。公民的自由はかなり増大し、弱体化した社会構造を官僚制と軍隊以外の別の基盤の上に造ろうとする試みがなされた。 首相のストリュイピン(Stolypin)は、中規模の所有地を持つ強い農民階層を生み出すことを意図する改革を導入した。
 この政策手段は、社会主義者たち、とくにレーニン主義の信条をもつ者たちの警戒心を呼び覚ました。彼らは、かりに農業問題が資本主義によって改革の方法で解決されれば、土地に飢える民衆がもつ革命的な潜在力は取り返しがつかないほどに失われるだろうと気づいていた。
 1908年4月29日の『踏みならされた道を!』と題する論考で(全集15巻p.40以下〔=日本語版全集15巻24頁以下。〕)、レーニンは、ストリュイピンの改革は成功して、農業に関して資本主義発展の『プロイセンの途』を確立するするかもしれないと認めた。
 かりに成功してしまえば、『誠実なマルクス主義者は、率直にかつ公然と、全ての「農業問題」を屑鉄の上にすっかり放り投げるだろう。そして、大衆に向かって言うだろう。「労働者はロシアにユンカー(Junker)ではなくアメリカ資本主義を与えるべく、できる全てのことをした。労働者は、今やプロレタリアートの社会革命に参加するよう呼びかける。ストリュイピン方式での農業問題の解決の後では、農民大衆の生活の経済条件に大きな変化をもたらすことのできる、もう一つの革命はあり得ないのだから。」』//
 ストリュイピンの政策は長くは続かず、期待された結果をもたらさなかった。その政策が実現していれば、のちの事態の推移は完全に変わっているかもしれなかった。
 レーニンは1917年の後に、ボルシェヴィキが土地を没収して農民に分配するというエスエルの綱領を奪い取っていなかったら、革命は成功できなかっただろう、と書いた。
 1911年にストリュイピンの暗殺があったにもかかわらず、ロシアは数年間は、明らかに立憲君主制の基礎原理をもつブルジョア国家の方向へと動いていた。
 この発展は、社会民主主義者の間に新しい分裂を生じさせた。
 レーニンは、この時期に、『otzovists』、すなわち非合法の革命行動を完全に信じているボルシェヴィキ党員たちに加えて、『清算人(liquidators、解党者)』、多少ともメンシェヴィキと同義の言葉だが、を絶え間なく、批判し続けた。
 彼はマルトフ(Martov)、ポトレソフ(Potresov)、ダン(Dan)、そしてたいていのメンシェヴィキ指導者たちに対して、非合法の党組織を精算し、現存秩序の範囲内での『改良主義』闘争へと舵を切って労働者の『形態なき』合法的集団に置き換えようと望んでいると非難した。 
 メンシェヴィキは、実際に、党が非合法活動まですることを望んでおらず、平和的手段により多くの重要な意味を与えて、専政体制が打倒されたときに社会民主主義者が西欧の仲間たちと同様の位置にいることを期待した。
 そうしている間、党内部の古い対立は存在しつづけた。
 メンシェヴィキは、民族問題についてオーストリアの処理法を容認した(『領域を超えた自治』)。一方で、ボルシェヴィキは、継承権を含む自己決定を主張した。
 メンシェヴィキはブント(Bund)やポーランドの社会主義者との連携を主張したが、レーニンはこれらはブルジョア・ナショナリズムの組織だと見なした。
 しかしながら、プレハノフは、ほとんどのメンシェヴィキ指導者とは違って『清算人』政策に反対した。そのことで、レーニンはプレハノフに対する悪罵と論駁の運動をやめて、ロシア社会主義のこの老練者との間の一種の不安定な同盟へと戻った。//
 様々の意見の相違により、党の新しいかつ最終的な分裂が生じた。
 1912年1月、プラハでのボルシェヴィキ大会は党全体の大会だと宣言して自分たちの中央委員会を選出し、メンシェヴィキと決裂した。
 レーニン、ジノヴィエフおよびカーメネフ以外に、この中央委員会の中には、オフラーナ〔帝国政治警察〕工作員のロマン・マリノフスキー(Roman Malinovsky)もいた。
 レーニンはマリノフスキーについて、何度もメンシェヴィキから警告を受けていた。
 レーニンはその警告を、『「黒の百」の新聞のごみ屑の山から集めることのできた最も汚い中傷』だと称した。
 (『解党派とマリノフスキーの経歴』、1914年5月。全集20巻p.204〔=日本語版全集20巻319頁以下。〕)  
 マリノフスキーは、実際、レーニンの命令の忠実な執行者だった。オフラーナが、そうするように命じていたので。そして彼には、自分のイデオロギー上のまたは政治的な野望がなかった。
 スターリンは、プラハ大会のすぐ後で、レーニンの側近機関である中央委員会へと推挙された。かくて彼は、ロシアの社会民主主義政治の舞台にデビューした。//
 レーニンは、戦争が勃発する前の最後の二年間、クラカウ(Cracow)およびその近くの保養地のポロニンで過ごした。後者からロシアの組織との接触を維持するのは、より容易だった。
 ボルシェヴィキは、合法的な活動の機会を逃さなかった。
 1912年からサンクト・ペテルブルクで、<プラウダ>を発行した。この新聞は二月革命の後で再刊され、それ以来に党の日刊紙になった。
 ドゥーマ〔帝国議会下院〕には数人のボルシェヴィキ党員がいて、レーニンによって禁じられるまでは、メンシェヴィキと協同して活動した。//
 戦争が勃発したとき、レーニンはポロニンにいた。
 オーストリア警察に逮捕されたが、ポーランド社会党とウィーン(Vienna)の社会民主党が介入したことによって、数日後に釈放された。
 スイスに戻って、1917年4月まで滞在し、インターナショナル〔社会主義インター〕を挫折させた『日和見主義的裏切り者』を非難したり、新しい状勢のもとでの革命的社会民主主義者のための指令文書を作成したりしていた。
 レーニンは、革命的敗北主義を宣言した、ヨーロッパの最初かつ唯一の社会民主主義の指導者だった。
 各国のプロレタリアートは、帝国主義戦争を内乱に転化すべく、自分たち政府の軍事的敗北を生じさせるよう努めるべきだ。
 ほとんどの指導者が帝国主義の奉仕者へと移行してしまったインターナショナルの廃墟から、プロレタリアートの革命的な闘争を指揮する共産主義インターナショナルが、創立されなければならない。//
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 ②へとつづく。 

1653/弁証法ノート②-L・コワコフスキ著17章9節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治〔最終回〕。
 前回のつづき。第9節(最終節)。
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 第9節・レーニンの弁証法ノート②(完)。 
 党の哲学論者たちは<唯物論と経験批判論>を使って、観念論と疑われる全ての教理と闘った。一方で、マルクス主義と機械論(mechanicism)の違いを強調するために、とくに1930代のブハーリン(Bukharin)とその支持者たちに反対する運動で、<哲学ノート>を引用した。
 この二つの文献の文章はともかくも相互の一貫性がないということを認めるのに、もちろん何の疑問もない。
 のちに、ソヴィエト同盟での弁証法的唯物論の教育がスターリンの設定した図式から離れたとき、<ノート>は新しい基盤として用いられ、16の『要素』は、スターリンの『弁証法の四つの主要な特質』に取って代わった。 
 しかしながら、<唯物論と経験批判論>はさらにレーニン主義の哲学上の基礎、スターリンによってそう授与された地位をもつもの、として復活した。
 そのことは、つぎのような嘆かわしい(deplorable)結果を生じさせた。すなわち、全ての自立した哲学的思想を窒息させる口実を用意し、全ての分野での科学と文化を支配する党の独裁を確立する、という。//
 ヴァレンチノフ(Valentinov)やその他の者が指摘したように、レーニンが唯物論を防衛したその極度の執拗さは、マルクス主義にのみ基礎があるのではなく、ロシア唯物論の伝統に、とくに、フォイエルバハ(Feuerbach)を大衆化した哲学の、チェルニュイシェフスキー(Chernyshevsky)に根ざしていた。
 こうした思想系統に対する論評は、1950年代のソヴィエト同盟でもなされた。しかし、レーニン主義は特殊にロシアの哲学で、誤謬のない、普遍的で有効なマルクス主義を継承たものではない、ということを示唆するものだと、非難された。//
 ロシアの淵源への影響の問題を別にして言えば、つぎのことは明白だ。すなわち、レーニンの哲学は彼の政治上の綱領および革命党の考えと緊密に結び付いており、彼自身がそのことを十分に意識していた、ということだ。
 全ての理論上の問題が権力闘争に厳格に従属している職業家の党は、哲学上の多元主義を安全には是認することができなかった。
 党自身の成功のために、党は明確に定義された教理を、あるいは構成員を拘束する、克服され得ない(inexpugnable)一体のドグマ(教義)を、所有していなければならなかった。   
 党の紀律と団結は、理論問題での弛み、曖昧さあるいは多元主義といったいかなる危険も排除されることを要求した。
 支配するイデオロギーが厳格に唯物論でなければならないことは、マルクス主義者の伝統によって保障され、革命に対する障碍物になるあらゆる形態での宗教的思想と闘うために必要とされた。もちろん、存在論的(ontologically)に中立な哲学を避けるためにも。
 レーニンは、身内であれ敵であれ、言葉上ですら宗教との妥協を示すいかなる傾向をも厳しく批判した。あるいは、間違って定式化されているまたは解決できないという理由で、存在論上の問題という脇道へと逸れる傾向も。
 レーニンは、マルクス主義は哲学上の全ての大きな問題に対する既製(ready-made)の解答だと信じ、何の疑いもないものとして受け入れた。
 哲学上の問題を棚上げするいかなる試みにも、党のイデオロギーの一体性に対する危険があった。 
 かくして、レーニンの粗雑な、妥協を許さない唯物論は、特殊な伝統の結果というだけではなくて、彼の行動技法の一部だった。
 党は、全てのイデオロギー問題を決定する唯一つの権限を有していなければならない。そして、レーニンは、この見地から、観念論が彼の綱領に対して示す危険性を十分に理解した。
 文化生活の全ての局面を抱え込む全体主義的(totaritarian)権力という考えは、彼の意識の中で少しずつ形を作り始め、ときおり実践へと用いられた。
 レーニンの哲学はこの考えによく役立つもので、問題の探求や解決に関係しないで、社会主義運動に教条的(dogmatic)な精神上の体制を押しつけることに関わっていた。 
 このようにして、レーニンの哲学的攻撃の憤怒や他者の議論への関心の欠如は、その源泉を、彼の哲学上の教理(doctrine)に持っていた。//
 しかしながら、レーニン主義者にとってすら、<唯物論と経験批判論>は、二つの重要な点で曖昧なものだった。
 既述のことだが、第一に、エンゲルスやプレハノフとは違って、レーニンは、『客観性』、すなわち主体に依存しないことが物質の唯一の属性だ、唯物論者がその者であればこれを是認せざるを得ない、と考えた。
 このように述べることは明らかに、マルクス主義はいかなる科学理論の変化にも、とくにいかなる物理学のそれに、依存しないことを意図していた。  
 『物質』は自然科学が授けたり奪ったりするいかなる属性にも影響を受けることがないので、科学は唯物論に対して何の危険も提示しない、とされた。
 しかし、このような結論は、『物質』を全ての内容から空虚にすることによって得られる。
 かりに物質が知覚する主体以外の何かであるとだけ単純に定義されるのだとすれば、このことは、知覚(perception)の内容と異なると見なされる『実体(substance)』の全てについて、同じく言えることが明確だ。
 『物質』はたんに、『全てのもの』の言い換え語になる。我々が一般的に『物質性』とともに連想する、いかなる種類の属性-空間上の、時間上の、あるいは活動上の-も、意味するものがなくなる。
 第二に、このような定義は、排除することを目的としている曖昧な二元論を、再び受容するものだ。
 主体の『外側』にある全てのものが物質的(material)であれば、主体それ自身であるいずれのものも物質的ではないか、主観的な(主体上の)現象と妥協するために物質の定義を拡張しなければならない、ということになる。  
 『物質が始源的で精神は二次的だ』という定式は、精神と物質は異なるものだということを前提命題にしていると思える。かくして、唯物論的一元論と矛盾している。
 レーニンの著作はこうした問題に解答していないか、または一貫して議論してはいない。そして、つぎのことをもっと正確に吟味するのを試みたい論点はない。
 すなわち、レーニンのテクストの不明瞭さ(難解さ)は、本来的な哲学上の困難さによるというよりむしろ、彼の怠惰で上辺だけの(表面的な)接近方法、権力闘争に直接に用いるために設定することができない全ての問題に対する侮蔑(contempt)、による。//
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 第9節、終わり。そして、第17章、終わり。
 第18章およびその第1節の表題は、それぞれ、「レーニン主義の運命(fortunes)-国家の理論から国家のイデオロギーへ」、「ボルシェヴィキと戦争」。

1651/弁証法ノート①-L・コワコフスキ著17章9節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。第9節(最終節)。
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 第9節・レーニンの弁証法ノート①。
 論考や演説でのその時どきの文章を別にすれば、レーニンは、純然たる哲学を主題とする書物をもう書かなかった。
 (1921年の『戦闘的唯物論の意義』は、情報宣伝のための命令文書たる性質のものだ。
 1913年の『マルクス主義の三つの淵源と三つの要素』は一般向けの解説で、独自性はない。)
 しかしながら、彼の死後にソヴィエト同盟で、<哲学ノート(Notebooks)>(全集38巻)と題する一巻本の書物が刊行された。これはレーニンが主に1914-15年に書いた種々の著作の抜粋から成っていて、彼自身の肯定や憤慨の論評や若干の哲学的見解が付いていた。
 ある程度の場合について、このノートは彼が読んだものや彼自身の立場表明の要約なのかどうかが明確でない。
 主要なノートは弁証法に関係しており、<唯物論と経験批判論>での粗雑な定式の調子をある程度弱めているので、興味を惹く。
 そしてこのノートは、とくに、レーニンが戦時中に読んだヘーゲルの<論理(Logic)>と<歴史哲学講義(Lectures on the Philosophy of History)>の影響を受けていることを示している。
 レーニンは、ヘーゲルのこれら書物により、彼の弁証法はマルクス主義の発展においてきわめて重要なものだったと確信した。
 彼は、<資本論>はヘーゲルの<論理>の完全な研究なくしては理解できない、とすら書いた。そして、申し分のない一貫性をもって、こう付け加えた。
 『そう、半世紀経ったが、どのマルクス主義者も、マルクスを理解していなかった』。
 この突発表現(boutade)は、字義どおりには理解されてはならない。なぜなら、レーニンは自分が1915年までにマルクスを理解したと思っていなかったとは考え難いからだ。
 しかし、上の言葉は、レーニンがある程度はヘーゲルの考察に魅惑されたことを示す。//
 <ノート>が示すように、ヘーゲルの<論理>における『普遍性』と『個別性』の問題、および『合一(unity)と諸反対物の矛盾』の理論と考えられた弁証法に、レーニンはもっとも関心を持った。
 彼は、ヘーゲルの弁証法のうちに、唯物論の基礎へと転位した後でマルクス主義が引き継いで使用した主題を発見しようとした。
 抽象化の問題および直接的感知と『普遍』の知識(knowledge)の関係に関して言うと、レーニンは、カントの教理(例えば、『事物それ自体』は完全に不明確(indefinite)で、したがって無だ)とは対立するヘーゲルの全てを強調し、抽象的思考の自律的な認識上の機能を指摘した。
 レーニンの論理によると、弁証法、そして知識の理論は、みな同じことだった。 
 <唯物論と経験批判論>は感覚(sensations)に関する主観的な解釈との闘いに集中しており、感覚を世界に関する全ての知識の源泉だと見なすことで満足しているように見えた。
 ところが一方、<ノート>は、感知(perception)それ自体に含まれる抽象化という問題を設定し、認識の過程に際限のない『矛盾』を持ち込む。
 法則、したがってまた『普遍性』は個々の現象の中にすでに含まれている。そして同様に、個々人の感知は『普遍的』要素をうちに含む、別言すれば、抽象化の行為だ。
 かくして、自然は具体的でも抽象的でもあり、事物は、一般的な規則性を把握する、ただ観念上の知識の観点からのものだ。
 具体的なものは、個別の感知行為によっては完全に具体的には把握することができない。
 一方でそれは、無限に多数ある観念および一般的法則を通じてのみ自らを再生産するのであり、その結果として、認識され尽くすことが決してない。
 最も単純な現象ですら、世界の複雑性およびその全ての構成要素の相互依存性を示している。
 しかし、全ての現象はこのように相互に結び付いているがゆえに、人間の知識は必然的に不完全で、断片的なものだ。
 具体的なものをその全ての個別性とともに把握するためには、我々は、諸現象の間の全ての連結関係に関して、絶対的で普遍的な知識を持たなければならない。
 世界に関する全ての『反射物』は、新しい矛盾によって、知識が進歩するように消失したり置き換えられたりする、内部的な矛盾を帯同している。
 反射物は、『死んで』いたり『不活性』だったりするのではなく、その断片的な性質と矛盾によって、知識の増大を生み出す。だがそれは、不明確であり続けるのであり、決して絶対的な最終物へと到達することはない。
 かくして、真実(truth)は、矛盾を解消する過程としてのみ現われてくる。//
 知識の個別の構成要素と抽象的なそれとの間にはつねに一定の緊張、あるいは『矛盾』があるがゆえに、認識の過程で前者を犠牲にして後者を絶対化することは、すなわち観念論の方法で思考することは、つねに可能だ。
 『反射物』の『普遍的』な側面をレーニンが強調していること(これは彼の主要な哲学著作でのそれに関する叙述に反している)の他に、この考え方は、観念論は聖職者やブルジョアジーによって考案された欺瞞だという大雑把な解釈から離れている、第二の重要なものだ。     
 ここで現われる観念論は、『グノセオロジー〔認識論〕的淵源』を持つ。それは、精神上の逸脱というだけではなく、認識の一つの実際の側面を絶対化するもの、あるいは一面的に発展させたものだ。
 レーニンは、賢い観念論は、愚かな唯物論よりも、賢い唯物論に近い、とすら述べる。//
 <ノート>の第二の重要な主題は、『矛盾と諸反対物の合一』だ。
 レーニンは、弁証法の全体は諸反対物の合一の科学と定義することができる、と主張する。
 彼が列挙する16の『弁証法の要素』の中でとくに、諸反対物の矛盾は多様な形態で主要なモティーフになっている。
 全ての単一の事物は諸反対物の総体および合一体で、事物の全ての属性はその反対物へと変化する。内容の形式との『矛盾』、発展の低い段階での特徴は『否定の否定』によりより高い段階へと再生産される、等々。//
 これら全ての考えは、きわめて簡単なかつ一般的な言葉で表現された。したがって、分析を精細すぎるほどに行うほどのものではない。
 レーニンは、『矛盾』、論理的関係性がいかにして客体それ自体の属性に転化し得るのかについて、立ち入った検討をしていない。
 また、抽象化を感知の内容に導入することがいかにして『反射物』理論へのそれに照応するのかについて説明してもいない。
 しかしながら、エンゲルスのように、レーニンが弁証法は客体とは無関係に一般化された『世界の論理』だと説明できる普遍的方法だと見なした、ということは見てとれる。また、ヘーゲルの論理を唯物論的な変容の生の材料だと見なした、ということも、見てとれる。
 しかし、一般的に言って、レーニンの論述はエンゲルスの解釈よりも平易ではないヘーゲル主義に関する解釈を示すものだ。
 弁証法は、たんに『事物は全て変化する』と主張するものではなく、人間の知識は主体と客体の間での、いずれかの側の『絶対的な優先性』の問題は意味がなくなる、永続的な相互作用だと解釈しようとするものだ。//
 <ノート>は、主として党が機械論的(mechanistic)唯物論を批判するのに役立つように刊行された。
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 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

1646/レーニンと宗教②-L・コワコフスキ著17章8節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
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 第8節・レーニンと宗教②。
 こうした問題に関するレーニンの立場は、ロシアの自由な思考方法に一致していた。
 正教派教会とツァーリ体制との間の連結関係は、明白だった。
 ソヴェト政府が権力を握ったとき、全てではないが、ほとんどの教会の者たちはその権力に敵対的だった。
 この結果として、またレーニン主義の根本原理から、党綱領が示している以上に広い範囲で、すみやかに教会に対する闘いが行われた。
 政府は、教会財産の収奪や学校の非宗教化、あるいはともあれブルジョア的改革であってとくに社会主義的でないと見なされた手段に限定することはなかった。
 教会は、事実上、全ての公的な機能を剥奪され、説示、書物や定期刊行物の出版、聖職者の教育が禁じられた。たいていの修道院は、解体された。
 国家と関係のない私的な問題だという宗教に関する取り扱いは、ほとんど圧倒的多数の場合に党員であることが国家事務を行う必須の要件である一党国家制度では、適用され得なかった。
 教会や信仰者に対する迫害は、ときどきの政治的情勢によって烈しさが変わった。例えば、1941-45年の戦争中は、かなり緩かった。
 しかし、社会主義国家は『宗教的偏見』を根絶すべく努めなければならないという原理は力を保ちつづけた。またそれは、レーニンの教理と完全に一致している。
 教会と国家の分離は、国家がイデオロギー的に中立である場合にのみ作動しうるもので、そのような考え方は、何らかの特定の世界観を表明するものではない。
 ソヴェト国家は、プロレタリアートと唯一のプロレタリアートのイデオロギーの本質的特質である無神論の機構であると自らを位置づけており、離脱という原理を受容することができない。言ってみれば、類似性のあるヴァチカンの組み込まれたイデオロギー以上に。
 レーニンとその他のマルクス主義者はつねに、この点ではプロレタリア国家とブルジョア国家の間に違いはない、いずれの国家も支配階級の利益を代表する哲学を支持するように拘束されている、と考えた。
 しかし、まさにこの理由で、レーニンがツァーリ体制に反対するスローガンとして用いた教会と国家の分離は、イデオロギー、諸階級および国家の間の関係についてのレーニンの理論に反するもので、ボルシェヴィキによる権力奪取のあとでは維持することができなかった。
 一方で、反宗教のための政策手段の性格と規模は、当然ながら教理として予め述べられておらず、状況に応じて変化した。//
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 第8節、終わり。第9節の節名は、「レーニンの弁証法ノート」。

1645/レーニンと宗教①-L・コワコフスキ著17章8節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。この本には、邦訳書がない。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。 第二巻単行本のp.459-。
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 第8節・レーニンと宗教①。
 レーニンは、党のイデオロギー活動の鍵となる論点だと宗教を見なした。敵となるのは大衆的な現象であって、たんに経験批判論のような理論家集団ではなかったからだ。
 宗教に対する彼の態度は哲学の問題としては絶対的に明確だったが、彼の戦術は、比較的に融通性があり、可変的なものだった。//
 レーニンは、頑迷ではない宗教的な雰囲気の中で育った。15歳か16歳のときに信仰心をなくしたが、マルクス主義とはまだいかなる接触もなかった。
 そのとき以降、無神論を科学的には自明のこととした。そして、そのことを擁護してとくに論じることも決してなかった。
 彼の見方では、宗教の問題は、本質的な難事ではなくて、教育、政治そして情報宣伝(propaganda)の問題だった。
 『社会主義と宗教』(1905年、全集10巻〔=日本語版全集10巻70頁以下〕)およびその後の著作物で、レーニンは、宗教的信条は被抑圧者および貧困に苦しむ民衆が無能力であることの表現であり、彼らの苦痛を和らげる代償物だ-マルクスとエンゲルスの言葉をいつものように粗雑化して彼がいう『精神上の酒』だ-と論じた。
 同時に、宗教と教会は民衆を卑しくかつ従順なままにしておく手段であり、搾取者が権力を維持し民衆を悲惨な状態に置いたままにする『イデオロギー上の笞(knout)』だった。
 正教派教会は、精神的抑圧と政治的な抑圧が結合している、明白な例だ。
 レーニンはまた、宗教聖職者に対する体制側の抑圧的な態度を利用する必要も強調した。
 党の綱領は、最初から宗教上の寛容さについて語り、個人が自分の選択する信仰を告白する権利を、また無神論の宣伝活動に従事する権利をも、語った。
 教会と国家は分離されなければならず、宗教に関する公教育は廃止されるべきものだった。
 しかし、レーニンは、西側の多くの社会民主主義者たちと違って、社会主義者は宗教を国家と関係のない(vis-a-vis)私的な問題だと見なしてよく、党に関係があるかぎりでそれは私的な事柄ではなくなる、と強調した。
 いままさしく信仰者である者に対して寛容でなければならない現在の状況ではあったが(無神論は党の綱領には明確には表現されていなかった)、反宗教の情報宣伝を実施したり党員が戦闘的な無神論者になるよう教育することは、認められた。
 党は、哲学的に中立であることはあり得なかった。党の哲学は唯物論であり、そのゆえに、無神論であり反聖職者的であった。そして、この世界観は、政治的な違いの問題ではあり得なかった。
 しかしながら、反宗教の情報宣伝は階級闘争と接合されなければならず、『ブルジョア的自由思想』の意味のごとく、目的それ自体だと見なされてはならなかった。//
 戦術的な譲歩がどのようなものであれ、レーニンは、政治的な理由で、宗教的信念に対する執念深い反対者だった。
 そのゆえに、経験批判論に対する攻撃の激烈さもあった。経験批判論の哲学の一部は、『神の建造者(God-builder)』のそれと一致していた。
 後者は、マルクス主義に対して修辞上の情緒的な装飾を加えようとしているだけだった。しかし、レーニンの眼には、宗教との間に危険な妥協をするものと映った。
 主要な哲学上の著作やゴールキへの手紙、あるいは別の箇所で、レーニンは、野蛮な迷信を身に着けていない、社会的進歩的な言葉遣いをしている宗教は、ツァーリ専政政治と同盟することを冷厳に公言している、のぼせ上がった正教派教会よりも危険ですらある、と主張した。
 人間中心主義的な偽装を施した宗教は、よりよく、階級の意図を隠し、油断する者を欺瞞することができる。
 かくして、レーニンは戦術上の理由で信仰者たちと妥協する用意はあったが、彼の意思は根本問題では固く形成されていた。そして、党の世界観にはどんなものであれ宗教的信仰のいかなる余地も決してない、ということの示唆を拒むつもりは全くなかった。//
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 ②へとつづく。

1643/ボルシェヴィキ・犯罪者集団-2010年のアメリカ刊行書。

 Yuri Felshtinsky, Lenin and his Comrades (New York, Enigma Books, 2010).
 =ユリ・フェルシュチンスキー・レーニンとその同志たち(ニューヨーク, Enigma, 2010)。
 本文、p.264 まで。注・索引等全てでp.292 まで。序文(Intoduction)で、おおよその内容は分かる。
 この本を適切に論評する資格、能力は私にはない。但し、序文の最後には、wide-ranging な根拠・情報源にもとづくとは記されている。
 明治維新に関する史料・資料に比べても、時期的にはもっと後のロシア革命・レーニン「ソヴィエト」国家に関する史料・資料の方が、どうやらかなり少ないようだ。それは、<まずい>文書は可能なかぎりで徹底的に廃棄したからではないかと想像される。今後も、種々の新資料等にもとづく新しい歴史書がロシア等々で出版される可能性はある。
 1990年・ソ連解体前の史料・資料にもとづくが、下の①、②、③について、リチャード・パイプス・ロシア革命1899-1919(1990)はすでに、ほぼ史実として叙述している。
 1976年のL・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流もまた、①について、つぎのように書いていた。試訳済みの部分の中にある。
 <レーニンは身体的(肉体的)テロルにはこの時点で反対したが、鉄道・銀行・国有財産の収奪には賛成した。これはメンシェヴィキにより党大会で非難された。銀行強盗等の活動家の中には、スターリンもいた。>。
 ③をR・パイプス著はかなり詳しく迫っている。立ち入らないが、ドイツ側文献にも出てくるので、基本的史実は動かない、と考えられる。アレクサンダー・パルヴゥス(Parvus)〔革命の商人〕とレーニンの間の接触関係の詳細はまだ曖昧さが残るとはいえ。
 この点については、2010年以降に、デンマーク・コペンハーゲンで、建物解体中に、この二人の接触を示す、二人の変名を使った文書が入ったカバンが発見されたと書いている、そしてこの二人のことを改めて叙述している某英語書も読んだが、今すぐには見つけられない。その本の信憑性も私には分かりかねるが。
 上の著の「序文(Intoduction)」の冒頭と末尾だけを割愛して、残りの全文の試訳を掲載しておこう。①~⑨、および「第一に」・「第二に」は、秋月瑛二が挿入した。
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 「ロシアは、しかし、いくつかの異なる種類の歴史ももった。すなわち、犯罪の歴史。
 過去のこの部分が、この本の対象だ。
 この本は、20世紀の前四半世紀の間の、ボルシェヴィキ指導者たちの相互作用と活動方法における、犯罪の側面に焦点を当てる。
 ①ボルシェヴィキは、革命の前に、資金確保のための収奪を遂行した。
 ②彼らは、相続財産を奪うために、サッヴァ・モロゾフ(Savva Morozov)やニコライ・シュミット(Nikolai Shmidt)という金持ちを殺害した。
 ③また彼らは、外国の〔ドイツの〕諜報機関およびロシアに敵対していた政府と金銭上の関係に入り込んだ。
 レーニンがせき立てて、ソヴィエト政府は1918年にドイツでの革命を妨害する皇帝ヴィルヘルム一世との分離講和に署名した。
 ④レーニンによるブレスト=リトフスク条約の敵-最も重要なのはフェリクス・ジエルジンスキー(Felix Dzerzhinsky)、ロシアの秘密警察であるチェカの長官-は、条約を破棄するようドイツを刺激するためにドイツ大使のミルバッハ(Mirbach)公の暗殺を組織した。
 そして、⑤レーニン、トロツキーおよびスヴェルドロフ(Sverdlov)は、左翼社会主義革命党〔左翼エスエル〕を破壊してロシアに単一政党独裁を樹立するために、ミルバッハ殺戮を利用した。
 ブレスト=リトフスク条約を無意味にするこの企てが失敗したあとでのつぎのことは、我々が主張したい命題だ。
 すなわち、第一に、⑥ジェルジンスキーとヤクロフ・スヴェルドロフ、党の事実上の総書記、は1918年4月30日に、レーニンに対する暗殺の企てを組織した(いわゆる『カプラン暗殺企図』)。この事件の間に、レーニンは負傷した。
 そして、第二に、⑦そのあとの1919年3月のスヴェルドロフの突然の死は、事故ではなく、この企てに彼が果たした役割に対する復讐の行為だったかもしれない。
 ドイツ共産主義運動の指導者-リープクネヒト(Karl Liebknecht)とルクセンブルク(Rosa Luxemburg)-の殺害。⑧私見が支持するのは、この当時にドイツにいた著名なロシア・ボルシェヴィキのカール・ラデック(Karl Radek)が、この二人の殺害に関与していたかもしれない、というものだ。
 ⑨1922年の最初以降に、スターリンとジェルジンスキーによってレーニンは徐々に権力を奪い取られ、党内部での権力闘争の結果として、レーニンは彼らによって殺害された。
 そして、そのあと、トロツキーは駆逐され、また一方で、ジェルジンスキー、スクリャンスキー(Sklyansky)およびフルンゼ(Frunze)-別の重要なボルシェヴィキたち-が排除された。
 ボルシェヴィキ党の指導部は、組織犯罪集団ときわめてよく類似した様相を呈している。
 彼ら構成員のほとんど誰も、自然には死ななかった。
 そして、スターリン自身を含めて、スターリンの世代のほとんど全てのソヴィエトの指導者たちは、次から次へと除去されて〔殺されて?〕いった。」
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 内容構成(目次)は、つぎのとおりだ。
 「1・革命のための金。/2・ブレスト=リトフスク条約。/3・ミルバッハ公暗殺と左翼エスエル党の破壊。/4・ウラジミル・レーニンとヤコフ・スヴェルドロフ。5・カール・ラデックとカール・リープクネヒトおよびローザ・ルクセンブルクの殺害。/6・レーニンの死に関するミステリー。」
 以上。

1641/「哲学」逍遙⑥-L・コワコフスキ著17章7節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき(第17章の最終)。
 今回試訳掲載分の一部/第2巻単行書p.458.-レーニンは「認識論上の実在論を唯物論と混同していた。彼は唯物論は『客観的な物質的実在』を是認することで成り立つ、と言った。しかし、そうならば、カトリックの哲学者は、ほとんど全員が唯物論者だ」。
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 レーニンの哲学への逍遙⑥
 哲学としては、レーニンの著は、エンゲルスからの引用によって(この著全体でマルクスの文章は二つしか引用されていない)辛うじて成り立つ俗悪な『常識的』議論にもとづく、粗雑なかつ素人臭いものだ。そして、レーニンの反対者に対して抑制なく悪罵を投げつけるものだ。〔以上、重複〕
 この著は、彼ら反対者の見解を理解することに完全に失敗している。そして、理解しようとすることに嫌気がさしている。
 この著は、エンゲルスおよびプレハノフから引用する文章が含んでいる内容にほとんど何も加えていない。主な違いは、エンゲルスにはユーモアの感覚があったが、レーニンには少しもない、ということだ。
 彼は安っぽい罵倒と嘲笑でそれを埋め合わせようとし、論敵たちは反動的な狂人で聖職者の従僕だと非難する。
 エンゲルスの議論は世俗化され、決まり切った問答の形態へと変えられている。感覚は事物の『模写』または『鏡への反射物』だ、哲学上の学派は『党派』になる、等々。
 この書物を覆っている憤懣は、つぎのことを理解できない初歩的な思考者には典型的なものだ。すなわち、自分の想念の力で地球、星、そして物質世界全体を創造したとか、自分が見つめている客体は、どの子どももそうでないと見ているときには、自分の頭の中にあるとか、健全な精神をもつ者ならばどうやっても真面目には主張しない、ということを理解できない者。
 この点において、レーニンの観念論との闘いは、一定の未熟なキリスト教弁解主義者(apologists)のそれに類似している。//
 レーニンの攻撃は、ボグダノフ、バザロフ(Bazarov)およびユシュケヴィチ(Yushkevich)によって応酬された。
 ユシュケヴィチは、<哲学正統派の重要点>(1910)で、プレハノフを、哲学上の考えを憲兵よりも持たない警官のような(扁平足の)無学者だと攻撃した。
 彼は、宣言した。プレハノフとレーニンはいずれも、教条的な自己主張と自分たちの見解しか理解できない無能力によってロシア・マルクス主義を頽廃させたことを例証している、と。
 彼は、レーニンの無知、その執筆能力、およびその言葉遣いの粗雑さについて、とくに痛烈だった。事実の誤り、『黒の百(the Black Hundred)の習慣をマルクス主義へと持ち込むこと』、引用した書物を読んでいないこと、等々について、レーニンを非難した。
 その力で感覚の原因となるという物質の定義は、それ自体がマッハ主義への屈服だ。これは、プレハノフ、そしてプレハノフを模写したレーニンに、向けられた。
 マッハもバークリも、『世界の実在』を疑問視しなかった。論争された問題は、その存在ではなくて、実体、物質および精神(spirit)といった範疇の有効性(validity)だった。
 ユシュケヴィチは、こう書いた。経験批判論は、精神と物質の二元論を廃棄することでコペルニクス的革命を達成した、世界に対する人の自然な関係について何も変更させておらず、実在論(realism)の自然発生的な価値を形而上学的な呪物主義から自由にして回復させたものだ、と。
 レーニンは、実際に、認識論上の実在論を唯物論と混同していた(彼は何度も繰り返して、唯物論は『客観的な物質的実在』を是認することで成り立つ、と言った。しかし、そうならば、カトリックの哲学者はほとんど全員が唯物論者だ)。
 『反射物』の理論全体は、前デモクリトス派の、彼らを物体から神秘的に引き離して、彼らの眼や耳に襲来する形象(image)は存在する、という無邪気(naive)な信念を繰り返したものだ。      
 『事物それ自体』と純粋に主観的なそれの形象の間にあると想定されている『類似性』とは何であるかを、また、いかにして模写物(the copy)は始源物(the original)と比較され得るのかを、誰も語ることはできない。//
 <唯物論と経験批判論>は、革命の前およびその直後には、特別の影響力を持たなかった(1920年に第二版が出版されたけれども)。
 のちにスターリンによって、この著はマルクス主義哲学の根本的な模範だと、宣せられた。そして、およそ15年の間、スターリン自身の短い著作とともに、ソヴィエト連邦での哲学学習の主要な教材だった。
 その価値は微少だが、この著作は、正統派レーニン主義的マルクス主義とヨーロッパ哲学とが接触した最後の地点の一つを示した。
 のちの数十年間、レーニン主義と非マルクス主義思想との間には、論争という形態ですら、実質的に何の接触もなかった。
 『ブルジョア哲学』に対するソヴィエトの公式の批判は、多様な形態での『ブルジョア哲学』は、レーニンによる論駁によって死に絶えた、マッハやアヴェナリウスの観念論的呆言を繰り返すものだ、ということを当然視させた。//
 しかしながら、レーニンのこの著作の重要さは、政治的な脈絡の中で見分けられなければならない。
 レーニンがこれを書いているとき、マルクス主義を『豊かにする』とか『補充する』とか-神が禁じているところの-『修正する』とかの意図を、彼は何ら持っていなかった、と思われる。
 レーニンは、全ての哲学上の問題への解答を探求したのではなかった。全ての重要な問題は、マルクスとエンゲルスによって解決されていたのだから。    
 彼は、序文で、ルナチャルスキーはこう言った、と茶化した。『我々は道を間違えたかもしれない。だが、我々は捜し求めている』。〔+〕
 レーニンは、捜し求めていなかった。
 彼は、革命運動は明晰なかつ均一の『世界観(Weltanschauung)』を持たなければならない、この点でのいかなる多元主義も深刻な政治的危険だ、と固く信じていた。
 彼はまた、いかなる種類の観念論も、多かれ少なかれ宗教が偽装した形態であり、つねに搾取者が、民衆を欺瞞し呆然とさせるために用いるものだ、と確信していた。//
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 〔+〕 原書に、頁数等の記載はない。この部分は、日本語版全集14巻「第一版への序文」10-11頁にある。但し、参考にして、訳をある程度は変更した。
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 第7節、終わり。第8節の節名は、「レーニンと宗教」。

1638/「哲学」逍遙⑤-L・コワコフスキ著17章7節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
 今回試訳掲載分の末尾の一部/第2巻単行書p.457.-「哲学としては、レーニンの著は、エンゲルスからの引用によって辛うじて成り立つ俗悪な『常識的』論拠にもとづく、粗雑なかつ素人臭いものだ」。
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 第7節・レーニンの哲学への逍遙⑤。
 反射物理論の根幹部分は、相対主義を拒否し、真実とは実在と合致することだという伝統的な考えを受容することだ。
 レーニンが言うには、真実は、感覚、観念および判断で叙述することができる。
 認識活動の全ての所産について、本当か偽りか、すなわち実在の正しい『反射物』か間違ったそれかを、そして、我々の知識とは無関係に世界を『そのもの』として提示しているかそれとも世界の歪曲した映像を与えているかを、語ることができる。
 しかし、真実の客観的性は、エンゲルスが示したように、その相対性(relativity)と矛盾しない。
 真実の相対性とは、例えば、実用主義者たち(pragmatists)が主張する、同じ判断は、誰が、いかなる状況のもとで行なっているのか、そしてそのときにそれに同意していかなる利益が生じるか、によって真実であったり間違ったものであったりする、ということを意味するのではない。
 エンゲルスが指摘したように、科学は、その範囲内では法則が有効で、従って全てが修正されることのある限界を、絶対的な確実性をもって我々に教示することはできない。
 しかしながら、このことは、真実を虚偽または逆も同じ(vice versa)に変えるのではなく、一般的に有効だと考えられることは一定の条件においてのみ当てはまるということを、たんに意味させる。  
 いかなる真実も、究極的には確証されない。この意味において、全ては相対的だ。
 全ての知識もまた、我々は普遍世界に関する全てを知ることができない、そして我々の知識は膨張し続けるにもかかわらず不完全なままだ、という意味において、相対的だ。
 しかし、このような留保は、真実は実在に合致するものだという考えに影響を与えることはない。
 エンゲルスもまた言ったように、真実に関する最も有効な規準は、つまりある判断が正しい(true)か否かを見つけ出す最良の方法は、それを実践で試験してみることだ。
 我々が自然の諸関係に関してした発見を実践の操作へと適用することができるならば、我々の行動の成功は、判断が正しい(right)ものだったことを確認するだろう、一方で失敗は、その反対のことを証明するだろう。
 実践という規準は、自然科学と社会科学のいずれにも同じく適用することができる。後者では、我々の実在に関する分析は、それにもとづく政治的行動が効果的(effective)なものであれば、確証される。
 この有効性(effecfivity)は、実用主義の意味での『有用性(utility)』とは異なる。我々の知識は、真実であるがゆえに有用である可能性をもつのであり、有用であるがゆえに真実なのではない。
 とくに、マルクス主義理論は、実践によって顕著に確証されてきた。それにもとづく労働者運動の成功は、その有効性(validity)を最もよく証明するものだ。//
 我々が真実の客観性をひとたび認識したとすれば、『思考の経済』という経験批判論の原理は、観念論者の詐術であることが分かる。実在との合致を、努力の経済にある不明瞭な規準に置き換えることを意図しているのだ。//
 また、経験批判論がカント哲学に反対しているのは、『右翼から』、すなわちカントよりも反動的な位置から狙って攻撃していることも、明確だ。
 彼らは、現象と本体(noumenon)の区別を攻撃する。しかし、そうするのは、『事物それ自体』は余計なものだ、つまりは意識(mind)から独立した実在は存在しない、ということを示すためだ。
 しかしながら、唯物論者は、それと反対の観点からカントを批判する。現象を超える世界があるということを是認するのではなく、それに関して我々は何も知ることができないと考えることによってだ。
 経験批判論者たちは、原理上は知ることができない実在はないとして、現象と事物それ自体には差違はない、と主張する。彼らはカントの不可知論を批判するが、一方では、世界の実在に関するカントの考えのうちの『唯物論的要素』を承認している。
 唯物論の観点からすれば、実在は知られているものとまだ知られていないものの二つに分けることができる。知られ得る現象と知られ得ない『事物それ自体』の二つにではない。//
 空間、時間および因果関係といった範疇に関して言うと、レーニンは、エンゲルスの解釈に従う。
 弁証法的唯物論は、因果関係を機能的な依存性だとは見なさない。そうではなく、事象間の諸関係には真の必然性(true necessity)がある。
 実践は、因果の関係性に関する現実の(real)必然性を確定する最良のものだ。事象の規則的連続性を観察し、それによって望ましい結論を得るときはいつでも、我々は、原因・結果の関係は我々の想念(imagination)の作用ではなくて物質世界の現実の性質なのだ、と論証する。
 このような連結関係は、しかしながら、弁証法的に理解されなければならない。事象のいくつかの類型があって単一の事象だけが存在するのではない場合は、一つの根本要素は他者に対する優位を維持し続けるが(これ以上の詳細はない)、つねに相互の反作用がある。
 時間と空間はいずれも、作動している知覚の力の産物ではない。感覚の<先験的な>形態でもないし、物質から離れた反対物でもない。それらは、物理的存在の客観的な性質だ。
 かくして、時間の継続と空間の整序との関係は、世界の現実的な属性(real property)であって、独立した形而上の一体たる地位をもたない。//
 レーニンは、自分が解釈する弁証法的唯物論は実践的意味での有効な武器であるだけではなく、自然科学と社会科学の現在の状態と合致する唯一の哲学でもある、と考える。
 科学が危機にある、またはそのように見えるのは、物理学者たち自身がこのことを理解していないからだ。
 『現代物理学は、産み出しつつある。弁証法的唯物論を、産もうとしている。』
 (ⅴ. 8, 同上、p.313〔=日本語版全集14巻378頁〕。)
 科学者たちは、弁証法的唯物論こそが、マルクスとエンゲルスを知らなかったために陥った困難から救われる唯一の途だということを、認識しなければならない。
 科学者の中には反対する者がいるとしても、弁証法的唯物論はすぐに勝利するだろう。彼らの態度の理由は、個別の分野では大きな業績を達成したとはいえ、自分たちのほとんどがブルジョアジーの従僕だからだ。//
 レーニンのこの著書は、それ自体の価値によってではなく、ロシア哲学の発展に与えた影響力のゆえに、興味深い。
 哲学としては、レーニンの著は、エンゲルスからの引用によって(この著全体でマルクスの文章は二つしか引用されていない)辛うじて成り立つ俗悪な(vulgar)『常識的』論拠にもとづく、粗雑なかつ素人臭い(amateurish)ものだ。そして、レーニンの反対者に対して、抑制なく悪罵を投げつけるもの(unbridled abuse)だ。
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変えた。
 段落の途中だが、ここで区切る。⑥へとつづく。


1636/明治維新④-「歴史」なるものの論理。

 「ああ、それにしても。この空の青さはどうだ。この雲の白さはどうだ。
  ああ、それにしても。あの朝の光はどうだ。この樹々の緑はどうだ。」
  小椋佳「この空の青さはどうだ」1972年、より
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 「明治維新に始まるアジアで最初の近代国家の建設は、この国風の輝かしい精華であった。」
 <日本会議>設立宣言(1997年5月)。
 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その〔皇室の〕権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」
 櫻井よしこ・週刊新潮2017年2月9日号。
 この二つを合成すると、「明治維新」による「近代」国家の形成で「列強の植民地にならずに済んだ」という、大まかには誰でも承認しそうな立派な?歴史観の叙述がなされているようだ。
 余計だが、ここで興味深く感じるのは、<保守>代表のような印象を与えるかもしれない(少なくともそう意図していると見える)「日本会議」も、堂々と「近代国家」という、ごくありきたりの概念を採用していることだ。
 この「日本会議」は、ある意味では、あるいはある側面では、特殊な考え方を別に採用しているのではなく、ごくふつうの、平凡な、ある意味では目新しくない、そして-いろいろな形容句はありうる-陳腐な概念と論理を使って思考し、活動していると思われる。
 そしてむしろ、概念や論理をどれだけ掘り下げて緻密に考察しているかが、この団体の人々には問われているとも思われる。
 戻って、上の立派な?歴史観について、立ち入る。
 「明治維新」を通過したからこそ植民地にならずに済んだ(独立の近代国家になった)。
 この叙述自体に、論理的にはじつは問題が介在している、と考える。
 第一に、「明治維新」かそうでないか、という二項対立的思考に陥ってはいないか、ということ。この場合、「そうでない」とは、徳川幕府体制の維持を無意識に念頭に置いている可能性がある。
 つまり、「明治維新」だけが<植民地にならずに、独立の近代国家になった>という現実をもたらしたのか否かだ。
 少なくとも論理的には、そんなことはない。
 「明治維新」なるものを経ないで、かつ<徳川幕府体制のそのままの維持>もしないで、<植民地にならずに、独立の近代国家になる>可能性はあった、というべきだ。
 論理的に、そうだ。実際もそうだったと考えているが、その方向へとは立ち入らない。
 第二に、「明治維新」が<植民地にならずに、独立の近代国家になる>必要な条件だったとかりにして、「明治維新」という概念で何を理解するか、だ。
 現実にあった「明治維新」なるものを、西南雄藩等出身者が一部公卿と天皇・朝廷とともに遂行した変革または改革だったと理解するとするのが大まかには通念かもしれない。
 しかし、「明治維新」なるものが、現実にあった(<歴史になった>)それ以外のものでもよかった可能性が、論理的にはある。
 つまり、いろいろな要素があるので多岐の論点に言及すると複雑になり過ぎるので簡潔にいうが、かりに「西南雄藩等出身者」ということを前提にしても、現実にあったのとは違って、長州・薩摩両藩出身者たち以外のものが優位を占める下級武士(・藩主)が遂行した「明治維新」になる可能性もあった、と見るべきだろう。
 その場合に、最終的には現実には木戸孝允が確定し、その奏上方式の原案も作ったとされる<五箇条誓文>なるものが発表された、とは限らない。
 論理的に、そうだ。実際にも、なお種々の選択の余地が、主体・理念・組織等の面であり得たと思われる。そうであっても、<植民地にならずに、独立の近代国家になった>ということは生じ得た、と考えられる。
 ややこしいことを、書いたかもしれない。
 結局のところ言いたいのは、<現実化した>・<歴史になった>ものが「正しかった」・「やむを得なかった」・「それなりの根拠・理由があった」という、よくありがちな<歴史観>・<歴史の見方>から解放されなければならない、ということだ。
 いかに「明治維新」を肯定的に評価したくとも、それは、現実にあった「明治維新」を主導した中心人物たち、櫻井よしこがよく言う<明治の先人たち>を高く評価するという理解の仕方に必然的につながらなければならないのでは、全くない。。
 「明治維新」なるものの理解も問題にしなければならないし、それ以外の選択肢が(徳川幕府継続のほかに)あったかどうかもまた、考慮すべきだ。
 あまりに単純な(と私には思われる)歴史理解が評論家・運動団体に散見されるので、あえて記した。
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 <歴史的決定論>あるいは<運命論>を過去に投影させるのは、将来に向けて日本共産党ら共産主義者が前提にしているかのごとき<不可避の歴史法則>と変わらないのではないか(不破哲三と櫻井よしこの発想の共通性・類似性をこの欄で指摘したことがある)。
 このような考え方を書いたのは、レーニン・「ロシア革命」のことを思い浮かべたにもよる。
 また、関連して、リチャード・パイプスの、<現実に生じてきたことを(無意識にであれ)必然・不可避のものと是認するのは、「勝者」のために釈明・弁明している>という趣旨の文章に接したことも大きい。
 幕末・明治維新そして明治期について、何となくこういうイメージを持つ者は、櫻井よしこや「日本会議」派以外にも多いのではないか。
 ロシアで1917年以降に起きた「現実」が<正しい>・<やむを得ない>・<それなりの理由がある>ものだったとすれば、その過程で、またレーニン時代にもスターリン時代にも、そして第二次大戦後においてすら、「体制」に反抗して(ときにはその旨を一言ふたこと洩らしただけで)殺された、しばしば残虐に殺された個々の人々の人生はいったい何だったのか。ロシア・ソヴィエト国家に限らない。
 <現実になった歴史>について、「正しい」とか「間違っている」とかの、価値判断を少なくとも簡単に下すのは、絶対に避ける必要がある。<歴史は勝者が作る>のであり、正しい・間違いというレベルの論争点ではない、ということをまずは確認すべきだろう。価値判断は関係がない。先にある問題は、<事実(歴史)になった>ことは何か、だ。
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 日本の被占領期における「日本国憲法」制定(形式上は明治憲法改正手続による)についても、似たようなことは言える。 
 現憲法を全体として「否定」したい気分がある程度の範囲にあるのは分かるとしても、現憲法は<無効>だとか、明治憲法復元とかの主張になるのを見ると、社会通念や論理上の問題とは別に、ある程度において<精神病理学>上の問題がある、と思っている。
 この点は、いずれまた(再び、何度も)触れる。
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 レシェク・コワコフスキは、「神は幸せか?」と題する論考の中で、明らかにつぎの二つを区別していた(凡人の私でも理解できた)。<*出典を、7/12に訂正した。>
 すなわち、経験(experience)の世界と想念(imagination)の世界。
 現実の世界と観念の世界。当たり前の区別のはずなのだが、これを十分に明確には区別していない文章を月刊雑誌や週刊誌に書いている人がいる。

1631/「哲学」逍遙③-L・コワコフスキ著17章7節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
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 第7節・レーニンの哲学への逍遙③。
 レーニンは明らかに、プレハノフと『オーソドクス』はそれに値するほど完全には経験批判論を論駁していない、と考えた。
 彼は1908年のほとんどを、この主題について考えて過ごした。そのうち数ヶ月はロンドンで、英国博物館で研究した。
 その成果は、<唯物論と経験批判論-反動哲学への批判的論評>という書名の本の形をとって、1909年にモスクワで公刊された。//
 経験批判論を批判する際に、レーニンは、内部的な一貫性に関する教理に対する、多様な哲学者たちの異論に特別にはかかわらなかった。
 彼の目的は、経験批判論は『哲学の根本問題』を解消するのに成功していないことを示すことだった。経験批判論は、物事に対する精神(mind)の優位性の哲学、または<その反対も正しい(vice versa)>の哲学で、徹底的なバークリ的観念論を隠蔽する言葉のまやかしの一片だ、そしてそのゆえに、宗教的霊感主義と搾取階級の利益を支持することを意図している、と。//
 レーニンの議論は、党派性(パルチザン性・党派主義、partisanship)にもとづいていた。
 彼は、この言葉を二つの意味で用いた。
 第一に、エンゲルスが明確にしたように、唯物論と観念論との間の中間的立場はあり得ないことを意味する。反対派へと移行したと主張する哲学者たちは、たんに陰険な観念論者だ、ということ。
 さらに、哲学の全ての主要問題は、これの付随物だ。
 世界は知り得るか否か、決定論は真実(true)なのか、真実や時と空間の意味の規準は何か-これらの問題は全て、特殊な例または『根本問題』の拡張物だ。
 これらになされる全ての解答は、傾向として唯物論的または観念論的だ。そして、これら二つの間での選択を回避することはできない。//
 第二に、レーニンにとって党派性(partisanship)は、哲学上の理論は階級闘争において中立的ではなくその手段だ、ということを意味する。
 全ての哲学が、何らかの階級利益に奉仕している。そして、階級闘争で引き裂かれた社会では、哲学者が自分の意図をどう考えていようと、そうでないことはあり得ない。
 直接の政治活動以上に、哲学において非党派的人間であることはもはや不可能だ。
 『哲学における非党派主義(non-partisans)は、政治においてそうであるように、どうしようもなく愚鈍だ。』(+)
 (<唯物論と経験批判論>ⅴ. 5、全集14巻p.286。〔=日本語版全集14巻345頁。〕)
 『哲学における非党派性(non-partisanship)とは、観念論に、そして唯信主義(fideism)に対する、卑劣にも仮面をつけた隷従にすぎない』(ⅵ. 5, 同上、p.355〔=日本語版全集14巻430頁〕)。(+)
 唯物論だけが、労働者階級の利益に奉仕することができる。そして、観念論者の教理は、搾取者の道具だ。//
 レーニンは、『党派性(partisanship)』のこれら二つの意味の関係を論じていないし、哲学者たちと階級の連関は過去へと投影され得るものかどうかも考察していない。
 例えば、唯物論者ホッブズと平民キリスト教聖職者は、抑圧された階級と資産所有者のイデオロギーをそれぞれ代表しているのか?
 レーニンは、現在ではプロレタリアートとブルジョアジーの根本的な社会的対立は哲学者の唯物論の陣営と観念論のそれへの二分に対応する、と主張するにとどめる。
 観念論と政治的反動との結合は、レーニンがつぎのように見なしているということで、最も明確に示される。すなわち、彼によると、あらゆる形態の観念論、とくに認識論上の主観主義は、実践上も論理的一貫性の問題としてもいずれも、宗教的信仰を支えるものだ。
 レーニンがこのような非難を、それ独自の哲学を根拠にしてあらゆる形態の宗教的信仰を攻撃している経験批判論に対して、より強く行うのはむつかしい。
 しかしながら、バークリは、容易な攻撃対象だった。彼の理論が否定する、物事の現実の存在を信じることは、無神論の主要な支えだ、とバークリは考えたので。
 ともあれ、観念論者たちの間の論争は、些細な意味しかもたない、バークリ、ヒューム(Hume)、フィヒテ(Fichte)、経験批判論者、そしてキリスト教神学者の間に根本的な違いはない、とレーニンは言った。
 主観的観念論に対するカトリック哲学者たちの攻撃は、家庭内での争論にすぎない。同様に、経験批判論者の宗教に対する反対論は、プロレタリアートの警戒を解いてプロレタリアートを違う途を経て宗教的神話学と同じ方向へと導くことを意図する欺瞞だ。
 『アヴェナリウスのような者の洗練された認識論上の妄想は職業上の作り物のままで、「自分自身の」小さな哲学上のセクト(党派)を形成しようとする試みだ。
 しかし、実際の問題としては、今日の社会の諸思想と諸傾向の闘争という一般的状況のもとでは、これら認識論上の策謀が果たす客観的な役割は、全ての場合において、同じだ。つまり、観念論と唯信主義への途を掃き清めることであり、それらに忠実に奉仕することだ。』(+)
 (ⅵ. 4, 同上、p.341。〔=日本語版全集14巻413頁。〕)//
 ゆえに、経験批判論は経験の要素がその中で存在論的に中立で『精神的(psychical)』でも『物質的(physical)』でもない世界の像を構築すると主張して、純真な読者を騙している、ということが容易に分かった。
 欺瞞的な言葉遣いが異なるにすぎないマッハとアヴェナリウスおよびドイツ、イギリス、ロシアの仲間の哲学者たちは、世界を印象の収集物へと変形することを主張しており、そうして『物質的現実』は、たんなる意識の産物になる。
 彼らがこの理論を一貫させれば、唯我主義の不合理へと行き着き、世界全体を個々の主体の創出物だと見なすことになる。
 彼らがこの結論を述べないとすれば、読者を誤導したいと願っているか、彼ら自身の教理の空虚さが暴露されるのを怖れているからだ。
 ともあれ、彼らは聖職者の従僕であり、非知性的な言葉の紡ぎ手であって、単純な者たちを瞞し、真の哲学的問題を混乱させている。一方で、ブルジョアジーは権力を自分たちに維持するために民衆の当惑を利用している。
 『我々のうち誰でも、物質的(physical)なものと精神的(mental)なものとを知っている。しかし誰も現在では、「第三の」ものを知らない。
 アヴェナリウスは、策略でもって自分の痕跡を隠蔽しているにすぎない。一方で、<実際には(in fact)>、自我は始源的なもの(中心項)で自然(環境)は二次的なもの(対立項)だと宣言している。』(+)
 (ⅲ. 1, 同上、p.147。〔=日本語版全集14巻172頁。〕)//
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 (+ 秋月注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ④へつづく。

1630/「哲学」逍遙②-L・コワコフスキ著17章7節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
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 第7節・レーニンの哲学への逍遙②。
 この〔リュボフ・アクセルロートの〕本は、レーニンがのちに経験批判論に反駁したことのほとんど全てを含んでいた。レーニンよりも簡潔だったが、論調は同じく粗野だった。
 二つの主要な論拠が、外部世界は我々の感覚へ『反射したもの』だ、またはそれに『対応したもの』だという見方を支持するために、提示された。
 第一に、我々は正しい(true)知覚と偽り(false)のそれかを、妄想か『適正(correct)な』観察かを区別する。そして、実際と我々の感覚が一つであり同じであるなら、我々は区別することができない。
 第二に、事物は我々の頭の中にではなく、その外側にあることを、誰でも知っている。
 カントの哲学は、唯物論と観念論の間の折衷物だ。
 カントは、外側世界という観念を維持した。しかし、神学と神秘主義の影響をうけて、世界は知り得ない(unknowable)ものだと述べた。
 この折衷物は、しかしながら、作動しないだろう。我々の知識の根源は意識と物事のいずれかにある。第三の可能性は、ない。
 物事を定義することはできない。なぜなら、『始源的事実』(primal fact)だからだ。
 『全ての事物の本質』、『全ての現象の起源かつ唯一の原因』、『元来の実質』、等々。
 物事は『経験にある所与』のもので、感覚的知覚によって知ることはできない。
 観念論は、主体なくして客体はない、と主張する。しかし、科学は地球が人よりも前に存在したことを示した。そして、意識は自然の産物であるはずであり、自然の条件ではない。
 数学知識も含めた我々の全ての知識は、我々の精神にある外部世界の『反射物』から成る、経験に由来する。
 マッハのように世界は人間の創出物だと主張するのは、科学を不可能にする。なぜなら、科学は、その研究の客体としての外部世界を前提にするからだ。
 観念論は、政治上は、反動的帰結へと導く。
 マッハとアヴェナリウスは、人間を普遍世界の測量器(measure)だと考えた。
 『この主観的理論は、大きな客観的価値をもつ、とする。
 こう言うことで、貧者は富者であり、富者は貧者だ、全てが主観的な経験に拠っている、ということを証明するのは簡単だ。』
 (<哲学小論集>〔L・アクセルロート, 1906年〕、p.92。)
 主観的観念論はまた、絶対に確実に、唯我主義(solipsism)にもなる。全てが『私の』想像のうちにあれば、他の主体の存在を信じる理由は何もないからだ。
 これは原始人の哲学だ。野蛮人は文字通りに、頭の中に入ってくる全てのものの存在を信じて、夢想を現実と、偽りの知覚を真の知覚と混同する、そして、現実に存在しているものだと考える。これは、バークリイ(Berkley)、マッハ、ストルーヴェ、そしてボグダノフがそうしているのと同じだ。//
 同じ著作で、リュボフ・アクセルロートは、スタムラー(Stammler)に反対して、決定論を擁護する。スタムラーは、歴史的決定論と革命的な意思の力の両方を信じることは一貫していないと、異論を述べていた。
 この点に関しても、彼女は、プレハノフの反論と同じものを繰り返す。歴史を作るのは人間で、その行為や精神的努力の有効性は、人間が制御できない情勢に依存する。
 自然の必然性と歴史的必然性の間に、あるいはしたがって、自然科学と社会科学の方法の間に、違いはない。
 ブルジョア的観念論者は、現在だけが現実だと主張する。そうすることで、彼らは、歴史により宿命的に破滅させられる階級の恐怖を表現している。しかし、マルクス主義者には、歴史の法則に照らして予見することができるという意味で、未来は『現実』だ。//
 つぎのことは、追記しておくべきだ。すなわち、リュボフとプレハノフはいずれも、『反射物』という語は文字通りに受け取られるべきでない、と言う。
 知覚は、鏡の中の像と同じ意味における事物の『写し』ではない、そうでなく、その内容物はそれが生む客体に依存しているという意味においてだ、と。//
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 ③へとつづく。


1628/「哲学」逍遙①-L・コワコフスキ著17章7節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊本, 2008)。
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 第3節「経験批判論」は主としてまたはほとんどがアヴェナリウス(Avenarius)とマッハ(Mach)の経験批判論に関する論述、第4節「ボグダノフとロシア経験批判論」および第5節「プロレタリアートの哲学」は、主としてまたはほとんどボグダノフ(Bogdanov)の議論に関する論述だ。そして、この直前の二節に比べると短いが、第6節「<神の建設者>」はルナチャルスキー(Lunacharsky)の議論に関する論述だ。後二者がアヴェナリウスやマッハと区別されているのは、時期も含めると後二者はまだ「マルクス主義者」の範囲内と見られていたことによると思われる。L・コワコフスキが叙述するこの時期にはプレハノフやリュボフ・アクセルロートは「哲学的」にはまだレーニンと同派だったらしくあるが、この二人ものちには、レーニン主義(のちに言う)<正統派>から、政治運動的にも離れていく。
 これら第3節~第6節の試訳は割愛し、第7節から再開する。なお、レーニン<唯物論と経験批判論>への論及があるのは、まだ先だ。
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 第7節・レーニンの哲学への逍遙①。
 ロシアの経験批判論者はたいてい、自分たちはマルクス主義者だと考えていたが、エンゲルスとプレハノフの素朴で無批判の『常識的な』哲学への軽蔑を隠さなかった。
 1908年2月25日のゴールキあての手紙で、レーニンは、ボグダノフやその仲間たちとの論争の経過について述べた。
 レーニンは、1903年にプレハノフがボグダノフの誤りについて語りかけたが、とくに危険だとは考えなかった、と書いた。
 1905年革命の間、レーニンとボグダノフは、中立的分野として哲学を暗黙裡に無視していた。
 しかしながら、1906年に、レーニンは〔ボグダノフの〕<経験批判論>の第三巻を読んで、激しく苛立った。
 彼は、ボグダノフに長い批判的な論評を書き送った。これはしかし、残っていない。
 1908年に<マルクス主義哲学に関する小論集>が公刊されたとき、レーニンの憤慨には際限がないほどだった。//
 『どの論文も、私はひどく腹が立った。いや、いや、これはマルクス主義ではない!
 我々の経験批判論者、経験一元論者そして経験象徴論者は、泥沼に入り込んでいる。
 外部の世界の実在を「信じること」は「神秘主義」だ(バラゾフ)と読者を説得しようとしたり、きわめて下品なやり方で唯物論とカント主義を混同させたり(バラゾフとボグダノフ)、不可知論(agnosticism)の変種(経験批判論)や観念論の変種(経験一元論)を説いたり、「宗教的無神論」や最高度の人間の潜在能力への「崇拝」を労働者に教えたり(ルナチャルスキー)、弁証法に関するエンゲルスの教えは神秘主義だと宣言したり(ベルマン)、フランスの何人かの「実証主義者」あるいは不可知論者か形而上学者の-悪魔よこいつらを持って行け-悪臭を放つ物から「認識論の象徴的理論」をうまく抽出したりしている(ユシュケヴィチ)!
 いや、本当に、ひどすぎる。
 確かに、我々ふつうのマルクス主義者は、哲学に十分には通じていない。
 しかし、なぜ、このようなしろものをマルクス主義の哲学だとして我々に提示することによって、我々を侮辱するのか!』(+)
 (全集13巻p.450。〔=日本語版全集13巻「ア・エム・ゴーリキーへの手紙」463頁。〕)//
 経験批判論者によって直接に攻撃されたプレハノフは、エンゲルスの唯物論を守って彼らと論争した、正統派内での最初の人物だった。
 プレハノフは、彼らの哲学は『主観的観念論』だと、感知する主体の創出物と全世界を見なすものだと、強く非難した。
 党に分裂が生じたとき、プレハノフは-ボルシェヴィキ知識人階層の状況からする何らかの理由で-、攻撃文の中で、彼が対抗しているボルシェヴィズムを観念論の教理と結びつけた。  
 ロシアの経験批判論は、ボルシェヴィキの『ブランキ主義』を正当化するための哲学的な試みだと、彼は主張した。それは、自然に生起するに任せないで暴力的手段によって社会発展をせき立てようとすることで、マルクス主義理論を踏みにじる政治なのだ、と。
 ボルシェヴィキの主意主義は、主意主義的認識論の一部だ。知識を主体的機構の行為だと見なし、事物を人間の精神(mind)から独立に実存するものだと説明しないのだ。 
 プレハノフは、こう主張した。経験批判論は、ボルシェヴィキの政治がマルクス主義の歴史的決定論に反しているのと同じ様態で、マルクス主義の教理の実在論(realism)と決定論に反している、と。//
 マッハ主義者(Machists)に対抗する実在論の立場を擁護して、プレハノフは、人間の知覚は客体の『写し』ではなくヒエログリフ文字の記号だということを承認するにまで至った。
 レーニンは、この点で彼をすみやかに叱責し、『不可知論』への認容されざる譲歩だと述べた。//
 リュボフ・アクセルロート(筆名『オーソドクス』)はまた、エンゲルスを擁護して、ボグダノフを批判する論文を1904年に発表した。そこで彼女は、レーニンが18カ月前に執筆するように奨めたと書いた。
 自分の党への義務を自覚して(彼女が言うように)、彼女は、マッハとボグダノフは客体を諸印象の集合体だと見なし、かくして精神を自然の創出者にする、そしてこれはマルクス主義に真っ向から反している、と論じた。
 意識によって社会を説明する主観主義的観念論は、『情け容赦なき一貫性』をもって、社会的な保守主義に至ることになるだろう。
 マルクスが示していたように、有力な意識は支配階級のそれであり、したがって『主観主義』は、現存する社会を永続化すること、および将来の思想を無益のかつ夢想的な(utopian)ものとして放棄することを意味することになる。//
 リュボフ・アクセルロートは、<哲学小論集>(1906年)で、ボグダノフのみならず、ベルジャエフ、ストルーヴェ、カント主義者、そして一般に哲学的観念論をも攻撃した。
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 段落は終わっていないが、ここで区切る。
 ②へとつづく。

1625/知識人の新傾向②-L・コワコフスキ著17章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
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 第2節・ロシア知識人の新傾向②。
 <観念論の諸問題>〔の1903年の刊行〕は、ロシア精神文化史上の重要な事件だった。
 その考えが特別に新しかった、からではない。そうではなく、進歩的知識人階層が19世紀の進化主義や功利主義から得た全ての知的かつ道徳的な固定観念(stereotypes)に対する、一致した攻撃だったからだ。また、人民主義(Populist)の見地からではなく、ましてや保守的な正統派のそれからでもなく、最も先端的な新カント派またはニーチェの見地から、マルクス主義を批判したからだ。
 あらゆる陰影をもつ革命主義者によって受容されていた中心観念(key concept)および『進歩的』知識人の主要な歴史哲学上のドグマが、つい最近まで少なくとも一定の範囲では自分たちの仲間だと見なしていた者たちからの、挑戦を受けた。
 無神論、合理主義、進化主義、進歩と因果関係という範疇、および『集産主義的』道徳性という前提-これら全ては、迷信に対する理性の勝利を示すものではなく、知性の貧困の兆候だ、と主張された。
 マルクス主義および社会主義の全てについて、自由や人格的価値と対立するものだとして、新しい危機が明るみにされた。全ての教理上の図式は、将来および集産的理想への自己認識のために現在を奴隷化するものだ、と主張された。
 同時に、十分には気づかれることなく、個人の絶対的価値やその発展と社会変革への願望の間の矛盾、に光が当てられた-とくに個人がニーチェ思想(lines)によって高く評価されるときに、明らかになる矛盾。
 <観念論の諸問題>をブルジョア的リベラル主義者の宣言書にすぎないと見なしたマルクス主義者は、すぐに、この新しい運動の基本要素について強調することになった。すなわち、自己中心主義または大衆の苦痛や熱望を侮蔑する<君主的人間(Herrenmensch)>の道徳性を示すものだ、と強調した。
 プレハノフとともに当時に最も熱心な伝統的マルクス主義哲学の擁護者だったリュボフ・アクセルロート(Lyubov Akselrod)は、雑誌< Zaray >に『オーソドクス』と称する筆名を用いて、新しい考え方に対する、この観点からする徹底的な批判論考を発表した。
 彼女は、レーニンは一般的にはそうでなかったが、真面目に事実にもとづくやり方で、反対する論拠を概括する能力があった。
 彼女の解答は、しかしながら、主として、神聖化された定式を反復すること、ベルジャエフ、フランクおよびブルガコフが説くごとき人格的価値のカルトは利己主義および社会的責任の解体を賞賛するものだと述べること、だった。
 彼女は、マルクス主義は宗教を抑圧や不平等の道具だとして攻撃すると繰り返し述べて、史的唯物論と哲学的唯物論の間の関連性を強調した。この点で、他の全てと同じく、プレハノフの信奉者だった。
 この問題は、マルクス主義者の中で生々しいものだった。
 マクス・ツェターバウム(Max Zetterbaum)は、<新時代(Die Neue Zeit)> に連載の論文を最近に発表して、史的唯物論はいかなる存在論(ontological)的立場をも含んでおらず、カントの先験哲学(transcendentalism)と両立するものだと主張した。
 ドイツとオーストリアのマルクス主義者に一般的だったこの見方は、プレハノフと『正統派』には当然に相容れないものだった。
 リュボフ・アクセルロートが書くように(こう表現する責任をとるが)、『機構的な見解』は、人類の歴史とともに人類出現以前の歴史を含む世界を統合的に解釈するものだ。
 進歩という合理的な想念(concept)が存在する余地はない。歴史的に進歩的なものは、何であれ社会と個人の維持に向かうものだ。
 (彼女は、この定式の複雑な問題を解きほぐそうとはしていない。)
 人間の歴史の研究と自然科学との間には、根本的な違いはない。
 社会科学は、物理学のようにのみ『客観的』であり、かつ物理学のように法則と反復しうる現象にかかわっている程度でのみ『客観的』だ。//
 このような概括および簡素化しすぎの解答は、批判された著作の執筆者たちがマルクス主義者だと公言せず、自分たちの名のもとで観念論を擁護したということで、気易いものになった。
 新しい異説に迷わされてマルクス主義の伝統を、『主観主義』傾向にもとづく、とくに認識論(epistemology)の経験批判論的な種類にもとづく社会哲学と結合させようとする社会民主主義者に対処するのは、より困難だった。//
 経験批判論をマルクス主義と融合させようとする試みは、西側でもまた(とくにヴィクトル・アドラー(Viktor Adler)の息子のフリートリヒ(Friedrich)により)なされた。だが、こうした思考方法をする哲学者の一派全体について語ることができるのはロシアについてだけだ、というのは特筆に値する。彼らは、短い間だけだが、かなり大きい影響力をもった。
 多くの西側『修正主義者』と違って、この一派は、マルクス主義は哲学的に中立で、いかなる認識論上の理論とも結合され得るということを争わなかった。しかし他方で、マルクス主義の社会理論や革命戦術と調和する哲学を採用しようと探求した。
 正統派による批判と同じように、彼らは、つぎのような世界に関する統合的な像を創り出そうと努めた。その中で、特定の哲学上の教理が他の何よりも、史的唯物論の基盤と革命理論を与えることになるような世界についての。
 この点で、彼らは、ロシアの社会民主主義者の間に広がっていた教条的(doctrinaire)な精神を共有していた。
 経験主義批判の哲学で彼らが魅惑されたのは、その科学的で反形而上学的な厳格主義であり、認識論への『活動家的(activistic)』な接近方法だった。
 この二つの特徴はいずれも、継承した哲学の『体系(systems)』についてのマルクス主義の聖像破壊主義的な態度と、ロシア社会民主党のボルシェヴィキ派がもつ革命的な志向と、十分に一致するように見えた。//
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 第2節、終わり。第3節は<経験批判論>。

1619/二党派と1905年革命③-L・コワコフスキ著17章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
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 第1節・1905年革命のときの分派闘争③。
 つづく数年間は、これらの問題、とくに農業問題綱領およびカデットとの関係についての問題、に関する論争でいっぱいだった。
 メンシェヴィキ派は、ますます懐疑心をもち、戦術上の問題についてしばしば優柔不断だった。そして、合法的な制度や幅広い基盤のあるプロレタリア組織を是認する方向へと傾斜した。
 レーニンは、党があらゆる合法的活動の機会を利用するのを望んだが、しかし、その秘密組織を維持し、憲法制定主義、議会主義および労働組合主義への追従に抵抗することをも望んだ。すなわち、全ての合法的形態は、実力による権力奪取という最終の目標に従属するものでなければならないのだった。
 レーニンは、同時に、個人に対するテロルというエスエル〔社会革命党〕の方針に反対した。
 彼は、1905年の前に、党は原理上の問題としてテロルを拒否はしない、テロルは一定の事情のもとで必要だ、しかし、大臣やその他の公的人物への攻撃は時期尚早で、反発を誘発する、と強調した。革命的勢力を散逸させ、有益な効果を何らもたらさないだろうから、という理由で。
 革命の時代の後半部には、レーニンは、『没収(expropriations)』に関してメンシェヴィキと激論を交わした。『没収』とは、党の財政資金を補充するための、テロリスト集団による武装強盗のことだ。
 (トランスコーカサスでのスターリンは、このような活動の主要な組織者の一人だった。)
 メンシェヴィキおよびトロツキーは、このような実務は無価値で非道徳的だと非難した。しかし、レーニンは、個人に対してではなく銀行、列車あるいは国家財産に対して行使されるという条件で、これを擁護した。
 1907年春の党大会で、レーニンの反対に抗して、『没収』はメンシェヴィキの多数派によって非難された。//
 党員の数は、反動の時期に相当に消滅した。
 1906年9月の『統一大会』の後で、レーニンは、その数を10万人余だと見積もった。
 大会の代議員たちは、およそ1万3000人のボルシェヴィキと1万8000人のメンシェヴィキを代表した。再加入したブント(the Bund)は3万3000人のユダヤ人労働者を有しており、加えて、2万6000人のポーランド・リトアニア社会民主党員、1万4000人のラトヴィア人党員がいた。トロツキーはしかし、1910年に、全体数をわずか1万人と推算していた。
 しかしながら、減勢にもかかわらず、革命後の状況は合法活動への多くの幅広い機会を与えた。
 1907年の初めに、レーニンはフィンランドへと移り、そこでその年の末に再び亡命した。
 彼は、第二ドゥーマ選挙のボイコットを宣言した。しかし、全ての社会民主党員が従ったわけではなく、35名が選出された。
 約三ヶ月のちに、第二ドウーマが、第一のそれのように、解散された。そのときに、レーニンは、ボイコット方針を放棄し、彼の支持者たちが第三ドゥーマに参加するのを認めた。社会改革のためにではなく、議会制主義という妄想を暴露して、農民代議員たちを革命的方向へと導くために。
 数ヶ月前にはボイコットに反対していた誰もが、レーニンによると、レーニンはマルクス主義の考え方を知らない全くの日和見主義者だという姿勢を示した。今や、ボイコットに賛成する誰もが、日和見主義者で無学な者を自認することになった。
 ボルシェヴィキの中に、レーニンを『左翼から』批判する小集団、彼が『otzovist』と命名した者たち、すなわち社会民主党代議員をドウーマから召還(recall)することを主張する『召還主義者』、が出現するようになった。
 一方で、別の集団は、『最後通告主義者(ultimatist)』と命名された。ほとんどはメンシェヴィキの代議員たちに、従わなければ解職すると党が送付すべきとする最後通告書(ultimatum)の案を作成したからだ。
 二つの小集団の違いは重要ではなく、重要だったのは、革命的ボルシェヴィキの中にレーニンに反対する分派ができ、党は議会と関係をもつべきではなく、来たる革命への直接的な用意に集中すべきだ、と考えたことだ。
 この小集団の最も積極的なメンバー、A・A・ボグダノフ(Bogdanov)は、レーニンの長い間のきわめて忠実な協力者で、ロシア内でボルシェヴィズムを組織化する主要な役割を果たした。そして、独立の政治運動としてのボルシェヴィズムを、レーニンとともに共同で創始した者だと見なすことができる。
 『召還主義者』または『最後通告主義者』の中には、数人の知識人がいた-すなわち、ルナチャルスキー(Lunacharsky)、ポクロフスキー(Pokrovsky)、メンジンスキー(Menzhinsky)。このうち何人かは、のちにレーニン主義正統派へと復帰した。//
 『召還主義者』との戦術上の論争は、奇妙な様態で哲学上の論争と、このときに社会民主党の陣地内で生じた論争と、絡みついた。レーニンはこの論争から唯物論を守る専門論文を作成して、1909年に刊行した。
 この論争には、簡単に叙述しておくべき前史があった。//
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 第1節、終わり。第2節・ロシアの知識人の新傾向、へとつづく。

1617/二党派と1905年革命②-L・コワコフスキ著17章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
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 第1節・1905年革命のときの分派闘争②。
 革命の結果、社会民主党は正式に再統合した。
 1906年4月のストックホルム大会で-メンシェヴィキ〔原義は少数派〕はかなりの多数派だったが旧名を維持した-、組織上の一体性が回復され、1912年にレーニンが最終的な分裂をもたらすまで、6年間続いた。
 イデオロギー上および戦術上の一体性は、しかしながら、なお不足していた。
 根本的な違いと相互非難はつづいた。レーニンは従来よりは、メンシェヴィキに関して粗野でなく侮蔑的でない言葉を用いたけれども。
 いずれの党派も、革命の結果は自分たちの理論を確認するものだと解釈した。
 レーニンは、ブルジョアジー(この場合はカデット)は瑣末な譲歩と引き換えにツァーリ体制と取引を始める用意がある、彼らは官僚制よりも民衆革命が怖ろしい、と主張した。
 彼は強く主張した。革命はまた、プロレタリアート以外に見込むことのできる唯一の勢力は、この段階では社会民主党の自然の同盟者である農民層だということを示した、と。
 他方で、メンシェヴィキの何人かは、ブルジョアジーを同盟者だと見なすようにしないで疎外するのを要求する過度の急進主義によって、第二の局面ではプロレタリアートが切り離されたがゆえに、革命は失敗した、と考えた。
 トロツキーは、1905年の諸事件に学んで、その永続革命の理論をより精確なものに定式化して、ロシアの革命はただちに社会主義の局面へと進化するに違いない、それは西側に社会主義的大激変を誘発するはずだ、と主張した。//
 かくして1905年革命後の時期には、旧い対立は残ったままで、新しい問題がそれぞれの考えにしたがって反応する二つの分派に立ちはだかった。
 メンシェヴィキは、新しい議会制度上の機会を利用する方向へと多く傾斜した。
 レーニンの支持者たちは、最初はボイコットに賛成し、ドゥーマに代表者を送ることに最終的に同意したとき、ドゥーマは社会改革の仕組みではなくて革命的な宣伝活動のための反響板だと見なした。
 メンシェヴィキは、革命の間の武装衝突に参加はしたけれども、武装蜂起を最後に訴えるべき方法だと考え、他の形態での闘いにより大きな関心をもった。
 一方で、レーニンには、暴力を用いる蜂起や権力の征圧は革命的目標を達成する唯一の可能な方法だった。
 レーニンは、プレハノフの『我々は武器を握るべきでない』との言葉に呆れて、メンシェヴィキのイデオロギー上の指導者がいかに日和見主義者であるかを示すものとして、これを繰り返して引用した。
 メンシェヴィキは、将来の共和主義的国家での最も非中央集権的な政府に賛成し、とりわけこの理由で、没収した土地を地方政府機関に譲り渡すことを提案した。国有化はブルジョアジーの手中に収まるだろう中央の権力の強化を意味することになる、と論拠づけることによって。
 (ロシア国家の『アジア的』性格は、プレハノフが非中央集権化に賛成したもう一つの理由だった。)
 レーニンは、国有化案を-つまり農民の土地の没収でも農村集団共有化でもない『絶対的地代』の国家への移転を-持っていた。彼の見方では、革命後の政府はプロレタリアートと農民の政府の一つになり、メンシェヴィキの主張には根拠がなかった。
 他のボルシェヴィキたちは再び、若いスターリンを含めて、没収した全ての土地を分配することを支持した。これは農民たちが現実に願っていることに最も近く、最終的には綱領に書き込まれた。
 メンシェヴィキは、ドゥーマの内外のいずれの者も、カデット〔立憲民主党〕との戦術的な連合の方に傾いていた。
 レーニンはツァーリ体制の従僕だとしてカデットを拒否し、1905年の後で主として労働者団(the Labour Gruop)(トルドヴィキ、Trudoviki)によって代表される農民たちと一緒に活動することを選んだ。
 メンシェヴィキは、全国的な労働者大会でプロレタリアートの幅広い非政党的組織、つまりは全国的なソヴェトの制度を作ることを計画した。  
 しかし、レーニンにとって、これが意味するのは党の排除であり、党を<何と怖ろしくも>( horribile dictu )プロレタリアートに置き換えることだった。
 レーニンはまた、ソヴェトは蜂起(insurrection)の目的にのみ用いられるものだと主張して、アクセルロート、ラリン、その他の労働者大会の提唱者を激しく攻撃した。
 『「労働者ソヴェト」代表たちとその統合は、蜂起の勝利にとって不可欠だ。勝利する蜂起は、不可避的に別の種類の機関を創出するだろう。』(+)
 (<戦術の諸問題>シンポジウムより、1907年4月。全集12巻p.332。〔=日本語版全集12巻「腹立ちまぎれの戸惑い」331頁。〕)
  (+秋月注記) 日本語版全集12巻(大月書店、1955/32刷・1991)を参考にして、ある程度は変更した。
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 ③へとつづく。

1615/二党派と1905年革命①-L・コワコフスキ著17章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 この書物には、邦訳がない。三巻合冊で、計1200頁以上。
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。三巻合冊本(New York, Norton)の、p.687~p.729。
 試訳をつづける。訳には、第2巻の単行本、1978年英訳本(London, Oxford)の1988年印刷版を用いる。原則として一文ごとに改行する。本来の改行箇所には、//を付す。
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 第1節・1905年革命のときの分派闘争①。
 第二回党大会の効果は、ロシアでの社会民主主義運動の生命が続いたことだと誰にも感じられた。
 レーニンが大会の後半で党への支配力を勝ち取った僅少差の多数派を、彼が望んでいたようには行使できないことが、大会の後ですぐに明らかになった。
 これは、主としてプレハノフ(Plekhanov)の『裏切り』によった。
 大会は、党機関誌のための編集部を任命した。この機関は、そのときは実際には中央委員会から独立していて実際上はしばしばもっと重要だったが、プレハノフ、レーニンおよびマルトフ(Martov)で構成された。一方で、『少数派』の残り-アクセルロート(Akselrod)、ヴェラ(Vella)およびポトレソフ(Potresov)-は、レーニンの動議にもとづいて排除された。
 しかしながら、マルトフはこうして構成された編集部で働くのを断わり、一方で、プレハノフは、数週間のちにボルシェヴィキと離れ、彼の権威の重みでもって4人の全メンシェヴィキの者と編集部を再構成するのに成功した。 
 このことで、レーニンは代わって辞任した。そのときから<イスクラ>はメンシェヴィキの機関になり、ボルシェヴィキが自分たちのそれを創設するまで一年かかった。//
 大会は、論文、小冊子、書籍およびビラが集まってくる機会で、新しく生まれた分派はそれらの中で、背信、策略、党財産の横領等々だという嘲弄と非難を投げかけ合った。
 レーニンの書物、<一歩前進二歩後退>は、この宣伝運動での大砲が炸裂した最も力強い破片だった。
 これは大会での全ての重要な表決を分析し、党の中央集権的考えを擁護し、メンシェヴィキに対して日和見主義だと烙印を捺した。
 一方で<イスクラ>では、プレハノフ、アクセルロートおよびマルトフの論考がボルシェヴィキは官僚制的中央集中主義、偏狭、ボナパルト主義だと、そして純粋な労働者階級の利益を知識階層から成る職業的革命家の利益に置き換えることを謀っていると、非難した。
 それぞれの側は、別派の政策はプロレタリアートの利益の真の表現ではないという同じ非難を、お互いに投げつけ合った。その非難は、だが、『プロレタリアート』という言葉が異なるものを意味しているという点を見逃していた。
 メンシェヴィキは、その勝利へと助けるのが党の役割である、現実の労働者による現実の運動を想定した。
 レーニンにとっては、現実の自然発生的な労働者運動は定義上ブルジョア的な現象で、本当のプロレタリア運動は、正確にはレーニン主義の解釈におけるマルクス主義である、プロレタリア・イデオロギーの至高性によって明確にされる。//
 ボルシェヴィキとメンシェヴィキは、理論上は、一つの政党の一部であり続けた。
 両派の不和は不可避的にロシアの党に影響を与えた。しかし、多くの指導者が<移民者>争論をほとんど意味がないと見なしたように、その不和はさほど明白ではなかった。
 労働者階級の社会民主党員は、それぞれの派からほとんど聞くことがなかった。
 両党派は、地下組織への影響力を持とうと争い、それぞれの側に委員会を形成した。
 一方で、レーニンとその支持者たちは、党活動を弱めている分裂を治癒するために、可能なかぎり早く新しい大会を開くように圧力をかけた。
 そうしている間に、レーニンは、ボグダノフ(Bogdanov)、ルナチャルスキ(Lunacharski)、ボンチ・ブリュェヴィチ(Bonch-Bruyevich)、ヴォロフスキー(Vorovsky)その他のような新しい指導者や理論家の助けをうけて、ボルシェヴィキ党派の組織的かつイデオロギー的基盤を創設した。//
 1905年革命は両派には突然にやって来て、いずれも最初の自然発生的勃発には関係がなかった。
 ロシアに戻ってきた<亡命者>のうち、どちらの派にも属していないトロツキーが、最も重要な役割を果たした。
 トロツキーはただちにセント・ペテルブルクに来たが、レーニンとマルトフは、1905年11月に恩赦の布告が出るまで帰らなかった。
 革命の最初の段階は、レーニンが労働者階級自身に任せれば何が起こるかを警告したのを確認するがごとく、実際には警察によって組織された労働組合をペテルブルクの労働者が作ったこととつながっていた。
 しかしながら、オフラーナ〔帝制政治警察〕のモスクワの長であるズバトフ(Zubatov)が後援していた諸組合は、組織者の観点から離れていた。
 労働者階級の指導者としての役割を真剣に考えた父ガポン(Father Gapon)は、『血の日曜日』(1905年1月9日)の結果として革命家になった。そのとき、冬宮での平和的な示威活動をしていた群衆に対して、警察が発砲していた。
 この事件は、日本との戦争の敗北、ポーランドでのストライキおよび農民反乱によってすでに頂点に達していた危機を誘発した。//
 1905年4月、レーニンは、ボルシェヴィキの大会をロンドンに召集した。この大会は党全体の大会だと宣言し、しばらくの間は分裂に蓋をし、反メンシェヴィキの諸決議を採択し、ただのボルシェヴィキの中央委員会を選出した。
 しかしながら、革命が進展するにつれて、ロシアの両派の党員たちは相互に協力し、これが和解の方向に向かうのを助けた。
 自然発生的な労働者運動は、労働者の評議会(ソヴェト)という形での新しい機関を生んだ。
 ロシア内部のボルシェヴィキは最初は、これを真の革命的意識を持たない非党機関だとして信用しなかった。
 しかしながら、レーニンは、将来の労働者の力の中核になるとすみやかに気づいて、政治的にそれら〔ソヴェト〕を支配すべく全力をつくせと支持者たちに命じた。//
 1905年10月、ツァーリは、憲法、公民的自由、言論集会の自由および選挙される議会の設置を約束する宣言を発した。
 全ての社会民主主義集団とエスエルはこの約束を欺瞞だと非難し、選挙をボイコットした。
 1905年の最後の二ヶ月に革命は頂点に達し、モスクワの労働者の反乱は12月に鎮圧された。
 血の弾圧がロシア、ポーランド、ラトヴィアの全ての革命的な中心地区で続き、一方で革命的な群団は、テロルやポグロム(pogroms、集団殺害)へと民衆を煽った。
 大規模の反乱が鎮圧された後のしばらくの間、地方での暴発や暴力活動が発生し、政府機関によって排除された。
 革命的形勢のこのような退潮にもかかわらず、レーニンは、闘争の早い段階での刷新を最初は望んだ。
 しかし、レーニンは、最後には反動的制度の範囲内で活動する必要性を受容し、1907年半ばからの第三ドゥーマ選挙に社会民主党が参加することに賛成した。
 この場合には(後述参照)、彼は自分の集団の多数派から反対され、メンシェヴィキには支持された。//
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 ②へとつづく。

1612/L・コワコフスキ著16章「レーニン主義の成立」小括。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
 この章は見出し上は第4節までしかないが、最後に一行の空白のあとに、内容的にはこの章の「小括」だと見られる文章がある。
 これを、「(小括)」との見出しで試訳する。
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 (小括)
 党、民族問題、およびプロレタリアートのブルジョアジーや農民層との関係についての理論-これら三つの問題について、1905年の革命の前にようやく、レーニン主義は、社会主義運動の内部での新しい形成物として姿を現わした。その新しさは、レーニン自身によって最初に知覚されたものではなかったけれども。
 レーニン主義は、都市ブルジョアジーではなく農民層と同盟した社会主義運動を想定した。
 プロレタリアートは、先ずは民主主義的権力を農民層と分かち持つのを望み、次いでブルジョアジーと自作農(土地所有農民)に対する社会主義とプロレタリア独裁に向かう闘いを始めるのを望んで、半封建国家での民主主義革命のために自らを組織すべきものとされた。
 これら全てにおいて、プロレタリアートは党-プロレタリアートの意識の真の保持者-の指導のもとに行動すべきものであり、党は、労働者の支持を追求しはするが、その支持があるがゆえにでは決してなく、社会を『科学的』に理解しているがゆえにこそ自らを『プロレタリア』だと考える。 
 党は職業的革命家の中核の周りに建設される、中央集中的でかつ階層的な党であるべきであり、その戦術とイデオロギーにおいて『経験上の(empirical)』プロレタリアートに依存することはない。
 党の任務は、あらゆる要因と形態の反抗者たちを利用し、-民族的、社会的、宗教的または知的のいずれであれ-全ての活力を呼び寄せて<旧体制>(アンシャン・レジーム、ancien regime )に対抗するように向けることだ。それらと一体になるのではなく、自分たちの目的のためにそれらを利用することだ。
 かくして、党は、ツァーリ体制に反対するリベラル派を支持した。それ自身の将来の意図は、リベラル主義を破壊することだったとしてすら。
 党は、封建主義の遺産に反抗する農民層を支持した。その究極的な目的は、農民層から土地所有の権利を奪うことだったけれども。
 党は、正教正統派に反抗する宗教聖職者を支持した。党は無神論を表明し、『宗教的偏見』を一掃するつもりだったけれども。
 党は、独立への民族的な運動と熱望を、ロシア帝国を崩壊させるのに役立つかぎりで、支持した。それ自身の目的は、ナショナルな国家を断固として廃棄することにあったけれども。
 簡潔に言えば、党は、現存の制度に反対している全ての破壊的な活力の利用を、開始した。一方でときには、そうした活力を具現化する全ての集団を、分離した社会勢力として、破壊しようとしたが。
 党は、一種の普遍的な機械装置で、あらゆる源泉からくる社会的活力を、一つの奔流へと統一するものとされた。
 レーニン主義とはこの機械装置の理論であり、諸情勢の異様な組み合わせに助けられて、想定を全く超えて有効であることを証明し、世界の歴史を変えた。//
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 第16章『レーニン主義の成立』、終わり。
 レーニンに関する論述が終わったわけではない。第17章は『ボルシェヴィキ運動の哲学と政治』、第18章は『レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ』だ。

1610/二つの革命・三人における②-L・コワコフスキ著16章4節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第4節・民主主義革命におけるプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永続革命』③。
 1917年4月まで、レーニンは、第一の革命がただちに第二のそれへと発展するとは考えていなかった。彼は、『第一の段階』で社会民主主義政府が権力を握るというパルヴゥスの見方に異議を唱えた。
 彼は、1905年4月に、このような政府は長続きしない、と書いた。
 なぜなら、『人民の莫大な多数派が支える革命的独裁だけが永続的なものであり得るからだ。<中略>
 しかし、ロシアのプロレタリアートは、今のところは、ロシアの大衆のうちの少数派だ。』(+)
 (『社会民主党と臨時革命政府』、全集8巻p.291。〔=日本語版全集8巻289頁。〕) 
 ゆえに、社会民主党は、専政体制の打倒をその全体として利益とする農民と権力を分かち持つことを想定すべきだ。
 他方で、レーニンは、1905年革命の前に、プロレタリアートの独裁は自作農民の階級全体に対抗しそれを覆う独裁でなければならない、と書いた。
 このことは、プレハノフによる党綱領の第二草案に関する彼の<ノート>で、明確に表明されている。
 『「独裁」の観念は、外部からのプロレタリアートへの支持を積極的に承認することと両立し得ない。
 もしもプロレタリアートがその革命を達成する際に小ブルジョアジーが自分たちを支持すると本当に積極的に知っているならば、「独裁」を語るのは無意味だろう。
 我々が圧倒的な多数派によって完全に保証されるほどであれば、独裁なくしても立派にことを進めることができるだろうからだ。<中略>
 プロレタリアートの独裁の必要性を承認することは、ただプロレタリアートだけが真に革命的な階級だとの共産党宣言の命題と最も緊密にかつ分かち難く結びついている。』//
 我々が党の綱領の実践的な部分で、小生産者(例えば農民)に対して「好意」を示せば示すほど、綱領の理論的部分では、この信頼できない二つの顔をもつ社会的要員をそれだけ、我々の立場を微塵も損なうことなく「厳格に」、扱わなければならない。
 さて今や、我々は言う。もし貴君がこのような我々の立場を採用するならば、貴君はあらゆる種類の「好意」を期待できるだろう。
 しかし、そうでないならば、我々に腹を立てないで!
 我々は独裁をしながら、貴君に言うだろう。権力の行使が要求されているときに言葉を無駄にするのは無意味だ、と。』(+)
 (全集6巻p.51、p.53注。〔=日本語版全集6巻37頁、39-40頁注(1)。〕)//
 このような見方に沿って、レーニンは1906年に『農業問題綱領の改訂』で、つぎのように書いた。
 『農民の蜂起が勝利へと近づけば近づくほど、自作農民がプロレタリアートに反対する方向へと変化するのはそれだけ近づきそうだ、また、プロレタリアートが独立の組織をもつことが、それだけ多く必要になる。<中略>
 農村プロレタリアートは、完全な社会主義革命へと闘うべく、都市プロレタリアートとともに独自に組織化しなければならない。』(+)
 (全集10巻p.191。〔=日本語版全集10巻174頁。〕)
 したがって、綱領は、つぎのことを含んでいなければならない。
 『農民の成果を強固なものにし、民主主義の勝利から社会主義への直接のプロレタリアの闘争へと移るために運動がすることができ、またそうすべきつぎの一歩を、精確に明示すること。』(+)(同上p.192。〔=日本語版全集10巻174頁。〕)
 1906年4月の『統一大会』で、レーニンはこの見方から明確に、彼があるだろうと信じる西側でのプロレタリアートの蜂起がもしもないならば、農民の抵抗は革命をうち砕くだろうと、語った。//
 『ロシアの革命は、自らの努力で達成することができる。
 しかし、自分自身の強さによるのでは、その成果を保持して強固にすることはおそらくできない。
 西側で社会主義革命がないならば、そうすることができない。
 このような条件がなければ、復古は不可避だ。土地の市有化、国有化、分割のいずれを選択しようとも。それぞれのかつ全ての領有や所有の形態において、小土地所有者はつねに復古のための堡塁になるだろうから。
 民主主義革命が完全に勝利した後では、小土地所有者は不可避的にプロレタリアートに反対する方向に変わるだろう。そして、資本家、地主、金融ブルジョアジーその他のようなプロレタリアートと小土地所有者の共通の敵が放擲されるのが速ければ速いほど、それだけ早くそのように変わるだろう。
 我々の民主主義共和国は、西側の社会主義プロレタリアート以外には、予備軍を持たない。』(+)
 (全集10巻p.280〔=日本語版全集10巻270頁。〕//
 こうしたことは、スターリンがレーニン主義と永続革命理論の間には『根本的対立』があるとのちに語ったのが、いかに大きく彼が誇張していたかを、明らかに示している。
 スターリンはトロツキーに反対して、第一に、この理論は革命的勢力である農民に対する不信の意味を含んでいる、農民は一階級として社会主義革命でのプロレタリアートの敵になると示唆している、と主張した。
 第二に、トロツキーは一国における社会主義建設の可能性を疑問視し、西側での大転覆なくしてロシアでの成功を維持できるとは考えなかった、と彼は主張した。
 スターリンによると、この二つの点で、レーニンとトロツキーは最初から全体として対立していた。
 しかし実際は、レーニンは、1917年の前に、そして決して一人だけではなく、社会主義革命は言うまでもなくロシアでの民主主義革命ですら、西側の社会主義革命なくしては維持できないと考えていた。
 レーニンは、農村プロレタリアート、つまりその利益が彼によれば都市労働者と合致し、ゆえに社会主義革命を支持するだろう土地なき農民を組織する必要を強調した。
 しかし、1917年の前に、農民全体は『第二段階』ではプロレタリアートに反対する方向に変わるだろうと認識した。
 最後には、レーニンは、『第一段階』は社会主義政府をもたらさないが、『社会主義に向かう直接の階級闘争』を開始させる、と考えた。
 永続革命の理論は、『第一段階』がただちにプロレタリアートまたはその党による支配をもたらすという点でのみ、レーニンの見方に反していた。
 レーニンが農村地帯での階級闘争に関する戦術を基礎づけ、プロレタリアートと貧農の独裁という教理へと進んだのは、ようやくのちのことだった。レーニンは、プロレタリアートと全体としての農民層の間には埋められない懸隔があるという理論にもとづく政策に対抗すべく、その教理を認めざるを得なかった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
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 第4節終わり。第16章全体の「小括」へとつづく。


1609/二つの革命・三人における①-L・コワコフスキ著16章4節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第4節・民主主義革命におけるプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永続革命』②。
 社会民主主義者は全て、綱領の最小限と最大限の区別を当然のことと見なしていた。そして、いかにして社会民主主義者がブルジョア革命後の『次の段階』への闘いを遂行するかに関心を持っていた。
 彼らの誰も、どの程度長くロシアの資本主義時代が続くのかを敢えて予測しようとはしなかった。
 しかしながら、メンシェヴィキは一般に、西側の民主主義および議会制度を吸収する歴史的な一時代全体が必要だろうと考えた。そして、社会主義への移行は遙かに遠い期待だ、と。
 レーニンは、彼の側では、全ての戦術を将来の社会的転覆に向かって連動させなければならない、『最終目標』をつねに心に抱いて全ての党の行動を指揮しなければならない、というまったくマルクス主義の精神のうちにあるこの原理を重大視した。
 問題は、こうだった。ブルジョア革命が人民に、すなわちプロレタリアートと農民に権力を与えれば、彼らは不可避的に社会を社会主義の方向へと変形させようとするだろうか、そしてブルジョア革命は社会主義革命へと成長するだろうか?
 この問題は、1905年革命の直前の数年間に、そしてその革命後すぐのパルヴゥス(Parvus)やトロツキー(Trotsky)の著作で、前面に出てきた。//
 レオン・トロツキー(Leon Trotsky, Lyov Davidovich Bronstein)は、ロシアの亡命者集団でのマルクス主義の有能な主張者として、1902-3年に名前を知られるようになった。
 1879年11月7日(新暦)にヘルソン地方のヤノヴカ(Yanovka)で、ユダヤ人農夫(ウクライナ地域に少しはいた)の子息として生まれ、オデッサ(Odessa)とニコライエフ(Nikolayev)の小中学校に通い、18歳の年にマルクス主義者になった。
 彼は数ヶ月の間、オデッサ大学で数学を学んだ。だがすぐに政治活動に集中して、南ロシア労働者同盟(the Southern Russian Workers' Union)で働いた。この同盟は、純粋に社会民主主義ではないがマルクス主義思想の影響を多く受けていた。
 トロツキーは1898年の初頭に逮捕され、二年間を刑務所で過ごし、そして四年間のシベリア流刑の判決を宣せられた。
 収監中および流刑中に、熱心にマルクス主義を学び、シベリアでは研修講師をしたり合法的新聞に論考を発表したりした。
 トロツキーという名の偽の旅券によってシベリア流刑から逃れて、ここから彼の歴史に入っていくが、1902年の秋にロンドンでレーニンと会い、<イスクラ>の寄稿者になった。
 彼は、第二回党大会では、レーニンは労働者階級の組織ではなく閉鎖的な陰謀家集団に党を変えようとしているとして、その規約1条案に反対表決をした多数派の一人だった。
 トロツキーはしばらくはメンシェヴィキの陣営にいたが、リベラル派との同盟に向かう趨勢に同意できなくなってそれと決裂した。
 1904年にジュネーヴで、とりわけ党に関するレーニンの考えを攻撃する、<我々の政治的任務について>と題する小冊子を発行した。
 レーニンは人民と労働者階級を侮蔑しており、プロレタリアートを党に置き換えようとする、と主張した。これは時が推移すれば、中央委員会を党に置き換え、中央委員会を一人の独裁者に置き換えるだろうことを意味する、と。  
 これ以来頻繁に引用されるこの予言は、ローザ・ルクセンブルクによるレーニン批判と同じ前提にもとづくものだった。つまり、職業革命家から成る中央集中的かつ階層的な党という考えは、労働者階級は自分たち自身の努力ではじめて解放されることができるとの根本的なマルクス主義の原理に反している、という前提。//
 トロツキーは多年にわたり、主として独立の社会民主主義の主張者として活動し、党のいずれの派にも属さないで、党の統一の回復の方向へとその影響力を用いた。
 ミュンヒェンで、ロシア系ユダヤ人のパルヴゥス(Parvus、A. H. Helfand)の友人になった。パルヴゥスは、ドイツに住んでいて、ドイツ社会民主党左翼に属していた。
 このパルヴゥスは、永続革命理論の本当の(true)先駆者であり創始者だと見なされている。
 パルヴゥスの見方によると、ロシアの民主主義革命は社会民主主義政府に権力を与え、それは必然的に、社会主義に向かう革命の過程を継続するよう努めることになる。
 トロツキーはこの考えを採用し、1905年の革命に照らしてこれを解釈した。
 あの事件から一般化して、ロシアのブルジョアジーは弱いので、来たる革命はプロレタリアートによって率いられなければならず、ゆえにブルジョアの段階で停止しないだろうと、述べた。
 ロシアの経済的後進性が意味しているのは、ブルジョア革命のあとにただちに社会主義革命が続くだろう、ということだ。
 (これは、ドイツについての1948年のマルクスとエンゲルスの予測に似ていた。)
 しかし、『第一段階』でプロレタリアートは農民に支えられるが、社会主義革命の時期には農民は、それに反対する小土地所有者の大衆になるだろう。
 ロシアでは少数派なので、西側の社会主義革命によって助けられないかぎり、ロシアのプロレタリアートは権力を維持することができないだろう。
 しかし、革命の進行がロシアからヨーロッパおよび世界のその他の地域へと速やかに広がることを、期待することができる。//
 かくして、トロツキーの『永続革命』理論は、彼がその後数年間にしばしば繰り返した二つの前提条件に依拠している。
 ロシアのブルジョア革命は、継続的に社会主義革命へと進化する、ということ。
 これは、西側での大乱(conflagration)を誘発する、ということ。
 もしそうでなければ、ロシアの革命は生き残ることができない。プロレタリアートが農民大衆の圧倒的な抵抗と闘わなければならなくなるのだから。//
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 ③へとつづく。

1608/農民かブルジョアジーか-L・コワコフスキ著16章4節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第4節・民主主義革命におけるプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永続革命』①。
 全ての社会民主主義者は、ロシアはつぎのような革命の前夜にあるということで合意していた。専政体制を除去し、民主主義的自由を確立して農民に土地を与え、隷従と人的依存を廃棄する、ブルジョア革命。
 しかし、いくつかの重要な未決定の諸問題が残されており、それらはある程度は、マルクス主義の教理の理論上の根本に関わっていた。//
 ロシアのブルジョアジーは弱くて臆病すぎるので、プロレタリアートが来たる革命を導くという考えはプレハノフ(Plekhanov)に由来し、多少の程度の差はあれ、この問題に関して最初から人民主義者との論争に、のちには『経済主義者』との論争に加わった、社会民主主義者の共通の財産だった。
 しかしながら、メンシェヴィキはこの見解に一貫して従わず、専制を打倒する場合のプロレタリアートの自然の同盟者はブルジョアジーやリベラル諸党派であり、革命後に後者は権力をもち、社会民主主義者はその反対側にいると、ブルジョア革命の性格から帰結させていた。//
 この点に関して、レーニンは初期の段階で、全く異なる戦術をとることを明らかにした。
 革命がロシアの資本主義への途を敷き詰めるということは、革命後にブルジョアジーが権力を確保すること、あるいは、社会民主主義者は革命のためにリベラル派と同盟すべきだということを、意味しなかった。
 レーニンはこうした考えを、リベラル派に対する凝り固まった憎悪からのみではなく、主としては、農民問題が決定的な要素だという自分の確信から抱いた。そしてこのことは、西側の民主主義革命の経験にもとづくいかなる図式をも、ロシアについて採用するのを非難することにつながった。
 正統派マルクス主義者と違って、レーニンは、農民の充たされない要求のうちにある巨大な革命的な潜在力を感知し、伝統的な見方から離れて小土地所有者を支持するという『反動的な』綱領を含むと思われるかもしれないとしても、党はこの力を利用すべきだと強く主張した。
 (『古典的な』思考様式によると、所有権の集中化は社会主義への前進を速める、したがって、土地所有権の分散は『反動的』だ。)
 レーニンは、鋭敏に政治的で機会主義的な(opportunist)かつ非教条的な見通しをもって、マルクス主義的『正しさ(correctness)』にさほど関心はなく、主として、または専ら、提案される戦術の政治的有効性に関心をもった。
 『一般的に言えば』と、彼は、つぎのように書いた。//
 『小土地所有を支持するのは、反動的だ。なぜなら、その支持が大規模の資本主義経済に鉾先を向け、その結果として社会発展を遅らせ、階級闘争を曖昧にして回避するからだ。
 しかしながら、我々はこの事案では、資本主義に反対してではなく農奴制的所有に反対して、小土地所有を支持することを求める。<中略>
 地上のあらゆる事物には、二つの面がある。
 西側では、自作農民はその役割を民主主義運動ですでに果たし終えた。そして今や、プロレタリアートと比較しての特権的な地位を守ろうとしている。
 ロシアでは、自作農民はまだ決定的で全国的に広がる民主主義運動の前夜にいて、この運動に共感せざるをえない。<中略>
 現在のような歴史的時点では、農民を支持するのが我々の義務だ。』(+)//
 我々の重要で直接的な目標は、農村地帯での階級闘争の自由な発展へと、途を開くことだ。国際的社会民主主義運動の究極的な目標の達成へと、プロレタリアートによる政治権力の征圧および社会主義社会建設の基礎の樹立へと向かう、プロレタリアートによる階級闘争のそれへの途を、だ。
 (『ロシア社会民主党の農業問題綱領』、1902年8月< Zarya >所収。全集6巻p.134、p.148。〔=日本語版全集6巻127-8頁・143頁〕)//
 かくして、レーニンは『ブルジョアジーとの同盟』という一般的考えを受け容れるが、それをただちにかつ根本的に修正(qualify)した。君主制に順応する用意のあるリベラル・ブルジョアジーとの同盟ではなく、革命的で共和的(republican)な『ブルジョアジー』、つまり農民との同盟へと。
 これは、党規約の問題よりも重要な、レーニンとメンシェヴィキの間の主要な基本的対立点だった。
 これはまた、1905年の第三回大会後に書かれた、レーニンの『二つの戦術』の主要な主題だった。//
 しかし、これは革命の間の同盟に関する問題だけではなく、その後の権力の問題でもあった。
 レーニンは、革命が設定することになるブルジョア社会をプロレタリアートと農民が支配すると、明確に述べた。
 彼が考えるに、このブルジョア社会は階級闘争の無制限の発展と所有権の集中を認めるだろうが、政治権力は、プロレタリアートと農民によってそれらが尊敬する党を通じて行使される。
 このような見地では、社会民主党は農民の支持を培養し、適切な農業問題綱領を用意しなければならない。
 これはまた、論争の主題になった。
 レーニンは、全ての土地の国有化へと進むことを提案し、ブルジョア社会を掘り崩すことはない一方で農民の支持を獲得するだろうと強調した。
 エスエルのように、たいていのボルシェヴィキは、大土地所有者の土地と教会の土地を補償なしで没収し、そうした土地を彼らで分けることに賛成だった。
 メンシェヴィキは没収した土地の『市有化(municipation)』、つまり地方諸団体に譲渡することに賛成だった。
 レーニンは、1903年の『貧農に訴える』で、つぎのように書いた。
 『社会民主主義者は、従業者を雇用していない小農や中農から土地を取り上げるつもりは決してない。』(全集6巻p.397。〔=日本語版全集6巻407頁。〕)(+)
 しかし、同じ小冊子で、彼は、社会主義革命の後では土地を含む全ての生産手段が共有されるだろうと語った。
 いかにして『貧農』がこの二つの言明を矛盾なく甘受すると見込まれたのかは、明確でない。//
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 (+) 秋月注記/日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
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 ②へとつづく。


1606/民族問題③-L・コワコフスキ著16章3節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 前回のつづき。
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 第3節・民族問題③。 
 簡潔に言えば、プロレタリアートの利益は唯一の絶対的価値で、プロレタリアートの『真の』意識の運び手だと自認する党の利益と同じだという前提命題にもとづけば、民族の自己決定権の原理は戦術上の武器以上のものではあり得なかった。
 レーニンはこのことに十分によく気づいていて、この原理はレーニンの教理のとるに足らない一部だととくに言うこともなかった。
 他方で、民族の願望は党が権力への闘争に用いることのできるかつ用いるべき活力の力強い源だとレーニンが発見したことは、彼の政治の最も重要な特質の一つであり、その成功を多く確実なものにした。それは、階級闘争に関するマルクス主義の理論は民族問題に特有の注意を払う必要がないとする正統派と反対のものだった。
 しかしながら、レーニンは、彼の理論が功を奏したという意味で『正しい(right)』だけではなかった。それは、マルクス主義と一致してもいた。
 『プロレタリアートの利益』は至高の価値をもつので、民族的な争論や願望をその利益を増大させるために利用することに反対はあり得ない。また、のちのソヴィエト国家の政策が、征圧したおよび植民地化した地域で資本主義諸国を弱体化するためにそのような願望を支持することについても、同じく反対はあり得ない。
 一方で、エンゲルスによる『歴史的』民族と『非歴史的民族』の区別およびレーニンによる大民族のナショナリズムと小民族のそれとの区別は、根本的教理から生じるようには思えない。そして、特殊な歴史的環境に関連づけられる脇道(bypath)だと、見なされてよい。//
 その『純粋な』形態での、すなわちあらゆる状況で有効な絶対的権利としての民族の自己決定権は、明らかにマルクス主義に反している。
 そしてこのマルクス主義は、ローザ・ルクセンブルクの立場から見ると、容易に守られる。階級対立は重要であり、国際的だ。そして、闘い取るに値する民族の利益は存在し得ない。
 しかし、原理をたんなる戦術の一つへと降ろしたレーニンの幅広い留保を考えると、レーニンがこれを擁護したことが確立した教理に反していると主張するのは不可能だ。
 換言すれば、この問題に関するレーニンとローザ・ルクセンブルクの間の論争は、戦術の問題で、原理の問題ではなかった。
 民族の差違や民族文化は、レーニンの目には重要な価値がなく、彼が頻繁に述べたように、本質的にはブルジョアジーの政治的な武器だった。
 彼が1908年に書いたように、『プロレタリアートはその闘いの政治的、社会的および文化的条件に、無関心であることができない。したがって、その国(country)の運命に無関心であることはできない。
 しかし、プロレタリアートが国の運命に関心をもつのは、それが階級闘争に影響を与える範囲でのみであり、社会民主党の言葉にのせるのも汚らわしい、どこかのブルジョア的「愛国主義」によるのではない。』(全集15巻p.195。)
 『我々は、「民族(national)文化」を支援するのではなく、各民族文化の一部だけを含む国際的(international)文化を支援する。-各民族文化の一貫して民主主義的かつ社会主義的な内容を含むそれだけを。<中略>
 我々は、ブルジョア的ナショナリズムのスローガンの一つとしての民族文化に反対する。
 我々は、十分に民主主義的で社会主義的なプロレタリアートの国際的文化に賛成する。』(全集19巻p.116。)
 『自己決定権は、中央集権化という我々の一般的命題に対する例外だ。
 この例外は、反動的な大ロシア・ナショナリズムを見れば絶対に必要だ。この例外を認めないのは、(ローザ・ルクセンブルクの場合のように)日和見主義だ。
 それは愚かにも、反動的な大ロシア・ナショナリズムの手中に収まることを意味する。』(同前p.501。)//
 レーニンは頻繁に、戦争前およびその間にこのような見解で自分の立場を表明した。
 彼は、労働者は祖国を持たないという有名な言葉を強調して引用した。そして、全く字義どおりに考えていた。
 同時に、彼は、無制限の自己決定権を宣言し、ツァーリ帝制の被抑圧人民へと明確に適用した、唯一の重要な社会民主党指導者だった。
 1914年の末にレーニンは、『大ロシア人の民族的誇りについて』と題する小論考を書いた。(全集21巻。〔=日本語版全集21巻93頁以下。〕)
 これは、ロシア共産主義に熱狂的愛国主義が益々染みこむようになったものとして、最も頻繁に印刷されかつ最も多く引用されたテクストの一つだった。
 あらゆる形態の『愛国主義』(つねに引用符つき)を批判して愚弄したレーニンの他の全ての論考とは違って、この小論考で彼は、ロシアの革命家はロシアの言語と国を愛する、革命的伝統を誇りに思っている、そしてそのゆえに全ての戦争での帝制の敗北を、労働者人民にとって最も害の少ないそれを、望んでいると宣言する。また、大ロシア人の利益はロシアのプロレタリアートおよびその他全諸国のそれの利益と合致していると、主張する。
 これは、レーニンの著作の、その種のものとしてのテクストにすぎず、民族文化をそれ自体に価値があり防御に値すると見なしていると思えるかぎりで、残りのものからは逸脱している。
 全体としてのレーニンの教理から見ると、当時にボルシェヴィキに対して向けられた国家叛逆という非難に反駁し、ボルシェヴィキの政策は『愛国主義的』理由でも支持する価値があると示す試みだとの印象を、この小論考は与える。
 確かに、大ロシア人の民族的誇りを擁護することと、『民族文化のスローガンの擁護者の位置はナショナリスト・小ブルジョアにあり、マルクス主義者の中ではない』との言明(『民族問題に関する批判的論評』、全集21巻p.25)とをいかにすれば一致させることができるのか、理解するのは困難だ。//
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 (秋月注) 今回部分の全集引用部分は、日本語版全集各巻で確認することができなかった(2017.06.27)。
 第3節終わり。第4節・民主主義革命におけるプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永続革命』、へとつづく。 

1604/民族問題②-L・コワコフスキ著16章3節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第16章・レーニン主義の成立。 その第3節は、三巻合冊本の、p.674~p.680。
 前回のつづき。
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 第3節・民族問題②。
 第一に、ポーランドは、ヨーロッパの被支配民族のうちの最大のものだった。
 第二に、ポーランドは、大陸の三つの大国の間で分割されていた。
 第三に、マルクスによると、ポーランドの独立はツァーリ専政体制および他の分割諸国、ドイツとオーストリア・ハンガリー、の形をした反動に対する決定的な一撃を加えることになる。
 しかしながら、ローザ・ルクセンブルクとレーニンは、この点に関するマルクスの見地はかつて有効だったとしても、時代遅れだと考えた。
 ローザ・ルクセンブルクは、ツァーリ帝国の経済運動に反するものとして、ポーランドの独立という復古を無視した。彼女は、自己決定なるものを、いかなる場合でも、一つ民族全体の共通の理想のふりをしてプロレタリアートを騙すために仕組まれたブルジョアの考案物だと、見なした。
 レーニンは、この点では、ポーランド社会民主党は党の利益と無関係に一つの目標として独立へと進むべきだとの考えは拒否したけれども、より柔軟だった。
 彼は、1902年のメーリング(Mehring)の若干の言明に全面的に賛同して、引用した。
 『ポーランドのプロレタリアートが、支配階級自体は耳を貸そうとしないポーランド階級国家の復活をその旗に刻み込みたいと望むなら、歴史上の笑劇を演じることになるだろう。 <中略>
 他方でかりに、この反動的なユートピアが、ある程度はなおも民族的扇動に反応する知識階層と小ブルジョア部門に対して、プロレタリアートによる扇動に好意をもたせようとするならば、そのユートピアは、安価で無価値の一時的な成功のために長期的な労働者階級の利益を犠牲にする、卑劣な日和見主義が生んだものとして、二重に根拠薄弱なものだ。』(+)
 同時に、レーニンは続けて語る。『疑いなく、資本主義の崩壊より前のポーランドの復古の蓋然性はきわめて低い。しかし、絶対に不可能だと主張することはできない。<中略>
 そして、ロシア社会民主党は、決して、自分の手を縛ろうとはしない。』(+)
 (同前、p.459-460。〔=日本語版全集6巻「我々の綱領における民族問題」474頁、475頁。〕)//
 かくして、レーニンの立場は明白だ。そして、どのようにして全人民のための政治的独立を主張する最高の闘士だと、彼はそのように著名なのだが、これまで考えられることができたのかを理解するのは、困難だ。
 彼は、民族的抑圧に対する断固たる反対者で、自己決定権を宣明した。
 しかし、それにはつねに、社会民主党が政治的分離を支持できるという例外的な事情がある場合にのみだ、という留保が付いていた。
 自己決定は、いつでも絶対的に、党の利益に従属していた。後者が人民の民族的な希望と矛盾するならば、後者の意味はなくなる。
 この留保は実際に自己決定権を無価値にし、純粋に戦術上の武器へと変えた。
 党はつねに、権力への闘争に際して、民族の希望を利用しようとし続けることになる。
 しかし、『プロレタリアートの利益』がある人民全体の願望に従属することは決してあり得ないことだった。
 レーニンが革命の後でブレスト・リトフスク(Brest-Litovsk)条約に関する<テーゼ>で書いたように、『いかなるマルクス主義者も、マルクス主義と社会主義の原理を一般に放棄することなくして、社会主義の利益は民族の自己決定権よりも優先する、ということを否定することができない。』(全集26巻p.449。〔=日本語版全集26巻「不幸な講和の問題の歴史によせて」459頁。〕)
 しかしながら、プロレタリアートの利益は定義上は党の利益と同じであり、プロレタリアートの本当の熱望は党の口からのみ発せられ得るので、党が権力へと到達すれば、党だけが独立や分離主義の問題に関して決定することができるのは明白だ。
 このことは、1919年の党綱領に書き込まれた。同綱領は、各民族の歴史的発展の高さは、独立問題に関する真の意思(real will)を表明する者は誰かに関して決定しなければならない、と述べる。
 党のイデオロギーもまた断言するように、『民族の意思』はつねに最重要の階級、つまりプロレタリアートの意思として表明され、一方でこの後者の意思は多民族国家を代表する中央集中的な党のそれとして表明される。したがって明白に、個々の民族は、その自らの運命を決定する力を持たない。
 これら全ては、レーニンのマルクス主義およびレーニンの自己決定権の解釈と完全に合致している。
 いったん『プロレタリアートの利益』がプロレタリア国家の利益に具現化されるとされれば、その国家の利益と力が全ての民族の熱望に優先することについて、疑いは存在し得ない。
 次から次へと続いた自由でありたいと求める諸民族への侵攻と武装抑圧は、レーニンの見地と全く首尾一貫していた。
 オルドホニキゼ(Ordzhonikidze)、スターリンおよびジェルジンスキー(Dzerzhinsky)がジョージアで用いた残虐な方法にレーニンが反対したのは、可能なかぎり残虐さを減らしたいとの彼の側の願望によっていたかもしれないが、しかし、彼らは隣国を従属させる『プロレタリア国家』の権利を冒さなかった。
 レーニンは、社会民主主義政府を合法的な選挙で設立したジョージア人民が赤軍による武装侵入の対象になったということに、何も過ちはない、と考えていた。
 同じように、ポーランドの独立を承認したことは、ポーランド・ソヴェトが突発するや否や、レーニンがポーランド・ソヴェト政府の中核を形成するのを妨止するものではなかった。-レーニンはほとんど信じ難い無知によって、ポーランドのプロレタリアートはソヴェト兵団の侵攻を解放者だとして歓迎するだろうと考えた、というのは本当だけれども。//
 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
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 ③へとつづく。

1602/民族問題①-L・コワコフスキ著16章3節。

  Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976,英訳1978, 三巻合冊本2008).

 第16章・レーニン主義の成立。
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 第3節・民族問題①。
 第二回党大会はまた、ツァーリ体制の政治上の重要問題だった民族問題に関する立場を明らかにする機会を与えた。
 問題は、ブント〔ユダヤ人労働者総同盟〕によって提起された。この組織はユダヤ労働者大衆の唯一の代表だと承認するように要求したが、レーニンを含む多数派によって否決された。
 カウツキーやストルーヴェ(Struve)を含むその他多数と同じく、レーニンは、ユダヤ人は共通の言語と領域的な基盤を持たないので、民族だと見なすことはできないと考えた。
 しかしまたレーニンは、民族を規準とする連邦制的政党の創立を意味しているとして、ブントの提案に反対した。
 レーニンの見地では、出自、教育および職業の違いは党において意味があるべきではなく、このことは民族についてはなおさら本当のことだった。
 党の中央集中化は党員の全ての差違を除去すべきものであり、各党員は全て、最も純粋な党の精神を具体化したものであるべきで、それ以外の何者でもなかった。//
 この問題は、ロシア帝国の臣民たちが分離主義を民族運動で表明したのでますます、レーニンの関心を惹いた。
 彼は、党が民族的抑圧を非難して、民族問題をとりわけ帝制専政を転覆させる梃子として使うことを望んだ。
 レーニンが大ロシア熱狂的愛国主義(the Great Russian chauvinism)を憎悪し、党内でのそれを根絶させるべく最善を尽くした、ということに疑いはない。
 1901年の末に、ツァーリ政府がフィンランドの穏やかな自治を侵犯した際に折良く、レーニンは書いた。
 『我々は他人民を奴隷の地位へと落とすために利用されるほどに、なおも奴隷なのだ。
 我々は、処刑人の残虐さでもってロシアでの自由への全ての志向を抑圧している政府に、なおも耐えているのだ。さらには、他人民の自由を暴力的に侵害するためにロシア軍兵を使っている政府にだ。』(+)
 (<イスクラ>、1901年11月20日。全集5巻p.310.〔日本語版全集5巻「フィンランド人民の抗議」322頁。〕)//
 社会民主主義者の間には、民族抑圧問題に関する論争はなかった。
 しかし、全ての者によって自己決定の原則(principle)、すなわち各民族全ての分離して政治的に存在する権利、が受容されていたわけでは決してない。
 オーストリアのマルクス主義者は、二重君主制のもとでの民族的自治を支持した。各民族集団は、言語、文化、教育および出版等に関する完全な自由をもつべきだとした。しかし、政治的な自立については、明確には表明されなかった。
 レンナー(Renner)、バウアー(Bauer)およびこれらの仲間たちは、党内部での民族的対立に絶えず悩まされた。
 オーストリア・ハンガリー帝国のプロレタリアートは一ダースかそれ以上の民族集団に属していて、たいていは明確に区切られた地域にはおらず、地理を超えていたので、政治的な分離主義は、境界地帯での身動きならない問題を生じさせていた。
 ロシアに関するかぎり、レーニンは、文化的自治では不十分で、自己決定は分離国家を形成する権利を含まないならば無意味だ、と考えた。
 彼はこの見地をしばしば主張し、1913年の民族問題に関する小冊子に、そのように記述するようにスターリンに勧めた。
 自己決定の問題は、この問題についてしばらくの間はロシア社会民主労働者党の外にとどまり続けたSDKPiL〔ポーランド・リトアニア社会民主党〕との論争の主題だった。
 レーニンに対する最も果敢な反対者は、すでに述べたように、ローザ・ルクセンブルクだった。この問題に関する彼女の立場は、ポーランドの特殊な事情とは関係なく、マルクスへの表現方法上の忠実さが、より高いものだった。
 レーニンの見地では、全人民が自己決定の権利を対等に持っており、科学的社会主義の創始者とは違って、彼は『歴史的な』民族と『非歴史的な』それとを区別しなかった。//
 しかしながら、理論上はともあれ、この論争は、思われるほどには激しいものではなかった。
 レーニンは、自己決定権を承認した。しかし、彼は最初から、一定の留保を付けていた。すなわち、留保付きだったことは、レーニンの定式は変わらないままで維持されたけれども、革命の後すぐに、じつに現実が示すことを余儀なくしたように、そこでの『権利』は空虚な美辞麗句にすぎなくなった、という事実が説明している。
 第一の制約は、党は自己決定権を支持する、しかし全ての分離主義者の意図に深くはかかわらない、ということだった。多くの場合、実際はほとんどの場合、党は、分離主義者たちの反対側にいた。
 これには、何の矛盾もなかった。レーニンは論じた。
 『我々、プロレタリアートの党は、暴力や不正によって外から民族の自決決定権に影響を与えるいかなる企てにも、つねにかつ無条件で反対しなければならない。
 この我々の消極的な義務(暴力に対する闘争と抗議)をいつでも履行する一方、我々は、我々の側では、諸民族人民の自己決定権よりも、各民族の全ての<プロレタリアート>の自己決定について配慮する。<中略>
 民族的自治の要求への支持に関して言えば、これは決してプロレタリアートの綱領にある永遠の拘束的な部分ではない。
 これを支持することは、稀少な例外的な場合にのみ必要になりうる。』(+)
 (『アルメニア社会民主主義者の宣言について』、<イスクラ>1903年2月1日。全集6巻p.329。〔=日本語版全集6巻338頁。〕)//
 第二の制約は、党はプロレタリアートの自己決定に関心があり、全体としての人民のそれにではない、ということから生じる。
 ポーランドの独立を無条件に要求する場合に、この党は『理論的背景や政治的活動について、いかにプロレタリアートの階級闘争との結びつきが弱いかを証明している。
 しかし、我々が民族の自己決定権の要求を従属させなければならないのは、まさにこの闘争の利益に対してだ。<中略>
 マルクス主義者は、民族の自立の要求を、条件付きでのみ認めることができる。』(+)
 (『我々の綱領における民族問題』, <イスクラ>1903年7月15日。全集6巻p.456.〔=日本語版全集6巻471頁。〕) //
 ポーランド問題は、三つの理由で、この議論のうちきわめて重要なものだった。
 第一に、…。
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 (+秋月注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
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 本来の改行箇所ではないが、ここで区切る。②へとつづく。

1600/『自由と反共産主義』考⑦。

 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)。
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」。
 3) 反 Liberal Democracy-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。 
 ーーー
 反共産主義というだけでは~に反対しているというだけで、それに代わる内実または価値がない。
 そこで従来から、「自由」というものを考えてきた。
 社会主義経済に対する「自由主義」経済という言葉は、よく使われるのではないか。
 あるいは社会主義国に対する「自由主義」国。
 藤岡信勝が、かつて「自由主義史観研究会」とかを組織していた。これがマルクス主義(・共産主義)史観に対抗するものとしての表現だったとすれば、適切だったと思われる。
 かつて現実に影響を与えた(与えている)「思想」類のうちで最も非人間的で人を殺戮するのを正当化するそれは、マルクス主義・共産主義だった(である)。
 これに対抗する内実、価値というのは、むろん「自由」ということなのだが、これだけでは分かりにくい。
 人間の本性に即した、人間らしい<価値観>でなければならない。
 その際の人間の本性・本質とはいったい何だろうか。こうしたことから、そもそもは発想されなければならないのだと思われる。
 「これまでの人類の歴史は全て、階級闘争の歴史だった」などということから出発して発想したのでは、ろくなことにならない。
 人間の本性・本質とは、まずは当たり前だが、生まれて死ぬ、生物の個体だということだ。個々の人間は永遠には生きられない、存続できない、ということが前提になる。
 しかし人間は、生きているかぎりは、何とか生きていこうとする。
 個々の人間の生存本能、これはどの生物にもあるのだろうが、人間もまた同じだ。
 人間の個体というものは、その細胞も神経も、本能的に何とか「生きよう」としている。これはじつに不思議なことだ。
 高尚な?論壇者も評論家も、秋月瑛二のような凡人でも、変わりはない。
 意識しなくても、正常であれば、健康であれば、自然に呼吸し、自然に心臓は拍動していて、血液は流れている。空腹になれば、自然に食を欲する。
 この個々の人間が誰でももつ、最低限の生存本能を外部から意図的に剥奪することを許すような「思想」があってはならないし、そのような考え方は断固として排せられなければならない。
 人間には親があり、かなり多くの場合は子もいる。
 親と子、その子と孫、言うまでもなく生物・人間としての「血」の関係だ。
 これらの間に自然に何らかの内実ある関係がただちに生じるのではないかもしれない。
 だが、一時期であれ、また二世代なのか三世代なのかさまざまであれ、<ともに生活>することによって、何らかの<一体性>が生じるはずだ。
 生まれてからある程度大きくなるまで、子にとっての養育者の力は甚大だ。また、養育者は、自分たちを不可欠とする生き物としての子らを守ろうとする。養育者は「親」であることが多い。
 子の親に対する、親の子に対する心情というものが、どの程度自然で「本能的」であるかについて、詳細な研究結果については知らない。
 このあたりですでに社会制度や社会の設計論にかかわってくるのだろうが、父・母・子(兄弟姉妹)という「核」は、たいていの人間たちにとって、あるいはたいていの時代において、基礎的単位として措定してもよいように思える。
 まずは「自分」を中心とするのが生存本能だが、自分と自分以外の「家族」のどちらの「生存」を優先するかというギリギリの選択に迫られることもある。
 歴史上は、自分が「食」するための子棄て・親棄てもかなりあった。大飢饉になれば、自分だけでも生きたいとするのが本能で、子棄て・親棄てを<責める>ことのできない場合もありうる。
 そういう悲劇的な事態にならないかぎりはしかし、「家族」を核とする「自分たち」という観念は比較的自然に発生したものと思われる。それを広げれば、一族・血統という、より社会的広がりになってくる。さらには、居住地または耕作地・狩猟地の近さから、<村落>あるいはマチ・ムラの観念もかなり古くからできただろう。
 「自分」や「自分たち」は<食べて>いかないと生存できない、というのが根本の出発点だ。
 そのあたりの部分はどっぷりと現実の体制や政治世界あるいは経済システムの中でそれらを実にうまく利用していながら、頭・観念の中だけで<綺麗事>を述べている人は多い。いや、論壇者・評論家類の全員がそうかもしれない。
 さらには、小賢しく<綺麗事>を述べることを生業にして、それで金を得て<食べて生きて>いる人も多い。いや、論壇者・評論家類の全員がそうかもしれない。
 そしてまた、よりよく<食べて生きて>いくために、<綺麗事>の内容を需要者に合わせて、場合によっては巧妙に変遷させている、かつ自らはそれに気づいていないかもしれない者も多い。
 <綺麗事>の内容、つまりは精神世界のことと、そうではないドロドロとした<食べて生きて>いく世界のことと、いったいどちらを優先しているのか、と疑問に思う論壇者・評論家類もいる。
 ドロドロとした<食べて生きて>いく世界の方を優先するのが人間の本性なのかもしれない。それは、それでよい。そのことを自分で意識していれば、なおよい。
 しかし、そうであるならば当然に、<綺麗事>の内容だけでその人の主張・議論を評価しては決していけない、ということになるはずだ。
 ともあれ、人間の本性・本質から出発する。マルクス主義(・共産主義)は人間の本性・本質に即しておらず、そのゆえにこそ現実化すれば危険な「思想」なのだ、ということを見抜く必要がある。
 安本美典はたしか正当にも、<体系的なホラ話>という形容をマルクス主義(歴史観)に対して行っていた。
 見かけ上の<美麗さ・壮麗さ・論旨一貫性・簡素明快さ>などは、付随的な、第二次・第三次的な事柄だ。人間性と現実に即していなければ、何にもならない。宗教も含めて、<砂上の楼閣>はいっぱいある。
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 上の話はさらに別途続ける。
 反共産主義者は何を、どういう内実・価値を追求すべきか。
 レシェク・コワコフスキの考え方を、詳しく正確に知っているわけではない。
 ただこの人は、この欄ではあえて「左翼の君へ」と題して試訳を紹介した、実在の「新左翼」学者・評論家に対する批判的論評の中で、あっさりと、おそらくは以下の価値を維持すべき又は追求すべき価値だと語っていた。
 「平等、自由および効率性」、の三つだ。さらにこう続けている。
 これらの「諸価値は相互に制限し合い、それらは妥協を通じてのみ充たされうる」。
 「全ての諸制度の変更は、全体としてこれら三つの価値に奉仕する手段だと見なさなければならず、それら自体に目的があると考えてはいけない」。
 以上、この欄の今年の5/13付・№1540=「左翼の君へ⑧完」。原論考、1974年。
 Leszek Kolakowski, My Correct View on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
 もちろん、欧米系の学者・哲学者のいっていることだ。何と陳腐かとも思われるかもしれない。当然に、「平等」・「自由」・「効率性」の意味、相互関連は問題になる。
 だがしかし、ソヴィエト・スターリン時代をソ連とポーランドで実体験したうえでマルクス主義に関する長い研究書を書いた人物の発言として、何気なく書かれているが、注意されてよい。
 ろくに読んでいないが、リチャード・パイプスには、つぎの書物もある。
 Richard Pipes, Rroperty and Freedom (1999).〔私的所有(財産)と自由、およそ330頁〕
 断固たる反共産主義者だと知っているからこそ推測していうのだが、R・パイプスは「私的所有(財産)と自由」を、かけがえない価値だと、そして最大限にこれを侵犯するものが共産主義だと考えているのではないだろうか。
 L・コワコフスキもR・パイプスもじつは「自由」を重要な<価値>としている。
 この場合の自由は、Liberty ではなく Freedom だと見られる。
 そしてこの自由の根源は、自分を自分自身にしてもらう自由、自分の領域に介入されないという意味での自由、そしてまた<自分のもの>=私的所有・財産に対する(消極的・積極的の両義での)自由ではないか、と考えられる。
 自分(・自分たち)が「食べて」生きていくためには、最低限度、自分の肉体と肉体を支える「もの」、食べ物とそれを獲得するための手段(例えば、土地)を「自由」にしてもらえること、「自由」にできること、は不可欠だろう。
 <私的所有とその私的所有への自由>、これが断固として維持されるべきまたは追求されるべき価値だ。
 共産主義は、これを認めない「思想」だ。だからこそ、人間の本性に合致せず、つねに「失敗する」運命にある。
 日本共産党は最小限度の<私的財産権>は認めると言っているが、原理的には、マルクス主義・共産主義は全ての「私有財産」を廃止しようとする。また、<最小限度の(小さな)私的財産権>の範囲内か否かは、じつは理論上明確になるわけではない。個人所有の小さな土地の上での工場の経営(、販売・取引--)するという「私的財産」の「自由」の行使を想定しても分かる。かりに個人的居住だけに限られる土地所有なのだとすれば、それが土地所有の「権利」あるいは「自由」と言えるのかどうか、原理的に疑問だ。
 当たり前のことを述べているようでもある。
 当たり前のようなことを、つぎのように語る、日本の経済学者もいる。 
 猪木武徳・自由と秩序-競争社会の二つの顔(中央公論新社・中公文庫、2015。原書・中公叢書、2001)、p.269。
 「求められるのは、この市場や民主制のもつ欠陥や難点を補正したり、補強作業を行ったりすることによって、なんとか使いこなしていくこと」だ。
 この書の解説者・宇野重規は、「市場と民主主義を何とか使いこなす」という小見出しをつけている。p.288。
 市場とは当然に「自由」を前提にする。両者はほとんど同義で、「自由な経済(取引)」こそが「市場」だ。
 佐伯啓思の『さらば、民主主義』(朝日新書)でも、同『反民主主義論』(新潮新書)、同『自由と民主主義をもうやめる』(幻冬舎新書)でもない。
 「民主主義」の価値性については(上記の猪木とも違って)、疑問がある。これと「自由」をごった混ぜにしてはいけないだろう。
 反共産主義を鮮明にしないままで「自由と民主主義をもうやめる」と主張するのは、<ブルジョア>的「自由・民主主義」に対するマルクスやレーニンによる批判と、これらの欺瞞性・形式性を暴露しようとするマルクス主義・共産主義者による批判と、変わらない、と敢えて言うべきだ。
 市場(market)にも「自由」にも(あるいは「民主主義」にも)当然に問題はある。
 「民主主義」は左翼の標語だとこの欄に書いたこともある。
 これはあくまで<手段>の態様を示す概念で、追求すべき「価値」とは異なる次元の概念だと考えている。
 これはさしあたり措いても、近代的(欧米的)「自由」はなおも、日本でも、日本人にとっても、追求・維持すべき価値だろう。
 そこに「日本的自由」が加わると、なおよい。
 できるだけ自分の言葉で書く。重要なので、このテーマでさらに続ける。
 問題は、<私的所有・自由>と権力または「国家」との関係にこそある。
 共産主義者または「左翼」ではない者(=<保守>)こそが、こういう基本設定をしておくべきなのだ。
 こういう基本的な問題設定が曖昧な議論、文章というのは、どうも本質的に理解しづらい。

1598/党と運動⑥-L・コワコフスキ著16章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性⑥。
 ローザ・ルクセンブルクのように、メンシェヴィキはレーニンを、ブランキ主義だ、<クー・デタ>による既存秩序の破壊を企図している、トカチョフ(Tkachov)の陰謀のイデオロギーを奉じている、そして『客観的』条件を無視して権力を追求している、と決まって批判した。
 レーニンは、自分の理論はブランキ主義と関係がない、真のプロレタリアの支持のある党の建設を望んでいる、一握りの陰謀家により遂行される革命という考えを持っていない、と反論した。
 メンシェヴィキは、レーニンは『主観的要因』、すなわち革命の意思力(will-power)の決定的な役割について反マルクス主義の信条をもつ、と主張した。
 史的唯物論の教えによれば、革命的意識を党の努力によって人工的に創出することはできず、それは社会状勢の成熟に依存している。
 革命的状況をもたらす経済的事象を待たずして革命を引き起こそうとするのは、社会の発展法則に違背することになる。//
 このような批判は、誇張はされているが、根拠がないわけではない。
 レーニンは、もちろん、小さな陰謀集団が適切に準備すればいつでも実行できる<クー・デタ>を心に描く、という意味での『ブランキ主義者』ではなかった。
 彼は、意のままに計画するまたは生み出すことはできない根本的な事象だと革命を認識していた。
 レーニンの見地は、ロシアでの革命は不可避であり、それが勃発したときに党はそれを指揮するよう用意し、歴史の波に乗り、そして権力を奪取しなければならない、その権力は最初は革命的農民たちと分かちあう、というものだった。
 彼は革命を惹起させることを計画していたのではなく、革命意識の成長を促進して、やがては大衆運動を支配することを計画していた。
 党が革命の過程での『主観的要因』であるならば、--そしてこれが、レーニンとその対抗者たちのいずれもがどのように問題を理解していたかなのだが--彼は、労働者階級の自然発生的な蜂起は、党が存在してそれを塑形し指揮しないかぎりは、何ものにもならないだろうと、まさしく考えていた。
 これは、党の役割は社会主義の意識の唯一の可能な運び手だという考え方の、一つの明確な推論結果(corollary)だった。
 プロレタリアートそれ自身は、この意識を発展させることができない、したがって革命への意思はたんに経済的事象によって発生するのではなく、計画的に作り出されなければならない。
 『経済主義者』、メンシェヴィキおよび左派ドイツ社会民主党、経済の法則が社会主義革命を自動的にもたらすと期待したこれらは全ては、悲惨な政策に従っていた。これは、決して起こらないのだから。
 その政策は、この問題についてマルクスに十分に訴えるものではなかった(レーニンによると、ローザ・ルクセンブルクはマルクスの教理を『世俗化して卑しくさせた』)。
 マルクスは、社会主義の意識または他のいかなる意識も社会条件から自動的に掻き立てられるとは言わなかった。その条件が意識の発展を可能にする、とだけ言ったのだ。
 現実になる可能性をもつためには、革命的な観念(idea)と意思が、組織された党の形態で存在していなければならなかった。//
 この論争でのどちらの側がマルクスをより正確に理解しているのかに関して、確定的な回答は存在しない。
 マルクスは、社会的条件は、やがてその条件を変容させる意識を発生させる、しかし、実際にそうなるためには、まずは明確に表現された形態をとらなければならない、と考えた。
 意識は現実の状勢を反映するものに『すぎない』という見方を支えるために、マルクスの多くのテクストを引用することができる。
 これは、正統派の見地の<待機主義(attentisme)>を正当化するものであるように見える。
 しかし他方で、マルクスは自分が書いたことを潜在的な意識の明確化または明示化だと見なした。
 マルクスがプロレタリアートの歴史的使命に言及する最初のテクストで、マルクスは語る。
 『我々は、この石のように固まった関係を、それら自身の旋律をそれらに演奏して踊るようにさせなければならない。』
 誰かが、この旋律を演奏しなければならない。--その『関係』は、自発的にそうすることはできない。
 社会的意識が変わらないままに『神秘化された』形態をとり、プロレタリアートが出現するときに勢いを止める、そういう過去の歴史についてのみ『社会的存在が意識を決定する』という原理が適用されるのだとすれば、前衛は意識を喚起するために必要だという教理は、マルクスの教えに合致している。
 問題はかくしてたんに、喚起することが可能となる地点まで条件が成熟した、ということを、我々が決定する規準(標識, criteria)を見分けることだ。
 マルクス主義は、この規準がどういうものなのかを示していない。
 レーニンはしばしば、プロレタリアートは(sc. 『物事の本質において』)革命的階級だと述べた。
 しかしながら、これは、プロレタリアートは革命的意識を自分で発展させるということではなく、その意識を党から受け取ることがことができる、ということのみを意味した。
 ゆえに、レーニンは『ブランキ主義者』ではないが、彼は、党だけが革命的意識の首唱者であり淵源だと考えた。
 『主観的要因』は、社会主義へと前進するためのたんに必要な条件である(メンシェヴィキも含めて全てのマルクス主義者が認めるように)のではなく、プロレタリアートからの助けなくしては革命を開始することはできないけれども、革命的意識を真に創り出すものなのだ。
 マルクス自身は決してこのような表現方法では問題を設定しなかったけれども、この点に関するレーニンの見解はマルクス主義の『歪曲』だと判断する根拠が、十分にあるのではない。// 
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 第3節・民族問題へとつづく。

1596/党と運動⑤-L・コワコフスキ著16章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性⑤。
 党員条項をめぐる論争は、実際に、党組織に関する二つの対立する考え方(ideas)を反映していた。これについてレーニンは、大会およびのちの諸論考で多くのことを語った。
 彼の見解では、マルトフ、アクセルロート(Akselrod)およびアキモフ(Akimov)が提案した『緩い』条項は、党を助ける教授にも中学生にも、あるいはストライキから出てきた労働者にも、全てに党員だと自称することを認めることになる。
 これが意味するのは、党が結合力と紀律および自分の党員たちへの統制を失う、ということだ。党は、上からではなく下から建設された大衆組織に、中央集中的な行動には適さない、自律的な単位の集合体に、なってしまうだろう。
 レーニンの考えは、正反対のものだった。すなわち、党員資格の厳しく定義された条件、厳格な紀律、その諸組織に対する党機関の絶対的な統制、党と労働者階級の間の明確な区別。
 メンシェヴィキはレーニンを、党生活への官僚主義的な態度を採用する、労働者階級を侮蔑する、独裁する野望をもつ、そして党全体を一握りの指導者に従属させる望みをもつ、と批判した。
 レーニンの側では、彼は大会のあとで書いた(<一歩前進二歩後退>、1904年。全集7巻p.405の注.〔=日本語版全集7巻435頁注(1)〕)。
 『マルトフ同志の基本的な考え-党への自主登録-は、まさしく偽りの「民主主義」で、下から上へと党を建設するという考えだ。
 一方、私の考えは、党は上から下へと、党大会から個々の党組織へと建設されるべきだという意味で、「官僚主義的」だ。』(+)//
 レーニンは、この論争の基本的な重要性を、最初から適切に感知していた。のちにはいくつかの場合に、この論争をジャコバン派とジロンド派の争論になぞらえた。
 これは、ベルンシュタインの支持者とドイツ正統派の間の論争よりは、適切な比較だった。というのは、メンシェヴィキの位置はドイツ社会民主党の中央にほとんど近かったからだ。
 メンシェヴィキは、より中央集中的でない、より『軍事的』でない組織を支持し、党は名前やイデオロギーについてのみならず、可能なかぎり多くの労働者を包含し、たんなる職業的革命家の一団ではないことによってこそ労働者階級の党だ、と考えた。
 彼らは、党は個々の諸組織に相当程度の自律を認めるべきで、もっぱら指令の方法によって諸組織との関係をもつべきではない、と考えた。
 彼らはレーニンを、外部から注入されるべき意識という教理を受容はするけれども、労働者階級を信頼していないと批判した。
 メンシェヴィキが他の問題についても異なる解決方法を採用する傾向にあることは、すみやかに明白になった。規約のただ一つの条項に関する論争が、党を実際に、戦略上および戦術上の諸問題にいわば本能的に異なって反応する二つの陣営へと分裂させた。
 メンシェヴィキはあらゆる事案について、リベラル派との同盟の方向へと引き寄せられた。
 一方でレーニンは、農民の革命と農民との革命的な同盟を強く主張した。
 メンシェヴィキは、合法的な行動形態や、可能になるならば、議会制度上の方法によって闘うことに重きを置いた。
 レーニンは長い間、ドゥーマ〔帝国議会下院〕に社会民主党が参加するという考えに反対し、その後もそれをたんなる情報宣伝の場所だと見なして、ドゥーマが定めるいかなる改革をも信頼しなかった。
 メンシェヴィキは、労働組合の活動を強く主張し、法令制定またはストライキ行動によって労働者階級が確保しうる全ての改良がもつ、固有の価値を強調した。
 レーニンにとっては、全てのそのような活動は、最終的な闘いを準備するのを助けるかぎりでのみ有意味だった。
 メンシェヴィキは、民主主義的自由をそれ自体で価値があるものと見なしたが、一方でレーニンにとってそれは、特殊な事情で党のために役立ちうる武器にすぎなかった。
 この最後の点で、レーニンは、ポサドフスキー(Posadovskii)が大会で行った特徴的な言明に賛成して、引用する。
 『我々は将来の政策を一定の基本的な民主主義原理(principles)に従属させて、それに絶対的な価値があると見なすべきか?
 それとも、全ての民主主義原理はもっぱら我々の党の利益に従属しているものであるべきか?
 私は断固として、後者の立場に賛同する。』
 (全集7巻p.227.)(++)
 プレハノフも、この見地を支持した。このことは、党が代表すると想定される階級の直接的利益を含めて種々の考察をする中で、『党の利益』をまさに最初から、いかに最も貴重なものとしているかを例証するものだ。
 レーニンの他の著作も、彼が『自由(freedom)』それ自体にはいかなる価値も与えていないことについて、疑問とする余地を残していない。演説や小冊子は、『自由への闘い』への言及で充ち溢れているているけれども。
 『この自由をプロレタリアが利用するという独自の運動(cause)に役立つことのない、この自由を社会主義へのプロレタリアの闘争のために使う運動に役立つことのない、一般論としての自由の運動のために役立つものは、分析をし尽くせば、平易かつ単純に、ブルジョアジーの利益のための闘士なのだ。』(+)
 (雑誌<プロレタリア>内の論考『新しい革命的労働者同盟』、1905年6月。全集8巻p.502.〔=日本語版全集8巻507頁〕)//
 このようにして、レーニンは、のちに共産党となるものの基礎を築いた。-すなわち、こう特徴づけられる党。観念大系の一体性、有能性、階層的かつ中央集中的構造、そして、プロレタリアート自身は何を考えていようとその利益を代表するという確信。
 戦術上の目的がある場合は別として、それが代表すると自認する人民の実際の欲求や熱望を無視することのできる、そういう『科学的知見』を持つがゆえに、その利益が自動的に労働者階級の利益、および普遍的な進歩の利益となることを宿命づけられている党。//
 (+秋月注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
 (++) 日本語版全集7巻で、この文章は確認できなかった(2017.06.21)。
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 ⑥へとつづく。

1592/党と運動④-L・コワコフスキ著16章2節。

 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性④。
 党に関するレーニンの教理が『エリート主義』ではないということが分かるだろう。
 あるいは、社会主義の意識は外部から自然発生的な労働者運動に導入されるという理論は、レーニンの党を中央集中的で教条的で頭を使っていないがきわめて効率的な機械にするようになり、とくに革命後にそうなった。
 この機械の理論上の淵源は、というよりもそれを正当化するものは、党は社会に関する科学的な知識をもつために政治的主導性の唯一の正統な淵源だ、とするレーニンの確信だった。
 これはのちに、ソヴィエト国家の原理(principle)になった。そこでは、同じイデオロギーが、社会生活の全ての分野での主導性を党が独占することを、そして党の位置を社会に関する知識の唯一の源泉だと見なし、したがって社会の唯一の所有者だと見なすことを、正当化するのに役立つ。
 全体主義的(totalitarian)国家の全体系が、意識的に目論まれて、1902年に表明されたレーニンの教理の中で述べられていた、と主張するのは、むろん困難だろう。
 しかし、権力奪取の前と後での彼の党の進化は、ある程度は、マルクス主義者の、あるいはむしろヘーゲル主義者の、不完全だが歴史的秩序に具現化される『物事の論理的整序』という信念を確証するものだ。
 レーニンの諸命題は、社会的階級、つまりプロレタリアートの利益と目標は、その問題についてその階級は一言も発することなくして決定されることができるし、またそうされなければならない、と信じることを、我々に要求する。
 同じことは、そのうえさらに、いったんその階級に支配され、そのゆえにおそらくその階級の目標を共有した社会全体について、また全体の任務、目的およびイデオロギーがいったん党の主導性によって支配されてその統制のもとに置かれた社会全体について、当てはまる。
 党の主導権に関するレーニンの考え(idea)は、自然に、社会主義社会における党の『指導的役割』という考えへと発展した。--すなわち、党はつねに社会それ自体よりも社会の利益、必要、そして欲求すらをよく知っている、民衆自身は遅れていてこれらを理解できず、党だけがその科学的知識を使ってこれらを見抜くことができる、という教理にもとづく専政体制(独裁, despotism)へと。
 このようにして、一方では夢想主義(utopianism)に対抗し、他方では自然発生的な労働者運動に対抗する、『科学的社会主義』という想念(notion)が、労働者階級と社会全体を支配する一党独裁のイデオロギー上の基盤になった。//
 レーニンは、党に関するその理論を決して放棄しなかった。
 彼は、第二回党大会のとき、<何をなすべきか>で僅かばかり誇張した、と認めた。しかし、どの点に関してであるのかを語らなかった。
 『我々は今ではみな、「経済主義者」が棒を一方に曲げたことを知っている。
 物事をまっすぐに伸ばすためには、誰かが棒を他の側に曲げ返さなければならなかった。それが私のしたことだ。
 私は、いかなる種類の日和見主義であってもそれによって捻られたものを何でも、ロシア社会民主党がつねに力強くまっすぐに伸ばすだろうと、そしてそのゆえに、我々の棒はつねに最もまっすぐであり、最も適任だろうと、確信している。』(+)
 (党綱領に関する演説、1902年8月4日。全集6巻p.491〔=日本語版全集6巻506頁〕.)//
 <何をなすべきか>はどの程度において単一性的な党の理論を具体化したものかを考察して、さらなる明確化がなされなければならない。
 このときそしてのちにも、レーニンは、党の内部で異なる見解が表明されることを、そして特殊な集団が形成されることを、当然のことだと考えていた。
 彼は、これは自然だが不健全だと考えた。原理的には(in principle)、唯一つの集団だけが、所与の時点での真実を把握できるはずだからだ。
 『科学を前進させたと本当に確信している者は、古い見解のそばに並んで新しい見解を主張し続ける自由をではなく、古い見解を新しい見解で置き換えることを、要求するだろう。』(+)(全集5巻p.355〔=日本語版全集5巻371頁〕.)
 『悪名の高い批判の自由なるものは、あるものを別のものに置き換えることを意味しておらず、全ての統括的で熟考された理論からの自由を意味している。
 それは、折衷主義および教理の欠如を意味する。』(+)(同上, p.369〔=日本語版全集5巻388頁〕.)
 レーニンが、重要な問題についての分派(fractionalism)や意見の差違は党の病気または弱さだとつねに見なしていた、ということに疑いはあり得ない。
 全ての異見表明は過激な手段によって、直接の分裂によってか党からの除名によって、治癒されるべきだとレーニンが述べるかなり前のことではあったが。
 正式に分派が禁止されたのは、ようやく革命後にだった。
 しかしながら、レーニンは、重要な問題をめぐって同僚たちと喧嘩別れすることをためらわなかった。
 大きな教理上のおよび戦略上の問題のみならず組織の問題についても、全ての見解の相違は結局のところは階級対立を『反映』しているとレーニンは考えて、彼は自然に、党内での彼への反抗者たちを、何らかの種類のブルジョア的逸脱の『媒介者』だと、またはプロレタリアートに対するブルジョアの圧力の予兆だと、見なした。
 彼自身がいつでもプロレタリアートの真のそして最もよく理解された利益を代表しているということに関しては、レーニンは、微少なりとも疑いを抱かなかった。//
 <何をなすべきか>で説かれた党に関する理論は、第二回党大会でのレーニンの組織に関する提案で補完された。
 第二回党大会は長い準備ののちにブルッセルで1903年7月30日に開かれ、のちにロンドンへと移されて8月23日まで続いた。
 レーニンは、春から住んでいたジュネーヴから出席した。
 最初のかつ先鋭的な意見の相違点は、党規約の有名な第1条に関するものだった。
 レーニンは、一つまたは別の党組織で積極的に活動する者に党員資格を限定することを望んだ。
 マルトフ(Martov)は、一方で、党組織の『指導と指揮のもとで活動する』者の全てを受け入れるより緩やかな条項を提案した。
 この一見すれば些細な論争は、分裂に似たもの、二つの集団の形成につながった。この二つは、すぐに明確になったが、組織上の問題のみならず他の多くの問題について、分かれた。
 レーニンの定式は、プレハノフ(Plekhanov)に支持されたが、少しの多数でもって却下された。
 しかし、大会の残り期間の間に、二つの集団、すなわちブント(the Bund、ユダヤ人労働者総同盟)と定期刊行物の < Rabocheye Delo >を代表する『経済主義者』が退席したおかげで、レーニンの支持者たちは、僅かな優勢を獲得した。
 こうして、レーニンの集団が中央委員会や党会議の選挙で達成した少しばかりの多数派は、有名な『ボルシェヴィキ』と『メンシェヴィキ』、ロシア語では『多数派』と『少数派』、という言葉を生み出した。
 この二つはこのように、もともとは偶然のものだった。しかし、レーニンとその支持者たちは、『ボルシェヴィキ(多数派)』という名称を掴み取り、数十年の間それに執着した。その後の党の推移全般にわたって、ボルシェヴィキが多数派集団だと示唆し続けた。
 他方で、大会の歴史を知らない多くの人々は、この言葉を『最大限綱領主義者(Maximalist)』の意味で理解した。
 ボルシェヴィキたち自身は、このような解釈を示唆することは決してなかった。//
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 (+秋月注記) 日本語版全集の訳を参考にして、ある程度は変更した。
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 ⑤へとつづく。

1591/党と運動③-L・コワコフスキ著16章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976)。
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性③。
 レーニンの新しさは、第一に、自然発生的な労働者階級運動は、それが社会主義の意識を発展させることができず、別の種類の意識も存在しないために、ブルジョア意識をもつに違いない、という言明のうちにある。
 この考えは、レーニンが引用するカウツキーの議論のいずれにも、マルクス主義の諸命題のいずれにも、従っていない。
 レーニンによれば、全ての社会運動は、明確な階級的性格をもつ。
 自然発生的な労働者運動は社会主義の意識を、すなわち言葉の適切な理論的および歴史的意味でのプロレタリアの意識を生み出すことができないので、奇妙に思えるのだが、社会主義政党に従属しなければ労働者運動はブルジョアの運動だ、ということになる。
 これは、第二の推論によって補充される。
 言葉の真の意味での労働者階級運動、すなわち政治的革命運動は、労働者の運動であることによってではなく、正しい(right)観念大系を、つまり定義上『プロレタリア』的であるマルクス主義の観念大系(ideology)を持っていることによって、明確になる。
 言い換えれば、革命党の階級構成は、その階級的性格を決定するに際して重要な意味を持たない。
 レーニンは一貫して、この見地を主張した。そして例えば、イギリス労働党はその党員は労働者であるがブルジョア政党だと考える。一方で、労働者階級に根源を有しない小集団も、マルクス主義観念大系への信条を告白しているかぎりで、プロレタリアートの唯一つの代表だと、プロレタリアの意識の唯一つの具現体だと自己宣告する資格がある、と考える。
 これは、レーニン主義の諸政党が、現実の労働者の間では最小限度の支持すら得なかった政党を含めて、かつてから考えてきたことだ。//
 以上のことは勿論、レーニンは自分の党の構成に無関心だったことを意味していないし、レーニンが知識人たちのみから成る革命組織を設立しようと意図したことを意味していない。
 他方でレーニンは、党における労働者の割合は可能なかぎり高くあるべきだと、しばしば主張した。また彼は、知識階層を極度の侮蔑でもって処遇した。
 『知性的』との言葉はレーニンの語彙の中の蔑称であり、決まって、『優柔不断な、頼りにならない、紀律のない、個人主義にとらわれた、移り気な、空想的な』等々を意味するものとして使われた。
 (レーニンが最も信頼した党活動家たちは、労働者階級の出自だった。スターリンやマリノフスキー(Malionovsky)のように。
 後者は、のちに判るようにオフラーナ(Okhrana、ロシア帝国政治秘密警察部局)の工作員でレーニンの最も近い協力者としてきわめて貴重な奉仕をその主人のためにしたのだったが、党の全ての秘密を自由に使えた。)
 レーニンが労働者を知識人で『置き換える』のを意図したこと、あるいはたんに知識人だという理由で知識人を社会主義の意識の体現者だと見なしたこと、についての疑問は存在し得ない。
 その具現体とは<党>であり、述べたように、知識人と労働者の間の区別が消失する、特殊な種類の一体だった。
 知識人たちは知識人であることをやめ、労働者たちは労働者であることをやめた。
 いずれも、厳格に中央集中化した、よく訓練された革命組織の構成分子だった。//
 かくして、レーニンによると、党は『正しい(correct)』理論上の意識を持って、現実の経験上のプロレタリアートが自分たち自身または党に関して考えているかもしれないこととは無関係に、プロレタリアの意識を体現化する。
 党はプロレタリアートの『歴史的』利益がどこにあるかを知っており、いかなる瞬間においてもプロレタリアートの真の意識がどこにあるべきかを知っている。その経験上の意識は、一般的には遅れていると分かるだろうとしても。
 党は、そうすべきだとプロレタリアートが合意しているがゆえにではなくて、社会の発展法則を知り、マルクス主義に従う労働者階級の歴史的使命を理解しているがゆえに、プロレタリアートの意識を代表する。
 この図式では、労働者階級の経験上の意識は、鼓舞させる源としてではなく、障害物として、克服されるべき未熟な状態として現われる。
 党は、現実の労働者階級から、それが実践において党の支援を必要としている場合を除いて、完全に自立したものだ。
 こうした意味で、党の主導性に関するレーニンの教理は、政治上は、労働者階級は『置き換えられ』ることができるし、そうされなければならない。--しかしながら、知識人によってではなく、党によって。
 党は、プロレタリアの支援なくして有効に活動することはできない。しかし、政治的な主導権を握り、プロレタリアートの目標は何であるはずかを決定するのは、唯一つ、党だけだ。
 プロレタリアートには、自分の階級の目標を定式化する能力がない。そう努力したところで、その目標は、資本主義の制限の範囲内に限定された、ブルジョアのそれになるだろう。//
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 秋月注記/ロマン・マリノフスキー(Roman Malinovsky)について、リチャード・パイプス著・ ロシア革命(1990)の第9章第4節に論及がある。
 すでに試訳して紹介した、「レーニンと警察の二重工作員①・②=マリノフスキーの逸話①・②-R・パイプス著」、この欄の№1463・№1464=1917年3/22付と同年3/23付を参照。
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 ④へとつづく。

1588/マルクス主義・共産主義・全体主義-Tony Judt、Leszek Kolakowski、François Furet。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)、フランソワ・フュレ(François Furet)はいずれも1927年(昭和2年)の生まれだ。前者は10月、後者は3月。
 フランソワ・フュレは1997年の7月12日に、満70歳で突然に亡くなった。
 その報せを、ドイツにいたエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)は電話で知り、同時に追悼文執筆を依頼されてもいたようだ。
 トニー・ジャット(Tony Judt)は、1997年12月6日付の書評誌(New York Review of Books)に「フランソワ・フュレ」と題する追悼を込めた文章を書いた。
 その文章はのちに、妻のJeniffer Homans が序文を記した、トニー・ジャットを著者名とする最後と思われるつぎの本の中に収められた。
 Tony Judt, When the Fact Changes, Essays 1995-2010 (2015).
 この本の第5部 In the Long Run We are ALL Dead 〔直訳だと、「長く走って、我々はみんな死んでいる」〕は、追悼を含めた送辞、人生と仕事の概括的評価の文章が三つあり、一つはこのF・フュレに関するもの、二つめは Amos Elon (1926-2009)に関するもので、最後の三つめは、 レシェク・コワコフスキに関するものだ。
 L・コワコフスキは、2009年7月17日に亡くなった。満81歳。
 トニー・ジャットが追悼を込めた文章を書いたのは、2009年9月24日付の書評誌(New York Review of Books)でだ。かなり早い。
 前回のこの欄で記したように、トニー・ジャットはL・コワコフスキの<マルクス主義の主要潮流>の再刊行を喜んで、2006年9月21日付の同じ雑誌に、より長い文章を書いていた。それから三年後、ジャットはおそらくはL・コワコフスキの再刊行の新著(合冊本)を手にしたあとで、L・コワコフスキの死を知ったのだろう。
 トニー・ジャット(Tony Judt)自身がしかし、それほど長くは生きられなかった。
 L・コワコフスキに対する懐旧と個人的尊敬と中欧文化への敬意を滲ませて2009年9月に追悼文章を発表したあと、1年経たない翌年の8月に、T・ジャットも死ぬ。満62歳。
 死因は筋萎縮性側索硬化症(ルー・ゲーリック病)とされる。
 トニー・ジャットの最後の精神的・知的活動を支えたのは妻の Jeniffer Homans で、硬直した身体のままでの「精神」活動の一端を彼女がたしか序文で書いているが、痛ましくて、訳す気には全くならない。
 フランソワ・フュレの死も突然だった。上記のとおり、トニー・ジャットは1997年12月に追悼を込めた、暖かい文章を書いた。、  
 エルンスト・ノルテがF・フュレに対する公開書簡の中で「フランスの共産主義者(communist)だった貴方」とか書いていて、ここでの「共産主義者(communist)」の意味は昨秋の私には明瞭ではなかったのだが、のちに明確に「共産党員」を意味することが分かった。下掲の2012年の本によると、F・フュレは1949年に入党、1956年のハンガリー蜂起へのソ連の弾圧を期に離れている。
 つまり、L・コワコフスキは明確にポーランド共産党(統一労働者党)党員だったが、F・フュレも明確にフランス共産党の党員だったことがある。しかし、二人とも、のちに完全に共産主義から離れる。理論的な面・原因もあるだろうが、しかしまた、<党員としての実際>を肌感覚で知っていたことも大きかったのではないかと思われる。
 なぜ共産党に入ったのか、という問題・経緯は、体制自体が共産主義体制だった(そしてスターリン時代のモスクワへ留学すらした)L・コワコフスキと、いわゆる西側諸国の一つだったフランスのF・フュレとでは、かなり異なるだろう。
 しかし、<身近にまたは内部にいた者ほど、本体のおぞましさを知る>、ということは十分にありうる。
 F・フュレが通説的またはフランス共産党的なフランス革命観を打ち破った重要なフランス人歴史家だったことは、日本でもよく知られているかもしれない。T・ジャットもむろん、その点にある程度長く触れている。
 しかし、T・ジャットが同じく重要視しているF・フュレの大著<幻想の終わり-20世紀の共産主義>の意義は、日本ではほとんど全く、少なくとも適切には、知られていない、と思われる。原フランス語の、英訳名と独訳名は、つぎのとおり。
 The Passing of an Illusion - The Idea of Communism in the Twentithe Century (1999).
 Das Ende der Illusion - Der Kommunismus im 20. Jahrhubdert (1996).
 これらはいずれも、ふつうにまたは素直に訳せば、「幻想の終わり-20世紀における共産主義」になるだろう。「幻想」が「共産主義」を意味させていることもほとんど明らかになる。
 この欄で既述のことだが、日本人が容易に読める邦訳書のイタトルは以下で、どうも怪しい。
 <幻想の過去-20世紀の全体主義>(バシリコ, 2007、楠瀬正浩訳)。
 「終わり」→「過去」、「共産主義」→「全体主義」という、敢えて言えば、「書き換え」または「誤導」が行われている。
 日本人(とくに「左翼」およびその傾向の出版社)には、率直な反共産主義の書物は、<きわめて危険>なのだ
 フランスでの評価の一端について、T・ジャットの文章を訳してみよう。
 『この本は、大成功だった。フランスでベストセラーになり、ヨーロッパじゅうで広く読まれた。/
 死体がまだ温かい政治文化の中にあるレーニン主義の棺(ひつぎ)へと、過去二世紀の西側に広く撒かれた革命思想に依存する夢想家の幻想を剥ぎ取って、最後の釘を打ったものと多くの論評家は見た。』
 後掲する2012年の書物によると、1995年1月刊行のこの本は、1ヶ月半で7万部が売れた。6ヶ月後もベストセラーの上位にあり、1996年6月に10万部が売れた。そして、すみやかに18の外国語に翻訳されることになった(序, xi)。(時期の点でも邦訳書の2007年は遅い)。
 やや迂回したが、フランソワ・フュレ自身は満70歳での自分の死を全く想定していなかったように思える。
 ドイツ人のエルンスト・ノルテとの間で書簡を交換したりしたのち、1997年6月、突然の死の1月前には、イタリアのナポリで、E・ノルテと逢っているのだ。
 また、1996年から翌1997年にかけて、アメリカ・シカゴ大学で、同大学の研究者または関係者と会話したり、インタビューを受けたりしている(この辺りの事情については正確には読んでいない)。
 そして、おそらくはテープに記録されたフランソワ・フュレの発言をテキスト化して、編者がいくつかのテーマに分けて刊行したのが、2012年のつぎの本だ。邦訳書はない。
 François Furet, Lies, Passions & Illusions - The Democratic Imagination in the Twentirth Century (Chicago Uni., 2014. 原仏語, 2012).〔欺瞞、熱情および幻想〕
 この中に、「全体主義の批判(Critique of Totaritarianism)」と題する章がある。
 ハンナ・アレント(Hannah Arendt)の大著について、「歴史書」としては評価しない、「彼女の何が素晴らしい(magnificent)かというと、それは、悲劇、強制収容所に関する、彼女の感受性(perception)だ」(p.60)と語っていることなど関心を惹く箇所が多い。
 ハンナ・アレントに関する研究者は多い。フランソワ・フュレもまた「全体主義」に関する歴史家・研究者だ。 
 エルンスト・ノルテについても、ある面では同意して讃え、ある面では厳しく批判する。
 <最近に電話で話した>とも語っているが、現存の同学研究者に対する、このような強い明確な批判の仕方は、日本ではまず見られない。欧米の学者・知識人界の、ある種の徹底さ・公明正大さを感じとれるようにも思える。
 内容がもちろん重要で、以下のような言葉・文章は印象的だ。
 <民主主義対ファシズム>という幻想・虚偽観念にはまったままの日本人が多いことを考えると、是非とも邦訳してみたいが、余裕があるかどうか。
 <共産主義者は、ナチズムの最大の犠牲者だと見なされるのを望んだ。/
 共産主義者は、犠牲者たる地位を独占しようと追求した。
そして彼らは、犠牲者になるという驚異的な活動を戦後に組織化した。」p.69。
 <共産主義者は実際には、ファシズムによって迫害されてはいない。/
 1939-41年に生じたように共産主義者は順次に衰亡してきていたので、共産主義者は、それだけ多く、反ファシスト闘争を利用したのだ」。p.69。
 日本の共産主義者(日本共産党)は、日本共産党がのちにかつ現在も言うように、「反戦」・「反軍国主義」の闘争をいかほどにしたのか?
 最大の勇敢な抵抗者であり最大の「犠牲者」だったなどという、ホラを吹いてはいけない。
 以上、Tony Judt、Leszek Kolakowski、François Furet 等に関する、いいろいろな話題。

1587/党と運動②・レーニン-L・コワコフスキ著16章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性②。
 党がたんなる労働者の自然発生的な運動の機関または下僕であるなら、党は、社会主義革命の用具には決してなることができない。
 党は、それなくしては労働者がブルジョア社会の地平を超えて前進することができない、あるいはその基礎を掘り崩すことができない、前衛、組織者、指導者そして思想提供者(ideologist)でなければならない。
 しかしながら、レーニンはここで、決定的な重要性のある見解を追加する。//
 『労働者大衆が自分たちで彼らの運動の推移の中で独立したイデオロギーをもつか否かという問題は想定し難いので、唯一の選択はこうだ-ブルジョアのイデオロギーか、それとも社会主義のイデオロギーか。
 中間の行き方は、存在しない--なぜなら、人類は『第三の』イデオロギーを生み出さなかったし、階級対立によって引き裂かれている社会には非階級のまたは超階級のイデオロギーは決して存在し得ないからだ。<中略>
 しかし、労働者階級運動の自然発生的な発展は、ブルジョアのイデオロギーに従属させる方向へと進む。<中略>
 労働組合主義は、労働者がブルジョアジーによってイデオロギー的に隷従させられることを意味する。
 そのゆえにこそ、我々の任務、社会民主党の任務は、<自然発生性と闘うこと>だ。』
 (全集5巻p.384〔=日本語版全集(大月書店, 1954)5巻406頁〕。)(+)//
 『自然発生性への屈従』という教理、または khvostizm (tailism, 『追従主義』)は、経済主義者-マルティノフ(Martynov)、クスコワ(Kuskova)その他-に対する、レーニンの主要な攻撃対象だった。
 労働者はよりよい条件で自分たちの労働力を売却できるように闘うかもしれないが、しかし、社会民主党の任務は、賃労働それ自体をすっかり廃棄してしまうために闘うことだ。
 労働者階級と全体としての資本主義経済制度の間の対立は、科学的な思想(thought)よってのみ理解することができ、それが理解されるまでは、ブルジョア制度に対するいかなる一般的な政治闘争も存在することができない。//
 レーニンは、続ける。このことから、労働者階級と党との間の関係に関して、一定の結論が生じる。
 経済主義者の見地によれば、革命的組織は労働者組織以上の何ものでもなければそれ以下の何ものでもない。
 しかし、ある労働者組織が有効であるためには、広い基礎をもち、その手段について可能なかぎり秘密をなくしたものでなければならず、そして労働組合の性格を持たなければならない。
 党はそのようなものとしての運動とは同一視できないものであり、労働組合と同一視できるような党は、世界に存在していない。
 他方で、『革命家の組織は、先ずはかつたいていは、革命活動をその職業とする者たちによって構成されなければならない。<中略>
 このような組織の構成員に関する共通する特徴という見地によれば、労働者と知識人の間の全ての明確な差違が消失するに違いない。<中略>』 (+)
 (同上、p.452〔=日本語版全集5巻485-6頁〕)。
 このような職業的革命家の党は、労働者階級の確信を獲得して自然発生的運動を覆わなければならないのみならず、その原因または代表する利益が何であるかを考慮することなく、専政に対して向けられた全ての活力を集中させて、社会的抑圧に対する全ての形態の異議申し立ての中枢部に、自らをしなければならない。
 社会民主党はプロレタリアートの党だということは、特権階層からのであれ、その他の集団からの搾取や抑圧には無関心であるべきだ、ということを意味しはしない。
 民主主義革命は、そのうちにブルジョアジ革命を含むが、プロレタリアートによって導かれなければならないので、専制政治を打倒する意図をもつ全ての勢力を結集させるのは、後者〔プロレタリアート〕の義務だ。
 党は、暴露するための一大宣伝運動を組織しなければならない。
 党は、政治的自由を求めるブルジョアジーを支援し、宗教聖職者たちへの迫害と闘い、学生や知識人に対する残虐な措置を非難し、農民たちの要求を支持しなければならない。そして、全ての公共生活の領域で自らの存在を感知させ、分離している憤激と抗議の潮流を、単一の力強い奔流へと統合しなければならない。これは、ツァーリ体制を一掃してしまうだろう。//
 党は、このような必要性に対応するために、主としては職業的な活動家によって、労働者または知識人ではなくて自分をたんに革命家だと考え、その全時間を党活動に捧げる男女によって、構成されなければならない。
 党は、1870年代のZemlya i Voila の主張に沿う、小さい、中央集中型の、紀律ある組織でなければならない。
 陰謀のある状態では、公然の組織では自然のことかもしれないが、党内部に民主主義的諸原理を適用することは不可能だ。//
 党に関するレーニンの考え方(idea)は、横暴(専制的)だとかなり批判された。今日の歴史家のいく人かも、その考え方は、社会主義体制がのちに具現化した階層的で全体主義的(totaritarian)構造をうちに胚胎していたと主張する。
 しかしながら、レーニンの考え方はどの点で当時に一般的に受容されていたものと異なるのかを、考察する必要がある。
 レーニンは、エリート主義であるとか、労働者階級を革命組織に取り替えようと望んだとか非難された。
 レーニンの教理は知識階層または知識人たちの利益を反映している、そして、レーニンは政治権力が全体としてプロレタリアートの手にではなく知識人の手にあるのを見たいと望んでいる、とすら主張された。//
 党を前衛と見なすという、主張されるエリート主義に関して言うと、レーニンの立場は社会主義者の間で一般的に受容されていたものと異ならない、ということを指摘すべきだ。
 前衛という考えは<共産党宣言>にやはり出てくるのであり、その著者たちは、共産党を、全体としての階級の利益以外に関心を持たない、プロレタリアートの最も意識的な部分だと叙述した。
 労働者運動は自然に革命的な社会主義意識へと進化するのではなく、教養のある知識階層からそれを受け取らなければならない、という見方は、レーニンが、カウツキー(Kautsky)、ヴィクトル・アドラー(Viktor Adler)およびこの点でサンディカ主義者と異なると強調するたいていの社会民主党の指導者たちと、分かち持つものだった。
 レーニンが表明した考え(thought)は、基本的には、じつに自明のことだった。どの執筆者も、<資本論>も<反デューリング論>も、そして<何をなすべきか>をすら著述できなかっただろうほどに、明白だったからだ。    
 工場労働者ではなく知識人たちが社会主義の理論上の創設をしなければならないことは、誰も争うことのできないことだった。『意識を外部から注入する』ということでこの全てが意味されているとのだとすれば、議論すべきものは何もなかった。
 党は労働者階級全体とは異なるものだという前提命題もまた、一般的に受容されていた。
 マルクスは党とは何かを厳密には定義しなかったというのは本当だけれども、マルクスは党をプロレタリアートと同一視した、ということを示すことはできない。
 レーニンの考えで新しいのは、労働者階級を指導し、労働者階級に社会主義の意識を吹き込む、前衛としての党という考えではなかった。
 レーニンの新しさは、…。
  (秋月注記+) 日本語版全集による訳を参考にして、ある程度変更している。
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 改行箇所ではないが、ここで区切る。③へとつづく。
 

1584/日本の「特定保守」とT・ジャットやL・コワコフスキ。

 「私がこの序文(Introduction)を書く方法はただ、人間をその考え(思想, the ideas)と分かつことだ。そうでなければ、私は、愛して1993年から2010年の彼の死まで結婚していた人に、その人間に、引き込まれてしまう。進んでその考えに引き込まれるのではなく。」
 Jennifer Homans.
 =Tony Judt, When the Fact Changes, Essays 1995-2010 (2015) の序文。
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 トニー・ジャット(Tony Judt, 1948-2010)は、1978年の三巻の英訳本があった Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976) がアメリカの Norton 社によって新たに一巻本(三巻合冊)として再刊することが決まったとき、それを称賛して、あるいは「前宣伝」のつもりもあったのだろうか、2006年9月の書評誌に、L・コワコフスキとこの書物に関する長い文章を書いた。これは、邦訳書になっている、以下に収載された。
 Tony Judt, Reapraisal -Reflections on the Fogotten Twentieth Century (Penguin, 2008).
 =河野真太郎=生駒久美ほか訳・失われた二〇世紀/上・下 (NTT出版, 2011.12).
 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)に関するものは以下。
 Chapter VIII/Goodbye to All That ? -Leszek Kolakowski and the Marxist Legacy.
 =上掲邦訳書上巻第8章「さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産」。
 書評誌の性格として、執筆者がやたら褒めまくる書評記事もあるのかもしれない。しかし、瞥見のかぎりで、その前の章の、エリック・ホブズボーム(Eric Hobsbaum)の自伝書に関するジャットの書評および「人生」論評は、日本では想像もできないほどに辛辣で厳しい。
 秋月の感想が混じるが、組織あるまでは最後までイギリス共産党員で決して遡ってマルクス主義そのものを批判することがなかったというホブズボーム的な欧米の「容共・左翼」に対するジャットの批判的な目があるだろう。この欄でいつぞやホブズボームを「少なくとも左翼」と書いたが、それ以上だ。だからこそ、一部の<日本の左翼>読者のためにも、この人の邦訳書は多い(それに対して、L・コワコフスキのものは?)。
 トニー・ジャットのL・コワコフスキに関する文章は、邦訳書で計21頁になる。週刊誌1頁ほどの書評記事では全くない。L・コワコフスキ(+アルファ)に関する堂々とした論考だ。
 日本での紹介状況もふまえて私なりにいうと、優れているのは、第一に、L・コワコフスキの人と業績、とくにこの<マルクス主義の主要潮流>に関する欧米の評価を端的に(むろんジャットなりに)示してくれている。
 第二に、L・コワコフスキ<マルクス主義の主要潮流>の、大判合冊で1200頁を超える文字通りの大著の、内容の要点・特徴を概括してくれている。私はろくに目を通していないが、かなりよく(むろんジャットなりに)まとめてくれていて、きわめて参考になる。
 この部分だけでも邦訳しようかともふと思ったが、日本語訳書を見て、書物全体に比べれば勿論ましだが、写すだけでも相当に長い文章が必要だと分かって、諦めた。
 第三に、L・コワコフスキのこの著に関連して、トニー・ジャットの、この論考執筆時点での「マルクス主義」に関する見方がある程度まとまって述べられており、関心を惹く。
 マルクス主義に関する考え方というのは、マルクス主義又は「共産主義」(両者の関連もL・コワコフスキにかかわって問題ではあるが)そのものをどう理解し、是か非かという単純なことを指しているのでは全くない。
 世界、または少なくともトニー・ジャットにとっての主要な「知的関心」の対象である欧米の社会と政治と歴史(社会思想・政治思想・歴史思想)にとって、まさに現在、「マルクス主義」はどういう意味をもつのか(持っていないのか)、そのことをどう評価すればよいのか、という問題についての考え方をいう(この人はユダヤ人系イギリス出自で、イギリスで育ち研究者になり、のちにアメリカの大学へと移った。ちなみに、ホブズボームもユダヤ人出自だという。L・コワコフスキについてはそういう紹介はない)。
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 日本にある<日本会議>の設立宣言こうは書く。1997年5月。
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露されたが、その一方で、世界は各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時代に突入している。にもかかわらず、今日の日本には、この激動の国際社会を生き抜くための確固とした理念や国家目標もない。このまま無為にして過ごせば、 亡国の危機が間近に忍び寄ってくるのは避けがたい」。
 かかる<時代認識>自体に大きな欠陥がある。後半については別にも触れる。「各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時代に突入」という認識で救われている「各国」が、間違いなくある。
 既述のとおり、「マルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」とするのは、マルクス主義・共産主義に対する闘いをもはやする必要がない、ということを言っているのと同じだ。日本の<保守>全体に、マルクス主義研究・マルクス主義への関心がきわめて弱いのは、ここにも原因がある。
 また、そもそも、こう宣言した者たちが、「マルクシズム」をどのようなものと理解して「誤謬は余すところなく暴露された」と言うことができているのかはなはだ疑わしい
 <冷戦構造の崩壊>という理解自体、少なくとも東アジアでは現実に反しているが、そそもそも<冷戦構造の崩壊>→「マルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」という理解は、どういう論理関係になっていると関係者が説明できるのかも、はなはだ疑わしい。
 現実の政治、日本の国家のためにも-マルクス主義=「科学的社会主義」を謳う政党が厳然とあるではないか?-「マルクス主義」の研究・分析、日本共産党のいう「科学的社会主義」・綱領等の批判的分析は、「反共産主義」者こそが、きちんと行わなければならない。
 これを正面から掲げていない「日本会議」は決して「反共産主義」者の団体・運動体ではない、と断固として判断できる。
 「日本会議」または一部保守系三雑誌(うち二つの編集長は櫻井よしこを長とする「研究所」の評議員、残り一つは月刊正論(産経))の基調、および産経新聞の基調または「主流派」を、この欄ではこれから<特定保守>と呼ぶかもしれない。
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 トニー・ジャットは「ネオ」との形容句も「変種」との語尾もつけないで、「マルクス主義」という概念をそのまま使って、以下のように述べている。「日本会議」発足後の2006年9月に公刊の文章だ。邦訳書に依拠する。
 ・新世紀の冒頭に「二つの対立する、しかし奇妙に似かよった幻想」があるが、「二つめの幻想は、マルクス主義には知的・政治的未来があるという信念である」。p.196。
 ・「今までのところ国際的な『辺境』や、学問の世界の周縁でのみ見られるが、このマルクス主義、つまり政治的予言としてでないとしても、少なくとも分析ツールとしてのマルクス主義に対する新しい信念は、主として競争相手がないという理由で、今やふたたび国際的な抵抗運動の共通手段となっている」。p.196。
 ・「わたしたちが不平等、不正、不公平、搾取について耳にすることは増えこそ減りはしないだろう。/それゆえ、…刷新されたマルクス主義の道徳的魅力が高まる可能性がある」。p.194。
 最後に一つ、L・コワコフスキ著の紹介の中で語られている以下の文章にも、注目されてよい。
 ・「コワコフスキのテーゼ」は「率直であり曖昧なところはない」。/マルクス主義を「真剣に考える」必要があるのは、「階級闘争に関するその主張」や「資本主義の不可避の崩壊」・「社会主義への移行」を約束したからではなくて、「マルクス主義が①独創的なロマン主義的幻想と②断固とした歴史的決定論」の、「真にオリジナルな混合物を提示した」からだ。①・②は秋月が挿入。p.182。
 「階級」とか「搾取」とか「プロレタリアート」とかを今日のマルクス主義者がそのまま露骨に使うことはほとんどない。
 注意すべきなのは、私なりにさらに簡潔化すれば、①「幻想」を夢み、かつ②「運命主義」(歴史的不可避主義?、歴史決定論?)に陥るという、そのものだ。
 この二点において、すでに不破哲三と櫻井よしこの類似性・共通性に言及したことがあるのだが、「日本の左翼」と「日本の特定保守」の間にないのかどうか、関心がある。
 ②は将来のことについてとは限らない。例えば、現実を変えた(勝利した)がゆえに<明治維新>は素晴らしかった(やむをえない不可避のものだった)、と観念的・抽象的に考えてしまうのも、一種の「運命」主義だろう。
 「特定保守」には、破綻したという「左翼」・マルクシズムと発想それ自体に類似性がある、と感じている。
 <理念>・<観念>・<狂熱>・<精神論(だけ)>というものほど、じつは恐ろしいものはない。日本の、世界の歴史から見ても分かる、と思う。<観念・イデオロギー>による運動によって、多数の人々が人為的に殺戮された。
 <思考方法>は、政治思想・社会思想上も重要な論点だ。平板に、「右」か「左」か、「保守」か「左翼」かを問題にしてはいけない。

1581/党と運動・意識性と自然発生性①-L・コワコフスキ著16章「レーニン」2節。

 第16章・レーニン主義の成立
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性①。
 独自の政治的一体としてのレーニン主義の基本的教理は、1901年~1903年に定式化された。
 この数年間にロシアでは、主な政治集団が創立され、それらは絶えずお互いで争いながら帝制に対する闘いを十月革命まで遂行した。すなわち、社会民主党のボルシェヴィキ派とメンシェヴィキ派、社会革命党(エスエル)および立憲民主党(<カデット>)。//
 レーニンが考え(ideas)を徐々に見える形にした主要な機関は、<イスクラ(Iskra)>だった。
 1903年の第二回党大会まで、レーニンと他の編集局員との間の差違は、大して重要ではなかった。そして、実際に新聞の基本論調を作ったのはレーニンだった。
 レーニンは最初はミュンヒェンで、のち1902年の春に移動したロンドンで、その編集に携わった。
 <イスクラ>は、ロシア社会民主党の修正主義や経済主義と闘うことのみならず、党が公式には存在しているにもかかわらず、思想(ideology)と組織のいずれに関してもまだ統合されていない集団との間の結節点として活動することをも、意図していた。
 レーニンが、つぎのように書いたように。『一つの新聞は集合的な情報宣伝者や集合的な扇動者であるばかりではなく、集合的な組織者でもある。』(<何から始めるべきか>、全集5巻p.22〔=日本語版全集5巻3頁以下「なにからはじめるべきか?」〕)。
 <イスクラ>は実際に、大会を準備するうえで決定的な役割を果たした。この大会は、開催されたときに、ロシアの社会民主主義者を単一の政党へと統合した。その党はすぐに、二つの反目しあう集団へと分裂した。//
 レーニンは、党の役割という鍵となる問題を、経済主義と闘うボルシェヴィキの考え方(ideology)を生み出す基礎に据えた。その経済主義とは、影響力は衰えているとしてもきわめて危険だと彼が見なしたものだった。
 経済主義者は史的唯物論を、(ともかくも近い将来にロシアのブルジョアジーの主とした仕事になる)政治的目的と比べて、プロレタリアートの経済的闘争を優先させる理論だと解釈した。
 そして経済主義者は、労働者階級の運動を、一体としての労働者による自然発生的な運動の意味での『労働者の運動』と同一視した。
 プロレタリアート自身の綱領の厳密な階級性を強調し、<イスクラ>集団を、知識人層やリベラルたちに倣って主張している、理論や思想の重要性を高く評価しすぎている、専政体制に対する全ての階級の共通する敵対関係に重きを置きすぎている、と攻撃した。
 経済主義は、一種のロシアのプルードン主義(Proudhonism)で、または< ouvrierisme >と称されるものだ。
 これを支持する者によると、社会民主党とは、真の労働者運動の、指導者ではなくて、機関であるべきだ。//
 レーニンは、いくつかの論文で、とくに<何をなすべきか>(1902年)で、前衛としての党の役割を否定しているとして経済主義者を攻撃し、一般的な語法を用いて、社会民主主義運動における理論の重要性に関する自分の見地を表明した。
 彼は、つぎのように主張した。革命の展望にとってのきわめて重大な問題は、革命運動に関する理論上の意識(conciousness)であり、これは労働者の自然発生的(spontaneous)な運動によっては決して進化させられないものだ。
 『革命的理論のない革命運動は、存在し得ない』。
 これは、他のどこよりもロシアにおいて、より本当(true)だった。なぜなら、社会民主主義がその揺籃期にあり、また、プロレタリアートが直面する任務がヨーロッパ的かつアジア的な反動の稜堡を打倒することだったからだ。
 このことが意味したのは、世界プロレタリアートの前衛であることを運命づけられていること、およびこの任務を適切な理論の装備なくして履行することはできないこと、だった。
 経済主義者は、社会発展における『客観的な』経済環境の重要性について語った。
 その際に、政治的意識を経済的要因の自動的な帰結の一つと見なし、それは社会の進化を開始させ活性化させることができない、とする。
 しかし、経済的利益が決定的だという事実は、プロレタリアートの根本的な階級利益は政治的革命とプロレタリアート独裁によってのみ充足されうるのだから、労働者の経済闘争は最終的な勝利を確実にすることはできない、ということを意味しなかった。
 労働者は、自分たちだけにされたのでは、全体としての階級と現存する社会制度の間には根本的な対立があるという意識を獲得することができなかった。//
 『我々は、労働者の間に社会民主主義的意識がありえるはずはなかった、と言った。
 この意識は、外部からしか労働者へともたらされることのできないものだった。
 全ての国の歴史は、労働者階級がまったく自分の力だけでは、組合主義的意識、すなわち、組合に団結し、雇い主と闘い、政府に労働者に必要なあれこれの法律の発布をさせるように励むなどのことが必要だという確信しか形成できないことを、示している。』(+)
 (全集5巻p.375=〔日本語版全集5巻「なにをなすべきか」395頁〕)//
 このことは、西側でそうだった(『マルクスとエンゲルス自身もブルジョア・インテリゲンツィアに属していた。』++)。そして、ロシアでもそうなることになる。
 レーニンは、この点で、カウツキーに魅惑されて支持した。彼は、プロレタリアートの階級闘争はそれ自体では社会主義の意識を生み出すことができない、階級闘争と社会主義は別々の現象だ、そして、社会主義の意識を自然発生的な運動の中に植え込むことが社会民主党の任務だ、と書いていた。//
  (+秋月注) 日本語版全集5巻を参考にして、訳出し直している。
  (++同注) この前後を含めると、つぎのとおり。日本語版全集5巻395頁による。-「近代の科学的社会主義の創始者であるマルクスとエンゲルス自身も、その社会的地位からすれば、ブルジョア・インテリゲンツィアに属していた」。
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 ②へとつづく。

1579/レーニン主義②-L・コワコフスキ著<マルクス主義>16章1節。

 試訳のつづき。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (Norton, 三巻合冊 2008)では、第16章第1節は、p.661-4。第二分冊(第二巻)の以下は、p.382-。
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 第1節・レーニン主義をめぐる論争②。
 レーニンは『修正主義者』だったかという問題は、レーニンの著作物とマルクスの著作物とを比較することによって、あるいはこの問題または別の問題についてマルクスならば何をしただろうかまたは何と語っただろうかという回答不能の問題を設定することによってのみ決定することができる。
 明白に、マルクスの理論は多くの箇所で不完全で曖昧だ。そして、マルクスの理論は、その教理をはっきりと侵犯することなくして、多くの矛盾する方法で『適用』されうるだろう。
 にもかかわらず、マルクス主義とレーニン主義の間の継承性に関する問題は、完全に意味がないわけではない。
 しかしながら、この問題は、『忠実性』に関してではなくて、理論の分野でマルクス主義の遺産を『適用』するまたは補足するレーニンの企てにある一般的な傾向を吟味することによって、むしろよりよく考察することができる。//
 述べたとおり、レーニンにとっては、全ての理論上の問題は、唯一の目的、革命のためのたんなる道具だった。そして、全ての人間の行い、観念、制度の意味および価値は、もっぱらこれらがもつ階級闘争との関係にあった。
 このような志向性を支持するものを、多くの理論上の文章の中で、ある階級社会における生活の全側面のうち一時性や関係性を強調したマルクスやエンゲルスの著作物に見出すのは困難ではない。
 にもかかわらず、この二人の特有の分析は、このような『還元主義』定式が示唆すると思える以上に、一般論としてより異なっており、より単純化できないものだ。
 マルクスとエンゲルスはともに、『これは革命にとって良いものか悪いものか?』という発問によって意味されている以上の、利益についての相当に広い視野を持っていた。
 他方、この発問は、レーニンにとっては、問題がそもそも重要かどうか、そうであればそれはどのように決定されるべきかに関する、全てを充足する規準だった。
 マルクスとエンゲルスには、文明の継続性に関する感覚があった。そして、彼らは、科学、芸術、道徳、および社会的諸制度の全ては階級の利益のための道具『以外の何物でもない』、とは考えなかった。
 にもかかわらず、彼らが史的唯物論を明確にする一般的定式は、レーニンが用いるのに十分だった。
 レーニンにとって、哲学的問題はそれ自体では意味をもたず、政治的闘争のためのたんなる武器だった。芸術、文学、法と制度、民主主義諸価値および宗教上の観念も、同様だった。
 この点で、レーニンは、マルクス主義から逸脱していると非難することができないだけではなく、史的唯物論の教理をマルクス以上に完全に適用した、ということができる。
 例えば、かりに法は階級闘争のための武器『以外の何物でもない』とすれば、当然に、法の支配と専横的独裁制の間に本質的な差違はない、ということになる。
 かりに政治的自由はブルジョアジーがその階級的利益のために使う道具『以外の何物でもない』とすれば、共産主義者は権力に到達したときにその価値を維持するよう強いられていると感じる必要はない、と論じるのは完全に適正だ。
 科学、哲学および芸術は階級闘争のための器官にすぎないので、哲学論文を書くことと砲火器を使うことの間には『質的な』差違はない、と理解してよいことになる。-この二つのことは、異なる場合に応じた異なる武器であるにすぎず、味方によって使われるのかそれても敵によってか、に照らして考察されるべきものだ。
 このようなレーニンの教理の見方は、ボルシェヴィキによる権力奪取以降に劇的に明確になった。しかし、こういう見方は、レーニンの初期の著作物において表明されている。
 レーニンは、見解がやや異なる別のマルクス主義者たちとの議論で、共通する教理を適用する変わらない簡潔さと一貫性で優っていた。
 レーニンの論敵たちがレーニンはマルクスが実際に言った何かと矛盾していると-例えば、『独裁』は法による拘束をうけない専制を意味しないと-指摘することができたとき、彼らは、レーニンの非正統性というよりもむしろ、マルクス自身のうちにある首尾一貫性の欠如を証明していた。//
 しかし、それでもなお、レーニンがロシアの革命運動に導入した一つまたは二つのきわめて重要な点に関する新しい発想は、マルクス主義の伝統に対する忠実性がなり疑問であることを示唆する。
 第一に、レーニンは初期の段階で、『ブルジョア革命』のための根本戦略として、プロレタリアートと農民との間の同盟を擁護した。一方で、レーニンに対する反対者たちは、ブルジョアジーとの同盟の方がこの場合の教理とより一致しているはずだ、と主張した。
 第二に、レーニンは、民族問題を、たんなる厄介な邪魔者のではなくて、その教理を社会民主主義者が発展させるべく用いることができかつそうすべき活動源の、強力な蓄蔵庫であると見た最初の人物だった。
 第三に、レーニンは、自分自身の組織上の規範と、労働者による自然発生的な突発に向けて党が採用すべき態度に関する彼自身の範型とを、定式化した。
 これら全ての点について、レーニンは改良主義者やメンシェヴィキからのみならず、ローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg)のような正統派の中心人物によっても批判された。
 また、これら全ての点について、レーニンの教理は極度に実践的なものであることが判明した。そして、上記の三点の全てについて、レーニンの政策が、ボルシェヴィキ革命を成功させるために必要なものだった、とレーニンの教理に関して、安全には言うことができる。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と随意性、へとつづく。

1577/レーニン主義①-L・コワコフスキ著<マルクス主義>16章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊 2008)<=レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要な潮流>には、邦訳書がない。
 その第2巻(部)にある、第16章~第18章のタイトル(章名)および第16章の各節名は、つぎのとおり。
 第16章・レーニン主義の成立。
  第1節・レーニン主義をめぐる論争。
  第2節・党と労働者運動、意識性と随意性。
  第3節・民族の問題。
  第4節・民主主義革命でのプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永久革命』。
 第17章・ボルシェヴィキ運動における哲学と政治。
 第18章・レーニン主義の運命、国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 以下、試訳。分冊版の Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, 2 -The Golden Age (Oxford, 1978), p.381~を用いる。一文ごとに改行する。本来の改行箇所には文末に//を記す。
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 第16章・レーニン主義の成立
 第1節・レーニン主義をめぐる論争①。
 マルクス主義の教理の一変種としてのレーニン主義の性格づけは、長らく論争の主題だった。
 問題は、とくに、レーニン主義はマルクス主義の伝統との関係で『修正主義』思想であるのか、それとも逆に、マルクス主義の一般的原理を新しい政治状況へと忠実に適用したものであるのか、だ。
 この論争が政治的性格を帯びていることは、明瞭だ。
 この点ではなおも共産主義運動の範囲内の勢力であるスターリン主義正統派は、当然に後者の見地を採用する。
 スターリンは、レーニンは承継した教理に何も付加せず、その教理から何も離れず、その教理を適確に、ロシアの状態にのみならず、きわめて重要なことだが、世界の全ての状況へと適用した、と主張した。
 この見地では、レーニン主義はマルクス主義を特殊にロシアに適用したものではなく、あるいはロシアの状態に限定して適用したものではなく、社会発展の<新しい時代>のための、つまり帝国主義とプロレタリア革命の時代のための戦略や戦術の、普遍的に有効なシステムだ。
 他方、一定のボルシェヴィキは、レーニン主義はより個別的にロシア革命のための装置であるとし、非レーニン主義のマルクス主義者は、レーニンは多くの重要な点で、マルクスの教理に対する偽り(false)だったと主張した。//
 このように観念大系的に定式化されるが、この問題は、根源への忠実性を強く生来的に必要とする政治運動や宗教的教派の歴史にある全てのそのような問題のように、実際には、解決できない。
 運動の創立者の後の世代が既存の経典には明示的には表現されていない問題や実際的決定に直面して、その教理を自分たちの行為を正当化するように解釈する、というのは自然で、不可避のことだ。
 この点では、マルクス主義の歴史はキリスト教のそれに似ている。
 結果は一般的には、教理と実際の必要との間にある多様な種類の妥協を生み出すことになる。
 分割の新しい方針や対立する政治的形成物は、事態の即時的な圧力のもとで形作られる。そしてそのいずれも、必要な支持を、完璧には統合しておらず首尾一貫もしていない伝統のうちに見出すことができる。
 ベルンシュタインは、マルクス主義社会哲学の一定の特質を公然と拒否し、全ての点についてのマルクスの遺産を確固として守護するとは告白しなかった、という意味において、じつに、一人の修正主義者だった。
 他方でレーニンは、自分の全ての行動と理論が現存の観念大系(ideology)を唯一つそして適正に適用したものだと提示しようと努力した。
 しかしながら、レーニンは、自分が指揮する運動への実践的な効用よりも、マルクスの文言(text)への忠実性の方を選好する、という意味での教理主義者(doctrinaire)ではなかった。
 逆に、レーニンは、理論であれ戦術であれ、全ての問題を、ロシアでのそして世界での革命という唯一の目的のために従属させる、莫大な政治的な感覚と能力とを持っていた。
 彼の見地からすれば、一般理論上の全ての問題はマルクス主義によってすでに解決されており、知性でもってこの一体の教理のうえに、個別の状況のための正しい(right)解決を見出すべく抽出することだけが必要だった。
 ここでは、レーニンは自らをマルクス主義者の教書の忠誠心ある実施者だと見なしていないだけではなく、自分は、個別にはドイツの党により例証される、欧州の社会民主主義者の実践と戦術に従っていると信じていた。
 1914年になるまで、レーニンは、ドイツ社会民主党を一つの典型だと、カウツキーを理論上の問題に関する最も偉大な生きている権威だと、見なしていた。
 レーニンは、理論上の問題のみならず、第二ドゥーマ〔国会〕のボイコットのような自分自身がより多数のことを知っている、ロシアの戦術上の問題についても、カウツキーに依拠した。
 彼は、1905年に、<民主主義革命における社会民主党の二つの戦術>で、つぎのように書いた。//
 『いつどこで、私が、国際社会民主主義のうちに、ベーベル(Bebel)やカウツキー(Kautsky)の傾向と<同一でない>、何か特別な流派を作り出そうと、かつて強く主張したのか?
 いつどこに、一方の私と他方のベーベルやカウツキーの間に、重要な意見の違いが-例えばブレスラウで農業問題に関してベーベルやカウツキーとの間で生じた違いにほんの少しでも匹敵するような意見の違いが-、現われたのか?』
 (全集9巻p.66n)=<日本語版全集9巻57頁注(1)>//
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 秋月注記-全集からの引用部分は、日本語版全集の邦訳を参考にして、あらためて訳出。<>記載(大月書店, 1955. 第30刷, 1984)の上掲頁を参照。< >部分は、Leszek Kolakowski の原著ではイタリック体で、「レーニンによるイタリック体」との語句の挿入がある。日本語版では、この部分には、右傍点がある。余計ながら、この時点ではレーニンは<Bebel や Kautsky の傾向>と同じだったと、L・コワコフスキは意味させたい。
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 ②につづく。


1571/2017年2月末以降に読んだもの・入手したものの一部。

 2017年02月末以降の文献。
 この欄の意味について疑問をもったときにかつては「読書メモ」の意味だけでも持たせようと思ったが、昨年以降はそれも虚しいようで、できるだけ自分の文章を残すようにしてきた。
 そうなると、元来の「読書メモ」の機能は失う。
 最近にあれこれと書いていても、読んだり入手したりした書物類は、記載・言及するよりもはるかに多い。
 たまたまタイミングを逸したりして、記載し忘れのものも多い。
 二月末以降に一部でも読んだもの、入手して今後に読みたいと思っているもの(でこの欄で触れていないと記憶するもの)、を以下に掲載しておく。
 レーニン・ロシア革命に直接に関係するものは依然として増えつつあるが、一部しか載せられない。以下は、上の趣旨のものの全てではない。読み終わった記憶があるものは、/了、と記した。昨年以前のものには、触れていない。
 この欄に書くのは「作業」のようなもので、気侭に読んでいる方が、「生きていること」、「意識(脳)を働かせていること」を感じて、愉しい。しかも、意識を多少とも刺激する情報が大量に入ってくる。「作業」は、反応結果の一部をただ吐き出すだけだ。
 しかし、この欄での「作業」をしておかないと、せっかくの意識や記憶がますます消失してしまうので、「作業」もときには必要だ。
 ・天皇譲位問題
 今谷明・室町の王権(中公新書, 1990)。/了
 今谷明・象徴天皇の発見(文春新書, 1999)。
 高森明勅・天皇「生前退位」の真実(幻冬舎新書, 2016)。/了
 所功・象徴天皇「高齢譲位」の真相(ベスト新書, 2017)。
 本郷和人・人物を読む/日本中世史(講談社選書メチエ, 2006)。
 本郷和人・天皇の思想-闘う貴族北畠親房の思惑(山川出版社, 2010)。
 ・北一輝
 岡本幸治・北一輝-転換期の思想構造(ミネルヴァ, 1996)。
 ・明治維新等
 井上勲・王政復古(中公新書, 1991)。
 毛利敏彦・幕末維新と佐賀藩(中公新書, 2008)。
 原田伊織・明治維新という過ち/改訂増補版(毎日ワンズ, 2015)。
 山口輝臣・明治神宮の出現(吉川弘文館, 2005)。
 伊藤哲夫・明治憲法の真実(致知出版社, 2013)。
 ・政教分離
 杉原誠四郎・理想の政教分離規定と憲法改正(自由社, 2015)。/了
 杉原誠四郎・日本の神道・仏教と政教分離-そして宗教教育/増補版(文化書房博友社, 2001)。
 ・歴史
 安本美典・古代史論争最前線(柏書房, 2012)。
 今谷明・歴史の道を歩く(岩波新書, 1996)。
 西尾幹二全集第20巻/江戸のダイナミズム(国書刊行会, 2017)。
 山上正太郎・第一次世界大戦(講談社学術文庫, 2010. 原1985)。
 木村靖二・第一次世界大戦(ちくま新書, 2014)。
 ・保守主義
 宇野重規・保守主義とは何か-反フランス革命から現代日本まで(中公新書, 2016)。
 ・現代
 宮家邦彦・日本の敵-よみがえる民族主義に備えよ(文春新書, 2015)。/了 
 ・左翼
 中沢新一・はじまりのレーニン(岩波現代文庫, 原1994)。
 白井聡・永続敗戦論(太田出版, 2013)。
 ・外国人
 Donald Sassoon, Looking Left -Socialism in Europe after the Cold War (1997). <左を見る-冷戦後のヨーロッパ社会主義>
 Roger Scruton, Fools(あほ), Frauds(詐欺師k) and Firebands (つけ火団)-Thinkers of the New Left (2015).<新左翼の思考者>
 Tony Judt, Dem Land geht es schlecht (Fischer, 2014. 2010).
 Leszek Kolakowski, 藤田祐訳・哲学は何を問うてきたか(みすず書房, 2014)。
 Leszek Kolakowski, Metaphysical Horror (1988, Penguin 2001).
 Anna Pasternak, Lara -The untold Love Story and the Iispiration for Doctor Zhibago (2016).
 ・その他
 L・コワコフスキ「こぶ」沼野充義編・東欧怪談集(河出文庫, 1994)。/了
 原田伊織・夏が逝く瞬間(毎日ワンズ, 2016)。/了*小説
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 1.せっかくの機会だから、つぎの本のp.4からまず引用する。
 本郷和人・人物を読む/日本中世史(講談社選書メチエ, 2006)。
 「…皇国史観は、天皇が至高の存在であることを学問の大前提とし、また人物を歴史叙述の基礎単位にしていた。天皇に忠義であったか否か、忠臣か逆臣かで人物を評価し、その人物の行動をあとづけることによって歴史物語を描写したのである。こうした歴史認識が軍国主義を支える理念として機能したことは、疑いようのない事実であった。」
 戦後の日本共産党や日本の「左翼」はかくして、「軍国主義」を支えた「皇国史観」を厳しく批判した。
 その日本共産党・「左翼」に反対する良心的な、誠実な日本人は、では「皇国史観」へと立ち戻る必要があるのか??  (しかも「皇国史観」とは、維新以降の日本をずっと覆ってきたのでは全くなく、とくに昭和戦前期の<公定>史観だ。)
 本郷も言うように、そんなことは、論理的にも、決して、ないんだよね。
 2.今谷明・本郷和人というと、黒田俊雄の<権門体制>論にかかわりがある。
 素人論議だが、マルクス主義者(・日本共産党員?)の黒田は(以下、たぶん)、<国家(権力・支配者)-人民>の対立が当然にあるものとして、その前提で<国家>の構造を考え、かつその一部を「天皇・皇室」がきちんと担っていた、と考える。
 第一に、<権力-人民>は、どの時代にもきれいに二つまたは二層に分けられるのだろうか?
 第二に、<天皇>はつねに、国家権力の少なくとも一部を握っているものなのだろうか? または、そうだとしても、「中世」に関する黒田による天皇の位置づけは高すぎるのではないだろうか。
 第一は素朴かつ観念的な階級対立論、第二は素朴かつ観念的な<天皇制>批判論-そのための逆説的意味での天皇重視論(天皇が国家権力の一部かつ重要位置にいなかったはずはない)-を前提にしているような印象もある。
 本郷和人は、黒田<権門体制>論には批判的だ。専門家にお任せしますけど。 

 

1565/共産主義との闘いを阻むもの②-主要な全てが翻訳されているのでは全くない。

 ○ ふだん目にしないところに置いてあった、つぎの書物を見つけた。
 ① Anne Applebaum, Gulag -A History (Penguin, 2003).
 Gulag の正確な発音はよく分からない。いずれにせよ、レーニン以降のソ連にあった、「強制収容所」のことだ。concetration camp と、英語で書くこともある。
 本文の冒頭(第一部第1章)で要領よく、十月政権奪取・レーニンの権力掌握くらいまで、一気にほぼ一頁くらいでまとめている(p.27-p.28)。
 p.28の最初の段落の初めは、「ボルシェヴィキの本性がミステアリアスだったとすれば、その指導者…レーニンはもっとミステアリアスだった」。
 p.28にある最後の段落の直前は、「新しいソヴェト国家は、1921年までは相対的な平和を知らないことになる」。
 ここに注記番号があるので注記の参照文献を見ると、つぎの二冊が挙げてあった。
 ② Richard Pipes, The Russian Revolution 〔ロシア革命〕, New York, 1990。
 ③ Orlando Figes, A People's Tragedy〔人民の悲劇〕: The Russian Revolution, 1891-1924, London, 1996。  
 ②はこの欄で一部を試訳中のもので、邦訳書はない。
 ③のファイジズのものは、この人の本の邦訳書はあるのでその中に含まれていたかとも思ったが、調べてみると、③にはなかった。
 邦訳書があるのは、つぎの二つ。
 ④ Orlando Figes, The Whisperers: Life in Stalin's Russia (2007).
 =染谷徹訳・囁きと密告-スターリン時代の家族の歴史/上・下(白水社, 2011).
 ⑤ Orlando Figes, The Crimean War: A History (2011).
 =染谷徹訳・クリミア戦争/上・下 (白水社, 2011).
 ④のスターリン時代はロシア革命・レーニン時代の後で、⑤のクリミア戦争はロシア革命以前の19世紀半ば。
 ロシア革命・レーニン時代を含む③については、邦訳書がないのだ。邦訳書のあるマーティン・メイリア『ソ連の悲劇/上・下』と同じ< Tradegy(悲劇) >が使われていて、少し紛らわしい。
 しかも、近年までも含めて、この時期を含むファイジズの著作は、他にもある。私は、所持だけはしている。
 ⑥ Orlando Figes, Peasant Russia -Civil War: The Volga Countryside in Revolution 1917-21 (2001).
 ⑦ Orlando Figes, Revolutionary Russia, 1891-1991: A History (2014).
 
 邦訳書を通じて全く知られていないわけではないO・ファイジズの、レーニン時代を含む著作だけは邦訳書がないのは、何故なのだろうか?
 ちなみに、⑧ Tony Brenton 編, Historically Inevitable ? 〔歴史的に不可避だったか?〕: Turning Points of the Russian Revolution (2016) がロシア革命100年を前に出ていて、Orlando Figes も Richard Pipes も執筆者の一人だが、これにも今のところ邦訳書はない(今後に期待できるのだろうか ?)。
 元に戻ると、A・アップルバウムの① Gulag -A History (Penguin, 2003) もまた、邦訳書がない。これにはやや驚いた。
 この本は2004年ピューリツァー賞受賞。著者は<リベラル>系ともされるワシントン・ポスト紙に在職していて、欧米の本には表紙かその裏によくある称賛書評の一部の中には、あの『南京のRape』のアイリス・チャン(Iris Chang)や、レーニン・ロシア革命に対する<穏便派>の(但し称賛までは無論しない)ロバート・サービス(Robert Service)によるものもある。
 大著とまでは言えない、この① Anne Applebaum, Gulag -A History (Penguin, 2003).には、何故、邦訳書が存在しないのだろうか。
 決して、日本の<左翼>が端から鼻をつまむような本ではないようにも思えるのは、上記のとおり。
 これが敬遠されている理由としては、レーニンとその時代に、ソ連のスターリン時代をより想起させるかもしれない<強制収容所>の淵源はあり、かつ建造されていた、という事実が、詳しくかつ明確に語られているからではないか、とも思われる。スターリンは、レーニンが作った財産を相続したのだ。
 この本によってアメリカおよび英語圏の又は英語読者のいるヨーロッパ諸国では当たり前の<知識・教養>になっていることが、日本では必ずしもそうなってはいない、ということになる。
 ○ あらためて書き起こそう。
 日本において、スターリンまたはその時代を批判する外国語(とくに欧米語)文献ならば、比較的容易に翻訳され、出版されている、という印象がある。
 なぜか。①日本共産党が(ロシア革命・レーニンは擁護しつつ)スターリンを批判してソ連を社会主義国でなくした張本人だと主張しており、スターリンを批判するという点では、②反日本共産党のいわゆるトロツキストと呼ばれる人たちや、③スターリンを肯定的には語れなくなったがレーニン・ロシア革命は何とか憧れの対象のままにしておきたい、そしてマルクスは「理論的」には価値ある仕事をした英才だとなおも考えている、またはそのように<思って>もしくは<思いたくて>、かつての「左翼」傾倒を自己弁明したい、広範な「左翼的」気分の人々にも、受容されうるからだと思われる。
 つまり、日本には、<スターリン批判本>だけは、なおも「市場」があるのだ。
 それに比べて、ロシア革命・レーニンやその基礎にあるマルクスを批判したものは人気がない、と思われる。
 マルクスを「理論的に」批判したものはむつかしい「理論」に関係しそうなのでまだよいが、ロシア革命とレーニン時代の「現実」を明らかにする本は、それが歴史であり事実であっても、受け入れたくない雰囲気がなお残っているように感じられる。
 いわゆるトロツキストあるいは反日本共産党の共産主義者や「左翼」にとっても、ロシア革命・レーニンとマルクスはなおも基本的には擁護されるべき対象なのだ。
 彼らには、L・トロツキー自体が、レーニンとともに「ロシア10月革命」を成功させた大偉人(又は見方によれば「張本人」)なのだ。たしかに、10月のクーは、ペテログラード軍事組織の長だったトロツキーの瞬時的判断と辣腕なくして、成就していない。
 ○ 考えすぎだ、「自由な」日本で、そんなことはないだろう、という反応がありそうなので、さらに続ける。
 トニー・ジャット(Tony Judt, 1948~2010)はニューヨーク大学の欧州史専門の教授だった人だが(Tony Judt, Postwar: A History of Europe Since 1945 , など)、つぎの小論集も遺した。 
 ⑨ Tony Judt, When the Facts Change: Essays 1995 - 2010 (2015).
 この中にレシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)逝去後の、書評誌掲載の追悼文章が収められていて、L・コワコフスキについてこう書く部分がある。
 「宗教思想史の研究者としてと同等の高い位置を占める、唯一の国際的に名高い( only internationally renowned )マルクス主義に関する研究者…」。
 「悪魔」に関するコワコフスキの講演を聴いたことから始まるこの追悼文は神学・宗教学やポーランド等の「中央欧州」の文化風土等にも触れて、L・コワコフスキの<複雑な>人生と業績を哀悼感豊かに述べている(このレベルの追悼文は日本ではほとんど見ない)。
 それはともかく、「国際的に」がたんにアメリカとヨーロッパだけだったとしても、L・コワコフスキが欧米ではマルクス主義(に関する)研究者として(も)著名だったことは分かるだろう。
 しかして、⑩ Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism 〔マルクス主義の主要な潮流〕(英語版合冊, 2008)の邦訳書すらなく、L・コワコフスキの名すらきちんと知られていないのが、日本の知的雰囲気の実態だ。いったい、何故だろうか。
 L・コワコフスキは、マルクス-レーニン-スターリンを正面から「哲学的に」分析する。
 ⑫ Andrzei Walicki, Marxism and the Leap to the Kingdom of Freedom -The Rise and Fall of the Communist Utopia (1995).
 これにも、邦訳書はなく、存在すらほとんど知られていないことは既に記した。なお、この人には、A History of Russian Thought from the Enlightenment to Marxism (1988, 英語訳版) もある。
 箸にも棒にも引っ掛からない下らない書物であれば、それで当然かもしれない。
 しかし、本文前の注記によると、Andrzei Walicki は、Zbignew Pelczynski と John Gray (ジョン・グレイ、ロンドン・複数の邦訳書あり)の1984年の共編著に「マルクス主義の自由の観念」と題する寄稿を求められて執筆し、その寄稿を読んで関心をもった「旧友」のレシェク・コワコフスキから、この主題での研究を続けるようにと鼓舞されている。
 上の⑫は、決して無用の著ではない、と思われる(なお、このワレツキもポーランド出自だとのちに分かった)。
 なぜ、この本は日本人には、日本の学界や論壇では(L・コワコフスキ以上に ?)知られていないのか ?
 きっと、日本共産党や日本の共産主義者・マルクス主義者あるいは「左翼」にとって<危険な>本だからに違いない。そして、<利益>を気にする出版社は、邦訳書を出そうとはしないに違いない。 
 ちなみに、L・コワコフスキ『マルクス主義の主要な潮流』の第三部はマルクーゼ、サルトル、フランクフルト学派などに論及するが、L・コワコフスキ自身による新しい「あとがき」によると、第三部だけはフランス語では出版されておらず、サルトルらフランスの著名「左翼」に気兼ねしているのだろうと、彼は推測している
 「自由な」 ?フランスですら、そういう状況だ。
 日本では、あらゆる人文社会系の学問分野で<比較>が盛んで、「横文字からタテ文字へ」で仕事・業績になるとすら言われるほどだと聞いているが、決して世界、とくに欧米の<情報>が自由に入り込んでいるわけではない。全くない、ということを、強く意識しなければならないだろう。
 そうした観点から見ると、エリック・ホブズボーム(Eric Hobsbawm)イマニュエル・ウォーラーステイン(Immanuel Wallerstein)らは、きちんと読んだことがないが、きっと日本にとって(=日本の「左翼」にとって)<安全>なのだろう。
 そうでないと、あれほどに翻訳されないのではないか。なお、前者は、少なくとも「左翼的」。後者の「世界システム論」は巨視的であるように見えるが、<共産主義>を直視していない、逃げている議論だと私は感じている。
 まだ、このテーマは続ける。

1562/神は幸せか?②-2006年のL・コワコフスキ。

 前回のつづき。
 Is God happy ? (2006), in : Leszek Kolakowski, Selected Essays (2012).
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 神は幸せなのか?//
 この疑問は馬鹿げてはいない。
 我々の伝統的な考え方からすると、幸せとは心の感情の状態の一つだ。
 しかし、神には感情があるのか?
 確かに、神は我々被造物を愛すると言われている。そして、愛とは、少なくとも世俗人間世界では、一つの感情だ。
 しかし、愛とはそれが報いられたときの幸せの源の一つであり、神の愛は、その客体の誰かにのみ報われるのであって決して全員によってではない。
 ある者は神は実在するとは信じないし、ある者は神が存在するかどうかを気にしないし、あるいは神を憎悪して、人間の苦痛や悲惨を前にして無関心だと責め立てる。
 神が無関心ではなくて我々のような感情をもっているならば、神は人間の苦しみを目撃して、つねに悲しみの状態で生きているに違いない。
 神は、その苦しみの原因になったわけでもないし、望んだわけでもない。だが、全ての悲惨、恐怖および自然が人々にもたらす又は人々がお互いに加え合う残忍さを前にして、無力なのだ。//
 一方で、神は完全に不変であるとすれば、我々の悲惨に動揺したりすることはありえず、したがって神は無関心であるに違いない。
 しかし、神が無関心だとすれば、いかにして神は慈愛の父であることができのか?
 そしてもし不変ではないとすれば、神は我々の苦しみに共感し、悲しみを感じる。
 いずれの場合でも、我々の理解できる全ての意味において、神は幸せではない。//
 我々は、聖なる存在を理解することはできないことを認めざるをえない。-全能の、神自身においてかつ神の外部にある何かとしてではなく自身を通じて全てを知る全智の、そして苦痛や悪魔に影響を受けない、聖なる存在のことを。//
 キリスト教の本当の神、イェズス・キリストは、認識可能な全ての意味において、幸せではなかった。
 キリストは、痛みを現実化されて苦しんだ。キリストは仲間の者たちの苦しみを分け持った。そして、十字架の上で死んだ。//
 つまりは、<幸せ>という言葉が聖なる存在にあてはまるとは思えない。
 しかし、人間にもそれはあてはまらない。
 我々が苦しみを経験しているのだけが理由ではない。
 あるときに苦しんではいないとしても、肉体的および精神的な愉楽や『永遠に続く』愛を超える瞬間を体験することができるとしてすら、我々は、悪魔の存在と人間の状態の悲惨さを決して忘れることができない。
 我々は他人の苦しみに同情はするが、死の予感や生きていることの悲しみを排除することはできない。//
 そうして、全ての愉しい感情は純粋に消極的なものだ、つまり苦痛がないことだ、というショーペンハウエル(Schopenhauer)の陰鬱な考え方を、我々は受容しなければならないのか?
 必ずしもそうではない。
 我々が善(good)だと経験するもの-美的な歓喜、性的な恍惚、あらゆる種類の肉体的精神的愉楽、豊かにしてくれる会話と友人の情愛-は全てたんなる消極物だと考える必要はない。
 このような経験は我々を強くし、精神的により健康にさせる。
 しかし、悪魔についても苦しみについても-malum culpae あるいは malum ponae -、これらは、何もすることができない。//
 もちろん、自分は成功しているとの理由で幸せだと感している人々はいる-健康面であれ豊かさ面であれ、隣人たちから尊敬(または畏怖)されている。
 このような人々は、人生は幸せそのものだったと信じるのかもしれない。
 しかし、これはたんなる自己欺瞞だ。時が経つにつれて、その人たちは真実を認識するのだとしても。
 真実は、その人たちは残りの我々のように失敗者だ、ということだ。//
 ここで異論が生起しうる。
 我々が高い種類の真の知識を学んだとすれば、アレクサンダー・ポープ(Alexsander Pope)のように何であれあるものは正しい(right)と、あるいはライプニッツ(Leipniz)のように我々は論理的に可能な全ての世界の最善の中に住んでいると、信じるかもしれない。
 こうしたものを精神的に受容することに加えて、つまり神にいつも導かれているので世界の全ての物事は正しい(right)と単純に信じることに加えて、我々の心の中でそのとおりだと感じ、壮麗さや、日常生活にある普遍的なものの善性(goodness)や美しさを経験するならば、我々は幸せだとは言っていけないのだろうか?
 答えは、否、だ。
 我々は、そうできない。//
 幸せとは我々が思い抱くもので、経験ではない。
 地獄や煉獄がもはや機能しておらず、全ての人間が、ただ一人の例外もなく神によって救済され、何も不足なく、完璧に充足して、苦痛や死もなく、いま天上界の至福を享有しているのだと思い浮かべると、彼らの幸せは現実にあり、過去の悲しみや苦しみは忘れ去られてしまったと、思い描くことができる。
 このような状態を思い抱くことはできる。しかし、それはかつて決して経験されてきていない。それを見た者は、これまでにいない。//
 2006年
 ---
 終わり。

1559/神は幸せか?①-2006年のL・コワコフスキ。

 L・コワコフスキ(1927~2009)は、「神学」者でもあったらしい。
 そしてキリスト教関係の諸概念・「教義」・故事来歴・歴史をきっと(欧米知識人にしばしばあることだが)をよく「知っている」のだろう。
 しかし、頭の「鋭い」、探求好きのこの人は、「神」の存在を「信じて」いただろうか?
 信じてなどいないのではないか。そうでなければ、「神は幸せか?」という奇妙な問いを発したりはしないのではないか。「神」について<幸せ>かどうかという発問をするのは、敬虔な信者にとってはありえないことではないか ?
 いや、この人は「神」の存在を信じていたようにも見える。但しそれは、「悪魔」と一体として、または同時に存在するものとしてだ。
 自分の周囲に、またはその「東方」に、かつてL・コワコフスキは「悪魔」が具現化したものを、あるいは「悪魔」のさんざんの所業を見てしまったのではないか。
 こんなことを思ったのは、以下の小論考(エッセイ)を読む前のことだ。
 L・コワコフスキ、79歳のときの文章。
 Is God Happy ? (2006), in : Leszek Kolakowski, Selected Essays (2012).
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 神は幸せか? ①。
 シッダールタ、のちのブッダの初期の伝記から明らかになるのは、人間の状態の悲惨さに全く気づかなかった、ということだ。
 王族の子息として、音楽や世俗的な快楽に囲まれて、愉楽と贅沢の中で青年時代を過ごした。
 シッダールタは、神が彼を啓発しようと決定するまでに、結婚していた。
 ある日彼は、哀れな老人を、そしてひどい病気の人の苦しみを、そして死体を、見た。
 老化、苦痛、死というものの存在--彼が気づいていなかった人間の全ての痛ましい様相--が彼の身近になったのは、ようやくそのときだった。
 これを見てシッダールタは、世俗世界から離れて僧になり、ニルヴァナ(Nirvana)への途を探求しようと決意した。//
 我々はそして、人間の残酷な現実を知らない間は彼は幸せだった、と想像するかもしれない。
 彼の人生の最後に、長くて苦難の旅のあとで、地上の状態を超えるところにある本当の幸せをかち得た、と想像するかもしれない。//
 ニルヴァナを、幸せの国のごとく叙述することができるのか?
 この執筆者〔私〕のように、初期仏教の教義を原典で読めない者には、これは確かでありえない。< happiness (幸せ) > という語は、翻訳文には出てこない。
 < conciousness (意識) >、< self (自己) >のような言葉の意味が今日の言語の元々の意味に対応しているのは確かだ、というのは困難だ。
 ニルヴァナは自己の断念を要求すると、我々は語られている
 これは、ポーランドの哲学者、エルツェンベルク(Elzenberg)が主張するように、誰かが幸せであるということとは関係がない、つまり主体はなく、ただ幸せだけがありうる、ということを示唆していると理解してよいのかもしれない。
 これは馬鹿げているように思える。
 しかし、我々の言語は、絶対的な現実を叙述するために決して適切なものではない。//
 ある神学者は、我々は、神は神ではないと言って、否定によってのみ神を語ることができる、と論じた。
 我々はおそらく同じように、ニルヴァナとは何であるかを知ることができないし、ニルヴァナはニルヴァナでない、としか言えない。
 だが、たんなる否定で満足するのはむつかしい。もう少し何かを語りたい。
 そして、ニルヴァナの国ではどうなのかについて語るのは許されると想定しても、最も困難な疑問は、これだ。この国の人は、周りの世界に気づいているのか?
 そうでなければ、かりにその人は地上の生活から完全に離れているのだとすれば、その人はいかなる種類の現実の一部なのか?
 そして、その人が我々が経験している世界に気づいているのだとすれば、その人はまた、悪魔にも、苦しみにも気づいているに違いない。
 しかし、悪魔や苦しみに気づいていながら、なおも完全に幸せである、ということはありうるのか?//
 同じ疑問は、キリスト教の天国の、幸せな住人に関しても生じる。
 彼らは、我々の世俗世界から完全に離れて、生きているのか?
 そうでないなら、地上の存在の悲惨さに気づいているなら、世界に生起する恐ろしい物事、世界の極悪非道な一面、悪魔と痛みと苦しみとを知っているなら、言葉のいかなる認識可能な意味においても、彼らは幸せではありえない、のではないか?
 (<幸せ>という言葉をここでは、<航空機内のこの座席で happyですか>とか、<このサンドイッチで全くhappyですか> とか言うような、<十分な(content)>や<満足した(satisfied)>という以上のことを意味しないものとして使っている、ということを明確にしておくべきだろう。
 幸せに対応する言葉は、英語では広い射程の意味をもつ。他のヨーロッパの諸言語では、もっと制限的だ。したがってドイツ語では言う、<幸せだ(happy)、でも、ぼくは幸運(gluecklich)ではない>。)//
 仏教とキリスト教のいずれも、魂の究極的な解放は、完全な静穏、精神の完全な平穏だ、と示唆している。
 そして、完全な静穏とは完璧な不変と同じ意味だ。
 しかし、私の精神が不変の状態にあるとすれば、そして何からも影響を与えられないとすれば、私の幸せは、一個の石の幸せのごときものだろう。
 一個の石は悪魔からの救いを完全に具現化したものでニルヴァナだと、我々は本当に言いたいのか?//
 真に人間的であるということは、同情を感じる、他人の苦痛や愉楽に共感する、という能力をもつことを含んでいるので、若きシッダールタは、幸せだったに違いない。あるいは、ただ彼が無知だった結果として、幸せだという幻想を味わったに違いない。
 我々の世界では、この種の幸せは、子どもたちにだけ、一定の子どもたちにだけある。
 五歳以下の子どもたちと言っておこうか、愛する家族の中にいて、彼に身近な者の大きな苦しみや死を経験したことがない。
 おそらくこのような子どもは、私がいま考えている意味において、幸せでありうる。
 五歳を超えると、我々はたぶん、幸せであるには年を取りすぎている。
 もちろん、我々は、刹那的な愉楽、不思議と大幻惑の瞬間、そして神や宇宙と一体となる恍惚感すらも、体験することができる。我々は、愛や歓びを知っている。
 しかし、不変の状態としての幸せは、我々には到達できそうにない。本当の秘儀の世界でのきわめて稀な場合をおそらく除いては。//
 これが、人間の状態というものだ。
 しかし、我々は幸せは聖なる存在のおかげだと推論できるのだろうか?
 神は幸せなのか?
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 あと1回、つづく。

1552/R・パイプスとL・コワコフスキが隣に立つ写真から。

 ○ 世界中で、日本に限ってとしてすら、多数の人が生まれ、そして死んでいっている。
 それぞれの死は悲しいものに違いないが、世界中の、日本に限っても、全ての各人の死を嘆き悲しむことなどできるわけがない。
 一粒の涙ずつ流したとしても、一日で足りるのだろうか。
 所縁のない人々の死をいちいち考えていては、人は生きていけない。
 遺族にとっては突然の死(事故であれ自然災害であれ)もあれば、「大往生」と呼ばれる死もあるだろう。不条理な死も、きっとあるだろう。しかし、ほとんど圧倒的な場合について、<遺族>または関係者以外の人々は、いちいち考える余裕もなく、それぞれに生きている。
 こんなことを書きたくなったのも、一枚の写真を書籍の中でたまたま見た(たぶん初めて気づいた)のがきっかけだ。
 外国の、かつまた自分には私的な関係はこれっぽっちもない人々のことながら、その死を思って、涙が出た。
 Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non - Belonger (2003)。
 このp.133に、つぎの4名が立って、十字のように向かい合って何か語っている写真がある。1974年、イギリス・オクスフォードでのようだ。右から。中の二人の表情が最もよく撮れている。
 アイザイアー・バーリン(Isaiah Berlin)、リチャード・パイプス(Richard Pipes)、レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)、イタリアの歴史学者のフランコ・ヴェンチュリ(Franco Venturi)。
 最後の人だけ名前も知らなかったが、R・パイプスの初期の研究対象と同じく19世紀のロシア、および1789年以前のヨーロッパについて主として研究したようだ。以下、() は写真のときの年齢。
 Isaiah Berlin、1909.06~1997.11、満88歳で死去 (65歳)。
 Leszek Kolakowski、1927.10~2009.07、満81歳で死去 (47歳)。あの、L・コワコフスキだ。
 Franco Venturi、1914.05~1994.12、満80歳で死去 (60歳)。
 そして、Richard Pipes、1923.07~ (51歳)。
 前回に2015年2月付のR・パイプス著の「序言」に言及したが、そのときすでに、満91歳なのだった。
 そして、自分には私的な関係は一切ない人物だが、この人もいずれは亡くなるのだと思うと(自分も勿論そうだが)、涙が出た。
 誰もがみんな、いずれ死んでいく。
 ○ リチャード・パイプスについて書かれている日本語文献は、多くない。
 二冊の詳しく長い方の、ロシア革命とその後のスターリン直前までの書物には邦訳書がない。
 『共産主義の歴史』と素直に邦訳されてよいこの人のコンパクトな書物は、<共産主義者が見た夢>という、誰か特定の共産党員の個人的思い出話とも誤解されそうな邦題が付けられた邦訳書になっている。
 下村満子・アメリカ人のソ連観(朝日文庫、1988)は1983年初頭のR・パイプスインタビュー記事を載せていて、珍しく、かつ興味深い。
 もう一つ、上の Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non - Belonger (2003)の、詳しいわけではないが、貴重な書評記事が、以下にある。
 草野徹「気になるアメリカン・ブックス/28回」諸君!2007年11月号(文藝春秋)p.243-5。
 
草野徹はR・パイプスの書名を『私は生き延びた-自主的な思想家の回想録』と訳している。
 < a Non-Belonger >の意味がむつかしいところで、最初はどの党派にも属さない、つまりは社会主義や共産主義政党から独立した(自由な)者との意味かと思ったが、のちにはだいぶ離れて、ポーランド出自のこの人は20歳のときにアメリカに帰化してもなおも<帰属意識>をもてない、祖国ではない国に生きた、という意識からする言葉かとも思った(40歳頃に社会主義ポーランドを離れたL・コワコフスキについてもある程度はそういう問題の所在を指摘しうるのではなかろうか-多くの日本人には分かりにくい)。
草野は、同僚学者たちからも際立つほどの、つまり仲間がいないか極めて乏しい=帰属先のない学者、独立した<反共産主義・反ソ連>意識の持ち主だったことを、< a Non-Belonger >性だと理解しているようだ。たぶんこれで正しいのだろう。私はほとんど読んでいないので、判断しかねる。
 ともあれ草野徹の紹介によると、R・パイプスというのは、つぎのような考えの持ち主だ。
 「共産主義一般や特にソ連に対して否定的見解」に立つ。
 「スターリニズムはレーニニズムにその兆しがある」。
 「ソ連の残虐な独裁は、スターリンの個性の結果というより、ボルシェヴィキ革命の必然的結果である」。
 60年代の大学騒擾を「嫌悪しながら見詰め、マルクス主義の方法論を用いてソ連に共感する『修正主義者』と対立」した。
 あとは、R・レーガン大統領のもとでの安全保障会議補佐官の時代のことだ。
 R・パイプスは<対ソ連強硬派>だった。この点はこの欄でも触れている。
 草野によると、R・パイプスが嫌ったのは<対ソ連融和派>(秋月)とも言うべき「西側ジャーナリズム」で、これは「①ソ連は安定していて、外部から破壊はもちろん、体制変更はできない。②そんなことを試みれば、ソ連は硬化し、核戦争につながる危険がある」との前提で共通していた、という。
 草野は最後にまとめる-R・パイプスという「圧力行使で『悪の帝国』を倒せると考えた数少ない一人、時代におもねらない自主的な思想家」が、「歴史の歯車に油を差したと言えるかもしれない」と(さらに、「日本の学者」は ? と続けるが)。
 リチャード・パイプスの書物の試訳を行ったり、また部分的にだが(まるでポーランドのふつうの哲学者か東欧の怪談お伽話の作家のごとく日本では扱われているかもしれない)L・コワコフスキの著作を邦訳したりすることの意味は十分にある、と秋月は考えている。
 またさらに、<軟弱・融和・表向き平和>論でないR・パイプスの<強硬論>は、決して過去に関することではなく、現今の北朝鮮や中国に対する外交等の政策についてもある程度は参照されてよいと思われる(日本政府に何ができるかという問題はあるが)。
 民主党政権、オバマ大統領は、ぃったいどうだったのか ? また触れてしまうが、櫻井よしこは、大局を無視して、<トランプへのケチつけ>ばかりするのはやめた方がよい。
 ○ 日本とは違う<反共産主義>の思想・雰囲気がアメリカには大勢ではないにせよ強くある、ということは、「左翼」・対ソ連<融和>派の朝日新聞・下村満子も書いていた。
 1992年のソ連解体以前の文章だが、同・上掲書、p.614は言う。
 「アメリカ人の反共精神、対ソ不信感には、非常に根強いものがあり、これはほとんどアメリカの体臭といっていいほどのものだと私は考えている」。
 こう書きつつ、レーガンの反共・対ソ強硬姿勢はきっとうまく行きそうにないとの雰囲気で朝日新聞記者らしくまとめているのだが。
 ○ しかしともかくも、日本人は、日本とアメリカ等の違いを、共産党・共産主義に対する見方についても、本当はもっと実感しなければならないのだろうと思う。
 1992年以降、イタリア共産党はなく、フランス共産党も1980年にミッテラン大統領を社会党とともに生んだ力はまるでない。
 なぜ日本には日本共産党があって600万票を獲得し、隣国には「中国共産党」があるのか。
 北朝鮮のグロテスクな現況は、マルクス-レーニン-スターリン-コミンテルンと関係がないのか ?
 レーニン・スターリン・コミンテルン-金日成・金正日・…、ではないのか ?
 この点を、なぜ日本のメディアは明確に指摘しないのか。
 スターリン以降とは区別された、<レーニン幻想・ロシア革命幻想>が日本には「左翼」にまだ強く残ることについては、また何度も述べる。 

1541/緒言・スイスのレーニン①-R・パイプス著第10章。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990、Vintage)〔リチャード・パイプス・ロシア革命〕の第二部の最初の第9章『レーニンとボルシェヴィズムの起源』の試訳は、すでに済ませた(2月下旬以降)。
 この本には1997年に新版が出ていて、①Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919、というタイトルになっている(Harvill Press 刊、計950頁余)
 中身は頁数を含めて変わっていない。但しいわば大判から中判への変更で、活字・文字はやや小さくなり、少し読み辛い(もっと小さな活字・文字の小型判の本はある)。
 タイトルに「1899-1919」が付いて分かりやすくなっている。
 そして、この欄で1994年刊の「別著」とも称したものは、次のタイトルになった。
 ②Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Refime 1919-1924.(計約600頁)
 こう並べてみると、簡潔版(単純な抜粋又は要約でないが)の、③Richard Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995、Vintage, 1996、計430頁余)=西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000)が、①のではなく、時期・内容ともに①と②を併せたものの簡潔版(Concice 版)であることがよく分かる。
 ちなみに、リチャード・パイプスの、注記・参考文献等も詳しい上の①、②ともに(③はあるが)、邦訳書がまだ存在しないことに留意されてよい。試訳している部分でも明らかだが、リチャード・パイプスの記述内容は、日本の<ある勢力>にとって<きわめて危険>だ。アメリカの安全保障会議の「ソ連・東欧問題」補佐官だったが、この人が1989-91年のソ連・東欧の激動期に日本のメディアからインタビューされたり、原稿執筆を依頼された痕跡が全くないのはどうしてだろうか ?
 Leszek Kolakowski(L・コワコフスキ)のMain Currents of Marxism (マルクス主義の主要な潮流)は邦訳書がないかぎりは、レーニン関係部分だけでもこの欄で邦訳してみたい。
 ただ-すでにネップに関連してこの著を参照してレーニン全集(大月書店)の一部を引用しているのだが-、L・コワコフスキはたんなる抽象的・理論的「哲学者」ではなく、モスクワでの留学経験、スターリン体制下でのポーランドでの実経験を踏まえて(マルクス等々だけでなく)レーニンやスターリンの諸文献を熟読しており、(かつこれが重要だが)ロシア・ソ連の歴史の基本的なところはきちんとした知識をもったうえで、叙述している。したがって、L・コワコフスキ著の一部の邦訳を試みるにしても、やはりロシア革命等々の歴史の基本的な理解が必要だ。
 二月革命、十月「革命」あるいは<一党支配の確立>について、すでにリチャード・パイプス著の概読はしている。
 しかし、邦訳を試みたかどうかはやはり<記憶>への定着度がかなり異なるので、あらためて、上の①の第二部・第10章からの試訳を、これから掲載してみよう。
 この著の第二部・第10章の節の区分・タイトルはつぎのとおり(但し、原著の詳細目次の中にタイトル名は出てきて、本文にはない。また、「節」の文字や「数字」もない。「緒言」は詳細目次にすらない)。
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 第二部/第10章・ボルシェヴィキの権力奪取への努力(Bid)。
 (緒言)
 第1節・1917年初期のボルシェヴィキ党。
 第2節・ドイツの助力によるレーニンの帰還。
 第3節・レーニンの革命戦術。
 第4節・1917年4月のボルシェヴィキ集団示威行動。
 第5節・臨時政府への社会主義党派の加入。
 第6節・権力闘争へのボルシェヴィキ資産とドイツの援助。
 第7節・6月のボルシェヴィキ街頭行動の中止。
 第8節・ケレンスキーの夏期攻撃。
 第9節・ボルシェヴィキの新たな攻撃の準備。
 第10節・蜂起の準備。
 第11節・7月3-5日の出来事。
 第12節・鎮圧された蜂起-レーニンの逃亡・ケレンスキーの独裁。
 注記は、本文の下部にある(*)や(+) はできるだけ訳し、後注(note)は原則として訳さない。
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 緒言
 1917年のロシアの革命について二つを語る-第一に二月で第二は十月-のが一般的だが、革命の名に値するのは、第一のものだけだ。
 1917年二月に、ロシアはつぎの意味で、本当の革命を経験した。まず、ツァーリスト(帝制)体制を打倒した社会不安は、刺激もされず予期もされずに自然発生的に起こり、つぎに、続いた臨時政府は、すみやかに国民全体に受容された。
 1917年十月は、いずれの点でも本当ではない。
 まず、臨時政府の打倒につながった事象は自然発生的に起こったのではなく、緊密に組織された陰謀集団によって計画され、実施された。
 つぎに、この陰謀家たちが民衆の過半を服従させるためには、三年間の国内戦争(内戦)と無差別のテロルが必要だった。
 十月は、古典的なクー・デタ(coup d'etat)だった。政府の統治権力は、民衆参加の外見でも帯びるという当時の民主主義的な慣行を無視して、民衆の関与なくして、少数集団によって奪取され、行使された。
 政治にではなくて戦争にむしろ適切な手段が、その革命的な行動には用いられた。//
 ボルシェヴィキのクー(権力転覆)は、二つの段階を経た。
 第一は4月から7月までの時期で、レーニンは、武装した実力が支える街頭示威行動によって、ペテログラードの権力を奪おうとした。
 二月の騒擾の態様にしたがって、この示威行動を段階的に拡大するのが、レーニンの意図だった。そうして、最初はソヴェトに、その後即時に彼の党へと権力を移行させる、大規模な暴乱へと持ち込もうとした。
 この戦略は、失敗に終わった。三回めの7月の行動は、ボルシェヴィキ党の破滅をほとんど生じさせた。
 ボルシェヴィキは8月までには、権力への衝動力を十分に回復した。しかしこのとき、彼らは別の戦略を用いた。
 レーニンは、フィンランドにいて警察の目から逃れていた。その間の責任者だったトロツキーは、街頭の集団示威行動を避けた。
 トロツキーはその代わりに、偽りのかつ非合法のソヴェト大会という前景の背後で、政権中枢を奪取する特殊な突撃兵団に依拠した、ボルシェヴィキのクーを準備していた。
 権力掌握は、名目上は、一時的にのみかつソヴェトのために実行された。しかし、実際は、永続的に、かつボルシェヴィキ党の利益のために、だった。//
 <〔原文一行あけ〕>
 第1節・1917年初期のボルシェヴィキ党。
 レーニンは、ツューリヒにいて二月革命の勃発を知った。
 戦争の開始以来ずっと故国から切り離されて、レーニンは、スイスの社会主義的政界人たちに身を投じていた。そして、彼らに非寛容と論争好きというよそ者の精神を注入していた。
 レーニンの1916年から1917年の間の冬の日誌によると、熱狂的だが焦点が定まらない活動様式が分かる。小冊子を配ったり、対抗的なスイスの社会民主党に対して策略を試みたり、マルクスとエンゲルスを勉強したりしていた。//
 ロシアからのニュースは、数日遅れてスイスに届いた。
 レーニンはまず、ペテログラードの社会不安について、ほとんど一週間遅れて、3月2日/15日〔ロシア暦/新暦、以下同じ〕の<新ツューリヒ新聞(Neue Zuercher Zeitung)>の報道で知った。
 ベルリン発のその報道は、戦争の舞台からの二つの速報の間に挿入されていて、ロシアの首都で革命が勃発した、ドゥーマ〔もと帝制議会・下院〕は帝制下の大臣を逮捕して権力を握った、と伝えていた。//
 レーニンはすぐに、ロシアに帰らなければならないと決めた。
 1915年にスカンジナヴィアに移動することはまだ可能だったのにその『危険を冒す』ことをしなかったのを、今や激しく悔いた。(*)
 だが、どうやって帰るか ? 明確なただ一つは、スウェーデンを経てロシアに入ることだった。
 スウェーデンに行くには、フランス、イギリスまたはオランダという連合国の領域を通過するか、ドイツを縦断するかのどちらかだつた。
 レーニンはイネッサ・アーマンド(Inessa Armand)にほとんど任せて、英国の査証(visa)を得る機会を探してくれるよう頼んだ。だが彼は、英国は自分の敗北主義の綱領を知っているのでほとんど確実に発行を拒否するだろうと、これを得る見込みはまずないと考えた。
 レーニンはつぎに、偽の旅券(passport)でストックホルムへ旅行するという現実離れした計画を抱いた。
 スイスの彼の工作員、フュルステンベルク・ガネツキー(Fuerstenberg Ganetskii)に、使える旅券をもつ、かつレーニンと肉体的に似ているだけではなくて彼はスウェデン語を知らなかったので聾唖者でもある、スウェーデン人を見つけるよう頼んだ。
 こんな計画のどれも、首尾よくいく現実的な見込みは全くなかった。
 レーニンは結果として、パリにいるマルトフ(Martov)がある社会主義者の難民団体に3月6日/19日に提案した計画を利用した。それによると、ドイツ人とオーストリア人の捕虜と交換に、その領土を通ってスウェーデンへと縦断することをロシア人がドイツ政府にスイスの媒介者を通じて依頼する、ということだった。(5)//
 レーニンは、トロツキーの言葉によれば檻の中の野獣のごとく怒り狂っていたが、ロシアの政治状況の見通しを失ってはいなかった。
 ロシアの支持者たちが自分が舞台に登場するまで適切な政治路線を採用することに、彼の関心はあった。
 とくに懸念したのは、支持者たちがメンシェヴィキの『日和見主義』戦術やエスエル〔社会主義革命党〕の『ブルジョア』議会政府への支持を真似ようとしないかどうかだった。
 レーニンは、3月6日/19日にストックホルム経由でペテログラードにあてて送信した電報で、彼の基本方針をつぎのように概述した。//
 『我々の戦術-新政府の完全な不信任と不支持。
 とくに、ケレンスキーを疑う。
 プロレタリアートの武装だけが唯一の保障だ。
 ペテログラード(市の)ドゥーマ選挙の即時実施。
 <他諸政党との友好関係を持たない。>』//
 レーニンが支持者たちにこの指令を電報で伝えたとき、一週間しか仕事をしていない臨時政府には、政治的な基本的考え方を明らかにする機会はほとんどなかった。
 舞台から遠く離れたところにいて西側報道機関による二次的または三次的な情報に依存していたので、レーニンが新政府の意図や行動について知っているはずは決してなかった。
 『完全な不信任』とか支持しないという彼の主張は、したがって、新政府の政策によるものではありえなかった。
 そうではなく、新政府の権力を奪おうとするア・プリオリな(a priori、先験的な)決定を反映していた。
 ボルシェヴィキは他諸政党と協力しないとのレーニンの主張は、権力の空白をボルシェヴィキ党だけが排他的に奪い占めるという、充ち満ちた決心をしていることを意味した。
 上掲の簡潔な文書は、二月革命を知ってほんの僅か4日後に、レーニンがボルシェヴィキによるクー・デタを考えていたことを意味するだろう。
 また、『プロレタリアートの武装』の指示は、軍事暴動としてのクー(政権転覆)を想定していたことを示唆する。
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  (*) これはおそらく、1915年のレーニンとの会合の際になされたパルヴス(Parvus)の提案に関係している。
  (5) W. Hahlweg, Lenins Rueckkehr nach Russland 1917 (1957)〔レーニンのロシアへの帰還〕, p.15-16。
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 第1節②へとつづく。

1540/「左翼」の君へ⑧完-レシェク・コワコフスキの手紙。

 Leszek Kolakowski, My Correct View on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
 前回のつづき。⑧。
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 しばらくの間に、伝統的な社会主義の諸装置のいくぶんかが、予期しなかったやり方で資本主義社会にそっと這入り込んでいるように思える。
 最も近視眼的な政治家たちですら、全てを金で買うことができるわけではないと、大金を積んでも清浄な空気、水、広い土地その他の自然資源を買えないときがくるかもしれないと、分かっている。
 そしてそうだ、『使用価値』が徐々に経済の中に戻ってくる。
 人類が生ゴミの処理の仕方を知らないことから生じる、『社会主義』の逆説的な結論だ。
 この帰結は官僚制の増大であり、権力の中心にいる者たちの役割の増大だ。
 共産主義が考案した唯一の治療薬-国民資産に対する中央集中型の、抑制されない国家所有と一党支配-では、治癒されるべき病気はさらに悪くなる。経済的には効き目がないし、社会関係の官僚的性格を絶対的な原理にしてしまう。
 高い程度の自治権を小さな諸共同体のためにもつ、非中央集中的な社会という君の理想を、高く評価する。そして、こうした伝統への君の執着について、共感する。
 しかし、私的所有からではなくて技術の発展から生じる、中央集中的官僚制につながる力強い権力の存在を拒否するのは愚かだ。 
 この状況を見通す一つの方法でも知っているつもりなら、『平和的な革命を起こす、そうすればこの趨勢は逆転する』と言って解決策を見つけたと想うなら、君は自らを欺いているし、言葉の魔術の犠牲者になっている。
 複雑な技術的組織網に社会が依存すればするほど、それだけ多く諸問題は中央権力によって規制されければならない。国家官僚制が力強くなればなるほど、政治的な民主主義や『形式的』、『ブルジョア的』自由が支配機構を抑制する必要、個人の弱まりうる権利をそのままにして個人に保障する必要が、ますます大きくなる。
 全てを包含する、政治的な(『ブルジョア的』な)民主主義がなくして、いかなる経済民主主義も産業民主主義も、かつてなかったし、また存在することはできない。
 現代社会が課す相反する責務をどのようにして調和させるべきかを、我々は知らない。
 我々には矛盾のない安定した社会の青写真はないのだから、ただ、これら責務の間の不確定な平衡状態に到達するように努めることができるだけだ。
 どこか別の箇所で書いたことを、繰り返そう。
  『心配しないで、平穏にかつ安全に、その人生の余後を過ごせるだけの資金を一瞬で得る方法について考えている人々の心構えが、私的な生活にはある。
 そして、明日までどうやって生きようかと懸念しなければならない人々の心持ちもある。
 人間社会というのは、全体としては、かつて得た金銭のおかげで生涯にわたる保険金があったり株式配当金があったりする、年金受給者のような幸せな地位には決しておれないだろう、と私は思う。
 人間社会の地位は、翌日までの生活の仕方に困惑している日雇い職人のそれに似ているだろう。
 夢想家(ユートピアン)というのは、人類を年金生活者の地位に置こうと夢見る人々、そうした地位は素晴らしいもので、代償(とくに道徳的な代償)がそれを獲得するには大き過ぎはしないと確信している人々だ。』//
 こう書くのは、社会主義とは死滅した選択肢だと意味させてはいない。
 そうは考えていない。
 だが、この選択は、社会主義国家の経験によってのみならず、信奉者たちの自信を理由として、彼ら信奉者が行なう社会を変えようとする努力にも限界があること、および要求と信条となった価値とを両立させられないこと、の両方に直面して彼らが何もできないことを理由として、破滅した。
 簡単に言うと、社会主義を選択する意味は、完全に、そのまさしく根源から修正されなければならない。//
 『社会主義』と言うとき、私は完璧な国家を意味させず、平等、自由および効率性への要求を達成しようとする運動を想定している。どの価値のいずれにも別々に隠れている諸問題の複雑性だけではなくて、諸価値は相互に制限し合い、それらは妥協を通じてのみ充たされうるということに気づいているかぎりで、諸困惑に対処する資格があるような運動をだ。
 そう考えないなら(またはそう考えているふりをしなければ)、自分や他人を笑い物にしている。
 全ての諸制度の変更は、全体としてこれら三つの価値に奉仕する手段だと見なさなければならず、それら自体に目的があると考えてはいけない。
 そうした変更は、一つの価値を増大させるときに別の価値を犠牲にする対価を考慮に入れて、相応に判断されなければならない。
 諸価値のいずれかを絶対的なものと見なしたり、全てを犠牲にして諸価値を実現しようとする企ては、残る二つの価値を破滅させることに必然的になるだけではなく、その一つの価値をも結局は破滅させるに違いない。
 注意しなければならない(nota bene)。これは、貴重な過去から発見したことだ。
 絶対的な平等性は、特権を与えるがしかし換言すると平等性を破壊するのを意味する、独裁的な支配制度においてのみ達成されうる。
 完全な自由は、無政府状態を意味する。無政府状態は、肉体的な最強者が支配することに結果としてはなる。つまり、完全な自由は、その反対物に変わる。
 至高の価値としての効率性は、再び独裁制を呼び起す。そうして、技術が一定のレベル以上になると、独裁制は経済的には非効率だ。
 こうした古くて自明のことを繰り返すのは、彼らがまだ夢想家の思考方法に気づかないままで歩んでいるように見えるからだ。
 それはまた、ユートピアを描く以上に簡単なことは何もない、ということの理由だ。
 この点で、我々が合意できると望む。
 そうできるなら、寛容になってお互いを許し合いたい、若干の辛辣な意見を交換し合った後であっても、他の多くの点で合意できる。
 共産主義は原理的に優れた発明品だと、優れた応用について決していくぶんかも損なわれていないと、君がまだ思い続けているなら、この合意には達しそうにないだろう。
 長年にわたって君に説明してきた、と思う。
 何をって、私が何故、共産主義思想を修繕したり、刷新したり、浄化したり、是正したり〔mend, renovate, clean up, correct〕する試みに、いっさい何も期待しなくなったのか、だ。
 哀れむべき、気の毒な思想だ。私は知った、エドワード君よ。
 これは二度と微笑むことがないだろう。
  君に友情を込めて。/レシェク・コワコフスキ。
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 終わり。上掲書、p.115-140。

1538/「左翼」の君へ⑦-L・コワコフスキの手紙(1974年)。

 前回のつづき。
  Leszek Kolakowski, My Correct View on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
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 君の推論の中に…がこだまとなって鳴り響いているのが、少しは嫌だね。
 しかし、それ以外に多くのことがある。
 君は社会に関して範疇でまたは世界的『体制』-資本主義か社会主義か-で考えるので、つぎのように信じる。
 1) 社会主義は、今は不完全だが、本質的に人間発展の高次の段階だ。そして、『体制』としての優越性は、人間の生活にかかわる個別の事実に示されているか否かとは関係がなく、確かなこと(valid)だ。
 2) 非社会主義世界に見られる全ての否定的事実-南アフリカの人種差別、ブラジルの拷問、ナイジェリアの飢餓、あるいは英国の不適切な健康サービス-は『体制』に原因がある。
 一方、社会主義世界内部で生じている類似の事実も、『体制』に、しかし同じ資本主義体制に責任があり(旧社会の残存、孤立化の影響等)、社会主義体制にではない。
 3) この優越性または社会主義『体制』を信じない者は、『資本主義』は原理的に立派なものだと考えるように強いられており、またその怪物性を正当化したり隠蔽したりするように強いられている。換言すれば、南アフリカの人種差別やナイジェリアの飢餓等々を正当化することをだ。
 したがって、君の絶望的な気分は、言っていない何かを私に語らせようと試みている。
 (本当に、君の考えは私には全くあてはまらないから、君は私の良心を覚醒させようとするし、例えば、西側諸国にはスパイがいたり盗聴装置があると説明する。実際に ? 君は冗談を言っているのか ?)
 言う必要もないが、こうした独特の推論方法は、全ての経験的事実を重要ではないとして無視できるので、絶対的に反駁不可能なのだ。
 (『資本主義体制』内部で起きる何かの悪事は、定義上、資本主義の産物だ。『社会主義体制』で起きる何かの悪事は、同じ定義上、同じ資本主義の産物だ。)
 社会主義は、生産手段の全体的またはほとんど全体的な国家所有という『体制思考』の範囲内に限定されている。
 君は明らかに、雇用労働の廃止という意味では社会主義を定義できない。経験上の社会主義はこの点で資本主義と違っているとしても、囚人の直接の奴隷的労働、労働者の半奴隷的な労働(働く場所を変更する自由の廃止)および中世的な農民のglibae adscriptioを復活させていることのみで違っていると君は知っているからだ。
 そう、こうした推論構造の範囲内で、全ての現実の悪魔でなくとも、悪魔の根源は、私的所有の廃止でもってこの地上から根絶される、と信じることは首尾一貫性をもつ。
 しかし、私が論及したこれら三つの叙述は、経験上は論証も反証もいずれも不可能な、イデオロギー上の傾倒を表現したものに他ならない。
 君は、『体制』という言葉を使う思考は優れた結果をもたらす、と言う。
 全くそのとおりだが、優れているだけではなくて、奇跡的な結果だ。
 それは、一撃でもって平易に、人類の全ての諸問題を解決してしまう。
 これこそが、この次元の科学的意識に(私自身のように)到達しなかった人々が何故、世界の救済のためにこの簡単な道具を使うことを知らないのかの理由だ。
 ベルリンあるいはネブラスカのどの大学二年生でも、知っていることなのに。すなわち、社会主義世界革命。//
 <〔原文、一行空白〕>
 結語反復という消滅しつつある技法の権威を復活させるがごとき、君が書いた話題を全て尽くしたわけではない。
 しかし、ほとんどの論争点には触れたと思う。
 現時点で我々を分かつ深淵には、橋が架けられそうにない。
 君は自分をまだ、見解が異なる共産主義者または一種の修正主義者だと考えているように見える。
 そうは私は自分を見ていないし、長い間そう見なかった。
 1956年からの議論の間に君はその立場を明確にしているようだが、私は違う。
 あの年は重要で、かつ幻想も大きかった。
 しかし、出現したあとですぐに、幻想は打ち砕かれた。
 君はたぶん、人民民主主義国で『修正主義』とレッテルを貼られたものはほとんど(きっとユーゴスラヴィアを例外として)消失したと分かっている。この消失は、人民民主主義諸国の若者も老人も、自分たちの状況を『真正な社会主義』、『真正なマルクス主義』等の言葉で考えるのを止めたことを意味する。
 彼らは(しばしば受動的にではなく)より大きな国家の独立、より多大な政治的かつ社会的自由、そしてより良き生活条件を望んだのであり、決してそうした要求に社会主義に特有な何かがあったからではない。
 公式の国家イデオロギーは、逆説的な状況にある。
 支配する国家機関がその権力を法的に正当化できる唯一の方法だから、それは絶対に不可欠のものだ。そして誰も、それを信じてはいない。-支配者も被支配者も(両者ともに別の者および自分たちが信じていないことを十分に気づいていた)。
 西側諸国のほとんど全ての、社会主義者だと(ときには共産主義者だとすら)自認する知識人は、私的な会話では社会主義思想は深刻な危機にあると認める。だが、ほとんど誰も、それを活字上では認めようとしない。
 ここにある楽観的な陽気さは義務的なもので、我々は『一般大衆の間に』疑念や混乱の種を撒いたり、敵に役立つ論拠を与えたりしてはいけないのだ。
 これは自己防衛策だと君が考えるかどうかは、確実ではない。そう考えていないと思いたい。//
 しばらくの間に、伝統的な社会主義の諸装置のいくぶんかが、予期しなかったやり方で資本主義社会にそっと這入り込んでいるように思える。
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 ⑧につづく。

1536/「左翼」の君へ⑥ -L・コワコフスキの手紙(1974年)。

 L・コワコフスキ=野村美紀子訳・悪魔との対話(筑摩書房、1986)の「訳者あとがき」に、以下はよる。
 ポーランド語原著は1965年刊行で、上の邦訳書は、1968年のドイツ語版の邦訳書。
 Leszek Kolakowski, Gespraech mit dem Teufel (1968).
 また、この欄で言及したL・コワコフスキ『責任と歴史』(勁草書房、1967)の原著は分からなかったが、同じく野村によると、内容は以下と一致するらしい。
 Leszek Kolakowski, Der Mensch ohne Alternative (1960).
 さらに野村美紀子によると(p.199)、1986年頃時点で、つぎの二つのL・コワコフスキの文章が日本語になっている。
 ①「『現代の共同社会』を築きあげるために」朝日ジャーナル1984年1月13日号。
 ②「全体主義の嘘の効用」『世紀末の診断』(みすず書房、1985)に所収。
 この②は、現在試訳しているものを含む、Leszek Kolakowski, Is God Happy ? -Selected Essays (2012)にも、(英語版で)収載されている。Totalitarianism and the Virtue of the Lie (1983).
 試訳・前回のつづき。My Correct View on Everything (1974).
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 君の、君(と私)を『マルクス主義の伝統』(制度に対立する、方法や遺産)の忠誠者の一人に範囲づけようという提案は、捉えどころがなくて曖昧のように思える。
 ただ『マルクス主義者』と呼ばれることが重要だと思っていないとすると-君は思っていないと言うだろう-、君がこれにこだわる意味が私にはよく分からない。
 私は『マルクス主義者』であることに少しも関心はないし、そのように呼ばれることにも少しも関心がない。
 確かに、人文科学で仕事をしている者の中には彼らのマルクスに対する負い目(debt)を認めようとしない者はほんの僅かしかいない。
 私は、その一人ではない。
 私は、マルクスがいなければ歴史に関する我々の思考は違っていただろうし、多くの点で今よりも悪くなっていただろうと、簡単に認める。
 こう言うのは、どうだってよいことだ。
 私はさらに、マルクス理論の多くの重要な教義は偽りである(false)か無意味(meaningless)だと考える。そうでなければ、極めて限定された意味でのみ本当(true)だ。
 労働価値説は、何らかの説明する力を全くもたない規範的な道具だ、と考える。
 マルクスの著作にある史的唯物論の有名な一般的定式のいずれも受け入れられず、この理論は、強く限定された意味でのみ有効だ、と考える。
 マルクスの階級意識の理論は偽りで、その予言の多くは誤り(erroneous)(これは私が感じる一般的叙述であることはその通りだが、この結論についてここできちんと議論しているのではない)だったことが証された。
 にもかかわらず私が(哲学的でなく)歴史的問題について、マルクス主義の伝説を部分的に承継している概念を使って思考していることを承認すれば、マルクス主義者の伝統への忠誠者であることを受け入れることになるのか ?
 『マルクス主義者』の代わりに『キリスト教信者』、『懐疑主義者』、『経験主義者』を使っても同じことが言えるだろうという、ただきわめて緩やかな意味でだ。
 いかなる政党やセクトにも、いかなる教会派やいかなる哲学学派にも属さないで、マルクス主義、キリスト教、懐疑主義哲学、経験主義思想に対する負い目があることを私は、否定しはしない。
 また、その他のいくつかの伝統にも負い目がある(もっと明瞭に言えば東ヨーロッパだ。君には関係がない)。
 折衷主義の反対物が(折衷主義とのレッテルを貼って我々を脅かす人の心のうちには通常あるような)哲学的または政治的偏狭さだとすると、『折衷主義』の恐怖も共有できない。
 こうした乏しい意味で、その他たくさんの中でマルクス主義者の伝統に属することを認める。
 しかし君は、もっと多くのことを意味させていそうだ。
 君は、マルクスの精神的後継者だと定義する『マルクス主義者一族(family)』の存在を示唆しているように見える。
 君は、あちこちでマルクス主義者だと自称している全ての者たちが、世界の残りとは区別されるような一族(この半世紀の間お互いに殺し合ってきているし今もそうであることは気にするな)を形成していると思っているのか ?
 また、この一族は君には(そして私にもそうあるべきらしいが)自己同一性の確認の場所だと思っているのか ?
 君が言いたいのがこういうことならば、その一族に加入するのを拒否すると言うことすらできない。そんなものは、この世界に存在しない。
 世界とは、偉大なヨハネ黙示録の天啓が二つの帝国の間の戦争を引き起こされる可能性がきっとあるような、もう一つの帝国とはともに完璧な具現物だと主張しているマルクス主義であるような、そんな世界だ。//
 <(原文、一行空白)>
 君の手紙には、私が持ち出すべきいくつかの問題がまだある。持ち出したいのは、その重要性ではなくて、君の議論の仕方が不愉快にもデマゴギー的だからだ。
 そのうち二つを取り上げよう。
 君は私の論文を引用して、私の考えは陳腐だと書いている。
 被搾取階級は精神的文化の発展に参加するのを許されなかった、とする部分だ。
 君は排除された労働者階級の報道官のごとく現れて、義憤に満ちたふうに私に、労働者階級は連帯感、忠誠心などを形成したと説く。
 言い換えると、私は、被搾取者が教育を受ける機会が与えられなかったことを称揚するのではなく嘆き悲しむべきだ、と言った、とする。そして君は、労働者階級には道徳心がないとの私の主張らしきものに嫌悪感を示す。
 これは誤読ではなく、私が議論するのを不可能にする、一種の、愚かな、こじつけた読み方(Hineinlesen)だ。
 そうして、新しい社会主義の論理または(もう一度言うが、私は自明のこと(trueism)だと思う)科学の観念は蒙昧主義者(obscurantist)だと烙印を捺したとき、君は、重要なのは論理を変えることではなく、マルクスは所有関係を変革したかったのだと説明する。
 マルクスは本当にそうしたかったのか ?
 よし、君は私の目を開いてくれた、という以外に、私は何を言えるか ?
 <新しい論理>や<新しい科学>の問題は<ブルジョアの論理>や<ブルジョアの科学>に対抗する論争点だったのではないと思っているとすれば、君は完全に間違っている(wrong)。
 そういう考え方は行き過ぎなのではなく、マルクス主義者-レーニン主義者-スターリン主義者〔マルキスト-レーニニスト-スターリニスト〕の間での標準的な思考と議論のやり方だ。
 そういう仕方は、多数のレーニンたち、トロツキーたちそしてロベスピエールたちによって、無傷に相続された。君はそれをアメリカやドイツの大学構内で見たはずだ。//
 第二点は、君が引用している、インタビューを受けた際に私が発した一文に対する君の論評だ。
 『宗教的表象(symbols)を通じる以上の十分な自己同一性の確認(self-identification)の方法はない』、『宗教意識は…人間の文化の不可欠の一部だ』と、私は言った。
 これに君は、激怒した。『何の権利があって(と君は言う)、どんな研究をその伝統と感性に関して行って、宗教的表象の魔術に頑迷に抵抗してきた…古いプロテスタントの島の中心部で、こんなことが普遍的だと決めかかってよいのか』。
 たくさん理由をつけて、釈明する。
 第一。私は古いプロテスタントの島の中心部で、ドイツの土地の上でではなく、ドイツの記者からのインタビューを受けた。
 第二。周知のことと過って思っていたためだが、君が明らかに考えたのとは逆に、『宗教的表象』は必ずしも絵画、塑像、ロザリオ等々であるとは限らない、と説明しなかった。
 人々が信じるものは何でも、超自然的なものと理解し合う方法を与えるし、またはそのエネルギーを運んでくるのだ。
 (イェズス・キリスト自身が表象で、十字架だけがそうなのではない。)
 私はこのような言葉遣いを発明したのではないが、インタビューの際に説明しなかったので、君の偶像破壊主義的なイギリスの伝統を不快にさせたわけだ。
 こうした言葉上の説明は、迷信的な超精霊主義者(Uitramontanist、超モンタノス主義者)によって傷ついた君のプロテスタント的良心をいくぶんかは宥めるか ?
 君はまた、このインタビューで宗教的現象の永続性への私の信条を証明しきれていないと非難する-それは全てに響く。
 私がこの主題でかつて書いた、私の考え方を支える本や論文の全てをこのインタビューの際に引用しなかったのは、まさに私の考えの至らなさだった。
 君には、これらのどの本でも読む義務はない(そのうち一つは800頁以上の厚さで、しかも17世紀の諸教派運動に関するものだから、退屈すぎて、君に読み通すのを求めるのは非人間的だろう)。
 少なくとも君には、この主題での私の考え方を批判しようと試みないかぎりでは、十分な根拠がない。
 したがって、君が憤激して『何の権利があって…』というのは、君に返礼するにはより適切な言葉であるようだ。//
 不運にも、君が書いたものには、私の責任に帰したい何らかの考えにもとづいて、主題を転移させ、私が言うべきだったと君が思う何かを私が言ったと君が信じようとする例が、満ち溢れている。
 きっと君は、教条的な共産主義者の思考方法につねに特徴的な独特の思考の論理に従って、無意識にそうしている。その思考方法には、真実として作動する推論とそうではない推論との違いが完全に消失している。
 だがね、AはBを包含するというのが真実(true)でも、誰かがAを信じているからといって、その人はBを信じているという結論にはならないだろう。
 むしろ正真正銘の本能からするようにこのことを意識的に否認するのは、共産主義者の出版物にはいつも許されている。そして、その読者につぎのように大雑把に作られる情報を与えるのだ。
 『米国の大統領は、平和を愛する全人類の抗議に逆らって、ベトナムで大量殺戮の戦争を継続する、と言った』。
 あるいは、『中国の指導者は、彼ら盲目的強行外交論者、反レーニン主義者の政策は、帝国主義を助けするるために社会主義者の陣地を破壊することを企図している、と明言する』。
 こうした不思議の国の論理には、首尾一貫性がある。そして、君の推論の中にそうした論理がこだまとなって鳴り響いているのが、少しは嫌だね。
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 段落の途中だが、ここで区切る。⑦につづく。

1533/「左翼」の君へ④-L・コワコフスキの手紙(1974年)。

 レシェク・コワコフスキの書物で邦訳があるのは、すでに挙げた、小森潔=古田耕作訳・責任と歴史-知識人とマルクス主義(勁草書房、1967)の他に、以下がある。
 繰り返しになるが、この人を最も有名にしたとされる、1200頁を優に超える大著、Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (仏語1976、英語1978〔マルクス主義の主要な潮流〕) には邦訳書がない。
 L・コワコフスキ〔野村美紀子訳〕・悪魔との対話(筑摩書房、1986)。
 L・コワコフスキ〔沼野充義=芝田文乃訳〕・ライオニア国物語(国書刊行会、1995)。
 L・コワコフスキ〔藤田祐訳〕・哲学は何を問うてきたか(みすず書房、2014)。
 また、レシェク・コラコフスキー「ソ連はどう確立されたか」1991.01(満63歳のとき)、もある。つぎに所収。
 和田春樹・下斗米伸夫・NHK取材班・社会主義の20世紀第4巻/ソ連(日本放送出版協会、1991.01)のp.250-p.266。
 試訳・前回のつづき。
 Leszek Kolakowski, My Correct Views on Everything(1974、満47歳の年), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012). p.115-p.140.
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 実際のところ、反共産主義とは何だ。君は、表明できないか ?
 確かに、我々はこんなふうに信じる人々を知っている。
 共産主義の危険以外に、西側世界には深刻な問題はない。
 ここで生じている全ての社会的紛議は、共産主義者の陰謀だと説明できる。
 邪悪な共産主義の力さえ介入しなければ、この世は楽園だろうに。
 共産主義運動を弾圧するならば、最もおぞましい軍事独裁でも支持するに値する。
 君は、こんな意味では反共産主義者ではない。そうだろう ?
 私もだ。しかし、君が現実にあるソヴィエト(または中国)の体制は人間の心がかつて生み出した最も完璧な社会だと強く信じないと、あるいは、共産主義の歴史に関する純粋に学者の仕事のたった一つでも虚偽を含めないで書けば〔真実を書けば〕、君は反共産主義者だと称されるだろう。
 そして、これらの間には、きわめて多数の別の可能性がある。
 『反共』という言葉、この左翼の専門用語中のお化けが便利なのは、全てを同じ袋の中にきっちりと詰め込んで、言葉の意味を決して説明しないことだ。
 同じことは、『リベラル』という言葉にもいえる。
 誰が『リベラル』か ? 
 国家は労働者と使用者との間の『自由契約』に介入するのを止めるべきだと主張したおそらく19世紀の自由取引者は、労働組合はこの自由契約原理に反しているとは主張しないのだろうか ?
 君はこの意味では自分を『リベラル』ではないと思うか ?
 それは、君の信用にはとても大きい。
 しかし、書かれていない革命的辞典では、かりに一般論として君が隷従よりも自由が良いと思えば、君は『リベラル』だ。
 (私は社会主義国家で人民が享受している純粋で完全な自由のことを言っているのではなく、ブルジョアジーが労働者大衆を欺すために考案した惨めな形式的自由のことを意味させている)。
 そして、『リベラル』という言葉でもって、あれこれの物事を混合させてしまう仕事が容易にできる。
 そう。リベラルの幻想をきっぱり拒否すると、大きな声で宣言しよう。しかし、それで正確に何を言いたいかは、決して説明しないでおこう。//
 この進歩的な語彙へと進むべきか ?
 強調したい言葉が、もう一つだけあった。
 君は健全な意味では使わない。『ファシスト』または『ファシズム』だ。
 この言葉は、相当に広く適用できる、独創的な発見物だ。
 ときにファシストは私が同意できない人間だが、私の無知のせいで議論することができない。だから、蹴り倒してみたいほどだ。
 経験からすると、ファシストはつぎのような信条を抱くことに気づく(例示だよ)。
 1) 汚れる前に、自分を洗っておく。
 2) アメリカの出版の自由は一支配党による全出版物の所有よりも望ましい。
 3) 人々は共産主義者であれ反共産主義者であれ、見解を理由として投獄されるべきではない。
 4) 白と黒のいずれであれ人種の規準を大学入学に使うのは、奨められない。
 5) 誰に適用するのであれ、拷問は非難されるべきだ。
 (大まかに言えば、『ファシスト』は『リベラル』と同じだ。)
 ファシストは定義上は、たまたま共産主義国家の刑務所に入った人間だ。
 1968年のチェコスロヴァキアからの逃亡者は、ときどきドイツで、『ファシズムは通さない』とのプラカードを持っている、きわめて進歩的でかつ絶対に革命的な左翼と遭遇した。//
 そして君は、新左翼を戯画化して愉快がっていると、私を責める。
 こんな滑稽画はどうなるのだろうかと不思議だ。 
 もっと言うと、君が苛立つのは(でもこれは君のペンが燃え広げさせた数点の一つだ)、理解できる。
 ドイツのラジオ局がインタビューの際の、私の二ないし三の一般的な文章を君は引用する(のちにドイツ語から英訳されて雑誌<邂逅(Encounter)>で出版された)。
 その文章で私はアメリカやドイツで知った新左翼運動への嫌悪感を表明した。しかし、-これが重要だ-私が念頭に置いた運動を明言しなかった。
 私はそうではなく、曖昧に『ある人々』とか言ったのだ。
 私は君が仲間だった時期の1960-63年の<新左翼雑誌>をとくに除外しなかった、あるいは私の発言は暗黙のうちに君を含んでいさえした、ということをこの言葉は意味する。
 ここに君は引っ掛かった。
 私は1960-63年の<新左翼雑誌>をとくに除外することはしなかった。そして、率直に明らかにするが、ドイツの記者に話しているとき、その雑誌のことを心に浮かべることすらしなかった。
 『ある新左翼の者たち』等々と言うのは、例えば、『あるイギリスの学者は飲んだくれだ』と言うようなものだ。
 君はこんな(あまり利口でないのは認める)発言が、多くのイギリスの学者を攻撃することになると思うか ? もしもそうなら、いったいどの人を ?
 私には気楽なことに、新左翼に関してこんなことをたまたま公言しても、私の社会主義者の友人たちはどういうわけか、かりに明示的に除外されていなくとも含められているとは思わない。//
 しかし、もう遅らせることはできない。
 私はここに、1971年のドイツ・ラジオへのインタビー発言で左翼の反啓蒙主義について語っていたとき、エドワード・トムソン氏が関与していた1960-63年の<新左翼雑誌>については何も考えていなかった、と厳粛に宣言する。
 これで全てよろしいか ?//
 エドワード、君は正当だ。我々、東ヨーロッパ出身の者には、民主主義社会が直面する社会問題の重大性を低く見てしまう傾向がある。それを理由に非難されるかもしれない。
 しかし、我々の歴史のいかなる小さな事実をも正確に記憶しておくことができなかったり、粗野な方言で話していても、その代わりに、我々が東でいかにして解放されたのかを教えてくれる人々のことを、我々は真面目に考えている。そうしていないことを理由として非難されるいわれはない。
 我々は、人類の病気に対する厳格に科学的な解消法をもつとする人たちを真面目に受け取ることはできない。この解消法なるものは、この30年間に5月1日の祝祭日で聞いた、または政党の宣伝小冊子で読んだ数語の繰り返しで成り立っている。
 (私は進歩的急進派の態度について語っている。保守の側の東方問題に関する態度は異なっていて、簡単に要約すればこうだ。『これは我々の国にはおぞましいだろう。だが、この部族にはそれで十分だ』。)//
 私がポーランドを1968年末に去ったとき(少なくとも6年間はどの西側諸国にも行かなかった)、過激派学生運動、多様な左翼集団または政党についてはいくぶん曖昧な考えしか持っていなかった。
 見たり読んだりして、ほとんどの(全ての、ではない)場合は、痛ましさと胸がむかつくような感じを覚えた。
 デモ行進により粉々に割れたウィンドウをいくつか見ても、涙を零さなかった。
 あの年寄り、消費者資本主義は、生き延びるだろう。
 若者のむしろ自然な無知も、衝撃ではなかった。
 印象的だったのは、いかなる左翼運動からも以前には感じなかった種類の、精神的な頽廃だ。
 若者たちが大学を『再建』し、畏るべき野蛮な怪物的ファシストの抑圧から自分たちを解放しようとしているのを見た。
 多様な要求一覧表は、世界中の学園できわめて似たようなものだった。
 既得権益層(Establishment)のファシストの豚たちは、我々が革命を起こしている間に試験に合格するのを願っている。試験なしで我々全員にAの成績を与えさせよう。
 とても奇妙なことに、反ファシストの闘士が、ポスターを運んだりビラを配ったりまたは事務室を破壊したりしないで、数学、社会学、法律といった分野で成績表や資格証明書を得ようとしていた。
 ときには、彼らは望んだどおりにかち得た。
 既得権益あるファシストの豚たちは、試験なしで成績を与えた。
 もっとしばしば、重要でないとしていくつかの教育科目を揃って廃止する要求がなされた。例えば、外国語。(ファシストは、我々世界的革命活動家に言語を学習するという無駄な時間を費やさせたいのだ。なぜか ? 我々が世界革命を起こすのを妨害したいからだ。)
 ある所では、進歩的な哲学者たちがストライキに遭った。彼らの参考文献一覧には、チェ・ゲバラやマオ〔毛沢東〕のような重要で偉大な哲学者ではなく、プラトン、デカルトその他のブルジョア的愚劣者が載っていたからだ。
 別の所では、進歩的な数学者が、数学の社会的任務に関する課程を学部は組織すべきだ、そして、(これが重要だ)どの学生も望むときに何回でもこの課程に出席でき、各回のいずれも出席したと信用される、という提案を採用した。
 これが意味しているのは、正確には何もしなくても数学の学位(diploma)を誰でも得ることができる、ということだ。
 さらに別の所では、世界革命の聖なる殉教者が、反動的な学者紛いの者たちによってではなく、彼ら自身が選んだ他の学生によってのみ試験されるべきだ、と要求した。
 教授たちも(もちろん、学生たちによって)その政治観に従って任命されるべきだ、学生たちも同じ規準によって入学が認められるべきだ、とされた。
 合衆国の若干の事例では、被抑圧勤労大衆の前衛が、図書館(偽物の知識をもつ既得権益層には重要ではない)に火を放った。
 書く必要はないだろう。聞いているだろうように、カリフォルニアの大学キャンパス(campus)とナチの強制収容キャンプ(camp)での生活に違いは何もない。
 もちろん、全員がマルクス主義者だ。これが何を意味するかというと、マルクスまたはレーニンが書いた三つか四つの文、とくに『哲学者は様々に世界を解釈した。しかし、重要なのは、それを変革することだ』との文を知っている、ということだ。
 (マルクスがこの文で言いたかったことは、彼らには明白だ。すなわち、学んでも無意味だ。)//
 私はこの表を数頁分しか携帯できないが、十分だろう。
 やり方はつねに、同じ。偉大な社会主義革命は、何よりも、我々の政治的見解に見合った特権、地位および権力を我々に与え、知識や論理的能力といった反動的な学問上の価値を破壊することで成り立つ。
 (しかし、ファシストの豚たちは我々に、金、金、金をくれるべきだ。)// 
 では労働者については ? 二つの対立する見方がある。
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 ⑤につづく。

1532/「左翼」の君へ③-L・コワコフスキの手紙。

 Leszek Kolakowski, My Correct Views on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012). p.115-p.140.
 前回のつづき。
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 君が極楽に住み、我々は地獄にいると君に信じさせようとしているのではない。
 私の国のポーランドでは、飢えで苦しんでいないし、刑務所で拷問されているわけでもないし、集中強制収容所もない(ロシアと違って)。最近二年間は数人の政治犯がいただけだし(ロシアと違って)、多くの人が比較的容易に国外へ行ける(再び、ロシアと違って)。
 しかし、国家の主権は奪われている。これは、フット氏やパウェル氏が共通市場に入ればイギリスは主権を失うかもしれないと言っているのとは意味が違い、悲しくも直接的かつ明白な意味においてだ。
 軍事、外交、貿易、重要産業およびイデオロギーといった生活について鍵となる部門は、相当に几帳面に権力を行使する外国の帝国の硬い統制のもとにある、という意味だ。
 (例えば、特定の書物は発行できない、特定の情報は明らかにされない、深刻なことについて語ってはいけない。)
 まだ言えば、ウクライナ、リトアニアのような国々と我々を比べると自由の縁の部分をたくさん享受している。
 これら諸国は、自立の政府の権利に関するかぎりでは、イギリス帝国の昔の植民地よりも状況は数段悪い。
 この自由の縁は、重要なんだけれど(ハンガリー以外の『ルーブル』地域の他のどこより、重要なことを言ったり出版したりできる)、法的な保障に何ら支えられていなくて、全てが(かつてそうだったように)一夜のうちに、ワルシャワかモスクワにいる党支配者の決定によって消滅してしまう。これが、問題なのさ。
 これはたんに、権力の分化という詐欺的なブルジョア的装置がないことによる。単一性という社会主義者の夢を実現したのだが、これは同じ国家機関が立法権、執行権、司法権、さらに加えて全生産手段を支配する権力をもつことを意味する。
 同じ人間が法を作り、解釈し、実施する。国王で、議会で、軍司令官で、裁判官で、検察官で、警察官で、(新しく社会主義が生み出した)全ての国富の所有者で、唯一の雇用者で、全てが同じ机にいる-どんなに社会主義単一性が素晴らしいか、君は想像できるか ?。//
 君は政治的な理由でスペインに行かなかったことが誇りだ。
 私は原理的でないので、二度行った。
 抑圧的で非民主主義的だのに、あの体制は他のどの社会主義国よりも(たぶんユーゴスラビアを除いて)市民に自由を与えている、と言うのは不愉快だ。
 小気味よく(Shadenfreude)言っているのでなく、恥ずかしげに言っている。内心には内戦に関する哀感を持ち続けている。
 スペインの国境地帯は開かれていて(この場合に毎年300万人の観光客がいる理由を気に懸けるな)、その開かれた国境には全体主義的支配は働いていない。
 スペインでは、出版について事後検閲はあるが事前にはない(私の本は出版されて押収され、その後で数千部のコピーが売れた。ポーランドで同じ状態だったらよかったのだが)。
 スペインへ行くと、書店にはマルクス、トロツキー、フロイト、マルクーゼ等々がある。
 我々のように彼らには選挙がなく、政党がない。しかし、我々と違って、国家と支配政党から独立した多様な形態の組織がある。
 スペインは、国家として主権をもつ。//
 現存する社会主義国に理想など見ていないし、民主主義的社会主義のことを考えていると君は明言できるので、私は無駄のことを書いているようにたぶん思っているだろう。
 たしかにそうだ。そして私は、社会主義秘密警察の支持者だと君を責めはしない。
 それでも、私が言おうとしていることは、君の論考には二つの理由できわめて重要だ。
 第一に、現存する社会主義国を(確かに不完全な)新しくより良い社会秩序の始まりだと、資本主義を超えて進みユートピアを目指している過渡的な形態だと、考えている。
 この形態が新しいことを否定しないが、それがいかなる点でもヨーロッパの民主主義諸国よりも優れているというのは否定する。
 私は君の言うことを否認して、逆のことを論証する。言い換えると、民主主義制度を上回る(人々には厄介さは少なくても)全ての専制制度の悪名高き利点を除いて、現存社会主義が主張するのかもしれない優越性が根拠とする点を示す。
 第二の同じく重要なのは、民主主義的社会主義の意味を君が知っているふりをしているが、じつは知らない、ということだ。
 君は、つぎのように書く。『2000年先にある私自身のユートピアは、モリスのいう「残余時代」のようなものではない。それは(D・H・ローレンスならこう言うだろうように)「貨幣価値」が「生活価値」に、または(ブレイクならこう言うだろうように)「肉体」戦争が「精神」戦争に道を譲る世界だろう。
 ある男女は、力の源泉を容易に利用できるようになり、シトー派の修道院のように偉大な自然美の中心に位置する、単一化した諸共同体で生活するのを選べる。そこでは、農業、工業および精神的な仕事は、結びつき合っている。
 別の男女は、多様さを好んで、都市国家のいくつかの長所を再発見する都市生活の歩みを選ぶかもしれない。
 また別の人々は、隠遁の生活を選ぶだろう。
 これら三つうちをどれでも、みんなが選ぶことができる。
 学者は、パリで、ジャカルタで、ボゴタで、議論を続けることになる。』//
 これは、社会主義者の著述のきわめて良い例だ。
 世界は善良であって悪くないはずだ、と語るにまで至っている。
 この点については君の側に、完全に立つ。
 人々の心が際限のない金の追求に占められたり、需要が無限の成長をもたらす魔法の力をもったり、使用価値ではなく利益の動機が生産を支配する、といったことはきわめて嘆かわしいことだ。そのような結論をもたらす君の(マルクス、シェイクスピア、その他多数の)分析者たちと、私は無条件に、同じ立場だ。
 君が優秀なのは、こうしたことから抜け出す仕方を正確に知っていることだ。私は、知らない。//
 左翼のイデオロギストは簡単に無視しているが(よろしい。これは例外的事情でなされており、このやり方を真似しない。我々はもっと巧くやろう)、現存する唯一の共産主義の問題が社会主義思想にとって、なぜきわめて深刻なのかは、つぎに書くような理由でだ。
 すなわち、『新しい選択肢のある社会』の経験は、社会の害悪(生産手段の国家所有)に対して人々がもつ唯一の世界的な医療薬は資本主義世界の厄災、つまり搾取、帝国主義、環境汚染、貧困、経済的浪費、民族憎悪および民族対立、には完全に効かないだけでなく、その医療薬自体の一連の厄災、つまり非効率性、経済的誘導動機の欠如、とりわけ全能の官僚制や人類史がかつて知らなかった権力の集中がもつ制限なき役割、を資本主義世界に付け加える、ということをきわめて説得的に明らかにした。
 不運な一撃にすぎない ?
 いや、君は正確にはそうは言っていない。君はたんに問題を無視するのを選んでいるだけだ。そして、正当にそうしている。
 この経験を検討しようと少しでもしてみれば、偶発的な歴史的事情のみならず、社会主義のまさにその思想をも振り返ることになり、その思想に隠された両立しえない諸要求(少なくともその要求の両立性が証明されないまま残っていること)を発見することになる。
 我々は大きな自治権をもつ小さな諸共同体で成る社会を欲する。そうでないかい ?
 また、経済についての、中央集中的計画を欲する。
 この二つがどうやって両方ともに働くのかを、考えてみよう。
 我々は産業の民主主義を求め、かつ効率的な管理を求める。
 この二つはともにうまく機能するのか ?
 もちろん、そうだ。左翼のお花畑(天国)では全てが両立でき、解決できる。子羊とライオンは同じベッドで寝る。
 世界の恐怖を見よう。そうすれば、新しい社会主義の論理に向かう平和革命をいったん起こせばそれから免れることができるのが容易に分かる。
 中東戦争やパレスティナ人の不満は ?
 もちろん、これは資本主義の結果だ。
 革命を起こそう。そうすれば、問題は解決される。
 環境汚染 ? もちろん、少しも問題ではない。新しいプロレタリア国家に工場を奪わせよう。そうすれば、環境汚染はなくなる。
 交通渋滞 ? これの原因は、資本主義者が人間の快適さに関する不満を配慮しないことにある。力を与えてくれるだけでよい(実際、これは優れた点だ。社会主義では、車がずっと少ないので、従って、交通渋滞もずっと少ない)。
 インドの人々が飢えて死んでいる ? 
 もちろん、アメリカの帝国主義者が彼らの食糧を食べているからだ。
 だが、ひとたび革命を起こせば、等々。
 北アイルランドは ? メキシコの人口統計問題は ? 人種間憎悪 ? 種族間戦争 ? インフレ ? 犯罪 ? 汚職 ? 教育制度の悪化 ?
 これら全てに対して、ただ一つの同じ答えがある。全てについて同じ答えだ!//
 これは風刺画ではない。これっぽっちも、そうではない。
 これは、改革主義という悲惨な幻想を克服して人類の諸問題を解決する有益な装置を考案したとする人々の、標準的な思考方法だ。
 そしてこの有益な装置とは、反復されるだけでしばしば十分な数語で成り立ち、革命、選択肢ある社会、等々の内実があるかのごとく見え始めるものだ。
 そして追記すれば、我々には、恐怖を生み出すたくさんの消極的な言葉がある。
 例えば、『反共産主義』、『リベラル』。
 エドワード君、君はこれらを、説明なしでよく使う。その目的は多くの多様なことを混合させ、曖昧で消極的な連想を生じさせることにあると、きっと気づいていると思うのだけれど。
 実際のところ、反共産主義とは何だ。君は、表明できないか ?
 ---
 ④につづく。

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