秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

L・コワコフスキ

1834/T・ジャットによるL・コワコフスキ死後の追悼文。

 産まれて、生きて、死んでゆく。
 In the long run, we are all dead. 長く走ったあと、人はみんな、死んでいる。
 TONY JUDT の最後の著作である、つぎの書物の第5部は "In the Long Run, We Are All Dead." と題され、 Francois Furet (1927-1997, フランソワ・フュレ)、Amos Elon(1926-2009)およびLeszek Kolakowski (1927-2009, レシェク・コワコフスキ)という三人に対する追悼文で成っている。
 Tony Judt, When the Facts Change, Essays 1995-2010 (2015) .
 このうちL・コワコフスキに対するものはすでにこの欄で「哀惜感あふれる」印象的な文章だとコメントをしたことがあった。
 いずれきちんと日本語文に訳してみたいと思っていた。
 S・フィツパトリクの英語文だけ読んでいると別の人の文章も読みたくなる。
 R・パイプスやL・コワコフスキの文章を一瞥しているうちに、L・コワコフスキに関するTony Judt の追悼文を思い出した。
 (S・フィツパトリクの本の試訳は丸数字のある⑳回で完結させるべく続ける予定だ。)
 この追悼文は上の著全体の最後に位置づけられており、この欄で再度別に叙述するかもしれないが、公にされるTony Judtの<絶筆>であった可能性もある。この人は<自分の近づく死>については微塵も語っていないが、10年以上前のフランソワ・フュレの追悼文とは、かなり雰囲気又は叙述の仕方が違うように感じなくはない。実際に約1年後に、T・ジャットも逝去する。
 また、この文章は、Tony Judt が全身の麻痺のために口述しかできないときに書かれている。口述文章を妻や助手たちが文字入力を助けて、原稿にしたらしい。
 上のことは、以下の「追悼文」を書いたTony Judt の上の本の編者であり妻だった Jennifer Homans の序文に書かれている。この序文はまた、亡夫Tony Judtに対する「追悼文」にもなっている。
 こうした背景も知るだけでもいささかの心理的負担を感じる。さらに、ふつうの歴史叙述等でもない、故人に関する人格的な思い出・感想や評価が内容であるだけに、訳出は必ずしも容易ではなく、英語の言葉や文章を日本語に置き換える作業をしていて、何か重要な意味やニュアンスがつぎつぎと逃げ去っていくような感覚を拭い難い。
 しかし、このようなL・コワコフスキへの<追悼文>が存在していることだけでも、日本では知られてよいだろうと思われる。
 また、お互いの面識関係はなかったと思われる人物について、元来はヨーロッパ戦後史の歴史研究者で、<戦後フランスの左翼>をとくに専門分野としていたTony Judt が、L・コワコフスキについてこれだけの文章を書くことができるということから(あるいはマルクス主義や宗教等にも幅広い関心と知識をもつことから)、日本にはおそらく稀少な、「アメリカ」(これには注釈が要るが省略)にいる知識人の一種の<すごさ>を感じてもよいと思われる。
 以下、全体の試訳の紹介。//は本来の改行箇所。<>はイタリック体になっている部分。
 なお、以下の文章の最後に、「この論考はThe New York Review of Books の2009年9月号に最初に発表された」との注記がある。
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 レシェク・コワコフスキ(1927-2009)。//
 私は一度だけ、コワコフスキの講演を聴いた。
 それは1987年、Harvard でのことで、そのとき彼は、故Judith Shklar が教えていた政治理論の演習のゲストだった。
 <マルクス主義の主要潮流>はその近年にイギリスで刊行されていて、彼はきわめて高名だった。
 あまりに多数の学生たちが彼の話を聞きたかったので、講演場所は大きな公共の講堂に移され、客員たちは出席するのが許された。
 私はたまたまCambridge 〔Harvard 大学のある町〕にある会合のために来ていて、何人かの友人たちと一緒に続いた。//
 誘惑するごとく示唆的なコワコフスキの話のタイトルは、『歴史における悪魔』(The Devil in History)だった。
 しばらくの間は、学生、教授および聴衆たちが集中して聴いていて、静かだった。
 コワコフスキの著作はそこにいる多くの者によく知られていて、彼の反語や厳密な推論への強い嗜好には馴染みがあった。
 しかし、そうであっても、聴衆には明らかに、彼の論述に付いていくのが困難になった。
 いくらそう努力しても、彼の暗喩を解読することができなかった。
 多大な困惑の雰囲気が、講堂を覆い始めた。
 そのときだった。話の三分の一くらいのとき、私の隣にいた友人-Timothy Garton Ash-が凭りかかってきた。
 彼は、囁いた。『分かった。いま本当に、彼は悪魔について語っている』。
 そして、コワコフスキは実際にそうだった。//
 悪というものをきわめて真剣に考察するというのは、レシェク・コワコフスキの知的な軌跡の際立つ特質の一つだった。
 彼の見解によると、マルクスの前提命題の過ちの一つは、全ての人間の欠点は社会環境に根ざしている、という観念だった。
 マルクスは、『対立や憤激の源には人間という種の永遠の特性に固有のものがいくつかあるという可能性を、完全に見落とした』。(1)
 あるいは、彼がHarvard での講演でつぎのように表現したように。すなわち、『悪は…、偶発的なものではなく…、頑強な、くつがえすことのできない(unredeemable)事実だ』。
 ナツィによる占領とそれに続くソヴィエトによる支配を生き抜いたレシェク・コワコフスキにとって、『悪魔とは我々の経験の一部だ。極めて深刻に受け取るべきメッセージとして、我々の世代はそれを十分に見てきた』。(2)//
 近日の81歳でのコワコフスキの逝去の後に書かれた多くの追悼記事は、みな揃って、この人物のこの側面を惜しんだ。
 これは何ら、驚くべきことではない。
 世界の多くがまだなお神を信じ、宗教的慣習を行っているにもかかわらず、西側の今日の知識人たちや評論家たちにとって、信仰を明らかにするという考えには心が落ち着かないところがある。
 宗教に関して大っぴらに議論すると、自惚れに満ちた拒絶(たしかに『神』は実在しない。だがともかく、全ては神に原因がある)と盲目的な忠誠の間の不愉快な気分が突然に生じてしまう。
 コワコフスキのような才幹をもつ知識人かつ研究者が宗教や宗教的思想ばかりではなくまさに悪魔それ自体を真剣に考察した、というのは、そうでなくともこの人物を尊敬している人々にとってはミステリーであり、無視してしまいたいことだ。//
 コワコフスキの視野の射程はさらに、つぎのことでさらに複雑になっている。すなわち、公的な宗教(とくに彼自身のカトリック教)を無批判に特効薬だと見る考え方に懐疑的で距離を置いたこと、および宗教思想史の研究者としての卓抜さ(3) と同等に唯一の国際的に高名なマルクス主義研究者だ主張しうる彼の独特の地位によって。
 キリスト教の教派やその文献に関する研究でのコワコフスキの専門知識は、原典の権威が階層的構造のある大小の聖典をもち、異端的反対者もいるという、宗教的根本教条としてのマルクス主義に関する彼の影響力ある論述に、深さと痛烈さを加えている。
 レシェク・コワコフスキがOxfordの同僚たちや中央ヨーロッパの友人であるIsaiah Berlin(I・バーリン)と共有しているのは、全ての教条的な確信に対する、迷妄から離れた懐疑であり、政治的または倫理的な全ての意味を維持するための代償の必要性を承認することを哀しみをもって主張する点だ。すなわち、経済活動の自由が安全確保のために制限されるべきであることや、貨幣が自動的にさらに多くの貨幣を生み出すべきではないことには十分な根拠がある。
 しかし、自由の制限は厳密にそのようなことのために導入されるべきであって、より高次の自由の制限は導入されるべきではない。(4)//
 彼は、20世紀史の初めに急進的な政治改革は道徳的または人間的犠牲をほとんど払わずしてなされ得ると想定した者たち、あるいは、その対価は重要であったとしても、将来の利益のためには無視することができると想定した者たちには、ほとんど我慢することができなかった。
 一方で彼は、人間の永遠の真実を獲得すると偽って主張する全ての単純な定理に対して、一貫して抵抗した。
 他方でまた、それらがいかに不便なものであったとしても、人間の態様に関する自明の一定の特質はあまりに明白であって無視してよいものと見なした。//
 『我々は多くの陳腐な真実を示唆することに強く反対する、ということは何ら驚くべきことではない。
 こうしたことは全ての知の領域で生じていることで、それは人間生活に関する自明なことのほとんどは不愉快なものだからだ。』(5) //
 しかし、このような考察は反動主義者または静寂主義者の反応を意味しているわけではない-そして、コワコフスキにとってもそうでなかった。
 マルクス主義は、世界史の範疇での過ちだったかもしれなかった。
 しかし、だからと言って、社会主義は完全な厄災だった、ということになるわけではなかった。また、我々は、人間の条件を改良すべく働くことができないとか働くべきではないとかの結論を導く必要はなかった。//
 『正義、安全保障、教育の機会、福祉および貧者や無力者への国家の責任の向上または拡大をもたらすために西側ヨーロッパでなされてきたことが何であれ、それらは全て、社会主義イデオロギーと社会主義運動なくしては達成されることができなかった。未熟さや錯覚が多くあったとしても。…
 過去の経験が語ることは、一部は社会主義に味方し、一部は社会主義に反対している。』//
 社会の現実の複雑性に関するこの用心深い均衡のとれた評価-『人間の友愛は政治綱領としては災悪だが誘導する標識としてはなくてはなない』-はすでに、彼の世代の多くの知識人への接点にコワコフスキを位置づけるものだ。
 東でも西でも同様に、人間の改良には無限の可能性があるという過度の自信と、進歩という観念を未熟なままで放棄することの間で揺れ動くということが、いっそう共通の傾向になっている。
 コワコフスキは、この特徴的な20世紀にある見解の隔絶の筋違いに位置していた。
 彼の考えでは、人間の友愛は、『構成的観念というよりはむしろ調整的な観念』のままだ。//
 ここで得られる示唆は、我々が今日に社会的民主主義(social democracy)、あるいは大陸の西欧ではキリスト教民主主義の仲間たちと行っている一種の実際的な妥協だ。
 もちろん、今日の社会的民主主義はあまりにも偏愛されすぎて、敢えてその名前を出しはしないものだ、ということは別として。
 レシェク・コワコフスキは、社会的民主主義者(Social Democrat)ではなかった。
 しかし彼は、一度ならず、その時代の現実の政治史に批判的に関与した。
 共産主義国家の初期の時代に、コワコフスキは(まだ30歳でもなかったけれども)ポーランドでの指導的なマルクス主義哲学者だった。
 1956年以降、全ての批判的見解が遅かれ早かれ排除されることが運命づけられている地域で、異端的な思想を形成し、明瞭に唱えた。
 1966年に、ワルシャワ大学の哲学史の教授として、人民を裏切ったと共産党を強く非難する、有名な公開講演を行った。-これは、党幹部である自分の地位にかかわる、政治的勇気のある行為だった。
 予期されたごとく、彼は二年後に、西側へと追放された。
 コワコフスキはその後、国内にいる若い世代の反対派たちのための生き字引および目印として貢献した。彼らは、1970年代半ばからポーランドの政治的反対派の中核を形成することとなり、連帯(Solidality)運動を後援する知的エネルギーを提供し、1989年には現実の権力を握った。
 レシェク・コワコフスキはかくして、完全に知的に(知識人として)関与(engage intellectual)していたのだ。「関わり(engagement、アンガージュマン)」という偽善と虚栄を侮蔑していたにもかかわらず。
 第二次大戦後の世代の大陸ヨーロッパ人の思考では多く語られて理想化されていた、知識人の関与と「責任」は、コワコフスキには本質的に空虚な観念だった。//
 『知識人たちにはなぜ、特有の責任があるのか、なぜその他の人々とは異なる責任があるのか。そして、それは何を目的として? <中略>
 責任というたんなる感情は、それ自体は何の特有の義務意識も帰結しはしない形式上の美徳だ。すなわち、善の教条についても、悪の教条についてと同様に責任を感じることが可能なのだ。』
 この単純な考察は、フランスの実存主義者やそれのアングロ・アメリカンの崇拝者たちにはほとんど想いつかないもののように思える。
 他の点では責任感をもつ知識人がイデオロギー的確信および道徳的な一方的普遍主義の利益と同様にその対価(the cost)をも完全に理解するためには、完璧な悪の(左であれ右であれ)目標の魅力を生身で体験してみる必要があった、ということかもしれない。//
 上のことが示唆するように、レシェク・コワコフスキは、ハイデッガー、サルトルおよびこれらの追随者がとくに引き合いに出される、今日の学界での言葉遣いで通常は言われる意味でのふつうの「大陸哲学者」ではなかった。
 しかしまた、彼は、第二次大戦後に圧倒的に英語を用いる諸大学で見られるアングロ・アメリカンの思考方法と相当に共通していたのでもなかった。-このことは疑いなく、Oxford での彼の孤立と無視を説明するものだ。(7)
 カトリック神学に対する生涯にわたる疑問は別として、コワコフスキに特有の見方の射程は、認識の世界によりも、おそらくはむしろ十分に、体験に求められる。
 その最高傑作の著書の中で彼自身が観察したように、『あらゆる環境要因は、世界観の形成につながる。そして、<中略> 全ての現象は、尽きることのない無数の原因によるものだ。』(8)//
 コワコフスキ自身の場合は、無数の原因の中に、第二次大戦およびその後に続いた共産主義の厄災の歴史時代だけではなく、その厄災の数十年をくぐり抜けたポーランドの、そのまさに独特の環境が含まれている。
 というのは、コワコフスキの独自の思考が正確にいずこに向かうのかはつねに明白では必ずしもないけれども、その思考が「いずこにも存在ない場所」から生じたのでは決してない、ということは完璧に明瞭だからだ。//
 現代ヨーロッパ哲学者のうちで最も国際主義者(コスモポリタン)-主要な5カ国語とそれに付随する諸文化に習熟していた-であり、20年間以上国外に移住していたが、コワコフスキは決して「根なし草」ではなかった。
 例えばEdward Said (E・サイード)とは対照的に、彼は、あらゆる形態の共同体への忠誠を拒絶するというのは信義上可能であるのか、と問うた。
 どこかにいなくとも、どこかの外に完全にないときでも、コワコフスキは先天(居住民)主義の感情に対する終生の批判者だった。
 だがなお、彼の母国では称賛された。正しく、そうされた。
 骨格としてはヨーロッパ人だが、コワコフスキは汎ヨーロッパ主義者のナイーヴな幻想に対して公平な懐疑心をもって問い糾すことを決してやめなかった。汎ヨーロッパ主義者の同質化願望は、かつての時代の恐ろしい夢想家的ドグマを彼に思い起こさせるものだった。
 多様性は彼には、それがそれ自体で目標として偶像視されないかぎりでは、より慎重な主張であり、明確なナショナルな自己帰属意識(national identity)の維持によって確実にされることができるものであるように思えた。(9)
 コワコフスキは独特(unique)だったと結論づけるのは易しいだろう。
 アイロニー、道徳上の真剣さ、宗教的感性と認識論的懐疑主義、社会的関与と政治的疑念。彼がこれらの独特の混合体であるというのは、きわめて稀少なことだ。
 (彼は驚くべきほどにカリスマ性をもっていたことは語っておくべきだ。どのような集まりでも故Bernard Williams と同じ強さの磁力を発揮していた。同じ理由がいくつかあったからだ(10))。
 しかし、この理由によってこそ-カリスマ性も含めて-、彼はまた、まさに独特な血統の線上にしっかりと立っていた。
 彼がもつ完璧な広さの教養と知識、引喩家ぶり、迷妄なき機知、匿い場所となった好運な西側諸国の学問的偏狭さを辛抱強く受容したこと、いわば運命のいたずらによって明らかになる彼の特質を刻印したポーランドの20世紀の体験と記憶。これら全てが、亡きレシェク・コワコフスキを真の-おそらくは最後の-中央ヨーロッパ知識人だと識別(identify)させる。
 1890年と1930年の間のに生まれた男女二世代の人々にとって、20世紀の中央ヨーロッパに独特の経験は、ヨーロッパ文化の洗練された都市的中心地帯での多言語を用いる教育から成り立っていた。それは、全く同一の中心地帯(heartland)での独裁、戦争、占領、破滅、そしてジェノサイドという経験によって砥がれ、踏みつけられ、加えられたものだった。//
 正気のある人間ならば誰でも、このような心情的教育が生んだ思索と思想家の特性を正確に追体験するだけのためにのみ、この経験を繰り返したいとは望まないだろう。
 失われた共産主義東ヨーロッパの知的世界への郷愁を語ることは少しばかり不愉快なことだが、それ以上の何かがある。それは、他国民の抑圧による犠牲者に対する遺憾の想いと心地よくなく似たものによって覆われている。
 しかし、レシェク・コワコフスキが明瞭に主張した最初の人物だっただろうように、中央ヨーロッパの20世紀の歴史とその驚くべき知的な豊かさの間の関係は、それにもかかわらず、存在した。
 このことを、簡単に忘却することはできない。//
 生み出したものは、Judith Shklar が別の文脈でかつて「恐怖のリベラリズム」だと表現したものだった。すなわち、イデオロギーの過剰の結果を生身で経験したことで生じた、妥協せずして理性や穏健さを守ろうとすること。
 大厄災がある可能性を絶えず意識していること、好機または再生だと誤解されるときには最悪の形態をとる、自在に変幻する多様さのある全体支配的(totalizing)思考への誘惑についてのそれ。
 20世紀の歴史の軌跡で、<これ>こそが中央ヨーロッパの教訓だ。
 我々に幸運があるならば、これをしばらくの間は再び学ぶ必要はないはずだろう。そうするときには、それを教えてくれる人物が周りにいるだろうという希望をもつのがよい。
 そのときまで、我々は、コワコフスキを何度も読み返すだろう。//
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 (1) "The Myth of Human Self-Identity", L・コワコフスキ=S・Hampshire 編<社会主義の思想>(New York, Basic Books, 1974)所収、p.32. *
 (2) L・コワコフスキ「歴史における悪魔」<My Currrent Views on Everything>(South Bend, IN, St. Augustine's Press, 2005)所収、p.133.
 (3) 宗教思想史へのコワコフスキの接近方法を代表的に実証するものとして、例えば、<God Owes Nothing: パスカルの宗教とヤンセン主義の精神に関する簡単な論評>(Chicago: University of Chicago Press, 1995)を見よ。コワコフスキが20世紀のPascalian で、慎重に、忠誠ではなくて理性を重視していることは多くを語る必要がないだろう。
 (4) L・コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>(Chicago: University of Chicago Press, 1990)、p.226-7.
 (5) L・コワコフスキ=S・Hampshire 編<社会主義の思想>、p.32.
 (6) L・コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>、p.144.
 (7) いたる所で、彼の功績は広く承認されている。1983年にエラスムス賞が授与された。2004年に彼は、20年前にそこでのジェファーソン講演者だった国会図書館(the Library of Congress)のクルーゲ賞の第一回の受賞者だった。三年後に、イェルサレム賞を授与された。
 (8) L・コワコフスキ<マルクス主義の主要潮流, 第三巻: 瓦解>(New york: Clarendon Press, Oxford University Press, 1978)、p.339.Leon Wieseltier がこの言及部分を思い出させてくれたことに感謝している。
 (9) コワコフスキ<Modernity on Endless Trial>、p.59.Edward Said について、<Out of Place: A Memoir >(New York, Vintage, 2000)を見よ。
 (10) Cambridge での講演の後の彼を祝してのパーティのとき、私は深い敬意と多大な羨望をもって、ほとんど全ての若い女性たちが、すでに疲れていて杖で支えられていた60歳の老哲学者のいるコーナーへと部屋を移り歩いているのを、眺めていたことを想い出す。彼は、彼女たちの尊敬の眼差しの前で、会話を仕切っていた。完璧な知識がもつ磁場的な魅力というものを、決して低く評価すべきではない。 
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 以上

1833/日本の邦訳書出版業界の<左傾>ぶりの一例。

 エリック・ホブスボーム著の邦訳書の多さは、驚くべきほどだ。
 以下は、私が知ることのできた全てではない。面倒になったのでかなり省略した。一部にすぎない。
 E・ホブスボーム・反抗の原初形態―千年王国主義と社会運動/青木保訳(中公新書、1971) 。
 E・ホブスボーム・匪賊の社会史―ロビン・フッドからガン・マンまで(グループの社会史〈3〉)/斎藤三郎訳(みすず書房、1972)。
 E・ホブスボーム・革命家たち―同時代的論集〈1〉/斉藤孝他訳 (未来社、1978)。
 E・ホブスボーム・イギリス労働史研究/鈴木幹久訳(ミネルヴァ書房、 改訂版1984)。
 E・ホブスボーム・市民革命と産業革命―二重革命の時代/水田洋他訳(岩波書店、1989/6)。
 E・ホブスボーム・帝国の時代 1―1875-1914/野口建彦等訳(みすず書房、1993/1/9)。
 E・ホブスボーム・帝国の時代 2―1875-1914/野口建彦等訳(みすず書房、1998/12/9)。
 E・ホブスボーム・20世紀の歴史―極端な時代〈上巻〉/河合秀和訳(三省堂、1996/8)。
 E・ホブスボーム・20世紀の歴史―極端な時代〈下巻〉/河合秀和訳(三省堂、1996/8)。
 E・ホブスボーム・わが20世紀-面白い時代/河合秀和訳(三省堂、2004/7 )。
 E・ホブスボーム・破断の時代―20世紀の文化と社会/木畑洋一等訳(慶應義塾大学出版会、2015/3/21 )。
 E・ホブスボーム・いかに世界を変革するか―マルクスとマルクス主義の200年/水田洋監修(作品社 、2017/10/31 )
 E・ホブスボーム・20世紀の歴史-上/大井由紀訳(ちくま学芸文庫、2018/6/8)。
 E・ホブスボーム・20世紀の歴史-下/大井由紀訳(ちくま学芸文庫、2018/7/6)。
 E・ホブスボーム・資本の時代 1<新装版>/柳父國近等訳(みすず書房、2018/7/10)。
 E・ホブスボーム・資本の時代 2<新装版>/松尾太郎等訳(みすず書房、2018/7/10)。
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 上に比べて、日本でのレシェク・コワコフスキ、リチャード・パイプス、シェイラ・フィツパトリクの著書の翻訳書・邦訳書発行状況はどうだろうか。
 日本には日本の<ある勢力>にとって有益な外国文献は多く翻訳されるが、<危険な>書物はほとんど発行されない、という事実を、上のようなE・ホブスボーム著の扱いは強く実証しているように思える。
 レシェク・コワコフスキの主要著<マルクス主義の主要潮流>は40年間以上経っても邦訳されなかった。
 リチャード・パイプスのロシア革命に関する二巻の大著は、1990年以降にPaperback 版があるが、邦訳されていない。
 堅実な歴史叙述が見られる、最近この欄で試訳を紹介している、シェイラ・フィツパトリク(女性)のロシア革命(最新版2017年)は(および他のこの人の著書も)、いっさい邦訳されていない、と見られる。
 欧米語文献が(かりにフランスやドイツには流通していても)日本に十分に流通しているわけでは全くないことを、日本の「知的」または「情報」産業界にいる人々は、強く意識しておかなければならない、とあらためて強く感じる。
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 Tony Judtはつぎの遺稿論考集の冒頭のエッセイ(論考)で、E・ホブスボームをとり上げている。この人名義の最後の刊行物だ。
 Tony Judt, When the Facts Change, Essays 1995-2010.(edited & introduced by Jennifer Homans)
 明記されているように(その前の論考集でもTony Judt が記していたように)、エリック・ホブスボームはlife-long つまり、終生の、又は生涯にわたる「イギリス共産党員」だった。
 そのような人物の「歴史叙述」がマルクス主義の影響を受けていないはずはなく、この人を<20世紀最大の歴史家>などと喧伝しているようである上記の日本の出版社または翻訳者は、欺されているか、自分たちは知りながら、日本の読者を欺しているのだ。あるいは、日本の読者自体が、無意識にでも<容共>なのだ。
 以下、一部だけ、試訳して引用する。//は本来の改行箇所。
 最近にこの欄に名前を出したクリストファ・ヒルとエドワード・トムソンの名も出てくる。
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 エリック・ホブスボームが「短い20世紀」を扱う第四巻を加えるのを選んだのは驚きだった。
 彼が序文で「私はこれまでほとんど、1914年以降の時代について仕事をするのを避けた」と認めるとき、このような回避によくある理由を提示していた。すなわち、事件にあまりに接近しすぎていて、感情的にならざるをえないからだ(1917年生まれのホブスボームの場合は、その時代のほとんどを彼は生きた)、また、解釈の対象となる十分な素材の全部がまだ手に入っているわけではなく、それらの素材全てが何を意味するかを語るのはいかにも早すぎるからだ。//
 しかし、別の理由があることは明白だった。そして、ホブスボーム自身がその理由によって責任を拒否することはきっとしないだろう。すなわち、20世紀は、彼が生涯にわたって関与した政治的かつ社会的な理想と制度の明白な崩壊とともに終焉した、ということだ。 
 過ちと災悪に関する暗く重苦しい物語を、その中に見い出さないのは困難だ。
 他の多数のイギリス共産党員または元共産党員である歴史研究者の目立った世代人(クリストファ・ヒル、ロドニー・ヒルトン、エドワード・トムソン)と同様に、ホブスボームはその職業的な注目を革命的で急進的な過去に向けた。それは、党の基本方針が現在に近接した時期についてあからさまに書くのを事実上不可能にしていた、という理由によるだけではなかった。
 真面目な研究者でもある生涯の共産党員にとっては、我々の世紀の歴史には、解釈するにはほとんど克服し難い障害物がある。彼の最後の仕事が期せずして明瞭に示しているように。//
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1830/L・コワコフスキ著-池田信夫による2017年秋紹介。

 昨年10月総選挙前後の同選挙に関する池田信夫のコメントを正確に記録しようと思って遡っていると、少なくとも一部、何らかの「会員」にならないとバックナンバーを読めないというブログ記事があった。
 秋月瑛二の文章とは違って、価値のあるものには「価格」がつくのだなあと、市場原理に納得した(?)。
 レシェク・コワコフスキ著・マルクス主義の主要潮流に言及していたものもあったはずなので、探してみると、これは全文が残っていて、読めた。
 池田信夫のブログの文章には、全文が①メール・マガジン(有料)、②たぶんアゴラ?の会員むけ(有料)、③フリーの三種があるようだ。
 L・コワコフスキの本の一部を試訳してきていながら、以下をきちんと読んだのは半年も遅れてだから、どうかしている。
 少しだけコメントを記して、ネット上から元が消失する前に、この欄にコピーしておく。
 1.「1978年にポーランド語で書かれた」は不正確で、ポーランド語の原書3冊は、パリで1976年に出版された。1978年というのは、英語版3冊がロンドン(Oxford)で刊行された年。
 1977年にドイツ語版の第一巻がドイツで刊行され、1978年、1979年で第三巻まで完結発行された。
 その後2008年に、三巻合冊本(1200頁以上)がたぶんアメリカとイギリスで(要するに英米語で)刊行された。L・コワコフスキは、New Preface と New Epilogue を元々のそれらを残しつつ、書き加えた。文献、注等は1978年版と同じと見られる。
 日本では、いっさい邦訳されていない。1978年からでも、なんと40年。
 2.一日4頁ずつ黙読しても300日、40頁ずつ読んでも30日かかる。忙しいはずの池田信夫は、全書を読んだのだろうか。要点読解にしても、以下のようにまとめることのできるのは卓抜した英語力と理解力だ。
 秋月瑛二はまだ一部試訳したのみでNew Preface とNew Epilogueを含む各巻の序文等もきちんと見ていないので、以下の読解の当否は判断しかねる。
 一部にとどまっているのはレーニンにとくに関心があったからだが、いずれ冥途話として、レーニンに関する叙述よりも大分量のマルクスに関する論述もきちんと読んでおきたいものだ、と考えている。
 なぜ、かくも、マルクス(主義)は今日まで影響力を残しているのか、という強い関心からだ。
 3. 池田は最後にこう書く。「今はマルクス主義には思想としての価値はない、というのが著者の結論だが、それを成功に導いたマルクス主義の魅力は途上国などではまだあるので、それが死んだわけではない」。
 「マルクス主義には思想としての価値はない」とL・コワコフスキが考えていた、というのは大いにありうる。
 しかし、L・コワコフスキ個人の評価・「思想としての価値」の判断とは別に、マルクス主義の<現実的な力>の存在は別に語ることができる。秋月は、その「魅力」は「途上国などではまだある」という程度のものではない、と感じている。その本来の「価値」とは別に、Tony Judt の言った<時宜にかなった幻想>は十分に残り得る。
 以下、引用。  
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  2017年10月29日17:29
 マルクス主義はなぜ成功したのか
 最近の「立憲主義」は社会主義の劣化版だが、今では彼らさえ社会主義という言葉を使わないぐらいその失敗は明らかだ。しかしそれがなぜ100年近くにわたって全世界の労働者と知識人を魅惑したのかは自明ではない。本書は1978年にポーランド語で書かれたマルクス主義の総括だが、40年後の今もこの分野の古典として読み継がれている。
 マルクス主義は「20世紀最大のファンタジー」だったが、彼の思想は高度なものだった。それを社会主義という異質な運動と結びつけて「科学的社会主義」を提唱したのが、間違いのもとだった。目的を実現する手段が科学的だということはありうるが、目的が科学的だということはありえない。
 マルクスがその思想を『資本論』のように学問的な形で書いただけなら、今ごろはヘーゲル左派の一人として歴史に残る程度だろう。ところが彼はその思想を単純化して『共産党宣言』などのパンフレットを出し、その運動が成功することで彼の理論の「科学性」が証明されると主張した。このように独特な形で共産主義の理論と実践を結びつけたことが、その成功の一つの原因だった。
 ロシア革命という脱線
 しかもマルクスは自分の理論を私有財産の廃止という誤解をまねく言葉で要約した。これは『資本論』全体を読めば間違っていないが、のちには「生産手段の国有化」と同義に使われるようになり、マルクスの考えていた「労働者管理」のイメージは失われてしまった。
 それでも社会主義が強い影響力をもったのは、その平等主義が多くの貧しい人々を救うものと思われたためだろうが、これは本書も指摘するようにマルクスの思想ではない。彼は経済学の言葉でいうと「コントロール権」だけを問題にし、どう配分するかは労働者が決めればよいと考えていた。
 このようにマルクスの歴史観と社会主義運動とは論理的に関係ないが、マルクスの歴史観は社会科学に大きな影響を与えて知識人を魅惑し、平等主義は労働者を魅惑し、両者は「実践」を重視する党が知識人に君臨するという形で、日本の戦後にも大きな影響を与えた。
 本書が強調しているもう一つのポイントは、レーニン的な前衛党はマルクスの思想からの逸脱だったということだ。マルクスは『フランスの内乱』でパリ・コミューンを高く評価し、プロレタリア独裁を主張したが、これはあくまでも運動論であり、議会を通じて政権を取ることが本筋だった。
 彼の想定していたのはドイツ革命であり、この点で正統的な後継者はカウツキーなどの創立した第2インターナショナル(エンゲルスが名誉会長)だった。ところがドイツ革命は1918年に起こったが鎮圧されてしまい、成功したのは、マルクスもエンゲルスも想定していなかったロシアだった。
 このため科学的社会主義を「実証」したロシアが優位に立ち、スターリンはカウツキーやベルンシュタインなどの社会民主主義を「修正主義」と批判した。マルクス主義が大きくゆがんだのはこの時期からで、第3インター(コミンテルン)はソ連を頂点とする暴力革命の機関になり、各国に共産党ができて非公然活動を行った。
 日本共産党もこの時期にできたコミンテルン直轄の組織で、知的な正統性も大衆的な支持もなかったが、戦争に抵抗したという栄光で戦後も続いてきた。今はマルクス主義には思想としての価値はない、というのが著者の結論だが、それを成功に導いたマルクス主義の魅力は途上国などではまだあるので、それが死んだわけではない。
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 以上、引用終わり。

1815/レーニン・ロシア革命「幻想」と日本の右派。

 いくつかを、覚書ふうに記す。
 一 欧米人と日本人にとっての<冷戦(終焉)>の意味の違い。
 欧米人にとって<冷戦終結>とは、世界的な冷戦の終焉と感じられても不思議ではなかっただろう。
 なぜなら、彼らにとって欧米がすでに<世界>なのであって、ソ連・東欧に対する勝利あるいはソ連・共産主義圏の解体は、1989-1991年までの<冷戦>がもう終わったに等しかったと思われる。
 欧州に滞在したわずかな経験からもある程度は理解できるが、東方すぐに地続きで隣接していた、ソ連・共産主義圏の消滅は、まさに<世界的な冷戦の終焉>と受け止められても不思議ではなかった。
 しかし、正確に理解している「知識人」はいるもので、R・パイプスはアジアに「共産主義」国が残っていることをきちんと記していたし(<同・共産主義の歴史>、フランソワ・フュレの大著<幻想の終わり>も冒頭で、欧米だけを視野に入れている、という限定を明記している。
 <冷戦が終わった>としきりと報道し、かつそう思考してしまったのは日本のメディアや多くの知識人で、それこそこの点では表向きだけは欧米に依存した<情報環境>と<思考方法>が日本に強いことを明らかにした。
 二 日本にとって<冷戦>は終わり、それ以降の新時代に入っているのか。 
 日本のメディアや多くの知識人は、共産主義・資本主義(自由主義)の対立は終わった、あるいは勝負がついた、これからは各国のそれぞれの<国家の力>が各<国益>のために戦い合う新しい時代に入っている、などという<新しいかもしれないが、しかし間違った>考え方を広く言い募った。
 しかし、L・コワコフスキの大著にある<潮流(流れ)>という語を使えば、現在のチャイナ(中国)も北朝鮮も、そして日本にある日本共産党等も、れっきとした<マルクス主義の潮流(流れ)>の中にある。
 マルクス主義がなければレーニン・ロシア革命もなく、コミンテルンはなく、中国共産党、日本共産党等もなかった。例えば、L・コワコフスキが<潮流(流れ)>最終章で毛沢東に論及しているとすれば、現在の習近平もまたその<潮流(流れ)>の末にあることは明瞭だろう。
 1990年代以降も日本共産党は国政選挙で500-600万の票を獲得しつづけ、しかも近隣に北朝鮮や共産・中国が現にあるというのに、日本近辺でも<冷戦は終わった>などという基本的発想をしてしまうのは、日本共産党や北朝鮮や共産・中国が<望む>ところだろう。共産主義に対する<警戒心>を解いてくれるのだから。
 三 <冷戦後>の新時代に漂流する右派と<冷戦後>意識を利用して喜ぶ左派。
 そういう趨勢の中に明確にいるのは1997年設立の右派・「日本会議」で、この団体やこの組織の影響を受けている者たちは、共産主義あるいはマルクス主義に関する<勉強・研究>などもうしなくてよい、と考えたように見える。
 <マルクシズムの過ちは余すところなく明らかになった>(同・設立趣意書)のだから、彼らにとって、共産主義・マルクス主義に拘泥して?、ソ連解体の意味も含めて、共産主義・マルクス主義を歴史的・理論的に分析・研究しておく必要はもうなくなったのだ。
 こうした<日本>を掲げる精神運動団体などを、日本共産党や日本の<容共・左翼>は、プロパガンダ団体として以上には、怖れていないだろう。むしろ、その単純な、非論理的、非歴史的な観念的主張は、<ほら右翼はやはりアホだ>という形で、日本の「左翼」が利用し、ある程度の範囲の知的に誠実な日本国民を正当で理性的な反共産主義・「自由主義」から遠ざける役割を果たしている、と見られる。
 そのかぎりで、「日本会議」は、日本共産党を助ける<別働隊>だ。
 四 産経新聞主流派とは何か。
 産経新聞主流派もその「日本会議」的立場にあるようで、元月刊正論編集代表・桑原聡に典型的に見られるが、共産主義や日本共産党についてまともに分析する書物の一つも刊行せず、もっぱら「日本」を、あるいは<反・反日>、したがって民族的意味での<反中国や反韓国>を主張するのを基調としている。
 この人たちにとっての「日本」とは、別言すれば皇紀2600年有余に及ぶ、観念上の「天皇」だ。
 これは、かなりの程度は「商売」上の考慮からでもある。
 日本会議やそれを支える神社本庁傘下の神社神道世界の<堅い>読者、購買者を失いたくないわけだ。
 したがって、産経新聞は、コミンテルンや共産主義よりも、<神武東征>とか<楠木正成>とかに熱を上げ、そしてまた、聖徳太子(なぜか不思議だ)、明治天皇、明治維新とそれを担った「明治の元勲」たちを高く評価し(吉田松陰も五箇条の御誓文も同じ)、明治憲法の限界・欠点よりは良かったとする点を強調する。
 小川榮太郞は、その範囲内にある、れっきとした<産経(または右派)文化人>になってしまったようだ。
 なお、江崎道朗との対談で、江崎が「100年冷戦史観」というものを語ると、「なるほど」と初めて気づいたように反応していたのだから、この人の知的または教養または政治感覚のレベルも分かる。
 いつかきちんと、出所を明記し、引用して、小川榮太郞の幼稚さ・過ちを指摘しようとは思っているのだが。
 五 以上、要するに、反共・自由主義/共産主義の対立に、日本/反日という本質的でない対立点を持ち込んで、真の対立から逃げている、真の争点を曖昧にしているのが、日本会議であり、産経新聞主流派だ。
 六 <民主主義・ファシズム>と<容共・反共産主義>
 <民主主義・対・ファシズム>という、左(中?)と右に一線上に対比させる思考(二項対立的思考でもある)が、依然として、強く残っている。
 何度も書くが、この定式・対比のミソは、共産主義(・社会主義)を前者の側に含めることだ。(「民主主義」者は、共産主義者・社会主義者に対しても「寛容」でなければならないのだ)。
 そして、とくに前者の側の中核にいるふりをしている日本共産党は、F・フュレも指摘していたことだが、つねに<ファシズムの兆し>への警戒を国民に訴える。
 日本では「軍国主義」と言い換えられることも多い。
<ファシズム・軍国主義の兆し>への警戒を訴えるために現時点で格好の攻撃対象になっているのは、安倍晋三であり「アベ政治」だ。
 この定式・対比自体が、基本的に、<容共と反共の対立>の言い換えであることを、きちんと理解しておかなければならない。
 また、<民主主義・対・ファシズム>(容共・対・反共)は日本国憲法についていうと、とくに同九条(とくに現二項)の改正(・現二項の削除)に反対するか(護憲)と賛成するか(改憲)となって現れている。二項存置のままの「自衛隊」明記という愚案?は、本当の争点の線上にあるものでは全くない。
 七 再び「日本・天皇」主義-<あっち向いてホイ>遊び
 共産主義・マルクス主義への警戒心をなくし、<日本・対・反日>を対立軸として設定しているようでは、日本の共産主義者と「左翼」は喜ぶ。<日本・対・反日>で対立軸を設定するのは、かつてあった遊びでいうと、<あっち向けホイ>をさせられているようなものだ。
 産経新聞主流派、小川榮太郞、日本会議、同会関係の長谷川三千子、櫻井よしこらはみんな、きちんと「敵」を見分けられないで、<あっち向いてホイ>と、あらぬ方向を向いている。あるいは客観的には、向かされている。
 八 残るレーニン・ロシア革命「幻想」。
 そうした「右」のものたちに惑わされることなく、日本共産党や「左翼」は、後者については人によって異なるだろうが、程度はあれ、レーニンとロシア革命に対する<幻想>をもっており、かりに結果としてソ連は解体しても、レーニンとロシア革命に「責任」があったのではないとし、あるいは彼とロシア革命が掲げた理念・理想は全く誤ったものではないとする。そのような、マルクス主義・共産主義あるいはレーニン・ロシア革命に対する<幻想>は、まだ強く日本に残っている、と理解しておかなければならない。
 不破哲三が某新書のタイトルにしたように、<マルクスは生きている>のだ。
 この日本の雰囲気は、詳細には知らないが、明らかにアメリカ、イギリス、カナダと比べると異質であり、イタリアやドイツとも異なると思われる。おそらくフランスよりも強いのではないか。そしてこの日本の状況は、韓国の「左翼」の存在も助けている。
 先日に日本の知的環境・知的情報界の<独特さ>を述べたが、それは、先進諸国(と言われる国々)にはない、独特の<容共>の雰囲気・環境だ。共産主義・社会主義あるいはそのような主張をする者に対して厳しく対処しない、という日本の「甘さ」だ。
 日本に固有の問題は日本人だけで議論してもよいのだが、マルクス主義・共産主義、ファシズム、全体主義あるいは日本にも関係する世界史の動きを、-出版業やメディアの「独特」さのゆえに-狭隘な入り口を入ってきた欧米に関する特定の、または特定の欧米人の主張だけを参照して、それだけが世界の「風潮」だとして、日本列島でだけで通じるかもしれないような議論をしているように思われる。
 また、容共の、あるいはレーニン・ロシア革命「幻想」を残しているとみられる出版社・編集者の求めに応じて、同じく「幻想」を抱く内田樹、白井聡、佐高信らのまだ多数の者が<反安倍・左翼>の立場で「全くふつう人として、とくに奇矯な者とも思われないで」堂々と<知的情報>界で生きているのは、その範囲と程度の広さと強さにおいて、日本に独特の現象ではないか、と思われる。
 むろん、その基礎的背景として、日刊紙を発行し月刊誌も発行している日本共産党の存在があることも忘れてはいけない。
 九 イギリスのクリストファー・ヒル(Christopher Hill)
 イギリスあたりは日本に比べて、<取り憑かれたような左翼>はきわめて少ないのかとも思っていたが、レーニンとロシア革命への「幻想」をもつ者はまだいるようだ。
 17世紀イギリスの歴史家とされるクリストファー・ヒル(Christopher Hill)だ。次回は、この人物の1994年(ソ連解体後)の文章を紹介する予定。

1811/リチャード・パイプス逝去。

 リチャード・パイプスが今年5月に亡くなっていたようだ。満94歳、享年96。
 Richard Pipes/1923年7月11日~2018年5月17日。
 R・パイプスの<ロシア革命>の一部の試訳を始めたのは2017年2月末か3月初めで、あれからまだ2年も経っていない。
 実質的には日本の公立高校卒業時の英語力でこの欄に自分の英訳文を何回も掲載することになるとは、その直前まで、全く想定していなかった。
 きちんと和訳してみたいと思ったのは、R・パイプス<ロシア革命>原書(1990)のボルシェヴィズムの生起から「レーニンの生い立ち」あたりを読み進んでいると(むろん意味不明部分はそのままにしつつ)、レーニンの党(ここではボルシェヴィキのこと)が活動資金を得るために銀行強盗をしたり相続人だと騙って大金を窃取するなどをしていた、といった記述があったからだ。
 のちにも、レーニンは、あるいはボルシェヴィキ党員は<どうやって食っていたのか>、つまり基礎的な生活のための資金・基礎をどうやって得ていたのか、という関心からする記述もあった。
 R・パイプスによると、少なくとも十月革命までの「かなりの」または「ある程度」の彼らの財源は、当時のドイツ帝国から来ていた。アレクサンダー・パルヴス(Parvus)は<革命の商人>と称される。
 1917年の七月事件後に成立したケレンスキー政権はその(国家反逆罪の)確証らしきものを掴んではいたが、ボルシェヴィキよりもカデットを嫌って、換言するとボルシェヴィキは<左翼>の仲間だが(ボルシェヴィキもエスエル等とともに、7月までは第三順位だが「ソヴェト」の一員の党ではあった)、カデット(立憲民主党)の方が臨時政府にとっての<敵>だと考えて、断固たる措置を執らなかった。
 戻ると、銀行強盗というのは、日本共産党も戦前にかつて行った<大森銀行ギャング事件>を思い起こさせる。
 なかなか興味深いことを多々、詳細に書いてあると感じて、この欄に少し訳出しようと思ったのが、1年余り前のことだった。
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 つぎの本は、実質的に、リチャード・パイプスの<自伝>だ。80歳の年の著。
 Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non-Belonger (2003)。
 Non-Belonger の意味に立ち入らないが、VIXI とはラテン語で<I have lived>という意味らしい(Preface の冒頭)。
 すでにこの欄に記したが、この著のp.124とp.125の間の複数の写真の中に、R・パイプス、レシェク・コワコフスキ、アイザイア・バーリンら4人が立って十字に向かい合って何かを語っている写真がある。
 昨年当時にきっと名前だけは知っていたL・コワコフスキとR・パイプスが同時に写っているのはなかなか貴重だ。
 機会があれば、上の本の一部でも試訳してこの欄に載せたい。
 何箇所かを捲っていると、<ロシア革命>執筆直前の話として、E・H・カーに対する厳しい批判もある。
 1980年代前半の数年間、アメリカ・レーガン政権の国家安全保障会議のソ連担当補佐官としてワシントンで勤務した(そして対ソ「冷戦」解体の下準備をした)ことは、すでに記した。
 p.115以降にこんな文章があった。試訳。
 「ソヴィエト同盟に対する非妥協的な強硬派(hard-liner)だという私の評判は、ベイジング(北京)にまで達していた。そして、1977-78年の冬に、中国国際問題研究院からの招待状を受け取った。//
 1978年4月3日に、北京に着いた。
 街は全体として憂うつそうな印象で、ソヴィエト式のように醜かった。
 幹線道路を見渡す私のホテルの窓から、自転車をこぐ民衆の大群が見えた-それは青と緑のアリの群れに似ていた-。そして、絶え間ない自動車の警報音を聞いた。」
 北京でのセミナーで語った内容等は省略。
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 リチャード・パイプスの著で邦訳書があるのはほぼ、簡潔な<共産主義の歴史>と<ロシア革命の簡潔な歴史>だけで、しかも前者は日本では「共産主義者が見た夢」というタイトルに変えられている。
 <共産主義の消滅=共産主義・消失した妖怪>も<ロシア革命に関する三つ謎>の邦訳書もない。
 そして、重要な<ロシア革命-1899~1919>、<ボルシェヴィキ体制下のロシア>という「十月革命」前後に関する大著二つの邦訳書もない。
 「対ソ冷戦終焉」あるいはソ連解体後に、断固たる反ソ連(反共産主義)だった論者として日本の新聞、雑誌等に論考・解説が載ったり、あるいは日本のどこかで講演会くらい企画されてよかった人物だったと思うが(東欧では講演等をしたようだ)、そんなことはなかったようだ。
 L・コワコフスキは日本を訪れたことがあるらしい(軽井沢と大阪、ネット情報による)。
 しかし、R・パイプスは日本に来たことがあったのだろうか。
 いつぞや、ピューリツァー賞を受けたアメリカのジャーナリスト、Anne Applebaum による<グラーク(強制収容所)>のロシア革命(十月革命あたり)叙述が参照元としているのはこのR・パイプスとオーランド・ファイジズ(Orlando Figes, <人民の悲劇>)の二著だけだ、と記したことがある(アプルボームの邦訳書がないとしたのは誤りだった)。
 ピューリツァー賞なるものの<政治的性格>はよく知らないが(たぶん極右でも極左でもない)、その受賞作の最初の方の、グラーク(強制収容所)に関する本格的叙述に至る前の<ロシア革命>記述の基礎とされているので、R・パイプス著が決してアメリカで<無視>あるいは<異端視>されているのではなく、むしろ<かなり受容された概説書または教科書>的扱いを受けているのではないか、という趣旨だった。
 しかして、日本で、日本人の間で、日本の「論壇」で、リチャード・パイプスはいかほど知られていたのだろうか(<アメリカ保守>の専門家面していても、江崎道朗が知っている筈はない)。
 中国共産党はどうやらよく知っていたらしい(離れるが、中ソ対立の時期、米ソ中という三極体制が語られた時代もあったことを日本人は想起すべきだ)。
 日本の<知的>環境には独特なものがある。世界または欧米の種々の思想・主義・見解等々がすべて翻訳されて日本語になって<自由に流通している>と考えるのは、そもそも大間違いなのだ。
 欧米最優先とか欧米を基準とすべきなどの主張をする意図はないが、欧米とりわけ英米語圏の方が知的情報産業界は大きく、<市場>も広く、競争は激しいものと思われる。欧米の「識者」から見るとおそらく、日本の知的情報環境が(ガラパゴス的に?)<閉ざされている>のは異様だろう。しかし、日本語の読解ができないためにそのことが知られていないだけだ、日本の「識者」はそのことを意識・自覚していない、と思われる。
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 左は著書・VIXI(2003)の扉裏の写真、右は1974年2月、Oxford で、右からI・バーリン、R・パイプス、L・コワコフスキ。
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1792/ネップと20年代経済⑥-L・コワコフスキ著1章5節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.41~p.44。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争⑥完。

 スターリンは、なぜそうしたのか? <この文、前回と重複>
 第一の選択肢が「歴史の法則」によって排除されていたわけではない。また、第二の途を進むべき宿命的な強制が働いたわけでもない。
 そうであるにもかかわらず、現実に選択された方向へと強く作動する論理(logic)が、ソヴィエト体制にあった。
 力をもったイデオロギーは、国家による統制のもとにあってすら、市場条件へと回帰することよりもはるかに、テロルを基礎とする奴隷経済と適合するものだった。
 巨大な民衆が経済的に多少とも国家から自立すれば、またある程度の自立性を自分たちのために国家に守らせたとしてすら、分かち難い独裁という理想(ideal)は、完全には実現され得ない。 
 しかしながら、マルクス=レーニン主義の教理は、完全に中央集権的な政治的および経済的な権力によってのみ社会主義を建設することができる、と教えた。
 生産手段に関する私的所有制の廃止は、人間の至高の任務であり、世界の最も進歩的な体制の主要な義務だ。
 マルクス主義は、プロレタリア-ト独裁を通じての、公民社会と国家の融合または同一化という展望を提示した。
 そしてそのような単一化へと至る唯一の方法は、全ての自発的な形態をとる政治的、経済的および文化的生活を絶滅させ(liquidate)、国家が押しつける形態へと置き換えることだ。
 スターリンはかくして、社会に対する彼の独裁を強固にすることにより、また、国家が課していない全ての社会的紐帯と労働者階級自体を含む全ての階級を破壊することにより、唯一の可能性のあるやり方でマルクス=レーニン主義を実現した。
 もちろんこの過程は、一夜にして終わったのではない。
 まず最初に、労働者階級を政治的に従属させること、次いで党をそうすること、が必要だった。ありうる全ての抵抗の粒を粉砕しなければならず、プロレタリア-トから自己防衛の全ての手段を剥奪しなければならなかった。
 党はこれを、最初に大多数のプロレタリア-トによって支持された権力をもつがゆえに行うことができた。
 政治的意識が高く闘争に習熟した古い労働者階級が内戦で死亡した、戦後の荒廃と窮乏が諦念と疲労を生み出した、とドイチャー(Deutscher)は強調する。しかし、そう単純ではない。
 党の成功はまた、プロレタリア-トの支持を得た時期を二つの方法で利用したことにもよる。
 第一に、党は、最も有能な労働者階級の一員を国家の職務の特権的な地位に昇らせた。そうして彼らを、新しい支配階層に変えた。
 第二に、党は、労働者階級の組織の現存形態全てを、とくに他の社会主義政党や労働組合を、破壊した。そして、そのような組織が生き残る物質的な手段を労働者が届く範囲から閉め出した。
 これらは全て、初期の段階でかつまったく手際よくなされた。
 労働者階級はかくして無力にされ、疲労だけではなく全体主義に進む急速な過程が、ときたま絶望的な試みはあったが、すぐ後に効果的な行動を起こすのを妨げた。
 この意味で、ロシアの労働者階級は、その個々の階級的出自とは無関係に、自らの専制君主を生み出した。
 同じようにして、知識人層も長年の間に、極左からの絶え間ない脅迫に直面して躊躇し、屈服することで、無意識に自分たちを破壊することとなった。//
 かくして、メンシェヴィキの予言は実現された。メンシェヴィキは1920年に、トロツキーによって表明された勇敢な新世界をエジプトの奴隷によるピラミッド建設になぞらえたのだった。
 トロツキーは、多くの理由で、自分のプログラムを達成するには適していなかった。
 スターリンが、トロツキー<を現実にしたもの>(in actu)だった。//
 新しい政策は、ブハーリンとその同盟者の政治的敗北を意味した。
 論争の最初の時点で、右翼はまだしっかりした政治的地位を占め、かなりの支持を党内に広げていた。
 しかし、彼らの全資産は総書記(the Secretary General)の権力とはまったく比べものにならないことがすぐに分かった。
 「右翼主義偏向」は、スターリンとその取り巻きが攻撃する主要な対象になった。
 ブハーリン派(the Bukhrinites)-たんなる個人的権力ではなく統治の原理のために闘った最後の反対集団-は、1929年のうちに、国家の官僚機構で占めていた全ての役職から排除された。
 このことは、左翼反対派が復活したということを決して意味しなかった。
 スターリンは数人には微少な義務を負わせたが、左翼反対派の誰も、元の役職に復帰しなかった。仕事のできるラデクは、数年間、政府の賛辞文作成者に据え置かれた。
 ブハーリン派は、左翼がかつてしたほどには、あえては党外に見解を公表しようとしなかった(彼らのときはそうする可能性がもっとあったけれども)。
 ブハーリン派はまた、「分派」活動を組織しようともしなかった。彼らが分派主義を痛罵し、党の一体性を称賛してトロツキーやジノヴィエフと闘って以降、「分派」活動は結局は短い期間だけのものだった。
 一党支配について言えば、左翼反対派も右翼もそれを疑問視しなかった。
 全ての者が、自分の教理と自分の過去に囚われていた。
 全ての者が、自分たちを破砕する暴力装置を創る意思をもって活動した。
 カーメネフとの連合を形成しようとのブハーリンの見込みなき試みは、彼の経歴の痛々しい終章にすぎなかった。
 1929年11月に、偏向者たちは悔悛を示す公開行動を演じたが、これすら、彼らを救わなかった。
 スターリンの勝利は、完全だった。
 ブハーリン反対派の崩壊は、党と国にある専制体制の勝利を意味した。
 1929年12月、スターリンの50歳誕生日は大きな歴史的行事として祝祭された。この日以降を我々は、「個人カルト」の時代と呼んでよい。
 1903年のトロツキーの予言は、現実のものになった。党の支配は中央委員会の支配になり、これはつぎに、一人の独裁者の個人的専制になった。//
 人口の4分の3を占めるソヴィエト農民の破壊は、世紀全体につづく経済的のみではない道徳的な厄災だった。
 数千万人が半奴隷状態へと落とし込まれ、数百万人以上がその過程を実行する者として雇われた。
 党全体が制裁者と抑圧者の組織になった。誰も無実ではなく、全ての共産党員が社会に強制力を振るう共犯者だった。
 かくして、党は新しい種の道徳上の一体性を獲得し、もはや後戻りできない途を歩み始めた。//
 このときにまた、残っていたソヴィエト文化と知識人界は系統的に破壊された。体制は、最終的な統合の段階に入っていた。//
 1929年から判決にもとづき殺害される1938年までのブハーリンの個人的運命は、ソヴィエト同盟やマルクス主義の歴史にとって重要ではない。
 敗北したあと彼は、最高経済会議のもとで調査主任としてしばらく働き、ときどき論文を発表した。それによって彼は、-ステファン・F・コーエン(Stephen F. Cohen)がその優れた人物伝で指摘するように-押し殺した批判をときおりは発しようとした。
 ブハーリンは中央委員会委員のままであり、公的に自説をさらに撤回した後で1934年に、<イズヴェスチヤ(Izvestiya)> の編集者になった。
 その年の8月の著述家大会で、当時にしては「リベラル」な演説を行い、1935年には、新しいソヴィエト憲法を起草する委員会の事実上の議長だった。この憲法文書は1936年に公布され、1977年まで施行された。この文書は、全部がではなくとも主に、ブハーリンの仕事だった。
 1937年2月に逮捕され、一連の怪物的な見せ物裁判の最後に、死刑が宣告された。
 伝記作者は彼を「最後のボルシェヴィキ」と呼ぶ。
 この叙述が本当なのか誤りなのかは、それに付着させる意味による。
 ボルシェヴィキという言葉で、新しい秩序の全ての原理-一つの政党の無制限の権力、党の「一体性」、他者の全てを排除するイデオロギー、国家の経済的独裁-を受諾する者を意味させるとすれば、本当だ。
 また、この枠の中で寡頭制または一個人による専制を避けること、テロルの使用なくして統治すること、そしてボルシェヴィキは権力を目ざす闘争の間に擁護した諸価値-すなわち、労働民衆またはプロレタリア-トによる統治、自由な文化の展開、芸術、科学および民族的伝統の尊重-を維持することは可能だと信じる者、を意味させているとすれば。
 しかし、かりに「ボルシェヴィキ」がこれら全てを意味するとすれば、その自らの前提から論理的帰結を導き出すことができない人間のことを、たんに意味している。
 他方、もしかりにボルシェヴィキのイデオロギーが一般論の問題にすぎないのではなく、自分の原理からする不可避の結果を受容することを含むとすれば、スターリンは、全てのボルシェヴィキやレーニン主義者と最も合致していた、と自らを正当に誇ることができる。//
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 以上で、第5節は終わり、第1章全体も終わり。叙述は第2章<1920年代のソヴィエト・マルクス主義の理論的対立>へと移っている。

1790/ネップと20年代経済⑤-L・コワコフスキ著1章5節。

 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.40~p.41。
 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争⑤。
 許しを乞うのに成功したラデク(Radek)のような者たちは、数年間は長く国家に奉仕することができた。最終的な破滅を、彼らは逃れることはなかったけれども。<以上、前回と重複>
 何人かのマルクス主義思想家たちは、ルカチ(Lukács)からロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedyev)まで、同じ見地からこの状況を理解した。
 しかしながら、トロツキーは、スターリンの政策は自分のそれと同一だとは考えていなかった。(トロツキーは1926年秋に政治局から排除され、1928年初めにアルマ・アタ(Alma Ata)へと追放され、トルコ政府の同意を得て1929年2月にトルコに亡命した。)
 彼は、こう書いた。スターリンの官僚機構は実際に反対派の圧力によって左翼の目標を採用するように強いられたのではなく、容赦のないかつ日和見主義的なやり方で自分たちで実行した、と。
 反対派は集団化に賛成したが、大量の強制的手法にではなかった。クラクを抑制して、「経済的手段によって」それと闘うべきだつたのだ。
 こうしたことはまた、のちに全てのトロツキー支持者が採った考え方だった。//
 しかしながら、このような論じ方は、きわめて薄弱なものだ。
 トロツキーは強制的集団化について語らなかった、というのは本当だ。しかし、当時はスターリンも語らなかった。
 スターリンの演説や論文だけからあの年代の歴史を知る者は誰でも、疑いなくつぎのように想定するだろう。農民たちはより良き生活のために集団農場へと押し寄せた、「上からの革命」は無制限の喜びでもって歓迎された、厳格な措置の被害者はたんに一握りの度し難い怠業者たち、労働者民衆とその民衆の利益を過ちなく表現する政府の敵にすぎない、と。
 本当(true)はどうだったかと言うと、スターリンが唯一の可能な方法で反対派のプログラムを実行に移した、ということだ。
 彼らが提示していた全ての経済的な誘導策は、スターリンが公然たる強制力行使に訴える前に、すでに試みられていた。
 税と価格による動機づけ、そしてテロルを制限するという政策は、その前の二年間に実施されていた。しかし、その唯一の結果は、穀物の配送量が低下し、さらにもっと悪化しそうだ、ということだった。
 経済的圧力という手段はもはや残っておらず、つぎの二つの選択肢だけがあった。
 すなわち、第一に、完全な形態でのネップ(「新経済政策」)に戻り、自由取引を許し、食糧生産と配分を確保すべく市場を信頼する。
 第二に、すでに着手していた路線を追求し、軍隊と警察を大量に用いることで自立農民層の全体を廃絶させる。
 スターリンは後者の政策を選択して、実現可能に思えたやり方でのみ、左翼の要求を実行した。//
 スターリンは、なぜそうしたのか?
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 ここで区切る。⑥へとつづく。

1789/ネップと20年代経済④-L・コワコフスキ著1章5節。

 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.37~p.40。
 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 今回の部分にスターリン時代の農村地域の飢餓・困窮等に関する叙述があるが、レーニン時代にも、干魃という自然的要因も(ボルシェヴィキによる食糧徴発政策の他に)あったが、類似の状態があったことを想起させる。試訳をこの欄に掲載しているR・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1995)/ネップ期のうちの「1921年の飢饉」にはより生々しく具体的な描写があり、「人肉喰い」があった確実な最少の件数も記している。この欄の、2017年4月、No.1515; 1516; 1518; 1520を参照。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争④。
 経済および財務政策はネップ期の間に実際に変わらないままだったのではなく、農民層に対する圧力を増加させる方向へと動いた。
 ブハーリンは別として、党の最高幹部層の中でのネップの擁護者は、首相としてレーニンを継いだルィコフ(Rykov)と労働組合担当の職責にあったトムスキー(Tomsky)だった。
 この二人はいずれも自分自身の力による秀れたボルシェヴィキで、決してスターリンの操り人形ではなかった。
 しかしながら、初期の時代からスターリンはモロトフ(Molotov)、ヴォロシロフ(Voroshilov)、カーリニン(Kalinin)およびカガノヴィチ(Kaganovich)のような者たちを指導層に送り込んだ。これらは自分では何も表現せず、スターリンに対して無条件に服従した。
 経済政策が不確定で曖昧だったため(ネップ熱烈支持者ですら最後の拠り所としての「田園地帯ての階級闘争」という考えをすっかり放棄することはできなかった)、行き詰まり、満足できる出口がなくなった。
1925年の農民に対する実質のある譲歩によって農業生産は増大したが、1927年までは穀物生産高は1914年以前の高さまでまだ達していなかった。一方では、工業の発展と都市化とともに食糧需要が増した。
 小土地所有者には処分できる穀物かなく、クラクは急いで売ることもしなかった。クラクが受け取る金で買える物が何もなかったのだから。
 このゆえにこそスターリンは1927年に、没収と強制という極端な手段を採用することを決意した。
 ブハーリンは最初からこの政策を承諾し、自分自身の基本的考え(プログラム)を修正して、計画化や重工業への投資の増大、国家による市場への干渉の強化、そして最後にクラクに対する「攻勢(offence)」の方向へと進んだ。
 これは左翼反対派を十分に満足させるものではなかったが、このことは大した意味がない。その間に彼らの地位は破壊されてしまっていたのだから。//
 農民層に対する経済的および行政的な圧力が高まることで、分配の劇的な下落、すでに深刻だった食糧事情のいっそうの悪化が生じた。
 スターリンは何度も繰り返して、クラクの危険性と階級敵の力の成長について語った。しかし、1928年2月にはまだ、ネップの廃止やクラクの粛清という風聞は反革命的なたわ言だと強く主張していた。
 しかしながら、ほんの四ヶ月のちに、集団農場を大量に組織化する「ときが成熟した」と発表した。
 7月の中央委員会会議で、そのときまでは激しく攻撃していたプレオブラジェンスキーの諸主張(テーゼ)の全てを是認した。
 ロシアは国内での蓄積によってのみ工業化を達成することができる。唯一の解決策は、農民が工業製品を求める鼻を通じて支払うことができるような額に価格を固定することだ。
 スターリンは同時に、「中産農民との永遠の同盟」を支持しつづけ、小規模の農業生産はまだ不可欠だと断言した。
 にもかかわらず、ブハーリン、ルィコフおよびトムスキーは、この新しい政策に反抗した。これに対してスターリンは、新しい右翼反対派だとの烙印を捺した。
 スターリンは1929年の初めにこの悲しい展開を政治局に報せ、のちにすみやかに世界全体に知らせた。
 (1928年秋の諸演説で「右翼主義(rightist)の危険」に触れていたが、政治局は全員が一致していると明言していた。)
 説明によれば、右翼偏向は、工業化を遅らせる、不確定の将来へと集団化を延期する、取引の完全な自由を再構築する、クラクに対する「非常手段」の使用-換言すると、徴発、逮捕、警察による圧力-を貶す、といったもので成り立つ。
 「右翼主義者」は国際情勢の見方に関して誤りがある、ということもすぐに示された。すなわち、彼らはまだ世界資本主義の安定化を信じ、社会民主主義的左翼と闘うのを拒否しているのだ、と。//
 スターリンはこの時期に一連の演説も行い(最初は1928年7月)、新しい原理を表明した(これは理論家としての名声に加わった)。
 それは、共産主義が発展し続けるとき、階級闘争と搾取者の抵抗はますます暴力的になる、ということだった。
 つづく25年の間、ここで新たに述べられたことは、ソヴィエト同盟およびその支配に服する諸国家での大規模の抑圧、迫害および虐殺の根拠として役立つことになった。//
 こうしたことが、ソヴィエト農業の大量集団化を始める設定条件だった。-おそらくは、国家が自らの公民に対してかつて行なった最も大規模な、戦争に似た作戦行動だった。
 強制的手段を緩やかに用いる試みが成果をもたらさないことが分かって、スターリンは1929年の終わりに、大量の「階級としてのクラクの粛清」を伴う、完全な集団化をただちに開始することを決定した。
 数ヶ月のちの1930年3月、この政策がすでに厄災的な結果を生じさせたとき-農民たちは大規模に穀物を粉砕して家畜を殺戮した-、スターリンは一時的に落ち着かせて、「成功による目眩み」という論考で、党官僚にある過度の熱狂と焦りや「自発性の原理」違反を非難した。
 これは党と警察機構にためらいを生じさせ、多くの集団農場は自分たちで合意して解散した。
もはや強制力を用いる政策へと転じるほかはなく、それは国をこの世の地獄に変えた。
 数十万の、最終的には数百万の農民たちが、恣意的に「クラク」と張り札をされてシベリアまたは他の離れた地域に追放された。
 村落での絶望的な一揆は軍隊や警察によって血をもって弾圧され、国は混乱、飢餓と困窮に陥った。
 ある場合には、いくつかの村落の住民全員が追放されるか、飢餓によって死んだ。
 大急ぎで編成された大量の護送車の中で、数千人が殺されるか、寒さと窮状に追い込まれた。
 半死の犠牲者たちは救援を求めて田園地帯を放浪した。そして、人肉喰い(cannibalism)行われた場合もあった。
 飢えていく農民が都市へ逃亡するのを防ぐために、国内旅券制度が導入され、許可されていない住居の変更には投獄という制裁が課されることとされた。
 農民には、この旅券が少しも発行されなかった。そしてそのために、封建的農奴制の最悪の時代のように、土地に縛りつけられた。
 このような物事の状態は、1970年代まで変わらなかった。
 集中強制収容所(concentration camp)は、重労働を宣告された新しい囚人の群れで満ちた。
 農民たちの自立を拒絶して彼らを集団農場へと追いたてる目的は、奴隷である民衆を生み出すことだった。その労働の利益は、工業を増加させるだろう。
 直接の効果は、多数の再組織化や改革の手段をとったにもかかわらず、まだ回復していない減退の状態にソヴィエト農業をしたことだった。
 スターリンが死んだとき、大量の農業集団化が始まってからほとんど四半世紀の後に、人口一人当たりの穀物生産高は、1913年のそれよりもまだ低かった。
 この期間のあいだずっと、困窮と飢餓があったにもかかわらず、農場生産のうちの大量部分はソヴィエト工業のために全世界へと輸出された。
 この年月のテロルと抑圧は、実際のとおり桁外れだが、たんに人命の損失数だけで表現することはできない。
 集団化とは何を意味したのかを最も生々しく描いているのは、おそらくヴァシリ-・グロスマン(Vasily Grossman)の、その死後に出版された小説、<永遠に流れる>(Forever Flowing)だ。//
 「新路線」と強制的集団化の政策を採用したのは、スターリンがたんにトロツキー=プレオブラジェンスキーのプログラムを、その執筆者を排除したあとで取り上げたにすぎない、と広く考えられている。
 このことは最初からブハーリンの責任だったとされる。そして、もはや政策の根本的な衝突はないという理由で急いでスターリンに許しを乞うた、以前の反対派の多くも、そう信じた。
 許しを乞うのに成功したラデク(Radek)のような者たちは、数年間は長く国家に奉仕することができた。最終的な破滅を、彼らは逃れることはなかったけれども。
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 段落の途中だが、ここで区切る。⑤へとつづく。

1788/ネップと20年代経済③-L・コワコフスキ著1章5節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 この著には、邦訳書がない。日本語版スターリン全集の全巻を所持していないが、レーニン時代との関係で1920年代のものはおおよそ所持しているので、今回は該当部分を探し出してみた。レーニン全集の場合と同じく、L・コワコフスキが使っている全集の巻数は、日本語版と同じだ(なお、この点、リチャード・パイプスは別のタイプの英語版レーニン全集を用いていると見られ、参照しにくい)。
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.33~p.37。三巻合冊本、p.814~p.817。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争③。
 ブハーリンの考えでは、裕福な農民に闘いを挑んだり村落地域内での階級対立を搔き立てたりすることは、農業のみならず経済全体を破滅させることになる。<この一文、前回と重複>
 貧農と農場従事者は、クラク(富農)を破壊することによってではなく、後者の資産を利用する国家によって助けられなければならない。国家はクラクに、最初に蓄積するのを認めるのだ。
 消費者と市場取引との協働関係はやがて自然に消費者と生産者の協働関係の発展につながるだろう。
 他方、トロツキストの政策は農業と工業をともに破滅させることを意味するだろう。
 農民全体を国家から遠ざけ、プロレタリア-トの独裁を破壊するだろう。
 さらに、プレオブラジェンスキーやピャタコフ(Pyatakov)が提案する、田園地帯を利用するために工業製品の価格を高い額にまで人為的に上げることは、農民層にだけではなく、労働者にも同様に打撃になるだろう。大量の商品を消費するのは都市の民衆だからだ。
 政府機構の官僚主義的退廃に対する反対者たちの攻撃について言うと、たしかにこの危険は実際に存在する。しかし、農民層に向けられた彼らの政策が採用されれば、それは100倍も悪くなるだろう。
 戦時共産主義の諸手段への回帰は、田園地帯で強制力を用いることを主要な目的として、特権的な官僚機構という一つの階級を生み出すことを意味するだろう。そして、この巨大な装置は、農業が組織化されないことによる損失の全てよりもはるかに多くの出費を要求するだろう。
 官僚主義を治療するためには、民衆に生活の多様な分野での自発的な社会組織の設立を働きかけることが必要だ。
 反対派が提案する治療方法はこれと真反対で、病気よりも悪いものにするだろう。//
 こうした左翼反対派との論争で、ブハーリンは、国家または党の内部での民主主義の拡大を導くことになるいかなる一歩も、擁護しなかった。
 逆に、分派の指導者であり党の一体性を分裂させる者だとして、トロツキー、ジノヴィエフおよびカーメネフを攻撃した。
 ブハーリンは彼らに思い起こさせた。プロレタリア-ト独裁は単一の支配党の存在を含意している、また党は結束しなければならず、別々の党の形成に発展するに違いない「分派」の存在を許してはならない、というのはレーニン主義のイロハだ、と。
 反対派の者たちは全て、つい最近まではこのことをよく知っていた。そして誰も、彼らが突然に民主主義者に変わることに欺されはしないだろう。//
 工業化に関する議論で、両派の論者たちはいずれももちろん、相手の政策は「客観的に」資本主義の復活につながるだろうと主張した。
 ブハーリンによれば、プレオブラジェンスキーは、小規模生産者を搾取して破壊することによって蓄積を達成し、社会主義国家が資本主義を真似ることを意図した。
 その基盤である農民との同盟、とくに中間層農民とのそれが掘り崩されれば、プロレタリア-ト独裁は消失するだろう。あるいはまた、農民たちの全体が工業製品の価格と農業生産物の価格の比率(ratio)に同等に影響されるという理由だけでも、「内部的植民地化」は、クラクのみならず田園地帯全体に対する攻撃を意味する。
 左翼はこれに反対して、スターリン=ブハーリンの政策は、私的所有者、とくにクラクの経済的な力を着実に増大させるだろう、社会主義的工業と労働者階級を弱めることはプロレタリア-ト独裁の終焉にのみつながる、と論駁した。
 反対派はまた、工業、とくに重工業が社会主義の発展の鍵だ、と考えた。
 ブハーリンはこれに対して、都市と地方の間の商品交換が主要な梃子だ、生産はそれ自体が目的ではなく消費に至る手段にすぎない、と主張した。また、反対派は、生産が需要の量とは無関係にそれ自体でつねに増え続ける市場を創出しつづける経済がありうるとの(資本主義制度との関係での)トゥガン-バラノフスキー(Tugan-Baranovsky)の理論をそのまま繰り返している、とも。
 この当時のロシアでの問題なので、村落地域の蓄積は決して労働者の利益に反しておらず、合致していた。
 この点について反対派は、搾取者と被搾取者の利益が合致することはありえない、その定義上クラクは搾取者であるので、クラクが富を蓄積するのを助けるのは階級敵を育てることだ、と答えた。//
 このようにして、いわばボルシェヴィズムの二つの変種が姿を現してきた。もちろんいずれも、決まってレーニンが言ったことに頼った。
 レーニンは、中間農民層と同盟しなければならないと語っており、クラクが示す危険についても述べていた。
 大まかに言うと、ブハーリンは、クラクは同時に中産農民を破壊することなくして廃棄することはできない、とするものだ。一方の反対派は、中産農民はクラクの助力なくしては援助することができない、と考える。
 反対の政治的意図をもつが、同じことを二つの異なる方法で表現したものだった。
 反対派は、労働者は惨めな状態にあるのに裕福な「ネップマン」(Nepman)の階層が勃興していることに憤慨している、あるいはまた平等主義とプロレタリア-ト独裁のスローガンを真面目にかつ文字通りに理解している、多くの共産党員の中に支持を求めた。
 (したがって、トロツキー=ジノヴィエフ派が以前の「労働者反対派」の残片たちと結局は共通する考え方を採ったのは自然なことだった。)
 反対派は主として、権力、独裁および権力の指標としての重工業に関心をもった。
 ブハーリンは一方で、福祉の有効な増大に関心をもち、その活動が労働者階級を含む全民衆にとってよい取引ならば、物質的な特権をもつネップマンを許容する用意があった。//
 数百万の個々人の運命を決めることとなった論争の間ずっと、スターリンはブハーリンの立場を支持した。しかし彼自身は完全には関与しないで、イデオロギー上の宣明をブハーリンまたはルィコフ(Rykov)に任せた。
 スターリンは、ブハーリンがうっかりと農民たちが「金持ちになる」よう呼びかけた過ちに気づいた-生硬な多くの共産党員には印象的な表現だった-。しかし、反対派による邪悪な犯罪行為とは比べものにならない、口滑らしだと見なした。
 彼は議論に決して深く立ち入らなかった。しかし、1928年まで、ブハーリンとの間に経済政策に関する不一致はなかった、ということが分かる。
 スターリンも、農民中間層との間の永続する同盟の必要性に関するレーニンの言葉を繰り返し、「革命的冒険主義」や「内部的植民地化」という衝撃的な考えについて「極左」の反対派を攻撃した。
 彼は反対派との政治上および組織上の論争については拳を振り上げた。それは、党機構に占める有利な地位によるのではなく、最近に反対派の者たちが公然と叫んできている原理を彼ら全員がいかほど侵犯していたかを示すのは容易だったからだ。
 何の困難もなく、トロツキーの民主主義への選好はきわめて最近になってからだと証明することができた。そして、トロツキーとジノヴィエフが協力してスターリンに反抗したときは、彼らがその日の前にお互いに傷つけ合っていた罵詈雑言を引用するだけでよかった。
 党内民主主義について言えば、それを今は防御している者は誰も、ばつの悪さを感じないままで自分の過去に言及することができなかった。
スターリンが1925年12月の第14回党大会で、つぎのように語ったように。
 『反対派の同志たちは、形式的民主主義は我々ボルシェヴィキにとって中身のない貝(empty shell)であって党の利益こそが全てだ、ということを知らないのか?』
 (スターリン全集・英語版7巻(1954年)p.394〔=日本語版スターリン全集7巻(1954年)「ソ同盟共産党(ボ)第十四回大会/中央委員会の政治報告の結語」388-9頁<注1>〕。)
 数ヶ月のちに、彼は党内民主主義について、より厳密な定義を行った。
 『党内民主主義とは何を意味するのか? 党内民主主義とは、一般党員の活動を向上させ、党の一体性を強化し、そして党の自覚的なプロレタリア紀律を強化することを意味する。』
 (スターリン全集・英語版8巻(1954年)p.153〔=日本語版スターリン全集8巻(1954年)「ソ同盟の経済情勢と党の政策について/1926.4.13」173頁<注2>〕。)
 しかしながら、スターリンは「党の独裁」に関して語るほど無謀でなかった。レーニンも、おそらくはブハーリンも、そのことを躊躇しなかったけれども。
 1926年12月7日のコミンテルン執行委員会の一部会や別の機会に、彼はこう述べた。トロツキーは、社会主義は一国では建設することができないと主張することによって、党が権力を放棄するのを招来している、と。//
 トロツキストの歴史家たちは、1920年代の諸事件についてまだ考えており、トロツキーはどのようにしていれば様々の偽った動きを回避して何らかの政治的同盟または連携でもって権力を再び握っていたのだろうかと、思いめぐらしている。
 しかしながら、1923年より後のどの時期にもそのような現実的可能性があったとは思えない。
 トロツキーは実際、公的にレーニンの「遺言」を時期に適して利用して、スターリンの威信を落とすことができたかもしれなかった。
 彼はそうしなかったのみならず、のちに外国で公表されたときに「遺言」の真正さを否定して、自らその可能性を摘み取った。
 可能性としては、スターリンは1924年に打倒されていたかもしれなかった。しかし、そうであってもトロツキーの利益にはほとんどならなかっただろう。他の指導者から嫌われていたからだ。その指導者たちは、権力から追い出されたあとでようやくトロツキーと協力する心づもりがあることを示したのだった。//
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 (秋月注1)ロシア語からの日本語版全集による訳(スターリン全集刊行会訳)はつぎのとおり-「反対派の諸君には、われわれボルシェヴィキにとっては、形式的な民主主義は無に等しく、党の現実的利益こそすべてだということが、わかっていないのだろうか」。上掲箇所。
 (秋月注2)ロシア語からの日本語版全集による訳(スターリン全集刊行会訳)はつぎのとおり-「党内民主主義とはなにか。党内民主主義とは、党員大衆の積極性を高め、党の統一をかため、党内の意識的なプロレタリア的規律を強化することである」。上掲箇所。
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 ④へとつづく。

1787/ネップと20年代経済②-L・コワコフスキ著1章5節。

 この著には、邦訳書がない。かつての西ドイツでは原ポーランド語からのドイツ語直訳書が1977年~79年に一巻ずつ出版されたようだ。第一巻に限ると、英語版よりも1年早い。
 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中の、 p.29~p.33。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争②。
 トロツキーが1920年のしばらくの間は、テロルに他ならないものを基礎とする経済の有効性を疑っていた、そして穀物の徴発を現物税〔食糧税〕に変えるべきだと彼は提案した、というのは本当(true)だ。
 しかし、まもなく彼は考えを変え、ネップ期の間は、「緩やかな」経済に対する、主要な反対者の一人になった。反対したその経済とは、農民層に物質的に譲歩し、自由取引を都市部と村落地域の間の取引の主な態様にするものだった。//
 ブハーリンの考えは一方で、反対の方向へと進展した。
 1920年には、計画経済という考えは幻影(fantasy、お伽ぎ話)の世界に属していた。
 ロシアの産業は破滅していて、輸送はほとんどなく、まさしく苦悩する問題は、共産主義の新世紀をどう始めるかではなくて、迫り来る飢餓から都市をどう救うかだった。
 この悲惨な状況でレーニンがその経済上の教理から退却する号砲を鳴らし、農業生産物の自由な取引、小規模の私的企業の許容によって農民的経済と長期間を共存していこうと決意したとき、ブハーリンも同様にその初期の立場を放棄し、ネップの熱烈な支持者とイデオロギストになった。これはまずはトロツキーに、次いでジノヴィエフ、カーメネフおよびプレオブラジェンスキーに反対するものだった。
 1925年以降、ブハーリンは、反対者に対するスターリンの主要なイデオロギー上の支持者だった。
 彼はレーニンのように、<過渡期の経済学>で説いたプログラム全体が妄想(delusion)だったということを認識するに至った。 そして、指導者たちが逆上(frenzy)した短い間に生命を贖った数百万の犠牲者のことを気にかけなかった。//
 市場経済へと回帰するのを支持するブハーリンの根拠は、-もちろん銀行や主要産業の国有は維持するのだが-主としては経済上のものだが、ある程度はまた政治的なものだった。
 主要な論点は、農業がほとんど全体的に小農民の手にある状況のもとで、経済的手段によって望ましい蓄積のレベルを達成して産業を発展させるために、国家はいかにして商品経済への影響力を行使できるか、だった。
 市場条件のもとで農民から必要な量の食糧を獲得するためには、生産者および消費者の商品と同等の価値のものを村落地域に供給することが必要だ。
 これは、不可能ではなくとも、産業が破滅している国家では困難だ。しかし、そうしなければ、農民たちは産物を売らないだろう。売って収益を得ても買うことのできる商品が何もないのだから。
 付け加えれば、これは、国家経済が農民の慈悲にすがるしかないとすれば、「プロレタリア-ト」、つまりはボルシェヴィキ党、はいかにして支配的な地位を維持できるのか、という問題だった。 
 市場が発展していけば、農民たちの地位はそれだけ強くなるだろう。そうすると、彼らは最後には「プロレタリア独裁」を脅かすかもしれない。//
 プレオブラジェンスキーは、経済問題ではトロツキストだと見なされていて、農民層に譲歩するスターリンとブハーリンの政策に反対した。彼は、つぎのように論じた。
 最初の段階での社会主義国家の主要な任務は、産業の強い基盤を作り出し、蓄積の必要な程度を確保することだ。
 これ以外の全ての経済目的は工業に、とくに産業装置を備えた製造業の発展に従属しなければならない。
 資本主義的蓄積は植民地の強奪によって容易になったが、社会主義国家は植民地を持たず、自分の資源でもって工業化を達成しなければならない。
 しかしながら、国家産業は、それ自体は十分な蓄積の基盤を作り出すことができず、小生産者から、すなわち現実には農民層から資源を吸い取らなければならない。
 私有の耕作地は、国内の植民地化の対象にならなければならない。
 プレオブラジェンスキーは、工業への投資を増大させるために農民の労働から最大限の量の余剰価値を抽出することによる、農民の搾取であることを率直に認めた。
 この「植民地化」の過程は主としては、工業生産物の価格を国家が農業生産物に支払う価格と釣り合う最高限度までに固定することによって、達成するものとされた。
 これは、可能なかぎり短い期間のうちに最大限の援助を奪い取るために、農民層に対する別の形態での経済的圧力によって実施された。
 他方で党指導者たちは、小生産者の側での蓄積を促進し、農民層の福利のために工業を、とくに重工業を軽視する政策を追求した。
さらには、この政策の主要な利得者は、クラク(富農)だった。
 というのは、全てが産業の側からの、これは相対的に強い階級、プロレタリア-トの独裁の側からということになるが、これからの要求を無視して農業の生産性を向上させるためになされていたので、自然のこととして、最大の配当を約束する豊かな農民たちが選択するように貸金や設備が動いたからだ。
 このことは不可避的に、最初は経済的でのちにすみやかに政治的にもなった富農の力を強くした。彼らは、プロレタリア-トの権力を掘り崩し始めるだろう。
 当時の現存の政府のように全ての農民層の経済的要求を充足させて、食糧を売却するよう誘導したい者たちは、交流のある外国との通商政策を押し進め、工業のための生産物の代わりに農民層のために消費用商品を輸入しなければならないだろう。
 このような展開の全趨勢はプロレタリア-ト以外の階級の利益のために歪曲され、その結果は、社会主義国家の存在に対する脅威になるだろう。//
 このような基本的考え方に添って主張して、プレオブラジェンスキーおよび左翼反対派は、農業の集団化に向けて攻め立てた。どのような方法によってそれが達成されるのか、彼らは明瞭には説明しなかったけれども。//
 トロツキーは、これと同じ基本的考え方だった。
 1925年に彼が書いたように、国有工業が農業よりも少ない早さで発展すれば、資本主義の復活は不可避だ。
 農業は国有産業の一部門になるように機械化され、電気化されなければならない。
 こうしてのみ、社会主義は異分子の要素を放逐し、階級対立を解消することができる。
 しかし、このこと全てが、工業が適切に発展するということにかかっていた。
 結局のところは、新しい形態の社会の勝利は、その社会での労働の生産性が果たす。
社会主義は、徐々に資本主義よりも高い生産性を達成する力をもつことを理由として、勝利するだろう。
 こうして、社会主義の勝利は、社会主義的工業化に依存する。
 社会主義とはじつに、その側にあらゆる利点をもつのだ。技術の進歩はすみやかにかつ全般的に応用することができ、私的所有制が生んだ障壁によって遮られることはない。
 経済の中央集中化は、競争に由来する無駄の発生を妨げる。
 産業は消費者の気まぐれに左右されるものではない。そして、国民全体の志気が、高い次元の生産性を保障する。
 中央集中化と標準化は自発的主導性を駄目にするもので、いっそう仕事を単調にすることを意味すると苦情を述べるのは、前工業時代の生産への反動的な憧れに他ならない。
 経済全体が「単純で画一的な自動的機械構造」へと変わらなければならない。そしてそのためには、資本主義的な要素、すなわち小農民生産者に対して絶えざる批判的宣伝運動をしなければならない。この闘いを放棄することは、資本主義への回帰を黙って認めることになる。
 トロツキーは、プレオブラジェンスキーと違って、「社会主義的蓄積の客観的法則」や産業投資のために農民層から最大限に余剰価値を強要する必要性を語りはしなかった。しかし、資本主義に対する経済的な攻勢を呼びかけたので、同じことに帰一した。
 反対者たちがブハーリンを非難したのは、根本的に豊かなクラク(富農)の利益のためのもので、「テルミドールの反動」だ、という理由でだった。
 ブハーリンの政策は社会主義に対する階級的敵対意識を高め、経済における資本主義的要素に特有の危険性を増大させるだろう、と彼らは主張した。
 スターリン、ブハーリンおよびこれらの支持者は答えて、「超(super)工業化」を呼びかけるのは非現実的だ、反対者たちの政策は富農だけではなく巨大な農民中間層を体制の敵に回す、と主張した。
 それは「プロレタリア-トと貧農および中農との同盟」というレーニンの神聖な根本規範に反する。そして、ソヴィエト国家の存在そのものを脅かすだろう、と。
 反対派は継続的に、資本主義的要素を阻止し続けるべきだと要求しているが、-たとえ経済的だけでも-政府からの圧力が強まって農民層の意欲(incentive)が奪われたらどうすべきなのかを語っていないし、国家は警察による強制以外のどんな方法によって食糧の生産と分配を確保できるかについても、何ら語っていない。//
 この当時にスターリンが支持したブハーリンの論拠は、戦時共産主義の時代が十分に証明するように、国家の農民層に対する徹底的な闘いは経済的に非効率で政治的には厄災だ、ということだった。
 国家の経済発展は農民層の最大限の搾取に依存すべきではなく、国家と村落地域の間をを、ゆえに労働者階級と農民層の間を連結する市場を保持することによるべきだ。
 蓄積の程度は流通の効率性と速度にかかっており、このことにこそ尽力は向けられるべ きだ。
 農民が強制または経済的手法によって余剰の全てを剥奪されるならば、自分が食べる以上の食糧を産出しないだろう。
 そのゆえに、農民に強制力を用いることは、国家とプロレタリア-トの瞭然たる利益に反する。
農業生産を増大させる唯一の方法は、物質的な動機づけを与えることだ。
 これは確かに、クラク(富農)に有利になることだろう。しかし、商取引上の協働関係の発展によって、クラクを含む農民全体を、全体としての経済成長を推進する国家統制体制の中に組み込むことが可能になる。//
 工業の発展は、村落の市場にかかっていた。農民層による蓄積は工業製品への需要の増大を意味した。そしてそのゆえに、全ての範疇の農民による蓄積を許容することは、国家全体の利益だった。
 こうしたことから、ブハーリンは1925年に農民に対して「金持ちになれ(Get rich)!」と訴えかけた。-これは、後年にはこの人物の非正統性を紛れもなく示す証拠として、しばしば引用されるスローガンだ。
 ブハーリンの考えでは、裕福な農民に闘いを挑んだり村落地域内での階級対立を搔き立てたりすることは、農業のみならず経済全体を破滅させることになる。
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 段落の途中だが、ここで区切る。③へとつづく。

1785/ネップと1920年代経済➀-L・コワコフスキ著3巻1章5節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中の、 p.25~p.29。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争①。
 1920年代のソヴィエト経済政策をめぐる論争は、「一国での社会主義」の問題よりもはるかに純粋だ。後者は、何らかの実践的または理論的な問題を解決するというよりも、党派のための外観上の偽装だった。
 しかしながら、工業化をめぐる有名な議論ですら、二つの対立する基本的考え方の衝突だとして述べるに値しない。
 ロシアを工業化しなければならないと、誰もが合意していた。議論の要点は、それを進行させる速度であり、破滅をはらんだ、ソヴィエト農業や農民と政府の関係という関連する問題だった。
 しかしながら、これらの問題は根本的に重要であり、異なる観点からの諸見解は、国家全体に対して大きな意味をもつ異なる政治決定をもたらした。//
 ブハーリン、(1921年に公式に開始された)ネップ〔新経済政策〕の主要なイデオロギストは、党内ではきわめてよく知られ、第一級の理論家だと見なされていた。
 ジノヴィエフとカーメネフの脱落の後、彼はスターリンに次ぐ党の最も重要な人物になった。//
 ニコライ・イワノヴィッチ・ブハーリン(Nikolay Ivanovich Bukharin)は、1905年革命の間又は直後に社会主義運動に入った世代に属する。
 モスクワで生まれて育ち、知的階層の一員で(両親は教師だった)、まだ在学中に社会主義集団に加入した。そして、その政治的経歴の最初からボルシェヴィキ党員だった。
 1906年の末に18歳になったばかりで入党し、モスクワでのプロパガンダ活動に従事した。
 1907年に大学の経済学の学生として登録したが、政治が彼の時間を奪い、その課程を修了しなかった。
 1908年にすでに、モスクワの小さなボルシェヴィキ組織の責任者になった。
 1910年秋に逮捕されて国外追放を宣告されたが、脱走して、つぎの6年間をエミグレの一人としてドイツ、オーストリアおよびスカンジナビア諸国で過ごした。そこで彼は著作を行って、政治経済の分野でのボルシェヴィキ理論家としての名声を獲得した。
 1914年に、<不労所得階級の経済学-オーストリア学派の価値と収益理論>と題する書物を書き終えた。これは、1919年にモスクワで最初に、全文が出版された。
 そしてその英語版である<余暇階層に関する経済理論>は、1927年に刊行された。
 この本はマルクス主義教理を防衛するもので、限界主義者(marginalists)、とくにベーム-バヴェルク(Böhm-Bawerk)を攻撃した。
 タイトルが示唆するように、ブハーリンは、オーストリア学派の経済理論は寄生性的に分けられたブルジョアジーの心性をイデオロギー的に表現したものだ、と主張した。
 マルクスの防衛に関しては、彼の著作はヒルファーデングの以前の批判に何も加えなかった。
 1914年に第一次大戦が勃発したとき、ブハーリンはウィーンからスイスへと追放され、そこで彼は、帝国主義の経済理論に関して研究した。
 彼はこのとき、民族および農民問題をめぐっては「ルクセンブルク主義者」的に過っていると批判するレーニンとの論争にかかわった。
  ブハーリンは、古典的なマルクス主義の図式に照らして、民族問題はますます重要でなくなっており、社会主義の階級政策の純粋さは民族自己決定権によって汚されるべきではない、と考えた。それは、夢想家的でありかつマルクス主義に反している、と。
 同じように彼は、党がその革命の政策で農民層の支持を求めることに同意しなかった。マルクス主義が教えるように、小農民階級はともかくも消失する運命にあり、農民層は歴史的に反動的な階級なのだから、と。
 (しかしながら、のちにはブハーリンは、主としてまさしく反対の「逸脱」の代表者だと記されることになる。)//
 スイスで、その後にはスウェーデンで、ブハーリンは<帝国主義と世界経済>を執筆した。これの全文は1918年にペトログラードで最初に出版された。
 レーニンは草稿を見て、自分の<帝国主義、資本主義の最高次の段階>のために自由に利用した。
 ブハーリン自体はヒルファーデングの分析を利用したが、資本主義が発展するにつれて国家経済の経済上の役割の重要性は大きくなる、そして、国家資本主義という新しい社会形態、つまり中央志向で計画されて国民国家の規模で統制される経済へと向かう、とも強調した。
 このことは、市民社会の広大な分野に対する国家統制の拡大と人間の奴隷化の強化を意味した。
 犠牲を必要とする国家というモレク(the Moloch)は、国内の危機のないままで機能し続けることができるが、私的な生活の諸側面をますます浸食することでのみ、そうできる。
 しかしながら、ブハーリンは、世界経済の中央集権的な組織化によって戦争の必然性は回避できる、そのような「超帝国主義」段階があることを期待するカウツキーやヒルファーデングに同意しなかった。
 彼が考えるに、国家資本主義は世界的な基盤のもとでではなく、一国の規模で作動が可能だ。
 ゆえに、競争、無秩序、そして危機は継続するだろうが、それらはますます国際的な形態をとるだろう。
 それはまた、-ここでブハーリンは少しばかり異なる理由でレーニンに同意する-プロレタリア-ト革命の根本原因は、今や国際的な情勢の文脈の中で予見しなければならない。//
 いく分かのちにレーニンは、プロレタリア-トは革命後には国家を必要としないという「アナキスト類似の」考えだとして若きブハーリンを批判した。-レーニンが1917年の<国家と革命>で詳述したのときわめてよく似た夢想家的考えだった。//
 1916年の終わりにかけてブハーリンはアメリカ合衆国へ行き、そこでトロツキーと議論し、アメリカ左翼に、戦争と平和の問題に関するボルシェヴィキの見方を説得する活動をした。 
 二月革命の後でロシアに帰還すると、すぐに党指導者の中での地位を獲得し、レーニンの「四月テーゼ」を全心から支持した。
 十月革命の前と後の重大な数ヶ月の間、彼は主としてモスクワで組織者かつ宣伝者として活動した。
 革命後に<プラウダ>の編集長になり、その地位に1929年までとどまった。
 ロシア革命の運命は西側に火をつけることができるかにかかっているとの一般的な考えを共有していて、ブハーリンは、レーニンのドイツとの分離講和に断固として反対した。
 1918年の最初の劇的な数ヶ月の間、革命戦争の継続を強く支持する「左翼共産主義者」の指導者の一人だった。レーニンは軍の技術的および道徳的状況を冷静に評価していたけれども。
 しかしながら、いったん講和の結論に至ると、彼は全ての重要な経済および行政の問題について、レーニンの側に立った。
 「ブルジョア」の専門家や工場での熟練者を採用することに、あるいは職業的能力や伝統的紀律にもとづいて軍隊を組織することに抵抗する左翼反対派を、彼は支持しなかった。//〔分冊書-p.27。合冊本-p.810。〕
 「戦時共産主義」(既述のとおり、誤解を招く言葉だ)の時期の間、ブハーリンは、強制、徴発、そして市場と貨幣制度なくして何とか新生国家を管理することができ、近いうちに社会主義的生産を組織するだろうとの希望、を唱道した主要な理論家だった。
 ネップ時期の前の数年間に、ここですぐに検討する<史的唯物論>に加えて、党の経済政策を詳論する二つの著書を刊行した。<移行期の経済学>(1920年)と、E・プレオブラジェンスキー(Preobrazhenski)との共著の<共産主義のイロハ(ABC)>(1919年。英語版、1922年)だ。
 これらは、当時のボルシェヴィキの政策を権威をもって説明する、準公式的な地位をもった。
 レーニンのようにブハーリンは、国家は革命ののちにすぐに消滅するとの夢想家的教理を投げ捨てたのみならず、プロレタリア-トによる政治的独裁はもちろんのこと経済的な独裁の必要性も強く主張した。
 彼もまた、発展諸国での「国家資本主義」の進化に関する見方を繰り返した。
 (レーニンはこの術語を用いて、社会主義ロシアでの私的産業を参照させた。
 ある程度の言葉上の誤解を生じさせたことだ。)
 「均衡」(equilibrium)という観念を、社会過程を理解するための鍵だとして強調した。
 生産に関する資本主義制度が均衡をいったん失えば-これは不可避の破壊的帰結を伴う革命の過程でもって証明されるが-、それは新しい国家の組織化された意思によってのみ復活することができる、と彼は論じた。
 国家装置はゆえに、生産、交換および配分のための社会組織と繋がっている全ての作用を奪い取らなければならない。
 これは実際には、全ての経済活動の「国家化」(statization)、労働の軍事化、および全般的な配給制度を、要するに、経済全般に対して強制力を用いること、を意味する。
  共産主義のもとでは、市場の自発的な活動は問題にならない。価値の法則は働くのを止める。全ての経済法則が人間の意欲とは無関係に働くように。
 全てが国家の計画権力に服従する。そして、従前の意味での政治経済は、存在しなくなる。
 そうして、社会の組織化は本質的に農民に対する(vis-a-vis)強制(強制的徴発)や労働者に対する強制(労働の軍事化)にもとづいてはいるけれども、労働者からの搾取(exploitation)は明らかに存在しない。定義上、その階級が自ら自身を搾取することは不可能なのだから。//
 レーニンのようにブハーリンは、大量テロルに経済生活をもとづかせるシステムを、過渡的な必要物ではなく社会主義的組織化の永遠の原理だと考えた。
 彼は強制のための全ての手法を正当化することを躊躇しなかった。また、同時期のトロツキーのように、新しいシステムを本質的に労働の軍事化だと考えた。-これは言い換えると、国家が宣告するいかなる場所といかなる条件でも全民衆が労働することを強制するために警察力と軍事力を用いる、ということだ。
 実際に、いったん市場が廃止されると、労働力の自由な取引や労働者間の競争はもはや存在しなかった。したがって、警察による強制は、「人的資源」を割りふるための唯一の方法だった。
 雇用労働が廃止されると、強制労働だけが残る。
 言い換えると、社会主義とは-この時期のトロツキーとブハーリンの二人がともに想定していたごとく-、永続する、国家全体に広がる労働強制収容所(labour camp)なのだ。
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 ②へとつづく。

1784/一国社会主義-L・コワコフスキ著1章4節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第4節、 p.21~p.25。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第4節・一国での社会主義。

 1924年の末にかけてトロツキーとその「永続革命」との考えに対抗して定式化された「一国での社会主義」という教理は、長い間、スターリンによるマルクス主義理論への大きな貢献だと考えられてきた。これから推論される帰結は、トロツキズムは一団の反対物たる明確な教条だ-トロツキー自身も明らかに共有するに至る見方-、ということだ。
 しかしながら、現実には、二人の間には、理論上の不一致はもちろん、根本的な政治的対立は存在していなかった。//
 述べてきたように、十月蜂起の指導者たちは、革命の過程はすみやかにヨーロッパの主要諸国に広がるだろう、世界革命の序曲(prelude)でなくしてはロシア革命には永続する希望はない、と信じた。
 初期のボルシェヴィキ指導者の誰も、これとは異なる考え方を抱いたり、表明したりすることはなかった。
 この主題に関してレーニンがいくつか書いたことも紛らわしさが全くないものだったので、スターリンはのちに、それらを著作集から削除した。
 しかしながら、世界革命の望みが少なくなり、共産主義者たちのヨーロッパで蜂起を発生させようとする絶望的な努力は失敗に帰したので、彼らは、その社会がいったい何で構成されるのかを誰も正確には知らなかったけれども、当面の直接の任務は一つの社会主義社会の建設だということにもまた同意した。
 二つの基本的な原理が、受容されつづけた。すなわち、歴史法則によって最終的には世界を包み込む過程を、ロシアは開始した。そして、西側の諸国が自分たちの革命を始めるのを急いでいない間は、自国の社会主義への移行を開始するのはロシア人だ。
 社会主義を実際に一度でもまたは全部について建設することができるのか否かという問題は、真剣には考察されなかった。実際の結論は、答えに訊くしかなかったのだから。
 内戦の後でレーニンが、布令を発することでは、ましてや農民を射殺することでは穀物を成育させることはできないと気づいたとき、そして引き続いてネップを導入したとき、彼は確実に「社会主義の建設」にこだわっており、外国で革命を搔き立てること以上に、国家内部の組織化に関心をもっていた。//
 スターリンが1924年春に「レーニン主義の基礎」という論文を発表したとき-これはレーニンの教理を彼自身に倣って集大成する最初の試みだった-、彼は一般的に受容されていることを繰り返して抽出し、トロツキーを、農民の革命的役割を「誤解」しており、革命はプロレタリア-トによる一階級支配によって開始することができると考えていると、攻撃した。
 彼は、こう論じる。レーニン主義は、帝国主義時代とプロレタリア革命時代のマルクス主義だ。ロシアは、その相対的な後進性とそれが苛んだ多くの形態の抑圧によって革命へと成熟していたがゆえに、レーニン主義が生まれた国になった。レーニンはまた、ブルジョア革命の社会主義革命への移行を予見した。
 しかしながら、スターリンはこう強調した。単一の国のプロレタリア-トだけでは最終的な勝利をもたらすことができない、と。
 トロツキーは同じ年の秋に、1917年以降の自分の著作を集めたものを刊行した。その序言では、自分が唯一のレーニン主義原理に忠実な政治家だとの証明や、指導者たち、とくにジノヴィエフとカーメネフ、は優柔不断でレーニンの蜂起計画に敵対する態度をとったことに対する批判、を意図すると述べた。
 彼はまた、ジノヴィエフがそのときに議長(the chief)だったコミンテルンを、ドイツでの蜂起の敗北や革命的情勢を利用できないことについて攻撃した。
 トロツキーの批判は、スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、リュコフおよびクルプシュカヤその他による、集団的な回答を惹き起した。それは、過去の全ての過ちと失敗についてトロツキーを非難し、彼は傲慢であり、レーニンと争論をした、革命に対するレーニンの貢献を貶した、と責めた。//
 スターリンが「トロツキズム」という教理を作りだしたのは、このときだった。
 1917年以前にトロツキーが定式化した「永続革命」という考えは、ロシア革命は継続して社会主義段階へと移るが、その運命はそれが生じさせる世界革命にかかるだろう、と予想するものだった。
 さらに、巨大な層の農民が多数派である国家では、労働者階級は国際的なプロレタリア-トによって支援されなければ政治的に破壊されるだろう、国際プロレタリア-トの勝利だけがロシアの労働者階級の勝利を確固たるものにできる、というものだった。
  「ブルジョア革命の社会主義革命への移行」という問題はその間には対象ではなくなっていたので、スターリンは、トロツキズムは社会主義は明らかに一国では建設され得ないと主張するものだと意味させた。-かくして、スターリンは読者に、トロツキーの本当の意図はロシアに資本主義を復活させることだ、と示唆した。
 1924年の秋、トロツキズムは三つの原理に依拠している、とスターリンは明瞭に述べた。
 第一に、プロレタリア-トの同盟者としての農民という最も貧しい階層のことを分かっていない。
 第二に、革命家と日和見主義者の間の平和的共存を認めている。
 第三に、ボルシェヴィキ指導者たちを誹謗中傷している。
 のちに、トロツキズムの本質的な特徴は、一国での社会主義の建設を開始するのが可能であるにもかかわらずそれを遂行するのは不可能だと主張することにある、と明言された。
 スターリンは<レーニン主義の諸問題について>(1926年)で1924年春の自分自身の見解を批判し、一国での社会主義を最終的に建設する可能性と資本主義者の干渉に対して最終的に自己防衛する可能性とは明確に区別しなければならない、と述べた。
 資本主義が包囲する状況では、干渉に対抗できる絶対的な保障はないが、それにもかかわらず、十分な社会主義社会を建設することができる、と。//
 一国で社会主義を最終的に建設できるのか否かに関する論争の要点は、ドイチャー(Deutscher)がスターリンの生涯について適切に観察したように、党活動家の心理を変えようとするスターリンの意欲にある。
 彼はロシア革命は自己完結的だと強調することで、世界共産主義の失敗が生んだ意気消沈と対抗しているのであつて、理論にかかわっているのではない。
 スターリンは党員たちに、「世界のプロレタリア-ト」の支援の不確実さに困惑する必要はない、我々の成功はそれにかかっているのではないのだから、ということを確かなものにしたかったのだ。
 要するに彼は、もちろんロシア革命は世界全体の革命の序曲だとの神聖な原理を放棄しないで、楽観的な雰囲気を生み出そうとした。//
 トロツキーが1920年代のソヴィエト外交政策とコミンテルンの職責にあったとすれば、スターリンよりも外国の共産主義者の反乱に関心を寄せていただろう、ということはあり得る。しかし、彼の努力が何がしかの成功をもたらしたと考えることのできる根拠はない。
 当然に、トロツキーは、スターリンが革命の根本教条を無視しているためだとして世界の共産主義者の敗北を利用した。
 しかし、欠けているとしてトロツキーが責めた国際主義的な熱情をもってスターリンがかりに活動したとして、彼は何をすることができただろうかは、少しも明確ではない。
 ロシアには、1923年のドイツ共産党や1926年の中国のそれの勝利を確実にする手段がなかった。
 一国社会主義というスターリンの教理のためにコミンテルンは革命の機会を利用できなかった、というトロツキーの後年の責任追及は、完全に実体を欠いている。//
 かくして、社会主義は一国で建設され得ることについての積極的主張と否定という、「本質的的に対立する」二つの理論に関しては疑問はない。
 理論上は誰もが、世界革命を支援する必要性とロシアに社会主義社会を建設する必要性をいずれも、承認していた。
 スターリンとトロツキーは、これの一方または他方の任務に注入すべき活力の割合に関して、ある程度は異なっていた。二人はともに、この違いを想像上の理論的対立へと膨らませたのだ。//
 トロツキーが頻繁に行った党内民主主義は彼らの体制にとって本質的だとの主張は、なおさら信じ難い。
 すでに述べたように、党内部の官僚制的支配に対するトロツキーの攻撃は、彼が事実上党組織への権力を奪われたときに始まった。まだ権力を持っている間は、彼は警察および経済の制度に対する官僚制の、および軍事的または政治的な統制の、最も専制的な先頭指導者の一人だった。
 のちに彼が罵倒した「官僚制化」は、国家の民主主義的仕組みを全て破壊したことの当然のかつ不可避の結果だった。それは熱情をもってトロツキー自身が入り込んだ過程であり、決して後になって否認することはできないものだった。//
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 第4節おわり。第5節「ブハーリンとネップ理論/1920年代の経済論争」へとつづく。

1781/スターリン・権力へ③-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第3節の p.18~p.21。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇③。
  新しい職〔総書記〕は党の階層の個人的な最高位ではなかったし、そのような職は実際に存在しなかった。
 総書記の職務は党官僚たちの当面の仕事を監督する、官僚機構内での調整を図る、上位者たちを任命する、等々だった。
 洞察すれば、つぎのことを明確に理解することができる。すなわち、全ての他の形態の政治生活が破壊され、党が国家にある唯一の組織された力あるものになれば、その党機構の職責にある個人は、全能になるにちがいない。
 これは、現実に生じたことだ。しかし、この当時は、誰も感知しなかった。
 ソヴィエト国家は歴史上に先例のないものだった。政治の舞台上の演者は、その劇の結末を予見していなかった。
 総書記としてのスターリンは、地方の党の職および最上位を除く中央の職についてすら、自分の味方をそれらの多数派になるよう送り込むことができた。そして、会議や会合を組織する仕事を通じて、その力は高まった。
 もちろん、それはゆっくりとした過程ではあった。
 最初の数年間にはまだ、党内部での論争、対抗集団の形成、異なる基本政策の主張が見られた。
 しかし、時が経つにつれて、それらの頻度は少なくなり、きわめて上位の階層内に限られるようになった。//
 述べてきたように、レーニンが生きている間に党内に反対集団があり、それは専制的で官僚的な統治方法の増大に対して、ある程度の共産党員が不満をもっていることを反映していた。
 最もよく知られる代表者はアレクサンダー・シュリャプニコフ(Alexsandr Shlyapnikov)とアレクサンドラ・コロンタイ(Alexsandra Kollontay)である「労働者反対派(Workers' Opposition)」は、字義どおりの「プロレタリア-トの独裁」、言い換えると、権力は党によってのみならず労働者階級全体によって実際に行使されるべきだということ、を信じた。
 彼らは決して国家民主政への回帰を擁護したのではなく、たわいもなくつぎのように空想した。ソヴィエト体制は、大多数、とくに農民と知識人、に関するかぎりで民主主義的生活様式を廃止したあとで、特権をもつ少数派、つまりプロレタリア-トのそれ(民主主義的生活様式)を維持することができる。
 別の反対派集団は、党の外部ではなく、党内部での民主主義を復活させることを望んだ。官僚機構の力の増大、全ての職の任命システム、および党内議論の減少や空虚な儀式のための選挙に異議を申し立てたのだ。//
 このような夢想家(Utopian)的批判は、ある程度はスターリン死後の共産主義体制の中で感じることとなる「危機的な」傾向を予期させた。すなわち、党の外部にではなく内部に民主主義が覆うべきだとの主張。あるいは、権力は全プロレタリア-トまたは労働者評議会によって、もちろん社会のそれ以外の者たちによってではなく、行使されるべきだとの主張。
 しかしながら、こうした考え方とは別に、初めの数年間に新しい範型の共産主義が出現した。それは、ある意味では、アジア的農民の必要と利益を反映する毛沢東主義(Maoism)の先行型だった。
 この傾向を作りだしたのは、民族的にはバシュキール(Bashkir)、職業は教師の、ミール-サイト・スルタン-ガリエフ(Mir Sayit Sultan-Galiyev)だった。
 この人物は十月革命のすぐ後にボルシェヴィキになっており、ソヴィエト同盟のムスリム(Muslim、イスラム教)圏域内からの数少ない知識人の一人だった。そして早々に、中央アジア民衆に関する専門家だと認められた。
 しかしながら彼は、ソヴェト体制はイスラムの民衆のいかなる問題も解決せず、彼らを別の形態の抑圧に従属させるだけだ、と考えた。
ロシアで独裁的権力を握った都市プロレタリア-トはブルジョアジーに劣らずヨーロッパ人で、やはりムスリム民衆には異邦人だ。
 時代の根本的な対立は発展諸国のプロレタリア-トとブルジョアジーの間にではなく、植民地または半植民地の民衆と産業化した世界全体の間にある。
 ロシアでのソヴィエト権力はこれら民衆を解放するために何もできないばかりか、恒常的な抑圧をし始め、赤旗のもとで帝国主義政策を追求するだろう。
 植民地民衆は、全体としてのヨーロッパの覇権に反対して結束し、自分たちの党とボルシェヴィキのそれから自立したインターナショナルを創設し、そして、ロシア共産主義に対するのと同様に西側の植民地主義者と闘わなければならない。
 彼らはイスラム教の伝統に反植民地イデオロギーを結びつけ、一党システム、および軍事力に支えられた国家組織を創出しなければならない。
 スルタン-ガリエフは、このような基本綱領にもとづいて、ロシアの党とは別にムスリムの党を結成し、そして独立のタタール=バスク国家を設立しようすらした。
  彼のこの運動は、レーニンのイデオロギー、ボルシェヴィキ党およびソヴィエト国家の利益と対立するものだとして、すみやかに抑圧された。
スルタン-ガリエフは1923年に党から除名され、外国の諜報機関の工作員だとして投獄された。これはおそらく、このような理由で責任追及がなされた最初の事例だろう。これはのちにはこのような場合の日常仕事になり、卓越した党員に対して一様になされていった。
 彼は、のちの大粛清(the great purge)の時代の間に処刑された。そして、その考え方は忘れ去られた。
 1923年6月の演説でスターリンは、スルタン-ガリエフは汎イスラムや汎トルコ的考えを理由としてではなく、トゥルキスタン(Turkestan)のバスマチ(Basmach)とともに党への反抗を企てたことを理由として逮捕された、と語った。
 このエピソードは、スルタン-ガリエフの考えとのちの毛沢東の教理または「毛主義的社会主義」範型との間の驚くべき類似性を説明するために記憶しておく価値がある。//
 党またはプロレタリア-トのために民主主義を擁護する反対派集団に関して言うと、これらは急速にかつ一斉に、レーニン、トロツキー、スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフを含む党指導者によって粉砕された。
 1921年の党第11回大会は、分派集団形成を禁止すること、それへの加入党員を除名する権限を中央委員会がもつことを宣言した。 
 党の一体性の擁護者が指摘したように、つぎのことはじつに明瞭だった。すなわち、一党制のもとでの党内部の別々の諸集団は、必然的にかつてそれぞれの党派を形成していた全ての社会諸勢力の代弁者になる。ゆえに、かりに「分派(fractions)」が許容されるならば、事実上は多党制になるだろう。
 避けがたい結論は、専制的に支配している党それ自体が専制的に支配されなければならない、ということだ。そして、社会一般の民主主義的諸制度を破壊しておいて、党内部でそれを持ち続けようと考えるのは愚かだ、ということだ。労働者階級全体の利益については尚更だ。//
 にもかかわらず、官僚機構の手中にある受動的な装置へと党が変わっていく過程は、国家の内部で民主主義諸制度が破壊されていくよりも、長くつづいた。そして、1920年代の遅くまではまだ完了していなかった。
 1922-23年には党内での専制(tyranny)の増大に抵抗する強い潮流があった。そして、誰も、それを抑圧するのにスターリンほど長けているとは思っていなかった。
 病気で衰えていたレーニンに伝わる情報を首尾よく統御し、スターリンは、ジノヴィエフとカーメネフの助けを借りて、かつ権力からトロツキーを系統的に排除して、党を支配した。
 トロツキーは、その弁舌の才能と内戦勝利の立役者としての栄光にもかかわらず、早い段階で地位を失った。
 もしすればソヴェト権力の原理と矛盾していたのだろうが、彼は党の外部で見解を発表しようとは敢えてしなかった。このことが、政治生活の唯一の活動源だった党の官僚機構をトロツキーに反対するように動員することを容易にした。
 トロツキーは最後の段階でボルシェヴィキ党に加入し、古い党員たちから信用されていなかった。また、過度の修辞や横柄で傲慢な挙措も嫌われていた。
 スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフは巧みに、あらゆるトロツキーの欠点を衝いた。メンシェヴィキだったという過去、労働者の軍事化(スターリンならば決してこのような専制的言葉遣いをしなかった政策)への渇望、ネップに対する批判、レーニンとの古い論争、およびレーニンはかつて自分を捏造で陥れたとの責任追及。
 トロツキーは、軍事部人民委員および党政治局員として、まだ力があるように思われた。
 しかし、1923年までに彼は、孤立し、無援になっていた。
 彼の昔の心変わりの全てが、自分に向けられてきた。
 自分が置かれている状況に気づくに至ったとき、党の官僚機構化と党内民主主義の抑圧を攻撃した。
 引き降ろされた共産党指導者の全てに似て、トロツキーは権力から排除されるや否や民主主義者(democrat)になった。
 しかしながら、スターリンとジノヴィエフがつぎのように主張するのは、容易なことだった。
 トロツキーの民主主義感情と党官僚制に対する非難は最近のことだ。そればかりか、彼自身が権力をもっていたときは、他の誰よりも極端に専制的だった。さらには、党の「一体性」を守るのを支持してその動きを始めたのだ。-レーニンの政策とは逆に-労働組合を国家の統制のもとに置き、経済全体を警察の強制力に従属させることを望んだ。等々。
 後年になってトロツキーは、かつて支持した「分派」禁止の政策は永久の原理ではなくて例外的な手段と考えてのものだった、と主張した。
 しかし、そうだったとする証拠はない。また、その政策自体に、一時的なものだったと示唆するものは何もない。 
 つぎのことは、記しておいてよいかもしれない。すなわち、ジノヴィエフは、トロツキーを非難することではスターリン以上に激しい熱情を示した-彼を拘禁することに賛成した一つの段階-ということであり、およびそれによって、排除された二人の指導者が遅れて見込みなく、勝利した政敵に対して力をかき集めようとしたときに、スターリンに有用な防御手段を提供した、ということだ。
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 第3節、終わり。第4節「一国社会主義」へとつづく。

1780/スターリン・権力へ②-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第3節の p.14~p.18。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇②。
 この時期にスターリンは民族問題に関する専門家として、自己決定は「弁証法的に」理解されなければならない(換言すると、それ以外ではなく党のスローガンに適応したものとして用いられなければならない)という旨を演説した。
 1918年初頭のソヴェトの第三回大会で彼は、適正に言えば自己決定とは「大衆」のためのもので「ブルジョアジー」のためのものではない、それは社会主義を目ざす闘いに従属しなければならない、と説明した。
 その年に公表した論文では、ポーランドとバルト諸国の分離は、これらの国々は革命ロシアと革命的西欧との間の障壁を形成するだろうから、反革命の動きであって帝国主義者の手中に嵌まる、と強調した。
 他方で、エジプト、モロッコまたはインドの独立を目ざす闘争は、帝国主義を弱体化することを意図しているので進歩的な現象だ、と。
 これら全ては完全に、レーニンの教理および党のイデオロギーと合致していた。
 分離主義運動は、ブルジョア政権に対して向かっていれば進歩的だ。しかし、ひとたび「プロレタリア-ト」が権力を手中にすれば、民族的な(national)分離主義は自動的にかつ弁証法的に、そのもつ意味を変化させる。それはプロレタリア国家、社会主義、そして世界革命に対する脅威なのだから。
 その定義からして社会主義は、民族的抑圧を行うはずがない。そうして、侵攻だと見えるものは、実際には解放のための行為なのだ。-例えば、スターリンの命令によって赤軍がジョージアの中へと進軍したときのように。ジョージアにはその当時(1921年)、代表制民主政体にもとづくメンシェヴィキ政府が存在していたのだが。
 こうしたことにもかかわらず、決して取り消されなかった民族自決権(自己決定権)というスローガンは、内戦でのボルシェヴィキの勝利に大きく貢献した。白軍の司令官たちは包み隠さず、自分たちの目的について、革命前の領土を少しも失うことなく一つで不可分のロシアを復活させることだ、と述べていたのだ。//
 スターリンがしたことはトロツキーのそれで覆い隠されているけれども、彼は内戦で重要な役割を果たした。
 この二人が対立する起源は、疑いなくこの時期にさかのぼる。この時期に、個人的な嫉妬と非難のし合い-誰が最もツァリツィン(Tsaritsyn)での勝利に貢献したのか、ワルシャワの前の敗北は誰の過ちによるのか、等々-があった。//
 スターリンは1919年に、労農監察部(the Workers' & the Peasants' Inspectorate)の人民委員になった。
 すでに述べたように、官僚制の侵入からソヴェト体制を守ろうとするレーニンの絶望的で見込みなき企てを、この組織は代表した。
 「純粋な」労働者と農民から成る監察部は、国家行政の他部門全てに対して監督する無制限の権限をもった。
 状況を改善するどころか、事態をさらに悪くした。この監察部には民主主義的な仕組みが欠けていたので、これはたんに大官僚組織に一列を付け加えたにすぎなかった。
 しかしながらスターリンは、これを利用して諸組織に対する自分の力を強化した。そして疑いなく、人民委員の地位にあったことは、彼が最高権力者へと昇りつめるのを助けることになった。//
 この段階で、独自性はなくとも重要な考察をしておくべきだろう。
 のちに党の歴史全体がスターリンの命令によって彼自身を称揚するために書き直されたとき、彼は若いときからレーニンの「副司令官」だったと叙述された。あるいはむしろ、自分をそう示そうとした。
 全ての活動分野で、スターリンは指導者、第一の組織者、同志の鼓舞者、等々だった。
 (党の質問で、彼は革命活動を行ったことが理由で放校になったと主張した。しかし、疑いなく彼はそこにいた間の禁じられた主題を議論してしまった。実際には、試験に出席することができなかったために追放された。)
 この狂熱的な考え方によると、彼はレーニンの最も親密な腹心で、党が創立されたまさにその瞬間からの助手だった。彼の輝かしい指導のもとで、コーカサスの幼なかった社会主義運動は成長した。そしてのちには、全党が疑問の余地なくスターリンをレーニンの正当で自然な後継者だと考えた、等々。
 彼は、革命のための頭脳、内戦の勝利の設計者、ソヴィエト国家の組織者だった。
 ベリア(Beriya)が創作した偉人伝では、1912年はロシアの党史上の、ゆえにまた人類史上の転換点として選び出された。スターリンが中央委員会委員になったのはまさにその年だったのだから。//
 他方で、トロツキーやスターリンを厭う理由をもつ他の多くの共産党員は、ボルシェヴィキの歴史でのスターリンの役割を何とか貶め、狡猾さと好運とが混じり合って階段の頂上へと昇りつめた二級の<党官僚(apparatchik)>と描写しようとした。その階段から踏み外させるのは不可能だと分かっていたのだった。//
 このような見方もまた、真実だと受け止めることはできない。
 確かなことは、スターリンは1905年以前には目立たない地方活動家で、より高く評価されて、より重要な役割を果たした者は彼の出身地域に多数いた、ということだ。
 にもかかわらず、1912年までには、6人または7人の著名なボルシェヴィキ指導者の一人になっていた。そして-トロツキー、ジノヴィエフあるいはカーメネフに比べると知られてはいなかったし、誰もレーニンの「当然の」後継者だとは考えていなかったけれども-、レーニンの晩年には、党を支配する小集団の中にいた。
 そしてレーニンが死んだとき、彼は理論上ではなく実務上だが、その国の誰がもつよりも大きな権力を保持していた。//
 我々には現在用いることのできる資料から、スターリンの同志たちは革命の前からすら、のちに病的な圧制者となった彼の性格に気づいていた、ということが分かっている。
 いくつかは、レーニンの「遺言」で記述された。
 スターリンは粗暴(brutal)で、不誠実で、我が儘で、野心家で、嫉妬深く、反対者に非寛容で、部下たちにとっては専制君主だった。
 彼がボルシェヴィキの「古い保護者」を全て一掃してしまうまでは、誰も真面目に哲学者だとか理論家だとかは思っていなかった。この点から見ると、トロツキーやブハーリンだけではなくて、党の主なイデオロギストたちの方が、スターリンよりも勝れていた。
 彼の論文、小冊子や演説には何も独自性がなく、それらの意図をきちんと伝えていない、ということを誰もが知っていた。マルクス主義理論家ではなく、数百人も他にいる党宣伝者(propagandist)の一人だったのだ。
 もちろんのちに、「人格カルト〔個人崇拝〕」の興奮状態の中で、彼が執筆した一片の紙切れも、マルクス=レーニン主義の財産に不朽の貢献をしたものになった。
 しかし、理論家としての全ての名声は命じられた儀礼の一部にすぎず、それは彼の死後たちまちに忘れ去られた、ということは完璧に明らかだ。
 スターリンのイデオロギー的著作が政治的に名声を求めることのない人物によって書かれたものであったとすれば、マルクス主義の歴史で言及するにほとんど値しなかっただろう。
 しかし、彼が権力を握っている間は、それ以外にマルクス主義の焼き印(ブランド)の付いたものは稀にしかなかった。また、この当時のマルクス主義は、彼の権威との関連でしかほとんど明らかにすることはできない。したがって、四半世紀にわたってスターリンが偉大なマルクス主義理論家だったと言うのは、本当のことであるばかりか、実際には、同義反復(トートロジー)だ。//
 いずれにせよ、スターリンは党に有用な多くの性質をもった。頂点にまで達して対抗者を排除したのは、偶然にのみよるのではなかった。
 彼は疲れ知らずの、目聡い、そして有能な活動家だった。
 実際上の諸問題に関して、教理的な考察を軽視し、論点の相対的な重要性の程度を明確に見分ける方法を知っていた。
  彼は(ヒトラーが侵攻してきた最初の数日を除いて)パニックに陥らなかったし、達成することしか頭にはなかった。
 また、見せかけの権力と実際の権力を区別することも巧かった。
 演説は下手で文章は退屈だったが、平易に喋ることができたので、ふつうの党員たちの心を掴んだ。そして、繰り返しや要点の番号振りをする衒学的な習癖は、提示した言葉(exposé)は力強くて明瞭だとの印象を与えた。
  彼は部下たちに威張りちらしたが、うまく彼らを使うことができた。
 党員、外国の新聞記者あるいは西側の政治家のいずれであれ、違う対話者に応じて異なるやり方で適応する術を知っており、プロレタリア-トの根本教条のために立ち向かう果敢な闘争者の役割を、あるいは国家にとって無意味ではない「親分」の役割を演じることができた。
  彼は、全ての成功を自分の栄誉として受け取り、全ての失敗を他者の責任として追及することのできる、類い稀な才能をもっていた。
 スターリンが確立するのを助けた体制によって、自分は僭政者になることができた。
 しかし、彼はその所期の成果を収めるべく長く懸命に仕事をした、ということは言っておかなければならない。//
 スターリンの有能さと組織する力を、レーニンは疑いなく評価していた。
 ときにはレーニンに同意しなかったが、危機にあるときにはつねにレーニンを守った。
 幹部級のボルシェヴィキの多くとは違って、「知識人的な」学習をしておらず、それについてレーニンは平気ではおれなかった。
 スターリンは淡々とした性格で、困難で下品な仕事をするのを気に懸けなかった。
 そして、遅れて見方を変えて、レーニンは自分が権力の頂部へと昇らせてい人物が危険だと気づいたけれども、スターリンがその敵対者に対して応答した言葉にはいく分かの真実がある。
 彼の敵対者たちが最後になってレーニンの「遺言」を書類庫から引っ張り出し、スターリンに反対する証文として使ったとき、スターリンはこう言った。
 そのとおり、レーニンはかつて私は粗暴だと責めた。そして、革命に関するかぎりは、私は粗暴<である>。-しかし、レーニンは一度でも、私の政策は過っていると言ったか?
 これには、反対者は答えることができなかった。//
 1922年4月にスターリンが党の総書記(the Secretary-General)になったのはレーニンの個人的な選抜だった、ということを疑う根拠はない。そして、他の指導者たちの誰かがこの指名に反対した、という証拠資料はない。
 トロツキーがのちにつぎのように明確に述べたのは、全く本当のことだ。
 この職を創設してスターリンをその地位に就かせることが彼がレーニンの継承者になることを意味するとは、誰も考えなかった。総書記の地位にある者は実際にはソヴェトの党と国家の最高支配者になるだろう、とも。
 全ての重要な決定は、まだ中央委員会政治局によって行われており、その諸決定は人民委員会議という媒介物を経て、国家を動かしていた。  
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 段落の途中だが、ここで区切る。③へとつづく。

1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /3.The Breakdown.
 この本の邦訳書はない。
 試訳を続行する。第1章第2節までは、すでに掲載を済ませている。
 同第3節p.9~p.14。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇①。
 ボルシェヴィキ指導者の大半とは違って、のちの全ロシアの共産党の指導者は、プロレタリアでなかったとしても、いずれにせよ民衆の一人だった。
 ヨゼフ(ヨシフ、Yosif)・ジュガシュヴィリ(Dzhugashvili)は、ジョージアの小さな町であるゴリ(Gori)で1879年12月9日に生まれた。
 父親のヴィッサリオン(Vissarion)は靴作りの大酒飲みで、母親は読み書きができなかった。
 ヴィッサリオンはティフリス(Tiflis)に移り、靴工場で仕事をして、1890年にそこで死んだ。
 彼の息子はゴリの教区学校に5年間通い、1894年にティフリスの神学校への入学を認められた。この学校は実際のところ、コーカサスでは彼のような社会的条件の有能な若者がより上級の教育を受けることのできる唯一の学校だった。
 正教の神学校は同時に、ロシア化するための機関だった。しかし、多くのロシアの学校のように、政治不安の温床でもあった。ジョージア愛国主義はそうした学校で花咲き、ロシア本域からの多くの被追放者によって、社会主義思想が流布された。
 ジュガシュヴィリは社会主義集団に加入し、神学から得ていたかもしれない関心を全て失い、試験に出席しなかったことで1899年の春に追放された。
  神学校を背景とすることの痕跡は、のちの彼の著作に認めることができる。聖書からの引用があり、のちのプロパガンダとうまくつながる教理問答的文体への好みがあった。
 彼は論文や演説で、回答の中で言葉通りに反復する質問を設定する癖をもっていた。
 彼はまた、個々の考え方や叙述にそれぞれ番号を振ることによって、自分の論文が理解されやすいようにした。//
 神学校での生活以降、スターリンはジョージアにある多様で初歩的な社会主義集団とかかわった。
 ロシア社会民主党は、まだ存在していなかった。1898年のミンスク(Minsk)集会で、設立に向けた正式決議がなされていたけれども。
 1899-1900年の数ヶ月の間、彼はティフリスの地理観測所の事務員として働き、その後、合法と非合法の両方の、政治活動かつプロパガンダ活動に完全に専念した。
 彼は1901年から、秘密のジョージア社会主義者新聞である<闘争(Brdzola)>に論考を書き、労働者の間にプロパガンダを広めた。
 その年の終わり近くに、ティフリスでの党の仕事を指揮する委員会の一員になった。
  バトゥーム(Batum)での労働者の集団示威行動を組織したとして1902年4月に逮捕された。
 彼は、シベリアへの追放刑(流刑)を宣告されたが拘置所から(またはそこへ行く途中で)逃亡し、1904年の初めには再びコーカサスにいて、偽った名の新聞をもつ地下組織の構成員として活動した。
 その間に、社会民主党は第二回大会を開き、ボルシェヴィキとメンシェヴィキの両派に分裂していた。
 スターリンはすみやかにボルシェヴィキを支持することを宣言し、党に関するレーニンの考え方を支援する冊子と論考を書いた。
 ジョージア社会民主党はほとんどがメンシェヴィキで、その指導者は、最もすぐれたコーカサスのマルクス主義者、ノエ・ジョルダニア(Noakh Zhordania)だった。
 1905年の革命の間とその後、スターリンはしばらく、全コーカサス地域を範囲とする職責をもつ党活動家としてバクー(Baku)で働いた。//
 しかしながら数年経って、彼はロシア本域のボルシェヴィキ活動家の一人となった。
 1905年12月のタンメルフォシュ(Tammerfors、フィンランド/タンペレ)での党大会に出席し、1906年には、ストックホルムでの「統一」大会に出席した唯一のボルシェヴィキとなった(そうできる彼の資格をメンシェヴィキは争った)。
 しかしながら、1912年までは、彼の活動の実際の舞台はコーカサスにあった。
 スターリンはタンメルフォシュで初めてレーニンと逢った。彼はレーニンの教理と指導性に、決して真剣に抗うことがなかった。
 しかしながらストックホルムでは、他の全ての問題についてはレーニンの側に立った一方で、党綱領はレーニンが主張する国有化ではなく土地の農民への配分を支持すべきだ、という路線を支持した。//
 この時期のスターリンの著作には、独自のものや記しておくに値するものは何もない。
 当時に生じていた話題に関するレーニンのスローガンを再現する、民衆むけのプロパガンダ的論考だけだ。 
 多くのスペースはメンシェヴィキに対する攻撃にあてられ、もちろん、カデット(立憲民主党)、「召喚主義者」(otzovoists)、「清算主義者」(liquidators)、無政府主義者(アナキスト)等に対する批判もあった。
 いかほどかの長さをもつ唯一の論文、<アナキズムかそれとも社会主義か?>は、1906年にジョージア語で発表された(1905年以降は彼はロシア語でも論考を書いた)。
 これは、社会民主党の世界観とその哲学的諸命題に関する不細工な作文にすぎなかった。//
 スターリンは1906-7年に党財政を充填させるための武装襲撃団である「収奪」の組織者の一人だった、ということが知られている。
 レーニンはこれに味方したが、この活動は1907年のロンドンでの第五回党大会で禁止され、非難された。
 しかし、ボルシェヴィキは、数ヶ月のちに大きなスャンダルを起こすまでは、この活動を実践し続けた。//
 近年に若干の歴史学者が、もともとはジョルダニアが、スターリンの死後は元のソヴィエト諜報機関の高官だったオルロフ(Orlov)が行っている、スターリンは1905年後の数年の間オフラーナ(Okhrana、帝制秘密警察)で仕事をしていた、という申し立てを検証した。
 しかし、この責任追及に有利な証拠は微少なもので、アダム・ウラム(Adam Ulam)やロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedyev)を含むほとんどの歴史家によって却下されている。//
 スターリンは、1908年と二月革命の間、ほとんどの時間を牢獄か追放先で過ごした。最後の期間(1913~1917年)を除いて、彼はそこからいつでも脱出した。
 彼は腕の利く堅固で疲れを知らない革命家だとの評価を獲得して、1907年後のひどい年月の間、党のコーカサス組織を守るために尽力した。
 ロシア内部の多くの他の指導者たちと同じく、彼は移住者(エミグレ、émigré)内部での理論上の議論や口論に強い関心を抱かなかった。
 スターリンはレーニンの<唯物論と経験批判論>について懐疑的な見方をしていた(のちには、哲学思想の最高の偉業だと絶賛した)、そして1910年の暗黒の日々の間にメンシェヴィキとの統一を回復しようと純粋に努力をした、という、ある程度の証拠はある。
 レーニンがメンシェヴィキとの分裂を明確にすべくプラハでの全ボルシェヴィキの大会を招集した1912年1月、スターリンは追放されてヴォログダ(Vologda)にいた。
 その大会は党の中央委員会を選出したが、レーニンの提案によってスターリンはのちにその構成員に選ばれた。かくして、全ロシアの政治舞台にデビューすることとなる。//
 ヴォログダから脱出したのち、スターリンはもう一回逮捕され、追放された。しかし、また逃亡した。
 1912年11月、生涯で初めてロシア国外に旅行をし、オーストリア領ポーランドのクラカウ(Cracow、クラクフ)で数日間をすごした。ここで、レーニンと逢う。
 彼はロシアに戻ったが、12月に再び国外に出た。今度はウィーン(Vienna)に6週間だった-これは外国の土を踏んでいた最長の期間になった。
 ウィーンで彼はレーニンのために「マルクス主義と民族問題」という論文を書き、雑誌<Prosveshchenie(啓蒙)>に1913年に発表された。そして、これは理論家としての名声を求める彼の最も初期の主張をなすもので、また彼の主要な見解の一つだ。
 この論文は、民族問題についてレーニンが語ったことに何も付け加えていない。但し、民族(nation)を単一の言語、領域、文化および経済生活をもつ共同体だと定義したこと以外には。-なお、こうして例えば、スイス(人)やユダヤ(人)は「民族」から除外される。
 この論文は、オーストリア・マルクス主義者、とくにシュプリンガー(Springer、レナー, Renner)とバウアー(Bauer)、およびブント(ロシア・ユダヤ人労働者総同盟)を攻撃するものとして執筆された。
 スターリンはロシア語とジョージア語だけを読めたので、ウィーンにいたときはたぶん、ブハーリン(Bukharin)がオーストロ・マルクス主義著作者からの引用文を選ぶのを助けていたのだろう。
 オーストロ・マルクス主義者は、民族の文化的自治という考えを個人による自己決定にもとづかせていた。これに対抗してスターリンは、民族の自己決定権と領域的な基礎にもとづく政治的分離を支持して論じた。 
 しかしながら、レーニンのように、彼が強調したのは、社会民主主義者は自分たち自身の国家を形成する全ての人民の権利を承認するけれども、それはあらゆる場合に分離主義を支持することを意味しはしない、ということだった。
 決定的な要因は労働者階級の利益であり、分離主義はしばしばブルジョアジーによる反動的なイデオロギーとして用いられるということを想起しなければならないのだ。
 こうした議論の全体は、もちろん、「ブルジョア革命」という前提のもとで行われた。
 トロツキーとパルヴゥスを除く当時の全ての社会主義者と同じく、スターリンは、ロシアは民主主義革命を経験し、その後の多年にわたりブルジョア共和国の支配が続く、と想定していた。
 しかし、その革命を起こすに際してプロレタリア-トは指導的な役割を果たさなければならず、ブルジョアジーの第二伴奏器であったり、ブルジョアジーの利益のためのたんなる従僕者であったりしてはならなかった。//
 民族問題に関する論文は、二月革命前にスターリンが執筆した最後のものだった。
 ウィーンから戻ったあとすぐの1913年2月に、彼はまたもや逮捕され、4年間の国外追放が宣告された。
 このときは逃亡しようとはせず、シベリアにとどまった。そして、1917年3月に再び、ペテログラードに姿を現した。
 レーニンが到着するまでの数週間、スターリンは事実上、首都の党の責任者だった。
 カーメネフとともに、<プラウダ>の編集部を所管した。 
 臨時政府およびメンシェヴィキに対するスターリンの姿勢は、いずれについても、レーニンのそれよりもはるかにより宥和的だった。そして、レーニンがスイスから送っている論文の調子を弱めたことで、レーニンの非難を受けるはめに陥った。
 しかしながら、レーニンのロシアへの帰還とその「四月テーゼ」の提示のあとは、少しは躊躇しつつ、「社会主義革命」とソヴェトによる政府のために活動する政策を受け入れた。
 対照的なことだが、ペテログラードにいた最初の数週間は、まだなお、「ブルジョア革命」、中央諸大国〔ドイツ帝国等〕との講和、大資産の没収、臨時政府の打倒を試みるのではなくそれに圧力を加える、といった趣旨のことを執筆していた。
 七月危機のあとで初めて、ペテログラードの党組織の会合で、スターリンはプロレタリア-トと貧農への権力の移行を明確に語った。
 このときに「すべての権力をソヴェトへ」とのスローガンは放擲された。ソヴェトは、メンシェヴィキとエスエルたちによって支配されていたのだ。
 十月革命の頃までに、スターリンは疑いなく、レーニン、(1917年7月に入党した)トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、スヴェルドロフおよびルナチャルスキーと並んで、党の主要な指導者の中に入っていた。
 我々が知るかぎりで、彼は蜂起をした軍事組織に参加していない。しかし、スターリンは、レーニンの最初のソヴェト政権で、民族問題担当のコミッサール(Commissar、人民委員)に任じられた。
 ブレスト=リトフスク条約をめぐって生じた党の危機の間は、ドイツとの革命戦争を押し進めるべきだとする「左翼のボルシェヴィキ」と対抗するレーニンを支持した。
 しかしながら、レーニンのように彼も、ヨーロッパ革命がいつの日にか勃発するだろう、ドイツとの講和の取決めは一時的な戦術的退却にすぎない、と考えていた。// 
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 ②へとつづく。
 下は、分冊版のLeszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. の第1巻と第3巻。
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1752/スターリニズムの諸段階②-L・コワコフスキ著1章2節。

 試訳の前回のつづき。分冊版第三巻、p.8-p.9。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /第三巻=3.The Breakdown.

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 第2節・スターリニズムの諸段階②。
 一方では、コミンテルンが、数年のうちにソヴィエトの外交政策と諜報の装置へと変質した。
 コミンテルンの政策は、適正であるかを問わず、国際状勢に関するモスクワの評価に合致するように揺れ動き、変化した。
 しかし、この変化は、イデオロギー、教理、あるいは「左翼」と「右翼」の違いとは、何の関係もなかった。
 例えば、ソヴィエト同盟の蒋介石やヒトラーとの協定、スターリンによるポーランドの共産主義者の虐殺、あるいはスペイン内戦へのソヴィエトの関与は、マルクス主義と合致するか、「左翼」または「右翼」政策を示すものだった。
 これら全ての動きは、ソヴィエト国家をどの程度強くするか、どの程度その影響力を増大させるか、に照らして判断することができる。しかし、それらを守るために付けられたいかなるイデオロギー上の根拠も、目的のために案出されたもので、イデオロギーの歴史上の意味はなかった。ソヴィエト国家の<存在理由(raison d'etat)>のための装置という役割を、いかに完全に辱めたかを示したこと以外には。//
 このように叙述したが、我々は、レーニン死後のソヴィエト同盟の歴史を三つの時期に区分してよい。
 第一は1924年から1929年で、ネップの時期だ。
 この時期には、私的商取引のかなりの自由があった。
 党の外にはもはや政治生活は存在しなかったが、指導者層の内部では純粋な論争と対立があった。
 文化は公的に統御されていたが、マルクス主義および政治的服従という制約の範囲内では、意見や討論の異なる諸傾向が許されていた。
 「真の(true)」マルクス主義の性格に関する討議は、まだ可能だった。
 一人の人物の独裁は、まだ制度化されていなかった。そして、社会のかなりの部分-農民、あらゆる種類の「ネップマン」-は、経済の観点からすると、まだ完全には国家に依存していなかった。
 第二の時期は、1930年から1953年のスターリンの死までで、個人的な専制、ほとんど完璧な市民社会の絶滅、恣意的な公的指示への文化の服従、そして哲学とイデオロギーの国家への編入、を特質とする。
 第三の時期は1953年から現在〔秋月注・この著刊行は1976年〕に至るまでで、我々が適正に考察すべき、それ自身の特質をもつ。
 どの特定のボルシェヴィキ指導者が権力をもつかは、一般的に言って、大して重要ではない。
 トロツキストは、むろんトロツキー自身は、彼が権力から排除されたことが歴史的な転換点だったと考える。
 しかし、これに同意できる根拠はないし、我々が見るだろうように、「トロツキズム(トロツキー主義)」なるものは存在しておらず、これはスターリンが考案した、空想の産物だった。
 スターリンとトロツキーの間の意見不一致は、現実に、ある程度まで存在していた。しかしそれは、個人的権力を目ざす闘争によって粗大に誇張されたもので、決して、二つの独立した、明瞭な理論にまで達するものではなかった。
 このことは、ジノヴィエフとトロツキーの間の論争についてもっと本当のことであり、のちのジノヴィエフとトロツキー対スターリンの対立についてもそうだった。
 ブハーリンおよび「右翼偏向者」とのスターリンの対立はより実質的だったが、それもなお、原理に関する論争ではなく、手段と、それを実行に移す行程表に関する論争にすぎなかった。
 1920年代の工業化に関する論議にはたしかに、工業と農業に関する実際的な決定に関して、したがって数百万人のソヴィエト民衆の生活に関して、大きな重要性があった。しかし、根本的な教理上の論争だと、あるいはマルクス主義またはレーニン主義の「正しい(correct)」解釈をめぐるものだと理解するのは、大袈裟すぎるだろう。
 全てのボルシェヴィキ指導者たちは、例外なく、問題に対する態度を急進的に変更したのであって、理論が明瞭に一体になったものだと、あるいは基本的なマルクス主義の教理の諸変形だと、トロツキー主義、スターリニズム、あるいはブハーリン主義を語るのは、無意味だ。
 (この問題に関して、イデオロギーに関する歴史家は、それ自体は二次的な、理解の仕方に関心をもつ。彼には、数百万の民衆の運命よりも教理上の立場の方がもっと重要なのだ。
 これはしかし、客観的な重要性のある問題ではなく、たんに職業上の関心物にすぎない。) 
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 第2節は終わり。

1750/スターリニズムの諸段階①-L・コワコフスキ著1章2節。

 試訳の前回のつづき。分冊版第三巻、p.5-p.8。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /第三巻=3.The Breakdown.

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 第2節・スターリニズムの諸段階①。
 全ての時代を諸段階に分かつのは、ソヴィエト歴史学者の一つの熱狂心(マニア、mania)だ。
 しかし、とくに境界の画定がイデオロギー上の根拠にもとづいている場合には、その手続をとるのは正当なことだ。//
 スターリニズムはたんにソヴィエトのではなく世界的な現象だったので、その多様な姿は、ロシアの国内政治や党派的対立の観点からだけではなく、コミンテルンおよび国際的ボルシェヴィズムの観点からも考察しなければならない。
 しかしながら、各時期を相互に関連づけること、したがってまた、その術語方法には、困難がつきまとう。
 トロツキストや元共産党員は、ソヴィエト史を「左翼」段階と「右翼」段階に区別する習癖がある。
 1917年直後の、内戦と世界革命の希望で占められた時期は「左翼主義」だとされ、世界全体での「資本主義の一時的な安定」を党が承認したネップ(N.E.P)という「右翼主義」の時期が続くとされる。
 そして、1928-29年の「左翼への揺れ(swing)」が到来し、党はこの安定は終わったと宣言する。
 「革命の潮目」がもう一度始まり、社会民主主義は「社会ファシズム」だとして非難され、闘争相手になる。そして、ロシアは、民衆の集団化と強制的産業化を視ることになった。
 この段階は、ファシズムに対する人民戦線のスローガンのもとで「右翼主義」政策が採用された1935年に終わった、と考えられている。
 これらの連続した変化は、ロシアの指導者層の間の党派的かつ個人的な内部闘争と関連していた。
 スターリン、ジノヴェフおよびカーメネフによる支配は、トロツキーの政治的排除へと至った。
 ついで、ジノヴェフとカーメネフは、ブハーリン、リュコフおよびトムスキーのために追放された。
 そして1929年にブハーリンが追い出され、ボルシェヴィキ党の中での有効な意見不一致は終わりを迎えた。//
 しかしながら、このような年代史的叙述は、「左翼」と「右翼」という語の曖昧でかつ恣意的な用い方を別に措くとしてすら、困難さに満ちている。
 概念用法に関しては、「社会ファシズム」のスローガンはなぜ「左翼」で、蒋介石(Chiang Kai-shek)との妥協の試みはなぜ「右翼」なのかは明確でない。
 あるいは、大規模の農民迫害がなぜ「左翼」で、政治目的のための経済的手段はなぜ「右翼」なのか。 
 もちろん、政治がテロルをより多く含んでいればいるだけ「左翼」的だということが前提にある、と言うことはできる。-この原理的考え方は今日でも頻繁に用いられており、しかも共産主義者の公刊物においてのみではない。そして、「左翼主義」という伝統的な観念によって何を意味させているのかを理解するのは困難だ。
 この点はさておき、コミンテルンの政策の変化とソヴィエト国内の政治やイデオロギーの異なる局面との間にいかなる相互連関があったのかは、明瞭でない。
 ヨーロッパの社会民主主義はファシズムの一部門だとのいわゆる「左翼主義者」の主張は、ジノヴィエフによって案出され、遅くともすでに1924年には通用していた。
 社会民主主義に対するコミンテルンの闘いは、ロシア農業の強制的集団化が考案されるよりもかなり前、1927年に強化された。
社会民主主義に対する反対運動を中止してそれとの同盟を繕い直す不細工な努力がなされた1935年には、ソヴィエト同盟ではすでに民衆の政治的抑圧の波が存在しており、新しい、より怖ろしい抑圧がまさに始まろうとしていた。//
 要するに、「左翼」や「右翼」という技巧的標識である用語によってソヴィエト同盟の歴史を提示するのは、意味のないことだ。それは、ある場合には、馬鹿げた諸結論を導く。
 政治局(Politboro)の変化を歴史的転換点だと解釈するのも、適切ではない。
 レーニンの死後の時期に、一定の政治的およびイデオロギー的特質が、着実により顕著になった。他のものは、状勢次第での重要なことに揺れ動いている間に。
 体制の全体主義的性格-すなわち、市民社会の破壊の進行、社会生活の全態様の国家による統合-は、1924年から1953年までの間、ほとんど遮られることなく増大した。そして、確実に、私的所有と取引への譲歩にかかわらず、ネップよって縮小することはなかった。
 我々が見たように、ネップ(N.E.P)は、軍隊と警察という手段によって経済全体を作動させるという政策からの退却であり、経済の破滅が切迫しているとの見込みによって余儀なくされたものだ。
 しかし、政治的対抗者に対するテロルの使用、党内部での厳正さや脅迫の増大、哲学、文筆、芸術そして科学に対する自立性の抑圧と強制の増大-これらは全て、ネップの全期間を通じて深刻化し続けた。
 こうした観点からは、1930年代は、レーニンが生きている間に彼の指令のもとで始まった過程を強化し、高めたものにすぎなかった。
 無数の犠牲者を出した農業の集団化は、まさしく、転換点だった。
 しかしこのことは、体制の性格の変化、あるいは「左翼への揺れ」をもたらしたがゆえにではない。そうではなく、それ〔農業の集団化〕が決定的な重要性のある一つの部門で、根本的な政治的かつ経済的な全体主義の原理を強要したのが理由だ。
 農業集団化は、ロシアのきわめて多数の社会階層から財産を完全に剥奪し、農業への国家統制をひとたび全てのために確立し、何らかの程度で国家から自立していた共同体(community)の最後の部門を絶滅させ、無制限の権力をもつ東方の総督カルト(oriental cult of the satrap)の基礎を築いた。そして、飢饉、民衆の虐殺、数百万の死という手段によって、民衆の精神(spirit)を破壊し、抵抗の最後の痕跡を消去した。
 これは、疑いなく、ソヴィエト同盟の歴史上の画期的なこと(milestone)だった。しかし、それは、その根本的な原理、すなわち国家が課したり規制したりしていない全ての形態の政治的、経済的および文化的生活の廃絶、を継続するもの、あるいは拡張するものだつた。//
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 ②へとつづく。

1749/スターリニズムとは何か②-L・コワコフスキ著3巻1章1節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 試訳の前回のつづき。分冊版第3巻、p.3-p.5。
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第1節・スターリニズムとは何か②。
 スターリニズムの歴史は、詳細な諸点に関しては議論があるにもかかわらず、広く知られていて、多くの書物で適切に叙述されている。
 この著のこれまでの二つの巻でのように、この著の主要な対象は、教理(doctrine)の歴史だ。
 政治の歴史は、その中でイデオロギーの生命が進展した大枠を示すに必要なかぎりで、簡単に叙述されるだろう。
 しかしながらスターリン時代では、教理の歴史と政治的事件の間の連環は、以前よりも密接だ。我々が研究しなければならない現象は権力の装置としてのマルクス主義を絶対的に制度化したもの(institutionalization)だからだ。
 まさに、この過程は早くから始まった。
 それは、マルクス主義は「党の世界観」でなければならない、言い換えれば、マルクス主義の内容は個々の局面での権力闘争の必要に応じて決定されなければならない、とするレーニンの考え方にまでさかのぼる。
にもかかわらず、レーニンの政治的な日和見主義は、一定範囲で教理上の考慮によって制限された。
しかし他方でスターリンの時代には、1930年代の早くから、ソヴィエト政権およびそれが行う全てのことを正当化し賛美する目的のために、教理は絶対的に従属した。
 スターリンのもとでのマルクス主義は、言明、考え、あるいは概念をいくら収集しても定義することができない。
 何がマルクス主義であり何がそうでないかを全ての時点で宣告することのできる、全権の権威が存在した、ということ以外には、前提命題に関する疑問はなかった。
 「マルクス主義」とは、多かれ少なかれ、問題についての権威、すなわちスターリンの現在の見解以外の何ものをも意味しはしなかった。
 例えば、1950年6月までは、マルクス主義者だということは、とりわけ、N・Y・マッル(Marr)の哲学理論を受け容れることを意味した。そして、その日以降は、その理論を完全に拒否することを意味した。
 何か特別の思想-マルクス、レーニン、あるいはスターリンのでも-が正しい(true)と考えるがゆえにマルクス主義者だったのではなく、至高の権威者がきょう、明日あるいは一年のあるときに宣告するだろうものを何であっても受け容れる心づもりがあるがゆえに、マルクス主義者だったのだ。
 こうした制度化と教条化の程度は以前は全く見られなかったもので、1930年代にその頂点に達した。しかし、明らかにその根源への痕跡は、レーニンの教理へとたどることができる。  
マルクス主義はプロレタリア政党の世界観であり道具であるので、「外部から」どんな異論が挟まれても、それを無視して、何がマルクス主義であり何がそうではないかを決定するのは党だ。
 党が国家および権力装置と同一視され、それは一人の人物の僭政のかたちをとって完全な一体性を達成するならば、教理は国家の問題になり、僭政体制は不可謬だと宣せられる。
 じつに、マルクス主義の内容に関するかぎり、スターリンは実際に不可謬<である>のだ。
 党はプロレタリア-トが発言する口としての権能をもって主張し、ひとたび一体化を達成した党は、独裁者たる人物に具現化される指導性を通じてその意思と教理を表現するのだから。
 このようにして、プロレタリア-トは歴史的に他の全階級とは対照的な指導階級であり、客観的な真実の所持者であるという教理は、「スターリンはつねに正しい(right)」という原理へと変形された。
 このことは実際、党を労働者運動の前衛だとするレーニンの考えと結びつけられたマルクスの認識論を歪曲するものでは全くない。 
 真理(truth)=プロレタリアの世界観=マルクス主義=党の世界観=党の指導者たちの声明=最高指導者の声明、という等号化は、レーニンのマルクス主義に関する理解の仕方と完全に合致していた。
 我々は、スターリンがマルクス=レーニン主義と名付けて洗礼を施したソヴィエト・イデオロギーの最終的表現が見出されるこの等式化の過程を、追跡するよう努めるだろう。
 スターリンは、二つの別々の教理があると意味させていただろうマルクス主義<および>レーニン主義ではなく、このマルクス=レーニン主義という語を選択した、ということは重要だ。
 この複合表現は、レーニン主義は-マルクス主義のレーニン主義ではない別の形態があるかのごとく-マルクス主義内部での独自の傾向ではなく、傑出した(par excellence)マルクス主義であり、マルクス主義を新しい歴史の時代に展開し適合させた唯一の教理だ、ということを意味させた。  
 現実に、マルクス=レーニン主義は、スターリン自身の教理にマルクス、レーニンおよびエンゲルスの著作から彼が選んで引用したものを加えたものだった。
 マルクス、レーニンあるいはスターリン自身のですら、これらから随意に引用する自由が、スターリン時代に誰にもあった、などと想定してはならない。
 マルクス=レーニン主義とは、独裁者がいま権威を与えている引用句でのみ成り立つもので、その教理に合致するようにスターリンは発表していたのだ。//
 スターリニズムはレーニン主義の本当の(true)発展形だと主張するが、私は、それでスターリンの歴史的重要性を過小評価するつもりはない。
 レーニンの後、そしてヒトラーの傍らに並んで、スターリンは確実に、第一次大戦以降のどの人物よりも、いま現にある世界を形成する多くのことをした。
 にもかかわらず、党と国家の単一の支配者になったのは他のいずれのボルシェヴィキ指導者でもなくスターリンだったということを、ソヴィエト体制の本質によって説明することができる。
 スターリンの個人的な性格は対抗者たちに勝利するのに大きな役割を果たしたが、それ自体はソヴィエト社会の基本路線を決定したのではない、との見解がある。この見解を支持するのは、スターリンはその初期の経歴の間ずっと、ボルシェヴィキ党の中の急進派に属していなかった、ということだ。
 また一方では、スターリンは穏健派的人物で、彼は党内部の論争においてしばしば、良識や慎重さの側に立った。
 要するに、僭政君主としてのスターリンは、その創設者以上にはるかに、党が創出したものだった。スターリンは、抗しがたく個人化されていく体制を人格化したものだった。//
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 第1節、終わり。次節の表題は「スターリニズムの諸段階」。

1746/スターリニズムとは何か①-L・コワコフスキ著3巻1章。

 もともとロシア革命等の歴史をもっと詳しく知っておこうと考えたのは、日本共産党(・不破哲三)が1994年党大会以降、レーニンは「ネップ」路線を通じて<市場経済を通じて社会主義への途>を確立したが、彼の死後にスターリンによってソ連は「社会主義を目指す国家」ではなくなった、レーニンは「正しく」、スターリンから「誤った」という歴史叙述をしていることの信憑性に疑いを持ち、「ネップ(新経済政策)」期を知っておこう、そのためにはロシア「10月革命」についても、レーニンについても知っておこうという関心を持ったことに由来する。元来の目的は、日本共産党の「大ウソ・大ペテン」を暴露しようという、まさに<実践的な>ものだった。
 不破哲三(・日本共産党)によるレーニン・「ネップ」理解の誤り(=捏造)にはとっくに気づいているが、最終の数回の記述はまだ行っていない。
 もともとはスターリン時代(この時代のコミンテルンを含む)に立ち入る気持ちはなかった。それは、日本共産党もまたスターリンを厳しく批判しているからだ。但し、以下のL・コワコフスキ著の第三巻の冒頭以降は、スターリンに関する叙述の中でレーニンとスターリンとの関係や「ネップ」に論及しているので、しばらくは、第三巻の最初からの試訳をつづけてみる。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第一章から第三章までの表題と第一章の中の各節の表題は、つぎのとおり。
 第一章/ソヴィエト・マルクス主義の第一段階/スターリニズムの開始。
  第1節・スターリニズムとは何か。
  第2節・スターリニズムの諸段階。
  第3節・一国での社会主義。
  第4節・ブハーリンとネップ・イデオロギー、1920年代の経済論争。
 第二章・1920年代のソヴィエト・マルクス主義における理論上の論争。
 第三章・ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 p.1~の第一章から。Stalinism は「スターリン主義」ではなく「スターリニズム」として訳す。なお、Leninism は「レーニニズム」ではなく「レーニン主義」と訳してきた(これからも同じ)。
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 第1節・スターリニズムとは何か①。
 「スターリニズム」という語が何を意味するかに関する一般的な合意はない。
 ソヴィエト国家の公式なイデオロギストたちはこの語を使ったことがなかった。一つの自己完結的な社会体制の存在を示唆するように見えるからだろう。
 フルシチョフ(Khrushchev)の時代以降、スターリン時代は何を目指していたかに関する受容された定式は、「人格(personality)のカルト」だった。そして、この常套句は、必ず二つの想定と関連づけられていた。
 第一は、ソヴィエト同盟が存在している間ずっと、党の政治は「原理的に」正しく(right)、健康的(salutary)だったが、ときたま過ち(errors)が冒され、その中で最も深刻だったのは「集団指導制」の無視だった、つまり、スターリンの手への無限の力の集中だつた、というものだ。
 第二の想定は、「過ちと歪曲」の主要な原因はスターリン自身の性格的な欠陥、すなわちスターリンの権力への渇望や専制的傾向等々にあった、というものだ。
 スターリンの死後、これら全ての逸脱はすみやかに治癒され、党はもう一度適切な民主主義的原理に適応した。そして、事態は過ぎ去った、ということになる。
 要するに、スターリンの支配は偶然の以外の奇怪な現象だった。そこには「スターリニズム」とか「スターリン主義体制」というものは全くなく、いずれにせよ、「人格のカルト」の「消極的な発現体」はソヴィエト体制の栄光ある成果とは関係なく消え去ったのだ。//
 こうした事態に関する見方は疑いなく執筆者やその他の誰かによって真面目には考察されなかったけれども、今日的用法上の「スターリニズム」という語の意味と射程に関しては、今なお論争が広く行われている。それは、ソヴィエト同盟の外に共産主義者の間にすらある。
 しかしながら、その考え方が批判的であれ正統派的であれ、上の後者〔外部の共産主義者〕は、スターリニズムの意味を、1930年代初期から1953年の死までのスターリンの個人的僭政の時期に限定する。
 そして、彼らがその時代の「過ち」の原因として非難するのはスターリン自身の悪辣さというよりも、遺憾だが変えることのできない歴史的環境だ。すなわち、1917年の前および後のロシアの産業や文化の後進性、ヨーロッパ革命を期待したという失敗、ソヴィエト国家に対する外部からの脅威、内戦後の政治的な消耗。
 (偶然だが、同じ理由づけは、ロシアの革命後の統治の堕落を説明するために、トロツキストたちによって決まって提出される。)//
 一方、ソヴィエト体制、レーニン主義あるいはマルクス主義的な歴史の図式を擁護するつもりのない者たちは、総じて、スターリニズムを多少とも統一した政治的、経済的およびイデオロギー的体制だと考える。それはそれ自体の目的を追求するために作動し、それ自体の見地からは「過ち」をほとんど犯さない体制だ。
 しかしながら、この見地に立ってすら、スターリニズムはいかなる範囲でかついかなる意味で「歴史的に不可避」だったのか、が議論されてよい。
 換言すると、ソヴィエト体制の政治的、経済的およびイデオロギー的様相は、スターリンが権力に到達する前にすでに決定されており、その結果としてスターリニズムだけがレーニン主義の完全な発展形だったのか?
 いかなる範囲でかついかなる意味で、ソヴィエト国家の全ての特質は今日に至るまで存続しているのか、という疑問もやはり、まだ残る。//
 用語法の観点からは、「スターリニズム」の意味を独裁者が生きた最後の25年間に限定するか、それとも現在でも支配する政治体制をも含むように広げるかは、特別の重要性はない。
 しかし、スターリンのもとで形成された体制の基本的な特質は最近の20年で変わったのかは、純粋に言葉の問題以上のものだ。そしてまた、その本質的な特徴は何だったのかに関する議論を行う余地も残っている。//
 この著者〔L・コワコフスキ〕も含めて、多くの観察者は、スターリンのもとで発展したソヴィエト体制はレーニン主義を継承したものだと、そしてレーニンの政治的およびイデオロギー上の原理にもとづいて創設された国家はスターリニズムの形態でのみ存続することができた、と考えた。
 さらに加えて、論評者は、狭い意味での「スターリニズム」、つまり1953年まで支配した体制は、スターリン後の時代の変化によっても本質的には決して影響をうけなかった、とする。
 これらの論点の第一は、これまでの各章で、ある程度は確証された。そこでは、レーニンは全体主義的教理および萌芽にある(in embryo)全体主義国家の創設者だ、と示された。
 もちろん、スターリン時代の多くの事件の原因は偶然だったり、スターリン自身の奇矯さだったりし得る。出世主義、権力欲求、執念、嫉妬、および被害妄想的猜疑心。
 1936~1939年の共産党員の大量殺戮を「歴史的必然」と呼ぶことはできない。
 そして我々は、スターリン自身以外の僭政者のもとではそれは生起しなかっただろうと想定してよい。
 しかし、典型的な共産主義者の見方にあるように、かりに大殺戮をスターリニズムの本当の「消極的」意味だと見なすとすれば、スターリニズムの全体が嘆かわしい偶発事だということに帰結する。-これが示唆するのは、傑出した共産党員たちが殺害され始めるまでは、共産主義者による支配のもとでは全てがつねに最善のためにある、ということだ。
 歴史家がこれを受容するのは困難だ。それは歴史家が党の指導者または党員ですらない数百万人の運命に関心があるということによるのみならず、特定の期間にソヴィエト同盟で発生した巨大な規模の血に染まるテロルは、全体主義的僭政体制の永遠の、または本質的な特質ではない、ということも理由としている。  
僭政体制は、個々の一年での公式の殺害者が数百万人と計算されるか、数万人とされるかに関係なく、また、拷問が日常の事として用いられていたのか、たんにときたまにだつたのかに関係なく、さらに、犠牲者は労働者、農民、知識人だけだったのか、あるいは党の官僚たちも同様だったのかに関係なく、力を持ったままで残っている。//
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 ②へとつづく。

1744/論駁者・レーニンの天才性②-L・コワコフスキ著第二巻の最終部分。

 以下の著の第二巻(部)および分冊版・第二巻の最終部分の試訳。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 三巻合冊版p.775-778、分冊版・第2巻p.524-527。
 第16章『レーニン主義の成立』(三巻合冊版p.661~、分冊版p.381~)から試訳を開始したので、三巻合冊版の総1283頁(参照文献等を含む)のうち118頁分、分冊版の総542頁(同上)のうち147頁分をいちおう訳出したことになる。
 しかし、重要な例外があって、「10月革命」以前の理論・哲学論争に関係する前者の約19頁分(ほぼ696~714頁)、後者の約24頁分(ほぼ424~447頁)は省略している。したがって、前者では99頁分/8%、後者では122頁分/23%だけしか、試訳ではあっても完了していない。
 L・コワコフスキはこの著をマルクス主義に関する「ハンドブック」つまり<手引き書>のごときものとして執筆したようで、詳細とはいえ、レーニンに関しても、メモ書き、要点列記という観の部分もある。
 それでもなお、全体(三巻合冊本)の1割も、試訳しながらの読書をしていないのだから、全三巻(全三部)にわたるマルクス主義の「主要潮流」に関するコワコフスキの叙述の幅広さ、論評・叙述の対象としている人物・「思想」群の多さ、そしていずれにせよ<凄まじさ>を感じざるを得ない。いずれかの機会に、対象としている人物数、読破しているとみられる全文献数を探ってみたいと感じている。とはいえ、各巻末尾の参照文献の列挙も<選択的(selective)…>と題されているので、上に関する正確な数はきっと誰にも、いつかにでも、判明しないのだろう。
 なお、この著は1970年代の後半に、つまりソ連解体の15年前には執筆・公刊され、英米語版も刊行されていたことを、あらためて追記しておく。
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 第18節/論争家としてのレーニン・レーニンの天才性②。
 (つづき)
 ストルーヴェは1913年に、<経済価格> と題する本を公刊した。その中で彼は、マルクスの意味での価値(value)は、価格(price)とは独立(independent)に、形而上の非経験的な範疇であって、不適切だ(superfluous)、と論じた。
 (これは新しい考えではなく、コンラッド・シュミット以降から多くの批判がなされていた。)
 レーニンは、つぎのような言葉で論評した。
 『どのようにすれば人は、この最も「過激な」方法をきわめて薄っぺらいと呼ばずにおれるだろうか?
 数千年もの間、人類は、交換の現象における客観的法則の働きに気づいてきた。それを理解して最大限度に精細に表現しようと試みてきた。経済生活についての数百万、数億の数の日々の観察による説明によって、それを吟味してきた。
 しかるに突然に、時流にのった職業-引用文を収集するそれ(私はほとんど郵便切手の収集と言ってしまった)-の時流にのった一人の代表者が出現して、「これら全てを捨て去る」。「価値は、幻影(phantom)だ」と言う。』
 (<再び粉砕される社会主義>、1914年3月。全集20巻200頁〔=日本語版全集20巻206頁〕。)
 レーニンは、説明をこうつづける。
 『価格は、価値の法則を宣言したものだ。
 価値は、価格の法則だ。換言すると、価格の現象の一般化された表現だ。
 ここで「独立性」を語るのは、科学を嘲弄するもの(mockery)だ。』
 (同上、201頁〔=日本語版全集同上207頁〕。)
 そして、こう締めくくる。『科学から法則を排除することは、実のところは、宗教の法則をこっそり持ち込むことだ。』
 結論はこうだ。『ストルーヴェ氏は、このような粗雑な方法によって、読者を欺き、自分の反啓蒙主義を隠蔽することができると、本当に考えているのか?』
 (同上、202頁・204頁〔=日本語版全集同上209頁・211頁〕。)
 これは、レーニンによる反対者の取り扱いの、典型的な例だ。
 ストルーヴェは、価値は価格とは独立には計算することができない、と言った。レーニンは、独立性を語るのは科学の嘲弄だと言う。
 本当の議論にするという試みはなく、冗漫な言葉と誤用の大波の中へと溺れている。//
 しかしながら、レーニンは人々や事件に対する純粋に技術的で道具的な姿勢から自分自身を除外しなかった、ということは繰り返しておくべきだ。
 彼は、個人的な利益のことを考えなかった。
 例えばトロツキーとは異なり、彼は決して<気取り屋(poseur)>ではなく、劇場的な振舞いに熱を上げることはなかった。
 レーニンは、革命の道具だと自分のことを見なし、自分は正しい(in the right)と揺るぎなく確信していた-そう確信していたので、政治上の対抗者たちに一人で又はほとんど一人で立ち向かうことを怖れなかった。
 彼は、神は、あるいはむしろ歴史は、自分の唇を通じて語ると固く信じていたことにおいて、ルター(Luther)に似ていた。
 彼は、例えばツィンマーヴァルト(Zimmerwald)でレデブール(Ledebour)がした、レーニンは自らを外国で安全にしたままでロシアの労働者に血を流すことを呼びかけている、という非難を、侮蔑心をもって却下した。
 レーニンの観点からは、このような批判は馬鹿げていた。彼が外国から指揮を執るのは、革命にとって利点だったのだから。
 ロシアの状勢のもとでは、国外逃亡者がいなければ、革命は起こり得なかっただろう。
 いかなる場合についても、誰も、レーニンの個人的な臆病さを責めることはできないだろう。
 彼は、最も重い責任を請け負うことができた。そしてつねに、どんな論争についても明確な態度を採った。
 レーニンは、たしかに正当(right)に、権力を奪取することを怖れていた他の全ての社会主義者集団の指導者たちを非難した。
 他の指導者たちは、歴史の法則を信頼することがより安全だと考えた。
 しかし、怖れなかったレーニンは、最大の賭けを行い、そして勝利した。//
 なぜ、レーニンは勝利したのか?
 確実なのは、彼が適正に(correctly)事態の推移を予見したのが理由ではない、ということだ。
 彼の予言や推測はしばしば間違っていて、ときどきはそれが明白だった。
 1905年の敗北の後、彼は長い間、もう一度の蜂起が切迫している、と信じた。
 しかしながら、革命の潮目が引き、反動的状勢下で長い年月にわたる活動をしなければならないことが分かったとき、彼は情勢からただちに、全ての推論を導いた。
 1912年にウィルソンが合衆国の大統領に選出されたとき、レーニンは、アメリカの二党制度は社会主義運動に<直面して(vis-a-vis)>破産している、と宣告した。
 1913年に彼は、アイルランド民族主義は労働者階級では死に絶えていると、断定的に述べた。
 1917年の後、彼はいつの日かのヨーロッパ革命を期待し、かつテロルを手段としてロシアの経済を作動させることができると考えた。
 しかし、彼の誤った判断の全ては、革命運動への期待を強くし、現実にそうだったよりも早く革命を宣言する方向へと導いた。
 レーニンの観点からは、それらは、好運な過ちだった。彼が1917年10月に武装蜂起を決意したのは、誤った評価のみにもとづいていたのだから。 
自分の過ち(mistakes)によって、彼は革命の可能性を完璧に利用することができた。そして、それが彼の勝利の原因だった。
 レーニンの天才性(genius)とは、予見の天才性ではなく、権力を奪取するために用いることのできる全ての社会的エネルギーを所与の瞬間に集中させる、そして彼と彼の党の力の全てをその一つの目的のために従属させる天才性だ。
 目的に関するレーニンの堅固さなくして、ボルシェヴィキが成功したとは考え難い。
 彼がいなければ、ボルシェヴィキは、ドゥーマをボイコットする政策を重大な時限以上に延長させていただろう。
 ボルシェヴィキだけで権力を確保する武装蜂起という冒険を、冒さなかっただろう。
 ブレスト=リトフスク条約に署名することはなかっただろう。
 そして、最後の時点では、新経済政策(the New Ecconomic Policy)を採択しなかったかもしれなかった。
 重大な諸状況では、レーニンは、党に対して暴力(violence)を用いた。そしてその結果として、彼の根本教条が党を覆い尽くした。
 我々が今日に知る世界の共産主義は、真に(truely)、彼の作品(work)だ。//
 レーニンもボルシェヴィキも、革命を「作った(made)」のではない。
 世紀が変わって以降、「歴史の法則」はその崩壊の態様を定めてはいなかったけれども、専制体制が不安定な状態にあったことは明らかになっていた。
 二月革命は、多数の要素が同時に発生したこと(coincidence)によるものだった。すなわち、戦争、農民の困窮、1905年の記憶、リベラルたちの策略、協商国からの支援、労働者階級の過激化。
 革命の過程が進展したとき、スローガンはソヴェト権力のそれで、十月革命を支持した者たちはボルシェヴィキ党のための権力ではなく、ソヴェトのための権力を要求した。
 しかし、「ソヴェトの権力」はアナキスト的夢想であり、大衆である民衆、無知で無学の人々のほとんどが永続する大量の隊列でもって全ての経済的、社会的、軍事的および行政的諸問題を決定するという社会を夢見たものだった。
 ソヴェト権力は打倒されていたとすら、ほとんど言うことができない。
 「共産主義者のいないソヴェト権力」というスローガンは、民衆の反ボルシェヴィキ一揆でしばしば用いられた。しかし、それは実際には、何ものをも意味せず、ボルシェヴィキはそのことを知っていた。
 ボルシェヴィキは、<ソヴェト政府>としての自分たちへの支持を取りつけることができ、単一の腕だけで統治する用意のある唯一の党だったときに革命のエネルギーを傾注することができた。//
 にもかかわらず、現実の革命の過程はソヴェトというよりはるかに、ボルシェヴィキ特有のものだった。そして、数年の間は、新しい社会の文化、雰囲気および習性は、ボルシェヴィキが最もよく組織された力(force)だが決して社会の多数派ではなかったことを反映した。
 革命は、ボルシェヴィキの<クー・デタ>ではなかった。そうではなく、労働者と農民のための本当(true)の革命だった。
 ボルシェヴィキだけが、彼ら自身の目的のために革命の手綱を握ることができた。
 彼らの栄光は、ただちに、革命にとっての敗北であり、ボルシェヴィキ的範型のですら、共産主義の理想にとっての敗北だった。
 レーニンは1922年3月の第11回(彼が最後に出席した)党大会で、尊敬すべき明瞭性をもって、前方にある危険を描写した。
 ツァーリ体制(帝制)時代から継承した文化に<直面する>共産主義者の弱さに関して、彼はこう語った。
 『かりに征服する民族が征服される民族よりも文化的であれば、前者は後者に対してその文化を押しつける。
 しかし、かりにその反対の場合には〔前者が後者よりも文化的でないならば〕、征服された民族が征服者に対してその文化を押しつける。
 ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国の首都で、これに似たことが発生しなかったか?
 4700人の共産主義者(ほとんど軍の一個師団全体で、彼らはみな最も優秀だ)が、外部者(alien)の文化の影響のもとに置かれなかったのか?
 なるほど、被征服者は高度の文化をもつ、という印象があるかもしれない。
 しかし、決してそうではない。
 彼らの文化はみすぼらしく(miserable)、とるに足らない。しかし、それでもまだ、我々の文化よりも高い次元のものだ。』(+)(*秋月注)
 (全集33巻288頁〔=日本語版全集33巻「ロシア共産党(ボ)第11回大会」のうち「ロシア共産党(ボ)中央委員会の政治報告/3月27日」294頁〕。)//
 これは、レーニンの、彼が生み出した国家に関する、最も透徹した観察の一つだ。
 「ブルジョアジーから学べ」というスローガンは、悲劇的でかつグロテスクな両方の方法で実践に移された。
 ボルシェヴィキは、多大な努力と部分的でしかない成功を伴いつつ、今でもまだしているように、資本主義世界の技術的な達成物を吸収することを始めた。
 苦労を少しも伴わないで、ボルシェヴィキは、急速にかつ完全に、ツァーリスト体制(帝制)の官僚制(chinovniks)の統治と行政の方法を採用した。
 革命の夢は、その体制の全体主義的帝国主義(totalitarian imperalism)を粉飾する、用語法上の残滓のかたちをとってのみ、生き延びた。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 (*秋月注) このL・コワコフスキが引用する1922年3月のこの文の直後につづく文章のいくつかを、日本語版全集33巻294頁から引用する。一部はひらがなを漢字に変えた。
 「それは、どんなに惨めで、みすぼらしかろうと、わが責任ある共産主義活動家の文化よりは、ましである。なぜなら、これらの活動家には、統治する能力が不足しているからである。機関の主長になっている共産主義者は、-<中略>-しばしばよい嬲り者にされている。こういうことを認めるのは、ひじょうに不愉快である。少なくともあまり愉快ではない。だが、いまはこれが問題の眼目であるから、このことを認めなければならない、と思う。」
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 以上で、第18章は終わり。第二巻(第二部)も終わり。  
 この本には、邦訳書がない。このことは、昨2017年の、私には最も衝撃的なことだった。
 なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。

1742/マルトフとボルシェヴィキ②-L・コワコフスキ著18章9節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.770-、分冊版・第2巻p.519-520。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第9節・ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ②。
 レーニンとマルトフの間の論争は、このようにして、それが始まった1903年の時点で終わった。
 マルトフが労働者階級の支配について語ったとき、彼は言ったことそのままを意味させた。一方、レーニンの見解では、放置された労働者階級はブルジョアのイデオロギーを産出することができるだけで、労働者階級に現実の力を与えることは、資本主義の復古に結局はなるだろう。
 レーニンが全く正当に(rightly)、1921年8月にこう書いたごとくだ。
 『「労働者階級の力にもっと信頼を!」とのスローガンは、今や実際には、1921年春のクロンシュタッタトによってまざまざと証明され、実演されたように、メンシェヴィキやアナキストの影響力を増大させるために使われている。』(+)
 (「新時代と新しい装いの古い過ち」、全集33巻27頁〔=日本語版全集33巻「新しい時代、新しい形をとった古い誤り」9頁〕)。
 マルトフは、国家が過去の全ての民主主義的諸制度を奪い取り、その視野を拡張することを望んだ。 
 レーニンの国家は、共産主義者がその国家の権力を独占するかぎりでのみ、共産主義的だった。
 マルトフは、文化的継続性があることを信じた。
 レーニンにとっては、ブルジョアジーから奪い取るべき「文化」はただ、技術力と行政の技巧だけだった。
 しかしながら、ボルシェヴィキはその観念体系のうちに物質的利益を求める堕落した大衆の飢餓を表現していると責め立てたとき、マルトフは誤った。
 このような見方は、革命の第一の局面を画した、大衆の略奪を原因としていた。
 しかし、レーニンも他のどのボルシェヴィキ指導者も、略奪は共産主義の原理の表現だとは見なしていなかった。
 反対に、レーニンは、労働生産力の増大が社会主義の優越性の証明印だ、と主張した。そして、全体的にではなくても主としては、社会主義をもたらす技術の進歩を信頼した。
 例えば、レーニンは、数十の地域的電力基地が建設されれば-しかしこれには、少なくとも十年はかかる-、ロシアの最も後進的部分ですら、妨害の段階なくしてまっすぐに社会主義へと進むだろう、と書いた。
 (<現物税(食糧税)>、1921年5月。全集32巻350頁〔=日本語版全集32巻「食糧税について」378頁〕。)
 実際、世界的な生産指標は社会主義の成功を根本的に証明するものだ、という考えを確立していたのは、ボルシェヴィキだった。
 むろん多くの言葉を用いてではなかったけれども、ボルシェヴィキは、生産者すなわち労働者共同体全体のために生活をより良くするかどうかに関係なく、生産の原理をそれ自体のために神聖視した。
 このことは、唯一のものではないけれども、至高の価値をもつものとしての国家権力のカルト(cult、狂熱集団)の重要な側面だった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 第9節は終わり。つづく第10節の表題は、「論駁家としてのレーニン。レーニンの天才性。」。

1741/江崎道朗と加藤哲郎・白井聡。

 L・コワコフスキはその大著の第二巻第10節の最初の第二文と第三文でこう書く。-そのうちに試訳全体はこの欄に掲載する予定だ。
 第二/レーニンの大量の著作の「読者は必ずや、彼の文体の粗暴さ(coarseness)と攻撃性に強い印象を受ける。それらは、社会主義の文献の中で、並び立つものがない。」
 第三/「レーニンによる論駁は、愚弄(insults)とユーモアの欠けた嘲笑(mockery)で満ちている。」
 コワコフスキの著に接しながら、またレーニン全集の文章の一部を読みながら、上とほとんど全く同じ感想をもつ。そして想う、こんな文章ばかりを何年も読んでいると、どういう人格・個性・心性の人間になってしまうのだろう、気の毒なことだ、と。
 そして同時に連想するのは、この欄で一度だけ取り上げた、そしてなおも掲載できる素材のある、白井聡という人物だ。つぎの本について、この欄ですでに触れた。
 白井聡・未完のレーニン(講談社選書メチエ、2007)。
 白井聡は、一橋大学の大学院の学生時代、ロシア原語で(極端にいうとだが)レーニンばかりを読んでいたように見える。その時代の論文が上の本の基礎だったはずだ。
 まだ若いはずだが、学界・アカデミズムの中ではともかく、「左翼」系の、又はある程度売れれば何でもよいと考える出版社・編集者の間ではある程度の「地歩」をすでに築いているように見える。
 将来に変わる見込みはなさそうでもあるので、この人にはいずれまた、論及したい。
 これも断定はし難いとは言え、おそらく間違いなく、一橋大学大学院での白井聡の指導教授だったのは、加藤哲郎だ。
 加藤哲郎は、この欄で本格的には言及した記憶はないが、1990年頃、つまり東欧・ソ連の「社会主義」激動期までずっと(いつからかは知らない)日本共産党員で、その頃に離脱したようだ(一昨年秋以降に収集した日本共産党関係の書物の年表がこの人物を含む数名を批判した旨のことを記載していた)。
 いうまでもなく、日本共産党員ではなくとも、あるいは「反」・「非」日本共産党であっても、共産主義者であることはあるし、「左翼」にとどまっていることもある(有田芳生はその好例だ)。そして、加藤哲郎は依然として、少なくとも「左翼」=容共ではあるだろう。
 加藤には、こんな本もある。
 加藤哲郎・ゾルゲ事件-隠された神話(平凡社新書、2014)。
 この加藤の本をつぎのように肯定的に評価し、二箇所の直接の引用で計13行を用い、二頁にわたる記述の基礎にしている書物がある。
 加藤の上の著は「ソ連崩壊後に公開された一次史料を使って、ゾルゲ事件についてこれまで知られていなかった新事実を紹介している」。
 そのとおりかもしれない。だが、加藤哲郎はいかなる関心からゾルゲ事件に関する探索をしたのだろうか。
 そのような検討や執筆者の政治的立場を全く考慮していないと見られる上の書物とはつぎで、該当頁もつぎのとおりだ。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.07)、p.387-9。 
 江崎道朗は自らを「保守」派だと、しかも「保守自由主義」者だと考えているようだ。但し、外国の「左翼」または共産主義者・当該国の共産党員による書物を一部でかつ何箇所も下敷きにして上の本を2017年夏に刊行していたとしても、驚く必要はない。

1739/全体主義者・レーニン③ーL・コワコフスキ著18章8節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.769-、分冊版・第2巻p.515-7。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第8節・全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン③。
 コムソモル(青年共産同盟)大会での、しばしば引用される1920年10月2日のレーニンの演説は、同様の考え方で倫理の問題を扱う。
 『我々は、道徳(morality)は全体としてプロレタリア-トの階級闘争の利益に従属する、と言う。<中略>
 道徳は、搾取する旧い社会を破壊し、新しい共産主義社会を樹立しているプロレタリア-トの周りの全ての労働大衆を統一することに、奉仕するものだ。<中略>
 共産主義者にとって、全ての道徳は、この団結した紀律と搾取者に対する意識的な大衆闘争のうちにある。
 我々は、永遠の道徳の存在を信じず、道徳に関する全ての寓話の過ちを暴露する。』
 (全集31巻291-4頁〔=日本語版全集31巻「青年同盟の任務(ロシア青年共産同盟第三回全ロシア大会での演説)」288-292頁〕。)
 党の意図に奉仕するかまたは邪魔となるかの全てのことは、それぞれに対応して道徳的に善であるか悪であるかだ、そして何も道徳的に善であったり悪であったりしない、という以外のいかなる意味にも、このような文章を解釈するのは困難だろう。
 権力掌握の後、ソヴェトによる支配の維持と強化は、全ての文化的価値のためと同じく道徳のための唯一の規準になる。
 いかなる規準も、権力の維持を導くようにみえる可能性のあるいかなる行為にも反対することはなく、そして他のいかなる根拠についても価値があることを承認することはできない。
 かくして、全ての文化問題は技術的問題になり、一つの不変の基準によって判断されなければならない。すなわち、『社会の善』は完全に個々の構成員の善から分け隔てられるようになる。
 例えば、ソヴェトの権力を維持するのに役立つことを示すことができても、先制攻撃(aggression)や併合を非難するのは、ブルジョア的な感傷(sentimentalism)だ。
 定義上は『労働大衆の解放』のために奉仕する権力の目標達成に役立つならば、拷問を非難することは、非論理的であり、偽善だ。
 功利主義的道徳や社会的文化的現象に関する功利主義的諸判断は、社会主義の本来の基盤をその反対物へと変形させる。
 ブルジョア社会で生じるならば道徳的な憤慨を呼び起こす全ての現象は、新しい権力の利益に奉仕するならば、マイダスの接触(the Midas touch)によるかのごとく、金へと変わる。
 外国への武力侵攻は解放であり、攻撃は防衛であり、拷問は人民の搾取者に対する高貴な憤激を表現する。
 レーニン主義の原理のもとでは、スターリン主義の最悪の年月の最悪の過剰で正当化され得ないものは、ソヴェトの権力がそれによって増大したということが示され得るとするだけでも、絶対に何一つない。
 『レーニン時代』と『スターリン時代』の間の本質的な相違は、レーニンのもとでは党と社会に自由があったがスターリンのもとではそれは粉砕された、ということではなく、ソヴィエト同盟の人民の全ての精神的な生活が普遍的な虚偽(mendacuity)の洪水によって覆い隠されたのはスターリンの日々においてだった、ということだ。
 しかしながら、これはスターリンの個性(personality)にのみよるのではなく、こう述べ得るとすれば、状況の『自然の』発展でもあった。   
レーニンがテロル、官僚制、あるいは農民による反ボルシェヴィキ蜂起について語ったとき、彼はこれらの事物をそれぞれの名前で呼んだ。
 スターリン主義独裁が開始されるや、党は(敵によって攻撃されていたが)その威信を汚すことになるような過ちを冒さなかった。ソヴィエト国家は無謬であり、政府に対する人民の敬愛は無限だ。
 政府に対する制度的統制のいかなる痕跡も消滅してしまった国家では、予め定められている原理の問題として、政府を唯一正当化するのはそれが労働人民の利益であり希望である、という意味において、この変化は、自然だった。
 このことは、世襲の君主制にあるカリスマ性や適正に選挙される体制とは異なる、正統性の一つのイデオロギー的形態と呼ばれてよいかもしれない。
 ウソ(the Lie)の全能性は、スターリンの邪悪さによるのではなく、レーニン主義の諸原理にもとづく体制を正当化する、唯一の方法だった。
 スターリンの独裁期につねに見られたスローガン、『スターリンは、我々の時代のレーニンだ』は、かくして、総体的に正確だった。// 
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 第8節は終わり。つづく第9節の表題は、「ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ」。なお、スターリンに関する叙述が以上で終わっているのではなく、彼にかかわる叙述は本格的には第三巻(第三部)の最初から始まる。

1738/全体主義者・レーニン②-L・コワコフスキ著18章8節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.768、分冊版・第2巻p.514-5。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第8節・全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン②。
 レーニンは、哲学を含むあらゆる領域について、不偏または中立の可能性を決して信じなかった。
 党に加入しようと望まず、自分を中立的だと宣する者はみな、隠れた敵だった。
 革命のすぐ後の1917年12月1日に、レーニンはソヴェト農民代表者大会で、鉄道労働組合を攻撃して、こう語った。
 『毎分が時を刻み、異論や中立は敵に言葉を発することを許し、敵が確実に聴かれようと欲し、その聖なる権利のための闘争をする人民を急いで助けることがなされていない、そのような革命的闘争のときには、このような立場を中立と呼ぶことはできない。
 それは、中立ではない。
 革命的な者は、それを教唆(incitement)と呼ぶだろう。』(+)
 (全集26巻329-330頁〔=日本語版全集26巻「農民代表ソヴェト臨時全ロシア大会」のうち「ヴィクジュリ代表の声明についての演説/11月18日(12月1日)」333-4頁〕。)//
 政治、あるいは他のどこにでも、いかなる「中立者たち」も存在しない。
 レーニンが関係したいつのいかなる問題についても全て、彼に関心があるのは、それは革命のために、又はのちにはソヴェト政権のために、良いのか、悪いのか、のいずれなのか、だった。
 トルストイの死後の1910-1911年に書かれた、レーニンの四つの彼に関する小論は、その典型的な例だ。
 レーニンの中心的な主題は、トルストイ作品の「二つの側面」の存在だ。
 第一は、反動的で、夢想家(utopian)(道徳的完全さ、全ての者への慈悲、悪への無抵抗)。
 第二は、「進歩的」で、批判的(抑圧、農民への憐れみ、上層階級および教会の偽善等に関する描写)。
 トルストイの基本的考えの「反動的」側面は、反動者たちによって誇張されたが、「進歩的」側面は大衆を喚起させる目的のために「有用な素材」を提供するかもしれない。政治的闘争は、トルストイによる批判の視野よりもすでにかなり広くなっているけれども。
 レーニンの1905年の論考、『党組織と党出版物』は、ロシアでの書かれる言葉の奴隷化をイデオロギー的に正当化するために十年間使われたし、いまなおも使われている。
 政治文学についてだけそれは関係すると言われてきたが、しかし、そうではない。それは、全ての種類の著作に関係している。
 上の論考は、以下のような文章を含む。
 『非パルチザン〔無党派〕の作家は、くたばれ!
 文学上の超人は、くたばれ!
 文筆は、プロレタリア-トの共通の根本教条(cause)の一部にならなければならない。
 単一の偉大な社会民主党の機構の「歯車とネジ」は、労働者階級全体の全体として゜政治的意識をもつ前衛によって、作動し始める。』
 (全集10巻45頁〔=日本語版全集10巻「党組織と党出版物」31頁〕。) 
 このような官僚制的態度を嘆いているらしき「神経質な知識人」の利益のために、レーニンは、著述活動の分野では、機械的な同等化はありえない、と説明する。
 個人的な主導性、想像力等の余地は残されていなければならない。
 それでもやはり、文筆の仕事は党の仕事の一部でなければならず、党によって統制されなければならない。(*秋月注)
 もちろんこのことは、ロシアは当然の行程として言論の自由を享受する、しかし党の著述家の構成員はその著作で党の心性(mindedness)を示さなければならない、という前提のもとで、『ブルジョア民主主義』を目指す闘いの間に書かれた。
 他の場合と同様に、党が国家の強制装置を支配したときには、こうした義務は一般的になった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 (秋月注)この部分の趣旨の原文は、日本語版全集10巻32頁を参照。「新聞は種々な党組織の機関とならなければならない。文筆家はかならず党組織に入らなければならない」、という文もある。
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 ③へとつづく。

1737/英語版Wikipedia によるL・コワコフスキ①。

 2017年夏の江崎道朗著で「参考」にされている、又は「下敷き」にされている数少ない外国文献(の邦訳書)の執筆外国人についてネット上で少し調べていた。本来の目的とは別に、当たり前のことだったのだろうが、日本語版Wikipediaと英語版(おそらくアメリカ人が主対象だろうが、他国の者もこの私のようにある程度は読める)のそれとでは、記載項目や記述内容が同じではないことに気づいた。
 <レシェク・コワコフスキ>についての日本語版・ウィキの内容はひどいものだ。
 英語版Wikipediaの方が、はるかに詳しい。日本語版・ウィキの一部はこの英語版と共通しているので、日本語版の書き手は、あえて英語版の内容のかなり多くを削除していると見られる。あえてとは、意識的に、だ。
 なぜか。先に書いてしまうが、日本人から、レシェク・コワコフスキの存在や正確な人物・業績内容等に関する知識を遠ざけたかったのだと思われる。そういうことをする人物は、日本の「左翼」活動家や日本共産党員である可能性が高いと思われる。
 英語版Wikipedia によるL・コワコフスキ(1927.10.23~2009.07.17)を、以下に、冒頭を除き、日本語に試訳しておく。
 Wikipedia の記述が完全には信用できないものであることは、むろん承知している。また、今後に追記や修正もあるだろう。
 しかし、L・コワコフスキの名前自体がほとんど知られていない日本では、以下のような記述(しかも参照文献の注記つき)の紹介は無意味ではないと考える。
 なお、①ポーランドの1980年前後以降の「連帯」労働者運動(代表はワレサ/ヴァレンザ、のち大統領)に、L・コワコフスキが具体的な支援活動をしていたことを、初めて知った。
 ②末尾に、最近にこの欄で名前を出したRoger Scruton による追悼文(記事)のことがあり、興味深い。
 引用の趣旨の全体の「」は省略する。< >はイタリック体。ここでは、一文ごとに改行する。//は本来の改行箇所。注または参照文献はほとんど氏名・出所だけなので、挙げられる氏名のみを記す。
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 彼〔レシェク・コワコフスキ〕は、そのマルクス主義思想の批判的分析で、とくにその三巻本の歴史書、<マルクス主義の主要潮流>(1976)で最もよく知られている。
 その後の仕事では、コワコフスキは徐々に宗教問題に焦点を当てた。
 1986年のジェファーソン講演で、彼は『我々が歴史を学ぶのは、いかに行動しいかに成功するかを知るためではなく、我々は何ものであるかを知るためだ』と主張した。(3)//
 彼のマルクス主義および共産主義に対する批判を理由として、コワコフスキは1968年に事実上(effectively)ポーランドから追放された。
 彼はその経歴の残りのほとんどを、オクスフォードのオール・ソウルズ・カレッジで過ごした。
 この国外追放にもかかわらず、彼は、1980年代にポーランドで花咲いた連帯(solidarity)運動に対する、大きな激励者だった。そして、ソヴェト同盟〔連邦〕の崩壊をもたらすのを助けた。彼の存在は『人間の希望を呼び醒ます人物(awakener of human hope)』と表現されるにまで至る。(4)// 
 経歴(biography)。
 コワコフスキは、ポーランド、ラドムで生まれた。
 第二次大戦中のポーランドに対するドイツの占領(1939-1945)の間、彼は公式の学校教育を享受しなかった。しかし、書物を読み、ときどきの私的な教育を受け、地下にあった学校制度で、外部の学生の一人として、学校卒業諸試験に合格した。
 戦争の後、彼はロズ(Lodz)大学で哲学を研究した。
 1940年代の後半までに、彼がその世代の最も輝かしいポーランドの知性の一人であることが明確だった(5)。そして、1953年<26歳の年>には、バルシュ・スピノザに関する研究論文で、ワルシャワ大学から博士号を得た。その研究では、マルクス主義の観点からスピノザを分析していた。(6)
 彼は1959年から1968年まで〔32歳の年から41歳の年まで〕、ワルシャワ大学の哲学史部門の教授および講座職者として勤務した。//
 青年時代に、コワコフスキは共産主義者〔共産党員〕になった。
 1947年から1966年まで〔20歳の年から39歳の年まで〕、彼はポーランド統一労働者党の党員だった。
 彼の知性の有望さによって、1950年〔23歳の年〕にモスクワへの旅行を獲得した(7)。そこで彼は、実際の共産主義を見て、共産主義は気味が悪い(repulsive)ものだと知った。
 彼はスターリン主義(スターリニズム)と決別し、マルクスの人間主義(humanist)解釈を支持する『修正主義マルクス主義者』となった。
 ポーランドの10月である1956年の一年後〔30歳の年〕に、コワコフスキは、歴史的決定論を含むソヴィエト・マルクス主義に関する四部からなる批判を、ポーランドの定期刊行誌・<新文化(Nowa Kultura)>に発表した。(8) 
ポーランドの10月十周年記念のワルシャワ大学での公開講演によって、ポーランド統一労働者党から除名された。
 1968年〔41歳、「プラハの春」の年)のポーランドの政治的危機の経緯の中で、ワルシャワ大学での職を失い、別のいかなる学術関係ポストに就くことも妨げられた。(9)//
 彼は、スターリン主義の全体主義的残虐性はマルクス主義からの逸脱(aberration)ではなく、むしろマルクス主義の論理的な最終の所産だ、との結論に到達した。そのマルクス主義の系譜を、彼は、その記念碑的(monumental)な<マルクス主義の主要潮流>で検証した。この著は彼の主要著作で、1976-1978年に公刊された。(10)//
 コワコフスキは次第に、神学上の諸前提が西側の思想、とくに現代の思想に対して与えた貢献(contribution)に魅惑されるようになった。
 例えば、彼は<マルクス主義の主要潮流>を、中世の多様な形態のプラトン主義が一世紀後にヘーゲル主義者の歴史観に与えた貢献を分析することから始める。
 彼はこの著作で、弁証法的唯物論の法則は根本的に欠陥があるものだと批判した-そのいくつかは『マルクス主義に特有の内容をもたない自明のこと(truisms)』だ、別のものは『科学的方法では証明され得ない哲学上のドグマ』だ、そして残りは『無意味なもの(nonsense)』だ、と。(11)//
 コワコフスキは、超越的なものへの人間の探求において自由が果たす役割を擁護した。//
 彼の<無限豊穣(the Infinite Cornucopia)の法則>は究明の状態(status quaestions)の原理を主張するもので、その原理とは、人が信じたいと欲するいかなる所与の原理についても、人がそれを支持することのできる論拠に不足することは決してない、というものだ。(12)
 にもかかわらず、人間が誤りやすいことは我々は無謬性への要求を懐疑心をもってとり扱うべきだということを示唆するけれども、我々のより高きもの(例えば、真実や善)への追求心は気高いもの(ennobling)だ。//
 1968年〔41歳の年〕に彼は、モントリオールのマクギル(McGill)大学で哲学部門の客員教授になり、1969年にカリフォルニア大学バークリー校に移った。
 1970年〔43歳の年〕に彼は、オクスフォードのオール・ソウルズ・カレッジで上級研究員となった。
 1974年の一部をイェイル大学ですごし、1984年から1994年までシカゴ大学の社会思想委員会および哲学部門で非常勤の教授だったけれども、彼はほとんどをオクスフォードにとどまった。//
 ポーランドの共産主義当局はポーランドで彼の諸著作を発禁にしたが、それらの地下複写物はポーランド知識人の抵抗者の見解に影響を与えた。
 彼の1971年の小論<希望と絶望に関するテーゼ>(<中略>)は(13)(14)、自立して組織された社会諸集団は徐々に全体主義国家で市民社会の領域を拡張することができると示唆するもので、1970年代の反体制運動を喚起させるのに役立ち、それは連帯(Solidarity)へとつながった。そして、結局は、1989年〔62歳の年〕の欧州での共産主義の崩壊に至った。
 1980年代にコワコフスキは、インタビューに応じ、寄稿をし、かつ基金を募って、連帯(Solidarity)を支援した。(4)//
 ポーランドでは、コワコフスキは哲学者および思想に関する歴史学者として畏敬されているのみならず、共産主義(コミュニズム)の対抗者のための聖像(icon)としても崇敬されている。
 アダム・ミクニク(A. Michnik)は、コワコフスキを『今日のポーランド文化の最も傑出した創造者の一人』と呼んだ。(15)(16)//
 コワコフスキは、2009年7月17日に81歳で、オクスフォードで逝去した。(17)
 彼の追悼文(-記事)で、哲学者のロジャー・スクルートン(Roger Scruton)は、こう語った。
 コワコフスキは、『我々の時代のための思想家だった』。また、彼の知識人反対者との論議に関して、『かりに<中略>破壊的な正統派たちには何も残っていなかったとしてすら、誰も自分たちのエゴが傷つけられたとは感じなかったし、あるいは誰も彼らの人生計画に敗北があったとは感じなかった。他の別の根拠からであれば最大級の憤慨を呼び起こしただろう、そういう議論の仕方によって』、と。(18)//
 (3) Leszek Kolakowski. (4) Jason Steinhauer. (5) Alister McGrath. (6) Leszek Kolakowski.(7) Leszek Kolakowski.(8) -Forein News. (9) Clive James. (10) Gareth Jones. (11)Leszek Kolakowski. (12) Leszek Kolakowski. (13) Leszek Kolakowski. (14) Leszek Kolakowski. (15) Adam Michnik. (16) Norman Davis. (17) Leszek Kolakowski.(18) Roger Scruton.
 ----
 以上。

1736/全体主義者・レーニン①-L・コワコフスキ著18章8節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史にほとんど関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.766-7、分冊版・第2巻p.513-4。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第8節・全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン①。
 レーニンは、重要な実践的問題についてトロツキーよりもはるかに教理主義的(doctrinaire)ではなかったが、少なくとも二つの点では、自分自身の原理から逸脱した。
 第一に、労働組合は計画経済の遂行のためのみならず国家に対して労働者を守るためにも役割を果たす-本当の(true)マルクス主義の論理では、彼はトロツキーのようにこれは労働者階級が自分自身に対して自分自身を守るのであって馬鹿げたことだと以前には主張していたのだが-、と彼は認識していた。      
 第二に、国家は『官僚制的歪曲』を被っている、と認めていた。このことが彼の心理上の図式の中にどの程度入り込んでいたのか、は明らかではなかったけれども。
 階級利益の観点からは、表向きには、資本主義の官僚制は抑圧の道具であり、社会主義のそれは解放の道具だった。
 これら二つの問題についてドグマ(教条)を現実のために犠牲にすることができる、というのは、レーニンの常識に含まれていた。しかし、不運にも、何かをするには道理を分別するのが遅すぎた。
 どの場合でも、彼は、労働組合の自立性を擁護する一つの言葉ごとに、サンディカリズムの危険について十の言葉を発した。そして、より強くする以外に官僚制を解決する方策を持たなかった。
 党自身は社会全体では抑圧されていた自由な言論と自由な批判をすることのできる飛び地(enclave)だといういかなる幻想も、早くに消失する運命にあった。
 述べてきたように、レーニン自身は、党内部での徒党(派閥、clique)や論争は健康な徴候だとは決して考えなかった。
 召喚主義者(otzovist)や「革命思想や哲学思想の完全な自由」とのスローガンと闘っていた1910年にすでに、レーニンはこう書いた。
 『このスローガンは、全く日和見主義だ。
 全ての国々で、日和見主義者によってこの種のスローガンが社会主義政党の前に押し出されたが、実際にはこれは、ブルジョアジーの観念体系(イデオロギー)によって労働者階級を腐敗させる『自由』以外の何ものでもなかった。
 「思想の自由」(プレス、言論および信教の自由と読むべし)を、我々は、団結の自由とともに(党にではなく)<国家>に要求する。』(+)
 (「Vperyod 派」、1910年9月、全集16巻270頁(=日本語版全集16巻「『フペリョード』の分派について」288頁〕。)
 もちろんこれは、ブルジョア国家に論及したものだ。
 いったん国家の権威が党のそれと同一視されると、批判する自由に適用する論理は、明らかに、両者について同じでなければならない。
 党の<画一化(Gleichschaltung)>にはより長く要したが、しかしともに不可避のことだった。
 問題は、1921年3月の第10回党大会で、原理的に解決された。レーニンの分派主義および「諸見解の色合いを研究するという贅沢」に対する攻撃、そして『我々は偏向(deviation)に関する討議をすることはできない、それを中止しなければならない』という彼の言明によって。(+)
 (全集32巻177-8頁〔=日本語版全集32巻「ロシア共産党(ボ)第十回党大会」のうち「ロシア共産党(ボ)中央委員会の政治活動についての報告/3月8日」184頁・185頁〕。)
 レーニンの死後数年間は、党内部に、あるいはむしろ党の諸機関の内部に、グループや「プラットホーム」を公然と形成することを完全に阻止するのは、不可能だった。
 しかし、まもなく、純粋な又は想像上の「偏向」は、国家の制裁的な腕力によって処理された。そして、統一(単一性、unity)という理想は、警察の手段でもって達成された。//
 しかしながら、レーニンの教義とそれに伴う思考のスタイルが全体主義システムの基礎を築いた、と言い得るとすれば、それは、テロルの使用や公民的自由の弾圧を正当化するために引き合いに出された諸原理を理由とするものではない。
 ひとたび内戦が開始されるや、テロリズムという極端な手段が両方の側から期待されることとなる。
 体制を維持し、強化するための公民的自由の廃絶は、つぎのような原理によってでなくしては、達成することはできない。すなわち、全ての活動-経済的、文化的等-は完全に国家に従属しなければならない。体制への反逆行為は禁じられて仮借なく罰せられるのみならず、いかなる政治的行為も「中立的」ではなく、個々の市民は国家の目的の範囲に入らないいかなることもする権利を持たない。市民は国家の所有物であり、そのようなものとして取り扱われる。
 これら諸原理をツァーリ帝制ロシアから受け継ぎ、はるかに強い程度の完成物となったソヴィエト体制は、この点で、やはりレーニンの作品(work)でもあった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 ②へとつづく。

1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史にほとんど関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.766-7、分冊版・第2巻p.511-2。
 <>はイタリック体=斜体字で、書名のほか著者=L・コワコフスキによる強調の旨の記載がとくにある場合があるが、その旨の訳出は割愛する。
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 第7節・独裁に関するトロツキー②。
 国家は、もちろん、労働大衆の利益のために組織されている。
 『このことは、しかし、最も優しいものから極端に苛烈なものまで、全てのその形態での強制(compulsion)の要素を排除する、というものではない。』
 (同上〔トロツキー・<テロリズムの擁護>〕、122頁)
 新しい社会では、強制は消失しないだけではなく、本質的な役割を果たすだろう。
 『まさに強制的な労働奉仕の原理は、共産主義者にとって、全く疑問の余地がない。<中略>
 <原理と実践の両方の見地からして>適正な(correct)経済的苦難の唯一の解決策は、全国の民衆を必要な労働力の供給源(reservoir)として取り扱うことだ。<中略>
 この強制労働役務の原理自体が、生産手段の社会化が資本主義の財産権に取って代わるにつれて、自由な雇用という原理と<過激にかつ永遠に>入れ替わったばかりのものだ。』
 (同上、124-7頁)
 労働は、軍事化されなければならない。
 『我々は<中略>、経済計画にもとづく社会的に規制された労働によって、資本主義的奴隷制に対抗する。その労働は、全民衆にとって義務的で、その結果としてこの国のいずれの労働者にも強制的なものだ。<中略>
 労働の軍事化の基礎になるのは、それなくしては社会主義者による資本主義経済の置き換えが永久に空響きのままにとどまるだろう、そういう形態での国家による強制だ。<中略>
 軍隊を除くいかなる社会組織も、プロレタリア-ト独裁の国家がしていることやすることを正当視されるような、そういう方法で市民を服従させることで、そしてそのような程度にまで、全ての側面についてその意思によって自ら自分たちを統制させることで、自らの正当性が証明されるとは考えてこなかった。』
 (同上、129-130頁)
 『我々は、経済的な諸力や国の資源を権威的に(authoritative)規制すること、および総括的な国家計画と整合して労働力を中央によって配分すること以外によっては、社会主義への途を見出すことができない。
 労働者国家は、全ての労働者をその労働を必要とする場所へと送り込む力をもつことを、正当なことと考える。』
 (同上、131頁)
 『若き社会主義国家は、より良き労働条件を目ざす闘争のためにではなく-これは全体としての社会組織や国家組織の任務だ-、生産の目標へと労働者を組織するために、そして研修し、訓練し、割り当て、グループ化し、一定の範疇と一定の労働者を固定された時期にその職にとどめておくために、労働組合を必要とする。』
 (同上、132頁)
 締め括れば、『社会主義への途は、最高限度に可能な国家の原理の強化の時期を通じて存在すしている。<中略>
 国家は、それが消滅する前には、プロレタリア-ト独裁の形態を、言い換えると、全市民の生活を権威的にあらゆる方向で抱きとめる(embrace)、最も容赦なき形態の国家の形態をとる。』
 (同上、157頁)//
 これ以上に平易に物事を述べるのは、本当に困難だろう。
 プロレタリア-ト独裁の国家は、市民の生活全ての側面に対する絶対的権力を政府が行使し、どの程度働くべきか、どのような性質の仕事をすべきか、何という場所で働くべきか、といったことを政府が詳細に決定する、そのような巨大で永続する集中〔強制〕収容所(concentration camp)のようなものとして、トロツキーによって叙述されている。
 個人は、労働の単位でしかない。
 強制は普遍的なものだ。そして、国家の一部ではないいかなる組織も国家の敵、したがってプロレタリア-トの敵であるはずだ。
 これら全ては、もちろん、理想的な自由の王国の名目のもとでのことだ。それの到来は、歴史的な時間の不確定の経過のあとに予期されている。
 我々は、こう言ってよい。トロツキーは、ボルシェヴィキたちによって理解されている社会主義の諸原理を完璧に表現している、と。
 しかしながら、我々は、マルクス主義の観点からすると、労働者の自由な雇用に何が取って代わるとされるのかに関しては、まだ明瞭には語られていない。-マルクスによると、労働者の自由な雇用とは、一人の人間が市場で労働力を売らなければならないので、換言すると自分を商品と見なし、かつそのようなものとして社会によって取り扱われるので、奴隷制の一つの目印だ。
 かりに自由な雇用が廃止されれば、人々を仕事へと導いて富を生み出す唯一の方法は、物理的な強制であるか、または道徳的な動機づけ(仕事への熱狂)だ。
 後者はもちろん、レーニンとトロツキーの両者によって褒め讃えられた。しかし、彼らはすぐに、それに依存するのは作動力の永遠の根源のごとく荒唐無稽なことだ、と知った。
 ただ強制だけが、残された。-生活費を稼ぐ必要にもとづく資本主義的な強制ではなく、苛酷な物理的力(force)にもとづく、投獄、肉体的な損傷、そして死への恐怖にもとづく強制だった。//
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 以上で、第7節は終わり。次の節の表題は、「全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン」。
 下は、分冊版・第二巻の表紙/Reprint, 1988年/Oxford。
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1733/独裁とトロツキー①-L・コワコフスキ著18章7節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.763~、分冊版・第2巻p.509~。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第7節・独裁に関するトロツキー①。
 カウツキーの次の冊子、<テロリズムと共産主義>は、同じ表題をもつ書物で、トロツキーによって回答された。
 その英語訳書は、<テロリズムの擁護(defence)>として、1921年に刊行された。
 この含蓄のある著作は、レーニンの諸発言よりも、ある程度においてはより断固たるものですらある。
 党に関するレーニンの理論は一人の人間の僭政を導くだろうと1913年に予見したトロツキーは、1920年までに上の理論へと完全に変えられた。
 彼の冊子は、権力の内部にいるときに書かれているが、プロレタリア-ト独裁のもとでの国家に関する最も一般的な解説を含んでいるものとして、ゆえにまた、全体主義システムと言われるに至ったものに関する最も明瞭な説明を含んでいるものとして、記しておくに値する。
 確かに、その冊子は内戦およびポーランドとの戦争の間に書かれている(後者についてトロツキーは、『我々は勝利を望む、なぜなら我々にはそうする全ての歴史上の権利(historical right)がある』と、驚くべき無邪気さで語る)。
 しかし、それは明らかに、一般的理論であろうとしている。
 トロツキーの従前の演説からの数多くの引用は、その時点の真っ只中での彼のテーゼをたんに強調したにすぎないものではないことを、示している。
 彼はレーニンと同じように、プロレタリア-ト独裁に関する一般理論を提示する。
 ブルジョア民主主義は、欺瞞だ。
 階級戦争での重要な論点は、投票によってではなく、実力(force)によって決せられる。
 革命のときには、正当な路線は権力を目ざして闘うことであって、愚かしくも『多数派』を待つことではない。
 テロルを拒絶することは、社会主義を拒絶することだ(目的(end)を意図する者は手段(method)を意図しなければならない))。
 議会主義諸制度には全盛期があったが、それらは主として中間諸階層の利益を反映するもので、革命の時期に重要なのは、プロレタリア-トとブルジョアジーだけだ。
 『法の前の平等』、公民権等々に関する話は、現今では、精神的な(形而上学上の、metaphysical)たわ言にすぎない。
 憲法制定会議(the Constituent Assembly)を解散させたのは、正しかった(right)。
 選挙制度が事態の急速な推移に追い抜かれていた、そして、その会議は人民の意思を代表していなかったのだ、との理由だけでもかりにあったとすれば。
 人質を射殺したのは、正当だった(right)(<戦場では戦争のように振る舞う>)。
 プレスの自由は、階級敵とその同盟者、メンシェヴィキおよびエスエルたち、を助けるものなので、許容され得なかった。
 『真実(truth)』や誰が正しいのかを語るのは、無益だった(idle)--これは、学問上の議論ではなく、死に至らせる戦闘だったのだ。
 個々人の権利は、見当違いに馬鹿馬鹿しい(irrelevant nonsense)。
 そして、『我々について言えば、我々は、カント主義崇敬者や菜食主義クェイカー教徒たちの、人生の神聖性に関する贅言には、全く関心がなかった』(<テロリズムの擁護>60頁)。
 パリ・コミューンは、情緒的で人間主義的な躊躇を原因として、打倒された。
 プロレタリア-ト独裁では、党は、上訴に関する最高位の法廷でなければならず、全ての重要な案件に関する最終的決定権を持たなければならない。
 『プロレタリア-トの革命的な優越性は、プロレタリア-ト自身のうちに、明確な行動綱領と無謬の内部紀律をもつ党の、政治的な優越性を前提としている。』
 (同上、100頁)
 『ソヴェトの独裁は、党による独裁という手段によってのみ、可能になった。』
 (同上、101頁)//
 トロツキーは、しかしながら、レーニンが回避した又は無視した疑問に、答える。
 『一定の賢い人物たちは我々に、歴史発展の利益を表現するのはまさに貴方たちの党だ、ということの保証はどこにあるのか?、と問う。
 他の諸政党を破壊し又は地下に追いやって、貴方たちはそれで貴方たちとの政治的な競争を阻害し、その結果として貴方たちは、自分たちの活動路線を吟味(test)する可能性を失った。』
 トロツキーは、つぎのように答える。
 『こうした考えは、革命の推移に関する純粋にリベラル(liberal)な把握によって述べられている。
 あらゆる敵対が公然たる性格をもち、政治的な闘争が急速に内戦へと移行した時期には、支配する党は、メンシェヴィキ新聞のあるいは可能だった流通なくしても、活動方針を吟味するための十分に実質的な規準を持つ。
 ノスケ(Noske)は〔ドイツの〕共産党員たちを鎮圧した。しかし、彼らは成長する。
 我々はメンシェヴィキやエスエルたちを抑圧した。-そして、彼らは消滅した。
 これは、我々にとって十分な規準だ。』
 (同上、101頁)//
 これは、ボルシェヴィズムに関する、最も教示溢れる理論上の定式化だ。これによると、歴史上の運動または国家の『正しさ(rightness)』は、その暴力(violence)の行使が成功するか否かによって決定されることになる。
 ノスケはドイツの共産党員たちを鎮圧することに成功しなかった。しかし、ヒトラー(Hitler)がそれをした。
 かくして、トロツキーの規則からはつぎのことが帰結するだろう。すなわち、ヒトラーこそが、『歴史発展の利益を表現した』。
 スターリンはロシアのトロツキー主義者たちを粛清(liquidate)した。そして、彼らは、消失した。-そう、明らかに、トロツキーではなくスターリンが、歴史の進歩の側に立った。//
 前衛党による統治の原理から、もちろん、つぎのことが導かれる。
 『労働組合の継続的な「自立性」は、プロレタリア革命の時期には、連立の政策と全く同じく不可能だ。
 労働組合は、権力をもつプロレタリア-トの、最も重要な経済機関になる。
 ゆえに、労働組合は、共産党の指導権に服する。
 労働組合運動における原理に関する諸問題のみならず、その内部にある組織に関する重要な論争は、我々の党の中央委員会が決裁する。<中略>
 (労働組合は、)ソヴェト国家の生産の諸機関だ。そして、その運命に関する責任を引き受ける。-そのことに抵抗するのではなく、それと一体化するのだ。
 労働組合は、労働紀律の組織者になる。
 労働組合は労働者たちに、最も困難な条件のもとでの最も集中的な労働を要求する。』
 (同上、102頁)//
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 ②へとつづく。トロツキー<テロリズムの擁護>はトロツキー選集類の中に邦訳がある可能性があるが、参照していない(少なくとも単著としての邦訳書はないようだ)。

1732/社会主義と独裁⑥-L・コワコフスキ著18章6節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとってきわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派はマルクス主義の内実と歴史にまるで関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。分冊版・第2巻p.507の途中~。
 一文ごとに改行し、本来の改行箇所には「//」を付す(これまでの試訳の掲載と同じ)。
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 第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁⑥。
1922年5月のD・I・クルスキーへの手紙で、レーニンはこう書いた。
 『裁判所は、テロルの障害物となってはならない。<中略>
 そうではなく、その基礎にある動機を定式化しなければならず、原理的に、やさしく言えばいかなる見せかけや粉飾もしないで、それを合法化〔legalize〕しなければならない。』(+)
 追記する刑法典の修正案の中で、レーニンはつぎのような表現<言葉遣い、wording>を提案した。
 『資本主義に取って代わっている共産主義所有制度の諸権利を承認することを拒み、外からの干渉と封鎖のいずれかによって、あるいは諜報活動、諸プレスへの資金援助その他同様の手段によって、この制度を暴力によって転覆しようと躍起になっている、そのような国際的ブルジョアジーの部門の利益に客観的には奉仕する(異文-奉仕するもしくは奉仕しがちな)プロパガンダまたは煽動宣伝〔agitation〕は、死刑を科しうる犯罪行為である。
 但し、この量刑を緩和する事情のあることが立証されれば、自由の剥奪または国外追放(deportation)に代えることがありうる。』(+)
 (sc. ロシア; vysylka za granitsuから。)(全集33巻358-359頁〔=日本語版全集33巻「デ・イ・クルスキーへの手紙」371-372頁〕。)
 レーニンは、ロシア共産党(ボ)の第十一回大会で、ネップ〔The N.E.P.、新経済政策〕は資本主義に向かう退却だ、これは革命のブルジョア的性格を証明する、と主張するメンシェヴィキとエスエルは、そのような言明をしているがゆえに銃殺〔shoot〕されるだろう、と宣告した。<*秋月注記>
 (同上282-3頁〔=日本語版全集33巻「ロシア共産党(ボ)第十一回大会」のうち「…中央委員会の政治報告/1922年3月27日」287頁〕。)//
 こうして、レーニンは、全体主義をたんなる専制体制と区別する諸立法の基礎を築いた。重要なのは、苛酷〔severe〕だということではなく、誤っている〔spurious〕、ということだ。
 法律は、とくに全体主義的であることなくして、小さな犯罪に対して龍のごとき〔draconic〕制裁を与えることがありうる。
 全体主義的な法に特徴的であるのは、レーニンが語るような定式の用い方だ。
 すなわち、「客観的にはブルジョアジーの利益に奉仕する」見解を表明するがゆえに、人民は処刑されうる。
 このことは、政府はその選ぶ誰をも死に至らしめることができる、ということを意味する。
 法などというものは、存在しない。刑法典が苛酷であるのではない。刑法典は、その名前以外には何も存在していないのだ。//
 すでに述べたように、これら全ては、党〔ロシア共産党〕がまだ十分には支配しておらず、ときには批判に答えなければならなかった時期に、生じた。
 レーニンがテロルの使用を求め、民主主義と自由の可能性を拒否していた、断定的で曖昧さのない諸定式は、逆説的に、自由はまだ完全には根絶やしにされていなかった、ということを明らかにした。
 党外部からの、党と論争する批判が存在しなかったスターリンの時代には、テロルの用語法は民主主義のそれに置き換えられた。
 とくにスターリンの後半年には、ソヴェト体制は、人民による支配と全ての種類の民主主義的自由の、至高の具現体だとして提示された。
 しかしながら、レーニンの時代の指導者たちは、この観念に対してプロレタリア-ト独裁は民主主義破壊を不可避的に伴うと強い異論を唱えるロシアおよびその他のヨーロッパ両方での社会主義者の批判に、回答しなければならなかった。
 その著<プロレタリア-トの独裁>(1918年)によるカウツキーのソヴェト体制に対する激しい攻撃は、レーニンからの激烈な回答を惹起した。
 <プロレタリア革命と変節者・カウツキー>(1918年)でレーニンは、ブルジョア民主主義はブルジョアジーの、プロレタリア民主主義はプロレタリア-トのためのものだという事実を意識的に曖昧にして、階級内容を無視して民主主義について語る無学者に対する攻撃を繰り返した。
 カウツキーは、マルクスが「プロレタリア-トの独裁」を語ったとき彼は心の裡では体制の内容を意識していて統治の方法をではなかった、と論じた。
 カウツキーの見解によれば、民主主義的諸制度は、プロレタリア-トの支配と両立する、それの前提かりではなく、その条件の一つだ。
 レーニンには、これら全てが呆けごと(ナンセンス)だった。
 プロレタリア-トは統治しているがゆえに、実力(force)によって統治しなければならない。そして、独裁とは、実力による統治なのであり、法による統治などではない。//   
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 <*秋月注記> 日本語版レーニン全集33巻287頁からこの部分の前後を引用すると、つぎのとおり(一部は抜粋・要約)。。1922年3月の党大会(ネップ導入決定後1年)での演説内容の一部だ。
 こういうときこそ『整然と退却すること、狼狽に陥らないで退却の限界を正確に決めることが、もっとも肝心』だ。
 『メンシェヴィキが「諸君はいま退却しているが、私はいつも退却に賛成だった。私は諸君と同意見だ。私は諸君の仲間だ。さあ、いっしょに退却しようと言うなら、われわれはこれにたいして彼に言おう。』
 『「メンシェヴィキを公然と表明する者には、われわれの革命裁判所は銃殺でこたえるにちがいない。
 もしそうしないとすれば、それはわれわれの裁判所ではなくて、なんだかわけのわからないものである」と。』//
 彼らはこれを理解できないで『「この連中はなんという独裁癖をもっていることだろう!」と言う。』
 われわれのメンシェヴィキ迫害は『彼らがジュネーブでわれわれと喧嘩したためだと、いまでも彼らは考えている。』
 そんな道をとっていたらわれわれは『二ヶ月と権力を持ちこたえることができなかった』だろう。
 『実際、オットー・バウアーも、第二インターナショナルや第二半インターナショナルの指導者たちも、メンシェヴィキも、エスエルも、そういう説教をやっており、そのことが彼ら自身の本性となっている。
 すなわち、「革命はずっと行きすぎてしまった。
 諸君がいま言っていることは、われわれがつねに言ってきたことと同じである。
 われわれにそれをいま一度くりかえして言わせてくれたまえ」と。
 だがこれにたいしてわれわれは、こうこたえる。
 「そういうことを諸君が言った罰として諸君を銃殺させてくれたまえ。
 諸君は自分の見解の発表をさしひかえるようにつとめるか、それとも、白衛派が直接に来襲したときよりはるかに困難な事態のもとにある現状で、諸君が自分の政治的見解を発表しようとのぞむか、どちらかである。
 あとの場合には、われわれは、失礼ながら、諸君を白衛隊の最悪の、もっとも有害な分子として取りあつかうであろう」と。』
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 第6節は以上で終わり。つぎの第7節の表題は、「独裁に関するトロツキー」。

1731/社会主義と独裁⑤-L・コワコフスキ著18章6節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回=No.1707ー2017年9/17のつづき。分冊版・第2巻p.506の途中・三巻合冊版第二部p.761の途中~。
 一文ごとに改行し、本来の改行箇所には「//」を付す(これまでの試訳の掲載と同じ)。
 黙読して意味を「何となく」でも理解するのと、日本語文に置き換え、かつ日本語版レーニン全集で該当箇所を調べたうえで、この欄に掲載するのとでは、時間も手間も10倍以上ほども違うだろう。レシェク・コワコフスキの文章を再びきちんと読みたくなったので、再開する。
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 第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁⑤。 
 革命のすぐ後に、ボルシェヴィキが権力に到達するまでは執拗に要求した伝統的な民主主義的自由は、ブルジョアジーの武器だったと判ることになった。
 レーニンの著作は、報道(出版)の自由に関して、このことを繰り返して確認している。<以上の二文は、前回の再掲>
 『ブルジョア社会における「プレス〔the press, 出版・報道〕の自由」は、富者が体系的に、絶えることなく、日々、数百万の部数でもって、被搾取および被抑圧人民大衆および貧者を欺き、腐敗させ、愚弄する自由、を意味する。』(+) 
 (1917年9月28日、「憲法制定会議の成功をいかに担保するか」。全集25巻、p.376〔=日本語版全集25巻「憲法制定議会をどうやって保障するか(出版の自由について)」405頁〕。)
 これとは反対に、『プレスの自由は、全ての市民の全ての諸意見は自由に公表〔publish〕されてよい、ということを意味する。』(同上、p.377〔=日本語版全集同上407頁〕。)(+)
 こうしたことが述べられたのは、革命の直前のことだった。しかし、革命の数日後には、物事は異なっていた。
 『我々が権力を奪取すれば、我々はブルジョア諸新聞を閉刊〔close down〕させると、我々は早くに言っていた。
 こうした諸新聞の存在に対して寛容であるのは、社会主義者であるのをやめることに等しい。』(+)
 (1917年11月17日、〔全ロシア・ソヴェト〕中央執行委員会での演説。全集26巻285頁〔=日本語版全集26巻291頁〕。)
 レーニンは、こう約束した。-そして、この言葉を守った。
 『我々は、自由、平等、そして多数者の意思といった、耳障りのよいスローガンに欺されることを、決して自分たちに許さない。』
 (全集29巻351頁〔=日本語版全集29巻「校外教育第一回全ロシア大会/1919年5月19日演説」のうち「自由と平等のスローガンによる人民の欺瞞についての演説」349頁〕。)
 『事態が世界中の、あるいは一国のにせよ、資本の支配を打倒する段階に到達している現今では <中略>、そのような政治状況のもとで「自由」一般について語る者は全て、この自由という名前でプロレタリア-トの独裁に抵抗する者は全て、搾取者たちを援助し、支援しているのに他ならない。
 なぜなら、自由が労働の資本の軛からの解放を促進しないならば、それ〔自由〕は一つの欺瞞だからだ。』(+)
 (1919年5月19日の演説、全集29巻352頁〔=日本語版全集29巻同上350頁〕。)
 要点は、コミンテルン第三回大会で、きわめて明瞭にこう述べられた。
 『最終的問題が普遍的な規模で決定されるまでは、このおぞましい戦争の状態は続くだろう。
 そして、我々は言う。「戦争では戦争の流儀で振る舞う〔a la guerre comme a la guerre〕、我々はいかなる自由も、あるいはいかなる民主主義も、約束しない」、と。』(+)
 (1921年7月5日、全集32巻495頁〔=日本語版全集32巻「共産主義インターナショナル第三回大会」529頁〕。)
 代表制度、公民権、少数者(または多数者)の権利、政府に対する統制、立憲的諸問題一般に関する疑問の全体は-これらの全ては、戦争では戦争の流儀で振る舞う〔a la guerre comme a la guerre〕という箴言によって沈黙させられ、そして戦争は、世界中での共産主義の勝利までは進行するものとされる。
 とくに、そしてこれが問題の心臓部なのだが、社会的熟考の制度としての"法" という観念の全体が、存在しなくなる。
 法は一つの階級がそれによって別の階級を抑圧する装置に「他ならない」ので、法の支配〔rule of law 〕と直接的な強制による支配との間には、明らかに、本質的な違いはない。
 重要な全ては、どの階級が権力を手中にしているか、なのだ。
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 段落の途中だが、ここで区切る。⑥へとつづく。

1730/R・スクルートン『新左翼の思想家たち』(2015)。

 Roger Scruton, Fools, Frauds and Firebrands - Thinkers of the New Left (2015, Bloomsbury 2016).
 =ロジャー・スクルートン『馬鹿たち、詐欺師たちおよび扇動家たち-新しい左翼の思想家たち』。(タイトル仮訳)
 英米両国で初版が刊行されているイギリス人らしき著者のこの本は、一度じっくりと読みたいが時間がない(たぶん邦訳書はない)。
 江崎道朗のように日本共産党系または少なくとも共産主義者・「容共」の出版社である大月書店(マル・エン全集もレーニン全集もこの出版者によるものだ(だった))が出版・刊行した邦訳書を「コミンテルン史」に直接に関係する唯一の文献として用いて(しかも邦訳書を頼りにして)かなりの直接引用までしてしまう、という勇気や大胆さは私にはない。
 K・マグダーマット=ジェレミ・アグニュー・コミンテルン史(大月書店、1998)。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と…(2017)、p.50に初出。
 また、上の二人の外国人(アメリカ?、イギリス?)がどういう研究者であるかも確認しないで「コミンテルン史」に直接に関係する唯一の文献の原本として利用するという勇気も大胆さも、秋月瑛二にはない。
 書名が少しふざけている感もあって(アホ・だまし屋・火つけ団)、上記のRoger Scruton についてはネット上で少し調べてみた(江崎道朗はおそらく、K・マグダーマットとジェレミ・アグニューの二人について、このような作業すらしていない)。
 そして少なくとも、全くのクズで読むに値しない著者および本ではない、ということを確認した。私は知らなかったが、イギリスの立派な<保守派>知識人の一人だと思われる(だからこそ一つも邦訳書がないのではないか)。
 2015年にイギリスの人が「新しい左翼(New Left)の思想家たち」としてどのような者たちを取り上げて論評しているかが「目次」を見ておおよそ分かるので、この欄で紹介しておこう。本文に立ち入って読めば、「仲間たち」の名がもっと出てくるのだろうが、目次に見える名前だけでも、現在の日本人には興味深いのではなかろうか。
 以下、目次(contents、内容構成)の試訳。
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 序説。
 1 左<左翼>とは何か?
 2 イギリスにおける憤懣-ホブスボームトムソン
 3 アメリカにおける侮蔑-ガルブレイスドゥオーキン
 4 フランスにおける解放-サルトルフーコー
 5 ドイツにおける退屈-ハーバマスへと至る下り坂。
 6 パリにおけるナンセンス-アルチュセールラカンおよびドゥルーズ
 7 世界に広がる文化戦争-グラムシからサイードまでの新左翼<New Left>。
 8 海の怪獣<?The Kraken> が目を覚ます-バディウジジェク
 9 右<右翼>とは何か?
 氏名索引。/事項索引。
 以上、終わり。
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 名前だけはほとんど知っていたが、バディウ(Badiou、フランス人)だけは今も全く知らない。イギリスのトムソンとは1970年代にレシェク・コワコフスキとの間に公開書簡を交わしたE・トムソン(Thompson)のことで、この本で取り上げられるほどに有名な「新(しい)左翼」人士だとは、この人に言及するT・ジャットおよびL・コワコフスキに接しても、全く知らなかった。
 あくまで Roger Scruton によれば、ということにはなるが、上掲の者たちは<真ん中>でも何でもなく<左翼>(または<新左翼>)とされる人士であることを、日本人は知っておいてよいだろう。
 T・ジャットによると、エリック・ホブスボーム(E. Hobsbawm)はずっとイギリス共産党員だった(党籍を残していた)。
 サルトル(Sartre)はあまりにも有名だが、ミシェル・フーコー(M. Foucault)の名も挙げられている。
 この人の本(邦訳書)は少しは所持していて、少しは読んだことがある。
 そして、このフーコーは文字通りに<狂人>だと感じた。
 このミシェル・フーコーを「有名な」フランスの思想家だなどとして真面目に読んでいると、<完璧な国家嫌い=強靱な反体制意識者>になるのではないか。
 記憶に残るかぎりで、国家は収容者を監視する監獄のようなものだ、という意識・主張。そして、国家による刑罰も否定する感情・意識。
 国家の刑罰権力自体を否定し、「犯罪」者を国家が裁いて制裁を加える(=刑罰を科す)こと自体を一般に否認することから出発する刑法学者が実際にいるらしいことも(そしてM・フーコーは愛用書らしいことも)、よく理解できる。
 ドイツの「歴史家論争」でエルンスト・ノルテの論敵だった(そして邦訳書が多数ある)ハーバマス(Habermas)のほか、<ポスト・モダン>とかで騒がれた(今でも人気のある?)フランスの人たちの名も挙げられている。日本での<ポスト・モダン>はいったい今、どうなっているのだろう。
 日本では、「思想」も「イデオロギー」も、ある程度は、流行廃りのある<商品>のごときものだ、という印象を強くせざるを得ない。
 その<商品>売買に関係しているのが、朝日新聞・産経新聞を含む<メディア>であり<情報産業>なのだ(月刊雑誌・週刊誌をもちろん含む)。翻訳書出版は勿論で、「論壇」なるものもその一部だろう。
 そして、この日本の<情報産業界>は例えば選挙を動かし、政治という日本の「現実」にも影響を与えている。

1728/邦訳書がない方が多い-総500頁以上の欧米文献。

 T・ジャットはL・コワコフスキ『マルクス主義の主要潮流』について、「コワコフスキのテーゼは1200ページにわたって示されているが、率直であり曖昧なところはない」とも書いている。
 トニー・ジャット・河野真太郎ほか訳・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011)p.182〔担当訳者・伊澤高志〕。
 この記述によって総頁数にあらためて関心をもった。T・ジャットが論及する三巻合冊本の「New Epilogue」の最後の頁数は1214、その後の索引・Index まで含めると、1283という数字が印刷されている。これらの頁数には本文(本来の「序文」を含む)の前にある目次や諸新聞等書評欄の「賛辞」文の一部の紹介等は含まれていないので、それらを含むと、確実に1300頁を超える、文字通りの「大著」だ。
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 ロシア革命・レーニン・ソ連等々に関係する外国語文献(といっても「洋書」で欧米のもの)を一昨年秋あたりから収集していて、入手するたびに発行年の順に所持本のリストを作っていた。いずれ、全てをこの欄に発表して残しておくつもりだった。しかし、昨年前半のいつ頃からだったかその習慣を失ったので、今から全てを公表するのは、ほとんど不可能だ。
 そこで、所持している洋書(といっても数冊の仏語ものを除くと英米語と独語のみ)のうち総頁数が500頁以上のもののみのリストを、やや手間を要したが、作ってみた。
 頁数は本の大きさ・判型や文字の細かさ等々によって変わるので、総頁数によって単純に範囲の「長さ」を比較することはできないが、実質的には…とか考え出すと一律な基準は出てこない。従って、もっと小型の本で活字も大きければ500頁を確実に超えているだろうと推測できても、除外するしかない。
 また、このような形式的基準によると450-499頁のものもある。490頁台のものもあって「惜しい」が、例外を認めると下限が少しずつ変わってくるので、容赦なく機械的に区切るしかない。
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 以下にリスト化し、総頁数も記す。長ければ「質」も高いという論理関係はもちろんないが、所持しているものの中では、レシェク・コワコフスキの上記の本が、群を抜いて一番総頁数が大きい。次は Alan Bullock のものだろうか(1089頁。但し、これは中判でコワコフスキのものは大判 )。
 また、邦訳書(日本語訳書)がある場合はそれも記す。その場合の頁数も。但し、邦訳書のほとんどは「索引」(や「後注」)の頁は通し数字を使っていない。その部分を数える手間は省いて、通し頁数の記載のある最終頁の数字を見て記している。
 邦訳書がないものの方が多いことは、以下でも明らかだ。この点には別にさらに言及する必要があるが、欧米文献(とくに英米語のもの)が広く読まれていると考えられる<欧米>と日本では、ロシア革命・レーニン等についても、「知的環境」あるいは「情報環境」自体がかなり異なっている、ということを意識しておく必要があるだろう。
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 *発行年(原則として、初出・初版による)の順。同年の場合は、著者(の姓)のアルファベット順。タイトル名等の直後に総頁数を記し、そのあとに秋月によるタイトルの「仮訳」を示している。所持するものに限る(+印を除く)。
 いちいちコメントはしないが、最初に出てくる Bertram D. Wolfe(バートラム・ウルフ、ベルトラム・ヴォルフ)は、アメリカ共産党創設者の一人、いずれかの時期まで同党員、共産主義活動家でのち離脱、共産主義・ソ連等の研究者となった。 
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・1948年
 Bertram D. Wolfe, Three Who made a Revolution -A Biographical History, Lenin, Trotsky and Stalin (1964, Cooper Paperback, 1984, 2001).計659頁。〔革命を作った三人・伝記-レーニン、トロツキーとスターリン〕
 =菅原崇光訳・レーニン トロツキー スターリン/20世紀の大政治家1(紀伊國屋書店、1969年)。計685頁/索引含めて計716頁。
・1951年 Hannah Arendt, The Origins of Totalitarianism.計527頁。〔全体主義の起源〕
 =Hannah Arendt, Element und Urspruenge totaler Herrscaft (独、Taschenbuch, 1.Aufl. 1986, 18.Aufl. 2015). 計1015頁。〔全体的支配の要素と根源〕
 =大島通義・大島かおり訳・第2巻/帝国主義(みすず書房, 新装版1981)。
 =大久保和郎・大島かおり訳・第3巻/全体主義(みすず書房, 新装版1981)。
・1960年
 Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union. 計631頁。〔ソ連共産党〕
・1963年
 Ernste Nolte, Der Faschismus in seiner Epoche (Piper, 1966. Tsaschenbuch, 1984. 6. Aufl. 2008). 計633頁。〔ファシズムとその時代〕
・1965年
 Adam B. Ulam, The Bolsheviks -The Intellectual and Political History of the Triumph of Communism in Russia (Harvard, paperback, 1998). 計598頁。〔ボルシェヴィキ-ロシアにおける共産主義の勝利の知的および政治的な歴史〕
・1972年
 Branko Lazitch = Milorad M. Drachkovitch, Lenin and the Commintern -Volume 1 (Hoover Institute Press). 計683頁。〔レーニンとコミンテルン/第一巻〕
・1973年
 Stephen F. Cohen, Bukharin and the Bolshevik Revolution - A Political Biography, 1888-1938. 計560頁。ブハーリンとボルシェビキ革命ー政治的伝記・1888-1938年。
=塩川伸明訳・ブハーリンとボリシェヴィキ革命ー政治的伝記:1888-1936(未来社、1979。第二刷,1988)。計505頁。
・1976年
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (Paris, 1976. London, 1978. USA- Norton, 2008 ). 計1283頁。
 -Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, Volume II - The Golden Age (Oxford, 1978. Paperback, 1981, 1988). 計542頁。
 -Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, Volume III - The Breakdown (Oxford, 1978). 計548頁。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, Volume III - The Breakdown (Oxford, 1981). 計548頁。
<The Breakdown (Oxford, 1987). 計548頁。
・1981年
 Bertram Wolfe, A Life in Two Centuries (Stein and Day /USA). 計728頁。〔二世紀にわたる人生〕
・1982年
 Michel Heller & Aleksandr Nekrich, Utopia in Power -A History of the USSR from 1917 to the Present (Paris, 1982. Hutchinson, 1986). 計877頁。〔権力にあるユートピア-ソヴィエト連邦の1917年から現在の歴史〕
・1984年
 Harvey Klehr, The Heyday of American Communism - The Depression Decade. 計511頁。〔アメリカ共産主義の全盛時-不況期の10年〕
・1985年
 Ernst Nolte, Deutschland und der Kalte Krieg (Piper, 2. Aufl., Klett-Cotta, 1985). 計748頁。〔ドイツと冷戦〕
・1988年
 François Furet, Revolutionary France 1770-1880 (英訳- Blackwell, 1992). 計630頁。〔革命的フランス-1770年~1880年〕
・1990年
 Richard Pipes, The Russian Revolution. 計944頁。〔ロシア革命〕
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (paperback,1997). 計944頁。
・1991年
 Christopher Andrew = Oleg Golodievski, KGB -The Insde Story. 計776頁。〔KGB-その内幕〕
 =福島正光訳・KGBの内幕/上・下(文藝春秋、1993)-上巻計524頁・下巻計398頁。
 Alan Bullock, Hitler and Stalin - Parallel Lives. 計1089頁。〔ヒトラーとスターリン-生涯の対比〕
 =鈴木主税訳・対比列伝/ヒトラーとスターリン-第1~第3巻(草思社、2003)-第1巻計573頁、第2巻計575頁、第3巻計554頁。
・1993年
 David Remnick, Lenins' Tomb : The Last Days of the Soviet Empire. 計588頁。〔レーニンの墓-ソヴィエト帝国の最後の日々〕
 =三浦元博訳・レーニンの墓-ソ連帝国最期の日々(白水社、2011).
 Heinrich August Winkler, Weimar 1918-1933 - Die Geschichte der ersten deutschen Demokratie (Beck) . 計709頁。ワイマール1918-1933ー最初のドイツ民主制の歴史。
・1994年
 Erick Hobsbawm, The Age of Extremes -A History of the World, 1914-1991 (Vintage, 1996).計627頁。〔極端な時代-1914-1991年の世界の歴史〕
 =河合秀和訳・20世紀の歴史-極端な時代/上・下(三省堂, 1996).-上巻計454頁、下巻計426頁)。
 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime. 計587頁。〔ボルシェヴィキ体制下でのロシア〕
 Dmitri Volkogonow, Lenin - Life and Legady (Paperback 1995). 計529頁。〔レーニン-生涯と遺産〕
 =Dmitri Volkogonow, Lenin - Utopie und Terror (独語、Berug, 2017). 計521頁。〔レーニン-ユートピアとテロル〕
・1995年
 François Furet, Le Passe d'une illsion (Paris).+
 =Das Ende der Illusion -Der Kommunismus im 20. Jahrhundert (1996).計724頁。〔幻想の終わり-20世紀の共産主義〕
 =The Passing of an Illusion -The Idea of Communism in the Twentieth Century (Chicago, 1999).計596頁。〔幻想の終わり-20世紀の共産主義思想〕
 =楠瀬正浩訳・幻想の過去-20世紀の全体主義 (バジリコ, 2007.09). 計721頁。
 Martin Malia, Soviet Tragedy - A History of Socialism in Russia 1917-1991. 計592頁。ソヴィエトの悲劇ーロシアにおける社会主義の歴史・1917年-1991年。
 =白須英子訳・ソヴィエトの悲劇ーロシアにおける社会主義の歴史 1917-1991/上・下(草思社、1997)。上巻計450頁・下巻計395頁。
 Stanley G. Payne, A History of Fascism 1914-1945(Wisconsin Uni.). 計613頁。〔ファシズムの歴史-1914年~1945年〕
 Andrzej Walick, Marxism and the Leap to the Kingdom of Freedom -The Rise and Fall of the Communist Utopia. 計641頁。〔マルクス主義と自由の王国への跳躍ー共産主義ユートピアの成立と崩壊〕
・1996年
 Orland Figes, A People's tragedy - The Russian Revolution 1891-1924(Penguin, 1998).計923頁。民衆の悲劇ーロシア革命1891-1924年。
 =Orland Figes, -(100th Anniversary Edition, 2017. New Introduction 付き). 計923頁。
 Donald Sassoon, One Hundred Years of Socialism -The West European Left in the Twentieth Century (paperback, 2014). 計965頁。社会主義の百年ー20世紀の西欧左翼。
・1997年
 Sam Tannenhaus, Wittaker Chambers - A Biography. 計638頁。ウィテカー・チェインバーズー伝記。
・1998年
 Helene Carrere d'Encausse, Lenin.<仏語>計527頁。〔レーニン〕
 =Helene Carrere d'Encausse, Lenin (New York, London, 2001).計371頁。〔レーニン〕
 =石崎晴己・東松秀雄訳・レーニンとは何だったか(藤原書店, 2006).計686頁。
 Dmitri Volkogonov, Autopsy for an Empire - The Seven Leaders who built the Soveit Regime. 計572頁。〔帝国についての批判的分析-ソヴィエト体制を造った七人の指導者たち〕
 Dmitri Volkogonov, The Rise and Fall of the Soviet Empire (Harper paerback, 1999).計572頁。ソビエト帝国の成立と崩壊。
 *参考:生田真司訳・七人の首領-レーニンからゴルバチョフまで/上・下(朝日新聞社、1997。原ロシア語、1995)
・1999年
 Martin Malia, Russia under Western Eye - From the Bronze Horseman to the Lenin Mausoleum. 計514頁。〔西欧から見るロシア-青銅馬上像の男からレーニンの霊廟まで〕
・2000年
 Arno J. Mayer, The Furies - Violence and Terror in the French ans Russian Revolutions. 計716頁。〔激情-フランス革命とロシア革命における暴力とテロル〕
・2002年
 Gerd Koenen, Das Rote Jahrzent -Unsere Kleine Deutche Kulturrevolution 1967-1977 (独,5.aufl., 2011).計554頁。〔赤い十年-我々の小さなドイツ文化革命 1967-1977年〕
・2003年
 Anne Applebaum, Gulag -A History (Penguin).計610頁。〔グラク〔強制収容所〕-歴史〕
 =川上洸訳・グラーグ-ソ連強制収容所の歴史(白水社、2006)。計651頁。
・2005年
 Tony Judt, Postwar -A History of Europe since 1945. 計933頁。〔戦後-1945年以降のヨーロッパ史〕
・2007年
 M. Stanton Evans, Blacklisted by History - The Untold History of Senator Joe McCarthy and His Fight against America's Enemies. 計663頁。〔歴史による告発-ジョウ・マッカーシー上院議員の語られざる歴史と彼のアメリカの敵たちとの闘い〕
 Orlando Figes, The Whisperers - Private Life in Stalin's Russia. 計740頁〔囁く者たち-スターリン・ロシアの私的生活〕
 =染谷徹訳・囁きと密告/上・下(白水社、2011)-上巻・計506頁、下巻・計540頁(ともに索引等は別)。
 Robert Service, Comrades - Communism: A World History. 計571頁。〔同志たち-共産主義・一つの世界史〕
・2008年
 Robert Gellately, Lenin, Stalin and Hitler -Age of Social Catastrophe.計696頁。〔レーニン、スターリンとヒトラー-社会的惨害の時代〕
・2009年
 Archie Brown, The Rise and Fall of Communism.計720頁。〔共産主義の勃興と崩壊〕
 =Aufstieg und Fall des Kommunismus (Ullstein独, 2009 ).計938頁。
 =下斗米伸夫監訳・共産主義の興亡(中央公論新社, 2012).計797頁。
 Michael Geyer and Sheila Patrick (ed.), Beyond Totalitarianism - Stalinism and Nazism Compared (Cambridge). 計536頁。〔全体主義を超えて-スターリニズムとナチズムの比較〕
 John Earl Hayns, Harvey Klehr and Alexander Vassiliev, Spies -The Rise and Fall of the KGB in America (Yale). 計650頁。〔スパイたち-アメリカにおけるKGBの成立と崩壊〕
 David Priestland, The Red Flag -A History of Communism (Penguin, 2010). 計676頁。〔赤旗-共産主義の歴史〕
 =David Priestland, Welt-Geschchte des Kommunismus -Von der Franzaesischen Revolution bis Heute <独語訳>.〔共産主義の世界史-フランス革命から今日まで〕
・2010年
 Timothy Snyder, Bloodlands -Europa zwischen Hitler und Stalin (Vintage, and独語版, 2011). 計523頁。〔血塗られた国々-ヒトラーとスターリンの間のヨーロッパ〕
 =布施由紀子訳・ブラッドランド-ヒトラーとスターリン・大虐殺の真実(筑摩書房、2015)/上・下。-上巻計346頁、下巻計297頁(+4頁+95頁)。
・2011年
 Herbert Hoover, Freedom Betrayed - Herbert Hoover's Secret History of the Second World War and Its Aftermath. 計957頁。〔裏切られた自由ーハーバート・フーバーの第二次大戦とその余波に関する秘密の歴史〕
 =渡辺惣樹訳・裏切られた自由-フーバー大統領が語る第二次大戦の隠された歴史とその後遺症/上・下(草思社、2017)-上巻702頁・下巻591頁。
・2015年
 Thomas Krausz, Reconstructing Lenin - An Intellectual Biography. 計552頁。〔レーニンを再構成する-知的伝記〕
 Herfried Muenkler, Der Grosse Krieg -Die Welt 1914-1918. 計923頁。〔大戦-1914-1918年の世界〕
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 1981年の項に、B.Wolfe の一冊を追記した(邦訳書はない)。/2018.03.27

1724/T・ジャット(2008)によるL・コワコフスキ⑥。

 トニー・ジャット・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011。河野真太郎ほか訳)、第8章・さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産(訳分担・伊澤高志)の紹介=基本的には書き写しのつづき。
 今回も原注の邦訳の一部をすべて省略する。
 紹介の➃に追記することを忘れてこの欄のその次の回に「この機会に追記しよう」として書いてしまった一部は全く不要だった。
 L・コワコフスキの原書・原論考の最後の skull に関して、シェイクスピア・ハムレットうんぬん等と記したのだったが、原邦訳書のp.195の末尾に、T・ジャットの原書がこのコワコフスキの最後の文章を引用しており、邦訳者がきちんと当該部分を邦訳し、skull を「髑髏」と適確に訳し、かつおそらく邦訳者自身が「ハムレット・第五幕第一場のパロディ」とまで挿入してくれている。
 むろん一度はこのT・ジャットの文章を全部読んだはずだったが、記憶忘れ、つぎに紹介する部分の見忘れが甚だしく、いやになる。
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 さて、前回に紹介した部分以降は、コワコフスキの名も出てくるが、ほとんどがトニー・ジャット自身の<マルクス主義論>だ。
 あらためて概括し、私なりに論評することはしない。簡単な言及のみ。
 T・ジャットによって用いられている「リベラル・リベラリズム」という語・概念が日本での用法とかなり異なることには、注意されてよいと思われる。そしてまた、T・ジャットはこれを擁護する論者・支持者のごとくであり、かつ、<左と右の>両翼の反民主主義または「全体主義」に反対する論者のようだ(後者の語は明確には出てこないが、「包括的な支配」という語は使っている)。
 最後にコワコフスキの名を挙げつつ、この人を読んで「マルクス主義」と闘うべき、と主張するのではなく、「時宜を得た幻想」の力強さを指摘して、冷静に?締めくくっているのも、興味深いかもしれない。
 トニー・ジャットは、この文章からも明確なように、明確な<反マルクス主義>者だ。そしてまた、この人がいう「システム」または体制としての「コミュニズム(共産主義)」に対しても、断固として厳しい立場に立っている(と読める)。
 彼は、L・コワコフスキの三巻本(1978年刊行)を若いうちに読み、今世紀に入ってからのアメリカ・ノートン社による三巻合冊本の新発行(内容は同じ。コワコフスキの「新しい」緒言・後記だけがコワコフスキの新しい執筆)を「歓迎」して,この文章を書評誌に掲載した。
 L・コワコフスキ等々のマルクス主義(・コミュニズム)に関する書物もよく読んでいて、それを基礎にして、T・ジャット自身の<マルクス主義観・論>を執筆しておきたかったのかもしれない。
 むろん、T・ジャットは単純で幼稚な、原理主義的な<反共産主義者>ではない。彼はアメリカのイラク戦争に反対した知識人の一人だったようだが、この文章にも見られるように、「右」側にも警戒的で、ソ連解体後の<資本主義・市場主義勝利の喝采者たち>も揶揄している。
 トニー・ジャットはL・コワコフスキの本を読んでおり、かつ「生き続けている」ものとして、このマルクス主義にかかわる文章を書いた。
 日本と日本人にも、もちろん、示唆的だ。「日本会議」の趣意書のごとく、「マルクス主義の過ちは余すところなく明らかになった」などと暢気に語っていたのでは(1997年)、戦いをとっくに放棄していることになる。これに属している学者たちは、その他有象無象の櫻井よしこらも含めて、信頼できない。
 L・コワコフスキの<マルクス主義の主要潮流>を読んだ日本人がいかほどいるのか。
 このT・ジャットのような文章を書ける日本の「知識人」は、一人でもいるのか。
 そう思うと、身震いがする。怖ろしい。日本の論壇・学界・「知識人」界は、(今回に紹介する部分で)T・ジャットの言う、<国際的な「辺境」や〔世界の〕学問の周縁でのみ>生きている人たちで成り立っているのだろう。
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 ラディカルな政治の未来がコミュニズムの先達の罪と失敗に心動かされることのない(ひょっとしたらそれらに無自覚な)新しい世代のマルクス主義者たちのものなのかどうか、それは分からない。
 私はそうならないことを望むが、そうならないと賭けることもしない。
 かつてミッテランの政治顧問を務めたジャック・アタリは、カール・マルクスについて大部の急いで書いたらしい著作を、昨年出版した。
 そこで彼は、ソ連の崩壊はマルクスをその相続者から解放し、また特に制限なき競争によって生じた世界的な不平等という現代のジレンマを予見した資本主義についての明察に満ちた予言者をマルクスの中に見出すことを可能にした、と述べた。
 アタリの著は、よく売れている。
 彼のテーゼは、広く議論されている。
 フランスでも、イギリスでもだ(イギリスでは、2005年のBBCによる投票で、視聴者はカール・マルクスを「史上最も偉大な哲学者」に選んでいる(注20))。//
 アタリはトンプソンと同じように、コミュニズムの優れた理念は、それが実際にとった都合の悪い形態から切り離して救うことができるという主張をしているわけだが、これに対しては、コワコフスキがトムソンに示した反応に倣って応答することもできるだろう。
 「何年にもわたって、コミュニストの理念を改善し、刷新し、悪い部分を取り除き、あるいは修正するという試みには、何も期待などしてこなかった。
 ああ、哀れな思想よ。
 この髑髏は、二度と微笑むことなどないのだな」〔『ハムレット』五幕第一場のパロディ〕といったふうに。
 しかし、ジャック・アタリは、エドワード・トムソンや近年再び表舞台に登場してきたアントニオ・ネグリとは違って、時局の変化にきちんと波長を合わせた鋭い政治的アンテナをもつ人物だ。
 もしもアタリがその髑髏が再び微笑むと考え、左翼によるシステム構築を志向する瀕死の説明が復活すべきものだと考えるとしても、そうなっても、現代の右翼の自由主義市場者たちの癪にさわる説明が自信過剰を引き立たせるだけであっても、彼は完全に見当違いをしている、というわけではあるまい。
 彼に同調する者がいることは、確かなのだ。//
 このように、この新しい世紀の最初の年月に私たちは、二つの対立する、しかし奇妙に似通った幻想に直面していることに気づく。
 一つめの幻想は、アメリカ人に最も馴染みがあるが、しかし全ての先進国で大いに売り出されているものだ。
 それは、今日合意されている政策は、はっきりした代替案を欠いている以上、あらゆる近代民主主義を適正に管理するための条件で、いつまでも続くものだという、注解者や政治家、専門家たちの、自惚れの強い協調主義的な主張だ。
 同時に、それに反対する者は誤解をしているか、または悪意があるのかのいずれかで、いずれの場合であれ、見当違いであることがはっきりするだろう、という主張だ。
 二つめの幻想は、マルクス主義には知的・政治的未来がある、という信念だ。
 それは、コミュニズムの崩壊にもかかわらずというだけでなく、それゆえに、というものだ。
 今までのところ国際的な「辺境」や学問の周縁でのみ見られるものだが、このマルクス主義、つまり政治的予言としてではないとしても、少なくとも分析ツールとしてのマルクス主義に対する新しい信念は、主として競争相手がいないという理由で、今や再び、国際的な抵抗運動の共通手段となっている。//
 もちろん、この二つの幻想は、過去から学ぶことをともに失敗している点が、類似している。
 そして、相互依存的である点も、類似している。
 というのは、前者の近視眼こそが、後者の主張に見せかけの信頼性を与えているからだ。
 市場の勝利と国家の後退に喝采を送る者たち、今日の「平板化した」世界で経済が何の規制も受けずに主導権を握るという見通しを私たちに歓迎させたいと思う者たちは、私たちがかつてこの同じ道を辿ったときに何が起こったのかを、忘れている。
 同じことが起こったとき、彼らは激しいショックを受けることになるだろう(たとえ過去が信頼できる案内者だとしても、その場合おそらく、ほかの誰かを犠牲にーしたうえだろうが)。
 デジタル・リマスタリングされ、コミュニズムの耳障りな雑音を除去したマルクス主義のテープを再上映することを夢見る者は、すぐにでも問いかけるのがいいだろう。
 包括的な思考の「システム」のいったいどの部分が、包括的な支配の「システム」に不可避的につながることになるのか、と。
 すでに見たように、これについては、レシェク・コワコフスキを読むことで得るものが多いだろう。
 しかし、歴史が記録しているのは、時宜を得た幻想ほど強力なものはない、ということだ。//
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 以上、終わり。邦訳書のp.197まで。
 この紹介の前回部分で注記なくT・ジャットが名を挙げて言及している「マルクス主義に対して厳しい批判をする者の一人であるポーランドの歴史家」のアンジェイ・ヴァリツキ(ワリツキ)の大著については、この欄の№1549=1917年5/18で論及している。これの日本語訳書は、(もちろん?)ない。
 内容構成(目次)だけを、以下に再掲する。
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 アンジェイ・ワリッキ・マルクス主義と自由の王国への跳躍-共産主義ユートピアの成立と崩壊〔Marxism and the Leap to the Kingdom of Freedom -The Rise and Fall of the Communist Utopia, 1995)。
 第1章・自由に関する哲学者としてのマルクス。
  第1節・緒言。
  第2節・公民的および政治的自由-自由主義との対立。
  第3節・自己啓発の疎外という物語-概述。
  第4節・パリ<草稿>-喪失し又は獲得した人間の本質。
  第5節・<ドイツ・イデオロギー>-労働の分離と人間の自己同一性の神話。
  第6節・<綱要>-疎外された普遍主義としての世界市場。
  第7節・<資本論>での自己啓発の疎外と幼き楽観主義の放棄。
  第8節・将来の見通し-過渡期と最後の理想。
  第9節・ポスト・マルクス主義社会学伝統における資本主義と自由-マルクス対ジンメルの場合。
 第2章・エンゲルスと『科学的社会主義』。
  第1節・『エンゲルス的マルクス主義』の問題。
  第2節・汎神論から共産主義へ。
  第3節・政治経済学と共産主義ユートピア。
  第4節・諸国民の世界での『歴史的必然性』。
  第5節・『理解される必然性』としての自由。
  第6節・喪失した自由から獲得した ?自由へ。
  第7節・二つの遺産。
 第3章・『必然性』マルクス主義の諸変形。
  第1節・カール・カウツキー-共産主義の『歴史的必然性』から民主政の『歴史的必然性』へ。
  第2節・ゲオルギー・プレハーノフ-夢想家の理想としての『歴史的必然性』。
  第3節・ローザ・ルクセンブルクまたは革命的な運命愛(Amor Fati)。
 第4章・レーニン主義-『科学的社会主義』から全体主義的共産主義へ。
  第1節・レーニンの意思と運命の悲劇。
  第2節・『ブルジョア自由主義』へのレーニンの批判とロシア民衆主義の遺産。
  第3節・労働者の運動と党。
  第4節・『単一政』の破壊と暴力の正当化。
  第5節・文学と哲学におけるパルチザン原理。
  第6節・プロレタリアート独裁と国家。
  第7節・プロレタリアート独裁と法。
  第8節・プロレタリアート独裁と経済的ユートピア。
 第5章・全体主義的共産主義から共産主義的全体主義へ。
  第1節・レーニン主義とスターリン主義-継承性に関する論争。
  第2節・世界の全体観念としてのスターリン主義的マルクス主義。
  第3節・『二元意識』と全体主義の『イデオロギー支配制』。
 第6章・スターリン主義の解体-脱スターリン主義化と脱共産主義化。
  第1節・緒言。
  第2節・マルクス主義的『自由』と共産主義的全体主義。
  第3節・脱スターリン主義化と脱共産主義化の諸段階と諸要素。
  第4節・ゴルバチョフのペレストロイカと共産主義的自由の最終的な拒絶。
 --- 以上。

1722/T・ジャット(2008)によるL・コワコフスキ⑤。

 トニー・ジャット・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011。河野真太郎ほか訳)、第8章・さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産(訳分担・伊澤高志)の紹介のつづき。
 今回は原注の邦訳の紹介をすべて省略する。
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 マルクス主義の魅力の二つ目の源泉は、マルクスとその後継者のコミュニストたちが、歴史的逸脱、クレオ〔歴史を司る女神〕の生み出した過ち、だったわけではない、ということだ。
 マルクス主義のプロジェクトは、それがとって代わり、また吸収した古い社会主義と同じように、私たちの時代の偉大な進歩の物語の一つの要素だった。
 つまり、近代社会とその可能性に対し、楽観的で合理的な進歩の物語によって説明を加えるという点で、マルクス主義は、それと対照をなす歴史的双生児と言える古典的なリベラリズムと共通している。
 マルクス主義に特有のひねり、すなわち来るべき良き社会は、無階級で、経済の進展と社会の激変がもたらす資本主義後の産物だという主張は、1920年までにはすでに信頼することが難しくなっていた。
 しかし、マルクス分析が当初備えていた刺激に由来する様々な社会運動は、何十年にもわたって、社会変容のプロジェクトを信じているかのごとく語り、行動し続けた。//
 例を挙げてみよう。
 ドイツ社会民主党は、第一次大戦のずっと前に、事実上「革命」を放棄していた。
 しかし、1959年、バート・ゴーデスベルク議会でようやく、党はその言語と目標を設定してくれたマルクス主義理論という負債を、公式に返済しきった。
 その間の年月、そしてそののち暫くの間、ドイツ社会民主党員は、イギリス労働党員、イタリア社会党員、その他多くと同様に、階級闘争や資本主義との戦いなどについて発言したり書いたりし続けた。
 まるで、穏健で改革主義的な日常の実践とは裏腹に、いまだにマルクス主義のロマンティックな物語を生きているかのようだった。
 つい最近の1981年5月、フランソワ・ミッテランが大統領に選ばれたのちにさえも、非常に高名な社会党の政治家たちは、自分たちを「マルクス主義者」とは呼ばないだろうし、ましてや「コミュニスト」などとは呼ばないだろうにもかかわらず、興奮気味に、「偉大なる夕べ〔(原邦訳書のふりがな)グラン・ソワール〕〔革命成功のとき〕と、来たるべき社会主義の変化について語ったが、それはまるで、彼らが1936年、あるいはさらには1848年に立ち戻ったかのようだった。//
 つまり、マルクス主義は、進歩的な政治の多くの深層にある「構造」だったのだ。
 マルクス主義の言語、あるいはマルクス主義の概念にもたれかかっている言語は、社会民主主義からラディカル・フェミニズムまでの、現代の様々な政治的抵抗に、形式と内的一貫性を与えた。
 この意味で、メルロ=ポンティは正しかった。
 つまり、批判的に現在とかかわるための方法としてのマルクス主義の喪失によって、そこには空白が残されてしまったのだ。
 マルクス主義とともに失われたものは、機能不全のコミュニズムの体制やそれに惑わされた諸外国の擁護者だけでなく、過去150年にわたって創造されてきた、私たちが「左翼的」と考えてきた仮定、カテゴリー、説明の体系全体だった。
 過去20年間の北米およびヨーロッパの政治的左翼の混乱を観察し、みずからに「しかし、政治的左翼とはいったい何を表すのだろうか、何を求めているのだろうか」と問いかけたことのある者ならば、私の言いたいことは分かるだろう。//
 しかし、なぜマルクス主義が魅力を持っていたかについては第三の理由があり、近年になって急にマルクス主義の亡骸を攻めたて、「歴史の終わり」や、平和、民主主義、自由市場の最終的勝利を高らかに言う者たちは、この理由をよくよく考えてみるのが賢明というものだろう。
 いく世代もの知的で誠実な人々がコミュニズムのプロジェクトと運命を共にすることを望んだとしたら、それは決して、彼らが革命や救済という誘惑的な物語によってイデオロギー的な麻痺状態にされてしまったからではない。
 そうではなく、彼らがその根底にある倫理的メッセージに、抗いがたく惹きつけられたからだ。
 つまり、地に呪われたる者の利害を代弁し保護することにあくまで結びついた、観念や運動の力に、だ。
 徹頭徹尾、マルクス主義の最強の持ち札は、マルクスの伝記作家の一人が述べる、「私たちの世界全体の運命は、その最も貧しく最も苦しんでいる成員の状況と分かち難いという、マルクスの真剣な道徳的確信」だ(注17)。//
 マルクス主義に対して厳しい批判をする者の一人であるポーランドの歴史家アンジェイ・ヴァリツキが率直に認めるところでは、マルクス主義は「資本主義とリベラリズムへの伝統とに見られる数多くの欠陥に対する反応」として最も影響力のあるものだった。
 マルクス主義が20世紀最後の三分の一で支持を失ったとしたら、それは大部分、資本主義の最大の欠陥がついに克服されたように見えることによる。
 つまり、リベラリズムの伝統が、不況と戦争という困難に適応することと、西欧民主主義にニューディール政策と福祉国家という安定装置を与えることに予想外の成功を収めたおかげで、左翼と右翼の両者の反民主主義的な批判者たちに、はっきりと勝利したのだ。
 現在とは異なる時代の危機や不正を説明し尽くせるという位置を完全に占めていた教義が、今や、的はずれなものに見えるようになったのだ。//
 しかしながら今日では、事態は再び変わろうとしている。
 19世紀のマルクスの同時代人たちが「社会問題」と呼んだもの、つまりいかにして富める者と貧しい者たちの大きな格差や健康、教育、機会のひどい不平等に対処し、それを克服するのかという問題は、西洋では答えが出されたかもしれない(とはいえ、イギリスや特にアメリカでは、富者と貧者の間の溝は一度は狭まりかけたかに見えたが、近年再び開きだしている)。
 しかし、その「社会問題」は、今や深刻な国際的政治課題として再登場した。
 繁栄する受益者にとっては、世界的な経済成長や、投資や貿易のための国内市場および国際市場の開放に映るものが、ほかの多くの者にとっては、ひとりぎりの企業や資本所有者たちの利益にのための世界の富の再分配と認識され、不満を抱かれるようになってきている。//
 近年、尊敬すべき批評家たちが19世紀のラディカルな言語を再びもらい、されを21世紀の社会問題について、不穏なほどにうまく適用している。
 マルクスやほかの者たちが「労働予備軍」と呼んだものが、ヨーロッパの産業都市の貧民街ではなく、世界中で再び浮上しているということを認識するのには、マルクス主義者である必要はない。
 外部委託〔(原邦訳書のふりがな)アウトソーシング〕や工場移転。投資の引き上げの脅かしによって賃金を抑えることで(注18)、世界中の低賃金労働力は、収益を保ち成長を促すのに役立っているが、それは19世紀の産業化したヨーロッパの状況とのまったく同じだ。
 但し、組織化された労働組合と大衆化した労働党が力を持ち、賃金の改善、税制による再配分、20世紀での政治権力のバランスの決定的な変化をもたらし、自分たちの指導者の、革命の予言を台無しにしてしまう以前の話だが。//
 つまるところ、世界は新しいサイクルに入ったかのようで、それは私たちの19世紀の先祖たちには馴染みしあったものだが、現在の西洋の私たちは最近経験していないものだ。
 これらの年月に目に見える富の不均衡が増し、貿易の条件、雇用の場所、乏しい天然資源の管理についての闘争がより激しくなると、私たちが不平等、不正、不公平、搾取について耳にすることは、増えこそすれ減りはしないだろう。
 国内でもそうだが、とくに海外でも。
 そしてそれゆえ、私たちはすでにコミュニズムの風景は失っているので(東欧においてさえ、コミュニズム体制を成人として経験した記憶があるのは35歳以上の者だ)、刷新されたマルクス主義の魅力が高まる可能性がある。//
 もしもこれが馬鹿馬鹿しく聞こえるなら、以下のことを思い出してほしい。
 例えば、ラテンアメリカや中東の知識人やラディカルな政治家にとって、何らかのかたちでのマルクス主義の魅力は決して衰えていない、ということを。
 その地域ごとの経験についての妥当な説明原理として、それらの地域のマルクス主義は、その魅力を多く保っており、されは世界至る所の現在の反グローバリズム主義者たちにとって魅力を放っているのと同様だ。
 後者が今日の国際資本主義経済のもたらす緊張とその欠陥のなかに見てとる不公正や機会は、1890年代の初めての経済的「グローバル化」を目にした者たちが、マルクスの資本主義批判を「帝国主義」という新た理論に適用される動機となったものと同じだ。//
 そして、ほかの誰も現代の資本主義の不平等を是正するための説得力ある戦略を示せていないようなので、最も整然とした物語を語り、最も怒りに満ちた予言を示す者たちに、この分野は再び託された。
 19世紀の中葉、ヴィクトリア朝の成長と繁栄の全盛期に、ハイネがマルクスとその友人たちに予言的に述べたことを、思い出してみよう。
 「これらの革命の博士たちと、断固たる決意を抱くその弟子たちは、ドイツで唯一、生命をもつ者だ。
 そして私が恐れるののは、未来は彼らに属している、ということだ」(注19)。//
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 以上、原邦訳書のp.190 途中から、p.195の始めまで。

1720/T・ジャッド(2008)によるL・コワコフスキ④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流は1976年に原語・ポーランド語版がパリで刊行され、1978年に英語訳版が刊行されている(第三巻がフランスでは出版されていない、というのは、正確には、<フランス語版>は未公刊との意味だ。-未公刊の旨自体はジャットによる発見ではなく、L・コワコフスキ自身が新しい合冊版の緒言かあとがきで明記している)。したがって、第三巻が「潮流」の「崩壊」(Breakdown, Zerfall)と題していても、1989-1992年にかけてのソ連・「東欧社会主義」諸国の「崩壊」を意味しているのでは、勿論ない。
 日本の1970年代後半といえば、「革新自治体」がなお存続し、日本共産党が「民主連合政府を」とまだ主張していた時期だ。
 1980年代前半にはこのコワコフスキ著の存在を一部の日本人研究者等は知ったはずだが、なぜ邦訳されなかったのか。2018年を迎えても、つまりほぼ40年間も経っても、なぜ邦訳書が刊行されていないのか。
 考えられる回答は、すでに記している。
 トニー・ジャット・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011。河野真太郎ほか訳)、第8章・さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産(訳分担・伊澤高志)の紹介のつづき。
 前回と比べても一貫しないが、今回は原注の邦訳の一部を紹介する。原注の執筆者は、むろんトニー・ジャット(Tony Judt)。本文にも出てくる Maurice Merleu-Ponty (メルロ=ポンティ)とRaymond Aron (アロン)に関する注記が(注14)と(注15)だが、フランス語文献が出てくるこの二つはすべて割愛し、その他の後注の内容も、一部または半分ほどは省略する。
 なお、トニー・ジャットは20世紀の欧州史に関する大著があるアメリカの歴史学者で、最も詳しいのは「フランス左翼」の動向・歴史だったようだ(コワコフスキと同じく、すでに物故)。上の二人のフランス人への言及がとくにあるのも、そうした背景があると思われる。
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 『マルクス主義の主要潮流』は、マルクス主義に関する第一級の解説として唯一のものというわけではないが、これまでのところ最も野心的なものではある(注10)。
 この書を類書と分かつのは、コワコフスキのポーランド人としての視点だ。
 その点が、彼がマルクス主義を一つの終末論として重視していることの説明となりうるだろう。
 それは、「ヨーロッパの歴史に連綿と流れてきた黙示録的な期待の、現代における一変奏だ<*an eschatology-"a modern varient of apocalyptic expectations --">」。
 そしてそのことによって、20世紀の歴史に対する非妥協的なほど道徳的で宗教的とさえ言えるような読解が、許される。
 「悪魔<*the Devil>は、私たちの経験の一部だ。
 そのメッセージをきわめて真面目に受け入れるに十分なほど、私たちの世代は、それを見てきた。
 断言するが、悪<*evil>とは、偶然のものではなく、空白でも、歪みでも、価値の転覆でもない(あるいは、その反対のものと私たちが考える、他の何ものでもない)。
 そうではなく、悪魔とは、断固としてそこにあって取り返しのつかない、事実なのだ」(注11)。 
 西欧のマルクス主義注解者は誰も、どれだけ批判的であっても、このような書き方をしたことはなかった。//
 しかしその一方で、コワコフスキは、マルクス主義の内部だけではなくコミュニズムの下でも生きてきた者として、書いている。
 彼は、マルクス主義の知的原理から政治的生活様式への変遷の、目撃者だったのだ。
 そのように内部から観察され経験されると、マルクス主義はコミュニズムと区別することが難しくなる。
 コミュニズムは結局のところ、マルクス主義の実践的帰結として最も重要なものというだけでなく、その唯一のものだったのだから。
 マルクス主義の様々な概念が、自由の抑圧という卑俗な、権力を握ったコミュニストたちにとっての主要な目的のために日々用いられたことによって、時とともに、その原理自体の魅力がすり減ってしまったのだ。//
 弁証法が精神の歪曲と身体の破壊へと適用されたという皮肉な事態を、西欧のマルクス主義研究者が真剣にとりあうことは、なかった。
 彼らは、過去の理想か未来への展望に没頭し、ソ連の状況についての不都合なニュースには、犠牲者や目撃者たちから伝えられた際にさえも、平然としていた(注12)。
 コワコフスキが多くの「西欧」マルクス主義とその進歩的従者に対して強烈な嫌悪感をいだいた理由は、そのような人々と出会ったことであるのは確かだ。
 「教育のある人々の間でマルクス主義が人気を得ていることの原因の一つは、マルクス主義が形式的に単純なため、わかりやすいという事実だ。
 マルクス主義たちが怠惰であることや……〔マルクス主義が〕歴史と経済の全てを実際には学ぶ必要もなく支配することを可能にする道具であることに、サルトルでさえも、気づいていたのだ」(注13)。//
 このような出会いこそが、コワコフスキの最近出版された論集の冷笑的な表題エッセイを書かせることになった。*注(後注と区別されている本文全体の直後に追記されている文ー秋月)
 *<始まり> このエッセイ<秋月注-このジャッド自身の文章のことで、コワコフスキの上記エッセイとは別>は最初、コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』を一巻本で再刊しようとするノートン社の称賛に値する決定に際して、2006年9月の『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』誌に掲載された。
 私がE・P・トムソンに少し触れたことで、エドワード・カントリーマン氏からの猛烈な反論を引き起こした。
 彼の手紙と私の返答は、『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』誌2007年2月、54巻2号に掲載された。*<終わり> (*の内容は、原邦訳書p.197)
 英国の歴史家E・P・トムソン<*Thompson>は、1973年、『ソーシャリスト・レジスター』誌に「レシェク・コワコフスキへの公開書簡」を掲載し、このかつてのマルクス主義者を、若き頃の修正主義的コミュニズムを放棄したことで西欧の彼の崇拝者たちを落胆させた、と咎めた。
 「公開書簡」は、堅苦しい小英国主義者としてのトムソンの最悪の面を、よく表すものだった。
 それは冗長で(印刷された紙面で100頁にも及ぶ)、いばった調子で、殊勝ぶったものだった。
 勿体ぶった、扇動的な調子で、彼を信奉する進歩的読者に対しては意識しつつ、トムソンは、流浪の身のコワコフスキに対してレトリックをもって警告を与えようとし、彼の変節を咎める。
 「私たちはともに、1956年のコミュニズム的修正主義を代表する声だった。
 ……私たちはともに、スターリニズムに対する正面切った批判から、マルクス主義的修正主義の立場へと移った。
 ……貴方と、貴方の依って立った大義とが、私たちの最も内側の思考のなかに存在したときもあった」。
 トムソンがイングランド中部の葉の茂った止まり木から見下ろして言うのは、よくもお前は、コミュニズム下でのポーランドでの不都合な経験によって、われわれ共通のマルクス主義の理想という見解を妨害することで、われわれを裏切ってくれたな、ということだ。//
 コワコフスキの応答である「あらゆる事柄に関する私の正確な見解<*My Correct Views on Everything>」は、政治的議論の歴史で最も完璧になされた、一人の知識人の解体作業であるかもしれない。
 これを読んだ者は、二度とE・P・トムソンの言うことを真面目に受け取ることがなくなるだろう。
 このエッセイが分析する(そして徴候的に例証する)のは、コミュニズムの歴史と経験によって「東欧」と「西欧」の知識人たちの間に穿たれ、今日もなお残されている大きな精神的な隔たりだ。
 コワコフスキが容赦なく批判するのは、トムソンの熱心で利己主義的な努力、マルクス主義の欠陥から社会主義を救おうという努力、コミュニズムの失敗からマルクス主義を救おうとする努力、そしてコミュニズムをそれ自身の罪から救おうとする努力だ。
 トムソンはそれら全てを、「唯物論的」現実に表面上は根差した理想の名のもとに行っている。
 しかし、現実世界の経験や人間の欠陥によって汚されないままにされることによって、その理想は保たれていたのだ。
 コワコフスキは、トムソンにこう書いている。
 「貴方は、『システム』の観点から考えることが素晴らしい結果をもたらす、と言っている。
 私も、そのとおりだと思う。
 素晴らしいどころではなく、奇跡的な結果をもたらす、と。
 それは、人類の問題すべてを、一挙に簡単に解決してくれるのだろう」。//
 人類の問題を、一挙に解決する。
 現在を説明し、同時に未来を保障してくれるような包括的理論を見つけ出す。
 現実の経験の腹立たしい複雑さと矛盾とをうまく解消するために、知的または歴史的「システム」という杖に頼る。
 観念や理想の「純粋」な種子を、腐った果実から守る。
 このような近道は、いつでも魅惑的で、もちろんマルクス主義者(あるいは左翼)の専売特許というわけではない。
 しかし、そのような人間的愚行のマルクス主義的変種はせめて忘れ去ってしまおう、というのが魅惑的なことなのは、理解できる。
 コワコフスキのようなかつてのコミュニストが備える醒めた明察と、トムソンのような「西欧」マルクス主義者の独善的な偏狭さとの間に、歴史それ自体による評決が下されてしまったことは言うまでもなく、この論争の主題は、すでに自壊してしまったように見えるだろう。//
 たぶん、そうだったのだ。
 しかし、マルクス主義の盛衰の奇妙な物語を、急速に遠のいていき、もはや今日的な重要性のない過去へと委ねてしまう前に、マルクス主義が20世紀の想像力に及ぼした際立って強い支配力を思い出すべきだろう。
 カール・マルクスは失敗した予言者だったかもしれないし、彼の弟子のうち最も成功した者たちでさえ、徒党を組んだ独裁者たちだったかもしれないが、マルクス主義の思想と社会主義のプロジェクトは、20世紀の最良の精神の持ち主たちに、比類なき影響力を及ぼした。
 コミュニズムの支配の犠牲となったような国々でも、その時代の思想史と文化史は、マルクス主義の諸理念とその革命の約束がもつ、強い魅力から切り離すことはできない。
 20世紀の最も興味深い思想家たち<*thinkers>の多くが、モーリス・メルロ=ポンティによる称賛を認めただろう。
 「マルクス主義は、歴史哲学の一つというわけではない。
 それこそが歴史哲学であり、それを放棄することは、歴史に理性の墓穴を掘ることだ。
 その後には、夢や冒険が残るだけだ」(注14)。//
 マルクス主義はかくのごとく、現代世界の思想史と密接に絡み合っている。
 それを無視したり忘れてしまったりするのは、近い過去を故意に誤解することに他ならない。
 元コミュニストやかつてのマルクス主義者--フランソワ・フュレ、シドニー・フック、アーサー・ケストラー、レシェク・コワコフスキ、ヴォルフガング・レオンハルト、ホルヘ・センプルン、ヴィクトル・セルジュ、イニャツィオ・シローネ、ボリス・スヴァーリン、マネス・シュペルバー、アレグザンダー・ワット、そのほか多くの者たち--は、20世紀の知的・政治的生活について最良の記録を書き残している。
 レーモン・アロンのように生涯にわたって反コミュニストだった人物でさえ、マルクス主義という「世俗の宗教」に対する拭いがたい興味を認めることを恥じはしなかった(マルクス主義と戦うことへのオブセッションが、つまるところ、所を変えた一種の反聖職者主義だと認めるほどだ)。
 そのことは、アロンのようなリベラル派<*a liberal>が、自称「マルクス主義者」の同時代人の多くよりもマルクスとマルクス主義にはるかによく通じていることに、特別な自負を抱いていた、ということを示している(注15)。
 あくまでマルクス主義との距離を保った存在だった<the fiercely independent>アロンの例が示すように、マルクス主義の魅力は、馴染みのある物語、つまり古代ローマから現代のワシントンにまで見られるような、三文文士やおべっかい使い<*scribblers & flatters>が独裁者にすり寄るという物語、それをはるかに越えたものだ。
 三つの理由によって、マルクス主義はこれほど長持ちし、最良で最も明晰な知性の持ち主たちをこれほど惹きつけた。
 第一に、マルクス主義は非常に大きな思想だからだ。
 そのまったくの認識論的図々しさ<*sheer epistemological cheek>、つまりあらゆる物事を理解し説明しようというきわめて独特な約束は、様々な思想を扱う者たちに訴えかけたが、まさにその理由によって、マルクス自身にも訴えかけた。
 さらに、ひとたびプロレタリア-トの代わりにその名で思考することを約束する政党をおけば、革命的階級を代弁するだけでなく、古い支配階級にとって代わることも志向する集合的な(グラムシの造語の意味での)有機的知識人<*a collective organic intellectual>を創造したことになるのだ。
 そのような世界では、諸観念は、ただの道具ではなくなる。
 それらは、一種の制度的支配を行う。
 それらは、是認された路線に従って、現実を書き直すという目的のために利用される。
 コワコフスキの言葉を使えば、諸観念はコミュニズムの「呼吸器官」なのだ(ついでに言えば、それはファシズムに発する他の独裁制と区別するものだ。それらはコミュニズムとは違って、知的な響きのある教条的なフィクションを必要としない)。
 そのような状況では、知識人たち--コミュニストの知識人たち--は、もはや権力に対して真実を語るだけの存在ではない。
 彼らは、権力を持っているのだ。
 あるいは、少なくとも、この過程についてのあるハンガリー人の説明によれば、彼らは、権力への途上にある。
 これは、人を夢中にさせる考えだ(注16)。//
 マルクス主義の魅力の二つ目の源泉は、--<以下、つづく>
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 (注10) 見事にまとまっていて、それでいて人と思想とともに政治学と社会史をも含む、マルクス主義に関する一巻本の研究として今でも最良のものは、1961年にロンドンで最初に刊行された、ジョージ・リヒトハイム<*George Lichtheim>の Marxism: An Historical and Critical Study だ。
 マルクス自身については、デイヴィッド・マクレラン(<中略>、1974)と Jerrold Seigel (<中略>、2004)による70年代以来の全く異なった二種類の伝記が最良の現代的記述となっているが、1939年に出たアイザイア・バーリンの卓越した論考、Karl Marx: His Life and Enviroment によって補完されるべきだろう。
 (注11)"Devil in History", in My Current Views, p.133。<以下、省略>
 (注12)そのような証言が信頼できないという点が、長い間スターリニズムに対して繰り返された西側諸国からの弁明のテーマだった。それと全く同じように、かつてのアメリカのソヴィエト研究者たちは、ソヴィエト圏の亡命者や移民たちからもたらされる証拠や証言を、割り引いて考えていた-あまりに個人的な経験は、その人の視野を歪め、客観的分析を妨げるのだ、と広く考えられていた。
 (注13)コワコフスキの抱く西欧進歩主義者に対する軽蔑は、彼の同朋のポーランド人やほかの「東欧人」たちにも共有されている。
 1976年に詩人アントニン・スロニムスキーは、その20年前にジャン=ポール・サルトルがソヴィエト圏の作家たちに対して、社会主義を放棄しないように、それによってアメリカ人と向き合う「社会主義陣営」が弱まってしまうことのないように、鼓舞したことを想起している。<以下、省略>
 (注14)・(注15)<省略>
 (注16) Georgy Konrad and Ivan Szelenyi, The Intellectuals on the Road to Class Power (New York: Harcourt, Brace, Jovanovich, 1979)〔G・コンラッド=I・セレニー『知識人と権力-社会主義における新たな階級の台頭』船橋晴敏ほか訳、新曜社、1986年〕。<以下、省略>
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 以上、原邦訳書の本文p.185の半ばから、p.190途中まで。後注は、同p.242-3。
 上の(注10)に邦訳者の(注16)のような日本語版紹介はないが、G・リヒトハイムの本には、以下の邦訳書がある。
 G・リヒトハイム//奥山次良=田村一郎=八木橋貢訳・マルクス主義-歴史的・批判的研究(みすず書房、1974年)。

1719/T・ジャット(2008)によるL・コワコフスキ③。

 トニー・ジャット・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011。河野真太郎ほか訳)、第8章・さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産(訳分担・伊澤高志)の紹介のつづき。
 前回と比べて一貫しないが、今回は原注の邦訳も紹介する。原注の執筆者は、もちろん トニー・ジャット(Tony Judt)。
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 『主要潮流』の第三巻は、多くの読者が「マルクス主義」と考えるだろうもの、つまり1917年以降のソヴィエト共産主義と西欧マルクス主義思想の歴史を扱った部分だが、それはぶっきらぼうに「崩壊<The Breakdown>」と題されている。
 スターリンからトロツキーに至るソヴィエト・マルクス主義にはこのセクションの半分しか当てられておらず、残りはほかの国々の20世紀の思想家に割り当てられている。
 そのうちいく人か、とくにアントニオ・グラムシジェルジ・ルカーチは、20世紀思想を学ぶ者にとっては興味の対象であり続けている。
 また、ほかの者たち、例えばエルンスト・ブロッホカール・コルシュ(ルカーチの同時代のドイツ人)は、もっと好古趣味的な関心の対象だ。
 さらにほかの者たち、とりわけリュシアン・ゴルドマンハーバート・マルクーゼは、コワコフスキが彼らをほんの数ページで片付けてしまった70年代中葉よりも、現在ではさらに、興味深い存在ではなくなっている。//
 この本の最後は、「スターリンの死以後のマルクス主義の展開」で、そこでは、コワコフスキはまず彼自身の「修正主義者としての」過去を簡単に振り返り、ついでほとんど間断ない侮蔑的な調子で、その時代のつかのまの流行を記録し始める。
 それは、サルトルの『弁証法的理性批判』と、そのはなはだしく愚かしい「不必要な新造語」から、毛沢東の「田舎農民のマルクス主義」と、その西洋の無責任な崇拝者たちに至るものだ。
 このセクションを読む者は、この著作の第三巻にもともと付されていた序文で、あらかじめ警告を与えられている。
 そこで著者は、この最終章で扱われる題材に関しては「敷衍してもう一巻書くこともできた」ということを認めつつ、「この主題はそれほど長大にして扱うほどの本質的価値のあるものとは思えなかった」と結論づけている。
 おそらくここで記しておくべきは、『主要潮流』の最初の二巻はフランスで出版されているが、このコワコフスキの代表作の第三巻にして最終巻は、いまだにフランスでは出版されていない、ということだ。//
 コワコフスキによるマルクス主義の学説に関する歴史記述の驚くべき幅の広さを、短い書評で示すことは、まったく不可能だ。
 それがほかの著作にとって代わられることも、ないだろう。
 いったい誰が、これほど詳細に、これほど洗練された分析によって、この領域に再び足を踏み入れるだけの知識を得ることが、あるいはそれを望むことが、あるだろうか。
 『マルクス主義の主要潮流』は、社会主義の歴史ではない。
 著者は、政治的文脈や社会組織については、わずかに触れるにすぎない。
 この本は、正面切って思想を語るもので、かつて有力だった理論と理論家の一族の盛衰を語る教養小説で、その最後の生き残りの子供のひとりが、懐疑的で、かつての迷いが解けた老年時代に語った物語なのだ。//
 コワコフスキのテーゼは1200頁にわたって示されているが、率直で、曖昧なところはない<*straightfoward & unanbiguous>。
 彼の見解ではマルクス主義は真剣に考えられるべきものだが、それは、階級闘争に関するその主張のためではない(それらはときには正しいものだったが、決して目新しいものではなかった)。
 また、資本主義の不可避の崩壊や、プロレタリア-ト主導の社会主義への移行を約束したからでもない(それは予測としては完全に外れた)。
 そうではなく、マルクス主義が独創的なロマン主義的幻想と断固とした歴史的決定論(*historical determinism>の、他にはない、そして真にオリジナルな混合物<*blend>を提示したからだ。//
 このように理解されたマルクス主義の魅力は、明白なものだ。
 マルクス主義は、世界がどのように動いているかを説明してくれた。
 つまり、資本主義と社会的階級関係に関する経済学的分析だ。
 それはまた、世界がどのように動くべきかを示してくれた。
 つまり、人間の諸関係の倫理学で、マルクスの若く理想主義的な思索によって示された(また、ジェルジ・ルカーチによるマルクス解釈によって示されていて、コワコフスキはルカーチ自身の妥協的キャリアを軽蔑しているにもかかわらず、その解釈にほぼ同意している(注06))。
 さらにマルクス主義は、マルクス(とエンゲルス)の著作からロシアでの後継者たちが引き出した歴史的因果関係に関する一連の主張によって、物事は将来的にはそのように動くだろうと信じるに足る、議論の余地のない根拠を与えてくれた。
 経済に関する記述、道徳に関する規範、政治に関する予言、これらの組み合わせは、強烈に魅惑的なもので、また便利なものでもあった。
 コワコフスキが述べているように、マルクスは今でも読む価値がある。
 ただし、ほかの者たちが自ら生じせしめた政治システムを正当化するためにマルクスを引き合いに出すときに、彼の理論がかくも変幻自在であるのはなぜか、ということを、私たちが理解する助けになる、そのかぎりで、読む価値がある(注07)。//
 マルクス主義とコミュニズムの関係とは、マルクスがスターリン(とレーニン)の手にかかって歪曲されてしまうことから「守る<*save>」ために、三世代にわたる西欧マルクス主義者たちが果敢にも最小限に抑えようとしてきたものだが、それについて、コワコフスキは歯に衣を着せぬものがある<*explicit>。
 なるほどマルクスは、ヴィクトリア王朝期のロンドンで生きた、ドイツ人著述家だった(注08)。
 彼はいかなる理解可能な意味でも20世紀のロシアや中国の歴史に関して責任などあるなどとは考えられないし、それゆえ数十年の長きにわたってマルクス主義純粋主義者たち<*Marxist purists>が、その創始者の真の意図を確証しようとしたり、マルクスとエンゲルスが自分たちの名のもとに将来なされる罪について何を考えていたかを確かめようとしたり努めてきたことは、無駄だし、余計なことだ。
 とはいえ、神聖なるテキストの真実に立ち返ることを繰り返し強調することは、コワコフスキがとくに注意を払っている、マルクス主義のセクト的側面を示すものではある。//
 それにもかかわらず、教義<*doctrine>としてのマルクス主義は、それが生み出した政治的運動とシステムの歴史から切り離せるものではない。
 事実、マルクスとエンゲルスの論法には、決定論という核がある。
 それは、以下のような主張だ。
 「つまるところ」、人間には決定的な支配などできぬ理由によって、物事はそうあるべき姿になるのだ、と。
 このような断言は、古いヘーゲルを「逆さま」にすることや、歴史の核心に物質的原因(階級闘争、資本主義の発展の法則)を議論の余地のないかたちで挿入すること、それらに対するマルクスの欲望<*desire>から生じたものだ。
 このような都合のよい認識論的背景に、プレハーノフやレーニン、その追随者たちは、歴史的「因果関係」の理論体系と、それを実践するための政治機構を、もたせかけようとした。//
 そのうえ、若きマルクスのもう一つの直観、すなわちプロレタリア-トは自分たちの解放が全人類の解放を告げるものとなる、被搾取階級という特別な役割のために、歴史の最終目的に対して特権的な洞察力を有している、という直観は、最終的にコミュニストがもたらした結果と深く結びつくもので、それは、プロレタリア-トの利害がそれを体現すると主張する独裁的政党に従属することによるものだった。
 マルクス主義による分析とコミュニズムの独裁とを結ぶこのような論理的連関の強固さは、レーニンがフィンランド駅〔1917年7月、弾圧から逃れたレーニンが降り立ったペテログラード(現サンクトペテルブルク)の駅〕近くのどこかに逃れるずっと以前から、コミュニズムのもたらす帰結を予測しそれに警告を発していた、ミハイル・バクーニンからローザ・ルクセンブルクにいたる多くの観察者や批判者の存在から、判断できるだろう。
 もちろん、マルクス主義は、違う方向へ進んだかもしれない。
 あるいは、どこへも向かわずに消え去ったかもしれない。
 しかし、「レーニンのマルクス主義は、唯一の可能性ではなかっただろうが、きわめてもっともらしく響くものだった」(注09)。//
 なるほど、マルクスもその後継者も、産業プロレタリア-トによる資本主義の打倒を説く教義が大部分が農村の立ち遅れた社会で力を得るなどとは、意図も予想もしていなかっただろう。
 しかし、コワコフスキにとっては、このようなパラドクスは信念の体系としてのマルクス主義の力を強調するものにすぎない。
 もしもレーニンとその信奉者たちが自分たちの成功を不可避的な必然だ<*ineluctable necessity>と主張しなければ(そして遡及的に理論上の正当化を行わなければ)、その主意主義的<*voluntaristic>努力は、決して成功しなかっただろう。
 また、何百万もの外部の崇拝者たちにとって、あれほど説得力のある模範にもならなかっただろう。
 ドイツ政府が秘密車両でレーニンをロシアに送り届けたことで可能になったご都合主義的な政変<*opportunistic coup>を「不可避の」革命に転じるためには、戦術的な才能だけでなく、イデオロギー的信念の広範囲にわたる実践が、必要だった。
 コワコフスキは、まったく正しい。
 政治的マルクス主義は、なににも増して、世俗化した宗教<*secular religion>だったのだ。//
 (原邦訳書・原著、一行空白)
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 (注06)他の場所でコワコフスキは、ルカーチ--彼はベーラ・クンによる1919年のハンガリー・ソヴィエト共和国の文化委員を短期間務めており、スターリンの命令により、彼がそれまでに記した興味深い言葉の全てを捨て去った--について、「暴君のために知性を用いた」偉大な才能だと記した。結論として、「彼の著作が思考を刺激することはなく、彼の故国ハンガリーにおいてさえ、『過去の産物』とみなされている」。
 "Communism as a Cultural Formation", Survey 29, no.2 (Summer 1985); reprinted in My Own Correct Views on Everything as "Communism as a Cultural Force", p.81参照。
 (注07)"What Is Left of Socialism", first published as "Po co nam projecie sprawieldliworci spolecznej ?" in Gazeta Wyborcza, May 6-8, 1995; republished in My Own Correct Views on Everything.
 (注08)『主要潮流』で、マルクスは彼の精神的風景を支配しているドイツ哲学の世界に、確固たる地位を与えられている。社会理論家としてのマルクスは、ほとんど顧みられない。マルクスの経済学への貢献--労働価値説であれ、先進資本主義下での利益率低下の予言であれ--は、そっけなく片付けられている。マルクス自身が経済に関する彼の研究成果に満足していなかったことを考慮すれば(それが『資本論』が完成しなかった理由の一つだ)、これはありがたいことと考えるべきだろう。
 というのも、マルクス主義経済学の予言的な力は、少なくともジョゼフ・A・シュムペーターの Capitalism, Socialism, and Democracy (New York, London: Harper and Brothers, 1942)〔『資本主義・社会主義・民主主義(新装版)』中山伊知郎・東畑精一訳、東洋経済新報社、1996年〕以来、左翼にとってすら長いあいだ顧慮されてこなかった。
 それから20年後、ポール・サミュエルソンが恩着せがましくも、カール・マルクスはせいぜいで「マイナーなポスト・リカード主義者」だと認めたのだ。
 彼の弟子のいく人かにとってさえ、マルクス主義経済学は最初に登場してからの数年の歴史によって、実際的価値のないものとなってしまった。
 エンゲルスの友人でもあったエドゥアルト・ベルンシュタインは、Evolutionary Socialism (first published in 1899)で、資本主義的競争のはらむ矛盾が労働者の置かれた状態の悪化と革命によってしか解決できない危機を必ずもたらすことになるという予言を、決定的に解体した。
 この主題に関する英語での議論でいまだに最良のものは、Carl E. Schorske, German Social Democracy, 1905-1917: The Development of the Great Schism (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1955 )だ。
 (注09)Kolakowski, "The Devil in History", Encounter, January 1981; reprinted in My Own Correct Views on Everything.          
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 以上、原邦訳書の本文p.185の途中まで。原注の訳は、同p. 243-4。
 コワコフスキの英訳書の各巻の表題(副題)は順番にThe Founders(創始者たち)、The Golden Age(黄金時代)、The Breakdown(崩壊)だと言及されている。ついでに記しておくと、ドイツ語訳書の各巻の表題(副題)は、順番に、Entstehung(生成・成立)、Entwickelung(発展・展開)、Zerfall(崩壊)で、前二者は必ずしも英語訳とは合致していない(コワコフスキの原書はポーランド語だとされている)。

1718/T・ジャット(2008)によるL・コワコフスキ②。

  Tony Judt, Reappraisals - Reflections on the Fogotten Twentieth Century (New York, 2008).
   Chapter VIII, Goodbye to All That ? Leszek Kolakowski and the Marxist Legacy.
 邦訳書/トニー・ジャット・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011)。
   第8章・さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産。
 上の原文を、その下の邦訳書(河野真太郎ほか訳)による訳(分担・伊澤高志/177頁~197頁)に添って紹介する。
 そのままの転記では能がないだろう。基本的にそのまま写すが、多少は日本語表記だけを、短くする方向で、改める。
 例えば、「したのである」→「した」、または「したのだ」。
 また、ひらがな部分の一部を漢字に変える。句読点も変えることがある。
 翻訳関係権利を侵害していないかと怖れもするが、上記のとおり代表訳者と分担訳者の氏名、邦訳書名は明らかにしており、かつ訳出内容・意味を変更するものではないので、違法性はないと考える。このような機会を持ち得たことについて、とくに伊澤高志には、謝意を表する。
 原邦訳書とは異なり、(リチャード・パイプス、L・コワコフスキの各著(や後者の論考)についてこの欄でしてきたように)一文ごとに改行し、本来の改行箇所には、//を付す。一部を太字にしているのも、秋月による。
 以下の<*->は原邦訳書にはない、Tony Judt の原著での元の英米語で、秋月が原著を見て挿入した。
 邦訳書でも訳出されている原注は箇所だけを示し、それらの内容は、以下では、さしあたりは、省略させていただく。
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 レシェク・コワコフスキは、ポーランド出身の哲学者だ。
 しかし、彼をこのように定義づけることは、正しくは-または十分では-ない。
 チェスワフ・ミウォシュや彼以前の多くの者たちと同じように、コワコフスキも彼の知的・政治的キャリアを、伝統的なポーランド文化に根づいた様々な特徴、つまり聖職者主義<*clericalism>、排外主義、反ユダヤ主義に対立するかたちで形成した。
 生まれた土地を1968年に追われ、コワコフスキは故国に戻ることもそこで著作を出版することもできなかった。
 1968年から1981年の間、彼の名前はポーランドの発禁作家の一覧に載せられていたし、彼をこんにち有名にしている著作の多くが国外で書かれ、出版された。//
 亡命中<*in exile>のコワコフスキはその大部分をイギリスで過ごし、1970年以来、オクスフォード大学オール・ソウルズ・カレッジ<*All Souls College>の特別研究員となっている。
 しかし、昨年〔2005年-秋月注、原訳書のまま。以下同じ〕のインタビューで彼が説明したように、イギリスは島で、オクスフォードはそのイギリスの中の島で、オール・ソウルズ(学生を受け入れていないカレッジ)はオクスフォードの中の島で、さらにレシェク・コワコフスキ博士はオール・ソウルズ内部の島、「四重の島」なのだ (注1)。
 かつては実際に、ロシアや中欧からの亡命知識人のための場所が、イギリスの文化的生活には、あった。
 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン〔オーストリア出身〕、アーサー・ケストラー〔ハンガリー出身〕、アイザイア・バーリン〔ラトヴィア出身〕のことを考えてほしい。
 しかし、ポーランド出身の元マルクス主義者でカトリックの哲学者はもっと珍しい存在で、国際的な名声にもかかわらず、レシェク・コワコフスキは彼の永住の地では無名で、奇妙なほどに、正当な評価を受けていなかった。//
 しかしながら、イギリス以外の場所では、彼は有名<*famous>だ。
 同世代の中欧出身の学者たちと同じく、コワコフスキも、ポーランド語やのちに身につけた英語に加え、ロシア語、フランス語、ドイツ語に堪能な多言語使用者で、多くの栄誉と賞を、とくにイタリア、ドイツ、フランスで手にしている。
 アメリカでは長らくシカゴ大学の社会思想委員会で教鞭をとったが、そこでも彼の業績は広く認められ、2003年に米国議会図書館から第1回クルーゲ賞--ノーベル賞のない研究分野(とくに人文学<*the humanities>)での長年にわたる業績に対して与えられる賞--を与えられた。
 しかし、コワコフスキは、パリにいるときが一番落ち着くと何度か述べていることから分かるように、イギリス人でもなければアメリカ人でもない。
 おそらく彼のことは、20世紀版「文学界」の最後の傑出した市民<*the last illustrious citizen of the 20 th-Century Republic of Letters>と考えるのがふさわしいだろう。//
 彼が住んだ国々のほとんどで、レシェク・コワコフスキの著作で最もよく知られているのは(そしていくつかの国では唯一知られているのは)、三巻本の歴史書『マルクス主義の主要潮流』だ。
 1976年にポーランド語で(パリで)出版され、その二年後にイギリスでオクスフォード大学出版局によって出版、そして現在、ここアメリカで、一巻本としてノートン社から再刊された(注2)。
 この出版は、間違いなく、歓迎すべき事態だ。
 なぜなら、『主要潮流』は、現代人文学の金字塔<a monument of modern humanistic scholarship>だからだ。
 しかし、コワコフスキの著作の中でこれだけが突出していることには、あるアイロニーが見られるが、それは、この著者が「マルクス主義者」といったものでは決してないからだ。
 彼は、哲学者で、哲学史家で、カトリック思想家だ。
 彼は、初期のキリスト教セクトや異端の研究に多くの時間を費やし、また、過去四半世紀の間、ヨーロッパの宗教と哲学の歴史と、哲学的神学的思索とでも呼ぶべきものとに専心してきた(注3)。//
 コワコフスキの「マルクス主義者」時代は、戦後ポーランドの彼の世代の中で、最も洗練されたマルクス主義哲学者として傑出した存在だった初期の頃から、1968年に彼がポーランドを離れるまで続き、それは、きわめて短期間だった。
 そして、その時期の大部分で、彼はすでに、マルクス主義の教義に異を唱えていた<*dissident>。
 1954年という早い時期に、24歳の彼はすでに、「マルクス=レーニン主義イデオロギーからの逸脱<*straying>」によって非難を受けていた。
 1966年には「ポーランドの10月」の10周年を記念して、ワルシャワ大学でマルクス主義批判で有名な講演を行い、党指導者であるヴワディスワフ・ゴムウカによって「いわゆる修正主義<*revisionist>運動の主要なイデオローグ」だとして公式に弾劾された。
 当然にコワコフスキは大学の教授職を追われたが<expelled>、それは、「国の公式見解と相容れない意見を若者たちのうちに形成させた」ことによるものだった。
 西欧にやって来るまでに、彼はすでに、マルクス主義者ではなくなっていたのだ(後述のように、これは彼の崇拝者たちにとっては混乱の種だ)。
 その数年後、この半世紀で最も重要なマルクス主義に関する著作を書き上げてから、コワコフスキは、あるポーランド人研究者が丁重に述べたように、「この主題については関心を失っていった」(注4)。//
 このような彼の足跡は、『マルクス主義の主要潮流』の特質を説明するのに役立つものだ。
 第一巻「創始者たち<*The Founders>」は、思想史の慣習にのっとるかたちでまとめられている。
 弁証法や完全な救済というプロジェクトのキリスト教的起源から、ドイツ・ロマン派の哲学とその若きマルクスへの影響、そしてマルクスとその盟友フリードリッヒ・エンゲルスの円熟期の著作へと、流れが記述される。
 第二巻は、意味深長にも(皮肉な意味ではないと思うのだが)、「黄金時代<*The Golden Age>」と題されている。
 そこで述べられているのは、1889年に設立された第二インターナショナルから1917年のロシア革命までだ。
 ここでもコワコフスキは、とりわけ、注目すべき世代のヨーロッパの急進的思想家たちによって洗練された水準でなされた、様々な思想と論争とに関心を寄せている。//
 その時代の主導的なマルクス主義者であるカール・カウツキー、ローザ・ルクセンブルク、エドゥアルト・ベルンシュタイン、ジャン・ジョレス、そしてV・I・レーニンは、みなしかるべき扱いを受け、それぞれに章が割り当てられ、つねに効率よく明晰に、マルクス主義の物語でのその位置づけと、主要な主張とが、まとめられている。
 しかし、通常はこのような概説では目立つことはない人物に関する、いくつかの興味深い章がある。
 イタリアの哲学者アントニオ・ラブリオーラ、ポーランド人のルドヴィコ・クルジウィキ、カジミエシュ・ケレス=クラウス、スタニスワフ・ブジョゾフスキ、そしてマックス・アドラー、オットー・バウアー、ルドルフ・ヒルファーディングら「オーストリア・マルクス主義者」についての章だ。
 コワコフスキによるマルクス主義の記述でポーランド人の割合が相対的に高いことは、部分的にはポーランド出身者としての視点のためと、それらの人物が過去に軽視されてきたことに対して埋め合わせをするためであるのは、間違いない。
 しかし、オーストリア・マルクス主義者(本書全体で最も長い章の一つを与えられている)と同様に、彼らポーランド人マルクス主義者たちは、長らくドイツ人とロシア人によって支配されていた物語から忘れられ、そして消し去られてしまった中欧の、世紀末での知的豊穣さを、たゆまず思い出させてくれるものだ(注5)。//
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 これで邦訳書のp.180の末まで、全体のほぼ5分の1が終わり。

1717/トニー・ジャットにおけるレシェク・コワコフスキ①。

 一 伊澤高志(1978~)は、思いもかけず、重要な訳出の仕事をして、貴重な貢献をしたことになるだろう。
 トニー・ジャット・失われた二〇世紀(上・下)(NTT出版、2011)という邦訳書は五人が分担して訳して、河野真太郎(1974~)が「訳文の統一」を行ったとされる(下巻・あとがき、368頁)。
 上巻の177頁以下、第八章「さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産」の邦訳を担当したのは、伊澤高志だ(下巻・あとがき、同上)。
 レシェク・コワコフスキは日本ではほとんど無名ではないかと思われ、とくにその『マルクス主義の主要潮流』は、欧米研究者の中にはコワコフスキといえば「マルクス主義の理論的研究」の第一人者として挙げる者もいるにもかかわらず、日本では邦訳書がない。昨秋に池田信夫がメール・マガジンでこの本をマルクス主義研究の「古典」として紹介していたようだが(全文を読んでいない)、「古典」とされるわりには、日本で翻訳されていない。考えられるその理由・背景は、すでに記している。
 そういう中で-すでに昨年に言及はしているのだが-、上の邦訳書は、L・コワコフスキの、神学者でも東欧お伽話作家でもない、社会・政治思想に論及するもので、十分に意味がある。
 むろん、もともとはトニー・ジャットの本だからこそ邦訳出版されたと見られ、トニー・ジャットの考え方の重要な一端も分かる。
 なお、トニー・ジャット(Tony Judt)をトニー・ジャッドとこの欄で記したことがあるのは間違い。また、コワコフスキ(Kolakowski)はコラコフスキ-と記載されていたこともあるが、英米語のlに該当しないポーランド語の独特のl(元来は斜め二本の線がつく)を英米語ふうに読んだ誤りのようだ。
 二 トニー・ジャットの上の本の上巻にあるⅡ部では「知識人の関与-その政治学」というタイトルのもとで、6人の「知識人」の書物を対象にして論評がなされている(たぶん全てが<書評誌または書評新聞>にいったん掲載されたものだ)。
 そのような論評・コメント類だから各著書・著者に対して「義理にでも」肯定的な評価を下しているのでは全くないのが、日本の新聞や雑誌の「書評」 欄と比べて新鮮なことだ。
 トニー・ジャットがほとんど手放しで賞賛していると言ってよいのはレシェク・コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』の三巻合冊本(の刊行予定)だけで、他のとくにつぎの3人の書物については、相当に厳しいまたは皮肉たっぷりの文章を載せている。
 表題だけ、記しておこう。いずれも、欧米<左翼>の者たちの本だ。
 ・「空虚な伽藍-アルセルチュールの『マルクス主義』」(6章)。
 ・「エリック・ホブズボームと共産主義というロマンス」(7章)。
 ・「エドワード・サイード-根なし草のコスモポリタン」(10章)。
 三 こうして書き始めたのも、トニー・ジャットのコワコフスキに関する上の記述と、 コワコフスキの死の直後の哀惜の情溢れる(しかしなお学問的な)文章-これにはたぶん邦訳がない-を紹介してみたくなったからだ。
 前者については、上記のようにすでに邦訳が出ている。だが、改めて紹介しておく意味はあるだろう。それに、すでにいったん訳されているので、邦訳にほとんど苦労は要らない、という利点もある。

1709/福岡伸一・動的平衡〔第一〕(2009)より。

 「書くことが考えを生み、考えが言葉を探そうとする」。
 福岡伸一・動的平衡-生命はなぜそこに宿るのか(木楽舎、2009)、p.253(あとがき)。 これの意味は納得できる。
 何かの文章を書いているうちに考えが整理されてきたり、予期していなかった新しい展開をとげてしまうことは、この欄を記していても、よくある。
 「考え」に適した「言葉」が見つからなくて、大いに苦しむことも、ままある。
 しかし、「考え」とはそもそも何なのだろうか?
 福岡伸一批判をしているのでは全くない。
 「考え」、思想・主義・主張等々。これらは「精神」活動だろう。そしてそれを他者に伝えるためには、何らかの「言葉」が必要だ。
 しかし、そもそも「精神」活動とは、あるいはそこで用いられる「言葉(言語)」とは、いったい何なのだろうか?
 「精神」活動は、脳内で行われるとされ、ヒトの脳が作動しているためには、肉体、そして(そのヒトが)いのち(生命)を持っていることが必要だ。
 人間は死んでもその精神・霊は生き続ける、と言う人もいるのだろう。
 しかし、神社・寺院を参拝し瞑目して「祈る」ことに慣れている私でも、神・仏の「実在」を、あるいは亡き両親や先祖等々の「霊魂」の存在を「信じて」いるのでは全くない。
 両親の霊魂がまだどこかに生きているのなら、あるいは誰でもよいが三島由紀夫でもレシェク・コワコフスキでも、彼らの「精神」がまだ生きているならば、まだ彼岸にはいない、生きている私との間に何らかの「交信」があってもよいだろう。 
 少なくとも私はそれを欲していないわけではないのだから。
 しかし、両親や三島あるいはコワコフスキ等々の「精神」の表れとしての言葉を「聞いた」ことは一度もない。
 かつての(生前の)言葉や文章を思い出したり、読んだりすることができるにすぎない。
 「精神」には、生命が必要だ。
 「では、いったい生命現象とは何なのか。それを私はいつも考える」。 
 これは、福岡伸一・前掲書p.23の、プロローグの最後の一文。
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 福岡伸一のアメリカでの指導教授の(大学での)研究課題は、「意識のメカニズム」の理論的研究、つまりは「人間はどのようにして意識を持ち、なぜ、それは時に錯誤を起こすか」だったらしい。福岡・前掲書p.26。
 <意識の錯誤>とは一般的な表現では(少なくとも私には)ない。
 しかし、<思想>・<主義>・<主張>・<論説>・<評論>等々にほとんどつねに見られる、何らかの特定の観念・歴史認識・時代認識等々への<寄りかかり>やこれらに関する<思い込み>に気づくと、つぎのように感じざるをえない。
 誰もが、何らかの<錯誤>に陥っている。そしてそれは、一個のヒト、人間の精神活動であるかぎりは、おそらくは絶対に、不可避のことだ。
 問題は、<錯誤>の程度、深さ、大小にある。
 日本共産党・不破哲三も、日本会議・椛島有三も同派・櫻井よしこ等も、<錯誤>がヒドすぎる。程度でいえば、日本共産党・コミュニズムの方が著しく、かつ人間社会にとっての<害悪>が直接で大きいかもしれないが。
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 今回は立ち入らないが、<動的平衡>という発想?、認識の仕方?は、じつはきっとそのとおりだと感じている。
 以下、福岡・前掲書の最初の方から、気になる、つまり印象に残った文章を引用しておこう。
 「すべての生体分子は常に『合成』と『分解』の流れの中にあり、どんなに特別の分子であっても、遅かれ早かれ『分解』と『更新』の対象となることを免れない」。p.28。
 「生命現象が絶え間ない分子の交換の上に成り立っている」こと、「動的な分子の平衡状態の上に生物が存在しうる」ことは、…によって明らかにされていた。p.34。
 「ヒトの身体を構成している分子は次々と代謝され、新しい分子と入れ替わっている。それは、脳細胞といえども例外ではない」。p.34。
 「若い頃の記憶とは、何度も想起したことのある記憶」であり、「あなたが何度もそれを思い出し、その都度いとおしみ、同時に改変してきた何か」のことだ。p.37。
 「たとえ、個々の神経細胞の中身…が合成と分解を受けてすっかり入れ替わっても、細胞と細胞とが形作る回路は保持される」。p.37。
 「私たちが自分の目で見て『事実』と感じていること自体も『錯覚』であることが多い。…、非常にさまざまの脳の『バイアス』の上に成り立っている」。p.46。
 「人間の脳は、ランダムなものの中にも何らかのパターンを見つけ出さずにいられない」。
 「人間の脳は鋭敏に、かなり粗い情報の中からでも何らかのパターンを見つけてしまえる」。以上、p.47-48。
 「なぜこのような特殊な能力、…不思議なバイアスが人間の脳に張りついてしまったのか」は、「人間のこの地球上に現れてからの歴史と密接に関係があると思える」。
 「環境の変化」と闘い生き延びるには、「時に複雑な自然界の中から、何らかの手がかりを見つける」ことが「とても大事」だった。以上、p.48。
 「私たちは自分の脳の癖に気がつかない」。したがって、「ランダムからパターンを読み出す『勘のよさ』、これが逆にマイナスに作用することがありえる。パターン化は、自然のもつ複雑な精妙さや微妙なズレなどを消し去ってしまうこともあるからである」。p.50。
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 秋月瑛二が社会・人文系から自然科学系・生命系へと急に関心を変えた、というのでは全くない。
 福岡伸一を剽窃?すれば、こうなる。
 何らかの「錯誤」・「錯覚」に陥ったままの、つまり「バイアス」をもって単純・幼稚な「パターン」化ごっこをしている、<複雑な>社会・歴史・人間等を<精妙に>見ることができていない、そういう思考「回路」をもつ社会・人文系(と思われる)論者・執筆者・評論家・記者・学者(研究者)等が多すぎる。
 これをほとんど絶望的に感じている。しかしまた、一個の生物としての個々のヒトに内在する不可避の限界かもしれない、とも思う。
 <夢想系>か<現実系>かといった、そんな幼稚な二分法では全く、絶望的に、足らない。
 「保守」でも、「憲法九条」でも何でもよいが、ほとんどの人々が「言葉」・「観念」(これらはつまりは概念化であり「パターン」化だが)を正確に、あるいは理解し、意味させた上で論じる、という最低限のことをしないで、言葉・概念・観念を弄んで文章や論考・論文類を書いているように思える。
 残るのは、意思疎通・相互理解が大きく欠けたままでの、空虚な「論議」であり、何となくのムードだけだ。
 一般国民・有権者の多くは、厳密な概念等々を考えて生活してゆけるはずがない。
 責任があるのは、「知的」(とふつうは思われている)作業に携わっている人たちだ。
 その「知的」作業が自分と家族の「生存」のために必要なのかもしれず、<顕名>欲を充たすためには知的「退廃」が必要なのかもしれない。
 最低限度の生存のため(食って生きていくため)というならば、まだ容赦できる。
 しかし、より大きい経済的利益と「顕名」を目指して、(最近に知った言葉だが)「ポジション・トーク」をしている人々を、信頼することはできない。
 信頼して、参考にすることがあっても、それは<程度>の問題にすぎない。
 それこそ曖昧な言葉だが、保守であれ(リベラルであれ)、容共産主義(容コミュニズム)であれ、信頼できない人がほとんど全てだ。
 日本共産党および同党容認政治家・論者や、「日本会議」派政治家・論者は、おそらく全員だ(もともとこの二派は対立しているのではない)。
 あれこれと読むのにもほとんどイヤ気がさしている。
 しかし、現実は現実としてある。なぜ、こういう現実になっているのか。
 言うまでもなく、とりわけ日本の国家も社会も、日本人という人間つまりは、ヒトの一種が形成してきたし、現に形成している。
 ヒトの「精神」活動・脳細胞と無関係のはずはない。
 そう思って読むと、福岡伸一の本にも興味深い文章はある。
 思考「回路」・ヒトが陥り易い「パターン」化、…。 

1663/ロシア革命②-L・コワコフスキ著18章2節。

 この本には、邦訳書がない。Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 第2節の前回のつづき。
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 第2節・1917年の革命②。
 1917年9月にレーニンは、こう書いた。
 『世界的な社会主義革命が成熟しており不可避であることは、疑う余地がない。<中略>
 プロレタリアートが権力を獲得すれば、その権力を維持し、西側での革命の勝利までロシアを導いていく,全ての可能性があるだろう。』(+)
 (『ロシア革命と内戦』、全集26巻p.40-p.41〔=日本語版全集26巻27頁,28頁〕。)
 十月革命のほとんど直前に、こう書いた。
 『疑うのは、問題外だ。我々は、プロレタリア世界革命の発端地(threshold)にいる。』(+)
 (『危機は熟している』。同上、p. 77〔=日本語版全集26巻66頁〕。)
 革命の後でレーニンは、1918年1月24日に第三回ソヴェト大会に対して、こう宣言した。
 『我々はすでに、世界の全ての国で、時々刻々に(by the hour)社会主義革命が成熟しつつあるのを見ている。』(+)
 (同上、p.471〔=日本語版全集26巻「労働者・兵士・農民代表ソヴェト第三回全ロシア大会」480頁〕。)(+)
 1918年8月には、以下。
 『我々はすでに、西ヨーロッパで革命の火の手がいかに頻繁に火花を散らしたり爆発とたりしているかを見ている。
 それらは、世界の労働者革命の勝利は遠くはない、という確信を我々に与えている。』(+)
 (全集28巻p.54〔=日本語版全集26巻「労働者の諸君!/最後の決戦にすすもう!」45頁〕。)
 1918年10月3日には、以下。
 『ドイツの危機は、始まったばかりだ。
 これは不可避的に、政治権力のドイツ・プロレタリアートへの移行で終わるだろう。』(+)
 (同上、p.101〔=日本語版全集28巻「全ロシア中央執行委員会、モスクワ・ソヴェト、工場委員会代表、労働者組合代表の合同会議にあてた手紙」100頁〕。)
 1918年11月3日には、以下。
 『至るところで世界革命の最初の日が祝福されるときは、すでに間近いのだ。』(+)
 (同上、p.131〔=日本語版全集28巻「オーストリア=ハンガリー革命を祝うデモンストレーションでの演説」133頁〕。)
 1919年3月6日、第三インターナショナル〔共産主義インター=コミンテルン〕第一回大会で。
 『世界的範囲でのプロレタリア革命の勝利は、保障されている。
 国際ソヴェト共和国の創立は、近づいている。』(+)
 (同上、p.477〔=日本語版全集28巻「共産主義インターナショナル第一回大会/閉会の際の結語」510頁〕。)
 レーニンは、1919年7月12日に党モスクワ県会議で、こう予言した。
 『来年の七月、我々は世界ソヴェト共和国の勝利を歓迎するはずだ。そして、この勝利は、完全で不可逆的(irreversible)なものになるだろう。』(+)
 (全集29巻p.493〔=日本語版全集29巻「ロシア共産党(ボ)モスクワ会議での共和国の内外情勢についての報告」501頁〕。)//
 これらの予言は、諸事態、『革命の上げ潮』やバヴァリア(Bavaria〔独・バイエルン〕)、ハンガリーおよびエストニアでの暴乱、の観察にのみではなく、欧州の戦争は資本主義の打倒によってのみ終止させることができるとのレーニンの確信にももとづいていた。
 レーニンは1918年7月3日に演説したが、<プラウダ>でこう報道された。
 『戦争は、絶望的なものに(hopeless)なっている。
 この見込みなさ(hopelessness)は、我々の社会主義革命が世界革命が勃発するまで持ちこたえる十分な機会がある、ということの保障だ。
 このことを保障するのは戦争だが、それを労働者大衆だけが終わらせることができるだろう。』(+)(*)
 (全集27巻p.502〔=日本語版全集27巻「第五回ソヴェト大会の共産党代議員団での演説」517頁〕。)
 レーニンが一国での社会主義の勝利の永続(permanence)を信じていなかった、ということもまた、疑いの余地がない。
 1918年1月の第三回ソヴェト大会で、こう語った。
 『唯一つの国での社会主義の最終的な勝利は、もちろん、不可能だ。』(+)
 (全集26巻p.470〔=日本語版全集26巻「(既出)」480頁〕。)(+)(**)
 1918年3月12日の論文では、以下。
 『救いは、我々が着手した、世界社会主義革命の途にのみある。』
 (全集27巻p.161〔=日本語版全集27巻「今日の主要な任務」161頁〕。)(+)(***)
 1918年5月26日の演説では、以下。
 『我々は、かりにつぎのことがあっても、唯一つの国では社会主義革命を自分たちの力のみで完全に遂行することはできない、ということに、目を閉ざしはしない。すなわち、その国がかりにロシアに比べてはるかに後進性が少ないとしても、また、我々が前例なき、苦しい、苛酷な、そして惨禍の戦争が4年間続いたあとで、よりよい条件のもとで生活しているとしても。』(+)
 (全集27巻p.412〔=日本語版全集27巻「国民経済会議第一回における演説」427頁〕。)(+)
 1918年7月23日の演説では、こうだ。
 『その革命が孤立していることを意識しているので、ロシアのプロレタリアートは、自分たちの勝利の不可欠の条件であり基本的な必須条件が全世界の、またはいくつかの資本主義が発達した諸国の労働者の統一した行動であることを、認識している。』(+)
 (同27巻p.542〔=日本語版全集27巻「工場委員会モスクワ県会議での報告」562頁〕。)(+)//
 こうした望みが絶えて、つぎのことが明白になったとき、党は、奪い取った権力で何をすればよいのかという問題に直面した。すなわち、ヨーロッパのプロレタリアートはボルシェヴィキの例に従うつもりがない、そうでなくとも彼らの革命の企ては失敗するだろうこと、また、戦争を革命以外の別の方法で終わらせることができること、が明白になったとき。
 権力を放棄するなどということは、あるいは実際に、権力を別の社会主義勢力と分かち合うということも、問題にならなかった。
 (左翼エスエル〔社会革命党左派〕に関する短いエピソードは重要ではなく、『権力への参加』という叙述に値するものではなかった。)//
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 (+ 秋月注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 (*/秋月注記) この1918年1月の演説の結びの部分は、つぎのとおり(日本語版全集27巻518頁の訳による)。-「…われわれは、わが同胞ばかりではなく全世界の労働者にたいしても、責任を負っている。/彼らは社会主義が不可能なものではなく、労働者の堅固な制度であって、全世界のプロレタリアートは社会主義を目ざさなければならない、ということがわかるにちがいない」。
 (**/注記) この1918年1月の文章(演説)の結びの部分は、つぎのとおり(日本語版全集26巻482頁の訳による)。-「われわれは、革命の発展がどこまで大きくすすむかをはっきりと見きわめている。ロシア人が火蓋をきった。-ドイツ人、フランス人、イギリス人は完成させるだろう。そして社会主義は勝利するだろう。(拍手)」.
 (***/注記) 日本語版では「3月12日」ではなく、「3月11日」の論文とされている。
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 段落の途中だが、ここで区切る。
 レーニン死後の、「世界」・「一国」にかかるスターリンとトロツキーの間の論争?等についての、③へと、つづく。

1661/ロシア革命①-L・コワコフスキ著18章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 この本には、邦訳書がない。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。第2節へ。第2巻の単行著、p.473~。
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 第2節・1917年の革命①。
 多様な社会主義集団が革命を期待して存在してきたが、1917年二月の勃発は彼らの助けを借りないままで生じ、彼ら全ての驚愕だった。
 数週間前に、トロツキーはアメリカ合衆国に移り住んで、永遠に欧州を離れることになると考えた。
 レーニンは1917年1月に1905年の革命に関する講演をツューリヒでしたが、その中にはつぎの文章があった。
 『我々、旧い世代の者たちは、来たる革命の決定的な闘いを生きて見ることはないだろう。』(全集23巻p.253〔=日本語版全集23巻「1905年の革命についての講演」277頁〕。)
 この二月革命に何らかの政党が何か直接に関係しているとすれば、それは、協約諸国に呼応したカデット(リベラルたち〔立憲民主党〕だった。
 レーニン自身は、ロシアはもちろんフランスやイギリスの資本主義者たちはツァーリがドイツ皇帝と分離講和を締結するのを妨害したかった、したがってツァーリの皇位を奪うことを共謀した、と観察した。
 この企みが、飢餓、敗北および経済的混沌によって絶望的になった大衆の反乱と合致した。 
 300年にわたって続いてきたロマノフ王朝は、一夜にして崩壊した。そして、社会のいかなる重要な勢力にもそれを防ぐ用意がない、ということが明白だった。
 八ヶ月の間、ロシアの歴史は最初にして最後の、完全な政治的自由を享受した。何らの法的秩序によってではなく、主としてはどの社会勢力も状況を統御していなかったがゆえに。
 ドゥーマにより設置された臨時政府は、1905年革命を真似て形成された労働者・兵士代表評議会(ソヴェト)と、不確定な権限を共有した。しかしどちらも、大都市の武装した大衆を適切に統制することができなかった。
 ボルシェヴィキは当分の間はソヴィエト内の小さな少数派だった。そして、全政党が、革命が進んでいる行路に関して完全に混乱していた。//
 レーニンは、4月にペテログラードに到着した。ドイツはレーニンに、様々の政党から成る数ダースの帰還者と一緒に、安全な護衛を付けた。
 もちろんレーニンは、皇帝の戦争を助けるためにではなくて革命がロシアからヨーロッパの残りへと広がるだろうと望んで、ドイツからの援助を受けた。
 スイスを出立する直前に書いた<遠方からの手紙>で、レーニンは、その基本的な戦略を定式化した。
 ロシアの革命はブルジョア的なそれなので、プロレタリアートの任務は、人民に食物、平和そして自由を与えることのできない支配階級の欺瞞の皮を剥ぎ取ることだ。そしてその日の命令は、憤激した半プロレタリア農民層に支持されたプロレタリアートに権力を譲り渡す、革命の『第二段階』を準備することだ。
 このような綱領はロシア帰国後にすぐに、有名な『四月テーゼ』へと発展した。
 戦争に対する不支持、臨時政府に対する不支持、プロレタリアートおよび貧農のための権力、議会制共和国をソヴェト共和国に置き換えること、警察、軍隊および官僚制度の廃止、全官僚が選挙されかつ解任可能であること、地主所有地の没収、全ての社会的生産と分配へのソヴェトによる統制、インターナショナルの再結成、〔党名に〕『共産主義』を明示することの党による採択。//
 革命の社会主義段階への即時移行を明確に要求することを含むこれらのスローガンは、社会主義者の伝統を完全に否定するものと見なしたメンシェヴィキによってのみならず、多数のボルシェヴィキ党員からもまた、反対された。
 しかしながら、レーニンの揺るぎなき信念は、全ての躊躇を抑えた。
 同時に、彼は支持者たちに、ソヴェトに支えられているので臨時政府をただちには打倒できない、ということを明確にした。
 ボルシェヴィキは先ずはソヴェトの支配権を握り、そして労働者大衆の多数派を自分たちの側に獲得しなければならない。帝国主義者の戦争はプロレタリアートの独裁によってのみ終わらせることができる、との確信を抱かせることによって。//
 レーニンは7月に、『全ての権力をソヴェトへ』とのスローガンを破棄した。ボルシェヴィキはしばらくの間はソヴェト内での多数派を獲得することができない、支配するメンシェヴィキとエスエルは反革命に転化して、帝制主義の将軍たちのの奉仕者になった、と決定したのだった。
 かくして、革命への平和的な途は、閉ざされた。
 このスローガンの破棄は、ボルシェヴィキがその暴力を示した〔七月蜂起の〕後で起こった。レーニンはのちの数年の間、この暴力行使を猛烈に否定したけれども、おそらくは(probably)、権力奪取の最初の企てだった。
 逮捕されるのを怖れて、レーニンはペテログラードから逃げて、フィンランドに隠れた。そこで党活動の指揮を執り、同時に、<国家と革命>を書いた。
 -この書物は、武装する全人民により権力が直接に行使されるというプロレタリア国家のための、異常なほどに半(semi-)アナキスト的な青写真を描くものだ。
 この綱領の根本的考え方は、ボルシェヴィキ革命の行路によってすぐに歪曲されたのみならず、レーニン自身によって、アナクロ=サンデカ主義的夢想だとして愚弄された。//
 将軍コルニロフ(Kornilov)による蜂起の失敗はますます一般的な混乱を増大させ、ボルシェヴィキにとって事態がより容易になった。
 レーニンの政策は党がコルニロフの反抗を助けることで、ケレンスキー政権の支持へと漂い込むことではなかった。
 彼は、8月30日付の中央委員会あて手紙でこう書いた。
 『この戦争が発展することだけが、<我々を>権力へと導くことができる。しかし、我々は情報宣伝(扇動・プロパガンダ)では、可能なかぎりこれについて言わないようにしなければならない。明日の事態すらもが我々に権力を握らせるかもしれないこと、そのときには我々は決して権力を手放さない、ということを十分に銘記しながら。』(+)
 (全集25巻p.289〔=日本語版全集25巻「ロシア社会民主労働党中央委員会へ」312頁〕。)
 ボルシェヴィキは9月に、ペテログラード・ソヴェトの多数派を獲得した。そして、トロツキーが、その議長になった。
 10月に入って、〔ボルシェヴィキ〕中央委員会の多数派は、武装蜂起に賛同する表決をした。
 ジノヴィエフとカーメネフは、反対した。そして、この彼らの態度は一般に広く知られた。
 ペテログラードでの権力奪取は、比較的に簡単で、無血だった。
 その翌日に集まったソヴェト大会は、ボルシェヴィキが多数派で、土地問題に関する布令と併合や賠償なき講和を呼びかける布令を裁可した。
 純粋にボルシェヴィキの政府が権力を握った。そして、レーニンが約束していたように、それを手放すつもりは全くなかった。//
 レーニンの暴動政策および全ての見込みが、ロシアの革命は世界革命を、少なくともヨーロッパの革命を誘発するだろうとの確固たる予測にもとづいていたことに、何ら疑いはあり得ない。
 こうした考えは、実際、全てのボルシェヴィキ党員に共有されていた。
 革命後、最初の数年間のロシアでは、『一国での社会主義』に関する問題は何もなかった。
 1917年のスイス労働者に対する別れの手紙で、レーニンはこう書いた。
 ロシア農業の性格と満足していない農民大衆の熱望からすると、ロシアの革命はその規模からして、世界の社会主義革命の序曲(prelude)である『かもしれない』、と。
 しかし、この『かもしれない』は、すみやかにレーニンの演説や論文から消えて、次の数年の間のそれらは、西側でのプロレタリアの支配がごく間近に接近している(just round the corner)という確信に充ち満ちていた。
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 段落の途中だが、ここで区切る。
 (+ 注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ②へとつづく。

1659/第一次大戦③-L・コワコフスキ著18章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第1節・ボルシェヴィキと戦争③。
 ロシア国外での最後の年月に、レーニンは諸著作の中でおそらく最も一般に知られているものを書いた。すなわち、<帝国主義-資本主義の最高段階>(1917年、ペテログラード刊)。
 この小冊子-その経済の部分はレーニンの主要な根拠文献であるホブソン(Hobson)およびヒルファーディング(Hilferding)に見出され得ないものは何もない-は、革命党に対して力をもつべき新しい戦術の理論上の基礎を提供することを意図していた。
 帝国主義の世界的性格および不均等な発展を強調して、レーニンは、やがて共産主義諸党を拘束することとなる戦術の基礎を設定した。
 正しい路線は、いかなる理由によってであれ、いかなる階級の利益になるのであれ、いかなるときであれその時点の体制を打倒しようとする傾向の、全ての運動を支持することだ。植民地諸国の解放、民族運動あるいは農民運動、大きな帝国主義諸国に対するブルジョア的民族蜂起。
 これは、彼が何年もの間にロシアで説いてきた戦術を一般化するものだった。
 ツァーリ専政体制に反対する全ての要求と全ての運動を支持すること。そうして、それらの活力源を利用して、決定的な瞬間に権力を奪取すること。
 マルクス主義党の勝利は最終の目標だが、それはプロレタリアートだけで達成さ得るものではない。
 レーニンはすみやかに、実際に、民族主義者や農民のような他の大衆運動の支持なくして、労働者階級はその名前のもとで革命を遂行することはできない、との結論に達した。言い換えると、伝統的マルクス主義の意味での社会主義革命は、実現不可能なことだ。
 このことを発見したことは、レーニンの成功のほとんど全ての淵源であり、また彼の失敗のほとんど全てのそれだった。//
 農民との関係の問題は、この時期に、レーニンとトロツキーの間の主要な不一致点の一つだった。
 トロツキーは戦争勃発まで主にウィーンに住み、1908年以降は自身の機関誌<プラウダ>を編集した(彼は1912年に、ボルシェヴィキがその冠名を奪ったと非難した)。
 彼は折に触れて様々な問題についてメンシェヴィキとともに活動したが、それに加入はしなかった。来たる革命について異なる考え方をもち、社会主義の段階へと進化するだろうと予見していたからだ。
 トロツキーは党の一体性を回復しようと努力を繰り返したが、不首尾に終わった。
 彼は1914年から戦争反対派に属し、レーニンとともに『社会的愛国主義』を攻撃した。
 彼はまた、ツィンマーヴァルト宣言の草案も書いた。 
マルトフと一緒にパリで雑誌を発行し、それにはルナチャルスキーその他の指導的な社会民主主義知識人たちが寄稿した。
 第二回大会からボルシェヴィキに加入した1917年まで、トロツキーは、レーニンの側で例外的に敵愾心を抱く対象だった。現実の論争点に同意するかどうかに関係なく。
 レーニンは、トロツキーをこう描写した。状況に応じて、小うるさい弁舌者、役者、策略家、そして<ユドゥシュカ(Yudushka)>だ、と(最後は『小さなユダヤ人』の意味で、サルチュイコフ=シェードリンの小説<ゴロヴレフ一家>に出てくる偽善的性格の人物の名)。
 レーニンはまた、こうも言った。トロツキーは原理のない男で、一つのグループと他との間に巧みに身を隠し、発見されないようにとだけ気を配っている、と。
 レーニンは、1911年に、つぎのように書いた。
 『トロツキーにはいかなる考えもないので、この問題の本質に関して彼と議論するのは不可能だ。
 我々は、信念ある解党派やotzovists(召還主義者)たちと論じ合うことができるし、そうすべきだ。
 しかし、このどちらの傾向の過ちも隠そうとする遊び人と議論しても無意味だ。
 トロツキーの場合にすべきことは、最低限の度量しかない外交家だという姿を暴露することだ。』(+)
 (『確かな党政策から見るトロツキーの外交』、1911年12月21日。全集17巻p.362〔=日本語版全集17巻373頁〕。)
 彼は、1914年に、同じ考えを繰り返した。
 『しかしながら、トロツキーには「相貌(physiogmology)」が全くない。
 ただ一つあるのは、場所を変えて、リベラル派からマルクス主義者へと飛び移ってまた戻る、宣伝文句や大げさな受け売り言葉の断片を口に入れる、という癖だ。』(+)
 (『「八月ブロック」の分解』、1914年3月15日。全集20巻p.160〔=日本語版全集20巻163頁〕。)
 『トロツキズム』それ自体に関しては、こう言う。
 『トロツキーの独創的な理論は、ボルシェヴィキからは、断固たるプロレタリアの革命闘争やプロレタリアートによる政治権力の征圧の呼びかけを借用し、一方でメンシェヴィキからは、農民層の役割を「否認すること」を借用した。』(+)
 (『革命の二つの方向について』、1915年11月20日。全集21巻p.419〔=日本語版全集21巻432頁〕。)//
 トロツキーは、実際に、党はブルジョアジーの添え物ではなくて階級闘争を指導する力でなければならないとのレーニンの見地を共有していた。
 レーニンと同様に、トロツキーは、解党主義者と召還主義者のいずれにも反対した。そして、レーニンよりも早く、『二段階の革命』を予見した。
 しかしながら、彼は農民層がもつ革命的な潜在力の存在を信じなかった。そして、ヨーロッパ全体での革命の助けを借りてプロレタリアートはロシアを支配するだろう、と考えた。//
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 (+)=秋月注記。日本語版全集の訳を参考にして、ある程度は変更した。
 第1節、終わり。つづく第2節の表題は、「1917年の革命」。

1657/第一次大戦②-L・コワコフスキ著18章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第1節・ボルシェヴィキと戦争②。
 このような訴えは、呆けた夢物語のように見えたかもしれなかった。一握りの社会主義者たちだけが、それを支持するつもりがあったのだから。
 ほとんどの社会民主主義者たちは、階級闘争を中止して祖国の防衛のために結集しようという考えだった。
 プレハノフはこのように考えたロシア人の一人で、自分はマルクス主義者だと表明し続ける一方で、心から愛国主義の見地を受け入れた。
 このことによってプレハノフとレーニンの間の休戦状態は瞭然として終わりを告げ、プレハノフとポトレソフはもう一度、『道化師』であり反動派の指導者のプリシュケヴィチ(Purishkevich)の従僕だと非難された。
 レーニンは、イギリスのハインドマン(Hyndman)やフランスのゲード(Guesde)、エルヴェ(Herve)のような、その態度の基礎に民族の自己防衛原理をおく、全ての社会主義指導者と類似の見解をもっていた。当然に、交戦諸国の中には『侵略者(aggressors)』はいなかったことになる。
 しかしながら、徐々に戦争反対の集団が全ての国で形成された。そのほとんどは、正式に中心的位置を占める社会主義者によっていた。ドイツのベルンシュタイン、カウツキーおよびレデブーア(Ledebour)、イギリスのラムジー・マクドナルド(Ramsay MacDonald)。
 これには、マルトフとアクセルロートが率いる、従前のメンシェヴィキのほとんど、およびトロツキーも、属していた。
 しばらくの間、彼らの基礎的な違いにもかかわらず、レーニンの集団はこれら『平和主義者(Pacifists)』と折り合いをつけようとした。
 主としてスイスとイタリアの社会主義者の努力によって国際的な会議が1915年9月にツィンマーヴァルト(Zimmerwald)で開かれ、妥協的な戦争反対の決議を採択した。
 ツィンマーヴァルトは一時的には、新しいインターナショナル運動の萌芽だと見なされた。しかし、ロシア革命の後では、中心部とツィンマーヴァルト左派の間の意見の違いは、平和主義者と、祖国を防衛する者はともかくもこう称された『社会的な熱狂愛国主義者』の間の対立よりも、大きいものであることが分かった。
 38人の代議員のうちの7名から成るツィンマーヴァルト左派は、一般的な決議に署名することに加えて、自分たちの決議をも発した。それは、社会主義者たちに、帝国主義的政府からの撤退と新しい革命的なインターナショナルの結成を呼びかけるものだった。//
 レーニンは、初期の段階では、戦争反対の平和主義的な社会民主主義者を、『社会的な熱狂愛国主義者』に対してしたのと同様に激しく攻撃した。   
 彼の主要な反対論は、第一に、〔ツィンマーヴァルト会議での、社会民主主義者の〕中央主義者(centrists)は、自分たちの政府に対する革命的な戦争を遂行することによってではなく、国際的な協定を通じて講和することを望んでいるということだった。
 このことは、戦前の秩序への回帰と『ブルジョア的』方法による平和への懇請を意味する、とした。
 中央主義者は明らかにブルジョアジーの従僕で、帝国主義戦争を終わらせる唯一の途は少なくとも三つの大陸大帝国を打倒する革命によってだ、ということを理解できていない、とする。
 第二に、平和主義者は『併合または賠償のない講和』を望んでいる、ということだった。そのことで彼らが意図しているのは、戦時中の領土併合の放棄だけであり、かくしてその民族主義的抑圧を伴う旧い諸帝国を維持することだ。
 しかし、レーニンが考えるには、革命的な目標は、全ての領土併合を無効にすること、全ての民衆の自己決定権を保障すること、そしてかりに望むなら、彼ら自身の民族国家を形成することでなければならない。 
レーニンは、併合と迫害を責め立てる社会主義者を咎める強い立場にあったが、それは、彼らの民族的な敵によって行われるときにだけだった。
 ドイツ人はロシアでの民族の問題の扱いに完全に憤慨していたが、ドイツ帝国やオーストリア=ハンガリーの状態については何も語らなかった。
 ロシアとフランスの社会主義者は、中央諸国の問題からの自由を要求した。しかし、ツァーリの問題については沈黙したままだった。
 結局、平和主義者は、きっぱりと日和見主義者と決裂する決心のつかない言葉で熱狂愛国主義者を非難したけれども、彼らと再合流することやインターナショナルを甦生させることを夢見た。
 このことは、とくに重要だ。
 党内部での従前の紛争や分裂の全ての場合と同じく、レーニンは、反対者および、反対派と完全に別れるのを躊躇し、組織的統一を渇望することで原理的考え方を満足させる自分の身内内の『宥和者』に対して、同等に激しい怒りを向けた。
 中央主義者は、レーニンの態度は狂信的でセクト主義的だと非難した。そして、ときどきは無力で孤立した集団の指導者の地位へと彼を陥らせるように見えた、というのは本当だ。
 しかしながら、最終的には、他のどの戦術もボルシェヴィキのような中央集中化した紀律ある党を生みだし得なかった、という点で、レーニンが正しかった(right)ことが分かった。危機的なときに、もっと緩やかに組織される党では、状勢を乗り切って権力を奪取することができなかっただろう。
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 ③へとつづく。

1655/第一次大戦①-L・コワコフスキ著18章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 これの邦訳書はない。試訳をつづける。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。第2巻単行著の、p.467~。
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 第1節・ボルシェヴィキと戦争①。
 1908年~1911年は、ロシア社会民主主義運動の大きな衰退と解体の時期だった。
 革命後の抑圧のあとで、ツァーリ体制が一時的に安定した。公民的自由はかなり増大し、弱体化した社会構造を官僚制と軍隊以外の別の基盤の上に造ろうとする試みがなされた。 首相のストリュイピン(Stolypin)は、中規模の所有地を持つ強い農民階層を生み出すことを意図する改革を導入した。
 この政策手段は、社会主義者たち、とくにレーニン主義の信条をもつ者たちの警戒心を呼び覚ました。彼らは、かりに農業問題が資本主義によって改革の方法で解決されれば、土地に飢える民衆がもつ革命的な潜在力は取り返しがつかないほどに失われるだろうと気づいていた。
 1908年4月29日の『踏みならされた道を!』と題する論考で(全集15巻p.40以下〔=日本語版全集15巻24頁以下。〕)、レーニンは、ストリュイピンの改革は成功して、農業に関して資本主義発展の『プロイセンの途』を確立するするかもしれないと認めた。
 かりに成功してしまえば、『誠実なマルクス主義者は、率直にかつ公然と、全ての「農業問題」を屑鉄の上にすっかり放り投げるだろう。そして、大衆に向かって言うだろう。「労働者はロシアにユンカー(Junker)ではなくアメリカ資本主義を与えるべく、できる全てのことをした。労働者は、今やプロレタリアートの社会革命に参加するよう呼びかける。ストリュイピン方式での農業問題の解決の後では、農民大衆の生活の経済条件に大きな変化をもたらすことのできる、もう一つの革命はあり得ないのだから。」』//
 ストリュイピンの政策は長くは続かず、期待された結果をもたらさなかった。その政策が実現していれば、のちの事態の推移は完全に変わっているかもしれなかった。
 レーニンは1917年の後に、ボルシェヴィキが土地を没収して農民に分配するというエスエルの綱領を奪い取っていなかったら、革命は成功できなかっただろう、と書いた。
 1911年にストリュイピンの暗殺があったにもかかわらず、ロシアは数年間は、明らかに立憲君主制の基礎原理をもつブルジョア国家の方向へと動いていた。
 この発展は、社会民主主義者の間に新しい分裂を生じさせた。
 レーニンは、この時期に、『otzovists』、すなわち非合法の革命行動を完全に信じているボルシェヴィキ党員たちに加えて、『清算人(liquidators、解党者)』、多少ともメンシェヴィキと同義の言葉だが、を絶え間なく、批判し続けた。
 彼はマルトフ(Martov)、ポトレソフ(Potresov)、ダン(Dan)、そしてたいていのメンシェヴィキ指導者たちに対して、非合法の党組織を精算し、現存秩序の範囲内での『改良主義』闘争へと舵を切って労働者の『形態なき』合法的集団に置き換えようと望んでいると非難した。 
 メンシェヴィキは、実際に、党が非合法活動まですることを望んでおらず、平和的手段により多くの重要な意味を与えて、専政体制が打倒されたときに社会民主主義者が西欧の仲間たちと同様の位置にいることを期待した。
 そうしている間、党内部の古い対立は存在しつづけた。
 メンシェヴィキは、民族問題についてオーストリアの処理法を容認した(『領域を超えた自治』)。一方で、ボルシェヴィキは、継承権を含む自己決定を主張した。
 メンシェヴィキはブント(Bund)やポーランドの社会主義者との連携を主張したが、レーニンはこれらはブルジョア・ナショナリズムの組織だと見なした。
 しかしながら、プレハノフは、ほとんどのメンシェヴィキ指導者とは違って『清算人』政策に反対した。そのことで、レーニンはプレハノフに対する悪罵と論駁の運動をやめて、ロシア社会主義のこの老練者との間の一種の不安定な同盟へと戻った。//
 様々の意見の相違により、党の新しいかつ最終的な分裂が生じた。
 1912年1月、プラハでのボルシェヴィキ大会は党全体の大会だと宣言して自分たちの中央委員会を選出し、メンシェヴィキと決裂した。
 レーニン、ジノヴィエフおよびカーメネフ以外に、この中央委員会の中には、オフラーナ〔帝国政治警察〕工作員のロマン・マリノフスキー(Roman Malinovsky)もいた。
 レーニンはマリノフスキーについて、何度もメンシェヴィキから警告を受けていた。
 レーニンはその警告を、『「黒の百」の新聞のごみ屑の山から集めることのできた最も汚い中傷』だと称した。
 (『解党派とマリノフスキーの経歴』、1914年5月。全集20巻p.204〔=日本語版全集20巻319頁以下。〕)  
 マリノフスキーは、実際、レーニンの命令の忠実な執行者だった。オフラーナが、そうするように命じていたので。そして彼には、自分のイデオロギー上のまたは政治的な野望がなかった。
 スターリンは、プラハ大会のすぐ後で、レーニンの側近機関である中央委員会へと推挙された。かくて彼は、ロシアの社会民主主義政治の舞台にデビューした。//
 レーニンは、戦争が勃発する前の最後の二年間、クラカウ(Cracow)およびその近くの保養地のポロニンで過ごした。後者からロシアの組織との接触を維持するのは、より容易だった。
 ボルシェヴィキは、合法的な活動の機会を逃さなかった。
 1912年からサンクト・ペテルブルクで、<プラウダ>を発行した。この新聞は二月革命の後で再刊され、それ以来に党の日刊紙になった。
 ドゥーマ〔帝国議会下院〕には数人のボルシェヴィキ党員がいて、レーニンによって禁じられるまでは、メンシェヴィキと協同して活動した。//
 戦争が勃発したとき、レーニンはポロニンにいた。
 オーストリア警察に逮捕されたが、ポーランド社会党とウィーン(Vienna)の社会民主党が介入したことによって、数日後に釈放された。
 スイスに戻って、1917年4月まで滞在し、インターナショナル〔社会主義インター〕を挫折させた『日和見主義的裏切り者』を非難したり、新しい状勢のもとでの革命的社会民主主義者のための指令文書を作成したりしていた。
 レーニンは、革命的敗北主義を宣言した、ヨーロッパの最初かつ唯一の社会民主主義の指導者だった。
 各国のプロレタリアートは、帝国主義戦争を内乱に転化すべく、自分たち政府の軍事的敗北を生じさせるよう努めるべきだ。
 ほとんどの指導者が帝国主義の奉仕者へと移行してしまったインターナショナルの廃墟から、プロレタリアートの革命的な闘争を指揮する共産主義インターナショナルが、創立されなければならない。//
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 ②へとつづく。 

1653/弁証法ノート②-L・コワコフスキ著17章9節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治〔最終回〕。
 前回のつづき。第9節(最終節)。
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 第9節・レーニンの弁証法ノート②(完)。 
 党の哲学論者たちは<唯物論と経験批判論>を使って、観念論と疑われる全ての教理と闘った。一方で、マルクス主義と機械論(mechanicism)の違いを強調するために、とくに1930代のブハーリン(Bukharin)とその支持者たちに反対する運動で、<哲学ノート>を引用した。
 この二つの文献の文章はともかくも相互の一貫性がないということを認めるのに、もちろん何の疑問もない。
 のちに、ソヴィエト同盟での弁証法的唯物論の教育がスターリンの設定した図式から離れたとき、<ノート>は新しい基盤として用いられ、16の『要素』は、スターリンの『弁証法の四つの主要な特質』に取って代わった。 
 しかしながら、<唯物論と経験批判論>はさらにレーニン主義の哲学上の基礎、スターリンによってそう授与された地位をもつもの、として復活した。
 そのことは、つぎのような嘆かわしい(deplorable)結果を生じさせた。すなわち、全ての自立した哲学的思想を窒息させる口実を用意し、全ての分野での科学と文化を支配する党の独裁を確立する、という。//
 ヴァレンチノフ(Valentinov)やその他の者が指摘したように、レーニンが唯物論を防衛したその極度の執拗さは、マルクス主義にのみ基礎があるのではなく、ロシア唯物論の伝統に、とくに、フォイエルバハ(Feuerbach)を大衆化した哲学の、チェルニュイシェフスキー(Chernyshevsky)に根ざしていた。
 こうした思想系統に対する論評は、1950年代のソヴィエト同盟でもなされた。しかし、レーニン主義は特殊にロシアの哲学で、誤謬のない、普遍的で有効なマルクス主義を継承たものではない、ということを示唆するものだと、非難された。//
 ロシアの淵源への影響の問題を別にして言えば、つぎのことは明白だ。すなわち、レーニンの哲学は彼の政治上の綱領および革命党の考えと緊密に結び付いており、彼自身がそのことを十分に意識していた、ということだ。
 全ての理論上の問題が権力闘争に厳格に従属している職業家の党は、哲学上の多元主義を安全には是認することができなかった。
 党自身の成功のために、党は明確に定義された教理を、あるいは構成員を拘束する、克服され得ない(inexpugnable)一体のドグマ(教義)を、所有していなければならなかった。   
 党の紀律と団結は、理論問題での弛み、曖昧さあるいは多元主義といったいかなる危険も排除されることを要求した。
 支配するイデオロギーが厳格に唯物論でなければならないことは、マルクス主義者の伝統によって保障され、革命に対する障碍物になるあらゆる形態での宗教的思想と闘うために必要とされた。もちろん、存在論的(ontologically)に中立な哲学を避けるためにも。
 レーニンは、身内であれ敵であれ、言葉上ですら宗教との妥協を示すいかなる傾向をも厳しく批判した。あるいは、間違って定式化されているまたは解決できないという理由で、存在論上の問題という脇道へと逸れる傾向も。
 レーニンは、マルクス主義は哲学上の全ての大きな問題に対する既製(ready-made)の解答だと信じ、何の疑いもないものとして受け入れた。
 哲学上の問題を棚上げするいかなる試みにも、党のイデオロギーの一体性に対する危険があった。 
 かくして、レーニンの粗雑な、妥協を許さない唯物論は、特殊な伝統の結果というだけではなくて、彼の行動技法の一部だった。
 党は、全てのイデオロギー問題を決定する唯一つの権限を有していなければならない。そして、レーニンは、この見地から、観念論が彼の綱領に対して示す危険性を十分に理解した。
 文化生活の全ての局面を抱え込む全体主義的(totaritarian)権力という考えは、彼の意識の中で少しずつ形を作り始め、ときおり実践へと用いられた。
 レーニンの哲学はこの考えによく役立つもので、問題の探求や解決に関係しないで、社会主義運動に教条的(dogmatic)な精神上の体制を押しつけることに関わっていた。 
 このようにして、レーニンの哲学的攻撃の憤怒や他者の議論への関心の欠如は、その源泉を、彼の哲学上の教理(doctrine)に持っていた。//
 しかしながら、レーニン主義者にとってすら、<唯物論と経験批判論>は、二つの重要な点で曖昧なものだった。
 既述のことだが、第一に、エンゲルスやプレハノフとは違って、レーニンは、『客観性』、すなわち主体に依存しないことが物質の唯一の属性だ、唯物論者がその者であればこれを是認せざるを得ない、と考えた。
 このように述べることは明らかに、マルクス主義はいかなる科学理論の変化にも、とくにいかなる物理学のそれに、依存しないことを意図していた。  
 『物質』は自然科学が授けたり奪ったりするいかなる属性にも影響を受けることがないので、科学は唯物論に対して何の危険も提示しない、とされた。
 しかし、このような結論は、『物質』を全ての内容から空虚にすることによって得られる。
 かりに物質が知覚する主体以外の何かであるとだけ単純に定義されるのだとすれば、このことは、知覚(perception)の内容と異なると見なされる『実体(substance)』の全てについて、同じく言えることが明確だ。
 『物質』はたんに、『全てのもの』の言い換え語になる。我々が一般的に『物質性』とともに連想する、いかなる種類の属性-空間上の、時間上の、あるいは活動上の-も、意味するものがなくなる。
 第二に、このような定義は、排除することを目的としている曖昧な二元論を、再び受容するものだ。
 主体の『外側』にある全てのものが物質的(material)であれば、主体それ自身であるいずれのものも物質的ではないか、主観的な(主体上の)現象と妥協するために物質の定義を拡張しなければならない、ということになる。  
 『物質が始源的で精神は二次的だ』という定式は、精神と物質は異なるものだということを前提命題にしていると思える。かくして、唯物論的一元論と矛盾している。
 レーニンの著作はこうした問題に解答していないか、または一貫して議論してはいない。そして、つぎのことをもっと正確に吟味するのを試みたい論点はない。
 すなわち、レーニンのテクストの不明瞭さ(難解さ)は、本来的な哲学上の困難さによるというよりむしろ、彼の怠惰で上辺だけの(表面的な)接近方法、権力闘争に直接に用いるために設定することができない全ての問題に対する侮蔑(contempt)、による。//
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 第9節、終わり。そして、第17章、終わり。
 第18章およびその第1節の表題は、それぞれ、「レーニン主義の運命(fortunes)-国家の理論から国家のイデオロギーへ」、「ボルシェヴィキと戦争」。

1651/弁証法ノート①-L・コワコフスキ著17章9節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。第9節(最終節)。
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 第9節・レーニンの弁証法ノート①。
 論考や演説でのその時どきの文章を別にすれば、レーニンは、純然たる哲学を主題とする書物をもう書かなかった。
 (1921年の『戦闘的唯物論の意義』は、情報宣伝のための命令文書たる性質のものだ。
 1913年の『マルクス主義の三つの淵源と三つの要素』は一般向けの解説で、独自性はない。)
 しかしながら、彼の死後にソヴィエト同盟で、<哲学ノート(Notebooks)>(全集38巻)と題する一巻本の書物が刊行された。これはレーニンが主に1914-15年に書いた種々の著作の抜粋から成っていて、彼自身の肯定や憤慨の論評や若干の哲学的見解が付いていた。
 ある程度の場合について、このノートは彼が読んだものや彼自身の立場表明の要約なのかどうかが明確でない。
 主要なノートは弁証法に関係しており、<唯物論と経験批判論>での粗雑な定式の調子をある程度弱めているので、興味を惹く。
 そしてこのノートは、とくに、レーニンが戦時中に読んだヘーゲルの<論理(Logic)>と<歴史哲学講義(Lectures on the Philosophy of History)>の影響を受けていることを示している。
 レーニンは、ヘーゲルのこれら書物により、彼の弁証法はマルクス主義の発展においてきわめて重要なものだったと確信した。
 彼は、<資本論>はヘーゲルの<論理>の完全な研究なくしては理解できない、とすら書いた。そして、申し分のない一貫性をもって、こう付け加えた。
 『そう、半世紀経ったが、どのマルクス主義者も、マルクスを理解していなかった』。
 この突発表現(boutade)は、字義どおりには理解されてはならない。なぜなら、レーニンは自分が1915年までにマルクスを理解したと思っていなかったとは考え難いからだ。
 しかし、上の言葉は、レーニンがある程度はヘーゲルの考察に魅惑されたことを示す。//
 <ノート>が示すように、ヘーゲルの<論理>における『普遍性』と『個別性』の問題、および『合一(unity)と諸反対物の矛盾』の理論と考えられた弁証法に、レーニンはもっとも関心を持った。
 彼は、ヘーゲルの弁証法のうちに、唯物論の基礎へと転位した後でマルクス主義が引き継いで使用した主題を発見しようとした。
 抽象化の問題および直接的感知と『普遍』の知識(knowledge)の関係に関して言うと、レーニンは、カントの教理(例えば、『事物それ自体』は完全に不明確(indefinite)で、したがって無だ)とは対立するヘーゲルの全てを強調し、抽象的思考の自律的な認識上の機能を指摘した。
 レーニンの論理によると、弁証法、そして知識の理論は、みな同じことだった。 
 <唯物論と経験批判論>は感覚(sensations)に関する主観的な解釈との闘いに集中しており、感覚を世界に関する全ての知識の源泉だと見なすことで満足しているように見えた。
 ところが一方、<ノート>は、感知(perception)それ自体に含まれる抽象化という問題を設定し、認識の過程に際限のない『矛盾』を持ち込む。
 法則、したがってまた『普遍性』は個々の現象の中にすでに含まれている。そして同様に、個々人の感知は『普遍的』要素をうちに含む、別言すれば、抽象化の行為だ。
 かくして、自然は具体的でも抽象的でもあり、事物は、一般的な規則性を把握する、ただ観念上の知識の観点からのものだ。
 具体的なものは、個別の感知行為によっては完全に具体的には把握することができない。
 一方でそれは、無限に多数ある観念および一般的法則を通じてのみ自らを再生産するのであり、その結果として、認識され尽くすことが決してない。
 最も単純な現象ですら、世界の複雑性およびその全ての構成要素の相互依存性を示している。
 しかし、全ての現象はこのように相互に結び付いているがゆえに、人間の知識は必然的に不完全で、断片的なものだ。
 具体的なものをその全ての個別性とともに把握するためには、我々は、諸現象の間の全ての連結関係に関して、絶対的で普遍的な知識を持たなければならない。
 世界に関する全ての『反射物』は、新しい矛盾によって、知識が進歩するように消失したり置き換えられたりする、内部的な矛盾を帯同している。
 反射物は、『死んで』いたり『不活性』だったりするのではなく、その断片的な性質と矛盾によって、知識の増大を生み出す。だがそれは、不明確であり続けるのであり、決して絶対的な最終物へと到達することはない。
 かくして、真実(truth)は、矛盾を解消する過程としてのみ現われてくる。//
 知識の個別の構成要素と抽象的なそれとの間にはつねに一定の緊張、あるいは『矛盾』があるがゆえに、認識の過程で前者を犠牲にして後者を絶対化することは、すなわち観念論の方法で思考することは、つねに可能だ。
 『反射物』の『普遍的』な側面をレーニンが強調していること(これは彼の主要な哲学著作でのそれに関する叙述に反している)の他に、この考え方は、観念論は聖職者やブルジョアジーによって考案された欺瞞だという大雑把な解釈から離れている、第二の重要なものだ。     
 ここで現われる観念論は、『グノセオロジー〔認識論〕的淵源』を持つ。それは、精神上の逸脱というだけではなく、認識の一つの実際の側面を絶対化するもの、あるいは一面的に発展させたものだ。
 レーニンは、賢い観念論は、愚かな唯物論よりも、賢い唯物論に近い、とすら述べる。//
 <ノート>の第二の重要な主題は、『矛盾と諸反対物の合一』だ。
 レーニンは、弁証法の全体は諸反対物の合一の科学と定義することができる、と主張する。
 彼が列挙する16の『弁証法の要素』の中でとくに、諸反対物の矛盾は多様な形態で主要なモティーフになっている。
 全ての単一の事物は諸反対物の総体および合一体で、事物の全ての属性はその反対物へと変化する。内容の形式との『矛盾』、発展の低い段階での特徴は『否定の否定』によりより高い段階へと再生産される、等々。//
 これら全ての考えは、きわめて簡単なかつ一般的な言葉で表現された。したがって、分析を精細すぎるほどに行うほどのものではない。
 レーニンは、『矛盾』、論理的関係性がいかにして客体それ自体の属性に転化し得るのかについて、立ち入った検討をしていない。
 また、抽象化を感知の内容に導入することがいかにして『反射物』理論へのそれに照応するのかについて説明してもいない。
 しかしながら、エンゲルスのように、レーニンが弁証法は客体とは無関係に一般化された『世界の論理』だと説明できる普遍的方法だと見なした、ということは見てとれる。また、ヘーゲルの論理を唯物論的な変容の生の材料だと見なした、ということも、見てとれる。
 しかし、一般的に言って、レーニンの論述はエンゲルスの解釈よりも平易ではないヘーゲル主義に関する解釈を示すものだ。
 弁証法は、たんに『事物は全て変化する』と主張するものではなく、人間の知識は主体と客体の間での、いずれかの側の『絶対的な優先性』の問題は意味がなくなる、永続的な相互作用だと解釈しようとするものだ。//
 <ノート>は、主として党が機械論的(mechanistic)唯物論を批判するのに役立つように刊行された。
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 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

1646/レーニンと宗教②-L・コワコフスキ著17章8節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
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 第8節・レーニンと宗教②。
 こうした問題に関するレーニンの立場は、ロシアの自由な思考方法に一致していた。
 正教派教会とツァーリ体制との間の連結関係は、明白だった。
 ソヴェト政府が権力を握ったとき、全てではないが、ほとんどの教会の者たちはその権力に敵対的だった。
 この結果として、またレーニン主義の根本原理から、党綱領が示している以上に広い範囲で、すみやかに教会に対する闘いが行われた。
 政府は、教会財産の収奪や学校の非宗教化、あるいはともあれブルジョア的改革であってとくに社会主義的でないと見なされた手段に限定することはなかった。
 教会は、事実上、全ての公的な機能を剥奪され、説示、書物や定期刊行物の出版、聖職者の教育が禁じられた。たいていの修道院は、解体された。
 国家と関係のない私的な問題だという宗教に関する取り扱いは、ほとんど圧倒的多数の場合に党員であることが国家事務を行う必須の要件である一党国家制度では、適用され得なかった。
 教会や信仰者に対する迫害は、ときどきの政治的情勢によって烈しさが変わった。例えば、1941-45年の戦争中は、かなり緩かった。
 しかし、社会主義国家は『宗教的偏見』を根絶すべく努めなければならないという原理は力を保ちつづけた。またそれは、レーニンの教理と完全に一致している。
 教会と国家の分離は、国家がイデオロギー的に中立である場合にのみ作動しうるもので、そのような考え方は、何らかの特定の世界観を表明するものではない。
 ソヴェト国家は、プロレタリアートと唯一のプロレタリアートのイデオロギーの本質的特質である無神論の機構であると自らを位置づけており、離脱という原理を受容することができない。言ってみれば、類似性のあるヴァチカンの組み込まれたイデオロギー以上に。
 レーニンとその他のマルクス主義者はつねに、この点ではプロレタリア国家とブルジョア国家の間に違いはない、いずれの国家も支配階級の利益を代表する哲学を支持するように拘束されている、と考えた。
 しかし、まさにこの理由で、レーニンがツァーリ体制に反対するスローガンとして用いた教会と国家の分離は、イデオロギー、諸階級および国家の間の関係についてのレーニンの理論に反するもので、ボルシェヴィキによる権力奪取のあとでは維持することができなかった。
 一方で、反宗教のための政策手段の性格と規模は、当然ながら教理として予め述べられておらず、状況に応じて変化した。//
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 第8節、終わり。第9節の節名は、「レーニンの弁証法ノート」。

1645/レーニンと宗教①-L・コワコフスキ著17章8節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。この本には、邦訳書がない。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。 第二巻単行本のp.459-。
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 第8節・レーニンと宗教①。
 レーニンは、党のイデオロギー活動の鍵となる論点だと宗教を見なした。敵となるのは大衆的な現象であって、たんに経験批判論のような理論家集団ではなかったからだ。
 宗教に対する彼の態度は哲学の問題としては絶対的に明確だったが、彼の戦術は、比較的に融通性があり、可変的なものだった。//
 レーニンは、頑迷ではない宗教的な雰囲気の中で育った。15歳か16歳のときに信仰心をなくしたが、マルクス主義とはまだいかなる接触もなかった。
 そのとき以降、無神論を科学的には自明のこととした。そして、そのことを擁護してとくに論じることも決してなかった。
 彼の見方では、宗教の問題は、本質的な難事ではなくて、教育、政治そして情報宣伝(propaganda)の問題だった。
 『社会主義と宗教』(1905年、全集10巻〔=日本語版全集10巻70頁以下〕)およびその後の著作物で、レーニンは、宗教的信条は被抑圧者および貧困に苦しむ民衆が無能力であることの表現であり、彼らの苦痛を和らげる代償物だ-マルクスとエンゲルスの言葉をいつものように粗雑化して彼がいう『精神上の酒』だ-と論じた。
 同時に、宗教と教会は民衆を卑しくかつ従順なままにしておく手段であり、搾取者が権力を維持し民衆を悲惨な状態に置いたままにする『イデオロギー上の笞(knout)』だった。
 正教派教会は、精神的抑圧と政治的な抑圧が結合している、明白な例だ。
 レーニンはまた、宗教聖職者に対する体制側の抑圧的な態度を利用する必要も強調した。
 党の綱領は、最初から宗教上の寛容さについて語り、個人が自分の選択する信仰を告白する権利を、また無神論の宣伝活動に従事する権利をも、語った。
 教会と国家は分離されなければならず、宗教に関する公教育は廃止されるべきものだった。
 しかし、レーニンは、西側の多くの社会民主主義者たちと違って、社会主義者は宗教を国家と関係のない(vis-a-vis)私的な問題だと見なしてよく、党に関係があるかぎりでそれは私的な事柄ではなくなる、と強調した。
 いままさしく信仰者である者に対して寛容でなければならない現在の状況ではあったが(無神論は党の綱領には明確には表現されていなかった)、反宗教の情報宣伝を実施したり党員が戦闘的な無神論者になるよう教育することは、認められた。
 党は、哲学的に中立であることはあり得なかった。党の哲学は唯物論であり、そのゆえに、無神論であり反聖職者的であった。そして、この世界観は、政治的な違いの問題ではあり得なかった。
 しかしながら、反宗教の情報宣伝は階級闘争と接合されなければならず、『ブルジョア的自由思想』の意味のごとく、目的それ自体だと見なされてはならなかった。//
 戦術的な譲歩がどのようなものであれ、レーニンは、政治的な理由で、宗教的信念に対する執念深い反対者だった。
 そのゆえに、経験批判論に対する攻撃の激烈さもあった。経験批判論の哲学の一部は、『神の建造者(God-builder)』のそれと一致していた。
 後者は、マルクス主義に対して修辞上の情緒的な装飾を加えようとしているだけだった。しかし、レーニンの眼には、宗教との間に危険な妥協をするものと映った。
 主要な哲学上の著作やゴールキへの手紙、あるいは別の箇所で、レーニンは、野蛮な迷信を身に着けていない、社会的進歩的な言葉遣いをしている宗教は、ツァーリ専政政治と同盟することを冷厳に公言している、のぼせ上がった正教派教会よりも危険ですらある、と主張した。
 人間中心主義的な偽装を施した宗教は、よりよく、階級の意図を隠し、油断する者を欺瞞することができる。
 かくして、レーニンは戦術上の理由で信仰者たちと妥協する用意はあったが、彼の意思は根本問題では固く形成されていた。そして、党の世界観にはどんなものであれ宗教的信仰のいかなる余地も決してない、ということの示唆を拒むつもりは全くなかった。//
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 ②へとつづく。

1643/ボルシェヴィキ・犯罪者集団-2010年のアメリカ刊行書。

 Yuri Felshtinsky, Lenin and his Comrades (New York, Enigma Books, 2010).
 =ユリ・フェルシュチンスキー・レーニンとその同志たち(ニューヨーク, Enigma, 2010)。
 本文、p.264 まで。注・索引等全てでp.292 まで。序文(Intoduction)で、おおよその内容は分かる。
 この本を適切に論評する資格、能力は私にはない。但し、序文の最後には、wide-ranging な根拠・情報源にもとづくとは記されている。
 明治維新に関する史料・資料に比べても、時期的にはもっと後のロシア革命・レーニン「ソヴィエト」国家に関する史料・資料の方が、どうやらかなり少ないようだ。それは、<まずい>文書は可能なかぎりで徹底的に廃棄したからではないかと想像される。今後も、種々の新資料等にもとづく新しい歴史書がロシア等々で出版される可能性はある。
 1990年・ソ連解体前の史料・資料にもとづくが、下の①、②、③について、リチャード・パイプス・ロシア革命1899-1919(1990)はすでに、ほぼ史実として叙述している。
 1976年のL・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流もまた、①について、つぎのように書いていた。試訳済みの部分の中にある。
 <レーニンは身体的(肉体的)テロルにはこの時点で反対したが、鉄道・銀行・国有財産の収奪には賛成した。これはメンシェヴィキにより党大会で非難された。銀行強盗等の活動家の中には、スターリンもいた。>。
 ③をR・パイプス著はかなり詳しく迫っている。立ち入らないが、ドイツ側文献にも出てくるので、基本的史実は動かない、と考えられる。アレクサンダー・パルヴゥス(Parvus)〔革命の商人〕とレーニンの間の接触関係の詳細はまだ曖昧さが残るとはいえ。
 この点については、2010年以降に、デンマーク・コペンハーゲンで、建物解体中に、この二人の接触を示す、二人の変名を使った文書が入ったカバンが発見されたと書いている、そしてこの二人のことを改めて叙述している某英語書も読んだが、今すぐには見つけられない。その本の信憑性も私には分かりかねるが。
 上の著の「序文(Intoduction)」の冒頭と末尾だけを割愛して、残りの全文の試訳を掲載しておこう。①~⑨、および「第一に」・「第二に」は、秋月瑛二が挿入した。
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 「ロシアは、しかし、いくつかの異なる種類の歴史ももった。すなわち、犯罪の歴史。
 過去のこの部分が、この本の対象だ。
 この本は、20世紀の前四半世紀の間の、ボルシェヴィキ指導者たちの相互作用と活動方法における、犯罪の側面に焦点を当てる。
 ①ボルシェヴィキは、革命の前に、資金確保のための収奪を遂行した。
 ②彼らは、相続財産を奪うために、サッヴァ・モロゾフ(Savva Morozov)やニコライ・シュミット(Nikolai Shmidt)という金持ちを殺害した。
 ③また彼らは、外国の〔ドイツの〕諜報機関およびロシアに敵対していた政府と金銭上の関係に入り込んだ。
 レーニンがせき立てて、ソヴィエト政府は1918年にドイツでの革命を妨害する皇帝ヴィルヘルム一世との分離講和に署名した。
 ④レーニンによるブレスト=リトフスク条約の敵-最も重要なのはフェリクス・ジエルジンスキー(Felix Dzerzhinsky)、ロシアの秘密警察であるチェカの長官-は、条約を破棄するようドイツを刺激するためにドイツ大使のミルバッハ(Mirbach)公の暗殺を組織した。
 そして、⑤レーニン、トロツキーおよびスヴェルドロフ(Sverdlov)は、左翼社会主義革命党〔左翼エスエル〕を破壊してロシアに単一政党独裁を樹立するために、ミルバッハ殺戮を利用した。
 ブレスト=リトフスク条約を無意味にするこの企てが失敗したあとでのつぎのことは、我々が主張したい命題だ。
 すなわち、第一に、⑥ジェルジンスキーとヤクロフ・スヴェルドロフ、党の事実上の総書記、は1918年4月30日に、レーニンに対する暗殺の企てを組織した(いわゆる『カプラン暗殺企図』)。この事件の間に、レーニンは負傷した。
 そして、第二に、⑦そのあとの1919年3月のスヴェルドロフの突然の死は、事故ではなく、この企てに彼が果たした役割に対する復讐の行為だったかもしれない。
 ドイツ共産主義運動の指導者-リープクネヒト(Karl Liebknecht)とルクセンブルク(Rosa Luxemburg)-の殺害。⑧私見が支持するのは、この当時にドイツにいた著名なロシア・ボルシェヴィキのカール・ラデック(Karl Radek)が、この二人の殺害に関与していたかもしれない、というものだ。
 ⑨1922年の最初以降に、スターリンとジェルジンスキーによってレーニンは徐々に権力を奪い取られ、党内部での権力闘争の結果として、レーニンは彼らによって殺害された。
 そして、そのあと、トロツキーは駆逐され、また一方で、ジェルジンスキー、スクリャンスキー(Sklyansky)およびフルンゼ(Frunze)-別の重要なボルシェヴィキたち-が排除された。
 ボルシェヴィキ党の指導部は、組織犯罪集団ときわめてよく類似した様相を呈している。
 彼ら構成員のほとんど誰も、自然には死ななかった。
 そして、スターリン自身を含めて、スターリンの世代のほとんど全てのソヴィエトの指導者たちは、次から次へと除去されて〔殺されて?〕いった。」
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 内容構成(目次)は、つぎのとおりだ。
 「1・革命のための金。/2・ブレスト=リトフスク条約。/3・ミルバッハ公暗殺と左翼エスエル党の破壊。/4・ウラジミル・レーニンとヤコフ・スヴェルドロフ。5・カール・ラデックとカール・リープクネヒトおよびローザ・ルクセンブルクの殺害。/6・レーニンの死に関するミステリー。」
 以上。

1641/「哲学」逍遙⑥-L・コワコフスキ著17章7節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき(第17章の最終)。
 今回試訳掲載分の一部/第2巻単行書p.458.-レーニンは「認識論上の実在論を唯物論と混同していた。彼は唯物論は『客観的な物質的実在』を是認することで成り立つ、と言った。しかし、そうならば、カトリックの哲学者は、ほとんど全員が唯物論者だ」。
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 レーニンの哲学への逍遙⑥
 哲学としては、レーニンの著は、エンゲルスからの引用によって(この著全体でマルクスの文章は二つしか引用されていない)辛うじて成り立つ俗悪な『常識的』議論にもとづく、粗雑なかつ素人臭いものだ。そして、レーニンの反対者に対して抑制なく悪罵を投げつけるものだ。〔以上、重複〕
 この著は、彼ら反対者の見解を理解することに完全に失敗している。そして、理解しようとすることに嫌気がさしている。
 この著は、エンゲルスおよびプレハノフから引用する文章が含んでいる内容にほとんど何も加えていない。主な違いは、エンゲルスにはユーモアの感覚があったが、レーニンには少しもない、ということだ。
 彼は安っぽい罵倒と嘲笑でそれを埋め合わせようとし、論敵たちは反動的な狂人で聖職者の従僕だと非難する。
 エンゲルスの議論は世俗化され、決まり切った問答の形態へと変えられている。感覚は事物の『模写』または『鏡への反射物』だ、哲学上の学派は『党派』になる、等々。
 この書物を覆っている憤懣は、つぎのことを理解できない初歩的な思考者には典型的なものだ。すなわち、自分の想念の力で地球、星、そして物質世界全体を創造したとか、自分が見つめている客体は、どの子どももそうでないと見ているときには、自分の頭の中にあるとか、健全な精神をもつ者ならばどうやっても真面目には主張しない、ということを理解できない者。
 この点において、レーニンの観念論との闘いは、一定の未熟なキリスト教弁解主義者(apologists)のそれに類似している。//
 レーニンの攻撃は、ボグダノフ、バザロフ(Bazarov)およびユシュケヴィチ(Yushkevich)によって応酬された。
 ユシュケヴィチは、<哲学正統派の重要点>(1910)で、プレハノフを、哲学上の考えを憲兵よりも持たない警官のような(扁平足の)無学者だと攻撃した。
 彼は、宣言した。プレハノフとレーニンはいずれも、教条的な自己主張と自分たちの見解しか理解できない無能力によってロシア・マルクス主義を頽廃させたことを例証している、と。
 彼は、レーニンの無知、その執筆能力、およびその言葉遣いの粗雑さについて、とくに痛烈だった。事実の誤り、『黒の百(the Black Hundred)の習慣をマルクス主義へと持ち込むこと』、引用した書物を読んでいないこと、等々について、レーニンを非難した。
 その力で感覚の原因となるという物質の定義は、それ自体がマッハ主義への屈服だ。これは、プレハノフ、そしてプレハノフを模写したレーニンに、向けられた。
 マッハもバークリも、『世界の実在』を疑問視しなかった。論争された問題は、その存在ではなくて、実体、物質および精神(spirit)といった範疇の有効性(validity)だった。
 ユシュケヴィチは、こう書いた。経験批判論は、精神と物質の二元論を廃棄することでコペルニクス的革命を達成した、世界に対する人の自然な関係について何も変更させておらず、実在論(realism)の自然発生的な価値を形而上学的な呪物主義から自由にして回復させたものだ、と。
 レーニンは、実際に、認識論上の実在論を唯物論と混同していた(彼は何度も繰り返して、唯物論は『客観的な物質的実在』を是認することで成り立つ、と言った。しかし、そうならば、カトリックの哲学者はほとんど全員が唯物論者だ)。
 『反射物』の理論全体は、前デモクリトス派の、彼らを物体から神秘的に引き離して、彼らの眼や耳に襲来する形象(image)は存在する、という無邪気(naive)な信念を繰り返したものだ。      
 『事物それ自体』と純粋に主観的なそれの形象の間にあると想定されている『類似性』とは何であるかを、また、いかにして模写物(the copy)は始源物(the original)と比較され得るのかを、誰も語ることはできない。//
 <唯物論と経験批判論>は、革命の前およびその直後には、特別の影響力を持たなかった(1920年に第二版が出版されたけれども)。
 のちにスターリンによって、この著はマルクス主義哲学の根本的な模範だと、宣せられた。そして、およそ15年の間、スターリン自身の短い著作とともに、ソヴィエト連邦での哲学学習の主要な教材だった。
 その価値は微少だが、この著作は、正統派レーニン主義的マルクス主義とヨーロッパ哲学とが接触した最後の地点の一つを示した。
 のちの数十年間、レーニン主義と非マルクス主義思想との間には、論争という形態ですら、実質的に何の接触もなかった。
 『ブルジョア哲学』に対するソヴィエトの公式の批判は、多様な形態での『ブルジョア哲学』は、レーニンによる論駁によって死に絶えた、マッハやアヴェナリウスの観念論的呆言を繰り返すものだ、ということを当然視させた。//
 しかしながら、レーニンのこの著作の重要さは、政治的な脈絡の中で見分けられなければならない。
 レーニンがこれを書いているとき、マルクス主義を『豊かにする』とか『補充する』とか-神が禁じているところの-『修正する』とかの意図を、彼は何ら持っていなかった、と思われる。
 レーニンは、全ての哲学上の問題への解答を探求したのではなかった。全ての重要な問題は、マルクスとエンゲルスによって解決されていたのだから。    
 彼は、序文で、ルナチャルスキーはこう言った、と茶化した。『我々は道を間違えたかもしれない。だが、我々は捜し求めている』。〔+〕
 レーニンは、捜し求めていなかった。
 彼は、革命運動は明晰なかつ均一の『世界観(Weltanschauung)』を持たなければならない、この点でのいかなる多元主義も深刻な政治的危険だ、と固く信じていた。
 彼はまた、いかなる種類の観念論も、多かれ少なかれ宗教が偽装した形態であり、つねに搾取者が、民衆を欺瞞し呆然とさせるために用いるものだ、と確信していた。//
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 〔+〕 原書に、頁数等の記載はない。この部分は、日本語版全集14巻「第一版への序文」10-11頁にある。但し、参考にして、訳をある程度は変更した。
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 第7節、終わり。第8節の節名は、「レーニンと宗教」。

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