秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

L・コワコフスキ

1604/民族問題②-L・コワコフスキ著16章3節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第16章・レーニン主義の成立。 その第3節は、三巻合冊本の、p.674~p.680。
 前回のつづき。
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 第3節・民族問題②。
 第一に、ポーランドは、ヨーロッパの被支配民族のうちの最大のものだった。
 第二に、ポーランドは大陸の三つの大国の間に分裂していた。
 第三に、マルクスによると、ポーランドの独立はツァーリ専政体制および他の分割諸国、ドイツとオーストリア・ハンガリー、の形をした反動に対する決定的な一撃を加えることになる。
 しかしながら、ローザ・ルクセンブルクとレーニンは、この点に関するマルクスの見地はかつて有効だったとしても、時代遅れだと考えた。
 ローザ・ルクセンブルクは、ツァーリ帝国の経済運動に反するものとして、ポーランドの独立という復古を無視した。彼女は、自己決定なるものを、いかなる場合でも、一つ民族全体の共通の理想のふりをしてプロレタリアートを騙すために仕組まれたブルジョアの考案物だと、見なした。
 レーニンは、この点では、ポーランド社会民主党は党の利益と無関係に一つの目標として独立へと進むべきだとの考えは拒否したけれども、より柔軟だった。
 彼は、1902年のメーリング(Mehring)の若干の言明に全面的に賛同して、引用した。
 『ポーランドのプロレタリアートが、支配階級自体は耳を貸そうとしないポーランド階級国家の復活をその旗に刻み込みたいと望むなら、歴史上の笑劇を演じることになるだろう。 <中略>
 他方でかりに、この反動的なユートピアが、ある程度はなおも民族的扇動に反応する知識階層と小ブルジョア部門に対して、プロレタリアートによる扇動に好意をもたせようとするならば、そのユートピアは、安価で無価値の一時的な成功のために長期的な労働者階級の利益を犠牲にする、卑劣な日和見主義が生んだものとして、二重に根拠薄弱なものだ。』(+)
 同時に、レーニンは続けて語る。『疑いなく、資本主義の崩壊より前のポーランドの復古の蓋然性はきわめて低い。しかし、絶対に不可能だと主張することはできない。<中略>
 そして、ロシア社会民主党は、決して、自分の手を縛ろうとはしない。』(+)
 (同前、p.459-460。〔=日本語版全集6巻「我々の綱領における民族問題」474頁、475頁。〕)//
 かくして、レーニンの立場は明白だ。そして、どのようにして全人民のための政治的独立を主張する最高の闘士だと、彼はそのように著名なのだが、これまで考えられることができたのかを理解するのは、困難だ。
 彼は、民族的抑圧に対する断固たる反対者で、自己決定権を宣明した。
 しかし、それにはつねに、社会民主党が政治的分離を支持できるという例外的な事情がある場合にのみだ、という留保が付いていた。
 自己決定は、いつでも絶対的に、党の利益に従属していた。後者が人民の民族的な希望と矛盾するならば、後者の意味はなくなる。
 この留保は実際に自己決定権を無価値にし、純粋に戦術上の武器へと変えた。
 党はつねに、権力への闘争に際して、民族の希望を利用しようとし続けることになる。
 しかし、『プロレタリアートの利益』がある人民全体の願望に従属することは決してあり得ないことだった。
 レーニンが革命の後でブレスト・リトフスク(Brest-Litovsk)条約に関する<テーゼ>で書いたように、『いかなるマルクス主義者も、マルクス主義と社会主義の原理を一般に放棄することなくして、社会主義の利益は民族の自己決定権よりも優先する、ということを否定することができない。』(全集26巻p.449。〔=日本語版全集26巻「不幸な講和の問題の歴史によせて」459頁。〕)
 しかしながら、プロレタリアートの利益は定義上は党の利益と同じであり、プロレタリアートの本当の熱望は党の口からのみ発せられ得るので、党が権力へと到達すれば、党だけが独立や分離主義の問題に関して決定することができるのは明白だ。
 このことは、1919年の党綱領に書き込まれた。同綱領は、各民族の歴史的発展の高さは、独立問題に関する真の意思(real will)を表明する者は誰かに関して決定しなければならない、と述べる。
 党のイデオロギーもまた断言するように、『民族の意思』はつねに最重要の階級、つまりプロレタリアートの意思として表明され、一方でこの後者の意思は多民族国家を代表する中央集中的な党のそれとして表明される。したがって明白に、個々の民族は、その自らの運命を決定する力を持たない。
 これら全ては、レーニンのマルクス主義およびレーニンの自己決定権の解釈と完全に合致している。
 いったん『プロレタリアートの利益』がプロレタリア国家の利益に具現化されるとされれば、その国家の利益と力が全ての民族の熱望に優先することについて、疑いは存在し得ない。
 次から次へと続いた自由でありたいと求める諸民族への侵攻と武装抑圧は、レーニンの見地と全く首尾一貫していた。
 オルドホニキゼ(Ordzhonikidze)、スターリンおよびジェルジンスキー(Dzerzhinsky)がジョージアで用いた残虐な方法にレーニンが反対したのは、可能なかぎり残虐さを減らしたいとの彼の側の願望によっていたかもしれないが、しかし、彼らは隣国を従属させる『プロレタリア国家』の権利を冒さなかった。
 レーニンは、社会民主主義政府を合法的な選挙で設立したジョージア人民が赤軍による武装侵入の対象になったということに、何も過ちはない、と考えていた。
 同じように、ポーランドの独立を承認したことは、ポーランド・ソヴェトが突発するや否や、レーニンがポーランド・ソヴェト政府の中核を形成するのを妨止するものではなかった。-レーニンはほとんど信じ難い無知によって、ポーランドのプロレタリアートはソヴェト兵団の侵攻を解放者だとして歓迎するだろうと考えた、というのは本当だけれども。//
 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
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 ③へとつづく。

1602/民族問題①-L・コワコフスキ著16章3節。

  Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976,英訳1978, 三巻合冊本2008).

 第16章・レーニン主義の成立。
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 第3節・民族問題①。
 第二回党大会はまた、ツァーリ体制の政治上の重要問題だった民族問題に関する立場を明らかにする機会を与えた。
 問題は、ブント〔ユダヤ人労働者総同盟〕によって提起された。この組織はユダヤ労働者大衆の唯一の代表だと承認するように要求したが、レーニンを含む多数派によって否決された。
 カウツキーやストルーヴェ(Struve)を含むその他多数と同じく、レーニンは、ユダヤ人は共通の言語と領域的な基盤を持たないので、民族だと見なすことはできないと考えた。
 しかしまたレーニンは、民族を規準とする連邦制的政党の創立を意味しているとして、ブントの提案に反対した。
 レーニンの見地では、出自、教育および職業の違いは党において意味があるべきではなく、このことは民族についてはなおさら本当のことだった。
 党の中央集中化は党員の全ての差違を除去すべきものであり、各党員は全て、最も純粋な党の精神を具体化したものであるべきで、それ以外の何者でもなかった。//
 この問題は、ロシア帝国の臣民たちが分離主義を民族運動で表明したのでますます、レーニンの関心を惹いた。
 彼は、党が民族的抑圧を非難して、民族問題をとりわけ帝制専政を転覆させる梃子として使うことを望んだ。
 レーニンが大ロシア熱狂的愛国主義(the Great Russian chauvinism)を憎悪し、党内でのそれを根絶させるべく最善を尽くした、ということに疑いはない。
 1901年の末に、ツァーリ政府がフィンランドの穏やかな自治を侵犯した際に折良く、レーニンは書いた。
 『我々は他人民を奴隷の地位へと落とすために利用されるほどに、なおも奴隷なのだ。
 我々は、処刑人の残虐さでもってロシアでの自由への全ての志向を抑圧している政府に、なおも耐えているのだ。さらには、他人民の自由を暴力的に侵害するためにロシア軍兵を使っている政府にだ。』(+)
 (<イスクラ>、1901年11月20日。全集5巻p.310.〔日本語版全集5巻「フィンランド人民の抗議」322頁。〕)//
 社会民主主義者の間には、民族抑圧問題に関する論争はなかった。
 しかし、全ての者によって自己決定の原則(principle)、すなわち各民族全ての分離して政治的に存在する権利、が受容されていたわけでは決してない。
 オーストリアのマルクス主義者は、二重君主制のもとでの民族的自治を支持した。各民族集団は、言語、文化、教育および出版等に関する完全な自由をもつべきだとした。しかし、政治的な自立については、明確には表明されなかった。
 レンナー(Renner)、バウアー(Bauer)およびこれらの仲間たちは、党内部での民族的対立に絶えず悩まされた。
 オーストリア・ハンガリー帝国のプロレタリアートは一ダースかそれ以上の民族集団に属していて、たいていは明確に区切られた地域にはおらず、地理を超えていたので、政治的な分離主義は、境界地帯での身動きならない問題を生じさせていた。
 ロシアに関するかぎり、レーニンは、文化的自治では不十分で、自己決定は分離国家を形成する権利を含まないならば無意味だ、と考えた。
 彼はこの見地をしばしば主張し、1913年の民族問題に関する小冊子に、そのように記述するようにスターリンに勧めた。
 自己決定の問題は、この問題についてしばらくの間はロシア社会民主労働者党の外にとどまり続けたSDKPiL〔ポーランド・リトアニア社会民主党〕との論争の主題だった。
 レーニンに対する最も果敢な反対者は、すでに述べたように、ローザ・ルクセンブルクだった。この問題に関する彼女の立場は、ポーランドの特殊な事情とは関係なく、マルクスへの表現方法上の忠実さが、より高いものだった。
 レーニンの見地では、全人民が自己決定の権利を対等に持っており、科学的社会主義の創始者とは違って、彼は『歴史的な』民族と『非歴史的な』それとを区別しなかった。//
 しかしながら、理論上はともあれ、この論争は、思われるほどには激しいものではなかった。
 レーニンは、自己決定権を承認した。しかし、彼は最初から、一定の留保を付けていた。すなわち、留保付きだったことは、レーニンの定式は変わらないままで維持されたけれども、革命の後すぐに、じつに現実が示すことを余儀なくしたように、そこでの『権利』は空虚な美辞麗句にすぎなくなった、という事実が説明している。
 第一の制約は、党は自己決定権を支持する、しかし全ての分離主義者の意図に深くはかかわらない、ということだった。多くの場合、実際はほとんどの場合、党は、分離主義者たちの反対側にいた。
 これには、何の矛盾もなかった。レーニンは論じた。
 『我々、プロレタリアートの党は、暴力や不正によって外から民族の自決決定権に影響を与えるいかなる企てにも、つねにかつ無条件で反対しなければならない。
 この我々の消極的な義務(暴力に対する闘争と抗議)をいつでも履行する一方、我々は、我々の側では、諸民族人民の自己決定権よりも、各民族の全ての<プロレタリアート>の自己決定について配慮する。<中略>
 民族的自治の要求への支持に関して言えば、これは決してプロレタリアートの綱領にある永遠の拘束的な部分ではない。
 これを支持することは、稀少な例外的な場合にのみ必要になりうる。』(+)
 (『アルメニア社会民主主義者の宣言について』、<イスクラ>1903年2月1日。全集6巻p.329。〔=日本語版全集6巻338頁。〕)//
 第二の制約は、党はプロレタリアートの自己決定に関心があり、全体としての人民のそれにではない、ということから生じる。
 ポーランドの独立を無条件に要求する場合に、この党は『理論的背景や政治的活動について、いかにプロレタリアートの階級闘争との結びつきが弱いかを証明している。
 しかし、我々が民族の自己決定権の要求を従属させなければならないのは、まさにこの闘争の利益に対してだ。<中略>
 マルクス主義者は、民族の自立の要求を、条件付きでのみ認めることができる。』(+)
 (『我々の綱領における民族問題』, <イスクラ>1903年7月15日。全集6巻p.456.〔=日本語版全集6巻471頁。〕) //
 ポーランド問題は、三つの理由で、この議論のうちきわめて重要なものだった。
 第一に、…。
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 (+秋月注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
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 本来の改行箇所ではないが、ここで区切る。②へとつづく。

1600/『自由と反共産主義』考⑦。

 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)。
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」。
 3) 反 Liberal Democracy-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。 
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 反共産主義というだけでは~に反対しているというだけで、それに代わる内実または価値がない。
 そこで従来から、「自由」というものを考えてきた。
 社会主義経済に対する「自由主義」経済という言葉は、よく使われるのではないか。
 あるいは社会主義国に対する「自由主義」国。
 藤岡信勝が、かつて「自由主義史観研究会」とかを組織していた。これがマルクス主義(・共産主義)史観に対抗するものとしての表現だったとすれば、適切だったと思われる。
 かつて現実に影響を与えた(与えている)「思想」類のうちで最も非人間的で人を殺戮するのを正当化するそれは、マルクス主義・共産主義だった(である)。
 これに対抗する内実、価値というのは、むろん「自由」ということなのだが、これだけでは分かりにくい。
 人間の本性に即した、人間らしい<価値観>でなければならない。
 その際の人間の本性・本質とはいったい何だろうか。こうしたことから、そもそもは発想されなければならないのだと思われる。
 「これまでの人類の歴史は全て、階級闘争の歴史だった」などということから出発して発想したのでは、ろくなことにならない。
 人間の本性・本質とは、まずは当たり前だが、生まれて死ぬ、生物の個体だということだ。個々の人間は永遠には生きられない、存続できない、ということが前提になる。
 しかし人間は、生きているかぎりは、何とか生きていこうとする。
 個々の人間の生存本能、これはどの生物にもあるのだろうが、人間もまた同じだ。
 人間の個体というものは、その細胞も神経も、本能的に何とか「生きよう」としている。これはじつに不思議なことだ。
 高尚な?論壇者も評論家も、秋月瑛二のような凡人でも、変わりはない。
 意識しなくても、正常であれば、健康であれば、自然に呼吸し、自然に心臓は拍動していて、血液は流れている。空腹になれば、自然に食を欲する。
 この個々の人間が誰でももつ、最低限の生存本能を外部から意図的に剥奪することを許すような「思想」があってはならないし、そのような考え方は断固として排せられなければならない。
 人間には親があり、かなり多くの場合は子もいる。
 親と子、その子と孫、言うまでもなく生物・人間としての「血」の関係だ。
 これらの間に自然に何らかの内実ある関係がただちに生じるのではないかもしれない。
 だが、一時期であれ、また二世代なのか三世代なのかさまざまであれ、<ともに生活>することによって、何らかの<一体性>が生じるはずだ。
 生まれてからある程度大きくなるまで、子にとっての養育者の力は甚大だ。また、養育者は、自分たちを不可欠とする生き物としての子らを守ろうとする。養育者は「親」であることが多い。
 子の親に対する、親の子に対する心情というものが、どの程度自然で「本能的」であるかについて、詳細な研究結果については知らない。
 このあたりですでに社会制度や社会の設計論にかかわってくるのだろうが、父・母・子(兄弟姉妹)という「核」は、たいていの人間たちにとって、あるいはたいていの時代において、基礎的単位として措定してもよいように思える。
 まずは「自分」を中心とするのが生存本能だが、自分と自分以外の「家族」のどちらの「生存」を優先するかというギリギリの選択に迫られることもある。
 歴史上は、自分が「食」するための子棄て・親棄てもかなりあった。大飢饉になれば、自分だけでも生きたいとするのが本能で、子棄て・親棄てを<責める>ことのできない場合もありうる。
 そういう悲劇的な事態にならないかぎりはしかし、「家族」を核とする「自分たち」という観念は比較的自然に発生したものと思われる。それを広げれば、一族・血統という、より社会的広がりになってくる。さらには、居住地または耕作地・狩猟地の近さから、<村落>あるいはマチ・ムラの観念もかなり古くからできただろう。
 「自分」や「自分たち」は<食べて>いかないと生存できない、というのが根本の出発点だ。
 そのあたりの部分はどっぷりと現実の体制や政治世界あるいは経済システムの中でそれらを実にうまく利用していながら、頭・観念の中だけで<綺麗事>を述べている人は多い。いや、論壇者・評論家類の全員がそうかもしれない。
 さらには、小賢しく<綺麗事>を述べることを生業にして、それで金を得て<食べて生きて>いる人も多い。いや、論壇者・評論家類の全員がそうかもしれない。
 そしてまた、よりよく<食べて生きて>いくために、<綺麗事>の内容を需要者に合わせて、場合によっては巧妙に変遷させている、かつ自らはそれに気づいていないかもしれない者も多い。
 <綺麗事>の内容、つまりは精神世界のことと、そうではないドロドロとした<食べて生きて>いく世界のことと、いったいどちらを優先しているのか、と疑問に思う論壇者・評論家類もいる。
 ドロドロとした<食べて生きて>いく世界の方を優先するのが人間の本性なのかもしれない。それは、それでよい。そのことを自分で意識していれば、なおよい。
 しかし、そうであるならば当然に、<綺麗事>の内容だけでその人の主張・議論を評価しては決していけない、ということになるはずだ。
 ともあれ、人間の本性・本質から出発する。マルクス主義(・共産主義)は人間の本性・本質に即しておらず、そのゆえにこそ現実化すれば危険な「思想」なのだ、ということを見抜く必要がある。
 安本美典はたしか正当にも、<体系的なホラ話>という形容をマルクス主義(歴史観)に対して行っていた。
 見かけ上の<美麗さ・壮麗さ・論旨一貫性・簡素明快さ>などは、付随的な、第二次・第三次的な事柄だ。人間性と現実に即していなければ、何にもならない。宗教も含めて、<砂上の楼閣>はいっぱいある。
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 上の話はさらに別途続ける。
 反共産主義者は何を、どういう内実・価値を追求すべきか。
 レシェク・コワコフスキの考え方を、詳しく正確に知っているわけではない。
 ただこの人は、この欄ではあえて「左翼の君へ」と題して試訳を紹介した、実在の「新左翼」学者・評論家に対する批判的論評の中で、あっさりと、おそらくは以下の価値を維持すべき又は追求すべき価値だと語っていた。
 「平等、自由および効率性」、の三つだ。さらにこう続けている。
 これらの「諸価値は相互に制限し合い、それらは妥協を通じてのみ充たされうる」。
 「全ての諸制度の変更は、全体としてこれら三つの価値に奉仕する手段だと見なさなければならず、それら自体に目的があると考えてはいけない」。
 以上、この欄の今年の5/13付・№1540=「左翼の君へ⑧完」。原論考、1974年。
 Leszek Kolakowski, My Correct View on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
 もちろん、欧米系の学者・哲学者のいっていることだ。何と陳腐かとも思われるかもしれない。当然に、「平等」・「自由」・「効率性」の意味、相互関連は問題になる。
 だがしかし、ソヴィエト・スターリン時代をソ連とポーランドで実体験したうえでマルクス主義に関する長い研究書を書いた人物の発言として、何気なく書かれているが、注意されてよい。
 ろくに読んでいないが、リチャード・パイプスには、つぎの書物もある。
 Richard Pipes, Rroperty and Freedom (1999).〔私的所有(財産)と自由、およそ330頁〕
 断固たる反共産主義者だと知っているからこそ推測していうのだが、R・パイプスは「私的所有(財産)と自由」を、かけがえない価値だと、そして最大限にこれを侵犯するものが共産主義だと考えているのではないだろうか。
 L・コワコフスキもR・パイプスもじつは「自由」を重要な<価値>としている。
 この場合の自由は、Liberty ではなく Freedom だと見られる。
 そしてこの自由の根源は、自分を自分自身にしてもらう自由、自分の領域に介入されないという意味での自由、そしてまた<自分のもの>=私的所有・財産に対する(消極的・積極的の両義での)自由ではないか、と考えられる。
 自分(・自分たち)が「食べて」生きていくためには、最低限度、自分の肉体と肉体を支える「もの」、食べ物とそれを獲得するための手段(例えば、土地)を「自由」にしてもらえること、「自由」にできること、は不可欠だろう。
 <私的所有とその私的所有への自由>、これが断固として維持されるべきまたは追求されるべき価値だ。
 共産主義は、これを認めない「思想」だ。だからこそ、人間の本性に合致せず、つねに「失敗する」運命にある。
 日本共産党は最小限度の<私的財産権>は認めると言っているが、原理的には、マルクス主義・共産主義は全ての「私有財産」を廃止しようとする。また、<最小限度の(小さな)私的財産権>の範囲内か否かは、じつは理論上明確になるわけではない。個人所有の小さな土地の上での工場の経営(、販売・取引--)するという「私的財産」の「自由」の行使を想定しても分かる。かりに個人的居住だけに限られる土地所有なのだとすれば、それが土地所有の「権利」あるいは「自由」と言えるのかどうか、原理的に疑問だ。
 当たり前のことを述べているようでもある。
 当たり前のようなことを、つぎのように語る、日本の経済学者もいる。 
 猪木武徳・自由と秩序-競争社会の二つの顔(中央公論新社・中公文庫、2015。原書・中公叢書、2001)、p.269。
 「求められるのは、この市場や民主制のもつ欠陥や難点を補正したり、補強作業を行ったりすることによって、なんとか使いこなしていくこと」だ。
 この書の解説者・宇野重規は、「市場と民主主義を何とか使いこなす」という小見出しをつけている。p.288。
 市場とは当然に「自由」を前提にする。両者はほとんど同義で、「自由な経済(取引)」こそが「市場」だ。
 佐伯啓思の『さらば、民主主義』(朝日新書)でも、同『反民主主義論』(新潮新書)、同『自由と民主主義をもうやめる』(幻冬舎新書)でもない。
 「民主主義」の価値性については(上記の猪木とも違って)、疑問がある。これと「自由」をごった混ぜにしてはいけないだろう。
 反共産主義を鮮明にしないままで「自由と民主主義をもうやめる」と主張するのは、<ブルジョア>的「自由・民主主義」に対するマルクスやレーニンによる批判と、これらの欺瞞性・形式性を暴露しようとするマルクス主義・共産主義者による批判と、変わらない、と敢えて言うべきだ。
 市場(market)にも「自由」にも(あるいは「民主主義」にも)当然に問題はある。
 「民主主義」は左翼の標語だとこの欄に書いたこともある。
 これはあくまで<手段>の態様を示す概念で、追求すべき「価値」とは異なる次元の概念だと考えている。
 これはさしあたり措いても、近代的(欧米的)「自由」はなおも、日本でも、日本人にとっても、追求・維持すべき価値だろう。
 そこに「日本的自由」が加わると、なおよい。
 できるだけ自分の言葉で書く。重要なので、このテーマでさらに続ける。
 問題は、<私的所有・自由>と権力または「国家」との関係にこそある。
 共産主義者または「左翼」ではない者(=<保守>)こそが、こういう基本設定をしておくべきなのだ。
 こういう基本的な問題設定が曖昧な議論、文章というのは、どうも本質的に理解しづらい。

1598/党と運動⑥-L・コワコフスキ著16章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性⑥。
 ローザ・ルクセンブルクのように、メンシェヴィキはレーニンを、ブランキ主義だ、<クー・デタ>による既存秩序の破壊を企図している、トカチョフ(Tkachov)の陰謀のイデオロギーを奉じている、そして『客観的』条件を無視して権力を追求している、と決まって批判した。
 レーニンは、自分の理論はブランキ主義と関係がない、真のプロレタリアの支持のある党の建設を望んでいる、一握りの陰謀家により遂行される革命という考えを持っていない、と反論した。
 メンシェヴィキは、レーニンは『主観的要因』、すなわち革命の意思力(will-power)の決定的な役割について反マルクス主義の信条をもつ、と主張した。
 史的唯物論の教えによれば、革命的意識を党の努力によって人工的に創出することはできず、それは社会状勢の成熟に依存している。
 革命的状況をもたらす経済的事象を待たずして革命を引き起こそうとするのは、社会の発展法則に違背することになる。//
 このような批判は、誇張はされているが、根拠がないわけではない。
 レーニンは、もちろん、小さな陰謀集団が適切に準備すればいつでも実行できる<クー・デタ>を心に描く、という意味での『ブランキ主義者』ではなかった。
 彼は、意のままに計画するまたは生み出すことはできない根本的な事象だと革命を認識していた。
 レーニンの見地は、ロシアでの革命は不可避であり、それが勃発したときに党はそれを指揮するよう用意し、歴史の波に乗り、そして権力を奪取しなければならない、その権力は最初は革命的農民たちと分かちあう、というものだった。
 彼は革命を惹起させることを計画していたのではなく、革命意識の成長を促進して、やがては大衆運動を支配することを計画していた。
 党が革命の過程での『主観的要因』であるならば、--そしてこれが、レーニンとその対抗者たちのいずれもがどのように問題を理解していたかなのだが--彼は、労働者階級の自然発生的な蜂起は、党が存在してそれを塑形し指揮しないかぎりは、何ものにもならないだろうと、まさしく考えていた。
 これは、党の役割は社会主義の意識の唯一の可能な運び手だという考え方の、一つの明確な推論結果(corollary)だった。
 プロレタリアートそれ自身は、この意識を発展させることができない、したがって革命への意思はたんに経済的事象によって発生するのではなく、計画的に作り出されなければならない。
 『経済主義者』、メンシェヴィキおよび左派ドイツ社会民主党、経済の法則が社会主義革命を自動的にもたらすと期待したこれらは全ては、悲惨な政策に従っていた。これは、決して起こらないのだから。
 その政策は、この問題についてマルクスに十分に訴えるものではなかった(レーニンによると、ローザ・ルクセンブルクはマルクスの教理を『世俗化して卑しくさせた』)。
 マルクスは、社会主義の意識または他のいかなる意識も社会条件から自動的に掻き立てられるとは言わなかった。その条件が意識の発展を可能にする、とだけ言ったのだ。
 現実になる可能性をもつためには、革命的な観念(idea)と意思が、組織された党の形態で存在していなければならなかった。//
 この論争でのどちらの側がマルクスをより正確に理解しているのかに関して、確定的な回答は存在しない。
 マルクスは、社会的条件は、やがてその条件を変容させる意識を発生させる、しかし、実際にそうなるためには、まずは明確に表現された形態をとらなければならない、と考えた。
 意識は現実の状勢を反映するものに『すぎない』という見方を支えるために、マルクスの多くのテクストを引用することができる。
 これは、正統派の見地の<待機主義(attentisme)>を正当化するものであるように見える。
 しかし他方で、マルクスは自分が書いたことを潜在的な意識の明確化または明示化だと見なした。
 マルクスがプロレタリアートの歴史的使命に言及する最初のテクストで、マルクスは語る。
 『我々は、この石のように固まった関係を、それら自身の旋律をそれらに演奏して踊るようにさせなければならない。』
 誰かが、この旋律を演奏しなければならない。--その『関係』は、自発的にそうすることはできない。
 社会的意識が変わらないままに『神秘化された』形態をとり、プロレタリアートが出現するときに勢いを止める、そういう過去の歴史についてのみ『社会的存在が意識を決定する』という原理が適用されるのだとすれば、前衛は意識を喚起するために必要だという教理は、マルクスの教えに合致している。
 問題はかくしてたんに、喚起することが可能となる地点まで条件が成熟した、ということを、我々が決定する規準(標識, criteria)を見分けることだ。
 マルクス主義は、この規準がどういうものなのかを示していない。
 レーニンはしばしば、プロレタリアートは(sc. 『物事の本質において』)革命的階級だと述べた。
 しかしながら、これは、プロレタリアートは革命的意識を自分で発展させるということではなく、その意識を党から受け取ることがことができる、ということのみを意味した。
 ゆえに、レーニンは『ブランキ主義者』ではないが、彼は、党だけが革命的意識の首唱者であり淵源だと考えた。
 『主観的要因』は、社会主義へと前進するためのたんに必要な条件である(メンシェヴィキも含めて全てのマルクス主義者が認めるように)のではなく、プロレタリアートからの助けなくしては革命を開始することはできないけれども、革命的意識を真に創り出すものなのだ。
 マルクス自身は決してこのような表現方法では問題を設定しなかったけれども、この点に関するレーニンの見解はマルクス主義の『歪曲』だと判断する根拠が、十分にあるのではない。// 
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 第3節・民族問題へとつづく。

1596/党と運動⑤-L・コワコフスキ著16章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性⑤。
 党員条項をめぐる論争は、実際に、党組織に関する二つの対立する考え方(ideas)を反映していた。これについてレーニンは、大会およびのちの諸論考で多くのことを語った。
 彼の見解では、マルトフ、アクセルロート(Akselrod)およびアキモフ(Akimov)が提案した『緩い』条項は、党を助ける教授にも中学生にも、あるいはストライキから出てきた労働者にも、全てに党員だと自称することを認めることになる。
 これが意味するのは、党が結合力と紀律および自分の党員たちへの統制を失う、ということだ。党は、上からではなく下から建設された大衆組織に、中央集中的な行動には適さない、自律的な単位の集合体に、なってしまうだろう。
 レーニンの考えは、正反対のものだった。すなわち、党員資格の厳しく定義された条件、厳格な紀律、その諸組織に対する党機関の絶対的な統制、党と労働者階級の間の明確な区別。
 メンシェヴィキはレーニンを、党生活への官僚主義的な態度を採用する、労働者階級を侮蔑する、独裁する野望をもつ、そして党全体を一握りの指導者に従属させる望みをもつ、と批判した。
 レーニンの側では、彼は大会のあとで書いた(<一歩前進二歩後退>、1904年。全集7巻p.405の注.〔=日本語版全集7巻435頁注(1)〕)。
 『マルトフ同志の基本的な考え-党への自主登録-は、まさしく偽りの「民主主義」で、下から上へと党を建設するという考えだ。
 一方、私の考えは、党は上から下へと、党大会から個々の党組織へと建設されるべきだという意味で、「官僚主義的」だ。』(+)//
 レーニンは、この論争の基本的な重要性を、最初から適切に感知していた。のちにはいくつかの場合に、この論争をジャコバン派とジロンド派の争論になぞらえた。
 これは、ベルンシュタインの支持者とドイツ正統派の間の論争よりは、適切な比較だった。というのは、メンシェヴィキの位置はドイツ社会民主党の中央にほとんど近かったからだ。
 メンシェヴィキは、より中央集中的でない、より『軍事的』でない組織を支持し、党は名前やイデオロギーについてのみならず、可能なかぎり多くの労働者を包含し、たんなる職業的革命家の一団ではないことによってこそ労働者階級の党だ、と考えた。
 彼らは、党は個々の諸組織に相当程度の自律を認めるべきで、もっぱら指令の方法によって諸組織との関係をもつべきではない、と考えた。
 彼らはレーニンを、外部から注入されるべき意識という教理を受容はするけれども、労働者階級を信頼していないと批判した。
 メンシェヴィキが他の問題についても異なる解決方法を採用する傾向にあることは、すみやかに明白になった。規約のただ一つの条項に関する論争が、党を実際に、戦略上および戦術上の諸問題にいわば本能的に異なって反応する二つの陣営へと分裂させた。
 メンシェヴィキはあらゆる事案について、リベラル派との同盟の方向へと引き寄せられた。
 一方でレーニンは、農民の革命と農民との革命的な同盟を強く主張した。
 メンシェヴィキは、合法的な行動形態や、可能になるならば、議会制度上の方法によって闘うことに重きを置いた。
 レーニンは長い間、ドゥーマ〔帝国議会下院〕に社会民主党が参加するという考えに反対し、その後もそれをたんなる情報宣伝の場所だと見なして、ドゥーマが定めるいかなる改革をも信頼しなかった。
 メンシェヴィキは、労働組合の活動を強く主張し、法令制定またはストライキ行動によって労働者階級が確保しうる全ての改良がもつ、固有の価値を強調した。
 レーニンにとっては、全てのそのような活動は、最終的な闘いを準備するのを助けるかぎりでのみ有意味だった。
 メンシェヴィキは、民主主義的自由をそれ自体で価値があるものと見なしたが、一方でレーニンにとってそれは、特殊な事情で党のために役立ちうる武器にすぎなかった。
 この最後の点で、レーニンは、ポサドフスキー(Posadovskii)が大会で行った特徴的な言明に賛成して、引用する。
 『我々は将来の政策を一定の基本的な民主主義原理(principles)に従属させて、それに絶対的な価値があると見なすべきか?
 それとも、全ての民主主義原理はもっぱら我々の党の利益に従属しているものであるべきか?
 私は断固として、後者の立場に賛同する。』
 (全集7巻p.227.)(++)
 プレハノフも、この見地を支持した。このことは、党が代表すると想定される階級の直接的利益を含めて種々の考察をする中で、『党の利益』をまさに最初から、いかに最も貴重なものとしているかを例証するものだ。
 レーニンの他の著作も、彼が『自由(freedom)』それ自体にはいかなる価値も与えていないことについて、疑問とする余地を残していない。演説や小冊子は、『自由への闘い』への言及で充ち溢れているているけれども。
 『この自由をプロレタリアが利用するという独自の運動(cause)に役立つことのない、この自由を社会主義へのプロレタリアの闘争のために使う運動に役立つことのない、一般論としての自由の運動のために役立つものは、分析をし尽くせば、平易かつ単純に、ブルジョアジーの利益のための闘士なのだ。』(+)
 (雑誌<プロレタリア>内の論考『新しい革命的労働者同盟』、1905年6月。全集8巻p.502.〔=日本語版全集8巻507頁〕)//
 このようにして、レーニンは、のちに共産党となるものの基礎を築いた。-すなわち、こう特徴づけられる党。観念大系の一体性、有能性、階層的かつ中央集中的構造、そして、プロレタリアート自身は何を考えていようとその利益を代表するという確信。
 戦術上の目的がある場合は別として、それが代表すると自認する人民の実際の欲求や熱望を無視することのできる、そういう『科学的知見』を持つがゆえに、その利益が自動的に労働者階級の利益、および普遍的な進歩の利益となることを宿命づけられている党。//
 (+秋月注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
 (++) 日本語版全集7巻で、この文章は確認できなかった(2017.06.21)。
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 ⑥へとつづく。

1592/党と運動④-L・コワコフスキ著16章2節。

 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性④。
 党に関するレーニンの教理が『エリート主義』ではないということが分かるだろう。
 あるいは、社会主義の意識は外部から自然発生的な労働者運動に導入されるという理論は、レーニンの党を中央集中的で教条的で頭を使っていないがきわめて効率的な機械にするようになり、とくに革命後にそうなった。
 この機械の理論上の淵源は、というよりもそれを正当化するものは、党は社会に関する科学的な知識をもつために政治的主導性の唯一の正統な淵源だ、とするレーニンの確信だった。
 これはのちに、ソヴィエト国家の原理(principle)になった。そこでは、同じイデオロギーが、社会生活の全ての分野での主導性を党が独占することを、そして党の位置を社会に関する知識の唯一の源泉だと見なし、したがって社会の唯一の所有者だと見なすことを、正当化するのに役立つ。
 全体主義的(totalitarian)国家の全体系が、意識的に目論まれて、1902年に表明されたレーニンの教理の中で述べられていた、と主張するのは、むろん困難だろう。
 しかし、権力奪取の前と後での彼の党の進化は、ある程度は、マルクス主義者の、あるいはむしろヘーゲル主義者の、不完全だが歴史的秩序に具現化される『物事の論理的整序』という信念を確証するものだ。
 レーニンの諸命題は、社会的階級、つまりプロレタリアートの利益と目標は、その問題についてその階級は一言も発することなくして決定されることができるし、またそうされなければならない、と信じることを、我々に要求する。
 同じことは、そのうえさらに、いったんその階級に支配され、そのゆえにおそらくその階級の目標を共有した社会全体について、また全体の任務、目的およびイデオロギーがいったん党の主導性によって支配されてその統制のもとに置かれた社会全体について、当てはまる。
 党の主導権に関するレーニンの考え(idea)は、自然に、社会主義社会における党の『指導的役割』という考えへと発展した。--すなわち、党はつねに社会それ自体よりも社会の利益、必要、そして欲求すらをよく知っている、民衆自身は遅れていてこれらを理解できず、党だけがその科学的知識を使ってこれらを見抜くことができる、という教理にもとづく専政体制(独裁, despotism)へと。
 このようにして、一方では夢想主義(utopianism)に対抗し、他方では自然発生的な労働者運動に対抗する、『科学的社会主義』という想念(notion)が、労働者階級と社会全体を支配する一党独裁のイデオロギー上の基盤になった。//
 レーニンは、党に関するその理論を決して放棄しなかった。
 彼は、第二回党大会のとき、<何をなすべきか>で僅かばかり誇張した、と認めた。しかし、どの点に関してであるのかを語らなかった。
 『我々は今ではみな、「経済主義者」が棒を一方に曲げたことを知っている。
 物事をまっすぐに伸ばすためには、誰かが棒を他の側に曲げ返さなければならなかった。それが私のしたことだ。
 私は、いかなる種類の日和見主義であってもそれによって捻られたものを何でも、ロシア社会民主党がつねに力強くまっすぐに伸ばすだろうと、そしてそのゆえに、我々の棒はつねに最もまっすぐであり、最も適任だろうと、確信している。』(+)
 (党綱領に関する演説、1902年8月4日。全集6巻p.491〔=日本語版全集6巻506頁〕.)//
 <何をなすべきか>はどの程度において単一性的な党の理論を具体化したものかを考察して、さらなる明確化がなされなければならない。
 このときそしてのちにも、レーニンは、党の内部で異なる見解が表明されることを、そして特殊な集団が形成されることを、当然のことだと考えていた。
 彼は、これは自然だが不健全だと考えた。原理的には(in principle)、唯一つの集団だけが、所与の時点での真実を把握できるはずだからだ。
 『科学を前進させたと本当に確信している者は、古い見解のそばに並んで新しい見解を主張し続ける自由をではなく、古い見解を新しい見解で置き換えることを、要求するだろう。』(+)(全集5巻p.355〔=日本語版全集5巻371頁〕.)
 『悪名の高い批判の自由なるものは、あるものを別のものに置き換えることを意味しておらず、全ての統括的で熟考された理論からの自由を意味している。
 それは、折衷主義および教理の欠如を意味する。』(+)(同上, p.369〔=日本語版全集5巻388頁〕.)
 レーニンが、重要な問題についての分派(fractionalism)や意見の差違は党の病気または弱さだとつねに見なしていた、ということに疑いはあり得ない。
 全ての異見表明は過激な手段によって、直接の分裂によってか党からの除名によって、治癒されるべきだとレーニンが述べるかなり前のことではあったが。
 正式に分派が禁止されたのは、ようやく革命後にだった。
 しかしながら、レーニンは、重要な問題をめぐって同僚たちと喧嘩別れすることをためらわなかった。
 大きな教理上のおよび戦略上の問題のみならず組織の問題についても、全ての見解の相違は結局のところは階級対立を『反映』しているとレーニンは考えて、彼は自然に、党内での彼への反抗者たちを、何らかの種類のブルジョア的逸脱の『媒介者』だと、またはプロレタリアートに対するブルジョアの圧力の予兆だと、見なした。
 彼自身がいつでもプロレタリアートの真のそして最もよく理解された利益を代表しているということに関しては、レーニンは、微少なりとも疑いを抱かなかった。//
 <何をなすべきか>で説かれた党に関する理論は、第二回党大会でのレーニンの組織に関する提案で補完された。
 第二回党大会は長い準備ののちにブルッセルで1903年7月30日に開かれ、のちにロンドンへと移されて8月23日まで続いた。
 レーニンは、春から住んでいたジュネーヴから出席した。
 最初のかつ先鋭的な意見の相違点は、党規約の有名な第1条に関するものだった。
 レーニンは、一つまたは別の党組織で積極的に活動する者に党員資格を限定することを望んだ。
 マルトフ(Martov)は、一方で、党組織の『指導と指揮のもとで活動する』者の全てを受け入れるより緩やかな条項を提案した。
 この一見すれば些細な論争は、分裂に似たもの、二つの集団の形成につながった。この二つは、すぐに明確になったが、組織上の問題のみならず他の多くの問題について、分かれた。
 レーニンの定式は、プレハノフ(Plekhanov)に支持されたが、少しの多数でもって却下された。
 しかし、大会の残り期間の間に、二つの集団、すなわちブント(the Bund、ユダヤ人労働者総同盟)と定期刊行物の < Rabocheye Delo >を代表する『経済主義者』が退席したおかげで、レーニンの支持者たちは、僅かな優勢を獲得した。
 こうして、レーニンの集団が中央委員会や党会議の選挙で達成した少しばかりの多数派は、有名な『ボルシェヴィキ』と『メンシェヴィキ』、ロシア語では『多数派』と『少数派』、という言葉を生み出した。
 この二つはこのように、もともとは偶然のものだった。しかし、レーニンとその支持者たちは、『ボルシェヴィキ(多数派)』という名称を掴み取り、数十年の間それに執着した。その後の党の推移全般にわたって、ボルシェヴィキが多数派集団だと示唆し続けた。
 他方で、大会の歴史を知らない多くの人々は、この言葉を『最大限綱領主義者(Maximalist)』の意味で理解した。
 ボルシェヴィキたち自身は、このような解釈を示唆することは決してなかった。//
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 (+秋月注記) 日本語版全集の訳を参考にして、ある程度は変更した。
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 ⑤へとつづく。

1591/党と運動③-L・コワコフスキ著16章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976)。
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性③。
 レーニンの新しさは、第一に、自然発生的な労働者階級運動は、それが社会主義の意識を発展させることができず、別の種類の意識も存在しないために、ブルジョア意識をもつに違いない、という言明のうちにある。
 この考えは、レーニンが引用するカウツキーの議論のいずれにも、マルクス主義の諸命題のいずれにも、従っていない。
 レーニンによれば、全ての社会運動は、明確な階級的性格をもつ。
 自然発生的な労働者運動は社会主義の意識を、すなわち言葉の適切な理論的および歴史的意味でのプロレタリアの意識を生み出すことができないので、奇妙に思えるのだが、社会主義政党に従属しなければ労働者運動はブルジョアの運動だ、ということになる。
 これは、第二の推論によって補充される。
 言葉の真の意味での労働者階級運動、すなわち政治的革命運動は、労働者の運動であることによってではなく、正しい(right)観念大系を、つまり定義上『プロレタリア』的であるマルクス主義の観念大系(ideology)を持っていることによって、明確になる。
 言い換えれば、革命党の階級構成は、その階級的性格を決定するに際して重要な意味を持たない。
 レーニンは一貫して、この見地を主張した。そして例えば、イギリス労働党はその党員は労働者であるがブルジョア政党だと考える。一方で、労働者階級に根源を有しない小集団も、マルクス主義観念大系への信条を告白しているかぎりで、プロレタリアートの唯一つの代表だと、プロレタリアの意識の唯一つの具現体だと自己宣告する資格がある、と考える。
 これは、レーニン主義の諸政党が、現実の労働者の間では最小限度の支持すら得なかった政党を含めて、かつてから考えてきたことだ。//
 以上のことは勿論、レーニンは自分の党の構成に無関心だったことを意味していないし、レーニンが知識人たちのみから成る革命組織を設立しようと意図したことを意味していない。
 他方でレーニンは、党における労働者の割合は可能なかぎり高くあるべきだと、しばしば主張した。また彼は、知識階層を極度の侮蔑でもって処遇した。
 『知性的』との言葉はレーニンの語彙の中の蔑称であり、決まって、『優柔不断な、頼りにならない、紀律のない、個人主義にとらわれた、移り気な、空想的な』等々を意味するものとして使われた。
 (レーニンが最も信頼した党活動家たちは、労働者階級の出自だった。スターリンやマリノフスキー(Malionovsky)のように。
 後者は、のちに判るようにオフラーナ(Okhrana、ロシア帝国政治秘密警察部局)の工作員でレーニンの最も近い協力者としてきわめて貴重な奉仕をその主人のためにしたのだったが、党の全ての秘密を自由に使えた。)
 レーニンが労働者を知識人で『置き換える』のを意図したこと、あるいはたんに知識人だという理由で知識人を社会主義の意識の体現者だと見なしたこと、についての疑問は存在し得ない。
 その具現体とは<党>であり、述べたように、知識人と労働者の間の区別が消失する、特殊な種類の一体だった。
 知識人たちは知識人であることをやめ、労働者たちは労働者であることをやめた。
 いずれも、厳格に中央集中化した、よく訓練された革命組織の構成分子だった。//
 かくして、レーニンによると、党は『正しい(correct)』理論上の意識を持って、現実の経験上のプロレタリアートが自分たち自身または党に関して考えているかもしれないこととは無関係に、プロレタリアの意識を体現化する。
 党はプロレタリアートの『歴史的』利益がどこにあるかを知っており、いかなる瞬間においてもプロレタリアートの真の意識がどこにあるべきかを知っている。その経験上の意識は、一般的には遅れていると分かるだろうとしても。
 党は、そうすべきだとプロレタリアートが合意しているがゆえにではなくて、社会の発展法則を知り、マルクス主義に従う労働者階級の歴史的使命を理解しているがゆえに、プロレタリアートの意識を代表する。
 この図式では、労働者階級の経験上の意識は、鼓舞させる源としてではなく、障害物として、克服されるべき未熟な状態として現われる。
 党は、現実の労働者階級から、それが実践において党の支援を必要としている場合を除いて、完全に自立したものだ。
 こうした意味で、党の主導性に関するレーニンの教理は、政治上は、労働者階級は『置き換えられ』ることができるし、そうされなければならない。--しかしながら、知識人によってではなく、党によって。
 党は、プロレタリアの支援なくして有効に活動することはできない。しかし、政治的な主導権を握り、プロレタリアートの目標は何であるはずかを決定するのは、唯一つ、党だけだ。
 プロレタリアートには、自分の階級の目標を定式化する能力がない。そう努力したところで、その目標は、資本主義の制限の範囲内に限定された、ブルジョアのそれになるだろう。//
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 秋月注記/ロマン・マリノフスキー(Roman Malinovsky)について、リチャード・パイプス著・ ロシア革命(1990)の第9章第4節に論及がある。
 すでに試訳して紹介した、「レーニンと警察の二重工作員①・②=マリノフスキーの逸話①・②-R・パイプス著」、この欄の№1463・№1464=1917年3/22付と同年3/23付を参照。
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 ④へとつづく。

1588/マルクス主義・共産主義・全体主義-Tony Judt、Leszek Kolakowski、François Furet。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)、フランソワ・フュレ(François Furet)はいずれも1927年(昭和2年)の生まれだ。前者は10月、後者は3月。
 フランソワ・フュレは1997年の7月12日に、満70歳で突然に亡くなった。
 その報せを、ドイツにいたエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)は電話で知り、同時に追悼文執筆を依頼されてもいたようだ。
 トニー・ジャット(Tony Judt)は、1997年12月6日付の書評誌(New York Review of Books)に「フランソワ・フュレ」と題する追悼を込めた文章を書いた。
 その文章はのちに、妻のJeniffer Homans が序文を記した、トニー・ジャットを著者名とする最後と思われるつぎの本の中に収められた。
 Tony Judt, When the Fact Changes, Essays 1995-2010 (2015).
 この本の第5部 In the Long Run We are ALL Dead 〔直訳だと、「長く走って、我々はみんな死んでいる」〕は、追悼を含めた送辞、人生と仕事の概括的評価の文章が三つあり、一つはこのF・フュレに関するもの、二つめは Amos Elon (1926-2009)に関するもので、最後の三つめは、 レシェク・コワコフスキに関するものだ。
 L・コワコフスキは、2009年7月17日に亡くなった。満81歳。
 トニー・ジャットが追悼を込めた文章を書いたのは、2009年9月24日付の書評誌(New York Review of Books)でだ。かなり早い。
 前回のこの欄で記したように、トニー・ジャットはL・コワコフスキの<マルクス主義の主要潮流>の再刊行を喜んで、2006年9月21日付の同じ雑誌に、より長い文章を書いていた。それから三年後、ジャットはおそらくはL・コワコフスキの再刊行の新著(合冊本)を手にしたあとで、L・コワコフスキの死を知ったのだろう。
 トニー・ジャット(Tony Judt)自身がしかし、それほど長くは生きられなかった。
 L・コワコフスキに対する懐旧と個人的尊敬と中欧文化への敬意を滲ませて2009年9月に追悼文章を発表したあと、1年経たない翌年の8月に、T・ジャットも死ぬ。満62歳。
 死因は筋萎縮性側索硬化症(ルー・ゲーリック病)とされる。
 トニー・ジャットの最後の精神的・知的活動を支えたのは妻の Jeniffer Homans で、硬直した身体のままでの「精神」活動の一端を彼女がたしか序文で書いているが、痛ましくて、訳す気には全くならない。
 フランソワ・フュレの死も突然だった。上記のとおり、トニー・ジャットは1997年12月に追悼を込めた、暖かい文章を書いた。、  
 エルンスト・ノルテがF・フュレに対する公開書簡の中で「フランスの共産主義者(communist)だった貴方」とか書いていて、ここでの「共産主義者(communist)」の意味は昨秋の私には明瞭ではなかったのだが、のちに明確に「共産党員」を意味することが分かった。下掲の2012年の本によると、F・フュレは1949年に入党、1956年のハンガリー蜂起へのソ連の弾圧を期に離れている。
 つまり、L・コワコフスキは明確にポーランド共産党(統一労働者党)党員だったが、F・フュレも明確にフランス共産党の党員だったことがある。しかし、二人とも、のちに完全に共産主義から離れる。理論的な面・原因もあるだろうが、しかしまた、<党員としての実際>を肌感覚で知っていたことも大きかったのではないかと思われる。
 なぜ共産党に入ったのか、という問題・経緯は、体制自体が共産主義体制だった(そしてスターリン時代のモスクワへ留学すらした)L・コワコフスキと、いわゆる西側諸国の一つだったフランスのF・フュレとでは、かなり異なるだろう。
 しかし、<身近にまたは内部にいた者ほど、本体のおぞましさを知る>、ということは十分にありうる。
 F・フュレが通説的またはフランス共産党的なフランス革命観を打ち破った重要なフランス人歴史家だったことは、日本でもよく知られているかもしれない。T・ジャットもむろん、その点にある程度長く触れている。
 しかし、T・ジャットが同じく重要視しているF・フュレの大著<幻想の終わり-20世紀の共産主義>の意義は、日本ではほとんど全く、少なくとも適切には、知られていない、と思われる。原フランス語の、英訳名と独訳名は、つぎのとおり。
 The Passing of an Illusion - The Idea of Communism in the Twentithe Century (1999).
 Das Ende der Illusion - Der Kommunismus im 20. Jahrhubdert (1996).
 これらはいずれも、ふつうにまたは素直に訳せば、「幻想の終わり-20世紀における共産主義」になるだろう。「幻想」が「共産主義」を意味させていることもほとんど明らかになる。
 この欄で既述のことだが、日本人が容易に読める邦訳書のイタトルは以下で、どうも怪しい。
 <幻想の過去-20世紀の全体主義>(バシリコ, 2007、楠瀬正浩訳)。
 「終わり」→「過去」、「共産主義」→「全体主義」という、敢えて言えば、「書き換え」または「誤導」が行われている。
 日本人(とくに「左翼」およびその傾向の出版社)には、率直な反共産主義の書物は、<きわめて危険>なのだ
 フランスでの評価の一端について、T・ジャットの文章を訳してみよう。
 『この本は、大成功だった。フランスでベストセラーになり、ヨーロッパじゅうで広く読まれた。/
 死体がまだ温かい政治文化の中にあるレーニン主義の棺(ひつぎ)へと、過去二世紀の西側に広く撒かれた革命思想に依存する夢想家の幻想を剥ぎ取って、最後の釘を打ったものと多くの論評家は見た。』
 後掲する2012年の書物によると、1995年1月刊行のこの本は、1ヶ月半で7万部が売れた。6ヶ月後もベストセラーの上位にあり、1996年6月に10万部が売れた。そして、すみやかに18の外国語に翻訳されることになった(序, xi)。(時期の点でも邦訳書の2007年は遅い)。
 やや迂回したが、フランソワ・フュレ自身は満70歳での自分の死を全く想定していなかったように思える。
 ドイツ人のエルンスト・ノルテとの間で書簡を交換したりしたのち、1997年6月、突然の死の1月前には、イタリアのナポリで、E・ノルテと逢っているのだ。
 また、1996年から翌1997年にかけて、アメリカ・シカゴ大学で、同大学の研究者または関係者と会話したり、インタビューを受けたりしている(この辺りの事情については正確には読んでいない)。
 そして、おそらくはテープに記録されたフランソワ・フュレの発言をテキスト化して、編者がいくつかのテーマに分けて刊行したのが、2012年のつぎの本だ。邦訳書はない。
 François Furet, Lies, Passions & Illusions - The Democratic Imagination in the Twentirth Century (Chicago Uni., 2014. 原仏語, 2012).〔欺瞞、熱情および幻想〕
 この中に、「全体主義の批判(Critique of Totaritarianism)」と題する章がある。
 ハンナ・アレント(Hannah Arendt)の大著について、「歴史書」としては評価しない、「彼女の何が素晴らしい(magnificent)かというと、それは、悲劇、強制収容所に関する、彼女の感受性(perception)だ」(p.60)と語っていることなど関心を惹く箇所が多い。
 ハンナ・アレントに関する研究者は多い。フランソワ・フュレもまた「全体主義」に関する歴史家・研究者だ。 
 エルンスト・ノルテについても、ある面では同意して讃え、ある面では厳しく批判する。
 <最近に電話で話した>とも語っているが、現存の同学研究者に対する、このような強い明確な批判の仕方は、日本ではまず見られない。欧米の学者・知識人界の、ある種の徹底さ・公明正大さを感じとれるようにも思える。
 内容がもちろん重要で、以下のような言葉・文章は印象的だ。
 <民主主義対ファシズム>という幻想・虚偽観念にはまったままの日本人が多いことを考えると、是非とも邦訳してみたいが、余裕があるかどうか。
 <共産主義者は、ナチズムの最大の犠牲者だと見なされるのを望んだ。/
 共産主義者は、犠牲者たる地位を独占しようと追求した。
そして彼らは、犠牲者になるという驚異的な活動を戦後に組織化した。」p.69。
 <共産主義者は実際には、ファシズムによって迫害されてはいない。/
 1939-41年に生じたように共産主義者は順次に衰亡してきていたので、共産主義者は、それだけ多く、反ファシスト闘争を利用したのだ」。p.69。
 日本の共産主義者(日本共産党)は、日本共産党がのちにかつ現在も言うように、「反戦」・「反軍国主義」の闘争をいかほどにしたのか?
 最大の勇敢な抵抗者であり最大の「犠牲者」だったなどという、ホラを吹いてはいけない。
 以上、Tony Judt、Leszek Kolakowski、François Furet 等に関する、いいろいろな話題。

1587/党と運動②・レーニン-L・コワコフスキ著16章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性②。
 党がたんなる労働者の自然発生的な運動の機関または下僕であるなら、党は、社会主義革命の用具には決してなることができない。
 党は、それなくしては労働者がブルジョア社会の地平を超えて前進することができない、あるいはその基礎を掘り崩すことができない、前衛、組織者、指導者そして思想提供者(ideologist)でなければならない。
 しかしながら、レーニンはここで、決定的な重要性のある見解を追加する。//
 『労働者大衆が自分たちで彼らの運動の推移の中で独立したイデオロギーをもつか否かという問題は想定し難いので、唯一の選択はこうだ-ブルジョアのイデオロギーか、それとも社会主義のイデオロギーか。
 中間の行き方は、存在しない--なぜなら、人類は『第三の』イデオロギーを生み出さなかったし、階級対立によって引き裂かれている社会には非階級のまたは超階級のイデオロギーは決して存在し得ないからだ。<中略>
 しかし、労働者階級運動の自然発生的な発展は、ブルジョアのイデオロギーに従属させる方向へと進む。<中略>
 労働組合主義は、労働者がブルジョアジーによってイデオロギー的に隷従させられることを意味する。
 そのゆえにこそ、我々の任務、社会民主党の任務は、<自然発生性と闘うこと>だ。』
 (全集5巻p.384〔=日本語版全集(大月書店, 1954)5巻406頁〕。)(+)//
 『自然発生性への屈従』という教理、または khvostizm (tailism, 『追従主義』)は、経済主義者-マルティノフ(Martynov)、クスコワ(Kuskova)その他-に対する、レーニンの主要な攻撃対象だった。
 労働者はよりよい条件で自分たちの労働力を売却できるように闘うかもしれないが、しかし、社会民主党の任務は、賃労働それ自体をすっかり廃棄してしまうために闘うことだ。
 労働者階級と全体としての資本主義経済制度の間の対立は、科学的な思想(thought)よってのみ理解することができ、それが理解されるまでは、ブルジョア制度に対するいかなる一般的な政治闘争も存在することができない。//
 レーニンは、続ける。このことから、労働者階級と党との間の関係に関して、一定の結論が生じる。
 経済主義者の見地によれば、革命的組織は労働者組織以上の何ものでもなければそれ以下の何ものでもない。
 しかし、ある労働者組織が有効であるためには、広い基礎をもち、その手段について可能なかぎり秘密をなくしたものでなければならず、そして労働組合の性格を持たなければならない。
 党はそのようなものとしての運動とは同一視できないものであり、労働組合と同一視できるような党は、世界に存在していない。
 他方で、『革命家の組織は、先ずはかつたいていは、革命活動をその職業とする者たちによって構成されなければならない。<中略>
 このような組織の構成員に関する共通する特徴という見地によれば、労働者と知識人の間の全ての明確な差違が消失するに違いない。<中略>』 (+)
 (同上、p.452〔=日本語版全集5巻485-6頁〕)。
 このような職業的革命家の党は、労働者階級の確信を獲得して自然発生的運動を覆わなければならないのみならず、その原因または代表する利益が何であるかを考慮することなく、専政に対して向けられた全ての活力を集中させて、社会的抑圧に対する全ての形態の異議申し立ての中枢部に、自らをしなければならない。
 社会民主党はプロレタリアートの党だということは、特権階層からのであれ、その他の集団からの搾取や抑圧には無関心であるべきだ、ということを意味しはしない。
 民主主義革命は、そのうちにブルジョアジ革命を含むが、プロレタリアートによって導かれなければならないので、専制政治を打倒する意図をもつ全ての勢力を結集させるのは、後者〔プロレタリアート〕の義務だ。
 党は、暴露するための一大宣伝運動を組織しなければならない。
 党は、政治的自由を求めるブルジョアジーを支援し、宗教聖職者たちへの迫害と闘い、学生や知識人に対する残虐な措置を非難し、農民たちの要求を支持しなければならない。そして、全ての公共生活の領域で自らの存在を感知させ、分離している憤激と抗議の潮流を、単一の力強い奔流へと統合しなければならない。これは、ツァーリ体制を一掃してしまうだろう。//
 党は、このような必要性に対応するために、主としては職業的な活動家によって、労働者または知識人ではなくて自分をたんに革命家だと考え、その全時間を党活動に捧げる男女によって、構成されなければならない。
 党は、1870年代のZemlya i Voila の主張に沿う、小さい、中央集中型の、紀律ある組織でなければならない。
 陰謀のある状態では、公然の組織では自然のことかもしれないが、党内部に民主主義的諸原理を適用することは不可能だ。//
 党に関するレーニンの考え方(idea)は、横暴(専制的)だとかなり批判された。今日の歴史家のいく人かも、その考え方は、社会主義体制がのちに具現化した階層的で全体主義的(totaritarian)構造をうちに胚胎していたと主張する。
 しかしながら、レーニンの考え方はどの点で当時に一般的に受容されていたものと異なるのかを、考察する必要がある。
 レーニンは、エリート主義であるとか、労働者階級を革命組織に取り替えようと望んだとか非難された。
 レーニンの教理は知識階層または知識人たちの利益を反映している、そして、レーニンは政治権力が全体としてプロレタリアートの手にではなく知識人の手にあるのを見たいと望んでいる、とすら主張された。//
 党を前衛と見なすという、主張されるエリート主義に関して言うと、レーニンの立場は社会主義者の間で一般的に受容されていたものと異ならない、ということを指摘すべきだ。
 前衛という考えは<共産党宣言>にやはり出てくるのであり、その著者たちは、共産党を、全体としての階級の利益以外に関心を持たない、プロレタリアートの最も意識的な部分だと叙述した。
 労働者運動は自然に革命的な社会主義意識へと進化するのではなく、教養のある知識階層からそれを受け取らなければならない、という見方は、レーニンが、カウツキー(Kautsky)、ヴィクトル・アドラー(Viktor Adler)およびこの点でサンディカ主義者と異なると強調するたいていの社会民主党の指導者たちと、分かち持つものだった。
 レーニンが表明した考え(thought)は、基本的には、じつに自明のことだった。どの執筆者も、<資本論>も<反デューリング論>も、そして<何をなすべきか>をすら著述できなかっただろうほどに、明白だったからだ。    
 工場労働者ではなく知識人たちが社会主義の理論上の創設をしなければならないことは、誰も争うことのできないことだった。『意識を外部から注入する』ということでこの全てが意味されているとのだとすれば、議論すべきものは何もなかった。
 党は労働者階級全体とは異なるものだという前提命題もまた、一般的に受容されていた。
 マルクスは党とは何かを厳密には定義しなかったというのは本当だけれども、マルクスは党をプロレタリアートと同一視した、ということを示すことはできない。
 レーニンの考えで新しいのは、労働者階級を指導し、労働者階級に社会主義の意識を吹き込む、前衛としての党という考えではなかった。
 レーニンの新しさは、…。
  (秋月注記+) 日本語版全集による訳を参考にして、ある程度変更している。
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 改行箇所ではないが、ここで区切る。③へとつづく。
 

1584/日本の「特定保守」とT・ジャットやL・コワコフスキ。

 「私がこの序文(Introduction)を書く方法はただ、人間をその考え(思想, the ideas)と分かつことだ。そうでなければ、私は、愛して1993年から2010年の彼の死まで結婚していた人に、その人間に、引き込まれてしまう。進んでその考えに引き込まれるのではなく。」
 Jennifer Homans.
 =Tony Judt, When the Fact Changes, Essays 1995-2010 (2015) の序文。
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 トニー・ジャット(Tony Judt, 1948-2010)は、1978年の三巻の英訳本があった Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976) がアメリカの Norton 社によって新たに一巻本(三巻合冊)として再刊することが決まったとき、それを称賛して、あるいは「前宣伝」のつもりもあったのだろうか、2006年9月の書評誌に、L・コワコフスキとこの書物に関する長い文章を書いた。これは、邦訳書になっている、以下に収載された。
 Tony Judt, Reapraisal -Reflections on the Fogotten Twentieth Century (Penguin, 2008).
 =河野真太郎=生駒久美ほか訳・失われた二〇世紀/上・下 (NTT出版, 2011.12).
 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)に関するものは以下。
 Chapter VIII/Goodbye to All That ? -Leszek Kolakowski and the Marxist Legacy.
 =上掲邦訳書上巻第8章「さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産」。
 書評誌の性格として、執筆者がやたら褒めまくる書評記事もあるのかもしれない。しかし、瞥見のかぎりで、その前の章の、エリック・ホブズボーム(Eric Hobsbaum)の自伝書に関するジャットの書評および「人生」論評は、日本では想像もできないほどに辛辣で厳しい。
 秋月の感想が混じるが、組織あるまでは最後までイギリス共産党員で決して遡ってマルクス主義そのものを批判することがなかったというホブズボーム的な欧米の「容共・左翼」に対するジャットの批判的な目があるだろう。この欄でいつぞやホブズボームを「少なくとも左翼」と書いたが、それ以上だ。だからこそ、一部の<日本の左翼>読者のためにも、この人の邦訳書は多い(それに対して、L・コワコフスキのものは?)。
 トニー・ジャットのL・コワコフスキに関する文章は、邦訳書で計21頁になる。週刊誌1頁ほどの書評記事では全くない。L・コワコフスキ(+アルファ)に関する堂々とした論考だ。
 日本での紹介状況もふまえて私なりにいうと、優れているのは、第一に、L・コワコフスキの人と業績、とくにこの<マルクス主義の主要潮流>に関する欧米の評価を端的に(むろんジャットなりに)示してくれている。
 第二に、L・コワコフスキ<マルクス主義の主要潮流>の、大判合冊で1200頁を超える文字通りの大著の、内容の要点・特徴を概括してくれている。私はろくに目を通していないが、かなりよく(むろんジャットなりに)まとめてくれていて、きわめて参考になる。
 この部分だけでも邦訳しようかともふと思ったが、日本語訳書を見て、書物全体に比べれば勿論ましだが、写すだけでも相当に長い文章が必要だと分かって、諦めた。
 第三に、L・コワコフスキのこの著に関連して、トニー・ジャットの、この論考執筆時点での「マルクス主義」に関する見方がある程度まとまって述べられており、関心を惹く。
 マルクス主義に関する考え方というのは、マルクス主義又は「共産主義」(両者の関連もL・コワコフスキにかかわって問題ではあるが)そのものをどう理解し、是か非かという単純なことを指しているのでは全くない。
 世界、または少なくともトニー・ジャットにとっての主要な「知的関心」の対象である欧米の社会と政治と歴史(社会思想・政治思想・歴史思想)にとって、まさに現在、「マルクス主義」はどういう意味をもつのか(持っていないのか)、そのことをどう評価すればよいのか、という問題についての考え方をいう(この人はユダヤ人系イギリス出自で、イギリスで育ち研究者になり、のちにアメリカの大学へと移った。ちなみに、ホブズボームもユダヤ人出自だという。L・コワコフスキについてはそういう紹介はない)。
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 日本にある<日本会議>の設立宣言こうは書く。1997年5月。
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露されたが、その一方で、世界は各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時代に突入している。にもかかわらず、今日の日本には、この激動の国際社会を生き抜くための確固とした理念や国家目標もない。このまま無為にして過ごせば、 亡国の危機が間近に忍び寄ってくるのは避けがたい」。
 かかる<時代認識>自体に大きな欠陥がある。後半については別にも触れる。「各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時代に突入」という認識で救われている「各国」が、間違いなくある。
 既述のとおり、「マルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」とするのは、マルクス主義・共産主義に対する闘いをもはやする必要がない、ということを言っているのと同じだ。日本の<保守>全体に、マルクス主義研究・マルクス主義への関心がきわめて弱いのは、ここにも原因がある。
 また、そもそも、こう宣言した者たちが、「マルクシズム」をどのようなものと理解して「誤謬は余すところなく暴露された」と言うことができているのかはなはだ疑わしい
 <冷戦構造の崩壊>という理解自体、少なくとも東アジアでは現実に反しているが、そそもそも<冷戦構造の崩壊>→「マルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」という理解は、どういう論理関係になっていると関係者が説明できるのかも、はなはだ疑わしい。
 現実の政治、日本の国家のためにも-マルクス主義=「科学的社会主義」を謳う政党が厳然とあるではないか?-「マルクス主義」の研究・分析、日本共産党のいう「科学的社会主義」・綱領等の批判的分析は、「反共産主義」者こそが、きちんと行わなければならない。
 これを正面から掲げていない「日本会議」は決して「反共産主義」者の団体・運動体ではない、と断固として判断できる。
 「日本会議」または一部保守系三雑誌(うち二つの編集長は櫻井よしこを長とする「研究所」の評議員、残り一つは月刊正論(産経))の基調、および産経新聞の基調または「主流派」を、この欄ではこれから<特定保守>と呼ぶかもしれない。
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 トニー・ジャットは「ネオ」との形容句も「変種」との語尾もつけないで、「マルクス主義」という概念をそのまま使って、以下のように述べている。「日本会議」発足後の2006年9月に公刊の文章だ。邦訳書に依拠する。
 ・新世紀の冒頭に「二つの対立する、しかし奇妙に似かよった幻想」があるが、「二つめの幻想は、マルクス主義には知的・政治的未来があるという信念である」。p.196。
 ・「今までのところ国際的な『辺境』や、学問の世界の周縁でのみ見られるが、このマルクス主義、つまり政治的予言としてでないとしても、少なくとも分析ツールとしてのマルクス主義に対する新しい信念は、主として競争相手がないという理由で、今やふたたび国際的な抵抗運動の共通手段となっている」。p.196。
 ・「わたしたちが不平等、不正、不公平、搾取について耳にすることは増えこそ減りはしないだろう。/それゆえ、…刷新されたマルクス主義の道徳的魅力が高まる可能性がある」。p.194。
 最後に一つ、L・コワコフスキ著の紹介の中で語られている以下の文章にも、注目されてよい。
 ・「コワコフスキのテーゼ」は「率直であり曖昧なところはない」。/マルクス主義を「真剣に考える」必要があるのは、「階級闘争に関するその主張」や「資本主義の不可避の崩壊」・「社会主義への移行」を約束したからではなくて、「マルクス主義が①独創的なロマン主義的幻想と②断固とした歴史的決定論」の、「真にオリジナルな混合物を提示した」からだ。①・②は秋月が挿入。p.182。
 「階級」とか「搾取」とか「プロレタリアート」とかを今日のマルクス主義者がそのまま露骨に使うことはほとんどない。
 注意すべきなのは、私なりにさらに簡潔化すれば、①「幻想」を夢み、かつ②「運命主義」(歴史的不可避主義?、歴史決定論?)に陥るという、そのものだ。
 この二点において、すでに不破哲三と櫻井よしこの類似性・共通性に言及したことがあるのだが、「日本の左翼」と「日本の特定保守」の間にないのかどうか、関心がある。
 ②は将来のことについてとは限らない。例えば、現実を変えた(勝利した)がゆえに<明治維新>は素晴らしかった(やむをえない不可避のものだった)、と観念的・抽象的に考えてしまうのも、一種の「運命」主義だろう。
 「特定保守」には、破綻したという「左翼」・マルクシズムと発想それ自体に類似性がある、と感じている。
 <理念>・<観念>・<狂熱>・<精神論(だけ)>というものほど、じつは恐ろしいものはない。日本の、世界の歴史から見ても分かる、と思う。<観念・イデオロギー>による運動によって、多数の人々が人為的に殺戮された。
 <思考方法>は、政治思想・社会思想上も重要な論点だ。平板に、「右」か「左」か、「保守」か「左翼」かを問題にしてはいけない。

1581/党と運動・意識性と自然発生性①-L・コワコフスキ著16章「レーニン」2節。

 第16章・レーニン主義の成立
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性①。
 独自の政治的一体としてのレーニン主義の基本的教理は、1901年~1903年に定式化された。
 この数年間にロシアでは、主な政治集団が創立され、それらは絶えずお互いで争いながら帝制に対する闘いを十月革命まで遂行した。すなわち、社会民主党のボルシェヴィキ派とメンシェヴィキ派、社会革命党(エスエル)および立憲民主党(<カデット>)。//
 レーニンが考え(ideas)を徐々に見える形にした主要な機関は、<イスクラ(Iskra)>だった。
 1903年の第二回党大会まで、レーニンと他の編集局員との間の差違は、大して重要ではなかった。そして、実際に新聞の基本論調を作ったのはレーニンだった。
 レーニンは最初はミュンヒェンで、のち1902年の春に移動したロンドンで、その編集に携わった。
 <イスクラ>は、ロシア社会民主党の修正主義や経済主義と闘うことのみならず、党が公式には存在しているにもかかわらず、思想(ideology)と組織のいずれに関してもまだ統合されていない集団との間の結節点として活動することをも、意図していた。
 レーニンが、つぎのように書いたように。『一つの新聞は集合的な情報宣伝者や集合的な扇動者であるばかりではなく、集合的な組織者でもある。』(<何から始めるべきか>、全集5巻p.22〔=日本語版全集5巻3頁以下「なにからはじめるべきか?」〕)。
 <イスクラ>は実際に、大会を準備するうえで決定的な役割を果たした。この大会は、開催されたときに、ロシアの社会民主主義者を単一の政党へと統合した。その党はすぐに、二つの反目しあう集団へと分裂した。//
 レーニンは、党の役割という鍵となる問題を、経済主義と闘うボルシェヴィキの考え方(ideology)を生み出す基礎に据えた。その経済主義とは、影響力は衰えているとしてもきわめて危険だと彼が見なしたものだった。
 経済主義者は史的唯物論を、(ともかくも近い将来にロシアのブルジョアジーの主とした仕事になる)政治的目的と比べて、プロレタリアートの経済的闘争を優先させる理論だと解釈した。
 そして経済主義者は、労働者階級の運動を、一体としての労働者による自然発生的な運動の意味での『労働者の運動』と同一視した。
 プロレタリアート自身の綱領の厳密な階級性を強調し、<イスクラ>集団を、知識人層やリベラルたちに倣って主張している、理論や思想の重要性を高く評価しすぎている、専政体制に対する全ての階級の共通する敵対関係に重きを置きすぎている、と攻撃した。
 経済主義は、一種のロシアのプルードン主義(Proudhonism)で、または< ouvrierisme >と称されるものだ。
 これを支持する者によると、社会民主党とは、真の労働者運動の、指導者ではなくて、機関であるべきだ。//
 レーニンは、いくつかの論文で、とくに<何をなすべきか>(1902年)で、前衛としての党の役割を否定しているとして経済主義者を攻撃し、一般的な語法を用いて、社会民主主義運動における理論の重要性に関する自分の見地を表明した。
 彼は、つぎのように主張した。革命の展望にとってのきわめて重大な問題は、革命運動に関する理論上の意識(conciousness)であり、これは労働者の自然発生的(spontaneous)な運動によっては決して進化させられないものだ。
 『革命的理論のない革命運動は、存在し得ない』。
 これは、他のどこよりもロシアにおいて、より本当(true)だった。なぜなら、社会民主主義がその揺籃期にあり、また、プロレタリアートが直面する任務がヨーロッパ的かつアジア的な反動の稜堡を打倒することだったからだ。
 このことが意味したのは、世界プロレタリアートの前衛であることを運命づけられていること、およびこの任務を適切な理論の装備なくして履行することはできないこと、だった。
 経済主義者は、社会発展における『客観的な』経済環境の重要性について語った。
 その際に、政治的意識を経済的要因の自動的な帰結の一つと見なし、それは社会の進化を開始させ活性化させることができない、とする。
 しかし、経済的利益が決定的だという事実は、プロレタリアートの根本的な階級利益は政治的革命とプロレタリアート独裁によってのみ充足されうるのだから、労働者の経済闘争は最終的な勝利を確実にすることはできない、ということを意味しなかった。
 労働者は、自分たちだけにされたのでは、全体としての階級と現存する社会制度の間には根本的な対立があるという意識を獲得することができなかった。//
 『我々は、労働者の間に社会民主主義的意識がありえるはずはなかった、と言った。
 この意識は、外部からしか労働者へともたらされることのできないものだった。
 全ての国の歴史は、労働者階級がまったく自分の力だけでは、組合主義的意識、すなわち、組合に団結し、雇い主と闘い、政府に労働者に必要なあれこれの法律の発布をさせるように励むなどのことが必要だという確信しか形成できないことを、示している。』(+)
 (全集5巻p.375=〔日本語版全集5巻「なにをなすべきか」395頁〕)//
 このことは、西側でそうだった(『マルクスとエンゲルス自身もブルジョア・インテリゲンツィアに属していた。』++)。そして、ロシアでもそうなることになる。
 レーニンは、この点で、カウツキーに魅惑されて支持した。彼は、プロレタリアートの階級闘争はそれ自体では社会主義の意識を生み出すことができない、階級闘争と社会主義は別々の現象だ、そして、社会主義の意識を自然発生的な運動の中に植え込むことが社会民主党の任務だ、と書いていた。//
  (+秋月注) 日本語版全集5巻を参考にして、訳出し直している。
  (++同注) この前後を含めると、つぎのとおり。日本語版全集5巻395頁による。-「近代の科学的社会主義の創始者であるマルクスとエンゲルス自身も、その社会的地位からすれば、ブルジョア・インテリゲンツィアに属していた」。
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 ②へとつづく。

1579/レーニン主義②-L・コワコフスキ著<マルクス主義>16章1節。

 試訳のつづき。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (Norton, 三巻合冊 2008)では、第16章第1節は、p.661-4。第二分冊(第二巻)の以下は、p.382-。
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 第1節・レーニン主義をめぐる論争②。
 レーニンは『修正主義者』だったかという問題は、レーニンの著作物とマルクスの著作物とを比較することによって、あるいはこの問題または別の問題についてマルクスならば何をしただろうかまたは何と語っただろうかという回答不能の問題を設定することによってのみ決定することができる。
 明白に、マルクスの理論は多くの箇所で不完全で曖昧だ。そして、マルクスの理論は、その教理をはっきりと侵犯することなくして、多くの矛盾する方法で『適用』されうるだろう。
 にもかかわらず、マルクス主義とレーニン主義の間の継承性に関する問題は、完全に意味がないわけではない。
 しかしながら、この問題は、『忠実性』に関してではなくて、理論の分野でマルクス主義の遺産を『適用』するまたは補足するレーニンの企てにある一般的な傾向を吟味することによって、むしろよりよく考察することができる。//
 述べたとおり、レーニンにとっては、全ての理論上の問題は、唯一の目的、革命のためのたんなる道具だった。そして、全ての人間の行い、観念、制度の意味および価値は、もっぱらこれらがもつ階級闘争との関係にあった。
 このような志向性を支持するものを、多くの理論上の文章の中で、ある階級社会における生活の全側面のうち一時性や関係性を強調したマルクスやエンゲルスの著作物に見出すのは困難ではない。
 にもかかわらず、この二人の特有の分析は、このような『還元主義』定式が示唆すると思える以上に、一般論としてより異なっており、より単純化できないものだ。
 マルクスとエンゲルスはともに、『これは革命にとって良いものか悪いものか?』という発問によって意味されている以上の、利益についての相当に広い視野を持っていた。
 他方、この発問は、レーニンにとっては、問題がそもそも重要かどうか、そうであればそれはどのように決定されるべきかに関する、全てを充足する規準だった。
 マルクスとエンゲルスには、文明の継続性に関する感覚があった。そして、彼らは、科学、芸術、道徳、および社会的諸制度の全ては階級の利益のための道具『以外の何物でもない』、とは考えなかった。
 にもかかわらず、彼らが史的唯物論を明確にする一般的定式は、レーニンが用いるのに十分だった。
 レーニンにとって、哲学的問題はそれ自体では意味をもたず、政治的闘争のためのたんなる武器だった。芸術、文学、法と制度、民主主義諸価値および宗教上の観念も、同様だった。
 この点で、レーニンは、マルクス主義から逸脱していると非難することができないだけではなく、史的唯物論の教理をマルクス以上に完全に適用した、ということができる。
 例えば、かりに法は階級闘争のための武器『以外の何物でもない』とすれば、当然に、法の支配と専横的独裁制の間に本質的な差違はない、ということになる。
 かりに政治的自由はブルジョアジーがその階級的利益のために使う道具『以外の何物でもない』とすれば、共産主義者は権力に到達したときにその価値を維持するよう強いられていると感じる必要はない、と論じるのは完全に適正だ。
 科学、哲学および芸術は階級闘争のための器官にすぎないので、哲学論文を書くことと砲火器を使うことの間には『質的な』差違はない、と理解してよいことになる。-この二つのことは、異なる場合に応じた異なる武器であるにすぎず、味方によって使われるのかそれても敵によってか、に照らして考察されるべきものだ。
 このようなレーニンの教理の見方は、ボルシェヴィキによる権力奪取以降に劇的に明確になった。しかし、こういう見方は、レーニンの初期の著作物において表明されている。
 レーニンは、見解がやや異なる別のマルクス主義者たちとの議論で、共通する教理を適用する変わらない簡潔さと一貫性で優っていた。
 レーニンの論敵たちがレーニンはマルクスが実際に言った何かと矛盾していると-例えば、『独裁』は法による拘束をうけない専制を意味しないと-指摘することができたとき、彼らは、レーニンの非正統性というよりもむしろ、マルクス自身のうちにある首尾一貫性の欠如を証明していた。//
 しかし、それでもなお、レーニンがロシアの革命運動に導入した一つまたは二つのきわめて重要な点に関する新しい発想は、マルクス主義の伝統に対する忠実性がなり疑問であることを示唆する。
 第一に、レーニンは初期の段階で、『ブルジョア革命』のための根本戦略として、プロレタリアートと農民との間の同盟を擁護した。一方で、レーニンに対する反対者たちは、ブルジョアジーとの同盟の方がこの場合の教理とより一致しているはずだ、と主張した。
 第二に、レーニンは、民族問題を、たんなる厄介な邪魔者のではなくて、その教理を社会民主主義者が発展させるべく用いることができかつそうすべき活動源の、強力な蓄蔵庫であると見た最初の人物だった。
 第三に、レーニンは、自分自身の組織上の規範と、労働者による自然発生的な突発に向けて党が採用すべき態度に関する彼自身の範型とを、定式化した。
 これら全ての点について、レーニンは改良主義者やメンシェヴィキからのみならず、ローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg)のような正統派の中心人物によっても批判された。
 また、これら全ての点について、レーニンの教理は極度に実践的なものであることが判明した。そして、上記の三点の全てについて、レーニンの政策が、ボルシェヴィキ革命を成功させるために必要なものだった、とレーニンの教理に関して、安全には言うことができる。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と随意性、へとつづく。

1577/レーニン主義①-L・コワコフスキ著<マルクス主義>16章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊 2008)<=レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要な潮流>には、邦訳書がない。
 その第2巻(部)にある、第16章~第18章のタイトル(章名)および第16章の各節名は、つぎのとおり。
 第16章・レーニン主義の成立。
  第1節・レーニン主義をめぐる論争。
  第2節・党と労働者運動、意識性と随意性。
  第3節・民族の問題。
  第4節・民主主義革命でのプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永久革命』。
 第17章・ボルシェヴィキ運動における哲学と政治。
 第18章・レーニン主義の運命、国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 以下、試訳。分冊版の Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, 2 -The Golden Age (Oxford, 1978), p.381~を用いる。一文ごとに改行する。本来の改行箇所には文末に//を記す。
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 第16章・レーニン主義の成立
 第1節・レーニン主義をめぐる論争①。
 マルクス主義の教理の一変種としてのレーニン主義の性格づけは、長らく論争の主題だった。
 問題は、とくに、レーニン主義はマルクス主義の伝統との関係で『修正主義』思想であるのか、それとも逆に、マルクス主義の一般的原理を新しい政治状況へと忠実に適用したものであるのか、だ。
 この論争が政治的性格を帯びていることは、明瞭だ。
 この点ではなおも共産主義運動の範囲内の勢力であるスターリン主義正統派は、当然に後者の見地を採用する。
 スターリンは、レーニンは承継した教理に何も付加せず、その教理から何も離れず、その教理を適確に、ロシアの状態にのみならず、きわめて重要なことだが、世界の全ての状況へと適用した、と主張した。
 この見地では、レーニン主義はマルクス主義を特殊にロシアに適用したものではなく、あるいはロシアの状態に限定して適用したものではなく、社会発展の<新しい時代>のための、つまり帝国主義とプロレタリア革命の時代のための戦略や戦術の、普遍的に有効なシステムだ。
 他方、一定のボルシェヴィキは、レーニン主義はより個別的にロシア革命のための装置であるとし、非レーニン主義のマルクス主義者は、レーニンは多くの重要な点で、マルクスの教理に対する偽り(false)だったと主張した。//
 このように観念大系的に定式化されるが、この問題は、根源への忠実性を強く生来的に必要とする政治運動や宗教的教派の歴史にある全てのそのような問題のように、実際には、解決できない。
 運動の創立者の後の世代が既存の経典には明示的には表現されていない問題や実際的決定に直面して、その教理を自分たちの行為を正当化するように解釈する、というのは自然で、不可避のことだ。
 この点では、マルクス主義の歴史はキリスト教のそれに似ている。
 結果は一般的には、教理と実際の必要との間にある多様な種類の妥協を生み出すことになる。
 分割の新しい方針や対立する政治的形成物は、事態の即時的な圧力のもとで形作られる。そしてそのいずれも、必要な支持を、完璧には統合しておらず首尾一貫もしていない伝統のうちに見出すことができる。
 ベルンシュタインは、マルクス主義社会哲学の一定の特質を公然と拒否し、全ての点についてのマルクスの遺産を確固として守護するとは告白しなかった、という意味において、じつに、一人の修正主義者だった。
 他方でレーニンは、自分の全ての行動と理論が現存の観念大系(ideology)を唯一つそして適正に適用したものだと提示しようと努力した。
 しかしながら、レーニンは、自分が指揮する運動への実践的な効用よりも、マルクスの文言(text)への忠実性の方を選好する、という意味での教理主義者(doctrinaire)ではなかった。
 逆に、レーニンは、理論であれ戦術であれ、全ての問題を、ロシアでのそして世界での革命という唯一の目的のために従属させる、莫大な政治的な感覚と能力とを持っていた。
 彼の見地からすれば、一般理論上の全ての問題はマルクス主義によってすでに解決されており、知性でもってこの一体の教理のうえに、個別の状況のための正しい(right)解決を見出すべく抽出することだけが必要だった。
 ここでは、レーニンは自らをマルクス主義者の教書の忠誠心ある実施者だと見なしていないだけではなく、自分は、個別にはドイツの党により例証される、欧州の社会民主主義者の実践と戦術に従っていると信じていた。
 1914年になるまで、レーニンは、ドイツ社会民主党を一つの典型だと、カウツキーを理論上の問題に関する最も偉大な生きている権威だと、見なしていた。
 レーニンは、理論上の問題のみならず、第二ドゥーマ〔国会〕のボイコットのような自分自身がより多数のことを知っている、ロシアの戦術上の問題についても、カウツキーに依拠した。
 彼は、1905年に、<民主主義革命における社会民主党の二つの戦術>で、つぎのように書いた。//
 『いつどこで、私が、国際社会民主主義のうちに、ベーベル(Bebel)やカウツキー(Kautsky)の傾向と<同一でない>、何か特別な流派を作り出そうと、かつて強く主張したのか?
 いつどこに、一方の私と他方のベーベルやカウツキーの間に、重要な意見の違いが-例えばブレスラウで農業問題に関してベーベルやカウツキーとの間で生じた違いにほんの少しでも匹敵するような意見の違いが-、現われたのか?』
 (全集9巻p.66n)=<日本語版全集9巻57頁注(1)>//
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 秋月注記-全集からの引用部分は、日本語版全集の邦訳を参考にして、あらためて訳出。<>記載(大月書店, 1955. 第30刷, 1984)の上掲頁を参照。< >部分は、Leszek Kolakowski の原著ではイタリック体で、「レーニンによるイタリック体」との語句の挿入がある。日本語版では、この部分には、右傍点がある。余計ながら、この時点ではレーニンは<Bebel や Kautsky の傾向>と同じだったと、L・コワコフスキは意味させたい。
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 ②につづく。


1571/2017年2月末以降に読んだもの・入手したものの一部。

 2017年02月末以降の文献。
 この欄の意味について疑問をもったときにかつては「読書メモ」の意味だけでも持たせようと思ったが、昨年以降はそれも虚しいようで、できるだけ自分の文章を残すようにしてきた。
 そうなると、元来の「読書メモ」の機能は失う。
 最近にあれこれと書いていても、読んだり入手したりした書物類は、記載・言及するよりもはるかに多い。
 たまたまタイミングを逸したりして、記載し忘れのものも多い。
 二月末以降に一部でも読んだもの、入手して今後に読みたいと思っているもの(でこの欄で触れていないと記憶するもの)、を以下に掲載しておく。
 レーニン・ロシア革命に直接に関係するものは依然として増えつつあるが、一部しか載せられない。以下は、上の趣旨のものの全てではない。読み終わった記憶があるものは、/了、と記した。昨年以前のものには、触れていない。
 この欄に書くのは「作業」のようなもので、気侭に読んでいる方が、「生きていること」、「意識(脳)を働かせていること」を感じて、愉しい。しかも、意識を多少とも刺激する情報が大量に入ってくる。「作業」は、反応結果の一部をただ吐き出すだけだ。
 しかし、この欄での「作業」をしておかないと、せっかくの意識や記憶がますます消失してしまうので、「作業」もときには必要だ。
 ・天皇譲位問題
 今谷明・室町の王権(中公新書, 1990)。/了
 今谷明・象徴天皇の発見(文春新書, 1999)。
 高森明勅・天皇「生前退位」の真実(幻冬舎新書, 2016)。/了
 所功・象徴天皇「高齢譲位」の真相(ベスト新書, 2017)。
 本郷和人・人物を読む/日本中世史(講談社選書メチエ, 2006)。
 本郷和人・天皇の思想-闘う貴族北畠親房の思惑(山川出版社, 2010)。
 ・北一輝
 岡本幸治・北一輝-転換期の思想構造(ミネルヴァ, 1996)。
 ・明治維新等
 井上勲・王政復古(中公新書, 1991)。
 毛利敏彦・幕末維新と佐賀藩(中公新書, 2008)。
 原田伊織・明治維新という過ち/改訂増補版(毎日ワンズ, 2015)。
 山口輝臣・明治神宮の出現(吉川弘文館, 2005)。
 伊藤哲夫・明治憲法の真実(致知出版社, 2013)。
 ・政教分離
 杉原誠四郎・理想の政教分離規定と憲法改正(自由社, 2015)。/了
 杉原誠四郎・日本の神道・仏教と政教分離-そして宗教教育/増補版(文化書房博友社, 2001)。
 ・歴史
 安本美典・古代史論争最前線(柏書房, 2012)。
 今谷明・歴史の道を歩く(岩波新書, 1996)。
 西尾幹二全集第20巻/江戸のダイナミズム(国書刊行会, 2017)。
 山上正太郎・第一次世界大戦(講談社学術文庫, 2010. 原1985)。
 木村靖二・第一次世界大戦(ちくま新書, 2014)。
 ・保守主義
 宇野重規・保守主義とは何か-反フランス革命から現代日本まで(中公新書, 2016)。
 ・現代
 宮家邦彦・日本の敵-よみがえる民族主義に備えよ(文春新書, 2015)。/了 
 ・左翼
 中沢新一・はじまりのレーニン(岩波現代文庫, 原1994)。
 白井聡・永続敗戦論(太田出版, 2013)。
 ・外国人
 Donald Sassoon, Looking Left -Socialism in Europe after the Cold War (1997). <左を見る-冷戦後のヨーロッパ社会主義>
 Roger Scruton, Fools(あほ), Frauds(詐欺師k) and Firebands (つけ火団)-Thinkers of the New Left (2015).<新左翼の思考者>
 Tony Judt, Dem Land geht es schlecht (Fischer, 2014. 2010).
 Leszek Kolakowski, 藤田祐訳・哲学は何を問うてきたか(みすず書房, 2014)。
 Leszek Kolakowski, Metaphysical Horror (1988, Penguin 2001).
 Anna Pasternak, Lara -The untold Love Story and the Iispiration for Doctor Zhibago (2016).
 ・その他
 L・コワコフスキ「こぶ」沼野充義編・東欧怪談集(河出文庫, 1994)。/了
 原田伊織・夏が逝く瞬間(毎日ワンズ, 2016)。/了*小説
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 1.せっかくの機会だから、つぎの本のp.4からまず引用する。
 本郷和人・人物を読む/日本中世史(講談社選書メチエ, 2006)。
 「…皇国史観は、天皇が至高の存在であることを学問の大前提とし、また人物を歴史叙述の基礎単位にしていた。天皇に忠義であったか否か、忠臣か逆臣かで人物を評価し、その人物の行動をあとづけることによって歴史物語を描写したのである。こうした歴史認識が軍国主義を支える理念として機能したことは、疑いようのない事実であった。」
 戦後の日本共産党や日本の「左翼」はかくして、「軍国主義」を支えた「皇国史観」を厳しく批判した。
 その日本共産党・「左翼」に反対する良心的な、誠実な日本人は、では「皇国史観」へと立ち戻る必要があるのか??  (しかも「皇国史観」とは、維新以降の日本をずっと覆ってきたのでは全くなく、とくに昭和戦前期の<公定>史観だ。)
 本郷も言うように、そんなことは、論理的にも、決して、ないんだよね。
 2.今谷明・本郷和人というと、黒田俊雄の<権門体制>論にかかわりがある。
 素人論議だが、マルクス主義者(・日本共産党員?)の黒田は(以下、たぶん)、<国家(権力・支配者)-人民>の対立が当然にあるものとして、その前提で<国家>の構造を考え、かつその一部を「天皇・皇室」がきちんと担っていた、と考える。
 第一に、<権力-人民>は、どの時代にもきれいに二つまたは二層に分けられるのだろうか?
 第二に、<天皇>はつねに、国家権力の少なくとも一部を握っているものなのだろうか? または、そうだとしても、「中世」に関する黒田による天皇の位置づけは高すぎるのではないだろうか。
 第一は素朴かつ観念的な階級対立論、第二は素朴かつ観念的な<天皇制>批判論-そのための逆説的意味での天皇重視論(天皇が国家権力の一部かつ重要位置にいなかったはずはない)-を前提にしているような印象もある。
 本郷和人は、黒田<権門体制>論には批判的だ。専門家にお任せしますけど。 

 

1565/共産主義との闘いを阻むもの②-主要な全てが翻訳されているのでは全くない。

 ○ ふだん目にしないところに置いてあった、つぎの書物を見つけた。
 ① Anne Applebaum, Gulag -A History (Penguin, 2003).
 Gulag の正確な発音はよく分からない。いずれにせよ、レーニン以降のソ連にあった、「強制収容所」のことだ。concetration camp と、英語で書くこともある。
 本文の冒頭(第一部第1章)で要領よく、十月政権奪取・レーニンの権力掌握くらいまで、一気にほぼ一頁くらいでまとめている(p.27-p.28)。
 p.28の最初の段落の初めは、「ボルシェヴィキの本性がミステアリアスだったとすれば、その指導者…レーニンはもっとミステアリアスだった」。
 p.28にある最後の段落の直前は、「新しいソヴェト国家は、1921年までは相対的な平和を知らないことになる」。
 ここに注記番号があるので注記の参照文献を見ると、つぎの二冊が挙げてあった。
 ② Richard Pipes, The Russian Revolution 〔ロシア革命〕, New York, 1990。
 ③ Orlando Figes, A People's Tragedy〔人民の悲劇〕: The Russian Revolution, 1891-1924, London, 1996。  
 ②はこの欄で一部を試訳中のもので、邦訳書はない。
 ③のファイジズのものは、この人の本の邦訳書はあるのでその中に含まれていたかとも思ったが、調べてみると、③にはなかった。
 邦訳書があるのは、つぎの二つ。
 ④ Orlando Figes, The Whisperers: Life in Stalin's Russia (2007).
 =染谷徹訳・囁きと密告-スターリン時代の家族の歴史/上・下(白水社, 2011).
 ⑤ Orlando Figes, The Crimean War: A History (2011).
 =染谷徹訳・クリミア戦争/上・下 (白水社, 2011).
 ④のスターリン時代はロシア革命・レーニン時代の後で、⑤のクリミア戦争はロシア革命以前の19世紀半ば。
 ロシア革命・レーニン時代を含む③については、邦訳書がないのだ。邦訳書のあるマーティン・メイリア『ソ連の悲劇/上・下』と同じ< Tradegy(悲劇) >が使われていて、少し紛らわしい。
 しかも、近年までも含めて、この時期を含むファイジズの著作は、他にもある。私は、所持だけはしている。
 ⑥ Orlando Figes, Peasant Russia -Civil War: The Volga Countryside in Revolution 1917-21 (2001).
 ⑦ Orlando Figes, Revolutionary Russia, 1891-1991: A History (2014).
 
 邦訳書を通じて全く知られていないわけではないO・ファイジズの、レーニン時代を含む著作だけは邦訳書がないのは、何故なのだろうか?
 ちなみに、⑧ Tony Brenton 編, Historically Inevitable ? 〔歴史的に不可避だったか?〕: Turning Points of the Russian Revolution (2016) がロシア革命100年を前に出ていて、Orlando Figes も Richard Pipes も執筆者の一人だが、これにも今のところ邦訳書はない(今後に期待できるのだろうか ?)。
 元に戻ると、A・アップルバウムの① Gulag -A History (Penguin, 2003) もまた、邦訳書がない。これにはやや驚いた。
 この本は2004年ピューリツァー賞受賞。著者は<リベラル>系ともされるワシントン・ポスト紙に在職していて、欧米の本には表紙かその裏によくある称賛書評の一部の中には、あの『南京のRape』のアイリス・チャン(Iris Chang)や、レーニン・ロシア革命に対する<穏便派>の(但し称賛までは無論しない)ロバート・サービス(Robert Service)によるものもある。
 大著とまでは言えない、この① Anne Applebaum, Gulag -A History (Penguin, 2003).には、何故、邦訳書が存在しないのだろうか。
 決して、日本の<左翼>が端から鼻をつまむような本ではないようにも思えるのは、上記のとおり。
 これが敬遠されている理由としては、レーニンとその時代に、ソ連のスターリン時代をより想起させるかもしれない<強制収容所>の淵源はあり、かつ建造されていた、という事実が、詳しくかつ明確に語られているからではないか、とも思われる。スターリンは、レーニンが作った財産を相続したのだ。
 この本によってアメリカおよび英語圏の又は英語読者のいるヨーロッパ諸国では当たり前の<知識・教養>になっていることが、日本では必ずしもそうなってはいない、ということになる。
 ○ あらためて書き起こそう。
 日本において、スターリンまたはその時代を批判する外国語(とくに欧米語)文献ならば、比較的容易に翻訳され、出版されている、という印象がある。
 なぜか。①日本共産党が(ロシア革命・レーニンは擁護しつつ)スターリンを批判してソ連を社会主義国でなくした張本人だと主張しており、スターリンを批判するという点では、②反日本共産党のいわゆるトロツキストと呼ばれる人たちや、③スターリンを肯定的には語れなくなったがレーニン・ロシア革命は何とか憧れの対象のままにしておきたい、そしてマルクスは「理論的」には価値ある仕事をした英才だとなおも考えている、またはそのように<思って>もしくは<思いたくて>、かつての「左翼」傾倒を自己弁明したい、広範な「左翼的」気分の人々にも、受容されうるからだと思われる。
 つまり、日本には、<スターリン批判本>だけは、なおも「市場」があるのだ。
 それに比べて、ロシア革命・レーニンやその基礎にあるマルクスを批判したものは人気がない、と思われる。
 マルクスを「理論的に」批判したものはむつかしい「理論」に関係しそうなのでまだよいが、ロシア革命とレーニン時代の「現実」を明らかにする本は、それが歴史であり事実であっても、受け入れたくない雰囲気がなお残っているように感じられる。
 いわゆるトロツキストあるいは反日本共産党の共産主義者や「左翼」にとっても、ロシア革命・レーニンとマルクスはなおも基本的には擁護されるべき対象なのだ。
 彼らには、L・トロツキー自体が、レーニンとともに「ロシア10月革命」を成功させた大偉人(又は見方によれば「張本人」)なのだ。たしかに、10月のクーは、ペテログラード軍事組織の長だったトロツキーの瞬時的判断と辣腕なくして、成就していない。
 ○ 考えすぎだ、「自由な」日本で、そんなことはないだろう、という反応がありそうなので、さらに続ける。
 トニー・ジャット(Tony Judt, 1948~2010)はニューヨーク大学の欧州史専門の教授だった人だが(Tony Judt, Postwar: A History of Europe Since 1945 , など)、つぎの小論集も遺した。 
 ⑨ Tony Judt, When the Facts Change: Essays 1995 - 2010 (2015).
 この中にレシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)逝去後の、書評誌掲載の追悼文章が収められていて、L・コワコフスキについてこう書く部分がある。
 「宗教思想史の研究者としてと同等の高い位置を占める、唯一の国際的に名高い( only internationally renowned )マルクス主義に関する研究者…」。
 「悪魔」に関するコワコフスキの講演を聴いたことから始まるこの追悼文は神学・宗教学やポーランド等の「中央欧州」の文化風土等にも触れて、L・コワコフスキの<複雑な>人生と業績を哀悼感豊かに述べている(このレベルの追悼文は日本ではほとんど見ない)。
 それはともかく、「国際的に」がたんにアメリカとヨーロッパだけだったとしても、L・コワコフスキが欧米ではマルクス主義(に関する)研究者として(も)著名だったことは分かるだろう。
 しかして、⑩ Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism 〔マルクス主義の主要な潮流〕(英語版合冊, 2008)の邦訳書すらなく、L・コワコフスキの名すらきちんと知られていないのが、日本の知的雰囲気の実態だ。いったい、何故だろうか。
 L・コワコフスキは、マルクス-レーニン-スターリンを正面から「哲学的に」分析する。
 ⑫ Andrzei Walicki, Marxism and the Leap to the Kingdom of Freedom -The Rise and Fall of the Communist Utopia (1995).
 これにも、邦訳書はなく、存在すらほとんど知られていないことは既に記した。なお、この人には、A History of Russian Thought from the Enlightenment to Marxism (1988, 英語訳版) もある。
 箸にも棒にも引っ掛からない下らない書物であれば、それで当然かもしれない。
 しかし、本文前の注記によると、Andrzei Walicki は、Zbignew Pelczynski と John Gray (ジョン・グレイ、ロンドン・複数の邦訳書あり)の1984年の共編著に「マルクス主義の自由の観念」と題する寄稿を求められて執筆し、その寄稿を読んで関心をもった「旧友」のレシェク・コワコフスキから、この主題での研究を続けるようにと鼓舞されている。
 上の⑫は、決して無用の著ではない、と思われる(なお、このワレツキもポーランド出自だとのちに分かった)。
 なぜ、この本は日本人には、日本の学界や論壇では(L・コワコフスキ以上に ?)知られていないのか ?
 きっと、日本共産党や日本の共産主義者・マルクス主義者あるいは「左翼」にとって<危険な>本だからに違いない。そして、<利益>を気にする出版社は、邦訳書を出そうとはしないに違いない。 
 ちなみに、L・コワコフスキ『マルクス主義の主要な潮流』の第三部はマルクーゼ、サルトル、フランクフルト学派などに論及するが、L・コワコフスキ自身による新しい「あとがき」によると、第三部だけはフランス語では出版されておらず、サルトルらフランスの著名「左翼」に気兼ねしているのだろうと、彼は推測している
 「自由な」 ?フランスですら、そういう状況だ。
 日本では、あらゆる人文社会系の学問分野で<比較>が盛んで、「横文字からタテ文字へ」で仕事・業績になるとすら言われるほどだと聞いているが、決して世界、とくに欧米の<情報>が自由に入り込んでいるわけではない。全くない、ということを、強く意識しなければならないだろう。
 そうした観点から見ると、エリック・ホブズボーム(Eric Hobsbawm)イマニュエル・ウォーラーステイン(Immanuel Wallerstein)らは、きちんと読んだことがないが、きっと日本にとって(=日本の「左翼」にとって)<安全>なのだろう。
 そうでないと、あれほどに翻訳されないのではないか。なお、前者は、少なくとも「左翼的」。後者の「世界システム論」は巨視的であるように見えるが、<共産主義>を直視していない、逃げている議論だと私は感じている。
 まだ、このテーマは続ける。

1562/神は幸せか?②-2006年のL・コワコフスキ。

 前回のつづき。
 Is God happy ? (2006), in : Leszek Kolakowski, Selected Essays (2012).
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 神は幸せなのか?//
 この疑問は馬鹿げてはいない。
 我々の伝統的な考え方からすると、幸せとは心の感情の状態の一つだ。
 しかし、神には感情があるのか?
 確かに、神は我々被造物を愛すると言われている。そして、愛とは、少なくとも世俗人間世界では、一つの感情だ。
 しかし、愛とはそれが報いられたときの幸せの源の一つであり、神の愛は、その客体の誰かにのみ報われるのであって決して全員によってではない。
 ある者は神は実在するとは信じないし、ある者は神が存在するかどうかを気にしないし、あるいは神を憎悪して、人間の苦痛や悲惨を前にして無関心だと責め立てる。
 神が無関心ではなくて我々のような感情をもっているならば、神は人間の苦しみを目撃して、つねに悲しみの状態で生きているに違いない。
 神は、その苦しみの原因になったわけでもないし、望んだわけでもない。だが、全ての悲惨、恐怖および自然が人々にもたらす又は人々がお互いに加え合う残忍さを前にして、無力なのだ。//
 一方で、神は完全に不変であるとすれば、我々の悲惨に動揺したりすることはありえず、したがって神は無関心であるに違いない。
 しかし、神が無関心だとすれば、いかにして神は慈愛の父であることができのか?
 そしてもし不変ではないとすれば、神は我々の苦しみに共感し、悲しみを感じる。
 いずれの場合でも、我々の理解できる全ての意味において、神は幸せではない。//
 我々は、聖なる存在を理解することはできないことを認めざるをえない。-全能の、神自身においてかつ神の外部にある何かとしてではなく自身を通じて全てを知る全智の、そして苦痛や悪魔に影響を受けない、聖なる存在のことを。//
 キリスト教の本当の神、イェズス・キリストは、認識可能な全ての意味において、幸せではなかった。
 キリストは、痛みを現実化されて苦しんだ。キリストは仲間の者たちの苦しみを分け持った。そして、十字架の上で死んだ。//
 つまりは、<幸せ>という言葉が聖なる存在にあてはまるとは思えない。
 しかし、人間にもそれはあてはまらない。
 我々が苦しみを経験しているのだけが理由ではない。
 あるときに苦しんではいないとしても、肉体的および精神的な愉楽や『永遠に続く』愛を超える瞬間を体験することができるとしてすら、我々は、悪魔の存在と人間の状態の悲惨さを決して忘れることができない。
 我々は他人の苦しみに同情はするが、死の予感や生きていることの悲しみを排除することはできない。//
 そうして、全ての愉しい感情は純粋に消極的なものだ、つまり苦痛がないことだ、というショーペンハウエル(Schopenhauer)の陰鬱な考え方を、我々は受容しなければならないのか?
 必ずしもそうではない。
 我々が善(good)だと経験するもの-美的な歓喜、性的な恍惚、あらゆる種類の肉体的精神的愉楽、豊かにしてくれる会話と友人の情愛-は全てたんなる消極物だと考える必要はない。
 このような経験は我々を強くし、精神的により健康にさせる。
 しかし、悪魔についても苦しみについても-malum culpae あるいは malum ponae -、これらは、何もすることができない。//
 もちろん、自分は成功しているとの理由で幸せだと感している人々はいる-健康面であれ豊かさ面であれ、隣人たちから尊敬(または畏怖)されている。
 このような人々は、人生は幸せそのものだったと信じるのかもしれない。
 しかし、これはたんなる自己欺瞞だ。時が経つにつれて、その人たちは真実を認識するのだとしても。
 真実は、その人たちは残りの我々のように失敗者だ、ということだ。//
 ここで異論が生起しうる。
 我々が高い種類の真の知識を学んだとすれば、アレクサンダー・ポープ(Alexsander Pope)のように何であれあるものは正しい(right)と、あるいはライプニッツ(Leipniz)のように我々は論理的に可能な全ての世界の最善の中に住んでいると、信じるかもしれない。
 こうしたものを精神的に受容することに加えて、つまり神にいつも導かれているので世界の全ての物事は正しい(right)と単純に信じることに加えて、我々の心の中でそのとおりだと感じ、壮麗さや、日常生活にある普遍的なものの善性(goodness)や美しさを経験するならば、我々は幸せだとは言っていけないのだろうか?
 答えは、否、だ。
 我々は、そうできない。//
 幸せとは我々が思い抱くもので、経験ではない。
 地獄や煉獄がもはや機能しておらず、全ての人間が、ただ一人の例外もなく神によって救済され、何も不足なく、完璧に充足して、苦痛や死もなく、いま天上界の至福を享有しているのだと思い浮かべると、彼らの幸せは現実にあり、過去の悲しみや苦しみは忘れ去られてしまったと、思い描くことができる。
 このような状態を思い抱くことはできる。しかし、それはかつて決して経験されてきていない。それを見た者は、これまでにいない。//
 2006年
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 終わり。

1559/神は幸せか?①-2006年のL・コワコフスキ。

 L・コワコフスキ(1927~2009)は、「神学」者でもあったらしい。
 そしてキリスト教関係の諸概念・「教義」・故事来歴・歴史をきっと(欧米知識人にしばしばあることだが)をよく「知っている」のだろう。
 しかし、頭の「鋭い」、探求好きのこの人は、「神」の存在を「信じて」いただろうか?
 信じてなどいないのではないか。そうでなければ、「神は幸せか?」という奇妙な問いを発したりはしないのではないか。「神」について<幸せ>かどうかという発問をするのは、敬虔な信者にとってはありえないことではないか ?
 いや、この人は「神」の存在を信じていたようにも見える。但しそれは、「悪魔」と一体として、または同時に存在するものとしてだ。
 自分の周囲に、またはその「東方」に、かつてL・コワコフスキは「悪魔」が具現化したものを、あるいは「悪魔」のさんざんの所業を見てしまったのではないか。
 こんなことを思ったのは、以下の小論考(エッセイ)を読む前のことだ。
 L・コワコフスキ、79歳のときの文章。
 Is God Happy ? (2006), in : Leszek Kolakowski, Selected Essays (2012).
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 神は幸せか? ①。
 シッダールタ、のちのブッダの初期の伝記から明らかになるのは、人間の状態の悲惨さに全く気づかなかった、ということだ。
 王族の子息として、音楽や世俗的な快楽に囲まれて、愉楽と贅沢の中で青年時代を過ごした。
 シッダールタは、神が彼を啓発しようと決定するまでに、結婚していた。
 ある日彼は、哀れな老人を、そしてひどい病気の人の苦しみを、そして死体を、見た。
 老化、苦痛、死というものの存在--彼が気づいていなかった人間の全ての痛ましい様相--が彼の身近になったのは、ようやくそのときだった。
 これを見てシッダールタは、世俗世界から離れて僧になり、ニルヴァナ(Nirvana)への途を探求しようと決意した。//
 我々はそして、人間の残酷な現実を知らない間は彼は幸せだった、と想像するかもしれない。
 彼の人生の最後に、長くて苦難の旅のあとで、地上の状態を超えるところにある本当の幸せをかち得た、と想像するかもしれない。//
 ニルヴァナを、幸せの国のごとく叙述することができるのか?
 この執筆者〔私〕のように、初期仏教の教義を原典で読めない者には、これは確かでありえない。< happiness (幸せ) > という語は、翻訳文には出てこない。
 < conciousness (意識) >、< self (自己) >のような言葉の意味が今日の言語の元々の意味に対応しているのは確かだ、というのは困難だ。
 ニルヴァナは自己の断念を要求すると、我々は語られている
 これは、ポーランドの哲学者、エルツェンベルク(Elzenberg)が主張するように、誰かが幸せであるということとは関係がない、つまり主体はなく、ただ幸せだけがありうる、ということを示唆していると理解してよいのかもしれない。
 これは馬鹿げているように思える。
 しかし、我々の言語は、絶対的な現実を叙述するために決して適切なものではない。//
 ある神学者は、我々は、神は神ではないと言って、否定によってのみ神を語ることができる、と論じた。
 我々はおそらく同じように、ニルヴァナとは何であるかを知ることができないし、ニルヴァナはニルヴァナでない、としか言えない。
 だが、たんなる否定で満足するのはむつかしい。もう少し何かを語りたい。
 そして、ニルヴァナの国ではどうなのかについて語るのは許されると想定しても、最も困難な疑問は、これだ。この国の人は、周りの世界に気づいているのか?
 そうでなければ、かりにその人は地上の生活から完全に離れているのだとすれば、その人はいかなる種類の現実の一部なのか?
 そして、その人が我々が経験している世界に気づいているのだとすれば、その人はまた、悪魔にも、苦しみにも気づいているに違いない。
 しかし、悪魔や苦しみに気づいていながら、なおも完全に幸せである、ということはありうるのか?//
 同じ疑問は、キリスト教の天国の、幸せな住人に関しても生じる。
 彼らは、我々の世俗世界から完全に離れて、生きているのか?
 そうでないなら、地上の存在の悲惨さに気づいているなら、世界に生起する恐ろしい物事、世界の極悪非道な一面、悪魔と痛みと苦しみとを知っているなら、言葉のいかなる認識可能な意味においても、彼らは幸せではありえない、のではないか?
 (<幸せ>という言葉をここでは、<航空機内のこの座席で happyですか>とか、<このサンドイッチで全くhappyですか> とか言うような、<十分な(content)>や<満足した(satisfied)>という以上のことを意味しないものとして使っている、ということを明確にしておくべきだろう。
 幸せに対応する言葉は、英語では広い射程の意味をもつ。他のヨーロッパの諸言語では、もっと制限的だ。したがってドイツ語では言う、<幸せだ(happy)、でも、ぼくは幸運(gluecklich)ではない>。)//
 仏教とキリスト教のいずれも、魂の究極的な解放は、完全な静穏、精神の完全な平穏だ、と示唆している。
 そして、完全な静穏とは完璧な不変と同じ意味だ。
 しかし、私の精神が不変の状態にあるとすれば、そして何からも影響を与えられないとすれば、私の幸せは、一個の石の幸せのごときものだろう。
 一個の石は悪魔からの救いを完全に具現化したものでニルヴァナだと、我々は本当に言いたいのか?//
 真に人間的であるということは、同情を感じる、他人の苦痛や愉楽に共感する、という能力をもつことを含んでいるので、若きシッダールタは、幸せだったに違いない。あるいは、ただ彼が無知だった結果として、幸せだという幻想を味わったに違いない。
 我々の世界では、この種の幸せは、子どもたちにだけ、一定の子どもたちにだけある。
 五歳以下の子どもたちと言っておこうか、愛する家族の中にいて、彼に身近な者の大きな苦しみや死を経験したことがない。
 おそらくこのような子どもは、私がいま考えている意味において、幸せでありうる。
 五歳を超えると、我々はたぶん、幸せであるには年を取りすぎている。
 もちろん、我々は、刹那的な愉楽、不思議と大幻惑の瞬間、そして神や宇宙と一体となる恍惚感すらも、体験することができる。我々は、愛や歓びを知っている。
 しかし、不変の状態としての幸せは、我々には到達できそうにない。本当の秘儀の世界でのきわめて稀な場合をおそらく除いては。//
 これが、人間の状態というものだ。
 しかし、我々は幸せは聖なる存在のおかげだと推論できるのだろうか?
 神は幸せなのか?
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 あと1回、つづく。

1552/R・パイプスとL・コワコフスキが隣に立つ写真から。

 ○ 世界中で、日本に限ってとしてすら、多数の人が生まれ、そして死んでいっている。
 それぞれの死は悲しいものに違いないが、世界中の、日本に限っても、全ての各人の死を嘆き悲しむことなどできるわけがない。
 一粒の涙ずつ流したとしても、一日で足りるのだろうか。
 所縁のない人々の死をいちいち考えていては、人は生きていけない。
 遺族にとっては突然の死(事故であれ自然災害であれ)もあれば、「大往生」と呼ばれる死もあるだろう。不条理な死も、きっとあるだろう。しかし、ほとんど圧倒的な場合について、<遺族>または関係者以外の人々は、いちいち考える余裕もなく、それぞれに生きている。
 こんなことを書きたくなったのも、一枚の写真を書籍の中でたまたま見た(たぶん初めて気づいた)のがきっかけだ。
 外国の、かつまた自分には私的な関係はこれっぽっちもない人々のことながら、その死を思って、涙が出た。
 Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non - Belonger (2003)。
 このp.133に、つぎの4名が立って、十字のように向かい合って何か語っている写真がある。1974年、イギリス・オクスフォードでのようだ。右から。中の二人の表情が最もよく撮れている。
 アイザイアー・バーリン(Isaiah Berlin)、リチャード・パイプス(Richard Pipes)、レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)、イタリアの歴史学者のフランコ・ヴェンチュリ(Franco Venturi)。
 最後の人だけ名前も知らなかったが、R・パイプスの初期の研究対象と同じく19世紀のロシア、および1789年以前のヨーロッパについて主として研究したようだ。以下、() は写真のときの年齢。
 Isaiah Berlin、1909.06~1997.11、満88歳で死去 (65歳)。
 Leszek Kolakowski、1927.10~2009.07、満81歳で死去 (47歳)。あの、L・コワコフスキだ。
 Franco Venturi、1914.05~1994.12、満80歳で死去 (60歳)。
 そして、Richard Pipes、1923.07~ (51歳)。
 前回に2015年2月付のR・パイプス著の「序言」に言及したが、そのときすでに、満91歳なのだった。
 そして、自分には私的な関係は一切ない人物だが、この人もいずれは亡くなるのだと思うと(自分も勿論そうだが)、涙が出た。
 誰もがみんな、いずれ死んでいく。
 ○ リチャード・パイプスについて書かれている日本語文献は、多くない。
 二冊の詳しく長い方の、ロシア革命とその後のスターリン直前までの書物には邦訳書がない。
 『共産主義の歴史』と素直に邦訳されてよいこの人のコンパクトな書物は、<共産主義者が見た夢>という、誰か特定の共産党員の個人的思い出話とも誤解されそうな邦題が付けられた邦訳書になっている。
 下村満子・アメリカ人のソ連観(朝日文庫、1988)は1983年初頭のR・パイプスインタビュー記事を載せていて、珍しく、かつ興味深い。
 もう一つ、上の Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non - Belonger (2003)の、詳しいわけではないが、貴重な書評記事が、以下にある。
 草野徹「気になるアメリカン・ブックス/28回」諸君!2007年11月号(文藝春秋)p.243-5。
 
草野徹はR・パイプスの書名を『私は生き延びた-自主的な思想家の回想録』と訳している。
 < a Non-Belonger >の意味がむつかしいところで、最初はどの党派にも属さない、つまりは社会主義や共産主義政党から独立した(自由な)者との意味かと思ったが、のちにはだいぶ離れて、ポーランド出自のこの人は20歳のときにアメリカに帰化してもなおも<帰属意識>をもてない、祖国ではない国に生きた、という意識からする言葉かとも思った(40歳頃に社会主義ポーランドを離れたL・コワコフスキについてもある程度はそういう問題の所在を指摘しうるのではなかろうか-多くの日本人には分かりにくい)。
草野は、同僚学者たちからも際立つほどの、つまり仲間がいないか極めて乏しい=帰属先のない学者、独立した<反共産主義・反ソ連>意識の持ち主だったことを、< a Non-Belonger >性だと理解しているようだ。たぶんこれで正しいのだろう。私はほとんど読んでいないので、判断しかねる。
 ともあれ草野徹の紹介によると、R・パイプスというのは、つぎのような考えの持ち主だ。
 「共産主義一般や特にソ連に対して否定的見解」に立つ。
 「スターリニズムはレーニニズムにその兆しがある」。
 「ソ連の残虐な独裁は、スターリンの個性の結果というより、ボルシェヴィキ革命の必然的結果である」。
 60年代の大学騒擾を「嫌悪しながら見詰め、マルクス主義の方法論を用いてソ連に共感する『修正主義者』と対立」した。
 あとは、R・レーガン大統領のもとでの安全保障会議補佐官の時代のことだ。
 R・パイプスは<対ソ連強硬派>だった。この点はこの欄でも触れている。
 草野によると、R・パイプスが嫌ったのは<対ソ連融和派>(秋月)とも言うべき「西側ジャーナリズム」で、これは「①ソ連は安定していて、外部から破壊はもちろん、体制変更はできない。②そんなことを試みれば、ソ連は硬化し、核戦争につながる危険がある」との前提で共通していた、という。
 草野は最後にまとめる-R・パイプスという「圧力行使で『悪の帝国』を倒せると考えた数少ない一人、時代におもねらない自主的な思想家」が、「歴史の歯車に油を差したと言えるかもしれない」と(さらに、「日本の学者」は ? と続けるが)。
 リチャード・パイプスの書物の試訳を行ったり、また部分的にだが(まるでポーランドのふつうの哲学者か東欧の怪談お伽話の作家のごとく日本では扱われているかもしれない)L・コワコフスキの著作を邦訳したりすることの意味は十分にある、と秋月は考えている。
 またさらに、<軟弱・融和・表向き平和>論でないR・パイプスの<強硬論>は、決して過去に関することではなく、現今の北朝鮮や中国に対する外交等の政策についてもある程度は参照されてよいと思われる(日本政府に何ができるかという問題はあるが)。
 民主党政権、オバマ大統領は、ぃったいどうだったのか ? また触れてしまうが、櫻井よしこは、大局を無視して、<トランプへのケチつけ>ばかりするのはやめた方がよい。
 ○ 日本とは違う<反共産主義>の思想・雰囲気がアメリカには大勢ではないにせよ強くある、ということは、「左翼」・対ソ連<融和>派の朝日新聞・下村満子も書いていた。
 1992年のソ連解体以前の文章だが、同・上掲書、p.614は言う。
 「アメリカ人の反共精神、対ソ不信感には、非常に根強いものがあり、これはほとんどアメリカの体臭といっていいほどのものだと私は考えている」。
 こう書きつつ、レーガンの反共・対ソ強硬姿勢はきっとうまく行きそうにないとの雰囲気で朝日新聞記者らしくまとめているのだが。
 ○ しかしともかくも、日本人は、日本とアメリカ等の違いを、共産党・共産主義に対する見方についても、本当はもっと実感しなければならないのだろうと思う。
 1992年以降、イタリア共産党はなく、フランス共産党も1980年にミッテラン大統領を社会党とともに生んだ力はまるでない。
 なぜ日本には日本共産党があって600万票を獲得し、隣国には「中国共産党」があるのか。
 北朝鮮のグロテスクな現況は、マルクス-レーニン-スターリン-コミンテルンと関係がないのか ?
 レーニン・スターリン・コミンテルン-金日成・金正日・…、ではないのか ?
 この点を、なぜ日本のメディアは明確に指摘しないのか。
 スターリン以降とは区別された、<レーニン幻想・ロシア革命幻想>が日本には「左翼」にまだ強く残ることについては、また何度も述べる。 

1541/緒言・スイスのレーニン①-R・パイプス著第10章。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990、Vintage)〔リチャード・パイプス・ロシア革命〕の第二部の最初の第9章『レーニンとボルシェヴィズムの起源』の試訳は、すでに済ませた(2月下旬以降)。
 この本には1997年に新版が出ていて、①Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919、というタイトルになっている(Harvill Press 刊、計950頁余)
 中身は頁数を含めて変わっていない。但しいわば大判から中判への変更で、活字・文字はやや小さくなり、少し読み辛い(もっと小さな活字・文字の小型判の本はある)。
 タイトルに「1899-1919」が付いて分かりやすくなっている。
 そして、この欄で1994年刊の「別著」とも称したものは、次のタイトルになった。
 ②Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Refime 1919-1924.(計約600頁)
 こう並べてみると、簡潔版(単純な抜粋又は要約でないが)の、③Richard Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995、Vintage, 1996、計430頁余)=西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000)が、①のではなく、時期・内容ともに①と②を併せたものの簡潔版(Concice 版)であることがよく分かる。
 ちなみに、リチャード・パイプスの、注記・参考文献等も詳しい上の①、②ともに(③はあるが)、邦訳書がまだ存在しないことに留意されてよい。試訳している部分でも明らかだが、リチャード・パイプスの記述内容は、日本の<ある勢力>にとって<きわめて危険>だ。アメリカの安全保障会議の「ソ連・東欧問題」補佐官だったが、この人が1989-91年のソ連・東欧の激動期に日本のメディアからインタビューされたり、原稿執筆を依頼された痕跡が全くないのはどうしてだろうか ?
 Leszek Kolakowski(L・コワコフスキ)のMain Currents of Marxism (マルクス主義の主要な潮流)は邦訳書がないかぎりは、レーニン関係部分だけでもこの欄で邦訳してみたい。
 ただ-すでにネップに関連してこの著を参照してレーニン全集(大月書店)の一部を引用しているのだが-、L・コワコフスキはたんなる抽象的・理論的「哲学者」ではなく、モスクワでの留学経験、スターリン体制下でのポーランドでの実経験を踏まえて(マルクス等々だけでなく)レーニンやスターリンの諸文献を熟読しており、(かつこれが重要だが)ロシア・ソ連の歴史の基本的なところはきちんとした知識をもったうえで、叙述している。したがって、L・コワコフスキ著の一部の邦訳を試みるにしても、やはりロシア革命等々の歴史の基本的な理解が必要だ。
 二月革命、十月「革命」あるいは<一党支配の確立>について、すでにリチャード・パイプス著の概読はしている。
 しかし、邦訳を試みたかどうかはやはり<記憶>への定着度がかなり異なるので、あらためて、上の①の第二部・第10章からの試訳を、これから掲載してみよう。
 この著の第二部・第10章の節の区分・タイトルはつぎのとおり(但し、原著の詳細目次の中にタイトル名は出てきて、本文にはない。また、「節」の文字や「数字」もない。「緒言」は詳細目次にすらない)。
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 第二部/第10章・ボルシェヴィキの権力奪取への努力(Bid)。
 (緒言)
 第1節・1917年初期のボルシェヴィキ党。
 第2節・ドイツの助力によるレーニンの帰還。
 第3節・レーニンの革命戦術。
 第4節・1917年4月のボルシェヴィキ集団示威行動。
 第5節・臨時政府への社会主義党派の加入。
 第6節・権力闘争へのボルシェヴィキ資産とドイツの援助。
 第7節・6月のボルシェヴィキ街頭行動の中止。
 第8節・ケレンスキーの夏期攻撃。
 第9節・ボルシェヴィキの新たな攻撃の準備。
 第10節・蜂起の準備。
 第11節・7月3-5日の出来事。
 第12節・鎮圧された蜂起-レーニンの逃亡・ケレンスキーの独裁。
 注記は、本文の下部にある(*)や(+) はできるだけ訳し、後注(note)は原則として訳さない。
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 緒言
 1917年のロシアの革命について二つを語る-第一に二月で第二は十月-のが一般的だが、革命の名に値するのは、第一のものだけだ。
 1917年二月に、ロシアはつぎの意味で、本当の革命を経験した。まず、ツァーリスト(帝制)体制を打倒した社会不安は、刺激もされず予期もされずに自然発生的に起こり、つぎに、続いた臨時政府は、すみやかに国民全体に受容された。
 1917年十月は、いずれの点でも本当ではない。
 まず、臨時政府の打倒につながった事象は自然発生的に起こったのではなく、緊密に組織された陰謀集団によって計画され、実施された。
 つぎに、この陰謀家たちが民衆の過半を服従させるためには、三年間の国内戦争(内戦)と無差別のテロルが必要だった。
 十月は、古典的なクー・デタ(coup d'etat)だった。政府の統治権力は、民衆参加の外見でも帯びるという当時の民主主義的な慣行を無視して、民衆の関与なくして、少数集団によって奪取され、行使された。
 政治にではなくて戦争にむしろ適切な手段が、その革命的な行動には用いられた。//
 ボルシェヴィキのクー(権力転覆)は、二つの段階を経た。
 第一は4月から7月までの時期で、レーニンは、武装した実力が支える街頭示威行動によって、ペテログラードの権力を奪おうとした。
 二月の騒擾の態様にしたがって、この示威行動を段階的に拡大するのが、レーニンの意図だった。そうして、最初はソヴェトに、その後即時に彼の党へと権力を移行させる、大規模な暴乱へと持ち込もうとした。
 この戦略は、失敗に終わった。三回めの7月の行動は、ボルシェヴィキ党の破滅をほとんど生じさせた。
 ボルシェヴィキは8月までには、権力への衝動力を十分に回復した。しかしこのとき、彼らは別の戦略を用いた。
 レーニンは、フィンランドにいて警察の目から逃れていた。その間の責任者だったトロツキーは、街頭の集団示威行動を避けた。
 トロツキーはその代わりに、偽りのかつ非合法のソヴェト大会という前景の背後で、政権中枢を奪取する特殊な突撃兵団に依拠した、ボルシェヴィキのクーを準備していた。
 権力掌握は、名目上は、一時的にのみかつソヴェトのために実行された。しかし、実際は、永続的に、かつボルシェヴィキ党の利益のために、だった。//
 <〔原文一行あけ〕>
 第1節・1917年初期のボルシェヴィキ党。
 レーニンは、ツューリヒにいて二月革命の勃発を知った。
 戦争の開始以来ずっと故国から切り離されて、レーニンは、スイスの社会主義的政界人たちに身を投じていた。そして、彼らに非寛容と論争好きというよそ者の精神を注入していた。
 レーニンの1916年から1917年の間の冬の日誌によると、熱狂的だが焦点が定まらない活動様式が分かる。小冊子を配ったり、対抗的なスイスの社会民主党に対して策略を試みたり、マルクスとエンゲルスを勉強したりしていた。//
 ロシアからのニュースは、数日遅れてスイスに届いた。
 レーニンはまず、ペテログラードの社会不安について、ほとんど一週間遅れて、3月2日/15日〔ロシア暦/新暦、以下同じ〕の<新ツューリヒ新聞(Neue Zuercher Zeitung)>の報道で知った。
 ベルリン発のその報道は、戦争の舞台からの二つの速報の間に挿入されていて、ロシアの首都で革命が勃発した、ドゥーマ〔もと帝制議会・下院〕は帝制下の大臣を逮捕して権力を握った、と伝えていた。//
 レーニンはすぐに、ロシアに帰らなければならないと決めた。
 1915年にスカンジナヴィアに移動することはまだ可能だったのにその『危険を冒す』ことをしなかったのを、今や激しく悔いた。(*)
 だが、どうやって帰るか ? 明確なただ一つは、スウェーデンを経てロシアに入ることだった。
 スウェーデンに行くには、フランス、イギリスまたはオランダという連合国の領域を通過するか、ドイツを縦断するかのどちらかだつた。
 レーニンはイネッサ・アーマンド(Inessa Armand)にほとんど任せて、英国の査証(visa)を得る機会を探してくれるよう頼んだ。だが彼は、英国は自分の敗北主義の綱領を知っているのでほとんど確実に発行を拒否するだろうと、これを得る見込みはまずないと考えた。
 レーニンはつぎに、偽の旅券(passport)でストックホルムへ旅行するという現実離れした計画を抱いた。
 スイスの彼の工作員、フュルステンベルク・ガネツキー(Fuerstenberg Ganetskii)に、使える旅券をもつ、かつレーニンと肉体的に似ているだけではなくて彼はスウェデン語を知らなかったので聾唖者でもある、スウェーデン人を見つけるよう頼んだ。
 こんな計画のどれも、首尾よくいく現実的な見込みは全くなかった。
 レーニンは結果として、パリにいるマルトフ(Martov)がある社会主義者の難民団体に3月6日/19日に提案した計画を利用した。それによると、ドイツ人とオーストリア人の捕虜と交換に、その領土を通ってスウェーデンへと縦断することをロシア人がドイツ政府にスイスの媒介者を通じて依頼する、ということだった。(5)//
 レーニンは、トロツキーの言葉によれば檻の中の野獣のごとく怒り狂っていたが、ロシアの政治状況の見通しを失ってはいなかった。
 ロシアの支持者たちが自分が舞台に登場するまで適切な政治路線を採用することに、彼の関心はあった。
 とくに懸念したのは、支持者たちがメンシェヴィキの『日和見主義』戦術やエスエル〔社会主義革命党〕の『ブルジョア』議会政府への支持を真似ようとしないかどうかだった。
 レーニンは、3月6日/19日にストックホルム経由でペテログラードにあてて送信した電報で、彼の基本方針をつぎのように概述した。//
 『我々の戦術-新政府の完全な不信任と不支持。
 とくに、ケレンスキーを疑う。
 プロレタリアートの武装だけが唯一の保障だ。
 ペテログラード(市の)ドゥーマ選挙の即時実施。
 <他諸政党との友好関係を持たない。>』//
 レーニンが支持者たちにこの指令を電報で伝えたとき、一週間しか仕事をしていない臨時政府には、政治的な基本的考え方を明らかにする機会はほとんどなかった。
 舞台から遠く離れたところにいて西側報道機関による二次的または三次的な情報に依存していたので、レーニンが新政府の意図や行動について知っているはずは決してなかった。
 『完全な不信任』とか支持しないという彼の主張は、したがって、新政府の政策によるものではありえなかった。
 そうではなく、新政府の権力を奪おうとするア・プリオリな(a priori、先験的な)決定を反映していた。
 ボルシェヴィキは他諸政党と協力しないとのレーニンの主張は、権力の空白をボルシェヴィキ党だけが排他的に奪い占めるという、充ち満ちた決心をしていることを意味した。
 上掲の簡潔な文書は、二月革命を知ってほんの僅か4日後に、レーニンがボルシェヴィキによるクー・デタを考えていたことを意味するだろう。
 また、『プロレタリアートの武装』の指示は、軍事暴動としてのクー(政権転覆)を想定していたことを示唆する。
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  (*) これはおそらく、1915年のレーニンとの会合の際になされたパルヴス(Parvus)の提案に関係している。
  (5) W. Hahlweg, Lenins Rueckkehr nach Russland 1917 (1957)〔レーニンのロシアへの帰還〕, p.15-16。
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 第1節②へとつづく。

1540/「左翼」の君へ⑧完-レシェク・コワコフスキの手紙。

 Leszek Kolakowski, My Correct View on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
 前回のつづき。⑧。
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 しばらくの間に、伝統的な社会主義の諸装置のいくぶんかが、予期しなかったやり方で資本主義社会にそっと這入り込んでいるように思える。
 最も近視眼的な政治家たちですら、全てを金で買うことができるわけではないと、大金を積んでも清浄な空気、水、広い土地その他の自然資源を買えないときがくるかもしれないと、分かっている。
 そしてそうだ、『使用価値』が徐々に経済の中に戻ってくる。
 人類が生ゴミの処理の仕方を知らないことから生じる、『社会主義』の逆説的な結論だ。
 この帰結は官僚制の増大であり、権力の中心にいる者たちの役割の増大だ。
 共産主義が考案した唯一の治療薬-国民資産に対する中央集中型の、抑制されない国家所有と一党支配-では、治癒されるべき病気はさらに悪くなる。経済的には効き目がないし、社会関係の官僚的性格を絶対的な原理にしてしまう。
 高い程度の自治権を小さな諸共同体のためにもつ、非中央集中的な社会という君の理想を、高く評価する。そして、こうした伝統への君の執着について、共感する。
 しかし、私的所有からではなくて技術の発展から生じる、中央集中的官僚制につながる力強い権力の存在を拒否するのは愚かだ。 
 この状況を見通す一つの方法でも知っているつもりなら、『平和的な革命を起こす、そうすればこの趨勢は逆転する』と言って解決策を見つけたと想うなら、君は自らを欺いているし、言葉の魔術の犠牲者になっている。
 複雑な技術的組織網に社会が依存すればするほど、それだけ多く諸問題は中央権力によって規制されければならない。国家官僚制が力強くなればなるほど、政治的な民主主義や『形式的』、『ブルジョア的』自由が支配機構を抑制する必要、個人の弱まりうる権利をそのままにして個人に保障する必要が、ますます大きくなる。
 全てを包含する、政治的な(『ブルジョア的』な)民主主義がなくして、いかなる経済民主主義も産業民主主義も、かつてなかったし、また存在することはできない。
 現代社会が課す相反する責務をどのようにして調和させるべきかを、我々は知らない。
 我々には矛盾のない安定した社会の青写真はないのだから、ただ、これら責務の間の不確定な平衡状態に到達するように努めることができるだけだ。
 どこか別の箇所で書いたことを、繰り返そう。
  『心配しないで、平穏にかつ安全に、その人生の余後を過ごせるだけの資金を一瞬で得る方法について考えている人々の心構えが、私的な生活にはある。
 そして、明日までどうやって生きようかと懸念しなければならない人々の心持ちもある。
 人間社会というのは、全体としては、かつて得た金銭のおかげで生涯にわたる保険金があったり株式配当金があったりする、年金受給者のような幸せな地位には決しておれないだろう、と私は思う。
 人間社会の地位は、翌日までの生活の仕方に困惑している日雇い職人のそれに似ているだろう。
 夢想家(ユートピアン)というのは、人類を年金生活者の地位に置こうと夢見る人々、そうした地位は素晴らしいもので、代償(とくに道徳的な代償)がそれを獲得するには大き過ぎはしないと確信している人々だ。』//
 こう書くのは、社会主義とは死滅した選択肢だと意味させてはいない。
 そうは考えていない。
 だが、この選択は、社会主義国家の経験によってのみならず、信奉者たちの自信を理由として、彼ら信奉者が行なう社会を変えようとする努力にも限界があること、および要求と信条となった価値とを両立させられないこと、の両方に直面して彼らが何もできないことを理由として、破滅した。
 簡単に言うと、社会主義を選択する意味は、完全に、そのまさしく根源から修正されなければならない。//
 『社会主義』と言うとき、私は完璧な国家を意味させず、平等、自由および効率性への要求を達成しようとする運動を想定している。どの価値のいずれにも別々に隠れている諸問題の複雑性だけではなくて、諸価値は相互に制限し合い、それらは妥協を通じてのみ充たされうるということに気づいているかぎりで、諸困惑に対処する資格があるような運動をだ。
 そう考えないなら(またはそう考えているふりをしなければ)、自分や他人を笑い物にしている。
 全ての諸制度の変更は、全体としてこれら三つの価値に奉仕する手段だと見なさなければならず、それら自体に目的があると考えてはいけない。
 そうした変更は、一つの価値を増大させるときに別の価値を犠牲にする対価を考慮に入れて、相応に判断されなければならない。
 諸価値のいずれかを絶対的なものと見なしたり、全てを犠牲にして諸価値を実現しようとする企ては、残る二つの価値を破滅させることに必然的になるだけではなく、その一つの価値をも結局は破滅させるに違いない。
 注意しなければならない(nota bene)。これは、貴重な過去から発見したことだ。
 絶対的な平等性は、特権を与えるがしかし換言すると平等性を破壊するのを意味する、独裁的な支配制度においてのみ達成されうる。
 完全な自由は、無政府状態を意味する。無政府状態は、肉体的な最強者が支配することに結果としてはなる。つまり、完全な自由は、その反対物に変わる。
 至高の価値としての効率性は、再び独裁制を呼び起す。そうして、技術が一定のレベル以上になると、独裁制は経済的には非効率だ。
 こうした古くて自明のことを繰り返すのは、彼らがまだ夢想家の思考方法に気づかないままで歩んでいるように見えるからだ。
 それはまた、ユートピアを描く以上に簡単なことは何もない、ということの理由だ。
 この点で、我々が合意できると望む。
 そうできるなら、寛容になってお互いを許し合いたい、若干の辛辣な意見を交換し合った後であっても、他の多くの点で合意できる。
 共産主義は原理的に優れた発明品だと、優れた応用について決していくぶんかも損なわれていないと、君がまだ思い続けているなら、この合意には達しそうにないだろう。
 長年にわたって君に説明してきた、と思う。
 何をって、私が何故、共産主義思想を修繕したり、刷新したり、浄化したり、是正したり〔mend, renovate, clean up, correct〕する試みに、いっさい何も期待しなくなったのか、だ。
 哀れむべき、気の毒な思想だ。私は知った、エドワード君よ。
 これは二度と微笑むことがないだろう。
  君に友情を込めて。/レシェク・コワコフスキ。
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 終わり。上掲書、p.115-140。

1538/「左翼」の君へ⑦-L・コワコフスキの手紙(1974年)。

 前回のつづき。
  Leszek Kolakowski, My Correct View on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
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 君の推論の中に…がこだまとなって鳴り響いているのが、少しは嫌だね。
 しかし、それ以外に多くのことがある。
 君は社会に関して範疇でまたは世界的『体制』-資本主義か社会主義か-で考えるので、つぎのように信じる。
 1) 社会主義は、今は不完全だが、本質的に人間発展の高次の段階だ。そして、『体制』としての優越性は、人間の生活にかかわる個別の事実に示されているか否かとは関係がなく、確かなこと(valid)だ。
 2) 非社会主義世界に見られる全ての否定的事実-南アフリカの人種差別、ブラジルの拷問、ナイジェリアの飢餓、あるいは英国の不適切な健康サービス-は『体制』に原因がある。
 一方、社会主義世界内部で生じている類似の事実も、『体制』に、しかし同じ資本主義体制に責任があり(旧社会の残存、孤立化の影響等)、社会主義体制にではない。
 3) この優越性または社会主義『体制』を信じない者は、『資本主義』は原理的に立派なものだと考えるように強いられており、またその怪物性を正当化したり隠蔽したりするように強いられている。換言すれば、南アフリカの人種差別やナイジェリアの飢餓等々を正当化することをだ。
 したがって、君の絶望的な気分は、言っていない何かを私に語らせようと試みている。
 (本当に、君の考えは私には全くあてはまらないから、君は私の良心を覚醒させようとするし、例えば、西側諸国にはスパイがいたり盗聴装置があると説明する。実際に ? 君は冗談を言っているのか ?)
 言う必要もないが、こうした独特の推論方法は、全ての経験的事実を重要ではないとして無視できるので、絶対的に反駁不可能なのだ。
 (『資本主義体制』内部で起きる何かの悪事は、定義上、資本主義の産物だ。『社会主義体制』で起きる何かの悪事は、同じ定義上、同じ資本主義の産物だ。)
 社会主義は、生産手段の全体的またはほとんど全体的な国家所有という『体制思考』の範囲内に限定されている。
 君は明らかに、雇用労働の廃止という意味では社会主義を定義できない。経験上の社会主義はこの点で資本主義と違っているとしても、囚人の直接の奴隷的労働、労働者の半奴隷的な労働(働く場所を変更する自由の廃止)および中世的な農民のglibae adscriptioを復活させていることのみで違っていると君は知っているからだ。
 そう、こうした推論構造の範囲内で、全ての現実の悪魔でなくとも、悪魔の根源は、私的所有の廃止でもってこの地上から根絶される、と信じることは首尾一貫性をもつ。
 しかし、私が論及したこれら三つの叙述は、経験上は論証も反証もいずれも不可能な、イデオロギー上の傾倒を表現したものに他ならない。
 君は、『体制』という言葉を使う思考は優れた結果をもたらす、と言う。
 全くそのとおりだが、優れているだけではなくて、奇跡的な結果だ。
 それは、一撃でもって平易に、人類の全ての諸問題を解決してしまう。
 これこそが、この次元の科学的意識に(私自身のように)到達しなかった人々が何故、世界の救済のためにこの簡単な道具を使うことを知らないのかの理由だ。
 ベルリンあるいはネブラスカのどの大学二年生でも、知っていることなのに。すなわち、社会主義世界革命。//
 <〔原文、一行空白〕>
 結語反復という消滅しつつある技法の権威を復活させるがごとき、君が書いた話題を全て尽くしたわけではない。
 しかし、ほとんどの論争点には触れたと思う。
 現時点で我々を分かつ深淵には、橋が架けられそうにない。
 君は自分をまだ、見解が異なる共産主義者または一種の修正主義者だと考えているように見える。
 そうは私は自分を見ていないし、長い間そう見なかった。
 1956年からの議論の間に君はその立場を明確にしているようだが、私は違う。
 あの年は重要で、かつ幻想も大きかった。
 しかし、出現したあとですぐに、幻想は打ち砕かれた。
 君はたぶん、人民民主主義国で『修正主義』とレッテルを貼られたものはほとんど(きっとユーゴスラヴィアを例外として)消失したと分かっている。この消失は、人民民主主義諸国の若者も老人も、自分たちの状況を『真正な社会主義』、『真正なマルクス主義』等の言葉で考えるのを止めたことを意味する。
 彼らは(しばしば受動的にではなく)より大きな国家の独立、より多大な政治的かつ社会的自由、そしてより良き生活条件を望んだのであり、決してそうした要求に社会主義に特有な何かがあったからではない。
 公式の国家イデオロギーは、逆説的な状況にある。
 支配する国家機関がその権力を法的に正当化できる唯一の方法だから、それは絶対に不可欠のものだ。そして誰も、それを信じてはいない。-支配者も被支配者も(両者ともに別の者および自分たちが信じていないことを十分に気づいていた)。
 西側諸国のほとんど全ての、社会主義者だと(ときには共産主義者だとすら)自認する知識人は、私的な会話では社会主義思想は深刻な危機にあると認める。だが、ほとんど誰も、それを活字上では認めようとしない。
 ここにある楽観的な陽気さは義務的なもので、我々は『一般大衆の間に』疑念や混乱の種を撒いたり、敵に役立つ論拠を与えたりしてはいけないのだ。
 これは自己防衛策だと君が考えるかどうかは、確実ではない。そう考えていないと思いたい。//
 しばらくの間に、伝統的な社会主義の諸装置のいくぶんかが、予期しなかったやり方で資本主義社会にそっと這入り込んでいるように思える。
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 ⑧につづく。

1536/「左翼」の君へ⑥ -L・コワコフスキの手紙(1974年)。

 L・コワコフスキ=野村美紀子訳・悪魔との対話(筑摩書房、1986)の「訳者あとがき」に、以下はよる。
 ポーランド語原著は1965年刊行で、上の邦訳書は、1968年のドイツ語版の邦訳書。
 Leszek Kolakowski, Gespraech mit dem Teufel (1968).
 また、この欄で言及したL・コワコフスキ『責任と歴史』(勁草書房、1967)の原著は分からなかったが、同じく野村によると、内容は以下と一致するらしい。
 Leszek Kolakowski, Der Mensch ohne Alternative (1960).
 さらに野村美紀子によると(p.199)、1986年頃時点で、つぎの二つのL・コワコフスキの文章が日本語になっている。
 ①「『現代の共同社会』を築きあげるために」朝日ジャーナル1984年1月13日号。
 ②「全体主義の嘘の効用」『世紀末の診断』(みすず書房、1985)に所収。
 この②は、現在試訳しているものを含む、Leszek Kolakowski, Is God Happy ? -Selected Essays (2012)にも、(英語版で)収載されている。Totalitarianism and the Virtue of the Lie (1983).
 試訳・前回のつづき。My Correct View on Everything (1974).
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 君の、君(と私)を『マルクス主義の伝統』(制度に対立する、方法や遺産)の忠誠者の一人に範囲づけようという提案は、捉えどころがなくて曖昧のように思える。
 ただ『マルクス主義者』と呼ばれることが重要だと思っていないとすると-君は思っていないと言うだろう-、君がこれにこだわる意味が私にはよく分からない。
 私は『マルクス主義者』であることに少しも関心はないし、そのように呼ばれることにも少しも関心がない。
 確かに、人文科学で仕事をしている者の中には彼らのマルクスに対する負い目(debt)を認めようとしない者はほんの僅かしかいない。
 私は、その一人ではない。
 私は、マルクスがいなければ歴史に関する我々の思考は違っていただろうし、多くの点で今よりも悪くなっていただろうと、簡単に認める。
 こう言うのは、どうだってよいことだ。
 私はさらに、マルクス理論の多くの重要な教義は偽りである(false)か無意味(meaningless)だと考える。そうでなければ、極めて限定された意味でのみ本当(true)だ。
 労働価値説は、何らかの説明する力を全くもたない規範的な道具だ、と考える。
 マルクスの著作にある史的唯物論の有名な一般的定式のいずれも受け入れられず、この理論は、強く限定された意味でのみ有効だ、と考える。
 マルクスの階級意識の理論は偽りで、その予言の多くは誤り(erroneous)(これは私が感じる一般的叙述であることはその通りだが、この結論についてここできちんと議論しているのではない)だったことが証された。
 にもかかわらず私が(哲学的でなく)歴史的問題について、マルクス主義の伝説を部分的に承継している概念を使って思考していることを承認すれば、マルクス主義者の伝統への忠誠者であることを受け入れることになるのか ?
 『マルクス主義者』の代わりに『キリスト教信者』、『懐疑主義者』、『経験主義者』を使っても同じことが言えるだろうという、ただきわめて緩やかな意味でだ。
 いかなる政党やセクトにも、いかなる教会派やいかなる哲学学派にも属さないで、マルクス主義、キリスト教、懐疑主義哲学、経験主義思想に対する負い目があることを私は、否定しはしない。
 また、その他のいくつかの伝統にも負い目がある(もっと明瞭に言えば東ヨーロッパだ。君には関係がない)。
 折衷主義の反対物が(折衷主義とのレッテルを貼って我々を脅かす人の心のうちには通常あるような)哲学的または政治的偏狭さだとすると、『折衷主義』の恐怖も共有できない。
 こうした乏しい意味で、その他たくさんの中でマルクス主義者の伝統に属することを認める。
 しかし君は、もっと多くのことを意味させていそうだ。
 君は、マルクスの精神的後継者だと定義する『マルクス主義者一族(family)』の存在を示唆しているように見える。
 君は、あちこちでマルクス主義者だと自称している全ての者たちが、世界の残りとは区別されるような一族(この半世紀の間お互いに殺し合ってきているし今もそうであることは気にするな)を形成していると思っているのか ?
 また、この一族は君には(そして私にもそうあるべきらしいが)自己同一性の確認の場所だと思っているのか ?
 君が言いたいのがこういうことならば、その一族に加入するのを拒否すると言うことすらできない。そんなものは、この世界に存在しない。
 世界とは、偉大なヨハネ黙示録の天啓が二つの帝国の間の戦争を引き起こされる可能性がきっとあるような、もう一つの帝国とはともに完璧な具現物だと主張しているマルクス主義であるような、そんな世界だ。//
 <(原文、一行空白)>
 君の手紙には、私が持ち出すべきいくつかの問題がまだある。持ち出したいのは、その重要性ではなくて、君の議論の仕方が不愉快にもデマゴギー的だからだ。
 そのうち二つを取り上げよう。
 君は私の論文を引用して、私の考えは陳腐だと書いている。
 被搾取階級は精神的文化の発展に参加するのを許されなかった、とする部分だ。
 君は排除された労働者階級の報道官のごとく現れて、義憤に満ちたふうに私に、労働者階級は連帯感、忠誠心などを形成したと説く。
 言い換えると、私は、被搾取者が教育を受ける機会が与えられなかったことを称揚するのではなく嘆き悲しむべきだ、と言った、とする。そして君は、労働者階級には道徳心がないとの私の主張らしきものに嫌悪感を示す。
 これは誤読ではなく、私が議論するのを不可能にする、一種の、愚かな、こじつけた読み方(Hineinlesen)だ。
 そうして、新しい社会主義の論理または(もう一度言うが、私は自明のこと(trueism)だと思う)科学の観念は蒙昧主義者(obscurantist)だと烙印を捺したとき、君は、重要なのは論理を変えることではなく、マルクスは所有関係を変革したかったのだと説明する。
 マルクスは本当にそうしたかったのか ?
 よし、君は私の目を開いてくれた、という以外に、私は何を言えるか ?
 <新しい論理>や<新しい科学>の問題は<ブルジョアの論理>や<ブルジョアの科学>に対抗する論争点だったのではないと思っているとすれば、君は完全に間違っている(wrong)。
 そういう考え方は行き過ぎなのではなく、マルクス主義者-レーニン主義者-スターリン主義者〔マルキスト-レーニニスト-スターリニスト〕の間での標準的な思考と議論のやり方だ。
 そういう仕方は、多数のレーニンたち、トロツキーたちそしてロベスピエールたちによって、無傷に相続された。君はそれをアメリカやドイツの大学構内で見たはずだ。//
 第二点は、君が引用している、インタビューを受けた際に私が発した一文に対する君の論評だ。
 『宗教的表象(symbols)を通じる以上の十分な自己同一性の確認(self-identification)の方法はない』、『宗教意識は…人間の文化の不可欠の一部だ』と、私は言った。
 これに君は、激怒した。『何の権利があって(と君は言う)、どんな研究をその伝統と感性に関して行って、宗教的表象の魔術に頑迷に抵抗してきた…古いプロテスタントの島の中心部で、こんなことが普遍的だと決めかかってよいのか』。
 たくさん理由をつけて、釈明する。
 第一。私は古いプロテスタントの島の中心部で、ドイツの土地の上でではなく、ドイツの記者からのインタビューを受けた。
 第二。周知のことと過って思っていたためだが、君が明らかに考えたのとは逆に、『宗教的表象』は必ずしも絵画、塑像、ロザリオ等々であるとは限らない、と説明しなかった。
 人々が信じるものは何でも、超自然的なものと理解し合う方法を与えるし、またはそのエネルギーを運んでくるのだ。
 (イェズス・キリスト自身が表象で、十字架だけがそうなのではない。)
 私はこのような言葉遣いを発明したのではないが、インタビューの際に説明しなかったので、君の偶像破壊主義的なイギリスの伝統を不快にさせたわけだ。
 こうした言葉上の説明は、迷信的な超精霊主義者(Uitramontanist、超モンタノス主義者)によって傷ついた君のプロテスタント的良心をいくぶんかは宥めるか ?
 君はまた、このインタビューで宗教的現象の永続性への私の信条を証明しきれていないと非難する-それは全てに響く。
 私がこの主題でかつて書いた、私の考え方を支える本や論文の全てをこのインタビューの際に引用しなかったのは、まさに私の考えの至らなさだった。
 君には、これらのどの本でも読む義務はない(そのうち一つは800頁以上の厚さで、しかも17世紀の諸教派運動に関するものだから、退屈すぎて、君に読み通すのを求めるのは非人間的だろう)。
 少なくとも君には、この主題での私の考え方を批判しようと試みないかぎりでは、十分な根拠がない。
 したがって、君が憤激して『何の権利があって…』というのは、君に返礼するにはより適切な言葉であるようだ。//
 不運にも、君が書いたものには、私の責任に帰したい何らかの考えにもとづいて、主題を転移させ、私が言うべきだったと君が思う何かを私が言ったと君が信じようとする例が、満ち溢れている。
 きっと君は、教条的な共産主義者の思考方法につねに特徴的な独特の思考の論理に従って、無意識にそうしている。その思考方法には、真実として作動する推論とそうではない推論との違いが完全に消失している。
 だがね、AはBを包含するというのが真実(true)でも、誰かがAを信じているからといって、その人はBを信じているという結論にはならないだろう。
 むしろ正真正銘の本能からするようにこのことを意識的に否認するのは、共産主義者の出版物にはいつも許されている。そして、その読者につぎのように大雑把に作られる情報を与えるのだ。
 『米国の大統領は、平和を愛する全人類の抗議に逆らって、ベトナムで大量殺戮の戦争を継続する、と言った』。
 あるいは、『中国の指導者は、彼ら盲目的強行外交論者、反レーニン主義者の政策は、帝国主義を助けするるために社会主義者の陣地を破壊することを企図している、と明言する』。
 こうした不思議の国の論理には、首尾一貫性がある。そして、君の推論の中にそうした論理がこだまとなって鳴り響いているのが、少しは嫌だね。
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 段落の途中だが、ここで区切る。⑦につづく。

1533/「左翼」の君へ④-L・コワコフスキの手紙(1974年)。

 レシェク・コワコフスキの書物で邦訳があるのは、すでに挙げた、小森潔=古田耕作訳・責任と歴史-知識人とマルクス主義(勁草書房、1967)の他に、以下がある。
 繰り返しになるが、この人を最も有名にしたとされる、1200頁を優に超える大著、Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (仏語1976、英語1978〔マルクス主義の主要な潮流〕) には邦訳書がない。
 L・コワコフスキ〔野村美紀子訳〕・悪魔との対話(筑摩書房、1986)。
 L・コワコフスキ〔沼野充義=芝田文乃訳〕・ライオニア国物語(国書刊行会、1995)。
 L・コワコフスキ〔藤田祐訳〕・哲学は何を問うてきたか(みすず書房、2014)。
 また、レシェク・コラコフスキー「ソ連はどう確立されたか」1991.01(満63歳のとき)、もある。つぎに所収。
 和田春樹・下斗米伸夫・NHK取材班・社会主義の20世紀第4巻/ソ連(日本放送出版協会、1991.01)のp.250-p.266。
 試訳・前回のつづき。
 Leszek Kolakowski, My Correct Views on Everything(1974、満47歳の年), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012). p.115-p.140.
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 実際のところ、反共産主義とは何だ。君は、表明できないか ?
 確かに、我々はこんなふうに信じる人々を知っている。
 共産主義の危険以外に、西側世界には深刻な問題はない。
 ここで生じている全ての社会的紛議は、共産主義者の陰謀だと説明できる。
 邪悪な共産主義の力さえ介入しなければ、この世は楽園だろうに。
 共産主義運動を弾圧するならば、最もおぞましい軍事独裁でも支持するに値する。
 君は、こんな意味では反共産主義者ではない。そうだろう ?
 私もだ。しかし、君が現実にあるソヴィエト(または中国)の体制は人間の心がかつて生み出した最も完璧な社会だと強く信じないと、あるいは、共産主義の歴史に関する純粋に学者の仕事のたった一つでも虚偽を含めないで書けば〔真実を書けば〕、君は反共産主義者だと称されるだろう。
 そして、これらの間には、きわめて多数の別の可能性がある。
 『反共』という言葉、この左翼の専門用語中のお化けが便利なのは、全てを同じ袋の中にきっちりと詰め込んで、言葉の意味を決して説明しないことだ。
 同じことは、『リベラル』という言葉にもいえる。
 誰が『リベラル』か ? 
 国家は労働者と使用者との間の『自由契約』に介入するのを止めるべきだと主張したおそらく19世紀の自由取引者は、労働組合はこの自由契約原理に反しているとは主張しないのだろうか ?
 君はこの意味では自分を『リベラル』ではないと思うか ?
 それは、君の信用にはとても大きい。
 しかし、書かれていない革命的辞典では、かりに一般論として君が隷従よりも自由が良いと思えば、君は『リベラル』だ。
 (私は社会主義国家で人民が享受している純粋で完全な自由のことを言っているのではなく、ブルジョアジーが労働者大衆を欺すために考案した惨めな形式的自由のことを意味させている)。
 そして、『リベラル』という言葉でもって、あれこれの物事を混合させてしまう仕事が容易にできる。
 そう。リベラルの幻想をきっぱり拒否すると、大きな声で宣言しよう。しかし、それで正確に何を言いたいかは、決して説明しないでおこう。//
 この進歩的な語彙へと進むべきか ?
 強調したい言葉が、もう一つだけあった。
 君は健全な意味では使わない。『ファシスト』または『ファシズム』だ。
 この言葉は、相当に広く適用できる、独創的な発見物だ。
 ときにファシストは私が同意できない人間だが、私の無知のせいで議論することができない。だから、蹴り倒してみたいほどだ。
 経験からすると、ファシストはつぎのような信条を抱くことに気づく(例示だよ)。
 1) 汚れる前に、自分を洗っておく。
 2) アメリカの出版の自由は一支配党による全出版物の所有よりも望ましい。
 3) 人々は共産主義者であれ反共産主義者であれ、見解を理由として投獄されるべきではない。
 4) 白と黒のいずれであれ人種の規準を大学入学に使うのは、奨められない。
 5) 誰に適用するのであれ、拷問は非難されるべきだ。
 (大まかに言えば、『ファシスト』は『リベラル』と同じだ。)
 ファシストは定義上は、たまたま共産主義国家の刑務所に入った人間だ。
 1968年のチェコスロヴァキアからの逃亡者は、ときどきドイツで、『ファシズムは通さない』とのプラカードを持っている、きわめて進歩的でかつ絶対に革命的な左翼と遭遇した。//
 そして君は、新左翼を戯画化して愉快がっていると、私を責める。
 こんな滑稽画はどうなるのだろうかと不思議だ。 
 もっと言うと、君が苛立つのは(でもこれは君のペンが燃え広げさせた数点の一つだ)、理解できる。
 ドイツのラジオ局がインタビューの際の、私の二ないし三の一般的な文章を君は引用する(のちにドイツ語から英訳されて雑誌<邂逅(Encounter)>で出版された)。
 その文章で私はアメリカやドイツで知った新左翼運動への嫌悪感を表明した。しかし、-これが重要だ-私が念頭に置いた運動を明言しなかった。
 私はそうではなく、曖昧に『ある人々』とか言ったのだ。
 私は君が仲間だった時期の1960-63年の<新左翼雑誌>をとくに除外しなかった、あるいは私の発言は暗黙のうちに君を含んでいさえした、ということをこの言葉は意味する。
 ここに君は引っ掛かった。
 私は1960-63年の<新左翼雑誌>をとくに除外することはしなかった。そして、率直に明らかにするが、ドイツの記者に話しているとき、その雑誌のことを心に浮かべることすらしなかった。
 『ある新左翼の者たち』等々と言うのは、例えば、『あるイギリスの学者は飲んだくれだ』と言うようなものだ。
 君はこんな(あまり利口でないのは認める)発言が、多くのイギリスの学者を攻撃することになると思うか ? もしもそうなら、いったいどの人を ?
 私には気楽なことに、新左翼に関してこんなことをたまたま公言しても、私の社会主義者の友人たちはどういうわけか、かりに明示的に除外されていなくとも含められているとは思わない。//
 しかし、もう遅らせることはできない。
 私はここに、1971年のドイツ・ラジオへのインタビー発言で左翼の反啓蒙主義について語っていたとき、エドワード・トムソン氏が関与していた1960-63年の<新左翼雑誌>については何も考えていなかった、と厳粛に宣言する。
 これで全てよろしいか ?//
 エドワード、君は正当だ。我々、東ヨーロッパ出身の者には、民主主義社会が直面する社会問題の重大性を低く見てしまう傾向がある。それを理由に非難されるかもしれない。
 しかし、我々の歴史のいかなる小さな事実をも正確に記憶しておくことができなかったり、粗野な方言で話していても、その代わりに、我々が東でいかにして解放されたのかを教えてくれる人々のことを、我々は真面目に考えている。そうしていないことを理由として非難されるいわれはない。
 我々は、人類の病気に対する厳格に科学的な解消法をもつとする人たちを真面目に受け取ることはできない。この解消法なるものは、この30年間に5月1日の祝祭日で聞いた、または政党の宣伝小冊子で読んだ数語の繰り返しで成り立っている。
 (私は進歩的急進派の態度について語っている。保守の側の東方問題に関する態度は異なっていて、簡単に要約すればこうだ。『これは我々の国にはおぞましいだろう。だが、この部族にはそれで十分だ』。)//
 私がポーランドを1968年末に去ったとき(少なくとも6年間はどの西側諸国にも行かなかった)、過激派学生運動、多様な左翼集団または政党についてはいくぶん曖昧な考えしか持っていなかった。
 見たり読んだりして、ほとんどの(全ての、ではない)場合は、痛ましさと胸がむかつくような感じを覚えた。
 デモ行進により粉々に割れたウィンドウをいくつか見ても、涙を零さなかった。
 あの年寄り、消費者資本主義は、生き延びるだろう。
 若者のむしろ自然な無知も、衝撃ではなかった。
 印象的だったのは、いかなる左翼運動からも以前には感じなかった種類の、精神的な頽廃だ。
 若者たちが大学を『再建』し、畏るべき野蛮な怪物的ファシストの抑圧から自分たちを解放しようとしているのを見た。
 多様な要求一覧表は、世界中の学園できわめて似たようなものだった。
 既得権益層(Establishment)のファシストの豚たちは、我々が革命を起こしている間に試験に合格するのを願っている。試験なしで我々全員にAの成績を与えさせよう。
 とても奇妙なことに、反ファシストの闘士が、ポスターを運んだりビラを配ったりまたは事務室を破壊したりしないで、数学、社会学、法律といった分野で成績表や資格証明書を得ようとしていた。
 ときには、彼らは望んだどおりにかち得た。
 既得権益あるファシストの豚たちは、試験なしで成績を与えた。
 もっとしばしば、重要でないとしていくつかの教育科目を揃って廃止する要求がなされた。例えば、外国語。(ファシストは、我々世界的革命活動家に言語を学習するという無駄な時間を費やさせたいのだ。なぜか ? 我々が世界革命を起こすのを妨害したいからだ。)
 ある所では、進歩的な哲学者たちがストライキに遭った。彼らの参考文献一覧には、チェ・ゲバラやマオ〔毛沢東〕のような重要で偉大な哲学者ではなく、プラトン、デカルトその他のブルジョア的愚劣者が載っていたからだ。
 別の所では、進歩的な数学者が、数学の社会的任務に関する課程を学部は組織すべきだ、そして、(これが重要だ)どの学生も望むときに何回でもこの課程に出席でき、各回のいずれも出席したと信用される、という提案を採用した。
 これが意味しているのは、正確には何もしなくても数学の学位(diploma)を誰でも得ることができる、ということだ。
 さらに別の所では、世界革命の聖なる殉教者が、反動的な学者紛いの者たちによってではなく、彼ら自身が選んだ他の学生によってのみ試験されるべきだ、と要求した。
 教授たちも(もちろん、学生たちによって)その政治観に従って任命されるべきだ、学生たちも同じ規準によって入学が認められるべきだ、とされた。
 合衆国の若干の事例では、被抑圧勤労大衆の前衛が、図書館(偽物の知識をもつ既得権益層には重要ではない)に火を放った。
 書く必要はないだろう。聞いているだろうように、カリフォルニアの大学キャンパス(campus)とナチの強制収容キャンプ(camp)での生活に違いは何もない。
 もちろん、全員がマルクス主義者だ。これが何を意味するかというと、マルクスまたはレーニンが書いた三つか四つの文、とくに『哲学者は様々に世界を解釈した。しかし、重要なのは、それを変革することだ』との文を知っている、ということだ。
 (マルクスがこの文で言いたかったことは、彼らには明白だ。すなわち、学んでも無意味だ。)//
 私はこの表を数頁分しか携帯できないが、十分だろう。
 やり方はつねに、同じ。偉大な社会主義革命は、何よりも、我々の政治的見解に見合った特権、地位および権力を我々に与え、知識や論理的能力といった反動的な学問上の価値を破壊することで成り立つ。
 (しかし、ファシストの豚たちは我々に、金、金、金をくれるべきだ。)// 
 では労働者については ? 二つの対立する見方がある。
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 ⑤につづく。

1532/「左翼」の君へ③-L・コワコフスキの手紙。

 Leszek Kolakowski, My Correct Views on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012). p.115-p.140.
 前回のつづき。
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 君が極楽に住み、我々は地獄にいると君に信じさせようとしているのではない。
 私の国のポーランドでは、飢えで苦しんでいないし、刑務所で拷問されているわけでもないし、集中強制収容所もない(ロシアと違って)。最近二年間は数人の政治犯がいただけだし(ロシアと違って)、多くの人が比較的容易に国外へ行ける(再び、ロシアと違って)。
 しかし、国家の主権は奪われている。これは、フット氏やパウェル氏が共通市場に入ればイギリスは主権を失うかもしれないと言っているのとは意味が違い、悲しくも直接的かつ明白な意味においてだ。
 軍事、外交、貿易、重要産業およびイデオロギーといった生活について鍵となる部門は、相当に几帳面に権力を行使する外国の帝国の硬い統制のもとにある、という意味だ。
 (例えば、特定の書物は発行できない、特定の情報は明らかにされない、深刻なことについて語ってはいけない。)
 まだ言えば、ウクライナ、リトアニアのような国々と我々を比べると自由の縁の部分をたくさん享受している。
 これら諸国は、自立の政府の権利に関するかぎりでは、イギリス帝国の昔の植民地よりも状況は数段悪い。
 この自由の縁は、重要なんだけれど(ハンガリー以外の『ルーブル』地域の他のどこより、重要なことを言ったり出版したりできる)、法的な保障に何ら支えられていなくて、全てが(かつてそうだったように)一夜のうちに、ワルシャワかモスクワにいる党支配者の決定によって消滅してしまう。これが、問題なのさ。
 これはたんに、権力の分化という詐欺的なブルジョア的装置がないことによる。単一性という社会主義者の夢を実現したのだが、これは同じ国家機関が立法権、執行権、司法権、さらに加えて全生産手段を支配する権力をもつことを意味する。
 同じ人間が法を作り、解釈し、実施する。国王で、議会で、軍司令官で、裁判官で、検察官で、警察官で、(新しく社会主義が生み出した)全ての国富の所有者で、唯一の雇用者で、全てが同じ机にいる-どんなに社会主義単一性が素晴らしいか、君は想像できるか ?。//
 君は政治的な理由でスペインに行かなかったことが誇りだ。
 私は原理的でないので、二度行った。
 抑圧的で非民主主義的だのに、あの体制は他のどの社会主義国よりも(たぶんユーゴスラビアを除いて)市民に自由を与えている、と言うのは不愉快だ。
 小気味よく(Shadenfreude)言っているのでなく、恥ずかしげに言っている。内心には内戦に関する哀感を持ち続けている。
 スペインの国境地帯は開かれていて(この場合に毎年300万人の観光客がいる理由を気に懸けるな)、その開かれた国境には全体主義的支配は働いていない。
 スペインでは、出版について事後検閲はあるが事前にはない(私の本は出版されて押収され、その後で数千部のコピーが売れた。ポーランドで同じ状態だったらよかったのだが)。
 スペインへ行くと、書店にはマルクス、トロツキー、フロイト、マルクーゼ等々がある。
 我々のように彼らには選挙がなく、政党がない。しかし、我々と違って、国家と支配政党から独立した多様な形態の組織がある。
 スペインは、国家として主権をもつ。//
 現存する社会主義国に理想など見ていないし、民主主義的社会主義のことを考えていると君は明言できるので、私は無駄のことを書いているようにたぶん思っているだろう。
 たしかにそうだ。そして私は、社会主義秘密警察の支持者だと君を責めはしない。
 それでも、私が言おうとしていることは、君の論考には二つの理由できわめて重要だ。
 第一に、現存する社会主義国を(確かに不完全な)新しくより良い社会秩序の始まりだと、資本主義を超えて進みユートピアを目指している過渡的な形態だと、考えている。
 この形態が新しいことを否定しないが、それがいかなる点でもヨーロッパの民主主義諸国よりも優れているというのは否定する。
 私は君の言うことを否認して、逆のことを論証する。言い換えると、民主主義制度を上回る(人々には厄介さは少なくても)全ての専制制度の悪名高き利点を除いて、現存社会主義が主張するのかもしれない優越性が根拠とする点を示す。
 第二の同じく重要なのは、民主主義的社会主義の意味を君が知っているふりをしているが、じつは知らない、ということだ。
 君は、つぎのように書く。『2000年先にある私自身のユートピアは、モリスのいう「残余時代」のようなものではない。それは(D・H・ローレンスならこう言うだろうように)「貨幣価値」が「生活価値」に、または(ブレイクならこう言うだろうように)「肉体」戦争が「精神」戦争に道を譲る世界だろう。
 ある男女は、力の源泉を容易に利用できるようになり、シトー派の修道院のように偉大な自然美の中心に位置する、単一化した諸共同体で生活するのを選べる。そこでは、農業、工業および精神的な仕事は、結びつき合っている。
 別の男女は、多様さを好んで、都市国家のいくつかの長所を再発見する都市生活の歩みを選ぶかもしれない。
 また別の人々は、隠遁の生活を選ぶだろう。
 これら三つうちをどれでも、みんなが選ぶことができる。
 学者は、パリで、ジャカルタで、ボゴタで、議論を続けることになる。』//
 これは、社会主義者の著述のきわめて良い例だ。
 世界は善良であって悪くないはずだ、と語るにまで至っている。
 この点については君の側に、完全に立つ。
 人々の心が際限のない金の追求に占められたり、需要が無限の成長をもたらす魔法の力をもったり、使用価値ではなく利益の動機が生産を支配する、といったことはきわめて嘆かわしいことだ。そのような結論をもたらす君の(マルクス、シェイクスピア、その他多数の)分析者たちと、私は無条件に、同じ立場だ。
 君が優秀なのは、こうしたことから抜け出す仕方を正確に知っていることだ。私は、知らない。//
 左翼のイデオロギストは簡単に無視しているが(よろしい。これは例外的事情でなされており、このやり方を真似しない。我々はもっと巧くやろう)、現存する唯一の共産主義の問題が社会主義思想にとって、なぜきわめて深刻なのかは、つぎに書くような理由でだ。
 すなわち、『新しい選択肢のある社会』の経験は、社会の害悪(生産手段の国家所有)に対して人々がもつ唯一の世界的な医療薬は資本主義世界の厄災、つまり搾取、帝国主義、環境汚染、貧困、経済的浪費、民族憎悪および民族対立、には完全に効かないだけでなく、その医療薬自体の一連の厄災、つまり非効率性、経済的誘導動機の欠如、とりわけ全能の官僚制や人類史がかつて知らなかった権力の集中がもつ制限なき役割、を資本主義世界に付け加える、ということをきわめて説得的に明らかにした。
 不運な一撃にすぎない ?
 いや、君は正確にはそうは言っていない。君はたんに問題を無視するのを選んでいるだけだ。そして、正当にそうしている。
 この経験を検討しようと少しでもしてみれば、偶発的な歴史的事情のみならず、社会主義のまさにその思想をも振り返ることになり、その思想に隠された両立しえない諸要求(少なくともその要求の両立性が証明されないまま残っていること)を発見することになる。
 我々は大きな自治権をもつ小さな諸共同体で成る社会を欲する。そうでないかい ?
 また、経済についての、中央集中的計画を欲する。
 この二つがどうやって両方ともに働くのかを、考えてみよう。
 我々は産業の民主主義を求め、かつ効率的な管理を求める。
 この二つはともにうまく機能するのか ?
 もちろん、そうだ。左翼のお花畑(天国)では全てが両立でき、解決できる。子羊とライオンは同じベッドで寝る。
 世界の恐怖を見よう。そうすれば、新しい社会主義の論理に向かう平和革命をいったん起こせばそれから免れることができるのが容易に分かる。
 中東戦争やパレスティナ人の不満は ?
 もちろん、これは資本主義の結果だ。
 革命を起こそう。そうすれば、問題は解決される。
 環境汚染 ? もちろん、少しも問題ではない。新しいプロレタリア国家に工場を奪わせよう。そうすれば、環境汚染はなくなる。
 交通渋滞 ? これの原因は、資本主義者が人間の快適さに関する不満を配慮しないことにある。力を与えてくれるだけでよい(実際、これは優れた点だ。社会主義では、車がずっと少ないので、従って、交通渋滞もずっと少ない)。
 インドの人々が飢えて死んでいる ? 
 もちろん、アメリカの帝国主義者が彼らの食糧を食べているからだ。
 だが、ひとたび革命を起こせば、等々。
 北アイルランドは ? メキシコの人口統計問題は ? 人種間憎悪 ? 種族間戦争 ? インフレ ? 犯罪 ? 汚職 ? 教育制度の悪化 ?
 これら全てに対して、ただ一つの同じ答えがある。全てについて同じ答えだ!//
 これは風刺画ではない。これっぽっちも、そうではない。
 これは、改革主義という悲惨な幻想を克服して人類の諸問題を解決する有益な装置を考案したとする人々の、標準的な思考方法だ。
 そしてこの有益な装置とは、反復されるだけでしばしば十分な数語で成り立ち、革命、選択肢ある社会、等々の内実があるかのごとく見え始めるものだ。
 そして追記すれば、我々には、恐怖を生み出すたくさんの消極的な言葉がある。
 例えば、『反共産主義』、『リベラル』。
 エドワード君、君はこれらを、説明なしでよく使う。その目的は多くの多様なことを混合させ、曖昧で消極的な連想を生じさせることにあると、きっと気づいていると思うのだけれど。
 実際のところ、反共産主義とは何だ。君は、表明できないか ?
 ---
 ④につづく。

1528/「左翼」の君へ②-L・コワコフスキの手紙/1974。


 Leszek Kolakowski, My Correct Views on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012). p.115-p.140.
 前回のつづき。
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 もちろん、そうではない〔類似性はない〕。『野獣』、『ヘンな年寄り』に満ちた、消費者資本主義だ(君の言葉だ)。
 どこを見ても、我々の血は沸き立つ。
 こちらで余裕をもって再び熱烈な道徳家でおれるかもしれないし、また我々は-君も-資本主義制度は改良をやめることができないそれ自身の『論理(logic)』をもつことを論証できる。
 君は言うのだろう、国家による健康サービスは民間の事業の存在によって困窮化しており、教育における平等は人々が民間産業によって訓練されるために損なわれている、等々。
 改革は失敗に終わる運命にある、とは君は言わない。ただ、改革が資本主義を破壊させないかぎりは資本主義は壊れない、と説明はする。それは確かに真実(true)だ。
 また君は、『もう一つの選択肢である社会主義の論理への平和革命による移行』を提唱する。
 君が言いたいことをこれが完全に明確にすると、確実に考える。
 私は逆に、完全に不明確だと考える。再び言うが、工場の完全な国家所有が一度認められると君の言うユートピアへとつながる道の上での小さな技術的問題しか残らない、と君が想像力を働かせないかぎりは。
 しかし、立証責任(onus probandi)は、社会主義社会を描く新しい青写真の制作者はこの(『歴史家にとっては』重要でない)50年の経験を放擲できる、と主張する人たちの側にある。
 (ロシアでは、『例外的な事情』というのがあった。なかったか ? だが、西側ヨーロッパに関しては例外的なものは何もない。)//
 この些細な50年(今や57年)を新しい選択可能な社会について解釈するという君のやり方は、1917年と1920年代初めの間およびスターリングラードと1946年の間の『最も人間的な顔をした共産主義』を折々に語ることでも明らかだ。
 前の第一の場合、君は『人間の顔』という言葉で何を言いたいのか ?
 警察と軍隊によって全ての経済を支配しようという企てだった。大衆の飢餓をもたらし、無数の犠牲者が出て、数百の農民反乱があった、そうしてみんな、血の海に溺れた(レーニンがのちに認めたように〔1921年10月<革命4周年>演説-試訳者〕、正確にそれを予見していた多数のメンシェヴィキやエスエル〔社会主義革命党〕の党員たちを殺したり、投獄したりしたあとで起こった、全体的な経済の災害だった)。
 それとも、七つの非ロシア人諸国の武装侵略のことを言っているのか ?
 その諸国は独立政府を形成した。あるものは社会主義的、あとは非社会主義的だ(ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャン、ウクライナ、リトアニア、ラトヴィア、エストニア。神はこれら全ての国の民族が生きる場所を知っている)。
 あるいは、ロシアの歴史上唯一つ民主主義的に選挙された議会を、それが一言も発しない前に、兵士によって解散させたこと〔1918年1月の憲法制定会議の解散-試訳者〕を言っているのか ?
 社会主義的政党も含む全ての政党への暴力的な弾圧、非ボルシェヴィキ出版の禁止、そして何よりも、望むがままに殺戮、拷問、投獄をして、党とその警察の絶対的権力へと法を置き換えたことか ?
 そして、1942-46年の最も人間的な顔とは何か ?
 君はソヴィエト同盟の八つの全民族の、80万の犠牲者を生んだ国外追放のことを言っているのか ?(八つではなく七つと言おう。一つはスターリングラードのほんの少し前に追放されたから。)
 君は同盟軍から受け取った数十万人のソヴィエトの捕虜を集中強制収容所に送り込んだことを言っているのか ?
 言葉の背後にある現実について何かを考えているならば、バルチック諸国のいわゆる『集産化(collectivization)』のことを言っているのか ?//
 君が書いていることを説明できる、三つの可能性がある。
 第一。こうした事実に関しての単純な無知。歴史家だという君の職業を考えると、信じ難い。
 第二。『人間の顔』という言葉を、私が把握できないトムソン主義者の意味で使っている。
 第三。正統派と批判派〔「修正主義」派-試訳者〕のいずれであれ、たいていの共産主義者のように、共産主義制度では党の指導者たちが殺されないかぎり全ては正当だ(right)、と信じている。
 新しい選択肢のある社会主義の論理を共産主義者たち自身と、およびとくに党の指導者たちと共有できないと悟ったとき、これこそが実際に、共産主義者が『批判的』になる標準的な方法なのだ。
 フルシチョフが1956年の(重要性を私は全く理解できない)演説でただ一人名前を出した被害者は pur sang のスターリニストだったと気づいているか ?
 彼らのたいていは(ポツィシェフのように)、自分が犯罪の犠牲者になる前に無数の犯罪を冒した罪人だった。
 共産主義者が殺戮されるのを見て突然に恐怖を催したたくさんの元共産党員(名前を挙げないけど、許せ)が、回想録や批判的分析書を書いた。その恐怖に君は気づいたか ?
 彼らはつねに、『だが、そのような人々は共産主義者だった』と言って、犠牲者についての無知を釈明している!
 (ついでに言うと、これは自虐的な防御だ。何故かというと、非共産主義者を殺戮することには何も過ち(wrong)はないことを意味する。
 このことは、共産主義者と非共産主義者を区別する権限をもつ国家機関があり、その国家機関は銃砲を持つ同じ支配者でのみありうる、ということを示唆する。
 したがって、被殺戮者は、その定義によって非共産主義者であり、そして全ての物事はみんな正当(right)なのだ。)//
 よし。トムソン君、私は本当に、このような思考方法を君の責任にするつもりはない。
 でも、評価に際して君が二重の規準を使っていることに、気づかざるをえない。
 そして『二重の規準』と言うとき、新しい諸問題を見渡す『新しい社会』には経験がないのを正当化してしまいたいことを意味させてはいない。
 類似の状況に対して、政治的規準と道徳的規準とを交替に使い分けている、と言いたいのだ。
 政治的な情勢いかんによって、ある場合には熱心な道徳家で、別の場合には現実政治家だったり世界歴史に関する哲学者だったりするようなことをしてはいけない。//
 我々が理解し合うべきだとすると、君に明確にしたいのは、まさにこのことだ。
 ブラジルでの拷問について語ったラテン・アメリカの革命家との会話内容を(憶えていることから)君に書いてみよう。
 『拷問は過ち(wrong)か ?』と尋ねた。『何が言いたいのだ ?』と彼は言った。
 全て正当だ(right)と言うのか ? 拷問を正当化しているのか ?
 私は言った、『逆だ。ただ、拷問は道徳的に受容できない奇怪物だと考えるかどうかを尋ねている』。彼は答えた、『もちろんだ』。
 『キューバでの拷問もそうか ?』と私は質した。
 彼は回答した、『うん。それは別のことだ。
 キューバは、アメリカ帝国主義の脅威のもとにつねにある小さな国家だ。
 彼らは、残念だけど、自己防衛のために全ての手段を使わなければならない』。
 私は言った、『そうか。貴方は、二つとも取ることはできない。
 私も同じだが、拷問は道徳的な理由で忌まわしくかつ受容できないと貴方は考えるのなら、定義上、いかなる事情があってもそうだ。
 しかし、拷問が受忍されうる事情があるのだとすれば、貴方は拷問をする体制を非難できない。拷問それ自体には本質的に過ち(wrong)であるものは全くないと仮定しているのだから。
 ブラジルについてと全く同様にキューバの拷問を非難するか、それとも、人々に対する拷問を理由としてブラジルの警察当局を非難するのをやめるか、どちらかだ。
 実際、貴方は政治的な理由では拷問を非難できない。それはたいていの場合は完全に有効で、欲しいものをもたらすからだ。
 道徳的な理由でのみ貴方は非難できる。そしてそうだとすれば、不可避的に、どこでも、バチスタのキューバでもカストロのキューバでも、北ベトナムでも南ベトナムでも、全く同じだ』。//
 これは、私が君に明快にしたい、陳腐だけど重要な点だ。
 アメリカ合衆国にある大小あれ何らかの不公正について聞くときには心臓が失血して死にそうになり、一方では、新しい選択肢ある社会のより酷い恐怖について聞かされると突然に賢い歴史修辞学者か冷静な合理主義者になる、そういう人々がいる。
 私はたんに、そういう人と一緒になるのを拒否している。//
 これは、東ヨーロッパ出身の者が西側の新左翼に対して抱く、自然発生的なかつほとんど一般的な不信感の理由の、唯一ではないが、一つだ。
 奇妙にも一致して、この恩知らずの人々の大半は、西欧または合衆国にいったん定住すると、革命家だと思われる。
 偏狭な経験主義者や利己主義者は、彼らのほんの僅か数十年のちっぽけな個人的体験から推論して(君が正当にも観察するように、これは論理的には受容できない)、その中に、光輝く社会主義の未来に対する懐疑を抱いていることの口実を見出す。その未来というのは、最良のマルクス・レーニン主義の基礎の上に、西側諸国の新左翼というイデオロギストが精巧に作り上げたものだ。//
 ある程度はもっと詳しく書きたい話題は、これだ。
 事実をそのままに受け取ることや、一般理論から演繹することで現存社会に関する知識を得ていないことでは、我々は異なっていない、と思う。
 今度はインド出身のマオ〔毛沢東〕主義者との会話を、再び引用しよう。
 彼は言った、『中国の文化革命は、貧農(peasants)の富農(kulaks)に対する階級闘争だった』。
 私は尋ねた、『どのようにして、それを知るのか ?』
 彼は答えた、『マルクス・レーニン主義理論からだ』。
 私はコメントした、『そう。予想していたことだ』。
 (彼は理解できなかった。君には分かる。)
 しかし、これでは十分ではない。というのは、君に分かるように、適当に漠然としたイデオロギーはどれもつねに、その重要な構成要素を放棄しなくとも全ての事実を吸収(absorb)する(古いものを捨て去る(discard)、との意味だ)ことができるからだ。
 そして、厄介なことは、たいていの人々は熱心なイデオロギストではないということだ。
 誰もかつて資本主義も社会主義も見たことがなく、彼らが理論的に解釈することのできない一揃いの小さな諸事実だけを見てきたと信じているかのごときやり方で、彼らの浅薄な気持ちは作動している。
 ある諸国の人々は他諸国の人々よりも良い状態にある、ある諸国での生産、配分、サービスは他諸国よりもかなり効率的だ、こちらの人々は公民権や人権そして自由を享有しており、あちらではそうでない、と彼らは単純に気づいている。
 (君がそうするように、西側ヨーロッパに当てはめる言葉を使うには、ここで『自由』と引用符を付けるべきだろう。
 それが絶対的に義務的な左翼の叙述方法だと、私は悟っている。
 じつに、何が『自由』か。この言葉は十分に、一方の側には大きな笑いを充満させる。
 そして我々、ユーモアのセンスの欠けた人間は、笑いはしない。)//
 君が極楽に住み、我々は地獄にいると君に信じさせようとしているのではない。
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 ③につづく。

1526/「左翼」の君へ-レシェク・コワコフスキの手紙①。

 Leszek Kolakovski, Is God Happy ?(2012)のうち、「第一部/社会主義、イデオロギーおよび左翼」の中にある、My Correct Views on Everything, 1974 〔全ての物事に関する私の適正な見方〕の日本語への試訳を、以下、行ってみる。一文ごとに改行し、本来の改行箇所には、文末に//を記す。
 他にも「社会主義とは何か ?」、「左翼の遺産」、「全体主義と嘘の美徳」、「社会主義の左翼とは何か ?」、「スターリニズムのマルクス主義根源」等の関心を惹くテーマが表題になっているものも多いが、これをまずは選んだ理由は、おそらくその内容によって推測されうるだろう。
 1974年の小論。書簡の形式をとっている。
 スターリンの死、フルシチョフのスターリン批判、ハンガリー動乱、中国の文化大革命、プラハの「春」があり、日本の大学を含む「学生」運動等もほぼ終わっていた。L・コワコフスキはイギリス・オクスフォードにいて、マルクス主義哲学の研究執筆をしていたかもしれない。
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 My Correct Views on Everything, 1974 〔全ての物事に関する私の適正な見方、1974年〕
 「親愛なる、エドワード・トムソン(Edward Thompson)君へ。
 この公開書簡でなぜとても楽しくはないかというと、君の手紙は(少なくとも同じくらい)個人的な態度とともに、考え方に関係しいるからだ。
 しかし、共産主義イデオロギーについてであれ1956年についてであれ、個人的な説明をして問題を済ませはしない。とっくの前に片付いている。
 だが、一緒に始めよう、過去のことを運びあげて、署名しよう…、と言うのだったら。//
 Raymond Williams による最新号の Socialist Register の書評に、君の手紙はこの10年間で最良の左翼の著作作品の一つだと書いてあった。それは直接に、他の全ては、またはほとんど全ては、より悪いと述べているようなものだ。
 Williams はよく分かっている、私も彼の言葉に従おう。
 たまたま私がその対象になっているとしても、ある程度は、この文章を書くに至ったのを誇らしく感じる。
 そう。だから、私の反応の一つめは、感謝だ。
 二つめは、<富者の迷惑>のようなものだ。
 君の100頁もの公開書簡に対して私が答えるのに話題を適正に選択しなければならないことを、君は私に詫びるのだろう(認めると思うが、君の書簡はうまく区切りされていない)。
 最も論争点になっているものを、取り上げることにしよう。
 興味深いのだが、君の自叙伝的な部分にコメントすべきだとは思わない。
 たとえば、休日にスペインへ行かない、費用の一部を自分の懐から支払わないで社会主義者の会議に出席するということはしない、フォード財団が財源支援した会議に参加しない、権威者の前で帽子を脱ぐのを年寄りのクェーカー教徒のように拒んだのは自分だ、等々と君は書いているが、私自身の徳目一覧からして答えるべきだと、助言されるとは思わない。この徳目一覧はたぶん厳格なものではないのだろう。
 また、New Left Review 〔新左翼雑誌〕から君は離れたという話だが、私がいくつかの雑誌のいくつかの編集委員会の全てを辞めた話でもって交換するつもりはない。これらは、とても瑣末なことだ。//
 三つめは、悲しさだ、と言いたい。
 君の研究分野について十分な能力はないが、学者そして歴史家としての君の高名は知っている。
 それなのに、君の手紙の中に、話したまたは書いた多くの左翼(leftist, 左翼主義者)の決まり文句(cliche's)があるのを知るのは残念なことだ。それらは、三つの趣向からできている。   
 第一、言葉を分析するのを拒み、意図的に考え出された言葉の混合物を問題を混乱させるために使う。
 第二、ある場合には道徳的なまたは情緒的な規準を、別の類似の場合には政治的または歴史的な規準を使う。
 第三、歴史的事実をそのままに受容するのを拒む。
 言いたいことをもっと詳しく、書いてみよう。//
 君の手紙の中には個人的な不満がいくつかあり、一般的問題に関する議論もいくつかある。
 小さな個人的不満から始めよう。
 リーディング(Reading)の会議に招かれなかったことで君は攻撃されたと感じているように見えるのは、また、かりに招かれれば深刻な道徳的根拠を持ち出して絶対に出席するのを拒んでいただろうと語るのは、とても奇妙だ。
 直感的に思うのだが、結局は、かりに招かれても同様に攻撃されたと感じただろう。だから、君を傷つけない方法は、会議の組織者にはなかったのだ。
 今書こう、君が持ち出す道徳的根拠とは、君がR・Sの名を組織委員会の中に見つけたということだ。
 そしてR・Sには不運だったのは、彼がかつてイギリス外交の業務で仕事をしていたことだ。
 そう、君の高潔さは、かつてイギリス外交に従事した誰かと同じテーブルに着くのを許さない。
 ああ、無邪気さに、幸いあれ! 
 君と私は二人とも、1940年代と50年代にそれぞれの共産党の活動家だった。我々の高貴な意図や魅惑的な無知(あるいは無知から逃れるのことの拒否)が何だったとしても、われわれの穏健な手段の範囲内で、人間社会で最悪の種類の奴隷的集団労働や国家警察のテロルを基礎にしている体制を、二人ともに支えた。
 このような理由で我々と一緒に同じテーブルに着くのを拒む、多数の人々がいるとは、思わないか ?。
 いや、君は無邪気だ。しかし私は、多くの西側知識人たちがスターリニズムへと改心していた『あの年月の政治の意義』を、君が書くようには、感じない。//
 スターリニズムについての君の気軽な論評から集めてみると、『あの年月の政治の意義』は、君にとってのそれは私のよりも明らかに鋭敏で多様だ。
 第一、スターリニズムの責任の一部(一部、これを私は省略しない)は、西側の諸国家にある、と君は言う。
 第二、『歴史家にとっては、50年では新しい社会体制について判断する時間が短かすぎる』、と君は言う。
 第三、『1917年と1920年代の初めの間、およびスターリングラードの闘いから1946年までの間に共産主義(コミュニズム)体制がきわめて人間的な顔を見せた時代ののような、新しい社会体制体制が発生しているならば』、と君が言うのを我々は知っている。//
 いくつか仮定を付け加えれば、全ては正当だ(right)。
 明らかにも我々が生きる世界では、ある国で重要なことが起きれば、それは通常は別の国々で起きることの一部に影響を与える。
 ドイツ・ナチズムについての責任の一部はソヴィエト同盟にあった、ということを君はきっと否定しないだろう。
 ドイツ・ナチズムに対するソヴィエト同盟の影響を、君はどう判断しているのだろうか ?//
 君の二つめのコメントは、じつに啓発的だ。
 『歴史家にとっては』50年とは、何のことか ?
 私がこれを書いている同じ日にたまたま、1960年代(1930年代ではない)の初めにソヴィエトの監獄と強制収容所にいた体験を綴った、アナトール・マルシェンコという人の本を読んだ。
 この本は1973年に(ドイツ・)フランクフルトで、ロシア語で出版された。
 ロシア人労働者の著者は、ソヴィエトからイランへと国境を越えようとして逮捕された。
 彼は幸運なことに、J・V・スターリンの遺憾な(そう、正面から見つめよう、西側諸国に責任の一部があったとしても遺憾な)誤りが終わっていたフルシチョフの時代にこれをした。
 そして、彼はわずか6年間だけ、強制収容所で重労働をした。
 彼が物語る一つは、護送車から森の中へ逃げようとした3人のリトアニア人囚人に関してだ。
 3人のうち2人はすぐに見つけられ、何度も脚を射撃され、起ち上がるように命じられ(彼らはそうできなかった)、そして、護衛兵たちによって蹴られ、踏みつけられた。
 最後に、2人は警察の犬によって噛まれ、引き裂かれた(資本主義が存続している、娯楽映画のごとくだ)。
 そうしてようやく、銃剣で刺し殺された。
 このような事態の間、ウィットに富む役人は、次の類いのことを述べていた。『さあ、自由なリトアニア人、這え、そうすればすぐに独立をかち取れるぞ!』。
 3人めの囚人は射撃され、死んだと囁かれて、荷車の死体の下に放り込まれた。
 生きて発見されたが、彼は殺されなかった(脱スターリニズム化だよ!)。しかし、数日間は、傷が膿んでいるままで暗い小部屋に入れられて放置された。
 彼は、腕が切断されているという理由だけで、生き延びた。//
 これは、君が今でも買える多数の本で読める、数千の物語の一つだ。
 知識ある左翼エリートたちは、こうした本を、進んで読もうとはしていない。
 第一に、たいていは、重要でない。
 第二に、小さく細かい事実だけを提供する(結局のところは、何らかの誤りがあることを我々は認める)。
 第三に、それらの多くは、翻訳されていない。
 (ロシア語を学習した西欧人に君が会うとして、少なくとも95%の率で血なまぐさい反応に遭うということを、君は気づいたか ? ともあれ、彼らは賢い。)//
 そして、そうだ。歴史家にとって50年、とは何のことだ ?
 50年というのは、著名ではないロシアの労働者であるマルシェンコの人生、本を出版すらできなかったもっと無名のリトアニアの学生の人生、を覆ってしまう長さだ。
 『新しい社会制度』に関する判断を急がないことにしよう。
 チリやギリシャの新しい軍事体制の良い点を査定するのに、いったい何年が必要なのかと、確実に君に質問することができるだろう。
 だが、私には君の答えが分かる。どこにも類似性がない。-チリとギリシャは資本主義の中にとどまっており(工場は私人が所有し)、一方のロシアは新しい『もう一つの選択肢のある社会』だ(工場は国家の所有で、土地も、居住している全員も)。
 真正な歴史家であるならば、もう一世紀を待てるし、わずかばかり感傷的だが慎重に楽天的な歴史知識を維持し続けることができるだろう。//
 いや、もちろんそうではない。
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 ②につづく。

1525/L・コワコフスキ『マルクス主義-』1976年の構成②。

 トニー・ジャット(Tony Judt)の以下は、L・コワコフスキーの『マルクス主義の主要潮流』について一章を設けている(第二部/第8章)。この部分は、「称賛の価値ある」Norton社による一巻本での再発行の決定を契機に2006年9月のNew York Review of Booksに掲載したものを再収載しているようだ。
 Tony Judt, Reappraisal -Refrections on the Fogotten Twentieth Century (2008). - Part Two, Chapter VIII -Goodby to all that ? Leszek Kolakowski and the Marxist Legacy.
 =トニー・ジャット(河野真太郎ほか訳)・失われた二〇世紀/上(NTT出版, 2011)/第二部/第8章「さらば古きものよ ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産」。
 また、同じくトニー・ジャットは、つぎの著の一部(第5部/第18章)で L・コワコフスキーの逝去のあとで哀惜感溢れる文章でコラコフスキーの仕事と人物を振り返っている。これは、2009年9月にやはりNew York Review of Booksに掲載したものが初出だ。
 Tony Judt, When the Facts Change -Essays 1995-2010 (2015). -Part 5, Chapter 18 -Leszek Kolakowski (1927-2009).
 後者は、トニー・ジャットのいわば遺稿集で、彼はコワコフスキの死の翌年、上を書いてほぼ1年後の2010年8月に、62歳で亡くなった(1948-2010)。
 以下は構成内容の紹介のつづき。一部について、節名も記した。
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第三部・破滅。
 第1章・ソヴェト・マルクス主義の初期段階、スターリニズムの開始。
  第1節・社会主義とは何か ?。
  第2節・スターリニズムの諸段階。
  第3節・スターリンの初期と権力への到達。
  第4節・一国社会主義。
  第5節・ブハーリンとネップのイデオロギー、1920年代の経済論争。
 第2章・1920年代のソヴェト・マルクス主義の理論的諸論争。
  第1節・知的および政治的風土。
  第2節・哲学者としてのブハーリン。
  第3節・哲学論争:デボーリン対機械論者。
 第3章・ソヴェト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
  
第1節・大粛清のイデオロギー上の意義。
  第2節・スターリンによるマルクス主義の編纂。
  第3節・コミンテルンと国際共産主義のイデオロギー上の変形。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化
 第5章・トロツキー。
 
第6章・アントニオ・グラムシ(A. Gramsci): 共産主義修正主義。
 第7章・ジョルジ・ルカーチ(Gyorgy Luka'cs):ドグマ提供の理性。
 第8章・カール・コルシュ(K. Korsch)。
 第9章・ リュシアン・ゴルトマン(Lucien Goldmann)。
 第10章・フランクフルト学派と『批判理論』。
  第1節・歴史的および伝記的なノート。
  第2節・批判理論の原理。
  第3節・消極的弁証法。
  第4節・実存主義的『真正主義』批判。
  第5節・『啓蒙主義』批判。
  第6節・エーリヒ・フロム(Erich Fromm)。
  第7節・批判理論(続き)、ユルゲン・ハーバマス(Juergen Habermas)。
  第8節・結語。
 第11章・ハーバート・マルクーゼ(H. Marcuse):新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
 第12章・エルンスト・ブロッホ(Ernst Bloch):未来派的直感としてのマルクス主義。
  第13章・スターリン死後のマルクス主義の発展。
  第1節・『脱スターリニズム』。
  第2節・東ヨーロッパでの修正主義。
  第3節・ユーゴスラビア修正主義。
  第4節・フランスにおける修正主義と正統派。
  第5節・マルクス主義と『新左翼』。
  第6節・毛沢東の農民マルクス主義。
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 以上。

1524/L・コワコフスキの大著『マルクス主義-』1976年の構成①。

 日本人と日本社会は、マルクス主義・共産主義を「克服」しているだろうか。
 いや、とても。闘っていなければ克服する(勝利する)こともありえない。
 日本人と日本社会は、1917年-1991年のソヴェト・ロシアの勃興と解体から得た「教訓を忘れて」はいないだろうか。
 いや、とてもとても。そもそも学んでいなければ、その「教訓を忘れる」ことなどありえない。
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 L・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(Main Currents of Marxism)は1976年にパリでポーランド語版で発刊され、1978年にロンドンで英訳版が刊行された。
 これらは三巻本だったが、2008年に一冊にまとめたPaperback版がアメリカのNorton 社によって出版された。以下はこれによる。
 この一巻本は、索引の最終頁がp.1283で、緒言・目次類を加えると確実に1300頁を超える大著だ。
 前回に「反マルクス主義哲学者」と紹介したが、「反マルクス主義」程度では(日本はともかく)欧米では珍しくないだろう。正確には、<マルクス主義に関する研究を(も)した哲学者>で、「反マルクス主義」の立場はその一つの帰結にすぎない。
 L・コラコフスキーはマルクス主義の理論的・哲学的分析を、始まりから「破滅」まで時代的・歴史的に、「主要な」論者を対象にしつつ、かつマルクス主義者そのものとは通常は理解されていないようにも思えるフランス「左翼」からドイツ「フランクフルト学派」等々も含めて、詳しく行っているようだ。
 ポーランドを41歳に離れる(追放される、亡命する)までは「マルクス主義者」をいちおうは自称していたが、この本の時期にはそうではないと見られる。若いときのL・コラコフスキーを知って、たんなる<反スターリニスト>と理解して、期待( ?)してはいけない。
 共産主義者や容共「左翼」にとって<きわめて危険な>書物であることは、内容構成(目次)を概観しても、想像できる。
 二回に分けて紹介する。<レーニン主義>以降は、節名も記す。邦訳はもちろん、仮の訳。「部」は直訳では「巻」。
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第一部・創始者たち。
 第1章・弁証法の起源。
 第2章・ヘーゲル左派。
 第3章・初期段階のマルクス思想。
 第4章・ヘスとフォイエルバッハ。
 第5章・初期マルクスの政治・哲学著作。
 第6章・パリ草稿、疎外労働理論、若きエンゲルス。
 第7章・聖家族。
 第8章・ドイツ・イデオロギー。
 第9章・概括。
 第10章・マルクスの社会主義と比較した19世紀前半の社会主義観念。
 第11章・1847年以後のマルクス・エンゲルスの著作と闘争。
 第12章・非人間的世界としての資本主義、搾取の本質。
 第13章・資本主義の矛盾とその廃棄、分析と実践の統合。
 第14章・歴史発展の主導力。
 第15章・自然弁証法。
 第16章・概括および哲学的論評。
第二部・黄金時代。
 第1章・マルクス主義と第二インターナショナル。
 第2章・ドイツ正統派:カール・カウツキー。
 第3章・ローザ・ルクセンブルクと革命的左派。
 第4章・ベルンシュタインと修正主義。
 第5章・ジャン・ジョレス(Jean Jaures):神学救済論としてのマルクス主義。 
 第6章・ポール・ラファルグ(Paul Lafargue):快楽主義マルクス主義。
 第7章・ジョルジュ・ソレル(Georges Sorel):ヤンセン主義マルクス主義。
 第8章・アントニオ・ラブリオラ(A. Labriola):開かれた正統派の試み。
 第9章・ルートヴィク・クシィヴィツキ(Ludwik Krzywicki):社会学の理論としてのマルクス主義。
 第10章・カジミエシュ・ケレス=クラウス(Kazimierz Kelles-Krauz):ポーランドの正統派。
 第11章・スタニスラフ・ブルジョゾフスキー(Stanislaw Brzozowski):歴史主観主義としてのマルクス主義。
 第12章・オーストリア・マルクス主義、マルクス主義運動のカント主義者、倫理的社会主義。
 第13章・ロシア・マルクス主義の始まり。
 第14章・プレハーノフとマルクス主義文献の編纂。
 第15章・ボルシェヴィキ出現以前のロシア・マルクス主義。
 第16章・レーニン主義の発生。
  第1節・レーニン主義に関する論争。
  第2節・党と労働者運動、意識性と任意性。
  第3節・民族の問題。
  第4節・民主主義革命でのプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永久革命』。
 第17章・ボルシェヴィキ運動における哲学と政治。
  第1節・1905年革命時点での分派闘争。
  第2節・ロシアでの新しい知識人の動向。
  第3節・経験批判主義。
  第4節・ボグダーノフとロシア経験批判主義。
  第5節・プロレタリアートの哲学。
  第6節・『神の建設者』。
  第7節・レーニンの哲学への試み。
  第8節・レーニンと宗教。
  第9節・レーニンの弁証法ノート。
 第18章・レーニン主義の運命、国家の理論から国家のイデオロギーへ。
  第1節・ボルシェヴィキと戦争。
  第2節・1917年の革命。
  第3節・社会主義経済の開始。
  第4節・プロレタリアート独裁と党の独裁。
  第5節・帝国主義と革命の理論。
  第6節・社会主義とプロレタリアート独裁。
  第7節・独裁に関するトロツキー。
  第8節・全体主義イデオロギストとしてのレーニン。
  第9節・ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ。
  第10節・論争家としてのレーニン、レーニンの天才性。
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 以上。②につづく。

1522/レシェク・コワコフスキーという反マルクス主義哲学者。

 L・コワコフスキーのつぎの小論選集(Selected Essays)も、当然に ?、邦訳されていない。
 Leszek Kolakowski, Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
 前回にこの人物について紹介したのはかなり古い情報だったので、この著によって上書きする。
 多数の書物を刊行し(略)、欧米諸国の学士院類の会員であり、多数の「賞」を受けている人物・哲学者が、なぜ日本ではほとんど知られていないのか。なぜ邦訳書が前回紹介のもの以外にはおそらく全くないのか。
 一部を読んだだけなので確言はしかねるが、つぎのことを推測できる。
 日本の「左翼」、とりわけ熱心な容共のそれ、そして日本の共産主義者(トロツキー派を含む)、とくに日本共産党にとって、<きわめて危険>だからだ。
 この人の著作を知っている哲学またはマルクス主義関係の「学者・研究者」はいるだろう。しかし、例えば岩波書店・朝日新聞社に、この人物の書物(『マルクス主義の主要な潮流』もそうだが)の邦訳書を刊行するようには助言や推薦を全くしないだろうと思われる。
 一方、日本の「保守」派は、いちおうは「反共」・反共産主義を謳いながら、共産主義理論・哲学に「無知」であり、欧米の共産主義をめぐる議論動向についてほとんど完全に「無関心」だからだ。
 じつに奇妙な知的雰囲気がある。
 この欄の№1500・4/14に書いた。-「冷静で理性的な批判的感覚の矛先を、日本共産党・共産主義には向けないように、別の方向へと(別の方向とは正反対の方向を意味しない)流し込もうとする、巨大なかつ手の込んだ仕掛けが存在する、又は形成されつつある、と秋月瑛二は感じている」。
 L・コラコフスキーの日本での扱いも、他の人物についてもすでに何人か感じているが、この「仕掛け」の一つなのではないか。
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 A-経歴。
 無署名の冒頭注記および縁戚者(実娘か。Agnieszka Kolakowska)執筆の「Introduction」(vii-xiii)から、L・コラコフスキーのつぎのような履歴が分かる。年齢は、単純に生年を引いたもの。
 1927年、ポーランド・ラドム生まれ。
 ロズ(Lodz)大学、ワルシャワ大学で哲学を学ぶ。
 (第二次大戦後、ソ連・モスクワ大学留学。)
 1953年/26歳、ワルシャワ大学で博士号取得。助教授に。
 1955年以降の研究著作の重要主題は、「マルクス主義」という「イデオロギーの危険性、欺瞞と虚偽および全体主義の本質」だった(Agnieszka による、vii)。
 1956年までに、「修正主義者」扱いされ、国家当局から睨まれる重要人物になる。
 1956年/29歳、『神々の死』<上掲書所収、新訳>を執筆。
 これは、「共産主義のイデオロギーと実際を極めて強く攻撃し、体制の偽った合理化やそれの虚偽情報宣伝の神話を強く批判する。当時としては驚くべきほど明快で、理解し易さや力強さに息を呑む」(Agnieszka による、viii)。
 この論考は「検閲」されて、「共産主義崩壊までのポーランドでは刊行されないまま」だった。「地下では、手書きの模写物が回覧された」(同)。
 1956年/29歳、『社会主義とは何か ?』<上掲書所収>を執筆。初期のもう一つの重要論考。「検閲」されて、これを掲載した雑誌は廃刊となる。ポーランドで非刊行、地下での回覧は、上と同じ。
 (1956-57年、オランダ、フランス・パリの大学に留学。)
 1959年/32歳、現代哲学史の講座職(the Chair)=教授に任命される。
 数年にわたり、ポーランド学術学士院(Academy)哲学研究所でも勤務。
 1966年/39歳、ワルシャワ大学で<ポーランドの10月>10周年記念の講演。
 「1956年10月以降の好機を逸し、希望を実現しなかった」として(Agnieszka による、ix)、党(ポーランド統一労働者党=共産党)と共産主義政府を、激しく批判する。
 これを理由に、党から除名される。
 1968年3月/41歳、政府により、大学の講座職(the Chair)=教授資格が剥奪され、教育と出版が禁止される。
 1968年の遅く/41歳、モントリオール・マギル(McGill)大学-カナダ-からの招聘を受けて、客員教授に。
 1969年-70年/42-43歳、カリフォルニア大学バークレー校-アメリカ-の客員教授。
 1970年/43歳~1995年/68歳、オクスフォード大学-イギリス-に移り、哲学学部の上級研究員。
 1975年/48歳、イェール大学-アメリカ-客員教授を兼任。
 1981年/54歳~1994年/67歳、シカゴ大学-アメリカ-社会思想研究所教授を兼任。
 (2009年/82歳、逝去。)
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 B。かつて、英国学士院(Academy)会員、アメリカ学士院外国人会員。ポーランド学士院、欧州学士院(Academia Europea)、バイエルン(独)人文学士院、世界文化アカデミー(Akademie Universelle des Cultures)の各メンバー。
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 C-受賞、とりわけ以下。
 Jurzykowski 賞(1969)、ドイツ出版協会平和賞(1977)、欧州エッセイ賞(仏, 1981)、エラスムス賞(1982)、ジェファーソン賞(1986)、トクヴィル賞(1993)、ノニーノ(Nonino)特別賞、イェルザレム賞(2007)。
 多数の大学から、名誉博士号。
 生涯にわたる人間性についての業績に対して、連邦議会図書館W・クルーゲ賞の第一回受賞者(2003)。
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 D-書物。30冊以上。17冊の英語著・英訳書を含む<略>。
 E-上掲書のIs God Happy ? -Selected Essays (2012).
 つぎの小論から成る。タイトルの仮の訳と発表年、およびこの本で初めて英語文で刊行されたか否か(<新訳>と記す)を記載する。また、Agnieszka Kolakowskiによる<改訳>もある。既に公刊されているものは、文献を省略して、()で刊行年のみ記す。p.324-7の「第一刊行の詳細」による。
 第一部/社会主義、イデオロギーおよび左翼。
 「神々の死」1956年<新訳>。
 「社会主義とは何か ?」1956年(英語1957年)。
 「文化の力としての共産主義」1985年(講演1985、英語<改訳>2005年)。
 「左翼の遺産」1994年(1994年)。
 「全体主義と嘘の美徳」1983年(1984年)。
 「社会主義の左翼とは何か ?」1995年(英語2002年)。
 「ジェノサイドとイデオロギー」1977年(英語1983年)。
 「スターリニズムのマルクス主義根源」1975年(英語1977年)。
 「全てに関する私の適正な見方」1974年(1974年)。
 第二部/宗教、神および悪魔の問題。
 「イェス・キリスト-予言者と改革者」1956年(英語<改訳>2005年)。
 「ライプニッツと仕事」2002年(英語2003)。
 「エラスムスとその神」1965年<新訳>。
 「外見上の神なき時代の神に関する不安」1981年(<改訳>, 2003年)。
 「神からの祝宴への招待」2002年<新訳>。
 「なぜ仔牛 ? 偶像崇拝と神の死」1998年<改訳>(講演)。 
 「神は幸せか ?」2006年<英語・新訳>(講演, オランダ語で初刊)。
 第三部/現代性、真実、過去およびその他。
 「無期日性を称賛して」1961年<新訳>。
 「俗物根性を称賛して」1960年<新訳>。
 「罪と罰」1991年(英語1991年)。
 「自然法について」2001年(講演, 英語2003)。
 「集団的同一性について」1994年(2003年)。
 「歴史的人間の終焉」1989年(1991年)。
 「我々の相対的な相対主義について」1996年(1996年, ハーバマス(Habermas)やロルティ(Rorty)との討議の中で)。
 「真実への未来はあるか ?」2001年<新訳>。
 「理性について(およびその他)」2003年<新訳>。
 「ロトの妻」1957年(<改訳>, 1972年, 1989年)。
 「我々の楽しいヨハネ黙示録」1997年<新訳>。
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 以上。

1521/L・コワコフスキのいうマルクス主義と櫻井よしこ。

 レシェク・コワコフスキ(Lesek Kolakowski)は、ネット情報によらず、1967年刊行の下掲書の「訳者あとがき」によると、こう紹介されている。
 L・コワコフスキ(小森潔=古田耕作訳)・責任と歴史-知識人とマルクス主義(勁草書房、1967)
 1927年、ポーランド生まれ。
 第二次大戦後、ソ連・モスクワ大学留学。スターリン体制のもと。
 1954年以降、ワルシャワ大学などで教師。
 1955年、若い知識人党員(ポーランド統一労働者党)向け雑誌を編集。/28歳。
 1957年、ポーランド統一労働者党〔=共産党〔秋月〕〕の「官僚制を批判しすぎ」て、上の雑誌は廃刊。
 1957年~1年間、オランダとフランス・パリに留学。
 1964年、最初の出版(1957年完成、ワルシャワ「国立出版所」でおさえられていた。1965年、ドイツ語訳出版)。
 1966年、ポーランド統一労働者党から除名される。
 1967年の時点で、ポーランド・ワルシャワ大学教授(哲学)。/40歳。
 以上。
 Lesek Kolakowski, Main Currents of Marxism (初1976) -49歳に、この欄で少し言及した。
 この『マルクス主義の主要な潮流』には、なぜか、邦訳書がない。
 上掲邦訳書では自らを「マルクス主義者」の一人と位置づけている。例えば、p.228。
 しかしながら、上記の履歴でも一端は分かるが、この人は、現実にいた「マルクス主義者」-とくにスターリンだと思われる-を厳しく批判する。
 もちろん、スターリンからソ連・マルクス主義はダメになった、という(日本共産党・不破哲三的な)理解をしているわけでは全くないと思われる。W・ルーゲもそうだったように、レーニンについては実感がなくとも、この人もまた、スターリンが生きている間に、その同じソ連・モスクワで生きていたのだ。
 上掲邦訳書に収載されたコラコフスキーの満29歳のときの一論考(1957年1月)の一部は、つぎのように書いている。邦訳書から引用して紹介する。但し、一部、日本語の意味を変えないように、表現を変えた。/は本来の改行箇所ではない。
 ①「『マルクス主義』という概念は、その内容を知性が決定するのではなく機関が決定する概念となった-<略>。『マルクス主義』という言葉は、世界に関して、ある内容的に明確な見解を抱く人間を示さないで、特定の心構えの人間を示す。/
 この心構えの特徴は、最高決定機関の指示する見解を従順に受け入れることである。/ こういう視点に立てば、マルクス主義がどんな現実的内容を持っているかの問題は、意味がない。/
 最高決定機関が示す内容を、そのつどよろこんで受け入れます、と言明すればマルクス主義者になれる。//〔改行〕
 だから1956年2月〔フルシチョフによるスターリン批判・秘密報告。昭和31年-秋月〕までは実際に、社会主義を建設する手段は革命的暴力しかないという見解の持ち主だけがマルクス主義者(したがって改革主義者、形而上学論者、観念論者)であった。/
 ところが周知のように、1956年2月以来、話は逆になった。/
 つまり、いくつかの国における社会主義への平和的移行の可能性を認める人だけがマルクス主義者である。/
 こういう諸問題で誰が一年間マルクス主義者として通用し続けるのか-これを正確に予見するのはむつかしい。/
 とにかくー、それを決定するのは私たちの任務なのではなく、最高決定機関の任務なのである。//
 まさにこの理由から-これこそマルクス主義の機関決定的性格、その非知性的性格を示すものだが-、本物のマルクス主義者は、いろんな信条を公言しても、そういう見解の内容は理解しなくてもよい。<二文略>/
 マルクス主義の内容は、最高決定機関によって確定されていたのだから。」(p.5-6)
 ここまでの二倍以上の同旨が続いたのち、こうある。
 ②「科学の進歩によって、手元の諸概念と研究方法の数が、マルクスの著作で適用されているよりも、もっと増やす必要が生じただけでなく、マルクスの見解のいくつかを修正したり、疑ってみる必要も生じてきた。/
 ひところ『最高決定機関』みずからが、国家の発生に関するエンゲルスの幾つかのテーゼは誤りである、と告示した。/
 こういう修正の理由説明をこの機関は別段やろうとしなかったが、これはこの機関の活動の、一般原則どおりである。<一文略>/
 また最高決定機関は、孤立した一国における社会主義社会の建設は不可能だというマルクスのテーゼを否認した。/
 スターリンが『一国だけの社会主義』という国家観をもって登場したとき、トロツキーは正統な古典的マルクス主義者として、マルクス主義の根本原則からの逸脱だとして彼を非難し、その仕返しにスターリンから、反マルクス主義と宣告されたのである。//
 …、とにかく、こういうふうになされた論争のスコラ的不毛さは容易に認識できる。/
 国際状勢がマルクスの頃とは違ってきたし、マルクス自身が、社会主義の見通しを国際的規模での、そのつどの階級構造に依存させて考察するように奨めたのだと、-スターリンの言うがごとく-主張される場合、マルクスが用いた一つの思考方法がたしかに参照されてはいるが、あいにくこの一つの思考方法たるや、あまりにも一般論的であり、現実を合理的に考え抜こうとする人ならば誰でもしなければならないことなので、『マルクス主義的』思考の独特なところを少しも示していないのだ。」(p.9) 
 まだずっと続くが、この程度にする。
 1957年(昭和32年)初頭にこのように書いていた人が、ポーランドにはいた(ちなみに、Z・ブレジンスキーもR・パイプスも、もともとはポーランド人)。
 29歳のコワコフスキが「教条的」ではなく「自由」である(教条的でないという意味では)ことは明確だ。
 「最高決定機関」の歴史記述や理論・概念等を「従順に受け入れる」ことをしている日本共産党の党員がいるとすれば、そのような人々に読んでいただきたい。コラコフスキーの皮肉は相当に辛辣だ(反面、この程度の<自由>は、当時のポーランドにはあったとも言えるかもしれない)。
 また、マルクス主義者とは「特定の心構えの人間」を示す、という叙述は、日本の現在の<保守>の一部の人々・雑誌読者にも、読んでいただきたい。
 櫻井よしこのいう<保守の気概>をもち、<保守の真髄だ>という観念的主張部分を「従順に受け入れる」「心構え」をもった人たちが<保守>派なのでは全くない。むしろそういう、自分の主張する<保守>観念に従えふうの文章を書いている人物は、「教条的」共産主義者とともに(共産主義者とはたいてい観念主義者だが)、きわめて危険だ。

1506/日本共産党の大ペテン・大ウソ34-<ネップ>期考察01。

○ 志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)p.173-4はこう書く。
 レーニンの1918年夏~1920年の経済政策は「戦時共産主義」と呼ばれ、農民から「余剰穀物のすべてを割当徴発する」ものだった。レーニンが「この戦時の非常措置」を「共産主義」への「直接移行」と「勘違いして位置づけ」たことから、「農民との矛盾が広がってい」った。
 レーニンが「共産主義」への「直接移行」と観念していたことはそのとおりだろうが、しかし、「勘違いして位置づけ」た、という表現の中に、日本共産党(幹部会)委員長・志位和夫の人間的な感情は、認められない。
 この「勘違い」によって、のちに1921年秋にレーニン自身が「生の現実はわれわれが過っていたこと(mistake, Fehler)を示した」と明言した<失敗>によって、いかほどの人間が犠牲になったのか。
 ○ 志位和夫は<戦時共産主義>という言葉を使い、多くの歴史書もこの概念を使っている。
 おそらくは、スターリン時代におけるソ連・ロシアの公式的歴史叙述によって、レーニン時代をおおよそこの<戦時共産主義>時代と<ネップ=新経済政策>時代に分けるということが定着して、そのまま現在にまで続いているようにも思われる。
 最近にほんの少し触れたように、<戦時共産主義>という語は、志位が「この戦時の非常措置」と書いているように、<戦時>のやむをえない措置だったかのように誤解させる。
 また、<戦時>とはまるで第一次大戦とその後の勝利諸国による対ロシア<干渉戦争>を意味するかのように誤解されうる。
 日本共産党は、そのように理解したい、又はそのような印象を与えたいのかもしれない。
 しかし、ロシアが第一次大戦から離脱したのは1918年3月の「中央諸国(ドイツ等)」との間のブレスト・リトフスク条約によってだ。また、1918年~1919年に戦闘終結とベルサイユ講和条約締結があった。
 そこで、日本共産党によると、英仏らによる<干渉戦争>と闘った、と言いたい、又はそのような印象を与えたいのかもしれない。しかし、大戦終結と英仏らの対ドイツ等との講和まで、およびその後のほんの数年間、英仏らが新生?ロシアと「戦争」をすべき理由がいかほどあっただろうか。
 たしかに、ボルシェヴィキ「赤軍」に対する「白軍」への物的・資金的援助はあったのだろう。だが、今のところの知識によれば、戦争といっても、対ロシアについては、英国軍が北方のムルマンスクまで来たということと、日本がいわゆる<シベリア出兵>をしたといった程度で、いかほどに<干渉戦争>という「戦争」に値する戦闘があったのかは疑わしい。日本軍は地方軍または「独立共和国」軍と戦闘したのだろうが、モスクワ・中央政府とその軍にとっては「極東」の遠いことだったのではないかとの印象がある(それよりも<東部>での農民反乱等の方に緊迫感があったのではないか)。
 誰もが一致しているだろうように、<戦時共産主義>とは、ロシアの「内戦」という「戦時」のことをさしあたりは意味している。「内戦」とは civil war, Buergerkrieg で(直訳すると「市民(・国民)戦争」で)、まさに「戦争」の一種なのだ。ボルシェヴィキの政府と軍は、国民・民衆と戦争をしていた。
 しかしさらに、<内戦>中の「非常措置」(志位和夫)という理解の仕方すら、相当に政治的な色彩を帯びている、と考えられる。
 後掲のL・コワコフスキの1970年代の書物も、<戦時共産主義>という語はmislead する(誤解を招く、誤導する)ものだと述べている。
 ○ 既述のように、秋月の今のところの理解では、10月「革命」後のレーニン・共産党(ボルシェヴィキ)の経済政策は、マルクスの文献に従った、かつレーニンがそれに依って具体的に1917年半ばに『国家と革命』で教条化した<共産主義>そのものだった。当時の「非常措置」だったのではない。
 そうして、レーニン・共産党による<ネップ>導入は、じつはマルクス主義又は共産主義理論自体の「敗北」を示していた、と考えられる。たんなる暫定的な「退却(retreat)」ではない。
 レーニンが病床にあって、大いに苦悩したというのも不思議ではないだろう。
 ○ 文献実証的に( ?)、1919年半ばにレーニンは何と主張していたかを、日本共産党も推奨するに違いないレーニン全集第29巻(大月書店、1958/1990第31刷)から引用する。
 まず、<校外教育第一回ロシア大会-1919.05.6-19>。
 「マルクスを読んだものならだれでも」、「マルクスが、その全生涯と…の大部分を、まさに自由、平等、多数者の意思を嘲笑することに、…ささげたこと」、こうした嘲笑の対象となる「空文句の裏には、商品所有者が勤労大衆を抑圧するためにつかう、商品所有者の自由、資本の自由の利益があるということの証明」に「ささげたことを知っている」。
 「全世界で、あるいはたとえ一国においてでも、…時機に、また資本を完全に打倒し商品生産を完全に絶滅するための被抑圧階級の闘争が前面に現れているような歴史的時機に」、「その自由のためにプロレタリアートの独裁に反対する」者は、「そういう人は、まさに搾取者をたすけるものにほかならない」。p.350。
 後掲のL・コワコフスキの著によると、「資本を完全に打倒し商品生産を完全に絶滅する」こととは、英文では、<the complete overthrow of capital and the abolition of commodity production >だ。「commodity production 」の、goods ではない「commodity」=「商品」は、「必需物」・「有用物」という含意もある。
 ともあれ、レーニンはこのとき、マルクスによりつつ「資本」の完全打倒と「商品生産」の完全絶滅を正しいものとして、目標に掲げていた。
 つぎに、<工場委員会、労働組合、…での食糧事情と軍事情勢についての演説-1919.7.30>。
 食糧政策・問題について、「真の勤労大衆の代表者、…人々、彼らは、ここでの問題が、どんな妥協をもゆるさない、資本主義との最後の決戦であることを知っている」。
 「われわれは、ほんとうに資本主義とたたかっており、資本主義がわれわれにどのような譲歩を強いようとも、…やはり資本主義と搾取に反対してたたかいつづけるのだ、と言う」。コルチャコフやデニーキン〔ボルシェヴィキと闘う「白軍」等の指導者-秋月〕などの「彼らを元気づけている力、それは資本主義の力であるが、この力は、…、穀物や商品の自由な売買にもとづくものだ」。「穀物が国内で自由に販売されているなら、こうした事態がつまり資本主義を生み出す主要な源泉であって、この源泉がまた…共和国の破滅の原因であったということを、われわれは知っている。いま資本主義と自由な売買にたいする最後の決闘がおこなわれており、われわれにとってはいま資本主義と社会主義とのもっとも主要な戦闘がおこなわれている」。p.538-9。
 ここでレーニンは、明確に、「穀物や商品の自由な売買」に反対することこそ社会主義の資本主義に対する闘いだと、「最後の決闘」とまで表現して、無限定に、つまり例外を設けることなど全くなく一般的に語っている。
 これら二点等について、以下を参照した。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (仏語1976、英語1978、〔マルクス主義の主要な動向〕), p.741-3。
 ○ むろん引用し切れないが、上の二つともに、レーニンは長々と、得々と喋り、同僚又は支持者たちに向けて力強く(?)演説している。
 日本共産党・志位和夫が言うように、後になって「…と勘違いして位置づけ」た、で済ませることができるだろうか。
 <ネップ>とはつまり、部分的にせよ、「商品生産」を、「穀物や商品の自由な売買」を正面から認めることとなる政策だったのだ。
 こんなふうに<転換>が語られるとすれば、それまでの農業政策等によって辛苦を舐めた農民たち、犠牲者等はやり切れないだろう(しかも、新政策がすみやかに施行又は「現実化」されたわけでもない)。
 ネップ導入は政策表明上の、つまるところ、レーニンによる「敗北」宣言だった。
 では、ネップという新政策導入時期に、<市場経済を通じて社会主義へ>という基本方針を、レーニンは確立したのかどうか。
 ずいぶんと前この欄でに設定したこの問題については、まだ本格的には立ち入っていない。あせる必要はない。現今の<時局>・<時流>のテーマではない。

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