秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

Kolakowski

1969/L・コワコフスキ著第三巻第五章第3節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の以下は、第三巻分冊版のp.198-p.201。合冊本ではp.946-948。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。 
 第3節・ボルシェヴィズムとスターリニズム、ソヴィエト式民主主義の思想②。
 (11)トロツキーは<彼らの道徳と我々の道徳>で、道徳性(morality)に関する彼の規準は単純に「自分にとって良いものが正しい」であり、そういう見方は目的が手段を正当化するというものだ、と異議を述べる支持者たちからの批判に論駁しようとした。
 彼はこの批判に対して、歴史が進展させる目的以外の何かによって手段が評価されるとすれば、その何かは神でのみあり得る、と答えた。
 言い換えれば、自分を疑問視する者たちは、Struve、Bulganov やBerdyayev のごときロシアの修正主義者がちょうどそうだったように、宗教的心情に陥っている。
 彼らはマルクス主義を階級よりも上位にある一種の道徳性と結びつけようとし、最後には教会の懐に抱かれた。
 トロツキーはこう明瞭に述べた。道徳は一般に、階級闘争の作用だ。
 道徳は現在ではプロレタリアートの利益のうちに存在し得るかファシズムのそれに存在し得るかのいずれかだ、そして明らなことだが、敵対している階級は類似の手段をときどきは用いるかもしれない。しかし、唯一の重要な問題は、いずれの側の利益になっているかだ。
 「手段は、その目的によってのみ評価することができる。
  プロレタリアートの歴史的利益を表現するマルクス主義の観点からは、目的は、自然に対する人間の力を増大させる方向へと、そして人間を支配する人間の力を廃棄する方向へと導くならば、正当化される。」
 (<彼らの道徳と我々の道徳>(1942年)p.34.)
 換言すれば、ある政策方針が技術的進歩(自然に対する人間の力)へと誘導するものならば、その政策方針を促進する全ての手段は自動的に正当化される。
 しかしながら、スターリンの政策は国家の技術水準を間違いなく高めたのだから、それにもかかわらず、なぜ非難されるべきなのか、は明瞭ではない。
 人間を支配する人間の力の廃棄に関して、トロツキーは、この支配力を廃棄することができる前にそれは最高度にまで達していなければならないという(スターリンが採用した)基本的考え方から解放されていた。
 彼は1933年6月の論文で、このような見方を何度も繰り返した。
 しかし、将来には、事情は異なるだろう。
 「歴史的目標」はプロレタリア政党に具現化され、ゆえにその党は、何が道徳的で何が非道徳的なのかを決定する。
 トロツキーの党は存在していないとのSouvarine の論評に関して、彼は自分だけは、道徳性の具現者だと自分を見なすに違いない。予言者は何度もレーニンの例を指摘することでもって答える。
 -レーニンは1914年には孤独だった、その後に何が起きたか?
 (12)ある意味では、批判者たちの異論は無効だ。トロツキーは、党が奉仕する利益は道徳的な善だ、党の利益を害するものは道徳的に悪だ、とは主張しなかった。
 彼はたんに、道徳の標識のようなものはなく、政治的な有効性という標識のみがある、と考えていた。
 「革命的道徳性の問題が、革命的な戦略と戦術の問題と融合されている」(同上, p.35.)。
 政治的な帰結とは無関係に事物それ自体の善悪を語ることは、神の存在を信じることと同じだ。
 例えば、政治的反対者の子どもを殺戮することがそれ自体で正しい(right)か否かを問うことは無意味だ。
 皇帝の子どもたちを殺すことは(トロツキーが別に述べるように)正当だった。政治的に正当化されたからだ。
 では、なぜスターリンがトロツキーの子どもたちを殺戮するのは間違っている(wrong)のか? それは、スターリンはプロレタリアートを代表していないからだ。
 善か悪かに関する全ての「抽象的」原理、民主主義、自由および文化的価値に関する全ての普遍的な規準は、それら自体では何ら意味をもたない。
 政治的な便宜(expediency)が指し示すところに従って、それらは受容されたり却下されたりする。
 そうすると、なぜ人はその反対者ではなくて「プロレタリアートの前衛」の側に立つべきなのか、あるいは、なぜ人は何であれ何かの目的と自分自身を重ね合わせるべきなのか、という疑問が生じる。
トロツキーはこの疑問に答えず、たんに、「目的は、歴史の運動から自然に流れ出てくる」と語る(同上, p.35.)。
 推察するに、このことは、彼は明瞭には述べていないけれども、つぎのことを意味する。
 我々は、歴史的に必然〔不可避〕であるものを見出さなければならない。そして、それが必然的であるという理由のみでもって、それを支持しなければならない。//
 (13)党内民主主義に関して言うと、トロツキーはこれについても全くカテゴリカル(categorical)だ。
 スターリンの党でトロツキー自身の集団は反対派だったが、彼は当然に自由な党内議論を要求し、「分派(fractions)」を形成する自由すら求めた。
 彼は他方で、彼自身とその他の者たちが1921年の第10回大会で定めた「分派」の禁止を擁護した。 
 これを、それが間違っているときには分派を禁止するのは正当だ、という以外の意味で解釈するのは困難だ。しかし、トロツキーの集団が禁止されてはならないのは、それがプロレタリアートの利益を表現しているからだ。
 追放されている間、トロツキーはまた、支持者から成る小集団に「真のレーニン主義諸原理」を課そうと努めた。彼は休みなく多様なかたちでの自分の言明からの逸脱を非難し、どの問題についてであれ彼の権威に抵抗する者全ての排除を命じた。そして、事あるごとに共産主義中央主義者の教理を宣言した。
 彼は、その名前自体がマルクス主義と決別していることを示しているとして(この点でトロツキーは正当だったかもしれない)、パリの「共産主義的民主主義者」というSouvarine の集団を非難した。
 Naville の集団が1935年に左翼反対派の範囲内での彼ら独自の綱領を宣言したきには、叱責した。
 彼はメキシコのトロツキスト指導者のLuciano Galcia を非難した。中央主義について忘却し、第四インターナショナル内部での完全な意見表明の自由を要求したからだった。
 彼は、全ての理論は懐疑心をもって扱われなければならないと語ったアメリカのトロツキストのDwight Macdonald を激しく罵倒した。
 「理論的懐疑主義を宣伝する者は、裏切り者だ」(<著作集1939-1940年>p.341.)。
 Burnham とSchachman が最終的にはソヴィエト同盟は労働者国家だということを疑い、ポーランド侵攻やフィンランドとの戦争についてソヴィエト帝国主義について語ったときには、最後通告たる判決を言い渡した。
 彼はこの場合に、アメリカのトロツキスト党内部で一般票決を行うのに同意しなかった(アメリカのこの党は約1000人の党員をもち、Deutscher によると第四インターナショナル内の最大の代表団のように思えた)。その理由は、党の政策方針は「単純に地方的決定の算術的な総計ではない」ということだった(<マルクス主義の防衛>(1942年), p.33.)。
 トロツキーは、この絶対主義が彼の運動を萎縮させ、ますます極小の宗教的セクトにようになり、その党員たちに、そして彼らだけに救世主になる宿命にあると確信づけたことに、少しも困惑しなかった。
 -もう一度。1914年のレーニンはどうだったか?
 トロツキーもレーニンの「弁証法的」見方を共有していたのは、つぎの点だった。すなわち、真のまたは「基礎になる」多数派は、たまたま多数者である者たちとは一致しておらず、正しく歴史的進歩の側に立つ者たちで成り立つのだ。
 彼は純粋に、世界の労働大衆は彼らの心の深奥で自分の側にいる、たとえ彼ら自身はそれにまだ気づいていなくとも、と信じていた。歴史の法則がこれが正しくそうであることを明らかにするのだから。//
 (14)民族的抑圧と自己決定権の諸問題に対するトロツキーの態度は、同様の方向にあった。
 彼の著作には、ウクライナ人やその他の民族の民族的要求に対するスターリンの抑圧への若干の言及が含まれている。
 彼は同時に、ウクライナ民族主義者にいかなる譲歩もしてはならないこと、ウクライナの真のボルシェヴィキは民族主義者と一緒に「人民戦線」を形成してはならないこと、を強調した。
 トロツキーはさらに進んで、4つの国に分かれているウクライナは、マルクスの見解では19世紀にポーランド問題となったのと同様の重要な国際的問題を生じさせる、とまで語った。
 しかし、彼は、武装侵攻によって他国に「プロレタリア革命」を持ち込む社会主義国家について、非難する言葉を何ら発しなかった。
 彼は1939-40年にSchachtman とBurnham に対して、ソヴィエトによるポーランド侵攻はあの国の革命運動と同時に発生した、スターリン官僚制はポーランドのプロレタリアートと農民に革命的衝動を与えた、そしてフィンランドでもソヴィエト同盟との戦争によって革命的感情が目覚めた、と憤然として説明した。
 たしかに、銃剣でもって導入されたが深い民衆的感情からわき起こらなかったので、これは「特殊な種類」の革命だった。しかし、それは全く同時に、純粋な革命だった。
 東部ポーランドやフィンランドで発生したことに関するトロツキーの知識は、もちろん何らかの経験的情報にではなく、「歴史の法則」にもとづいている。つまり、いかに頽廃しているとは言えども、ソヴィエト国家は人民大衆の利益を代表しており、ゆえに人民大衆は侵略する赤軍を支持しなければならない、というわけだ。
 この点で、トロツキーはたしかに、レーニン主義から逸脱していると責められることはあり得ない。「真」の民族的利益はプロレタリアートの前衛のそれと合致するのだから、その結果として、前衛に権力がある全ての国では(たとえ「官僚主義的頽廃」の状態にあっても)民族自決権は実現されており、大衆は事態のかかる状態を支持しなければならない。そのように理論が要求しているのだから。//
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 第3節、おわり。次節の表題は、<ソヴィエトの経済と外交政策に対する批判>

1959/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節③。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊版p.174-。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義③。
 (16)ソヴィエトの宗主権のもとにある他諸国では、文化上のスターリン主義化は、さまざまな理由で、より全面的で、より破壊的だった。
 東ドイツはソヴィエトによる直接占領下にあり、スターリニズムはプロシア的(Prussian)伝統と結合して、硬い反啓蒙主義の雰囲気を生んだ(のちに別に論述するErnst Bloch の活動のおかげで救われた)。
 さらに、1961年までは西ドイツへと逃亡することが困難でなかった。そう行動した400万の人々の中には、多数の知識人がいた。そして、彼らがいなくなったことで、その母国地域の荒廃が増大することになった。
 チェコスロヴァキアもまた、容赦なきイデオロギー的迫害(purge)を被った。その影響の跡を、今日でもまだ感じ取ることができる。
 ここでのしばらくの間の文化的独裁者は、元来は音楽に関する歴史学者のZdeněk Nejedlý だった。この人物は強権でもって芸術を監視し、チェコの古典文学を「校訂」し、「コスモポリタン」のドヴォルザーク(Dvořák)の作品の上演を禁止するなどをした。
 ブルガリアで彼の位置にいたのは、Tedor Pavlov だった。この人物は典型的なマルクス主義好事家(dilettante)で博識ぶっており、生物学、文学、哲学その他について執筆した。
 最もよく知られた著作は、戦争前に刊行されてロシア語に翻訳された、<反射の理論>と題するレーニン主義の認識論の論文だった。
 「反射」という概念はこの著作では、機械的な因果関係論から先に進んだ、個々の事物が相互に行使し合うことのできる全種の影響力を指すという、広い意味で用いられていた。
人間の感知いう行動と抽象的思考はこの「反射」の特殊な場合であって、最高度の次元で事物を構成化したものだ。
 たまたまこの時期に、ソフィア大学〔ブルガリア〕の哲学の老練教授のMikhalchevが、第二級のドイツ経験批判論者であるRehmke (1930年没)の指導を受けていた。
 そのゆえにそれ以降の多年にわたり、ブルガリアのマルクス主義哲学者の主要な課題は、 「Rehmke 主義と闘う」ことになった。//
 (17)ハンガリーでは、マルクス主義は最初から強い地位にあった。それは、前世代に何人かの傑出した哲学者たちが存在したことを理由とした。すなわち、J. Révai、B. Fogarsai、そしてG. Lukács (ルカチ)。
 Révai は、一時期、ハンガリー文化のスターリン主義化の責任をもつ党代表者だった。
 ルカチ(Lukács)は、この時期を通じて二重の位置にあった。スターリニズムの最後の年月の間での彼の書物や論文は、ヘーゲルに関する書物を除いて申し分なく正統派のものだったけれども。
 ヘーゲルに関する書物は戦争前に執筆され、1948年にドイツで出版された。
 この本は完全に非ソヴィエト様式のもので、決してスターリン・ズダノフの公式と適合していなかった。//
 (18)西ヨーロッパでは、マルクス主義の位置はいくぶん異なっていた。
 全ての共産党がいつでもスターリンの方針を忠実に支持し、ソヴィエトの政策を称え、指導者(Leader)の個人崇拝を伝道していた、というのは本当だ。
 しかし、フランス、イギリスでは、そしてイタリアでも、ソヴィエトの範型は、哲学や歴史学に関する理論上のマルクス主義著作物を完全には支配していなかった。
 とは言え、それからの逸脱の程度は、内容の点でよりも様式や議論の方法の方が大きかった。//
 (19)フランスの共産主義者の運動は、1945年後の最初の数年間で大きな勢いで強くなった。
 冷戦の最初から、共産党は主要な政治および議会の諸問題で堅牢な態度を維持し、利点とは関係なく全ての政府の動きを妨害した。但し、地域または都市内の問題については、その政策は戦術的で融通性があった。
 同時に、共産党は、第一次大戦以前のドイツ社会民主党にむしろ似ている基本方針をもって、文化生活の入念で高級なかたちを発展させた。
 党は、理論誌<Pensée>を含む多数の定期刊行物を出版し、その隊列の中に、国民的に名高い多数の優れた男女を数え込んだ。すなわち、Aragon やÉluard のような文筆家、Picasso (ピカソ)やLéger のような画家、Juliot-Curie (ジョリオ=キュリー)たちのような科学者。
 こうした全ての者たちの力で、共産党の活動は相当の威信を獲得した。
 かなりの量の哲学上の文献が、出版された。その中のある程度は純粋にスターリニズムのもので、とくに党の月刊誌<Nouvell Critique>上のものはそうだった。
 例えばこの雑誌は、当時にフランスで関心が増えていた精神分析論に対する反対運動を打ち上げた。
 予期されるように、寄稿論考のほとんどは、精神分析論をブルジョア的学問だ、そのうえに観念論で機械論だ、と非難し、社会現象を個人の心理に、人間の精神を生物的な衝動に帰一させるものだ、とした。  
1960年代の「リベラルな」共産主義の運動者として注目されるべきRoger Garaudy(ロジェ・ガロディ) は、内容的はスターリニズムだがソヴィエトでの著作物よりも確実に十分に知見のある好著をいくか執筆した。
 その一つは<Grammaire de la libertéa〔自由の文法〕>で、自由を獲得する方法は産業を国有化して失業を廃絶させることだ、と論じた。
 Garaudy は<Les Sources françaises du socialisme scientifique 〔科学的社会主義のフランスの起源〕>(1948年)では、共産主義はフランス文化に深てかつ独特の根源をもつことを論証しようとした。
 彼はまた、キリスト教に関する書物を書き、カトリック教会が反啓蒙主義であり科学の進展に反抗している証する文章類を引用した。//
 (20)いくぶん異なる性格の、多作の文筆家だったHenri Lefebvre(アンリ・ルフェーヴル)は、マルクスとヘーゲルの著作撰者の一人で、民族主義およびファシズムに反対する複数の著書の執筆者だった。
 彼は1947年に、<Logique formelle et logique dialectique(形式論理と弁証法的論理)>と興味深い<Critique de la vie quotidienne(日常生活批判)>を出版した。
のちには実存主義批判に至り(1960年代や1970年代のフランス・マルクス主義者が論述するのを避けられないものだった)、さらに、デカルト、ディドロー、ラブレー、パスカル、ミュッセ〔Alfred de Musset〕、マルクスおよびレーニンの著作に批判を向けた。絵画や音楽に関する学位論文もある。
 これらの著作は全て、スケッチ風のもので深遠な研究書ではない。しかし、独特のかつ有意義な観察を含んでいる。
 ルフェーヴルは、幅広い文化、とくにフランスとの関係でのそれを知る人物だ。
 彼の著作は生き生きとしていて、独創的だ。しかし、あまりに多数の主題に接触しすぎて、それらのいずれの主題についても長くは存続しなかった。
 彼は、フランスのマルクス主義に対して相当大きい影響力をもった。それは中でも、ソヴィエト・マルクス主義が実践的に無視したマルクスの初期の著作に、頻繁に立ち戻って思考したことによる。
 彼はとくに、「全体的(total)人間」という主題に関心をもった。
 「若きマルクス」が1940年代および1950年代初めにフランス哲学の支え(staple)になったのは、ルフェーヴルに大きく依っている。
 彼はまた、おそらく「疎外(alienztion)」というマルクス主義用語を一般的にした最大の人物だ。この語は(彼が意図したのではないが)、曖昧に心地よくない状況を指し示すためのフランスの日常用語として、好まれる表現句となった。
 傑出したマルクス主義歴史学者のArguste Cornuk(オーギュスト・コルニュ)の著作は、この時期での党の哲学の主流とはいくぶんか離れている。//
 (21)スターリン・イデオロギーの解体の時代のフランス・マルクス主義の進展は、1940年代のヘーゲル主義と実存主義のうねりに影響を受けていた。
 ヘーゲル、とくに<精神現象学>、のフランスの読者への主要な紹介者は、Alexandre Kojève(A・コジェーヴ)とJean Hyppolite(J・イポリット) だった。前者は、戦争前にヘーゲル哲学に関して深く研究して論評していた。
 この二人はいずれもマルクス主義者または共産主義者ではなかったが、マルクスの思想に同調的な関心をもち、真摯に分析し、ヘーゲル体系(schemata)の諸要因がマルクスの思想に影響を与えたことを強調した。
コジェーヴとイポリットは、フランス哲学をその伝統的な回路と関心から逸らす大きな仕事をした。
 とりわけ、歴史の進行の中に具現化された理性(Reason)という考えに通用力を与えた。-この観念は反デカルト的なものだった。なぜなら、デカルトは、歴史を本質的には偶然が支配する領域で、哲学の及ぶ範囲外にあり、意識的な虚構による人為的な構成物、デカルトが名付けたような<fabula muudi>、という手段による以外には合理的に説明することができないものだ、と考えたからだ。
 コジェーヴは1947年に出版された講義録で、労働と闘争によって人間が自分で作り出す歴史としての<現象学(Phenomenology)>を提示した。
 主人と下僕の弁証法のうちに、彼は、マルクスのプロレタリアート理論と歴史を創造するもの(demiurge)としての労働という考えの起源を感得した。
 コジェーヴとイポリットは、マルクスの歴史にかかる哲学はヘーゲルの否定の弁証法を継続させたものだとということを示した。-悪、隷従および疎外は、人類が自己の理解と解放を達成するために必要な手段だ。
 イポリットはとくに、マルクスにとってと同様にヘーゲルにとって理性は、歴史の行路から自立した独自の法則をもつ超越的な観察者ではなく、それ自体が歴史の要素、側面または表現だということを、強調した。また、「理性的なもの」に向かう人類の進歩は漸次的に同質化していく、思考についての既製の法則の問題ではなく、共同体と他者にある理性的なもの承認という意識の成長の問題だ、とも。
 この目的を達成するためには、人間は商品(commodity)として機能することをやめることが必要であって、このことがマルクスの主要なメッセージだ。//
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 ④へとつづく。次の段落の冒頭は、「サルトルの実存主義哲学…」。

1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。

 Leszek Kolakowski (1927.10-)は存命だと今年で92歳になるが、彼もヒト・人間なので永遠には生存できず、2009年の誕生月前に81歳で亡くなっている。
 以下は、L・コワコフスキの逝去を伝えるNew York Times の記事。
 とくに目新しく感じるところは多くない。私の印象に残ったのは、以下だ。
 ①sudden, short illness の後の死だったとされていること。それ以外の子細は公表されていない。
 ②訃報に接して、ポーランド国会が「黙祷」の時間をもったこと。
 ③エッセイ集にL・コワコフスキの英語訳者として名が出てくるAgnieszka Kolakowska は実の娘だと分かったこと(年齢等不詳。後で追記、1960年生まれ )。
 ④一番最後に紹介されているL・コワコフスキの文章は、彼らしく思えること。
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 レシェク・コワコフスキ、ポーランド人哲学者、81歳で逝去。
 New York Times 2009年7月20日。
 記者/Nicholas Kulish。
 ワルシャワ--レシェク・コワコフスキ、マルクス主義を拒否して国外滞在中に母国の連帯運動を活発になるのを助力したポーランド人哲学者が、金曜日に、イギリス、オクスフォードで逝去した。81歳だった。//
 彼の家族は彼の死をポーランドの新聞 Gazeta Wyborza に発表し、彼はオクスフォードの病院で「突然の、短い病気のあとで」死去したと語った。
 それ以上の詳細は、伝えられていない。//
 ワルシャワでは、国会が、彼の栄誉のために、彼のポーランドの自由に対する貢献のために、黙祷をした。//
 長いかつ広範囲の経歴のあいだに、コワコフスキ氏は冷戦というイデオロギー的および軍事的武装競争が極みにあるときに、自分が若いときに支持した共産主義体制の知的な土台を詳細に分析した。
 彼はその影響力が学問の領域をはるかに超える研究者であり、その書いたものは陽気で風刺的で、しかしほとんどは理解しやすい学者だった。//
 ポーランド反対派の指導者の一人である、1985年にGdansk 獄房から執筆したAdam Michnikは、コワコフスキ氏を「現代ポーランド文化の重要な創造者の一人」だと述べた。//
 彼の最も影響力ある著作である、1970年代に出版された三巻本の"マルクス主義の主要潮流-その発生、成長および解体"は、「我々の世紀の最大の幻想」とその哲学を称する、歴史書であり、批判書だった。
 彼は、スターリニズムはマルクス主義からの逸脱ではなく、むしろその自然の帰結だと主張した。//
 きわめて真剣な文章に加えて、彼は戯曲や寓話および魔王が多数の有名な神話上および歴史上の人物と討論する"悪魔との会話"という本も書いた。//
 コワコフスキ氏は、50年以上にわたる経歴の中で30冊以上の書物を出版した。
 彼は、ポーランドの最高の栄誉である白鷲勲位(the Order of the White Eagle)を受け、天才にその資格があると広く知られているMacArthur Foundation 助成金を受けた。//
 2003年には、ノーベル賞がない分野に与えられる、人文社会科学の生涯の偉業に対する、連邦国会図書館の100万ドルのW. Kluge 賞の初代の受賞者になった。
 図書館長のJames H. Billington はこの賞の発表に際して、コワコフスキ氏の学問のみならず、「彼自身の時代での大きな政治的事件への明白な重要性」にも注目を向け、「彼の声はポーランドの運命にとってきわめて重要であり、全体としてのヨーロッパに影響力をもった」、と付け加えた。//
 レシェク・コワコフスキは1927年10月23日にワルシャワの南方のRadom 市で生まれた。その世代のほとんどのポーランド人と同様に、コワコフスキ氏は幼少時に困難な体験をした。
 第二次大戦中のドイツ占領間、コワコフスキと彼の家族は異なる町や村へと移り住むことを強制された。//
 ドイツはポーランドの学校を閉鎖したために、若きレシェクは独学をし、設立されていた地下の学校制度の試験を受けなければならなかった。
 戦争の後、彼は哲学を最初はLodz 大学で学び、のちにWarsaw 大学で博士の学位を得た。
 彼はその大学で教職の地位を得て、哲学史部門の長へと昇った。
 人生のはじめは、彼はナツィズムによる自分の国の破壊に対する反応として共産主義を受け入れ、赤軍をドイツによる数年間の抑圧後の解放者だとして歓迎した。
 しかし、有望な青年マルクス主義知識人への報奨として意図されたモスクワ旅行は、逆に、転換点となった。「スターリン体制が引き起こした巨大な物質的および精神的な荒廃」と彼が叙述したものを、しっかりと見たのだった。//
 2004年のNYタイムズとのあるインタビューで、コワコフスキ氏は、「このイデオロギーは、人々の思考(thinking)を型に入れて作るものだと考えられていた。しかし、ある時点で、きわめて弱くて馬鹿々々しいものになり、結果として、誰も、被支配者も支配者も、信じないようになった」と語った。//
 1956年のPoznan での労働者騒擾のあとで、コワコフスキ氏の著述は検閲と激しく衝突し始めた。
 彼のスターリニズム批判 "社会主義とは何か?" はとくに、公刊禁止となった。
 コワコフスキ氏は、ポーランド統一労働者党から1966年に除名され、Warsaw 大学での地位を1968年に失った。
 彼は、その年に、外国へと移住した。//
 コワコフスキ氏はポーランドを離れたあと、Montreal のMcGill 大学、California 大学Berkley校、Yale およびChicago 大学の社会思想委員会を含む、最高級の研究施設で教育した。しかし、彼の本拠となったのは、Oxford だった。//
 コワコフスキ氏は、妻のTamara と一人娘のAgnieszka を残して先立った。//
 1982年の著名な講義でコワコフスキ氏は、哲学の文化的役割について、こう語った。
 「精神のもつ知的欲求のエネルギーを決して眠らせないこと、明白で決定的だと見えるものを疑問視するのを決してやめないこと、常識がもつもっともらしい純粋な根拠につねに反抗してみること」、そして「科学の正統とされる範囲を超えて存在してはいるが、それでもなお他にも、我々が知るように、人間の生存にとっては致命的に重要な諸問題がある、ということを決して忘れないこと」。
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 以上。
 下は全てRadom 市に存在するのものだと思われる。ネット上から。
 
 Leszek_Kolakowski_grave_2 (2) Leszek_Kołakowski_ssj_20110627 (2)

 Leszek_Kolakowski_Monument_in_Radom,_Poland1 (3) Leszek_Kolakowski_Monument_in_Radom,_Poland2 (2)
 

1897/Wikipedia によるL・コワコフスキ②。

 'Leszek Kolakowski' は英米語版のWikipedia も勿論あるが(日本語版はひどい)、その著、'Main Currents of Marxism' という書物自体も、英米語版Wikipedia は項目の一つにしている。
 以下は、その試訳。2018年12月21日現在。なお、この欄で合冊版の発行年を、所持している版の発行年2008年としたことがあり、最近では書物の最初部分に依拠して最も若い年の2004年としているが、以下では2005年だと記されている。( )は改行後を示すもので、数字も含めて、原文にはない。
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 (1) <マルクス主義の主要潮流-その起源、成長および解体>(〔ポーランド語・略〕は、政治哲学者レシェク・コワコフスキによる、マルクス主義に関する著作。
 英語版での三つの諸巻は、第一巻・創成者たち、第二巻・黄金時代、第三巻・崩壊。
 1976年にパリでポーランド語によって最初に出版され、英語翻訳版は1978年に出た。
 2005年に、<マルクス主義の主要潮流>は一巻の書物として再発行され、コワコフスキによる新しい緒言と新しいエピローグがそれに付いていた。  
 この著作はコワコフスキによると、マルクス主義に関する「手引き書」という意図だった。
 彼は、かつて正統派マルクス主義者だったが、最終的にはマルクス主義を拒絶した。
 そのマルクス主義に対する批判的な立場にもかかわらず、コワコフスキはカール・マルクスに関するLukács György〔ルカチ・ジョルジュ〕の解釈を支持した。
 (2) この著作は、マルクス主義に関するその論述の包括性とその叙述の質を褒め称える、多数の肯定的な論評を受けた。
 歴史的唯物論、ルカチ、ポーランド・マルクス主義、レオン・トロツキー、ハーバート・マルクーゼおよびフランクフルト学派に関するその論述が、とくに抜きん出ているとされた。
 別の論評者たちはフランクフルト学派に関する彼の扱いにもっと批判的だ。また、カール・カウツキー、ウラジミル・レーニンおよびアントニオ・グラムシに関する取り扱いについて、彼らの評価は、分かれている。 
 コワコフスキは、特定の著者たちまたは諸事件、彼のマルクス主義に対する敵意、ルカチの解釈への依存、に関する論述を省略していると批判された。また、現代世界に対するマルクス主義の訴えまたは影響を説明していない、他のマルクス主義著作者を無視してマルクス主義哲学者に焦点を当てることでマルクス主義の印象を誤らせる、とも。//
 1/背景と出版の歴史。
 コワコフスキによると、<マルクス主義の主要潮流>は、1968年と1976年の間にポーランド語で執筆された。その頃、この著作を共産主義が支配するポーランドで出版するのは不可能だった。
 ポーランド語版はフランスでthe Institute Littérailie よって1976年と1978年に出版され、そのときに、ポーランドの諸地下出版社によって複写された。一方、P. S. Falla が翻訳した英語版は、1978年に、Oxford University Press によって出版された。
 ドイツ語、オランダ語、イタリア語、セルビア=クロアチア語およびスペイン語の各翻訳書版が、そのあとに続いて出版された。
 別のポーランド語版は、1988年にイギリスで、Publishing House Aneks によって出版された。
 この著作は、2000年にポーランドで初めて、合法的に出版された。
 コワコフスキは、最初の二巻だけがフランス語版となって出版されていると書き、その理由を、「第三巻は、フランス左翼たちの間の憤懣が激しかったので出版社がリスクを冒すのを怖れた」、と推測している。
 <マルクス主義の主要潮流>の全一巻合冊版は、コワコフスキによる新しい緒言と新しいエピローグ付きで、2005年に出版された。
 2/要約。
 (1) コワコフスキは、マルクス主義の起源、哲学上の根源、黄金時代および崩壊〔瓦解〕を論述する。
 彼は、マルクス主義は「二〇世紀の最大の幻想(fantasy=おとぎ話)」、「虚偽と搾取と抑圧の怪物的体系」のための建設物となる完璧な社会という夢想、だと叙述する。
 彼は、共産主義イデオロギーのうちのレーニン主義やスターリン主義はマルクス主義を歪曲したものでも堕落させたものでもなく、マルクス主義のありうる諸解釈の一つだ、と主張する。
マルクス主義を拒絶しているにもかかわらず、彼のマルクスの解釈はルカチから影響を受けている。
 第一巻は、マルクス主義の知的背景を論述し、Plotinus、Johannes Scotus Eriugena、Meister Eckhart、Nicholas of Cusa、Jakob Böhme、Angelus Silesius、Jean-Jacques Rousseau、David Hume、Immanuel Kant、Johann Gottlieb Fichte、Ludwig Feuerbach、Georg Wilhelm Friedrich Hegel および Moses Hess を検証した。カール・マルクスとフリートリヒ・エンゲルスの諸著作の分析があるのは、勿論のことだ。
 ヘーゲルは全体主義の弁解者だということを彼は承認しなかったけれども、ヘーゲルに関して彼は、「ヘーゲルの教理の適用が実際に意味したのは、国家機構と個人とが対立する全ての場合に勝利するのは前者だ、ということだ」と書いた。
 (2) 第二巻は、第二インターナショナルおよびPaul Lafargue、Eduard Bernstein、Karl Kautsky、Georgi Plekhanov、Jean Jaurès、Jan Wacław Machajski、Vladimir Lenin、Rosa Luxemburg やRudolf Hilferding といった人々に関する論述を内容とする。
 これは、経済学者の Eugen Böhm von Bawerk との価値理論に関するヒルファーディングの議論を再述している。
 また、オーストリア・マルクス主義に関しても論述する。
 第三巻は、Leon Trotsky、Antonio Gramsci、Lukács、Joseph Stalin、Karl Korsch、Lucien Goldmann、Herbert Marcuse、Jürgen Habermas および Ernst Bloch といった人々を扱う。フランクフルト学派と批判理論については勿論のことだ。
 コワコフスキは、ルカチの<歴史と階級意識>(1923年)やブロッホの<希望の原理>(1954年)を批判的に叙述する。
 また、Jean-Paul Sartre についても論述する。
 コワコフスキは、サルトルの<弁証法的理性批判>(1960年)を批判する。
 彼は、弁証法的唯物論は、第一にマルクス主義に特有の内容を有しない自明のこと、第二に哲学上のドグマ(dogmas)、第三にたわ言(nonsense)、そして第四に、これらのいずれかであり得る、どう解釈するかに依存する言明 、で成り立つと論じて、弁証法的唯物論を批判する。
 (3) 2005年版で追加した緒言で、コワコフスキは、ヨーロッパでの共産主義の解体の理由の一つはイデオロギーとしてのマルクス主義の崩壊にある、と叙述した。
 彼は、ヨーロッパ共産主義が終焉したにもかかわらず研究対象としてのマルクス主義の価値を再確認し、全く確実ではないにせよ、将来でのマルクス主義と共産主義の再生はなおもあり得る、と述べた。
 彼が追加したエピローグでは、マルクス主義に関するこの著作は「この対象になお関心をもつ数少なくなっている人々にはたぶん有益だろう」と最後に記した。
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 3以降へとつづく。

1892/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第三節③。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 1978年英語版 p.113-p.116、2004年合冊版p.874-p.880。
 最後から二つ目の文につき、ドイツ語訳書3巻p.132も参照した。
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 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容③。
 (19)世界共産主義に対するスターリン独裁の一つの効果は、マルクス主義の研究を徐々に衰退させたことだった。。
 「ボルシェヴィキ化」の過程にあった1920年代は、多様な分派的で個人的な争論で溢れていた。それらは通常は、レーニンが遺した政治的文献の正しい解釈に関する論争というかたちをとった。しかしこれらは、ソヴィエト様式(Soviet-type)の正統派が徐々に成文化されたことを別とすれば、教理に対する永続的な影響を持たなかった。
 にもかかわらず、1920年代初期の革命的雰囲気は、若干の理論的な文献を生んだ。そこでは、第二インターナショナルの正統派指導者たちが伝えたマルクス主義教理が完全に修正されていた。
 それらのうち最も重要なのは、ルカチ(Lukács)とコルシュ(Korsch)の著作だった。この二人はいずれも、コミンテルンによって「極左」だと汚名を着せられて非難された。
 彼らは異なる方法で、「理論と実践の統一」という観念に新しい生命を注入し、正統派と新カント派のいずれにも広まっている科学的見方と闘うことによって、マルクス主義哲学を最初から再構築しようとした。。
 多くの諸国では、逞しい従前の世代がなおも、共産主義運動の外側で非教条的なマルクス主義の伝統を維持していた。すなわち、オートスリアのAdler やBauer 、ポーランドのKrzywicki 、ドイツのKautsky やHilferding。
 しかしながら、この時代の彼らの活動は教理の発展に対して大きな影響力を持たなかった。彼らのうちいく人かはすでに作られていた諸観念や主題を反復することで満足しており、別の者たちは次第にマルクス主義の伝統から離反した。
 そうしているうちに、社会民主主義との闘いに社会主義運動を一元化するコミンテルンの政策によって、理論的作業は行われなくなった。
 社会民主主義はマルクス主義から大きく離れたものになっており、単一の拘束的イデオロギーを求める必要性を失った。
 マルクス主義はソヴィエトのイデオロギストたちを実際に独占し、過ぎゆく年ごとに味気ないものになった。//
 (20)ドイツにだけは、共産主義と一体化しない重要なセンターがあつた。1923年にフランクフルトに創立された社会研究所(the Institute fuer Sozialforschung)だ。
 このメンバーたちは最初はマルクス主義の伝統から強く影響を受けていた。しかし、それとの連環は次第に弱くなりつ、のちにますます明確になった一定の様式が形成された。
 一方で、マルクス主義は制度化された党イデオロギーとして硬直化し、政治的には有効だつたが全ての哲学上の価値を失った。
 他方で、マルクス主義は全く異なる伝統と、明瞭な外郭線を示すことをやめるに至るまで結びついた。そして、知的歴史に寄与する多数のものの一つにすぎなくなった。//
 (21)しかしながら、1930年代半ば頃のフランスで、マルクス主義運動がある程度生き返った。
 その指導者の中には科学者、社会学者および哲学者がいたが、全てが共産主義者ではなかった。Henri Wallon 、Paul Langevin 、Frédéric Joliot-Curie 、Marcel Prenant 、Armant CuvillerおよびGeorges Friedman だ。
 これらは戦後のフランスの知的生活で重要な役割を果たした。政治的に共産主義に関与する学者と(但し、必ずしもマルクス主義理論家ではなかった)、または伝統的マルクス主義理論の、システムを形成しないでばらばらな様式で知的生活を一貫させた一定の側面の継続者とのいずれかとして。
 戦争間でのフランスで最もよく知られた正統派は、Georges Politzer だった。この人物は、占領期に殺された。
 彼はBergson を激しく批判する書物やレーニン主義の弁証法的唯物論に関する一般向け手引き書を書いた。
 イギリスでは、著名な生物学者で地球上の生命の起源に関する書物の執筆者だったJ. B. S. Haldane が、マルクス主義と現代科学との親和性を証明しようと努力した。
 もう一人のマルクス主義者は、アメリカの遺伝学者のH. J. Muller だった。
 しかしながら、この二人の場合、マルクス主義はとくにマルクス主義とは言えない様相で示された。生物学では、主としては生気論や最終主義に対する一般的な反論という形で表れたように見える。
イギリスのMaurice Dobb も、とくに景気循環との関係で、マルクス主義経済理論を擁護した。//
 (22)イギリスの労働党の左翼では、Harold J. Rasky がマルクス主義的用語法で国家の理論、権威の性質および政治思想の歴史を詳しく解説した。
 1930年代の後半、彼は、「究極的には」ある階級が別の階級を強制することに役立つ装置としての国家に関するマルクス主義理論を採用した。
 彼は当時のリベラリズムを主要な目的は被搾取者の意見が聴かれないままにするイデオロギーだと攻撃し、財産所有階級の致命的利益が脅威に直面すれば彼らは統治のリベラルな形態を拒絶し、生の暴力に頼るだろう、と主張した。
 ヨーロッパでのファシズムの成長は、ブルジョア国家の発展の自然な結果だ。ブルジョア民主主義は衰退の状態にあり、ファシズムに対する唯一の代替選択肢は、社会主義だ。
 にもかかわらず、Rasky は、伝統的な民主主義的自由に愛着があり、プロレタリア革命は民主主義的自由を損なわないままにするだろうと信じた。
 彼は、社会発展への鍵は中産階級の態度にある、と明確に論じた。
 この当時に共産党員だった(のちに社会民主主義者になった)John Strachey は、同じ問題について、正統派的なレーニン主義の観点から議論した。//
 (23)才能ある著作者のChristopher Caudwell (Christopher St. John Sprigg, 1907-37の筆名)は短期間、イギリスのマルクス主義の中で傑れていた。
マルクス主義者かつ共産主義者としての彼の経歴はほとんど二年間しかなかった。-スペインの国際旅団で闘って殺された。
 しかし、1936年に、<幻想と現実-詩の源に関する研究>と題する注目すべき書物を生んだ。
共産党員になるまでに彼は、いくつかの探偵小説や飛行機に関する大衆向け書物を書いた。
 <死にゆく文化の研究>(1938)、当時のイギリス文学、「ブルジョア文化」一般に関する小文を集めたもの、および未完の<物理学の危機>(1939)、観念論、経験主義および現代科学理論の非決定論に対するレーニン主義的攻撃、のような彼の詩作は、死後に遺作として出版された。
 マルクス主義の著作として最もよく知られる<幻想と現実>で、彼は社会と技術の進化について異なる段階の韻律の変化を含めて、詩の歴史の相互関係を示そうとした。
 同時に、自由を必然性からの自立と把握するブルジョア的観念を攻撃した。一方でエンゲルスは、自由とは人間の目的のために自然的必然性を利用することだと述べていたのだが。
 この書物は、16世紀以降のイギリスの詩に個別に注目した。Marlowe とShakespeare は本源的蓄積の英雄的時代に位置し、Pope は重商主義時代に位置する、等々。
Caudwell は、詩作は元来は生産を増やす目的の農業儀礼の一要素にすぎなかった、とする見解だった(とくにマルクス主義的というのではないが、初期の人類学的作業だ)。
 のちの階級社会で、詩作、音楽および舞踏は生産と分離したが、それは芸術の疎外(alienation)を意味した。
 社会主義の役割は、この過程を逆方向に動かし、生産活動と芸術的活動の統一を回復することだ。//
 (24)西側ヨーロッパの知的生活は、またある程度の範囲ではアメリカ合衆国のそれは、1930年代遅くには奇妙な情況を呈した。
 一方では、スターリニズムが十分な実績をつみ、その最もおぞましい特質のいくつかは全世界の者が分かるまでに暴露されていた。
 しかし、他方では、多数の知識人たちが、ファシズムに代わる唯一の選択肢およびそれに対抗する防衛手段として、共産主義に魅了された。
 あらゆる種類の政治的集団はナツィの侵攻の脅威を前に、弱々しく、決断力がなく、そして無力であるように見えた。
 多くの者にとってマルクス主義は理性主義、人間中心主義そしてかつてのリベラルな考え方の全てを維持し続けているように思え、そして共産主義はマルクス主義を政治的に具現化したもので、ファシストの猛襲を食い止める最大の希望だった。
 左翼知識人たちは、実際に現存しているが最初からとくにマルクス主義的というのでもない特質をもつマルクス主義に向かって、惹き寄せられた。
 ソヴィエト・ロシアがファシズムに対抗する主要な勢力だと見えるかぎりで、こうした知識人たちは、ソヴィエト共産主義と彼らが理解するマルクス主義とを同一視しようと努めた。
 そのようにして彼らは、共産主義政治の現実にわざと目を閉ざした。
 George Orwell のように教理上の想定からではなく経験上の事実から実際の共産主義に関する考えを形成した人々は、憎悪と憤慨を味わった。
 偽善と自己欺瞞は、左翼知識人がもつ永続的な思潮になった。//
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 ③終わり、第3節終わり。そして、第三章も終わり。

1890/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第三節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 1978年英語版 p.109-p.113、2004年合冊版p.874-p.877。
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 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容②。
(10)1924年半ば、スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフの三人組の支配者たちは、トロツキーと深刻な闘争を繰り広げていた。その頃、第五回大会が開かれ、全ての構成諸党の「ボルシェヴィキ化」を求める決議を採択した。
 これが意味するのは理論上は、ロシアの党の方法と様式を採用すべきだ、ということだ。だが実際には、全ての問題に関してロシアの党の権威を承認すべきだ、というととだった。
 この大会自体が、「ボルシェヴィキ化」がすでに十分に進んでいることを示した。スターリンとその仲間たちの求めによって、全ての諸国の共産党が満場一致で、トロツキーを非難した。
 翌年のドイツ共産党の大会で、何をボルシェヴィキ化が意味するかに関する実際的な説明が示された。スターリンの主要な取り巻きの一人であるコミンテルン・ソヴェト代表者Manuisky が中央委員会の構成に関する規約を定めようと試みたときに。
 ドイツ共産党の代議員たちがこれに従うのを拒否したとき、執行委員会議長のジノヴィエフは彼らをモスクワへと召喚し、Ruth Fischer とArkady Maslow という「左翼」指導者たちを排除するよう命じた。これらの人物は、ボルシェヴィキ<に対して向かいあった>ある程度の自立性をもつ外観は維持しようとしていたのだった。//
 (11)第五回大会の別の決議は、ドイツの彼らの役割はブルジョアジーと共謀して労働者階級の中に民主主義と平和主義の幻想を染みこませることにあると述べて、社会民主主義者だと性質づけた。
 資本主義が衰亡するにつれて、社会民主主義は限りなくファシズムに接近する。この二つは、実際には、資本主義者の手のうちの単一の武器の両面だ。
 これらは、数年後に、コミンテルンの政策の原理的な指針となった。//
 (12)第五回と第六回のコミンテルン大会の間に四年が過ぎた。スターリンはおそらく、トロツキーに対する、またジノヴィエフとカーメネフ、およびこれらの仲間たち、に対する最終的な勝利を達成するまでは大会を招集するつもりがなかった。
 コミンテルンはその間に、「社会ファシズム」に関する教理にもかかわらず、アングロ=ロシア委員会をもつ1925年に形成されるに至ったイギリス労働組合に、世界労働組合運動の統合を促進するよう勧めていた。
 しかし、これは短期間で終わり、成功しなかった。
 1926-27年、コミンテルンは中国で重大な後退をこうむった。中国では、モスクワの指令にもとづいて小さな共産党が、中国を統一して近代化し、西側諸国による支配から自由になろうとする革命的な蒋介石を支援していた。
 スターリンの意見では、これはブルジョア的民族運動であり、その行方はプロレタリアート独裁へと一気に進むものではなかった。 
 ソヴェト同盟は武器を与え、軍事、政治の顧問団を送って助け、1926年春に蒋介石は、コミンテルンを「同調する」(sympathizing)党だとすら認めた。
 しかしながら、蒋介石は政府を形成したときに共産党員を排除し共産党には一部の権力も与えなかった。また、1927年4月の上海での中国共産党の蜂起を、多数の逮捕と処刑でもって鎮圧した。
 蒋介石はまずは打撃を加えて「同盟者」の機先を制した、と遅まきながら悟ったスターリンは、広東での暴動を命じて状況から脱しようと試みた。
 この広東暴動は同年12月に起きたが、新しい大虐殺でもって鎮静された。
 これらの失態について、トロツキーはスターリンを非難した。蒋介石の指導性を認めるのではなく、中国共産党は最初からソヴェト共和国樹立を狙うべきだったのだ、と。-トロツキーは、中国共産党はいかにすれば当時のその勢力の状態で蒋介石に勝つことができたのかを説明しなかったけれども。
 しかしながら、コミンテルンは中国共産党を「誤った政策方針」を追求したと非難した。そして、陳独秀〔中国共産党の初代総書記〕は批判され、のちに追放された。//
 (13)1928年8月の第六回大会は、社会主義者たちとの協働の試みを最終的にやめさせた。いずれにせよ、下らなくて、かつ成功しない、として。
 この大会は、世界の社会民主主義とその支配下にある労働組合は資本主義の主柱であり、全ての共産党は「社会ファシストたち」との闘いに全力を集中することを命じられる、と宣言した。
 また、資本主義の一時的な安定は今や終わった、新しい革命の時代が始まっている、と宣告した。
 多様な諸国の各共産党は、これらに倣って「右派」と「宥和派」を党から追放した。そして、新しい粛清によって、ドイツ、スペイン、アメリカ合衆国その他の諸国の指導者たちの中に、多数の犠牲者が生まれた。//
 (14)力強い政治的勢力の代表だったドイツ共産党が社会主義者を攻撃したことは、ヒトラーが権力を奪取した大きな原因だった。
 ドイツ共産党は、ナチズムは一過的な事象であり得るにすぎない、大衆が過激になることは共産主義への途を掃き清めてくれるだろう、と主張した。
 ヒトラーが政権に就いた後ですら、ドイツ共産党は、一年全部ほどの間、社会主義者を主要な敵だと見なした。
 ドイツ共産党が見方を変えたときまでには、この党はすでに破壊され、無力になっていた。//
 (15)1929年の末までに、ブハーリン(1926年にジノヴィエフを継いで執行委員会議長)の脱落の後には、スターリンは疑いなくボルシェヴィキ党の所有者であり、かつそれを通じて、国際共産主義の所有者だった。
 コミンテルンは独自の意義を全て失い、クレムリンから他諸党に対する指令の連絡管にすぎなくなった。
 コミンテルンの部員はスターリンに忠実な者たちだけで占められ、ソヴィエトの警察に統制された。
 彼らの仕事の中には、ソヴィエト同盟のための諜報員(intelligence agents)を新規に見つけることも含まれていた。
 粛清が繰り返されたあとの全ての諸党は、抗弁することなくモスクワからの変転する指令を受け入れた。その大部分は、ソヴィエトの外交部局が命じたものだった。
 スターリンは諸党に気前よく財政的援助をし、そうして諸党の彼への依存関係はますます増大した。
 コミンテルンは1930年代の半ばまでにたんなる外形だけになっており、外国諸党の服従を維持するという目的のためにすら、もう必要がなかったほどだ。//
 (16)第七回、そして最後のコミンテルン大会はモスクワで1935年7月-8月に開かれ、その後の一年またはそれ以上の期間の予兆となった、ファシズムに対する「人民戦線」という新しい政策方針を宣言した。
 それまで「右翼日和見主義」だと非難されてきたものが、今や公式の方針になった。
 全ての民主主義諸勢力、リベラル派はもちろん必要であれば保守派もだが、とくに社会主義者たちは、ファシストに対抗するために共産党の指導のもとに結集すべきものとされた。
 この政策に転じたスターリンの根拠は、かりにヒトラーがロシアを攻撃した場合にフランスその他の諸国が中立の立場をとる、ということへの恐怖だったかに見える。
 ともかくも、フランスは「人民戦線」方針の主要な対象だった。ドイツでは力のない<エミグレ>集団にだけ適用できるもので、他諸国の各共産党は、事態に影響を与えるには弱体すぎた。
 フランスの人民戦線は、1936年5月の選挙で勝利した。しかし、フランス共産党は、Léon Blum〔レオン・ブルム〕政権に閣僚を出すことを拒否した。
 一般的には、この政策方針は長くは続かず、ほとんど成果を生まなかった。
 その方針は、公式には取り消されなかったけれども、スターリンがナツィ・ドイツとの<友好関係(rapprochement)>を追求すると決定したときに、死文書(dead letter)となった。
 その間に、破壊されて地下に潜っていたドイツ共産党は遅まきながら、全ドイツの統一とポーランド回廊の廃絶というヒトラーのスローガンを採用した。//
 (17)「人民戦線」戦術の真の性格は、スペイン内戦によって明確になった。
 フランコ(Franco)の反乱の数カ月のち、スターリンは、共和国防衛のために干渉することに決めた。
 国際的旅団が編成され、ソヴィエト同盟は、軍事顧問団の他に政治工作員から成る組織を派遣した。そして、この組織は、共和国勢力の中のトロツキー主義者、アナキストおよびあらゆる種類の偏向主義者たちを追放した。
 (18)国際共産主義は、今や完全に「ボルシェヴィキ化」された。そして、いかなる場合でも、非ボルシェヴィキの共産主義の形態は、意味あるものとして継続することをやめた。
 1920年代には、党から追放されたりコミンテルンの方針に抗議して脱退したりした個人や集団は、ときおりは非ソヴィエト的共産主義の運動を組織しようとした。しかし、そうした試みは何も生み出すに至らなかった。
 トロツキー主義者たちは小集団となって無為に暮らし、力もなく世界のプロレタリアートの「国際的良心」に訴えかけた。
 ボルシェヴィキ党の権威と全共産党によって受諾された組織上の諸原理の強さは、1950年代までどの反対派集団も支持または影響力をもち得ないほどのものだった。
 世界の共産主義者たちは、スターリンが定めた道筋に沿って従順に行進した。
 1943年5月のコミンテルンの解散は、ソヴィエトが善意と民主主義的意思をもつことを西側の世論に対して説得するための素振り(gesture)にすぎなかった。
 諸共産党は十分にうまく躾けられ、組織や財政についてソヴィエト同盟に依存していたので、それら諸党を基本方針内に抑え込み続けるための特別の制度はもう必要がなかった。したがって、コミンテルンの解散には、何の意味もなかった。//
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 ③へとつづく。

1873/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 1978年英語版 p.66-p.70、2004年合冊版p.843-p.847。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義③。
 (16)「弁証法論者」は、執筆者たちはのちに非難されたとしても、国家イデオロギーの経典へと入り込み、数十年の間は拘束的なままだった基本的用語、言明、および教義をソヴィエト・マルクス主義に授けた。
 彼らの遺産の一部は、形式論理に対する攻撃だった。それは、ロシアでの論理的研究の崩壊をもたらした以上のものだった。
 弁証法論者は、論理が何と結びついているのか、あるいはその言明は何を意味するのかを分かっていなかった。
 しかしながら、彼らは、論理は「概念の内容から抽出」するので弁証法とは対立するに違いないと想像していた。なぜなら、弁証法は我々に、「具体的状態で」かつ(論理は切り離す)「相互関係において」、また(形式論理は理解できない)「動きの中で」現象を研究するように要求するのだから。
 この馬鹿々々しさの理由は、部分的には無知だった。しかし、部分的には、エンゲルスのいくつかの言明にもとづいていた。
 Deborin は1925年のレーニンに関する論考で、形式論理は世界が単相でもあり多層的でもあるということを考慮することができない、と書いた。また、同年の<弁証法的唯物論と自然科学>で、形式論理は「形而上学のシステム」の構築に奉仕するだけで、マルクス主義からは排除されている、弁証法は形式と内容は相互に浸透し合うことを教えているのだから、と宣言した。
 科学は形式論理を基礎にしては前進することができない、各科学は「事実の収集体」であるにすぎず、マルクス主義的弁証法のみがそうした諸事実を系統的な全体へと連環づけすることができる。
 物理学者たちが「這いずり回る経験論」に執着しないでヘーゲルを読めばすぐに、彼らが進歩し様々の「危機」を克服するのを弁証法が助けることを理解するだろう。
 「理論的自然科学」の創始者であるエンゲルスは、最初からずっと、ヘーゲルから弁証法を吸収した。//
 (17)Deborin は哲学が諸科学を支配すると考えために当然に、Lukács の<歴史と階級意識>によって激しく論難された。この書物は弁証法は統合へと進む過程での主体と客体の相互作用だとの理由で自然の弁証法の可能性を疑問視した。
 この主張を受けてDeborin は、Lukács は認識は「現実の実体」だと考える観念論者である正体を暴露した、と論じた。
 1924年に発行されたオーストリアの雑誌<労働者文学>の論考でDeborin は、Lukácsの誤り、およびエンゲルスに対する、ゆえにマルクスに対する、非礼な態度を非難した。
 さらには何と、Lukács はマルクス主義正統派はマルクス主義の方法に関する知識でのみ成り立っていると述べたが、しかるにその方法はマルクス主義者にとっては「内容と不可分に結びついている」、と。
 Lukács の「主体と客体の一体性」は観念論の同類で、エンゲルス、レーニンおよびプレハノフの明確な言述と矛盾している。
 主体が行う全ては客体を「反映する」ことであり、そう考えないのは「客観的な現実」を放棄することだ。//
 (18)機械主義、「這い回る経験論」および科学の自律性を攻撃し、そしてヘーゲル、「質的跳躍」および「現実の矛盾」を擁護することで、Deborin は、同好の学者たちと狂信者たちの多数から支持された。
 そのうち最も積極的だったのはG. S. Tymyansky だった。この人物はSpinoza の著作を翻訳し、論評していた(その論評はきわめて図式的だったが、啓蒙的で、事実の観点からは有用だった)。
 さらに、純粋な哲学者で哲学史研究者のI. K. Luppol。そして、V. F. Asmus, I. I. Agol、およびY. E. Sten。
 Medvedyev がスターリンに関する書物で述べるように、Sten は、1925-1928年にスターリンに哲学について授業(lesson)をし、スターリンにヘーゲル弁証法を理解させようとした。
 このグループのうちたいていは、全員ではないが、1930年代の大粛清の中で死んだ。//
 (19)しかしながら、弁証法論者は1920年代の後半には有利な位置を占め、ソヴィエトの哲学上の諸装置に対する完全な支配権を獲得した。
 1929年4月のマルクス=レーニン主義教育者会議で、Deborin は彼の哲学上の大綱を提示し、異端者に対する非難を繰り返した。
共産主義アカデミーは彼を完全に支持し、機械主義を非難する声明(decree)を発した。
 このDeborinの例に見られるように、以前に会議自体が、プロレタリアートの独裁の理論的武器としてのマルクス=レーニン主義の役割を確認し、自然科学へのマルクス主義の方法を適用することを求め、機械主義者たちを「修正主義」、「実証主義」そして「卑俗的進化主義」と非難する決議を採択していた。
 哲学上の諸問題を党の会議または党の支配に服する集会での票決によって決定するという習慣は、このときまでに十分に確立されており、驚く者は一人もいなかった。
 機械主義者たちは議論で自己防衛し、反対攻撃すらした。「観念論的弁証法」を主張し、自然に対して空想上の図式を課し、機械主義に対してのみ矛先を向け、観念論が提起する諸問題を無視し、注目を党が設定した実践的な責務から逸らすものだ、と彼らの反対者を追及することによって。
 しかしながら、こうした防衛は無益だった。機械主義者たちは分離主義者(schismatics)だというのみならず、ちょうどその頃にスターリンが攻撃していた「右翼偏向主義」を哲学の分野で代表するものだという烙印を捺された。//
 (20)Deborin主義者たちは勝利のあと、哲学教育または哲学関係著作物の出版に関係する全ての諸組織を支配した。
 しかし、彼らの栄光は長くは続かなかった。
 「弁証法論者」は、懸命に努力したにもかかわらず、哲学問題に関する党の期待を推し量らなかったようだ。
 1930年4月のモスクワでの第二回哲学会議で、Deborinとそのグループは、赤色教授研究所からの一団の若き党活動家によって攻撃された。党の精神を不十分にしか示していない、と糾弾されたのだ。
 この批判は6月に、M. B. Mitin、P. F. Yudin およびV. N. Raltsevich の論考で繰り返された。この論考は<プラウダ>に掲載され、編集部によって、つまりは党当局によって、推奨されていた。
 この新しい批判は党生活でと同様の哲学での「二つの前線での闘い」を呼びかけ、当時の哲学指導者たちは「形式主義者」で、レーニンを犠牲にしてプレハノフを高く評価し、哲学を党の目標から切り離そうとしている、と追及した。
 弁証法論者たちはこの責任について反論したが、無駄だった。
 12月に、赤色教授研究所内の党執行部は、スターリンにインタビューをした。スターリンは、Deborin主義者の考え方を表現するために「メンシェヴィキ化する観念論」という語を作り出した。
 それ以降、この言葉によるレッテル貼りは公式に採用された。そして、その執行部は、一方では機械主義者およびTimiryazev、Akselrod、Sarabianov、そしてVaryashという「しばしばメンシェヴィキ化する」修正主義者、他方ではDeborin、Karev、Sten、Luppol、Frankurtその他の観念論的修正主義者を非難する、長い決議を採択した。
 その決議は、「Deborin主義グループの理論的かつ政治的考え方全体は本質的に、非マルクス主義、非レーニン主義の方法論にもとづくメンシェヴィキ化する観念論に達しており、プロレタリアートを取り囲む敵対階級勢力の圧力を反映しているとともに、小ブルジョアのイデオロギーを表現している」、と述べた。
 このグループは、レーニンの論文「戦闘的マルクス主義の意義」の教えを「歪曲し」、「理論を実践から分離し」、そして「党哲学のレーニン主義原理」を変質させて拒絶した。
 彼らは、弁証法的唯物論の新しい段階としてのレーニン主義を理解することができず、多くの点で、機械主義を批判するふりを装いながら機械主義者と共通する根本教条に立っている。
 彼らの出版物は、プロレタリアート独裁に関する「カウツキー主義者」の誤りを含み、文化問題では右翼日和見主義者の誤りを、集団主義と個人主義に関してはBogdanov 主義者の誤りを、生産力と生産関係という概念に関してはメンシェヴィキの誤りを、階級闘争については準トロツキー主義者の誤りを、そして弁証法に関しては観念論者の誤りを含んでいる。
 Deborin主義者たちは、ヘーゲルを不当に賞賛した。世界観から方法論を、歴史的なものから論理的なものを、切り離した。そして、自然科学の問題に関するレーニンの重要性を過小評価した。
 党内部で富農の利益を擁護しようとする右翼偏向の理論的根拠であるので、この時点での主要な危険はたしかに、機械主義的修正主義だ。しかし、闘いは二つの戦線で果敢に行われなければならない。修正主義の二つの形態は、実際には一つのブロックを形成しているのだから。
 (21)共産主義アカデミーでのMitin の講義は、こうした批判の全てをさらに発展させた。彼自身はこのとき、「哲学戦線」での指導者になることを望んでいた。
 その講義は繰り返して「メンシェヴィキ化する観念論」とトロツキー主義の間の連環に言及した。すなわち、たしかに機械主義者たちはブハーリンや親富農偏向の哲学上の前面にいるので、Deborin主義者たちが正統派を装いつつトロツキー主義の左翼偏向を支持していると推論するのは当然だ、と。
 Mitin によると、二つのグループは、哲学および理論の問題ではレーニンはマルクスとエンゲルスが語ったのと同じことをたんに反復しているにすぎないという悪辣な中傷を広げていた。-まるでスターリンは、レーニンが「発展させ、深化させ、より具体的にすることで」マルクス主義理論史上の質的に新しい段階を代表していることを証明していないかのごとくに!
 偏向者たちはまた、哲学および自然科学を含む全ての科学は党の精神の中に注入されなければならないというレーニンの原理を無視している。
 Mitin は、プレハノフは多数の政治的かつ哲学的な間違いを冒している一方で、レーニンが言明したように彼の著作はマルクス主義文献の中での最良のものだという趣旨のKarev の論文を引用した。
 Mitin は述べた。このことは、Deborin主義者は「プレハノフ全体、メンシェヴィキとしてのプレハノフ」のために武器を取り上げていることを示す、と。
 Deborin主義者は、レーニンは哲学についてはプレハノフの生徒だと、あえて主張することすらする。だが実際には、レーニンはマルクスとエンゲルスの後の最も一貫した、正統なマルクス主義者だ。
 その一方でプレハノフは、弁証法を正しく理解しておらず、形式主義に落ち込み、不可知論へと傾き、Feuerbach、Chernyshevsky および形式論理の影響を受けている。
 Deborin主義者の過ちの根源は、しかしながら、「理論の実践からの分離」にある。
 彼らの機械主義者たちに対する闘いは、長年継続したけれども一人の機械主義者すら自分の誤りを認めなかった!、ということが示すように、模擬演習のようなものだ。
 実際のところ、二つのグループの間にはほとんど違いがない。メンシェヴィキ化する観念論者とメンシェヴィキ化する機械主義者はいずれも、レーニンの哲学を見下している。//
 (22)ソヴィエト哲学の粛清は、1931年1月25日の<プラウダ>で発せられた党中央委員会の布告(decree)によって完結した。この布告は<Pod znamenem Marksizma>の誤りを非難し、すでに記した批判を簡単に要約した。
 (23)Deborin、Luppolおよびその他の構成員は急いで自己批判を行い、正しい光を見るのを助けてくれたことについて党に感謝した。
 Sten、Luppol、Karev、Tymyanskyおよび他の多数の者は、1930年代の粛清の中で死んだ。
 Deborin は、<Pod znamenem Marksizma>の編集長を解任されたが(編集部は実際上完全に変わった)、生き残った。
 彼は党から除名もされず、その後の時代に申し分のないスターリン主義正統派の多くの論文を発表した。
 彼は、フルシチョフの時代まで生き延びた。そして晩年には、粛清の犠牲となった多数の生徒や同僚たちの社会復帰(・名誉回復)のために働いた。
 Asmus も戦後にまで生き残ったが(1975年死亡)、1940年代にはさらなる攻撃を受けた。
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 ④へとつづく。

1852/L・コワコフスキ・第一巻第一章/第一節「人間存在の偶然性」。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976-78)。
 第一巻・創始者(・生成)。
 第一章・弁証法の起源(・発生)(The Origins(・Die Entstehung))
のつづきの試訳。
 英訳書と独訳書の両方を参照した。綿密さを期したというよりも、邦訳のしやすさで選択したというのが正確だろう。
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 第一節・人間存在の偶然性(contingency, Zufälligkeit)。
 (1) 存在全体を知的に包括的に把握するのは哲学にとっての宿願だったし、そうでもあるが、それを原初的に刺激したのは、人間の不完全さ(imperfection, 弱さ: Hinfälligkeit)の知覚だった。
 哲学的思考を発動させたこの人間の不完全さという感覚および全体を理解することで人間の不完全さを克服しようとする意志のいずれをも、哲学は神話の世界から受け継いだ。
 (2) 哲学上の関心の中心的位置を占めたのはこの不完全さと人間の悲惨さだったが、明瞭で直接に可視的でかつ治癒しうる不完全さではなく、技術的な手段では克服できない根本的な弱さだった。その弱さはまた、いったん把握されればただちに経験上のかつ明瞭な欠陥だと感じられたもので、後者はたんに二次的な現象にすぎなかった。
 根本的な生来ある弱さは、多様な名称を与えられた。中世のキリスト教哲学は、全ての被造物が分かちもつものだが、人間存在の「偶発性」(contingency, Zufälligkeit)を語った。
 この「偶発性」という語は、アリストテレスの伝統に由来するもので(<de interpretatione, Peri hermeneias>では、その性質を変えることなく付着し得たり又はそうできなかったする事物の特性について申述する偶発的決定が論じられている)、実在し得る又は実在し得ない、だがその本質に固有のものではない、ゆえに必然的ではない、終わりある存在という状態を意味した。
 全ての被造物には、被造物であるがゆえに、時間上の始まりがある。したがって、それが存在しなかった、つまり論理的に必然的に、実在していた<はずがなかった>、そのような時点があった。
 Aristotleに従った中世スコラ哲学にとっては、本質と実在の区別は被造物と実在するのが必然の創造者との区別を際立たせるもので(神の本質と実在は同一のことだった)、被造物という存在の虚しさの最も明確な証拠だった。だがしかしそのことは、決して堕落することの原因でも衰亡することの目印でもなかった。
 人間が偶発的なもので偶然の存在であるということは、謙虚さや創造者崇拝の原因だ。
 それは人間存在の不可避の、根絶し難い側面だが、しかし、より高次の状態からの崩落を意味するわけではなかった。
 人間の肉体的かつ一時的な実在はいかなる退廃の結果でもなく、被造生物の階層の範囲内での人間という種の自然の性質なのだ。
 (3) これに対して、プラトン的伝統では、「偶発的」という語は全くか又は稀にしか用いられず、人間は終わりある一時的な存在だということは、<人間性の本質>とは異なる何か別のものだということだけを、すなわち、<人間は彼が何かである者ではない>のであって、その経験上、事実上のかつ時間的に限定された実在は人間性それ自体の、観念上の完全な、時間を超越した人間の存在と同じことではないということを意味していた。
 しかし、「人間がそうである者ではないこと」は、耐え難い苦痛を受けること、自らの頽廃に気づきながら、肉体的には下降へと向かった、時間的限定のある生活によっては決して保証することのできない完全な自己同一性意識を絶えることなく憧憬しながら、生きることを意味する。
 終わりある個体として、自分たちの無常さを意識しつつ我々が生きる世界は、流刑(exile, Verbannung)の地なのだ。//

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 以上。

1848/L・コワコフスキ・第一巻「序説」の試訳②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流。
 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 前回とほぼ同様に、英語版から始めてドイツ語版に最終的には依った。段落の区切りも後者がやはり一つ多いが、段落数字も後者の区切りによる。
 (注1) はドイツ語版にのみある。そこでのThomas Mann の原文引用部分は、以下では割愛した。
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 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 序説(Introduction/英語版1-7頁、Einleitung/ドイツ語版15-21頁)
 (7) 我々がイデーの歴史研究者としてイデオロギーの外側に立つとしても、そのことは、我々がその中で生きる文化の外側にいることを意味しない。
 全く逆だ。すなわち、諸イデーの歴史、とくに影響力がありかつ最も影響力をもち続けているイデーの歴史は、一定の程度で、自分たち自身の文化を自己批判する試みだ。
 私はこの書物で、Thomas Mannがナツィズムとドイツ文化との関係に向かいあって<ファウスト博士>で採用した立脚点から、マルクス主義を研究することを提案する。
 Thomas Mann は、ナツィズムはドイツ文化とは全く関係がない、そしてナツィズムはドイツ文化を恥知らずに否定して戯画化したものだ、と述べることができただろうし、そう述べる正当な資格ももっていただろう。
 彼はそう語ってよかった。だが実際には、彼はそう語らなかった。
 Thomas Mann はその代わりに、いかにしてヒトラーの運動やナツィのイデオロギーのような現象がドイツで発生したのか、そしてドイツ文化のうちの何がそれを可能にしたのか、という問題を設定した。
 彼は、こう書いた。ドイツ人は誰でも驚愕しつつ、ナツィズムの残忍さのうちに、最良の(これが重要な点だが、最良の)代表者たちが感知することのできた、グロテスクに歪曲された文化の特質を再認識するだろう、と (注1)。
 彼はまた、ナツィズムの精神的な起源に関する問題を簡単に回避してしまうことに反対し、ナツィズムはドイツ文化が生んだ何かに正当性を求める資格がない、とする説明に満足しなかった。
 Thomas Mann は、彼自身がその一部であり共作者である文化を、率直に自己批判した。
 実際に、ナツィ・イデオロギーはNietzsche を「戯画化したもの」だとする定式を語るだけでは十分ではない。戯画(caricature)の本質は、我々が原物を理解するのを助けることにあるのだから。
 ナツィスは彼らの超人たちに、<権力への意思>を読むように命じた。そして、彼らはこの本の代わりに<実践的理性批判>をも推薦することができたかのごとく、そのことは有らずもがなの偶然だった、とは言い難い。
 自明のことだが、ここで問題になっているのは、Nietzscheの「罪責(Schuld, guilt)」ではない。彼の書物が利用されたことについて個人として責任があるか否か、という問題ではない。
 だが、それでもなお、彼の著作が利用されたことは、不穏な気持ちの理由になければならならず、Nietzsche のテキストを理解するに際して、些末な偶然だとして単純に無視してしまうことはできない。
 聖パウロは個人的には、15世紀末のローマ教会や異端審問(Inquisition)について、責任はなかった。
 しかし、キリスト教徒も非キリスト教徒も、下劣な法王や司教たちの行為によってキリスト教が堕落して歪められた、という申述に満足することはできなかった。
 審問者はむしろ、犯罪や悪行だとする根拠として役立ったものを聖パウロの書簡は一切何も含んでいなかったのか否か、そして個々に見てそれはいったい何だったのか、を問うべきだっただろう。
 マルクスとマルクス主義の問題に対する我々の態度は、これと同じでなければならない。そして、この意味で、この著作での叙述は、たんに歴史的な記述をするものだけではなく、プロメテウス的人間中心主義(Humanismus, humanism)で始まり、スターリン専制の奇怪さで最高潮に達した、一つのイデーの稀有の歴史に関する省察を試みることでもある。
 -<原著、一行あけ>-
 (8) マルクス主義の年代記的叙述は、とりわけ次の理由によって錯綜している。すなわち、今日では最も重要だと考えられているマルクスの多数の文献は今世紀の20年代又は30年代またはその後でようやく印刷され、出版された。
 (例えば、<ドイツ・イデオロギー>、学位論文の<デモクリタンとエピキュリタンの自然哲学の違い>の全文、<ヘーゲル法哲学批判>、<1844年の経済哲学草稿>、<政治哲学批判綱要>。加えて、エンゲルスの<自然弁証法>も入る。)
 これらのテキストはまた、それらが執筆された時代には影響を与えることがなかった。しかし今日では、マルクス自身の精神的伝記の記述に寄与しているだけではない。それらは歴史的意味があるのみならず、それらのテキストなくしては理解することのできない教理の本質的な構成要素だという観点から、重要なものとして分析されている。
 とりわけ<資本論>に示されているマルクスのいわゆる成熟した思考は、内容的に見て、彼の青年時代の哲学的散策が自然に進展したものだったのか否か、およびどの程度にそうだったのかは、長らく議論され続けている。
 あるいはまた、若干の批判的解釈者が考えているように、それらは精神的な激変の結果であるのか否か、よってさらに、マルクスは1850年代や60年代に、主としてはヘーゲル主義と若きヘーゲル哲学に影響を受けた従前の思考や考究の様式を放棄したのか否か。
 ある者は、<資本論>の社会哲学は初期の著作物でいわば予め塑形されており、それらを発展させたもの又は詳論したものだ、とする。
 別の者は反対の見解で、資本主義社会の分析はマルクスの初期段階の夢想家的かつ規範的な修辞技法(レトリック)からの離脱を意味する、と主張する。
 これら二つの対立する見方は、マルクスの思想全体に関する異なる解釈と相互に関連している。
 (9) 私はこの著作で、哲学的人類学は年代学的にのみならず、論理的にも、マルクス主義の出発点だ、ということを前提とする。
 同時に、マルクスの哲学的思考から哲学の内容を独自の領域として切り分けるのはほとんど不可能だ、ということも意識しておかなければならない。。
 マルクスは学術分野での著作者ではなく、ルネサンスの言葉の意味での人間中心主義者だった。そして、彼の思考は人間がかかわる事象の全体を包括するものだった。このことは、社会の自由化という彼の展望が、人間が苦闘している重要な諸問題の総体に対する相関関係の中にある、ということと同様だった。
 (10) マルクス主義を三つの思考領域に分けるのが慣例になってきている。-哲学的人類学という基礎、社会主義の教理、および経済分析だ。
 そして、これらに対応させて、マルクスの教理が由来する三つの主要な源泉が注目されている。すなわち、ドイツ哲学(弁証法)、フランス社会主義思想、イギリス政治経済学。
 しかしながら、マルクス主義をこのように重要な構成部分へと画然と区別するのはマルクス自身の意図には反している、という強い主張も、広がってきている。マルクスの意図とは、人間の行動様式とその歴史に関して包括的な解釈を提示し、かつ、全体との関係でのみ個別の諸問題が意味をもち得る、そのような人間に関する包括的な理論を再構築しようとする、というものだ。
 マルクス主義の全ての構成要素の相互関連性やその内的な論理一貫性の態様をより詳しく性格づけるのは、ただ一つの文章で解答できるような容易な問題ではない。
 しかし、あたかも歴史過程の諸性質を把握しようとマルクスは実際に努めたかのように見える。その性質に関係して、認識論および経済の諸問題も、また最後に社会的理想も、初めて共通する意義をもち得る。
 すなわち、マルクスは、人間の全現象を理解可能なものするために十分に高い程度の一般性をもつ思考上の手段または認識の諸範疇を創出しようと考究した。高い程度の一般性をもつために、人間世界の全ての現象は、その助けを借りて理解できるものになる、そのようなものとして。
 これらの範疇とマルクスの思考の叙述とを彼の範疇構造に従って再構成し、マルクスの思想をそれらに合致させて提示しようと試みるのは、しかし、思想家自身の発展を無視する、という効果をもち得るだろう。そしてさらに、彼のテキストの全体が同質の、一度だけ組み立てられたブロックとして扱われてしまう危険を胚胎している。
 したがって、マルクス主義思考の展開の主要な軸を追求し、そのあとで、どのような主題が黙示的にであれこの発展の中で残存しているかという疑問を設定するのが望ましいように思われる。
 (11) この著作でのマルクス主義の歴史に関する概観では、マルクスの自立した思考の最初から考察の中心的な位置をずっとつねに占めてきたと思われる諸問題に焦点を当てことにする。
 すなわち、夢想郷論(utopianism)と歴史的運命論のディレンマを、いかにすれば回避することができるのか?
 換言すれば、想起された観念を恣意的に宣告するのでも、人間がかかわる物事が、全員が関与しているが誰も統御できない特徴なき歴史過程に従属しているという前提を諦念にみちて受容するのでもない観点を、いかにすれば明瞭にし、防衛することができるのか?
 マルクスのいわゆる歴史的決定論に関してマルクス主義者によって表明された驚くべき多様性は、20世紀のマルクス主義の動向を精確に提示し、図式化することを可能にする一つの要因だ。
 人間の意識と意思がもつ歴史過程での位置に関する問題に対する答え方は、社会主義諸観念が本来的にもつ、かつ革命と危機の理論と直接に連結する意味を少なからず明確にしている、ということも明らかだ。
 (12) しかしながら、マルクスの思考の出発空間を規定したのは、ヘーゲルから相続した資産の中に見出される哲学上の諸問題だった。
 そして、そのヘーゲルの遺産の解体は、マルクスの思考を叙述するいかなる試みも必ずそれから始めなければならない、当然の出発地点になっている。
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 (注1) vgl. Thomas Mann, "Doktor Faustus", in: Gesamte Werke, 6. Bd., Berlin-Ost 1956, S.652.
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 以上。

1846/L・コワコフスキ・第一巻「序説」の試訳①。


 L・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)の大著の第一巻の「緒言」と内容構成(目次)の後にあり、かつ<第一章・弁証法の生成>の前に置かれている「序説」を試訳しておく。
 1978年の英語版(ハードカバー)で下訳をしたうえで、最終的には結局、1977年刊行とされている独語版(ハードカバー)によることになった。
 それは、この部分に限ってかもしれないが、ドイツ語版の方が(ポーランド語原文がそれぞれで異なるとまでは思えないが)、やや言葉数、説明が豊富であるように思われ、読解がまだ少しは容易だと感じたからだ。
 とりあえず訳してみたが、以下のとおり、難解だ。レーニンやスターリン等に関して背景事件等を叙述している、既に試訳した部分とは異なる。必ずしも、試訳者の能力によるのではないと思っている。
 それは、カント、ヘーゲル等々(ルソーもある)から始めて大半をマルクス(とエンゲルス)に関する論述で占めている第一巻の最初に、観念、イデオロギーといったものの歴史研究の姿勢または観点を示しておきたかったのだろうと、試訳者なりに想像する。事件、事実に関する叙述はない。
 なお、「イデー(Idee)」とあるのはドイツ語版であり、英語ではこれは全て「観念(idea)」だ。「イデオロギー」と訳している部分は、両者ともに同じ。一文ごとに改行し(どこまでが一文かは日本語文よりも判然としない)、段落に、原文にはない番号を付した。段落数も一つだけドイツ語版の方が多いが、この点もドイツ語版に従って番号を付けた。
 青太字化は、秋月による。「観念」(・概念・言葉)と「現実」(・経験・政治運動)の関係。
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 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流
 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 (ポーランド語1976年、独語1977年、英語1978年)
 序説(Introduction/英語版1-7頁、Einleitung/ドイツ語版15-21頁)①。
 (1) カール・マルクスは、ドイツの哲学者だった。
 この言述に特別の意味があるようには見えない。しかし、少し厳密に考えると、一見そう思えるほどには陳腐で常識なことでない、ということが判るだろう。
 私の上の言述は、Jules Michelet を真似たものだ。彼は、イギリス史に関する講義を「諸君、イングランドは一つの島だ!」という言葉で始めた、と言われる。
 自明のことだが、イングランドは一つの島だという事実をたんに知っているのか、それとも、その事実に照らしてこの国の歴史を解釈するのか、との間には大きな違いがある。
 後者であれば、上のような単純な言述にも、特定の歴史的選択肢が含まれている。
 マルクスはドイツの哲学者だったという言述は、類似の哲学的または歴史的な選択肢をもち得る。我々がそれによって、彼の思索に関する特定の解釈が提示されている、と理解するとすれば。
 このような解釈の一つが基礎にする理解は、マルクス主義は経済的分析と政治的教義を特徴とする哲学上の構想だ、というものだ。
 このような叙述の仕方は、些細なことではないし、論争の対象にならないわけでもない。
 さらに加えて、マルクスはドイツの哲学者だったことは今日の我々には明白だとしても、半世紀前には、事情は全く異なっていた。
 第二インターナショナルの時代には、マルクス主義者の大半はマルクスを、特定の経済かつ社会理論の著者だと考えていた。そのうちの一人によれば、多様な形而上のまたは認識論上の立場を結合させる理論であり、別の者によれば、エンゲルスによって哲学的基盤は補完されており、本来のマルクス主義とはマルクスとエンゲルスの二人がそれぞれに二つまたは三つの部分から組み立てた、体系的な理論のブロックだという見解だった。
 (2) 我々はみな、マルクス主義に対する今日的関心の政治的背景をよく知っている。
すなわち、今日の共産主義の基礎にあるイデオロギー的伝統だと考えられているマルクス主義に対する関心だ。
 自らをマルクス主義者だと考えている者は、その反対者だと考えている者はもちろんだが、つぎの問題を普通のことだと見なしている。すなわち、現在の共産主義はそのイデオロギーと諸制度のいずれに関するかぎりでも、マルクスを正統に継承しているものなのか否か?
 この問題に関して最もよくなされている三つの回答は、単純化すれば、以下のとおりだ。
 ① そのとおり。現在の共産主義はマルクス主義を完全に具現化したもので、共産主義の教義は奴隷化、専制および罪悪の原因であることも証明している。
 ② そのとおり。現在の共産主義はマルクス主義を完全に具現化したもので、人類は解放と至福の希望についてそれに感謝する必要があることも証明している。
 ③ ちがう。我々が知る共産主義は、マルクスの独創的な福音的教義をひどく醜悪化したもので、マルクスの社会主義の基礎的諸前提を裏切るものだ。
 第一の回答は、伝統的な反共産主義正統派に、第二のそれは伝統的な共産主義正統派にそれぞれ由来する。第三のそれは、全ての多様な形態での批判的、修正主義的、または「開かれた」、マルクス主義者に由来する。
 (3) この私の著作の議論の出発点は、しかしながら、これら三つの考え方が回答している問題は誤って設定されており、それに回答しようとする試みには意味が全くない、というものだ。
 より正確に言えば、「どのようにすれば、現在の世界の多様な諸問題をマルクス主義に合致して解決することができるのか?」、あるいは「のちの信仰告白者たちがしたことをマルクスが見ることができれば、彼は何と言うだろうか?」、といった疑問に答えることはできない。
 これらの疑問はいずれも不毛であり、これらの一つであっても、合理的な回答の方法は存在しない。
マルクス主義は、諸疑問を解消するする詳細な方法を提示していない。それをマルクス自身も用意しなかったし、また、彼の時代には存在していなかった。
 かりにマルクスの人生が実際にそうだったよりも90年長かったとすれば、彼は、我々が思いつくことのできないやり方で、その見解を変更しなければならなっただろう。
 (4) 共産主義はマルクス主義の「裏切り」でありまたは「歪曲」だと考える者は、言ってみれば、マルクスの精神的な相続人だと思っている者の行為に対する責任から彼をある程度は免除しようと意欲している。
 同様に、16世紀や17世紀の異端派や分離主義者は本来の使命を裏切ったとローマ教会を責め立てたが、聖パウロをローマの腐敗との結びつきから切り離そうと追求した。
 ドイツ・ナツィズムのイデオロギーや実践との間の暗い関係にまみれたニーチェの名前を祓い清めようとした人々も、同様の議論をした。
 このような試みのイデオロギー的な動機は、十分に明瞭だ。しかし、これらの認識上の価値は、きわめて少ない。
 我々はつぎのことを知る十分に豊かな経験をしてきた。それは、全ての社会運動は、多様な事情によって解明されなければならないこと、それらの運動が援用し、忠実なままでいたいとするイデオロギー的源泉は、それらの形態や行動かつ思考の様式が影響を受ける要因の一つにすぎない、ということだ。
 したがって、我々は確実に、いかなる政治運動も宗教運動も、それらが聖典として承認している文献が示すそれらの運動の想定し得る「本質」を、完璧に具現化したものではない、ということを前提とすることができる。
 また我々は、これらの文献は決して無条件に可塑的な資料ではなく、一定の独自の影響を運動の様相に対して与える、ということも確実に前提にすることができる。。
 したがって、通常に生起するのは、つぎのようなことだろう。つまり、特定のイデオロギーを担う社会的勢力はそのイデオロギーよりも強力であるが、しかし同時に、ある範囲では、そのイデオロギー自体の伝統の制約に服している
 (5) 観念に関する歴史家が直面する問題は、ゆえに、社会運動の観点から、特定のイデーの「本質」をそれの実際上の「存在」と対比させることにあるのではない。
 そうではなくて、いかにして、またいかなる事情の結果として、当初のイデーは多数のかつ異なる、相互に敵対的な諸勢力の支援者として寄与することができたのか、を我々はむしろ問わなければならない。
 最初の元来のイデーのうちに、それ自体にある曖昧さのうちに、何か矛盾に充ちた性向があるのだとすれば-そしてどの段階で、どの点に?-、それがまさにのちの展開を可能にしたのか?
 全ての重要なイデーが、その影響がのちに広がり続けていくにつれて、分化と特殊化を被るのは、通常のことであり、文明の歴史での例外的現象ではない。
 かくして、現在では誰が「真正の」マルクス主義者なのかと問うのも無益だろう。なぜなら、そのような疑問は、一定のイデオロギーに関する概観的展望を見通したうえで初めての発することができるからだ。そのような概観的展望を行う前提にあるのは、正規の(kanonisch)文献は権威をもって真実を語る源泉であり、ゆえにそれを最善に解釈する者は同時に、誰のもとに真実があるかに関しても決定する、ということだ。
 現実にはしかし、多様な運動と多様なイデオロギーが、相互に対立し合っている場合ですら、それらはともにマルクスの名前を引き合いに出す「権利を付与されている」(この著が関与しないいくつかの極端なケースを除いて)、というとを承認するのを妨げるものは何もない。
 同じように、「誰が真のアリストテレス主義者か、Averroes、Thomas von Aquin か、それともPonponazziか」、あるいは「誰が真のキリスト者なのか、Calvin, Erasmus, Bellarmine、それともIgnatius von Loyolaか」といった疑問を提起するのも、非生産的だ。
 キリスト教信者にはこうした問題はきわめて重要かもしれないが、観念に関する歴史家にとっては、無意味だ。
 これに対して、Calvin, Erasmus, Bellarmine、そしてIgnatius von Loyola のような多様な人々が全く同一の源(Quelle、典拠・原典)を持ち出すことの原因になっているのはキリスト教の元来の姿のうちのいったい何なのか、という疑問の方がむしろ興味深い。
 言い換えると、つぎのとおりだ。イデーに関する歴史家はイデーを真剣に取り扱う。そして、諸イデーは諸状況に完全に従属しており、それぞれの独自の力を欠くものだとは見なさない(そうでないと、それらを研究する根拠がないだろう)。しかし、歴史家は、諸イデーが意味を変えることなく諸世代を超えて生命を保ちつづけることができる、とも考えない
 (6) マルクスのマルクス主義とマルクス主義者のマルクス主義の間の関係を論述するのは正当なことだ。しかし、それは誰が「より真正な」マルクス主義者なのか、という疑問であってはならない。
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 (7)以降の②へとつづく。

1844/L・コワコフスキ・2004年全巻合冊版の「新しいエピローグ」。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)は、2004年、77歳の年に、英語版初版は1978年だった『マルクス主義の主要潮流』に、つぎの「新しいエピローグ」を追加した。以下は、その試訳。一文ごとに改行。段落の冒頭に、原文にはない番号を付した。合冊版の1213-14頁。
 2004年合冊版では、「新しい緒言」と、この「新しいエピローグ」だけが、新たに書き加えられている。
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 L・コワコフスキ・2004年全巻合冊版の「新しいエピローグ」。
 New Epilogue(新しいエピローグ・あとがき)。
 (1) エピローグおよび新しい緒言(New Preface)の若干の文章に、このエピローグで付け加えることはほとんどない。
 この数十年間に多数のことが生起したが、(予見できる何かがかりにあるとして)マルクス主義、相互に関連させて理解することのできないその多様な化身のありうる変化を、あるいは共産主義イデオロギーとその制度的組織体-死骸というのがより上手い言葉かもしれないけれども-の将来の運命を、我々は予見することはできない。
 しかしながら、忘れないようにしよう。地球で最も人口の多い国、中国は今や、けばけばしく幻惑させて市場を拡大し、いくつかの重要な点では、その不健康なマルクス主義の過去-スターリニズム後のソヴィエト同盟とは違って公式には一度も否認していない過去-を維持し続けている、ということを。
 毛沢東主義のイデオロギーは中国で死んでいるかもしれないが、国家と党は、人民の思考方法に対する厳格な統制をなおも行っている。
 自立した宗教生活は、政治的反対については勿論そうであるように、迫害され、窒息させられている。
 多数の非政府団体が存在するにもかかわらず、法は、自立した機能をもつものとしては存在していない(適正な意味での法は、市民が国家機関に対して法的措置を執ることができ、勝訴する可能性のある場合にのみ存在する、と言うことができる)。
 中国には、市民的自由はなく、意見表明の自由もない。
 その代わりにあるのは、大規模の奴隷的労働と(奴隷的労働が行われる)強制収容所および少数民族の残虐な弾圧だ。これに関して、ティベット文化の野蛮な破壊は最もよく知られているが、決して唯一の例ではない)。
 これは、いかなる理解可能な意味でも、共産主義国家ではない。しかし、共産主義のシステムから成長した専制体制だ。
 多数の研究者と知識人は、それが最も残虐で、破壊的で、かつ最も愚かなときに、共産主義システムの栄光を称揚した。
 そのような流行は終わったように見える。
 この中国はそもそも西側文明の規範を採用するのだろうか、は不確実だ。
 市場(the market)はこの方向への発展に賛成するだろうが、決して保障することはできない。
 (2) ソヴィエト体制の解体後、ロシア帝国主義は復活するだろうか?
 これは想定し難い。-我々は、失われた帝国への郷愁がある程度にあることを観察することができるけれども-。しかし、かりに復活するならば、その再生に対してマルクス主義は何も寄与しないだろう。
 (3) 資本主義の適正な定義がどのようなものであれ、法の支配や市民的自由と結びついた市場は、耐え得る程度に物質的な福祉と安全を確保するには明らかに優越しているように見える。
 だがなお、この社会的、経済的な利益にもかかわらず、「資本主義」は全ゆる方向から絶えず攻撃されている。
 この攻撃は、首尾一貫したイデオロギー内容をもたない。
 それらはしばしば革命的スローガンを使う。誰もその論脈での革命がいったい何を意味すると想定しているのかを説明することができない。
 この曖昧なイデオロギーと共産主義の伝統の間には何らかの遠い関係がある。しかし、マルクス主義の痕跡を反資本主義の言辞のうちに見出すことができるとすれば、それはグロテスクにマルクス主義を歪曲したものだ。すなわち、マルクスは技術の進歩を擁護しており、彼の姿勢は、発展途上国の諸問題への関心が欠けていることも含めて、ヨーロッパ中心的だった。
 我々が今日に耳にする反資本主義スローカンは、明瞭には語られない、急速に成長する技術に対する怖れを含んでいる。それがもち得る不吉な副作用についての恐怖だ。
 技術発展を原因とする生態的、人口動態的、そして精神的な危険を我々の文明が見通すことができるか否か、あるいは我々の文明はその毒牙にかかって大厄災に至るのか否か、誰も確実なことは言うことができない。
 そうして、現在の「反資本主義」、「反グローバリズム」および関連する反啓蒙主義の運動と観念は静かに消失し、いずれは19世紀初頭の伝説的な反合理主義者(Luddites)のように哀れを誘うものに見えるようになるのか否か、あるいはそれらはその強さを維持して、その塹壕を要塞化するのか否か、我々は答えることができない。 
 (4) しかし、マルクス自身は彼が既にそうである以上にますます大きな人物になるだろうと、我々は安全に予見してよい。すなわち、観念の歴史に関する教科書のある章での、もはやいかなる感情も刺激しない人物、19世紀の「偉大な書物」-ほとんどの者がわざわざ読みはしないがそのタイトルだけは教育を受けた公衆には知られている書物-の一つのたんなる著者として、だ。
 この哲学とその後の分岐した支流を要約し、評価しようと試みた、新たに合冊された私の三巻の書物(マルクス主義者と左翼主義者の憤慨を刺激することが容易に予測できたが、その広がりは私が想定していたよりは少なかった)に関して言えば、この対象になお関心をもつ、次第に数が少なくなっている人々とって、これらの書物はおそらく有益だろう。
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 以上。
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 第一巻(ドイツ語版ハードカバー、1977年)のカバーのL・コワコフスキ。
 Kolakowski

 その下の著者紹介(1977年)も、以下に試訳しておく。
 Leszek Kolakowski、1927年10月23日、ラドム(ポーランド)生まれ。
 戦後、哲学を研究。1953年、ワルシャワ大学講師。
 修正主義思想を理由として公式に批判されたが、西側の大学での在外研究助成金を受ける(オランダとパリ)。
 1958年、ワルシャワ大学哲学史の講座職。
 1966年、見解表明の自由の制限に対する批判を公表したとして、党を除名される。
 1968年、講座職を失い、カナダへ出国。
 1969年、Montreal のMcGill CollegeとBerkely (カリフォルニア)で教育活動。
 1970年以降、Oxford のAll Souls College。
 1975年、Yale の客員教授。
 1977年、ドイツ出版協会(Deutsches Buchhandel)の平和賞。
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1842/L・コワコフスキ・1978年第三巻の「エピローグ」①。

 レシェク・コワコフスキの2004年の三巻合冊本は約1300頁余。1978年の英語版は、のちに出版されたPaperback版によっても、注記・文献指示を含めて第一巻434頁、第二巻542頁、第三巻548頁で、総計計1524頁になる。
 1978年の英語版第三巻には最後に<エピローグ(Epilogue)>(あとがき)が書かれている。第三巻に関する文献と後注の前にあるが三巻全体の「あとがき」または「エピローグ」と理解してよいだろう。
 以下、試訳を紹介する。原文にはない、段落の最初の番号((1)~)を付す。
 L・コワコフスキのレーニン等に関する個別の論述に関心をもって試訳してきたが、この Epilogue によって、L・コワコフスキのマルクスないし「マルクス主義」、「社会主義」、「共産主義」等の基礎概念の使い方がある程度は明瞭になる。また、この欄で(9/03に)私が用いた「レーニン・スターリン主義」という語をすでに彼はここで用いている
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 エピローグ(Epilogue)。 第三巻523頁~。
 (1) マルクス主義は、我々の世紀の最大の幻想(fantasy)だった。
 マルクス主義は、全ての人間的希望が実現され、全ての価値が調整される、完璧な共同性(unity)をもつ社会への展望を提示する夢想だった。
 マルクス主義がヘーゲルの「進歩の矛盾」理論とともに継承したのは、歴史の進展は「最終的には」必然的に良い方向へと動き、自然に対する人間の要求の増大は幕間のあとでは自由の増大と合致する、というリベラルな進化主義だった。
 マルクス主義が多くを負うのは、メシア的幻想を特殊で純粋な社会理論、貧困と搾取に対するヨーロッパ労働者階級の闘争と結合するのに成功したことだ。
 この結合は、馬鹿げた(プルードンに由来する)「科学的社会主義」という名前をもつ体系的な教理として表現された。-目的を達成する手段は科学的かもしれないが、目的それ自体の選択はそうではないがゆえに、馬鹿げていた。
 しかしながら、この名称は、マルクスが彼の世代の者たちと共有した、科学への信仰(cult of science)をたんに反映しているのではない。
 「科学的社会主義」という名称は、この著作で一度ならず批判的に論述したが、人間の認識と実践は意思に導かれて必ずや究極的には合致し、完璧に統一して分かち難いものになる、という信念を表現した。その結果として、目的の選択はじつに、それを達成する認識上および実践上の手段と同一のものになる。
 認識と実践の混同から当然に帰結するのは、特定の社会運動の成功はそれが科学的に「正しい(true)」ことの証拠だ、あるいは要するに、強者となった者は全て「科学」的であるに違いない、という観念(idea)だった。
 このような観念は、共産主義イデオロギーという特殊な装いをまとうマルクス主義の、全ての反科学的で反知性的な特質の大きな原因だ。
 (2) マルクス主義は幻想(fantasy)だというのは、それ以外の何かではない、ということを意味してはいない。
 過去の歴史解釈としてのマルクス主義は、政治イデオロギーとしてのマルクス主義と明瞭に区別されなければならない。
 理性的な人々は、史的唯物論の教理は我々の知的装備に価値ある有意義なものを追加し、過去に関する我々の理解を豊かにした、ということを否定しないだろう。
 たしかに、厳格な意味では史的唯物論の教理は馬鹿げているが、大雑把な意味では常識的なことだ、とこの著作で論述してきた。
 しかし、それが常識になったとすれば、マルクスの独創性のおかげだ。
 さらに加えて、かりにマルクス主義が経済学や過去の時代の文明に関するより十分な理解を与えたとすれば、そのことに関係があるのは疑いなく、マルクスが当時にその理論を極端に、教義的(dogmatic)にかつ受容し難いやり方で明瞭に述べた、ということだ。
 かりにマルクスの諸見解に、合理的な思索には通常のことである多数の限定や留保が付いていたとすれば、彼の諸見解はさほどの影響力をもたず、全く注目されないままだったかもしれない。
 だが実際には、人文社会上の理論にしばしば生じるように、馬鹿らしさという要因こそが、マルクスの諸見解がもつ合理的内容を伝えるには効果的だった。
こうした観点からすると、マルクス主義の役割は精神分析学または社会科学での行動主義に喩えられるかもしれない。
 Freud やWatson は、それらの諸理論を極端なかたちで表現することで、現実の諸問題に一般の注目を惹きつけ、学問研究の有意義な分野を切り拓くことに成功した。かりに彼らが慎重に留保を付けて諸見解を論述し、そのことで明確な輪郭と論駁力を失わせていれば、おそらく成功できなかっただろう。
 文明研究に関する社会学的接近方法は、マルクス以前にVico、HerderやMontesquieu のような学者によって、あるいはマルクスと同時代の、だがマルクスから自立していたMichelet、RenanやTaine のような学者によって深められていた。しかし、これらの学者は誰も、マルクス主義の力強さの構成要素である極端な一面的かつ教義的な方法では、その諸見解を表現しなかった。
 (3) 結果として、マルクスの知的遺産は、Freud のそれと同じ運命のごときものを経験した。
 正統派の信者たちはまだ存在するが、文化的勢力としては無視してよいほどのものだ。一方では、マルクス主義の人文社会学上の知識とくに歴史科学に対する貢献は、一般的でかつ基礎的な主題になってきており、全てを説明すると主張する「システム」とは連関関係がもはやない。
 今では誰も、例えば文学の歴史を研究したり、所与の時代の社会対立に光をあてて描写したりするために、マルクス主義者だと自分をみなす必要はなく、そうみなされる必要もない。そしてまた、人間の歴史全体が階級闘争の歴史だと考えることなく、あるいは、「上部構造」は「土台」から発生する等々のゆえに、「真の」歴史は技術と「生産関係」の歴史であるがゆえに文明の異なる段階にはそれ自体の歴史はない、と考えることなく、研究をすることができる。
 (4) 一定の範囲内で史的唯物論の有効性を認めることは、マルクス主義の真実性(the truth)を承認することと同義ではない。
 その理由はなかんずく、歴史発展の意味は過去を未来の光に照らして解釈してのみ把握することができる、というのが、マルクス主義の最初からの根本的な教理だからだ。
 換言すれば、将来のことに関する何らかの認識を得てのみ、過去と現在を理解することができる、という教理だ。
ほとんど議論の余地はないことだが、マルクス主義は、未来に関する「科学的認識」をもつというその主張がなければ、マルクス主義ではないだろう。そして問題は、そのような認識がどの程度に可能なのか、だ。
 もちろん、予見は多くの学問の構成要素であるばかりではなく、最も瑣末な行動についてすら、予見はその不可分の側面だ。全ての予見には不確実さという要素があるので、我々は過去と同じ方法では未来を「知る」ことはできないけれども。
 「未来」とは、つぎの瞬間に生起することか、100万年のうちに生起するだろうことかのいずれかだ。もちろん、隔たりや問題の複雑さに応じて予見することの困難性は増す。 我々が知るように、社会問題については、短期間に関することですら、また人口動態予測のように単一の定量化できる要素についてすら、予見はとくに当てにならない。
 一般的には、我々は現存する傾向から推定することで未来を予見し、一方ではそのような推定はつねにどこでもきわめて限られた価値しか持たないこと、いかなる分野の探求での発展曲線であっても同じ方程式と曖昧にしか合致しないで伸張すること、を悟っている。 世界規模の、かつ時間の限定のない予知は、もはや幻想であるしかない。提示する展望が善であれ悪であれ。
 長期間にわたる「人間社会の未来」を予見する、あるいは来るべき時代の「社会構成」の性質を予言する、合理的方法などは存在しない。
 このような予見を「科学的に」することができるという観念(idea)は、そしてそうしなければ過去を理解することすらできないという観念は、マルクス主義の「社会構成」理論に固有のものだ。
 これは、その理論が幻想であり、そして政治的には効果的であることの一つの理由だ。
 その科学的性格の結果または証拠であることとは遠くかけ離れたマルクス主義が獲得した影響は、ほとんど全体がその予見的、幻想的かつ非合理的な要素によっている。
 マルクス主義は、普遍的な充足のある理想郷はいままさに近づいてきているということを盲信する教理だ。
 マルクスと彼の支持者たちの全ての予見は、すでに虚偽であることが判った。しかし、このことは、信者たちの霊魂的な確信を掻き乱しはしない。それは、千年王国宗派(chiliastic sect)の場合以上のものだ。なぜなら、いかなる経験上の前提または想定される「歴史法則」にもとづいておらず、確信を求める心理上の必要にたんにもとづいているからだ。
 この意味で、マルクス主義は宗教の機能を果たし、その効用は宗教的な性格をもつ。
 しかし、マルクス主義は滑稽画であり、ニセの形態の宗教だ。宗教上の神話ならば主張することがない、科学的システムとしての一時的な終末論(eschatology)を提示しているのだから。
 (5) マルクス主義とそれを具現化した共産主義、すなわちレーニン・スターリン主義のイデオロギーと実践、の間の連続性について、論述した。
 マルクス主義は今日の共産主義のいわば有効な根本教条だったと主張するのは、馬鹿げているだろう。
他方で、共産主義はマルクス主義がたんに「退化(degeneration)」したものではなく、マルクス主義のありうる一つの解釈であり、ある面では幼稚で偏ってはいるが、根拠が十分にあるものだ。
 マルクス主義は、論理的理由ではなく経験的理由で両立し難いことが判る、その結果として他者を犠牲にしてのみ実現され得る、そのような諸々の価値を結合したものだった。 しかし、共産主義という観念全体は単一の定式で要約することができると宣言したのは、マルクスだった。-すなわち、私有財産の廃棄、未来の国家は中央による生産手段の管理を採用しなければならない。そして、資本の廃棄は賃労働の廃止を意味した。
ブルジョアジーの収奪および工業と農業の国営化は人類の全般的な解放をもたらすということをこのことから帰結させるのは、目に余るほど非論理的だ。
 生産手段を国有化して、その基礎の上に怪物的な虚偽、収奪および抑圧の宮殿を建することが可能だ、ということがやがて判明した。
 このことは、それ自体はマルクス主義の論理的帰結ではなかった。むしろ、共産主義は社会主義思想の粗悪な範型(version)であり、共産主義の起源は、マルクス主義がその一つである多くの歴史的事情と偶然によっている。
 しかし、マルクス主義は何らかの本質的な意味で「歪曲(falsify)」された 、と言うことはできない。
 「それはマルクスは意図しなかった」とは知的にも実践的にも実りのない言辞だということを示す論拠は、今日では加わった。
 マルクスの意図は、マルクス主義の歴史的評価における決定的な要素ではない。そして、子細に見るならば、マルクスは一見そう感じられるかもしれないほどには自由や民主主義といった価値に対して敵対的ではなかったということばかりではなくて、これらの価値に関するもっと重要な議論がある。
 (6) マルクスは、社会の共同性に関するロマン派的理想を継承した。そして共産主義は、産業社会ではあり得そうな唯一のやり方で、すなわち、統治の専制的なシステムによって、それを実現した。
 彼の夢想の起源は、Winckelmann や18世紀のその他の者、のちにはドイツの哲学者たちが一般化したギリシャの都市国家の理想化したイメージのうちに見い出すことができる。
 マルクスは、資本主義がいったん打倒されれば世界全体が一種のアテネの<アゴラ(agora :公共広場)>になることができると想像したように見える。そこでは、機械類や土地の私的所有だけは禁止しなければならず、まるで魔術によるがごとく、人間は利己的であることをやめ、その諸利害は完璧な調和に向けて合致するだろう、というのだ。
 マルクス主義は、いかにしてこの予見が実現されるか、あるいはいかなる理由で生産手段が国有化されれば人間の諸利益が衝突しなくなると考えるのか、に関する説明をしなかった。
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 ②へとつづく。

1717/トニー・ジャットにおけるレシェク・コワコフスキ①。

 一 伊澤高志(1978~)は、思いもかけず、重要な訳出の仕事をして、貴重な貢献をしたことになるだろう。
 トニー・ジャット・失われた二〇世紀(上・下)(NTT出版、2011)という邦訳書は五人が分担して訳して、河野真太郎(1974~)が「訳文の統一」を行ったとされる(下巻・あとがき、368頁)。
 上巻の177頁以下、第八章「さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産」の邦訳を担当したのは、伊澤高志だ(下巻・あとがき、同上)。
 レシェク・コワコフスキは日本ではほとんど無名ではないかと思われ、とくにその『マルクス主義の主要潮流』は、欧米研究者の中にはコワコフスキといえば「マルクス主義の理論的研究」の第一人者として挙げる者もいるにもかかわらず、日本では邦訳書がない。昨秋に池田信夫がメール・マガジンでこの本をマルクス主義研究の「古典」として紹介していたようだが(全文を読んでいない)、「古典」とされるわりには、日本で翻訳されていない。考えられるその理由・背景は、すでに記している。
 そういう中で-すでに昨年に言及はしているのだが-、上の邦訳書は、L・コワコフスキの、神学者でも東欧お伽話作家でもない、社会・政治思想に論及するもので、十分に意味がある。
 むろん、もともとはトニー・ジャットの本だからこそ邦訳出版されたと見られ、トニー・ジャットの考え方の重要な一端も分かる。
 なお、トニー・ジャット(Tony Judt)をトニー・ジャッドとこの欄で記したことがあるのは間違い。また、コワコフスキ(Kolakowski)はコラコフスキ-と記載されていたこともあるが、英米語のlに該当しないポーランド語の独特のl(元来は斜め二本の線がつく)を英米語ふうに読んだ誤りのようだ。
 二 トニー・ジャットの上の本の上巻にあるⅡ部では「知識人の関与-その政治学」というタイトルのもとで、6人の「知識人」の書物を対象にして論評がなされている(たぶん全てが<書評誌または書評新聞>にいったん掲載されたものだ)。
 そのような論評・コメント類だから各著書・著者に対して「義理にでも」肯定的な評価を下しているのでは全くないのが、日本の新聞や雑誌の「書評」 欄と比べて新鮮なことだ。
 トニー・ジャットがほとんど手放しで賞賛していると言ってよいのはレシェク・コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』の三巻合冊本(の刊行予定)だけで、他のとくにつぎの3人の書物については、相当に厳しいまたは皮肉たっぷりの文章を載せている。
 表題だけ、記しておこう。いずれも、欧米<左翼>の者たちの本だ。
 ・「空虚な伽藍-アルセルチュールの『マルクス主義』」(6章)。
 ・「エリック・ホブズボームと共産主義というロマンス」(7章)。
 ・「エドワード・サイード-根なし草のコスモポリタン」(10章)。
 三 こうして書き始めたのも、トニー・ジャットのコワコフスキに関する上の記述と、 コワコフスキの死の直後の哀惜の情溢れる(しかしなお学問的な)文章-これにはたぶん邦訳がない-を紹介してみたくなったからだ。
 前者については、上記のようにすでに邦訳が出ている。だが、改めて紹介しておく意味はあるだろう。それに、すでにいったん訳されているので、邦訳にほとんど苦労は要らない、という利点もある。

1700/社会主義と独裁②ーL・コワコフスキ著18章6節。

 レーニンは、「人民(民衆)」、「被抑圧階級」等々とよく言う。
 日本共産党がこれに該当とするものとして現在用いているのは、「国民」だ。
 「国家、それは一階級の他の階級に対する支配を維持するための機構である」。p.485。
 「国家とは、一階級が他の階級を抑圧するための機構、一階級に他の隷属させられた諸階級を服従させておくための機構である」。p.487。
 エンゲルスが言うように、「土地と生産手段の私的所有が存在しており、資本が支配している国家は、どんなに民主主義的であろうと、すべて資本主義国家であり、労働者階級と貧農を隷属させておくための資本家の手中にある機構である」。p.493。
 以上、1919年。日本語版・レーニン全集29巻より。
 「今日に至るまでの全ての社会の歴史は、階級闘争の歴史だ。/
 封建時代の没落から生まれた近代ブルジョア社会は、階級対立をなくさはしなかった。新たな階級を、新たな抑圧条件を、新たな闘争形態を古いものと置き換えたにすぎない。/ブルジョア階級の時代は、階級対立を単純化したことによって際立っている。社会全体がますます、敵対する二大陣営、直接に対峙し合う二大階級-ブルジョア階級と7プロレタリア階級-に分裂する」。
 以上、1848年。カール・マルクス・共産主義宣言より。平凡社・2015年の柄谷行人訳を参照。
 日本共産党は、「国家」観も、「歴史」観も、最初からまるで違っている。
 <階級闘争>-<敵・支配階級との闘い>-絶えず<敵>を設定しての執拗かつ継続的な<闘い>。まともな人間は意識したり想定したりしないところのものを、彼らはつねに考えている。彼らとは<人間>そのものが同じではない、と理解しておくべきものなのだ。
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 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 =レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 この本には、邦訳書がない。何故か。
 日本共産党と「左翼」にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。
 <保守>派の多くもマルクス主義・共産主義の内実に関心がないからだ。
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁②。
 1917年4月-5月の『党綱領改正に関する資料』で、レーニンはこう書いた。
 『公教育は、民主主義的に選出された地方政府機関によって管理されるべきこと。
 学校のカリキュラム編成や教材の選択に中央政府が介入するのを許さないこと。
 教師たちは直接に地方民衆によって選任され、地方民衆は望ましくない教師を解任する権利をもつこと』、等々(全集24巻p.473〔=日本語版全集24巻501頁〕。)(+)//
 最終目標は国家と全ての束縛を完全に廃棄することだ。このことは、自発的な共存と連帯の原理に人民が慣れるときに可能になるだろう。
 犯罪や非行の原因は、搾取と貧困だ。そして、社会主義のもとで徐々に消失するだろう。 -こうしたレーニンの確信は、実際上、社会主義者たちの間で一般的なものだった。//
 ヨーロッパで戦争が闘われている間にこうした言葉で叙述されたレーニンの夢想郷(Utopia)は、ソヴィエト権力50年を経た後で読む者には、度肝が抜かれるほどにナイーヴ(無邪気)だ。
 トマス・モアの空想小説がヘンリ13世のイギリスを扱ったのと同じように、やがてすぐに成立することとなる国家を扱っている。
 しかし、綱領的計画と半世紀後のその『達成物』の間の醜悪な相違(grotesque divergences)を全て指摘するのは、実りないことだ。
 レーニンの夢想郷は、総じてはマルクスの考えと合致している。しかし、のちの著作には触れないで、レーニン自身の初期の著作と比較すると、際立つ違いが明らかだ。すなわち、党に関してはそもそも何も語っていない、ということだ。//
 レーニンがその幻想を真面目に書いたことを疑う理由はない。書いたときに彼は、世界革命がまさに起こりつつあると間違って(wrongly)信じていた、ということが想起されるべきだ。
 しかし、レーニンは明らかに、自分が描く絵は自分自身の革命と党に関する教理に紛れもなく反している、ということを感知していなかった。
 『多数者の独裁』は、歴史に関する科学的な理解で装備された政治組織を通じて行使されると想定されていた。『過渡期のプロレタリア国家』という考えに広く通じるこうした性格づけは、<国家と革命>では、全く述べられていない。
 この書物を書いていた時期に、レーニンは、明確につぎのように思い描いていた。武装し、解放された全人民が、行政、経済管理、警察、軍隊、裁判等々の全ての作用を直接に遂行するだろう、と。
 彼はまた、自由への制約は従前の特権的階級に対してのみ適用され、一方で労働者および労働農民は完璧に自由に、選択に従って彼らの生活を規律するだろう、と考えていた。//
 しかしながら、革命後に出来あがった体制の本質は、たんに内戦やロシアの外部での革命運動の立ち止まりと関係する歴史的偶然の結果ではなかった。
 専制的でかつ全体主義的な(この区別は重要だ)全ての特質を備えた体制は、その主要な道筋については、レーニンが長い年数をかけて作りだしたボルシェヴィキの教理によって、あらかじめ描かれていた。当然に、その結果は完全には実現されなかったし、予見もされなかったけれども。//
 レーニンが1903年以降に多くの場合にかつ多様な形態で設定した根本的な原理は、自由や政治的平等といった範疇は重要な意味をもたず、階級闘争の道具にすぎない、そして、どの階級の利益に役立つのかを考慮しないでこれらを擁護するのは阿呆(foolish)だ、というものだった。
 『実際には、プロレタリア-トは、共和制への要求を含む、全ての民主主義的要求への闘いをブルジョアジーの打倒のための革命的な闘争の劣位に置くことによってのみ、自主性を維持することができる。』(+)
 (『社会主義革命と民族の自己決定権』、1916年4月。全集22巻p.149〔=日本語版全集22巻「社会主義革命と民族自決権」172頁〕。)
 ブルジョア諸制度のもとでの専制政と民主政の違いは、後者が労働者階級の闘争を容易にするかぎりでのみ意味がある。これは二次的な違いであって、形式の一つにすぎない。
 『普通選挙、憲法制定会議、国会は、たんなる形式であり約束手形であるにすぎず、現実の事態を何ら変えることがない。』 (+)
 (『国家について』、1919年7月11日の講義。全集29巻p.485〔=日本語版全集29巻493頁〕。)
 これこそが、革命後の国家に関する、なおさらに(a fortiori)本当のことだ。
 プロレタリア-トに権力があるがゆえに、その権力を維持すること以外に、重要なものは何も考えられない。
 全ての組織上の問題は、プロレタリア-ト独裁を維持することの劣位に置かれる。//
 プロレタリア-ト独裁は-一時的にではなく永続的に-、議会制度および立法権と執行権の分離を廃棄するだろう。
 これこそが、ソヴェト共和国と議会主義体制の間の主要な違いだとされるものだ。
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 (+) 秋月注記-日本語版全集を参考にし、ある程度は訳を変更した。
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 段落の中途だが、ここで区切る。③へとつづく。

1695/社会主義と独裁①-L・コワコフスキ著18章6節。

 この本には、邦訳書がない。何故か。
 日本共産党と「左翼」にとって、読まれると、極めて危険だからだ。
 <保守>派の多くもマルクス主義・共産主義の内実に関心がないからだ。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 =レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 第6節へと進む。第2巻単行著では、p.497~。
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 第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁①。
 レーニンの活動の全体は、『最終的な目標』、すなわち社会主義社会の建設、のための闘争に向けられていた。しかし、戦争の前には、その社会がどのようなものであるかを明確に語ることに関心を示さなかった。
 その著作物の中には、財産の集団化、賃労働や商品経済の廃止等々の、よく知られる社会主義の考えへの言及が散在していた。
 しかしながら、革命の前には、『プロレタリア-ト独裁』という、生涯にわたって変えないままだった概念が何を意味するかを説明した。
 <カデットの勝利と労働者党の任務>で、彼は、強調してこう表明した。
 『独裁とは、法にではなく実力(force)にもとづく、制限なき権力(power)だ。』
 (全集10巻p.216。)
 『権力(authority)-無制限で、法の外に立ち、そして言葉の最も直接的な意味での生の力(force)にもとづく-が、独裁だ』(同上、p.244〔=日本語版全集10巻231頁〕。)。
 『「独裁」という概念には、<これ以外のいかなる意味もない>。-このことをよく憶えておきなさい、カデット紳士諸君』(同上、p.246〔=日本語版全集10巻233-4頁〕。)。//
 見地が変わらなかったことを明白にするため、レーニンは上のような言明を1920年に繰り返した。
 独裁は『強制の最も直接的な形態』だ。そして、プロレタリア-ト独裁は、プロレタリア-トが打倒した搾取者に対してプロレタリア-トが実力(force)を行使することだ。
 この実力がいかに行使されるかに関して、レーニンは、第二インターナショナルの指導者たちに向けられた小冊子<国家と革命>で、回答を示した。
 第三インターナショナル(彼の頭では早くも1915年のつもりだった)創立の直前に、革命が全ヨーロッパの至る所ですみやかに勃発するだろうと期待して、レーニンは、何度も国家に関するマルクス主義理論および社会主義が国家装置の作動にかかわってくる変化の理論を詳説することが必要だと考えた。//
 マルクスとエンゲルスによれば、とレーニンは指摘する、国家は和解しえない階級対立の結果物だ。両者の間を調整したり仲裁するという意味においてではなく、逆に、国家そのものは今まではつねに、所有階級が被抑圧階級に押しつけてきた装置だった。
 その諸装置は階級対立において中立ではありえず、一方の階級の他方に対する経済的抑圧の法的表現にすぎない。
 ブルジョア国家の諸装置と諸機関が、労働者の解放のために用いられることはあり得ない。
 ブルジョア国家での選挙権は、社会的緊張を緩和する手段ではない。被抑圧階級が権力を獲得するのを可能にする手段でもない。たんに、ブルジョアジーの権力(authority)を維持する方法にすぎない。
 プロレタリア-トは、国家機構を破壊(destry)することなくして自らを解放することはできない。
 これが革命の主要な任務であって、マルクス主義理論と一致する国家の『消滅』とは明確に区別されなければならない。
 ブルジョア国家は、ここでいまや、粉砕(smash)されなければならない。消滅は、プロレタリア国家にとっては革命のあとに、すなわち政治的権力が打倒される将来の時点に、生じる。//
 レーニンは、とくにパリ・コミューンに関するマルクスの論文およびその<ゴータ綱領批判>に言及し、また、エンゲルスの小文や手紙にも言及する。
 社会主義運動上の修正主義およびブルジョア国家をプロレタリア-トの利益に役立つよう使用するという考え方は、マルクス主義の基盤に反している、と彼は言う。
 それは妄想であり、あるいは革命を放棄した日和見主義者の欺瞞的な策略だ。
 プロレタリア-トは、国家を必要とする(ここでアナキストは過った)。しかし、それは、枯渇して自らを破壊する方向にある国家でなければならない。
 移行期に搾取者の抵抗を抑え込むために、その抵抗の強さを予見することはできないが、国家の従前の形態とは違って所有階級の残り滓に対する社会の大多数による独裁になる、プロレタリア-トの独裁が存在しなければならない。
 その時期の間、資本主義者の自由は制限されなければならない。一方で諸階級がすっかりなくなってしまったときにのみ、完全な民主主義が可能になるだろう。
 この移行期の間、国家は困難なく作動し続けるだろう。多数者が少数の搾取者を簡単に打ち負かし、特殊な警察機構を必要としないだろうから。//
 パリ・コミューンの経験は、共産主義国家組織の一般的な特質を描写するのに役立つ。
 その国家では、常設軍は廃止され、代わりに人民が武装するだろう。国家の全官僚が、労働者階級によって選出されかつ罷免されるだろう。
 警察は、軍隊のごとき機能を持つものとしては必要とされず、武力を携帯することのできる人民全体によって実施されるだろう。
 付け加えると、国家の組織上の作用は簡素なので、読み書きをする誰もが履行することができる。
 社会一般の作動のためには、特殊な技能は必要でないだろう。そして、そのゆえに、分離した官僚層は生じないだろう。簡素な行政と会計が、手工業者と同じ賃金で、公民全員によって交替で履行されるだろう(レーニンは、この点をとくに強調した)。
 誰もが平等に国家の奉仕者[公務員]になり、平等な基準によって支払われ、平等に仕事をする義務を負うだろう。
 彼らは手仕事労働者と役人[公務員]のいずれかを選択できるので、誰も官僚主義者にならないだろう。
 行政の簡素さ、報酬の平等さ、そして公務員たちの選挙と解任可能性があるので、社会から孤立した、寄生的官僚層が形成される危険はないだろう。
 最初には政治的な強制がなければならないが、国家がその機能を失うにつれて、徐々にその政治的な性格も失い、純粋な行政の問題になるだろう。
 命令はもはや、最上者から与えられるのではない。必要な中央の計画が、幅広い領域的自治と結びつくだろう。
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
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 段落の中途だが、ここで区切る。②へとつづく。

1686/帝国主義と革命①-L・コワコフスキ著18章5節。

 この本には、邦訳書がない。Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 第5節へと進む。第2巻単行著の、p.491以下。
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 第5節・帝国主義の理論と革命の理論①。
 帝国主義に関するボルシェヴィキの理論は、レーニンとブハーリンが作った。
 ブハーリンは、最初に、新しい歴史的時代のために革命の戦略の基礎を定式化した。
 帝国主義に関する著作でレーニンは-すでに書いたことだが、たいていの部分は、J・A・ホブソンの<帝国主義>(1902)とR・ヒルファディングの<金融資本主義>(1910)にもとづく-、帝国主義を前独占資本主義時代と区別する主要な五つの特質を列挙する。
 (1) 生産と資本の集中。これは、大独占体による世界経済の支配へと至る。
 (2) 銀行と金融資本の融合およびその結果としての金融寡頭制。
 (3) 資本の輸出のとくに重要な役割。
 (4) 国際的資本主義の独占同盟者たちによる世界分割。
 (5) 大帝国主義諸勢力による世界の領土的分割競争。
 この状況は資本主義の矛盾を除去せず、極限にまでその矛盾を高める。体制内部での発展の不均等性と競争の激しさは、戦争の蓋然性を減少させないばかりか、それを一層不可避にする。
 最後の点を、レーニンは、カウツキーを攻撃して、強調する。
 カウツキーは、世界経済体制が『極端な帝国主義』の段階へと移行するのを予見するのは可能だ、と主張していた。その段階とは、大諸国と国際的カルテルが世界の分割を安定化させ、戦争の危険性を排除できる帝国主義の段階だ。
 カウツキーは、これを一般的な仮説として提起し、このように必然的に進むとは何も主張しなかった。
 しかし、レーニンは、戦争なき資本主義、革命も起こりそうにない状態の国家、という考え方だと憤慨した。
 カウツキーの『愚にもつかない話』は反マルクス主義的で、日和見主義の兆候だ。帝国主義は、世界発展の不均等性を調整して排除する手段はないので、戦争なくしては存在し得ないはずだろう。
 そのことから、論文『プロレタリア革命の軍事綱領』(1916)で、レーニンは、社会主義は全ての国で同時に勝利することはない、との結論を導いた。
 革命の過程は一つまたは若干の国々で始まり、それがさらなる対立と戦争につながるだろう。//
 ブハーリンは、革命の展望と、単一の制度を同時に構成する世界経済の不均等な発展との関係を、戦争中と革命後の最初の数年の間に書いた書物で、詳述した。
 彼が説明するには、帝国主義は、監督して規制する力のある国家とともに、生産の無秩序を克服しようと、かつ合理的な経済を組織しようと追求する。
 しかし、矛盾と競争を除外することはできず、そのゆえに、帝国主義戦争を避けることはできない。
 全体としての資本主義体制は、社会主義革命に向けて成熟している。しかし、技術的な発展が高度に達しており、莫大な収益のおかげでブルジョアジーが労働者に高い賃金を支払うことができ、労働者に革命を思いとどまらせるところでは、矛盾の集中が最大になっている、つまり資本主義世界の外縁の、後進地域、植民地および半封建的な諸国以上に、この社会主義革命は、勃発しそうにない。
 増大する搾取、民族的抑圧、および農民運動が組み合わさって、これらの諸国は、世界的体制の鎖を力づくでもぎ取ることのできる最も弱い繋ぎ目(環)だ。
 発展していない諸国での社会運動は、直接に社会主義の建設を導くことはできない。しかし、それは、先進諸国のプロレタリア-トの自然の同盟者であって、労働者、農民の結合した力にもとづいて、漸進的で平和的な社会主義への発展と一致するブルジョア民主主義的目標を達成する、そのような過渡的な社会形態を創り出すことができるだろう。//
 しかしながら、レーニンは1916年までに、議論をつぎの段階へと進めた。
 『自己決定に関する討論の総括』で、こう書いた。//
 『植民地や欧州の小民族の反乱が伴わない、<偏見を全てもった>小ブルジョアの一部の革命的な暴発が伴わない、地主、教会および君主制による抑圧に反対する、あるいは民族的抑圧に反対する等々の、政治的には無自覚のプロレタリアと半プロレタリアの大衆の運動が伴わない、そのような社会革命が<考えられ得る>、と想像するのは全て、社会革命を放棄することを意味する。<中略>
 「純粋な」社会革命を期待する者は誰も、それに生きてめぐり合うことは<決してない>だろう。<中略>
 ヨーロッパでの社会主義革命は、抑圧されかつ不満をもつあらゆる全ての者の側の、大衆闘争の暴発以外のものでは<あり得ない>。
 不可避的に、小ブルジョアや遅れた労働者の一部もそれに参加するだろう-このような参加なくして、<大衆>闘争は不可能であり、<いかなる革命も>また可能では<ない>。
 また彼らは、全く同じように不可避的に、自分たちの偏見、反動的な空想、弱さと誤りを運動に持ち込むだろう。
 しかし、<客観的には>、彼らは<資本>を攻撃するだろう。』
 (全集22巻p.355-6〔=日本語版全集22巻416-7頁〕。)//
 この理論の帰結またはこれがマルクス主義の伝統から逸脱する程度を、レーニンが十分に意識していたかどうかは明確でない。
 マルクス主義が発展の『ブルジョア』段階だと、別言すれば一次的な農民と従属民族の段階だと見なすような多数の充足されない要求や熱望があるところでのみ、社会主義者の蜂起は発生し得る。-このことが、いずれにしても、断固として述べられた。
 これは、社会がブルジョアジーとプロレタリア-トでのみ構成される、マルクスが予見したような状況に資本主義が接近するときには、社会主義革命は生じない、または生じそうにない、ということを意味する。
 充たされない農民と民族的要求および『封建主義の残滓』の存在はプロレタリア-トを助けて、『非プロレタリア』の活力でもってプロレタリア-トを補強し得るだろうとのレーニンの言明は、もちろん、マルクスとエンゲルスの戦略と矛盾してはいない。
 マルクスとエンゲルスは、多様な場合に同様の立場を採用した。例えば、1848年のドイツのプロレタリア革命や1870年代のロシアの革命への望みにおいて、あるいは、アイルランド問題はイギリスの労働者階級の立場を強化するだろうとの見方において。
 本当のことだが、マルクスとエンゲルスは、この同盟がどのように作動するかに関するいかなる精確な理論をも提示しなかったし、どのようにして彼らの望みは社会主義革命に関する一般理論と調和できるのかについて、明確でもなかった。
 しかし、プロレタリア革命は『封建主義の残滓』による補強なくしては決して生じることができないとの言明は、マルクス主義における新考案物(novelty)であり、伝統的理論からは完全に離反するものだった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ②へとつづく。

1653/弁証法ノート②-L・コワコフスキ著17章9節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治〔最終回〕。
 前回のつづき。第9節(最終節)。
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 第9節・レーニンの弁証法ノート②(完)。 
 党の哲学論者たちは<唯物論と経験批判論>を使って、観念論と疑われる全ての教理と闘った。一方で、マルクス主義と機械論(mechanicism)の違いを強調するために、とくに1930代のブハーリン(Bukharin)とその支持者たちに反対する運動で、<哲学ノート>を引用した。
 この二つの文献の文章はともかくも相互の一貫性がないということを認めるのに、もちろん何の疑問もない。
 のちに、ソヴィエト同盟での弁証法的唯物論の教育がスターリンの設定した図式から離れたとき、<ノート>は新しい基盤として用いられ、16の『要素』は、スターリンの『弁証法の四つの主要な特質』に取って代わった。 
 しかしながら、<唯物論と経験批判論>はさらにレーニン主義の哲学上の基礎、スターリンによってそう授与された地位をもつもの、として復活した。
 そのことは、つぎのような嘆かわしい(deplorable)結果を生じさせた。すなわち、全ての自立した哲学的思想を窒息させる口実を用意し、全ての分野での科学と文化を支配する党の独裁を確立する、という。//
 ヴァレンチノフ(Valentinov)やその他の者が指摘したように、レーニンが唯物論を防衛したその極度の執拗さは、マルクス主義にのみ基礎があるのではなく、ロシア唯物論の伝統に、とくに、フォイエルバハ(Feuerbach)を大衆化した哲学の、チェルニュイシェフスキー(Chernyshevsky)に根ざしていた。
 こうした思想系統に対する論評は、1950年代のソヴィエト同盟でもなされた。しかし、レーニン主義は特殊にロシアの哲学で、誤謬のない、普遍的で有効なマルクス主義を継承たものではない、ということを示唆するものだと、非難された。//
 ロシアの淵源への影響の問題を別にして言えば、つぎのことは明白だ。すなわち、レーニンの哲学は彼の政治上の綱領および革命党の考えと緊密に結び付いており、彼自身がそのことを十分に意識していた、ということだ。
 全ての理論上の問題が権力闘争に厳格に従属している職業家の党は、哲学上の多元主義を安全には是認することができなかった。
 党自身の成功のために、党は明確に定義された教理を、あるいは構成員を拘束する、克服され得ない(inexpugnable)一体のドグマ(教義)を、所有していなければならなかった。   
 党の紀律と団結は、理論問題での弛み、曖昧さあるいは多元主義といったいかなる危険も排除されることを要求した。
 支配するイデオロギーが厳格に唯物論でなければならないことは、マルクス主義者の伝統によって保障され、革命に対する障碍物になるあらゆる形態での宗教的思想と闘うために必要とされた。もちろん、存在論的(ontologically)に中立な哲学を避けるためにも。
 レーニンは、身内であれ敵であれ、言葉上ですら宗教との妥協を示すいかなる傾向をも厳しく批判した。あるいは、間違って定式化されているまたは解決できないという理由で、存在論上の問題という脇道へと逸れる傾向も。
 レーニンは、マルクス主義は哲学上の全ての大きな問題に対する既製(ready-made)の解答だと信じ、何の疑いもないものとして受け入れた。
 哲学上の問題を棚上げするいかなる試みにも、党のイデオロギーの一体性に対する危険があった。 
 かくして、レーニンの粗雑な、妥協を許さない唯物論は、特殊な伝統の結果というだけではなくて、彼の行動技法の一部だった。
 党は、全てのイデオロギー問題を決定する唯一つの権限を有していなければならない。そして、レーニンは、この見地から、観念論が彼の綱領に対して示す危険性を十分に理解した。
 文化生活の全ての局面を抱え込む全体主義的(totaritarian)権力という考えは、彼の意識の中で少しずつ形を作り始め、ときおり実践へと用いられた。
 レーニンの哲学はこの考えによく役立つもので、問題の探求や解決に関係しないで、社会主義運動に教条的(dogmatic)な精神上の体制を押しつけることに関わっていた。 
 このようにして、レーニンの哲学的攻撃の憤怒や他者の議論への関心の欠如は、その源泉を、彼の哲学上の教理(doctrine)に持っていた。//
 しかしながら、レーニン主義者にとってすら、<唯物論と経験批判論>は、二つの重要な点で曖昧なものだった。
 既述のことだが、第一に、エンゲルスやプレハノフとは違って、レーニンは、『客観性』、すなわち主体に依存しないことが物質の唯一の属性だ、唯物論者がその者であればこれを是認せざるを得ない、と考えた。
 このように述べることは明らかに、マルクス主義はいかなる科学理論の変化にも、とくにいかなる物理学のそれに、依存しないことを意図していた。  
 『物質』は自然科学が授けたり奪ったりするいかなる属性にも影響を受けることがないので、科学は唯物論に対して何の危険も提示しない、とされた。
 しかし、このような結論は、『物質』を全ての内容から空虚にすることによって得られる。
 かりに物質が知覚する主体以外の何かであるとだけ単純に定義されるのだとすれば、このことは、知覚(perception)の内容と異なると見なされる『実体(substance)』の全てについて、同じく言えることが明確だ。
 『物質』はたんに、『全てのもの』の言い換え語になる。我々が一般的に『物質性』とともに連想する、いかなる種類の属性-空間上の、時間上の、あるいは活動上の-も、意味するものがなくなる。
 第二に、このような定義は、排除することを目的としている曖昧な二元論を、再び受容するものだ。
 主体の『外側』にある全てのものが物質的(material)であれば、主体それ自身であるいずれのものも物質的ではないか、主観的な(主体上の)現象と妥協するために物質の定義を拡張しなければならない、ということになる。  
 『物質が始源的で精神は二次的だ』という定式は、精神と物質は異なるものだということを前提命題にしていると思える。かくして、唯物論的一元論と矛盾している。
 レーニンの著作はこうした問題に解答していないか、または一貫して議論してはいない。そして、つぎのことをもっと正確に吟味するのを試みたい論点はない。
 すなわち、レーニンのテクストの不明瞭さ(難解さ)は、本来的な哲学上の困難さによるというよりむしろ、彼の怠惰で上辺だけの(表面的な)接近方法、権力闘争に直接に用いるために設定することができない全ての問題に対する侮蔑(contempt)、による。//
 ---
 第9節、終わり。そして、第17章、終わり。
 第18章およびその第1節の表題は、それぞれ、「レーニン主義の運命(fortunes)-国家の理論から国家のイデオロギーへ」、「ボルシェヴィキと戦争」。

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