秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

H・フーヴァー

1520/ネップ期・1921年飢饉④-R・パイプス別著8章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・1921年の飢饉④。
 ARA〔アメリカ救済委員会〕は、活動が最も活発だった1922年の夏、一日に1100万の人々に食糧を与えた。
 他の外国の諸団体は、300万人ぶんを加えた。
 総体的にいうと、この期間にソヴィエト政府および外国の救済諸機関が輸入した食糧は、1億1500万~1億2000万pud、あるいは200万トンに達した。(200)
 このような活動の結果として、1922年夏の初めには、『飢餓による現実の死の報告は、事実上なくなった。』(201)
 ARAはまた、800万ドルに値する医薬品も供給した。これは、感染症を食い止めるのに役立った。
 さらに、1922年と1923年に穀物の種子も供給し、続けて二回分の豊かな収穫を可能にした。
 数百人のARAスタッフは、フーヴァーが作成した取り決めにしたがい、数千人のソヴィエト市民に助けられながら、食糧や医薬品の分配を監督した。
 共産党当局は干渉しないと合意していたが、ARAの活動はチェカおよびその後継機関であるゲペウ(GPU)によって近くで監視されていた。
 レーニンはARAには全体にスパイが潜入していると確信していて、モロトフに対して、ARAが雇った外国人に目を光らせ続ける委員会を組織するように命じた。また、『英語に習熟している最大多数の共産党員』を動員して、『フーヴァーの委員会に〔採用するよう〕紹介し、監視と情報収集の別の形態として使う』ことも命じた。(202)
 のちにARAが解散したあとで、諜報活動や誰も欲していない物品のロシアへの荷下ろしを含む行為の、きわめて邪悪な動機はARAの責任だと非難しようとした。(203)
 第二次大戦の後でもなお、おそらくはスターリンがマーシャル・プランによる援助を拒否したことを正当化するために、ARAが雇ったソヴィエト国民の何人かが、諜報活動に従事したという言明書に署名させられた。//
 飢えているソヴィエト市民に対する食糧供給という重要な責任をアメリカや他国の組織が引き受けるやいなや、モスクワはその資源を別の目的へと転用した。
 8月25日-フーヴァーとの協定書に署名があって3日後-に、リトヴィノフはモスクワに対して、つぎのように知らせた。すなわち、自分はイギリス団に2000万金ルーブルの価格で宝石を売却した、また、購入者は2000万ポンド(一億ドル)(204)-この金額はアメリカと欧州を併せての飢餓ロシア人への寄付額を上回る-を支払ってさらに宝石を買う用意がある、と。
 トロツキーは1921年10月早くに、厳格に秘密にしているドイツのソヴィエト工作員、ヴィクトール・コップに、1000万金ルーブル(500万ドル)でライフル銃と機関銃を買い付けるように命令した。(205)
 これらの事実は、この当時は知られていなかった。
 知られるようになり、アメリカの救済団体にきわめて大きな衝撃を与えた。このことは、まさにその当時に、ソヴェト政府は自らの国民への食糧供給を西側の慈善金に頼っていたことを証拠だてている。
 ソヴェト政府は、外国に売るために食糧品を使っていた。(206)
 モスクワは1922年の秋に、数百万トンの穀物類を輸出できるように保有していると発表した。-これは、来たる冬の間に800万のソヴィエト市民がなおも食糧の支援を必要としており、その半分だけを国内の穀物資源で対応できるという時期に、行なわれた。(207)
 ソヴェト当局は質問されて、工業用や農業用の機械類を購入するために金銭が必要なのだと説明した。
 この行為は、アメリカの救済関係職員を激怒させた。
 『ソヴェト政府は、外国の市場で食糧供給物の一部を販売しようと懸命に努力しているが、一方では、輸出物に代替させるために、世界中に食糧の寄付を懇願している。』(208)
 フーヴァーは、抗議した。『生存者の経済条件を改善すべく機械や原料を確保するために、飢えている人々から奪って食糧を輸出する、ソヴェト政府の政策の非人間性』、に対して。(209)
 しかし、飢饉の最悪期が過ぎてしまうと、モスクワは外国の声を聞くのを拒絶することができた。
 穀物類が輸出されていることが報告されるとロシア人救済のための追加資金を集めることは不可能になり、ARAは1923年6月に、ロシアでの活動を停止した。//
 1921年飢饉の死傷者数は、犠牲者たちの痕跡が維持されなかったために、確定するのはむつかしい。
 最大の損失は、サマラとシェラビンスク地方およびゲルマンとバスク(Bashkir)の各自治共和国で発生した。合わせての人口は、20.6%減少した。(210)
 社会的階層について言えば、最大の被害を受けたのは、農村地方の貧困者、とくに、乳牛(cow)を持っていなかった人々だった。それを保有していれば、多くの家族が死から逃れることができた。(211)
 年齢について言うと、最も多く死んだのは、その多くが飢えた両親によって捨てられた、子どもたちだった。
 1922年に、150万人以上の農民の子どもたちが孤児になり、物乞いをし、窃盗をしていた。
 乳幼児・孤児保護施設(besprizornye)での死亡率は、50%に達した。(212)
 ソヴィエト中央統計局は、1920年と1922年の間の人口減少を、510万人だと推算した。(213)
 ロシアの1921年飢饉は、戦争によるものを別にすれば、黒死病以来の、ヨーロッパ史上最大の人的大災害だった。//
 少なくとも900万人の人命を救ったと概算されているフーヴァーの博愛主義の活動がなければ、損失はさらに大きくなっていただろう。(214)
 ゴールキはフーヴァーあての手紙で、人類史上に類例のない活動だったとフーヴァーを称賛した。
 『貴方の助けは、最大級の賞賛に値する、無類の巨大な業績として歴史に残るでしょう。そして、貴方が死から救ってくれた数百万のロシア人の記憶のうちに、長くとどまり続けるでしょう。』(215)
 多くの政治家が、数百万の人々を死に至らしめたとして歴史上に重要な位置を占めている。
 ハーバート・フーヴァーは、大統領としての業績のゆえに悪評はあり、すぐにロシアで忘れられたが、数百万の人々を救った人物として、稀なる栄誉が与えられる。//
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  (200) フィッシャー, 飢饉, p.298n。
  (201) ハチンソン, in : Golder and Hutchinson, 推移, p.18。
  (202) RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, ed. khr. 830、1921年8月23日付。
  (203) 例えば、レーニン, Sochineniia, XXVII, p.514 を見よ。
  (204) RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, ed. khr. 837。
  (205) トロツキー選集(J. M. Meijer 編) Ⅱ, p,596-599。RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo, p.914。
  (206) フィッシャー, 飢饉, 第14章。
  (207) 同上, p.315, p.321。ニユーヨーク・タイムズ, 1922年10月16日付, p.4。
  (208) フィッシャー, 飢饉, p.321。
  (209) 同上, p.321-2。
  (210) V・E・デン, 経済地理路線〔? 露語〕, p.209。
  (211) EZh (Ekonomicheskaia zhizn'), No. 292 (1922年12月24日), p.5。ファイジズ,農民ロシア, p.271。
  (212) インゲルソル, 歴史的諸例, p.36。ペーター・シャイベルト, 権力にあるレーニン (1984), p.166。
  (213) デン, 上掲, p.210。
  (214) インゲルソル, 歴史的諸例, p.27。
  (215) H・ジョンソン, in : Strana i mir, No. 2-68 (1992), p.21、から引用。
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 第10章、終わり。

1518/ネップ期・1921年飢饉③-R・パイプス別著8章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・1921年の飢饉③。
 1921年の5月と6月、レーニンは国外から食糧を購入するように命じた。しかしそれは、彼の主な関心である都市住民に対して食を与えるためで、農民に対してではなかった。(186)
 飢饉はレーニンを当惑させたが、それは反対の政治的結果が生じる恐れが潜在的にせよあるかぎりにおいてだった。
 例えば、レーニンは1921年6月、飢えの結果として生じている『危険な状況』について語った。(187)
 そして彼は、すでに我々が見たように、正教教会に対する攻撃を開始する口実として飢餓を利用した。
 1921年7月に、ジェルジンスキーはチェカに、飢饉の被災地帯での反革命の脅威について警告し、苛酷な予防措置を取るように命じた。(188)
 収穫の減少についていかなる示唆をすることも、新聞には禁止された。7月初めにすら、農村地帯では全てがうまくいっているとの報道が続いた。
 ボルシェヴィキ指導者層は、飢饉とのいかなる明らかな連関に言及することも注意深く避けた。
 クレムリンの農民たち代表者であるカリーニンは、被災地域を訪れた唯一の人間だった。(189)
 飢饉が最悪点に達していた8月2日、レーニンは『世界のプロレタリアート』への訴えを発し、素っ気なく、『ロシアの若干の地方で、明らかに1891年の不運よりも僅かにだけ少ない飢餓が生じている』と記述した。(190)
 この時期にレーニンのが書いたものや語ったもののいずれにも、飢餓で死んでいく数百万人の彼の国民に対する同情の言葉は、何一つ見出すことができない。
 実際に、レーニンにとっては飢饉は、政治的には決して歓迎されざるものではなかった、ということが示唆されてきた。
 なぜならば、飢饉は農民たちを弱体化し、その結果として飢饉は『農民反乱のような類を全て一掃した』、そして食糧徴発の廃止によるよりももっと早くにすら村落を『平穏にした』のだから。(191)//
 クレムリンは7月にようやく、誰もが知っていること、国土が悲惨な飢饉に掴まえられていること、を承認しなければならなかった。
 しかし、クレムリンは直接にそうしたのではなく、したくはない告白をして私的な方途を通じた援助を求める口実にすることを選んだのだった。
 確実にレーニンの同意を得て、ゴールキは7月13日に、食糧と医薬品を求めて『敬愛する全ての人々へ』と題する訴えを発した。
 7月21日に政府は、市民団体指導者の要請にもとづいて飢餓救済のための自発的な民間人組織を形成することに同意した。
 全ロシア飢餓救済公共委員会(Vserossiiskii Obshchestvenny Komitet Pomoshchi Golodaiushchim、略称して Pomgol)と呼ばれたそれは、多様な政治組織に属する73人の委員をもち、その中にはマクシム・ゴールキ、パニナ伯爵夫人、ヴェラ・フィグナー、S・N・プロコポヴィッチとその妻、エカテリーナ・クスコワが、著名な農業学者、医師や作家などとともにいた。(192)
 この委員会は、類似の苦境にあった帝制政府を助けるために1891年に設立された飢饉救済特別委員会を、模したものだった。異なっていたのは、レーニンの指令にもとづいて、12人の有力な共産党員から成る『細胞(cell)』があったことだ。
 カーメネフが長として、アレクセイ・リュイコフが次長として働いた。
 このことは、共産主義ロシアで許可された初めての自立組織が、指定された狭い範囲の機能から逸脱しない、ということを確実にした。//
 7月23日、アメリカ合衆国商務長官のハーバート・フーヴァー(Herbert Hoover〔共和党、のち1929-33年の大統領〕)が、ゴールキの訴えに反応した。
 フーヴァーは、アメリカ救済委員会(ARA)を設立して〔第一次大戦の〕戦後ヨーロッパに食糧と医薬品を供給する仕事に大成功していた。
 彼は確固たる反共産主義者だったが、政治は別に措いて、飢饉からの救済に精力的に没頭した。
 フーヴァーは、二つの条件を提示した。一つは、救済の指揮管理に責任をもつアメリカの組織には、共産党の人員からの干渉を受けることのない独立した活動が認められること。二つは、ソヴィエトの監獄に拘禁されているアメリカ市民を釈放すること。
 アメリカ人救済担当者は治外法権を享有するとのこの主張は、レーニンを激しく怒らせた。彼は、〔共産党中央委員会〕政治局に書いた。
 『アメリカの基点、フーヴァー、そして国際連盟は、珍しくひどい。
 『フーヴァーを懲らしめなければならない。
 <彼の顔を公衆の面前で引っぱたいて、全世界が>見るようにしなければならない。
 同じことは、国際連盟についても言える。』
 レーニンは私的にはフーヴァーを『生意気で嘘つきだ』と、アメリカ人を『欲得づくの傭兵だ』と描写した。(193)
 しかし、彼には実態としては選択の余地はなく、フーヴァーの条件を呑んだ。//
 ゴールキは7月25日、ソヴィエト政府に代わって、フーヴァーの申し出を受諾した。(194)
 ARAは8月21日にリガで、マクシム・リトヴィノフとともに、アメリカの援助に関する協定書に署名した。
 フーヴァーはまず、アメリカ議会からの1860万ドルを寄付し、それに民間人の寄付やソヴィエト政府が金塊を売って実現させた1130万ドルが追加された。
 その活動を終えるときまでに、ARAはロシアの救済のために6160万ドル(あるいは1億2320万金ルーブル)を使い果たした。(*)//
 協定書が結ばれたときに、レーニンは、ポムゴル(Pombgol〔全ロシア飢餓救済公共委員会〕)に関して小文を書いた。
 彼はこの組織を、敵である『帝国主義者』に助けを乞うたという汚名が生じるのを避けるために、仲介機関として利用した。
 この組織はこの目的に役立ったが、今やレーニンの怒りの矢面に立たなければならなかった。
 レーニンは8月26日、スターリンに対して政治局に以下のことを要求するように頼んだ。すなわち、ポムゴルを即時に解散させること、および『仕事に本気でないこと(unwillingness)』を尤もらしい理由としてポムゴルの幹部たちを投獄するか追放すること。
 彼はさらに、二ヶ月の間、一週間に少なくとも一度、その幹部たちを『百の方法で』、『嘲笑し』かつ『いじめて悩ませる』ように新聞に対して指示するように、命じた。(195)
 レーニンが要請して開催された政治局会議で、トロツキーはこれを支持して、ARAと交渉している間、アメリカ人は一度もこの委員会〔ポムゴル〕に言及しなかった、と指摘した。(196)
 その次の日、先陣のARA一行がロシアに到着し、ポムゴルの委員たちと一緒にカーメネフと会ったとき、ポムゴル全幹部の二人以外はチェカに拘束されて、ルビャンカに投獄された(ゴールキはあらかじめ警告されていたらしく、出席しなかった)。(197)
 彼らはそのあと、あらゆる形態の反革命の咎で新聞によって追及された。
 処刑されると広く予想されていたが、ナンセンが仲裁して、彼らを救った。
 彼らが監獄から釈放されたのち、何人かは国内に流刑となり、別の者は国外に追放された。(198)
 ポムゴルは、解体される前にもう一年の間、政府の一委員会として生き長らえた。(199)//
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  (186) レーニン, PSS, LII, p.184-5, p.290, p.441-2; LIII, p.105。
  (187) 同上, XLIII, p.350。
  (188) G. A. Belov, et al., ed, <略> (1958), p.443-4。
  (189) ペシブリッジ, 一歩後退, p.117。
  (190) レーニン, PSS, XLIV, p.75。
  (191) ペシブリッジ, 一歩後退, p.119。
  (192) イズベスチア, No. 159-1302 (1922年7月22日), p.2。エレ, in : 雑誌・ノート, XX, No. 2 (1979), p.131-172。フィッシャー, 飢饉, p.51。
  (193) レーニン, PSS, LIII, p.110-1, p.115。
  (194) フィッシャー, 飢饉, p.52-53。
  (*) H・H・フィッシャー, ソヴェト・ロシアの飢饉 (1927), p.553。
 ソヴィエトの金売却の収益は、もっぱら都市住民の食糧を購入するために使われたように思われる。
 外国人が飢饉のロシアへの食糧供給を助けたという最も古い事例は、1231-32年のノヴゴルード(Novgorod)であった。そのとき、飢餓のために人口が減っていた地域の人々を救ったのは、ドイツからの船便輸送による食糧だった。Novyi Entsikopedicheskii Slovar', XIV , 40-41。
  (195) レーニン, PSS, LIII (1965), p.141-2 で、初めて公表された。
  (196) B・M・ヴァイスマン, ハーバート・フーヴァーとソヴェト・ロシアの飢饉救済 (1974), p.76。
  (197) ミシェル・エレ, Pomoshch 入門 (1991), p.2。
  (198) ウンシュリフトのレーニンあて報告(1921年11月21日), in : RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo 1023。
  (199) ミシェル・エレ, in :雑誌・ノート, XX, No. 2 (1979), p.152-3。イズベスチア, No. 206/1645(1922年9月14日), p.4。
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 ④につづく。
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