秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

F・ルーズベルト

1358/Hoover: Freedom Betrayed, p.875-883〔フーバー回顧録〕。

 以下は、Hoover: Freedom Betrayed, p.875-883の本文の「試訳」だ。
 いずれ翻訳権者による正規の訳書が公刊され、結果としては誤りや不適切な訳が明らかになるだろうが、このまま残しておく。すべての文章とすべての語句に意を払ったが、その結果として堅い、こなれていない日本語文章になっているだろう。秋月瑛二はアメリカ政治史の専門家ではないし、英文学・英語学の専門家でもない。大学卒業程度の英語力を使っての「試訳」にすぎない(英語文の「構造」自体が分からなかった文章もいくつかあった)。
 また、以下はH・C・フーバーの大著のうち10頁に充たない部分を対象にしているにすぎず、(編者も冒頭に記すように)注でも参照要求されている等のフーバーの長い叙述の「要約」である。フーバーの理解、評価、考え方を正確に知るには当然に他の部分を読まなければならず、フーバーはアメリカの対日戦争を批判していても、日本の「戦争」全体を擁護しているわけではない。あくまで、アメリカの<愛国者>の一人だと思われる。
 日本に関連して興味を惹く別の部分の文章は、別に「試(私)訳」することがあるかもしれない。
 全体について、藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)も参照。
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 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳
 文書18  "正当な政治の喪失/政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章

 p.875-883
 〔編者(George H. Nash)はしがき〕
 以下は、フーバーの大作の1953年版の最後の章(89章)にある、最終的で思潮的なページ(p.994-p.1001)である。これのタイトルを、フーバーは一時期、「政治家資格失墜」〔正当な政治の喪失〕(Lost Statesmanship)とした。この諸ページはおそらく、1953年の早くに、1952年の大統領選挙の後にほどなくして書かれた。この章でフーバーは、ルーズベルト=トルーマン外交記録に対する彼の修正主義者(revisionist)的告発を、刮目すべき熱心さと強さでもって要約した。「私は、戦争および戦争にかかるすべての段階の政策に反対した」と彼は書いた。そして、「私は、釈明をしないし、後悔もしない」、と。
 この文書は、フーバー研究所文書の中の、Herbert C. Hoober 書類、Box11、"Box11, M.O.21" にある。

  〔序節〕 政治家資格失墜/正当な政治の喪失-7年に19度の-に関する省察
 世界に生起したすべての惨害についてヒトラーとスターリンを非難することによって、なおもルーズベルトとトルーマンを擁護する人々がいる。彼ら〔ヒトラーとスターリン〕が人間の歴史における悪魔的で不吉な人物だったことには、何らの論証も必要としない。
 しかしながら、彼ら〔ヒトラーとスターリン〕との交渉におけるアメリカやイギリスでの正当な政治の喪失〔Lost Statesmanship〕についていかなる省察をしても、歴史の弁明の余地はない。この(正当な政治の喪失という)巨大な過ちがなければ、この惨害は西側世界に生じ得なかったであろう。
 私は、この錯綜した諸行為の中で読者が、何がありいつあったか〔what and when〕に対する責任がいったい誰にあるのかを忘れてしまうことのないように、以下に、主要な出来事を列挙〔list〕することとする。私は読者に、この回想録中の諸章を注記する。そこ(その諸章)には、彼らが有罪であるとする事実と理由が述べられている。

 〔第一節〕 一九三三年の世界経済会議
 第一。ルーズベルトが国際的な政治家資格を失墜するに至った第一回め(でかつ重要なもの)は、一九三三年の世界経済会議を破壊したことであった。この会議は英国の首相・マクドナルドと私自身〔フーバー〕が準備したもので、一九三三年一月に開催することになっていた。ルーズベルトが(大統領に)選出されたため、六月に延期された。あの頃、世界は全世界的不況からまさに回復し始めていた。しかし、世界はひどい通貨戦争に引き込まれており、貿易障壁を拡大していた。初期の仕事は、専門家たちによってなされていた。ルーズベルトは十名の首相たちをワシントンに呼び集め、国家間の決済における金標準(本位)制を復活することに合意した。〔にもかかわらず、〕この会議の途中で突然に、ルーズベルトはこうした企図を覆し(「爆弾投下))、会議を挫折させ、達成したものが何もないままで死に至らしめた。ルーズベルト自身の国務長官であったハルは、この行為こそが第二次世界大戦の根源であったと、明白に非難した。(注1.)
 注1…第1章参照(編者〔George H. Nash〕注記-この文書の脚注はすべてフーバーによるものである。)

 〔第二節〕 一九三三年に共産主義ロシアを承認したこと
 第二。ルーズベルトにおける第二の正当な政治の喪失は、一九三三年に共産主義ロシアを(国家として)承認したことにあった。四代の大統領たちと五代の国務長官たちが-民主党であれ共和党であれ-(国際共産主義の目的全体と手法に関する知見をもって)このような行為〔国家としての承認〕を拒否していた。共産主義者たちは宗教的誠実さ、人間の自由および諸民族の独立を破壊する胚種を運び込むことによってアメリカ合衆国に侵透することができるだろうと、彼らは知っていたし、そう言った。ソヴィエト・ロシアを(国家として)承認することは他諸国の間での威信と力をそれ〔ロシア〕に与えるであろうと、彼らは考えていた。共産主義者たちは我々〔アメリカ合衆国〕の国境の内部では悪辣なことをしないという、ルーズベルトの共産主義たちとの間の幼稚な合意のすべては、四八時間も経たないうちに、履行不能の登録簿に載ってしまった。共産主義者とその同調者たちの長い車列は、政権の高いレベルにまで入り込んだ。第五列の活動が、国全体に広がった。こうして、ルーズベルトが大統領職にあった一二年の間に、長く続く裏切りの諸行為がなされたのである。(注2.)
 注2…第2章参照。

 〔第三節〕 ミュンヘン
 第三。私は、つぎの理由では、ズデーテンのドイツ人たちを帝国〔ドイツ帝国=ヒトラー・ナチス〕に譲り渡す1938年9月のミュンヘン協定を非難する気にはなれない。それ〔譲渡〕はベルサイユ条約により生じたおぞましい財産で、同条約からしてそれは不可避だったのだ、という理由では。しかしながら、ミュンヘン協定によって、ヒトラーは、ロシアを侵攻するというその再三の決意を達成する諸ゲートを開いたのだ。〔ルーズベルトによる〕正当な政治の喪失は、独裁者たち〔ヒトラーとスターリン〕の間の不可避の戦争に備えることから離れてしまい、そして、怪物たち〔monsters=ヒトラーとスターリン〕がお互いを殺し合うのを止めようとしていた。 

 〔第四節〕 一九三九年にイギリス・フランスがボーランドとルーマニアを保証したこと
 第四。正当な政治の第四の深刻な喪失は、イギリスとフランスが一九三九年の三月にポーランドとルーマニアの独立を保証(garantee)したときになされた。まさにそのとき、欧州の民主主義諸国は、ヒトラーとスターリンの間の不可避の戦争から手を引くという従来の政策を変更したのであった。
 このことは、欧州の勢力外交の全歴史のうちで、おそらくは最大の過ちであった。イギリスとフランスは、ポーランドを侵略から救い出す力を持っていなかった。しかし、この行為〔独立の保証〕によって、彼らは民主主義の政体〔ボーランド・ルーマニア〕をヒトラーとスターリンの間に投げ込んだ。彼らのこの行為によって、彼らはスターリンをヒトラーから守っただけではなく、スターリンに自らの影響力を最も高価な買い手に売ることができるようにした。(イギリスとフランスという)同盟国は入札したが、スターリンが示したのは、よるべない人々が住むバルト諸国および東部ポーランドの併合という、同盟国がとても応じることのできない人道的な対価であった。スターリンは、ヒトラーからその対価を獲得したのである〔=ヒトラーが入札に勝ったのである〕。だがヒトラーは、南東ヨーロッパにまで膨張し、モスクワの共産主義者の聖地(Vatican)を破壊するという決心を放棄するつもりはまったくなかった。しかし今は、ヒトラーはその必要上まずは西側民主主義諸国を中立化しなければならない、そしてそのように進め始めた。
 おぞましい第二次世界大戦の長い連鎖〔列車〕は、ポーランドの保証というこの過ちから出発した。ルーズベルトはこうした勢力外交にいくばくか参加していた。しかし、それがどの程度であったかを測定するには、諸記録文書があまりに不完全すぎる。チャーチルは、まだ政権に入っていなかったが、ミュンヘンでの宥和(-政策)のあとの絶望的な行為へとチェンバレンを駆り立てることによって、何がしかの寄与をなした。(注3.)
 注3…第18章、第19章、第27章参照。

 〔第五節〕 合衆国の宣告なき戦争
 第五。政治家としての第五の大失敗は、1941年の冬にルーズベルトが合衆国をドイツと日本との宣告なき戦争に放り込んだときだった。それは、数週間前に彼が選出された大統領選挙の際の公約に全く違反していた。(注4.)
 注4…第30章参照。

 〔第六節〕 慎重な待機策をとらなかった過ち
 第六。レンド・リース法〔武器貸与法〕の(施行)前、そして軍事費がアメリカの人々の肩に課される前の数週の間に、ルーズベルトは、ヒトラーがロシアを攻撃しようと決意していることを明確に知った。そして彼は、その情報をロシアに伝えた。彼はドイツとの宣告なき戦争を回避すべきであった。また、レンド・リース法(の適用)を、軍需品、糧食や船舶を購入するための金融支援という、イギリスに対する単純な援助に限定するべきだった。そうすれば、国際法の範囲内にとどまったままでいた。正当な政治〔 Statesmanship〕は、あの瞬間において、粛然として、注意深く待機する政策をとることを要求していたのである。(注5.)
 注5…第32章参照。

 〔第七節〕 スターリンとの同盟
 第七。まさにアメリカの全歴史上の最大の正当な政治の喪失は、ヒトラーが1941年6月に侵撃したときに、共産主義ロシアと隠然たる同盟関係をもったこと、かつそれ〔共産主義ロシア〕を支援したことであった。アメリカの軍事力はイギリスを救うために必要とされていたという誤った考え方ですら、今や明らかに消失してしまっていた。ナツィ(Nazi)の狂熱がロシアの沼地へと方向転換したことによって、何人もイギリスとすべての西側世界の安全をもはや疑うことはできなくなっていた。この怪物的な独裁者たち〔ヒトラーとスターリン〕は、どちらが勝とうと、互いに消耗させ合うことになるはずであった。ヒトラーが軍事的勝利を得たとしてすら、ヒトラーは数年間は、隷属状態の人々を保持しようとする窮地に陥っていたであろう。また、ロシアは、ヒトラーが望んでいたかもしれない、いかなる種類の軍需品をも破壊したに違いなかった。彼〔ルーズベルト?〕自身の将軍たちも、彼の行動に反対した。
 ロシアに対するアメリカの援助は、スターリンの勝利を、かつ共産主義の世界中への蔓延を意味した。正当な政治は再び、傍観するように、歯をくいしばって油断なく備えておくように、そして彼らの相互破壊を待つように求めて、切羽詰まって泣き叫んでいたのである。そのような日がやって来たとすれば、アメリカ合衆国とイギリスには、自由主義の世界に真実の平和と安全保障とをもたらすために彼らの力を用いる機会が、存在したであろう。平和を永続させるためのこれほどの大きな機会は、ある大統領にはかつて来ていなかった。その人物〔ルーズベルト〕は、しくじった。(注6.)
 注6…第33章参照。

 〔第八節〕 日本に対する一九四一年七月の経済制裁
 第八。ルーズベルトの政治における第八の巨大な過ちは、一ヶ月のち、一九四一年七月末の、日本に対する全面的経済制裁であった。この制裁は、砲弾発射を除くすべての意味(本質)における戦争であった。ルーズベルトは再三にわたって自分の部下から、このような挑発は遅かれ早かれ戦争への報復を生み出すだろうとの警告を受けていた。(注7.)
 注7…第37章参照。

 〔第九節〕 近衛の和平提案の受諾を拒絶したこと
  第九。一九四一年九月の、太平洋平和のための近衛首相の和平提案をルーズベルトが侮蔑的に拒絶したことによって、第九の正当な政治の喪失が完全になされた。近衛の諸提案を受諾するように、アメリカやイギリスの日本駐在大使たちは祈るような気持ちで強く働きかけていた。近衛が提案した諸条件に従えば、おそらくは満州(注8.)の返還を除いて、アメリカはすべての目的を達成したことになっていたであろう。その満州返還ですら、まだ議論する余地を残していた。 皮肉家(犬儒学者)は、ルーズベルトはこの些末な問題をきっかけにして大きな戦争を起こそうと意図していた、そして共産主義ロシアに満州を与えた、と想起するであろう。(注9.)
 注8…満州はすでに、1933年5月31日の塘沽(Tang-Ku)合意においてシナによって日本に譲与されていた。
 注9…第38章参照。

 〔第十節〕 三ヶ月の冷却期間をおく日本との合意の受諾を拒絶したこと
 第十。第十の正当な政治の喪失は、一九四一年十一月に、三ヶ月の冷却期間をおくことを合意しようという、彼の大使が知らせた日本の天皇からの提案の受諾を拒絶したことであった。我々の軍官僚たちは、ルーズベルトに対して受諾するように強く働きかけた。そのとき日本は、ロシアが同盟国・ヒトラーに対して勝利するかもしれないと警戒していた。九十日間の引き延ばし(delay)があれば、日本は戦意をすべて喪失していたであろう、そして太平洋には戦争が生じないままだったであろう。スティムソン日記が明らかにしたように、ルーズベルトとその官僚たちは、日本人たちが明白な犯行をするように挑発する方法を探していたのである。こうして、ハルは馬鹿げた最後通牒(ultimatum)を発し、我々はパール・ハーバーで敗北した。
 全南アジアの占領地域における継続した損失と日本の勝利は、計算できなかったものであった。さらに、制海権を失ったので、ヒトラーとTogo〔Tojo=東條が正確だと見られる/秋月〕は、我々の海岸線から見えるところで我々の船舶を破壊することが可能であった。(注10.)
 注10…第38章、第39章参照。

 〔第一一節〕 無条件降伏を要求したこと
 ルーズベルトの政治における第十一の巨大な過ちは、一九四三年一月にカサブランカで「無条件降伏」を要求したことであった。そこではルーズベルトは、我々の軍隊の助言なく、チャーチルの助言すらなくして、新聞一面の見出し(headline)〔「無条件降伏」が新聞に大きく取り上げられること〕を狙っていた。この要求は、全敵国の軍国主義者や広報担当者に入り込んだ、そしてドイツ、日本およびイタリアとの戦争を長引かせた。最後には、降伏の際の大きな譲歩が日本とイタリアの両国には与えられた。〔一方、〕この要求は、ドイツ人がナチスを除去したとするならば、彼らには和平へのいかなる希望も与えなかった。苦難の結末となる戦争は、ドイツが再建するための基礎らしきものの一切を、残さなかったのである〔から〕。 (注11.)
 注11…第42章参照。

 〔第一二節〕 一九四三年一〇月にモスクワでバルト諸国と東部ポーランドを犠牲にしたこと
 第十二。正当な政治を喪失する十二番めの過ちは、一九四三年十月、モスクワでの外務大臣会合において、自由な諸国民を犠牲にしたことであった。この会合では、自由とか民主政とかの言葉が使われる真っ只中で、バルト諸国、東部ポーランド、東部フィンランドおよびブコヴィナ(Bukovina)を併合しようとする周知のロシアの意図に対して、一言の異議の言葉も発せられなかった(このことを彼〔ルーズベルト?〕はヒトラーと合意していた)。この黙認は、四つの自由のうちの最後の言葉〔=<恐怖からの自由>〕および太平洋憲章を放棄することを示すものであった。(注12.)
 注12…第46章参照。

 〔第一三節〕 テヘランおよびさらなる七つの国家の犠牲
 第十三。第十三の、そしておそらくルーズベルトとチャーチルの政治家資格失墜を示す錯乱した迷走の最大の一つは、テヘランにおいて、一九四三年十二月になされた。ここでは、諸併合に関するモスクワ会合での黙認が〔正式に〕追認された。また、"友好的な境界線国家"の周縁部-七つの国家を覆う傀儡共産主義政権-についてのスターリンの原則〔doctrin〕が、受容された。国際的な道義や諸民族と自由な人々の独立性に関する彼ら自身の約束に忠実であるならば、ルーズベルトとチャーチルは、テヘランで、一度だけでもスターリンに確固として反対する必要があった。このときまで、これらの合意、黙認そして宥和を正当化できるだろうような、スターリンが分離した平和を作り出す、軍事的な危険は全く存在しなかった〔にもかかわらず〕。(注13.)
 注13…第47章参照。

 〔第一四節〕 ヤルタ-諸国家崩壊についての秘密協定
 第十四。正当な政治の十四度めの致命的な喪失は、ルーズベルトとチャーチルによって一九四五年の二月にヤルタでなされた。十二カ国の独立に対するスターリンの侵食のすべてが承認されたばかりではなく、一連の秘密協定でもって、何世代にもわたって世界を国際的な危険を感染させつづけるだろう不吉な力が作動してしまった。スターリンがすでに七つの国家を覆う共産主義政権を作り出していたことを知って、ルーズベルトとチャーチルは、彼らの政治家資格の失墜を隠蔽(カモフラージュ)しようとした。それには、"自由で独立した"選挙とか、"あらゆるリベラルな分野をもつ代表制"とかの言葉で表現された仕掛け(gadget)が伴っていた。テヘランでの宥和を軍事的な根拠でもって最も強く擁護する者たちですら、ヤルタでのそれをもはや擁護することができなかった。ここでは少なくとも、風格や自由な人類を追求する姿勢が、示され得たであろう。そうであれば、アメリカには、よりクリーンな手と自由な人々からの道徳的な尊敬が与えられ、残されることができていたであろう。(注14.)
 注14…第54章、第55章参照。
 
 〔第一五節〕 一九四五年五月~七月の日本の和平提案を拒絶したこと
 第十五。十五度目の正当な政治の喪失は、日本に関して、一九四五年の五月、六月そして七月に見られた。トルーマンは、日本人たちの白旗〔=降伏のサイン〕に注意することを拒絶した。ルーズベルトの「無条件降伏」に愚かにも従う義務は、トルーマンにはなかった。それ〔無条件降伏の要求〕は、欧州のアメリカ自体の軍事指導者によっても非難されていた。日本とは、ただ一つの譲歩さえすれば和平は達成できていたであろう。その一つとは、ミカド(Mikado)の地位を保全することであった。ミカドは、精神的にも世俗的にも国家の頂点にあった。その地位は、一千年にわたる日本人の宗教的信念と伝統に根ざしていた。そして、我々が最後にようやくこれに譲歩したのは、数十万人の人命が犠牲になってしまった後のことであった。(注15.)
 注15…第61章参照。

 〔第一六節〕 ポツダム
 第十六。第十六の盲目の政治を示したのは、ポツダムでのトルーマンであった。(アメリカ政治の)権力はいまや、民主主義諸国での未経験な人物たちに渡っており、〔一方、〕共産主義者たちはすべての重要な地点に進出していた。ポツダムでの合意のすべては、一連の、スターリンに対するそれまでの降伏の正当化と敷衍であった。共産主義者による併合や傀儡化のすべてが、スターリンとの関係をさらに堅くした。のみならず、ドイツやオーストリアの統治に関する諸条項は、これら両国の一部がスターリンの懐に入ってしまうようにするものであった。賠償政策の結果として、アメリカの納税者たちには怠惰なドイツ人の救済費用として数十億(ドル)の負担が課せられ、ドイツの再興、そうしてヨーロッパのそれが、数年にわたって厳しく抑えつけられることとなった。戦争捕虜に対する悪意ある奴隷化や多数の諸民族の母国地からの放逐は、ヤルタ(密約)によって裁可され敷衍された。
 これに加えて、指導者〔高官〕たちの助言に逆らって、日本に対して無条件降伏を要求する最後通牒が発せられた。その最後通牒には、アメリカの経験ある多くの専門家の意見によれば推奨されていた、ミカドの地位を維持することを許す例外条項は存在しなかった。日本人は回答としてこの点での譲歩のみを求めたのであったが、原子爆弾に遭遇した--そうして、最後に譲歩がなされた。(注16.)
 注16…第61章、第62章参照。

 〔第一七節〕 原子爆弾の投下
 第十七。アメリカの正当な政治の第十七の揺らぎは、日本人たちの上に原子爆弾を投下せよとの、トルーマンの非道徳的な命令であった。日本は繰り返し和平を求めていたのだということだけではなく、この命令は、アメリカのすべての歴史において比較のしようのない残忍な行為であった。これは、アメリカ人の良心に対して、永遠に重くのしかかるであろう。(注17.)
 注17…第62章参照。

 〔第一八節〕 毛沢東にシナを与えたこと
 第十八。正当な政治の喪失の十八度めの歩みは、シナに関してトルーマン、マーシャルおよびアチソンによってなされた。まずはルーズベルトが共産主義者〔中国共産党〕との連合政権(設立)を蒋介石に対して執拗に要求し、それにシナに関するヤルタでのおぞましい秘密協定が続いた。その密約は、モンゴルを、そして実質的には満州を、ロシアに与えるものであった。トルーマンは、彼の左翼的(left-wing)な助言者たちの主張によって、また彼らの意向を実現しようとするマーシャル将軍を任用することによって、全中国を共産主義者たちに犠牲として捧げたのである。トルーマンは、最終的には四億五千万のアジアの人々をモスクワが支配する共産主義傀儡国家〔毛沢東の中華人民共和国〕に組み入れてしまったこうした政策について、巨大な政治の過ちをしたと、査定(評価=asses)されなければならない。(注18.)
 注18…第51章、第82章参照。

 〔第一九節〕 第三次世界大戦の龍の歯(Dragon's Teeth)
 第十九。モスクワ、テヘラン、ヤルタ、ポツダムの諸会議およびシナに関する政策から、第三次世界大戦の龍の歯(Dragon's Teeth、厄災の種)が世界のいたるところにばら撒かれた。そして我々は、何年もの「冷戦」を、ついにはおぞましい朝鮮戦争を、体験することとなった。そして、アメリカが再び勝利することを危うくする、北大西洋同盟の弱々しさをも。(注19.)
 注19…第82章、第83章、第84章参照。

 〔最終節〕 結語
 この文書(諸巻)を終えるには、数行以上の文章は必要でない。私は、戦争および戦争にかかるすべての段階の政策に反対した。私は、釈明をしないし、後悔もしない。
 私はアメリカの人々に何度も、巻き込まれることに対する警告を発した。私は繰り返し、その唯一の結末は世界中に共産主義を蔓延させてしまうことだろうと述べた。我々は合衆国と全世界とを弱体化させてしまうだろう、と。今日の世界の状況は、私の正しさを証明している。
 物質的な損失や道徳的かつ政治的な大失態にもかかわらず、また国際的な愚挙にもかかわらず、アメリカ人は、我々は再び強くなるであろうという確信を持つことができる。進歩の行進はいずれまた再出発するであろう、との確信を。集団主義への漂流にもかかわらず、政府の堕落にもかかわらず、デマゴギーに溢れた知識人たちにもかかわらず、政府の腐敗と我々国民の道徳的な頽廃にもかかわらず、我々は、キリスト教精神をなおも保持している。そして、我々の科学や産業の進歩についての古くからの知恵をなおも持っている。我々は、諸学校を通じて前進している三千五百万人の、より高度の学習のために諸研究施設にいる二百五十万人の子どもたちを持っている。いつぞや、彼らの力はアメリカ人の生活にある苦難に対して勝利するであろう。より偉大なアメリカという約束は、国土中にある数百万の小家屋(cottages)に生き続けている。そこでは、青少年男女たちは、自由のために生きようとなおも決心している。彼らの心には、アメリカの精神がまだ生きている。そうした郷土(homes)から育つ青少年男女たちは、いつの日か、厄災と挫折を追い払うであろう、そして、彼らのアメリカを再び創出するであろう。
 一九五二年の共和党政権にかかる選挙は、このような方向転換の兆しである。
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1271/コミュニストにより作られたハル・ノート-櫻井よしこ・週刊誌連載。に関連して2。

 櫻井よしこ週刊新潮1/22号(新潮社)で、アメリカ・ルーズベルト政権は日本が呑めないことを見越して「日本に事実上の最後通牒であるハルノートを突きつけ」、開戦に追い込んだ、という旨を記していたが、中川八洋の理解は大きく異なるようだ。
 中川八洋・近衛文麿とルーズヴェルト-大東亜戦争の真実(PHP、1995)p.39によれば、「米国側からの最後通牒『ハル・ノート』の故に、日本は敗戦を覚悟してやむなく窮鼠猫をかむ決断を強いられた、という俗説」が是正されなく今も通用しているのは「歴史の歪曲」、少なくとも「歴史の真実に対する怠慢」だ。
 中川八洋は「大東亜戦争…とは、…東アジア全体の共産化のための戦争であった」(p.34)、「大東亜戦争=日本とアジアの社会主義化」というのが「歴史の真実」だ(p.276)と捉えているので、出発点あるいは逆の結論自体が櫻井よしこらとは基本的に異なっているように見える。
 そして、同書の第二章「『ハル・ノート』とロシアの『積極工作』-財務次官補H・D・ホワイトとルーズヴェルト」でも、上のような「俗説」なるものとは異なる叙述を行っている(p.36-57)。以下、ハル・ノートやそれと日本の関係に限っての要約・抜粋的紹介。
 ・1941.07.28の日本軍の南部仏領進駐(ベトナム・サイゴン入場)は日本の英米蘭に対する実質的な開戦で、ハル・ノートが日米戦争の引き金ではない。同09.06の午前会議で10月上旬の開戦の想定(帝国国策遂行要領)が決定され、さらに11.05には12月上旬に定め直され、11.26午前には南雲中将らの機動部隊は真珠湾に出撃していた。ハル・ノート(のちに述べる最終案)が手交されたのは11.26午後で、日本の真珠湾攻撃はハル・ノートに対する反発によるものではない。日本の対米開戦は同年7月以降の既定路線だった。
 ・といって、ハル・ノートに重大性がないわけではない。ハル・ノートにはハルがまとめた「ハル試案」=暫定案と、時期的にはのちのホワイトが執筆してハルの名で手交されたより強硬な「ホワイト試案」=最終案とがあった。前者であれば日米講和の可能性があり、これによって敗戦・降伏していれば、ソ連の対日開戦はなく、満州の悲劇も千島の領土喪失もなかった。「強硬姿勢一本槍」の「ホワイト試案」=最終的なハル・ノートは日本の関係者すべてを憤激させ、日本を徹底抗戦へと誘導した。そして戦後には、ハル・ノートは日本国民の対米怨念形成の劇薬になり、戦後の日米関係に対して致命的悪影響をもたらした。なお、<最終案>・「最終的なハル・ノート」という語は、秋月が作った。 
 ・「ホワイト試案」=最終的なハル・ノートは、アメリカ内部で、どのようにして採択されたのか。暫定案→最終案への変化は1941.11.17-11.25の間に生じた。財務次官補・ホワイトは試案を11.17に財務長官・モーゲンソーに渡し、その翌日にモーゲンソーはルーズヴェルト大統領とハル国務長官に送付した。ハルは自らの暫定案に固執し続けたが、ルーズヴェルトはホワイト試案を気に入ったようで、11.25にそれの採用をハルに命じた。
 ・ルーズヴェルトが「ホワイト試案」を支持したのは、ソ連擁護のために対ドイツ開戦をしたくて、ドイツと同盟関係にある日本に対米開戦を決行させることにあっただろう。日本の対米開戦はドイツの対米開戦と見なしてよかった。ルーズヴェルトは「100%の確率で受諾拒否となる」「最後通牒」をどうしても日本に手交したかった。
 ・H・D・ホワイトとは何者か。彼の「別の顔」はKGBの前身組織の在米責任者バイコフ大佐指揮下の「ソ連工作員の一人」。のち1953年にブラウネル司法長官は、ホワイトを名指しして「ソ連のスパイであり、米国の機密文書を…他の秘密工作員に渡していた」と言明した。1948年にバイコフ機関に関する証言のために召喚されたホワイトは、喚問三日後の08.16に心臓麻痺で死亡し、ハル・ノートをめぐる歴史の謎は闇の奥にしまわれた。しかし、ハル・ノート(最終案)が「共産主義者」である「ソ連のスパイ」により執筆された、という事実は等閑視できない。「共産主義の心底には破壊主義」が強く潜み、ホワイトはソ連防衛のみならず、日米戦争による「日本の破壊」の目標も秘めていたただろう。
 以上に続いてルーズヴェルト政権内のホワイト以外の「共産主義者」である「ソ連のスパイ」についての叙述があるが省略する。
 中川八洋は「最後通牒」性を否定しているが、かりにハル・ノートが日本に対する「最後通牒」との<俗説>が正しいものであったとしても、そのハル・ノートを実質的に作成したのはソ連・コミンテルンのスバイだった、という指摘はすこぶる大きな意味があるはずだ。
 櫻井よしこはどの程度の知見を持っているのかは知らないが、少なくとも週刊誌上の簡単な叙述だけでは不十分であることは明らかだろう。
 それにしても、先の戦争、大東亜戦争、八年戦争、昭和の戦争(の時代)についての歴史「認識」は同じ<保守派>であっても決して一様ではないことに驚かされるところがある。中川八洋を<保守派>論者でない、と評する者はいないだろう。近く田久保忠衛の戦争(の時代)についての歴史「認識」にも触れる予定だが、<真正保守>の歴史観というものがあるのかは疑わしい。また、自ら<真正保守>と任じている者の歴史把握が<真正>なものである保障は決してない、ということも心得ておいてよいと感じられる。

1270/<保守>派の情報戦略-櫻井よしこ・週刊新潮連載コラムを読んで1。

 櫻井よしこ週刊新潮1/22号(新潮社)の連載コラム639回で「外交も戦争も全て情報戦が決める」と題して、「情報戦」の重要性を説いている。そのことにむろん異論はないが、書かれてあることには、不満が残る。
 櫻井はビーアド・ルーズベルトの責任/日米戦争はなぜ始まったか(開米淳監訳、藤原書店)を読んで、先の戦争時におけるルーズベルトや同政権の認識・言動等をおそらくは抜粋して紹介している。しかし、対ドイツ関係のグリアー事件(1941年)に関することを除いて、すでに何かで読んで知っていたようなことだ。
 また、ビーアドの書物がどこまで立ち入って書いているのかを知らないが、櫻井よしこがここで紹介しているかぎりでは、なおも突っ込みが足りないと感じる。まさかとは思うが、櫻井よしこはビアードのこの本によってここで書いてるようなことを知ったのではないだろう。そして、ビーアドの叙述による事実・現象のさらにその奥・背景が(も)重要なのだと思われる。
 例えば、ビーアドによると、大多数のアメリカ人には対日戦ではなく対ドイツ・ヒトラー戦争こそが重要だったにもかかわらず、ルーズベルトは1941年7月に「在米日本資産を凍結し、通商を停止し、日本を追い込みつつ」対日戦争を準備していた、ということのようだが、「在米日本資産を凍結し、通商を停止し、日本を追い込」んだ原因・背景がアメリカにも日本にもあったはずで、ルーズベルトの個人的な意思のみを問題にしても不十分だろう。
 また、「日本に事実上の最後通牒であるハルノートを突きつけ」ながらも、日本政府がこれを受諾しないで開戦してくるという確信をルーズベルトは隠していた、という旨も書き、さらに、春日井邦夫・情報と戦略(国書刊行会)によりつつ、ルーズベルトはハル・ノートの手交当日にも戦争準備をしており、日本の真珠湾攻撃を「待ち望んでいた」「口実」として対日戦争・参戦を始めた、という旨も書いている。
 何で読んだかは忘れたが、上のようなことは私はおおむねすでに知っていたことだ。
 問題は、ハル・ノートの作成・手交や開戦前の日米交渉において、ルーズベルトだけではなく、同政権内部の誰々がどのような役割を果たしたか、同様に同時期の日本政府は、具体的には誰々が、どのように判断してどのように行動決定したかの詳細を明らかにすることだろう。別の機会に関係コメントは譲るが、コミンテルン(・ソ連)およびその工作員・スパイの役割に論及する必要があると思われる。櫻井は、コミンテルンにもコミュニズム(共産主義)にも何ら触れていない。
 最後に櫻井は、「情報戦の凄まじさ、恐ろしさを実感する。いま、日本は中国の情報戦略で深傷(ふかで)を負わされつつある」と書いて、「情報戦」を戦う強い意思を示している。このことに反対しないが、しかし、揚げ足取りまたはないものねだり的指摘になるかもしれないが、<情報戦略>をもって日本に対応・対抗しているのは、中国だけではない。アメリカも韓国も北朝鮮も、その他の諸国も、多かれ少なかれ、日本に対する<情報戦>を行っている。そして、それに応えるような、日本を謀略に自ら陥らせるような「報道」の仕方をするメディアが、それに巣くう日本人が、日本国内には存在する。
 「情報戦」は、朝日新聞等々の、日本国内の<左翼>・<容共>勢力との間でも断固として行わなければならない。歴史認識、「憲法改正」等々、戦線はいくらでもある。朝日新聞のいわばオウン・ゴール?で少しは助かっているようにも見えるが、日本国内の<左翼>・<容共>勢力の「情報戦略」は決して侮ってはいけないレベルにある。
 私が懸念しているのは、<保守>・<自由>・<反共>陣営にはどのような「情報戦略」があるのか、だ。
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