秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

Ch・ヒル

1826/江崎道朗2017年8月著の悲惨⑱。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 この本が<レーニンの生い立ち>についてもっぱら、正確には一つだけの邦訳書として、「参考に」しているので、おかげで著書の執筆者、クリストファ・ヒル(Christopher Hill)について、関心をもち、知識も得ることができた。
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 既述のようにヒルは、1945-46年にLenin and the Russian Revolution(1947)を執筆し、1947年に英国で刊行し、これが1955年にクリストファー・ヒル〔岡稔訳〕・レーニンとロシア革命(岩波新書、1955年)という邦訳書となって日本でも刊行された。これは、彼の43歳の年で、原書を執筆していたのは、33~34歳のとき。
 また、80歳をすぎた1994年1月の英国新聞紙上で、私に言わせればなお<レーニン幻想>をもつことを明らかにし、「スターリンのゆえにレーニンを責めるという罠(trap of blamming Lenin for Stalin)」に陥ってはならない旨を語った。
 なお、「スターリン以降の歴代指導者」が「社会主義の原則」を踏みにじったのであって、レーニンは社会主義に向かう「積極的努力」をした、というのは現在の日本共産党の歴史理解だ。したがって、Ch・ヒルは(も?)日本共産党と似たようなことを言っていることになる。
 但し、<レーニンはまだマシだった>くらいの議論は欧米にも(当然に?日本でも)あるようだが、レーニンは<市場経済を通じて社会主義へ>の路線を確立した、とまで書いている欧米文献は見たことがない
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 さて、とりあえず、ネット上の情報によると、つぎのことは確実だろうと思われる。
 クリストファー・ヒル(Christopher Hill)、1912年2月~2003年2月。満91歳で死去、イギリス人。
 1930年代の前半、イギリス共産党に入党。共産党員となる。
 これはコミンテルンの支部としての、「共産党」と名乗ったイギリスの党だと思われる。一般的な言葉ではなく、私の造語かもしれないが、日本共産党とともに出自は<レーニン主義政党>だ。
 つづき。のち1956年に<ハンガリー事件(動乱)>をきっかけとして、離党した。
 マルクス主義歴史家としてイギリスで著名で、主要研究分野は17世紀のイギリス。
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 以上は英米語と日本語のWiki (ウィキ)でほぼ共通することを書いた(一部は私の文章だが)。
 英米語版Wikipedia は相当に詳しい。以下、それによる。
 ソ連による1956年のハンガリー侵攻の際に「多くの他の知識人たち〔党員〕」は離党したが、Ch・ヒルが離党したのは1957年の春で、「多くの他の知識人たち」と違っていた(unlike)。
 1931年にドイツ・フライブルクにいて、ナツィスの勃興を目撃。
 1934年にUniversity of OxfordのBalliol College を卒業。
 1932~1934年の間に、マルクス主義に馴染み、イギリス共産党に入党。
 1935年、OxfordのAll Souls Collegeの研究員になり、10箇月間のモスクワ旅行。
 1936年、the University College of South Wales and Monmouthshire(at Cardiff )の「助講師」。
 この年、コミンテルン設立の「国際旅団」に参加して「人民戦線」側で戦う(スペイン内戦)ことを応募したが却下された。代わりに、バスク難民救済事業に参加。
 1938年、University of Oxford/Balliol College の「研究員兼講師」(歴史学)。
1946年、<イギリス共産党・歴史家グループ>を結成。
 1949年、新設の Keele University の the chair of History に応募したが、共産党員であること(his Communist Party affiliations)を理由として、拒否される。
 以上が、江崎道朗が「参考」にした本が書かれる頃までの、かつ共産主義・共産党にかかわるCh・ヒルの「経歴」の一部だ。全くのウソではないだろう。
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 ハーヴェイ・J・ケイ(監訳/桜井清)・イギリスのマルクス主義歴史家たち(白桃書房、1989)という邦訳書がある。原書は、以下。
 Harvey J. Kaye, The British Marxist Historians (Polity Press, Cambridge, 1984).
 邦訳書によると、これはアメリカ人によるものだが、上では省略した邦訳書の副題に並べられているように、5人のイギリス・マルクス主義歴史家について叙述する。5人とは、以下。
 ①モーリス・ドップ(Maurice Dopp)、②ロドニー・ヒルトン(Rodony Hilton)、③クリストファ・ヒル(Christopher Hill)、④エリック・ホブズボーム(Eric Hobsbawm)、⑤トムソン(E. P. Thompson)
 ⑤のE. P. トムソンは、1970年代前半にL・コワコフスキを批判し、逆に後者から辛辣な反論を浴びた学者。L・コワコフスキの文章はこの欄で試訳した。トニー・ジャッㇳ(Tony Judt、1948-2010)による両者の論争?への言及についても紹介した。
 ④のE・ホブズボームについては、マルクス主義・共産主義と「ロマンス」をした、イギリス共産党員たることをやめなかった人物だと Tony Judt が描いていると、この欄で言及したことがある。
 そして、③クリストファ・ヒル(Christopher Hill)。1984年の時点で、元イギリス共産党員。
 上の本の著者自体が、マルクス主義者または明瞭な親・マルクス主義者だ。
 著者のハーヴェイ・J・ケイ(Harvey J. Kaye)はアメリカ人だが、イギリスのマルクス主義歴史学者の確かな流れ・系譜を上記の5人に見ている。
 例えば、序論で、つぎのように書く。
 彼ら(上の5人)は個別研究分野で優れているのは勿論だが「共に理論的伝統を支えてきた」。筆者(ケイ)の「論拠は、これらイギリス・マルクス主義歴史家たちが、共通の理論的問題設定に取り組んでいるという点に基礎」を置く。p.4。 
 その最終章(第7章)は「共通する貢献」と題しており、例えば、つぎのように書いている。
 彼らの研究は「総体的にみて、筆者の言う『階級闘争分析』と『底辺からの歴史』という視点から歴史研究と歴史理論の再構築をはかろうとする理論的伝統に立っている」。「特にマルクス主義との関連で言えば、彼らは、…マルクス主義あるいは史的唯物論を、階級決定論として発展させることに努めている」。p.249。  
 あくまでH. J. ケイによる見方だが、ともあれ、Ch・ヒルとは、1980年代前半の時点で、イギリス・マルクス主義歴史学者の(当時までの)5人の中の一人なのだ。マルクス主義内部の細部の論点には立ち入らない。
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 さて、江崎道朗は冒頭掲記の2017年8月の著で、いったい何ゆえに、<レーニンの生い立ち>に関して、このCh・ヒルが30歳台のとき、第二次大戦後すぐの1947年に刊行して1955年に日本語訳書となった古い本をもしかも岩波書店刊行(岩波新書・岡稔訳)の本を、<ただ一つだけ>「参考に」したのだろうか。
 大笑い、大嗤いだろう。
 <インテリジェンス>うんぬんを語る日本の<保守>派らしき人物が、当時はれっきとしたイギリス共産党員だった者が執筆したレーニン・ロシア革命に関する本を、何の警戒も、何の注意も払うことなく(まさか岩波新書だから古くても信頼が措けると判断したのではあるまい)、ただ一つの「参考」書として使っているのだ。
 この本刊行のあと晩年まで<レーニン幻想>を抱いていた人物であることは、私は突きとめた。
 なぜ、こんな安易な本の参考の仕方を江崎道朗はしているのか。
 要するに「無知」、「幼稚」の一言か二言でもよいのだろう。
 だが少し想像すれば、おそらく、レーニンの「生い立ち」を叙述する必要に迫られて、手頃に、簡単に入手できたCh・ヒル著(岩波新書)を見つけ、60年以上前に刊行された岩波新書であることも無視して、あえて使ったのだろう。
 この本以外に、レーニンの伝記的な部分を含むレーニンに特化しての研究書が邦訳書も含めて多数(しかも詳しいものが)あると想像すらしなかったようであることは、信じられないほどだ。
 江崎道朗の2017年8月著は悲惨であり、無惨だ。
 なぜ、この程度の人物が月刊正論(産経)の毎号執筆者なのか。
 なぜ、この程度の人物が<インテリジェンス>の専門家面しておれるのか。
 このような人を<培養している>のはいったいどういう情報産業界なのか。
 そして、<日本の保守>派とはいったいいかなる人たちで成っているのか。なぜ、これほどに頽廃した人々が<保守>を名乗っておれるのか。
 昨年8月に覚えた絶望的な気分を、再び思い出した。精神衛生によくない。

1819/江崎道朗2017年8月著の悲惨⑰。

 レーニンに関する記述のうち、その範囲は不明確だが、つぎの書物は、「…を参考に、レーニンの生い立ちを見てみよう」と明記している(p.45)。少なくともレーニンの「生い立ち」について、「参考」文献を一つだけ挙げているわけだ。その文献を、つぎの書物名の下に記す。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 クリストファ・ヒル〔岡稔訳〕・レーニンとロシア革命(岩波新書、1955年)。
 この岩波新書は、先だってその文章をこの欄でとり上げたクリストファ・ヒル(Christopher Hill)の若い頃の書物の邦訳書だ。
 のちに1994年になって、ソ連解体後にこのCh・ヒルがどのような文章を書いていたかは、江崎道朗著による「参考」の仕方と直接の関係はない。ただ、「1945-46年に」執筆して1947年に(英米語で)出版したときの基礎的な考え方をその後50年近くも<珍しくも>維持し続けたようであることは、少しは驚かされる。
 上の点はともあれ、江崎道朗がCh・ヒル著の邦訳書をレーニンの「生い立ち」についてはただ一つ「参考」にしたようであることは、ただちに、つぎの疑問を生じさせる。
 原著は1947年、岩波新書として邦訳されて日本で(日本語となって)出版されたのは1955年。
 なんとまぁ。レーニンの生涯については、「生い立ち」も含めて、おそらくは100冊以上は出版されていて、どんなに少なくとも10冊以上は日本語文献もあるだろう。なぜこの本が利用されているかについて、より具体的には、つぎの疑問が<即時に>出てくるのだ。
 第一。原著1947年、邦訳書1955年、というのはいくら何でも、古すぎるだろう。
 レーニンの党・ボルシェヴィキ(共産党)と「国家」そのものとの関係が問題になおなり得たかもしれない、あるいは「マルクス=レーニン主義」と称してマルクスと同等の地位にまでレーニンを「持ち上げた」スターリン体制のもとでは実質的に「党」=「国家」または「党」>「国家」だったかもしれない、その国家・<ソ連>の創設者だったといえるレーニンについては、とりわけ1991年12月(ソ連解体)以降は、従前とは異なる<レーニン像>が、ロシア・旧ソ連も含めて、種々に語られ、論じられている可能性がある。
 なぜ、江崎道朗は、邦訳書刊行が1955年という、とんでもなく<古い>書物をただ一つ「参考」にしたのか?
 1955年とは、宮本顕治=不破哲三を指導部とする日本共産党はまだ存在していないほどの、60年以上も前の年だ。
 第二。この1955年当時すでに、岩波書店は月刊雑誌・世界等を通じて、例えば「全面」講和か否か等の問題について、明らかに「左翼」(当時は「革新」?、「平和」系?、親ソ派?)の代表的な出版者であり、当時の「左翼」たちにとっての代表的な出版社だったと思われる。
 なぜ、<インテリジェンス>の専門家を少なくとも装っているらしい江崎道朗は、岩波書店の出版物を、こんなに安易に「参考」にするのか
 秋月瑛二もまた岩波新書等の岩波の出版物に言及することがあるが、決して<警戒>を怠ったことはない。どこかに、あるいは、ともすれば、<左翼>臭があるのではないかと、いちおうは用心する。
 この欄にすでに<岩波書店検閲済み>の近年のファシズム関係邦訳書を取り上げたことがある。さすがに岩波書店だと感じたものだ。
 要するに、なぜ江崎道朗は①1955年の②岩波書店出版物を「レーニンの生い立ち」についてのただ一つの「参考」文献にしているのか。
 つぎに、古くてかつ岩波の本であっても、内容に問題がなければ、あるいは公平に見て適正といえる範囲内にあれば、それはそれでよいのかもしれない。
 しかし、江崎道朗の叙述は、戦後・1940年代後半に執筆されたCh・ヒル著の影響を受けているに違いなく、つぎのような記述を江崎道朗の<自分自身の>文章として、つまり直接の「引用」ではなく、行っている。
 以下は、ほぼ上の江崎道朗著p.46-p.47からの「引用」。
 ①「両親ともに開明的な思想の持ち主であり、貧民救済に強い関心を持っていた。レーニンはその影響を受けて育っている」。
 ②レーニンは「極めて頭脳優秀であった」が父親の死と実兄がロシア皇帝暗殺陰謀への「連座」により「処刑」され、「テロリストの弟」とレッテルを貼られて「進路を閉ざされて苦労することになった」。〔この直後にCh・ヒル著からの引用が二文ある。〕
 ③「カザンの田舎大学の法学部にしか入れなかった」〔Ch・ヒル〕が「その大学も、学生騒動に関わって四ヶ月後に放校に」なった。
 ④「ほかの大学からは軒並み入学を断られ」、「校外生」として入ったペテルブルク大学で「成績はここでも極めて優秀だったが、常に警察の監視下にあった」。
 ⑤「出世の道を断たれたレーニンは、社会主義を学び、反帝国主義・反帝制ロシアの活動にのめりこんでいく」。
 ⑥レーニンはのち、第二インター活動家として活動し「帰国しては警察の追及を受け、脱出、亡命を重ねている」。
 ⑦「貧民や労働者の救済のために活動すればするほど、帝政ロシアに弾圧されるという繰り返しだった」。
 このあとの別の書物を「参照」したうえでのレーニンの「主張」内容の紹介も、レーニン側に立っているかのごとく<優しい>。
 上の最後の点はともかくとして(いつか触れるかもしれない)、上のような第二インターでの活動を含む「生い立ち」についての江崎の叙述もまた、まるで(Ch・ヒルと全く同じく?)じつに<穏便>で<優しく>、レーニン、そしてロシア革命、そして「社会主義・共産主義」の擁護者であるがごとき口吻がある。
 事実関係には、おそらく<ほとんど>間違いはないのかもしれない(もちろん、書かれていないことのなかに重要な「事実」が隠されていることはある)。
 しかし、「出世の道を断たれた」という記述は(Ch・ヒルを真似たのだろうが)、おそらく間違っている。
 R・パイプスの同時期のレーニンの記述も読んでいるが(この欄で試訳を昨年中に掲載している)、R・パイプスによると(記憶にさしあたり頼るが)、当時の<司法試験>に合格して<専門法曹>の資格を、レーニンは得ている。
 活動家としてしか「生きて」いけなかった、というごとき叙述は誤りだろうと思われる。
 上の⑦も、正確ではない。帝政ロシアが「弾圧」したのはそこに書いていることではなくて、帝政を敵とする刑罰法令違反行為を行ったり、大戦勃発後はロシアが敗北することを望む運動をしたから、というのがまだ正確だろう。
 つぎに、「レーニンの側」に立ったような、「進路を閉ざされて苦労」した、「成績はここでも極めて優秀だった」とかの一定の価値判断を含むような叙述がある。この二箇所だけではない。
 最後に、A/両親の影響を受けて「貧民救済に強い関心を持っ」た、B/「貧民や労働者の救済のために活動すればするほど…」という叙述の仕方は、江崎による「共産主義」なるものの理解と同様に、レーニンに極めて<優しい>もので、間違いだと考えられる。
 レーニンが目指したのは「貧民救済」あるいは「貧民や労働者の救済」だったのか?
 あるいは別の箇所での江崎によれば、「格差是正」という<平等>だったのか?
 こうした叙述を読んでいると、レーニンの<動機>は、あるいは<掲げた理念・理想>は、間違っていなかった、素晴らしいものだった、という<動機は純粋だった>論のごとくだ。
 たまたま、この欄に最近に試訳を掲載したS・フィツパトリクの本の一部に、ボルシェヴィキは<革命および共産主義(社会主義)への移行期に平等主義だと主張したことは一度もない>という旨の叙述があった。彼らが夢見た究極の(国家も法も階級もない)「共産主義」社会ではともかく、レーニンらが目指したのは決して「貧民や労働者の救済」・「平等」ではない。
 長くは立ち入らないが、これらは<ロシア帝政>打倒のための<一つの方便>だった。 
 革命成功後は<旧搾取階級>・<資本主義の階層>を<逆に>虐げたのであって、その意味では不平等に(差別的に)取り扱ったのだ。
 レーニンのそもそもの<動機>・<気分>は何だったかの解明はなかなかむつかしいだろう。
 50歳すぎるまでのあの<活力>、死後に50巻近くの全集が刊行される(20歳以降だとして1年あたり1巻以上になる)ほどの文章を書きまたは演説をした<活力>の根源をたどるのは専門家でもむつかしいかもしれない。感情、意欲の元の問題だ。
 しかし、「貧民や労働者の救済」・「平等」といった<綺麗事>・<美辞麗句>にあったのではないことは明確だと思われる。
 人間としてのレーニンの「ルサンチマン」を、江崎道朗は理解しようとは何らしていないのだ。
 この機会に私見を少し書いておくと、つぎのようだ。
 否定的または消極的に捉える(欧米の)歴史研究者もいるようだが、やはり実兄が処刑=死刑とされたことは若きレーニンにとって大きかった。
 兄の死に様も、死体そのものも、弟・レーニンは見たのだろう。
 その前のこととして、R・パイプスか誰かの記述の中に、収監されている兄を「見舞う」または「接見」?するためにウラル近辺へと母親が向かおうとしたとき、父親に代わる随行者を母親が近隣で探し、若きレーニンも同行していたが、近隣の人々は「皇帝暗殺グループの一員だった」ことを理由として、無碍に?断った、というのがあった。
 そのときの母親の様子を、レーニンは見ていただろう。自分を含む<みじめさ>を、感受性が高いときに感じただろう。
 兄を「殺し」、自分を<ひどく惨めな>気持ちにさせたロシア帝政に対して、いつか仕返し(復讐)をしてやる-これがレーニンの根本的な「怨念」の少なくとも重要な一つではなかったかと思える。
 以上は全くの、文献上の根拠はない<推測>にすぎない。
 だが、そのための手段として、まずは「人民主義者」または「人民の意思」派に接近し、アナキストからも種々学んだうえで、西方のドイツを含む欧州の<マルクス主義>を知り、これを<イデオロギーとして利用>しようと感覚的に判断したのではなかっただろうか。
 ともあれ、江崎道朗はすでに、「共産主義者」に屈服している。
 この人に、反共産主義のインテリジェンスを語る資格などはない。
 上に言及した邦訳書が岩波書店から刊行された時点で、クリストファ・ヒル(Christopher Hill)は、種々の情報からおそらく確実に、イギリス共産党の党員だった。
 <マルクス主義歴史学者>だったくらいのことは、クリストファ・ヒルに関する人物情報のどこにでも書かれているだろう。だからこそ、すなわちそういう人物が書いた「レーニンとロシア革命」だからこそ、内容的にも問題はないと確認したうえで、岩波は新書としたのだ。
 江崎道朗著は悲惨で、無惨だ。もう少しだけ、Ch・ヒルについては触れる。
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