池田信夫のブログで最近よく、<デジタル資本主義>とか<資本主義の非物質化>等々の言葉が出てくる。
 これにも関係して、同ブログマガジン2021年1月18日号では、「システム間移行」という言葉を池田は使っている。
 この語は、現在は大きな「システム」の移行期にある、ということを前提にしているだろう。中世末期・欧州封建社会の崩壊期から「近代」(資本主義)への移行期にむしろ似ている、と(たぶん)言っているのだが。
 上の当否はともあれ、現在・現代はどういう時代で、これからどう「変化」していくのだろうか。日本はどうなるのだろうか。むろん、日本のことを考えて論じるためには、「世界」と切り離すことができない。
 日本の一部<ナショナリスト>の思惑とは全く無関係に、日本はとっくにグローバリズムの中に組み込まれていて、たんに<日本ファースト>と念仏の如く唱えても無意味だ。この表現は「念仏」を大切にする宗教者・宗教界にはたいへんな失礼・非礼になってしまったけれども。
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 このあたりのことを書く予備作業のようなものとして、以下を書く。
 「科学技術の発展」とよく言ったものだが、私のような古い世代の人間の一部からすると、最もそれを感じるのは、(1970年代末までこの言葉自体がなかった筈だが)「バソコン」をめぐる環境・状況の変化だ。
 秋月瑛二は、1982年末(または1983年初頭)に同年10月新発売のNEC・日本電気製PC-9801(無印)を購入した。価額・仕様等の仔細は省く。
 その後数台のPC98機を利用したが、特筆すべきは、たぶん80年代の半ば〜後半には<V10>という日本(NEC)製のOSが使われていた、ということだろう。
 当時、①NEC98、②MS-DOS、③Apple(マッキントッシュ)の三陣営が競っていたが、①のNEC98シリーズが個人(法人も?)市場の半分強のシェアを占めていた。パソコン関係雑誌も三種類あった(その中にSoftbank社発行のものもあったような気がする)。
 そのNEC98陣営もMS-DOS(Microsoft社)に屈し、さらに90年代になると、Windows陣営に加わる。私もまた、Windows3.0を利用した一人だった。日本独自のOSなんてものは、なくなった。それでも、アプリ・ソフト界では徳島市に本社のあるJustsystem社がいま以上に元気で、インストール済ワープロ・ソフトをMicrosoft・ワードか「一太郎」を選択することができた(私はじつに昨年中途まで、後者を使っていた)。
 Sony社も独自パソコンを生産・販売しており、私も二代ほど続けたことがあったのだが、今やパソコン(ハード)を切り離し、Vaioという別会社に移したPCも、何と数種類のノート型として売られているだけだ。
 2000年代、2010年代と変化は激しい。かつては存在しなかった言葉の「スマホ」も一般的になった。Android とかいうのが出てきた。ソフトとか称していたアプリはかつてはCDとして買って本体に入れていたものだが、今やほとんど「無線」を通じてになった。
 Wi-Fiなるものが出現して以降、さすがの秋月も?、なかなか付いていけない。
 昨年は、Google-Chromeというブラウザが WindowsでもMac でも使える(しかもなかなか便利らしい)ことを知って驚いた。
 かつて、WindowsとMac(Apple)の間の<互換性>を問題にしていた頃とは隔世の感だ。しかも、PCとしてのMac ではMac-OS の他に、Windowsも走らせることができる、という(但し、現在の新しいCPU のM1のもとでどうかはよく知らない)。
 スマホやタブレットの分野では(少なくとも現在の日本では)Apple社のものが市場第一位のようで、日本社製は肩を並べられないようだ。スマホの場合のOSはiOS、タブレットの場合のOSはiPad-OSと言って、PCとしてのMac(最新のOSはBigSurという)とある程度の共通性があるらしい。
 さらに、①CPU、②OS、③Browser の違いは何となく理解できるのだが(かつては今よりまだ単純だったが)、①についてMac(Apple)は昨秋にIntel 離れをして、自社製CPU=M1に変えた。<インテル入ってる>ではなくなった。ますます、古い世代の人間には訳が分からない。
 と、いろいろ書いていてはキリがない。要するに、現在の日本でも重要・不可欠のツールになっているPCを含むIT分野で(言及していないことかがはるかに多いが)、アメリカの世界的企業(GAFAとか)の席巻は著しい。
 池田信夫はGAFAM という語も使っているが、古く(それでも80年代だろう)からあるMicrosoftに敬意を表すと、MAGFA(マグファ)という方が、ひびきが良いような気が(個人的には)する。
 さて、ソ連解体前でのソ連・ロシアのIT技術はどうだったのか、とか、現在の中国の(世界的シェアは大きいらしい)IT 業界・産業にはどのような「新しさ」があるのか、などと想起していると、アメリカ(や日本を含む世界)でのOS 、Browser等の占有をめぐっては、「国家」とは無関係に<自由に>(開発と)競争が行われてきたことに気づく(但し、国家のもつ軍事技術の発展形という側面もあるようだ)。
 自由な競争の成果、ということなのだが、その結果としてのGAFAM(MAGFA)の諸国民の生活への浸透とその「支配」の程度は、「国家」よりも場合によっては上回り、かつ「国家」をも脅かしているのだろう。
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 疲れたので、この程度にする。「プラットフォーム」という語の意味も含めてよく理解していないこともあるので、さらにいろいろと読んで、思考してみることにする。
 以上、Word も(Atokも)、Google日本語入力も使わないで、書いた。