秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

A・スミス

2245/西尾幹二批判001。

 小分けすると面倒くさいので、まとめる。
 
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018.10)は比較的最近の西尾の<哲学・思想>畑の本だ。
 この書名は編集者(湯原法史)の発案によるらしいとしても、この書名から「自由」が種々に論じられているという期待または幻想は、はかなくも瞬時に破れる。
 既述のように、A・スミスは「経済学者」だから、そこでの「自由」はfreedom ではなくliberty だ、などというとんでもない叙述が最初の方にある。「経済学とはそういう学問です」(p.36)という珍句?まであるのだが、A・スミスもF・ハイエクも(フリードマンも)、「たんなる経済学者」ではなく「哲学者」、少なくとも「経済哲学(思想)」、「社会哲学(思想)」、「歴史哲学(思想)」等にまたがる人物だったことは、むしろ常識に属するだろう。
 西尾幹二が『自由』を問題にしながら、古今東西の「自由」に関する多数の哲学者・思想家・歴史家等々の文献を渉猟して執筆しているわけではないことは、すぐ分かる。
 世に「哲学者」として知られている者の著書のうち、参照しているのはほとんどF・ニーチェだけだろう。後半にルター、エラスムスが出てきているが、「自由」論とのかかわりは未読なのでよく分からない。
 きりがないが、ロックも、ホッブズも、ルソーも、カントもヘーゲルもマルクスも、ベルクソンもフッサールもサルトルも、ハーバマス等々々も、ついでにトニー・ジャットもジョン・グレイもL・コワコフスキも、西尾幹二の頭の中にはない。きっとまともに読書したことがないのだ。また、日本で現在もよく使われる<リベラリズム>も、liberal 系とはいえ、「自由主義」とも訳されて、当然に「自由」に関係するが、この言葉自体が西尾著にはたぶん全く出てこない。
 そんなだからこそ「深み」はまるでなく、「自由」と「平等」との関係をけっこう長々と叙述したあと、こんなふうに締めくくられる(p.154)。
 オバマは「平等」にこだわり、トランプは「自由」にこだわり続けるだろう。二人のページェントが「これから先、何処に赴くかは今のところ誰にも分かりません」。
 ?? 何だ、これは。
 
 西尾幹二は若いときはニーチェ研究者だったようで、おそらくは、ドイツ語・ドイツ文学・ドイツ哲学あたりの<アカデミズム>をこれで通り抜け、あとは<アカデミズム(学界)>にとどまってはいない。
 この<アカデミズム(学界)>からの離脱は多少の痛みは伴いつつも、彼にとっては<自慢>だったかにも見える。自分は狭いアカデミズムの世界の中にいる人間ではない、広く<世間>、<社会>を相手にしているのだ。
 「論壇」に登場する「評論家」というのは、たんなる「~(助)教授」よりは魅力的で<えらい>存在だと彼には思えたのではないか。
 余計な方向に滑りかけたが、ともかく、西尾幹二はニーチェ研究者だった。
 そして、ニーチェを良く知っていること、反面ではそれ以外の哲学者についてはろくに知らないことは、のちのちにまで影響を与えているようだ。
 その証拠資料たる文章があるので、以下に書き写す。表題がむしろ重要だが、次回以降に言及する。
 西尾幹二(聞き手・遠藤浩一)「私の書くものは全て自己物語です」月刊WiLL2011年12月号(ワック、編集長・花田紀凱)p.242以下。
 ・遠藤「先生のニーチェ論を読んでいると、ご自身の自画像をなぞっておられるのでは、との印象を受けることがあるのですが」。
 西尾「実は私を知るある校正者からも『これは先生自身のことを書いているのではないですか』と告げられました(笑)」。
 ・遠藤「『江戸〔のダイナミズム〕』がニーチェの続篇?」
 西尾「私の心のなかではそうです」。
 西尾「『神は死んだ』とニーチェは言いましたが、日本の儒学、シナの清朝考証学は、まさに神の廃絶と神の復権という壮絶なことを試みた学問であると『江戸のダイナミズム』で論じたのです」。
 この直後に「明治以後の日本の思想は貧弱で、ニーチェの問いに対応できる思想家はいません」という一文が続く。なんというニーチェ傾倒だろうか。
 おそらくは現在にまで続くニーチェの影響の大きさと、その反面として、その他の種々の「哲学・思想」に、「日本の思想」も含めて取り組んだことがこの人はなかった、ということも、この一文は示していそうだ。
 なお、遠藤浩一はこの欄で論及したこともあったが、故人となった。1958~2014。

2142/J・グレイの解剖学(2015)④-ホブスボームら03。

 Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)。
 試訳をつづける。この書には、第一版も新版も、邦訳書はない見られる。一文ごとに改行。一段落ごとに、原書にはない数字番号を付ける。
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 第6部/第32章・二人のマルクス主義予言者-Eagleton とHobsbawm 03。
 (13)Eagleton は疑いなく、全ての人類は(彼に同意しない皮肉屋は別として)彼と同じ夢を共有する、と空想している。
 ソヴィエトの実験に彼が覗き見趣味的に魅惑されていることは、彼の信念を証明する。
 しかし、共産主義に関しておぞましく身震いがするのは、大多数の人間には本質的に不快な理想を達成するために、人命の莫大な破壊を招いた、ということだ。
 ほとんどのロシア人にとって、現に存在した社会主義は、高貴な夢想の悲しい裏切りではなかった。 
 その夢想自体が、忌まわしいものだった。そして、現実にあったことは、卑劣さと悲惨さに満ちていたが、まだましな(preferable)ものだった。
 ソヴィエト同盟が舞台から消えたとき、その終焉は嘆かれることがなかった。その体制から最大の利益を獲得していたノメンクラトゥーラ(nomenklatura)によってすら。
 ショック療法による厄災にもかかわらず、ソヴィエト・システムへの回帰はなかったし、広範な基盤をもってそのシステムを追求する運動もなかった。
 かりにEagleton がこうした事実への言及を省略したのだとすると、その理由は、彼自身の尊大さに関する自分の感覚が損なわれていたからだろう。
 ロシアについて描き出す悲劇によって、彼は自分が普遍的な演劇の一部だと想像することができる。その際の彼の本当の役割は、最も馬鹿げた喜劇の演者だ。すなわち、西側の正統派(bien-pensant)劇の自己欺瞞。//
 (14)Eagleton は皮肉にも、純粋な悲劇的洞察を含むマルクス思想にある部分を見逃している。
 なるほど確かに、マルクスにあるのが分かる悲劇という観念は、人間の不完全さに関するAugustine 的考えとほとんど共通性がない。
 キリスト教は、悲劇を究極的な道徳的事実だとする宗教ではない。
 ダンテ(Dante)は悲劇についてではなく、神聖な喜劇について語ったのであり、キリスト教徒にとって、歴史の厄災は最終的には救済されるはずの物語(narrative)の一部だ。
 これと対照的に、マルクスは、キリスト教にある何かによりも、ヨブ(Job)の預言の激怒に、かつまたギリシア劇で表現される運命性(fatality)に、もっと適応している。
 (マルクスが古典的古代の文化にいかに習熟していたかは、ときどき忘れられている。)
 資本主義の危機を野蛮主義の新生によって解消し得るかもしれないという考えから明確であるように、マルクスは、償われることのない悲劇の可能性を、十分に受容していた。
 彼の思考の力は、今日にそれが何と関連していようとも、正確にはこの認識から生じている。//
 (15)マルクスは何か深遠なものを把握した、ということを理解するのに、彼の経済学-価値と搾取に関する労働理論の複雑な体系-を受容する必要はない。
 すなわち、資本主義は解放(liberation)の動力であった一方で、システムとしての資本主義の論理では、それ自体を掘り崩し、潜在的にはそれ自体を破壊する。
 古典派経済学は、ふつうに思われているほどには楽観的なものでない。
 D・リカルド(David Ricard)とA・スミス(Adam Smith)はいずれも、資本主義が生んだ商業文明は内部矛盾でもって衰弱するだろう、と懸念していた。
 しかし、一学問分野としての経済学は、市場は自己制御システムだということを基礎にして多くの部分を説いてきた。そのシステムは、政府による介入がない限りは良好な均衡へと向かう、というのだ。
 マルクスは、資本主義は本来的に不安定だと論じることで、主流派経済学者の諸世代よりも現実に接近していた。
 彼の洞察は、職業的経済学者が紛らわしい調和に関する数学的モデル化に没頭しているときに、とくに意味がある。
 マルクスを読んだ、またはさもなくも歴史の教育を受けた経済学者は誰も、全体的安定期(Great Moderation)という考えを真摯には受け取ることができなかっただろう。これは安定的な経済成長のための永続的な条件であり、その経済成長で、資本主義の矛盾が永遠に克服される。大多数の経済学者は明白にそう説いた。//
 (16)もちろん、全ての経済学者がさほどに無知で、愚かだったのではない。
 有名なことだが-そして私の見方では適切にも-、ケインズ(Keynes)はつぎのように論じて、自由市場は自己制御的だという前提に挑戦した。すなわち、管理されない資本主義は、市場の力が救い出すことのできない罠の中へと入っていく可能性がある、と。
 その場合には、政府の行動だけが厄災を阻止することができ、経済を再出発させることができる。
 Keynes は、資本主義のアナーキーな力を飼い慣らすことができる、と考えた。そして、数世代の間は、彼の分析の正しさが証明された。
 今日の金融危機は、この分析に疑問を投げかけた。
 グローバル化によって、政府による介入の範囲は小さくなった。一方で、金融システムの脆弱さは、数世代の間の周期的景気下降のいずれよりも、安定性に対する大きな脅威になっている。
 同時に、資本主義の社会的影響力は、ますます破壊的になっている。
 市場についての原理主義信仰者たちは、規制されない経済が一種の普遍的なブルジョア化(bourgeoisification)をもたらすだろう、と思い抱く。ほとんど全員が堅実な中産階層の生活を望むことができる、そういう社会だ。
 しかし、現実には、アメリカ合衆国、イギリスやヨーロッパの範囲の大多数の人々にとって、中産階層の生活は実行可能な選択肢では急速になくなってきている。
 家屋や年金の価値は下がり、労働市場はますます小さく不確実になって、自分は中産階層だと思っている多数の者が、自分はマルクスの言う財産なきプロレタリアートの地位のごとき何かだ、と気づいてきている。
 資本主義は、イデオローグたちが主張するようには、ブルジョア的生活を堅牢に防御しはしない。
 生産と破壊の絶えざる過程である資本主義は、ブルジョア的世界を食い尽くす。
 その結果は、のちに明らかになるだろう。
 しかしここに、本当に悲劇的な対立の可能性がある。空前の規模での富の生産者としての資本主義と、我々がリベラルな文明となおも呼んでいるものの破壊者としての資本主義、これら二つの対立だ。//
 (17)ケインズ的リベラル派と社会民主主義者の世代が信じたまたは望んだのとは反対に、資本主義は飼い慣らされてこなかった。
 資本主義は、危険なほど手に負えない野獣のままだ。-マルクスが描写したのと全く同じく。
 このことは、マルクス弁証学(注2)でE・ホブスボーム(Eric Hobsbawm)が行っていることの出発点だ。
 彼は、<世界を変革する方法>で、こう書く。-「1990年代に出現したグローバル化した資本主義世界は、マルクスが<共産主義者宣言>で予見した世界のごとく、決定的なほどに無気味だ」。
 そのとおり。ある程度までは。
 今日の世界は、マルクスとエンゲルスが一世紀半以上前に正確に予見したアナーキーに似ている。その到達を1990年代の自由市場熱狂的賛美者たちが自信をもって発表した、安定成長というユートピアが似ている以上にはるかに。
 一国政府による統制を逃れて、資本は流動的であり、かつ本質的に無秩序だ。
 そして、結果として、多くの先進産業諸国は、国内的不安に直面している。
 しかし、資本主義の将来に関するマルクスの説明は資本主義の後世の宣教師たちの予言よりも現実的だったにもかかわらず、世界は依然として、マルクスが想定したものとは全く異なっている。//
 (18)マルクスは、ほとんどの19世紀の思想家と同様に、宗教は豊かさの増大と科学知識の前進とともに消え去るだろうと期待した。
 そうはならず、これまでつねにそうだったように、宗教は、政治と戦争の中心的位置を占める。
 マルクスは、資本のグローバル化はナショナリズムの衰退と歩調を合わせて発生するだろうということを、決して疑わなかった。
 実際には、世界の多くの部分で、グローバル化はナショナリズム的反動の引き金となった。
 マルクスは、資本の政治的統制からの解放はどこでも発生するだろうと想定した。
 実際には、それは主として西側資本主義諸国で起こり、新しい資本主義者の中国やロシアは経済の管制高地の統制権を保持したままだ。
 マルクスは、野蛮さを回避しようとするかぎり、自由市場は社会主義に置き換えられるだろうと期待した。
 しかし、自由市場の継承者たちは、どんな性格の社会主義よりもはるかに、資本主義の別の範型になりそうだ。-中国の国家資本主義、ドイツを最も成功した経済国にした社会的市場資本主義、まだ発展するだろう資本主義のその他の変種。
 ***
 (注2)Eric Hobsbawm, How to Change the World: Tales of Marx and Marxism (Yale Univerty Press, 2011).
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 ホブスボーム04へとつづく。

2135/猪木武徳・自由の思想史(2016)②。

 猪木武徳・自由の思想史-市場とデモクラシーは擁護てきるか(新潮選書、2016)。
 この書の第3章第4節p.89~p.91は、「自由」につき、Freedom とLiberty の区別・差異に立ち入っている。
 すでに紹介したように、西尾幹二はこう書いていた。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)、p.35。
 ・「ヒトラーが奪うことのできた自由は『公民の権利』という意味での自由であり、奪うことのできなかった自由は『個人の属性』としての自由です。
 『市民的権利』としての自由と、『個人的精神』としての自由の二つの概念の区別だというふうにいえば、もっと分かりやすいかもしれません。」
 ・「この二つの自由を区別するうえで、英語は最も用意周到な言葉です。
 すなわち、前者をliberty とよび、後者をfreedom と名づけております。」
 このように大胆に?書く根拠は何か。
 ヒトラーうんぬんは別として、このような両語に関する結論的理解は誤りだろう。
  西尾幹二によると、A・スミスにおける「自由」は前者なのだそうだ。
 その根拠として明記されているのは、つぎの一文だけだと思われる。p.36。
 ・「アダム・スミスは、私の友人の話によると、『自由』という日本語に訳されていることばにliberty だけを用いているようです。
 それはそうでしょう。経済学とはそういう学問です。」
 また、西尾幹二によるliberty とfreedom の区別・差異である「市民的権利」/「個人的精神」は、つぎのようにもやや敷衍されている。
 p.38。「奴隷」にはliberty がなかつたが、freedom はなかったと言えるのか。
 p.43-44。エピクテスが語った「自由」は「アダム・スミスのような経済学者がまったく予想にしていなかった自由の概念」で、「freedom の極限形式といってもいい」。
 p.44。ヒトラーやスターリンによる「社会の全成員からliberty (公共の自由)を全面的に奪い取ってしまう体制下では、freedom (精神の自由)も死滅してしまうのではないか」。
 p.36。「人の住居」を「快適、立派に」整えたり、「子どもの成長を妨げる悪い条件をなくして、伸び伸びと発達できる環境を与え」る、というのは「liberty の問題」で、「真の生活」を送るか否かや「子どもが成長するか」は、「freedom の問題」です。
 以上の西尾「説」につては、すでに基本的に疑問視してきた。
 ①アダム・スミスの原著の英文を見た上で、経済活動の「自由」について「freedom 」が使われている、と疑問視した。「経済学者」だから「経済的自由」だけしか語っていないと想定するのは大きな間違いで、前回に触れたように猪木著によると、A・スミスは「自殺の自由」に論及している。そもそもが、A・スミスを「経済学者」と限定すること自体が誤っているだろう。
 なお、西尾幹二が、いかに専門家らしくとも「私の友人の話」だけをもって、A・スミスは「経済学者」だから彼の言う「自由」は「liberty 」だと断定してしまっているのは、その思考方法・手続において、とても<元研究者>だは思えない。
 さらに、「私の友人」=星野彰男(p.29)は、本当に上のような「話」をしたのだろうか。
 ②F・ハイエクの著の英語原文によるfreedom 、liberty の用法を見て、西尾のようには明確に区別されて使われていないだろう、ということも確認した。
 ③仲正昌樹・今こそアーレントを読み直す(講談社現代新書、2009)が両語の語源に立ち入って、こう記していることも紹介した。
 ・英語のFreedom はゲルマン語系の単語。free、freedom はドイツ語の、frei(フライ)、Freiheit (フライハイト)に対応する。
 ・英語のLiberty はフランス語を介したラテン語系の単語。そのフランス語はliberté だ(リベルテ)。
 そして、H・アレントの原著を見ても単純にfreedom をアメリカ革命が、liberty をフランス革命が追求したとは言えそうにないが、しかし、少なくとも、西尾幹二が言うように「英語は最も用意周到な言語です」などと豪語する?ことはできず、むしろ相当に「融通無碍な」言語だろう、とも記した。
 ***
 西尾幹二の書いていることはウソだから、簡単に信用してはいけない
 猪木武徳が絶対的に正しいとは、秋月自身が言葉の語源探求をしているわけではないから言わないが、こちらの方がはるかに信憑性が高い。なお、福田恆存の名も出てくる。
 猪木武徳・上掲書p.89-p.91は、こう書いている。猪木は、西尾幹二があげつらう「経済学者」だけれども。
 ・シェイクスピアの悲劇<ジュリアス・シーザー>で、シーザーが「お前もか、ブルータス」と言いつつ倒れたあと、暗殺者の一人はこう叫んだ。
 -「自由だ!、解放だ!、暴政は滅んだぞ!」〔福田恆存訳〕。
 ・上の「自由」は原文では「liberty 」、「解放」は「freedom 」。劇中の山場で同義語を二つ並べる可能性は低いので、シェイクスピアの時代から、両語は「使い分けられている」。
 ・上の台詞と直接の関係はないが、「社会思想」や「経済思想」でのこの区別を学生に問われると「まずとっさ」の答えは「freedom はゲルマン系の言葉、liberty はラテン語起源、基本的には同じ」となるが、これでは答えにならない。
 ・「語源辞典」=Oxford Dictionary of English Etmology を見ると、「fri の部分」は「拘束されていない。外部からのコントロールに服していない状態」を指す。「世帯の長と(奴隷としてではなく)親族上の結びつき(tie)の認められる成員」の意味と記されている。
 これに対し、「liberty はラテン語系のliber から来ている」ものの、その意味は「世帯における本来的に自由な成員」を指す。よって、「liberty は親権(privilege, franchise)を意味する言葉」だったという。この場合の「自由な」というのは「特権をもった」という意味だ。
 ・そうすると、「リベラリズム」がイタリア哲学史学者〔Guido De Ruggiero〕により「特権の普遍化」として把握されることと一致する。その著<ヨーロッパのリベラリズムの歴史>〔英訳書/The History of European Liberalism〕は、「特権を持っていた王が、その特権を貴族・地主層・僧侶にも与え、そして民主化の波とともに市民、すなわちブルジョワ階級にもその特権が広がるという動きこそがリベラリズムの進展であったとする理論」を中核とする。
 ・'Liberty! freedom! Tyranny is dead' を福田恆存が「自由だ!、解放だ!、暴政は滅んだぞ!」と訳しているのは、「まことに的確な名訳」だ。但し、つぎに出てくる 'enfranchisement' は「特権の付与、参政権の付与」の意味なのでたんに「万歳」と訳すのは「不満が残る」。もっとも、替わる「妙案」があるわけではない。
 以上のとおりで、<liberty /freedom >には、西尾幹二の言う<市民的(公民的〕自由/個人的自由>、<物的・経済的自由/精神的自由>、<物的条件づくり/「真」>等の対比とは全く異なる次元の区別・差異があるようだ。<制度的自由/自然的自由>ならまだしも、<物的・経済的/精神的>とするのは間違いの方向に進んでいる、というところか。
 西尾は、少しは恥ずかしく感じないだろうか。
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 だいぶ昔に、ドイツで、"Er ist liberal" (「…リベラール」)という言葉をじかに聞いたことを思い出した。
 このliberal はどういう意味だろうと感じたのだったが、おそらく政治的感覚・立場・見地の意味で<どちらかというと左翼>の意味だろうと思い出してきた(と、このことも思い出した)。
 リベラル(リベラリズム)とは欧州では元来の「自由主義」=保守だがアメリカでは「リベラル」=進歩・左翼だという説明を読んだこともある。しかし、欧州のドイツでそのとおりに用いられているわけではないだろう。
 自由民主党(FDP=Freie Demokratische Partei)という「中道」政党にFrei が使われているが、上の言葉を聞いたのちに、ドイツ社会民主党(SPD)を支持している、そういう意味だろうと(日本に帰国してから)理解した。たぶん、誤っていない。
 ドイツ人はfrei のみならずliberal という言葉も使っているのであり、その語からきたdie Liberalitätというれっきとした名詞もある。これらは英語(またはフランス語)からの輸入語かもしれないが、少なくとも英語だけが「用意周到」なのではないだろう。
 以上は、「言語学」ではなく、本文とたぶん直接には関係のない「政治的」雰囲気の言葉の世界の話だ。

0606/阪本昌成・法の支配(勁草、2006)を読む-06。

 阪本昌成・法の支配(勁草、2006)を読む。
 第一章・第3節「本書の戦略とその展開」
 1 本書の戦略
 (1)本書の基本的ねらい
 リベラリズム・「法の支配」・市場経済システムの三者の目的は不可分で相互補完的と論じること。これらが相互補完的なとき、「国家の強制力は最小化されるだろう」。市場否定論ではないが、市場万能論でもない。
 この三者の相互関連を明らかにするため、<リベラリズム-市場-「法の支配」>の順で論議する。ハイエクが代表する「オーストリア学派の社会経済哲学」に依拠する「戦略」をとる。
 (2)本書の傾向―ハイエクの影響
 ハイエキアンの著作だとの予見をもってよい。
 ハイエクとハイエキアンの立場をスケッチする(省略)。
 (3)古典的リベラリズム
 本書の「古典的リベラリスト」とは以下の特徴の思考に賛同する人々を指す。
 ①国家の最大・適切な任務は「公共財の提供」=市場で提供できない財・役務の提供
 ②公共財の提供以外は「可能なかぎり」市場・私人に委ねる方が賢明
 ③市場の機能は国家に依存し、国家も市場に依存すること等を強調する
 かかる思想は程度の差はあれ、A・スミス『諸国民の富』に影響を受けている。
 古典的リベラリストは国家をつねに否定的に見ない点で無政府主義者と、国家の強制力につねに懐疑的でもない点で徹底したリバタリアンと区別される。古典的リベラリストは国家・市場の役割分担に適度なバランスを持たせようとする。マルクス主義者にとっては極端なアンバランスだろうし、ケインジアンにとっては適度とはいえないバランスかもしれないが。
 (4)オーストリア学派
 C・メンガーらのオーストリア学派は、社会科学全般にかかわる重要な理論を提示した。
 ①<価値は、希少な財に対して個人の知識が与える限界効用で決定される>との限界効用の理論。
 ②<行為とは、限られた知識を利用しつつ、外的環境の変化に対応しようとする人の行態>との行為理論。
 <限られた知識>と<時間の流れ>。この二つの不確実な要素に取り囲まれている人間像を描いたオーストリア学派の知見は人にとっての自由の意味、国家の役割等々を考えていくうえで「目から鱗」だった。これを、私は読者に伝えようとする。
 以上、p.18~21。

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