秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2004年綱領

1821/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑫。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第12回
 第4章。
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 日本共産党2004年綱領「三」〔章〕の「(八)」〔節〕は、次のように述べる。
 ・「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、1917年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。//最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録されたしかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて…」。
 また、不破哲三著にそのまま依拠する志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)は以下の趣旨を記述する。「」は直接の引用。
 ・レーニンは内戦勝利によって、「世界革命は起こらなかったけれども、ロシア革命が生きていく条件」をかちとった。
 ・「新しい時期」に入って、1921年3月に「クロンシュタットで水兵の反乱」が起こり「やむなく鎮圧しなければならないという事態」が生じたりして、「ソビエト政権と農民の関係」の改善という「大問題」をつきつけられ、レーニンは「経済政策の大転換を始め」た。
 ・1921年3月に開始され、のちに「新経済政策(ネップ)」と呼ばれる政策は、「割当徴発から『穀物税』(現物税)」への移行を図るものだったが、農民に残る「余剰」部分の処理という「大問題」が生じて、それは「市場経済の大きな波に呑み込まれた」。
 ・1921年10月にレーニンは「モスクワ県党会議」での報告で、「市場経済=悪」論と「本格的に手を切る」、「本格的な転換」に踏み切った。つまり、「市場経済そのものを正面から認めよう、認めたうえで国家の権限でそれに一定の規制を加えながら、市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しようという路線」だ。
 ・レーニンはネップ期に「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいは、そういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」
 以上、p.174-8。
 なお、不破哲三らによると、この「市場経済を通じて社会主義へ」という路線は、ロシアに限らない、世界的に普遍的で不可避の<路線>だとされる。
 スターリンに対する日本共産党の悪罵は引用しないが、S・フィツパトリクの2017年版の著の試訳部分のうち、日本共産党の上の記述と最も対応する時期に関する記述は、おそらく今回試訳部分または今後の数回部分だろう。
 現在の日本共産党によるロシア革命とレーニンに関する「歴史認識」と叙述は事実・「真実」に沿っているのか、それともこの党は歴史の単純化と<政治的捏造>を平然と行っているのか。
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 第4章・ネップと革命の行く末(NEP and the Future of the Revolution)。
 (はじめに)
 ボルシェヴィキは内戦で勝利して、行政の混乱と経済の荒廃という国内問題に対処することを迫られた。
 町々は飢えて、半分空っぽだった。
 石炭生産は破滅的に落ちこみ、鉄道は止まり、産業はほとんど静止状態だった。
 農民たちは、食糧徴発(food requisitioning)にきわめて憤激していた。
 収穫のための種蒔きは落ち込み、干魃が二年続いて、ヴォルガ地帯その他の農業地域には飢餓が迫ってきた。
 1921-22年での飢饉と流行病による死者数は、第一次大戦と内戦での死傷者の総合計数を上回った。
 革命と内戦の数年間に、およそ200万の人々が国外へと亡命し、ロシアの教養あるエリートたちの多くがいなくなった。
 積極的な人口配置上の進展は、数十万人のユダヤ人たちの群れの移住だった。彼らの大多数は、首都の区画に定住していた。(1)//
 赤軍には500万人を超える男たちがいた。そして、内戦が終わるとは彼らの多くが除隊されることを意味した。
 この動員解除は、ボルシェヴィキが予想していたよりもはるかに、困難な仕事だった。すなわち、十月革命後に新体制が建設しようとしたものの多くの部分を分解することを意味した。
 赤軍は、内戦と戦時共産主義経済の時期でのボルシェヴィキの行政の脊柱部分だった。
 さらに、赤軍の兵士たちは、国の最大の「プロレタリア」の一団を成していた。
 プロレタリア-トは、ボルシェヴィキが選んだ社会的支持の基盤だった。そして、ボルシェヴィキは、現実的な目的をもってプロレタリア-トを、ロシアの労働者、兵士と海兵および貧農だと定義していた。
 今や兵士と海兵集団の大部分が、消失しようとしていた。
 そして、さらに悪いことに、除隊された兵士たちは-職を失い、飢えて、武装し、交通の遮断によって故郷から遠い場所で立ち往生し-、騒擾を引き起こした。
 1921年の初めの月々までに200万人以上が除隊して、革命のための戦闘員が一夜にして盗賊団に変わるのを、ボルシェヴィキは見た。//
 工場にいる核心的プロレタリア-トの運命もまた、同様に警戒すべきものだつた。
 工業の閉鎖、軍事徴用、行政の業務への昇格、そしてとりわけ、飢餓を理由とする都市からの逃散によって、工業労働者の数は、1917年の360万人から、1920年には150万人に減少した。
 こうした労働者の大部分は、村落へと戻った。そこには、家族がまだいて、彼らは村落共同体の一員として小土地(plots)を受け取った。
 ボルシェヴィキには、村落にいる労働者の数の多さが、あるいは滞在期間の長さが、分からなかった。
 労働者たちはおそらく農民層に吸収されてしまい、都市にはもう帰ってこないだろう。
 しかし、長期的見通しはともあれ、直近の状況は明瞭だつた。すなわち、ロシアの「独裁階級」の半分以上が消え失せたのだ。(2)//
 ボルシェヴィキは元々は、ヨーロッパのプロレタリア-トによるロシア革命に対する支援を計算に入れていた。彼らは第一次大戦の終末期にはまさに革命を起こす準備をしているように見えていたのだ。
 しかし、ヨーロッパでの戦後の革命運動は弱体化し、ソヴィエト体制は、永続的な同盟者だと見なし得るようなヨーロッパでの仲間を全くもたずして、取り残された。
 レーニンは、外国からの支援がない状況ではボルシェヴィキがロシア農民層からの支持を獲得することが致命的に重要だ、と結論づけた。
 だが、食糧徴発と戦時共産主義のもとでの市場の崩壊によって農民たちは離反しており、いくつかの地域では彼らは公然たる反乱を起こした。
 ウクライナでは、Nestor Makhno(マフノ)が率いる農民軍がボルシェヴィキと戦っていた。
 ロシア中心部の重要な農業地域であるタンボフ(Tambov)では、農民の反乱が起こり、5万人の赤軍兵団の派遣によってようやく鎮圧された。(3)//
 新体制に対する最悪の衝撃は、1921年3月にやって来た。その月、ペテログラードで労働者のストライキが勃発した後で、近郊のクロンシュタット(Kronstadt)海軍基地の海兵たちが反乱を起こした。(4)
 クロンシュタット海兵たち(Kronstadters)は、1917年七月事件の英雄で、また十月革命のときのボルシェヴィキの支援者であって、ボルシェヴィキの神話からするとほとんど伝説的な人物群になっていた。
 彼らは今は、ボルシェヴィキの革命を否認し、「人民委員の恣意的な支配」を非難し、労働者と農民の真の(true)ソヴェト共和国の建設を呼びかけた。  
 クロンシュタット蜂起が起きたのは、〔ボルシェヴィキ/共産党〕第10回党大会が開催中のことだった。そしてかなりの数の代議員たちは、蜂起と戦って鎮圧するために突如として赤軍とチェカ兵団の先鋭部隊に加わるべく、退場しなければならなかった。
 この事態はほとんど劇的なものではなかったし、ボルシェヴィキの意識の中にさほど強く刻み込まれたわけではなかった。
 ソヴィエトの新聞は、蜂起はエミグレ(亡命者)たちが引き起こし、見知らぬ白軍将校たちが指導した、と主張した。不愉快な真実を隠そうとする最初の重要な努力だったと思える。
 しかし、第10回党大会で広まった噂は、違うことを告げていた。//
 クロンシュタット蜂起は、労働者階級とボルシェヴィキ党の間の、進む途の象徴的な別離であるように見えた。
 労働者は裏切られたと考えた者たち、党が労働者に裏切られたと感じた者たち、いずれにとっても悲劇だった。
 ソヴィエト体制は初めて、その銃砲を、革命的プロレタリア-トに対して向けた。
 さらに、クロンシュタットの悪夢はほとんど同時に、革命にとってのもう一つの厄災とともに生じていた。
 モスクワのコミンテルン指導者によって励まされたドイツ共産党は、革命の蜂起を試み、惨めな失敗を喫した。
 その敗北は、最も楽観的なボルシェヴィキですらがヨーロッパ革命は接近しているという望みを打ち砕かれることを意味した。
 ロシア革命は、自分だけの支援なき努力でもって、生き延びていかなければならないことになった。//
 クロンシュタットとタンボフの反乱は政治的不満はもちろんのこと経済的なそれによっても火を注がれていて、戦時共産主義政策に代わる新しい経済政策の必要性を痛感させた。
 1921年春に採択された最初の一歩は、農民の生産物の徴発を終わらせ、現物税〔食糧税〕を導入することだった。
 これが実際に意味したのは、国家は農民が手放せる全ての物ではなくて一定の割合で奪う、ということだった(のちに1920年代前半に通貨が再び安定した後ではいっそう、現物税は在来的な金銭税になった)。//
 食糧税は農民に市場に出せるかなりの余剰を生むと想定されたがゆえに、つぎの論理上の歩みは、合法的な私的取引の再復活を許して、繁茂しているブラック市場を閉鎖しようとすることだった。
 レーニンは、1921年春、取引の合法化に強く反対していた。共産主義の原理を否認するものだと考えたからだ。しかし、最終的には私的取引の自然の復活(しばしば地方当局は是認した)がボルシェヴィキ指導部に対する既成事実(fait accompli)となり、指導部も受け容れた。
 こうした歩みが、頭文字をとってNEP(ネップ)として知られる新しい経済政策の始まりだった。(5)
 これは絶望的な経済情況に対する即興的な反応であり、元々は党とその指導部によってほとんど議論されることなく(またほとんど明確な反対もなく)採用された。
 経済に対する影響の良さは、急速でありかつ劇的だった。//
 経済の変化は、さらに続いた。遡及して「戦時共産主義」と称され始めた諸制度が、全般的に放棄されるに至ったのだ。
 産業については、完全な国有化への動きは放棄され、私的部門の再構築が許された。大規模工業と融資業を含む経済の「管制高地」の支配権は国家が維持したけれども。
 外国の投資者が、工業や鉱山企業および開発プロジェクトに関する免許(concessions)を取得するようにと招かれた。
 財務人民委員部と国有銀行は、かつての「ブルジョア」財務専門家の助言に注意を払い始めた。彼らは、通貨の安定と政府および公共部門の支出の制限を求めた。
 中央政府の予算は厳しく削減され、徴税による国家歳入を増大させる努力がなされた。
 以前は無料だった学校教育や医療は、今や個々の利用者が対価を支払うことになった。
 老人の年金や療養給付および失業給付を利用することは、拠出金の基盤にかかわることとして制限された。//
 共産主義者の観点からすれば、ネップは退却(retreat)であり、失敗を部分的に認めることだった。
 多くの共産主義者は、大きな幻滅を感じた。すなわち、革命はほとんど何も変えなかったように見えた。
 1918年以降の首都でありコミンテルン司令部の所在地であるモスクワは、ネップの最初の年月に再び活力に充ちた都市になった。外見的な印象だけではまだ1913年のモスクワだったけれども。農民女性が市場でジャガ芋を売り、教会の鐘や髭を生やした僧侶が信者たちを呼び集め、街頭や駅舎では娼婦、乞食やスリが活動し、ナイトクラブではジプシー歌が流れ、制服姿のドアマンが紳士たちへとその帽子を取り、劇場に行く者は毛皮をまとって絹の靴下を履いていた。
 このモスクワでは、皮ジャケットの共産党員たちは物憂げな外部者のように見え、赤軍退役者は職業安定所の行列に並んでいそうだった。
 クレムリンやホテル・ルクセにばらばらに集まった革命のリーダーたちは、不吉な予感をもって革命の行く末に向かいあっていた。//
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 (1) 1912年と1926年の間に、モスクワとレニングラードのユダヤ人の人口は4倍以上に増大した。そして、同様の規模の増加がウクライナの諸首都、キエフやハルコフ(Kharkov)でもあった。Slezkine, <ユダヤ人の世紀>, p.216-8 を見よ。
 (2) 消失しつつある労働者階級につき、D. Koenker, <ロシア革命と内戦時の都市化と脱都市化>, D. Koenker, W. Rosenberg & R. Sunny, eds, <ロシア内戦時の党、国家および社会>所収、およびS・フィツパトリク「ボルシェヴィズムのディレンマ-党の政治と文化における階級問題」S・フィツパトリク・<文化の前線>(Ithaca, NY, 1992)所収、を見よ。
 (3) Oliver H. Radkey, <ソヴェト・ロシアの知られざる内戦>(Stanford, CA, 1976), P.263.
 (4) Paul A. Avrich, <クロンシュタット>(Princeton, NJ, 1970)およびIsrael Getzler, <クロンシュタット・1917-1921年>(Cambridge, 1983)を見よ。
 (5) ネップにつき、Lewis H. Siegelbaum, <革命の間のソヴェト国家と社会-1918-1929年>(Cambridge, 1992)を見よ。
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 第1節・退却という紀律(The disciplin of retreat)。
 レーニンは、こう語った。ネップという戦略的退却は、絶望的な経済状態と革命がすでに勝ち得ていた勝利を確固たるものにする必要性によって強いられた、と。
 その目的は、疲弊した経済を回復させ、非プロレタリア国民の不安を鎮静化することだった。
 ネップは、農民層、知識人層および都市の小ブルジョアに対する譲歩を意味した。すなわち、経済や社会的、文化的生活に対する統制の緩和、社会全体に対する共産主義者の対処の仕方のうちにあった実力的強制の要素を宥和に代えること。
 しかし、レーニンには完全に明白なのは、この緩和は政治的分野にまで及ぼすべきではない、ということだった。
 共産党の内部では、「紀律に対するきわめて微少な抵触であっても、厳しく、断固として、容赦なく罰せられなければならない」。彼は、以下のように述べた。//
 『軍隊が退却するときには、それが前進しているときの百倍もの紀律が必要だ。前進している間は、誰もが押し合って前にかけて行くからだ。
 誰もが今、急いで後退し始めるならば、災厄の発生はすぐでかつ不可避的になるだろう。<中略>
 本物の軍隊が退却するときは、機関銃を据えつける。そして、秩序立った退却が無秩序な退却になってしまうときには、銃を撃てとの命令がくだされる。そしてそれも、全く正当なことだ。』
 その他の政党に関しては、彼らの見解を公的に発表する自由は、内戦の間以上に厳しくすら制限されなければならない。とくに、ボルシェヴィキの新しい立場は自分たちのものであるように主張しようとするならば。
 『あるメンシェヴィキが「諸君はいま退却している。私はこれまでいつも退却を主張してきた。私は諸君に同意する。私は諸君の仲間だ。一緒に退却しよう」と言うならば、我々は答えてこう言う。
 「メンシェヴィズムを公然と表明する者には、我々の革命裁判所は死刑の判決を下さなければならない。もしそうでなければ、革命裁判所は我々の裁判所ではなく、神が知るようなもの〔訳の分からないもの〕だ」、と。』(6)//
 ネップの導入に伴って、メンシェヴィキ党中央委員会委員の全員を含めて、数千人のメンシェヴィキ党員が逮捕された。
 1922年には、エスエルの右翼派が国家反逆罪で公開の審問にかけられた。
 そのうちのある範囲の者たちには、死刑判決が下された。死刑判決は実施されなかったように思われるけれども。
 1922年と1923年、数百人の著名なカデット党員とメンシェヴィキ党員が、ソヴェト共和国から出国することを強いられた。
 統治する共産党(今でも通常はボルシェヴィキと呼ばれた)以外の全ての政党が、この時点以降、事実上は非合法のものになった。//
 現実的なまたは潜在的な政治的反対派を粉砕しようとのレーニンの意欲は、1922年3月19日の政治局あて秘密書簡でもって、衝撃を受けるほどに明らかにされている。その文書で彼は、飢饉によって提供された正教会の力を破壊する機会を同僚たちが利用することを強く要求した。
 『飢餓にある地域の人民が人肉(human flesh)を食べ、数千でなければ数百の死体が道路上に散乱しているときに、わけわれが著しく苛酷で容赦なき力を注いで教会〔ロシア正教〕財産の剥奪を実行することができる(ゆえに、そうしなれればならない)のは、まさしく今、そして今のみなのだ。』
 飢饉からの救済という助けを借りて教会財産を収奪する〔そして名目上は飢えた人々に分ける〕運動(campaign)によって暴力的示威活動が刺激されて生じたシュヤ(Shuya, Shuia)について、レーニンはこう結論した。『巨大な数の』地方聖職者とブルジョアたちは逮捕されて、裁判にかけられなければならない、そしてその裁判はこう終わる必要がある、と。//
 『シュヤにいる巨大な数の最も影響力があり最も危険な黒の百人組を、銃撃隊が射殺する以外の方法で終わってはならない。
 その都市だけでもモスクワを含む都市やその他のいくつかの聖職者の中心地だけでもなく、…反動的な聖職者や反動的なブルジョアジーの代表者たちをその理由によって処刑することを我々がより多く達成すればするほど、それだけ結構なことだ。
 我々は今すぐ、これらの者たちに教訓を与えて、この数十年間は、いかなる抵抗も敢えてしようとはせず、かつまたそれを思い付くことすらしないようにしなければならない。』(7)//
 同時に、共産党<内部>の紀律の問題が、再検討されていた。
 ボルシェヴィキはもちろん、つねに党の紀律を重視してきていた。それは、レーニンの1902年の冊子<何をなすべきか>にまで溯る。
 ボルシェヴィキたちは全員が、民主集中制の原理を受け入れた。その原理は、党員は政策決定に至るまでは自由に議論することができるが、党大会または中央委員会で一たび最終的な票決がなされればその決定を受容するよう拘束される、というものだった。
 しかし、民主集中制原理それ自体は、内部的な議論に関する党の慣例を明瞭に決定するものではなかった。-どの程度の議論が許容され、どの程度厳しく党指導者たちを批判することができ、その批判は特定の論点に関する「分派」または圧力集団を組織してよいのか、等々。//
 1917年以前では、多くの実際的目的はあったが、党内論争はボルシェヴィキ知識人層の中のエミグレ集団の内部での論争を意味した。
 レーニンが圧倒的な地位を占めたために、ボルシェヴィキのエミグレたちは、メンシェヴィキやエスエルのそれよりもはるかに一体的で均質的だった。これらの者たちには、それぞれの個々の指導者と政治的帰属意識をもつ多数の小集団で群れをなす傾向があった。
 レーニンは、ボルシェヴィキの中でそのようなものが形成されることに強く抵抗した。
 もう一人の有力なボルシェヴィキの人物だった Aleksandr Bogdanov (ボグダノフ)は、1905年後の亡命者たちの中に彼の哲学的および文化的考え方を支持する弟子たちの集団を作り始めたが、そのときレーニンは、ボグダノフと彼の集団がボルシェヴィキ党から離脱するように強いた。その集団は現実には、政治的分派も党内反対派も形成してはいなかったけれども。//
 二月革命後に、状況は急激に変化した。以前よりも多様な党指導者たちの中にエミグレと地下のボルシェヴィキの一団が出現し、全党員たちに大きな影響を与え始めた。
 1917年、ボルシェヴィキは党の紀律よりも革命の波に乗ることを重視した。
 党内の多くの党員とグループは、十月の前でも後でも、重要な政策上の論点についてレーニンに同意しなかった。そして、レーニンの意見がつねに優勢であるのではなかった。
 ある範囲のグループは、半永続的な党内集団を固めていた。それらの基本的主張が、中央委員会または党大会の多数派によって拒否されたあとでもなお。
 少数派集団(多くは旧ボルシェヴィキの知識人で成る)はふつうは、1917年以前ならばしたように党を離れることはなかった。
 彼らの党は今や、事実上の一党国家で権力を有していた。そのゆえに、党を離れることは政治生活をすべて止めてしまうことを意味した。//
 しかしながら、、このような変化にもかかわらず、党の紀律と組織に関するレーニンの理論的な前提命題は、内戦が終わるまでなおもボルシェヴィキのイデオロギーだった。そのことは、モスクワに本拠をおく新しい国際的共産主義者組織であるコミンテルンをボルシェヴィキがどう操縦したか、からも明白だった。
 1920年に第2回コミンテルン大会がコミンテルンへの加入条件を討議したとき、ボルシェヴィキ指導者たちは明らかに1917年以前のロシアのボルシェヴィキ党をモデルにした条件を課すよう強く主張した。このことが大きくて人気があったイタリア社会党を排除し、ヨーロッパでの再生社会主義インターの対抗者としてのコミンテルンを弱くするものであったとしても(イタリア社会党は、その右派および中央派集団を追放しないでコミンテルンに加入するのを望んでいた)。
 コミンテルンが採択した加入のための「21条件」は、事実上、つぎのことを要求するものだった。すなわち、コミンテルンを構成する諸党は高い使命感をもつ革命家のみを党員とする極左の少数派であるべきで、残るその党が「改良主義」の中心部や右派から明瞭に分かれる(1903年でのボルシェヴィキとメンシェヴィキの分裂と同様の)分裂によって形成されることが望ましかった。
 一体性、紀律、非妥協性および革命的職業人主義は、敵対者がいる環境の中で活動する全ての共産党の本質的な性格だった。//
 もちろん、これと同じ考え方がボルシェヴィキ自体にそのまま適用されたわけではなかった。ボルシェヴィキはすでに権力を掌握していたからだ。
 一党国家での支配党は、第一に、大衆政党にならなければならない。第二に、多様な意見に適応し、それらを組織化すらしなければならない。
 これは実際に、1917年以降のボルシェヴィキ党に生じたことだった。
 党内集団が特定の政策的論点に関して党指導層の中で発展し、(民主集中制原理に反して)最終の票決後ですら存在を保ち続けた。
 1920年までに、労働組合の地位に関する当時の論争に関与した党内諸集団は、巧く組織された集団となり、矛盾し合う政策基盤を提示したのみならず、第10回党大会に先立つ議論と代議員選挙の間には地方の党委員会の支持を得るための働きかけ活動(lobby)も行った。
 言い換えると、ボルシェヴィキ党は、それ自身の範型の「議会制」政治を発展させていた。党内集団が、複数政党システムでの政党の役割を果たしていたのだ。//
 西側ののちの歴史研究者-そして、リベラルな民主主義の価値観もつ外部からの観察者の-立場からは、これは明らかに称賛されてよい進展であり、良い方向への変化だった。
 しかし、ボルシェヴィキは、リベラルな民主主義者ではなかった。
 ボルシェヴィキの党員たちの中には、党が分解していて、目的をもつ一体性と方向意識を喪失しているのではないかという相当の懸念があった。
 レーニンは確実に、党内政治の新しい様式を是認しなかった。
 第一に、労働組合論争-内戦後にボルシェヴィキが直面している重大で切迫した問題に比べて全く末梢的な論争-によって、莫大な量の指導者たちの時間とエネルギーが奪われた。
 第二に、党内集団は、明らかに、党におけるレーニンの個人的な指導力に挑戦している。
 労働組合論争での一つの党内集団を率いたのは、トロツキーだった。彼は、比較的に新しい入党だったにもかかわらず、レーニンに次ぐ党内の大物だった。
 別の党内集団である「労働者反対派」は、Aleksandr Shlyapnikov (シュリャプニコフ)に率いられて、労働者階級党員との特別の関係を強く主張した。この主張は、レーニンが率いるエミグレ知識人層から成る指導部の古い中核部分には、潜在的にはきわめて有害なものだった。//
 かくしてレーニンは、党にある党内集団(factions, 分派)と分派主義を破滅させることを開始した。
 これをするためにレーニンが用いた戦術は、分派的(factional)であるのみならず完全に陰謀的なものだった。
 Molotov (モロトフ)とレーニン派の若きアメリカ人党員の Anastas Mikoyan(ミコヤン)はのちに、1921年初めの第10回党大会に際して作戦を開始したレーニンの熱意と思い入れを描写した。その作戦とは、レーニン支持者の秘密会合を開き、反対分派に言質を与えている大きな地方の代議員を分裂させ、中央委員会の選挙で否決されるべき反対派の者たちの名簿を作成する、といったものだった。
 レーニンは、こっそりとビラを撒くために「タイプライターや手動印刷機をもつ、地下にいる古き共産主義者同志」を呼び込もうとすら欲した。-この秘密のビラ配布という考えは、分派主義だと解釈されうるという理由でスターリンが反対した。(8)
 (こうしたことは、レーニンがかつての陰謀的な習癖へと立ち戻った初期のソヴィエト時代だけのことではなかった。
 モロトフが内戦の暗鬱な時期だと思い起こしたのは、レーニンが指導者たちを召集して、ソヴィエト体制の崩壊が近づいていると告げた、ということだった。
 出所が虚偽の文書と秘密の住所録がその指導者たちに用意されていた。その文書には「党は地下に潜るだろう』とあった。(9))//
 レーニンは第10回党大会で、トロツキー派と労働者反対派を打ち負かした。そして、新しい中央委員会でのレーニン派の多数派を確保し、トロツキー派の二人の中央委員会書記局員に代えてレーニン派のモロトフを指名した。
 しかし、これで全てでは、決してなかった。
 党内集団の指導者たちを突然に驚かせた動議をレーニン派集団が提案して、第10回党大会は、「党の一体性(統一)について」という決議を承認した。それは、現存している党内集団に解散を命令し、党内部での全ての分派活動をそれ以上することを禁止するものだった。//
 レーニンは、党内集団(分派)の禁止は一時的なものだと述べた。
 これは正直なものだった、と想像できるかもしれない。しかし、分派の禁止が党で承認されないことが分かった場合の逃げ道を自分のためにたんに用意していたにすぎない、ということの方がありえそうだ。
 実際に生じたように、そのようなことではなかった。すなわち、党全体が、一体性(統一、団結)のために党内集団(分派)を消滅させるつもりであるように見えた。おそらくは、党内分派は一般党員にまで深く根づいておらず、多くの党員にはそれは知識人である<先進党員(frondeurs)>の特権だと考えられていたがゆえに。//
 「党の一体性」決議は、頑固な分派主義者を党が除名し、分派主義という罪を犯したと判断する被選出委員を中央委員会が排除することを認める秘密条項を含んでいた。
 しかし、党政治局はこの条項をかなり疑っていた。そして、レーニンが生存中は、これは形式的には発動されなかった。
 しかしながら、1921年秋、レーニンが主導して、大規模な党の粛清〔purge, =党員再審査〕が行われた。
 これが意味したのは、党員であり続けるために、全党員が粛清委員会の前に出廷して革命家としての適性を正当化し、必要があれば批判から自分を防御しなければならない、ということだった。
 この1921年の党粛清について言われた主要な目的は、「出世主義者」や「階級敵」を見つけ出して排除することだった。つまり、形式上は、敗北した党内集団の支持者だった者に向けられてはいなかった。
 レーニンは、それにもかかわらず、「ほんの僅かでも疑念があり信用を措けない全てのロシア共産党員は、…排除されるべきだ」(すなわち、党から除名(expell)されるべきだ)ということを強調した。
 T. H. Rigby が論評するように、無価値で不用だと判断された全党員のほとんど25パーセントの中に反対集団の者たちはいなかった、と信じるのは困難だ。(10)//
 この粛清で、著名な反対派の者は党から除名されなかった。その一方で、1920-21年の反対派党内集団の一員たちは、全員が制裁を免れたのではなかった。
 この当時にレーニン派の一人が長だった中央委員会書記局には、党組織員の任命と配置の職責があった。
 そして、モスクワから遠方に囲い込む指示書にもとづいて多くの労働者反対派の者たちを派遣するに至り、そうして、指導者層内の政治に積極的に関与するのを事実上排除した。
 指導部の一体性を確保するためのこのような「行政的手法」は、のちにスターリンが、1922年に党の総書記(General Secretary)(すなわち、中央委員会書記局の長)になった後で、大いに発展させた。
 研究者たちはしばしば、これをソヴィエト共産党における党内民主主義の本当の弔鐘(死滅の標し)だと見なしてきた。
 しかし、これはレーニンが創始し、第10回大会での闘争から発生した実務だった。そのとき、レーニンはまだ主人たる戦略家であり、スターリンとモロトフはレーニンの忠実な子分(henchmen)だった。//
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 (6) レーニン「第11回党大会に対する中央委員会の政治報告」(1922年3月), レーニン・<全集>(Moscow, 1966), 33巻p.282。
 (7) Richard Pipes, ed., <知られざるレーニン>, Catherine A. Fitzpatrick訳(New Haven, 1996), p.152-4.
 (8) A. I. Mikoyan, <Mysli i vospominaniya o Lenine>(Moscow, 1970), p.139.
 (9) <モロトフは回顧する>, Resis 訳, p.100.
 (10) Rigby, <共産党の党員>, p.96-100, p.98.
 地方レベルでの1921年党粛清に関する生々しい再現として、F. Gladkov, <セメント>, A. S. Arthur & C. Ashleigh 訳(New York, 1989), Ch. 16.を見よ。
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 *上の注(6)に関する試訳者・秋月の注記。これは日本語版全集33巻「ロシア共産党(ボ)第11回大会/ロシア共産党中央委員会の政治報告/3月27日」p.287に邦訳があり、これを参照しつつ、ある程度は変更した。
 また、これの上の箇所(注番号はない)の原文引用部分は、レーニン・日本語版全集同巻「同」p.286を参照して訳した。但し、ある程度は内容が異なると思えるので、日本語版全集上掲p.286頁の訳をそのまま以下に引用して紹介しておく。
 「攻撃のばあいには、規律がまもられないでも、みなが押し合って、まえにかけて行く。退却のばあいには、規律は自覚的なものになければならず、百倍もの規律が必要である。というのは、全軍が退却するときには、<中略>。このばあいには、わずかの狼狽の声があげられただけで、全員が潰走することさえ、ときどきある。<一文、略>本物の軍隊でこういう退却がおこると、機関銃をすえつける。そして、正常な退却が無秩序な退却になっていくと、『撃て!』との命令がくだされる。そして、これは正当である。」以上。
 **上の注(7)の<秘密書簡>部分は、R・パイプス著の方から逆に接近して、この欄の2017年4月1日付・№1479「レーニンの極秘文書。日本共産党・不破哲三らの大ウソ32」ですでに訳出している。今回は、訳をある程度、変更した。
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 第4章(ネップと革命の行く末)のうち、「はじめに」と第一節(退却という紀律)が終わり。
 なお、「退却」=retreat は後退・譲歩とも訳される。しかし、レーニンらは<軍事用語>に模して使っているので、より軍事・戦闘用語的な「退却」が適切だろう。

1506/日本共産党の大ペテン・大ウソ34-<ネップ>期考察01。

○ 志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)p.173-4はこう書く。
 レーニンの1918年夏~1920年の経済政策は「戦時共産主義」と呼ばれ、農民から「余剰穀物のすべてを割当徴発する」ものだった。レーニンが「この戦時の非常措置」を「共産主義」への「直接移行」と「勘違いして位置づけ」たことから、「農民との矛盾が広がってい」った。
 レーニンが「共産主義」への「直接移行」と観念していたことはそのとおりだろうが、しかし、「勘違いして位置づけ」た、という表現の中に、日本共産党(幹部会)委員長・志位和夫の人間的な感情は、認められない。
 この「勘違い」によって、のちに1921年秋にレーニン自身が「生の現実はわれわれが過っていたこと(mistake, Fehler)を示した」と明言した<失敗>によって、いかほどの人間が犠牲になったのか。
 ○ 志位和夫は<戦時共産主義>という言葉を使い、多くの歴史書もこの概念を使っている。
 おそらくは、スターリン時代におけるソ連・ロシアの公式的歴史叙述によって、レーニン時代をおおよそこの<戦時共産主義>時代と<ネップ=新経済政策>時代に分けるということが定着して、そのまま現在にまで続いているようにも思われる。
 最近にほんの少し触れたように、<戦時共産主義>という語は、志位が「この戦時の非常措置」と書いているように、<戦時>のやむをえない措置だったかのように誤解させる。
 また、<戦時>とはまるで第一次大戦とその後の勝利諸国による対ロシア<干渉戦争>を意味するかのように誤解されうる。
 日本共産党は、そのように理解したい、又はそのような印象を与えたいのかもしれない。
 しかし、ロシアが第一次大戦から離脱したのは1918年3月の「中央諸国(ドイツ等)」との間のブレスト・リトフスク条約によってだ。また、1918年~1919年に戦闘終結とベルサイユ講和条約締結があった。
 そこで、日本共産党によると、英仏らによる<干渉戦争>と闘った、と言いたい、又はそのような印象を与えたいのかもしれない。しかし、大戦終結と英仏らの対ドイツ等との講和まで、およびその後のほんの数年間、英仏らが新生?ロシアと「戦争」をすべき理由がいかほどあっただろうか。
 たしかに、ボルシェヴィキ「赤軍」に対する「白軍」への物的・資金的援助はあったのだろう。だが、今のところの知識によれば、戦争といっても、対ロシアについては、英国軍が北方のムルマンスクまで来たということと、日本がいわゆる<シベリア出兵>をしたといった程度で、いかほどに<干渉戦争>という「戦争」に値する戦闘があったのかは疑わしい。日本軍は地方軍または「独立共和国」軍と戦闘したのだろうが、モスクワ・中央政府とその軍にとっては「極東」の遠いことだったのではないかとの印象がある(それよりも<東部>での農民反乱等の方に緊迫感があったのではないか)。
 誰もが一致しているだろうように、<戦時共産主義>とは、ロシアの「内戦」という「戦時」のことをさしあたりは意味している。「内戦」とは civil war, Buergerkrieg で(直訳すると「市民(・国民)戦争」で)、まさに「戦争」の一種なのだ。ボルシェヴィキの政府と軍は、国民・民衆と戦争をしていた。
 しかしさらに、<内戦>中の「非常措置」(志位和夫)という理解の仕方すら、相当に政治的な色彩を帯びている、と考えられる。
 後掲のL・コワコフスキの1970年代の書物も、<戦時共産主義>という語はmislead する(誤解を招く、誤導する)ものだと述べている。
 ○ 既述のように、秋月の今のところの理解では、10月「革命」後のレーニン・共産党(ボルシェヴィキ)の経済政策は、マルクスの文献に従った、かつレーニンがそれに依って具体的に1917年半ばに『国家と革命』で教条化した<共産主義>そのものだった。当時の「非常措置」だったのではない。
 そうして、レーニン・共産党による<ネップ>導入は、じつはマルクス主義又は共産主義理論自体の「敗北」を示していた、と考えられる。たんなる暫定的な「退却(retreat)」ではない。
 レーニンが病床にあって、大いに苦悩したというのも不思議ではないだろう。
 ○ 文献実証的に( ?)、1919年半ばにレーニンは何と主張していたかを、日本共産党も推奨するに違いないレーニン全集第29巻(大月書店、1958/1990第31刷)から引用する。
 まず、<校外教育第一回ロシア大会-1919.05.6-19>。
 「マルクスを読んだものならだれでも」、「マルクスが、その全生涯と…の大部分を、まさに自由、平等、多数者の意思を嘲笑することに、…ささげたこと」、こうした嘲笑の対象となる「空文句の裏には、商品所有者が勤労大衆を抑圧するためにつかう、商品所有者の自由、資本の自由の利益があるということの証明」に「ささげたことを知っている」。
 「全世界で、あるいはたとえ一国においてでも、…時機に、また資本を完全に打倒し商品生産を完全に絶滅するための被抑圧階級の闘争が前面に現れているような歴史的時機に」、「その自由のためにプロレタリアートの独裁に反対する」者は、「そういう人は、まさに搾取者をたすけるものにほかならない」。p.350。
 後掲のL・コワコフスキの著によると、「資本を完全に打倒し商品生産を完全に絶滅する」こととは、英文では、<the complete overthrow of capital and the abolition of commodity production >だ。「commodity production 」の、goods ではない「commodity」=「商品」は、「必需物」・「有用物」という含意もある。
 ともあれ、レーニンはこのとき、マルクスによりつつ「資本」の完全打倒と「商品生産」の完全絶滅を正しいものとして、目標に掲げていた。
 つぎに、<工場委員会、労働組合、…での食糧事情と軍事情勢についての演説-1919.7.30>。
 食糧政策・問題について、「真の勤労大衆の代表者、…人々、彼らは、ここでの問題が、どんな妥協をもゆるさない、資本主義との最後の決戦であることを知っている」。
 「われわれは、ほんとうに資本主義とたたかっており、資本主義がわれわれにどのような譲歩を強いようとも、…やはり資本主義と搾取に反対してたたかいつづけるのだ、と言う」。コルチャコフやデニーキン〔ボルシェヴィキと闘う「白軍」等の指導者-秋月〕などの「彼らを元気づけている力、それは資本主義の力であるが、この力は、…、穀物や商品の自由な売買にもとづくものだ」。「穀物が国内で自由に販売されているなら、こうした事態がつまり資本主義を生み出す主要な源泉であって、この源泉がまた…共和国の破滅の原因であったということを、われわれは知っている。いま資本主義と自由な売買にたいする最後の決闘がおこなわれており、われわれにとってはいま資本主義と社会主義とのもっとも主要な戦闘がおこなわれている」。p.538-9。
 ここでレーニンは、明確に、「穀物や商品の自由な売買」に反対することこそ社会主義の資本主義に対する闘いだと、「最後の決闘」とまで表現して、無限定に、つまり例外を設けることなど全くなく一般的に語っている。
 これら二点等について、以下を参照した。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (仏語1976、英語1978、〔マルクス主義の主要な動向〕), p.741-3。
 ○ むろん引用し切れないが、上の二つともに、レーニンは長々と、得々と喋り、同僚又は支持者たちに向けて力強く(?)演説している。
 日本共産党・志位和夫が言うように、後になって「…と勘違いして位置づけ」た、で済ませることができるだろうか。
 <ネップ>とはつまり、部分的にせよ、「商品生産」を、「穀物や商品の自由な売買」を正面から認めることとなる政策だったのだ。
 こんなふうに<転換>が語られるとすれば、それまでの農業政策等によって辛苦を舐めた農民たち、犠牲者等はやり切れないだろう(しかも、新政策がすみやかに施行又は「現実化」されたわけでもない)。
 ネップ導入は政策表明上の、つまるところ、レーニンによる「敗北」宣言だった。
 では、ネップという新政策導入時期に、<市場経済を通じて社会主義へ>という基本方針を、レーニンは確立したのかどうか。
 ずいぶんと前この欄でに設定したこの問題については、まだ本格的には立ち入っていない。あせる必要はない。現今の<時局>・<時流>のテーマではない。

1412/日本共産党の大ウソ30-志位和夫綱領解説02。

 志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)のうち、不破哲三の研究に依拠するという<ネップ>に関する叙述、つまりネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」(「」はp.179より引用)ということについての叙述を、要約・部分引用しながら紹介する。
 ・レーニンの1918年夏~1920年の経済政策は「戦時共産主義」と呼ばれ、農民から「余剰穀物のすべてを割当徴発する」ものだった。レーニンが「この戦時の非常措置」を「共産主義」への「直接移行」と「勘違いして位置づけ」たことから、「農民との矛盾が広がってい」った。(p.173-4)
 志位(したがって不破)によれば、レーニンが「深い試行錯誤から抜け出し」「国際情勢の変化」を「的確に見定めた」ことは、1920年11月の「ロシア共産党モスクワ県会議」での「わが国の内外情勢と党の任務」と題する演説で示された。レーニン全集31巻415頁に掲載されており、つぎのような文章を含む。
 ・「われわれがロシアの反革命の企てをみな粉砕し、西欧のあらゆる国々と正式の講話締結をかちとった」ことから、「われわれが息つぎを獲得」しただけではなく、資本主義諸国の包囲の中で「われわれの基本的な存立をかちとった新しい一時期を獲得した」ことが明らかだ。
 これを含むレーニン演説を、志位(不破)はつぎのように理解・解釈する。
 ・レーニンは、ロシア革命の勝利のためには「国際的勝利」(=秋月によると「世界革命」、つまり全欧州レベルでの「社会主義革命」の勃発と勝利)が必要と考えていたが、戦争の結果はそれをもたらさなかったけれども、資本主義諸国の包囲の中で「ソビエト・ロシアが存立していく条件」は闘いとった。「世界革命は起こらなかったけれども、ロシア革命が生きていく条件」をかちとった、という「新しい一時期」になった。
 以上、p.174-5。志位(不破)は、そのあとすぐに続けてこう書く。
 ・「新しい時期」に入ったと「見定めた以上、方針も変えることが求められ」る。レーニンは「やがて」、「多くの分野で」の「路線転換の仕事に取り組むようにな」る。
 志位によると、不破著/レーニン第7巻は、レーニンは上の1920年11月の「転換」を「契機にして」、「レーニンの理論活動が"夜明け"を迎えた」と書いている、らしい(別途確認はする)。
 さて、以下がネップに関する叙述だ。
 ・1921年3月の「クロンシュタットで水兵の反乱」が起こり「やむなく鎮圧しなければならないという事態」が生じ、そういうもとで「ソビエト政権と農民の関係」の改善という「大問題」をつきつけられて、レーニンは「経済政策の大転換を始め」る。
 ・1921年3月に開始され5月ぐらいからその政策は「新経済政策(ネップ)」と呼ばれるようになる。まずは、「割当徴発から『穀物税』(現物税)」への移行。/「現物税」を払っても農民に残る「余剰」部分は「大きくなるはず」だった。
 ・だが、「余剰」部分はどう処理するのかという「大問題」が生じる。レーニンは最初は「市場経済とたたかいながら生産物を交換」するという方式を考えたが「うまくい」かず、余剰の処理・生産物交換は「市場経済の大きな波に呑み込まれた」。
 ・上の「経験をふまえて」レーニンは、1921年10月の「モスクワ県党会議」での報告で、「本格的な転換」に踏み切った。以上、p.177-8。
 志位によると、この報告による「新しい現実に直面」してのその転換した新しい「路線」の内容は、つぎのようなもので、「市場経済=悪」論と「本格的に手を切る」ものだった、という。
 ・「市場経済そのものを正面から認めよう、認めたうえで国家の権限でそれに一定の規制を加えながら、市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しようという路線」。
 そして、志位は、この会議での「討論」(レーニン全集収載)にも見られるように反対・不満も多かったが、レーニンは「懇切ていねいに説得的に」反論し、「市場経済を認めることが絶対に必要不可欠であることを明らかにし」た、とする。
 以上のあとで、すでに今回の冒頭で記したように、志位は、ネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」とする。
 以下(次回以降)で、不破哲三文献やレーニン全集そのものに立ち入る。
 また、前回に紹介したのは、クロンシュタットの「反乱」の前に発生していたタブロフ県地方での<農民反乱>中の(それを鎮圧するための、レーニンも許容したとみられる)トゥハチェフスキーらの「命令(指令)」の内容だが(この反乱自体に志位和夫の綱領解説は言及していない)、1920年の秋から約一年間のレーニン・ロシア共産党(ボルシェヴィキ)、そしてロシアに関する情勢あるいは諸事実にも、併せて言及する(なぜなら、不破哲三と志位和夫は具体的にロシアで生起した諸事情・事件等々の「現実」を「認識」したうえで書いているのか、という大きな疑問があるからだ)。
 1920-21年というのは、日本の大正9年-10年。
 不十分だが、年表的なものを掲載する。のちに補充していく。
 1917年8月/ケレンスキー臨時政府、憲法制定会議の選挙・招集予定を発表。
 1917年9月/レーニンがフィンランドから「蜂起」=「権力奪取」を促す手紙。
 1917年10月/ロシア10月「革命」。
 1918年2月/ブレスト・リトフスク条約でドイツと停戦。
 1918年3月/社会民主労働党・ボルシェヴィキ派から「ロシア共産党」へと名称変更。
 同/ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国憲法発布。
 1918年5月/チェコ軍団反乱。成人男子を兵役招集、「赤軍」の始まり。
 1918年8月/ブレスト・リトフスク条約の補足条約締結。
 1918年11月/トイツ降伏により第二次大戦終結。
 1919年3月/コミンテルン(国際共産主義者同盟)結成。
 1919年春~/コルチャーク、デニーキンらの攻撃、「白軍」との戦闘(内戦)。
 1920年1月/ベルサイユ条約発効・国際連盟成立。
 1920年2月/ドイツで「国家社会主義労働者」党(ナツィス党)発足(改称)。
 1920年4月/ロシア・ポーランド戦争始まる。
 1920年8月 ?/タンボフの農民「反乱」始まる。
 1921年2月/クロンシュタットの「反乱」始まる。
 1921年3月/クロンシュタットの「反乱」鎮圧される。。
 同/ロシア共産党(10回党大会 ?)がネップ政策導入を決定。
 同/ロシア・ポーランド間でリガ条約。
 1921年6月 ?/タンボフの農民「反乱」鎮圧される。
 1921年7月/モンゴル「革命」。
 同/中国共産党創立。
 1921年10月/レーニン、<戦時共産主義>につき、「誤り」を認める。
 1921年12月/ワシントン会議による4カ国条約。日英同盟廃棄。
 1922年2月/チェカ廃止。同様の機能の「ゲ・ペ・ウ」発足。
 1922年3月/ロシア共産党第11回党大会。
 1922年7月/日本共産党結成=コミンテルン日本支部。
 1922年12月/ソヴィエト社会主義共和国連邦結成。

1405/日本共産党の大ウソ28-志位和夫綱領解説。

 一 日本共産党2004年綱領について現在の幹部会委員長・志位和夫が三巻本の<綱領教室>を出している。ソ連、とくにレーニンに関する部分は綱領第3章第8節の中にあり(但し節番号は最初からの通し)、その部分についての志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)のp.167-188を、以下適宜引用しつつ読む。
 前回にも言及した<戦時共産主義からネップへの移行>について志位は「不破さんの研究に依拠しつつ、…」と明記しているので、当該箇所は不破哲三の<レーニンと資本論>の該当部分も同時に読むことになる。
 二 p.170まではたいした内容がない。「教室」=幹部 ?研修講義のための概述と年表だけ。
 つづく、つぎの文章は、さっそく驚かせる。いずれも、p.171。
 「十月社会主義革命が巨大な世界史的意義をもつ出来事であったことは、政治的・思想的立場の違う人であっても、今日でも揺るがない評価だと思います」。
 「人類最初に社会主義への道に踏み出したロシア革命は、一時のものではなく、それ自体が、世界史に今日も続く持続的な影響を、与え続けている」。//ソ連という国は崩壊したが、「にもかかわらず、十月社会主義革命が、世界史に与えた影響が、過去のものになってしまったわけでは」ない。
 まず気づくのは、「たとえば」として論拠として出す文献が、E・H・カーの本一冊(岩波現代選書)だけだ、ということだ。
 この本は1989-91年以前の本にしてはロシア革命史(ネップ期を含む、1917-1929)を要領よくまとめているとは思うが、日本語版・原書ともに何と1979年、ソ連崩壊前のものだ。とりわけソ連崩壊後の諸資料、諸研究文献を見ているはずがない。
 第二は、「十月社会主義革命」(かつて日本共産党は<社会主義大革命>と「大」を付けていたかもしれない)とか「人類最初に社会主義への道に踏み出したロシア革命」とかいう捉え方自体に問題があるし、疑問視されなければならず、かつ実際にも、疑問視されている。
 「政治的・思想的立場の違う人であっても」認めている、という言い方は不当であり、デマだ。
 例証をいちいち挙げない。「社会主義」革命性自体を、かつまたマルクスの言説またはマルクス主義の正当な(ロシアにおける)帰結だったか、もまた、疑問としなければならないと思われる。少なくとも問題になりうるということは、認めなければならない。
 しかし、日本共産党幹部・志位和夫はこれを認めることができない。なぜなら、日本共産党自体がロシア革命の成功を前提とする(レーニンが最高指導者時代の)第三インター(コミンテルン)の結成によってこそ誕生しているからだ。
 したがって、日本共産党は、1922年創立をその歴史の出発点とするかぎりは、そして、そうした政党として存在するかぎり、絶対にレーニンだけは(ロシア「社会主義」革命とともに)「救う」必要があるのだ。したがってまた、ロシア革命についての歴史観・歴史認識は、大きな<政治的>粉飾にまみれたものになってしまう。
 第三に、なるほど1917年10月にペテルブルクで起きたことは、「世界史に今日も続く持続的な影響を、与え続けている」と言える。また、その「世界史に与えた影響が、過去のものになってしまったわけでは」ない。しかし、これはもちろん、否定的・消極的意味においてであって、志位和夫の言い分とは真反対だ。
 フランスのF・フュレも、ロシア革命がなければドイツ・ファシズムはなく、第二次大戦はなかった、と言った。これらに比べれば低い蓋然性ではあるが(戦後の)<冷戦>もなかった、と言った。
 それだけの影響を与えた、と私も断言したい。
 マルクスが「社会主義」への必然性を言葉の上で唱えていただけならばよかった。レーニンら、ロシア共産党は、「社会主義革命」を現実に行ったと宣言し、<理論(・言葉)の現実化>に成功した、とされた。多くの世界中の人々がそれを「信じて」しまい、逆にマルクス主義の「正しさ」を立証した、ということになってしまった。
 これは、20世紀の初頭の、実に悲痛な現実だった、と思う。
 日本でも<マルクス主義(またはマルクス・レーニン主義)に染まらないとインテリではない>とか言われ、戦前の帝国大学学生を含む知的階層に巨大な影響を与えた。その影響は戦後および今日まで(日本には)残っている。
 北一輝は「純正社会主義」をタイトルにした本を書き、「私有財産」を厳しく制限する<日本改造法案>を著した。これらは、マルクスやレーニンの本を一部は読んでいたこと、後者はロシア革命の報に着目したことを示しているだろう。最近に北一輝の上の本も見たが、マルクスとかレーニンの名が出てくる。
 この北一輝の本が二・二六事件の農民出身兵士たちに「理論的」影響を与えた、というのだから、あくまで一例だが、レーニンとロシア革命は日本史の現実をも変えてしまった、と言える。むろん、不破哲三や志位和夫の人生も大きく変えてしまった(気の毒に)。
 三 上の部分のあとの志位の叙述は、「レーニンが指導した最初の段階」での「真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力」の話になる。

1404/日本共産党の大ウソ27-02-不破哲三・平凡社新書02。

 不破哲三・マルクスは生きている(平凡社新書、2009)は、「ソ連とはいかなる存在だったか」という節見出しのもとで、レーニンについて、つぎのように書く。日本共産党2004年綱領のレーニン関係部分を説明していることになろう。
 この欄は<反共デマ宣伝>を意図してはいないので、これまでと同様に、客観的に、日本共産党・不破哲三らの文章も引用または紹介する。
 ・日本共産党は「ソ連の歴史を見るとき」、「レーニンが指導した初期の時代と、スターリンの指導に移って以降の時代」とを、「はっきり区別」している。
 ・「レーニンは、…革命のあと、経済的には遅れていたロシアを社会主義への道に導くために、真剣な努力を行いました」。
 ・「初期、とくにイギリス、日本など14の資本主義諸国が軍隊を送り込んだ内戦の時期には、『戦時共産主義』などの誤った模索もあ」った。
 ・だが、「戦争終結のあと、内外の諸政策の抜本的な転換をおこない、内政面では、市場経済を通じて漸進的に社会主義に進む『新経済政策=ネップ』路線を、対外面では資本主義諸国との平和共存および周辺の諸民族の独立の尊重を基本とする外交路線をうちだし、それを基本路線として社会主義の道にふみだし」た。
 ・「しかし、不幸なことに」、「確立した路線にそっての前進を開始したばかり」の1923年にレーニンは「重い病に倒れ、翌24年1月、生涯を閉じ」た。
 以上、p.198。
 ここでは、「戦時共産主義」を「誤った模索」と明記していることのほか、レーニンの積極面として、①内政における「新経済政策=ネップ」、対外面での②「資本主義諸国との平和共存」と③「周辺の諸民族の独立の尊重」を基本路線としたこと、を挙げていることを、確認しておく必要がある。また、1923年には「確立した路線にそっての前進を開始した」とされていることも、関心を惹く。
 以上のあとはスターリンの時期の叙述だが、そのはじめに、「レーニンの最後の時期に」、つぎの点について、スターリンはレーニンと「激しい論争を交わしてた」と書かれていることも確認しておく必要があろう。
 すなわち、「国内の少数民族政策と党の民主的運営の問題について」。同じく、p.198。
 この欄では大きな第二の論点として「ネップ」導入は<市場経済を通じて社会主義へ>の路線の発見・確立だったのかを取り上げるが、その他の不破が上で言及しているような問題・事項についても、余裕があれば断片的にではあれ、論及する。例えば、資本主義諸国との「平和共存」 ?、「周辺諸民族の独立尊重」 ?(「国内の少数民族政策」 ?)。
 なお、このような日本共産党・不破哲三によるソ連またはレーニン・スターリンにかかる歴史の認識について、近年または最近の-いや1994年以降の-産経新聞社発行等のいくつかの<日本共産党研究>本は、きちんと批判的にとりあげているだろうか。反共産主義または「反共・保守」派の論壇は、日本共産党の主張・議論を詳しくかつ個別に反駁しておくことをしてきたのだろうか。相当に怪しく、心もとない。

1401/日本共産党の大ウソ26-レーニン時代とは。

 一 「日本共産党の大ペテン・大ウソ」の第02回めに引用したが、あらためて日本共産党2004年綱領から、レーニン・スターリンに関する部分(「三〔章〕、世界情勢―二〇世紀から二一世紀へ」の中の「(八)」〔節〕)を掲載する。「・」は原文にはない。//は原文では非改行。
 「・資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、一九一七年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。第二次世界大戦後には、アジア、東ヨーロッパ、ラテンアメリカの一連の国ぐにが、資本主義からの離脱の道に踏み出した。
 ・最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。//
 しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。「社会主義」の看板を掲げておこなわれただけに、これらりが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。
・ソ連とそれに従属してきた東ヨーロッパ諸国で一九八九~九一年に起こった支配体制の崩壊は、社会主義の失敗ではなく、社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義・専制主義の破産であった。これらの国ぐにでは、革命の出発点においては、社会主義をめざすという目標が掲げられたが、指導部が誤った道を進んだ結果、社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会として、その解体を迎えた。
 ・ソ連覇権主義という歴史的な巨悪の崩壊は、大局的な視野で見れば、世界の革命運動の健全な発展への新しい可能性を開く意義をもった。
 ・今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも、「市場経済を通じて社会主義へ」という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、人口が一三億を超える大きな地域での発展として、二一世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしていることである。」
 二 日本共産党は「レーニンが指導した最初の段階においては、…、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された」と歴史認識する。これが、レーニンに関する事実に反する美文にすぎないことは、すでに多少とも触れてきた。
 「市場経済を通じて社会主義へ」以外の論点につき、以下の事実の指摘もある。もっとも、「真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力」が以下のような事実を指すのだとすれば、それはそれで一貫しているのかもしれない。数字の最後に「人」を追記した。
 「1918年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者5万8762人、勾留5万8762人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)1万4504人、死刑(銃殺)6185人。これらの数字は国家保安委員会の(秘)保存文書によるが、実際は赤色テロではるかに多数の者が裁判なしで銃殺。」p.135。
 「1919年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者6万9238人、勾留6万9238人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2万2202人、死刑(銃殺)3456人。」p.155。
 「1920年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者6万5751人、勾留6万5751人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)不明、死刑(銃殺)1万6068人。」p.178。
 「1921年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者9万6584人、勾留9万6584人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2万1724人、死刑(銃殺)9701人。」p.196。
 「1922年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者6万2887人、勾留6万2887人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2656人、死刑(銃殺)1962人。」p.214。
 「1923年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者10万4520人、勾留10万4520人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2336人、死刑(銃殺)414人。」p.230。 
 以上、p.数とともに、稲子恒夫編著・ロシアの20世紀-年表・資料・分析(東洋書店、2007)。 
 三 すでに上の稲子恒夫編著には触れている。記してはいないが、信頼してよい書物だと判断したうえでのことだ。とくに日本人の書物・文献は、日本共産党への「立場」によって信頼性が微妙でありうるので、何らかの評価をある程度は先行させざるをえないことがある。
 稲子恒夫(1927-)はかつて日本共産党員だったとみられる。名古屋大学法学部/ソ連法・社会主義法担当教授。したがって、ロシア語を読め、かつ1992年以降に「秘密資料」を読んだと思われる。
 しかし、既に引用したが「誤りの全責任はスターリン一人とする説があるが、…スターリンの個人崇拝と個人独裁は、レーニン時代の党組織と党文化を基礎に生まれた」(p.1009)等と書いているように、また別に紹介するが、1989-91年やその直後に田口富久治、加藤哲郎らと共著や対談書を出しているように、ソ連崩壊前後の時期に、日本共産党を離れた(党員ではなくなった)と推察される。
 したがって、上記の数字や文章など、日本共産党には都合が悪いはずの、または日本共産党の歴史理解とは異なる記述をすることもできているわけだ。上の編著はこの人の最後の著書になったのだろうか。

1388/日本共産党の大ウソ25-日本共産党とレーニン。

 一 日本共産党2004年綱領(23回党大会採択)は、「1917年にロシアで起こった十月社会主義革命」なるものの存在とその肯定的評価を当然の前提として、こう書く。
 ・「今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、…、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、…、二一世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしていることである。」 
 ・「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。」
 ・「最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、…にもかかわらず、…をともないながら、真剣に社会主義をめざす積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、…、国内的には、…、の道を選んだ。……、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、…重大であった」。
 この「市場経済を通じて社会主義へ」論は1994年(20回党大会)綱領では語られていないし、その際の不破哲三報告も、「ネップ(新経済政策)」に言及しつつも、上のようがな定式化をしているわけではない。
 だが、現綱領では「レーニンが指導した最初の段階」での「真剣に社会主義をめざす積極的努力」としか明記されていないが、不破哲三や志位和夫の文献を読めば明かなのは、レーニンによる「ネップ(新経済政策)」導入の肯定的評価と「市場経済を通じて社会主義へ」論が結合していること、端的には、レーニンこそが(「ネップ(新経済政策)」導入を通じて)「市場経済を通じて社会主義へ」という<新>路線を明確にした、この「正しい」路線をスターリンが覆した、と日本共産党は理解していることだ。
 かつまた、現綱領も日本共産党の基本的方針として明記しているように、「市場経済を通じて社会主義へ」という路線は、ロシアにかぎらないすべての国にあてはまる社会主義国建設の方法の少なくとも一つとして、レーニンが「ネップ(新経済政策)」期に明らかにした、と日本共産党は理解していることも重要だ。
 これらについてはあらためて、不破哲三、志位和夫等(他にもいる)の文献に即して引用、紹介しなければならない。
二 前回に述べたように、佐藤経明・現代の社会主義経済(岩波新書、1975)が「1921年春のネップへの転換」について、「主として現実政治上の考慮から」もしくは「農民層の離反という政局を避ける実際政策上の必要から」なされたと分析していることは、納得できるものだ。
 ここでの論点の結論をかなり先取りすることになるが、佐藤経明は明確に述べてはいないものの、私の理解では、「現実政治上の」・「実際政策上の」考慮・必要とは、つまるところ、レーニンを最高指導者とするボルシェヴィキの「権力」を維持し続けること、にある。
 レーニンにはもともとかなり融通無碍(プラグマティック)なところがあり、いわゆる二月革命のあとの「社会主義革命」の必要性・可能性、あるいは「社会主義革命」は世界的にほとんど同時に起こりうる(起こるべき)かそれとも一国でも可能か、について、一貫した「理論」的立場があったのではない。あるいは、彼の元来の「理論」と彼が実際に行ったことが合致しているわけではない。
 「10月革命」による権力奪取とその後の「内戦」およびいわゆる「干渉戦争」の期間におけるその権力の維持の間もそうだが、レーニンに明確な「社会主義」建設の<一般的理論>などはなかったのであり、レーニンには、ただ<社会主義>へと進まなければならない、あるいは<資本主義>からの基本的離反を維持しなければならない、という強い<意欲>または<執念>があったにすぎない、と思われる。
 ネップの導入もまた、自分自身と自らの党の政治的権力を維持するための方策であり、それ(出発点は農民からの徴税方法の変更)が引き起こした農民・農業分野に限られない全産業または<経済>全般への影響をレーニンが予見していたわけでは全くなかった、と思われる。
 レーニンによる「市場経済から社会主義へ」という<理論>の発見・確立というのは、日本共産党の不破哲三らのみが主張している、戯けた(タワけた)奇論に他ならない、と考えられる。
 これらについては、あらためて書くことがあるだろう。
 三 上に<レーニン自身と自らの党の政治的権力の維持>と書いた。
 専門的研究者による、石井規衛・文明としてのソ連(山川出版社、1995)は、もっと詳細かつ緻密に分析して、「古参党員集団の寡頭支配」の維持について語っている(p.123あたり以降)。「10月革命」以降に入党した「新参」党員を含まないようなボルシェヴィキ権力の確保・維持という趣旨だ。
 古参党員の中には、トロツキーもスターリンもいる。また、党員の<粛清>は、レーニン期のボルシェヴィキ(共産党)も行ったことで、スターリンに始まるわけではまったくない。また、いわゆる「白軍」あるいは諸<反乱>の指導者の殺戮がレーニンの指示または指導によって行われたことも当然だ(例えば田中充子の無知ははなはだしいが、そのような共産党員や同シンパはいくらでもいるだろう)。
 以上では簡単すぎて言及とすらいえない。ネップ自体についても詳しい石井上掲著にはここではこれ以上立ち入らない。
 では、自らと共産党の<権力>への執着はそもそも何に由来するのだろう。
 ここでコミュニズム(共産主義)自体、ロシアにおけるボルシェヴィズム自体を持ち出さずにいかないものと思われる。
 「執着」では軽すぎる。<狂熱>と言ってよいだろう(資本主義打倒と社会主義・共産主義を志向する)強い信念・固着、これは完全には理解できそうにないが、とりわけレーニンの頭に「取り憑いて」いたもののようだ。
 ヴォルコゴーノフ(生田真司訳)・七人の首領-レーニンからゴルバチョフまで/上(朝日新聞社、1997)は、ネップに関係してつぎのように書く(p.182-3)。
 レーニンは「戦時共産主義」の「生みの親」で、共産主義へのその「性急」さを「誤り」とも認めたが、「資本主義の復活」だとして「商業」の承認に反対した。「レーニンはボルシェヴィキによって引き起こされた経済的破綻で壁際まで追い込まれ、新経済政策に同意せざるをえなくなった」。「そして、それを私たちは革命的弁証法の素晴らしいお手本であると呼んでいたのだ! かくして、あらゆる失敗、犯罪、不首尾は弁証法で正当化された」。
 ここには、私の印象とはやや異なるレーニンのネップ観が示されてはいる。
 それよりも、ヴォルコゴーノフがレーニンまたはレーニン主義全般について以下のように述べていることは、上記のレーニンの<狂熱>に少しは関係しているように見える。
 ・「マルクス主義のロシア的異説、ロシア的バリエーション」である「レーニン主義」は、「歴史的状況」・「専制主義的帝国の特殊性」・「ロシア人の心理的タイプの独特さ」だけではなく、「レーニンのまったく独特な特性にも」よって形成された。
 ・「その特性の肝心なところは、彼自身が事業の権化」で、「ボルシェヴィズムとレーニンの個人的な運命が、彼個人の意識のなかだけではなく、多くの人たちの社会意識のなかで統合されていた」点にある(以上、p.175)。
 ・レーニンは「マルクス主義を土台に、世俗的宗教」を、「新しい宗教」を作り出した(p.177)。
 ・「レーニン主義はテロルなしには考えられない」。「レーニン主義の擁護者」はテロルは「国内戦の現実」・「特殊な状況」から生まれたと言うが、テロルは「レーニン主義の過酷な哲学から生まれた」。その哲学の「非人道性の恐ろしい刻印は、レーニン主義と呼ばれる現象の恥ずべき標識として永遠に残るであろう」(p.185)。
 これらは、スターリンについての文章(訳文)ではない。具体的な事象・手紙・電信類を著者は記しているが、言及は(キリがないので)省略する。
 四 たまたま最近に手に取った文献から、レーニンが欲した<権力>維持の内容やその「執念」にかかわる部分に言及した。
 石井規衛とヴォルコゴーノフの述べる内容、述べ方が違っていても、この欄の執筆者にとっては、全く問題はない。レーニンとその時代、スターリンとの差違等のそれら自体を研究しようとしているわけではなく、日本共産党のレーニン(とくにスターリンとの対比における)「解釈」が誤っているだろうこと、少なくとも決して常識的なものでは全くない奇論であること、を示せば足りるからだ。
 日本共産党の幹部と同党党員「研究者」以外に、冒頭で紹介したようなレーニン等についての理解・解釈を示している者はいない。
 一人の日本共産党党員「研究者」らしき者が、党員であることを隠したまま、日本共産党の上記の理解・解釈をふくらませた「研究書」らしきもの、幼稚で杜撰な本、客観的には「研究」書の体裁をとった<プロパガンダ>本、あるいは日本共産党にとっての<アリバイ作り>本を、大月書店から刊行していることを、つい最近に知った。もちろん、いずれ論及する。 

1340/日本共産党の大ペテン・大ウソ12-稲子恒夫は批判する①。

 一 最初に設定した疑問の第二は、「日本共産党は、レーニンまでは正しく、つまりレーニン時代は「社会主義」の方向に向かっていたが、<大国主義・覇権主義>のスターリンによって誤った、と言っているようだ。このような、レーニン時期とスターリン時期の大きな(質的に異なると言っているような)区分論は歴史把握として適切なのか。あるいはまた、この対比は、レーニン=『社会主義』、スターリン=<それ>からの逸脱、と単純化してよいのかどうか」、というものだった。最後の<それ>にかかわる論点には、既に長らく言及した。
 さて、現在の2004年綱領は、レーニンとスターリンについてつぎのように明記している。「世界情勢―二〇世紀から二一世紀へ」の中で書かれている。
 「最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。『社会主義』の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。」 
 この綱領以前の段階で、1980年代後半には、レーニンの時期とスターリン(以降)の時期を区別する必要が、不破哲三らによって(そして日本共産党によって)語られてきた。
 「少なくない試行錯誤をともないながら」という限定はついているが、二つの時期を大きく簡単に区別することができるのか。
 この問題は<正・邪>の論評・評価にかかわるので、単純な<事実>認識の問題ではない。しかし、上のようにソ連の歴史を単純化できるのか、<ロシア革命>自体について、あるいは<新経済政策(ネップ)>等々について、これら等々とレーニンやスターリン等との関係について、種々の議論・歴史学上の検討成果がありうる。
 ロシア社会主義革命とレーニンを否定するということは、日本共産党を否定することに等しい。
 なぜなら、日本共産党は1922年に、ロシア「社会主義革命」を達成したボルシェビキ、のちのソ連共産党が中心として1921年に結成したコミンテルン(国際共産党、第三インター)の日本支部として創立されたからだ。
 日本共産党自体が、ロシア革命がなくコミンテルンもなければ、産まれていないのだ。 日本共産党が「共産党」と名乗り、創立年を(例えば1961年ではなく)1922年とするかぎり、ロシア「社会主義革命」と(かつての、少なくとも1922-35年の間の、コミンテルンの存在の正当性を絶対に否認することができない、という宿命にある。
 そして、ロシア「社会主義革命」とコミンテルン結成に主導的役割を果たしたのはレーニンだから、日本共産党はレーニンを(いまこの政党がスターリンについて行なっているようには)批判し否定することが絶対にできない。
 そのような日本共産党がレーニンとスターリンについて上のように現在主張している(認識している?)のは、そもそも身勝手な主張ではないのだろうか?
 ソ連の政治、法制、社会、歴史の専門家ではない秋月が、レーニン研究もスターリン研究も適切に行えるわけではないことは当然だ。
 しかし、いま日本共産党の主張しているように単純には言えないのではないか、と疑問視することはできるし、日本共産党が主張しているようには理解してはいないソ連(・ロシア)に関する学者・研究者もいる、という程度の指摘・紹介くらいはすることができる。そして、次のようにも言えるだろう。日本共産党は<大ウソ>をついているのではないか、と。
 二 さっそく、稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)のうち、編著者自身の分析結果を示す文章の一部を引用・紹介する。
 稲子は、「日本共産党」と名指しはしないが、この党の「説」をこの著で批判していることが明らかだ。
 <レーニンの真実>との見出し-
 ・「スターリンの国家万能とレーニン無関係説は…、レーニンの革命前後の主張と『ウラーの国有化』とその結果の経済の混乱の実際にふれないで、彼〔レーニン〕の功績をもっぱら市場経済移行の新経済政策(ネップ)の開始から始める。//
 しかし、…というネップは…、クロンシュタートの反乱、エスエルが主張していたことであり、レーニンは乗り気でなかった。//
 しかも彼〔レーニン〕は生前最後の22.11.20の演説でネップを『後退のゼスチャー』と言い、新たな飛躍を宣言した。//
 このネップの中止を呼びかける演説は『レーニン全集』に新聞報道による要旨だけが載っており、全文はやっと1995年の…に公表された。//
 ネップは党の戦術(長期政策)ではなく、当面の戦略だからあいまいだった。」/〔改行〕
 ・「そのうえネップには政治の改革がなかった。//
 ネップとレーニン礼賛者はこの時期の…、報道の自由、出版の自由など政治的自由の否定、検閲の確立、教会の弾圧、多数の知識人の国外追放など、ネップにともなうプロレタリアート独裁の制度化にふれない。」/〔改行〕
 ・「さらにネップ時代の広範な政治犯罪と類推適用を認めた1922年刑法典へのレーニンの関与、流刑の復活、法律によらない都市からのネップの湯あか(ネップマン)の追放、彼らの財産没収というレーニンのいう経済的テロも無視できないだろう。」/〔改行〕
以上、稲子・上掲示書p.1008-9. //は原文では改行ではない。
 <稲子編著も含めて、つづく>

1332/日本共産党は「本当は怖い」?、日本共産党の「正体」?-日本共産党こそ主敵。

 一 保守系雑誌の背表紙に「日本共産党」の文字があるのはきわめて珍しいと思うし、産経新聞ですら、日本共産党に直接に関係する連載記事を掲載したことがあるのか疑わしい。
 したがって、雑誌で日本共産党特集を組むのはよいが、背表紙タイトルが「日本共産党の正体」(月刊WiLL5月号(ワック))だったり、「本当は恐ろしい日本共産党」(月刊Hanada6月号)だったりするのは、あまりに旧態依然としていて新味がない。
 それに何より、「正体」と書けば実際とは違う別の「外形」?があるかのごとくだし、「本当は恐ろしい」と書けば、では「表面的には恐ろしくない」のか、と(皮肉家としては)思ってしまう。
 日本共産党についてわざわざ「正体」と書く必要はない。「正体」は批判できるが、その他は批判できない、などというものではない。
 また、日本共産党について「本当は恐ろしい」などと書くのは、上記のとおり、表面的・外形的には「恐ろしくない」 かのごときで、ミス・リーディング を誘導しかねない。
 秋月瑛二からすれば、日本共産党のそのままが、このような政党が存在していること自体が、日本と日本人にとって「恐ろしい」、と言うべきなのだ。
 二 日本共産党の現綱領(2004年1月)は、かつてのマルクス解釈としては通説?だった社会主義と共産主義(狭義)の二段階論を放棄して、「社会主義・共産主義の社会」と言っている。また、文献等は省略するが、日本共産党の党員は「科学的社会主義」を用いるべきだが、「マルクス主義」を用いることはまだ許され、「マルクス・レーニン主義」という言葉は使うべきではないのだそうだ。
 ともあれ、現綱領によると、「社会主義・共産主義の日本」では、「搾取の廃止によって、人間が、ほんとうの意味で、社会の主人公となる道が開かれ、『国民が主人公』という民主主義の理念は、政治・経済・文化・社会の全体にわたって、社会的な現実となる」、のだそうだ。
 コメントすると、「搾取」とは何ぞや、綱領中には説明がない。そしてとりわけ、「人間が、ほんとうの意味で、社会の主人公となる」という部分は「ほんとうの意味で」という限定が付いたりしているので、何が言いたいのかさっぱり分からない。「国民が主人公」とは、一時期、民主党がよく使っていた表現だ…。
 また、現綱領によると、「社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる」。
 この部分はきわめて恐ろしいのだが、さらに現綱領、つまりは現在の日本共産党が言っていることによると、上の「本格的な展望が開かれ」ることによって、「本当の意味で人間的な生存と生活の諸条件をかちとり、人類史の新しい発展段階に足を踏み出すことになる」のだ、そうだ。
 つまり、「社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ」たのちに、「…共同社会への本格的な展望が開かれ」、そしてようやく「人類史の新しい発展段階」が始まる(足を踏み出す)、というわけだ。
 何とまぁ、高度な「社会主義・共産主義の社会」もまだ序の口で、まだ先があるのだ。
 以下は、コメント、論評。
 第一。日本共産党の綱領には、その他の重要決定類にもそのようなものあるが、もともと①たんなる<願望>なのか、②たんに将来こうなるだろう、という<推測>なのか、あるいは③将来こうなるはずだ、という<(客観的・合理的?)予測>なのかが判然としない部分が多い。
 上に紹介した部分はおそらく③だとみられる。そして、このようになるはずだから、これに向かって頑張ろう、と主張しているものと思われる。たんなる願望や、漠然とした推測ではないだろう。
 日本共産党は<理論・法則と実践の統一>だとか言うのかもしれないが、上の点ですでに<思考の方法論>の奇妙さを日本共産党については感じる。
 上の点は措くとしても、第二。将来の見通しを確たるものとして?持っていることについて、日本共産党は、他の(日本の)政党とは違うと言って自慢しているようだ(不破哲三が言っていたが、文献省略)。しかし、つぎに述べるように、<空想>・<妄想>ならば、何とでも書ける。
 第三。このような将来展望をかかげていること自体が、異様であって、恐ろしい。
 もともと抽象的概念が多くて厳密な意味は理解しにくいが、何となくのイメージで理解するとしても、「いっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」なるものの実現・達成は、そもそも不可能だと私には思われる。
 そもそもが「いっさいの強制のない」、「真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」なるものの正確な意味は不明で、「真に平等で自由な人間関係」なるものも分かりにくいが、何となく分かったとして、このような社会は本当に実現されるのだろうか。日本共産党がそう考えている、あるいは(科学的に?)予測しているとすれば、それは<狂>の世界にいる人たちの<妄想・幻想>の類だと思われる。
 「平等」と「自由」が、あるいは「いっさいの強制のない」ということも、すべてが充足されるような社会はおそらくは到底実現されない、と思われる。
 なぜなら、人間自体が決して画一的には、全く「平等」には生まれてこないからだ。個体としての人間自体に生来の「制約」があるのであって、完全に「自由」な状態など生じるはずがないからだ。
 日本共産党が夢想しているような社会がくるとすれば、それは生殖も生育環境等々も統一的に<管理>された、ロボットのような人間ばかりの社会だろうと思われる。あるいは、すべてがメガ・コンピューターによって(いわゆる個人情報のすべても認識され)操作され、<管理>されるのだろうか。<管理>主体はいったい誰あるいはどこにあるのだろう。
 簡単に「真に平等で自由な」などと言ってしまわない方がよい。人間、社会について日本共産党は異常に傲慢すぎる。人間は、社会は、日本共産党の幹部・党員たちが想定しているよりははるかに複雑で、多様だ。かつ、人間は、死を免れない「生物」という自然(環境)の一つ・一要素でもあるのだ。
 日本の公的な政党の中に、上のような将来展望をもち将来予測している政党があること自体が気味が悪く、恐ろしい。さらにまた、「原則として」などという曖昧な限定を付けているのだから、まともに論評できるものではない。
 三 将来予測と実践と、と考えていくと、日本共産党は<日本共産教>または<(日本)科学的社会主義教>とでもいうべき「宗教」を奉じる「宗教団体」だと--本当の宗教団体には申し訳ないが--感じざるをえない。
 始祖があり中間教祖があり、教義があり、「信者」獲得運動があり、現在の最高指導者・最高指導部に対する「帰依」も要求される。そのように感じてしまう文章を、日本共産党の文献の中に、いくらでも見つけることができる。
 それで「科学的」とか語り、不破哲三は「科学で見た…」とかの書物を多数刊行しているのだから、「恐ろしい」。わざわざ詳細に立ち入らなくとも、その「正体」はじつははっきりしているのだ。

1328/日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ04。

 そこそこ大きい書斎につながっている、近所からは図書館と呼ばれている広大な書庫から(冗談だ)、ソ連解体後の初の党大会資料である日本共産党第20回大会決定集(1994)等々々をとり出してきた。
 日本共産党や幹部自体の諸文献を読んでチェックする速さと、この欄に関係部分を引用しつつコメント等をしていく作業の面倒くささが全く一致しない。
 最近の保守派の諸雑誌の日本共産党特集も含めて、これまでの保守派の日本共産党に関する知識や諸媒体の情報発信力は相当に不十分だ、とあらためて感じる。
 宮本顕治体制を確立した1961年綱領の採択が今日までの日本共産党の実質的出発点あるいは基盤だとは思うが(従って、それ以前の日本共産党の歴史を取り上げることは現在の同党に対する有効な批判になるとは必ずしも思えないが)、1985年綱領(17回大会)、1994年綱領(20回大会)、そして現在まで続く2004年綱領(23回大会)によってかなりの<修正・変更・変質?>が加えられていることも分かる。前二者の間にはソ連解体があるのである意味では当然だが、現在の綱領も、ある程度は(第二次大戦での役割など)ソ連を評価していた1994年綱領の一部を大幅に削除したりしている。
 こうしたことを調べて?いくと、いくつかコメント、論評したくなることも出てくるが、当初のイメージにほぼ従って、とりあえず書き進めよう。
 さて、ソ連共産党解体直前の1991年、ソ連自体の解体後の1994年(上記の20回大会の前)の日本共産党文献がソ連についてまだ「社会主義国の一部」とか書いているのだから、1989-91年以前のそれがソ連について「社会主義社会でないことはもちろん、それへの過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白」だ(1994、不破哲三・20回党大会「綱領一部改定についての報告」)、などと書いているはずはない。
 1961年綱領や宮本顕治の文章、そして1980年代後半に至るまでの諸文献からソ連を依然として「社会主義」国と見なしていた例証をいくつかここで挙げようと考えていたが、ほとんど自明だろうと思われるので、省略する。
 つぎに、不破哲三が<ソ連はもはや社会主義国ではなくなった、などと言ってはいけない>、という旨を明確に語っていた(「ソ連完全変質論批判」)、1980年頃の文章をそのまま転記するつもりだった。
 これは、予定どおり紹介はするが、すでに日本共産党の党員(個人名不明)によって、2004年1月13-17日の第23回党大会での不破哲三報告の「ソ連社会論をめぐる歴史の偽造」と題する部分が批判されていることを、ネット上で知った。
 おそらくよく知られているように、<さざ波通信>とは日本共産党の党員グループがネット上で発信しているもので、党中央は関与を禁止しているはずだ。だが、今日まで閉鎖はされていないようで、2004年のものもネット上にある。同上36号だ。 
 以下、「」を省略して転載する。**と**の間が不破哲三の報告からの引用。最後の一文はほとんど無意味なので省略した。
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 不破報告は、多数者革命に関するいつもの話を繰り返した後に、最後に第5章に話を移している。その中で不破はまずソ連社会論について議論を展開している。その中で、またしても不破は歴史の事実を大きく歪め、平然と嘘をついている
 **「……スターリン以後のソ連社会の評価という問題は、わが党が、64年に、ソ連から覇権主義的な干渉を受け、それを打ち破る闘争に立って以来、取り組んできた問題でした。
 この闘争のなかで、私たちはつぎの点の認識を早くから確立してきました。
 (1)日本共産党への干渉・攻撃にとどまらず、68年のチェコスロバキア侵略、79年のアフガニスタン侵略と、覇権主義の干渉・侵略を平然とおこなう体制は、社会主義の体制ではありえない。
 (2)社会の主人公であるべき国民への大量弾圧が日常化している恐怖政治は、社会主義とは両立しえない。
 私たちは、早くからこの認識をもっていましたが、ソ連の体制崩壊のあと、その考察をさらに深め、94年の第20回党大会において、ソ連社会は何であったかの全面的な再検討をおこないました。その結論は、ソ連社会は経済体制においても、社会主義とは無縁の体制であったというものでした。」**
 これは、表現をきわめて大雑把にすることで、あるいは、問題や表現をずらしたりスリかえたりすることによって、読者を意図的にミスリーディングし、歴史を歪め偽造するいつもの手法である。
 実際には、90年代以前のわが党は、覇権主義や対外侵略は社会主義とは無縁であるとは言ってきたが、「覇権主義の干渉・侵略を平然とおこなう体制は、社会主義の体制ではありえない」というような言い方は一度もしたことがない。これは、ソ連の体制そのものが社会主義ではないという認識につながりかねないものであり、わが党は慎重にこのような言い方を避けてきたのである。
 それどころか逆に、1980年代にはソ連社会主義の完全変質論を厳しく批判し、「社会主義の復元力」論を『赤旗』を通じて大キャンペーンを展開したのである。
 ※注/あくまでも、1994年の第20回党大会ではじめてソ連の体制そのものが社会主義の体制ではない、と明言されたのである。
 ※注 +ちなみに、ここでの不破の発言には、ソ連社会の現実についても著しい誇張がある。不破は、「社会の主人公であるべき国民への大量弾圧が日常化している恐怖政治」とか、あるいは、その少し先で「ソ連には、長期にわたって、最初は農村から追放された数百万の農民、つづいて大量弾圧の犠牲者が絶え間ない人的供給源となって、大規模な囚人労働が存在していました。実際、毎年数百万の規模をもつ強制収容所の囚人労働が、ソ連経済、とくに巨大建設の基盤となり、また、社会全体を恐怖でしめつけて、専制支配を支えるという役割を果たしてきました」などと述べているが、これはスターリン時代の、とりわけ大粛清期の現象をそれ以降の全時代に不当に拡張したものである。
 フルシチョフ時代にはいわゆる「恐怖政治」的なものはなかったし(もちろん、反対派は厳しく抑圧されていたが)、逆に強制収容所は基本的にすべて解放されて、そこにいた数十万の政治犯はほぼ全員が家族のもとに帰った。スターリン時代に粛清されたほとんどの共産党員は名誉回復された。数百万の囚人労働が「社会主義」建設を支えるという事態は基本的にこのときに終わったのである。ブレジネフ時代には締めつけが強まったが、スターリン時代のような恐怖政治は再現されなかったし、数百万の囚人労働が工業化を支えることもなかった。その後のチェルネンコ、アンドロポフ、ゴルバチョフ時代のいずれも、ブレジネフ時代よりも締めつけは緩和したし、とくにゴルバチョフ時代にはフルシチョフ時代以上に自由化が進んだ。これはソ連史の常識であるが、不破はどうやらスターリン時代の恐怖政治と囚人労働がそのままソ連崩壊までずっと続いたと思っているらしい。+
 すでに過去の『さざ波通信』などで、第16回大会における不破の報告を何度か取り上げたが、ここでは、もう一つの材料として1984年に出版された不破の『講座 日本共産党の綱領路線』(新日本出版社)を取り上げよう。1994年の第ソ連完全変質論のわずか10年前に出版された本書で不破は、1960年代における中国のソ連社会主義完全変質論に対して当時のわが党が反対して闘った事実を誇らしげに紹介しつつ、次のように述べている。
 **「そのときの論争は、『日中両党会談始末記』(1980年、新日本出版社刊)に詳しく紹介されていますが、この論争の決着はすでに明確だといってよいでしょう。中国自身、完全変質論を事実上捨ててしまい、現在では、ソ連の大国主義を批判するが、社会主義国でないとはいわなくなっていますから」(115頁)。**
 1984年の時点ですでに決着がついていたはずなのに、その10年後には日本共産党は、かつての中国とまったく同じソ連社会主義完全変質論に転向したのである。とすれば、当然、当時の論争において正しかったのは中国で、当時の日本共産党指導部は不破を筆頭に先見の明のない愚か者であったことを自己批判しなければならないはずだが、もちろん、ただの一度も不破指導部はそのような自己批判を行なっていない。
 いずれにせよ、こうした歴史的経過は、少なくとも1990年代以前に入党した共産党員にとって常識である。つまり、不破がここで言っていることは、まったく見え透いた嘘なのである。不破哲三ほど、平然とさまざまな嘘をついてきた共産党指導者はおそらくいないだろう。<一文、略>
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 以上で、紹介終わり
「1990年代以前に入党した共産党員」にとっては、日本共産党最高幹部たち(とくに不破哲三)の言うことの「ウソつき」ぶり、一貫性のなさ、無反省ぶりが明らかだ、というわけだ。
 上では全文が正確には紹介されていないので、不破哲三等が1989年以前に何と書いていたかを、<社会主義の復元力>部分も含めて、別にこの欄でそのまま引用・紹介する。
 なお、上の文章の書き手または当該サイトの設置者は、日本共産党中央に対しては批判的なようだが、少なくとも形式的にはまだ党員なのだろうし、上以外の書きぶりを見ると、なおも「左翼」の立場にはいるようだ。
 <つづく>

1325/日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ02。

 現在の日本共産党は、かつてのソ連をどう見ているか。
 2004年改定の日本共産党綱領は、次のように述べる。
 「三〔章〕、世界情勢―二〇世紀から二一世紀へ」の中の「(八)」〔節〕(但し、この節番号は最初の一章からの通し)の一部を引用する。
 ・「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、一九一七年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。第二次世界大戦後には、アジア、東ヨーロッパ、ラテンアメリカの一連の国ぐにが、資本主義からの離脱の道に踏み出した。
 最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。『社会主義』の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。」
  ・「ソ連とそれに従属してきた東ヨーロッパ諸国で一九八九~九一年に起こった支配体制の崩壊は、社会主義の失敗ではなく、社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義・専制主義の破産であった。これらの国ぐにでは、革命の出発点においては、社会主義をめざすという目標が掲げられたが、指導部が誤った道を進んだ結果、社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会として、その解体を迎えた。」
 ・「ソ連覇権主義という歴史的な巨悪の崩壊は、大局的な視野で見れば、世界の革命運動の健全な発展への新しい可能性を開く意義をもった。」
 以上
 以下は同「(九)」の冒頭の一文。
 ・「ソ連などの解体は、資本主義の優位性を示すものとはならなかった。」
 上の最初の方からだけでは、ソ連は「社会主義」国だったのか否かについての回答は示されていないようにも読める。「社会主義の原則を投げ捨てて」とは厳密には何を意味するか、はっきりしないからだ。
 しかし、そのあとに、「社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会として、その解体を迎えた」とあることから、遅くとも「解体」の時点では、「社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会」だったと理解・認識しているようだ。
 このような理解に、党としては1994年の(綱領一部改定をした)第二十回大会で(1991年からは3年後になる)、達したとされる。 
 この大会の決定・報告集を所持していないが、綱領一部改定はソ連の認識を<修正または変更する>もので(このあたりが興味深いのだが)、当時日本共産党(幹部会)委員長だった不破哲三は、自らこう報告したと不破の2007年の著(スターリンと大国主義・新装版)のまえがきで紹介している(p.15)。
 ・「スターリン以後の転落は、政治的な上部構造における民主主義の否定、民族自決権の侵犯にとどまらず、経済的な土台においても、勤労人民への抑圧と経済管理からの人民のしめだしという、反社会主義的な制度を特質としていました。」
 以上。
 また、不破哲三の2000年8月刊行の本である、不破・日本共産党の歴史と綱領を語る〔ブックレット版〕(2000、新日本出版社)p.62-63によると、上の党大会で不破は以下のように述べた。
 ・「社会主義とは人間の解放を最大の理念とし、人民が主人公となる社会をめざす事業であります。人民が工業でも農業でも経済の管理からしめだされ、抑圧される存在となった社会、それを数百万という規模の囚人労働がささえている社会が、社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白ではありませんか。」
 以上。
 志位和夫・綱領教室第2巻(2013.04、新日本出版社)でも、上の(直近の)不破発言部分はそのまま引用されているので、現在の日本共産党の公式見解と言ってよいだろう。
 ちなみに、現在の党(幹部会)委員長・志位和夫は、この不破発言部分を聞いて「私自身も大きな感動を覚えたものでした」、らしい(上掲・志位著p.195-6参照)。
 また、不破哲三は、2000年の上記書物・日本共産党の歴史と綱領を語る〔ブックレット版〕によれば、同年7月20日の講演で自らの上記発言部分も引用しつつ改定綱領の重要点の一つとして次の「認識」を、やや異なる表現で、こう述べている(p.63-65)。
 ・「第一は、ソ連型の経済・政治体制、社会体制にたいする徹底した告発、これは、社会主義とは縁のない社会だったという認識であります。」
 ・「『ソ連型社会主義』というのは、社会主義の典型でないことはもちろん、社会主義のロシア的な道でもない、…と告発しました。」
 ・「そういうわれわれの批判的な認識の深まりが、ソ連解体後一挙に明るみに出た社会の内情についての材料の分析と結びついて、第二十大会でのあの結論--ソ連は社会主義でも、それへの過渡期でもなかった、抑圧型、人間抑圧型の体制だった、という結論になったのであります。」
 以上。
 さらに、不破哲三は、同・スターリンと大国主義・新装版(2007.05、新日本出版社)のまえがきで、次のようにも述べている。
 ・「ソ連で崩壊したのは何だったのか。/ソ連で崩壊したのは、社会主義ではありません。そこで崩壊したのは、社会主義に背を向け、ソ連を反社会主義の軌道に引き込んだ覇権主義と専制主義です。」
 ・「その覇権主義は社会主義の産物ではなく、スターリンとその後継者たちが社会主義の事業に背を向け、社会主義を目指す軌道を根本的にふみはずすことによって生み出したものです。」
 以上。
 このとおりで、1994年から現在までの日本共産党のソ連についての理解・認識を知ることはできる。
 だがしかし、秋月瑛二が不思議にまたは奇妙に感じるのは、不破哲三のつぎのような文章を目にしたときだ。
 上記の不破(2000)・日本共産党の歴史と綱領を語る〔ブックレット版〕p.63は言う。
 ・「スターリン以後のソ連にたいするわれわれのこうした認識は、ソ連が解体してからにわかに生まれたものではありません。これは、三十年にわたるソ連の大国主義、覇権主義との闘争を通じて、私たちが到達した結論であります。」
 以上。
 はたして、日本共産党の「ソ連の大国主義、覇権主義との闘争」というのは、ソ連の<反社会主義>・<人間抑圧社会>との闘いだったのだろうか
 「ソ連が解体してから」ではなく、それ以前から現在のような認識に立っていた(少なくともその一端は明確に示していた)、というがごとき書き方だが、これは、大ペテン・大ウソだ。また、そもそも、「ソ連が解体してからにわか」の時点では、現在のような認識ではなかったようだ。文献上の(実証的な)根拠はある。
 <つづく> 

 

1307/日本共産党は「将来、情勢が熟したとき」<天皇制>を廃止する。

 産経新聞5/18で日本共産党・小池晃(政策委員長)は、現行憲法の「全条項を守る」と明言している。
 しかし、これは日本共産党独特の言い方、あるいは<ペテン>であって、<今のところは>または<当面は>という副詞が隠されている、と理解しなければならない。
 軍・戦力の保持を一般に禁止している九条2項についてもそうなのだが、とりわけ一条以下の「天皇」の存在を前提とする諸規定も含めた「全条項を守る」つもりであるとは思えない。
 小池によれば、1946年6月に同党が発表した日本人民共和国憲法草案は「歴史的文書」で、現在における憲法改正案として掲げているのではないらしい。
 だが、そうであるとしても、戦前に<天皇制打倒>を掲げた政党が戦後にその目標を降ろしたとは考え難い。また、日本共産党系の、鈴木安蔵を初代の代表理事とした「憲法改悪阻止各界連絡会議」(「憲法会議」)が、<護憲>ではなく<憲法改悪阻止>と謳っているのも、日本共産党にとっての(改悪ではない)<改正>は追求する趣旨を込めていると解することができるし、実際、そうであるはずだ。
 日本共産党は1961年綱領を2004年に改定した。同綱領は、日本の戦後の変化を、①「アメリカの事実上の従属国」になったこと、②政治制度が「天皇絶対の専制政治から、主権在民を原則とする民主政治」になったこと、③「戦前、天皇制の専制政治とともに、日本社会の半封建的な性格の根深い根源となっていた半封建的な地主制度が、農地改革によって、基本的に解体されたこと」の三点にまとめ、②についてはさらにこう書いている。
 ②の変化の代表は日本国憲法で、「民主政治の柱となる一連の民主的平和的な条項を定めた。形を変えて天皇制の存続を認めた天皇条項は、民主主義の徹底に逆行する弱点を残したものだったが、そこでも、天皇は『国政に関する権能を有しない』ことなどの制限条項が明記された」。
 また、今後について、次のように書いている。これ以外に綱領上の言及はないようだ。
 「天皇条項については、『国政に関する権能を有しない』などの制限規定の厳格な実施を重視し、天皇の政治利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する。/党は、一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のため民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」。
 ここでは、<将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって><天皇制度の存廃>が解決される、と言っている。
 これについて、2004年党大会では「国民の総意に転嫁するのは無責任」等の意見があったようで、不破哲三(中央委議長)は次のように「報告」している。以下、不破哲三・報告集/日本共産党綱領p.33-(同党中央委出版局、2004)による。
 党の立場は「明確」だ。「党は、一人の個人あるいは一つの家族が『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく」と、その「評価を明確にして」おり、今後についても、「国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだ」という方針を明示している。だが、天皇制について「国民の現在の多数意見はその存在を肯定する方向にあ」り、「その状態が変わって、国民多数が廃止あるいは解消の立場で合意しない限り、この問題での改革は実現でき」ない。「天皇制の問題」については「なんらかの改変」自体が、「憲法の改定を必要とする」。「一方、戦前のような、天皇制問題の解決を抜きにしては、平和の問題も、民主主義の問題もないという、絶対主義的天皇制の時代とは、問題の位置づけが根本から違っていることも、重視すべき」だ。
 「いま、憲法をめぐる中心課題は、第九条の改悪を主目標に憲法を変えようとする改憲のくわだてに反対し、現憲法を擁護することにあ」る。「わが党は、当面、部分的にもせよ、憲法の改定を提起する方針をもちません」。だから、「天皇制の廃止の問題が将来、どのような時期に提起されるかということもふくめて、その解決について」は、「将来、情勢が熟したとき」の問題だ、と「規定するにとどめている」のだ。
 このように、綱領上の文章ではやや曖昧ではあるが、天皇制度廃止を明記しないのは天皇制度を現在の国民の多数は肯定している、したがって廃止論が多数にならないかぎり改憲による天皇制度の廃止はできないからだ、現在の「憲法をめぐる中心課題」は「現憲法を擁護」することだが、平和・民主主義にとって「天皇制問題の解決」は不可欠なので、その解決は「将来、情勢が熟したとき」の問題だ、という趣旨を述べている。
 要するに、当面は「現憲法を擁護」するが、国民多数の意見の動向によって「将来、情勢が熟したとき」に、憲法改正によって「天皇制の廃止」を図る、と主張していると理解して差し支えない。
 このような理解に、小池晃も反対はできないだろう。不破哲三が述べた内容の合理的な理解のはずだからだ。
 したがって、当面は「守る」が、将来は「廃止」する、というのは、やや複雑な言い方をしているが、日本共産党の既定の方針だ、ということになる。日本共産党は、このような、<戦術的>な政策表明をするので、注意しなければならない。
 <未来社会-社会主義・共産主義社会>を目指す手段・過程としての(「自由」と「民主主義」の擁護・徹底を通じての)<民主主義革命>なのであって、この政党にとっては「自由」と「民主主義」も、第二段階の「革命」のための手段あるいは<便法>であることは言うまでもない。

0804/資料・史料-日本共産党綱領2004.01.17改定の一部(五)。

 資料・史料-日本共産党綱領2004.01.17の一部(五)
 平成16年1月17日

 日本共産党綱領<一部>  2004年1月17日第23回党大会改定
 //五、(一五) 日本の社会発展の次の段階では、資本主義を乗り越え、社会主義・共産主義の社会への前進をはかる社会主義的変革が、課題となる。これまでの世界では、資本主義時代の高度な経済的・社会的な達成を踏まえて、社会主義的変革に本格的に取り組んだ経験はなかった。発達した資本主義の国での社会主義・共産主義への前進をめざす取り組みは、二一世紀の新しい世界史的な課題である。
 社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である。社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される。
 生産手段の社会化は、人間による人間の搾取を廃止し、すべての人間の生活を向上させ、社会から貧困をなくすとともに、労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての構成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす。
 生産手段の社会化は、生産と経済の推進力を資本の利潤追求から社会および社会の構成員の物質的精神的な生活の発展に移し、経済の計画的な運営によって、くりかえしの不況を取り除き、環境破壊や社会的格差の拡大などへの有効な規制を可能にする。
 生産手段の社会化は、経済を利潤第一主義の狭い枠組みから解放することによって、人間社会を支える物質的生産力の新たな飛躍的な発展の条件をつくりだす。
 社会主義・共産主義の日本では、民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる。「搾取の自由」は制限され、改革の前進のなかで廃止をめざす。搾取の廃止によって、人間が、ほんとうの意味で、社会の主人公となる道が開かれ、「国民が主人公」という民主主義の理念は、政治・経済・文化・社会の全体にわたって、社会的な現実となる。
 さまざまな思想・信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由は厳格に保障される。「社会主義」の名のもとに、特定の政党に「指導」政党としての特権を与えたり、特定の世界観を「国定の哲学」と意義づけたりすることは、日本における社会主義の道とは無縁であり、きびしくしりぞけられる。
 社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる。
 人類は、こうして、本当の意味で人間的な生存と生活の諸条件をかちとり、人類史の新しい発展段階に足を踏み出すことになる。
 (一六) 社会主義的変革は、短期間に一挙におこなわれるものではなく、国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進を必要とする長期の過程である。
 その出発点となるのは、社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成であり、国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力がつくられることである。そのすべての段階で、国民の合意が前提となる。
 日本共産党は、社会主義への前進の方向を支持するすべての党派や人びとと協力する統一戦線政策を堅持し、勤労市民、農漁民、中小企業家にたいしては、その利益を尊重しつつ、社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進むよう努力する。
 日本における社会主義への道は、多くの新しい諸問題を、日本国民の英知と創意によって解決しながら進む新たな挑戦と開拓の過程となる。日本共産党は、そのなかで、次の諸点にとくに注意を向け、その立場をまもりぬく。
 (1) 生産手段の社会化は、その所有・管理・運営が、情勢と条件に応じて多様な形態をとりうるものであり、日本社会にふさわしい独自の形態の探究が重要であるが、生産者が主役という社会主義の原則を踏みはずしてはならない。「国有化」や「集団化」の看板で、生産者を抑圧する官僚専制の体制をつくりあげた旧ソ連の誤りは、絶対に再現させてはならない。
 (2) 市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。社会主義的改革の推進にあたっては、計画性と市場経済とを結合させた弾力的で効率的な経済運営、農漁業・中小商工業など私的な発意の尊重などの努力と探究が重要である。国民の消費生活を統制したり画一化したりするいわゆる「統制経済」は、社会主義・共産主義の日本の経済生活では全面的に否定される。
 (一七) 社会主義・共産主義への前進の方向を探究することは、日本だけの問題ではない。
 二一世紀の世界は、発達した資本主義諸国での経済的・政治的矛盾と人民の運動のなかからも、資本主義から離脱した国ぐにでの社会主義への独自の道を探究する努力のなかからも、政治的独立をかちとりながら資本主義の枠内では経済的発展の前途を開きえないでいるアジア・中東・アフリカ・ラテンアメリカの広範な国ぐにの人民の運動のなかからも、資本主義を乗り越えて新しい社会をめざす流れが成長し発展することを、大きな時代的特徴としている。
 日本共産党は、それぞれの段階で日本社会が必要とする変革の諸課題の遂行に努力をそそぎながら、二一世紀を、搾取も抑圧もない共同社会の建設に向かう人類史的な前進の世紀とすることをめざして、力をつくすものである。//

 *ひとことコメント-上は<客観的予測>なのかそれをもふまえた<実践的目標>なのかよく分からないが、いずれにせよ(後者であっても)それ=「社会主義・共産主義」化が不可避だと信じるというのは、一種の<宗教>・<信仰>だろう〔下線は掲載者による〕。

0009/日本共産党2004年綱領と不破哲三の本を瞥見する。

 1991年のソ連解体と東欧諸国の「自由」化によって<冷戦>は終わったとも感じたが、またそのように理解している人が多いかもしれないが、東・東南アジアには中国・北朝鮮・ベトナム・ラオスがあり前二者は日本への現実的脅威なのだから、少なくとも東アジアでは<冷戦>は継続していると見るのが正しい。<冷戦>とは、戦争に至らない、社会主義経済・・共産党独裁政治と資本主義経済・自由主義政治の戦いであり、日本国内でも前者を目指す又は前者に甘い勢力は残存しているので(日本共産党・社会民主党・これら周辺の団体等)、国内での戦いも継続している。
 
日本共産党もHPをもつことを昨年になって知ったが、そこに出ている2004年改正の同党綱領に「日本共産党は、わが国の進歩と変革の伝統を受けつぎ、日本と世界の人民の解放闘争の高まりのなかで、1922年7月15日、科学的社会主義を理論的な基礎とする政党として、創立された。」とある。ここにすでに虚偽がある。戦後もかなり後からの造語「科学的社会主義」をさも当時の概念かのごとく使っているのは別としても、<共産主義インターナショナルの日本支部として、天皇制と日本帝国主義の打倒をめざして(=大日本帝国の敗戦・崩壊をめざして)、ソ連共産党の理論的・財政的援助を受けて設立されました。>と正確に記述すべきだ。そのあとで「たたかった」を6つ並べていて戦前に一貫して継続的に「たたかった」かのごとく書くが、これも虚偽=ウソだ。長く見たとしても党としての活動は1934年くらいまでで、10年間以上は見るべきものはない。獄中で「帝国主義戦争反対」と念仏の如く呟くことも「闘い」だったというなら話は別だが。それに、1934年頃の中央委は半分以上がスパイで実質は特高にコントロールされていたのだ(笑っちゃうね)。22年以降一貫してでなく、1961年の新綱領制定・宮本体制の確立が実質的には現在の党の開始で、これは自民党、日本社会党よりも遅い。そのあと、「平和と民主主義の旗を掲げて不屈にたたかい続けた」、ポツダム宣言受諾は「日本の国民が進むべき道は、平和で民主的な日本の実現にこそあることを示し」、「党が不屈に掲げてきた方針が基本的に正しかったことを、証明した」と書く。よくもまぁヌケヌケととは、こういう文章にこそあてはまる。まずは自党の党員を騙す=洗脳しておく必要があるのはわかるが。
 同綱領は1989-91年のソ連・東欧の共産党支配の崩壊は「社会主義の失敗」ではなく、これらは「社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会」だったので「資本主義の優位性を示すものとはならな」い、と明記する。だが、これはどう見ても<後出しジャンケン>だ。つまり、ソ連等の崩壊のあとでソ連は「覇権主義」の「歴史的巨悪」で「社会主義国」でなかった、と言い立てる。では、日本共産党は、ソ連は「社会主義国」でないといつから言い始めたのか。ソ連の崩壊以降ではないか。不破氏も、例えば1977年日本共産党党大会でソ連は「社会主義の生成期」と見ていて社会主義をめざす国であることを否定していなかったと明記している。不破・新日本共産党綱領を読むp.184(新日本出版社、2004)参照。ソ連共産党に対する自主性があるかに見えたルーマニアを社会主義志向国と見つつ同共産党の大会に出席したのはチャウシェスクが殺された2年半前ほどではなかったのか。1950年代からスターリンのソ連は社会主義とは異質な国と主張していたならともかく、1992年以降になってよくもヌケヌケと自分たちを合理化する言辞を考え出せるものだ。恥ずかしいとは思わないのか。党の言うことを信頼していた党員・シンパに謝罪するつもりはないのか。
 日本共産党にとって今の希望の星は中国、ベトナム、キューバのようだ(北朝鮮は挙げていない)。不破・党綱領の理論上の突破点について(日本共産党、2005.03)p.77以下は、中国の「社会主義的市場経済」を「理論」的に?擁護している。すなわち、レーニンはロシアでは実践しなかったが「市場経済を通じて社会主義」へという路線の可能性を肯定しており、「中国やベトナム」はレーニンが構想した「道」に新たに挑戦している、のだとさ。
 不破氏が2005年に中国、ベトナム、キューバは「社会主義」に向かっている国である旨明記していることを我々はきちんと記憶しておこう。中国共産党の支配が崩壊したあとで、中国は「真の社会主義国」でなかった、となど言われるとシラケルからね(もういい加減白けているけど)。上の本では「専門家筋の観測では、中国の経済規模がやがて日本を抜き、ついでアメリカに追いつき、さらに上回ってゆくことも時間の問題だという見通し論が、いよいよ強くなっているようです」(p.71)とも書いている。このハシャギようは、予測が外れるとどうなるのだろう。楽しみでもあり、空怖ろしくもある。

-0046/日本共産党綱領の変遷・少年少女文学全集を思い出す。

 北朝鮮が3日に核実験実施声明を出した。その核弾頭が日本に向けられる日がくる可能性があるが、「九条の会」の人々はきっと切迫感・現実感が薄いに違いない。
 日本共産党は北朝鮮批判の声明を出した。だが、1962年のソ連の核実験のあと「ソ連の核はきれいな核」と主張して日本の原水禁運動を分裂させた(共産党系は日本原水協と略される)のは同党だった。同党は北朝鮮だけは中国・ベトナム・キューバという「社会主義」国と区別しているようだ。当然といえば当然だが。
 その日本共産党の綱領は1961年綱領以降にも何度か改正され、2004年1月のものが最新のようだ。だが、内容に本質的変化があったわけではない。
 以下、4号まで揃った雑誌・幻想と批評2号の金子甫「日本共産党の新綱領」(2004.06)に主として依拠する。
 1961年には「科学的社会主義であるマルクス・レーニン主義」だったのが76年にたんに「科学的社会主義」に改められた。
 三二年テーゼの「プロレタリアートと農民の独裁」は1961年「労働者、農民を中心とする人民の民主連合独裁」、94年「労働者、農民、勤労市民を中心とする人民の民主連合」の「権力」に変わった。
 また1961年・94年の「民族民主統一戦線政府」は2004年に「統一戦線の政府・民主連合政府」と改められたが、同党は戦前に「不屈に掲げてきた方針が基本的に正しかった」としているので、これも三二年テーゼの「プロレタリアートと農民の独裁」の趣旨だろう。
 従って、1961年の「労働者階級の権力、すなわちプロレタリアート独裁の確立」が「…執権」に変えられ、この語も用いなくなった後、1994年の「労働者階級の権力」としてのみ残り、さらに2004年にこの語も削除された。しかし、三二年テーゼの「プロレタリアートと農民の独裁」という考え方が否定されたことには全くならない。
 さらに「二つの敵」に関して、2004年に「アメリカ帝国主義の対日支配」は「アメリカに対する異常なまでの従属状態」に、日本「独占資本の人民支配」は「大企業による政府に対する強い影響力」に改められた。
 こうした変更を見ていると、大人用の文学作品を子ども用に易しく書き直した少年少女世界文学全集の類を思い出してしまう(「レ・ミゼラブル」は「あゝ無情」だった)。
 マルクス・レーニン主義→科学的社会主義独占資本→「大企業」などが典型的で、かつ(少年少女世界文学全集類と同様に)本質的には何も変わっていない(はずな)のだ。

-0016/日本共産党綱領を瞥見してみると面白く、楽しい。

 1991年のソ連解体と東欧諸国の「自由」化によって<冷戦>は終わったとも感じたが、東アジアには中国・北朝鮮・ベトナムがあり前二者は日本への現実的脅威なのだから、少なくとも東アジアでは<冷戦>は継続していると見るのが正しい。<冷戦>とは社会主義経済・共産党独裁政治と資本主義経済・自由主義政治の戦いであり、日本国内でも前者を目指す又は前者に甘い勢力は残存しているので(日本共産党・社会民主党・これら周辺の団体等)、国内での戦いも継続している。
 日本共産党もHPをもつことを今年になって知ったが、そこにある2004年改正同党綱領にはまず「日本共産党は、わが国の進歩と変革の伝統を受けつぎ、日本と世界の人民の解放闘争の高まりのなかで、1922年7月15日、科学的社会主義を理論的な基礎とする政党として、創立された。」とあるが、ここですでに虚偽がある。戦後もかなり後からの造語「科学的社会主義」をさも当時の概念かのごとく使っているのは別としても、<共産主義インターナショナルの日本支部として、天皇制と日本帝国主義の打倒をめざして(=大日本帝国の敗戦・崩壊をめざして)、ソ連共産党の理論的・財政的援助を受けて設立されました。>と述べる方がより正確だ。そのあとで「たたかった」を6つ並べていて戦前に一貫して継続的に「たたかった」かのごとく書くが、これも虚偽=ウソ。長く見たとしても党としての活動は1934年くらいまでで、10年間以上は見るべきものはない。獄中で「帝国主義戦争反対」と念仏の如く呟くことも「闘い」だったというなら話は別だが。それに、1934年頃の中央委は半分以上がスパイで実質は特高にコントロールされていたのだ(笑っちゃうね)。22年以降一貫してでなく、1961年綱領・宮本体制の確立が実質的には現在の党の開始で、これは自民党、日本社会党よりも遅い。そのあと、「平和と民主主義の旗を掲げて不屈にたたかい続けた」、ポツダム宣言受諾は「日本の国民が進むべき道は、平和で民主的な日本の実現にこそあることを示し」、「党が不屈に掲げてきた方針が基本的に正しかったことを、証明した」と書く。よくもまぁヌケヌケととは、こういう文章にこそあてはまる。まずは自党の党員を騙す=洗脳しておく必要があるのはわかるが。
 共産主義、コミュニズムへの批判は絶えず意識的に行うべきだ。とくに共産党が現に活動している国では。
ギャラリー
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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