秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

1994年

2618/なか休み—日本共産党の大ウソ33。

  1917年「十月革命」が「革命」だったか「クー・デタ」だったかという問題は、それぞれを、とくに前者をどう定義するかによって解答は異なりうるので、定義・理解を明確にしないままでの論争は無意味だ。たしか、L・コワコフスキはこの問題に拘泥しておらず、むしろ<革命ではあった>旨を述べていた。
 だが、<資本主義から社会主義へ>をよいもの、進歩的なもの、「歴史の発展方向(法則)」に添ったもの、という理解を前提にして「社会主義革命」だったと理解するのは、その後に「社会主義国家」ではなく、「社会主義をめざす」または「社会主義をめざすことを明確にする」国家・社会ができたという意味だとしても、とんでもない大間違いだ、と考えられる。
 日本共産党はかつてから一貫して(つまり創立からずっと)「社会主義革命」説という誤った前提を採用しつづけている。
 現在に有効な(?)第28回党大会による2020年綱領でも、明確にこう書いている。
 「一九一七年にロシアで十月社会主義革命が起こり、第二次世界大戦後には、アジア、東ヨーロッパ、ラテンアメリカの一連の国ぐにが、資本主義からの離脱の道に踏み出した」。 
 「資本主義からの離脱」はよいこと、という見方とともに、「十月社会主義革命」だった、という認識が示されている。
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  この、レーニンを最高指導者とする1917年「十月革命」の見方は一貫したものだ。これ自体を変更しないかぎり、日本共産党はどんなに外部から助言?されても、その名称を変更することはあり得ない、と考えられる。
 レーニンは「資本主義→社会主義(・共産主義)」を当然の発展方向と考え、そう宣言していたはずだ。十月革命は、ソ連時代はずっと「大十月革命」・「大社会主義革命」だった。
 また、そもそも「日本共産党」という名称自体がレーニンが呼びかけて結成された「コミンテルン」の存在を前提にしている。同党は1922年7月が創立とされるが、厳密には同年12月のコミンテルン大会で、その結党=コミンテルン支部となること、が承認された。
 そして、「共産党」(英語ではCommunist Party)という名称自体がコミンテルン側に(もともとはレーニンの21条件の一つとして)要求されていたことで、加盟を望むならば「共産党」と名乗る必要があった。あるいはおそらく一般論としては、遅くとも加盟後には「共産党」と名乗らなければならなかった。
 このことは、社会主義を標榜する諸「社会主義」政党と分離・決別することが要求されていた、ということを意味する。1918年に正式には「共産党」と改称したボルシェヴィキが、かつてロシア社会民主(労働)党内部でメンシェヴィキと分離・決別してレーニンを長として立党されたのと同じように。
 (「ボルシェヴィキ」の方が広く知られていたようで、これと「共産党」は別の党だと思っていたロシアの民衆もいたとされる。また、ボルシェヴィキ自体が、公式文書に必ずといってよいほど「共産党(ボ)」(「…(b)」)とわざわざ括弧書きを挿入して、かつての?ボルシェヴィキだとの意味を明確にしていた。)
 この基本方向=「共産党」への純化は、国・地域によっては、広く「社会主義」諸党派が合同・協力することを妨げた。
 日本でも、この「純化」しての結党は早すぎる等々として「解党主義」が有力になり1924年にいったん解散・「解党」されている(松崎いたる・日本共産党·悪魔の百年史(2022,飛鳥新社)等々。のちに「再建」)。
 なお、この「共産党」純粋主義は、その他の社会主義諸政党(社会民主党派)との対立と社会民主主義諸党の敵視につながる。ドイツでは、ドイツ共産党は同社会民主党と「共闘」する=統一戦線を組むことをせず、そのことは、ナツィス・ヒトラー政権の誕生を決定的に助けた(社・共両党の合計獲得議席数はナツィ党を上回っていた)。コミンテルンが「統一戦線」方針へと転換したのは1935年。
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  レーニンを最高指導者とする1917年「十月革命」、1919年「コミンテルン」結成、1922年末(日本共産党のコミンテルン加入とほとんど同時期の)「ソヴィエト連邦」設立以降、ロシアまたは「ソ連」はどうなったか。
 日本共産党の現在の2020年綱領はこう書く。
 「最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。…。
 しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。『社会主義』の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤り…。」
 ソ連は一定時期以降「社会主義国」(「社会主義をめざす」または「社会主義をめざすことを明確にする」国家という意味であれ)ではなかった、とうことを日本共産党が最初に明言したのは1994年だった。同年の第20回党大会が採択した新綱領はその旨を初めて明記した。
 その頃の不破哲三らの主張には、国際社会主義運動内部でのソ連共産党のその他の(資本主義諸国のものを含む)共産党に対する覇権主義・「大国主義」とソ連という国家自体の覇権主義・「大国主義」を意識的に混同させて、日本共産党は後者と積極的に闘ってきたのだ、という「大ウソ」があった。
 現在でもこの「大ウソ」は維持されている。2020年綱領は、こう明記する。
 「日本共産党は、科学的社会主義を擁護する自主独立の党として、日本の平和と社会進歩の運動にたいするソ連覇権主義の干渉にたいしても、…にたいしても、断固としてたたかいぬいた」。
 大笑いだが、この「大ウソ」批判を繰り返さない。1980年代後半に中国共産党に対して、ソ連は「社会帝国主義」国ではなく「社会主義」国だと説得または助言?していたのは、日本共産党・不破哲三ではなかったのか。
 興味深く思い出すのは、今手元に資料そのものを置いていないが、第一に、かつて1994年党大会のときに、不破哲三による綱領改定中央委員会報告に対して、「では、(一定時期以降)ソ連はいかなる国家だったのか」という質問が代議員から出たことだ。これに対して、不破は、<科学的社会主義でも分からないことはあるのです>と答えた。
 相当に面白い。以下の四で言及する時期から1991年まで長ければ1924年〜1991年までの68年間(これは1917年10月以降の74年余の90%を超える)、短くとも1931年以降の60年余り(同じく80%超)、「ソ連」はどう基本的に性格づけられる国家・社会だったのか。資本主義国?、半封建的絶対主義国?
 第二は、1994年ではなくソ連「解体」後の1992年頃だったが、まだ中央委員会議長として健在だった宮本顕治が、<スターリンがナツィス・ドイツとの戦争に勝利したことは、それはそれとして積極的に評価しなければならない>と述べていたことだ。
 いずれも興味深い。いずれ、資料そのものを引用して紹介するだろう。数年前までに収集して読んだ、当時の日本共産党関係文献は(各中央委員会総会報告討論集のかなりも含めて)、まだ所持している(きわめて安価で出回っていた)。
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  想定した以上に長くなったので、最後に「おぼえ書き」的に記しておく。
 要点は、現在の2020年綱領は「レーニンが指導した最初の段階」と「レーニン死後」を区別しているが、レーニンの死は1924年1月なので、ほぼ1923年と1924年の間に決定的で重大な境界線が引かれると考えられているのか、ということだ。
 また、ほとんど同じことだが、1994年の不破哲三・中央委員会幹部会委員長報告はすでに第19回党大会で「『レーニンが指導した時代』と『その道にそむいたスターリン以後の時代』とを区別することの重要性を強調し」たと豪語?しているが、レーニン「指導」の時代とスターリン「以後の時代」は、大まかにであれ、いったいいつ頃の時点を境に区別されるのか、ということだ。
 1923年、レーニンはまだ生きていた。「1923年」は「死後」ではない。しかし、1923年にレーニンは「指導」していたのか?
 日本共産党創立前の1922年4月に、スターリンは書記長(総書記、第一書記)に就任している。日本共産党結党とコミンテルン加盟は、スターリンが書記長の時代にあったことだ。
 この時期はすでに「スターリンの時代」、あるいは少なくとも「レーニンとスターリンの時代」または「レーニンとスターリンたちの時代」ではなかったのか?
 あるいはひょっとして、スターリンが明確にレーニンが1921年に主導して導入したNEP政策を放棄する、1927-28年あたりを、今の日本共産党は大きな境界の時期として想定しているのだろうか?
 あるいは、「大テロル」が始まる1931-32年あたりなのか?
 「正しい歴史認識」というなら、日本共産党は、あるいは日本共産党の党員学者は、ソ連が「社会主義への途」を進まず「転落」した時期について、上のような疑問に答える義務があるのではないか。
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2565/柳原滋雄・日本共産党の100年(2020)。

 柳原滋雄・ガラパゴス政党.日本共産党の100年(論創社、2020)
  この書物(計250頁ほど)の各章の表題は、つぎのとおり(一部に割愛あり)。プロローグ・エピローグは省略。
 第一部/朝鮮戦争と五〇年問題。
  第1章・日本共産党が「テロ」を行った時代。
  第2章・組織的に二人の警官を殺害。
  第3章・殺害関与を隠蔽し、国民を欺き続ける。
  第4章・日本三大都市で起こした騒擾事件。
  第5章・共産党の鬼門「五〇年問題」とは何か。
  第6章・白鳥事件—最後の当事者に聞く。
 第二部/社会主義への幻想と挫折。
  第7章・「歴史の遺物」コミンテルンから生まれた政党。
  第8章・ウソとごまかしの二つの記念日。
  第9章・クルクルと変化した「猫の目」綱領。
  第10章・原発翼賛から原発ゼロへの転換。
  第11章・核兵器「絶対悪」を否定した過去。
  第12章・北朝鮮帰国事業の責任。
  第13章・沖縄共産党の真実。
 第三部/日本共産党"政権入り”の可能性。
  第14章・「スパイ」を最高指導者に君臨させた政党。
  第15章・日本国憲法「制定」に唯一反対する。
  第16章・テロと内ゲバの「母胎」となった政党。
  第17章・「被災地」での共産党の活動。
  第18章・「日本共産党は"横糸“が欠けていた」。
  第19章・京都の教訓—庇を貸して母屋を取られる。
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  著者(1965-)は元「社会新報」記者。
 少し捲っただけで、まともには読んでいない。奇妙な「マルクス・レーニン主義」理解を披歴したり、「暴力革命」を捨てていないと言いつつ最後に公安調査庁の文書によってそれを正当化するような、程度の低い共産党批判書よりは、「事実」が書かれているようで、マシではないか。
 巻末に「付論」の中に、つぎの四綱領文書が掲載されているのは、役に立つだろう(但し、一部省略あり)。カッコ内はこの著者。
 ①1951年綱領(徳田綱領)。
 ②1961年綱領(宮本綱領)。
 ③2004年綱領(不破綱領)。
 ④2020年改定綱領(志位綱領)。
 ③は中国・ベトナムを「市場経済を通じて」社会主義をめざしている国家と位置づけた綱領だ(第23回党大会。④でまた変わる)。
 しかし、第20回党大会が採択した1994年綱領もまた、きわめて重要だと考えられる。これによって、<ソヴィエトはスターリン時代に社会主義国ではなくなっていた>旨が明記された。1991年12月〜1994年7月まで、少なくとも1992-93年の二年間は、日本共産党は公式にはこの問題には口をつぐんでいた。不破哲三は、「大国主義」・「覇権主義」と闘ってきたと、ソ連共産党という政党とソ連という国家自体の区別を曖昧にしたまま、何やら吠え立てていたけれども。
 なお、この年、この綱領後は、形式的にも宮本顕治の影響力はなくなった。1992-93年は宮本と不破の間の、ソ連認識も含めての「闘争」があったに違いない。
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1402/日本共産党の大ペテン・大ウソ27-不破哲三・マルクス…(平凡社新書)01。

 前回に引用した日本共産党綱領の部分と同じ旨を不破哲三・マルクスは生きている(平凡社新書、2009)が述べている(p.196末尾~)ので、それも紹介しておこうと思った。
 だが、この欄で既述の第一の論点に関係するが、不破哲三の上の本は自分たちの過去についてつぎのように不正確なことを述べていることに気がついたので、批判的にコメントしておく。
 不破・上掲p.197は、こう書く。
 「…、日本共産党としても、私個人としても、ソ連への認識は大きく発展し、そのことが1991年のソ連解体のときには、『覇権主義という歴史的巨悪』の崩壊としてこれを歓迎するという声明となり、さらに3年後の94年の党大会での、ソ連社会は、覇権主義と専制主義を特質とする、社会主義とは無縁な人民抑圧型の社会であった、とする結論的な評価となって表明されたのでした。」
 日本共産党や不破哲三は、このように自分たちの1989/91~94年の言動をまとめておきたいのかもしれない。
 しかし、つぎの点で正確ではない。つまり、完全な誤りを含んでいる。
 第一。ソ連共産党の解体とソ連邦の解体とを、意図的にか混同させている。あるいは、この違いを、意図的にか、ごまかしている。
 不破は1991年に「『覇権主義という歴史的巨悪』の崩壊としてこれを歓迎するという声明」を出したとするが、日本共産党中央委員会常任幹部会が1991年9月1日付で出した声明は正確には「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する-ソ連共産党の解体にさいして」と題するもので、この表題でも明らかなようにソ連共産党の解体(解散)の際のものだ。したがって、上掲のように「1991年のソ連解体のとき」とするのは、大ウソ・大ゴマカシ。
 資料的に再度一部引用すれば、つぎのとおり。-「ソ連共産党の解体」、「長期にわたって…に巨大な害悪を流しつづけてきた大国主義、覇権主義の党が終焉をむかえたこと」は、「これと30年にわたって党の生死をかけてたたかってきた日本共産党として、もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事である」。
 もちろんこの時点では、ソ連は社会主義国ではなかったとは一言も述べていない。
 第二。1991年12月末のソ連邦の解体(崩壊)の際の、同年12月23日付日本共産党中央委員会常任幹部会声明「ソ連邦の解体にあたって」は、「これを歓迎する」(上掲不破)という言葉をまったく用いていない
 不破哲三の上掲書は、上の二つのことを、おそらくは意図的にゴマカすものだ。つまり、こっそりと「大ウソ」をついて(そして「大ペテン」を仕掛けて)いる。
 なお、この時点でもソ連は社会主義国ではなかったとは一言も述べていない。「ソ連邦とともに解体したのは、科学的社会主義からの逸脱を特質としたゆがんだ体制であって、…いかなる意味でも、科学的社会主義の破綻をしめすものではない」と述べるにとどまる。ソ連は社会主義国ではなかったと明言したのは、上に不破も書くように、2年半ほどあとの1994年7月の党大会での綱領改正によってだ。
 第三。つぎの宮本賢治発言の趣旨を不破は無視している。
 すなわち、1991年12月21日のソ連崩壊をほとんど予想できたとみられる、つまり「党の崩壊につづいてソ連邦が崩壊しつつある」、崩壊直前の12月17日にインタビューを受けた同党中央委員会議長・宮本賢治はつぎのように語っていた。
 「レーニンのいった自由な同盟の、自由な結合がソ連邦になかったんだから、たちとしてはもろ手をあげて歓迎とはいいませんが、これはこれとして悲しむべきことでもないし、また喜ぶべきでもない、きたるものがきたという、冷静な受け止めなのです」(日本共産党国際問題重要論文集24(1993)p.182)。
 以上につき、この欄の本年6/11~7/11の「日本共産党の大ムペテン・大ウソ」18-21回を参照。
 当時、日本共産党指導部が<混乱>していたと見られることは、すでに書いた。党員たちは動揺していたに違いない。そして、不破哲三自身も含めて、幹部たちが手分けして、ほとんど同党党員が聴衆だったと推察される全国の<講演会>に出ていたのだ。
 ソ連共産党は解体してもソ連邦が崩壊しても、ソ連(・同共産党)の「覇権主義」等に原因があり、それ(当時は「大国主義」ともよく言っていた)と闘ってきた日本共産党は決して誤っていないと、-ソ連自体の「社会主義国家」性には触れることなく-同党の党員たちが党から離反しないように、必死の ?説得と強弁を続けていたのだ。
 不破哲三・上掲書の叙述は、このような過去をまつたく感じさせない。そして、なぜ1994年7月まで<ソ連のスターリン期の途中以降の「社会主義国」性否定>が遅れたのか、という理由にも触れていない。
 日本共産党・不破哲三は平然とウソをつき、語りたくない事実は平然と無視する。

1334/日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ09。

 旧ソ連は社会主義国だったのか、そうでなかったのか、という問題を直接に話題にしているわけではない。それは「社会主義(国)」概念の理解によって異なりうるだろう。現実の歴史からすると、<国家によるテロル>はその概念要素の一つのようにも見えるが。
 ここで問題にしているのは、上の点についての日本共産党の見方の変化(という「事実」)だ。また、変化させることがありうるとしても、そのためのきちんとした理由づけ・根拠づけが日本共産党によってなされたのかどうかだ(これまた、基本的には「事実」の認識の範疇に入る)。
 一 日本共産党幹部会委員長・不破哲三は、1994年7月の第20回党大会で、旧ソ連の社会が「社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白ではありませんか」(不破「綱領一部改定についての報告」)とまで、言い切った。
 「まったく明白」だったにもかかわらず、その党大会の2カ月前刊行の日本共産党の文献がソ連を「社会主義国」として記述していたことは、すでに紹介した。
 不破哲三自身も、幹部会委員長として、1990年3月の時点で、いわゆる「現存社会主義」という言葉を使っていた。
 すなわち、「…、現存社会主義国が『歴史的制約や否定的傾向を克服』してゆく過程が前進することが避けられない、ということを指摘しました」(第18回党大会・日本共産党中央委員会総会決定集/下(1990.08)p.280 、<不破・第8回中央委員会総会「幹部会報告」>)。
 誤りをもつ「社会主義国」ソ連も<社会主義の復元力>によって正しい道に戻るのは不可避だ、という旨を述べていたわけだ。
 二 こうまで見通しが狂い、「社会主義国の一種」視から社会主義への「移行の過程にある過渡期の社会などでもありえない」へと理解・認識を変えてしまうのなら、何らかの反省が、より明確にいえば、かつては(1994年7月党大会以前は)<誤った>理解と見通しを持っていたことを認め、それについて<自己批判> しなければならないのではないか。
 党員たちの一部は、さざ波通信36号(2004年)で、「当時の日本共産党指導部は不破を筆頭に先見の明のない愚か者であったことを自己批判しなければならないはずだが、もちろん、ただの一度も不破指導部はそのような自己批判を行なっていない」、と批判していた。
 もっとも、不破哲三が<反省>とも見える言葉をいっさい述べていないわけではないようだ。上でも言及した1994年7月第20回党大会での不破哲三の報告の中の一部に、つぎの文章がある。
 ・「しかし、当時はまだ、旧ソ連社会にたいする私たちの認識は、多くの逸脱と否定的現象をともないつつも大局的にはなお歴史的な過渡期に属するという見方の上にたったもので、今日から見れば明確さを欠いていたことを、ここではっきり指摘しなければなりません」。
 この一文は、日本共産党中央委員会・日本共産党の八十年(2003)で、そのまま引用・紹介されている(p.287)。
 さて、「私たちの認識は、多くの逸脱と否定的現象をともないつつも大局的にはなお歴史的な過渡期に属するという見方の上にたったもの」だったという自己認識は誤っていない、と考えられる。
 しかし、そのあとの、「今日から見れば明確さを欠いていた」という表現しか使っていないことは、いかにも、不破哲三、そして日本共産党らしい。
 何度もここで記したソ連についての見方の変化・変質は、「明確さを欠いていた」で済ますことができるものなのか。20回党大会、そしてこの報告のソ連観が<正しい>のだとすれば、かつてのそれは明確に<誤っていた>と言わなければならないだろう。「明確さを欠いていた」などと形容できるものではないはずだ。
 すでに記したような日本共産党の<大ペテン>の前提には、このような自己欺瞞、知的不誠実さ、がある。
<こっそりと自己批判のないまま>重要な路線変更を行った可能性が高い。
 三 上記の不破報告の部分は、その後現在まで<生きて>いるのかどうかは疑わしくもある。少なくとも強調されてはおらず、また積極的に(不破哲三によっても)言及されてはいない。
 したがって、この部分は1994年7月段階での<歴史的な>文書の一部であり、今日時点で、「今日から見れば明確さを欠いていた」ということすら、認めてはいない、と日本共産党・同指導部は主張する可能性がないではない。
 そうだとすれば、日本共産党はまことに度し難い、最低の知性すら持ち合わせていない政党だということになるだろう。
 あるいは、現在の日本共産党にとっては、可能なかぎり触れてもらいたくない、そして思い出したくない、不破哲三報告の一部だったのだろうか。
そのように自己欺瞞・自己隠蔽することによってはじめて、<大ペテン>(=日本共産党は誤ったソ連と30年も闘ってきた)が、ある程度は成功したのかもしれない。
 <つづく>
 

1041/「政権交代可能な政治体制」(二大政党制)は良いものか?

 〇産経新聞8/22付で高橋昌之が8/16付朝日新聞社説を批判している。
 高橋から引用すれば、この朝日社説は今回の民主党代表選に関して、次の疑問を書いているらしい。①「新代表が首相になる。毎年のように首相が代わったあげく、今度は3カ月でお払い箱か。こんなに短命政権続きで日本は大丈夫か」、②「菅氏は先の参院選で敗北しても首相を辞めなかったのに、なぜ一政党内の手続きにすぎない投票の結果次第で首相を辞めなければならないのか」。
 朝日は8/22社説でも「なぜ続く短命政権―……また首相が退陣する」と題打ち、「参院による倒閣」可能な制度・現状を問題視している。
 そもそも、「短命政権」ではなくするためにはどうすればよいか、が目下の最大の検討・考察テーマでは全くない。朝日新聞は、皮相的な、非本質的問題になぜか拘泥している。
 民主党政権を支持・擁護したのは朝日新聞で、だからこそ「短命」で終わらざるをえなかったのが残念なのかもしれないが、「短命」で終わるだけの政策的・人間的等の理由があったはずだ。そちらを朝日は解明してみたらどうか。
 また、かつての自民党政権を「短命」で終わらせようとしてきたのは朝日新聞そのものではないか。短命政権の連続の原因が問責決議等をする参議院の存在にあるなどというのはとんだお笑い草的な分析でアホらしいが、2007年参議院選挙後に安倍晋三首相を辞任させようと「運動」する紙面つくりをしたのは、朝日新聞そのものではないか。犯罪的な健忘症集団だ。
 先の②も誤っているが、わざわざ批判する気にもなれない。
 〇上の論調は、<政権交代可能な>政治が是であることを前提として、その長短を問題にしている。
 あえて目くじらを立てるほどではないかもしれないが、産経新聞8/19の近藤真史の「from Editor/首相の使い捨ては続くか」は少し気になる。
 「首相の使い捨て」=短命政権の連続を問題視しているのは朝日と同じで、かつ次のような一文がある-「今はまだ、『政権交代可能な政治体制』確立に向けた過渡期なのだろう。……」。
 これは「政権交代可能な政治体制」がよいものだということを前提としている。この前提は適切なのか。国や歴史や政党の事情等を抜きにして、こんなことを当然の前提としてよいのか?
 〇「政治改革」の名のもとに衆院での小選挙区制を中心とした選挙制度に改められたのは細川護煕内閣のときで、野党・自民党の総裁は河野洋平だった。形式的にはこの二人の合意に始まるその後の日本の政治状況は、選挙制度改革に矮小化された「政治改革」が決して成功していないことを示している。
 それどころか、中西輝政・強い日本をめざす道(PHP、2011)の表現を借りれば、2009年の「政権交代」・「それ以降以後の民主党政権の歩み」は、「『改革の泥沼』の極みともいうべき惨状を呈している」(p.122-3)。
 中西も書いていることだが、1994年の上の二党首の合意による小選挙制への移行は、「政権交代可能な」二大政党制の形成(自民党一党支配の継続による「派閥」政治・「金権」政治の打破)のための手段として位置づけられていたように解されるが、そもそもこのような理解に誤りがあったのだろう、と考えられる。
 典拠を示さないままにしておくが、中川八洋は、1994年の「政治改革」は<左翼>の策略で、自民党はその危険性を看取できなかった旨を指摘している。
 1994年当時、自民党に代わるような多数議員を擁する政党はなかった。細川政権は非自民八党派連立政権だった。にもかかわらず、なぜにこの当時にすでに<二大政党制>あるいは政権交代可能な政治制度なるものが理想として語られたのだろうか。
 今にして思えばだが、中川が指摘するように、また中西輝政も憲法改正可能な2/3以上の議席獲得が容易になるかもしれないと考えて保守派も(自らも?)油断した旨をどこかで書いていたが、<二大政党制>という目標設定は、自民党政権を終わらせ、「左翼」=「容共」の血の混じった政権を誕生させるための策略だったかに思える。
 アメリカ、イギリス、ドイツのように、比較的大きな二つの政党がある国々において、「左」に位置するとされる政党ですら、決して「容共」ではなく、コミュニズム(共産主義)とは一線を画している。そして、軍事・安全保障政策については基本的には一致がある。
 このような二大政党制ではなく、片方に「容共」政党をもつような二大政党制ならば、ない方が、作らない方がマシだ。
 いい加減に、「政権交代可能な」二大政党制という幻想からは、日本の現状を見れば、離れるべきだろう。

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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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