秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

1917年

2174/R・パイプス著・ロシア革命第11章第13節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第13節・モスクワでのボルシェヴィキ・クー。
 (1)モスクワでは、最初からボルシェヴィキの狙いから逸れていた。
 政府代表者たちが大胆な決定をしていたならば、彼らは大失敗に終わっていただろう。
 (2)モスクワのボルシェヴィキはレーニンやトロツキーではなくカーメネフやジノヴィエフの側に立っていたために、権力を奪取する心構えがなかった。
 ウリツキ(Ulitskii)は10月20日の中央委員会で、モスクワの代議員の多数派は蜂起に反対だ、と発言した。(223)
 (3)10月25日のペトログラードでの事態を知って、ボルシェヴィキはモスクワ・ソヴェトに、革命委員会を設立する決議を通過させた。
 しかし、首都では対応する組織がボルシェヴィキの支配下にあったが、一方のモスクワでは、純粋に諸党連立のソヴェト機関の設立が目指され、メンシェヴィキ、社会革命党〔エスエル〕およびその他の社会主義諸党も加わるよう招かれた。
 エスエルは辞退し、メンシェヴィキは、いくつかの条件を付けて招聘を受諾した。
 この諸条件は受け入れられなかった。その結果、メンシェヴィキは身を引いた。(224)
 ペトログラードのミルレヴコム〔Milrevkom, 軍事革命委員会〕に倣って、モスクワの革命委員会は午後10時に、つぎの訴えを発した。市内の連隊は行動する準備をし、革命委員会が発するかまたはその副署のある命令にのみ従うこと。(225)
 (4)モスクワ革命委員会は、10月26日の朝に初めて動いた。古代の要塞を奪取してその武器庫にある兵器を親ボルシェヴィキの赤衛隊に分配するように、クレムリンに二人の委員を派遣したのだ。
 クレムリンを護衛している第56連隊の兵団は、委員の一人が自分たちの将校であることで困惑しつつも、従った。
 そうであっても、<ユンカー>がクレムリンを包囲して降伏するよう最後通牒を突きつけたために、ボルシェヴィキは兵器を移動させることができなかった。
 最後通牒が拒否されると、<ユンカー>は攻撃した。数時間のちに(10月28日午前6時)、クレムリンは<ユンカー>の手に落ちた。
 (5)クレムリンを奪取することで、親政府勢力は都心を統制下に置いた。
 この時点で、軍民と公民について権限をもつ将校たちは、ボルシェヴィキの蜂起を粉砕することができていただろう。
 しかし、彼らは躊躇した。一つは過信によって、もう一つは、いま以上の流血を避けたいという希望を持っただめに。
 「反革命」という怖れも、彼らの心のうちに重くのしかかっていた。
 市長のV. V. ブドネフを長とする公共安全委員会とK. I. リャブツェフ大佐のもとの軍司令部は、革命委員会を拘束しないで、それとの交渉に入った。
 3日間つづいたこの交渉によって(10月28日-30日)、ボルシェヴィキには、回復し、工業地域である郊外や近隣の町からの増援を求める時間が与えられた。
 10月28-29日の夜には情勢を「危機的」と判断していた(226)革命委員会は、二日後には、攻撃に移れると自信を持った。
 民主主義を防衛しようとするモスクワの住民は、最終的には、軍事アカデミー、大学およびギムナジウムの十代の若者たちだけだった。彼らは、年配者の指導も支援も受けることなく、信条に生命を賭けた。//
 (6)対立の平和的解決に関する公共安全委員会と革命委員会の交渉は、10月30-31日の深夜に、決裂した。革命委員会が一方的に休戦を終わらせて、攻撃するように軍団に命令したのだ。(227)
 両勢力はそれぞれ1万5000人の兵を有して、おおよそは同等であると見えた。
 モスクワではその夜の間ずっと、激しい、建物ごとの戦闘が繰り広げられた。
 クレムリンを再び奪還すると決意したボルシェヴィキは、大砲によって攻撃し、古代からの城壁に損傷を加えた。
 <ユンカー>はよく健闘したが、郊外から集まるボルシェヴィキ軍によって次第に圧迫され、孤立した。
 11月2日の朝、公共安全委員会はその部隊に対して、抵抗をやめるよう命令した。
 同日夕方、同委員会は、同委員会を解散してその部隊は武器を捨てるという趣旨の降伏書に、革命委員会とともに署名した。(228)//
 (7)ロシアのその他の地域では、状況は当惑するほどに筋道の違いがあり、各都市での戦いの行方と結果は、競い合う諸党派の強さや決断力にかかっていた。
 共産主義イデオロギストたちは、ペトログラードでの十月クーにつづく「ソヴェト権力の勝利の凱旋」とこの時期を形容する。しかし、歴史研究者から見ると、事態は異なる。
 しばしばソヴェトの意向に反してすら広がっていたのは「ソヴェト」権力ではなく、ボルシェヴィキの権力だった。そして、軍事的実力による征圧というほどの「勝利の凱旋」ではなかった。//
 (8)見分けられるほどの明確な態様はなかったために、二つの重要都市以外でのボルシェヴィキによる征圧を叙述するのはほとんど不可能だ。(229)
 ある地域では、ボルシェヴィキはエスエルやメンシェヴィキと手を組んで「ソヴェトの支配」を宣言した。
 別の地域では、ある党派がその他の対敵を追放して、自分たちの権力を打ち立てた。
 親政府勢力は、あちこちで抵抗した。しかし、多くの地方で元来の政府系組織は「中立」を宣言した。
 たいていの地方諸都市では、その地方のボルシェヴィキは、ペトログラードからの指令なくして、自分たちで行動しなければならなかった。
 ボルシェヴィキは、11月の初め頃までには、ヨーロッパの中心部、つまり大ロシアの地域を、少なくとも、その地域の諸都市を、統制下に置いた。ボルシェヴィキはそれら諸都市を、ノルマン人が千年前にロシアに対して行ったように、敵対的または無関心の住民が多数いる真ん中で、出撃基地に変えた。
 ボルシェヴィキは田園地帯のほぼ全領域について掌握するには至らず、分離して独立の共和国が設立された国境地域も同様だった。
 以下で叙述するだろうように、ボルシェヴィキはこれら諸国を、軍事活動でもって再征圧しなければならなかった。//
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 (223)Protokoly TsK, p.106-7.
 (224)Revoliutsiia, V, p.193-4; Revoliutsiia, VI, p.4-5; D. A. Chugaev, ed., Triumfal'noe shestvie sovetskoi vlasti (Moscow, 1963), p.500.
 (225)V. A. Kondratev, ed., Moskovskii Voenno-Revoliutsionnui Komitet: Oktiabr'-Noiabr' 1917 goda(Moscow, 1968), p.22.
 (226)同上、p.78。
 (227)同上、p.103-4。
 (228)同上、p.161。
 (229)そうしたもので我々が参照できるのは以下。V. Leilina in PR, No.2/49(1926), p.185-p.233, No.11/58(1926), p.234-p.255、No. 12/59(1926), p.238-p.258、およびJohn H. Keep in Richard Pipes(Cambridge, Mass., 1968)p.180-p.216.
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 最終第14節へ。

2171/レフとスヴェトラーナ-第1章①。

 レフとスヴェトラーナ。
 *オーランド・ファイジズの文章の試訳。
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 第1章①。
 (01) レフはスヴェトラーナを初めて見た。
 モスクワ大学の入学試験に呼び込まれるために、中庭に三列を作って待っている一群の学生たちがいた。その中にすぐに、彼女に気がついたのだった。
 彼女は物理学部の建物の入口に向かう道沿いに、レフの友人と一緒に立っていた。その友人はレフを手招きして、前の学校のクラス友だちだとスヴェトラーナを紹介してくれた。
 二人は、学部の入口が開くまでに、一言か二言だけをを交わした。そのあと、学生の一群に加わって、階段を上り、試験が実施される大講堂に入った。
 (02) 最初に逢ったときは、恋でも愛でもなかった。二人ともに、そう分かっていた。
 レフはきわめて用心深かったので、簡単に恋に落ちることはなかった。
しかしそれでも、スヴェトラーナはすでに彼の注意を惹いた。
 彼女は背の高さは中くらいで、ほっそりしていて暗い茶色の髪だった。顎の骨が尖っていて顎先も尖っており、青い眼は落ち着いた知性で輝いていた。
 スヴェトラーナは、ソヴィエト同盟で最良の物理学の学部に入学した5-6人の女性の一人だった。レフも一緒に、別の30人の男子とともに1935年に同じ学部に入学した。
 暗色の羊毛服と短い灰色のスカート。スヴェトラーナは女子学校生と同じ衣服を見にまとい、男子ばかりの雰囲気の中で目立っていた。
 彼女は愛らしい声をもっていて(のちに大学合唱団で歌うことになる)、肉体的な魅力にそれを加えていた。
 彼女は人気者で、活発で、ときには軽薄で、鋭い辛辣な言葉によって知られることとなった。
 スヴェトラーナは自分を崇拝する男子に不足することはなかったけれども、レフについては、何か特別な思いをもった。
 レフは背が高くも、体格が力強くもなかった。-彼の背の高さはスヴェトラーナよりも少し低かった。また、同世代の若い男たちのようには容貌に自信がなかった。
 彼は、当時の写真全部で、いつも同じ古い上衣を着ている。-当時のロシア様式で、最上部のボタンは留め、ネクタイをしていない。
 レフは、外観上は、男性というよりも、まだ少年だった。
 しかし、女の子のように、柔らかい青い眼とふっくらした唇をもつ、優しくて思いやりのある顔をしていた。
 (03) 第一学期の間、レフとスヴェータ(彼は彼女をこう呼び始めた)は、頻繁に逢った。
 二人は講義室で一緒に並んで座り、図書館でお互いにうなづき、新進の物理学者や技術者で成る同じサークルの方へと動いた。そのサークルの者たちは学生食堂で一緒に食事をし、図書館への入口に近い学生クラブ室に集まった。そこには、ある者はタバコを喫むために、他の多くはただ脚を伸ばしておしゃべりをするためにやって来た。 
 (04) のちにレフとスヴェータは、友人たちのグループから離れて、劇場や映画館に行くようになる。そしてそのあと、彼は歩いて彼女の家まで送ったのだが、スヴェータの家の近くにあるプーシキン広場からポクロフスキ兵舎までの庭園大通り沿いのロマンティックなコースを選んだ。この大通りは、夕方に恋人たちが散歩するところだった。 
 1930年代の大学生の世界では、婚約する以前の男女関係についての伝統的な考えがまだ残っていて、ロマンティックな礼節が尊重されていた。
 1917年以降のある時期には、性的な振る舞いの解放が喧伝されたけれども。
 モスクワ大学では、ロマンスは真剣で純真なものだった。通常は男女二人が多くの友人たちのグループから離れてから始まり、男子が女子をその家まで送っていくことから出発する。
 そのときが親密に二人きりで会話する好機で、たぶんときどきは、好みの詩を誦み合ったりする。詩は、愛に関する会話の手段として受容されていた。そして、彼女の家で別れる前には、キスをする機会があったかもしれない。
 (05) レフは、スヴェータが好きになって、自分は孤独ではないと知った。
 彼は、彼女を自分に紹介してくれたリャホフと一緒に、スヴェータがクレムリン近くのアレクサンドラ公園を歩いているのを見た。
 レフは遠慮して、スヴェータとの関係をリャホフに尋ねなかった。しかし、ある日、リャホフが言った。「スヴェトラーナ、あんな素晴らしい娘はいない。でも、とても頭がよい。恐ろしく頭がいい」。
 リャホフはそのようにして、自分が彼女の知性におじけづいていることをレフに伝えようとしたのだ。
 レフはすみやかに気づいたのだが、たぶんスヴェータは気紛れで、他人に批判的で、そして、自分と同じように賢くはない人間には我慢できなかったのだろう。
 (06) ゆっくりと、レフとスヴェータは親しくなった。
 レフは思い出す。二人にはともに「深い好意」が芽生えた、と。
 70年以上のちに自分の居間に座って、彼は最初の感情的な結びつきを思い出して、小さく微笑んだ。
 つぎの言葉を選ぶまで慎重に考えていた。
 「突然に恋に落ちたのではない。だが、深くて永遠につづくような親近さを感じた」。
 (07) 二人はついには、お互いを恋人だと考えるようになった。
 「私は他のどの女性にも一人では逢わなかったので、みんな、スヴェトラーナは自分の恋人だと分かった」。
 二人のどちらにもそのことが明確になったときがあった。
 ある午後、カラルメニュイのスヴェータの家近くの静かな通りを二人が歩いていたとき、彼女が彼の手を取って、「あちらに行きましょう。私の友だちに貴方を紹介するわ」と言った。
 彼らは行って、スヴェータの親しい友人たちに逢った。彼女の前の学校からの友人たちで、イリーナ・クラウゼは外国語学校でフランス語を勉強していた。アレクサンドラ・チェルノモルディクは、医学生だった。
 レフは、これは自分に対する彼女の信頼の証しなのだと理解した。親愛の徴しとして、自分の子ども時代の友人たちに逢わせてくれたのだ。
 (08) まもなく、レフはスヴェータの家に招かれた。
 イワノフ家は大部屋二つと台所のある私的な住戸を持っていた。
 -これは、スターリン時代のモスクワではほとんど知られていない贅沢なことだった。モスクワの標準的な共同住宅では、一家族について一部屋で、台所とトイレは共用だった。
 スヴェータと妹のターニャは、両親と一緒に一部屋で生活していた。
 娘たちは、折り畳むとベッドになるソファの上で寝ていた。
 娘たちの兄のヤロスラフ(「ヤラ」)は、妻のエレーナと一緒に別の部屋で生活していた。そこには大きな衣装箪笥、前面にガラスのある書籍棚、グランド・ピアノがあって、家族みんなで使っていた。
 イワノフ家の住戸には、高い天井と古風な家具があった。そして、労働者国家の首都であるモスクワの知識人たちが集まる、小さな島だった。
 (09) スヴェータの父親のアレクサンドル・アレクセイヴィチは50歳台半ばで、背が高くて髭を生やしていて、注意深い目と塩胡椒色の髪の毛をもっていた。
 老練なボルシェヴィキで、1902年にカザン大学の学生のときに革命運動に参加した。
 流刑に遭って収監されたが、のちにペテルブルク大学物理学部に再入学した。
 そこで、第一次大戦の前には、化学者セルゲイ・レベデフとともに合成ゴムの開発に従事した。
 1917年の十月革命の後は、ソヴィエトのゴム生産を組織する指導的な役割を果たした。
 だが、1921年に、党を去った。
 表向きの理由は体調の悪さだったが、実際には、ボルシェヴィキの独裁に幻滅するに至っていたからだった。
 彼はその後10年間、仕事のために2回、西側を旅行した。そして、1930年に、家族とともにモスクワに転居した。
 この頃は、五カ年計画がソヴィエト同盟を工業化するために施行中の真只中だった。
 また、「ブルジョア専門家」に対して、スターリンの最初のテロルの大波が襲っていた。そのときに、アレクサンドルの多数の友人や仕事仲間たちが「スパイ」とか「反逆者」だとかして非難されて、射殺されるか強制労働収容所へと送られるかした。
 アレクサンドルに外国旅行の経験があったことは政治的に危険だったが、彼は何とかして生き延び、ソヴィエトの工業のために仕事を続け、ロシア合成樹脂研究所の副所長にまでなった。
 彼の家族には、技術と科学の精神が染み渡っていた。子どもたちはみな、技術または科学を勉強するように言われて育った。ヤラはモスクワ機械建設研究所に進み、ターニャは気象学を勉強しており、そしてスヴェータは物理学部に通っていた。
 (10) スヴェータの父、アレクサンドルは、レフを歓迎して、家に招き入れた。
 父親は、もう一人科学者がいるのを愉しんでいた。
 スヴェータの母親は、もう少し疎遠で、控えめだった。
 アナスタシアは肉づきが良くて、ゆっくり動く40歳台半ばの婦人で、手の疾患を隠すために手袋を填めていた。
 彼女はモスクワ経済研究所のロシア語教師で、教育については厳格な態度をとった。
 アナスタシアは眼を上げて、厚い縁の眼鏡を通してレフをじっと見つめた。
 レフは長い間、母親には怯えていたが、彼とスヴェータの大学一年次の終わり頃に、全てを大きく変化させる出来事があった。
 スヴェータは欠席した講義のノートを、レフから借りていた。
 最初の試験のためにそれを返してもらおうとしてレフが来たとき、アナスタシアは彼に、貴方のノートはとても良いと思う、と告げた。
 多大なではないが小さな、そして予期していなかった褒め言葉だった。
 そして、母親の声の柔らかさで、レフは、アナスタシアに、つまりはスヴェータの家族の関門に、受け入れられた徴しだ、と感じた。
 レフは思い出して言う。「私はその言葉を、彼女の家に入る合法的パスのようなものだと理解しました」。
 「私はもっと足繁く、臆病にならずに、彼女たちの家を訪れました。」
 試験が終わったあとの1936年の長くて暑い夏、レフは夕方になるといつもスヴェータに逢いにくることになる。そして、自転車の乗り方を教えるために、ソコロニキ公園へと彼女を連れて行く。
 (11) レフがスヴェータの家族に受け入れられたことは、二人の関係にとってつねに重要な一部だった。
 レフには直属の家族がなかった。
 彼は1917年1月21日に生まれた。-世界を永遠に変えた二月革命の激変の直前だ。
 母親のヴァレンティナは小さな地方の公務員の娘で、幼いときに両親を喪ったあと、モスクワにいた二人の叔母に育てられた。
 彼女は市立学校の一つで教師をしていて、そのときに、レフの父親と会った。
 父親のグレブ・ミシュチェンコはモスクワ大学物理学部の卒業生で、そのときは、技師になるために鉄道研究所で勉強していた。
 ミシュチェンコとは、ウクライナの名前だった。
 グレブの父のフョードルは民族主義ウクライナ知識人の中の著名な人物で、キエフ大学で言語学の教授をしており、また、古代ギリシアの文章のロシア語への翻訳家だった。
 十月革命後、レフの両親はシベリアのベリョゾボという、トボルスク州の小さな町に引っ越した。その町のことを、鉄道技師としての調査旅行で知ったのだった。
 ベリョゾボは、18世紀以来の流刑地として、ボルシェヴィキ体制から遠く離れた場所で、比較的に豊かな農業地域にあった。
 また、モスクワにテロルと経済的な破滅を持ち込んだ内戦(1917-21年)を避けることのできる、良い位置にあったように見えた。
 家族はヴァレンティナの叔母とともに、大きな農民家庭の家屋の一室を借りて生活した。
 父のグレブは学校教師と気象学の仕事を見つけ、母のヴァレンティナも教師として働いた。
 レフは、母親の叔母のリディアによって育てられた。彼はこの叔母を「祖母」と呼んだ。
 彼女はレフに童話を語り聞かせ、神への祈りを教えた。レフは、生涯にわたって、このことを憶えていた。
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 ②へとつづける。

1725/江崎道朗・コミンテルン…(2017)②-2017年秋。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)
 昨2017年の八月半ば以降に大幅にこの欄への文章を書くのを止めたのは、半分程度は、上の本の(消極的な)衝撃による。
 秋月瑛二のいう<反・共産主義>の意味での「保守」-それと同義で「自由主義」/元来の・伝統的な「リベラリズム」という語を使ってもよい-の立場で種々書いてはきているが、江崎の上の本を一瞥して、即座に感じた。
 どうしようもないところにまで来ている。ほとんど総崩れだ。
 身震いするほど、怖ろしい。
 日本の「保守」派らしき人々は、ほとんど信頼できない。「保守」と自称しないで、むしろそれと自らを区別しているらしき、池田信夫や八幡和郎等の方が、「反・共産主義」という点ではしっかりしているのではないか。
 そののちに、上の江崎道朗著の推薦文をオビに書いている中西輝政のいかがわしさにも気づいた(何回か昨秋頃にこの欄に記した)。
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 江崎道朗の上の本(新書)の「はじめに」は、二行め、本の第二文から間違っている
 「1917年に起きたロシア革命によってソ連という共産主義の国家が登場した」。
 1917年「二月革命」ではなく10月(または新暦で11月)と特定していないことは、まぁよい。
 しかし、1917年10月の「ロシア革命」によって登場したのは、「ソ連」ではない
 ソ連=ソヴィエト連邦=ソヴィエト・社会主義共和国連邦という国家(連邦国家)が成立したのは「戦時共産主義」よりも「ネップ政策導入決定」よりも後、1922年だ。
 上のロシア革命によって成立したとされたのは、ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国で「大ロシア人」地域を領域としており、地理的にも、のちのソ連と異なる。
 江崎道朗は、こんなことにすら無頓着で、「ソ連」はロシア革命によって生まれた、と単純に理解したまま、大切な本の二行めに書いてしまっているのだ。
 ついでに書いておこう(秋月瑛二は専門家でも何もないが,江崎道朗に教えてあげよう)。
 ソヴィエト・ソビエト・ソヴェトとは地名その他の固有名詞ではなく、多くの人が知っているだろうように(江崎がどうなのかは知らない)「会議」とか「評議会」とか訳せる普通名詞だ(council, Rat)。
 そうした名詞が国家名に使われ、チャイナとか朝鮮とかの固有名詞(王朝・氏族名を含む)が使われていないのは、おそらく希有のこと(だった)だろう。
 以下の方が重要だ。
 ロシアで最初の「ソヴェト」の設立・結成に、レーニンらボルシェヴィキは関与していない。
 また、ペテログラード・ソヴェト等のソヴェトの主導権を、ほとんどの間、レーニンらボルシェヴィキ(のちロシア共産党に改称、ソ連共産党へと発展)は握っていなかった。
 1917年のほんの一時期にレーニン・トロツキーらがソヴェトの多数派となり、実力行使も担当し、「10月革命」とのちに呼ばれるものが起きた(ことになっている)。
 しかし、のち、ソヴェト系列の国家機構を形骸化し、ボルシェヴィキ=ロシア共産党(江崎のために記すがまだソ連共産党ではない)が実質的な権力を掌握する。
 その後ずっと、ソヴェトというのは、実体・実質・実権が全くかほとんどないまま、1991年まで、ソ連という国家名の一部として、堂々と使われ続けた。
 ソヴェト・ソヴィエトという言葉に関する「詐欺」とすら言える。国名についてまで、ロシア・ソ連「社会主義・共産主義」国家は、異様・異形だったのだ。
 元に戻る。江崎道朗が「コミンテルン」を表題の重要な一部として使う本をかきながら、ソ連・ロシア革命・コミンテルンについて正確な知識を持たないことは、上の点のほか、つぎのことでも分かる。すでに「はじめに」の中に見られる。
 すなわち、とくにアメリカや日本に対する「工作」・「秘密工作」をする主体・主語として書かれているのは、「旧ソ連・コミンテルン」p.3、「ソ連」p.3、「コミンテルン」p.4、「ソ連・コミンテルン」p.5、「ソ連・コミンテルン」p.7、「コミンテルン」p.7、「ソ連・コミンテルン」p.8、「ソ連・コミンテルン」p.9、「ソ連・コミンテルン」p.12、「コミンテルン」p.12、p.13、「ソ連・コミンテルン」p.13、と一様でない。
 江崎道朗に教えてあげるが、「ソ連」と「コミンテルン」は同じものではない。
 同種のものとして扱うためには、その旨の注記が必要だ。
 また、同種のものと扱うのは、きちんとした書物であるかぎりは、間違っている。
 すなわちソ連(またはその前の社会主義ロシア)、ソ連共産党(またはロシア共産党)およびコミンテルンの三つは、きちんと区別すべきだ
 そうでないと、例えばスパイ・ゾルゲはいったいどの組織の「スパイ」・「工作員」だったのか、「スパイ」・「工作員」の相互連絡はどうしてなされたのか、等の解明ができなくなる。
 一昨年の秋にこの欄で、こうした関心から、尻切れになったかもしれないが、「国家・党・コミンテルン」とか題する(正確に確認しない)文章を書いたことがある。
 レーニンは、あるいはスターリンは、ロシアまたはソ連「共産党」と「コミンテルン」を巧く使い分けていたと見られる。かつ、非難されないように、決して「ソ連」とかの国家そのものとは厳密には区別していたように思われる。また、ソ連国家といっても、外交部署、治安・保安担当部署と「軍」の区別くらいは、少なくとも必要だろう。
 どうでもよいではないか、ということにはならない。
 そのように感じるのは、「保守自由主義」者らしき江崎道朗のかなり粗雑な、特定の読者層を意識した頭脳だけだろう。
 他にも、この著には、相当の疑問点・問題点がある。
 よい本が出たと、「日本会議」系の論壇者や活動員たちのように喜んでおれるわけがない。
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  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
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  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
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  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
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  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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