秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

麻生太郎

1831/藤原かずえ(kazue fgeewara)の表向きだけの「論理」性。

 何やら論理学やら修辞学やらを持ち出してとくに立憲民主党あたりの野党議員の主張の仕方を批判している者に、最近知った、藤原かずえという人物がいる。読んだことはないが、月刊正論(産経)の執筆者になっているようだ。
 同・マスメディア報道のメソドロジーというブログサイトから、この人物の論述にある<突っ込みどころ>を指摘しておこう。読者は、一見は華麗な?論理的を装う叙述にごまかされてはいけない。
 今年3月18日付・「文書改竄問題の議論に騙されないための論理チェック」。
 第一。<安倍総理は「私や妻が関係していたら総理も国会議員も辞める」と言った。>ということからする某野党議員の推論を「誤った論証構造」だ等と批判している。
 この中で藤原は、のうのうとこう言う。-「安倍首相の『関係していたら』の意味は、『首相あるいは国会議員としての権力を使っていたら』の意味であることは自明です」。
 はたして「自明」のことなのかどうか。いつぞやも書いたが、「関係する」という語自体は、(政治・行政)権力を用いる、というような限定的な意味ではうつうは用いないのがむしろ自明のことで、その限定された趣旨ではなく広く、ふつうに理解されたとすれば、発言者自身の言葉遣いが問題になるだろう。
 藤原にとって「自明のこと」が万人に取って「自明のこと」ではないこともある。
 そのような謙虚さを欠如させた、そして別の論理的可能性を無視した、たんなる藤原の「思い込み」にすぎない可能性がある。
 第二。藤原によるとどうやら客観的に誤った報道は「誤報」で、悪意のある誤りによる誤報は「虚報」なのだそうだ。そんなに勝手に、この二つの語の意味を決めてもらっても困る。そのように理解して用いるのは自由だが、第三者にそのような違いがあるものとして両概念を用いよ、というのは傲慢だ。
 したがってまた、藤原によると、(決裁文書の)「書き換え」と「改竄」は悪意の有無によって区別すべきで、安直に後者を用いるべきではない、という。後者はすでに一定の価値評価がなされている言葉だ、という。
 趣旨は分からなくはないが、しかし、では、悪意のない「書き換え」というのはあり得るのか。「書き換え」が意識的になされていればやはり「悪意」によると言い得るのであって、「改竄」と何ら本質は変わらないとも言える。
 こんな言葉争いは、あるいは言葉の使い方を自分の感じるとおりにせよという文句のつけ方は、やはり傲慢だろう。
 第三。「関係」とか「改竄」と違って、「行政文書」および「決裁文書」は、法制上の概念だ。おそらく藤原もこの点はおさえているようだ。何らかの法令・行政内部基準による実務において問題になるこれらと、「関係」とか「改竄」とか、特段の明確な意味が法制上示されていない場合とを、きちんと分けなければならない。
 第四。藤原は、つづけて「『実行責任』と『結果責任』という言葉も分けて考える必要」がある、と言いはじめる。
 このあたり、たぶん藤原は、十分な知識が欠落しているか、非専門家であることを暴露する常識的な言い回しをしている。
 麻生財務大臣が書き換えを指示していれば「実行責任」が、指示していなければ「結果責任」がある、という。
 部下のミスは上司の、又はその部下が帰属する団体の、いかなる「責任」を生じさせるか。「結果責任」という語はあるだろうが、法学・不法行為の世界では「実行責任」なる概念は聞いたことがない。
 藤原は知らないのだろうが、不法行為上の(民事)責任につき、民法715条1項は「被用者の選任・監督」に「相当の注意」をした場合でないかぎりは、使用者が被用者によって第三者に生じさせた損害につき賠償義務を負う旨を定める。
 しかし、同規定をもつ民法の特別法とされる国家賠償法は、国家公務員個人の職務上の不法行為につき「国」自体には上の免責要件なく、直接に賠償義務を負うと定めている(と解釈されている)。
 「結果責任」というのは、例えば後者のような場合にこそ使われる概念であって、藤原のいうような、「事象が予見困難で管理者としての事態回避が困難な場合」には<結果責任>も免ずべきという主張は、おそらく、法学上の概念用法には少なくとも適応したものではない。
 なお、「責任」とか「結果責任」という語には法学・政治学等の豊富な実例・蓄積があるのであって、上は一例にすぎない。藤原は、いわば<責任論>を学修したことがないのだ。
 「実行責任」のほかに、この意味では「結果責任」もまた藤原の造語であって、藤原のいう意味で第三者も用いるべきだ、ということにはならない。
 ここで藤原は「実行責任」もなく上の限定付きの「結果責任」もなければ麻生財務大臣は辞任する必要はない、という脈絡で、上の二つを使っている。
 何やら見知らぬ?専門的概念を使って深遠なことを述べていると読む人もいるのかもしれないが、この部分では要するに、藤原かずえは、麻生財務大臣は辞任する必要などはない、という「政治的」主張をしているのに他ならない。
 さらに、「責任」といっても種々のものがあるが、書き換えであっても改竄であっても財務大臣の「責任」がないわけではないことはむしろ常識的だ。したがって、「事象が予見困難で管理者としての事態回避が困難な場合」を除くといった主張の仕方もかなり「政治的」で、通用しない議論だろう。
 大臣としていかに個人的な落ち度はなくとも、財務省内の(とりわけ職務執行にかかる)非違行為に対する責任は、大臣にある(上司である事務次官にだってある)。
 藤原は、安倍晋三首相が<行政(権)の長として責任を深く感じている>と明言していることを知っているだろう。
 むろん、この「責任」は辞職・辞任につながるようなものであるのか、は別の話。
 藤原かずえによる「論理チェック」一般がすべて奇妙だとは思わないが、しかし、現実的な話としては、立憲民主党等の<反アベの攻撃>の理屈・論法にのみ対象を絞ったのでは、たんなる野党たたきと安倍ガードになるだけだ。
 この人に、本当に言説の「論理」のごまかしを見抜く力があるのであれば、日本共産党が日刊赤旗や月刊前衛等で書いていることや日本会議あるいは櫻井よしこ等の言説を検討して、<論理破綻>や<論理矛盾>あるいは<論理一貫性のなさ>を分析してほしいものだ。

1745/「日本会議」問題としての森友問題と「決裁」文書①。

 共産主義や「日本会議」にのみ秋月瑛二が関心をもっているわけではないことを、ときには知らせておこう。
 「日本会議」、月刊正論編集部および産経新聞社主流派について昨年からずっと感じてきたのは、つぎのことだった。
 安倍晋三がいつまでも首相であるわけではない。かりに2020年時点で首相・内閣総理大臣だったとしても、いつか辞める。そのとき、この人たちはいったいどの人物を、あるいは自民党でないとすればどの政党を支援するのだろう、と。
 そう感じさせるほどに、この人たちの安倍晋三・自民党びいきは目立った。
 「日本会議」、月刊正論編集部および産経新聞社主流派は昨年の総選挙でも、日本共産党や立憲民主党を叩き、批判することよりも、「希望の党」、正確には小池百合子を批判の主対象にしていたように感じる。
 2017総選挙については、当時の池田信夫のブログ・コメントに大いに共感するところがあったが、今回は立ち入らずに、別の機会に、余裕があれば触れる(秋月瑛二は前回の総選挙について、感じることは多々あったが、この欄に記していない)。
 「日本会議」は、<保守>運動の中心的位置という立場を守りたい、維持したいのだ、と思われる。
 以上については、もっと書かなければならない。
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 「決裁」文書と国・省の意思決定について。
 森友学園問題について詳細にフォローはしていないので、第二に言及したい「日本会議」問題とは別の、「決裁」文書なるものに関する一般論を記しておく。
 メディア関係者・テレビや新聞関係者(とくに記者)および多くのコメンテイターはきちんと知って、きちんとした情報を提供してほしい。以下は、行政の実務経験者であれば、あるいは企業等の組織管理経験者には、おそらく常識的だろう。しかし、メディア関係者にはー「左翼」意識は強くてもーしばしば一般的知識に欠ける人がいる。
 まず、国有地を含む国有財産の売買(売却をむろん含む)契約の当事者は、一方はふつうは私人で(法人の場合もむろんある)、他方の当事者は、「国」だ。この場合の「国」は正確には裁判所や国会を含みうるが、とりあえず<行政>担当法人のことを意味させる。
 しかして、個々の行政、あるいは個々の売買契約の法的な最高責任者は、一般論として語るが-現行法制上は-首相・内閣総理大臣ではなく、個別省庁の長、財務省関係だと財務大臣のはずだ。
 個別の法律による特殊な売買を除いて(強制買収に該当する場合はどうだったかな?)、今回の森友問題におけるような契約締結の法的な最高責任者は財務大臣だと解される。
 ではなぜ、「決裁」文書書き換えにかかる「責任」がとくに理財局長について問題になっているのか。
 それは、財務大臣の「決裁」権限の<内部委任>が行われているからだと思われる。
 つまり、「国」を当事者とする契約締結には本来はすべて省庁の長(とざっくり言う)の最終「決裁」が必要だが、大臣・長官が全てに関与して全てに押印または署名するわけにはいかない。
 そこで、いわば<便法>として、案件に応じて、<理財局長>あるいはその下の課長等に<決裁権限>を「内部的に」委譲しているのだ。よく知らないが、軽微なものだと近畿財務局長に「内部委任」されているものもあると考えられる(森友問題は文部科学省・内閣府も関係するので形式上・内部的にも最後は本省扱いになっているのだろう)。かつまた、この決裁権限の「内部委任」はおそらくは正規の「法令」によるものではない。省庁「内部」の(それこそ大臣等の名前で決定された)規程類にもとづくもののはずだ。
 したがって、政治的にはともかく、全ての案件について大臣には行政上の法的「責任」がある。大臣にそのような「責任」をとらせることになったのは誰か又はどの機関かは、あくまで「国」または省の「内部」問題にすぎない。
 この点をしっかりふまえて報道等をしてほしいものだ。
 むろん、財務省「内部」の問題を報道して悪いわけではない。すべきだろう。しかし、局長に<責任転嫁>してのトカゲの頭か尻尾かを切る、というのは、きわめて<政治的>または<政治家的>発想だ、ということは知っておく必要がある。官僚機構や組織の問題等を<大筋>の問題と混同させてはいけない。
 ついでに、安倍首相の問題。首相には内閣を構成する各大臣に対する指揮権・指導権は、憲法上重要な位置を占める「内閣」の一体性や国会に対する<政治的・行政的>責任の観点からもあると見られる。
 したがって、<政治的>観点以外でも、当然に首相の責任は問われうる。
 では、安倍首相夫人の明確な<関与>が証されたとすれば、いったいどうなるのか?
 おそらくもはや契約自体の有効性の問題にはならないのだろう。だが、これとは別に「違法性」は問われ得る。また、違法でなくとも、正当ではない、正義・適正さの観点から疑問だ、ということはあり得る。こうなると安倍晋三と椛島有三を事務総長とする「日本会議」の関係にかかわるので、回を改める。

0893/本格的な<左翼(・売国)>政権誕生。

 本格的な<左翼(・売国)>政権誕生。
 麻生太郎が「本格的な左翼政権」が生まれた旨を演説しているシーンをどこかのテレビニュースで一回だけ見たが、これは他局や新聞では(産経新聞も含めて)取り上げられていない。
 (麻生太郎は田母神俊雄を「見殺し」にした首相だったので、その<保守>性を全面的に信頼しているわけではない。)
 マスメディアは、相変わらず正常ではない。NHKの報道ぶりも、どこか<菅期待>を滲ませている。
 鳩山退陣の週の週刊朝日6/11号は民主党・鳩山問題を隠して「みんなの党大研究」とやらを表紙に出していたが、同6/18日号は大きく「民主党革命/再スタート!」と表紙に掲げて、あらためて民主党を支持せよ(自民党等の<右派>に投票するな)旨を煽動している。今回は朝日新聞社説の厚顔無恥ぶりに言及しないが、朝日新聞社論説委員・編集委員、週刊朝日編集長・山口一臣は<恥ずかしく>ないのだろうか。
 確信的な<左翼>活動家集団は、民主党(・同政権)を当面は(叱咤激励しつつ)守ることが「ジャーナリスト」の使命だと思い込んでいるのだろう。
 それにしても、「首」が代わっただけで民主党支持が10%以上も回復する(支持なし層から移る?)というのだから、日本の有権者国民の<日和見>ぶり、<浮遊>ぶりには、あらためて呆然とする。
 偽善者たちの喜劇はまだまだ続きそうだ。

0795/「正しい戦争」があるならば「不戦の誓い」は行えない。

 〇佐々木類という記者?による8/16発の「まさか日本共産党までブレているとは思いませんが…」と題する長い文章がイザ・ニュース欄にある。そしてなかなか皮肉が効いている。 日本共産党の<二段階革命>論において、当面の第一段階の革命が成就するまでは、第二段階の革命(社会主義革命)においては主張したいことを主張するはずがない。将来について同党が考え想定していることからすれば、日本共産党が現在主張していることは<すべてウソだ>と理解しておいた方がよい。
 〇8/15の戦没者追悼式での麻生太郎首相式辞いわく-「わが国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛と与えております。国民を代表して、深い反省とともに…。/私たちは、過去を謙虚に振り返り、悲惨な戦争の教訓を風化させることなく、…。/本日、ここに、わが国は、不戦の誓いを新たにし…」。
 これまでの同式辞や外交文書・談話と基本的には同じなのだろうが、いわゆる<村山談話>に通じる基幹的部分を、麻生太郎首相もまた継承しているように見える。
 「アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛と与え」た「過去を謙虚に振り返り」、「反省」し、「非戦の誓いを新たに」する、と言うのだ。
 いわゆる田母神俊雄論文とは異なると思われるかかる認識は、麻生太郎・自民党議員のほとんどを含めて、とっくに<体制化>している、と理解しておいた方がよいのだろう。政府の中でも外務省は、戦後一貫して、かかる認識と立場でいたものと思われる。
 だが、少数派だろう?とはいえ、上の式辞内容には疑問をもつ。
 過去ではなく近未来についても、そもそも「非戦の誓い」とは何なのか。
 1929年のパリ不戦条約(「戦争抛棄ニ関スル条約」)の締結国が「放棄」を宣言した「戦争」は<すべての>それではなく、「国際紛争解決ノ為戦争」または「国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争」であり、かつ、特定の「戦争」がこれらに該当するか否かの認定権が当時の国際連盟(又はその下部機構)にあるとされていたわけでもない。
 日本国憲法九条1項が放棄しているのも、「国際紛争解決の手段として」の「国権の発動たる戦争」にすぎない。これは基本的に<侵略戦争>に限られる。
 なるほど九条2項は「国の交戦権は、これを認めない」と定めているため、結果として<すべての>「交戦」が否認されていることにはなる(通説的解釈)。ここに日本国憲法の世界に独特の特殊性がある。この条項まで意識して、現憲法の(通説的)解釈をふまえて、麻生太郎首相は「非戦の誓い」を語ったのだろうか。
 だが、2項がすぐ前で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定めているかぎり、「戦力」なくして「交戦」がありうる筈はなく、「国の交戦権は、これを認めない」という文の意味・存在意義はもともと疑わしいのだ。
 「左翼」新聞社刊行の、元東京大学教授による、筒井若水・違法の戦争、合法の戦争(朝日新聞社・朝日選書、2005)p.224-5あたりでも、「交戦権」=right of belligerency の意味が「国際法上論じられた形跡はない」、「その内容を国際法上確認できない以上、その国際法的意味を求めても詮ないことである」と書いてある。
 法的議論から離れても、「非戦」=<すべての戦争の否定>を誓ってよいのだろうか。
 北朝鮮または中国から<侵略戦争>攻撃を受けた場合の日本の(国家としての)自衛行動は、常識的には<自衛戦争>に他ならない。「戦争」という語をあえて避ければ、憲法も否認はしていない(通説)国家の「自衛権」にもとづく<自衛>のための<武力行使>ということになるが、実質的には<自衛戦争>と称しても何ら誤りではないだろう。
 <予防的先制攻撃>すら理論的には「自衛権」の行使として可能だとされている。
 そういう議論と日本をめぐる環境の中で、なぜわざわざ「非戦の誓い」を語らなければならないのだろう。毎年こんな言葉を聞いて安心し、喜んでいるのは、共産党(・労働党)独裁の中国と北朝鮮(・アメリカ?)なのではないか。謙虚さと自虐とは、行き過ぎると卑屈と莫迦になる。その弊に陥っているのが現在の日本なのではないか。
 宮崎哲弥はかつて、「正しい」戦争はある、と断言したことがある。その宮崎哲弥が産経新聞8/08「米士官学校教科書の『原爆批判』」と題する文章を載せている。
 それによると、米士官学校で使われている教科書の一つ、マイケル・ウォルツァー『正しい戦争と不正な戦争』という本は、ドイツの場合と異なりかつての日本がしたのは「一般的な軍事拡張」で、「無条件降伏などという完膚なきまでの体制打倒は不要だった」としつつ、「必須ではない目的達成のために、非戦闘員の無差別殺戮を遂行することはまったく不当だった」、つまり「原爆投下は不正な戦争行為だった」と明記している、という。
 原爆投下問題はさておき、この本もまた、「正しい」戦争と「不正な(=正しくない)」戦争とがある、ということを前提としていることは疑いえない(なお、この本は4200円もするので素人が購入するにはいささか高価すぎる)。
 情緒的な「戦争反対」を語らない方がよい。無条件に、「戦争は二度としてはいけない」などと語らない方がよい。八月になると日本のテレビ等はそんな(とくに老人の)声・思い出話で溢れるが、では、日清戦争も日ロ戦争も<してはいけなかった戦争>だったのか? 敗戦と被害の甚大さを体験した、1930年代以降の日中戦争+太平洋戦争の経験のみにもとづいて、一般的な「(すべての)戦争反対」論を導いてはいけない。
 こうした誘導を(策略をもって)行っているマスコミ(テレビ、新聞、出版社)を警戒しなくてはならない。
 一般的な「(すべての)戦争反対」論は、政党の中ではおそらく福島瑞穂の社民党の主張に最も近いだろうが、<軍事>に関する議論の忌避、<軍事>問題の検討の回避に結びついてゆく。社民党ほどではないとしても、そうした罠に、(民主党はむろんだが)自民党のかなりの部分も陥っているのではないだろうか。
 「正しい戦争」=やむをえない自衛自存のための国家「防衛戦争」はありうる。こうした考えが少しでもあれば、簡単に「不戦の誓い」などを語れないのではないか。
 〇戦争の記憶を風化させないために、NHK等は、生存者のいるかぎりでその<証言>をできるだけ得て、残していく方針らしい。上記の麻生太郎首相式辞の中にも、「悲惨な戦争の教訓を風化させることなく、次の世代に継承していかなければなりません」とある。
 しかし、注意しなければならないと思われるのは、<証言>は、つねにその証言の時点での情報や知識によってある意味では歪曲されて行われる、ということだ。<証言>の対象である戦闘行為・戦争被害等々のまさにその時点における発言ではなく、60年ほども過ぎて、従って<戦後民主主義>の風潮と現在の<体制的・大勢的>ムードの影響を受けて、過去の事実が、現代的<解釈>や<評価>を交えて語られる可能性も十分にある、ということだ。
 事実そのものは発掘し、記録・記憶されなければならないものが多いだろう。しかし、それと、その事実の<解釈>・<評価>とは別のものだ。
 <証言>の収集によって現代的<評価>を伴う何らかの「価値」観をNHK等が主張したいとするならば、それは真の歴史探究ではなく、特定の<政治活動>だ。NHKによる<証言>収集とその報道を、そのかぎりで、十分に警戒しておく必要があると思われる。 

0793/朝日新聞を批判した2007.07の古森義久ブログ。

 2007年7月の参院選の際の朝日新聞の報道ぶりは異常で、産経新聞は<何たる選挙戦!>と銘打つ連載をしていたし、古森義久の2007.07.11のブログのタイトルは「朝日新聞の倒閣キャンペーンの異様さ」だった。
 古森義久は2007.07.13のブログでは、「朝日新聞の倒閣キャンペーン社説ーー『前のめり』症候を診る」と題して、本欄で前回に引用・掲載した朝日新聞2007.07.12社説を、かなり詳しく批判的に分析していた。それをそのまま再掲してみよう
 なお、たんなる懐古趣味で二年前を思い出しているのではない。朝日新聞らが誘導した2007参院選での自民党大敗北こそが国会に「ねじれ」をもたらし、与党の政権運営を難しくしてきた。そして、今日がある。
 <四年間に四人もの首相>と批判的に述べられもするが、交替せざるを得なかった大きな背景は参院では野党が多数派だったことにある。また、明瞭に語られることは何故か少ないが、衆議院で与党が有していた2/3以上の多数を利用して再議決しないと、参議院で法律案が否決されてしまえば、いかなる法律も成立せず、法律制定によって政治・行政を行っていくことが困難だった。そしてまた、このことは、衆院2/3以上多数の放棄をほぼ意味する「衆院解散」を歴代首相、とくに麻生太郎首相が躊躇した大きな一因だった、と思われる。
 そして、現在、朝日新聞ら「左翼」が目論んだ<政権交代>が眼前にあるらしい。朝日新聞に二年前ほどの<異様さ>がないかもしれないのは、安倍・福田・麻生内閣時代にずっと、つねに与党を批判する方向で記事を書いてきたからだろう。<政権交代>にとって有利な情報は大きく、それにとって不利な情報は小さく、取り上げてきたのだ。むろん100%の有権者が朝日新聞の報道ぶりに影響を受けることはないが、5~20%の人々の投票行動を一定の方向に誘導することは十分にありうる。10%の票でも当落を決する力がある。
 世論調査の結果や選挙結果が、マスコミの大勢の論調の誘導力をあとで証明するだけ、になるとすれば、何と嘆かわしい現象だろう。
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 古森義久2007.07.13ブログ(全文、/は元来は改行)
 //「朝日新聞の倒閣キャンペーン社説ーー『前のめり』症候を診る
 朝日新聞を続けて論じるのも芸がないとは思うのですが、最新の社説一本を一読しただけで、自分がつい2日前に書いたことが裏づけられる思いに鼓舞されたから、と申しましょうか。/それほど偏向が顕著なのだともいえます。「安倍憎し」の私怨が暴走すれば、その前のめりは方向感覚を失い、閉塞だけが強まり、均衡をなくして、よろよろ、論理さえも薄れていく、ということでしょうか。/情から始まる一点集中傾向は、論理や事実に基づくはずの文章を書く人間の頭脳さえも痺れさせる。もって自戒ともしたい現象です。
 さて論題とする朝日新聞の社説は7月12日付、「参院選告示」「『安倍政治』への審判だ」という見出しでした。
 まず最大の特徴をいえば、看板に偽りあり、「安倍政治」への言及がほとんどないのです。あるのは反安倍勢力が取り上げるトラブル現象ばかりです。/まあ、順番に論評しましょう。社説の全文を紹介するわけにもいかないので、主要部分を順に引用しながら、コメントしていきます。
 <<「宙に浮いたり、消えたり」の年金不信、閣僚に相次いて発覚した「政治とカネ」のスキャンダル、無神経な失言の連発、いわば「逆風3点セット」にきりきり舞いの状態が続くなかで、選挙戦に突入することになった。/首相にとって、この選挙は小泉前首相の時代とは違う「安倍カラー」を前面に掲げ、有権者に問う場になるはずだった。そのためにこそ、国民投票法など対決色の強い法律を、採決強行を連発しながらどんどん通していった。/教育再生や集団的自衛権の解釈などでいくつもの有識者会議をつくり、提言を急がせたりもしている。/首相はテレビ局などを行脚して「この9か月の実績を評価してほしい」と訴えている。だが、逆風3点セットに直撃され、「年金記録信任選挙」(民主党の小沢代表)の様相を呈しているのはさぞかし不本意なことだろう。/むろん、年金の問題などはこの選挙の大きな争点だ。国民の不信や怒りにどう応え、安心できる制度、組織をつくるかを論じる必要がある。>>
 さあ、以上がこの社説の前半のほとんどです。/この部分での主眼はこの参院選挙を「年金選挙」あるいは「逆風3点セット選挙」と特徴づけている点です。見出しでは「安倍政治」全体への審判であるかのようにうたいながら、実際には安倍政権の政策自体からは外れたミスやスキャンダルに重点を置き、そのうえで小沢一郎氏の言をそのまま使って、「年金記録信任選挙」であるべきだという主張を述べているに等しいのです。
 一方、かんじんの「安倍政治」については、この社説は正面からはなにも触れていません。憲法改正という重大なテーマさえも、「国民投票法など対決色の強い法律」という一言ですませるのです。
 「安倍政治」を語るならば、当然、教育基本法の改正、憲法改正を目指しての国民投票法の成立、天下りを規制する公務員制度改革法の成立、防衛庁の省昇格、そして中国や韓国との関係改善、さらにはNATOとの初の首相レベルでの接触、インドやオーストラリアとの「民主主義の共通価値観」に基づく新連携などなどが、少なくとも言及されるべきでしょう。
 ところが、この朝日社説はこれら重要案件のほんの一部の、しかもその末端だけをとらえて、「負」の情緒いっぱいの主観的な表現でけなすだけです。
 「対決色の強い法律を」「採決強行を連発しながら、どんどん」「提言を急がせたり」という表現がそれです。
 そもそも安倍首相が主導した一連の重要法案成立を単に「安倍カラー」という皮相な描写でしか言及していないのも、なんとも情緒的に映ります。その背後に感じさせられる黒い影は、なんとか安倍政権を倒したい、という情念でしょうか。
 だからこの社説は結局は、今回の参院選は「安倍政治」の審判ではなく、「年金」や「逆風3点セット」への審判であり、そうであるべきだ、と主張していることになります。見出しから連想させられる重要政策案件の議論はまったくないのです。だから私は「看板に偽りあり」と評したわけです。
 さてこの社説はちょうど真ん中あたりで、さすがに気が引けたのか、あるいは欠陥に気づいたのか、安倍政権の政策面にも、あらためて触れてみせます。以下のような記述です。
 <<だが同時に、この9か月に安倍政治がやったこと、やらなかったことを、その手法も含めて有権者がしっかりと評価するのが、この選挙の重要な目的であることを忘れてはならない。>>
 さあ、こういう記述が出てくれば、当然、後に続くのは、その「安倍政治」の検証だと思わされます。
 ところがこの社説はそれが皆無なのです。安倍政権の政策の検証どころか、また論題は「逆風3点セット」にもどってしまうのです。/だから一つの「論説」としては構造的に支離滅裂、安倍叩きに没入するあまり、「論」の構成さえもヘナヘナ、朝日新聞が自分たちの気に入らない相手の言動を描写するときに愛用する表現でいえば、まさに「前のめり」のあまり、視力も知力も麻痺したとさえ、思わされます。
 この社説の結び近くでは、安倍政権の政策論に替わって、また以下のような記述が出てきます。読者に対し選挙への態度を呼びかける記述です。
 <<年金をはじめ、赤城農水相の事務所経費で再燃した「政治とカネ」の問題などの3点セットは、どれも大事なテーマである。>>
 やはりこの選挙では「安倍政治」ではなく、「逆風3点セット」をみよ、というアピールだともいえましょう。
 しかし同社説はここでまた気が引けたのか、その直後にいかにも体裁に以下のことを書いています。
 <<そして、これからの日本の政治のあり方をめぐって重要な選択が問われていることを心にとめておこう。>>
 これまた「日本の政治のあり方」や「重要な選択」についてはなんの説明もありません。/そして社説は次のような奇妙な記述で終わっています。
 <<安倍政治がめざす「戦後レジームからの脱却」か、小沢民主党がめざす政権交代可能な二大政党制か--。投票日までの18日間、しっかりと目を凝らしたい。>>
 同社説がここでやっと「戦後レジームからの脱却」をあげたことは評価しましょう。これこそ「安倍政治」の特徴だからです。しかし社説では前述のように、その内容の議論が皆無です。議論は「逆風3点セット」だけなのです。
 しかもこの結びは、「戦後レジームからの脱却」に替わる選択肢として、「政権交代可能な二大政党制」を記しています。この点が奇妙なのです。
 「戦後レジームからの脱却」が一つの選択肢ならば、他の選択肢はまずは「戦後レジームの保持」となるでしょう。そうでなくても、「戦後レジームからの脱却」以外の政策が示されるのが普通です。それがここでは一気に政策の論議や比較をすっ飛ばして、「政権交代」となります。/「政権交代可能な二大政党制」はすでに存在するではないですか。政権交代は衆院選挙で野党が勝てば、いつでも、いくらでも可能なのです。そのための二大政党制の政治メカンズムはすでに存在するのです。
 やはり朝日新聞にとってはこの参議院選挙は「政権交代」こそが目標なのだ、という本音が結びのこんな記述の構成にもあらわれている、と感じた次第でした。// 

0780/7/21TBS「ニュース23」、月刊正論8月号の潮匡人による上野千鶴子論評。

 〇たぶん衆院解散の7/21の夜のTBS系「ニュース23」にTBS政治部長とかの岩田(と聞こえた)某が登場し、その日に麻生太郎首相が民主党について党大会や議員総会の会場に日本国旗を掲げない政党だと批判的に指摘したことを捉えて、<保守層に訴えたいのだろうが、国旗掲揚は(国民の)義務ではないと言っていた筈なので違和感をもった>旨の、頓珍漢な民主党擁護発言をしていた(記憶による)。
 「国家」機構以外には日本国旗掲揚の義務はないとはいえるだろうが、大会等の場所に日本国旗を掲揚しているか否かは、どのような政党かを知るための参考材料にはなる。国旗不掲揚の真偽は確認していないが、事実だとすれば、民主党の<無国籍>ぶり、あるいは反<国歌・国旗>運動をしている日教組等との「連帯」ぶり、という民主党の性格を知る上でなかなか有益だ。
 <日本国旗を掲揚できない民主党>、これは自民党等によるアンチ・キャンペーンの一つにしてよいのではないか
 それにしても、上のようなことを言って自民党・首相批判するのが、東京キー局の「政治部長」なのだ。こんな程度の人物たちがテレビの「政治」報道や「政治」関係番組を作っているのだから、日本の政治が、そして有権者の行動が歪められないわけはない、と奇妙に納得する。

 〇月刊正論8月号(産経新聞社)の潮匡人の連載「リベラルな俗物」は今回は上野千鶴子をターゲットにし、「私怨が蠢く不潔で卑猥なフェミニスト」と題する(p.188-)。
 ご苦労な文章で、なるほど上野は「私怨が蠢く不潔で卑猥な」人物なのだろうが、潮匡人の手の負えない対象でもあるようだ。
 上野千鶴子を論じるならば、その「遊び」本は除いて、上野・家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平(岩波・1990)、上野・ナショナリズムとジェンダー(青土社、1998)あたり、とくに前者を対象にし、その<フェミニズム>の具体的内容自体を批判すべきだろう。
 上野千鶴子は、<非日本共産党系、マルクス主義的フェミニスト>だ。少なくとも、マルクス主義を利用して自らの「フェミニズム」体系?を構築しようとした人物だ。<非日本共産党系>又は<非組織系>だからこそ、マルクス主義的又は「左翼」であっても(あるいは、だからこそ)東京大学が受容したのだ。
 こうしたより本質的部分に、潮匡人の分析等は説き及んでいない。
 

 〇月刊WiLL9月号(ワック)で櫻井よしこ(「自民党に求められる覚悟」、p.60-)が「…突発的なことでもない限り、八月の選挙で民主党政権が誕生するのは避けられないだろう」とすでに書いているくらいだから(?)、八月末選挙の結果はすでにほとんど明らかなのだろう。
 自民党等政権のままで日本がよくなる保障は全くないが、民主党政権又は民主党中心政権が誕生すれば日本が<ますます悪くなる=消尽し・解体していく>のはほとんど明らかだ。当たり前のごとく、「民意・ミンイ」あるいは「民主主義」が<最善の・最も合理的な・最も正しい>選択・決定をもたらすわけではないことを指摘しておく必要がある。朝日新聞が推進し、日本共産党が容認している方向なのだから、なおさらだ。些か単純化しすぎだろうが、朝日新聞や日本共産党が主張又は容認する方向に日本が向かえば日本にロクなことはない、というのが<戦後日本の普遍的な鉄則>であることを想起する必要がある。
 多数派になるだろうと又は当選者が増加するだろうと<マスコミ>等で予想されている、そのような<空気を読んで>投票先政党を決める有権者が投票者の少なくとも5%はいそうだ(ひょっとすれば20%程度だろうか)。その5~20%によって、選挙の当落が決せられる-こんな馬鹿馬鹿しい現象はない。「民主主義」には、「国民の皆様」の判断にはとっくに幻滅しておくべきだろう。しかし、政治家もマスコミも「国民の皆様」にそんなことを公言できない。
 マニフェストの基本的項目に「防衛」の項がない政党・民主党が中心となった政権ができる……、まともな状況になるために、あと何年かかるのだろうか。取り返しがつくのならばまだよいのだが。
 日本共産党社会民主党の議席減少(ますますの「泡沫政党化」)だけが楽しみであるとは、何とつまらない選挙だろう。

0747/田母神俊雄・自衛隊風雲録(飛鳥新社、2009.05)より-2。

 (つづき)
 ② 以上の顛末(ここでは一部省略)につき、田母神俊雄はこうまとめる。
 「私が辞めるに至る顛末は、一切の弁明の機会を許さないという、完璧な言論封じであり、40年以上国のために汗を流してきた。三軍の一方の将に対する礼儀も作法も欠いた、極めて卑劣な策謀だったといえる」(p.254)。
 空幕長(航空幕僚長)というのは「5万」人航空自衛隊のトップだ(p.245)。
 顛末記の冒頭に次のようにも田母神俊雄は書いていた。
 「あの更迭劇は、増田好平防衛省事務次官の、私への私憤で始まったと認識している」(p.240)
 二 ほとんど感想を書く気もなくなるが心を奮い立たせて書くと…。
 「私憤」で航空自衛隊のトップ人事が左右されるとは、また上のごとき防衛大臣では、現在の防衛省・自衛隊は、<日本の安全>を守れる組織なのか、との深刻な疑問が湧く。
 増田好平は、かつてはいたはずの<サムライ>意識をもった、<武士道精神>らしきものをもった、目立たなくとも国家・国民のために奉じるような<官僚>ではなさそうだ。いじましい、小人物のようだ。そして、そのような官僚として、日本の歴史に小さな名をとどめるのだろう。
 再び、田母神俊雄いわく-増田好平は「守屋前次官と小池百合子大臣の喧嘩両成敗で、警察出身の官房長に内定していた防衛省次官の座を”棚牡丹”式に手に入れた人間だ。それに守屋前次官の”茶坊主”のような存在だったから省内の評判は決して良いとは言えない。…」
 田母神の立場からして多少は割り引いて読むとしても、こんな人物に<日本の防衛>のための枢要な事務を任せられるのか。防衛官僚(内局)すら<劣化>している。
 防衛省の事務方も(増田好平の意向を汲んでだろうが)、<記者が大勢きている、混乱するから来ないでくれ>とは何事だ。ひどいものだ。「記者」への情報提供くらい必要に応じて(利用するつもりで?)いくらでもやっているはずなのに。「混乱」=大勢の記者の参集を喜んでいる場合もあるはずなのに。何という小心者の集まりだろう。
 浜田靖一もひどく、結果として追認した麻生太郎もひどい。
 ますます、日本の将来に悲観的になる。
 以上、田母神俊雄・自衛隊風雲録(飛鳥新社、2009.05)より。

0711/朝日新聞4/23社説の<ご都合主義>-政教分離原則と靖国神社・伊勢神宮。

 一 新聞(一部?)報道によると、麻生太郎首相は、「集団的自衛権」に関する従来の政府解釈を改め、「集団的自衛権」の行使を肯定する方向の意向を明言した、という(この麻生発言以前の執筆と見られるが、この問題につき、月刊WiLL6月号の岡崎久彦「集団的自衛権を行使できるこれだけの理由」(p.50-)も参照)。
 結構なことだ。他にも、<非核三原則>、<武器輸出禁止三原則>などの、内閣法制局見解(解釈)に依拠したのかもしれない、政策方針が首相談話(国会での答弁)又は閣議決定(?)等で語られてきている。こんな基本的問題について国会による法律制定も議決もなく、内閣総理大臣の「一存」的なものを継続してきているのは奇妙だとは思うが、その点はとりあえず別として、そもそも憲法から導かれ出されないとも十分に考えられる上のような<-原則>の変更を思い切って行うべきだ。内閣法制局官僚が戦後当初又は占領期の「精神状態」・メンタリティでもってこうした基本的問題についての政策方針を左右しているとすれば(仮定形)、これも改めるべきだ。
 二 新聞・テレビ報道によると、麻生太郎首相は、靖国神社の春季例大祭に「真榊(まさかき)」を奉納した(私費を使って、かつ内閣総理大臣の肩書きを明記して)。
 参拝してもよいとは思うが、真榊奉納もまた結構なことだ。
 麻生首相・同内閣は、支持を高めたいならば、本来の「保守」層又は「ナショナリスト」(愛国派・国益重視派)による支持の拡大をこそ目指すべきだろう。
 三 麻生首相は今年初め、伊勢神宮を参拝した。前年は福田首相もそうしたし、その前年は安倍晋三もそうした。それ以前の首相も含めて、歴代の首相にとっての慣例にすでになっているように見える。今年正月の記憶はないが、昨年正月には、首相とは一日違いで、民主党・小沢一郎代表も伊勢神宮を参拝した、との報道があった。
 政党(野党)党首と内閣総理大臣とでは性格は異なる。
 重要なことは、あるいはここで言いたいのは、内閣総理大臣(首相)による伊勢神宮参拝について、憲法上の<政教分離>の観点からこれを疑問視したり批判するような論調は(一部の?憲法学者はともかくとして)マスコミには見られない、ということだ。少なくとも、マスコミの大勢が首相の伊勢神宮参拝を<政教分離>原則との関係で批判・疑問視することは全くなかった、と言ってよいだろう。
 朝日新聞が上のような批判・疑問視をしたという知識はないし、同社の記者が伊勢神宮参拝は「公人としてか、私人としてか」という質問を首相に対して発したという記憶はない(そういう報道はなされていないと思われる)。
 以上のことは、首相の伊勢神宮参拝を憲法(政教分離条項)との関係でも問題視しない雰囲気・論調が、朝日新聞も含む日本のマスコミにはある、ということを示している。
 四 上のことの論理的帰結は、内閣総理大臣の靖国神社参拝を、朝日新聞を含む日本のマスコミは、<政教分離>原則違反(又はその疑い)という理由では批判できない、ということの筈だ。
 伊勢神宮も靖国神社も、同じ神道の宗教施設だからだ。(厳密には、天皇家の「宗教」でもある神社神道が憲法20条で禁止される「宗教活動」という場合の「宗教」に当たるかという論点はある筈だと考えているが、今回は立ち入らない)
 前者の参拝は憲法20条(政教分離)に違反せず、後者は違反する(又は適合性は疑問だとする)、などと主張することは、論理一貫性を欠く、<ご都合主義>そのものだろう。
 ところが、朝日新聞の今年4/23社説は、麻生首相の真榊奉納は総選挙を意識した「ご都合主義」ではないかとの皮肉で結びつつ(最後部分の引用-「近づく総選挙を意識してのことなのだろうか。自ら参拝するつもりはないけれど、参拝推進派の有権者にそっぽを向かれるのは困る。せめて供え物でメッセージを送れないか。そんなご都合主義のようにも見えるのだが」)、上述の<ご都合主義>をまさしくさらけ出している
 朝日新聞の上の社説は、その一部で明確にこう書く。
 「いくら私費でも、首相の肩書での真榊奉納が政治色を帯びるのは避けられない。憲法の政教分離の原則に照らしても疑問はぬぐえない
 麻生首相はじめ歴代の首相はおそらくは私費を使ってであっても「首相」として伊勢神宮に参拝しているのだと思われる(具体的な奉納物等については知らないが、少なくとも「お賽銭」に該当するものは納めているはずだ)。
 そうだとすると、朝日新聞は、首相の伊勢神宮参拝についても、「憲法の政教分離の原則に照らしても疑問はぬぐえない」と書き、社説等で論陣を張るべきではないのか? こうした批判を、首相の伊勢神宮参拝について朝日新聞はしているのか!?
 朝日新聞の首相伊勢神宮参拝に関する全紙面を見ているわけではないので仮定形にしておくが、首相の伊勢神宮参拝を「憲法の政教分離の原則」に照らして疑問視していないとすれば、靖国神社についても同じ姿勢を貫くべきであり、靖国神社参拝・奉納についてのみ「憲法の政教分離の原則に照らしても疑問はぬぐえない」と社説(!)で書くのは、まさに<ご都合主義>そのものではないか?
 心ある者が、あるいはまともな神経・精神をもつ者が朝日新聞(社)の中にいるならば、上の疑問に答えてほしい。
 4/23社説の執筆者も含めて誰も答えられないとすれば、朝日新聞の<社説>などもう廃止したらどうか。あるいは、<政教分離>に関する記事を書く又は報道をする資格は
朝日新聞にはないことを自覚すべきではないか。
 朝日新聞がまともな・ふつうの新聞ではないことを改めて確認させてくれた4/23社説だった。こと靖国神社に関することとなると朝日新聞はますます頭がおかしくなって、論理・見解の首尾一貫性などはどうでもよくなるのだろう。
 五 なお、朝日新聞による首相靖国参拝・奉納批判の主な根拠は、4/23社説によると、「戦前、陸海軍が所管した靖国神社は、軍国主義の象徴的な存在であり、日本の大陸侵略や植民地支配の歴史と密接に重なる」ということにある。
 古いが朝日新聞2006年8/04社説はもう少し詳しく、あるいは中国・韓国関係をより強調して、「日本がかつて侵略し、植民地支配した中国や韓国がA級戦犯を合祀した靖国神社への首相の参拝に反発している。その思いにどう応えるかは、靖国問題を考えるうえで欠かすことのできない視点だ」、「あの戦争を計画・実行し、多くの日本国民を死なせ、アジアの人々に多大な犠牲を強いた指導者を祀る神社に、首相が参拝することの意味である。/戦争の過ちと責任を認め、その過去と決別することが、戦後日本の再出発の原点だ。国を代表する首相の靖国参拝は、その原点を揺るがせてしまう。だから、私たちは反対しているのである」と書いていた。
 このあたりの(朝日新聞が行うように上のように単純に判断できる問題とは断じて思えない)論点は一回では書ききれないし、多くの人がすでに議論していることなのでここでは立ち入らない。
 六 ついでに、この3年近く前の社説でも、「憲法に関する首相の強引な解釈もいただけない。憲法20条の政教分離原則は素通りして、…」と書いてもいて、やはり<政教分離>原則の関係で(靖国神社については)疑問視していることも明らかにしている。
 もう一度書くが、では首相の伊勢神宮参拝はどうなのか? その他の神社への「内閣総理大臣」の参拝・奉納等はどうなのか?
 さらについでに。今年4/23社説では「先の大戦の責任を負うべきA級戦犯を合祀したことで、天皇の参拝も75年を最後に止まった」と、2006年8/04社説では「昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を抱き、それが原因で参拝をやめたという側近の記録が明らかになった」と書いて、<いわゆるA級戦犯合祀>が天皇陛下のご親拝中断の原因だと断定する書き方をしている。しかし、これはまだ100%明確になっていることではない、と私は理解している。
 また、先帝陛下も今上天皇も「ご親拝」はされなくとも、春秋の例大祭等の際に何らかの「奉納」(という言葉は正式には適切ではないかもしれない)はなされているのであり、それは<いわゆるA級戦犯合祀>後も続いている。天皇(皇室)と靖国神社の関係が<A級戦犯合祀>によって途絶えた、と誤解しているとすれば、又はそういう誤解を意識的に読者に広めようとしてしているのだとすれば、それは誤りであるか、一種の悪辣な<誘導>に他ならない、と付記しておかねばならない。

0694/関岡英之・目覚める日本-泰平の世は終わった(PHP、2009.02)全読了。

 関岡英之・目覚める日本-泰平の世は終わった(PHP、2009.02)を、4/05に全読了。この人の本は所持していても読むのは初めて。すこぶる面白く、lehrreich だった。
 いちいちの紹介はしない。関岡によると、「日本の保守政治」はつぎの「三つの極」に収斂しようとしている。p.97-98(初出、Voice/2008.07号)。
 一つは、小泉純一郞、小池百合子、前原誠司など、「アメリカ的な市場原理を信奉する新自由主義派」。塩崎恭久渡辺喜美も「イデオロギー的に近い」。「アメリカの軍事力と資本力に頼ろうとする」傾向があり、この点で次の第二のグループとは「違いがない」。関岡は、渡辺喜美には「日本の国益より外国の利益を優先する姿勢」がある(p.46)、などとして厳しい。
 二つは、加藤紘一、山崎拓、仙谷由人など。「親中リベラル」という点で、古賀誠、二階俊博、公明党も「近い」。「中国、韓国・北朝鮮との結びつきやそのマンパワーに頼ろう」とする傾向が感じられる。第一とイデオロギー的には「反対」だが、「日本の自立を志向する」のではなく「外国頼み」という点では「違いがない」。
 三つは、「日本の主権と伝統を重んじる」、平沼赳夫、麻生太郎、中川昭一、安倍晋三
 関岡は第三の極を「日本を再生してくれる真の保守政治家として」支持しているようだ。

0515/中西輝政・日本の「岐路」-自滅からの脱却は可能か(文藝春秋、2008.05)を読む。

 中西輝政・日本の「岐路」-自滅からの脱却は可能か(文藝春秋、2008.05)新刊。といっても、計13の個別論考は2005.07~2008.05に文藝春秋(月刊)、諸君!(文藝春秋)、月刊・正論(産経新聞社)にいったん掲載されたものだ。但し、「まえがき」によると各稿について「尚若干の補筆」をしているらしい。たぶん殆どを既に読んだことがあるように思うが、「補筆」の内容、初出論文との違いを逐一確認する暇はない。
 1 「まえがき」の中で中西輝政は、「本音」・「理性」では(日本は)「正直言って、『もうここまで来たら……〔原文ママ〕』という結論めいた所」に落ちつく、「理性では、もう殆ど結論に達している」と述べている。これは、<今のままでは日本は「自滅」する>あるいは<いずれ日本は「日本」でなくなってしまう>という趣旨だろう。
 だがこんな本を出版するのは「私も『日本を信じている』からである」、と中西はいう。
 中西輝政にこんな弱音?と「ぎりぎり『日本を信じる』ことの大切さ」という精神論を語られると、率直に言って<気が滅入る>。
 だが、安倍晋三内閣の崩壊という「第三の敗戦」(上掲書p.74)のあと、明るい見通しを得る特段の材料もなく、このままズルズルと<何となく左翼>・<何となく反権力>の勢力(むろん中核には日本共産党、「政治謀略」朝日新聞、「左翼」学者・文化人らがいる)が日本全体を覆ってしまいそうで、怒り・憤懣を通り越した静かな諦念を感じるほどだから、中西の言葉に反対するわけにもいかない。私も「日本を信じる」ほかはないか?
 2 文藝春秋2007.11の「小泉純一郎が福田を倒す日」が「誰が『安倍晋三』を辞任に追い込んだのか」というタイトルに改められて収載されている(p.55~)。
 初出とどう変わったかを確認しないままたぶん再び読んでみると、新しいタイトルの問いの答えは次のようだ。
 ・安倍首相は小泉純一郎の如き「闘技(ゲーム)」ではなく「本当の戦い」を口に出したため、「国民のサディズム」によって倒され、「わが身を血に飢えた観衆」に差し出した。「政治を楽しみたい人々」には「憲法改正や教育基本法改正」は「抹香臭く、余りにも『場違い』」で、「しかも、年金という名の『パン』さえ、ろくに配られないことが発覚すると、大衆の怒りは頂点に達した」(p.57-58)。
 まず第一に「国民」・「大衆」・「観衆」・「政治を楽しみたい人々」が挙げられているのだろう。
 中西はこの箇所では書いていないが、「剣闘士の血みどろの闘い」に喝采する(「劇場型」から進化?した)「コロシアム型政治」の「大観衆(p.56)を特定方向へのムードへと煽り、酔わせたのは、主権者「国民」(=大観衆)に最も寄り添うことを自負する「政治謀略」朝日新聞を筆頭とする(反安倍で一致した)<左翼>マスメディアだった。別の箇所には次のようにある。
 ・「小泉クーポン選挙の大いなる負の遺産である『血に飢えた観衆が待ち構えて」いたし、「『朝日新聞』を先頭にメディアの大半は団塊左派の『反安倍世代』が牛耳っている。これではとても長期政権は望めない」(p.68)。
 「団塊左派」という言葉は誰がいつから使い始めたのだろう。些か分かりにくいが、とりあえず第二は、「朝日新聞」等のメディアだ。
 ・郵政民営化を否定する平沼赳夫の自民党復党を許そうとした安倍首相・麻生太郎幹事長は、小泉純一郎にとって「許すべからざる叛徒」になった。小泉が自分の後継者・安倍の「首をとらせてもよい」との「最終的な決断」をしたのは、この平沼復党問題が大きい(p.60)。
 第三は小泉。この中西の指摘どおりだとして、小泉はいつその「最終的な決断」をしたのだろうか。すでに2007参院選の前なのか、もっとあとでか?
 ・「最大の反安倍勢力であり、勝者となったのは、霞が関の官僚」だろう。安倍首相は公務員制度改革に乗り出し、「天下り」問題という「虎の尾を踏んだ」(p.66-67)。
 第四に(順番は影響力の大きさの順ではなさそうだ)、<霞が関の官僚>。
 要約的引用はしないが、第五に挙げられているのは、「ワシントンとくに国務省周辺の意図」だ(p.69)。テロ支援国家指定解除・国交正常化の可能性を追求するアメリカ(の一部勢力)にとって「北朝鮮強硬派の安倍」は邪魔だった、というわけだ。
 以上。タイトルが変えられているように、中西のこの論文は他にいろいろなことを書いており、とくに「小泉純一郎の再登場」の必然性を強調しているのが目につく。
 ブログらしきものを書き始めたのは、安倍晋三が小泉後の首相の有力候補になった頃だった。あれから2年は経つ。その間に安倍内閣が成立し、崩壊した。安倍晋三が復活(復権?)するかどうか、中西は「すべては今後の身の処し方にかかっている」、という(p.72)。

0302/参院選投票2日前-産経・櫻井よしこ談を手がかりに。

 産経7/27一面の<何たる選挙戦4>は「首相の理念・継続が大事」との櫻井よしこ氏の「談」。3までは産経の記者執筆だったので、体裁・形式にはやや違和感もある(櫻井氏は産経の記者扱いか?というような…)。
 櫻井氏の談には、いつものとおり殆ど異論はない。安倍首相の欠点もこう率直に書かれるとそうだっただろうな、と思える所もある。
 しかし、「私は、安倍政権が続いてほしいと考えるが…」という氏の、次の最後の言葉は余計又は早すぎはしないか。
 「安倍首相の継続を好ましいと思いつつも、万一の場合、まだ52歳なのだから、一度、退陣し、強靱なる精神を身につけてから再チャレンジするというほどの余裕を持ってほしい」。
 まだ参院選の投票は行われず、開票も行われず、結果も明らかになっていない。種々のよく似た予測が報道されているが、20-40%がまだ最終決定していないということも附加されており、本当のところは当日29日の夜の開票を待たないと分からないのではないか。各選挙区で接戦が続いているようだが、一つの選挙区の予測が違えば他も揃って違ってくる可能性があることはまだ否定できない。そもそもいずれかの新聞の予測どおりの結果になったことはこれまでの選挙で一度としてあったのだろうか。予測の範囲すらはみ出たこともあったのではないだろうか。
 従って、万一の場合」を語るのはまだ早すぎる。焦らなくてよい。
 そもそも、今回の選挙で安倍首相率いる自民党以外の政党に投票してはいけないことは、100%明瞭なことだ。それは、4月の東京都知事選において石原慎太郎候補以外の者に投票してはいけなかったのと全く同じことだ。
 多少の後退はやむを得ないとしても大幅な議席減少は、安倍氏が企図している政策推進を大きく阻害してしまう。「万が一」の場合は後継者が誰かにもよるが、よりスムーズに政権運営・政策実現がなされる保障は全くない。
 安倍首相が続投の意思を明確化しているのは正しい。
 選挙後の内閣改造で、守旧派組又は年寄り組を排除し、人心を一新する清新な内閣を作って、再スタートしてほしい(麻生太郎は幹事長。尾身・伊吹・柳沢らの頭の切れが悪くなっている老人組は壮年・若手と交替していただく)。
 基本方針バラバラ、多様といいつつレズビアン公表者・元在日韓国人、労組・労連代表者等の寄せ集めの民主党が伸張して、なぜ日本が良くなるのか。
 <安倍政権にお灸を>なんて言って遊んでいる余裕は日本にはない。
 安倍晋三政権を継続させるべきなのは当然だ。「安倍政権は歴代政権で唯一、北朝鮮が恐れた政権だ」(上掲・櫻井談)。日本を弱体化させてはならない。北朝鮮や中国を喜ばせてはならない(憲法改正=自衛軍正規認知を最も懼れているのは中国だろう)。
 民主党投票者のほとんどは北朝鮮や中国の怖さ・脅威を深刻には受け取っていない「甘さ」があるのだろう。理念的・主義的に親中国・親北朝鮮の者はやむをえないが、そうでない者はこぞって安倍・自民党にこそ投票すべきだ。

0156/宮崎哲弥の適確な「核論議」論と朝日新聞批判。

 些か古い話題だが、宮崎哲弥の主張は適確と考えられるので、記録として残しておく。彼は、週刊プレイボーイ2006年12/04号の時評でこう書いた。
 「近頃中川自民党政調会長や麻生外務大臣が核兵器の保有の是非を議論すること自体は別に悪くないんじゃないかという趣旨の発言を繰り返し野党やマスメディアからはその責任を追及されている。…批判する勢力は一体何を守ろうとしているのか。
 しつこいようだが、核保有是非論争を再論する。何度もいうが、私には議論もいけないという立場がさっぱり理解できない。もし閣僚や与党幹部が議論を禁じるべしと主張すれば憲法上の大問題となるが、議論を容認するならば全く差し支えない。むしろ、議論の封殺を企図するがごとき野党幹部の態度の方がよほど不審である。いやしくも国会議員やマスメディアがこんなバカげた論争で政治資源を濫費している国が日本以外のどこに存在するだろうか。
 「世界の目」とは次のようなものだ。<核兵器は偏在こそが怖い。広島、長崎の悲劇は米国だけが核を持っていたからで、米ソ冷戦期には使われなかった。…中東が不安定なのはイスラエルだけに核があるからで、東アジアも中国だけでは安定しない。日本も持てばいい>。
 これは、ゴリゴリのタカ派の発言ではない。朝日新聞10月30日付朝刊に掲載されたフランスの左翼リベラル派を代表する著名な知識人、エマニャエル・トッド氏のインタビュー記事の一節だ。さすがに朝日新聞の社論とは全く異なる見解なので、そのままではマズイと判断したのか、記事には「刺激的な議論になった」だの「頭の体操だと思ってお読みいただきたい」だのと、トッド氏には随分失礼な断り書きが入れられている。
 こういう蛇足を見ると、朝日新聞って本当に読者を信頼していないのだな、と痛感する。いや、もっと言えば、<世界の常識>が日本の各層に知れ渡り、市民が目覚めてしまうことを恐れているのだろう。
 朝日新聞の11月11日社説に本音がにじみ出ている。<世界の先頭に立って核不拡散条約(NPT)の重要性を訴えてきた日本が核保有へと急変すれば、国際社会での信用は地に落ちる。…米国には日米安保条約への不信の表明と受け止められる>。まず、核兵器保有論議是非論が核保有容認論にすり替わっていることに注意。ここの争点のすり替えも実に姑息だが今は措くとしよう。核保有なんぞしようするものなら<国際的に孤立するぞ><アメリカが懸念するぞ>といった他律的姿勢が露わになっている。
 
たしかに、日本が核を保有すれば北東アジアの軍事バランスは一変する。覇権国や周辺国がこれを警戒するのは当然だ。が、核保有とはそういう状況の醸成を目的として行なうものではないのだろうか。つまり、朝日新聞社説などに指摘されずとも、日本が核武装に踏み切る場合とは、そういう利害得失を勘案してもなお国益に資するという結論に至った時に決まっている。そうした議論をもう一度詰めてみようというのが中川氏や麻生氏の見解だが、それを批判する社説の中に議論の<結論>めいたものが混入しているのはいかなるわけか。典型的な<論点先取りの虚偽>ではないか。
 ちなみに日本テレビの最新の世論調査によれば、核について具体的な議論があってもよいという人の割合は実に72%に上っている。もはや市民の覚醒は止められなさそうだ
」。

 

-0057/朝日新聞は進路とは逆の方向に光を照し続けてほしい。

 朝日新聞が退潮を防ぐために「ふつうの」新聞になることを願ってはいない。新聞自体を廃刊していただくのがベストだが、そうでなければ、日本が進べき方向とは逆の方向に光を煌々と当ててくれる、逆の意味での「導きの灯火」の役割を見事に果たし続けてほしいものだ。
 ところで、有田芳生につき、この日記の09/06で今は日本共産党とは「一定の距離を保っているようだが」と書き、09/21には「当時は党員だったかと思える」と書いたが、彼自身のサイト内を見ていて正しい推測だったことが分かった。
 彼が編集者の一人となって日本共産党「除籍」の原因になった『日本共産党への手紙』(教育史料出版会、1990) の古書が今日配達されてきたのは不思議な偶然だ。
 人の良さそうな彼はしかし、コミュニズム又は共産党幻想から完全には抜けきってはおらず、「反体制」的心情を残しているかに見える。共産党員でなくなることが例えば自民党支持者に変わることを意味するわけではないのは当然のことだ。また、上の本も正面からの共産主義批判・日本共産党批判ではなく共産党員そのもの又は共産党の強いシンパの15人が日本共産党への注文等を書いたものにすぎないので、当面は読まずに積んでおこう。
 有田は核武装検討発言の中川昭一、麻生外相を「酔っぱらいのように声高に持論を主張」すればいいものではないと批判しているが、「酔っぱらいのように声高に」という副詞には必ずしも客観的でない感情が入っていると思う。
 また、彼のかかる批判は今朝の朝日社説とも同じなのだが、朝日の「なんとも危うく、不見識な発言だ。…聞き捨てならない」との冒頭の文などは<やや>ヒステリック又は感情的な印象がある。
 一方、本日の産経社説は「核武装・もう思考停止はやめよう」と題して朝日・有田と対立する。このあたりにも国論の大きな分裂がわが国にあることを感じるが、今の危機には間に合わないとしても一般論としては産経を支持したい。
 核の抑止力が第三次大戦を防ぎ、かつ軍備拡大競争に負けたことはソ連崩壊の一因となった。核保有国・中国との将来の本格的「闘い」を想定しておく必要もある…。安倍首相が言った如く、国会議員の自由な議論を封じることはできない。ましてや、マスコミ、一般国民は何でも自由に検討し議論できる。特定のテーマについてのタブー作りは、言論の自由を自ら放棄するに等しい。
ギャラリー
  • 2066/J・グレイ・わらの犬(2003)「序」②。
  • 2047/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)②。
  • 2013/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節①。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
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  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
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  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
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  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
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  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
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  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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