秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

麗澤大学出版会

2115/福田恆存「問ひ質したき事ども」(1981年)。

 福田恆存「問ひ質したき事ども」(1981年)/福田恆存評論集第12巻(麗澤大学出版会、2008)所収、p.107-p.155。
 日記ふうの文章で、興味深いことが書かれている。論述の順に従う。秋月の現在の関心によるので、以下の他にも取り上げるべき論点があることを、否定するものではない。
 福田恆存の文章の引用部分は、勝手に<新仮名づかい>に改めている。
 1/サンケイ新聞「正論」欄編集者。 
  ・この一年、「正論」欄に私への執筆依頼がない。「正論」メンバーの数は78人で1人およそ年に3-4回に書くが、「私が1年間、何も書かぬというのは変である」。
  ・私は「要するに、吾々は皆、売文業者なのだ」から読者の気分も想定して覚悟した方がいいと思いながらも、「心安だてに」某人に、「S氏」が「誰々には書かせるなと言っており、その表に私は挙げられているそうですよ」と軽口を叩いた。
  ・昨年に「正論」の新旧担当者と逢ったとき、旧氏は<そんな馬鹿なことはない、新年に機会を待っているのだろう」と言い、新氏も<正月3日か5日にお願いしようと思っている>と言う。しかし、用意して待っていたが音沙汰がない。新氏の苦衷を想像した-「S氏は大ボス」で、その下に立っていると被害はない。
  ***サンケイ新聞は改憲派を宣言しているのに「正論」欄には殆どそれが出ない、不思議だ、から始まる。自分(福田)は書きたいのに、というのが伏線。「大ボス」-「編集担当者」の関係というのは、現在でもあるのではないか。
  2/日本文化会議の討論会での江藤淳・基調報告。
  ・Voice1月号に去年(1980年?)9月23日のこの討論会の記事がある。<日本存立の条件と目標>が主題。
  ・江藤淳の基調報告「交戦権不承認が日本を拘束している」。これは「おかしい」。
  ***ここにも<日本文化会議>の活動が出てくる。
 最後の「おかしい」とは批判的な言葉で、江藤がアメリカまで行って資料を収集するまでもない等々とクレームをつけている。上掲書で6頁にわたるが、省略。
 3/渡部昇一批判-福田の清水幾太郎批判が契機。
  ・清水幾太郎・戦後を疑う(講談社、1980)を批判したら、多くの者が「嫉妬心から文句を付けた」と勘違いしたらしい。が、「私という人間と嫉妬という感情とは、およそ縁がない。嫉妬に限らず、羨望、虚栄心の類いは負の情念であり、余り生産的ではないからであろう」。嫉妬をうんぬんする「羞恥心や自意識」をみな持っているだろうと思っていたら、間違いだった。諸君!(1980年?)12月号の渡部昇一・西義之・小田晋の三氏の座談会は、「私の清水批判を読んでいないか、読んでも真意が解らなかったか、そのどちらか」だ。
  ・渡部昇一発言-「あの清水さんがいまは親米派になっている。ぼくは、『ああ、いいこっちゃ』と思いますがね。『何だいま頃帰って来やがって』という受け取り方はどうなんでしようか。主義の前に私情が先立っているような気がする」。
  ・渡部は「冗談を言ってはいけない」。1960年の清水ではなく、「戦前」と「今」と「何度となく変わった清水」を問題にしている。清水・わが人生の断片(文藝春秋、1975)にも「書き漏らして」いる清水の「真の姿」を問題にしている。渡部のごとく「ああ、いいこっちゃ」では済まされない。
  ・渡部昇一発言-「話題」は「すべて清水幾太郎」で、防衛について「議論も出来ない状態がいや」だ。「そのムードを打ち破ってくれただけでも価値がある」。
  ・「とんでもない話だ」。清水「核の選択」は忘れかけられている。防衛について「議論も出来ない状態」というものはどこにもなかった。「あったとすれば、渡部氏にとってだけであろう」。
 ・渡部昇一発言-「節操の美学」というならば「回心の美学」もある。「聖アウグスティヌス」のように「コロッとひっくり返っ」た聖人もいる。「何回も」は困るが「一回はいいんです」。
  ・清水の「変身」には「節操」という道徳などない。小田晋も「聖アウグスティヌス」と違って「徐々に少しずつ、回心」しており、「節操の美学」か「知的生産性」かという選択もあった、と「おづおづ反論している」。「『節操の美学』などと、大げさなことをいうりはやめてもらいたい」。
  ・私は<日刊福井>に「売文業者をたしなめる」を書いて、渡部昇一を「評した」。-「アウグスティヌスは回心後」、「己が過ちの告白と神の賛美に終始し」た。清水のように「派手に自己美化など試みていない」。「アウグスティヌスと清水氏を同日に論ずる頓狂な男が何処にいる」。
  ・「右の一事に限らぬ。最近の渡部氏のやっつけ仕事には目に余るものがあ」る。「いづれその公害除去に乗出す積りだが、ここではただ一言、渡部氏に言っておく。なぜあなたは保守と革新という出来合いの観念でしか物を考えられないのか。右なら身方、左なら敵という考え方しか出来ないのか。その点、吾々を保守反動と見なす左翼と何処も違いはしない」。「左翼と、左翼とあれば頭から敵視するあなたは、所詮は一つ穴の狢であり、同じ平面上で殴り合い、綱引きをやっている内ゲバ仲間としか思えない」。「あなたの正体は共産主義者と同じで、人間の不幸はすべて金で解決出来ると一途に思詰めている野郎自大の成上り者に過ぎぬではないか」。
  ・渡部昇一発言-「清水さんの商人の血は意外に大きい」。「商人というのは、売れるならば」去年反物屋で今年ブティックでも「いっこう構わないと考える」。それは「自分の才覚のあらわれなんだ」
  ・「よくも、まぁ、こんなことが言えたものだ。これでは清水氏の『回心』も、一回はいいと言いながら、二回でも三回でも認める気と見える」。
  ***「戦後知識人・文化人」(「進歩的」か「保守的」かを問わず)を語る場合に、清水幾太郎は外せない。それはともかく、ここでの福田による渡部昇一批判は、のちの渡部昇一を知っても、適切だと思える(1980年に渡部は50歳)。
 福田は渡部昇一と「左翼」は「所詮は一つ穴の狢」だとし、「あなたの正体は共産主義者と同じ」とまで言っている。櫻井よしこと不破哲三の共通性・類似性のほか、日本会議と日本共産党の共通性・類似性もまた、この欄で記したことがある。
 福田恆存は、かなり本質的な点を見抜いていたように見える。
 上の最後に出てくる「商人」論は、渡部昇一自身が文章書き「商人」=「売文業者」だ(だった)とということを示唆的にだが明瞭に示している、と読める。
 直接に接したことがあるからなのか、岩田温も、こんな渡部昇一を「尊敬」していたのでは、ロクな学者・研究者、評論家になれはしないだろう。まだ若いのだから少しは「回心」した方がよい。
 所持していないが、西尾幹二は最近に渡部昇一との共著か対談書を刊行したらしく(またはその予定で)、<渡部氏との違いがよく分かると思う>という旨を、たぶん自分のサイトに書いていた。こんなことを書いていること自体が、大きくは<渡部昇一と同じ世界>にいる(いた)ことを、西尾自身が述べていることになると思われる。櫻井よしこらは「保守の核心層」ではないと批判しながらも、西尾は日本会議・櫻井よしこらが形成する<いわゆる保守>の世界に(その端っこにでも)、身を置いておきたいのだろう。神話論まで持ち出しての<女性・女系天皇否定論>はその証し。

1896/小川榮太郎の「文学」・杉田水脈の「コミンテルン」②。

 まず、前回の余録。 
 杉田水脈は語る-「子供を家庭から引き離し、保育所などの施設で洗脳する」という「旧ソ連が共産主義体制の中で取り組み、失敗したモデル」。
 たしかに、たぶんレーニンではなくスターリンのもとで、子どもに両親(二人またはいずれか)の「ブルジョア」的言動を学校の教師とか党少年団の幹部とかに<告げ口>させるというようなことがあったようだ。
 どの程度徹底されたのかは知らない。しかし、東ドイツでも第二次大戦後に、夫婦のいずれかが片方の言動を国家保安省=シュタージに「報告」=「密告」していることも少なくなかったというのだから、現在日本では<想像を超える>。
 しかし、「ブルジョア」的言動か否かを判断できるのは日本でいうと小学生くらい以上だろうから、「保育所」の児童ではまだそこまでの能力はないのではないか。
 これはそもそも、産まれたヒト・人間を「社会」・「環境」がどの程度「変化」させうるのか、という基本問題にかかわる。だが、ともあれ、「保育所」の児童の「洗脳」を語る場合に、杉田水脈は具体的にどういうことを想定したのだろうか。
 さる大阪府豊中市内の保育園か幼稚園で、子どもたちにそのときの総理大臣に感謝する言葉を一斉に連呼させていた例も平成日本であったようだから、スターリン(様?)に対してか共産党体制に対してか、感謝を捧げ、スターリン・ソ連万歳!と言わせるくらいの「洗脳」はできるだろうが、杉田水脈はそれ以上に、何を想定していたのだろう。
 保育所児童がマルクス=レーニン主義を理解するのはまだ無理で、<歴史的唯物論>はむつかしすぎるのではないか?
 そうだとすると、ソ連が日本でいう小学生程度未満の「子供を家庭から引き離し」た目的は、その母親を労働力として利用するために「家庭」に置かない、「育児」のために「家庭で子どもにかかりきりにさせる」のではなく「外」=社会に出て、男性(子どもにとっての父親を含む)と同様に「労働」力として使うことにあったのではないか、と思われる。
 1917年末の立憲会議選挙(ボルシェヴィキ獲得票24%、招集後に議論なく解散)は男女を含むいわゆる普通選挙で、かつ比例代表制的な「理想」に近いほどの?方式の選挙だったともいわれる。
 したがってもともと、「社会主義」には男女平等の主張は強かったのかもしれないが、その重要な帰結の一つは、「(社会的)労働」も男女が対等に行う、ということだったと考えられる。
 かつまた、当時のソ連の経済状態からして、男性を中心とする「労働」だけでは決定的に足りなかった。囚人たちも「捕虜」たちも、労働に動員しなければならなかった。
 そのような状況では、子どもを生んだ女性たちの力を「家庭内で育児にほとんど費やさせる」余裕など、ソ連にはなかった、と思われる。
 100人の女性が多く見積もって200人の幼児・児童の「子育て」に各家庭で関与するよりも、20人の「保育士」が200人の幼児・児童を世話をする方が、5倍ほども「効率」がよい。-各家庭または母親等の「個性的」子育て・しつけはできないとしても。
 以上のようなことから、「子供を家庭から引き離し、保育所などの施設」で受け入れる必要がまずあったのであって、「洗脳」は、幼児や保育園児童については二次的、三次的なものでなかっただろうか。
 私はソ連史、ヒトの乳幼児時期や育児論、に詳しくはないし、上の数字も適当なものだ。
 しかし、女性の「労働」環境がソ連と現在の日本とでは出発点から異なることを無視してはいけないように思われる。
 多数の女性が「社会」に進出して?「工場」等で「労働」するようになると、それなりの(女性の特有性に配慮した)「女性福祉」の必要が、ソ連においてすら?必要になる。
 一般的にソ連または社会主義体制は「福祉に厚い(厚かった)」という宣伝を、資本主義諸国の状況と単純に比較して、前者を「讃美」・「称揚」することはできないのだ。-このトリックをいまだに語る日本人は少なくない。
 ともあれ、杉田水脈の「思考」はまだ不足しているのではないか、ということだ。
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 かつて、つぎの本があり、上下二巻を私は面白く読んだ。
 遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫 1945-1970/上・下(麗澤大学出版会、2010)。
 文学または文芸分野の著作かにも感じられるが、しかし、著者は法学部出身で政党活動にも関係していたからでもあろう、タイトルの二人の言説の比較、経緯等をときどきの「政治」の世界とその歴史の中で位置づけ、論述していたのが興味深くて、かなり一挙に読み終えた。当時の自分の関心にも適合していたのだろう。
 だが翻って感じるのは、この遠藤浩一(故人)の仕事・著作は、いったいいかなる性格の知的営為であって、無理やり分けるとしていかなる<ジャンル>のものなのだろう、ということだ。
 日本戦後史の一部の「歴史研究」という意図があるいはあったかにも見える。「文芸」も「文芸評論」も作家の「小説」類も、歴史的叙述の対象に、それらを対象に限ったとしても、なりうる。しかし、著者は正面からその旨を謳ってはいなかった。
 むしろ、記憶に残る印象は、二人の文芸・文学「知識人」を素材にした、戦後の「政治」とその歴史の一端についての、遠藤による<物語>または<作品>だった、ということだ。
 最近までも含めて、「歴史」に関する書き物での、いったいいかなるレベルの叙述なのかが曖昧なものがきわめて多いように見える。
 単純に二分すると、歴史「研究」書又は歴史「研究」を基礎にした一般向け書物なのか、それとも歴史に関する「お話」、個人的に思いつきや思い込みを含めて書いた「物語」、あるいは後者を含む意味での、要するに歴史叙述に名を借りた「作品」か。(これらとは、最初から歴史「小説」と明言されているものはー「時代小説」も含めてー、史料を踏まえていても、もちろん区別され、別論だ。)
 むろん、このように単純化はできない。前者を歴史「学界」または「アカデミズム」の一員によるものに限るのもおそらくやや狭すぎる。
 井沢元彦の<歴史研究>をアカデミズムは無視するかもしれないが、単なるマニア、歴史好きのしろうと(私のような)では、この井沢はないだろう。
 しろうとよりは多数の知識をもっていて「専門家」とすら自己認識している可能性すらあるようにも見える八幡和郎は、しかし、日本史の「専門家」では全くないだろう。歴史好きの平均的なしろうと(私のような)よりは「かなりよく知っている」程度にとどまると思われる。
 長々と余計なことを書いているようでもあるが、「歴史」に関する話題に収斂させたいのではない。
 小川榮太郎の文章を読んでいて興味深く思うのは、「文論壇」とか「文・論壇」とかのあまり見たことがない言葉が用いられていて、どうやら「文壇と論壇」を合わせたものを意味させているようであることだ。
 小川はどうも主観的には、「文壇」と「論壇」の両方で活躍??しているつもりらしい。
 先に遠藤浩一の著について感じた、これはいかなる性質の、どの分野の言述なのか、が小川榮太郎についても問題になりうる。
 いかほどに深く、この点を小川榮太郎が思考しているかは、疑わしい。
 <文学的に政治を語る>のは、より正確には<文学・文芸評論家の感覚で政治そのものを論じようとする>のは、そもそも間違っているのではないか。
 いや、小林秀雄も、福田恆存も、あるいは三島由紀夫も、とか小川は言い出すかもしれない。しかし、あくまで現時点での個人的な印象・感覚だが、これら三人は、<文学・文芸>の分限とでもいうべきものを弁えており、<政治そのもの>に没入はしなかった。
 むろん三島由紀夫の自衛隊・市ヶ谷での1970年の行動は、<政治そのもの>であって、<文学・文芸>の分限を超えるものであることを三島自身は深く自覚・意識していたに違いない。このような意味で、同じ人間が時機や特定の言動について、二つの異なる世界を生きることはあるが、同じ人間が同じ時機と同じ言動によって異なる二つの世界を生きることを(三島由紀夫はかりに別論としても)、小林秀雄も福田恆存も慎重に避けていたのではないだろうか。
 小川榮太郎が<文学的に政治を語る>のは、より正確には<文学・文芸評論家の感覚で政治そのものを論じようとする>のは、間違っているのではないか。
 むろん、「文学・文芸評論家」ではなく、「政治評論家」あるいはさらに「政治活動家」として自分は言動している、と言うのであれぱ、それでよい。それで一貫はしている。
 (つづく)

1122/西尾幹二全集第2巻(2012.04)のごく一部。

 西尾幹二が福田恆存を追悼して書いた文章の中に以下の部分がある。
 「マルクス主義を一種の身分証明のように利用して、反米・反政府を自明のよう語りながら、しかも日本共産党の過ちをも批判するという当時のどっちつかずの知識人の姿勢は、恐らく今なおリベラルの名で語られる政治潮流とどこかでつながっている。/福田氏が闘った相手はまさにこれである」。
 「現実を動かした強靱な精神―福田恆存氏を悼む」西尾幹二全集第2巻(第三回配本)所収p.299(国書刊行会、2012.04。初出は1994.11)。
 福田恆存の初期の評論「一匹と九十九匹と」に言及して「当時」と言っている。福田のこの評論は1946年(昭和21年)11月に書かれ、翌年3月刊の雑誌に発表されている(福田恆存評論集第一巻所収p.316以下、麗澤大学出版会・2009.09)。
 いつぞや、反自民・非共産で、後者よりの「左翼」が現在の日本の学者・知識人にとってもっとも安全な立ち位置だ、という旨を書いたことがある。
 さすがに現在では「マルクス主義を一種の身分証明のように利用して…」とは言い難く、<反自民・「左翼」ぶりを身分証明のように利用して、かつ日本共産党そのものとも一体化せす(同党に批判的な眼も向けつつ)…>とかに、少しは表現を変える必要があるだろうが、「リベラルの名で語られる政治潮流」の姿は、西尾幹二が上のように書いてから20年近く経っても、さらには福田恆存の「当時」から60年以上経っても、本質的には変わっていないようだ。その点が興味深く、ここに引用する気になった。
 西尾幹二が初めて読んだ福田恆存の評論は「芸術とは何か」で1950年のもの、60年安保騒擾の際に西尾の救いとなったのは福田の「常識に環れ」らしく、これは1960年のものだ(それぞれ、福田恆存評論集第一巻、第七巻に所収)。
 他にも有名な「平和論の進め方についての疑問」(福田恆存評論集第三巻)などに、西尾は言及している。
 読んだことがあるものもある。あらためて、多くの福田恆存論考をじっくりと読みたいものだ。そう思わせる「評論」が今日では少なくなっていると思われる。西尾幹二の書くものもまた、私には一部の内容・主張に不満があるが、数少ない「評論家」であることは間違いないだろう。 

0965/遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫(下)における三島・福田対談。

 遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫(下)(麗澤大学出版会、2010.04)p.264~は、持丸博=佐藤松男の対談著(文藝春秋、2010.10)が「たった一度の対決」としていた福田恆存=三島由紀夫の対談「文武両道と死の哲学」にも言及している。こちらの方が、内容は濃いと思われるにもかかわらず、すんなりと読める。
 遠藤浩一著の概要をメモしておく。
 「生を充実させる」前提の「死を引きうける覚悟」、「死の衝動が充たされる国家」の再建という編集部の企図・問題意識を福田・三島は共有していると思われたが、二人は①「例えば高坂正堯や永井陽之助あたりの現実肯定主義」 、②「現行憲法」には批判的または懐疑的・否定的という点では同じだったにもかかわらず、福田が現憲法無効化を含む「現状変革」は「結局、力でどうにもなる」と「ドライかつラジカルな現実主義」を突き付けるのに対して、三島は「どういうわけか厳密な法律論」を振りかざす。

 三島は「クーデターを正当ならしめる法的規制がない」、大日本帝国憲法には「法律以上の実体」、「国体」・「社会秩序」等の「独特なもの」がひっついていたために(正当性・正統性を付与する根拠が)あった、という。福田は「法律なんてものは力でどうにでもなる」ことを「今日の新憲法成立」は示しているとするが、三島はクーデターによって「帝国憲法」に戻し、また「改訂」すると言ったって「民衆がついてくるわけない」と反論する。福田はさらに「民衆はどうにでもなるし、法律にたいしてそんな厳格な気持をもっていない」と反応する(この段落の「」引用は、遠藤も引用する座談会からの直接引用)。

 なるほど「力」を万能視するかのような福田と法的正当性を求める三島の問答は「まったく嚙み合っていない」。にもかかわらず、(遠藤浩一によると)「きわめて重要なこと」、すなわち両人の「考え方の基本――現実主義と反現実主義の核心」が示されている。
 現憲法は「力」で制定されたのだから別の「力」で元に戻せばよいとするのが福田の現実主義と反現実肯定主義だ。天皇を無視してはおらず、「法」を超越したところに天皇は在る、「憲法は変わったって、天皇は天皇じゃないか」と見る。
 一方で三島が拘泥するのは「錦の御旗」=正統性であり、正統性なきクーデターが「天皇の存立基盤を脅かす」ことを怖れる。

 福田の対「民衆」観は「現実的で、醒めている」が、三島にとっての「秩序の源泉」は「力」にではなく「天皇」にある。ここに三島の「現実主義と反現実肯定主義」があった。

 このような両者の違いを指摘し、「対決」させるだけで、はたして今日、いかほどの建設的な意味があるのか、とも感じられる。しかし、遠藤浩一は二人は「同じところに立っているようでいて、その見方は決して交わることがない」としつつ、「現実肯定主義への疑問においては完全に重なり合う」、とここでの部分をまとていることに注目しておきたい。三島が「それは全く同感だな」、「そうなんだ」とも発言している二人の若干のやりとりを直接に引用したあと、遠藤は次のように自分の文章で書く。

 福田恆存の「理想に殉じて死ぬのも人間の本能だ」との指摘は三島由紀夫の示した「死への衝動」に通じる。「理想に殉じて死ぬ」のは人間だけの本能だというまっとうな「人間観」に照らすと、「戦後の日本人がいかに非人間的な生き方をしてきたか」と愕然となる。戦後日本人は「現実肯定主義という観念を弄び、あるいはそれに弄ばれつつ、もっぱら生の衝動を満たすことに余念がない」。/「現実肯定主義は個人の生の衝動の阻害要因ともなりうる。生命至上主義に立つ戦後日本人の生というものがどこか浮き足立っていて、『公』を指向していないことはもちろんのこと、『私』も本質的なところで満足させていないのは、福田が言う『人間だけがもつ本能』を無視し、拒絶しているからである。私たちは自分のためだけに、自分の生をまっとうするためだけに生きているようでいて、その実、それさえ満足させていない、それは『私』の中に、守るべき何者も見出せていないからである」(p.269)。

 なかなか見事な文章であり、見事な指摘ではないか。樋口陽一らの代表的憲法学者が現憲法上最高の価値・原理だとして強調する「個人(主義)」、「個人の(尊厳の)尊重」に対する、立派な(かつ相当に皮肉の効いた)反論にもなっているようにも読める。

 なお、このあと「官僚」にかかわる福田・三島のやりとりとそれに関連する遠藤の叙述もあるが省略。また、歴史的かな遣いは新かな遣いに改めた。

 遠藤浩一は、上の部分を含む章を次の文章で結んでいる。

 「三島由紀夫は…『日本』に殉じて自決した。少なくとも彼だけは『死の哲学』を再建したのである」(p.275)。

 以上に言及した部分だけでも、持丸=佐藤の対談著よりは面白い。

 だが、遠藤浩一の著全体を見ると、引用・メモしたいところは多数あり、今回の上の部分などは優先順位はかなり低い。

 櫻井よしこは、どこかの雑誌・週刊誌のコラムで、遠藤浩一の上掲書を「抜群に面白い」と評しているだろうか。
 追記-「生命尊重第一主義」批判・「死への衝動」に関連する、三島由紀夫1970.11.25<檄>の一部。

 「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか」。

0962/櫻井よしこと持丸博=佐藤松男と大熊信行。

 櫻井よしこが週刊新潮12/23号で肯定的に言及していたので、持丸博=佐藤松男・証言/三島由紀夫・福田恆存たった一度の対決(文藝春秋、2010)を入手して、読んで、いや全部を読もうとしてみた。

 だが、第二章の終わりあたりで、全体の3割くらいまで進んで、止めた。面白くない。
 三島由紀夫と福田恆存の「対決」は「たった一度」ではないのでないかと12/17に書いたが、この本のp.7によると、他に対談の機会はあったことには触れていないものの、「政治的、思想テーマについて」の「たった一度の対談」だとの趣旨のようだ。なおも誤解を招きうるとは思うが、12/17の批判的コメントは(全部ではなく)かなりの程度で撤回しておく。
 ともあれ、上の本は、最初に三島・福田の「対決」の「要旨」を掲載したうえで、あとは持丸博と佐藤松男の「対談」を内容とする。

 櫻井よしこは多くの三島論・福田論があったが「その中で、持丸、佐藤両氏が論じた本書は抜群に面白い」と評している(上記週刊誌p.138)。

 櫻井よしこは全部をきちんと読めた・読んだのだろうか。適当な(当事者たちに嫌われない)褒め方をしているにすぎないように思われる。

 この本の対談者二人は三島と福田にそれぞれに<私淑>した人物で、三島・福田の知られざる個人的言動がふんだんに語られていれば興味も湧くが、三島・福田の一つの「対談」を主たる材料にして、三島・福田と同レベルで、彼らの「思想」・「考え方」をあるときは代理してのようにあるときは独自の解釈を展開するように、語り合っている(全部を読んだわけではない)。持丸博と佐藤松男はそれぞれこれまでに三島や福田についての研究書なり評論書を刊行した実績はなく、どうやら初めての著書(対談書だが)のようだ。そのような二人が、いくらかつて三島・福田と物理的に「近い」場所にいたとしても、本格的な三島論・福田論を語るのは無理というものだろう。

 多少は具体的に述べれば、日本国憲法との関係で三島が使った「縄抜け派」という語を契機として示された二人の憲法感覚の違いは、持丸・佐藤のように説明または分析されるものなのか、疑問だ(p.32-37)。また、「国家(のエゴイズム)」と「天皇」の関係についての三島・福田の対論内容も、持丸・佐藤のように説明または分析されるものなのか、疑問だ(p.41-)。

 持丸博は<国家を超えた絶対的価値>の存否に関連して日本と西洋の違いや「キリスト教」に言及し、福田と三島の違いは「福田恆存は認識者」であることだ、「世界を認識」できるが、「絶対的な存在、そんな世界があるということを認識しているがゆえに…三島先生のような行為はできなかった」、「あの行為こそが三島由紀夫の限界」だとか語り、佐藤松男は福田は三島に「絶対的な価値は何か」を問うているのではなく「国家を超えた絶対的な何ものかを追い求めて」いく必要を語っているのだ、などと反応している(p.48-50)。

 このあたりのやりとりは(も)、対談の原文をきちんと読まず、かつ三島・福田について詳しくは知らないからかもしれないが、ほとんど理解できない。三島・福田が使った表面的な言葉・文章を手がかりにして、<空を掻く>ような議論をしている可能性を否定できない。

 もともと、「政治的、思想テーマについて」の唯一の「対談」として語られた中での、三島由紀夫と福田恆存の言葉・文章、相互の「やりとり」の関係のみをほとんど唯一の手がかりにして、三島・福田の「思想」・「考え方」の違い等を析出しようとするのは、無理があるのではないか。

 対談では、ふつうの単独執筆の文章・論考等と違って、概念・論理ともに厳密な議論が少なくとも十分にはできはしないだろうと思われる。

 三島由紀夫にしろ福田恆存にせよ長大な個人「全集」を遺しているわけで、それら全体から二人の「政治的、思想テーマ」に関する立脚点・発想・論理等々を(違いも含めて)明らかにすべきだろう。

 遠藤浩一・三島由紀夫と福田恆存(上)・(下)(麗澤大学出版会、2010)はそのような試みで、この二人の書いた文献を相当に広く渉猟しかつかなり深く読んだ上で、両者を分析または対比させているようだ。だからこそ興味をもって(時間はかかったが)読み終えた。しかし、持丸博=佐藤松男の本は約70頁でもう厭きてしまった。

 櫻井よしこに尋ねたいものだ。持丸博=佐藤松男の本が「抜群に面白い」というならば、遠藤浩一の本はいったいどうなのだ。櫻井よしこは、遠藤浩一の上記著書は読んでいない可能性があるだろう。

 ついでに、再び、櫻井よしこの上掲の週刊新潮12/23号の文章に戻る。
 櫻井よしこは、持丸博=佐藤松男の本に触れる中で佐藤が言及する大熊信行・日本の虚妄―戦後民主主義批判(論創社、2009)にも触れて、「大熊の主張はもっともだ」と書いている(p.138)。

 そこで紹介されているごく一部の大熊の発言だけに限れば「もっとも」なのかもしれないが、大熊信行は決して<保守派>の論者ではなく、「護憲」(九条2項改正反対)論者だ。タイトル(書名)に惑わされてはいけない。大熊は「戦後民主主義」だけを批判しているのではない。

 櫻井よしこが不用意に名を出すことによって、不必要な誤解を招く可能性もある。一部を読んだだけで、とか、引用されているのを間接的に読んで、というだけで簡単に肯定的に(または逆に消極的に)評価するのは、産経新聞社から<正論大賞>を受けたらしい「コラムニスト」あるいは「評論家」にはふさわしくないだろう。

0955/週刊新潮12/23号の櫻井よしこ・連載コラムと福田恆存。

 週刊新潮12/23号櫻井よしこ・連載コラムは、持丸博=佐藤松男・証言/三島由紀夫・福田恆存たった一度の対決(文藝春秋、2010)に言及し、自らの文章として、「1960年の安保闘争から70年の安保闘争まで、左翼的思想で満ちていた日本で孤高の闘いを続けた福田恆存と三島由紀夫はたった一度、『論争ジャーナル』という雑誌で対談した」と書く(p.138)。
 持丸博らのミス(?)を引き継いでいるのだろうが、「たった一度」の対決・対談というのは、誤りだと思われる。
 決定版三島由紀夫全集39巻〔対談1〕(新潮社、2004)を見てみる。

 たしかに、論争ジャーナル1967年11月号で三島と福田は「文武両道と死の哲学」と題する対談をしている(全集39巻p.696-728)。

 だが、三島由紀夫・福田恆存・大岡昇平の三者は文芸1952年12月号で「僕たちの実体」ど題する対談をしている(同上p.111~127)。

 これは鼎談であって、対談でも「対決」でもないというならば、三島由紀夫と福田恆存の二人は、中央公論1964年7月号で、「歌舞伎滅亡論是非」と題する対談を行っている(同上p.415-424)。

 持丸らの上掲書を未読なのでどのような注記等がなされているのかは知らないが、「たった一度」の対決というのは事実に反しており、櫻井よしこもその瑕疵を継承しているようだ。

 つぎに、櫻井よしこは福田恆存「滅びゆく日本」(サンケイ新聞1969年02.01。福田恆存評論集第8巻p.261-264)の一部を紹介・言及して福田による「戦後」に対する警鐘・批判に同感する旨を書いている。

 たしかに福田恆存のこの一文からも福田の考えていたことの一端は分かる。しかし、この数頁しかない一文が福田恆存の代表的論文(・評論)とは思えない。いわゆる<進歩的文化人>と対決し、彼らを批判した1950年前後以降のものも含めて、福田恆存が「戦後」を批判的に分析し、批判し、憂慮した文章は、上記の評論集(麗澤大学出版会、刊行中)の中に多数見出すことができる。
 それに、遠藤浩一・三島由紀夫と福田恆存(上)・(下)(麗澤大学出版会、2010)が今年に刊行され、全集に直接に当たらずとも、福田恆存が1950年代以前から反「左翼」の立場で評論活動も行い、1960年前後にはすでに<高度経済成長>の「影」を視ていたことも明らかにされている(この遠藤著に今回は立ち入らない)。

 というわけで、櫻井よしこによる福田恆存発言の紹介の仕方には、たんに紙数の制約によるとばかりは思えない、かなりの不備があると感じられる。ついでながら、おそらくは、福田恆存は櫻井よしこ以上の文筆活動をしたと歴史的に評価されるだろう(たんなる量の問題ではない)。

0936/講和条約から60年安保「騒擾」へ-遠藤浩一著。

 一 いわゆる「六〇年安保」の1960年が、戦後日本にとっての重要な分岐点の一つだっただろう。

 遠藤浩一は、<六〇年安保闘争>などという語は用いず、「六〇安保騒擾」と称している。ともあれ、今でも、この「闘争」なるものに参加して国会周辺デモをしたことを懐かしくかつ何の恥ずかし気もなく語っている者が知名人の中にも少なくないことはどうしたことだろう。騙されてか、信念を持ってかのいずれにせよ、樺美智子や西部邁らとともに安保改定「反対」デモに加わったということは、秘すべき、恥ずかしい過去なのではないか。

 遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫(下)(2010.04、麗澤大学出版会)p.47は、次のように<主権回復時(から安保改定に至るまでの経緯)>の論点を整理している。適確なのではないかと思われる。
 ・「平和憲法」により「戦力は…保持しない」として「自分で自分を守ることは致しません」と内外に宣言した日本が「主権を回復」しようとするとき、「二つの選択肢」が想定された。

 ・①「憲法を改正して普通の独立主権国家並の体制を整える」(そのうえでどこかと「同盟関係」を結ぶというオプションもありうる)。②「憲法の非戦条項を維持したまま別の国家に保護を求める」。

 ・かつまた、「東西」分裂・「冷戦」の激化があったので、この点でも「複数の選択肢」が発生した。

 ・A「自由民主主義陣営」に属する、B「共産圏」に属する、C「非同盟中立」を標榜して「独自の道」を歩む。但し、Cの場合は日本を「軍事的、経済的に保護」できる「非同盟中立の大国」は存在しなかったので、この道は「必然的に憲法を改正し自主防衛を追求」せざるをえない。

 ・以上を複合させて整理すると、「主権回復時」の日本は次の五つから進むべき途を選択する必要があった。

 ・①「憲法を改正し再軍備」したうえで「自由民主主義諸国」と連携する。②「再軍備したうえで共産圏」にコミットする。③「再軍備して非同盟・中立」を追求する。④「憲法」に手を付けず(=憲法改正をせず)「軽武装もしくは非武装」で「米国に軍事的保護を求める」。⑤同様に「軽武装もしくは非武装」で「ソ連に軍事的保護を求める」。

 ところが、と遠藤浩一は続ける。「全面講和論者」は「平和、平和」と気勢を上げるだけで、当時の日本が置かれた「状況」とそこから導出される「選択」について、「説得力ある議論」を展開したわけではなかった(p.47)。

 二 「全面講和論者」とこれにつながる「六〇年安保改定」反対論者は、現実に明確な<勝利>をしたわけではないが、戦後日本の歩みにきわめて重要な役割を果たした。その系譜は、脈々と今日まで受け継がれ、<左翼・売国>政権となって政治の現実について主導権を握るまでに至っている(「コミュニズム」の影響は今日の日本でもなお根強く生きている)。

 「全面講和論者」とこれにつながる「六〇年安保改定」反対論者とは簡単にはかつてにいう<進歩的文化人>を含み、かつこれによって煽られ、「理論」的に支えられもした。この者たちの<罪>は、永遠に忘れられてはならない。むろん、その背後にソ連共産党等の外国を含むコミュニストがいたことも明らかなことだ。

 戦前の個々の「戦史」や作戦・戦略面での<判断ミス>やその責任者について関心はなくはないが、そしてそれは戦後(・占領期)の「東京裁判」の理解と関係するが、基本的には、戦前の歴史には積極的な関心を持たないようにしている。

 時間的余裕が、現在も、想定される将来も乏しいからだ。

 日本は<戦争に負けた>、という事実から、日本の「戦後史」をふりかえるしかない。そして、<戦争に負けた>のは事実だが、そこに道徳的・倫理的な評価を混ぜることがあってはならない、ということをも前提としてふりかえるしかない。

 <戦争に負けた>のは事実だとしても、日本がその<戦争>をしたこと自体が「悪」だったとか、道義的・道徳的・倫理的に批難されるべきものだったとかの立場には立たない。<日本は(反省すべき)悪いことをした>という歴史認識は、一方に偏り過ぎている。いかにそれが、戦後の<正嫡の>「歴史観」だったとしても、<正嫡>・<公式>の歴史観・歴史認識が適切または「正しい」保障はない。言わずもがな、だが。

 というわけで、あるいは、ということを前提として、遠藤浩一の本等に言及しながら、「戦後史」をふり返る作業も、この欄で行う。

0907/遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫1945-1970(麗澤大学)①。

 遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫/1945-1970(麗澤大学出版会、2010)、上・下巻、計650頁余を、10月上旬に、全読了。
 まとまった、ある程度長い書物を読了して何がしかの「感動」を受けたのは、おそらく2008年の佐伯啓思・日本の愛国心(NTT出版)以来で、かつ、佐伯啓思のものよりも大いに感心した。

 いわゆる旧かな遣いは慣れていない者にはいささか読みにくいが、何と言っても、カタカナ名の人名が(おそらく)まったく出てこず、福田恆存と三島由紀夫を中心とする日本人の文章のみが紹介・引用ないし分析されていることが―本当は奇妙な感心の仕方なのだが―新鮮だ。
 また、著者によると、「『戦後』という時代を俯瞰的に眺めて」みることが「基本的なモティーフ」だとされるが(下巻p.292)、書名からする印象以上に、(ほぼ1970年くらいまでだが)「戦後史」の本になっている。
 この欄で触れたように、半藤一利・昭和史/戦後篇(文藝春秋)は、売れているらしいが、とても歴史書とは言えない、訳の分からない紛い物。林直道・強奪の資本主義-戦後日本資本主義の軌跡(新日本出版社)はマルクス主義の立場からする、日本共産党的な(教条的な)戦後日本「資本主義」史の叙述。

 中村政則・戦後史(岩波新書)は、多少は工夫しているが、マルクス主義(史的唯物論・発展段階史観)を基礎にしては、まともに歴史を描きえないことの証左のような作品。

 これら三冊についてそれぞれ、既にコメントした。

 これらに比べて、遠藤著は、1970年頃までの「昭和戦後史」と謳っているわけではないものの、随所に出てくる各時代・時期の認識・評価等は本格的で、ほとんどまっとうなものだ、と感じる。三島由紀夫と福田恆存に特段の関心はなくとも、両者を絡めての正当な戦後25年史(1945-1970)に関する書物としても読めるだろう。細部の個々の論点に関する理解・認識について議論の余地はあるとしても。

 <左翼>は、この本のような時代叙述に反発し批判するのだろうが、私にはほとんど常識的なことをきちんと文章にしている、と感じられた。まっとうで常識的なことを書くことはむつかしい時代が現在でもあるので、このような本の存在意義は大きいだろう。

 さらに、著者によると、書名にある二人の仕事を再読するのは「過去を振り返るためではなく、現在について考えるためである」(下巻p.292)。ここにも示されているが、叙述の対象は1970年頃でほぼ終わってはいるものの、日本の現在と、なぜそのような現在に至ったのか、ということにも認識・分析が言及されていて、それらを読者に考えさせる本にもなっている。

 やや褒めすぎかもしれないが、率直な感想だ。遠藤浩一は、並々ならぬ文章力・表現力と、じつにまともな(素直で常識的な)歴史を観る力をもっていると感じざるをえない。後者には、戦後「政治」史を観る力も当然に含まれている。

 福田恆存と三島由紀夫が論じ、考えていたことについてもあらためて教えられるところが多い。

 今回はこれくらいにして、別の機会にこの本(上下、二冊)により具体的に言及してみる。

0679/福田恆存「私の保守主義観」(1959)を読む。

 福田恆存評論集第五巻(麗澤大学出版会、2008.11)の中に収載されている「私の保守主義観」、初出は「読書人」1959年6月19日号、はたった5頁だが(p.126-)、興味深い。以下、要約又は引用。
 ・私は「保守的」だが「保守主義者」とは考えていない。「保守派」は「保守主義」を「奉じるべきではない」。
 ・「保守派」は眼前の「改革主義」という「敵」を見て自らが「保守派」であることに気づく。「保守主義」はイデオロギーとしては「最初から遅れをとっている」。それは、「本来、消極的、反動的であるべき」ものだ。
 ・「保守派がつねに現状に満足し、現状の維持を欲している」とは、「革新派」の誤解。「保守党」が自分たち支配階級の利害しか考えず、「進歩や改革を欲しない」との「革新派の宣伝」は、日本では「古すぎるし、効果もない」。
 ・「保守派」と「革新派」の差異は、「進歩や改革」を前者はただ「希望する」だけなのに対して、後者は「義務」と心得ることにある。前者における「私的な欲望」は後者において「公的な正義になる」。「進歩」は前者において自然な「現実」・人間活動の「部分」・「手段」だが、後者においては最高の「価値」、生存の「全体」・「目的」になる。
 ・「保守派が合理的でないのは当然」。「進歩や改革」を嫌うのはその「影響や結果に自信がもてないから」。一部の改革が全体の総計に与える不便に関する見通しがつかないから。
 ・「保守派」は「態度によって人を納得させるべきで」、「イデオロギーによって承服させるべきではない」。「保守派が保守主義をふりかざし、それを大義名分としたとき、それは反動になる」。「大義名分」は「改革主義」のもの。
 ・「保守派は無智といわれようと、頑迷といわれようと、まづ素直で正直であればよい。…。常識に随い、素手で行って、それで倒れたなら、そのときは万事を革新派にゆづればよいではないか」。
 以上。今や死語になったかの「革新(派)」という語が出てくるなど、時代を感じさせる。だが、「まづ素直で正直で」、「常識に随い」…とは、<左右>を問わない、人の生き方そのものだと思える。無理をする必要はない。イデオロギー闘いを挑み、「左翼」を論難するのも本来は「保守派」ではないかもしれない。
 中西輝政=八木秀次・保守はいま何をなすべきか(PHP)というような問いかけも、少しは肩肘が張りすぎているのかもしれない、と思ったりする。「常識に随い、素手で行って、それで倒れたなら、そのときは万事を革新派にゆづればよいではないか」。このくらいの神経を持っていないと、今の時代を精神の安定を保って生きるのはむつかしいのかもしれない。
 ところで、保守又は「保守主義」を論じるとき、イギリスのE・バークはフランス革命に際して…と始める論者も多いように見えるが、福田恆存はその「保守派」の考え方をどのようにして形成したのだろう。バークを読んだから、ではないことは確かなのだが。 

0674/福田恆存「平和論に対する疑問」・「芸術と政治―安保訪中公演をめぐって」を読む。

 一 清水幾太郎の剽窃ではないかと疑った者もいたらしい福田恆存「平和論に対する疑問」は中央公論1954年12月号公刊で、(再?)刊行中の福田恆存評論集の第三巻(麗澤大学出版会、2008.05)に収載されている(p.135-155)。
 現時点で読むと特段に斬新なことが書かれているわけではなく、こんな論考が当時では話題になるほどの(進歩的)「文化人」の意識状況だったということに、感慨をもって驚かされる。
 福田恆存は「平和論に対する疑問」を5点挙げている(p.149-。おそらく本意には反するだろうが、原文の旧字体等は改めている)。
 ①「二つの世界の平和的共存」を「どういう根拠で…信じられるのか」。日本の「平和論」は世界的には力はなく、「知っているのは、おそらく共産圏の指導者たちだけ」。それは、「若い青年たち」を「平和か無か」という「極端な思考と生活態度に駆りやる作用」をもっている。
 ②「平和か無か」は「共産主義か資本主義か」の問題につながることを承知しているのか。「平和論者」はこんな問いを発しないし反対の印象すら与え、「ただちに共産主義との間に二者択一を迫る」ようには見えない。だが、「平和論」をまじめに受け取ると、「資本主義国はすべて悪玉」に映じてくる。
 ③「平和論者たち」は本当にイギリスを信頼しインドに範を仰ぎ「スイスに羨望」しているのだろうか、等々。
 ④「平和論者たちは、ソ連が二つの世界の平和的共存を信じ、その努力をしていると信じているのでありましょうか」。
 ⑤「インドのネールへの憧憬の正体」が分からない。「ほんとうにネールのような政治家を、日本の指導者としてもちたいのでしょうか」。
 二 杉村春子「女の一生」中国迎合「改作」問題に直接にかかわる(杉村への手紙ではない)論考は「芸術と政治―安保訪中公演をめぐって」というタイトルで芸術新潮1960年10月号に発表され、福田恆存評論集の第五巻(麗澤大学出版会、2008.11)に収載されている(p.102-125)。
 「政治的な、あまりに政治的な」と題する節の中で紹介されている「改作」の具体的例(一部のみ引用)。
 「清国へ渡って馬賊になろうと…」→「中国へ渡ってあの広い大地で労働をしたいと…」。
 原作にはない追加。-「…。世界は金持と貧乏人に分けられるってことは言うまでもない。…」、「…いい世の中になるために、幸福な生活になるために、貧乏人も金持もない世の中をつくること、そういうことを考えている…」。
 終幕部分の全面改定(ほとんど追加)。-「…そういう連中が、まるで気違いのように戦争を呼び起こし、そして戦争は彼等を罰しました。…」、「…ほんとうにはずかしいことだと思います。多くの戦争犠牲者に、とりわけ私達の家に最も縁の深い中国の人民の方達に、心からお詫びをいいたいと思います。…」
 こういう「改訂」(改作)は、日本での60年安保闘争を背景にして、中国(共産党)当局の<示唆>によって、文学座(杉村春子)側が「自発的」に行ったらしい。
 村山富市、社民党、週刊金曜日編集人たち、戦時「性犯罪」補償法案提出者たち、そして朝日新聞社内の多数派「左翼」等々の先輩たちは、むろん1960年段階ですでに立派に育っていたのだ。今まで続く対中<贖罪>意識、ひどいものだ。これも、GHQ史観の教育・宣伝の怖ろしい効果。

0390/読書履歴2/11付。佐伯啓思・福田恆在ら。

 たぶん2/07夜に、佐伯啓思・イデオロギー/脱イデオロギー(岩波、1995)を全読了。同・現代日本のイデオロギーは未読の部分がまだある。
 2/09夜に福田恆存・同評論集第八巻(麗澤大学出版会、2007)の一部を読む。
 既読の月刊正論3月号(産経)の新保祐司「伝統を大切にするという事」は、保守とは、たんに「守る」のではなくつねに「伝統を新鮮にし、蘇らせ」る営為だ(p.99)、旨の主張をしているようだ。反対はしないが、しかし、現在の日本と日本人にとっての「伝統」とはそもそも何なのか。この点を明瞭にしてもらわないと隔靴掻痒の感あり(この人の他の文章は読んだことがない)。
 戦後60年余、現在70歳(1937~38年生)未満の者は、ほとんど又は全く、戦後教育しか受けず、戦後の空気しか吸っていない。<戦後民主主義>もまた(あるいはこれこそが)、<保守>すべき日本の<伝統>と考えている(又は感じている)人々が既に多数いるのではないか。

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